【これは未校正のデータです。】 泉鏡花「活人形」 急病  雲の峰は崩れて|遠山《とほやま》の麓に|靄《もや》薄く、見ゆる限 りの野も山も海も夕陽の|茜《あトね》に染みて、|遠近《をちニち》の森 の梢に並ご〃|彩多《あまた》寺院の|藍《いらか》は眩く輝きぬ。虚は|相 州《さうしう》東鎌倉|雪《ゆき》の|下《した》村・…-番地の家は、昔し|何某《なにがし》と かやいへりし大名邸の|奮跡《あと》なるを、今は|赤城得《あハぎとく》 三が|住家《すみか》とせり。  |門札《トどふだ》を見て、「フム|此家《こし》だな。と門前に|侍《たしず》み たるは、|倉瀬泰助《くらせたいすけ》といふ當時屈指の探偵なり。    またこす心              なり 色白く眼清くし、左の頬に三日月形の古創あ り。こは去年の春有名なる大捕物をせし折、鋭 き|小刀《ナイフ》にて傷けられし名残なり。探偵の身にし ては、賞牌ともいひつべき名審の|創痕《きずあと》なれど、 |衆《ひと》に知らる、|目標《めじるし》となりて、職務上不便を感ず ること勘からざる由を|卿《うこ》てども、|巧《たくみ》なる化粧に て|塗抹《ぬりかく》すを常とせり。  倉瀬は鋭き眼にて、ずらりと此家を見廻し、 「は、あ、これは大分古い建物だ。|宛然描《まるでゑ》に書 いた相馬の|古御所《とるごしよ》といふ奴だ。なるほど不思議 がありさうだ。今に見ろ、一番正髄を現して遣 るから。と何やら意味ありげに咳きけり。  さて泰助が東京より|此《この》鎌倉に來りたるは、左 の如き仔細のありてなり。  今朝東京なる本郷病院へ、|呼吸《いき》も|絶《たえぐ》々に駈込 みて、玄關に着くとそのま、、打倒れて絶息し たる男あり。年は二十二三にして、|扮装《みだり》は好か らず、|容貌太《かほかたちいた》く|樵《やつ》れたり。検死の馨師の診察せ るに、こは全く病氣の爲に死したるにあらで、 |何《な》にかあるらむ劇しき毒に|中《あた》りたるなりとあり ける壕て、|棄置《すてお》き難しと警官が|不取敢招寄《とりあへずまねきよ》せた る探偵はこの泰助なり。  泰助はまづ卒倒者の|身艘《しんたい》を検して、挟の中よ り=某の寓眞を探り出だしぬ。手に取り見れ ば、年の頃|二十歳《はたち》ばかりなる|美麗《うつくし》き|婦人《をんた》の牛身 像にて、|其愛《そのあいく》々しき口許は、寓眞ながら言葉を 出ださむばかりなり。泰助は|莞爾《くわんじ》として|打頷《うちうなづ》 き、「犯罪の原因と探偵の秘密は|婦人《をんな》だといふ 格言がある。何、謹はありません。近い内に|屹 度《きつと》罪人を出しませう。と事も無げに謂ふ顔を警 部は見遣りて、「君、|鰻《ふぐ》でも食つて|死《しに》よつたの かも知れんが。何も毒殺されたといふ誼檬は無 いでは無いか。泰助は死骸の顔を指さして、 「御魔なさい。|人品《つとがら》が好くつて、痩つこけて、 心配のありさうな、身分のある人が|落醜《おちぷれ》たらし い、かういふ|顔色《かほつき》の男には、得て奇妙な履歴が あるものです。と謂ひつ」手にせる寓眞を打返 して、頻りに|覗《なが》めて居たりけり。先刻より死骸 の胸に手を載せて、一心に容髄を|候《うかソ》ひ居たる讐 師は、此時人々を見返りて、「|何《どう》やら|幽《かすか》に脈が 通ふ榛です。|此方《こつち》の者になるかも知れません。 静にして置かなければ|不可《いけま》せんから、|貴下方《あたたがた》は |他室《あつち》へお引取下さい。警部は巡査を引淳れて、 静に|此室《このま》を立去りぬ。  泰助は一人残りて、死人の|呼吸《いき》を吹返さむと する間際には、秘密を捻り出す事もやあらむと 待構ふれば、馨師の見込みは|過《あやま》たず、|良《やや》ありて 死骸は少しづゝの呼吸を始め、やがて|幽《かすか》に|眼《まなこ》を 開き、綜よりも尚聲細く、「あ、、|此《これ》が|現世《このよ》の 見納かなあ。得たりと馨師は膝立直して、水藥 を|猪口《ちよこ》に移し、「さあ|此《これ》をお飲みなさい。と病 人の口の端に|持行《もちゆ》けば、面を背けて飲まむとせ ず。手を|以《も》て力無げに振佛ひ、「|汝《うぬ》、毒藥だな。 と|眼《まなこ》を|騨《みは》りぬ。之を聞きたる泰助は、「來たな」 と腹に思ふなるべし。       やはら              いしや  馨師は聲を和げて、「毒ぢや無い、私は馨師 です。早くお飲みなさい。といふ顔を先づ屹と 覗て、やがて|四邊《あたり》を見廻しつ、泰助に眼を注ぎ て、「|彼《あれ》は|誰方《どなた》。泰助は近く寄りて、「探偵吏で す。「えゝ、と病人は力を得たる風情にて、「|而《さう》 して|御姓名《おなまへ》は。「僕は倉瀬泰助。と名乗るを聞 きて病人は嬉しげに倉瀬の手を握り、「|貴下《あたた》が、 |貴下《あたた》があの名高い……|倉瀬様《くらせさん》。あ二嬉しや、私 は本望が|協《かた》つた。貴下に逢へば死んでも|可《い》い。 と握りたる手に力を籠めぬ。何やらむ仔細ある べしと、泰助.は|深切《しんせつ》に、「|其《それ》は|何《ど》ういふ次第だ ね。「はい、お聞き下さいまし、と言はむとす るを馨師は制して、「物を言つたり、|配慮《きあつかひ》をし ては、|身髄《からだ》の爲に好く無い。と諭せども病人は |頭《かうぺ》を|悼《ふ》りて、「悪僕、ー八|藏奴《ざうめ》に毒を飲まさ れましたから、私は|何《どう》しても助りません。「何、 八藏が毒を……。と|詰寄《つめよ》る泰助の快を曳きて、 馨師は不興氣に、「これさ、物を言はしちや悪 いといふのに。「僕は探偵の職掌だ。問はなけ .ればならない。「私は馨師の義務だから、|止《と》め なければなりませぬ。と事へば病人は、「|御深 切《ごしんせつ》は有難う存じますが、|到底《とても》私は助りませんの ですから、|何卒《どうぞ》思つてることを言はして下さい まし。明日まで生延びて言はずに死ぬよりは、 今お話し申して此庭で死ぬ方が勝手でございま す。と思ひ詰めてはなかくに、動くべくも見 えざりければ、探偵は馨師に向ひて、、「是非が 無い。あ、いふのですから、病人の意にお|任《まか》せ なさい。病人はまた、「|而《セまノ》して他の人に聞かし たうございませんから、|恐入《おそれい》りますが先生は|何 卒彼地《どうぞあちら》へ……。とありければ、馨師は|本意無《ほい な》げ に室の|外《おもて》に|立出《たちい》でけり。 二 系 圖  病人は苦痛を忍びて語り出だしぬ。  我は小田原の|生《うまれ》にて|本間次《ほんまじ》三|郎《らう》といふ者。幼 少の折父母を失ひければ、鎌倉なる赤城家に|嫁《とつ》 ぎたる叔母の許にて養はれぬ。儂の叔父なる赤 城の|主人《あるじ》は大酒のために身を|損《そこた》ひて、其後病死 したりしかば、一族同姓の|得《とく》三といへるが、家 事萬端の後見せり。  叔母には|下枝《しづえ》、|藤《ふち》とて美しき二人の娘あり。 我とは|從兄妹《いとこ》同士にていづれも|年紀《とし》は我より|少《わか》 し。多くの腰元に|齋眉《かしづ》かれて、荒ンさ風にも當ら ぬ花なり。我は食客の身なれども、叔母の光を 身に受けて何不自由無く暮せしに、叔母はさる  やまひ                   そのゆふべあへ  みまか 頃病氣に懸り.一時に吐血して其夕敢なく逝り ぬ。今より想へば得三が青殺なせしものなるべ し。さる悪人とは其頃には少しも思ひ|懸《が》けざり き。  されば巨萬の財産を畢げて娘の|所有《もの》となし、 姉の|下枝《しづえ》に我を|取《めあ》女はせ後日家を譲るよう、叔母 はくれλ\遺言せしが、我等の|年紀《とし》の|少《わか》かりけ れば、得三は|奮《もと》のま、一家を支配して、|己《おの》が|随 意《まま》にぞ振舞ひける。  叔母死して|七《なしたぬ》々|日《か》の|忌《いみ》も果てざるに、得三は 忠實の暇面を腕ぎて、やうやく|虎狼《こらいフ》の本性を顯 したり。|入用《いらざ》る雑用を省くと唱へ、八藏といへ る悪僕一人を留め置きて、其餓の|奴僕《ぬぼく》は壷く暇 を取らせ、素性も知れざる一人の老婆をい|飯炊《めしたき》 として雇ひ入れつ。こは後より追々に|爲出《しし》ださ むずる|悪計《わるだくみ》の、人に知られむことを恐れしなり けり。|昨日《きのふ》の榮華に引替へて娘は|明暮《あけくれ》不幸を|卿《かこ》 ち、我も手酷く|追役《おひつか》はるゝ、努苦を忍びて末々 を樂み、|偶會《たまく》下枝と|嫡曳《あそき》して|纏《わづか》に慰め合ひつ、 果は二人の中をもせきて、|顔《ヘヘ》を見るさへ許さゞ れば|垂籠《たれこ》めたる|室《ま》の内に、下枝の泣く聲聞く|毎《たび》 に我は|腸《はらわた》を断つばかりなりし。  敷ふれば三年前、|一日黄昏《あるひたそがれ》の|暗紛《くらまぎ》れ、潜かに 下枝に|密會《しのびあ》ひ、様子を聞けば得三は、四十を越 したる年にも恥ぢず、下枝を捉へて妻にせむ。 我心に從へと脅迫すれど、聞入れざるを憤り、 日に日に|手暴《てあう》き|折濫《せつかん》に、無懸や|身内《みうち》の皮は裂 け、血に染みて、紫色に腫れたる痕も多かりけ りρ:  |下枝《し きア》は我に取縫りて、得堪へぬ苦痛を訴へつ つ、助けてよ、と歎くになむ。さらば財産も何 かせむ。|家邸《いへやしき》も何かせむ。皆得三に|投與《なげあた》へて、 |斯《かコ》る悪魔の|火宅《かたく》を遁れ、片田舎にて氣散じに住 み給ふ氣は無きか、蓮れて遁げむと勧めしか ど、|否《いや》、先租より博はりたる財産は、國とも城 ともいふべきもの、いかに君と添ひ度いとて、 人手には渡されず。今得三は國の仇、城を|二十 重《はたヘ》に園まれたれば、|責殺《サ め  ろ》されむ|其《それ》までも、家は 出でずに守るといふ。男勝りの心に恥ぢて、|強《し》 ひてども言ひ|難《がた》く、さればとて|此《この》ま、にては得 三の手に死ぬばかりぞ、と抱き合ひつ二泣き居 たりしを、得三に認められぬ。言語道断の|淫戯 者《いたづらもの》片時も家に|置難《おきがた》しと追出されむとしたウし 時、下枝が|記念《かたみ》に見給へとて、我に與へし寓眞 あり。我は|彼《かの》悪僕に追立られて詮方無く、其夜 赤城の家を出で、指して|行方《ゆくへ》もあらざれば其日 其日の風次第、寄る|漫《ぺ》定めぬ捨小舟、津や浦に |彷裡《さまよ》うて、身に知る|業《わざ》の無かりしかば、三年越 しの流浪にて、|乞食《こつじき》の境遇にも、忘れ難きは赤 城の娘、|姉妹《あねいもうと》とも|嚥《さぞ》得三に、|憂《う》い|愁《っら》い目を見 るならむ。助くる|術《すべ》は無きことか、と頼母しき 人々に、一つ|談話《ぱなし》にするなれど、聞くもの誰も |信《ぜふこと》とせず。思ひ詰めて警察へ訴へ出でし事もあ れど、狂氣の沙汰とて取上げられず。力無く|生 甲斐無《いきがひた》く、-|漣《さマたみ》や滋賀縣に|佗年月《わびとしつき》を過すうち、 聞く東京に倉瀬とて、弱きを助くる探偵あり と、雲聞に高きお|姓名《なまへ》の、雁の|便《たより》に聞ゆるに ぞ、さらば|助《たすけ》を乞ひ申して、下枝等を救はむ と、|行李忽《かうりそこく》々彼地を旅立ち、|一昨《をとふ》日此地に着き ましたが、|暑氣《あつさ》に|中《あた》りて|昨日《きのふ》一日、|旅店《りよてん》に|病《やみ》て 枕もあがらず、今朝はちと|快氣《こしろよげ》なるに、警察を 尋ねて見ばやと、宿を出づれば後より一人|眼《つ》け 來る男あり。忘れもせぬ|其奴《そやつ》こそ、得三に使は る、八藏といふ悪僕なれば、害心もあらむか と、用心に用心して、|此《この》病院の裏手まで來りし に、思へば蓮の|霊《つき》なりけむ。俄に劇しく腹の痛 みて、立つても居られず大地に|橿《たふ》れ、苦しんで 居る庭へ誰やらむ水を|持來《もちきごた》りて、呑まして呉る る者のあり。眼も眩み夢中にて唯|一呼吸《ひといき》に|呑干《のみほ》 しつ、|梢《やミ》人心地になりたれば、介抱せし人を見 るに、別人ならぬ悪僕なり。はつと思ふに毒や |利《き》きけむ。心身忽ち偶蹴して、|腸絞《はらわたしぼ》る苦しさに さては毒をば飲まされたり。彼の探偵に逢ふま では、束の間欲しき玉の緒を、|繋《つな》ぎ止めたや止 めたやと|絶入《たえい》る心を激まして、幸ひ此虚が病院 なれば、一心に駈け込みし。其後は存ぜずと、 |呼吸《いき》つきあへず物語りぬ。 三|一寸手懸《ちよいとてがしり》             詮あはせ  泰助は目をしばた、き、「薄命な御方だ、御 心配なさるな。請合つて屹度助けて|進《あ》げます。 と眞實|面《おちて》に顯るれば、病人は張詰めたる気も弛 みて、がつくりと弱り行きしが、|頻《しきり》に挟を指さ すにぞ、泰助は耳に口、「何です、え、何ぞあ るのですか。「下枝の寓眞。「む二、|其《それ》は|此《これ》でせ う。|先刻《さつき》僕が取出しました。と彼の寓眞を病人 の|眼前《めさき》に|騎《かざ》せば、|熟《つくぐ》々と|打覗《うちなが》め、「私と同.じ様 に、|嚥《さぞ》今では|樵《 やつ》れて、とほろりと涙を活べつ つ、「此面影はありますまいよ。死顔でも見た い。もう一度逢ひたい。と|現心《うつぐしごベムろ》にいひけれ ば、察し遣りて泰助が、彼の心を|激《はげ》まさんと、 「氣を丈夫に持つて養生して、ね、|翌朝《あした》まで眼 を塞がずに僕が|下枝《しづえ》を蓮れて來るのを御賢なさ い。今夜中に幼け出して、財産も|他手《ひとで》には渡さ ないから、必ず御案じなさるな。と|言語《ことば》を蓋し て慰むれば、頷くやうに眼を閉ぢぬ。  折から|外《おもて》より戸を叩きて、「もう開けまして も差支へございませんか。と馨師の尋ぬるに泰 助は振返りて、「宜しい、おはひんなさい。と 答ふれば、戸を|排《ひら》きて、馨師と、もに、見も知 らぬ男入り|來《に》れり。此男は、|扮装《みなり》、風俗、|田舎 漢《ゐなかもの》と見えたるが、|日向《ひたた》眩ゆき|眼色《めつさ》にて、上眼 づかひにきよろつく様、|不良《よから》ぬ|輩《やから》と思はれた りo  泰助|屹《う しつ》と眼を着けて、「お前|様《さん》は何しに來た のだ。|問《とぱ》れて|醜顔《むくつけ》き|岩乗男《がんじようをとこ》の聾ばかり|悪優《わるやさ》し く。「へいく、お邪魔様申します。|些《ちと》お|見舞《みめえ》 に|罷出《つんで》たんで。「|知己《ちかづき》のお方かね。「いえ、|唯通 懸《とほり かし》つた者でがんすが其の方が|強《えら》くお堕梅の悪い 様子、お案じ申して、へい|故意《わヤと》、といふ聲耳に 入りたりけむ。其男を見て病人は何か言ひたげ に唇を震はせしが、あはれ口も利けざかけれ ば、指もて|其方《そなた》を|指示《さししめ》し、怒り狂ふ風情にて、・ 重き枕を|擾《もた》げしが、|撞《だう》と倒れて|絶入《たえい》りけり。  今病人に指さ、れし時、|件《くだん》の男は蒼くなりて 恐しげに|戦標《わなし》きたり。泰助などて見遁すべき。 肚の中に。ト思案して、「早く、お|退《の》きなさい。 お前方の這入つて來る虚ではありません。と極 めつけられて|消剰《 セよア》かへり、「あゝ|呼吸《いキム》を引取ま したかい可愛やく、袖振合ふも|他生《たしやう》の縁とや ら、お念佛申しましよ。と殊勝らしく眼を擦り 赤めて|徐《ゃを》ら病院を|退出《まかんで》ぬ。黍助は馨師に向ひ、 「下手人がしらばくれて、「死」をたしかめに 來たものらしい。|態《わざ》と|化《ぱか》されて、|怪《あやし》まぬやうに 見せて|反封《あべこべ》に|化《ぱ》かして遣つた。油断をするに|相 違無《ちがひな》い。「いかさま怪しからん|人髄《じんてい》でした。あの ま、見遁して置くお|所存《つもり》ですか、「なあに之か ら|彼奴《あいつ》を|突止《つきと》めるのです。|此《この》病人は及ばぬまで も手當を厚<して下さい。誠に可哀相な者です から。「何か面白い|談《はたし》話がありましたらう。「|些 少《ちつと》も|楡快《おもしろ》くはありませんでした、が|此《これ》から面白 くなるだらうと思ふのです。追々お|談話《はたし》申しま せう。と帽子を取つ.て目深に被り、|戸外《おもて》へ出づ れば|彼《かの》男は、|何方《いづれ》へ行きけむ影も無し、|脱心《ぬかり》た りと心|急立《せきた》ち、本郷の通りへ駈出で三、東西を 見渡せば、一町ばかり|前《さき》に立ちγ.、日蔭を明蔚 坂の方へ、急ぎ足に歩み行く|後姿《うしろつき》は|其者《そりもの》なれば、 遠く離れて見失なはじと、裏長屋の近道を潜り て、間近く|彼奴《かやつ》の|後《うしろ》に出でつ。まづ是で|可《よ》しと 汗を|容《い》れて心静に後を|眼《つ》けて、紳田小柳町のと ある旅店へ、入りたるを突止めたり。  泰助も績いて入込み、|突然《いきなり》帳場に坐りたる主 人に向ひて、「今の御客は。と問へば、|訳《いぷ》かし げに泰助の顔を|凝覗《みつめ》しが、頬の三日月を見て慰 勲に|會繹《ゑしやく》して、二階を教へ、|低聲《こごえ》にて、「三番 室。」  四番室の内に忍びて、泰助は壁に耳、隣室の |談話聲《はたしごゑ》を聞けば、おのが眼けて來し男の外にな ほ一人の聲しけり。 「お前、御苦勢であつた。これで家へ蹄つても 枕を高うして寝られるといふものだ。「旦那も  けえり    この         あゝ う蹄國ますか。此二人は主從と見えたり。「如此 |しま《しまひぎ》 して了へば東京に用事は無いのだ。今日の終汽 鄭で鰍貯としようよ。「其れが宜うございませ う。耐して御約束の御褒美は。「家へ行つてか ら|與《や》る。「|間違《まちがひ》ませんか。「大丈夫だ。「屹度で せうね・「え\雛号「饗え、と無法に大 きな聲をするにぞ、主人は叱りて、「馬鹿め、 人が聞かあ。後は何を曝くか小聲にて|些少《ちつとも》聞え ず。|少時《しぱらく》して一人|其間《そのま》を|立出《たちい》で、泰助の漕みた る・四翼お前を通り行くを、戸の隙間より覗 き見るに・蹴概き紳士にて、年の頃は四十八 九,五十にもならむずらむ。色淺黒く、武者髭 濃く、いかさま悪事は仕兼まじき人物にて、|扮《いで》 たち おかいこ    きんぐさり   あか 装は絹布ぐるみ、時計の金鎖胸にきらく、赤 騨といふは此者ならむと泰助は帳場に行きて、 宿帳を検すれば、明かに赤城得三とありけり。 度胸の|据《すわ》つた悪黛だ、」と泰助は心に思ひつ。 四 管にちらり 三時少し過ぎなれば、|終汽《しまひ》車にはまだ|時聞《ひま》あ り二と麟病院へ取つて返して、病人本聞の様子 を見舞ひ、身支度して出直さむと本郷に婦りけ るに・異警官等は引取りつ。泰助は馨師に逢ひ て、豫後の療治を頼み聞え、病室に行きて見る に、この不幸なる病人は|気息奄《きそくえんく》々として死した る如く、泰助の來れるをも知らざりけるが、時 時、「赤城家の秘密∴…怨めしき得三-・-.懸し き|下枝《しづえ》、懐かしき妻、……あゝ見たい、逢ひた い、」と同じ|言《こと》を幾度も|譜言《うはごと》に謂ふを聞きて、よ くく思ひ詰めたる物と見ゆり遙々|我《はるぐ》を頼みて 來し、其心さへ淺からぬに、|蝦夷《エゾ》、松前はとも かくも、箱根以東に|其様《そのやう》なる|怪物《ばけもの》を棲ませ|置《おき》て は、我が職務の恥辱なり。いで夏の日の眠氣覧 しに、泰助が|片膚脱《かたはだぬ》ぎて、悪人|傍《ぱら》の毒手の|裡《うち》よ り、|下枝姉妹《しづえきゃうだい》を救うて取らせむ。誼檬を探り得 ての上ならでは、|渠等《かれら》を捕縛は成り難し。まづ 鎌倉に|立越《たちこ》えてと、やがて時刻になりしかば、 .纏滞車に乗り込みて、日影やうく傾く頃、相 州鎌倉に到着なし、|滑川《なめりがは》の|趨《 ヰゆとり》なる|八橋棲《やつはしろう》に投宿 |よそ《ぱけもの》 して、餓所ながら赤城の様子を聞くに、「妖物 屋敷、」「不思議の家、」或は「幽璽の|棲《すみカ》家、」など と留しからぬ名を附して、誰ありて知らざる者 無し。  病人が雪の下なる家を出でしは、三年前の事 とぞ聞く。或は|救助《すくひ》の遅くして、下枝等は得三  の爲めに既に殺されしにあらざるか、遠くもあ らぬ東京に住む身にて、かくまでの大事を知ら ず、今まで|棄置《すてお》きたる|不念《ぷねん》さよ。もし|下枝《しづえ》等の 死したらむには、悔いても及ばぬ一世の不寛、 |我《われ》三日月の名折なり。少しも早く探索せむずと 雪の下に赴きて、赤城家の門前に侍みつ、|云《しかぐ》々 と咳きたるが、第一同の始まりなり。  |此時《このとき》赤城得三も泰助と同じ|終汽《しまひ》車にて、下男 を從へて家に蹄りつ。表二階にて下男を|封手《あひて》 に、晩酌を傾け居りしが、得三何心なく外を眺 め、門前に侍む泰助を、遠目に見附けて|太《いた》く驚 き、「あツ、飛んだ奴が舞込んだ。と|微酔《ほろゑぴ》も醒 めて蒼くなれば、下男は何事やらむと|外《おもて》を望 み、泰助を見ると|齊《ひと》しく反り返りて、「旦那旦 那、|彼《あれ》は|先刻《さつさ》病院に居た男だ。と聞いて盆々蒼 くなり、「え、! |其《それ》では何だな。お前を疑ふ |様《やう》な|蟹動《そぷり》があつたといふのは|彼奴《あいつ》か。「へい、 左様でござい。|恐怖《おつかね》え眼をして|我《おれ》をじろりと見 た。「こりや飛んだ事になつて來た。と|一方《ひとかた》な らず恐る三様子、「何も|左様《さう》、|顔色《がんしよく》を憂へて|恐 怖《おつかな》がる事もありますめえ。病氣で苦しんでる庭 を介抱してやつたといへば|其迄《それまで》のことだ。「で もお前が病院へ行つた時には、あの本間の青二 歳が、まだ|呼吸《いき》があつたといふでは無いか。 「ひくく動いて居ましたツけ。「だから、二 歳の口から當家の秘密を、いひつけたに違ひな い。「だつて|何程《いつかぱち》のこともあるめえ。と落着く 八藏。得三は|頭《かうぺ》を振り、|否《いや》、|他《ほか》の奴と違ふ。あ りや、お前、倉瀬泰助というて有名な探偵だ。 見ろ、あの|頬桁《ほオげた》の創の痕を。な、三日月|形《たウ》だら う、此界隈で|些《ちつと》でも後暗いことのある者は、|彼《あれ》 を知らぬは無いくらゐだ。といへば八藏はした      慮      めじるし  しや つら り顔にて、「我れも、あの創を目標にして這ツ面 を畳えて居りますのだ。「む、、|汝《きキしま》はな、是れ から直ぐに|彼奴《あいつ》の後を眼けて何をするか眼を着 けろ。「|飲込《のみこみ》ました。「實に容易ならぬ|艦襖《ぽろ》が出 た。少しでも|腕心《ぬかる》が最後、|諸共《ともぐ》に笠の璽が危な いぞ。と|警戒《いましむ》れば、八藏は高慢なる|顔色《かほつき》にて、「た かゞ|生《たま》つ|白《ちろ》い痩せた野郎、|鬼紳《おにがみ》ではあるめえ、 一思ひに捻り潰してくれう。と力瘤を叩けば、 得三は|彩度頭《あまたちぴかうべ》を振り、「うんや、|汝《きさま》には|封手《あひて》が 過ぎるわ。|敏捷《すぱしこ》い事あ狐の様で、|何《どう》礼〜喰へる 代物じや無え。しかし隙があつたら殺害ツちま へ。」  洵や泰助が一期の失策、|卒常《いつも》の如く化粧して 頬の三日月は|塗抹居《ぬりげしゐ》たれど、極暑の時節なりけ れば、|絶具汗《ゑのぐあせ》のために流れ落ちて、創の|露《あらは》れし に心着かず、大事の前に運悪くも悪人の眼に止 まりたるなり。 さりとも知らず泰助は、|略此家《ほどこのいへ》の要害を認めた れば、日の暮れて後忍び入りて内の様子を探ら むものをと、|踵《し えしびす》を返して立去りけり。  表二階より之を見て、八藏は手早く身支度整 へ、「どれ後を眼けませう。「くれλハ\も|脱心《ぬか》る なよ。「合黙だ。と鐵の棒の長さ一尺ばかりに て|握太《にぎりぷと》きを小脇に隠し、勝手ロより|立出《たらいで》しが、 こみや                            でぼひ膨 此家は用心嚴重にて、つい近所への出入にも、 |鎖《ぢやう》を下す|提《おきて》とかや。心|急《せ》きたる折ながら、八藏 は腰なる鍵を取り|出《いだ》して、勝手の戸に外より|鎖《ぢやう》 を下し、念ぎ門前に立出で」、|滑川《ためりがは》の方へ行く泰 助の|後《うしろ》より、翼晋ひそかに眼け行けども、日は 傾きて影も|射映《さト》ねば、少しも|心着《こしろづ》かざりけり。 五妖怪沙汰  泰助は|旅店《りよてん》に蹄りて、晩餐の前に湯に行き つ。湯殿に懸けたる姿見に、|不圖我顔《ふとわがかほ》の映るを 見れば、頬の三日月|露《あらは》れ居たるにぞハ心潜かに 驚かれぬ。ざつと流して座敷に婦り、手早く旅 行鞄を開きて、小瓶の中より絶具を取出し、好 く顔に|彩《いろど》りて、懐中鏡に映し|見《さ》れば、我ながら|其《その》 たく(                   まんま     かはかぷ 巧妙なるに感ずるばかり旨々と一皮被りたり。  今夜を|過《すご》さず赤城家に入込みて、大秘密を|襲《あば》 きくれむ。まづ其様子を聞き置かむと、手を叩 きて亭主を呼べば、氣輕さうな|天保男《てんばちをとこ》、とつか は前に|出來《いで きバ》りぬ。「御主人|外《ほか》でも無いが、あの 雪の下の赤城といふ|家《しりち》。と皆まで言はぬに|早合 黙《はやのみこみ》、「へい、なるほど|妖物邸《ぱけものやしき》。「|其妖物《そのぱけもの》屋敷とい ふのは何ういふ理窟だい。「さればお聞きなさ いまし。まづ御免|被《かうむ》つて、と座を進み、「|種《いろく》々 不思議がありますので、第一あゝいふ大きな家 に、棲んで届るものがございません。「|室屋《あきや》か ね、「|否《いえ》、其庭んところが不思議でごすて。ち  やんと|門札《かどふだ》も出て居りますが何者が住んで居る   のか、|其《ガアそれ》が解りません。「ふ」む、餓り人が|出《で》   |入《はひり》をしないのか。「時々、あの邊で今まで見た   事の無い|婆様《ぱあましん》に逢ふものがございますが、何で   も|安達《あだち》が原の一ツ家の|婆《ぱどあ》々といふ、それはそれ   は凄い|人腱《にんてい》ださうで。これは多分山猫の|妖精《ぱけもの》だ   らうといふ|風読《うはさ》でな。「それぢやあ風の吹く晩   には、綜を繰る音が聞えるだらうか。「そこま   では存じませんが、|折節《をりふし》女の、ひい、ひい、と   悲鳴を上げる聲が聞えたり、男がげらくと笑   ふ聾がしたり、や、も、散々な|妖原《ぱけはら》だといひま   すで。とこれを聞きて泰助は乗出して、「|眞個《ほんと》   なら奇怪な話だ。まづお茶でも一ツ……といふ   |一眼《ひとつめ》小檜は出ないかね。とさも|聞惚《きミと》れたる風を   装ほひ、|楡快《おぜしろ》げに問ひ|懸《かく》れば、こは怪談の御   意に叶ひしことゝ亭主は頻に|乗《めりぢ》地となり、「|否《いえ》  世が此の通り開けましたで、|左様《さう》いふ甘口な|妖《ぱけ》  |方《かた》はいたしません。東京の何とやら館の飛士  が、大勢で|此前《このさき》の寺へ避暑に來てゞございます  が、|其風説《そのうはさ》を聞いて、一番|妖物《ぱけもゐ》退治をしてやら  うといふので、|小雨《こさめ》の降る夜二人蓮で出掛けま  ーした。草|蓬《ぽうぐ》々と茂つた庭へ入り込んで、がさが  さ騒いだと思し召せ。づどんくと何庭かで|短《ピス》  |銃《トル》の音がしたので、眞蒼になつて遁げて蹄る  と、朋輩のお方が。そりや|大方《おぽかた》天狗が|喧《くさみ》をした  のか、さうでなければ三ツ目入道が屍を|放《ひ》つた  音だらう。|誰某《たれそれ》は屍玉を喰つて凹んだと大きに 笑はれたさうで、もう|懲《こりぐ》々して、誰も手出しは 致しません。何と、|短銃《ピストル》では、岩見重太郎宮本 σ|武藏《むさし》でも叶ひますまい。と澁茶を一杯。舌を 濡して|言《ことぱ》を纏ぎ、「|串戯《じやうだん》は|借置《さてお》き、まだまだ氣 味の悪いのは。と聾を低くし、「|幽霊《れこ》が出ます ので。こは|聞虚《きさどころ》と泰助は、「人、まさか幽露が。と |態《わざ》といへば亭主は至極眞面目になり、「|否《いしえ》、人 から開いたのではございません。私が|惜《たしか》に見ま した。「はてな。「思ひ出すと|戦慎《ぞつ》といたします。 と薄氣味悪げに|後《うしろ》を見.返り、「|部室《へや》の外が直ぐ 森なので、風通しは|宜《よ》うございますが、こんな時 には、|些何《ちとど》うも、と座敷の|四隅《よすみ》に目を配りぬ。  泰助は思ひ當る事あれば、尚も聞かむと亭主 に向ひ、「|談《はた》してお聞かせなさい、實に怪談が 好物だ。「鯨り陰氣な話をしますと是非|魔《ま》が|魅《さ》 すといひますから。と|逡巡《しりごみ》すれば、「馬鹿なこ とを、と笑はれて、「それでは|燈《ひ》を|鮎《とも》して懸り ませう。暗くなりました。「怪談は暗がりに限 るよ。「えゝ! 仕方がありません。先月の孚 ば頃|一日《あるひ》晩方の事……」  |此時《あき》座敷|寂《しん》として由井が濱風|陰《いんく》々たり。障子 の穫も見えずなり、天井は墨の如く四隅は暗く 物凄く、人の顔のみやうく灰めき、|逢魔《あふま 》が時 とぞなりにける。亭主は|愈《いよく》心臆し、|團扇《えは》にては たくと、腰の|蓬《あたり》を煽り立て、景氣を附けて語 りけるは、「丁度|此《この》時分用事あつて、雪の下を 通り懸り、|豫《かね》て評到が高いので、|怯氣《びくぐ》々々もの で歩いて行くと、|甲走《かんぱし》つた|婦人《をんな》の悲鳴が、|青照 山《せいせうざん》の|餌《こだま》に響いて:・きいーきいつ、「ああ、 |嫌否《ちや》な聲だ。「は1我ながら何ともいへぬ異 憂な聲でございます。と泰助と顔を見合せ、亭 主は|膝下《ひざもと》までひたと|摺《 》寄り、「えゝ|其《それ》で私は襟 許から、氷を浴びたやうな氣が致し叶、、釘附に. されたやうに立止つて見ました。|有様《ありべう》は腰がが くついて|歩行《ある》けませなんだので。すると|貴客《あたた》、 一赤城の|高棲《たかどの》の北の方の小さな窓から、ぬうと出 たのは|婦人《をんな》の顔、色眞蒼で|頬面《ほしつべた》は消えて無いと いふほど|痔《やせ》つこけて髪の毛が|此《これ》から|此《これ》へ(ト仕 方をして)かういふ風、ぱつちり開いた眼が、 ぴかりしたかと思ふと、|魂消《たまぎ》つた聾で、助けて 1助けてーと叫びました。」  語るを聞いて泰助は心の中に思ふやう、いか さま得三に苛責されて、|下枝《しづえ》か或は妹か、さる こともあらむかし。|活命《たが りへ》てだにあるならば、|追 つけ            そざぐまはれ      はなしと 着救ひ得させむずと、漫に憐を催しぬ。談話途 切《おっぎ》れて宿の亭主は、一服吸はむと|暗中《くらがり》を、手探 りに、|煙管《きせる》を捜して、「おや、憂だ。|侵《こし》に|置《に》い た煙管が見えぬ。あれ、|魔隠《まがくし》、氣味の悪い。と 尚其庭此庭を見廻せしが、何者をか見たりけ む。わつと叫ぶに泰助も驚きて、|見遣《みや》る座敷の 入口に、|煙《けぷり》の如き|物髄《もの》あつて臓騰として漂へり。 |彼《あれ》はと認むる|隙《ひま》も無く、|電《いたづま》? ふつと|暗中《やみ》に消 え、やがて黍助の面前に白き女の|顔顯《あらは》れ、拭ひ たらむ|様《ゃう》に叉消えて、障子にさばく|鼠髪《 みだれがみ》のさら さらといふ苦あり。 六 蹴 れ 髪  亭主の叫びし聲を怪しみ、|慌《あわたど》しく來る旅店                 らんぷ  つ の内儀、「まあ何事でござんすの、と洋燈を黙 けて据ゑ置きながら、床の間の方を見るや|否《いな》 や、「ン、と|反返《そりかヘ》るを抱き止めて、泰助|屹《ユペ う》と振 返れば、柱隠しの姿絶といふ風情にて、床柱に 尭れて立つ、あら怪しき|婦人《をんな》ありけり。  |熟《つくぐ》々其婦人を見るに、年は=十二三なるべ し。しをくとある白地の|浴衣《ゆかた》の、|虚《きろぐ》々|裂《さ》け破 れて肩や腰の|邊《あたり》には、見るもいぶせき血の|汚黙《にじみ》 たるを、|蹴次無《しどぽた》く打纏ひ、衣紋開きて帯も占め ず、|紅《くれたゐ》のくけ紐を胸高に結びなし、|脛《はぎ》も|顯《あら》はに 取蹴せり。露垂るばかりの黒髪は、ふさくと 肩に|溢《こぽ》れて、柳の腰に纏ひたり。|膚《はだへ》の色眞白 く、|透通《すきとほ》るほど清らかにて、顔は|太《いた》く蒼みて見 ゆ。.|但《たマ》屹としたる品格ありて眼の光凄まじく、 頬の肉落ち|願細《おとがひ》りて|薄衣《うすぎぬ》の上より肩の骨の、 いたくしげに顯はれたるは世に在る人とは思 はれず。強き光に打たれなば、消えもやせむと 見えけるが、今泰助等を見たりし時、物をも言 はで|莞爾《につこり》と白歯を見せて|笑《ゑ》める様は、身の毛も |彌立《よだ》つばかりなり。  人々ものを言ひ懸くれど、答は無くて、唯に こくと笑ふを見て、始め泰助は近隣の狂女な らむと見て取りつ、問へばさるものは無しとい ふ。今も猫懐中せる今朝の寓眞に心附けば、|樵《やつ》 れ果て、|其面影《そのおもかげ》は無けれども、氣ばかり|肯《に》たる 庭あり。さては|下枝《しづえ》の如何にしてか脱け出で三 來しものにはあらずや。月夜|折樵《せつかん》をせらるゝと 聞けば、責苦にや疲れけむ、呼|吸《き》も苦しげに見 ゆるぞかし。|之《こ》は此儘に|去《いた》し難しと、泰助は亭 主に打向ひ、「何庭か閑静な虚へ寝さして、ま あく氣を落着かして遣るが可い。當家へ入つ て來たのも、何かの縁であらうからと、勧むれ ば、亭主は氣の好き男にて、一議も無く承引な し、「向側の|行當《ゆさあたり》の部屋は、窓の外がすぐ墓原 なので、お客がございませんから、幽璽でさへ 無けりや、|其《それ》へ蓮れて行つて介抱して遣はしま せう。といひつ、女房を見返りて、「おい、御 女中をお連れ申して進ぜなさいと、|命《いひ》つけられ て内儀は|恐《こはルち》々手を曳いて導けば、怪しき婦人は 逆らはず、素直に夫婦に從ひて、さも|其情《そのなさけ》を謝 するが如く|秋波斜《しうばさ》めに泰助を見返りく、|蹟娘《よろく》 として|出行《いでゆ》きぬ。  |面《おもて》にべつたり蜘蛛の藁を|撫佛《たぎはら》ひて、縁の下よ り這出づるは、九太夫には|些《ちと》男が好過ぎる赤城 の下男八藏なレ。彼れ|先刻《さきに》泰助の後を眼け來り一 て、此座敷の縁の下に潜みて居り、散々藪蚊に 、責められながら、|疹痛《いたみ》を|堪《ニら》ふる天晴豪傑、斯く てあるうち黄昏れて、森の中暗うなりつる頃、 |白衣《びやくえ》を着けたる一人の婦人、樹の下蔭に顯れ出 でつ、|徐《やを》ら|歩《あゆみ》を蓮ばして、雨戸は繰らぬ縁側 へ、忍びやかに上りけるを、八藏|瀧無《おぼろげ》に見ても しや|其《それ》、はて好く|肯《に》た|婦人《をんた》もあるものだ、下枝 は|一室《ひとま》に閉込めあれば、出て來らるべき道理は 無きが、と尚も様子を聞き居るに、頭の上なる 座敷には、人の立騒ぐ|氣勢《げ はひ》あり。幽璽などゝ|動 揺《どよめ》きしが漸くに静まりて、|彼方《あなた》へ連れ行き介抱 せむと、|誘《いざな》ひ行きしを聞済まし、縁の下よりぬ つと出で蚊を佛ひつつ澁面つくり、下枝ならむ には一大事、|熟《とく》と見届けて|爲《せ》む様あり、と裏手 の方の墓原へ|漕《ひそか》に忍び行きたりける。  座敷には泰助が、怪しき婦人を見途りて、下 枝の寓眞を|取出《とりいだ》し、|洋燈《らんぷ》に照して|彼《かれ》と|此《これ》と見競 べて居る庭へ、亭主は再び|入來《いりをニん 》りて、「お客様、 寝床を敷いて遣りますと、|橿《た 》れる様に|臥《ふせ》りまし      ふ ぴん  由んな                それ た。何だか不便な婦人でございます。「其は深 切に好くしてお遣んなすつた。|而《さう》して何とか言 ひましたかい。「|彼《あれ》は|唖《おし》ぢやないかと思はれま す。何を言つても聞えぬやうすでございます。 「何しろ|談話《はなし》の種になりさうだね。「いかさま な。「で、私は之から|鳥渡《ちよゼと》行つて來る庭がある。 |御嘗家《おうち》へ迷惑は懸けないから、編るまで|如彼《あし》し て|藏匿《かくまつ》て置いて下さらないか、|衣服《きもの》に血が|附《つい》て たり、おどくして居る庭を見ると、|邪険《じゃけん》な|姑《しうとめ》 にいびられる嫁か。「なるほど。「或は|纏母《まヨはミ》に苦 しめられる娘か。「|勾引《かどはか》された女で、女郎にでも なれと責められるのか。こりや、もし好くある奴 でございますぜ。「うむ其邊だらう。何でも|日 附《いはくっき》に違ひないから、御亭主、一番|侠客氣《をとこぎ》を出し なさい。「はあて、ようごぜえさあ、ほい、直 ぐと其氣になる。は、ゝ、は、。か、らむには 後に|懸念《けねん》無し。亭主もし二の足ふまば、我が職 掌をいふべきなれど、|藏匿《かくま》ふことを承知したれ ば|其《それ》にも及ばず都合|可《よ》し。人情なれば此婦人を |勒《いたは》りてやる筈なれど、大犯罪人前にあり、これ |忽《ゆるがせ》にすべからずと、泰助は急ぎ身仕度して、雪 の下へと|出行《いでゆ》きぬ。赤城の下男八藏は、墓原に 來て|突當《つきあたり》の部屋の前に、|呼吸《いき》を殺して居たりし が、|他《ほか》の者は皆立去りて、怪しと思ふ|婦人《をんた》のみ 居残りたる様子なれば、倒れたる墓石を押し寄 せて、其上に乗りて伸び上り、窓の戸を細う開 きて|差覗《さしのぞ》けば、彼の婦人は|此方《こなた》を向きて|横様《よこきま》に 枕したれば、顔も姿も能く見えたり。「やあ! と驚きの餓り八藏は、思はず聲を立てけるにぞ 婦人は少し枕を上げて、窓をあふぎ見たる時、      っら     、三し 八藏ぬつと顔差出し、拳に婦人を掴む眞似し て、「|汝《うぬ》、これだぞ、と|睨《ね》めつくれば、|連理引《れんりぴ》き に引かれたらむやうに、婦人は跳ね起きて|打戦《うちをのし》 き、|諸袖《もろモで》に顔を隠し、|傭伏《うつぷし》になりて、「あれえ。 七 |籠《かご》 の |囮《をとり》  倉瀬泰助は族店を出で、、雪の下への道すが ら、|一叢樹立《ひとむらこだち》の茂りたる林の中へ|行懸《ゆきかさ》りぬ。月 いと溝うさし出で、、葉裏を|透《すか》して照らすに ぞ、|偶然《ふと》思ひ付く頬の三日月、又|露《あらは》れはせざる かと、懐中鏡を|取出《とワいだ》せば、きらりと輝く照魔鏡 に怪しき人影映りけるにぞ、はつと鏡を取落せ りo  とたんに鐵棒|室《くう》に躍つて頭を|目懸《めがけ》て|曳《えい》! と |下《おろ》す。さしつたりと身を|交《かは》せば、狙ひ外れて|襲 奮《はずみ》を打ち路傍の岩を眞二つ。石鐵|憂然《かつぜん》火花を散 らしぬ。こは彼の悪僕八藏が、泰助に|尾《び》し來り て、十分油断したるを計り、|狙撃《ねらひうち》したりしな り。|僥倖《さいはひ》に鏡を見る時、後に|近接曲者映《ちかづくくせものうつ》りて、 さてはと用心したればこそ身を全うし得たるな れ。 「|了《しま》つた。と叫びて八藏が、鐵棒を|押取直《おつとりなほ》す を、泰助ははつたと|睨《ね》め附け、「御用だ。と大 喝一聲、|怯《ひる》む庭を附け入つて、|拳《こぷし》の|電手練《いなづましゆれん》の あてに、|八《ヘヘ》藏は急所を撲たれ、|蹟《らんぞ》反りて、大地 は|撞《だう》と響きけり。 「月夜に暗殺、馬鹿々々しい、」と打笑ひつ、泰 助は曲者の顔を|覗《なが》めて、「おや、|此奴《こやつ》は病院へ來 た奴だ。赤城の手下に違ひないが、ふむ敵はも う|我《おれ》が來たことを知つてるな。こりや油断がな らぬ|哩《わい》。|危険《けんのんく》々々、ほんの|一機《ぴといき》で|此《この》石の通りに なる虞、馬鹿力の強い奴だ。と舌を雀きしが、 「待て、何ぞ手懸りになる様な、掘出し物があ らうも知れぬ。と|斯《かコ》る折にも油断無く八藏の|身 腱《からだ》を検して腰に附けたる鍵を奪ひぬ。時に取り ては千金にも勝りたる獲物ぞかし。之あらば赤 城家へ入込むに|便《たより》あり|造化至造妙《しあはせよし》と|莞爾《にっニ》と頷 き、快に納めて後をも見ず|比企《ひき》が|谷《やつ》の森を過 ぎ、大町通つて小町を越し、|座輝川《ざぜんがは》を打渡つて ー急ぎ候ほどに、雪の下にそ着きにける。   (|談話《はなし》前にもどる)  |却読《こミに》赤城得三は探偵の様子を窺へとて八藏を |出《いだ》し遣りたる後、穏かならぬ顔色にて急がはし く座を立ちて、|二室三室《ふたまみま》通り抜けて|一室《ひとま》の内へ 入り行きぬ。こは六慢ばかりの座敷にて一方に |日蔽《ひおほひ》の幕を垂れたり。三方に壁を塗りて、六尺 の開戸あり。床の間は一間の板敷なるが懸軸も 無く花瓶も無し。|但床《たマとニ》の中央に他に|類無《たぐひた》き置物 ありけり。鎌倉時代の上鵬にや、|小桂《こうちぎ》しやんと 着こなして、|練衣《ねりぎぬ》の|被《かづき》を深く被りたる、人の大 きさの立姿。|溢《ニぽ》るゝ黒髪小袖の|棲《つま》、色も香もあ る人形なり。|言《ものい》はぬ|高峰《たかね》の花なれば、手折るべ くもあらざれど、|被《かづき》の雲を押分けて月の面影|洩 出《もれい》でなば、|繭長《らふた》けたらむといと床し。  得三は人形の前に|衝《つ》と進みて、どれ、|鳥渡《ち よつと》。 上繭の|被《かづき》を引き上げて、手燭を|窮《かざ》して|打見遣《うちみや》 り、h等|可《よ》しく。と|璽《ひとり》一|一《ど》口。|奮《ともと》の如く|被轟《かづき》し て、「後刻に高田が來る筈だから、此の方は彼に くれて遣つて、金にするとしてまづ可しと。庭 ろで|下枝《しづえ》の方は、|我《お》れが女房にして、公債や鐵道 株、ありたけの財産を、|我《お》れが名に書き替へて ト|大分《だいぷ》旨い仕事だな。しかし下枝めがまた悪く 強情で始末にをへねえ。手を替へ、品を替へ、 |撫《たで》つ|孤《つね》りつして口読いても|鷹《うむ》と言はないが、東 京へ|行懸《ゆきが》けに、|梁《うつぱり》に釣しで死ぬ様な目に逢は せて置いたから、|些《ちつと》は|慮《こた》へたらう。|其《それ》に本間の 死んだことも聞かして遣つたら、|十《とを》に九つは|此 方《こつち》の物だ。|何《ど》うやら|探偵《 いぬ》が嗅ぎ附けたらしい。 何も彼も今夜中に仕上げざなるめえ。其代り|翌 日《あしたつ》から御大蓋だ。どれ、ちよびと|隠妾《かくしづま》の顔を見 て|慰《たぐさま》うか。と|豫《かね》てより下枝を幽閉せる、座敷牢 へ赴くとて、廻廊に|廻《めぐ》り出で〜、欄干に|尭《よ》り懸れ ば、此虚はこれ赤城家第一の|高櫻《たかどの》にて、屈曲縦 横の往來を由井が濱まで見通しの、鎌倉孚面は 眼下にあり。  山の端に月の|出汐《いでしほ》見るとも無く、|比企《ひき》が|谷《ゃつ》の 森の方を眺むれば、目も遥かなる畦道に、縢騰 として|婦人《をんた》あり、黒髪|蠣《さつ》と夜風に蹴だして白き |衣服《きもの》を着けたるが、月明りにて書ける如く、南 をさして歩むが如し。  得三は|咽瞬《あたや》と驚き、「|彼《あれ》は|樋《たしか》に|下枝《しづえ》の姿だ…… |否《いや》、|否《いや 》、三年|以來《このハかた》、あの堅固な牢の内へぶちこ んであるものを、まさか魔術を使ひはしめえ し、|戸外《おもて》へ脱けて出る道理が無い。こりや心の 迷ひだ。|脱《に》がしてはならぬくと思つてるから だ。|此《これ》ばかりの事に神経を櫃すとは、え〜、意 氣地の無い事だ。いかさまな、五十の坂へ|踏懸《ふみか》 けちやあ、ちと|綻《より》が戻らうかい。だが油断はな らない、早く行つて見て安心しよう。何、居る に違ひ無いが……ま、よ念の爲だと、急がはし く、馳せ行きて北の童と名づけたる|高棲《たかどの》の、怪 しげなる戸口に到り、合鍵にて戸を開けば、|雷《らい》 の如き言ありて、鐵張の戸は左右に開きぬ。室 内に籠りたる|生暖《たまぬる》き風むんむと|面《おもて》を撲ちて|不快《こミろわる》 きこといはむ|方《かた》無し。  手燭に照して見廻はせば、地に蹄しけむ天に |朝《てう》しけむ、よもやくと思ひたる下枝は消えて あらざりけり。得三は顧倒して血眼になりぬ。 八 |幻《まぼ》   |影《ろし》  |先刻《さき》に赤城得三が、人形室を|出行《いでゆ》きたる|少時《しぱらく》 後に、不思議な呑ことこそ起りたれ。風も無き     かづきゆら          あでゃか に人形の被揺めき落ちて、妖麗なる顔の洩れ出 でぬ。瑠璃の如き眼も動くやうなりしが、怪し い|哉《かな》影法師の如き美人|静《しづく》々と|室《ま》の中に歩み出で たり。|此幻影《このまぼろし》讐へば月夜に水を這ふ煙に似て、 手にも取られぬ風情なりき。  折から|興障《たちみざは》りの|荒《あら》らかなる、|遣音《あしおと》彼方に起り ぬれば、黒き髪と白き顔はふつと消え失せ、人 形は叉|蕾《もと》の通り|被《かづき》を被りぬ。  途端にがたひしと戸を開けて、得三は血眼 に、此室に駈け込み、「此の方は|奈何《どう》だらう。 あの様子では同じく|翼《はね》が生えて飛出したかも知 れぬ。さあ事だ、事だ、飛んだ事だ。もう一度 見ねばならない。乏|小祥燈《こともし》の|心《しん》を繰上げて、荒 荒しく人形の|被《かづき》をめくり、|熟《とく》と覗きて|薔《もと》のやう に|被《かづき》を下ろし、「うむ。此の方は何も別條は無 い。やれ|此《これ》で少しは|安堵《おちつい》た。|其《それ》にしても下枝め は|何《どう》して失せた知らん。|婆《ぱマあ》々が裏切をしたので はあるまいか。む、、何しろ一番|糺明《たいユし》て見よう と、|掌《たなそこ》を高く打鳴らせば、|稽《やミ》ありて得三の面 前に平伏したるは、當家に飼殺しの|飯炊《めしたき》にて、 お|録《ろく》といへる老婆なり。  得三は聲鋭く、「お録、下枝を何虚へ遁がし た、と|睨傭《ねめつ》くれば、老婆は驚きたる顔を上げ、 「へい、|下枝様《しづえさん》が何かなさいましたか。「しら ばくれるない。|屹度汝《きつときさま》が|遁《にが》したんだ。「|否《いミえ》、一 向に存じません。「|汝《うぬ》、言ツちまへ。「|些《ちつと》も存じ ません。「ようし、白欣しなけりや斯うするぞ。      此まごめ      ピストル  とりいだ     ぷちころ と懐中より装弾したる短銃を取出し、「打殺す が|可《い》いか。とお録の|心前《むなさき》に|突附《つきつ》くれば、|足下《あしもと》に |露《うづくま》りて、「何で|其様《そん》なことをいたしませう。旦 那様が東京へ行らつしやつてお留守の間も私は ちやんと下枝様の番をしてをりました。縄は解 いて遣りましたけれども。「それ見ろ。さうい ふ|糞慈悲《くそじひ》を垂れやがる。|我《おれ》伽蹄るまで|慮《うむ》といは なけりや、決して下ろして遣ることはならない と、あれほど|言置《いひお》いて行つたぢや無いか。「で もひいく泣きまして耳の遠い私でも寝られま 'せんし、|其上主公《それにあなた》、二日もあゝして|梁《うつぱり》に釣上げ て置いちやあ死んで|了《ミしま》ふぢやございませんか。 「え〜! そんなことは|何《ど》うでも|可《い》い。何虞へ       それ                      さき 遁がしたか、其を言ヘツてんだ。「つい今の前 も北の壷へ見廻りに参りましたら、|下枝様《しづえさん》は|卒 常《いつも》の通り、牢の内に|儘《たふ》れて居ましたのに、俄に 居無くなつたとおつしやるが、|實《まこと》とは思はれま せん。と|言解様《いひとくさま》の我を欺くとも思はれねば、得 三は疑ひ惑ひ、さあらむには今しがた畦道を走 りし|婦人《をんな》こそ、籠を睨けたる小鳥ならめ、下枝 一たび世に|出《いで》なば悪事の露顯は瞬く間と、おの が罪に責められて、得三の氣味の悪さ。|惨《むご》たら しう殺したる、|蛇《くちなは》の鎌首ばかり、飛び失せた らむ心地しつ立つても居ても落着かねば、いざ ふれ後を追懸けて、草を分けて探し出し、引摺 つて蹄らむとお録に後を頼み置き、勝手口より 出でむとして、押せども、引けども戸は|開《あ》か ず。「八藏の馬鹿! 外から|鎖《ちやう》を下して行く奴 があるもんか。とむかばらたちの八ツ當り。  折から玄關の戸を叩きて、「頼む、頼む。と |一晋訪《おとた》ふ者あり。聞畳えある聲は|其《それ》、とお録|内《うち》よ り戸を|開《ひ》らけば、|外《おもて》よりずつと入るは下男を連 れたる紳士なりけり。|之《こ》は|高田駄丞《たかただへい》-とて、横濱 に住める高利貸にて、得三とは同氣相集る別懇 の聞柄なれば、非義非道を以て|有名《なだか》く、人の|活 血《いきち》を|火吸器《すひふくべ》と|渾名《あだた》のある男なり。召連れたる下 男は|銀卒《ぎんべい》といふ、高田が氣に入りの人非人。い づれも|法衣《ころも》を|絡《まと》ひたる狼ぞかし。  高田は得三を見て聲をかけ、「赤|城様《さん》、今晩 は。得三は|出迎《いでむか》へて、「これは高田|様《さん》でござい ますか。まあ。|此方《こお ヘウ》へ、と|二《も》階なる密室に導き て主客|三人《みたり》の座は定まりぬ。高田は笑ましげに |雀莫《まきたぱニ》を|吹《もか》して、「早速ながら、何は、令嬢は息 災かね。「え、、お藤のことでございますか、 「左様さ、私の|情婦《いしひと》、は、二、はム。と|溶解《とろ》け むばかりの|顔色《かほつき》を、銀不は覗きて|追從笑《つゐしようわら》ひ、 「ひ、ゝ、。得三は苦笑ひして、「藤は憂つた 事はございません。御約束通り、今|夜貴下《あなた》に|差 進《さしあ》げるが。……實は下枝ね。「はゝあ。「|彼《あれ》が飛 んだことになりました。「ふむ、死にましたら う。だから言はないことか、あんなに|惨《む こ》いこと をなさるなと。|到《たうく》々|責殺《せめき》したね。|非道《ひどい》ことをしな すつた。「|否《いえ》、死んだのならまだしも|可《い》いが、|何《どう》 してか逃げました。「なに!遁げたえ?「|其《それ》で 今捜しに出ようといふ虚ですて。「むゝ、|其《それ》は 飛んだ事だ。|猫豫《いうよ》をしちや|不可《いけま》せん。|彼嬢《あつこ》が|饒 舌《しやべる》と一切の事が|襲畳《ぱれ》つちまふ。宜しい銀丞-にお |任《まか》せなさい。|楠《たう》、銀丞-や、お苅はさういふこと には馴れて居るから、取急いで探してお|進《あ》げ申 しな。と|命《いぴつ》くれば得三も、探偵に窺はる、こと を知りたれば、家を出でんは氣懸りなりしに、 これ|幸《さいはひ》と銀丞-に、「ぢや御苦努だが、願ひます。 私どもは後に|些《ちつ》と用事があるから。といへば、 |元來同穴《もとよりひとつあな》の|絡《むじな》にて、紹てのことを知るものなれ ば、銀平は頷きて、「へい宜しうございます。 |下枝様《しづえさん》が|如彼《あミ》いふ|扮装《み なり》のま、飛出したのなら、 今頃は鎌倉中の評到になつてるに違ひありませ ん。何をいはうと狂氣にして引張つて参りま す。血だらけのあの姿ぢや誰だつて狂菰といふ ことを疑ひません。旦那、左様なら、此から直 ぐに。と立上るを得三は|少時《しぱし》と|押止《おしと》め、「例の な、承知でもあらうが、三日月探偵が|此地《こつち》へ來 て居るから、油断のないやうに。と念を入るれ ば、「|其《それ》は重々容易ならぬことだ。銀丞-しつ《ナム》|カ りやつてくんな。と高田も|言《ニとよ》を添へにける。銀 平とんと胸を叩きて、「|御配慮《おきづかひ》なさ必涼寸な。 と氣鰹に飛出し、表門の前を足早に行懸れば、 |前途《むかう》より|年少《としわか》き好男子の|此方《こなた》に來懸るにはた止       すれちが       ひと          っ,一、あ力り 行逢ひけり。擦違うて雨人齊しく振返り、月明 に顔を見合ひしが、見も知らぬ男なれば、銀丞- は斯儘歩を移しぬ。これぞ倉瀬泰助が、悪僕八 藏を|打倒《うちたふ》して、今しも此虞に來れるなりき。 九|破《やれ》 |廟《ぴさし》 泰助は書來て舞割を見知りたれば、期足にて 直ぐと赤城家の裏手に行き、垣の|破目《やれめ》を潜りて 庭に入りぬ。    あれ        らう  目も及ばざる廣庭の荒たき儘に荒果て三、老 しようこさんかげくら            おひ4げり 松古杉蔭暗く花無き草ども生茂て踏むべき路も 魏辮し、崩れたる築山あり。水の洞丸たる泉水 あり。倒れ懸けたる|耐《ぽニら》には狐や宿を|籍《カり》ぬらむ、 耳許近き木の枝にのりすれく|彙《ふくろふ》の鳴き|連《つ》る る盤いと凄まじ、木の葉を渡る風はあれど、塵     はゝきな         ぱか   えがほ         かた を清むる箒器あ悟、鯉量計鶏を得顔て泰助は、表門の方に出で、轟に立向ひ、戸 に、霞を織る様哀なり。妖物屋敷と言合るも、 を推して試むれば、固く内より鎖して開かず。 議なり暴助が、筏ぎ書たる、頭上の勝舌雀しき耀行きて、もしやと堺ξ 松の難響て天よ鍵と讐す物あり、足許同じく開かず。如何せむと思㌣が、不圖錠前 にはたと落ちぬ、何やらんと拾ひ見るに、白きに眼を着くれば、こは外より鎖芒なり。獄み 弗野うのものに・騨一つ包みてありけり。に警探りて、悪僕より奪ひ置きたる鍵を嵌む 擢蹴きて月に騨せば、鰐4しき血汐にて左の文 れば、き恥と合ひたる天の|賜物《たまもの》、「占めた。と 字を認めたり。             捻ぢれば開くにぞ、得たりと内へ紹び入りぬ。  麟。艇しにされようとする女が書きました。彫  一暗闇を歩むに捌㎞1れば、爪先探り津建、工。を 蔚・蛎射の内から助け出して下さいまし。…  立てず。やがて纏糟子を探り當て、「此で、ま 驚の乳たる字の形の崩れたる、筆にズ響づ、仕事に一足踏懸けた。と耳を澄まして窺へ し物にはあらじ。思ふに指など喰ひ切りて其血ど、人の氣附たる様子も無ければい㌔安㌔二 を葦ににじり書き・句の終りにはお鱗寸しく血階に上りて、壁を洩れ來る鵬に四邊を屹と見 のぬらくと流れたるを見て、泰助はほろりと渡せば、長き廊下の雨側に比々として部耀べ 落涙せり。       り。大方は雨礎糟腐れて、柱ばか曇差と  ざを投げたるは、下枝か、藤か。目も當てら 立ち、僅は破れ天井裂け、戸障子も無き部屋ど れぬことどもかな。いで|我來《われきた》れり。泰助あり、 もの、昔竹さこそと偲ばる、が|一《ひ》いニウ|三《ふみ》…㌔ 今夜の讐地獄より噂取疋い習は此羅勢るに騨ず籏堪方に戸を閉夏る一室 出し参ら茗㌃為婆り響たら権高棲ありて、燈火の灯影幽かに見ゆるにぞ、要こそ を打仰げど、其かと見ゆる影も無く、森々と松 あれと近附きて、ひたと耳をあて」聞くに、人 吹く風も、助けを呼びて悲しげなり。屹と心を のあるべき|氣勢《けはひ》もなければ、|潜《ひそ》かに戸を押して 取直し・鵡に伸びたる夏草を露けき袖にて押分 入込みたる、|此室《こし》ぞ彼の人形を置ける室なる。                              ひおほひ       くつきやう 沁"れど二ろ けく尚奥深く踏入りて忍び込むべき庭もや  垂れ下したる日蔽は、これ究竜の隠所と泰  と・微か崎かを繊騨るに、驚くばかり匿大なる 助は雨戸と鄭藏の間に、い麟まの如く身を隠しつ。 建物の内に、住む人少なければ、|燈《ともしび》の影も|外《おもて》へ と見れば正面の|板床《いたどこ》に、世に|希有《めづら》しき人形あ 洩れず嵐び雁より曜躰ズる月は、崩れし壁の骨り。人形の前に坐りたる、+七八の美人ありけり。  を照して、家内寂冥として墓に似たり。|梢《やし》あり  泰助は鵬を殺して薦を窺へばいう羨は何 やらむ深く思ひ沈みたる風情にて、頭を低れて 傍目もふらず、今泰助の入りたることは少しも 心附かざりき。|額襟許清《ひたぴえりもときよ》らに見え、色いと白く ヒお    かみふさ        あでやか 肉置き好く、髪房やかに結ひたるが、妖艶なる こといはむ|方《かた》無し。美人は正坐に堪へざりけ ん、|居坐蹴《ゐずまぴみだ》して泣きくづをれ暖り上げつゝ|濁言《っぷやく》 やう、「あゝ悪人の手に落ちて、遁げて出るこ とは出來ず、助けて下さる人は無し。あの高田 に汚されぬ先に、一|層《そ》此儘死にたいなあ、お|姉 様《ねえさん》は何う遊ばした知ら、定めし私と同じ様に。 と横に倒れて|唯泣《ひたたさ》に泣きけるが、力無げに|起直《お オしなほ》 り赤めたる眼を袖にて|押拭《おしぬぐ》ひて、|件《くだん》の人形に打 向ひ、「人形や、好くお聞き。お前はね。死亡 遊ばした|母様《おつかさん》に、よく顔が|省《に》てお|在《いで》だから、|平《いつ》 瀞嬬蹴と二人して、可愛がつてあげたのへに、今, こんな身になつて居るのを、見て居ながら、助 けてくれないのは|情《なさけ》ないねえ、怨めしいよ。御 魔な、誰も世話をしないから、|此暑《このあつ》いのに綿の 入つた|衣服《きもの》を着てお|在《いで》だよ。私を|奮《もと》のやうにし てお呉れだつたら、|甘味《おいし》い御膳も|進《あ》げようし、 |衣服《きもの》も着換へさせますよ。お前のに縞麗な|衣服《きもの》 を、|姉様《ねえさん》と二人で縫ひ上げて、|翌日《あす》は着せてあ げようと樂みにして寝た晩から、あの邪瞼な得 三に、かうされたのはよく御存じでないかい。 今夜は高田に恥かしめらるからさあ、|何《どう》かして 下さいてばよう。えゝ、これほどいふのに返事 もしないかねえ。と|舞《ひし》と|上繭《じゃうらふ》の腰に|組《すが》りて、口 読きたるには、泰助も涙ぐみぬ。  美人は又た、「あれ堪忍して下さいましよ。 |貴女《あなた》は暇にも|母様《おつかさん》、恨みがましいことを申して 濟みませんでした。でも」う紳様も、佛榛も、 |妾《わたし》を助けて下さらないから、|母様何卒《おつかさんどうぞ》助けて下 さい。■さうでなくば、私を殺して早うお傍に連 れて行つて下さいまし、よ、よ。とカ一杯|抱占《だきし》 めて、身を|震《ふる》はせば人形もともにわな二ぐ如く なり。  泰助は見るに忍びず。いでまづ|此《このニ》嬢を救ひ|出 さむ、家の案内は心得たれば背負うて遁げむに 雑作《いだざふ ペムに》は無しと|幕《 》を|掲《かま》げて|衝《っ》と出でたり。不意に 驚き、「あれ。と叫びて、泰助聲をも懸けざる に、身を翻して、人形の|被《かづき》を潜つて入るよと見 えし、美人は消えて見えずなりぬ。あまりの不 思議に呆氣に取られ、荘然として眼をぱちく 「不思議だ。」不思議と泰助は、漕かに人形の|被《かづき》 の|端《はし》へ片手を懸けたる折こそあれ。|部室《へや》の|外《おもて》に どやくと建音して、二三人が來れる様子に、 |南無三賓飛《たむさんぱうと》び|退《すさ》りて再び日蔽の影に潜みぬ。 十|夫婦喧嘩《めをとけんくわ》  高田の下男銀平は、|下《しつえ》枝を捜し|出《いだ》さむとて、 西へ東へ|彷裡《さまよぴ》つ。巷の|風読《うはキぐ》に耳を聾て、道行く 人にも|其《それ》とは無く|問試《とひこちろ》むれど手懸り無し。南を 指して走りしと得三の言ひたれば、|長谷《はせ》の|方《かた》に 行きて見むと|豊束《おぼつか》なうは思へども、|比企《ひき》が|谷《やつ》よ り|滑川《なめりがは》へ道を取つて行懸り、森の中を通ると き、木の根を枕に|叢《くさむら》に打倒れたる者を見たり。  時すがら悪き|病疾《やまひ》に罹れるやらむ、近寄りて は面倒、と慈悲心無き男なれば遠くより素通り しつ。まてしばし人を尋ぬる身にしあれば、人 の形をなしたる物は、何まれ心を|注《つ》くべきな り。と思ひ返して|傍《そぱ》に寄り、倒れし男の|面膿《めんてい》を 月影にて|熟《よ》く見れば、豫て|知己《ちかづき》なる八藏の歯を |喰切《くひしぱ》りて|呼吸《いき》絶えたるなり、銀平これはと打驚 き、脈を押へて伺へば遙かに|通《かす》ふ轟の|呼吸《いき》、呼 び活けむと聲を張上げ、「八藏、やい八藏、|何《どう》 したく、え、八藏ツ、と力任せに二つ三つ|掴 拳《にぎりニぷし》を|撲《くら》はせたるが、死活の法にや|協《かな》ひけむ。う むと坤くに力を得て「やい、|緊乎《しつかり》しろ。と働ま せば、八藏はやうくに、|脾腹《ひぱら》を抱へて|起上《おきあが》 り、「あ|痛《いつ》、あ|痛《いつ》。…-お〜|痛《いて》え、痛え、畜生 |非道《ひど》いことをしやあがる。と澁面つくりて銀丞- の顔を|覗《なが》め、「銀丞-、遅かつたはやい。「おらあ |既《すん》でのことで|俗名八《ぞくみやう》藏と拝まうとした。「えゝ、 縁起でも|無《ね》え|慶止《よし》て呉れ。物をいふたびに腹へ こたへて、こてえられ無え。「全腱|何《ど》うしたん だ。八藏は頭を掻きくありしことども物語れ ば、銀丞-は、驚きつ又|便《たより》を得つ、「ふむ、|其《それ》で は|下枝《しづえ》は滑川の|八橋櫻《やつはしろう》に居るんだな。「あ、、 |何《どう》してか|紛《まぎ》れ込んだ。おらあ、窓から覗いて|樋《たしか》 に見た。何とか工夫をして引摺り出さうと思つ てる内に、黍助めが出懸ける|様《やう》だから、早速跡 を眼けて、まんまと首尾よくぶつちめる庭を、 さん人\にぶつちめられたのだ、|忌《いめく》々・しい。 「|可《よ》し一所に|歩《あゆ》べ。行つて下枝を連れて|蹄《けえ》らう。 「おつと心得た。「さあ行かうぜ。「参ります るく。何かと申すうちに、はやこゝは滑川に ぞ着きにける。  八橋棲の亭主得右衛門は、|黄昏時《たそがれどき》の混雑に紛 れ込みたる怪しき婦人を、|一室《ひとま》の内に|殊《ゆす》ませ置 き、心を静めさせむため、|傍《ギしば》へは人を近附け ず。時|経《た》たば素性履歴を聞き紅し、身に叶ふべ きほどならば、力となりて得させむず、と|性質《うまれつき》 たる|好事心《かうずしん》。かうしてあゝしてかうして、と濁 りほくく頷きて、帳場に坐りて脂下り、婦人 を窺ふ曲者などの、|萬一《もし》入り|來《きた》ることもやあら むと、|内外《うちそと》に心を配り居る。  勝手を働く女房が、吊事|了《しま》うて棒を外し、前 垂にて手を拭きく、|得衛《とくゑ》の前へ|丁《とん》と坐り、 「お|前様何《まへさんどう》なさる氣だえ。「|何《どう》するつて何を|何《どう》 する。と室とぼければ|擦寄《すりよ》つて、「何をもない もんだよ。分別盛りの好い年をして、といふ顔 色の|尋常《たど》ならぬに得右衛門は打笑ひ、「|其方《そたハた 》も いけ|年《どし》を|仕《つかまつ》つてやくな。といへば|赫《ヘヘヘくわつ》となり、「氣 樂なことをおつしやいますな。お|前様見《まへさんみ》たやう な人を怪我にも|妬《や》く奴があるものか。「おや恐 しい。何を|左様《ヘユヒつ》がみくVふのだ。「あ、いふ をんな   うち       どん  か、ゝりあひ 婦人を宅へ置いて何な懸合にならうも知れませ ぬ。「|其事《そのこと》なら|放棄《うつちや》ときな、おれが方寸にある 事だ。ちやんと飲込んでるよ。「だッてお|前様《おまへさん》、 御主筋の|落人《おちうど》ではあるまいし、世話を焼くこと はござりませぬ。「お前こそ世話を焼きなさん な。「|否《いしえ》、あ、して置くと屹度庄屋様からお前 を呼びに來て、手詰の慮封、|寅刻《たしつ》を合圖に首討 つて渡せとなります。「其時は例の|贋首《にせくび》さ。「人 を馬鹿にして|在《い》らつしやるよ。「|而《さう》して娘は居 ず、さしづめ|身代《かはり》はお前さね。「飛んでも無い。 「うんや喜こばつし。「|何故《なぜ》喜ぶの。「はて、あの 縞麗首の代りにたてば、お前死んでも浮ばれる ぜ。「え」|悔《くや》しい。「|悔《くや》しいことがあるものか。 首實検に|入奉《いれたてまつ》る。死相憂じてまづそのとほり、 は、」」、。「お前はなあ。「これ、古風なこと をするな。|呼吸《いき》が詰る、これさ。「|鶏《とり》が鳴いて も放しはしねえ。早く追ひ出してお|了《しま》ひなさ      ぷつか、、        くら           あ   いた い。「水を打懸けるぞ。「啖ひ附くぞ。「苦、痛、 |眞個《ほんと》に|啖《くひ》ついたな。|此狂女《このきちがひ》め、と振佛ふ、むし やぶりつくを突飛ばす。がたぴしといふ物音は |皿鉢飛《さらぱちと》んだ|騒動《さわぎ》なり。  |外《おもて》に窺ふ、八藏、銀平、時分はよしとぬつと 入り、「あい、御免なさいまし。」 十一 みるめ、かぐはな 「はい、|光來《おいで》なさいまし、 何ぞ御用、と得右衛 門|居住居《ゐずまひ》直して挨拶すれば、女房も髪のほつれ 毛掻き上げつ、静まりて控へたり。銀平は八藏 に屹と|目注《めく》ぱせして|己《おのれ》はつかくと入込めば、 「それお客様御案内と、得衛の知らせに女房 は、「|此方《ニちら》へ。と先に立ち、奥の|室室《あきま》へ銀丞-を 導き行きぬ。道々|手筈《てはず》を定めけむ、八藏は銀丞- と知らざる人の如くに見せ、其身は|上口《あがりくち》に腰打 懸け、|四邊《あたり》をきよろく見廻すは、もしや婦人 を尋ねにかと得右衛門も油断せず、|顔打守《うちも》り て、「|貴方《あたた》は|御泊《おとまり》ではございませんか。と問へ ばちよつとは|答《こたへ》せず、煙草一服思はせぶり、と んとはたきて煙管を杖、「親方、逢はしてお|呉《くん》 ねえ。と|異《おつ》にからんで言ひ懸くれば、|其《それ》と察し て轟く胸を、|押鎭《おししづ》めてぐつと落着き、「逢はせ とはそりや誰に。亭主ならば私ぢやさあお目に 懸りましよ。と|此方《こなた》も負けずに煙草をすぱく。 八藏は肩を|動《ゆす》つてせ、ら笑ひ、「おいらが|嬬《かト》々 が來て居る筈、|一寸逢《ちよいとあ》はうと思つて來た。「ふ む、して|何《どん》な御婦人だね。「|些氣《ちとき》が|狂《ふ》れて血相 憂り、取蹴だしては居るけれど、すらつとして 中肉中|脊《ぜい》、|戦傑《ぞつ》とするほど|美《い》い女さ。と室囎い て毛脛の蚊をぴしやりと叩く|檜髄面《にくていづら》。斯くては |愈彼《いよくか》の婦人の身の上思ひ遣られたり、と得衛は 屹と思案して、「|其《それ》は|大方門違《おほかたかどちが》ひ、|私《わし》の代になつ てから禰の紳は這入つても|狂人《きちがひ》などいふ者は、 |門端《かどぱた》へも寄り附きません。と思ひの外の骨の強 さ。八藏は本音を|吐《ふ》き、「おい、|可《い》い加減に|巫《ふ》 |山戯《ざけ》て置け。これ知るまいと思うても、|先刻《さつき》ち やんと睨んで置いた、此庭を這入つて右側の|突 當《つきあたり》の部屋の中に|匿藏《かくまつ》てあらうがな。と正面より 斬つて懸れば、ぎよつとはしたれど受流して、 「居たら又何とする。「やい、やい、馬|鹿落着《おちつき》 に|落着《おちつく》ない。亭主の許さぬ女房を|藏《かく》して置けば |姦通《まをとこ》だ。足許の明るい内に、さらけ出してお|謝 罪《わぴ》をしろと、|居丈高《ゐたけだか》に詰寄れば、「こりや|可笑《をかし》 い、お|政府《かみ》に税を差上げて、天下晴れての宿屋 なら、|他人《ひと》の妻でも|妾《めかけ》でも、泊めてはならぬ道 理は無い。|其《それ》とも|其方《そち》の女房ばかりは、泊める なといふ提があるか、さあ|其《それ》を|聞《きか》うかい。と言 はれて八藏受身になり、む、、と詰りて|頬脹《ほエふく》ら し、「何さ、そりや|此方《こなた》の商費ぢや、泊めたが悪 いといふでは無い。用があるから亭主の|我《おれ》が蓮 れて蹄るに故障はあるまい。といはれて|否《いや》とは 言はれねば、得衛もぐつと行詰りぬ。八藏得た りと璽み懸けて、「さあ、出して渡してくれ、 |否《いや》と言ふが最後だ。と|撞乎《どつか》と坐して|大胡坐《おほあぐら》。得 右衛門思ひ切つて、「居さへすれば渡して進ぜ る、居らぬが實ぢやで|断念《あきらめ》さつし。と言はせも 果てず眼を怒らし、「まだく|吐《ぬか》すか面倒だ。 踏み込んで蓮れて行く、と|突立上《つしたちあが》れば、大手を 擁げ、「どつこい遣らぬは、誰でも來い、|家《いへ》の 亭主此虚に控へた。「何をと、八藏は隠し持つ たる鐵棒を|振騎《ふリかざ》して|飛懸《とぴかト》れば、非力の得衛|仰天《ぎゃうてん》 して、蒼くなつて|押隔《おしへだ》つれど、腰はわなノ\気 はあぷく、|困《こう》じ果てたる|其庭《そのところ》へ女房を|前《さき》に銀 丞-が=|至《ひとま》を出で二駈け來りぬ。  銀卒は何思ひけむ、|勢《いきほひ》に乗る八藏を取つて|突 除《っきの》けづいと立ち、「|勾引《かどはかし》の罪人、御用だツ。と 呼ば三れば、八藏もまた何とかしけむ、「え、、 と|吃驚《ぴつくり》身を翻がへして、|外《おもて》へ遁出し雲を霞、遁 がすものかと銀平は門口まで追懸け出で、|前途《ゆくて》 を見渡し|濁言《ひとりごと》、「素早い、野郎だ。取遁がした、 残念々々と、引返せば、得右衛門は|興畳顔《きょうざめがほ》に て、「つい混雑に紛れまして、|未《ま》だ御挨拶も申 しません。|貴下《あたた》は今しがた御着になつた御客 様、さては其筋の。と|敬《うやま》へば、銀卒したり顔に 打頷き、「|鷹《うむ》、僕は横須賀の探偵だ。」  遁げると見せ懸け八藏は遠くも走らず取つて 返し、裏手へ廻つて墓所に入り、|下枝《 しづえ》が臥した る部屋の前に、忍んで様子を窺へり。  横須賀の探偵に早替りせる銀平は、亭主に向 ひて聾低く、「實は、横須賀のさる海軍士官の 令嬢が、江の島へ参詣に出懸けたま三、今以つ て婦つて|來無《こな》い。と口より|出任《でまか》せの嘘を吐け ど、今の|本事《てなみ》を見受けたる、得右衛門は少しも 疑はず。|眞《ま》に受けて、「なるほどく。と感 じ入りたる|腱《てい》なり。銀卒いよく圖に乗り、 「え、、|其《それ》で|必定誘拐《てつきりかどはが》されたといふ見込みで な。僕が探偵の御用を帯びて、所々方々を捜し て居る虚だ。「|御道理《ごゑつとも》。「|先刻《レペつき》からの様子では、 お前の虚に誰か婦人を|藏匿《かくま》つてある。|其《それ》をば悪 者が嗅ぎ出して、|奪返《うぱひかへ》しに來た様子だが。…… と言ひつ、亭主の|顔《 》を吃と見れば、|鈍《おぞ》や探偵と 信じて得右衛門は|有膣《ありてい》に、「左様、其通り。實 はこれくの始末にて。と宵よりありし事柄を 落も無くいうて|退《の》くれば、銀平はしてやつたり と肚に笑みて、|表面《うはぺ》に盆々|容髄《ようだい》を飾り、「は、 あ、御奇特な事ぢや、聞く庭では年齢と言ひ、 風髄と言ひ、全く僕が尋ねる令嬢に違ひ無い。 いや、追つて|其許《そのもと》に、恩賞の御沙汰これあるや う、僕から|上申《じゃうしん》を致さう、樋かに|其《それ》か見度いも のぢやが、といふに亭主はほくノ\喜び、見事 |善根《ぜんこん》をしたる所存、|傍聞《かたへぎし》する女|房《 》を|流晒《しりめ》に懸け て、|乃公《だいこう》の功名まづこのとほり、それ見たかと いはぬばかり。あはれ銀卒が悪智慧に欺むかれ て、いそくと|先達《せつだつ》して、婦人を|罧《やす 》ませ置きた る室へ、手燭を取つて案内せり。  前には八藏|驚破《すは》といはゞと、手ぐすね引きて |待懸《まちか》けたり。|後《うしろ》には銀平が手も無く得右衛門に 一杯くはして、奪ひ行かむと謀りたり。|綾《わづ》かに 虎口を遁れ來て、仁者の|懐《ふところ》に|漕《ひそ》みながら、毒蛇 の尾にて巻かれたる、下枝が不運憐むべし。 十二|無理脅迫《むりじひ》  赤城家にては泰助が、|日蔽《ひおほひ》に隠れし庭へ、人 形室の戸を開きて、得三、高田、老婆お録、三 人の者|入來《いりイに エた》りぬ、程好き虚に座を占めて、お録 は携へ來りたる酒と肴を|置排《おきなら》べ、|大洋燈《おほらんぷ》に取替 へたれば、室内照りて眞書の如し。得三|其時《そのとき》膝 |押向《おしむ》け、「高田|様《さん》、ぢあ、お約束通り讃文をま いて下さい。高田は懐中より讃書を|出《いだ》して、金 一千圓也と、書きたる虚を見せびらかし、「い かにも承知は致したが、未だ|不可《いけ》ません。な《ヘヘ》|に して|了《しま》つたら、縞麗|薩張《さつぱり》とお返し申さうまづそ れまでは、と又|懐《ふところ》へ納め、|願《おとがひ》を撫でゝ居る。 「お録、それく。と得三が促がし立つれば、 老婆は心得、|莞爾《ここ》やかに高田に向ひて、お芽拙         はなよめご                 くだ〃 度存じます。唯今花嫁御を。……と立上り、件 の人形の|被《かづき》を掲げて|漕《くいム》り入りしが、「じたばた せずにお來でなさい、といふ聲しつ。今しがた 見えずなりたる、美人の|小腕《こがひな》を邪瞼に掴みて、 身を|脱《のが》れむと悶えあせるを容赦なく|引出《ひきいだ》しぬ。 美人は雨手に顔を押へて身を|辣《すく》まして|戦《をのき》き居た りo  得三|之《これ》を打見遣り、「お藤、|豫《かね》て言ひ聞かし た通り、今夜は婿を授けて遣るぞ。|嚥《さぞ》待遠であ つたらうの。と|空囎《そらうそぷ》きて打笑へば、美人はわつ と泣伏しぬ。高田はお藤をじろりと見て、「だ が千圓は頗|至局直《かうじき》だ。「考へて御魔なさい。|此《これ》 程の玉なら、|潰《つぷし》に賛つたつて三年の年期にして 四五百圓がものはあります。|其《それ》を|貴下《あなた》は、初物 をせしめるばかりか、生涯のなぐさみにするの だもの、|此方《こちち 》は見切つて大安費だ。千圓は|安償《やす》 いものだね。「|其《それ》も|左様《レしハう》ぢやな。どれ「一つ杯  き       二分ところちよい                 よがり を献さう。此虚一寸とお儀式だ。と掲り喜悦の |助丞《すけべい》-|顔《づら》、老婆は|歯朶《はぐき》を|露《む》き出して、「|直《すぐ》と屏風 を廻しませうよ。「|其《そホ》が|可《い》い。と得三は頷きけ り。|虎狼《とらおほかみ》や彙に取圃まれたる|犠牲《いけセ へ》の、生きたる 心地は無き娘も、酷薄無道の此の|談話《はなし》を聞きた る心はいかならむ、絶えも入るべき風情を見 て、得三は叱るやうに、「おい、藤。高田|様《さん》が お盃を下さる、頂戴しろ。これツ、人が物を言 ふに返事もしぼいか。と聾|荒《あら》らかに|呼《よば》はりて、 掴み|挫《ひし》がむ有様に、お藤は|霜枯《しもがれ》の轟の一晋にて、 「あれ、御堪忍なさいまし。「何も|謝罪《あやま》る事あ |無《ね》え。機嫌よくお盃を受けろといふのだ、、え え、|忌《いまく》々しい、めそく泣いてばかり居やあが る。これお録、|媒始人役《たかろどやく》だ。|些《ちと》、言聞かして遣 んな。老婆は聲を繕ひて、「お嬢様、|何《どう》したも のでございますね。御婚彊のお目出度に、泣い て|在《い》ちしつちやあ|濟《すみ》ません。まあ、涙を拭い て、婿様をお見上げ遊ばせ。|如何《どんた》に優しいお顔 でございませう。|其《それ》はく可愛がつて下さいま すよ、ねえ旦那様、と苦笑ひ、得三は「さうと もく。「|眞個《ほんと》に|深切《しんせつ》な御方つちやあ、りませ ん。不足をおつしやつては女|冥利《みやうり》が蓋きますに よ、|貴女《あなた》お恥しいのかえ、と|舐《た》めるが如く撫で 廻せば、お藤は|身艦《からだ》を固うして、|頭《かぷり》を|悼《ふ》るのみ 答へは無し。高田は|故意《わポペ 》と|怒《おこ》り出し、「へむ、 好い|面《つら》の皮だ。|嫌否《いや》なものなら貰ひますまい。 |女早《をんなひでり》はしはしまいし、|工手間《ぐでま》が懸るんなら破談 にするぜ。と不興の|髄《てい》に得三は|苛立《いらだ》ちて、「|汝《うぬ》、 |澁太《しぷと》い阿魔だな。といひさまお藤の手を捉ふれ ば、「あれえ。「喧しいやい、と白き|項《うなじ》を鷲掴 み、「|此阿魔《このあま》、生意氣に|人好《ひとごのみ》をしやあがる。|汝何《うぬどう》 しても肯かれないか。と|睨《ね》め附くれば、お藤は 聾を震はして、「そればつかりは、どうぞ堪忍 して下さいまし。と|諸手《もろて》を合すいぢらしさ。 「|鷹《うむ》、|肯《き》かれないな。よし、肯かれなきあ無理 に肯かすまでのことだ。仕て見せる事がある |哩《わい》。といふは|卒常《いつも》の折櫨ぞとお藤は手足を|辣《すく》め 廿る。得三は腕まくりして老婆を見返り、「お 録、一番責めなきや|将《ゴ リち》が明くめえ。お客の前で |揮《もが》き廻ると見苦しい、ちよいと手を貸してく れ。老婆はチヨツと舌打して、「ても強清な お|嬢《こ》だねえ。といひさま二入は立上りぬ。高田 は高見に見物して、「これノ\憂無しにしては 悪いぜ。「なあに、費物だ。|面《つら》に疵はつけませ ん。」  泰助は、幕の蔭より之を見て、躍り|出《いで》むと思 へども、敵は多し身は|軍《ひと》つ、|逸《はや》るは血氣の不得 策、今いふ如き情實なれば、よしや殴打をなす とても、死に致す|憂《うれひ》はあらじ。捕縛して其後 に、|渠等《かれら》の罪を敷ふるには、.娘を打たすも方便 ならむか、さはさりながらいたまし、、と出る にも出られずとつおいっ、|拳《こぷし》に思案を握りけ り。  得三は豫て斯くあらむと用意したる、弓の折 を|振上《ふりあ》ぐれば老婆はお藤の手を|拓《とりしご》`りぬ。はつ じと撲たれて悲鳴を上げ、「あゝれ御免なさい まし御免なさいまし。と|後《うしろ》へ|反《そ》り前へ傭し、悶 え苦しみのりあがり、|紅蹴返《くれたゐけかへ》す白脛はたはけき 心を蹴すになむ、高田駄卒は酢へるが如く、酒 打ち飲みて届たりけり。 十三|走馬燈《まはりどうろう》  オざん      い'.、- たえ九〜     あをじろ  無悪やなお藤は呼吸も絶々に、紅顔蒼白く憂 りつ三、苛責の苦痛に堪へざりけむ、「ひい、 殺して下さい殺して。と、死を決したる|庭女《をとめ》の 心。よしや|此儘撲殺《このましうちニろ》すとも、随ふべくも見えざ       せめあぐ          さす    しもと や れば、得三殆ど責倦みて、腕を擦りて答を休め つ、老婆はお藤を突放せば、身を支ふべき氣力 も失せて、はたと|橿《たふ》れて正髄無し。  得三は、といきを吐きて高田に向ひ、「御臨見 の通りで|仕様《しカう》がありません。式作法には無いこ とだが、お藤の手足をフン縛つて、さうして|貴 下《あたた》に差上げませう、|哺《なう》、お録、|其《それ》が|可《い》いぢや無 いか。「|其《それ》が|好《よ》うございます。|其後《そのあと》は|活《いか》すとも 殺すとも、高田|様《さん》の御存分になさいましたら、 ねえ旦那。といへば得三引取つて、「ねえ高田 |様《さん》。駄爪丁は|舌舐《したため》ずりして、「慾にも|得《とく》にももう |蓮《とて》もぢや|哩《わい》。|左様《さう》して貰ひませうよ4「では誼 女をな。「う、、承知、承知。髪に恐しき相談 一決して、得三は|猶豫《いうよ》無く、お藤の帯に手を懸 けぬ。娘は無念さ、恥かしさ。あれ、と|前棲《まへづま》引 合して、|瞼蹟《よろめき》ながら遁げむとあせる、|裳《もすそ》をお録 が押ふれば、得三は|帯際《おびぎは》取つて|屹《きっ》と見え。高田 は扇を|蠣《さつ》と開き、骨の|間《あひ》から覗いて見る。知ら せにつき道具廻る。  さても得右衛門は銀平を|下枝《しづえ》の|部室《いま》に|誘引《いざたぴ》 つ、「|此室《こし》に寝さして置きました。と部屋の戸 を|曳開《ひきあ》くれば、銀平の|後《うしろ》に績きて、女房も入つ て見れば、こはいかに下枝の殊床は|藻脱《もぬけ》の殻、 |主《ぬし》の姿は無かりけり。「|瞬《や》。「おや。「これは、 と三人が呆れ果て、言葉も出でず。  銀平は驚きながら思ふやう、亭主は|飽迄《あくまで》探偵 と、我を信じて疑はねば、下枝を別の部室に|藏《 カく》 して、我を欺くべうも無し。之は必ず八藏が何 とかして|便《たより》を得て、前に奪ひ|出《い》だせるならむ。 さすれば我は|此家《このゆ 》に用無し。長居は|無盆《むやく》と何氣 無く、「これは、|怪《け》しからん。|不圖《ふと》すると|先刻 遁失《さつきにげう》せた|悪漢《わるもの》が|小戻《こもどり》して、奪ひ取つたかも知れ ぬ、猫豫する庭で無い。僕は直ぐに捜しに出る といはれて亭主は|極悪《もえまりわる》げに、「飛んだことになり ました、申謬がございません。「なあに|貴下《あなた》の|越 度《タちど》ぢや無い、僕が職務の|脱心《ぬかり》であつた。いや然 らば。と言ひ棄てゝとつかは外へ|立出《たちい》で、雪の 下へと引返せば、とある|小路《こうぢ》の小暗き庭に八藏 は隠くれ居つ、銀平の來懸るを、小手で|招《まねい》で、 「おい、此庭だよ。」  お藤は得三の|手籠《てごめ》にされて、逐には帯も解け 廣がりぬ。こは悲しやと牛狂胤、|碑《ひし》と人形に抱 き附きて、「おつかさん! と血を絞る聲、世 に無き母に|救《すくひ》を呼びて、取り縄る手を得三がも ぎ離して捻ぢ上ぐれば、お録は|落散《おもヰさ》る腰帯を|手 繰《たぐ》つてお藤を縛り附け、座敷の眞中にずるく と髭を掴んで、|引出《ひきいだ》し、押しつけぬ。|形怪《かたちあや》しき 火取轟いと大きやかなるが、今ほど|此室《こし》に|翔《かけ》り 來て、赫々たる|洋燈《らんぷ》の|周園《めぐり》を、飛び|廻《めぐ》り、飛び狂 ひ、火にあくがれて居たりしが、ぱつと羽たゝ き|火屋《ほや》の中へ逆さまに飛び入りつ、|煽動《あふり》に消え る火と、(もに身を|焦《こが》して…て失せにけり。  |掘《さつ》と|照射入《さしい》る月影に、お藤の顔は蒼うなり、 人形の|形《ふたち》は腺騰と.煙の如く|灰《ほの》見えつ。|璽山《りやうざん》に |揚《つ》く寺の鐘、丑満時を|報《つ》げ|來《こ》して、天地|寂然《しん》と して、室内陰々たり。  |斯《かム》りし時、|何庭《いづく》ともなく聲ありて、「お待ち! と一言呼ば、り叫びぬ。  思ひ|懸《が》けねば、得三等、|誰《た》そやと見廻す座敷 の中に、我々と人形の外には人に|肯《に》たらむ者も 無し。三人奇異の思ひを爲すうち、|誰《た》が手を鰯 れしといふこと無きに人形の|被《かづき》すらりと脱け落 ちて、上繭の|顔顯《かんばせ》はれぬ。|咽瞬《あたや》と顔を見合す 庭に、いと物凄き女の聲あり。「無法を働く悪 人|等《ども》、天の|御罰《ごぱち》を知ら無いか。|左様《さう》いふ婚姻は 決してなりません。」  幕の内なる泰助さへ、|此聾《このニゑ》を怪しみぬ。前に も既に|説《い》ふ如く、|此《この》人形は亡き母として|姉妹《あねいもと》が 慕ひ|齋眉物《かしづくもの》なれば、宇宙の鬼神感動して、暇に 上繭の口を|籍《か》りかゝる|怪語《くわいご》を放つらむと畳えず 全身|粟生《あぱだ》てり。|況《 ま》して得三高田等は、驚き恐れ つ怪しみて、一人立ち、二人立ち、次第に|床《とこ》の 前へ進み、|熟《ぢつ》と人形を|凝覗《みつめ》つ、三人は|少時《しぱらく》荘然 たり。  |機《とき》こそ來たれ。と泰助が、幕を絞つて顯はれ たり。名にし負ふ三日月の姿をちらと見せると おもへば、早くもお藤を小脇に|抱《いだ》き、身を翻へ して部屋を出でぬ。|洵《まこと》に分秒電火の働き、一散 に|下階《した》へ|駈下《かけお》りて、先刻忍びし勝手口より、|衝《つ》 と門内に遁れ出づれば、|米利堅産《めりけんだね》種の|巨犬《おほいぬ》一 頭、泰助の姿を見て、凄まじく吠え|出《いだ》せり。  南無三、同時に轟然一襲、頭を|覗《ねら》つて打出す |短銃《ピストル》。  幸ひ狙ひは|外《モ》れたれど泰助は|梢《やま》狼狽して、内 より門を開けむとすれば、|遷然《きようぜん》たる足吾門前に 起りて、外よりも又|内《ぷ ニニ》に入らむとするものあり けり。  泰助蒼くなりて一足|退《さが》れば、轟然たり、|短銃《ピストル》 の第二襲。  い.とも危ふく身を遁れて、泰助は振返り、|屹《きつ》 と|高櫻《たかどの》を見上ぐれば、得三、高田相並んで、窓よ り牛身を|乗出《のりいだ》し、逆落しに狙ふ|短銃《ピストル》の|弾丸《 たま》は績 いて|飛來《とびさた》らむ。|再時《ニ  のとき》門の扉を開きて、つ玉と入 るは銀平、八藏、|連立《つれた》ちて今蹄れるなり。  流石の黍助も度を失ひぬ。 |短銃《ビズトル》の第三襲、轟然。 +四血 の痕  |贋《にせ》探偵の銀不が|出去《いでさ》りたる後、得右衛門は尚 不信晴れ遣らねば、|室《ゐま》の内を|見廻《みめぐる》に、愚に|附《つき》た る血の痕あり。一|箇庭《かしよ》のみか二三箇庭。此虚彼 庭にぼたくと|溢《こぽ》れたるが、敷居を|越《こし》て縁側よ り裏庭の飛石に績き、石燈籠の|邊《あたり》には断えて垣 根の外に又績けり。こは|怪《あやし》やと不氣味ながら、 |其血《そのち》の痕を拾ひ行くに、墓原を通りて竹藪を|漕《く ユ》 り、裏手の田圃の畦道より、南を指して|印《しる》され たり。  一旦助けむと思ひ込みたる|婦人《をんな》なれば、此儘 にて殊入らむは口惜し。この血の跡を慕ひ行か ば|其《その》行先を突留め得べきが、|軍身《ひとり》にては氣味悪 しと、一まづ家に立蹄りて、近隣の|肚佼《わかものく》の|究寛《つきゃうに》 なるを四人ばかり語らひぬ。  |各《おのく》々興ある事と勇み立ち、|讃本《よみほん》でこそ昆た れ、婦人といへば土蜘蛛に縁あり。さしづめ我 等は綱、金時、得右衛門の|頼光《らいくわう》を|中央《まんなか》にして、 しんがり      すゑたけ                         よユリ  殿に貞光季武、それ押出せと五人にて、梶 窪う                       どよ. 棒、鎌など得物を携へ、鉢巻しめて動揺めく は、|田舎《ゐなか》茶番と見.えにけり。  女房は濁り機嫌悪く、|由絡《よし》なき|婦人《をんな》を引入れ て、蒲團は汚れ霞は墓無し。|鶏《たまご》卵の氷のと喰べ させて、|一言《ひとこと》の彊も聞かず。流れ渡つた|洋犬《かめ》で さへ骨一つでちんくお|預《あづけ》はするものを。|加之《おまげに》 横須賀の探偵とかいふ人は、茶菓子を|無銭《た ユ》でせ しめて去んだ。と苦々しげに咳きて、あら|寝《ねむ》た や、と|夜着引被《よぎひつかつ》ぎ、亭主を見邊りもせざりけ る。         ,  得右衛門を始めとして|四人《よつたク》の|壮佼《わかもの》は、茶碗酒 にて元氣を養ひ一杯機嫌で立出でつ。惜しや|暗 夜《やみ》なら|松明《たいまつ》を、|鮎《ヒも》して威勢は好からむなど、語 り合ひつ、|畦博《あぜづた》ひ、血の痕を踏んで行く程に、 雪の下に近づきぬ。金時|眞先《まつさき》に二の足踏み、 「得右衛門もう蹄らうぜ。ど聲の調子も憂にな り、進み兼ねて立止まれば、「是さお|主《ぬし》は|何《ど》う したものだ。と言ひ働す得右衛門。綱は上意を 承り、「親方、|大人氣無《おとなげな》い、|魔止《よし》にしませう。 |餓所《よそ》なら|可《い》いが、雪の下はちと、なあ、おい。 と見返れば貞光が、「|左様《さう》だともく、もう|彼 是《かれこれ》十二時だらう。といふ|後《しり》につき季武は、「今 しがた|霊山《りぐうざん》の|子刻《こヨのつ》を打つた、|此《これ》から先が|妖物《ばけもの》の |夜《よ》世界よ。・と一同に|逡巡《しりごみ》すれば、「え」、弱轟 めら何のこれたかゞ幽霊だ。腰の無い物なら相 撲を取ると人間の方が二本足だけ|強身《つよみ》だぜ。と 口にはいへど|己《おのれ》さへ腰より下は震へけり。金時 は|頭《かうべ》を|悼《ふ》り、「なに鬼や土蜘蛛なら、|綜瓜《へちま》とも 思はねえ。「|己《おれ》もさ、|沸《ひミ》々や|巨蛇《うはサみ》なら、片腕で 退治て見せらあ。「|我《おいら》だつて天狗の|片翼《かたつぱさ》を斬つ て落すくらゐなら、|朝飯《あさめし》前だ。「此虞にも狼の    たちどころ             つはもの       吃 百疋は立庭に裂いて棄てる強者が控へて届る と、口から|出任《でまか》せ吹き立つるに、得右衛門は《ヤ》|あ てられて、「|豪氣《へえらいく》々々、|其口《そのくち》で|歩行《ある》いたら足よ りは達者なものだ。さあ行かうかい。といへば どんじりの季武が、「庭が、幽璽は|大嫌否《だいきらひ》さ。 「辮慶も女は|嫌否《きら》いかツ。「宮本|無《む》三四は|雷《らい》に恐 れて震へたといふ。「遠山喜六といふ先生は、 蛙を見ると|立辣《たちすく》みにむつたとしてある。 「金時|此《こし》に於てか幽璽が大禁物。「綱も則ち|幽 璽《れこ》には恐れる。といはれて得右衛門大きに弱り |此《この》ま.、婦らんは餓り脇甲斐無し、何卒して引張 り行かむ。はて好い工夫はおつとある。「|何《どう》だ。 一所に|交際《つきあ》つて呉れたら、|翌日《あす》とは言はず饒り 次第藤澤(宿場女郎の居る庭)を|著《おご》つて遣る が、と言へば|四人《よつたり》顔見はせ、「なるほどたかの 知れた幽璽だ。「|此中《このなか》に人を殺したものは無い から、まづ命に別條はあるまい。「む、、|背負《おぷっ》 て呉れがちと怪しいが、「まゝよ行かうか、「お う。「うむ。と色で纏まる|肚佼等《わかものども 》、よしこの|都《どマ》々 |逸唱《いつうたひ》ひ連れ、赤城の裏手へ來たりしが。此庭に て血の痕|途断《とぎ》れたり。  得右衛門|立停《たちど》まつて|四蓬《あたり》を見廻し、「皆待つ たり。|此家《このいへ》は何うやら、例の|妖物《ぱけもの》屋敷らいし が、はてな。して見るとあの|婦人《をんな》も|化生《けしやう》のもの であつたか知らん。道理で來てから蹄るまで憂 なことづくめ。しかし幽璽でも|己《おれ》が|一廉《ひとかど》の世話 をして遣つたから、|空《あだ》とは思ふまい。何の|故《せゐ》だ かあの|婦人《わえな》は、心から可愛うて|不便《ふびん》でならぬ。今 ぢや|知己《ちかづき》だから恐しいとも思はぬ|哩《わい》。おい、お らあ、一番表へ廻つて見て來るから、一緒に來 い。といへども一人として慮ずる者無し。「そ んなら待つて居ろ、どれ、幽璽に逢うて來まし よ。と得右衛門唯一人、板塀を廻つて見えずな りぬ。  四人の|肝佼《わかもの》は、後に残りて、口さへもよう|利《き》 かれず。|早《はや》夜は更けて、夏とはいへど、風|冷《ひやく》々 と身に染みて、|戦傑《そっ》と|塞氣《さむけ》のさすほどに、酢さ へ醒めて荘然と金時は|破垣《やれがき》に|依懸《よりかし》り、眠氣つき たる身髄の|重量《おもみ》に、竹はめつきと折れたりけ り。そりやこそ出たぞ、と驚き慌て、得右衛門 も待ち|合《あ》へず、命からノハ\|遁蹄《にげかへ》りぬ。 十五火に入る轟  |短銃《ビストル》の筒口に濃き煙の立つと同時に泰助が|魂 消《たまぎ》る末期の|絶叫《さけび》、第三襲は命中せり。  |渠《かれ》は立辣みになりてぶるくと震へたるが、 |鮮血《なまち》たらくと頬に流れつ、|抱《いだ》きたるお藤を|撞《だう》 と|投落《たげおと》して、屏風の如く倒れたり。  |其《それ》と見て駈け寄る二人の悪僕、得三、高田、 お録もろとも急ぎ内より出で來りぬ。高田はお 藤を抱き上げて、「おゝ、可愛相に|嚥吃驚《さぞびつくり》した らう、|既《すん》でのことで|悪漢《わるもの》が|誘拐《かどはか》さうとした。も う好い|哩《わい》、泣くなく。と|背掻撫《せなかいな》で、|助《いたば》れば、 得三もほつと|呼吸《 いき》、「あ、好かつた。何者だ、 大謄な、人形が聲を出したのに度膿を抜かれた 庭へ幕の|後《うしろ》から飛出しやあがつて、|眞個《ほんとに》驚いた ぜ。お録、早く内へ蓮れて行きな。「へい|承《かしハ ま》 りました。と高田の手よりお藤を抱き取り肩に 桝けて連れて行く。- 「まづ、安心だ。うん八藏|蹄《けえ》つたか、それ其死 骸の|面《つら》を見いと、指圏に八藏心得て|叢中《くさむらたか》より泰 助を引摺り出し、「おや、|此奴《こいつ》あ探偵だ。|我《おれ》を |非道《ひど》い目に逢はしやあがつた。「何、|何《ど》うした と、|殺《や》り|損《そく》なつて|反封《あべこべ》に當身を|喰《くら》つた。其だか ら|虚氣《うつかり》手を出すなと言はねえことか。や、銀平 殿お前もお鰭りか。「はい、旦那唯今。「うむ、 御苦勢、|何《た》に|下枝様《しづえさん》は|如何《どう》ぢや。「早速ながら 下枝|奴《め》は知れましたか。と二人齊しく問ひ懸く れば、銀卒、八藏|交代《かたみがはり》に、|八橋棲《やつはしろう》にての始末 を語り、「|其《それ》でね、いざといふ段になつて部屋 へ這入ると御本人|様《さん》何虞へ消えたか見えなくな りました。これは八藏|殿《どん》が|前《さき》へ廻つて蓮れ出し たのかと思つた庭が、|哺《たう》八藏|殿《どん》。「お、さ、|己《おれ》 も墓場の方で、銀丞-|様《さん》の合圖を待つてました が、別に|嬢様《ぢやうさん》の出て來る姿を見附けませんで、 「もうく|訪飽倦《たづねあぐみ》まして、夜も更けますし、旦 那方の御智嚢を借りようと存じまして一先づ蹄 りました。といふに得三|頭《かうべ》を傾け|稽《やし》久しく|思慮《かんがへ》 居たるが、|其《それ》にて思ひ當りたり、「して見ると 下枝は又|家内《うち》へ蹄つて來たかも知れぬ。といふ のは、今しがた誰も居ないのに聲が糧つて、人 形が物を言うていことあ無い筈だと思つたが、 下枝の|業《わざ》であつたかも知れぬ|哩《わい》。待て、|一番家 内《ひとつうち》を検べて見よう。|其《その》死骸はな、好く死んだこ とを見極めて、家内の|雑具《ざふぐ》部屋へ入れて置け。 高田|様《さん》、|貴下《あなた》も御迷惑であらうが手傳つて下枝 を捜して下さい。探偵は|方附《かたづ》けて了つたト、|此《これ》 で下枝さへ見附ければ、落着いてお藤が始末も 附けます。と高田を誘ひ内に入りぬ。  八藏は泰助に恨あれば、|其頭蓋骨《モのづがいこつ》は砕かれけ む髪の毛に黒血|凝《かたま》りつきて、頬より|胸《 》に|鮮血送《なまちほとぱし》 り限を塞ぎ歯を|切《しギい》り、二目とは見られぬ様にて、 死し居れるにもかゝはらず、尚先刻の|腹癒《はらいせ》に、 滅茶々々に撲り潰さむと、例の鐵棒を|捻《ひね》る時、 銀平は耳を餐て、、「待て! 誰か門を叩くぜ。 八藏は好くも聞かず、「日が|暮《くれ》ると人ツ子一人 通らねえ此邊だ。今時誰が來る者か。といふう ち門の戸を|丁《とん》、|丁《とん》、|丁《とん》、「お頼み申す。といふ 聲あり。  八藏は急いで鐵棒|押隠《おしかく》し、「いかさま、叩く わ。探偵の合棒でも來はしねえか。|己《おら》あ見て來 る、死骸を早く、「合黙だ。と銀卒は泰助の死 骸を運び去りつ。八藏は門の|際《きは》に到り、「誰だ ね。「へい私。「へい私では解らないよ。|夜《よるよ》々|中《たか》 けたゝましい|何《 》の用だ。|戸外《おもて》にて、「えゝ、滑 川の者ですが、お|家《うち》へ|婦人《をんな》が入つて來はしませ んかい。八藏は聞畳えある|値《たしか》に得右衛門の韓な れは、はてなと思ひ、「|何《どん》な女だ。「中肉中|脊《ぜい》、     い   をんな               こ{ちを か 凄いほど美い婦人。と聞いて八藏t可笑しく、 「|其様《そのやう》な者は來ない、何ぞまた|此家《こち》へ來たとい ふ|次第《わげ》でもあるのか。「私どもの部屋から|溢《こぽ》れ て績いてる血の痕が、お邸の裏手で止まつて居 ります。  さては|下枝《しづえ》は得三が推量通り、再び蹄りしに 相違なからむ。|其《それ》は|其《それ》にて|可《い》いとして、|少時《しばらく》な りとも下枝を|藏匿《かくまひ》たる旅店の亭主、女の口より 言ひ洩して主人を始め|我《おれ》までの悪事を心|得《を》居ら むも知れず。遁がしは遣らじ、と|矢庭《やには》に門の扉      むず                を^んな を開けて、無手と得右衛門の手を捉へ、「婦人 は居るから逢はしてくれる、さあ入れ。と引入 れて、門の戸はたと|鎖《さ》しければ、得右衛門はお どくしながら、八藏を見て|吃驚仰天《びつくりぎやうてん》、「やあ |此方《こたた》は|先刻《さつき》の「うむ、用がある|此方《こっち》へ來いと、 力任せに引立てられ、鬼に|捕《と》らる、心地して、 大馨上げて救ひを呼べど、四天王の面々は此時 既に遁げたれば、誰も助くる者無くて、|哀《あはれと》や|檎《りこ》 となりにけり。 十六 |咽《お》 や ヰ4,. 口  今は悪魔ばかりの舞蔓となりぬ。|磨《と》ぎ|清《すま》した る三日月は、惜しや雲間に隠れ行き、|縁《ゆかり》の藤の 紫は、厄難|未《いま》だ解けずして再び奈落に陥りつ、 外より來れる得右衛門も鬼の手に|捕《と》られたり。 さて|彼《か》の|下枝《しづえ》は如何ならむ。  さるほどに得三は高田と、もに|家内《うち》に入り、 下技は居らずや見えざるかと、あらゆる部屋を |漁《あさ》り來て、北の壷の座敷牢を念の爲め開き見れ ば、射込む|洋燈《らんぷ》の光の下に白く|姦《ういめ》くもの、ある にぞ、近寄り見れば果せるかな、下枝は此庭に ぞ|襲見《みだ》されたる。  かばかり堅固なる|園《かこひ》の内よりそも如何にして 睨け出でけむ、尚人形の|後《うしろ》より聲を|襲《いだ》ルて無法 なる婚姻を|禁《とど》めしも、|汝《たんぢ》なるか、と得三は下枝 に責め問ひ、|疑《うたがひ》を晴さむと思ふめれど、高田は |頻《しきり》に心急ぎて、早くお藤の|方《かた》をつけよ。夏とは いへど夜は更けたり。さまでに時刻|後《おく》れては、 枕に就くと|鶏《とり》うたはむ、一刻の|償値《あたひ》千金と、|只 管《ひたすら》式を急ぐになむ。さはとて下枝を引起して、 足あらばこそ歩みも|出《いで》め、|斯《かう》して置くに|如《し》くこ とあらじ。人に物を思はせたる報酬は斯くぞと 罵りて、下枝が細き|小腕《こがひな》を|後手《うしろで》に捻ぢ上げて、 |縛《いまし》めんとなしければ、下枝は綜より尚ほ細く、 眼を見開きて|恨《うらめ》しげに、「もう大抵に|酷《ひど》うした が|好《よ》うござんせう。坐つて居る事も出來ぬやう に弱り果てた私の|身髄《からだ》、|何庭《どこ》へも参りは致しま せぬ。といへば得三|冷笑《あざわら》ひ、「|其手《そのて》はくはぬわ。 また出て|失《う》せうと思ひやあがつて、へむ、|左様《さう》 旨くはゆかないてや、ちつとの|聞《ま》の辛抱だ。|後 刻《のち》に來て一緒に寝てやる。ふむ、痛いか|様《ざま》を見 ろ。と下枝の手を見て、「おや、右の小指を|何《ど》 うかしたな、こいつは|一節《ひとふし》切つてあらあ。や い、何庭へ行つて|指切断《ゆびきり》をして來たんだ。と問 ひ懸るを高田は押止め、「まあく、そんな事 あ何時でも|可《い》いて。早く|我《おれ》の方を、「はて、せ はしない今行きます。と出血|休《や》まざる小指の血 にて、|我掌《わがてのひら》の汚れたるにぞ、かつぷと唾を吐 き懸けて、下枝の袖にて|押拭《おしぬぐ》ひ、高田と連立ち 急がはしく、人形室に赴きぬ。後より八藏|入來《いりきた》 り、|斯《か》うくいふ次第にて、八橋櫻の亭主を捕 へ、|一室《ひとま》に押込め置きたるが、といふに得三頷 きて、|其働《そのはたらき》を審めそやし、後に計らふべき事あ り。其儘にして置きて、銀平と勝手にて酒を飲ん で|寛《くつろ》げ。と八藏を|去《い》なして手を|打鳴《うちなら》し、「録よ、 お録。と呼び|立《たつ》れど、老婆は更に|答《いらへ》せねば、 「はてな、お録といへば|先刻《さつき》から|皆目《かいもく》姿を見せ ないが、は、あ疲れて何庭かで眠つたものと見 える。|老年《としより》といふものはえゝ! |将《らち》の明かぬ。 と咳きつゝ高田に向ひ、「どうせ横紙破りの親 言だ。|媒始《なかうど》も何も要つた物では無い。どれ、藤 を|進《あ》げますから。と例の|被《かづき》を取除くれば、|此《この》人 形は左の手にて小棲を|掻取《かいど》り、右の手を上へ|指 伸《さしの》べて|被《かづき》を支ふるものにして、上げたる手にて 翻る、綾羅の袖の|八口《やつくち》と、〆めたる錦の帯との 間に、人一人肩をすぽむれば這入らるべき|透間《すきま》 あり。其虚に居て壁を押せば、縦三尺幅四尺|向《むか》 うへ開く仕懸にて、|縛《すべ》ての機械は人形に、隠る る仕方|巧《たく》みにして、戸になる壁の纏目など、肉 眼にては見分け難し。得三手燭にて|此仕懸《このしかけ》を見 せ、「|卒常《ふだん》は|鎖《ぢよう》を下してお藤を入れて置くが、 今晩は|貴下《あたた》に差上げるので、開けたま、だ。|此 方《こちら》へお入り。と先に立ちて行く後より、高田も |入《はひ》りて見るに、壁の|彼方《うら》にも|一室《ひとま》あり。曇を敷 くこと三昼ばかり。「いΣ|一寸《ちよん》の間だ。と高田 がいへば、得三|呵《からく》々と打笑ひて、「東京の待合 にも|此程《これほど》の仕懸はあるまい。といひつ、|四邊《あたり》を 見廻すに、今しがた泰助の手より奪ひ返してお 録に|此室《こし》へ入れ置くやう、|命《いひつ》けたりしお藤の 姿、叉もや消えて見えざりければ、|咽明《あたや》とばか り顔色憂じぬ。  高田は|太《いた》く不興して、「令嬢は|何《ど》うしました。 え、お藤|様《さん》は何うしたんです。とせきこむに ぞ、得三は當惑の額を撫で、「いやはや、お|談 話《はなし》になりません。藤が居無くなりました。高田 は顔色憂へ、「何だ、お藤が居無くなつたと? 「此通り、|此室《このしつ》より|外《ほか》に入れて置く庭はない。 實に不思議でなりません。と流石の得三も呆れ 果て、、|伯《しを》れ返れは高田は|勃然《むつ》として、「|左様《さう》 いふことのあらう道理は無い。ふ、む、こりや 俄に|彼《あ》の娘が惜しくなつたのだな。「滅相な。 いや それ                        おれ 「否、其に違ひありません。隠して置いて、我 を欺くのだ。「と思し召すのも無理では無い。 餓り.憂で自分で自分を疑ふ位です。|先刻《さついギに》から見 えぬといひ、或は|婆《ぱマあ》々|奴《め》が連れ出しはしないか と思ふばかりで、|其《それ》より|他《ほか》に到断の|附様《っげやう》がござ いません。早速探し出しますで、今夜の庭は何 分にも御猫豫を願ひたい。と腰を|屈《かどめ》め、|揉手《もみで》をし て、|只管《ひたすら》頼めどいつかな|肯《き》かず、「なんのかの と、|髄《てい》の|可《い》いことを言ふが、|婆《ぱどあ》々と馴れ合つて する仕事に極まつた。誰だと思ふ、え、、つが もねえ濱で|火吸器《すひふくべ》といふ高田駄卒だ。そんな|拙 策《あまて》を喰ふ者か。「まあくさう一概におつしや らずに、別懇の間に免じて。「別懇も昨今もあ るものか。|可《よ》し我も|断《た》つてお藤を呉れとは言は ぬ。|其代《そんでえ》に貸した|金《かね》千圓、元利揃へてたつた今 貰はうかい。と讃文|眼前《めさき》に|附着《つキしつ》くれば、強情我 慢の得三も何と返さむ言葉も無く|困《こう》じ果てゝぞ 居たりける。 十七 |同《ど》 |士《し》 |討《うち》  高田は尚も詰寄りて、「|妖物屋敷《ぱけものやしき》に長居は|無盆《むやく》 だ。直ぐ蹄るから早く渡せ。「そりや借た金だ 抵當のお藤が居無くなれば、屹度お|返濟《かえし》申す が、未だ家の財産も我が|所有《もの》にはならず、千圓 といふ大金、今といつては致し方がございませ ん。|何卒暫時《どうぞしぱらく》の庭を御勘辮。「うんや、ならね え。此駄平、言ひ出したからは、血を絞つても 取らねば蹄らぬ、きりく此庭へ出しなさい。 と言ひ募るに得三は|赫《くわつ》として、「こ、な、|波分 暁漢《わからずや》。無い者あ仕方が|無《ね》え。と足を出せば、 「踏む鼠だな、可いわ。踏むならば踏んで見 ろ。お、それながらと罷り出て、|汝《きさ ま》の悪事を訴 へて、首にしてやる篭悟しやあがれ。得三はぎ よつとして、「何の踏むなど、いふ圖太い料簡 を出すものか。と慌つる|状《さま》に高田は|附入《つけい》り、 「そんなら金を、さあ|返濟《かへ》せ。「今といつては何 とも|何《ど》うも。「ぢや訴へて首にしようか。|其《それ》は |饒《あんま》り御無髄な。「え、! 面倒だ。と|立懸《たちかユ》れば、 「まあ、待つて呉れ。と挟を取るを、「乞食め、 動くな。と振離され、得三忽ち血相憂り、高田 の|帯際無手《おびぎはむず》と掴みて、じりくと引戻し、人形 の後の切抜戸を、内よりはたと鎖しける。  何をかなしけむ。壁厚ければ、内の物音外へ は漏れず。  |良《やコ》ありて戸を開き|差出《 ご いいた》したる得三の顔は、|眼《ヰまたこ》 据つて唇わなゝき、|四邊《あたり》を|屹《きつ》と見廻して、「八 藏、八藏、と呼び懸けたり。八藏は|入來《いりきた》りぬ。 得三は聲を|溜《ひそ》め、「八、|一寸畏《ちよつとニし》へ來い。「へい、 何、何事でございます。と人形の袖を潜って密 室の戸口に到れば、得三は振返つて|後《うしろ》を|指《ゆぴさ》し、 「|此《これ》を。……八藏は覗き込みて|反《そ》り返り「ひや つ、高田|様《さん》が自殺をしたツ。と叫ぶを、「|叱《しつ》! 聲高しと押止めて、眼を見合はせ|少時無言《しぱらくだんまり》、|此 時《このとキし》一番|鶏《とり》の聲あり。  得三は|片頬《かたほ》に物凄き笑を含みて、「八藏。と いう顔を下より見上げて、「へい。「お前にも|左 様《さう》見えるかい。「|何《た》、|何《な》、|何《なこ》が。「いやさ。高田 の死骸は自殺と見えるか。「へい。自分で短刀 の|柄《つか》を握つて|而《そ》して自分の|咽喉《のど》を突いてれば誰  が見ても全く自殺。「|慮《うむ》、|樋《たしか》に|左様《さう》見える。が、    おれ               や  實は我が殺したのだ。「え〜、お殺んなすつた  か。「突然藤が居無くなつたぞ。八、|先《さつき》刻から  お録は見懸けまいな。「へい。あの|婆様《ばあ   エん》は何庭  へ行つたか居りません。「|左様《さう》だらう。|彼奴《あいつ》も  した三か者だ。お藤を|誘拐《かどはか》して行つたに違ひ無  い。あの|嬢《ニ》はまだ|小見《こども》だ。何にも知らないから  |可《よ》し、|老婆《ぱ モあ》も、|我等《おれら》と一緒に働いた奴だ。人に  悪事は|饒舌《し べる》まい。惜くも無し、心配も無いが、  高田の|業突張《ごふつくばウ》、大層怒つてな。お藤がなくなつ  たら郎金で千圓返せ、返さなけりや、訴へると  言ひ募つて、あの|火吸器《すひふくべ》だもの、何というても  き            すんで                  やλ  肯くものか。既に駈出さうとしやあ力る。ま三   どくくら           おれ                 それ   よ毒喰はゞ皿迄と、我が突殺したのだ。「其は   好うございました。「すると|奴《やつこ》さん苦しいもの   だから、|拳《こぷし》で|緊乎《しつかり》と此の通り|短刀《どす》の|柄《え》を握つた      てい い                 さ"   のよ。「膿の可い自殺でございますね。「左様   よ。其嘘穴|己《おれ》が旨いことを案£りいたて。沈茄   らあの下枝を殺してさ。「下枝様を。「三年以來   辛抱して、氣永に廃くのを待つて居たが、あ」       し乱  ね             套り   強情では仕様が無え。今では檜さが百倍だ。虐   ゴろし     はらhせ      さう         .てぱ 形 殺にして腹癒して、而して下枝の傍に(。同田の死   骸を|橿《たふ》して置く。の、|左様《さう》すれば誰が目にも、 人高田が下枝を零て、自殺をしたと見えるとい 活 ふものだ。何と可い工夫であらうが。    さりとは底の知れぬ悪黛なり。八藏は手を拍 7                          さう    おれ      さ、、. 5 つて「旨い。と叫べり。「而して己が口の前で 旨く世間を欺けば、|他《ほか》に親類は無し、赤城家の 財産はころりと|我《おれ》が手へ韓がり込む。何と八藏 さうなる日にはお前に一割は遣るよ。「え、|難 有《ありがた》い、夢になるなく。「もう是ッ切り御苦螢 は懸けないが、もう|一番《ひとつ》頼まれてくれ。「へい、 何なりとも。「銀平は|何《ど》うした。「|頻《しきり》に飲んで居 ります。「|彼奴《あいつ》も|序《ついで》に|方附《かたづ》けて了ひ度い、家で やつては面倒だから、是から飲直すといつて連 出してな。「へいノ\、なるほど。「何虚かへ行 つて酒を飲まして、ちよいと例の毒藥を飲まし やあ謬は無い、酔つて寝たやうになつて、|翌日《あす 》 の朝は此世をおさらばだ。「|承《かしこま》りました。併 し今時|青棲《おちやし》で起きて居ませうか。「藤澤の女郎 屋は遠いから、|長谷《はせ》あたりの|淫費店《じごくやど》へ行けば、 |何時《いつ》でも起きて居らあ、一緒にお前も寝て來る が可い。「ぢやあ直ぐと参ります。「御苦勢だ な。「なんの|貴下《あなた》、と行き懸くるを、「待て、待 て。「え。「宿屋の亭主とかは|何《ど》うしたのだ。 「手足を縛つて|猿轡《さるぐつヨ》を噛まして、雑具部屋へ入 れときました。「よし、よし。仕事が済んだら検 べて見て大抵なら無事に蹄して遣れ。「へい左 様なら。と八藏は勝手に行きて銀平を見れば、 「八、やい、一置去りにして何庭へ行つて居た。 といふさへ今は|雀舌《まきじた》にて、泥の如くに酔うたる を、飲直さむとて|連出《つれだ》しぬ。 十八|虐《なぷり》   |殺《ごろし》 得三は他に|一口《ひとふり》の|短刀《くわいけん》を取り出して、腰に帯 び、|下枝《しづえ》を殺さむと心を|決《さだ》めて、北の蔓に赴き 見れば、小手高う|背《そびら》に捻ぢて|縛《いまし》めて、柱に結へ 附け置きたるまゝ、下枝は膝に額を埋め、身動 きもせで居たりけり。 「約束通り寝に來た。と肩に手を懸け引起し、 |移《うつる》ひ果てたる花の色、悩める風情を|打覗《うりなが》め、 ど     せ集 「何うだ、切無いか。永い年月好く辛抱をし た。豪い者だ。感心な女だ。|其《その》性根にすつかり 惚れた。|柔順《すなは》に抱かれて寝る氣は無いか。と嘲 弄されて|切歯《はがみ》をなし、「えゝ|汚《けが》らはしい、|聞度《きした》 うござんせぬ。と|頭《かぷり》を悼れば|嘲笑《あざわら》ひ、「聞きた うなうても聞かさにや置かぬ、最一度念の爲だ が、思ひ切つて|慮《うむ》といはないか。「|嫌否《いや》ですよ。 「|左様《さラ》か、|淡《あつさり》々としたものだ。そんなら|此方《こつち》へ 來な。可い者を見せて遣る。立て、えゝ立たない か。「あれ。と下枝は引立られ、殺氣満ちたる 得三の|面色《めんしよく》、|之《こ》は殺さる、に極つたりと、|屠所《としよ》 の羊のとぽくと、廊下博ひに歩は一歩、死地 に近寄る哀れさよ。|艀鱒《ふいう》の命、|朝《あした》の露、そも|果 敢《はかな》しといはゞ言へ、身に比べなば何かあらむ。 .|閻王《えんわう》の使者に追立てられ、歩むに長き廻廊も 死に行く身は最近く、人形室に引入れられて亡 き母の|存生《いまぞか》りし日を思ひ出し、下枝は涙さしぐ みぬ。さはあれ|業苦《 こふく》の浮世を遁れ、天堂に|在《おば》す |御傍《おんそぱ》へ行くと思へば殺さる、|生命《いのち》はさらく|惜《をし》 からじと、|下枝《しづえ》は少しも|悪怯《わるび》れず。|爾時《そのとき》得三下   ・      か、へ              しに 枝をば、高田の傍に押据ゑつ、いと見苦しき死 |様《ざま》を指さしていひけるは、「下枝見ろ、|此顔色《このつらつき》 を、殺されるのはなかく一通りの苦しみぢや 無いぜ、|其《それ》もかう一思ひに|殺《や》ればまだしもだ が、いざお前を殺すといふ時には、|此迄《これまで》の腹|癒《いせ》               なぷりごろし に、豫ても言ひ聞かした通り、虐殺にしてや るのだ。|可《い》いか、|其《それ》でも可いか。これ、と肩を 押へてゆすぶれば、|打戦《うちわなし》くのみ|答《いらへ》は無し。「|其《それ》 から未だある。此男と、お前と、|情死《しんぢゆう》をした様 にして|死恥《しにはぢ》を曝すのだ。|何《どう》だ。|何《どう》だ。下枝は恨 めしげに眼を|暉《みは》り、「得三|様《さん》、|餓《あんま》りでございま す。「下枝|榛《さん》、|貴嬢《あなた》も餓り強情でございます。 |其《それ》が|嫌否《 ち や》なら|悉皆《しつデさはい》財産を|我《おれ》に渡して、|而《さう》して 《得三|様《さん》、|貴下《ちなた》は|可愛《ふはい》いねえ》とかういへば |可《い》い。|其《それ》は出來無いだらう。|矢張《やつぱり》、斬られた り、突かれたりする方が|希望《のぞみ》なのか、さあ何 と。と言はる、毎にひやくと|身艦《からだ》に冷たき汗 しっとり、|斬刻《きりきざ》まる、よりつらからめ、猛獣|犠《いき》 にへ                  しばらく         はやあき一た 牲を獲て直ぐには殺さず暫時之を弄びて、早懐 りけむ得三は、下枝をはたと蹴返せば、|苦《あつ》と|仰 様《のげさま》に|彊《たふ》れつ、.|呼吸《いさ》も絶ゆげに坤き居たり。「や い、|婦人《をんな》、冥土の土産に聞かして遣る。貴様の        、.、.㌃て  ㌧ごさま に     やつぱ力おれ 母親はな。顔も氣質も汝に省て、矢張我の言ふ ことを聞かなかつたから、毒を飲衷して得三 が殺したのだ。下枝は驚きに氣力を復して、切 震へて力無き|膝《ぴざ》立直して起き返り、「怪しき|死《ま 》 灘遊ばしたが、そんなら得三、おのれがかい。 おう おれ                 紛ど 「鷹、我だ。驚いたか。「え〜憎らしい其咽喉 へ喰附いて遣りたいねえ。「へ、へ、唇へ喰附 いて、|接吻《キツス》ならば|希望《リぞみ》だが、咽喉へは|眞平《まつびら》御免 蒙る。どれ手を下ろして|料理《れうら》うか。と立懸られ て、「あれえ、人殺し。と一生懸命、|裳《すそ》を蹴し て遁げ出づれば、|縛《いましめ》の縄の|端《はし》を|踏止《ふみと》められて|後 居《しりゐ》に倒れ、「誰ぞ助けて、助けて。と泣|聲《カ》嗅ら して叫び立つれば、得三は打笑ひ、「好くある 奴だ。殺して|欲《まし》いの死にたいのと、口癖にいう て居て、いざとなると|其通《そのとほ》り。ても未練な|婦人《をんな》 だな。「|否《いえ》、死にたうない、死にたうない。親 を殺した|敵《かたき》と知つては、私や殺されるのは|口惜《くちをし》 い。と伏しつ鱒びつ身をあせりぬ。  得三は床柱を見て屈寛と打頷き、矢庭に下枝 を|抱《いだ》き寄せ、「|腕《もが》くな、ぢつとして居れ。と|彼《かの》 人形と押並べて、床桂へぐるノ\雀きに下枝の 手足を縛り附け、一足|退《すさ》つて突立ちたり、下枝 は無念さ遣る方なく、身髄を悶えて泣き悲しむ を|寛《ゆるく》々と打見遣り、「今となつては|汝《きさま》の方から 随ひます。財産も渡しますと|吐《ぬ》かしても許しは せぬ。と言ひ放てば、下枝は顔に|溢《こぽ》れ|懸《かト》る黒髪 を|姻《さつ》と|振分《ふワわけ》、|眼血《まなこ》走り、「得三|様《さん》、|何《どう》しても殺 すのか。といふ整いとゞ、裏枯れたり。「うむ、 |虐殺《たぷりゴろし》にするのだ。「あれえ。「何だ|未《ま》だびくび くするか、往生際の見苦しい奴だ。「そんな《ト》|ら 何うでも助からぬか、|末期《いまは》の|際《きは》に次三郎|様《さん》にお 目に懸つて、おのれの悪事をお知らし申し|敵《かたき》が 討つて貰ひたい。と泣き入る涙も蓋き果てゝ血 をも絞らむばかりなり。[次三もな|我《おれ》が|命《いひ》つけ て、八藏が今朝毒殺した|哩《わい》。「えゝあの方まで 殺したのか。|御方《おかた》の失せさせ給ひし上は、最早 此世に望みは無し、と下枝は|落膿《がつかり》氣落ちして、 「もう|聞《きし》たう無い、|言度《いひたう》ない。さあお殺し、と 口にて|衣紋《えもん》を引合はせ、縛られたるま」合掌し て、|從容《しようよう》として心中に観音の御名を念じける。  |爾時《そのとき》得三は袖を掲げて、雪より白き下枝の胸 を、乳も顯はに|押寛《おしくつろ》ぐれば、動悸烈しく|胸騒立 ちて腹は浪打つ如くなり。全髄轟が氣に喰はぬ 腹断割《むねさわだはらわたり》つて出してやる。と刀引抜き|逆手《さかて》に取り ぬ。  夜は三に三更|萬籟《ぱんらい》死して、天地は悪魔の|濁有《 エ いくいう》 たり。 (次三郎とは 本間のこと、第一同より三回 の間に出で、毒を飲みたる病人なり、鎌倉より 東京のことなれば、|敏《さと》き|看官《みるひと》の眼も届くまじと て書添へ置く。) 十九二重の壁     たび    うごト         こゝ       かな  しづ  得三一度手を動さば、萬事畏に休せむ哉。下 |枝《え》の命の終らむには、此物語も|休《やみ》ぬべし。さら  ば|其《それ》に|先立《さきだち》て、一旦滑川の旅店まで遁れ出でた  る下枝の、何とて再び家に|婦《ヘヘり》て|屠《ねふ》り殺さるム次  第となりけむ、|其顧末《そのてんまつ》を|記《しる》し置くべし。   下枝は北の童に幽囚せられてより、|春秋《はるあき》幾つ  か行きては締れど、月も照さず花も訪ひ來ず、  眼に見る物は恐ろしき|鐵《くうがね》の壁ばかりにて、日に  新しうなるものは、|苛責《かしやく》の品の替るのみ、苦痛  いふべきもあらざれど、家に傳はる財産も、我  身の操も固く|守護《まもり》て、明しつ暮しつ長き年、月  日は今日にいたるまで、待てども助くる人無け  れば、最早忍び兼ねて宵のほど、壁に頭を打砕  きて、自殺をせむと思ひ詰め、西向の壁の|中央《たどなか》   へ、|舞《ひし》と額を鰯れけるに、不思議や壁は縦五   尺、横三尺ばかり、裂けたらむが如く|颯《さつ》と開き   て、身には|微傷《うすで》も負はざりけり。    大名の住めりし邸なれば、壁と見せて忍び戸   を|桁《こしら》へ置き、|其《それ》より間道への抜穴など、奮き建   物にはあることなり。人形の後の小座敷も之と   同じきものなるべし。    こは怪しやと思ひながら、開きたる壁の外を   見るに、暗くてしかとは見分け難きが、|壇階子《だんばしご》   めきたるものあり。|艀《しづか》に蹟みて下り行くに足は 形                 、よくまさ   やがて地に附きつ、暗さは、愈増りぬれど、土平 人 らにて歩むに易し。西へ西へと志して|爪探《つまさぐ》りに        かはほり                  したゝりはだへ 活 進み行けば蠕幅顔に飛び違ψ、清水の滴々膚を   透して、物凄きこと言はむ方無し。とかうして 59 道のほど、一町ばかり行きける時、遙に|彙《もくろふ》の 目の如き|洞穴《ほらあな》の出口見えぬ。  |此洞穴《このほらあな》は|比企《ひき》ケ|谷《やつ》の森の中にあり。さして目 立つほどのものにあらねば、誰も這入つて見た 者無し。  下枝は穴を這出で三始めて|天日《てんじつ》を拝したる、 喜び讐へむものも無く、死なんとしたる氣を替 へて、誰か慈悲ある人に纏りて、身の|窮苦《きゆうく》を歎 き訴へ、|扶助《たすけ》を乞はむと思ひつる。そは夕暮の ことにして、畦道より北の方、里ある|方《かた》へぞ歩 みたれ。  (得三が蹴櫛にて女を見だるは此時な り)  斯くて下枝は滑川の|八橋棲《やつはしろう》の裏手より、泰助 の座敷に入りたるが、浮世に馴れぬ女氣に人の 邪正を謀りかね、うかとは|口《ヘヘ》を利かれねば、黙 して様子を見て居るうち、別室に伴なはれ一人 残され|寝床《ねどこ》に臥して、|越方行末《こしかたゆくすゑ》思ひ佗び、涙に 暮れて居たりし折から、彼の八藏に見とがめら れぬ。|其《それ》のみならず妹お藤を、今宵高田に|嬰《めあは》す よし豫て得三に|聞居《きミゐ》たれば、こもまた心懸りな り、一度家に立返りて何卒お藤を救ひいだし、 又こそ忍び出でなんと、|忌《いまは》しき古藁に蹄ると き、多くの人に|怪《あやし》ませて、赤城家に目を附けさ せなば、何かに|便《たより》よかるべしと小指|一節《ひとふし》喰ひ切 つて、彼の血の痕を赤城家の裏口すで印し置き て、再び|件《くだん》の穴に入り|冥土《よみち》を歩みて|壇階子《だんぱしご》に足 |踏懸《ふみか》くれば月|明《あか》し。|何庭《いづく》よりか洩る、と見れ ば、壁を二重に造りなして、外の壁と内の壁の 間にか、る|踏壇《ふみだん》を、仕懸けて穴へ導くにて|透聞《すきま》 より月の|照射《てらす》なり。直ぐ眼の下は裏庭にて此時 深き|叢《くさむら》にイめる|人《たざず》ありければ、(是泰助なり) |浴衣《ゆかた》の裳を引裂きて、小指の血にて文字したL め、か、る用にもた、むかとて道にて拾ひし|礫《ヒいし》 に包み、|丁《ちやう》と投ぐれば恰も|可《よ》し。|其人《そのひと》の眼に鰯 れて、手に開かれしを見て嬉しく、さてお藤を ば|奈何《いかに》せむ。  |此壇階子《このだんぱしご》の|中央《なかほど》より道は|雨《ふた》つに|岐《わか》れたり。右 に行けば北の憂なる|彼《かの》座敷牢に出づべきを、下 枝は左の方に行きぬ。見も知らざる廊下細くし て|最長《いヒたが》し。肩をすぽめて|漸《やうく》々に歩み行くに、雨 側は又壁なり、理外の理さへありと聞く|之《こ》は家 の外の家ならむか。十敷年來住める身の、得三 も|之《こ》は知らざるなり。廊下の終る虚に|開戸《ひらきど》あ り、開けて入れば|自《おのづ》から音なく閉ぢて彼方より 顧みれば壁と|見紛《みまが》ふ許りなり。此庭ぞ|彼《かみ》人形の |室《ま》の裏なる密室になんありける。  |此時《このとき》しも得三等が、お藤を責めて婚姻を迫る 折なりしかば、|如何《いかに》せば救ひ得られむかと、思 ひ櫃み居たるうち、火取轟に|洋燈《らんぷ》消えて、|此上 無《こよな》き機會を得たるにぞ、怪しき|聲音《こわね》に驚かせし に、折よく|外《ほか》にも人ありて妹を抱きて|遁出《にげし》でた れば、嬉しやお藤は助かりぬ。我も早く|出去《いでさ》ら むと叉もや廊下を傳はりて穴に下りむと|蹟迷《ふみまよ》 ひ、|運拙《うんつたた》うして又|奮《もと》の座敷牢に入り終んぬ。か かりしほどに身は疲れ、小指の疵の|痛苦劇《いたみはげ》し く、心ばかりは|急《はや》れども、足|瞼娘《よろぱ》ひて腰|起《た》た ず、氣さへ|漸次《しだい》に遠くなりつ、前後も知らで居 たりけるを、得三に|見出《みいだ》されて、さてこそ|斯《かく》は 悪魔の手に斬殺されむとするものなれ。 二十 赤城|様《さん》ー得三|様《さん》  |普門品《ふもんぼん》、大悲の|誓願《ちかひ》を所念して、|下枝《しづえ》は氣息 |奄《えんく》々と、|夢何有《むかいう》の里に入りつ、も、|刀尋段《たうえだんく》々|壊《え》 と唱ふる時、得三は|白刀《しらは》を取直し、電光|胸前《むねさき》に 閃き來りぬ。|此景此時《このけいこのとき》、室外に馨あり。「アヵ ギサン、トクザウサン。」  不意に驚き得三は今や下枝を突かむとしたる 刀を控へて、耳傾くれば、「あかアぎさん、と くジごうさん。」  得三は我耳を疑ふ如く、|茸朶《 ハトたぷ》に手をあて工眉 を|餐《ひそ》めつ、傾聴すれば、惟かに人聲、「赤城|様《さん》 ーー得三|様《さん》、」  得三はぎよつとして、|四邊《あたり》を見廻し、人形の |被《かづき》を取つて、下枝にすつぽりと|打被《うちかぷ》せ、己が所. 業を蔽ひ隠して、白刀に挟を打着せながら|洋燈《らんぷ》 の|心《しん》を暗うする、さそくの氣蒋|此《これ》で|可《よ》しと、 「誰だ。|何誰《どたた》ぢや。と呼び懸くれば、答は無く て、「赤城|様《さん》。得三|様《さん》。しや|忌《いまく》々し何奴ぞと得, 三からりと部屋の戸開くれば、|彼聲《かのこゑ》少し遠ざか りて、また、「赤城|様《さん》、得三|様《さん》。「えゝ、誰だ。 誰だ。とつかノ\と|外《おもて》に|出《いづ》れば、廊下をばたば たと走る吾して姿は見えずに「|赤得《あかとく》。赤得、|背 後《うしろ》の|方《かた》にて叉別人の聲、「赤城|様《さん》、得三|様《さん》。|隅旺《あたや》 と|背後《うしハつ》を見返れば以前の聾が、「赤得赤得。と 笑ふが如く泣くが如く恨むが如く嘲ける如く、 様々|聲《こゑ》の調子を憂じて遠くより又近くより、透 間もあらせず呼び|立《たて》られ、得三は赤くなり、蒼 くなり、行きつ戻りつ、,うろ、うろ、うろ。拍 子に懸けて、「赤、赤、赤、赤。「何者だ。何奴 だ。出合へ出合へ、といひながら、得三は血眼 にて人形室へ駈け戻り、と見れば下枝は|被《かづき》を|被《かぷ》 せ置きたる儘|寂《せき》として聲をも立てず。「ちえ三、 面倒だ。と劔を|悼《ふる》ひ、|胸前《むたさき》目懸けて突込みし が、心|急《せ》きたる手許狂ひて、肩先ぐざと突通せ ば、きやツと|魂消《たまぎ》る下枝の聾。  途端に烈しく戸を打叩きて、「赤得、赤得。 と叫び立つれば、「|汝野狐奴《うぬのぎつねめ》、又|來《う》せた。と得 三室外へ|耀出《をどりい》づれば、ぱつと遁出す人影あり、 廊下の|暗闇《ぐみ》に姿を隠して又!ー得三をぞ呼んだ りける。  檜さも檜しと得三が、|地購輔蹟《ぢたんたふ》んで縦横に|刀  うちふ                やうくは%か を打悼る滅多打。聲は漸々遙になり、北の憂に て哀げに、「あかあきさん、とくざうさん。ー 四邊《やいぱあたり》は|寂然《しん》。  |此《これ》より|以前《さき》得三が人形室を走り出で、聲する 者を追ひける時、室の外より得三と|入違《いれちが》ひに、 鳥の如くに飛び込む者あり。突然下枝の|被《かづき》を|外《はづ》 して之を人形に|被《かぷ》らせつ。其身は|日蔽《ひおぼひ》の影に潜 みぬ。  されば得三が引返し來て、|被《かづき》の上より突込み たるは、下枝にあらで人形なりけり。|但《たマ》下枝は 右にありて床桂に|縛《くし》し上げられつ、人形は左に ありて床の聞に据ゑられたる、肩は|擦合《すれあ》ふばか りなれば、|白刀《はくじん》ものを刺したるとき、下枝は|膿消《きもき 》 え目も眩みて、絶叫せしはさもありなん。又も や聲に呼び出されて、得三再び室の外へ駈け行 きたる時、幕に漕める彼男は|髄《いたち》の如く走り出 で、手早く下枝の縄を解き、|抱《いだ》き下して耳に 口、「,心配すな。と蟻きたり。時しも廊下を|蹟 鳴《ふみたら》して、得三の蹄る様子に、|彼《ハの》男少し|慌《あわて》る色あ りしが、人形を傍へずらして桂に寄せ、|被《かづき》は取 れて顔も形もあからさまなる、下枝を人形の跡 へ|突立《つゴたト》せ、「聲を立てる|勿《な》。と小聲に|教《をしへ》て、|己《おのれ》 は大音に、「赤城|様《さん》、得三|様《さん》」いふかと思へば 姿は|亡《な》し。既に幕の後へ飛込みたる|其《その》早さ消ゆ るに似たり。  |彼《かれ》も|此《これ》も一瞬時、得三は|眼血《まなこ》走り、髪|逆立《さかだち》て 駈込つ、|猶豫《ためら》ふ色無く柱に|免《よ》れる|被《かづき》を被りし人, 形に、斬つけ突つけ、狂氣の如く、楡快、楡 快。と叫びける。同時に戸口へ顔を差出し、 「赤城|様《さん》、得三|様《トナん》。「やあ、|汝《うぬ》は! と得三が、 物狂はしく顧みれば、「|光來《おいで》、|光來《おいで》。此庭まで |光來《おいで》と、小手にて招くに、得三は腰に付けたる ピストル  け一☆つ     もどル^               たげつ 短銃を震射間も焦燥しく、手に取つて投附くれ ば、ひらりとはづして|遁出《にげだ》すを、遣らじもの      たび  らんぷ         おつ…、 を。と此の度は洋燈を片手に追懸けて、氣も上 の室何やらむ足に|蹟《つまづ》き|怪《け》し飛びて、|火影《ほかげ》に見れ ばこはいかに、お藤を蓮れて身を隠せしと、思 ひ詰めたる老婆お録、手足を八重十文字に縛ら れつ、猿轡さへ噛まされて、芋の如くに|轄《ニろ》がり たり。    しりゐ  だう        このざぱ ど  得三後居に撞と坐し、「やい、此態は何うし たのだ。と口なる手拭|退《の》けて遣れば、お録はごほ んと咳き入りて、「はい、|難有《ありがた》うございます。 「えゝ|何《ど》うしたのだ。「はい、はい。もしお聞 きなされまし。あの時お藤|様《さん》を人形の|後《うしろ》へ隠し   それ    あなた   し た         "、 、 ㍉ 、 て、其から貴下、階下へ下りてがらくた部屋の 前を通ると、内でがさくいたしますから、鼠 か知らん、と覗きますとね、|何《ど》うでございませ う。あの探偵泰助|奴《め》がむくくと起き上る庭で ございました。「え!」 二十一 旭  いくたび              ぱかず  幾度か水火の中に出入して、場敷巧者の探偵 吏、三日月と名に負ふ倉瀬泰助なれば、何とて もろ    ピス㌃        たかどの 脆くも得三の短銃に儘るべき。されば、高棲よ り狙ひ撃たれ、外よりは悪僕二人が打揃ひて入 り來しは、さすがの泰助も今迄に餓り経験無き 危急の場合、一度は狼狽したりしが、|豫《かね》て携ふ る轡ハにて、手早く血汐を装ひて、第三襲の放 たれしを、避けつL|故意《わざ》と撃たれし|髄《てい》にて|叢《くさむら》に |儘《んニが》れしに、果せる哉悪人|輩《ぱら》は|証死《そらじに》に欺かれぬ。  さりながら八藏が|尚《たほ》念の爲め鐵棒にて|撲《たぐ》り潰 さむと|舞《ひしめ》くにぞ、|爾時《そのとき》敵は二人なれば、蹴散ら して|一度《ぴとたび》退かむか、さしては再び忍び入るに|甚 便《はたはだたよ》り悪ければ、|太《いた》く心を痛めしが、恰も好し得     このをり               虫んな 右衛門が此折門を叩きしかば、難無く銀卒に抱 かれて、雑具部屋へ押込まれつ、後より得右衛 門が|檎《とりこ》にされて、同じ室へ入れられたるをも、 黍助は好く知れるなり。  あたりしづか         雛  四邊艀になりしかば、漕かに頭を擾ぐる庭 を、老婆お録に見答められぬ。灘立てさせじと 鷲慰りて・お録の暉畔を〆め上げく、老婆が |呼吸《ちき》も絶々に手を合して拝むと見酒まし、さら ば生命を許さむあひだ、お藤を|閉込《ヒぢニ》め置く虚 へ、案内せよ、と|前《キヨざ》に立たせ、例の人形室に赴 きて、|其《その》仕懸の巧みなるに舌を雀きて驚歎せ り。斯くて彼の密室より、お藤を助け出しつ つ、かたの|如《ヘヘ》く老婆を縛りて又雑具部屋へ引取 、りしを、知る者絶えて|無《たか》りけり。|其《それ》より泰助は 庭の|空井戸《からゐど》の中にお藤を忍ばせ、再び雑具部屋 へ引返して|奮《もと》の如く死を|粧《よそほ》ひ、身動きもせで居 たりしかば、二三度八藏が見廻りしも全く死し たる者と信じて、斯くとは思ひ懸けざりき。  とかうするうち、高田は殺され悪僕二人は酒 を飲みに|出行《いでゆ》きたれば、時分は好しと泰助は忍 びやかに身支度するうち、二階には下枝の悲鳴 |頻《しきり》なり。|驚破《すけ》やと起つて行き見れば、此時しも 得三が|犠牲《いけにへ》を手玉に取りて、|活《いき》み殺しみなぶり 居れる虚なりし。  |此《こコ》に於て泰助も、と胸を吐きて途方に暮れ ぬ。|他《よ》の事ならず。得三は刀を手にし、|短銃《ピストル》を 腰にしたり。|我《われ》泰助は寸鐵も帯びず。相封して 戦はゞ利無きこと必定なり。とあつて|捕吏《とりて》を招 集せむか、下枝は風前の|燈《ともしび》の、非道の|刀《やいぱ》にゆら ぐ|魂《たま》の|緒《を》、絶えむは牛時を越すべからず。よし や下枝を救ひ得ずとも殺人犯の罪人を、見事我 手に捕縛せば、秘探偵たる義務は完し。されど も本聞が|死期《しご》の依頼を天に誓ひし一諾あり、人 情としては決して下枝を死なすべからず。さり とて|出《いで》て闘はむか、我が身命は|立庭《たちどころ》に滅し、|此《この》大 悪人の罪状を|公《おノゆけ》になし難し。|憶公道人情雨 これひなりにんじやうこうだうもつともなしがたし もしこうだうによらぱにんじやうハけ 是非。人情公道最難爲。若依公道人情鋏。 順了人情公道鯖《あしこうだうにんじやうふたつながらにんじゃうヒしたがはゴこうだうかく》。|如《し》かず人情を棄て、公道に 就き、眼前に下枝が虐殺さるゝ|深苦《しんく》の様を傍観   …       さた   潔 せむ哉、と一度は思ひ決めつ、我同僚の探偵吏 に寸鐵を帯びずして能く大功を奏するを、|榮《えい》と して誇りしが、今より後は我を折りて、身に護 身銃を帯すべしと、男泣きに泣きしとなん。  下枝が死を宣告され、|仇敵《あだがたき》の手には死なじと て、歎き悶ゆる風情を見て、|咄嵯《とつさ》に一の奇計を 得たり。  走りて三たび雑具部屋に婦り、得右衛門の耳 に囁きて、|其《その》計略を告げ、一|胃《び》の力を添へられ むことを求めしかば、件の|滑稽翁兼《こつけいをうかね》たり|好事 家《こうずか》、手足を舞はして|奇絶妙《きぜつめう》と構し、|雨膚腕《りやうはだぬ》ぎて 向う鉢巻、用意は好きぞやらかせと、|齊《ヘヘヘヘひとし》く人形 室の前に至れば、美婦人|正《まさ》に|刑柱《けいちゆう》にあり、白刀 |乳《ち》の下に臨める刹那、幸にして天地は悪魔の|所 有《もの》に非ず。  得右衛門は得三の名を呼びて室外におびき出 し、泰助は難無く室内に入りて漕むを得たり。 然る後二人計略|合期《がつこ》して泰助をして奇功を奏せ しめたる|此虞得《このところ》右衛門|大出來《おほでき》といふべし。|被《かづき》を |被替《かけか》へて虚|兵《し》を張り、人形を|身代《みがはワ》にして下枝を 隠し、|二度《ふたたび》毒刀を外して三度目に、得三が|親仁《おやぢ》 を追懸け出で三、老婆に出逢ひ、一條の物語に 少しく|隙《ひま》の取れたるにぞ、いで此時と泰助は、 下枝を抱きて|易《やすく》々と庭口に|立出《たちい》づれば、得右衛 門待受けて、彼はお藤を背に|荷《にな》ひ、|此《これ》は下枝を 肩に懸けて、滑川にぞ引揚げける。  時|正《まさ》に|東天紅《とうてんこう》。,  一暗號一襲|捕吏《ほり》を|整《とちり》へ、倉瀬泰助|疾駆《しつく》して雪の 下に到り見れば、老婆録は得三が胤心の手に|屠《ほふ》 られて、血に染みて死し居たり。更に進んで二 階に|上《のぼ》れば、得三は自殺して、人形の前に伏し 居たり。  旭の|光輝《ひかり》に照らされたる、人形の瞳は|玲瀧《れいろう》と 人を射て、右眼、得三の死髄を見て瞑するが如 く、左眼泰助を迎へて謝するが如し。五盟の玉 は|胤刀《らんじん》に砕けず左の肩|僅《わづ》かに微傷の|痕《こん》あり。   (『探偵文庫第十一集』明治二十六年五月春陽堂刊)