黒岩 涙香『小野小町論』

序言

小野小町(おののこまち)論』は大正元年九月一日発兌(はつだ)『淑女かゞみ』第五号より大正二年四月十五日発兌『婦人評論』第二巻第八号までの紙上へ連載したのであります、(すなわ)ち婦人雑誌の読み物という目的を(もっ)て筆を取りました故、史論としては書き直したい点もありますけれど、今は雑誌に出たままを取纏(とりまと)めて一冊の読本(よみほん)と致します、しかし小野小町に対する著者の断案と、その断案に達する理路とはこれで充分に分っていると信じます。
 著者はその前より『淑女かゞみ』の紙上に独逸(どいつ)の学者オット、ワイニンゲルの説を紹介しつつ著者自らの婦人貞操観を述べ貞操ということの根本思想は『貞女は一夫にだも(まみ)えず』という単元より出発せねばならぬことを説きまして、その行き掛りとして、日本に誰か生涯を独身で暮した婦人はあるまいかと詮索(せんさく)(つい)にこの小野小町論を(そう)する次第に立至(たちいた)ったのであります。
 かかる次第であります故、最初著者がこの論を艸せんとするに当り予告した文章の一部分を()に転載して置きます。
『余は幸いにして、我が日本に、今より千有余年前に、日本の女子のために、活きたる手本を示した偉絶(いぜつ)壮絶なる貞操の女神のあることを(しっ)ている、()(じょ)はしかも絶世の美人であった、全く女らしい点に(おい)(すべ)ての女に優絶した乙女(おとめ)である、彼の女は千有余年後の今の人が(ようや)く知り得たコ夫にだも見えず」の崇高なる貞操観を千有余年前に体現して身を犠牲に供するを(いと)わなんだ、彼の女は全くの奇蹟(きせき)である、恐らくは天が、世界の堕落し(やす)き「貞操の何たるを知らぬ」女達に対し、迷いの夢を(さま)さしむるために響き渡らせたる警鐘であろう、余は次号に彼の女の事を述べて世に(ただ)さんと欲するのである、彼の女とは()れぞ、姓は小野、名は小町、()ず彼の女の口吟(くちずさみ)を聞け、
  ともすれば(あだ)なる風にさゝ波の
     (なび)くてふごと我れ靡けとや
我が心は水に(あら)ず、何ぞ仇なる風の来りそそのかして靡かしめんとするを(ゆる)さんやとの高潔なる処女の矜持(きょうじ)天楽(てんがく)(ごと)き微妙なる言葉に(こもっ)ている』
 この論を築きなすに用いたる材料は、多く和歌と和歌の端がきとであります、これらは最も多く古今和歌集(こきんわかしゅう)、及び小町集に()りました、但し小町集には杜撰(ずさん)の点が多き故、この書に引用した和歌は大抵勅選集(ちょくせんしゅう)に引合せ、小町の歌に相違ないと見込みの附いた歌、又は他人の歌と認むべき理由を見出(みいだ)さぬ歌のみを用いました、その他はなるべく一般に典拠とするに足ると認定せられている史籍を参考いたしました。
 もし本書のうちに、何か誤謬(ごびゅう)のあることを御心附きの方々に於て、著者へその旨を指示して下されまするならば著者の幸甚であります。
大正二年六月
著 者 謹識

(一) 小町の出身
(二) 男に対する小町の態度
(三) 小町と恋
(四) 小町の恋人の本体
(五) 百夜通の真相
(六) 小町と深草御門
(七) 小町と藤原族
(八) 山里の侘住居
(九) 雨乞いと歌争い
(十) 小町集と小大君集
(十一) 寺参りと僧正遍昭
(十二) 老境と文屋康秀
(十三) 枯尾花の下の白骨
(十四) 種々の伝説に就て
(十五) 千古の淑媛
(十六) くさ/”\の思い出
跋言

(一)小町の出身
 諸君、『貞女は一夫にだも(まみ)えず』ということは女の覚悟であります、今の世の女はこの覚悟がなければならん、この覚悟を以て、()さか違えば生涯を独身で暮すのだと根本の決心を(すえ)ておれば、(はじめ)て立派な—(あるい)は身分相応の—結婚が出来るのであります、しかるにもしもこの決心がなくして、今までの女の様に、何でも早く結婚せねばならぬ、何でも夫を持たねばならぬという様に思っていては、場合により極めて不利益な—不幸な—結婚をして生涯を誤ることがあります、(わたく)しはこの意見のために、誰か生涯を独身で暮した女の伝—又は評論の様なもの—を書きたいと思い、色々と詮索した結果、終に小野小町の事を(のべ)る次第となりました。
 但し小野小町の事は公選の歴史には出ておりません、それがためにどの様な女であったか、更に分らぬと学者の断定が沢山に下っております。そして又一方には根拠の甚だ曖昧(あいまい)なる種々の伝説と種々の作話(つくりばなし)が伝わっておるのであります、その中にも最も名高いのは、深草(ふかくさ)の少将という方に見染(みそめ)られ、百夜(ももよ)続けて通うたならばと返辞したところが、少将は九十九夜まで通い詰めた、ところが百夜に当る夜が大雪で、少将は通う途中で降埋(ふりうず)められ、到頭(とうとう)凍え死んでしまった、小町はこの後は亡き少将に義理を立て、外の男が何というても、つれない返事ばかりしたので、男の恨みが重なって終に見る影もなく零落し、野末(のずえ)枯尾花(かれおばな)の下に(たお)れ、雨晒(あまざら)しの白骨となってしまった、というのであります。
 これは実に美しい伝説で、且つ沢山の教訓をも含んでいるから、なるべくはこの(まま)に保存したい、けれども、小説上の仮作の人物とは違い、真にこの世に生活した人であらば、吾(われわれ)はこれよりも以上を知りたいとの念が出て来る、この様な念を以て詮索して見ると、多くの学者が『分らぬ』と断定した事でも恭多少は分って参ります・研艇分るかといえば、それが即ち文明の有難さであります、小野小町の事を調べるには、小町が歌人であっただけに、歌の本を主なる材料とせねばならぬ訳でありますが、(むか)しでは()る歌が廿一代集(にじゅういちだいしゅう)の中にあるかないかを調べるには一年以上も時日(じじつ)を要したでありましょうけれど、今日ではそれが軽便な活字本となって片手で(ひろ)げられる様になり、その上に立派な索引も出来て、煙草(たばこ)一ぷく吸う暇に調べが届くという様な有様です、のみならず図書館もある、比較的完全な辞典や類書も沢山に出来まして、大した浪費を用いずに古人より幾倍も広く目を通すことが出来る世の中とはなりました、それに又今日の調べ方は帰納とか演繹(えんえき)とかいう様な—いわゆる科学的研究法—で、広く比べ深く考え、矛盾したところは一方を(きり)捨てまして筋道を辿(たど)りますが、昔しでは迷信なぞも強かったため、色々の伝説に迷い、取捨という事をせず又材料の吟味もせずに、何でも先人の書いた物を(たつと)んだために調べれば調べるだけ(ますま)す分り(にく)くなり、(しまい)には分らぬ者として打捨(うちすて)る外はなかったのであります、とかように申せば(わたく)しが大層()く調べた様に見えますが、決してそうではない、何分(なにぶん)にも千年以上も昔しの一女子の事柄でありますから、あるかないか分らぬ様な少しの材料を辿り辿って、小町の一代を作り上げるのであります、分らぬところは推量をも用いますが、それにしても単に朧気(おぼろげ)にしか分らぬという事は免れません。
 こうして私しの調べたところは余ほど今までの伝説と違っています、少々御面倒ではありましょうが我慢して綿密に読んで下されば、多少の御参考にはなろうと思います、但し小説でもなく、又記事文でもなく、いわば一種の、下手な考証でありますから、面白くないこと無類であります、余ほど辛抱なさらぬと、欠伸(あくび)が出たり眠気が差したりして読み切れますまい、お負けに話しが(くど)くて、文章も短かくないのです。
 そもそも小野小町は何者であるか、小野家の系図を見ると、有名な小野(たかむら)の孫となっております、篁の子に出羽(でわ)国司(こくし)を勤めた良実(よしざね)—或は良真(よしざね)とも良貞(よしさだ)とも書いてある—という人がありこの人に二人娘があって姉の名は分らぬが妹は小町(こまち)であります、大日本史(だいにほんし)なども小町の事を列女列伝に載せこの系図の通りに(かい)てありますが、しかしこれは(むか)しからの系図へ後から書き入れたもので—その出所(でどころ)古今和歌集(こきんわかしゅう)に『小町の姉』という女がある(ゆえ)辻褄(つじつま)を合せたのであります、—何故に書入れたと断定するかといえば系図のそのところの書き方が、他と(ちが)っているのみならず小町は良真の娘とすれば少々時代が喰違(くいちが)って来るのです、しかし小町はこの家筋から出た事は無論であります、この家は篁よりもまだ前に滝雄(たきお)というて出羽守(でわのかみ)に任ぜられた人がありますが、余ほど出羽の国とは縁故が深かったと見えて右の良真もやはり出羽守に任ぜられております、この様な事で出羽の国には今でも小野の一族が広がっていることは、私しが旅行して見届けて来たのでも分っていますが小町はこの出羽の国の小野族から出たのであります、小町が出羽の郡司(ぐんし)の娘ということは三十六人歌仙伝(かせんでん)を初め様々の書に出ていまして反証が挙らぬから確実とせねばなりません、郡司は昔しその土地の旧家名家が任用せられた故、多分は小野滝雄の子孫又はその前よりの同族が繁殖して旧家となり自然郡司ともなったのでしょう。
 出羽の国は有名な美人系で、アリアン人種の血が伝わっていると申します、それに奈良京都附近も(また)有名な美人系です、これは西施(せいし)楊貴妃(ようきひ)を出した東方漢人族の血が交っていると(もうし)ます、この美人系と彼の美人系との血が、小野一族と出羽の婦人とに()(こん)ぜられたために小町の様な絶代の名妹(めいしゅ)が出来たと見えます。
 サテこの小町は出羽の如き田舎(いなか)からどうして都の土地へ出たかこれはそのころ采女(うねめ)といって、各地方からその土地で最も縹緻(きりょう)()娘子(むすめこ)を朝廷へ出したのであります、采女というのは十三歳以上(()る時は十六歳以上)でもし姉妹があれば姉妹ともに取られました、小町は姉と共に采女となって都へ出たのでありますから多分は姉が娘盛りの年頃(としごろ)で小町の方は十三、四歳であっただろうと思われます。
 私しはこの点を確かにして置く必要があると存じますから、小町が采女であった証拠—と申して(たし)かな証拠はありませんが()だ証拠らしく見える事柄—を一つ二つ申しましょう、第一小町の歌集に『あさか山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふ者かは』という歌の紛れ込んでいることであります、この歌は古今集の序にもありますが、その(もと)万葉集(まんようしゅう)の十六巻に在り下の句が『浅くは人を我れ思はなくに』であります、これを平安朝時代に『思ふ者かは』とその時代の流行(はや)り句調に直した事は『大和物語(やまとものがたり)』にもこの歌が直って出ているので分ります、そもそもこの歌は陸奥(むつ)の国にいた前の采女がこれを()んでその時に巡検(じゅんけん)(いっ)ておられた葛城王(かつらぎおう)の怒りを(たちま)ちに和らげた名歌であります、ところが陸奥といい采女というがために、出羽の采女—即ち小野小町—の歌と見誤って粗忽(そこつ)に書き(こん)だのでありましょう、この小町歌集の事に(つい)ては(わたくし)も多少の考えがあるけれど略します、本来出羽の国は陸奥と越後(えちこ)とを割って作ったもので、歌の上手(じょうず)な陸奥の采女を、歌の上手な出羽の采女と思ったのは当然である様に思われます。

 次には小町という名前であります、古今集を見ると『三(くに)の町』という女もあり『三(じょう)の町』という女もあります、(まち)とは何でありましょう、これは朝廷でいう『きさいまち』とか『つぼね町』とか『うねめ町』とかいうその町であります、『きさい町』とは(むず)かしくいえば常寧殿(じょうねいでん)といって天子のおられる紫宸殿(ししんでん)の北—即ち(うしろ)—に在ります、皇后様のお住みのところで、その廊下の両脇に連なる幾個(いくつ)ものお(へや)を『町』といい、総体を『きさい町』と申し、(ここ)には朝廷へ奉公する官女を一口に『町』とします、小野の小町は姉と一緒に奉公していたために姉の方が『小野の町』といわれ妹の方がそれと区別して『小野の小町』と呼ばれました。
 それにしても出羽の国から出た女が()()ア歌などを読んだものだと(いささ)か怪しくも思われます、これは(あやし)むのが(もつと)もであります、私しは先頃出羽の国で芸者に(むか)い年齢を聞きましたところ『ヌーズーヌー』と答えました、どうも分からぬから(きき)直すとやはり『ヌーズーヌー』と答えます、この様な言葉では歌は読めそうにも思われません、どうしても私しの解し得ぬのを、一緒に旅していた茅原華山(かやはらかざん)君が通弁して()れました、『それは二十二ということです』と、私しは思わず笑いましたが、芸者も笑いました、その笑ッていった言葉が又私には分らぬ、それは『オラーヤダ』と響きました、これも茅原君が翻訳して『オラー』とは『()しは』という事、『ヤダ』とは『(いや)です』という様な意味で、笑い興ずる場合にいうのであるといわれました、この調子で歌を読めば『オラーヤダ、ヌーズーヌーとなりにけり、都の空に年を送りて』なぞという様な事になりましょうが、真逆(まさか)に小町はこの様な歌は読まなんだらしい、殊に小町の頃は(いた)(ところ)で、歌を読んだものと見え、藤原為兼(ふじわらためかね)(これは小町よりは後の時代)が佐渡(さど)へ流される時に、越後の遊女が歌を読んで別れを(おし)んだ、為兼は有名な歌天狗であったけれど、その歌の能く出来たのに驚き、その後、都へ帰ってその歌を勅選集へ入れたのが今でも(つたわ)っております、殊に小町の家筋は奈良朝の末から平安朝の(はじめ)に掛け、和歌の尤も衰えていた時でさえ(たかむら)の様な熱心の歌よみを出し、その外道風(どうふう)とか美材(よしき)とか好古(よしふる)とかいう様な文芸的の大天才を続々と出した一族でありますから小町は先天的に歌の天才であった事と思われ、またその家は出羽の田舎ながらにもやはり都の優美なる大和言葉を有していたのでありましょう、万葉集を見ても(あるい)伊勢物語(いせものがたり)の様なものを見ても、いずれの地方の女でも容易に歌を読み得た事が分ります、(いわ)んや小野家の令嬢に(おい)てをやであります。
 しからば小野小町—この小町が本名でないとすれば、その本名は何であるか、これは私しにも分りませぬが古今集目録には比右姫(ひうひめ)とあります、その外には何の書にも見えぬ故、仮りに比右姫と定めて置きましょうが、実に美くしい愛らしい名ではありませんか、小野比右姫、私しはこの名を聞くだけでも心()く様な感じが致します。
 この比右姫には一人の乳婆(うば)が就ておりました、小町歌集には、
  よそにこそ峰の白雲と思ひしに
     二人が中に早や(たち)にけり
というのがあります、相変らず名歌であることはいう(まで)もありませんが、この歌の()し書きには『めのとの遠き所にあるを』と記してあります、私しの考えでは、比右姫が都へ出て来たのは(わずか)に十三歳位で、仲々単独には、身の仕末(しまつ)も出来ぬ故、朝廷に奉公してどの様な粗匆(そそう)があろうも知れず、多分この乳母(うま)は元、朝廷に奉公をした事もある女で、都から故(わざわざ)比右姫君をお育て申すために出羽国へ(よび)寄せてあったを(いよい)よ姫が采女として朝廷へ出るに付け、籍に霧してあったのであろう、それが・姫も醜ぐ鳶懿の出来る年頃になり、(かつ)は自分の夫とか親類とかいう様なものも自分と共に出羽へ移住していこいか()たために、姫に分れて出羽の国へ帰・兄ったのでありましょう、この様な歌は恋歌とか題詠(だいえい)とかの歌とは違い、全く真情を吐くものでありますから、これを能く翫味(がんみ)して見ると様々の景状が目の前に浮ぶ様に思われます、姫は乳婆が田舎へ立ってしまったので淋しさに堪えず、乳婆の身の上を思うに付けてこの様な天籟(てんらい)ともいう()き情も調も双絶(そうぜつ)の歌が出来たのでしょう、私しはこの一首でも比右姫が遠い国から出て来た采女であることが分ると思います。
 以上は()ず小野小町の幼年時代から娘時代へ掛けての有様でありますが、これより愈よ美人時代—恋の時代—となる順序であります。

(二) 男に対する小町の態度
 この小野小町こと小野比右姫がいつ頃の人であったかということは一応見定めて置かねばなりません、承和(しょうわ)頃の人とか貞観(じょうがん)頃の人とかいうことが、早い書類に見えますがこれは相違のないところでありましょう、小町の歌にはその頃の人達と遣取(やりと)りしたのが四首あります。その相手は僧の遍昭(へんじょう)文屋康秀(ぶんやのやすひで)安倍清行(あべのきよゆき)、及び小野貞樹(おののさだき)であります、この人達は仁明(にんみょう)天皇(今より千八十年前御即位)の頃より光孝(こうこう)天皇(今より千二十五年前御即位)の頃までの間に、色々の書にその名が見えますゆえ、小町が千余年前の女であることは疑う余地がありません、けれど、それ以上に詳しい事は少しも(わか)らぬと見做(みな)されておりますが、私しは一っ参考になることを(もうし)て置きたい。それは小町の歌の中に『()のみこのうせたる』という端しがきが見えます、四番目の皇子(おうじ)のお隠れになった事に付き、小町が(かなし)んで歌を()んだのでありますゆえ、『四のみこ』とは何方(どなた)様の事であるかと考えまするに、嵯峨(さが)天皇の第四子基良親王(もとよししんのう)の外に、(あて)はまる方がありません、この親王は深草(ふかくさ)御門(みかど)(仁明)の三番目の御弟(おんおとと)に当り、天長(てんちょう)八年(今より千八十二年前)六月十四日に(こう)ぜられました、このとき小町が既に哀悼の歌を詠む年頃であったとすれば右の人達よりは幾分か年上であることは明白であります、それかといって、余り年上ではない、右四人のうちの最年長者たる僧正(そうじょう)遍昭と同年か或は一、二年も上であった様に、(すべ)ての事情から考えられます、但し絶世の美人でありますから、三十を越えた後とても年よりは若く見えて()お捨て難い風情があった事と思われます。
 そうすれば深草の御門が廿四歳で御即位なされた頃は小町は十九(つづ)廿歳(はたち)という年頃でありまして、この御門が猶お儲位(ちょい)に在らせられた頃からお(そば)近く仕えたのでありましょう、采女は(おも)御膳部(ごぜんぶ)(たち)さわりて宮中のお給使役(きゅうじやく)でありますゆえ、天子にも皇子にも接近するのであります。
 この小町が、男に対してどの様な態度を(とっ)たかということは、何よりも先に()づべき問題でありますが、これは歌の上に分っております、当時は男と女との間は仲々に打解(うちと)けたもので、(やや)もすれば歌を(もっ)て恋の中立(なかだち)にしたり、恋を修飾したりする時勢でありましたゆえ、宮中に近づくことの出来る公卿(くげ)達は定めし小町に歌などを(おくっ)た事と思われます、無論小町は、当時の若殿原(わかとのばら)の間に、引手(ひくて)あまたであったには違いない、ところが小町は実に操行堅固でありました、小町が自分へ言寄る人々をば一々に受け流し、少しも隙間(すきま)を与えなんだことは実に偉観(いかん)とも壮観ともいうべき程であります、乙女(おとめ)ともいわれるものはかくあらねばなりません、この点に於て小町は淑女のかがみであるというも差支えはありますまい。
 小町の心持は『ともすれば(あだ)なる風に細々(さざなみ)(なび)くてふごと我れ靡けとや』いう歌で分っています、これは靡け靡けと言寄る人の多いため、『ともすれば』というたので、自分の心は風に波立つ水とは同一視するを許さぬとの意を示したものでありますが、幾たびもこの歌をよみ返して御覧なさい実に高い(きよ)い心持が(おの)ずから察せられます、しかしこの歌ばかりでは確かな証拠とはいうに足らぬかも知れませぬが、まだこの他に幾つもあります、余ほど()び/\色々の人から言寄られた事と見えます。
  海松布(みるめ)なき我身を浦と知らねばや
     かれなで(あま)の足たゆく来る
 この歌は在原業平(ありわらなりひら)に答えた歌だろうと古い伊勢物語の註釈書類には往(まま)見えますけれど、誰に答えたか分りません、しかしその心は明白であります、蜑というものは海松布を刈ろうとて浦(すなわ)ち海辺へ来るものであります、小町は自分を手に入れようとて通い来る人をば、海松布を刈るため浦を尋ねる蜑に(たと)え、この身には浮きたる心(即ち海松布)がないのに、そうとも知らぬか、足の()かれるほど、繁々通うてお()でなさると、極めて冷淡に嘲笑(あざわら)ッたのであります『かれなで』というのは『飽きもせずに』という程の意味で露骨にいえば、(しょう)(こり)もなくというに当ります、これと(いささ)か似寄ッたのは
  蜑のすむ里の知るべにあらなくに
     うらみんとのみ人の云ふらん
これも自分の()れなきを(うら)む人へ示したのであります、この身は蜑の住む磯辺(いそべ)の案内者(知るべ)ではないのに浦(即ち海辺)見る浦見る(即ちこの身を(ナつら)み怨む)というのはオホホ見当違いでありましょうと、軽く受け流してはあるけれど、少しも誤解を許さぬ様に冷笑したものであります、又一つ
  結びきと言ひけるものを結び松
     いかでか君に解けて見ゆべき
これは前のより幾分か露骨でありますが、余りうるさく言われるから、こういうたのでありましょう、私しの心は既に結び切ってあると申上げたではありませんか、()う結び松の様なものでありますもの、どうして貴方(あなた)に解ける事が出来ましょうというのであります、結び松は御存じの通り、若い木を()じて結んで置くと、そのまま成長して節になり、どうしても解けぬのであります、但し(ここ)で御注意を願って置きたいのは、小町は心のうちで既に誰かに堅く結んであるので外の人には解けぬという様な意味の仄見(ほのみゆ)るとの事であります、果してそうとすれば、誰にどう結んであるか聊か心配な疑問が残ります、私が首尾静くこの問題を解き得るや否やは追々に分ります、獰おこの歌の前がきには『怪しきこと云ひける人に』とあります、どうでしょう、小町は自分へ言寄る人を『怪しきこと云ひける人』というのですよ、怪しき人—即ち注意人物—自分を恋い慕う人を注意人物の如く扱うとは実に用心堅固ではありませんか、小町の外にも歌を詠んだ美人は幾()もありましょうけれど、この様に明白に男を退けた歌は(ほとん)ど一首だも見当りません、小町は歌の天才だけに言廻(いいまわ)しは千変万化でありますけれど、言寄る男に対して、心の冷淡なことは千篇(せんぺん)一律であります、これ等の歌を見れば小町の貞操が、みだりがましきその時代に卓越していた事は疑う余地がありません、()る著書などは小町にはホトがなかったなどと書いてあります、ホトとは多分生殖機能の事でありましょうが、この様に男に(つれ)なかったため、色々と悪口もいわれた事と見えます、後の世に至るまでも、小野小町は多くの男を退けた報いで、男の執念のために罰が当り終りに野仆死(のたれじに)をしたなどとの伝説が伝わったのも偶然ではありますまい、しかしまだ一つ見逃すことの出来ぬ大事の実例があります。

(三)小町と恋
 小野比右姫(ひうひめ)小野町(おののまち)の妹であるために『小野小町』と呼ばれた訳でありますけれど、何しろ絶世の美人である上に当時女の芸能の第一に数えらるる和歌が()ぬけて巧妙であったため、美人といい才女という評判が非常に高かった事であろうと思われます、その証拠の一つは『姉小野町』でさえも、人が『小野町』と呼ばずに『小町の姉』と呼んだので分ります、本をいえば姉の『町』に対する『小町』(即ち妹)であるのに、アベコベに姉の名が妹の名に隠れ『小町の姉』としか人が呼んで呉れぬ様になることは全く非常な事といわねばなりません、当時『小町』と呼ばれる女は、種々の書に(ほの)見ゆる如く小野比右姫のみではなかったかも知れません、姉と共に『うねべ町』とか『きさい町』にいる女は総て小町といわれた事と思われますけれど、小町といえば殆どこの比右姫に限られた様な有様で三千の粉黛(ふんたい)顔色なしという程の(いきおい)でありました、()さかに当時の後宮に美人が三千もいたではありますまいけれど、美人という名が小町一人に占領せられてしもうた、この様になりては定めし小町は他の美人達からも(うらや)まれ(ねた)まれなどした事と思われます。
 勿論当時の貴公子達は()れ一人として小町に懸想せぬ人はなかった、それを小町が一々追払(おいはら)い少しも自分の操行を(ゆる)めずして何人(なんぴと)にも隙間を見せなんだことは前にも記したところで充分証明せられました故、この上に何も記す必要はありませんけれど、(ただ)一つ記して置きたいのは安倍清行朝臣(あべきよゆきあそん)との歌の取遣(とりやり)であります、これも古今和歌集の恋歌(こいうた)のうちに出ておりますが、清行の歌の端がきに
  しもつ出雲寺(いずもじ)に人のわざしける日、(しん)せい法師のだうしにていへりけることばを、
  歌によみて、小野小町がもとに遣はしける
とあります『人のわざ』とは法事を営んだ事であります、その時導師(どうし)が、真せいという坊さんであった、この真せい法師は多分古今集にも出ている真静(しんせい)法師の事であろうと思われます、この席へ清行も小町も鶸♂ておりまして、按て法事が終って舗嬬家へ帰った後に、清行が今の真静法師のお説教のうちに在った言葉を(もじ)り、懸想の意を(ぐう)して小町の(もと)へ送ったのであります、その歌は
  包めども(そで)()まらぬ白玉は
     人を見ぬ目の涙なりけり
とあります、これで見ると真静法師は法華経(ほけきょう)五百弟子品(ごひゃくでしぼん)の中に在る『無価の宝珠(ほうじゅ)(もっ)てその衣裏(いり)(つな)ぐ』という句の(あたり)引事(ひきごと)にして雄弁を(ふる)うていたので、余ほどの感動を与え、聴衆を泣かせた事と想像せられます、ところが清行はお説教の有難さに感動するよりも更に深く小町の美しさに感動したので、イヤ(あるい)は最初からお説教を聴くという目的は副産物で、その実小町の美に感動したいということが主なる目的であったかも知れません、何しろこの清行は早い頃から文章生(もんじょうせい)に挙げられた当時の秀才で、学は和漢に通じ、(しき)は古今を空しくすという程の学者でありました、殊に歌なども(うま)容貌(ようぼう)も美しかったといいますから、ナニ如何(いか)ほど小野小町が堅固であって多くの男を追払うとても『麿(まう)にはなどか(なび)かざらめや』などと大抱負を(もっ)ていたのかも知れません、歌の心は『和尚さんは袖に(たま)を包むといいましたけれど、私しの涙の白珠は、(あっ)(もら)いたいお方が逢って呉れぬため、袖に(あふ)れて包むことが出来ません、どうかそのお方に逢っていただきたいものです』という様に極めて婉曲(えんきょく)に言廻してあります、殆ど恋であるか或は今日の法事を以て弔意を(ひょう)したその故人を追懐するのであるか分らぬほどに(ほの)めかせてありますれど、古今集の選者紀貫之(きのつらゆき)等は、これをテッキリ恋と(にら)みこの曲者(くせもの)めといわぬ(ばか)りに、捕まえて恋歌(こいか)の中へ入れてしまったのは仲々痛快です、小町も無論これを恋と(さと)りましたが、これも歌の天才だけに面白く答えました。
  おろかなる涙ぞ袖に玉はなす
     我は()きあへず滝つ瀬なれば
この返歌の心は『貴方はおろそかに、うかくとお説教を聴いていたため有りがた涙が僅に袖に包まれぬというくらいの少量でお在りなさる、私しは他の事などは思わずに一生懸命に聴き(いっ)ていたために、中々袖に包めるとか包めぬとかいう様な事ではない滝の様に流れます』という意味です、即ち清行の恋の涙を全くお説教の有難涙へ振向けてしまったのでその裏面(りめん)には、貴方も恋などの事は思わずに一生懸命にお説教を聞き、後生(ごしょう)をでもお願いなさいと暗に(たし)なめる意味が充分に見えています、茲が小野小町の優しいうちにも堅い心を包んでいるところであります、(いつ)も男に答えるのに、優美な言葉であるため、風に柳と()と素直に(うけ)流す様で、甚だ肌障(はだざわ)りが柔かゆえ、どうかすると誤解する人もありましょうけれど、能くく(かみ)しめて見れば、毅然(きぜん)として動かぬ心が現われて来るのです、さすがの清行も、自分の辛苦した涙っぽい文句をば頭から『おろかなる涙』—()なる涙—説教に事よせて私しを靡かせようなどとは余っぽど馬鹿な涙—と真さかにこうまではいわぬけれど、取り様に由りてはこう解されぬとも限らぬこの言廻しには、迷いの夢も()めたでありましょう。
 この通り小町は堅固であった、当時の余り清くない風儀に照せば、実に不思議ともいうべきほど心が清浄でありましたから、これがために定めし多くの男から恨まれた事でしょう、男の恨みが(つもっ)たとか男を振り附けて多くの罪を作ったとか後世まで言伝えられるのは、実に(えら)いものであると感ずる外はありません。
 しからば小野比右姫こと小野小町は何故にかく堅固であったかということがこの次に説明すべき問題であります。
 後の世の伝説の如く果して生殖器官の備わらぬ不具(かたわ)の人であったか、(おし)いかな当時の医学が小町の遺骸(いがい)を解剖するほどに進んでいなかったので、この点は記者も、何とも断言することは出来ませんが、しかし記者は小町を不具者とは思いません、不具者でないのに、かく男を嫌ったのには深い訳がありましょう。
 その第一は小町が自ら自分の身を(たつと)んだのであります、茲でお断りして置きますが、女の貞操の神髄は、自分の身を尊ぶ一事に在ります、自分の身が(とうと)いから、これを(けが)す様な事はせぬ、もしも生涯、自分に相当な配偶がなければ独身で暮すことも(いと)わぬ、独身の(さび)しさが辛いために、(しまい)にはどの様な人にでも身を任せるなどというのは、今の世の真の貞操ではありません、真さかに小町はこの記者の様な理屈(りくつツ)ぽい人間ではなかった故、こうまで理屈を考えた上の事ではないでしょうけれど、ともかくも、彼女(かれ)の生涯は当時のその時代よりは一千年以上も進歩した今の世の貞操観をば実践躬行(きゅうこう)したと同様であります。
 小町は自分の身を花に比べる様な歌を幾つも(よん)であります『花の色は』という百人一首の歌などその一つでありますが、
  しどけなき寝くたれ髪を見せじとて
     はた隠れたるけさの朝顔
これなどが実に小町の心掛けを見るべきであります、絶世の美人となれば必ずこの様な優美な心になりましょう、朝起きて髪も(くしけず)らずに縁先に出たところ、朝顔の花が、水の滴る様な美しさに(さい)ています、これに自分の姿を見られては恥かしいと、我れ知らず障子の(かげ)に身を隠した、実に絶好の画題ではありませんか、後世、加賀(かが)千代(ちよ)の貰い水の句に比べても更に一段の趣きがあります、これというのも小町が平生から、自分の身を花の様に愛護していたためであると私しが断言しても何方(どなた)も御異存はありますまい。
 この様な気位の高い女がそうやすくと男に操を許す(はず)はありません。口さがなき後々の人が小町は自惚(うぬぼれ)が強過ぎたなどといえば或は自惚が強過ぎたのかも知れませんけれど、小町はこれのみならず、絶世の才媛(さいえん)でありました、古来、女で歌を読む人は沢山ありますけれど、小町ほど名歌を(のこ)した人はありません、彼女(かれ)は古今二千年を通じて日本第一の女歌人であります、この様な人が自分の身を大事にするのは当り前であります、ズッと後の世、即ち江戸時代に相模(さがみ)の国から奉公に出てお冷を水と(おお)せられた女中衆と同じ様に小町を見て何の自覚もない様に思いその気位の高いのを怪むなどは余り小町を知らなさ過ぎます。
 故に私しは、小町が、容易に男を寄せ附けなんだのは、彼女が絶世の美人であり絶代の才媛であった必然の結果であると申します、けれどこれのみでない。
 即ち第二に、小野比右姫は一つの目的がありました、平たく申せば小町の心は、既に或る人に属していました、こう思うと何だか憎らしくも又(ねた)ましく感ぜられますけれど、小町は全くの恋知らずではありません、既に小町の自白に
  恋も別れも憂き事も、辛きも知れる我身こそ、心にしみて袖の浦の、ひる時も無く
  哀れなる。
などという長歌(ながうた)もあります(但しこの長歌を小大君(こだいのきみ)—こと三条女蔵人左近(さんじょうのにょくろうどさこん)の作であるなどという歌人は研究が足らぬのです、この事は後に述べます)或はこの長歌がないとしても、この外に種々の短歌があります、それは管(くだくだ)しい(ゆえ)略しますが、いずれにしても小町の心の中にはこの人ならばという人がありました、それは誰でしょう、
 絶世の美男在原業平か、(いわ)く否、良峰(よしみね)少将か曰く否、文屋康秀(ぶんやのやすひで)か、曰く否、勿論これ等の人はいずれも小町に懸想し、前にも記した如く『注意人物』として取扱かわれたではありましょうけれど、小野比右姫の意中の人となるには足らなんだ、しからばその意中の人は、後の世までも語り伝えられている如く深草の少将でありましょうか、左様さ、深草の少将とは、誰が言い初めた事か知らぬけれど、仲々心憎い鑑定です、余ほど近い推量ではありますが、しかし(いま)だ以て天機は(もら)()からずであります、私しに今一回断言を猶予させていただきたい、その代り私しが(いよい)よこの人ですと指す時には、話しが余ほど面白くなって参ります。

(四) 小町の恋人の本体
 小野小町が気位の極めて高い女であって、殊に(みさお)が正しく、自分へ接近を求むる男子達を一々(てい)よく払い退()けたことは最早(もは)や疑う余地がありません、しかるにどうかすると小町の身持を疑う人がある、それは『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』という書に
 『小野小町が若くて色を好みしころ、もてなし有様、たぐひ無かりける、壮衰記(そうすいき)とい
 ふものには云(うんうん)
と書いてある、この書はどうかすると歴史家が参考にも用うる故、それからそれと色々の書類に引用せられて、()ては小野の小町は『色好み』であったと見えるなどといい、甚だしきは『もてなし有りさま、たぐひ無かりける』とあるから定めし男を遇することが手厚かッたであろうなどと、()しからぬ誤解をする()(もの)もあります、これは実に小町に取ッての()(ぎぬ)でありますゆえ、根こそげこの誤解を退治して置かねばなりません。
 『憂きことをしのぶるあめの下にしく
     我が濡れごろもほせど乾かず』
この歌は『後選集(ごせんしゅう)』によると『小町のうまご』とありますが、『小町集』には小町の歌とあります、どうも小町の歌らしい、しかしその判断は(あと)に記しますがとにかく、この歌は小町が(のち)の世に()せられたかかる濡衣に対してもやはり弁解に用いて適当であります、右の著聞集の文句は、その文中に在る通り全く『玉造小町壮衰書(たまつくりこまちそうすいしょ)』から取ったので『もてなし有様たぐひ無かりける』とは小町の親達が、非常に小町を大事にして美くしい衣服を着せ、美味(おいし)い食物を与えなどし、蝶よ花よと愛育した事をいうので、即ち親達が小町を手厚く待遇(もてなし)たとの意味であります、小町が男を待遇(もてな)した意味と取るのは明白な間違いであります、次に『色を好む』という事も、今の世の様に(みだ)りがましい意味に取るのは間違いです、その原書の壮衰記即ち『玉造小町壮衰書』というを見ても小町が男を(ごとごと)退()けたことは書いてあるが、色好みという様に解すべき行いは絶無であります、色好みとは今の言葉でいうと単に『情けが深い』というだけの事であります、この著聞集は鎌倉の時代に出来た本でありますが、この本と幾らか時代の接近しておる書に由りて実例を示せば『竹馬抄(ちくばしょう)』には『今の世には色を好む人さらに(はべ)らず』とあります、徒然草(つれつれぐさ)には『色好まざらん(おのこ)は玉のさかつきに(そこ)無きが如し』とあります、色好みとは『情けが深い』『同情の心に富んでいる』『慈悲が深い』或は『華美(はでやか)を好む』『珍らしい物を見たがる若き女の好奇心』又は『物の哀れを知る心』などいう意味を含んでいることが昔しからの実例に沢山ありまして、優美なる心をいうのであります、それが徳川時代になりて好色本などという猥りがましい書が流行して以来今の人は『好色』といえば直ぢに不身持(ふみもち)の事を指すに限った様に合点する習いとなり、それがために貞操無類なる小野小町を今のいわゆる『色好み』であった様に言い()すなどは実に小町に対して気の毒千万といわねばなりません。
 この著聞集の頃まで、小野小町が貞操の正しき女として言伝えられていたことは、これより少し以前に出来た『平家物語(へいけものがたり)』で(わか)ります、平家物語りに小町を『情けの深い女』としてあるので、著聞集の作者が壮衰記(これは漢文)の意味を翻訳するときにやはり『情け深い』という積りで、『色好み』の文句を用いたことは明々白々であります、さて平家物語りの本文は
 小野の小町と云ひける者は、いろ姿人にすぐれ、情けの深かりければ、見る人、聞人、心をいためぬは無かりけり(即ち多くの人が恋慕して心を悩ましたりとの意味)
 されど其道(そのみち)には心強き名を取りけるにや(即ち恋の道には、邪慳(じゃけん)に男を払い退くる評判を取ったと見えてとの意味)人の思ひ(即ち人の恨み)(ようよ)う積もりて、果は風を(さまた)ぐ便り無く云々
 これが昔しから鎌倉時代までも伝っていた小野小町の伝説でありますのに、著聞集の記者が『情深き』を『色を好む』と替えたため、後々に至って(やや)もすれば誤解を生じ、小町の濡れ衣とはなったのであります、もし読者諸君の前で小町を()(ざま)にいう人があればこの事を教えて()って(いただ)きたい。
 とはいえ、小野小町は決して恋を解せぬ女ではなかった、彼女は痛切に或る一人(いちにん)を恋い慕うた、それがために他の多くの縁談を悉く謝絶したのであります、さすればその一人とは誰でありましょう、誰れが小野小町の恋人でありましょう。
 これが実に(むず)かしい問題であります、小野小町の恋の相手は誰れであるかということは千余年来に多くの人が頭を悩まして研究したところでありますけれど今(もっ)て解けません、それを私しが此処(ここ)で解き示そうというのでありますから、(いささ)か大胆な様ではありますが、もし解き示し得たならば、読者諸君は実に仕合せな方々であります、千年来、何人(なんぴと)も知らぬ事柄を知ることが出来るのです(しかし、実をいうと解き得るや否やは分りません。)
 とにかくにも、小野小町の恋の相手は深草少将であるという浮名が千年以上も消えず『百夜通(ももよがよ)い』の(うわさ)が今に伝わっている程でありますから、どうしてもこの深草少将を手掛りとする外はない、深草の少将とは誰であるか、故落合直文(おちあいなおぶみ)君の『ことばの泉』に
 深草少将、名は義宣(よしのぶ)山城国(やましろのくに)深草に住す、時に小野庄(おののしょう)に小町といへる美女(たおやめ)あり、和歌を善くす。義宣これを見て、慇懃(いんぎん)を通ぜんことを請ふ、小町、百夜通ひたらんにはと約したれど、遂に果たさずして弘仁三年死せり。
とあります。『後松日記(ごまつにつき)』の第十巻にはこれより()や詳しく
 深草の少将、名は義宣、大納言義平(だいなごんよしひら)の長子なり、弘仁三年三月十二日(そつ)すの由、深草欣浄寺(きんじょうじ)の説
とあります、のみならず深草の欣浄寺というお寺には深草少将の墓というのがあった(今はどうか知らぬ)その外に小町の墓もあった由に色々の書に見えています、こうまで証拠が(そろ)って見れば最早やこの上に詮索する必要もなく、直ちに茲で、小町の恋人は深草少将であると宣告するが当然の様でありますが、実はそれが出来ぬ、何故(なぜ)出来ぬかといえば、深草少将が小町の恋の相手でない確証があります、それを何かといえば深草少将の(しん)だという弘仁(こうにん)三年には小町がまだこの世へ生れておらぬ、生れておらぬ人と既に死んだ人との間に恋の()(はし)(かか)ろう様がありません、小町の生存した年代は既に申して置きましたが、(なお)詳しく申しますれば、仁和(にんな)の頃まで活きていたとか、寛平(かんぴょう)の頃までも(ながら)えていたらしいとか歌人達が申します、先ず仁和寛平の頃に死んだとしてその年が幾歳(いくつ)であったかといえばこれは古い書に見当りませんが『塩尻(しおじり)』という随筆に『冷泉(れいぜい)家記(けのき)』を引き六十九歳で(しん)だとあります『塩尻』の著者天野信景(あまののぶかげ)翁は最も尊信すべき綿密な国学者でありまして、又冷泉家は和歌に関する事柄に就ては一種のオ—ソリティでありますから、この六十九歳ということには何か()り所があろうと思われます、とにかく、この外にどの書にも出ていぬ故、小町は六十九歳で死んだものと見る外はありません、しからば生れた年月はといえば、既に記した如く基良(もとよし)親王のお隠れの時に、既に小町が哀悼の歌を読んで弔意を表する年頃でありましたから、小町の生れた年は如何(いか)に繰上げて見ても弘仁三年ほど早くはなく、又その死んだ年は如何に繰下げても寛平年中までは届きません、それこれを照し合せて小町は弘仁の六年か七年に生れ元慶(げんけい)七年か仁和元年かに死んだと認むるのが動かし難い計算であります。
 かように小町と深草の少将とは時代が違いますから有名な国学者本居内遠(もとおりうちとお)翁なども、小町の恋の相手を深草少将というのは、誰れか他の人を深草少将の名前の中へ包み隠してあるのだろうと鑑定し、しからば深草少将というのはその実誰れであるかという様に詮索してありますが、さすがに本居内遠翁です、全く深草少将というのは、他の人を包んであります、私しもやはりこの翁と同じくこの深草少将を手掛りとしてそれを手繰(たぐ)り手繰りて小町の恋人の本体を(とら)える積りであります。
 御面倒でも少し我慢して綿密に読んで戴かねばなりません、深草少将義宣というのは内遠翁の説の通り、多分架空の人物でありましょう、架空であるのにその墓が存在してあるのは、これはお寺の人が寺の来歴に光りを附けんがために小町と深草少将との伝説を自分のところへ取込み(にせ)のお墓を(こしら)えた、その証拠は欣浄寺(きんじょうじ)へ葬らぬ小町の墓までも拵えたので分ります(小町の墓は後に記します)殊に弘仁三年としたのはこれは壮衰記に誤まられたのであります、壮衰記は弘法大師(こうぼうだいし)の著書だという(うわさ)のあったことが、御存じの通り『徒然草(つれづれぐさ)』に出ておるほどで、なか/\名高い本でありますが、勿論(もちろん)弘法大師の著書ではないけれど、これがために多くの人が小町を弘法大師頃の人であったと誤認します、小野小町の髑髏(どくろ)在原業平(ありわらなりひら)が拾うたなどという話もやはりこの誤認から出ているので、深草の欣浄寺も同じくこれに誤まられました。
 或は深草の少将というのは真にあった人かも知れませんけれど、あったところで、弘仁三年に死んでは小町の相手でないことが明白でありますゆえ、深くその人の有無を争うに及びませんけれど、大納言(だいなごん)という程の父親ならば、今日からでも多少は調べる道がありますけれど、その頃に義平(よしひら)という大納言も見えねば義宣(よしのぶ)という少将もない、のみならず、この父と子に苗字のないのが不思議ではありませんか、これほどの身分ならば藤原とか(たちばな)とか何とか苗字が分らねばならぬ、それを単に義平とか義宣とか、苗字なしに呼名だけで伝えてあるのは、即ち深草少将百夜通いという伝説をばそのままそっくり自分の寺へ取込んだためと見るのが当然の様に思われます。
 しからば深草少将百夜通いの物語りは何から出た(これは後に述べますが)これは小町の死んだ後までも、或る人と小町との痛切な恋の噂が伝っていたために、その頃の物語り作者が、男の方を寓意的に深草少将と記したのでありましょう。
 それであるから本居内遠(もとおりうちとお)翁は何でも小町の相手を少将という身分の人に相違ないと見当を附け、その頃は良峯宗貞(よしみねむねさだ)が少将の一人(いちにん)であったから、深草少将は良峯宗貞を指したのであろうと推測してあります、私しは小町に関する学者の記事を、手の届くだけ調べましたが、この内遠翁の研究が一番深い、誰れでも真面目(しんめんもく)に小町の事を調べれば、(ここ)へ落ちて来る外はありません、深草少将が誰れかということが最後の疑問となるのであります。
 けれど私しは深草少将は良峯宗貞でないと断言致します、良峯宗貞はなるほど少将で、後に深草の御門がお隠れになる時まで『(りょう)の少将』と呼ばれました、けれどこの人ならば何も物語作者が、その名を(はば)かって曖昧(あいまい)に深草少将などと遠慮する(はず)はない、この人は随分女に戯れた人ではありますけれど、それは(すべ)て『良の少将』と明白に記されてある、大和物語(やまとものがたり)などもその明白な一例であります、しかるに当時の物語作者が遠慮して深草少将というのは、その人が良峯宗貞よりもズッと高貴であって(あか)らさまにいうのを憚る人であったものと認めねばなりません、しからば深草少将の本体は誰であるか、私しは内遠翁が『少将』という文字に重きを(おい)たに反して『深草』という文字に重きを置きます、即ち小野小町の恋の相手たる『深草少将』今日に於ては敢て明言を憚るにも及びますまい、遠い御門の恋が明白に記された書も沢山にありますから、私は暫くお許しを(こう)むって、(あきら)かに申します『深草の御門』と申された御方(おんかた)であります、彼の御方がまだ春宮にまします頃、深く小町に心を寄せ(たま)いました、即ち未だ御位(みくらい)に昇らぬうちの事でありますから、窮策ながら、少将と致しました、窮策とはいえ物語り作者にはあり(がち)の手段であります、当時この御方と小野比右姫(ひうひめ)即ち小町との恋は、忌諱(きい)でありまして明かにいうことを憚りました故、深草少将という仮りの名を作って仄めかしたに外ならぬ訳であります。

(五) 百夜通の真相
 小野小町の恋人が深草の御門であるとの断言は余ほど世の人々を驚かせたと見え、諸方からこの記者へ種々の手紙が参りました、中には驚くべき卓見であるとか、全く千歳(せんさい)の大秘密を観破(かんぱ)したものであるとか、過分なる()め言葉もあり、中には、まだ証拠が不充分であるとの批評もあります。
 如何(いか)にも記者の断言は証拠が不充分であります、今までのところでは未だ証拠を示したというに足らぬ、けれど、この点は幾分の賢察を願わねばなりませぬ、本来、恋愛などということは心の中の秘密であって、現に自分の知っている男と知っている女とが相慕うている場合でも、証拠の(あが)らぬことが多かろうと思います、もしも証拠が挙らねば恋とはいわれぬなれば、世間の恋は大抵抹殺せられてしまいましょう、()してや小町と深草の御門とは一千余年も以前の人々です、一千余年を経た今日から、二人の心と心との底に潜んだ深い秘密をば、明白な証拠を以て(とき)示すという事は殆ど出来(にく)い事柄でありますまいか。
 けれど私しは多少の拠り所がなければ、かかる断言は致しませぬ、極めて公平に種々の形跡を考え合せ、これならばかく断言する外はないと思うだけの心証に達したため、かくは断言する次第であります、左様です、証拠というよりも心証という方が適当でありましょう、ヨシや証拠はないにしても心証はあります、心証とは形跡から察する心の中の証拠でありますから、薄弱といえば薄弱でありますけれど、千年以上を(すぎ)去った今日よりの詮索としてはこの外に手段がありません。
 その心証を茲で一々数え立てることは容易でありますけれど、説明の順序を失いては説明が混雑致しますゆえ、説明の進み行くに応じ、必要な場合に必要なだけずつを示し行く事と致します。
 次に深草の御門とは、深草に葬り奉りたるために生じた称号であッて、生前の御名(みな)ではあるまいと注意せられた方もあります、私しもそう思います、けれど深草少将百夜通いの物語りは、この御方が崩御の後、即ち一般に深草の御門と申し奉る時代になりて、この御方の事を、噂ながらに面白く(つづ)りなした物語りでありますゆえ、『深草』という言葉を用いたのが当然でありましょう。
 また次には、御門ともいわるる方が百夜も通う筈はないという疑いもあります、先ずこの疑いを弁明して置かねば説明を進むることが出来ません、古今和歌集に左の歌があります、これは読み人知らずであります。
  あかつきの(しぎ)の羽がき百羽(ももは)がき
     君が()ぬ夜は我れぞ数かく
 この歌から百夜通いの物語りが出たのであります、本居内遠翁の研究では、この歌は二首の古歌から出ておると(もうし)ますが、私しはその様な事までは存じません、この歌が二首の意を取り集めたものか或は三首からなりておるか、それは歌の専門学者の研究に譲りまして、とにもかくにも古今集にはこの通り一首となりておりますから、私しはこれを一首の歌と認めますが、鴫の羽掻(はねが)きということは万葉集にも見えますゆえ、多分はズッと昔しから用うる言葉でありましょう、()てこの歌の仮名を(わずか)に三字だけ改めて、
  あかつきの(しぢ)の端しかき百()がき
     君が来ぬ夜は我れぞ数かく
という歌が、歌論議に出ております、この歌を古今集の歌と照し合せば、前の歌なる『しぎ』の『ぎ』が『ぢ』と変じて『しぢ』即ち榻となり『はね』の『ね』が『し』と変じて『はし』即ち端となり、『百羽』の『は』が『よ』と変じて百夜となッたに過ぎません、唯だ仮名三文字の作り替でありますけれど、立派な百夜通いの歌となりました、これは有名な顕昭法師(けんしょうほうし)の説明であります故、私しの手柄ではありませんが、榻というのは車の梶棒を(もた)せ掛くる台であります、深草の少将が、御所車(ごしょぐるま)に乗りて小町の(もと)へ通い、夜の更くるまでも小町の美くしい姿を眺め、色々と話をするけれど、小町が此方(こなた)の心に応ぜぬ、遂には、貴方(あなた)が真実に私しをお思い下さるならば、百夜続けて私しの元へお通い下さい、百夜も通うほどならば心に偽りのない事が分りますゆえ、その時には貴方の御縁談に応じましょう、その百夜の数の(みつ)るまでは、どの様な縁談があッても決して私しは応じませぬからと小町が少将へ約束しました、少将は痛く喜び、夜の()(がた)になッて、分れ帰る時に、イザ車に乗ろうとして榻の端へ、一度来た記しに一の数を書き、その後は毎晩来る度に一線(ひとせん)ずつ記しを加えて去ッた、これが即ち、『暁の榻の端かき百夜がき』という上の句の意味であります、どうしてもその数の百に満つるまで、即ち百夜通いとおして小町を妻にすると決心したのであります、一説には、来るたびにその榻の上へ転寝(まうね)をして夜の明け方になッて立去ッたのであるとも申します。
 ところが、段々と通ううちに、さすがの小町の方も心が動き、少将の来るのが遅いと、色々心配する様になり、深く少将を慕い初めました、それでもし少将が来ぬ夜があれば自分の方で煩悶(はんもん)して、早く百夜の数に満つれば好いと、自分でその数を書き足したい程に(こが)れました、これが(すなわ)ち下の句の意味で『君が来ぬ夜は我れぞ数かく』貴方がお()でのない夜は私しが自分で数を書きますという自白であります。
 なか/\巧妙な物語りであります、一首の歌を唯だ三字改めて、かような美しい恋歌を作り上げましたが、この事は追々に名高い伝説となり、王朝の末頃になると、これが一種の故事と見做さるるに至り、歌を読む人は、自分の痛切な恋を語る場合にこの『榻の端し書』という事を引用するまでに至りました、千載集に俊成(しゅんぜい)の歌として、
  思ひきや榻のはしがき書き詰めて
     百夜も同じまろ寝せむとは
とあります、即ち榻の端に数を書くという事と、百夜通いという事が、痛切なる恋を表象する一種のシンボルとなッたのであります。又続古今集に覚寛(がくかん)の歌として、
  百夜まで逢はで活くべき命かは
     かきも初めし榻のはしがき
というのも同じ事であります、この外にも新千載集(しんせんざいしゅう)に、山本入道(やまもとにゅうどう)の歌として、
  つらかりし百夜の数は忘られて
     (なお)たのまるゝ榻のはしがき
というのもあり、為世(ためよ)の歌にも、
  かぞへつゝいつ迄独り待たれけむ
     百夜も過ぎぬ榻のはしがき
とあります。
 かように立派な故事とまでなッたほどゆえ、如何にも、実際に百夜通うたらしく思われ、又そのために全く榻の端へ一々数を記した事の様にも思われますけれど、古今集にレッキとした本歌があって百夜とは百羽を作り替えたもの、榻の端かきとは鴫の羽かきを(もじ)ったものと分り、又その古今集の歌さえも猶その以前の古歌から出て来たものと分っている以上は、深草少将の百夜通いは決して実際に百夜通うた訳でない、単に物語り作者が、古今集に在る鴫の羽がきを見て、美くしい恋物語りを思い附いたに(とど)まることが明白に分るのであります。
 その作者が誰であるかは今日では分りませんけれど、深草の御門の崩御遊ばされてより数百年の間が、丁度『物語』類の盛んに作られた時代で、中内(なかうち)文学士が本誌に解釈しつつある『竹取物語(たけとりものがたり)』でも、有名な伊勢物語でも、或は源氏物語でも、総てその時代の産物のうちであります、その頃はあたかも和文の流行の初まる時であって、朝廷に奉仕する大抵の女房(にょうぼう)達が、歌も読めば日記も作る、自分の耳に聞込んでいる事柄を面白く修飾して、物語とか草紙とかいう者を我も我もと作るに()れ、又公卿(くげ)さん達も或は女の名を借り、或は匿名で種々の物を発表しました、深草少将百夜通いの物語もその中の一であることは無論でありますけれど、本文は今の世まで伝っていないのです、賀茂真淵(かもまぶち)翁なども、当時、物語類はどれほど沢山出来たかも分らぬけれど、今の世に存しているのはそのうちの極めて僅少なる部分であるというてあります。
 百夜通いは作り話であるけれども、当時の宮中や公卿や美人などに(つい)ての物語りは通例、或る事実を修飾したのであります、多分百夜(がよい)の物語の作者が深草御門と小町との恋愛を伝え聞き、この御方が猶お東宮(とうぐう)に在らせらるる頃の事であるがために、暗にその意味を示して深草少将としその痛切な恋をば百夜通いとしたのであります、故に、高貴なる()の御方が小町の許へ百夜も通うた訳では決してなく、唯だ百夜通うことも辞せぬほどに(おぼ)し召し給うた、そうして小町の心は、我れぞ数書くという如く、この御方に向うていたけれど、その恋は遂げることが出来ずに終った、つまり、深草少将百夜通いの物語りは、小町に対する彼の御方の恋と、(かの)御方に対する小町の情と、その恋の遂げられずに終った事と、この三つの(たね)を含み、それを修飾したに外ならぬのであります。
 これは決して今日からの想像や推量ではない、これより進んで事実を吟味してお目に掛けましょう。

(六) 小町と深草御門
 (いよい)よ今回は小野小町の恋人が深草の御門であるとの証拠を示さねばならぬ場合となりました、実に(むず)ケしい事柄であります、もしも証拠はこれですと明自に(さし)示すだけの確たる品物でも残っているなら、今までの学者が早く断定を下した筈でありますのに、誰も小町の恋の相手を何者か分らぬといい、千年以上の秘密となっていたのは、その様な証拠が絶無なためであります。
 故に私しは『証拠』という様な固くるしい(ことば)は用いずに『心証』或は『形跡』と申します、もし形跡に由って判断するならば、小町の歌に、なるほどと心証の得られるのが随分あります。
 その心証を示す前に、小町の境遇を一応説明して置かねばならぬ、小町は朝廷に仕えているうち、当時皇太子であった彼の御門から深く御心(みこころ)を寄せられましたが、故障があってその恋は成就せず、小町は朝廷を退きて(或は退けられて)比叡山(ひえいざん)(ふもと)なる小野荘に()み、心に彼の御方を慕いながら(わび)しい月日を送っていました、これだけの事を(しっ)て小町の歌を研究すれば種々の面白い事柄が分って来ますが、しかしこれだけの事とても一応はその拠り所を示して置きましょう、『四の御子(基良(もとよし)親王)の()せたまへるつとめを終りて風吹くに』という端しがきで小町の詠んだ歌があります、『うせたまへるつとめ』とは薨去(こうきょ)から御葬儀の終る迄の間を申します、これは葬儀の(さき)にも後にも宮中にて種々のお祭りや儀式がありますので、かれこれ二週間の余も掛ったと見えます、小町の歌は
  今朝よりは悲しき宮の秋風や
     又逢ふことも有らじと思へば
とあります、悲しき宮とはお祭りなどを行われた宮中のそのお(へや)の事、そのお室が空いたのを『あきの風』と兼ねてあり、今朝はアノ悲しいお室もガラ空になり、()う再びお目に掛ることも出来ぬ、実に悲しい訳であるとの意味が巧みなる言葉の言廻しに見えるのです、この宮の薨去は既に記した如く六月の十四日で、小町がこの歌を読んだのが七月の初め即ち秋の立つ時で、事実にも符合します、この歌の(こころ)で見れば小町が平生この親王に親しくお目に掛っていたのは明白で、殆ど友達であったともいう可き様に思われます、このとき小町は十七歳ほどであった計算となりますが、このお方は小町より年が下でありました、けれども小町の恋人たる(いち)(みや)は廿一歳でありました、これで小町が天長(てんちょう)の末頃、猶お采女(うねめ)として朝廷にいた事は明白であります。
 しかるにいつごろ朝廷を退いたかその年月は分りませぬが、皇太子の御即位の頃かと思われます、それは後に記す歌などでも推量が附きますが、とにかく、小町は(さき)の采女として知られていました、陸奥(みちのく)の前の采女の歌が小町の歌集に紛れ込んだなども、小町が前の采女であった—即ち朝廷から退いていた—ためと見る外はありません、一言に申せば小町が朝廷にいた事も明かであるが、最も美しい女盛りの年頃に朝廷を退いた事も明白であります。
 幽怨(ゆうえん)を以て人を動す様な痛切な恋歌が続々と小町の口から発したのは、小町がかく朝廷を退いた後の事です、朝廷を退いて、イヤ退けられて、常に御門の事を思い、真個(しんこ)に断腸の歌のみを詠んでいましたけれども、明かに御門とは申しません、勿論(もちろん)歌などというものは短い文句の中へ、唯だ自分の情調を示すばかりで、我が恋人が誰であるなどという事を示す者ではありませんが、それでも、何所(どこ)かに、形跡の顕わるるところがないとも限らぬ。
 小町はかくてあるうちに、或る夜、恋人が自分の許へ忍んで来た夢を見ました、目醒めて後に左の歌を読みました。
  うつゝにはさもこそあらめ夢にさへ
     人目つゝむと見るが(わび)しき
夢に小町の許へ忍び来たと見えたこの人は誰でありましょう、端しがきに『やんごとなき人の忍び給ふに』とあります、即ち夢にやんごとなき方が忍び来たと見た、この歌の心が又その『やんごとなき』方を切実に想像せしめます『御身分が御身分ゆえ、(うつつ)に—即ち現実に—私し共の許へ御出でになることの出来ぬのは致し方もありませんが、夢にお逢いするにさえ、世間晴れてということが出来ず、御微行(ごびこう)で入らせられる様に見るとは実に(はか)ない恋である』という意味であります、私しはこの一首の歌を、仔細(しさい)玩味(がんみ)すれば、深い心証が髣髴(ほうふつ)として浮んで来る様に思います、()して端しがきに『やんごと無き人』とある以上は猶更(なおさら)らです。
 しかしこれだけではない、小野小町に『玉造小町(たまつくりこまち)』という異名のある次第を説明せば充分に疑念が晴れます、芭蕉(ばしょう)の句に『名月や湖水に写る七小町』というのがありますが、七小町の語は昔から伝わっていたと見えます、七小町とは何であるか、これは足利(あしかが)時代に出来た謡曲から出た事で『草紙洗小町(そうしあらいこまち)』『(かよい)小町』『関寺(せきでら)小町』『卒都婆(そとば)小町』『鸚鵡(おうむ)小町』の外に『雨乞(あまごい)小町』『玉造小町』を加えたものです、一人の小野小町の境遇をば七色に見たてたもので、七人の小町という意味ではない、ところが雨乞小町と玉造小町は、私しの見ただけのところでは謡曲にはない、別にいずれ出どころがなくてはならぬ。
 殊に玉造小町とは古くから言い伝えられたので彼の壮衰記にも『玉造小町』とある、何故に小野小町を玉造小町というであろう、この秘密が(わか)らぬため、大日本史の著者達は、()むを得ず、玉造小町とは小野小町とは別人であろうと断定した、この断定に力を得て、徳川時代の学者達が、種々の説を作り『牛馬問(ぎゅうばもん)』の著者新井白蛾(あらいはくが)などは『玉造小町とは玉造義景(よしかげ)と云ふ者の娘の小町』というに至った、曲亭馬琴(きょくていばきん)などもこの説を何かの随筆に引用してある、実に昔しの学者は我まま極まる論断を用いたものです、何故に彼()は小町の歌を()っと深く研究せなんだでしょう、なるほど玉造という苗字はありましょう、けれど玉造小町が小野小町であることは壮衰記の著者が認めているほどで、仮令(たとい)壮衰記そのものは取るに足らぬとしても、この点だけは疑うに及ばぬ。
 小町集を見るに、歌の端しがきに
  『忘れやしぬると、ある君たちののたまへるに』
というのがあります、これは小町が小野荘に侘住居(わびずまい)しているころ、『君たち』が尋ねて来た。『君たち』というからは一人ではない、即ち小町が朝廷にいたころ、懇意にした公卿さんたちが幾人か遊びに来て小町に問うた、多分はからかい半分であろう『貴女(あなた)は最うアノ恋しいお方を忘れましたか』と、即ちこの人達は小町の恋を知っていた、又小町の意中の人が誰であるかということをも知っていた、それだから問うたのである、ところが小町は(すぐ)に一首の歌を詠んで返辞に代えた。
  みちのくの玉造り江にごぐ舟の
     ほにこそ出でね君を恋ふれど
実に優美なる歌であります『いいえ未だアノ君を忘れません、顔にこそ(いだ)さぬけれど、今もアノ頃と同じ様に恋い慕うております』という心である、この歌の『君』というのは、単に恋しい人を指すので必ずしも『君王』をいう意味ではないにしても、朝廷の若い公卿さん達が小町に問うた意味から、小町の答えた容子を察すれば、尋常の人を慕うている口吻(こうふん)ではない、この歌はその当時に非常に名高いものとなッたがために、世間で小町の事を『玉造の小町』というに至ッた、即ち『玉造り江の歌を詠んだ小町』とか『依然として君を慕うている小町』とか又は『操の変らぬ小町』とかいう様な意味が、隠約(いんやく)の間にこの綽名(あだな)(こも)ッているのである、小町は沢山の名歌を詠じたのに何故にこの歌のみが小町の異名とはなッたのであろう、唯だこの一歌が小町の境遇、小町の真情、小町の本性を最も()く現しているためである、読者諸君は(とアへ)とこの端し書とこの歌とを照し合せ、猶おこれがために小町が玉造小町といわるるに至ッた事情など思い合せて下さらば、小町の意中の人が只人(ただびと)でなかッたことが、充分に合点せられます、真情から発した歌は読返しノ丶するうちに(おのず)からその真情が髣髴せられるものであります、唯だ一読しただけでは分らぬかも知れません。
 何故に小町が、京都に住みながら、陸奥の地名を(ひい)たかといえば、これは小町が『みちのく』の『いではの郡』の出身であるため、自分の故郷に縁のある地名を引いたのです、出羽の国は昔し『みちのくのいではのこほり』といわれました。(後にも出づ)
 これだけで未だ心証が足らねば、小町の長歌を参考と致しましょう、長歌は恋しき人のこの世を去られたとき小町が読みましたので、やはり明白に示してはありませんけれど、意味は実に痛切であります。
  『久かたの、空にたな引く、うき雲の、うける我身は露草の、露の命も未だ消えで、
  思ふことのみまろこすげ……』
というのが初めの句で、自分が物思いのみ繁きこの世に未だ死にも得ず、侘しき月日を送れる意味を示し、終りに
  『いつか恋しき雲の上の人に逢ひ見て、(この)世には思ふこと無き身とは()るべき』
とあります、茲にいう『恋しき雲の上の人』とは即ち小町の恋人でありますが、雲の上とは、今の世に基督(きりすと)教のいう天国などとは違います、いと尊貴なる御方でなくては行く事の出来ぬ神々の住む高天原(たかまがはら)ともいう可き様な意味であって自然とその恋人の身分も想艨せらるるではありますまいか、小町は唯だこの人の事をのみ思うているので、自分も同じく(しん)で雲の上に登り、その人に逢うことが出来たならば、一切の思いも消ゆるのにとて、切にその人の跡を追いたいほどに思うたことが、充分に分っています、この長歌の端しがきは完全に存していぬ故、能くは分りませんけれど、この御方も小町の事を思い『蘆田鶴(あしたず)の雲井の中に交りなば……』という歌を読みました、下の句のないのは遺憾でありますけれど小町を田の鶴に(たと)え、御自分のいる雲井へ呼迎えたならば……との望みや嘆きが、(おぼろ)ながら察せられます、定めし、遂げ得ぬ恋の嘆きが、小町の心に未だ消え遣らぬ様にこの御方の心にも全くは消えなんだと私しは判断致します。
 心証はこれで充分であると思います、未だこの外に心証とすべき歌が沢山ありますけれど、それは記事の順序により、この後に記す事とし茲には掲げませんが、もし小町の恋人が深草の御門でなくば、右等の歌は全く無意味となってしまいます。
 小町は朝廷におります間、爰女としてお給仕の役を勤め、()びたびこの御方のお(そば)近く出る機会のある身分でありました、それにこの御方の父君、嵯峨(さが)の御門には、遠いか近いか小町の伯母(おば)さんに当る小野石子(いしこ)という美人が、特別の御寵愛(ごちょうあい)(こうむ)り朝廷に時めいた事があります、小町の如き才女の身として、その辺の事などを思えば、何となく、後々の出世が(あわ)しい夢の様に妙齢なその心を(そそ)ったではありますまいか、又、この御方は小町が十三、四で朝廷へ上った頃、小町よりは四、五歳の年上で、即ち十七、八歳でありましたこの年頃から、御即位の廿四歳の頃までは、世にいう青春の血の(みなぎ)っている年頃で、見るもの聞くもの総て面白く、何事にも気が移り、何事にも心の浮立つ時代であります、かかる時代に小町と同じ宮殿の(うち)に在りて、小町が年々に美人として成長することがお目に(とま)らなんだのでありましょうか、小町は当時、女の芸能の第一とする和歌に長じ、(およ)そ朝廷に奉仕するもの誰れ一人(ひと)り小町の美と小町の才とに驚嘆せざるはなく、真に引手数多(ひくてあまた)であって、全く後宮三千の美人を顔色なからしむる有様でありましたのに、唯だこの御方のみが小町の美を知らず、小町の才に聞及ばず、朝夕(ちょうせき)、傍近く奉仕するを見ながらに、少しも小町に心を引かれなんだとすれば余りに不自然の様に思われます。
 いつの間にか小町が心のうちなる春草もこの御方に向って萌初(もえそ)めたと見るのが、ヨシヤ何の証拠はなくとも極めて自然ではありますまいか、況してや証拠—イヤ証拠とするには足らずとも心証とするには余りあるほど意味明白の歌が沢山に存していますのに、猶お小町とこの御方との間に、霊犀(れいさい)一点の通ずるところがなかったといわれましょうか。
 私しは最早(もは)や私しの断定が何人も異議を()るる余地のないものと思います、しかし、(あわれ)むべし小町のこの恋、この御方のこの恋—即ち双方の相思は到底遂ぐる事の出来ぬ事情がありました。
 それがために小町は殆ど生涯を—(すくな)くとも生涯の最もよき部分を—涙のうちに送る身の上とはなりました、昔しから美人は薄命と申しますが、小町は実に美人でした、薄命でした、私しは千歳の(もと)、これを思いて小町のために、一滴同情の涙を(そそ)ぐことを禁じ得ぬものであります。

(七) 小町と藤原族
 深草の御門は未だ御位に()かせられぬ頃は正良(まさよし)親王として知られ、早くより春宮(とうぐう)と定まって(おわ)しました。
 一方に於ては、かかる尊き御方、多分は思うことその意の如くならぬはなき筈の御方と、一方に於て才色双絶の小野小町と、この二人の間に生じたる最と深き恋が成就せずに終るとは(いささ)か不審にも思われます。
 その恋の妨げは何であったでしょうか、とにかくこの恋が成就せなんだことは明白でありますが、果して何物が邪魔したのでしょう、随分立入った詮索ではありますけれど、朧げながら分らぬこともない様です。
 この頃の朝廷は藤原氏の一族が、何事をも殆ど我意(わがい)(まま)(とり)行っておりました、天子と(いえど)も藤原族の…機嫌をお取り遊ばさねばならぬという有様で、これまでも皇后や王妃などは大抵、藤原族から差上(さしあげ)ました、殊にこの時が藤原の南家(なんけ)が勢力を失い、北家(ほつけ)が隆々として(おこ)って来る時で、用心の最も綿密な藤原冬継(ふゆつぐ)からその子の良房(よしふさ)などという何事にも抜け目のない人物が(さかん)に藤原一族の勢力を築いている最中でありました。
 小町は自分へ言寄る人を注意人物の様に、深く用心して取扱かいましたが、小町自らが、この藤原族から注意人物として目指されました、それは当然であります、小町の様な千古(せんこ)に秀でた真の絶世の美人が、もし御代(みよ)しろしめすべき御方の寵を得たならば、やがて三千の愛を一身に(あつ)め、思うことは必ず行われ、言うことは必ず聴かれるという非常の勢力を得る恐れがあります、殊に小町は尋常の美人ではない、才の優れた女であって心の慧敏(けいびん)なることは、何人も感心する程でありました、もしもこの様な才媛が寵を(ほしい)ままにすることとなれば、辛苦して築き上げた藤原閥族の勢力はどれほどの打撃を受くるかも知れません、定めし藤原族の目には、国を傾くる美人の様に見えた事と思われます、これを譬えていえば、小野小町はあたかも、藤原城の(いしずえ)(もと)に置かれた爆裂弾の様なもので、一たび点火すればその結果は予想に絶するのであります。
 殊に、春宮(とうぐう)正良親王の燃ゆる心がこれに点火する恐れのあるを見ては、藤原族は、気が気でなかったであろうと思われます、単にこの点から観察して、小町は自分の美くしさが自分の身の(あだ)となったので、到底、永くは朝廷にいられぬ運命であったと思われます、初めてお宮仕えに上った十三、四の頃はともかく、次第々々に美人として成長し、年々に妖艶(ようえん)を加えて、多くの人を悩殺せんとするを見ては、藤原族は年一年に寿命の縮む様な想いがしたかも知れません。
  (なみ)(おも)を射て入る鳥は水底を
     覚束(おぼつか)なくは思はざらなん
 これは如何なる時に詠んだのか解りませんが小町の歌の一首であります、小町の歌は弱いとか優しいとかいわれますけれど、中にはこの様に(すご)い男(おお)しいのもあります、(たと)えばこれを赤穂義人(あこおぎじん)の歌の中に加え、或は大石良雄(おおいしよしお)の歌であるというても、人は怪みは致しますまい、小町はなよ竹のなよくとした女でありましても、随分凜とした(りん)があって、なか/\気象の(たしか)であったことが認められます、藤原族が一種の目障りに想うて、注意するところのあるのは当然ではありますまいか。
 もし、当時藤原族が如何ほど朝廷を占領し如何ほど幅を利かしていたかということを示す必要があれば、別に藤原族専権史とでもいう大部な歴史を作ることも出来るほどです、ヨシヤ天子の御嫡子(おんちゃくし)であっても藤原一族の腹から出た方でなければ、御世(みよ)を継ぐことが出来ず、空しく若隠居の如き様となって、日陰に(うず)もれねばならぬなどいう痛わしき実例もあった程です、既に、小町と同じく紀貫之(きのつらゆき)から指名せられた六歌人即ち今の世にいう六歌仙の一人、在原業平などは、惟高(これたか)親王が藤原氏の専横のために御廃嫡の憂目(うきめ)に逢い給うたのを憤おり、藤原族から次の天子に奉る可き藤原家唯一の美人(俗に二条の(きさき)という)をば、堕落せしめて藤原の鼻柱を(ひし)ぐという所存を以て、その美人を色々と(そそ)のかし(つい)に盗み出して駆け落ちをした、こうして置けば幾ら藤原でも、人民の汚した女を、真逆(まさか)に天子へ奉つることを(はばか)るだろうと、浮名の立つだけ浮名を立てたのに(あに)図らんや藤原はこの女をば、女より八歳も年下の御門へ無理に皇后として納め奉った、この様な藤原族であります、代々御門へ、娘を差上げ、これを皇后とし、その腹に生れた子—即ち自分の孫に当るを—次の御門とし、自分の一家一族が、(いつ)も外戚の親と称し、御門の目上に(たっ)て朝廷を私しするのが藤原の政略でありました、藤原に(あらざ)る者は人に非ず、藤原に非ざるものは御門に非ずというのが実際の有様で、凡そ藤原のために朝廷から退けられた有為(ゆうい)の材がどれほどあッたかも知れません、今の人が神として拝んでいる、菅原道真(すがわらみちざね)(天神様)などもその一例であります、生憎(あいに)く小野小町はこの様な恐ろしい番人の目の前に身を(おい)たのであります。
 それかあらぬか、正良親王へは、早くから藤原冬継の長男長良(ながよし)というのがお傍に附切り、殆ど親王の一挙一動を監督していました、そして、親王が十四歳にならせ給うと、藤原冬継は(すぐ)に自分の娘順子(じゅんこ)というのを夜のお(とぎ)としてお傍へ附けました、但しこの順子を差上げた時の口実が面白い、清和天皇紀(せいわてんのうき)に記してある儘を茲に翻訳してお目に掛けます。
  『順子(かつ)て父なる大臣(おとど)(冬継)の家に在り、 (あさはや)く起き手を洗いたるに(ちいさ)き虹が(あま)(くだ)りて盥器(たらい)(ほとり)に現れたりこれを易者に占わせたるに、これは至ッて尊き瑞相(ずいそう)であるというた、それ故にこの順子を天皇に奉ッた』
 実に人を馬鹿にしているではありませんか、朝早く起き、朝日の射すところで手水(ちょうず)を使えば水蒸気に日が映ッて(ちさ)い虹の見えることは幾らもありましょう、その虹を口実に、易者を抱き込んで自分の娘を、貴い御方に(おし)附けるなどは蒙昧(もうまい)な時代とはいえ、迷信か政略か、即ち迷信を利用して政略を行うたのであります。
 総てこの様な口実で、或は不思議な夢を見ましたとか、或は奇妙な胸騒ぎがしましたとかいう様な口実で、次には藤原の沢子(さわこ)というのを又も夜のお伽にした、これでも猶お、小町の引力には到底敵することが出来ぬと見たのか、猶も藤原の貞子(ていこ)をも差上げた、余り藤原のみでは世間の口が五月蠅(うるさ)いというのか、外に、毒にも薬にもならぬ滋野縄子(しげのなわこ)というのをも差上げた、これ等を悉く小町の引力に対する対抗運動であるというのは少々言過(いいすぎ)でありましょうけれど、正良親王の身辺をば、藤原一族の娘達で、固く取囲んでいたのは事実であります。
 藤原族の女達がこの通りに取囲んでいるとすれば、この女達の勢力や用心だけでも、他の女を寄せ附けぬ様にするのは自然の(いきおい)とか自然の情とかいうものではありますまいか、もしも小町が世の常の女ならば、そうでないかも知れぬけれど、何にせよ、ズッと水際を離れた美人の上に、才女といい淑媛(しゅくえん)という誉れが高くて、殆ど全朝廷を動かし、その上に時々、他人に真似の出来ぬほどの名歌を読んで人を感服せしめるのである故、これだけでもかかる女達の(うらや)みや(そね)みなどが、小町の身に集まるのは当然でありますのに、况して親王の御素振りが、絶えず小町に心を引かるる様に見えては小町が即ちかかる女達の共同の敵であります、かかる事情が抗じくて、(つい)に小町を朝廷から退ける迄に立至ったのは是非もない次第ではありますまいか。
 小町が右の順子と親しく(まじわ)っていたことは僧正遍昭(そうじょうへんじょう)の歌集にもそれと知らるる節があります、順子が正良親王の十四の歳からお傍にいた以上は小町も親王のお傍近く出たことが充分に解っている、親王のお傍近く仕えねば順子と懇意になる筈がない、そのお傍近く仕えた結果(つい)に朝廷から退けらるるに至ったのは憐むべき次第であります、勿論藤原の娘達の勢力で、小町一人を朝廷から退けるは何でもない事で、順子が自分の父にでも兄にでも一言(いちごん)いえばそれで弁ずるのであります。
 朝廷を退けられた時の小町の心持はどの様でありましたろう、親王の厚き思し召も分っていて、我が心の底なる春艸(はるくそ)も親王に向って()()め、(やが)ては嬉しき出世もあるべき如く期待されていたのに、事もなくお傍より退けられるとは実に人生の悲惨である、或は退けられる様な理由とか口実とかがあったのかも知れぬ、けれどそれまでは今の世には知る由がない。
 小町が深く藤原を恨んだ事は、素直なるその歌にさえ、鋒先(ほこさき)が現われている、残念な事にはその詠んだ年月が分らぬ、けれど小町の歌の中で全く異彩を放っているので歌集を一読する人はその意味を看取せぬ訳に行かぬ。
  空を行く月の光りを雲井より
     見てや(やみ)にて世は果ぬべき
 この歌は、他に解釈の仕ようがない、雲井にいる人が、(みだり)に月の光りを遮ぎり、下界は全く暗くなる、この様な事でいつまでも終るであろうや『見てや暗にて世は果てぬべき』実に強い痛切な言葉ではありませんか、自分の身に被るべき月の光りを途中に遮るものがある、自分の身は最早や(やみ)である、この暗を暗の儘にいつまで続けて置かれよう、嗚呼(ああ)、小町は(おおい)なる(うらみ)に身を(もや)す人となった、しかもこの歌の端書が、実にストライキングである、著明である『前わたりし人に、誰とも無く取りしける』即ち一人に寄せた歌でない、今まで知っている人に誰れ彼れの別なく示したのである、一種の公開状である、本来和歌というものは多くの場合に於て、多くの人に伝えらるるものであって、公開的の性質となる場合が多いけれど、この歌の如きは初めからその積りで作ったのであります、又
  (あま)つ風雲吹き払へ久方の
     月の入るべき道まどはなん
 これも殆ど右と同調である、月の光りを遮っている凶雲を吹払えと天に訴えるのである、唯だの月見の歌ではない、『月の入るべき道まどはなん』月は(きた)りてこの身を照すべきであるのに、雲が遮ぎるがために、入るべきところに入らず、その道に迷いて、心にもなきところに入りたまわんとす、この雲を吹き払う天つ風は吹かぬものか、実に心の在るところは疑うべき余地がない、小町の様な優美なる婦人が、余ほど心に大なる不満を蓄うるに非らざればこの激越の調(ちょう)は出ぬ筈である、けれどこれよりも(なお)直接に、猶お痛烈に、藤原一族を(ののし)ったのがある、藤原は、昔し朝廷より『藤原』と姓を賜うた時に、藤は松の如き木に(から)みて、生存しながら、木の勢を弱め、終には木の命を奪うに至ることさえあるというた人のある如く古い書類に見えている、小町は即ちその意味を取って、
  物をこそ岩根の松も思ふらめ
     千代()る末も傾きにけり
『物をこそ岩根の松』これが小町独得の調であって、この様な掛け言葉が小町を鼻祖とし後に追々歌人の賞用される事とはなった、『余所(よそ)にこそ峯の白雲』などと同じである、今や藤原の藤が松の力を奪い、既に千歳以上を経たる朝廷を危くしつつある、傾けつつある、『物をこそ岩根の松』口に出して誰れも藤原を責め得る人はないけれど、そのないだけに(ますま)(たん)ずべきである、小町は一巾幗(きんかく)の身として、天下(こぞ)って藤原の権威に懾伏(しょうふく)し沈黙せる際に当り、声を高くして悲絶、痛絶の恨みを叫ぶ、彼女が終に(しか)るべき伉儷(こうれい)を得ずして生涯を独身にて終り、魂を枯草寒烟(こそうかんえん)(うち)に埋むるに至ったのも、故なしとはいい難いかも知れません。
 けれどこれあるがために小町の人格は一しお高きを加えます、彼女は二千年の間、何人もいわねばならぬのにいい得なんだ藤原に対する恨みをかくの如く明白に叫びました、この恨みは、小町自ら期せずとも事実に於ては、朝廷の恨み国民の恨みを代表したものというても差支えはないほどでありますが、()ったくは痛切の恋に駆られて、知らずくこの天来(てんらい)の妙音を発したのでありましょう。

(八) 山里の侘住居
 小町が朝廷を退く時には、多分は彼の君より(ひそ)かに()れしき御言葉を賜わりたる事などがあっただろうと思われます、時節を待てとか、そのうちには再び朝廷へ呼寄せて遣るとか、これがために小町はこの君のためには我身の生涯を捧ぐるも(いと)わじと程の心持を起した様に見えます。
 朝廷を退いて小町は何所(いずく)に住居したか、比叡山の麓なる小野の(しょう)というのが一般の言伝えであり、又、歌などから考えてもそうであるらしく思われます。
 茲に小町は、自分の身が、いつになれば再び朝廷へ帰られることかと、空しく彼の君の事を思いつつ(わび)しき月日を送りましたが、今まで朝廷にいて小町を見初めた人や、小町の美しさ、小町の才芸などを聞伝えている貴公子達は我もくと尋ねて行き、或は自分に(なびか)せようとか、或は妻として貰い受けようとか、様々に運動したでありましょうが、小町の心はいわゆる『結びきと言ける者を結び松、如何でか君に解けて見ゆべき』である、彼の君に対して我が心を堅く結んだまま何人にも解けるということがありません、多分この頃の詠でありましょうか、小町一流の名歌でありますゆえ、(ついで)ながら引用します。
  今はとて変らぬものをいにしへも
     ()くこそ君に(つれ)なかりしか
この歌に『今』といい『いにしへ』というのはいつを指したのか分りませんけれど、もし『今』というのを、侘住居(わびずまい)の今の事『いにしへ』とは朝廷にいた頃の事とすれば、意味が引立(ひきたっ)て分ります、即ち朝廷にいたころ、何事もなく小町と交っていた方が、この頃では小町に恋する容子が見えて来たゆえ、小町の方で用心を初めました、するとこの人が、小町の情なくなったのを恨んだ故、小町が答えたのであります、この歌は勅選にも入り端し書もありますゆえ、かく推量が附くのであります、歌の意味は、今も昔も私の心は同じ事でありますのに、貴方が今を情ないというならば昔も今も同様に情なかったのであります、しかるに貴方は昔を情なかったとお思いなされませんか、昔は私へ恋せぬゆえ、情ないとのお感じがなく、今は恋をするから特に情ない女の様にお思いなさるのです、とかく諄(くどくど)しくいわぬけれど、意味はこの通りに能く分り殊に面白い言廻しであります。
 この侘住居の時代が即ち小町の大なる煩悶の時代で、小町は唯その煩悶を歌に(もら)したのであります。
  山里はさを鹿の()に小夜ふけて
     我がかた恋をあかしかねぬる
彼の君よりは頼りの道もなく唯だ自分独りで煩悶する故『我がかた恋』というのであります、夜(よなよな)を思い明した様が見えます。
  なが月の有明の月のありつ玉も
     君し()まさば(まち)もこそせめ
何という調子の好い歌でありましょう、心は明月が如何にも美Lいけれど、もし彼の君が自分の許へ通い来られる見込でもあれば、月の美しさなどは忘れて君の御出(おいで)をのみ待焦るるのにというのです、この歌などは、古今の絶唱とも称すべき一でありましょう。
 実に小町は自分の全身を歌に投げ入れ、痛切なるその恋を叫び通したともいうべきであります、定めし小町の歌は、時々に朝廷へも聞えたでありましょう、(したが)って彼れ藤原族は気が気でなく、小町が叫べば叫ぶだけ(ますま)す小町と彼の御方との離間を勉め、随分小町を中傷する様な種々の手段をも(めぐ)らした事だろうと思われます、けれど小町の歌は、痛切を加え来る一方であります。
  世の中は飛鳥川(あすかがわ)にもならばなれ
     君と我れとの中し絶えずば
勿論、単に言葉の儘に解釈すべき歌でありましょうけれど、もし想像を加えることが許さるるならば、仮令(たとい)藤原族が、どの様に跋扈(ばつこ)して世の中を滅茶々々にしてしまうとも、彼の君と我身との間を隔てさえせぬならば、この身は少しも彼等を恨みなどはせぬのにとの心が充分に現れているといえばいわれぬこともない。
  露のいのち墓なきものを朝夕(あさゆう)
     いきたる限り逢ひ見てしかな
誰が何といおうとも忘れ得る如き恋ではない、生ている間は毎朝毎夜、逢いたいのである、これより以上、痛切に語ることは殆ど言葉に絶するともいうべきでありましょう。
 とはいえ、これ等の歌は、未だ以て、必ずしも小町の恋の相手が彼の御方であると限って認むべきではない、ヨシヤ恋の相手が誰であろうとも痛切なのは恋歌の常であるともいわれぬことはないが、しかし、小町の恋が一種特別の事情の下にあったことは明かに察せられる歌が沢山あります。
 前には彼の『やんごとなき人』が小町の夢に、忍び来た如く見えた歌を掲げましたが、古今和歌集又は小町集を見る人は、小町の恋歌の大半が、夢に出でていることを気附かずにはおられますまい、茲が(すな)わち、小町の恋の相手が、実際に小町の許へ通い来ることの出来ぬ御方であったがためです、当時は公卿でも宰相でも、気軽く人に逢ったり訪問したり、殊に恋のためには、人に恥ずるなどいう事もなく、自由に尋ね行く程の風俗でありましたが、唯だ小町の恋人のみはその様な事が出来ぬ、小町は唯だ夢にその人を見るより以上に、お目に掛る道がない有様でありました、古今和歌集第十二巻即ち恋歌の第二編は、小町の歌を以て(はじま)っています、しかも小町の歌が最初に三首並んで出ていますが三首とも悉く夢であります。
  思ひつゝ寝ればや人の見えつらん
     夢と知りせばさめざらましを
恋し/\と思い続けて寝ればこそ逢うた夢を見たのである、アア夢と知ッたならば(さめ)るではなかッたのに、何と(はか)ない恋ではないか、夢より外に逢う道のない恋であることが、争う由もなきほどに能く分ります、次は
  (うた)た寝に恋しき人を見てしより
     夢てふものは頼み()めてき
この歌は、小町集に()ると、小町の歌ではなく実は小町が前の歌を或人に示したところ、その人が気の毒に思い小町を慰癒(いゆ)するために読んだ同情の歌らしい、そうとすれば、益す能く分る、小町の恋の相手が夢に逢う外は、逢うべき頼りがないので、歌を示された人が、如何にも気の毒であると深く感じたのであります、第三は
  いとせめて恋しき時はぬば玉の
     夜の衣を返してぞぬる
この歌は、数限りもない古往今来(こおうこんらい)の恋歌中に於て最も名高い一首であります、この歌を三度読みて、寝巻を裏返しに着て寝たならば、自分の恋しい人を夢に見ることが出来るなどと昔から言伝えられ、明治以前の迷信の深い時代には、夫の留守を守る妻などは毎夜(ひそか)にこの歌を唱えて、自ら心を慰めた由に聞及びます、即ち小町が、自分の恋人に逢いたいくと思うけれど、夢より外に逢う道がないために、ズッと以前よりの言伝えに従い、夜の衣を返して寝る、即ち夢に逢うことを祈るのみであるとの(はか)ない恋を詠じたのであります。
 歌の巻頭は仲(なかなか)八かましいものでありますのに(勅選集は殊更)十二巻の巻頭へ、小町の歌を置いたのは、名歌を尊敬したためでありますか或は偶然でありますか、偶然にもせよ一人の歌を三種まで並べたのは全く外に例のないこと故これも想像を加えるならば、古今集の選者紀貫之等が殊に小町に対する同情の意を(ぐう)したものともいえばいわれます、又その旁証(ぼうしょう)としては、その時代が寓意の流行する時であったのみならず紀貫之は特に寓意が(すき)であって、土佐日記(とさにつき)を女の口調で書きたるも、多く罪人の流さるる土佐の国守(こくしゅ)を勤めたことを、本意ならず思い、己は男の面目(めんもく)が立ち難いと謙遜(けんそん)の意を寓したのであるとも言われ、又自分一人の選びたる新選和歌には徹頭徹尾寓意を用いてあることなども例に引けば引かれぬこともありません、又古今和歌集のこの巻を『()だ夢』の巻と呼ぶことが歌道の秘密である如く深秘抄(しんぴしょう)などに出ていますが、もし巻頭に在る歌の言葉を以てかくいうならば、『思ひつ玉寝ればや人の見えつらん』を取り『思ひ寝の巻』というのが当然であるのに、『思ひ寝の巻』は次なる第十三巻即ち在原業平の『起きもせず寝もせで』の歌の(のつ)ている巻の異名となり、この巻が特に『仇だ夢』といわれるは、小町の恋は、到底実現することの出来ぬ恋、夢にのみ逢う恋、それも仇即ち目的の達せられぬ空しき夢であるとの意が寓せられてあるのではあるまいか、歌道の秘密というは—殊に古今和歌集の秘密などというものは—多く紀貫之の頃から口伝、即ち言伝えである故、小町の恋が、単に夢にのみ逢うことの出来る恋たるに(とどま)った事が、古今和歌集勅選の頃までも公然の秘密として知られ、選者達が小町に同情する余り、小町の歌を三首も巻頭に置き、その上に『仇夢の巻』と異名を附けたではあるまいかなどと、かく想像するは、必ずしも理由のない想像ではないかも知れませんが、私はこの小町伝に一切想像は用いません、想像を用いては(かえっ)て議論の価値を損する恐れがあります故、如何に都合の好い想像でもヨシヤその上に多少の根拠があるとても、想像と名を附け得らるる如き点は一切採用せず、()だ明白に誰にも分る歌の(おもて)のみに由りて論を立てます、猶お恋歌の中に
  頼まじと思はんとてもいかゞせん
     夢より外に逢ふよ無ければ
これは小町集に由ると前の『夢てふものは頼み初めてき』の歌に対して又も小町の(よん)だ歌であります、夢より外に逢うことの出来ぬ恋人であることが明白ではありませんか、又
  夢路には足も休めず通へども
     (うつつ)に一目見しことはあらず
夢の中では毎夜の如くお逢い申しますけれど、夢で()たび(もも)たび逢うのは現実に唯だ一度逢うに()かぬ、即ち『見しことはあらず』とは『見し(ごと)くはあらず』で『()かず』との意、夢になどはこの様に(しばし)ば逢わずとも唯の一度でよいから(うつつ)に、即ち本統(ほんとう)にお目に掛ることが出来れば好いのにと(かこ)つのであります。
  恋侘びぬ(しば)しも寝ばや夢の(うち)
     見ゆれば逢ひぬ見ねば忘れぬ
この一首は取分けて著明であります、()はや恋いてく恋い侘びた、仕方がない故、暫し寝る事にしよう、寝てもしも夢に見たならばそれが即ちお目に掛ったというものである(現実に逢うことは出来ぬ恋ゆえ、夢に逢うのが即ち逢うのである)もしも夢に見ることが出来ぬならば、即ちその間だけも、この空しき恋の苦痛を忘れるのである、という意味であります、この様に(こまか)な情緒を、委曲に言現わして少しも耳障りな言葉がなく、しかも綽(しゃくしゃく)として余裕のあるのが、小町以外、何人も真似し得ぬところで、小町独得の家法でありますが、全く歌の(しん)(いっ)たものとでもいうべきでありましょう、
  はか無くも枕定めず明かすかな
     夢がたりせし人をまつとて
『夢がたりせし人』即ち夢で逢い語ろうた人に今宵(こよい)も夢に逢いたいと思うが、(さき)の夜に夢みた時は、どの様に枕をしていたのであろう、その通りに枕をすれば、今夜も(また)その通りの夢が見られるかも知れぬと、枕を右にしたり、左にしたり、枕の置きどころの一定せぬうちに(つい)に夜が明けてしまった、実に転展反側の意をこれだけ巧妙に現わした歌は他に類がなかろうと思います。
 これが即ち小町の恋であります、夢に逢うより外に逢うことは出来ぬ人であった即ち深草の御門であった、御門とても同じ思いで、いわゆる百夜通いの寓話が、後に至って作られた程の次第でありますけれど、如何(いかん)せん、御身分が御身分で、殊に、藤原一族が一挙一動を監督し、小町の歌の一首が、風の便りに朝廷へ聞え来るなどの事があっても、益す警戒の厳重を加える、のみならず、藤原一族に在るだけの女達が、女御(にょご)とか更衣(こうい)とかの名を以て御門を取囲み、嫉妬(しっと)の目を(だい)にして、命に替えて守護しているのでありました、夢より外に逢うことの出来ぬ小町の(はか)ない恋は、今日から見て、少しも疑う余地がありません。
 この様な有様で、小町の煩悶は幾春秋(しゅんじゅう)を経たであろうか。
 『我れのみや世をうぐひすと鳴き侘びん
     人のこ玉うの花と散りなば
 『夏の夜の侘しきことは夢にさへ
     みる音も無く明るなりけり
 『いつとても恋しからぬはあらねども
     あやしかりける秋の夕暮
 『木枯しの風にも散らで人知れず
     うき言の葉の積るころかな』
憂き月日にも関守(せきもり)はなく、承和(しょうわ)六年というに、小町は早や独身生活の儘、廿五歳とはなった、このとし深草の御門を取囲める藤原族の娘の一人沢子とて、いと時めきたる女御が世を去り給うた、御門の御心にはこれを(しお)に小町を朝廷へ(めし)戻すことは出来まじやとも思し召し給うたであろう、それかあらぬかその翌、承和七年には朝廷に来りて雨乞の歌読むべしとの有難き(みことのり)が多分特別の勅使を以て小町の身の上に(くだ)った、世にいう雨乞小町とはこの時の事を申すのであります。

(九) 雨乞と歌争い
 小野小町に雨乞の勅命の降りたることは、実に小町が生涯の最大事件の一にも数うべきであります。
 雨乞という事は、昔しの朝廷に於ては甚だ重大な儀式でありました、何故(なぜ)といえば昔の天子様は、旱魃(ひでり)とか大雨(たいう)とか洪水とか又は地震や雷の様な天変地異を総て御自分の責任の様に思し召され、もし御治世のうちにかかる天災が度々あれば、これは御自分の不徳のために、天が国家に(わざわ)いを下して警告せられるのであるという様に信じ、それがために御位(みくらい)を去り給うた如き例もあります、詰るところ、雨の降ると降らぬとが天子の徳不徳の分るる試験ともなり、御位の続く続かぬの分岐点にもなったのです、殊に永日照(ながひでり)の続く如きは百姓に非常な損害を与え、五穀の実りを害して全国の饑饉(ききん)の本ともなります故、国のため君のため、人民のため、実に由々しき大事であります、当時は『君は民の父母』などという支那伝来の思想が上下を支配し全く天子は民に迷惑を掛けてはならぬものとの御信念が朝廷に満ちていました、それがため雨乞には名僧知識を集め、あらん限りの御祈薦(ごきとう)をしたもので今の世からは殆ど想像も及ばぬほど大切な国務でありました、この大切な重い国務が、一の小野小町に命ぜられたとは、実に異数であります、全く前後に例のない破格の事柄というも差支えはありません。
 これは何のためであるか、唯だこの一事実から様々の事柄が推理せられます、第一は、小野小町の歌が当時、非常に名高く、一首を読み(いつ)る度に、朝廷は勿論、社会の大部分を動かすほどの勢がありました故、小町の歌ならば、或は天地も感動して旱魃(ながひでり)が止むであろうと思われたために相違はありません、第二には小町の人格がその顔や姿と共に如何にも美くしく、誠心(まこころ)に充ち満ちていて随分鬼神をも感動せしめ得るだろうと思われたためと解釈する外はありません。
 何しろ小町が雨乞の勅命を受けた事は、この上もない大名誉でありまして、婦人の身に取りてはこれより以上の名誉とては殆んどないほどでありましょう、この雨乞の事は、彼の謡曲などには出ていませぬのに、それが今日まで口碑に伝わり、小町といえば人が直ちに雨乞を聯想(れんそう)し、雨乞といえば直ちに小町を聯想するほどの次第であるのは、当時如何にこの事が、世間の評判となったかが想像せられます。
 それに又、御門が小町を憐み給う特別の思召(おぼしめし)がなかったならば、如何に小町の歌が名歌でも如何に小町の人格が美しくても、この重大なる恩命は降る筈があるまいと思われます、単にこの一事を以てしても、小町が深草の御門に一方(ひとかた)ならず思われた事が、分るではありますまいか、故に第三には御門の特別の思し召しであると私しは断言したいと存じます、このころは小野一家に対する御門の御心持が、余ほど優しくならせられた事は、小町の祖伯父(おおおじ)に当る小野(たかむら)が配所から許されて都へ帰ったのでも分っています、篁は遣唐副使となり、その正使と不折合のために罪を得て流されておりましたので『和田の原八十島(やそしま)かけて漕出(こぎい)でぬと人には告げよ(あま)の釣舟』という百人一首の歌も、その頃詠んだのである様に言伝えられますが、丁度小町の雨乞の頃に許されて帰京したのであります。
 小町へ雨乞の勅命が降ったに付ては、兼て小町を(ねた)み小町を恐れなどしておる藤原族の女達は、定めし由々しき事に思い、どうか小町の歌が功能がなければ好いなどと心の底で祈っていたかも知れません、これに引替え、小町の方は、全く我身の一生の最大事である、これが一身の浮沈の瀬戸であるとも思い、一心込めて天に祈り、()()れ、鬼神をも動かして、民を救い国を救い、御門の宸襟(しんきん)をも安んじ奉るほどの名歌を詠まねばならぬと決心して勅命に応じた事と思われます。
 勿論、雨乞のためには立派なる祭壇が設けられたのでありましょう、小町は生涯に一度の大事と、魂を(こら)してこの祭壇には上りましたが()てどの様な歌を読みましたか。
 小町の雨乞の歌として『ことはりや日の本ならば照りもせめ、さりとては又(あめ)が下とは』というが俗説に伝ッている由に聞及びますけれど、小町集に由ると
  千早振る神も見まさば立騒ぎ
     (あま)の戸川の樋口(ひぐち)あけ給へ
という極めて荘重なる一首であります、即ち天の川にある樋の口を開きて直ちに大雨を降らせ給えと天に祈るので、前の歌は後の人の偽作、この歌が本統の小町の雨乞の歌であります、この歌の端しがきには『日の照りはべるころ、あまごひの和歌(うた)よむべきせんしありて』とあります『せんし』とは『宣旨』で、今の言葉で勅命というべきをその頃は宣旨と申しました、即ち御門から直々の御命令であります。
 扨て、この歌を詠んだその結果はどうなッたでしょう、果して天が感動し、天の戸川の樋口を切りて大雨を降らせたでありましょうか、私しはこの間に答える前に順序として小町の『歌争い』を判決して置く必要を感じます。
 世俗に小町の歌争いとは謡曲にある大伴黒主(おおとものくろぬし)と小町との争いで、『まかなくに何を種とて浮艸(うきぐさ)の浪のうねく生ひ茂るらん』との小町の歌をば、六歌仙の一人大伴黒主が、それは万葉集に在ると言張り、小町を中傷しあたかも歌盗人(ぬすびと)であるといいましたので、小町が、御門の御許(みゆるし)を得て万葉集を洗ッて見ると、その歌は黒主が書き入れたので、墨の新らしいため、流れてしまい小町の冤罪(えんざい)(すす)がれたとあるを()うのです、これは艸紙(そうし)洗いといい、仲々名高い話ではありますが、多分謡曲作者が、古い物語類から思い附いて仮作したのでありましょう、今日ではその拠り所が分りません、私しが茲で歌争いというのはこの歌争いではない、小町自身が歌を争うたではなく後の人が、右の雨乞の歌をば小町の歌でなく小大君(こおおぎみ)の歌である様に(いい)ます故、私しが茲で、イヤ小大君の歌ではなく全く小町の歌であると争うのであります、小町の生涯の一大節ともいうべきこの歌に、少しでも疑いがあッては、それを知らぬ顔で話を進める事は出来ません。
 本居宣長(もとおりのりなが)翁の玉勝間(たまかつま)に、小町集には多く小大君の歌が誤ッて入ッていると記してあります、何しろ本居の如き大学者の言う事でありますから、誰もこの言葉を疑うものがなく、その後の学者は殆ど、何の詮索も遂げずに、一口に小町集には小大君の歌が入っていると言い()す様子であります、これは全く本末を転倒した言分(いいぶん)で、(とく)(とり)正せば小町の歌が小大君の集の末へ紛れ(いっ)たのであります、小町の歌として今日に伝わッているのは僅に百首余りで、実に貴重品でありますのに、その中から一首でも故なく他人に奪われるのは充分に取(ただ)さねばなりませんが、事情が仲々込入(こみいっ)ている故、綿密に申さねばなりません、『小大君』とは、『三条院女蔵人左近(さんじょうのいんにょくろうどさごん)』という女であることが種々の書に出ています、小町よりは余ほど後の世の女歌人でありますけれど、卅六歌仙に算入せられるほどの名家で、(おおい)に尊敬すべき天才であります。
  岩橋の夜の契りも絶えぬべし
     あくるわびしきかつらぎの神
という有名な名歌もこの婦人の詠であります。
 ところがお気の毒な事には、その伝が今日まで能くは伝りません、第一にこの『小大君』と(かい)た三字の名さえも読み方が一定せぬのです、本居翁は栄華物語(えいがものがたり)に『小大進君(こだいしんのきみ)』とあるを論拠に、これは『コダイノキミ』と読むべきであるといわれ、その以後は多くの学者が殆ど疑わずに『コダイノキミ』と申す様でありますが、これさえ私しは如何(いかが)わしく思うのであります、群書類従(ぐんしょるいじゅう)の索引には『コダイノクン』と出ております、小山田與清(おやまだよせい)は『コオホヰノキミ』と読ませてあります、しかしこれ等は重んずるに足らぬといわれますかも知れませんが、ズッと古い拾芥抄(しゅうかいしょう)には『サオキミ』と仮名を附けてある、私しは今まで拾芥抄に拠りたく思うておりましたところ、このほどに及び、古くこの名前を仮名で書かれたのに接しました、それには『こおほきみ』とあります故、今では本居初め多くの学者の呼び方が皆一理あるけれど間違(まちがい)で『こおおきみ』と呼ぶのが本統であると断言することが出来ます。
 けれど、この婦人が小大進(こだいしん)の位を(もっ)ていたことは本居翁の説の通り栄華物語に在ります、ところがこの頃の栄華物語の流布本は作者部類などを照し合せ小大進の君を単に小大君(こだいのきみ)と改めたのが多い様に見受けますが、これは(つの)を直して牛を殺すとやらの(たと)えでやはり直さずに本の儘で置く方が(よろ)しい、しかし小大進であれば『コダイノキミ』とか『コオホヰノキミ』とかいうのも一応は(もつと)もと思われます。
 歌争いの裁判が、(とん)だ横道に()れましたが、横道(つい)でに、今一つこの『小大君(こおおぎみ)』の事を申して置きます、何しろ、卅六歌仙にも入れられるほどの才女が、唯だ『三条院儲位(ちょい)の時(即ち東宮の時)の女蔵人にして、名を左近と称す』(三十六人歌仙伝)とだけで、その外の事が少しも分らぬとは、天才のために同情すべきでありますから、私しは見当ッたを幸いに、一の逸話を茲に掲げて置きます。
 それは『今物語(いまものがたり)』に出ていますが、小大進という歌よみとありまL'9ので、この小大君(こおおぎみ)であるか、或は別人であるか、それさえ定かではありませんけれど、この外に後世まで逸事を伝えらるるほどの歌よみが、同じ小大進で別に在ッた例は聞きませぬ故、多分この人を指すのでありましょう、この人が余ほど貧乏で、苦しくて(たま)らぬ故、京都の太秦(うずまさ)に参り、薬師様の前の柱へ歌を読んで書き附けました、
  なもやくし憐み給へ世の中に
     ありわづらふも同じ病ひを
四百四病の外の病をも、薬師様へ療治を頼むとは少々お門違いの様でありますけれど、それでも歌の徳で、霊験があッたものか、程なく八幡(はちまん)別当(べつとう)を勤むる光清(みつきよ)という人から思われて、契りを結び、貧の(くるし)みもなく
  『—(たのも)しくなりにけり、子など出来て、のち(もろ)ともに居たりける所、近き所に芋のつる、はひかゝりて、ぬかごなどのなりたるを見て、光清
   はふ程にいもがぬかごはなりにけり
  と云ひたりければ小大進
   今はもりもやとるべかるらん
  とつけたりける、面白かりけり』
とあります、余りに巧妙に過ぎて後の時代らしく思われますけれど、記して置きます、勿論事実と保証する訳ではないのです。
 この婦人は歌に於ては、平安朝の才媛中の鏘(しょうしょう)たるものでありますけれど、雨乞の勅命などを受けた事はなく、全く小町の歌集の一部分がこの人の歌集の末へ紛れ込んだため、小町は大事の我が歌に、後の世から疑いを(はさ)まれ、この人は又心ならずも、先輩の歌を私しするに至りました、その次第は次に述べます。

(十) 小町集と小大君集
 小野小町と小大君とは(およ)そ二百年ほど時代の違うた人であります、小町が(さき)、小大君が後であります、故にもし双方の歌集に同じ歌が(いっ)ておるとすれば、単に時代の後先から考えても、小町のが小大君のへ紛れ(こん)だというが当然の様にも思われます、二百年後の人の歌が二百年前の人の集に入るとは逆さ事といわねばなりません。
 けれどこの歌争いに、時代は余り関係がないともいわれる、何故(なぜ)ならば、小町の歌集は何の時代に出来たものか能く分らぬ、或は小大君よりも後の人が小町の歌を集めたので、それ(ゆえ)小大君のをも間違えて入れたであろうともいわれます。
 本居宣長翁は、小町も小大君も、双方とも女の歌人である上に『小町』『小大君』いずれも名の(かしら)に『小』の字が附ておるから間違ったのであろうというてあります、なるほどそうかも知れません、しかしこれは必ずしも小大君の歌が小町の集に入たとの証拠にはならぬ、或は小町の歌が小大君集へ入った原因であるともいう事が出来る。
 私しはこの面倒な争いを根本から尋ねねばならぬ、さもなくば明白な判決を下すことが出来ません、誠に面白くない一(せつ)でありますけれど我慢して読んでいただきたい。
 小町集に『あるは無く、無きは数そふ世の中に、哀れいつれの日まで嘆かん』という歌があります、その意は、世に活きてある人が段々となくなり(死んで)、死んだ人の数が益す多くなる、これが世の中の常であるから、死んだ人の事をいつまで悲んでいても仕方がないという意味であります、小町の歌の調子を少し見較(みくら)べた人は、この歌が小町の詠であることを決して疑わぬでしょう、『有るは無く無きは数添ふ』などと複雑なる込入(こみいっ)た思想をば、極めて円滑なる言葉を以て短い歌の中へ入れるのは、特に小町の長所で、既に記した『見ゆれば逢ひぬ見ねば忘れぬ』なども全くこの句法であります、故にこの歌は新古今集にも小町の歌として入ています、新古今は定家卿(ていかきょう)等が、貫之等の古今集にも劣らじとの精神を込めて集めた勅選集でありますゆえ、()しや時代は小町の(しん)でより余ほど後でありましても、私し共は多少の重きを置きたいと思います。
 ところがこの歌と極めて紛らわしいのが小大君の歌として『栄華物語』に出ております、それは『有るは無く無きは数添ふ世の中に、哀れいつまで在らんとすらん』というのであります、即ち下の句が九文字(ちが)ったのみで、その他は全く同じであります、これが即ち小町と小大君との歌争いの根本であります、何しろ栄華物語は、歴史の参考に供せらるる有名な書であります故、この書に『いつまで在らんとすらん』とある以上は、小町の『いつれの日まで嘆かん』との歌は、小町の歌ではなく小大君のこの歌が小町集へ紛れ込んだのであるというのです、何と無理な言分ではありますまいか、前の人の歌集に『いつれの日まで嘆かん』とあるは、後の人の『いつまであらんとすらん』が紛れ入たのであるとは、昔しの不詮索な学者はこれを唱えこれを信じたとしても今の世の人にはそう軽々しく賛成することは出来ますまい。
 私しはこの二首を、別の歌であると思います、小町は『嘆かん』と詠み、小大君は『在らんとすらん』と詠んだので、歌にはこの様な例が随分ありましょう、上の句が同じであるからとて、何も小大君の歌が小町集に入った理由とはならぬではありますまいか。多分は『有るは無く無きは数添ふ』という小町の名句が小大君の耳の底に残ッていたため、折に触れてその句が出たのかも知れません、実にこの『有るは無く無くは数添ふ』の句は、世の中の無常を形容するに又と得難いほどの名句であります故、後々の人は誰の句たるを問わず、あたかも成語とか熟語とかいう様に、平気で用うるのであります。既に僧正実伊(じつい)の歌などにも
  つくくと思へば恋し有るは無く[#「有るは無く」に白傍点]
     無きは数添ふ[#「無きは数添ふ」に白傍点]人の面影(おもかげ)
とあります、僧正実伊がこの句を用いたと同じ様な心持で小大君もこの句を用いたのかも知れません、小町の名句で後々は成句として用いられたのはこの外にも実例がありますので、例えば『誘ふ水あらばいなんとそ思ふ』の句の如き、歌人にも文人にも幾度用いられたかも知れません、又小町の『我が身こそ在らぬかとのみ辿(たど)らるれ』という名句なども、今物語に『我れながら、在らぬかとのみたどり侘び、人の心の花にまかせて』云(うんぬん)と在ります、総て同じ例であります故、後の人がその句を用いたのは、決して前の人がその句の(ぬし)であることを抹殺するには足りますまい、のみならず、私しの思うところを、遠慮なくいえば、小大君がこの歌を読んだという栄華物語の事実にさえ疑いを容るれば容れられる余地はある、或は栄華物語の作者が、小大君の如き一時代に名高かッた人を、物語のうちから逸することを惜み、外に現すべきところがないので、作者自らこの歌を作ッて小大君を引合に出したではないかとも思われます、ナニ栄華物語は確実な事実をのみ記した書で、作者がその様な細工などは決して加えなんだという人は、未だ栄華物語の研究が足らないと思います、しかし、一首の歌のために栄華物語をかれこれいうは余り枝道に入り過ぎます故、他の事は申しませんが、唯だこの歌の事に就てのみ述べる事と致します、この歌は同書の巻の二『みはてぬ夢』に出ていますが、小大君の名の出し方が如何にも突然であり、この後にもこの先にも小大君は見えません、即ち
 『世の中のあはれに、はかなきことを、摂津守為頼(せつつのかみためより)といふ人
  世の中にあらましかばと思ふ人
     無きが多くもなりにけるかな
  これを聞きて東宮の女蔵人小大進君(ごだいしんのきみ)
  あるは無く無きは数添ふ世の中に
     あはれいつまであらんとすらん
  とそ』
とあります、なるほどこの歌は(すこぶ)る応答の体を得ていますのみならず、為頼と小大君(こおおぎみ)と懇意であッたことは他の歌でも分っています故、これを疑うのは無理でもありましょうけれど、為頼の右の歌に答えたのは右衛門督公任(うえもんのかみきんとう)でその歌は
  常ならぬ世はうき身こそ悲しけれ
     (その)数にだにいらじと思へば
拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)に出ております、しかし右の公任の外に小大君も返歌を作ッたのかも知れませんから、栄華物語の記事を抹殺は出来ませんけれど、今一つ申したいのはこの『有るは無く無きは数添ふ』の歌が、小大君集にないという一事実であります、この歌は前にもいうごとく後々まで成句となッたほどの名吟ゆえ、真に小大君の歌ならば何故にその集へ入れなんだでしょう、小大君集は小町集とは違い、多分は作者自ら集めたものでありましょう、大部分が整然と調(ととの)うた歌集であります故、外ならぬかかる名歌は逸すべきでない様に思います。
 これだけで判決しますれば、『有るは無く無きは数添ふ』の歌は、新古今の選者定家卿等が認めた如く小町の歌であります、小大君が同じ歌を詠んだとしても、決して小大君の歌が小町の歌の中へ入たものとはいわれません。
 けれど、小町と小大君との歌の(もつ)れはこの歌のみでない、小大君集の末の方と小町集の末の方とが数句重なッて()ぼ同じである、私しが弁明する眼目たる雨乞の歌なども双方の歌集へ出ています故、それで私しは特に(くど)く申さねばならぬのです。
 小大君集と小町集とを比ぶると、小大君集の方は、全く整然と調うている、小町集は乱雑である、(やや)もすれば他人の歌、又は読み人知らずの歌が紛れ込んでおります、これがために、一見する人は一概に小町集を間違いとし、小大君の歌が小町集へ紛れ込んだとする、殊に前の栄華物語の歌もあるために(いよい)よ以てそうに違いないと思い詰める様であります、故に私しの如き、国学上に何等の素養もなかろうと思われている男が、出し抜に、イヤそれは違うアベコベに小町の歌が小大君の集へ紛れ込んだと主張すれば、多くの人は理由も(ただ)さずに私しをお(しか)りなさるでしょうが、幸いに私しは契沖阿奢梨(けいちゅうあじゃり)という(だい)なる国学者を味方に(もっ)ているのであります。
 なるほど小大君集は小町集に比して整然と調うている、けれどその末の方の(みだ)れていることは既に契沖阿奢梨がその随筆『河社(かわやしろ)』の中へ記してあります、殊に、小町集の一部分が小大君集の末の方へ紛れ込んだ事は立派な証拠がある、集の末の方に
  滝の水木のもと近く流れずば
     うたかた花を有りとみましや
という歌がある、これが即ち(うこか)すことの出来ぬ証拠であります、この歌は小町集にも在りますが、決して小大君の歌ではない、又小町の歌でもない、新千載集(しんせんざいしゅう)
  春雨(はるさめ)のふる日、にごれる水に花の散りかゝりたるを見て
という端し書きを以て
  にはたつみ木のもと近く流れずば
     うたかた花を有りと見ましや
とある中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)の歌であります、無論兼輔の集にも在ります。
 もし小大君集が間違いのないものならばこの歌が紛れ入る筈がない、しからばこの歌がどうして小大君集へ入たかといえば、小町集の末が小大君集へ入たればこそ小町集の誤りが、誤りのままで小大君集へ入たことは明かであります、小大君集の末は、何人(なにびと)かが他の書をみて書き集めて加えた事は、『選集に入れる歌』として二首書き加えてあるのでも分る、全体は体裁が調ッているけれど、末の方へかく書き加えた人が間違えたのである、間違えて小町集の或る部分を附け加えたのであります。
 しからばどれだけが小町の歌かといえば、小大君集の末即ち『ひさかた』の長歌より以下であります、この長歌から『宵(よいよい)の』『みるめかる』『千早振る』『滝の水』の四首が、そッくり小町集から入ッたので、小町集の一部が切れてそのまま小大君集へ附着したものと明白に断定を下すことが出来ます。
 イヤそれほど明白でない、未だ証拠が足らぬと(おお)せらるる方もありましょう、左様な方には私しは雨乞の歌—即ち『千早振る』の歌—を以て根こそげの証明と致します、小大君集にはこの歌の端し書に
  だいこの御時(おんとき)ひでりのしければあまごひの歌よむべきせんしありて
とあり、如何にも誠しやかでありますが、これが即ち、末に書き加えた人が、体裁を合すために作為した端し書きであります、俗諺(ことわざ)に『雉子(きじ)も鳴かずば打たれまい』といいますが、もし『だいこの御時』というこの誠しやかな端書さえなくば、こうも明白に間違いが分らぬところですが、この端し書一つですッかり打毀(ぶちこわ)してしまいました『だいこの御時』とは何の事でありましょう、醍醐(だいご)天皇の御時という意味たるは無論であります、なるほど醍醐天皇の御時には度々雨乞がありました、けれどこの小大君は決して醍醐の御代に仕えていた人でない、それは全く時代が違います、もし醍醐の御代の雨乞に関係した人とすれば、栄華物語に出ている頃—即ち長徳(ちょうとく)年中には、最早(もま)や百歳に近かッた筈ですが百歳の老嫗(ろうおう)が女蔵人などを勉めている筈はない、それにこの人の歌集を見ても醍醐の御代よりズッと後の人であることが明白であります、全くこの人は『三条院儲位(ちょい)の時、女蔵人左近』と歌仙伝に出ている通り、一条天皇の御代に仕えていたのです、この人の歌が勅選集に入たのも拾遺和歌集が初めてであッて、東宮(とうぐう)の女蔵人とか春宮(はるのみや)の女蔵人などと記されてあります。
 かくも時代の違いが明白である以上は、醍醐の御代に雨乞の歌を詠んだとの書き入れは全く無根である、雨乞の歌は即ち小野小町の歌であッて、小町の歌集の末の方が千切れて小大君集へ入ッたのを、何人(なんぴと)かがそうと知らずに、且っ深く詮索もせずに、他の歌と釣合いを取ッて端し書を捏造(ねつぞう)したのであります。
 かように明々白々なる証拠がある以上は私しは天下晴れて断言を致します、雨乞の歌は小町の歌である、決して小大君の歌ではない、小大君の歌が小町集へ紛れ入ッた如くいうは全くアベコベで小町の歌が小大君集へ入たのであります、殊に歌争いの根本たる『有るは無く』の歌は、或は小大君も詠んだかも知れぬけれど定家卿等の鑑定の如く、小町の歌であることは確実であります。
 この通り歌争いの裁判が附き、雨乞の歌が小町のであることが明白になれば、私しは安心して、これより話しの(あゆみ)を進めます。

(十一) 寺参りと僧正遍昭
 小町の時代に朝廷に於て雨乞を行わせられた事は度々ありましたが、多くは仏を主とした雨乞でありまして、神を主として(いのっ)たのは承和七年の雨乞がその(おも)なるものであります、故に私は小町の雨乞を承和七年であった事を推定いたします、しかし、愈よ承和七年であったか、或は他の年であったか、(しか)と認むることが出来ぬのは残念であります。
 けれど小町の雨乞の歌は『千早や振る神』に祈ったので、仏に祈ったのでありません、朝廷に於て、仏に祈っている際に、小町が御門の宣旨(せんじ)を受けながら、仏を捨てて神に祈るということは甚だ聞えが悪い様に思いますから、即ち小町の雨乞は、朝廷に於て、主として神に(いの)った年である、承和七年であるというのは必ずしも無理ではなかろうかと思います。
 イヤ雨乞の歌に神仏の区別はないなどという方もありましょうけれど、歌はそう(みだ)りなものでなく、神に祈ると仏に祈る区別ぐらいは必ず立てるものだろうと思います、後の世に至りても、仏に祈った和歌には『八大龍王雨やめたまへ』などという様なのもあり、その他、仏に祈るには、前号に記した『なも薬師あはれみ給へ世の中に』の歌の様に、御仏(みほとけ)の名を呼ぶのなどもありますから、真逆(まさか)に『千早振る神も見まさば立騒ぎ』云々の歌を見れば神に(いのっ)たのではなく、仏に祈ったのかも知れぬとは言難(いいにく)いではありますまいか。
 サテそうとすると承和七年の雨乞はどうであったかというに、雨乞の事は、(おぼろ)げながら歴史などにも見えておりますが、神々に祈りましたけれど、(たい)した功能がなく、唯だ『(いささ)か雨降る』などとあります、即ち少しばかりは雨が降ったけれども、六月から七月まで引続いた(おおい)なる旱魃(かんばつ)を退治することは出来なんだ、それがために朝廷でも種々に苦心の結果遂に小町に祈らせるという事に立至ったではありますまいか、小町に祈らせるということは無論藤原閥族などの反対がある筈であります故、種々の苦心の結果、止むを得ず賛成せられたものと私しは認めたいのであります。
 かくて小町が召出(めしいだ)され、愈よ祭壇に上って歌を詠み、これを神前に奉ったその結果はどうであったか、果して『千早振る神』様が感動し沛然(はいぜん)たる雨を降らしたでありましょうか。
 これも能くは解りませんけれど小町の雨乞ということが、後世までも名高く言伝えられ、特に雨乞小町という異名さえ出来た程の次第であることを考えれば、全く功能の現われたためであると判断するのが当然の様に思われます。
 和歌を以て雨を祈るという事が、小町以前に例のあることか否か私しは能く存じませんが、どうもない様に思われます、けれど小町より以後には度々あります、この点から考えても小町の雨乞が功能があったればこそ和歌の徳は鬼神を感ぜしめ天地を動すに足るなどとの信仰が、破れずに引続き後世に至りても、歌の名人に、雨乞を頼むなどの例が、まま出で(きた)った訳ではありますまいか、種々の点から考えまするに、どうも小町の雨乞は功能のあった事と見るのが、当然らしい、イヤ功能があったというのは今の世では聊か語弊がある様に聞えます、偶然ながら小町の歌を読んだ後で、(あたか)も好し一天(にわ)かに(かき)曇り、盆を覆す如き大雨が、降り出し、大に世の中を喜ばしめたらしいのであります。
 それかあらぬか、昔しから雨乞小町の絵が伝わっているのを見ると、沛然たる豪雨が降り、朝廷の小役人らしい者共が、柄の長い(おおき)な傘を小町の背後(うしろ)から差し掛けている図があります、これは別に証拠という程でありませんけれど、参考までに(もうし)述べて置くのです。
 けれど悲しやこの雨乞の結果とても小町をして朝廷に復帰せしむるには足らなんだ、小町の評判は益す高くなり、御門のお覚えも益す目出度くはなったでありましょうけれど、小町の手柄が(おおい)なれば大なるだけ、又御門のお心が動けば動くだけ、反対運動も愈よ熱度を加える筈でありますから、哀むべし小町は、生涯我が恋人を唯だ夢に見るのみの境遇を免かるることが出来ませんでした。
 これより小町の身の上には益す煩悶とか絶望とかいう如き悲惨な有様に立ち至った事と思われます、一部の小町歌集がこれを証明しているともいう可き程であります、私しは一々証歌は挙げませんけれど小町集の、どの歌も、どの歌も、いと痛切なる悲みを帯びていぬのはなく、後に及びて、紀貫之より『よき女の悩める所あるに似たり』と評せらるるに至ったのも、決して偶然でありますまい、実に小町はその歌の体に於てのみでなく、その人格のそのままに於て、全く『()き女』でありました、そうして全く『悩める所』がありました、その人格が偽らぬ彼女の歌にそのまま現われたのでありましょう。
 雨乞より九年を経て、嘉祥(かしょう)三年というに深草の御門は崩御(ほうぎょ)ましました、この御門の崩御は多くの人に(いた)まれて、中にも、良峯宗貞(よしみねむねさだ)の如きは、髪を()りて僧となりました、これは有名な僧正遍昭(そうじょうへんじょう)となった人で『父母(たらちね)()かれとてしもぬば玉の、我が黒髪を()でずやありけん』という古今の絶唱はこの人が髪を落す時の詠であります、殊に小野小町に至りては、どの様に悲しんだ事でありましょう、小町が、このころ寺参りのみしていた事は、和歌の上に明かな証拠があります、殆ど身を仏門に投じた様な有様でありました。
 遍昭の歌集や大和物語や小町集その他後選集(ごせんしゅう)などにも出ておりまナが、御門の崩御せられた翌年、小町は供を連れて石上寺(いそのかみでら)というに参籠(さんろう)いたしました、この寺は大和国山辺郡(やまとのくにやまべこおり)、大字布留(ふる)というところに在りて良峯寺(りょうほうじ)とも称する由でありますがこの寺に於て、小町が、図らずも右の遍昭を見出したのは、面白い話しであります。
 僧の遍昭は右に記した如く、深草の御門の崩御を悼み奉りて、僧となりましたが、誰にもその由を知らさず、唯だブイと家を出たまま幾日幾月経っても帰り来りませぬ故、(さて)は悲みの余りに身でも投げたであろうか、或は仏門にでも帰したのであろうかと、朝廷は勿論その家族達も痛く心配し、尋ねられるだけ尋ねても更に行方が解りません、(そもそ)もこの人は桓武(かんむ)天皇の孫でありまして今の世ならば皇孫といわる可き筈の身分でありますけれど、当時は人臣(じんしん)に降り、良峯という姓を賜わったのでありました、ところが小野小町が石上寺に参籠していますと、多勢(おおぜい)で経を読んでいる坊主のうちに、何だか聞覚えのある声が聞ゆる様に思いましたから、召連れている供の女にいい付けて見届けに遣りますと、これが良峯宗貞であると分りました、小町と宗貞とは共に後の世から六歌仙といわるる一人であります、兼て多少の知り合でありました、遍昭集の端し書には『たゞにも語らひし仲なれば』とあります、即ち恋などの関係ではなく唯だ言葉を交えて懇意にした人であるから、というのです、多分は小町が朝廷にいた頃以来の歌友達という意味にも取る事が出来ましょう、小町の心には御門を悼む悲みが満ちていますゆえ、同じく御門を悼むこの宗貞と過ぎし御門の御事(おんこと)など語りたいと思い、一首の歌を読みて(つかわ)しました。
  石の上にたびねをすればいと寒し
     (こけ)(ころも)を我れに貸さなん
苔の衣というのは僧の着物という意味でありましょうが、寺の名の石上(いそのかみ)というので殊に引立(ひきたち)ます、石の上に寝るのは寒いから苔の衣を貸してくださいというのです、ところが宗貞の遍昭から返歌が来た、これが又絶妙です。
  世をそむく苔の衣は唯だ一重(ひとえ)
     貸さねばうとしいざ二人(ふたり)寝ん
即ち苔の衣を貸したいけれど、唯だ一枚しかない、貸す事は出来ないが、貸さぬのは余り不人情に当るから、イザニ人で一緒に寝ましょうというのです、実に洒脱(しゃだつ)な坊さんではありませんか。
 或人の解釈には、この土地に尼寺(あまでら)があった、それ故、小町は仏門に帰し尼となる積りで故(わざわざ)大和なるこの土地まで出掛けて行った、即ち小町が『苔の衣を我れに貸さなん』というのは私しをも仏の御弟子(みでし)にして下さいとの意味で、尼になる決心を告げたのである、宗貞の返事は『イザニ人寝ん』といい、戯言(ざれごと)の様に言廻してあるけれど、実は戯言に事寄せ、既に世を捨てたこの身さえも、未だ世心(よごころ)()せずして女を恋しく思うほどであるから、尼になるのは思い(とど)まるが好かろうと、暗に(さと)したものであるともいいます、なるほどその様に解釈の出来ぬ事もありませんけれど、この宗貞、即ち僧正遍昭は、仲々洒脱な歌を読む人で、古今集に在る『名にめでゝ折れるばかりぞ女郎花(おみなえし)、我れ(おち)にきと人に語るな』なども同じ行き方でありますゆえ、多分は平生の諧謔(かいぎゃく)的なユ—モラスな歌人の心が茲にも現われ単に笑談の意で『いざ二人(ふた)り寝ん』というたのでありましょう、深く(あじわ)って見ると、茲にも、(かえづ)て小町の操行の堅固な事が現れているとも見ることが出来ましょう、このとき小町は既に三十五、六歳であります、これまで独身を守り通し、多くの貴公子など悉く(しりぞ)けて、最早や到底、男には(なび)かぬ女と分っていた故、僧の遍昭がかくは戯れたのでありましょう、もしも小町がこの様な女でなく、随分男に靡き兼ねない当時の一般の女流と同一の女であったならば、遍昭のこの歌は、世間からも小町自身からもどの様な誤解を受けるかも知れず、僧の身として一方(ひとかた)ならぬ危険を冒すものといわねばなりません、故にこの歌は一方(いつぽう)に於て、小町とこの人との間が、今まで歌の上で懇意であったことを示すと同時に小町が最早や、恋の相手と()らるる女でないことが、少くとも遍昭の心だけには分っていたものと私しは見たいのであります。
 この返歌を得て、小町は再び召使いを遍昭の許に遣わしますと、この人は何処(どこ)へ立去ったか()う姿が見えませんでした、茲が遍昭の値打のあるところで、後に至り僧正にまで進んだのも当然である様に思われますが、いずれにしても面白い応答であります。
 猶お小町が寺参りばかりしていた事は前に記した阿倍清行(あべきよゆき)との応答でも分ります、阿倍清行は小町より、十余歳年下でありますから、小町に恋歌を寄せたのは深草の御門の崩御より後の事と見るのが当然らしく思われます、この人が小町に逢ったのが下出雲寺(しもいずもじ)という寺でありますゆえ、私しはこれも小町が寺参りばかりしていた一の参考であると思います、小町は天然の美人であるため三十五、六歳に至っても猶お人の心を動すほどの容色が失せなんだのでありましょう、僧の遍昭などは早くから小町と懇意にし、小町が到底他人の恋の相手になる女でない事を(しっ)ていて、却て洒脱なる戯れの歌を読みなどしましたけれど、清行は猶お年も若く、思い()めた自分の心を制することが出来ず、のみならず如何に小町でもこの清行にはなどという心があったと見えます。
 全く小町は寺々を廻りて亡き御門のために冥福(みょうふく)を祈る外に余念はなかった、既に婚期を(むな)しく過した上に、かかる事情となったがために、最早や生涯を独身で送る外はない事となったでしょう、それほどならばむしろ尼になった方が()(そう)にも思われますけれど、小町は尼になるには余りに容貌が美し過ぎました、自分に美人という自覚があって、自分で自分の容貌を惜むがために、尼というほどに世を捨てる心が出なんだではありますまいか、こう申すと大層未練らしくも思われますけれど、男子にさえも自分の容貌を愛惜するがために僧になり得なんだ例もあり、前の良峯宗貞さえも、心を決して仏門に入るに当り、我が髪を撫でて憮然(ぶぜん)として悲む余りに、その心を吐露した歌が古今の絶唱となった程です、殊に婦人に至りては、自ら容貌を愛することが殆ど想像に絶するほど痛切な場合が随分あるだろうと思われます、その上に小町の様な絶世の美人に至りては、自愛の念がどれほど強くともそれを他人が(あやし)んだり(とが)めたりするのは聊か酷ではありますまいか。
 (もつと)も小町が尼とならなんだのには、どの様な仔細があったか、今日から幾ら考えたとて能く分る筈はないのです、多分は種々様々の事情があった事でありましょう、けれど私しは小町を、全く未練のない女であったとは思い得ぬ、未練がなければ女ではない、ヨシヤ容貌に未練があってそれで尼になり得なんだものとしても小町の小町たる価値が減じ様とは思われぬ、それほどの未練がありながら、猶も恋人のために生涯を(ささ)げたとすれば、猶更(なおさ)ら同情すべき様にも思われます、この辺の消息を察するに足るか否やは知りませんけれど、私しは茲に、百人一首の中に在る小町の最も有名な歌を掲げて置きます。
  花の色は移りにけりないたづらに
     我が身よにふるながめせしまに

(十二) 老境と文屋康秀
 小野小町の歌の中で、最も広く知られているのは
  花の色はうつりにけりな(いたず)らに
     我が身よにふるながめせしまに
という一首でありましょう、勿論百人一首に出ているため誰も聞知(ききしっ)ている訳ではありますが、しかし何故にこの歌が百人一首の中に選び込まれたかといえば、多分、傑作でもあり且つ大切な歌であるためであろうと思われます。
 この歌は小野小町が、花の色の()せ行くを見て、自分の姿の衰え行くに比べ、身のはかなさを嘆じたものであります故、小町の美人時代と老境との(さかい)をなしているのであります、最早や美人といわれる年頃ではなく、それかといって、未だ全くの婆さんにもなり果てぬ年頃の述懐であります、さすれば凡そ幾歳位でありましたろう。
 小町は三十六歳ほどの時に、猶お阿倍清行に懸想(けそう)せられました、清行は当時廿四、五で、今でいえば大学の学士ともいう如き最もハイカラな秀才の一人でありました、私しはこの一事でも小町が全く絶世の美人であったことが分ると思います、通常の婦人は三十五、六にもなれば、青年の恋を引く程の容色は存していませぬのに、小町はこのころに猶お秀才の愛を引くほどであったとすれば余ほど若く余ほど美しく見えていたものと思わねばなりません、さすれば、小町自ら我が容色の衰えたに気が附き、花の如き色香も最う失せたと嘆じたのは四十歳頃であったと認定するのが当然ではないでしょうか。
 小町は常に自分の容色を愛し、自分を花に比べていた様に思われます、先に記した『しどけなき()くたれ髪を見せじとて、はた隠れたる今朝の朝顔』という歌でも、自分の美しさが、朝顔の花の美しさより劣りて見ゆるのを恥かしく感じた容子が想像せられますが、又『我れのみや世をうぐひすと()き侘びん、人の心の花とちりなば』の歌でも、自分の身が人からは、花の様に賞美せられるけれど、もしも身を結ばずにこのまま(ちっ)てしまったならば如何に残念な事であろうとの心の底を述べたのであh・ます。
 この歌は小町の花の如き美くしさと、自ら花に比して身嗜(みだしな)みなどを怠らなんだ女らしい心掛けとが分るのみでなく、既に自分が生涯独身で終り相な心配を心の底に醸していた事なども想像せられますが、愈よ『花の色は』の歌に至っては、最早婚期も全く過ぎ、生涯を空しく(ついや)してしまったとの心が充分に察せられます『花の色はうつりにけりな徒らに』という『徒ら』の一語は充分その意味を示しているのです『徒らに』とは『何の実をも結ばずに』という様な意味であります。
 しかしこの歌に由りて猶おこれより以上の事が分ります、それは『ながめせしまに』の一句であります、歌の学者の説くところを聞くと『ながめ』とは花を眺める意味と、長雨(ながあめ)の意味とを兼てあるのだと申しますが、小町論を茲まで読み来った方々はその長雨という意味をば、通例の歌の学者の解釈よりも更に深く、更に痛切に感ずるであろうと思われます、小町は何故に『ながめせしまに』というたのでありましょう、『長雨せしまに』とは何の事でありましょう、他なし、小町の身の上が実に長いく長雨に降り込められていたではありませんか、廿歳(はたち)よりも前に朝廷を退けられ、唯だ彼の君に心を捧げたまま、浮世の邪魔に隔てられて、親しくお目に掛かることは出来ず、僅かに夢のうちに相見るのを、又となき()()として、心を歌に寄せ、叫び通して来たのであります、これが即ち長雨ではありませんか、雨というのは涙であります、長いく廿年の涙の雨に、袖の乾く暇もなき月日を送り、さて、一朝(いつちょう)、心附いて見れば、我身の花の色は、既に褪せて、青春の年頃は最う過ぎている、即ち『我が身よにふる、ながめせしまに』ではありませんか、故に私しは、この『花の色は』の歌を以て、最も痛切に且婉曲(えんきょく)に小町の身の上を語っているものであると申します。
 それにこの歌は、決して、偶然に花の色の褪せるを見て口吟(くちずさ)んだ歌ではなく、深く心を()めて読み出した歌であることが、その句柄に(おのず)から分っています、この歌には、通例ならば耳障りとなる可き『に』の音が四個(よつ)重なっておりますのに、それが少しも耳障りにならず、幾度び読み返しても殆ど気の附かぬほどでありますのは、茲が小町の歌の名人である腕前ではありましょうけれど、種々様々に()りつ磨きつして出来揚ったためであります、決して口吟みに詠み放した歌には、この様な精密なる注意は行き届かず、全く心の底から魂いを籠めたものであります、小町は他の女歌人に類のないほど(或は男の歌人にも類の少いほど)多くの名歌を世に遺した女でありますけれど、その多くの名歌のうちで、特に定家卿がこの歌を取りて百人一首に入れたのは、さすがに定家卿であるとこれにも私しは敬服せざるを得ぬ次第であります、小町の履歴如何(いかん)を知りたい方は先ずこの歌を幾度もお読みなされば、彼の女の二十年の苦節が髣髴(ほうふつ)と思い浮べられます。
 既に小町は美人期より老境に入りました、この歌が彼女の心の一転期であった、けれど小町は仏門に帰しても尼とはならず、世心を捨てても全く世の中を忘れ得る様な性質ではなかった、小町は女としては珍らしいほど意思の強い女で従ってこの世の執着も深かった、故に心の一転期は過ぎても、全く気を取り直して晴々しい心となることは出来なんだ、小町の生涯は全く涙の生涯であります。
  吹きむすぶ風は昔しの秋ながら
     ありしにもあらぬ袖の露かな
雨に就け風に就け、思い出さるるは、昔しその身の若かりし時の事のみである、今の老境の寂寞(せきばく)に比べては、昔し一世の若殿原(わかとのばら)を悩殺したる引手数多(ひくてあまた)であった時の事が心に往来するを禁じ得ぬ、思えば思うに従いて、今の身の淋しさが、ひしくと心に()み、袖の露ならぬはない。
  怪しくも慰め難き心かな
     姥捨山(うばすてやま)の月も見なくに
この歌を聞きて、一点同情の涙を(そそ)がぬ人は殆どなかろうと思います、自分では心を取直して、我れと我が心を慰めようと勉むるけれど、我が心は怪いほど慰め難い、我身は最早世に捨てられる年である。
 けれど小町は、小野家という当時の名門の一に属した比右姫君(ひうひめぎみ)であります、真逆に姥捨山に捨てられるほど、世の中から(すて)られた身ではない、知己もある親戚もある、猶お様々の因縁があってこの世の中と(つなが)っている、即ち『姥捨山の月も見無くに』であります、けれど身を寄せ心を慰むる便りとてはない、良人(おっと)もなければ、子もないのである。
  (あま)のすむ浦こぐ舟の(かじ)をなみ
     世をうみ渡る我れぞ悲しき
茲に至りては、最早や歌として悲哀の絶頂ともいう可きものでありましょう、これより以上に老境の悲哀を言現す道はなかろうと思います、この歌の端しがきには『定まらず、哀れなる身を嘆きて』とあります、『定まらず』というのは、(かつ)て良人を持たざるという意味でありましょう、猶おこの外に『須磨(すま)の浦の浦こぐ舟の舵よりも、寄る辺無き身ぞ悲しかりける』というのもあります、これは多分前の歌の最初の詠方(よみかた)であって、これを(みが)き直して前の歌に仕揚げたものと思われます。
 かような、侘しさの絶頂ともいう可き小町の老境をひどく気の毒に思うた人があります、それは後の世から小町と同じく六歌仙の一人として数えらるる文屋康秀(ぶんやのやすひで)であります、これがために、寂寞なる小町の生涯が、聊かその単調を破らるる事となりました、先ず文屋康秀の身上(みのうえ)から申しましょう。
 文屋康秀は、百人一首で見ると有名な『うべ山風』の歌の詠み主でありますが、その履歴は詳しくは分りません、けれど小町よりは余ほど年下であります、私しの考えでは、兼て歌の同好というために小町と交際のあったのでありましょう、或は自分の読んだ歌を小町に示して批評を(きい)たり、時に由りては添刪(てんさん)も受けたり、何でも小町を斯道(しどう)の先輩として仰いでいた人には相違ないのです、この人は貞観(じょうがん)二年というに刑部中判事(ぎょうぶちゅうはんじ)に任ぜられ、その後三河掾(みかわのじょう)に任ぜられました。
 古今集を読んだ方は、皆御存じの筈でありますが、この人が三河掾となりて赴任する時に、田舎見物に行きませんかと、小町を誘いました、古今集の歌の端しがきに左の如く出ております。
  文屋康秀が三河掾となりて、あがたみに()いで立たゝじやと云ひやれりける返しによめる
『あがたみ』とは今の言葉でいうと『田舎見物』いう事であります、即ち康秀は自分が三河へ行くに付き、小町へ、私しと御一緒に田舎見物にお(いで)にはなりませんかと誘うたのであります、小町は歌を(よん)でこれに返事しました、それは有名な誘う水の(えい)であります。
  わびぬれば身を浮き草の根を絶えて
     誘ふ水あらばいなんとそ思ふ
『最うこの世に何の楽みもなくなりましたから、一切の執着を捨てて、お誘い下さるがままに、何処へでも行きたいと思います』先ずこういった様な意味でありましょう、何にしても非常に口調の好い歌でありますから、後の世に至るまでこの歌は様々の場合に引用せられ、殊に若い男女の恋の応答を記述するには(しばし)ば利用せられるのであります、それがためにこの歌をも恋歌である様に思う人もあるやうに見受けられます(勿論古今集には恋歌の部へは入れてない)けれど康秀が誘うたのは決して恋の意味でなく、小町が答えたのも恋の意味でないことは無論であります、どうしてそうハッキリ分るかといえば、
 康秀は元慶(げんけい)元年に山城大掾(やましろたいじょう)に任ぜられております、三河の掾に任ぜられたのは、その前でありますから貞観年中の末ころである訳でありますが、そうすればこの歌を読んだとき小町はかれこれ六十歳に近いのです、如何に年代を繰上げて見ても、康秀が刑部中判事に任ぜられた年よりは後でありますから小町が五十歳以上であります、五十歳以上、或いは六十歳以上であって見れば最う恋の問題は消滅しております。
 又、三河掾に任ぜらるる年頃でありますゆえ康秀も最早や女房(にょうぼう)(或は子も)があったものと見るが当然でありましょう、掾といえば今で比べて見ると地方書記官の様な職務でありますが、地方書記官として赴任する人が、自分には女房もあるのに、六十の婆さんに恋をして、一緒に道行(みちゆき)をしましょうなどと勧める筈はありません、全く小町婆さんの老境の寂寞を気の毒に思うがため田舎見物を勧めたに止まるのであります『誘う水あらば往なんとそ思ふ』という歌の句は甚だ優美でありますけれど、恋でない事は明白であります。
 かく答えて小町が果して一緒に旅行したか否古今集打聞(こきんしゅううちきき)には、かく答えたけれど、実際行きはせなんだであろうという様に(かい)てあったかと記憶いたしますが、多くの学者は行った事と合点する様であります、私しも無論(いっ)たであろうと思います『往なんとそ思ふ』というただけでその実は行かなんだと打消す様な根拠は何処にも見当りません。
 さて三河へ行って、それからどうしたか、この以後の事は能く分りませんので、昔しから小町の事を書いた人の中には、三河の国から小町は段々に漂零(ひょうれい)して遂に奥州(おうしゅう)まで行き八十島というところの(ほとり)で、野倒死(のたれじに)をしたのであると、この様に申します、これは甚だ有名な話しとなっております、そうして小町が遂に野晒(のざら)しの白骨となってしまったという伝説もこれから出ているのであります。
 私しは、無論、この点をも調べねばなりませんが、この伝説の出所は、(ごく)(もと)は分りませんけれど、今日に伝わっているだけのところでは、大江匡房(おおえまさふさ)の著した『江家次第(ごうけしだい)』という書などが参考せらるべきであります、この書は故実家(こじつか)などが虎の巻の様に大事にする書でありまして、確実な点が多いのでありますが、小町の伝説だけは確実でなく全く間違っているのであります、先ずその話しの本体を掲げて置きましょう、それは、在原業平(ありわらなりひら)が、二条の(きさき)を盗み出して捕えられたとき、髪の(もとどり)(きら)れた故、髪の毛の延びるまでと思い東国(とうごく)へ旅行した、そのとき八十島というところで、一泊したのに、夜風に(そよ)枯尾花(かれおばな)の音が『秋風の吹く度ごとにあなめく』と響く様に聞えた、翌日そのところを尋ねて見ると、白い野晒しの髑髏(されこうべ)が転がっていた、その髑髏の目の穴から(すすき)()え出で、風の吹くたび音がするのであった、業平は土地の人に尋ねて見ると、これは小野小町の髑髏である、小町が茲まで漂浪(さまよ)うて来て、野倒死をしたのであると答えた故、業平は哀れな事に思い『おのと云はず薄()ひけり』との下の句を附け、その髑髏を清いところへ形附けさせた、とこういうのであります、それで
  秋風のふくたび(ごと)にあなめく
     おのとは云はず薄生ひけり
という歌が種々の書に引用されてあります、これが果して事実でありましょうか。

(十三) 枯尾花の下の白骨
 何しろ小野小町が、名高い女であるだけに、様々の作り話がそれからそれと伝って、却て真の事実を分らぬ様に埋めてしまったという形であります、故に私しは先ず作り話のうち、弁明せねばならぬと思わるる分だけを弁明し、その上で小町の真の末路を(のべ)る事と致します。
 小町が枯尾花の中に行倒れており、その髑髏の目の穴から薄が出ていたというのは如何にも面白い話しであります、これは『江家次第』の外、色々の書に出ていますが、鴨長明(ちょうめい)無明抄(むみょうしょう)に出ているのが、最も要を得ている様に思いますから、その全文をお目に掛けます。
 或人(いわ)く、業平朝臣(あそん)、二条の后のいまだ常人(ただびと)にておはしける時、(ぬす)み取りて行きけるを、(しゅうと)たちに取り返されたる由いへり、()の事又日本記にあり、事の様は、彼の物語りに()へる如くなるにとりて奪ひ返しける時、舅たち(その)憤り止み難くて、業平の髻を切りてけり、されど誰が(ため)にも好からぬ事なれば人もしらず、心ひとつにのみ思ひて過ぎけるに、業平朝臣、髪を(のば)さんとて、(こも)り居たりけるほどに、歌枕ども見んとて、(あずま)の方へ行きけり、陸奥(みちのく)に至りて、八十島と云ふ所に宿りたりける夜、野中に歌の上の句を詠ずる声あり、
 秋風の吹くにつけてもあな目/\と云ふ、怪く覚えて、声を尋ねつゝ(これ)を求むるに、更に人なし、たゞ死人の(こうぺ)一つあり、あくる朝これを見るに、かの髑髏の目の穴より、薄一本(ひともと)生ひ出たりける、風に(なび)く音の()く聞えければ、怪しくて、あたりの人に此事を問ふ、ある人これを語る、小野小町此国にくだりて、此の所に来て命終りぬ、即ち彼の首()れなり、と云ふ、こゝに業平、哀れ悲しく覚えければ、涙を押へて下の句を、
 をのとは云はず薄生ひたり
 とそつけ玉る、その野をば、玉造(たまつくり)の小町と云ひけるとそ(はべ)る、玉造の小町の小野小町
 と同じ人か、あらぬ者か、と人々覚束(おぼつか)なき事を申して、あらそひ侍りしとき、人のかたり侍りしなり(この文中の漢字は多く私しが()めました)
玉造というのは奥州の郡の名で、今でも地理書には出ています故、皆様御存じの筈であります、八十島というのは、今いう『松島』でありましょう、『あな目/\』というのは、『アレ目が痛みます』と人に苦痛を訴うる様な意味で、源氏物語に、腹の痛いのを『あな腹/\』とあるのと同じ事で、昔しの言葉であろうと思われます。
 実に哀れな美くしい話しであります故、私しは、幾分たりとも、この話しのうちに、真の事実が含まれているものとして保存したいと存じますけれど、残念ながら真赤な(うそ)—イヤ真逆に、嘘に色などはありませんけれど、美くしく彩色した嘘で、毛ほどの事実をも含んでいぬのであります、何と、昔の人が遠慮会釈もなく嘘を作って平気で言伝えたのは(あき)れたものではありませんか。
 でも大江匡房卿の『江家次第』に出ているから、満更の嘘ではなく幾分か事実があるだろうという人もありましょうが、幾ら『江家次第』に出ていようとも嘘は嘘です、彼の書が昔し写本で伝っていた時代に、誰れかが当時の物語類に在った話しを書き入れたのでありましょう、一読する人には、なるほどこの条だけは後人の書き入れであると首肯(うなず)かれます、私しは帝国図書館に在る本をも見た事もありますが、その本は誰れか学者がところどころに朱註(しゅちゅう)を施したものであって、この小町の話しのところには、やはり朱で以て、後人の書き入れであろうと記してあります、即ちこの(くだり)を書き入れと見るのは私しのみの意見でなく、誰も同意するところであることが分ります。
 それに第一、薄の風に戦ぐ音が歌の上の句の様に聞えたなどという事が、今日の人には信ぜられる筈もなく、全く仏教の迷信などの(さかん)であった頃の作話(つくりばなし)たるは、いわずともであります、第二に業平の附けたという下の句が、余り拙過(まずすぎ)るではありませんか、多分は『をのとは云はず』という句へ『己れとは名乗らず』即ち『私しは小町であるとは名乗らずに』という意味を兼ね合せた積りでありましょうが『をの』即ち小野と『おの』即ち己れとの仮名違いは差支えがないとしても、業平ともいわれる歌人が、この様な句を附ける筈はありません、(ついで)ながら一言致します、或る書には、この歌が小町歌集に出ているとありますが、それは誰れかがこの歌を小町歌集へ書き加えたのでありましょう、但し、今の世に伝っている群書類聚本にはこの歌がありません、これに(よっ)て考えて見ると、今の小町集は、その以前の小町集がバラくに散逸してその一部分を(もち)伝えていた人が、色々の書から小町の詠と思う歌を抜書して我儘(わがまま)に書き入れて補うたものと思われます。
 第三に小町と業平とは同じ時代の人で、業平の方が小町よりもズッと前に(しん)だのでありますから、業平が小町の骨を拾う筈はありません、もしも業平の髑髏を小町が拾ったとでもいうならば、モッと誠しやかに聞えましょうに、惜しい事であります。
 イヤこの業平と小町との前後の違いに、更に合点の行く事がありますよ、即ちこの伝説が、やはり例の『玉造小町壮衰書(たまつくりこまちそうすいしょ)』に誤たれたという一事であります、『壮衰書』が弘法大師(こうぼうだいし)御作(ぎょさく)であるといわれるがために、それを()に受けた人が、扨は小町は弘法大師の頃の人である、それでは業平より余ほど前であるとこう(のみ)圦んで、小町の骨を業平に拾わせたものであると思われます。
 第四には、それのみならず、小町の死場所を玉造という土地へ(もっ)(いっ)たのも、同じく壮衰書の玉造小町という名から思い附いたのであります、玉造小町とは、既に私しが明々白々に証明した如く、小町が深草の御門を慕い奉るために詠んだ名歌から出た綽名(あだな)であって、必ずしも土地に関係す可きでないのでありますのに、そうと気の附かぬ人達はとかくに、この地名へ重きを置き、或る書などには、大阪の玉造である様に記してあります、大阪の玉造でも奥州の玉造でも、何方(どつち)でも構わぬ、『玉造という土地から出た小町』ではなくして『玉造江の歌を詠んだ小町』が即ち玉造小町であります故、この点でもこの話しが『玉造小町壮衰書』に(もとづ)いていることが分ります、小町は決して奥州の玉造で死んだのではありません。
 実に『壮衰書』は小町の事を記した最も古い書であるだけ、小町の事に関し後世を誤らしめた事が一通りでありません、私しは茲に、聊か寄り道ながら、この書の事を一応述べて置く必要があります、この書は誰れの作であるか、分りませぬけれど、全く小町の身上へ、仏教の因果説(いんがせつ)を附会したもので、多分は漢文の心得のある坊主が作ったものだろうと考えます、小町は若い時は御門に恋せられるほどの全盛であったのに遂に独身(ひとりみ)の儘に終り、殊に老境が甚だ寂寞であったために、聞く人は誰れでも哀れを催します、この哀れな履歴が、最も仏教の『盛なる者は必ず衰う』という教理を例証するに適当であります故、多分は小町の死後百年内外を(たっ)た頃に、お寺の坊主が、これ幸いと小町の身の上を材料に採用したのでありましょう、多分その頃は、小町が若いころ皇后にもなり兼まじき有様であった事、多くの貴公子から思い初めらるるのを一々断わった事、即ち非常な全盛を極めたのに、終に独身のまま哀れ果敢(はか)なく世を終ったという事などが、人の記憶や言伝えに残り、その外の細かい事は大抵忘れられていましたので、坊さんがそれへ尾鰭(おひれ)を附け、仏教に都合の好い様に、あらぬ事まで作り足して一つの話しに(まと)めたのでありましょう、お寺の坊主が、如何に遠慮なく、得手勝手な作り話しを(こしら)えたかという事は、様々の例がありますので、例之(たとえ)ばこの時代よりズッと後ではありますけれど比叡山の坊主が後醍醐(ごだいこ)天皇の朝廷へ奉った『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』という立派な歴史にさえ、清姫(きよひめ)という美人が(じゃ)になって安鎮(あんちん)という坊主を追掛けたなどいう(とん)でもない作り話しが出ている程です。
 この辺から考えると、彼の『壮衰書』は坊さんの説教などにも無論、度々引用せられ段々と有難味が加わり、終には弘法大師の御作であるとまでいわれたので徒然(ぐさ)にさえ、この書が弘法大師の著書の目録中に在る由を記してある程です、しかし実はその目録の中にはない由であります、その筈です、全く弘法大師の作ではないのですもの、やはり時代が食違いますもの、けれど弘法大師の作とまでいわれるに(いたっ)ては、迷信の深いその頃の時代にこの書を尊敬する人が多くして、大抵の小町の伝説がこの書から出たのは怪むに足りません。
 第五に申したいのは、業平が小町の髑髏を拾ったとしては、右の如く時代が食違うために、そうと気の附た学者が、イヤ小町の骨を拾ったのは業平朝臣ではなく藤原の実方(さねかた)朝臣であろうといい初めた説であります、この説は誰のいい初めた事であるか分りませぬが、古いところでは南朝の忠臣源親房卿(みなもとのちかふさ)の古今集序註に見えます、けれど猶おその以前に出所のある可きは勿論でありますが、今日では詮索が届きません。
 なるほど藤原の実方朝臣とすれば、時代の食違いはなくなります、序ながら茲に実方朝臣の事を申して置きます、この人は有名な清少納言(せいしょうなごん)という才媛と慇懃(いんぎん)を通じていた方で、暫らく用事に紛れて、心ならずも遠ざかっているうちに、宮中で一寸(ちょつと)清少納言に逢いました、そのとき清少納言が『お忘れなさるなよ』と、細語(ささや)きました、その折には(そば)に人もおり、返事する暇もなかったので、そのまま分れましたが、家へ帰って後に、()の歌を清少納言の許へ遣わしました。
  忘れずよ又変らずよゝ屋の
     したゝく煙り下むせびつゝ
これに対して清少納言の返歌(かえしうた)は、
  (しず)()の下焚く煙りつれなくて
     絶えざりけるも何によりそも
かような話しなども伝っているのでありますが、多くの点が業平によく似ていまして、艶聞(えんぶん)なども甚だ多く、又歌人としても仲々位置の高い人であります。
 殊にこの人も業平と同じく東下(あずまくだ)りをした人であります、大日本史に由ると、一条帝の時宮中で人と争い、陸奥(むつ)(かみ)(おと)されました、これは(みかど)がこの人の才を愛し給うたためで、(なんぢ)は暫く旅行をして歌の材料でも尋ねて来るが好いとの、風流なお慈悲で以て、陸奥の国へ遣わされたのであります、それから陸奥の国にいるうちに、笠島(かさじま)というところを通行すると草の茂った中に小さな(やしろ)がありました故、何の神を祭ってあるかと土地の人に問いましたところ、これは京都なる出雲道路祖神(いずもどうろそじん)(むすめ)が罪を父に得て茲に捨てられた遺跡であるが、霊験が著顕(いやちこ)である故、馬から下りてお通りなさるが宜しいでしょうと答えました、実方朝臣は、ナアニその様な(いや)しい(やしろ)などは、馬から(おり)るに及ばぬといい、そのまま前を通り過ると(たちま)ち馬が(しん)で、自分も間もなく死んだのであります。
 この事などが何となく小町の髑髏を見出した話しと似通います故、(かたが)た以て業平を実方に作り直すのに甚だ巧妙でありますのみならず、実方は加茂(かも)橋本(はしもと)に祭られ、業平は巌本(いわもと)に祭られ、共に後世から歌の神様の様に(あが)められ歌を詠む人が多くお参りをすると聞及びますが、実をいうとこの実方の死んだのは、任期が満ちて奥州から帰る途中であって、その場所は相州(そうしゅう)鎌倉の附近であります、そのところは今でも実方村といい、実方に附ていた家来達がそのところへ社を作り、土着して今でも実方という姓を名乗(なのっ)ている由にこの頃の詮索家が申します。
 それでは小町の髑髏を見出したのは全くその実方であろうといえばいわれる様ですが、如何(いかん)せん『江家次第』を初めその他の書に、明かに業平でありますから、後の人が業平では時代が合わぬと気附いて、実方に(かえ)たのに相違はないのです。
 第六には、この髑髏の目から薄の出ていた話しは、実は支那の話しを焼直したもので、日本に在った事ではないのです、これは岡本保孝(おかもとやすたか)という人の難波江(なにわえ)という随筆で見ましたが、谷川士清(たにがわしせい)の説に、列子(れつし)の従者が百歳の髑髏を見て、(よもぎ)を掲げて指す云々の話しと述異記(じゅついき)にある陳留周(ちんりゅうしゅう)()の話しとを取り()ぜたものである由です、こう作り話しの種本まで分って見ればこの上を弁ずる必要がありません故、次の伝説へ移ります。
 今より百十一、二年前、即ち享保(きょうほ)の頃に、『小野小町一代記』という本が出ました、これは私しの書生の頃は、貸本屋にもありました故、御記憶の方が沢山あろうと思いますが、この本も玉造小町を本としたもので、即ち玉造小町が小野良実(よしざね)の妻の腹を借りてこの世に生れ変って来たのが小野小町であると、実に面白く説いてあります、昨年国学院の雑誌にも、この書の梗概(こうがい)が出ていました、これも弁じて置きますが、この書も全く作り話しで、全篇の趣向が巧妙なる牽弾階禦を以て組立ててあります、殊に炉黌しいのは、小町集に紛れ込んでいる他人の歌を、他人の歌とは知らずに、小町の歌として喋(ちょうちょう)と事実を附加したところなどもあり、又小町の姉の名を『(ちょう)』としてあります、これなどは人を馬鹿にするにも程があるというものです、なるほど『寵』という女の歌人はありましたが、これは大納言(さだめ)の孫で、小町には何の関係もない人です、何故、これを小町の姉にしたかといえば、古今集に『思ひたちぬる艸枕(くさまくら)なり』という歌が出でいる、これはこの人が常陸国(ひたちのくに)旅出(たびたち)する時の歌でありまして、これを小町の姉とすれば話しの都合が好いためであります。
 この書に小町の歌として『面影のかはらで年の積れかし、たとへ命に限りあるとも』というのが出ております、これは他の書に小町の辞世であるなどと出ているのを見受けましたが、辞世ではありますまい、のみならず真に小町の歌であるかないかさえ分りません、この歌と、先に記した『まかなくに何を種とて浮草の浪のうねうね生ひ茂るらん』との歌は、古書に見当らぬ由を誰れかの随筆で見受けましたが、なるほど勅選集や小町集などには在りません、或は前に申した今の小町集よりも前の小町集には在ったかも知れまいと思います、尤も『まかなくに』の歌は謡曲にも見えます、又有名な歌学者金子元臣(かねこもとおみ)氏は『まかなくに』の歌を、小町の歌であると断言してあります、如何にも歌の調(ちょう)が全くの小町式であります。
 小町が果して奥州の八十島で(しん)だものでないとすれば何所(どこ)で死だのでしょう、文屋の康秀に誘われ、三河の国へ田舎見物に行ってから、それから何処(どこ)へ行ったのでしょう、これは仲々(むず)かしい問題であります、私しも答式が出来るか出来ぬか甚だ覚束(おばつか)なく存じます。

(十四) 種々の伝説に就て
 小町は三河国から何所へ行ったであろう何処でどの様にして果てたであろう、愈よこれを申上(もうしあ)ぐる段には立到りましたが、申上ぐる前に、未だ少々弁じて置くべき伝説があります。
 勿論(もちろん)小町に関する伝説は、どれほど沢山あるかも知れません、殆ど小町は伝説のうちに埋っているともいう可き程であります故、もし一々弁じたならば、その弁解のみで一冊の本が出来るかも知れません、私しは唯だ、その中で、これだけは弁ずるのが当然であると思う分のみを弁ずるに止めて置きます、その一は
  小町が良人(おっと)を持ちしとの説
であります、これは例の壮衰書に出ておりますが、余り馬鹿げていて殆どお話しになりません、その説に由ると小町は零落して(つい)猟人(かりうど)の妻となった、この猟人には既に本妻があって小町はその(めかけ)たるに過ぎなんだが、一子を産んで、夫にも()きられ本妻にも(いじ)められ到頭乞食になってしまった、というのです、これは詩の中に詠み込んでありまして、文章とは違い、意味ははっきり致しません、それに前後矛盾したところも沢山あり、果して右の如く断定してあるとも言難(いいにく)い様ですけれど、先ず右の意味と合点する外はない様です、これが(すなわ)ち当時の仏家が遠慮会釈なく、仏教に都合の好い事柄を出鱈目(でたらめ)捏造(ねつぞう)した一つの実例であります、もしこれを信ずれば人間が嫉妬のために蛇になるという様な事でもやはり信ぜねばならぬという破滅(はめ)になります、勿論弁ずるには足らぬほどでありますけれど、これが後々他の伝説を産出(うみだ)す元となっています故、かくは記して置く事と致しました。
 次は親房(ちかふさ)卿古今集序註に小町が大江惟章(おおえのこれあき)というものの妻になったけれど惟章が藤原朝行(ふりわらともゆき)(むご)とならんがために小町を捨てたという事が出ています、大江の惟章とはどの様な人であるか、大江家系譜(けいず)にもなく、その伝も分りませぬけれど、全く架空の人ではないと見えて、或る書に姓名の出ているのを見た事があります、けれど親房卿の頃に、最早や小町の事柄が少しも分らなんだことは、親房卿自らの言葉に能く分っています故何の重みもない伝説であります、多分は小町の死後に出来た物語類のうちから出たものであろうと思われます、物語類は多く仮作の小説でありまして、(とん)でもないことを面白く綴ったのであります故、人を()うることや誤る事が甚だ多いのであります、素より取るに足らぬ説であります。
 又伊勢物語の註釈書の中には、前記の壮衰書の捏造記事を種として様々の事を記したのもありますが、それ等は一顧の値打さえもないというのが当然でありましょう、伊勢物語の(ついで)
  小町と業平の交際
を一言いたしましょう、やはり伊勢物語の註釈の中には伊勢物語に出ている無名の女を、これは小町であると、誠しやかに説いたのが段々あります、なるほど小町と業平は同時代の人であり、歌人であり、知り合ではあっただろうと思われますけれど、歌の上に小町と業平と贈答(やりとり)したのは一つも伝っていぬのです、しかるに伊勢物語には、業平の『秋の野に』の歌と小町の『みるめなき』の歌とを両人の贈答である如く記してありますが、これなどは全たく浅薄なる捏造であって、種が見え(すい)ているのです、この二首の歌は古今集に(ならん)で出ていますため、(さて)は業平と小町との贈答の歌であろうと早合点し、それを取って伊勢物語りの材料にしたのであります、贈答の歌でない事は前に既に弁じて置きました、序ながら伊勢物語と古今集と何方(どつち)が先に出来たかという事は色々説もある様ですが、賀茂真淵(かもまぶち)翁が、古今集を先で伊勢物語は古今集その他から(とっ)たのであると詳説してあるのは動かし難い断定であると思います、古今集の歌の端し書きに伊勢物語の文句を取たかと見ゆる条々があるのは、後の人が伊勢物語を見て、古今集へ書入れた、それが今日の古今集に伝わっているのだというが正しいでしょう、尤も伊勢物語の一部分は実際業平の筆であって古今集より先に出来たものかも知れませんが、それにしても右の歌などは全く古今集から取ったのであります、又古今集に小町の歌とある『おきにゐて』の詠も伊勢物語に出ていますが、これも後人が伊勢物語へ入れたのである事は弁ずる迄もありません、甚だしきに至ると小町を業平の情婦であった如くいうさえありますが、実に()しからぬことをいうものです、小町と業平とは知り合であったとは想像せられても、伊勢物語は小町の事に就ては何事をも証明していぬのです、これが当然の断案であります、その他今日まで伝っている書類で小町と業平がどの様に(まじわ)ったかと考うべき材料は私の見た範囲には一個(ひとつ)もありません。
  小町のうまごという事
 小町に孫があるという説は仲々有力な材料があります、それは前にも一寸(ちょつと)記しました通り、後選集に『小まちのうまご』として『うき事をしのぶる』の歌が出ている事であります、孫があるならば小町は正式に誰にか嫁したに違いないという断定が下ります。
 けれど私しは弁じます、第一、後選集は古今集より余ほど杜撰(ずさん)であることは、今更事新らしくいう迄もなく、多くの学者がいうてあるところであります、古今集にさえ、証拠とし難き誤りがありますのに、()して後選集であっては証拠というに足りません、第二、うまごというはなるほど今の言葉で孫というに当りますが、或は誤写でないとも限らぬ、古今集より後選集の頃は、『ま』の(おん)を多く『勿』と書きました事が、今日に伝わっている種々の書類で分ります、『あ』の字は『≧』の字と間違います、或は小町の歌の流れを汲む者が小町の『う≧ご』と称したかも分らぬ、第三、小町の孫という事は後選集の外にどの(ほん)にも見えぬ、もしあれほどの名歌を読む女ならば、随分数多く今日まで残っている歌の(ほん)の中に、せめては今一首ぐらいは伝わっているとか『小町の孫』という文字だけも見え相なものであります、それがないのは即ち後選集の過ちであることと知る可きでないでしょうか、第四、小町の様な名高い女ですから、自ら小町の孫であると称する女があったかも知れません、小町の死後七百年を経た豊臣秀吉(とよとみひでよし)の頃にさえ、有名なる小野お(つう)の如く小町の後裔(こうえい)だと称した女があったではありませんか、かように幾通りにも、考えられる道があります故、後選集に小町の『うまご』という名の見えるのは、証拠というに足りませぬ、私しは右の歌が小町集に小町の歌として出ているのを正しいと存じます、第五、或は後選集が例の物語類から右の歌を取たかも知れませんが、そうとすれば『小町のうまご』さえも物語作者が捏造したので、愈よ以て証拠ではないのであります。
 私しは何故にこの点をかく強くいうかというに、小町が生涯を独身で暮した事は、既に私しが数々の歌や数々の事情に由りて説示した如く、殆ど疑う余地がありません、小町のどの歌を見ても、小町が独身に終った事を示さぬのはないともいう可き程であります、小町にはホトがない即ち生殖機能がないと今の世まで口碑に伝っているのも、決して偶然ではなく、全く小町が、如何なる男にも身を許さなんだためであります、即ち良人も持たず、従って子や孫のあるはずのない事が、充分に証明せられているのであります。
  小町の容貌(ようぼう)
 今の世から如何に考えたとて分らぬのは小町の顔が長かったか円かったかという一事であります、小町を描いた()の類はない訳ではありませんが、小町を見て実物に似せて(かい)たのは伝わっていぬのです、又小町の像という彫刻物もありますが、これは仏説に由り、小町が卒都婆(そとば)へ腰を掛けているので(集古(しゅうこ)十種にも出ている)無論想像の産物であります、故に小町の顔の長短を争うのは全く無意味であると私しは思いますが、一応弁じて置きたいのは、小町を今の世でいう美人とは違っているという説—想像説であります。
 その説に由ると、今より千年前はふっくりと肥えた丸い顔が福徳円満の相として賞美せられた、故に小町は丸顔であっただろう、といいます、なるほどそうかも知れません、これだけならば私しも(あえ)てかれこれは申しませんが、(なお)進んで、小町が自分の顔を鏡に写して書いた絵が昔あったとさ、その画を見て作った地蔵様がありましたとさ、その地蔵様を見て書いたと称する画が今日に伝わっておりまして、それは画工でない唯の随筆家がザッと写したものである、この様に鏡から小町の筆に写り、小町の筆から地蔵様の像と変じ像から更に画に移るなど、幾度も転々したものが、実物に似ているといわれましょうか、写真でさえも写真師の仕揚げ一つで当人に似たり似なんだりするではありませんか。
 ところがこの絵で見ると小町の顔は下膨(しもぶく)れである、即ちお亀の面の様な顔で、その時代では美人として人を恍惚(こうこつ)とさせたけれど、今の世へ(もっ)て来れば醜婦である、とこういう人もあるのです。
 私しは小町に代って名誉回復を訴えたいと思います、なるほど、千年前の昔と今とは円い顔を賞美するとか、長い顔を賞美するとかいう区別はあるかも知れませんが、醜き顔と美くしき顔との差別は、決して昔と今とで変るものではありません、美醜と長短とは全く別でありまして、長い顔にも美人もあれば醜婦もある、円い顔にも美人もあり醜婦もある、如何に昔し円い顔が賞美されたとしても、円い顔が皆美人であったとは限らず、円い顔の中に醜婦もあった、又長い顔の中に美人もあったではありますまいか。
 こうなると少々()かましい議論になって参りますけれど、止むを得ません、美しいというには、流行(はや)り廃りもありましょうけれど、大体に於て動かす可からざる標準があります、その標準に(かな)っていれば、昔しでも今でも美しいのです、その標準に叶わぬならば、円顔でも長顔でも醜いのです。
 小町はあれほど美人といわれたところを見るとその標準に叶っていたには相違ありません、その標準に叶っていたならば、今の世へ持て来たとて美人であります、小町は世に類のないほどその標準に叶っていました、それ故に絶世の美人であります、であります、西洋には希臘時代の彫像などもありますが、その頃の美人は今でもやはり美人で、決して昔しは美人と見たけれど今の人の目には醜婦と映ずるなどという事はないのです。
 ではその美しい標準とはどんなものかといえば、余り(むず)かしい議論で、(ここ)では説明が出来ません故、私しは最も分り(やす)かろうと思われる学者の説を御参考までに引用いたします、筆で短い直線を(ひい)て、それを人の顔の様に組合わせても、その組み合せ方に由り、醜く見ゆるのと美くしく見ゆるとの区別が生ずる(たと)えば
 甲の如く配置すれば美くしい、乙の如く組合せば醜い、これは決して、甲の方は美くしい顔に似せたために美くしいというのでなく、又乙の方は醜い顔に似せたから醜いという訳でない、甲の様な線と線との関係が美しいのである故、これに似た顔が美くしい、乙の方の配置は美の標準を外れている故、これに似た顔が醜いのである、
 と美学の大家が説いてあります、美なる形というものは、動かす可からざる標準がありまして、その標準に合わぬ以上は、昔しへ持て行こうが今へ持て来ようが()た未来の人に見せ様が決して美くしくないのであります、小町の如く、一代の美人といわれる女は、それだけ標準に合っている故、どの時代へ持て行って示したとて、美くしくなくてはならぬ筈であります、決して今の世ならば醜婦だなどという訳はないのです。
 全く小町は珍らしいほど、好く美の標準に合った女で、稀代(きたい)の美人といわれたほど故、千年万年、いずれの時代へ持て行こうともやはり絶世の美人であります、これで小町の容貌に関する冤罪(えんざい)は解けたことと思います。

(十五) 千古の淑媛
 小町の終焉(みのおわり)(のぶ)る前に、今一言附加(ひとことつけくわ)えて置きたい事があります、それは例の『玉造江』の歌が新勅選集には左の如く出ております。
  湊入(みなといり)の玉造江に漕ぐ舟の
    ()にこそ立てね君を恋ふれど
この歌を、私しの引用した
  陸奥(みちのく)の玉造江に漕ぐ舟の
    帆にこそ出でね君を恋ふれど
に比べますと、無論同一の歌ではありますけれど上の句に於て陸奥と湊入の相異があり、下の句に於て『音にこそ立てね』と『ほにごさ出でね』の相異があります、多分は何方(どちら)かが最初で一方は本人か誰れかに修正されたものと思われますが下の句の相異は別にかれこれいう程の事でありますまい、唯だ上の句の『湊入』と『陸奥』は幾分か事柄が違う様に思われます、学者の説に由ると湊入というのは摂津(せつつ)即ち難波津(なにわづ)であると申します、小町が京都にいたところから考えると、彼の歌を読むときに、遠い陸奥よりも近い難波津の方が小町の心に浮び出たかも知れません、その辺の事は全く水掛論にしかなりませんけれど、小野小町を玉造小町と綽名するのは、玉造という土地に関係があるためではなく、玉造江という歌を(よん)だがためであるとの私しの説が、(ますま)す動かし難くなる様に思われます、玉造小町というがために、陸奥の玉造郷が死だとの伝説に幾分の根拠があろうなどと思うのは誤りといわねばなりません。
 しからば小町は何所で死んだでしょう、小町は三河へ旅行しましたけれど、単に見物のための旅行即ち『あがたみ』の旅行でありました故、一通り見物すれば京都へ帰って来るのが普通ではありますまいか、田舎見物に行て、それ切り帰ることを忘れてしまったとは、特別の証拠がない以上は認むることが出来ません。
 京都の附近には、今でも『小野』と名の附く土地が沢山あります、これはいずれも小町の同姓が(すん)でいたところで、当時小野家は沢山ありました故、小町はそのうちの何所かにいたことと思われますが、郵織の小野には醍醐天皇の蠶のある臨鬣というのがあります、随心院には小町の住でいた宅の跡だというのがあった由であります、何しろ、独身の淋しい生活で、且は身軽でもありましょう故、彼方此方(あちらこちら)と親戚などを頼っていたかも知れません、そうすると小町が老後に住んだ場所は必ずしも一ケ所ではないと思われます。
 ではありますが、小町の最後に棲でいたのは綴喜郡(つづきこおり)井手(いで)村であろうと思われます、これは塩尻(しおじり)にある冷泉家記(れいぜいけき)(前に出づ)に拠りそう認むるのであります、この井出村というは、小野系と同じく敏達(びだつ)天皇から出た橘左大臣諸兄(たちばなさだいじんもろえ)の屋敷があったところで、歌人(うたびと)が山吹の名所とし、井手の玉川などと詠むのもこの附近であります、この辺には小町に関する伝説が沢山残っております、その中には後から作った伝説が多いかも知れませぬけれど、幾分は必ず、真に小町がこの土地にいたがために出来たものであろうと思われます。
  色も香もなつかしき哉蛙(かなかわず)鳴く
     井手のわたりの山吹の花
これは小町の歌で、勅選集(新後拾遺和歌集)にも(のっ)ております、多分小町がこの土地に住でいて山吹の盛りを見て詠だものでありましょう。
 老いたる小町がこの村に侘住居(わびずまい)しているのを、時々見廻りなどして、世話をしたのは甥の小野貞樹(さだき)であります、ところが小町は年と共に気も短くなり、貞樹が少し無沙汰(ぶさた)すると、一方(ひとかた)ならず淋しがり、或る時は左の歌を貞樹に寄せました。
  今はとて我身しぐれにふりぬれば
     言の葉さへに移ろひにけり
この歌も恋歌の体でありますけれど、貞樹と小町の年齢が非常に違うているところを見れば恋のためという疑いが(すぐ)に消えます、歌の心は、この身が散々に年を取たために、尋ねて呉れると約束をした人の言葉さえも今は枯れてしまった、即ち約束の如く、尋ねては呉れぬと、さすがに歌人であるだけに優しく恨みを述べたのであります、貞樹がこれに答えた歌は
  人を思ふご玉ろ木の葉にあらばこそ
     風のまにく散りもこそせめ
歌の心は、貴女(あなた)のためを思う私しの心が、もし木の葉ならば、それは風の吹く度びに(ちっ)てしまって跡方もなくなりましょうけれど、私しの言葉は木の葉ではありません、何で消え失せますものかとて弁解をしたのであります、この二人の歌は古今集に出ています故、何方(どなた)も御存じの筈であります、多分この貞樹は小町に歌を教わったり、直して貰ったりした事もあろうと思われます。三十六歌仙にある名高い歌
  色みえで移らふものは世の中の
     人の心の花にぞありける
の詠も前の歌と似寄った意味でありましょう、但しこの歌は何の場合に詠だのか分りません。
 左の一首なども小町が老境の寂寞に堪え兼ねて詠だものと認められます。
  我身こそあらぬかとのみ辿(たど)らるれ
     ()ふべき人に忘られしより
歌の心は、この身を訪問すべき筈の人々が一向に訪問して呉れぬ故(さて)は我身は最早や亡くなったかと自分で怪み、自分の記憶を辿って段々考えて見ると死だ様には思わぬ、()だやはり(いき)ている様であると、人を恨まずして自分の(おい)たるを嘆くのは実に和歌の本旨に叶った優美な心持であります。
 とはいえ小町は、若い頃から歌の大天才として、その名が全都に(とどろ)き渡った程であり、又、当時繁昌(はんじょう)した小野一族の(むすめ)であります故、老いたりとはいえ、尋常(ただ)(おんな)の如く全く世間から忘れらるるとか、捨らるるとか、いう様なことはある筈がなく、時々訪問して面倒を見て呉れる人もあり、歌の事などを問いに来る後進者などもなかったとは限りません、多分は、老いたりとは(いえ)ども別に不自由のない隠居生活を送ったのは無論でありましょう。
 かくて六十九歳の時に、哀れ黄泉(あのよ)の人とはなりました、辞世の歌があったか、なかったか、これが辞世であるとして今まで伝わっているのはない様ですけれど、左の歌などは、辞世と見做(みな)しても差支(さしつかえ)はあるまいと思わるるほど哀れであります。
  はかなしや我身の果よ浅みどり
     野辺にたなびく霞と思へば
遺き骸は井手寺に葬りました、年は多分元慶七年(癸卯(みずのとう))であろうと思われます、井手寺は光明寺と号し、橘諸兄の建立したのでありまして、今は薬師堂や大門などが土地の(あざ)に残っているばかりであります。
     *      *     *     *     *      *
 小町の生涯を見通して考えますれば、小町は絶世の美人であったことも無論でありますが、歌の天才を備えていた事も容貌の美を備えていた程度に劣りません、小町は平安以後に多く現われた才媛の中で時代の順序に於て第一であると同じく歌の秀でたことに於て第一であります、万葉時代の素朴なる歌より、古今集以後の繊巧なる歌に移る過渡期を表しているのが小町の歌でありましょう、同じ時代の歌人、即ち世に謂ふ六歌仙の中に於て、小町の歌は最も言葉を(ねっ)たもので、推敲(すいこう)に推敲を重ね、(みが)かれるだけ研いたのが多い様に思われます、これは技巧を(たつと)ぶその時代の要求が現われたとも申しましょうか、これよりして歌というものが追々に言葉の上の技術とはなり行きましたが、それでも小町の歌は想に於ても天真の流露したところがあって、偽らざる心情がそのまま現われているところは、後の世の題詠などという苦吟の作と亦自(またおのずか)ら異るところがあって楚(そそ)として人を動かすに足るのであります。
 けれど私しは歌の事は能く知りません、全く論ずる資格がないのであります、私しが小町論を草した(おも)なる動機は小町が独身生活を立て通したことを認め得たために在るのです、この点は小町の『節操』といわねばなりません。
 容貌の美に於て、歌の天才に於て、千古に秀絶した小野比右姫(ひうひめ)は、女の操に於て亦実に千古に秀絶しているのであります、昔から尼となりて生涯を独身に終った婦人は沢山ありましょう、勿論それ等の婦人も或意味に於て、節操の婦人であって、常の人には真似の出来ぬ気高い心を持ていたのでありましょうが、小町は尼にならずして独身を立て通しました、これが実に類のないところであります、その事情は、私しが今まで述べ尽した通り、一旦、心を許した人のあるがために他に心を転ぜなんだのであります。
 世に玉章(たまずさ)地蔵堂の伝説というのがあります、それはこの論には採用しませんでしたけれど、小町を慕う貴公子達から小町に寄せた恋の文が幾百千万通に及んだか殆ど山ほどありました、けれど小町は一つもこれに返辞を与えず、後に自分が余りに男子に対して無情なりしを悔い或は人の恨みが我身に積りて冥罰(みょうばつ)もあらんことを恐れ、供養の意味を以てその文殻(ふみがら)を貼りて地蔵菩薩(ぼさつ)の像を造り、これを井出村に安置したというのであります、今より三百余年前に小野お通という女がその地蔵堂を再興したとの事が種々の書に出ております、実際小野小町が文殻のみを以てその様な地蔵尊を(つくっ)た事か否か、能くは分りませんけれど、その様な伝説の出来たということが単に偶然ではありますまい、小町が多くの男から懸想せられながらも、男に対して、身を守ることが甚だ厳重であったために、その話しが伝り伝って(つい)に地蔵堂の話となったのでありましょう。
 小町がかく男に対して厳重であったのは、定めし種々の事情があって、止むを得ずそうなり(いっ)た次第で、必ず一々()めるには足らぬかも知れませぬけれど、私しが調べ得て自ら達した断案に由れば、第一に小町は自分の容貌と才能の優れているのを自覚し、(おおい)に自重したのであります、多分、この身は至尊の(ひつ)となすべきもので、俗人に許すべきでないと思うたのでありましょう、これを思うのは小町の妄想ではなく深く深草御門(ふかくさのみかど)から御心を寄せられていたためであります、第二は今に朝廷へ復帰することの出来相(できそう)な事情があったため、復帰の時を待ちくして終に婚期を空しく過したのでありましょう、第三には、かかる事情があったため、後には人が(いさか)(はばか)る様な意味合となり、よしや小町が心に夫を求めても(しか)る可き相手が得られなんだでありましょう、第四には深く仏門へ心を寄せたがために身の清浄(しょうじょう)を失わなんだでありましょう。
 この様な事情で独身に終ったのは、全く止むを得なんだとはいうもののやはり貞操であります、貞操の神髄は、『貞女一夫にだも(まみ)えず』であります、自分の身の尊きことを知りて、軽々しく身を許さぬに在ります、私しは史上にその実例を求めて唯だ一人(いちにん)この小野小町を得たのであります。
 幸いにしてこの小町が、(ただ)に貞操に於て千古の(ただ)一人であるのみならず、旁以(かたがた)て、その容貌の美に於て、その歌の天才たる点に於て、亦千古の唯一人であることを見出しました、真に淑媛(しゅくえん)というものはこれではないでしょうか。
 容貌といい才能というものは生れながら備っているもので、これは如何(いかん)とも致し方がない訳ではありますけれど、もしも理想の淑媛とは何ぞと問わるる場合には、貞操の外に容貌の美も、才芸の美も備わった女といわねばなりますまい、况して心の美、才の美とても必ずしも生れ附のみとは限りません、生れ附の外に、修養の力があります、小町が真に修養を積んで怠らなんだ事は、その精練の上に精練を加えた歌で分ります、私しは、世の女たる者は、自分の生れ(つき)如何を顧みることを止めて、ひたすらに修養を勉めねばならぬと信じます、容貌の美、心の美、行いの美、総て生れ附であるとしても修養に由りて現れます、修養を積まねば、現わる可きものも現さずに終ります、私しは小野小町を考えて、三美を一身に集めたものであると知り、或は天が、長く日本の婦人のためにこの優れたる手本をこの世に(くだ)したのではあるまいかとまでに思います、実に小町こと小野比右姫は、美の実現であります、歌の化身であります、貞操の天女であります、この三美の(そろ)いてこそ、真の淑媛といわるるに適しましょう、茲に私しは断言する光栄を有します、小野比右姫は千古の淑媛である。
 天はこの淑媛をして俗人の手に汚されしむるを(いと)いました、故に様々の運命を淑媛の身に下して、その清浄を失わざらしめました。
 天は日本の淑媛の手本として、この三美一身の比右姫を人間に示しました、母たる手本、妻たる手本としてではありませんでした。

(十六)くさぐの思い出
 長々御愛読を受けました『小野小町論』も愈よこの一回にて終ることになりました、御存じの通り私しの用いた材料は歌と歌の端しがきとでありました、そうしてその歌及び端しがきは、最も多く古今和歌集に由り、次には小町集に由りました、実に乏しい材料でありましたけれど、杜撰な材料ではなく、正しい材料であったという事は出来ましょう、その外には勅選の各歌集を寄りノ\に詮索しました、これも正しい材料でありましょう、これ等を精密に(かつ)正直に、色々と比較しました()けに、私しは小町に関する私しの断案が総て正しいもの、間違(まちがっ)ていないものであると信じます、猶おその辺の参考として二、三、附加えて置きたい事があります。
  小町と紀貫之
 歌及び端しがきの外に、小町に関する文字で昔から伝わっているのが一つあります、それは紀貫之の綴った古今和歌集序の小町評であります、これのみは小町に関し後にも先にも類のない唯だ一つの文章でありまして、全く古今和歌集と共に不朽の一品であります故、小野小町の墓誌であるともいう可きほど、信用すべき価値がありましょう、即ち左の如くであります。
  小野小町は(いにしえ)衣通姫(そとおりひめ)のながれなり哀れなるやうにて強からず、云はゞよき女の悩める所あるに似たり、強からぬは女の歌なればなるべし。
この約六十文字であります。
 この一文章は小野小町の歌を評したものであって、小町の人柄や履歴には関係がない様でありますけれど、必ずしもそうとのみは限りません。
 何にしても、有名な紀貫之が延喜(えんぎ)の御門に奏上した文句でありますから私しは色々の点からこれに就て考えて見たい。
  古今集の仮名序と真名序
 古今集には真名序(まなじょ)(即ち漢文を以て作った序文)と仮名序(かなじょ)(和文を以て作った序文)との二つがありまして、右の文は仮名序の方を引きましたが、真名序は少々出入(でいり)があります、それで真名序と仮名序と何方(どちら)が好いかとの疑いが起りますが、私しは仮名序を真に貫之の作った序文であると申します、尤も真名序の方もやはり貫之が作たのであるとの説もありますけれど、これには貫之の婿紀淑望(きのよしもち)の署名があります故、私しは世間一般の説に従い、作者は貫之でなく淑望であると認め、何故に作ったかといえば当時漢文が非常に流行(はやっ)ていた故、貫之が、もし漢文にしたならどの様なものかと思い淑望に翻訳させたのでありましょう、けれどこの点は深く争うほどの事でないと思います。
 いずれにしても仮名序が貫之の作であって、即ち貫之の本意がこれに(こも)っていることは認めねばなりますまい、或学者は、実際貫之が時の御門へ奏上したのは仮名序ではあるまい真名序の方であっただろうといいますけれど、それは飛だ間違いです、試みに真名序を(よん)で見れば、僧正遍昭の事を花山(かざん)僧正と書き、在原業平を在五中将(ざいこちゅうじょう)と書き、文屋康秀を唯だ文琳(ぷんりん)と書くなど、決して奏上の節に用うる文の体を得ておりません、これのみで漢文の序が奏上の(せつ)用いられたのでない事が分ります、これに反して仮名序の方は甚だ謹厳でありますから、上奏に用いられたのはこれであります、故に貫之の本意を求むるならば仮名序が当然であります。
  後人の細工を経たるか
 しかし仮名序に在る右の文は、貫之が(かい)た原文の儘ではなく後の人の手で添刪(てんさく)せられたであろうという説もあります、これも全くの間違いで彼の文章は貫之が書いた儘であることが、少し文章の事に苦労して経験のある人には容易に分ります、彼の文章は余ほど能く出来たものでいわゆる天衣無縫とも申しましょうか、一字も増減することは出来ません、全く貫之が特に心を籠めたことと思われます、尤も序文の他の部分には、多少後人の手で変更せられたところがあるかも知れませんけれど、小町を評した約六十文字は全くの無傷であり、一字も(うこか)すことは出来ません。
  貫之の年代
 次には貫之と小町との年代を考えまするに貫之は天慶九年に死なれましたが、年齢が分りません、一説には六十三歳であったと申しますそうすると貫之の生れたのは小町の死んだ年かその翌年であります故、貫之が物心の分った頃は()だ、実際に小町の事を(しっ)ている人が幾人も生存していた筈であります、さすれば、貫之が小町を知たのは、直接に小町を知ている人からも(きい)たので、余り間違いのないところであると認むるのも当然でありましょう、のみならず、貫之の死んだのは必ず六十三であったとは限らず七十余歳であったとの説もあります、この説に由れば、貫之の生れたときは、()お小町が生存していたので、事に由ると貫之は小町に『可愛い坊ちゃん』として頭を撫でられた様な事がないとも限らぬ、或は歌の事に付ては教えられた様な事があるかも知れぬ、いずれにしても貫之の心に映じていた小野小町は余ほど実物の小野小町に近かったものというべきであります。
 その上に貫之は小町に同情するとか小町を尊敬するとか、いずれにしても小町に対して好意を(もっ)ていた人であると認むるが相当でありましょう、貫之は余ほど歌道に熱心な人で、男にもせよ女にもせよ歌を詠むと聞けば、どの様に詠むのかその手腕はどれほどであるか、その歌の風はどの様であるかなどと見極めねば安心し得ぬ気質であった事が歌集などで分っています、この様な気質ゆえ、小町を歌道の先輩の一人として敬い、小町が生前にどの様な婦人であったかという事も知ていたでしょう、もしもその頃小町を中傷せんがために藤原族などの作った讒誣(ざんぶ)(うわさ)などが世に残っていたならば、貫之は随分これを弁解して小町を弁護し、小町の冤罪(えんざい)(すす)がんとする位の労は辞せんなんだではありますまいか。
  故あるか故なきか
 この様に考えて見ると、古今集第十二巻の巻頭へ小町の歌を三首まで並べて掲ぐるという異例な処置を取り猶おそれ以上に、その巻を『仇夢(あだゆめ)(まき)』と名附けた事を、特に古今集の選者が小町に同情したためではあるまいかという想像説も、私しは前には単に想像説として採用せぬ旨を記しましたけれど、或は単に想像説であるとはいい難いかも知れません。
 それはとにかく小町を衣通姫(そとおりひめ)に比した彼の文章は、単に小町の歌をのみ衣通姫に比したではなく、小町の人柄とか素性とか境遇とかに衣通姫に似通うところがあったために書いたのかも知れぬと思わるる次第となりました。
  貫之の見た類似点
 第一衣通姫の歌は多く今の世に伝っていませぬけれど、小町の歌と衣通姫の歌とは各々(たい)が違っていて、小町の歌を衣通姫の歌に似ていると評す可き理由のない事は学者の定説の様であります、さすれば、貫之が『小野小町は古の衣通姫のながれなり』というは、小町の歌が衣通姫の歌の流派であるという意味には取り難いのであります、第二には貫之が評した小町までの四人即ち遍昭、業平、康秀、喜撰(きせん)の、四人には各々『歌』とか『言葉』とかいう語を附けて、歌のみの評であることを明かにしてあるのに、小町の評にのみは、歌という語を最後の一句に送り、頭から『小野小町は古の衣通姫のながれなり』と強く響かし、小町その人を衣通姫その人に比したかと思わるる様な(てい)になっています。
 故に小町の歌を衣通姫に比したとはいい(にく)い、むしろ『女ながらに歌を詠む』という点が似ているので、歌そのものの類似と否とには頓着なく、小野小町を衣通姫に比したではないでしょうか、果してそうとすると境遇を比したのであります、貫之の心では小町の境遇をば衣通姫の境遇に似ていると認めていたのではないでし.φうか。
 イヤ単に境遇に限るのでなく、小野小町という女と衣通姫という女と何処となく似通ている様に思う心が紀貫之の胸中に日頃から在って、小町といえば衣通姫を思い出し、衣通姫といえば小町を思い出す様な関係になっていたため、小町の事を書くに当り自然と衣通姫の事が出たのでありましょう、それかあらぬか、他の五歌仙の事を書くには、古の誰に似ているなどとは少しも書かず、唯だ小町の場合にのみ、古の人即ち衣通姫を(にかようひい)てあります、尤も真名序の方には大伴の黒主の場合に猿丸大夫(さるまるだゆう)の事を引てあります、けれど仮名序には単に小町一人であります。
 この点を考うると貫之が小野小町という女と衣通姫という女とを、人柄の似寄った女であると認めていたに違いありますまい、貫之がかく認めた以上は、小野小町は確かに衣通姫に比す可き女であったと断定して差支えはないでしょう。
 何故に私しはこの事をかく管(くだくだ)しく述るかといえば、衣通姫は小町と違い、公選の歴史に出ています故、果して小町が衣通姫に似ているとすれば、衣通姫の伝を考える事が幾()か小町の人となりを知る頼りになる可きがためであります。
 少くとも私しは、紀貫之の如き大家がしかも小町の時代に最も接近している大家が、小町を衣通姫に比した以上は、私しの写した小町が果して衣通姫に似ているや否やと吟味する責任があろうと思います、吟味の上で、もしも私しの描いた小町が、衣通姫に似ていぬならば、私しの断案にはその似ていぬだけ間違いがあるといわれても仕方がない、もし幸いに似ているならば、私しの小町論は間接ながら紀貫之の裏書を得ているという様にも当りましょう。
  小町と衣通姫との比較
 しからば小野小町に対する私しの断案はいずれであるか、他なし、特にその重なる点を挙ぐれば第一絶世の美人であった事、第二歌の天才であること、第三、時の御門に愛せられたけれど、その恋が遂げられなんだ事、第四生涯良人(おっと)を持たなんだ事、第五、貞操この上もない婦人である事、(など)であります、紀貫之はこのうちのどの点を衣通姫に比べたか、その疑問は定め難い故、仮に一切の点を似ていると断定したものとしても実に能く似ております、日本書紀の記すところに由りますと
 衣通姫は允恭帝(いんぎょうてい)の皇后の妹であります、絶世の美人で肌の美しさが衣類(きもの)の外からも分るほどに思われるために、衣通姫と名附られたという伝説であります、いつか御門がこの姫の美くしい事を認め、皇后にも納得させ、姫を宮中に迎える事と致しましたけれど、姫は自分の姉なる皇后に済まぬといいて勅命に応じません、幾たび朝廷から迎えが行てもその甲斐(かい)がないのであります、終に第七回目の使いは、非常な決心を以て姫に逢い、貴女(あなた)がもし、私しと共に朝廷へお出で下さらぬならば、私しは朝廷へ帰る面目がない故、幾日でもこの家の庭にいて、(うえ)死ぬる迄も貴女の御承諾を待つ事に致します、といいどうしても其所(そこ)を動きません。
 遂に七日七夜、姫の家の庭に頑張ていた、幾たび姫から、食物(くいもの)を与えても、手さえ触れません、全く餓え死の覚悟が見えた様に思われました故、姫も()を折り、この人は実に朝廷の忠臣である、私し一人の強情のためこの様な忠臣を死なせては済まぬといい、遂に伴われて都に入る事とはなりましたが、実をいうとこの使の男は、乾飯(ほしいい)を沢山に隠し持ていて、人の見ぬ間に、(ひそ)かに取り出して食い、そうして口を(ぬぐ)うていたのであります、姫はそうとも知らず、すっかりこの男の策に乗り、都へは上りましたけれど、それでも朝廷へは入りませず生涯を離宮に置かれた由であります。
 この姫の歌には有名な『我が背子(せこ)が来べき宵なり笹蟹(ささがに)のくものふるまひかねて知るしも』というのがあります、それから『夜や寒き衣や薄き片そぎの行合(ゆきあい)のひまに霜や置くらん』の歌もこの姫の詠であると申します、この外に猶お一、二首見受けましたが今は記憶いたしません、それでこの姫は後世に及び和歌三神の一に祭られました、紀州和歌(わかの)(うら)に在る玉津島(たまつしま)というのはこの姫の(やしろ)であります、但しこの姫が和歌三神の一に数えられる様になったのは、紀貫之の頃より後の時代である様に思われます。
 以上に依りてこの姫は実に小町と似ているではありませんか、絶世の美人という事も、歌の天才という事も(但し親しく姫の天才を知る可き程の歌は今日まで多く伝っておらぬ)御門に愛せられた事も、その恋が円満の終結を得なんだ事も、生涯所天(おっと)を持たなんだ事も、この上ない貞淑であった事も、これほど似通うた女をこの外に見出すことは甚だ(かた)い様に思われます。
 どの点を見てもこれほど似ているため、紀貫之は平生、心の中に小町を衣通姫に比す可きものと思うていた、その心が同情となって、特に『小野小町は古の衣通姫のながれなり』と書くに至った。
 この点から考うると、前に記した古今和歌集第十二巻の巻頭に三首まで小町の歌が並び、特にその巻が『仇夢の巻』と呼ばるる事なども、或は全く何かの理由があるのかも分りません、しかしこれはいずれとも断言の限りでないというのが公平の論でありましょう。
 いずれにしても小野小町が、紀貫之に由りて衣通姫に比べられた事は、永遠に小町の尊敬せらるべき位地を確定し、疑い争うべき余地なからしめたものといって可なりであります、決して私しが我儘に小町を品定(しなさだめ)するのではありません、私しは茲に繰返して申して置きます、私しの小野小町論は間接ながら千年以前に歌聖紀貫之に由り、その断案へ裏書せられた様なものであります、又、言替れば小野小町は歌聖紀貫之に墓誌銘を書かしめたにも当ります、この点に於ては、他の如何なる婦人も及ぶことの出来ぬほど幸福な婦人であるともいわる可きでありましょう。
  小町の気質
 一切を見通して小町の気質を考えて見ますと、既に多少は申述(もうしのべ)ましたが実に小町は如何なる場合も我れを忘れ得ぬ女でありました、故に恋の苦みも強かった、悲みも強かった、殆ど一生を悲哀の(うち)に送りました、その歌集を見ても悲哀の歌の甚だ多いことが誰の目にも附きましょう。
 小町の歌のうち、(おも)なるものは大抵引用いたしましたが、多くは悲哀の意味を含んだのでありました、もし悲哀の意味を含まぬ歌を求むれば甚だ僅かであります。
  霞たつ野をなつかしみ春駒の
     荒れても君が見え渡るかな
多分若いころの詠でありましょう、心に思う貴公子が、若き春駒を制御しつつ野に行く姿の雄々しさが目の前に浮ぶ様に感ぜられます。
  誰をかも待つちの山の女郎花(おみなえし)
     秋とちぎれる人ぞあるらし
この歌などは逸興(いつきょう)を述べたものの様に見受けられますけれど、小町の歌は総て主観的であり、自分の境遇や自分の心の有様から流れ出ておりますので、(とく)と味えば小町の身の上がそれとなく(ほの)めいて無限の感慨があります、小町自らが雨に打たれ風に悩みて、(いと)ど露けき女郎花の様なものでありまして常に意中の人を待っております、その様な心が誰をかも待乳(まつち)の山の句に、(おのず)から現わるるではありますまいか、その人は誰でありましょう、時さえ来れば必ず逢わんと約束した人であります、即ち『秋と契れる人』ではありませんか、秋という約束のあるために女郎花は、秋来る(ごと)に必ず咲出でて心待に待つけれど、どうやらその人の来るべき時に会う由もなく、唯だ女郎花のみ老い行かんとするのである、実に小町の生涯が髣髴として見ゆる様に思われます、その様な境遇であればこそこの様な歌が自然に出て来るのであります
  紅葉(もみじ)せぬ常磐(ときわ)の山は吹く風の
     音にや秋を聞き渡るらん
この歌をまで右と同様に解するのは(いささ)か細工に過ると非難さるるかも知れませんけれど、茲が主観的な小町の詠の本領であって、後世の理窟めいた歌の如く解すべきではありません、無論これとても一種の述懐であります、小町の生涯が紅葉せぬ常盤の山にも比ぶべき単調な有様でありまして、秋の盛りが来るとても、様々の色に染做(そめな)さるるが如き(はえ)はなく、唯だ空しき風の()の訪るるを聞くのみである、逸興の歌ながらも、自然に境遇がこれに宿りて争われぬところがあります、次の一首なども全く即興の詠でありますけれど、聊か小町の人格が現われている様にも思われます
  百草(ももくさ)の花の(ひも)解く秋の野に
     思ひ戯れむ人な(とが)めそ
思い/\に(けん)を競いて秋の野を錦と織り做せる千草(ちぐさ)百草の咲乱れたる(さま)を見ては、小町の如き歌人は、興に引かされ、思う存分に戯れたき心の起るは、左もこそと察せられます、けれどこの興味の(わき)起る絶頂にも、我身ということを全く打忘るることは出来ぬ、花と共に、草と共に、戯れたいが、イザ戯るるとなれば、(たちま)ち自分を思い出し、我身にしてかくも戯むれては、人の笑いを如何(いかに)せんとの念が起り、『人な咎めそ』との心が自分を責めるのであります、この様に自我の念の強いがために、同じ年頃の女達の様に、我れを忘れて打興ずることが出来なんだでありましょう、又この様に自意識が強かったがために、生涯を独身にて過す様な事情ともなり(また)実際に独身を立て通すことが出来たのであります。
  永久に褪せざる花
 小町は社会的成功という点からいえば、憐む可き失敗者でありましょう、けれど、自ら自分の心を守って終生変ぜなんだればこそ、千歳(せんざい)の後なる今日まで猶お嘖(さくさく)としてその名が人の口に伝っているのであります、古今幾千年、女は数限りもなくありましょうけれど、山村にも、僻地にまでも、()た到る処の児供(こども)にまでも、その名を知らるること小野小町と等しい婦人は恐らく他にはあるまいと思います、左すれば社会的には失敗者であったとしても『人』としては(おおい)なる成功を得たものといわねばなりません、この様な婦人の伝記がこの聖代にないというのも一の欠典ではありますまいか。
 けれど、小町自らは、多分不満足の心を以て、この世を(さっ)たであろうと思われます、自分の身を花に比する彼女は、多分、自ら実を結ばずに散る花の様に感じたのでありましょう、それかあらぬか、私しは小町歌集の最後に在る一首を、特に、意味深き述懐であると見做し茲に掲げてこの論の終りを結びます。
  花さきて実ならぬものは和田(わだ)()
     かざしにさせる沖つ白浪
けれど、小町の生涯は、今より見れば必ずしも実ならぬ花ではありません、一夫にだも(まみ)えざる真の貞操の心を以て千古の淑媛という活きた手本を不朽に伝え得た事は、或意味に於て実に大なる実を結んだのであります、故に私しは右の歌に答えて左の如く申したいのであります
  とこしへにあせざる花や和田つ海の
     かざしにさせる沖つ白浪
アア小町こと小野比右姫は実に日本の婦人社会に取りて、永久に()せざる花であります。

跋言
   小野小町論が雑誌に出ているうちや出終(でおわっ)た後に諸方から記者に寄せられた書は机上に
  (たい)をなしました、それ等は(ごとごと)く保存してありますけれど、茲に一々載することは出来ません、そのうちの代表的として左の数通を掲げ、以て江湖(こうこ)諸君が記者に寄せられた同情の甚だ(さかん)であったことを感謝いたします。
哀れてふ言の葉毎におく露は
   昔しを恋ふる涙なりけり(小町)
   (此歌は本書***ペ—ジ『吹むすび』の歌と並べて引用し置きたるに印刷の際誤脱したれは茲に補記す)