暗黒星 黒岩涙香 (シモン・ニューコム(1835−1909)原作 THE END OF THE WORLD) 驚く可き信号  一、 「暗黒星! 暗黒星!」  遙かに天の一方に、怪しき暗黒星が現われたとの信号が、火星世界の天文台から発せられた。  此の信号がヒマラヤ山の絶頂にある我中央天文台に達し、中央天文台から全世界に電光信号を 以て伝えた。  此の時の世界は、最早や学術上の発明なども数千年前に極度迄達して、此の上に進歩する道が 無く、極めて無事太平に、極めて静かに、何事も停滞の状とは為って居た、詰まり科学的智識が 応用の出来るだけ応用せられ、一歩だも進む余地が無くなッてから既に数千年を経たのだ。人間 の事務と云う事務は悉く機械の作用の如く完全に達せられる。戦争のごときも無くなッた。万国 公法が極点まで進歩して一切の条項が完備したから、国と国との間に何の様な問題が在っても総 て公法の主義に従って落着する。  二、であるから此の頃の歴史には面白い事が少しも無い。面白いのは最う遡たる太古の霧に包 まれ、能く分からぬほど以前の野蛮時代、人と人とが武器を以て戦争し、命の遣取りをした頃の 記事のみだ。  新聞紙とても、日々|発見《はつだ》する者の、何にも報道する事が無い。誕生と結婚と死亡との日表の様 な者で、其れに天気の報道が少しある。話の種にも成らぬ様な詰まらぬ埋草は掲載せぬので、時 に由ると「前号発免以来、一も注目するに足る事件なし」とのみ記し、他は皆余白の儘に存して 居る新聞が、読者の家の戸口に置かれる事もある。  三、言葉は全世界を通して同一である。総ての紳士が緑色の服に金色のボタンを附け、縁を赤 く隈取った白い襟飾りを着ける、是より外に正服は無い。  最も遠隔した支那国すら数千年前に列に入り全世界と同様に生活して居る。  四、真成に人心を動かした事件を尋ぬれば、今より三千年前、初めて火星と此の世界の交通の 開けた時代に潮らねば成らぬ。此の以来には何事も無いのだ。此の交通の開始は実に壮んな手段 であッた。何しろ火星の人種に見える程の合図を送るには、太陽の様な白熱の強い光を凝集して 一哩四方の大光明と為さねば成らぬ。之だけの大光明を機械で以て使用する迄に幾千年の試験を 要した。試験が済んで愈々実行したのは|西伯里亜《しべりあ》の広野に於いてで在ッた。  地球と火星との対面する度に之を行のうた。二回三回と対面したけれど何の功も無かった。  五、最早や火星からは返辞の無い者かと疑われたが、忽ち全世界の人は殆ど電気に打たれた如 く驚動した。火星の表面から返辞が有ッた。返辞と見る外は無い様に、強い光線が地球に向かっ て発射した。サア此の信号を解するのが六かしい。其の困難は仲々以て古物学者が太古のモアブ 人の石碑文を解読する様な比では無かった。  漸く解釈が出来て見ると、分かッた。火星の人種は地球の人種よりも天文の智識が余ほど優ッ て居る。新星の出現などは必ず知らせて呉れる、其の知らせ方は、本から末に行くに従い次第に 薄色と為る四個の光線を以てするので、光線の方向が新星出現の方を指すのであッた。  六、勿論新星の出現は極の昔から二年目又は三年目毎には有ッた。近来はヒマラヤ山嶺の天文 台で、極めて鋭敏な写真機を以て天を写すのだから、余ほど早く分かりはするが、其れでも火星 人の方が更に早い、|毎《いつ》でも我地球へ注意して呉れる。  今度の暗黒星なども其れなんだ、唯此の暗黒星が何の様な意味を以って居るか、何事の前兆で あるかは未だ分からぬ。 〜〜r、 二 何事の前兆 79  七、不意に現われる怪星の中でも最も人の能く知って居るは彗星であるが、彗星は最早や珍し く無い。記録に登ッて居るのが既に、二万五千もあッて猶年々に新発見が加わって行く。唯暗黒 星に至ヅては実に珍しい。天文の歴史に記されたのが二十に足らぬ、爾して最近に現われたのが 三百年も前である。  八、勿論暗黒星は太陽系統に属して居ぬ。天の何の方面に居るかも分からぬ。恐らくは無籍者 だろう。色は名の通り暗黒で、短い尾を引いたのも有り全く尾の無いのも有る。何方から来て何 方へ行くか少しも見当が附かぬ。併し火星の人が暗黒星を示すに用いる信号は分かッて居る。五 条の大光線を以て、妙な具合に十字形を見せるので、十字の頭が丁度星の方角に当るのだ。  九、何しろ永い間、無事に退屈して居た世界だから、此の暗黒星の報道が達するや、人心が一 時に餐動した。 「其の星は何処に在るP」 「何の様な性質だP」 「何事の前兆かっ・.」等問合わせ が続々とヒマラヤ山頂の天文台へ全世界から集まッて、係員は全て電信の中に埋められる様な状 であッた。けれど彼等は未だ其の星を見出だし得ぬ。唯火星の信号がドラゴン星座の辺を指して 居るので、其の辺へ現われるだろうと答える外は無かッた。 三 人心の動揺  十、未だ仲々、此の地球へ見えはせぬ。余ほど度の強い望遠鏡にも写らぬ程だけれど、其れで も人々は持合わせの双眼鏡などを取出して頻りに天を眺めた。  信号を受けて一週間を経ても未だ見えぬので人々は疑い初めた。若しや信号を読み違えたでは 無いか、若しや火星世界の望遠鏡が地球のより劣ッて居るでは無いかなどと、爾して殆ど人心が 靖り掛けた所であッた。忽ちヒマラヤ天文台が再報告を発した。愈々暗黒星が写真の板面に影を 印した。場所は火星の指示した辺の天である。ドラゴン星座の頭とリラ星の中間をば東南の方へ 行く様である。  十一、サア斯なると多くの天文学者は此の新星の軌道を実測するに熱中した。何処セ通ッて何 処へ行く星であるか、何しろ進行が遅々として居るから、之を測り定めるには=一週間の時日を 要する。 四 驚く可き方角  十二、軌道測定の結果が分からぬうちに又火星からの信号が、非常な変調を現わした。彼の五 条の信号光線が今までに曾て例の無い動き方を初めた。其の意味は更に分からぬけれど、何しろ 火星世界では之を一大事変と為して、人心が一方ならず騒いで居る者と察せらる。  吾人の世界では、何故に火星が此の暗黒星の為に、斯くまで激しい信号を発するか、其の理由 さえ解せられぬ、唯気永く分かる時を待つのみだ。  十三、天文学者は益々熱心に軌道の測量をするけれど、何うしても測量が届かぬ。天文学の開 けて以来此の様な例しは無い。何度の曲線を描いて運行するか、少し見れば分かる筈だのに一月 経っても分からぬ。  其の中にヒマラヤ天文台は過日来の報告よりも更に驚樗す可き報道を発した。左の如くに、 此の暗黒星は軌道を有せず、太陽を指して落下しつつあり。 落下の速力は目下の所、既に一秒時三十キロメートルに達したり。 (一時間に凡そ日本の 二万五十里)勿論益々速力を加うるなり。 此の速力の割合にて二百十箇日(七ヶ月)の後には太陽に到着する筈なり。 五 理学博士の先見  十四、暗黒星が来て太陽と衝突する、其の結果は何うなるだろう、誰も知る者は無い。然るに、  唯一人、予め其の結果の容易ならぬを見抜いたのは理学研究所の長を勤める理学博士である。  此の時は既に総ての学問が極点まで進歩して此の上に発明の余地が無い事と極まって居るのに、 猶理学研究所など云う者の有るのは、可笑しいでは無いかと怪しむ人も有ろう。けれど人の慾に は限りが無い。若しや何の様な事で、多少の発明や多少の改良が出来ようかも知れぬとの見込み から、大いな理学研究所を設けてある。先ず研究所の大要を記して置こう。 六 理学研究所  十五、理学研究所は或る半島の南端に在る。其の土地は昔二ーオークとか云って、非常に繁華 な都会で有った相だ。何時頃の事だか考古学者に聞かねば能く分からぬが、大きな地震が有って、 町全体が地底に埋まった。今は只大きな古跡として残って居る。何でも市の広さが幾哩にも渉っ て居た様だ。一 一十六、此の同じ半島の北の部分には、今の世界の大市場が建って居る。之は名を「ハットン」 市と云うのだ。其の道路の美しく|驚石《しきいし》を布いてある状や、建築物の高大な状などは言語に絶する。 市全体は北と西の方へ広く伸び、端から端まで行くのに一日を費さねばならぬ。高い塔や、公け の宮衙や、これ以上の建築は出来ぬ、総て世界の富が蚊へ集まるので、何事も豊富である。世界 中の人が、縦し用事は無くとも見物の為に集まって来る。何でも生涯に一度は此の市を見ねば成 らぬ、理学研究所は此の市隣に当たるのだ。  勿論理想的に作ったのだから、何の点から見ても欠点の無い研究所である。第一には、  春夏秋冬、暑寒の変化が有っては不都合だから、其れを防ぐ為に地の底百尺以上の深い所へ掘  込んで作ヅてある。  爾して其の広さは幾百間四方に及ぶので、先ず地底の建築物としては之に及ぶ者は無い。凡そ 人間の智慧で以て作る事の出来る理学機械は悉く備わって居る。 七 博士の異様なる挙動 83 十七、勿諭此の博士も、他の人々と同じく、怪しの暗黒星が太陽に衝突することを聞いた。聞 いて後の博士の挙動は余ほど変であッた。常ならば人が見て怪しむだろうけれど、誰も只暗黒星 の事にのみ心を奪われて居る際だから気が附かなんだ。  十八、先ず博士は沢山理学の機械の在る上に、今まで曾て持って来た事の無い様な品々を運び 入れた。其の重なるは|麺麹《ばん》に作る麦粉、生麦を始め一切の食物及ぶ植物学上に知られて居る総て の草木の種などであッた。 洪水0時に、ノアが種々の品物を船に取入れたのと、略似寄った振舞いである。多少は此の事 に気の附いた人が有っても、唯博士が植物の研究を始めるのだろうと思う位で、別に怪しみはせ なんだ。 八 秘密の契約  十九、斯かる貯蔵の用意が済むや、扱博士は研究所の役員一同を集め、重々しく説出だす様、  私は重大な事柄を蚊に述ベます。之は極めて秘密の事ゆえ、決して他に洩さぬと云う条件に服 して頂かねば成らぬ。  若し此の条件に不服の方は立退いて下さる様に願います。  何事であるかは知らぬが誰一人立退かなんだ。博士は是だけでは未だ満足せぬ1余ほど秘密な 相談と見える。更に念を推す様に「決して他言をせぬ、決して人に洩さぬ、と誓う方は右の手を 挙げて下さい」と云うた。一同は右の手を挙げた。 九 博士の演説 二十、博士は一同の挙げた手を見て漸く安心した様である。爾して其の驚く可き演説を左の如 く始めた。 「諸君、私は、舷に居る吾々より外の人へは決して知らせて成らぬ事柄をお聞きに入れます。歴 史に由って諸君の知る通り、昔から時々、天界で新たな星が忽然と光り出す事が有ります。併し 是は今まで無かッた星が新たに生れ出づる訳では無く、以前から有ッた星が急に光を増すのです。 「何故に光を増すか、其の原因に就いては一定の説が有りませんけれど、数箇月の後には或いは 其の光を減じて、吾々の目に見えぬ迄に小さくなッ.たり或いは一種の星雲に変じて了います。  二十一、 「是に就いて、私の確信を申しますならば、天には天文学者の云う通り無数の暗黒星 が飛遊して居る。此の暗黒星が他の星に衝突した場合に右の様な非常な光を発するのです。何故 と云えば、暗黒星は冷固まッて居るから堅い、光や熱を以て居る星は膨張して居るから柔らかで す。其れだから、暗黒星が他の星の皮を突破り、  中に包まれて居る熱と光とを一時に爆発させるのです。爆発した熱と光とは恐ろしい力を以て 発散します。  此の度の暗黒星と太陽との事柄も此の理を以て考えて見ねば成りません」  云う中にも博士の顔には、恐れと心配との色が見えて居る。 十 理学者と世人と哲学者 二十二、恐れて心配の色を浮かべた理学博士の秘密演説は左の如く続いた。 「ヒマラヤ天文台の報告に依ると来たる  十二月には愈々暗黒星と太陽と衝突する  との事ですが、私は無益に人々を驚かせることを好みません。併し事実は事実の様に正面から 観察して見ねば成らん。若し今申上げた私の確信が正当とすれば、  此の衝突の為に、太陽の光と熱とは忽ち幾千倍に増加するのです。  其の結果は推量するに難くは有りません。  二十三、 「地球の表面は宛も、眼鏡の玉で光線を引集めた其の焦点に置かれるのと同じ事でし ょう。蕾に木で作った品物が悉く焼けて了うのみでありませぬ。鉄類は総て鋳け、石造りの物は 皆微塵に砕けます。詰まる所、大いなる熱火の洪水とも云う可きですから、凡そ地球の上に有る 人工の総ての事業及び物件は皆破壊し、人類は勿論一切の生物が残らず焼殺されて了います。  二十四、 「斯うなると太陽の光に接せぬ北極とか南極とかの地方のみが無事に残るかとも思わ れますけれども、是とても助かりません。云わば空気総体が火と為って燃える様な状ですから、 熱した空気、熱した蒸気が恐ろしい勢いを以て極地を襲います。極地とても禍いを受ける結果は 他の地方と大した相違が無いのです。  二十五、 「斯様な天然の巨大なる魔力に向かって、私は全く策の出づる所を知りません。唯私 の学説の全く|誤謬《あやまり》であることを切望するのみです。其れと同時に諸君に望みます。諸君は愈々と 云う危急の場合に至らば、諸君の細君や子供を連れて、此の地底に在る理学研究所へ逃げてお出 で成さい、舷ならば或いは避難が出来ようかとも思われます。  若しも何事も無く済めば其れに越す幸いは無い。併し吾々が此の様な準備をして居る事は誰に も知らせては成りません、勿論、  一切の生類、一切の人類が悉く滅亡した跡に、吾々のみ残ッたとて何の甲斐も有ませんけれど、 是も其の実地に望んで見ねば、何うとも断言が出来ぬのです。  諸君は何時でも蚊へ避難に来るだけの準備をお調えなさい。併し誰にも知らさぬ様に成さい」  二十六、以上が博士の演説である。自分等の一族のみ此の大天災を逃れようとするのは柳か他 に対して邪樫な振舞いでは無かろうか。併し、大昔に、ノアが此の通りの事をして、誰にも責め られぬでは無いか、却って後々まで褒られ敬まわれるでは無いか。  博士は幾度も自ら疑い自ら惑うた。此の大いなる心配を世間に知らせるが好くは無いだろうか と、イヤ爾で無い、是を知らせたとて世間の人は何うする事も出来ぬ、徒らに心配を増す許りだ。  其の方が却って邪樫と云う者だ。医者の道徳でも分かって居るでは無いか、到底死を逃れぬ病 人に向かって、死ぬることを決して打明けぬ、死ぬる迄の絶望の苦痛が、全く無益な惨刑と云う 者だ。  何で無益の苦痛を世間に与える事が出来よう、其れに此の学説が果して当たるか分らぬのだも の。  二十七、併し博士の斯かる用心に拘らず、世界は実に心配した。火星からの信号が益々激しい。 確かに是は一種の警報である、警告である。最初の中は隔晩に在ったり或いは二晩置きに来たり したのが、連夜続けて来ることになヅた。何事か火星人が大いに叫んで居るに違いない。其れに しても何の意味だろう。人々は唯怪しんで、随分此の理学博士の許へも問合わせが有った。大丈 夫でしょうか、何か、危険は有りはせぬでしょうか。流石の博士も、曖昧ながら幾らかは答えぬ 訳に行かなんだ。  二十八、 「左様さ、能くは分からぬけれど、暗黒星と太陽と衝突すれば、急に太陽の熱が高く なる様に思われる。二日か三日の間に熱い頂点に達して、其れから幾週日の間は滅法に熱い事で あろう。兎も角も、家の屋根の如き、天日を強く受ける所や、其の他の燃る恐れの有る物件は、 燃えぬ品物を以て蔽う用意をするが好かろう。取分け衣類や食物の如き者は容易に変敗の恐れが あるから、穴倉の底深く納めて置く様な用意は無くてなるまい」  と云う位の返辞をしたが。  二十九、ハットン市に在る大学の、哲学博士は之に反対の議論を立てた。全体哲学者と理学者 とは能く凌ぎ合わんとして争う者だが、何方が事実の上に勝つのか知らん。  哲学者の意見にも仲々、人を従わせるだけの力があった。哲学の先生は論理術(ロジック)で 以て此の問題を解こうとするのだ。先ず少しでも此の問題に関係のある一切の事実、一切の材料 を取集め、之を方程式に作って解釈した。 十一 哲学者の論理 三十、爾して其の結果として発表したのは左の如しだ。 「過去一万年間の記録に徴するに太陽は全宇宙に於ける最も不変なる者の一なり。 世界に気象台ありて以来の統計に由るに太陽が毎一年に、我地球の表面に射下する光と熱と の分量は、毫末の増減なし。  斯かる太陽が、原因の如何に関せず、突然に熱度を変ず可しとの想像は|何等《 ヤ 》の|実験《ヤ  》にも|根 拠《ヤヤヤヤ》せざる|空説《ヤヤヤ ヤ》なり《ヤ》|。  是の故に理学博士の予言に驚かされて恐怖せる如きは、不論理的(イルロジカル)なり。 理学博士自らすらも、自個の予言に幾分の疑いを存せるに於いて殊に然りとす。  爾は云え、何分にも利害の大なる問題なれば、理学博士の注意に従うの得策たるは勿論な り、出来る限りの用心を為すことは|有害《ヤ  》に|非《 ち》ず。  三十一、斯うなると又、理学博士の許ヘ、続々と問合わせが来る。若し先生の数理的説明に何 等かの間違いは無かろうか、幾百万年、整然たる秩序を保って来た天界が、一時に大変化を受け る如き事は無さ相に思わるるが、などと、書信が夕立ちの如く降った。博士は之に答え、単に 「拙者の学説は、吾人の見聞の範囲に在る何等の場合にも実験せられたること無し」と云うのみ で有った。勿論、実験せられた場合の有る筈は無い。  寧ろ博士は、世人が自分の説を疑うのを喜んだ。博士の説には確乎たる論拠が有るけれど其の 論拠を示さなんだ。論拠とは前に述べた通り、天に時々新星の輝くのが、即ち暗黒星と他星と衝 突の結果であるとの一事実だ。若し此の事実を示したなら、哲学博士の断案も違ったかも知れぬ けれど博士は、別に自分の思惑が有る為に大事の論拠を隠して居るのだ。  三十二、学者の議論が斯様に続く間に、彼の暗黒星はヒマラヤ天文台の大望遠鏡にのみは見え ることになったけれど、其の他の望遠鏡には少しも写らなんだ。  所が、其れも初めの中の事で、追々と、一週又一週を経るに連れ、其の以下の望遠鏡へ写る事 と為り、終には、荷くも天体を観測する人は皆之を認むるに至った。  爾して愈々暗黒星が太陽に到着する二箇月前に至ると、ヒマラヤ天文台は明細に其の時刻まで 報じた。  時刻は十二月十二日の午後である。即ち欧羅巴全洲では既に日没の後で、僅かに北の方の一部 分を除いた米国総体と太平洋の大部分に見ることが出来る。  猶詳しく云えば、丁度ラブラドルで日の暮れた時だ。故に米国の東海岸の中央部では一時間ほ ど日の残って居る時である。  三十三、一夜、一夜、其の期限に近づくに連れて世界の人々は唯、空頼みに自分の安心を求め んとする様には到ヅた。今まで、時々に世界破裂の説が有ったけれど、毎も毎も天文学者の計算 違いである事が分かり、世界は此の通り存して居る。其れだから今度の暗黒星とやらも矢張り計 算違いでは有るまいか、成るほど太陽の傍まで来る事は来るとしても、途中から横に反れ、段々 に遠くなって、二度と現われぬ事になりはせぬか。  是も無理の無い想像である。  軌道の有る星ならば、天文学者の計算違いと云う事も有ろうが、既に軌道を踏外した狼籍者、 無宿者で、目暗滅法に天界から落ちて来るのだから、太陽へ落込むに極まって居る。  地球の引力範囲で落ちた林檎は何うしても地球へ落ちるに極まって居るでは無いか。暗黒星は 既に太陽の引力範囲へ落ちて居る、太陽の表面より外に、何処へ落ちるものか。 十二 愈々十二月に入る  終には暗黒星が肉眼で見えることとなった。天気さえ好くば毎晩見える。  斯なると「途中から横に反れる」との空頼みは消えて了った。反れはせぬ、天文台の報告の通 りにた行くのだ〇  三十四、唯其の光の小さいことは実に驚く。二夜一夜に多少は太くなるのだろうけれど、爾と は見えぬ。 (暗黒星にても太陽の光を反射して輝くなり、猶月の輝くがごとし)  太古の人は星を吉凶禍福の本と信じて甚く気にした。されど若し此の様な星が現われたなら、 殆ど気が附かずに居る所だろう。縦し気が附いても、形の微々たるを見て、何で今まで見える所 へ、此の様なけちな星が出たかと怪しむに過ぎなんだであろう。  三十五、けれど、今の人は爾は行かぬ。其の進行の遅々たるだけ、益々苦痛が大きくなった。 昔支那人は、頭の上へ、一滴ずつ、水を垂らす刑を用いたと云うことだ。初めは微々たる一滴だ から、何とも感ぜぬけれど、其れが長く続くに従い到底耐え得ぬほどの苦痛と為るのだ。  遅一いだけに苦痛が長い、終には人々が日々の職業でさえ手に附かぬことと為った。斯くては社 会総体の人が悉く破産するにも至る訳だから、依然として職業を大事にせねば成らぬと警告の文 書が沢山に発せられた。  三十六、愈々十二月の間近になると彼暗黒星が太陽を指して落ちて行く速力が余ほど増して其 の光も段々に強くなる。  初めのうちは夜だけしか見えなんだのが今は真昼でも見えることに成り、恰も大空に恐ろしい 龍の幡って居る様にも思われた。  三十七、妓に至ると人心は妙な者だ。太古の人種と同じ様に一種畏怖の意味を持った宗教心が 起こって来た。斯かる宗教心は最早や数知れぬ長い時代の間、全く人心に忘れられて居たのだ。  今の世の人心は唯精力を信ずるのみだ。宇宙一切の極微分子に悉く活動の気を吹込みて霊妙の 動作を為さしむる其の遍在の精力こそ、目視る可からずして而かも慈恩の行渡れる者なれば何時 の世までも信ず可きなれ、然るに今や此の精力に無慈悲なる裁判の意味があって、人々の先祖の 汚れ、先祖の罪の為に、終末の厳罰を下すのだと云う如く信ずるに至ッた。 「最後の審判!」 「最後の審判!」などと恐れ|戦《おのの》き、急に神の御名を叫ぶも多かった。  三十八、其れでも十二月の到着するを堰止め得ぬ。最う後十二日、イヤ十一日-十日ーと日が 数えられるに至った。其の時に世界の運命が決するのだ。斯うなると、余ほど勇気の有る人で無 ければ、仰いで星を見ることが出来ぬ。自分の目にさえ見えねば其の禍いが消えるかの様に人々 は目を閉じた。  中に大胆に双眼鏡を天に向ける人には、丁度肉眼で見る月の大きさほどの禍いの姿が見えた。  併し、月の様な穏和な、静粛な容貌は、彼には無い、彼の光は唯恐ろしい、云わば猛獣の眼の 輝く色なんだ。  三十九、七日-六日-五日-日数が残り少なくなるに連れ、空に輝く眼の光が益々凄くなって 来る。復讐に渇して居る怪物の眼なんだ。人は目を閉じて見まじとしても、又眠っても、其の光 が想像に浮かんで来る。確かに地獄の底から、人を猟りに出た悪魔の眼である。人は其の光に駆 立てられ、逃げ廻ッて居る様な者だ。  吾人の先祖は猛獣毒蛇に追廻されて安眠も出来ぬ時代が有っただろう。吾人は其の時代に復っ たと同じ事だ。  四十、最う三日ー最う二日i斯うなると道理を考える心が人間に無くなった。 十三 衝突の其の日  人には道理を考える心が無くなって、宛も酔漢の如くに市中を狂奔する者が沢山あった。警察 の官吏とても之を制止しようとは勉めなんだ。  道に行き交う人々は無言で目と目とを見合わせた。無言でも心の中は分かって居る、唯恐れに 満ちて居るのだ。  四十一、最終の日が終に来た、アア。  今夜ー知らず、今夜は何うなるだろう。  朝は風も穏やかで、天が極めて静かである。空に懸れる太陽は、今にも其の身に突当たる恐る 可き者の近寄せて居る事を知るや知らずや、毎の如く和らかに輝いて居る。其の余りに沈着なる 態度が、或い拡此の世界の人々に対し、何も爾騒ぐには及ばぬと戒め何事も無い事を告げて居る かとも思われた。  天を見る勇気の無いまでに沮喪して居た人々も、柳か気力を回復して又望遠鏡を取出す事にな ッた。併し何事も無く、静かに又静かに太陽は運行し、昼を過ぎて、酉に西にと傾き初めた。  最早や、幾時間の後とは成ッた、イヤ幾分時と数えらるるに至ッた。  四十二、何れの望遠鏡にも、必ず一人は縄り附く勇者がある。愈々衝突の時は何の様になるだ ろうと、其の人々は皆眸を凝らした。  刻一刻、悪魔の眼の様な彼の暗黒星は明るくなった。輝き方が次第に強く、次第に恐ろしくな った。其れだけずつ、太陽に向かッて近づくのである。  爾して終に太陽の一端に接触した時の、人々の心は想像する事さえ出来ぬ、ハットン市全部の 人心に、電気の様に戦傑の波が伝わッた。  四十三、戦標の後で、少しの間だけれど安心の思いが浮かんだ。彼の怪星は忽ち姿が消えた、 誰の目にも見えなくなった。  太陽には未だ何の異状も無い、多分は太陽の大熱火の為に、彼の暗黒体が、鋳けて蒸発して消 えたで有ろう、と人々は思った。  けれど此の安心は直ちに掻消された。間も無く太陽の表面に、一の黒点が現われた。  アア分かった、怪物は未だ太陽へ衝突せぬ単に太陽と地球との間の所へまで落ちて来たのだ。 丁度金星や水星が、小さい黒点と為って太陽の表面を蝕しつつ通過する時と同じ事だ。  四十四、何うか此の儘に太陽の表面を通過して呉れかし、金星や水星が去る様に、暫くにして 立去れかしと是も少しの間だけれど人々が心に祈った。  此の間の心持ちは讐え様が無㌧アア幾千年来、天文学者の計算は一度も誤ッた事が無いのに、 此の場合のみは過ッたのだ、過ヅたらしい、過ッて居れば好い。  四十五、と思う間に、思う其の心の過ちであることが分かッた。  一黒点と為ッた怪星が頓て太陽の表に没した。其の姿が見え無くなヅた、是は確かに衝突して、 太陽の肉の中へ弾丸の如く突入ッたのだ。  斯く見ると同時に、其の突入ったと思わるる箇所が忽ち光の中の光とも見ゆる様に明るくなッ た。  詰り突入った其の傷口から、太陽が炎々の焔を吐くのであろう、其の輝きの強い事は、最う見 て居ることが出来ぬほどだ。勿論太陽を窺く目鏡は光線を避ける為に黒く塗ってある。併し其れ ですらも量しくて見て居ることが出来ぬ。云わば肉眼で常の太陽を見る様な者だ、強いて見て居 れば目が潰れるのだ。  是より以後の事柄は、之を見るのに望遠鏡も何も要らぬ。 十四 其の日の夜 95 四十六、望遠鏡は無くとも、黒い硝子板一枚あれば最う肉眼に能く見えた。 暗黒星に突破られた太陽の傷口が、恐ろしい恢衝を起こして火炎を吐くのだ。 其の火炎が刻一刻に、より大きく、より明るく成って行く。 絶間なく嵩が増し、幅が広がり、僅かに半時間の後には、宛も扇とも慧星の尾とも見らるる形 と為ッた。  四十七、地球の表面は、今まで見た事が無いほど明るくなり、唯ギラギラと量しい思いがせら .れて、砂や小石などがダィヤモンドの如く輝き初めた。  頓て米国の東の海岸に沿うた地方は日が暮れた、其の時は早や火焔の大きさが、半時間前より は二倍になり、其の明るさは先ず四倍とも云う可き様になッて居た。  夜には入っても空気は次第に熱くなり、西海に日の入る頃は、其の辺の人々敦れも、日の当た らぬ所を求めて隠れる程であった。  四十八、先ず日が没したので休戦の許しを得た様なものだ、此の後の太陽の光景は見る事が出 来ぬけれど、  間もなく天に、争うベからざる恐ろしい|凶兆《きざし》が現われた。  此の時は丁度火星が地球と対面の地位に在ッたが、無論、日の暮れて間も無く、此の火星は東 の天に、爾して更に西の天には彼の「宵の明星」と知られて居る金星が現われた。  アア金星、アア火星、双方ともに今までに無い光方だ。  金星の方は電気の如く輝いて居る。確かに白熱だ。火星の方は石炭の燃える|火団《ひのたま》の如しだ、全 く燃えて居る様だ。  四十九、是は何の為だろう、誰とても知って居る。太陽の光が強くなったから、同じ割合いに 其の反射が強くなったのだ、大いなる火事に照らされて居る景色を、暗い所から望見する様な者 一である。  斯う思うと明日の日が思い遣られて、人々の心には益々恐ろしさが湧くばかりだ。  今は米国が夜だから亜細亜や欧羅巴は日中に在る筈だが、何の様な状だろう、時々刻々増す大 火熱にーアア斯う思うと、思うだけにて戦傑する。  其の同じ光景が夜の開けると共に米国へも廻って来るのだ。人心は絶望して沈着した。実に憐 れである、何にも言わずに禍いを待って居るのだ、待つ外に道が無いのだ。  五十、地球の回転に従って、海も陸も東から西へ順々に沸騰して行きつつあるに相違は無い。  其の中に亜細亜や欧羅巴から凶報の電信が続々と達し初めた。支那でも印度でも、二一二分間し か戸外に出て居る事が出来ぬ、午後に及んでは一歩も外へ踏出す事が出来なくなったと云う事だ。  五十一、欧羅巴の方は更に之よりも甚だしい、倫敦から時間を追うて電報が来る、其の伝える 所に由ると。  電信局は今までの建物の穴倉へ事務所を移した。  市民は一切の燃ゆ可き物品を悉く日光の射ぬ所へ隠しつつある。市中の|卿筒《ぽんぶ》は総出と為りて屋 根に水を注いで居る。午前十一時、斯る注意にも拘らずチープサイドの或る屋根が火を発した。 引続いて市中の各方面に幾箇所か太陽に焼かるる家が出来た。  火事の数は算え切れぬ、消防の人は空の火熱と身辺の火熱とに攻められ、焦熱の底に奮闘して 居る。  間も無く此の市中ては一人も生存する能わざるに至る可し。  五十二、数分後に、左の電報が達した。 忽然と意外な救いを得て一同蘇生の想いを為せり。 知らす、 何の様な救いが天降ッたであろう。 十五 欧米両大陸の実況 忽然として天降った不意の救いは何であろう。 何うして欧羅巴の人々は、大火熱の中で蘇生の思いをしたで有ろう。 次の電文を読め。  大空の熱度激変せし為なる可し大西洋の面より捲起こりたる疾風、|篶地《まつしぐら》に欧羅巴を襲い来 たり、凄まじき勢いにて吹き煽れり。  之と同時に騨雨、滝の如くに降り諸所の火焔を鎮滅したり。  此後の成り行きは寒心す可き者ありと難も、兎に角、此の風と此の雨と|微《なか》りせば、物は火 炎の中に灰燈し、人は焦熱の中に死す可かりしなり。  一時ながら人心は全く蘇生の想いを為せり。 焦熱の中に大風大雨を得たとは、如何にも気持の好い事で有ったろう。 五十三、けれど次に来た電報は、大風大雨が焦熱よりも猶恐る可きを知らせた。天降った い」其の者さえも天が人間に降す呵責の道具であった。 「救   新たなる恐怖は更に起これり。大風は募り募りて暴風と為り、腿風となり、開開以来、記  録に存せざる狂風と為れり。家の吹潰さるる者、数を知らず、堅固にして什れざる如き家は  家根を吹飛ばされ、一も無難なる者なし。   大空に旋鷹せる大家根幾何と云う数を知らず。   雨も亦・天を歎ぎて落来たるかと怪しまる・雨が降れりと云うよりも、直ちに洪水が降れ   りと云うを適当とす。   屋根の皆無と為りたる所に斯かる洪水の落下に遭いて人は身を措く所を知らず。  五十四、午後の三時に及びて、又左の電報が来た。勿論此の三時は欧羅巴の三時である。米国 の三時では無い。    太陽の大火熱は、密雲を照らし破りて、又も下界を射るに至れり、熱さは前よりも更に強   くして、而も刻一刻に増加す。    電信局も最早や廃絶するの外なし。  五十五、是限りで便りが消えた、最う欧羅巴は全滅したか知らんと怪しまれたが、夜に入って 又電報が達した。  再び恵みの暴雨が降初めて、人の焦死し尽くすを免れ得たり。  三たび太陽は其の威を逞しくし初めたけれど、幸いにして西に没したり。  欧羅巴の天地は夜に入れり、是にて一時の休戦を許されたる形なり。  知らず、休戦の尽くる明朝は、如何様に吾等の上に明け来たるや。  今日一日の物質的損害の額は算するに由無し、死傷も多大なり、生残れる人々も明日の事 を思いて、活きたる心地無し。  五十六、斯様に頻々の電報に警戒せられた為、米国の方では、夜の明けぬうちに余程用心した。 出来るだけ強頑な防禦策を、考えもし、実行もした。  ハットン市に在るだけの蒸気|卿筒《ぽんぶ》は悉く引出されて、同市中に配布された。是ならば全市が一 時に火事と為るとも直ちに鎮滅する事が出来ようと思われた。  イヤ火事などの起こる筈は恐らく有るまい、市中に現存するだけの織物は取出して総ての燃焼 物質を包み、之に水を含ませた。之ならば燃やし度くも燃え様が無い。而し此の上にも猶何とか 工夫は無かろうかと、人々は、言わず語らず胸を痛めた。  其のうちに夜が明けたが、人は絶望の勇気を以て天日の焦熱と戦い初めた。  五十七、其の有様は管々しく説くに及ばぬ。電報で見た欧羅巴の有様と大差は無かッたと云え' ば其れは分かる。併し用意が行届いて居ただけに幾分か損害が軽かッたかも知れぬ。  欧羅巴と同じ様に疾風、暴風、腿風、狂風が吹き、同じ様に騨雨が降り、洪水が降り、同じ様 に、一時は蘇生の想いを為し更に同じ様に、前に倍する焦熱に苦しめられてヤッと「日の入り」 と云う休戦に助けられた。  五十八、けれど日没の凄惨な光景を見た者は、 るのみであった。 明日の日が有ろうとは思い得なんだ、 唯絶望す 十六 夜の光景  日の入る時の有様を見たものは、此の後の恐ろしさに、身震いするを禁じ得なんだ。  太陽其の者の大きさが最う日頃より幾十倍に膨脹して居る。其の下の端が地平線に達してから、 上O端が全く地平線に隠れ終るまでに凡そ一時間かかッた。  日の全く入了った後で西の空に夕映えの残るは誰も知る所である。日は赤く美しく見える。  此の夕映えが燃える火の如き凄ましさで全天に広がッた。  其れが為に日没後の明るさが常の真昼の明るさと似寄って居る。  五十九、此の夕映えは何であろう。  太陽から送しる宇宙的の光炎なんだ、夜の進むに従ッて薄らいだとは云え、時々に立昇る如く 見ゆる、其の広がりが幾百幾億万里に及んだか計られぬ。  既にして真夜半に及ぶと丁度北極や南極の地方で見る極光の様な煙きが時々西の天に発した。  極光は今まで世界の人が天地間壮絶の観物と思ッて居たが此の夜の光に比べては、殆ど観るに も足らぬ。  此の夜の光は全く光炎の大発作である。西から発して天の真中まで達するのだ。  六十、此のとき例の理学博士先生、彼の地底の研究所から鉄の窓を開き、厚い硝子越しに此の 状を観測して居たが、斯かる異様な現象の由って起こる訳を合点した。  太陽が外面の皮殻を衝破られたのだから、中に欝積して居るエネルギーの|原元子《イオソス》が爆発して、 殆ど光線の速力にも比す可き力を以て飛散するのである、今や太陽統制の全体が此の原元子を浴 びせられて居る。  此の煙々たる天に、火星の輝き方は昨夜よりも|一入《ひとしお》を加え九。  今や此の火星が何の様な合図を我地球ヘ送りつつあるか知らぬが、ヒマラヤ山天文台から何の 通信も無い。  総て他の大陸からの通信が絶えて了ッた、最う一切の通信機関が絶滅したのだ、米国の人は是 が世界の最終の審判日だと知り、愈々末日の来たるを待つのみである。  六十一、更に夜半以後の有様は又凄絶だ、天に広がる原元子は、濃厚に、濃厚に成り行きて、 地上の明るさは、今までの天然には類をも見ぬ異様なる色を呈した。是で見ると、夜の明けて後 の事が何の様だろうと、恐れと絶望とが益々深く人心に浸込むは是非も無い。  或いは此の夜め中に太陽の勢いが幾分か衰微するかも知れぬなどと、強いて自ら慰める人も有 ッたけれど、午前三時に及んでは、其の空頼みと云う事が分かり、希望の微光も消えて了ッた。  常ならば尚だ真暗の刻限であるのに、三時少し過ぎに早や東天ヘ太陽の前触れが現われた。昨 夜西の方から立昇ッた怪光が今度は東の方から現われた。.  夜の中に太陽は亜細亜を過ぎ太平洋を過ぎ歩一歩に力を減ずることは無くして却って猛く激し くなった。凄ましい原元子の飛散にも察せられる、従来は最と有難い大燈光であッたのが、今は 世を破壊する大機関とはなッた。  六十二、明るく、又明るく東天は開けて日の出少し前に至ると、空の色が、毎もの天日を直接 に見るが如く、量しくて見て居られぬに至ッた。  六十三、此の様子では、愈ル日が出たら蓮も耐えられる事では無いと思われたが、果してであ ヅた。  出て来た日光は単に光炎の大氾濫である。若し世の中に火の洪水と云う者が有るならば、是が 確かに火の洪水である。  六十四、彼が大西洋岸から、照らして太平洋岸に到るに従い、光線の落つる悉所く火と為ッた、 濡れた織物や卿筒の力で、防ぎ得ようと思ったのが愚かである。  石さえも焼けて砕けた。塔や尖閣などは燃えながらに宛も地震に揺られた如く什れ落ちた。 十七 人類総て死滅す  六十五、恐ろしとも凄ましとも形容に|詞《ことぱ》の無い此の場合に迫ヅては、人たる者は唯何者かの下 に潜り込んで隠れるのみだ。  穴倉へも這込んだ、洞穴にも入ヅた、少しでも蓋や蔽いのある下へは、皆衝入ろうと努めた。 老いも、若きも、富めるも、貧しきも、男も、女も、絶望し混雑し、一塊りと為ッて、互いに他 の身体の下へ滑り込もうと争うた。  斯うなっては人は鰻である。I  六十六、商業杜会や産業杜会で、日頃大達者と立てられて其の名前は家々の守護神の様に人の 口に膳灸して居る大紳商、大紳士も、状は無い。常は其の限り無き富を以て、金力を以て、羨ま れ、敬慕せられ、殆ど世界を支配するほどの威勢の有ッた身が、自分のお仕被せに生活する揃い の法被の下男達と共々に、倒れた建物の隅や、自分の家の穴倉の中や、自分の銀行の倉庫などヘ 混多になって層集した。  最う貴賎も尊卑も無い。  確かに天が人類の数限り無き罪障を焼き亡ぼすものである。彼等は罪障の消滅から逃れようと するのだ、爾は行かぬ。  六十七、地下の理学研究所の中から、助手の人々と共に、外界を観察して居た理学先生は、唯 東方から煙々と光る放射が怒り狂う様に衝来る様を見得たのみだ、其のうちに、研究所の上の扉 が余り熱くなッたから、辿も見ては居られぬとて、一同と共に最下層の暗室ヘ降ッて了ッた。  此の後の事は殆ど記すにも忍びぬ。  暴威を邊しくして居た太陽に忽ち濃黒な雲が掛かッた、此の雲は大西洋から捲起こッたのだ。  六十八、最う大洋の総体が鍋の様に煮却り沸騰して居る。  洋上の空気が益々膨脹するから前にも記した如く怒風を起こし、大鍋から立騰る蒸発気が直ち に雲と為ッて米国の天に広がッたのだ。  六十九、怒風の速力は、人間の想像に絶して居る。其れと共に雲が広がる、其れと共に人工に 成れる一切の事物を吹飛ばした。全く此の風の向かう所には人工の隻影なしだ。  石のうち錯けぬ性質を帯びたのは、先刻既に焼け砕けて、灰となり、徴塵と変じた。家々の |礎《いしずえ》までも今は残らず粉である。此の粉や、微塵が怒風に空中に煽り揚げられ、直ちに空の水気 と合し、泥々の雨と為ッて洪水の如く落ちて来る。  世界は殆ど泥水の底に埋められんとするのである。  七十、其の上に強い電火が天の全面をば、間断なく且つ縦横無尽に光り渉る、之に接する者は 直ちに電殺され電壊さるる筈であるが、最う殺される生物が残ッて居ぬ。  七十一、雲は暗く暗く天を蓋い、雨は強く強く地上の廃残を蔽いた。  七十二、舷に至っては穴倉や倉庫などに密集した人々も助からぬ。  七十三、洪水と為って天から落つる泥々の雨が、熱湯の如くに沸ッて居る。之を浴びれば一時 に貢殺される。  七十四、少しの隙間や割目から、此の泥々の熱湯が流れ込んで、地上の廃残の物は勿論穴倉の 底の物まで、温れるほどに浸された、総ての生物が湯傷に焼け欄れて死絶えた。  無惨 無惨 十八 地の底に生残ッた人 七十五、物と名の附く者は悉く破壊し、 生きとし生ける者悉く打殺された後に唯理学博士の一 族のみは生残ッて居た。彼等は地の底に避難の室を作ッた為に助かッたのだ。尤も此の研究所の 入口に当たる設備は、悉く大熱火の為、大嵐の為、跡方も無く拭い去られた。其れが為彼等は暗 室の最下層に潜んで居た。  云わば衝突して真ッニつに折れた汽船の様な者だ。室の戸を、直接に外から波が推す、是と同 じく彼等の暗室は、上の部分が無くなヅた為、彼の泥水や熱湯などが直接に鉄の戸を圧迫した。  若し此の戸に触わろう者なら、触ッた其の手が直に焼けて了う程であッた。其の様に熱かッた、 けれど戸の隙間などから、中へ洩れて入る熱湯は極めて少なかッた。  七十六、此の室に層集して居る人々が即ち全人類の僅かなる遺族なんだ、此の人々の外に人は 無い、けれど彼等は死んだ人の幸福を羨んだ、斯様な地の底に殆んど生埋め同様と為って活きて 居る其の苦しさは、何も知らずに永眠した人に比し何れほどの不幸かも分らぬ。  七十七、若し舷で、猶此の上に生存して行くか将た死んで了うかを投票したならば、必ず満場 一致で死を議決する所だろう。最う何の希望も無いのだから、成るたけ早く死ぬるのが、最良の 祈願なんだ。  七十八、けれど厄介な事には良心という奴が有る、此の心は太古から無数の年月を経て漸次に 此の人種の脳髄に発達して来たのだから、唯此の心が自分で自分の生命を軽んずることを許さぬ のだ。  七十九、彼等は二年分の食糧を貯蓄してある、其れだから空気と酸素さえ続くなら、まだ二年 は活きて居ることが出来る。所で酸素を製造する機械は、其の材料と共に此の室内に備えてある。  自分達の位地を考えて見ると斯う用意の届いて居ることが、少しも愉快では無い、却ッて苦痛だ。  八十、酸素を絶ッて窒息して死ぬると云う事は、気が答めて出来ず、天性の然らしむる所に従 い、止むを得ず生を続ける丈の手段は尽くす様な者の、生を続ける手段が、苦痛を長引かせる手 段と為るのだ。  八十一、室の中には充分の電燈がある、けれど夜にも昼にも、為す仕事が絶無である、電気を 消して了えば常闇の境と為るのだ。  八十二、全く何事をもせずには居られぬから、其の中の誰か彼かが、時に室の戸を内から検め て見た、何も戸を開いて何う為ようと云う目的が有るでは無い、徒らに、水の圧力が何う変化し たかを見届けようとするのだ。  八十三、少しずつ洩る水が止んで後、久しい間、戸は依然として熱かッた。  次第に時が経ッた、けれど幾日であるか、幾週であるか、幾月であるか、誰も知る者が無い、 其の中に戸は段々に冷え掛けて来た。  愈々外に出でて見る時が近づいた。 十九 再ぴ見たる此の世  八十四、戸の熱さが漸く手を着けられるほどに冷めて後、 てた。  多少の困難は有ったけれど終に戸を開くことが出来た。 理学博士の一族は外に出ることを企  外の様子は何の様である。  先ず室の外に在る通路を見るに、泥々の洪水も全く干たものと見える、唯濃い泥の海と為ッて、 深さが膝の辺まで来る、猶熱い事は熱いけれど火傷するほどの熱湯では無い。  強いて踏込めば渡ることが出来そうだから勇を鼓して踏込むことに成ッた。此の後とても無論 困難はあヅたけれど其れにも挫けず幾多の時を費して到頭広い空気の所へ出た。  八十五、全く外に出て見ると、是は何うだ、夜だか昼だか更に分らぬ、天地の明るく輝いて居 る事は、何れほどの日中でも之には及ばぬ、けれど肝腎の太陽其の者が空に無い。全く太陽は解 けて了ヅた者と見える。  八十六、太陽が無くて何故に斯くは明るい、天地一面に輝いて見ゆるのは何であるか。  他無し太陽が放散して霧の様な族団と為り満天に広がッたのだ。此の霧や水気の霧では無くて 光の霧である。  此の光霧の中や、光霧の下を、更に流れて居るのは|原元子《イオンス》の雲であ昼、之が宛も火の浪の様に 見える。  八十七、而して大気の熱度は、今以て我慢の出来ぬほどに強い。けれど地下の暗室で殆ど蒸せ 死ぬる様な熱さを耐えて来た人々に取ッては幾分か優である。  八十八、初めて此の人々が外界の空気に接した時の心持ちは夢と|現《うつつ》との堺に在る様であヅた。 けれど四辺の景状を一目すれば此の心持ちは直に消えた。  夢で無い、是が真実なんだ。真実としては殆ど想像に絶するほどの恐ろしさであるけれど、全 く世界が斯うなッたのだから致し方が無い。 二十 一切の終末、 博士の断案  八十九、彼等は空しくハットン市の在った方を眺めた。今は町も無い、町の旧跡さえも無い。  彼等は徒らに、誰か助けて呉れる人は無いかと望んだ。誰も無い、てんで、生のある一物だも 目を遮ら曳  九十、人間の隻影も、人工の隻影も残ッては居ぬ、イヤ天工の隻影さえも無くなッたと云う可 き程だ。  九十一、東西南の三方は粘泥の大河と為り、北(即ちハヅトン市の在ッた方)は世界の中央と 立てられ繁昌と活動との心軸と為って居た土地だのに、今は一面の平野と為り(乾いた粘土や黒. い砂や、猶湯気の出る泥などを以て蔽われ、虫一つ居りはせぬ、空気は重く湿ッて一鳥も楴かぬ。  九十二、再び地下の室へ帰るのは放たれた囚人が牢に帰る様なものだ、辿も出来る事で無い、 何処かに見覚えのある事物は残ッて居まいか、何処かに人間の痕跡は無いだろうか其れを捜すに は猶遠く進んで見ねばならぬ。  一語の消息を伝う可き電線は無い事か、乗って行く鉄道は何うなヅた、地を掘る鋤の様な者は 無いか、何処かに種を播く野原は有るまいか。  九十三、彼等は口にこそ出し得ざれ、心の中で斯様な事を問うた、縦しや大声に叫び問うたと て答える山彦さえ有りはせぬ。  九十四、初め博士が種物や食物などを地底の室に取入れた時の心は、万一の場合を予想し、若 しや此の世界に草木や人種が尽きたにしても、自分達で再び万物を繁殖させる積りであッた。  今は此の様な見込みも絶えた。  九十五、彼等の力が次第に尽きると共に天地は寂冥として一切の霊魂を葬むッた。  九十六、博士は悟ッて独語した、是れが最後の言葉である。 「進化の行程は総て此の通りだ、幾百万年、我制統に光を与え此の地上の生命を支えて来た太陽 も老廃して枯死する場合とは為ヅた。  九十七、最早や非常手段に依る外は其の精力を回復する道が無い。  九十八、今は其の非常手敗で若返った、丁度地球などの未だ生れぬ先と同じ太陽に成ッたのだ。 追っては再び同じ仕事に取掛ることも出来るだろう。人種も大革新を得んが為には、死んで生れ 還らねば成らぬ。一個人も同じ事だ。  九十九、此の世に再び生命と云う者が現われ、今よりも更に高等な形に育ッて行くには言葉に 尽くされぬほどの永い永い年代が経たねばならぬ。  百、人間の身にこそ長い千代であれ、一切の因果を統べ給う大御力に取りては数日の様なもの だ。  大御力は優絶な忍耐を以て待給う、其の内には新たな地球と新たな秩序が出来て万物が化育せ られる。丁度吾々の生命が、前代の生命に優る様に、次代の生命は吾々の生命より遠く優ること であろう」