http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/card43563.html 別本 北斎と幽霊 国枝史郎  |文化《ぷんか》年中のことであった。  朝鮮の使節が来朝した。  |家斉《いえなり》将軍の思し召しに依って当代の名家に|屏風《ぴようぷ》を描かせ朝鮮王に贈ることになった。  |柳営絵所預《りゆうえいえどころあずかり》は|法眼狩野融川《ほうげんかのうゆうせん》であったが、命に応じて屋敷に|籠《こも》り|近江八景《おうみはつけい》を|揮毫《きごう》した。 大事の仕事であったので、弟子達にも手伝わせず素描から設色まで融川一人で腕を|揮《ふる》った。 樹木家屋の遠近濃淡、漁舟人馬の往来|坐臥《ざが》、皆狩野の|規矩《きく》に|準《のつと》り、一点の非の打所も無い。 「ああ我ながらよく出来た」  最後の|金砂子《きんすなご》を|蒔《ま》き|了《お》えた時融川は思わず|呟《つぷや》いたが、つまりそれほどその八景は彼には 満足に思われたのであった。  老中若年寄を初めとし|林大学頭《はやしだいがくのかみ》など列座の上、下見の相談の催されたのは年も押し詰 まった|師走《しわす》のことであったが、|衿持《きんじ》することの|頗《すこぷ》る高く|寧《むし》ろ|傲慢《ごうまん》にさえ思われる程の狩野 融川はその席上で|阿部豊後守《あべぷんごのかみ》と争論をした。 「この八景が融川の作か。……見事ではあるが砂子が|淡《うす》いの」  ——何気なく洩らした阿部豊後守のこの一言が争論の基で、一大悲劇が持ち上がったの である。 「ははあ左様にお見えになりますかな」融川はどことなく苦々しく「しかしこの作は融川 にとりまして上作のつもりにござります」 「だから見事だと申しておる。但し少しく砂子が淡い」 「決して淡くはござりませぬ」 「余の眼からは淡く見ゆるぞ」 「|憚《はぱか》りながらそのお言葉は素人評かと存ぜられまする」  融川は構わずこういい切り横を向いて笑ったものである. 「|如何《いか》にも余は絵師では無い。しかしそもそも絵と申すものは、絵師が描いて絵師が|観《み》る、 そういうものでは無いと思うぞ。絵は万人の観る可きものじゃ。万人の|鑑識《めがね》に|適《かな》ってこそ 天下の名画と申すことが出来る。  この八景砂子が淡い。持ち返って手を入れたらどう じゃな」  満座の前で云い出した以上豊後守も引っ込むことは出来ない。是が非でも押付けて一端 は自説を貫かねば老中の|貫目《かんめ》にも係わるというもの、|尤《もつと》も先祖|忠秋《ただあき》以来ちと|頑固《かんこ》に出来て もいたので、他人なら笑って済ます所も、|肩肘《かたひじ》張って押通すという野暮な|嫌《きらい》も無くは無かっ た。  狩野融川に至っては融通の利かぬ骨頂で、今も昔も変りの無い芸術家|気質《かたぎ》というやつで あった。これが同時代の|文晃《ぷんちよう》ででもあったら|洒落《しやれ》の一つも飛ばせて置いてサッサと屏風 を引っ込ませ、気が向いたら砂子も蒔こう|厭《いや》なら蒔いたような顔をして、数日経ってから 何食わぬ|態《てい》で|復《また》持込むに違いない。いかに豊後守が頑固でも二度とは決してケチもつけま い。 「おおこれでこそ立派な出来。名画でござる、名画でござる」などと褒めないものでも無 い、 「オホン」とそんな時は大いに気取って空の|咳《せき》でもせい《、、》て置いてさて引っ込むのが策の上 なるものだ。  それの出来ない融川は|所謂《いわゆる》悲劇の主人公なのでもあろう。  持返って手入れせよと、素人の豊後守から指図をされ融川は|颯《さつ》と顔色を変えた。|急《せ》き立 つ心を|抑《おさ》えようともせず、 「|御掟《ごじよう》ではござれど左様なこと融川お断り申し上げます! 最早手前と致しましては加筆 の必要認めませぬのみかかえって蛇足と心得まする」 「えい|自惚《うぬぼれ》も大抵にせい!」豊後守は|嘲笑《あざわら》った。「|唐徽宗皇帝《もろこしきそうこうてい》さえ苦心して描いた|牡丹《ぼたん》の 図を、名も無い田舎の百姓に依って季節外れと|嘲《あざけ》られた為め描き改めたと申すではないか。 役目を以て申付ける。持ち返って手入れを致せ!」  老中の役目を真向にかざし豊後守はキメ付けた。しかし|頑《かたくな》の芸術家はこうなってさえ折 れようとはせず、蒼白の顔色に|痙攣《けいれん》する|唇《くちぴる》、畳へ突いた手の爪でガリガリ畳目を|掻《か》きなが ら、 「融川断じてお断り。……融川断じてお断り。……」 「老中の命に背く気か!」 「|身不肖《みふしよう》ながら狩野|宗家《そうけ》、もったいなくも絵所預、日本絵師の|総管軸《そうかんじゆく》、|然《しか》るにその作入れ られずとあっては、家門の恥辱にござります!」  彼は俄然笑い出した。 「ワッハッハッハッこりゃ面白い! |他人《ひと》に|刎《は》ねられるまでも無い。|自身《みずから》出品しないまで よ。……何を苦しんで何を描こうぞ。|盲目《めくら》千人の世の中に|自身《みずから》出品しないまでよ!」  融川はつと|立《ヘヘ》ち上がったが見据えた眼で座中を睨む……と、スルスルと部屋を出た。  一座|寂然《せきぜん》と声も無い。  ひそかに|唾《つぱ》を呑むばかりである。  その時|日頃《ひごろ》融川と|親《したし》い、林大学頭が|膝行《にじ》り出たが、 「豊後守様まで申し上げまする」 「   」 「狩野融川儀この数日来頭痛の気味にござりました」 「ほほう成程。……おお左様であったか」 「本日の無礼も恐らくその為め。……|何卒《なにとぞ》お許し下されますよう」 「病気とあればぜひも無いのう」  ——ちと云い過ぎたと思っていた矢先|執成《とりな》す者が出て来たので早速豊後守は|委《まか》せたので あった。ーしかし|夫《そ》れは遅かった。悲劇はその|間《ま》に起こったのである。 二  丁度同じ日のことであった。  |葛飾北斎《かつしかほくさい》は江戸の町を|柱暦《はしらごよみ》を売り歩いていた。  北斎といえば一世の画家、その|雄勁《ゆうけい》の線描写とその奇抜な取材とは、古今東西の|比《ひ》を見 ずといわれ、ピカソ|辺《あた》りの表現派絵画と脈絡通ずるとまで持て|囃《はや》されているが、それは大 正の今日のことで、北斎その人の活きていた時代1わけても彼の壮年時代は、ひとく |悲惨《みじめ》なものであった。第一が無名。第二が貧乏。第三が無愛想で人に憎まれた。彼の履歴 を見ただけでも彼の|不遇振《ふぐうぷり》を知ることが出来よう。 「幕府|用達鏡師《ようたしかがみし》の子。|中島《なかじま》又は|木村《きむら》を姓とし初め|時太郎後鉄蔵《ときたろうのちてつぞろ》と改め、|春朗《しゆんろう》、|群馬亭《ぐんまてい》、 |菱川宗理《ひしかわそうり》、|錦袋舎《きんたいしや》等の号あれども葛飾北斎|最《もつと》も現る。彫刻を|修《おさ》めて遂に成らず、|尋《つい》で狩野 融川に就き狩野派を学びて奇才を愛せられ|将《まさ》に大いに用いられんとしたれど、|不遜《ふそん》を以て 破門せらる。これより|勝川春章《かつかわしゆんしよう》に従い設色を以て賞せられたれども師に対して礼を欠き、 春章怒って|放逐《ほうちく》す。以後全く師を取らず|俵屋宗理《たわらやそうり》の流風を慕い|旁《かたわら》|光琳《こうりん》の骨法を尋ね、更 に|雪舟《せつしゆう》、|土佐《とさ》に|遡《さかのぼ》り、|明人《みんじん》の画法を|極《きわ》むるに至れり」  |云《うんぬん》々というのが大体であるが、勝川春章に追われてから真の|御難場《ごなんぱ》が来たのであった。 要するに師匠と離れると共に|米櫃《こめぴつ》の方にも離れたのである。  彼は或時には役者絵を描き又或時には|笑絵《わらいえ》をさえ描いた。頼まれては|手拭《てぬぐい》の模様更に引 札の図案さえもした。それでも彼は食えなかった。顔を隠して江戸市中を|七色唐辛子《なないろとうからし》を売 り歩いたものだ。 「辛い辛い七色唐辛子!」  こう呼ばわって売り歩いたのである。彼の眼からは涙がこぼれた。 「絵を断念して|葛飾《かつしか》へ帰り土を掘って世を渡ろうかしら」——|遂《とうとう》々こんなことを思うよう になった。  やがて師走が|音信《おとず》れて来た。  暦が家々へ配られる頃になった。問屋へ頼んで安く卸して貰い、彼はそれを肩に担ぎ、 「暦暦、|初刷《はつずり》暦!」  こう呼んで売り歩いた。 「暦を売って儲けた金でともかくも葛飾へ行って見よう。名主の|鹿野紋兵衛《しかのもんべえ》様は日頃から |俺《わし》を可愛がって下さる。あのお方にお|縋《すが》りして田地を貸して頂こう。俺には小作が相応だ」  ひどく心細い心を抱いて、今日も|深川《ふかがわ》の|住居《すまい》から|神田《かんだ》の方まで|遣《や》って来たが、不図気が 付いて|四辺《あたり》を見ると、|鍛冶橋《かじぱし》狩野家の門前である。 「南無三宝、これは耐らぬ」  あわてて彼は逃げかけた。しかし一方恋しさもあって逃げ切って|了《しま》うことも出来なかっ た。向いの家の軒下へ人目立たぬように身を|窃《ひそ》め、|冠《かぷ》った手拭の結びを締め、ビユーッと 吹き来る師走の風に|煽《あお》られて掛かる粉雪を、袖で打ち払い打ち払いじっと門内を|隙《す》かして 見たが、松の|前栽《ぜんさい》に隠されて玄関さえも見えなかった。 「別にご来客も無いかして供待ちらしい人影もない。……お師匠様にはご在宅かそれとも 御殿へお上りか? 久々でお顔を拝したいが破門された身は訪ねもならぬ。……思えば|俺《わし》 もあの頃は毎日お邸へ参上し、親しくご|薫陶《くんとう》を受けたものを思わぬことからご機嫌を損じ、 |宇都宮《うつのみや》の旅宿から不意に追われたその時以来、幾年となくお眼にかからぬ。身から出た|錆《さぴ》 でこの有様。思えば恥しいことではある」  述懐めいた心持で立ち去り難く|停《たたず》んでいた。  |寛政《かんせい》初めのことであったが、|日光廟《につこうぴよう》修繕の為め幕府の命を承り狩野融川は北斎を連れ て日光さして発足した。途中泊ったのは|蔦屋《つたや》という狩野家の従来の|定宿《じようしゆく》であったが、余 儀無い亭主の依頼に依ってほんの席画《せきか》の心持で融川は布へ筆を揮《ふる》った。童子採柿《どうじさいし》の図柄で ある。|雄渾《ゆうこん》の筆法|閑素《かんそ》の構図。意外に上出来な所から融川は得意で北斎にいった。 「中島、お前どう思うな?」 「はい」と云ったが北斎はちと|腑《ふ》に落ちぬ|顔色《かんしよく》であった、「竿が長過ぎはしますまいか」 「何?」と融川は驚いて訊く。 「童子は爪立っておりませぬ。爪立ち採るよう致しました方が活動致そうかと存ぜられま す」|憚《はぱか》らず所信を述べたものである。  |衿持《きんじ》そのもののような融川が弟子に鼻柱を|挫《くじ》かれて|嚇怒《かくど》しない筈が無い。  彼は|焦《いら》ってこう怒鳴った。 「爪立ちするは大人の智恵じゃわい1 なんの童子が爪立とうぞ! |痴者《たわけもの》めが! |愚者《おろかもの》 めが!」        三  しかし北斎にはその言葉が|頷《うなず》き難く思われた。『爪立ち採るというようなことは童子と いえども知っている筈だ』-こう思われてならなかった。でいつまでも黙っていた。こ の|執念《しゆうね》い沈黙が融川の心を破裂させ、破門の宣告を下させたのである。 「それもこれも昔のことだ」こう呟いて北斎は尚もじっと|佇《ヘヘヘ》んでいたが、寒さは寒し人は 怪む。意を決して歩き出した、  ものの三町と歩かぬうちに行手から見覚えある|駕籠《かご》が来た。 「あああれは狩野家の乗物。今御殿からお帰りと見える。……どれ片寄って蔭ながら、様 子をお伺いすることにしよう」  ——北斎は商家の板塀の蔭へ急いで体を隠したがそこから往来を眺め遣った。  今日が今年の初雪で、小降りではあるが止む時無く先刻から|際《ひま》なく降り続いたためか、 |往来《みち》は仄かに白み渡り、|人足《ひとあし》絶えて寂しかったが、その地上の雪を踏んでシトシトと駕籠 がやって来た。  今北斎の前を通る。  と、タラタラと駕籠の底から、雪に滴るものがある。……北斎の見ている眼の前で雪は |紅《くれない》と一変した。 「あっ」  と叫んだ声より早く北斎は駕籠先へ飛んで行ったが、 「これ、駕籠止めい駕籠止めい!」  グイと棒鼻を突き返した。 「|狼籍者《ろうぜきもの》!」  と駕籠|側《わき》にいた、二人の武士、狩野家の弟子は、刀の|束《つか》へ手を掛けて、|楓《さつ》と前へ躍り出 した。 「何を|痴《たわけ》! |迂闊者《うかつもの》めが1 御師匠の一大事心付かぬか! |卸《おろ》せ卸せ! えい戸を開けい」  北斎の声の|凄《すさま》じさ。気勢に打たれて駕籠は卸りる。冠った手拭かなぐり捨て、ベッタリ と雪へ膝を突き、グイと開けた駕籠の扉。プンと鼻を刺すは血の匂いだ。 「御師匠様。……」  と忍び|音《ね》に、ズッと駕籠内へ顔を入れる。  融川は俯向き|首垂《うなだ》れていた。膝からかけて駕籠一面飛び散った血で|紅斑《こうはんはん》々、|呼息《いき》を刻む 肩の|揺《ゆ》れ、腹はたった今切ったと見える。 「無念」  と融川は首を上げた。下唇に鮮かに五枚の歯形が着いている。喰いしばった歯の跡であ る。……額にかかる|鬢《ぴん》の|乱《みだれ》。顔は藍より蒼白である。 「そ、|其方誰《そちたれ》だ? 其方誰だ?」 「は、中島めにござります.は、鉄蔵めにござります……」 「無念であったぞ!……おのれ豊後!」 「お気を確かに! お気を確かに!」 「……一身の面目、家門の|誉《ほまれ》。腹切って取り止めたわ!……いずれの世、いかなる|代《だい》にも、 認められぬは名匠の苦心じゃ!」 「ご|尤《もつと》もにござります。ご尤もにござります!」 「ここはどこじゃ? ここはどこじゃ?」 「お屋敷近くの往来|中《なか》    薬召しましょう。お手当なさりませ」 「無念!」  と融川はまた|呻《うめ》いた。 「駕籠やれ!」  と云いながらガックリとなる。  はっと|気《ヘヘ》が付いた北斎は駕籠の戸を立てて飛び上った。それから静にこう云った。 「狩野法眼様ご病気でござる。駕籠ゆるゆるとお遣りなされ」  変死とあっては後がむつかしい。病気の態にしたのである。  ちらほらと|立《ヘヘヘヘ》つ人影を、先に立って追いながら、北斎は悠々歩いて行く。  この時ばかりは彼の姿もみすぼらしいものには|見《ちへちヘヘヘ》えなかった。  その夜|遂《とうとう》々融川は死んだ。  この|報知《しらせ》を耳にした時、豊後守の|驚愕《きようがく》は|他《よそ》の見る眼も気の毒な程で、 |怏《おうおう》々として楽し まず自然|勤務《つとめ》も怠りがちとなった。  これに反して北斎は一時に|精神《こころ》が|緊張《ひきし》まった。 「矢張り師匠は偉らかった。威武にも屈せず権力にも恐れず、堂々と所信を|披瀝《ひれき》した揚句、 身を殺して|顧《かえりみ》なかったのは大丈夫でなければ出来ない|所業《しわざ》だ。……これに比べては貧乏な どは物の数にも入りはしない。|荻生徂徠《おぎろそらい》は|妙豆《いりまめ》を|噛《かじ》って古人を談じたというではないか。 豆腐の|殻《から》を食ったところで活きようと思えば活きられる。……葛飾へ帰るのは|止《や》めにしよ う。矢張り江戸に止どまって絵筆を握ることにしよう」  1大勇猛心を|揮《ふる》い起したのであった。 四  こういうことがあってから殆ど|半歳《はんとし》の日が経った。依然として北斎は貧乏であった。  或日|大店《おおだな》の番頭らしい立派な人物が訪ねて来た。  主人の子供の節句に飾る、|幟絵《のぼりえ》を頼みに来たのである。 「他に立派な絵師もあろうにこんな|俺《わし》のような|無能者《やくざもの》に何でお頼みなさるのじゃな?」  例の無愛相な物云い方で北斎は不思議そうに先ず|訊《たず》ねた。 「はい、そのことでございますが、|私所《わたくしところ》の主人と申すは、|商人《あきうど》に似合わぬ風流人で、日 頃から書画を好みますところから、|文晃《ぷんちよう》先生にもご|贔屓《ひいき》になり、その方面のお話なども |様《さまざま》々承わっておりましたそうで、今回節句の|五月幟《さつきのぼり》に就き先生にご意見を承わりました ところ、|当今《とうこん》浮世絵の名人と云えば北斎先生であろうとのお言葉。主人大変喜ばれまして 早速私に|罷《まか》り越してぜひともご依頼致せよとのこと、さてこそ本日取急ぎ参りました次第 でござります」 「それでは文晃先生が|俺《わし》を推薦下されたので?」 「はい左様にござります」 「むう」  と|俄《にわか》に北斎は腕を組んで|唸《うな》り出した。  当時における谷文晃は、|田安中納言家《たやすちゆうなごんけ》のお抱え絵師で、その生活は小大名を|凌《しの》ぎ、ま ことに素晴らしいものであった、、その屋敷を|写山楼《しやざんろう》と名付け、そこへ集まる人達は|所謂《いわゆる》一 流の|紳縉《しんしん》ばかりで、浮世絵師なとはお百度を踏んでも対面することは難しかった。——そ の文晃が意外も意外自分を褒めたというのだから|如何《いか》に|固陋《ころう》の北斎といえども感激せざる を得なかった。 「よろしゅうござる」  と北斎は、喜色を現して云ったものである。 「思うさま腕を揮いましょう。承知しました|屹度《きつと》描きましょう」 「これはこれは早速のご承引、主人どれほどにか喜びましょう」  こういって使者は辞し去った。  北斎はその日から客を辞し家に籠って外出せず、画材の工夫に|神《しん》を凝らした。——あま りに固くなり過ぎたからか、いつもは湧き出る空想が今度に限って湧いて来ない。  思いあぐんで或日のこと、日頃信心する|柳島《やなぎしま》の|妙見堂《みようけんどう》へ参詣した。その|帰路《かえりみち》のことで あったが俄に夕立に襲われた。雷嫌いの北斎は青くなって|狼狽《ろうぱい》し、田圃道を一散に飛んだ。  その時眼前の|榎《えのき》の木へ火柱がヌッと立ったかと思うと四方一面深紅となった。耳を|聾《ろう》す る落雷の音! 彼はうんと気絶したがその瞬間に一個の|神将《しんしよう》、|頭《かしら》は高く雲に聳え足はしっ かりと土を踏み数十丈の高さに現れたが——荘厳そのもののような姿であった。  近所の農夫に助けられ、駕籠に身を乗せて家へ帰るや、彼は即座に絹に向った。筆を|呵《か》 して描き上げたのは燃え立つばかりの|鍾馗《しようき》である。前人未発の赤鍾馗。|紅《へに》一色の鍾馗であっ た。  これが江戸中の評判となり彼は一朝にして有名となった。彼は初めて自信を得た。続々 名作を発表した。『富士百景』『狐の嫁入』『百人一首絵物語』『北斎漫画』『朝鮮征伐』『|庭 訓往来《ていきんおうらい》』『北斎画譜』——いずれも充分芸術的でそうして非常に独創的であった。  彼は有名になったけれど決して金持にはなれなかった。|貨殖《かしよく》の道に|疎《うと》かったからで。  彼は度々|住家《いえ》を変えた。彼の移転性は名高いもので一生の間に江戸市中だけで、八十回 以上百回近くも|転宅《ひつこし》をしたということである。越して行く家越して行く家いずれも|穢《きたな》いの で有名であった。ひとつは物臭い性質から、ひとつは勿論家賃の点から、貧家を|選《えら》まざる を得なかったのである。  それは|根岸御行《ねぎしおぎよう》の|松《まつ》に住んでいた頃の物語であるが、或日立派な侍が沢山の進物を供に 持たせ北斎の|陋屋《ろうおく》を訪れた。 「主人阿部豊後守儀、先生のご高名を承わり、入念の直筆頂戴いたしたく、旨を奉じて |某事《それがしこと》本日参上致しましてござる。この儀ご承引下されましょうや?」  これが使者の口上であった。  阿部豊後守の名を聞くと、北斎の顔色は俄に変った、物も云わず腕を組み冷然と侍を見 詰めたものである。  ややあって北斎はこう云った。 「どのような絵をご所望かな?」 「その点は先生のお心次第にお任せせよとのご|諚《じよう》にござります」 「左様か」  と北斎はそれを聞くと不意に|凄《すご》く笑ったが、 「心得ました。描きましょう」 「おおそれではご承引か」 「いかにも入念に描きましょう。阿部様といえば|譜代《ふだい》の名門。かつはお|上《かみ》のご|老中《ろうじゆう》。左様 なお方にご依頼受けるは絵師|冥利《みようり》にござります。あっとばかりに|驚《ヘヘ》かれるような珍しいも のを描きましょう。 フフフフ承知でござるよ」 五  その日以来門を閉じ、一切来客を謝絶して北斎は仕事に取りかかった。弟子は勿論家人 といえども画室へ入ることを許さなかった。  彼の意気込は物凄く、態度は全然|狂人《きちがい》のようであった。……こうして実に二十日間とい うもの画面の前へ坐り詰めていた。何を一体描いているであろう? それは誰にも解らな かった。とにかく彼はその絵を描くに|臨本《りんぽん》というものを用いなかった。今日の所謂モデル なるものを用いようとはしなかった。彼はそれを想像に依って  或は|寧《むし》ろ追憶に依って、 描いているように思われた。  こうして彼は二十日目に|遂《とうとう》々その絵を描き上げた。  彼は深い溜息をしたcそうしてじっと|画《ヘヘヘ》面を見た。彼の顔には疲労があった。|疲労《つか》れた その顔を|歪《ゆが》めながら会心の笑みを洩らした時には、かえって寂しく悲しげに見えた。  クルクルと絵絹を巻き納めると用意して置いた白木の箱へ、静かに入れて封をした。  どうやら安心したらしい。  翌口阿部家から使者が来た。 「このまま殿様へお上げ下され」  北斎は云い云い白木の箱を使者の前へ差し出した。 「かしこまりました」  と一礼して、使者は直ぐに引き返して行った。  ここで物語は阿部家へ移る。  阿部家の夜は更けていた。  豊後守は居間にいた。たった今|柳営《りゆマえい》のお|勤《つとめ》先から自宅へ帰った所であってまだ|裳束《しようぞく》を 脱ぎもしない。 「北斎の絵が描けて参ったと? それは大変速かったの」  豊後守は満足そうに、こう云いながら手を延ばし、使者に立った侍臣|金弥《きんや》から、白木の 箱を受け取った。 「どれ早速一見しようか。それにしても剛情を以て世に響いた北斎が、よくこう手早く描 いてくれたものじゃ。使者の口上が宜かったからであろうよ。ハハハハハ」  とご機嫌がよい。  先ず箱の紐を解いた。つづいて|封目《ふうじめ》を指で切った。それからポンと蓋をあけた。絵絹が 巻かれて|這入《はい》っている。 「金弥、|燈火《あかり》を掻き立てい。……さて何を描いてくれたかな」  呟きながら絵絹を取り出し膝の前へ|窃《そ》っと置いた。 「金弥、|抑《おさ》えい」  と命じて置いて、スルスルと絵絹を延べて来たが、延べ終えてじつと|眼《ヘヘヘ》を付けた。 「これは何だ?」 「あっ.幽霊!」  豊後守と金弥の声とがこう同時に筒抜けた。 「おのれ融川!」  と次の瞬間に、豊後守の叫び立てる声が、深夜の屋敷を驚かせたが、つづいて「むう」 という|唸声《うなりごえ》、……どんと|物《ヘヘ》の|仆《たお》れる音。……豊後守は気絶したらしい。  幽霊といえば|応挙《おうきよ》を想い、応挙といえば幽霊を想う。それほど応挙の幽霊は有名なもの になっているが、しかし北斎が思う所あって豊後守へ描いて送った『駕籠幽霊』という妖 怪画は可成り有名なものである。  |白皚《はくがいがい》々たる雪の夕暮。一丁の駕籠が捨てられてある。駕籠の中には老人がいる。露出し はらわた ちしお うらみ た腸。飛び散っている血汐。怨に燃えている老人の眼! それは人間の幽霊であり復た幽 霊の人間である。そうしてそれは狩野融川である。 「そうです私は商売道具で、つまり絵具と筆と紙とで、師匠の|仇《あだ》を討とうとしました。豊 後守様が剛腹でも、あの絵を一眼ごらんになったら気を失うに相違ないと、こう思ってあ の絵を描いたのでした。  私の考えはあたりました。思惑以上に当りました。あれから間も無く豊後守様はお役を お|退《ひ》きになられたのですからね。  私は|溜飲《りゆういん》を下げましたよ、そうして私は自分の腕を益々信じるようになりましたよ。 しかし私は二度と再び幽霊の絵は描きますまい。|何故《なぜ》と|仰有《おつしや》るのでございますか? |理由《わけ》 はまことに簡単です。たとえこの|後《のち》描いた所で到底あのような力強い絵は二度と出来ない と思うからです」  これは|後年《こうねん》或人に向って北斎の洩らした述懐である。