赤坂城の謀略 国枝史郎 一 (これは駄目だ)  と|正成《まさしげ》は思った。 (兵糧が尽き水も尽きた。それに人数は僅か五百余人だ。然るに|寄手《よせて》の勢と来ては、二十万人 に余るだろう。それも笠置を落城させて、意気軒昂たる者共だ。しかも長期の策を|執《と》り、この 城を遠征めにしようとしている。とうてい篭城は覚束ない)  そこで、正成は将卒をあつめ、しみじみとした口調で申し渡した。, 「この間は|数箇度《すかど》の合戦に打ち勝ち、敵を亡ぼすこと数を知らず、正成くれぐれも有難く思う ぞ。が、敵大勢なれば物の数ともせず、囲みを解いて去るべくも見えぬ。然るに城中はすでに 食尽き、楓免の来る望みもない。……元来天下の衆に先立ち、蠣鱗の功を志す以上、節に当り 義に臨んでは・命を鷹むべきではない。とはいえ事に臨んで恐れ、は誕、ぎ好んで為すは勇士の 為すところと、既に孔夫子も申しておる。されば暫くこの城を落ちて、正成自害したる態にな し、敵の耳目を一時眩まそうと思う。……正成自害したりと思はば、関東勢さだめて喜びをな し、下向するに相違ない。下らば正成打って出で、また上らば山野にかくれ、四五回東国勢を 悩まさんか、彼等といえども退屈するである、この時を以て敵を灘沸するこそ妙策!」  これを聞くと将卒共はしばらくの間は、言葉も出さず黙っていたが、やがて口々に云い出し た。 「葎伽の講誰にござりまする。粗略あろうとは存じられませぬ」 「早々御落去なさりませ」 「再挙の時こそ待ち遠しゅうござりまする」  そういう将卒の顔には、何等の|憂《うれい》の影もなかった。                   こうめい ちようりよ.P  我等か信ずる多門兵衛様が1日本の孔明、張良が、城を開こうとするのてある。開くへ き筋があればこそ、こうして城を開くのであって、尋常一様の落城ではない。IIという考え があるからであった。 (では)  と正成は決心し、城の落ちる日を心待ちに待った。  その間に正成は士卒を督し、城中に大なる穴を掘らせ、堀の中にて討たれた死人の中、二三 十人ばかりを持ち来たしその穴の中へ麟灘させ、その上に嵐へ藻"を積み重ねさせた。  と、幸いにもその翌々日、風雨はげしく荒れた。 (時こそ来たれり)  と正成は思い、この赤坂城にそれ以前から、お|篭《こも》りあそばされた|護良親王様《もりながしんのうさま》を、まず第一に 落し参らせ、つづいて将卒を落しやり、火かくる|者《ちヤ 》一人をとどめ置き、舎弟の七郎|正季《まさすえ》や、和 田正遠等を従えて、自身も|蓑笠《みのかさ》に身をやつし、ひそかに城を|忍《しの》び出た。  それとも知らない寄手の勢は、陣屋陣屋の戸をとざし、この吹降りには城兵といえども、よ もや夜討などかけまいと、安心しきって眠っていた。  と、正成たちは忍びやかに、寄手の陣屋の前を通り、千早の方へ潜行した。 「誰だー・」  と突然声がかかった。  寄手の大将長崎|四郎左衛門尉《しろうざえもんのじよう》、この人の陣屋の|厩《うまや》の前に、さしかかった時であった。  淀郁に正成もハッとしたが、 「これは大将御内の者でござるが、道に踏み迷うてかくの通り」  と、早速に云い放して足を早めた。 「怪しい曲者」 「射て、討ちとれ!」  声に応じて|弦鳴《つるな》りがし、正成の左腎に矢があたった。 (南無三宝)  と正成は思った。  が、不思議にも矢が立っていない。 (はてな?)  と思いながら数町走り、そこで初めて腎を調べてみた。  日頃信じて|読諦《どくじゆ》し奉る、観音経を入れた守袋にい矢の立った|痕《あと》があらわれていた。 (神仏の加護)  と正成は思った。 (神の界に属しまつる宮方に、お味方仕るこの正成に、神仏の加護あるは必定か、それにいた   かたで しても恭けなし)  こう思わざるを得なかった。  二十町あまりも落ちのびた時、今まて篭城していた赤坂城に1寄手の関東勢二十余万人を、 錫鼎投大木、熱湯かげで、防ぎ苦しめた赤坂城に、麟伊高く上ったのが見えた。 (穴の中の死骸の焼けたのを見て、正成自害したと思うであろうよ)        二  一里あまりも落ちのびた時、行手に数人の人影が見え、 「多門兵衛か」  と吉ノがかかった。 「これは宮様にござりまするか」  然う・そこにお立ちになられたは・いつか山伏風に身をやつされ、その上を蓑笠で磁いあそ ばされた、大塔宮護良親王様と、同じ姿の七人の家来、村上彦四郎義光や、平賀三郎や片岡八 郎等であった。 「御武運ひらきますでござります」  云い云い正成は守袋を取り出し、敵に射かけられた矢が身にあたらず、これにあたったこと をお物語りした。 「神仏は神仏を信ずる者にのみ、そのあらたかの加護を与うるものじゃ。……|人君《じんくん》に忠節を尽 くす者は、その全き同じ至誠を以て、神仏を信じ|崇《あが》めるものじゃ」と、親王様には|厳《おごそ》かに仰せ られた。「正成、そちに神仏の加護ある、当然至極のことと思うぞ」  深い感動が人々の心に、一瞬間産まれ出た。  |四辺《あたり》の木立を揺がすものは、なお止まない雨と風とであり、闇夜を赤く染めているものは、 燃えている赤坂城の火の光であった。  その火の光を眺めては、さすがに正成の心中にも、感慨が湧かざるを得なかった。  |河内《かわち》の国の一豪族の身が、一天万乗の君に見出され、たのむぞよとの御言葉を|賜《たま》わった。何 んたる一族の光栄であろう。尽忠の誠心を披渥して、皇恩に御酬い致さねばならぬ。こう、ひ たむきに決心し㌃功名も望まず栄誉も願わず、嵐擁繍…なの識応駕以来の、忠心義胆が血とな り涙となって、皇家へ御奉公仕ろうと、そう決心したのであった。  その御奉公の最初の現われが、赤坂築城であり、義兵の旗あげであり、そうして今度の篭城 戦であった。  |誰計《きけい》のためとは云いながら、その城が燃えているのである。 (ナー二)  と正成はすぐに思った。 (そうだ|一旦《いつたん》は敵に渡す。 が、 やがて|奪回《とりかえ》して見せる)        * 大塔宮様が熊野方面に落ち・く橘き轟が霞鐸の間に・職踵っ灘して再挙を計るべく赤 坂の城をこうして開いたのは、元弘元年十月の、二十一日のことであった。  が、約半年の月日が経って、翌年の四月になった時、正成はふたたび活動をはじめ、わずか 五百の兵を以て、まず赤坂の城を攻め、城将湯浅定仏を降し、その兵を合わせて二千となし、 住吉天王寺辺へ打って出で、渡辺橋の南に陣を敷いた。  両六波羅探題の周章狼狽は、|外目《よそめ》にも笑止の程であって、|隅田《すみた》通治、高橋宗康、この両将に 五千の兵を付け、急遽討伐に向わせた。  そこで正成は二千の精兵を、まず三つの隊に分かち、天王寺の付近にかくし伏せ、外に弱卒 三百をして、橋を守らせ、機会を待った。  隅田、高橋はその弱卒を見て、大いに笑い|突撃《とつげき》した。三百の卒は一散に逃げた。  それを追って、隅田、高橋の勢が、天王寺付近にさしかかった時、伏兵が三方からあらわれ た。  隅田、高橋の勢の狼狽すまいことか! 「誰計ぞ!」とばかり退き逃げたが、正成の勢に追い討たれ、或いは川に|溺《おぼ》れて死に、全軍こ とごとく意気沮喪し、二将は京都へ引あげた。  そこで正成は悠々と、天王寺の地へ陣を敷き、京都へ攻めのぼるべき気勢を示した。 と、その時二度目の討手として、宇都宮治部大輔公綱が、向い来るという取沙汰が聞えて来 た。 *  七月××日の夜のことであった。正成の天王寺の陣営で、河内の国の住人和田孫三郎は、額 の汗をふきふき、正成へ情勢を|報知《しら》せていた。 、……そのような事情にござりまして、争鶴齢蝶概櫛、醜にも帰えらず、六波羅殿よりすぐに 打ち立ち、主従わずかに十五騎にて、天王寺へ向いましてござりまするが、洛中におりました るところの|兵《つわども》ども、それと聞き伝え馳せ加わり、四塚作道に達しました頃には、五百|余騎《よき》にな りましてござりまする。その行動の果敢なる、権門であれ勢家であれ、路次にて一旦|避遁《かいこう》しま ん迂ます 構回われ えりば 「成程」 乗馬を奪い、従者を役夫とし、躊路するところござりませぬ。そのため旅人は路程を 家々では|扉《とぼそ》を閉じまするような有様。既に|柱松《はしらもと》に陣を取り、明朝此方へ取りかから 必死に見えましてござりまするL 三 と正成は聞き終ると、しばらくじっと考え込んだ。 「正遠」とややあって正成は、傍につつましく控えている、一族の和田五郎正遠へ微笑を含ん で声をかけた。「意見あろう申してみい」 「は」と云うと正遠は、ユサリと一膝すすめたが、「先般隅田、高橋の勢の、五千余騎をさえ 渡辺の橋にて、追い崩しましてござりまする。かかる我君の|手腕《てなみ》にも恐れず、|公綱《きんつな》わずか七百 余騎にて二千余騎のわが軍に向うというは、先般の負戦に負腹たて、無二無三に仕掛くるもの と存じまする。謂はば羅鷹の勇、何程のことがござりましょう。それに反しましてお味方 の勢は、勝に乗りまして意気軒昂、然らば今夜|逆寄《さかよ》せ仕り、一挙に追い散らしあそばすこそ、 肝要かと愚考いたされまする」。「一理はある」と、正成は云った。「が、それでは味方も損ず るよ」 「 「鶴鞍の勝|敗《し》と申すもの、必ずしも大勢小勢にはよらぬ。ただただ兵の志が、一になるかなら ぬかにある。……公綱が行動を案ずるに、先般関東方我に破られ、面目を失して帰りし後、小 勢にて向い来し志・生きて帰らぬ覚悟であろう。それに公綱は弓矢とっては、櫨薦一と称さる る人物。従う緬瀞両党の兵は、宇都宮累世養うところのもの、戦場に灘て命を棄つること、蟹 |埃《あい》の如く思いおる|輩《ともがら》じゃ。その兵七百余騎志を合わせ、決死を以て|当手《とうて》に向はば、当手の兵大 半は討たれるであろう。関東討伐、朝権恢復、こへ軽ぞ以て決しはせぬ。行末遥の戦に多から ぬ味方を失うては、取り返しならぬこととなろう。……正成、今宵陣を引く所存じゃ」 「ご退陣?」と、正遠も、孫三郎も、驚いたように眼を見張った。「一戦もお交しあそばされ ずに?L 「一旦|退《の》いてまた乗っ取るのじゃ」 「     」 「味方を傷つけず敵も傷つけぬためにな」 「     」 「公綱に恩を施すともいえる」 「 も《し》|ろ 「宇都宮公綱は律義者じゃ。義に厚く情に脆い。坂東武者の典型でもあろうよ。ただ不幸にし て|順逆《じゆんぎやく》の道を誤り、今こそ朝家に弓引いておるが、一旦の恩に志を|翻《ひるが》えし、皇家無二の忠臣 として、|尽痒《じんすい》せぬとも限られぬ。……正成が為んよう見て居るがよいぞ」  暁近くなった時、正成の本陣をはじめとし、和田正遠、湯浅定仏、その他楠家一党の陣は、 ひそかに粛々と伍をととのえ天王寺から引きあげた。 *  一方宇都宮治部大輔公綱は、東の空の白むと見るや、七百余騎を引率し、天王寺さして|藩《まつし》 堪に押し寄せ・古争静の民家へ火をかけて、睡の声をドッとあげた。  京都あまりに無勢とあって、両六波羅探題北條時益、同じく北條仲時によって、わざわざ関 東から呼びよせられ、京都守護をまかせられた、武功名誉の公綱であった。隅田、高橋の両武 将が、もろくも鹿戯のために渡辺の橋で破られ、関東の即励を晃蟹するや「大軍すでに利を失 いました後、小勢を以て向いますること、纏あらんかとは存じまするが、関東を騒り出でま する際、このようなお大事に巡り合い、命を軽ういたすを以て、念願といたしおりましたる私、 |駆《か》け向いまするでござりましょう。今の場合を観じまするに、戦いの勝敗そのものを、|云為《うんい》い たす時にてはござりませぬ。何はあれ一人にても駈け向い、落ちました関東の武威を揚げます こと、|肝要《かんよう》のことかと存ぜられまする」と、こう|言上《ごんじよう》して向って来た公綱であった。  決死の程が想像されよう。  さて、然うドッと|囲《とき》をあげた。  然るに答える者はなく、駈け出して来る兵もなく、椴忠の陣営には、勢きすてられた麟バ、 釦臓を上げているばかりであった。 「正成一流のたばかりでもあろうぞ。|油断《 ちちちゆだん》して|裏掻《うらか》かるるな」  と、公綱は馬上大音に叫び、更に天王寺の東西の口より、三度までも駈入り駈入ったが、敵 の姿は一人も見られなかった。  夜がまったく明け放れた。  事実醗瓢はないのであった。  多少の疑惑はあったものの、戦せざるに勝った心地がして、公綱としては歓喜|類《たぐい》なく、正 成の陣営のその後へ、自身藤ちに陣を敷き、やがて京都へ牌彫を立て勝利の旨を南六波羅へ申 しやった。  しかるに五六日経った頃から、奇怪なことが夜々に起った。  天王寺を遠く囲繊ピて、穐鰍の郷や炸雌の里や、生駒の嶽やか蝉瀞の浜や、住吉や難波の 浦々に1即ち大和、河内、紀伊の、山々谷々浦々に、|筆《かがり》や松明がおびたたしく焚かれ、今に も数千数万の軍勢が、寄せ来るかとばかり見えることであった。 コ旦陣は引いたが正成め、新手の大軍を獅り催し、押し寄せ来る手段と見える。誕とへ輯い一 度もせず、残念に思っていたところ、押し寄せ来るこそ却って幸い、迎え|撃《う》って|雌雄《しゆう》を決しよ うぞ。……やア|汝等《おのれら》寸刻といえども、油断をするな、用意怠るな!L  こう部下に命を伝え、自己も鎧の上帯を|解《と》かず、部下にも帯を解かしめず、馬の|鞍《くら》をも休め ようとはせず、まして夜な夜なを眠らず眠らせず、敵の押し寄せ来るを待ちかまえた。  然るにその後も依然として、嵐轡…ぽ山々谷々に、また浦々に燃えつづいたが、寄せて来よ うとはしなかった。  大将公綱を初めとし、紀清両党の郎党たちも、追々|惰気《だき》を催して来、しかも思い切って心を 許し、眠に入ることが出来なかったので、身心次第に瀞弗れ費脇えて、戦意蝿に失われ、退陣 したいものと思うようになった。 四 天王寺の陣を引いた正成は、 数里はなれた|櫨子原《しどみぱら》に、 |慢幕《まんまく》ばかりの陣を張り、 悠々と機をう かがっていた。  或夜鹿巌斗遣っ備とをつれ、陣々をひそかに見回りながら小高い丘の頂まで来た。  はるかの彼方に天王寺があって、その辺に敷いてある|公綱《きんつな》の陣から、立ちのぼる筆の火が空 に映じ、ほの明るさを見せていたが、いつもの夜よりも火光は弱く、衰えの様が感じられた。 「正遠」  と、正成は愉快そうに云った。 「明日は天王寺へ帰ることが出来るぞ」 「は?」  と、正遠はいぶかしそうに、 「では明日わが君には、天王寺をお討ちあそばすので?」 「いや公綱とは戦いはせぬよ。これは以前から決めていることじゃ」 「では如何して天王寺へ、明日お帰りあそばしますか?」 「公綱明朝陣を引き、京都へ帰って行くからじや」 「ははあ、公綱退陣しましょうか?」 「あの筆火の衰え様では、明日退陣と見てよかろう」 「     」 コ戦も交えず正成をして、退かせましてござりますと、これを功にして京に帰らば、公綱の 面目は立つからのうL 「これは擬…慧にござります」 「公綱としてはわしを追い討ち、この陣を破りたく思ってはいようが、それにしては兵が少な すぎる。といって天王寺にとどまっているには、夜な夜な燃える数千の筆が、どうにも気にな っておちついて居られぬ。で、結局、帰って行くのじゃ」 「さよう|予《あらかじ》めご計画あそばして、天王寺をご退陣あそばしましたので?」 「そうだ」と正成は頷いた。「で、わしは百姓や漁夫や、|樵夫《やまがつ》などに命を含め、山々谷々浦々 に、あのように筆を焚かせたのじゃよ。……定仏定仏」と湯浅定仏を呼んだ。 「わしは赤坂を落ちる時にも、必ず後日奪回いたすと、こう決心して落ちたのじゃよ」 「は」  と云ったが、湯浅定仏は、何んとない苦笑を頬に浮かべた。 「まこと君にはその後間もなく、赤坂城を復されましてござりまする」 「わしが火をかけて脱け出した城を、其方よく修理してくれたのう」 「     」  定仏は黙ってまた苦笑した。  それに相違ないからであった。  正成が赤坂城を捨てて出た後へ、六波羅の命で入城し、城を修理して篭もったのは、たしか に湯浅定仏だったのであった、  が、その定仏は正成に攻められ、他愛なく城は乗っ取られ、本人はこのように降将として、 正成に仕えているのであった。  苦笑せざるを得ないではないか。 「過去を探り現在を識り、未来を察して世を渡らば、人間間違いはないものじゃ」こう正成は |訓《おし》えるように云った。 「武人にとっては合戦こそは、立派な世渡りの術だからのう。未来を察してかからねばならぬ よ。……明日天王寺へ帰ったなら、何を置いてもお寺へ参り、未来記を拝見するつもりじゃ」  この夜も山々谷々に、そうして津々浦々一円に、正成の焚かせている筆火が、妖しく凄く燃 えていた。 五  正成の予言は的中し、翌朝公綱は陣を撤し、京都をさして帰って行き、|代《かわ》って正成が天王寺 へ這入った。  元弘二年八月三日、この日はよく晴れた|秋日和《あきびより》で、松林では鳩が哺き、天王寺の塔の|蔑《いらか》には、 陽が銀箔のようにあたっていた。  |白鞍《しろくら》置いた馬、白覆輪の太刀、それに鎧一領を|副《そ》え、徒者数人に曳き持たせ、正成は天王寺 へ参詣し、|大般若経転読《だいはんにやきようてんどく》の布施として献じ、髭の白い老いた長老に会い、正成不肖の身をも って、一大事思い立ちたる事由を|審《つぶ》さに述べたるのち、|慶《つつ》ましく居ずまいを正し、「承わりま すれば、上宮太子|厩戸皇子《うまやどのおうじ》様、百王治天の安危を|勘《かんが》え、日本一州の未来記を|認《したた》め、この寺院 に秘蔵あそばさるるとか。もし拝見苦しからずば、現代に関わる箇所だけなりとも、是非とも 拝見仕りたく、如何のものにござりましょうや?L  すると長老は深く頷いて、 「万代の秘書にはござりまするが、多門兵衛様には蕊っ講蹴ψまことの鵡鷲と存じますれば、 別儀をもちまして、お眼にかけるでござりましょう」  と云い、一旦奥へはいったが、やがて戯轍の書一巻を、う鴉"く捧げて現われた。  正成は悦び豊うるものなく、謹みかしこんで両手に受け、お徽ビ開いて読んで行った。  不思議の一連が眼にうつった。 「川葺九十五代二当ツテ、天下一脇乱レテ而テ益欝カラズ。此時鷲駕き齢ア四海ヲ呑ム。日西 天二没スルコト三百七十余箇日。西鳥来テ東魚ヲ食ウ。其後海内一二帰スルコト三年。|禰猴《びこう》ノ 如キ者天下ヲ|掠《かす》ムルコト三十余年。大兇変ジテ一元二帰ス」  それはこういう文字であった。  正成は|沈思《ちんし》した。  思いあたることが数々あった。 (後醗醗の構ぎそは神武の帝より数えて、九十五代にあたらせ給う。天下一度乱レテ主安カラ ズ。これは|現代《いまのよ》の事なのであろう。東魚来テ四海ヲ呑ム。これは北條の、一|族《 》の|悪逆《あくぎやく》を指し ているのであろう。西鳥来テ東魚ヲ食ウ。これは何者か関東を滅す。という予言に相違ない。 日西天二没スとあるは、一町職螂餓へ御遷華ましまされた、この一事を指しておられるのであ ろう。三百七十余日とあるからには、明年のその頃に都へ御還幸、御位に復されるやも計られ ぬ。……しかしそれにしてもその次に書かれた、|禰猴《ぴこう》ノ如キモノ天下ヲ|掠《かす》ムとは、一体どうい う意味なのであろう?)  一抹の不安が正成の心に起った。  これは勿論厨穂輔既によって、天下を奪われることを予言したところの、その一文であるの であったが、如何に聡明の正成にも、そこまでは思い及ばなかったのである。 (どうあろうと我に於て関わりはない)  すぐ正成は慌蹴とこう思った。 (帝の忠誠の臣として、帝の一個の|衛士《えじ》として、尽くすべきことを尽くせばよい。ましてや太 子のその後の予言に、大兇変ジテ一元二帰スと、こう記してあるではないか)  快然とした正成の謹厚の顔には、初秋の明るい陽の光が、障子越しにほのかに射していて、 穏やかな陰影をつけていた。  間もなく正成は陣へ帰った。  正成の予想に狂いがなく、その後宇都宮公綱は、宮方に帰順して忠節を励んだ。