良友悪友 久米正雄 「失恋が、失恋のまゝで尾を|曳《ひ》いている中は、悲しく ても、苦しくても、|口惜《くや》しくっても、心に張りがある からまだよかった。が、こうして、忘れよう/\と努 力して、それを忘れて|了《しま》ったら、|却《かえ》ってどうにも出来 ない空虚が、俺の心に出来て了った。実際此の失恋で もない、|況《いわ》んや得恋でもない、|謂《い》わば無恋の心もち が、一番悲惨な心もちなんだ。此の落寞たる心もち が、俺には堪らなかったんだ。そして今迄用いられて いた酒も、失恋の忘却剤としては、|稍《やと》役立つには役立 ったが、此の無恋の、此の落寞たる心もちを|医《いや》すに は、もう役立ちそうもなく見えて、何か変った|刺戟《しげき》剤 を、是非必要としていたんだ。そこへY氏やTがやっ て来て、自分をあの遊蕩の世界へ導いて行った。俺は ほんとうに求めていたものを、与えられた気がした。 それで今度は此方から誘うようにして迄、転々として 放蕩生活に|陥《はま》り込んで行つたんだ。失恋  飲酒 遊蕩。それは余りに教科書通りの径路ではあるが、教 科書通りであればあるだけ、俺にとっても必然だった んだ。況んや俺はそれを概念で、失恋をした上からに は、是非ともそういう径路を取らなければならぬよう に思って、強いてそうした訳では決してない。自分が |茲《こゝ》まで流れて来るには、あの無恋の状態の、なま/\ しい体験があっての事だ。  私は其頃の出たらめな生活を、自分では常にこう弁 護していた。そして当然起るであろう周囲の友だちの 非難にも、こういって弁解するつもりでいた。そして それでも自分の心持を汲んで呉れず、こうなる必然さ を理解して呉れなければ、それは友だち甲斐のないも のとして、手を別つより|術《すヘ》はないと考えていた。併 し、心の底では、誰れでもが、自分の一枚看板の失恋 を持ち出せば、黙って許して呉れるだろうとの虫のい い予期を持っていないではなかつた。そして|其《その》虫のよ さを自分では卑しみ|乍《なが》らも、其位の虫のよさなら、当 然持って然るべきものだと、自ら肯定しようとしてい た。ー初めは、世問の人々の嘲笑を|慮《おもんばか》って、小さ くなつて、自分の失恋を恥じ隠そうとしていたのが、 世間の同情が、全く予期に反して、|翕然《きゆうぜん》として、自分 の一身に集って来るらしいのを見て取ると、急に大き くなって、失恋をひけらかしたり、誇張して享楽した り、あまつさえ売物にしたりして|殆《ほと》んど|厚顔無恥《こうがんむち》の限 りを尽したが、世間もそれを黙って許して呉れている ので、益々いゝ気になって了い、いつでもそれを持出 しさえすれば、許して呉れるものとの、虫のいゝ固定 観念を作って了つたのだつた。|勿論《もちろん》一方ではそうした 自身を、情なく思い乍らも。——で、自分では飽くま で今の生活を、許され得るものと、思い込んでいたの だつた。周囲の友人たちも、もう許して呉れるに定っ てるものとさえ、思い込んでいたのだつた。  或る正月初めの一日だった。私は二日ほど家をあけ た後で、夕方になってから、ぼんやり家へ帰った。い う迄もなく母は不機嫌だった。そうして黙ったまゝ、 留守の間に溜っていた書状の|束《たぱ》を、非難に代えて私の 眼の前につきつけた。私も黙って受取って書斎に入っ た。  その後れ馳せの年始状や、色々な手紙の中に一枚、 Eから来た|端書《はかき》が入っていた。私は遊び初めてから、 暫く周囲の友人たちと会わなかったので、何となく涙 ぐましいような懐しさを以て、その端書に|誌《しる》された彼 の伸びやかな大まかな字体を|凝視《みつ》めた。それには×日 に吾々親しいものだけが集って新年宴会とでもいうべ き会をしたいから、君も是非出席しろと書いてあっ た。×日といえば今日だ。そして時間ももう殆んど無 い。それにしても間に合ってよかつた。私は家に帰つ てすぐ、又飛び出す体裁の悪さを考えたが、久しぶり で健全な友人たちと、快活な雑談を|交《かわ》す愉快さを思う と、|兎《と》も角も出席しようと心に決めた。|而《そう》して一旦脱 ぎ棄てた|外套《がいとう》を、もう一度身につけた。 「また出掛けるのかい。」その|様《さま》を見て茶の間の方か ら、母がこう言葉をかけた。  私は|鳥渡辛《ちよつとつら》かつたが、気を取り直して快活に、「え え。今夜は三土会だから、鳥渡顔を出して来ます。」 と言いすてて、急いで家を飛び出して了った。  会場は家のすぐ近所のE軒だった。私がウエーター に導かれて、その二階の一室に上って行った時、もう 連中は大部分集つて、話も大分|弾《はず》んでいる所だった。 私が入って来たのを見つけると、幹事役のEが立上っ て、 「やあ、よく来たな。今日も君は居ないかと思った。」 と大声で言って迎えた。 「いや。・-…」と私は頭に手をやり乍ら、それでも晴 晴した気持になって、|揃《そろ》つている皆の顔を見渡し乍 ら、嬉しそうに|其処《そこ》の座についた。けれども入つて来 るといきなりEに一本参つた後なので内心に少々|疾《やま》し さがあったというよりも、一種のはにかみから、|椅子《いす》 は|自《おのずか》ら皆の後ろの、隅の方のを選んで了った。  席上には一人二人新らしい顔が見えた。Eが「紹介 しようか。」と言って、一々それを紹介して呉れた。 それはM大学出の若い人たちだった。その人たちが吾 吾の作品ーといっても主としてのAに——傾倒して いて呉れる事は前から知っていた。そして私もその人 たちの創作や評論なぞを読んで幾らか興味を感じてい た一人だつた。その中でもM君は一見して、山の手の 堅い家に育った、健全な青年の風貌を備えていた。彼 が今時の青年に珍らしく、童貞である事も前に聞いて いた。私は一種の尊敬を以て、此のハイカラな厭味も ないではないが、いかにも青年らしい清純な姿の前に 頭を下げた。  私はいつか改まったように固くなつていた。何だか いつもと違った雰囲気の中へ、一人で飛び込んだよう な気さえした。いつもは連中の顔さえ見れば、自ら機 智がほどけて来る唇さえ、何となく重く閉ざされてあ った。 「おい。どうしたんだ。そんな隅の力にいないで、ち っとは此方へ出ろよ。」目ざとく|其状態《ありさま》を見て取つた Aが、いつもの快活な調子で、向うからこう誘いかけ て呉れた。  私は席をやゝ中央に移した。 「Kが今入って来た所は、まるで放蕩息子の帰宅とい った風だったね。」私の腰を掛けるのを待って、Hは |傍《かたわら》から|揶楡《やゆ》した。Hの揶楡の申には、私の気を引立 たせる調子と、非難の意味とを含んでいた。  私は黙って苦笑していた。するとそれに押しかぶせ て、直ちにAがこう言い足した。 「入って来た時は放蕩息子の帰宅だったが、こうして よく見ると、之から出掛ける途中に寄つたという形だ ね。」 「もう沢山だ。」私は幾らか本気で、こう|遮《さえぎ》らざるを 得なかった。が、内心では彼等にこう|揶楡《からかわ》れる事に依 って、私も一人前の遊蕩児になつたような気がして、 少しは得意にもなつていた。「遊ぶ」という事、それ は私にとって、幾らか子供らしい|虚栄《みえ》も含まれていた のだった。  その中に食堂が開いたので、話は自ら、別な方面へ 移って行った。彼等はナイフやフォークの音が騒々し い中でも、軽快|極《きわ》まる警句の応酬や、|辛辣《しんらつ》な皮肉の連 発を休めなかった。そして私も一二盃の|麦酒《ビール》に乗じ て、いつの間にかその仲間入りをしていた。  食後の雑談は、更に|賑《にぎや》かに|弾《はず》んだ。私は既に完全 に、彼等の仲間になり切つていた。私は他人に劣らず |饒舌《おしやべり》になった。而して皆に劣らず警句の吐き|競《くらべ》を始め た。  すると、どういう加減だつたか、私はふと妙に|醒《さ》め たような心持になつた。それは私の警句や皮肉は、一 種の努力を要するために、ふとどうかした機会がある と、 「俺はこうして彼らと肩を並べるために、伸び上り伸 び上り警句めいた事を言っているが、そんな真似をし て何の役に立つのだ。」という反省が起るからであっ た。而してこういう風に醒めて来ると、自分の凡才が 憐まれると同時に、彼らのそうした思い上った警句や 皮肉が、堪らなく厭になって来るのだった。そこでた とい第一義的な問題に就ての、|所謂侃《いわゆるかんかんがく》々|諤《がく》々の議論が 出ても、それは|畢竟《ひつきよう》するに、頭脳のよさの誇り合いで あり、|衒学《 げんがく》の|角突合《つのつきあい》であり、機智の|閃《ひら》めかし合いで、 それ以上の何物でもないと、|自《みずか》ら思わざるを得なくな って来るのだつた。  私は急に口を|噤《つぐ》んで、考え込んで了った。  すると其処には、|自《おのずか》ら別な想像の場面が浮上った。      きせん                          ちやぶだい それはあの「喜撰《》」の二階であった。そこの桑の餉台《》の 上には、此処のような真っ白な卓布を照らす、シャン デリアとは異うけれど、矢っ張り明るい灯火が|点《とも》され てあった。而してそれを取囲んで、先刻別れて来たば かりの、SやYやTやが、折からの正月の座敷着で、 きらびやかな者どもを交え乍ら、愉快そうに盃を挙げ ていた。彼等の間に於ても、此処と同じ警句や皮肉 が、序を追うて出て来るのだつたけれどもその調子の 中には、私の思い|倣《な》しか少くとも此処に|於《おい》て在るよう な、自己誇示の響はないように思われた。そこが気安 い物親しい感を起させた。  私は此処を遁れて、すぐにも彼処へ行きたい気が起 って来た。それには先刻飲んだ|少許《すこしばかり》の酒が、余程強 い力を以て手伝っていた。が、私は昨日も一昨日も家 を空けた事を思い出した。先刻家を出る時の母の訴え るような顔付も思い出した。そうして今夜は決して、 そういう|巷《ちまた》へ走るまいと思い返した。私は頭を振つて それらの妄念を消すと、又再び彼らの談話に仲問入り するために、|強《し》いて快活な態度を取らねばならなかっ た。  又一と|頻《しき》り雑談は賑った。すると|其中《そのうち》にふと話題 が、遊蕩というような事に向けられた。而して誰が真 の遊蕩児で、誰はそうでないというような事から、自 ら吾々個人の上に、其問題が落ちて来た。私は最近の 体験から、他人より余計に発言権を持っているような 気がして、得意になって|喋《しやべ》っていた。 「|凡《およ》そ遊蕩児的分子が少いといって、H位少い者はな いだろう。其点がHの短所で、又長所なんだ、|併《しか》しH が遊蕩しないからといつて、それを奇特だといつて賞 める人は間違つている。Hには初めから全然、遊蕩的 分子が欠けてるんだから、其点でHは、遊蕩を論ずる 資格は絶対にないよ。」私はこんな事をさえ言った。  Hは自分でもそんな資格はないというように、まち りまちりと笑って聞いていた。  すると傍にいたFが、それを|面憎《つらにく》く感じたのであろ う。突然私に向って、こん事を言い出した。 「そういえば君だって、真実の遊蕩児でもない癖に、 あんな仲間と一緒になって、得意になって遊んでいる のは更に|可笑《おか》しいよ。-一体君はあゝいう連中と一 緒にいて、どこが面白いんだい。」Fの言葉は例によ って、短兵急に|真《ま》っ|向《こう》から来た。 「そりゃ僕が遊ぶのは、彼等と別な理由があっての事 だけれど。-…何も彼等だって君が思ってる程|取柄《とりえ》の ない人問でもないよ。」私は先ず|謙遜《けんそん》に、こう答えね ばならなかった。  すると向うにいたAが|真打《しんうち》といったような格で、更 に判決でも下すように、顎の先を突き出し乍ら鋭くこ う言い出した。 「僕もいつかっから、君に言おう/\と思つていたん だが、君はあんな生活をしていて、ほんとうにどうす る積りなんだい。君があゝしてあの連中と一緒に、下      ふけ らない遊びに耽《》っていればいる程、僕らは君と遠ざか らなくちゃならない事になるよ。君はそれでもいゝ積 りなのかい。」 「仕方がないね。僕のほんとうの気持が解っていて呉 れる筈の、君らが離れるというんなら、僕は仕方がな いと思うよ。1そしていずれ時が来て、僕のほんと の気持が解ったら、又もとへ戻る事もあるだろうか ら。」  私はそれを聞くと、|満腔《まんこう》の反感を抑えて、取り敢え ずこう答えた。それは私の精一ぱいの強気であった。 私はAがあゝ言った言葉の中に、「俺と|交《つきあ》際っていな いと損だぞ。」というような、友情の脅威が|自《おのずか》ら含ま つているのを、何よりも|癪《しやく》に|障《さわ》つて聞き取ったのだっ た。 「それなら僕も仕方がないね。——|併《しか》し、僕は何も君 のために良友ぶって忠告するんじゃないんだよ。僕ら のために、いや僕自身のために君が遊蕩をやめて呉れ たらいゝと思ってるんだ。君があの連中と一緒に遊び 回っていて、いつ行ってもいないのみか、|自《おのずか》ら書か ないようにでもなると、僕は非常に淋しい気がするん だ。君がいつ行ってみても、あの机の前に坐ってい て、猛然と書いていて呉れると、僕はどんなに心強い か、どんなに刺激を受けるか知れないんだ。僕は君の |荒《すさ》む事が、君自身に取ってよりも僕自身に取って淋し いんだ。」  Aは更に得意の理論を以て、明快に論歩を進めて来 た。私は彼の言葉に対して、何とも|反駁《はんぱく》のしようのな いのを感じた。が、これだけ整然と、合理的に説かれ 乍ら、私は更に彼の態度に、反感の起るのを禁じ得な かった。なあにAは彼自身、良友ぶって忠告をしたい のに、彼自身の聰明さが、それを自身で知つているた めに、わざと此忠告は此方の為でなく、彼自身のため だと言っているのだ。そして其実、彼自身の優越から 来る、一種の忠告欲に|駆《か》られてるのだ。1とこう裏 の裏を見ずにいられなかった。こう|僻《ひが》んで来ると、私 はもう素直な答が出来なかった。 「併し僕は君らのために、生活しているんじゃないか らねえ。」 「けれども君自身に取っても、随分淋しい事だろうと 思うよ。君はそんな生活をしていて、朝眼がさめる時 などに、堪らない空虚を感じないかい。」 「それはこんな生活をしなくたって、僕は感じている よ。寧ろ此、頃の方が感じない位だ。」 「では、君はあの生活に満足しているのかい。」今度 はEが口を出した。彼が口を出すことは、此の私を非 難するAの管弦楽の中へ、更に|喇叭《ラツバ》を交えるように強 く響いた。 「満足している訳ではないが、楽しんではいる。僕は 一般の遊蕩児の様に、楽しくもないのに、止むを得ず 行っているというようなんじゃない。実際僕は楽しい んだ。」 「そんなら|猶《なお》悪いよ。そんな態度は享楽主義も初期じ ゃないか。」 「そう言われても仕方がない。」私はその享楽主義の 初期という適評が、聴いていた他の人々に、起さした 一種の微笑に対して腹を立て乍ら言い切つた。 「兎に角何だね。」又Aが追究して来た。「Hも其点を 心配してるんだが、君はそんな生活をしていると文壇 的に損だという事も考えなくちゃならんね。」 「文壇的に損をするというのは、人気を落すとでもい う意味かい。」 「まあそうだ。」 「それなら、僕は意としていないよ。」 「それなら物質的に迫られて、此上濫作をしなくちゃ ならなくなったり、通俗小説を書かなくちゃならなか ったりしても、君のために損じゃないというのかね。」  これに対しては、私も答うる所を知らなかった。 が、答が出来なかっただけに、没論理の反感が、猶更 むら/\と湧き立った。Aは実際忠告でなしに、もう 明らさまに私を攻撃しているのだ。私に対する侮蔑 を、忠告の形で|披瀝《ひれき》しているのだ。1私はこうさえ |僻《ひが》んだ。而して其|儘《まゝ》むっつり黙り込んで了った。私の 胸の血は、彼らに対する反抗で、嵐のように湧き立っ ていた。  他の人々は此等の対話が初まると、もうぴつたり雑 談をやめて了って、大抵腕を組んだり、下を向いたり して聞き入っていた。Hも直接には何とも言わなかっ た。彼は黙って、其癖超然としてではなく、事の|経緯《いきさつ》 をじっと聴いていた。それが私には気味が悪いと共 に、やゝ頼もしくも感ぜられた。がいずれにもせよ彼 が、私の味方でない事は解っていた。  とう/\其人たちの中で、私たちより一年前に大学 を出て、当時M商店の広告部に入っていたK君が、私 一人激しく責め立てられるのを見兼ねたものか、 「僕がこんな所へ、口を出すのは変だけれど、もう、 そんな話はよした方がいゝね。僕はK君の心持は解っ てる積りだが、もし忠告する事があるとしても、もつ とプライヴェートにする方がいゝと思う。Iiこんな 所でしては、たゞK君を悪い気持にさせるだけだか ら。」と口を出した。  此の常識的な言葉には、誰も彼も推服せざるを得な かった。Aも、 「僕ももとノ\こんな事をいう積りじゃなかったんだ けれど、つい時の調子でこんな事になって了ったん だ。Kにはほんとに失敬した。」  と言って収まつて了つた。  そこで又元通り、他の雑談に移ろうとしたが、一旦 白けて了つた座は、もう元通りにはならなかった。時 間も既に十一時に近くなっていた。それで誰いうとな く散会する事になって了った。戸外には正月の寒い風 が吹いていて、暗く空が|蔽《おお》いかぶさっているような夜 だった。  私の胸中は、まだ憤懣《ふんまん》に充ちていた。私はそれを訴 えたい為に、広小路の方まで歩くというK君と暫く一 緒に歩くことにした。するとAとKも、そつちの方が 道順だったので、一緒に加わる事になった。それで私 は|露《あら》わに、彼等に対する不快を、放散させる事が出来 なくなって了った。私はたゞ黙り勝ちに、彼らの後を |従《つ》いて行った。  広小路で四人は別れる事になった。AとKとが去つ た後で、K君は一人残ったけれど、そこへE行の電車 が来ると、急に「もう遅いから、矢つ張り此辺から乗 って帰ろうかな。」と言って、 「じゃ失敬する。1今晩の事は、君もさぞ不愉快だ ろうけれど、皆も決して悪気で言ってるんじゃないん だから、君も悪く思わないで帰り給え。いゝかい。で は左様なら。」と、来た電車に飛び乗って了った。  私は今度こそたった一人、広小路の真ん中へぽつん と取り残された。夜の更けかゝつた風が、泣きたい思 いの私の両脇を吹いて通った。私は外套の|紬《そゼ》をかき合 せ乍ら、これからどうしようかと思って佇《たゝず》んだ。此儘 大人しく家へ帰れる気持には、どうしてもなれないの は解り切っていた。 「行け! |彼処《あそこ》へ!」私の胸の中に、充ち/\ていた 憤懣が、突然反抗の声を挙げた。そうだ。彼等の忠告 のすぐその後で、すぐその場所へ行くという事が、彼 等に対する憤懣の唯一の|遣《や》り場であり、彼等に|酬《むく》いる 唯一の道なんだ!  私は直ちにS行の電車に飛び乗って、S町まで来る と、M橋停車場のタクシイを雇った。  それから五分と経たぬ中に、私は丸の内を一さんに 疾駆するタクシイの中で、しっかと胸の所へ手を組合 せたまゝ、彼らに対する反抗で燃えていた。 「へん、|難有《ありがた》そうな友情。友情が何だ! お為ごかし の忠告。忠告が何だ! 彼らに真の誠意があるなら ば、あんな所で、あんな殆んど公開の席上で、言わな くてもよかろう。|況《いわ》んや、M君のような初対面の人た ちまで居る所で。  彼らは全然自分たちの友情をひ けらかす為と、俺を人の前でやっつける為にのみした と言われても、何と言つて弁解する?」  私は厚い硝子を通して、ひたすら前方のみを|凝視《みツ》め ていた。  二十分かゝらぬ中に、自動車は目的の家へ着いた。 私が下り立つと、急いで出迎えた女中が、私の顔を見 るなりに、 「まあ、貴方でしたか。ほんとによくいらっしゃいま した。先刻から皆さんがお待兼でいらっしゃいます よ。」と招じた。 「え、お待兼って皆んな来ているのかい。」私の声は 思わず高くなった。 「えゝ。  さあどうぞこちらへ。」  私は嬉しさの余り、二段ずつ急いで|梯子段《はしごだん》を上っ た。座敷に入ってゆくと、皆はもういゝ加減に酔って いる所だった。 「やあ、よく来たな。」 「まあ、早く此処へ来て坐れよ。」    彼らは声々にこう言った。私は殆んど手を握らん許 りに興奮して、彼等の傍に座を占めた。1多分いる だろうとは思っていたが、こうまで皆が揃っていて、 しかも自分の来るのを待っていたとは、殆んど|誂《あつら》えて 置いたようなものだった。喜んだのは私許りでなかっ た。 「これだから、俺は|念力《ねんりき》つてものを信じるよ。あゝ、 信じるとも、信ぜずにいられないよ。i是だけ待つ ていたんだから、必ず来る。きっと来るって僕はそう 言ってたんだ。そしたら果して来たじゃないか。」|平 常《ふだん》から人間の心理的な力というようなものに、一種の 迷信めいたものを持っているS君はその鋭い|秀《ひい》でた眼 を少しとろりとさせ、白い小作りな顔をぼっとさせ て、首を|傾《かし》げく言った。 「今日はね。|先刻《さつき》から三人で落合つて、|芸者《キモノ》抜きで酒 を呑み初めたんだがS君が急に人間ってものは面白い ものだって言い出してね、この見れば見る程面白い人 間ってものを、縦横自在に楽しもうじゃないか。それ だのに|何故《なぜ》世間の奴等は、ビクくして此の人間の面 白さを|味《あじわ》わないんだ。それじゃ率先して吾々が、此の 人間を楽しもうじゃないかって、相談一決して、さて その会員の人選に及んだのだが、広い文壇を見渡した 所、先ず此処に集つた三人以外には、どうしても君位 なものだという事になってね。それから急に君を招集 しようというんで、先刻から銀座のLとか、I座とか というような君の立ち回りそうな要所々々ヘ電話をか けて、網を張って待っていたんだ。」Tは私が落着く のを待って、こう詳しく説明した。  丁君も傍から巨躯《きよく》を揺《ゆす》って、人|懐《なつ》つこい眼を向け乍 ら、 「ほんとに待つていたんだよ、君、」と言った。 「ほんとに何処の一流の芸者にしたって、今夜の君位 熱心に掛けられたものはないよ。こうして僕たちは誰 も呼ばずに、君の来るのを待ってたんだからね。これ で来なかったら来ない方が嘘だ。」S君は更に言った。 「いや、そうかい。それはほんとに|難有《ありがと》う。僕は今迄 E軒にいたんだ。」と私もようやく二三杯の酒と共に、 落着いて話が出来るようになった。 「E軒か。そうと知ったら早く電話をかけるんだっ た。E軒で何をしていたんだ。」 「不愉快な目に会つたよ。」私はわざと投げ出すよう に言った。 「不愉快な目ってどうしたんだ。」 「なあに実はね。今日僕たち仲間だけの三土会という 会があるっていうんで、久しぶりで連中の顔でも見よ うと思つて、出掛けて行った所が、ふとした事から僕 の遊蕩が問題になってね、皆から口を|揃《そろ》えて忠告やら 攻撃やらを受けた訳さ。余り癪に|触《さわ》ったから、つい其 足で飛び出して来たんだ。そしたら此処でこういう始 末なんだ。|天網恢々《てんもうかい/\》|粗《そ》にして洩らさず。1僕はほん とに嬉しくなっちまつた!」 「棄てる神あれば拾う人問あり、さ。だから人間会が 必要なんだよ。」とY氏は自分の|好謔《こうぎやく》に、自ら、満足 して又|哄笑《こうしよう》した。 「で、どんな忠告を受けたんだい。」とTは黙して置 けぬという風に、|真面目《まじめ》になって|訊《たず》ね出した。 「要するに、君たちが悪友なのさ。」 「それで俺達と付き合うのが|不可《いけ》ないとでも言うのか い。」 「まあそうだ。君たちと付き合うんなら、向うは離れ るだろうつて脅かされた。」 「誰がそんな事を言うんだい。」 「さあ、個人的な名を言うのはよそう。」 「いゝじゃないか。どうせそこまで言った以上。l Aかい。Eかい。まさかHじゃあるまいね。」 「Hは黙っていた。」 「するとAたちだね。」|何故《なぜ》かTは追究して来た。私 は「うむ」と言わざるを得なかった。 「悪友か。悪友、結構だ。君には悪友が必要なんだ よ。投書家さえいつかの論文に、君には悪に|穢《けが》れた手 と、泥に|塗《まみ》れた足が必要だと言ってたじゃないか。一 体Aたちにした所が、Kを一人前の人間にして下すっ て難有うって、俺たち悪友どもに向って感謝すべきな んだ。」Tはさすがに少し気持を悪くしたらしく、そ れを消すためにそんな事を言っていた。 「一体今の文壇には悪友がなさ過ぎるよ。」Y君も|合 槌《あいづち》を打つた。  するとS君は膝を乗り出すようにして、こんな事を 言い出した。 「K君。僕はいつかっから、君に言おうノ\と思って たんだが、向うが離れるというんなら、丁度いゝ、こ れを機会に、君の周囲の連中と、すっかり離れて見た らどうだい。そりゃ友人というものは必要でもあり、 いゝものには違いないさ。けれども、いつまで、友だ ちをたよりにしているのは愚だよ。僕たちは一人で、 下らない友情なぞに煩わされずに、生きてゆかなくち ゃならないんだ。そりゃ友だちがなければ、ほんとに 淋しいとも思うこともあるさ。僕だつてSやなんか白 樺の連中と別れた時は、堪らない位淋しかったもん だ。然しその位の事に堪えられない位じゃ、|迚《とて》もいゝ 作家になれないと思ったから、歯を喰いしばって我慢 した。そしたらいつの間にか馴れて了って、今では却 ってサバ/\したいゝ気持だ。ー君も僕の見る所で は、どうも今の仲間と離れた方が、君のためにいゝよ うだよ。君はあの人たちのように、小利口に世間を立 ち回って、|破綻《はたん》のない生活を送れる人とは違うんだ。 三十にならぬ若い|身空《みそら》で、細君を貰つてすっかり家に 収まったり、巧みに創作の調節を取って、|確乎《かつこ》と文壇 の地位を高めて行くといつたような、そういう|甲斐性《かいしよう》 のある人間じゃないんだ。君はあの人たちと異って、 もっと|出鱈目《でたらめ》な、もつと脱線的な生活を送るベき人な んだ。人生ってものは、彼らのような、破綻のないも のじゃないんだよ、芸術ってものも、彼らのように、 キチンとしたものじゃないん、だよ。1Iいゝから彼ら が離れるというんなら、勝手に離れさして了い給え。 それは君に取つて、ちっとも差支がない事だよ。」  私は此の無茶な談議を、不思議にも其時、心から嬉 しく聞いていた。そして其間には、S君のどき/\鳴 る心臓を、すぐそこに感じていた。私の眼には、いつ の間にか、そうっと涙がこみ上げて来ていた。  Tも黙っていた。Y君も其|間中黙《あいだじゆうだま》って、一人嬉し   うなず げに点頭《》いていた。余り一座が傾聴したために、S君 は少してれて、 「さあ、それじゃあ人間界の話はこれ位にして、天人 どもを招集しようか。」と言い出した。  もう遅かったけれど、|直《たゞ》ちに芸者が呼ばれた。正月 のことで、大抵呼んだ顔が揃えられた。而し又一|頻《しき》 り、|異《ちが》う意味での談話が|盛《さか》った。が、それでも二時近 くなると、芸者たちもぼつ/\帰つて行き、割合に近 くに住所のあるS君とY君と、自動車を呼んで、帰る 事になつた。  Tと私とは、すっかり皆の帰って了った後に、女気 なしで寝る布団を敷かせた。二人は何か二人きりで、 話したくてならぬ事があるような気持だった。  もう大分夜も更けたので、|四辺《あたり》はすっかり静かだっ た。|夜半《よなか》からばったり落ちて了った風が、たゞ時々思 い出したように、雨戸の外の|紐《ひも》か何かを、ぱたん/\ と打ちつける音がした。二人は枕元の水をしたゝか呑 んで、枕を並べて寝についた。電気はもうとうに消し てあった。  …………私はいろ/\な心持を|閲《けみ》した後で、どうも 眼が|冴《さ》えて眠れなかった。ふいにごとりとTの寝返り を打つのが聞えた。 「おい。まだ寝ないのかい、」と私は声をかけた。 「まだだ。どうも寝つかれない。」  私はそこで暫く暗い天井を|凝視《みつ》めていた。そうして 一人でふゝと笑った。 「何を笑ったんだい。」Tが闇の中から|訊《たず》ねた。 「なあに、奴らは、僕がこうして君と、此処に寝てい るのを、夢にも知るまいと思ってね。」  Tはすぐには答えなかった。そして暫く経ってか ら、まるで別人のような静かな声音《こわね》で、 「併し君は幸福だよ。そういう友だちを持ってるだけ でも|羨《うらや》ましい。」と言った。 「うむ…-」私は答うる|暇《いとま》もなく、不意に|瞼《まぶた》が熱くな つて来るのを感じた。                      (大正八年)