久米正雄 くめ・まさお(1891年11月23日〜1952年3月1日) 「ある医師の良心」 久米正雄(大正8年7月) 1 ある雨の降る五月の夜であった。もうかれこれ十時は過ぎて、外来の患者も来そうにないので、H医師はにつこうかと思っていた。すると突然玄関の戸が開いて、誰かが低く訪れる声がした。H医師はすぐにそれが、往診を乞いに来た人か何かだと思って、心持ち眉をひそめるようにした。折角寝ようとしている所を、この雨の中へ引張り出されでもしては、いくら職業のを計らねばならぬとは云え、ちょっとありがた迷惑に感じたからである。けれども信用を確立しない若い医師であって見れば、こういう所が大切だと思って、吾からかろうじて額の皺を伸ばして、その客を待ち受ける事にした。 玄関では続いて二三度訪う声がした。けれども取り次ぎに出る薬局生のEが、所在なさの居眠りでもしているかして、それに応える様子もないので、H医師は自ら立上がって、玄関の方へ行って見た。 見るとそこには見知り越しのNという男が、しょんぼり濡れそぼちたような恰好で、うすら寒げに片隅に立っていた。 「あ、先生ですか。でございます。」と、彼はいくらか慌て気味に、陰気な声で挨拶した。 「やあ、君か。——まあ上り給え。」 H医師は思わずこう言って、往診依頼の人でなかった安易と共に、一種の気落ちを感じて、まじまじとNの顔をめた。その、たような、またうすら呆けたような顔付と、この頃伸ばしかけたと見えてまだ中途半端な、分け髪の不恰好さを見ていると、一時ちょっと腹が立つような気さえした。 「く上りまして済みませんが、ちょっとお願いがありますので。……」 Nはそう云いながらそそくさと上って来た。 「こっちへ来給え。」 どうせNの願いと云うからには、碌な事でなかろうとH医師は思った。が、今更追い返すこともならないので、話を手早く切り上げる便宜上、いつものように奥へは通さずに、すぐ横手の診察室のほうへ連れ込んだ。Nもその方が都合いいと思ったか、別に逡巡もせずにその方へ通って行った。 Nというのは、H医師と同郷の若い男で、郷里の中学をると、目的もなく上京して来て、ちょっとの間だけれどこのH医師の下で、薬局生の見習いみたいなものをしていたことが在った。が、その後自分の頭があまりよくないので、こうした事に見込みがないのをみずから知ったためか、急にH医師の下を去って、浅草のほうに洋服屋を出している、叔父を頼って小僧みたいなものに住み込んでしまった。それは今から2年ばかりまえの事であった。そしてその後もちょいちょいH医師のところへ来て、商売の模様を話したり、ゆくゆく裁縫師として立とうとする、自分の希望などを述べたりして、12時間遊んで行くことがあった。——その男が夜の今時分に、なんとなくはゆげな様子で願いがあると云ってきたのだから、いずれH医師に取って、迷惑なことには相違あるまいが、また幾らか興味がないでもなかった。 「ほんとにく上って済みませんが、実は内密なお願いがあるものですから。……」と、NはH医師の指した椅子に腰を下ろしながら、再びこう繰り返した。 「その話と云うのは一体何だね。」 H医師はから、Nの因循な態度にらなく思ったいるので、わざと直入に促しながら、見据えるようにしてNの話し出すのを待った。 「実は、私の不心得から出た事で、はなはだ話し憎いんですが。……」と、Nは憐みを乞う犬のような眼付きで、しかもにやりとした狡猾な微笑を浮かべながら、奴隷根性を持った世間師などが、自分の失策を詫びる時のように、頭を掻いて首をひょこりと下げた。 「僕の前でそんな前置なんぞする必要ないよ。正直にどんどん云って見給え。」 H医師はこう云いながら、ふとこの男の用向というのは、何かこそこそ隠れ遊びでもして、悪い病気にでも取り付かれ、秘密にその治療を頼みに来たのではあるまいかと思った。そしてちょっと口の端をめた。ほとんど愚図に近い目の前の男が、そんな事をして秘密病にかかった時の周章さを、ちらと思い浮かべて内心狡猾にさえ感じたのである。 しかし、ようやくNが心を据えて、話し出したのを聞くと、話しはもっと意外な、もっと複雑なものだった。…… Nの厄介になっている叔父さんの洋服屋に、Nより三つばかり年下の、S子というがいた。S子とNは昔馴染だったが、Nがその家に厄介になって以来、昔のように隔てなく口をきき合う仲になっていた。Nの云った言葉によれば、S子はそう大してというのではないが、眼鼻だちにどことなくあどけない所があって、小さく纏まった身体つきに、堪らなく可愛い所があるそうである。この二人がいつの間にか、わりない関係を生じてしまった。そしてこの二三ヵ月、S子はとうとう見えるものが見えない始末になってしまった。…それだけなら何でもない話だった。しかしS子には、半年ばかり前に婚約した男があった。そしてその男との婚礼は、もう一と月ばかりの間に迫っていた。両親は少しもNとの関係を知らない。ただSこの見えるものが見えないというので、病気だろうと思って方々の医者に見せてある。ある医者はそれが単なる不順だと診断した。が、自分らから見ればどうしてもそれが妊娠に違いない。で、一つその妊娠かどうかをH医師に確かめて貰って、その上一生のお願いには、妊娠だったらその胎児を、暗から暗へどうにかして貰いたいと云うのである。…… 一と通り話の荒筋を聞き終わると、H医師はほとんど裁判官のような気持になって、詰るような質問を呈出した。彼は明にある不愉快と、興味とを同時に感じていたのである。 「では君は、今までの事をすっかり隠して、S子さんとやらをその婚約の男の方へづけるつもりなのだね。君だけうまくみ食いをして、口を拭っていようと云うのだね。」 「いえそう云う狭い了見じゃないんですが、それが一番八方を無事に収める道だと思うもんですから。」と彼はH医師の思ったより峻厳な態度に、なからずどぎまぎしながらも、予期していた非難だけに、割りに筋道だった答弁をし出した。「第一に、この事が叔父さんに知れでもしたら、大変な事になってしまいます。叔父さんはあのとおり喧し屋の所へもって来て、今度その遠縁と云うのが、実は叔父さんの主人筋に当たっていて、これが成就するとしないとは、大分家の経済状態にも関係しますし、もしこの縁が今になって破れでもすると、先方に顔向けが出来ない始末になりますから、どんなに私どもが怒られるか解りません。」 「と云ってを向うへ押しつけるのは、なおさら悪いだろうじゃないか。」 「それはそうでしょうけれ、どう考えてみましても、そうするより外に仕方がないんです。」 「仕方がない事はあるまい。事情をすっかり打明けて、こうなってしまいましたと云えば、いくら頑固な叔父さんだって、許して呉れぬはずはないだろう。そして向うの縁談を断って君とS子さんが夫婦になるのが、一番正当でもあり、一番無事な解決法じゃないか。」 「そう考えるのが当り前ですけれど、それには今申す通り、いろいろ混み入った事情があって、一概に無事に行きませんから、私がこうしてお願いに上ったのです。—それに私たちが夫婦になるのは、第一S子さんが進まないのです。S子さんは、むしろ向うに縁づきたいのです。そして実際その方が幸福なのは解り切っているんです。その上私の方にしましても、ここで万難を排してまで、S子さんと夫婦にならなければならないほど、あの人を愛している訳じゃないんです。」 「じゃ君たち二人は、お互いにそう深く愛し合っている訳じゃないのだね。 「ええ、まあそうなんです。S子さんなぞは向うの人に惚れてさえいるんです。」 Nは幾らか恨みがましく云った。 「そんなら君たちは何だってまたそんな関係に陥ったのだね。」 「つい、何の気もなくそうなってしまったんです。或るごくつまらない機会で。—が、そんな恥は、私からここで申上げたくありません。」 「それは僕も聞きたくない。」とH医師は少し腹立たしげに云った。「が、君たちはその縁談のある前にそんな事になったのだろうね。まさか、それを知っていて、そうなったのじゃあるまいね。」と、改めて問いした。 Nはちらと赤い顔をしてしばらくうつむいて黙っていた。が、 「いえ、実は、私共はその話のあった後に、そう云う事になったのです。いや、その話があったので、そうなったのかも知れません。その時の私の心持にしてみますと、今まで誰のものともなく、ただ自分にのみ親しくしていたS子さんが、外へ行くときまってみると、何となく惜しいような気になったんでしょう。またS子さんにしてみた所で、自分の処女時代の最後を飾るために、私との親しい間柄に、もう少し色をつけて見たかったに相違ありません。そのお互いの微細な心持が、とうとうこんな事に、なってしまったんです。ですからどうぞ私たちの過失を深くおめなさらないで、ここで一つ私どもをお助けなすって下さい。お願いします。私の一生の願いです。」 こう云ってNは、眼にの涙を湛えながら、幾度か幾度かお辞儀をした。 H医師はちょっと考え込んで、すぐにはそれに対する返事をし得なかった。彼はじっと思い廻らした。Nがこれほどまでに意を決して云うからには、今、なまじい口で言い聞かせた所が、心を飜してやめる事はないだろう。ここで自分が拒絶すれば、を求めて、きっとどこか他の医師へ持って行くに違いない。そうしてどこでも拒絶されたら、自分の手で決行もし兼ねない様子である。そんな事にでもなっては大変だ。それよりはいっそここで彼をして、承知をしたように見せかけ、ひそかに親の方へ告げ知らせて、自分が仲に入って、二人を夫婦にしてやろう。事態がここまで進んでいる以上、彼等は夫婦になるのが当然の終局である。そうして円満に解決してしまえば、自分は医師としての良心にも背かないで済む上、積極的に一つの善徳を重ねることになるのだ。…… こう咄嗟の間に考えたH医師は一つ大きくいて、 「うむ。そう云う事情ならば、ともかくも僕が承知した。万事は僕にせて見給え。きっといいようにしてあげるから。——ではまず明日にも、ほんとに妊娠だかどうだか診てあげるから。」 「そうですか。どうもありがとう御座います。お陰さまで二人は助かります。——」 Nは何度もこんな事を繰り返し繰り返し云いながら、何度も頭を下げた。 「いや。」H医師はその狂喜に近いNの様子を見ながら、仕方がなしに曖昧な苦笑をしていた。彼はしかし、Nに対しては裏切り者の心苦しさを感じながらも、自分には何かしら偉大なる善事をなすような、心楽しさをじっと抑えているのだった。 やがてNは安心して帰って行った。雨はまた一と頻り音を増して降った。H医師はしばらくそれに聞き入っていた。 翌日、Nは約束通りS子を連れて来た。 彼等の来たのを、薬局生が奥へ知らせた時、医師は何となく胸が緊まるように覚えた。ちょうど誰も患者は来ていなかったので、すぐ二人を診察室に通さして置いて、自分も急いで白い診察衣を引懸けると、非常な興味をもってそこへ出て行った。 S子は患者の坐る椅子に腰をかけて、を顔に当てて泣いていた。そしてその傍にはNが慰めるのに困ってしまったものか、ただぼんやり突立って、静かにふるえるSこの首筋を眺めていた。 H医師は入って行って、彼等と向い合って腰を下ろした。 「この方が吾々の事を万事お願いした、H先生ですよ。——これがS子です。どうぞ何分とも宜しく。」 Nがこう云って彼女を引き合わせると、彼女はようやくから眼を離して、赤い瞼の間から、ちらと訴えるような眼ざしを走らせて、しとやかに長い一礼をした。 「委細はN君から聞きましたが、まあ、出来てしまった事は仕方がありません。万事は私にせて、御安心なすっていらっしゃい。決して悪いようにはしませんから。——」 H医師はそんな事を云いながら、仔細にS子を観察した。彼女は小作りな方であった。そしてなるほど身体つきは、お酌かなんぞのように、あどけないを帯びていたが、器量はH医師の想像した以上に悪かった。第一血色がよくなかった。それも白く澄んでいる方ではなくて、蒼く黒ずんでいるような所があった。造作は悪いと云うのではないが、どことなく頬の感じがとげとげしている上に、頬が割りに狭いので、一目でヒステリー性の顔立と見て取られた。その上泣いていたために、赤いがいじらしいのと対照に、眼の下の白粉が落ちてしまって、黒いを作っているのも不快だった。H医師は何となく興ざめた。ほとんどそれは落胆したと云ってもいい位だった。もとよりNの言葉でも、そう美人だとは云ってなかったが、事情が齎らす感じの上から、知らず知らず彼女の顔に、もっとロマンティックな色彩を帯ばして考えていたのである。で、H医師は彼女の顔を見終った瞬間に、 「これであんな事をしでかした上、知らぬ顔をして他へ嫁入るとは不届だ。」と云う風に独りで考えざるを得なかった。 「ではとにかく、一と通り診察致しましょう。」 H医師はこう云って、Nを向うの待合室へ追いやった。S子は助けを乞うようにその後ろ姿を見ていたが、やがて医師に促されて、ようやく恥しげに衣類をろげつつ、寝台の上に横たわった。彼女はもうは離していた。けれどもまだの名残で肩を時々びくりびくりとしゃくり上げた。 H医師は胸部から始めて、すべて一通り丁寧に診察した。どうもやはり妊娠に違いなかった。ほかにどこも悪い所はなかった。どこか一つでも悪い所があるか、心臓でも少し変調を来たしている形跡があれば、それを何とか理由にして、彼等の希望通りにしてやれぬ事もないと考えたが、これでは理由のつけようもなかった。彼は診察を終わって、しばらくじっと彼女の顔を見ていたが、やがて静かにこう云った。 「やっぱり妊娠らしいです。」 彼女はそれを聞くと、何を思ったか急に鳴咽を高めた。そして再び顔を蔽うた。 H医師はさらに近く彼女の耳もとに口を寄せて、 「あなたは妊娠と云うことが、それほど悲しいのですか。——腹の子は可愛くはないんですか。あなたはこの腹の子のために、甘んじてNと一緒になる気にはなれないのですか。私には、どうしてもあなたがNと結婚するのが1番だと思われるんですがねえ。」と事柔かに説き聞かせた。 けれどもS子は、それでは話がちがうと云うように、ちらとの中から医師を見上げて、さらに嗚咽の声を高めるのみだった。H医師はその様を見ても、別に動かされもせずになおも追求した。 「どうしてもN君とは一緒になれないんですか。なりたくないんですか。」 すると彼女はようやく低く籠もった声で、「これが良心に解りでもすると、私がどんな目に会うか解りません。」と答にならぬ答をした。そしてますます激しく鳴咽して、それから先は何を云ってもその言葉を繰り返すに過ぎなかった。 H医師はほとんど手古摺ってしまった。そして内心腹が立って来た。今となってはもう感情の上から云っても、彼等の不正な願望なぞは、とうてい遂げさせられるものではなかった。 鳴咽の高まるのを聞いて、Nが心配げに戸を開けた。そして診察の済んだのを見ると中へ入って医師に近づいた。 「どうでした?」 「やっぱりそうらしい。」 「では、いつ手術をして下さるんですか。」とNは医師を見、それからS子を意味を籠めて見やった。 「まあもう二三日待ち給え。」医師の声は静かだった。 「でも、——」 「まあ僕にせて置き給え。」 「そうですか。—私たちはほんとにあなた一人が頼みなんですから。……」 医師は手を振ってNの言葉を止めた。 こうしてとうとうその日は、Nが泣き沈むS子をすかして、また家へ連れて帰ることになったが、彼等が帰ってしまうや否や、H医師はただちにS子の父に手紙を書いて、用談があるから来て呉れるように云ってやった。 その翌日、S子の父は早速やって来た。二人は挨拶が済むと、H医師は早速用談を切り出した。彼はまずNが彼の家へ飛び込んできた顛末から、彼等二人の間に起った事情を知っている限り打明け、そしてその最後に、こうなってしまった以上は、あまり深く二人を咎めないで、夫婦にしてやって呉れるように言葉を尽くして述べ立てた。 それを聞いていたS子の父は、H医師の思ったよりも驚かなかった。怒気をも現さなかった。ただ、「はあ、はあ。」と聞いていて、時々大きくくのみだった。そして彼の最後の忠告に対しては、何の責任のある返事もしなかった。すべてを聞き終わると彼は、 「ありがとう御座います。ほんとに御迷惑をかけまして、申し訳ございません。」と云っただけで多くを云わずに帰って行った。彼の医師の心に残して行った影は、ほんとによく秘密を洩らして呉れたと云う感謝よりは、余計な事を知らして呉れたと云うような、一種の不服めいた印象だった。彼が言葉少なで帰ったのも、H医師には気味が悪かった。云った後で何をするか解らないと思われた。何だかH医師の忠告などは、とうていも用いそうもなく考えられてきた。H医師は彼等に対して、何だか悪い事をしたように思わぬでもなかった。が、すべては自分の良心の命令通りに、また彼等のためを思ってやったのだ、だかれその結果がどうであろうと、それは彼の知った事ではない、と心で思い込もうと努めた。彼はその夕、晩酌の良を少し多くした。そして彼等の健康と無事とを祈って飲んだ。 その夜の九時頃の事であった。ふとまた玄関の開く音がした。薬局生が出て行って、二三言何か応対していたが、やがて奥の間に入って来て、 「Nさんがおいでになって、ちょっと玄関でお目にかかりたいと云って居ります。」と通じた時、H医師は何だかどきりとするものを、胸の中で感ぜざるを得なかった。彼は出て会うのに気がひけた。しかし会わない訳にはなおさら行かなかった。 出てみるとそこには、肩に小形な柳行李を背負い、手に青い風呂敷包をさげた、異形なのNが黙って暗い顔をして立っていた。 「どうしたんだ。」H医師は思わず声高に訊ねて、Nの顔を透して見るようにした。その顔は怒っているのだか、泣いているのだか解らなかった。ただある特殊な感情を備えている事だけが暗い玄関の電燈の及ぼすで分った。 「最後のお暇乞いに上りました。——S子との事件がすっかり、叔父さんに解ってしまって、今夜家を出されたんです。」と、Nはすぐに答え始めた。その声は興奮を抑えているらしく、顫えていながらに底力を帯びていた。 H医師はちょっとの間目をみはって驚いたが、幾らか予期していないでもなかったので、「やっぱりそうだったか。」と呟くように云って、Nをに見る勇気もなく顔を伏せた。 Nは続けた。「思いの外に怒られはしませんでしたが、こう云われて追い出されました。いままで出来た事は仕方がないし、またS子と一緒にしてやらないでもないが、何分お前は一人だちの出来ない男だから、これから早速出て行って、一人だちが出来るようになったら戻って来い。S子はそれまで預って置くからって。——私は今夜だけでも泊めて呉れと云いましたが、どうしてもすぐ出て行けってききませんから、早速荷物を纏めて、こうして出て来てしまいました。」 「S子さんはどうしているね。」医師は彼の言葉が終ると、こう訊ねずに居られなかった。 「S子さんですか。——あの人は私が出て来る時二階に泣いているようでした。それっきり会わずに来たから解りません。」 「で、君はこれからどうする積りだね。」 「仕方がないから知人を尋ねて、大阪へでも行こうと思っています。」 「それでは今夜は?——外に泊まる所がないんなら、ここへ泊まって行ったらどうだね。」 「いえ、よそへ行って泊まります。私はただお宅へ、お礼やらお暇乞いやらを一言云いに、参っただけなんですから。」 H医師は彼の言葉を、正面から受けるに堪えなかった。 「左様なら!」Nは突然そう云うと、くるりと身を翻して出て行った。 H医師は、暗の中に消えて行ったNの滑稽な、また皮肉な後ろ姿を、じっといつまでもめていた。 しかも一旦悪い方へ傾いた事件は、その翌日更に大きな破局をらした。 H医師はその未明に、けたたましい電話ので起された。ちょっと、自身に出て呉れと云う取次に、彼は慌しく電話口に立ったが、彼はWという名を聞くや否や、ぞっと腋の下に汗の出るような思いがした。心を落ちつけて、受話器の中の疳走った声を聞くと、今朝になってS子が、家出をしたのを発見したが、そっちへ行っていないか、どこか心当たりはないかと云うのである。H医師は昨夜、Nだけが暇乞いに来た事を話し、S子の事は少しも知らぬと答えたが、その知らぬ事が何となく申し訳ないような気がした。 H医師は電話を切って戻って来たが、事がどうなり行くかと胸を痛めた、二人が出奔したとは思われなかった。きっとS子一人で、どこかをっているだろうと思った。ひょっとするともう死んだかもしれない。いずれは小さい女心から父母に会わせる顔がないと云うので、死を決して出たに違いないが、どうかそれが申し訳の家出で、死に後れてもどって来て呉れればいい。どうか無事であって呉れ。無事で再びもどって呉れれば、改めて彼等の願いを容れてやってもいい。——H医師はそんな風にまで考えた。 その午前を彼は焦燥の中に費やした。彼みずから出掛けて行って、彼女の行方を捜したい気がしたが、まさかそれもなし兼ねた。さればと云って無関心でいられない気もした。彼はいらいらしながら、いつも通り家で外来患者の診察に従事しなければならなかった。 午後になって、Wから電話がかかって来た。そしてごく冷淡な義務的な調子で、S子の水死が報ぜられた。死体が千住附近で発見されたと云うのである。彼はそれを聞いた時、胸がどきんとするのを覚えた。が、万事は給したと思うと、その後は思いのほか冷静だった。ただ彼は電話の調子に、万事は彼のせいだ、お陰で娘は死んでしまった、いろいろお世話になって済まなかったと云うような、一種の皮肉な意味があるように感じた。 ふと彼の眼の中に、S子の恨んだ死顔が浮んだ。それは昨日そこの診察台の上におずおずと横わった彼女から連想された。薄暗い水の面に、くっきり浮び出ている小さな鼻や、尖ったような感じを与える蒼ざめた頬や、涙で赤らんだ瞼を半ば開いて、じっと彼の方へむけている白眼。——その死顔のすべてが、彼に恨みを云い掛けていた。 H医師はその幻影を打ち消すように、二三度強く頭を振った。それからじっと椅子に沈み込んでいた。 2 それから半年とは経たぬ、或る秋の夜の事だった。まだ八時少し過ぎだと云うのに、診察室の中は夜更けのように静かで、医療器械を入れた箱の後ろに、らしい虫が鳴いていた。H医師は読みさしの医海時報を傍に置いて、この場の空気を乱さぬ程度のを一つしたが、そのまま呆やりと床を眺めて聞き入るともなく、の物音に聞き入っていた。その時一つのゆっくりした、引擦るような下駄の音が彼の家の方へ近づいて来るのを知った。それはH医師にとって、馴染みのある足音だった。それにしても今時分その足音の主が、やって来ると云うからには、もう大分悪かったその家の病人が、いよいよ重態にでも陥ったのだろう。…… 果して玄関の戸が開いた。早速出て応対していた薬局生が、やがて診察室の戸口に現れて、 「Tさんの爺さんが、ちょっとお目にかかりたいと申して居ります。」と告げた。 してみるといつものように息子が苦しんでいるから、すぐ注射に来て呉れと云うのではないらしい。で、早速診察室に通すように命じた。 T老人は入って来た。彼は白っぽいをで着ていた。年はもう七十に近いので電燈に映えた頭髪は、七分通り銀を交えて光って見えた。そしてその日はことに、もの悲しげな鹿爪らしい顔をしていた。H医師は椅子をめながら、 「どうかなさいましたか、病人が?」と早速尋ねてみた。 老人は椅子の隅にちょこなんと腰を下ろして、ろに語り出した。 「はあ、病人の事で一つお願いに上ったんですが、あれももうどうしても助からないのでございましょうな。」 「ええ、これまで幾度も申し上げたように、お気の毒ですが駄目ですな。おそらくはもう十日位のものとお諦め下さい。——何しろ私が初めて拝見した時から、もう手遅れになっていたのですからな。」 とH医師は静かながら明かに答えた。そしてH医師が初めて、その患者を診た頃の事を思い出した。 ——それはもう半年ばかり前、六月の梅雨時分の事だった。その時初めて迎えに来たのは、やはり今のT老人だった。息子が病気だから、すぐに来て見て呉れと云うので、ちょうど手隙でもあったし、早速往診を承知するとただちにその爺さんにいて、彼の家へ行ったのだった。 道々聞いた所によると、その患者と云うのは、老夫婦間の一人息子で、今年二十七になるH館の製本職工であるが、去年の暮頃から腹膜炎で床につき、今までは親類の補助によって、神田のある医師にかかっていたけれども、近頃になってとうてい患者が助かる見込みのないのを知ると、無駄だと思ったものか、急に金を出して呉れなくなってしまった。それだいままでその親類の縁でかかっていた神田の医師にもかかる事が出来なくなってしまった。が、病人はそのまま放って置く訳には行かない。そこで今度は自分たちのわずかな金で、新らしく近所の医師にかからねばならぬことになった。こうしてH医師が初めて、その選に上る事になったのであった。 行ってみると家は、M坂の途中から右へ入る小さな路次の、二軒目にあるだった。附近は一帯に貧しい家並みではあるが、その家もわずか二間にたらぬ間口を仕切って、煙草と駄菓子とを商っていた。見れば三尺の硝子戸棚の中に、淋しく並べた数種の煙草と、三つ四つの硝子筒に入れた飴菓子や煎餅と云った類が、ほとんど店の全部であった。 H医師は老人の導くままに、その店口から入ると、貧家に特有な湿った臭気と共に、の臭がすぐ感ぜられて、薄暗い六畳一間の隅に、患者の苦しげにいでいるさまが、ただちに彼の眼を打った。一人の、これも六十を超えたと思われる老婆が、六畳にすぐ続いているらしい台所の方から出て来て、H医師をただちにその六畳へ迎え上げた。見渡した所家族と云うものは、この老婦人と病人の三人だけだと云う事がただちに解った。 H医師は充分丁寧に挨拶した後、徐ろに病床の方に近よって、いつものように診察を始めた。患者は二十六七の、働き盛りの若者だった。もう四肢は見る影もなく衰えているが、元気はなかなかんであった。が、病状は紛う方もなく、結核性腹膜炎に違いなかった。腹部は見るからに浮腫が来ていて、青白い太鼓の胴を見るように、気味悪く膨れ上っていた。H医師は一診して、ただちにそれが不治なのを知ったのだった。 それはに可哀そうな一家であった。老夫婦が守る店の上り高は、いかに高く見積っても知れたものであった。だから唯一の働き手である、息子にこうして寝つかれては、その日暮らしにも差支えるのは知れ切っていた。しかもほとんどそれに治療の見込みがないとは、天はまた何という悲惨な境遇を与えたものであろう。若いH医師は惻然として同情した。そして治療の見込みはないと知りつつ、それ以来手を尽くして、熱心にその療養にかかったのだった。けれども病勢はますます進んで、昨今はすでに、万一の奇跡的回復さえ望み得ぬほどになってしまった。 加うるに一家の乏しい貯金は、たちまちにして尽きてしまって、この二ヵ月程前からは薬餌の料も払い得なかった。それ以来H医師は、ほとんど施療同然にして、死ぬべき命を出来るだけ伸ばすことに努めているのだった。—— そして今は、その病人に就いて、その父なる老爺から願いがあると云うのである。H医師はその願いと云うのが、何であるか予想がつかなかった。 T老人は静かに云い始めた。 「それで実はお願いするのでございますが、どうせ死ぬもので御座いましたら、一つあなた様のお力で、早く楽に死なせてやって下さる訳には参りませんでしょうか。」 「えっ、死なせるのですって?」H医師は事の意外に、思わずこう反問せざるを得なかった。 「親の口からそんな事を申すのは、ほんとにい奴だとお考えでしょうが、それが当人に取りましても、また私たちに取りましても、一番幸福だと思われるものですから。——実は私共にしましても、ああして苦しがるのを傍で見ているのが辛いばかりでなく、もう老人の手では、看護にあまる事があるのでございます。その上またあの家の大屋の方から、立退きの催促が、矢のように参るのでございます。と申しますのは、今までの持ち主があそこら辺の地所家屋を、ある成金に売り渡しましたため、その成金が今までの長屋をつぶして、新らしく立派な家を建てるのだそうで、このまでには、是が非でも私どもを立退かせる約束だったらしゅうございます。それを私どもだけが、一つは他に家が無かったせいでもありますが、ああいう病人を抱えて居るために、今まで半月も伸ばしていたものですから、この頃は大屋の方から、毎日のように談判に来て、いくら重病人がいると云っても、越せないはずはないと云って聞かないのです。そしてこの頃では当てつけがましく近所の家の取払いをやり出しました。その音が病人の枕に響きますんで、私共ははらはらしている始末なんでございます。で、こんな辛い思いをしながら、諸方へ迷惑を掛けて居りますよりは、いっそ一と思いに眠らせて頂いた方が、どんなにいいか知れないと、思わない訳には行かないんでございます。」こう云って、T老人はしばらく言葉をらした。彼の眼は泣いているのではないが、妙に光を帯びていた。 「それはそうかも知れませんが、」とH医師は思い沈みながら云った。「しかし、医師の上から云えば、死ぬ最後の瞬間まで命を伸そう伸そうと努めこそすれ、たとい死ぬと解っていても、縮める訳には行きませんからねえ。」 「けれども当人がそれを望み、親たちがそれを望んで、しかもそれがどっちにも幸福でしたなら、悪い事ではないではございませんか。それが本当のお医者さまの御慈悲でございます。あの子を楽にあの世へ遣って下さいまし。」 「それはどうも困りましたねえ。そう云う事は出来ない規則になっているのですから。」 「そこをどうにかして頂けないでしょうか。」 「どうも出来ません。」 H医師はしばらく考えていたが、やがて断然とそう答えた。そしてその答はあたかも叱るような鋭さを持っていたので、老人はもう二の句がつげなくなってしまった。 「では仕方がございません。今までどおり死期を待つ事にしましょう。」T老人はこう云って、丁寧に礼をして帰って行った。 H医師はそれを玄関まで見送って、 「とにかく、明日の晩伺ってみますから、そんな考えを起さずにお大事に看護してお上げなさい。」と云って別れを告げた。 彼はやがて診察室へ帰って来たが、それから後、永い間じっと頬杖をついて考えていた。 明くる日の晩、H医師は約束通り、M坂の病家を訪れる事にした。彼の鞄の中には、普通の鎮痛の注射薬と共に、一筒のモルヒネが前から常に入れられてあった。彼は家を出る前に、なぜかその有無を確かめて、それを取除けて行こうとしたが、長くをした後に、思い切ってまた、鞄の中へ入れてしまった。 いつもの通り、狭い店口から入ると、五燭の薄暗い電燈の下に、病人はうっすらと眼を開けていた。の事があったので、思いしか老夫婦も、黙り勝ちに医師を迎えた。 H医師は早速病床に擦り寄った。 「どうです、御容体は。少しは元気が出ましたか。」彼はまずさりげなく、快活そうに、こう云いかけた。 病人は医師の顔を見て、淋しい微笑を見せた。そしてかすれ沈んだ声で、 「いえ、もう駄目です。私も覚悟しました。ただ、どうせ助からないのなら、楽に死にたいと思うばかりです。」と切れ切れに云った。 H医師は彼がもう親たちから、すっかり死期の近づいたのを打明けられて、かえって安らかなに達しているのを察した。そしてその立派な態度に対して、そんな一時の気休めを云うのは、内心恥しいとは感じながらも、こう云わざるを得なかった。 「そんな事を考えるのはまだ早いですよ。そんなになっちゃ困りますね。」 しかし病人は、何でも知っていると云う風に、悲しげに口を歪めて微笑した。そして途切れ途切れに喘ぎながら、 「早いことがあるものですか。私はもうその用意はちゃんとしてしまったのです。ですからもういつでも死ねます。いつ死んでも心残りはないんです。——ああそうそう、いや、まだ一つ云い残した事がありました。それはねえ先生、あなたには永らく非常なお世話になりましたので、何か志だけでも御礼の印をと思いましたが、碌なものが私の所にあろうはずはございません。ただ紅葉全集の中の金色夜叉の巻が、いつか一部製本所で余ったのを、ばらのままで持って居ります。私の病気が癒りましたなら、自分で立派に製本して、先生に差上げる積りでは居りましたが、もうこうなっては駄目ですから、昨日友人に頼んで、製本して貰う事に致しました。はなはだつまらない物ですが、それをどうぞ私の片身だと思って、先生の本箱へ入れて置いて下さい。はなはだつまらない物ですが。……」とお終いには涙をためて云った。 「いや、ありがとうございます。喜んで頂戴致しましょう。」 と、H医師は感動せざるを得なかった。そして改めて病人の身体を、憐れむようにじっと見た。病人はすべてを云ってしまうと、疲れて眼を閉じてしまった。ただ空しく喘いでばかりいた。浮腫は腹部をもう限界まで膨らしたと見えて、もう胸の方にまで押し寄せて来ていた。肋膜の下部の方は、すっかり侵されてしまって、吐く息さえ苦しげに切迫している。——実際もう生き伸びさせても、それは苦痛を伸べるものだった。 H医師は眉の皺を寄せて、まじまじと病体を見やりながら、ちょっとの間深く考えていたが、やがてはっきりと重い声で、 「ではともかく、大へんお苦しそうですから、鎮静剤の注射をする事に致しましょう。」と急に老夫婦の方を顧みて、「いいでしょうな。」と意味深く念を押した。 老夫婦の同意を得ると、彼はすぐ注射に取かかった。鞄の中からは、とにかく一筒の注射薬が出された。彼はその或る量を、——それは彼が衰弱し切っているので、普通の量より少なくてよかった。——注射針の中に吸い込ませて、電燈の光に透かして見た。それから病人の顔を見直して、さて老人が差し寄せる電燈の下に、ぷつりと病人の右腕へつき立てた。そして心では眼をって、薬液を静かに体内へ送り込んだ。手は少しも顫えなかった。万事はりなく済んだ。すべてが終ってしまった時、 「先生。今日のは今までと同じ注射薬でございますか。」突然病人がこう訊ねた。 しかし H医師は驚かなかった。そして静かな声ですぐ答えた。 「ええそうです。ただ少し量を多くしましたから、いつもより効目が多いかもしれません。」 「そうですか。ありがとうございます。」 と病人は、すべてを知っているかの如く頭をかせて、じっとH医師をめていたが、その眼を更に親たちに向けて、それからまた静に閉じてしまった。苦悩は少し鎮まったが、彼はうつらうつら眠りに落ちるように見えた。 H医師は五六分の間、その様子を注意深く見守っていたが、何となく見るに堪えぬような気がして、静かに鞄を片付けると、「ではお大事になさい。」と挨拶して、そっとへ出た。 すると何を思ったか、老人は後からついて出て来た。そして戸口を出てしまうと小声で、 「先生、いかがでございましょう。」と云った。 「もう駄目ですね。恐らくは今夜きりでしょう。」 こう云ってH医師は、老人をそこに残したまま、足早にそこを立ち去った。 外はしめやかな秋の夜であった。M坂は人通りもそうなかった。そして行き交う人のすべてが、わざと静かな歩みを運んでいるように思われた。れた冷やかな空気が、のように天地に満ちていた。蒼くしんとした闇夜の中に、濡れたような鮮やかさで輝く街の灯にも、騒がしい明るさはなかった。H医師は自分の足音を聞くようにして歩いた。ふと坂の中途で、何気なく空を見上げると、天の川が白くはっきりと横わっていた。そして空一面に無数のが、瞬き合いながら平衡を保って、揺るるともなく撒き散らされてあった。 H医師は深い呼吸を一つした。そしてこの上もなく澄み切った、深く湛えた水のような気持になった。彼は空から眼を離して、静かな満ち足りた思いで歩みを移した。 翌朝H医師は、Tの家から病人が死んだというを受取った。老夫婦がほとんど知らぬ夜の間に、すうっと息を引取っていたのだそうである。H医師は早速行ってみたが、その頬の落ちた死顔には、非常に安らかな影があるように思った。 約束の金色夜叉は、それから二十日ばかり経ってT老人が持って来て呉れた。それは今でもH書架の隅にある。彼は時々静閑な夜などに、思い出しては取り出して読むのである。そして少しも医師としての良心にしい所なく、死んだTの魂に対する事が出来るのである。