久米正雄 螢草  港内の霧はすっかり晴れ渡った。  春もまだ浅い海の面は、さすがに麗かな色こそ見せぬが、静 かな光をうっとりと含んで、眠るように岸壁の下まで寄せてい る。た間時折南から来る風の名残が、防波堤の外で波の穂を|白《しる》 ませた。  そこの港外には今日着いた米国通いの汽船、静岡丸の端麗な 姿が、まるで写真にでも撮ったように、あたりに在る池の船々 を圧して、くっきり浮び出ている。まだ検疫が済まないので、 淡い煙を残り惜しげに吐き乍ら、そこに仮泊している船体は、 それ自身岸壁へ横着けになる時を、待ち兼ねているものゝよう に見えた。  どの船かでからくと|鎖《し 》を巻く音、どこやらの|船渠《ドツク》に起る鉄 槌の響、さては埠頭の単調な荷上げ唄、港は今や活動と|段賑《にぎわい》の 只中であるが、中にも岸壁に集まった出迎いの人々は、笑いさ ざめき塊り動いて、東洋一の|大湊《おおみなと》の春はこゝぞと賑って居た。  殊に今日は新任米国大使の来朝と云うので、真新しい|襟《カラ 》も白 白と、正しく|礼服《プロツク》を着こなした外交団や、新聞雑誌の目絵挿絵 で、或いはその物々しい白髭により、或いはその燗々たる|眼眸《まなざし》 .によって、一目にそれと名指し得る名士たちや、こう云う際に は殊に風采の堂々と見える、本邦駐在の諸外人や、または|装飾 帽《ボンネツト》と上下の衣裳に、紅紫紺白を錯落させる|貴婦人《レディ》などが、凡て のものゝ中心を形作って、儀礼ある会話の中に華やかた歓びを .湛えていた。  けれどもそれらの人々のは、或いはた岱外交という儀礼の上 の、歓びの色かも知れなかった。却って真の歓びは、つゝみ切 れない歓迎の情は、それらの美々しい中心を離れて、三人また 五人、親を迎うる子、子を迎うる親、良人を迎うる妻、友を迎 うる友、そう云う人々の集まりの間にこそ、初めて見出される のであった。  人々の中心をやゝ離れて、岸壁の最も|突端《はずれ》の方に、五六人 寄っている青年紳士たちは、明かに米国大使を迎うる群ではな かった。彼らは皆同じ位な年輩で、いずれも三十を出るか出ぬ かだった。服装も殆んど似通っていた。身の廻りは皆|整然《きちん》とし てい乍ら、どことなく|高襟《ハイカラ》で取澄ました|態度《よちす》の中にも、人を外 らさぬ社交性が見える、彼らは明らかに若い医師だった。|而《そ》し て時々出る幾らか粗い学生のような口吻に徴すれば、明かに大 学を出てまだ間もない、「青い|笥《たけのこ》」に過ぎなかった。恐らく 彼らは今日帰朝する、一人の同窓の友人をこゝに迎えに来たの であろう。彼らの間には、こんな会話が交されていた。 「一体野村は、これで米国に|幾何《いくら》居た事になるのかなあ。」 「そうだね、行ったのは学校を出て間もなくだったから。かれ これもう二年になるかな。」 「帰って来るのが馬鹿に早過ぎるね、一体何だってこんなに早 く帰ったものだろう。折角ロックフェラーの山目博士の助手に なっていたからには、僕ならもっと永くいて、何か立派な業績 を挙げてから帰るがね。」 「何か材料の蒐集にでも来たのじゃないかしら。」 「いや、恐らくはそうじゃあるまい。吾々の人生だって、そう 研究一点張では行かないからね。研究室には春夏秋冬はない が、やがて四月にでもなれば、世の中には桜も咲こうと云うも のさ。況んや野村君には、日本に残して置いた醤の花があるん だからね。それをいくら健忘な君たちだって、もう忘れた訳で はあるまい。」 「僕も実は、そうじゃないかと思っていた。じゃ先ず|結婚《ハイラ テン》の ためと一決するかね。」 「そこらが間違いない所だよ。-がそれに就けては、今日は なぜ、その当の令嬢が来ていないんだろう。あれだけ関係の深 い、秋山家の人たちは一人も来ていないじゃないか。」 「そうだね。不思議だね。それに野村の親友の、星野も黒川も 来ていないじゃないか。あいつら二人が来れば、野村辰雄帰朝 尚早の理由も、立所に氷解するのだがなあ。」 「なあに心配し給うな。彼らは支度に手間取って、来るのが|鳥 渡《ちよつと》遅くなった讐けさ。今に船の着く頃には、遅くもきっと駈け つけるよ。」 「それにしても遅いじゃないか。lあれ見給え。検疫の|艇《ランチ》が もう帰るぜ。」  中の一人が指した|洋杖《ステツキ》の先には、銀色の波のうねりを切っ て、今、|艇《ランチ》が楓々と港内へ帰りつゝあった。        二  静岡丸の上甲板には、一二等船客の全部が出て、検疫の来る のを待っていた。今日まで海上数万|浬《かいり》の、水や空なる航海の 間、|客間《サルウン》の中心となっていた米国大使一行も、初めて見る日本 の風景を、物慕わしげに眺めていた。|紐育《ニユ ヨ ク》あたりの|摩天閣《スカイスクレパア》 が聾えて居る、一大都市を見馴れた彼らの眼には、横浜もごみ ごみした矯屋の並んだ、一個の小港としか見えないであろう。 けれども|本牧《ほんもく》一帯に横たわる、浅緑を含んだ丘々は、永い航海 の倦んだ心に、何とも云えぬ慕わしさを与えたらしい。彼らは 時々感嘆の叫びをあげ乍ら、港の内外を眺め尽していた。  けれども舷に彼らにも増して、物慕わしい|眼眸《まなざし》を燃やし乍 ら、じっと故国の土地に見入っている、一人の若い日本人が あった。.彼は甲板の端れの方に、唯一人欄干に身を兜せて、乗 り出すように港内を眺めていた。胸は波のように躍っているら しく、さらでも血色のいゝ顔に、眉のあたりまでぽっと上気さ せている。風采はそう立派と云う程ではないが、男らしい肉の 緊った肩に、きちりとした紺の洋服を着て、茶色の外套を脱い で手に掛けていた。それは日本を見た嬉しさの余り、未だうす ら寒い海風も感じないためであると見えた。  待ちに待った検疫の|艇《ヲンチ》が着いて、当路の接待をする外交官 と、|数多《あまた》の新聞記者を伴って来たので船上は一と頻り歓語に満 たされた。流暢に外国語で挨拶し合う声がそこここに起り、写 真班は一斉にレンズを、豊頬長身の米大使に向けた。記者は各ぐ 其間を縫うて、彼らの職務を遠慮なく遂行した。薄茶色の衣裳 を着けた大使夫人、薄藍のスカートも軽げな令嬢さえ、極東の 風景に対する感想を徴せられた。中にも一人の肥った記者は、 顔にも似げない可愛い声で、巧みに英語を操り乍ら、十七八と 見える大使の令息に、頻りと感想を訊ねていた。 「あなたは日本に於ける生活に就て、どんな期待を持って居ら れるか。」と云う記者の甲高い英語が聞えた。 「余りに沢山で、語る事が出来ない。Lと愛すベき米国の青年 は無邪気に答えた。  先刻の日本の青年紳士は、その言葉にちらと振返って、近く の二人を眺めたが、ー殆んど自分の心持を云って貰ったように微 笑んで、猶も慕わしげに港内を見ていた。彼は周囲を忘れ、己 をさえ忘れて、帰朝の喜びに浸っているらしかった。  その中に愈ぐ検疫は終った。而して|艇《ランチ》の帰ると同時に、静岡 丸は再び徐々と動き初めた。彼の胸は更にく躍った。再び故 郷の土を踏む時期ハ再び懐しき人々に会う時期が、今刻々に近 づきつ、一あるのを思うと、それからそれへ歓会の光景が聯想さ れて、先ず会った時向うが何と云うだろう、|此方《こつち》でも何と云っ たらよかろうなぞと、そんな言葉まで予期されて、独りでに動 悸が高まり、微笑みが自ずと頬に上るのを覚えた。別れて僅か 二年ではあるが、ー一刻も忘れ得ぬ人を残した彼はj夢にさえ今 日の日を待ち焦れていたのである。  船はだんく岸壁に近づいた。そして今は既にそこにいる出 迎いの人々と、顔を見別け得る位までになった。けれども船は もう惰力によってのみ動いているので、岸壁が鼻の先に見え乍 ら、まだ横着けにはならなかった。その間の待ち遠しさに人々 は思わず呼び声を出したり、或いは帽や|手畠《ハンケチ》を振ったりした。  青年紳士は岸壁に近づくと、燃えるほど一心になって、出迎 いの人々を物色し出」た。「着く日はちゃんと知らしてあるの だから、きっと迎えに来て呉れるに違いない。」  と心に|独語《つぶや》き乍ら、彼は警しい岸壁の人々を端からずづと見 渡した。殊に美しい日傘の|在処《ありか》、華やかな衣裳の点綴された所 は、心をとめて見定めた。けれどもその人らしい姿は、遂に彼 の眼には映らなかった。彼は自分の眼を疑った。見落したのだ ろうと思って、心を落着けて見な尉したが、再びそれらしい人 はいなかった。只辛うじて彼の瞳に、群衆の端の方に立ってい る、五六人の同窓の友人らしい人々が入った。その途端に「お うい、野村君!」とその|中《うち》の一人が呼ぶのを聞いた。  野村と呼ばれたその若い紳士は、さすがに嬉々として帽を 振った。  船からは岸壁へ|索《ロ プ》を投げかけた。かくて汽船静岡丸は、再び 日本の国土に繋がれたのである。/       三  岸壁から船へ橋が渡された。大使一行が先ずそれを渡って上 陸し始めた-橋に近い人々がだんくそれに続いた。  野村辰雄も心|急《せ》き乍ら人をかきのける事も出来ず、順の来る のを待っていた。彼はまだ眼を出迎えの人々の間に放ってい た。が、.まだ探し求める当の人が見つからないので、隠し切れ ぬ喜悦の中にも、不安と焦慮との様子が見えた。 「どうしたのだろう。燵に来ていなくてはならないのだが、 自分の見落しか知ら、それとも何か都合が在って、急に来られ なくなったのか知ら。澄子さん許りではない。星野や黒川まで も来ていないの捻|可怪《おか》しい。1が上陸して見たら理由も解る だろう。ひょっとすると、人混みに紛れて、見つからぬのかも 知れない。」彼はこう考え乍ら、猶も物色を怠らなかった。  その時|背後《うしろ》から彼の肩を叩くものがあった。振返って見る と、それは同船の|誼《よしみ》で、交を結んだ森戸子爵だった。子爵も   年頃は野村と同じ位だった。そして何か家庭の|紛紙《ふんぬん》を避けるた  めと・自分の好んでいる美術の研究勇ぐ、米国に遊んでいたの バガボンドジレッ5ト  であった。子爵は謂わば貴族の放浪者で、いゝ意味での好事家  なのである。   「とうくお別れですね。」子爵は懐かしげに云った。   「そうですね。船の中ではいろくほんとに有難うございまし   た。」野村も改まって挨拶した。   「お互いですよ。お蔭で私も退屈せずに済みました。」子爵は   続けた。   .「が、こうしていざ上陸するとなると、何だか残り惜い気がし   ますね。殊に私なぞは、足が日本の土を踏むとから、もう四角   四面の儀礼の中で、子爵とか云うものゝ体面を保たなくちゃな   らんのですから、何だか帰ってもさっばり嬉しくありません。   又厭な事ばかり見せつけられるんですからね。」    子爵の言葉は何か胸中の不平を、吐き出すような調子だっ   た。が、此際それを聞き出すには、野村の心とても|閑暇《いとま》はな   かった。   「そこへ行くと君なんぞは羨ましい。希望そのものゝ国土ヘ   帰って来た訳ですからね。ー時に君の|許婚《プィアンセ》は来ているでしょ  .うな。」子爵は続けて云った。   「いゝえ、まだ来ていないんです。これでは希望の国ヘ帰った   訳でも無いかも知れません。」野村は強いて笑った。   「それはいけませんね。まさかそうではあるまいけれど、とか   く女には信用が置けませんからね。」子爵はわざと冗談に云っ   た。   、野村の心にはぼんやり暗い影がさした。そこで|談話《はなし》を切上げ   るために、「兎に角、上陸しようじゃありませんか。」と子爵を   促Lた。 「私は一番後から下ります。iじゃ左様なら。又何処かでお 目にかゝりましょう。」 「左様なら、御丈夫で!」と野村も挨拶して、そして橋を渡っ て行った。  岸壁に待っていた友人たちは、直ぐ彼を取り巻いた。 「やあ、よく|壮健《たつしや》で帰って来たね。」 「|久潤《しばらく》だったね。」 「大分ハイカラになったじゃないか。」 ー「お目出度う。」「お目出度う。」  彼らは口々にそう云って迎えた。さすがに野村も、嬉しさに 頬を輝かして、 「やあ、わざくどうも有難う。忙しいところをよく来て呉れ たね。」と一々それに答えていた。が、恋人と親友とがそこに 交っていない事は、心から彼を浮立たせなかった。彼は友人た ちの肩越しに、猶も|四辺《あたり》を物色していた。彼は出迎いの人々の 間を一々探して歩きたい位に感じた。 「星野や黒川は来ていなかったかい。」と、とうく野村は友 人たちに訊ねた。 「僕らも先刻から待っていたんだが、何かで遅れたんだろう。 まだ姿を見せないよ。」友人の中の一人が答えた。 「いずれ今明日中には会えるんだから、こゝで会えなくたって 関わないがね。」と野村は鳥渡不満げに云って、「じゃ行こうり こゝで立話も出来ないから。」  と先に立って歩き出しかゝった。  その時一輌の入力車が向うから全速力で走って来た。        四  走って来た|律《くるま》の上には、色の浅黒い一人の洋服の男が乗って いた。彼は値の遅いのをもどかしがって、前に身を乗り出すよ うにしていた。彼も|此方《こつち》の仲間と同じ職業に属しているらし かった。年齢は顎鷺を蓄えているため、少しく老けて三十四五 に見えたが、その厳めしい顔の裏には、欝積したような温情 と、子供のような無邪気さとが現われていた。  野村は素早く車上の人を認めた。 「向うから来るのは黒川らしいね。」 「あゝ黒川だ。黒川だ。」友人たちも相槌を打った。「顎髭の呉 合は黒川に違いない。」 「黒川の来ない筈はないと思ったよ。」もう一人の友人が云っ た。「それにしても何故二星野が来ないのだろう。」  それには誰も答えるものはなかった。  だんく近づいて来た黒川は、まだ此方には気が附かないら し<、車上から人々の間を探していた。 「おうい。黒川君!」野村は吾を忘れて叫んだ。  黒川は此方を見附けた。 -「やあ! そこにいたのか。」彼も遠くから叫んだ。その墨田 川でゝも鍛えたらしい蛮声に、まだ残っていた三四人の西洋人 が、|吃驚《びつくり》して振向いた。 一「黒川は相変らずだね。彼奴の声が米国大使夫人を気絶させ て、国際問題でも|惹起《ひきおこ》さなけりゃあいゝ。」友人の一人が笑い 乍ら云った。  黒川は梶棒を下すのを待ち兼ねて、自分の足許に|纏《まと》ってあっ た膝掛けを、投げつけるように車夫に渡し乍ら、急いで悼を下 りた。野村もそっちへ進み寄った。 「遅くなって済まなかった。」  二人は「握手」と云うような外見的な態度でなく、もっと切 迫した感情の奔出から、つと寄って手を舞と握り合わせた。そ して暫らく顔を見合せた盤、何の言葉をも発しなかった。  やがて黒川が云った。 「よく無事で帰って来たね。思いの外早く帰れてよかった。」 「君も相変らず丈夫でい\ね。どうだい皆も|壮健《たつしや》かい。」野村 も久潤の喜びに涙を浮べて云った。 「みんな無事だ。」黒川の声は何故か少し曇った。 「星野はどうしたろう。」野村は訊ねた。 「星野かい。」と聞き返した黒川の顔には、更に|語《いぶ》かしげな陰 影が浮んだ。そして彼の声は鳥渡低くなった。「星野は手が放 されない仕事が在るとかで、今日は来られないから、呉々も君 に宜しく云って呉れってことだったよ。」  すると|傍《かたわら》の友人の一人が口を出した。 「きっと例の発疹チフス病源菌発見で忙しいんだろう。秀才は いつも忙しくて困るね。」 「これからは野村君も帰って来たし、研究所の方も大分色めき 立つわけだ。日本の医学界もだんく面白くなって来るね。」  もう一人がその言葉に連れてこう応じた。黒州はそれに対し て何とも云わなかった。 .「一体これからどうするんだい。どこかへ寄るのかい。」 「真っ直ぐに東京へ帰ろうと思うんだ。こゝらに愚図々々して いたって仕方がないから。」と野村は答えた。 「そうだね。それがよかろう。」黒川も賛成した。 「野村君には東京で待っている人があるんでしょう。」と友人 の一人が|椰《やゆ》楡した。  野村は鳥渡微笑んだ。が黒川はその人を睨むようにした。そ してそれを打消すように、 「じゃあ直ぐ停車場へ行こう。」と促した。  皆は歩き出した。今、野村の眼には、歩一歩毎に、慕わしい 故国の風景が展開された。野村の心は嬉しさに満ちていた。が その悦びの何処かに、物足りなさが残っていた。それは何故だ ろう。野村は考え乍ら歩いた。「何故あの人は来て呉れなかっ たろう?」 ー野村は肩を並べて歩いている黒川に、その人の消息を一言な りと聞きたかった。けれども|四辺《あたり》には外の友人も居る事だし、 それに何となく気が退けて、喉まで出かゝっては、訊ね兼ねて 了った。 「ほんとに何故来なかったんだろう。」  その考えに捉えられた野村は、久しぶりの帰朝にも拘わら ず、もう四辺の景色を見もしなかった。とうく何も聞かぬ中 に、皆は停車場へ着いた。        五  一同は、院線の電車へ乗る事にした一  野村の出発当時、まだ開通しなかったその電車は、米国の小 ラムに乗りつけた彼の腰を、クッションの柔かい弾力で迎え た。彼は珍らしげに|四辺《あたり》を見廻した。一|彼国《あちら》にはない特等の車室 は、割に明るく清げであった。彼はふと|彼地《 かのち》に於ける地下鉄道 を思い浮べた。,その暗い車室の一隅で、遙かに故国の電車の乗 り心地を懐かしんだ事を思い出した。がそれは今すっかり地位 を転換した。そう思うとこの樺色の毛鶴も、彼の心に云いよう のない|和《やわら》ぎを与えた。  発車までには少し時間があった-乗客はそう混んで居なかっ た。 「もう出てもいゝ頃だな、もう十分近く待った。」と黒川は時 計を見ながら云った。 「そうだね。車掌の奴何をしているんだろう。」友人の一人も 相槌を打って、窓から|歩廊《プテツトフオ ム》の方を|覗《うかが》い見た。そして突然低 い声で、  「やあ、素敵な美人が乗り込むらしいぜ。」と一同の注意を促 した。  その時錯綜した人の足音が聞えて二三の人々が続いて乗り込 んだ。野村も一同と同じく、何気なしにその人達の方を見遣っ た。. パ先に立って入って来たのは、思いもかけない森戸子爵だっ た。そしてその後からは、若い清麗な美人と、家従でゝもある らしい中年の男が続いた。, →森戸さん!」と野村は立ち上った。  森戸子爵は吃驚したように|此方《こちら》を見た。. ・「やあ君も,この電車か。うまく落ち合ったものだね。これも何 かの因縁かも知れない。」 ,■乏子爵は野村たちの向う側へ、座を占め乍ら微笑した。美し い人もその傍へ淑やかに坐って、子爵に突然話しかけた野村 を、鮮かな眉の下から、測るようにちらと見た。  野村は今のさっきその人を見た瞬間に、思わず胸をはっと躍 らした。■何故というにその人は、余りによく「彼女」に似てい るからであった。彼はまだ「よく似た入もあるものだ」と思い 乍ら、暫らくじっとその美しい姿を眺めた。・  子爵は腰を下ろすと例の調子で初めた。  「二三年居ない間に日本も亦退化して、電車まで」二等室が出 来たね。こんなものが出来ると僕はわざと三等に乗ってやるん .だが、今日はこう云う同伴があるんで遠慮したよ。」と|傍《かたわら》の 美人を顎で指した。そして改めて野村に「あゝそうノ\。君に は紹介して置こう。僕の細君だとでも思われちゃ困るからね。 ーこの女はね。僕の妹だ。|淑子《よしこ》って云う才媛だよ。ーさあ 淑子、おまえも挨拶をおし。この方は野村医学士。兄さんが船 中で一緒の室に居た人だよ。お世話にもたったがお世話もして 上げた。|頭脳《あたま》はこの兄さん位いゝ|方《かた》だよ。話もなかくよく解 る人だ。尤も船中で大いに兄さんが開発してやった所為もある がね。-」 「どうぞ宜しく。」野村は挨拶した。  淑子は黙って、兄の言葉に微笑み乍ら、薄く白いものを刷い た頬をぽっと|染《 ち》めて、輝かしい瞳の奥から会釈した。  その|中《うち》に車掌は持ち場に就いた。そして電車は号音と共に出 発した。暫らくごみくした街衝を抜けると、.車窓には田野が 展けた。黒々と土を鋤き返した春田が映った。芽を吹きかけた |榛《はんのき》の木立が|過《よ》ぎった。そして時々沿道の人家が黒く掠めた。  野村は猶も時々淑子の方を盗み見た。そして夢裸にも忘れぬ その人の、その|悌《おもかげ》に彷佛たる人を眼前にして、彼の胸は知ら ず<時めいた。その人は或いはこの人ほどに美しくはないか も知れない。装いもこの人ほどに凝らしてはいないかも知れな い。それにしてもこう迄似た人はあるものだろうか。併し野村 には何処が似ているのか解らなかった。大方どこか一つ似た特 長があるため、思い焦れた彼の心の眼に、全体が似ていると 映ったのかも知れなかった。 「だが、一体あの人こそどうしたのだろう。」野村は再びその 考えに捉えられ初めた。彼は似た人を前に本人の事を思い悩ま ざるを得なかったのである。而してとうく我慢しきれなく なって、話が他へ洩れるのを防ぐため、車輪が更に轟々とする のを待って、|傍《そば》の黒川の耳へ目を寄せた。「秋山家では皆変り はないかい。澄子さんは今日どうしたのだい。」  黒川は一瞬間妙た顔で野村を見た。「別に大した変りはない らしい。が、今日迎えに来なかった事に就ては、あとで二人忙 なってから話そう。」 「そうか。」野村は漠然たる不安を感じた。  電車はいろノ\な人の思いを載せて只楓々と走っていた。        六  電車はやがて品川へ着いた。すると家従と見えた男が、|徐《おもむろ》 に立上って森戸子爵に恭しく云った。「御前、此処で騎降り下 すった方が、御|邸《やしき》へ参るのにはお近うございます。」  子爵は皮肉な微笑を浮かべて答えた。 「あゝそうですか。では御前は此処で降りるとしましょう。 ーじゃ、野村君、僕は此処で失敬しますから、儀式ばった華族 の家庭が見たくなったら、博物館へでも行く気でやって来給 ぇ。尤も興味も価値も無いんだから、たるたけたら|外処《よそ》で会お う。それにどうせ狭い日本のことだから、いずれ何処かでぶっ 突かるだろう。じゃ皆さんお先に失敬。1さあ淑子、|貴婦人《レディ》 は先に行くものだよ。」  森戸令嬢は、また無言のまゝ、静かに野村に会釈して去っ た。  皆が降りて了うと、例の友人の一人が、 「野村君、君は実に幸運児だね。帰朝早々あゝ云う美しい人と 知己になるなんて。iI併しお蔭で僕たちも光栄を感じたよ。」 実に美人だ! 僕はあらゆる讃辞を呈するね。どうだい賛成し ないかい、そこの婦人科君。」  と婦人科専門と見える一入はわざと取澄まして云った。 「いや、あゝ云う女は余りに貞淑過ぎる。それに余りに品格を 保ち過ぎるね。僕たちはつい一言も彼女の声を聞かないで了っ た。一体女と云うものを赤裸々に知って居る僕から見れば、 あゝ取澄ましているのが滑稽に見えるよ。」 「そうだ、そうだ。が併し野村君を見た眼付には鳥渡味があっ たぜ。著り給えよ野村君。君はまだ他に待っている人もある し、実に艶福羨むに堪えたりだよ。」 「下らない事を云うなよ。」突然黒川が叫んだ。彼の顔は真剣 だった。そしてその声が殊に俊厳だったので、いつもなら鎮ま らない連中も、さすがに声を呑んで了った。 「序に云って置くがね、諸君。」黒川は叱るように云い続け た。「野村は決して結婚とか何とか云う浮いた理由で、日本へ 帰ったんじゃ無かろうからね。友達甲斐に余りそんな噂を立て ないで呉れ給え。ねえ野村、僕の云う通りだろう。」 「うむ。ーそうだ。」野村は黒川が何の為めにそんな事を強 調するのか、半ば解らずにそう答えて置いた。  そうこうする中に、電車はとうく東京駅へ着いた。  野村はさすがに真っ先きに|歩《プラツトフ》 |廊《オ ム》へ下り立った。東京はも う黄昏かゝって、薄鼠の霧とも|暗《やみ》ともつかぬ|面紗《ヴエ ル》の下に、瞳の ような|燈火《ともしび》が点き初めていた。今、二年振りの大都の夕景は、 ときめき躍る彼の胸に、淡い涙をさえ湧き立たした。彼はそこ から顧望をやゝ久しゅうした。 「さあ行こう。」黒川が促した。  一同は暗い段を下りて、それから改札口を出た。すると突然 野村の手へ、急に横から槌りついた者があった。野村は吃驚し てその方を見た。そこには一人の年老いた女が、口もきけずに 涙を溜めて見上げていた。 「やあ、婆やか。」野村も叫んだ。 「辰雄さま、ほんとにお|壮健《たつしや》で、よくまあ、誌早く、お帰んな すって、婆やは、ほんとに嬉しゅうございます。」婆やの声は 涙で|途断《とぎ》れた。 「有難う婆や。だがどうして僕の今日帰るのを知っていた いっ・・」 「この黒川さまに伺いました。」 「それでもよく今だと見当がついたね。僕は時間なぞは教えな かったぜ。」黒川は傍で云った。 「はい。でございますから、朝から此処に齢待ちして居りまし た。」 「朝から?」野村は驚き乍ら涙ぐんだ。 「はい。辰雄さまがお帰りになっても、まだお|家《うち》がお在んなさ る訳でございませんから、又婆やがお世話して上げようかと思 いまして。」 「そうかい。それは有難かったね。」 「併しね、婆や。」黒川は云った。「今日は野村君は、僕が貰っ て行くよ。前からそう|定《ぎ》めてあるんだ。ーねぇ野村、君は今 日は僕の家へ来なくちゃいけないよ。秋山の奥さんとも相談し てあるんだから、是が非でも連れて行くんだ。ね、いゝだろ う。」  意味ありげな黒川の言葉に、野村は承知をしなければならな かった。 「じゃそうしよう。1婆や、それじゃお前の処には、又直ぐ 後で厄介になるよ。」と云り七更に友人たちにも、「諸君、ほん とにお忙しい処を有難うございました。」と改めて感謝した。  人々は別れ去った。婆やもまだ涙をぼろく|醗《こぬ》し乍ら、「お待 ちして居ります。」と云いノ\、後を振返り勝ちに立ち去っ た。  野村は黒川に伴われてその家に急いだ。        七  |谷中清水《やなかしみず》町に在る黒川の家では、妹の秀子が先刻から用意を 整えて、二人の帰るのを待ち兼ねて居た。兄と二人のつゝまし やかな生活に、日常の料理は熟練して居るが、今日は特別の客 を迎えると云うので、先刻から料理本を参考に品々を整え、,直 ぐにも食卓が出来上るように、火を入れるばかりにして居た。  彼女は先刻から幾度も門口へ出て見た。彼女の顔はそう美し くはないが、どことなく気高い所があった。そして白粉気は更 になかった。髪は無造作に束ねてあるが、左右の髪はふっくり 膨れて、その量のたっぷりあるのを思わせた。|衣服《ぎもの》は小ざっば りした銘仙を着て居た。今日は久しぶりで野村に会うので、 もっといゝのに着かえようとは思ったが、もとく美しく見せ ようと云う心は無いので、帯だけ|外出着《よそゆきぎ》のに締め更えた。1 彼女の全体の様子には、一輸咲きの白い花のように淋しい所が あった。  兄達はなかく帰らなかった。秀子は待つ身の|焦慮《もどかしさ》に捉われ ■ないため、気を静めて聖書を読んだ。彼女の心はだんく澄ん で来た、そして眼が輝きを帯びて来た。ー彼女は一ヵ月ほど 前から、急に信仰に入り出したのであった。  格子戸ががらりと開いた。そして待っていた兄の、「,おい今 帰ったぞ!」という声が聞えた。秀子は急いで、聖書をふせ ーて、小さい玄関の方へ出て行った。  ・兄と一緒に野村が立っていた。二人は靴をぬいで|家《うち》へ上っ た。  「お帰り遊ばせ。今日は無事に御帰朝なすって、ほんとにお目 出度うございます。よくまあいらしって下さいました。」と彼 女は挨拶した。  「秀子さんですか。|久潤《しばらく》でしたね。あなたもお変りがなくて、 結構ですね。」  「えゝ有難うございます。どうやら|身体《からだ》だけは、お蔭さまで丈 夫ですの。」彼女の言葉は何かを神に訴えているようだった。  「さあく直ぐ飯だ。兄さんたちは腹がぺこくだよ。御自慢 ■の料理の用意はもう出来てるのかい。」黒川が快活に云った。  「えゝ。直ぐですわ。じゃ少し待って頂戴。」と秀子は台所の 方へ行った。野村は珍らしげに|四辺《あたり》を見廻した。  「小ぢんまりしたいゝ家だね。いつも乍ら君たち兄妹は、纏 まった家庭生活をしているのが羨ましい。」  「なあに文字通りの随屋|住居《ずまい》さ。たf手廻りの物だけは、妹が よく気を附けて呉れるんでいゝのだ。その|中《うち》に君もいゝ細君を 見附けるさ。」  野村はじっと黒川の顔を見定めた。そして黒川があの人の事 を知っているのに、何故そんな事を云うのかと疑った。が、そ れは黒川がわざと白ばくれて、|椰楡《からか》ったものゝようにも思われ た。そこで、  「僕の細君も君の、妹のように気が附くといゝんだが。-」 と野村も白ばくれて云った。  「併し妹の奴も此頃はいかんよ。急に基督教に凝り出しやがっ てね、救世軍へ身を投じたいから、許して呉れなぞと云い出す んだ。此頃では兄より神様の方をたよりにしているらしい。実 に怪しからんよ。」  「そう云えばずっと大人になったせいか、前の快活な元気がな くなったようだね。」  「その代り沈んだ一本気の信仰になったのだね。ー僕にはど うしてあゝ変ったか、その理由が解らないんだ。」  「何か|恋愛事件《ラプアツアエア》でもあったんじゃないのか。」  「そう云う方面には一体僕は鈍感なんだが、僕にはそんな事が 在ったとも思われない。」  「訊いて見たのかい。」 「訊いても漠然と信仰が目覚めたと云うような事しか云わない んだ。」 「僕がいつか訊いて見1うか。」 「恐らくは君にだって云うまい。いやその話はよそう。妹が料 理を持って来るらしいから。」  二人は口を摩んだ。そこへ「ほんとに何にもありませんけれ ど」と云い乍ら、秀子が食卓を運び出した。十六燭のタングス テン燈が、今宵ばかりは明るく|卓布《タロメ》を照らした・ 「さあ野村君、君の帰朝を祝うにしては、少し貧弱かも知れん が、精養軒なんぞとは又味が違うと云うものさ。妹の名誉のた めに食ってやって呉れ給え。」 「有難う。何よりの御馳走だ。」 「それに今夜は黙って酒をつけたところが偉い。1毎晩禁酒 の御説教を聞かされてるんでね。11さあ秀子、野村君にお 酌。」 「お一つ|如何《いかぁ》です。」秀子は微笑して銚子を取り上げた。 「何よりも先ず無事で帰ってお目出度う。」「有難う。」二人は盃 を高く目の処まで上げた。        八  温情の満ち温れた食卓は、|彼地《かのち》の噂|此地《このち》の話と続いて、語り 尽きぬ思いの中に終った。野村は快い微酔を帯びた。|而《そ》して他 にどんな盛大な歓迎会があろうとも、今宵のこの歓待に勝るも のはあるまいと思われた。 「どうも御馳走様でした、久しぶりの日本料理と云う上に、秀 子さんのお手製と来てるんですから、|甘味《うま》いには|定《き》まっていま すけれど。」野村は笑い乍ら感謝した。 「あら、そんなお世辞を仰しゃるものじゃありませんわ。」秀 子の淋しい頬の上にも、喜びの色が楚々と動いた。  食卓を片附けて、秀子が台所へ下げて行った後では、二人は 飽食のあとの漠然とした疲れを覚えた。黒川は横になって煙草 に火を点じた。 「どうだい、君も長途の船旅で疲れたろう。僕も今朝からの|気 草臥《きくたびれ》が出たから、もう直ぐに寝ようじゃないか。横になって話 をしよう。」 「あゝ、それは何よりだね。何しろ波の上の|寝床《ペツド》では、夜半の 夢が破られ勝ちだったからね。久しぶりで今夜から、地上に身 を横たえられると思うだけでも、何だか心が安々とするようだ よ。」 「そうだろうね。1じゃ早速床を取らせよう。おい、お秀。 済まないが直ぐ、書斎の方へ床を敷いて呉れないか。今夜は兄 さんが野村君と書斎へ寝るから、お前は一人で此方へお|寝《ね》。」 「はい、只今。」秀子はそう答えて台所かち奥の六畳へ入っ た。暫らく夜具を下ろす気配が次の間でした。やがて又出て来 て、 「それじゃどうぞ汚い蒲団ですけれど、騎床がとれましたから %休み下さい。」と二人を招じた。 「じゃ寝よう。」黒川は立上った。 「それでは秀子さんお先に御免を蒙ります。」野村も遠慮なく 立上った。 「えゝどうぞ。ごゆっくりお休み遊ばせ。」と秀子は二人に挨 拶して、間の襖を閉めた。  二人は寝巻に着かえて、各ぐ並べてある床へ入った。夜具の |小漁酒《 こざつぱり》しているのにも、兄妹の心尽しは見られた。真新しく洗 濯した|敷布《シ ツ》の微かな石鹸の香が、野村の敏感になった鼻を快く 礫った。 「二人でこうして寝るのも、大分久しぶりになるね。」野村は 沁々と云った。 「うん。まる二年になるね。Il併し割合に短かった。僕は君 がこんなに早く帰ろうとは思わなかったよ。」 「併し一二年したら又直ぐ出掛けようとも思ってるんだ。何し ろ僕にはあの問題があるからね。それをどうにか解決をつけよ うと思って、それで実は帰って来たのさ。」 「ふむ。-」黒川は何となく気乗りのしない返事をして、暫 らく言葉を|途断《とぎ》らした、  それにも係わらず野村は続けて云った。 「君にはもう前から、すっかり話してあるんだけれど、僕と澄 子さんとは大学時代からの|知己《しりあい》で、結婚の内約は出来ているん だからね。一体ならもう|既《と》うにそれが済んでいる筈なんだ。が 急に山口博士から米国へ来て呉れと云う話があったんで、お互 いにまだ若いのだし、そう急ぐ必要もなかろうと云うので、一 と先ず僕は|彼地《あちら》へ行く事になったんだが、向うの話では出来る なら永く居て貰い度いと云うんだ。それで今度僕も一応日本ヘ 帰って、澄子さんを連れて行くなり、又澄子さんがたって行く のが厭だと云うなら、別な方法を取るなりして、兎に角結婚の 方は話を定めて置き度いのだがね。1それに就ては君はどう 思う。」 「そうだね。」黒川はじっと天井を仰いだまゝ、暫らく考え込 んでいた。 「不賛成なのかい。」野村は|鳥渡《ちよつと》起きなおって黒川の様子を見 た。 、「いや、そう云う訳じゃない。が、君に取っては何しろ一つの 大問題だからね。僕も今迄少し考えてはいたが、猶もっと君の ために熟考し度いんだ。」黒川の言葉は渋り勝だった。 「再考の余地はないじゃないか。」 「それもそうだがね一ー併しねえ野村。この話は又後にしょ うじゃないか。今日は君も疲れているんだから、何も考えずに 安眠した方がいゝよ。今夜はぐっすり寝るんだね。」 「ふむ、じゃそうしようか。」野村は不承不承に同意した。 「寝よう… じゃ電気を消すぜ。」黒川はわざと元気よく促し た。  野村は闇の中で強いて眼を閉じた。        九  野村は永く眠られなかった。身も心も疲れ果てゝはいるが、 胸の底に澱んでいるような不安で、いくら寝付こうとしても目 が冴えた。  今日澄子さんが迎えに来ていなかった事、そこには何か変っ た事情が有るに違いなかった。|而《そ》して親友の黒川まで、幾らか でも事情を知ってい乍ら、その問題に触れまいとするところを 見ると、どうしても重大な事があるに相違なかった。野村は不 安にならざるを得なかった。そして一刻も早くそれを知り度く なった。がもう黒川は寝付いて了つたらしく、少しも動く気配 がなかった。野村は今更黒川を起すこともならなかった。  野村はその事情の、最も悪い条件を考えて見た。 「ひょっとすると急に澄子さんが死んだのかも知れない。|而《そ》し てそれを帰朝早々の自分に聞かしては悪いと思って、皆が匿し ているのかも知れない。」  先ずこの考えが彼の胸を打った。が、それにしては黒州の態 度が、悲しみを|蔵《カく》しているの之は違っていた。 「それでは澄子さんの変心,,否々、そんな事があり得ベき筈 はない。あれだけ固く約束して、二三ヵ月前まで嬉しい手紙を   受取っていたのだもの。愈ぐ帰る事になって、それを手紙で知          こちら  らしてからは、此方へ来る迄ニカ月ほど絶えていたが、それは  府き違いになったのも有るだろう。兎に角二ヵ月の中に、そう  心が変ろう筈はない。」   彼はその考えを直ぐ打消して了った。而して今度は、それが   みんな自分の|思《し》い過ごしに|止《とオ》まり、実は何等の事情もなく、人   目に立つからとか何とかの理由から来なかった|丈《だけ》の話で、明日   行つて見れば彼女も待ち兼て迎えるだろうと考えた。そう思う   と彼女の晴々しい笑顔や、喜びに涙ぐんだ様子などまで闇の中   に浮かんだ。   「そうだ。きっとそんな事だろう。」    .野村はそう思つて、再び強いて枕をつけた。が一旦冴えた目   は、まだ容易に瞑れなかった。彼はしよう事なしに、ふと思い   出して枕頭に置いた煙草を取って、それに火を点けた。静まり   切った闇の中で、彼の喫う煙草の|尖《さぎ》がぽつと赤く見えた。突然   寝ていた筈の黒川が声をかけた。   「齢いまだ起きているのか。」   「うん。何だか寝つかれない。」   「そうか。τや起きて又話をしようか。」黒川の声は闇から響   いた。   「うん。話をしよう。」    黒川は電燈をばっとひねった。そして暫らくまじくど野村   の方を見ていた。   「おい、何だってそう僕を見るんだい。」野村は見返して訊ね  ーた。黒川はそれには答えなかった。が急に声を低めて云い出し   た。   「ねえ野村、君の|先刻《さつき》の問題だがね。あれは見合わした方がよ   くはないか。これは僕一個の意見だがね。どうもあの澄子さん て人は僕は不賛成だよ。僕は何だかあの人が、君に対してはほ んとに誠意が在るかどうかを疑うんだ。i何もあの人一人が 女じゃないから、君はもっと君の配偶として、いゝ人を探した らどうだい。どうもあの人は|不可《いか》ん。」  野村は思わず起き直った。「どうして。君はどうしてそう云 うんだい。何かあの人の様子にそう云う所でも見えるのかい。 ー何か心変りでもしたと云うのかい。ー何か事情があるん だろう。知ってるなら後生だから、僕に聞かして呉れ給えよ。」 「事情P 詳しい事情なんて僕は知らない。只、今日僕はあの 入たちと一緒に君を迎えに行く積りで、あの秋山家へ寄ったん だ。そしたら当の澄子さんも、お母さんも居ないんだ。ー何 でも少し前に病気になって、予後の静養がてら転地したとか云 うのだがね。僕はそう云うところであの人たちの誠意を疑うん だ。1僕の知ってる事情と云うのはこれだけさ。けれどもそ れで十分だろう。」 「ふうむー」野村は坤くように云った。「それだけじゃ僕の脇 には落ちないがね。lほんとに君の知ってるのはそれだけか い。」 「あゝそうだ。!が何なら明日君が直接行って聞いて見給 え。兎に角僕はそれだけでも余り賛成しないね。」 「じゃ明日行つて見よう。何か別な事情があるのかも知れない から。」 「あゝ、そうし給え。君の気がすむようにね。」  二人は思いくに黙った。暫らくすると今度は野村の方か ら、・突然、 「寝よう。」と云い出した。 「寝よう。」黒州は又電燈を消したが、二人は決して直ぐは寝 なかつた。  次の室でも秀子がまだ寝つかぬらしく、時々忍びやかた咳の 声が洩れた。        一〇  いつの間にか疲れ切って寝たと見えて、野村が翌朝眼を醒ま した時は、もうかれこれ十時を過ぎていた。彼は傍に寝ている 筈の黒川を見た。がもう黒川は起きてそこにはいなかった。野 村は枕許の懐中時計を見ると吃驚して跳び起きた。  秀子が襖を開けて顔を出した。 「あら、もうお眼覚めですか。茄疲れでしょうから、もっとお |寝《よ》っていらっしゃればいゝのに。」  野村は帯をしめ乍ら、眼をばちくさせた。 「いや、帰朝早々から寝坊しては済みません。i,お兄さんは どうしました。」 「兄はお先きに眼が覚めましたので、失礼ですが先刻病院へ出 掛けました。何だか今日は当番だとかで、|鳥渡《ちよつと》顔だけ出して来 なくちゃならないから、騎起きになったら宜しくと申して参り ました。」 「そうですか。,それは私こそ失礼しました。いゝ気になって寝 ていて。」 「いゝえ。ーあの|彼方《あちら》に湯が取ってありますから。」 「いや、どうも有難う。」  野村は口を漱ぎ顔を洗って、もうちゃんとそこに出来ている 食卓に向った。向う側には秀子が、給仕をするために静かに控 えていた。前から親しかったとは云え、野村は鳥渡気まりが悪 いようにも感じた。が、勢い彼女に話しかけなければならな かった。 「近頃はどうしてお暮しです。学校は御卒業なすったし、お兄 さんが出て行った後は、お淋しいでしょう。」  秀子は淋しく笑つた。「いゝえそうでもございませんわ。」 「でも御退屈でしょう。その間何をして茄いでになるんです。」 「家の用がいろくございますし、暇々には聖書を読んで居り ますから。」 「信者におなんたすったんですってね。」 「信者と云う程の事はございません、た間イエス様の御手に 縄って居るだけなんですもの。」  野村はそう云う秀子の顔をつくハ\と見た。「あなたもお変 りになりましたね。」 「私がですか。1あなたにもそう見えまして,」 「えゝ。ー前のあなたはもっと快活でした。神様なぞが要ら たい程快活でした。」 「それは私だっていつ迄子供ではありませんもの。変るのが当 り前ですわ。」 「でも変り方が余りに激しいように私には思われますよ。失礼 な事を云うようですが、それには何か原因がおありなんでしょ う」 「原因? そんなものはありませんわ。lた讐私のような女 にでも、世の中の|誰方《どなた》でもが|背負《しよ》わなくちゃならぬ十字架の苦 しみが在ります。そしてそれはイエス様を信ずる事にのみ依っ て、ようやく救われるのですもの。」そう云う秀子の類には赤 みがさした。 「あなたは心からそう齢思いですか。」 「えゝ、苦しんだ揚句、心から、血でもってそう悟りました。」 「そんなに苦しんだのですか。」 「えゝ。」彼女は眼を伏せた。 「失礼ですが、何かあなたの愛が破れたというような事でも あったのですか。」野村は思い切って聞いて見た。  秀子はつと|顔《し 》を上げた。その顔にはもう赤みが消え失せてい た。 「いゝえ。1た間人が頼みにならない事が解ったのです。人 が信じられない事が解ったのです。そしてた間、人は神さまを 信ずる事によってのみ、お互いを信じ合う事が出来るだけだと 知ったばかりなのです。ーやがて|貴方《あなた》にもそれが解ります わ、きっと。」  野村は秀子の真剣な語調に圧されて、「そうでしょうか。」と 云ったぎり、黙って了った。  暫らくすると秀子が口を開いた。 「今日秋山さんへおいでになりますの。」 「えゝ、これから直ぐ行く積りです。」  野村のその答えをきくと、何故か秀子は微かな吐息をした。 野村はもとよりそれに気が附かなかった。その中に食事も終っ た。 一  朝飯を済ました野村は、直ぐ秋山家を訪ねようと思った。何 は兎もあれ昨日からの疑念を、一刻も早く解き度かった。|而《そ》し て凡ての不安を払って、澄子の笑顔に一刻も早く接したかっ た。  野村はトランクの奥から二個の指環を取り出した。それは帰 朝土産にと思って、|彼地《あつち》で買い求めたものであった。一つは真 紅の大きな|紅玉《ルビ 》が嵌っていた。一つには藍深き|青玉《サフアィヤ 》が鍍めて あった。而して|紅《くれない》に燃ゆる心は澄子に、青空の如く清き愛は 妹の|輝子《てるこ》に、各ぐ思いを|象《かたど》った|心算《っもり》だった。野村はその思い付 きを我乍ら平俗だと思った。が、土産は平几な槍ど佳いもので ある。凝った土産は折々贈り手の趣味性ばかりを満足させるに |止《とぁ》まるからである。  野村は|画《ケ ス》をばちんと|開《  ち》いて、二つの宝石を明るみに窮し見乍 ら、微笑んで|点頭《うなず》いた。それから紅の方には軽い接吻を与えて 蔵った。  彼はそれを携えて心も軽く立ち上つた。 「じゃ秀子さん。鳥渡出掛けて参ります。都合に依ると少し永 くなるかも知れませんから、御馳走の心配なんぞなさらたいで いて下さい」 「いっていらっしゃいまし。」秀子は簡単に送り出した。  野村は足どりも軽く秋山家へ向った。秋山家は駒込千駄木町 の奥に在った。此処からは割合に近い処だった。が心急く野村 は、黒州の家を出ると、そこの四つ角で直ぐ|偉《くるま》を雇った。  秋山と云うのは刀圭界の名家だった。  五六年前に亡くなった秋山博士と云えば、大抵の人はまだ忘 れないであろう。故博士は病理学の泰斗として、永らく大学の 講座を持っていた。而して五十三と云えばまだく斯界に貢献 すべき春秋に富んでいたに拘らず、木々も咽ぶ冬の一夜、天は 卒然としてこの人を奪い去った。  博士と夫人の間には二人の令嬢があった。当時まだうら若い お下げ髪の二人は、年齢も二つ違いの蕾のような姿を揃えて、 会葬者を暗涙に咽ばしめた。それが今では二十一歳と十九歳の 澄子、輝子の両令嬢だった。  |後嗣《あととり》の男子がない秋山家では、当然その何れかに婿養子を選 ばねばならなかつた。而してそれは故博士の遺志を継ぐベき、 医科の秀才でなければならたかった。  野村は秋山家の遠縁に当っていた。そして高等学校に入ると きから、秋山家の人たちと知っていた。故博士は彼の学校に於 ける保証人でもあり、家庭に於ける怖い「叔父さん」でもあワ た。彼はそう呼ぶべきほどの血縁がないにも拘らず、叔父と呼 び習わしたほど秋山家と親しかったのである。  野村はもとより秀才だった白成績は高等学校の時分から、|毎《いつ》 も一二番を下らなかつた。彼は常に親友の星野と首席を争って いた。而して大抵は彼の方が勝っていた。が卒業の成績はどう したものか星野の方が一番だった。勿論銀時計は星野の手に落 ちた。野村はそれを別に|口惜《くやし》がりもしなかった。却って秋山家 の人たちがそれを残念がった。野村は改まって卒業の御礼に 行った時、彼女たちは繰返しくそれを惜しんだ。野村は少し 馬鹿々々しかった。 「僕に取っては何でもないんです。そりゃあ銀時計を持ってい ると、いゝ奥さんが貰えるそうですが、僕にはその必要が無い んですからね。」こう云って彼は微笑み乍ら澄子の方をじっと 見た。 「厭な人! 銀時計を貰ってどこからかいゝ奥様をお貰いにな ればいゝのに。」澄子はその時笑って睨んだ……。  実際澄子と野村の間柄は、いつとはなしに親も許して居た。 友人は勿論、同級生らもそれを知っていた。世間はもう野村が 秋山家に入るのを疑わなかった。  野村は卒業後、星野や黒州と同じく暫らく大学の助手をして いた。がその中、同郷の関係から知っていた米国の山口博士か ら、遊びがてらに一度来いと云うような親しい勧誘を受けた。 彼は鳥渡逡巡した。が行く事にも非常に興味を持った。而して お互いにまだ若いのだから、一二年位は待ってもよかろうと云 うので、後を約して出発したのだった。  i野村は車上でうっとりその頃の事を考えた。        一二  悼の上での野村の思い出は、初めて澄子に恋を打明けた頃に 移った。  それは数えて見るともう三年の昔になった。一恋も三年 経って焔が消えなければ|真物《ほんもの》の恋である。1そう思うと野村 は苦笑した。三年の問には、全く相見なかった二年があるにし ても、猶その頃の事は|歴《ありく》々と眼の底に残っている。  その頃野村もまだ金釦のついた制服を着て居た。澄子も紫紺 の袴を胸高に穿いて、跡見女学校に通っていた。彼らは真に青 春そのものだった。見合う瞳は星と輝き、触るゝ指先に血潮は 火と燃えた。  初めて会った時から、既に甘い戦きが身の|中《うち》に走ってるのを 覚えた二人は、会う事度重なるに伴れて、眼をじっと見合うに 馴れ、見合う毎に微笑み交すに馴れ、微笑む毎に胸を躍らすに 馴れて、既に幾月かの日を過ごした。-ー恋は恋を語らぬ中こ そ|精華《はな》である。-野村はその甘く悩ましい「恋愛病潜伏期」 の事を考えると、廻り行く月日の車を逆に|転《まわ》して、凡てを昔に 戻したくさえ思った。  がその頃の野村は、互いの思いを眼で探り、互いの心を何気 無き言葉の|片鱗《はし》に灰かすだけでは、満足することが出来なく なった。野村はどうかしてその心を明かに伝え、又明かに答を 得たいと機を見ていた。とうくその時は来た。しかも不用意 に来たのだった。  忘れもしない三年前、四月の半ばの或る日だった。秋山家の 者は夫人令嬢を初め、親戚や近隣の子供たち、女中まで連れて 郊外へ遠足を企てた事があった。一同は赤羽まで汽車に乗り、 それから船で荒川の遅桜を眺め乍ら、目的地の浮問ケ原へ着い た。そこには桜草が敷いたように咲き満ちていた。 ・空はうっとり霞を含み、日の光も穏かな紅味を帯びて若草の 上に落ちた。見返れば川は油のような面を並べて、対岸の芽ぐ みかけた|榛《はんのき》や柳の立木を映していた。遠くの杜は紫に煙り、 菜の花は粉っぽい黄を|所処《とこるどころ》に撒いて、その時、|万象《すべて》の上に春 は濃く蒸れ立っていたのだった。  汽車の中、舟の中、途々野村と澄子とは揺もなく微笑み合っ ていた。が二人はどう云うものか多くを語り合わなかった。汽 車でも船でも、二人の席はいつとはなしに並んでいた。けれど も二人が視線を打つけ合っては、笑まい乍らに慌てゝ外らし た後は、じっと下を向いて物思いに沈んでいるばかりだった。 時々はひそやかな嘆息をさえ互いに洩らした。  舟から野原へ上った時、令嬢たちは喜んで叫び声を揚げた。 無邪気な快活な妹の輝子は、同じ年頃の姪や|従妹《いとこ》たちと一緒に なって、駈け出し乍ら桜草を摘み初めた。摘草の人々は三人五 人七人と|所処《とこるどころ》に群れていた。楽しい笑い声がそここゝの叢を 綴って満ちた。一緒に摘み出した一同は、各ぐ自分こそ佳い桜 草を見つけようと、群からだんくに離れて行った。  野村も女たちに交って、桜草の花を摘んでいた。一本摘んだ 時の薄紅の寂しげな花も、彼の手に満ちては、香りを放つまで に華やいだ。が野村は何と思ってか凡てを棄てた。而して今度 は丹念に草と草との間を探して、茎の長く花の大きなのを求め た。彼は幾度か選んだ後、最も長く大きく美しい二茎を手に残 した。1ふと立上って見ると、彼は人々から一人離れてい た。|而《そ》してそこは野原と田圃を|画《かぎ》る、小さな流れを控えた低み になっていた。そこには薄鼠の芽をつけた一本の|楊柳《はこやなぎ》が在っ た。彼は人々から見えぬその川窪の柳の蔭に座を占めた。  |四辺《 あたり》は瀞かだった。野村は心κ余っ允思いを洩らすように、 灰な桜草にそっと接吻を与えた……  1悼は猶も野村の思い出を載せて走っている。        一三  …:川窪に坐った野村は|悦惚《うつとり》として前の水の流れを見るとも なく見ていた。|楊柳《はこやなぎ》の木の間を洩れた日影が、そこにもちらち ら躍っていた。すると突然背後で、 「あら、野村さん此処にいらしったのP わたし吃驚したわ。」 と云う声が聞えた。それは彼の夢にも忘れられぬ|声音《こわね》だった。,  野村こそ吃驚して振り向いた。そこには澄子の立ち姿が、薄 ぼんやりした春の空を背にして、くっきり浮び出ていた。彼女 の軽快に装うた遠足着が、野村には何よりも美しいものに見え た。そして外光を浴びた彼女の顔が、ボッチシエリの描いたよ うに美しい輪廓を見せていた。彼女の耳梁は|背後《うしる》の日光を透い て、紅い珊瑚のようだった。頬も土気したように輝いていた。  見上げた野村と、見下ろした澄子との間に、鳥渡の間緊張し 切った沈黙があった。それから澄子はひらりと低みへ下りて来 た。野村は思わず立ち上って、跳び下りた澄子の手を取ろうと した。が、澄子はわざとそれを避けて、巧みに跳び下りた反動 を喰い止め乍ら、野村の|傍《かたわら》に立留った。二人は並んで腰を下 ろした。 ・「こんな処に何をしていらっしったの。」澄子は四辺を見廻し 乍ら訊ねた。 「たfぼんやり考え事をしていました。」野村は空を見乍ら答 えた。 「お考え事って、何を考えていらしったの。」 「そうですね。1あてゝ御覧なさい。」野村はこう云って澄 子の方をじつと見た。 「だって私には解りませんわ、貴方がたの考え事なんか。」 「直ぐ当る事なんですから、まあいゝ加減に云って御覧なさ い。」 「い・(加減だって、範囲が余り広いんですもの。」 「そうですね。じゃもう少し狭くしましょう。1僕の考えて いるのはね、或る人の事なんです。」こう云い乍ら野村は思わ ず赤くなった。「誰の事だか当てゝ御覧たさい。」  澄子はちらと野村を見た。|而《そ》して野村の切迫したような凝視 に会うと、これもぽっと|頬《  》を染めた。それから二人は偲つ向い た。. 「誰だか知らないわ。」澄子の声は蟻くように低かった。  野村はもう一度彼女の方を見た。澄子ももう一度彼の方を見 た。二人の意味を含んだ視線が、春風の|裡《うち》を貫いて稲妻のよう に合った。二人はもう慌てゝ眼を外らす必要が無かった。が、 じっと暫らく互いの心を見凝め合った後は、軽い吐息と共に又 |首垂《うなだ》れた。 「澄子さん!」野村はそっとこう呼んで彼女の手を取った。 「澄子さん、僕は貴方の事を考えていたんです。僕は貴方を愛 しているんです。」  澄子は更に|首垂《うなだ》れた。  野村の声は更に怪しい額えを帯びた。 「僕は、それに対する貴方の騎答えが伺い度いんです。貴方も 私を、この取るに足らぬ僕を愛して下さいますか。それとも下 さいませんか。」  こう云って野村は、取っていた彼女の手を打振るように握っ た。.すると突然その手は更に固く握り返された。そして澄子は 別の手で、素早くその握手の上に肩に在った|面紗《ヴエ ル》を蔽いかける と、,その上へ|俄破《がば》と泣き伏して了った。 「どうなすったんです、澄子さん。爵厭なんですか。」  打伏した彼女の顔の下からは、ようやく聞きとれる位の低く 籠った声が洩れた。 「いゝえ、いゝえ、私嬉しくて、嬉しくて……」 「じゃ承知して下さるんですね。」 「えゝ私も疾うから貴方をお慕い申して居りましたの。」  それから二人は|悦惚《うつとり》手を取り合った儘黙って了った。春風が そっと川窪の若草を撫でて、黄色い蝶がちらくと柳の影を出 たり入ったりした。  暫らくすると遠くで、妹の輝子の、■「騎姉さま! お姉さま ま!」と呼ぶ声が長く尾を曳いて聞えた。  澄子は野村を顧みて微笑した。而して五六度目にやっと答え をし乍ら、野村をそこに残して向うへ行った。  それが彼の彼女に恋を打あけた初めの日だった。:…・  仁値の上でその時の事を考えると、春風が猶身の囲りを吹 き廻るような思いが在った。律はその追想に微笑んで居る野村 を載せて、だんノ\秋山家に近づいた。        一四  悼はがたりと|揺《ち ち》れて閑静な横町ヘ折れた。それでふと吾に 帰った野村の眼には、やがて幾久しく見なかった、|慕《なつ》かしい秋 山家の冠木門が見え出した。彼は更に新しく胸の躍るのを覚え た。 「こゝだ。こゝで下ろして呉れ。」車上の野村は、感情に満ち た声を車夫に伝えた。  車夫はそこが恋人の家であると何であるとに係わりなく、極 めて事務的に梶棒を下ろした。が野村は蹴込みを鳴らすほどに いそノ\と下り立った。 .彼は急いで多分の賃金を払うと、礼を云う車夫には目もくれ ずに、玄関の方へ進んで行った。門から玄関までは、植込みを 廻って僅か五六間ほどしか無かった。けれども急ぐ野村の心に は、それさえも非常に遠いように思われた。  邸内は森閑としていた。玄関の戸は|女家内《 んなかない》の常として、|毎《いつ》も の通り固く鎖されてあった。が野村は狐疑する暇もなく、その |鈴《ペル》を舞とばかりに押した。  彼は家の中から、澄子が待ち兼ねて出て来る事を予期した。 が又待ち兼ねた思いを見せまいとする蓋らいから、わざと玄関 へ飛ぴ出して来るような事は遠慮するかも知れぬとも想像し た。いずれにしても数分の後には、その人の顔を|眼《ま》のあたりに 見られるのだと思った。何にもせよ野村は、堪え難いもどかし さの中に暫らく立っていた。その中に玄関口の障子がするりと 音もなく開いた。野村ははっと|思《  》って見定めた。が、彼の予期 とは全く違って、そこからは一人の見知らぬ女中が、不審そう な顔を出した。 「どなた様でございますか。」  その丁寧な冷静な女中の言葉が、鳥渡野村の心をいらだたし た。  ー' 「僕は野村です。野村が帰ったと申し上ぼて下さい。」彼は心 を鎮めて云った。 「只今皆さまがお留守なんでございますが……」女中は更に怪 語な面持で云った。 「留守ですってP どうしてお留守なんです。そんな筈はあり ませんがね。」  野村の方でも更に怪評な顔で声音を高めた。 「でも、皆さまはお出掛けになりまして、ほんとにお留守なん でございます。」 「お出掛けなすった2 何処へおいでなすったんです。」 「私はよくは存じませんけれど、何なら一応伺って参りましょ うか。」女中は野村の様子を見て、気を呑まれたように眼をば ちくりさせた。 「いや、その場所なぞはどうでもいゝんです。兎に角奥へ通し て、|誰方《どなた》かにお目にかゝらして頂きましょう。お留守だと云っ ても、誰方か讐いらっしゃるでしまう。」野村は漠然とした立 腹を押しと間めて、丁寧にこう云った。 「|浅嘉《あさか》町の旦那さまが、お留守居をなすっていらっしゃいま す。」 「あゝ佐々木の大伯父さんですか。そんなら猶の事結構です。 どうぞ直ぐ野村が帰ったとそう申し上げて下さい。」  野村は猶も疑惑と焦慮とで高声に云った。  その途端に女中の|背後《うしろ》へ、当の佐々木の大伯父が、半白の髪 をつけた顔から、老眼鏡を取り外し乍ら急いで現われた。 「やあ野村さんだね。どうも声がそうだと思ったんで、急いで 出て見りゃあ矢っ張り違いなかった。まあくお上んなさい。 ーさあノ\お時、お前は愚図々々していないで、早く野村さ 々を加通しするんだ。お前たちもちと気を附けて呉んなけりゃ あ、ほんとに失礼して困るじゃないか。lさあどうか直ぐ騎 上んなさい。」  佐々木老人は捌けた口調で、女中を叱り乍ら野村を招じた。  野村は先刻からの家の様子に就いて、どうも脇に落ちぬ事ば かりだったが、いずれ万事は上ってからと、心に決めて靴を脱 いだ。        一五  佐々木老人は故博士の従兄だった。通人とか茶入とか云う部 類に属する、至って気のいゝ人柄だったので、別に学問とか見 識とかf在るのではないが、親類中では故博士と一番親しい話 相手だった。|而《そ》して主人の死後は、秋山一家の後見のような位 置にいた。併しもとより面倒臭い事は嫌いで、浮世をさらりと 暮している隠居同然の身であるから、深くは内事にたずさわら なかった。が、よく遊びにはやって来た。それで元からもよく 一家の留守居などを頼まれた。老人も好きで近隣の人たちに、 |謡《うたい》を教える外に仕事のない身体なので、その閑静な留守番を喜 んで引受けるのが常であった。  野村は座敷に通ってこの老人と対座した。 「昨日帰って参りました。留守中はいろノ\お世話様になりま して。ー」と野村は改めて一礼した。 「いや、ようこそお帰りなすった。儂は又こんなに早くお着き になるとは思っていませんでしたよ。」と老人は物珍らしそう に、野村をまじく眺めた。 「それでは未だ|此方《こちら》へは通知が参っては居りませんでしたか。 何も御存じなかったのですか。」  野村は少し驚いて訊ねた。 「いえ、騎帰りの事は知ってるには知ってるようでした。が別 に詳しい話もなく、一週間ほど前に箱根へ出掛けて了ったもの ですからね。儂は,お帰りになるにしても、昨日今日のお話では なかろうと思っていました。」 「はあ、そうですか。では皆さんは箱根に行っていらっしゃる のですね。」  ㌧ 「えゝそうです。澄子が一ヵ月ほど前に軽い肺炎をやりまして ね。その静養がてらに遊びに行った訳なんです。ーどうも折 角お帰りなすったのに、留守でお生憎でした。」 「いつ頃お帰りなんですか。」野村の声は少し甲走った。 「さあ、もう四五日したら帰るだろうと思いますがね。それも |確《しか》とは解りません。1ー併し貴方がお帰りと知ったら、明日に も帰るだろうと思いますがね。一つ電報でも打たせたら如何で すか。」 「そうですね。が私の着く日は、確かに知らしてあるんですか ら、ひょっとすると向うで、澄子さんが又お悪くでもなったん じゃありますまいか。」 「まさかそうではあるまいと思いますよ。併し弱い|素質《たち》だか ら、何とも云えませんな。」 「それじゃあ一つ僕の方から箱根へ出かけて見ましょう。丁度 長旅の疲れを癒すにもいゝ所ですから。」 ず「成程、それも一案ですな。」老入はすばりと煙草を喫って|点《うな》 頭いた。 「箱根のお宿はどちらですか。」野村は今にも飛び立って行き 度い位に感じて云った。 「多分底倉の蔦屋だろうと思いますよ。あそこが行きつけです からね。二三日前に端書が来たんですけれど、初めからあそこ だろうと思って居たんで、まだ表の宿所に気をつけないでいた 始末です。1今端書を取寄せて確かな所を見ましょう。」こ う云って老人は手を叩いた。  やがて女中が端書を持って来ると老人は事々しく眼鏡を掛け て、表記の文字を|左見《とみ》こう見した。 「やあこれは粗忽しました。違っていましたよ。塔の沢の環翠 構でした。私は又鶴もの通りだと一人定めにしていたんで、飛 んだ|失敗《しくじり》をやらかす所でしたよ。どうもこの老人の早合点と云 うものは不可ませんね。」こう云いノ\老人は端書を、野村の 前へ差出した。「一つ見て下さい。まさに塔の沢の環翠楼です ね。」  野村はその端書を手に取った。そこに書かれた文字こそは、 彼の眼に焼き付くほど見覚えた彼女の手蹟だった。 「塔の沢環翠楼にて、秋山内ーと。確かにそうです。」野村 は老人の顔を見返して答えた。而して猶も懐かしげに、絵端書 の表をまじノ\と眺め入った。文言は簡単に宿へ安着した事、 |辺《あたり》の眺めが格別である事などが記されてあった。そして裏面の 絵には渓流に臨んだ温泉宿が、いかにも幽蓬そうに写ってい た。        一六  野村は暫らく絵端書を見凝めていたがやがて、それを老人に 返して云った。 「箱根はまだ寒いでしょうな。」 「併し梅の盛り㌔過ぎた頃ですから、もう山中の春も宜しいで しょう、俳諮で謂わゆる山笑う時節ですからな。」  老人はこう云って野村の不安に係わりなく、悠然乏煙草の姻 を輪に吹いた。 「|彼方《あちら》へは皆さんが|全《すつ》かりいらしったのですか。」野村は問い に一歩を進めた。 「いゝえ。行っているのは澄子と母だけです。輝子は此方に 残っていて、毎日儂を手古摺らして許りいますよ。」 「輝子さんも今日はお留守なんですか。おいでゝしたら鳥渡お 目にかゝりたいんですが。,1」  野村はせめてその入の妹になりと、会って様子を聞き知り度 かった。殊に輝子はもとから野村に好意を持っていたので、異 う意味での懐かしさが野村の胸に在ったのである。 「輝子ですか。輝子も生憎出掛けた所ですよ。ピアノの先生の 処へ行ったのです。し 「もう大分御上達でしょうな。」 「どうですか、儂にはちっとも解りません。どうも当節の若い 娘のお稽古と云うものは、儂には到底脇に落ちない物ばかりで すよ。英語とかピアノだとかって。1併しピァノなんて云う 物はなかく当世向きな役には立つものですた。ヤこう云って 老人は皮肉げににやノ\笑った。 「どうして璽す」と野村は相手になって聞き返さなければなら なかった。  「いゝえさ、なかく当世の人たちはうまく利用しますよ。例 ぇば輝子の話ですがね。あれもピアノの|仲介《なかだち》で、とうノ\結婚 の約束が出来ましたよ。」  「へゝえ、そうですか。それはお目出度うございますね。II して又どうしてピアノが仲介になったのです。」 「いえ、お話すれば何でもない事なんですがね。実は輝子たち の行っている先生の杜中で、この間小さな演奏会を開いたんで す。そこで輝子も何かむずかしい名の曲を弾いたんですが、そ れを聞きに来ていた或る伯爵の若様がいましてね。それがまあ 輝子を見染めて、是非にも妻に欲しいと云う懇望なんです。」  「まるで通俗小説にでもありそうなお話ですな。」と野村は微 ,笑んで傾聴した。 「全<ですよ。iで|此方《こちら》では、そんな処で女を見染たりす る華族の坊ちゃんなどは、いずれ馬鹿な奴に違いなかろうと 思って断ろうとしたんですが、だんノ\よく調べてみると案外 に品行もいゝ秀才だったんです。それでとうノ\輝子を遣る事 に一ヵ月ほど前から|定《き》まりました。」 ■「それは結構ですね。輝子さんも大喜びでしょう。あの人はも とから伯爵夫人って云う様な柄でしたからな。」  「で結婚もひょっとすると、姉より早くなるかも知れないと云 う話ですよ。姉の方は何しろ……」云いかけて老人は野村の方 をちらと見乍ら声を呑んだ。そして急に煙草の煙に|咽《むせ》かぇっ た。  野村は妙な気持で苦笑しなくてはならなかった。そこで老人 は「今日は大変日が|麗《 つらく》々として来ましたな。」なぞと話頭を転 じた。 「そうですな。これでは箱根もきっと暖かでしょう。ー私も 早く行って見るとしましょう。」 「それも一案ですな。」と又老人は先刻と同じ相槌を打った。 それは心から野村の箱根行を賛成しているのでもないように聞 えた。  が野村は直ぐにも後を追うて行こうと決心した。而して猶二 三の世間話をして秋山家を辞した。彼の心は漠然たる不満と共 に、また春の温泉場での嬉しい会合を予想する、楽しげな期待 にも…温、れていた。        一七  秋山家の門を出た野村は、澄子の不在を幾らか不満にも思い 乍ら、箱根まで行って会うと云う事に、何となく詩的な興味を 覚えた。|而《そ》してそう云う趣味の多い|場面《シィン》を作るために、わざと 澄子たちが留守にしたのではあるまいかとさえ想像された。  そん次事をぼんやり考え乍ら、下を向いて歩いていた野村 は、ふと顔を上げて前方を見た。.するとはしなくも向うから美 しい女の人が歩いて来るのを認めた。その姿には見覚えがあっ た。  三月末の穏かな太陽が、絹糸のようた光を降らす中で、その 人は緑に|縁取《ふもニと》った|洋傘《パ フソル》を窮していた。而してすらりと高いその 身には、茶がかったあらい亀甲|飛白《がすり》の大島を着て、緑と緋とを 鹿の子に燃え立たした帯を締めていた。その装いの春けさが、 彼女の派手な豊麗な顔立と釣り合った。 ・野村はそれと見て取ると、凡ての杷憂を忘れて|晴《はれんち》々しくなっ た。五六間先きで向うも此方を認めると、少し吃驚して足をと どめた。がその次の瞬間には、彼女も|四辺《あたり》の光を吸い集めたよ うな笑顔に帰って、急ぎ足に近寄った。 「輝子さん!」野村は近づくのを待ち兼ねて叫ぶように呼びか けた。 「まあ、矢っ張り野村の兄さんだったのね。」彼女もそこに立 停った。二人は暫らく真面目な笑顔で見合った。 「今稽古からお帰りですか。」 「えゝ。1兄さんは昨日お帰りになったのでしょう。私お迎 いに行き度かったのですけれど、今、|家《うち》に誰も居ないものです から、どうしても行く訳には参りませんでしたのよ。御免遊ば せ。ーそれはそうと御無事で御帰朝なすって、ほんとにお目 出度うございました。」と彼女は改めて挨拶した。 「有難う。お蔭さまでどうかこうか帰って来ました。」 「今日は家へおいで下すったの。」 「えゝ、伺ったら皆さんがお留守だものですから、幾らか|落胆《がつかり》 して帰る所なんです。」 「ほんとにお生憎さまだったのね。でも今度は私が戻ったんで すから、もう一度いらっしゃいよ。ねえ、もう一度帰って下さ らなくて。」 「さあ、1どうしましょうかねえ。」野村は輝子とも話度い が、一刻も早く箱根へも行って見たかった。 「矢っ張りお姉さまがいらっしゃらなくてはお|厭《いや》P」輝子は無 邪気そうに云いかけた。「けれども姉さまは駄目よ。箱根へな んぞ行って了うんですもの。-私が齢相手では爵厭,」 「いや、決してそんな訳じゃないんですけれど、今日は佐々木 の伯父さんにも会って来たんですから、お宅へ帰るのは又この 次にしましょう。1だがこんた所で立話も何ですから、御門 の処までお送りし乍ら、お話を伺いましょう。」 「じゃそうしましょう。」  二人は並んで閑静な邸町の昼を歩いた。 「騎姉さまは御病気だったそうですね。」  野村はこの妹の口から=目でも姉の様子を聞き知り度かっ た。 「えゝ、軽い肺炎に罹ったの。」 「その後は宜しいんですか。」 「身体の方はいゝんですけれど(それから姉さんは何だか変な のよ。急にヒステリーみたいな人になったの。私何だかもう姉 さんの心持が解らなくなったわ。」 「どうして讐す。」野村は気遣わし気に輝子を覗き込んだ。 「姉さんも変ったわよ。」輝子の声は低かった。 「変ったってどう変ったんです。」 「いゝえ、どうって事はなかったんですけれど、私には何だか 変ったように見えるの。けれどそれは私にだけそう見えるのか も知れませんから、早く貴方も会って御覧なさい。そうすれば すっかり解るわよ。今の所では私の邪推だげなのよ、きっと。 -」 「どんな邪推なんです。」 「いぇ、何でもないのよ。」輝子は言葉を濁した。「早く貴方が. 行って姉さんに会えば、何でもない事になるだろうと思うから 申しませんわ。」 「そうですか。iー僕も直ぐ箱根へ行こうと思っていたんで す。」 「それがよくってよ。一刻も早くそうなさいな。而して早く嬬 さんを伴れてお帰りにたさるといゝわ。」こう云って輝子は更 に心の中で、「それが姉さんを一時の迷いから救い出す|唯《たオ》一つ の方法だわ。」と蟻いた。  野村はその彊きを聞く由もなかった。        一八  野村と輝子は猶も並んで歩いた。 「それはそうと今度は貴方も、御婚約が定まったそうですね。 申し遅れましたが駒目出度う。」 「あら、もう知つていらっしゃるの。私何だか急に恥かしく なってよ。」輝予は|日傘《パラソル》で顔を|匿《かく》した。 「先方は大変結構な方ですってね。貴方はほんとに幸福です よ。まるでお銚え向きじゃありませんか。併し貴方が伯爵夫人 なんぞになって了うと、僕たちはもうこんな風に立話なんぞ出 来なくなるかも知れませんね。」 「あら、華族なんて私どうも思いはしなくってよ。只あの人が 外交官なの。だから私承諾したのですわ。」 「それじゃ益ぐお銚え向きですね。」 「ですけれどね。野村の兄さん。」輝子の声は急に湿いを帯び .た。 「私何だか嬉しいと一緒に悲しいような気がするのよ。皆離れ 離れになって行くんですもの。」 「それが世の中と云うものなんですよ。」野村も鳥渡感慨深く 云った。 「だけど私はお嫁に行っても、兄さんの事を忘れなくってよ。 だから兄さんもどんな事があろうと、私とだけは交際して頂 戴。どんな事があっても兄妹だと思って頂戴ね。」 「えゝ、貴方が伯爵夫人にたったって、永久に僕の妹さんだと 宙心っていまふ3よ。」 「きっとよ。よくって。」輝子は更に念を押した。 「えゝ、貴方の方こそきっとですよ。」 「私は大丈夫だわ。」「私も。」と二人は一種感激の顔を見合っ た。  丁度その時二人は邸の門前まで来た。 「じゃ又お目にかゝりましょう、左様なら。」輝子は立停って 野村を顧みた。 「鳥渡待って下さい。」野村は慌てゝ洋服の|内懐中《うちふとこる》を探つた。 而して|指環函《リングケヨス》を取り出すと、鳥渡中を改めて、|青石《ニプァィァ》の方を輝子 の前へ出した。 「これはつまらたいものですけれど私の騎土産、志だけですか らどうか取って置いて下さい。」 「あら、そんな事をして頂いては済みませんわ。」 「いや、そう云わずにどうか。」野村は強いてそれを手渡した。 「では頂きますわ。ほんとに有難うございます。ーこれは 何。」 「つまらない指環です。月並な土産でしょう。」 「こゝで開けて見てもよくって。」 「えゝ宜しいですとも。」  輝子はばちんと蓋を開いた。今彼女のあえかなる細い指の間 に、|青玉《サフアィア》は外光を吸い集めて、上なる空と藍を争うた。 「まあ、|青玉《サプアィア》! 澄んだ光ね。」 「清い兄妹の愛の|象《しるし》です。」 「有難う。大切に持っていますわ。」 「じゃ左様なら。」「左様なら。」  野村は輝子に別れを告岬て、そこを大跨に歩み去った。彼の 心は輝子と会うて、何となく清淳な興奮に満たされていた。そ れにしても箱根行はP 彼はもう大分西へ廻りかけた午後の 日ざしを振り仰いだ。|而《そ》してこの儘黒川にも告げず、直ぐ出掛 ける訳にも行かないと思った。 「余り慌てゝ行っても、はしたないと思われるかも知れんか ら、明日行く事にしよう。」彼はこう決心した。  そこで野村は黒川の家へ帰りかけた。がどうせ出た序と思っ て、そこから本郷森川町に在る星野の下宿へ寄って見た。その 黒ずんだ高等下宿の玄関では、見覚えのある女中が出て来て、 「まあ野村さん。いつお帰りになつたの。星野さんが待ってた わよ。けれどもね、丁度|一昨《おととい》日から御用が在って、大阪の方へ おいでになったわ。ほんとに折角帰っていらしってもお生憎さ まだったわね。」と一気に喋り立てた。  野村は間が悪い時には悪いものだと思い乍ら、もう他へ帰朝 の挨拶に寄る勇気もなく、黒川の家ヘ帰って来た。黒川ももう |疾《とラ》に早く帰って居た。書斎へ入ると直ぐ、「どうだった。」と訊 ねた。 「いなかった。II僕は直ぐ箱根へ行こうと思う。」野村は云 い放った。  黒川は鳥渡陰欝に眉をひそめた。が暫らく考えた後放り出す ように、「それもよかろう。」と同意した。  |傍《かたわら》に在って野村のために、着換えの和服を用意していた秀 子は、この時妙な風情の表情を以て、兄と野村とを見較ベた。 「それでは何時行く。まさか今から直ぐじゃあるまい。」 「うむ、明日の朝にした。」こう云って野村は遠い所を眺める 眼をした。        →九  翌くる朝早く、とは云っても|彼是《かれこれ》十時頃、野村はひとり東京 駅に向った。空はうすら青く晴れて、ほんのり暖かい日光を降 らし、.停車場前の広場を白く穏かに照らし出した。野村は今日 の箱根行を天から祝福されているように感じた。  丁度土曜日の事で、乗客は割合に混雑していた。野村は自分 の心を|擾《みだ》されないため、少し賛沢とは思ったが一等で行く事に した。その上に成るべく空いている車室を選んで乗った。貴族 的な差別を好まぬ野村も、今日ばかりは一等室の静けさを好ま ねばならなかった。彼は車室の一隅に座を占めて、期待に焦立 とうとする胸をじっと抑えていた。  汽車は出発した。夢を追うて|現《ラつト》に到ろうとする野村を載せ て、それは|只管《ひたすら》に形の世界を突破して行く。併し野村はもう窓 外の風景は見なかった。深く組んだ腕組の中で、彼は只管形な きものゝ影を眺めていた。  |駿《ほし》り出したかと思う間に、汽車は新橋へ停まった。列車の休 止と共に夢は|途断《とぎ》れる。野村は空想から眼覚めて、ふと乗り込 んで来る乗客を見上げた。見上げる瞬間に、彼の眼は|吃驚《ぎつきよう》で|曄《みは》 られた。彼は余りの偶会に、再び自分の眼を疑わなければなら なかった。が疑う余裕もなく、彼の腰はバネ仕掛のように立 上っていた。何故か彼の顔は、思わず赤く染まつた。  向うでも楓と驚きに足を停めた。が|処女《 とめ》の驚きは直に|淑《しとや》かさ に帰った。野村はその驚きをちらと認めた時、決してその人が 人違いでない事を知った。それは森戸子爵の令妹|淑子《よしこ》嬢だっ た。野村は再び追い行く人の面影を、更によりよき写し絵に於 て、目前に眺める事となったし ー「又御一緒にたりましたねし今臼はどちらへおいでゝございま すか。」野村は丁寧な礼をした後、無遠慮とは思ったが、余り の偶然に心浮かされてロをきいた。 「母と一緒に大磯の別荘まで参りますの。」と淑子は小さな声 で云って(傍のまだそう年老いても見えぬ貴婦人に、許しを乞 うような眼差を投げた。  その如何にも上流の、愛国婦人会員らしく束髪を上げた彼女 の母は、 「どなた。」と小声で淑子に訊いた。 「兄さんのお友達。」淑子の声も小さかった。 「そうかい。」何故か森戸母堂は冷淡に、ちらと野村を尻目に かけて、|外《そつぼ》を向いて了った。  淑子は母に気を兼ねると共に、野村にも更に許しを乞う眼差 を向けた。野村は場所柄も弁えず、.親しく淑女に口を開いた無 礼を、深く心の中で悔いたしそれで令兄森戸子爵の近状も、聞 き度かったが止めて了った。  が淑子は、決して彼の無礼を答めているようではなかった。 彼女は無言の儘で時々ちらと野村を見た。而して永く見ていて は悪いように、静かに顔を伏せるのであった。  淑子のこの日の装いは、凡そ清麗の限りを尽していた。顔も この前会った時よりは、更に輝かしい色を帯びていた。殊に彼 女の瞳の涼しさが、濡れた|翠《みどり》のように深く湛えられた。  野村も淑子をまじく見る事が、非礼とは十分知ってい乍 ら、心牽かれて見ずには居られなかった。が彼の眼はそこに 在っても、彼の心は遠く|彼処《かしこ》に在った。この人とその人!あ あその人こそは山の|温泉《いでゆ》に、今頃は何をしているであろう,  横浜…-大船-・…汽車はたゆみなく駿って、異次る思いを眼 に語る人々を運んだ。而してやがて大磯に着くと、森戸子爵母 堂と令妹とは、,迎えに来ていた男に窓から軽い手荷物を渡し た。淑子は無言で一揖し去った。.彼女の下り立った所、|歩《ザえ プツトホ 》 |廊《ム》 はしばし明るく見えた。  後に残った野村は何となく淋しかった。がその|空虚《うつろ》になった 眼の中に、今度は更に鮮かに箱根に居る人の姿を浮べた。        二〇  |国府津《こうず》に着くのを待ち兼ねて汽車を下りて野村は、駅前に出 ると直ぐその電車に乗った。その一等車も可なり混雑した。発 車間際に乗り込んだ二人の芸者らしい女なぞは、別れノ\に向 い合って、やっ乏窮屈な席を占めた。その中の一人の白桃の切 り枝を持った方が、野村の隣に縮まって坐った。電車が動き出 すと、彼女らは|秘《ひそ》やかにこんな会話を初めた。 「兎に角これに乗って了えば大丈夫だわね。」 「もう一時間の中には会えるわよ。」  彼女らも人の後を追うて行くらしかった。野村は聞えぬふり をしてい乍ら、徴笑を以て聞耳を立てた。電車は一寸の間海沿 いの松の間を縫うていたが、|臆《やが》て宿場めいた町をようやく走り 抜けた。 「矢っ張り自動車にすればよかったわね。」 「そうね。少しまだるっこいわね。」 ・野村の思いも、彼女らと大して異る所は無かった。彼は仕方 なしに沿道の風景を覗いて、心を紛らす事にした。国府津を出 ると道の|辺《べ》の古い農家に、咲き残った梅がちらほら見えた。|酒 匂川《さかわがわ》を渡る時には、右手に富士が雪を輝かした。  小田原は古駅そのものゝ感じがした。有名な|外郎屋《ういろうや》の看板も、 帰朝早々の彼の心に、吾国固有の伝統的な|慕《した》しさを覚えさせた。  小田原の町を出て了い、更に熱海線の軽便鉄道への分岐点へ 来ると、車中はようやく|寛《ゆつ》くりした。芸者と見ゆる二人連れ も、向うに寄り合って席を取った。野村はもう彼女らの話を聞 かなかった。電車はだんく山地にさしかゝった。  箱根の箱根たる風景は、先ず電車の|風祭《かざまつり》を過ぐる頃より初ま る。右手には既に山が迫り、左の脚下は早川の清流が白き瀬を                     ばずれ 噛んで、そのあたり藁家に廻る水車も、山畑の端に斜なる白 梅も、黙々と黒き土を鋤く百姓も、ようやくにして山中の景を 成して来た。見渡す前の郵ゲ岳は、春まだ浅い萌黄躍ピ、澄ん だ空を|劃《かぎ》って立った。  やがて電車は湯本に着いた。野村はそこに下り立った時、こ れが箱根の入口かと疑うた。彼は停留所前の囲まれたようた小 さい広場で、どう行くのか鳥渡迷った。すると人力車世話人と 云う半纏の男が来て、 「旦那どちらまでおいでゝすか。」と訊ねた。 「塔の沢の環翠楼まで。」野村は簡単に云った。 「ではお悼の方が宜しゅうございましょう。」 「宜しい。乗せて行って呉れ。」  野村はそこで広場の隅から、一段高い街道に出ると、其処の |立場《たてば》から車上の人となった。偉は福住橋とそのあたりに並んだ 浴楼を左に見て、もう紛れもない温泉場の翠微を控えた渓流 を、旭橋から渡って行った。道は鳥渡山脚を左折又右折した。 と思いの外に早く、塔の沢なる宿々が杉の間に見えた。野村は 躍り馴れた胸を、更にこゝでも車上で抑えたし  そこでもう一つ渓流に架した橋を渡ると、直ぐ左手が環翠楼 ・だった。悼は玄関の前へ止った。 「いらっしゃいまし。」女中は野村を声々に迎えた。  いそくと玄関に歩を運んだ野村は、併し乍ら直ぐそ亡で秋 山の名を云って、澄子たちの有無を聞く事が何となく恥かしい ように感じた。それで彼は女中の案内する儘に、一と先ず自分 だけの座敷へ通った。凡てはそれからでも遅くはないと思っ た。而して偶然のように見せかけて、ぱったり澄子たちに会う なぞも却って面白いと考えた。  彼の通されたのは渓流に面した、|階下《した》の暗い座敷だった。が 数時間を経ずして澄子たちの顔を見得ると云う希望が、彼の心 を明るくした。 もう二時近かった。期待は胸に満ちていても、さすがに空腹 を感じたので、彼は早速遅い|午食《ひる》を|瞬附《いいつき》けて、先ず風呂へと下 りて行った。        二一  野村は会うに心急かるれば急かるゝ程、焦慮の様を見せまい として、湯壷に出来るだけゆっくり身を横たえた。がそれでも 一と風呂浴びただけで、身を拭くのさえそこくに済ました。 彼はその湯壷の中でも、往き帰りの廊下でも、ひょっと澄子に 会いはしまいかと怖れた。がばったり|顔《  しち》を合せて、驚かせたい とも|庶《ねが》つた。併しとうノヘそんな事は無かった。  室に帰るとやがて女中が昼飯を運んで来た。  野村は事も無げに給仕をさせ乍ら、,その女中を捉えて秋山家 の人々の動静を探ろうと企てた。 「どうだね。此頃の景気はつ・1」と野村は飯の茶腕を差し出し乍 ら、きりげなく聞き初めた。 「はい、お蔭さまで賑やかになって参りました。殊に今日は土 曜日でございますから。」 「成程。が併し逗留しているお客様も少しは在るだろうね。」 「えゝ、それも夏程ではございませんが、幾らか茄いでゝござ います。ですけれど春は逗留と云っても、どうしても短い間で すからね。八 「その逗留している騎客で、一週間ほど前に来た秋山と云う人 たちは居なかろうかね。」野村はいよノ\本題に入った。 「秋山さんと、……私お客様のお名前をよくは存じていません が、どんなお方でいらっしゃいますか。」 「そうだね。多分母親と娘と二人連れだろうと思うが、ーー」 「あ、それではきっと三階の八番においでになるお方でしょ う。五+位の品のいゝ奥様と、二+歳位な色の白いお嬢さん と、たしか五六日前にいらっしゃいました。」 「それだ、それだ。じゃまだ居るのだね。」野村は思わず膝を 進めた。 「ですけれどその方々なら只今はおいでになりませんわ。今朝 ほど藍の湖の方へお出掛けになりましたわ。」 「じゃもう此処は発ったのだね。」  野村は思わず声を高めた。 「いえ、鳥渡上の箱根まで遊びに齢いでになったのでしょう。 」-何ならお名前やその辺の事を確かめて参ザましょうか。」 ■「そうだね。そうして貰おうか。」  野村はそこくに箸を置いた。|而《そ》して女中が膳を下げて行っ て、再び復命するのを、不安の|中《うち》に待ち兼ねていた。思えば彼 には何から何まで、澄子の事では間が悪かった。・  女中はやがて戻って来た。 「帳場で伺いましたら、矢っ張り問違いなく秋山さんと仰しゃ る方でございました。そしてその方なら今日は、土曜日で客が 混むと厭だと仰しゃって、今朝ほど箱根へ遊びにお出揖けに なったそうです。今晩は多分向うでお泊りだろうと申す事でご ざいます。」 「へーえ、そうかい。だが明日は此処へ帰るのだね。」 「明日は騎帰りになるだろうと思いますが、1」 「それも不確かなんだね。」 「はい。兎に角お帰りにはなるそうですが、お気に召したら向 うで一二泊するかも知れぬと仰しゃったそうで-ー」 「そうか。」野村は鳥渡思案に暮れた。がその瞬間に忽然とし て、どうせ此処まで来たからには、どんな事情が在ろうとも後 を追おうと決心した。 「藍の湖まではどの位かゝるのだい。」彼は改めて訊ねた。 「自動軍ですと四五十分で参ります。」 「じゃ夕方までには行けるね。」 「参れますとも。」 ・「それから向うの宿屋は解っているかね。」野村の声は詰問す るようた響きを帯びた。 .「大低箱根ホテルだろうと存じます。」 「そうか。よし。ーーでは僕もこれから直ぐ出掛けるから、自 動車の用意をして呉れ、大急ぎで頼む。」  野村はこう云ってすっくと立上った。女中は何故彼がそう気 色ばむかを記り乍ら、急いで帳場の方へ去った。野村は更に急 いで一且脱いだ洋服を着けかゝった。  直ぐに自動車は来た。        二二  自動車は野村を載せて、暮れ早い山道を一散に|験《はし》った。塔の 沢から上りの道は、左に幾多の山鼻を廻って、右の谷深く渓流 が|奔《はし》っていた。時々小暗い杉の立木が影を投げた。|而《そ》して山は 益ぐ迫って来た。  宮の下からの山道は更に急だった。がその曲折した坂路も、 自動車は苦もたく突破した。小湧谷も直ぐに過ぎた。やがて峠 路も殆んど登りつめると、藍の湯も瞬く間に通った。而してな だらかに中空を|劃《かぎ》る|双子《ふたご》山を左に仰ぎ乍ら、|篠《しの》の中なる一路を 下りかゝった時、つと或る角を曲った所から、藍の湖の面が燦 と光って見えた。今迄車上で殆んど景色を見ていなかった野村 も、思わず蚊で眼を奪われた。  路は篠の間を曲り下って、元箱根に入った。古びた家々の問 からは、夕に近い湖面が|的礫《でぎれき》と輝いていた。|而《そ》して暫く|湖沿《うみぞ》い に走るよと見る間に、亭々たる老杉の並木が自動車を呑んだ。ー ・離宮の前、関所の跡、自動車は急ぐ野村の心の儘に、それら に一顧を与うる暇もなく、箱根ホテルの入口に着いた。今度は 野村も出迎えた宿の女に、澄子らの有無を訊いた。 「秋山って云う、親子二人の女連れは今日着かなかったかい。」 「秋山さん? お名前を伺って置きませんでしたが、今朝ほど 若い御夫婦と、その御母様らしい方ならお着きになりました。」 「若い夫婦2」野村はぎょっと心を打たれて問い返した。もし やそれが澄子と誰か他の男ではあるまいか, 「はい。まさか御兄妹ではあるまいと存じますが。」  野村の心には疑惑の雲を貫いて、閃電の如く走るものが在っ た。さて! それで今迄澄子が自分を避けていたのだ。避けて |他《あだ》し男と舷に来ていたのだ。iその三人連れこそ怪しかっ た。野村は兎に角、一応確かめるべき必要を息がつまるほどに 感じた。 「ではその人たちは今いるのだね。」  野村は唾を呑んで強いて冷静に訊ねた。 「只今湖水へ舟をお|出《だ》しになって居ります。」 「そうか。よし、じゃ僕はその人たちの知り合いだから、一と 先ずその隣の室に案内して呉れ。多分その人たちだろうから、 そうだったら後で一緒になる。」 「はい、畏りました。」女中は野村の青ざめた顔と、厳粛な口 調に押されて一も二もなく承知した。  野村の通されたその隣室と云うのは、湖に面した二階の二番 目だった。その左が澄子たちと推定される人々の室だった。野 村は間の襖をするりと開けて、彼らの持物を調べ度かった。が もし他人だったら大変だと思って、そうも出来なかった。真にも し他人だったら! 野村の心の中では彼らが全く人違いであっ て呉れゝばいゝと思う心と、澄子たちで在ればいゝと思う心と が妙に交り合った。しかし若し澄子だったら、男と云うのはそも 誰だろう。1そう考えて来ると野村の胸は嵐の如く騒いだ。  野村は仕方なしに、|外廊《ヴエランダ》のような|硝子《ガラス》戸を張った廊下に出 て、湖面をずっと眺め渡した。廊下には籐椅子と一脚の|卓子《テ プル》と が在った。而してその卓子の上には、一個の望遠鏡が置いて あった。野村は何気なしにそれを取って眼に当てた。  富士は雲に隠れて見えなかった。先ず彼の望遠鏡裡には、足 柄あたりの春の萌黄を着た山々が映じた。それから傾きかゝっ た日の光で、黄白色の波を織る湖上一帯が映じた。  その時一艘の|自動艇《モ タ ボ ト》が、|右手《めて》を|劃《かぎ》る塔ケ島の蔭から、波を 切って突如と現われた。ふと野村はその方に双眼鏡を向けた。        二三  黄ばみ初めた夕日を弾いて、湖面はまだ明るかった。|暮覇《ぼあい》も 夕闇もまだ漂わなかった。却って山上の透明な空気の中で、遠 くの物の形までがはっきりと見えた。野村の望遠鏡は湖上のあ らゆる物を見逃さなかつた。  塔ケ島の蔭から水を切って現われた|自動艇《モ タ ボ ト》は、初め|甲虫《かぶとむし》より も小さい黒点だった。が水に響いて断続する爆音と共に、それ は刻々近づいて来た。じっと見凝めた野村の望遠鏡裡には、 今、殆んど乗っている人の姿が見分けられる程になった。  乗つている人の姿は四つだった。その中の一人は|日傘《バニソル》を|騎《さ》し ていた。それが日を浴び日を透して、虹のような鮮かさを波間 に散らした。  野村は今しも夕雲を吹き払われて、玲瀧たる雪の姿を現わし た富士を見なかった。その下に透蛇と横たわる紫の足柄連山も 見なかった。彼は息を|凝《こら》して、その|自動艇《モ タ ポ ト》の刻々と近づくのを 待って居た。  艇はそれとも知らず全速力で帰りつゝあった。顔はまだ見分 けられぬが、それは女二人に男二人で、男の一人は運転手らし かった。もうそれは澄子たちに相違無かった。ではそのもう一 人の男は一体誰だろう。野村は望遠鏡を一時眼から離して、嵐 と騒ぐ胸の中に、更に疑いの息を凝した。  艇はもう間近になった。乗っている男のぴゅうと口笛を吹く 音が聞えた。野村はきッとなった。もう|望《し 》遠鏡を眼に当てさぇ すれば、果してそれが澄子であるか、又その男が誰であるか を見分け得る程近かった。  野村は双眼鏡に眼を当てるのが恐ろしく思われた。が又眼を 当てずにも居られなかった。彼は思い切って艇上の人々を|検《しら》べ にかゝった。  彼の眼の中には、先ず一番|舳《へさき》にいる年を老つた女が映った。 それは紛れもない秋山夫人だった。次いで紫紺のコ!トに身を つゝんだ、若い女の顔こそは、彼が久しく夢にのみ見ていた 顔、そして蚊まで|現《うつエ》を追うて来た顔だった。|洋傘《パラソル》を透かす光の 中で、その白い顔はうす紅く匂っていた。今、野村の双眼鏡の 中に、彼女は左手を|舷《ふなぱた》から出して、水を弄んでいるのさえ見 えた。  それならば連れの男は, 野村は更に望遠鏡を取り直した。 |而《そ》して矢となれと許りに鋭い視線を、少し離れた洋服の男に集 中した。がその男をきッと|見《しち》た瞬間に、彼の眼は思わずぐらぐ らとした。星野だ!親友の星野だ!野村は危く叫ぼうと した。が声も出ぬ位に息が|窒《つま》った。彼は自分の眼を疑った。け れどもやっと気を取り直して、再び見下ろした望遠鏡裡には、 更にはっきり星野の笑顔が映った。今彼は何かを彼女に云っ た。二人の笑い合う様さえ今は手に取るようだった。 「あゝ、皆さんがお帰りになったようでございますね。」  突然|背後《うしろ》で云う人があるので、吃驚して野村が振り向くと、 そこにはいつの間にか女中が茶を持って来て、同じく艇を眺め て立っていた。 「お知合の方々に違いありませんですか。」女中は更に野村の 蒼白な顔を見上げ乍ら聞いた。  野村は一瞬間躊路した。が咄嵯に叱るような|嗅《か》れた音声で、 「違った。どうもそうじゃないらしい。だから僕が舷に居るこ とは、あの人たちに黙っていて呉れ。飛んでもない人違いらし いからね。」 「それは茄気の毒さまでした。では申し上げずに置きましょ う。」女中は何の狐疑もなく承知して去った。  野村はもう廊下へは出て見なかった。が息を殺して室の中に 坐っていた。  やがて艇は宿の桟橋に着いたらしい。一と|頻《しき》り下で人声がし て、その中にどやく人々が上って来た。        二四  星野と澄子。自分の親友と自分の恋人。この二人に限って、 まさかにそんな事はあるまいと思っていた野村は、眼前の事実 を何う決断していゝか解らなかった。そこには何か別な事情が 在るのかも知れない。或いは彼らの関係とても、決して親友以 上には出ないかも知れな㌧卑怯かも無れないが"舷に匿れて いて様子を伺おう。ーと彼は決心を固めた。而して息を殺し て隣室の物音に耳を傾けた。 「あゝいゝ気持だった。これでうまく夕飯が食える。」先頭に 入って来た星野の声が先ず聞えた。 「私少し|草臥《くたび》れたわ。お母様はどう。」  澄子の甘えるような声音が続いた。 「私も乗りつけないものに乗ったんで、少し草臥れたようだが ね。それでも山道の自動車とは違って、ボートは気が清々する よ。」母なる人の答えも聞えた。 「お疲れになったでしょうから、御飯の来る迄少し横におなり になったら如何です。」星野がそう云って勧めた。 「まさかそれ程でもありませんよ。」 「でもお母様はもう御老体ですからね。」そう云う星野の調子 は、如何にも親しげだった。殊にお母様と平気で呼んでいるの が、野村の耳には意味深く響いた。  そこへ女中が、「丁度お風呂が宜しゅうございますが。」と知 らせて来た。 「じゃ御老体の私から、先に一と風呂浴びて来ようかね。」と 母が笑い乍ら云って立上った。  女中に案内せられて母が去った隣室は、野村が全ての注意を 耳に集めて、聞き入らなければならぬ物であった。 「やっと二人になりましたね。」星野の蜜を帯びた声が先ず聞え た。 「そうね。」澄子の声も低く甘かった。      、デユ ェツト              あぶ  彼らの恋の二部合唱は、花園に鳴く虻のように楽しげだった。 一「|先刻《さつき》はなぜボIトの中で手を取らせなかったんです。L 「だってお母様が見ていらっしゃるのですもの。」 『もう関わないじゃありませんか、お母様だって御承知だし、 吾々だって覚悟はきめてるのですから。もう世間に揮る必要は ないのです。」 「それはそうですけれど、私何だかまだ野村さんの事が気にな るの。1野村さんは今頃どうしているでしょう。」 「まだ野村の事を考えているんですか。事件がこうならない前 ならば格別臣二人が蚊まで来て了った以上、あの男の事は考え るだけ無駄です。」 「だって何だか余り済まなくって。……」 「そんなに済まないなら私との約束は|廃《や》めて、又もとへ戻りま すか。」 「いえく、そんな事をしたら私死んで了いますわ。」 「それ御覧なさい。貴方は要するに私を取るか野村を取るか、 一か八かなんです。而して今現に僕を取ると仰しゃる。そんな らきっばり野村を棄てゝお了いなさい。僕も親友と断絶するの は厭ですけれど、貴方の為めなら悦んでその犠牲を払うので す。貴方ももっと強くなって、野村の事なぞはすっかり忘れて 了わなければいけません。ー|而《そ》して僕の事だけお考えなさ い。僕も貴方の事だけしか考えないんですから、貴方も僕の事 だけ考えていればそれでいゝのです。」「さあ、そんなに心配 していないで舷ヘいらっしゃい。二人で夜の湖水でも見ましょ う。」 「えゝ。」微かに答えて澄子も寄添うた気配である。暫らくし て、 「静かですね。」と男の声がした。 「ほんとに静かね。」女が云った。 「この静かな世界に、只二人だけ取残されて、僕らはほんとに 幸福ですね。」 「ほんとに何もかも忘れて、貴方のお側にさえいられゝば、私 死んでも関いませんわ。」 「右難う、澄子さん。」 「いゝえ、私こそ。」  二人の言葉は絶えた。恐らく幸福に酔うてじっと目を見合っ ているか、又は手を取り合っているのだろう。聞き澄ましてい た野村の身は、怒りと憎みと嫉妬とにわなノ\額えた。  彼は思わず立上って、|間《あい》の襖の引手に手をかけた。が直ぐは 開汁ずに一瞬間立疎んだ。        二五  野村は襖の引手に手をかけ乍ら考えた。一この襖一ツをばっと 開けて了えば、そこには恐るベき一種の修羅場が現出する。た とえ刃物を互の手に持たぬ迄も、心と心の冷たい白刃は、触れ て紫の火花を散らすに違いない。そうすれば仮令いずれが勝つ にしても、互いに幾らかの手傷を負わなければならない。  野村自身に取っては、既に事態がこうなった以上、面と向っ て戦う前に、もう|起《た》つ事の出来ぬ心の傷を負うたも同然であ る。だから襖を一文字に開いて、手傷を追うた獅子の如き決死 の争闘を試みる事は、敗けても肚の癒える事である。云って 云って云いまくつて、二人を良心の管めに坤かせる事は、今の 場合せめてもの心遣りである。  襖を開けてつと|現《  》われたなら、星野はどんな顔をするであろ う。澄子はどんな顔をするであろう。如何に凡てを忘れて現在 の幸福に酔い、恋の凱歌を奏して居る彼らも(良心の苛責に顔 色を変ずるであろう。たとえ覚悟は決めていても、気の弱い女 性の澄子は驚きの余り失神するであろう。  それは彼らの当然受くべき罰である。彼女が気を失うて倒れ れば、|而《そ》してその倒れた|態《ざま》を平然と見て立去る事は、野村の辛 うじて収め得べき戦利品である。  けれども彼はその感情上の|肚癒《はらいせ》以外に何を得るか。恋人の澄 子はもう還らない。親友の星野ももう還らたい。只、残るのは 彼自身が体面を忘れて、彼らを面責すると云う事ばかりであ る。  どうせ野村に取っては凡ては失われた。此上幾ら争うても、 自分には何の得る処もなく、た間相手を傷つけるのみである。 相手を傷つける事は此場合彼に取って快いには違いない。けれ どもそれは一時である。況んや野村は、澄子を傷つけて復讐の 快感だけを|得《う》るべく、余りに澄子を愛し過ぎている。  彼は心の何処かに、真に澄子を愛しているならば、許して此 儘立去れと命令する声を聞いた。それは一面争闘を避ける卑怯 に似て、しかも真に人道的な勇士の態度だと唆す声を聞いた。  敗けたる者は剣を収めて去るべきである。他日に再起を計る にしても、一と先ず舷を去るべきである。この復離を企てるに しても、自ら|善《ベヲベン》 |讐《デツタ》を報ずるには、この場を黙して去るべきで ある。許すにしても許さぬにしても、兎に角黙って箱根の山は 下りなければならない。  そう考えた時彼は、襖の引手から手を離して、|而《そ》してそっと |電鈴《ベル》を押して、低い声で|女《 》中に早速こう命じた。 「矢っ張り違う人達だったから帰る。直ぐに下迄の悼を雇って 呉れ。」  隣室ではその|中《うち》に母なる人も風呂から上って来た。が野村は その笑いさ間めく彼らを後に、一人そっと箱根ホテルを立出で た。彼らは遂に何事をも知らなかった。  夜はもうとっぷり満ちていた。梶棒を取り上げた車夫は、 「旦那、今夜は降るかも知れませんぜ。厭に暗うがすからな。」 ■と云って駈け出した。二人曳きは闇を衝いて一散に走つた。  車上の野村の心も闇そのものだった。しかも今は先刻の|息窒 る程緊張した苦痛から移って、凡てを失った孤独の悲哀が襲っ て来た。  「あ\一俺の希望はすっかり消え失せて了った。これからは何を 目的《いぎづまあて》に生きて行こう。」そう思うと熱涙が留め度もなく彼の頬・ を濡らした。- -箱根新道五里の戻りは、短く上って長く下りる。悼は淋しい 車夫の懸声と共に、只管闇を走った。宮の下を過ぐる頃から、 ポツく雨が降り出した。野村は夜の雨の中で、頬にあふるゝ 涙を拭いもせずに、泣き続け考え続けた。  「あゝほんとに是からどうしよう。」  自殺〜 ふとそう思うと彼は樗然として戦いた。|左手《ゆんで》には深 い谷が闇の中にも暗く見えた。        二六  自分の唯一の光明であり、希望であったものは失くなった。 自分の研究の励みであり、自分の帰朝の目的で在ったものは失 くなった。あゝ自分はこの苦しみと悲しみとを得るために、わ ざノ\海外より戻って来、今又箱根まで追うて来たのかつ・・  彼女なくして人生が何であろう。研究が何であろう。要する に今由分を包むのは、この夜の如き闇ではないか。闇の如き空 虚ではないか。  生くるに|希望《のぞみ》なく、永らうるに|苦痛《くるしみ》多きものは、自ら死を 求むるより外に道はない。自毅してこの悲苦を断っ公り外に道 はない。  そう思った時野村は、車上から一挙に|黙底《たにそこ》へ飛び込もうかと 思った。が人澗と云うものは、死んで了えば凡て同じ空に帰す るを知り乍ら、自殺にまで手段を選ぶものである。舷にも野村 は、自分の粉微塵になった醜骸を、谷底の岩上に曝すに忍びな かった。殊に医師たり科学者たる彼は、より静かに一貼の毒薬 を、自分の為めに盛る事も出来るのを考えた。「そうだ、どう せ死ぬにしても、なるベく穏かな死にようをしたい。|而《そ》して自 分に同情ある人の手で、あとの始末をして貰い度い。」  それには一と先ず東京に帰って、死ぬべき場所を選ばねばな らない。それならば何処がよいであろう。黒川の家か。併しこ の上黒川に厄介を掛けるのは余りに厚顔である。もっと優しい 慈母の如き手で、もっと心から自分を愛して呉れるものは、あ の「婆や」を措いて外にはない。そうだ|彼処《あすこ》の厄介になろう。 学生時代から自分を子の如く世話して呉れた婆や、父母のない 自分には殆んど女親の愛を感ぜしめた婆や。彼処ならば自分の 死骸を安んじて託することが出来る。  車上の野村はようやく決心した、俸は猶も闇の中を疾走し続 けた。もう塔の沢も間近だった。  行手は暗かった。突然その闇の中から一点の火光が閃めい た。而して一台の自動車が轟然と、山鼻を廻って現われた。  車夫は危険を慮って、「ホイ、ホイ。」懸声をし乍ら、擦れ違 うために速力を緩めた。狭い山道のしかも夜なので、自動車の 方でも少しく徐行した。  人力車と自動車は擦れ違った。その時突然向うの自動車の中 から、 「おいその悼鳥渡待て1野村じゃないか。」と叫ぶ声が聞え た。  人力車は止まった。自動車も五六間行き過ぎてひたと|止《  》まっ た。  野村は何を坪ぴ掛廿られたのか呆然としていた。すると止 まった自動車から、一人の男が急いで降りて来た。 「野村じゃないか。」再びそのの男は呼んだ。 「僕は野村だ。|而《そ》して君は2」 「黒川だ。心配だったからやって来た。うまく出会ってよかっ た。俺もやっと安心した。」 「そうか黒川か。」野村は余りの嬉しさに、熱い涙をぼろく とこぼした。而して急いで悼から下りた。  二人は闇の中で|確《しか》と手を握り合わした。その手は感動でぶる ぶると顧えた。野村は暫し黙って泣いた。 「帰るのか。」黒川は云った。 「うん、帰る。」野村は答えた。 「よし一緒に帰ろう。1おうい、その自動車を返せ。」黒川 は叫んだ。  自動車は狭い道をやっと転向して来た。野村は車夫を厚く|稿《ねぎる》 うて、黒川の自動車に乗り移った。 「|国府津《こうず》まで真っ直ぐに行け!」黒川は叱るように命令した。  自動車は更に速力を増して闇の中を走った。只管に走った。  車中の二人は互いの心を知って、永い間黙っていた。■すると 国府津も近くなった時、突然黒川が云った。 「俺はもう何も云わない。只諦めろ!」 「うむ諦める。」野村は陰欝に答えた。        二七  自動車は野村と黒州を載せて国府津へ着いた。まだ上りの汽 車には少しく間があるので、二人は駅前の待合茶屋で休む事に■ した。土間の|卓子《テえプル》を並べたその店は、鳥渡茶屋とカッフェエを 一緒にしたような感むが↓た。二人は隅の方の|卓子《テ プル》を選んで、 初めて朔るい灯の下に、互、の顔をじっ之見合っ血。  その時黒州が初めて口を開いた。 「僕は薄々様子は知っていた。知ってい乍ら云わなかったの は、■帰朝早々の君に気の毒だと云うよりは、君に久しぶりで会 う早々、そんな話をするのが自分に厭だったからだ。而してこ うたるのを知ってい乍ら、君を箱根までよこしたのは、一つに は君自身で一か八か定めて了うためと、一つには君の顔を見た ら、澄子さんも迷いから戻るかも知れんと云う希望があったか らだ心所が君を送り出して了った後、急に君の事が心配になり              センチリンタル 出したのだ。帰朝した許りの感傷的な心持で、君が一度に幻滅 を味わったら、どんな危険な状態に陥るかも知れんと思うと、 心配で一刻もいたゝまれないので、急いで環翠楼まで乗り込ん だんだ。すると君は更に藍の湖まで跡を追うて行ったと云うん だろうーおまけに秋山の様子を聞けば、星野も一緒に行ってる らしいので、事態益ぐ険悪になると思ったから、僕も直ぐ自動 車を飛ばせたんだ。i併しうまく中途で会ってよかった。僕 は闇に紛れて擦れ違っちゃ大変と思ったから、下りて来る人を 一々問い訊したんだぜ。|而《そ》して君に会った時は、ほんとに安心 して嬉しかった。」 ・「僕も嬉しかった。」野村は涙声で云った。 「それで様子はもう大概推測出来るが、山の上ではどんな風 だったんだい。澄子さん達には会ったのだね。」 「いや、僕は会わなかった。」 「それじゃ星野には。」 「星野にも会わない。誰にも会わなかったけれど、様子はすっ かり解った。うまく隣室に通して貰って、すっかり現場を見て 了った。が僕は黙っていた。黙って彼ちに知らせずに、彼らを 許して一人で山を下りたのだ。」 「ふうむ。それじゃ君は一言も彼らを責めずに、その盤帰った と云うのだね。」黒川は身を乗り出した。  「そうだ。彼らの幸福を破る必要がないと思ったからだ。」 、「野村。君は実に人道主義者だね、僕も君のその博大な愛の心 には感心するよ。けれどもね、それは甚だ卑怯な美徳だよ。僕 はそれは不賛成だ。黙って帰るなんて、そんな事があるもの か。」  「併し云った処で仕方もないからね。」  「いや、云ってく云いぬいて、彼らを良心の苛責に悩まして やるのだ。それが僕の人道主義だ。君のは不正をも愛する人道 だ。が僕のは不正を憎む人道だ。そうしてこの場合、君はそん な|許宥《 るし》の愛に退却する必要はない。罵倒の憎みに進撃すベき だ。この機を逸して彼らを責める時はないんだ。君は是非彼ら に会って、君は肚の癒える迄責めなくちゃならん。僕がついて いる。君が止めるなら僕一人引返して、君のために彼らを罵倒 して帰る。僕はそうしなくちゃ気が済まない。ーさあ又戻ろ う。戻って彼らを待ち受けよう。|敗《まけ》と知っても戦わないのは男 の恥だ。さあ立ち給え。君も男だ。僧む時には憎まなくちゃな らん。」  動かされ易い野村の心に、今猛然たる憎みが目覚めた。  「よし、戻ろう。戻って彼らの|弁明《いいわけ》を聞こう。|而《そ》して場合に よっては面の皮をひき剥いてやろう。」 「それがよい。1そんなら又直ぐ自動車で環翠楼まで引返す んだ。而して今夜はベロナアルでも飲んで無理にも寝るんだ。 戦いは明日だ。」  「苦しいが戦うぞー」野村は低く叫んだ。  二人は直ぐに自動車を|蹴《やと》って、塔の沢まで引き返すことゝ なった。        二八  翌くる日の藍の湖は小雨が降った。|四方《よも》の眺めを雲に閉され ては、湖畔の遊びも退屈するので、澄子たちは予定より早く自 動車を呼び、正午の頃に塔の沢へ帰った。既に野村と黒川と が、待ち受けている環翠楼へ帰って来た。塔の沢も雨だった。  母の沢子夫人と澄子とは、帰ると早速に借り切った特別の浴 室に赴いた月親子は誰も閣入する者のない湯壷に、伸びくと 白い身体を浸した。高い明り取りから落ちる光線がハ灰に湯気 と絡み合う中で、母は吾が|娘《こ》の顔をつぺ入∵と見凝めた。|而《そ》し て声を軟らげて云いかけた。 「澄子。ーお前に相談があるのだがね。他でもない野村さんの方 を、どっちにか決めて了おうじゃないか。1騎前もう一度考 え直して見る気はないかえ。どうしても野村さんは厭かぇ。」 「野村さんには騎気の毒ですけれど、星野さんと心を打明け 合って了った今となっては、もう仕方がありませんわ。星野さ んの愛の方が強いのですもの。」 「それは私だって野村さんより、星野さんの方が親切でいゝと は思っているがね。さればと云って野村さんは、あゝ迄騎前を 思っているのだし、これぞと云う落度もない人を、改めて断る のも何だからねえ。まさかお前が外へ心変りがしたとも云えな いし、断るにしてもうまい目実が無いかねえ。帰朝したのはきっ とお前を貰うためだろうから、慈で一時遁れの口実でもいゝの だがねえ。」 ・「そうねえ。もう私が若過ぎるとも云えませんし。……」 「そうだねぇ。何か無いかしら。ーあゝ在るく。仕方が無 かったらこう云おう。野村さんが大学教授になるか、博士にな るか、いゝ処の地位に就いてからでなくちゃいけないと云うん だね。そう云えば一時は延ばせるし、どうせ博士になるにして も、その間に星野さんと競争させれば、星野さんの方が銀時計 で勝つに決まっているから、そ七で改めて星野さんの方へ遣っ て了うのだね。そうだ。そう云う事にしよう。お前もそれでい いだろうね。」 「そんな|計略《はかりごと》を使うのは厭ですけれど、それも止むを得ない事 ですから仕方がありませんわ。私はもう星野さんと一緒になれ れば、どんな事をしたっていゝんですもの。」 「じゃ野村さんには、今のように云う事と決めようね。帰った ら早速私が|悪者《わるもの》になって、野村さんに憎まれなくちゃならな い。これもみんな騎前が可愛いばかりに、私が罪を作ることに なるのだよ。」 「騎揖さん、ほんとに済みません。叱りもせずに我儘を通して 下すって。…iその代り星野さんと二人が、一生お母様を大切 にしますわ。」こう云って澄子は、感極まったように泣き出し た。 「いゝよ、いゝよ。泣かなくてもいゝよ。1私はたバお前の |幸福《しあわせ》なのが、何よりも嬉しいのだからね。」  親子は暫し湯壷の中で、手を取り合って泣いた。いかなる涙 にもせよ、涙を出して丁えば気が晴れるものである。泣いた後 の一.一人は、何となく心嬉しいような入浴を済まして、もとの座 敷へと戻って来た。  星野ももう別な共同の湯壷で浴びて戻っていた。渋い浅黒い 顔にもいゝ血色が上っていた。彼は二人の顔を見ると云った。 「今そこの廊下で、黒川によく似た男の姿をちらと見受けまし たが、もし|真物《ほんもの》の黒川だとすると、僕らは出来るだけ隠れてい なくちゃなりませんね。|彼奴《あいつ》に見つかると事面倒ですから。」 「黒川さんですって? あの方がこんな処へ, 人違いでしょ う。」沢子夫人が云った。 「或いはそうかも知れませんが、いずれにもせよ警戒の必要は あります。」  その時女中が一枚の名刺を持って入って来た。 ■「この方が是非|此方《こちら》様にお目にかゝり度いと仰しゃいます が。ー」        二九 「誰だ。」と星野は急いで名刺を受取った。「黒川金吾。ーそ れじゃ矢っ張り黒川だったか。|而《そ》して誰忙会い度いと云うん だ。」 「|此方《こちら》の皆様にお目にかゝり度いと仰しゃるので。」女中は 云った。 「どうしましょう。困りましたね。僕は逃げていましょうが。 それとも僕だけ会いましょうか。」  星野は沢子夫人に相談しかけた。 「そうね。どうしたら一番いゝでしょうねえ。」沢子夫入も|鳥 渡《ちよつと》考込えんだ。  その時、障子をすっと開け放って、黒川がつかく入って来 た。 「失礼、御免を蒙って他人行儀のお答えを待たずにやって来ま した。御迷惑だつたでしょうか。」と彼は一礼した。  皆は一瞬問まご<した。黒州はその狼狽の様を冷然と見 やってもう一度云った。「何だか御迷惑だったようですな。」 「いゝえ。」沢子夫人が辛うじて無愛想な顔乍ら礼儀として 云った。 「黒川君暫らくだったね。」星野も挨拶した。 「やあ星野君、君もいたのか。どうして舷にいたんだい。し ・「いや、大阪へ行った帰りがけに、鳥渡寄ったら引留められ て、二三日御一緒に逗留したんだ。」 「大阪からは何時帰ったんだ?」 .「五日ほど前だ。」 「じゃ君は野村が帰朝の日を知らなかったのだね。」 「いや、1そうだ。鳥渡聞いてはいたが、よくは知らなかっ た。」 「此方の澄子さんも御存じ無かったのでしょうな。」  澄子は顔を伏せた。沢子夫人が代って答えた。「それは存じ て居たんですけれど、丁度病後で蚊へ静養に来ていたものです から、いずれ溢目にかゝった折、お迎えに出ないお詫はする 積りで居りました。」 「野村は兎も角、無事で帰りましたよ。1澄子さん。貴方も お祝い位は云ってやって下さい。」  沢子夫人が又代って言った。「それはお目出とうございます ね。そして只今はどうしておいでゝす。」 「そうですね。愈ぐ此方の澄子さんと御婚礼が出来ると云って 喜んで居ります。」  澄子は愈く顔を伏せた。星野も傍を向いた。沢子夫人だけが 辛うじて( 「まあ、そうですか。iですがそれはそうも行かない事情が ありましてね。」と云った。 「へゝえ、そうですか。i私は又直ぐにも御承諾願えるもの と思っていました、実は今日此方へ参ったのも、甚だ差出がま しい話ですが、親友の為めにその問題を|明瞭《ほつきり》取|定《き》めるように、 野村の依嘱を受けて遣って来たのです。1|而《そ》して二」の野村が |不可《いけ》ぬ御事情と仰しゃるのは、どんな御事情なのでございます か。」 「何も野村さんが不可ないと申すのではございません。たv結 婚はまだ当分見合せて置き度いと存じまして。」 「それは又どうして間す。」 .「野村さんの身がきまる迄はね。御帰朝早々でどうなるか解り ませんし、そして御存じの通り秋山の家は代々の名家でして、 良人の死ぬ時も家はなるべぺ、博士か大学教授に嗣がせたいよ うな|目吻《くちぶり》でしたから、まず野村さんがそうした位置にお進みに なったら、それかちのお話にして戴こうと思って居るのでござ います。」 「はゝあ、そうすると野村が博士か教授にならなけりゃあ、お 嬢さんを下さらないと云う訳なんですな。」 「そうでもありませんけれど、私ども世間並の考えではハまあ そんなところですわね。」 「じゃ博士か教授になれば、きっと下さるんですね。」 「さあ、そうと|定《ぎ》める訳にも行きませんけれど、まあ私どもは 立派な仕事をした方にやり度いと存じましてね。」 「じゃ兎に角、只の医学士にやるような事はしないと仰しゃる のですね。例えば舷においでの星野君にしても、何か業績を挙 げて博士にでもならなければ、お嬢さんを遣れない訳ですね。」 「それはまあそうですね。」こう云って沢子夫人は、星野の方 をちらと顧みた。その眼の光の中には、「貴方もだから勉強し て、きっと偉くおなりなさいよ。」と云う訓示が籠っていた。 「宜しい。それだけ伺えば結構です。野村にしっかり勉強させー て、一刻も早く業績を挙げさせてやります。而して星野君位に 偉くしてやります。星野君、君もしっかり敗けないように勉強 し給えよ。」 「御忠告有難う。」星野は冷然と空蠕いた。黒川はその様を見 ると更に膝を進めた。        三〇  黒川は|皆《まなじむ》を決して語を次いだ。 「では改めて星野君に忠告するが、君は親友の恋人なぞを掠奪 しないように気を附け給え。君みたいな陰険な人間を友人に持 つと、|傍《ほた》までひどく迷惑するからね。」  星野も気色ばんで答えた。 「掠奪する? 御忠告は有難いが、掠奪するなんて事は云って 貰うまいよ。一体君たちは女の人を、物件か何ぞと思ってるの だね。所有ができるものだと思っているのだね。恋人と云うもの は単なる関係だよ。僕が或る人の恋人と恋に落ちたところで、 僕は何もその人から恋人を奪ったのではない、それは人と人と の関係が変ったfけだよ。例えばこの澄子さんが野村の恋人で あるに拘わらず、僕がそれと恋に落ちたと仮定した所で、何も 野村から掠奪した訳ではない。1況んや愛の問題なぞと云う ものは理窟で云えない機微があるのだ。不可抗力なのだから仕 方がない。例えば僕と澄子さんにした所が、陥るまいくとも がき乍ら、とうく恋に陥って了ったようなものだ。仕方がな いじゃないか。」 「君は仕方がないとしてそれを済ましていられるのか。」■ 「仕方がないものは仕方がない。」 「君はそれを罪悪だとは思っていないのだな。ー 「恋愛は道徳を超越する。僕らは道徳以上に強くなっているの だ。」 「道徳は愛を基本とする。君らには道徳観念が欠けているの だ。」 「何とでも云うがいゝ。要するに君たちの云う事は、劣敗者の 愚痴に過ぎないじゃないか。ー入生は争闘の世の中だ。自分. が勝つか|他人《ひと》が勝つかだ。親友にしろ何にしろ、生きてゆく上 から云えば敵同士だ。帰ったら野村にそう云って呉れ。口惜し かったら戦って奪い返せって。それが出来なけりゃあ愚痴を云 わずと死んで了えって。」 「云ってやるとも、今直ぐにでも云ってやる。1おい野村。 談判は破れた。いゝからかまわず入って来い。」  こう云って黒川は隣の室へ声を掛けた。  蒼白な悲槍な顔をして野村は入って来た。そして丁寧なお辞 儀をした。しんとした緊張が一座を支配した。一二|分《ふん》人々は皆 顔を|蒼《あお》めて沈黙し切っていた。黒川がとうノ\口を切った。 「おい野村、大抵様子は解ったろう。皆さんにお礼を申すがい い、殊に親友の星野君からは、非常な哲学を教わった。入生は 戦いの世の中だから、親友の幸福を奪おうと、精神的に殺して 了蔚うと関わないから、どんく自分の為めに戦えと云うの だ。正々堂と戦って、澄子さんを奪い返せと云うのだ。舷で劣 敗者の愚痴を云うより、それが出来なくば死んで了えと云うの だ。」 「そうか。それも|道理《もつとも》だ。1じゃ帰ろう。」野村は唇を額わ して辛うじて云った。 「よし帰ろう。iが併し君も久しぶりで帰朝したのだから、 一応皆さんに挨拶して帰れよ。」 「そうだね。1お蔭さまで無事に帰朝しました。留守中はい ろくお世話になりました。」  黒川は|傍《そば》から又口を添えた。 「澄子さん、貴方も一言位帰朝の騎祝いを云って下さい。」  澄子はその時顔を上げて、一言何かを云おうとしたが、その 艦のけざまにぱったり|倒《    》れた。さすがに女は感情の緊張に堪え 兼ねて、その場で失神したのである。 「澄子さん。どうしたんです。」「澄子や澄子!」と星野と沢子 夫人が駈け寄って支えた。  野村は呆然と立って見て居た。  黒川のみが冷然とその|態《てい》を見下して、 「それでも幾らか良心はあると見える。」と眩いた。而して思 わずカッと唾を座敷の中に吐き出しながら、「帰ろう。」と野村 を促した。 「うむ帰ろう。」野村も云った。 「それじゃ奥さん。野村が立派な業績を挙げた時、改めて御挨 拶に上ります。」  黒川はこう云い放って、野村を|拉《らつ》するように室外へ連れ出し た。        三一  帰りの汽車の中でも、■ー黒川も野村も黙っていた。|会《たまく》ぐ黒川 が、 「こうなったらしっかり勉強して、向うを見返してやるしかな いぞ。」と云っても、野村はた間履昧に、 「うん。」と云ったきり黙っていた。 「しっかり遣る勇気が在るだろうな。」と云っても亦、たr、 「うん。」と云うのみだった。 「ほんとにしっかりして呉れよ-何処までも俺は同情している んだから。」黒川は心配げに猶も野村の手を握って云った。 「ほんとに君にはいろく騎世話になって済まない。こう云う やくざな友達を持って、さぞ迷惑だろうが堪忍して呉れ給え。」 「そんな事云うなよ。そんな事を云われると涙が出らあ。俺に は涙が一番の苦手だ。」 「黒川!」野村はとうノ\男泣きに泣いて了った。  いゝ塩梅に余り人の乗ウていなかった二等室の片隅で、二人 は人に知られぬ涙を幾度か拭った。  汽車はやがて東京駅に着いた。二人は改札口を出た。もう夜  舐たり が四辺を押し包んでいた。 「これからどうする。又僕の処へ行かないか。我々兄妹は永久 に君の同情者だよ。」黒川は野村を誘った。 「有難う。そう云って呉れるのは君たちばかりだ。けれども余 り厄介になり過ぎるから、今日は婆やの家へ行こうと思う。僕 は女親さえ無いんだから、せめてこんな時におふくろ同様の婆 やの処へ行きたいよ。」 「成程、それもよかろう。」 「そして、一人で考えて見たい。」  野村は意味ありげに云った。 「じゃそうし給え。僕もそこ迄送って行こう。」  婆やのお清の|家《うち》は、小石川茗荷谷に在った。小さな長屋建の 一部ではあるが、借主の心掛が見えて縞麗だった。  野村と黒川が其処に着いた時、訪う人も滅多にないと見え て、もう玄関の雨戸が閉めてあった。黒川はどんく雨戸を叩 いて、 「御免、御免!」と訪れた。二三度すると奥の方で、 「はい。只今開けます。」と答える若い女の声がした。 「騎や、これは家が違ったかな。婆やにしては|厭《いや》に可愛らしい 声だが。」と云って黒川は、四辺の様子を見廻した。「が、前に 来た時は確かにこの家だった。急に越したか知らん。」  その中に雨戸をがたつかせる音がして、ようやく戸は開か れ、中からは一人の若い娘が首を出した。その灰白い円顔と、 島田に結った頭とが、夜目にもくっきりと見えた。 「どなた様ですか。」娘は二人をすかし見てきいた。 「野村と黒川と云うものですが、婆やのお清、いや塚田清さん の家は|此方《こちら》ですか。」 「はい。さようでございます。鳥渡お待ち下さい。野村さん とー」 「黒川とです。」  娘は|鳥渡《ちょつと》奥へ入った。そして婆やに、「叔母さん。野村さん と黒川さんと仰しゃる方がお見えになりました。」と云う声が 聞えた。 「なに野村さんに黒川さん。おやまあそうかい。」そう答える 婆やのなつかしい|声音《こわね》も響いた。そしていそくと婆やは玄関 先に出て来た。 「婆や、とうく厄介になりに来たよ。」と野村はその姿を見 るなり涙ぐんだ声をかけた。 「まあよく忘れないでいらっしゃいました。さあノ\どうぞお 上んなすって。」 「婆や、僕も送って来た。が、僕は上らないで帰るよ。」黒川 も親しげに云った。 「そう云わずにまあお上んなさいな。」 「いや、妹が心配しているだろうから、そうしてはいられな い。じゃ野村君を宜しく頼んだよ。野村、君もくよくする な。いゝか。左様なら。それから婆や、先刻のお前の可愛い姪 御さんに宜しく。」  黒川は辞し去った。野村は婆やの家の小さい玄関で、いそい そと靴を脱いだ。        三二  |居室《いま》に通った野村を、婆やは五燭の電燈の下でつくん\と見 た。 「ほんとうによくいらして下さいましたね。婆やはほんとに嬉 しゅうございますよ。ーさあお咲、お前も野村さんに御挨拶 をおし。」と婆やは|背後《うしる》につゝましく坐っている姪を顧みて 云った。「野村さんにはね、私がほんとうに永らく御厄介に なったのだよ。」  娘は自分とは階級の違った男の前で、何も口をきけずに只丁 寧に頭を下げた。結った許りと見える艶々しい島田の下に、白 いぼっとした|円《  》顔が幾度か隠れた。野村は礼を返し乍ら只おと なしい|娘《こ》だなと思った。 「いや、僕こそ婆やの厄介にばかりなっているんじゃないか。 学校にいる間から、すっかりお前のお蔭で育ったようなものだ よ。母親のない僕には、お前が実のお|母《ふくる》のようにして呉れたん だ。」 「私もたvの書生さんをお世話する気ではありませんでした。 ほんとに御親切にして下すったんで、|外国《あちら》へおいでになすって からは、思い出すと涙が|蘇《こぽ》れて困りました。」 「それは有難う。そう迄思っていて呉れたのは、婆やと黒川位 なものだからね。どうか又お世話様だろうが、暫らく此処に置 いて齢呉れ。」 「えゝ宜しゅうございますとも。むさくるしい|家《うち》でございます が、奥の六畳が空いて居りますから、どうぞ一生でもお居で下 さいまし。」 「僕も一生お世話にたり度いんだ。」と野村は云って、心の中 で更に、「どうせ直ぐ死ぬのだから。」と|独語《どくご》した。 「私も一生お世話申し度いのですが、貴方さまもやがて秋山さ んへ齢いでになるお身ですもの。それ迄のお世話はきっと致し ますわ。」  そう云われた野村の顔には、さっと悲痛な織が生じた。 「婆や。秋山さんの事はもう云わないでお呉れ。ーあの話は |廃《や》めにしたよ。澄子さんの心はもう変って了った。向うにいた 二年の間に、いや、たったこの二ヵ月ばかりの間に変ったん だ。」 「まあ、あの方が〜 あの方に限ってそんな事があろうとは思 いませんでしたがねえ。あんな御縞麗な顔をしていらして。」 「女と云うものゝ心は、あゝ迄直ぐに変るものなのかねえ。」 野村は何気なしに婆やの姪の方をじっと見た。彼に取ってはこ の大人しいお咲さぇ、若い移り気な女の代表者の如く見えたの であろう。 .お咲もちらっと顔を上げたが、野村の視線に堪え兼ねてか、 又は聞いてはならぬ話を聞いたと思ってか、つと|立《  》って台所の 方へ去った。野村は悪い事をしたと思った。 「ほんとに貴方をお見捨て申すなんて、そんな人が世間には在 るものですかねぇ。」 「そりゃ在るともさ。この何の取柄もない僕を、一番いゝ人だ と思っているのは婆やだけだよ。だから迷惑だろうがこの家へ わざく厄介になりに来たんだ。どうかどんた事があっても、 人手にかけず世話をしてお呉れよ。」野村はそれとなく云っ だ。 「えゝ、それは致しますとも。」 「どん次事をしても迷惑でないと思って呉れるかい。」 「えゝ、どんな我儘でもなさいまし。婆やは却って喜びます よ。」 「喜んで呉れるかね、婆や。僕はほんとにお礼を云うよ。」野 村は暗涙を呑んで云った。 「何のお礼が要りましょう。1ほんとに御気の毒ですねえ。 婆やも心からお察し申しますよ。し  その時表の玄関で、「御免なさいまし。」と訪れる若い女の声 がした。 「おや、今時分|誰方《どなた》が器いでなすったのだろう。」姿やは云つ た。  お咲が急いで玄関の方へ出て行った。        三三  急いで玄関に出て行ったお咲は、|戸外《そと》の人と一二度問答した 後、室へ戻って来て云った。「黒川さんと仰しゃる女の方が、 野村さんに是非お目にかゝり度いと仰しゃいますが。i」 「黒川2 それじゃ妹さんだな。今時分何の用だろう。1兎 に角、まあ記目にかゝりましょう。どうぞ上げて下さい。」  やがてお咲に導かれて、秀子は室へ入って来た。いつも淋し い彼女の顔が、今日は殊に蒼白く澄んで、何処とも知らず|崇高《けだか》 い様子に見えた。 「どうも晩く上りまして、1」と秀子は皆に挨拶した。 「よくいらっしゃいました。ほんとに|久潤《しばらく》でございましたね。」 と婆やも迎えた。 「よく一人で来られましたね。」野村は大体の様子を察して 云った。 「明日にしようと思ったのですけれど、今夜にも棄てゝは置け ない事と存じまして、失礼ですが晩いのも関わず出て参りまし た。」 「それは有難う存じます。」 「野村さん、騎話は私も前から少しは知って居りましたが、兄 が帰ると直ぐ詳しく伺いました。ほんとにお気の毒に存じま す。貴方のお心持をお察ししますと、心から御同情申し上げず には居られません。けれども私どもの力では、まだ貴方をお慰 め申す事が出来ないのは残念でございます。それでも私はた宰 ほんの少しお話したい事がございます。若い女の身でこんな事 を申L上げるのは、甚だ生意気なようでございますが、どうか 聞いて下さいませんでしょうか。」  「悦んでお聞きしましょう。」  「私は|彼方《あちら》へ参って居りましょうか。」と婆やは遠慮して云っ た。 「いえ、婆やさんも聞いていて下すって関いません。何も秘密 なお話ではございませんから。」  「それで%話と仰しゃるのは。」 「外でもございません。野村さん。1あの人たちを許してお ,上げなさい。貴方の寛いお心で、何もかも許してお上ぼなさる よう、私は心からお祈り申して居ります。許すと云うことは辛 い苦しい事でございます。併し苦しいけれど許しておあげなさ い。今の貴方と同じ苦しみに悶えて居る人もきっと何処かに在 ります。|而《そ》してそう云う人たちの中には、許すことのできぬ敵 を立派に許している人もあります。目巾ッたい事を申すようで ございますが、妾も貴方と同じ苦しみを苦しみました。|而《そ》して 心弱い女の身では、神様の|御手《みて》にお縄り申して、ーやっとその人 人を許すだけの心になって居ります。そのお話はいずれする機 があるだろうと存じますが、今はた父私の言葉が、口先だけで 申しているのでない証拠に、それだけは申し上げて置きます。 しだからどうぞ貴方も、苦しみを共にしている者があると思 召し、同じくあの人たちを許し、その上にあの人たちの幸福を 祈って上げて下さい。私どもは|蓮《とて》も|基督《キのスト》さまのように、彼らは 為す所を知らざればなりと云って、喜んで十字架にかゝる博い 心は無くとも、出来るだけ世の|罪人《っみびと》を許して上げ様じゃござい ませんか。私は何も貴方に信仰をお薦めは致しません。信仰が なくてもその寛いお心に到ることが出来れば、私は心から悦び ます。1どうぞそうなって頂き度うございます。そしてその |許宥《 るし》の上に新しい生涯を築いて、よし世間的には成功したくと も、立派な誰にも恥じぬ人になって下さい。それが真実の幸福 だと存じます。■1私が申し上げたいのは、只是だけでござい ました。女の目から説教めいた事を申して、さぞお聞き苦しかっ たでしょうが、私の意の在るところだけは酌んで下さいまし。」  彼女は涙を浮べ乍ら熱して云った。野村は黙っていたが、よ うやく頭を上げて、 「私も許す積りでいました。」と沈欝に答えた。婆やは話が分 らぬ乍ら、悲槍な二人の様子を見て時々涙を拭った。 「有難うございます。それを承って安心致しました。iでは |晩《おそ》うございますから、私はこれで御暇申します。野村さんどう ぞお身体をお|大切《だいじ》に。」        三四 「もうお帰りですか。ではお悼で亀申し付けましょう。お一人で はお淋しいでしーうから。」と婆やは秀子に薦めた。が秀子は、 「いえ、直ぐそこ迄行けば停留所です亀の、電車で参ります わ。その方がずって心持が宜しゅうございますから。」 「そうですか。では|家《うち》のお咲にそこまでお送り致させましょ う。」 「いゝえ、そんな御心配は要りませんわ。」 「何の心配なものですか。ー躰咲、お前秀子さんを停留所ま で送って行ってお上げ。」  秀子が辞退するにも拘わらず、お咲は送って行くことになっ た。 「では野村さん、呉々もお|身体《からだ》を大切になさるようお祈り申し ます。」秀子は玄関先で又云った。 「貴方も|御壮健《おたつしや》で。兄さんにも宜しく。」こう答えた野村は、 更に心の中で、「もうこれっきり騎目にかゝれませんから。」と |独語《つぶや》いた。彼はそっと涙を浮べた。  秀子とお咲とは連れ立って、晩い夜の小路を歩いて行った。 二人は暫らく遠慮して黙っていたが、少しすると秀子が口を 切った。 「貴方は先刻の私の云う事をお聞きになって、さぞ生意気な女 だと齢思いになりはしなかったこと。」 「いゝえ、私少しもそんな事を思いはしませんわ。却ってお羨 ましいと存じましたわ。私などは何のお話も出来ませんもの。」 「貴方は大人しいのね。|幸福《しあわせ》な|性質《たち》ですわ。女も私のように なっては駄目よ。勝気な女はほんとに不幸ですよ。いろくな 苛い目に会うと、いつの間にか私のような生意気な者になって 了いますからね。」 「いゝえ却って騎|幸福《しあわせ》ですわ。御立派な男の方ともお話が出来 るのですもの。」  秀子はふとお咲の顔を伺った。 「失礼な事を訊くようですけ、れど怒っては|厭《いや》よ。l貴方あの 野村さんを思っていらっしゃるのではなくって。」 「あら、1いゝえ。そんな事はありませんわ。だって今日初 めて騎目にかゝったのですもの。」 「でも頼もしい方だとお思いにならなくって。」 「私なんぞ、そんな事は何にも解らないのですもの。」 「そう2 ではこれからあの方を思って上げて頂戴。そして出 来るだけ親切にして上げて下さいな。私からお願いしてよ。」 「わたし親切にしては上げられますけれど-…」 「ではそれだけでもようござんすから、ほんとに尉頼みして よご  お咲はちらと秀子を見てへ思い切って反問した。「貴方こそ 思つていらっしゃるのではござい曹せんか。」  秀子は鳥渡吃驚したように振り向いた。「まあ! 私2 ほ ほゝゝ。i貴方にそう見えて,」■ 「ガって御親密でいらっしゃいますから。」 「そう見えるならそれでも関いませんわ。lIけれども私の 思っている人は、否思っていた人は何処の誰だか、その|中《うち》にお 解りになりますよ。」 「女にはきっと誰か思ヶ人があるものなのでしょうか、思った 人のある方がいゝのでしょうか。」 「いゝえ、思わない方が|幸福《しあわせ》よ。」 「でも今のさっき貴方は私に、野村さんを思えって仰しゃっ たじゃございませんか。」 「野村さんは別よ。あの方は慰めて上げなければなりませんも の。」 「私にはそんな事は|辿《とて》も出来やしませんわ。私には|毎《いつ》もた讐ぼ んやりしているのが性に合うのですもの。」 「貴方の性質は億んとに幸福ね。」  秀子は沁々云った。  二人はその中に停留所に着いた。秀子は篤く礼をのべて、や がて来た電車に乗った。       三五  帰途に就いた秀子は、電車を上野広小路で乗り換えなければ ならなかった。 もう十二時に近い乗換場所には、つい今の電車がすっかり乗 客を俊って行った後で、立って待っている人が勘かった。春と は云っても夜更けの風が吹いて、秀子の襟脚や腋の下がぞく《  》|と するのを感じた。興奮した野村との面談のあとで、彼女の心は 云いようのない淋しさに満たされていた。而してその淋しい胸 の中で、彼女は他人を思い自分を思った。野村の抱く悲しみに 誘われて、やっと忘れかけた自分の悲しみが思い出された。自 分に背き去った人の事が鮮かに思い出された。あゝその人は新 しき恋人と、今は|彼処《あそこ》に何をしているだろう。i  「併しすべては許さなければならない。」と彼女は考え続けた。 ■「それが神の御心に、少しでも近づく道なのだ。」  彼女はもう更けた|夜暗《よやみ》に、毒草の如く青く輝く広告塔の光り も見なかった。目前に餐えた松坂屋の建築の半面を、かっと照 らす|投光機《プロヅエクタ 》の光りも見なかった。彼女は地面に眼を伏せて、我 を忘れて考えていた。  その時突然彼女の耳は、けたゝましい自動車のサイレンの音 を右手に聞いた。彼女は黙想から我に帰って、自分を目がけて 疾走して来る自動車を慌てゝ避けようとした。そして二三歩よ ろくと|背後《うしろ》へ身を退けた時、今度は背後から腋の下を、厭と 云う程何物かに衝かれた。ば則を通る自動車を避けたゝめ、それ と同時に背後看通った三台の人力車の最後の一つに、避ける間 もなく梶棒を打突けられ九のである。彼女はその衝突のため に、今度は横倒しに|俄破《がぱ》と打伏して了った。倒れる拍子に胸を 打って、彼女は暫し起きも上れなかった。■  「危ない、気を付けろい。」車夫は樫貧にそう云ったが、打倒 れたのを見るとさすが打棄てゝも置けず、偉を|止《とゴ》めて抱起し た。前の二台はもう先へ行って了った。  「気を付けなくっちゃ不可ませんぜ。貴方の方から|打突《ぶつつ》かった んですからな。」車夫は気を失っていない秀子の顔を見ると、 幾らか安心して云った。  「はい、気を付廿ます。」彼女は痛む胸を抑えて辛うじて答え た。  その時律に乗っていた人が、幌の中から顔を出して云うた。  「どうしたんだ。怪我は無かったかな。」  秀子は聞き覚えのある声だと思って、ふとその方を見ると、 思わず|吃驚《ぴつくり》して叫んだ。  「貴方は星野さん!」  「えっ、そう云う貴方はP lあ、秀子さんでしたか。」星 野の方でも勘からず驚いた。「して何処も怪我はありませんで したか。」 『いゝえ、何ともありませんからどうぞお関いなく。1|車夫《くるまや》 ■さん、どうか早くお伴れの方に遅れないように欄わないで行っ て下さい。」  「秀子さん、僕は貴方に少し話があるんですが。」  「又いつかお話は伺います。どうぞ早くおいでなすって下さ い。」  秀子は胸を抑えて云い張った。  「では伴れがありますから失敬します。.-じゃ|車夫《くるまや》、早く向 うの二台へ追い付いて呉れ。」 ■逃げるように一散に駈サて行べ星野の悼を、秀子は何時まで もじっと眺めていた。  ようやくそこへ電車が来た。秀子は痛む胸を抑えてやっと|家《うち》 まで辿り着いた。  「兄さん、只今。」彼女は挨拶するのもやっ之だった。  「どうした、厭に顔色が悪いじゃないか。」迎えた黒川は妹に 云った。  秀子は家へ帰った安心で、思わずその場に打伏して了った。  「どうしたんだ。気分でも悪いのかーだから今夜はよせと云っ たんだのに。」 「広小路で|他人《ひと》の悼と衝突して、胸を打ちました。」 「なに胸を打った。どれお診せ。Iお前はもとから弱いんだ から、又肋膜にでもなると大変だぜ。」 「兄さん、私又肋膜になって早く死んで了いたい。」 「馬鹿を云うなよ。今死んむや初まらんじゃないか。」 「だって早く天国へ行けますわ。」 ,「どうしてくそう容易く天国へなんぞ行けて堪まるものか。」  わざと冗談を云いながら、黒川は心配そうに妹を抱いて床に ■臥かした。  その夜秀子は四十度に近い熱が出た。        三六 .秀子を送ってお咲が出て行った後には、野村は婆やの|膝下《ひざもと》 で、|益慈《ますノぼ》母の温情と安静とを感じた。|而《そ》して愈ぐ安んじて己れ の|亡骸《なきがら》を託すべき処は、此処を措いて他にないと思った。  そんな事を考えているとは知らず、婆やは野村に心易く話し かけた。 「黒川さんのお妹さんもお変りになりましたね。」 「変ったね。人はいろくに変るよ。僕もあんな風に変れると いゝんだが、到底あゝ云う信仰に救われる事なぞは出来そうも 無い。そこへ行くとまだ秀子さんは|幸福《しあわせ》だ。」 「あの方も前に|不幸《ふしあわせ》な目にお会いになったようですね。」 「そう云ってたね。そんな事でもなくちゃ、あんな快活だった 人が、あんな狂信的な人になる訳が無いもの。」■ 「世の中にはいろくな苦しい事が在りますからね。」 「そうだ、苦しんでいるのは僕許りじゃない。けれども僕の苦 痛は僕に取っては余り大き過ぎるよ。僕はそれに堪えられそう もないんだ。」. 「ほんとに貴方の辛さは人一倍でしょうねえ。」  二人は凡てを云い尽したように暫らく黙っていた。そこへ鰭 てお咲も帰って来た。  お咲は「只今」と挨拶し乍ら、秀子とあんな話をした後の、 先刻とは違う眼で野村を|窺《ぬす》み見た。が彼女の眼には矢張り、近 づき難い格の違つた人のように映つた。彼女は自分の方からな ぞ、到底此人を愛することは出来ないと考えた。一体彼女は自 分の方から|愛《  》する|女《し》ではなくて、只受身に愛せられる|女《   し》の種類 に属していた。 「蔚咲。それじゃ野村さんもお疲れだろうから、奥の六畳へ床 を取ってお上げ。」と婆やが云った。 「はい。」お咲は心の中で、そう云う親切なら出来ると思っ て、いそくと奥へ入って行った。 ・野村もそれを見送り乍ら、実の妹に対するような愛憐を感じ た。 「婆やの姪御さんは可愛い人だね。今迄何処にいたんだい。」 「あれも不幸な子でしてね。私の実の姉の子で、姉妹二人ある んですけれど、両三年前母親が亡くなった後、姉の方は森戸さ んと云うお|邸《やしき》へ御奉公に上り、妹は一人になった父の世話をし ていましたが、その|中《うち》に父も去年の末に亡くなりましてね。可 哀そうだから私が引取ったのでございますよ。」 「うむ。するとあの騎咲さんに姉があって、それがあの森戸子 爵の家へ奉公しているのだね。1森戸子爵なら僕も知ってる よ。そして今でもそこにいるのかい。」 「それがねえ野村さん、|一昨年《おととし》何故かお邸を逃げて了って、今 だに行方が知れないんでございますよ。」 「ふうむ。そうすると何か森戸の家庭には、居たゝまれない事 情が在ったのだね。」 、「そう見えますけれど、何分行方が知れないので、何が何だか 少しも解らないんさございますの。」 「森戸子爵に会って聞いて見たいけれど、■もう彼の人に会う機 会も無いしな。」と野村は数時間後に自殺すべき|己《おの》が身を思う て賠然とした。  そこへお咲が、「お床を伸べました。」と知らせて来た。野村 は改めて婆やとお咲の顔を、暗涙の底から見凝めて、 「では婆やも騎咲さんも先に失敬するよ。」と挨拶しながら奥 へ入って襖を閉めた。  野村はさっばりした寝巻に着かえ、暫らくは婆やが心尽しの 床中に横たわって、婆やたちの寝静まるのを待っていた。隣室 では女二人の低い話声が暫らくしたが、臆て彼女らも床を敷い て寝たらしい。|四辺《あたり》は静かになった。遠い何処かの工場の汽笛 が、二声ほどボーッと響いた後、今は火の番の拍子木の音さぇ |途断《とだ》えた。        三七  夜は益ぐ更け渡った。四辺は愈ぐ静かになって行った。只隣 の室の女たちの、安らかな正しい寝息が、襖越しに鋭敏な野村 の耳へ伝わるのみだった。  野村は床上に起き直って、改めて越し方行く末を考えた。 が、結局の乏ころどうしても、 「凡てのものは失われた。凡ての希望は消え失せた。どうして も死ぬより外に道はない。」と云う単純な考えに圧倒されて 了った。 「仕事P」彼は考え続けた。「仕事が何だ。研究が何だ。凡て はこの人生のためではないか。この空虚な人生のために、無駄 な労力を費すだけではないか。」  彼の心に喰い入った絶望は、彼から仕事に対する執着をさぇ 奪ったのである。  失恋は余程強い心の人からでも、一時凡ての自信を奪い去る ものである。|而《そ》してその時期に於て、人は必ず一度は自殺を目 ろむものである。その自殺は或意味に於て、殆んど人間の|感 傷性《センチメンタリズム》に基因するのみであるかも知れない。併しその避くベから ざる感傷を、誰が皮相として嘲り得るか、i誰がこの時期に 在る野村を、一個の意気地無しとして軽蔑し得るか。  自殺と決した野村は、手鞄の底からモルヒネの小さな罎を取 り出した。まさかに|懸《こ》んな役に立てようとは思わなかったが、 万一何かの用意にと取って置いたその麻酔剤は、.今こそ恐るべ き効果を挙げる時機が来たのである。灯にすかしてそれを見た 野村の眼には、もう涙は浮人でいなかった。只口の|辺《ほと》りk|痙 轡《ひきゆ》ったような微笑が刻まれていた。  野村はその麻酔薬の適量を知っていた。その適量さえ|嚥《の》んで 眠れば、獺ムった盤に永遠の眠りκ就く事が出来るのを知ってい た。彼は瓦秤を取出して、その適量をそれに満たした。  彼はそれを一旦口の処まで持って行ったが、さすがにそこで 一瞬躊購した。併しその時何ものか讐彼の心の中で、此場に及 んで何の未練ぞと叱った。彼は思い切ってぐっと一気にその薬 剤を嚥み乾した。|而《そ》して直ぐ床上に横たわって、胸の上に両手 を組み合せた。  こうして彼はじっと麻酔の来るのを待芝。が彼が強いて眼 を瞑った瞬間に、もう是れだけで死ぬのだと思うと、急に一斉 に過去の記憶が頭の中で旋転した。  ふと彼の脳裡には、慌しく映る生涯リフイルムの中で、幼い 時分の故郷の幻影がまざノ\と将んだ。まだ母が生きていた頃 である。母と彼とは故郷の家の南縁に坐っていた、母は何かの 紅い布を裁っていた。朗かな日影がその上に落ちて、母の顔や そこらが赤く|明《あか》らんでいた。凡ては光に満ちていた。汎ては |生命《いのち》に満ちていた。  何故そんな場面が彼に浮んだか、その連絡は解らなかった。 が、その永く忘れていた光景が、ばっと|彼《 ヤ  》の脳裡に展開した 時、彼は急にもう一度生き度いと思った。突如として生き度い と云う考えが、何処からともなく猛然と湧き立った。1それ は槍んの一瞬の間だった。■  生き度い1 その盲目的な生の衝動が、急に彼の胸に湧き 立った時、野村はもう吾を忘れて飛び起きた。  今の中に吐き出せばまだ生きられる! そう思うと彼は醜態 を忘れて、間の襖を開け九儘隣の茶の簡へ飛び込んだ。|而《そ》して |暗《やみ》の中で手探りに火鉢の傍の水差を取ると、急いでその中の水 を飲もうとした。が水は殆んど無かった。彼は益ぐ周章てた。 而して今度は婆やたちの寝床を跳び越えて、ー真っ直ぐに台所の 方へ突進した。彼はもう殆んど夢中だった。,  野村は一乏口辛うじて水道の水を飲んだ。而して自分の指を 喉に突き入れて、ぐわっと一度胃中の毒薬を吐き出した。がそ の次の瞬間には、意識を失って板敷へばったり倒れて了っ た。・  婆やたちも驚いて起き上った、        三八  ……野村はいつの問にか暗い道を一人とぼくと歩いてい た。何処まで行ってもその道は涯がないように見えた。けれど も彼は只その道をどんく歩いて行く外は無かった。  ……その時突然彼は遠い|背後《うしる》の方で、微かに自分の名を呼ぶ のを聞いた。はてなと思って立仔った。どうも自分の名を呼ん でいるに違いなかった。彼は兎に角返事をしようと思つた。. が、どうしても声が出なかった。背後では猶も頻りと呼んでい る。その声は黒川と婆やのとに似ていた。野村はどうかして答 え=ヶと思って、出ぬ声を振り絞って坤いた。iとその途端 に昏睡から眼が覚めた。  野村は眼を開いて、不思議そうに|四辺《あたり》を見廻した。意識が一 時|途断《とぎ》れたため、自分の今の地位が解らなかったのである。彼 は余りに近く顔を寄せている黒川と婆やとを、まだ夢の中の幻 影でゝもあるかと疑った。 「欝い野村、やっと気が附いたか。しっかりして呉れ。俺だ。 俺が解るか。」その黒川の口が動いた。 「あゝ眼を器|開《あ》きなすった。./どうぞしっかりなすって。.野 村さん、野村さん!」と側の婆やも云い続けた。  野村は初めて地位の自覚を起した。・記憶が蘇えった。自分は 自殺をしかけて、仕損ねたのだ。  何ものとも知らぬ生の力が湧いて、吾を忘れて自殺を中止し たのだ。そして一旦は昏睡したが、・それと知った婆やの急報に 接して、直ぐ駈けつけた友人の手厚い看護によって、再びこの 世に眼を開いたのだ。ーあゝ自分は死ねなかったのだ。そう 思うと野村は、吾にも非ず恥かしく感じた。 「どうだ野村。気分はいゝか。」黒川は猶も云った。 「有難う。心配を掛けて済まなかった。」 「済むも済まないも無いが、ほんとに心配したぜ。もう|急《こ》んな 危ない麻酔薬は|廃《よ》せよ。」 「もうやろうたってやれやしない。俺は自殺も出来ない程弱い 人間なんだ。」 「自殺を仕遂げる程強く無くって結構だった。が、自殺をする 以上に強くなれば猶結構だ。1兎に角生き返った以上、すっ かり生れ返った積りで、凡てを忘れて働くんだね。」 「忘れられるかどうだか知らぬが、生きているだけは生ぎてい るだろうよ。」 .「これでやっと安心した。なあ婆や、お前も随分吃驚したろう。」 「ほんとうにもう駄目かと存じましたわ。でも御正気附きな すった時は、今迄の心配を取り返す程嬉しゅうござんした。」 「済まなかったね。が、僕の生き返った事は、そんなに喜ぶベ き事ではないよ。」と野村は少し皮肉に酬いた。 「どうも皆死にたがって困るね。|昨夜《ゆうべ》は僕の妹も死にたいなん て云い出すし、僕に取って大凶日だったと見える。妹が又肋膜 を再発したらしく、急に熱が出て困ってるところへ、ー君が卒倒 したと云う知らせが来たんで、僕は一時どうしようかと思った よ。」 「それで秀子さんはどうした。」 「なに大した事はあるまいと思ったから、知らせに来たお咲さ んに居て貰って、僕はその値で直ぐ|此方《こつち》へ来たんだ。1併し 君が大丈夫となりゃあ僕は妹の方へ帰る。」 「僕の方は心配ないから、秀子さんをよく着病してやって呉れ 給え。昨夜は僕があの人を病気にしてやったようなものだから な。」 「そんな事はないよ。それよりか秀子は、君に自殺を薦めたよ うなものだと心配していたよ。」 「秀子さんの好意は僕によく解っている。早くよくなるよう にって、どうか宜しく云って呉れ給え。」 「あゝ、秀子も喜ぶだろう。それじゃもう大丈夫だから、今日 はこれで失敬するよ。婆やには何分宜しく頼んだ。直ぐお咲さ んを帰してよこすからね。どうか二人で元気をつ吐てやってお■ 呉れよ。」  黒川は辞し去った。野村はまだ起き上る事もならぬ胸を抱い て、じっと天井を見凝めて居た。ひとりでに熱い涙が目に溜っ た。        三九  死ぬべくして死に得ず、生くべくして生き得ぬ心弱き野村 は、自殺未遂後の身を物憂げに床上に横たえつゝ幾日かを過ご した。彼の意志は進みも退きもし得なかった。けれども身体は 婆やとお咲との手篤い介抱で、日に日に活力を増して行った。 幸いにして余病などを併発することなしに済んだ。只数日に亙 る精神上の激動が、彼を一種の神経衰弱に導いた。  野村は憂欝の|捕虜《とりこ》となった。沈黙に支配された-|而《モ》して恐ろ しく否定的に傾いた。  「どうせ生甲斐のないこの世ではあるが、死にも出来ないから .生ぎているのだ。」彼の心を占めている人生観は、この言葉に 尽されていた。  併し野村が薄暗い|室《へや》の中に閉じ罷って、物憂い心身を養って いる間に、花は瞬く間に散って、自然は新緑の衣を更えるベく 忙しかった。世は行楽に狂う春の|酷《さかり》を、恋の悩みに坤き過ごし 一て死ぬぺき力さえなく、憂欝の晩春を暮らした野村も、狭き 庭さえ明るくする新緑の木々を見ては、己れも破れ果てたる|恋 衣《こいごろも》を脱ぎ棄てゝ、輝く初夏の日の光を浴びて見度いと思う事も あった。  それには婆やの心尽しも力づけた。黒川の毎日の如き見舞も 元気づけた。お咲の親切も甲斐が在った。 -或日お咲は一鉢のサイネリヤを持って来て、野村の|室《へや》の窓際 ■に置いた。鵬を翻れる瀞4しい日の光が・鮮かにその白い花の 上に落ちた・野村は小半日じっとそれを見凝めていた。  そこへ婆やが入って来た。 「おや、大変お気に召したと見えますね。」 「うん、桜草よりはずっといゝ花だね。」野村は云い続けた。 「僕は今この花に似ている人を思い出そうとしているんだが、 誰だかどうも思い出せない。一体誰に似てるのだろう。」 「そうですね。「秀子さんではございませんか。」 「成程、そんなところかも知れないね。-時に秀子さんの病 気はどうなったろう。」 「大分お宜しいそうでございます。1併し黒川さんも容易 じゃありませんね。|彼方《あちら》を看病なすって此方を見舞いにおいで になるのは。」 「そうだね。|彼奴《あいつ》にもほんとに世話になった。今日ももう来る 時分だね。」  こう云っている間に、表の玄関ががらりと|開《   》く音がして、出 迎えたお咲と快活に二三言を交す黒川の声が聞えた。お咲の控 え目な笑い声もそれに混じった。  野村と婆やも笑顔を見交した。  そこへ黒川が元気よく入って来た。 「やあ、今日は。ー今日はどうだい。まだ新緑病は癒らない かい.。」 「うん。大分元気だ。髪でも剃ろうかと思っている。」 「そうか。そいづは大いにいゝね。実は今日は僕も君を此処か ら連れ出そうと思って勧誘に来たんだ。婆やさんのお世話にも なり過ぎたし、君も一処にじっとしていちゃ益ぐ悲観的になる 許りだから、一つ鎌倉へでも静養に出かけちゃどうだい。ー と云うと大変君の為めを思ったお為めごかしのようだが、実は 僕の方でも好都合なんだ。実は僕は妹の静養がてら向うヘ家を 借りょうと思ってね。あれの病気も此際転地させた方がいゝ し、僕も病院の方の都合がついたから、鎌倉から通勤しようと 云う予定なんだ。どうだい。君も暫らく元気の回復するまで、 鎌倉へ行かないかい。而して|会《たま》には僕の妹の話し相手になって やって呉れないかい。」 「そうだね。それもいゝね。」野村は心動いた。  婆やも|傍《そぱ》からロを出した。「それも気が変ってようござんす わ。暫らくそうなさいよ。私どもは淋しいけれど。1」 「なあに婆やの家へは僕が度々寄ってやるから、淋しくなんぞ は無いよ。僕もお咲君の円い顔を見るのが愉快だからな。」 「それで毎日僕を見舞に来るんだね。」 「馬鹿を云ヶな。lけれども鎌倉行はどうするね。行って呉 れるかい。」 「あゝ行こう。連れてって貰おう。」 「そうか。行って呉れるか。1秀子もきっと喜ぶだろう。」        四〇  野村はとうく黒川兄妹と共に、鎌倉へ静養に行く事となっ た。住む人の心の温かさには係わらず、暗きに過ぐる町裏の家 を出でて、湘南の明るい風物に接する事は、傷ついた二人の胸 を癒やすべく、此際何等かの効果をあらわすに相違なかった。 野村は婆やの手許を離れるのも辛いが、心身共に健康に立帰っ て、又会う時を更に楽しむため、一時の別れを惜み乍ら、いよ いよ今日の発つ日が来た。  日は朝の中少し曇っていたが、やがて晴れるべき空が予想さ れた。婆やは野村たちのために選んだ大安日を、猶も安かれと |道了様《どうりようさま》に祈った。  黒川兄妹とは東京駅で待合せる筈だった。それで野村はひと り、呼んで来た悼に打乗った。 「それじゃ婆や、僕はすっかり元気になって帰って来るから ね。お前もたっしゃでいてお呉れ。これからは伝染病が|流行《はや》る 時期になるから、猶の事気を附けとくれよ。」 「有難うございます。婆やもきっとお待ちして居りますから。 又もとの野村さんになってお帰り下さい。そうなって下さるの が、婆やには何よりも嬉しゅうございますからね。」 「お咲さん。君も気を附けてね。」 「はい。1」騎咲は前垂の端をそ?と眼に当てた。 「お咲さんも淋しいかい。」野村は淋しく微笑み乍ら訊いた。 「はい。1いゝえ。……」と曖昧に答えたお咲は、必ずしも 泣いているのではなかった。 「黒川も時々は寄るって云うから、そう淋しがっては不可ない よ。iじゃ左様なら。」. 「左様なら、御機嫌よう!」  偉は|慕《なつか》しい茗荷谷の家を離れた。野村は十四五間行き過ぎた 時、ふと後を振返って見た。婆やとお咲とはまだ入口に立って 見送っていた。何だか婆やの影がひどく薄いように見えた。野 村には突然、これが永久の別れではないかと云うような気がし た。彼は猶も身を捻じ向けて、負るように見返った。婆やの方 でもじっと見送っていた。とその途端に悼は横町に曲った。彼、 はもう一度婆やを見度いと思った。が、もう悼を返す訳にも行 かなかった。  婆やの方では、野村の悼が見えなくなっても、その儘動きも せずそっちを見送っていた。 「叔母さん。もう行って了ったわね、ーもう見えないんです もの、家へ入りましょうよ。」とお咲が促した。 「いゝよ、いゝんだよ。」と婆やはまだ動かなかった。|而《モ》して 涙を溜たその眼は、じっと野村の去った方に注がれていた。  その時反対の方向から、一台の幌を深めた悼が走って来た。 而して婆やたちの立っている|背後《うしる》でひたと止った。悼の中から は一人の美しい令嬢が|翻《こぼ》れるように下り立った。 「婆やさん!」その令嬢は晴々しい声で呼びかけた。  婆やは吃驚して振り向いた。「おやまあ秋山の騎嬢さん、お |妹御《いもうとご》さんでしたね。ーどうして此処へ2」と婆やの声は、 野村を苦しめた人の肉親と知って自ら尖った。 「わたし輝子よ。1して野村さんはお宅にいらしって。」 「野村さんは今発ちました。」 「えっ、どちらへお発ちになりましたの。」 「鎌倉へ御養生においでになりました。余りお悲しみなすっ て、少しお|身体《からだ》を損ねたものですからね。」 「それは残念でございますわ。わたし野村さんに是非お話がご ざいましたのよ。是非一度お目にかゝり度いと思つて、よう よう此処だと聞きましたから、今日はお稽古の行きに、家へは 匿して寄ったんですけれど、行違いになってほんと忙口惜しゅ うございますわ。,ーねぇ婆やさん。それじゃ貴方だけでも聞 いて頂戴。野村さんはどんな事があっても私の兄さんよ。何処 へ行っても兄さんだと思っていますわ。」 「有難うございます欝嬢様。私からもほんとにお礼申します わ。」話を聞いている|中《うち》に、婆やは思わず感激した。 「わたしこれだけ申し上げればいゝのよ。-ーじゃ御免なさ い。」  輝子はもうひらりと車上の人となった。        四一 黒川兄妹はもう東京停車場へ来ていた。野村は秀子と会うの も久振りだった。秀子は痩せて心もち眼が大きくなっていた。 その潤いを帯びた深い眼が、澄んだ気高い|顔容《かおかたち》を、淋しい乍 らに美しく見せた。彼女は待合室に野村が入って来るのを見 ると、蒼白い頬に僅かな血を上せて、微笑み乍ら|椅子《ベンチ》を立っ た。 「|久潤《しぱらく》でございました。今日はまた一緒に行って下さるんで すって、ほんとに私有難う存じますわ。」 「いゝえ。僕こそ、1でもよくお癒りなすって、結構でした ね。」 「え、一、お蔭さまで……」と云う彼女の顔は、癒えたのを喜ぶ にしては余りに淋しかった。 「何しろ二人とももっと元気になって呉れなくちゃ、附いてい る僕が第一困るからね。」黒川が傍から云った。 「僕もきっと元気になるよ。」 「わたしもきっと癒ってよ。」  野村と秀子とは同時にそう云って、強いて黒川に微笑んで見 せた。  やがて時刻が近づいたので、三人は汽車に乗り込んだ。三人 は二等室の片隅に黙って坐っていた。黙っていても三入の胸の 中には、語るにまさる温情が流れていた。野村は病後の女ら しさを増した秀子の側で、静かなる喜びの胸奥に萌すのを覚え た。  発車間際になって、一人の漁酒たる若い紳士が、葉巻をわざ と横に|卿《くわ》えて乗り込んで来た。|而《モ》してふと甘い沈黙に浸ってい る野村を認めた。 「やあ、野村君じゃないか。」  野村も顔を見上げた。「やあ、森戸子爵でしたか。」 「|久潤《しばらく》、実に珍らしい処で会ったね。」 「|真実《ほんとう》ですね。貴方がた兄妹とは、よく汽車の中でお月にかゝ りますね。一体どう云う因縁なんでしょう。」 「さあ、どう云う因縁か知らないけれど、下手た小説家がよく 使いそうな濯遁だね一小説だと是から筋がどうとか発展して行 くんだが、僕たちはそううまく行くまいて。1時に君は何処 までご ーこσ友人の兄妹乏】緒北、しばらく鎌倉へ行こうと思ってい ます。」 「そうですか、僕も家が面負くたいから鎌倉へ行くんだが、 愈ぐ小説的になって来るね。この間に絡む一人の美しい女性が 在ったりしてね。」  野村が急にむずかしい顔をして黙った。-汽車はその間に 出発した。  子爵もふと真面目に返って、声を落して訊ねた。 「失敬な事を聞くようだが、そこの人が君の|許婚《フイアンセ 》ではないの ですか。」 「いゝえ。違います。友人の妹ですよ。1あの周樋は悉く駄 月になりました。だからそんな事はもう云わないで下さい。」 「そうですか。それはお気の毒ですね。だが僕の|心情《ノ  》は君に気 の毒だと思っても、何らかの幻滅を味わった事は君のために喜 び度いね。僕は|他人《ひと》の苦痛を見て喜ぶ程悟ってはいないが、他 人の幻滅の悲哀を見て喜ぶ程には人が悪くなっているよ。僕に は君もやっと一人前になりかけたような気がする。寧ろ賀すべ き事だと思いますね。」 「どうですかねえ。」 「いや、今にそうなります。そうならな《ても、そうしなく ちゃ不可ない。僕も先輩めいた事を云うようだが、その点では 確かに先輩だ。1猶詳しい話は鎌倉でしましょう。君も沈み 込むのはよし給え。失恋で沈み込むのは今時|流行《はやら》ないよ。」 「有難う。1だが貴方は少し僕に取って辛錬過ぎますね。」 「僕のような人間は、苦労すればする程こうなるのさ。要する に人生は猿芝居のように見えて不可ない。」 「僕もそこ迄悟れるといゝんだが。」 「いや、悟ったって初まりもしないさ。」子爵は窓から葉巻を 放って、吐き出すように云った。. 一汽車は四人を載せて鎌倉に着いた。        四二  鎌倉に於ける新しい生活は初まつた。家は海岸通の片隅に 在った。場所はそうよくはないが、小さい乍らに別荘風な一 と構で、束京のごみくした借家から見ると、さすがに漁酒 たるものがあった。一番端の間に野村は居た。真ん中に黒川の 室があった。而してその隣が秀子の居間と定まっていた。食卓 は大抵黒川の室に運ばれた。炊事は雇った女中がして呉れた が、秀子も何かと世話をして、それを楽しい食卓に持え上げ 九。電燈もその上には明るく微笑んだ。野村の頬にも秀子の頬 にも、快活な黒川の頬と同じく喜色の漂う日が続いた。  寝る時は三人別れくに室へ引取った。が時とすると黒川の 発議で、比較的広い黒川の間へ、床を並べて寝物語りをする事 たぞもあった。黒川を中央にした野村と秀子は、いつも早く安 らかに寝入って了う黒州の蒲団の向うに、お互いの淋しい|嘆息《ためいき》 を聞き合う事なぞも在った。  森戸子爵も一二度訪ねて来た。子爵の虚無的な皮肉な態度 は、一時一本気な黒川の反感を買ったが、それも話をしている 中に打融けた・.子爵㌔もとより温かい心の所有者であった。け れども、|動《 やと》ともすればその心を寒うする世間の事象を知って以 来、凡て賢明なる貴公子が取る如く、温かき心をも吾から冷た く見せて、自己を護る態度に出たのである。i賢明なる貴族 はそれだけで既に不幸である。単純な黒川も瀧気にそれを解す る事が出来た。而してその日から子爵は等しく野村と黒川の友 だった。  黒川は或る時子爵にこんな冗談を云った。 「貴方は吾々の友人になっていて下さるんですが、いざとなれ ば貴方も、吾々の恋人を奪い去る位の事は敢てしますか。」 「さあ。」と云って子爵はちらと座にいた秀子を顧み、それか ら野村を見やって、「それは解りませんね。■僕も悟り澄してい るようですが、.|会《たま》には昔のよヶな勇者に帰って、他人と恋愛の 競争位やってもようござんすからね。僕だって見て胸が|清《すぁ》しく なるような人なら、^無条件に惚れる勇気がありますよ。i若 し危険だとお思いなら、絶交するのも今の|中《うち》にして下さい。」 と云った。 「僕の方で避けるから大丈夫です。」と野村も冗談に云った。 「避けようたって避けられなかったら。」 「そうなったら仕方がない。又一と戦争|遣《や》りますさ。」 「そうだ。君にはその勇気が肝心なんだ。恋愛は一度で懲りた ら駄目です。君も今の言葉を忘れないで、いつでも僕位を相手に 戦う覚悟が必要だね。jほんとに愚図々々していると、御本人 の前だが秀子さんも僕が奪い取って了うよ。」と子爵は笑った。 「冗談云っちゃ不可ません。そんな事なら絶交々々。」と野村 も笑って云った。  秀子はさっと赤い顔をして野村を盗み見た。 「いや、全く僕は兄さんもいる前で宣言する。僕は敢て野村君 を相手に、秀子さん争奪戦を開始するよ。この次から交戦状態 に入るから、君もその積りで防禦の準備を整え給え。」 「なあに秀子さんたら大丈夫。防禦の準備を整える迄もなく" 僕の方が金城鉄壁ですよ。ねぇ秀子さん。」と野村も調子に 乗って冗談を続けた。  秀子は笑って答えなかった。 「秀子なら大丈夫だ。どうも野村の勝利らしいね。」黒川さえ 笑い乍ら加勢した。 ー「これは形勢頗る非だね。それなら一と先ず退却するとしよう か。」  こんな事を笑い乍ら云って子爵は帰った。後に残った皆は猶 も笑み続けた。がその時の冗談から何となく妙な気分が、野村 と秀子との間に醸された。        四三  その翌日、子爵はわざく赤い花束を秀子に宛てゝ送って来 た。車夫が|恭《ラやく》しくそれを齋した時、秀子はどう処置していゝ かに迷った。まさか捨て去ることも出来なかった。が、喜んで 花瓶に播して置く事は猶更出来なかった。仕方がないから彼女 は、それを玄関に置き放しにして置いた。■宙に迷うた花束こそ いゝ迷惑であった。  黒川はもう東京へ出た留守だった。野村がそれを聞いて知っ た。|而《そ》して彼は、自分の部屋から出て来て、その花束をわざと 秀子の机上の花立に播そうとした。ー 「何をなさるの。」秀子は野村の所為を見て云った。 「僕が括して上げるんです。いゝでしょう。関わないでしょ う。」  秀子は鳥渡真剣な顔をした。がわざと笑って、「そうです ね。■貴方が描して下さるなら。」と云った。 「ほんとに僕が括して上げるのに異存はないでしょう。」野村 も追求した。 「えゝ貴方の齢花だと思って宜しければー」 「けれども是は僕の花ではありませんよ。」 「それなら翁|廃《よ》しなさい。」 「何故です。」 「何故でもいゝからおよしなさい。」 「でも僕はこの花を、無理にでも播そうと思っているんです。 その方が貴方の幸福ですからね。」 「そうお思いになって。」 「そう思いますとも。」 「ほんとにそうお思いなら、どうぞ貴方のお好きなように。」  こう云って秀子はつと座を立って了った。思い余ったように 彼女ば、.海岸の方へでも行ったのであろう。  野村は秀子の真意に迷うた。けれども強いて花束をそこに括 して、甘んじて子爵のために、秀子を譲ろうと心に決めた。秀 子と自分とは幸いに、今迄何の関係めいた事もなかった。譲る となれば淋しいけれど、一つは秀子の幸福のため、一つは冗談 の中に灰いている子爵の思いを進んで満たすために、自分の 感ずる淋しさの如きは、何時でも犠牲に供すべきだと考えた。一  彼はその盤すぐ子爵の別荘を訪れた-而して子爵の真意を確 かめ、その上に適当な処置を取ってやろうと思ったのである。 彼は淋しい満足を感じた。けれどもその強いて求あた満足の底 に、自ら秀子に対する自己の恋愛が、潜在しているのを少しも 彼は気附かなかった。  子爵は材木座の別荘にいた。野村がそのひっそりした玄関に 立って、一二度「御免なさい。」と訪れた時、暫らく誰も出て 来る様子は無かった。彼はその盤帰ろうかと思った。蚊で子爵 が留守だったら、それだ牡秀子を自分の許から失う時期が延び るようにも考えられた。もう一度呼んで誰も居なかったら、天 がこう秀子の運命を決するのを欲しないものと見て、立去って 了騎うと思った。 「御免なさい。森戸子爵はおいでゝすか。」野村は幾らか高声 に呼んだ。  彼はふと子爵が居ないで呉れゝばいゝと思った。居ないで呉 れゝば未だ秀子は誰のものでもない。  甘れども今度はその反響が在った。奥から人の出て来る気配 がして、子爵自身がそこへ現われた。 「やあ、君か。誰か来たようだと思ったが、別荘番が|聾婆《つんぽぱと》だも のだからつい失敬して了った。さあどうか上り給え。」 「では暫らく躰邪魔をさせて下さい。少々お話申し度い事があ りますので。」 ー野村の顔は鳥渡迫ったような色を帯びた。子爵はそれを見る とひそかに|点頭《うなず》いて、 「そうですか。まあ上り給え。誰も遠慮するような者は外に居 ないから。」と野村を招じ上げた。        四四  奥まった座敷へ通って、野村は改めて子爵と対座した。野村 の態度には何となくギゴチない改まったところが見えた。それ を見ると子爵の方でも思わず固くなって聞いた。 「お話と云うのは何ですか。」  野村は思い切って本題に入った。 「実は秀子さんの事です。ー突然ですがあの人を貴方に貰っ て頂けましょうか。否、頂けましょうかでは無い。是非貰って 頂き度いのです。そうなれば貴方も御幸福だし、何よりも当人 の幸福です。僕は喜んで貴方がたの幸福を祈ります。甚だお せっかいな話ですが、僕はそれを云いにわざく今日は来たの です。」  子爵の顔には|鳥渡《ちよつと》した微笑が浮んだ。「成程、今朝の花束の 反応が直ぐ現われましたね。1でも君が来たのは秀子さん自 身の意志なのですかね。」 「そうと云うのではありませんけれど、ー」 「そんなら君の意志なのですね。」 「まあそうです。が又秀子さんだって、1」 「待ち給え。もう解りました。ー僕は君がこう来るのを待っ ていたんだ。」 「では秀子さんを貰って下さるんですね。」 「野村君、慌てゝは不可ない。僕が待っていたのは、こう来る のを待っていて逆に説法してやろうと思って待っていたんだ。 まあ落着いて僕の云う事を聞き給え。」 「どう云う事ですか。」野村は却って子爵の逆襲を受けて了っ た。 「野村君。君はもう秀子さんを問違いなく愛しているね。.その 殊勝らしい恋譲りの心懸けがその証拠だ。人は妙に自分の恋人 を、先ず最初は友達に押し付けたがるものだよ。君のは正にそ. れだ。愈ぐ君の恋は|真物《ほんもの》に近づいたのだ。君は何もそれを慣っ たり、恥かしがったりする必要は無い。恋は一度きりしか出来 ぬものではないからだ。況んや君が澄子さんを失った後、秀子 さんに赴くのは当然の話だ。当然過ぎる位自然な経路だ。寧ろ そうならないのこそ不自然だ。」  野村は子爵の言葉の意外なのに、暫し驚いて黙聴せざるを得 なかった。  子爵は云い続けた。「野村君。こうたっては僕もすっかり云 うがね。僕は決して秀子さんに恋してはいないんだ。僕には三 年前に別れて、行方不明になった恋人がある。僕は外の事では こう迄荒んで了ったが、自だその女の事だけは忘れられない。 だから何を好んで秀子さんに恋する必要があろう。僕が|荷且《かりそめ》の 冗談にもせよ、秀子さんに意があると見せたのはあ、れは手 だ。君たちの恋を醸し出す為めの手だ。君たち二人の様子を見 ると、楽しい温かい|炉火《ろゆ》があるのに、|火傷《やけど》を恐れて近づかない ような歯痒さを覚えてならない。君たちは一度の失敗で臆病に なり過ぎ、自分たちの恋に気附かないか、又は気附いても強い て操み消そうとしている。それは甚だ不可ない。君たちの傷を 癒やす幸福は、それを措いて外にないのだ。だから僕は少し悪 戯過ぎると思ったが、鳥渡恋敵のワキ役を演じて、本筋の進行 を助けたのだ。まさか素直な君たちの事だから、いざとなって ぶち撒けても、僕の|技巧的《アパテイフィシアル》な遣り目に反感を抱いて、わざと 破棄するなんて事はあるまいと思ってね。1どうだね。思い 当る節は無いかね。1まあ僕に恋を譲る前に、何よりも先ず 君自身の幸福を計画し給え。秀子さんは僕に惚れてはいない が、公平に見て稀な清麗な女性だ。仮令どんな事情があろう と、君はあの人と愛し合う事が必要だよ。この際君も秀子さん も、旧い破れた|衣物《きもの》を脱ぎ棄てゝ、一刻も早く新しい衣更えを する必要があるんだ。ー僕は君がこう出て来るのを待って、 改めて君に忠告する。君こそ秀子さんを貰い給え。」 「だってそれは、-」 「だってそれはではない。が、まだ脇に落ちないなら、もう一 度考え直し給え。」 「では考え直してみましょうかな。」  野村はこうして説服され乍ら、急に恥かレいように感じた。 がその底には、むず痒いような嬉しさも在った。       四五  子爵に却って説き|服《ふ》せられてへその別荘を辞し去った野村 は、猶も恥かしいような嬉しさを抱いて、あてもなく海岸の方 へ歩みを向けた。彼は砂丘の間を通ずる小路を辿り乍ら、胸の 中でこう云う自問自答を繰返した。 「子爵の云う通り、ほんとに僕は秀子さんを愛しているのだろ うかご 「そうだ。少くとも愛していないとは云えない。」 「ではあの人と結婚するのが幸福だろうか。」 「そうだ。少くとも幸福でたいとは云えない。」  併しこの確実なる最小限度の愛と最小限度の幸福だけでも、〜 立派な人生を築くべき基礎たるに十分である。そうだ。之だけ でも秀子さんと結婚するに十分だ。ー野村は其処に考え到っ た時、清く淋しく美しい秀子の顔を改めて慕わしいものに思い 返した。彼は涙ぐましい程その静かな情懐に浸って、砂丘の裏 の人目をさえぎるぺき方へ廻って行った-其処には別荘の庭つ づきの松が、静かな蔭を作っていた。そして人が静思するのに 適していた。  併し野村が其処まで来た時、彼は思い掛けなくも一人の若い 女が、松の根方に腰を下して、じっと物思いに沈んでいるのを 発見した。彼の胸は|漫《そぞ》ろに躍った。 「秀子さん!」彼は思わず呼びかけたω 「あら!」秀子も吃驚して顔を灰に報め乍ら立上った。. 「どうしてこんな処にいらっしゃるのです。」・ 「先刻から此処にいたのよ。だって貴方が|余《あん》まり何か仰しゃる のですもの。」 「それで逃ぼて来たのですか。ーで今迄何をしていらしった のです。」 ,「考え事をしていたの。」 「何の考え事を。」 「わたし……知らないわ。」秀子の声は低かった。|而《そ》して「貴 方こそどうして此処へいらしったの。」と反問した。 「僕ですか。僕は森戸さんの家へ貴方の相談に行った帰りで す。思い余る事が在ったんで、此処で考えようかと思って来た んです。」 「あら、ほんとに森戸さんへいらしったの。厭な方ね。わたし 知らなくってよ。」 「えゝ本気でいったのです。ところが却って説服されて了いま 」た。」 「森戸さんは何と仰しゃって?」 「森戸子爵は却って、僕たちに結婚しろと云うのです。僕と貴 方とが愛し合わなくちゃならないと云うのです。」  秀子の頬には薄い血が輝いた。けれども声は低かった。 「まあ、そんな事仰しゃって。-ですけれどもそれは出来ま せんわね。」 「何故です。」野村はそっと近寄つて秀子のうつむいた顔をち らと覗いた。 ,「だって貴方にはお気の毒ですもの。」 「そんな事ですか。それなら僕の方こそ却って貴方にお気の毒 です。僕こそ愛の世界から弾き出された、誰も拾い手のない余 り物なのです。」 「いゝえ、私こそそうですわ。」 -「秀子さん。貴方の事情は僕はよく知らたいが、若し貴方の言 が|真実《ほんとう》だとすれば、僕ら二人は下世話に云う『振られた』同志 なんですね。而して愛と幸福の圏内から振り飛ばされて、自然 とその外で、一緒になるように運命づけられているのです。二 人は淋しい、併しその淋しさを共にしている所で、慰め合い愛 し合う事が出来ます。二人はその淋しさを土台にして、秋のよ うに静かな愛を持とうじゃありませんか。我々にはもう花の春 は過ぎました。二人はせめて薄く染まった紅葉のような幸福だ けを持とうじゃありませんか。」 ■秀子のじっと見上げた眼は光りを帯びた。そして、又顔を伏 せて云った。「それなら私にも出来ますわ。」 「では、私と結婚して下さいますね。」「えゝ、お差支さえ無け れば。」 「有難う。では早速兄さんに相談して見ます。これでやっと二 人は救われましたね。」  かくして二人は、何とも知らず迫って来る胸を抑えて、暫し 言葉なく泣いた。        四六  その夜野村は黒川の帰るのを待って、自分の|室《へや》へ連れ込ん だ。一と間|置《お》いて隣の室では、秀子が心配なような嬉しいよう な、又礫ったいような妙な心持で、聖書を開いたり閉じたりし ていた。彼女は今日こそ初めて、聖書が落着いて読めなかっ た。それを彼女は何となく済まぬように思った。 「けれども神さまどうぞお許し下さい。私共が辛うじて得た貧 しい幸福なのですから。1ー」と彼女は胸の中で祈りを擁げ た。  野村の室では談話が始まった・ 「さて甚だ突然な話だが、秀子さんを僕に呉れる訳には行くま いか。」  黒川は鳥渡驚いて野村の顔をじっと見たが、檀ぐ紅、 「貰って呉れるか。」と問い返した。 「是非呉れ。」 「うむ。やろう。ー当人の心持は知らないが、僕に異存はな い。」 「実はもう当人の心持も聞いてみた。秀子さんも承知して呉れ た。」 「さてはこの兄貴を出し抜いたな。怪しからんじゃないか。」 黒川は冗談に詰った。 「そう云われると誠に済まない。が妙なハズミでとうくそん な事になって了ったんだ。何も君の目を忍んで語らった訳じゃ ない、僕らのはそんな浮わついた恋τやないんだ。二人の同情 が知らずくこうなった|丈《だけ》なんだ。淋しい、涙が出るように淋 しい話なんだ。けれどもそれが僕たちに許された唯一の幸福な んだからね。僕たちは二人で、せめてその『片隅の幸福』をな りと、共にしようと云うだけなんだ。そう思ってどうか許して 呉れ。」 「それは解っている。|而《そ》して僕はもとから、そうなって呉れゝ ば妹も幸福だと思っていた。と云うと何だか、僕が深い計画を 持って、君を妹と結びつけたように見えるかも知れんが、僕に それ程の遠謀はないんだよ。そこだけは君も解っていて呉れる だろう。そしてまさかに君は僕たちの、|陥穿《おとしあな》に懸ったとなんぞ 思って呉れないだろうな。」 「そんな事なんぞ思うものか。こうなって行くのが僕の運命 だったんだ。而して淋しいようでもこの推移が、僕に取ってほ んとの幸福だったんだ。」 「併し僕にはまだ、君の真の幸福が他にあるような気がしてな らたい。1秀子は身体が弱いからね。」 「充から猶の事僕は可哀そうに思ってもいるんだ。」 「曳4.ω餌けε8一〇さ.漱石先生の訳に従えば、可哀そうだ は惚れたって事よ、だね。」 「秀子さんの心持も恐らくそれを出まい。」 「可哀そうな|一対《アィンバァル》だね。1で、僕たちが承知するとなる と、いつ結婚する気だね。」 「僕が是で元気を回復して、何か一と仕事するのを機会に、新 生活に入って見たい。それに秀子さんも身体がまだ悪いんだか ち、結婚は少くとも半年位待って呉れ。」 「よかろう。その方が僕、都合がいゝ。今直ぐ秀子を取られる と、忽ち僕が路頭に迷うからな。」 「秀子さんなら半年位待って貰っても大丈夫だろう。」 「大丈夫とも。死な八い限りは変りっこない。」 「そうと定まったら今度は君の番だ。」 「俺か。俺は必要に迫られない|中《うち》は貰わない。」 「だが秀子さんがいなくなれば、直ぐ必要に迫られるぜ。l だから今の中から考えて置く必要がある。僕がきっといゝ人を 見附けるよ。」 「秀子の交換条件か。余り有難くはないね。-併し心当りで もあるのかい。」 「そうさな。i君は一つ奮発して、婆やの処のお咲君を貰っ てやらないかい。あいつは好い娘だよ。うちば悪いけれどほん とに心のいゝ娘だよ。」 「お咲君か。鷹欝に憂い少しと云うところだね、あいつなら秀 子と取換えてもいゝが、1併しまだく問題は早い。だから そんな事は兎も角として、今夜は僕も君たちの為めに祝盃を挙 げよう。おい秀子! 秀子!」と黒川は大声に呼んだ。  併し秀子はなかく出て来なかった。        四七 「おい秀子、秀子!」と黒川は猶も呼び続けた。 ■「はい。1」と微かな返辞は向うの室から聞えたが、秀子は まだ出て来なかった。 「早く尉いでよ。非常にお目出度い話を聞かして上げるから さ。-おい。何だい。恥かしがるほどの仲でも無いじゃない か。」  それでも秀子の返辞は無かった。そこ、哩州川鷺間の襖を開 け、一つ自分の室を通って、更に秀子の居間に入って行った4- 「何しているんだ。呼ぶのにどうして来ないんだ。」 「あら兄さんご秀子は机の上に顔を伏せて了った。 「おや、泣いてたんだね。何だって泣いたりするんだ。鳥渡顔 をお見せ。」こう云って黒川は、わざと秀子の顔を上げさせ た。その顔は涙の中で微笑んでいた。 「何だ。今度は笑ってるのか。馬鹿な奴だな。泣き笑いなんぞ する奴があるものか。iおい野村、鳥渡来て見て呉れ。大き な|嬰児《ねんねぇ》が泣き笑いをしているから。これも貴様の責任だぞ。」 「厭よ、兄さん。」秀子は|禁《と》めた。  けれども野村も入って来た。而して先ず顔を伏せた秀子を 見、それからその兄を見凝めた。三人の間に云い知れぬ感動が あった。黒川の捷もいつの間にか光っていた。 「何だ。そう云う君こそ泣き笑いをしているじゃないか。」野 村もこう云って涙をこぼした。 「何だ。君こそ!」黒川も云い返した。そして拳で涙を押し拭 いながら更に声高く笑った。■  秀子も顔を上げた。そして感情の遣り場がないように、「兄 さん!」と叫んで兄に|舞《ひし》と槌り付いた。  黒州は自分の胸に顔を埋めて、よゝと泣き縫る妹を、子供の ように愛撫し乍ら、「よしノ\。もういゝよ。泣くな、泣くた。 何も泣く事はないじゃないか。」と宥め続けた。  野村は立った儘、同じく涙と笑いの中に、只見ている外はな かった。けれども彼はそれで満足した。  この三人の感激した|場景《シ ン》が、無言の中にものゝ一二分も過ぎ たであろう。その時玄関で誰かの「御免、御免。」と云う声が 聞えた。三人は慌てゝ笑い泣きの涙を押し拭った。 「森戸子爵らしいぜ。」こう云って黒川は大声に答えた。「森戸 さんですか。どうぞお入り下さい。」  子爵は入って来た。|而《そ》して何となく変ったその場の様子を見■ て取った。 「どうしたんです。一体。」子爵は微笑を含んで、各ぐの赤く なった瞼を見やった。 「今非常に愉快過ぎる事があって、皆が鳥渡泣いたんです。」 黒川が率直に答えた。 「あゝ成程、そうですか。ではいよノ\そうなったのですね。 |而《そ》して改めて皆さんにお目出度うを云ってもいゝのですね。先 ず第一に野村君と秀子さん、それからその兄君たる黒川君、森 戸|公彦《ぎみひこ》心からお祝い申します。」 「有難うございます。」三人は頭を下げた。 「さあどうぞ遠慮なく泣いて下さい、僕のように涙の枯渇した 男は、せめて人が泣くのを見て、人間らしい心持になり度いの です。況んや喜ぴの涙なら猶更です。どうぞ泣いてノ\く 祝って下さい。そうして満天下が野村君と秀子さんの為めに、 泣いてお祝いを云って下さるように! 君たちの幸福は同情の 涙を以て祝わるべき種類のものだから。」 「森戸さん!」今度は野村が子爵の手を舞と掴んだ。 ■「宜しい、宜しい。」子爵も強くその手を握り返した。此処に も感動が続いた。  その時また玄閥の方で「電報! 電報!」と呼ぶ声が聞え た。  涙を抑え得た秀子が急いで出て行った。そしてそれを受取っ て来ると、 「野村さん、貴方にお電報よ。何事なんでしょう。」と云って 差し出した。 四八  野村は急いで電報を読み下した。 「オバピヨウキスグキテクダサイサキ、ー叔母病気直ぐ来て 下さい、咲。1と、婆やが病気だと云うんだ。急に何病に 罹ったんだろう。」 「えっ、婆やが病気だって。」黒川も眉をひそめた。「生憎僕は |一昨日《 とムい》寄ったぎりで、用が沢山あった為めに無沙汰していた が、その問に急に悪くなったと見えるなご 「一昨日は何とも無かったのかい。」 「うむ。只何となく頭が重いと云っていた。するとその頃から 何かに罹っていたんだね。」 「小石川には発疹チブスが|流行《はや》ってるから、ひまっとするとあ れじゃなかろうか。」野村は心から不安になって来た。 「そうだね。そうかも知れんね。」 「そうだとすると大変だね、僕は直ぐ行ってやらなきゃなるま い。」 「何れにもせよ行ってやれよ、齢咲さんも心細いだろうから。」 黒川は一も二もなく薦めた。 「それは、直ぐ行って上げた方がようございますわ。あんなに お世話になった婆やさんですもの。」秀子も今迄の喜びを忘れ てそう薦めた。 「そうだねえ。婆やは僕に取って母親同様なんだから、万一の 事でもあると大変だねえ。それじゃ直ぐ行くとしよう。// だが今日はどうした日なんだろう。この喜びの真っ最中に、こ の悲しみが舞い込んで来るなんて。」 「それが人生と云うものなんです。」喜一憂。一欄去ってまた 一欄とでも云うのでしょう。-1何しろお気の毒です。併し君 は直ぐ行って見るより外に仕方が無いでしょうね。」傍にじっ と様子を聞いていた子爵も、静かな声音でこう云った。 「兎にも角にも棄てゝは置けない。■では僕は早速参ります。」 ,こう云って野村は身支度にかへった。時間を見るとまだ七時 半の上りに間に合った。それならば九時前後に東京ヘ着くか ら、一一刻も早くと云うので、野村はそこくに家を出ることに なりた。あとの黒川兄妹も子爵も、停車場まで見送って行く事 乏たった。.  一同は道々そう多く口もきかずに停車場まで来た時、発車ま でには五分ほどLか無かつた。皆は急いで切符と入場券な置っ て|歩廊《プラツトホヨム》へ出た。  丁度上りと下りの汽車が鎌倉モ擦れ違う筈になっていた。そ の四人が|歩《プラツト》 |廊《ホ ム》に出かけた時、下りの方の列車が先ず着いた。 |而《そ》してその乗客がぞろくと段を下りて来た。何気なく|其方《そつち》を 一瞥した子爵は、突然何者かを認めて五六歩そっちへ進み出 たρ 「|淑子《よしこ》! 淑子じゃないか。」 「あらお兄さま!」淑やか乍ら驚いた声音が人の間から|翻《こぼ》れ て、器附きの女中を連れて、一際麗わしい人がつと|其《  》処へ現わ れ出た。 「今時分何の用で来たんだ。」 ,「だって何だか来たかったのですもの。」 「そうか。女には理窟が無いからね。」 「来て悪かったの。」 「いや、そんなことはない。lだが、今、.兄さんは友達が東 京へ急用で帰るのを、送りに来ているんだから、お前と話をし ている訳にも行かない。直ぐ行くから出て待って茄いで。」 「お友達ってどなたごと彼女はそっと向うを見廻した。 「野村って云う人だ。」 「あらそう、いつかお兄さまt御一緒に御帰朝なさった方ね。私 知つていますわ。」七う云って何故か淑子はサつと顔を赤めた。 「そうか。よく覚えていたね、じゃ今一緒に見送りをしよう。」  こう云って子爵は妹を三人の処へ連れて来た。「今丁度下り で妹が来てね。野村君の見送りが又一人殖えた。」  淑子と野村とは無言で丁寧な礼をし合った。野村はこの人に 会う毎に、何だか云い度い事があって、しかも云えない時のよ うな心持を感ずるのが常であった。恐らくはその|悌《おもかげ》が忘るべ き人に似ているからであろうか。1  子爵は更に黒川兄妹にも簡単に紹介した。淑子は潜在的な嫉 妬に似たもので、ちらと秀子と野村とを見比べた。がそれも一 瞬、あとは吾から平常の淑やかさに帰って、彼女は一番|背後《うしろ》に 立っていた。  その間に上りの汽車も来た。而してそれは心々の|別辞《わかれ》を後 に、この喜びの鎌倉から、悲しみの東京へと野村を運び去った。        四九 野村を見送って了った二組の兄妹は、停車場の前で各ぐ左右 に別れた 「どうぞ是からは時凌お遊びにおいで下すって。」 「有難うございます。-是非伺いますわ。」  秀子と淑子とも女同士の会釈をし合った。二人は殆んど無意 識の敵意と、それにも係わらずもっと親しげな友愛とを、同時 に各ぐから感じた。それは恐らく多少なりと野村を愛している ところから、或意味に於ける競争者ともなり、又一致点を見せ るせいであろう。  秀子も内心・、「勤敵が現われた。」と感じたに違いない。淑子 とても微かに「こんな人が附いていては。」と思ったに違い無 かった。 !帰途で秀子は婆やの容態なぞを気づかった後、こんな事を兄 に話しかけた。 ■「森戸さんのお妹さんってほんとに縞麗な方ね。」 「うむ、別籟だね。尤㌔大分着物のせいもあるだろう。お前 だってあの位手のかゝつた着物を着れば、まああれに稽や近い 位の美人には見えるよ。」ハ 「そんな事はないわ。私なんぞ、一」 「いや、あの人と爵前とは美の種類が違うだけさ。程度は同じ 位なものだ。それは兄さんが保証する。」 「兄さんの美人に関する保証なんて、一番あてにならないわ。」 「そうでもないよ。是で美貌に関しては、なかノヘ専門的の研 究を積んでるんだぜ。僕は先ず美人を四種類に大別する。一は 清麗、二は端麗、三は豊麗、四は艶麗。その一の代表者がお前 だ。二の代表者が|淑子《よしこ》さんだ。三の代表者が秋山の妹令嬢の輝 子さんだ。四の代表者はまだお前たちが知らないが、兄さんの よく行く|瑚腓店《カツフエコ》の給仕女にお駒と云うのがある。」 「では澄子さんは。」 「あれは|駄麗《だれい》と云うんだ。あんな女は美人ヘ入らん。」 「では兄さんのお好きなお咲さんは。」 「うむ。|彼奴《あいつ》か。あいつはその四種の中じゃない。あゝ云うの を可憐と云うんだ。」 「その中どれが一番お好き。」, 「そうさな。矢っ張り可憐かな。アバ…。」と黒川は洪笑 した。 「淑子さんの様な美人はお嫌い。」 「そうだね。好きではないね。」 「野村さんはあゝ云う人が好きではないでしょうか。」 「さあ(どうだか聞いて御覧。野村も今は多分清麗な誰かさん に|逆上《のぽ》せてると思うがね。」 「厭な兄さん。十だけどほんとに好きじゃないでしょうか。」 「なぜ(そう気にするんだいご 「好きなら私譲ってあげてむいゝと思って。私ならまだ独身で 通せますもの。」■ 「馬鹿? ,お前は少し神経が冗奮してるね。ぞんな話ならもう およしご  そこで秀子もその話をやめて了った。  一方森戸兄妹の方でも亦こんな話をしていた。 「黒川さんの妹さんて縞麗な方ね。」 「うむ淋しいけれど美人だね。白粉っ気ぬきであの位いゝ人㌔ 珍らしい。少<ともお前位は美しいよ。」 「あら私なんぞ。-|而《そ》してあの方野村さんの奥さんにおなり になるのでしょう。」 「うむ、そうだ。最近に兄さんが仲人をして上げた。」 「あらそう。よくして上げたわね。秀子さんはほんとに幸福 ね。羨ましいわ。」 「そうするとお前も、兄さんが秀子さんに失恋したと同じ程度 で、淡い失恋を野村に持りてる訳だね。」 「そんな事はありませんけれど、只|鳥渡《ちよつと》そう思っただけよ。何 でもない事ですわ。」 コ晩よく寝ればこの位の失恋の痛みは癒る。そうひどく何で もあてられては堪るものか。」■ 「厭な齢兄さま。もう私お話しませんわ。」  こんな事でこの兄妹も別荘へ帰り着いた。 との間に汽車は勿論野村を載せて走っていた。野村は殆んど 婆やの事のみ考えていた。        五〇  汽車は不安に焦立つ野村を載せてぁようやく東京駅に着い た。  野村は直ぐタクシーを|倣《やと》って、茗荷谷まで走らせる事にし た。彼は暗い座席に坐っ■て、不安な心を紛らすために、次ぎ次 ぎに|駿《はし》る夜の燈火を眺めていたけれども、あんな電報を寄こし たところを見ると、もう婆やは死んでいるのではあるまいか、 と云う当然た予想が、打消そう打消そうと思っても頭を擾げて 来る。  ふと彼は前方を見た。すると何時何処から来たか知れぬ一台 の自動車が、・十間と間隔を置かない|前《さき》を走っていた。野村は何 気なしに|背後《うしろ》に附いている番号を見た。番号は|後燈《バツクラィト》の光に照 らされて一ω一〇。と読めた。十三が二つ重なつている1 野村はこ の不吉な数の暗示を見てぎょっとした。|而《そ》して強いて見まいと 眼を閉じた。が、闇の中に白く抜け出たその数字は、眼を|瞑《つぶ》っ てもはっきり見えるような気さえした野村はそれを見ている のに、何だか堪えられなくなった。 「おい運転手。あの前の黒い自動車を追い越して呉れ。」 -運転手は吃驚して振り向いた。が直ぐ平凡な|濁声《だみごぇ》で、「それ は出来ません。規約ですから。」とそっけなく答えた。    6《イ》|7 「それじゃ別な道を取って呉れ。」 「少し遠くなって遅れても|関《かま》いませんか。」 ,「遅れては困る。道が遠ければ速力を早めればいゝじゃない か。」 「速力にも法律上の制限があります。」 「だって直ぐ前の自動車との間隔だって、既に法規を破って近 づいてるじゃないか。」 「併しそれは私の|科《とが》ではありません。前の自動車が何処からだ か、不意に出て来て目の前を走ってるんです。|而《そ》して先刻から 此方が、幾ら規定の間隔だけ離れようとしても、向うが離れよ- うとしないんです。i何だか妙な自動車ですね。|枢《ひつぎ》か何か乗 せてるような気がします。」 「もういゝ。早く別な路を取って呉れ。而して出来るだけ急い で呉れ。」野村のタクシiは別路を取った。が更に不祥な事に は、水道橋の手前で今度は不意にパンクして了った。 一気を悪くした野村は、思い切ってそのタクシーを見棄てた。 而して直ぐ其処に在った|辻悼《つじぐるま》に飛び乗った。 偉は闇の小路を折れて、婆やの家の前に着いた。  戸は閉されていた。燈火は微かに洩れているが、入気はない ようだった。闇の中で石炭酸と石灰の匂が漂った。その消毒薬 の匂を嗅いだ時、野村は直ぐに婆やの病の種類を知った。  野村は偉を返して、家の戸口から呼びかけた。 、「お咲さん(お咲さへ僕です。野村が来ました。」 」家の中では飛び立つような、しかも悲しげな答えがした。 「はい。」 一溢咲は戸を細目にあけた。 「婆やはどうしました。まだ大丈夫ですか。」野村は急いで尋 ねた。 「叔母さんは発疹チブスと云うのに罹って了いました。そして 今日駒込の病院に送られましたの。」 「矢っ張りそうだったか。」 「どうぞ貴方は髄医者様だから、早く向うへ行って見て下さい な。1家も私一人でどうしたらいゝか解りませんけれど、三 日間は|交通《ゆきき》を|禁《と》められて居りますから、貴方をお上げする事も 出来ませんし、それより病人が何よりも喜びますから、どうぞ 直ぐ向うへ行って下さいまし。」お咲の話は悲しみの中にも筋 道が立っていた。 「宜しい。では直ぐ向うへ行こう。ではお咲さん。もう僕が来 たから心配する事はないよ。僕の一心だけでもきつと婆やは癒 して見せるからね。」 「どうぞお願い申しますご ー野村は其処から又偉を雇って、直に駒込病院へ赴いた。        五一 葎は駒込病院へ着いた。  野村はもとより案内を知った病院なので、受附で婆やの病室 を尋ねるや否や、消毒衣を身に纏う間も惜げに、その二十三臭一 室と云うのへ向った。併しその病室に向う廊下の途中で、ふと その病室の番号と先刻見た自動車の番号とに、含まれた十三と 云う数の連絡に気が付いた。勿論彼は科学者であるから、直ぐ 笑って打消しては了ったが、こう云う前兆の迷信に囚われる子 供の時からの彼の癖は、殆んど本能的に彼の心を暗く|窮《かぴ》らし た。  野村は出来るだけそっと|扉《ドア》を開けて病室へ入った。室の中に は勿論婆やが着護婦にみとられ乍ら、苦しげに其処へ横たわっ ていた。  こう云う|場景《シ ソ》は野村も今迄度々見ていた。併しそこに横た わっている人が、彼に特別な関係が在ると、彼に又特別な感情 を起さしめずには措かなかった。彼は既に冷静な医師として、 此処へ来ることは出来なかったのである。  氷嚢を替えていた着護婦は、手を休めて礼をしようとした。 彼はそれを制し乍ら、急いで、併し乍ら静かに婆やの寝床に近 づいた。 、婆やは寝てはいなかった。.が、高い熱の悦惚状態に在った。 |而《そ》して野村の入って来たのを知らなかった。野村砥枕元に近づ いて、婆やの翼れた儘に赤い疹点を帯びた病顔を、じっ之許り に見凝めた。ひとりでに涙が込み上げて来た。  その時婆やも何かその気配に感じたと見えて、|瞑《つぶ》っていた眼 を静かに開いた。而して半ば夢幻の意識の中に、野村の顔を認 めたらしかったが、まだ真実とは信じないで、暫しはまじノヘ と眺め返していた。  野村は声をかけずにはいちれなかった! 「婆や。僕だよ。野村だよ「僕が解るかい。」,  婆やの意識はやっと明瞭になりかけた。「あ、矢張り野村さ んですか。夢ではないんですかね。」 「夢じゃない。揖んとに僕だ一鎌倉から今来たんだ。」 「済みません。ほんとに飛んポ病気になつて了いましてご ■「ほんとに飛んだ目に会ったねえ。ー併しもう心配すること はないよ。僕が来て、こうして冊いているんだからね。もう安 心しておいでよ。」 「野村さん。ほんとに有難うございます。が、婆やはもう駄目 かも知れません。併しこうして貴方にもお目にかゝれたし、こ うして側にいて下さるんですから、もう何時死んでも関いませ んわ。」 「そんな事を云うもんじゃない。今婆やは熱に浮かされている から、そんな風に思うんだ廿れど、なにこんな病気は直ぐ癒る よ。僕がいるから気を丈夫に持って、一刻も早く癒るようにし てお呉れ。」 ! 「それは婆やも癒り度いんですけれど、もう覚悟だけはしまし た。それにしてもよく来て下さいましたわねえ。」 「来なくってどうする。僕に取っては鷲前はお|母《ふくる》じゃないか。」 「右難う。そのお言葉は忘れませんよ。」婆やの眼には涙が浮 んだ。 「いゝよ、いゝよ。今婆やは余り興奮しちゃ不可ない。さあも う僕が付いているから、安静にしてお|寝《ね》。余り口をきかない方 がいゝよ。ね、僕の云う事はよく聞いてお呉れ。いゝかい。も う静かに寝てお呉れ。」 「はいρー」婆やは大人しく眼を閉じた。その強いて|閉《とざ》した 瞼の間からは、涙がぽっちりと|滴《なが》れ出て、口の|端《はた》には微笑が刻 まれていた。而してやがてうとくと眠りに落る模様だった。  野村は枕頭の病歴を取り上げて見た。熱は高く不良だった。 脈榑も甚だ面白くなかった。而して表の欄外には、「経過不 良」と|独逸語《ドイツご》の注意書がして在った。その字体は野村が見馴れ た様な癖を持っていた。 「担任医師は誰だい。」野村はふと看護婦に訊ねた。 「一週間ほど前にこの病院へおいでになった星野さんです。」 看護婦は問わぬ処まで詳しく答えた。「もうやがて回診でしょ う。」 「そうか。1ー」野村は唾を呑んで辛うじてそれ|丈《だけ》云った。  その時廊下の方に靴音が響いて来た。 五二  着護婦はその足音を聞くと、 「あゝ、丁度いらしったようでございます。」と野村に知らせ た。  野村は勿論知らされる迄もなく、靴音が戸の前で立停って、 星野の姿が現われるのを、息を|窒《つま》らせて待っていた。  |釦《ノツプ》がくるりと廻ると、星野は戸を開けて入ってきた。|而《そ》して 病床の方を見ると同時に、その傍に蒼白い顔をして口を結んで 立っている野村をも認めた。彼は|鳥渡《ちよつと 》ぎくりとして、その|人《  》で あるかどうかを疑ったように見えた。が直ぐ昂然として冷静に 返って、軽い会釈をした。野村も緊迫した無言の中に同じよう な会釈を返した。彼はあの際あゝして別れた恋敵に、こうした 場所で不意に会うて、しかもその人の手に、自分の愛する婆や の身命を委ねゝばならぬ、この運命の神の|悪戯《いたずら》を、どう処置し ていゝか解らなかった。  併し兎も角も今は、野村も星野を】個の医師として迎えねば ならなかった。私情にこだわって敵意を示すなぞは、紳士とし ても出来ない話であった。が、強いて平然亡して口をきく事 も、却って不自然な態度だと思った。野村は飽くまで黙ってい る外はなかった。  星野も黙って婆やの寝床に近づいて、型のように診察を初め た。婆やは星野を知らなかっ九。|而《そ》して殊に病熱のために、自 分の枕辺でどう云う暗闘があるのか知る由もなかった。|彼女《かれ》は 只今日の医師が、何とはなしに冷たいように感ぜられた丈だっ た。  野村は星野の診察をじっと見凝めていた。星野は野村に見ら れてる事をはっきり意識して、出来るだけ冷静に事を運んだ。 野村はそれを立派な臨床振りだと思9た伽  星野はこの沈黙の中に診察を終って、二三の注意を看護婦に 与えた後、改めたように視線を野村に向けた。野村もじっと見 返した。すると星野は静かな声でこう云った。 「|鳥渡《ちよつと》向うへ行かないか。少し話があるから。」 「行こう。」野村は簡単に答えた。  二人は病室を出て、直ぐそこの医員室に入って行つた。而し て向い合って腰を下した。 「暫くだったね。」星野が口を切った。 「暫くだった。」野村も答えた。 「あの際は失敬した。」 「いや。」野村はそれ|限《き》り云えなかった。 「時にあの患者は君の知っている人かい。」 「そうだ。僕の大恩を受けた婆やだ。」 「そうか。ーでは君は僕を信用して、あの患者を託する事が 出来るかね。」  」 「出来る。僕は君を一個の医師として信頼している。こんな際 まで私情に囚われる程、お互に卑劣ではない筈だ。」 「そうか。それならば宜しい。じゃあの患者に万一の事があっ ても、まさかに君は僕が殺したなぞとは思うまいな。」 「勿論だ。が、出来るだけ手を尽して呉れ給え。僕が改めてお 願いする。どうか宜しく頼むよ。」 「併しあの患者はもう駄目だぜ。|身体《からだ》が丈夫なのなら兎も角、 もう大分老衰して居るからね。気の毒だが駄目らしい。」 「そうかねえ。どうしてもいけないかねえ。」 「僕は勿論医師として、君の知人であろうがあるまいが、出来 るだけの手段を尽す。あの老婆も僕に取っては一個の患者だか らね。只それだけは信じて呉れ給え。」 「信槙して君の手に委すひ」野村は鳥渡考えたが、・直ぐきウば りと云った。 「じゃあまだあとが忙しいから失敬。」 「失敬。」  星野は出て行った。野村も婆やの処へ帰った。        五三  野村が来たためか、婆やのその夜の状態はよほど良好だっ た。が、それも一時の小康に過ぎなかった。衰弱している身体 は、四十度に近い発熱に堪えられなかったのである。脈搏は 益ぐ乱れて来た。そして愈ぐもう死を待つ外はなかった。  翌朝からお咲も来て付ききりになっていた。鎌倉から来た黒 川も、大学病院の方を休んで、同じく婆やの枕辺にいた。「秀 子も婆やに是非癒って呉れって事だったよ。」黒川は来た時に 云った。 「有難うございます。」併し婆や自身が一番よく自分の死を 知っていた。「が、もう婆やは駄目でございますから、どうぞ 秀子さんこそ早くもと通りの御元気に帰って、いゝお婿さんを お迎えになるように祈って居ります。」  黒川と野村とは顔を見合せた。 「秀子さんの事はもう心配おしでないよ。婆や。あの人は僕が 貰う事になった。」野村は瀕死の病人の前で、自分の幸福を語 るのを気恥かしげに、ぽっと赤くなって云った。 「あら、そうでございますか。それは何よりでございますね。 私もそうなればいゝと思っていました。」 「有難うーだが、もう婆やは僕たちに何か云う事はないか い。」と野村は機に乗じて、目だたぬ遺言の催促をした。  |婆《ぱあ》やは静かにうなずいた。  .「私もこうして皆さんに取り捲かれて、死んで行けばもう思い  残す事はありません。が心配なのは預った姪どもでございま  す。先ず第一にこのお咲が可哀そうでなりません。」 「叔母さん。」とお咲は堪り兼ねて、そこへ泣き伏した。   野村は云った。「お咲君の事なら心配しないがいゝ。僕が万   事引受けたよ。きっと僕の手で立派な人の処ヘお嫁にやるか   ら、婆やも安心していて茄呉れ。」こう云って彼は黒川の方を   ちらと見た。    黒川も進み出た。「ほんとにお咲さんの事は吾々がどうでも   するよ。」   「有難うございます。それで私も安心しました。が、私には何   時かも申上げた通り、もう一人お咲の上のお駒と云う姪がござ   います。、これが森戸様の爵邸から逃げて、今だに行方が解りま   せんので、どうせもう私も会えないでしょうけれど、もし解っ   たら何分面倒を見て下さるよう、私から欝願いいたします。」   「それ亀確かに受合ったよ。1それから、もう何もないか   い。」   「あとは皆さん御丈夫で爵暮しなさるように。」    こう云って婆やは凡ての努力が済んだように、静かに静かに   眼を閉じた'熱が急に下降したと見えて、顔色がだんノ\変っ   て来た。野村が驚いて脈をとると、脈はもうすっかり結滞して   いた。   「早く係の医師を呼んでくれ。」    看護婦は直に走って、星野をそこへ伴って来た。   「やあ星野!」黒川は思わず叫んだ。   .「あゝ君もいたのか。」星野はこう云って冷然と、凡てを度外   視して了ったように、婆やの寝台に近づいた。   ,黒川もこの場合何も云う事牲拙来なかった。彼も唯一個の医 師として星野を見ていた。 ,星野は静かに諸部を検診した。 「お気の毒ですが(もう駄目ですね。■でも念のために、一本カ ンフル注射しましょ.うか。」  野村は自身科学者乍ら、どうもまだ婆やの死ぬのが|真実《ほんとう》でな いように思われた1親近の人の死に際して、彼は未練を持たざ るを得なかったのである。. 「どうかやって見て呉れ給え。」  そこで衰えた婆やの身体に、-改めてカンプルが注射された。        五四  カンフル注射の|効目《きムめ》で、婆やは昏睡から目を覚した。|而《モ》して ばちくと皆の顔を見廻した。  野村は近く顔を寄せた。 「婆や、気がついたかい、僕だよ野村だよ。僕の顔がわかるか い。」 「あ、野村さん。まだ私は死ななかったのですか。」婆やの声 は微かだった。が、-その|中《ラち》に死ぬ前の人の最後の力が籠りたも のか、割に言葉ははっきりしていた。 「死んだりするものか、どうかしっかりしてお呉れ。」 「いえ、・もう解って居ります。-もう姪の事をお頼みしまし たし、私の方は心残りはございません。た讐此上とものお願い には、貴方が早くもとの貴方になって、立派なお仕事をなすっ て下さい。それには婆やの死ぬのを|機会《おり》として(どうぞ又病気 の|因《ムあと》を研究して下されば、私もどんなにか嬉しいでしょう。君 護婦さんに伺った話では、・この発疹チ.ブスとやらの徽菌が、ま だ分らぬと云うじゃございませんか。それを見つけて下すって も、婆やの本望は遂甘られます。どうぞ一生懸命に御研究な すって下さい。」  「うむ、有難う。よく云って呉れた。婆や、僕はお礼を云う よρ|而《そ》してお前の忠告に従って一早速発疹チブスの病源体を研 究するよ。」  星野は|傍《かたわら》で異様な眼をして二人の対話を聞いていた。  「どうぞしっかり勉強して下さい。左様なら、野村さん。1 では、お咲鳥渡こゝへおいで。」  「叔母さん。」とお咲は涙を抑えて進み出た。  「お前は私が居なくなっても、よく大人しくしなくてはいけな いよ。野村さんたちの云う事をきいてね。」  「はい「」お咲はこう答えるのも精々で、わっと|枕頭《まくらべ》へ泣き伏 して了った。`  「それから黒川さん。貴方にも大変お世話になりました。この 上ともどうぞ野村さんやお咲を、庇ってやって下さいまし。貴 方のような情の篤い方はきっといゝ報いがございます。」 .「後の事は心配おしでたい、野村と僕がついているからね。」  「左様たら、皆さん、私にはもう如来様が齢迎えに来て下さい ました。左様なら、御機嫌よろしゅう。…こ .,野村の眼にも黒川の眼にも、抑え切れぬ涙が湧泥とした。お 咲が涙乍らに、「叔母さん、叔母さん1」と呼んだが、もうそ れに対する答えは無かった一  冷然と見ていた星野が進み出て、もう一度脈榑と心臓とを診 査した。  「お気の毒乍ら、もう愈ぐ駄目です。」  こう云って、彼は聴診器を収め乍ら、{さりさとその場を出て ,行って了った。  後に残った三人は、その姿を見送って了うと、初めて膨涛た る悲哀の感情に包まれた一 「野村!」黒川は悲痛に叫んだ。「ほんとにしっかりやれよ。」 ー「大丈夫だ。」野村は涙を振って答えた。 「お咲さん、君も気を落してはいけないぞ。淋しいだろうが僕 だちが居る。」黒川は猶もお咲に云った。.... 「はい。.有難う存じます。-私はた間姉さんが、叔母さんの 死目に会えないのを、さぞ残念がるだろうと思うと、それが悲 しくて悲しくて。……」 「尤もだ、尤もだ。併しそれも仕方のない事だ。が、姉さんも その|中《うち》に見つかるだろうから、そんなに心配おしでない。」 ・「はい。11」  三人は婆やの死顔をもう一度つくム\と見た。野村は感に堪 え兼ねて云った。 「婆や、騎前はほんとに死んで了ったね。僕はお前に世話にな り放しで、まだ恩返しも出来ない中に、お前は先に行って了っ たね、が、お前の志にだけはきっと酬いるよ。それがお前への せめてもの恩返しだからね。どうかそれまで待っていてお呉 れ。」 「野村!」黒川は又そう呼んで、つと野村の手を握りしめた。 「騎咲さん…」野村は泣き崩れたお咲を抱き起して、三人は互 いに寄り添うた。 「さあ是から僕たちは新生活に入るんだ!」        五五  泣き沈むお咲を励まして、火葬場の骨となって帰った婆や の、さゝやかな野辺の送りを済ました後、野村は哀しみの底か ら奮い起った。二人は小石川茗荷谷の家を畳んで、本郷台町の 明るく小ぢんまりした借家に移った。 ,ー炊事やその他|万《よろず》の家事は、婆やに代って凡てお咲が世話をし て呉れた。お咲は淋しさを忘れるためにひっきりなしに働い た。監々しい島田を載せた無邪気な顔が、白い娘らしい|腕《かいな》が、 まるで馴れた主婦のように一家を整頓させた。彼女は|真《まこと》に理想 的な「|家《ハウヌプ》 |妻《ラウ》」たるベき素質を持っていた。  近所の人々は勿論、二人の関係を夫婦であるべく想像した。 ご用聞なぞは勿論初めから「奥さん。」と呼んだ。お咲も初めは それを気にして、頻りに兄妹だなぞと弁解したり、主従関係を はつきりさせたりした。が、結局向うが信じないので、|此方《こつち》さ えそうでなければ、評判なぞはどうでもよいと放って置くこと にした。  併し|会《たま》には善良な齢咲も、顔を真紅にして逃げるような話も ないではなかった。或晩|出序《でついで》にいつも寄って呉れる近所の|髪結《かみゆい》 の|弟子結《でしゆい》さんが、お咲の髪を結いに来て呉れた。丁度野村もー 帰って次の間で煙草をふかしていた。  髪結はまだ若かった。而してつく八\と|四辺《あたり》を見廻し乍ら、 「ほんとに此方のような御世帯は羨ましゆうござい嘗すわ。」 と沁々云った。  お咲と野村は苦笑して顔を見合せた。するとその様子を曲解 した髪結は更に、 「奥さんは何故蕾には齢結いにならないんでしょ。娘々して見 える方が旦那様のお好みなんですか。」と云い出した。 「あら髪結さん嫌よ。私ほんとに奥さんでなんぞありゃしませ んわ。」お咲は耳の付け根まで真紅にした。 「まあそう仰しゃるもんじゃございませんよ。丸髭も一度結っ て了うと直ぐ似合うものですから、ねえ今夜こそ私に|託《まか》して下 さいよ。ね、旦那様、旦那様もいゝでしょう。」  野村は一種の興味でこの様子を見ていたが、 「そうさな、結って見るのもいゝな。」とわざと良人らしく云 い放った。 「厭よ、厭よ、厭よ、わたし。」お咲は慌てゝ打消した。|而《モ》し て解きかけた髪をその儘に、|髪結《かみゆい》の手を振りほどいて、台所の 方へ逃げて了った。而してなかく出て来なかった。  野村は尚も面白がって「だって結って見る位関わないじゃ ないか。」とあとから椰楡の言葉を浴びせた。 「悪いわ、いけないわ。貴方がそんな事を云っちゃあ。」と騎 咲は真剣に抗弁した。「済まないわ!」 「成程、お前はあの人に済まない訳だね。成程ねえ。」 「貴方こそ!」お咲は云い返した。 「そうか。成程、俺もあの人に済まないな。たとえ冗談にしろ こんな事を云ったのは悪かった。じゃ髪結さん。丸髭は取り消 し取り消し。僕も|他人《ひと》のものに干渉したのは悪かった。1さ あ是でいゝだろう。」  お咲はやっと台所から出て来た。 「まあほんとにお楽しみですわね。」髪結はまだ二入の間を曲 解して云った。 「何だ髪結さん。齢前さんはまだ誤解しているんだね。そう じゃないんだよ。僕はもっと立派な奥さんになる人を外に持っ てるし、との人も外へ騎嫁に行く筈になっているんだ。この人 の旦那様になる人はねi。」と野村が云いかけた時、戸外で 突然、 「野村、いるかい。」と云う黒川の声音がした。  野村はお咲の顔をちらと見て、急にくすノ\笑い出した。器 咲は何故か先刻より更に|真紅《まつか》になった。……  髪結はどう云う訳かまだ呑み込めないので、仕方なしに笑っ ていた。が、彼女にもどうやら二人が夫婦でなさそうにも思え て来た。   そこ   黒川  が 五つ 六か   く   七   粟   免  入って来た黒川に、野村は直ぐこう云いかけた。 「やあ、丁度いゝ処へ来た。今ね、この|髪結《かみゆい》さんがお咲さんに 丸髭を結わせようとしたんだがね、・お咲さんはそんな事をして は済まぬ人があるから厭だと云うんだ。」 「ふうむ。-してその済まぬ人って云うのは誰だい。」 「さあ、誰だろうかね。その辺に心当りが在りそうなものだが ね。」  ・  すると黒川は突然無邪気にこう云った。 「お咲さん。その人って云うのは僕ですか。」 「あら。」お咲は不意を打たれて顔を|蔽《かく》す問もなかった。「知ら ないわ。」 「それじゃ僕ではないんですか。」  騎咲は髪を結いかけているので、|兜首《うつむ》くすべもなかった。そ れで止むを得ず両手で顔を蔽うた。そしてもう一度云った。 「知らないわ。」 「手が邪魔になりますよ。」無慈悲な髪結は|椰楡《からか》い半分、そう 云って顔をかくした手をのけさせた。お咲はすっかり|真紅《まつか》に なって、頸のあたりを可愛らしく悶えさせた。  その様子を見ていた黒川は、野村に向ってこう云い出した。 「丁度いゝ機会だから人がいるけれど僕は云って了おう。- 僕はお咲さんを細君に貰おうと思っているんだ。ほんとに僕に この人を呉れないか。」 「ふうむ。君も|毎《いつ》も乍ら短兵急だね。ーうむ。・承知した。僕 は%咲さんの後見人として、喜んで君にやろう。併しお咲さん の心持だって聞いて見なければねiー」  お咲は又両手で顔を蔽うた。今度は髪結ものけなかった。 「それは解ってるよ。」黒川は鳥渡眼の縁を赤らめて云った。 「どう解ってるんだ。聞いて見たかい。」 「聞かなくとも解ってる。解ってるね、お咲さん。」 「今度は直談判か。そう入のいる処で攻めちゃ可哀そうだよ。」 「可哀そうなものか。ごれが厭なら否と云うさ。併し不承知を 云ったが最後、|艦《くび》り殺して了うからいゝ。」 「そんな事になっちゃ大変だ。じゃ仕方がない。お咲さんも何 とか返事をおしよ。i改めて僕から聞くが、承知かい。」  お咲は黙っていた。 「不承知かい。」  お咲は猶も黙っていた。 「何だ。どっちなんだい。」  すると髪結が傍から力を出した。 「御承知なんですよ。『承知か』と仰しゃった時(解らぬ位 そっと頭を竪におふりなさいましたもの。」 「そうか。それじゃ皆で承知と認定しよう一それでいゝだろう ね、騎咲さん。」  お咲は初めて顔をかくしたまゝ、、頭をそっと|点頭《うなず》かせた。 「さあ、もうお目出度い話の中で、今夜の島田は特別によく出 来ました。さあ未来の旦那様、どうぞ賞めて上げて下さいま し。」髪結は云った。が、黒川が何か云おうとする間もなく、 お咲は奥へ逃げ込んでしまった。  その姿を見送り乍ら、野村は髪結に向って云った。「ね、是 で僕の方の関係はどんなものか解ったろう。」 「解りました。がいずれにしましても、丸髭は私が結って上げ る事になりますねえ。お目出度うございます。」こう云って髪 結は帰った。 ハ品黒川は野村と二人向い合うて、■その時初めて用事を思い出し たρ 廿あゝそうノ\。今耳此処へ来たのはね、、お咲さんを貰いに来 たのじゃなかった。実は君の用向で来たんだ。それは外でも ない。君が研究の為めに入りたがっている伝染病研究所の方に ね(,,矢張り細菌部の|空《あ》きロが出来たと云うんだ。その話は今日 大学で聞いたから、■何なら君が直ぐ|仁田《にた》博士の処へでも行っ て、い入るように運動して見たらどうだい。」 「そケだね。そうしようか。もう引込んで許りもいられないか らね。」 ド野村は遠い空を見るような眼をした。        五七  翌日野村は黒川の言葉に従い、仁田博士を訪うて伝染病研究 所へ入れて貰うように運動に出摂けた。此方から進んで自らを 推薦しなければ、地位を得られなくなった今の時世では、気の 弱い学者肌の野村も、自分で運動に出かけなければならなかっ たのである。|而《そ》してようやく活動力を回復しかゝった野村自身 も、それを敢て厭う程非現世的ではなかった。 .野村は博士がまだ出て了わたい|中《ラち》にと思って、朝の八時頃そ の本郷西片町なる邸宅を訪れた時、既に】人の訪客が通ってい た。|而《そ》して野村は暫らく次の間で待たせられた。 野村は何となく気を折られたような、事の成就しないような 予感をぼんやり感じた。が仕方がないから煙草なぞを吸って、 先客の帰るのを待ち兼ねていた。  ところが先客は博士の旧友でゝもあるらしく、話はなかく 尽きぬ模様だった。、而して却ってその人が帰らぬうちに、もう 一人の訪客が玄関へ訪れて来た。 女中が名刺を受取って、一旦奥へ通じて後、その新しい訪客 は野村と同じく待つために、野村のいる次の間へ通される事に なった。  野村は何気なく入って来た新客を見た。するとそれは思いが けなくも又星野であった。星野の方も野村を見て、入って来乍 ら鳥渡立辣んだ。 「どうぞ此方で暫らくお待ち下さいまし。」女中は深い事情は 知らず、・思わず立仔った星野を促し入れた。 「あへ君でしたか。」星野は強いてそう云い乍ら、野村に 向って会釈をした。 「この間は失敬。」野村も挨拶した。 「いや。」}こう云っただけで星野も、野村も共にずっと黙って いた。  黙っている間の戦闘は、併し明かに星野の勝利だった。恋に 勝ち誇った彼は、黙っている野村を、いわば無言の昂然たる態 度で、見下しているようなものだった。  野村は明かにその態度に圧迫された。が、星野を見返すべ き何の戦利品もない彼は、黙って敗けているより外はなかっ た。彼はどうしても何か業績を挙げて、その点で星野を見返す の止むたきを思った。「今に見ろ、俺は発疹チブスの病源体を 発見してやるから!」野村は更に一種の敵対心を以て、その決 心を堅<固めた。  星野の方でも心の中で、「もうこうな・ったら何処までも俺の 勝利だぞ!」と、決意するところがあるらしかった。 との暗黙の闘いが十分程も続いた時、ようやく先の客は帰っ て行った。■野村は自分の通される番だと待ちかまえていた。  ところが女中が出て来て、「お二人ともどうぞ御一緒にお通 り下さいまし。御一緒にお目にかゝるそうですから。」と招じ た。  野村は鳥渡困惑して星野を見返った。が星野はそんな事に頓 着なく、却ってそれを喜ぶかのように、もう立ちかけていた。  野村は強いてそれを抑える事も出来なかったーそこで二人は 同時に博士の客間に通された。        五八,  仁佃博士は肥った血色のい\顔に、さも恩師ち七い笑を浮か ばせて二人を迎え入れた。 「やあ、よく来て呉れたね。待たして済まなかった。」  野村な丁寧に礼をして、帰朝後直ぐ伺うべき之ころを、今ま で事にかまけて無沙汰した詫を云おうとする間に、星野はすか さず挨拶を返した。 「いえ、私こそ飛んだ早朝お邪魔に出まして。」 ㍉それにしてもうまく二人とも落合ってよかった。君たちは同 窓の親友同志だし、別に聞かれて悪い事もあるまいから、まあ 三人鼎座で話をしようと思ってね。」 「はあ。」と二人は同時に煮え切らぬ返辞をして了った。 「どうだい。二人とも相変らずかね、勉強は続けて居るだろう ね。」 [はい。どうにかこうにかやって丈は居ります。」星野は直ぐ に答えたが、野村は身を刺されるような思いで、返事もする事 が出来なかった。 「だが、野村君とは久しく会わなかったね。確か帰朝後初めて だと思うが。」 「御無沙汰致しまして申訳ございません。一身上の間題があり ましたのと、鳥渡|身体《からだ》を悪くしましたのでどちらへも御無沙汰 を致しますし、自分では怠けますし、ー」 「野村君はひどい神経衰弱をおやりになって、ごの間中大変 困っておいでのようでしたρ」  星野は傍から口を出した。   .  野村は思わずその方を睨んだ。が星野は昂然と澄まし返って いた。 「それでもう快くなったのかね。」  博士は野村を測るように見た。 「はあ、是から今迄の分を取返すつもりで勉強します。」 「そうし給え。君たち二人がしっかりやって呉れゝば、医学界 の惰眠を覚ます事も出来るよ。」  するといきなり星野は膝をすゝめて、野村を押しのけるよう にこう云った。 「それでですた先生、私はこの間中から発疹チブスの病源体を 研究に取りかゝっているんですけれど、どうも病院の方だと臨 床的にばかりなりますので、今度伝研の方に御都合がつきまし たら、研究の便宜を与えて頂き度いのですが、どうか御採用が 願えないでしょうか。」  野村は星野の出方が余り早く巧みなのに、呆気に取られて聞 いていた。 「それは君がそう云う意饗なら、儂としても甚だ好都合だが ね。実は僕もあの欠員を埋めるには、君たち二人の|中《うち》と思って いたんだ。君がそう望んでいるなら猶の事だ。僕から早速推 薦して置こう。iところで野村君の方の御用向きは、何かそ んな志望でもあるのかねご 「私も実は伝研へ使って頂いて、同じように発疹チプスを研究 し度うございました。」野村は遅いとは知り乍ら云って見た。 「君もかね。」博士は驚いた。 「えゝ私もです。」野村はきッとなって答えた。  博士は暫らく考えた後こう云った。 「ふうむ、面白い。よかろう。それじゃ君もやり給え。欠員は ないけれども、野村君も入るように都合するから、二人とも伝 研で研究して貰賞う。.どうだい。それならよかろう。二人とも 不服はあるまいね。」 「勿論不服はございません。」星野は即座に答えた。 「私も不服はございません。」野村も決然として云った。. 「宜しい。じゃ二人とも大いにやって見給え-親友でも研究上 の論議では敵とたり、|讐敵《かたき》でも、学問上で一致すれば手を握り 合う。そこが吾々学徒の面白い所だ。一つ大いにやり給え。」  二人は互に顔を見合せた。而して互いの覚悟を面に現わし た。  この時以後野村と星野は、明かに研究上でも競争者だりた。       五九 「親愛なる秀子さん。二三日|音信《たより》を怠りましたが、お変りは ございますまいね。鎌倉の海もだんく夏らしくなって朝夕 の散歩もさぞ快いことへ存じます。なろう事なら私ももう一 度出かけて、あの楽しい鎌倉の生活を、もう一度繰り返して 見たいのですが、それも仕事の方が忙しくて叶いません。と 云って何も貴方より、研究が大切だと云う訳でもありませ ん。た間私も東京にいなくてはならぬ用がある以上、貴方の 方から早く全快して、東京へ帰るのが順序だど云う話なので す。ほんとに一日も早く東京へお帰りなさい。  鴬咲さんとの生活は、これも面自い生活です。騎咲さんも よく世話をして呉れます。併し矢張り零細一点相通じないと ころがあるのです。|而《そ》してそう云う時はつくハ\是が貴方な らと思う事があります。  お咲さんと云えば無論御承知でしょうが、お兄さんが妙な ことで、とうく申込みをしましたよ。お咲さんも勿論承知 しました。而してその後の二人の様子と云ったら、まあ|外目《よそめ》 にも羨ましい位幸福ですよ。二人とも揃いも揃ってあんな事 には単純ですからね。私は幸福と云うものは、あゝ云う人た ちのために作って置かれたものとしか思われません。私ども め幸福は、幸福と云うのを許されるとしても、甚だ淋しい幸 福ですからね、併し私はそれに満足して居ります。私の心は その静かな喜びに満ちて居ります。  夕方、研究所から出て来る時なぞに、・静かな夕覇の湧きか かる|白金台《しろがねだい》を顧みて、貴方の事を静かに思い乍ら歩くのは、 私に取って尤も天国に近い時間なのです。貴方を思うのは夕 暮が一番相応しいような気がします。  研究所へは毎日精勤して居ります。脳力も身体も回復した らしいので、勉強もこの頃は思い通りに進みますη例によっ て発疹チブスの病源体ですが、この頃どうもそれらしいスピ ロヘータを見附けかゝっています。こんなに早く、こんなに 都合よく業績の上りかけてるのは珍らしい事です。大方在天 の婆やの霊と、貴方のお濤りのお蔭だろうと、蔭乍ら感謝し て居ります。猶この上とも|確《しか》と実験を積む迄は、一生懸命に 努力しますから御安心下さい。  星野も同じ発疹チブスを研究しているのですが、研究室が 違うのでどこ迄進んでいるか解りません。彼は僕の動敵で す。私はどうしても彼に敗けたくはありません。  学術上の競争と、私人的の競争とが、こう交錯して来るの は、私に取って余りに快い事ではありません。が、こうなっ て来ては男の意地です。否でも応でも勝たなければなりませ ん。私怨を公憤で晴らすのは甚だ卑屈だと云われるかも知れ ませんが、私怨を私怨で晴らすよりも、公憤で晴らした結果 がよければ、一般文化の上に影響を及ぼすだけでも効用があ ると思います。この頃私は個人的な反感を、こう云うところ に利用すべきだと考えました。|而《そ》して飽く迄星野と競争する 気で、-打敗かす気で勉強しています。私としてこう云う争気 を出したのは珍らしい事です。貴方もどうぞ私の勝利を薦っ ていて下さい。  今夜は月がよく晴れて居ります。もう六月の街中は、夏ら しく着飾った男女の群で満ちているでしょう。併し私はたバ 遠い貴方の事を静かに考えて、又静かな喜びの中に筆を欄き ます。  貴方の方からの%|音信《たより》も三日ほど絶えましたが、どこかお 身体でも悪いのではありませんか。それが何よりも心配で す。  では今日は是で、さようならにします。さようなら。  貴方の真実なる、野村辰雄より。」       六〇 「御手紙うれしくノ\拝見致しました。私も四五日思わぬ御 無沙汰を致しまして、何とも申訳ございません。ほんとは四 五日前から、ふいに風邪を引いて了って、熱が少し高かった ため、寝ていて筆が執れなかったのでございます。けれども もう今日は幾らか快くなって、床の上に横たわり乍らも、こ うして貴方に御返事が差上げられる位ですから、どうぞ御安 心なすって下さい。床に就いた折なぞは、大変心細く思いま して、お薦りをしても淋しさを払いのけ兼ねる事もございま 、光が、そこへ轟日の獅手舐が届きましたので、私は栂んと に嬉しゅう存じました。改めて御礼申し上げなければなりま せん。けれどもこんな他人行儀のお礼なぞを云うのは、却っ て貴方に対していけないでしょうか。いけなかったら御免遊 ばせ。  御申越のお察し通り、鎌倉もだんノ\夏らしくなって来 ました。それに連れて海の色が美しくなるのは宜しゅうござ いますけれど、又だんくと人々が殖えて来るのは厭でござ います。|而《そ》して一日も早くよくなって、東京へ参り度いと思 わぬ日はございません。  この間中は、散歩にも飽いて詰らないように思い|初《そ》めまし た。が、散歩する毎にあの砂山の陰の、記念の場所へ参るだ けが楽しみでございました。ところが私が風邪を引く前最後 に参った折には、見知らぬ若い|男女連《ふたりづ》れが、あそこに休んでい るじゃありませんか。私はそれを見て只何となく厭な気が致 しました。何だか私どもの神聖な場所を、むざノ\|他人《ひと》に汚 されているように思ったのでございます。随分私も自分勝手 ですわね。その人たちと云うのは、まだ新婚早々の夫婦だと 見えまして、その睦まじそうな様子ったら無いのでございま す。丁度兄さんとお咲さんでも、あゝ迄幸福ではあるまいと 思われる程、幸福そうでございました。が私たちだって何も あの人たちを今羨むにも当りませんわね。……あら、余りに はしたない事を書いて了って。どうぞ是も御免遊ば茸  森戸さま御兄妹は(もうお帰りになりました。子爵さまも いゝ方ですけれど、私には異教徒に見えて厭な事もございま す。騎妹さんの方はほんとにいゝ方ね。美しい上に大人しく て。……何故貴方あの方をお貰いなさらなかったの。あら又 こんな余計な事を書いて、今日はどうしたのでしょう。お気 κなさらな、で下さい。   余計な事と云えばもう一つ|序《ついで》に、余計な事を申し上ぼま  しょうか。それはほんとに差出がましゅう存じますが、貴方の  手紙にございました、.あの星野さんとの敵対する之云うお話  でございます。どうぞあんな|荒《すさ》んだお心持には、ならないよ うに祈って居ります。どうぞ貴方のお心の中から、星野さん  を敗かしてやるとか、敵対するとか云う意識を、無<するよ うになすって下さい。御研究なさる分には幾ら御勉強なすつ■  ても宜しゅうございます。併しそれが他人を敗かす為めと云  うようなお心があっては、折角の御業績に疵がつきます一た  とい星野さんに敗けても宜しいではございませんか。た讐貴  方が貴方自身で、御自分の道だけを一生懸命にお進みなされ  ば、そうすれば何時かは神の酬いが来ます。どうぞく凡て 「の点で、星野さんを許してお上げなさい。-又々大変生意  気に説教めいた事を書いて、重ね八\の失礼を致しました。  けれどもどうぞ私の真意だけは、お酌み取り下さるよう祈り  上ぼます。   思わず長くなかまして、何だか疲れたようでございますか  ら、今日は之で筆を欄きます。貴方も御勉強がお忙しいで  しょうから、そうお手紙を下さらなくとも宜しゅうございま  すわ。そして呉れ人\も私の病気なぞは記気にかけて下さら  ないように、ほんとに何でもないのですから。  ・では左様なら。お咲さんにも宜しく。 鎌倉にて秀より。    野村辰雄さま御許に。」ー        六一  その後の野村は只管研究に没頭した。研究はルて見ればして 見る程、興味乏熱心が加わって来る。幸い|頭脳《あたま》の調子もよかっ た。実験の結果も面白いように上った。研究室はもう彼に取っ て}灰色の壁を持った殺風景な物ではなくなった。その中にあ る顕微鏡や培養器や、凡ての研究用具は恋人のように彼に慕わ しかった。勿論研究に没頭しているとは云え、鎌倉の海辺にい る真の恋人も、常に懐かしく思わずにはいられなかったが、そ の恋心は浮き立ったものでないだけに、却って研究の励みにな る事が多かった。少くとも野村自身にはそう感ぜられた。  その後秀子の病気はそう|快《ことろよ》くはなかった。|而《そ》して当人から は元気のいゝ手紙が来るに係わらず、どうも黒川の話し振りゃ 顔色を見ると(余りょくないように感ぜられた。併しその中に は快癒するに違いないと野村も信じていた。信じて毫も疑わな かうたρ  その|中《うち》にも研究の方も益ぐ進んだ。|而《モ》して今ではもう、病源 体らしいスピロ一へータさえ発見しかゝった。いろくまだ必要 な試験を要するけれど、大体先ずそれらしい見当が野村にも付 いていた。』がまだ疑点は一にして|止《とヲ》まらなかった。功を急いで うっかり発表するなぞは、まだく思いも寄らぬ事だった。が 業績に見え出した曙光は、彼を更に元気にし勤勉にした。 「しbかりやれ!もう一歩だぞ。」と蟻く声を、彼は常に何 処からともなく聞いた。  野村は秀子の訓えにも係わらず、時々星野の業績をも思わぬ 訳にも行かなかった。研究室が違っていて、自然秘密にして居 るので、齢互いの研究が何処まで進んでいるか、それは全く解 らなかっーた。■けれども野村は自分の業績に侍むところがあっ て、幾らか安心はしていた。彼の研究はほんとうにもう一歩 だった-  夏の初めの不順な天候が二三日続いた。`而してそれと共に伝 染病が競うように起って、研究所の用亀多忙を極めて来た。野 村はふと或る朝研究所へ通う途中で、秀子の病気にも変りが無 ければいゝがなと考えた。その日は何とな<気が重かった。  併し研究室に入って了うと、彼は又暫らく凡てを忘れてい た。  すると午後になって突然、四五日見なかった黒川が研究所へ 訪ねて来た。 「何だい。何か急用でも起ったのかい。」野村は黒川を直ぐ引 見して訊ねた。 ■「うむ。」黒川は眉根を暗くして云い続けた。「研究の方の具合 はどうだい、相変らずうまく進行しているだろうね。」 了め・^、・お蔭でこんな成績のいゝ事は無い。この分で行けば大 丈夫だ。例の腎臓に見付けたスピロヘータだがね。まだ他の内 臓や、血液中に発見されないので弱っているが(どうもあれら しいと思うんだ。だからもう一歩だよ。勘くともこの夏中位に は、いずれにもせよ結果の発表が拙来るかも知れん。」 「そうか。それは結構だね。ーじゃ、先ず当分、それに手が 離されないね。」 「そうだね。どんな用だか知らないが、出来るなら手を離した くないよ。星野との問題もあるからね。何でも話に依ると向う も可なり進んでいるらしい。」 「そうか。じゃ折角勉強した方がいゝね。僕も実は君の方の模 様を聞きに来た讐けなんだ。それを聞いて安心した。君の研究 が進んでいると聞いたら、秀子も|嚥《さぞ》喜ぶだろう。-じゃ僕は 是で失敬する。君も忙しいだろうから。」'黒川は強いてさり研 なく立上った。  併し野村は黒川の様子に、何か事情が在るものと察した。 それで、 「黒川、|鳥渡《ちよつと》待って呉れ。」と急に黒川を押し止めた。 六二 「何だい。」と一旦帰りかけた黒川は立止まった。 「君は何かを隠しているね。僕には君の態度がどうもそうとし か思えない。何か在るんだろう。それを包まずに云って呉れ給 え。何だかこの儘帰られちゃあ、僕は却って不安で堪らないか ら。」  野村は黒川を詰るように問いつめた。. 「さあ、隠してると云う程の事じゃないんだよ。…:ごと黒川 は猶も逡巡していた。 「いや、在るに違いない戸何尤いそれは。まさか秀子さんの事 じゃあるまいね。あの人がどうかしたのじゃあるまいね。」野 村は詰め寄った。  黒川の顔には暗い困惑の色が浮んだ。が、やがてつと|心《ヤち》を決 めたように、「そうまで君が云うんなら、黙って帰ろうと思っ たんだが、僕はすっかり云って了おう。僕も実は君の研究の方 が手隙になるのなら、それを君に打ち明けようと思って、それ で今日来たのだがね。研究の方がもう一歩と云う大切た時に なって、そう云う話を聞かせては、君の研究に非常な妨害にな ると思ったのだ。」と云った。 ・「何だい。早く云い給え。秀子さんの事かい。」野村は思わず 促した。 「そうだ。秀子の病気が大分悪くなったんだ。この間風邪を引 いた時から悪くならなきゃあいゝがと思っていたら、案の定悪 くたって了つたんだ。君には大分元気がいゝような手紙を書い たそうだが、当人はひどく弱っているんだ。|而《そ》して|機《 り》も|機《おり》だか ら、君には決して悪い様子を知らせ茸いと↓ているんだ。品僕、 固く当人からはロ留めされているのだが、僕に取ってはたった 一人の妹だし、君に取ってはまた大切な許婚だろう。僕は何だ か黙っているに忍びないような気がしてね。それで当人が何と 云おうが、君にすっかり打明けて了って、都合がよかったら一 度見舞に来て貰おうと思っ光んだ。それも妹の悪いのを聞いて 来たと云うのではなく、只研究の方に手隙が出来たから、ふら りと遊びがてらに来たとか何とか云って、生きている中に一度 会って貰茄うと思ったんだ。」 「えっ、生きてる中に? それじゃもう余程悪いのだね。」 「あゝ悪い。可なり悪い。」黒川は帽然として云った。 「黒川。何故早べ知らして呉れなかった。何故、1」野村は 激して吃った。 「話したとて早ぺ心配を掛けるだけだと思ったからだ。それに 今云った当人の希望は、自分なぞはどうでもいゝから、君を専 心研究に従事させ度い士云うのだ。」 「その|志《こムろざし》は泣き度い程有難いが、僕をそう云う冷然たる科学 者にして了おうとするなんて、僕は秀子さんを恨みに思うよ。 野村辰雄は病気の愛人を放って置いて迄、業績を挙げ度くはな い。僕は直ぐ行く。」 「併し研究の方は〜」 「なに少し位遅れたって、,まさか他人に先んぜられる事もなか ろう。兎に角一度行って見度い。直ぐ行こう。」 「それだから秀子も止めたんだ。僕も云わなきゃよかった。僕 も実に|軽桃《かるはずみ》の理想家で|不可《いか》ん。」 「何を云ってるのだ。発疹チブスの病源体は、今でなくとも何 時か発見する時があるし、僕でなくとも誰かv発見するだろ う。併し秀子さんの病気を見舞うのは、僕でなくて外に誰がい. る。」 「そう云えばそうだ。僕もたった一人の妹を喜ばしてやり度い からね。11じゃ行って呉れるか。」 「行くとも、あとの研究をよく頼んで。直ぐ行くから待ってい て呉れ給え。」  こう云って野村は、一旦研究室に取って返した。        六三.  野村は一旦研究室へ帰って、助手に後事を託そうと思った。 「宮田君、僕は|鳥渡《ちよつと》鎌倉に急用が出来たので、是非行かなく ちゃならないんだが、あとは君一人で当分やっていて呉れませ んか。」 「鎌倉へおいでになるのですって。……どんな御用向なんで す。」助手は武骨に反問した。 「友だちが大病にかゝってるんです。」 「そんた事ですか。そんた事なら放って置いたらいゝじゃあり ませんか。今は|此方《こつち》も大切な時なんですもの。」  野村はいたべ吃驚して、この我武者羅な助手の顔を見守っ た。何らの情感もなさそうにずんぐりした|若《し   》い助手は、研究に は骨身を惜しまず精励して呉れるが、他の人間らしい事柄には 何の同情も無いように、けろりと|野《  ち》村を見返していた、 「だって死にそうだと云うんだからね。」  野村はこう重ねて云った。 「死ぬものなら死なせて置きゃあいゝじゃありませんか。死ぬ のなら猶の事お|出《いで》になっても無駄でしょう。」 「だって僕に取ってはたった一人の|愛人《ゲの プテ》なんだからね。」 「それだからどうなのです。」助手は笑いもせず云っていた。  野村は怒りも出来なかった。 「宮田君、君は|愛人《ゲの プテ》を持った事がありますか。」 「在ります。研 究が私の愛人てす。而して貴方に取っても愛 |人《プテ》だろうと思います。しかも今の場合は、離れてはならない|愛 人《ゲリきプテ》です。離れていると誰か他の人に取られて了うかも知れませ ん。噂に聞けば星野さんの方も、大分進行しているそうじゃあ りませんか。蚊で油断をしては不可ません。野村さん。こゝで す。こゝを僕は先刻から心配しているのです一折角こゝまで来 てい乍ら、業績を|他人《ひと》に奪われちゃあ、貴方の名折れになるの .は云うに及ばず、手伝いをしている私共まで嘘われます。ー |愛人《ゲリ プテ》! それは貴方に取ってたった一人の|愛人《ゲリ プテ》でしょうが、そ の|愛人《ゲリ プテ》にしたところで、貴方が出来かゝっている研究を郷って 迄「来ることを要求はしますまい。」 「うむ。向うでは魯分の事なぞは|関《かま》わないから、研究を続けて ーいて呉れと云うのです。けれども僕にはそれが出来ない。-」 僕は高等学校の卒業の時、大試験の最中に母を失うた事があり ます。その時㌔母の志とやちで試験中の僕に知らせずに死んで 了いました。お蔭で僕は首席を|臓《か》ち得たが、あとでそれを聞い て|毫《すこし》も有難くは思わなかったです。僕は落第しても母を見た かった。宮田君。今の僕の気持はそれです。それは研究も科学 者たる僕に取っては一大事です。けれども僕は科学者でのみ在 り得ない。僕は一個の人間です。宮田君、君たちの好意に対し ては誠に済まないが、どうか僕の鎌倉行にも同情して下さ い。」. .野村の眼にはいつの間にか涙が浮かんだ。彼は辛かった。彼 は女々しいと云われてもどうでも、冷たい学問の前に人間を棄 てゝ了う気にはなれなかったのである。 「そう迄仰しゃるのなら仕方がありません。後は私どもでどう かこうか続けて居りますから、向うへ行った御様子で、一日も 早く此方へお帰り下さい。私は何も御愛人の病気に同情しない のではないのです。た間貴方の御仕事のためにそう申し上げた のです。」 「有難う。君の志もよく解っています。決して無にしようとは 思いません、なるベく早く帰って来て、倍の勉強で取り返しま す。」  こう云って野村は、暗い心の中に研究室を見棄てた。  黒川と野村はお咲に事情を告げて、その足で直ぐに鎌倉へ 向った。       六四  来て見ると秀子は、思いの外の重態だった。もう起きも上れ ない程だった。いつかの|荷且《かりそめ》の夏風邪が|因《もと》で、乏うノ\彼女は 癒りかけた持病の肋膜を、すつ.かり|重《おも》らせて了ったのである。  秀子は兄と共に野村が入つて来たのを見ると、重い頭をもた げて吃驚した。|而《そ》して淋しく蒼白い頬に、鳥渡血の気を上らせ た。彼女は、 「まあ、1」と云ったきり、あとは微笑を以て野村を迎え た。その「まあ、」には驚きや嬉しさや、恥じらいや、悲しさ やが、千万無量の意味をなして含まれていた。 「具合はざうですか。」と野村は月並な言葉に感情を匿し乍 ら、枕辺に寄って秀子を見凝めた。その顔は衰えた為めに眼が 大きくなって、濡れたような|黒瞳《くろめ》の涼しさが、透いて見える程 蒼白い頬に、|陶器《せともの》の上に落した墨点の如く際だっている。殊に その頬は野村のために、今灰なる紅みを底の方に湛えた。そ れを見ると野村は、そっと口を|吻《つ》けてやり度いような、或るし んみりとした愛憐の衝動をさえ感じた。 「何でもないのよ、もう。直ぐに快くなりますわ。」 「そうですか。ほんとにお大切になさい。僕も来ましたしする から、もう心配しないで早く癒って下さい。」 「貴方どうしておいでになったの。」秀子は急に気が付いて、 詰問するような目調になった。 「貴方をお見舞いに来たんですρ丁度研究所の方は一段落つい て、鳥渡隙になったものですからね。」 「ほんとう?」 「えゝ、ほんとうです。」 「ではもう病源体は解りましたの。」       玖か       き 「いえ、まだ確とそうとは定まりませんが、こゝ迄進んでいれ ば大丈夫と云う点まで"漕ぎつけてあるのだから御安心なさ い。」  併し秀子は病人の直覚で、その言が真実でないのを見て取っ た。|而《モ》して今度は搦め手へ廻った。 「そう、1ではどうして私の病気の重い事がお解りになりま して〜」 「それは兄さんに聞きました。」 「|不可《いけ》ない兄さんね。」lと秀子は黒川の方を顧みた。「だから余 計な事をお知らせして、野村さんに御心配をかけちゃ済まな いって、爵願いしたじゃありませんか。」 「それだからといって僕も、まさか匿し切りに匿す事なんぞ出 来なかったからな。ほんの|鳥渡《ちよつと》野村君にそう云ったら、野村君 も丁度隙だから見舞いに行くと云い出したんだ。」黒川は仕方 なしに弁解めいた事を云った。 「嘘仰しゃい。きっと兄さんが野村さんを伴れていらしたんだ わ。野村さんが研究で忙しくて手も離されないところを、私が 病気が重くなったと云って伴れていらしたのだわ。1私にも う死期が近づいたので、その前に一度会わそうとして伴れて来 て下すったのでしょう。そうでしょう。きっとそうでしょう。」 「一々そう気を廻しちゃ困る。齢前は今病気の為めに敏感にな り過ぎているんだ。」 「そうかも知れません。けれどもそれは|真実《ぬルとう》でしょう。ねえ野 村さん。」 「   」野村は黙っていた。  秀子は猶も熱した人のように云った。 「それならばどうぞお願いですから、私には|関《かま》わず研究所へ 帰って下さいな。もうこうしてお目にも懸かれましたし、私に 思い残すことはありませんわ。あとの齢話はいざとなれば、|悉 皆《みんな》兄さんに致しますから、貴方はどうぞ一生懸命に研究に従事 して下さいな。これが私のお願いですわ。それに私もどうせ死 ぬのでしょうけれど、まだもう少しはきρと生きていて、貴方 の研究の出来上るのを見届けて死に度うございますから、どう ぞ一日も早く成功なすって下さい。私もそれまではきっと生き て居ります。だから私の身体の方はお案じなさらないで、研究 の方で一刻も早く私を安心させて下さい。それが私には何より 嬉しいのでございますから。」  野村はじっと首を垂れて、黙.って秀子の言葉を聞いていた。 彼の顔にはありくと二つの心の闘っている様が見えた。        六五  秀子は猶も続げて云った。 「折角おいで下すったのに、直ぐお帰りになって頂くのは、私 もほんとに辛うございます。けれども私と貴方との間には、謂 わば霊的の結合とでも云うようなものを感じて居ります。私は 離れて居りましても心から淋しくはございません。だから貴方 もお心を強べお持ちになって、どうぞ研究所へお帰り下さい。 それが私のお願いです。」 .聞いていた野村は、つと眉を|昂《あ 》げて決意を示した。 ■「解りました。|毎《いつ》も乍ら凛々しい貴方のお心には、柔弱な私の 身を恥かしく感じさせられます。11宜しい。今お別れするの は辛いけれど、そのお心に対して思い切って帰りましょう。|而《そ》 して業績を負うて再び鎌倉に訪ねて来る日を楽しみに、勇んで 研究所へ立帰りましょう。こうなったら更に一日も早く、研究 を成就しなければなりません。それまできっと待っていて下さ い。」 「ですけれど、焦っては|不可《いけ》ませんよ。御自分の力を齢尽しに なって、あとの成る成らぬは神さまのみ心に在るのでございま すからね。」              づもり 「有難う。私もた間最善を尽す心算です。-ほんとによく 云って下さいました。」 「いえ、私こそ齢礼を申さなくちゃなりませんわ。ほんとに生 意気な申分を、よく|御容《おい》れ下すって、私こんな嬉しい事はござ いません。」 「妹! よく云って呉れた。兄さんはお前の入格を更にく尊 敬するよ。」 .今迄傍にじっと両人の問答を聞いていた黒川は、感激に燃え 乍らこうロを容れた。 「あら兄さん。そんな事云われると私恥かしい。」  そこで野村は改めて黒川に向った。 「じゃ黒川君。僕は又直ぐ東京へ帰るから、秀子さんの事は すっかり君にお願いするよ。どうか僕の分とも十分着護して呉 れ給え。」 「宜しい。君の分も引受廿た。だから後顧の|患《うれい》なく、一生懸命 勉強し給え。1そうして成功して呉れゝば、今日此処まで来 た事は、或は暇つぶしだったかも知れんが、決して無駄ではな かったのだ。」 「そうだね。ーでは少し|慌《あわたぁ》しいが、直ぐお別れをするとし ょう。」 「それじゃ失敬。もう止めはしないよ。」  野村は座を進めて病床に近よった。 「それじゃ秀子さん。御機嫌よろしゅう。僕も又早く来ますか ら、どうかそれ迄に快くなうていて下さい。」' 「きっと待って居りますわ、左様なら、貴方もお身体を大切 に。」秀子の声はさすが涙に曇った。 「左様なら。1じゃ黒川君、宜しく頼むよ。」  野村は涙を呑んで立上った。|而《そ》して思い切って行きかけた。 すると突然、 .「野村さん!」と秀子が思いに余ってもう一度呼び返した。 ,野村は立仔って振返った。 「何です。」 .「いゝえ、何でもなかったの。もういゝのよ。只もう一度お顔 が見たかっただけなの。」  こう云った秀子の顔には、淡い恋心の血がほんのりと浮んだ。  野村も堪え兼ねてつと|秀《  》子の枕辺へ戻って来た。而して思い 余った様に、 「秀子さん、御免なさい。」と云いざま、秀子の蒼白い額ヘ熱 い|接吻《キツヌ》を押しつけた。而してその次の瞬間には、吾乍ら不躾な 行為をした差らいから、|謝《わ》びるような一瞥を黒川に投げて、急 いで室を出て行った。  秀子は言葉を出す暇は無かった。併し野村の立去った後を見 送っている無言の頬には、自らなる美しき微笑が在った。        六六  秀子に却って激励せられた野村は、残る思いを振り切って東 京の研究所へ帰った。彼の心は不安と興奮とに充されていた。 -コ刻も早く凡ての実験を済まさねばならぬ。」彼はこう幾度 か喧いてまだ適確に挙がらぬ動物試験の結果を思い煩いつゝ、 再び研究室の|扉《ドア》を開いて入った。 ,「宮田君。今帰りましたよ。」  片隅で顕微鏡を覗いて居た助手は振返った。 「やあ、よくこんなに早くお帰りでした。|彼方《あちら》はもういゝので すか。」 「少しもよくはないのですが、病人が僕に一刻も早く帰って、 研究に従事しろと云ってきかないのです。1それで僕も思い 返して帰って来ました。」 .「そうですか。ー偉いですねその方は。それでこそ貴方の御 愛人です。私は敬服しました。陰乍らその方の御回復を祈りま す。」 「宮田君、有難う。i併し病人はもう全快は覚束ないです よ。私は只病人の生きている中に、業績を挙げて安心させてや る外ないのです。もうこうたっては僕も、必死に努力しなく ちゃなりません。君もどうか更に勉強して下さい。」 「それに就いて間すな。先生。私は貴方に御話があるのです。 どうでしょう、もう大抵の実験は済んでいるのですから、あの 動物試験の結果を待つ迄もなく、もう病源体発見の発表をして 了っては。聞けば向うでも同じ位進んでいるらしいですから、 |鳥渡《ちよつと》でも向うに先んじられては、、吾々の折角の努力が無駄にな ります。研究も舷まで積んで来てあれば、発表したって学問上 の罪悪ではありません。」 「いや、それは鳥渡待ち給え。僕とても研究は仕遂げ乍ら、|他 人《ひと》に名を奪われ度くはない。その位な世間的な事は考えて居ま す-汁れどもその功に焦って、まだ最後の大切な実験が残って いるのに、うかくと発表して了って、万一の間違いでもあっ たらそれこそ一代の物笑いです。だから発表はまだどうか待っ て下さい。」 「私もそう考えているのですけれど(先生が鎌倉へ行って了っ た後、余り心元ないものですから、いっそそう云う方策を講じ たらなぞと、柄にもない悪智恵を絞ったのです。けれども先生 がそう云う御決心なら、勿論お薦めは致しません。私だって何 も好んでそんな事をしたくはないのです。只向うでどうもそん な事をしそうに思えますから、機先を制し度か■わたのです。」 「向うがどうあろうと、此方は此方で一生懸命やる外ありませ ん。それでも遅れたち、……」と云いさして野村は顔を暗くし た。 「遅れたらお終いです勺だから一生懸命やりま」よう。」助手 は奮然とそう云った。  その日から野村は、不安の中に浸りながらも、不安を打ち消 す程必死の努力を続け九。しかしてもう動物試験の結果を待 つのみとなった。がその動物試験の結果は、■何故か巧く行音そ うもなかった。野村と助手とは経過を見乍ら、首を傾げて眉の 間を暗くする日が続いた。併し野村は気を引立てゝ、まだ絶望 するには当らない結果を待っていた。  すると或時突然研究室の|扉《ドア》を叩くものが在った。 「|誰方《どなた》?」と助手が内から聞き返した。 「僕です。星野です。鳥渡お話がありますから、開けて下さ い。」外の声は答えた。  野村と助手は不安の顔を見合した力|而《そ》して一瞬の躊躇の後や むなく扉を開けた。 「さあどうぞお入り下さい。」 六七  星野は昂然として入って来た。野村はその顔を鳥渡見た時、 既に星野の話と云うのが何であるかを直覚した。そうして息が |窒《つま》るほどの圧迫を心に感じた。  星野は|四辺《あたり》を見廻し乍ら、先ず「忙しいところを済まない ね。」と野村に会釈めいた事を云った。 「いや。1」野村は辛うじてそれに答えた。 「時に君の研究の方はもう大分進んだかね。」星野は平然と本 論に入り出した。  野村は助手の方を鳥渡見乍ら、一時何と答えたらいゝだろう と思った。いっそ思い切って星野の前で、今すっかり出来上った と云って了おうかとも思った。が、幾ら星野に敗け度くたいと は云え、又、大体の研究は積んでいるとは云え、蚊でそう云い 切るにはまだ一点の疑念が在った。|而《モ》して星野の顔を見てから 急に、自分の業績を誇張するのが、何よりも卑怯に思われた。 「研究か。1うむ、あれは大体の見当だけは付いたが、まだ 出来上った訳ではない。実はまだ動物試験の結果が思わしくな いのでね。」 「そうか。1では学術的に云うと未だ出来ていないも同様だ ね。」 「まあそうだ。1病源体は発見してある積りだが。」  助手は堪え兼ねて傍から口を出した。「あの病源体だけは間 咄遅いないのです。」  星野は助手の方を冷然と見やって、改めて野村に向って云い 出した。 「ところで、今度は僕の方の問題だが、僕の方でも、病源体の 発見は勿論、その後の実験まで凡て済んだよ。実は今日、すっ かり業績が上ったので、取り敢ず新聞紙上にだけは発表するこ とにした。就ては君も同じ物を研究していたのだし(|労《かたぐ》妙な 関係になっているしするから、わざと出し抜いたとでも思われ ては困ると思って、今日は一応通知に来たのだ。ーどうか、 悪く思わないで呉れ給え。」  野村は星野の入って来た時、既にその言葉は覚悟していた が、こう面と|対《むか》って切り出された時は、緊張の極苦痛すら感じ なかった。彼はようやく沈欝な声でとう答えた。 「そうか。君の方でもう成功して了ったか。1それはお目出 度う。」  助手は堪え兼ねてくるりと二人に背を向けた。■  星野は猶も冷然と云った。 「何しろ僕の方では大分旧くからやって居たのだから、今度位 は僕に業績を譲って呉れてもいゝさ。僕が発見しても君が発見 しても、学術上には同じことだからね。」黙然と星野の得意な 顔を見て居た野村は、その時突然こう云った。 「星野君。鳥渡この顕微鏡を覗いて見て呉れ給え。君の発見し た病源体と云うのも、此のスピロヘータだろう。」 「どれ。」と星野は近よって覗いた。|而《そ》して野村の方を顧み、 急に笑い出し乍ら、「なあんだ、違うよ。こりゃあ君、一種の |恥垢《ちこう》スピロヘータじゃないか。僕の見つけたのはこれじゃあ無 いようだ。」 「そうかね。」野村は真向から頭を割られたように覚えて、思 わず顔を赤らめた。 .・「兎に角僕のは今度の学会で、凡て発表する積りだから、君も 是非見に来て呉れ給え。1今日は忙しいから是で失敬する。」 .星野はそう云って又昂然と室を出て行った。  野村は助手と二人になると、初めて瞭然と自分の地位を自覚 した。「自分はもう凡ゆる点で敗者だ。誰にも顔向けが出来な い。」そう思うと彼は暗濃たる涙を抑え兼ねた。助手もさすが に口惜涙に咽んでいた。 「宮田君。君には折角手伝って貰い乍ら済まなかった。」、・ 「いゝえ、私こそ。1だが残念です。」 「いや、もういゝ、もういゝ。僕たちも最善に近い努力は尽し たのだから、今更思い残すことはないよ。1さ、・僕たちも今 日は之でよして、家へ帰るとしよう。」  二人は惰然として研究室を出た。        六八  野村は研究所を出ると、助手と別れて一人帰途に就いた。  静かな夏の太陽は、白金台の彼方に落ちかゝっていた。,空を 染め雲を彦ませた余光が、丘上の建物の半面を輝かし、樹々の 梢を掠めて、さながら何人かの勝利を光栄あらしめる如くに見 えた。併し野村自身はその勝利老ではないめである。彼は路に 曳く彼自身の長い影を見て、黙々として帰って行った。. ,彼が力なき身体を電車に託して、本郷の家まそ帰り着いた 時、|四辺《あたり》はもう闇に包まれていた。その闇こそ今彼の心を包む に相応しきものである。彼はその中で人知れず涙を拭うことも 出来た。  併し自分の家の玄関に立って、|毎《いつ》も乍らの電燈の光を見た 時、野村は一寸避難港を見出した船のようた安らけさを覚え た。 「只今。」彼は|毎《いつ》もの通りさり気もなく云った。がその声に力 は無かった。 「お帰んなさいまし。艶疲れでございましょう。」迎えるお咲 賦何も知らなかった。  お咲は今迄学問に就ては、一言も野村に聞いたり云ったりし た事はなかった。彼女は只管に家事をのみ|是事《これこと》とした。野村は その純粋に|家妻《ハウスフヲウ》らしい態度を、或点に於て物足りなく思っ た。偶には野村の研究の事も聞いて呉れゝばいゝたぞと思うこ ともあった。|而《モ》してそう云う時は|毎《いつ》も秀子を思い出した。けれ ども今夜と云う今夜は、さすが研究に無関心なお咲の態度を、 ひそかに感謝しなければならなかった。彼は善良なお咲の前 で、今更にそんな事を語りたくは無かったのである。・  けれども、一二人が小さな食卓に向い合つた時、思い屈した野 村の様子は、さすがお咲の眼にも気附かずには居なかっーた。ー 「今日はどうかなすったのでございます?.御気分でも齢悪い のですか。」彼女はとケくこう問うに到った。  野村は、何も云うまいと思っていたが、そう問われると、思 わず、 「お咲さん、僕は学問にも失敗した。婆やに対して済まな い!」・と涙を浮かべて云った。  お咲は何と云っていゝか解らなかった。そう云う苦痛と悲哀 とを、慰める語彙は彼女には無かった。只、.小さな声で「そん な事はありませんわ、そんな事はありませんわ!」と云ってい るのみだった。 「い,や、ほんとに婆やばかりでなく、もう誰にも顔が合せられ ないんだ。僕はもうほんとの劣敗者だよ。意気地なしだよ。」 「そんな事ありませんわ。」 「いや、お咲さんだってそう思っているに違いない。是では誰 にだって愛想を尽かされる訳だ。」こう投げ出すように云い乍 ら、野村はふと|秀《  》子の事をはっきり思い浮かべた。そして心の 中で、「併しあの人だけはまだ自分を棄てはしないであろう。 失数してのめノ\と|会《ち 》わす顔はないが、それでも盲分を慰めて 呉れるものは、あの人兄妹を措いて外にはない。」と考えた。  お咲はもう慰めの言葉に窮して、野村の顔を見てはた讐同情 の涙を浮かべるのみだった。  野村は殆んど喉へ通らぬ食事の箸を置いて、突然、 「お咲さん。僕は之から直ぐ鎌倉へ行って来るよ。」と云って 立上った。  お咲は吃驚して野村の顔を見守った。が直ぐに、 ー.「それが宜しゅうございますわ。きりとそれがようございま す。」と賛成した。  野村は用意を改めて鎌倉へ行くことになった。が鎌倉こそ彼 の唯一の避難港で無ければならなかった。        六九  野村が鎌倉に着いたのは、,夜ももう可なり晩かった。が、黒 川の家の玄関は、事ありげに開かれて医師の乗って来たらしい 悼が待っていた。黒川自身は外科専門なので、秀子は土地の山 田と云う医師にかゝっている筈だった。察するところ今夜は急 に、一その医師を呼ぶ必要が生じたのではあるまいか。ー野村 はしんと明るい玄関に立った時、そう考えざるを得なかった。 彼は途々敗者の悲痛を|閲《けみ》した上、又此処で新しい苦痛に身を委 ねゝば次らたかったのである。  野村は心|急《せ》き乍ら玄関に靴をぬいでいると、黒川が自身で奥 から出て来た。 「あゝ君か。1誰か玄関へ来たようだから、ひょっとしたら 君じゃあるまいかと思って出て見たら、矢っ張り君だった。 ーだがどうして今日来る気になったのだい。秀子の悪いって 事が解ったのかい。」黒川は興奮し乍ら小声で訊ねた。 .「それじゃ矢っ張り秀子さんの病気も悪いのだね。そうか。 一-僕は又それを知らなかったが、して見ると今日は僕に取っ て、ほんとうに大悪日だったと見える。」 「どうしたんだ。君の方にも何か在ったのか。」 「僕の方もとうく駄目だった。星野に先んじられて了った。」 「そうか。」  黒川はそう云ったきり、暫らく何とも云えずに、野村の手を 取って暗涙に唾んだ。,二人は直ぐ秀子の病室に行きもやらず に、余りに迫り来る不幸の数々を、互いに無言で嘆き合った。  野村は黒川の手を握り返して沈痛に云った。  「それで僕の方はもう仕方がない。が秀子さんの方はどうした 一のだ。そんなに不可ないのか。L  「不可ない。宵の目から山田さんに来て貰ってるが、山田さん の診断では、もうヌル、ドライ、オーダー、ツワイ、スツンデ  (僅か二三時間)だと云うんだ。それで僕は君に知らせようか どうしようかと思い煩って居たんだ。」  「二三時間, もうそんたにまでなって了ったのか。どうして ーももう駄目なのか。」  「駄目らしい。僕でさぇもう諦めた。」 ,「あゝ黒川、僕はほんとにどうしよう! 余りに運命は残酷 だ。」  「尤もだ。1が君もどうか諦めて呉れ。」黒川も男泣きに泣 いた。  「じゃもう一刻の猶予も出来ない。直ぐ秀子さんの病室へ行こ う。1併しねえ黒川、僕の研究の失敗は、此際秀子さんに 云りたものかどうだろうか。」  「そうだね。死んで行く者を此上悩ませたくはない。……」  「嘘を云って安心させるにも忍びないし。I聞いたら秀子さ んは力を落すだろうなあ、|而《そ》して死期を早めるだろうなあ・. それを考えると僕は堪らない。」 「併し秀子の人格は、そう云う事には堪え得るような気もす る。少くとも嘘で胡魔化すには余りに|崇高《けだか》いような気さえする。 1さればと云って死ぬ前だから、……あゝ、ほんとにどうし たらいへだろう。野村、僕にもどうしたらいゝか解らない。」 ,併Lその間に野村はつと決心を|定《き》めた。 「いや、矢っ張り云って了おう。.云って僕の不才を謝まろう。 その方がいゝ。1そうしないと折角清い僕と秀子さんとの関 係に、最後の黒点を印する事になる。.そうだ。僕はすっかり」 云って了おう。」 「そうか。それもよかろう。それが秀子の最後の人格の試金石 になるかも知れん。i兎に角あの病気の常で、当人はまだ意 識は頗る明瞭だからね。それを聞いて何と云うか。1」 「あゝく、死を前にした愛人に、自分の失敗を告げなくち戸 ならぬとは! 黒川察して呉れよ。」  黒川は無言で野村の手を取った。而して二人は病室へ入って 行った。        七〇  秀子は医師と看護婦に看とられて、静かに病床に横たわって いた。彼女はじっと眼を閉じていたが、今、入って来る人の足 音を聞いて、ばっちりと澄んだ|黒瞳《くろめ》を見開いた。|而《そ》して、野村 を認めると、思わず身を動かそうとしたが、もう身を起す力さ え無かった。  野村は余りに衰えたそめ顔の、余りに澄んだ美しさに、急に 胸が迫って来て、暫しは枕許に坐ったまゝ、1二人はじっと 顔を見合うのみであった。 「秀子さん、又来ました。来ずにはいられなかったのですか ら、どうぞ堪忍して下さい。」やゝあっ七野村はごう云った。 -「いえ、いえ、そんなお詫なんぞ要り書せんわ。私も来て下 すったのをほんとに嬉しく存じます。-私だって何も、,冷た い血ばかりではございません。而して何も貴方にお会いしたく ない訳ではございません。たr御研究の方が、……」 「秀子さん。■その事ならもう云わないで下さい。その事を仰 しゃられると身を切られるように辛いのです。」 「どうかなすったのですか。」 「貴方に申訳ありません。-業績は星野に先んぜられまし た。」野村はこう云い放って顔を伏せた。ー  秀子は一瞬間眼を閉じた。が直ぐ又もとのように見開いて、 低い、併し乍ら澄んだ声でこう云った。 「そうですか。1併しそんな事なら何でもないじゃございま■ せんか。たとえ星野さんに先んぜられた所で、何もあの人に 勝ったとか敗けたとか云う訳ではございませんし、貴方が仮令 お遅れになった所で、あなたの能力が劣つて居る訳ではござい ませんわ。私どもは貴方を信じて居ります。失敗なすっても信 じて居りますわ。いえ、失敗なさればなさる程、もっとく貴 方を信じ、又愛する事が出来ますわ。」 「そう信じていて下さればこそ、猶更貴方がたには顔向けが出 来ぬような気がします。秀子さん、ー貴方もこんな脇甲斐ない婚 約者を持って、ほんとうにお気の毒です。どうぞ堪忍して下さ い。」 「何を仰しゃいます。私の心がそんな事で、少しでも動くとお 思いになってはお恨み申しますわ。私はいつ迄も貴方を、,..・… お愛し申して居りますわご 「有難う秀子さん。この脇甲斐ない劣敗者の僕を、そう迄思っ て下さるとは!」と野村は思わず秀子の痩せた手をとり、「そ れにつけても秀子さん、貴方ももう一度どうか癒って下さい。 一刻も早く全快して、弱い僕の心を貴方のお心で励まして下さ い。貴方無しに私は生きて居られない気がします。」  秀子の頬には淋しい微笑が在った。 「私も癒りとうございますが、もう諦めて居ります。私はもう 思い残す事は無いんですもの。一時は自分でも不幸な女だと思 いましたが、今ではこうして貴方の御手に縄って幸福者として .死んで行けるのですもの。1それは私共の幸福は、淋しい幸 福であったかも知れません。けれども私はこれで満足ですわ。 貴方の研究の遅れたのなぞ、貴方の清い愛を思うと何でもあり ませんわ。私はほんとに是丈で何も貴方に求めるものはござい ません。1--どうぞ貴方も此上とも、お|幸福《しあわせ》にお暮し下さい。 それから余計な事を申し上げるようですが、どうぞ貴方も早く 別な方と御結婚なすって下さい。私はこれを死んで行くものゝ 嫉妬として、口先ばかりの反語で申し上げるのではございませ ん。陰乍らいゝ御縁を祈って居りますわ。」 「秀子さん!」野村は非難するように呼び止めた、「何を仰 しゃるのです。」 「いゝえ、ほんとうにそうなすって下さい。貴方に後々まで操 を立てゝ頂いては、却って私の心が済みません。」 「そんな事はどうでもいゝではございませんか。それよりも貴 方が元気を取り直して、一日も早く癒って下さらなければ。」 野村は絶望と知りつゝも、そう云わずにはいられなかった。 「いゝえ、私はもう駄目です。」  こう云って秀子は再び眼を閉じた。        七一  秀子はそうして眼を瞑った儘、暫らくの間は身動きろしな かった、野村も黒川も他の人たちも、じっとその端正な病顔を 見凝めていた。気のせいかその顔色は更に|蒼白《あおじろ》さを増したよう だった。ふと黒川は秀子がこの儘、すうっと死んで了うのでは あるまいかと思った。彼はその不安から急いで呼びかけた。 「秀子! 秀子4」 .併しまだその答えは無かった。黒川は更に大声で呼んだ。 「秀子! どうした。秀子!」  秀子はようく微かに眼を見開いた。 「秀子… あゝ気が附いたか。」黒川は野村と共に顔を寄せ た。 「あゝ兄さん。私もう死ぬのでしょうか。」彼女の声は更に微 かだった。 「大丈夫だ。そんな事は無いよ。」 「いぇノ\、死ぬのなら安らかに死なして下さい。もう一度野 村さんにお目にかゝって、もう一度左様ならを申し上げれば、 もうそれで思い残すことはありません。1野村さん、どこに いらして。」 「此処です。僕が見えないのですかご野村は更に間近く顔を 寄せた。 「いゝえ、よく解ります。眼を瞑っていても、はっきり解る位 ですもの。iでは左様なら。御機嫌ようお暮しなすって下さ 一い。それから星野さんや澄子さんは許して爵上げなさい。私も あの人たちをすっかり許しています。」 「貴方が、1何故です。」野村は場合を忘れて聞き返した。 「兄さんもお聞き下さい。私は今苦しい餓悔を致します。」  医師と看護婦とは気をきかして座を外ずした。  秀子は続けた。 「星野さんは、以前、私の恋人でした。私は澄子さんの前にあ の人から愛されていました。あの頃は何の考えもなかったか ら、兄さんに秘密で何本も手紙をやり取りしました。が、その |中《うち》に星野さんは澄子さんの方へ行って了ったのです。私は一時 ほんとに人を恨みました。けれどもその恐ろしい心の破産を、 ふと信仰に依って救われて、ようやく凡ゆる人の罪を許さねば ならぬ心になりました。|而《そ》して今はこの心に満足して、安らけ く死んで行けるような気が致します。1私はいつも乍らの生 意気を云うようですげれども、どうぞ貴方もこの心にだけは なって頂きたいと思います。」秀子は低いが最後の力を籠めた 声音でこう云った。 「解りました。私も許せるだけは許しましょう。けれども私は 弱い人間ですからね。」野村は眩くように答えた。. 「いや、併し僕は愈ぐ彼らを許す気にはなれない。秀子は秀子 としての道を踏んだゝけだ。僕たちには僕たちの道がある。」 黒川は傍から昂奮して云った。「それは兎も角、お前はお前の 道に於て、ほんとによく許してやった。兄さんも齢前の心が嬉 しいぞ!」 「有難う。兄さん。そう云って下されば私沢山ですわ。■1で は左様なら。・兄さんも野村さんも。……」  こう云って秀子は、今度こそじっと死を待つ瞼を閉じた。  黒川も野村も、もうこの上名を呼び返すようた事はしなかっ た。彼らは黙って、只秀子の愈ぐ澄んで行く顔色を見守るばか りだった。秀子の呼吸はだんノヘ低くなって行った。野村の握っ ている秀子の手の脈もだんくと|途断《とぎ》れ勝ちになった。……  医師は再び入って来て、野村たちの前ではあるが、主治医と しての最後の診察を試みた。|而《そ》して、二人に最後の言葉を下し た。  何時の間にか秀子の呼吸は潜まり返って、もう心臓の鼓動も 消え去っていた。  こうして兄と愛人とに介抱され乍ら、薄命に過ぎた黒川秀子 は、薄命のまゝに淋しく満足して、静かにうら若き一生の幕を 閉じたのである力        七二  本郷追分の教会に於ける秀子の葬式は、故人が生前愛諦した 三百九番の讃美歌を以て初められた。ー   「夕日は|陰《かく》れて、道は遥けし、     行く末いかにと、思いぞ煩ろう。    吾が主よ、今宥は共に|在《いま》して、     淋しきこの身を、はぐくみ給え……」 ・野村は|緩《ゆる》やかに起こるその第一節を聞き乍ら、黙然として眼 の前の祭壇を見凝めた。白き花環もて飾られたる白き枢は、黄 昏ならぬに灰暗き壇上に浮び出ている。彼は耳に讃美歌の哀韻 を聞き、眼に淋しき真白の花を眺めて、堪えに堪えた涙が熱く 眼の底に湧き出るのを覚えた。  彼の右には兄の黒川がいた。彼の左にはお咲がいた。|而《そ》七て |背後《うしる》には森戸子爵の兄妹がいた。お咲と|淑子《よしこ》とは式の初まると きから、涙を抑え兼ねていた。黒川も既に堪え兼ねて、救いを 乞う様に野村の顔を見ると、今溢れんとする一と雫が、野村の 眼尻に白く光っていた。黒川はそれを見ると忽ち湧柁たる落涙 に捉えられて了った。只森戸子爵だけが、泣くのを忘れた人の 悲哀を以て、じっと腕を組んだまゝ、涙の谷なる人の世の|相《すがた》を 眺めていたj ,讃美歌は猶も続く。・:   「親しき友みな、先だち行きて、     小暗き浮世に、一人残りぬ……」  故人の信友が唱う哀切たる句々は、直ちに野村の今の心では なかったか。あゝ|真《まこと》に一人この小暗き地上に残されて、彼はど うしてこの先きを生きて行くべきであろう。さればとてどうし てこの生を断つべきであろう。永らぇた彼に比ぶれば、死んだ 秀子は幸福であった。薄き運命を薄きが盤に諦めて、あらゆる この世の罪あるものを許し、微笑んで天なる主の許に行きたる 彼女こそ、真に祝福を受けたる一人に相違なかったのである。   「み胸に|免《よ》りつゝ、眠らせ給え。     |永世《とこよ》の|旦《あした》に、醒むる時まで。……」  讃美歌は人々の鳴咽の中に済んだ。而して更に憂わしげな祈 薦が初まった。皆は頭を垂れ脆いて、壮重なる中に哀韻を含ん だ、主祭の牧師の言葉に耳を傾けた。  その時一人の遅れたる弔客が、静かに|扉《ドア》を開けて入つて来 た。それはうら若き一人の女性だった。彼女は遅れたのを詫び るように、そっと顔を赤らめて|四辺《あたり》を見廻したが、灰白い枢に じっと眼をとめると、哀しげに面を伏せて、そっと隅の方の席 に身を下した。  祈濤は終って、聖書が読まれた。それから故人の信仰生活に 就て、信友たちからの素朴な追憶が語られた。凡ては清い白い 花のような思い出草に、露を宿したものゝみであった。|而《そ》して 愈ぐ永訣を告ぐるべき順序となった。  黒川が先ず手にした花束を献げた。野村は直ぐその後から、 涙に赤めた眼を匿して進み出た。彼は心で秀子の遺骸に対し て、最後に告ぐるべき言葉もなかった。 「秀子さん、左様なら。」彼は胸の中でこう彊くのみだった。  ,お咲、森戸兄妹を初め、信友なる人々が続いた。隅に涙を 拭っていた令嬢も、蔭乍ら告別に来たらしい様子であったが、 潜み兼ねてその後から出て行った。彼女も心を軍めて枢に告別 した。而してふと|背後《ラしろ》を振り向くと、そこに野村が感謝と悲哀 を浮べて、立っているのを見出した。彼女はその顔を見ると 喉が|塞《つま》った。 「野村の兄さん!」彼女はこう|限《き》り云えなかった。 「輝子さんですか。ーどうも有難う。」と野村は静かに云う のみだった。  けれども二人はそれだけの言葉の中に、お互いの心持をはっ きり知り合った。1  式は三百九十五番の讃美歌を以て終った。……   「やゝに移り来し夕日影の     残る我が命、今ぞ消ゆらん。    |御使《みつか》いよ。翼をのべ     永しぇの故郷へ載せ行きてよ……」        七三  秀子を失った野村は、澄子を失った時に優るとも劣らぬ悲痛 を胸に受けた。|而《しか》もその上に学問上の失敗さえ伴うては、殆ん ど全人格に破産を受けた如く感じたのも尤もである。  彼は一室に閉じ籠ったきり、明るい夏の数日をた間轡ぎ暮す のみだった。さすがに前の自殺の失敗から、もう再びそれを企 てる勇気が無いように見えた。彼は再び生きて行く目的を失う て、しかも生きて行かねばならぬ苦しい自身を再び蚊に見出し た。人はこうなって来ると必ず、ば室に垂籠めて嘆き暮すか、 又は酒に欝を遣るかどちらかの道を選ぶものである。野村は何 をする気もなく、あらゆるものに気落ちがして、た父快々と思 い暮すの外は無かった。  野村を再び又心弱しと難じてはいけない。余りに大いなる苦 痛は、再びその打撃から回復する時があろうとも、先ずその当 座は鎗沈の階段を経なければならたい。'野村自身は既に再起の 力なしと迄に信ずる程深く、悲観の淵に|陥《はま》り込んだだけなので ある。  黒川も決して悲観無しには過し得なかった。併し兄妹の愛は 激発的でないだけに、それを失う悲哀もそう痛切ではなく、永 くは続くが地味なものだったρ殊に野村の悲痛が彼のよりもっ と大きかったゝめ、彼は自分の悲しみをさて措いて、思わず友 を|励《いた》わり慰むる方に向わねばならたかった。それに又彼にはお 咲の愛が待っていた。ー  黒川も秀子を失った後は、東京へ戻って本郷森川町に下宿し た。野村と同居してもいゝのではあるが、愛人を失うた野村の 前で、お咲と起居を共にするのは、彼の東洋流の友誼に於て忍 びなかった。そこで彼は別な家に離れてい乍ら毎日訪ねて来て は野村を慰め励ました。  お咲もひそかに婆やの信仰に|傲《なろ》うて、野村の元気を回復する のを、婆やの残して行った道丁様の絵姿に祈った。  けれーも野村は少しも元気を回復はしなかった。彼は帰朝以 来の不運続きを思い出しては、新なる嘆きの涙を流し続けた。、 彼は天から呪われているような気さえした。お前はもう恋に於 ても、能力に於ても劣者だから、再び世に出る必要はないと宣 告されたような気がした。捲土重来を促す一つの煉獄にして は、彼の苦痛は少し大き過ぎたのである。  或日一鉢の白い薔薇が野村の許に届いた。差出人は解らな かったが、潔白を象徴する花の色は、野村に差出人の誰である かを想像せしむべく十分であった。 .「森戸さまの御嬢様じゃございますまいか。」お咲はふとそう 云った。 「そうかも知れない。併し輝子さんかも解らない。」野村の想 像は幾分か後者に傾いていた。  白薔薇は幾らか野村の室を明るくした。けれども主人公の心 は相変らず暗かった。  又或日、森戸子爵がふらりとやって来た。平民的な子爵とし て野村の居を訪れるのは普通であるが、子爵は子爵の哲学とし て、決して他人の悲しみを慰めに来たのではなかった。寧ろ椰 楡に来たようなものだった。 「どうだね。又流行遅れの憂欝病に取りつかれたね。気を付け 給え。余り|暗《やみ》を見凝めていると、此方が暗になると云うぜ。 1悲観は自ら求むる感情の幽閉なんだから、|鳥渡《ちよつと》気を換えて |偶《たま》には酒でも飲んでみるさ。酒でも飲む方がまだしもいゝ趣味 だよ。酒と神様とは実に人類の二大発明だからね。」  子爵はそんな事を喋って帰って行った。  野村は自らの憂齢を、何処に棄てゝいゝか解らなかったの で、酒でも飲んで見ようかと云う幾らか自棄の気にもなってい た。        七四ー  野村は悲愁と慢悩との中に数日を過ごした。或る日の事、彼 は久しく触れても見なかった新聞を、何気なしに手に取り上げ て見た。  すると杜会部記事の中央に、ふと眼に止まった|標題《みだし》が在っ た。野村ははっと|胸《  》を衝かるゝ思いで、その初号二段抜きの活 字を、じっと見守らねばならなかった。彼は本文を読みたくな かった。けれども読まずには居られなかった。その記事にはこ うあった。.  先ず「発疹チプス病源体の発見。」・と云うのが|本標題《ほんみだし》で、|傍 標題《わきみだし》としては、「星野学士世界的名誉を担う。-|附《つけた》り秋山家 令嬢と新婚の事。」として在った。  「少壮|刀圭《とうけい》界中の秀才として嘱目され、両三年来鋭意伝染病  理学の研鐙に従事し居たりし星野四郎氏は、苦心実験を重ね  たる結果、遂に発疹チブスの病源体なるスピロヘータを発見  し、今日午後六時より開催せらるゝ、帝国病理学会の席上に  於て、其業績を発表する由なり。同病源体の発見は、学界多  年の宿案にして、各国の碩学等しく研究に従事し、吾国に於  ても一二競争的に研究を続けたるものありしが、遂に月桂冠  が吾が年若き星野学士の手に帰したるは、|洵《まこと》に日本医学界の  名誉にして、この業績に依り氏は直に医学博士の推薦を受く  べしと云う。   因に氏の世界的名誉を担いたる上、故秋山博士の遺子澄子 .嬢と婚約成り、近日華燭の典を挙ぐべき筈にして、昨今星野  学士の身辺には、春風春水一時に到るの感ありと。」  辛うじて読み終った野村は、そっと新聞を投げ出して眼を閉 じた。彼の胸中の苦痛は、嵐の極の平静の如くに静かに存在し た。彼は敢て星野を羨み、妬み、怨んでいるのではなかった。 た間何物とも知れぬ恥辱が、彼の心の底を揺った。と同時に何 物とも知れぬ鉄槌が、彼の自信と自尊心とを、粉微塵に打砕い た。 「もう俺なぞには何から何まで駄目なんだ。俺にはもう能力な ぞは無いんだ。用はないんだ。が、さればと云って、死ぬ事さえ も出来ないのだから、たじ破れた心を抱いたまゝ、ふちく生 きて行けばいゝんだ。もう俺なんぞはどうなってもいゝんだ。」  野村はこう考えて、殆んど自暴自棄の心になり了った。  其処へ黒川が暗い顔をして訪ねて来た。  野村は黙って新聞を指した。 「うむ、俺も見た。」黒川は枕欝な声で答え北。     , 「僕は今日の学会へは出席しまいと思う。学者として甚だ卑怯 な態度かも知れんが、僕はもう学者ではないんだからな。僕な んぞには学問にたずさわる資格もたいんだ。僕なぞはもう駄目 なんだ。」野村は黒川の顔を見ると、吐き出すように愚痴を濃 した。 「そんな気になっちゃ困るね。何もそう全人格的に悲観するに は及ばないじゃないか。」.、 「だって実際そうなんだもの。」 「まあいゝさ。君は今凡て否定的にしているんだ。だからそん な|自棄《やけ》な考えを起すんだが、今日の学会行などはどうでもいい として、もう少し勇気を出さなくっちゃ駄目だよ。」 「勇気なんぞもう在るものか。」野村の語調は更に吠き出すよ うだった。  黒川は眉をひそめた。が、更に気を取り直して、「まあ何よ りも君は、凡ての過去を忘れ給え。」 口忘れられゝば忘れたい!」 「忘れられなくとも、忘れようとし給え、少くとも忘れたよう にたり給え。1どうだ。ちと忘却剤でも取って見給え。」. 「忘却剤って?」 「酒だ。少し酒でも飲んで見給え。昔の諺の真理をその儘、酒 は憂いの玉箒である場合もあるよ。」 野村は陰欝な顔を上げて、|而《そ》して自棄な|口吻《くちぶり》で、 「うむ。飲もうか。」と云った。・        七五        一    、 「それじゃ|鳥渡《ちよつと》散歩にでも出て見ないか。その方が気が変るか も知れないから。兎に角、余り引込んでいるのが、一番いろい ろな思小出に悩まされる咽だよ。」黒川はそう云って野村に勧 めたひ兎にも角にも今の局面を打破するのが、.親友野村のため に、一番必要だと思つたからである。  野村はもうこうなっては、悶えの遣り場を外に求めるのも必 要だと思った。彼自身も知らず識らずの中に、悲観の内訂には 飽きたのである。 「それじゃ久しぶりで出掛けて見よう。」 「行って呉れるか。」と黒川は自分の事のように悦んだ。 「じゃお咲さん。野村がちと|戸外《そと》へ出て見るって云うから、洋 服を出してやって下さい。」 「まあ、さようでございますか。それは何よりですわ。」蔚咲 も急にいそくとして、洋服なぞを取揃えた。  二人はやがて|家《うち》を出た。 二体どこへ連れて行く積りだい。」  野村は訊ねた。 「まあ、|眼《つ》いて来給え。君は僕の行く処へ眼いて来て呉れゝば それでいゝのだよ。.きっと行くだろうね。」 「あゝ行くよ。」 「よし。そんならまあ万事は僕に委し給え。」  こう云って黒川は、ずんく赤門の方へ歩いて行った。|而《そ》し て赤門の近くまで来ると、急に足を|緩《ゆる》めて野村にこう話しかけ た。 「どうだい。折角此処まで来た序でだ。学会へ出席して見ない かい。」  野村は暫らく呆気に取られて、黒川の顔をじっと見守った。  黒川は続けた。 「君も苦しかろうが、矢っ張り出席した方がよくはないか。此 処まで連れ出して置いて勧誘するなんて、少し備し撃ちの格だ が、僕も道々考えたところ、どうも君を連れ出した以上、行く ところまで行ウた方がいゝように思うんだσその上で君が堪え られたかったら、その時は又どうでもするから。どうせ忘却剤 を取ろうと云う覚悟まで決めている以上、■もう少し位の苦痛を |営《な》めて置いてもいゝじゃないか。」 「そうだね。」野村も家を出た気持の変り目で、その気が無い でもなかった。只黒川の勧誘が、赤誠から出たにしたところ で、少し悪辣過ぎるように思われた。  黒川もその様子を見て、更に語を次いだ。 「今も云った通り、僕の遣り口は少し悪かったが、こうでもし なければ君は家を出ないからね。厭な計略を用いたんだが、そ こはどうか許して呉れ給え。僕は君を卑怯者にしたくなかった のだ。友達の|自我主義《エゴィズム》かも知れんが、僕は僕の親友の卑怯者の |誹《そしり》を受けるのを見ていられないからだ。君も苦しかろうが、苦 しみ序でだ。二人で出席しようじゃないか。」  野村は蒼白な顔を上げた。 、「宜しい。出席しよう。行くところまで行って見よう。」 「出席して呉れるか。それでこそ君だ。」 、「いや、僕は自分乍ら女々しいのに愛想が尽きかゝっている。 君がいなかったら僕はどうなったろう。」 「その弱いところが君の美点だ。只その弱さに敗け切ってはい けない。1兎に角行こう。」  二人は赤門を入って行った。        七六  医科大学の第八番教室に於ける、帝国病理学会の例会は、も う始まっていた。今日は殊に伝研の秀才、星野学士が発疹チプ ス病源体に関する業績の発表と云うので、出席者の数も|毎《いつ》もよ り多く、教授、博士、来賓、新聞記者等、|毎《いつ》もより晴れがまし い盛会を作っていた。会長|仁田《にた》博士も肥大な身体を揺すつて、 いつになく機嫌がよさそうに見えた。  野村が黒川に伴われて、会場の|扉《ドア》を排した時|仁《 》田博士の開会 の挨拶ももう済みかけていた。皆はそれに気を取られていたた め、蒼自の顔をさっと赤めて、つと入って来た野村を気付いた ものは少かった。が演壇の側に|卓子《テ プル》を控えて、聴衆の方を向い ていた星野は、じっとその方へ投げた、野村の視線を、発矢と 擾ね返すほどに認め合うた。  星野の顔は一種の感激で、輝くような|光《つや》沢を帯びていた。野 村の顔色は気の毒な程蒼白だった。彼は既に此処まで来て了っ た以上、ずっと心は沈静だった。 「此処へ搭けよう。」黒川は野村を促した。  黒川と野村は会場の一隅に腰を下ろした。その辺にいた出席 者の中には、野村の今着席したのを認めて、同情するような嘲 笑するような、好奇的なような、敬意を表するような、妙な瞥 見を野村に投げた。野村自身はそれを嘲笑されているとしか取 らなかった。とその時、 「……では只今から、星野四郎君の発疹チブス病源体に関する 研究の発表があります。どうぞ暫らく御静聴を煩わします。」 と会長の紹介は終った。  星野は参考書類や、拡大図などを持って、昂然と演壇に上っ た。野村は瞬きもせず、その様子を見ていた。が遂に堪えられ なくなって、そっと眼を伏せて了った。  星野は飽く迄自信ある態度で、徐に発疹チブス研究の序論 から、病源体発見の径路、発見した上での二三の実験の結果ま で、詳細に亙って説明した。それを聞いていた野村は、一々思 い当る節ばかりだった。研究の径路も、殆んど星野と同】だっ た。只底力のある星野の声で説明されると、星野の方がずっと 方法が進んでいたように、心弱い野村には感ぜられるのだっ た。 「……で、その病源体のスピロヘータは、此処に標本を取って 置きましたから、どうぞ後に会員諸氏の御一見を煩わし度う存 じます。」と星野は更に声を高めて、「この中には発疹チブス病 源体に就いては、種々御研究なすった方もございましょうか ら、そう云う方々には、猶篤と御検鏡下さるよう、|而《モ》して私の 参考になるように、この上とも御叱正下さるよう希望致しま す。」と云って壇を下った。  そこで講演は終りを告げて、人々は皆その参考品の処へ集 まった。  野村は星野の前へ出て、病源体を見るのに堪えない気もし た。併し又どうせ此処まで来た以上、又彼にも学者としての自 覚がそれを強いる以上、思い切って進み見る事にせざるを得な かった。彼は席を立って行った。黒川も後から続いた。  星野と野村とは、改めて目礼し合った。|而《そ》して野村は熱心に 顕微鏡を覗いた。暫らくじっと見ていると、ふと野村は鏡口か ら眼を放して、星野にきッと云いかけた。 「星野君。これは君この間見せた僕のスピロヘータと同じじゃ たいか。併し君はあの時、|恥錫《ちこう》スピロヘータだと云って笑った ね。」  星野は冷然としていた。 「そうだったかね。ー僕は違うように見たが、君の方で見違った のじゃないか。」 「星野君臣君はーー」と野村は云いかけたが、その時急に又自 分の敗者たる自覚が、ふと頭に来たので、余りに敗者の愚痴と 聞かれるのを班じて、口に出かゝる「卑劣だ。」と云う言葉を 呑み込んで、急いでその場を去らねばたらなかった。 七七  野村は星野の圧迫と云うよりも、寧ろ一種の自己緊張に堪え 兼ねく、とうく学会を出て了った。影の形に添う如く、野村 を愛護して居た黒川は、一緒に会場を出た時、無言の艦野村の 腕をぎゅづと握った。二人は黙って歩いて行った。 ■するとその時「野村先生。」と云って|背後《うしろ》から追い来たった 人が在った。野村は振返って見ると、それは彼の研究室の助手 だった。宮田も一種の興奮で額を自ませ乍ら、つと|寄《  》って来る なりこう云いかけた。 「先生-あのスピ戸へータを御覧にな力ましたか。あれは僕た ちのと同じです。この問はあんな事を云って置いて、平気で大 きな顔をしているのが、僕は癩に障って堪りません。実験だっ て僕たちのより、進んでいると云う程に進んでも居ないじゃあ りませんかω1先生、僕たちは学問のために力を尽してさえ 居れば、それで表面上の成立なんぞどうでもいゝような亀の の、これでは、余りに口惜しい気がします。どうか先生、もう 一度何か研究して、向うを見返してやって下さい。どうぞ私か らもお願いします。」  野村はじっと首を垂れて聞いていた。が、低く吐き出すよう に云った。 { ■「有難う。そう云って呉れるのは有難いが、僕にはもうそんな 気力が無くなった。どうか君はもう僕のような無能力の、・劣敗 者からは何らの期待もしないで呉れ給え。僕はほんとに駄目な んだから。」  併し助手は更に語を次いだ。 「いや、決してそんな事は在りません。私は先生を信じて居り ます。■先生は頭脳がすぐれておいでになるのに、たf気が弱過 ぎるからいけないのです。どうぞ気を取直してやって下さい。」 .「駄目ですよ。僕はもうあらゆる自信を失っているのだから。」 「そうお考えになるから|不可《いけ》ないのです。」  その時まで黙っていた黒川も、傍から口を出した。バイラス=1 「宮田君。なるほど君の云う通りだ。併し今は野村は神経衰弱 になっているんだから、君が何と云一ったって駄目ですよ。野村に 対する療法は、何よりも先ず過去の|深傷《ふかで》を忘れさせる事です。 そうした上で元気の回復を待つより外はありません。まさか是 だけで沈没して了う程の意気地なしでもありますまい。」  野村は傍を向いて、「あゝ僕に意気地なんてものは無い」と 云った。  宮田はそれにも係わらず云った。「そんなら私もその時期を 待ちまし"う! では先生、その時は又私がきりとお手伝いに 参ります。一刻も早くそうなって下さい。」 「そんな時はもう来ませんよ。」 「いや、私は先生を信じて居ります。今からその日を待って居 ります。」  助手はこう云って別れ去った。  野村はその|後姿《うしろすがた》を見送っていたが、急に頭を|樟《ふ》って黒川に 云った。 「黒川。酒でも飲まして呉れ。僕はもうこの儘の気持でいるに 堪えない。酒でも飲んだらどうかなるだろう。」  野村の心はもう自棄に近かった。 「うん。飲んで見るのもよかろう。じゃ僕に従いて来給え。」  こう云って黒川は、先に立って歩き出した。彼は兎にも角に も、野村の気持を転換するのが急務だと思ったからである。        七八 ・本郷三丁目から程遠からぬ街通りに、功ップェー・リラと云 う|西洋料理店《レストラン》がある。家はそう大きくないが、主人が本場で習 得して来た|混合酒《カクテ ル》の調|合《 》と、まず形だけを備えた|仏蘭西《プランス》料理 と、|而《そ》して更にいゝ日本酒を飲ませるので、界隈の客を集めて いた。それにどう云うわけか医科の学生や出身者が、多くこの 店の|華客《とくい》だった。 川  東洋流の豪酒家である黒川は、学生時代からこの店で酒を飲 む事にしていた。彼は花柳の巷の盃盤を知らなかつた。それで 気楽に又手軽に歓飲し得る場所として、此処を選ばねばならな かったのである。  |瑚腓店《ガツプエ 》と連鎖劇とは、実に近代日本文明の二大副産物であ る。過去の伝習的繁裟から逃れて、簡単明瞭に平民的な満足を 買い得る所、趣旨の善悪は別として、確かに吾々の要求の一角 を握っていた。黒川がカッフニーで酒を飲むのも、要するに面 倒臭くないからである。  併し黒川は別として、世のカッフェーの常客なるものには、 所謂カッフエiの女を張りに行く者もある。カッフェIの女 は、|芸妓《げいしや》と素人の間に在って、,之も簡明に異性の匂を供給する からであろう。,カッフェー`リラに於ける黒川以外の客は、大 多数これであった。  リ■ラには所謂|給仕女《ウエ トソス》が三人いた。中にもお駒と云うのが、評 判の美人であった。彼女は常連の一人なる或る洋画家に依っ て、「リラの花」と潭名されていた。そうして帳場に近い|卓子《テ プル》 の一角に坐ってい乍ら、魅力のある|黒瞳《くろめ》の働き一つで、同時に 七八人の客を操っていた。黒川さえも客観的に、その艶麗な顔 を認めざるを得なかった。  まったく彼女に吸引せられて来る客は多かった。併し彼女は 未だ嘗て一度もそれらの客に、所謂張り落された事はなかっ た。彼女は美しいが情の硬い女として通っていた。決して男に 惚れない女として通っていた。 「一体お駒はどんな男が来たら惚れるのだろう。」こんな事が 常連の間に評判されて居た。  彼女の前身は誰にも知れて居なかった。が、その容貌や態度 から察しても、何か面白いローマンスがありそうに思えた。も とは|芸妓《げいしや》だったと云うものもある。もとは良家の令嬢で、一象 の没落と共に蚊まで沈倫したのだと云う説もある。或る華族の 若様と恋に落ちて、間を裂かれた結果だと云う噂もある。,併し 真偽の程はいずれも覚束ない憶説に過ぎなかった。  或時一人の客が、強いて二三杯の葡萄酒を飲ませて、お駒に 実を吐かせようとした。 「お駒さん、君でも男に惚れた事があるかい。」 「えゝ、あったわ。」 「どんな人に惚れたんだい。」■ 「どんな人っていゝ人よ。私さえ惚れたんですもの。」 「華族の坊ちゃんだろう。」 「ふん。1そんなんじゃありませんよ。」 .こうわざと蔑むように云ったが、お駒はじっと遠い処を見る ような眼をした。客は更に追究した。 「矢張り華族の坊ちゃんだろう一|而《そ》して不義は騎家の法度だと 云うので、■お邸を追い出されたのだろう。」 「誰が、1私なら自分で出て了いますよ。子爵の坊ちゃんだ ろうが伯爵の息子だろうが、私は対等にならなくっちゃ云う事 を聴きませんからね。揮り様ながら。」 「大きいね。」  そう云って皆が笑った。その途端に二人の客が|扉《ドア》を開けて 入って来た。二人は自分が笑われたように、一寸眉をひそめた が、隅の方へ行って腰を下ろした。 「いらっしゃいまし。」翁駒は立ってその二人を迎えた。        七九  黒川と野村は向い合って腰を下ろした。 「君は何を飲む。」黒川はじっ之野村の顔を|覗《ラかご》うた。 「何か強い酒がいゝ。強ければ強い程いゝ。」野村は答えた。 「それじゃウイスキ1を一杯ずつ持って来て呉れ給え。」黒川 はこうお駒に命じた。その態度はお駒在れども無きが如く|卓箪《たくらく》 としていた。  野村は両肘を|卓子《 テ プル》の上へついて、顔を掌の間に深く埋めた。 彼はこうして嗜みもしない酒を、無理にも飲まなければならぬ 迄に|荒《すさ》んだ心を、泣き度いように思った。こうまで意気地なく 失意し果てた身を、暗濃と思い耽らざるを得なかった。が、如 何に考えたとてこうなっては、酒でも飲むより外に仕様も無 かったのである。  器駒は銀盆に載せたサイスキーの盃を持って来て、黒川を見 やり乍らこう云った。 「黒川さんは随分いらっしゃらなかったのね。どうかなすった の。」 「うん。」黒川は物憂げに答えた。「いろく不幸が在ってね。 酒なぞは飲みたくなかったのだ。だが又淋しくて飲まずにもい られなくなったから、淋しい同志を連れて飲みに来たんだ。」 「まあ、そうですか。それはお気の毒さまね、けれど貴方のよ うなやんちゃんは、ちと|不《 ち  し》幸な目にお会いなさるといゝんです わ、そしたら少し人間が出来上りますよ。」 「よして呉れ。僕のは冗談じゃないんだから。」 「冗談でなければ、猶更冗談にしてお了いなさいよ。世の中は 不幸をすっかり冗談にして了うと、そりゃあ渡り易いことよ。 私なんざ疾うにそう云う心持になってるわ。」  野村はちらと眼を上げて、この強い女性の顔を見た。  すると罰駒は直ぐ野村に向った。 「貴方、貴方も随分沈んで居らっしゃるのね。どうなすった のご  野村は答えなかった。 ■黒川が傍から、「どうもしないんだよ。た間この男も余り不 幸な目に会い過ぎただけさ。」と口を挾んだ。 「頼もしいわね。私苦労した人大好き。1さあ貴方、ぐっと 一杯お飲み乾しなさいな。|而《そ》して苦労を忘れてお了いなさい よ。」  野村はぐっと杯を飲み乾した。お駒は更に続けた。 「私貴方になんぞ惚れはしませんけれど、不幸には同情だけし て上げますわ。同情はする方でも愉快になるそうですからね。 111してその不幸って云うのはどんた事2 矢っ張り婦人に関 係した事なの。」  野村は又黙ってもう一杯を飲み乾した。  黒川が傍から云った。「なあにこの男は恋人と親友と婆やと 愛人と研究とを、この半年もたゝぬ間に一度に失ったんだ。俺 も慰めるに手段が無くなってるんだ。」 「まあそう。.じゃ私が慰めて上げますから毎日いらっしゃい. 親切にして上げますわ。だけど惚れちゃ厭よ。男って鳥渡親切 にされると、直ぐぼうっとなって|了《  》うんだから。それさぇ無け れば|毎《いつ》でもいらっしゃい。」  野村はまだ黙ったまゝもう一杯を傾けた。 ■「私ね、ほんとうに同情だけはして上げるわ。何だか入つて来 た時かち、貴方が知らぬ人のような気がしなかったのよ。どこ かで、写真か何かで見たような気がしてならないのよ。」  野村は更に又一杯を煽った。|而《そ》して初めて物憂げに答えた。 「だが僕は知らないよ。」 「知らないなら、知らないでもいゝわよ。これから知りさえす れば。」  こう云って彼女は立って行った。  野村は更にもう一杯を空にして、既にしたゝか酔いを発して 来た。        八○  野村は生れて初めてこんなに酒に酔った。  眼の縁、頬、額と|漸次《だんだん》ぽっとした熱を帯びて来て、眼底に映 ずる物皆が、別の世界に来たように朦瀧となり、燈火は量を 被ってしかも|燵《きらく》々と輝いた。  野村の気持は幾らか|悦惚《うつとり》した。 「どうだい。」黒川が話しかけた。 「うむ。酔ったようだ。」 「そうか。別に苦しくはないだろう。」 「苦しいものか。寧ろ快い。否、快く悲しい位なものだ。」 ・「|会《たま》には酒を飲んでみるのもいゝだろう。」 「いゝね。」  併し酒を飲めばとて、心の苦痛は|全然《すつかり》忘れられるものではな い。酔うて忘れられる悲しみと云うものはない。酔えばたf悲 しみが別な形を取るだけである。生々しい現実の悲しみでなし に、殆んど夢のようにほの|八《  》\とした悲しみになるのである。 自分の事でも小説か劇の人物の悲しみのように、謂わば一種の 美化又は芸術化されるのである。1野村は初めてその心の状 態に在った。  野村は頭を擾げて居ようとしても、|自《ひとり》でに下がる位酔いが 廻って来た。もう黒川の顔さえ腺瀧と見えて来た。永い間の不 眠と、精神の疲労とで、彼は思わず|卓子《テ プル》の上へうつ伏して了っ た。すると彼の頭の上で、 「こちらは大変に欝酔いになったようね。」とお駒の云う声が 聞えた。野村は夢の中の遠い声のように、それを聞き|倣《な》した。 |而《そ》してその声の中には、声だけ聞いていると、お咲の声の音色 によく似たところの在るのを感じた。続いて、 「うん。すっかり酔ったようだな。併し僕も酔った。」と黒川 の応ずる声がする。 「|此方《こちら》は一体どこのお方, 私なんだか見覚えがあるような気 がするのよ、もとから貴方のお友達っ・・」 「うむ。そうだ。併しお前なんぞが知ってる訳はないよ。」 「だけど何時か、ひょっとしたら写真か何かで見たような気が するのよ。」 「人違いだろう。この男は野村って云うんだ。不幸な男の標本 だ。」黒川碑酔ってそんな事を云った。 「不幸って、一体どうなすったの。」 「お前になんぞ、聞かせたくないよ。」 ・「聞かして頂戴よ。私、他人の不幸な話を聞くのが、大好きな んですもの。」 ■「まるで、森戸子爵みたいな事を云うね。」  お駒は、じっと黒川の顔を見凝めて、一時ひたと黙った、が、 直ぐ何気ない状態に帰って、 「その森戸ってどんな方?」と訊き返した。 「森戸って、矢ッ張り僕たちの友人だ。漁酒たる平民的貴顕紳 士だよ。」 「その方に奥様が騎在りになって?」 .お駒の言葉は何となく妙な響を帯びた。が、そんな点に粗放 な黒川は、何も気付かずに云った。 「まだ無い。僕たちはまだ一人亀無い。只|定《きま》っているのは僕だ けだ。」 .「まあ貴方奥様がお蓮りになって? 何処の方2 名は何て云 ケの?」. 「翁前に聞かせるのは惜しい。可愛い美人だぜ、美人の中でも 清純派に属する可憐な奴だ。」 「御馳走様ね。序でに名も仰しゃいよ。|会《たま》には|惚気《のろけ》ると気がせ いくする事よ。」 「名か。名は騎咲と云うんだ。塚田咲。どうだいゝ名だろう。」 「塚田咲ですって! まあ、貴方が!」 ㎞お駒の声は思わず高くなった。 「何だ、お前知ってるのか。」 「いゝえ、何にも知らないのよ。只貴方のお惚気が余り手厳し いんで、吃驚して見せためよ。」 「そうか。なあんだ。」  併しその吃驚した声で野村も夢幻から覚めた。 「おい黒川。もう帰ろう。どうか家まで連れてって呉れ。」 「よし来た。」黒川は勘定を払って相扶け乍ら戸外へ出た。 一お駒は暫らく二人の|後姿《うしるすがた》を見送っていた。        八一  その翌日から野村は→もう紛れもなき酒徒の一人となった。 酒は元々好きと云う程ではないが、飲めぬ口でもなかったの で、|会《たまく》ぐ得たる一夜の陶酔は、野村にすっかり酔いの快さを味 わしめて、彼をとうく自棄酒飲みに迄堕落せしめた。  彼は夕方灯の|点《つ》く頃になると堪らなくなって家を出た。而し て黒川に連れられて初めて行ったカップェー・リラの一隅で、 強い洋酒を次ぎくに岬った。こうして悲しさ淋しさがアルコ ールの力で形を換え"自分の五官が癖れて行く様に酔いが廻っ て来ると、ふらノ\と立上って帰って行く。お咲は毎夜晩く なって、殆んど前後を忘却Lた野村を迎い入れねばならなかっ た。野村はもう門口まで来ると、そこに打臥して動かないの で、止むなく寝床まで|繊弱《かよわ》い女の|腕《かいな》にかゝえて、連れて行かね ばならぬ事もあった。 「お咲さん済まない。けれども堪忍して齢呉れ。何㌔好きで酒 を飲むんじゃない1苦しいから飲むんだ。飲まずにいられない から飲むんだ。」  辮咲に介抱され乍ら、野村は泣き乍らこう弁解する事もあっ た。酔うて寝入ったと見える野村の枕が、いつめ間にか涙で湿 り切っているのも一再ではなかった。  齢咲は猶更悲しかった。■彼女は黒川の愛を享けているにして も、現今の自分の主人、自分の世話をして上げている人が、ま るで人が変ったように、連日連夜の|酒盃《さかずぎ》に浸って、学問を忘 れ、自己を忘れるような自棄の態度に出るのを見ては、日夜心 を痛めずには居られなかった。彼女は叔母の遺した道了様に祈 りを二倍した。けれども|効目《きぎめ》は無かった。彼女はこうなって来 巷と、初め野村を連れ出した黒川を恨まずには居られなかっ た。自分の黒川が誘い出したため、野村があゝ迄なって了った のだ。どうしても黒川が悪いのだ。これは黒川に責任を持たせ て、再び黒川に野村を元へ戻させなければならぬと感じた。  或夕野村が出て行べと直ぐ、騎咲は急いで黒川の下宿を訪れ た。彼女は初めて男の家を訪ねる恥かしさも、主人を田心う一念 で打勝った。  黒川砥大学病院から帰って、丁度飯を食っている所だった。 すると突然女中が入って来て、 「黒川さん、奢って下さいよ。可愛い女のお客さまよ。」と知 らせた。 「誰だ。」併し黒川には推察がついた。 「上れば解りますって、どうしても名を仰しゃらないのよご 「そうか。じゃ兎に角通して呉れ。」  女中はにやく笑い乍ら立去って、やがて爵咲を伴うて来 た。 「やあ、記咲さんか。どうして此処へ?」  お咲は女中が行って了うと、直ぐ急に黒川を責めかけた。 「黒川さん。内の野村さんをどうして下さるんです。あんなお 酒飲みにして了って。あれは貴方が悪いのですわ。早くもと通 りにして下さい。」  お咲の態度はいつになく強かった。黒川もその一本気た云い 分に何とも申訳がなかった。. 「だって、酒でも飲ませるより、外に仕方がないじゃない か。」 「だってあんなに毎晩深酒を召し上っては、お|身体《からだ》にきっと障 りますわ。貴方は野村さんが、もうどうなってもいゝと仰しゃ るの。」 「いや、決してそうじゃない。実は僕も|余《あんま》りなんで心配してい るのだ。」 「そんなら一刻も早く貴方からぞう云づて、酒をやめて元通り にして上げて下さい。之から直ぐ野村さんの処へ行って、きっ と忠告して頂戴。|而《そ》して直して頂かなければ、私としても済み ませんわ。それが出来なければ、私貴方とのお約束をやめにし なくちゃなりません。」 「馬鹿な! そんな事があって堪るもんか。じゃ之から直ぐ僕 も行って来る。|而《ぞ》して忠告して来る。」こうして黒川はお咲を 家へ帰して、早速野村のいるカッフエi・リラに向った。        八二  黒川はその足で直ぐカッフエi・リラに赴いた。野村は果し て一隅の薄緑の衝立の蔭に、酒杯を前にしてじっと黙想してい た。彼はもう大分酔っているらしかった。その前の椅子にはお .駒が斜に身を振らせて、野村と|私《ひそ》やかに何か話していた。黒 川はその様子を見て、ふと野村がお駒に魅せられているのでは あるまいかと思った。  黒川は静かに近づいて云った。 「大分話に身が入ってるね。」 「あ、君か、よく来たな。」野村は黒川を見上げて云った力 「今何を話していたのだい。.大分親密らしい御相談のようだっ たが。」  黒川は幾らか皮肉めかして、二人に向って再び云った。 「いゝえ、面白いどころですか。私が一生懸命この方に、お話 を伺おうと思っているのに、少しも確かな返事をなさらないの よ。」お駒は実際恨みがましく云った。 「この|女《ひと》は頻りに僕たちの事を聞きたがるんだ。けれども教え たところで仕方がないからた。」野村もそれに応えるともなく 云つた。 「そんな話ならしない方がいゝね、殊に君は。1ーあ、お駒さ ん、僕にはソーダ水を一ツ。」 「ソーダ水ですつて、まあ、今夜はどうなすったの。」 「少し訳が在るんで酒を廃した。兎に角、云いつけられた通り 早く持って来て呉れ給え。」  お駒は少し不興げな顔をして、帳場の方へ行った。二人にな ると黒川は、改めて野村に云い出した。 「野村、この頃の君は少し酒が過ぎるようだね。聞けば毎晩泥 のように酔って帰るそうじゃないか。そんなに度を過しちゃあ 困るよ。どうだ、もう|此辺《ここら》で|全然《すつかり》廃めて呉れないか。」、  野村は既にとろりとした目を見据えて自棄に云い放った。■ 「ふん、酒を飲めと云って呉れたのは君だぜ。」 「なるほどそれは僕だった。僕は君のあの当時の状態を兎に角 打破する必要上、酒は薦めた。併し酒浸りになって、何もかも 棄てゝ了えとは云わない。これで|身体《からだ》でも壊したら大変じゃな いか。」 「僕の身体なんぞどうなったって、別に誰の損害にもならたい じゃないか。劣敗者はずんく死ぬのが進化なんだ。」 「そう|自棄《やけ》を云っては困る。ー君の身体はどうなってもいゝ なんて。それじゃ僕たちの心配を無駄にするんだね。あんなに 心配しているお咲さんの事なんぞ考えて呉れないのだね。」 「あゝそうだ。僕は僕自身を持て余してるんだもの。お咲さん の事なんか、君が考えてやるさ。それだけで沢山じゃないか。」 「お咲さんは君がこうなったのは、みんた僕の責任だと云うの だ。|而《そ》して僕に、是非君を元にして帰せと云うんだ。ーねえ 野村。これは僕からもお願いする。どうかもう酒はやめて呉 れ。」 「君たちは幸福だよ。心配を共に頒つ人があるのだからね。だ から幸福に暮し給え。僕なんざ全くどうなったっていゝじゃな いか。僕はたった一人なんだもの。」こう云って野村は前に あった盃をぐっと一息に飲み乾した。 「じゃ君はどうしても酒をやめられぬと云うのか。」 「やめる時が来なくちゃやめられない。iおいお駒さん。ウ イスキーをもう一つ。それから少し此処へ来て、僕たちの相手 になって、お呉れ。黒川が僕を叱って困るから、君からもよく弁 解してお呉れよ。」  こう云う野村の様子を黒川はまじノ\見ていた。       八三  お駒はもう一杯のウイスキーを運んで来た。 「今夜はほんとにどうなすったの、黒川さん。そんな怖い顔を なすって。だがそんな顔をなすっても、私ちっとも恐れやしな いことよ。只不景気だと思うだけだわ。」. 「お駒。齢前この上野村に酒を飲ませると承知しないぞ。騎前 が人のいゝ野村を誘惑するんだろう。」 「おや、まあ、それは冤罪だわ。私になんぞ誘惑される野村さ んなものですか。それに私だって、誘惑していゝ人だか悪い人 だか位の見分けはつきます。」 「そんなら何故そう酒をどんノ\持っ.て来て薦める。」 「だって商売ですもの。それにお酒を召し上って何故悪いの。 野村さんは飲まなくちゃならぬ理由があるから飲むんでしょ う。どうせこう云う酒飲みは、.時期が来れば自分で厭になって 廃します。貴方や騎咲さんとやらのような、世間知らずの坊っ ちゃん嬢ちゃんとは違って、私のような苦労人にはそれがちゃ んと見えていますよ。貴方がたの心配こそ無駄な心配です。ど うせこの方がこの儘沈没して了うものなら、今引上げたところ でやくざな人間に終るし、いつか起上って来る人なら、自分で 眼が醒める迄待つ方がいゝわ。ーねえ野村さん。」 「そうだ。そう云って酒を飲まして呉れる鷲前の方が、今の僕 にはずっと友人だよ。」野村は更に吐き出すように云った。彼 は自身黒川にそんな事を云っては済まぬと知りつゝ、募るまゝ に貞分の自棄心を募らせて行った。 「野村、貴様それは真面目で云うのか。」黒川は果して気色ば んだ。 「この場合は少くとも真面目だよ。」 「そうか。ふうむ。1それほど迄に君はこの女に惚れてるの か。」 「惚れている2 誰に。」 「このお駒にさ。」 「はゝゝゝゝ。そう見えるか。そう見えるならそうとして置 け、野村と云う意気地なしが、いろくな女に棄てられた揚 句、とうくカッフェーの女に惚れたってね。そいつもよかろ う。なあ齢駒さん。」 「えゝく、宜しゅうござんすとも。そう云う事なら一肌でも 二肌でも脱ぎますよ。見かけ倒しの親友なんぞより、ずっと思 いやりのある同情をして上げます。輝り乍らリラの花が、咲い たら瑠璃が匂いますよ。」  射駒がこの取って置きの名咬呵を聞きすてゝ、黒川は何も云 わずに立上った。|而《そ》して黙ったまゝ出て行こうとした。 「黒川行くのか。」野村は思わず|背後《うしろ》から云った。  すると黒川は又静かに背後を向いたが、 「僕は今親友を失いかけている。」と沈痛に云って、見限った 人のように出て行って了った。・  野村はその後姿をぼんやり見送っていたが、突然激しい|激歓《すとりなぎ》 に襲われた。彼はつと|卓子《しちテ プル》の上に突っ伏して、迫り来る熱い涙 を両手で抑えた。 「どうなすったの。一体、どうなすったの。」お駒も寄って来 て訊ねた。 「関わないで呉れ。放っといて呉れ。僕は騎前にたんぞ惚れて やしないんだ。しかも今は親友まで失いかけてるんだ。俺は駄 目だ。どうしてこう意気地なしなんだろう。1いゝから放っ て置いて呉れ。お前になんぞ惚れちゃいないんだ。」  こう云って野村は猶も涙をと間め兼ねた。 「解ってますよ。貴方のお心持はよく解っていますよ。私はた だそのお心持に同情して上げているだけなんですからね。心配 おしではありませんよ、可愛いゝ坊ちゃん。さあくそんなに 泣いたり吠えたりしないで、今夜はこれでお帰りなさい。私は ほんとに貴方のお心持なんぞ誤解はしませんからね。」 「お駒、欝前は僕の姉さんだね。」 「そうですとも。だから姉さんの云う事を聞いて、|晩《おそ》いから又 |明日《あナ》いらっしゃい。」  野村はよろくとリラの戸口を出た。        八四  黒川は余りに自棄な野村の態度に、殆んど愛想を尽かしてリ ラを出るには出たが、その儘親友を見棄てゝ了う事は勿論出来 なかった。彼は一種の憤慨と、一,種の悲哀とを心の底に湛え て、あへ迄に成り果てた友を、どうして救おうかと思い耽っ た。彼は永い間一入で街を歩き廻った。 ーふと彼の足は|弥生町《やよいちよう》なる森戸子爵の方に向った。常々子爵は |他人《ひと》の運命に|関与《たずさわ》る事を好またいのを知ってはいるが、野村の 知友と云うものが勘い今日、子爵に先ず訴えて見るのが至当の ように思えたのである。|而《そ》して殊に自棄的な野村の態度を攻撃 し、更にお駒の仁侠めかLた読弁と対抗するには、どうしても 子爵の如き機智を以て、搦手から攻め落さねば駄目だと思いつ いたからである。-そう思うと黒川は急いで子爵邸に向っ た。  黒川は広い玄関口に立って来意を通じると、やがて子爵自身 がそこに立現われた。 「やあ君だね。珍らしい出来事じゃないか。さあ遠慮は要らな いからどんく上り給え。君はまさかに敷台の大きさなんぞに 威嚇されはしまいけれど。」 「じゃ|鳥渡失《ちよつと 》敬します。」  黒川は子爵の書斎に通された。室は子爵の趣味に適うた、一灘 酒なる西洋問で、壁には子爵が向うから齋した、システィン会 堂の壁画の大きな複製が、子爵の|好事家趣味《ディソツタソティズム 》の家具の上に君臨 していた。  子爵は黒川に椅子を薦め、葉巻を薦めて云った。 「その後どうしていました。」 「私は相変らずでした。」 「|而《そ》して|野《 》村君も相変ちず、時|世《 》遅れの|憂轡病《メランコ ア》に|罹《 》り切ってい ますか。」 「実は私もその用事で伺ったんですが、野村がこの頃大変な事 にな力ましてね一私が気をかえてやろうと思って、鳴渡酒を飲 ましたところが、それから毎日酒ばかり飲んでいて困るんで             あた割 す。あの儘で行く去、身体も頭脳も滅茶々々になって了うと思 いますから、今夜私が行って忠告したんですけれど、当人自棄 になっていて、どうしても僕の云う事なんぞ聞かないのです。」 「へゝえ、そうですか。よくあるやつですね。1|息《  》子が余り 固すぎるので、ちと遊びでもさせたらと、|友人《ともだち》に頼んですゝめ て見ると、■それから手もつけられぬ蕩児になる。昔の草双紙以 来の|定《きま》り文句じゃありませんか。今の通俗小説家だってそんな 古臭い趣向は立てない位陳腐ですね。一体野村君には少し草双 紙味が在り過ぎますよ。」  黒川は悠長な子爵の言葉を聞いていられなかった。 「その御批評はどうでもいゝとして、一つ貴方から野村に忠告 して見て呉れませんかしら。私だ之余りに馴れ過ぎています が、貴方からなら幾らか|効目《きぎめ》が在るだろうと思いますが。」 ,「そうですね。併し忠告するのは僕の柄には在りませんね。不 適材を不適所に置くものですよ。」■ .「でも私がお願いしますから、一っ何とかしてやって下さい。」 「でも実際効くかどうだか。」 「じゃ兎も角近々の中に行って見るだけ見て呉れませんか。」 「一体何処に飲んでいるんです、野村君は。面白いところです か。」 「カッフェー・リラと云う店です。」 .「美しい|女給仕《ヴエモトワス》でも居ますか。」 「えゝ、まあいると云ってもいゝでしょう。」 「そんなら場合にょっては忠告をするとして、それを見がてら 行って見ましーうかな。併し、・・イラ取りが、ミイラになっちゃ困 りますからねえ。」 「兎に角僕のために、野村のために行って見て下さいご 「えゝ明日にも行って見ましょう。|而《そ》して出来るなら忠告もし まし4う。」  子爵は何とか彼とか云い乍ら、遂に黒川の熱誠に敗かされて 承知した。        八五  野村は今日も亦夕方になると、堪らなくなって家を出た。 が、昨夜の黒川の忠告を思い起し、自分のそれに対する態度を 顧みると、さすがに良心の目覚めて来るのを憾じてハ直ぐカッ プェーで酒を飲む気にもなれなかった。醒めている今の彼は、 実際もう酒をやめて、元の自分に立戻りたい気もあった。 「そうだ。皆あゝして心配して呉れるのだから、今日限り断然 廃そうかしらα」  そう考えて彼は、今日は淋しさを散歩に依って間も紛らそう と思った。|而《そ》して久しぶりで電車に乗って、賑やかな銀座でも 歩いて見ようと思い立った。  まだ明るい夕暮の事で、銀座の|燈火《ともしび》の賑いは、まだ孤独の 人をそゝるに足らなかった。けれども永らく人を避けていた野 村には、|会《たま》の街頭の|漫《そゴ》ろ歩きに、行き交う無心の人の群を見 て、一種の感慨無きを得なかった。彼は何とはなしに湧き上る 涙を飲んで、|免首《うつむ》き勝ちに歩を移しつゝ、尾張町から竹川町の 方へ|鋪石道《ペヨプメント》を踏んで行った。  と彼が南鍋町の横の切れ目にさしかゝった時、ふと四五台の 自動車が、右手から左手へ、即ち日比谷の方から築地の方へ、 直角に銀座を横切ろうとしているのに出会った。その横町こそ は日比谷大神宮の前から、築地精養軒の横手まで通ずるものに 外ならなかった。  野村は顔を上げて、何気なしにその最初の自動車を見た。す るとその中には、彼の旧師仁田博士夫妻が、フロックに黒紋附. の礼装で、厳然と乗っているのが見えた。野村は何の為めに博 士がそんな自動車に乗っているのか解らないが、兎も角御辞儀 をしようと思って、帽子の鍔に手をかけた。その瞬間に博士の 自動車は通り過ぎて、続いて第二の自動車が来た。 、今度は野村も一種の注意を以て、その自動車を見ようとし た。が、彼の視線が車室の中なる人々に達した時、彼の眼は樗 然と見据えられ、彼の身体は化石の如く凝固した。  その中には彼の忘れねばならぬその人が、しかも盛装の花嫁 姿で、艶々した島田も重げに、白き顔を嬉しそうに|免首《うつむ》けてい た。|而《そ》してその傍にはプロック姿の星野が、真新しい|襟《カラ 》も白々 と、すっくと首をもたげて乗っていた。野村はそれを見た瞬間 に、胸を衝かるゝ思いのまゝ、身動きも底らず立蝋んだ。彼は その場を逃げたいように感じた。が、眼をそむける余裕もな く、彼らの自動車は通り過ぎた。澄子は免首いてるので気附 かぬらしかった。けれども星野はちらと野村の姿を認めたらし く、猶もきッと|勝《ち 》ち誇ったまゝ進み去って了った。野村はまだ 呆然と立っていた。  第三の自動車には、高位の貴族らしいものが是も夫妻で乗っ ていた。この人たちも媒灼人であるらしく見えた。 .続いて来た第四の自動車には、輝子が|毎《いつ》もの|晴《はれそ》々しい顔に、■ これは婚礼姿も殊に|華《はで》やかに、罪なき人の笑みを含んで乗って いた。|而《そ》してその傍には灘酒たる外交官らしい若い紳士が、強 いて作らぬ乍らに品位を保って、すっきりした新郎振りを見せ ていた。  |而《そ》して第五の自動車には、秋山夫人や近親の人たちが、皆礼 装を正しゅうして、今日を晴れと乗り込んでいた。  見受くるところ、愈ぐ日比谷大神宮に於ける婚儀が終って、 是から精養軒に開かれる披露会へ行くのであろう。彼等の自動 車が過ぎて行く道には、恰も薔薇が撒かれてある如く、夕暮の 太陽の祝福する光が漂うた。併し野村が踏んで帰る茨の路に は、既に蒼い闇の影が|小迷《さまよ》うている。  野村は賭然と4立していた。        八六  野村は自動車の列を見送り果てゝ暫らく呆然と立ちつくして 居たが、ふと|我《  》に帰ると、今更に胸の迫るのを覚えた。  夕日は既に影を収め尽して、街頭には蒼荘たる闇が翼を拡げ 初めた。ちらノ\と点いて|騒《ざわ》めく燈火と、行人の慌しい足音と にそゝられて、■野村の心は堪えられぬ思いで満たされた。彼は すっかり|尭首《うなだ》れ切って、徐ろに尾張町の方へ歩を返した。  すると尾張町の角まで来た時、下ばかり見て歩いていた野村 の肩を、不意に叩く者が在った。吃驚して見返ると、そこには 彼の同窓の友人がフロックを着ていた。その人はそう野村と深 く交際しているのではなかった。と云って|会《たま》に逢えば立話をす る位に騎互いに知っていた。が、中途から薬学へ転じたその人 は、少し鈍感な肌合だったので、野村たちの事情にも疎く、星 野との関係の如きは毫も知っていないらしかつた。そこで彼は 野村の|槍気《しよげ》切ってるにも係わらず、遠慮なくこう話しかけた。 「やあ野村君、いゝ処で会ったね。」 「いや。i」と野村も渋々帽子を脱いだ。 「時に、君は勿論今夜の星野の披露会に出るのだろうね。僕も 是から行くところなんだが。l何なら一緒に歩いて行こう じゃないか。」  こう云い乍らその人は、野村の平服姿と困惑した顔を不思議 そうに見凝めた。 「僕は、」野村は少し吃った。「僕は訳が在って出ないんだ。」  併しその人は、遠慮もなく問い返した。 「何故? どう云う訳で〜 あんなに親友だった君が、どうし てその結婚披露会へ出ないのだい。」 「   」野村は黙っていた。 「殊に今日のは二組の披露会が一緒だと云うじゃないか。」 「そうかね。」野村は仕方なくこれだけ答えた。  その男は更に遠慮なく云った。 「君はそれも知らないのか。不思議だね。i何でも秋山家の 令嬢が、姉妹同時に結婚したんだそうだよ。姉の方が星野で、 妹の方は|外山《とやま》とか云う貴族出の外交官だそうだ。何しろ目出度 い話だね。だのに君は何故出ないのだい。」 野村は初めこの男の言葉を、自分に|調戯《からか》っているのかと思っ た。が、まさかにそうではないらしかった。併しいずれにもせ よ野村には、この男の話を聞いているのが堪えられたかった。 それでいくらか突樫貧に、 「出たくないから出ないんだ。先刻から訳が在ると云ってる じゃないか。」と云った。  併しまだその男には通じなかった。 「だからその訳を聞かせ給え。あんな親友だった君が、その披 露会へ出ないなんて訳が在るものか。」  野村はもう我慢が出来なかった。  そこで只黙ったまゝぷいと|横《  》を向いて、 「失敬。」と一言、急に歩き出して了った。  その男は呆気に取られて見て居た。  野村は後をも見ずにさっさと日比谷まで歩いて、急に本郷行 の電車に飛乗った。彼の心は憤慈と、悲痛とで掻きむしられる ようだった。昨日あたりからようやく静まりかけた心は、又嵐 のような感情の波濤に揺すられた。  彼は自分の心をどうしていゝか解らなかった。再び自棄の心 が彼を捉えて了った。 「こう云う時は酒だ。酒だ。矢っ張り酒でも飲んで忘れるしか ない。」.  そう考えて彼は本郷まで来て、リラの扉を開けると、投げ出 したように隅の|卓子《テ プル》に腰を下した。 「おい。ウイスキーだ。ウイスキーだ。ウイスキーを早く持っ て来て呉れ。」        八七  お駒は早速ウイスキーを運んで来た。 .「まあ野村さん。今日は又大変|性急《せつかち》ね。どうたすったの。」  併し野村は陰欝に、「うん。」と答えたきり、ぐいと|盃《  》を飲み 乾した。 「もう一杯。」 「ほんとうにどうしたの。黒川さんじゃないけれど、私も心配 だわ。」 「余計なお世話だ。早く持って来て呉れ。」 あおお駒はやむなく更に一杯持って来た。野村は更に又それを 岬った。こうして彼は四五杯を矢継早に飲んで、出来るだけ早 く酔いを得ようと思った。が、どう云うものか生理的には酔っ ても、|頭脳《あたま》へはなかノ\廻らなかった。そこで又更に三四杯を 傾けた。さすが自棄酒に浸りつけた彼も、一時に七八杯を岬っ ては、首を真直にして居られぬ程酔った。お駒さえも心配げに 傍で見ていた。  その時一人の男が戸口から入って来た。|而《そ》して店の内をずっ と見廻して野村の所在を認めると直ぐ、真直ぐにその|卓子《デ プル》の方 へ進み寄った。 「野村さん!」その人は打伏して居る|卓子《テ プル》の向うに坐って呼び かけた。  野村は酔眼を上げて、前に居る男の顔を見た。それは助手の 宮田であった。 「あ、宮田君か。どうして此処へ,」  宮田は改まった口調で厳かに云った。 「貴方に会いに来ました。会って是非御忠告申し上げに来たの です。」  野村は黙って居た。  宮田は|四辺《あたり》を見廻し乍ら続けて云った。 「貴方が此処へ来て、酒に浸っておいでになると云う噂は、余 程前に聞きました。けれども私は貴方に限って、まさかそんた 事はあるまいと、固く信じていたのです。けれども昨日黒川さ んにお会いしたら、悲しいかな事実だと仰しゃるのです。今夜 私はそれを確かめに来ました。すると貴方のこの|状態《ていたらく》は、僕の 想像以上じゃありませんか。今貴方の眼の前には|洋盃《コツプ》が十も並 んでいます。私はそれが十本の試験管でない事を心から残念に 思います。|而《モ》して貴方の傍には一人の女がついています。私は それが私のような助手でないのを、猶ロ惜しいと思います。貴 方はカヅフェーに居るべきではありません。研究室に居るべき です。貴方の苦しみが如何様であろうとも、酒などを飲んで酔 いに紛らしているべきではありません。」  野村は猶も黙っていて、前にある杯を取って飲んだ。宮田の 云う|言《こと》を少しも聞かぬかの如くだった。 「野村さん。貴方は私の云う|言《こと》を真面目に聞いて下さらないの ですか。」  野村はそれでも黙っていた。そうすると傍にいたお駒が、 「酔っている人を捕えて、真面目に聞けと云うのは無理ですわ ね。」  と|傍白《ぼうはく》を云った。  宮田はお駒の方をじろりと睨んで、 「それでは貴方は言葉で云ったところで、|蓮《とて》も通じないと云う んですね。宜しい。それでは僕が眼の醒めるように、こうして 上げます。」と幾らか興奮に駆られて起上った。|而《そ》して野村の 襟首を掴んでぐいと|引《  》起した。 「野村さん。貴方はこれほど迄意気地なしに成り果てたのです か。」  野村は猶も黙っていた。  すると宮田は突然激しく野村を其処に突き倒して、「えゝ意 気地なしめ! 貴方のような男を信頼していたのは、僕の一生 の失策だった。馬鹿っ! 意気地なし!」と叫び乍ら、三つ四 つ鉄拳で乱打した。.  野村はそれでもじっとしていた。 「何を乱暴なさるんです。」お駒が止めにかゝった。 「とめるな、女! これが俺の制裁なんだ。これが口惜しかっ たら、もう一度研究で来い、意気地なしめ●・」 .そう言って宮田は憤然と出て行って了った。  野村は床上に突っ伏した艦、じっと動かなかった。        八八  助手に突倒され、打叩かれたまゝ、暫らく起きも上らずにい る野村を見て、お駒は心配そうに傍に寄って来た。而して肩に 手をかけて|柔《やさ》しく云った。ー 「野村さん。どうなさいました。どこかお怪我でもしやしませ んか。ーほんとにあんな乱暴な人ったら在りやしない。何 ぞって云うと直ぐ腕力に訴えるから、学生上りの若僧は嫌い よ。あんな御面相は研究室とやらの中でなければ、世間に通用 しない顔だわ。」  野村興突ッ伏した儘で低く云った。 「お駒さん、そうあの男の事を悪く云って呉れるな一僕はあの 男の心持はよく解っているんだ。解っているが、あの男の云う ように成れないんだ。あの男の云うのは尤もだ。僕はたしかに あの男から、叩かれて叩かれて、叩きのめされるだけの価値が あるんだ。甘んじて鉄拳の制裁は受けなければならない。僕は もっと叩かれてもいゝんだ、もっと叩いて貰い度いんだ。僕程 の意気地なしは、どんな侮辱にも価するんだ。」 「だって口惜しいじゃありませんか。」 「口惜しがるならば、先ず自身を口惜しがらなくてはならた い。僕はもうその甲斐性さえ失ったんだ、駄目だく。1何 よりも酒々! もっと飲まなくちゃ遣り切れない。妙に酔いが 醒めて了った。早くもっとウイスキーを持って来て呉れ。」と 野村は漸くよろく起上って、|卓子《テ プル》の方へ身を投げかけた。  その時お駒はふと野村の打伏していた床の上から、,野村の落 したらしい一葉の写真を見つけた。彼女はそれを拾い上げて、 「おや、写真だわね。野村さんのじゃなくって。」と去い乍 ら、何気なしに写った人の姿を見た。|而《そ》して彼女は思わず 「あっ」と叫んだ程に吃驚した。そこには六十位の老女が、、両 手をきちんと膝の上に重ねて、将軍様のお通りでも見るように 慎んで写っていた。 「この写真は貴方の〜」お駒は強いて驚きを鎮めて野村に訊ね た。 「あっ、,それを落したか。落したりしちゃ済まぬ写真だっ た!」 「この人は貴方の何なのご 「僕の母親にも等しい婆やだ、肌身離さずつけているこの婆や め写真に対しても、僕は済まない馬鹿者なんだ。」 「この人は今どこに居て。」 「死んで了った。死ぬ時遺言してまでも僕を励まして呉れたっ けが、その結果がこのやくざな俺の失敗さ。あゝあ、考支ると 堪まらない。」 「えっ、死んだんですって、まあ1」  と騎駒は蒼ざめて口を結んだが、やがて思い返してさケ気も なく、「それはお可哀そうにねえ、お話を聞いただけでも、貰 い涙がこぽれるわ。」そう云って彼女はそっと涙をエプロンの 端で拭った。 「そうしていつお亡くなりになったの。」 「もう百日からになる。」 「そう,」と猶も聞きたげの様子だった。  けれども野村は、「あゝ済まない、済まない。併しもう死ん だ人の話をしたところで、仕方がないから廃そう。それよりウ イスキ吾だ。」と話を外らして了った。 -するとお駒は口調を改めて云い出Lた。 「野村さん。貴方もほんとにお酒をおやめになって下さいませ んか。私からもお願いしますわ。ほんとにお願いするわ。」, 「お前までそんな事を云うのか。」 「えゝ。私も貴方にお酒を飲ませちゃ済まないのです。だから どうぞやめて下さい。私齢願いしますわ。」 「俺だってやめられるものならやめるんだが。今はやめられる ものか。愚図々々云わずに持って来て呉れ。」 「そう迄仰しゃるなら、まあもう一杯だけ、他の人に持って来 させましょう。■併し私は少し気分が悪うございますから、鳥渡 奥へ行かして下さいね一いゝでしょう。」 ,「誰でもいゝから、早く酒を持って来て呉れ、何だか益ぐ《 》|む しゃくしゃして|来《     》た。」 「ほんとに余りお過ごしにならないようにね。1じゃ御免な さい。」  お駒は何となく錆沈して一旦奥へ行って了った。        八九  野村は別な給仕女の持って来たウイスキ!で、新なる酔いを 呼ぼうとした。彼は今夜と云う今夜こそ、我を忘れるまで酔っ 払わねばならなかったのである。  欝駒はどうし九のか、それっきり出て来なかった。野村には 結局それが気楽でもあった。彼は独り杯を傾けては、凡ゆる神 経の麻痒するのを待っていた。 、こうして野村の酔いが再び廻り初めた時、一人の物々しいフ ロヅク姿の紳士が、カッフェーの|扉《ドア》を静かに排して入って来 た。その紳士も亦|四辺《あたり》を見廻して、野村の所在を見つけると、 皮肉そうな微笑を浮べ乍ら近づいた。  野村も何気なしにその方を見ると、思わず立上った。 .「あ、森戸さんですか。」・ 「そうです。」子爵は穏やかに答えて野村の向うに腰を下ろし た。 「どうして此処へお出でになりました。貴方もまさか僕の酒を やめさせようと思っていらしったのじゃありますまいね。」 「はゝあ、先手を打ちましたね。見事に打たれました。1僕 はまあ表面上は貴方に忠告すると云う用事で来たのですが、実 を云えば貴方に忠告する資格なぞはないのです。僕らは酒より もつと悪いものに酔っていますからね。それは無為と云うもの です。だから貴方のように酒にでも浸れるのを見ると、一種の 羨ましさをさえ感ずる位です。で、今日来たのなぞも、貴方が どんな風にして酔っているか、それが見たいと思つたからなの です。」かも場合に依っては、僕も仲問入りをLようかと思っ て来たのです。」 「じゃどうです。一杯召し上っては。iおいお駒さん。お駒 さんは居ないか。珍客が来たから酒を持って来て呉れ。」 「お駒さんは、気分が悪いって、・奥へ行きましたよ。」別な給 仕女がこう云った。 「じゃ誰でもいゝから、もっとウイスキーを。」 「僕はそんな強烈た奴は駄目だ。持って来るならキュラソーに して呉れ結え。」子爵は微笑し乍ら云っ丸。  子爵は持って来た洋酒にそ。と唇を湿して語り初めた、 「今日はね。僕がこんな姿をして居るのは、外山と云う外交官 の結婚披露会へ行った帰りだよ。外山と云うのは伯爵で、僕の 融轡た親戚なんだ。それが不思議な事髭、君も知ぞいる 秋山の輝子嬢と結婚したんだ。|而《そ》してその披露会がー」 「森戸さん。もうそれから先きは僕に解って居る。僕の前で話 して呉れるのは残酷だ。」 「あゝ、そうか。解っているならそれで宜しい。ー兎に角僕 は、その披露会から此処へ来て、人生の裏表を歴然と見た訳に なるんだ。それを僕は意味深く思っている。人生というものは こうしたものなんだね。」 「もう解った、解った。そんな事よりも当り前の世間話でもし ましょう。その方がよっぽどいゝ。ー1おいお駒さん。お駒さ んはいないか。少し僕の助太刀に来て呉れ。」 「お駒さんは先刻から気分が悪いそうですから。」別な給仕女 が幾らか|嫉妬《やけ》気味で云った。  すると子爵は改めて云い出した。 「君は先刻から頻りにお駒って云うが、それが此処で評判の |給仕女《ウエ トレユ》なのだね。」 「そうです。僕に取って美醜は問題でないが、話が面白くて親 切なのが好きなのです。」 「お駒、と、いゝ名だね。僕に取っても|慕《なつか》しい名だ。僕もお駒 と云う別な女性を知ってるが、しかもそれが初恋の女でね。そ れ以来僕は白木屋じゃないがお駒と云う名の女性に、何とはな しに愛着を感ずるんだ。iあゝそうだ。もう別れてから、三 四年になる。時々いろくな事を思い出すよ。今夜は一つ君に その思い出話でもしようか。」       九〇  森戸子爵は話し出した。 「その頃は僕もまだ大学の美術史科を出た許りの|感傷的《センチノソタル》な若様 だった。まだ女と云うものがヴエニス派の画のように、ほのぼ のと紫の雲に包まれて見える時分でね。僕らのような周囲に育 てられた者の有り勝な、恋のいろはを|先《   》ず小間使から習い始 めたのさ。今思い出しても縞麗な娘だったが、そいつに紅茶な んぞ持ってこられると、昔はこの心臓がわくノ、したものだ。 全くそんな事を思い棄てた積りの今でも、時々そいつの事を夢 に見たり、ふいと静かな夕方なぞは、空想に描いたりする事さ ぇある。その小間使の名がお駒と云うのだ。」 「そして結局そのお駒とどうなったのです。」 「今も云った通り結局は失恋に終ったのだがね。それも|家《 うち》の人 に見つかって仲を裂かれたとか、何とか云うような月並なん じゃない。正真正銘に僕の方が棄てられたのだ。」 「どう云う風にしてP」野村は少し興味を感じて来た。 「その頃は僕も|初心《うぶ》だったからね。初めは目を見合せて微笑ん だり、鳥渡した無駄口を聞き合うだけで、ほんとに幸福に感じ て居たんだ。夜なんぞ|鳥渡《ちよつと》晩く帰ってくると、そいつだけが起 きて居て、玄関の戸を開けて呉れたりするのが、非常に嬉し かったものだよ。そうして居る中に、僕はそうしたプラトニッ クな関係では、満足が出来なくなっ,たのだ。さればと云ってそ の頃の僕に、それ以上を敢行するだけの勇気もないので、僕は 初めて心を軍めた手紙を書いたものだ。」 「ふむlI。」 「その手紙の文句と云うのは、要するに僕は貴方を愛している から、僕の妻になる事を承知して呉れ。僕はあらゆる障害と戦 うて、結婚が成立つように努力するから、先ず齢前が諾否の返 事をして呉れ。と云うような事を、中学生の作文のように一生 懸命書いたのさ。|而《そ》してそれをお駒が夕飯の知らせに来るのを 待って、そっと手渡したその時は、僕の声まで顛えたのを覚え ているよ。」 「それから。ー」 「それを渡してから二三日と云うもの、お駒は平気で入って来 て、|毎《いつ》もの通りの動作はするが、四五日と経っても返事をする 様子がない。とうく堪まらなくなって、或日おずくお駒を 捉えて、返事を呉れないのかい、と詰ると、明日の朝までに返 事をすると云う答を得たので、不安なような礫ったいような気 持で待ち焦れているとね。1」子爵はわざと言葉を切って、 酒盃に喉を湿した。 「そうすると,」 「翌くる朝になってみると、お駒は|邸《やしき》をぬけ出して逃げて了っ ていた。」 「ふうむ。」 「僕は勿論平生の様子から見ても、身分の出世という点から見 ても、二つ返事で直ぐお駒が承知するだろうと思い込んでいた のに、返事と云うのがその逃亡なんだろう。一度にぐわんと|若《   》 様らしい小さい自尊心を叩き割られたように感じてね。それか ら女と云うものに就いて、あらゆる研究と修業を積んだ結果、 今日のようなニヒリストになって了った。僕の今日の無妻主義 も、もとをたfせば騎駒故なんだから可笑しい。」 「ではそのお駒と会えば、いつ有妻主義に変るか知れません ね。」 「そうさ。変らないとも限らないね。」 …「だが待って下さい。今の話ですっかり忘れていた事を鳥渡思 い出したが、そのお駒って云うのは、ひょっとすると僕の婆や の姪ではないでしょうか。お咲さんの姉の。」 「さあ、どうだか僕は知らんがね。」 「ひ、栞っとすると同一人かも知れませんよ。話が余り似ている から。」 「|而《そ》してそれがこゝのお駒だった日には、愈ぐ草双紙の領分へ 入るね。」と子爵は冗談だと思って|冷評《ひやか》した。 「兎に角お駒を呼んで見ましょう。」       九一 「併しまさかにこの騎駒が、そのお駒でゝもなさそうだから、 わざく呼ぶには当らないじゃありませんか。」と子爵は止め てみた。 「併しそうでないとも限りませんからね。又そうでないとした ところで、一見する価値はあると云う話ですからね。1僕は 何だか同一人のような気がしてならないんです。|而《そ》して何時か 婆やに聞いたきり、記憶の底に沈澱していたお咲の姉のような 気がしてならないのです。だから兎に角是非呼んで見ましょ う。」 「若しそうだとすると猶、僕は会いたくありませんね。折角忘 れかけている幻影を、現実に見るのなぞも厭だし、その上、又 昔に返って初恋の蒔き直しをやるようにでもなると、折角悟り かけている心境が滅茶々々になりますからね。」 「貴方が滅茶々々になったら、愉快だと思いますよ。」 「それは僕とても、時々脱線して見たいですがね。-兎に角 会って見ましょうか。事実は小説よりも奇なりが往々在るそう ですから。」  こう云い乍らも子爵は、まさかにお駒をそれとは思いも寄ら なかった。・  「じゃ姉さん。」と野村は給仕女を呼んで、「齢駒さんを是非此 処へ連れて来て呉れ給え。是非々々紹介したい事があるから、 少し位気分が悪くっても、出て来て呉れ給えって。」と、頼ん だ。  ■給仕女は命を受けて奥へ入つて行つた。  お駒は店の奥の女たちの居間で、小さな箪笥の上に一葉の写 真を飾力、,その前にちゃんと端坐していた。|而《そ》してお糸の入っ て来るのを見ると、急いでそれを匿すようにした。  .「まあお駒さん。,そんな写真なんぞ飾って、どうしたの。L  「何でもないのよ。九ぺ今日は鷺ゆ叔母さんの命日なのを思い 出したものだから、柄にもない回向めいた真似をしていたの よ。だからねお糸さん、どうか誰にも黙っていて、|会《たま》には私に 殊勝な事もさせて置いて下岱いな。」  「えゝく。それは黙っていますけれど、今あの野村さんが ね、貴方に是非出て来て貰いたいってそう云うのよ。是非々々 貴方に紹介し九い人があるんですって。」  「今日は私だめだわ。気分が悪くてもう臥せっていますからっ て、そう云って断って下さいな。」  「先刻かちそう云ってるのに、あの人どうしても聞かないの よ。是非会わせる人があるから、少し位の病気は我慢しろって 云、つのです・ものー」  「そんなに会わせ度い人って、どんな人,」  「何だか立派な人よ。どこかの帰りだってフロックを着ている のが、そりゃあよく似合っている好男子よ。何でも野村さんの ロ振りでは、子爵の若様か何からしいわ。|真実《ほんとう》だか嘘だか解ら ないけれど。」 '「えっ。あの人の騎友達の子爵。では若しかしたら森戸って云 う方じゃなくって。」 「えゝ、そうく。そんな名を呼んでいたようですよ。」 「まあ森戸子爵!・ほんとに森戸さんなの。」お駒は思わず膝 を進めた。 「だから出て御覧なさいよ。あゝ迄野村さんが仰しゃるのだか ら。」 「|而《そ》してその方に私の事が解ってるのでしょうか。」 「いゝえ、それは解りていないらしいわ。だって初めて紹介す るからと云っていらしたから。」 「そう。1じゃ私お目にかゝるのはよすわ。何だか気分が進 まない汎肺サもの。充かちそう云って断って頂戴。」と云って あとは独語のように「若しあの方だとしても、矢っ張りお目に かゝらない方がいゝわ。」と低く云った。        九二  騎駒のきっばりした言葉を聞いてお糸は只事務的に念を押し た。・ 「じゃそう云って断って了いましょうか。」 「えゝ。」  そこでお糸が出て行こうとすると、爵駒は急に呼び止めた。 いざ断るとなると彼女に、改めて未練が起ったのである。. 「お糸さん待って。-私矢っ張り出て見るわ。そう迄仰しゃ るのを、誰とも解らぬ中に避けるのは失礼だから。兎に角逢う だけ逢って見るわ。」 「そう。じゃそうなさい。」  こうしてとうノ\お駒は再び野村たちの処へ出る事になっ た。彼女は髪を鳥渡掻き上げ、うっすら刷いた白粉の|斑《むら》を直し た。そうしている中にも心臓が何となくときめくのを覚えた。 森戸子爵と云うからには、どうしてもその人であるように思え たが、今の彼女の心は、どうかその人であって呉れゝばいゝと 思う希望と、その人で無ければ猶安心だと思うような気持との 二つが在った。  お駒は物蔭からでも鳥渡覗いて、子爵であるかどうかを確か めてから出て逢おうと思った。が、そんな卑怯めいた真似は、 彼女の持っている一種の自尊心が許さなかった。彼女は思い 切って急にそこへ立現われた。|而《そ》して野村の向うに坐っている 人をきッと|見《  》凝めた。  その瞬間に子爵の方でも、つと|頭《し 》を上げて彼女を見た。その 二人の凝視は、その儘の姿勢でじっと暫らく続いた。二人とも 無言だった。併し電光の如くかち合った互いの凝視σ中には" 互いの心や境遇や歴史やらを、同時に語り同時に探ろうとする 一瞬の心の|閃光《ひらめき》が宿っていた。  やがてお駒はそO驚きから気を取り直して、強いて装うた平 気の中に微笑を湛え乍ら、真直ぐに子爵の方へ進み寄った。彼 女は野村の紹介を待つ迄もなくこう云った。 「矢っ張り貴方でしたのね。」  子爵も一時蒼白になった顔に又血を戻し乍ら、 「お前だったのか。」と云った。 「暫らくでした。」 「暫らくだった。」 「不思議な処でお目にかゝりますのね。」 ー「全く不思議だ。」子爵の答は|毎《いつ》もに似げなく、機智と自由と を失って、こう鵬鵡返しをするに過ぎなかった。  少し呆気に取られて唖然としていた野村も、ようやくこの時 口を出した。 「それじゃ|万一《まさか》と思っていたが、この人が矢っ張りそのお駒さ ん〜これは全く不思議ですね。ほんとに子爵の仰しゃる通 り、通俗小説でゝもなければ起らない話だ。世の中には妙な因 縁もあるものですなあ。」 「しかもこう云うところがなくては、読者に受けまいと思って 持えたヤマ場のようだね。併しこの作者は普通の通俗作家と 違って、殆んど嘘は書かない筈だからね。」と子爵もようやく 混ぜ返すだけの余裕も出て来た。 「全く私たちは少し小説的に出来過ぎてるんだわ。」とお駒さ え云った。 「そうだ。だからどうせこう云う風に出来ている以上、二人の 関係もこの上ともに小説的に発展して行くとしようか。1ど うだい。お駒。」 「そうね。そうしましょうかご 「けれども小説的とは云い条、また見棄てるのは御免だよ。」 -「わたし何時貴方を見棄てゝ?」 「じゃあの時、僕を見棄てたと云うのじゃなかったのかい。」 「えゝ。見棄てた覚えなんか無いわ。」 「じゃどうして逃げたのだい。」 「そんなに聞き度ければ、あの時の心持をお話してあげましょ うか。」 「うむ。」と子爵は傾聴の態度を取った。        九三  お駒は語を次いだ。 「私があの晩になってお邸を逃げ出したのは、貴方が厭だった からではありません、私はあの時分の小さい胸の中で、とうか ら貴方をお慕いして居ました。けれども身分が小間使では、貴 方と恋に落ちたとしても、何かにつけて引目が起きて来ます、 恋と云うものはまあ云って見れば対等の取引ですわ。若様と小 間使との恋なぞと云うものは、矢っ張り一種の主人と召使との. 関係が結び付きます。勝気な私にはそれが厭だったのです。そ して又貴方と私とでお邸に事を起すのが面倒臭かったのです。 どうせあの時私が承知しても、騎邸の人たちがおいそれと承知 しない事は解って居ました。私が貴方を唆かしたとでも云っ て、お邸から躰暇が出るとか、因果を含められて家へ帰される とか、いずれにしても私が損をして、得をするのは貴方だと考 えたからです。その上一番私の決心を促したのは、貴方の鼻を 明かして見たかった事でした。如何にも華族の坊ちゃんを鼻に かけて、小間使などは口説けば直ぐ落ちると思って居る、あの 若様|気質《かたぎ》が鳥渡癩に障ったからです。」  子爵は苦笑した。 「射蔭で僕の若様気質は、あの時鼻っ柱を折られてから、もう すっかり絶滅させた積りだよ。」 「それは躰役に立って結構でしたわね。」 「全く役に立ち過ぎる位立ったよ。僕はお前のお蔭で外国へ も行く気になったし、鳥渡した放蕩もやったし、|上《かみ》は芸術の真 髄より、|下《しも》は人情の機微にまで通じた始末さ。この上又お前と 恋人にでも成れゝば、この世に思い残す事はないね。」 「だけど私も随分苦労したわ。私あゝして逃げて置き乍ら、何 時貴方が探し出しに来るか、いつ又迎いに来るかと思って、始 終心待ちに待ってた事よ。それで私も何とか彼とか云い乍ら、 貴方に惚れていた事が解ったの。」とさすがのお駒も小娘のよ うにばっと頬を染めて見せた。「|而《そ》して心の中で貴方っきり、 外の人の事なぞ考えた事は無かったわ。私こんな|職業《しようぱい》なんぞし ていても、今迄男に惚れたの腫れたのと云う噂は、一度だって 立てられた事は在りませんでした。」  「ふうむ。僕に古風な操を立てゝ呉れたと云うのかい。」  「えゝ。私の心の中にいた貴方の|幻影《まぼろし》に。ーそこにいる貴方 のためじゃありませんわ。」  「じゃ、その君の持っている人の姿は、|現今《いま》の僕とは違うと云 うのだね。」  「えゝ。iけれども場合に依っては、同じにして上げてもい いわ。ほんとに同じにして上げましょうか。」  「出来るならして貰ってもいゝね。」  「そうなると、私の男嫌いなんて云うものも、随分いゝ加減な ものだったのね。」  「僕の悟道だって、甚だ怪しげなものさ。ーじゃ一つ昔の春 に立返るとするかな。」 「|而《そ》して、世の中を面自|可笑《おか》しく暮しましょうよ。どっちを向 いても、余り面白くなさ過ぎる事ばかりですから。」  「それもよかろう。」  その時急に傍に聞いて居た野村がロを出した。  「それで君たちの方の話はついた。が、今度は僕の方として、 お駒さん、君はそうすると僕の婆やの姪だね。そうだろう。お 咲さんの姉だろう。」  「えゝ。それは先刻あの写真を見た時に、直ぐそれと解りまし た。今夜と云う今夜は、全く不思議な晩でしたわね。」 、「数えて見ると丁度百ヵ日見当。■ひょっとすると婆やの導きか も知れない。」  「ほんとうに叔母さんには不孝ばかり懸けましたわ。」■ 「僕も婆やの事を考えると済まない。済まないが、併しこう なっちゃ仕方がないんだ。だからそんな陰気な話はよして、ま あく酒だく。改めて君たちの健康を祝そう。君たちは幸福 だ。|而《そ》して孤独なのは僕だけだ。」と野村は訴えるように云っ た。  子爵はミィラ取りに来て、果してミイラになって了った。        九四  お駒が愈ぐ婆やの姪と知って、野村は更に|親《しん》みり話を進め た。 「それにつけてもねえお駒さん。何度云つても返らないが、婆 やは|真実《ほんと》に可哀そうな事をしたよ。前にも話した通り、発疹チ ブスで亡くなったのだが、死ぬ時も君の事を頻りに心配してい たものだ。」 「ほんとに済みませんわねえ。死水も取つて上げないで。」 「それから妹のお咲ちゃんだがねえ。あれも始終君の事を思い 続けて居るよ。或は知って居るかも知れんが、僕は婆やの死ん だ後、すっかりあの子の厄介になっているのだ。併し安心して お呉れ。お咲のお嫁の約束はもう|定《き》まっている。」 「あの黒川さんとでしょう。私もちらとその話はあの方の口か ら聞きまして、よもやと思って居ましたが、それでは矢っ張り あの咲ちゃんだったのですねえ。」 「そうか。それも知っていたのか。それじゃ何故早く聞いて見 て呉れなかった。」 「私はどこまでも隠れているつもりでしたから。」とお駒は|親《しん》 みり云った。 「併しもうこうなつては、誰にも匿す必要はなかろう。だから どうだい。これから一つ僕の|家《うち》まで行って、妹のお咲ちゃんに も会って呉れないかい。僕はあのお咲ちゃんには迷惑ばかしか けているから、こう云う時にせめて一刻も早く、あの子を喜ば してやり度いんだ。君だってまさかに会い度くない事もなかろ う。」  傍に聞いていた子爵も、「そうだね、それがいゝね。」と薦め て呉れた。  お駒は暫らく考えていたが、 『何だかあの子に合せる顔もないような気がしますが、それで は御言葉に従って、会いに参りましょう。じゃ鳥渡店から許し を受けて参りますから。」  こう云ってお駒は、一旦奥へ入ったが、鳥渡した地味な着換 えに改めて出て来た。三入は各ぐ店を出て、各ぐの感慨に耽り 乍ら野村の家へ向った。  お咲は勿論|灯火《ともしぴ》を明るくして、野村の帰りを待っていた。  野村は|毎《いつ》もとは違い、勇んで格子戸をがらりと開けた。 「お咲ちゃん、今日は少し早く帰ったよ。」 「お帰り遊ばせ。」と齢咲は出迎えた。 「今日はお前を喜ばそうと思って、珍らしいお客様を連れて来 た。誰だか解るかい。」 「いゝえ、解りませんわ。」 「そんなら実物を今見せるから、吃驚しちゃ不可ないよ。」と |戸外《そと》に立っているお駒たちに、「さあ、それじゃ遠慮なく入っ て下さい。」と案内した。  お駒は待ち兼ねたようにつと玄関へ入り乍ら云った。「お咲 ちゃん、わたしよ。」  齢咲は驚いて、「あら姉さん!」と云ったきり、呆然とお駒 の顔を見つめた。 「えゝわたしよ。記前の姉さんのお駒よ。ほんとに|久潤《しばらく》だった わねえ。」こう云ってお駒はつかく|家《うち》へ上った。 「姉さん、私会いたかった。」 「ほんとにお前も無事でいて呉れて、よかったわねえ。」 「姉さん、貴方も。……」とお咲はすっかり涙声になった。  お駒はさすが情熱の女で、つと|立《 し》寄って妹を抱くようにし乍 ら、、「もう何もかも聞いたわよ。iお前にはほんとに心配 をかけて、姉さん済まなかったわねえ。どうか堪忍してお呉 れ。」 「えゝ、そんなに仰しゃらなくとも、私姉さんが無事でいて下 されば、それでもう沢山ですわ。」  二人は抱き合って泣いた。  野村も子爵も感動した。が、他人の喜びを見るにつけ、野村 の心には淡い悲哀が宿らざるを得なかった。 「器咲ちゃん。嬉しいかい。」彼は低く云った。 「えゝ、嬉しゅうございます。」 「そうか。僕も嬉しいよ。」と云い乍ら彼は、自分一人が淋し い孤独の身であるのを思った。       九五  その夜以来、野村は更に|自棄酒《やけざけ》の量が多くなった。星野と澄 子の|円《まど》かなる新婚の夢を思うにつけ、子爵とお駒との初恋の更 生を見るにつけ、彼は愈ぐ自身の孤独を感じた。|而《そ》してその淋 しさを酒に遣るより外はなかったのである。  野村は決してお駒を恋しているのではなかった。けれども 愈ぐお駒の恋人が現われて、明かにその人の有に帰して了うと なると、漠然たる心淋しさが湧いて来るのを覚えた。野村はお 駒が子爵のものとなった事に、一種の安心と親愛を感ずると 共に、その後から又或る羨望と寂蓼とが生ずるのを知ったので ある。  子爵はもとより→野村の酒を|禁《と》める訳には行かなかった。 却って毎夜のようにリラに寄っては、甘い洋酒を舐めて帰っ た。  黒川は野村の態度にも、又その後の子爵の態度にも、勘から ず憤慨はしたが、さてどうする事も拙来なかった。彼はやむな く看守の意味で、野村の後からリラに行く事も虞ぐだった。  要するに何かの機会が来て、野村をこの状態から救い出すの を、待つより外は無かったのである。  或夜野村が一人リラの一隅にいると、そこへ二三人の若い医 学生らしい人々が入って来た。野村はその中に知った顔が在る と面倒だと思って、すっかり衝立の蔭の方に匿れて居た。する とその人々はソーダ水を飲み乍らこんな話をし出した。 「星野さんは愈ぐ助教授に任命されるそうだね。」 「うむ、そう云う話だ。何にしろ発疹チプスの研究だけでも、 世界的と云っていゝのだろうから、その位の事は当り前と云え ば当り前さ。併し幸運な人だね。」 「何でも同期に出た野村って云う人と、あらゆる点で競争した のだそうだが、又あらゆる点で勝ったのだそうだね。」 「野村なんぞが競争するなんて、第一初めから間違ってるよ。 星野さんの方が段違いに|頭脳《 あたま》がいゝのだからね。|敗《まけ》るのは当り 前さ。」  野村はこの言葉を聞いた時、胸の中が煮え返るようだった。 彼らは自分が此処にいるのを知って、わざと嘲笑しに来たのか も知れないとさえ思った。■|而《そ》して猶もじっと耳を澄まして聞い ていた。 「星野さんは又今度は|悲虫病《つらがむしびょう》の研究を初めると云う話じゃな いか。」 「そう云う話だね。あの人の事だから、きつと又成功するだろ う。そうなればあの人は、世界の医学界の誇りだね。吾々あの 人の研究室に出入する者までが、光栄の一部を担う訳になる ね。」 「又あの野村医学士が、のこくと競争に出て来はしないだろ うか。」 「性懲りもなく出て来るかも知れんが、出て来て呉れた方が星 野さんの励みになっていゝだろう。学問も両派に分れて競争す る事が必要だからね。iどうせ星野さんの方が勝つと|定《き》まっ ているのだから、野村のようなオッチョコチョイが出て来れば 来る程、星野さんの業績も光栄を増す訳だ。」  野村は聞いていて歯噛みをした。が併し考え直して見ると、 彼らの云う事も尤もであった。自分のような劣弱者は、到底星 野の敵ではないように思えた。彼は衝立の蔭でそっとロ惜し涙 を拭いた。口惜しいが又さればと云って、猛然と奮起する気力 は、彼自身にも無いように思われた。加うるに彼には今何らの 資力もない。ー彼は前に在った杯をぐっと飲み乾して、悲憤 と自棄との感情に身を委ねるだけであった。  そんな事を話して、やがて彼らは出て行った。  すると奥から騎駒が出て来た。彼女はきッと|結《  》んだ唇を開い て、 「野村さん、貴方今の人たちの話をお聞きになって?」と訊ね た。 .「知らん、知らん!」と堪らなさそうに叫び乍ら、野村はした たか酔った身を起して、逃れるようにリラの戸口を出た。 「あれ、危うござんすよ。」と躰駒の見送る先を、彼は足取り もしどろに、闇へと消えて了ったのである。        九六  リラの戸口を立出でたる野村は、その盤家へ帰る気はしな かった。が、別に行くべき処も無かった。そこで家とは反対の 方向へ、|当途《あてぎ》もなく|彷裡《さまよ》うて行った。  雨催いの夜闇はいやが上にも暗かった。而してその闇を縫う て、よろくと歩いて行く彼の心も、闇そのものよりも暗かっ た。今、夜の都の空に、重く垂れ下った雲からは、大きな雨粒 さえ落ちて来たのである。  野村の悲憤に熱した頬を、冷たい雨の一雫が、ぽたりと斜 に打った時、彼はちらと暗い空を見上げた。が、星が降ろうと 石が降ろうと、彼の胸の苦しみとは何の関係もないと云わんば かりに、彼は意に止めず歩き出した。  変り易い夏の夜空は、遠く雷をさえ伴うた。雨はまだ本降り にはならないが、空の裾を斜めに|掃《はら》う電光に打たれて、乱れた 雲の|態《さま》が竜の鱗のように行人の眼に映った。人々はこの不穏な る空模様に恐れをなして、街上は深夜よりも人通りが勘かっ た。只行き交う人力車、自動車が、一と頻り繁く闇を衝いて 走った。  雨はだんくその粒を大きく且つ多くして来た。雷は遠い品 川の沖あたりから、だんく山の手の空へと近づいて来た。  雲と雲とを渡る閃電の|小競合《こぜりあい》は、益ぐ繁く益ぐ鮮かで、やが て来るべき大空と大地との白兵戦に、機の熟するのを待ってい るものと見えた。  それでも野村は只管|偲首《うなだ》れて、ふらくと道筋を下って行く のみだった。時々蒼紫色の電光に照されて、彼の敗残者めいた 姿がはっきり路上に浮き出た。彼は頭上に迫る雷の音を、聞け ども聞かざる如くであった。 「雨も降るがいゝ、雷も鳴るがいゝ。俺は行くところまで行く しかないのだ。」  彼は低くこう眩いて、猶も真直ぐに歩いて行った。  突然天地は何物かに襲われた如くひたと|鳴《  》りを潜めた。野村 はその大自然の沈黙に感じて、ふと歩みを止めた一瞬時、彼の 眼前約二十間ほど前の電柱ヘ、空中より発矢とばかり、五聞幅 位の火の滝が懸った。併もその|紅《くれない》とも紫ともつかぬ火光が、 野村の眼を|眩《くら》めと射込んだと同時に、鼓膜も破れよとばかり 轟然たる音響が耳朶を打った。.而してそれと共に彼は何物とも 知れぬ力を以て、激しく斜に|背後《うしろ》へ弾き飛ばされた。それから 後は彼は何だか解らなくなった。  野村は落雷のために空気の弾力を受けて、地上に弾き飛ばさ れた時、激しく後頭部を打って、街上に人事を失うたのであ る。  落雷のあとに雨は沸然と降り下った。雷の落ちた現場の近く では、人々の立騒ぐ気配がしたが、さ程の事もなかったと見え て、それも雨の音に消されて了った。|而《そ》して今は誰一人として 打倒れた野村に気付く者はなかった。  雨は野村の血の気を失った頬を、首を、胸を、四肢を徒に叩 いたρ五分、六分、七分、……時は野村の人事不省には関係な く、無慈悲に歩みを刻んで行く。若しもこの盤に十分二十分と 打過ぎ、一時間二時問と打棄てゝ置かれたならば、野村の身の 中なる温き血潮は、永劫に冷たく成り果てゝ了うであろう。  今は余りの豪雨に行人の影さえ絶えた。食を漁り歩く野良犬 すらも、今は軒下に身を潜めているのである。電燈は消え、電 車は停まって、倒れた野村を取り巻くものは、|闇《やみ》又闇のみで あった。  八分、九分、十分。最早や彼が卒倒して十分以上は経過し た。  その時遠く向うの路上に当って、雨を貫くサイレンの音と共 に、一台の自動車の|頭燈《ヘツドライト》の光がちらと見え出した。        九七  自動車は闇を|壁《つんざ》いて進んで来た。豪雨の中に夜も更けたの で、往来の人も無いのを幸い、自動車は殆んど法規以上の速力 を以て、まっしぐらに野村の方に近寄って来た。運転手も路上 に人が横たわっているなぞとは、夢にも思っていなかった。彼 は車中に乗っている美しいお嬢様を、一刻も早くその御邸へ連 れて行って、この豪雨におびぇている令嬢と家族とを安堵させ る忠勤の念以外、何事をも考えていないらしかった。乗ってい る令嬢と云うのは、今夜まだ雨の降らぬ宵の口に、この度姻戚 関係を結んだ若夫人を訪ねて来て、気の合った面白い話に帰る のを忘れている中、急の雷雨に又暫らく帰りを見合せている と、幸い雷は収まったが、雨は益ぐ降り|頻《しぎ》って、何時やむとも 見えないため、人々のとめるのもかまわず、自分の家で心配す るからと云い張って、とうノ\雨を衝いて帰る事になったので ある。けれども乗って来た悼では遅いと云うので、その家の自 動車で送り届ける事になった。その令嬢は自動車が嫌いだから |謝《ことわ》ったが、場合が場合でやむなく車中の人とならざるを得な かった。  何の障りも在り得ないと自信している運転手は、絶えず前方 を見てい乍ら、殆んど眼前に近づく迄倒れている人の所在に気 が附かなかった。彼が、「おや、何か黒い人のようなものが横 たわっているな。」と心で気附いた時には、もうブレlキを止 める間もなかった。自動車はその人の|四肢《からだ》の一部を蝶いたらし く、陰欝なる車体の動揺が、中の令嬢にも感ぜられた。運転手 は慌てゝ車を止めた。 「どうしたの。」と深い|函幌《 こほる》の中から、銀のような声が|硝子《ガヲヌ》戸 越しに漏れた。  運転手は下りて見ようか見まいかと躊躇い乍ら、 「何か、入らしいものを礫いたのです。が、どうしたのか、前 から倒れていると見えて、声も出さなければ、動きもしないの です。1どうしましょう。面倒だからこの艦放って行って了 いましょうか。どうせ誰にも解りやしません。」  併し車中から凛とした声が|阻《さぇぎ》った。 「いえ、待って下さい。前から倒れて居たにもせよ、難いたの なら責任を持たなくちゃいけません。どんな人だか、どこをど ちしたのか降りて見て下さい、あとから分ったら猶齢事が面倒 じゃありませんか。それに責任は私が負います。貴方ばかしに 罪は負わせませんから。」  そう云われて運転手は、渋々と台から降りた。|而《そ》して、|前燈《ヘツドライト》 の一っを外して、倒れて居る野村の方へ、二三間後戻りをし た。而して|燈《あかり》をかゝげて、倒れている様子を調べて見た。雨に 洗われた野村の蒼ざめた顔が、灰赤い光の中で凄いように浮い た。 「どうして?」車の中から令嬢は訊く。 「倒れているから乞食か何かゝと思ったら、立派な紳士らしい 人ですよ。礫いたのは足の方ですが、それより前に気絶」て居 たらしいのです。L 「|鳥渡《ちよつと》わたしも下りて見ましょう。」  令嬢は美しい衣裳の裾をかゝげて、自動車の中から下り立っ て来た。|楚《そと》々たる夏姿の輪廓を包む、サンマ1コ1トの裾に散 らした、紫の中に白い水玉模様が、闇に匂う白梅の|翻《こぽ》れるよう にちらノ\と見えた。  彼女は幾らか|怖《こわぐ》々乍ら立寄って、運転手の差し出す燈の下 に、倒れていた行路の人の顔を見た。  その瞬間に彼女は官分の眼を疑った。が、よく見定めれば見 定める程、その人に相違ない事が解った。彼女は美しい盛装の 泥にまみれるのも忘れて、思わずその人に手をかけ乍ら、驚い て声を立てた心 「まあ、貴方は野村さん! どうしてこんな処で倒れておいで、 なすったのだろう。運転手さん大変よ。これは私の知っている 人ですから。早くどうにかして頂戴。」 「えゝ、そうですか。」今度は運転手の方で驚いた。        九八  森戸子爵令|妹淑子《よしこ》は、運転手に急いで野村を抱き起させ、自 動車の中に担ぎ入れさせて、近所の順天堂病院へ駈けつけた。 彼女はもう野村が|緯切《ことぎ》れているのではあるまいかと心配した。 けれども雨の通らぬ身体の一部に、まだ灰な|温《ぬく》みのあるのを 知って、一纏の望みをつないでいた。  彼女は自分の|傍《かたわら》に、ぐったりと横たわっている野村の、血 の気のない顔を再び眺めた。灰なる車燈の明りの下ながら、 彼女はこうまで近く人の顔を、じっと見凝めた事は無かった。 何だか不思議なものを見ているような気さえした。|而《そ》して、白 い|両手《りようて》でもって、野村の冷たい頬を暖めてやりたいように感じ たが、さすがにそれは為し兼ねた。  彼女は病院まで届くほんの僅かの間、車の歩みも遅いと感ず るもどかしさ、|慌《     あわたっ》しさの心の中に、何とも云う事の出来ぬ楽 しいような気持を経験した。野村の生死すら解らぬ大事の場合 にも係わらず、何ものかに感謝し度いほどの妙な幸福を感じた のである。  自動車は直ぐ病院に駈けつけた。  幸い当直の医師が、野村を知っていたので、猶予もなく手当 に取かゝって呉れた。  淑子は手術室まで附いて行って、心配そうにその様子を見て 「先生、どうでございましょう。」と訊ねざるを得なかった。 「脳震藍さえ起していなければ、大抵生命の方は大丈夫です。」  そう云って医師は、先ず人工呼吸をさせ初めた。 「私どもの藤きました、お|御足《みあし》の方は如何でございましょう。」 「なあに大した事はないでしょう。いずれ、レントゲンで見た ら、ひょっとすると骨が折れているかも知れませんが、折れた にしたところで、接骨するのは訳もない事です。ーそれより も問題は脳ですよ。生命は取り止めても、白痴にでもなると大 変ですからね。」  医師は遠慮もなく淑子の小さい胸に、不安の種を蕗き散らし た。  甘れども親切なる医師の手当は、注射や人工呼吸の効が在っ て、野村は徐に脈榑と呼吸とを回復して来た。いずこともな く去っていたその生命の潮が、再び野村の身体に差して来た 時、淑子はホッと歓びの吐息をさえ洩らした。併し野村はま- だ、昏睡から覚むる程意識も回復してはいなかった。  急な電話やら使いやらの報知に接して、深夜乍ら人々が集ま って来た。黒川がお咲を伴うて来た。子爵もやって来た。そし て野村を蝶いた自動車の持主であった輝子も、わざノ\駈けつ けて来て呉れた。お駒さえ早くも来て呉れたのである。  人々は野村の枕頭を取り巻いて、淑子から前後の模様を聞い て、災禍と奇縁とを語り合いつゝ、心配げに野村の覚醒するの を待った。  夜来の雨は既に霧れて、明け易い夏の夜は東から白み初め た。そして病室の窓の力iテンを通して、既に朝紅の光が、静 かに野村の枕辺に射した。誰やらが立って窓を押し開けると、 蘇えるように|清《すがく》々しい風が、爽かな青葉の匂いを含んで流れ 入った。 「もう夜が明けたのね。」  と淑子は独り言のように云った。  その途端に野村の頭が動くような気配がして、彼の眼はばち りとばかりに開かれた。そして周囲の様子を解せぬ如く、人々 の顔をまじくと見廻した。 ・「あ、眼をお開きなすった。I」  と淑子は思わず叫んだ。 「ほんとにお開きなすった。」「野村君。」「野村さん。」i  人々の歓びの声の中に、今、野村は新生の暁をはっきり見た のである。       .九九  野村の正気づいたのを見た黒川は、ずっと近く顔を寄せた。 「野村、気が附いたか。しっかりしろ。僕だ、僕が解るか。」 「あゝ黒川か。」野村は初めて声を出した。 「僕ばかりじゃない。森戸さんも、淑子さんも、輝子さん・も、 器駒さんも、お咲ちゃんもいる。みんな君を心配して来ている んだ。」 「一体僕はどうしたのだろう。」野村は又改めて自分の同情者 たちの顔を眺めた。 「どうしたんだか知らぬが、君は道傍に倒れていたんだ。そこ をこの淑子さんが通りかゝって、救い上げて此処まで連れて来 て下すったんだ。淑子さんがいなければ、君は死んで了うんだ ったぞ。」 「えっ、淑子さんに救われた? して淑子さんはどこにい る?」野村は首をもたげるようにした。 「此処においでになるよ。」と黒川は淑子を|病床《ベツド》に近づけた/淑 子は幾らか差らいを含んで、少しく血を上せた薄紅色の頬と、 徹宵の看護に|濡《うる》みを帯びた眸を、野村の目の前で会釈させた。  野村はまだ半ば夢幻の中に在るような思いで、自分の視野の 中に大きく現われた、端麗なその人の容貌を見た。ともすれば 忘れかゝった|悌《おもかげ》の、すべてを忘れ果てんとする時分に、或い は忘れてはならぬと警告する如く、或はこの人の|現《うつつ》にその幻を 奪われ果てよとばかりに、突如として姿を現わすこの人を、今 は救いの神の化身とも見たのである。 「淑子さん。どうも有難うございました。」 「いえく。そんな御礼を仰しゃられると、却って穴にも入り 度うございます。私の方から却って御詫ぴ致さなければならな いのでございます。どうぞお許し下さいまし。私の乗っていた 自動車が、貴方のお|御足《みあし》を礫いたのでございます。」  輝子も傍から進み出で、「私の運転手の粗忽で、とんだ目に お会わせ申して、誠に申訳ございません。淑子さんの責任より も、私の責任なので、こざいます。|何卒《どうぞ》御許し遊ばして。」 「へゝえ、そんな事まであったのですか。Iそう仰しゃられ ると何だか、足の方が痛いような重いような気がしますけれ ど、別に大した事は在りますまい。」と野村は云った。「それに しても貴方が蝶いて下さらないと、何時迄倒れていたかも知れ ません。矢張り有難うございます。」 「いぇ、私の方こそお詫びしなくちゃなりません。」 「面倒臭いね。それでは両方で同時に感謝し合ったらいゝだろ う。」と子爵は笑い乍ら口を出した。 「時に君はどうして又倒れていたのだい。」と黒川は野村に訊 ねた。 「そうだね。何だかぼんやりしているが、昨夜確かに一人でリ ラを出て、……そうだ、あてもなく街を歩いていると、::…雨 が降って雷が鳴って来たのを覚えている。ミ…うむそうだ。|而《そ》 してその中に大ぎな雷が近くへ落ちたんだ。而してと、……そ れから先きは少しも覚えていないが、するとその雷に打たれて 気絶したのかも知れない。」 「ふうむ。そうか。それにしてもよく助かったものだね。」 「雷に打たれるのは大自然の|霊《インスピレ》 |感《 シヨン》に打たれる瑞兆だそう だ。これが君の精神的更生の|緒《いとぐち》とならないとも限らない。余 りリラの酒を飲み過ぎたので、天が叱り付けたのかも知れん ね。」と子爵は野村からお駒の方をちらと見た。 「それこそ|野暮天《やぽてん》ですわね。」とお駒も、もう事態に安心し て、椰楡の応酬に敗けてはいなかった。 「兎に角正気を回復したしするから、僕が改めて足の方の傷を 診てやることにしましょう。僕だってもう、野村の足位なら一 度に十本でも癒せますよ。」と黒川も幾らか軽い気持になっ て、改めて野村の足部を診検した。  幸いそこの傷は、骨を折ったと云う程に重くはたかった。|而《そ》 して野村の全体の病状は、遅くとも三週間位で全治するだろう と云う話だった。        一〇〇  その後の野村の容態は、幸いにして順調に行った。心配して いた脳の具合にも、可なり激しい神経衰弱は来たしているが、 生理的に何ら欠陥を生ずるような事はなかった。足部の蝶傷の 如きは、今こそ未だ厚く繍帯しているが、やがては殆んど淑子 の救助を記念すべき跡さえも残さぬであろうと思われた。  災禍と共に倍加した人々の同情の|中《うち》に、野村は|徐《おもむる》に心身の 全癒を待っべく、病院の特別室に静養を重ねていた。  病床の|徒然《つれづれ》を慰めるため、入々は|閑暇《ひま》のあり次第訪ねて来 た。お咲は勿論附きっきりだったが、黒川と淑子も殆んど毎日 来て呉れた。輝子も何かにつけて外出する毎に、きっと立寄っ て見舞った。彼女の派手な顔立ちと明るい声音とは、ハィカラ 姿の割りに、思いの外に似合った新しい丸髭と共に、病院の内 外を明るくするように見えた。君護婦どもはこの若く美しい令 夫人に、嘆美と好奇との眼を輝かした。而して一時問題の焦点 となった。 ノ  初め人々は輝子を野村の夫人かと思った。が、そうでない事 が専任の看護婦の口から明かにされた。而して野村の|義妹《いもうと》だと 云う事に話は落着いた。  併し、「どんなお妹さんだか解らたい事よ。妹だなんて云っ ているのが一番危険だわ。」などと云うものもあった。  併しもっと問題になったのは淑子だった。輝子が野村夫人で ないと|定《ぎ》まった時、衆議はそれならば淑子だと云う事に一決し た。が、どの程度までそれを信じていゝか、人々には解らな かった。中にはお咲だと云い張ったものも在った。けれどもそれ も何だか信じ難い節が在った。お駒も勿論候補者の一人として 挙げられた。こうして数えて来て見ると、|口性悪《くちさが》ない着護婦の 評定は、どう決定するとも見えなかった。本人でさえ解らない 運命の銭を、引かぬ中に他人が推測しようとても、それは無理 な話と云うものである。併し本人同志の胸の中には、或る灰 なる暗示が宿って、その示嬢する儘にする無意識の動作が、 |会《たまく》ぐ人々の公平な眼に映って、移り行く運命の方向を推定させ ぬものでもない。或る日はこう云う事も在った。  輝子がその日は誰より早い見舞客だった。彼女は自分の庭の 中から、湿った盤に|清《すがく》々しい香を吐く、白いマーガレットの束 を腕に余る程に抱えて持って来た。彼女はそれを窓際の花瓶の 中に乱暴に投げ入れて、晴々しく野村に笑って見せた。 「いゝでしょう、白くって。」彼女は微笑を残して云った。 「えゝ、有難う。」  そこで四方山の話しをしている中に、今度は淑子が訪ねて来 た。彼女は珍らしいほど真紅な、ヵiネiションを一束にして 携えていた。彼女らは笑って挨拶を済ますと、直ぐ輝子が云っ た。 「可愛いゝ花ですことね。」 「来る途中で、お友達に貰いましたの。此処へ福しても宜しゅ うございましょう。」  こう云って淑子は、白いマーガレットの傍へそっと括した。 「どうも有難う。今日はまるで花の日ですね。」野村は何でも なく云った。  するとまだ令夫人になっても快活な輝子が、悪戯好きな微笑 をして、 「淑子さん、貴方花言葉と云うものを御存じ2」と訊ねた。 「いゝえ、知りませんわ。」 「じゃ教えて上げましょうか。i白は純潔を意味するのよ。 |而《そ》して真紅は熱烈を。1」 「あら!」と叫んだ淑子は、急いで力了ネ1ションを花瓶から                  い力 ,取って、窓の外へ投げ棄てた。それは毎もの淑子に似げなく濃 刺とした動作だった。  二人は呆気に取られていたが、ふと声を合して笑わなければ ならなかった。  それ以来淑子は真紅な花は持って来なかった。        一〇一  こうしている中にも、野村は日にく心身の健康を回復して 行った。回復期の病床に於ては、人は自ら本来の面目に立帰っ て、自己の進むべき道を考えるものである。野村も再び正道に 戻って、自分の本職の事を考え初めた。  帰朝以来彼の遭遇した幾多の事件も、遭遇した当時こそ彼に 取っては堪えられない苦痛のみだった。彼に課せられた煉獄と しては、余りに悲惨なる事のみであった。けれども過ぎ去り 来った今となって見れば、要するに凡ゆる人間の|閲《けみ》すぺき蘇の 路たるに過ぎない。それらは既に過去である。過去は永く消え ないにしても、未来を以て蔽う事が果して出来ないであろう か。  失意と自棄とに堕落し果てたる野村辰雄は、あの雷雨の夜、 天の槌一下、頭蓋を砕かれて死んで了った筈である。今この病 床に生き返っている野村辰雄は、それと全く別人でなければな らない。過去は過去として葬り去って、新しき人生の旅程に上 り、新しき学術の山簸を究めねばならない。  そう思うと野村は身の中に油然として勇気の湧いて来るのを 覚えた。  併し研究に要する資力は? 便宜なる地位はP それらは果 して彼自身に得られるであろうか。  そう考えると彼は少しく悲観せざるを得なかった。彼が米国 から帰る時、山口博士から贈られた賞与金の二千|弗《ドル》も、もとよ り研究の資金となすに足りぬ上、もう殆んど費い尽して余す所 も無い位である。彼はこの上は病院にでも雇われるか、|傍開《かたわら》 業でもしなければ、到底独力で研究に従事する訳にも行かな かった。今更伝研に入って星野の下に駆使さるゝのは、いかに 野村も堪えられない事だからである。  そうして見ると矢張り、山口博士を頼って又米国ヘでも行く 外は准い。そうだ。俺なぞはもう人生に幸福なぞを求める資格 のない身だから、遠い他国の空の下で、顕微鏡でも覗いている のが一番の幸福なのだ。そうだ。癒ったら直ぐ米掴へ渡ろう。  そう考え乍ら病床に起き直った彼は、ふと枕頭に括してある 白百合の花を、見凝むるともなく眼にとめた。花は昨日淑子が 持って来て呉れたものである。あの花言葉事件以来、彼女の持っ て来るのは全く白に限られた。その真白なる盤に香高き大輪の 百合を、野村はじっと思いに沈んで眺めやったのである。併し 彼は簾て静かに頭を|蝉《ふ》って、花から眼を転じようと努めた。彼 は恐らくその花を持って来て呉れた人の事を思い出したのであ ろう。 「思うまい、思うまい。そんな事は俺には幸福過ぎるのだ。彼 女は自分を救って呉れただけだ。いや、それよりも自分の足を 蝶いたのを気の毒だと思っているだけなのだ。それであゝ毎日 見舞って呉れるのだ。彼女の心はこの花のように、全く純白な 純潔なものなのだ。1そうだ。凡てを思い切って米国へ行こ う。それが僕に取って最良の道なのだ。L  野村は静かに病床の中で、そう心に決意した。  着護婦が入って来て脈榑と体温とを検べえ。それは殆んど平 脈平温だった。彼女はそれを病床日誌に書き入れると、「今日は まだ、どなたもおいでになりませんのね。」なぞと話しかけた。 「うむ、来ないね。」野村は仕方なしに応じていた。 「どなたも蔚いでがないと、さぞ御退屈でしょうね。」 「そんな事もないよ。」  そうは云い乍ら野村も、ある人の来るのを心の奥で待ってい たのである。  その時病室の|扉《ドア》を叩く音がした。        一〇二 「お入りなさい。」 .入って来たのは黒川であった。 「どうだね。今日の具合は?」 「うむ。もう大分いゝ。この分なら余病の併発する|虞《おそれ》もなし、 もう=一週間も経てば、殆んど全癒しようと云うものだ。それ にあんな偶然の事件が、僕の神経衰弱をすっかり癒して了った よ。」 「それに足を礫かれては酒を飲みに行く訳にもいかず、まあ今 度の君の災難は、君に幸福を与えるためだったのかも知れん ね。-人生の凡ての災難も要するにそんな物だ。」 「そうだね。僕は病床でつく八\考えたが、僕の帰朝以来の苦 難なども、要するに僕の甘い|為人《ひととなり》を練る堵禍だったのだね。僕 はその試練に堪えられなくて、危く堕落し果てゝ了う之ころ だったが、もう大丈夫だ。災難も此処まで来れば、もうあるま いと云うような気がする。よし在ったにもせよ、もう僕にはそ れに堪えうる力もある。1僕は身心が回復したら、更に捲土 重来の勢いを以て、研究に取りかゝる積りだ。」  野村は病後の秀でた眉を上げて云った。黒川は思わずその傍 に近より乍ら、野村の手を|確《しか》と握った。 「うむ、君もそう云う気になって呉れたか。よくそう決心して 呉れた。それでこそ君だ。i僕も今日は途々、君に今後の方 針を聞こうかと思っ,て来たのだ。それを聞いて安心した。」 「君には、ほんとにいろく心配をかけた。併しいずれ業績を 以てお礼をする|機《おり》もあるだろう。僕は秀子さんや婆やに対して も、そうならなくては済まなかったのだ。あの人たちの人格 が、僕の心の中に生きていない筈はなかったのだが、余りに】 時の打撃が大きかったので、僕にはその激励を受ける事が出来 なかったのだね。黒川、秀子さんに代って君が凡てを許してく れ。」 「許す許さぬなんて、そんな事があるものか。僕たちは只君が 奮い起って、研究に従事して呉れゝばそれでいゝのだ。聞けば 星野は|志虫病《つムがむしびよう》の研究に従事するそうじゃないか。今度こそ君 もしっかりやって、彼奴の鼻を明かしてやれ。」 「けれどもね黒川。僕は強いて星野の向うを張りたくないし、 又そうするだけの資力もないよ。だからそんな事は出来ない。」 ・「じゃどうする積りなんだい。」  ・      . 「又米国へ行こうと思う。山口博士はまだノ\僕を信頼して呉 れるだろうし、もう星野たちのいる伝研へ入りたくない以上、 米国へでも行かなくては研究の便宜は得られないからね。」 「ふうむ。そう云えばそうだね。併し折角帰って来た許りだか ら、僕は君をもう少し日本に置きたいよ。日本で研究に従事さ せ、日本で業績を挙げさせたいよー」 「併し、個人的に研究に従事するには資金が無くてぽ駄目だ よ。」 「誰か|保護者《バトロン》は居ないかなあ。森戸子爵にそれ程の余裕はな 」、輝子夫人に財産は自由にならんし、君のために喜んで金を 出して呉れる人は外にないかなあ。」 「矢っばり、米国へ行く外はないよ。」 「併し、米国には|悲虫《つとがむし》はいないからな。僕はどうしても日本に 君を置きたい。どうかして見るから、待っていて呉れ給え。」 「いくら待ったって駄目だよ。」  ニ人がこうして長大息をした時、又病室の|扉《ドア》を叩く音がし て、着護婦が一葉の名刺を持って入って来た。  野村が受取ってみると、その面には、「医学博士、小島|由之 介《よしのすけ》」と刷られてあった。 「あの悲虫研究の小島博士だ。一体何だって僕の処へ来たのだ ろう。1ー兎に角お通し申して下さい。」  看護婦は命を受けて去った。 一〇三 .小島博士は看護婦に導かれて入って来た。この少壮病理学者 は、欝勃たる覇気を眉宇に濃らして、閣達に一揖した。 「突然お邪魔に,参りまして、失礼致しました。」 「いゝえ、どう致しまして。わざくこんな処へおいで下すっ て、恐縮に存じます。1私が野村辰雄でございます。ー病 床に居って失礼致します。」 「どうぞその櫨1」■ 「それから是が黒川金吾と云う私の友人でございます。」  黒川も進み出て、「どうぞ宜しく。」と挨拶した。  一と通り挨拶が済むと、直ぐ本論に入る学者の習いで、小島 博士は直戴にこう云い出した。 「実は今日突然上つたのは、貴方に内密な相談が在るのです が、黒川さんには鳥渡座を外して頂けますまいか。」 「あゝそうですか。宜しゅうございます。」と黒川はもう立ち 上った。  併し野村は止めた。「いや、黒川君。どんな茄話だか解らな いけれど、何うか学術的な御用件だったら、君もいて呉れた方 がいゝよ。ー小畠博士。この男は僕のほんとうの親友で、決 して差支ない許りか、場合に依っては都合が宜しいのですか ら、どうぞ御遠慮なくお話をお進め下さい。」 「あゝそうですか。ではどうぞおいで下さい。ー実は御相談 と云うのは貴方が癒り次第、あの|悲虫病《つとがむしびよラ》の研究をして貰い度 いと思って、それで参ったのです。御存じかは知れませんが、 私は永年赤虫の研究に従事して、兎に角原虫だけは発見しまし た。が、あの毒素が何であるか、又それに対する適確たる療法 が何であるか、それなまだ研究に属して居るのです。で、今年 も実はその研究に行く|心算《つもり》で居りましたところ、急に政府の命 令でボムベイヘペストの視察に行かねばならぬ事になりました ので私の小さな悲虫研究も、一時中止しなければならんので す。併しそれでは淘に残念だから、実は適当な人がありました ら、私に代って研究に従事して貰い度いと思い、新進の人々を 物色した上、とうとう貴方に札が落ちたのです。私の研究所は 小さいですが、どうにかこうにか設備だけは整っています。只 困るのは年々の費用で、それさえ貴方の方で御都合がつけば、 私は喜んで研究所を貴方に提供し度いのです。どうでしょう。 何とかして、一つ研究に従事して下さる気はありませんか。」  こう博士は語り終って、野村と黒川の顔をじっと見定めた。  野村は先ずこう答えた。 「そう仰しゃって下さるのは、この上もない光栄ですが、私に それが出来ましょうかしら。」 「今更そんな謙遜なんぞなさるには及びません。出来るか出来 ないかやって見て下されば解ります。」  黒川も傍から助勢した。 「野村君。博士があゝ云って下さるのは、この上もない好機会 じゃないか。米国へなんぞ行くのはまあ廃して、直ぐ|悲虫《つとがむし》の研 究に従事し給え。願ってもない好都合じゃないか。」 「それはそうだけれど、さしあたって研究に要する費用が無い じゃないか。それに又星野と競争するのは厭だ。勝敗なぞは眼 中にないとしても、江戸の敵を長崎で打とうとしているよう な、・痛くもたい肚を探られるだけでも避け度いよ。」 「何処まで君は気が弱いんだ。費用なんぞどうにでもなるし、 星野の事なんぞ遠慮するには及ばないよ。どんノ\やり給え。 失敗したって失敗のし序だ。」 「そうガね。では費用が出来たらやって見ようか。ーでは小 島博キ資力の方は何とか尽力して、及ばず乍ら研究して見ま しょう。」  野村ははっきりこう云い切った。        一〇四  小島博士も野村の答を聞いて心から喜んだ。 「早速承知して下すって有難う。是で僕も安んじて印度へ行け ます。つまらない事のようだが、僕のような在野党は、どう云 うものか伝研一派が嫌いでしてね。出来るなら向うに業績なん か奪われたくはないんです。」 「私も出来るだけは努力しますが、折角の御信頼に酬いる事が 出来るかどうかバ心配です。」 「いや、そんな心配は全く要らんです。只結果の如何を問わ ず、貴方が最善を尽して下さればそれでいゝのです。私どもは 互に敵対めいた心は持っていても、そこは競馬や賭博と違い、 是非勝たねばならぬと云う法はないのですから。」 ■すると黒川が傍から猛然と云った。 「併し今度こそ君はどうしても勝たなくちゃならん。意地にで も勝たなくちゃならん。」 「僕もやる以上出来るだけの事はする。」と野村も決然たる色 を唇の|辺《ほとり》に示した。  それを見ると小島博士も|点頭《うなず》いて、 「では私は是で失礼します。猶いずれ詳しくはお打合せをしま しょう。何分にも宜しく頼みます。」と別れを告げた。 「そうですか。わざくおいで下すって、ほんとに有難うござ いました。いずれ又i」と云う野村の言葉よりも、「ほんと うに有難うございました。」と無骨に云った黒川の別辞は、ほ んとに有難そうであった。  小島博士が辞し去って了うと、二人は互に妙に興奮した顔を 見合った。 「野村!」 「黒州!」 「しっかりやって呉れ。」 「うむ、やる。」  こう云って二人が、前途の風雲を望むが如く、遠い空を見 やって沈黙した時に、お咲を先導にして、輝子と淑子とが病室 へ入って来た。  それを見ると黒川は、女たちの|冗《くだく》々しい挨拶を押し|沮《とオ》めてこ う云った。 「あゝ皆さん。どうぞ喜んで下さい。僕たちの野村は、精神的 にも蘇生しました。又捲土重来の意気を持って、研究に従事し て呉れる事になりました。が、研究に従事する資力がないの で、先刻までは又米国へ渡る決心でいたのです。」 「まあ米国へ?」と輝子と淑子とは同時に反問して、顔を見合 せた。 「ところが丁度うまく今、小島博士と云う悲虫研究の学者が来 ましてね。自分は印度へ行くから(研究所を野村に貸して呉れ ると云うのです。それで今、野村はその研究所に入って、再び 研究に従事する事と|定《きま》ったんです。その研究所さえ在れば、そ れに要する費用はさしあたり五千円もあれば沢山ですから、そ れを吾々の力でどうにかして用立てゝやりたいのです。で、私 が皆さんにお願いするのは、どうかそう云う点で幾分でも御助 力がして頂きたいのです。」 「おい黒川、そんな厚かましい事を皆さんにお願いするのはよ せよ。まるで、義揖金でも募るようじゃないか。」と野村はと めた。  けれども輝子はいち早くロを切った。 「いえ、そう云うお話ならば、黒川さんが何と仰し,やらなくと も、私共で出来るだけのことは致しますわ。ねえ、淑子さん。」 「えゝ、きっと致しますわ。」 「殊にその位のお金ならば、別に|他人《ひと》に迷惑など懸けなくと も、私共の要らない装飾品をどうにかすれば済みますから、決 して御心配なさらないで下さい。」  野村は云った。「そんな事をなすっては、却って僕が心苦し いです。」 「いゝえ、貴方は只黙って研究して下さればいゝのです。私共 は私共でたf私共のしたい事をするのですから。ー|会《たま》には私 共の女らしい侠気を、満足させて下すってもいゝと存じます わ。」 「そうだ。同情は具体的であるが故に卑しいと云う訳はない。 精神的の同情を喜んで受け容れてる君が、物質的なそれを否む 訳はない。L黒川も云った。 「それでは喜んで御助力を頂戴致します。」  皆は恰も誓いでもするように、一緒にお辞儀をし合った。        一〇五  野村の心身は、悲虫研究と云う張合いが出来たため、益ぐ良 好に回復して行った。足部の負傷も、もう|痕型《あとかた》もなくなった。 |而《そ》して帰朝以来の災禍のために醸された神経衰弱も、病床に於 ける温かき平和に殆んど癒された。彼は或る朝病床に起上っ て、健康者と同じく大きな伸びをした。|而《そ》して何となく或る新 しい勇気が、四肢に湧いて来るのを感じた。  その時看護婦が一枚の名刺を持って来た。その名刺を見ると 野村はふ乏顔色を変えたが、きッと|唇《  》を噛んだ艦|点頭《うなず》いて、 ・「通して呉れ。」と一言云った。  看護婦に伴われて、藤て入って来たのは星野であった。彼は 一種優越者の微笑を唇辺に浮かべて、昂然と頭を擾げた儘、つ と野村の方へ近づいた。二人は緊張した無言の|中《うち》に、丁寧なお 辞儀をし合った。  星野は椅子に腰をかけて、それから徐に云い出した。 「時に君は、今度小島博士の後を襲うて、悲虫研究に従事する そうだね。」  野村は星野の顔を怖れずに見返して答えた。 「うむ、従事するつもりだ。」 「僕も悲虫病を研究するのだが、君は知っていたかい。」 「いた。」 「それでよくする気になったね。」 「考うるところが在って、やれるだけやってみる気になったの だ。」 「ふうむ。君はまだ澄子の事で、僕に反感を持っているのだ ね。恋敵だと思って、どこ迄も対抗するつもりなのだね。」 ・「君にはそう見えるかい。」 「そう見えるかって、事実そうに違いなかろうじゃないか。君 は口ではそうでないと云い切るかも知れんが、心の底ではその 復讐の念に満たされている。君は学問上の公共の争いと見せか け乍ら、実は私的の復讐を企図しているに違いないのだ。」  野村は身を起して答えた。 「そうだ。併しそれがどうした。」 「君は卑劣だと思わないのか。」 「卑劣と見られても仕方がない。どうせこの儘引込んでいても 卑劣、進んで行っても卑劣、僕も昨今はそう云う言葉の内容を 信じなくなったよ。」 「ふん。そこ迄来ているなら益ぐ面白い。それではお互にやっ て見る事にしよう。僕も研究所を|最上川《もがみがわ》の方にするつもりだっ たが、それでは君と対抗して、信濃川の岸に建てるとしよう。 八月がいよく研究期だ、お互に研究してハどっちか早く治療 法を完成したら、遅れた方の研究所にいる病人には、直ぐ施し てやる事に約束しようじゃないか。つまり勝利者の蹟躍を意味 するために。」 「僕はそんな事はどうでもよい。どうせ早く治療法が発見出来 れば、どっちの手で出来たにしても、一刻も早く病人に施すの が当り前だからな。」 「併しその時君の手にある病人を、僕の療法に|委《ぬだ》ねるだけの度 量があるだろうね。」 「心配する事は無いよ。僕の性格は弱いかも知れんが、道義的 には少しは勇気もあるからね。けれども|平素《ふだん》強がっている君 が、まさかの時に慌て給うな。」 「大丈夫だ。1それじゃ男らしく競争するとしよう。勝敗は 時の運で、君が先んずるかも知れんが、併し澄子は君の方へは 戻って行かないよ。その点では飽迄君は劣敗者だ。だからこの 上劣敗は重ねないように、精々努力する事だね。L 「御忠告有難う。まあ|髄《しつか》りやってみるよ。」 「じゃ信濃河畔で又会おう。僕は今日出発するからね。ー左 様なら。」  星野はこう云って又昂然と出て行った。        一〇六 星野の去った後を見送って、野村は考えに沈んだ。. 「自分は今度の研究に就ても、毫も星野に対する私的感情無し に、只自分の欝勃たる研究心からのみ、それに従事するものだ と信じていた。併し果して自分には星野の云う如く、復讐の心 が無いであろうか。公事を以て私怨を晴らし度い気はないであ ろうか。」 「そうでないとは云えない。確かに在る。I併しそれが何故 に悪いのであろうか。星野は卑劣だと云った。併し果して道義 的に卑劣であろうか。」 「自分は今決してそうは思わない。私情のために遠慮して、競 争場裡から引込むのこそ卑怯だ。敗けるとも戦わなければなら ぬ。私怨を公事で晴らすのは、僕のこの場合に於ては少くとも 僕に残された最良の道だ。|伊太利《イタリ 》人の謂わゆる|善《ベラベン》 |讐《デツタ》だ、揮る ところはない。併し果してその|善讐《ベラベン アツタ》は、報ずる事が出来るで あろうか。」  そう思うと野村は、奮然と床上に起き上らざるを得なかっ た。 「今度こそ自分は、身命を賭して努力しなければならないの だ。今度こそはどうしても成功しなければならないのだ。今度 失敗すれば自分はもう死を選ぶより外はないのだ。成功の名誉 を担って帰るか、又は信濃川に身を投げて了うか、その中の一 つが自分の運命だ。」  彼は端坐して何ものかに祈った。  その午後野村は黒川の来るのを待って、早速こう云い出し た。 「僕はもう今日は退院する。今は安閑として静養なぞに日を 送っているべき時ではない。今朝星野が来て、殆んど宣戦の布 告みたいな事をして行った。彼は今日出発するそうだ。僕は明 日出発する。長い間病床に居たんで、少しふらノ\するようだ が・身体はもう大丈夫だ。早速退院の手続をして呉れ給え。」 「宜しい。」と黒川は大声で欣然と答えて出て行った。そのあ とへ例によって淑子が訪れて来た。淑子は手に紫色の祇紗包み を持っていた。 「あ、淑子さん。よくいらっしゃいました。喜んで下さい。僕 はもう退院します。」 「それはお目出度うございます。1それではもう此処で、お 目にかゝるのも最後ですのねえ。」と淑子はじっと野村を見、 それから名残を惜しむように室を見廻した。 「そうです。僕はこの記念すべき更生の室から出て、明日は信 濃河畔へ出発しようと思います。」と野村も室内を見乍ら、ふ と又眼を淑子に落して、「だが貴方には、ほんとうにお世話に なりましたね。」- 「いゝえ、どう致しまして。私が不注意に貴方を櫟いたのです もの、まだく足りない位ですわ。」と彼女は祇紗包の中から 一封を取り出して、「これはほんの少し許りで、お恥かしゅう ございますが、私の志でございますから、どうぞ研究費の中へ 翁加え下さるように、どうぞお収め下さいまし。」 「貴方までそんな御心配をなすって下すってはほんとうに恐れ 入ります。どうぞそれはお持ち帰りなすって下さい。私は今ま で頂いた貴方の御厚意だけでも、もう感謝がし切れないので す。それにこの上頂戴するにしても、私は貴方からもっと形の ない、精神的なものを頂きとう存じます。」こう云って野村 は、何故か頬をそっと赤らめた。淑子も何故か|免首《うつむ》いたが、小 さい声を出して、 「で㌔まあどうぞ是だけはお収め遊ばして下さいまし。」と云 い張って聞かなかった。野村も辞令のつもりでなく辞退した が、とう<好意を受ける事になりて了った。 一〇七  淑子に次いでは輝子夫人が来た。彼女も亦祇紗包みを携え て、|毎《いつ》もの通り晴々しく入って来た。そして淑子に意味を含ん で会釈をして、野村に近づいた。 「もう愈ぐ御退院ですってね。今そこで看護婦さんに聞きまし たの。退院するのはお目出度うございますが、いよくとなる と病院もお名残惜しゅうございましょう。」 「そんな事はありませんよ。仕事が僕を待って居るんですか ら。」 「では直ぐにもう研究をなさるのですか。」 「明日出発しようと思います。」 「それは又大変お急讐なさ小寒すのね。もう少し御静養な寸抄 てからになさらないと、向うで又お悪くなりはしませんか。悲 |虫《むし》の出る処と云えば定めし土地が悪いでしょうから。」 「併し僕は倒れて後止む積りで行きます。」  輝子と淑子とはその決心を聞いて、喜びと気遣わしさの眼を 見合せた。  輝子はふと思いついたように、その時秩紗を解いて、淑子と■ 同じような一封を取り出し乍ら、野村の前に差し出した。 「之はほんの私の心ばかりでございますが、どうぞ研究の御費 用にお使いなすって下さいまし。爵約束ですから、よもや御辞 退下さるまいと存じます。どうぞお収めなすって下さいまし。 本当なら家の運転手が櫟いたのですから、治療代からして差上 げなければならないのですが、そこはどうぞ私に免じて、騎許 し下さるようにお願い申します。」 「そう仰しゃられるとほんとに恐縮です。では折角のお志です から、御辞退致しません。有難うございます。皆さんにこう迄 して頂いて、需蔭さまで十分研究が出来ます。」 「いゝえ、どう致しまして。」と輝子は野村と政めて礼をし 合った。  傍にいた淑子は、野村の輝子に対する感謝が、自分に対する それとどれ丈異うかを、ひそかに見守っていた。自分に対して は一応辞退した。が、輝子に対する場合には、彼は一度も辞退 めいた事を云わずに、快く収めたように見えた。彼女は自分が 輝子よりも、野村に他人扱いにされる度が強いように感じて、 いくらか悲しぼに様子を見ていた。  野村は輝子の包みを淑子のと一緒に収め乍ら、 「只今は淑子さんからも頂いたのです。いくら御辞退しても、 聞いて呉れないのでとうく頂くことにしました。まるで僕は 貴方がたに養われているようなものですね。」 「まさか。1でも淑子さまも、よく差上げて下さいましたの ね。私からもお礼を申上げ度うございますわ。」と輝子は淑子 の方を見て云った。 「あら貴方こそ。ー」と淑子ば心の|中《うち》を輝子に見破られたよ うに|狼狽《どぎまぎ》して、小さな声で口籠った。  するとその様子を幾らか姉ぶって見やっていた輝子は、ふ と、, 「あら貴方の御手にも、一つも指輪がなくなったのね。」と 云った。  淑子は益ぐ|諸《あか》くなって、両手を挟の蔭に匿した。野村は只そ の涼しい|明石《あかし》の紫紺地の下に、白い彼女の手が灰に透いて見え るように思った許りだった。 「けれどもね淑子さん。今は何もないその指に、その中には きっとこう云う蒲鉾形のが嵌められるようになりますよ。」と 輝子は自分の結婚指環をちらと淑子に窮して見せた。  淑子は益ぐ諸くなった。  野村は幾ちか気の毒になって、 「貴方はそんなにして迄心配して下すったのですか。それでは 却って心苦しいです。」と云った。 一併し淑子は、「いゝえ、た間私は、私のもの丈でお間に合し 度かったのですもの。」と更に小声で云った。  すると野村よりも前に、輝子が感激したように、「有難う よ、淑子さん。よくそうお思いになって下さいました。」と礼 を云って呉れた。  その中に愈ぐ退院と云うので、皆が集まって来た。お咲は勿 論、子爵もお駒も来て呉れた。        一〇八 ・ その日皆に送られて退院した野村は、久しぶりで吾家に立 帰った落着きさえもなく、 |慌《あわたド》しい準備に取懸らねばならな かった。彼は小島博士と打合せをして、種々な研究用の必要品 を整え、お咲はお咲で日用品を荷造りした。黒川や淑子たちも 手伝いに来ていたが、細い乍らに丸々したお咲の手が、一番そ の能力を発揮するのを見ては、頼もしげに傍観しているばかり だった。  野村はお咲にこう云いかけた。  「お咲さん-君は僕と一緒に向うへ行って、僕の世話をして呉 れられますか。」  「はい。どこ迄でも参ります。」  野村はその答えを聞くと黒川の方を向いた。  「では黒川。君もお咲さんをまた暫らく僕に貸して呉れない か。」  「うん、いゝとも。」・  こうしてお咲は野村と一緒に、研究地へ同行する事になっ た。それを聞いていた淑子は、沁々と束縛なき平民の子の幸福 を思った。彼女も出来るならばお咲のように、どこ迄もついて 行って、直接に野村の世話をしてやり度いように感じた。が、 彼女に許されたる自由は、此処へこうして訪問するだけでも、 殆んど異例と云ってもいゝ程に制限されているのである。彼女 はせめて自分のダイヤの指環が、彼のツアイスの顕微鏡に変っ た事位に、満足していなければならなかった。  さて、今日は野村の出発の日となった。その日は朝から野村 の家へ、皆は見送りがてらに集まった。森戸子爵も、輝子夫人 も、淑子も、それからお駒も。|而《そ》してこの日は人生の戦闘場裡 から去った積りでいる子爵さえ、一種の興奮の様子を帯びてい た。 「今日こそ愈ぐ出陣だね。しっかり戦って呉れ給え。1併し 兜の裏に名香を焚き込む心懸は忘れ給うな。僕は武士道は軽蔑 するが、そう云う武士道の持っている|野情詩味《のリシズム》は大好きだよ。」  子爵はこんな風に野村を激励した。  黒川は黒川で東洋流に感激していた。彼は真面目になって、 出発の際の「水盃」を発議した。|而《そ》して野村たちもついその真 蟄に動かされて、ほんとうに水盃を汲み交す事になった。一座 は妙な感激に支配されて、さすがの子爵さえ郷楡の言葉も出な かった。  盃は先ず野村の前に置かれた。黒川は清水を盛った銚子を取 上げて、 「野村、それでは成功を祈るぞ。」と云って注いだ。この場合 この言葉は何等豪傑めいた誇張も厭味もなく聞えた。 「皆さんの期待には必ず酬いる。」と野村も盃を飲乾した。続 いて興奮した無言の中に黒川が飲み、子爵が飲み、輝子、淑 子、お駒と一巡して行った。輝子や淑子は感に堪えて、|只管《ひたすら》 黙ったまゝ、名状し難い水の味を味おうたが、|勝気《かちき》のお駒は何 か云わなくては済まなかった。 「野村さん。私にその資格はないかも知れませんが、死んだ叔 母さんの分として、もう一杯頂いてよ。こんないゝお酒を、一 生に頂くことはもう無いでしょうから。|而《そ》してその代りには、 お咲ちゃんの出来ないようなむつかしい事が出来上った時、 きっとお手伝い致しますよ。」          ・ 「お駒。水盃に酔っちゃいけない。」と子爵は|傍《かたわら》から云った。 「いゝえ。真面目で云うんですよ。今に見ていらっしゃい。」  盃はお咲から野村に返って、別薙は終ろうとした。  その時慌しく表に人の訪れる声がした。お咲が急いで出て 行った。すると何人かと聞き澄まして居る皆の耳へ、 「私は小島ですが、至急野村君にお目にかゝりたいのです。大 変な事が|出来《しゆつたい》しました。」と云う声が聞えた。        一〇九  お咲に導かれて、小島博士は急いで上って来た。そうして皆 に挨拶する暇もなく、野村にこう云いかけた。 「野村君、飛んだ事になりました。今越後から電報が来て、私 の研究所が焼失して了いました。貴方に御管理願う筈だった、 あの研究所が焼けたと云うのです。」 「えっ。では私が是から行こうとする、あの研究所が火事に なったのですか。」野村は思わず膝立ちになった。 「電文が簡単で解りませんが、焼失したには違いありません。」 「まさか間違いではございますまいな。」と黒川が念を押した。 「向うの警察署から知らせて来たのですから、間違いはありま すまい。原因は留守番の|爺《おやじ》の過失か、研究所に反感を持つ村の 暴徒の仕業か、まさかに星野君一派の示駿ではなかろうと思い ますが、星野君自身の意志でない之しても、下のものゝ敵対心 で、その位の事は起らぬものでもありません。ー原因は兎も 角として、貴方に対しては、申訳のない過失を致しました。御 気の毒ですがどうぞ御断念下さい。」 「焼けて了ったものは仕方がありません。|断念《あきら》めます。1併 しどうして私には、こう次ぎく不幸が起って来るのだろう。 折角光明に向つて来た僕の進路は、又暗黒ヘ後戻りをして了っ た!」野村は叫ぶように云った。 「何と云っていゝか、私には解りません。折角お願いして置き 乍ら、こんな事になろうとは、私さえ夢にも思わなかった事で す。」 「博士。私は貴方には徹頭徹尾感謝して居ます。只私は天を恨 みます。」  黒川も|傍《かたわら》から云った。 「野村! 僕はもう何も云う事が出来ない。もう君を慰める言 葉も尽きた。」  子爵は黙って腕を撲いているのみだった。婦人たちは勿論云 うべき言葉もなく、只野村の顔をちらと見て、見るに堪えない ものを見た如く、又|尭首《うつむ》くばかりであった。  突然、この不幸なる沈黙を破って、騎駒が不意に口を出し た。 「先生にも野村さんにも|鳥渡《ちよつと》伺いますが、一体その御研究と云 うのは、その研究所が無ければ駄目なのでございますか。」  小島博士は低く答えた。 「近くの避病院はもう星野一派の手にあるでしょうから、やむ を得ずんば民家を借りるしかありませんが、その民家が貸すの を厭がるばかりか、矢っ張りいろノ\な不便があるのです。」 「では研究所を新しく建てればいゝでしょう。」 「それはそうです。」 「それにはどの位お金がかゝるのですか。」 「さあ、今建てるとなると、東京から大工や左官を連れて行っ て、急いでやらせなければなりませんから、先ず二万円位は要 るでしょうかな。L 「二万円、私共には大金ですけれど、その位どうにかして出来 ないものでしょうかねえ。」お駒は独り言のように云った。 「僕は見かけ倒しの貧乏華族で、余裕と云うものは更に無い し。」と子爵は淑子を顧みて云った。  すると今迄黙って聞いていた輝子が、「皆さんを前にしてこ んな事を云うのは何ですが、その中の一万円だけは早速私が御 用立を致しましょう。まだ結婚したて間財政は自由になりま せんが、幸い結婚当時良人から私の費用として貰ったお金が一 万円ほど有ります。あとの一万円は又どうか致すことにして、 取り敢ずその一万円だけを御用立たしたいと思います。どうぞ それで御心置なく研究を続けて下さいまし。こうなっては私 も意地でございます。野村さんに是非成功させてあげなけれ ば、私の心が済みません。余計な御辞退は却って兄妹の|友誼《よしみ》に |惇《もと》ります。どうぞ御承知下さいまし。」 「輝子さん、有難うございます。」  野村はそう云う外に感謝の言葉を知らなかった。        一一〇  始終を聞いていた小島博士は、膝を進めて云った。 「私も奥さんに改めて感謝致します。貴方のような|保護者《パトロン》が、 今後ともどんく出て下さったなら、地方病の研究なぞは誠に 易々たるものです。どうぞ今後ともに、野村君のために御尽力 下さい。」  「私にばかりそう仰しゃって頂いては恐れ入ります。此処にお いでの婦人たちは一人として、野村さんのために献身同情して いないものは無いのでございます、それ八\皆分に従って尽力 して下すって居りますので、私などがこの位の事をするのは、 皆さんの御助力と比較致しましては、恥かしい程なのでござい ます。」輝子夫人は謙遜ながらも能弁に答えた。  「そうですか。それでは更に皆さんに感謝せざるを得ません。 1私もこれで安心しました。折角後事を託して置き乍ら、研 究所を焼失して了って、申訳がないと思っていましたら、これ では却って焼け太りで、却っていゝ研究所が出来ると云うもの です。いや、たとい研究所は狭く小さくとも、それを支えてい て下さる皆さんの美しい心は、如何なる礎よりも確実です。こ の礎の上に業績を打建てる野村君こそ幸福です。どうぞ皆さん の志を無にせぬようしっかりやって下さい。」  森戸子爵は|傍《かたわら》から云った。「博士、余り御激励なすっては いけません。余りに責任を感じさせると、却って野村君が固く なる恐れがあります。吾々の野村君に対する同情は、決して業 績を挙げる事をのみ要求はしていません。研究が人に先んじら れようとられまいと、そんな事は問題外なのです。いや、寧 ろ、又失敗して呉れたところが、野村君の野村君たる価値は動 揺のある訳ではございません。私は野村君が気楽に、あせらず に研究に従事するのを望みます。ギ博士、貴方のお心持はよ く解っていますが、どうぞ心弱い野村君をして、余りの負担を 心に感ぜしめないで下さい。」  すると黒川が又こう云い出した。  「併しどうせやるものなら必勝を期してやらなければならん。 子爵は余りに世の中を悟り過ている。野村君は是非業績を挙ぼ なくちゃならんぞ。」  お駒も思わず進み出て云った。 「野村さん。ほんとにしっかりやって下さい。私はこう云う事 が大好きなのですから、まさかの時にはきっと出て行きます よ。まさか草深い信濃川原に、リラの花が咲けぬ訳もあります まいから。」  輝子もその後から、「兄さんの成功を祈ります。」と云った。 た間淑子とお咲のみは無言の|中《うち》に、一は心で深く何ものかに祈 願を込め、他は|只管《ひたすら》野村の世話に、益ぐ心を軍めようと思って いた。  野村は一座を見渡して、キッとなって|云《し 》った。 「私は直ぐにも人夫を引連れて、信濃川に向います。皆さんに 対するお答は、いずれ二三ヵ月後にきっと致します。」  小島博士は提言した。「では早速信濃川へ赴いて下さるので すね。併し、研究地に就ては、もう研究所もなくなってるし、 一旦ヶチもついた事だししますから、最上川の方にしてはどう ですか。星野君もあそこが本拠地ですから。」 「私はどちらでも宜しいのです。」  すると騎駒が口を出した。 「こんな事を私が申し上げるのは変ですが、私の叔母の故郷は もと山形県の西村山郡に在ったのだそうですから、出来るなら そちらにして頂き度うございます。」 「西村山郡、それでは|悲虫病《つとがむしびよう》の発生地だ。」と小島博士も云っ た。 「宜しい。最上川の方に致します。では早速仮小屋を建てゝで も、研究に従事すると致しましょう。」  こう云って野村は、いっも決意した後の癖として、遠い空を 見るような眼をした。        一一一  野村の続いて到る不幸に心から同情して、進んで一万金の提 供を約し帰った輝子は、自分の心は公明正大ではあるが、良人 には内密で事を運んだ方が、余計な邪魔が入らずに済むと考え て、黙って金子を野村に渡し、渡して了ってから良人に云誌う と思った。良人の愛を信じている輝子は、其処に決して誤解の あるべき筈はないと考えたのである。  翌日、輝子は良人の|外山《とやま》を霞ケ関へ送り出して了った後、一 刻も早く野村に金を渡そうと思って、外出の用意を小間使に命 じた。|而《そ》して彼女は自身金庫の中から、自分の所有である|丁酉《ていゆう》 銀行の預金帳を取出した。これから銀行に寄って金を受取り、 直ぐその足で又野村を訪れようと云う予定なのである。  こうして彼女が外出の用意を整えているところへ、小間使が 急に入って来て云った。, 「あの奥様、只今秋山さまの若奥様がお見えになりました。直 ぐ此方へ騎通し申しましょうか。」 「あらお姉様がおいでになったの。-では今丁度|出先《でさき》だけれ ど、お目にかゝる事にしましょう。直ぐ此処へお通しして器呉. れ。」  女中は去ってやがて澄子をその室へ導き入れた。澄子にも艶 艶しい丸髭がよく似合っていた。而して結婚以来、幾らか痩せ 気味に見える顔が、少しヒステリー性の美しさを含んで、美し い罪を背負う人の常なる、奥深い瞳の色が陰性の光を帯びてい た。 「あら欝姉さま、よくいらしって下すったわね。」輝子は迎え た。 「輝子さん、暫らくだったわねえ。-あら、貴方は今どこぞ へお出掛けになるところだったの。」と姉は妹の美しい外出着 を見やった。 「いえ。少し用があるものですから、出ようと思っていたので すけれど、別に時間ぎめのしてある事ではございませんから、 ちっとも|関《かま》いやしませんわ。」  澄子の眼は一種の光を帯びた。が、語調はいつもの通りの様 子で、 「どちらへ,お出掛けなの。」と訊いた。  姉にそう訊ねられると、輝子は野村を訪うに何の遠慮もたい 筈ながら、現在姉が背き去った人を、こうまで同情しているの が、姉に裏切っているようにも感ぜられて、心の中は同じく公 明正大であっても、一応は胡魔化さ間るを得なかった。 「あの、|鳥渡《ちよつと》お友達をお訪ねしょうと思って。1」 「どこのお友達∋」澄子はさりげなく追究した。  そうなって来ると曖昧にした第一語の形勢から、輝子は慌て て胡魔化しを云うように余儀なくされた。 「本郷のお|友人《ともだち》なの。」 「では森戸さんの淑子さん?」 「えゝ。」  輝子は此処まで来て、思わず嘘を云って了った。|而《そ》して邪心 のない彼女は、思わず嘘を云い乍ら、.事のなりゆきに顔を赤ら めた。彼女は自分の心の中f、何故野村の名を云うのを、慣ら ねばたらぬ必要があるのか、自分はあくまで公明正大じゃない か、とは思った。が、今更姉の前で改めてそう云う事も出来な かった。すると澄子は急に鋭い調子で云った。 「輝子さん。貴方嘘を仰しゃってるのね。貴方は野村さんの処 へ行くんでしょう。】万円とかのお金を持って、あの人の処へ 行くんでしょう。」こう云い乍ら彼女は、輝子の傍に置いた預 金帳をちらと眺めた。 「あら姉さん。貴方どうして御存じなの?」輝子は先刻からの 心の争いで、こう手もなく白状して了った。 「どうしてって、ちゃんと解りますよ。ーじゃ矢っ張りあそ こヘポπくのだったのね。」 「えゝ、私野村さんの処へ行くの。」  輝子は姉の前で改めてきっぱりそう云った。        一一二  澄子はその答を聞くと、美しい|既《まなじり》を上げて云った。 「すゐ之矢っ張りあのお話はすっかり|真実《ほんとう》だったのね。」 「どこでそんな話をお聞きになって。」輝子は反問した。彼女 は自分の行動が、誰かに一々探偵されているように感ぜられた からである。 「いゝえ、どこで聞いたと云う訳ではないけれど、星野の下に いる助手がね、或る会合の席上で、昨夜小島博士と云う人が、 輝子さんに就てお噂をしていたのを聞いて来たのよ。ー何で も外山と云う貴族拙の外交官の夫人が、野村さんを助けて研究 費を出す事になったが、今時の若い夫人には珍らしい感心な事 だって。ーその話を助手から又聞きして、星野もそう云って たわよ。ほんとに輝子さんは感心だって。私も欝礼を云うわ、 ほんとに感心な事をして下すったわね。」と澄子は黒い瞳に剣 を含ませて、輝子の様子を見守った。 「まあ姉さん、貴方も随分御皮肉ね。」 「輝子さん。貴方は私が貴方の姉さんで、星野が兄さんだと云 う事を忘れやしないでしょうね。」 「姉さん。そんな|反語《アィロニ 》は云わないで下さいな。」 「貴方は野村さんと私が、それから野村さんと星野が、どう云 う関係にいるか、まさか知っていない事はありますま一いね。」 「知って過ぎる位よく知ってますわ。」 「それでいてよくこんな事をなさるのね。1/私貴方の心持が 解らないわ。その話を聞いた時も、まさかと思っていたけれ ど、此処へ来て貴方の目から、事実だと云われても、まだ|真実《ほんとう》 にする気になれないわ。輝子さん、貴方どうしてそんな気に なったの。」 「姉さんが齢棄てになっても、野村さんは私の兄さんですから ね。姉さんが勝手にお棄てになっても差支なければ、私が勝 手に兄さんにするのだって、|毫《すこし》も差支がない訳だわ。私前に 誓ったのですもの。仮令どんな事があろうと、私た・ちは兄妹 だって。」 「外へ|嫁《かたづ》いて良人のある身が、他にそんな兄さんが在ってもい いの。」 「えゝ、いゝことよ。」 ・「今度の貴方のしようとする事を、外山さんは御存じ?」 「まだ知ら」てはありません。知らせなくとも差支ないのよ。 私の良人に対する愛、良人の私に対する愛は、そんな事を改め て相談しなくとも、後から話せばいゝのですから。私が私の一 万円を、他の賛沢なら兎も角、学問のため忙投ずるのは、天に も地にも恥じるところがありませんわ。」  その固い言葉を聞いて、澄子は幾らか下手に出た。 「輝子さん、改めて私がお願いするから、野村さんを助けるの だけはよしてお呉れでないかね。」 「姉さん。貴方そんな事を仰しゃって、貴方こそお恥かしいと はお思いにならないのですか。そんなに迄して野村さんを、お 苦しめしたいのですか。」 「いゝえ、そうではないけれど、私は何処までも星野に成功さ せないと、お母様に対しても済まないのだからねえ。どうか私 の云う事をきいてお呉れ。」 「でも、いくら姉さんが仰しゃったとて、私一旦約束」たもの を、変替する事は出来ませんわ。輝子には又輝子の意地があり ます。」 「では、どうしても私の云う事を、貴方はきいて下さらないの ね。」 「外の事なら兎も角、こればかりは仕方がありません。」 「そう? でも、私は私として、出来るだけ貴方のこの事を、 |阻《と》めなければ承知しなくってよ。よくって?」 「宜しゅうございますとも、阻められるものなら阻めて御覧な さい。」 「じゃ、左様なら。」 「左様ならご  とうノ\この姉妹の間にも、宣戦布告に等しき火花が散っ た。  姉の去って了った後、輝子は暫らく不快な顔をして、じっと 考えに沈んでいたが、ふと時の経つに気付いて、預金帳を懐に 外出した。        一一三  姉の邪魔が入ったため、意地にも早く野村を訪ねて、金を手 渡したいと思った輝子は、車を直ぐ丁酉銀行に急がせた。彼女 は自らこう云う処へ、金を受取に来た経験は余り無かった。そ れで少し戸惑いし乍ら、そこの預金係に帳面を出して、一万円 の金を引出そうとした。、  行員はちらと美しい婦人の顔と、婦人にも似合わぬ大きな現 金の要求額とを比べて、鳥渡疑いの眼を|暉《みは》った。が、晴々とし .た輝子の眉に、何ら怪しむべき分子のたいのを見て取ったもの か、それとも真実外山夫人であるのが知れたものか、早速手続 きにかゝって呉れた。  併し輝子がその現金を、受取るまでには可なり時問がかゝっ た。彼女はそこの椅子に腰を下ろして、心では頻りに|焦《せ》かれて ならぬのを抑えて、受払口から呼ぶのを待っていた。彼女は殆 んど行員が自分の金の取扱を忘れたのか、又は何か故障でも あって、渡して呉れぬのではないかと思わるゝ程待ち草臥れ た。それは決して銀行の怠慢ではなかった。た父それ程に彼女 の心は急いでいたのである。  とうく彼女の番が来て、百円の札束を数え乍ら受取り、 持って来た歓紗の中にしかと包み込んだ時は、ほっと安心の息 を吐いた。この上は更に一刻も早く、野村に渡して喜ぶ顔が見 たい。姉さんがどうしても|阻《と》めると云ったが、もうこうなって は大丈夫だ、と心の中で考えた。  輝子は更に車を野村の家へ急がせた。併しそうして車上に揺 られている輝子は、何となく安心がならなかった。何となくこ の一万円が、無事には野村の手へ渡らないような気がしてなら なかった。が、大金を|懐中《ふところ》にしている時は、人は誰でも一種の 不安を|懐《いだ》くものである。輝子も自らその心持を、単なるその不 安だと解釈したかった。けれども亦彼女は一方に、こうして野 村の家へ赴く途中、どこかの横町から澄子が車の前へ飛び出し て、邪魔をするようなことがあるかも知れぬと云う、荒誕に近 い想像さえもした。  併し車は無事に本郷なる野村の家ヘ着いた。輝子は急いでそ の玄関に訪れた。|而《そ》して直ぐに野村の室に通された。彼女は挨 拶もそこくに金の包みを野村に差出した。一刻も早く野村に それを渡せば、一刻も早く自分も安心するからである。   「では御約束の一万円だけ、先ず持って参りましたから、どう   ぞ御受取り下さいまし。」    野村の顔は感謝に照り輝いた。   「輝子さん。ほんとうに有難うございます。もう御辞退なぞは  .、せずに頂きます。只今は感謝の|辞《ことば》もございませんが、その|中《うち》に   はきっと御好意に酬います。」   「私は何もそんな積りで差上げたのではございません。」   「けれどもこんなに大金を調達して頂いて、貴方に御迷惑はか   からないのですか。もし貴方に御迷惑でもかゝるような事が   在っては、心苦しくて頂けなくなりますが。i」   ・「いゝえ、決して迷惑なんぞかゝるものですか。私のお金を私   の兄さんに用立てるのですもの、少し位何か云われたって、私   何ともございませんわ。貴方もどうぞそんな事を、御気に留め   たいで下さいまし。」こう云い乍ら輝子は、今朝の姉の言葉を   思い浮べた。   「では兎に角、悦んで御拝借致します。」野村は金包みを受   取った。   「まあ、そんな他人行儀な事仰しゃって!」と輝子は微笑ん   で、やっと安心の眉を晴れやかに張った。    その時である。玄関の方に|慌《あわたゴ》しく人の訪れる声がした。輝   子は何だか聞き覚えのある声だなと思った。    騎咲が出て行った。|而《そ》してその応対の|二三言《ふたみこと》が、此方の聞き   澄ましている耳に伝わった。それは輝子に聞き覚えのあるのも   道理、紛いもなく良人外山の声だった。   「私は外山信一郎と云うものです。失礼ですが此方に、私の妻   の輝子が参っては居りませんでしょうか。」彼の声は明かにあ   る昂奮を帯びていた。   「いらっしゃいます。」お咲は答えていた。        一一四  お咲の案内を待ち兼ねて、外山はつかくと入って来た。|而《そ》 して野村と輝子の対座しているのを見ると、激情に蒼ざめた額 の下から、嫉妬の眼を光らせた。彼は強いて装うた丁寧を以 て、野村にこう云った。 「突然参上しまして、失礼致します。私はこゝにいる輝子の良 人で、外山と申す者でございます。」 「私は野村辰雄でございます。輝子さんには色々御厄介になっ て居りますが、何分ともどうぞ宜しくー」  すると外山は何事で良人が来たのかと、呆然と見ている輝子 を尻目にかけて、改めて野村に向った。 「併し私はこの輝子を、連れて帰るために参ったのでございま す。一応連れて帰って差支はございませんでしょうな。その上 の話で、此方へ改めて私から→差上げるなら差上げると致しま すから。」 「仰しゃる事は何だか鵬には落ちませんが、お連れになる事 に、そんなに改まって私の許可なんぞお求めになるのは、却っ て恐縮致します。」  野村は何となく事態の妙たのを感じて答えた。 「そうですか。1じゃ輝子、私と一緒にお帰り。おまえに少 し話したい事があるから。」  輝子はもう漠然と、良人がどうして此処へ来たか、どう云う 誤解があるか寸解った、それで兎も角この場は、黙って大人し く帰るに若くはないと考えた。 「そうですか、では御一緒に帰りますわ。」と彼女は起上っ た。  外山はその様子を見て更に棘々しく云った。 「それから今日お前は、一万円を持って来た筈だが、それはま だ確かに持つているだろうな。忘れないように持って帰るのだ ぞ。」 「えっ、一万円を, ーーいゝえ、その一万円は、私が野村さ んに差上げるために持って来た金です。|而《 そ》してもう、野村さん に差上げて了いました。」  そう聞くと外山は詰るように輝子の方へ膝を進めた。 「輝子。それでは姉さんの話は、みんな|真実《ほんとう》だったのだな!」 「姉さんのお話? 姉さんが貴方に何か仰しゃいましたか。」 「うむ云った。俺のためにわざく出先まで来て呉れて、おま えの話を聞かして呉れた。-ーお前は|義兄《にい》さんや|義姉《ねぇ》さんに反 対して、又良人たる俺に匿して、この野村と云う人を|尋常《なみなみ》なら ず助けていると云う話だな。そうして騎前の|真実《ほんとう》の心は、明か にこの人に移っているそうだた。聞けばお前はずっと前から、 この人をひそかに愛してい乍ら、それを黙って僕の処へ嫁いで 来たそうだな。%前は既にこの人と、兄妹の誓いをしているそ うじゃないか。僕は他人同志の兄妹の誓いと云うものが、真実 どんなものであるかを知っているぞ。」 「貴方、貴方は野村さんと私との前で、いつもの貴方の体面を 忘れて、そんな事まで仰しゃるのを、お恥かしいとはお思いに なりませんか。」余りの事に輝子は敗けてはいなかった。 「その体面を忘れさせ、その恥を忘れさせたのは誰だ。僕はお 前をそれ程迄に信じ、それ程までに愛していたのだ。それにお 前のこの酬い方はどうだ!」 「この事に就いては、今更弁解めいた事を申上げる必要はござ いません。私と野村さんの関係は、後めたい事は少しもないの ですから。ー成程、私は義兄さん姉さんと反対に、この野村 さんに御同情しています。研究費にお困りになっているのを見 ては、一万円だけでも差上げ度い気になりました。けれどもそ ■れを曲解して、野村さんと私の関係を疑うなどは、余りと云え ば余りの誤解です。」  「現在僕に隠れて此処にこうして来てい乍ら、僕に匿して一万 円を持って来てい乍ら、まだそんな事を云い張るのか。」         一一五 「ではどうすればいゝのでしょう。どうしたら貴方の誤解が、 すっかり解けて下さるでしょう。」輝子は外山の激しい言葉 に、幾らか情けなくなって反問した。 「この場でいろノ\云い解くより、大人しく金を持って家へ帰 れ。話はそれからの事だ。」外山の声はまだ激していた。 「金を持って帰れって、そんな御無理を仰しゃっても、私から 野村さんに上げて了ったものを、■今更返して頂く必要はない じゃございませんか。野村さんはその金が無ければ、大切な研 究が出来ないんです。」 「野村君が出来なくたって、それは僕の知った事ではない。聞 けば|義兄《に い》さんがやろうとする研究を、横合から奪い取ろうとし ているのだそうじゃないかρ僕は義兄さん一家に義理こそあ れ、その|敵手《あいて》を助ける必要は絶対に無いんだ。」 「まあ貴方は野村さんの前で、そんな事まで仰しゃるのです か。」輝子は余りの良人の言葉に、この場合嫉妬のため常軌を 逸しているとは知り乍ら、情けなくなって涙を催した。  それ迄黙って夫妻の争うのを、心中はらくし|乍《  》ら見ていた 野村は、きッと|決《し 》心の色を顔に示して、二人の間に割って入っ た。 「外山さん、私が輝子さんに同情して頂いた事から、いろノ\ と貴方にも御心配をか甘まして、何とも申訳ございません。 1是は輝子さんから拝借した一万円でございます。御好意だ けは確かに頂きましたから、どうぞ騎持ち帰りを願い度うござ います。」と金包みを外山の前に差出した。|而《そ》して、 「野村さん、そんな事なすっては私の折角の志が……」と輝子 のとめるのを|阻《さぇぎ》って、 「いや、その,お志が却って貴方の身の|管《とが》となっては、私は心苦 しくて頂戴出来兼ねます。私は決してこのために怒ったり、厭 味を云ったりしているのではありません。このお金は頂いたも 同然ですから、改めて私から御返し致します。外山さん、どう ぞお持ち帰り下さい。而して輝子さんに対する誤解をすっかり 解いて上げて下さい。」 「宜しい。確かに受取りました。私は決して金その物が惜しい のではありませんが、この金だけはなかく差上げられない事 情がありますからね。輝子の事に就いては、いずれ改めて鷲話 に上る|機《おり》もございましょう。兎に角只今はまだ私の妻ですか ら、私が伴れて帰ります。」 ・「どうぞ。」と云ったきり、野村は馬鹿々々しくて弁解する気 にもなれなかつた。  「さあ輝予。それでは|家《うち》へお帰り。」  「はい。」と輝子も強いては逆らわずに、「では野村さん、ほん とにこんな始末になって、申訳がございませんでした。きっと お詫は致します。」と野村に挨拶して起上った。  「どうぞ私にはお|関《かま》いなく、貴方の御好意は十分解っているの ですから。」  「さあ、早く需帰り。i野村さん失礼します。」と外山は促 し立てゝ、眼色を変えたまゝ輝子を連れ去った。  淘に嫉妬は|沙翁《さおう》の言の如く、眼の青き怪物である。輝子が美 しき同情も、外山の眼には色を変えて映った。この怪物が|懸《の》り うつれば、平生温厚なる好紳士も、かくまでに己れを失うので ある。  研究の前途の光明にも等しき、輝子が提供の資金を失うて、 野村は|暫時《しばし》呆然としていた。        一一六  やゝ光明に向おうとしていた野村の前途は、又こゝで挫折せ られた。頼りとすべからざる他人を頼っていたのは、野村が悪 いのかも知れない。けれども今の野村の身では、どうしても他 人の援助に侯つ外はないのである。彼は再び後援者を求めねば ならなかった。併し瀞たる一野村のために、進んで幾らかでも 資金を出して呉れる他人が今何処に在る2  野村は輝子が外山に拉し去られた後、全く呆然としていた。 事態が事態だけに、悲しみの涙は出なかった。苦しみの坤きも 出なかった。只漠然たる不満と、空虚な落胆とがあるのみだっ た。彼は暫らく畳の|汚点《しみ》をぽんやりと眺めた。  野村のその時の姿は、余りに次ぎノ\に到る不運のため、 又々力尽きたと見える程であった。事実彼は、どうしたらいゝ のか解らなかった。こうまで運命に呪われていては、研究に従 事したところで、結果もうまくは行くまいとさえ悲観されるの であった。  野村が只呆然と落胆しているのを見て、もとより慰むべき言 葉を持たぬお咲は、独りおろくしているのみだった。彼女は こう云う時にこそ、口出しの出来る誰かバ訪ねて来て、野村を 慰めて呉れゝばいゝと祈った。  そこへ偶然にもお駒が訪ねて来て呉れた。玄関にその声を聞 きつけた時、お咲は自分の祈りが聞かれたかの如く、喜びの色ー に燃立って迎えた。   「まあ姉さん、よくいらしって下すったのねえ。さ、どうぞお   上んなすって。」   「野村さんの御機嫌はどう?」  「今日又何か悪い事が在ったらしいのよ、私には解らないけれ  ど。姉さん早く行って慰めて上げて下さい。」   「又悪い事が在ったの?・ほんとに運の悪い人ねえ。1じゃ■   早速お目にかゝるわ。」    お駒は野村の居間へ入って行った。野村はまだ漠然と、空間   の或る一点を見凝めていた。   「野村さん、どうなさいました。」    野村は静かに顔を振りむけた。「あゝ齢駒さんですか。よく   いらっしゃいました。」   「何か又御不幸が在ったそうですね。入の不幸に就て、こんな   風に話しするのは悪うございますけれど、貴方と云う入に取っ   ては、不幸の無い方が珍らしい位ですね。」.   「今、輝子さんが例の資金を持って来たのです。ところがその   後からあの人の良人が、澄子さんの貴げ口とやらで、わざく   此処まで追いかけて来て、私と輝子さんとが怪しい上に、星野  ■に対する義理もあると云うので、又持って帰って了いました。」   「まあ! そんな事が在ったのですか。1併し輝子さんも賄   甲斐ないわね。何故もっと云い張って下さらないのでしょう。」   「いゝえ、それは随分きつく言い張りましたが、僕もいろく   と考えた末、あの人の家庭の事情もある事ですから、持って   帰って貰いました。あゝ云う貴族なぞの家になると、いろく   な事情が吾々の想像以上にむつかしいものですからね。輝子さ  .んの志が仇になるのも初めから殆んど解っていました。」   「併し、自分の思う通りに、人を助けるというようないゝ事さ   え出来ないとなると、■貴族の家だって金持の家だって、牢屋同 然のものですわね。あゝ厭だノ\。それだから私も考えると厭 になる。私なぞは矢っ張り野原のような自由の世界に居て、自 分の思う通りの事がしたいわ。1ほんとに私に出来さえすれ ば、今にも直ぐ貴方をお助けして上げるんだけれど。」こう云っ てお駒は、じっと考えに沈んだ。が、ふと何事か思い付いたよ うに、きッと|顔《 ち》を上げて云った。 「併しねえ野村さん。貴方またこんな事で、すっかり気をお落 しになってはいけませんよ。きっとこう云う時には、誰かバ助 けて呉れますからね。きっと在るわ。・私が請合いますわ。」  そういう器駒の顔は、一種の熱情に輝いていた。        一一七  お駒の自信ありげな言葉にも係わらず、野村は既に落胆して 了っていた。 「いや、僕はもうそんな空漠たる事は信じません。僕はもう今 年は諦めました。」 「ではもう研究はなさらないお積りなのですか。」と欝駒は驚 いて反問した。 「研究は僕の一生の仕事です。けれども今年はもう諦める外は ありません。僕は決心しました。もう一年か二年どこかで働い て資金を得るか、又はどこかの病院へ勤めながら、|傍少《かたわら》しず つ研究するしかないのです。研究は何も今年に限った訳はあり ませんからね。」  野村は今度と云う今度は、さすがに自棄こそしなかった。が、 彼の諦めたと云っている言葉の裏には、まだ諦め切れぬ遺憾さ が残っていた。  お駒はそれに調子を合せている訳には行かなかった。 「でも今年騎かゝりにならなければ、|悲虫病《っムがむしびょう》とやらの研究は、 星野ざんに先んじられて了うかも知れないじゃありませんか。」 「運命ならそれも仕方がないです。それに悲虫病一つが、吾々 の研究の対象ではありませんからね。而して星野と競争するこ とが、研究の手段ではないのですから。」 「けれどもそんな事になったら、貴方口惜しいとは密思いにな らなくって。」 「僕は勿論聖人ではないから、星野に先んじられるのは残念で す。1けれども天が僕を呪うているのですから、諦めるより 仕方はありません。」  お駒は再び瞳の色を輝かして云った。 「では外に仕方があったらどうなさいます。」 「外に在ったらって、現に無いものは仕方がないじゃありませ んか。」 「若しどうにかして、幾分でもその資金が出来ましたら。1 後援者が出来たと仮定しましたら。」 「それは出来っこありません。仮定するなんて余計な空想で す。-私はもう他人の援助を受けたりする事は当にしませ ん。輝子さんの場合がいゝ|警《いまし》めでした。第一他人に迷惑は掛け たくありませんからね。」 「けれどもその人が迷惑を感じないで、心から身から貴方に御 尽力したい人がございましたら。」 「はゝゝゝ、そんな人が僕に在るものですか。」野村は空虚な 笑いを洩らした。 「いえ、在るかも知れません。少くとも一人在ることは、私が 知って居ります。1その人はきっと御尽力します。貴方がど のようにお受取りになろうと、その人はきっと自分の心の済む 方法は取ります。たとえ貴方がその金はお受取にならぬ迄も、 きっと幾らか御調達します。」 「お駒さん。それは誰の事を云っているのですか。まさか貴方 .が苦しい策を取って下さると云うのじゃありますまいな。」 「私P まあ、私にそんな甲斐性があるものですか。」騎駒の 顔には或る微笑が浮んだ。 「そんなら誰です。」 「さあ、誰ですかね。後になって見たら解りますわ。1だか ら私の言が戴巽かどうか、まだ気な落とさずに待っていて御覧 なさいと云うのです。」  こう云ってお駒は、余り手間取ってはならぬと云うので、ま だ|肯《がぇん》じない野村の許に、心を残し乍らも辞し去つた。  その時玄関まで送って出たお咲に、 「じゃ知咲ちゃん、野村さんの事はおまぇに呉々も宜しくお頼 みしますよ、叔母さんの御恩返しも、ほんとうにこう云う時に 出来るんだからね。」と云い乍ら、涙を溜める程の眼をして、 じっと茄咲の顔を見やったρそれから彼女は足早に去った。        一一八  野村の出発期は何時とも知れぬ事になった。或いはお駒の言 の如く、何処からか奇蹟的の援助が来れば、直ぐにも出発は出 来るけれど、それは全くの空頼みに過ぎぬ話であった。  翌日になって黒川が訪ねて来た。彼は昨日の話をもう聞き 知っていた。  「輝子さんのお話はとうく駄目になったってねえ。併し駄目 になりようにも事を欠いて、輝子さんが君と関係でもあるよう に云いふらした、|彼方《あつち》の奴らの遣り口には、卑怯と云っていゝ か悪辣と云っていゝか、僕は憤慨してもし切れないよ。」  「いや、彼方だけが悪いと云うのではない。よく事情を考えて 見れぽ、現在あの入達の妹から、括然として援劫を受けようと した僕も思慮が足りなかったひ向うの人達の反対も、あの人の 良人の誤解も、考えて見れば無理はないよ。いくら当人が僕に 好意を持っていても、それを形に現わすとなると世間の義理が 許さないからね。」  「そんな義理なんぞ不必要じゃないか。正しい事を行なうの に、何の義理の製肘が要るものか。正しい事は何処迄も正しい 好い事だ。」  「そう憤慨したって仕方がない。それが世の中と云うものなん だから。|而《そ》して僕らは弱いから、それに敗けていなけれぱなら ないんだから。」  「じゃ強くなり給え。」  「そりゃ僕だって強くなれゝば、今輝子さんを犠牲に供して も、あの一万円を取って了って、どんく研究に従事するのだ が、それは僕の性格が許さない。星野のような強い人物なら、 それも平気で出来るだろう。|而《そ》してその結果として、立派に成 功するだろう。併し心弱い僕には出来ない事だ。僕にはニイチェ の弟子になる素質はないんだ。|独逸《ドィツ》式の強い精神は持たない 一んだ。それが僕の人格の失敗し易い、破産し易い一面なんだ。」  その時不意に次の間から、  「その代り|仏蘭西《フランス》式の聡明と、詩人らしさを持っている。それ が君の性格の美しいところだ。」と云う声がして、森戸子爵が 入って来た。勝手馴れた子爵は、そこに来ていて、二人の話を 聞いていたものと見える。  「やあ森戸さんですか。jお聞きでしょうがあの話は、又駄 目になりました。」  「その話は聞きました。が、僕はもう君の不幸を聞いても、驚 かなくなって了った。事ほど左様に君は不幸の中にいるんだ ね。寧ろ不幸でない君が、|真実《ほんと》の君のような気がしなくなるか も知れない。」 「僕ももう不幸に馴れました。」 「その不幸に馴れた耳へ、もう一つ椿事を知らせて上げよう。 それは或いは君にとっては不幸でない事かも知れんが、君の同 情者の一人が、突然姿を隠したのだから、満更関係のない訳で もない。1僕に取っては、君なぞより|鳥渡《ちよつと》打撃なんだがね。」 「何ですそれは〜」 「今日行って見たら、お駒が昨夜の中に、突然失蘇して了った のです。どこかへ逃げて了ったのです。あそこの家の主人には 只、仔細あって他処へ行くから、心配しないで許して呉れ。ど うか行方なぞを探さないで呉れ。決して迷惑は懸けたいから。 と置手紙が在ったきりだそうです。」 「騎駒さんが居なくなった,」と野村はいたく驚いた。  次の問でそれとなく聞いていたお咲も、思わず立って入って 来た。 二体どうしたのでしょう。」 「どう云う考えで逃げたりしたのだろう。」黒川も不審がった。 「さあ、」と子爵は首を傾げて、「又いつもの伝かも知れません がひょっとすると騎駒の奴、柄にもなく深く考えが在ったのか も知れませんよ。何しろまだ侠気が看板の女ですからね。1 併しお蔭で僕は又失恋しました。而してお蔭で又、|声色《せいしよく》の世界 を脱した、超然たる森戸に帰れます。」  その時表で「電報!」と呼ぶ声がした。        一一九  茄咲が急いで出て行って、 た。  野村は不審に思い乍らも、 受取って来たのは電報為替であっ           ■ あて 表は紛れもなく自分の名に宛てあ るので、受取るや否やに封を切って見た。すると中には五千円 の為替券が入っていた。 「これは五千円の為替だ。ー一体何処から送って来たのだろ う。」  「五千円〜1して振出し局は何処だ。」と黒川は思わず為 替券を覗き込んだ。  「京橋局だ。」野村は消印を調べて答えたー ・「京橋から五千円。誰か心当りはないのか。」  「全く無い。-併し昨日お駒さんがその中に、きっと救いの 神が現われるって云っていたが、ひょっとするとあの人自身 が、この金を調達して呉れたのじゃあるまいか。」そう云い乍 ら野村は、あの時のお駒の様子を遠く思い浮べた。  森戸子爵は黙って様子を見ていたが、  「いやそれはお駒に相違ありません。あの女の気性は私がよく 知って居ります。彼女は女英雄になりたいのです。少し野暮で 現代的ですが、泉鏡花が作中の女になりたいのです。ー|彼女《かれ》 が一代の|英雄主義《ヒロィズム》を発揮したのです。それに違いありません。《ォぼ》|、 それで彼女の逃走の理由も、今ようやく氷解しました。それは 私を失恋させる為めではなくて、野村君を救うためだったので す。恋人をすてゝも恩人を救う。如何にもあの女のやりそうな 事です。」  「併し胎駒さんだとしても、どうしてこれだけの大金が出来た のでしょう。」  子爵は猶も答え続けた。  「それは女の金の蔭には、必ず或る男がいます。お駒の美貌と 才気を以てすれば、幾らでも金の出し手は在りますよ。私は|先 刻《さつき》それがお駒の金だと推測がつくとから、既に彼女の或る境遇 を連想しました。|而《モ》してその金を出して呉れた男を、一種の憤 激に似た嫉妬で、想像に描いて居ります。」 「そんなら私はそう云うお金を、研究に使うのは心苦しゅうご ざいます一これは早速送り返す事にしましょう。」 「併し向うの居所が解らないじゃないか。」黒川は云った。 「いや、そんな事をしては不可ません。」と子爵は言葉を次い で、「今の私の言は単なる想像に過ぎません。そのお金の送り 手は、果してお駒であるか、又どうしてそのお金を得たかは、 全く吾々の知らぬ事なのです。それにたといお駒が或る男から 取った金にしたところが、貴方の手に入った以上は、決して汚 い金ではありません。いや汚い金どころではない。お駒がそれ 程にして得た金なら、立派な浄財とも云うベきものです。貴方 は只救いの神が、呉れたお金だと思って使えばいゝのです。 使って貰えなければ、第一贈り手の苦心が可哀そうです。喜ん で使ってお上げなさい。」  黒川も傍から云った。「そうだ。如何なる卑しい手段で得た にもせよ、この金を送って来た人の心には、神にも等しい美し さがある-野村君はその志を無にしてはならない。それに況ん やこの金は立派な手段で得たのかも知れんじゃないか。この金 は喜んで納めるんだ。|而《そ》してさしあたりの必要品を揃えて、早 速最上川へ行くんだ。あとは又どうにかなる。今君は直ぐに、 この金で研究の|緒《いとぐち》を付ける事が、贈り手に対する唯一の感謝 の印なんだ。」  野村は頭を上げて云った。 「うむ。そうだ。僕はこの金で、直ぐ研究に行こう。金は不足 でも、贈って呉れた人の心と、僕の覚悟で十分に補って見せ る。僕は今度こそ直ぐ出発する。-,お咲ちゃん、喜んでお呉 れ。僕は今日出発するようになったから。而してお前も早速用 意をしてお呉れ。」  「お目出度う存じます。」お咲は一言そう云って、いそ/、と, 準備に取りかゝった。         一二〇  かれこれと準備に手間取って、野村の出発は夜になった。併 し夜晩く上野を|発《た》っても、翌朝は目的地の天童に着く筈である .から、野村は出発を翌日に遷延はしなかった。こうと定まった 以上、一刻も早く向うへ行き度たかったのである。  了度午後十一時の、奥羽線廻り青森行の急行があった。野村 はそれに乗込む事になった。  上野停車場の|歩廊《プラツトホ ム》には、見送りの人々が集まっていた。併 し野村を送別に来た人と云うのは、只の三人に過ぎなかった。 森戸子爵ハ黒川、淑子。1この三人だけが、野村とお咲との 乗り込んだ二等室の窓の前に立っていた。輝子はとうノ\来ら れなかった。彼女は良人の誤解をようやくに解いたが、さすが に直ぐ野村を見送りに来る事は、家人の手前出来兼ねた。彼女 は電話を淑子に懸けて、蔭乍ら呉々も野村の健康と成功とを 祈っている由を、|言伝《ことづて》して呉れるように頼んだ。淑子はそれを 今野村に伝える事を忘れなかった。  「野村さん。先刻輝子さんからお電話でございまして、今日は 是非お見送りをして、お詫びしなくちゃならぬところですけれ ど、事情が在って参れませんから、どうぞ呉々も宜しく申上げ て下さいとの事でございました。1そう云ってあんな気丈な 輝子さんさえ、電話口で忍び泣きをしていらしたようでした わ、私も何だかお気の毒になって、何と申上げていゝか解りま せんでしたの。」.  「そうですか。それは有難うございます。輝子さんの御志は、 野村もよく解っているのですから、この上とも私の事なぞ御心 配なく、平和にお暮し下さるよう、宜しく齢伝え下さい。ほん とに有難うございました。」野村も涙ぐんで云った。  それに就けてもお駒は、この野村の決死の出陣に際して、何 処にどうしているのであろう、殊にその感の深い妹のお咲と、 同じ思いの子爵とは、こうしている|中《うち》にも、群衆の中から彼女 が派手な姿を|紛《まぎ》らして、蔭乍ら見送りに来ていはし僅いかと、 時々、|四辺《あた 》を見廻すのであった。併しそれらしい人の姿は、 人々の背後にも見出す事が出来なかった。  その中に愈ぐ時間の来たことを知らせる、|鈴《ベル》の音が高らかに |歩廊《ブラツトホ ム》を鳴り響かした。 「それじゃ皆さん。行って参ります。」  野村は一種の感情の緊張に、声を額わして云った心 「じゃしっかりやって来て呉れ。」  黒川は野村の差出した手を、碑と握って打ち振った。 「御機嫌よう! 全力を尽し給え。」子爵も告別した。 「ではどうぞ|御壮健《おたつしや》で、御成功なさるように、私も蔭乍らお祈 り申します。」淑子はそれだけの言葉に、もっと複雑な思いを 軍めて云った。 「お咲さん。頼むよ。」黒川はお咲にも云った。 ・「ほんとに私の分もお願いしますわ。」  淑子も続いて云った。騎咲は出発の感動に小さい胸を一ばい にして、何も云えずに頭を下げた。 ■途端に笛が鳴って、汽車は動き出した。送る人も送らるゝ人 も、もう何も云わなかった。何もしなかった。只互いの眼に互 いの感情を湛えて、じっと見送り見返る儘に、汽車は徐々とそ の間の距離を遠ざけて行っえ。  |歩廊《プラツトホ ム》の三人は、列車の二人の顔が、小さく闇に紛れて了っ ても、まだ暫らく立ちつくしていた。  この時|歩廊《プラツトホ ム》の最も端の方に、夏の夜乍ら深い|面紗《ヴエ ル》に面を包, んで、.装い美し音一人の芸者に㌔紛う婦人が、一同じく|歩廊《プラツトホ ム》の 柱の陰から出て、野村の列車が闇に消え去る迄見送っていた。  それは野村もお咲も気付かなかった。黒川も森戸兄妹も気付 かなかった。        一二一 .野村はとうく研究地に向けて|発《た》った! 彼を載せた列車が 闇に消え去っ九のを見送り果て允時、黒川は暫しなりとも友と 別るゝ哀愁の情と共に、云い知れぬ安堵の念を覚え允。幾多の 困難と挫折とはあ.ったが、兎も角も研究地に行って了えば、あ .とはどうでもなると思うからである。一旦研究にさえ取りか かって了えば、|平常《へいぜい》心の弱い野村も、猪然と困難を排して努力 するのを黒川は知っているからである。  そんな事を|呆乎《ぼんやり》考え乍ら、猶もじっと立っていると、|背後《うしろ》で 子爵が初めて口を切った。 「もう行りて了つた。1帰ろう。」  そう促されてようやぺ吾に帰った黒川は、 「え人一、,帰りましーうー」と応じた。  併し淑子はまだじっと其処に立ち尽して、汽車の消え去った 跡の闇を、心に沁みたように見凝めていた。 「おい淑子。もう帰るのだよ。」  無慈悲な子爵は、こう云って妹に警告を与えた。 「はい。ー」淑子は心もち面を染めて、今迄の放心状態を取 紛らすように微笑した。  三人は遅れて|歩廊《プラツトホ ム》を出たが、それよりも遅れて改札口を出 た、もう一人の女性には誰も気付かなかった。  子爵兄妹は停車場の前から葎に乗っ九。黒川は一入別れて、 親友の前途や運命を考え乍ら、ぶらくと歩いて帰る事にし た。  もう十一時を過ぎた広小路は、さすがに|灯火《ともしび》こそ海のように 満ちてはいるが、人の往来は疎らになりつゝあった。黒川は仰 いで晴れ渡った夜空を見、伏して親友の身の上を思うと、一種 の感慨を禁じ得なかった。彼は金色夜叉の荒尾のように、こう 云う時こそ詩でも吟じたかった。けれども同じ東洋流の快男子 であり乍ら、彼はそう云う豪傑風を持たなかった。彼は只黙々 と大股に歩くのみであつたー■  こうして黒川は、丁度往来を左から右へ横切ろうとしてい た。その時である。殆んど全心を感慨に取られていた彼の耳 を、|背後《うしろ》からけたゝましく|警《いまし》める悼の|鈴《ベル》の音がした。彼はそれ を除けようとし乍らふ乏車土竜児やった。そして驚いて思わず 声をかけた。「やあ、お駒さんじゃないか。」  車上のお駒も吃驚したが、そう慌てた様子もなく、  「黒川さんですか一急ぎますから失礼。-さ、|車夫《くるまや》さん早 く。」と云った儘去ろうとした。  「まあ待って下さいj話があります。」       ∴さ■、岬                           貼  「今日は失礼します。」  こう云って彼女の値は、速痩を早めて行って了った。黒川は ・あとを追いかける事も出来なかった。お駒が野村を送りに行っ た帰りだとは知らぬ彼は、今北に発った野村之、南に律を走ら せているお駒乏、それに偶然遭遇した自分とを、一種の面白い 運命の連鎖だと思い見た。|而《モ》してゆっくりと自分の下宿に立 帰った。  黒川に別れた子爵兄妹の俸は、直ぐに弥生町の邸に着いた。 淑子は兄の後から書斎に行って、一緒に紅茶を飲む事にした。 彼女は何となく疲れたような、興奮しているような心持だっ た。|而《そ》して静かに書斎の椅子に深く腰を下ろしていると、何と なく涙ぐまれる程の平安を覚えた。暫らくして彼女は云った。 「野村さんは今時分、何処まで行らしたでしょう。」 「そうさな。」と、兄の子爵は葉巻を|煉《くゆ》らせ乍ら答えた。「もう 浦和位まで行ったかな。」  実際、■野村を載せた列車は、闇を衝いて浦和のあたりを北に 急ぎつゝあった。        一ニニ  北に急ぐ列車の中で、野村の感慨は|一層《ひとしお 》であった。彼は|歩 廊《プラツトポ ム》の人々が見えなくたると、熱い涙の出かヘった瞼をそっと抑 えて、窓を閉じ腰を下ろした。  欝咲も刻々に遠ざかつて行く燈火を、猶もじっと見凝めてい たが、野村が窓を閉したのを見ると、自分も主人に|傲《なら》わなく てはならぬと思ったものか、残る思いを思い切って、野村に近 くつゝましげに坐った。彼女の眼には、さすがに涙がちら之 光っていた。 ■ーその様子を見ると、野村は何か云ってやり度いと思った。自 分の肉親の妹に対するような、愛撫の心を感じたのである。 「%咲さん。ほんとに君には厄介をかけて済まないね。」 「いゝえご 「何だか僕はお咲さんを、すっかり犠牲にしているような気が してならない。今さらそんな事を云うのは変だけれど、君が居 て呉れなかったら僕はどうして暮して居たろう。それに今度の 最上川行きだって、ほんとによく行って呉れる気になったね. え。i僕はこれでも感謝しているのだよ。君のようなのが一 番目立たないが、併し一番むつかしい内助の力だよ。」 「そんな事仰しゃって頂いては、私、勿体のうございます。私 はた間お身の廻りをお世話することが、好きで嬉しいのでござ いますもの。」 「ほんとに君は善良なる|家《ハウス》■|妻《アラウ》ー「/家庭の主婦になれるね。ー黒 川の奴は幸福だ。そこへ行くと僕なぞは……」と云いかけて野 村は賠然としたが、猶も続けて云った。「僕はやがて君を失う のだからなあ。」 ・「でも私のような何も解らない者の代りに、立派な奥様をお迎 えになりますわ。L 「いや僕は妻君なんぞ貰わない。」  野村は撫然として云った。 「でも、それでは淑子さまがお可哀そうですわ。」  無邪気だとのみ思っていたお咲の一言は、|会《たまく》ぐ野村の搦手に 急な鋒先を向けた。 「馬鹿を云ってはいけない。お前は何も世の中ρ事情と云うも のを知らないから、■そんな事を云えるのだが、これからそんな 不謹慎な事を云うと、淑子さんに迷惑がかゝる許りでなく、僕 に取っても甚だ迷惑だよ。そんな事は決して在り得べからざる 事だからね。」 「でも私は旦那様が御成功遊ばしたら、きっと御良縁が結ばれ るものと思って居りまし九一そう道了様へも毎日お祈りして居 りました。」 「そんな馬鹿な事をしては困る。私は一生独身で暮すのだか ら、僕にはもうこの清い思い出だけで沢山だ。」と野村は、出 立に際して懐中時計の裏に入れさせた秀子の写真を、懐かしげ に取出して見凝めた。 「旦那様、どうも済みま赴んでした'私も秀子さまの事を騎忘 れしたのではございませんが、淑子さまたら秀子さまも、きっ と騎喜び下さるだろうと存じまして。……」 「もういゝもういゝ。」 「いえ、併し旦那様がどうあっても、御一人でお暮しになりま すなら、私なんぞ黒川ヘ参らなくても宜しいのでございますか ら、いつ迄も御世話致し度う存じます。」 「それは不可ないよ。そんな事だと僕は厭でも応でもお前達の ために、誰かと結婚しなくちゃならなくなる。」 「そうなって頂き度うございますわ。」  お咲は無邪気に云い放った。 ー「併しいずれにもせよ、業績を挙げてからの話だ。而してその 業績が挙がるかどうだか。1」  野村はさし迫った前途を思うと、再び賠然たらざるを得な かった。  汽車はたゆみなく|駿《はし》っていた。        一二三  野村とお咲とはそれっきり沈黙に陥った。夜も大分更け渡っ て来たので、他の乗客たちは大概仮睡に落ちていた。汽車はも う余程遠く東京を離れたであろシ。  単調な車輪の音を聞いていると、いろくな思いを胸に畳ん でいる野村さえ、いつしか睡気を催して来た。彼はクッション に身を兜せて、思わずとろくと|仮睡《まどろ》んだ。……   一-いつの間にか彼は最上川の岸辺に立っていた。水の面は 只ぽんやりと黒ずんでいた。柳か何か父自分の|背後《うしろ》にあって、 その影が映っているのだなと思った。川の流れは思いの外に|緩《ゆる》 やかだった。何だか彼が子供の時に、よくその岸辺で|嬉戯《きぎ》した 故郷の或る川に似て居た。彼はその岸辺に立って、是れから釣 をしようとしていた。  彼は勧針の先に餌を付廿て→糸を川の中に投げ込んだ。而七 てじっと魚のかゝるのを待っていた。併し何魚が釣れるのだ か、彼には解って居なかった。只彼は何かを釣らなければなら ないので、釣糸を垂れているのだった。  ふと見ると川の向う岸に、黒川が同じように釣をしている のが、小さい乍ら手に取るように見えた。彼は丁度一尾の銀色 の魚を、ひらくと釣り上げたところだった。 「魚なんぞ釣る奴は馬鹿だ。」ふとそんな声がするので、その方 を見やると、上流の方から一艘の小舟が水のまにまに流れて来 た。その上には手を|挨《こまぬ》いた儘森戸子爵が乗っていた。子爵は超 然と岸にいる人々を見て、皮肉な微笑を浮べたまゝ静かに流れ 去って了った。  野村の釣糸にはまだ魚はかゝらなかつた'  ふと又背後で高らかに廟笑するような声がした。見ると其処 には、星野が投網をかゝえて立っていた。 「はゝゝゝ。そんな処で釣っていたって、百年経っても釣れる ものか。魚は魚の居る処へ行って捕らなければ、一尾だって捕 れやしない。俺みたいにうまくやりさえすれば一網でこんなに 沢山捕れるのだ。」こう云って星野は、数尾の銀鱗がぴちノ\動 いている|番《ふご》を野村に見せびらかした。|而《 モ》して野村の番を覗き乍 ら、「何だ。まだ一尾も捕れないじゃないか。それも道理だ。 君の針には|鉤《かぎ》がないんだからな。」  そう云われて見ると、野村の釣針には鈎が無かった。彼は悲 しいような恥かしいような気になった。けれども低く反抗し た。 「僕は之でいゝんだ。」 「ふん、敗け惜しみを云うなよ。1兎に角、僕はもう金色の 魚を一尾捕って了ったから、もう君なんぞが釣ろうとしてろ駄 目だ。君もこの金色の魚が釣りたかったのだろう。し ■そう云われて見ると、成程野村自身もそれが釣りたかったの に違いたい。彼はひどく落胆した。 「そうか。君がもう捕って了ったか。」 「うむ。だから大人しく釣竿を巻いて帰れ。馬鹿め!」  こう云って星野は、からくと大笑して去った。  野村は岸辺に惰然乏立っていた。と日の光が一筋すうっと斜 に水中に落ちて、その底から秀子の声が微かに彼を呼んだ。 聞き澄ましていると、それが淑子の声のようでもある。彼は思 わず水の底を覗う途端に、何者かに不意に水中へ突き落され た。突き落され乍ら彼は、|背後《うしろ》で更に高らかに、女の笑う声を 聞いた。それは澄子だなと彼には思われた。…  ……野村は、免れていた窓の縁から頭を外して、急に夢から 醒めた。彼は不快な冷汗をかいていた。  汽車はもう山形を過ぎて、目ざす天童駅も間近だった。彼は 不吉な夢をぼんやり思い返し乍ら、降車の用意に取りかゝっ た。・        一二四  やがて野村達を載せた汽車は、ようやくに天童の停車場へ着 いた。彼らはそこで汽車を降りて、そこから更に二里の道を、 北へ有毒地の|溝延《みぞのべ》村まで行かなければならたい。山形県西村山 郡溝延村は、最上川の中流に位し、支流|寒河江《さがぇ》川の注ぐ処に 在って、|磧《かわら》つバきの村落である。  |悲虫病《つとがむしぴよう》の発生地と云えば、新潟県下の信濃川、|阿賀《あか》川、|魚 沼《うあぬま》川の沿岸と、秋田県下に在る|西馬音内《にしま ない》川、|雄物《おもの》川、皆瀬川等 の水辺、及び此の山形県に於ける最上河畔である。そうして野 村が此処を選んだのは、只単に婆やの故郷に近いからと云う、 甚だ感傷的な心持からに過ぎなかった。  一体悲虫病と|云《え》うのは、越後地方の所謂赤虫、秋田地方の|毛 牌《けだに》と称する、一種の赤い小さい|蝉《だに》の幼虫が、人を|整《さ》す事に依っ て生ずる熱病である。これは殆んど我国固有の熱病であって、 悲虫なるものゝ名は昔から知られていたに拘わらず、その本体 は近年に至るまで精しくは解らなかった。それが小島博士や永 田博士らの殆んど競争的な研究に依って、ようやく其原虫なる ものが、動物学上でアカリナ族のトロンビジュiムに属する|蝉《だに》 の幼虫なる事が知られた。.  この奇異なる熱病は、越後でも秋田でも山形でも、川の沿岸 及び河中の洲等、年々河水の氾濫する地域に、夏の初めから秋 までの問に流行する。いずれもその虫が霧しく発生する有毒地 へ、屡ぐ出入する|中《ラち》にいつしか|整《さ》されて、その結果四五日乃至 は十日を経て発病するのである。その病状は、初めは何となく 倦怠を催し、続いて頭痛|眩量《めまい》悪寒等が在って、発病後五六日目 に熱は四十度乃至は四十一度に達し、解熱剤を与えても容易に 熱は下らない。重症患者は大概その高熱期に倒れ、癒ゆる者も 二三週間を経なければ平温には復さない程である。殊にこの病 気は幼年の者ほど比較的軽いが、壮年老年と年齢の加わるほど その死亡率が高まって、平均百人に就いて死亡する者三十人位 の割合であるから、他の伝染病と比較すると、死亡率が可なり 高いと云わなければならない。  併しその悲虫病の赫盤に依って、如何なる病源体が人体に入 るか、それは未だに発見されない。併し動物中た父猿だけが感 染するので、それを用いて種々なる実験を重ねた結果は、虫に |螢《さ》されて発病した猿から少量の血液を取り、是を他の猿に注射 すれば、虫に整されたと同じく発病し、悲虫病患者の血液を用 いても、同様の病状を生ずるのに依って、病毒が病人又は病猿 の血液中に在る事が解った。且つ又極少量の血液を注射して、 病毒を猿から猿へ幾代でも移植し得る事に依って、病毒の本体 は化学的の毒物ではなく、一種の生物でなければならない事が 解った。|而《そ》してそれが未だに発見されないのは、吾々の有する 顕微鏡では、見る事の出来ぬほどの微生物、即ち超顕微鏡的微 生物だからであろうと考えられた。  かくの如く悲虫病の病源体は、未だに眼には見えぬけれど も、猿を用いて動物試験を行えば、その性質は幾らか知る事が 出来る。野村らが悲虫病の研究と云うのは、要するにその性質 を研究して、それに対する適薬として、恰もマラリア熱に於け るキニーネの如きものを発見するのに外ならない。果してこの 薬液は、誰の手によって発見されるであろうか。「野村液」か 「星野液」か! それは日本医学界最近の、興味ある問題でな ければならなかった。!  汽車を下りて北へ二里、野村たちは最上川の|渡舟《わたし》を渡って、 愈ぐ目的地の溝延村に着いた。        一二五.■  野村は仮研究所を建てる迄、さしあたり一軒の農家を借り て、不自由な中にも研究の|緒《いとぐち》をつけようと思った。|而《そ》してよ ヶやく、或る適当な農家を見付け出した。  その家の主人と云うのは、もう六十に近い老農だった。而し て名を|徳爺《とくじい》と呼ばれていた。  彼の家は殆んどこの村の草分から、有毒地に一番近い河岸の 桑畑の中に在った。|背後《うしろ》に二三本の|榛《はん》の木を負うて、可なり大 きな農家であった。けれどもそのガランとした家の中に、.今住 んでいるのは徳爺一人だった。彼の一家は去年の洪水後に、何 気なく河岸の桑畑を耕したゝめ、悉く悲虫に侵されて一時に伜 とその嫁を失うた。その時は徳爺自身も悲虫に|整《さ》されたが、そ う云う事に老練しているこの老農は、直ぐ整されたのに気付く と、有り合う鎌でその|整口部《せきこうぶ》を扶り取り、そのためE命を失 うに至らないで済んだ。  老いたる彼一人が空虚な家に取残された。その淋しげな独棲 を見て、程近い|谷地《やち》町に在る親族が、引取って世話をしようと Lたけれど、この老農は肯かなかった。彼は如何なる有毒地で あっても、この父祖の地たる溝延村の、懐かしき己が旧家を去 るに忍びなかったのである。生れるとから百姓である彼は、悲 虫の住む「土地」にさえ深き愛着を持っていたのである。  この老農に取って、慈虫は彼の敵であった。彼は平生その敵 に、|背後《うしろ》を見せて逃げるより、寧ろ悲虫と引組んで刺し違えて 死ぬのを快しと信じていた。そこで彼は有毒地に近く踏み|留《とっ》 まって、悲虫を恐れず又不思議にも侵されずに住んで来た。彼 はいつの間にか悲虫の居る場所に精通し、その|微《ちい》さな虫を見付 け、且つ捉えるのに妙を得ていた。 ,悲虫の徳爺と云えば、この近在で知らぬ老はなかった。たぶ この旧弊の老農は、もとから外来の悲虫研究者に、一種の反感 を持っていた。彼は東京から来る学者たちを、彼の土地にケチ を付けるために来た、一種の異教徒のように思っていた。殊に 自分の息子らの病気を癒し得なかった許りか、その血を取って 試験に供したのを知って以来、何となく怖ろしい気がしてなら なかった。 ,野村はこの老農の話を聞いた時、これはこの老人を説き落す に限ると思った。|而《そ》してお咲と一緒に村へ着くと直ぐ出掛けて 行った。 「徳爺さんはいなさるかね。」と野村は気軽に裏口から訪れ た。  徳爺は土間で藁縄を|絢《な》っていたが、野村の方を見返って、月 をぴちノ\させ乍ら、 「徳爺と云うのは儂だが、何か用かね。」と聞き返した。  野村は気軽にこう云い初めた。 「僕は東京からわざノ\此処まで、慈虫退治に来た者だが、ど うだろう、・お爺さんにも一と肩入れて貰えまいか。」 「はゝあ、」と徳爺は白眼を見せ乍ら、野村の様子を頭の毛か ら足の爪先まで計って云った。「おめえもあの悲虫研究とやら の人だね。そして|怖《おつ》かなびっくり谷地町あたりの遠くにいて、 虫の二三匹も捕えりゃあ、もう十分の研究材料とか何とかを得 たなんて大きな口を利いて、エラそうに東京へ引返す仲問なん だ。駄目だく。そんな奴らあ駄目だρ儂あ助けるどころか邪 魔をしてえ位だから、さっさと此処から帰らっしゃい。」  併し野村は屈しなかった。 「いや、僕はいゝ加減な研究者とは違うよ。ほんとに悲虫病の 研究を積んで、それを根治する薬を見つけなければ、最上川に 身を投げる|心算《つもり》で来たんだ。その薬の見つかる迄楓、此処を動 かない決心で、こうして世話をする女まで連れて、わざく やって来たんだ。どうか暫らくこの家を貸して、僕に研究の便 宜を与えて呉れ給え。」 「ふん、ほんとにその薬が出来なかったら、おまえさん最上川で 死になさるかね。」爺は初めて|真向《まとも》に、野村の方へ向き直った。        一二六  野村は徳爺が相手になり出したのを見て、猶も真面目に語を 次いだ。 「いや、決して言葉の綾で云うのではない。|真実《まつたく》その決心で来 たのだ。」  併し徳爺はそれを聞いても、た間黒い歯を見せて、潮笑うよ うにこう云った。 「そんならもう何も初めねえ前に、最上川の中に飛込んでゝも 了うか、悲虫にでも|整《さ》されて、■死んで|了《しめ》えなさるがい玉。その 方が第一手数がかゝらねえし、天下の大切な金は費わずに済ま あ。」 「じゃお前さんはどうしても、私の研究が成功しないと云うの だね。」 「あゝ、薬なんか見付からねえよ。第一、おめぇさん達の研究 とか何とか云うものが怪しいもんだ。東京から来た学者だなん て大きな面はするけれど、みんな面白ずくで|此方《こちと》ちの病気を弄 びに来るんで、土地のためを思って呉れる人なんざあ一人もね えんだ。おめえさんだって何だろう。博士にでもなりてえから 若い身空でやって来たんだろう。そんな人には用がねえんだか らさっさと東京へ帰んな。」 「成程それはそうかも知れない。併し僕の研究は、そうおまえ さん達を僕らの野心の材料にばかり供する気はないんだ。僕は おまえさんがこの土地を愛しているように、僕の研究を愛して いろんだ。僕はほんとに片手間にやるんじゃない、先刻も云っ た通り、身命を懸けてやるんだからね。」 「だから儂も先刻から云ってる通り、いっそ悲虫病にでもか かって死んで了うがいゝと云うんだ。一度あの病気に罹って見 たら、少しは人間らしい気持にもなれるだろう。」 「そう頭から云って了っては、いくら何でも仕方がない。1 まあ聞いて呉れ給え。僕は必ず悲虫病毒の抗毒素、いや、薬を 創製して見せると云うのだ。まあ嘘だと思ってもいゝから、お まえさんも助けて見て呉れ給え。頼む、手を合せて頼むから。」 「嘘だと思ってもいゝからって、まったく嘘に違いなかろう じゃねえか。記めえさん達はそう云う嘘ばかり云うから、掩あ 嫌えだ之云うんだ。第一おめえさん達は、悲虫に|整《さ》されたこと が、熱病の|起因《あこり》だと思っていなさるが、あれからして間違え だ。虫に整されたからって、病気にならねえ奴もあるじゃねえ か。あの病気に罹る奴あ、赤虫様のお祓いの時、悪い|汚繊《けがれ》を 持つていた不信心な奴ばかりなんだ。俺なんざあ一つ位整され たって、一蚤程にちくりともしねえ。」 「それあ齢まえさん達の迷信と云うものだ。なるほど虫に|整《さ》さ れた者でも、病気にならない者もある。又一度やられた者は、 幾らか免疫的な傾向も有る。それで昔はベルツ博士などまで、 虫と病気とは関係がないなぞと云ったものだが、今では田内博 士を初め、小島、永田なぞの諸博士の研究で、明かに虫の|整 傷《さしぎず》が原因であるのが解っている。虫に整された者の皆が皆、病 気にも罹らないかも知れないが、病気に罹ったものは皆が皆、 虫に整された跡があるじゃないか。」  野村は思わず講演口調になった。 ■「いや、儂は何も憲虫に就いて|貴方《あんた》から講釈を聞こうとは思わ ねえ。悲虫の事ならば、儂の方が貴方よりよっぽどよく知って いる。儂はこの眼で見この耳で聞いているんだ。貴方のような 紙の学問とは違う。」 「だから僕にも見せて、文聞かして呉れと頼むのだ。」 .「顕微鏡とか何とかを頼みにしているおまえさん達の眼じゃ駄 目だよ。ーーそうこう云うのも暇潰しだ。さっさと帰って貰い てえ。帰らないと虫を付けるぞ。」 「いくら駄目だと云っても動かない。承知してくれる迄此処に いて、虫でも何でも付けて貰齢う。」 「よし、そんなら虫を捕って来て付けてやるから逃げるな!」  一|国《こく》な老農の徳爺は、言葉の行きがかりで猛然と立上った。 傍についていたお咲は、はらノ\して|見《  》ていた。 一二七  併し野村は敢然として云った。. 「さあ、付けるなら付けて呉れ。府まえさんの手で、悲虫を付 けて貰えば本望だ。研究がうまく行かない位なら、病気になっ て死んだ方がいゝのだから。」  徳爺の方でも猶お熱狂して云った。 「うむ、付サてやるとも。俺は決して嘘は云わないぞ。見てい ろ!」  こう彼は云い放って、裏口から獣のように出て行った。大方 川岸の方へでも行ったのだろう。心配げに後を見送つていた騎 咲は、 「旦那様、あゝいう百姓爺と云うものは、ほんとに何をするか 解りません。あれ迄仰しゃっても頼みを聞いて呉れない上に、 ほんとに虫でも付けられたりしたら、どう遊ばすのでございま す。何事もない今の中に、此処を出て行って了いましょう。た といこの家が借りられなくとも、きっと外にもっといゝ家がご ざいますわ。私がきっと探し出しますから、あの爺さんの帰ら 血い中に、お逃げになって下さいまし。出過ぎたようではござ いますが、咲の一生の欝願いでございます。躰|身体《からだ》に若しもの 事があると、貴方のお世話を呉々㌔頼まれた黒川さんや姉さ ん、森戸さまの皆さんにも済みません。ざうぞ此処はお|断念《あきらめ》に           まごこぶ なって下さいまし。」と誠心を軍めて云った。 ・それでも野村は動かなかった。. 「おまぇの心配は尤もだが、僕の身は大丈夫だから|関《かま》わないで お呉れ。いわばこの家の問題は、僕の初陣のようなものだから ね。縁起を担ぐ訳ではたいが、今度だけは初めから|幸先《さいさき》をよく したい。それにこの家の爺さんは、有名な悲史取りの名人だか ら、どうにかして味方にしなければ、早い成功は覚束ないの だ。.今も虫を捕って来て付けると云うのだから、どんな事をす るか見ていたい。それに仮令虫を付けられても、帰って直ぐそ こを扶出して了えば大概は大丈夫だ。まあ心配しないで見てい るがいゝ。」  そう云われるとお咲は黙って控えている外はなかった。  暫くすると徳爺は、同じように興奮して、手に河原ツ・ギの 小枝を持ち乍ら、勢い激しく帰って来た。 「野郎! 逃ぼて行って了うかと思ったら、まだ愚図々々して いやがったな。よし、そんなら|真実《ほんと》に付けてやるぞ。いゝか。」 徳爺は実際に|障《たけ》った。 「いゝとも。」野村も同じく一種の興奮に捉われて、剛然と云 い放つた。 「さあ付けるなら付けて呉れ。」彼は洋服のワイシャツをたく し上げて、白い左の腕を差出した。  徳爺も初めは真実付ける気もなかったのだが、こうなると猛 然として、野村の方へ進み寄って、河原ツ・ギの枝を差しつけ た。 「さあ。いゝか。この葉には|確《たし》かに一匹ついているぞ。1覚 悟しろ。」  爺があわやその枝を野村の腕に触れんとしたとき、 .「待て。」と野村は|右手《めて》でとめた。  「今になって止めるのか。」 「いや、|整《さ》されて病気になる前に死後の思い出だ。一度よくそ の虫を見せて呉れ。それから整されよう。」 「うむ、いゝ覚悟だ。見せてやる。」  野村は爺の差出す枝を受け取って、指された葉の裏の、生 きている|毛蝉《けだに》を、吸いつくよヶに見凝めた。それはようやく肉 眼に見える、|留針《とめぱり》の頭ほどな鮮紅色な小虫だつた。彼は今迄そ の虫を、標本で見、描絵で見た。けれどもその実物を見るの は、|正《まさ》しく是が初めて讐あった。彼は仇に廻り会ったような、 一種の喜悦と興奮を覚えたω 「序に顕微鏡でもう少しよく見せて呉れ。」彼は思わず哀願し た。 「いや、虫を潰すから駄目だ。」爺は聞かなかった。 「それならば仕方がない。lさ、男らしく整されよう。」 「よし。」と、徳爺が再びその虫を野村の腕に近づけた時、今 迄顔色を蒼ざめて見ていたお咲が、急にきッとした|声《  》で「爺さ ん、|鳥渡《ちよつと》待って下さい。」と押し止めた。■        一二八 「何で止める。そこを|退《ど》け。」徳爺は間に入ったお咲を見下し .て、猶も荒々しく云った。 、お咲さん。,心配する事はない、-放って置いてお呉れ。」野村 も云った。  けれども決心の色を面に見せてお咲は、決して黙って引込ま なかった。彼女の可憐なる頬は、少し蒼白に引緊って、|平常《ふだん》お となしい婦人の、非常に際して発揮する強さ、l殆んど模範 的とも云うべき日本婦人の強さを、眉宇の間に送しらせた。 「いえ。|鳥渡《ちよつと》待って下さい。お爺さん。あなたはその虫を付け さぇすればいゝのでしょう。それならばこの方にお付けになる かわりに私に付甘て下さい。私が代って付けられます。どうか お願いですから、そうなすって下さい。1この方は私どもの 御恩人です。そして私がわざく齢従き申して来て、此処でお 世話することになっている大切な人です。私の見ている前で、 こう云う危難にお逢わせ申して、万一の事があっては済みませ ん曽だから私に付けて下さいまし。そうすれば私が病気にたっ て、旦那様の御研究のたしにもなります。私どもはこの旦那様 に、■命を捧げても研究をお遂げ申させたいのです。どうぞ爺さ ん、後生ですからそれまで堪忍して下さい。お願いします。ど うぞ私に付けて下さい。手をついてお願いします。」騎咲はい じらしい決意に燃立つ唇を閉じて、爺の前に身を挺した。  |脆《ひざまず》いて切願する可憐なお咲の様子を、初め拒絶的に見てい た徳爺は、蚊に到ってじっとお咲の顔を見ていたが、頑固なだ けに感動するとなると早い心を以て、見ている中に眼を湿らし て来た。彼は黙って悲虫のついている小枝を、捧げるように野 村に差出した。  野村もお咲の心根に動かされて、描し挾む言葉もなく涙ぐん でいたが、■徳爺のさし出す小枝の意味が、未だに呑み込めな かった。, 「さあ、遠慮なく僕に付けて呉れ。」 「いえ、私を|整《き》して下さい。」お咲は更にその小枝の前に進み 出た。  徳爺は堪えられなくなって、涙をぽろく落し乍ら、 「いや、娘さん、もういゝ。もういゝ。儂はもう誰にも虫なん ぞ付けたくはねえだ。お前さん達の心底はもう儂にもよく解っ たバ。娘さん。儂は今迄お前さんのように可愛い娘で、お前さ んのように|健気《けなげ》な人を、今迄一度も見た事がねえだ。お前さん の顔をじっと見ていると、儂のような枯れた眼も、ひとりでに 涙が|翻《こぼ》れて来るだ-娘さん。儂は昔齢前さんに、ほんとによ く似た|女《ひと》を知っていたが、お前さんを見ていると、その|女《ひと》の事 さえ思い出されてならねえだ。お前さん、名は何と云うね。」 「塚田咲。」お咲も涙ぐんで答えた。 「塚田と云う苗字だね。それじゃ若しかお前さんは、塚田お|清《きよ》 と云う人の、何か縁つ間きじゃあるめえか。」 「えっ。それは私の叔母さんだわ。そしてこの方は叔母さんの 大切な御主人ですわ。」 「僕はその婆やには|真実《ほんと》の子のように可愛がって貰った。」野 村も云った。 「儂はお清さんの幼馴染だった。丁度あの人の十七の時、この 娘さんのような姿の時に、別れて東京へ行って了っただ。i そうか。おまえさん達はその縁者か。してこの方の名前は何と 仰しゃるのだね。」 「僕は野村辰雄と云います。」野村は自ら進んで云った。 「野村さんとお云いなさるかね。1それでは野村さん、改め て爺からお願いするだ。どヶか儂におまぇさんの研究やらの、 手助けをさせて下せえ。どんな事でもして上げるだ。」 「えっ、爺さん。それじゃ僕を助けて呉れるか。」 「うむ。齢前さん達のためなら家も何も貸して上げるだ。命が けで虫を捕って上げるだ。」 「有難う、爺さん、ほんとに頼むよ。」  野村は殆んど吾を忘れて、徳爺の厳を刻んだ籟い骨太な手をー 握りしめた。  お咲も感謝に輝いた眼を向けた。  こうして三人は互いの眼を見交して、新しい感動の涙に咽ん だ。  最上川の瀬音が、夕べに近づいたと見えて、静かに静かに響 いて来た。        一二九  それから後野村は、徳爺の家を借りて、兎も角も研究に取り かゝる事になった。併し乍らその業績を完成するには、どうし ても研究所の設立を必要とした。けれども既に研究期に入って いるσであるから、そう替ハ沢を云って、ゆっくりと完全な研究 所を建てる訳にも行かなかった。野村はせめて一刻も早く、仮 研究所でも建てなければならぬと思った。  彼は無名の人から得た五千円の|中《ラち》、二千円を研究費に投じ、■ あとの三千円を以て、小さくとも研究室の体裁を備えたものを 建てようとした。併し僅か三千円ばかりπ仮建築にもせよ、 どんな研究所が建てられるであろう。それでもこの場合の野村 には、在った方が無いよりは増しに違いないのである。  彼は取り敢ず冊近の地を|相《そう》して、徳爺の所有地の一角に、設 立すべき場所を定めた。|而《そ》して早速工事に取りかゝって貰う積 りで、先ず附近の大工、左官、土工たちを傭おうと思った。  徳爺は野村の命を受けて、万事呑み込んで谷地町まで出掛け た。彼はそこの或る棟梁を知っているので、自分が頼みに行け ば、、直ぐにも来て呉れると考えたのである。 「まあ安心して待っていて下せえ。儂が行って直ぐ頼んで|参《めぇ》り やすから。」  こう云って徳爺は、頭を|肯《うなず》かせ乍ら出て行ったが、思いの外 に向うで手間取ったと見えて、なか<帰って来なかった。何 か|支障《さしつか》えでもあるのかと思って、野村は心では待ち兼ねていた が、さすが表にはその様子も見せずに、顕微鏡なぞを無意味に 覗いていた。お咲は何気なく装い乍ら、時々裏口から出て、森 を通ずる里道の方を眺めた。彼女が見に出て三四度目に、お咲 ば急に嬉しそうな様子で入って来た。そして研究室と定められ た納屋の外から、 「旦那様、齢爺さんが帰って来たようでございますよ。」と報 らせた。  徳爺は出て行った持と反対に、|免首《うなだ》れたような恰好で、頭を 振りノ\入って来た。野村は急いで迎えた。 「お爺さん。御苦労だったね。して向うの様子はどうだった い。直ぐ承知して呉れたかい。」  徳爺は更に陰欝に首を|捧《ふ》って、吐き出すように答えた。 「駄目々々。駄目でごわした。今時の奴ら人情と云うものを知 らねえから駄目でごわす。この上は金でなくちゃ動かねえから 駄目でごわす。それに此方の申込みが遅うごわした。向うでは もう外へ雇われてると云いやす。外の方を延ばすか断ってバ も、此方へ来て呉れろと云えば、そんなら向うよりか余計に金 を出せと云いやす。|而《そ》してその向うの人は、一万から出して建 てるのだそうで、やはりその雇われ先と云うのも、ー同じような 研究所を建てるとやら云って、もう今日から土工が、土台固め に|入《へぇ》っているそうでがす。場所までが直ぐ向うの儂の地隣だと 聞きやした。ー旦那様、一足遅れになって、ほんとに儂あ口. 惜しゅうごわすわい。」 「ふむ、それでは他の誰か間、同じような研究所を建てるため に、もうすっかり人を雇って了ったと云うのだね。11|而《そ》して その雇い手の名は、何と云う人だか聞かなかったかい?」  野村は死ぬような思いで、身を進め乍ら徳爺に詰め寄つた。 「はい、その人の名は、何でも星野とか星川とか云いやした。」 「星野P」野村は思わず大声に叫んで、きッと|空《  》間の一点を睨 むように見た。而して・お咲と顔を見合せて、眩くように声を落, し乍ら、「又星野に先んぜられたか!」と悲痛に云った。 「そうでごわす。もうその星野とやらの地突が、初まる頃でご わしょう。ほんとに口惜しゅうごわす。」  併し野村の口惜しさは、爺やの計り知られぬ程複雑なもので あった。  その時三入の陥った落胆の沈黙を破って、程遠からぬ隣地あ たりから、勇ましい地突唄が聞えて来た。        一三〇  星野の研究所を築くべき地突唄は、折から風たちそめた天 地を縫うて、或いは近く或いは遠く響いて来る。それは星野の 凱歌であり、又野村の翰歌であるように、或いは勇ましく起り、 或いは哀韻を長く曳くのである。 帰野村、お咲、徳爺の三人は、黙ってその唄声に聞入った。彼 らはその唄声によって起る感じを、表すべき言葉も無かったの である。殊にこの時の野村の心は、それが又星野に先んぜられ る前兆のようた気がして、無念の思いが胸を掻き|携《むし》るように込 み上げて来た。やゝあって彼は低く岬くように咳いた。 「折角舷まで来て|幸先《さいさき》がよいと思って居たら、又金力なぞで敗 けなければならないのか。あゝ、舷にもう少し金さえあれば、 東京から人夫を呼び寄せる事も出来るんだがなあ。」, 「お察し申しますわ、旦那様。」とお咲は泣くように云った。 「口惜しゅうごわす。旦那。」徳爺も先刻からこう繰返す許り である。  野村は併し錆沈し切っては居なかった。やがて彼は首を撞げ て、 「併し、こうなっては仕方がない。窮乏の中に奮い起つんだ。 やれるだけやるんだ!」ときっばり云い放った。  お咲も徳爺も野村の決心に促されて、更に奮起しようと心の 中で誓った。  三人がこうして猶も地突唄に聞入っていた時、突然表から 訪れて来た人物がある。野村がふと見ると、それは思いがけぬ 星野であった。否、思いがけぬ星野ではない。既に研究所の起 工に取りかゝった以上、当然出現を待ち設什て然るべき星野で あった。星野は例に依って傲然と入って来た。 「おや野村君。君も此処にいたのだね。其後どうしたい。」 「どうもしない。」野村はわざと|上手《うわて》に出る星野の態度に、一 種の圧迫を感じ乍ら、やむなく簡単に答えをした。 「そうか。僕はあれからいろくな事をした。悲虫の研究も大 分捗ったが、この間は宮田と云う助手級の医師が、身の程も知 らぬ無学の癖に、僕の発見した発疹チプス、スピロヘータが|恥 揚《もこラ》スピロヘータだなんて云い出したので、|鳥渡《もよつと》東京ヘ帰って論 駁して来た。」               ・ 「宮田がそんな事をしたかね。ふうむ。」野村はリラに於ての 宮田の態度を思い出した。 「あれは君の助手だつたのだろう。あの|恥垢《ちこう》スピロへータ一件 だって、君が満更知らぬ訳はあるまい、世間では君が示唆して やらせたなぞとさえ云っているぜ。」こう云って星野は、見透 かすように野村を睨んだ。 「僕は知らない、僕は宮田君にも見離された人間だ。」 「いずれにもせよあんな馬鹿者は問題外として、君とは又、今 度蚊では面と向って競争する事となったね。」 「君が信濃川にいさえすれば、幾らかはこんな厭た非学者的な 思いをせずに済むのだ。」 「ふふふ。」と星野は笑って、「現在僕のいる前で、そんな退嬰 的な弱音を吹くなよ。どうせやる位なら、この方が男らしくて い\(じゃないか。競争とか勝敗とかの人間的感情から、超然と していたのは過去の学者の事だ。吾々は飽くまで人間性を帯び た学者でなければならない。」 「それでは君はわざノ\僕と面接して競争するように、信濃川 から此処へやって来たのだね。」 「そう見ても差支はない。尤も半面の理由として、向うは今 年思いの外に虫の発生が少なかった。その上|此方《にらら》の方が発生期 が遅いからね、向うで少し研究を積んだ上に、此方で完成する 気でや?て来たのさ。」  星野は既に勝ち誇っている様子であった。        一三「  又しても心弱き野村は、星野の圧迫を直接に感じた。そうし で野村の心弱さを知ってい乍ら、彼自身の人格の強さに侍ん で、常に圧倒し去ろうとする、征服意志の余りに激しい星野 を、彼は憎まざるを得なかった。彼は自ちの憎悪にすら押され て、辛うじて反抗した。 「併し君の研究が成るか僕のが成るかは、自ら解らぬ問題だか らね。」, 「ふん。」星野は囎いた。「君にどんな成算があるかは知らぬ が、一高が三千かそこいらの資金で、どんな設備の研究所が建て られる。僕は僅か一万金を投じても、まだ自分の研究所にあき 足りないのだ。最近の科学的の研究では、設備の不完全を、精 神的の要素で補う訳には行かんからねえ。君がいくら頑張って も、成功は到底覚束ないさ。」 「|覚束《おほつ》くか、覚束ないか、それは後になって見なければ解らな い。」 「さあ、どうだか。1科学に奇蹟はないからねえ。」 「併しあらゆるものに直観が働く。|而《しか》して偶然の天啓が突如と して下る場合もある。」 「ふん。そんな直観や偶然を頼りにして、辛うじて研究を続け て行くのか。」 「いや、僕はた間君の余りに激しい物質的な優越に就ての自負 を、打ち壊して置けばいゝんだ。1要するに僕だって金さえ あれば、君位の設備は直ぐにも出来るのだからね俸」 「併し金がないから仕方があるまい。」 「残念乍らそうだ。」 「可哀そうに。ー1実際可哀そうだが、設備が不完全では、い くら焦っても駄目だよ。だからいっそどうだい、僕の完全な研 究所へ来て、僕と一緒に研究して呉れないか。そうすれば成功 も早いと云うものだ。」 「君の研究所で一緒にっ・・」野村は星野の言葉がまだ、何の意味 だか解らなかった。 「そうさ。僕の助手になってピ星野の唇辺には皮肉な微笑が 在った。 】野村は少々唖然としたが直ぐ、「ふうむ。君の助手にな?て か。なるほどそれは名案だが、助手の方が研究を早く積んで 了っては気の毒だからよそう。」と酬いた。 「いや、僕の方でも別にもう助手の必要がなかった。君位の助 手級の人が三人も来て呉れる筈だから。■1君は君一人でやる のかね。少々無理だね。」 「無理でも仕方がない。その上一人の方が却って心強い場合も あろ。殊には此処の爺さんも付いていて呉れるから、僕には十 分な老助手を得た訳だ。」  星野はその言に改めて、徳爺の方を向いた。 「へえ。そうかい。1徳爺さん零まえほんとにこの男を助け るのか.い。」ー 「そうだよ。」徳爺の答えは簡単だった。 「そいつは考え直した方がよさそうだよ、爺さん。1実は僕 もおまえを助手に頼もうと思って、それでわざく此家へ来た のだが、おまえもどうせ助けるんなら、成功する見込のある、 設備の完全な研究者の方ヘ来たらどうだい。その方が第一助け 栄えもあり、酬いられる所も多いぜ。僕の方へ来て呉れゝば、 研究期中は月に百円ずつあげるよ。どうだい。それで僕の方へ 来る事を、改めて承知して貰えないかい。」 「厭だ。」徳爺は只一言、簡単に云い退けて、睨むように星野 を見返した。 「そう云わないで来てお呉れ。今日の雇人と主人の関係では、 お前が先に約束したからって、他のもっといゝ処へ、行けない 理由はないのだよ。」 「儂はおめえが嫌いだよ。だから厭だと云うんだ。」  さすがにこの一言は、傲岸な星野の自尊心をぐざと許りに突 き刺した。 「ふん、老ぼれ爺め! 誰が貴様なぞを頼むものか。貴様なぞ は僕の方では用がないのだ。只野村にやるのが惜しかったか ら、奪ってやろうと思った間けだ。1ふん、いくら貴様が野 村を好きで、悲虫を取って来てやっても、この豚小屋の研究所 じゃあ、始まらないからな。Iどうだ。あの勇ましい僕の研 究所の、地突唄を聞かないか!」  星野が傲然とこう云うのを待って居たように、唄は更に勢い を増して響いた。耳を掩わぬ以上、厭でもそれを聞かねばなら ぬ三人の無念は、胸も煮え返るばかりだった。  その時星野の研究所とは反対の|渡頭《わたし》の方から、新しい|木遣《きやり》の 声が、より勇ましく風を縫うて、四人の耳へ響いて来た。        一三二  星野の方の地突唄を圧倒せんばかりに、木遣の声は益ぐゆ ゆしく響いて来る。森に響き水に|餌《こだま》するその懸声は、決して小 人数の仕業ではないらしかった。何事が起ったのかと、四人は 気を看まれ丸ように欄きλっ北。  徳爺は急いで表に飛び出し、声のする方を見やった。彼は暫 らく手を|窮《かざ》して、じっと向うを見定めていたが、中の野村たち にこう云いかけた。 「旦那、どこかの人足らしいものが、列を組んで此方へやって 来やす。どこの仕事をしに来たのでごわしょう。」  その言葉を聞くと、星野は如何にも鷹揚に|点頭《うなず》いて、快心の 微笑を洩らし乍ら、 「それも大方、僕の方の人足だろうよ。|谷地《やち》町の頭梁が、何処 からか頼んで来たに相違ない。」  野村は更に言葉もなかった。  外に見ている徳爺はそんな事とはまだ知らずに、 「旦那jまあ来て御覧なさい、何処の仕事師だか、まるで祭の 行列のようでごわすよ。iあれが旦那の仕事をして呉れるの だと、儂は喜んで涙を流すがのう!」と云った。  星野は嘲笑い乍ら、 「爺さん。無駄な心配をしないがいゝ。それは僕の方の人夫に |定《ぎ》まっているよ。」 「えゝ、あれもおめえの人足だ? 畜生、そうか? そうと聞 いちゃあ、,儂あ今迄見ていたのさぇ口惜しいわい。」と徳爺は 唾を吐きく入って来た。 「序にあの声が聞こえないように、耳を塞いだら猶いゝだろ う。」星野は更に皮肉に嘲笑った。  野村は殆んど居るに堪えなかった。  併しお咲は、先刻木遣の声を聞いた時から、何となく此方の 味方が来たような気がしてならなかった。それは大方、星野の 方の地突唄を、打消すように響いて来た|故《せい》でゝもあろう。け れども亦彼女の直覚には、何となく東京から、野村の救い手が 現われて来たのだと云うような、胸騒がしく嬉しい鯖示を、与 えられたように覚えたのである・  お咲も、それが星野の人夫だとすれば、出て見るには耐えな かったが、■何となく、出て見たくて堪らなかった。彼女はそれ を子供の時からの、木遣や何かを聞くと直ぐに見たがる癖が、 今だに十八の自分に残っているのかと自ら顧みて、恥かしいよ うに思った。が、-彼女のその時の出て見たい心持は、決して、 子供らしい好奇心ではなかった。彼女の本心は冥々の中に、そ の行列が果して星野のであるか、そうでないかと明かに確かめ 一たい意志があったのである。 「果して星野のであったら。」その考えが彼女を逡巡せしめた。  木遣の声は益ぐ近づく様子である。 「併し星野のであっても、此方の気持はもとのまゝだ。」そう 思うとお咲はふと出て見る気になった。  その時既に星野は、果して自分のであるか否かを確かめよう と思って、戸口に出て眺めて居た。が、彼はまだ確証を得ない ような顔だった。  お咲は思い切って、するりと外へ出た。|而《そ》して木遣の声のす る方を同じく眺めやった・  折から薄曇りの夏雲は切れて、日の光が一面に緑と茶の、山 形平野を照し出した。それは有毒地の|磧《かわら》であると、ゆたかに緑 を揺する畑であるとを問わず、等しく燦然と光り輝かした。そ の間を縫うて続く赤土の村道は、七月の太陽に暖かく蒸されて 居た。  今、その村道を練つて来るのは、|都《ひな》に珍らしき仕事着も凛々 しく、一隊およそ百人あまり、いずれも屈強な男達である。|而《そ》 してその先頭には、わざと古風な絵日傘を窮して、.装いもきり りと涼しげな、一人の美しき女が立って来る。iそれは恰も 印象派の画の中に、|東錦絵《あずまにしきぇ》の人物が脱け出した如くであった。  星野は余り不思議な光景に、只|呆《ぼん》やり見ていた心  お咲も暫らくはその芝居じみた|観物《みもの》に、気を奪われて見てい たが、その行列の近づくに連れて、その先頭の女の顔が僅か乍 らに分明すると、あっと|喜《  》びの声を揚げて、急いで家の中へ駈 け込んだ。        一三三  慌てゝ家の中へ駈け込んだお咲は、野村の前で行列の来る方 を指し乍ら、暫しは口もきゝ得なかった。 「お咲さん、どうしたのだ。」野村の声は物憂げであった。 「旦那様。ね、……姉さんです。姉さんが参りました。大勢の 人たちを連れて、先に立って来るのは姉さんです。」 「なに、姉さんが来たP お駒さんがこんな処ヘ来る筈はな い。」 「だって様子こそ違って居りますが、顔は姉さんに違いありま せん。嘘だと思召すなら、まあ出て御覧なさいまし。iきっ と姉さんが助けに来たのですわ。」 「そんな事が在ろう筈はない。」と野村は怪しみ乍ら、お咲の後 について、同じく戸口ヘ出て見た。 ■行列はもう木遣をやめたが、整然として近づいて来た。もう この家との間隔は、、ものゝ二十間もないであろう。野村は|瞭然《はつきり》 とその先頭に立っている人を|見得《みえ》た。今、あの人は日傘を畳ん で、本道から横に、桑畑の間を此方へ来る。  野村はその人の派手な夏衣装に、目を奪わるゝと同時に、天 日の下にも白く明かるむ|顔容《かおかたち》を、眩しい程に見て取った。ー■ 夜に咲く|嫡郷《あだ》たる花は、昼にも輝くリラたるに違いはない。  野村は木遣で乗込むなぞと云う、お駒の芝居気に一種の反感 を禁じ得なかったが、さすが僻地に味方の訪れを得た微笑が、 今迄沈み切っていた彼の顔色を、初めて明かるく輝かした。   て、待ち兼ねているのですからご  お咲は十分近づくのも待たずに、もう「姉さん。」と呼びか  「有難う、お駒さん。」野村は承諾せざるを得なかった。而し けた。                        て直に感謝をこの簡単な言葉に軍めた。そぱ■  お駒は野村たちの姿を見ると、急ぎ足に歩みを刻んで、真直  「姉さん。ほんとうに有難う。」お咲も傍から云った。 ぐに近づいた。瀞して真面目な笑みを湛えて、丁寧に一揖し  「お咲ちゃん。齢前こそ御苦労だね。姉さんもお前の心掛が嬉 た。                      しいよ。」 「野村さん。暫らくでございました。」            「|姐御《あねご》さん、儂も御礼を云うだ。」徳爺も進み出た。 「お駒さんですか。暫らくでした。1が、一体貴方はどうし  「器駒さん、この人は婆やの幼馴染で、僕たちを助廿て呉れる て此処へ。」                     ■ 徳爺さんだ。」と野村は紹介した。 「貴方のある後援者から頼まれて、貴方の研究所を建てるため  「あら、そうですか。そんなら私の方でこそ齢礼を云わなく に、人足を此処まで案内して来たのですピ          ちゃならないわ。ー有難うよ。爺さん。」 「それでわざく僕のために?」              」その時まで殆んど皆から忘れられて、さればと云ってそっと ロκ」"いつかのお約束通り、痴駒は小さな嘘は世の中を面白  逃げる訳にも行かず、わざと冷然と癖いて傍に立っていた星野 くするために吐きますが、大ぎ加嘘は決して申しません。1今度,-ほ「ーーーーーーー-,」ー-1ーーi」ーーーー-ー の事は貴方の一生の大事だと思いますから、身を粉にしてもお  「お駒さんとやら。儂もお礼を云う。君のような美人が野村君 助けする気で、今まで鳥渡身を匿して、何かと計画していまし  を助けて研究所を建てゝ呉れるので、僕も競争の仕甲斐がある た。それをまさかお怒りになるほど、貴方も野暮ではございま  と云うものだ。」と云い放った。 すまいね。」  ・    ,     ≡四 ・「併し僕は何だか心苦しいんです。」    いつ                                              どなた 「また毎もの御謙遜が初まりましたね。一体貴方は気が弱くて いけません。そこがまた可愛いゝところでもあるんですけれ ど。併し物事を成就するには、もっと心を強く持って、何でも 御自分のために、犠牲になるのが当然だと云うような気にたら なくちゃ不可ません。それに私共は喜んで犠牲になるのですか ら、.貴方も喜んで犠牲にしなくちゃ不可ませんよ。」 「御好意と御忠告は有難くお受けしますけれど、……」 「いえ、もうそれから先は云っちゃ不可ません。ーでは早速 工事に取りかゝらせて下さい。もうこの人たちは腕に|撚《より》をかけ 「この方は誰方〜」とお駒は怪語そうに、星野を見やって訊ね た。 「この入が例の星野君です。」  野村はやむを得ず紹介に及んだ。 「僕がこめ野村君の|敵手《あいて》の星野です。」星野は傲然と云い放っ た。「以後どうぞ御見知り置き下さい。貴方のような美人とお 近付になるのは、吾々に取って一つの光栄ですからね。」  爵駒はちらと眼尻を釣りかけたが、忽ち妙な微笑を含んで、 じっと星野の顔を測るように見た。 「あら、この人が星野さんなの。想像していたのとは思いの外 に、男らしい立派な方ね。ヒれで今のような厭味さえ云わなけ れば、ほんとにいゝ男だわ。」■  さすがの星野の顔も微笑を帯びた。 ,「何を云っているんです。」  賢駒は艶っぽい上眼遣いをちらと見せて、もう一歩星野の方 へ近寄った。 「貴方、ちと浮気をなさる気はなくって?」 「浮気って?」星野は意力の強い男の常として、潜熱のような 好色さを額に見せ乍ら、わざと反抗的に訊ね返した。 「浮気って浮気よ。いくら立派なお家から奥様を貰っても、そ う奥様に孝行ばかりしていないで、ちっとは遊びにもいらっ しゃいって事よ。貴方はきっと|好遇《もて》るわ。私請合ってよ。」 「馬鹿を云っては困る。」と星野は云い乍らも、自信力が強い だけに阿誤には直ぐ乗り易い笑顔を、陰し切れずにお駒に見せ た。. 「兎に角遊びにいらっしゃるようだったら、私の処へいらっ しゃい。私新橋に居ますからね。駒奴と云えば、もう大抵解る 筈よ。」 .野村とお咲とは顔を見合せた。星野は呑込んだように|点頭《うなず》い た。 「では何時頃いらっしゃるか、目約束だけでもして置いて下さ いな。ね、貴方。」とお駒の駒奴はもうすっかり|玄人《くるうと》らしく云 い続けた。 「何時って研究の済まない中は、行くも行かぬも問題ではな い。」 「そんなら私の方から時々、貴方の処ヘ遊びに行くわ。いゝで しょう。iそれは貴方と野村さんとは、知互いに敵みたいな ものでしょうけれど、私と貴方とは何でもない筈でしょう。野 村さんは野村さんとして私の恩人だし、貴方は貴方で私の、お|友 人《ともだち》。それでいゝじゃないの。」 「それ楓僕の方は|関《 かま》わないけれど。余り邪魔にさえならなけれ ば。」 「そう。じゃ研究期の間に、せめて一度位は来てもいゝでしょ う。奥さんなんぞの考えもつかない、いゝお土産を持って、研 究に疲れた時分に慰めに来て上げるわご 「それはどうとも君の勝手だ。」 「そう。そんなら騎約束してよ。忘れちゃ厭よ。」 「あゝ、いゝとも。,兎に角それでは、当にしないで待っている からね。今日は之で失礼するよ。」  星野は半信半疑の、,半ば嘲弄されているような半ば惚れられ ているような、■妙な心持の中に、兎に角早く立去るのが適当だ と思った。 ■「じや左様なら。き■つとですよ。」 「左様なら。諸君にも大いに失礼。」  こう云って星野は、わざと悠然と出て行った。%駒は一種の 笑を湛えて、その|後姿《うしろすがた》を見送っていた。  野村はふとその|背後《うしる》から云いかけた。 「お駒さん、今の言葉はまさか本気で云っているのじゃありま すまいね。」  お駒はくるりと野村に向いた。 「まあ、仕様のない坊ちゃん2 貴方は只私を信じていて下さ れば、それでいゝんですよ。」 「そうですか。僕は信じているけれど。……」 「それでいゝのよ。それから後は私に|託《まか》してお置きなさい。 iおや、何やかやと云っている中に、時間が経つ。私は、今 夜の中に帰らなくちゃならないから、これで今旧は失礼します わ。じゃ野村さん、お|壮健《たつしや》で御勉強なさるように。爺やさん、 お咲ちゃんも呉々も記頼みしますよ。Ilあゝそれから外の親 方さん。あとは宜しく働いて下さいな。何でも此方の云いつけ 通りに、出来るだけ早く仕上げて下さい。お願いしますよ。ー 私の事は心配おしでない。川向うに値が待たせてあるんだか ら。」  まκ沁λと別辞も交さぬ中、お駒はもう日傘をさしかけて 了った。        一三五    '  こうして二つの研究所は、相並んで最上川畔に建てられる事 になった。日に夜に次ぐ工事は起され、夜に日を次いでそれは 完成に近づいて行く。  朝は蔵王岳の雲を破って|轍《ひ》が現わるゝ前から、夕は|月山《がつさん》の頂 に残暉の薄るゝ迄、地突唄の声は最上川の水に響き、杜々の こだま                                         のヒぎりかんな 研を呼んだ。そうしてそれが済むと今度は賑わしい鋸 鉋の音 が続いた。それから二三日にして、忽ち荒れたる桑圃の中に、 二つの研究所は棟を上げられた。  星野組と野村組の人夫たちは星野と野村以上に激しく競争し た。土地の者は都の者に敗けてはならなかった。そうして実際 両方は敗けていなかつた。恐ろしい程の励精がそこに在った。 それと同時に恐ろしい反目も又そ亡に在った。併し、彼らは喧 嘩をする暇もなかった。喧嘩なぞよりも、実際に一刻も早く竣 工するのが、彼らの急務でたければならなかった。  夜も晩くまで双方の焚く火が、赤々と最上川に映って流机 た。  この問に野村は研究を続け乍らも、時々出て来て人足たち に、感謝と激励の言葉を与えるのを忘れなかった。  或日、彼は余りに敵対と競争の念が激しいのを見て、親方に こう云った。 「親方、皆さんが向うに負けまいと思って、こうして骨を折っ て下さるのは、私は涙が出る程嬉しいが、功を急いで、余りに 無理をしちゃあ不可ませんよ。二日や三日遅れたって、それは 此方の起工が遅かったのだから、当り前の話です。五日や一週 間遅れても、僕は貴方がたの|技禰《うで》の見える、たとえ仮建築にも せよ、立派な研究所を見たいんです。優るなら寧ろ実質を以て 勝とうじゃありませんか。」  親方も笑い乍ら聞いていたが、 ■「併しわっしは出来るだけ、日にちも早く仕上げて、しかも立 派にやりたいんです。そんなら貴方も御異存はありますまい。」  野村は笑って感謝する外はなかった。  星野の方でも、星野自身時々監督に出て来た。 「みんなしっかり働いて呉れろよ。土地の者が東京から来た生 白い奴らに敗けては、百年後までの名折れだぞ。若し後から来 た向うの方に、一刻でも遅れるような事があったら、俺の顔に 泥を塗るのも同然だぞ。」  こう云って彼は激励した。彼の鉄の如き言葉の前で、人足ど もは無理にも一生懸命にならざるを得なかった。  そうこうしている中に、とうく竣成の日は来た。・しかしそ れは一日早く、星野組の方が先んじた。星野の方の研究所がそ の外囲いを|脱《と》って、人々の歓呼の中にその姿を現わした時、野 村の方の人足どもは歯がみをして口惜しがった。親方などは先 日の広言が恥かしいとて、野村に|容《かたち》を改めて陳謝した。併し野 村は少しも気に留めなかった。 「そんな事何でもないではありませんか。僕は寧ろずっと遅れ た方が、当然だと思っていました。向うだって最善を尽してい るのだから、後から追いぬくのが無理なんです。寧ろ一日ばか りの遅れようは、大成功じゃありませんか。まあ出来上ってか ら、実質を比べて見ましょう。」  こう云い乍らふと|野《し 》村は、自分の研究を省みて心暗くなっ た。併し研究と工事との違うのは云う迄もないと思い返した。  星野はもう研究も先んじた如く、設立の先んじた事を喜んで いた。  野村の研究所は、一日遅れて悠々と落成した。野村はそれに 心から満足した。人足どもゝ野村の満足を見て、ようやく嬉し い思いに復った。  こうして野村と星野とは、愈ぐ研究所に閉じ籠る事になっ た。        =三ハ  野村は研究室に籠って、必死の勉強を続けた。研究に従事し ている問の彼の態度は、飽くまで学者的の立派さを持ってい た。一度それに取りかゝれば、彼の意気地のない弱い心は陰を ひそめて、そうして|只管《ひたすら》真理を追究する精進の命が頭を擾げ た。畢寛、彼も研究室の人でなければならなかった。実生活に 於ては、一種の弱者であっても、その弱さを補うためには、 益ぐ彼を心から愛撫し内助する人を、天が与うべき学者に外な らぬのである。  研究室内の彼は文字通りに孤独であった。孤独も或る場合に は強味である。併し研究中の「心」の孤独は、あらゆる学者の 嘗むべきものとして、寧ろ野村も喜んで享けるにしても、実際 研究を遂行する上の孤独は、時々彼に淋しい思いと、不自由な 思いとを起させた。彼は|会《たま》には三人の助手を持って居る星野を 羨みさえした。  研究中の学者に取って、嬉しさ極まる小発見でもした際に、 業績の進みを顧みて|談《かた》り合うにも、お咲や徳爺では、話相手と するに足りなかった。その上、,実際上の不便は、彼をして時々 助手の事を思い起さしめた。 「それにしても宮田はどうしているだろう。」  野村は研究の合間々々に、ふとそう考える事も多かった。そ うしてそう考える毎に、彼はリラに於ける自分の酔態と、その 時の宮田の激しい語気や鉄拳を思い出して、自分を見離して、 行った人の、遠く去って帰らぬのを嘆いた。 「併し自分がこの研究に成功したら、彼はきっと陰乍ら喜んで 呉れるに違いない。そうだ。俺はあの宮田のためにも、是非成 功しなければならないのだ。」  そう眩いて野村は、又改めて顕微鏡の下へ立帰るのだった。  或る日野村が熱心に研究していると、研究室の|扉《ドア》をコツく と叩く者が在った。-野村は何か急用が在って、お咲でも来たの. だと思い、何気なしに扉を開いた。  すると其処には、全く思いがけなく、宮田が寧ろ子供らしい |恭《うやく》しさの態度で、直立不動のような姿勢をして立っていた、 そうして野村を見ると、|慕《した》しさと恥かしさとの笑を半顔に湛え て、 「野村さん。私は|詫《あや》まりに参りました。」と云った。  野村の顔にも抑え切れぬ喜色が浮かんだ。 「よく来て呉れました。さあ、入り給え。」 「じゃ入っても宜しいですか、許して下さるんですか。」 「許すも許さないも、僕はもとから君の心には感謝していまし た。」 「では私は改めて、貴方の助手にして頂けましょうか。」 「えゝ喜んで助けて貰いますとも。僕は始終君の事ばかり考え ていました。そうして到底君は来て呉れぬだろうと諦めていま した。」 「あの時の事はどうぞ許して下さい。私はあんな暴行をし乍ら も、貴方の事は忘れた事がございませんでした。そうしていつ かはこう云う事があるだろうと、ひそかにその機の至るのをお 待ちして居りました。」 「有難う、宮田君。永らく君の期待に背いて、ほんとうに済ま なかった。是からその取返しをするから、何分宜しく頼みます よ。」 「えゝ出来るだけは尽します。1僕は既に星野さんとは、発 疹チブス、スピロヘータで戦端を開いて居りますから、その上 貴方の助手として、悲虫病源体の研究が出来れば、本懐を遂げ るような気が致します。」  宮田は奮然として云った。 「その話は星野の口から聞きました。君も実に勇猛ですね。こ の上ともどうか益ぐ|旺《さかん》にやって下さい。」 「えゝ。やりましょう。御一緒にどこまでも奮闘しましょう。」  二人は強く手を握り合せた。■  こうしてその日から野村は、更に熱心を加えて研究しつゝ あった。        一三七  野村たちの研究室には、暑熱もなく、日夜もない程であっ た。けれども勉強の|偶《たま》の合間や、朝夕の閑を縫うての暫しの散 歩や、快く疲れた後の夜の休息や、それらの研究室を出た時 の、彼の心が慈虫病を暫らく離れた折なぞは、さすがに東京へ 残して来た遠き人々が、頻りに思い出された。最上川べりには |月草《つぎくさ》が多かった。その可憐なる瑠璃色の花を傾けて、朝毎に露 は|滋《しげ》かった。露のある間は悲虫は出ない。野村は朝々その露を 踏んで、徳爺の家から程近い研究室に赴く時、川面を這う朝霧 のように、懐郷的な心が湿おうて来るのを感じた。  北国とは云え、研究室の外の、昼はさすがに暑かった。彼は しばし顕微鏡を月から離して、窓から南に湧く雲の峰を望んで いると、ふとその遠き空の下に、遠き瞳が同じく空を仰いでい るようにさぇ思われた。  日は|月山《がっさん》の彼方に落ちて、杜々は青い霧を吐き、闇が川筋を 残して軍め渡って来る時、農家から立昇る貧しい姻と、ほの赤 い燈火のちらつくのを見ては、自ら人恋しき涙のひそかに浮ぶ 事もあった。  夜は夜とて静かに燃える|洋燈《ヲンプ》の下、心を引込めて暗くするの にさえ、そ讐ろに電燈のなかった少年時代の夢を思い起して は、引いて今の境遇に思い至り、近き未来に及ぶのが常であっ た。傍に寝ている宮田は、横になると直ぐに、事もなく寝入っ て了った。野村はその健全な、屈託のない寝息を羨ましく聞い て、つぎくに天井に現わるゝ美しい又悲しい幻を見凝めた。  彼は自分で自分の思う遠き人が、誰であるかを知っていた。 が、自分で自分に知らぬふりをしていた。浮ぶと、打消そうと した。それは幾ら思うたとて、思うだけ|徒労《むだ》に終ると彼には考 えられた。 「僕がこの研究に成功したら、或は……」とふと思う事もあ る。けれどもその後から彼は直ぐ頭を|挿《ふ》ってその考えを打消し た。そうしてそんた事を考えていては、辿も研究に成功する筈 はないと、自ら|警《いまし》め諌めるのであった。  而してそう自戒した後では、一層研究に身が入った。  記咲も忠実に働いてい乍ら、同じく遠い人を思う心に捉えら れた。野村も時々彼女が、戸口の柱に兜れて、南の空を見ると もなく眺めつゝ、|呆《ぼん》やり物思いに沈んでいる様子を見かけた。, 彼はいじらしいような、気の毒のような、可愛いゝような気が して、思わず|背後《うしろ》から肩を叩き乍ら、静かに言葉をかけた。 「紀咲さん。淋しいかい。」  お咲は振り向いて、淋しい笑顔を見せた。 「いゝえ。」彼女は口の中で云った。 「黒川のことを思い出して居るのだね。」と野村は少し|弄戯《からかい》気 味に言った。 「あら、そんな事存じませんわ。」 「黒川から又何か|音信《たより》が無かったかい。」 「昨日旦那様の処へ、手紙が参った許りではございませんか。」 「まさかそれは忘れやしないが、君の方へ、特別に手紙でも来 ているだろうと思って。」  お咲は淋しさを紛らすための、弄戯とは知らずに、真顔に なって抗弁した。 「あら、そんな事決してありませんわ。あの方は、そんな事な さる方じゃありませんもの。」 「そんな事をする方じゃないか。成程、お咲さんは僕よりも深 く黒川を信じているね。信ぜられている黒川は幸福だ。信じて ■いる騎咲さんは猶幸福だ。1そう云う風に信じも信ぜられも しない人は不幸だねえ。」  こう云って野村は、つと奥の方へ行つて了つた。彼は一種の 感に堪えなかったのかも知れない。  併し、その中に、野村の心を幾らか慰めるものが着いた。そ れは野村の出立後に、鎌倉へ避暑に行っている淑子の手紙だっ た。  それが着いた時は、|脚夫《きやくふ》から受取りに出たお咲が、恐らく野 村よりも喜んだ。野村自身は幾分か、むだな|思《  》いの種子を蒔か れたような気がして、取る手㌔遅しと封を切るような事はな かった。が、直ぐ開けて見ずにも居られなかった。        一三八 「野村さま。  貴方が研究地に向けて、御出発なすってから、もう一と月 近くなります。思えば随分長い間、御無沙汰を申しました。 私も始終何かしら御|音信《たより》を申し上げなければ悪いと思い乍 ら、つい心に落着きを得ませんので、今迄のびノ\になって 了ったのでございます。  が、今度兄と]緒に、鎌倉の別荘の方へ参りましたので、 こう云う時こそ手紙を差上げなければ、上げる時がないと考 えまして、海風の吹き入る窓の下、仮りの小机を拭い清め て、こんな事を書き連ねます。どうぞ研究からお帰りになつ て、欝暇の折には御読み下さいませ。御忙しい時には、いく らお棄て置きなすっても、騎恨みは申し上げません。た間、 |妾《わたし》は、いくらかでも、遠い土地に騎いでになる貴方の、お慰 めにでもなれば、満足この上ないのでございます。  一体貴方が遠い処で、御不自由を忍び乍ら、御研究遊ばし ておいでになるのに、私たちが鎌倉なぞヘ参って、|涼風《すけかぜ》を楽 楽と我物にして居りましては、何となく相済まぬ心地が致さ れますが、|他入《ひと》に関わぬ兄がたっての勧めで、妾も此方へ 参ったのでございます。ですから何となく、美しい避暑地に 居りましても、心が|空虚《うつろ》な淋しい気が致してなりません。  鎌倉は、貴方がたに取りまして忘れられぬ処でございま しょう。,こんな事を申し上げては、却ってお心をお|傷《いた》ませ申 すかも知れませんが、妾さえあのお美しい清い秀子さまの事 が、沁々思い出されてたりません。あの頃、あの方のおいで になった|長谷《はぜ》の|清《きよ》げな御別荘は、あの儘の姿で立って居りま す。昨日も兄と散歩の序に、あの貝殻を敷いた小路を踏ん で、よそ乍ら垣間見て来ました。が、家はその儘でも、住ん で居る人は違います。私たちの思うお方は、この頃の夜々の 降るような星月夜に、あの美しい星の一つになって、天上に おいでなさるのですもの。それを思いますと、地上に|汚《けが》れて 永らえて居る、私どもの醜さが恥かしくなります。  只今の鎌倉は、そう云う他の人々で、一ぱいになって居り ■ます。その人々は何の苦しみもなく無邪気に海に入ったり、 海岸をそfろ歩きしたりして居ります。罪の多い妾に比べま してはそう云う人々も羨ましゅう存じます。  妾も午後になりますと、兄と一緒に海の方ヘ出掛けますη そうして楽しげに泳いで居る人々を、休み茶屋の床几から見 て帰ります。蒼い浪が白く砕けるあたりに、男の人たちの紺 の水着姿に交って、少し自粉を濃目に付けた少女たちが、赤 や緑の海水帽を付けて、無邪気に跳ねたり飛んだりして居る めを見ますと、妾さぇも水の中に入って、小坪の岬から|蜘《うね》っ て来る、.大浪に打たれて見たいと思います。それに美しい水 着をつけた、子供たちの可愛さは一としおでございます。  が、何よりも美しいものは、海浜前の海へ、西洋人が入る 時でございます。夕方、傾く日が波頭を少しく染めて、海の 色も一帯に蒼く|和《なご》む頃、その辺へ行って見ますと、水中に浮 べた大筏の上に、何処で|購《もと》めたかと思われる位に美しい、鮮 かな緑や薄紅の水着を着た婦人たちまでが泳ぎついて、静か に浪に揺られて居ります。岸には自い髪の毛の老婦人が、深 く砂の上の椅子に兜れて、自分たちの若い日を|偲《 も》うような眼 で、じっとその様子を見て居りますー  何だか今日は取りとめのない事を、だらノ\と書いて居り ます|中《うち》に、もう紙数も大分多くなりましたから、一と先ずこ れで失礼致します。  どうぞ御身をお大切に。お咲さまに宜しゅうお伝え下さい ませ。                鎌倉にて、淑子より」       一三九 鎌倉よりの第二信。1 「二三日来の暑さで、鎌倉の避暑客は、多い上に多くなりま した。今では随分賑やかでございます。私たちの生活も、東 京に居ります時と殆んど変りが無い位でございます。  殊に此方へ参ってから、いろくな新しい|知己《しりあい》を得まし て、退屈な避暑地の生活もそう|徒然《つれづれ》を感ずる事はございませ ん。その人たちは多くは兄の友人で、面白い方許りでござい ます。中にも、鎌倉に住んで居られる若い小説家の吉川さん や、若い法学士の須田さんたぞは、毎日のように兄と|往来《ゆきき》し て居られますので、自然私にも親しくして下さいます。  小説家の吉川さんは、私共の家に割りに近い大町端れのあ る別荘を借りて住んで居られます。随分有名な癖に、まだほ んとに若い人で、若い西洋人形のように美しい奥さんと一緒 に、幸福な平和な家庭生活を送って居られます。私は勿論、 奥さまとも御知合になつて頂きました。ほんとにおとなしい おっとりしたお方で、吉川さんの鋭い、はじ廿るような御性 質と、それはよく琴琶相和するように察せられます。  吉川さんの頭のいゝ事は、兄も|夙《つと》に感服して居るところ で、いわば兄の鎌倉に於ける、無二の話相手でございます。 |而《そ》して又無二の泳ぎ相手でございます。兄は御存じの通り、 |鳥渡《ちよつと》した気取り屋でございますから、海へ入る事なぞからは 超然として居りました。が、吉川さんが無邪気にお勧めにな るので、とうく入る気になったのでございます。兄と吉川 さんと、前に申した須田さんとは、この海水浴場で泳ぎ廻る 子供の中の、最も茶目な大供だろうと云う評判でございま す。  皆さんの海へ入るのは、唯見て居るだけで、寧ろ羨ましゅ うございますが、いろノ\なお話を伺う時は、私も楽しゅうご ざいます。殊に吉川さんのお話なぞは、有名なお話上手だそ うでございますから、ほんとに面白うございます。兄たちと 話をしている時には、余りに御博学で、何の事やら解らぬ事 もございますし、随分激しい御冗談も仰しゃいますが、私ど もにお話して下さいます時は、それは優しく気をつけて下さ います。昨夜も散歩の帰りにお寄りしたら、私たちに又一つ 美しい話を聞かせて下さいました。いろく伺った話の中で も、一番美しい清い騎話ですから、私の廻らぬ筆の先なが ら、これから二三信に亙りまして、聞いたまゝを書いて差上 げようと存じます。いくらか研究中のお心を、お慰め出来れ ば幸せに存じます。  お話と申しますのは、|瑞典《スエ デン》の女作家のゼルマ・ラーゲリョ フと云う人の『|基督《キリスト》の伝説』と云う本の中にある、『聖なる 焔』と云うのだそうでございます。御存じかも知れません が、右のラーゲリョフと云う人は、有名なノーベル賞金の受 賞者で、吉川さんの言に従いますと、『ほんとπ偉い、隅に 置けない婆さん』だそうでございます。  そのお話を聞いていて、私はほんとうに感激しました。今 私の筆では、或いはその心持の万分の一も出せぬかも知れま せんし、た間聞いただ打で書くのですから、聞き違えは申す 迄もなく、吉川さんが御都合のいゝように、お作りになつた 点もあるだろうと存じます。すべて話上手の人と云うもの は、幾らか御自分に都合がいゝように、お作りがえになるも のだそうでございまずから。  では丁度|区劃《くぎり》がいゝように、この次からそのお話を|梗概《あらまし》だ け申し上げると致しましょう。」       一四〇 鎌倉よりの第三信。 「聖なる烙」の話の一l 「昔、|伊太利《イタリ 》フロレンスの市に、ラニエロと云う|大力者《だいワぎしや》が居 ました。何でも街の或る家が倒れかゝった時、軒を一人で支 えていて、救援の人の来るめを待ち得たと云うほど大力が あったのだそうです。当人は勿論自分の大力が自慢で、何ぞ と云うと粗暴な振舞をする事も多くありました。ところがこ の男が或る時、同じ市のフランチェスカと云う美しい女の人 を、愛するようになりました。.|而《そ》してフランチエスカの方で も、このラニニ戸を愛して居ります。  そこでラニエロは、フランチェスカの父に、二人の結婚を 申し出しました。が、娘の父は、|兼《かねぐ》々男の暴行を知って居り ますので、娘をやりたくありません。けれどもラニニロの懇 請遂に止み難く、とうく娘が帰り度くなったら、何時でも 自由に帰らすと云う条件の下に、フランチエスカを呉れる事 になりました。  新しい家庭を作った、二人の喜びは云う迄もございませ ん。ラニニロも初めは、嫁の父に対する手前から考えまして も、乱暴な行いはしませんでした。併し月日の経つに連れ て、持ち前の力自慢はそろノ\と頭を橿岬て参りました。|而《そ》 してだんくと暴行が募って来て、やれ|一昨日《 とエい》は何処で喧嘩 を買った、昨日は何処の家の円柱を引き倒した、今目は何処 の大木を根こそぎにしたと云う風に、苦情の絶えた事はない ようになりました。美しいフランチェスカも始めは一生懸命 辛棒して居りました。が、如何に覚悟はしていても、とうと う堪えられたくなりました。|而《そ》して遂に離婚の申出を、ラニ エロに致す事になりました。約束ですから仕方がありませ ん。愛はラニエロの心にあり乍ら、フランチェスカを自由に 実家へ帰らせました。  が、さて一人になって見ると、ラニエロの心は淋しさに堪 えられません。プランチェスカに対する愛情と、自分の暴行 に対する後悔とは、夕立雲のように彼の心に湧き立ちまし た。彼はフランチェスヵの愛を取り戻すためには、どんな事 でもしようと決心しました。そうして今迄の暴行を償い、彼 女を一日も早く、自分の許に帰らせなければならぬと考えま した。  その日から彼は、持前の大力を、いゝ方にばかり使うよう になりました。或いは市を横行する強盗どもを一挙に取りひ しいだり、公会堂の大きな|鐘《ベル》を一人で持って上ったり、細か い事は忘れましたが、その他いろくな善事に尽しました。 けれどもフランチェスカは、まだ帰っては参りません。とう とう彼はフロレンスの市の兵隊になって、大力を戦陣の間に 発揮する事になりました。彼が数々の戦いに、偉大なる勲功 を現わしたのは、申す迄もございません。彼はその時々の戦 いに、数々獲た戦利品の、一番いゝ物を選んで、市の|会堂《チヤパル》の |聖毎《マドンナ》に献じ、それに依って彼女の愛を取り戻そうと念じまし た。金銀を鎮めた槍刀、色彩を尽した|幡旗《はたじるし》、燦欄たる宝玉衣 冠の類は、忽ち|堆《うずたか》く|聖母《マドンナ》の御前に献げられ、ラニエロが殊 勝なる信仰と、偉大なる勲功とは、フロレンスの市々に語り 次ぎ話し伝えられました。けれどもまだフランチェスカは、 彼の許へ帰っては参りません。  その中に丁度十字軍の戦いが起りました。|基督《キリスト》発祥の聖地 ゼルサレムを、異教徒の手から取り戻すこの聖戦は、彼に 取って喜んで迎うべき機会でございました。彼は奮然として 十字軍に身を投じ、信仰の一路まっしぐらに、ヨルダンの流 れをかち渡って、ゼルサレムに攻め入りました。しかして此 処でも彼の大力と勇気とは、驚くべき殊勲を立てました。 ・:…」       一四一. 鎌倉よりの第四信。 「聖なる烙」の話の二。l 「ゼルサレムの攻囲に殊勲を現わして、首尾よく十字軍の 手に聖蹟を収めさせたラニエロは、その大功によって、誰よ りも前に、墨欝の像の前へ、第一の蟻燭を献ずると云う光栄 を担いました。彼の喜びは申す迄もございませんでした。 が、それを知った彼の仲間の人々は、羨ましさも半ば働い て、彼にこう云って|調戯《からか》いました。 『ラニニロ、君は戦場で獲た一番の分捕物を、故郷フロレン スの聖母に献上する慣いだと聞いているが、今度の戦争で獲 た君の最も貴い宝物と云えば、御像の前に献げるあの蟻燭の 火ではないか。あの神聖なる焔を絶やさずに持って帰って、 聖母に献上しなければ、今迄の君の誓いは|空《むだ》になる。どう だ。あの火を持って帰れるか』  それに対してラニエロは、直ぐに凛然と答えま一した。 『勿論。どんな事をしても持って帰る!』 ■そこで彼は基督の御前に、第】の蟻燭の火を献じ終ると、 直ぐにその聖なる焔を別な蝦燭に移し、一束の蝋燭を用意し て、武装の上に僧衣を纏い、邊しい名馬に跨って、陸路数千 里のフロレンスまで、火を絶やさずに旅する帰路につきまし た。  Lばらく行きますと、日の暮に、彼は一群の|追剥《おいはぎ》どもに 出会いました。追剥どもは勿論、彼から有らゆるものを奪お うとしました。之が|平常《ふだん》の彼ならば、忽ち腰にさげた刀を抜 いて、一と思いに追い散らす事も出来ます。併し今は無闇に |抗《あらそ》って、大切な火を消されでもしてはなりません。彼は只お となしく盗人の云う事を聞いて、身につけている鎧や刀、さ ては乗って来た名馬までやって、その代りにはどうか、蝦燭 の火だけは助けて呉れと云いました。さすがの盗人たちも、 その事情を聞いては、それまで奪おうとは申しません・彼は ようやくの事で僧衣と名馬の代りに、盗人の痩馬を貰い、そ の背に風を受けぬよう、|後向《うしろむ》きに跨ったまゝ、吾が子よりも 大切に火を庇って、ひたすら帰路を急ぎました。  途中、彼は又余りに疲れたので、ある一軒の|旅籠屋《はたごや》を見つ け、その|秣小《まぐさ》屋の中に、一夜の|寝《やど》りを乞い求めました。彼は こうして休んでいる間も、万一蟷燭の火が、消えでもしては 大変です。それで彼は眼を瞑る間もなく、それを打守ってい なければなりませんでした。併し連日の疲れは、いくら気を 張って居りましても、ついうとノ\と|睡気《ぬむけ》を催さして参りま す。彼は幾度か我身を戒めて、眠らないように努め乍ら、 つい何時の間にか、ぐっすり寝込んで了いました。ふと|四辺《あたサ》 が明るいので、眼を醒まして見ますと、枕の上の小さな窓か ら、朝日が朗かに射し入って、小鳥の鳴く声が致します。彼 は慌てゝ刎ね起きると、第一に枕許に置いて在った、蟻燭の 火がどうなったかを見ました。するとどうでしょう。其処に は蟻燭の火の影はおろか、蟻燭その物さえ見えません。彼が 寝ている|中《うち》に、誰か父持って行って了ったものと見えます。 池人が持って行って了えば、まさかそう云う因縁のある、大 切な火だとは知りませんから、もう消して了ったに|定《ぎま》ってい ます。彼はすっかり落胆して了いました。僅かな怠慢のため に、取り返しのつかぬ火を失うたのも、まだ自分の信仰が足 りぬため、又去った妻に対する愛の足りぬためだと思うと、 さすがに猛い彼の眼もひとりでに涙に曇って参りました。  彼は全くしおくとして、その|秣小《まぐさ》屋を立出で、もと来 し路へ帰ろうと致しました。すると宿屋の窓口から、大声で 彼を呼ぶ人があります。見ると肥った割に親切な宿屋の主人 です。 『もしノ\坊さん、貴方はお忘れ物が在り斎すよ。蟷燭をお 預りして置きました。昨夜秣小屋へ行って見ますと、貴方は 蟻燭に火を点けたまゝでお眠みになっているので、無用心だ から私が持って参りました。』 『そして火はり・まだ消さずに在りますか。』ラニエロは 蘇ったように息ごんで訊ねました。1」       一四二 鎌倉よりの第五信。 「聖なる焔」の話の三。I 「『火も消さずに置きました。昨日貴方がお着きになった昼 の中から、大切そうにその火を持っておいでなので、何か訳 のある事と思い、そのまゝ消さずに置きました。』  ラニエロはほっと喜びの吐息を洩らしました。そして幾度 か亭主に騎礼を云って、又も旅路に上りました。  暫らく行きますと今度は、一人の貧しい女に出会いまし た。その女は彼の火を見て、どうかその火を|頒《わ》けて呉れるよ うにと嘆願しました。よく事情を聞いて見ますと、良人と子供 が病気で寝ていて、粥を炊く火もないと云うのです。彼は気 の毒に思いました。併し彼の持っている火は、折角ゼルサレ ムから持つて来た神聖な焔です。まだ聖母に献じない|中《うち》に、 |容易《たやす》く人に頒つ訳には行きません。が、如何にもその人が可 哀そうなので、彼は思い切ってその尊い火を分けてやりまし た。而して猶も程遠い旅路を、火を守り乍ら急ぎました。  すると或る野原にさしかゝった時、不意に|旋《つむ》じ風が襲うて 来て、あなやと思う間に、彼の|背後《うしろ》向きに馬上で庇うていた火 を、ばっと奪い去って了いました。彼は慌てゝ余盤を吹ぎ立 てゝ見ましたが、もう消えた火の戻ろう筈はございません。 彼は天地が暗くなったように落胆しました。が、そめ時ふ と、先刻貧しい百姓女に、火を分けてやった事を思い出しま した。そうだ。あの火はまだ燃えているかも知れたい、そう 思うと彼は、再び以前の場所に立帰りました。見ると路傍の小 さな百姓家の、病人の寝ている薄暗い枕許の|炉《ろ》には、貧しい 煤けた粥鍋の下に、神聖なる烙が暖かく燃え立っているでは ありませんか。彼は再び蘇ったように感じて、改めてその炉 火を分けて貰い、先刻の善根が地人の為めではなかったのを 心に思い|沁《し》め乍ら、勇んで|前途《さき》を急ぎました。  又暫らく行きますと、今度は雨が降って参りました。雨は 容赦なく彼の衣を濡らし、神聖たる火に降りかゝって、今に も焔は消えぬ許りです。彼は濡れそぼつ身を以て火を蔽う事 も出来ませんでした。  淋しい山路の事とて、避ける軒端もなければ、立寄る木蔭 もありませんでした。彼は殆んど途方に暮れました。すると 何処から飛んで来たものか、二羽の|鵜《つぐみ》のような小鳥が、神聖 なる火の上に舞い下りて、各ぐ羽と羽とを組合せた儘、火を 蔽うて飛んで行きます。彼はそれを己を護って下さる神様の 思召と感謝して、小鳥に焔を守って貰い乍ら、雨中の山路を 無事に越えました。  併し乍ら、かようにいろくな困難を経た上に、もう一つ 大きな故障が起きて来ました。それは或る山にさしかゝった 時、持って来た蝦燭が|断《き》れて了った事です。是も淋しい山道 のことですから、買うにも求めるにも家はありません。その 中に蟻燭はどんく減って、もう持っている指先も熱い位に なりました。彼は絶体絶命の場合まだしも望みがあると思っ て、その火を傍の枯草に点じました。その枯草の燃えきれぬ 間に、誰か間来て救けて呉れると考えたのです。  するとその途端に、山の下の方から、巡礼の鈴の音が聞え て来ました。彼は急いでその方へ行って、巡礼の老いたるお 婆さんを助けて、山の上まで導いてやりました。|而《そ》してその 礼に一束の蟷燭を貰い受けると、急いで先刻の枯草の場所に 立帰りました。  神聖なる焔はその時、丁度燃え尽きようとして、一と叢の 枯草の根に、いぶり乍ら余儘を保っていました。ラニエロは 急いでそれを吹き起し、辛うじて蟷燭に移し終ると、ほっと 喜びの息を吐いて、又もフロレンスをさして急ぎました。 ……」       一四三 鎌倉よりの第六信。 「聖なる焔」の話の四。ー 「ラニニロは馬上に|後向《ラしるむ》きに乗って、身を以て火を庇い乍 ら、ようやく|伊太利《イタリパ》の領に入りました。その時まで彼は、自 分のこうして火を守つている姿が、誰かの|態度《ようす》に似ていると 思い乍らも、それが誰であるか解りませんでした。が、こう して段々故郷に近づいて、行きずりの|伊太利《イタの 》女に会い、その 中にフランチェスカに似た|悌《 もかげ》を見るにつけ、初めて自分の 火を大切に守育てゝいる姿が、別れ去った妻のフランチエス カの以前自分たちの『愛』を一生懸命守っていたのに同じだ と思い当りました。そう思うと彼は猶も心なつかしく、自ら 道も急がれるのでした。  こうして彼はとうノ\フロレンスの市に入りました。併し 故郷の人たちは、是を凱旋の勇士だとは知りません。痩馬に 後向きに乗った汚い乞食坊主が、何か解らぬ火を大切そうに 持っているのですから、|狂人《きちがい》だと思ったのも無理はありませ んでした。大人はそれを見て嘲り笑い、子供はわいく|椰 楡《からか》った上に、石を投げつけて彼を迫害しました。けれどもラ ニエロは|只管《ひたすら》に、聖母の御堂さして急ぐ許りです。  その|中《うち》に群集の廟罵と郷楡とは、益ぐひどくなって参りま した。中には面白半分に執念深く、彼の神聖なる火を消そう とする者も増えて来ました。|而《そ》して彼が御堂の前まで来た時 は、彼の火は全く風前の|燈火《ともしぴ》となりました。その時不意に一 人の女が、横合から飛び出して来て、彼の火を奪い去って了 いました。彼はもうそれと|抗《あらが》う力もありませんでした。落胆 と疲労とで、彼はその場に失神して了ったのです。  ……ふと気がついて見ますと彼は御堂の中に居りました。 |而《そ》して|傍《かたわら》には、彼の去った妻フランチェスカが、恰も聖母 その物のように、神聖なる火を守って立って居ります。彼女 は何故とも知らぬが、彼の大切に持っている火の危いのを見 て、わざと横合から奪い取って、無事にラニエロに返したの でした。  そこでラニエロは一|伍一什《ぶしじゆう》を話して、改めてその火を聖母 の御前に献げました。而して彼らの幸福を祈ると共に、御堂 に集まった|市人《まちびと》だちの前で、その神聖なる焔の来歴を話すこ とになりました。  ところが平生ラニニロに懲らされ、敗かされている市の悪 者や、彼の功を妬む者どもは、無智な群衆と一緒になって、 彼の話を信用しません。彼らは目々に『嘘だ、|詐欺《かたり》だ。ゼル サレムから蚊まで、火を持って来られる筈はない。誰も見た ものはないから、その証拠があるまい。あるなら見せろ。嘘 つきめ。詐欺師め!』と云うのです。そうして又もや嘲罵や ら、投石やらの迫害が初まろうとしました。 ・その時、御堂の金色の窓から、二羽の|鵜《つぐみ》が飛び入って来ま した。それは群集の頭上を掠め|翔《かけ》ったと思うと、矢庭に聖母 の前の、金の燭台に美しく|揺《ゆ》らめいている、神聖なる焔を ばっと奪い消して、飛び上って了いました。  気を呑まれて見ていた人々は、  『それ見ろ。嘘をついたので、神様が小鳥をお遣わしになっ て、詐欺の火を消してお了いなされた!』と叫びました。  がその叫びの終らぬ中に、又違う驚きの声が、それを圧し 消して了いました。  『見ろ、|奇蹟《ふしぎ》だ。鳥の翼に火がついた!』  見ると二羽の|鵜《つぐみ》は、双翼を一面の火の鳥となって、火の円 -形を描き乍ら、伽藍のドームの中をくるくと飛び廻りまし た。|而《そ》して…二度翔り廻ったと見る間に、聖母の燭台の真上 へ来たと思うと、忽ち一塊の火となって、蟷燭の上ヘ真逆 さまに燃え落ました。するとその途端に、一旦消えた|燈火《ともしび》 は、再びばっと明るく点いて、砥のみ\とした青と金の、聖 母の像を生きるが如く照し出しました。  群集はこの奇蹟に、声を呑まれて反抗する者もありません。 ラニエロが信仰は神の御力によって証明されました。こうし て彼は擁て起った歓呼の中に、再び自分の左の腕に帰って来 た、フランチェスカの美しい姿を見ました。……  野村さま、私の筆は足りませんけれど、何と云う感激に満 ちたお話でしょう。私がわざノ\貴方にこの騎話を、お伝え 申した心持も、きっと解って下さるだろうと存じます。-ー」       一四四 鎌倉よりの第七信。1 「前便には、ラーゲリョフのお話を長々と書き連ねまして、 私どもの近況は、少しも申し上げる余裕がございませんでし た。私どもの近況なぞよりも、あのお話を申し上げる方が、 私のあの時の心持にはふさわしかったのですもの。けれども 今日は、少し又此方の動静をお知らせ致します。,  兄たちは相変らず、到る処で茶目を致して居ります。避暑 地の自由な空気と云うのは、よほどの大人をも、子供に返し て了う・ものと見えます。  二三日前に、東京から母も参りました。母の前では、さす がの兄も、幾らか大人しゅうございます。私も少しは窮屈で ございますけれど、兄の目悪が少しでも封じられたか之思 うと、いゝ気味だと存じますわ。今日も私は兄にそう云って やりました。 『兄さんはこの頃大変御行儀がよくなったわね。』  すると兄はこう云って答えました。 『うむ、俺もお前に冷かされる位の程度には、親孝行になっ て置こうと思ってさ。』  私はもっと云ってやりました。 『つまり形式的の御孝行をなさるのね。』  すると兄も敗ては居りません。 『そうだ。孝行と云うものも旧教のように、先ず形式から初 まるものだからね。』  何でも兄に会っては敵いません。大抵な真面目な事も、お ひゃらかして了うのですからね。けれどもそう冷眼に人を見 ようとして居乍ら、時々は真面目な生地を出すから面白うご ざいます。ほんとに真面目な事なら、ほんとに相談に乗って呉 れそうです。併し他人の運命に関与する事は一番嫌いらしゅ うございますから、現在妹の私の身の上の事さえそう考えて は呉れないかも知れません。私は私の心持を訴えたり、相談 したりする事の出来る人が欲しゅうございます。輝子さんは 幾らかその要求を満たしては呉れましたけれども、今は軽井 沢へ行って居て、茄会いする事も出来ません。輝子さんの事 と申しますれば、貴方に対するあの時の外山さんの疑惑は、 すっかり解けて居るそうでございます。が、お|義兄《にい》さまの関 係からハまだもう少しの間は、貴方に御遠慮して居るのだそ うです。そして蔭乍ら貴方の御成功を祈って居て下さるのだ そうでございます。  この頃家へ亀井忠久さまと申すお方が、よく遊びに来て下 さるようになりました。私も前に一二度加目にかゝつた事の ある、母の遠縁に当る亀井男爵の御嗣子で、お父さまがあの ような実業界の活動家であるだ廿に、その子の忠久さまもな かく敏腕な方らしゅうございます。た間御自分の敏腕を、 幾らか鼻にかけるようなところがございますけれど。  この亀井さまは、矢張り鎌倉に広大な別荘がおありになっ て御自分はそこへ参る|勇《かたく》母を東京から伴れて来て下すっ  たのです。母には大変お気に入りで、又亀井さんの方も、母  には親切にいろノ\なお世話をして下さいます。明日も母を 御自分の自動車で、江の島から|鵠沼《くげぬま》の方まで連れて行って下  さる筈でございます。私は別に気も進みませんが、たって母  が勧めますので、■御一緒に遊びに参る事になりました。多分  兄も参るでしょう。   兄は亀井さんに対して、別に好悪を持たぬ様子でございま  す。けれどもそれは、存在を認めないからではないようで  す。私は余り好きではございません。いゝ人だとは思います  けれど、じっと私を横から|覗《うかド》っているような、何だか気味の  悪いところがあるように思われます。   今、私は自分の身の上に何だか不安を感じて居ります。何  となく心が|擾《みだ》されてなりません。こうして手紙を書いて居て  も、落着きがないような気がします。■これからは今迄のよう  に、お|音信《たより》も出来ないかも知れません。けれども私の心もち  だけは、信じて下さる方は信じていて下さいますわね。   昨日頂いたお端書には、御研究も大分齢進みなされたとの  事何よりもお喜び申し上げます。猶茄御勉強御成功の程を祈  り上げます。お咲さんにも宜しく。 かしこ。                鎌倉にて、淑子より   野村辰雄さま御許に。」        一四五  野村に宛た最近の手紙に書いた通り、|淑子《よしこ》は実際自分の身の 上に、或る事が起ろうとして居る不安を感じた。或る時、それ は婚期に在る女性が、常に身辺に囲緯するのを感ずる、或る求 婚者の見えざる手である。  淑子は母を迎いに停車場へ出た時、母の|背後《うしる》から微笑みかけ 乍ら、思いもかけず一人の美しい紳士が下りて来たのを見て、 直覚的に或る危倶をすら感じた。この美男な貴族紳士が、自分 の運命を左右するように、強い力で働いて来るようた、又やむ を得ぬ牽引力で、抑えられるような不安を感じた。彼女はこの 男を警戒すると共に、自分をも警戒しなければならぬと思つ た。今、自分は或る人の事を思うて居る。が、その思いは何と なく|空《あだ》に終りそうでならない。だからその隙に乗じて、あらぬ 誘惑が自分に起らぬものでもない。況んや今自分の眼前に現わ れた男は、決して自分が嫌いな|型《タィプ》の人でなかった:…。  淑子はその漠然たる不安のために、出来るだけ亀井に近づく まいとした。なるたけ彼を避けようとした。彼が遊びに来る度 に、誰にも気づかれぬように、亀井にも失礼に当らぬようにし て、.そっと座を外ずそうと努めた。けれども母は、機会のある 毎に二人を近づけようとした。淑子が居なくたると、呼んで来 て話の相手をさせた。亀井自身は、殊に淑子に近づきたい様子 を見せた。-何かにつけて、彼は淑子に話しかけた。が、彼女は 下を向いて、■そう多くを答えまいとしていた。  淑子が控え目にすればする程、亀井の方は積極的に進み出な ければならなかった。彼は淑子の董らいを単たる乙女の差らい だと思った一彼女の控え目を、単に人格から来る、|淑《しとやか》さのみ だと思った。それは確かに人格から来たには相違なかった。け れども淑子の小さい胸に小さい焔が燃えていて、その火をそっ と守立てるために、じっと静かにしているのだとは誰が知ろ う。  亀井は淑子を見た瞬間から、その外形の美しさに心を牽かれ た。しかも今はそのしとやかな人格の美しさを見るに及んで、 彼の恋心は抑うるに由も無かった。  彼は代表的な貴族の若殿の常として、もう、あらゆる種類の 女を知っていた。が、これほど清洌な美は、今迄のどの女にも 見られなかった。彼は今迄、誰とも結婚しようなぞと思った事 はなかった。出来るだけ長く独身でいて、自由な独身時代を出 来るだけ長く享楽しなければならぬと考えていた。が、淑子を 見た瞬間から、彼の考えは不意に変った。彼は急に結婚したい と思った。淑子の如き美に対しては、不真面目な恋愛関係なぞ は考えられなかった。彼は直ちに彼女との婚約を想像した。 ・亀井は機を見て、結婚を申し込㌔うと思った。が、その前 に、彼は幾らかでも淑子と親しみを作って置き、幾らかでも自 分に対する意思を明かにして置かねばならぬと思った。的の大 きさも分らぬ中に、いきなり遠矢を放つほど、不聡明な彼では なかった。  亀井は淑子忙近づくために、あらゆる方法を講じた。彼は如 何なる手段を以てしても、彼女は得なければならぬと思った。 淑子の母の意饗は確むる迄もなく彼に解っていた、が、本人の 意樹は、果して母の意思を以て|在《ま》げる事が出来ようか。彼の見 るところによっても、淑子は灘となしいが、どこかきかぬ|気《  し》の ところがあった。いゝ加減に求婚でもしたら、刎ねつけ兼ねぬ ところが在った。  兎にも角にも、親しくなって置いて、彼女の心を自分の方へ 動かさねばならない。彼女は子供で、まだ僕を怖がっているの だ。いまに、その中には、自分を恋するようになるに違いな い。1この考えを以て、淑子と幾らかでも親しむ機会を作る ため、亀井は森戸家の人々を、今日の江の島行きに誘ったので ある。.        一四六  約束の時刻になると、亀井捻自動車で迎いに来た。母は朝の |中《うち》から、淑子が余り進まないに係わらず、化粧や衣裳に念を入 れさせるように、うるさい迄世話を焼いた。淑子は母の心尽し に酬いる為めにのみ、|毎《いつ》もより麗しい化粧を凝らした。が、心 の曇りは自ら、|毎《いつ》ものような|光沢《ひかり》を彼女の眼から消した。併し そのため却ってしっとり濡れたような深みがぼっと自粉を含ん だ頬の色と映って、彼女の顔に美しさの奥行を増した。  彼女が母の|背後《うしろ》から、|淑《しと》やかに自動車上の人となった時、亀 井は真新しいパナマの下から、縁無し眼鏡を透して、この楚々 たる夏姿の令嬢を、まるで新しい美を発見したような喜びで見 守った。兄の森戸子爵さえも、今日は妹が|毎《いつ》もと異った美しさ を持っているように感じた。母は満足げに淑子を見返って、自 分の傍に坐らせた。形式的な孝行を主張する子爵は、母の前ヘ 向い合って席を占めた。亀井は当然淑子の前へ、畳込んであっ た座席を、カタンと下してそこヘ坐った。淑子は一種の快感と 恐怖とを以て、そのカタンと云う音を聞いた。それと同時に、 白い麻の匂わんばかりに新しい|洋服《ズボン》の膝が、自分の前に二つ並 んで固定したのを見た。そして彼女は見てはならぬ物を見た人 のように、急いで眼を伏せて了った。  自動車は動き出した。淑子は白い|日傘《バラソル》をさしかけた。が、彼 女の眼は、どうしても自分の前にいる男の方へは注がれなかっ た。時々|免首《うなだ》れ勝ちな顔は上げても、強いてあらぬ方角を眺め ていた。  淑子は顔を伏せていても、彼女の|前方《まぇ》にある二つの秀でた眼 が、燃えるように注がれているめを感じた。彼女はそれを恐 れた。が、そこに又一種の盤惑的な快さがあるようにも感じ た。  「どうかなさいましたか。」  ふと彼女の耳許で、柔かさを含んだ男の声がした。.はっと 恵って顔を上げると、余りに自分の顔に近く、美しい若い紳士 の顔があった。蒼み渡るばかりに輝いているその頬には、鮮か な剃り跡が媚びるような色を見せていた。彼女は慌てゝ報く なった。そうして仕方なしに微笑んだ。それに連れて亀井も微 笑んだ心  自動車は既に、長谷の通りに真直ぐに上って、極楽寺の|切通《きりどお》 しを瞬く間に過ぎ、暫し松並木の間を過ぎると、七里ケ浜の緩 い弓なりの湾形に沿うて、ひたすらに一路を|駿《はし》った。左は相模 灘の海が藍青に晴れ亙って、岸に崩るゝ波の雪白を殊更に際立 たせている。|行《に》手を見れば|小動《ごゆるぎ》ケ岩鼻を外れて、伊豆一帯の連 山を映して紫がかった海波の中に、夏霞のヴエlルを薄く被り つゝ、江の島が静かに浮んでいる。富士はそのあたりだけに群 がる雲で、僅かに裾を覗かせているのみだった。  母は声を揚げてその風光を喜んだ。亀井は母へともつかず、 又淑子へともつかず、頻りにいろくと説明した。が、淑子は 風景を見てい乍ら、真に風景を見ていなかった。兄の子爵もど ういうものか、母の前で言葉少だった。淑子は何となく、自 分の味方がないように感じた。彼女はこの自動車が、否応なし に自分を、動きの取れぬ運命の中へ、連れ込んで行くような気 がしてならない。彼女はそれに極力|抗《あらが》い度いのである。けれど も彼女の前にいる美男な魔物の手は、不思議な力で彼女を抑え ていた。彼が今何か彼女に云えば、彼女は是が非でも応じなけ ればならない様な気がする。しかもその|息窒《いきづま》る程の圧迫の中 に、神秘的な異性の牽引力が、ぎゅっと彼女を捉えて了って、 ある快い緊張感をさえ与えるのである。  自動車は休みなく験って、とうく片瀬を過ぎ、江の島へ渡 る桟橋の口許へ着いた。 「さ、下りましょう。」こう云う男の声が或種の魅力を以て、又                        や疹吟 彼女O耳許に響いたかその言葉が何故か彼女の緊張を和げた。 |而《そ》して下り立ってふと|傍《  》を見返った時、じっと見ている亀井の 眼と、彼女はひたと眼を見合わせて了った。彼は微笑んだ、彼 女もそれに連れて、不思議に微笑まされて了った。        一四七  四人は桟橋を渡って行った。  淑子は成るべく亀井を避けているにも係わらず、亀井の方で は殆んど露骨と思われるまで、淑子と近づきたい様子を見せ た。彼はさりげなく母にいろくな説明をし乍ら、意味のある |眼眸《まなざし》を彼女に向けた。その度毎に彼女は、顔を紅めなければな らなかった。そうして顔を染めた態度を紛らすために、無理に も微笑を浮べねばならなかった。  この反応が、この微笑が、亀井の心を強く捉えて了った。彼 はもう淑子が、自分に或る種の好意を持っているものと思い込 んで了った。そう思うと今日の江の島行きは、彼に予定通りの 成功を収めさせた訳である。彼は益ぐ得意な快活な態度で、恰 も美しき新妻を伴うた良人のように、ゆっくりと急な段々を 上って行った。  淑子の毎も楽しげだつた。そうして亀井の話に相槌を打って は、淑子の方をちらりと顧みた。兄の森戸子爵は冷然として、 妹を中心に渦巻いている空気を、|外事《よそごと》のように傍観していた。 彼は妹のために、この事が幸福であるか不幸であるか解らな かった。亀井捻一般の人物の標準から云って、決して性質の悪 い相手ではなかった。素行の収まらぬのは兎も角として、華冑 杜会の人才と云う点から云えば、寧ろ最上位に在ると云っても 差支ない程だった。子爵自身から見て精神生活の劣等なのな ぞは、この場合問題ではない。併し子爵は進んで、妹を亀井に やり度いとは思わなかった。で、やむを得ず傍観しているより 外はなかったのである。子爵は淑子に対する野村の存在も、少 しは、知らぬではなかった。併しそれは単に友人としてだけで あって、それ以上に進んだ、若<は進むべき関係の人として考 えた事は一度もなかった。その場合さえ彼は、ぽんやり傍観し ていたのである。  四人は四人の思いで景色を見乍ら、貝細工店の間をぬけ壼焼 茶屋の呼び声を縫うて、幾上りの頂きに達した。そうして江の 島神社に参詣して、それから|巖窟《いわや》の方へ下ろうとした。  そこの茶屋に休んで、さて巖窟まで行くべきかどうかを、亀 井が母に計った時、突然横から子爵がこう云った。 「昔からの云い伝えによると、巌窟の弁天へ女と一緒に行った 者は、きっと弁天の嫉妬に会って、縁が切れると云うじゃあり ませんか。」  母はそれを聞くと、■亀井と淑子を顧み乍ら、ふと|顔《  》を曇らせ た。 「そんなら、お前たちのためにやめよう。」彼女の表情はまさ にこう語ろうとしていた。  すると亀井は快活に笑って、 「それは今迄縁があった人なら切れるでしょうが、今迄縁も何 も無かった人なら、無いものが切れる筈はないから、反対に縁 がつながるでしょう。」と母を見、微笑んで淑子を顧みた。 「兎に角、行って見ましょうよ。」  母がとうくそう云うので、四人は|巌窟《いわや》まで下りる事になっ た。  稚子ケ淵は暗緑の潮を湛えて、岩を噛む泡を白く飛ばしてい た。危い桟道のような下り口まで来た時、母は鳥渡躊躇した が、思い切って下りかゝった。  その下り路の中程である。子爵は母の後から気をつけ乍ら、 ふと|前《  》方を見やった時、四五問ほど前に、向うから帰って来る 二人づれの女を認めた。一人は茶屋か何かの|女将《おかみ》らしい小肥り のした四五十の女である。そうしてもう一人は! きらびやか な|縞明石《しまあかし》か何かの上に、するりと紫紺の夏羽織を滑らして、紛 う方もない芸者と見えるもう一人は!  森戸子爵は思わず立伶って、それから妹の挟をそっと引い た。淑子は何の相図か解せたかったが、兄の眼顔に指さされ て、同じく向うから来る人を見て驚いた。が、二人は母の手前 急いでその驚きを押しかくした。 併し、同じくそれと認めて、この二人にも劣らずはっと思っ たのは亀井だった。そうして彼もその吃驚を、誰かの手前押し 匿さねばならなかった。        一四八  巌窟に下る桟道は狭かった。この二群の間隔は刻々に縮まっ た。  向うの爵駒もそれと認めて、さすがにはっとしたらしかった が、美しい血を滑かな頬に鳥渡上せたのも束の問、彼女はも う玄人めいた冷静に返って、|毎《いつ》もより蒼ざめるばかりに艶な顔 を澄ました。が、如何なる事に出会おうとて、掻き乱されない と自信する彼女の心臓も、子爵を見た時だけは、さすがに慌て 出さ間るを得なかった。  此方では、先頭に立っている亀井が、心中では一番見苦しい 弱味を持っていた。彼は三四日前まで、執念深くお駒の駒奴を 追跡した|遊児《ダンデイ》の一人だった。が今日は、自分の求婚すべき大切 な人を伴れている。その人の母には恐らく、自分が芸者に知己 なぞを持っているのが知れたら、直ぐにも信任を失うであろ う、その本人とても愛を失うであろう。しかもこの駒奴なる芸 者は、一種の気骨を売物にしているから、自分があんなに熱心 らしく云い寄って置き乍ら、今、平気で美人を携えているのな ぞを見ては、反感を起してわざと何か云わぬとも限らない。飛 んだ処で困った奴に、出会っ九ものだと思った。が、どうにも しようがなかった。それでもう全く知らぬふりをして、出来る だけ避ける外はないと観念した。  両方はだんノ\近よつて、お駒は亀井と擦れ違った。彼女は 勿論芸者の道徳として、こう云う場合齢客の迷惑になる折に は、全く知らぬ顔をするのが常であるから、黙って過ごそうと 思っていた。殊にその伴れと云うのは森戸一家の人々である。 彼女は亀井に導かれて来る森戸母堂には、.小間使に上ってい た頃よく可愛がられた。恐らくは今の境遇の相違は、母堂も彼 女とは気が付かぬであろう。しかも森戸子爵とはあんな関係に なっている。iお駒はどっちから考えても、黙って知らぬふ りをするのが自他の為めだと思った。  お駒は亀井と母堂とを、黙ってやり過ごした。亀井は難欄を 切りぬけて、ほっと一息額に|手巾《ハンカチ》を当てた。  それから、お駒は奇遇にいたく驚いているらしい淑子だけ K眼顔で知らぬふりをしたのだと知らせるような、誰にも知 れぬ小さな会釈をした。そして最後に森戸子爵と一瞬間ひたと 眼を合せた。責めるような男の眼と、許しを乞う女の眼とが、 大宇宙が声を潜めるばかりの緊張の中に、無言の火花を散らし 合うた。それから又冷然と別れ合うた。  併し、お駒は≡二間行った時に、ふと亀井が、淑子と結婚し ようとしているのではあるまいかと察した。.今まで森戸子爵の 方のみに気を奪われて、さすがのお駒も大局の事情を観察する 余裕が無かったのである。|而《そ》して若し淑子が亀井に奪わるゝと すれば、…:・お駒は表面上諦めようとしてい乍ら、実はひどく 落胆する入のあるのを知っている。昨日まで自分を追うていた 青二才が、ロを拭うて純潔な高貴の令嬢に求婚するのなぞは、 彼女に取って槍何でもない。併し、今遠い処に淋しく勉強して いる或る入が、淑子を奪われたと聞小た時の落胆を思うと、お 駒はいじらしい思いに心を満たされた。もしそうであれば自分 のためなぞよりも、或る人のために黙っているべき時ではな い。お駒は奮然として|背後《うしろ》を向いた。■ 「零|女将《かみ》さん。鳥渡待っていて下さいな。私、あの方々に御挨 拶をして参りますから。」  こう云って彼女は、もう急ぎ足に森戸家の一行を追つた。彼 女は直ぐ追いついた。そうして|背後《うしろ》から丁寧に、 「皆さま、どうぞ暫らくお待ち下さいまし。しと呼びかけた。  一行は何事が起ったのかと思って振返った。子爵はお駒が何 を云い出すのかと、鳥渡危んでいる様子だった。亀井は明かに |狼狽《うろた》えた。■無事に切りぬけたと思った関のぬけ道で、更に捕手 に合ったような思いである。  お駒は|四辺《あたり》には眼もくれず、つかくと真直ぐに森戸母堂の 前へ進んだ。        一四九  お駒は森戸老夫人の前に丁寧に頭を下げて、それから慎み深 く云った。 「奥様、誠にお見外れ申して済みませぬが、もしや奥様は、森 戸さまの大奥様でいらっしゃいませんでしょうか。」  母堂は不思議そうにお駒の様子を見て、 「私は森戸でございますが、貴方はP」と尋ね返した。 「ずっと以前に、お|邸《やしぎ》へ上っていたお駒でございますη奥様に は大変目をかけて頂き乍ら、そのお礼も申し上げずに、お邸を 逃げ出した恩知らずのお駒でございます。」  母堂は少からず驚いた。 「まあ、あの時のお駒かい、ほんとうにそう云えば、変ったけ れど見覚えがあるようだ。それにしてもよく無事でいたねえ。 もとから可愛らしい娘だったが、大きく立派になって。」  と母堂は懐かしげに云い乍ら、じっとお駒を見上げ見下し て、一目にその身分を見て取ると、凡ゆる貴婦人の常として、 一種の侮蔑と敵撫心とを以て、ふと皮肉に云い続けた。 「大層美しくおなりだが、今はどこにおいでだい。」  お駒は心中高ぶってい乍らも涙ぐんだ。 「はい。只今はいろくな事情から、新橋に|芸妓《げいしや》をして居りま して、こう云う処でお目にかゝっても、お呼びかけ申す事も揮 らたければならぬ身分ではございますが、余りのお懐かしさ に、一言でも御挨拶申し度いと思いまして、失礼とは知り乍ら お呼びとめ申したのでございます。こう云う姿では居りまして も、心はもとの騎駒でございます一」-  こう云って彼女は、子爵の方をじっと見た。そうして一二歩 そっちへ寄り乍ら、 「若様、胎久しぶりでございます。あの|節《   》の失礼はどうぞ御許 し下さいまし。」と二様も三様もの意味で曖昧に云った。  子爵は、「うむ。」とばかり、撫然と答えていた。そうして心 の中では相変らず芝居気の多い奴だと思って、何か二三言手痛 い事を云ってやりたかったが、何しろ場合が急なので、さしあ たって皮肉も出なかった。  お駒は更に淑子に対した。 「お嬢様も御機嫌よろしゅうございまして、何よりもお目出度 う存じます。」  淑子はさすがに感情を隠し得なかった。 「お駒さんも御無事で、私も何より嬉しゅうございますわ。貴 方の御話はあの|方《   》から伺って、私たちも、蔭乍ら泣いてお礼を 申して居りました。」淑子の声は低かった。 「では淑子様。」とお駒はつと近寄り乍ら、淑子にだけ聞える ように声を落して、「あの方の事をお忘れではございませんの ね。」 「えゝ。」淑子の声は低いが力に満ちていた。そこでお駒はわ ざと声を高めて、聞えよがしに云った。 「淑子様、お駒が一生のお願いでございますが、お嫁にお行き 遊ばすのでしたら、よく人をお選びなさいまし。うわべだけ美 しい、色の生白い男などは、いくら躰金が沢山あっても駄目で ございますよ。そんな男はよく私共の跡なぞを、執念深く付け まわすものですからね。ほんとによく気をお付け遊ばせ。」こ う云ってお駒は、向うに海の方を眺めて、そしらぬ顔をしてい る亀井を尻目に見た。そうしてもう一度母堂に向った。 「ねえ奥様、私はお邸に上って居ります時から、お嬢様がお可 愛らしくて、|御幸福《おしあわせ》を願わぬ日はなかったのでございますよ。 ほんとに御嬢様の御幸福のために、お婿様をお選びの節は、呉 呉も御気を付け遊ばすよう、お駒は心からお願い致します。」 「有難う、心配齢しでない。」  母堂はもう相手にしたくない様子を見せた。  お駒は淑子の意志が解った以上、そう追究するには当らな かった。そこで、 「ではこれで失礼致します。どうぞ皆様も|御壮健《おたつしや》で。森戸様、 淑子様御機嫌よろしゅう。」と頭を下げた。  子爵と淑子とは無言で礼を交Lた。  お駒は急ぎ足に別れ去った。その|後姿《うしろすがた》をそっと眺めて、亀 井は虎の|顧《あぎと》を逃れるようにほっとした。 の方へ下りて行った。        一五〇 四人は足を改めて|巌窟《いわや》  四人は巖窟口に架けてあゑ小さい桟橋まで着いた。亀井は 立仔った母堂を顧みて、顔色を伺うように云った。 「どうなさいます。入って御覧なさいますかご 「そうねえ。」と母堂は思案しているらしかったが、ふと|淑《も 》子 を顧みて、 「淑子、おまえはどうおしだえ。」ときいた。淑子は直ぐ、 「私? 私何だか怖いわ、入らないで舷に待っていますわ。」 と答えた。 「そうかい。じゃ私がお前の分までお|参詣《まいり》して来て上げるか ら、それまで待っていて,お呉れ。1それじゃ|公彦《きみひこ》。おまえ私 を案内して、巌窟の中へ連れて行ってお呉れでないかね。」と 森戸子爵の方を向いた。 「えゝ、私もまだ一度も中へ入った事がありませんし、齢母さ まと御一緒でゝもなければ、こんな穴へ入る事もないでしょう から、御案内致しましょう。」と子爵は直ぐ応じたp  すると、|傍《かたわら》にいた亀井は、 「私でよければ、私も御案内申し度うございますが。」と母堂 の思惑を勘違えて、自分が排斥された如く、おどくと目をさ し挾んだ。 「いえ、もう貴方は何度も入って見たのでしょう。御無理に案 内して頂いては恐縮ですから、舷で待っていて下さいまし。そ の代り淑子のお|博《も》りをしていて下きい。ね。」  と母堂の眼は、或る計画の意味を語っているように見えた。 そうして口許に浮べた微笑は、「その方が貴方も望むとこ戸で しょう。」と云うような、|椰楡《からかい》も交えた好意を示していた。  亀井は思わずぽっと|赤《  》くなって、 「そうですか。ではそう致します。」.と一言、感謝を|凝《こ》めて母堂 の|底附《いいつけ》に従った。  淑子はそれを|禁《と》める訳にも行かず、大変な事になったと、心 の中では勘からず慌て出し乍ら、どうする事も出来なかったj 「じゃ鳥渡お参詣して来ますからね。」と母は子爵を促して行 きかゝった。淑子は兄に救援の|眼眸《まなざし》を投げたが、子爵は只、 「女に取ってはこんな危機が幾つもあるものだ、お前も少しは そう云う経験を嘗て見るがよい。」と云わぬ許りに冷然として いる。そうして二人は入口の番屋で蟷燭を買い、案内に連れて さっさと|巖窟《いわや》の中へ入って了った。  残った二人は黙っていた。桟橋の下では、暗緑の潮が相変ら ず巖に当って、白い泡を噛んでいる。巖の上には船虫が|箕《みの》を|翻 れた麦粒のように、群をなして跳ね飛んでいる。淑子の裾に も、その二つ三つが飛び付いた。が、何事かに強く抑えられて いる淑子は、それを払う余裕すら無かった。彼女は只じっと、 鳥渡《こぼちよつと》の身動きもせずに、嵐の疾く来り去るのを待っている如く. であった。  亀井は余りに都合よく、余りに思いがけないこの好機を、ど うして利用すべきかと、初めは|荘乎《ぽんやり》していた。が、母堂の意饗 が明かに二入を結びつけようとしているのが解っている上、 先刻のお駒のような障害物が、いつ何時現われぬとも限らない 以上、事は迅速に運ばなければならんと、後から直ぐに決心を 固めた。射駒の冒険的な阻止は、亀井に取っては只、事を進捗 するための動機を与えたに過ぎなかったのである。  併し彼はどうして切り出そうかと思い惑うた。今迄の彼の女 に対する経験は、この新しい処女の前に立っては、何らの効果 ある暗示を与えそうにもなかった。如何なる女性に対しても、 成功すると云う彼の手腕上の確信も、舷ではどうやらぐらつ《    》|き かけていた。  仕方がないから彼は、ごく当り前の、初心らしい態度に出る 外はなかった。  彼は八月の海上を|真向《まつこう》に照らす、太陽のぎらノ\した反射を 避けるために、パナマを少し斜に被り直して、ちらと淑子の方 を覗い見乍ら、 「また暑くなりましたね。|先刻《さつぎ》ま.では少し風が在って|宜《ょ》うござ いましたが。」と云った。そうして彼は吾乍ら拙い事を云った と感じて、顔を緒くし乍らも反応を待った。 「さようでございますね。」と、淑子の声は低かった。        一五一  亀井は淑子の答えを得て、少しく勇を鼓した。けれども話頭 はどうしても、平凡以下の問題を離れ得なかった。 「貴方は此処へいらしたのは初めて父すか。」 「いゝえ、前に一度参りました。」  淑子も子供でない以上、礼を失しない程度で、簡単に答えざ るを得なかった。しかし齪蟹るような沈黙の中に居るよりは、 却りて応答する方が気が楽なようにも感ぜられた。  戦法に迷うた亀井は、猶もその会話の一線上を辿るのみだっ た。 「いつ頃おいでになったのですか。」  彼は又その会話を甚だ拙いと感じた。 .「学校に居りました時分に、先生と御一緒に参りました。」 「その時は此処の|巌窟《いわや》に入って御覧でしたか。」亀井は恋する 者の常として、又しても迂愚な事のみを訊ねる。 .「いゝえ、気味が悪うございますから、入って見ませんでし た。」 「それならば今日、記母さまと御一緒に入って御覧になればい いのに。この巌窟はこう見えても、■中へ入って見ると、そう恐 ろしくも在りませんよ。何なら、今からでも私が御案内しま しょうか。」 「いゝえ、私、この方が結構なんでございますから。」  亀井は更に話頭をもう一歩進めた。 「私と、此処に待っていた方が、結構だと仰しゃるのですね。」  淑子は黙っていた。|否《いとぇ》とも云えなかったからである。  亀井の頬は血に燃えた。|而《そ》して淑子の、自然と避けるように 窮した|日傘《パラソル》の中を、おずくそっと|覗《うかオ》い見た。淑子は顔を伏せ て、愈ぐやって来た嵐の|先駆《さきぶれ》を、眼を瞑ってやり過ごそうとし ていた。亀井は勿論、それを処女の単なる董恥とのみ解した。 そうしてそのいじらしい可愛らしさに、そっと頬に手を触れた い思いを募らせた。が、彼は感情が高まれば高まる程、それを 表現すべき言葉を口にし得なかった。彼は只そっと淑子の方へ 近寄った。彼は彼女の抑えている呼吸を、聞き得る如くに感じ た。  淑子は身動きもなし得なかった。  二人は或る緊張に捉えられて、嵐の前の沈黙に一二分を経過 した。  ふと亀井は、自分と淑子との間の足許に、一塊の石くれが《さ 》|あ るのを見て、何気なしにそれを蹴った。石はくるくと転週し て、桟橋の板を離れると、急な拠物線を描いて、下の淵に落ち 込んだ。亀井はその行方を見定めるように、一歩進んで淵を覗 いた。それから吾乍ら子供らしい動作に気が付いたものか、急 に淑子を顧みて、顔を緒めつゝ、微笑した。淑子も思わず、そ れに釣られて微笑して了った。  淑子の微笑を見ると、亀井は明かに喜びの色を増した。そ して以前よりもりと近づいて、反対の側から彼女の傍に近寄っ た。もう日を避けるための彼女の|日傘《バラソル》は、同時に亀井の注視を 避ける事が出来なかった。彼女は只管顔を伏せる外はなかっ た。  亀井は今こそと思った。愚図々々していると、|巖窟《いわや》に入った 人々が出て来るかも知れない。彼は焦った。そうして思い切っ て云いかけた。 「淑子さん。こんな処でこんな事を云うのは失礼かも知れませ んが、僕はもう堪え切れなくなったから云います。1僕は貴 方にお目にかゝった時から、貴方の事を思っていました。私は 随分軽挑な男ですけれど、,今度のこの思いだけは真剣な積りで す。だから貴方と何も恋を楽しもうなどと云うような浮ついた 事は申しません。僕は貴方のお母様にお願いをして、貴方と正 式に結婚して頂く積りで居ます。私はもう今日にも貴方のお母 様に申込みする事に決心しました。もしお母様からお話があっ た際に、貴方はそれを御承知下さるでしょうね。僕の牝願いを |空《あだ》にはして下さらないでしょうね。僕は申込みに先だって、貴 方から一言、その御返事が聞き度いのです。どうぞ仰しゃって 下さい。お厭ですか。御承知ですか。まさかお厭ではないで しょうね。」  淑子の待っていた嵐は、晴天の|下《もと》にとうノ、来た。彼女は波 立つ胸を抑えて、|淘《わくく》々し乍ら、その言葉を聞いた。男の言葉は ある感情の重さを以て、彼女の耳を舞々と抑え、彼女の胸を強 い力で圧しつけた。彼女は答え様としたが声が出なかった。|否《バさ》 と明瞭に云えば事は片付くと知り乍ら、それを口に出す勇気が ,無かった。  一秒、二秒、……時は彼女を沈黙に抑えた艦経って行く。亀 井はごう云う場合の男性の美しき強さを以て、じっと彼女を覗 き込んでいる。淑子はそれをちらりと覗き返して、やっと" 「その問題は暫らく待って下さい。」と云おうとした時は、も う遅かった。  巖窟の口から母たちが出て来た。亀井はいち早くそれと認め て淑子の答えの無いのを結局幸なように、又は聞くのを恐れる ように、さっさと迎うべく歩み出していた。        一五二  淑子がとうノ\諾否の返事をなし得ぬ中に、母たちは彼女ら  蓑 に合して了った。そうして一行は直ぐ帰途に就いた。 .■淑子はもう、亀井に自分の意志を表白する機を、永久に失っ て了ったも同様である。しかも亀井は、淑子が返事をなし得ぬ のを、差恥の念からのみと思って、彼女に承諾の意志があるも のと認めるであろう。そうして直ちに、彼女の母に申込をする であろう。そうしたならば。l彼女は事件の進展の先を考え ると、そfろに胸を痛めざるを得なかった。  彼女は|往路《ゆき》よりも更に、|尭首《うなだ》れて言葉無かった。亀井は更に 親切げに、又親しげに、彼女を|励《いたわ》ろうとした。が、彼女は只管 顔を伏せて、はかム\しい返事さぇしなかった。亀井は自分の 先刻の言葉が、この純潔なる処女に、かほどの影響を与えたか と思うと、却ってその可憐さに、一層思いを湧かせるのであっ た。 .自動車は海辺の涼風を|勢《き》って、再び鎌倉まで帰って来た。淑 子はとうく亀井に断る機会を得ずに終った。  亀井は先ず材木座の森戸家の別荘まで、自動車を着けさせ た。そうして直ぐに自分の別荘に帰らずに、何かとまだ無駄話 をしていたが、淑子が早くも自分の|室《へや》の方へ引込むのを見送っ て、 「|鳥渡《ちよつと》奥さん、折入ってお願いがあるんですが。」と云い出し た。  母堂もそれがどんな用向であるか察したように、親としての 厳粛さを鳥渡見せく 「じゃ|彼方《あちら》へ行らっしゃい。お話を伺いましょう。」と奥の自 分の居間の方へ誘い入れた。  母堂と亀井は改めて対座した。亀井は固くなって口を切り初 めた。 「実はお願いと云うのは、お嬢さんを私の妻に頂き度いのです が。ギ」と云いさして、「私のような者では、いろくと御 不足もございましょうが、それは私のお嬢さんに対する愛で補 いますから、どこかへお嫁にやるのでしたら、どうぞ私に下さ い。1改めて|家《うち》の方からも正式に御相談に上らせますが、そ の前に私の心を酌んで、奥さんからどうぞ御内諾だけでも聞か して頂き度いのです。ぎうでしょう。駄目でしょうかご亀井 の言葉は整然としてい乍ら、語尾は勘からず震えた。,,  母堂は思慮深げに聞いていたが、とっくりと間を置いて、 ,「私も|彼女《あれ》を貴方に差上げ度いと思っていたところでした。あ んな何も解らぬ|嬰児《ねんねぇ》で宜しければ、私に取っても|彼女《あれ》に取って も、,この上ない|幸福《しあわせ》だと存じます。猶|彼女《あれ》や兄の意向も聞いて 見なければ解りませんが、|両人《ふたり》ともきっと喜んで承知するだろ うと思います。」 .「私も淑子さんは、まさかに御不承はあるまいと思うんですけ れど。1」  亀井は江の島での交渉をまざくと思い浮べて、半ば疑い乍 らその疑いを消そうと努力するように云い切った。・ 「|彼女《あれ》はほんとに子供ですから、早いとか何とか云うかも知れ ませんが、私がきっと承知させますよ。娘の心なんて云うもの は、謂って見ればまあ白紙なんですから、私の手でどう染め様 と勝手なのです。それに、あの子も貴方に、厭な素振りはちっ とも見せないじゃありませんか。今日の帰りの様子なぞでも、 いじらしい程何か考えて居りましたよ。」  亀井はそれに力を得て、更に訊ねた。 「兄さんは勿論大丈夫でしょうね。」 「それは大丈失ですとも。私が第一進んでいるのですから、貴 方もまあ御安心なすっていらっしゃい。きっと請合いますわ。 貴方に不承知を云う訳なんぞ、決して在りませんよ。」  亀井は一歩退って、 「有難うございます。何分とも宜しくお願い致します。」とお 辞儀をした。 「きっと請合いました。私の言葉は反古には致しませんから、 ほんとに安心していらっしゃい。」母堂は繰返した。  亀井は欣然として帰って行った。 ぞの時淑子は自分の机に免れて、,ぽんやりと黄昏て行く海の 方を眺めていた。        一五三  その夕、淑子は母に奥の間へ呼び込まれた。彼女は母から何 の話があるかよく解って居た。亀井が母と既に話を済ましたの も知って居た。母が兄と相談を了えたのも知って居た。ー要 するに彼女の瀧げに怖れて居た時機が、とうノ\今宥来たので ある。  淑子は何も知らぬ冷静を装うて、静かに入って行った。母は 彼女を見ると|鳥渡《ちよつと》居ずまいを直した。淑子は自然に母の真正面 を避汁て、縁側寄りに座を占めた。彼女は膝を固くきちんと並 べた。彼女は坐るなりに、「お母さま、何の御吊p」と出来る だけ無邪気に云う積りであったが、いざとなって見ると、それ も云い得なかった。  母も話口を捜すように、鳥渡の|間《ま》黙って居た。がやがて直戴 に話を運ぼうと決心したらしく、心持ち膝を進めて淑子の方に 向いた。 「淑子、お前あの亀井さんをどうお思いだえ。」母堂の斥候は 放たれた。  淑子はそれを余りに迎え撃ってはならなかった。又余りに退 いて塁を固うしてもいけなかった。がその中間の曖昧な態度 で、|鉾先《ほこさき》を避ける技巧が彼女に在り得たであろうか。併し彼女 は出来るだけ応戦に努めねばならぬのであった。 「どう思うって、どう云う事なの。」 「いえさ、あの人に対して、どんな心持を茄持ちだと聞くのだ よ-好きかえ嫌いかえ。」  淑子は鳥渡考えたが、「解りませんわ、私。好きと云う程で もないし、嫌いと云う程でもございませんもの。」と答えたρ 「では兎に角、嫌いではないんだね。」  母堂の追究はなかく急だった。 「えゝ。」淑子も仕方なしに追い詰められ初めた。 「では之からでもいゝから、あの方が好きになれそうなものだ ね。好きになってお呉れでないかえ。」 「そんな事、私には解りませんわ。-でも何故私がそんな事 をした方がいゝのでしょう。」淑子は手痛く反撃した積りだっ た。 ・が、母の鉾尖は却って鋭く、愈ぐ本陣に切り込んで来た。 「実は亀井さんが、大変お前を好きなのだよ。そして是非お嫁 に呉れと云うのだよ。私はこの上もない良縁だと思うから、私 だけは取り敢えず承知して置いたのだが、お前だって満更不承 知じゃあるまいね、お前の心持は私にも大概は解っているよ。 年は|二十《はたち》でもお前はまだほんの|嬰児《ねんねぇ》だから、そんな事は考えた 事がなかろうけれど、もう決して早くはないのだからね。それ にいざ望まれるとなると、お前の方でももっといゝ人がありそ うに思われるものだけれど、お前たちの言葉で云うそう理想的 な良人は、決して見つかるものではないのだからね。嫌いでな い程度の人たら、結婚して了うときっと好きになるよ。それは 私が請合いますよ。だからお前ももう今迄のように申込みをむ げに斥けないで、今度は顔も知り合っているのだしハ、」つ承知 してお呉れでないかえ。」」実はお母さまもきっと騎前を上げ ますって、亀井さんに約束して了ったのだからね。どうか私の 言葉を反古にLないでお呉れな。もう私だっ■ていゝ年なのだか ら、お前が一刻も早く片付くのを見て安心したいのだよ。私か らお願いするから、どうか承知して講呉れな。ね、ね。」  母堂は言葉を切って、,さし侑向いている淑子の、束髪の波立 つのをじっと見凝めた。彼女は我子の可憐な挙措を、しばらく 享楽し乍ら返事を待った。淑子は|途断《とぎ》れくに云った。 「だらてお母様、それは|余《あん》まりですわ。|余《あま》り早過ぎますわ。」 「ちっとも早い事はありゃしないよ。器前も決して勿体ぶった り、遠慮したりする事はないのだから、一刻も早く承知したと 云ってお呉れ。1それとも何処か、他に行き度い処でもある とお云いなのかえ。私はそんな事を云うように、育てないつ㌔ りだったけれど。」  淑子の遁路は巧みに塞がれた。 「いゝえ、そんな処はございません廿れど。」彼女はっいそう 云い切って了った。 「そんならいゝじゃないか。」 「でも、私一生の大事ですから、もう少し考えさせて頂きま す。どうぞこの御返事は、もう一二日待ってかち申上げさせて 下さいまし。騎母さま、この上我儘は申しません。どうぞ考え さして下さいまし。」  淑子のこの言葉には母堂も|肯《うけが》わざるを得なかった。 「その方がお前の気も済むだろうから、じゃあ明日まで待って 上ぼます。けれども必ず私の|志《こエろざし》を無にしちゃ恨みますよ。」  淑子は黙って一揖すると母の居間を出た。        一五四  その夜、淑子は兄を散歩に誘い出した。母の意志と自分のと の間に板挾みとなって、思いに悩み果てた彼女は、せめて彼女 の味方になって呉れそうな兄から、助言の一つも得ようと思っ たのである。 「お兄さま、海岸の方へ散歩に連れて行って下さらなくって。」  こう云う淑子の意の在るところな察した子爵は、例め超撚之 した物憂さの言調ながら、直ちに、 「うむ、行こう。」と応じて呉れた。  二人はもう暮れ果てた材木座の海岸へ出た。■月のない霧れた 晩で、空には今、星が無数に生れ出でつゝあった。裾を払う 稽ぐ強めな風に、海は少しく騒ぎ立って、闇の中で波頭を次ぎ 次ぎに|自《しろ》ませた。小坪の方の漁家からは、赤い灯がちらほらと 洩れ映った。  ニ人は砂を踏んで、暫らく|滑川《なめりかわ》の方へ歩んだ。そうして|瑞典《 エ デン》 公使館を外れた処まで来ると、そこに置きすてられた一脚のベ ンチを闇の中に見知って、黙って子爵が腰を下ろした。.淑子も つfいて座を占めた。  淑子は兄が風を避け乍ら、葉巻に火を点け終るのを待って、 静かに云うべき事を云い出した。 「兄さん、貴方私の結婚問題をお母さまから知聞きになっ て?」 「あゝ聞いた。」子爵の答えは静かで、どことなく控目だった。 「そうしてどうお思いになって?」 「お母さまもどう思うって聞くから、至極結構でしょうと答え て置いた。」 「兄さんはほんとうにそうお思いになってP」 「いや、僕はそうひどく結構だとは思わないが、不結構だとも 思っていない。お前さえ嫁ぐ気があれば、僕は不賛成を唱える ところが少しもたいのだ。」 「では私が|嫁《ゆ》き度くなかったらP」 「それでも僕はか雲わないさ。lだがお前は、全く亀井へは ゆく気が無いのかい。」 「兄さん、ほんとに私どうしたらいゝのでしょう。お母さまは もう御承諾なすって了って、私にも是非行けってお迫りになる んですが、望しも私0心を御承知ないんですもの。」 「お母さまはまだお前が子供で、お前の意志がないと思ってお いでなのだ。だが、僕だってまさかにお前が不承知だとは思わ なかったよ。一体どうして亀井が厭なのだい。」 「厭というのではございませんけれど、そう気が進みもしない のよ。だって何だか、こんな事を云うと|蓮葉《はすは》に聞えるかも知れ ませんが、外にもっといゝ人がいるような気がしてならないん ですもの。」淑子の声は闇の中ながら恥かしそうに低まった。  散歩の人が二人の前を、|胡散《うさん》臭そうに覗い乍ら通り過ぎた。 子爵はそれを遣り過ごさして、それから|四辺《あたり》を見廻し乍ら、急 に声を落して突然淑子の急所に触れた。 「淑子、併し蔚前の思っている野村は駄目だよ。駄目だと云う のは人物が駄目だと云うのではない。事情が駄目だと云うの だ。境遇が駄目だと云うのだ。齢前は矢張り古来の習慣で、少 くとも華族か富豪の家へでなければ、縁づかれないように縛ら れている。その|縛《いましめ》を断ち切って、お前の思う処へ行くには、 思い切った冒険が要る。ところで齢前は|順《おとな》しいから、その冒険 的な反抗は出来やしない。よし出来たにしたところが、兄さん は冒険が嫌いだから、それを勧めも出来ないし、それをいゝと 断定する事も出来ない。冒険が必ず成功するとも限らないし、 必ず幸福を齋すとも限らないからね。1淑子。ほんとうにお 前の望んでいる島まで行くには、この荒海を|抜手《ぬきて》で泳ぎ切る蛮 勇が無くちゃ出来ない。それより此方の岸辺で、小さくとも平 和に貝殻を拾ったらどうだ。兄さんはあらゆる世間的な問題 に、余り引込み思案かも知れんが、僕の処世哲学ではそう云う 外はないのだ。」  子爵がふと諭しやめて、傍の淑子を顧みると、彼女は|闇《やみ》にも 自い襟脚をふるわして、忍びく鳴咽を|手巾《ハンカチ》で抑えていた!        一五五  |淑子《よしこ》に取って、兄は予期したような助言者ではなかった。 が、彼女自身の希望通りにするには冒険が要る、しかもその冒 険は、勧められるべき性質のものではない、と云う兄の言葉 は、至極|道理《もつとも》であった。  併し又その裏には、一種の暗示がないでもなかった。兄は淑 子にその冒険が出来ないと思っている。彼女を只|順《おとな》しい弱い女 として、只管運命に屈従するのみだと思っていみらしい。が果 して淑子は、|平常順《へいぜいおとな》しいが故に、運命が邪路に彼女を導こうと した時、それに|抗《さから》う事が出来ぬ弱い女であろうか。  今は星野の妻である澄子も、嘗ては是と同じ危機に立った。 或いはもっと熾烈なる危機だったかも知れぬが、同じく運命の 7《 》|9 誘惑点に立っていた。そうして澄子はその誘わるゝまゝに、或 る種の冒険をさえして、邪路に走って了った。世の中には冒険 を敢てして邪路に走る女もある。今蚊に淑子が冒険を敢てし、 て、正道に赴くのを、誰が果して答むるものぞ!  淑子は兄との散歩から帰って、空しく自分の|室《へや》に立戻り、独 り机の前に坐った時、その思いに満たされていた。 「自分には果して、この運命を切りぬける力がないだろうか、 .冒険をする勇気がないだろうか。」  彼女は幾度か自問したが、周囲の事情や母の心労などを考え ると、|動《やム》もすれば「無い。」と自答せざるを得ぬように傾きか かる。・  淑子はとうく思い余って、庭の方へ下り立った。そうして 暫らく沈思し乍ら歩いていたが、ふと庭木戸が押せば開くのを 見出して、そこから|戸外《そと》へ出て了った。  兄と母とは淑子の動作を、それとは知っていたが、まさかに 何事もあるまいと思って「敢て見答めもしなかった。  淑子は海岸橋の方へ通ずる道を、思いに沈み乍ら歩いて来 た。  道は暗かった。所処の別荘から洩れる明りが、時々彼女の蒼■ ざめた横顔を照らし出した。彼女は只管|免首《うつむ》いて、暗い方へと 辿った。  ふと|顔《  》を上げて見る之、彼女は|滑川《なめりかわ》の橋上に立って居た。橋 下の水は暗く淀んで居たが、川の筋は星月夜の明るみを湛え て、ずっと海の方へ|面《おもて》を展べて居た。時々何処かで小魚の跳る 音がした。時々夜光虫が光るように、潮の加減で小波が光っ た。そうして川口の向うには、海が遠く騒いで居た。  彼女はそこの滑川口の、鐵水と淡水と戦う先に"鎌倉湾の左 右から集まる潮流が、強い|水脈《みお》となって沖ヘ引くのを知ってい た。そうして其処はよく、水死者の選む場所であるのを知って いた。 .蒼い|夜暗《よやみ》と、しんとした空気が彼女の身の廻りに在った。そ れだけで既に彼女の心を感傷的に、悲観的に傾けるには十分 だった。  彼女は慕わしい国を望むように、波頭の灰に白く崩れるその 場所を、引入れられるように見凝めた。 「いっそ、思い切って!」  彼女の澄んだ耳の|辺《ほとり》で、そう岐くものが在つた。彼女はそ の自らの心の声に、樗然として両の挟を握った。■そうして四辺 を見廻した。周囲には人も無かった。それから彼女は恰も最後 の名残を惜むようにじっと地上から天空を見上げた。  その時である。彼女は散らばっている星の間に、くっきり白 い天の川が、北の方へずっと流れているのを見出した。北へ! 彼女はそれを仰ぐと、|頭脳《あたま》の中が涼しく透徹されるように感じ た。天の啓示は一瞬の間に来た。 「そうだ。此処で無益に死なんぞ考えてはならない。そんな冒 険をする位なら、寧ろ生くるベき冒険をしなくてはならない。 兄さんは自分に冒険が出来ない乏仰しゃったが、自分にそれが 出来るかどうか。今に見ておいでになるがいゝ! 自分はどう しても生きて、初一念を貫いてお目にかけるから。私の之から する事は、世間から見れば女にあるまじき事かも知れぬけれ ど、この場で従順に亀井さんの方へ行って、心の操を|狂《ま》げるよ りは、ずっと良心に恥じない事だ。只、取るベき手段の穏かで ない事は、この場合やむを得ない事として、お母さまも兄さん もどうぞ御許し下さい…」  こう決心を定きめ 亜姦 ハ子  は  ㌔ その夜は何気なしに家へ帰った。  かくてその一夜は事もなく明けた。淑子は相変らず定刻の六 時に起きたが、昨夜はよく眠られなかったものか、心もち瞼が うす紅く膨れて、眼も曇り日に透かして見た|玉《ぎよく》のように、うっ とりとした|濡《うる》みが深過ぎた。顔色も|常《いつ》もほど冴えていなかっ た。  彼女は母の前兄の前で、さりげなく、気を引立てく物を 云っていた。そうして或る企てを遂行すべき機を待っていた。  常の如く一と通りの|身化粧《みじまい》を済まし、常の如く朝餐な終る と、彼女は最近に鎌倉で知合になった、中沢と云う姉妹を訪 問して来ると云って、美しい|外出着《よそゆぎ》に着換えた。そうして強い て快活に出て行った。中沢と云うのは或る豪商の一番番頭の娘 で、二人の姿は淑子と共に由比ケ浜の花と噂されていた。そう してその人たちの別荘は、扇ケ|谷《やつ》の端れに在った。淑子は強い て女中のお伴を断って、一人で午前の日光の中へ出て行った。  家の人々は別に怪しみもしなかった。  が、淑子の出掛けて行ったのは午前九時前後であったのに、 彼女は正午近くになっても帰って来なかった。母と兄とは心待 ちに待ったが、ふと|心《 ち》配になり出したので、女中を中沢の別荘 まで迎えにやった。多分は遊び|呆《ほう》けて、向うの勧めるまゝに|午 餐《ひるめし》でも御馳走になっているのだろうと推測し乍ら、猶念のため に使いを出したのである。  けれども女中は空しく帰■って来た。そうしてその復命する亡 ころに依ると、淑子は九時頃中沢の家へ寄るには寄ったが、玄 関口で|鳥渡《ちよつと》挨拶したfけで、急ぐからと直ぐ立去ったとの事で あった。そうしてその時の話では、急に用事が出来たので、一 両日東京へ帰って来るから、暫らくの間の御暇乞いに来たとの 事であった。  その報告を聞いて、母堂と子爵とは驚いた。が、驚き慌てる と同時に、二人の頭には直ちに或る事が電光のように推測され た。二人は不安と予想との顔を見合せた。 「どうしたのだろう。どこへ行ったのだろうねぇ。」母堂の声 はさすがに顛えを帯びた。  子爵はそれほど慌てはしなかった。彼は鳥渡蒼い額を|点頭《うなず》か せて、それから徐ろに言い出した。 「誌母さん。僕らの淑子に対する遣り口は、これは一つ|失敗《しくじ》り ましたね。余り子供だと見総り過ぎました。まさかこんな事は 出来まいと思っていましたが、|彼奴《あいつ》とうく僕らを出し抜きま したよ。ー私は|彼女《あれ》が何処へどう行ったか、大概見当が付き ます。多分あそこだろうと思います。■彼女の行く処は多くて三 つと在りませんからね一それにまさか無分別な事をして、死に なんぞ致しますまいから、これは僕が直ぐ|捉《つか》まえて来ます。」 「お前そんな事を云って、何処へ行ったとお思いなのだえ。警 察へでも頼んで、捜して貰わなくたって大丈夫かえ。」 「えゝ。大概大丈夫です。私の見当はもう大抵外れっこありま せん。きっと其処にいますから、この際警察の手なんぞを借り て、,事を荒立てゝ|外《ほか》へ聞えたりするよりも、一つ僕に委して見 て下さい。きっと僕が円満に連れ帰ってお目にかけますから。 -だがお母さん、繰返して申すようですけれど、僕らの遣り 口は失敗りましたよ。これでは今度の結婚問題も、考え直さな くちゃなりませんね。」 ・併し母はまだ身の上を心配して、 「ほんとに大丈夫かい。もしもの事は在るまいね。」とおろお ろ声で云うのみである。ー 「大丈夫、iまあ|淑子《あれ》の事は今後とも私に委せて見て下さ い。こうなっては私も、手を供ねて見ている訳にも行きません から、どうか先まで考えて見ましょう。」 「そんな呑気な事を云って。1ーじゃ兎に角お前に委せるか ら、一刻も早く|彼女《あれ》を探してお呉れ。」 「宜しゅうございます。…なあに淑子は今頃はきっと、奥羽線の 急行に乗り込んでいますよ。」さすがに兄の子爵も、自分の不 安を押し匿すために、自身の洞察に全然信頼を置いた名探偵の ように、唇の|辺《ぬと》りに強いて微笑を浮べた。  それから彼は急に思いついて、淑子の居間の机上を探した。 すると果して一枚の書簡筆に、  「妾は思う仔細がございまして、或る人の処へ相談に参りま  す。どうぞ私の身の上は御心配下さいますな。こんな事を致  さねばならぬようになりましたのも、皆私の性質が因循なゆ  え、今更お詫のしようもございません。強くなり度いと存じ  ます。どうぞ母上さまも兄上さまも御許し下さいませ。」  と走り書で書いて在った。  子爵は直ちにそれと思わるゝ処へ二三ヵ所電報を打った。        一五七  研究所に在る野村は、只管研究を急ぎ乍らも、淑子からの長 い手紙に依って、就眠前の数十分間を慰められた。が、鎌倉か ら七八通の長文を受取った後、淑子の音信は急に短くなった。 そして毎日来ていたのが、この≡二日ばたりと|途断《とだ》えた。彼は 心待ちに待っていたものが来ないので、ふと|心《  》を曇らしはした が、丁度その頃から益ぐ研究の方が忙しくなって来たので、彼 は幸いそんな考えに煩わされる余裕を持たずに済んだ。  実際彼の研究は、正に第一期を劃そうとしていた。と云うの は、彼はもとく病源体の発見と、治療法の研究と、こう二つ に研究の対象を分けてはいたのであるが、猿を用いて動物試験 を重ね、実際患者の血液に就て、病源体の性質を|研《ぎわ》めて行った 結果は、この超顕微鏡的の病源体の発見の方面では、只それが 血球と密接な関係に於いてあると云うような、小島博士らの成 績以上には、なかく出る事が出来なかった。即ち病源体発見 の方面では、】年半年の努力で、曙光を見出すは容易でないの を知った。そこで彼はそれを今後多年の懸案に委ねて、先ず治 療法の研究、適効薬の発見に、力を尽して見る方針を取った。 勿論病源体は怠らず研究し乍らである。  又、野村が治療法の研究に、先ず力を致すべく傾いた動機 は、もっと直接なところにも在った。それは彼がこの発生地に 来て、悲虫病患者を見るにつけ、如何にもそれが欄然であるの と、又研究上の便宜を得るためには、どうしても患者に適確な 治療法の存在を、先ず知らしめなければならぬからであった。  第一にこの悲虫病に罹るものは、殆んど農民中でも最下流に 属する、水呑百姓に限られていた。彼らなればこそ有毒地とは |危《あやぶ》み乍らも、生活のためには危険を冒して、そんな|磧畑《かわらばたけ》に近 づくのを敢てするのである。であるから彼らが一旦発病した となると、折からの農繁期とて誰もかまいてはなく、|家《    》とは名 づけられぬ掘立小屋の隅に、四十度近い高熱に坤吟するのみで ある。野村は先ずその惨状に胸を衝かれた。|而《そ》してこのような 病人を、只己れの病源体発見の科学的対象としてのみ取扱うの は、たとえその発見が治療法を生む階段となるにもせよ、彼の 感情の上からは、本末顛倒のように思われた。先ず適宜な治療 法を見出して後、安心して病源体の方へ移り度かったのであ る。  第二には、又適宜な治療法が無汁れば、患老が怖れて寄りつ かぬために、思うように材料が得られないためであった。概し て東京から来る医者は、土地の無智た百姓に毛嫌いされた。今 まで医師は、 「きっと、癒してやるから来い。」と、自信を以て云う事が出 来なかった。患者をなだめすかして|連《ち    し》れて来ても、偶然にうま く癒れば格別、もし死にでもすると恰も殺したように思い込ん で、二人と其処へは寄りつかぬのである。  今はさほどでもないが、小島博士らが、苦心経営した初めの 頃には、東京から来た医師にかゝったものは、必ず死ぬと云う 輩語さえ行われていた。外来の医師に診られた患者は、 「騎い、%|前《めぇ》は東京の医者に見て貰ったちゅうが、もう何か遺 言はねえか。」なぞと真顔で訊ねられたりした。そこで小島博・ 士らはやむなく、土地の知識ある僧侶と結託して、僧侶から患 者に向って、 「おまえのこの病気には毒があって、その毒を取らぬ中は死ん でも極楽に行けぬから、毒をお医者様に取って貰わねばなら ぬ。」と諭し、辛うじて材料の血液を得たと云う話さえ在る。  こう云う点から云っても、先ず適効薬を発見して、それに よって患老を安んじて集まらせるのも必要に違いなかった。  幸い薬物にも詳しい野村は、助手と百方手を尽した後、或る 植物のアルカロイドを用いて、微か乍ら曙光を見出しかゝって いた。  その頃星野の方でも、その方面に研究を傾けつゝある噂を、 助手は|外処《そと》から聞いて来た。それを聞いた野村は、「こう微細 ヒ亙って競争的になって来るのも、今となっては仕方がない。」 と云う風に、暗いような微笑を洩らして、只管「野村液」の完 成を急ぎつゝあった。 一五八  或る日である。それは既に曙光を見出しつゝある「野村液」 の動物試験が、今日明日にも結果されようと云う時期に際して いた。  野村も忙しかった。宮田も手が離されなかった。そうして「 週間ほど前から、試験に供する病猿の検温は、やむなく徳爺に 委されてあった。  徳爺は頑固だっただけに、又献身的に働いてくれた。そうし て年は|老《と》っても、手先が器用で発明だった。彼は大工の用も兼 ぬれば、左官の真似事もした。実際研究所の雑務では、彼に勝 る助手はあるまいと思われた。試験猿の取扱い、殊に猿を有毒 地に放って、虫に|整《さ》させた後の捕獲の際などは、彼は無くては ならぬ人物だった。彼は遂に、捕獲用の袋めいた網をさえ作り 出した。  野村は前にも云った通り、仕事がだんく忙しくなるに連れ て、時々徳爺に猿の検温を委せた。彼は目に一丁字もなかった が、暇々に野村は検温器の目盛りを読む事を教え、それを記入 し得るだけの数字を習得させた。そうして終いには検温は、殆 んど野村や宮田の手を煩わさずに済む程になった。  病猿の体温を検するには、その肛門に検温器を播入するので あるが、只でさえ人が近づけば暴れ廻る猿は、高熱を帯びて 益ぐ猛く|抗《さか》らって、一人や二人の手で捕えても、容易に事を遂 げるのは困難だった。  徳爺が検温するようになってからも、初めは、それに長い時 間がかゝった。が、急にその中に、二三日前から、徳爺の検温 は彼一人の手で、馬鹿に早く済むようになった。  野村たちは、自分の苦い経験から、その敏速過ぎるのに驚い た。そうして果してそれが、実際測定されたものであるや否や を疑った。彼は人を疑うの卑しさを知り乍ら、ひょっとすると 徳爺が、余り面倒臭いのを|厭《いと》って、いゝ加減に記入して来たの ではないかと思った。それでは実際に大切な研究が何にもなら ない。Iこう疑った野村は、徳爺が再び検温に行った後か ら、そっと従いて行って様子を覗った。  するとこの愛すべき徳爺は、恰も人に物を云う如く猿に話し かけ乍ら、艦の中へずっと入って行った。そうしていきなり第 一の猿の、尻尾をぎゅbと握って、引っ張りかゝった。猿は尻 尾を引っ張られるので、急に艦の格子にしがみ付いて、引離 されまいと努力する。すると徳爺はその尻尾を握り乍ら、殆ん ど理想的に向けられた肛門に対して、極めて容易に検温器を括 入し得た。成る程こうすればわざ<猿を手で抑えている必要. もない。しかも、艦の中の猿によっては、徳爺が尻尾を抑えか かると、もう進んで尻を差出すものさえ有った。1野村はそ の有様を見て思わず微笑した。心から嬉しい、涙ぐましい程の 微笑をしたのである。彼は遂に堪らなくなって、徳爺に呼びか けた。ー 「おい徳爺。うまい事を発明したな。」  彼はその言葉の中に、百千の讃辞を凝めたのである。徳爺は その言葉にひょいと振り向いたが、 「へゝゝゝゝ。」と愉快そうに笑って、簸後の猿の尻を二つ三 つひょいノ\と叩いて見せた。野村も思わず供笑して了った。  野村は研究室に帰って直ぐ、宮田にこの話をした。宮田も声 を合して快活に笑った。それは恰もこの研究所に、幸福が初め て入り込んだ如くであった。併し野村は笑いを収めて宮田に 云った。 「あゝ云う徳爺のような者でさえ、猿の体温を検するだけの事 にも、あれだけの発見をするのだからねえ。顧みて吾々も勉強 しなくちゃならないよ。早く薬液だけでも成功しなくては、徳 爺に対しても恥しくなる。」 「全くそうですね。ー併しもうこの方は大抵大丈夫です。御 覧なさい。動物試験の方はこれだけ効果が挙がりかけていま す。」と宮田は徳爺の取った体温表を示した。  こうして二人が再び研究に没頭しようとした時、|扉《ドア》を叩くも のが在って、欝咲が電報を齋した。野村が何の急変かと思って 開いて見ると、 「ヨシコガ イッタラシラセテクレ ムカエニユクマデ ヨロ シクタ人ムモリト」と云う長文の電報だった。野村は淑子が 何の為めに来るのか、子爵がどうして電報なぞを寄越したの か、藤濃了解に苦しんだ。併し一瞬間に、ふと或る事を直覚し て、例O遠い空を見るような眼をしたが、人の気づかぬ嘆息を 一つして、本人が来ていない以上考える必要もないという風 に、再び研究に取りかゝった。  只お咲には、 「ひょっとすると淑子さんが見えるかも知れんが、おいでに なったら直ぐ知らせてお呉れ。」と云い付けて置いた。        一五九  野村は淑子の来着な怪しみ乍らも、再び研究に没入しようと した。  その時迄に彼の試みた「野村液」は、少くとも在来の対症薬 に比べて、数段勝れた効果のある事だけは、彼も確信し得るよ うにたって居た。併しその適量及び用法の研究は、まだ試験中 に属して居た。彼は十五匹の猿の全部に、各異なりたる分量と 注謝法とを用㌔て、各の|中《うち》、効果の最も著しきものを特って居 た。彼はそれを得て更に、試験に試験を重ね、そして最も適確 なる注射量、注射法、及び時期を病猿に得た後、それと比較し て人体に試みねばならぬ時に在ったのである。  野村はその大事な時に際して、.淑子の来るかも知れぬと云う 問題には、なるベく無関心で居たかった。殊に昨今は星野の方 の療法も、成功に向いつゝあると云う噂が、星野の助手らに 依って誇らしげに伝えられて居る時ゆぇ、彼の心は只管研究に のみ注がれて居なければならぬ筈だった。けれども野村とて も、一個の人間であった。彼は一方研究に従事し乍ら、時々心 待ちに淑子を待って居るのを、自分ながらも意識した。併しそ の心持は、そう研究の邪魔になる程ではなかった。一種の軽い 興奮が、却って彼を元気づけるようにさえ思われた。さすがに 素質が学者たる彼は、その心待ちの為めに観察や計量を誤るほ ど、それほど軟弱な頭脳の所有者ではなかったのである。  突然、研究室の|扉《ドア》を叩く音がした。野村の心はときめいた。《   》|. 彼はそっと胸を抑えるようにして、思わず立ち上った。 「お入り。」野村はきっとお咲が、淑子の来着を知らせに来た のだと思った。  すると扉を少し開けた隙から、徳爺の頑固な頭が入って、 ひょいと怒ったような顔をこの方へ向けた。 「あの旦那様、又あの野郎が来やしたよ。旦那に会って話しが してえって吐かすんでごわす。|彼奴《あいつ》又図々しくやって来やがっ たんで。」 「誰だ、彼奴って云うのはP」  野村は少し落胆と憤激を感じて云った。 「彼奴って、彼奴でさあ。向うの星野でごわす。」 「え、星野が来た。又何か圧迫に来たのだろう。ー兎に角、 何に来た肥しても、会わなくちゃあなるま、。休憩室ヘ通して 置いてお呉れΦ」  徳爺は出て行った。野村は又しても星野の優越慾に眉をひそ めて、憂欝に休憩室へ入って行かねばならなかった。  星野は例の如く昂然と立って待っていた。二人は何でもない ように会釈した。野村はふと星野がもう薬液を完成して、その 宣告に来たのではないかと、心の戦くのを覚えた。彼は|息窒《いぎづま》る ほど緊迫された態度で、星野の言葉の下るのを待った。  星野は例の沈着な言葉で、又しても威嚇的に云った。 「野村君、需互いに今は忙しい時だから、世間的な挨拶なぞは ぬきにして|云《  》おう。-君も昨今適薬の研究の方に、努力を向 けているそうだね。」  野村は|点頭《うなず》いた。星野は続ける。 「ところで僕の方でもそれに従事している。要点はこゝだ。君 之僕とは何処迄も競争の地位に立っている。そうしてこめ盤で 行けば、必ず何方か寸勝つに定まっている。ところで、僕が仮 りにそう云う勝者になった場合には、僕は前に君と約束した事 をこの場合にも適用して、君の処にいる患者に進んで投薬しに 来るからね。お互いにその場合になったら、拒んだり恨んだり しないようにしようじゃないか。ーこんな事も研究を励む一 手段だからね。」星野は既に勝者であるかの如く、自信し切っ て云い放った。 、' 「うむ。僕は別に|優先権《プのオのテイ》に執着もないよ一だから君のそれを認 めるような際には、学者らしく男らしい態度を取り得る"禦 充。御念には及ばない。」 「宜しい。それを聞いて安心した。では君の方も勉強し給え。 僕の方は着々として進んでいるのだからね。遅くてもう十日の 中には、改めて君と会えるだろう。1じゃいずれ又、失敬。」 「そうか。僕もまあ出来るだけやってみる。1左様なら。」 と野村も心弱い反抗を以て云った。  星野は蔑むように野村を見返って、さっさと出て行った。  後に残った野村は、稽ぐもすれば圧迫勝ちな星野の言葉に、 何となく暗い気持になつて、「十日、十日!」と繰り返し乍 ら、自分の成績を考え耽っていた。  ふと|扉《  》を叩くものがあった。彼はその考えに囚われ切って、 ぼんやり                                   そと 呆然「お入り。」と云ったまゝ、椅子に沈み込んでいた。戸外 の人は暫らく躊躇していたが、やがて静かに扉を開けた。        一六〇  静かに入って来たのは、思い揖けてい乍らも、思いがけない 淑子だった。  野村はその淑やかな人の気配に、ふと吾に帰って、悦ばしき 驚きの|中《うち》に立上ったーが二三歩進み出て迎え見ると、淑子の顔 には予期したような晴々しい色はなく、わびしい安堵の笑の 裡には、泣きたいような陰影が潜んでいた。意味あり研なこの 表情に、野村は暫し言葉もなく見守った。淑子も野村をじっと 見凝めたが、いつの間にかその眼には、ほんとうに涙が溜って いた。 「ほんとによくいらっしゃいましたね。」暫らくして野村は 云った。 「思い切って一入で参りました。」  淑子の声は|順《おとな》しい中に、はっきりした響きを持っていた。 「どうして文一人でなんぞいらっしゃる気になったのです。家 の方は大丈夫なのですか。先刻お兄さんから電報があって貴方 が行ったら返事を呉れ、迎えにゆく宜しく頼む、と云って来ま したが、一体どうした訳がお在りなのですか。」  淑子の顔には切ない苦悶の表情が浮んだ。彼女は顔を伏せ て、許しを乞うように|恐《おずノち》々云った。 「私は貴方の処へ逃げて参りました。家へは黙って参ったので ございます。」 「えっ、逃げておいでなすった2 それは|真実《ほんとう》ですか。して又 どうして逃げてなんぞおいでなすったのです。L  淑子はもう悪びれはしなかった。 「私の家の人々から、結婚を強いられました。けれども心に染 まない人の処ヘ行くのは、私は厭でございます。だからお断り しようと思ったんですけれど、もう母まで一人決めに決めて居 りますので、面と向って拒絶する訳には参らなくなりました。 その苦しさにとうく逃げて参ったのでございます。御迷惑を 胎掛け申す罪は、どうぞ御許し下さいませ。」  聞いている野村の心は、一種の危倶と喜悦に蕩揺するのを覚 えた。 「迷惑なぞは何でもありませんが、どうして又僕の処へなんぞ おいでになったのですか。」 「貴方なら^貴方ならきっと……私を救って下さるだろうと信 じました。……」淑子の声は怪しく乱れた。 「けれども僕に、そんな力はないではありませんか。」野村は 強いて感情を抑えて冷淡に云う。 「私は貴方を信じて居りますわ。私は貴方を……」淑子の声は 告白の喜びと怖れに額え乍ら、又しても|途断《とぎ》れた。が、その次 に云うべき言葉は、明かに彼女の心の中に岐かれた。野村とて も十分明瞭にそれを心に聞き取り得た。  彼は静かに淑子に近寄り乍ら、諭すような語調で軟かく云っ た。 「淑子さん、貴方がそれまでに信じていて下すったとは、僕の 身に取っても思いも掛けない嬉しい事と感謝致します。lIけ れども、淑子さん。僕は今迄幾度か考えて見ましたが、僕には 貴方を愛し得る資格が無いんです。況んや貴方に愛せらるゝ価     '毒まっ 値なぞは毫末もないのです。私はそれを自分でよく知って居り ます。」  併し淑子は感情に激して、突然野村の手へ槌りつき乍ら、激 しく咽び泣いた。長い間思いつめた彼女が、頼りない汽車の旅 の揚句に今、|慌《あわ》た間しく目的の場所に着くと、直に「愛の修羅 場」に登場して、平素の|身窟《みだしな》みを忘れたのも無理はないのであ る。 「いえ、いえ、そんな事はございません。……私は貴方をお信 じ申して、こゝまで逃げて参りました。……どうぞ私をお救い 下さいまし。そうしてお咲さんと同じように、貴方の欝側に置 いて下さいまし。……外へ行くのは厭でございます。私は結婚 なぞは致しません。……た間こゝで、貴方の御研究に蔭乍ら御 手伝いさせて下さいまし。どうぞ%願いでございます。」  併し野村は、凡てを捨てゝ淑子が自分に投じて来たことを、 |勝利的《トヲイアンフアントリィ》に考える事は出来なかった。彼の今迄自分が|閲《けみ》して 来た恋の|敗吻《はいじく》を思うと、そバろに亀井の傷つけられた自尊心と 悲哀とを思った。野村は単純に愛の幸福に酔うには、余りに悲 惨な過去を持っていた。そうして彼の性質の美しい弱さは、舷 でも亦他人の苦痛を思いやる苦痛を感ぜざるを得なかったので ある。彼は心から淑子を抱迎える事の出来ぬ自分を悲しく思っ て、自ら顔を曇らせた。彼はじっと沈思した後に静かに云っ た。 「いえ、いけません。貴方は矢張り|順《おとな》しく、この艦お家へ帰ら なくちゃなりません。ー兎に角電報を打って、茄兄さまの来 るのを待ちましょう。」  淑子は答えなかった。けれども心の中では、「いゝえ、決し て帰りません。」と最初の決意を繰り返すのみだった。  野村はその涙に咽ぶ可憐な様子を見て、 「お可哀そうに、お一人で齢いでになったのだから、随分御心 配でお疲れなすったのでしょう。少し彼方へ行ってお休みなさ い。」と優しく勧めた。淑子はようやく涙を拭いて、その言葉 に従った。        一六一  淑子はその儘兄の来るまで、お咲と一緒の室に留めて置かれ る事になった。|而《そ》してその間にも野村は研究を急いだ。  お咲は淑子の来た事を、|真実《ほんとう》に心から喜んだ。彼女は誰に揮 る事もなく^その喜びを表現する事が出来た。 「淑子さま。ほんどうによくいらしって下さいました。私は きっといつか貴方がおいで下さるだろうと思って居りました わ。」 と、ぞの夜はお咲は|洋燈《ランプ》の下で、打湿ったように坐った淑子 の美しい姿を、しみハ\と見た時に云った。淑子はそれに対し て、更に涙を溜めて感謝した。 「有難うよ。お咲さん。1けれども野村さんは私が来たの で、さぞ御迷惑に思っていらっしゃると思うと、私はほんとに 飛んだ事をしたと存じますわ。」 「いえノ\決してそんた事はありませんわ。旦那様はきっと齢 心の中で喜んでいらっしゃいます、それは私がお請合します わ。だからどうぞ何時までゝも敢にいらしって下さいな。」  けれども淑子はほっと小さな嘆息を吐いたfけだった。そう して永い間を置いてから、低いが|断乎《ぎつぱり》と云った。 「私もう家へは帰れませんわ。だからいつ迄も舷に置いて下さ いね。」 「えゝ(いつまでゝもいて下さいな。」  二人はこんな事を話し合って、その夜は寝に就いた。淑子は 疲れているにも係わらず、いつ迄も寝付かれないで困った。今 日までした事を考え、これから先の身0上を思うと、思いは千 千に乱れ騒いだ。一時の熱に浮かされて、飛んだ冒険をしたと も悔いた。母の心配を考えると、この儘じっとしてもいられな い程心苦しくもなった。が、又思い切って出来難い事をした後 の、自ら心強い頼りが出来たようにも感じられて、その結果は どうあろうと、顧みて倣かな満足も覚えられた。l彼女は終 夜まんじりともしなかった。  その|中《うち》に明易い川|縁《べり》の夏の夜は川の方から白み渡った。蔵王 岳の頂きを破って、暁の雲が立騒ぐと、荒れた村にも鶏犬の声 が|頻《しき》った。  淑子は雨戸を外してそっと庭へ出た。爽かな北国の朝風が、 彼女の寝足りぬ瞼から重さを吹き去って、一時彼女の心を、凡 ての苦難から蘇えらした。ふと|庭《  》側の路傍に彼女は空色の|螢草《ほたるぐさ》 を見出して、立停ったまゝじっと見凝めた。一茎の草もしみ じみ見凝めて居れば、そこに|象《かた》どられたる生命の姿が見える。 彼女はいつ迄もくそれを見尽していた。 「お早うございますね。もうお眼覚めですか。」  突然背後でそう云う言葉に、振返って見ると、そこには野村 が微笑んで立っていた。彼も心持ち瞼重げに、朝の光に眼をし ばたゝき乍ら続けて云った。 「昨夜はよくお休みになれましたか。」 「えゝ。」淑子は朝焼けを背に負うた、野村のくっきりした輪 廓をちらと見て、それから眼を足下の螢草の上に落し乍ら、曖 昧に答えた。「貴方も随分牝早うございますのね。いつもこん なにお早いのでございますか。L 「いゝえ。」と野村は月山の方ヘ逃げて行く霧を目で追い乍 ら、「今日は特別に早かったのです。」  野村も淑子と同じ思いに、眼覚め勝ちな一夜を過ごしたらし い。  二人は黙々と朝の光の|中《ラち》に立っていた。暫らくして野村は又 云った。 「兄さんは今日午前中に来る筈です。貴方もどうか|順《おとな》しく帰っ て下さい。-私だってそう急にお帰しゝたくはないのですけ れど。」こう云って彼は、ー云ってはならぬ事を云った如く、慌 てて顔を|蒲《あか》めた。 !淑子は黙っていた。 「さ、もう家へ入りましょう。お咲さんも起きて支度を始めた■ 頃です。」  野村の家には、もう炊煙が破風を這うていた。そして仕事を 初めたらしい徳爺の|咳《しわぶき》の音が、背戸の方から聞えて来た。  淑子は兄の来着を、どうして迎えていゝか解らたかった。彼 女はその前に、自ら処決せねばならぬと考え沈み乍ら、野村に ついて家へ入った。        一六二  |正午《ひる》近くなると、愈ぐ森戸子爵がやって来た。彼は先ず研究 所で野村に会見した。なるべく淑子を傷つけぬよう、事穏便に 解決をつけたいと思ったのである。  二人は|毎《いつ》もに似げない改まった態度で、厳粛に一別以来の挨 拶をし合い、それから直に本論へ入った。 「今度は淑子が飛んだ事をして、君にまで累を及ぼして済みま せんでした。」と子爵は云った。 「いゝえ、僕の方こそ誘惑者のような位置に立って、貴方の方 の家庭を騒がしたのを、お詫びしなくちゃならないと思ってい ます。」 「いや、君の方には何の罪もない。唯淑子が|鳥渡《ちよつと》遣り過ぎたの です。彼奴めあんな顔をしてい乍ら、今度と云う今度は、見事 に僕たちに反逆しましたよ。尤も僕たちが、まさかこんな冒険 は出来まいと|見総《みくび》っていたせいもありますがね。1併し兎に 角無事でいて呉れて安心しました。」 「私も何一つ間違いなしに、お引渡し出来るのを喜んで居りま す。この上はどうぞ事円満に、御取計らい下さるようにお願い 致します。先方の亀井さんと云う方も、真実に淑子さんを愛し ておいでなのでしたら、この位の一時の出来心は許して下さる だろうと思います。淑子さんは他へ頼る所がないので、単に友 人として僕に頼っておいでになったのでしょうからね。この儘 先方へ円満に収めて頂く方が、淑子さんの幸福だと信じます。」  子爵は鳥渡皮肉な、併し好意の微笑を浮ベて聞いていたが、 「野村君、君にも似合わない事を云いますね。幾ら亀井が人の 好い男でも、これを平気で許し得るでしょうか。そうして仮令 亀井が許すにしても、亦君の言の如く、果して淑子の幸福で しょうかね。1野村君、君は今辞令を使ってはいけません よ。どうか|真実《ほんと》の事を云って頂き度い。僕も平素の茶らっぽ《 し  》|こ を|廃《よ》して、正道な事を云っているのですから。」と詰った。  野村は首を垂れて|点頭《うなず》いた。子爵は語を次いだ。 「では改めて申しますが、僕はもう淑子の過去の行動に就て、 何も云いますまい。た間今後の問題、つまりこの事件の合理的 な解決は、唯一つあるのみだと思いますが、君はどう思いま す。」 「僕はそこまで考えませんでした。僕は只無事で、淑子さんを 貴方にお渡しすれば、当面の責任は済むと思って居ました。」 「君はそんなに淑子に対して冷淡で居て呉れたのですか。|彼女《あれ》 は君をあれ程愛して居たのに、君はそれに酬いて呉れないので すか。」子爵の舌は鋭い炎を帯びた。「改めてお聞きします。君 は|彼女《あれ》を愛しては呉れませんか。僕がお願いしても、彼女を 貰って呉れませんか。1ー僕の考えた唯一の解決法と云うのは 只それだけです。」  野村は黙って首を垂れた。彼の顔は熱して来た。彼の眼は輝 いて来た。が、彼の額には、人知れぬ苦悶の鐵が在った。やゝ 在って彼は云った。 「淑子さんは僕に取っては全く過ぎた人です。私は謙遜でも何 でもなく、自分自身にあの方を愛し得る資格がないように思い ます。この儘お言葉に従っては、私の気が済みません。どうぞ 私に自信が附く迄、この答えは延ばさせて下さい。その時が来 ましたら、改めてお願いに上ります。1だからどうぞこの場 は、この儘淑子さんをお連れ帰り下さい。」  子爵もその言葉には|点頭《うなず》かざるを得なかった。 「宜しい。承知しました。ではいずれ、君の研究の成功を待っ てからにしましょう。その方が私の方で話を纏めるにも都合が 宜しいですから。-兎に角、淑子を連れて帰ります。どうか |彼女《あれ》の居る所へ連れて行って下さい。」 「淑子さんは向うの母屋の、お咲の|室《へや》に居る筈です。御案内し ましょう。」  二人は直ぐに連れ立って、その室に入って行った。けれども そこには、淑子の影も形も見えなかった。 一六三 野村と子爵とは驚いた。そこに置いてある品物には、つい今 し方まで淑子のいた形跡があるのに、当人はどこにも姿を見せ たいのである。  野村は庭へ下りて四方を探した。が、どこにもそれらしい影 は見えなかった。彼は更に大声でお咲を呼んだ。 「おいお咲さん。淑子さんはどこへ行ったか知らないかい。」  お咲は勝手元から出て来て、同じように吃驚した。 「私もこゝにいらっしゃると許り思っていましたわ。ほんとに どこへいらっしたのでしょう。」  するとそこへ徳爺が出て来た。 「何でごわす? お嬢さんがお見えにたらないのでごわすか。 -それじゃつい先刻、川の方へおいでになる女の姿を見かけ やしたが、ひょっとするとお嬢さんかも知れませんぜ。川の方 を探して見たらどうでごわす。」  皆は徳爺の言に従って、川岸の方を探す事になった。皆は勘 からず心配になって来た。誰も目に出して云う者はないが、川 の方へ行ったと云うからには、自ずと投身する気ではないかと    あたりま.枇 思うのが普通である。  野村は靴に足を固めて、一散に川岸の方へ駈け出した。彼の 心臓は轟き、眼は血走った。彼は有毒地を横切って、|整《さ》される 怖れのない足を運んだ。彼は途々こう考えた。 「どうか無事でいて呉れ。無事でさえいて呉れゝば、凡ては幸 福に行くのだ!」  彼は河岸まで達して、ずっと上下を見渡した。燦々たる日 は、川の面の色なき迄に輝かした。そうしてそこには、何の秘 密も蔵してないように見えた。彼は今度は両岸を精細に探し た。銀緑の|楊柳《はこやなぎ》の|叢《くさむら》が|蒸《いぎ》れた岸草の間を綴って、それが野村 の展望を、やゝともすると妨げた。彼は急ぎ足に岸を伝って 行った。と、有毒地から程遠からぬ柳の蔭に、彼はふと鮮かな 女の着物を見つけた。彼は思わず喜ぴの叫びを揚げ乍ら、|其方《そつち》 に近づいた。  それは紛れもない淑子だった、彼女も野村の足音に、ふと黙 想を破られた人の如く、吃驚して振り向いた。  「淑子さん、こゝにおいでゝしたか。それでも無事でよかっ た!,ほんとに心配しましたよ。どうして又、こんな所へ来て いらっしたのです。」野村は妙に歓喜に酔って、喘ぎく云っ た。そうして此方の心配にも係わらず、た間|面毒《おもは》ゆげではある が、割合に平然として居る彼女の顔を見凝めた。  淑子はそう悪びれずに答えた。  「だって、兄さんにお会いするのが恥かしかったのですもの。 何だか顔を合わせる事が出来ないように思えて、ふらくと家 を出て了いましたの。」  「そうして、舷で何をしていたのです。」  「考え事をして居りましたの。」 「何を考えていたのです。」  「この儘帰る位なら、いっそこの川へ入って死のうかと考えま したが、それも出来兼ねて居りました。」 .「そんな、馬鹿な事を考えてはいけません。貴方は死んではな りません。」 「いえ、死にます。野村さん、私は|悲虫《っっがむし》に|整《さ》されました。実は 先刻川へ飛び込もうかと思った時、ふとどうせ死ぬのなら、貴 方の研究に少しでもお役に立つ方がいゝと思って、有毒地を素 足のまゝ歩きました。その方が川へ身を投げるより、余程容易 く出来たのですもの。1私は貴方の御研究に、身を捧げたと 思うと本望ですわ。」               叶  野村はすっかり驚いて了った。 「えっ、ではもう整されて了ったのですか。それは大変です。 {1知うい、森戸さん。早く来て下さい。淑子さんは見つかり ましたが、飛んだ事にたりました。」  森戸子爵も急いでそこへ来た。子爵は凡てを聞いて、 「早まった事ばかりする奴だな。」と暖い叱責をした丈で、憐 れむように淑子を見た。五六日の中に発熱して、悪くすると死 んで了うのだと思えば、兄妹の見合う|乞憐《きつれん》と許容の|眼眸《まなざし》も、自 ら曇らざるを得ぬのである。  すると突然野村が、何か心に期するところがあったか、二入 を見て云った。 「いや、森戸さん。,そう気を落してはいけません。僕が出来る だけ手を尽します。そうして必ず全快させるように努めます。 ーさあ、彼方へ参りましょう。行って|整口《さしぐち》を|検《あらた》めましょう。」  皆は再び憂いの中に、研究所へ立帰った。        一六四  診検の結果は矢張り淑子の足部に、紛れもない悲虫の整口を 見出した。もうこの上は十中八九まで、発病するのを免れ難 い。森戸子爵は連れて戻る事が出来なくなった。淑子の意志は 或る程度まで貫徹せられた訳である。  野村は端なくも、完成しかゝっている野村液を、先ず第】に 淑子に依って試験するの機に逢着した。彼は淑子の悲虫病が潜 伏期に在る間、必死になって成功を急いだ。もう星野に先んじ ようなどと云うそんな野心は忘れて了った。それよりももっと 重大な、そうしてもっと直接な動機が、彼の有らゆる精力を薬 液の完成に集中せしめたのである。 「この薬液が成功しなければ、自分はた讐自分の学者としての 面目を失うばかりではない。・淑子さんをも失うのだ。即ちあら ゆる幸福を失うのだ。」  そう考えて来ると野村は、是が非でも成功しなくてはならな かった。しかもその期限は、もとく迫っていたのではある が、今蚊に淑子の感染に依って、目のあたり四五日間に短縮せ られた訳である。 ■あゝ四五日! 自分の運命の瀬戸際は舷四五日の間に迫って いる。野村は苦しかった。が、今度こそ気を落しはしなかっ た。彼はもう徒に愚痴のみを云っている、心弱き者ではあり得 なかった。彼は殆んど死を決して、敵陣に向う人の如く奮い 起った。彼は一種の武者振いを心に感じ乍ら、それでも学者的 の透徹した頭を以て、じっと動物試験の結果と、っ間いて至る べき淑子の発病を待った。  併し、一方星野の方でも、殆んど是と同じ事件が突発してい た。 .星野の研究所には淑子が来ると殆んど同時に、澄子が良人を 激励する積りで、わざノ\東京から遣って来た。が、研究に熱 中している星野は、澄子の来たのをそう喜びもしないのみか、 却って邪魔気に待遇した。彼女はそれが為めに、内心淋しさに 堪えられなかった。そうしてその淋しさを紛らすため、良入が 研究に従事している間、彼女にとっては珍らしい、そこらの田 舎道を散歩する事にしていた。  或る日の事である。それは淑子が悲虫に|整《さ》された一両日後で あった。澄子は結婚後の良人の心持の変遷や田湖っては自分た ちの結婚に依って醸された、いろくの暗潅たる問題やらを考 えて、心沈み乍ら川辺を彷裡している中に、知らずく有毒地 の中へ足を踏み入れて了った。  ふと脛のあたりに痒みを覚えて、それと気が付いた時は、も う遅かった!・そう沢山もいない悲虫の】つが、不幸にも澄子 を螢して了ったのである。彼女槍慌て、立帰った。そうして直 に研究室に飛び込んで、泣き声で星野に訴えた。  星野が検べてみると、それも紛れむき悲虫の整口であった。 「どうしたらいゝでしょう。貴方、ほんとうにどうしたらいゝ でしょう。私はどうしても死ぬのですか。死ぬのは厭です。ど うかして癒して下さい。」  と澄子は吾を忘れて、星野の腕に取り纏った。が、星野はさ すがに落着いていた。彼は殆んど冷然たる態度で云った。 「心配する事はない。きっと俺が癒して上げるよ。お前が発病 する迄には、.俺の薬液も完成する筈だ。お前が今病毒に感染し たのは、天が星野に試験の材料を恵んで呉れたと云ってもい い。心配するどころか、寧ろ喜んでお呉れ。」  打見たところ彼は、全く危倶の色もなく、試験の材料が出来 たので、却って欣然たるように見えた。  澄子もその自信ありげな様子を見て、兎にも角にも安心せざ るを得なかった。  その日から星野も、同じように助手を督励して、その努力を 倍加した。  二人はどこまでも競争である。しかもその決勝点は、まさに 目腱の間にあるのであった。        一六五 .緊張した努力と期待との|中《うち》に、とうくその日は来た。  淑子は|整傷《せきしよう》を受けて以来、浬撃を待つような慕爆の心と、本 能的に死を怖る\[恐怖との妙な交錯を以て、発病の日を迎える 許りだった。そうしてとうくその日は来た。今迄うつらノ\ と|瀬《ものう》げに過ぎていた彼女の|身体《からだ》も、愛人の研究所に於ける清き 病室の床の上で、とうノ\発熱し初める日が来たのである。  併し、野村に取っても、淑子の発病を待って初めて試むべ き、「野村液」の成否の日はとうく来た。その日はそうして、 今迄曙光を見つゝあワた動物実験の最終の効果を|験《たみ》すべき日で あった。彼は未明から起きて、助手と共に試験猿の容態を、燃 ゆるばかりの熱心と、|息窒《いぎづま》る程な注意を以て、|診検《しんけん》に診検を重 ねていた。  先ず灰な暁が来た。そうして夜来下降しつゝあった猿ども の悪熱は、今や大自然の冷気の溶み透ったかの如く、洗われた ように消え失せつゝあった。野村たちの顔はこの最初の暁の光 の中で、温度表の劃一劃と下り行く毎に、自ら喜悦の色に輝い て行く。1: 「先生!」助手の宮田は手を休めて、突然野村の方を振返っ た。彼の口は殆んど喜びのために痙璽していた。彼の顔は、 1常には殆んど感情の干満を見せぬほど武骨な彼の顔も、分 厚な近眼鏡の曇るほどに、嬉しい血潮を上気させていた。彼の 眼は涙に輝いて、野村の感情を誘発するように見返した。  併し野村は眼で制した。彼の顔は朝の光のせいか、明るく澄 んでいるばかりだった。彼は恰も自分自身に向って、こう誠し めているようだった。 「まだ喜ぶには早いぞ。まだお前には、もっと大切な仕事が 残っているぞ!」  けれども助手に取っては、成功に違いなかった。彼はどうし ても抑え切れぬと云わぬ許りに、 「先生、もう大丈夫です。御覧なさい、この予期以上の結果 を!」と声高に叫んだ。  野村も微笑は洩らした。が、自分自身をも抑えようとする静 かな声で、 「まだノ\喜び過ぎては不可ない。まだ人体に就いての試験が 残っている。それが何よりも大切だ。」と云った。彼はこの際 愛人淑子に対する試薬を、こう科学的に話すのが、何となく愉 快に感ぜられた。  そこへ森戸子爵も入って来た。 「どうです、結果は。」と、この超世間人の語調も、今日はさ すがに心痛の影を帯びていた。 「えゝ、どうやらこうやら、うまく行きそうです。」 「大丈夫、成功します。」助手も傍から更に力説した。 「そうですか。それは何よりお目出度う。」と子爵は取り敢ず 喜びを簡単な言葉に託した。 「いやお祝いなどは後にして下さい。それよりも淑子さんの方 はどうしました。」 「実はそれを云いに来たのです。淑子も発熱しかゝった様子で すよ。手が隙いたら、|鳥渡《ちよつと》来て見て下さい。」 「では愈ぐ時が来ましたね。直ぐ参りましょう。」  野村はこう云って深い呼吸を一つした。  予想外に結果のよかった動物試験は、その余りに結果がよ かったために、何となく偶然の現象のようにも、野村の心には 思われた。そうして動物試験だけは何か特別な関係で、こうは うまく|行《   》っても、それをいざ人体に用いるとなると、何となく 不結果を来しそうな気がして、彼は|全《ぁ》く安心が出来なかった、 しかもその患者は見知らぬ他人ではない。  野村は病室の|扉《ドア》を開ける時、或る科学的な神があるなら、そ れに心から祈濤を捧げたいような気がした。        一六六  野村たちが打揃って病室へ入って行った時、淑子は発熱のた めに苦しげな微睡をしていた。そうしてその枕許には、お咲が 気遣わしそうに病人を見凝めていた。  淑子は皆の入って来たのを感じて、ぽっとその|眼《  》を見開い た。ーその眼には、もう|毎《いつ》ものような霧れた涼しさは消え失せ て、赤味を含んだ曇が、夕日を包む矯のように蔽うていた。 そうしてその病的な美しさは、頬紅が湊んだように現われた疹 点のある顔を、更に超自然な麗しさに換えた。真白な床の上に ある、この美しい病人は、今迄土地の農民のみを診ていた野村 の眼を、一瞬間画を見るような心持にさせた。が、野村は今、 そんな美の享楽をする余裕はなかった。  淑子は何事かを訴え詫びるような眼で、野村から子爵を見廻 した。 「淑子さん、心配する事はありませんよ。僕を信頼していて下 さい。きっと癒して上げますからね。」  野村はこう云って、脈樽を検するために淑子の手を取った。  淑子は半ば|誰言《うわごと》を云うように、 「いえj私はもう、死んだ方が宜しゅうございます。この盤死 んで了った方が幸福ですわ。私前からそうは考えて居りました が、今始めて|真実《ほんとう》に解りましたわ。あの秀子さんは、ほんとう に幸福な人だったと。Iだから私はもう死んでも恨みはござ いません。」  野村は答える事が出来なかった。堪らなくなって子爵が傍か ら云った。 「淑子、そんな馬鹿な事を云うものではない。お前たちに取っ ては、まだ死が静かな幸福を齋す程、生が辛いものではない筈 だ。成程秀子さんは幸福だったろう。併しあゝ云う死ばかりを 憧憬するのは、病床上でこね上げたセンチメンタリズムの所為 だよ。お前は死なゝくても、生きていて別な幸福を得るがい い。兄さんがきっと得させてあげる。だから今から気を落とさ ずに、安心して野村君の手に生きてお呉れ。」 「兄さん!」淑子はやっとそう云って、身を起すようκした。  「興奮なすってはいけません。l1先生、貴方が悪いではあり  ませんか。こんな病人を激動させて。」助手が傍から答めるよ うに止めた。  「いや、これは悪かった。淑子さんも、森戸さんも、一もう話す ,のはやめましょう。そしてた間僕たちの努力を信じていて下さ  い。その余のことは、科学者らしくない云い草ですが、た間天 を待つのみです。」   こう云って野村も、専心診療に取りかゝった。1  時の経つに連れて、熱は予定通りの熱型に従い、益ぐ高く 上って来た。そうして人々の憂慮の|中《うち》に、淑子は|殆《ほと》んど高熱に 昏睡して了った。さすがに|箸《たしな》みのよい淑子は、夢中で誰言を吐 くような事は無かった。  その間に野村達は「野村液」を注射すべき凡ての準備を済ま した。  愈ぐ注射の時が来た。いざとなった時、野村の心の戦きはも う止んだ。それは医療機械の冷たい感触が、彼の|頭脳《あたま》を冷徹に 支配して、彼を飽く迄沈着に導いたように見えた。と云うより は寧ろ、彼の学者たり医師たる本質が、凡てこの場に|先占《プレドミネ ト》さ れたものに違いなかった。  彼は徐ろに淑子の優美なる二の腕をたくし上げて、そのふく よかな皮膚の真中に、ぷちりと|注《お  》射の針を立てた。そうして適 量と思惟さるゝ一筒の「野村液」を、静かに静かに彼女の体内 に送り込んだ。  凡ては数分を出でずして終了した。お咲は次の室へ追いやら れたが、子爵は息を凝して、助手が注射口の痕に絆創膏を貼る のまで見守っていた。この人生の傍観者は、こゝでは単なる傍 観者であり得なかった。  「さて、愈ぐ効果を待っ許りだ。」  野村は独り言のように、極めて沈着に云った。  助手は時計を出して見た。時は凡ての物に係りなく、その歩 みを続けて行く。野村たちは五分間毎に、淑子の胸に掻し入れ た検温器を調べるのである。 見えぬ大自然の振子は揺れて、「時」は刻々と近づいて来る。 「野村液」の効果の挙がるか挙がらぬかの「時」が。……        一六七 「野村液」が効果を現わし初めるには、勘くとも二三時問を要 する筈であった。  その間床上の淑子は、猶も夢幻の中を彷裡して、更に人事を 省みないよらな状態に在った。枕頭にいた野村を初め、子爵、 助手らは不安に鎖されて、口も開かずに待ち尽した。  一時間は兎角して過ぎた。二時間も長い歩みを以て、ようや くに移り去った。  二時間目を過ぐる頃から、淑子の熱は却って上って行くよう に見えた。がそれは、効果の上がる前の現象として、野村たち も別に心配はしなかった。  やがて三時間が来た。が、淑子はまだ眼を開かなかった。熱 の下がる気配もなかった。  野村と助手とは、ふと心痛の顔を見合した。 「どうでしょう。不可なかったのですか。」子爵はその様子を ・ちらと認めて、胸から出るような小声で訊ねた。 「いや、もう少し。もう少し待って下さい。」こう答え乍らも 野村は、自分も心臓の|尖《さき》が動揺するような不安を、感じた。彼 はひょっとすると薬液を間違えたか、分量を誤ったのではなか ろうかと思った。それで若しもう少し待っても効果が見えなけ れば、更に再度の注射を施そうと、助手に目配をして、それか ら子爵に向い、 「もう少し様子を見て、愈ぐ駄目なようでしたら、もう一度思 い切って注射して見ましょう。私は鳥渡向うで精密な用意をし て来ますから、一二分舷で病人を見ていて下さい。」  こう云って野村は子爵と宮田とを残して、研究室の方へ入っ て行った。その時彼は次の間で、お咲が心配に蒼ざめ乍ら、淑 子の回復を待っているのを認めた。お咲は彼に祈るような眼を 向けた。が野村は、悲しいかな見ぬ振りをして何も云わずに 研究室へ入って了った。  彼は若しやと思って、先ず薬液の罎を調べた。それは決して 間違いではなかった。では分量は2 それも宮田と二人で盛っ たのであるから、計り誤った筈はなかった。ではどうしたのだ ろう。失敗か。そうして淑子の死か。i彼は突如としてそう 思うと、もう再び病室へ立戻って、改めて注射する勇気も無く なるように、心の底の崩れる音を聞いた。  彼は新しい薬液の罎を手に持った艦、呆然として一二分時椅 子に沈み込んだ。彼は今身を投ぜんとする人が、懸崖の端に 立って感ずるように、自分の過去現在未来の境涯を、走馬燈の ように心に廻転させた。薬液の成否に依って決する自分の未 来! あゝそれは今彼に取って、どんな色に彩られたであろ う。  が併し彼はその状態から、直ぐ眼ざめねばたらなかった。今 はそん次沈思の場合ではない。もう一度! 果敢ない乍らも望 みをかけて、もう一度注射をしてみねばならない。彼は自ら弱 き心を叱して、俄然と椅子から身を起した。  その途端である。研究室の|扉《ドア》を矢庭に開いて、宮田が飛び込 むように入って来た。 「先生、先生。」彼の口は吃った。「早く来てみて下さい。熱が 下り始めました。効果が現われ初めました。」 「えっ、熱が下り初めた? |真実《ほんとう》か。」  野村は思わず大声に反問して、助手の手をぐいと掴んだ。 「真実です。だから早く来て見て下さい。」 「よし。」野村は助手を掻き退けるように、先に立って病室へ 入って行った。        一六八  野村は病室に入るなりに、急いで病床に近づいた。見ると淑 子はまだ苦しげな眠りから醒めなかった、けれどもその病顔は 熱の下ってゆく発汗に湿って、著しく平常の色に回復してい た。  野村は早速検温器を宙ら調べて見た。彼の|度盛《どもり》を読んでいた 顔は忽ち喜悦に輝いた。彼はそれでも猶疑うように、検温器を 明りに透かして見たが、それとたった今宮田の記入した温度表 とを比べて見て、もう疑念を挾む余地が無いと云うように、 「確かに熱が下って来た。もう三十八度五分しかない。猶どん どん下って行く筈だ。」  野村は改めて子爵に云った。 「もうこうなれば十中八九大丈夫です。」 「有難う。私もようやく安心しました。」と子爵は額に滲んだ 汗を拭った。 「私ももう駄目かと思って、眼の前が暗くなったように落胆し ていましたが、殆んど奇蹟のように効果が見え出して、こんな に嬉しい事はありません。」 「先生。ほんとに愉快ですな。」助手も例によって簡明に喜び を表白した。  皆のその黎明を迎えたような喜びの中に、今、淑子は意識を 失うた眠りから醒めた。彼女が遠い世界に連れて行かれて、再 び此世に呼び返された如く、ばっちり眼を見開いた時、過去の 記憶を中断された頭の中で、彼女は自分の位置が別らぬように、 只じろくと兄や野村たちの顔を見廻した。1彼女は東京の 自分の邸に、何故急にこんな室が出来て、何故野村が居るのか と一瞬間思った。そうして又この今見ている物凡てが、まだ夢 の続きではないかとさえ疑った。 「淑子、眼が覚めたか。」 「どうです。僕たちが解りますか。」  こう彼女の顔の真上で、兄と野村とが云いかけたのを、彼女 は何のためであるか解し兼ねた。が、直ぐその一瞬の後に、彼 女は再びはっきりと吾に返ると、彼女の記憶の糸は急に前のそ れへ結びつけられた。1自分は悲虫病で発熱して、確かにこ の病室に|臥《ね》ていたのだ。してみると今こうして眼を開いた自 分は、野村の手で蘇生したのだ。1こう思うと彼女は直ぐ、 「兄さん、私生き返ったのね。」と訊ねた。 「そうだ。安心をし。もう癒りかけたのだよ。」 「では野村さん。貴方のお薬は出来上ったのね。」 「そうです。喜んで下さい。お蔭で成功したようです。」野村 は欣然として云った。 「野村さん。私も嬉しゅうございます。私の癒ったのよりも嬉 しゅうございます。1宮田さん、貴方もお目出度うございま す。」淑子は起き直るようにして云った。 「有難う。1が、まだ病体でそう興奮なすっちゃ不可ませ ん。」  助手は微笑み乍ら、淑子の言葉を押し止めた。 「いえ。もう|関《かま》いませんわ。こう云う時に喜ばなくては、外に 喜ぶ時がございませんもの。」 「いぇ。余り熱しては不可ません。まだ貴方は平熱に復してい ない上に、高熱の後で心臓が弱っています。余病でも起して は、折角癒して下すった野村先生に済まんじゃありませんか。 それにもっと喜ぶべき時も、もっと後にあるような気がします よ。」こう云って助手は、|莞爾《につこり》と野村たちの方を見廻した。  淑子は鳥渡顔を報らめて黙り込んだ。野村は苦笑した。そう して急に話を転ずるように、 「あゝ、余り自分たち許りが喜んで、お咲さんに知らせるのを 忘れていた。心配して次の間に待っているから、宮田君、鳥渡 呼び入れて呉れ給え。」  宮田は直ぐ傍の扉を開けて、 「お咲さん。先生の薬が成功して、淑子さんが癒りましたか ら、早く来て騎祝いを申し上げなさい。」  お咲は小さい胸の中で、感極まって泣き乍ら入って来た。そ うして、 「旦那様、お目出度うございます。淑子さま御目出度うござい ます。」と続けざまに云うのみだった。  その時、お咲の入って来た直ぐ後から、もう一人の女性が、 誰の注意も引かずにつと|入《  》って来た。 「私にもどうぞ御祝いを申し上げさせて下さいまし。皆さん、 何よりも先ずお目出度うございます。」  皆はその声に振り向いた。 「やゝお駒さん!」「お駒か?」野村と子爵は同時に叫んだ。        一六九  お駒は進み出て云った。 「えゝ、,お駒でございます。改めて野村さん初め、皆さんにお 祝い申し上げます。私は先刻此方へ参ったのですが、丁度うま くこう云う器目出度い場面へ、直ぐ登場が出来ようとは、まだ 夢にも思いませんでした。私は何だか、嘘のような気さえ致し ますよ。」 「私も考えると夢のようですが、今度こそ正に|真実《ほんとう》です。私に もやっと時運が廻って来たのです。これもみんな皆さんの御後 援によるのです。お駒さんには殊に、お礼を申上げる言葉もな い位、深い御世話になりました。」野村の方でも改めて感謝し た。 「いゝえ、そんな事を仰しゃられると私心から恐縮しますわ。 侠気を自慢な私ですが、貴方に|志《こころざし》だけをお尽しゝたのは、決 して心意気を見せたいと云う様な、そんな|外見《みぇ》から出た|理由《わけ》 じゃないんですから、貴方が成功して下すって、草葉の蔭から 叔母さんが、喜んで下さればそれでいゝのです。お礼なんぞ仰 しゃられると、死目に会わなかった叔母さんの眼が、叱るよう にちらつきます。」 「そんたらば僕から改めてお礼を云おう。」と急に子爵が云い 出した。「お駒。僕はもうお前には何も過去を答めないぞ。蔚 前には芝居気が在り過ぎると思ってはいるが、前から志の在る ところは解っていた。仮令侠気を見せ度い意志だけでもいゝ。 お前の力が後楯となって、今日野村君が成功したと思えば、友 人たる僕も心から感謝しなくちゃならない。どうだ。こうして 僕までが手を取って、厚く感謝の意を表すれば、お前の芝居気 も十二分に満足するだろう。」  こう云って子爵は、爵駒に強い握手を与えた。 「まあ、貴方は相変らずね。」お駒も笑ってそれを受けた。 「お駒さん、私もお礼を申し上げますわ。ほんとうに有難うご ざいます。」と病床の淑子までが、顧尾に附して云った。 「あら淑子さん。貴方も未来の旦那様のために、御礼を云って 下さるのねえ,」お駒は淑子の言葉を見事に押止めた。 「まあ、ひどい人!」淑子は一瞬時真に怒って、向うを向いて 了つた。  けれども皆は歓喜に酔った儘、暫らくそれなりに黙り込ん だ。各ぐは各ぐの喜びを、一人々々味わっているように。…  突然宮田が大声で云った。 「時に星野はどうしたろう。彼の薬液はどうしたろう。」  野村もふと、忘れたようになっていた自分の思いを、喚び起 されたように、宮田の後から繰返した。 「ほんとに星野はどうしたろう。」  するとお駒が思いがけなく、彼らの競争者の消息を伝えた。 「あ、そうノ\。余りの嬉しさに云い遅れましたが、向うの方 でも今、大変な事になっているのですよ。私は先刻|此地《このち》に着い て、先ず|此方《こちら》へ上ろうと思いましたが、門口で徳爺さんに聞く と、私の会っちゃあ極りの悪い方が来ていると聞いたものです から、(と子爵を横目で見て、)それより向うの様子を見て来て やろうと、この間甘い言葉を掛けて置いたのを縁に、・わざと星 野を訪ねたんです。ところが丁度向うでも、細君の澄子さんが 東京から来ている中に、悲虫病に罹って発熱したところだと云 うめ、折角私が半分色仕掛の訪問曳芝居にならないで了いま した。何でもあの強情な星野も、細君の病気には血眼になって いましたよ。きっと薬がまだ出来なかったので、さすがに慌て ていたんでしょう、考えて見るといゝ気味ですわ。」 「えゝ、澄子さんが来ていて、悲虫病に罹った, それは|真実《ほんとう》 ですか。」野村は吾にもあらず聞返した。 「真実ですよ。そうして星野の薬が出来なければ、可哀そうで すが死んで了うのでしょう。それがあの人の天罰ですわ。」  その言葉は野村の心を、閃電のように貫いた。        一七〇.  野村はそこに棒立ちになった盤暫らく考えに沈んだ。  あゝ澄子! 自分を捨て去った憎むべき女は、今天罰の如き 病熱に喘いでいるのだ。そうしてお駒の言が|真《まこと》ならば、自分か ら恋人を奪い去った星野は、まだ薬液が完成せぬため、血眼に なって苦しんでいるのだ。やがてその薬液が間に合わずに、澄 子は呪われた如く死ぬであろう。とうノ\彼らにも裁きの日は 来たρあゝ澄子の死! 星野の悲しみ!  野村はその光景を思い浮べた時、今こそ彼らを嘲笑すべき時 だと思った。出来るならば彼女の屍を蹴り、悲痛に歪む彼の面 に|唾《つぱき》して、|態《ざま》を見ろと云い度いと思った。併しこう云う際迄も 心弱き野村は、彼らに対してそれだけ残酷であり得なかった。 当然来るべき澄子の病死に対して、嘲笑って棄てゝ置く事は出 来なかった。  彼は今自分の手に、奏効確実なる「野村液」を持っている。 如何に憎むべき恋敵とて、自分が確実に癒し得るものを、見て 見ぬ振りの見殺が、心弱き彼にどうして出来よう。彼女とても 人である。医師たる野村から見れば、救うてやらなくてはなら ぬ患者である。  しかも彼がその上に、自分の完成した「野村液」を以て、仇 敵とも云うべき人々の、恨みに報ゆるに徳を以てする事は、野 村の人道的徳義心から云っても、勘からぬ満足に違いない。  そして更に最後には、星野との約束が思い出された。それは 先に薬液を完成した者が、他方の患者に加療すると云う約束 だった。そうしてそれは星野に依って、勝者に光栄あらしめる 為めに、特に前から提言されたものだった。併し前から野村の 心には、星野の患者に勝利的な療治を加えて、得意になりたい 意志は毫末も無かった。そして殊に今澄子を療癒せしめたい心 持も、決して彼らを蹟欄すると云うのみの、征服的快感からで は無かった。た間そう云う約束が在った以上、それが野村の人 道的行為をなそうとする動機の上に、後楯として役立ったに過 ぎなかった。 「兎に角、いずれの方面から考えても、自分は星野の許に赴い て、澄子を癒してやらなければならない。それが自分の踏むベ き唯一の道だ。」  遂にこう決心した時、野村は手許に在った薬液の屡を取り上 げた。今、自分の愛人を回復せしめた薬は、又直に仇敵をも癒 さねばならない。野村はその不思議な運命を持った壌を、窓明 りに透し見た。そうしてその残量の十分在るのを確かめると、 助手に向って命令するように云った。 「宮田君。僕たちは是れから、星野の所の患者を癒しに行こ う。幸いに淑子さんの方は、もう心配がなさそうだから。」 「えゝ参りましょう。何しろ一刻でも早く宣告に行かないと、 向うに功を奪われないとも限りませんからな。それにあの傲岸 な星野の前で、悠々と注射してやる事を考えると、先生、僕は 鳥渡近来にない愉快を覚えますよ。」助手は勇躍するように応 じた。 「そんな事はどうでもいゝから、早く準備をして呉れ給え。」 と野村は苦笑し乍ら助手を|署《たしな》めて、それから子爵に向って云っ た。 「森戸さん、では鳥渡星野の所へ行って参りますから、その間 淑子さんの方を宜しく願います。」 「そうですか。澄子さんを癒しに行くのですね。運命の神もな かく皮肉だ。では行っていらっしゃい。」と子爵は感慨めい て云った。 「留守は私たちがきっと守って居ります。」騎駒も野村の心持 を知つて、傍から口を添えた。  野村たちは自分の研究所を立出でた。そうして戸外に働いて いた徳爺が、 「旦那、とうノ\薬が出来たそうで、何よりもお目出度うごわ す。儂も嬉しくて堪らねえだ。先刻から|入《へぇ》って、お祝い云いて えと思ったが、病室は儂が|入《へぇ》る所でねえから、遠慮して今迄 待ってたf。お目出度うごわす。お目出度うごわす。」と云う のを聞き棄てゝ、 「爺や、有難う。お前たちのお蔭でうまく行ったが、お祝いは ゆっくり凡てが済んでからにしてお呉れ。」とばかりに、急い で星野の研究所へ向った。        一七一  野村は川岸の|径《こみち》を通じて、程遠からぬ星野の研究所に赴く途 中、いろノ\な感慨が交るハ\胸に迫って来て、自分乍ら何を 思考の中心として居るのか解らぬ程だった。少くとも事実とし て、自分の薬液が完成して、それを以て自分の嘗ての恋人たる 澄子の悲虫病を癒しに行くのだけは、確実な事に相違なかっ た。が、自分はそれに就てどういう態度を取っていゝのか。そ れをどう云う風に喜んでいゝのか。どう云う風に|於《ほこ》っていゝの か。一体喜んでいゝのか悲しんでいゝのか。自分は勝者として 彼女の前に立ち得るのか、敗者として彼女の許に|脆《ひざまず》くのか。 自分は彼女を宥して居るのか。憎んで居るのか。さては又未練 が在るのか。ーそんな感情的の方面に到っては、少しも自覚 が無いような気がした。  併し野村の足どりは、自ずと勇躍の気に満ちて、|動《やと》もすると 宮田を後れ勝ちにした。ふと|彼《  》は又星野も、今頃は丁度薬液を 完成して居はしまいか、そうして自分が向うへ着く頃には、既 に澄子に加療して、治療せしめつゝ在りはしまいか。しかもそ の薬液は、自分のそれに優る特効を有していて、自分がこうし て完成を宣告に行ったのを、却って冷笑されたりしはしまいか と考えると、一刻も先を争うように感じて∴走るように道が急 がれた。  遂に彼らは星野の研究所に着いた。野村はその戸口に立った 時、自ずと高まる動悸を鎮め、頭脳を飽くまで冷静にするため に、深い呼吸を一つして、それから静かに|鈴《ベル》の|釦《ノップ》を押した。  中から小使らLい小倉服の男が出て来た。そう云う小使の如 きに至るまで、星野の研究所の方は、設備が完全しているの だった。小使は野村たちの顔を見ると、殆んど官吏のように樫 貧に云った。 「何の御用ですか知りませんが、先生は只今忙しくて、到底御 手が離されません。面会ならぱ謝絶です。」 併し野村は静かに丁寧に云った。 「いや、併し如何なる場合でも、私ならば会って下さる筈で す。私は向うの研究所の野村です。重大な用件でお目にかゝり に来ました、御手間は取らせません。一応星野君にそう通じて 下さい。」  傍から宮田も云い添えた。 「この場合に臨んで、会わぬなぞと仰しゃると、私の方では失 礼乍ら、約束を履行しない卑怯者と認めますよ。」  小使は黙って引込んだ。そうして暫らくしてから又出て来 て、 「お目にかゝるそうです。どうぞ此方へ。」と二人を導き入れ た。  二人は応接間めいた一室に通されて、星野の出て来るのを 待った。愈ぐこうなって来ると、野村の心は一種の不安の|中《ラち》に も、沈着な冷静を増すのであった。・  やがて向うの|扉《ドア》の釦がくるりと廻って、扉は静かに開かれ、 そこへ星野が真直ぐに入って来た。さすがに彼の顔は蒼ざめ、 彼の眼は血走っていた。が、眉間に刻まれた自信強げな鐵と、 太い首筋とを|真面《まとも》に向けて、|毎《いつ》ものように昂然と入って来た。 彼は既に野村たちの来訪が、如何なる用務を帯びているのか、 もう解っているに相違たかった。しかし彼はその意識に圧倒さ れまいとして、最後まで昂然たる態度を取るべく、強いて堂々 と入って来たものに相違無かった。 .野村はもう|毎《いつ》ものように、星野のこの態度に圧迫されてはい なかった。彼も真直ぐに首を擾げ、飽く迄澄んだ瞳の光を集め て、じっと星野の顔を見返した。  こうして二人は言葉の挨拶をする前に、眼と眼で紫の火花を 散らし合うた。野村は暫らく黙っていた。星野も言葉なく見返 していた。が、真の勝敗の数は、もう瞭然と解っていた。眼の 対時は、数分時ならずして済んだ。 「さあ、どうぞ。」|星《ぼ》野が先ずこう云って、野村たちに椅子を 薦めた。それは又野村の発言を促す言葉でもあった。  野村は従容と椅子に腰を下ろして、云い出す前にもう一度星 野の顔を見凝めた。星野は或る偉大な国事犯人が、死刑の宣告 を待つように動かなかった。        一七二  さて、野村は沈着に目を開いた。 「大変射取込みの最中だそうだが、重大な話があるので、無理 を願つて済まなかった。l実は僕たちの研究の事に就てだが ね。」 「ふむ。」星野はやむなく相槌を打った。 「君の方の研究も、もう大分進んだ頃と思うが、例の薬液の方 は完成したかね。」こう野村は第一弾を放って、弾着距離を測 るように、星野の顔を見定めた。  星野は既にその言葉を予期して備えていたらしく、眉根を《 》|ぐ いと|動《 》かしただけで、直ぐに答えた。 「僕の方の薬液も、もう完成したと云ってもいゝ。1実は昨 日の|中《うち》に凡て完了する予定だったが、鳥渡した助手の不注意か ら、動物試験の方法に手落が在って、思うような効果が挙ら なかったために、今朝から試験をやり直しているんだ。もう効 果が解る筈だから、何なら君の方の参考までに、もう暫らく 待っていて、それを見て行って呉れ給え。」敗け嫌いの執念深 ■い星野は、果して野村の待っていたような反撃を試みた。  野村は併し、退いてはいなかった。 「そうか。併し僕の方では、もう動物試験にも予期以上の成績 を見たし、今は又人体にも相応な効果を挙げたところだよ。十 匹の試験猿の中、七匹までも完全に治癒した。注射の時機さえ 失しなければ、全部に効果を見る事も出来たのだ。……何なら その効果を茄目にかけて、君の方の参考に供そうと思って、そ の薬液を持って来たのだ。」 「それは御苦労さまだったね。併し丁度僕の方でも試験猿の全 部を用いているからね。もう少しゆっくり君の薬液の効果を見 せて貰おうか。」 「併し星野君。君の所には患者がいる筈だ。約束に依って君は それを、僕の加療に委ねる義務がありはしまいかね。」  星野はこの野村の手強い言葉に鳥渡|後退《たじる》いて沈思した。それ から沈欝に云った。 「君は飽くまでこんな僅かな|優先権《プリオのティ》に固執するつもりか。し 「いや、そうではない、僕は君の薬液の完成を待つ間に、患者 の時機を失って了って、死なすような事はないかと思って心配 しているのだ。幸い僕の薬液が完成した以上、一人でも早く治 癒させてやり度いからね。僕はもとより|優先権《プリオリティ》を誇りに、君の 処へやって来た訳ではないんだ。」 「それならばもう少し待って呉れ。患者は今日発熱した許り で、まだ昏睡状態にも陥ってはいないのだ。そうしてその患者 は僕と特別な関係がある人なのだから、飽くまで僕の薬液で治 療してやらなければならないのだ。だから手遅れにならない程 度で、僕の薬液の試験の結果を待って呉れ。長い事は云わな い。もう三十分待って呉れ。」  さすが剛復の星野も、遂に幾らか嘆願的になった。その言葉 を聞くと、野村は承知せざるを得なかった。 「宜しい。それなら半時間待つ事にしよう。まさかに君も自分 の意地のために、その人の命を犠牲に供する事はあるまいから ね。」  すると助手が初めて傍から、堪まり兼て云い出した。 「併し星野さん、貴方も僕たちの優先権は認めるのでしょう な。そうして三十分過ぎても出来なければ、遠慮なく僕らの優 先権に依って、約束通り患者に加療しますから、決して不承知 は云わないでしょうな。」  星野は口惜しそうにじろっと助手を見やって、 「御念には及ばない。」と断乎と云い放った。  その時向うの|扉《ドア》を叩いて、|許可《ゆるし》を得るのも待ち兼ねたよう に、一人の助手らしい男が首を出した。そうして、「先生。」と 星野を呼び寄せた。星野は鳥渡会釈して立って行った。二人は 扉の処でひそノ\と二三言話していたが、やがて星野は戻って 来て、 「それでは、少し待ワていて呉れ給え。今、試験の結果が解り かけているそうだから。」と云い棄てゝ、答も聞かぬ中に出て 行った。星野もさすがに慌てへいる様子だった。        一七三  後に残された野村たちは、妙に切迫した半時間を、改めて待 たねばならなかった。 ・助手の宮田は念の為めに、懐から時計を出して卓上に置い た。時計は午後二時二十五分を指していた。それが白く冷たい 盤面を這うて、遅くてもⅢの数字を指す頃には、野村と星野と の関係も、一,と段落付く訳である。i1そう思うと野村は、こ の運命的な三十分を、待ち暮すベき感情の過剰に苦しんだ。  何よりも彼の感情は、苦痛と云jものに近かった。殆んど言 葉の行きがかりで、11それも彼の弱い性質から出たのである が、ー三十分の猶予を与えた事は、直に又自分の感情の解 放を、三十分遷延せしめたに外ならなかった。彼はそれを悔い た。もっと手強く星野に迫って、直ぐにも澄子に注射をして、 素早く此処を引上ぐべきであった。けれども今となってはも う、中ぶら|鈴《りん》で不安の半時間を「苦痛に待つより仕方が無かっ た。彼はいっそ帰って了おうかと思った。が、今更思い切って この場から退きも出来なかった。  じりくと永いような、又短いような時間は経った。十分…… 二十分と経った。が、星野の研究室の方からは、まだ何の報告 も無かった。堅く閉じられた向うの室からは、殆んど一つの物 音も此方へ響いて来なかった。その不思議な程沈黙した中で、 今、星野は何をしているのであろう。野村はひょっとして星野 が、自分の自尊心を打砕かれる苦痛から、黙って澄子を殺して 了いはせぬかと云う"荒誕に近い想像をさえした程、その沈黙 は気味悪かったψ 「もうあと五分です。」突然宮田が注意した。彼は先刻から待 ち兼ねて、幾度か時針の歩みを測っていたのである。  それから又時は遠慮なく経った。 「あとは僅かに一分です。先生、もう向うへ行こうじゃありま せんか。」助手は再びそう云った。  その途端に、向うの扉は音なく開かれた。そうして浅黒い顔 を蒼め、眉の間に苦悩の敏を刻んだ星野が、静かに入って来て 静かに只これだけ云った。 「さあどうか患者を治療して呉れ給え。この上は君たちの薬液 にのみ信頼する。」  野村はその悲劇的な言葉を聞き、その苦痛と闘?た跡のあり あり見える顔を見ると、もう何も云うべき言葉を失った。彼は 内心痛快を叫ぶ程、勝ち誇った気にはなれなかった。又相手を 隣潤すると云う程、余裕ある優越も感じなかった。彼は只星野 と同じ悲劇に、同じく登場している副人物として、主人公の破 局をまざくと眺めるばかりだった。  野村は黙って星野の後から、病室まで|従《つ》いて行った。宮田も 黙って従った。  病室へ入ると、星野は黙って病床を指さした。野村は見るの に躊路うような様子をしたが、つとその|病《  》床に近よった。今迄 看護していた人たちは、枕頭から離れて野村を|睨《お》め迎えた。  澄子は既に高熱のため、昏睡の状態に陥っていた。彼女は自 分の頭の上に、何処の誰がいるか知らなかった。只良人の病室 に於て、一味の人々に診察されていると、心の奥に信じている に違いなかった。  野村は型通り諸部を診検すると、見てはならぬものを見る如 く、幾度か選巡した後に改めて澄子の病顔をじっと見やった。 彼女の顔は前に箱根で会った時より、ずっと成熟さを増してい た。が、今は処女らしい瑞々しさを失ったため、野村の未練がま しい想像を裏切って、そう美しくは見えなかった。彼はふと|彼《  》 女の美は去ったと云う■うな気がした。併しそれは又病熱の所 為かも知れなかった。そうしても一つ遠慮たく云えば、淑子の よりよき|容姿《ようす》を見たばかりの眼には、知らずく比較計量され て、より低く評価されたのかも知れたかった。そうして更に根 本的に云えば、釣人が逃げられた魚を大きく感ずる如く、心 変りのした女を美しく思うように、知らずく彼の心で理想化 した過去の幻影を、今粉飾もなき病体の現実を以て、無残に破 り去られた|所為《せい》かも知れなかった。いずれにもせよ今の野村の 眼には、彼女は改めて熱烈な未練を感じさせる程、力強い作用 を及ぼさなかった。彼はそれを淋しいようにも思い、又祝福さ れたようにも感じた。  が、㌔今の場合はそんな感想に耽っているベきではない。野村 は直ちに助手に目配せして、注射の支度に取りかゝった。        一七四  野村は淑子の場合と違った種類であるが、殆んど同程度の感 情を以て、澄子の真白な二の腕を、静かに|酒精《アルコ ル》を以て拭った。 今更未練は無いけれども、嘗ては自分の希求した|腕《かいな》、そうして 一二度はそれとなく触れても見た腕、しかも自分の迎接を避け て、星野の支擁に委せた腕、再び手の触るゝ事は勿論、目にだ に触れまいと思っていた腕は、それと事情を異にしてはいる が、今又不思議なる運命の下に、野村の手に接触を許さるゝに 到った。野村は鳥渡の間、単なる患者として接する事を忘れ て、又もそうした感慨に捉われようとした。が、その次の瞬間 には、助手の促すように差出す注射器を見て、人々が視ている 中での大切な注射だと思うと、直に今迄の医師らしからぬ感情 を打切って、冷静な態度の科学者に立帰った。  彼は飽く迄も沈着に、適量の薬液を注射した。そうしてすっ かり後始末をしてから、始めて星野の方を振り向いた。  星野は徹頭徹尾黙って、野村が注射の終るのを待って居た。 彼は鳥渡の身動きもせずに、棒立のまゝにじっと見て居た。彼 の身体はその儘じっと抑えて居る苦痛そのものゝ立像だった。  野村はそれを|瞬視《ていし》するに堪えないような気がした。が、彼か ら擁暫目を外らして、自分の心弱妻表白し、この最後の場 面に到るまで、星野に感情上の優越を持たれたくなかった。そ れで野村は真正面から星野と見凝め合い乍ら、沈着に改まった 語調で云った。 「これで済みました。」  そう云い乍ら彼は、これで全く凡ての関係が一段落ついたと 思った。そうして罰を受くるものは受け、報いを受くるものは 受けたと思った。  その言葉に対して、星野は只申訳だけ頭を|点《うな》ずかせた。  野村は更に云った。「これであと三時間内外には、必ず注射 の効果がある筈です。どうぞこの儘安静にして、熱の下るのを 待って下さい。私は自分の方にまだ病人を残してありますか ら、失礼ですがこれで帰ります。三時間後にはいずれとも結果 のお知らせを願います。お眼醒めになったら、どうぞ澄子さん に宜しく。」  星野はまだ黙った儘、承知の旨を一揖した。  野村は病床の澄子を鳥渡顧みて、その場の光景を脳裡の乾板 に焼き付けた後、改めて星野たちに丁寧なお辞儀をLて、さっ さと病室を去って了った。その後からは宮田が、野村の分まで 勝ち誇っだ態度で、わざと大跨に従い出た。  野村は外気の中へ飛び出ると、初めて感情を残りなく解放さ れて、太陽からも許されたように、初めて満足の微笑を宮田と 交した。彼は鳥渡星野の研究所を振返って見て、嬉しいのだか 悲しいのだか解らぬ微笑をしたが「やがて又心も霧れたよう に、この「隣人」の住家から、愛人の待っている吾家へ急いだ。  併し、後に残った星野こそは、その後の呪われたる三時間 を、今迄に倍した苦痛を以て、じっと待たねばならなかった。 ■彼は野村の去るのを見送ると、つかくと病床に近づいて、澄 子の容態を暫らくじっと見ていたが、その艦|傍《かたわら》の椅子に身を 落して、惨濃たる物思いに沈んだ。助手たちは誰も彼に口をき く老はなかった。誰も彼もこの大破局に際して、なまなかの慰 め言葉なぞは持たなかった。そうしていつ居なくなったとも知 らぬ間に、彼らは堪え兼ねて病室を出て了った。かくてこの悲 劇の主人公のみが、ひとり晩い午後の静寂の中に取残された。  星野がその三時間を待つ心こそは、世にも悲惨の極みだっ た。彼は㌔とより薬液が奏効して、澄子が再び快癒するのを望 んだ。廿れども今、いっそその薬液が効果なくて、この儘澄子 が死んで呉れた方がいゝとも思つた。澄子の生は野村の成功で ある。然も彼は澄子の生を、愛する妻の生を、どうして望まず には居られようぞ。従って彼の競争者の成功を、.望まずには居 られぬ羽目に陥った! 澄子の死は野村の不成功である。彼女 が死んで「野村液」の不結果を証明して呉れゝば、それはこの 際彼の争闘的感情を幾らか癒して呉れるであろう。が、そうな ると彼は、自分の愛妻の死を|庶《ねが》って迄、自分の争闘慾を満足さ せなければならぬ羽目になる。  愛妻の生か死か、自分の敗か勝か。彼はこの間に暗潅たる板 挾みとたって、時の経つのも知らぬように、じっと考え沈んで いた。  時は遠慮なく経過して、室内はそろく夕闇に満たされて来 た。静かに輔歌を奏する如く、最上川のタベの瀬鳴りも響いて 来る。三時間はもう過ぐる頃である。が、星野はじっと身動き もしなかった。        一七五  室の隅々を次第に満たし来る夕闇の中で、澄子はぱちと|眼《 ち》を 開いた。  星野の望み且つ望まざる効果は、予定通りの三時間を経て、 今、卒然彼女を再び眼醒ましたのである。  彼女は静かに首を廻して、不思議そうに病室を眺めた。|四辺《あたり》 は静かである一天井の四隅にはもう闇が軍めて、病室を模糊た る夢の連続のように見せた。窓からは灰黄いろい光が流れ入っ て、自分の着ている病床の布が、號珀のような|量《くま》を縁どって、 |碗《うねく》々と裾の方へ|禰《はぴこ》っている。彼女は一時不思議な王国ヘ連れて 来られた王女のような気がした。又、自分の今迄見た夢は、只 何となく胸を押さるゝ思いだけ残って、あとは悉く忘れて了っ たが、その夢の中の夢の場面かとも思われた。が、彼女にも亦直 に記憶は戻って、自分が良人の病室に、臥床していた事を思 い出した。見れば彼女の枕頭に、良人の星野は闇の一点を見凝 め乍ら、まだ彼女の眼の開いたのも知らずに、沈痛な横顔を薄 明りの中にくっきり浮ばせて、何故か絶望した人のように沈み 込んでいる。して見ると良人の星野は、,自分の薬液が成功し て、彼女自身が再生したにも係わらず、永く効果の見えぬのに 失望して、彼女を失ったと思い込んだに違いない。併し自分は 生きている。こうして眼醒めている。さては良人の薬液が間違 いなく成功したのだ。Iそう考えると澄子は、急に蘇生した 人の元気が出て来た。彼女は自分の復活を知らせて、良人を喜 ばせてやり度い一心から、急に頭を擾げて星野を呼んだ。 「貴方、貴万!」  星野はその声に吃驚して振向いた。 「や、眼を醒ましたか。うーむ。」  彼の声は苦痛と喜悦の妙な混合に絡み合うて、搾り出したよ うな坤きをさえ伴うた。 「えゝ、私生き返りましたわ。もう気分もすっかり|清《すがく》々しくな りましたわ。喜んで下さい。貴方の躰薬はこの通り成功しまし たわ。私は私の生き返ったのよりも、貴方のお薬の成功したの が、何よりも嬉しゅうございますわ。御安心なさい。そうLて お喜びなさい。私はこの通り生き返ったのよ。さあこの上は一■ 刻も早<、野村さんの研究所へ出掛けて行って、貴方の御成功 を宣言して射やんなさい。私の癒ったのが何よりの証拠です■ わ。だからもう御躊躇なさるには及びませんわ。早く向うへ出 轡けて行つて、貴方の方がどの位あの人よりも優れているか知 れないと云う、事実の証拠を見せてやって下さいーそうして私 やお母さまの、貴方を選んだ眼識が、どれだけ高かったかと 云う事を、飽く迄見せつけてやって下さい。野村さんのように 気の弱い者には、何の仕事も出来ないと云う事を、今こそ面と 向って云っておやりなさい。貴方!なぜそう逡巡しておいで なさるの。私が息の切れるのも堪えて、これほど云って上げる のに、何故黙っておいでになるの。貴方はこれを夢だと思って おいでになるの。ーまだ御自分の成功が信じられないの。夢では ありませんよ。事実ですよ。事実貴方が成功なすったのです よ。……」ー  澄子は殆んど狂気して、今迄の病苦なぞは忘れて了ったよう に、夢中になりて促し立てた。  が、それを聞いている星野の顔こそは、如何なる悲劇役者の 巧妙なる表情も、この悲痛の表現には優るまいと思われた。彼 は口許をきッと|結《  》んでいた。が、口許に刻まれた痙璽は、如何 なる抑制の努力を以て、彼が唇を引締めているかを現わしてい た。彼の眼は血走って、薄闇の中に欄々と燃えた。|而《そ》してそれ は澄予を見るに堪え兼ねて、彼女の背後なる闇の中に、悪魔で も居るのを睨んでいる如く、ぎゅっと|一《  し》点に注がれていた。彼 の眉間には相も変らぬ餓が、窓から入る光りに依って、彫像に 刻まれた繋の痕の如く、はっきり浮んで見えていた。が、それ は平常の意力強げ,な、自信を潜ませた敏ではなくて、死刑の宣 告を受けた囚人の、絶望に満ちた頭脳の痛みを額に集めた|態《さま》に も似ていた。彼の広い肩幅も、苦痛で前に歪んでいるかの如く であった。  澄子は余りに良人の答えが無いので、急に語り止めてじっと 彼の顔を見た時、彼女はこの陰惨たる表情に、吃驚して声を呑 んだ。  併し澄子にはまだ事情が解らなかった。 「貴方、ほんとにどうなすったの。まだ悪い夢でも見ておいで になるの。」 「いや、僕はこれが寧ろ夢であって呉れゝばいゝと思ってい る。」 ■星野はようやくにして答えた。  澄子は再びその搾り出すような声音に驚かされた。        一七六  星野は|渇《かす》れくに云い出した。 「澄子! 許して呉れ。俺はおまぇの前で、嘘を云う訳にも行 かない。.今、すっかり|真実《ほんとう》の事を云って了おう。どうか気を落 着けて聞いて呉れ、|而《そ》してその後でお前が何を考えようと、    それは仕方がない事だ。1澄子。よくお聞き。お前がそうし て癒ったのは、僕の薬液で姦ないのだよ。僕の作った薬液  は、残念乍ら失敗したのだ。最初鳥渡動物試験が成功しそうに  見えたのは、あれは別な副作用からだった。今日の動物試験な どは殆んど全部不結果だった。その自信のない薬液を、どうし    てお前に注射する事が出来よう。俺も今日と云う今日は、どう    していゝか解らぬ程狼狽していた。そこへあの野村が、出来    上った自分の薬液を携えて、約束に依って此方の患者を治療す    るために、わざく舷へやって来たのだ。俺はお前を彼の手    に、触れさせるに忍びなかった。が、お前の生命を取留めたい    し、■前からの約束の手前もあるので、涙を振ってお前の病躯    を、彼の加療に委ねて了った。彼はこの俺の眼前で、堂々と自    分の薬液を、お前の体内へ注射して去った。お前は昏睡してい    て何も知らなかったろうが、俺は現在この眼の前で、その屈辱    をまざくと嘗めさせられたのだ。そうしてしかもその結果    は、……あゝ……お前はお前の再生の恩を、棄てた野村に感謝    しなくてはならない羽目に陥ったのだ。I澄子。どうか許し    て呉れ。それもこれも皆、俺が悪かったのだ。自分の手腕を信    じ過ぎて、,如何なる事物に於ても、野村に勝つと信じていた為 〜 、め、努力を怠った罰だ。俺たちは余りに勝ち誇ったゝめ、今こ    そ天の罰を受けたのだ。」     折から満ちて来た夕闇に、わざと光りに背いた星野の顔は、    もう如何なる苦痛の色を浮べているか分らなかった。それを聞    き入っていた澄子の顔も、だんく光りを恥るように傭向けら    れて、堪え切れぬ程の痙轡が、彼女の|頸《うなじ》を灰白く|戦《ふる》わした。凡    てを聞き果てゝ了うと、彼女はじっと星野を見返したが、突然    激しいヒステリックな発作に襲われて、狂人の如く星野の手を    掴んだ。そうしてそれを激しく左右に振り乍ら、泣くとも喚く とも云えぬ言葉で云った。 「貴方、■それは|真実《ほんとう》でございますか。真実に私は野村さんの薬 で、生き返ったのでございますか。」 「真実過ぎる位真実だ。」  澄子は更に激しく叫んだ。 「貴方! 貴方は何故そんな事をして下すったのです。野村さ んの薬で私を生き返らす位なら、その前に何故貴方の手で、私 を殺して下さらなかったのです。私は野村さんの手で癒される より、寧ろ死んで了った方がいゝと云う位の事は、貴方だって 解ってるじゃありませんか。私は一体野村さんに癒して貰っ て、今更有難うございましたと御礼を云って生きて行ける身で すか。貴方も亦貴方です。野村さんに私の療治を委して、それ で黙って見ていられる身ですか。」 「そうせざるを得なかった俺の辛さも察して呉れ。俺は自分の 約束した穴に陥ったのだ。そうしてお前をむざく死なせるよ りも、俺の苦痛は忍んでも、お前を回復させなくちゃならぬと 思ったのだ。齢前を見殺にして了っては、お母さまにも済まな いと思ったのだ。」 「併し野村さんに癒させては、猶母さまにも済まないじゃあり ませんか。1私は生きてはいられません。さあ、貴方のお手 で殺して下さい。改めて殺して下さい。」 「そんな事が僕に出来るものか。lお前は今昂奮しているの だ。そうして一図にそんな事を考えるのだ。だからもう少し気 を落着けて、もう一度静かに考えて見てお呉れ。こゝで苦痛と 屈辱に敗けて死んで了っては、猶敗北を重ねる訳だからね。苦 しいだろうが生きていてお呉れ。」  星野は今度はこう云って、鎮撫しなければならなかった。す ると澄子は突然言葉も無く泣き出して了った。熱い大粒な涙が                           ま 纏っている星野の手へ、はらくと落ちて濡らした。その涙ー 見ように依っては、或いは後悔の涙かも知れなかった。瞭罪の 涙かも知れなかった。或いは単に悲痛の涙かも知れなかった。  それを見ると星野も、今度と云う今度こそ、男泣きに泣いて 了った。 、  暫らくして彼は云った。 「澄子。もういゝもういゝ。泣くのはよそう。そうしてこんな 闇の中にいるのはよそう。今助手たちを呼んで|燈火《あかり》を点けさせ るから、そしたらお前は鎮静剤でも飲んで、暫らく眠らなく ちゃいけない。ね、そうしてお呉れ。いゝかい。」 「はい。」その時既に何事かを決心して了った澄子は、はつき りと従順に応じた。        一七七  星野は小使を呼び入れて、|燈火《あかり》を点けさせた。その明るい空 気|洋燈《ランプ》の、|白《しら》けたような光が、澄子の涙に洗われた蒼白い頬 と"振り乱された怪しい黒髪とを照して、冷たく白い病床の|敷 布《シ ツ》に、|単色画《モノクロ ム》を見るような鮮やかな縞を作った。  星野は更に助手たちを呼び入れて、適度な鎮静剤を澄子のた めに盛らした。 「さあ、これを|嚥《の》んで寝てお呉れ。考える事があるにしても、 お前が心身共に安静になってから、考える事にしようじゃない か。」  星野はこう云って、その薬を澄子に薦めた。澄子はそれに対 して今度は幾らか心静かに、,訴えるような口調で話し出した。 「けれども私たちは、心の安静を得る事が出来るでしょうか。 考えて見ると未来は云う迄もなく、今迄だって二人の精神が、 安静でいられたでしょうか。貴方と愛の幸福に酔っていた、 否、酔つていると信じていた瞬間すらも、,私たちの心は何とた く不安ではなかったでしょうか。それはある人に済まぬと云う ような、ちゃんと形のある物ではないにしても、何か、漠然と 済まぬ気がしてはいなかったでしょうか。そうして、その不安 を消すために、私たちはお互いの愛を誇張して、その力で強い て揉み消そうとしてはいなかったでしょうか。しかしその不安 は、今日に至る迄揉み消せませんでした。そうして今日と云う 今日は、その不安がいよく具体的なものとなって、急に眼の 前に現われました。復讐! そうです。私たちは見事に復讐さ れたのです。私たちが知らずノ\に、返り討を目ろんでいた努 力も、すべて|空《あだ》になって了って、残酷に復讐されて了ったので す。1考えて見ると私たちの踏んだ道は、少しも幸福な道で はありませんでしたねぇ。矢っ張り天は公平ですわ。そうして 私たちのこの苦痛は、みんな至当な罰なのですわ。貴方、貴方 はそうお思いにならなくって。」  星野は鳥渡沈思した。が、低くはっきりと、 「俺はそうは思わない。俺は今迄俺の踏んで来た道を、後悔め いた気持で思い出すような事はしない積りだ。」ど云い切っ た。 「それならば貴方は幸福ね。けれども貴方も強いて強がるのを 止して、考える時がきっと来ますわ。」  この澄子の手痛い言葉には、星野も悲惨に黙り込んで了っ た。.  澄子もそれなりに無言に返って、何ものも見まいとする如く 眼を閉じた。そうして恰も寝入ったように、少しの身動きもし なかった。今、彼女の閉じている瞼の蔭では、どんな考えが浮 んでいるであろう。それは枕頭に見ている、星野にも知られな かった。只彼には、今嚥んだベロナールの適量に、次第に眠り に落ちて行く彼女を見るのみであった。が、彼女は真に眠り得 たであろうか。  星野は暫らくして念のために、 「澄子、澄子!」と静かに呼んで見た。が、彼女はすっかり寝 入ったらしく、その声に答える模様も無かった。  星野は幾らかそれに安堵の息を漏らした。そうして猶も枕頭 に一二時間看護していた後、何らの不安も感じないで、唯一人 澄子を病床に残した儘、彼はやむなく厨ヘ立った。  彼は平生の習慣として、長い問をそこに費すのを常としてい た。そこは彼の黙思の場所でもあり、又落想の場所でもあっ た。併し今夜はかゝる場所に於て、自分の悲惨なる敗北を、沈 思するだに堪えられなかった。それで|毎《いつ》もよりは幾らか早く、 と云っても少しの時間を要して勿々に出て来た。そうして何の 気もなく病室に立帰った。  併し、彼は病室に入るや否や、思わずはっと|胸《  》を衝かれて、 立辣まねばならなかった。|洋燈《ランプ》は何者かに消されていた。そう して何者かに開かれた窓からは、晩く上った二十日頃の月が、 薄黄ろい光を静かに投げ込んでいた。夜風が病床と思われるあ たりの、灰白い布を揺るがしていた。  星野は轟く胸を抑えて、病床の方へ辿り寄った。そうして戦 える手に|燐寸《マツチ》を擦って、そこの|洋燈《ランプ》に火を点じようとした。 が、慌てゝいる彼の手と、窓から入る夜風のために、幾度か燐 寸の火は消えた。そうして五六度の後、ようやく彼は点燈し得 たρ  見ると其処の病床には、眠って居るべき筈の澄子は居なかっ た。星野は急いで窓から戸外を見た。その時彼の眼は、気のせ いか夜目にも白い人の影が、向うの立木の問を通して、ちらり と川の方へ走ってゆくのを認めた。さては彼女はこめ窓から出 たのだ。咄嵯の間にそう思うと、彼は大声で皆を喚び起した。 「皆来て呉れ。大変だ。澄子が居たくなった!」 皆はこの声を聞いて、驚いて出て来た。1        一七八  野村は自分の研究所へ帰って、星野の方からの報告を待って 居た。  彼の心は明かに光明に満たされていた。|外面《とのも》に照る秋近い夕 日のように、彼の心にも澄んだ明るさが湛えられた。彼の感情 の緊張ももう極点を越えて、平調に向いつゝあった。彼は澄子 の快癒を疑わなかった。彼女の再生を疑わなかった。  彼は彼女の肉体の復活を疑わないと同時に、或る意味で彼女 の精神の更生をも信じようとした。彼はそう云う点にかけて は、真に楽天的な理想家であった。彼は人間の精神に絡みつい ている、性悪と云うようなものを知らなかった。 ,彼は今度の自分の行為から、当然の結果として、天国の如き 対人関係が生ずるのを予想していた。彼は思った。澄子は自分 の行為に感謝して、泣いて過去を謝罪するであろう。そうして 改めて彼に、友人としての交誼を乞うであろう。そうすれば彼 は喜んでそれを許し、彼女との永久の交誼に於て、静かにその かみの恋、そのかみの苦悶を思い出すであろう。しかも二人の 間には、もう恒久の平和があるのだ。. ■星野とても同じ事である。彼とても今度の野村の行為に感謝 して、今迄の高圧的な態度I飽く迄野村を蹟躍して、最後ま で自分を勝利者にしようとする、余りに征服的な態度を棄て て、再び自分と握手するに至るであろう。自分は既に彼らの過 去を許した。そうしてこの上は更に彼らの関係にすら好意を以 て"永久の友情を以て祝福する事が出来るのだ。  彼はこう云う大団円をさえ想像した。そこは|燈火《 ともしび》も春のよ うな秋山家の客間である。そこには嘗て自分の感情に|敗《まけ》る弱点 を指摘して、自分の不成功をさえ予言した秋山夫人が、今は再 び邪気なき微笑を湛えて、客の来るのを待っている。そこには 又星野と澄子とが、同じように贈罪後の微笑を湛えて、睦じげ に並んでいる。野村はもうその睦じさを羨みはしない。羨み妬 くどころか、もっと楽しい同情を以て、彼らの睦じさを助長し ようとさぇする。ーそこには又輝子がいる。彼女の晴々とした笑 顔は、その日は更に燦々と輝いている。彼女の野村を呼ぶ「兄 さん」と云う言葉も、こゝで初めて無理のない|音律《メロディ》を持ってい る。そこには更に此方からの客人として、再び星野に対して高 等学校時代の友情を復活せしめた黒川がいる。彼の素朴な翻達 な声音が、やゝもすると客間の天井なる塵を動かすのである。 そうして彼の|背後《うしろ》には、良人の高声に半ば恥じ乍ら、半ば誇っ ているような微笑を浮ベて、お咲がほのぐと立っている。そ こには又森戸子爵も招かれている。子爵はいつもの通りに澄ん だ顔色をして、寧ろ悲しげな微笑を、口の|辺《あた》りにそっと浮べて いる。それは子爵とても、喜べるなら喜び度いのであるが、ど んな嬉しい人生の事実に会っても、㌔うほんとうに喜び得ぬ自 分の心を、自分乍ら悲しく思っているのである。そうして子爵 の傍をわざと離れた所に、これも幾らか物悲しーげに、お駒が すっきり立っている。彼女は殆んど自分の犠牲的な務めを果し て、心から満足してはいるのだが、それと同時に自分の侠気と 芝居気に乗って、余りに車輪な行動をしていたのが、顧みて空 空しくも思われるのである。子爵は世を超脱して醒めている。 お駒は人生と相克して醒めている。併しこの醒めたる者同志に も、亦醒めたる乍らの幸福があるであろう。  そうして最後に、彼(主賓たる野村自身の傍には、控え目な がらに包み切った愛を以て、あゝ、誰が立たねばならぬであろ う。  野村はその空想に吾乍ら赤くなって、恥ずるようにちらと|自《 し》 分の傍の、これは現実なる病床の淑子を見た。淑子は微笑し乍 ら眠って居た。  この病室内に居る現実の人々は、子爵もお駒もお咲も宮田 も、殆んど空想のそれと同七ような微笑を以て、併し乍ら少し も言葉を発せずに、静かに喜悦を享楽して居た。それは野村の 幸福なる空想を、妨げまいとして居るようにも見えた。  かくてもの三二時間は過ぎた。が、星野の方からは、何の報 告にも接しなかった刀野村は結果を信じて居ても、さすが不安 になりかけて来た。若し万一何かの都合で、・薬液が特別に効果 を失ったら、そうして澄子が死んで了ったなら、自分の幸福な る空想などは、げに跡形もなく消え失せて、自分で自分を笑う に㌔笑えなくなるのだ。  そんな事を考え初めた時、突然病室の|扉《ドア》をドンく叩く音が した。        一七九  野村は疑う迄もなく、それを星野からの報告が来たのだと 思った。そうして心は急ぎ乍らも、気を落ちつけて静かに|扉《ドア》を 開いた。  すると外からはいきなり、黒川が飛び込んで来た。 「野村!」「やあ君か!」二人の歓ばしい叫び声は同時に発せ られた。  二人は久しく会わなかった後の、圧搾された友情の奔出か ら、互いの眼の涙ぐむのを見合い乍ら、ひとりでに手を握り合 せた。 「薬液が完成したってね。お目出度う。」 「あゝ、爵蔭でどうにかこうにか完成した。喜んで呉れ給え。」 コ脅ばなくてどうする。併し何だか、余り急に聞いたせいか、 まだ喜びが|身体《からだ》の外をうろついて居るようた気がして、喜び足 りないように思われてならないんだ。」 「一体君にはどうして解ったい。先刻打たせた電報が、まだ届 く筈はないのだが。」 「僕は此の二三日が君の関ケ原だと思ったから、気が気でなく て急に此方へやって来たんだ。そうしてまさかまだ成功しては 居まいと思って来たら、そこの門口に徳爺とか損爺とか云う爺 さんが居て、君が成功した一伍一什を、目をもがくさせ乍ら 話して呉れたんだ。僕は何だか担がれてるような気さぇした。 今だって何となく、事実だと信じられない位、意外な嬉しさに |呆然《ぽんやワ》して居る。まだ喜びが身に沁みない気がしてならない。野 村、何か特別な喜び方はないものかね。」 「まだくそんなに喜んで呉れるな。まだもう一人効果が上る か上らぬか心配な患者がいるんだ。その結果が解らぬ中は、僕 .も士曾ぶに・も士暑べたい.のだ。」 「その話も聞いた。野村、君もなかく味をやるな。僕も鳥渡 感心してやるぞ。恐らくは君の人道主義の、最後の傑作になる だろう。」. ■「まさか。そうでもあるまい。」  そこで初めて黒川は、|四辺《あたり》の人に気がりいた如く、 「やあ、君にばかり騎祝いを云っていて、皆さんに挨拶をする のを忘れていた。森戸さん、|久潤《しばらく》、而して騎目出度う。」 「君こそお目出度う。君が一番嬉しそうだからね。」 「そうですとも。貴方のように悟っていませんからね。はゝゝ 菰。淑子さん。貴方には二重にお目拙度う。貴方は素敵に巧く 兄さんを心配させましたね。併し確かに心配させ甲斐はありま したよ。」  淑子は病床で顔を匿した。  お駒はお駒の方から進み出た。 「黒川さん。今度は私の番でしょう。何か特別なお目出度を 云って頂戴。」 「さあ、お駒さんは擦れっ枯らしで、おまけに悟り屋仲間なん だから、なまなか僕なぞが欝気に入る挨拶は出来ませんよ。 1まあ仕方がたい。矢っ張り無技巧の技巧で行くんですな。 仁侠美人お駒さんお目出度う。野村の成功は殆んど貴方の記蔭 です。」 「まあ、真面目でそんな事仰しゃっては困りますわ。そんな御 挨拶なら要りません。それよりも早く貴方のお気に入りな、可 愛いゝ|妹《うち》のお咲坊に、乏って置きの挨拶をしてやって下さいま し。この子ったら先刻から、もじくして貴方のお言葉を待兼 ねているのですよ。」 「あら姉さん。知りませんわ。」お咲も袖で顔を蔽うた。  併し、黒川は堂々と其方に寄り添うた。 「騎咲さん。お前何も恥かしがる事はないよ、お前も僕と同じ 悟らぬ仲間なんだからね。嬉しがる時には露骨に嬉しがろう じゃないか。ほんとにお前も嬉しいだろう。」  お咲は顔を蔽うた儘|点頭《うなず》いた。 「よしく可愛い奴。それでいゝよ。それで沢山だ。それがお 前の感情を表わす、最高で神聖なる態度だからね。」  黒川のこの愛撫の言葉に、皆は春のように笑い声を揚げた。  こうして夕は宵となり、宵は夜と更けた。野村はまだ報告の 無い不安を心の底に澱ませ乍ら、自らなる人々の喜びに浸され て、語り次ぎ微笑み次いだ…  その談笑も尽きる頃である。彼はふと|窓《  》の外なる程近き川岸 の方に、人々の騒ぐような呼び声を聞いた。皆は一時鳥渡耳を |歓《そばだ》てたが、それだけで又静まった様子なので、誰も気に止めて 見究めようとする者も無かった。  するとそれから五分ばかり後である。何となしに不安に駆ら れていた野村の耳は、誰か讐とぽくと戸の外に来て、力なく 戸を叩く音を聞いた。そうしてその許可も与えぬ間に、戸は殆 んど音なく開かれて、閾の上に星野が暗く蒼白い顔を現わし た。        一八○  星野は戸口に立った盤、沈痛な|眼脾《まなざし》で|四辺《あたり》の光景を眺めた。  野村も星野の姿を見た瞬間に、立ち上って二三歩進み出た が、余りに奇異なる星野の態度に、その儘そこへ立辣んで了っ                \ た。 「星野君。どうしました。」野村はやゝ暫らくして訊ねた。  星野は|渇《かす》れノ\ではあるが、底の重い声音で陰欝に口を開い た。 「野村君、澄子は死んで了った。」 「えっ、澄子さんが死んだ2 それでは僕の薬液は、とうく 効果を現わさなかったのだね。」  と詰め寄る野村を制して、星野は悲槍に云い続けた。 「いや、君の薬液は、君の云って行った通り、あれから三時間 後に効果を現わした。そうして正に澄子は昏睡から醒めた。熱 も確かに下っていた。君の薬液は成功したのだ。云う迄もな く、僕もそれは認める。」 ,「そうでなくちゃならたい。」助手の宮田は傍から口を出した。  星野はその方を口惜しそうに見やって、更に野村に向き直っ た。 「が、併し君の薬液で生き返った澄子は、今は、もう死んだ。 別な理由で死んだ。実は、自殺したのだ。僕の看守の隙を覗っ て、あの高熱に衰弱した身体であり乍ら、窓から外へ飛び出し たのだ。そうしてこの最上川に身を投じて、自ら死んで了った のだ。屍体は捜索の結果、直ぐに上った。百方手を尽したな ら、或は蘇生したかも知れない。けれども僕は今度こそ、蘇生 させるに堪えなかった。|彼女《あれ》は生きていられないのだ。是非に も死なゝくてはならなかったのだ。その理由は君の推察に委せ る。兎に角、僕はそれだけの事情を報告すればいゝのだ。ー では、後始末が忙しいから、僕は、是で失礼する。」  星野はこう云って、皆が懐然と立った儘、言葉なく聞き尽し ている中で、■音もなく戸を鎖し去った。彼の低い重い足音が、 だんく戸口から遠ざかって行った。  皆は呆然としていた。暫らくは言葉もなく、互いに顔を見合 ーわすのみだった。  野村は崩れるように椅子に身を下ろした。彼は自分の感情と 思考を纏めるために、手を深く髪の中に掻き入れた。  黒川が低く|独語《つぶや》くように、あのひと 「復讐は完全に行われた! 彼女の死は当然の罰だ。彼女も受 くべき罰を受けたのだ。」と最初の言葉を発した。 「いゝ気味だわ。私もこれでやっと胸が清々したわ。」とお駒 もそれに連れて云った。彼女のこの手強い言葉は、或る場合に 立到ると、女が男よりより|深《  》酷だと云うことを、証拠立てるよ うにも響いた。■ 「けれどもお可哀そうね。」  淑子がその後から云った。愛の闘争の苦しさを知りそめた彼 女は、その如何なる過去の罪過にもせよ、澄子の死を憐れまざ   るを得なかったのである。    お咲はその時自分の代弁者を得たように、淑子の方を賛成顔  に見た。そうして自身は何も云わなかった。   やがて子爵も静かに云った。   「猿芝居にも悲劇は在る。願わくはこんな芝居も、この辺で止   めにしたいものだ。」    野村はまだ黙っていた。が、暫らくしてこれも突然、寧ろ苦   しぼに弦き出した。   「俺の|行《や》り方は余りに残酷だったが、俺はあゝするより外に仕   方が無かったのだ。意識して残酷に復讐したのではないのだ。   澄子! お前がもしそう思うなら、それは俺の意志ではなく   て、天が|自然《ひとりで》に作った皮肉なのだぞ。澄子! それにしてもお   前はよく死んだ。死んでよくお前の意地を通し㌃心の弱い俺   は、お前のその心には皮肉でなく尊敬を持つぞ。澄子! 俺は   今こそお前を精神的に考えて、心から許すことが出来る。俺は   前からお前を許す気では居ったが、その許しの心持にはわざと   らしい誇張が加わっていた。許したくない心を抑えて、強いて   許そうとしていた。が、今こそは全く騎前を許し得る。死んで   から許したのでは、或いは遅過ぎると云うかも知れない。併し   お前は死ななければ、この許しを享くるに気が済むまい。今こ   そお前は許される資格があるのだご    野村は澄子の霊が宥しを乞うていると否とに係わらず、自分   は自分だけの博大な心持に、初めて成り得九のを感謝したかっ   た。そうしてその心持に立到った時、急に死んだ秀子の心を思  .い起した。あゝ遂に宥さるべき人は宥され、許すべき人は許し   たのである。    併し星野は! 野村は彼の心を考えた時、また一つ小さな峠   があるような思いがした。が、それとても血で洗うた悲劇の後 には、火で焼かれた煉獄の後には、いずれ浄化の姿を敢るであ ろう。  野村は立って窓を開け放した。空は暗かった。そうして遠い 所で稲光りがしていた。やがて一と雨来る気配が、天と地とを 軍めていた。        一八一  その夜明から降り出した雨は、稽ぐ強目な風をさえ伴うて、 二三日が程激しく続いた。そうして或る朝からりと|霧《   》れ亙る と、最上川畔の風物は、もう残りなく秋の色を帯びていた。  日の光りも昨日の白々しさを消して、澄んだ|光沢《つや》を|翻《こぽ》してい た。雑草も色を変える程ではないが、葉と葉の隙がはっきり 透って、もう|蒸《いぎ》れ立つ勢いも無いように見えた。たf併し夏の 間に潜み咲いていた|繊弱《かよわ》い螢草が、露の重さを含み返して、朝 の川縁を瑠璃色に領していた。  野村は|毎《いつ》もの通り朝早く、いつもの径を漫歩し乍ら、いつも の通り黙想していた。併し彼の頭を|狙疎《ゆきき》する思いは、自ら別な 方向を取った。彼はもう一段落ついた仕事の事を、今迄のよう に考え耽ってはいなかった。却って彼はこの一年に満たぬ間 に、自分の身辺に波欄した人事の幾断面を、次ぎくと静かに 回想した。顧みれば凡ては夢の如くであった。人生の凡ての喜 怒哀楽も、過ぎ去り来って静かに観ずれば、誰でも云う事で はあるが、夢幻の中に経て来たも同様である。併しすべての過 去をそう観ずるには、現在の心境が安定でなければならない。 そうして野村にこの心の安静を得さしめたものは、矢張り彼の 努力の|賜《たまもの》に外ならなかりた。彼は又しても何ものかに感謝し たい思いで、胸が一ばいに満たされた。ふと|立《  》仔って|脆《ひざまず》くよ うな気になり乍ら、眼を大地に向けた時、彼は一と|叢《むら》の螢草を 沁々と目に留めた。彼の心は今その色の如く清澄であった。  彼はその一茎を摘み取った。今それをじっと眺め入る彼の心 に、その可憐なる花の色こそは、誰に|擬《なぞ》らえるとはないけれ ど、あらゆる人事の謙遜な美しさを|象《かたど》って、弱々しくは見える けれど、深きは海の色とも|比《たぐ》い、輝きは空の碧とも競うと思わ れた。  野村はそれを携えた盤、静かに歩みを返した。  彼が研究所の裏手から帰ると、そこの病室の窓際に、淑子が 美しい笑顔を見せ乍ら、停んでいるのを見出した。 「お早うございますね。」野村は嘗て淑子の逃れて来た当時、 これと同じような|場面《シ ン》があったのを思い出し乍ら、窓の下の方 へ近づいて行った。 淑子の回復した顔色は、冷たい朝風に冴えた色を見せて、光 を|真向《まとも》に受けた上半身が、外光派の画に見るような|清《すがく》々しさを 匂わせていた。 「お気分はどうですか。我慢すれば、今日は東京へ帰れます か。」 「えゝ、さっばりしましたわ、お蔭さまで。皆さんと御」緒 に、今日は東京へ帰るのだと思うと、一層元気が出て参りまし たの。」 「そうですか。それは結構ですね。」二人は鳥渡黙った。 ・「また朝の御散歩?」淑子が遅れた事を聞いた。 「えゝもう今日が今年の最後ですからね。」 「それは何P」淑子は野村の手に持っているものを指した。 「螢草、又は|露草《つゆくさ》とも|月草《つきくさ》とも云います。」 「そう。私が此方へ参った翌朝、騎庭の隅で見つけたのも、そ れと同じ草でしょう。……ほんとに可愛らしい花ね。」 ー「貴方に上げましょうか。」野村はふとそう云って了った。 「えゝ、有難う。」そう云って淑子も何故か頬を少し染めた。'  野村は急にそれを窓枠の上に置くと、自分乍ら幼稚な芝居を したように感じて、恥かしさに頸筋が熱くなるのを覚えた。そ れで慌てゝ「失礼。」と云った儘、そこくにその場を立去っ て了った。 ■野村は帰るともなく研究室に入った。そこはもう大抵の用品 が片付けられて、幾らか索冥たる光景を呈していた。彼は片隅 の椅子に腰を下して(彼が苦心を重ねつゝ一夏を過した場所、 彼の光栄ある戦場とも云うべき場所、又更に来るべき幾夏か を、ー今度は病源体の研究に従事すべき場所を、感慨深く眺め た。思えば彼には余りに多くの副産物を齋して、今年の研究期 も終ったのである。        一八二  星野は既に一日早く、澄子の遺骸を擁して、最上川畔を引上 げて了った。  野村も今日は淑子を伴れて、皆と共に東京へ帰るのである。  彼はお駒の後援に依って、.立派に設立された研究所の内外 を、改めて感謝の心に満たされ乍ら、抵掴顧望やゝ久しゅうし た。  研究所の留守は、又の夏まで徳爺が護る事になった。彼はそ れを喜んで引受けたが、僅かな|馴染《なじみ》にも係わらず、身を以て援 け合うた入々と別れるのは、心から名残惜しげに見えた。殊に 親しみ合うた助手の宮田とは、勇士同志の由々しき別れを惜み 合うた。 「おい爺さん。来年の夏まではきっと生きていて呉れろよ。お 前は年が年だからな。俺は心配でならないんだ。俺たちが居な いと思って、余り果物の盗み喰いなんぞしちゃいほないよ。」 助手はわざと快活に云ったが、彼の眼は鳥渡潤んでいた。 「おめぇこそ気を付けろよ。年は若えから死にもしめえが、東 京にゃあ美しい女子が沢山いるちゅうから、滅多なものに引か かって、この爺さんを心配させなさんな。それあおめえの面だ から、向うからあ惚れめえけれど、おめぇも此方にいてこそ感 心に固えが、向うへ帰ると簸が緩んで、つい若気の|過失《あやまち》をしね えものでもねえ。1ねえ野村の旦那、ほんとにょく監督して やって下せえよ。」 「そんな事を心配するない。」宮田は苦笑して云った。「そんな 点にかけちゃあ、俺程確かな者は無いんだ。何しろ研究に惚れ たり、惚れられたりだからなハ輝り乍ら。1ねえ先生。」  野村も苦笑し乍ら、「そうだ。まったくだ。俺には宮田を監 督する資格なんぞないよ。随分若気の|過失《あやまち》をした方だからな あ。」と口を挾んだ。 「でも旦那、貴方のはそれで|良《よ》うがさあ。いずれ御立派な奥さ まがお|定《き》まりになるでしょうからね。ねえお嬢さま。」爺の鋭. 鋒は急に淑子に向いた。 「あらそう。それはお目出度うございますわね。」淑子も今度 こそは相手が相手だと見て、見事にその鉾尖を受け止めた。 「だがお嬢さま。おめえさんも何処へ嫁入りするだか知らねえ が、御祝儀の時はこの爺やにも知らして寄越さっせえよ。爺や はお祝いに松の木を伐って、立派な手造りの島台を差し上げる だから。」 「有難う爺や。-」だがそんた話はもう沢山。」淑子も美しく 差らって云った。 「もう沢山か。それじゃおめぇさんは堪忍して上げるだ。l が、何しろ宮田の奴にゃあ。まだ説教が足りねえよ。」 「又御忠告の逆戻りか。騎やノ\。」助手はわざと恐縮した。 「逆戻りでも何でも、この皆さんの中で、身が|定《き》まらねえなあ おめえ→人だからな。見さっせえ。この可愛らしいお咲坊ま で、顎鷺の旦那が定まってるだ。-おいノ\お咲ちゃん。騎 めえ何も恥かしがるにゃあ及ばねえよ。爺と別れる段になっ て、そう人の後に匿れるもんじゃねえ。はゝあ解った。成る程 騎めえも感心だなあ。隠れるのにもちゃんと黒川さんの|背後《うしろ》を 忘れねえ。」 「厭なお爺さん。」お咲は|真実《ほんとう》に泣き出しそうになって云っ た。 「やあ、こいつあ云い過ぎた。爺やもこの頃は余り嬉しいん で、頑固の簸が外れかけたf。まあ堪忍して呉んな。別れる時 に怒られちゃあ、.爺やも来年まで気持が悪いからな。」  すると、その場の穂を接ぐためか、子爵がこう口を出した。 「併し爺や、何故僕の身は心配して呉れないんだい。・僕こそま だ身の|定《き》まらぬ、宮田君なぞよりずっと不安心な、哀れむベき 身の上なんだぜ。」 「私もよ、私こそ浮草のように、何処へ流れるか解らない身だ わ。」お駒も|傍《わき》から云い出した。 「へゝゝゝゝ、」爺やは先ず笑った一「貴方がたはそれでいゝん でさあ。心配はありませんや。|即《つ》くにしても離れるにしても、 世の中はどうにかなって行きまさあ。」 「爺や、お前もなかく悟ってるね。」野村が最後に批評した。 「へゝゝゝ\一、どうですか。が、何しろ、儂もこの年まで独り で過ごしたfからね。」  その胸に応える言葉に、子爵はお駒と顔を見合わした。恐ら く二人は、もう離れハ\に生きて行く決心を得たのでもあろう か。  その中に出発の時間は差し迫った。そうしてとうく同勢七 人は、徳爺一人を後に残して、名残も尽きぬ最上川辺の研究地 を立ち去った。        一八三  嘗て、不安の野村を北に運んだ汽車は、今、歓喜の一行を載 せて上野駅に着いた。  停車場には輝子が迎いに出ていた。彼女は人目を避けるよう に、柱の蔭に仔んでいた。併しそれは|先《ノ》の日の如く、良人に 輝ってfはなかった。良人の誤解は既に解けていたのである。 たf彼女は野村と澄子との間に挾まった事情から、余りに公然 と出迎える訳にも行かなかったのである。彼女は一方野村に最 も長い祝電を寄せると同時に、又他方には最も長い弔電を、実 姉のために打たねばならぬ身であった。その間に於ける彼女の 感慨こそは、世にも不思議なる複雑さを持っていた。そうして 結局のところは、野村も既に澄子のすぺてを許したであろうと 推察して、姉の死その物は悲しんでも、それによって蹟われた る|霊《たましい》の満足を喜ばねばならなかった。  汽車は歩みを止めた。野村たちの一行は打揃うて|歩《プラツト》 |廊《ホ ム》に下 り立った。  輝子は小走にその方に進み寄った。彼女は喜びとも悲しみと もつかぬ感情に息を|窒《つま》らせて、 「野村さん。」と呼びかけた。  野村は此方を振り向いた。そうしてそれを認めると、意外な ような又予期していたようた面持に、是も喜びとも悲しみとも つかぬ笑いを含んで、 「輝子さんですか。」と近づいて来た。 「御成功なすってお目出度うございます。」 「有難う。器蔭で薬液だけは完成しました。」と急に声を落し て、「が、お姉さまは、ほんとにお可哀そうな事をしました。」  輝子の顔はふと曇った。が、野村の言葉に姉を許した温かい 響きのあるのを見出して、涙ぐましい程に感謝し安心した。 「何もかも不思議な運命ですわ。考えてみると姉も不幸な女で したわね。!今日葬式も滞りなく済ませましたが、思い出す と悲しくなって涙が|翻《こぽ》れました。」  野村も亦賠然として、ー 「器墓は何処ですか。」 「雑司ヶ谷でございます。」 「貴方は今日その墓地から、此処へ私を迎えに来て下すったの ですね。」 「えゝ。何かそれが悪うございましたでしょうか。」 「いゝえ、そんな事があるものですか。私はた間その運命の糸 の連がりを、感慨深く思った間けです。そうしてこうして来て 下すった貴方に、もっと感謝したいと思ったfけです。ほんと に貴方も、よく私たちの間に挾まって、隔てのない好意を双方 に頒けて下さいました。あんな事はなかく出来難いことで す。舷で私から改めて感謝致します。」  輝子は野村の長揖に連れて、恐縮するように頭を下げた。そ うして顔を上げて見ると、そこの目の前に、今度は淑子が立っ ていた。 「輝子さん、|久潤《しばらく》でしたわね。今度は又お姉さまが。あんな事 でお亡くなりなすって、私、何と申し上げていゝか解りません わ。」  と淑子は挨拶した。彼女は実際澄子の死に対して、全くどう 云う感情を持っていゝのか解らなかった。  彼女は嘗て、或る意味で野村の心中にある澄子の存在を、淡 い嫉妬めいた気持に染めて見た事もあった。愛人を棄てた仇敵 として、一方澄子を憎むと共に、澄子が棄てたが故に、自分と の縁が繋がりかげているのだと思うと、そこに又一種の感謝も 湧いたりした。或る時は又、.澄子の棄てた物を拾うような気が して、澄子に嘲笑われるように感じた事もあった。が、今はそ の妙な恋の|敵手《ライバル》も、肉体的には存在しないのである。恐らくは 野村の心中にも、澄子に対する現世的の未練なぞは、全く無く .なって了ったであろう。そうして只彼女の姿は、死んだ秀子の 姿と同じく、単なる浄化された霊的の偶像とたって、清く思い 出さるゝに過ぎまい。恋は霊と肉との一致した潭融境である。 単に霊魂のみの寂光土ではない。この理を冥々に会得している 淑子は、野村の心の殿堂に、永久に祀り込まれた二人の前の恋 入を、もう嫉妬するにも当らなかった。その意味に於て澄子の 死は、淑子に淡い安堵の念を齋した。その心持を追究すれば、 或いは人の死を喜ぶ、甚だ非人道的なものかも知れなかった。 が、野村を愛すれば愛するだけ、そう云う|利己心《エゴィズム》の潜むのも、 人間として止むを得なかった。併し淑子はそれを恥じた。思え ば恋愛の利己主義は、人類の負うた永久の罪なのである。その 罪状の最も深き澄子は苦しんで死んだ。そうして今最も|慶《つムま》し やかなる淑子さえ、その罪悪の意識に苦しまねばならぬのであ る。しかも淑子の如きはこの世に於ける罪人の中で、最も罪軽 きものであろう、安らかに死んだ秀子に至っては、その点に於 て殆んど聖者であらねばならない。  淑子のこの心持を含んだ挨拶に、輝子は只こう答えた。 「もう姉さんの事は蚊で申しますまい。それよりもずっと大き な騎目出度い事があるんですもの。淑子さん、貴方もほんとに お目出度う。」 「いゝえ。1有難う。」と淑子は又口籠った。彼女は野村の 成功が祝われてるのか、自分の回復が祝われてるのか、野村と 自分との間に生じた事件が祝われてるのか。事実はよく解らな かった。併し心の奥では、顔を紅めなければならぬ程、|他人《ひと》の 祝詞の真意を理解していた。  輝子は尚も皆と挨拶やら祝詞やらを取交した。そうして一同 は悼を連ねて、久方ぶりの|家《うち》へ帰った。        一八四  その翌日、野村は|朝餐《あさめし》を済ますと直ぐ、誰にも行先を知らせ ずに、独り雑司ケ谷の墓地に赴いた。そこに澄子の新墓の在る 事は、昨日念のために輝子から聞いて置いた。彼は先ず何より も先に、澄子の墓標に対して、彼の今の心持を表明し、地下の 彼女を|瞑《めい》せしめたかった。それは野村自身の、気の済むためで もあった。又彼の性格の弱い善良さから生ずる、真実の寛量か らでもあった。  野村は昔からこの墓地が好きであった。墓地の中心をなして いる、コローか誰かの好んで描きそうな、銀緑の森も好きで あった。秋になると見事に黄落する、一木の銀杏も好きであっ た。彼も昔は好んでその外人墓地の|径《こみち》を散歩し乍ら、墓標に刻 した碑銘を読んだり、又はそこらの要垣から葉を摘んで、草笛 を吹いたりしたものであった。そうして恩師たる秋山博士の死 後は、屡ぐその墓を訪れるのを怠らなかった。先生の墓は美し い銀杏樹下に在った。恐らくは澄子の墓も、その傍に在るので あろう。  彼は入口の茶屋で、白い手向けの花を≡二束求めると、静か に歩みをその方向に向けた。 、幾多の、紛らわしい径はあったが、一彼の付けた見当は外れな かった。彼は直ぐに、悲しむべく真新しい、彼女の墓標を見出 した。それは故先生の一つ隣の、さゝやかな一と構えの墓所で あった。  野村は先ず一束の花を恩師の墓前に捧げて、曝うべき運命の 悪戯から、その家に永らく遠のいていた事情を陳謝した。そう して|惹虫病《っとがむしびよう》治療液の完成に就ての、自分の業績を改めて報告 .した。それは彼のせめてもの、報恩の万一に外ならぬのであっ た。  それから彼は更に別な花束を取って、その|隣地《となり》の澄子の墓前 へ、従容として入って行った。  真白なる墓標の表には、秋山澄子之墓と記されてあった。  (星野は彼女の入婿として、実は秋山の名を一名乗っていた。 が、皆は便宜の上から、旧姓を呼んでいるのであった。)  王は新しく赤く盛られて、その上を物哀しき迄に初秋の日が 沁みていた。そのあたりに手向けた線香の崩れた灰や、花筒に 括した萩や鳳仙花の、もうほろくと散っているのも佗しかっ た。  野村は帽子を手に脱いで、真直ぐに墓標を見上げ、それから 長い丁寧な礼拝をした。そうしてじっと垂れた首の下から、独 り語のように呼びかけた。  「澄子さん。僕はもう君の凡てを|宥《ゆる》した。君もどうか僕の凡て を、改めて許して呉れ。成程僕の最後の行為は、貴方に取って 余りに残酷な、皮肉な復讐と見えたかも知れない。そうしてそ の意地に堪えられなくなって、折角生きた身体を、|文暴《あらく》々しく 自ら殺して了った。が、僕の志には、決してそんな復讐の意図 はなかったのだよ。こんな結果になろうなぞとは、夢にも思っ ていなかったのだ。今日こうして僕の来たのなぞも、決して余 裕のある|冷評《ひやかし》半分で、勝利を誇りになぞ来たのではないのだ よ。僕は真実に許し許されて、是から平和に生き度いのだ。澄 子さん。なんと㌍お前仁霊があるなら、どうか僕の心だけは誤 解しないで齢呉れ。」  こう云って野村は、静かに花束を手向け終った。そうして更 に一礼して、ふと|踵《 ちぎびす》を返して見ると、そこには何時の間に来た か、星野が同じように花束を持って、撫然として立っていた。  野村は吃驚して何も云えなかった。その上何となく見られて はならぬ事をしたような、恥かしい気持に襲われて、黙って会 釈をしたまゝ、勿々に其処を去ろうとした。  すると星野は沈欝に、「有難う、有難う。」と二言ばかり繰返 した。その声音には反感は無かった。そうして彼の表情には、 もう野村に対する憎悪は無いように見えた。如何に性格の強さ 執拗さを、|希《ほこ》りに持っている星野も、血と涙の堆禍の中で、悲 痛哀苦のその果に、ようやく和げ練られたに違いないのであ る。  野村は星野のこの表情を見ると、意外なような狼狽と、待ち 設けていた嬉しさを、一時に心の中で|混《こん》ぐらかせた。そうして 何と云っていゝか更に解らなくなって、隔意のない会釈をもう 一度返した儘、黙って其処を去って了った。  帰途に野村は何か和解の言葉を云うか、改めて握手でもしな かった事を、顧みて悔ても見た。が、併し心の中で強く、 「あれでいゝのだ。あれでいゝのだ。」  と繰返した。そうして澄み亙った午前の秋空に、静かに浮ぶ 鱗雲を高く仰いで、何時かは来たるべき友情の復活に、希望を 抱き乍ら立帰った。        一八五  それから数日後である。野村は二通の外国電報に、突如とし て驚かされた。併し彼はそれを受取った瞬間に、誰から来た祝 電であるかを、直に推察して喜び得た。  果然一通はボンべイなる、小島博士の発信にかゝる㍗成功を 祝した電文であつた。そしてその方には尚奮励努力を祈ると云 う以外に、別段な用事も書いて無かった。野村は感謝して読み 終った。  併し彼がもう一通のを開いた時、それは予想通りロックフェ ラーの山口博士からの祝電であったが、その非常に長い文面に は、予想以上の用向が記されてあった。  博士は先ず懇篤に野村液の完成を祝した後、それを米国に於 ける|紅斑《ヌポツテツドフイ》 |熱《 バ 》に応用して見たいから、野村の都合がよかった なら、直ぐにも薬液を携えて、米国へ亙って来ぬかと云う、丁 寧なる勧誘状であった。  既にリッケッッ博士の研究に依って、症状は殆んど知れ渡っ ている|紅斑《スポツテッドフィ》 |熱《 バ 》は、ロッキー山間に流行する吾が悲虫病と類 似の風土病であった。そうして是も悲虫病と同じく、まだ病源 体の発見は勿論、適当なる治療法も見出されなかった。が、症 状は殆んど悲虫病と同型であるから、事実野村が完成した薬液 も、幾らか配合を適応させれば、効果を挙げぬとも限らなかっ た。  加うるにその病源体は、悲虫病、並に星野と宮田のスピロ ヘータ論争以来、.まだ懸案になっている発疹チプスと共に、学 界に於ける発見の宿案であった。そうしてこの三つの病源体 は、甚だしく類似した症状の故に、恐らく一つが発見せられた なら、他の二つは相次いで発見せらるゝに違い無かった。  ではその発見をなすものは、果してどの国の学者であろう。 そう考えると野村は、胸の奥まで奮い起つのを覚えた。しかも 今紅斑熱の研究に就ては、彼は願ってもなき好機を与えられて いる。加うる忙舞台は|亜米利加《アメリカ》である!  野村の胸は躍り血は湧いた。そうして彼は日本に又もや思い 残す多くを持ち乍ら、再び渡米する事に決心した、  そこへ丁度森戸子爵が訪ねて来た。子爵は野村の居間に導か れると直ぐ、 「今日はどうしたのだい。この頃幾らか元気づいた上に、今日 は又馬鹿に嬉しそうじゃないか。」と云った。  野村はそれには真直ぐに答えないで、 「森戸さん。僕は又直ぐに亜米利加へ行こうかと思う。ロック フエラ1の山口博士から、又勧誘状を下すったんです。これこ の電報がそれですよ。」  子爵は電文を取り上げて見て、鳥渡考えに沈んだが、静かに こう聞き返した。 「成程、これは結構だ。1して今度渡米したら、何時まで向 うに居る|心算《つもり》かね。」 「そんな予定はしてないが、又今度も一年程向うの様子を見た 上で、又来年の悲虫病期までには帰つて来る積りです。それか ら更に又直ぐ出掛けるにしても。1」野村は漠然と或る事を 思うて、帰るべき日を近くに置こうとも思った。 「するとまず差し当り一年だね。その位の間を隔いて日米を跨 にかけるのも、君に取っては面白かろう。宜しい。僕も賛成し た。就ては淑子はもう一年待たして置くから、安心して行って 来給え。」子爵は突如として問題を直下に持ち出した。 「何ですって、淑子さんを待たして置くなんて。」野村は子爵 の確定的な態度に、砂からず慌てた。 「野村君。もうそう逡巡して呉れ給うな。君の心は解ってるん だから、そう思わせ振りな躊蹉はしないで、屑くうむと|云《  》って 呉れ給え。淑子はあんな馬鹿だが、一般女性の水準から見れ ば、少しは群を抜いて居る積りだよ。それに可哀そうに|彼女《あれ》に 取っては、もう賓ころは投げられたんだ。|彼女《あれ》はルビコン河を 渡ったつもりで、最上川を越えて了ったのだよ。だから君の所 以外に、もう行き所もない身なんだ。l僕は今日こそ妹のた めに、柄にもない勇気を奮い起して、君と膝詰談判に来たん だ。|真実《ほんとう》に承知だけして呉れ給え。」 「有難う。僕は実際身に余る光栄だと思いますよ。しかも何だ か小説の大団円のようで、運命に嫉まれはしまいかと思う程、 幸福に感じてならないのです。」 「じゃあ承知して呉れるのだね。」 「その代り一年待って下さい。1一年待つ間には、淑子さ んも考え直すかも知れませんからね。」野村は苦笑しつゝ 云った。, 「淑子もそれほど倒巧だと話せるがね。彼奴ぽんくらだから|大《  ち 》 丈夫だ。ほんとに安心して行って来給え。」 「有難うございます。」野村は尊敬すべき未来の令兄の前に、 改めて唐突のお辞儀をした。 ■子爵はそれを笑っていゝか、椰楡していゝか、真面目に応じ ていゝか、態度を定め兼ねているその時に、黒川も折よく訪ね て来た。子爵は黒川の顔を見るなり、 「黒川君、喜んで呉れ給え。野村君は又米国へ行く事にたっ た。そうして淑子との結婚も纏まって、一年後に式を挙げる事 に|定《き》まった。君とお咲さんとの婚礼も、友人甲斐にその時まで 延ばし給え。」  黒川は急にそう云われて、何のことか薩張り分らぬような、 きょとんとした|顔《    》をして聞いていたが、野村に電文を指さゝれ, て、その話を呑み込むと、子供のように頭を振り乍ら、 「いやだ、いやだ-野村の亜米利加行きは素敵に賛成だが、僕 たちの結婚を延期するのは厭だ。僕たちは野村が行った後直ぐ に、つゝましやかな|盛蕎麦《もりそば》祝言と云う奴をやるんだ。わざノ\ 結婚を延ばすような、そんな友人甲斐は持たないよ。」と云い 放った。  それには野村も子爵も、思わず供笑させられた。  かくて彼らの運命は、思いくに|定《き》まったのである。  やがては子爵もお駒も、その中どうにか成るであろう。どう にかなるのを待つより外にない彼らは、不幸に見えて併し実は 幸福であるのかも知れない。……        一八六  港上の秋は|隈《くま》もなく晴れ亙った。海の遠きより至る微風に、 霧は悉く追い払われて、朗かに澄む日の光が、岸壁を輝かに照 り|温《ぬく》め、海波を青く凪ぎ畳んだ。  埠頭にはやがて解漉すべき、米国行の汽船諏訪丸が繋がれ ている。飽くまで晴れ亙った日は、その下に寄せる半透明の水 にまで射して、ゆらくと波紋を船腹に映した。殊に日射しも 朗かなのは、拭い清められた上甲板である。そこには今日の晴 と|眩《まばゆ》さを競うて、見送らるゝ上等船客と、見送る紳士淑女が集 まっていた。  中にもその片隅に|集《つど》うた、一と群の見送られ見送る人々が、 何とたしに目立っていた。それは殊に麗しい、多くの女性を交 えているためでもあった。又時々若々しい笑語が、春の如く揚 がるためでもあった。  彼らは他の見送り人からさえ注昌の的になっていた。 「爵いく。鳥渡見給え。」と一人の少壮実業家らしい紳士が、 伴れの同じような蕩児型の男に|私語《さとや》いた。「彼方に居るのは、 そら例の駒奴と云う奴だぜ。どんな縁故でどんな男を見送りに 来ているのだろう。」 ■「うむ、成程そうだね。彼奴相変らず美しいな。外光の下で見 る之、.大低の芸者は汚いものだが、彼奴は却って輝くほどだ ね。」  「確かに彼の|中央《まんなか》にいる若い男を見送りに来てるらしいがハど うも話振りや様子では、只のお客筋じゃないらしい。殊にあそ こにいる他の女性は、いずれも身分の高い家の令嬢か夫人だ が、それらとも隔てなく話しているのを見ると、一体どんな関 係があるのか、僕には鳥渡推察がつかないよ。」  「まあいゝさ。ついたところで仕方がない。それよりはこの|辺《あたり》 に立停っていて、あの美人連でも見た方がいゝ。.駒奴も美しい が、あの外の三人だって、義理で見送りに来た僕たちの眼に は、可成上等な蚊穫と云うものだ。」  「併し余り露骨にやっちゃあ、紳士たるものゝ体面に関する。 まあ向うへ行こうく。」■  ヒんな風に噂して過ぎる者もあった。  別離の甘い哀愁に、自ら銀を|湿《うる》ませ乍ら㌔、又の|首途《かどで》の興奮 ■に頬を輝かしている野村は、各ぐ別離の情を奥に蔵した子爵 の軽い譜譲や、黒川の四辺を揮らぬ放談に、微笑み乍ら答えてい た。お駒も華やかにそれに交った。その他の女連れは、皆二三 言言葉を交したきり、-淑やかに取り捲いていた。中にも輝子の 晴々しい笑顔は、猶微塵の陰影もなく笑み続いてい九。彼女に 取っては殆んど悲しみは無かった。お咲は殆んど笑う余裕もな く、胸を|窒《つま》らせて|偲首《うなだ》れていた。彼女に取ってこの別離は恋な らぬ肉親の親しき者に、別るゝ如き哀感を起さしたのである。  最後に淑子は、泣いても笑ってもいた。彼女の眼は野村と同 じく澄み乍ら湿みを含んだ。彼女の頬も野村と同じく、薄く刷い た化粧の下に、血の輝きを灰に見せて、楚々と微笑む顔の全 体は、.薄色紅の芙蓉の花の、朝日に咲き出た艶麗ささえ帯びて いた。そうして彼女の眼は余りに屡ぐ、屡ぐ過ぎる位に屡ぐ、 野村のそれと相会うた亘  そうこうしている中に、出船の|銅鐸《どら》が鳴り渡った。 「左様なら、御機嫌よう。」「左様なら、御無事で。I」,別れ の挨拶がそここゝに起った。  野村も、「有難うございました。左様なら、行って参りま す。」と皆に向って挨拶した。そうして子爵と黒川には、固い 熱い握手をした。女たちとも一々心を軍めた別辞を交した。そ うして最後に淑子と相対した。 「淑子さん。それでは左様なら。もう一年きっと待っていて下 さい。」 「えゝ、きっとお待ちして居りますわ。」  野村は嘗て澄子とも、これと似た別辞を交したのを思い出し て、その記憶を振り落すように、猶も淑子の顔を見定めた。そ の目前の美しき顔には、誠に並々ならぬ真実が籠って、大理石 像に刻み込んだように、永久に消えぬらしい表情が在った。森 戸子爵の如き|懐疑派《スケプチシスト》は知らず、野村は直にその表情を信じた。 淑子としても必ずその信頼に酬いねばなるまい。  野村はそれから遅れて来た宮田や、その他の友人たちにも別 れを告げた。  別辞が一と通り済むと、皆は|架橋《プサツジ》を渡って岸壁へ去った。野 村は甲板の欄干に身を寄せて、岸壁の皆と別れを惜しんでい た。  ふと|彼《  》はその見送りの人々の|背後《うしろ》に、恰も人目を揮るかの如 く、そっと立っている男の姿を認めた。それは忘れもせぬ星野 の姿に似ていた。彼は思わず胸を打たれて、猶もじっとその方 を見定めた。浅黒い渋味を帯びた男らしい顔、確かにそれは星 野に違い無かった。星野はひそかに自分を見送りに来たに違い なかった。  野村は一種の感激に、さらでも迫り勝な別離の胸を、一層激 -しく波立たせられた。彼は墓地以来の星野を、再び完全に取り 戻した友人として、涙ぐみ乍ら眺め返した。  汽船はむず痒いように船腹を|戦《ふる》わして、びゅるるると|汽《     》笛を 高く鳴らした。機関の音がようやく激しくなって、諏訪丸は徐 徐と岸壁を離れ初めた。  「万歳!」と呼ぶ声が岸壁のそここゝに起った。野村は自分を 見送る一団から、黒川と宮田の蛮声を中心に、自分に与えられ た「万歳」の声を聞くと、|露《あら》わに涙をはふり|落《   》しつゝ、帽子を 頭上高<振った。そうしてもう一度淑子の美しい姿を、■眼の底 にはっきり見納めた。それから特に人々の|背後《うしろ》なる、星野を目 がけて強く帽子を振った、星野の静かに答礼するのが、涙に 曇った野村の目に入った。  汽船は既に船首を、港外澱荘の方角に向けつゝあった。……