【これは未校正のデータです。】 小酒井不木「恋愛曲線」  親愛なるA君!  君の一代の盛典を祝するために、僕は今、僕 の心からなる記念品として、「恋愛曲線」なる ものを送ろうとして居る。かような贈り物は、 結婚の際は勿論のこと、その他の如何なる場合 に於ても、日本は愚か、支那でも、西洋でも、 否、世界|開開以《かいぴやく》来、未だ曾て何人によっても試 みられなかったであろうと、僕は大いに得意を 感ぜざるを得ない。貧乏な一介の医学者たる僕 が、たとい己れの全財産を傾けて買った品で あっても、百万長者の長男たる君には、決して 満足を与え得ないだろうと信じた僕は、熟考に 熟考を重ねた結果、この恋愛曲線を思いつき、 これならば十二分に君の心を動かすことが出来 るだろうと予想して、この手紙を書きながら も、僕は、生れてから始めて経験するほどの、 胸の高鳴りを覚えつつあるのだ。君が結婚しよ うとする|雪江《ゆきえ》さんは、僕もまんざら知らぬ仲で はないから、君たちの永遠の幸福を祈ってやま ぬ僕は、ここに君に向って恭しく恋愛曲線を捧 げ、|柳《いささ》か微意を表したいと思うのである。君 は、僕のような武骨一点張りの科学者が、恋愛 などという文字を使用することにすら、滑稽を 覚えるかも知れぬが、然し僕は君の考えて居る ほど冷血ではなく、多少の温かい血は流れて居 るつもりだ。流れて居ればこそ、君の結婚に対 して無関心では居られなくなり、頭脳を搾っ て、縁起のよかるべき名をもった、この贈り物 を考え出したのである。  明日に迫った君の結婚に、今夜差迫って手紙 を書くということは、甚だ礼を欠いて居るかも 知れないが、恋愛曲線の製造が、今夜でなくて は行い得ないものだから、気を|揉《も》みながらも やっと、明日の朝、君の手許に届けることに なってしまった。定めし君は、多忙を極めて居 るであろうが、然し僕は、君が、どんな多忙な 中でも、僕のこの手紙を終りまで読んでくれる であろうと堅く信じて居る。だから僕は、御迷 惑|序《つい》でに、恋愛曲線の何ものであるかというこ とを十分説明して置きたいと思うのだ。一口に 言えば、恋愛の極致を曲線として表現したもの であるが、開闘以来誰にも試みられなかったで あろう贈り物の由来を物語って置かぬというこ とは、君も物足らなかろうし、僕も|頗《すこぷ》る心残り がするから、煩雑ながら、我慢して読んでくれ たまえ。  この恋愛曲線の由来を最も明瞭に理解して貰 うためには、先ず一通り、君の結婚に対する僕 の心持を述べて置かねばならぬ。君を最後に見 てから約半ヵ年、その間、絶えて音沙汰をしな かった僕が、突然、君に、世にも珍しいこの贈 物をするに就ては、何か深い|理由《わけ》があるだろう と、早くも君は察するであろう。いや、聡明な 君は、一歩進んで、その理由が何であるかをも 或は知り抜いて居るだろう。  君の|所謂《いわゆる》「冷たい血しか流れて居らぬ」僕が 恋の敗北者であるということを、君は百も承知 の筈である。だから、僕に対して恋の勝利者で ある君は、僕の贈り物が、一面に於て如何に悲 しい思い出をもって充されて居るかをも十分認 めてくれるであろう。尤も君は多くの女に失恋 させた経験こそあれ、自身には失恋の痛苦を味 わったことがなかろうから、或は同情心を起し てくれぬかもしれない。全く君は女に対して不 思議な力を持った男である。君の眼から見た ら、たった一人の女を奪われて、失恋の淵に沈 む僕のような男の存在を、むしろ奇怪に思うで あろう。然し、何と思われたってかまわない。 僕はやっぱり君のその不思議な力がうらやまし くてならぬ。殊に君の金力に至っては、羨まし いのを通り越してうらめしい。その金力の前 に、先ず雪江さんの両親が|額《ぬか》ずき、ついで雪江 さんも額ずくことを余儀なくされたのだ。-- いや、こういう言葉を使うのは、如何にも僕が 君に対して恐ろしい敵意を持って居るかのよう に見えるかも知れぬが「僕は元来意志の弱い人 間で、人に敵意を持てないのだ。若し真に敵意 を持って居るならば、こうした贈り物はしない 筈である。君に対して|頗《すこぷ》る礼を失するかも知れ ぬが、現になお雪江さんに対して、強い愛着の 念を持って居る僕が、雪江さんの良人となる君 に、どうして敵意を|挾《さしはさ》むことが出来よう。僕 は、この手紙を書き乍らもやはり君たち二人の 幸福について考えつつあるのだ。  半ヵ年前に、失恋の痛手を負った僕は、その 後世間の交渉を絶って、研究室に閉じこもり、 ひたすら生理学的研究に従事した。それからと いうものは、研究そのものが僕の生命であり又 恋人であった。時には、雨の日の前に古い肋膜 炎の跡が痛み出すように、心の古傷も|疹《うず》き出す ことがあったが、何事も過去のことと諦めて、 研究に|適進《まいしん》し、やっと近頃、悲しい記憶を|下積《したづみ》 にすることが出来、君たちの結婚の日取まで うっかり忘れるところであったが、先日はから ずも、ある人から、君が愈よ明日結婚するとい う手紙を貰い、それがため、下積みにされた記 憶が、非常な勢いで浮み上り、遂に今回の贈り 物を計画するに至ったのである。 .君は実業家であるから、科学者なるものがど んな生活を営み、どんなことを考え、どんな研 究を行って居るかということは恐らく知るまい と思う。外見上では、科学者の生活はいかにも 冷たいものであり、又その研究事項はいかにも 殺風景極まるものであるが、真の科学者は常に 人類同胞を念頭に置き、人類に対する至上の愛 を以て活動しつつあるのであって、従って、 真の科学者にはー|似《え》而|非《せ》科学者はいざ知らず ー恐らく、誰よりも温かい血が流れて居るべ き筈である。実際、誰よりも温かい血が流れて 居なくては真の科学者たることは出来ないの だ。  さて僕が、失恋の痛苦を味ってから選んだ研 究題目は何であるかというに、君よ、笑うなか れ、心臓の生理学的研究だ。然し僕は、ブロr クソ・ハートに|因《ちな》んで、この題目を選んだ訳で は決して無い。それほどの茶気は僕には無いの だ。破れた心臓の修理を行うために、先ず心臓 の研究に取りかかったと言えば頗る小説的であ るが、僕はただ、学生時代から心臓の機能に非 常に興味を持って居たから、好きな題目を選ん だのに過ぎない。ところがこの偶然選んだ研究 題目がはからずも役に立ってレ君の一生に最も 目出度かるべき儀式に、恋愛曲線を贈り得るに 至ったのである。  恋愛曲線! これから愈よ恋愛曲線の説明に 移ろうと思うが、その前に一言、心臓が普通、 どんな方法で研究されて居るかを述べて置かね ばならない。心臓の機能を完全に知るために は、心臓を体外へ切り出して検査するのが最も よい方法である。心臓は、たといこれを体外へ 切り出しても、適当な条件を与うれば、平気で |榑動《はくどシ》を続けるものだ。単に下等な動物の心臓ば かりでなく、一般温血動物から人間に至るま で、その心臓は身体を離れても独立に、拡張、収 縮の二運動を繰り返すのだ。心臓を切り出せば その個体は死ぬ、個体は死んでも心臓は動き続 ける! 何と不思議な現象ではないか。試みに 今、君の心臓を取り出して|搏《う》たせて見たら、ど んな有様だろうか。又、試みに今、雪江さんの心 臓を切り出して榑たせて見たら、どんな状態だ ろうか。更に君の心臓と雪江さんの心臓とを並 べ榑たせたならば、どんな現象が見らるるだろ うか。君! 手足や胴体を|具《そな》えた人間には|兎角《とカく》 偽りが多いが心臓は文字通りに赤裸々だから、 誰|揮《はぱか》らぬ榑ち方をするにちがいない。結婚を目 の前に控えた君たちの心臓を思って、このよう な愚にもつかぬ想像をめぐらせながら、僕は今、 この手紙を書きつつあるのだ。  思わずも記述がわき道へはいったが、動物は 勿論人間の心臓も、その個体が死んだ後でさ え、これを切り出して適当な条件の下に置けば 再び動き出すものだ。久リアブコという人は、 死後二十時間を経た人間の死体から、心臓を切 り出して、これを動かせて見たところが、約一 時間、たしかに動き続けたということだ。人間 が死んでも、心臓だけが、二十時間も余計に生 きて居るということは、見様によって、如何に 心臓が生に対する執着の強いものだかというこ とを知るに足ろう。むかしの人が恋愛のシムボ ルとしてハートを選んだのも、偶然でないよう な気がする。だから、考え様によっては、心臓 にこそ、人生のあらゆる神秘が蔵せられて居る といってよいかも知れない。かくて、人生の神 秘を探ろうと思った僕が、心臓を研究の対象と したのも、|故無《ゆえた》きに|非《あら》ずと言えるだろう。  恋愛曲線の由来を語るには、如何にして心臓 を切り出し、如何なる方法で心臓を榑たせるか ということをも一応述べて置かねばならぬ。君 の多忙であるということは重々御察しするが、 手紙を書きつつある僕も、この手紙を書き終る と共に恋愛曲線を製造しなければならぬから、 可なり心が|急《せ》くのだ。然し、僕は繰返して言う とおり、君に十分理解してほしく、出来るな ら、君の心臓の表面に、この手紙の文句を|刻《キ  ざ》み つけたいと思うほどだから、暫らく我慢して読 んでくれたまえ。  始め僕は蛙の心臓を切り出して研究したけれ ども、医学は言う迄もなく人間を対象とする学 問であるから、なるべく人間に近い動物を選び たいと思い、後には主として、兎の心臓につい て研究を進めた。然し、蛙の心臓よりも、兎の 心臓の方が、その取り扱い方は遙かに複雑であ るから、可なりに熟練を要する仕事であり、は じめは助手を要するほどであったが、後には一 人で何事も出来るようになった。先ず兎を、家 兎固定器に|仰向《あおむ》きにしばりつけて工ーテル麻酔 をかける。兎が十分麻酔した時機を見はからっ て、メスと鋏とを以て、胸壁の心臓部を出来る だけ広く切り取り、然る後心臓嚢を切り開く と、そこに、盛んに活動しつつある心臓があら われる。胸中深く秘められた心臓は、外気に|晒《ふ こモり》 されても、何喰わぬ顔して動き続けて居る。 君! 全く心臓は|曲物《くせもの》だよ。「ハートはまま《ヘヘ》|に されない」と誰かが言ったが、全くその通り だ。愈よ心臓があらわれると、今度はそれを切 り取るのだが、そのままメスをあてては出血の ために手術が出来なくなるから、大静脈、大動 脈、肺静脈、肺動脈の大血管を|悉《ことごと》く糸をもっ てしばり、然る後メスを以てそれ等の大血管を 切り離すのだ。  切り出した心臓は、すぐさま、一旦摂氏三十 七度内外に温めたロック氏液を盛った皿の中に 入れるのだ。粟の実ほどの大きさをした兎の心 臓は、さすがにぐったりして|一《ヘヘヘヘ》時榑動を中止す る。そこで手早く、肺動脈と肺静脈の切り口を しばり、大動脈と大静脈の切り口にガ,ラス管を 結びつけ、更に、取り出して特別に設けられた 一尺立方ほどの箱の中の、適当な場所にガラス 管を結びつけ、摂氏三十七度に温めたロック氏 液を通ずると、心臓はみごとに榑ち出すのだ。 このロツク氏液というのは、一プロセソトの塩 化ナトリウム、○・ニプロセソトの塩化カルシ ウム、○・ニプロセソトの塩化カリウム、○・ 一プロセソトの重炭酸ナトリウムの水溶液で あって、ほぽ血液中の塩類成分の量に一致して 居るから、心臓は血液を送りこまれて居ると同 じ状態になって、その榑動を続けるのだ。然 し、ただこの液を通ずるだけでは、心臓も遂に は疲れて来る。いたに生に執着の強い心臓で も、外からエネルギーを仰がなければ、動き続 けることは出来ない。卑怯な言葉で言えば食物 が欠乏しては動けない。そこで通常この液の中 へ、エネルギーの|源《もと》、即ち心臓の食物として、 少量の血清アルブ、・・ソか又は葡萄糖を加える と、心臓は長い間榑動を続けるのである。一番 よいのは、ロック氏液の代りに血液を通過せし めることであるが、通常の実験にはロック氏液 だけで十分だ。なお心臓を自由に活動せしめる には酸素を必要とするから、通常ロック氏液に 酸素を含ませて通過せしめるのだ。  心臓を働らかせる箱の中の空気の温度も、や はり摂氏三十七度内外にしてある。そうして ロック氏液は箱の上から流すようになって居 り、心臓を通過した液は箱の下へ落ち去るよう になって居る。箱の中で、心臓だけが働いて居 る光景は、到底君には想像も及ばぬ程、厳粛な 感じを与えるものだ。切り出された心臓は立派 な一個の生物だ。薔薇のような紅い地色に黄の 小菊の|花弁《はなぴら》を散らしたような肉休を持つ魔性の 生物は、|渚《たぎさ》に泳ぎ寄る|水母《くらげ》のように、収縮と拡 張の二運動を律動的に繰返すのだ。又、じっと その運動を眺めて居ると、心臓は|恰《あたか》も自分の自 由意志をもって|行《や》って居るかのように思われ る。ある時はその心臓に小さな目鼻が出来て、 母体から切り離されたことを恨んで居るかのよ うに見え、ある時は又浮世の空気に触れたこと を喜ぶかのよヶに見え、更にある時は、心臓だ けを切り出して生物本来の心臓機能を研究しよ うとする科学者の愚を笑って居るかのようにも 見える。然し、これはただ僕の幻覚に過ぎぬの であって、元来、心臓は、体内にあっても体外 に切り出されても、その全力を尽して働くもの で、巴一R8三畠(皆か然らずんば無)の法 則が厳然として行われつつあるのだ。即ち心臓 は、一旦働らこうと決心したならば全力を尽し て働くのだ。いわば心臓ほど忠実な働き|工合《ぐあい》を するものは、めったに見られないのだ。この点 がまた、恋愛のシムボルたるに最も適して居る と僕は思う。即ち、どんな刺戟が来ても刺戟の |多寡《たか》によって榑ち方をちがえるということをせ ず、榑つならば全力を尽して榑ち、榑たぬ時は 決して榑たぬという心臓の性質は、ちょうど金 力やその他の外力にはびくともせぬ真の恋愛の 性質に比較すべきであろうと思う。真に恋する 同志には、たといどんな障害物がその間に横た わって居ろうとも、かのラジオの電波が通うよ うに、その心臓の榑動の波は互に通い合うと思 う。実際、君は知って居るかどうかは知らぬ が、心臓は、動く度毎に電気を発生するもので、 その電気を研究するために、電気心働計なるも のが考案されて居る。そうしてこの電気心働計 こそは・僕の醜識恋愛曲線の製造元なのだ。  だが、電気心働計の説明にうつる前に、以上 の如く切り出した心臓の運動を、如何にして分 析し研究するかということを語って置かねばな らない。ただ肉眼で観察しただけでは、精確な 比較研究をすることが出来ぬから、どうしても その運動を適当に記録しなければならない。そ の運動を記録したものが即ち、「曲線」なのだ。 従って恋愛曲線なる言葉は、恋愛運動の記録と いうことを意味するのだ。君は、地震が地震計 によって曲線として記録されることを聞いたで あろう。今、|煤《すす》を塗った紙を円筒に巻きつけ て、それを規則的に廻転せしめ、運動する物体 から突出した細い|挺子《てこ》の先をその紙に触れしめ ると、その物体の運動するに従って、特種な曲 線が白くあらわれる。心臓の運動もこれと同じ 方法によって煤紙に書かせることが出来るので あるけれど、僕は特に心臓の発生する電気に興 味を持ったので、主として前記の電気心働計を 使って、研究の歩を進めたのだ。  すべて筋肉が運動する際には、必ず多少の電 気が発生する。所謂動物電気なるものはこれで あるが、心臓も筋肉で出来た臓器であるから榑 動ごとに電気が発生する訳だ。そうしてその電 気の発生の有様を、曲線であらわそうとする器 械が電気心働計なるものだ。この器械を最初に 発明した人はオラソダのアイソトーウェソとい う人だ。曲線といっても、前に述べたような簡 単なものではなく、その原理は㎜か複雑であ る。心臓から出る電気を一定の方法によって導 き、それを|蜘蛛《くも》の糸よりも細い、|白金《プラチナ》で鍍金し た|石英糸《せきえいし》に通過せしめ、糸の両側に電磁石を置 くと、糸を通過する電流の多寡によって、その 糸が左右だ振れるから、その糸をアーク燈で照 すと、糸の影が左右に大きく振れ、それを細い 隙間をとおして、写真用の感光紙に直接感ぜし め、然る後現像すれば、心臓の電気の消長を示 す曲線が、白くあらわれる訳である。感光紙は 活動写真のフイルムのように巻きつけて具えら れてあるから、二十分、三十分間の心臓運動の 模様も、自由に連続的に曲線としてあらわすこ とが出来るのである。僕が君に送らんとする恋 愛曲線も、この感光紙にあらわれた曲線に外な らない。  さて、僕は先ず、僕の研究の準備として、切 り出した心臓について、諸種の薬物の作用を研 究したのだ。即ち、最初にロック氏液を心臓に 通じて、常態の曲線を写真に撮り、然る後試験 しようと思う薬品をロック氏液に混じて通じ、 そのときに起る心臓の変化を曲線として撮影す るのである。肉眼で見て居るだけでは、あまり 変化がないようであるけれども、曲線を比較し て見ると、明らかな変化を認め、それによって、 その薬物が心臓に如何なる風に作用したかを知 ることが出来るのだ。ジギタリス剤、アトロピ ソ、ムスカリソ等の猛毒からアドレナリソ、カ ンフル、カフェイン等の薬剤に至るまで、心臓 に作用する毒物薬物の殆んどすべてにわたっ て、僕は一々の曲線を作り上げたのだ。然し、 これだけのことは、別に新らしい研究ではな く、すでに多くの人によって試みられた所で あって、要するに、僕の本研究の対照試験に過 ぎなかった。  然らば僕の本研究は何物であるかというと、 一口にいえば、各種の情緒と心臓機能との関係 だっ即ち俗に言う喜怒哀楽の諸情が発現したと き、心臓はその電気発生の状態に如何なる変化 を|来《きた》すかということだ。誰しも経験するとお り、驚いた時や、怒ったときには心臓の鼓動が 変化する。僕はそれを、切り出した心臓につい て、所謂客観的に観察したいと思ったのだ。恐怖 の際に血中にアドレナリソが増加するどいう事 実は既に他の学者の認めたところであるから、 恐怖の際の血液を、切り出した心臓に通じたな らば、アドレナリソを通じたときと、同じ変化 が曲線の上にあらわれるべき筈だ。この事実か ら類推するときは、恐怖以外の他の諸情緒の際 にも、血液に何等かの変化があるべき筈で、 従って、動物に喜怒哀楽の諸情を起さしめ、そ の時の血液を、切り出した心臓に通じて、電気 心働計によって曲線を撮ったならば、各種の情 緒発現の際、血中に、どういう性質の物質があ らわれるかを推定することが出来る訳である。  然し、このような研究には、言う迄もなく幾 多の困難が伴うものだ。理想的に言えば、心臓 を切り出した同じ動物を怒らせたり、苦しませ たりして、その血液を通じなくてはならぬが、 それは出来ない相談だ。で、致し方がないか ら、甲の兎の心臓に、乙の兎の種々の情緒発現 時に於ける血液を採って、それを通じて研究す ることにした。次になお一層困難なことは、兎 を怒らせたり、悲しませたりすることだ。兎は 元来無表情に見える動物であるから、その顔付 から、喜怒哀楽の情を認めることは出来ず、 従って、怒らせたつもりでも兎は案外怒っては 居らず、又楽しませたつもりでも、兎は案外楽 しんで居らぬかも知れぬのに、はたと当惑せざ るを得なかった。  そこで、僕は兎の実験を中止して、犬につい て|行《や》って見ることにした。即ち甲の犬の心臓を 切り出して、然る後乙の犬を怒らせ叉は楽しま せて、その血液を採って通過せしめたのだ。そ れによって曲線を作ることは出来たけれども、 やっぱり理想的ではないのだ。というのは、折 角犬を楽しませても、いざ血を採るとなると大 いに怒るので、結局怒りの曲線に近いものが出 来、それかといって犬を麻酔せしむれば、無情 緒の曲線しか取れない訳で、ただ|憤《ふんぬ》怒の際、叉 は恐怖の際の曲線だけが比較的理想に近いもの となった訳である。  こういう訳であるから、諸種の情緒発現の際 の血液が心臓に及ぽす影響を理想的に曲線に描 かしめるためには、人間について実験するより 外はないのである。人間ならば、怒った時の血 液、悲しい時の血液、嬉しい時の血液が比較的 容易に採取し得られるからだ。さり乍ら、人間 の実験で困ることは、人間の心臓が容易に手に 入り難いことだ。死んだ人の心臓でも滅多に手 に入り難いのであるから、況んや生きた人の心 臓おやだ。で、|已《や》むを得ないから僕は兎の心臓 で実験することにしたq又、血液の点に就て 言っても、誰も喜んで血液を提供してくれるも のはないから、僕は自分自身の血液で実験する ことにした。即ち僕は、色々な小説を読んで或 は悲しみ、或は憤り、或は嬉しい思いをして、 その度毎に注射針をもって、左の腕の静脈から 五|瓦《ゲラム》ずつの血液を取って、実験をしたのだ。兎 の場合でも犬の場合でもそうだが、すべて血液 を採るときは、凝固を防ぐために、注射針の中 へ、一定量の|蓚酸《しゆうさん》ナトリウムを入れて置くの だ。  かくて得た曲線を研究して見ると、嬉しい 時、,悲しい時、苦しい時などによって、その曲 線に明らがに差異が認められた。恐怖の時の曲 線は、やはりアドレナリソを流した時の曲線に 類似し、快楽の時の曲線は、モルヒネを流した 時の曲線に類似して居たが、それはただ類似し て居るというに過ぎないのであって、微細な点 に至っては、それぞれ特種な差異が認められる のであった。そうして、後に、僕は練習によっ て、どれが恐怖の曲線か、どれが愉快の曲線 か、どれがアドレナリソの曲線か、どれがモル ヒネの曲線かということを、曲線を見ただけで 区別することが出来るようになった。なお又、 この曲線は兎の心臓を用いても、犬の心臓を用 いても、又新たに羊の心臓を用いても、同じよ うな変化を来すものであることを経験したので ある。  然し君、学問研究に従事するものは、誰しも 研究上の慾が深くなるもので、兎と犬と羊とに ついて同じような結果が出たならば、それで満 足すべきであるのに、僕は一歩進んで何とかし て人間の心臓について実験を試みたいと思うよ うになったのだ。前に書いたとおり、人間の心 臓は、死後二十時間を経ても、なお且つ榑動せ しめることが出来るから、せめて死体の心臓で もよいから手に入れたいものだと、病理解剖の 教室や、臨床科の教室の人に頼んで置いたので ある。  するとここに、運よくも、ある女の心臓を一 個手に入れることが出来た。その女は十九歳の 結核患者であった。彼女は、恋する男に捨てら れて、絶望のあまり健康を害し、内科に入院し て不帰の客となったのだが、生前彼女は口癖の ように、「私の心臓にはきっと大きなひび《ヘヘ》|が 入って居ます。どうか、死んだら、くれぐれも 心臓を解剖して医学の参考にして下さい」と 言ったそうだ。ちょうど僕の友人がその受持ち だったので、彼女の遺言に従って、僕がその心 臓を貰ったのだ。  いま迄、兎や犬や羊の心臓を切り出すことに 馴れて居た僕も、たとい死体であるとはいえ、 その女の蟷のように冷たく且つ白い皮膚に手を 触れてメスをあてた時は、一種異様の|戦標《せんりつ》が、 指先の神経から、全身の神経に|伝播《でんば》した。然し、 薄い脂肪の層、いやに紅い筋肉層、肋骨と、順 次に切り進んで胸廓を開き、心嚢を破って心臓 を出した時分には、僕はやはりいつもの冷静に 立ち帰って居た。もとより彼女の心臓にひび《ヘヘ》|は 入って居なかったけれども、心臓は著しく痩せ て居た。ごれ迄、動物の生きた心臓のみを目撃 して来た僕にとっては、はじめ、心臓らしい気 さえ起らなかった。死後十五時間を経て居た が、異様にひやりとしたので、|僕《ヘヘヘ》は切り出した 心臓を手につかんだまま、暫らくぽんやりし た。はっと|我《ヘヘ》に返って、暖かいロック氏液の中 へ入れてよく洗い、次いで箱の中へ装置して、 ロック氏液を流すと、心臓は|宛《あたか》も眠って居るか のようであったが、暫くしてぴくりぴくりと動 き出し、,間もなく、威勢よく榑ち出した。予期 したことではあるが、僕にはその女が|蘇生《そせい》した ように思われ、何ともいえぬ|壮厳《そうごん》な感に打たれ た。僕はいつの間にか実験ということを忘れ て、その微妙な運動を見つめた。そうして、そ の心臓の持主について考えた。失恋! 何とい う悲しい運命であろう。僕はその時、人ごとな らず思ったよ。僕も同じく失恋の苦しみを味う 人間ではないか。|嘗《かつ》てこの持主の生きて居た時 分、この心臓はいかにはげしく、又、いかに悲 しく榑ったことであろう。その古い、苦しい記 憶も、今はロック氏液によって洗い去られた と見え、何のこだわりもなく、収縮、拡張の二 運動を繰返して居る。恐らく彼女の失恋以後、 一日として、この心臓は平静な榑ち方をしな かったであろう。榑て! 榑て! ロヅク氏液 はいくらでもあるから、榑って、榑って、榑ち つくすがよい。  ふと、気がついて見ると、心臓は著しくその 力を弱めた。無理もない。榑ちかけてから|凡《およ》そ 一時間を経て居たのだ。思わぬ空想に時を費し て、情緒研究を忘れて居た僕は、科学者として σ冷静を失ったことを恥じつつ、折角墳種な材 料を得ながら、これを無駄にするのは勿体ない と考えた。そうして、|突嵯《とつさ》の間に思いついたの が、失恋の情緒の研究だ。失恋をした人の心臓 へ\失恋をした僕の血液を通じて曲線をとった ならば、それこそ理想的な失恋曲線が得られる ではないか。  僕は手早く、例によって、左の腕より血液を 取り、それをこの心臓の中へ流しこんで、電気心 働計を働かせた。だんだん弱って来た心臓は、 僕の血液に触れるなり、急に勢いを増糺、、凡 そ三十回ほどはげしく縛動し九が、又忽ち力を 弱めて、今度はぱったりやんでしまった。即ち、 心臓は死んだのである。永久に死んだのであ る。でも、曲線だけは、|鮮《あざや》かに現像され、分析 研究して見たところ、悲哀とも、苦痛とも、憤 怒とも、恐怖とも、どれにも類しない、又、ど れにも類して居るような性質を持って居た。  ξて、失恋曲線を作った僕は、失恋の反対の 情緒たる恋愛曲線を得たいものだと思うに至っ た。|蓋《けだ》し、飽くことを知らぬ科学者の慾望であ る。然し、|嘗《かつ》ては恋愛を感じても、今は失恋を しか感じない僕が、どうして恋愛曲線を作るこ とが出来よう。これは及びもつかぬことであ る。こう考えて諦めようとすればする程、愈よ 作って見たくて仕様がなくなった。そうして、 後にはこれが一種の強迫観念になウてしまウ た。といって、君に対して甚だ失礼な言葉では あるが、君とはちがって、雪江さん以外に、何 人にも恋を感じなかった僕が、今更、誰に真実 の恋を感ずることが出来よう。実際、僕は、真 実の恋を雪江さん以外の人には感じ得ないの だ。して見れば、到底恋愛曲線は得られない訳 だ。と、思っても、やはり一旦強迫観念となっ たものは容易に去らない。で、致し方がないか ら、失恋を転じて恋愛となすべき方法はないも のかと、僕は|頻《しジご》りに考をめぐらせたよ。そうし て、考えて、考えて、僕は一時発狂するかと思 うほど考えたのである。  ところが、はからずも、先日、ある人から、 君と雪江さんとが、-愈よ結婚するという通知を 受取ったのである。すると、|恰《あたか》も焼け|杭《ぐい》に火の ついたように、失恋の悲しみは、僕の体内で猛 然として燃え出した。いわば僕は失恋の絶頂に 達したのである。と、その時、僕はこの絶頂に 達した失恋を、そのまま応用して、恋愛曲線を 書くことが出来るという信念を得たのである。  君は数学で、マイナスとマイナスとを乗ずる とプラスになるということを習ったであろう。 僕はこの原理を応用して、失恋を恋愛に変え ようと思ったのだ。即ち、失恋の絶頂に達し た僕の血液を、失恋の絶頂に達した女の心臓に 通過せしめたならば、その時に描いた曲線こそ は、恋愛の極致をあらわすものだと僕は考えた のだ。こういうと君は、失恋の絶頂に達した女 を何処から連れて来るかと|訊《タ》ねるであろう。然 し、その心配は無用である。何となれほ、僕が 以上の如き原理を考え出したのも、実は失恋の 絶頂に達した女を見つけたが為であって、その 女こそは、外ならぬ、君と雪江さんとの結婚を 知らせて来た手紙の主なのである。  君は定めし思い当ることがあるであろう。そ の手紙の主こそは君の結婚によって、失恋の極 致に達したのだ。君は多くの女を愛したことが あるから、女の気持も多少わかって居るだろう が、その女も、僕が雪江さん一人を思って居る ように、一人の男にしか真実の恋を感じないの で、君たちの結婚によって失恋の絶頂に達した のだ。同じく君たちの結婚によって失恋を感じ た僕とその女とが、一つの曲線を作り上げた ら、それこそ、前に述べた原理によって、まさ しく恋愛曲線ではなかろうか。而も、その女は 絶望のあまり死のうとして居るのだ。君よ、死 にまさる強さが世にあろうか。僕はその女の決 心をきいて、僕の失恋の度のむしろ弱かったこ とを恥じた。僕はその女のために非常に勇気づ けられた。そうして今夜その女に直接逢って、 彼女の決心をきき、僕の胸中を述べると、女 は、喜んで死に|就《つ》くから、是非、心臓を切り出 して、僕の血液をとおし、出来た曲線を記念と して君の許に送ってくれといってやまない。そ こで僕も決心して、愈よ恋愛曲線の製造に取り かかろうとしたのだ。  君! 僕は今この手紙を、研究室の電気心働 計の傍に置かれた机の上で|認《したた》めつつあるのだ。 まさか生理学研究室で、深夜恋愛曲線の製造が 行われようと思うものはあるまいから、誰にも 妨げられずに計画を遂行することが出来るの だ。夜は|森閑《しんかん》として更けて行く。実験用に飼っ てある犬が、庭の一隅で先刻二声三声吠えた後 は、冬近い夜の風が、研究室のガラス窓にかす かな音を立てて居るだけだ。僕に心臓を提供し た女は、今、僕の足許に深い眠りに陥って居る。 先刻、僕が恋愛曲線製造の順序と計画を語り終 ると、彼女は喜び勇んで、多量のモルヒネを|嚥《か》 んだのだ。彼女は再び生き返らない。彼女がモ ルヒネを嚥むなり、僕はロック氏液の加温を始 め、電気心働計の用意を終り、それから、この 手紙を書きにかかったのだ。モルヒネを嚥んで から、彼女は、うれしそうに僕の準備する姿を 見て居たが、この手紙を書きにかかる頃、遂に 眠りに陥ちた。何という美しい死に方だろう。 今彼女は軽い息をして居るが、もう二度と彼女 の声を聞くことが出来ぬかと思うと、手紙書く 手が頻りに|顧《ふる》える。、僕は定めし、取りとめのな いことを書いたであろうが、今それを読み返し て居る暇がない。僕はこれから、彼女の心臓を 切り出さねばならぬから。… X  四十分かかった。やっと今、彼女の心臓を切 り出して箱の中に結びつけ、ロック氏液をとお しつつあるのだ。手術の際、彼女の心臓はなお 榑動を続けて居た。これは彼女の生前の希望に 従ったのである。彼女は恋愛曲線を完全ならし めるために、心臓のまだ動いて居るときに切り 出してくれと希望したのだ。メスを当てると き、|若《も》しや彼女が、眼を覚しはしないかと思っ たが、心臓を切り出されるまで、彼女は安らか な眠りを続けて居た。いまもまだ軽く息をして 居るのではないかと思われる程だ。電燈の光に 照された彼女の死の姿は、ただただ美しいとい うより外はない。  心臓は今、さもさも快げに動いて居る。早く 僕の血を通してくれといわんばかりに動いて居 る。さあ、愈よこれから、僕の血液を採る順序 であるが、恋愛曲線を完成させたいとの彼女の 悲壮な希望を満足させるために、僕も、未だ嘗 て試みなかった血液流通法を試みようと思うの だ。今までは注射針を以て左の腕の静脈から血 を採って居たが、今回だけは、僕の左の|擁骨《とうこつ》動 脈にガラス管をさしこみ、その儘ゴム管でつな いで、僕の動脈から、僕の血液が直接彼女の心 臓の中に流れこむようにしようと思うのだ。彼 女が生きた心臓を提供してくれた厚意に対し、 これだけのことをするのはあたりまえのこと だ。なお又、恋愛曲線を完成するためにも必要. なことだ。      × =十分かかった。  やっと、僕の動脈血を彼女の心臓の中に送り こむことが出来た、血液は威勢よく走り出るの で、少しも|凝固《ぎようこ》を起さず、実験は間然するとこ ろが無い。心臓は勇ましく|躍《おど》る。その躍る姿を 眺めて居ると、左手に少しの痛みをも覚えな い。左手の傷から少しずつ血が|泌《にじ》む。その血を 拭うため、ペソを|措《お》いてはガーゼで拭かねばな らぬ。おや、紙を血でよごした。許してくれ。 彼女の心臓へ注ぎこまれる血は再び帰って来な い。僕の血液は刻一刻減って行く。頭脳がはっ きりして来た。暫らく、ペンを休めて、彼女の 心臓を観察し、懐旧の思いに耽ろう。       ×  十分間過ぎた。  全身に汗が泌み出た。貧血の為だろう。さ あ、これからスイッチを|捻《ねじ》ってアーク燈をつ け、感光紙を廻転せしめよう。僕は居ながらに してスイッチの捻れるように準備して置いたの だ。電燈がついて居ても曲線製造には|差支《さしつかえ》な い。       ×  電気心働計が働いて居る。心働計の音以外 に、耳に妙な音が聞える。これも貧血の為だ!  曲線は今作られつつある。君に捧ぐべき恋愛 曲線が今作られつつあるのだ。然し僕は、その 曲線を現像することが出来ない。何となれば、 僕はこのまま、僕の全身の血液を注ぎ尽すつも りだから。血液が出尽したとき、僕がたおれる と、アーク燈や、写真装置や、室内電燈のス イッチが皆|悉《ことごと》く切れるようにしてあるから、 間もなく二人の死体は闇に包まれるであろう。       X   ペンを持つ手が甚だしく|顛《ふる》える。眼の前が暗 くなりかけた。で、僕は、最後の勇を|揮《ふる》って、 君に最後の一言を呈する。実はこの手紙を書く 前に、教室主任、同僚にあてて手紙を書いたか ら、これが僕の最後の遺書となる訳だ。恋愛曲 線は、明朝同僚の手で現像されて、君の許に送 られるから、永久に保存してくれたまえ。  君は最早、僕に心臓を提供した女が何人てあ るかを推知して居るであろう。僕は今無限の喜 びを感じて居る。自分で曲線を見ることこそ出 来ぬが、真の恋愛曲線の出来つつあることを僕 はかたく信じて疑わない。僕の血が尽きたと き、彼女の心臓は停止するのだ。とれが恋愛の 極致でなくて何であろう。  …-おや、僕の血が少くなったと見え、彼女 の心臓は今、まさに停止しようとして居る。A 君! 君との、愛なき金力結婚を厭い、彼女の 真の恋人だった僕のところへ走って来た雪江さんの心臓は、今、まさに停止しようとしている。……          (『新青年』大正十五年一月号)