小酒井不木「汽車の切符」  小泉五郎は 逃げるようにして 階段を走りあがり F旅館のわが室(へや)に戻った。  彼は今まで秋の夜の冷たい空気の中を歩いて来たのであるが、彼の脳味噌(みそ)は、ぶつぶつ泡(あわ)を 吹き上げはしないかと思うほど、煮えかえっていた。その感じは、想像力の強い彼にも、何と 形容してよいかわからぬものであった。時々神経の末端へ脳の方から、電波でもあろうかと思 われるようなものがぴくりびくりと響いて来て、その都度(つど)、筋肉がぶるぶる顫(ふる)えるのであった。  彼は室へはいって、どさりと座布団の上に身体(からだ)を落としたまま、しぱらくの間強直したよう に動かなかった。彼はそのまま石にでも化していくのではないかと思った。卵(た自ご)の白身が熱にあ ってかたまってゆくように、全身の筋肉が硬(こわ)ばっていくのではないかと思った。そうして、筋 肉が凝固していくとき、その中の汁が押し出されて汗になるのではないかと思うほど、彼の背 筋には汗が流れはじめたのである。  彼は何気なく障子にはめてあるガラスに眼を注(そそ)いだ。そうして、それと同時に、彼は飛び上 がらんぱかりに驚いた。真上から電燈に照らされた自分の顔は、頬骨(ほおぼね)の下がげっそりとこけて、 誰かの絵で見たメフィスト7エレスの顔にそっくりであったからである。まるで頭蓋骨(すがいこつ)を見る ような凄惨(せいさん)な表情は、一時彼の心臓の鼓動(こどう)を停止せしめるほどであった。  場末の旅館であるから、電車の昔は聞こえて来なかったが、付近はかなりに騒々しく、その 騒々しさを形づくる一つ一つの物音が彼の神経にはげしくこたえたのであった。彼は、廊下を とおる宿泊の客や女中の足音にもびっくりした。今にも侃剣(はいけん)の昔が聞こえて、どさどさと、人々 が踏みこんで来やしないかと気が気でなかった。しかし、彼は立ち上がる勇気がなくなった。 あたかも腰の抜けた人のように一寸(いつすん)も動くことができなかった。  彼は、今がら、一時間ほど前に人を殺して来たのである。  彼を捨てた女を殺して来たのである。  彼は彼女を殺すために、計画に計画を重ねた。過去およそ二年間というものが、彼女殺害の 計画のために費やされたといってよいはどであった。だから、その殺害には、毛頭の手ぬかり もなかったはずである。彼が犯人であるということは、どんな名探偵でもさぐり出すことはで きないであろうと思うほど犯罪は巧妙に行なわれたものである。それにもかかわらず、彼は、 今にも遠捕されやしないかとびくびくせざるを得なかった。彼の理性は、どこまでも彼の身の 安全を保証したにかかわらず、彼の良心は、彼に、はげしい恐怖を与えたのである。  彼はもちろん、良心の存在についてしばしば考えをめぐらせた。しかし彼は、その良心が、 これほどまでに、人間の心を変化しようとは思わなかった。彼は彼女を殺して後、今に至るま で悔恨の念には少しも駆られなかった。のみならず、彼女を殺したことは、何となく彼に満足 の念を与えた。だから、彼のこの恐怖が、良心の呵責(かLやく)のために起こるものとは彼は考えなかっ た。それはまったく理由のない恐怖であった。今にも地震が起きはしないかと恐れるときのよ うな、いわぱ、払いのけることのできない恐怖であった。  理由のない恐怖であるだけ、それは彼の全く予定しないところであった。彼はいったい何の ためにこの恐怖が起こるかを考えてみようとした。が、彼の、麻のように乱れた心は冷静に思 考をめぐらす余裕を与えなかった。  女の家からF旅館まで、それはおよそ一里あまりの距離であった。彼はその間、どこをどう 通って来たかを知らなかった。女を絞殺して女の家を抜け出したことまでは記憶してはいるが、 その間のことはまるで白紙を見るように、何の印象も記憶も残っていなかった。ただ気がっい てみると、いつの間にか、F旅館の前に立っていたのである。  夜はだんだんふけていった。付近の物音が少しずっ減っていって、按摩(あん)の笛の声がいやには げしく彼の心に響いた。彼は見るともなしにあたりを見まわした。と、薄暗い室の隅に、女の 顔が幻覚となってあらわれた。  その顔! その美しい顔に執着を起こしたのがもとで、彼はついに殺人の大罪を犯すに至っ たのである。 二 彼女はもと、浅草、×X劇場の女優で、一人の老婆と共に、 殺されるまで、郊外の0という丘 の家に住んでいた。    村田照子(むらたてるこ)!  その名は、いかにファソの間にもて購(はや)されしことか、その村田照子の愛を独占した三年以前 の彼、小泉五郎はいかに幸福でありしことか。が、彼女は毒婦であった。彼女は芝居で、毒婦 に扮装(ふんそう)することが巧(たく)みであったと同時に、彼女自身が心からの毒婦であった。いわぱ、彼女は 生地(じ)のままに舞台で活躍したのであるがら、彼女の芸が真に迫ったのも無理はなかろう。そう して、彼女の美貌が、見るものを悩殺しないではおかなかったから、彼女の芸は凄(すご)いほど引き 立ったのである。  その美しい彼女をわがものにした小泉五郎は、そのころ得意の絶頂にあった。彼は静岡県の 素封家(そ旧うか)の一人息子(むすこ)に生まれ、中学を卒業すると上京してW大学にはいったが、在学中に村田照 子と関係し、ちょうどその時分、両親が相次いで没したので、彼は巨万の財産を相続し、あり あまる金をもって照子と同棲し、愛欲の乱舞に日を送ったのである。  彼はもとより大学を半途で退(ひ)いた。そうしておよそ一年余り過ぎて、ようやく眼がさめてみ ると、彼は親譲りの財産のことごとくを女にしぼりとられて女に捨てられていた。ある日、女 は、他に愛人を作って、彼を置き去りにして姿を晦(くら)ましてしまったのである。  彼は血眼(ち’なこ)になって女の行方を捜したけれども、どこへ行ったか彼女の消息はさっぱり知れな かった。彼女は上海(シヤンハイ)へ渡ったという説をなすものもあれぱ、ロスアソゼルスで彼女を見たとい うものもあった。  幸福の絶頂から、不幸の谷底へつき落とされた五郎は、彼女に対する復讐(ふくしゆう)を思い立った。す なわち彼は照子を殺そうと決心したのである。彼女がどこにいようとも、彼は、彼女を捜し出 して殺そうと覚悟したのである。  そα時の彼は、外国へ出かけるだけの金さえ所有していなかった。しかし、彼は照子が、外 国へなどは行くまいと思った。東京に異常なあこがれを持っている彼女は東京のどこかに隠れ て住まっているだろうと直覚した。で、彼は根気よく、東京市中を捜したのであるが、どうし ても知れなかった。もちろん照子の出ていた×X劇場へも幾度となくたずねに行ったが、その 都度(つと)人々の冷笑を買うばかりであった。  すべて人間の感情というものは、時間と共に薄らぐのが原則である。復讐のごときも、時日 の経過と共にだんだんやわらいでいく。ところが小泉五郎の復讐恨決して尋常なものでなかっ た。彼の復讐はかえって一日一日に増していったのである。愛欲のべールに蔽(おお)われて無我夢中 になっていたころが、日と共に後悔されて来たとき、それと同じ調子で復讐の念はふとってい ったのである。  ところが復讐の対象たる照子はどこへ姿をかくしたか知れなかった。そこで彼はとうとう一 策を思いついたのである。想像力の豊富な彼は、村田照子を誘(おぴ)き出す方法を考え出したのである。  照子が久しく姿を見せないのは、彼の復讐を恐れたからである。と、想像した彼は、いつわ りの自殺をすることによって照子を誘き出すことができると考えたのである。しかもいつわり の自殺をするということは、一方において、照子を殺した時に遠捕を免(が)れる手段でもあった。 自殺をしたものが殺人を行なうことは考うべからざることであるからである。  彼は自殺の場所として浅間山の噴火口を選んだ。  ある日、浅間山の噴火口の付近で、彼の遺書と遺留晶とが発見された。遣書の中に彼は村田 照子に捨てられて、悲観のあまり自殺することを、こまごまと書き綴(つづ)ったのであった。  すると果たして、彼の予期したことが起こった。新聞は、ちょっと大きな標題(みだし)で、小泉五郎 の自殺を報じ、小泉五郎を自殺せしめた村田照子は、その後行方不明であると書いたのである。  五郎は自殺の狂言を行なうと同時に、名を島木由三と変えて、東京へ舞い戻った。彼はなま じ髭をのばしたり、眼鏡をかげたりして身許をくらますよりも、そういう小細工をしないで、 心をまったく島木由三という別人にしていれぱよいと思った。世の中の多くの変装者は、顔の みを変えて、心を別人にしないから、すぐ化けの皮があらわれるのだ。世の中に瓜(うり)二つといっ てよいほど似た顔はたくさんある。だから、心さえ別人にしていれぱ決して化けの皮はあらわ れるものではない。というのが、彼の想像力から割り出された議論であった。  彼はそれ伊え、これという変装をしないで、東京市中を歩き、村田照子の行方を捜索した。 しかし照子はなかなか姿をあらわさなかった。彼は新聞の演芸欄に照子の名が出ていはしない かと熱心に捜したが、それも駄目であった。  ところが、彼はついに照子の。ありかをつきとめることができたのである。それは彼が照子に 捨てられてから二年の後のことで、今日がら約一月前のことである。すなわち彼女は、郊外の 0という丘の家に、ある人の妾として、雇いの老婆と共に住んでいることを彼は発見したので ある。  彼女が、それまでどこに姿をかくしていたかは、もとより彼にはわからなかった。あるいは 彼の直覚したとおり、東京のどこかに潜(ひそ)んでいて、彼が自殺したということを知って、もう安 全だと思って姿をあらわしたのかもしれない。あるいは人の噂(うわさ)のごとく、上海か、ロスァソゼ ルスの方へ、しばらく行っていて、もう帰ってもよい時期であると思って、出現したのかもし れない。  いずれにしても、照子の在所(あηか)を突き止めたとき、しかも、彼女を他人の妾として発見したと き、彼の復讐の血は、俄(にわか)に沸騰し始めた。彼は一日も早く彼女を殺してしまいたいという衝動 に駆られた。  小泉五郎は自殺して、居ないのであるから、たとえ警察が彼女と彼の以前の関係を調べて、 小泉五郎に嫌疑をいだいても、自殺して、居ない人間を犯人と見傲(みな)すことはできないことであ る。だから、殺害の現場で取り押えられない限り、自分は絶対に安全である。  こう考えると、彼は、ある種の殺人者がしばしば経験するような犯行前の一種の陶酔(とうすい)状態に 陥(おちい)るのであった。  彼はまず照子の日常生活について、よく研究した。そうしておよそ一カ月かかって、彼女の 動静をさぐり、いつ殺害するのがいちばんよいかということを知ってしまったのである。  彼は用心のために、田舎から、東京見物に来たふうを装って場末のF旅館の一室に滞在し、 三日過ぎた今晩、彼は照子の家に行き、老婆の不在な機(おり)を見て、家の中にしのび入り、電光石 火の早業(ほやわざ)で、家の中にあった手拭(てぬぐい)をもって照子を絞殺し、そうして、誰にも見られることなく、 まんまと目的を達して、首尾(しゆぴ)よく、旅館に戻ったのである。 三 「十三番さん、お客様でございますよ」 室(へや)の真ん中に化石していた彼の身体は こういって障子をあけた女中の声に ちょうと コ ム鞠のはずむように、座布団を蹴って飛び上がった。 「えP お客様って誰?」 「警察の人ですよ」  彼はぎょっとした。 「何?」 「まあ、そんなに顔色までかえなくたってよいのですよ。この辺の宿には、よく淫売がはいる といって、ときどき臨検があるのですよ」 「そうか」と、彼ははじめて胸を撫(な)で下ろした。  やがて一人の警官が彼の室の前に立ちどまり、 「島木さんですか」と訊(たず)ねた。 「そうです」 「どうも、夜分遅くにさわがせて済みませんでした」  こう言って警官は女中と共にむこうへ去ってしまった。  しぱらくすると、女中が布団を敷きにやって来た。 「まあ、あなたまだお休みにならなかったんですのね。ずいぷんお顔色が悪いですこと」 「讐察の人なんかが来ておどすからさ」 「だって、あれは仕方がありませんよ。それにこの辺はずいぷん物騒ですから」 「物騒って、どんなことかいフ。」 「この間も、お隣りの宿に人殺しがありました」 「人殺しp」と彼は思わず大声で叫んだ。  女中はびっくりして彼を見つめた。 「まあ、あなたは、男のくせに気が小さいですねえ」 「田舎ものだがらさ」  こういって彼は笑おうとしたけれども、どうしたわけか、その笑いが咽喉(のど)にひっかかって出 て来なかった。 「お休みなさい」  女中は布団を敷き終わると、立ったままの彼に挨拶してさっさと出て行った。  彼は女中の無邪気な心が羨(う・oや)ましかった。今朝(けさ)までは、今日の夕方までは、彼もまた無邪気で あった。たとえ彼の心が照子殺害のために緊張していたとはいえ、恐怖感というものはさらに なかった。  ところが今はどうであろう。 『警官』とか、『人殺し』とかいう言葉に対して、以前には何の恐怖も起こさながったのに、今 は、心臓の左右位置を転ずるかと思われるほど強い反応を喚(よ)び起こすことは。彼は、自分の心 の変化がいったい何に基づくであろうかを鉤りたかった。しかし、それは無駄な努力であった。 彼の混乱した頭は、思考の力を失い、畳の上に投げられた彼の影にさえ、彼は、一種の恐怖を 覚えたのである。  それのみならず彼の幻覚は一層はげしくなっていった。彼は自分の影に、絞首台にぶら下が った姿を認めた。壁一面に血痕(けつこん)が飛び散っているような幻覚をも起こした。彼はもうじっと立 っていることができなくなって、畳の上をあちらこちらと歩きまわった。すると、自分の足音 が、言うに言え煩不気味な響きを発したので、彼はとうとう、布団の上にごろりと横になって、 頭を抱え、眼をつぶった。  ふと、身体に寒さを感じて、眼をさますと、彼はむくりと起き上がった。いつの間にが彼は 眠っていたのである。起き上がって彼は、じっと耳を澄ましてあたりを見まわした。世問はし んとして、これという音も聞こえなかった。時計を見ると二時半である。電燈の光がいやに黄 色く見えて、彼は黄疸(おうだん)を病(や)んだ時のような、重くるしい気分を感じた。  今ごろはもう犯罪が発見されて、警察は東京中に非常線を張ってしまったにちがいない。こ う思うと、彼は息づまるような感じを起こした。果たして彼らは犯人の見込みをつけたであろ うか。何がの手がかりを得たであろうか。  すると、彼は、何だか自分が大きな手ぬかりをして来たような気がし出した。どんな手ぬか りをしたであろうか、と、いろいろ、思いめぐらしてみたが、もとより思い浮かぶはずがなか った。手ぬかり! そんなことを万々(ばんぱん)するようなはずはない。自分がもし誰かに見つけられて いたならぱ、今ごろはとっくに遠捕されているはずだ。  しかし、彼は少しも落ちつくことができなかった。で、彼は、衣服(もの)を着たまま、寝衣(ね)に着替 えることもしないで、寝床の中にもぐり込んだ。そうして、あちらこちら寝返りを打った。自 分はもう永久に眠ることができないのかもしれない。というようなことさえ考えたのであるが、 彼の疲労した神経は、いつの間にか、彼を苦しい眠りに引き入れてしまった。  彼が眼ざめたときは、午前八時半であった。彼は手をたたいて寝床の中から女中を呼び、新 聞を持って来させた。彼は、やがて運ばれた新聞を顫(ふる)える手にもって披(ひら)いて見たけれど、殺害 の記事はどこにも見当たらなかった。  彼は安心したような、また、きわめて不安のような気持ちがした。ことによるとまだ犯罪が 発見されていないかもしれない。こう思うと彼は布団の中にくるまったまま、穴へでもはいり たいような思いになった。  彼は女中に向かって、今日は気分が悪いから、朝飯も昼飯もいらない、このまま晩まで寝床 にいるつもりだが、夕刊が来たら、すぐ持って来てもらいたいと言った。そうして彼は布団の 中に深くもぐって熱病にでも苦しんでいるかのように、溜息(ためいき)を洩らした。  眠るともなしにうとうとしていると、彼は女中の声にはっとして眼をさました。女中は約東 どおり夕刊を持って来たのである。  彼は布団の上に置かれた夕刊を、しばらくの間手に取り上げなかった。やがて腫(は)れ物にでも 触るように、そっと取り上げて、仰向きになったまま開いて見ると、そこには四段抜きの大き  みだL な標題で殺人事件が報ぜられてあった。  彼はそれを貧(むさは)るように読み始めた。死体発見の顛末(てんまつ)、臨検、死体検案のことなどが委(くわ)しく報 ぜられてあったが、犯人についての記載はなかった。雇い婆さんと、照子の旦那が、召喚され て取調べを受けているということのほかこれという注目に値することは書かれておらなかった。 無論、嫌疑が被害者と以前に関係のあった小泉五郎にかかっているなどという文句はどこにも 見えなかった。  彼は新聞の記事に幾度も繰り返して眼をとおした。しまいには眼がぼーっとし始めた。で、 彼は新聞紙を畳の上に置いて、眼をつむって仰向いた。いろいろの光景が頭の中を往来した。 照子の絞殺死体、それを発見した老婆の狼狽(ろうばい)した姿、警官の顔、警察医の検査ぷりなど、かわ るがわる眼の前に浮かんだ。  探慎は、犯人の手がかりを得るために、照子の持ち物のすべてを捜したことであろう。その 中には小泉五郎に関係をもったものもあったにちがいない。で、警察では彼の行方をたずね、 そうして彼が自殺していないことを如ったであろう。  そうだ1・小泉五郎はもうこの世には居ないはずだ。自分は小泉五郎ではなく島木由三とい う全く新しい存在ではないか。こう考えると彼は、むやみに恐怖することの愚(おろ)かさが、われな がらおかしかった。  彼はいくらか安らかな気持ちになって、布団を抜け出した。秋の日は暮れかけて、室には電 燈がついた。彼は女中に夕飯を運ぼせて、飢えを癒(い)やしたが、さて、外出する勇気は豪(すこL)もなか った。  当分宿にいて形勢を観望しよう。新聞を見ていよいよほとぽりのさめたころ、しずかに宿を 出て将来の方針を建てよう。こう決心をして、彼はその夜から「籠城(ろうじよう)」を始めたのである。  あくる日の朝刊を待ちかねて、彼は事件がその後いかに発展したがを見ようとした。ところ が、新聞には意外にも、殺人事件の記事が、どこにも発見されなかったのである。彼は幾度も 繰り返してすべての頁(ぺージ)を捜したが、それは無駄な労力であった。  おそらく、記事差止めの命令を受けたのであろう。  それはいうまでもなく警察の一段の活動を意昧しているのであるから、恐怖は再び頭を拾(もた)げ た。警察は果たして有力な手がかりを得たのであろうか。万が一にも自分を遠捕しに来るよう なことはある亥いか。  その日の夕刊にも翌日の朝刊にも、照子殺しの記事はなかった。それと同時に、彼のところ へたずねて来る警官もなかった。彼は不安と安心との間を行き来した。  このまま、この事件は迷宮に入ってしまうであろうか。それとも警察では犯人を逮捕する成 算があるであろうか。  この新聞紙の沈黙は彼の心をだんだん暗くしていった。この不気昧な記事差止めはいつまで 続くであろうか。こう思うと、彼の心は少なからずいらいらした。といって、彼はどうするこ ともできなかった。ある時には彼は警察へ行って、事件がいかに発展したかを聞いてみたいよ うな気になった。またある時には、照子の家の付近をさまよって、それとなく様子をさぐって みたいような気になった。しかし彼はもとよりそれをあえてする勇気がなかったのである。  こうした不安のうちに日は容赦(ようLや)なく経(た)ったが一新聞の沈黙は依然として続いた。また、誰一 人彼をたずねて来る者はなかった。彼はもう大丈夫だと思った。いっそ、このF旅館を出て大 道を闇歩(かつに)しようかとも考えたけれど、新聞に何か記事のあらわれるまでは何となく危険である ような気がしたので、この殺人事件に関する新聞記事があらわれる玄で、彼は旅館に滞在しよ うと決心したのである。  すると、彼の想像したとおり、二週間ほど過ぎたある日の朝刊に、照子殺害事件の記事が突           如として、四段抜きの大標題(おおみだL)であらわれたのである。 「真犯人逮捕さる」  この言葉を読んだとき、彼は彼の眼を疑うほどびっくりした。しかも彼が、なお一層驚いた ことは、犯人の写真として掲げられてある肖像に、まがいもなく彼自身の顔を発見したことで ある。換言すれば、その写真は、彼自身の写真にほかならなかったのである。  しかし、その肖像には、彼のまったく知らぬ名が記(しる)されてあった。 「小室淳一(こむろじ庖んいち)!』  しかもこの小室淳一は某会社員であって、郊外のR町十番地に細君と共に二戸を構えている 男なのである。  新聞の記事によると、小室淳一は、かねて照子の旦那の眼を盗んで、照子と情を通じていた が、最近女が変心したので、それを恨んで照子を絞殺したというのであった。  彼は何が何だかわからなくなった。新聞に掲げてある写真はたしかに自分の顔である。少な くとも三年ほど前、すなわち照子と同棲していたころの顔に生き写しなのである。してみると この小室淳一なる男は自分に生き写しであるにちがいない。自分には双生児(ふたご)の兄弟はないから、 おそらく他人のそら似であろう。それにしても、自分と同じ顔をした男を照子が情夫としてい たということは、照子の性質として、たしかにあり得ることであるから、小室が真犯人と認め られたのも決して無理ではないかもしれない。  かくて彼の想像力は、この新聞記事を以上のごとく解釈することによって、彼に幾分かの安 心を与えたが、それと同時に、真犯人が自分であるにもかかわらず、小室が冤罪(えんざい)によって逮捕 されたことは気の毒な思いがした。おそらく小室は無罪の証拠をあげることができ、二、三日 のうちには放免されるであろう。あるいは、ことによると、起訴されて公判を受けるかもしれ ない。こう思うと、彼は自分の身の危険を忘れて、一種の好奇心に駆られるのであった。  彼はその日の夕刊を待った。  ところが、夕刊には、この事件に関する一行の記事も発見されなかったのである。それのみ ならず、翌日の新聞にも、また翌々日の新聞にも、まるで忘れたかのように掲載されていなか った。すなわち、新聞は再び『沈黙』を始めたのである。  彼は、来る日も来る日も、新聞を捜して、疲れると、いつも、先日の『真犯人逮捕記事』の 載った新聞を技(ひろ)げて読むのであった。すると、その都度、自分に瓜(うη)二つと言ってよい小室や小 室の細君がどんな人間であるかを知りたく思った。  小室は逮捕されてから果たして放免されたであろうか。小室の細君はどうしているであろう か。  日を経(へ)るにしたがって、彼は小室の様子を知りたいという好奇心にだんだん征服されていっ た。小室が有罪と定まらない以上、自分の危険は去らないけれども、もはや、その危険を顧み ていられないほど、その好奇心ははげしくなった。  で、ついに彼は、『真犯人遠捕』の記事を見てから五日目の夜、久しぶりにF旅館を立ち出で て、郊外のR町十番地の付近へやって来たのである。  小室の家はすぐ知れた、新しい木の門漂に、円小室淳二の名が小さく電燈の光に照らされて いた。門柱と玄関の間には植込みがあって、家の中の様子はもとよりわからなかった。町とは 言いながら和翻に取り囲まれた家が、がなたこなたにあるだけで、あたりは人通りもなく、ひ っそり静まりがえっていた。  彼は門の前に立ったまま、しばらく動かなかったが、もとより中へはいる気はなかった。で、 彼は行き過ぎて、付近の暗い樹陰に身を寄せて、様子を窺(うかが)っていると、突然、彼の後ろから、 「もし、あなた!」  と除歳で呼ぶものがあった。見れば一人の女が、どこから来たのか、つかつかと彼のそぱに 近よった。  彼はあまりのことに、びっくりしてしばし言葉を発することができなかった。  すると女は、彼に近寄るなり、彼の手をぎφっと握って言った。 「ああ、よかった! とうとう帰って来たのねえ。■留置場を破って逃げて来たのでしょう?。 定那から警官がうちへ張りこんでいるのよ。だから、わたしはここにあなた吃待っていたの」  彼は、たしかに人違いをしているらしいこの女の一言葉に何と答えてよいか判(わ由)らなかった。し かし女は、それと知らず、なおも語りつづけた。 「この二、三日、きっとあなたが逃げ出して来ると思って待っていたのよ。来れぱすぐ高飛び のできるように、もう汽車の切符まで買ってあるの。人殺しは無実の罪だけど、取り調べられ た日には、二人の素性が知れて、事が面倒ですからねえ」  この言葉をきいて、はじめて彼は、この女が小室淳一の細君で、彼を良人(おつと)と間違えているの だとわかった。そうして、小室淳一の写真が彼と瓜二つであることも、よく了解することがで きるように思った。 「さあ」と女は彼の手を引っ張るようにして言った。 「ぐずぐずしていると、張り込みに来た警官につかまるといけません。あそこの森の中で、二 人は姿をかえ玄しょう。変装の道具はここへ持って来ました。あなたは盲人になるのです。そ うして私が手を引いて歩くことにしましょう。市中へはいればタクシーを雇って停車場へ行き ましよう」  彼は、あまりのことにどぎまぎしながら、ただ女のなすに任せた。彼はうっかり口をきいて 女に発見されるといげないと思って、ただ、「うん、うん」とうなずくだけで、何も言わなかっ た。しかし、女は逃走ということに心を奪われているのか、少しも疑うことなしに彼の手を引 いてずんずん進んで行った。  彼は歩きながら、いろいろのことを考えた。想像力が強くて冒険の好きな彼は、むしろこの 女の良人となりすまして、共に駆け落ちするのも面白いと思った。彼女の先刻の言葉によると、 小室淳一は、表向きは会社員でありながら、その素性は彼女のそれと共にどうやらよくないも のであるらしい。留置場を破って逃げるということによっても、小室の前科者であるらしいこ とが察せられる。いずれにしても、小室が今日、留置場を破って逃げたことは事実であって、 ちょうどその日に、偶然自分が小室の家の様子をうかがいに来たのも、何かの因縁(いんねん)である。と 思うと、彼は何となく一種の愉悦(えつ)を感ずるのであった。  しかし、真実の小室に出逢(あ)ったら自分はどうなるであろうか。また、彼女が、人違いを発見 したらどうなるであろうか。彼はそれを思うと、内心すこぶるはらはらした。が、まあいい、 成るがままにしよう。  いつの間にか二人はある森の中にはいっていた。光とてはただ星の光だけであったがそれで も別に歩行にはさしつかえながった。 「さあ、早速ここで変装しましょうよ」  こう言って女は風呂敷包みから、何かを取り出した。 「こちらへ顔をお出しなさい。眼鏡をかけてあげます。この眼鏡は黒い紙をレソズに張った塵(ちり) 除(よ)けですから、これをかければ、盲目同然になります。汽車の中へはいるまでは不自由でもあ なたは盲目になっていらっしゃい」  眼鏡をかけ終わると彼女はさらに、・ 「それからこれが、折り畳みのできる杖(つえ)です」と言って、彼の手に金属性の杖を握らせた。 「これから私もちょっと変装します」  こう言って彼女は、しぱらくの間、何事をか行なった。 「もうこれで大丈夫。少し歩きにくいかもしれぬが、しっかり私の手につかまっていらっしゃ い」  はじめのうち、何だかとぽとぽして歩きにくかったけれども、間もなく彼は馴(な)れてしまった。  およそ五、六町歩いたと思うころ、多少繁華な町へ出たのか、かなり人通りが多かった。人 中(ひとなか)を歩くことは、多少気が引けるように思われたが、塵除け眼鏡をはめているということは、 彼女に正体を発見される虞(おそ)れがないから、至極好都合であった。事実、彼女は、あかるい街(ち)に 来たにもかかわらず、人違いを発見しなかったのである。  やがて、彼女は一台のタクシーを見つけて呼んだ。タクシーが来ると、彼女は彼を助け乗せ、 何やら運転手に告げて、彼と並び腰かけた。 「人のあまりおらぬS停車場から乗ることにしました」  やがて自動車は、快速力を出して走った。彼は身体を上下に揺られながら、愉快な気持ちに つかった。後ろ暗い過去を持つ女と冒険することは、今の彼にとってはむしろ望ましいところ であった。たとえ人違いがわかったとて笑って済むだげである。そう思うと、彼は、照子を殺 したことなど、すっかり忘れて、将来に出逢うであろうことの数々をそれからそれへと夢想す るのであった。  やがて自動車はとまった。  彼女に手を引かれて降りてみると四辺(あたり)は比較的しんとしていた。 「さあ、こちらへいらっしゃい。待合室へ行きましょう」  彼は彼女に手を引かれたまま、建物の中へはいって、ベソチに腰を下ろした。 「このとおり切符はもう買ってあるのですよ。ちょっとこれを持っていてちょうだい! はば かりへ行って来ますから」  こう言って彼女は、彼の手に二枚の切符を握らせながら、彼のそぽを去った。  ところが彼女はいつまで経っても帰って来なかった。そうして停車場らしい物音が少しも聞 こえなかったので、彼ははじめて不審を起こしたのである。  急いで彼が塵除け眼鏡をとってみると、待合室と思いのほか、二坪(つぽ)ほどの狭(せ)い室で、そこに は誰一人いないで電燈がかすかに照っているぱかりであった。  はっと思って、彼は手に持たされた汽車の切符をながめた。するとそれは二枚とも小型の名 刺であって、その一枚には、   警視庁女探偵 広井百合子(ひろいゆりこ)  と書かれてあり、今一枚には、小さな文字で、裏と表に次の言葉が書かれてあった。 「小泉五郎さん。ここは×X署の一室です。あなたは旧名村田照子の殺害犯人として逮捕され ました。小室淳一は熱蜜の人物で、新聞紙上の写真も、R町十番地の家も、みなあなたを引き よ娃るための計略に過ぎませんでした。被害者の家で私たちはあなたの写真を発見して、あな たに嫌疑をかけたところ、自殺なさったとわかりましたが、女の直感によって私はあなたが、 生きていると断定しました。それと同時に犯人はあなたよりほかにないと思って、あなたを誘 い出す手段を講じました。この文句は、あなたの逮捕されることを信じて、あらかじめ書いて おきます」