小酒井不木「直接証拠」

　××大学工学部教授、西村純一博士が、高利貸岩井仙吉を殺害しようと決心したのは二カ月前のことであった。五千円の借金はとうてい支払うことができず、それかといって、これまでに築き上げた名誉と地位に傷をつけたくはなかったからである。ひそかに教室の実験用の器械を抵当に入れたのは、かえすがえすも失敗であったが、今更どうすることもできなかった。
　博士はまだ独身であって、両親も兄弟も、その他何の係累とてなかったが、自分の身体と名誉を愛することは殆[はと]んど狂的と言ってよいほどであった。学生時代から頭脳は人並はずれて優秀であったが、両親の愛というものを知らなかったために、その心は極めて冷かであった。そうして、いかに頭脳が優秀でも身体が弱くては何にもならぬことを知って、学生時代から衛生に注意し、借金したのも、実は、うまいものを食べたいためであった。しかしながら決して酒や煙草や女に近づかなかった。酒や煙草や女は身体を損[そこな]うものと解釈したからであって、ひたすら、各種のスポーツによって身体を鍛え、三十三歳の今年[こんねん]、二十貫に近い堂々たる体格を所有することができたのである。
　大学を卒業してから二カ年間S教授に従って毒瓦斯[ガス]を研究し、後二カ年闘海外留学を命ぜられ帰朝[きちよう]後論文を提出して工学博士となり、翌年教授に任ぜられた。その間に、岩井から借りた金はだんだん殖[ふ]えて、ついに今年になって五千円に達したのである。五千円の金は、他から借りられぬことはなかったけれども、極端なるエゴイストの常として、他人に頭を下げることに、いかにも耐えられぬ侮辱を感ずるのであった。それかといって、俸給からあまし出すことはできず、しかも利子は加速度をもって殖えてゆき、ことに、最近、岩井から抵当物の処分をすると脅かされたので博士はついに岩井を殺害しようと思いたったのである。
　頭脳の明断な西村博士は、この二カ月間、犯罪学の書物や刑法の書物を読んで、殺人について研究した。氏は殺人者の伝記を読んだとき、ハーヴァード大学の化学教授ウエブスター博士が友人のパークマン氏から金を借り、せっぱ詰って教室で殺害し、死体を焼却した事件を知って苦笑せざるをえなかった。何となれば、博士も朧気[おぼろげ]ながら、岩井を教室へ呼び寄せて殺そう
と思っていたからである。しかし博士はウエプスター教授のごときまずいことは決してやらぬつもりであった。ウエブスター教授は死体を切断して、一部分ずつ暖炉で焼却したが、全部を焼き尽さぬうちに教室の小使のために発見されてしまった。その時すでに頭部は焼き棄てられてあったが、灰の中に義歯[いれぱ]が残っていたため、それによってバークマン氏であることがわかり
教授は逮捕された。また西村博士は農学士山田某の犯罪にも苦笑した。何となれば、やはり、あの事件も自分と同じような動機によって行[おこな]われたからである。山田学士は鈴木某を自宅へ呼び寄せ、べースポール用のバットで撲殺[ぼくさつ]し、しかる後死体を切断して行李[こうり]詰にし郷里の河に投じたが、直ちに発見され逮捕され、ついに刑場の露と消えてしまった。何というまずい計画であろう。この二人に限らず、多くの殺人者の失敗は、いずれも死体の処置の不完全に基いていることを博士は知ったのである。
　人を殺しても、その殺された死体が発見されなければ、罰せられることはないのであるから問題はただ死体を完全に消失せしめればよいのである。無論死体を完全に消失せしめても、法律上、いわゆる直接証拠があれば、やはり刑罰を受けねばならぬかもしれぬが、直接証拠を無くすることは、死体を無くするよりも容易であるはずであり、また、死体を完全になくしさえすれば、被害者が生死不明ということになるから、何よりもまず死体の処置に全力を注ぐべきであると博士は考えたのである。
　博士はもちろん、良心の呵責 [かしやく]ということについても考えてみた。多くの殺人者は良心の呵責に耐えかねていろいろなヘマ[、、]を行い、また、自首するのであるが、博士は自分の心を振り返ってみて、良心の呵責などはありそうにないと思った。良心の呵責に苦しむようなものは、人間が弱くできているからであろう。ラスネールはどうだ。ランドールはどうだ。彼らには毛頭もさような硯象は見られなかったではないか。自分の榑経もおそらく敏らと薄じようにでき上っているつ込りだ。スポiツで鍛えた神経は良心の弼責に縁えぬほどデリケートではないはずだ。もっともラスコルニコッフは凶行前までは、自分と同じような考えでいたが、いざ殺人を行ってみると、良心の責め苦に逢った。しかし自分は決してラスコルニコッフではない。自分の最も大切な名誉を保護するために、その最も大切な名誉を賭してかかる仕事である以上、自分はおそらく未だ嘗[かつ]てないほどの冷静を保ち得るであろう。
　かくて殺害の計画は調[ととの]ったのである。博士は五千円の金を大学でお渡ししたいから、来[きた]る六月×日土曜日の午後証文を持って来てくれと岩井仙吉を呼び寄せたのである。土曜日は午前で終るのであるから、誰もおらず、殺人には極めて好都合であった。

2

　凶行は博士の階下の実験室で手早く行われた。博士は自分にマスクを掛け、岩井に毒瓦斯を嗅がせると、岩井はうんとも言わず数秒で絶命した。博士はまず彼の衣服を脱がせて炉に投じて焼きはらい、帽子、蠣輻[こうもり]傘、下駄をも運んできて焼いてしまい、金属製のものはるつぽ[、、、]で溶かした。それから三和土[たたき]の床の上で動物解剖用の道具をもって死体を切断し、かねて拵[こしら]えておいた苛性曹達[そうだ]の濃厚な溶液に投じて溶かし、溶かした液はこれを稀[うす]めて流してしまい、歯は別に器械をもつて粉砕し、およそ三時間かかつて、岩井仙吉を、完全に、この世の中から消滅せしめてしまったのである。もちろん、岩井の持ってきた鞄の中には、博士の関係した証文以外にいろいろなものがあったがそれもことごとく灰となってしまい、床の上の血も薬品と水とによって完全に洗い去られてしまった。
　かくて凶行は計画された通りに遂げられたが、ここにたった一つ西村博士の予期しないことが起った。それは何であるかというに、死体切断の際、血のついたメスの先で、誤って左の食指の尖端の外側を、わずかに二分[ぷ]ばかり傷つけたことである。冷静な博士も切断中はかなりに緊張していたとみえ、死体の処分や、床上の斑痕の掃除などを終って、手を洗い、はじめて血が泌み出ているのに気付いたのである。痛みも励に感じないくらいであったが、博士は念のために絆創膏[ぱんそうこう]を貼[は]った。
　予定の中に入れていなかったこととて、いささか気にならぬではなかったが、しかし、これが直接証拠になるはずはないと思った。手に傷をしたことが死体を切断した証拠にならないことは、ちようどかのランドールが裁判官に向って、「ストーヴの存在することが、死体を焼いた証拠とはなりますまい」と皮肉をいったと同じである、こう考えると簿士の顔には軽い笑いが浮んだ。そうして簿士は、ホッと溜息をつきながら、教授室に入り安楽簿子にしばらく身を埋めて一依みし、やがて姿見鏡の繭で、殿装を綾査し、熔食わぬ顔をして教室を畠たのである。
　凶行の後、博士は、悔恨の情どころか、一種の快感をさえ覚えた。ちょうどそれは、むずか


しい論文を書き終ってほっ[、、]とした時の気特に徴ていた昌ただ、常にない疲労を感じたので、女中と二人暮しの家に帰るなり、夕飯も食べずに寝てしまった。夕飯も食べずに寝るということは何かの証拠になりはしないかど思ったが、こうしたことはあり勝であるから、安心して張りに就くことができた。
　翌日はいつもより三十分も余計に寝過ぎた。簿士は多くの殺人者が、凶行後、被害者の夢を見ることを思い浮べ、自分がぐっすり[、、、、]寝たことにむしろ不審をいだくくらいであった。そうして、これはやはり自分の神経がしっかりしているためであると考え、われとわが冷血性を賛美せずにおられなかった。
　夢には見なかったけれども現実の博士の頭には、岩井仙吉の記億がまざまざと浮んだ。油ぎった皮肩を持っていながら、小柄な痩せた体格の持ち主で、額は禿げあがり、眼は狡猾[ずる]そうに輝き、常火口元に意地の悪い笑いが浮んでいた。六十歳になるまで独身[ひとりみ]で暮したのも、妻帯すれば金が要[い]るからだと語っていたくらいの男で、涙などは何処にもなく全身これ貪欲[どんよく]の塊といってよいほどであった。それにもかかわらず彼が大学を出たばかりの医学士を養子として迎えたことは不思議な点であったが、おそらく、利にさとい彼は、その医学士に開業でもさせて、うんと儲けさせるつもりであったかもしれない。
　博士は日曜日の午前中、岩井仙吉に関するとりとめのない考えに職っていたが、ふと気がついて、心の中で言った。

「いけないいけない。こんなことを考えるのは、やはり殺人というものの一種の後作用であるかもしれない。後作用があるところをみると自分の冷血性は徹底的でないかもしれない。危険だ。危険だ。忘れよう。忘れよう。……」

3

　月曜日の午後、二人の警官が西村博士をその教室に訪ねた。博士は、いよいよ来たな、と思いながら、応接室に招[しよう]じ入れた。
「甚[はなは]だ突然でございますが、岩芽仙吉さんが、土曜日にこちらをお訪ねしませんでしたか？」
と背の高い方の警官は言った。
「見えましたよ」と博士は冷静に答えた。
「何時頃でしたか？」
「そうですねえ、三時頃でした」
「それからいつ帰りましたか」
「四時少し餉だったと思います。岩井さんがどうかしましたか？」
　警官は今一人の警官と、チラと眼を見合せた。
「実は土曜日から行方不明なのです」

「ほう、そうですか、何処へ行ったのでしょうか？」
　警官は言いにくそうにしていたが、やがてポケットから一枚の紙片[かみきれ]を取り出した。
「失礼ですが、一寸教室を捜索させて頂きたいので、この通り令状を……」
「ああなるほど、どうぞゆっくり捜してくだきい。ご案内しましょう一と、博士は無造作に立ち上った。
「一昨日、岩井さんとはやはり応接室でお逢いでしたでしょうか？」
「いいえ、実験室へ来て貰いましたよ」と、いかにも淀みなく博士は言った。博士は正直に答えることが、最も安全な策であることを知っていたのである。
「では、実験室から拝見させて頂きます」
　二人の警官は、昨日殺害の行われた実験室にはいって、拡大鏡を取り出しながら、無言で隅々を捜しまわった。博士は心臓の鼓動さえ高めることなしに、彼らのなすところを見まもることができた。彼らは血痕がありはしないかと三和土[たたき]の床の上を綿密に調べたが、もとより、何の発見もなかつた。それから、教室の各室を検[しら]べ、最後に禁なく下駄箱の中をさえ捜したが、証拠となるものは何もなかった。
　再び応接室に戻ってから、背の高い方の警官は言った。
「岩井さんは何の用でお伺いしたでしょうか？」
「借金を返済するために、こちらへ来て貰いました」
「岩井さんはその金を受取って帰りましたか？」
「そうです」
「その金は幾何[いくら]でしたでしょうか？」
「五千円です」
「現金か、或[あるい]は小切手でお払いになりましたか？」
「現金です」
「証文はお持ちでしょうか？」
「不用になったから燥いてしまいました」
　しばらくして、他の警官が言った。
「失礼ですが、その指はいつお怪我なさいましたか？」
「一昨日です」と博士は絆創膏を貼ってある左の食指をわざど前に突出して答えた。
　警官は皮肉な笑い方をして言った。
「解剖用の小刀[メヌ]で傷つけられたのではありませんか？」
「よくあたりましたねえ」と博士も笑った。
「その小刀を拝見できぬでしょうか？」
「よろしいとも一こう言って博士は実験室へ行き、宕井の死体[しかい]の切断に用いた解剖用の道具を特って来て見せた。


警官は小刀を手に取って拡大鏡で検べた。
「だいぶ刃がこぽれておりますねえ」
「度々使いますから」
「何にお使いになりますか？」
「毒瓦斯の実験に使用する動物の解剖に用います」
警官はいかにも軽い調子でたずねた。
「これで人間の死体を解剖なすったことはございませんか？」
「まだありません」と博士は顔色を変えないで答えた。
やがて警官は辞し去った。警官を送り出した博士は心中で言った。
「ふん、どんなに彼らが冷血性でも、どてもおれには及ぶまい……

4

　薪聞は高利貸岩井仙吉が行方不明になったことを報じた。××大学工学部に西村教授を訪ねて以来、誰も顔を見たことがないというので、世間の視聴は西村博士に集まったが、博士は、どこを風が吹くといわんばかりの態度で、毎日教室に出勤した。警察では一方に岩井の行方を捜し、一方に西村教授を監視し、大学の教室を始め、西村教授の自宅をも再三捜索したが、何一つ証拠を得ることができなかった。これがため岩井が生きているか死んでいるかさえもわからなくなり、警察では岩井自身の出現するのを待つか、または死体の発見されるのを待つよりほか、なすべき手段がなかった。
　岩井家に養子に迎えられた若い医学士岩井春雄は、女中と共に養父の行方を気づかいながら度々警察へ行って、その後の事件の進展をたずねるのであった。養父は金銭の貸借閤係のことを平素少しも春雄君に告げなかったので、西村教授に貸金のあったことも、警官から聴いたくらいであった。春雄君は皮膚科の教室に勤務していたが、養父が行方不明となってからは、一時休暇を貰って、自分で、警察と力を合せて、養父の運命を探ろうと決心した。春薙君は学生時代から犯罪学に興昧を持ち、大学を卒業したならば、法医学を修めようと思ったのであるが岩井から懇望されて養子となり、皮膚科学を修めることにしたのである。春嬢君の実父は岩井の友人で、岩井から金を借りていたので、主として父を救うために、春雄君は養子となったのであるが、住み込んでみれば、養父は決して世間で評判するほどの無慈悲な人間ではなく、深い理由があって、冷静な性質となったのに過ぎなかった。ことに春簸君に対しては、実父にもまさるほどの親切を尽してくれたのであるから、こうして行方不弱になってみれば、何をさし措[お]いても捜し出すことに全力を尽そうと決心したのである。そこで、金庫を闘けて、貸借闕係のある先を取調べ、警察の人々に探って貰ったのであるが、杳[よう]として消息は知れなかったのでいよいよ養父は殺されたにちがいないと思うに至った、しからば養父は誰に殺されたのであろ
う？
　養父が西村博士をたずねて以来行方不明になったことから考えてみれば、まず西村博士を疑わねばならない。ことに警官の話すところによると、当日は五千円の現金を渡すために坪び寄せたということであるし、なおまた、西村博士を養父がたずねた日に、左の食指を、しかも解剖用の小刀[メヌ]で傷[きず]つけたということも、甚だ怪しむべき事情[ことがら]であるけれども、肝心[かんじん]の直接証拠がないから、警察でもどうするこどもならぬのである。おそらく、西村博士は養父の死体を完全に消失せしめたがため、わざとそういう怪しい事情[ことがら]を警官に示したものであろう。して見ると西村博士はよほどの怪物でなくてはならぬ。よし、そういう怪物であるならば、どこまでも戦ってやろう。そうだ、敵を征服するには、まず敵に近づいて置かねばならない。こう考えて、春雄君は養父が行方不明になってから二週間の後、西村教授を大学に訪ねたのである。
　岩井医学士はまず応接室に通された。
「父は実験室でお目にかかったそうですから、実験室を拝見できぬでしょうか？」
「どうぞ」
　こう言って博士は気軽に案内した。岩井学士はあたりを見まわして言った。
「どうも父がまだ、この室におるような気がしてなりません」
「というと、この室で殺されなさったというのですね？」
「はあ」
「そうして、私が殺したというのですね？」
「はあ」と、学士は博士の顔をじっと見つめた。しかし、博士の顔はびくともしなかった。春雄君は、博士が思ったよりも遥かに強い人間であることを知って驚いた。
「しかし、証拠がないじゃありませんか？」
「証拠は取り除けば無くなります」
「無くなればやはり致し方がないじゃありませんか？」
「だから、取り除かれた証拠を見つけ出そうと思うのです」
「どうか遠慮なく見つけてください」
「いえ、ここで見つけようとするのではありません。証拠を見つけるためには、それだけの資格がなくてはならんと思いますから、まずその資格を作ろうと思います」
「ほう、それはどうするのです？」と、博士はさすがに不審そうな顔をした。
「私はまず法医学を修めようと思うのです。ことに殺人の行われた室そのものの性質を研究してみようと思います」
「それは面白いですねえ」
「時に」と学士は博士の左手に眼を注いで言った。一父がおたずねした日に、食指に傷をなさったというのは本当ですか？」
「そうです」

　こう言って博士は、岩井学士の限の前に左手を差墨した。傷はもとより治っていて眼に見えるか見えぬくらいの瘢痕[はんこん]があった。
「なるほど、これが、父の死体を切獗なさる時にできた傷ですか？」
「そうじゃありません、その日の朝できたのです一と、まるで世間話をしているような態度で博士は答えた。
「いや有難うございました。何だか、直接証拠が見つけられるような気がしてきました」
「それは結構です。どうです。これからすぐその直接証拠を見つけられては？」
「さあ、それは少々困難だと思います。五年かかるか、十年かかるか、私の研究次第だと思います」
「そうですか、そんな気の長いことですか」
「まったく気の長い話です。しかし私も養父には一方[びとかた]ならぬ恩を受けておりますから、証拠を見つけるまでは、何年かかっても続けたいと思います」
「大いにおやりなさい」
「そうして、幾年かの後、あなたが犯人であるということを見届けるのは、きっと愉快だろうと思います」
「定めし愉快でしょう。しかし、そうなると私はあまり愉快ではありませんねえ。が、反対に何年過ぎても証拠が上らぬとなると、それを見ておることは、私に取って愉快この上もありませんねえ」
　二人は苦笑した。

しかし二人の心は水火のごとく争っていた

5
　　
　一月[つき]過ぎ、二月過ぎ、三月過ぎても、養父は姿を見せなかったので、岩井医学士は、養父が殺されたことを確信すると同時に、西村博士を憎む情が日ましにはげしくなった。
　岩井学士は、西村博士に告げたごとく、皮膚科教室を辞して法医学教室にはいった。しかし、法医学を修めることは実は直接証拠の探究のためではなくて、年来の希望を果すに過ぎなかった。けれども西村博士が養父を殺したという直接証拠は必ず見つかるであろうと思った。否、見つけねばやまないと覚悟したのである。
　半年を過ぎたある日、春態君は西村簿士をたずねて、実験室で話した。
「どうです、研究は進みましたか？一と簿士は気軽にたずねた。
「いや、なかなか進みません一と春蓮君は橿手の顔を星つめて言った。「殊今、血痕の研究をやっております。私の考[かんがえ]では、一度血液が物体に付いたならば、たとい拭い取り洗い取った
跡でも、必ず反応を示すだろうと思い、その反恋を畷究しておるのですが、なかなか容易では
ありません。もし成功したならば、この実藻室の物体を検査させて頂こうと思います」


　博士はチラと床の上へ限をやった。
「そうですか。それは面白い研究ですねえ。しかし、たとい、この実験室の物体に人閏の虹液
の付いた痕を証明したとて、必ずしも、お父さんがここで殺されなさったという証拠にはなり
ませんですねえ」
「仰せの通りです。いや、私の破究の経過をお諸しに来たばかりです」
　実験室を辞し去った学士は心の中で呟[つぷや]いた。
「ふん、何も辛抱くらべだ。そのうちには、あの冷政そのもののような顔に、恐椀の色を浮べさせないで置くものか」
　更[さら]に半年が経過した。警察はもはや手を引き、世間はこの事件を忘れた。今やまったく、西村博士と岩井学士との二人きりの戦いとなった。
「どうです血痕の研究は？」と、岩井学士の訪問を受けた博士はたずねた。
「なかなか思わしく進みません」
「早く完成したいものですねえ」
「まったくです。しかし近頃は少し方面を変えて人相学ことに殺人者の人相の研究をしています」
「ほう、それは面白いですねえ。どうです、私は殺人者らしい人相を具[そな]えていますか？」
　学士はわざと、顔を近づけ、じっと睨んで言った。
「あなたの眼はたしかに殺人者の定型的なものです」
「そうですか。それじゃ、これから人を殺す運命にあるのですか？」
「いいえ、その眼は既に殺人を行[や]ったタイプです」
「そうですか。しかし、それかといって私が、お父さんを殺した直接証拠にはならぬようですねえ」
「無論そうです」
　岩井学士が去ってから西村博士は呟いた。
「いつまで過ぎたって、何の研究ができるものか、それに時を経[ふ]れば経るほど直接証拠は稀薄になるのが定則ではないか。我輩[わがはい]の神経は、岩井学士ぐらいのためにビクともさせられるものではない」
　それから一カ年の後、岩井学士は例のごとく西村博士をたずねた。
「どうです人相学の研究は？一と、博士はたずねた。
「近頃はまた方面を変えて、殺人者の罹[かか]る病気について破究しております」
「それは面白そうな研究ですねえ一と、簿士は常になく鰻を輝かせて言った。一で、殺人者はどんな病気にかかるものですか？」
「いうまでもなく、殺人者は大部分死捌に処ぜられますから、無鰯憲役その絶のものについての統計を取って見ますと一ばん多いのが實癌、その次が肺結核です」

　これを聞いた博士は妙な表情をした。
「そうですか、胃癌とは痛快ですねえ。しかし、殺人者の病気と直接証拠とはどういう闘係があるのですか？」
「もちろん何の関係もありません。仮にあなたが胃癌にかかられたとしても、あなたが殺人者たる証拠にはなりません。けれども、もし胃癌にかかられれば、それで万事解決されたと同じではありませんか。殺された者も漂するでしょうから…：」
　学士が去ってから博士は呟いた。
「要するに何の研究もできないのだ。しかし、病気のことを言い曲されたのは少々心にこたえた。おれは身体と名誉とは世界中で何よりも一番愛するからなあ。なあに、おれは、胃癌や肺結核に襲われるような体質じゃないんだ」
　帰途についた岩井学士の顔には微笑が浮んだ。
「有望だぞ。病気の話をしたら、さすがに顔色が変った。今にあの顔の色を極度に変化させてやろう。いや、まったく有望だ！」

6

二年の後、岩井学士は西村博士をたずねた。養父が行方[ゆくえ]不明になってから、実に四年の歳月が流れたのである。
「久し撮りですねえ。どうです研究の方は？」
「やっておりますよ。実験が忙しいもんですから、ついつい御無沙汰致しました」といって、
学士は博士の顔や身体をじろりと眺めた。「近頃はまた方面を変えて実験病理学の研究をやっております」
「どんなことをするのですか？」

「兎やモルモットに徽菌[ぱいきん]を植えてから病気の起る日数を研究するのです。例えば結核菌を、皮膚に擦り込んだり、空気と共に吸わせたり、或[あるい]は血液の申へ直接注射したりしてみますと、直接血液の中へはいった時が一番早く発病します。どんな潜伏期の長い病原菌でも、斑液中にはいると、かなりに早く発病します」
「それが直接証拠とどういう闘係がありますか？」
「もちろん、何の関係もないはずですが、ただ例のごとく、研究のお話を申し土げたのに過ぎません。それに近々私は欧米に留学しようと思います」
「ほう、そうですか、やはり直接証拠の研究ですか？」
「まあ、それに関連したようなことです。主として精神分析学と催眠術とを研究して来ようと思います」
「なるほど、精神分析学で殺人者の精神を分析したり、催眠術をかけて殺人考に自秩でもさせ
ようというのですね？」
「そうとは限りません」
「とにかく、まあ十分研究して来てください。何年滞在の予定ですか？」
「三年の予定です」
「お身体を大切に」
「有難う存じます」

　岩井学士の洋行中、西村博士は一年に一度の割で、絵ハガキを受取った。その何[いず]れにも、「帰朝すれば、必ず直接証拠を発見します」という文旬が書かれてあった。前の二度は、これを受取ったとき、「ふふん」とあざ笑ったが、三度目には、いよいよ不日[ふじつ]帰朝すると書かれてあったために、常になく興奮を覚えたのである。
　もっとも、博士が興奮を覚えたのには、他に重大な理由があった。三度目のハガキを受取ったのは一月の半であったがその年は常にない寒さであって、左手に少しばかりの霜焼[しもやけ]ができた
からである。しかもはげしい寒気がいつまでも続いて、容易に治らず、人一倍健康を気にする博士は、そんな些細なことにもかなりに気を腐らせていたのである。
「果して、岩井は直接証拠を見つけるであろうか？」常になく、そんな疑問さえ心に浮んだ。
そうして岩井学士に逢うことが何となく厭に思われた。
「これはいけない」と博士は絵ハガキを片々[きれぎれ]に裂いて言った。「おれには強い神経があるはずだ。殺害してからもう七年になるではないか。どんなに欧米で研究して来ても、直接証拠は見つかるまい。そうだ、早く逢って、大いに潮弄してやろう」


7

　それは、肌の凍るような二月上旬のある日のことであった。洋行から帰った岩井学士は、約束のごとく、実験室に西村博士を訪ねた。学士は果して約束通り直接証拠を見つけることができるであろうか？
「これは久し振りですねえ」
　こういった博士の声は常に似ず力が無かった。またその顔には何となく元気がなかった。岩井学士ははっ[、、]と思い、
「まったくのお久し撮りです一といいながら博士の顔をじっと見つめ、それから身体中を眺め
たが、博士の左手を見るなり急にその眼は輝いた。
「おや、左手をどうかなさいましたようですねえ？一と、学士は興奮のため、声を顕わせてたずねた。
「今年は寒いものですから、霜焼ができたのです。時に直接証拠は発見できましたか？」
　岩井学士は、胸に手を当てなければならぬくらい興奮した。

「とうとう直接証拠を発見しました！」
「え？」と、さすがの博士も少し顔の色を変えた。
「ああ、常になく驚きましたね？　こうなると失礼ながら勝利はこちらのものです」と、学士
は意地悪そうに博士を見つめた。
「どこに証拠があるのです？」と、博士は声をしばるように言った。
「証拠はあなたのその霜焼です！」
　これを聞くなり、博士は思わず左手を後ろに引いた。サッと血の気が顔から去った。
「西村博士、その霜焼こそ、あなたが父を殺された直接証拠なのです。私は今日のこの日をどんなに待ったことでしょう。法医学教室での研究も、外国での研究も、すべてはあなたのいわゆる直接証拠とは無関係だったのです。あなたは法律上の直接証拠を意味しておられたでしょうが、私は医学上の直接証拠を意昧していたのです。あなたのような冷血的な殺人者に対して法律上の直接証拠を挙げ得ないことは始めからわかっていました。ただ私は医学上の直接証拠が必ず得られるという希望を、始めから持っていたのです。五年過ぎるか十年過ぎるかわからぬが、とにかくそのうちには証拠があらわれて釆るだろうと信じておりました。この希望と確信とを持ち得るものは、養父の秘密を知っておる私以外にこの世に一人もありません。養父には恐ろしい病即[すなわ]ち癩病[らいぴよう]がありました。養父が冷たい性質であったのもそのためですし、私が養子に迎えられて皮膚科を修めたのもそのためです。私は毎日、養父に昇天[しよラこう]水の注射をして、辛うじて病気の外部にあらわれることを防いでいました。それゆえ養父の体内には癩菌が一ぱい繁殖しているのです。ところがあなたは養父を殺した死体を切断し、その際指を傷[きずつ]けられました。いかに聰明なあなたでも医学を修めておられないために、それには気付かず別に特殊の消毒を施されなかったでしょうから、癩薗は傷口から血中にはいったにちがいありません。そこに私は希望を懐[いだ]いたのです。かつて私は、実験病理学のお話をして、血中に入った徽菌は、早く病を起すことを申上げたつもりですが、癩菌のごときは、潜伏期が十数年または数十年もかかるのが普通でして、血中に入った場合はどれだけかかるか、私も知りませんでしたが、今日初めて七年かかるというこどがわかりました。時々お目にかかりに伺ったのは、あなたに癩病の症状が現われて来やしないかを見るのが主なる目的で、研究の話は付けたりだったのです。私は皮虜科にいました、癩病を研究しておりましたから、癩の症状は一目でわかりますが、あなたのその霜焼様の皮膚の変色は癩病の定型的症状です。これが直緩証拠でなくて何でありましょう。これでお約束通り直接証拠をお目にかけることができ、養父に対する義務を完全に果しました。あなたは法律上の死刑よりもなお一層恐ろしい珊罰を受けられることになりました。ではもうこれで再び御目にかかる必要はなくなりましたから永久にお別れ致します−：」
　絶大なる恐怖のために、椅子の申に身を埋めた簿士を後に残して、岩井医学士は、極めて軽快な歩調で、教室の門を畠た。
　　　　　　　　　＊

　翌日、西村教授が、教室で毒瓦欺を吸って斃 [たお]れていることが発見された。人々は自殺か過失死かの判断に迷ったが、岩井学士だけは、教授の死の真相をはっきり知ることができた。