妖魔の哄笑 ---------------------[End of Page 1]---------------------      四本指の男  午後九時十五分発|新潟《にいがた》行き急行列車は、けたたましい発車信号のベルが鳴り終わると同 時に、静かに上野駅のプラットホームを滑り出した。 「さようなら。行ってらっしゃい」  プラットホームに立っていた、-ちょっと見ると女優かと思われる、そういえばどこか映     おいかわみちこ . 画女優の及川道子に似ていて、彼女よりももう少し濃厚の度の強い美しい令嬢が、二等寝 台車から頭を出していた六十近いどっしりとした体格の、富豪らしい紳士に呼びかけた。 紳士はにこにこと笑いながら|頷《うなず》いた。社用で新潟に出張するために、同じ寝台車に乗り合 わした若い会社員の|土井健三《どいけんぞう》はずっと以前から令嬢の横顔に|見惚《みと》れていたが、汽車がやが て速度を早めて令嬢の姿がだんだん|遠退《とおの》き、父らしい老紳士が窓から首を引っ込めたのち も、まだ残り惜しそうにプラットホームのほうを眺めている。  汽車は|空《す》いていた。ことに、寝台車の乗客は少なかった。例年ならば、この汽車は|軽井 沢《かるいざわ》行きの避暑客や日本アルプス方面の登山客を満載しているのだったが、この年は梅雨が 変にこじれて、七月の半ば過ぎまでじめじめと降りつづき、土用に入っても天気は曇りが ちで、まるで秋の中ごろのような涼しさだったので、用事を控えた旅客のほかはほとんど 乗っていないのだった。  プラットホームが見えなくなると、ようやく土井は窓から首を引っ込めた。彼は真ん中 よりもやや前部に寄った十号という寝台を占めていたが、ずっと離れた後ろ寄りの隅近い 所で、ボーイがしきりに寝台を作っていた、その前で例の老紳士が葉巻を片手に、用意の できるのを待っていた。土井のすぐ前の八号寝台には、神経質らしい中年の紳士が変に不 機嫌な顔をして、しきりに|煙草《たばニ》の灰を|叩《たた》いていた。土井と老紳士の間に一つ、早くも寝台 の幕を垂れて中に入っているらしい人があった。寝台車の乗客はそれだけだった。  ボーイが寝台を作りに来る間、所在のない土井は前に|坐《すわ》っている男をときどき盗み見た が、彼が|眉《まゆ》をひそめていらいらしている様子を見ると、どうにも話しかける気持ちになら なかった。そのうち、土井はふと彼の右の手を見て好奇の目を光らせた。八号寝台の客は 右手の中指がないのだったし  やがて、ボーイがやって来て寝台を作ったので、土井は仕方なく浴衣に着替えて垂幕の 中に入った。|家《うち》にいれば床に入るやいなやぐっすり寝込む彼だったが、慣れない寝台車の ためか、それともいまの会社に入ってからはじめて社用で出張するという軽い|昂奮《こうふん》のため か、妙に目が|冴《さ》えて容易に寝つけないのだった。  |大宮《おおみや》・|熊谷《くまがや》と、順々に汽車が|停《と》まるのを土井はよく知っていた。|高崎駅《たかさきえき》の停車を薄々知 っていたように思ったが、彼はその前後に寝入ったとみえて、高崎から先はほとんど何事 も覚えがなかった。  と、彼は突然目を覚ました。彼はなにかしら不快な夢を見つづけていたのだったが、突 然、何者かが彼の胸に襲いかかったような気がして、はっと目が覚めたのだった。  車内はしーんとしていた。緩やかな音を立てて、汽車は進行していた。 「やはり夢だったか」  土井はほっとしたが、どういうわけか彼は胸が苦しくてたまらなかった。頭がずきんず きんと割れそうに痛く、むかむかといまにも吐きそうだった。 「どうしたんだろう」  土井は怪しみながら、なかば夢中で起き上がった。  土井はふらふらしながら起き上がったが、胸がむかむかして|喉《のど》もとまで込み上げてくる ので、ボーイの|揃《そろ》えておいたスリッパを引っかける暇もなく、車内を飛ぶように横切って 便所に急いだ。  もう夜はよほど更けているらしかった。ところが、それにもかかわらず便所には赤地に 閉の字の印が出ていた、一生懸命に吐くのを|堪《こら》えていた土井はがっかりしながら、ちらり と洗面所のほうを見た。すると、そこにも人がいるらしく、黒いズボンを|穿《は》いた足が力1 テンの下から見えていた。  土井は片手で口を押さえながら、扉を開けてデッキに出た。汽車はどこかの駅に停車す るところとみえてスピードがすっと落ちていた。しかし、土井はそんなことを考える暇も なく、デッキの扉を開けた。むろん、彼はそこから線路に吐くつもりだった。 「待てっ」  土井は出し抜けに、背後から|邊《たくま》しい腕でぐっと抱き止められた。 「まくよ、まくまl  o  `  `  '    」  土井は叫びながら、頭を外に出そうと|藻掻《もが》いた。ところが、彼を抱えた腕は少しも緩ま なかった。 「待てっ、逃げようたって逃がさんぞっ」 「ほ、ほくは、に、逃けるんじゃないI」  土井は一生懸命に叫ぼうとしたが、あまり強く胸を締めつけられていたので、声が充分 に出ないのだった。そして、幸か不幸か同時に吐気もだいぶ薄らいだのだった.彼は頭を 外に出すのを|止《や》めて、じっと後ろの男のするままにした、  汽車はもう惰力で走っていた。やがて、すーっと明るいプラットホームに滑り込んだ、 「軽井沢! 五分間停車!」  軽井沢だった。駅の時計は一時十五分を示していた。浴衣一枚の土井は急に肌寒さを覚 えた。 「放してくれたまえ」  何か誤解をしているのだと思って土井はじっとしていたが、相手が容易に手を緩めない ので、声を|尖《とが》らしながら叫んだ。  しかし、相手は放さなかった。そうして、プラットホームのほうに向いて怒鳴った。 「だれか来てくれ」  叫び声を聞きつけた駅員が二、三人、ばらばらと駆けつけてきた。そうして、背後から 抱き止められている土井の姿を見ると、言い合わしたようにぎょっとして立ち止まった。 「この男を駅長室へ連れていってくれ」  土井を押さえていた男は専務車掌だった。彼はこう叫びながら、土井を無理やりに押し た。下で待ち構えていた駅員は、すぐに土井に飛びかかった。そうして、手取り足取り、 担ぐようにして土井を駅長室に連れ込んだ。  汽車は十数分間停車した。そうして、寝台車だけを切り離して、何事かと怪しんでいる 残りの乗客を|長野《ながの》盆地のほうに運んでいった。 「ぼ、ぼくをどうしようというんだ」  驚きと怒りで真っ青になった土井は、駅長室で怒号しつづけていた。  その暇に電話はけたたましく鳴って、駅と警察署との間に忙しく通話が交わされた。や がて、一台の自動車が署長をはじめとして軽井沢警察署の首脳と腕利きの刑事を満載して、 駅の玄関に横づけになったのだった。 「きみの名は?」  署長はいかめしく問いかけた。土井は出し抜けに警官の一行が駅長室に入ってきたので、 何か容易ならんことが起こったのだと直覚した。彼は悪びれずに署長の問いに答えた。 「土井健三」 「|年齢《とし》は?」 「二十八」 「住所、職業は?」 「東京市外中野町五六四番地、東洋石油株式会社の社員です」 「旅行の目的は?」 「本社の命令で、新潟の工場に出張する途中です」 「ふん、それで、きみはいったいどういう目的で、あの男を殺したのかね」 「えっ」  土井はびっくりして跳び上がった。そうして、次の瞬間に泣き声のような叫び声を上げた。 「し、知りません。ぼ、ぼくは人を殺したような覚えがありません」  署長はじろりと土井の顔を見回した。 「では、きみはどうして進行中の列車から逃げようとしたか」 「ぼ、ぼくは逃げるつもりじゃありません。頭が痛くて吐気がしたので、デッキに出たん です」 「ふん、では、きみの着物に点々とついているのは何かね」  土井は署長の問いに驚き怪しみながら、着ている浴衣を見回したc 「あっ!」  土井は思わず叫んだ、浴衣にはあちこち生々しい血がついているのだった。土井は|荘然《ぽうぜん》 として、それが他人の着物であるかのように眺め回すのだった。  署長は土井の様子をじっと眺めていたが、傍らに立っていた専務車掌のほうを振り向い た。 「もう一度、詳しくきみの見たとおりを言ってごらん」 「はい」  車掌は青白い|頬《ほお》をぴくぴく動かしながら、 「|熊《くまだ》ノ|平《いら》駅を発車してからわたしは車内を見回りました。軽井沢には真夜中に着きますの で、よく下車するのを忘れる人がありますから、それを注意するためでした。もうかれこ れ軽井沢に着くというときに、わたしは二等寝台車の便所の前を通りますと、だれか入っ ているとみえて閉の字が出ています。この時刻におかしいなと思いながら通り過ぎようと しましたが、ふと気がつくとあたりの床に点々として血らしいものが飛び散っています。 わたしはぞっとしながら注意してみますと、どうも血は便所の中から流れてくるらしいの です。わたしは急いで便所の戸を叩きました。ところが、何の返事もないのです。そこで、 わたしは便所の戸に手をかけました。するとどうでしょう、閉の字が出ているのにかかわ らず、戸はわけなく開きました。中を一目|覗《のぞ》き込んだときに、わたしは危うく卒倒すると ころでした。中には血みどろになった人が|術《うつむ》けに倒れていたのです。わたしはすぐに戸を 閉めて、ぶるぶる|頭《ふる》えながら同僚にこのことを知らせようと思って引き返そうとすると、 寝台のほうからだれか歩いてくる気配がしました。わたしは|咄嵯《とつさ》に洗面所に隠れました。 すると、ここにいる若い人が血だらけの浴衣を着たまま荒々しく扉を開けて、洗面所の前 を走るように抜けるとデッキに飛び出しました。わたしはすぐその後を追いましたが、こ の人はまさにデッキから飛び降りようとしていました。駅が近づいて汽車が徐行していま したから、てっきり逃げるつもりに違いないと思って、わたしは背後から抱き止めたので す」  車掌の陳述が済むと、署長は傍らに立っていた寝台車のボーイに向き直った。 「寝台車には何人乗っていたか」 「三人です」  ボーイは答えた。 「初め四人という通知がありましたので、その分の寝台も作っておきましたがどうしたの か、一人乗らない人がありましたので、上野を出たときは三人でした」 「途中で乗った客はないのかね」 「いいえ、途中で乗った人はありませんでした。かえって、高崎で二号寝台の人が降りま した」 「寝台車の客が発車後まもなく下車するというのは少しおかしいが、何か変わったことは なかったか」 「別に変わったことはありませんでした。急に重大な用を忘れていたことを思い出したか らと言って、荷物をまとめて降りていきました。|鞄《かぱん》には|野崎《のざき》という名刺がつけてありまし た。六十近い紳士風の人でした」 「では、その紳士が降りてからは寝台車の客は二人きりだったのだね」 「はい。その方が降りられたあとはここにおられる若い方と、便所の中で殺されていた人 と二人きりでした。二人の寝台は十号と八号とで、ちょうど向かい合っていました」 「高崎を発車してから、おまえは何をしていたか」 「お客はたった二人きりですし、途中から乗る客の通知もありませんでしたので、わたし は自分の部屋に入って、うとうとしていました」 「何か叫び声を聞かなかったか」 「そんなものは聞きませんでした」 「高崎駅で乗客が一人降りたときに、他の寝台の模様はどうだったか」 「降りた客の寝台は隅のほうで、残りの二人の客の寝台は真ん中よりも前部に近く、ちょ っと離れていましたのでよく分かりませんでしたが、スリッパはちゃんと揃っていました し、異状はないようでした」 「高崎から軽井沢まで、車内は見回らなかったのだね」 「はい、いま申しましたとおり、乗客が少なかったものですから、つい見回りませんでした」  署長の|訊問《じんもん》を黙って聞いているうちに、土井はようやく平静を取り返してきた。彼はい まとんでもない危険状態にあるのだった。寝台車の中で、彼の向かい側にいた男が何者か に殺された。寝台車には被害者のほかには土井が一人いたきりだった。土井の寝間着には 点々と血がついていた。土井は胸が苦しくて夢中で起き上がってデッキに飛び出したのだ が、それは不幸にも車掌に逃走するものと誤認されたのだった。土井は両手で頭を叩いた。 そうして、一生懸命に寝ていた間のことを思い出そうとしたが、頭の中にはもやもやと白 い雲が渦巻いているようで、なんにも覚えがないのだった。  署長はぐっと土井を|睨《にら》みつけながら、威丈高になった。 「きみはまだ犯行を否認するかっ」 「知りません。断じて覚えがありません」  土井は絶望的に怒鳴った。  署長はしばらく土井を睨みつづけていたが、やがて頷きながら立ち上がった。 「よし、来い。見せるものがある」  署長は先に立って駅長室を出た。土井は刑事に前後を護衛されながらその後に続いた。  署長はやがて、切り離して待避線に入れてあった寝台車に近づいた。そうして、後から 来る土井を招いて、中に入って便所の戸を開けると、土井をそのほうに押しやった。  一目中を覗いた土井は、さっと顔色を変えた。  便所の中は血の海だった。一人の男が|蛙《かわず》を踏み|潰《つぷ》したような|恰好《かっこう》で、傭けに倒れていた。 ちらりと見える半面はちょうど|瞼《なます》のようにずたずたに切り裂かれていた。それは二目とは 見られない、|惨《む ご》たらしい有様だった。  土井はあっと叫んで、たじたじと後ろに下がった。署長は意地悪くぐいと彼を前に押し 出しながら、 「きさまはこの男をここに連れ込んで格闘したのち、無残に切り殺したのだっ。それに違 いあるまいっ。白状しろっ」 「違います、違います」  土井は必死になって叫んだ。 「ぼ、ぼくは覚えがありません」 「ふむ」  署長は探るような目で土井を眺め回したが、、やがて部下のほうを振り向いて、 「車掌とボーイを厘れてこい」  と命じた。  車掌とボーイはまもなくやって来た。  署長は車掌に言った。 「この殺されている男は、寝台車にいた男に相違ないかね」 「わた七ははっきり覚えておりませんので、ボーイにお|訊《き》きください」  署長はボーイのほうに向いた。 「どうかね」 「はい、確かに八号寝台の客だと思いますけれども、なにぶん顔がよく見えませんから」 「だれか顔を見せてやれ」  署長の命令に、・刑事の一人が便所の中へ入って、|屍体《したい》を抱き上げた。屍体の顔がこっち を向いたときに居合わした者は思わず、わっ! と声を上げた。・こんなことには慣れてい る署長さえ、はっと顔を背けたのだっ.た、屍体の顔は全面にわたって滅多無性に切り刻ま れていた。目も鼻も口も全然見分けがつかないで、全面は熟れた|無花果《いちじく》を押し債したよう にぐちゃぐちゃで、どす黒ぺ|欄《ただ》れていた。,  ボーイは唇を真っ青にしてぶるぶる頸えながら、 「ど、どうもよく、わ、分かりません。し、しかし、着物や髪の毛や|身体《からだ》つきは確かに八 号寝台の客らしいです」  土井はふと、この時に指のことを思い出した。屍体に近づくことは恐ろしかったが、殺 人の疑いを受ける苦痛には換えられない。彼は叫んだ。 「署長、わたしにちょっと調べさせてください」  そう言って、彼は署長の許しも得ないでつかつかと屍体の傍らに寄った。そうして、右 手の指を一本一本調べた。 「署長、こ、これは、ぼくの向かいの寝台に乗っていた人ではありません」 「な、なんだって?」  署長は驚きながら問い返した。 「ぼくの向かい側にい九人は確かに、右の中指がありませんでした。四本指でした。彼は 妙にいらいらしてしきりに|煙草《たぱニ》の灰をはたいていましたので、つい見るともなく気がつい たのですが、確かに中指が欠けていました。この屍体の右手はちゃんと指が五本あります。 ですから、これはぼくの向かい側にいた人ではありません」 「そ、それは確かか」  署長は半信半疑という風に土井の顔を見たが、その時に刑事の一人が進み出て、署長の 耳に何事か|囁《ささや》いた。 「ふーむ」  署長は頷きながら|溜息《ためいき》をついた。  署長の耳もとに囁いた刑事の言葉は何だったか。それはこうであった。 「署長、あの男の言うことはまんざら|嘘《うそ》とは思えません。屍体の喉に手で絞めつ甘た|痕《あと》が ありますが、確かに中指が欠けているのです。便所の壁にも、犯人がよろけて血のつい た|掌《てのひら》でつけたらしい手型がありますが、やはり中指が欠けています」  ところで、殺されている男が指が完全で、加害者が四本指らしいとすると、これはいっ たい何を物語るのだろうか。いままで被害者は土井の向かい側の寝台を占めていた男と信 じられていたのが、それが逆に加害者と考えられるようになったではないか。それでは、 被害者はいったいだれであろうか。  署長は|愕然《がくぜん》としながらボ1イに言った。 「屍体の着物その他をもう一度よく見て、この土井という男の言うことが本当かどうか答 えてごらん」  ボ丁イは屍体をじっと眺めたが、やがて首を|傾《かし》げながら答えた。 「着物や身体の恰好はどうも八号寝台の客らしいですが、.なにぶん顔がこのとおりですか ら。、それに、わたしは指のことは少しも気がつきませんでした」 「高崎で降りたのは二号寝台の客に相違はないか」 「それは間違いありません。二号寝台の客はさきほど申し上げましたとおり六十近い立派 な紳士で、上野駅には娘さんらしい美しい婦人が見送りに来ておられました。実は、わた しはその時から気がついていたのですが、それでさきほどもとくに鞄に野崎という名刺が ついていたことをちょっと申し上げたのですが、たぶん、最近有名になった富豪の野崎|寛 吉《かんきち》氏じゃないかと思います。新聞や雑誌でちょいちょい写真を見ていますが、それにそっ くりでした」  ボーイの言葉に、土井はなるほどと思い当たった。野崎寛吉といえば|湘南鎌倉《しようなんかまくら》に住居を 持つている富豪で、アメリカで相当の資産を|持《こ しら》えて、十数年前に帰朝して横浜で貿易商を 営んでいる人だが、いままではさほどに知られていなかったところ、最近に株式相場で当 ててめきめきと財界に名を挙げたのだった、それに、美しい令嬢があるのでいっそう有名 になって、よく新聞のゴシップ欄を|賑《にぎ》わしていた。先刻、なんとなく見覚えがあるように 思ったが、いかにもボーイの言うとおり写真で見る野崎氏に違いなかった。  署長はしかし、中央から遠ざかった所にいるためか野崎寛吉の名をあまり知らないらし く、ボーイの言葉にたいして興味を|惹《ひ》かないようだった。 「では、高崎で降りたのはその野崎という二号寝台の客に違いないと言うのだね」 「はい、さようです」 「ふむ」  署長は腕を組んだ。  二号寝台の客が高崎で降りたことが確かだとすると、寝台車には八号と十号の客二人し か残っていない。十号寝台の客は現にここに容疑者としているのだから、被害者はどうあ っても八号寝台の客でなければならぬ。ところが、被害者は八号寝台の客ではないという のである。では、被害者は何者か。実に奇々怪々な事件である。 「うむ」  署長は|坤《うめ》くように|眩《つぷや》いたc  奇怪なのは四本指の客の行方である。署長は困惑しながら、部下の|水松《みすまつ》警部を別室に招 いた。 「きみ、どう田心う」 「あの土井という男は、嘘を言っているとは思えませんな」 老練な警部は考え深そうな目を一署長に注ぎながら、 「八号寝台の客が四本指だったことが確かですと、被害者は八号寝台の客ではないという ことになります」 「うん、そこだよ、問題は。では、きみは被害者はだれだと思う」 「野崎という富豪じゃないかと思います」 「えっ」  署長はびっくりして、警部の顔をまじまじと眺めながら、 「ま、まさか、きみは被害者が高崎で途中下車したという老人だと言うんじゃなかろうね」 「ところが、そうなのです」 「しかし、きみー」 「ええ」  警部はもっともだ、という風に頷いた。 「ずいぶん奇怪千万なことですがね。寝台車には三人しか客がなかったのです。ところが、 被害者は八号寝台の客でもなければ、むろん十号寝台の客でもない。とすると、一見奇怪 なようでも、二号寝台の客だと見なくてはなりません」 「しかし、きみ、二号寝台の客はー」 「高崎で降りたとおっしゃるのでしょうが、しかし凶行の時間がまだ決定的のものになっ ていませんからね。いずれ解剖の結果判明するでしょうが、警察医の意見もそうですし、 わたしも経験上、どうも犯行は高崎駅以前で行われたと考えるのです。つまり、四本指の 男が二号寝台の野崎を殺して屍体に彼自身の着物を着せ、顔を滅多切りにして判別のつか ないようにして、彼は野崎に変相して高崎駅で降車した、とこういうことになるのです」 「うむ」 「もっとも、一応はこういうことも考えてみなくてはなりません。四本指の男が他の箱か らだれかを寝台車に連れ込んで、殺してからその客になりすまして、他の箱の客の間に紛 れ込んで素知らぬ顔をしている場合ですね。しかし、寝台車の隣は二等車で乗客の数も少 なく、動静はちゃんと分かっていましたし、三等車のほうから二等車を越えて、寝台車に 入った者のないことも、ちゃんと確かめてありまして、間違いのないことですから、まず、 被害者が他の箱から来たものではないことは絶対に確実です」 「うむ。犯行が列車の高崎駅着の以前に行われて、しかも被害者が寝台車の客以外でない とすると、三マイナスニは一だから、被害者は有名な金持ちだとかいう野崎になるわけだ」 「ですから、まず第一に、高崎駅で降りた客の消息を探ること。第二に、野崎氏の家に照 会して、はたして彼が家に引き返したか否かを聞くこと。もし野崎氏が行方不明ならば、 ただちに令嬢を呼んで、屍体が野崎氏かどうか鑑定させること。なお、容疑者土井につい ては、高崎駅着前後のことをできるだけ調べる必要があります」 「うん、なるほど」  署長は頷いた。 「では、きみの言うとおり至急手配りをしてくれたまえ。あっ、そろそろ夜が明けてきた ようだ。やがて、長野から判検事の一行が来るだろう。それまでに、もう一度よく現場の 調査をしておこう」  署長と水松警部はまたもとの寝台車に戻った。署長の言ったとおり車内には白々と朝日 が|射《さ》し込んで、立っている人々の青白い寝不足の顔を薄ぼんやりと照らした。 乱 闘 「い、いったい父はどうしたのですか」  不可解な電報について、思いがけなく軽井沢警察署から水松警部の来訪を受けた野崎氏 の令嬢|銀子《ぎんこ》は、美しい|眉《まゆ》をひそめながら詰問するように言った。ここは|日比谷《ひぴや》の東洋ホテ ルのサロンで、夜十時を過ぎていたC彼女は前夜は遅くなって|鎌倉《かまくら》の本邸に帰らず、そう した場合によくするようにこのホテルに泊まったのだったが、軽井沢からの電報を本邸か ら回されてホテルで受け取った銀子は、ここで水松警部の訪問を待つことにしたのだった。 野崎氏の留守宅から、主人は帰宅しないという返電を受け取った軽井沢署長は事重大と見 て水松警部を上京させ、令嬢銀子を同行して帰るように命を含めたのだった。 「昨夜、高崎駅で下車されて、ご帰宅になったということでしたので」  警部は令嬢をあまり驚かさないように、遠回しに話を切り出した、 「そ、それは何かの間違いです。電報でお答えしたとおり、父は帰っておりません。だい いち、重大な用事で新潟へ出かけた父が高崎で引き返してくる道理がないのです」 「お父さんがお帰りになっていないとすると、ちょっと問題があるのですが」 「そ、それは何ですか、早くおっしゃってください。私はなんだか胸騒ぎがします。不吉 なことが起こったのではないかと思うのです」 「まだ確定したわけではありませんが、あなたのお父さんはl」  警部はちょっと言葉を切って、銀子の顔を見た。彼女はいらいらしながら叫んだ。 「早くおっしゃってください。大丈夫です。どんな不吉なことでも、見苦しくうろたえは しません。わたしは一刻も早く聞きたいので、警察の方が見えるという電報をもらったと き、鎌倉へ帰らないでわざわざここで待っていたのですから」 「実は、お父さんが殺されたらしいのでー」 「えっ、父が! |嘘《 つそ》です。父は殺されるような悪いことはしません」 「ところがですね、いま言ったとおり確定したわけではありませんが、どうも、野崎さん らしいのです」 「ど、どこで殺されたのですか」 「寝台車の中です」 「だ、だって、あなたはさっき父は高崎で降りたとおっしやったではありませんか」 「そこが、どうも面倒なところなのですが、とにかく、寝台車内に惨殺された|屍体《したい》が発見 されましてね。それが、あなたのお父さんらしいのです」 「父らしいって。どうして、そんなに|曖昧《あいまい》なのですか」 「顔面を判別のつかないほど、切り刻まれているので  」 「まあ」  銀子は恐ろしそうに|身顧《みぶる》いした。彼女の両目はもう涙でいっぱいだった。 「で、当局としては、屍体が野崎氏であるか否かを確かめることが絶対に必要なのです。 それで、ご迷惑でもお嬢さんに来ていただきたいのですが」 「まいりますわ、まいりますとも。父が殺されているかもしれないというのに、どうして じっとしていられましょう。さあ、行きましょう」  銀子は言葉は元気だったが、力なく立ち上がった、 「ちょっと待ってください」  水松警部は、銀子の立ち上がるのを止めた。 「わたしとしては、はなはだ遺憾ですけれども、野崎氏は殺害せられたものとして、上京 をさいわいに少し調べていきたいのですが、失礼ですけれども、お父さんはだれかから恨 まれておられるようなことはありませんでしたか」 「ないと存じます。父は決して人から恨まれるようなことをしませんでした」 「商売上の方面で、何か係争でもあったということはありませんでしょうか」 「ないと存じます。けれども、商売上のことはわたしはよく存じません。父は商売上のこ とは、支配人の|成田《なりた》に|委《まか》せきりでした。おお、|噂《うわさ》をすれば、成田さんがちょうどやってま いりました」  令嬢はホテルの入口を示した。そこからはいましも四十|恰好《かつこう》の紳士が入ってくるところ だったC彼はすぐに銀子を見つけて、まっすぐに彼女のほうに歩んできた。 「成田さん、父が、父がI」  あたりに人はいなかったけれども、|洩《も》れ聞こえるのを|揮《はばか》るように銀子は小さい声で|囁《ささや》い た。 「えっ、社長がどうかされたんですか」  成田はぎょっとしたように言った。彼も|今朝来《こんちようらい》の電報で、なにかしら不吉な予感を持っ ていたのだった。 「ええ」  水松警部は話を引き取って|頷《うなず》いた。 「わたしは軽井沢署の者ですが、野崎氏の件で上京したのです。実は、野崎氏が寝台車中 で惨殺されたらしいのでー」 「えっ、社長がーうーむ」  支配人はぎょっとしながら|稔《うな》りだした。 「新潟へ旅行されたのは、どういう用でしたか」 「重要な商談のためでした。内容はちょっと申し上げられませんが」 「現金を沢山お持ちでしたか」 「いいえ、社長は決して多額の現金を持ち歩かれません」 「そうでしょうね。ですから、野崎氏が殺されたのは単なる強盗のせいだとは思われない のです。ついては、いまもご令嬢にお|訊《き》きしたところですが、野崎氏はだれかに恨みを買 っておられるようなことはありませんでしたか」 「その点ですが」  支配人は言葉を濁して、銀子の顔を眺めた。銀子はぎくりとしながら、 「成田さん、な、なんかあるのですか。父がだれかに恨まれていたのですか。わたしはた ったいま、そんなことはないとお答えしたのですが。もっとも商売上のことなら、あなた のほかは知らないはずですけれども」 「失礼ですが」  成田は警部に呼びかけた。 「ちょっと、お嬢さんに内々で話したいことがあるのです。もし社長がお亡くなりになっ たのだとすると、わたしの主人はお嬢さんになります。そこで、商売上の秘密のことにつ いて少しお耳に入れておきたいのです」 「どうぞ、ご遠慮なく」  成田は銀子のほうに向いた。 「ここではちょっと申し上げにくいのですが」 「そう、ではわたしの部屋へいらっしゃい。警部さん、失礼させていただきます」 「どうぞ」  銀子と成田は正面の階段を昇っていった。  水松警部はポケットを探って|煙草《たばこ》を取り出すと、器用に一本抜き取ってテーブルの上に 軽くトントンと|叩《たた》きつけて、灰皿のマッチを勢いよく擦った。  水松警部はゆっくり一本の煙草を吸い終わったが、話がなかなか手間取るとみえて銀子 も成田も姿を見せなかった、警部はちらりと腕時計に目を落としたが、もう十一時を少し 過ぎていた。 「終列車に間に合わないな」  警部は口の中で|眩《つぷや》いて、煙草をもう一本抜き出しながらあたりを見回した。広いサロン にはほんの数えるほどしか人はいなかったが、さすがに帝都第一のホテルだけあって、玄 関を出入りする客は相当あった。  二本目の煙草が半分ほどになったときに、二階の階段から四、五人のホテルの使用人が 一塊になって、大きな|衣裳《いしよう》トランクを二つ、よいしょ、よいしょと下ろしてきた。 「こんなに遅くなって、|発《た》つ人があるのかな」  さすがに職業柄、水松警部はじっとトランクの行方を見守っていた。トランクは|脇玄関《わきげんかん》 から運び出された。そこに一台の貨物自動車が待っているようだった。やがて、エンジン のスタートする音がして、続いて自動車の走りだすらしい鈍い重い音が響いてきた。  水松警部は長く|溜《た》まった煙草の灰がぽたりと床の上に落ちたので、はっと彼自身の仕事 を思い出してふたたび階段を見上げた。陽気な笑い声がして二人の男女が降りてきたが、 それは外国人だった。 「なかなか暇取るな」  水松警部がこう眩いたときに、二、三間向こうに自動車の運転手風の男が現れてしばら くもじもじしていたが、やがてつかつかと警部の|傍《そば》に来た。 「失礼ですが、わたしは野崎家の運転手ですが、さきほどあなたがこ令嬢とお話しになっ ていたのをちらっと拝見しましたが、あなたはあの、たしか警察の方でいらっしゃいます ね」  警部はちょっとびくっとしながら答えた。 「そうです」 「実はその、不思議なことがありますので、ちょっとお知らせに来たのですが」 「不思議なこと、9・それは何ですか」  警部はじっと運転手の顔を見詰めながら、静かに言った。 「ご令嬢は今朝鎌倉にお帰りになる予定でしたので、わたしはちゃんといつでも走れるよ うに自動車を準備しておいたのですが、軽井沢の警察から電報が来たために、ご令嬢は急 に鎌倉へ帰るのをお|止《や》めになり、ここで警察の方とお会いになることになったのでわたし はそのままずっとお待ちしていたわけなんですが、いまなにげなく自動車のガソリンの指 示計を|覗《のぞ》きますと、今朝入れておいたのよりほんの少しですけれども増えているのです」 「増えている?」 「ええ、減っているならば洩れたということもありますけれども、増えているんですか らー」 「きみの思い違いじゃないかい」 「いいえ、決してそうではありません。わたしは自分で言うのもおかしいですけれども、 いたって|几帳面《きちようめん》な性質で、自動車についてはいつも|些細《ささい》な点まで注意しているんです、こ とにガソリンの量についてはいっそう注意しているんです。ですから、今朝もちゃんと |指示計《インデイケ タ 》を正確に見ておきました。確かに増えているのです」 「暑気で膨張したんじゃないか」 「そんなことはありません。いまは夜中近くで、今朝よりは温度は低いはずですから」 「ふーん。しかし、そんなことはさして重大ではないと思うが」 「ところが、すこぶる重大なんです」  運転手は深刻な顔をしながら答えた。 「どうして重大なんだね」  水松警部は運転手の顔を|詩《いぷか》しげに見守りながら訊いた。 「つまり、だれかが|悪戯《いたずら》をしたんです」 「ガソリンを入れたのかね」 「入れたのならまあ差し支えないわけですが、あべこべに抜いたのです」 「抜いた? だって、きみは増えていると言ったじゃないか」 「ええ、ガソリンを抜いて、代わりに水を入れやがったのです」 「なに、水を」  水松警部は初めて運転手が|昂奮《こうふん》しているわけが分かった。 「ええ、ガソリンを抜いて水を入れやがったのです。だれだか分かりませんが、悪戯をし た|奴《やつ》は、抜いたガソリンだけ水を入れたつもりだったのでしょうが、少し水を入れ過ぎた というわけで、全体として量が増えたのです」 「うーむ。水を入れるとどうなるね」 「てんで動きませんや。もっとも水の量が少なければ動くかもしれませんが、能率はぐつ と下がりますよ」 「動かしてみたかね」 「いいえ、いま発見したばかりですからまだ動かしてはみませんが、駄目だろうと思いま す」 「つまり、だれかが自動車を動かないようにしようとしたんだね」 「まあ、そうでしょうけれども、悪戯にしては念が入り過ぎています」 「うむ」  警部は頷きながら、 「もっと簡単に自動車を動かないようにする方法はないかね」 「そうですね、ハンマーか何かでエンジンを打ち壊せば早いでしょう。いや、これは冗談 ですが、ガソリンを出して水を入れるといったような面倒なことをしなくっても、タイヤ に|釘《くぎ》でも打ち込めば目的は達せられると思いますが」 「しかし、それはすぐ発見されるだろう」 「ええ、それはすぐ分かりますね」 「きみの車に悪戯した|奴《やつ》は、いや、悪戯ではない、ちゃんと何か目的があってやったのに 違いないが、つまり、故障の原因を容易に発見されないように(|企《たくら》人だのだ。きみのよう な注意深い人だったからすぐ発見したけれども、普通ならちょっと気がつかないことだ」  水松警部はここまで言って、急にぎょっ.としたように立ち上がった。 「運転手くん、きみは銀子さんの部屋を知っているだろうね」 、「ええ、知っています」 「すぐ案内してくれたまえ。令嬢は先刻、成田支配人と話があるといって部屋に引っ込ん だきり出てこないのだ。何か重大な相談があるのかもしれないけれども、少し長過ぎる。 それにいまのきみの話を聞くといっそう気がかりだ。何者かが令嬢に危害を加えようとし ているのかもしれない。すぐ案内してくれたまえ」 「承知しました。わたしはなんだか気がかりなんです。それで、あなたにお知らせしたん ですよ」  運転手は心配そうに顔を曇らせながら、水松警部を二階の令嬢の部屋に案内した。  部屋の前に立った警部はしばらく中の様子を|窺《うかが》ったが、中からはことりとも音がしなか った。彼は静かにノックした。しかし、何の答えもなかった。彼はしだいに激しくドアを 叩いた。しかし、依然として中からは何の答えもなかった。  中から何の答えもないので、たまりかねた水松警部は|把手《ハンドル》に手をかけてドアを開けよう としたが、|鍵《かぎ》がかかっているとみえてびくともしなかった。 「変ですね、だれもいないようですね」  運転手は水松警部の背後から、気遣わしそうに言ったc 「うん、どうも変だ」  警部は不安そうに言った。 「きみ、大急ぎで|帳場《カウンタ 》の所に行って、事情を話して合鍵を借りてきてくれたまえ」 「承知しました」  運転手は答えるより早く二階を駆け降りたが、やがてクラークの一人と駆け上がってき た。警部は合鍵を受け取るのももどかしくドアを開いたが、部屋の中はがらんとして銀子 の姿も成田の姿も見えなかった。 「ど、どうなすったのでしょう」  運転手は青くなった。  クラークはさっそく付近にいたボーイや受持ちのボーイを|質《ただ》してみたが、だれも二人の 消息を知っている者はなかった、 「しまった」  水松警部はふと思いついて、唇を|噛《か》んだ。 「先刻、担ぎ出された箱だっ。あれが怪しい」  一刻も猶予してはいられなかった。警部は|呆気《あつけ》に取られている運転手とクラークを押し |退《の》けるようにして、階下に走った。そうして(帳場の傍の電話交換室に飛び込んだ。, 「警視庁の捜索課に|繋《つな》いでくれ」  交換手は警部の剣幕に|呑《の》まれて交換室に飛び込んだのを|答《とが》める暇もなく、慌てて警視庁 を呼び出した。 「ああ、もしもし、捜索課ですか。わたしは軽井沢署の水松警部ですが、実はいまこうい う事件が突発したんですがL  警部は手短に事件の内容を話した。 「二つのかなり大きい箱を積んだ貨物自動車なんです。わたしの考えでは郡部へ運び出さ れたと思うんですが。そうです、いまから約二十分ばかり前です。もう市内を突破した所 だと思います。-どうかすぐ手配りをしてください。はあ、わたしはすぐそちらへまいりま す」  電話が終わると、水松警部は心配しながら後についてきた運転手に言った。 「きみ、すぐガソリンを入れ替えて出発のできるようにしてくれたまえ」  ガソリンの入れ替えが済んで自動車が警視庁に向かって走りだすまで、・水松警部の焦燥、 |懊悩《おうのう》は筆紙の尽くすところではなかった。ああ、二十分前にどこともなく走りだした貨物 自動車め行方がはたして突き止められるだろうか。  警視庁に着くと、・水松警部は捜索課に駆け込んだ。  捜索課ではいまや係員が必死になって、東京の隅々の交番からの報告を聞いていた。水 松警部を見ると、-彼は言った。 「ホテルを出た貨物自動車は、まず|日本橋《にほんばし》方面に走ったらしいです。付近の交番から報告 がありました。日本橋に入ったとすると交通が頻繁ですから、よほど特別の事情のない限 り交番で注目するということもないでしょう。うむ"報告が来ましたへ|巣鴨《すがも》からの報告で は板橋方面に、似よりの貨物自動車が走っていったということです。大きな箱を二つ積ん で、数人の男が乗っかっていたそうです。待ってください。-こちらから板橋へ照会してみ ましょう。なに、|浦和《うらわ》方面へ。そうですか」  係員は水松警部のほうに向き直った。 「ちょうど、板橋からこちらへ報告しようとしていたところでした。お|訊《たず》ねの自動車は大 宮方面へ行くらしいです。たぶんいまごろは、|板橋《いたぱし》・|蕨《わらぴ》の中間辺にかかっているでしょう」  水松警部はほっと|溜息《ためいき》をついた。喜びの色が眉に|溢《あふ》れていた。 「では、すぐ追跡しましょう。あの方面は道の悪い所が二、三箇所ありますから、貨物じ ゃ思うように走れますまい。野崎氏の自動車はハドソン8ですから、たぶん追いつけるで しょう」  水松警部は全速力で各関門通過の必要上、警視庁の警官二名の応援を受けて自動車に乗 り込んだ。運転手は悪漢を追跡すると聞いて、勇躍スターターを踏んだ。  三十分ののちに、自動車は板橋を突破して|中山道《なかせんどう》を北へと|鳶進《ぱくしん》していた。  蕨・浦和を越えて大宮近く来ると、怪貨物自動車の消息がだいぶはっきりしてきた。怪 自動車は大宮を通過して、一路中山道を高崎方面に走っていったのだった。  水松警部は|雀躍《こおど》りして喜んだ。もう、逃しっこないのである。  ところが大宮から十キロメートル、|桶川《おけがわ》に着くと、怪自動車の消息がぱったり絶えたの だった。捕川以北に、-貨物自軌車が来た模様がないのだっ㌃ 「しまった。後戻わだっ。奴は横へ|逸《そ》れたのだっ」,     几-  水松警部は叫んだ。しかし、横へ逸れたとむると、暗夜の寂しい街道のことであるから 容易なことでは見当がつくものではない。 桶川からのろのろと引き返しながら、,自動車の入れそうな横町にかかると、水松警部は 車を降りて一生懸命に地面を調べるのだった。  が、|天佑《てんゆう》はついに警官隊の側にあった。桶川から約四キロメートル南下したところで、 左へ入る横町にごく新しい二条の太いタイヤの跡が発見されたのだっ九。 「しめたっ」.・  躍り上がった水松警部の指揮にハドソン号は左に折れ曲がって、強力なヘッドライトを |凸凹《でこぽこ》した田舎道に投げながら、|激《ご》しい動揺をものともせずに|猪突《ちよとつ》した。  官動車はやがて、大きな曲がり角にかかった。曲がり角を曲がると、眼前に暗黒な巨大 な物が立っていた。運転手は必死となってブレーキを踏んだが、勢いがついていたので自 動車はあっという間もなく巨大な物に衝突した。衝突した相手は、無灯のまま停止してい た貨物自動車だったσ疑いもなぐ、それは追跡中のものだった。車の上には大きな箱が二 つ並んでいた。一つは|蓋《ふた》のままだったが、一つは開け放しになっていた。  運転手の懸命な努力で、衝突は大したことはなかった。前部はメリメリと音がしてひし やげたが、車はさいわいに転覆を免れた。運転手は軽傷を負ったが、車内の三人は激しく 転倒しただけでほとんど|怪我《けが》はなかった。  すぐに跳ね起きた三人はドアを力を合わせて叩き破ると、外に飛び出した。見ると、貨 物自動車の向こうには、一台のクーペ型の見るから軽快そうな自動車が|停《と》まっていた。い ましも、一人の男が二、三人の男に手取り足取りされて貨物自動車から向こうの自動車に 移されるところだった。|脆《ひざまず》きながら抵抗している男は、確かに成田支配人だった。 「おのれっ」  水松警部は先頭を切って蕃進した。と、そのとたんに、ブスッという異様な音が彼の耳 を|掠《かす》めた。貨物自動車の上にいた一人が警部をめがけて、ピストルを撃ち放したのだった。 「うぬっ」  警部は跳び上がると、ピストルを持った男の脚に両手を掛けて引き摺り下ろした。  脚を引っ張られた悪漢は、あっ! と叫んで、ピストルを放して下に滑り落ちた。水松 警部は彼をしっかり組み敷いた。すると、上からどたりと重いものが警部の頭の上に落ち てきた。貨物自動車の上にいたもう一人の男が、空になった箱を水松警部の上に落とした のだった。  警部は力を奮って、のしかかった大箱を取り|除《の》けた。その暇に、いったん組み敷かれた 男はのこのこと|遭《ま》い出して、一間ばかり先に逃げていた。警部は追い|槌《すが》りざま|捻《ね》じ伏せて、 捕縄を打った。  応援の二人の警官はその間に、他の悪漢を相手に奮闘していた。悪漢たちは|敵《かな》わないと 思ったとみえて、一同、無理やりにクーペ型の自動車に飛び移った。  ようやく、一人の悪漢を取り押さえた水松警部は貨物自動車を躍り越えて、クーペ型自 動車に肉薄した。すると、中でも首領と思われる男が出し抜けに大型のピストルを取り出 して、ぴたりと警部を|狙《ねら》った。  あっと思う間もなく、一人の男がピストルの前に飛び出したのと、ピストルが発射され るのと同時だった。飛び出した男はばたりと倒れた。それは成田支配人だった、、  水松警部がやや|怯《ひる》んでいる暇に、自動車は走りだした。味方の自動車は衝突で大破して いる。よし破損していなくても、前に横たわっている貨物自動車が邪魔しているから、ど うすることもできない。警官たちが歯噛みをしている間に爆音の響きもしだいに|微《かす》かにな って、みるみる自動車は|闇《やみ》に隠れてしまった。 「残念だっ。取り逃がしたか。しかし、令嬢は助かったかもしれぬ」  水松警部は大急ぎで、貨物自動車の上に残された箱の蓋を取った。その中には|蝋人形《ろうにん よう》の ような銀子が|昏《こんこん》々と|睡《ねむ》っていた。 「しめた、令嬢は取り返した。だが、支配人がー」  水松警部は一喜一憂である。静かに成田支配人の倒れている傍に歩み寄った。  抱き起こそうとしていた警官は言った。 「息はありますが、まず駄目らしいです。胸をやられています」 「かわいそうに、ぼくを助けようと思って犠牲になったんだ。だが、この|仇《かたき》はきっと取っ てやるぞ」  水松警部は残念そうに、逃げ去った自動車のほうを|睨《にら》んだ。 「もう一人の方はどうですか」  警官は訊いた。 「おお、そうだ。きみ、令嬢をあの箱から出して介抱してくれたまえ。気絶しているよう だから。それから、一人はあの縛りつけてある悪漢の番をしてくれたまえ。奴は有力な手 掛かりだから」  水松警部はそう言いながら、|瀕死《ひんし》の成田支配人を|情然《しようぜん》と見守っていた。悪漢たちが水松 警部以下の肉薄が急なのでつい成田のことを閑却したので、その機に乗じて飛び出したの だろうけれども、不幸、悪漢のピストルの筒口に立ったので、ついに犠牲となって倒れて しまったのだ。成田は野崎氏の死について何事か秘密を知っていたようだったが、銀子に 話しておくことができたろうか。もし、話さないうちに悪漢の襲撃を受けたのだとすると、 秘密は永遠に成田とともに葬られたわけである。  背後に足音がしたので警部が振り向くと、銀子がようやく正気を取り返したとみえて、 真っ青な顔をして立っていた。そうして、 ふたたびぐらぐらとしながら叫んだρ 「まあ、成田さんがI」 肩越しに倒れている成田支配人を見ると、 逆襲 「どうも遺憾千万です」  水松警部は言った。 「成田氏をこんな目に遭わせたのは申し訳ありません。わたしはもっと早くあの怪しい箱 に気がつくべきだったのです。しかし、あなたはどうして箱の中に入れられたのですか」 「それはこうなのです」  銀子は|身顕《みぷる》いしながら話しだした。 「成田さんがわたしに内密で話があるというので、ご承知のとおり、あなたにお断りして わたしの部屋にまいりました。部屋の中でしばらく話をしておりますとノックする者があ りますので、ドアを開けますと青服を着た職工風の者が二人立っておりました。わたしの 顔を見ると、ちょっと帽子に手をかけて、ちょっと、部屋の電気装置を調べさせてもらい たいのですと言いましたので、わたしはいま、ちょっと込み入った話の最中ですからもう 少しあとにしてくださいと答えま」た。  すると、彼はただの調べと違うのです。実はこの部屋の電灯線に高圧電流が誤って伝わ ってやしないかという疑いがあるのです。もしそんなことがありますと、あなた方の生命 にかかわることですから、一刻を争うわけですと申しました。ほかのことと違いまして、 電気の間違いというものは恐ろしいと聞いておりますし、わたしなんかには電気のことは 少しも分かりませんから、二人の言うがままに部屋の中へ入れました。  職工風の二人は電灯のコードや、柱に取りつけてあるプラグなどをいじりだしました。 わたしたちはもちろん話を|止《や》めて調べの済むのを待っておりました。すると突然、職工風 の一人がわたしの後ろから飛びかかりまして、あっという|暇《いとま》もなく頭からすっぽり袋のよ うなものを|被《かぷ》せました。わたしにはむろん分かりませんでしたが、成田さんもやはり同じ 目に遭ったことと存じます。  わたしは手足をできるだけ動かして声を立てようとしましたが、袋の中にぬっと毛だら けの手が入ってきて、|濡《ぬ》れたハンカチをわたしの口と鼻に当てました。わたしはそれっき りしばらく気を失っていたらしいのです。途中で、なんだか窮屈な箱に入れられているら しく、ひどく揺れるのを覚えていましたが、まもなくふたたび気を失ったとみえて、ただ いま箱から出していただくまではなんにも存じませんでしたL 「なるほど」  警部は|頷《うなず》いた。 「わたしはあの二つの箱が運び入れられたところは見ませんでしたが、おおかた客に化け た悪漢が荷物のような顔をして、箱を持ち込んだのでしょう。その箱の中には、青服の職 工が二人隠してあったわけです。.どうも大胆不敵な|遣《や》り方です。実に恐るべき|奴《やつ》です。と ころで、成田さんはあなたにどんなことを話しましたかね」 「何か父に商売上の秘密があって、それに関係して父を邪魔にしている者があるらしい口 振りでした。父は生前、そのことをわたしに絶対に秘密にしておくようにと命じていたそ うですが、亡くなられたのなら話してもよいだろうと言って、何か言おうとしていたとき に職工がやρて来たのでした」 「じゃ、あなたはなんにも聞かなかったのですね」 「ええ、父の旅行の目的が新潟の|中沢《なかざわ》さんを訪問するにあったということのほかは、なん にも聞きませんでした」 「なに、中沢? 中沢といえば、あの石油成金の中沢|万助《まんすけ》ですか」  警部はやや|急《せ》き込んで|訊《さ》いた、  新潟の中沢と聞いて、水松警部が意味ありげに訊き返したのを、銀子はべつに気に止め ず軽く受け流した。 「ええ、そうです。中沢万助さんです」 「中沢さんとは、以前から取引しておられたのですか」 「そんなことはわたしは少しも存じません。そういうことは、すべて成田さんが」  こう言いかけて、銀子は思い出したようにぶるっと頸えた。 「ああ、成田さんは殺されてしまったのでしたね」 「さあ、いまだ虫の息はありますが、まず駄目でしょう、成田さんが殺されたとすると、 何といっても大きな損失です」  水松警部は言ったが、思い出したように、 「その代わり悪漢の一人を逮捕しました。せめて、これが何かの役に立てばよいと思いま す」  警部は少し離れた所で、警官に張り番されていた悪漢の|傍《そば》へつかつかと寄った。 「おい、顔を上げてみろ。うん、あまり見覚えのない顔だがi」 「|旦那《だんな》、冗談じゃありませんぜ」  縛られていた悪漢は言った、 「あっしは旦那方に顔を覚えられるような悪いことはしませんや」 「黙れ。きさまはもう少しで、ぼくを撃ち殺すところだったじゃないか。殺人未遂が悪い ことじゃないというのか」 「あっしは旦那方を泥棒だと思ったのでー」 「|呆《あき》れたことを言う奴だ。生きた人間を誘拐して逃げながら、追跡した警官を泥棒だと思 ったなんて、どこを押せばそんな|音《ね》が出るのか、呆れた奴だL 「旦那、あっしの言うことは|嘘《うそ》じゃねえんです。あっしは貨物自動車の運転手なんでさあ。 今朝、さっきの大将に雇われたんで。まったく嘘は言いません。大将が、こう、素晴らし い|儲《もろ》け口があるがどうだって言うので、近ごろ不景気で困っているところですから欲に目 がくらんで、言いつけられたとおりホテルの傍で待っていたんです'.箱の中に生きた人間 が入っているってことは夢にも知らなかったのです」 「ばかなことを言え。そんなことをだれが信用すると思っているのかコ地道の運転手がピ ストルを持ってたり、そのピストルで警官を撃ったりしてたまるものか」 「ピストルは大将が貸してくれたんでさあ。怪しい奴が来たら撃ってしまえってんでcあ つしはあなた方を、てっきり|追剥《おいは》ぎだと思ったのでll」 「ばかっ、いい加減にしろっ」 「まったくですよ、旦那。あっしはなんにも悪いことはしませんよ。あっ、そうだ、いけ ねえ。一つ悪いことをしましたよ。さっきから、この自動車がどうして走ってきたかと思 って不思議に思っているんですが、あっしがホテルで待っているときに大将がこの車を指 して、おい、どうだい、この車に故障を起こさせて走らせないようにする工夫はないかい といって相談したんで、あっしはガソリンを抜いて水を入れとけば一番でさあ、こいつは なかなか見つかりませんぜ、と言ったんで。すると、大将は大喜びでね、さっそくあっし にあっしの言ったとおりさせましたよ。こいつは悪いことをしたと思ってまさあL 「ふふん、あの細工はきさまがしたのか。ところが、それは悪いどころじゃないんだ。あ の細工がなければぼくたちは不審を起こさないし、したがって銀子さんの部屋も見に行か ないから、きさまたちはらくらくと逃げられたのだ。なまじ小細工をするから、早くばれ たんだ。もっとも、こっちの運転手が実に注意深い男だったからよかったのだが」 「じゃ、何ですかい、すぐに分かっちまったんですか」 「そうとも。ガソリンが増えていたら、だれだって変に思うじゃないか」 「なに、増えていた! うん、しまった。じゃ、水を入れ過ぎたのだな」 「そうとも。いまごろ気がついても遅いよ」  水松警部が|廟《あざけ》るように言うと、彼は残念そうな顔をして黙ってしまった。この男はなん にも知らないなどとしらばくれているけれども、どうして、ただの|鼠《ねずみ》じゃない。彼が|企《たくら》ん だガソリン抜取りの|好計《かんけい》がどうして簡単に発覚したのか、それが知りたさにわざと白状し て様子を聞こうとしたのだ。なかなかどうして、油断のならない奴である。水松警部は心 のうちで頷いた。  さて、この乱闘の場を引き揚げるについて警官隊ははたと当惑した。|瀕死《ひんし》の状態の成田 支配人、負傷している運転手、恐ろしい目に遭って|怯《おぴ》え切っている令嬢、逮捕した悪漢、 これだけの者を三人の警官で運ぶということはとうてい不可能である。ことに、街道から 横に入った人一人通らない田舎道で似、どうすることもできない。  結局、一人の警官が街道まで歩いていって通りすがりの自動車に頼むなり、どこか電話 のある家を|叩《たた》き起こして大宮から自動車を呼ぶということにした。  ところが街道に出た警官は運よく、夜を込めて東京方面に疾駆していく貨物自動車に出 会ったので、呼び止めて、大宮から自動車を二台至急によこしてもらうことを依頼した。  街道から引き返してきた警官の報告に、勢いづいた水松警部は言った。 「ここまで自動車が入ってきては方向を変えることができないから、方向変更の可能な地 点まで移ることにしよう」  水松警部は負傷した運転手を肩にかけて、悪漢の|縄尻《なわじり》を取った。 「もし、こいつが逃げ出したら、すぐ撃ってください、これは、こいつの持っていたピス トルです」  水松警部は万一を|慮《おもんぱか》って、悪漢が警部に脚を引かれたとたんに落としたピストルを銀 子に渡した。銀子は気味悪そうにピストルを受け取ったが、それでも勇敢に言った。 「ええ、逃げ出せば撃ってしまいます」  瀕死の成田は二人の警官が運ぶことになった、  世にも奇怪な深夜の行列! 瀕死の人を運ぶ二人、負傷者に肩を貸して縛った男を引き 立てる人、その縛った男にピストルを突きつけながら歩いていく美しい令嬢、、怪異な行列 は深夜の|暗闇《くらやみ》を粛々として進んでいった。  しかし、幸いなことには行列がいくらも進まないうちに、迎えの自動車はヘッドライト を光らせながら|篶進《ばくしん》してきた。  二台の自動車が方向を変え終わるのに、少し時間がかかった。  水松警部は迎えにきた運転手に言った。 「どこのガレージから来たんだい。早かったじゃないか」 「ええ」  鳥打帽を被った運転手は言った。 「ちょうど空車で走っていたところを貨物自動車に呼び止められて、言付けを聞いたもの ですから」 「走っているところだったんだね。道理で早かったよ」  水松警部はそう言いながら、しばらく考えていたが、 「では前の車に成田さんを寝かせて、ぼくとこの縛った男と乗ろう。後の車へ残りの人は 乗ってくれたまえ」  そう言って、警部は二人の警官に何事か|曝《ささや》いた。  二台の自動車は相次いで走りだした。  目的地は大宮だった。もっとも手近な町として、大宮へ引き返すより仕方がなかったの だった。  車が走りだすと、まもなく縛られていた悪漢が言った。 「旦那、すみませんが小用がしたいんですが」 「辛抱していろ、すぐ大宮だ」 「とても我慢がしきれないのですCさっきから|堪《ニヂつ》えていたんですから」 「ばか言え。じゃなぜ、自動車に乗らないうちに言わなかったんだ」 「つい遠慮しちまったんです、|威《おど》かされると思いましたから。ところがいまになってから、 とても辛抱ができなくなったんです。旦那、|洩《も》れそうです」 「子供みたいなことを言うな。駄目だ、辛抱してろ」 「旦那、それはひどいや。小便を辛抱していると病気になると言いますぜ。やってくださ いよ」 「うるさい。黙れ」 「ちえっ、人の自由を縛っておいて、小便にもやらないてのは|人権躁欄《じんけんじゆうりん》だ」 「なにをっ。ばかなことを言うな。きさまは現行犯だ。しかも、人を誘拐して逃げようと して、追跡した警官を殺そうとした殺人未遂犯だ。重罪犯人だぞ。それくらいの扱いを受 けるのは当然だ。ぐずぐず言うなっ」 「じゃ、旦那、せめて|煙草《たばこ》を一本ください」 「煙草を吸うと、小便の出たいのが止まるか」 「そんなことはありませんけども、煙草が吸いたくなったのです」 「|賛沢《ぜいたく》を言う奴だな。それっ」  警部は片手でしっかり縄尻を押さえながら、片手でポケットを探って煙草を出して、悪 漢の口に|唖《くわ》えさせてやった。 「火をつけてくださいよ。それじゃ、仏作って魂入れずというものだ」 「ちょっ」  水松警部は舌打ちした。片手でマッチを擦るということはちょっとむずかしい。しかし、 両手で擦ると縄がお留守になる。疾走中の自動車だし、ことに両手が縛ってあるのだから 大丈夫には違いないが、油断は禁物だ。 「旦那、早く火をつけてくださいよ」 「うるさい奴だな」  水松警部は|眩《つぷや》きながらマッチを擦った。と、そのとたんにどんな障害物があったか、自 動車が急停車した。警部はあっと前に叩きつけられた。すると、以前から計画していたの か悪漢の側のドアがパタンと開いた。そうして、その間から弾みを食った彼の|身体《からた》が|毬《まり》の ように外へ飛び出した。  運転手はそれを知ってか知らずか、ふたたび車を走らせようとした。 「待てっ」  起き上がりざま、水松警部はぐっと運転手の|肘《ひじ》を引いた。そうして、急停車の事情を|質《ただ》 す暇もなく|脱兎《だつと》のように外に飛び出した。悪漢はもう二、三間先を走っている。しかし、 両手を縛られているので思うようには駆けられない。警部は一町ばかり追って、なんなく 彼を|掴《つか》まえた。 「ま、待ってください」  息を切らしながら、悪漢は言った⊂ 「ふざけた奴だ。いまさら待てとはなんだっ」 「外へ出たついでです、小便をさせてください」  なんという図々しさ、 「うぬ」  警部の堪えかねた|鉄拳《てつけん》が悪漢の横面に飛んだ。  悪漢はよろよろとよろけた。そこを、ぐんと強く縄を引いて警部は怒鳴った。 「さあ、歩け」  悪漢を引き立ててもとの所へ帰ると、意外、自動車が二台とも影も形もない。 「あっ」  水松警部は軽く叫んだ。悪漢は嘲るようにくっくっと笑いだした。 「へへっ、旦那、偉そうな顔をして一杯食いましたね。前の自動車が死にかかっている先 生を乗せて走りだす。後の車がそれを追う。追っているうちに故障で動けなくなる、警官 二人に降りてもらう。故障のはずの自動車が|隙《すき》を見て急に走りだす。へへっ、こちとらの 大将は旦那より一枚役者が上ですよ」 「黙れ。迎えに来た自動車が怪しいくらいは、ぼくはちゃんと気がついているんだ。だか ら、令嬢を安全なほうに乗せて、二人の警官にどんなことがあっても令嬢の傍を離れては いけないと言ってあるんだ。この夜更けに大宮・桶川間で、空の自動車が二台もうろうろ していると思うのかい。ぼくたちがどうせ自動車を探すだろうと思って、待ち構えていた のは敵ながら感心だが、二台も|揃《そろ》えておいたのは少し出来過ぎだぜcはははは」 「じゃ、偽と知って乗ったと、こう言うんだな」 「そうとも。だが、急停車のトリックと、きさまが足をドアの間に挟んでいた素早さには 気がつかなかった。見ろ、自動車が帰ったきたぞ」  警部の言ったとおり、一台の自動車がヘッドライトを振り動かしながら爆音勇ましく走 ってきた。 「|停《と》めろ」  見ると、怒鳴った警官は運転手にピストルを突きつけていた。運転手は命じられたとお り、二人の立っている前に車を停めた。 「残念です」  警官は言った。 「前の自動車はあなたが悪漢を追われるとすぐ走りだしたので、こっちの運転手を威かし て追わせましたが、とうとう見失ってしまいました」  負傷している野崎家の運転手は|口借《くや》しそうに、 「わたしの身体が満足でしたら、逃がすのじゃなかったんですが」 「仕方がありません」  警部は言った.. 「成田さんは無事に連れていっても、とうてい助からなかったでしょう。それに、先刻の 乱暴な急停車できっと|呼吸《いき》は絶えたでしょう。悪漢たちは成田の口から秘密が洩れるのを 恐れて、|撰《さら》っていったのでしょう。とにかく、あなたがたが敵の策戦に乗らなかったのは 幸いでした。少し窮屈ですが、割り込ましてください」  水松警部が縛った悪漢を車の中に押し込もうとすると、その隙に運転手がいきなりドア を開けてばらばらと逃げ出した。警官の一人はすぐピストルを撃ったが、それは的を外れ た。と、縛られていた悪漢は警部にどんと体当りを食わせて、ぱっと車を飛び出した。警 部は追いすがりざま縄尻を取った。悪漢は縄の延びるだけ引っ張った。警部は力のあらん 限り引き戻そうと踏ん張った。  とたんに闇の中から、ズドンとピストルの音がした。ぱったり倒れたのは縛られていた 悪漢だった。警官と水松警部は見えない敵に、四、五発弾を送った。が、もう何の答えも なかった。  水松警部は倒れている悪漢の傍へ寄った。彼はもう事切れていた。警部は残念そうに叫 んだ、 「畜生! もし口を割るといけないと思って殺してしまやがった。ああ、手掛かりになり そうな者はすっかりやられてしまった」      釈     放  水松警部の一行がようやく大宮警察署に引き揚げることのできたのは、夜が白々と明け かかるころだった。  銀子は恐ろしい事件の連続と睡眠不足とから軽い脳貧血を起こしたので、付近の医院に 連れ込んで、そこで安静に寝かされた.  しかし、水松警部はそんな悠長なことはしていられない。彼は昨夜以来奮闘した疲れた |身体《からだ》に|鞭《むち》打って、まず第一に警察電話で一切の出来事を詳しく軽井沢署に報告した。警視 庁から応援に来てくれた警官二人には、厚く礼を言って引き揚げてもらって、さらに大宮                           したい  、・      、 い 署の援助のもとに、昨夜逸走した怪クーペ型自動車と成田の屍体-逃けた当時はまだ呼 |吸《き》はあったかもしれないが、恐らくもう屍体になっているだろ・?1ーを載せて逃げた自動 車の手配をすべく、沿道各地に命じてもらった。射殺された怪漢の屍体は大宮署に引き取 って、至急に身元調べを開始した。  午後になって銀子がようやく回復したので、怪自動車の行方はついに分からなかったけ れども、それは後日の問題として、差し当たり軽井沢駅の列車殺人事件の被害者が銀子の 父であるか否かを確かめるべぐ、水松警部は令嬢を促して汽車に乗った。車中でも万一 を|慮《おもんぱか》って、水松警部は油断なく見張っていたがさいわいに事なく、午後五時近く軽井沢 に着いた。  駅には署長以下署員が大勢待ち構えていた、|昨日《きのう》のうちか遅くとも今早朝、水松警部が 銀子を連れて帰ってくる予定だったので、屍体はまだそのまま現場の列車内に置いてあっ たのだった。  銀子は一同に守られて、侍避線に入れてある二等寝台車に連れていかれた。  夏とはいえ、前にも述べたとおり秋のように涼しい変態気候で、ことに軽井沢は海抜三 千尺の高原で夏なお寒いのを誇っているのだから、気温はずっと低かった。けれども、屍 体はすでに二昼夜以上を経過しているから、|血腫《ちなまぐさ》い|臭《にお》いと腐敗した臭いとが交じって、車 内に入らない以前からなんとも言えない不快な臭いがぷーんと一同の鼻を打った。  銀子はもう頭がふらふらしかけてきた。彼女は|快《たもと》からハンカチを出して鼻に当てながら、 ステップに足を掛けるのをもじもじしていた。  署長はしかし無情だった。 「この中ですから」  命令するような署長の言葉に、銀子は思い切ってデッキに上がった。  デッキから車内に一足踏み込むと、そこはもう血の|痕《あと》でいっぱいだった。便所の開け放 たれた戸の間から一目中を|覗《のぞ》いた銀子は、よろよろと署長に|任《もた》几れかかった。 「しっかりしてください。お父さんが殺されてるんですぞ」,  署長の言葉に励まされて、銀子はようやく立ち直った。しかし、なんとまあ|惨《むご》たらしい 有様だろう。狭い便所内は床といわず、壁といわず、便器といわず、すっかり血で染めら れている。その狭い中に倒れている人間、いや、これが人間だろうか、顔はまるで肉塊の ようだ。目も鼻も口もない。往来にときおり|礫《ひ》き|潰《つぷ》されている|鼠《ねずみ》の、胴からどろっと流れ ている血に|塗《まみ》れた肉、あれを大きくしたような、醜いとも、恐ろしいとも、なんとも言い ようのない惨殺屍体、しかも青黒い|蝿《はえ》がいっぱいたかっているのだ。  これが父なのだろうか。 「さあ、どうかよく見てください」  惨酷な署長の言葉は地獄の|答《しもと》のように、銀子を責めるのだった。 「ま、  `し」  哀れ、美しい令嬢はぶるぶる|顧《ふる》えるばかりである。  銀子のぶるぶる頸えるのを見て、さすがの署長も気の毒そうに、 「初めてこんなものをご覧になっては、怖がられるのももっともです。いや、われわれの ような経験のある者でも、気味がよいものじゃありません。しかし、お嬢さん、しっかり してくださいよ。これがあなたのお父さんの野崎氏であるかないかということは、重大問 題なのです。ご覧のとおり顔面がこのとおりですから、顔面以外の特徴で決定する必要が あります。いずれ解剖の結果、専門的見地から断案が下されるでしょうが、それまでに確 実に分かればこれに越したことはありません。被害者がだれであるかということが決定す ると、犯人捜索の範囲はぐっと縮小します⊂犯人の手配は一刻を争います。スタートの一 日の差は終局の千日の差になるのです。よろしいですか、お父さんかお父さんでないか、 しっかり見てください。もう検事の検視も済んでますから、必要なら着物を脱がせます」  裸にまでしてこの屍体を見よとは、なんたる情けないことだろう。しかし、署長の言う とおり、これが父か父でないかということは銀子にとっても重大問題である。銀子は勇気 を奮い起こした。  銀子はじっと屍体を眺めた。  着衣その他所持品は確かに父のものである。しかし、顔面か滅多切りにされているから、 確かに父だとは言えない。髪の毛、わずかに残っている|願《あ サ 》の形、どうも父らしく思われる。 「か、顔があんなですから、よく分かりませんが、どうも父らしく思いますが」 「もう少し確実なところが分からないでしょうか」  署長は銀子の答えに満足しなかった。ほかの場合ならこの程度でいいのだが、被害者と 目せられている野崎氏は高崎駅で下車したという怪事件なのだから、署長が念を入れるの に不思議はないのである。 「何か、お父さんに特徴はありませんでしたか」  署長は促すように言った、 「たとえば、身体のどこかに|痔《あざ》があるとか、|火傷《やけど》の痕があるとか」 「父にはいっこうそんなものはございません」 「そうですか」  署長はがっかりしたように言ったが、また思い直したように、 「とにかく、着衣を脱がしてみましょう。おい、肩を脱がせてご覧」  署長は傍らの刑事に命令した。刑事は群がる蝿を追い|退《の》けながら、屍体を抱くようにし て右の肩を脱がせた。黄ばんだ土け色の|萎《した》びた肌が現れた。そのとたんに銀子は叫んだ。 「あっ、これは父じゃありません」 「なに、お父さんじゃないって」  署長は気色ばんだ。 「ど、・どうしてです」 「父には、あんなものはございません」  令嬢の指し九ところを見ると、屍体の|剥《む》き出しになった二の腕に丸い形の小さい|刺青《いれずみ》が あったのだった。 「確かにお父さんには、ありませんでしたか」  署長はがっかりした、この刺青が唯一の頼りだったのだ。百万長者の野崎氏が腕に、し かも確かに|濁腰《どくろ》の形と思える刺青をしているということは奇怪なことではあるけれども、 好箇の特徴であるから、このことを令嬢の口から聞きたかったのだ。ところが、銀子にい ろいろとかまをかけても|刺《ち 》青のことを言わないから、やむなく見せてしまったのだが、令 嬢は思い出すどころか、かえうて絶対に父でないと否認してしまったのである。  野崎氏の屍体でないとすると、だれの屍体か。問題はまたもとへ戻るのだった。  軽井沢警察署の楼上では長野検事局の検事・長野県刑事課長、それに署長・水松警部、 そのほか二、三の署首脳部を加えて重大な会議が開かれていた。野崎氏令嬢の証言によっ て、列車内殺人事件は奇怪に奇怪を重ねるに至ったのである。銀子は階下の一室に待たせ てあるのだった.、 「銀子の証言によると、屍体は父じゃないというのだね」  検事は口を開いた。 「そうなのです」  署長は|頷《ろなず》きながら、 「屍体の二の腕の刺青に非常な期待をしておったのですが、かえってそれがあるために、 銀子は父ではないというのです」 「刺青はあとから書き入れたんじゃあるまいね」 「刺青は確かに本物です」  刑事課長が口を入れた。 「あれは、きみ」  と署長のほうに向いて、 「だいぶ古いものだね。屍体の年齢はいずれ解剖の結果充分な推定が下されるだろうが、 まず見たところが五十ないし六十として、あの刺青はよほど若いときのものだね」 「どうも、そうらしいですな」  署長は頷いた。 「それに、これも専門家に鑑定させればすぐ分かるでしょうが、どうも日本の彫りではあ りませんな。外国の彫りらしいですよ、意匠からして、濁腰に腕の骨が添えてあるんです から」 「刺青が確かだとすると」  検事は言った。 「銀子の証言によって、確実に野崎でないことになるね」 「しかしです」  黙していた水松警部が、初めて口を開いた。 「令嬢が野崎氏に刺青のあった事実を知らないのかもしれません」 「そんなことはないよ」  検事は言った。 「令嬢というのは二十二、三だろう? まさか、その年まで父の二の腕に刺青のあること を知らないなんてことはあり得ないよ」 「あり得ないことはないと思いますが」  警部は穏やかに、自説を主張した。 「たとえば、令嬢が幼時父と一緒にいないで年ごろになってから同じ家に住むようになっ た、こういうことがあれば一緒に入浴することも少ないでしょうし、令嬢が全然知らない ということもあり得るだろうと思います」 「裸になるのは|風呂《ふろ》だけじゃないからなあ」  検事も容易に意見を|柾《ま》げないのだった。 「夏になれば裸でいることもあるだろうし、着物を着換える場合に腕を出すこともあろう し、一つ家にいて腕に刺青のある事実を知らぬということはあるまいL 「しかし、本人が見られることを欲しない場合は、夏だってなるべく裸にならないように しましょうし、いつも気を遣ってうまく隠すでしょうから」 「では、なにかい、きみは野崎に刺青のあったことが立証できるのかい」 「いいえ、いまだそこまでは運んではおりません。わたしは娘が父の二の腕の刺青を全然 知らない場合も、必ずしもあり得ないことはなかろうということを申し上げたのです。な お、野崎氏の知人や家庭の雇人らについて調べたら、あるいはその事実が判明するかと存 じます」 「うん、それでは至急そのほうを調べてみてくれたまえ。われわれは娘が父でないという 証言を、軽々に無視するわけにはいかんからね。ところで、水松警部の調査が済むまでは われわれは屍体を野崎氏に|非《あら》ずと見なければならん。そうなると、高崎駅で降りた野崎氏 の行動が問題になる。いや、いずれにしても彼の行動は調べておかねばならん。それから と、現在拘留中の容疑者だね。あれは釈放していいと思うが」  検事はそう言って、一座を見回した。 「わたしも同意見です」  刑事課長は頷いた。土井の釈放については、署長も異議がなかったc 「彼の言うところは、恐らく|嘘《うそ》ではないと思います。犯罪の手口が実に惨虐を極めている 点など、よほど|強《したた》かな|奴《やつ》が計画的にやったものです。まず、土井ではないでしょう。水松 くん、どうだねL 「わたしもその意見です。土井の言うところによりますと、便所の戸が閉まって赤く閉と 出ていた、それで待ち切れなくなったのでデッキに出たということですが、事実、戸は開 いたのです。そこでよく調べてみますと一犯人は便所が外から開かないように中から掛け ておく掛金ですな、つまりこれを掛けると外へ閉と出ることになっていますが、この掛金 を|鋸《のこぎり》で切ってしまっているのです。ですから、外へ閉と出ていても掛金は掛かってないの ですからいくらでも開くわけです。こんなことで、彼の言うところと事実と一致しますし、 同時に、犯人がいかに計画的にやったかということが分かります。つまり、土井は犯人で はないという結論になります」 「よろしい、みなの意見が一致したうえは土井を釈放しよう。そして、屍体はすぐ解剖さ せなくてはならないが、東京の大学へ送ったほうがいいだろう」 「結構です」  署長は言った。 「それから、この事件はもともと列車内で起こったことで、たまたま軽井沢駅で犯行が発 見されたに過ぎない。水松警部の話によっても、昨夜は東京ですこぶる計画的な凶悪な犯 罪が起こって、大宮付近でまた殺人未遂と既遂という二重殺人事件が突発したというわけ で、本件の被害者も恐らく東京在住の者で七ようし、すべてが東京を根拠としているよう ですから、本件を警視庁に移管して犯人捜索をやってもらったらどうかと思いますが、い かがでしょう」 「うん」  刑事課長は頷いた。 「それはよかろうゆしかし、幸か不幸か本県も関係があるのだから、本県は本県で水松警 部が担当して犯人捜索に当たったらどうか。むろん、警視庁と協力してやるのは少しも差 し支えないが」 「異議ありません。では、そういうことにしましょう。水松くん、頼むぞ」 「ええ、わたしも乗りかかったことですから、できる限りやります」  水松警部は|昂然《こうぜん》として言った。 「では、土井を釈放して銀子を帰してくれたまえ。それから、屍体は東大へ解剖に、捜索 は警視庁と打合せしてやること」  検事は|椅子《いす》から立ち上がりながら言った。  哀れを|止《とど》めたのは土井健三だった。彼は留置場から引き出されて、署長から釈放する旨 言い渡されて所持晶を返してもらった。彼は|荘然《ぽうぜん》として警察署を出た。  彼はまずだいいちに郵便局に行った。そうして、局留で返信してもらうことにして彼の 勤務している東洋石油本社へ打電した。電文は途中遭難して軽井沢に滞在したが、出張先 へ行くべきか東京へ引き返すべきか、命令を乞うというのだった。一時間ばかりすると返 事が来た。出張は時期を失したから、すぐ帰社せよという電報だった。彼はその電文から、 課長の機嫌が悪いということを充分に感ずることができた。  彼は七時半の上野行終列車に辛うじて間にあった。服装は行きと同じく仕立下ろしのり ゅうとした最新流行型だったが、行きの意気揚々たるに引き換えて彼はしぼんだ風船玉の ように|哨気《しよげ》ていた。  発車してからしばらくすると、しぼんだ風船玉が少し膨らんだ。彼は同じ車の反対の側 に、美しい野崎氏の令嬢を発見したのだった。  野崎氏の令嬢はつい二、三日前、上野駅のプラットホームで見たときのあの|綾刺《はつらつ》とした はち切れそうな元気はすっかり影を隠して、|林檎色《りんコいろ》のふっくらした|頬《ほお》は、|蝋《ろう》のように青白 く|硬《こわ》ばって、清朗そのもののようなぱっちりした目は憂愁に充ちていた。しかし、彼女の 美しさは少しも損なわれていなかった。彼女の|情然《しようぜん》たる姿のうちには|艶《あで》やかさに代わる|清 楚《せいそ》さが|溢《あふ》れていた。  土井はむろん、令嬢がどうして上野行の列車中にいるかは知らなかったが、たぶん父の 死に遭って、そのために軽井沢に来たのであろうと想像した。彼は令嬢になんとか言葉を かけて、彼女の父が殺された怪奇な場面や、彼の恐ろしい経験について語りたくてたまら なかった。しかし、さすがに|不躾《ぷしつけ》に口を利くこともできないので、もじもじしながら令嬢 のほうばかり眺めていた。  汽車はやがて高崎駅に停車した。土井はあの野崎氏に変装した怪漢はこの駅で降りたの だなと思って、プラットホームをじっと見た。令嬢もやはり土井と同じ考えだったとみえ て、プラットホームに目をやった。プラットホームは土井が席を占めた側にあったので、 土井が車内を振り返るとたんに令嬢と視線がばったり会った。令嬢は土井の顔に見覚えが あったとみえて、寂しく|微笑《ほほえ》んだ。土井は不意の出来事に|狼狽《ろうぱい》したけれども、すぐ|挨拶《あいさつ》を 交わすのを忘れなかった。  汽車が動きだしてからしばらくすると、土井はのこのこと令嬢の席に近づいた。 「どうも、とんだことでしたね」  土井は銀子の父が殺されたと信じているので、その意味で言ったのだが、令嬢はちょっ と挨拶に窮した。 「いえ、あの、まあお掛けあそはせ。あなたはたしか父と一緒の汽車でl」  銀子はまさか土井が殺人の嫌疑でいままで軽井沢署に留置せられていたとは知らないか ら、用を済ませての帰りだと思っていたのだった。 「ええ、それで、どうも|酷《ひど》い目に遭いました」 「まあ、どうあそばしたのですか」 「ぼくは殺人の嫌疑を受けましてね」 「まあ、あなたが」  銀子はびっくりして、土井の顔を見た。 「ええ、まったくとんだ災難でし,た。ぼくはあなたのお父さんを殺した嫌疑を受けたので すよ」 「まあ」  土井が屍体を彼女の父と思い込んでいるらしいので、そうでないということを言おうか と思ったが、相手の話の腰を折るのも悪いと思って銀子は黙っていた。 「こういうわけなんですよ」  土井はばかばかしい目に遭ったのを少しでも多くの人に話して同情されたいのと、それ にそうした怪奇な経験をしたといういくぶん誇りの意味もあるし、寝台車の出来事を詳し く銀子に語って聞かせた。銀子はだんだん話の怪奇なのに釣り込まれて、円口を丸くして呼 吸を弾ませた。 「そんなわけでしてね、すっかり嫌疑を受けてしまったんですよ」 「まあ、それはとんでもないご災難でしたこと。わたしはその屍体の鑑定に呼ばれたので ございますよ」- 、「あなたが。なるほどそうでしたか、それは」  土井は|口籠《くち ごも》った。あの惨たらしい醜い屍体を父だといってこの美しい令嬢に見せるとは、 無情なことをするものだなあ、と思うと、適当な言葉が出ないのであった。  土井の同情する言葉に、銀子は少し当惑しながら、 「ええ、あの惨たらしい屍体を鑑定せよと言われたときには、本当にどうしようかと思い ましたわ。、でも、幸いなことにはあれは父でございませんでした」. 「えっ、お父さんではありませんって!」  土井はのけ|反《ぞ》るように驚いた。 「ええ、顔はあのとおりで分かりませんでしたが」  銀子は屍体の恐ろしい顔を思い浮かべて、|眉《まゆ》をひそめながら、 「身体つきや着物は父らしいところもありましたが、確かに父ではないという点がありま したので」 「じゃ、やはりお父さんは高崎でお降りになったのでしょうか」 「そうとみえますわ」 「だがしかし、そうするとどうも変だなあ。ぼくの向かい側にいた男は確かに四本指だっ たがなあ。それで、お父さんからは便りがないのでしょう」 「ええ、少しも便りがありませんの」  銀子は心細そうに言った。 「どういう用で、高崎に降りられたのですか」 「そんなことは少しも分かりません。高崎なんて所で途中下車するはずがないのですけれ ども」 「ボーイには、東京へ引き返すとおっしゃったそうですがね。いずれにしても、屍体が野 崎さんじゃないとするとお父さんは生きていらっしゃるはずだし、お便りがないのは変で すね。どうもおかしいですね、うむ」  土井は急に何事か気がついたようにぎょっとして、顔色を変えた。 「お嬢さん、確かにあの屍体はお父さんじゃありませんか」 「ええ、確かに父じゃありません」 「そうするとですね、あの寝台車には三人しか客はなかったのです、あなたのお父さんと、 四本指の男と、それからぼくと、この三人です。その中で、ぼくは絶対に犯罪に関係あり ません。これは誓います。そこで残る二人のうち、ぼくたちの考えは四本指の男があなた のお父さんを殺しておいて、お父さんに変装して高崎駅で降りてしまった、とこう思って いたのです。ところが、殺されていたのがあなたのお父さんでないとすると、どうも四本 指の男と考えるよりありません。しかし、これもおかしな話なのです。ぼくの向かい側に いた男は右の中指が確かになかったと思います。ところが、屍体にはちゃんと指が|揃《そろ》って いるのですから。しかし、かりにこれはぼくの目の誤りとして、殺されていたのはぼくの 向かい側にいた男としますね。ほくは繰り返して申しますが、犯行には関係していません。 とすると、残るのはただ一人、つまり、そのー」  銀子ははっとした。みるみる彼女の顔色は|青裡《あおざ》めて、呼吸が弾んできた。 「あ、あなたは、ま、まさか、父がl」 「むろん、ぼくはあなたのお父さんがそんなことをなさろうとは思いませんが、なにしろ 三人より客がいなかったのですから」 「そうすると、父はだれかに殺されていなければだれかを殺しているということになるの ですね」  銀子はきっとして言った。土井は困ったという顔をしながら、 「つまり、その、理論的に言うとそうなるのですな」 「殺されている人は、ほかの箱から来たのじゃないでしょうか」 「それが、専門家の意見では絶対にほかの箱から来てはいないそうです。寝台車は一方は 手荷物の貨車ですし、一方は二等車で、二等車の乗客で欠けている人もないし、二等車を 通り過ぎて寝台車に行った人もなかったのです」 「手荷物の車のほうから、だれも来なかったでしょうか」  銀子は詰問するように|訊《き》いた。父の身にかかわる大事件であるから、彼女は一生懸命で ある。土井は彼女の徹底的の質問に、いささかたじろぎ気味である。 「そこまでは存じません。なにしろぼくは嫌疑を受けたほうでハ調査したほうではありま せんから」 「じゃ、きっとそうですわ」  銀子はほっとしたように言った。 「殺した人か殺された人か、どっちかは手荷物車のほうから来たんですわ」 「じゃ、.被害者か加害者は鉄道の従業員だ之おっ」やるのですか」 「それはどうだか存じません。とにかく、殺されているのは父ではありませんし、父が人 を殺しそうな気遣いはありません。ですから、理論的に言ってだれか一人、ほかから寝台 車に来たのです。二等車のほうから来なければ、手荷物のほうから来たと断定するよりほ かはありません」  銀子は土井の言葉を|真似《まね》て理論的と言ったが、彼女の仮説のうちには大きな弱点があっ た。それは、彼女の父が殺人をするはずがないという仮説である。これは彼女の独断であ って、ただちには|何人《なんぴと》にも受け入れられないのだ、土井はこう思ったけれども、別に言い 争おうとはしなかった。 「そうすると、だれかほかから来たと七て、高崎で降りられたお父さんはどうなすったの でしょうね」、 「本当にどうしたのでしょう」  銀子は急に不安になってきた。 「もっとも、わたしと行き違いに東京へ帰ったかもしれませんけれども」  銀子はふと、彼女の恐ろしい遭難のことを思い出した。彼女があんな恐ろしい目に遭っ て、支配人の成田はとうとう生死不明のままどこかへ誘拐されたほどだから、父には敵が あるのだ。そうすると、父はどこでどんな目に遭っているか分からない。銀子はこのこと を土井に話ししようかしまいかとしばらく迷ったが、結局黙っていた。 「お父さんはどういうご用で、新潟のほうへお出でになろうとしたのですか」  土井は訊いた。 「よく存じませんの。支配人の話によりますと、新潟の中沢万助とおっしゃる方をお訪ね するつもりだったそうです」 「え、中沢さん!」  土井がびっくりしたように言ったので、銀子は、 「ご存じですか」  と訊き返した。 「いいえ、会ったことはないのですけれども、名はよく聞いているのです。あの方は石油 成金でしてね。実はわたしは東洋石油会社に勤めているのですが、最近に中沢さんが盛ん に株を買い占められましてね、次期には社長だろうという評判なのです」 「そうですの」  銀子はそんな話には興味はなかった。しかし、土井には少し興味のある問題である。 「あなたのお父さんは以前から、中沢さんとお知合いですか」 「さあ、その辺のことは少しも存じません。わたしは父の事業上のことには全然関係いた しませんものですから」 「そうですか」  それっきり、しばらく二人の会話は絶えた。汽車はどこかの川に来かかったとみえて、 |轟《 オ  ついさでつ》々と音を立てて鉄橋を渡っていた。まもなく上野に着くだろう。そうしたら、二人は永 久に他人として別れるのだ、土井は|懊悩《おうのう》・煩悩・焦燥・恐怖と数え切れない苦痛に明かし た一夜も、こうして美しい令嬢と語り合うことによっていくぶん償われたような気がする のだった。 素人 探 偵  汽車は乗客の思い思いの空想を乗せて、 上野駅に着いた。 「さようなら」 「さようなら」 |闇《やみ》の中を走った。 そうして、午後十一時五十分  土井は簡単な|挨拶《あいさつ》を交わして、銀子と別れた。  彼は|神田《かんだ》の下宿に帰って、その夜は久し振りで温かい床に潜ってぐっすり寝込んで、翌 朝、|丸《まる》の|内《うち》の会社に出勤した。 「やあ」 「ひどい目に遭ったそうだね」  同僚は物珍しそうに、彼の|傍《そば》に寄ってきた。彼らはだいたい新聞の報道によって、土井 が殺人の嫌疑を受けたことを知っていた。土井が彼らの質問に従って詳しく説明すると、 みんなはその話があまりに奇々怪々なので、感嘆の声を上げた。 「へえ、そんなにうまく変装ができるものかなあ」 「四本指ということは新聞に出ていなかったが、もし犯人だとすると、そんな特徴を人に 見られていたのはばかだなあ」  銘々は思い思いの意見を吐いた。土井は銀子と汽車の中で話し合ったことは、なぜか惜 しいような気がして口に出さなかった。  同僚の前では相当人気のあった彼も、課長の前に出ると小さくならざるを得なかった。 課長は電文にも表れていたとおり、あまりよい機嫌ではなかった。 「災難は災難として仕方がないがね。きみは会社の重大な用を遅らして非常な損害をかけ たよ。そういう嫌疑を受けるというのも、きみに何か手落ちがあったからだろう」 「まったくの災難です。手落ちなんてことはありません。あんな所へ乗り合わしたのが、 ぼくの不運だったのです」 「しかし、出張ができなくなったらすぐ通知をよこせばいいじゃないか」 「それがね、一切の自由を束縛されたものですから」 「不可抗力だったかどうか、厳重に調べろという重役の命令なんだ。不可抗力でなかった ら、なんとか処分せよということなんだ」 「だって課長、それは無理です。不可抗力にもなんにも、寝ているところを麻酔薬を|嗅《か》が されてしまったのですから。軽井沢署へ照会してください」 「うむ。しかしね、重役の怒り方はひどいんだ。なにしろ、きみが向こうの工場へ行って 報告することになっていたのが、会社の金融問題を左右するような材料なんだ。きみも 薄々は知っているだろうが一最近会社の株を盛んに買い占める者があるので、現重役はそ れに対戦するのに全力を挙げているんだからね」 「そう言えば課長、ぼくの乗っていた寝台車で殺された野崎寛吉ですね」  土井は銀子の言葉にかかわらず、|屍体《したい》を野崎氏と信じているのだった。 「あの人は大変な富豪なんでしょう」  課長は不意に話題を変えた土井を、.不審そうに眺めながら、 「うん、株で当ててだいぶ金を|持《こしら》えたということだ」 「あの人は新潟へ行くところだったのですが、中沢万助に会いに行くつもりだったんです よ」 「なに、中沢万助に」 「どうです、これはちょっとニュースバリューがあるでしょう。中沢はこの会社の社長を |狙《ねら》っている株買い占めの親玉なんだから。きっと、野崎を仲間に入れるつもりだったんで すよ」 「うん、ことによったらもう仲間になっているのかもしれないな」  課長は何か考えながら、いつもする癖で天井の隅を|睨《にら》んだ。しばらく考えたすえ、課長 は言った。 「少し待っていたまえ」  課長はそそくさと部屋を出ていった。どうやら土井の処置について重役に相談に行った らしいが、なかなか帰ってこなかった。土井はいらいらしながら、することもなく課長室 に待っていた。  たっぷり一時間ほど|経《た》ってから、課長はやっと部屋に帰ってきた。 「きみ、社長が用があるそうだから、社長室へ来たまえ」  土井はぎょっとした。もしや|誠首《かくしゆ》を言い渡されるのではあるまいか、いや、首を切るな ら、社長からでなく常務かそれとも課長あたりからあっさり言い渡されるだろう。してみ ると、お説教かな。以後注意するようにとくどくどやられるのかしら。土井は高を括った ものの、内心は冷や冷やしながら課長の|尻《しり》について社長室に入った。  社長の|富永砥三《 とみながろくぞう》は割にいい機嫌だった。 「まあ掛けたまえ、とんだ目に遭ったそうだね」 「ええ、どうも申し訳ございません。不注意だったものですからとんでもない災難に遭い まして、会社の重大な任務をついすっぽかしてしまいました」 「うん、きみに|理由《わけ》は話さなかったが、きみの任務は会社に重大な影響を与えることだっ たのでね、まったく困ったよ。しかし、課長から話を聞いてみるとどうも仕方がないよう に思う。きみも好んで嫌疑を受けたわけではなし、また、会社へ知らせようにも自由を束 縛されていたのだから|止《や》むを得まい、まあ、会社もきみと同じように災難に遭ったわけだ。 しかし、これからもあることだから、汽車になんか乗ったら気をつけたまえ」 「ええ、以後はきっと注意いたします。もう懲り懲りしました。どうか、今度のところは こ寛大の処置でとうかー」 「うん、一時はわしも立腹したが、理由を聞いてみると怒るわけにもいかんり課長からも 口添えがあったし、今度のことは別に|答《とが》めないつもりだ」 「どうもありがとうございます」  土井はほっとして、頭を下げた。社長は葉巻の灰を|叩《たた》きながら、 「殺されたのは野崎寛吉だというじゃないか」 「はい、わたしもそう思いますし、警察でもそう信じているようでございますが、令嬢の 言うところでは、野崎ではないそうでI」 「なに、野崎じゃないって」 「ええ、警察はじめわたしたちの考えは、高崎で降りた野崎が実は悪漢で、野崎氏を殺し て彼に変装して降りていったのだと信じておりましたが、令嬢は屍体を見て父ではないと 言ったそうです」 「ふん、じゃ野崎ではないな。しかし、高崎で降りた彼はどうしたろう」 「それっきりで、令嬢の所にもなんの頼りもありませんそうです。わたしはどうも、殺さ れていたのが野崎氏じゃないかと、いまでも思っているのですが」 「しかし、令嬢が見損なうはずがない」 「ところが、屍体の顔はめちゃめちゃなんで、それはもうまるで|膳《なます》のように滅多切りに切 られているのです」 「ふーん、惨酷なことをしたものだな」 「ですから、令嬢でも確かなことは言えないと思います」 「ふん」  社長は感嘆しながら、 「なんと言っても近来の怪事件だね。ところで、野崎は新潟の中沢を訪ねるところだった というじゃないか」 「ええ」  土井は|頷《うなず》いた。 「そうらしいです」  社長は|椅子《いす》から|膝《ひざ》を乗り出した。 「きみは知っているかどうか知らんが、この会社は現在少しごたついているのだ。陰謀派 の暗中飛躍があってね、ぼくたちもやや不安に思っているのだ。ところが、その陰謀派の 黒幕というのがどうも|越後《えち ヰ 》の中沢らしい。野崎が中沢を訪ねていくとすると、彼も仲間入 りをしたかあるいは勧誘されているのかどっちかだと思う。そうなると、ぼくたちは多少 中沢や野崎の行動に注意を払わなければならん」 「なるほど」  土井は頷きながら、|相槌《あいづち》を打った。 「そういう形勢のところへ、きみが渦中に引き込まれたという怪事件だ。ことにいま聞け ば、被害者は野崎か野崎でないか分からないという話で、そんなら高崎で降りた男が野崎 かというと、家にはいっこう便りがないという。とにかく、近ごろの怪事だよ」. 「はあ、実に怪事件です」 「そこで、ぼくたちとしてはだね、野崎の行動、それから野崎と中沢との関係が知りたい。 野崎ははたして殺されたのか、生きているのか。生きているとしたら、どこにどうしてい るか。中沢とはどのくらいの程度まで結びついていたかというような点だね」 「ごもっともです」  それで、社長は土井の顔を眺めながら、 「こういう点を、きみにひとつ探偵してもらいたいのだ」 「えっ」  土井はびっくりした。社長にうっかり相槌を打っているうちに、とんだことになったの である。社長には最初から、こうした魂胆があったのだ。けれども、探偵なんておよそ土 井に縁の遠いもので、とてもできそうにない。土井は慌てて断ろうとしたが、社長は押し |被《かぷ》せるように言葉を続けた。 「私立探偵を雇う方法もあるが、彼らにはどうももうひとつ信用の置けない点があって、 会社の機密に属することだからうっかり頼めない。きみは会社の人間でもあるし、ことに 怪奇極まる事件の渦中に入って事件はむろんよく知っているし、野崎氏の顔も被害者も見 たんだし、最適任者だと思うのだ。ひとつ引き受けてくれたまえ」 「わたしはその、偶然に事件に引き込まれて、野崎氏の顔も知りましたし令嬢とも懇意 になりましたけれども、その、探偵ということはこれまでやったことがありませんので、 どういう風にしていいやらまるで見当がつきませんから、どうかこの役はほかの人 〃」1 `   」 「ふん、引き受けられないというのか」  社長の語気は少し荒かった。  いままで黙って聞いていた課長は、この時初めて口を出した。 「きみがそう言うのも、もっともだがね土井くん。だれだって、この会社に探偵の仕事を させられようと思って来た者はないのだ。だから、だれだってきみと同じに、探偵の仕事 なんかからきし駄目なことは分かっている。つまり、どっちかといえば、きみがいろいろ 事件に精通しているだけ一番の適任ということになるのだ。実は、先刻社長はきみが災難 とはいえ会社に非常な損害をかけるような失敗をしたのだから、断然処分するというお話 だったんだ。それをぼくがいろいろお願いして、では、この事件の探偵をして何か会社の 利益になることを探り出してくれば、それで、それで今回の失敗を帳消しにしようという ことになったのだ。だからきみがこれを断ると、話が逆戻りして変なことになる心配があ るよ」 .課長はじわりじわりと、真綿で首を絞めるように言うのだった。  土井は嫌と言えない羽目になった。 「どうも、そう言われては困ります。わたしに探偵的手腕などないということを知ってお いでになって、そのうえのご命令ならばお引受けいたしてもよろしゅうございますL 「むろんね、なにもきみに探偵的才能があるからというわけではない。ただ、きみが事件 をよく知っているから  」 「そこだよ」  課長の言葉を遮って社長は言った。 「きみは事件をよく知っている。しかも、ひどい目に遭っている。できたら真実を突き止 めたい、とこういう気分になっているだろうというところで探偵を依頼するのだ。決して 処分すると言って|威《おど》かして、無理に押しつけようというのではないよ。誤解しないように してくれたまえ」 「は、よく分かりました」  なるほど、土井だって男だ。あれほどの目に遭ったのだから、ひとつ真犯人を挙げて汚 名を|雪《すす》いでやろうという考えが起こらないでもない。ことにこの事件の探偵に従事すると なると、たびたびあの美しい野崎の令嬢にも会えるだろう。いままでは尻込みをしていた 土井だったが、いくぶん乗り気になってきた。 「ひとつ、一生懸命にやってみましょう」 「ぜひ頼むよ」  土井が少し乗り気になった気分が察せられたので、社長はにっこり笑いながら、 「探偵に従事するとなれば、きみは官由に行動してよろしい。むろん、会社には用のある とき以外には出てこなくてもいい。いや、むしろ用があれば、こっそりわしの家に来てく れるほうがよい。それから、費用は必要に応じて機密費のほうからいくらでも出すから、 思い切り活動してくれたまえ。まず手始めに、これだけ渡しておこう」  社長は紙入れを出して、中から手の切れるような新しい紙幣で二百円、-机の上に並べた。  土井はなんとなく気が引けて、ちょっと手が出せなかった。 「取っておきたまえ」  重ねて言われたので、彼は紙幣を受け取った。彼の指が心持ち|顧《ふる》えたC 「,それからね、会社のほうは表向き、きみが災難とはいいながら会社の大切な使命を失敗 したという名目で、休職にしたということにしておく。そうしないと、きみが毎日出社し ないのがおかしいからね」 「承知しました」  そんなことを言って体よく首を|誠《き》るのではないかなと思うと、土井は少し心細かった。 「では、しっかりやってくれたまえ」  土井は社長室を出た。  彼は同僚たちのいるところに来ると、課長室から社長室へ、それもかなり長い時間いた ので、同僚たちはいっせいに探るような目つきで彼を見た。  土井は、 「とうとう、これだよ」  と首に手を当てる|真似《まね》をして、みんなが驚いている暇にさっさと机の周りを片づけはじ めた。 「本当かい」  彼のいちばん親しくしている同僚の|酒井《さかい》が|訊《き》いた。 「本当だよ」 「しかし、ひどいなあ」 「いや、ひどくはないよ。ぼくが悪かったのだから。それにね、条件もいいし。まあ、諸 くんは安心して働きたまえ」  土井の口振りがまんざら負け惜しみとも思えなかったので、酒井は少し安心したように 言った。 「その元気ならいいや」  机の内外を片づけ終わった土井は同僚に一通り挨拶して、会社を引き揚げた。  まるで夢のようなことだった。経済学を修めていまの会社に入ってから二年余り、就職 難の折柄であるから少々の不満も抑えて、おいおいに地位も俸給も上がるだろうと比較的 |真面目《まじめ》に勤めていたのに、出張!殺人の嫌疑ー休職ー探偵といったような結果にな ろうとは、夢想だにしていないことだった。  彼はいろいろのことを頭に考え浮かべながら、ひとまず下宿に帰った、昨夜は遅く帰っ たから家の者も下宿人もほとんど寝ていたが、いまはなんだかじろじろ顔を見られるよう である。地方に起こったことだけれども、富豪野崎氏が関係しているうえに奇怪極まる事 件だから、東京の新聞にも大きく掲載されたらしい。もっとも、嫌疑者としての土井の名 はさほど重大には取り扱われてないらしかったが、それでも彼らは土井の名を新聞に発見 したかもしれない。  部屋に入ると、二、三の友人から見舞いの手紙やはがきが来ていた。土井はすっかり|憂 欝《ゆううつ》になった。とにかく、この下宿はなんとなく不快になった。ことにこれから急に探偵に 商売替えをするとなると、いままで会社に勤めていたことを知っていられるだけに仕事が やりにくい。土井は下宿を変える決心をした。時計を見るとまだ昼前である。彼はすぐ下 宿を出た。そうして、今後は出入りに便で、出入りのたびに人に見られる心配のないよう に、本郷のお茶の水の傍の|忠弥坂《ち つやざか》アパートメントに決めた。引っ越しは簡単である。彼は 夕方には、もう鉄筋コンクリートのアパートメントの一室に|坐《すわ》っていた。  彼は故郷の親と二、三の|親戚《しんせき》・親友に、新聞で見られたような災難に遭ったこと、災難 とはいいながら会社の仕事をしくじったので休職処分になったこと、しかし、それは形式 的の処分なので、まもなく復職するから心配はいらないこと、アパートメントに引っ越し たことなどを、ざっと書き|認《したた》めた。  彼は食堂で夕飯を済ませると、書いた手紙をポケットに入れて外に出た。外はもう暗か った。最寄りのポストで手紙を投げ込んでしまうと、さてどうしようかと迷った。なにし ろ、探偵なんてどこから手をつけていいものか、少しも分からないのだった。 「探偵の開業は明日にして、今夜はゆっくり遊んで頭の洗濯をしよう。一度気分を改めな くては、とても駄目だ」  彼は頭の洗濯に、行きつけのカフェーにでも行こうかと考えたが、彼の|馴染《なじ》みの女給に 新潟へ出張することを得々として語って、土産を買って帰ることを約束したのを思い出し た。どうせ土産なんか当てにしていないだろうし、あんな女給なんか新聞もろくに読まな いだろうし、土井が軽井沢で殺人の嫌疑を受けたことなど知りはしまいけれども、四、五 日は留守だといった手前、どうもちょっと行きにくい。  今晩あたり同僚があのカフェーに行って、土井かい、|奴《やつ》は首になったぜ、なんてことを 言い触らすかと思うと、彼はちょっと憂欝だった。こうなれば、できるだけ同僚たちの立 ち回らない方面に河岸を変えなくてはならない、  土井は当てもなくぶらぶら歩いているうちに、ふと映画を見る気になった。それほど好 きではないが、映画館ならめったに同僚に会うこともなし、少しは気分の転換もできるだ ろうと思ったのだった。 「映画なら、やはり|浅草《あさくさ》だ」 彼は口の中で|眩《つぷや》いて、|万世橋《まんせいばし》まで歩いていき、そこから地下鉄に乗った。 |雷門《かみなりもん》から六区へ入ると、さすが浅草である。だんだん気分が浮き浮きしてきた。     |湯浴《ゆあ》みする女  土井はずらりと並んでいる映画館の一つに入った。  写真はアフリカ大陸の実写と、西洋探偵劇だった。大陸の実写では珍奇な動物やライオ ンと闘う住民、黒雲のごとく|湧《わ》き起こって太陽を遮り、|広表《こうぽう》数里の植物を一瞬に食い尽く してしまう|蛙《いな ヰ 》の大群など、偉観・壮観の限りだった。探偵劇は|蠣幅《こうもり》と称する怪賊が神出鬼 没、縦横無尽に惨虐かつ巧妙な犯罪をなし遂げ、彼を追跡する名探偵を奔命に疲れさせる。 しかも、蠕幅なる怪賊の正体は最後に至るまで分からないのである。怪奇から|戦標《せんりつ》へ、戦 標から怪奇へと変転極まりなく展開していく場面は、監督の頭のよさと俳優の妙技と|相侯《あいま》 って、最後まで息をもつかせず|惹《ひ》きつけていくのだった。  土井は酔ったように、スクリーンに食い入った。殺人の場面が現れると、最近にその経 験をした彼は迫ってくる恐ろしさにわれ知らず戦標するのだった。怪賊の巧みなトリック、 それに対する名探偵の鮮やかな応戦ぶりを見ると、犯罪探偵としての彼の力がどんなに貧 弱であるかということをまざまざと感じさせられるのだった。 映画が終わると、彼はほっとした。 映画館を出たときはもう十時だった。土井は抜け切れない|昂奮《ニうふん》に、しばらくは足に|委《まか》せ てその辺を歩き回った。彼は池を横切って、|藤棚《ふじだな》のあるあたりを通り過ぎた。その辺のべ ンチには、何人かの人が窮屈そうに|身体《からだ》を曲げて寝ていた。  土井はいつの間にか観音裏から公園を抜けて、暗い横町を歩いていた。 「|旦那《だんな》」  土井は不意に呼び止められた。びっくりして振り向くと、車夫らしい男が|揉手《もみで》をしなが ら立っていた。 「旦那、ひとつ面白い遊びはいかがで。えへへへへ」  車夫は卑しい笑いをしながら言った。 「面白い遊びてなあ、なんだい」  土井がぶっきら棒に言うと、車夫は、 「えへへへへ、とてもご愉快なことで。てまえがご案内いたしますから、どうかぜひ」 「ふん、女の所へ連れていくというのかい」 「それがとても奇麗な素人女なんで。へへへへへっ。|年齢《とし》も色盛りというところで。それ に、決してご散財をかけませんので、えへへへへ」  土井はちょっと好奇心を起こした。こうした客引きが公園の付近に出没するということ は聞いていたが、彼には初めての経験だった。それに、今晩はとても引っ越したばかりの アパートメントの=至に帰って、一人で寝る気はなかったので、 「ふん、案内料はいくらだい」 「へへへへっ。不景気の折ですから大勉強で、円タク並みにいたします」 「円タク並みといえば五十銭かい」 「いえ、円タクといえば円助で、えへへへっ二二分ではかわいそうです。一両奮発してく ださい。旦那、一両なら安いものですぜ」 「安いか高いか、先方に行ってみなければ分からないや。だいいち、人力車なんて時代遅 れだなあ」 「ところが狭い道ですから自動車じゃ駄目なんで、人力車に限るんでさあ」 「近いんだろう」 「近いような遠いような所なんで、えへへへ、旦那、びっくりするようないい女ですぜ」  車夫は土井に気があると見たので、もうこっちのものだという風だった。 「一円は高いな」  土井は言ったが、もう値切る気はなくなっていた。 「すぐ車を持ってきますから、ここで待っていてください」  車夫は心得たもので、土井に二の句を継がせないでたちまち小走りに|闇《やみ》に消えた、と思 うと、早くも車を|曳《ひ》いてやって来た。 「さあ、お乗りなすってください」  土井は渋々という|恰好《かつこう》で車上の人になった。車夫は威勢よく走りだした。  車夫が決して目的地にまっしぐらに走っているのでないことは、土井にはすぐ分かった。 彼は横町から横町をくねくねと曲がって、ぐるぐる一つ所を回っているようだった。 「おい、いい加減に頼むぜ」  土井は車の上から声をかけたが、車夫はへへへと言ったきりで、相変わらずぐるぐると 走り回っていた。  約十分余り|経《た》つと、車夫はようやく|梶棒《かじぽう》を下ろした。しかし、そこは家の前ではなく塀 の前の薄暗い所だった。 「どこだい、家は」 「えへへへへ、これからご案内します、へえ、もうすぐそこです」  車夫は先に立って歩きだした。そこは土井が想像していたようにごみごみした家が建ち 並んでいるのではなく、塀などを巡らした相当の住宅ばかりだった。車夫はやがて、一軒 の|妾宅風《しようたくふう》の家の裏口に土井を立たせた。 「この家なんで。えへへへへっ。旦那、びっくりするような玉ですぜ。約束の円助を|頂戴《ちようだい》 したいもので」 「だってきみ、ここで|放《ほう》り出されちゃ困るよ。中まで案内してくれなくちゃ」 「大丈夫ですよ、旦那。裏口はほうれ、このとおり」  車夫は木戸を押した。木戸は音もなく開いた。中はちょっとした裏庭になっていて、台 所らしい所からほんのり灯火が|洩《も》れていた。 「ね、.ここから入っていって、台所の|硝子戸《ガラスど》をとんとんと|叩《たた》いて、山から来たよとこうお つしゃれば、すーっと硝子戸が開いて、目の覚めるような美しい乙姫さまが出てこようと いうので」 「なんだか変だね」  土井は|騙《だま》されたような気がした。童話じゃあるまいし、車夫の言うことは夢のような話 である。 「だ、大丈夫ですったら」  車夫はここで金が|貰《もら》えなかったら、それこそ大変だとばかり、 「旦那は変に疑い深いなあ。あっしがね、中まで入っていっては具合が悪いんで。いつも、 お客さまだけが入ることになっているんですよ」  土井は一円くらいのことでいつまでも言い争っているのは嫌だったので、五十銭銀貨を 二つ|墓口《がまぐち》から|掴《つか》み出した。 「じゃ、まあいいや。騙されたと思って約束だけ払うよ」 「騙されたなんて、そんなことは絶対にありませんよ。どうもありがとうございました。 どうぞ、ゆっくりお楽しみを。えへへへへ」  車夫は金を受け取ると、さっさと行ってしまった。  あとに残った土井は、しばらく去就に迷った。こんなことは初めての経験なので、ここ がそういう女のいる家かどうかさえ見当がつかないのだ。  彼はままよと思って、木戸の中に入って台所に近づいた。すると、ざーっという湯を浴 びるような音が聞こえた。  ざーっという水の音に気がつくと、台所に並んだ所が湯殿で、だれかが湯を使っている らしい。女中でも湯に入っているのか。そうすると、硝子戸を叩いても通じないかもしれ ないと思いながら、少々心細くなってきた土井はそっと足音を忍ばせて湯殿に近寄った。 しばらく様子を|窺《うかが》ったが、中はしーんとしている。湯船に|浸《つ》かっているらしい。  土井はふと、戸の下のほうに節穴のあるのを見つけた。彼はしゃがんで節穴に目を当て た。すると、湯船に浸かっていると思ったのは間違いで、一人の女がこっちのほうを向い て立て|膝《ひざ》をしながら、せっせと腰のあたりを洗っていた。  土井ははっとしていったん目を節穴から外したが、すぐにふたたび目を押しつけて、食 い入るように中を眺めた。  車夫の言った言葉に間違いはなかった。美しい女だった。真っ白な大理石のような肌が 湯に浸かったためにぼーっと桜色になって、なだらかな|頸《くぴ》から肩にかけての肉づきのよさ。 むっくりと膨れた乳首から下腹にかけての曲線の波の美しさ、土井は呼吸が乱れてくるの を感じた。  女はむろん土井が|覗《のぞ》いていることなどには気がつかないで、無心にせっせと手を動かし ていた。やがて上半身を洗い終わった彼女はやおら、立てていた脚を延ばした。丸々とし た|大腿部《だいたいぷ》は、|凹《ヘニ》ませばぴーんと|弾《はじ》き返すように張り切っていた。それにもかかわらず、ふ くら|脛《はぎ》から足首にかけての曲線には得も言われない繊細さがあった。  延ばした片脚を縮めた彼女は、縮めていたほうの片脚を延ばした。彼女は足の指の一本 一本も丹念に洗うのだった。  やがて、彼女はすっくと立ち上がった。そうして、土井のすぐ前で片脚を上げた。上げ た片脚はすーっと湯船の縁を|跨《また》いだ。残った片脚が同じような運動をして、土井の目の前 を去った。彼女の全身は消えてしまった。  土井はほっと|溜息《ためいき》をついて、細心の注意をしながら静かに立ち上がった、この女が車夫 の言った客を取るという素人女だろうか。車夫はでたらめを言ったか、それとも家を取り 違えたのではなかろうか。この女にはどこか素人離れのした、客商売上がりらしいところ はあるけれども、見ず知らずの人を家に上げるような女には見えない。  湯殿のほうでは時折、チャブチャブという、浴槽の中で静かに身体を動かすらしい音が した。  しかし、その後はしーんとして何の物音もしない。いったいこの家には、浴槽に浸って いる女のほかにだれもいないのであろうか。  土井は少し気味が悪くなってきた。  けれども、彼には心残りがあった。彼はまた湯殿に近づいた。そうして、別の|隙間《すきま》を見 つけた。彼はそこに目を当てた。  そこから浴槽がすっかり見えた。女は狭い浴槽の中で、できるだけ脚を延ばしていた、 白い身体が透き通った湯の中で、いっそう白く見えた。光線の屈折で、短く縮んで見えた。 脚はチャブチャブと立つさざ波に、ゆらゆらと揺れて見えた。  女の美しい顔はぽーっと上気して、滑らかに光っていた。彼女はじりじりと温まってく るなだらかな湯の触感に、快くてたまらないという風だった。  土井はようやくわれに返って隙間から目を離そうとすると、突然、湯に浸っていた女の 表情が変わった。彼女の顔からはみるみる生気が影をひそめた。桜色だった皮膚は青白く しぼんでいった。その反対に、無色透明だった湯はしだいに赤みを帯びてきた。  浴槽に浸っていた女の顔はみるみる紙のように白くなった。反対に、青々と透き通って いた湯はみるみる赤くなってきた。 「あっ!」          ふる                                          しんぞうま ひ    のういつ  土井はがたがたと頭えだした。ああ、浴槽の女は死んだのだ。いや、心臓麻痺とか脳溢 |血《けつ》とかで自然に死んだのではない、殺されたのだ! 土井は気がつかなかったが、恐らく 彼女の湯に浸っている胸には傷口が開いて、そこからどくどくと鮮血が|近《ほとばし》り出ているのだ ろう。  だが、彼女はどういう方法で殺されたのだろうか、土井が二度目に覗いたときには、彼 女は確かに生きていた。|艶《つやつや》々した顔色で、心地よさそうに湯に浸っていた。それがみるみ るうちに顔色が変わって、|清例《せいれつ》な湯は鮮血に染まったのだ.、  むろん短刀のようなもので刺したのではない、それなら覗いている土井に見えるはずだ し、だいいち彼女がじっとしているわけはない⊂背後から刺されたとしても、本能的に身 を|振《ね》じるはずである。彼女は身動きもせず、じっと快く湯に浸ったそのままの姿勢で死ん でしまったではないか。  彼女は飛び道具、恐らくピストルで撃ち殺されたのだ。土井のほうからはピストルを撃 った人間は見えなかったのである。彼女も快い温湯の触感にうっとりしていたので、気が つかなかったのだ。  けれども、ピストルなら音がするはずではないか。土井は何の物音も聞かなかった、そ うだ、犯人はたぶん、消音器を使ったのだろう。ああ、彼女は湯に浸っているうちに、消 音ピストルで胸を撃たれたのだ!  土井は容易に身体の頭えが|止《や》まなかった。しかも、-わなわなと|顧《 》える彼の脚は大地に|釘《くぎ》 づけになったように、上に上げることができないのだった。  一射も早くここを逃げ出さなければ大変である。もし、こんな所でぐずぐずしていて巡 回の警官にでも見つけられたら、それこそどんな嫌疑をかけられるか分からないのだ。し かも、彼はつい二、三日前に殺人の嫌疑を受けたばかりなのだ。  土井はようやくのことで幾分元気を取り返して、急いで逃げ出そうとした。そのとた ん、彼はまたもやぎょっとしてその場に立ち|煉《すく》んだ。家の中から不意に人声がしたのだっ た。 「かわいそうなことをしたな」 「うん、惜しいもんだ。奇麗な女だがな」 「大将もばかなことをしたものだ。この女に秘密を見られるなんて」 「大将もばかなことをしたかもしれないが、この女も運が悪いのだぜ。大将にさんざんか わいがられながら、ほんのちょっぴり大将の指をー」 「しっ、壁に耳ありというぜ。まだ十二時前だ。余計なことは言わないほうがいいぜ」  明らかに二人の男の|曝《ささや》き合う声だった、、彼らは大将と呼んでいる親分の命令で、たぶん 親分の|妾《めかけ》か情婦である女を、何か親分の秘密を知ったというためにこうやって撃ち殺した のだ。土井は恐怖で歯がガチガチ鳴った。彼はその音を悪漢たちに聞かれては大変だと思 ったが、どうしても止まらないのだ。  土井はしかし、怖いもの見たさというか、そんなに頭えながらもまたもとの隙間に目を 当てて中を覗いてみた。  浴槽の女は白ちゃけた、人形のような顔になっていた。湯は真っ赤になって、|膏《あぷら》がぎら ぎらと浮いていた。気のせいだが、|血腫《ちなまぐさ》い|臭《にお》いがぷーんと鼻を打つようだった。  悪漢の姿は見えなかった。  土井はどうかして悪漢の姿を見ようと顔をいろいろに擾じ向けてみたが、どうしても見 えなかった。うっかり音を立てては|生命《いのち》にかかわるので、彼は悪漢たちの姿の見える隙間 を探し歩く勇気はなかったのだった。  中では、またこそこそ話が始まった。 「大将はどうも、女に甘いので困るなあ」 「うん、|大阪《おおさか》のほうにも、一人秘密を知っている女があるそうだ。近いうちに片づけるん だってことだぜ」 「かわいそうだなあ。おれはもうそんな役はご免こうむるぜ」 「だれだって、喜んでする|奴《やつ》アないや。このごろは大将の調子が変だぜ、少し焦っている んじゃないか。落ち着いて仕事をやれアどんなことだってできないことはないという大将 だが、このごろの|遣《や》り方は危なくって仕方がないや」 「うん、この間の汽車の一件だって  」 「しつ」  土井はどきんとした。汽車の一件? 汽車の一件とは何だろうか、 「あの一件だって、日ごろの大将にしちゃ、少し|拙《まず》いぜ」 「うん、多少拙いところがあるな。しかし、警察の奴にはなんにも分からないのだから、 あれくらいにやれアまあいいほうさ。ただ、あとの娘を|撰《さら》い損なったのが拙かったな」 「しかし、あれは計画は上々だったぜ。相手の警部がすばしこかったんだ」 「大将はまた、あの娘でしくじるんじゃないかな」 「うん、危ないな。もっとも、あの野崎のお嬢さんは素晴らしいからな」大将がIL  えっ、野崎のお嬢さんだって! 野崎のお嬢さんというのは、あの銀子のことだろう か? 土井は思わず身体を乗り出したので、|溝板《どぷいた》がガタンと音を立てた。 「しっ、何か音がしたぜ」 「猫だろう」 「猫にしては音が大きかった」 「じゃ、犬だ」 「何にしても、ぐずぐず|喋《しやべ》っちゃいられない。いい加減に仕事にかかろう」 「うん」 仕事? 仕事とは何だろう。女を殺してから、まだ仕事があるのか。  ガタン、また溝板が鳴った。 「また音がしたぞ」 「犬にしては変だ」 「それっ!」 「それっ!」  万事休す。二人の男は外へ出てくるようである。土井は一目散に逃げ出した。しばらく してあとを振り返ったが、さいわいに追ってくる様子はない。  土井はほっと溜息をついた。  が、いったいここはどこだろう。  連れられてきたときには車夫に無闇にぐるぐる引き回されたし、逃げるときには無我夢 中だったので、さっぱり見当がつかないのだった。彼はぶらぶら歩きながらその辺の家の 表札を見ると、|千束町《せんぞくまち》とあった。千束町なら浅草公園の|傍《そぱ》である。いい加減に歩いていっ たら公園に出られるだろう。  だが、いったいあの女は何者だろうか。あの女の所へ、土井を引っ張っていった車夫は 何者だろう。あの女ははたして、車夫と共謀して客を取るような商売をしていたのだろう か。車夫は間違って、土井をあそこへ引き込んだのではなかろうか。それとも、故意に連 れていったのか。土井はあとからあとから湧いてくる疑問に苦しんだ。  浅草|界隈《かいわい》といっても十二時近くなので、さすがにすっかり寝静まってしーんとしている。 夏とはいいながら並外れて涼しいので、寝苦しさに往来を歩くという人もないのだ。  空はどうやら雨模様である。  土井は足に委せて不案内の地を当てもなく歩きながら、それからそれへと考えつづけ た。  考えれば考えるほど疑問は尽きないが、ただ一つ確からしいのは、いまの悪漢の親分と いうのは野崎氏の事件に関係があるらしいということである。彼らの話し振りでは、どう やら野崎氏の令嬢に親分が目をつけているらしい。一度は誘拐を試みたようなことを言っ ていたが、そんなことがあったのだろうか。  土井は彼の|臆病《おくぴよう》と無力とをみずから|嘲《あざけ》った。せっかく野崎氏の事件に関係のあるらしい 事柄にぶつかっておきながら、探索をするどころかがたがたと頸えて、そのうえに溝板を 踏み鳴らして彼らの内幕を聞く好機会を逸してしまったのだ。こんな意気地のないことで は、とても探偵なんかできるものではない。同じ逃げるにしても、そこがどこであるか、 もう一度来られるようにちゃんと見当をつけておくべきである。ところが、彼は無我夢中 で逃げ出して、|湯浴《ゆあ》みしていた女が殺された場所はどこだか、さっぱり分からなくなって しまったのだった。  土井はがっかりした。  けれども仕方がない。彼は明るいほうへと歩いていった。やがて、彼はちょっとした大 通りへ出た。大通りに沿っていくと、公園のすぐ外の広い通りに出た。  怪しかった空が崩れて、しとしとと雨が降ってきた。そのせいだか、人通りというもの は全然なかった。ただ、タクシーが制限外の速度でどんどん走っていくだけだった。真夜 中近い公園の外通りはかえって死に絶えた町を思わせるように、変に圧迫されるような静 かさに|淀《よど》んでいた。彼はコンクリートの舗道に当たる、コツコツという不快な音を気にし ながら歩いていった。  すると、不意に彼の前に一人の男がぱっと飛び出して、ひどくうろたえた様子でたちま ちどこかへ消えてしまった、∪あまり突然だったので土井にはよく分からなかったのだった が、ふと前を見ると自働電話の箱が立っていた。いまの怪しい男は確かに、この自働電話 の箱から飛び出したのに違いないのだった。入口の扉はまだ激しく揺れていた。  土井は自働電話の中を覗いてみた。  電話機の下の台には新聞包みが置いてあった。細長い包みだった。たぶん、いまの男が 慌てて置いていったのだろう。だが、いったいいまの男は何に驚いたのだろうか。  土井はふと思いついた。彼がコツコツと靴音を立てて近づいてきたので、時間が時間だ し、自働電話の箱の中にいた男は刑事と間違えて飛び出したのではなかろうか。もしそう だとすると、どうせいいことはしていなかったに違いない。  よくある自働電話の料金泥棒か、それとも何かほかの悪いことを|企《たくら》んでいたのか、土井 は調べてみる気になって箱の中へ入った。  すると、そのとたんに土井はびっくりして跳び上がった。というのは、不意に自働電話 のベルがけたたましく鳴ったからである。  自働電話のベルが鳴るということは、珍しいことである。それに折が折だし、しかも不 意だったので、土井が跳び上がったのも無理はなかった。土井は考える暇もなく受話器を 耳に当てた。と、交換手の声で、 「もしもし、鎌倉がお出になりましたから料金をお入れください」 恐ろしい忘れ物  鎌倉が出たって! それでは、あの怪しい男は自働電話で鎌倉を呼び出していたのか。 それなら 別に逃け出すことはないはずだが1土井はとう返事し、一-いいやら、当惑した 「もしもし、料金をお入れください」  交換手の催促に、土井は夢から覚まされたように慌てて言った。 「い、いくらですか」 「二十五銭です」  土井はポケットを探った。|墓口《がまぐち》から金を出して、電話機の箱についている穴に一つずつ 入れた。 「お話しください」  交換手がこう言って引っ込むと、|微《かす》かに遠くのほうから若い女の眠そうな声が伝わって きたが、やがてしだいにはっきりしてきた。 「もしもし、もしもし、どなたですか」 「ああ、もしもし、あなたは鎌倉のー」  土井は|問《つか》えてしまった。先方の女は甲高い声で、 「もしもし、どなたですか、こちらは鎌倉の野崎ですよ。もしもし、どこへお掛けになっ たんですか」  野崎! 鎌倉の野崎! ああ、あの怪しい男は何の用で、十二時近くに野崎家を呼び出 そうとしていたのだろう。 「もしもし」  土井は度胸を定めて言った。 「お嬢さんはいらっしゃいますか」 「はい、いらっしゃいますが、もうお|寝《やす》みになっています」 「ちょ、ちょっと、電話に出ていただけませんか」 「あなたはどなたですか」 「土井という者です。汽車で一緒に帰った者だと言ってください」 「どういうご用事でしょうか」 「急用なんです」  |騎虎《きこ》の勢いである。土井はこう言うより仕方がなかった。  女中らしい女は,引っ込んだ。土井はなんとなく落ち着かないので受話器を耳に当てて、 あたりをきょろきょろ見回しながら待っていた。  やがて、別の女の声が聞こえてきた。 「もしもし」 「ああ、もしもし、お嬢さんですか。ぼくは土井です。せんだっては汽車の中で失礼しま した」 「わたしこそ失礼しました、何かご用ですか」  確かに銀子の声である。土井は送話器に|醤《かじ》りつくようにしながら、 「もしもし、夜中に電話を掛けたりして相すみませんが、実は、わたしはふとしたことか らあなたが危険に迫られておられることを知ったのです。あなたは最近に、誘拐されるよ うな目にお遭いでしたでしょう」  土井はさっき、二人の悪漢の会話を盗み聴いたのを利用して、かまをかけてみたのだ《ヤち》|っ た。ところが、すぐその反応があった。 「はい、ありました」 「その悪漢がまたあなたを|狙《ねら》っているらしいのです。お気を付けください」 「まあ」  銀子の声は恐怖に|充《み》ちていた。 「いつ、どういう方法でやろうというのですか」 「それは遺憾ながら、いまだはっきりしていません。そういう計画があるらしいのを聞き 込みましたから、急いでお知らせするのです」 「どうもありがとう。わたし、気を付けますわ」  銀子は土井の忠告に感謝しているらしかったρ土井はすかさず|訊《き》いた。 「それから、お父さんからはお便りがありましたでしょうか」 「ええ、ありました。今日の昼、電報がまいりました」  銀子の答えは意外だった。 「え、え、電報がまいりましたって」  銀子の意外な返事に、土井は驚きながら、 「どこからですか」 「大阪からです。急に用ができて大阪へ来たから心配するな、という電報でしたが」 「大阪のどこからですか。発信局はどこです」  土井が慌てて訊いたときに、交換手が、 「もしもし、時間ですからI」 「|繋《つな》いでくれたまえ」 「料金をお願いします」  土井は慌てて墓口を見たが、あいにく細かい金がないのだった。 「きみ、きみ、細かいのがないんだが、困ったなあ、五十銭を入れる穴がないんだね」 「向こうでお切りになりましたから、お掛けになるんでしたら料金を用意して、もう一度 お呼びください」  交換手は事務的にこう言うと、そのまま引っ込んでしまった。  土井は仕方なく受話器をかけた、近所で両替のできる当てもないし、もう一度電話を掛 けなくても、これだけのきっかけを作っておけば明日にでも鎌倉に行って、直接銀子に会 って詳しい話を聞くことができるCしかし、銀子の父がいまごろ電報を打ってきたという のはおかしい。電報で知らせるくらいなら、もっと早くするべきだ。いまごろなら手紙で も楽に間に合うのである。電話というものもあるのだし、声や筆跡によらない電報にした というのは怪しむべきことだ。土井はこんなことを考えながら、自働電話の箱を出ようと したが、彼はふと、台の上にさっきから載っている細長い新聞包みに目が落ちた。 「何だろう」  彼は好奇心に駆られた。たぶん、先刻慌ててここを飛び出した男が忘れていったのだと は思うが、あるいはもっと以前からここに忘れられているのかもしれない。無雑作に古新 聞に包んで、解かれないように新聞の端を乱暴に|振《ね》じってあるところを見ると、そう大切 なものとは思われない。  土井はどうしようかとしばらく考えたが、とうとう開けてみることにした。  彼はそっと包みを取り上げた。割に重いもので、柔らかいような骨張ったような、得体 の知れないものである。土井はおずおずと包みを開けた。 「あっ!」  彼は手にしたものを|放《ほう》り出してしまった。そうして、くらくらとして窓に|掴《つか》まった。彼 はもう少しで卒倒するところだった。  新聞包みの中に入っていたのは人間の腕だった。切り口にはいまだ生々しい血が滴って いる腕だったのだ! 白ちゃけて光沢は失せているが、生きていたときにはふっくらした、 美しい肌を思わせるような女の右の腕だった。 「うむ」  土井は手の甲で、額の汗を|拭《ふ》いた。  外はいつの間にか、かなり激しく雨が降っていた。相変わらず、あたりはしーんとして いた。窓を通して見える限りには、立ち止まっている人はもとより歩いている人も見えな かった。  土井は放り出した腕を拾い上げて、急いで元通り新聞紙に包んだ。度重なる奇々怪々な 事件に彼は幾分|馴《な》れたとみえて、慌てて外へ飛び出す代わりにこれだけのことができるよ うになったのだった。  土井は女の腕を新聞紙に包み終わると、これを元通り台の上に置こうか、それとも持っ ていこうかとちょっと考えた。  土井が熟練した探偵だったら、恐ろしい忘れ物をそっと元のところに置いて、何食わな い顔をして外に出て、いずれこの忘れ物を取りに来るであろう人間を待って様子を|窺《うかが》うと いう知恵が出たかもしれない。しかし、素人の土井にはそこまで考えが出なかった。 .彼は抱えた新聞包みをもてあました。常識から言えば最寄りの警察に届けるのが筋道だ が、土井は最近に殺人の嫌疑をかけられたりしているので、警察へ行く気は全然しなかっ た。ことについいまし方、|湯浴《ゆあ》みしていた女の怪事件にも関係を持ったばかりなのだから、 なおさらだった。  土井はふと思いついて、どきっとした。 (この腕はもしかしたら、さっき浴場で殺された女から切り取ったものではないだろう か)  女の腕が、しかも切り口に血の|滲《にじ》んでいる生々しい腕がそんなに方々に転がっていよう とは思えない。恐らく、浴槽で殺された女の腕であろう。  土井はこう考えると一腕の新聞包みを元の所へ置くことを|止《や》めて、片手に掴んだまま自 働電話の外に出た。  外は激しい雨が降っていた。  彼はすぐ近所の軒下に飛び込んだ。しばらくすると空のタクシーが雨を|衝《つ》いて走ってき たので、彼は呼び止めた。 「|本郷《ほんごう》のお茶の水まで五十銭」  運転手はじろりと彼を見ながら、 「雨が降っているんです。六十銭ください」  土井はしぶしぶ|頷《うなず》いて、中に入った。  自動車は疾走しはじめた。  土井の頭には、|僅《きんきん》々数時間に経験した奇々怪々の出来事がそれからそれへと渦を巻いて いた。奇怪な車夫の勧誘、湯浴みする裸婦、浴槽の殺人、悪漢の奇怪な会話、自働電話の 怪漢、鎌倉への電話、恐ろしい忘れ物  との一つを取っても、普通の人が一生に一度経 験するかどうか分からないほどの、|物凄《ものすこ》い奇々怪々なことである。そんな恐ろしい出来事 を、二、三時間のうちに連続的に経験したのだ。土井はまるで悪夢を見つづけているよう な気持ちだった。  しかし、夢ではなかった。彼の|膝《ひざ》には新聞包みが置かれている。その包みの中には、,血 の滲んだ女の片腕があるのだ。それは、厳然たる事実である。  土井はふと、窓外を見た。自動車は電車道を上野に向かって走っているらしかった。気 がつくと、十間ばかり離れて一台の自動車がくっついて走ってくる。それがどうも、土井 の自動車を尾行しているようだった。 「おい、きみ」  土井は運転手に呼びかけた。 「ちょっと用ができたから、上野の駅で降ろしてくれたまえ」 「承知しました。電車のほうですね」 「うん、そうだ」  自動車はやがて、上野駅の前に|停《と》まった。土井は握っていた五十銭を、運転手に渡しな がら、 「これでいいだろう。いま細かいのがないんだ。急くからl」  土井は切符売場に駆けつけた。 「お茶の水、一枚」  そう言いながら目を配っていると、すぐ後から目つきのよくない一人の男がきょろきょ ろしながらやって来た。  土井はプラットホームに出た。上野駅といっても夜中の一時近いので、客はあまりなか った。カフェーの女給らしいのが二、三入固まって、ぼんやり電車を待っていた。  土井は気が気ではなかった。いまにもきっと、あの目つきの凄い男がプラットホームに 上がってくるだろう。早く電車が来ればいいと願ったが、一時近くになると電車も三十分 以上の間隔がある。なかなかやって来ないのだ。  土井はふと思いついて、急いで公園のほうの出口に行った。改札口には駅員が一人、眠 そうな顔をして腰を掛けていた。  土井は係員が|胡散臭《うさんくさ》そうに彼の顔と受け取った切符とを見比べている間に、さっさと改 札口を通り抜けた。  雨は相変わらず激しく降っている。公園は薄暗い。むろん、人通りなどはない。土井は 新聞包みを抱えながらいっさんに駆けだした。ようやく博物館通りに出ると、運よく一台 の空自動車が走ってきた。値などを決めている|暇《いとま》はない。彼はこれを呼び止めるや否や飛 び乗った。  もう尾行されている心配はなかった、彼はほっと息をついた。  運転手は車を走らせながら訊いた。 「どちちですか」 「お茶の水だ。六十銭ならいいだろう」 「ええ」  運転手は不承不承頷いた。  やがて、自動車は忠弥坂アパートメントの前に来かかった。 「そこだ、停めてくれ」  土井は運転手に金を払って、アパートメントの中へ入った。  彼がアパートメントの中に消えると、物陰から、鳥打帽子を目深に|被《かぷ》って|外套《かいとう》の襟を立 てた男がひょっこり現れた。 (うむ。|奴《やつ》が上野駅で乗り捨てた自動車の運転手に訊いたら、初めはお茶の水だと言った というので、たぶんこのアパートメントヘ帰るのじゃないかと思って先回りをしたのだが、 はたしてここへ帰ってきたわい。だが、奴はなんだか見覚えがあるぞ) .しきりに首を|捻《ひね》って口の中で|眩《つぷや》いた男はなんと、水松警部だった。  土井はむろんそんなことは知らないで、部屋の中に入ってドアに|鍵《かぎ》を下ろした。  彼は|濡《ぬ》れた|上衣《うわぎ》だけを脱いで、そこにあった|椅子《いす》にどっかと腰を下ろした。  やがて、彼はおそるおそる新聞包みを開いた。  青白くかさかさとした皮膚、血の滲んだ切り口、半ば開いた五本の指。切り取られた片 腕なんて、いつ見ても気味のいいものではない。  土井はさっきは夢中だったので少しも気がつかなかったが、この時に初めてこの女の指 に指輪が|嵌《は》まっているのを発見した。本物か|贋《まが》い物か土井には分からなかったが、指輪の 石は|眩《まばゆ》いように光っていた。  土井はすぐに、こんな物を持って帰ってきたことを後悔した。大変なことをしたと思っ た。いまさら元の自働電話へ返しに行くわけにはいかないし、といって警察へ届けること もできない。じっとこうして、ここに置いておくことは、不気味でもあるし不安でもある。  土井は途方に暮れてしまった。  彼は腕を元通り新聞に包んで、隅の本箱の上に載せた。そうして、洋服を脱いで寝間着 に着替えると、ベッドに潜り込んだ。しかし、目が|冴《さ》えてなかなか眠れない。見まいとす ればするほど、目が本箱のほうに向く。いまにも新聞紙から女の片腕が抜け出して、宙を 飛んで彼の|傍《そば》にやって来そうだ。           つぷ                                     ろうにん  彼は一生懸命に目を瞑った。すると、浴槽に浸ってがっくりと頭を下げた、青白い蝋人 |形《ぎよう》のような|身体《からだ》が浮かんで見える。はっと目を開くと、腕の包みが本箱の上でおいでおい でをしているのだ!  翌朝、土井が目を覚ましたときにはもう日が高く昇っていた。彼は|暁方《あけがた》までいろいろの 妄想に悩まされて、どうしても眠ることができなかった。部屋の中が薄明るくなってから とろとろとしたのだが、目が覚めたらもう|正午《ひる》近かった。しかし、それでも彼の頭はがん がん痛くて、自は寝不足で|腫《は》れ上がっていた。 、彼の視線はすぐに本箱の上に行った。そこには昨夜の出来事が夢でなかった証拠に、細 長い新聞包みがちゃんと載っていた。  顔をそこそこに洗って階下の休憩室に降りた彼は、そこにあった新聞を|貧《むさぽ》るように読ん だc  どの新聞にも、一行心浅草の殺人事件は出ていなかった。浴槽の怪死体なんて|煽情的《せんじようてき》な 見出しは全然、発見することができなかった。その代わりに小さいルビなしの活字で、隅 のほうに次のような記事が出ていた、   女の|礫屍体《れきしたい》、昨夜十一時五十分ごろ、新潟発上野行の七〇八列車が|鶯谷近《ろぐいすだに》くの御院殿  踏切に来かかると、年齢二十二、三の令嬢風の女を礫殺した。覚悟の自殺らしく思われ  るが、書置き等は持っていなかった。身元不明なので区吏員が引き取ったc不思議なこ  とには、礫屍体の右椀がどうしても現場付近に発見されないことで、たぶん車輪に挟ま  って持っていかれたのではないかといわれているっ  新聞社のほうでもほとんど問題にしていないし、一般の読者も、またか、あそこの踏切 ではよく人が|礫《ひ》かれるな、、くらいに感じたか感じないほどの、埋め草的な記事だった。し かし、女の右腕が現場にないということは、、土井にとっては非常に興味を|惹《ひ》くことだった のである。 「礫屍体の片腕か。ことによると、現場付近を通った者がふと腕が落ちているのを見つけ て、ダイヤモンドらしい指輪の嵌まっているのに目が|眩《くら》んで拾ったものではないだろう か」  土井はこう考えたが、しかしそうすると、自働電話の箱の中にいた男が鎌倉の野崎を呼 び出していたのが不思議である。もっとも、新聞包みはあの男が忘れていったものと決め ることはできないが、あの慌てて飛び出した様子を見ると、決して正しいことをしていた のではない。やはり、新聞包みは彼が忘れていったものと思われるのだ。  土井はなおこのほかに参考になるような記事はないかと、目を皿のようにして新聞の隅 から隅まで読んだ。しかし、このほかには彼の目を惹くような記事は少しもなかった。  ほっとした彼は食堂に行った。  勤め人の多いアパートメントであるから、正午の食堂は寂しかった。  土井はそこそこにして食堂を出たが、もし彼が、食堂の隅に陣取って彼のほうをじろじ ろと眺めている男に気がついたら、あっと言って驚いたことであろう。  土井は度胸を定めて、新聞包みはそのまま部屋に置いた。そうして、外出の仕度を始め た。彼は鎌倉へ行って銀子を訪問するつもりだった。彼はズボンの折目まできちんとして、 ネクタイを一度結び変えた。  彼はお茶の水駅から鎌倉までの二等の切符を買った。  東京駅で|横須賀行《よこすかゆき》の電車に乗り換えると、電車はまもなく発車した。  |品川《しながわ》から|横浜《よこはま》まで、中間駅に停車しない疾走はいつもながら快い疾走だった。  鎌倉駅に着いたのは、午後二時過ぎだった。土井は駅前からタクシーに乗って、|扇《おうぎが》ケ|谷 の野崎氏邸に向かった。  昨夜の雨の名残で朝からどんより曇っていた空は、ようやく雲の切れ目ができて薄日が 洩《やつも》れはじめた。しっとりと濡れた青葉が、ひっそりした別荘街を埋めるように茂っていた。 |瀟酒《しようしや》な家が建ち並んでいたが、東京の雑踏に比べるとやはりなんとなく田舎めいたところ があって、こんな所に悠然と住まっていられる人々が|羨《うらや》ましく思われたりした。  野崎氏邸の前に立って土井がちょっと異様に感じたのは、ひどく頑丈そうな灰色の壁が、 別荘というよりはむしろ兵営か|牢獄《ろ コヰ く》を思わせるように|邸《やしき》の周囲を取り巻いていることだっ た。コンクリート造りの家も新しい建築でありながら、中世紀の古城のようにいかめしく 陰気臭かった。  案内を|乞《  》うと、小間使い風の小娘が出てきて土井の顔を探るように見上げた。  土井は顔を少し赤らめながら言った。 「お嬢さんはいらっしゃいますか」 「はい、あの」  小間使いは|曖昧《あいまい》に返事をした。 「どなたさまでいらっしゃいますか」 「ぼくは昨夜電話を掛けた者ですが、お嬢さんにお目にかかってちょっとお話ししたいこ とがありますので」  そう言いながら、土井は名刺を出した。小間使いは名刺を持って奥に入ったが、やがて 引き返してきた。 「どうぞ、お上がりくださいまし」  土井はほっとした。むろん通されることとは思っていたが、いよいよ銀子と二人きりで 対座することができるのだと思うと、胸が怪しく|頭《ふる》えるのだった。  通されたのは広々とした応接室だった。椅子・テーブルはもとより窓掛け・|絨毯《じゆうたん》に至る まで、いかにも成金らしい金目のかかったけばけばしいもので飾られていた。それにもか かわらず部屋の中は変に陰気だった。気がつくと、部屋の大きさの割には窓が少なく、ど の窓にも厳重な鉄格子がついていた。  土井がなんとなく落ち着かないで、すっぽり身体まで入ってしまう大きな椅子でもじも じしていると、やがて銀子が現れた。彼女はどことなく沈んでいた。しかし、彼女の明る い美しさは、部屋の中の重苦しい陰気な空気を打ち破るのに充分だった。 「昨夜はどうも遅く、電話で失礼しました」  土井がとりあえず|挨拶《あいさつ》すると、銀子はにっと笑って、 「いいえ、わたしはこのごろいつも遅くまで起きておりますから。ご親切にありがとうご ざいました」 「ちょっと、その、聞き込んだことがありましたので。それから、実はl」  土井はちょっと|躊躇《ちゆうちよ》しながら、 「わたしは会社の命令で、野崎さんの事件を探偵することになりましたのです」 「あなたの会社で、父のことをお調べになるんですって」  銀子はびっくりして大きく目を見開いたが、やがて逆に|眉《まゆ》をひそめて、不審そうに土井 を眺めた。  土井は銀子に変に疑われては大変だと、慌てて弁解した。 「そ、それは会社が、新潟の中沢さんに関係がありますので、中沢さんを訪ねていかれた 野崎さんが生死不明であるということは、会社でも捨ててはおけないことなのです。幸か 不幸かわたしが事件に関係しましたので、野崎さんの生死をわたしに調べる.一とを命じた ようなわけです。もっとも、これはほかの社員には絶対に秘密なんです」  土井の必死の弁解に、銀子はやや打ち解けたが、 「でも、会社で父のことを探偵させるなんて変ですわね」 「探偵と言っちゃ変ですが、-ほかに適当な言葉がないので、つまり中沢さんの関係から、 野崎さんが生きておられるかどうかということが知りたいというだけなんですよ」 「それでしたら、もうご心配に及びませんわ。父は確かに生きておりますわ」 「そのことで、今日お伺いしたんですけれども」  土井は半身を乗り出して、熱心に銀子を見詰めながら、 「お父さんが生きていらっしゃることは、確かでしょうか」. 「確かですわ」  銀子はややつんとしながら、 「あなた方は妙にお疑いになりますけれども、あの屍体は確かに父ではありませんから、 その点から言っても父は生きているはずです。それに、昨夜も申し上げたように父から電 報がまいりましたから、もはや疑う余地がございません」 「どういう電報でしたでしょうか」 「都合で大阪に来た、二、三日うちに帰る、という電報です」 「ところでですね、お腹立ちでは困りますが」  土井は銀子の機嫌を損じないように、びくびくしながら、 「お父さんが新潟へ行く汽車の途中で行方不明になられてから、すでに二、三日を経過し ているのですから、電報でお知らせになるとしては少し時期が遅いように思うのですが。 電報でお知らせになるくらいなら、遅くも事件のあった翌日くらいになりそうなもので す」 「でも、父は何か用があったのかもしれませんわ。知らせようと思いながら、つい延び延 びとなっていたのでしょう」 「しかしですね、大阪の新聞にだって軽井沢の事件のことは出たろうと思います。それな ら、なおさら一刻も早くこちらへ安否をお知らせになりそうなものです」 「父は新聞に気がつかなかったのかもしれません」 「しかし、野崎さんはまさか大阪でだれにも会わずに隠れておられたわけではないでしょ うから、会われた人たちのだれかが新聞のことを話さないということはないでしょう」 「それもそうですね」  銀子は確信がややぐらつきはじめたらしく、少し不安そうに答えたこ 「とにかく、手紙なら格別、いまごろ電報で知らせてくるのは少し変だと思うのです。電 報には、お泊まりになっている所が知らせてありましたでしょうか」 「いいえ、宿は書いてございません」 「いつもお泊まりになります所がありましょうか」 「ええ、いつも|今橋《いまばし》とかの|摂津《せつつ》ホテルに泊まるんですけれども」 「電報はどの局から打ってありましたか」 「たしか、中央局だと思いました」 「わたしは大阪の地理はよく知りませんけれども、今橋にお出でになるのでしたら中央局 から電報を打たれることはないと思います。もっとも何かのついでに中央局に行かれたと すると、なんとも言えませんけれどもL 「では、父の電報は偽でしょうか」  父が生きていることをほとんど疑っていない銀子も、土井からこういう風に言われると だんだん不安が高じてくるのを防ぐことができないのだった。 「さあ、いちがいにそうは言い切れませんけれども、とにかく少し変ですよ」 「では、あなたは父はどこにどうしているとおっしゃるのですか」  父の安否について銀子が|急《せ》き込んで訊くのを、土井は軽く受け流しながら、 「さあ、その点はいっこう分かりません。しかし、あるいは電報どおり大阪にいられるか もしれません。とにかく、一応大阪へ行って尋ねてみようと思うのですが」  土井の言葉に、銀子は思わず膝を乗り出した。 「あなた行ってくださいますか」 「ええ、行こうと思っています。わたしは先刻申し上げたように、会社からの命令で野崎 さんの安否を探らなければならないのですから」 「会社のほうもそうでしょうけれども、わたしからもお願いいたしますわ。ぜひ大阪にい らっして、父のいる所をお尋ねくださいませんか。わたしは父は生きているものと信じて いますし、電報も来たのですからすっかり安心していましたけれども、あなたのお話でた いへん心配になってきました。あなたがお出でくだされば、こんな心強いことはありませ んわL 「わたしが行ったところで、ただ大阪におられるというだけで雲を掴むような話なのです から、はたして捜し出せるかどうか分かりませんけれども、そうした電報が来るだけの何 か|理由《わけ》があるのでしょうから、何か得るところがあるかもしれません。とにかく、一応行 ってみることにいたしましょう」 「ぜひそうしてください。わたしはいまのところ、ほかにそうしたことをお願いする人が ありませんのですから。失礼ですけれども、費用はわたしのほうで出させていただきます わ」 「費用は会社のほうから出ますからご心配には及びません、ですが、だれかお店の方で頼 りになる人はいないのですか」 「ええ、一人いたのですが。わたしは父の事業には少しも関係しませんので、支配人の成 田という男のほかにはだれも知らないのです。ところが、成田は  」  銀子は声を落としながら、 「行方不明になってしまいました。たぶん死んだと思いますが」 「えっ、死んだ? 自殺でもしたのですか」  土井は直覚的に、支配人の死が普通の死に方でないと思ったのだった。 「いいえ、自殺ではありません。殺されたのです」 「えっ、殺されたんですって。そ、それは、いつごろの話ですか」 「二、三日前のことですわ」  銀子は土井に、東洋ホテルの事件を詳しく話して聞かせた。  聞き終わった土井の顔は、すっかり青くなっていた。 「そ、それは大変なことがあったのですなあ。しかし、そんな目に遭いながら、こんな寂 しい所で平気でいられるのは偉いですなあ」 「平気なわけじゃありませんわ。しかし、ここは締まりが実に厳重ですからかえって安心 していられると思っているんです。でも、昨夜の電話のようなことがありますと、気味が 悪くてたまりませんわ」 「しかし、そういうことがあったとすると、よほど気をお付けにならなくてはいけません ね、昨夜わたしの聞き込んだところでは、確かにいまだ悪漢たちは|諦《あきら》めてはいません、ど んな手段でやって来るか分かりませんよ」 「まあ、わたし、どうしたらいいでしょう」 「やはり警察に話して、保護を求めるのがいいでしょう。それから、絶対にご油断なすっ てはいけませんね。夜の外出はもとより、昼間もなるべくお出掛けにならないように。そ れから、初めての人間にはまずお会いにならないほうがいいでしょう」  土井は彼自身が銀子に|馴染《なじ》みの浅い人間であることを忘れて、熱心に忠告するのだった。 「ええ、あなたのおっしゃるとおりにいたしましょう」  銀子は土井に、心から頼るように言った。 「ですが、父はまあいったいどうしたというのでしょう。わたしにこんなに心配をかけな いで、早く帰ってきてくれればいいと思いますわ」 「むろん、お父さんだって一時も早く帰っていらっしゃりたいのでしょう。しかし、いま だに帰ってこられないのは、何か込み入った事情があるに相違ありません、成否はとにか く、すぐに大阪に行ってみることにしましょう」  土井はいろいろと銀子を慰めて、野崎邸を出た。  彼の胸は美しい銀子の信頼を得た喜びでときめいていた。付近にタクシーがないので、 彼は人通り|稀《まれ》な別荘町の奇麗に掃き清められた道を歩いていったが、その足取りはいつに なく生き生きとしていたのだった⊂  土井の姿が見えなくなると、門の陰から一人の男がのっそりと姿を現した。それは昨夜 来、土井の跡を|尾《つ》けていた水松警部だった。警部は列車内の怪殺人事件の探偵のために上 京したのだったが、昨夜計らずも野崎氏令嬢を誘拐しようとした犯人の一人らしい者を見 つけたので、その男を追跡していると、その男がまた第二の男の尾行を始めた。第二の男 は上野駅でタクシーから降りたので、警部はタクシーの運転手に訊くと、初めはお茶の水 まで行く約束だったというので、先回りしてお茶の水の駅で待っていると、はたして第二 の男が駅から出てきたが、驚いたことには、それは警部のよく知っている列車殺人事件の 嫌疑者だった。警部はそれ以来、土井を尾行していたのである。  土井が鎌倉駅で降りたときには、水松警部はだいたいその目的地を察していたのだった。 彼は警部の考えたとおり野崎邸を訪ねて、一時間余り邸内にいたのだった。 (土井は野崎氏の令嬢を以前から知っていたのかしら)  水松警部は首を傾けながら、口の中で眩いた。 「いったい、どういう用件で令嬢を訪ねたのかな」  警部はいったん門の中に足を入れたが、また思い返したらしく、土井の後を追って駅の ほうに向かった。  土井はむろん、水松警部に追跡されていることなどには気がつかなかった。彼は駅に着 くと、折よく来合わせた電車に乗った。新橋駅に降りたときには、もう五時だった。  彼はいよいよ大阪に行くつもりで、銀座で旅行用の買物をするつもりだった。駅を出る と、彼はふと思いついて四、五種類の夕刊を買った。彼は夕刊を抱えて、駅前の喫茶店に 入った。  いい加減の注文をしておいて、彼は買い入れた夕刊を広げて熱心に読み入ったが、彼の 予期に反して、浅草の浴室内の殺人については全然記事が出ていなかった。女の礫屍体に ついても、もはや一行の記事もないのだった。  彼はほっと安心したような、それでいてなんとなく物足りないような気持ちだった。礫 屍体のほうはとにかく、浴室の怪奇な犯罪について新聞紙になんの報道も出ていないとい うことは不審でならないことである。 (屍体はいまだ発見されないで、そのままになっているのだろうか。あれだけの家に彼女 がただ一人で住んでいるとは思えないし、近所だって建て込んでいるのだから、発見され ないということは考えられない。そうすると、あるいはあの二人の悪漢が屍体をどこかに 持っていったのかもしれない。とすると、あるいは礫屍体の女がそれじゃないか)  こう眩いたときに、土井はふと広げられていた新聞の上に目を落としてぎょっとした。  土井が偶然目を落としたのは、新聞の広告欄だった。そこにはこんなことが書かれてい た。   昨夜A区の公衆電話内の忘れ物、ご保管の方は下記へ至急お届け相成りたし。                          丸の内昭和ビル三階|狩田《かりた》  この短い広告文は明らかに、土井が持ち帰った新聞包みのことを意味しているのだ。A 区といえば浅草のほかに赤坂区もあるけれども、昨夜偶然に、赤坂区内の公衆電話内に忘 れ物をした人があろうとは思われない。しかし、物もあろうに女の片腕を公衆電話の中に 忘れて、それを堂々と名まで出して新聞に広告するとはなんという大胆不敵な人間だろう。  土井はこの広告に対して、どうしようかとしばらく考えた。 (とにかく電話で一応様子を探ってみよう。電話なら、こっちは顔を知られずに済むから なんとでも言えるし、様子を探るには絶好な手段だソ  土井は電話帳を調べて、昭和ビルを呼び出した。 「もしもし、三階に狩田という方がいますか」  はたしてそんな人間がいるかどうかと危ぶんでいたのだったが、交換手の返事は意外に すらすらしていた。 「はい、いらっしゃいます」 「繋いでくださいませんか」 「はい、承知しました。どなたですか」 「ほくは|土《ど》1えへん、酒井というものです」  土井は友人の名を使った。 「新聞の広告を見て電話を掛けたのだと言ってください」  交換手は黙って引っ込んだが、やがてガチャガチャという雑音と一緒に、妙に|嗅《しわが》れたよ うな声が響いてきた。 「もしもし、ぼくは狩田です。ご用はなんですか」 「新聞の広告で見たんですがi」  土井の声はわれながら怪しく頭えていた。 「あなたは昨夕、公衆電話の中に忘れ物をしたそうですね」 「ええ、そのとおりです」 「広告にはA区とありましたが、あれは浅草でしょうね」 「ええそうです」 「お忘れになった物はどんな物ですか」 「新聞紙に包んだ長細い物です」 「中は何ですか」 「それは言えませんが、あなたはあれを持っていった人ですね」  土井がどっちかというと|昂奮《こうふん》しているのに反して、先方の声は悠然と落ち着いていたの で、土井は底気味が悪く、このまま電話を切ってしまいたいような気持ちだった。 「えっ、そ、そうなんですが、あなたはあの中の物を知っているんでしょうね」 「むろんぼくの忘れた物ですから、よく知っています」 「いったい、あ、あれはどうしたというのですか。どこから、どうして持ってきたのです か」 「余計なことをお聞きにならないほうがよろしい」  嗅れた声は|叱《しか》りつけるように言った。 「とにかく、あれはぼくにとって必要なものですから、至急返してもらいたいのです、す ぐここへ届けてください。相当のお礼をしますから」 「ぼくはお礼なんか欲しくありません。あれがどういうもので、どうしてあなたの手に入 ったかという説明を聞かないうちは、届けることができません」 「ぼくが説明できないと言ったら、どうするつもりですか」 「あなたに届ける代わりに、警察に届けます」 「なにっ」     、             .  警察へ届けるという土井の言葉に相手はかっとなったらしかったが、すぐに落ち着き払 った声になった。 「よろしい。警察へ届けるなら届けたまえ。その代わり、きみの|生命《いのち》はないものと思いた まえ」  彼の落ち着き払った言葉のうちには、言い表すことのできない凄みがあった。所を隔て ての電話の対談であるけれども、土井は電気に打たれたように異常な恐怖を感じた。しか し、彼は弱みを見せまいとして言った。 「ふふん、ぼくの生命がないって。きみはぼくをどうしようと思っても、ぼくがどんな人 間で、どこに住んでいるか分からないじゃないか」 「どこに住んでいるか分からないが、顔つきや姿はだいたい知っている。住まっている所 も、本郷ということだけは分かっているL 「えっ」.  土井は跳び上がるように驚いた。 「ど、どケして"そんなことを」 「はははは、きみも案外小胆な男だな。そんな小胆な男のくせに、よくあの紙包みを持? て帰ったね。なにも驚くことはないよ。きみはあの公衆電話の付近にはだれもいなかった と思っているのかい。公衆電話の中は明るいし、外は暗いうえに雨が降っていたから、中 からはよく見えなかったろうが、少なくとも二人の人間が監視していたんだぞ。一人はこ ういうぼくで、一人は私服の警官だ」 「・えっ、敬恵目ー」 「そうさ、警官が見張っていたればこそきみは無事で済んだのだ。とにかく、きみはあの 紙包みをここへ持ヶてきてくれたまえ。それとも嫌だと言うか」 「きみがあの紙包みの内容について詳しい説明をしない限り、届けることは嫌だ」 「いまだそんなことを言うのかね。よろしい、ではもう少しきみを驚かすことを言ってや ろう。ぼくはきみとこうやって話しているうちに、別の電話できみが現在掛けている電話 の番号を調べさせた。きみはいま、新橋駅の前の、ある喫茶店にいる。ぼくはすぐぼくの 部下に電話をして、そこへ行くことを命じた。おおかたもう着く時分だ。もし、鳥打帽子 を被った人相の悪い男が店の中に入ってくるか、店の前でぶらぶらしていたら気を付けた まえ」 「えっ、-き、きみは、ぼ、ぼくをどうしようと言うのか」 「別にどうもしないさ。大人しく紙包みを渡せばそれでいいのだ。おかしな|真似《まね》をすると ただでは済まさないぞ、と言うだけだよ」 「よ、よろしい。ぼくは、す、すぐ紙包みを届ける。一度家に帰らなければならないから、 一時間ばかり待ってくれたまえ」 「承知した。一時間待とう-一時間以内に必ず届けるんだぞ。もし約束を破ると、後悔し なければならないぞ」  受話器を置いた土井はほっとする暇もなく、大急ぎで支払いをして、喫茶店を飛び出し た。店の前にはさいわいにいまだ怪しい男もいなかったので、彼は追跡されるのを逃れる つもりで、横町から横町へと縦横無尽に歩き回った。  やがて、彼は銀座裏の小さい酒場に入った。帳場の鏡に映った彼の顔は、彼自身愛想の 尽きるほど真っ青だった。 「ウイスキーをくれ」  彼はとりあえず、ウイスキーをぐっと|岬《あお》った。  さて、,彼はどうしたらいいだろうか。うっかり怪漢の所へ紙包みを返しにいって無事に 済むだろうか。といって返しに行かなければ、まったくどんなことでもしかねないのであ る。土井は泣きだしたいような気持ちだった。・  怪漢の脅迫に頭えた土井も、ウイスキーを重ねているうちにだんだん元気を取り戻して きたc (面と向かってならとにかく、高が電話で脅迫されたくらいでなにもそう恐れることはな いじゃないか)  土井はこんな風に考えたのだった。怪漢は顔も見知っているようなことを言ったけれど も、それもたぶん|威《おど》かしの言葉だろうし、こうして逃げてしまえば、自分のいる所だって 名前だって分かる気遣いはないのだ。電話で威かされて頸えているなんて、愚の骨頂では ないか。  土井はウイスキーの力で勇気を取り戻したけれども、さて、例の新聞包みの処置になる とはたと当惑するのだった。むろん、あんな物をいつまで持っているわけにはいかないし、 といっていまさら警察へ届けることもできないし。狩田という男におめおめ返すのも|癩《しやく》だ し、だいいち返しに行くことそれ自体が不安でもある。アルコール漬けにしてどこか絶対 安全な所に保管しておくことができたら、差し当たり狩田という怪漢の弱点を握ることが できて、ある点まで彼を自由に扱うことが可能になるだろうし、のちの証拠にもなる。 (なんとか、そういう方法はないだろうか)  土井は一生懸命に首を捻ったが、格別いい知恵も出ないのだった。  考え疲れて土井はふと顔を上げると、ちょうどバーの入口から鳥打帽を被った二人の人 相の悪い男が悠然と入ってくるのが目についた。  土井はウイスキーの酔いが一度に|醒《さ》めるほど驚いた。|発条《ばね》仕掛けのように跳び上がると、 彼は慌てて勘定を済ませてバーを飛び出した。  彼は半ば夢中でそこいらを歩き回ったが、ようやく尾行者のないのを確かめるとタクシ ーに乗ってお茶の水のアパートメントに帰った。  アパートメントに帰って彼の部屋の前に立つとハ土井は直覚的に異常な不安を感じた。 留守中に、部屋の中で何事か起こったような感じがしたのだった。彼は頸える手先で鍵穴 に鍵を当てた。  思い切ってドアを開けた。しかし、中は何の異常もなかった。すべてが、彼が昼間ここ を出たときそのままの状態だった。  彼はほっと|安堵《あんど》の息をついて、すぐに本箱の上に目を向けた。 「あっ!」  彼は軽く叫んで、唇を|噛《か》み締めた。  新聞包みがなくなっていた! 確かに本箱の上に置いてあったはずの新聞包みがなくな っていたのだった!  しばらく|荘然《ぽうぜん》としていた土井は気を取り直して、もしや他の所へでも置き忘れたのでは ないかと、部屋の中を探し回った。しかし、新聞包みはどこからも出てこなかった。完全 になくなっているのだった。何者かが、土井の留守のうちに盗み出していったのだ!  だれが、いつ、どうして盗み出していったのだろうか。合鍵さえ持っていれば、土井の 部屋に忍び込むということはたいしてむずかしいことではない。しかし、ほかに紛失した 物がないところを見ると、忍び込んだ者は確かに新聞包みを狙ってきたのである。  女の片腕を包んだ新聞包みが土井の部屋にあるということを、だれが知っているだろう か。つい先刻、電話で脅迫の言葉を吐いた怪漢だってそこまでは知らないはずである。で は、あの怪漢以外の何者かが、新聞包みが土井の部屋にあることを知って盗み出していっ たのだ。土井の周囲には、目に見えない敵が渦を巻いているのだ!  公衆電話の中に忘れてあった奇怪な品物を、深い考えもなしに持って帰ったばかりに、 土井は恐ろしい敵を持つようになってしまったのだった。  しかし、いまさら後悔しても仕方のないことである。土井は女の片腕の新聞包みを盗み 出した者が少しでも手掛かりを残しておかなかったかと、改めて部屋じゅうを探し回った。  が、格別手掛かりになるような物はなかった。彼は落胆して、ふたたび元の本箱に目を やった。すると、本箱の中にずらりと並んだ本の中で一冊だけ、一寸ぱかり前にずり出し ているのに気がついた。土井はふとその本を抜き出してみる気になった。  本は『|謎《なぞ》の女』という探偵小説だった。ぱらぱらとぺージを繰ってみると、すぐ一枚の 紙が挟まっていることが発見された。  土井はその紙片に目を落とすと、ぎょっとした。   新聞包みは|貰《もら》っていく。きみは野崎事件から手を引け。いつまでも下らない好奇心を  持っていると|為《ため》にならないぞ一  紙片にはわざと筆跡を隠したような四角い文字で、こんなことが書かれていたのだった。 土井は冷水を浴びせられたように全身の毛を逆立てて、ぶるぶると頸えた。  土井が頸えたのは、恐怖のためばかりではなかっ九。あまりに事柄が意外だったせいも あった。女の片腕を盗んでいった男は土井に、野崎の事件に手を出すな、と威かしの文字 を残していった。すると、この怪漢は確かに野崎氏の事件に関係があるのだ。したがって、 血の湊んだ女の片腕は野崎氏の事件に関係があるということになる。土井はしらずしらず のうちに、野崎氏の怪死を中心とした事件の深みへしだいしだいに引き|摺《ず》り込まれていく のだ!  しかし、土井が野崎氏の事件に関係するのは好奇心のためばかりではない。会社の命令 なのだ。こんな一片の威かし文句で|止《や》めてしまうわけにはいかない。  土井は必死になって、勇気を奮い起こした。 「なにくそっ! おれも男だーヒれくらいの威かしで、へこたれゐものかっ」  土井はこう口に出して叫んで、勢いよく見えない相手に|拳固《げんこ》を振り回した。  ところで、差し当たり困ったことは昭和ビルで待っている怪漢への返答だった。彼の所 へは、一時間以内に新聞包みを届けると言ってあるのだ。このほうをなんとか始末しなけ ればならない。  土井はしばらく考えた。しかし、結局電話でありのままを報告するよりほかはないのだ。  アパートから掛けては後難が恐ろしいと思ったので、土井はふたたびアパートを出て、, 本郷の通りに出て、そこの公衆電話に入った。  公衆電話の中に入ると、彼は先晩のことを思い出してぞっとしたが、慌てて妄想を打ち 消して昭和ビルを呼び出した。  怪漢狩田は約束どおり待っていたとみえて、すぐ電話口に出た。 「き、きみは狩田くんですか」  土井は言った。 「ぼくは先刻、新聞包みをお届けすると約束した者ですが、宅へ帰ってみると新聞包みが 紛失していました」 「えっ」  さっきは落ち着き払っていた怪漢だったが、土井の言葉にはよほど驚いたようだった。 「そ、それは、本当かっ!」 「本当ですとも、ぼくの留守の間に盗みに入って、ちゃんと置手紙をしていきましたよ」  妙なもので、先方が|狼狽《ろうばい》すると土井はかえって落ち着いてきたのだった。      黒眼鏡の女 「ううむ」  女の片腕を包んだ新聞包みが何者かに盗み出されたと聞いた怪漢は、|物凄《ものすご》く|捻《うな》りだし た⊂ 「い、いったい、きみの|住居《すまい》はどこか。し、締まりはどういう風になっているのか。留守 番はいないのか」  狩田と名乗る怪漢がひどく|狼狽《ろうばい》しながら矢継ぎ早に問いかけるのと反対に、土井ますま す落ち着いて、 「ふふん、きみは先刻、ぼくの家を知っていると言ったじゃないか」 「ううむ、だいたいの見当はついているのだ。しかし、正確なところはまだ知らない。は、 早く、教えろ。ぼくは一刻も早く、盗まれた品物を取り返さなければならないのだ」 「きみはそうかもしれないが、ぼくにとっては厄介千万な品物で、盗まれてかえって重荷 が降りたというものだ」  先刻はさんざん|威《おど》かされて一縮みに縮み上がった土井だったが、川向こうよりもなお安 全な電話の|喧嘩《けんか》だし、相手が土井の住居を正確に知らないと聞いて、威かされた恨みを晴 らすのはいまだとばかり、彼は急に強くなって|嘲笑《あざわら》うのだった。 「な、なんだと」  先方の声はますます焦ってきた。 「早く家を教えないと、後悔するぞっ」 「へん、ぼくは何も後悔することはないや。盗まれた品物がそんなに大事なら、勝手に探 すがいい。・ぼくはいま忙しいから、きさまなんかに掛かり合っちゃいられないや」  土井は憎々しく言い放つと、ガチャリと受話器を置いた。 「ざまあ見やがれ!」  と胸がすっとすいた半面に、土井にはまた新たな恐怖が襲いかかってきた。正体の知れ ない恐ろしい敵に、彼は少し言い過ぎはしなかったか。いつか、この|仇《かたき》を打たれはしまい か。 「なーに、構うものか」  土井は声を出して|眩《つぷや》きながら、不安な心を一生懸命に静めて公衆電話のドアをぐいと開 けた。  と、彼はぎょっとし力。思いがけなく、外に一人の女が立っているのだった。彼女はお おかた、電話の空くのを待っていたのだろう。すんなりとした、どっちかというと小柄だ が、口もとの引き締まった|聡明《そうめい》そうな令嬢風の女だった。顔に比較してやや大きな黒眼鏡 をかけていためが、美しかるべき彼女になんとなくグー.テコクな感じを付け加えていた。  ドアが開いたとたんに、.彼女はちょつと|身体《からだ》を避けた。土井はぎょっとしむがらも|挨拶《ハあいさつ》 気味に軽べ頭を下げたが、彼女はつんとして素知らぬ顔をしていた。  土井は彼女の態度に少し|癩《しやく》に障りながら、すたすたと歩きだした。振り返るのは忌ま忌 ましいのでよくは分からなかったが、・彼女は彼上入れ代わりに公衆電話の中に入ったらし かった:                   こいしかわ たけは㌣ちよう  歩きながら土井はふと、社長の富永が小石川の竹早町に住んでいることを思い出した。 ここからは近いし、社長は彼の自宅に報告に来ることを希望していたので、この二日ばか りの間のことを、別に取りとめたことはないけれども、とにかく野崎が大阪から電報をよ こしたことと真否を|質《ただ》すために大阪へ行ってみるということを報告しておいたほうがいい と考えた。土井は通りがかりのタクシーを呼び止めてハ竹早町に行った一  冨水砥三の家は堂々たるものガった。-爬込みの奥深く玄関があった、土井は一∴二疫こ こへ来たことはあるけれども、いつも内玄関かち小さくなって入ったのだったが、〜今日は 思い切って表玄関から案内を|乞《こ》うた。  土井はすぐ広々とした応接室に通された。ここな鎌倉の野崎邸と違って大さなフ.フンλ 窓がいくつもあって、日がとっぷりと暮れていたのではっきりとは分からなかったが、外 は|宏壮《こうそう》な明るい庭らし/\熱帯産の幅の広い大きな|椋椙《しゆろ》の葉がすぐ窓近く茂っていた。  富永はちょうど晩酌を済ませたあとらしく、上機嫌だった。 「やあ、しばらく。どうだね、その後は何か手掛かりがあったかね」 「さっぱり見当がつかないのですけれども」  土井は恐縮しながら、 「鎌倉の野崎さんの留守宅へ、野崎さんから電報が来たことを|嗅《か》ぎ出しました」 「ふむ」  富永はぴくりと|眉《まゆ》を動かしながら、 「じゃ、野崎はやはり生きているんだね」 「そうとも言えないと思うのです。昨日来たと言うんですけれども、電報で知らせるにし ては少し時期を失していますし、それに電報なんてだれでも打てるものですから」 「なるほど、じゃ、偽電報だと言うのだね」 「そう断定してしまうわけにはいきませんけれども、まあ、そんなところじゃないかと思 うのです。で、とにかく、一応大阪へ行ってみようと思うのです」 「なるほど、それもいいだろう。しかし、何か当てがあるのかね」 「野崎が泊まりつけの宿と電報の発信局と、それっきりしか分からないのです」 「それだけでは広い大阪だ、容易なことじゃないな」 「ええ、それは覚悟のうえです。だいたい、今度の仕事そのものが容易なことじゃないの ですから」  土井は苦笑しながら言った。 「そう言えばそうだね」  社長も釣り込まれてにやにやとしながら、 「|馴《な》れないことだからいっそう骨が折れるだろう。まあ、しっかり頼むよ」 「ええ、お引受けしたからにはできるだけのことはするつもりです」 「いつ大阪へ行くかね」 「これから行こうと思っているんです」 「これから? ふん、なかなか急じゃね、これからというと、八時の急行じゃね」 「ええ、そのくらいのところになりましょう」 「寝台は取ったかね」 「いいえ」  とんでもないという風に、土井は大きく首を振った。 「寝台はもう懲り懲りです。寝台なしで行きます」  土井の言い方があまり|大袈裟《おおげさ》だったので、富永は笑いだした。 「あはははは、なるほど。寝台車は懲りたわけだな。だがいくら寝台車でも、そう始終人 殺しがあるわけじゃなかろう。あははははL 「それア、そうですけれども」  土井は赤くなりながら、弁解した。 「いっぺんあんな目に遭いますと、当分はどうも嫌なものです。寝台車に乗ると、いつで もあんな恐ろしい目に遭うような気がするものですよ」 「もっともだ」  社長はいちがいに笑ってしまったのを少し気の毒に感じたらしく、笑顔を収めながら、、 「ところで、大阪へ行くとすると費用がいるだ石う、少し出そうかね」- 「いいえ、費用はこの|間頂戴《ちようたい》したので充分ですから」  土井は社長の申し出を断って、しばらくほかの話をしたすえに|暇《いとま》を告げて席を立った。、 社長は玄関まで送ってきた。  土井が玄関に来かかったときに、急いで次の間に逃げ込む若い女の後姿がちらりと見え た。土井はぎくりとして思わず立ち止まった。女の後姿に、確かに見覚えがあったのだっ た。  土井の後ろからついてきた富永が、土井がぎくりとして立ち止まったのを|目敏《めざと》く悟った らしく、 「そうじゃ、きみは|香宮《かみや》さんを知らなかったね。ちょっと紹介しておこう。.最近、宅へ来 てもらった秘書じゃ。この人は宅ばかりで、会社へは出ないのじゃ。香宮さんL  富永は次の間に呼びかけた。 「はい」  客の来る気配に、急いで次の間に避難した女秘書は主人に呼ばれて、活発な返事をしな がら玄関に出てきた。 「香宮さん、これは土井くんといってな、もと会社にいた人で、いまは、ちょっとほかの 仕事をしてもらっている人じゃ。土井くん、これがいま話した秘書の香宮くんじや」  土井は社長から紹介される以前に、香宮という女秘書の顔をじっと見詰めたまま、棒立 ちになっていたのだ。世の中にこんなによく似た女があるものだろうか。香宮は土井がつ いさっき本郷の公衆電話の前で出会った女に、顔といい柄といい|瓜二《うりふた》つなのだ。ただ違っ ているところは、さっきの女は洋服だったが香宮は和服だし、それに、さっきの女は黒目 鏡をかけていたが、香宮は眼鏡をかけていないことだった。  香宮は土井があまり激しく見詰めるのでほんのり赤くなって、術きながら、 「香宮と申します。なにぶんよろしく」 「ぼく、土井です。今後たびたびこちらへお伺いすると思いますから、どうかよろしく」  土井は香宮が彼を|不躾《ぷしつけ》な男だと思ったろうときまり悪く思いながら、慌てて挨拶を返し た。 「そうじゃ」  社長は言った。 「土井くんはたびたびここへ見えるだろうから、そのつもりでいてください。それから土 井くん、香宮さんはなかなかしっかりしているから、もしわしが留守だったら、香宮さん に要件を話しておいてもらえばよい」  土井はそこそこに社長邸を出た。  彼の頭は、香宮という女秘書のことでいっぱいだった。  社長の富永は東洋石油会社だけではなく、他の多くの会社に関係していたから、彼の家 に私の秘書を置くのに不思議はなかった。けれども、ごく最近に雇い入れたという香宮が 社長によほど信任されているらしいのは、いったいどういう理由だろう。おおかた、信用 のある推薦者のあるためだろうか。容易に人に気を許さない富永があれだけに言うのには、 香宮という女によほど見所があるに違いないのだ。  ところで、あの香宮という女が本郷の公衆電話の前で会った女にそっくりなのは、どう したことだろう。偶然の暗合だろうか。もし、香宮に洋服を着せて黒眼鏡をかけさせたら、 公衆電話の前で会った女に寸分の違いはないし、逆に、黒眼鏡の女の眼鏡を取って和装さ せたら、香宮に一点違うところはないだろう。他人の空似ということはあるけれども、こ とによったら同一人ではないかと思われるくらいである。  土井はなんとも言えない一種異様な変な気持ちになりながら、東京駅に着いた。  八時二十五分の二、三等急行の発車までに、まだ二十分ばかりあった。  土井は切符を買ったり、煙草を買い込んだり、ポケットウイスキーを仕入れたりして、` 十分ばかり前に悠然ど汽車に乗り込んだ。二等は割に|空《す》いていたので、彼は二人分の席を 占めてゆσたりとした気持ちになりながら、金口の『|號珀《ニはく》』に火を|点《つ》けた。  八時二十五分きっかりに、汽車は動きだした。  汽車が|箱根《はこね》を越えて|沼津《ぬまづ》に着いたときはもう夜中の十二時近かったので、車内もひっそ りと話声がしなくなって、乗客は言い合わしたように座席で寝入っていた。  土井はしかし、なんとなく寝苦しくて眠れなかった⊂信越線の列車の中で恐ろしい目に 遭ったためもあるし、最近に、引き続いて不可解な事件に遭遇したために、彼の神経は極 度に|尖《とが》っているのだった。  もっとも、東京を離れ札ば離れるだけ彼はほっとした気持ちがあった。東京には恐ろし いことが渦を巻いていた。浴槽の女を射殺した凶漢、女の片腕を公衆電話に忘れた男、そ `れを取り戻すために土井を脅迫した怪漢、土井の留守宅に入?て、女の片腕を盗んで薄気 味の悪い置手紙を残していった得体の知れない人間-  彼はふと、黒眼鏡の女を思い出した。ここにも一つ、不思議なことが増えたのだ。社長 の秘書香宮と黒眼鏡の女とは同一人か、全然別人か。  土井はそんなことをそれからそれへと考えているうちに、頭が妙に痛くなってきた。汽 車の中で頭が痛くなるのには、彼は苦い経験を持っている。彼は不安そうにあたりをきょ ろきょろと見回した。しかし、格別変わったことはなかった。彼は|煤《すす》で汚れた顔を洗い、 かつ、痛む頭を冷やそうと思って洗面所に立った。  洗面所に入るときに、,彼はぞっとなにかしら冷たいものが背中を|這《は》ったような気がした。 考えてみると、軽井沢の事件のときとあまりによく似た暗合である。夜中に頭が重くなっ て、洗面所に入るとは1彼は不吉な予感を感じた、よほと引き返そうかと思ったが、迷 信的な気の弱さをみずから|叱《しか》りつけながら、ようやく洗面所に入った。  洗面所の中は何の変わったところもなかった。彼は洗面器に冷たい水を注ぎ込んで、顔 を洗った。彼はせいせいした気持ちになりながら顔を上げた。  と彼は思わず、あっ! と叫んだ。  彼の前の鏡に、彼の肩越しに|覗《のぞ》き込んでいる怪しい人影が映ったのだった。  黒眼鏡の女。  ああ、鏡に映ったのは、確かにあの黒眼鏡の女だった!  土井はぞっとして、手足を|頸《ふる》わせながら急いで振り向いた。しかし、背後にはだれもい なかった。ふたたび鏡のほうを向いたが、そこにはもう、土井以外には何者も映っていな かった。  そこそこに顔を|拭《ふ》いて、彼は洗面所を飛び出した。彼は念のためデッキに出てみた。し かし、そこにもだれもいなかった。座席に帰る|途《みち》で乗客の間をじろじろと眺め回したが、 黒眼鏡の女はもとより、似たような客もいなかった。  座席に帰った土井の顔は|青槌《あおざ》めていた。  鏡に映った女の顔は、彼の錯覚だったか。  あまりに怪異なことを思い詰めていたので、彼は幻覚を起こしたのではなかったか〔い や、決してそうではなかったC土井は確かに、女の姿を認めたのである。彼の神経はまだ、 錯覚や幻覚を起こすほど病的にはなっていないのだ、  女の姿が鏡に映ったのが厳然たる事実とすると、あの黒眼鏡の女は確かにこの汽車のど こかに乗っているのだ。何の目的で洗面所を覗き込んだのか分からないが、恐らく彼女は 土井を監視しているのに違いないC  黒眼鏡の女は、野崎を殺した一味の者だろうか。それとも、狩田の一味だろうか。  この時に、汽車はカーブになったとみえてガチャンと大きく揺れた。と、網棚からひら ひらと紙が舞い下りてきた。  ひらひらと舞い下りた紙片は、ちょうど土井の足下に落ちた。土井は何の気なしにそれ を取り上げた。.   野崎の事件から、すぐ手を引け。そうしないと、きっと後悔するぞ。  紙片にはこんな文字が書かれていた、 「あっ」  土井は青槌めた顔をいっそう青くして、がたがたと顧えた。ああ、この言葉は彼のアパ ートメントに残してあったものと、ほとんど同じである。筆跡もどうやら同一人らしいの だ。ああ、この列車の中に何者か土井を敵にするものが潜んでいるのだ。土井が野崎事件 に関係して、いまやその事件の探偵を始めているのを知って、こんな警告の言葉を一度な らず二度までも送るのだった。  土井は身体をがたがたと額わせながら、そっとあたりを眺め回した。彼のすぐ前の座席 には、中年の会社員らしい男がいかにも旅馴れているという風に座席一杯に身体を曲げな がら、楽々と|軒《いびき》を立てて寝入っていた。彼のすぐ横の座席では、田舎風の老婆が嫁らしい 若い女と一緒に座席を占めて、二人とも居汚く眠りこけていた。土井の背後の席には、田 舎紳士らしい男が新聞紙を顔に当てて横になっていた。  土井の目の届く限り、怪しい者の姿は見えなかった。紙片を書いた人間は土井が座席を 立って洗面所に行ったのを見澄まして、土井の座席に近づいて網棚の上に紙片を置いて、 ちょっとした動揺で紙片がひらひらと落ちるように仕掛けたのであろうが、その人間はい ったい、どこからどうして出てきて、どこにどうして潜んでいるのだろうか。  もし、土井の想像どおり彼が洗面所に立った|隙《すき》に紙片を網棚に置いたものとすると、だ れか座席の近所にいた人の目についたはずである。だれかその当時、目を覚ました者はな かったか。土井はきょろきょろと眺め回したけれども、土井の座席の周囲にいた人は言い 合わしたように眠りこけているのだった。  土井はがっかりした。彼は思う存分|翻弄《ほんろう》されているのである。  いったい、一度ならず二度までも、こうした警告の紙片を送った人間は何者だろう。彼 は(あるいは彼女は)明らかに狩田の一味ではない。いや、むしろ反対派の人間らしい。 狩田が例の新聞包みが盗まれたと聞いたときの驚きは、生易しいものではなかった。決し てわざとしたのではなく、真実驚いたようだった。してみると、新聞包みを盗み出した人 間は狩田とは全然別個の立場にいるものである。あの時に置いていった紙片と、いま網棚 から落ちてきた紙片とが、まったく同一の趣旨と非常に似た筆跡で書かれているところを 見ると、恐らく同一人の仕業である。そうすると、彼(あるいは彼女)は狩田とは全然異 なった一味で、しかも土井に野崎の事件に触れさせまいとするところを見ると、野崎の事 件には相当深い関係があり、かつあの不気味な女の片腕にも関係しているものである。 しかも、この一味にはあの黒眼鏡の女が活躍しているらしいことも、充分想像されるのだ。  浴槽で撃たれた女は確かに、野崎氏の令嬢を襲撃して支配人の成田を殺した一味に殺さ れたのである。そうすると、ここに野崎氏の事件、浴槽の女の事件、女の片腕の事件を|続《めぐ》 って、少なくとも三つの異なったグループが渦を巻いているのだ、四本指の男を首領とす る悪漢団と、狩田と自称する男の一党と、 黒眼鏡の女を背後とする一派とが、 それである。 シガレット・ ケース  午前八時、大阪駅に着くまで、土井はまんじりとすることもできなかった。恐ろしい敵 がどこからか彼を監視していると思えば、とうてい眠ってなどいられないのである。  しかし、その後は別に変わったことは起こらなかった。彼は無事に大阪駅に着くことが できた。,彼は寝不足に|腫《は》れ上がった目をして、駅頭に出た。ところで、彼はどうしたらい いのか、不案内の土地ではあるし、どこから手をつけていいのか途方に暮れるのだった。  彼はまず宿を取ることにした。どうせ、一日や二日で結果が得られる気遣いはないのだ から、どこかに落ち着くところを|持《こしら》えておくことが必要であゐ。.彼はかねて聞いていた、 |堂島《どうじま》の浜ビルディングにタクシーを急がせた。  浜ビルホテルの一室を占めると、土井は中からぴったり錠を下ろして、ベッドの中に潜 り込んでしばらくはしきりに寝返りを打っていたが、やがて、ぐうぐうと寝入った。  彼が目を覚ましたときには、もう正午を過ぎていた。彼はのそのそとベッドの中から出 て、朝起きた人のように顔を洗ってロを|漱《すす》いだ。ビルディングの窓には薄日が|射《さ》して、そ よそよと微風が流れ込んだ、はるか下の街路には、電車と自動車とがけたたましい音を立 てて、行き交っていた。  屋根と屋根の交錯、林立する煙突、|佑轍《ふかん》される青々とした水を|湛《たえ》えた川、それは工業都 市、そうして水の都の象徴だった。  土井は昨夜以来の恐怖と疲労をすっかり忘れてしまった。彼の五体には勇気が|充《み》ちてい た。彼は昨夜汽車の中で、黒眼鏡の女の映像に|怯《おび》えたり、紙片の文字に|威《おど》かされたりした ことが|嘘《うそ》のように感じられた。 「くそっ、もう下らないことには威かされないぞ」  彼は声を出して|眩《つぷや》きながら、着物を着替えはじめた。ネクタイを結んで|上衣《うわぎ》を引き担ぐ ポうにして着込んだときに、彼はふと足下に紙片が落ちているのに気がついて、ぎょっと した。 「あっ」  足下に落ちていた紙片を取り上げたときに、彼はたったいまの勇ましい決心はどこへや ら吹っ飛んで、顔色を変えて叫んだのだった。   早く手を引かないか。言うことを聞かないと、|生命《いのち》がないぞ。  紙片にはこんなことが書いてあった。  ああ、目に見えない敵は|執拗《しつよう》に土井をつけ回しているのだ。そうして、またしてもこん な威かしの文句を土井に送ったのだ! 「畜生!」  一時は驚いたが、時は真っ昼間だった。所は大都会のまっただなかのビルディングの一 室だった。土井は昨夜の汽車の中のように、|頸《ふる》え上がりはしなかった。 「うぬ、|執拗《しつこ》い|奴《やつ》だ。そういつまでも、威かされてはいないぞ。だがいったい、この紙片 はどうしてこんな所に置かれたのか」  土井は首を傾けながら、扉の|傍《そば》に寄った。扉にはちゃんと|鍵《かぎ》がかかっていた。扉の傍に は、下の|隙間《すきま》から突き入れたらしい新聞が二、三種横たわっていた。 「うん、分かった。紙片はやはり、この隙間から突き入れたのに違いない。しかし、恐ろ しく機敏な奴だな」  土井はいまさらに、相手が容易な者でないことを痛感した。しかし、いまは恐れてばか りはいられないのだ。彼は紙片を破いて、くるくると丸めて傍の|紙屑籠《かみくずなヰい》に投げ込んだ。  食堂で中食を済ませた土井はまず第一着手として、野崎が下阪すると定宿にしていたと いう、今橋の摂津ホテルにタクシーを走らせた。 「こちらに東京の野崎寛吉さんが泊まってられないかね」  土井は帳場の番頭の顔色をじっと|窺《うかが》いながら、|訊《き》いた。 「野崎さんのご主人はお泊まりになってませんが」  番頭はじろりと土井を眺めながら、 「お嬢さんのほうはさきほどお見えになりました」 「え、お嬢さんが」  銀子が来ているとは、土井にとっては実に意外だった。あれほど外出を止めておいたの に大阪までやって来たというのは、よほどの重大事件が起こったのだろうか。  番頭は土井の驚き方が激しいので、不審そうに見上げながら答えた。 「はい、お嬢さんがお見えになりました」  土井は、せっつくように言った。 「お嬢さんがいられるなら、すぐお目にかかりたいと言ってくれたまえ。ぼくは土井とい う者だ」 「お嬢さんはここへお見えになりますと、すぐ落ち着く暇もなくどこかへお出かけになり ました」 「なに、出かけたc出先は分からないかね」  銀子は土井に、大阪へ彼女の父を尋ねていくことをくれぐれも頼んだのだった。だから、 彼女は土井が大阪に来ることを知っているはずだし、よくよくのことがなければ、彼女が 単独でここに来ることはないのだ。しかも、来る早々どこかへ出かけたとは、いったいど うしたということだろう。 「どこへ行くともおっしゃいませんので」  番頭は困ったような顔をしながら、 「お出先は分かりません」 「何の用で大阪へ来たのか、分かりませんかね」 「はあ、なんでも、お父さんのことで来られたようでした。わたしどもへ来られたときも、 やはりあなたのように、お父さんは泊まっていないかとお訊きになりました」 「ふむ」  では、銀子はやはり父を訪ねてきたのだ。しかし、彼女もしっかりした父の居場所は知 らないらしいのだ。 「で、野崎さんは最近に、ここに泊まられたことはないのだね」 「ええ、本年になりましてから、一回も手前どものほうにはお見えになりませんです」 「どこか、ほかの所に泊まっておられるようなことは聞かないかね」 「はあ、いっこうそんなことは聞きません」  こう言いながら、番頭はしばらく土井の顔を見てもじもじしていたが、やがて思い切っ たという風に、 「あの、もし間違ってましたらお|詫《わ》びしますが、野崎さんは、あの、殺されたんじゃない のですか」 「新聞には、そんなことが出ていたかもしれないがね」  土井はわざと事もなげに答えた。 「あれは間違いなんだ。野崎さんは生きていられるんだよ。ただ、行方がちょっと知れな いので弱っているんだ」 「ああ、そうですか」  番頭はようやく合点がいったという風に、 「わたしは新聞にあんなことが出ていたものですから、不審に思っていましたのでーそ れはそうと、あなたが土井さんでいらっしゃるなら、野崎さんのお嬢さんから、言付かり 物がありますが」 「なに、お嬢さんから、言付かり物があるって」  銀子から言付かり物があるとは意外だった。土井はなんとなしに、胸をどきつかせた。 「ええ、土井さんというお方が見えたら、渡してくれと言い置かれましたので、ちょっと お待ちください」  番頭は帳場の奥から、小さい紙包みを取り出した、 「これでございます。どうぞ、お持ちくださいまし」  上井は紙包みを受け取った。ほんの|掌《てのひら》の中に隠れるくらいの小さい紙包みだったが、ず しんと重みがあった。紙包みはどこかの百貨店らしいマークのついた紙で、包装されてい た。百貨店で買い入れて、そこで包ましたままの物らしかった。 「じゃ、またのちほど来ますからね、お帰りになったらよろしく」  土井は紙包みをぶら提げてホテルを出た。彼は中が開けてみたくてたまらなかった。ち ゃんと百貨店のマークのついた紙で包装されているし、大きさからいっても、重さからい っても、まさか、公衆電話の中に忘れてあった新聞包みのような恐ろしい品とは思えなか った。 (ぼくが彼女の父親のことでわざわざ大阪まで来たので、お礼の意味で、何かくれたのか な)  土井がそんな風に考えたりした理由は、何にしても銀子から品物を贈られたということ で、胸をわくわくさせずにはいられないことだった。彼は紙包みの中から、銀子の移り香 が発散しているかのように妄想した。 (見ろ。この紙包みは素晴らしい美人の令嬢に贈られた物だぞ)  こう言って、通行人の鼻先に高々と紙包みを振り回したい気持ちで、土井は意気揚々と 歩いていった。 (だが、待てよ。ぼくは野崎氏の行方を捜さなくてはならないのだ。摂津ホテルでは、手 掛かりが得られなかった。だから、そうだ、中央郵便局へ行って、野崎氏が打ったという 電報について調べてみなくてはならない)  土地不案内の悲しさに、土井はそれがどのくらいの距離にあるかということを全然度外 視して、どこに行くにもタクシーの|厄介《やつかい》にならねばならないのだった。  中央郵便局に入った土井は、電報係の所に行った。 「ちょっとお願いしたいのですが、二、三日以前にここから鎌倉へ野崎という人が電報を 打っているんですがね、そのことで少し調べていただきたいのですが」 「どんなことを調べるのですか」  係の者は義務的な、ぶっきら棒な返事をした。 「その電報の筆跡が見たいのです。それから、電報を打った人間の、人相や着衣の模様を 教えていただきたいのですがね」 「そいつは駄目ですね。なにしろ一日に何百通という電報を扱っていますし、ことに二、 三日も以前のことじゃ、とても打った人の人相なんか覚えていませんよ、、筆跡が見たいと いっても、忙しくていちいち見せたりなんかできませんなあ」 「実はI」  土井は一生懸命だった。 「その電報というのが、どうも偽電らしいのです。それで、ぜひ調べたいのですが」 「偽電?」  係の者は少し興味を持ち出したようだった。 「どういう性質の偽電ですか」 「殺人事件ですがね。確かに殺されたと信じられている人間の名を使って、その家族を安 心させるために打った偽電なんですL 「ははあ、で、あなたはそれにどういう関係があるんですか」 「ぼ、ぼくは私立探偵です」  私立探偵という言葉に係の者はいよいよ興味を持ったらしく、土井の顔をじろじろと眺 めだした。 「じゃ、犯人が偽電を打ったんですね」 「ええ、犯人か、それでなければ犯人に頼まれた者が打ったわけです」 「なるほど、殺人犯人がよくやる手ですな」  係の者は探偵小説や実話の愛読者らしく、こういう事実を知っていたとみえてしきりに |頷《うなず》いた。 「じゃ、ひとつ調べてあげましょう。しかし、二、三日以前では困りますな。正確な日が 分かりませんか。その、来た電報は持っていないんですか」 「ええ、持っていないんです」  土井は困ったような顔をして言った。相手は、 (なんだ、新米の探偵だな)  という軽い|侮蔑《ぷべつ》の色を表しながら、 「よろしい、調べてあげましょう。しばらく待ってください」  係の者は奥のほうに引っ込んだ。しばらくすると、彼は一枚の頼信紙を持って出てきた。 「やっと分かりましたよ。三日以前ですな。これなら、わたしは覚えがありますよ」 「えっ、覚えがありますって!」  土井は跳び上がって叫んだ。 「ええ、これは変な字体で書いてあるうえに、.鎌倉の番地がないので押問答をしたのでよ く覚えているんです。これを持ってきたのは、女でしたよ」 「えっ、女? ど、どんな女でした?」 「そうですね、|年齢《とし》は二十四、五でしょうか。なかなか奇麗な女でしたよ。髪はたしか束 髪でした。ちょっと、素人女らしくないところがありましたよ」 「こ、言葉はどうでした。東京のようでしたか、それとも、ここの者らしかったですか」 「言葉は大阪言葉でした。しかし、生粋の大阪じゃありませんな」 「ちょ、ちょっと頼信紙を見せてください」  頼信紙を手にした土井は危うく、驚きのために下に落としそうになった。 「こ、これはその女が書いたのですか」  ああ、この奇妙な書体! 確かに、これは土井に二度までも送られた気味の悪い警告書 と、同じ書体なのだ! 「いいえ」  係の者は首を振ったc 「書いて持ってきたのです。これは女の手じゃありませんね。どうも男のようです」 「その女はどんな服装をしていましたか」 「紫がかった地に大きな|蔦《つた》の模様のある、麻の|単衣《ひとえ》を着ていました」 「遠方から来たようでしたか」 「さあ、不断着でもなし、といって盛装でもありませんでしたから、そう近くもなし、そ う遠くもない所から来たんじゃありませんかね。どうせ、偽電なら本当のことは書いては ないでしょうが、住所の所には摂津ホテル内、野崎としてありますね」  局員に注意されて住所の欄を見ると、確かに局員の言ったとおりに書かれていた。  土井は心から喜んで、厚く局員に礼を言った。 「お役に立てば結構です」  局員は事件についてもっと詳しいことを訊きたいらしく、大いに好奇心を動かしたよう だったが、執務時間中なのでそれ以上追及しようとしなかった。  土井は郵便局を出た。  局を出るとすぐ、ぶら提げている紙包みが気になった。彼は初めは浜ビルホテルに帰っ て開けてみようと思っていたのだったが、ふと気が変わった。  いったんホテルに帰ろうと考えた土井は、急に考えを変えた。灰色の壁に囲まれてベッ ドだけしか待っていないホテルの一室へ帰るよりは、もっと明るい所に行こう。白服のボ ーイの義務的なサービスよりは、エプロンのウエイトレスの、エロたっぷりのサービスの ほうがどんなに|勝《すぐ》れているか分からない。 (カフェーだ、とにかくカフェーに行こう)  土井はこう心の中で叫んで、タクシーを南に急がせた。        たそが       どうとんぽり                      とも  もうあたりは黄昏れていた。道頓堀一帯のカフェー街には、電灯が美しく点されていた。 道頓堀川の薄濁った水は軽快なボートのオールに|掻《か》き乱されて、カフェーの灯の影を黒塗 りの盆に砕いた|珊瑚《さん  し》を散らしたように、はらはらと漂わしていた。  土井は川沿いの大きなカフェーに入った。  中はもう夜だった。  大阪風のこってりした装飾の大きな室は高い|衝立《ついたて》で、いくつものコンパートメントに区 切られていた。入口の片隅には赤い灯・青い酒、|白粉《おしろい》の香を慕って寄ってくる|男蜘蛛《おと いぐも》を生 け捕りにするために、エロスの|女蝶《めちよう》たちが美しく着飾って網を張っていた。  土井はたちまち二、三人の女蝶たちに抱きつかれながら、川に向かった一隅のテーブル に押し据えられた。時刻がまだ早いのでほかに客はないらしく、あたりはがらんとしてい た。しかし・すぐに咄りつけるように、電気蓄音機のジャズがあたり構わず|轟《とどろ》きはじめた。  とりあえずウイスキーを言いつけた土井はおもむろに、ポケットから例の銀子から贈ら れた紙包みを取り出した。彼は中身が早く見たくてたまらないのだった。  土井は傍らに立っていた女給に呼びかけた。 「きみ、この紙包みはどこの店のだい」 「それでっか」  彼女はちょっと言葉を切って、 「高島屋でっしゃろ。|心斎橋筋《しんさいばしすじ》の」 「ふん、そうかい。何が入っていると思う」 「当たったら、おくれなさる」 「そういうわけにはいかないよ。これは|貰《もら》ったのだからね」 「まあ、お貰いになったの」 「うん」 「女の方から」 「うん」 「まあ」  女はちょつと|睨《にら》む|真似《まね》をして、 「うち、|著《お ヰ 》ってもらわんならんわ」 「うん、著るよ」  土井はいい気なものだった。彼は傍らにいる女給などは眼中になかったのだ。彼の眼前 には、銀子の美しい顔が幻のように浮かんでいるのだった。彼は玉手箱を開けるように、 恭しく紙包みを解きはじめた。 「まあ、奇麗!」  女給が思わず叫んで|覗《のぞ》き込んだほど、美しい金色|燦然《さんぜん》たるシガレット・ケースが紙包み から出てきた。 「うむ」  土井は感激しながら、どっしりと重みのあるシガレット・ケースを掌の上に載せて、う っとりと眺め入った。  全体が黄金でできているシガレット・ケースには、|梨地《なしじ》になっている所と、ぴかぴか光 った所と、条溝になった所がほどよく|按配《あんぱい》してあって、一種の模様になっていた。よほど 高価の物らしかった。 「ええものを、お貰いなさったな」  女給は感嘆したように言った。  土井はふと、片隅にアルファベットで、K・Dと彫り込んであるのを発見した。  アルファベットの頭文字を発見した土井は、すっかり悦に入ってしまった。 「きみ、これはぼくの名の頭文字だぜ」 「さよですか」  土井があまり有頂天になっているもので、女給も相手にするのが少しばからしくなった とみえて、やや素っ気ない返事をした。  しかし、土井はそんなことは平気だった。彼は銀子が彼にこんな高価なシガレット・ケ ースを、しかも頭文字まで入れて贈ってくれたという幸福感に、頭の|天辺《てつぺん》から|爪先《つまさき》まで浸 り込んでいるのだった。  彼はさっそく、金口の『號珀』をシガレット・ケースに詰め替えた。そうして、チョッ キのポケットに入れた。  彼は立て続けに二、三杯ウイスキーを|呑《の》んだ。そうして、女給たちに充分なチップを与 えてカフェーを出た。  彼はもう一度摂津ホテルに行って銀子を訪ねようかと思ったが、酒気を帯びているのに 気がついて|止《や》めることにした。その代わりに電話で|訊《たず》ねてみようと思った。電話なら、酒 の|臭《にお》いはしないはずだから。  彼は橋の|快《たもと》のもう一軒の大きなカフェーに入った。彼はここでも、待ち構えた女給軍の 包囲に会った。  彼は摂津ホテルを呼び出してもらって、電話機の前に立った。 「ああ、もしもし、摂津ホテルですか。東京の野崎銀子さんはまだお帰りになりません かL 「はあ」  聞き|馴《な》れた番頭の声だった。 「まだお帰りになりません。何かご用でしたら、承っておきましょう」 「じゃ、またのちほど電話を掛けますよ。ぼくはさっき伺った土井です」 (いったいどこに行っているのだろう。何か間違いがなければいいが)  電話を切って座席に帰るときに、土井はふとこんな不安を感じはじめた。  そうして、|佑《うつむ》き加減に考えながら座席についた彼は、テーブルの上を眺めると、跳び上 がりながら叫んだ。 「だ、だれがこの紙切れを持ってきたのかっ」  テーブルの上には、一枚の紙切れが載っていた。紙切れには、中指の欠けた四本指の手 が鉛筆でざっと書いてあるきりで、文字は少しも書かれていなかった。  近所にいた女給たちが二、三人、びっくりしてばらばらと土井の|傍《そば》にやって来た。 「こ、この紙切れは、だ、だれがここに置いたのかっ」  土井はふたたび叫んだ。  女給たちは顔を見合わした。 「うち、知らんわ」 「うちも、知らんわ」  三人の中で|年嵩《としかさ》らしい一人が、おそるおそる言った、 「だれも知りまへんのですけれど」 「し、知らないって、きみ。お客はまだ少ないのだし、きみたちは大勢いるのだし、だれ かこのテーブルの傍に寄った者があるのを知っていそうなものだ」  女給には、高が一本の手らしいスケッチをなぐり書きした紙切れを、土井がなぜこんな に問題にするのかよく分からなかったけれども、彼の剣幕が激しかったので困ったような 顔をしながら、 「テーブルの傍に寄ったのは|麗子《れいこ》はんだけやわ」  麗子というのは、土井のテーブルの持ちの女給の名だった。彼女は土井の注文を通しに、 奥へ引っ込んでいるのだった。 「すぐ麗子さんを呼んでくれ」  土井は四本指の手を書いた紙切れを取り上げながら叫んだ。  ウイスキーを入れた小さいグラスとハムサラダとを、銀色の盆に載せて小走りにやって 来た麗子という女給は、土井の激しい勢いに困惑したような顔をしながら言った。 「えらい悪いことをしました。うち、それをテーブルの上に置くことを頼まれましたんや わ。あんたのお友達がてんごしなさるのや|思《 ヘヘ》うて」 「頼まれたって」  土井は叫んだ。 「ど、どんな男だい」 「男の方やありませんわ、女の方です。黒い眼鏡をかけたー」 「なにっ、黒い眼鏡をかけた女だって」 「ええ、うちがお帳場の傍へ行きますと、入口の所から手招きしやはりますので、何かい な思いながら行きますと、これをあの方のテーブルの上に置いてくださいな、と言って、 この紙切れを出しやはりましてん。江戸っ子弁で言わはりましたよって、あなたのお知合 いの方やと思いましたのだす」 「うむ」  土井は|捻《うな》った。  黒眼鏡をかけた女! むろん、あの女に違いないのだ。彼女は執拗にも、土井につきま とっているのだ。彼女は土井を汽車で追っかけてきたのだ。洗面所の鏡に映った彼女の顔 はむろん、幻影でもなんでもない、確かに彼女が覗き込んだのだった。汽車中で網棚の上 から落ちた紙切れも、やはり彼女が仕掛けたのに相違ない。  土井ば酔いも一時に|醒《さ》めてしまった。冷たい汗が額に|滲《にじ》み出た。黒眼鏡の女はあくまで、 土井に野崎事件から手を引かせるべく威かしつづけているのだ! 「勘定をしてくれ」  土井は怒鳴った。そうして、そこそこに支払いを済ませると、|呆気《あつけ》にとられている女給 を突き|退《の》けるようにして外に飛び出した。  日はもうとっぷりと暮れていた。  両側に美しく点された青い灯・赤い灯は、磨かれたようなアスファルトの道にぼんやり と反映していた。道頓堀の夜の雑踏は、もうそろそろ始まりかけていたのだった。  土井は一種異様ないらいらした気持ちで、当てもなく足を運んでいた。  彼には、黒眼鏡の女の気持ちが少しも分からないのだった。彼女とは偶然、本郷の公衆 電話の前で会ったと思ったのだが、考えてみると、彼女はもうその以前から土井を|尾《つ》けて いたのだ。彼女は別に、土井に危害を加えようとはしない。ただ、野崎事件の探偵から手 を引かせようとしているだけである。恐らく、土井が事件に携わることが彼女にとって不 利益なためであろうが、それなら、なぜ面と向かってその理由を言って、土井を納得させ ようとしないのだろう。そうしないところをみると、彼女には土井を納得させるに足るだ けの正当な理由がないのだ。彼女はなにかしら不正な目的で、土井を除外しようとしてい るに違いない。 (しかし、いまさら野崎事件から手を引くことはできない。社長のところへ、そんなばか なことが言っていけるものじゃない。もしそんなことを言えば、ぼくはその場で|誠《くぴ》だ)  土井は歩きながら考えた。ちょっとしたことで勇気づくかと思うとちょっとしたことで、 |消気《しよげ》てしまう自分が情けなく感じられた。 (よし、もうどんなに威かされても、どんな危険があっても、断然よさないぞっ)  土井は思わず口の中で、力強く眩いた。とそのとたんに、彼にどんと突き当たる者があ った。土井がよろよろとして立ち直る|暇《いとま》のないうちに、突き当たった男はどんどん向こう へ行ってしまった。  土井があっと思いながら、無礼を|処《とが》ロめる暇もないうちに、突き当たった男はたちまち人 込みの中に紛れてしまった。 (失敬な奴だ)  土井は心の中で|罵《ののし》ったが、考えてみると、道頓堀の雑踏の中を考えごとで夢中になりな がら、ひょろひょろと歩いていたほうが悪いのだ。突き当たられるくらい、仕方がないの である。 (だが)  土井は考えた。 (いまのは過失で突き当たったにしてはあまりひど過ぎた。どうも、故意に突き当たった としか思えない)  ここまで考えたときに、土井はさっと顔色を変えた。ことによると、いまのは|拘摸《すり》では あるまいか。わざと突き当たって、懐中物を|掬《す》り|盗《と》るという手はもう古いのだが、こんな 手を用いる掬摸がないとは言えない。  土井は慌ててポケットを探ったが、紙入は無事だった。時計も、その他所持晶はすべて ちゃんとしていた。  と土井はふと、銀子から贈られたシガレット・ケースのことを思い出してどきんとした。 彼はついそのことを忘れていたのだった。  彼は大急ぎでチョッキのポケットを探った。彼はほっと安心した。シガレット・ケース は確かにそこにあったのだった。  念のために彼はそれをポケットから引き出して見た。ケースは金色|燦欄《さんらん》として、|眩《まばゆ》いよ うに光っていた。土井は異状がなかった喜びのうえに、いまさらながらそれが得がたい品 のように思われて、ぞくぞくとしたのだった。  土井は黄金のシガレット・ケースから『現珀』を一本抜き出してケースをチョッキのポ ケットに入れると、マッチを擦って火を|点《つ》けて、すーっと吸い込んだ。  彼はだいぶ落ち着いてきた。  黒眼鏡の女に威かされて|狼狽《ろうばい》した自分が、ばからしく感じられてきた。黒眼鏡の女が土 井に、野崎事件の探偵をされることを嫌っているところをみると、彼女は確かに野崎事件 に相当の関係があるのだ。彼女をうまく利用すれば、野崎事件の真相を|掴《つか》むことができる かもしれないのだ。なにも、恐れて逃げ隠れすることはない。むしろ、こっちから進んで 彼女をつけ回して、彼女の行動から、何か手掛かりを得るべきなのだ。  土井はもしや彼女が跡を尾けてはいないかと、そっとあたりを見回した。彼女の姿は見 えなかった。しかし、きっと尾けているに違いないのだ。 「よし、ひとつあの女を釣ってやろう」  土井はすっかり度胸を決めて、悠々と歩きだした。そうして、また一軒のこぢんまりと したカフェーに入った。  彼は係の女給に耳打ちをした。 「いまにね、黒眼鏡をかけた女の人がぼくのことを訊きに来るからね。そうしたら、そっ とぼくに知らせてくれたまえ」  女給はにっと笑って、頷いた。  土井はウイスキーをちびりちびりとやりだした。彼はすっかり油断していると見せかけ るために、女給たちとふざけたり、蓄音機に合わせてジャズを怒鳴ったり、たいして酔っ ていないのにひどく酔っているように見せかけたりした。  ところが、黒眼鏡の女は敏感にも土井の策戦を察したのか、それっきり姿も見せなけれ ば紙片も送ってこなかった。  |痺《しぴ》れを切らした土井がカフェーを出たのは、もう十一時を過ぎていた。  彼はひとまず、浜ビルホテルに帰ることにした。タクシーがホテルの前に着いたときに、 土井はどうしたのか、急に胸騒ぎがしたのだった。  ホテルの玄関に入ると、土井は急に胸騒ぎがして、なにかしら不吉なことが起こるよう な予感がするのだった。  帳場の時計はもう十二時近くを示していたので、夜のクラークが眠そうに一人いるきり で、あたりはひっそりとしていた。  土井は番号を言って部屋の鍵を受け取った。 「電話は掛からなかったかしら」  土井はもし留守中に、銀子でも電話を掛けはしなかったかと思って訊いてみた。 「いいえ、どちらからも掛かりません」  クラークは不愛想に答えた。  エレベーターはもう運転していないので、土井は三階まで階段を昇っていった。昇るに 従って彼の気持ちはだんだん重くなってきた。彼はどういうものか、部屋に帰るのが嫌に 感じられて仕方がないのだった。  彼は不案内の土地で、事務的なサービスのホテルに泊まったことを後悔しはじめた。や はり、女中がいていろいろ世話をしてくれる日本式の宿屋に泊まればよかったと思った。 厚い壁で囲まれたベッドだけしか待っていない冷たい部屋に帰るのが、たまらなく寂しく なったのだった。  彼は部屋の前に立った。このごろは客が少ないので三階はおおかた空いているらしく、 あたりはしーんとして、大都会の真ん中に|從《そぴ》耳え立っていながらまるで深山の一軒家のよう だった。  彼は鍵をくるりと回した。ドアを開けると壁のスイッチを入れた。室内はぱっと明るく なった。彼はドアを閉めると、ドアの裏の|釘《くぎ》に帽子を投げるようにかけた。そうして、お もむろにベッドのほうを見ると、彼はどきんとした。ベッドが少し盛り上がって、まるで 人が寝ているようなのである。 「しまった、部屋を間違えたか」  土井は驚いて部屋を見回した。しかし、確かに見覚えのあるスーツケースもあるし、ど う見ても間違えていないのである。  土井はおずおずとベッドの傍に寄ったが、次の瞬間にきゃっ! と叫んで、そのままへ たへたと腰を抜かしそうなのを、ベッドの欄干に両手をかけて、がたがたと頸えながらよ うやく踏みこたえた。  ベッドには、見たこともない若い女がすやすやと寝入っているのだった。いや、寝てい るのではない、女の美しい顔はまるで|蝋《ろう》のように真っ白だった。そうして、呼吸をしてい る様子が少しもなかった。疑いもなく女は死んでいるのだった。  土井は歯の根が合わなかった。歯と歯がガチガチと触れ合う音が静かな室内に反響して、 異様な物音となってさらに彼自身の恐怖を募らせるのだった。  列車中の|惨《む オい》たらしい|屍体《したい》、浴槽の中の裸体の女の死、最近に二つまでも殺人屍体を見た 彼だったけれども、いま、彼自身の部屋に眠るように死んでいる女の屍体に目の当たりに 対した恐ろしさに比べれば、なんでもなかった。  若い美しい女は一滴の血も流していなかった。どこにも、一点の苦痛も恐怖ち表してい なかった。文字どおり蝋人形のように死んでいた。しかし、それは土井には、|膳《なます》のように 切り刻まれた屍体よりも、血潮に|塗《まみ》れた屍体よりも、もっともっと|凄惨《せいさん》な感じを与えたの だった。  土井はようやくのことでベッドの欄干に掴まっていた手を放して、|這《は》うようにしながら 隅の電話機を掴んだ。 「もしもし」  彼は激しく信号したが、何の答えもなかった。      死  美  人  いくら信号しても、室内電話は通じなかった。もう十二時なので交換手がいないとみえ るのだ。 土井は受話器を|放《ほう》り出すと、扉のほうにいざり寄った。そうして、やっとのことで廊下 へ出たが、いかに気が焦っても足が言うことを聞かないのだった。彼はそこへ、へたへた と|坐《すわ》り込んでしまった。  しばらくしてから、彼はようやく起き上がった。そうして、壁を伝いながらよろよろと 階下に降りた。 「た、大変だ!」  帳場の所で、土井はこれだけのことを言った。あとはいたずらに歯がガチガチ鳴るだけ で、容易に出てこないのだった。 「ど、どうかなすったんですか」  墓場から出てきた人のように真っ青な顔をしてがたがた|頭《ふる》えている土井を見て、クラー クはびっくりして叫んだ。 「し、死んでる、死んでる」  土井は口をぱくぱくさせながら、指で天井を指した、 「え、死んでるって、だれが、どこで死んでるんですか」 「ぼ、ぼくの部屋で、お、女の人が、し、死んでる」 「なに、あなたの部屋で、女の人が死んでいるんですって」  クラークは、この人は夢でも見ているんじゃないかという風に、土井の顔をつくづくと 眺めた。 「そ、そうなんだ。は、早く、け、警察へ、た、頼む」 「しっかりしてくださいよ。本当のことなんですか」  クラークは半信半疑という風に叫んだ。 「ほ、本当とも。|嘘《うそ》と思うなら、一度見てきたまえ」  クラークはすぐにボーイを呼んだ。そうして、大急ぎで寝ているほかのボーイたちを起 こさせて、三階の土井の部屋を見にやった。  やがて、ボーイたちは真っ青な顔をして、転げるように階段を降りてきた。 「た、大変です。た、確かに女の人が死んでいます。お客さんじゃありません。全然知ら ない女です」  クラークは顔色を変えながら、所轄の|天満署《てんましよ》へ電話を掛けた。 「なに、女が死んでいるって。病気じゃないのか」  宿直の司法主任は問い返した。 「ところが、その女はホテルの止宿人じゃないのです。ほかのお客さんの部屋のベッドの 中で死んでいるのです」 「ふむ。それは奇怪じゃね。よしっ、すぐ行く」  司法主任は部下の刑事四、五名を連れて、即刻、浜ビルホテルに出張してきた。  土井はこわごわ彼らを三階の部屋に案内した。 「ふーん、きみは十二時ごろ帰ってきたのじゃね。その時に扉の|鍵《かぎ》はかかっていたかね」  階段を上がりながら、司法主任は抜け目なく|訊問《じんもん》を試みた。 「はあ、鍵はかかっていました」 「死んでいる女というのは、本当に知らない女かね」 「はあ、全然存じません」 「うむ」  司法主任はちらりと疑わしそうに土井を見ながら、 「おかしな話だね」  やがて、一同は三階の室の前に来た。司法主任は刑事に戸口の見張りをさせて中に入っ た。土井はおずおずとその後に従ったC司法主任はじろりとあたりの様子を鋭い目で見回 してから、つかつかと寝台の|傍《そば》に寄った。 「うむ」  司法主任は|捻《うな》るような|溜息《ためいき》をついて、|屍体《したい》を覆っていた|蒲団《ふとん》を|捲《まく》り上げた。司法主任の 後ろから|覗《のぞ》き込んだ土井は、はっと顔色を変えた。  司法主任が死美人の横たわっているベッドの掛蒲団を捲り上げたときに、土井はなぜ顔 色を変えたのか。それはなんと、死美人が紫がかった地に、大きな|蔦《つた》の葉の模様を染め出 した麻の|単衣《ひとえ》を着ていたからだった。この着物は、中央郵便局へ偽電報を打ちに来た女が 着ていたという着物にそっくりではないか。  司法主任の鋭い目は土井のぎくりとした態度を見逃さなかった。 「きみはこの女に見覚えがあるらしいね。隠さずに話さないと、後悔することが起こるぜ。 きみはこの女を、ここへ連れ込んだのじゃないかね」 「と、とんでもない」  土井は嫌疑なんかかけられては大変だとばかり、一生懸命弁解した。 「女なんか連れ込むものですか。全然、見たこともない女です」 「ふん」  司法主任は|嘲笑《あざわら》うように言った。 「どうだか分かったものじゃない、どうも屍体の様子では、他殺だか自殺だか、それとも 病死かよく分からないが、いずれにせよ、きみの全然知らない女がきみの部屋に入り込ん で、ベッドの中で死んでいたということは信じられないね。きみは知らんはずはあるまい」 「ま、まったく知らない女です。わ、わたしも、どうしてこの女がここで死んでいるのか、 さっぱり分からないのです」  土井は必死に抗弁した。ところへ、ホテルの呼んだ付近の医師が来たので、司法主任は 部屋に入ることを許して診断を求めた。  医師は丁寧に屍体を|検《あらた》めてから言った。 「他殺か自殺かは判明しませんが、どうも病死ではありませんな。毒物による中毒死です な。さよう、死後三、四時間というところでしょうか」 「死後三、四時間というと、遅くとも八時ごろにこの女はホテルに来たはずじゃが」  司法主任は入口の所でおどおどしているクラークを手招きして呼んだ。 「だれか、この女がホテルに入ったのを見た者はないのかね」 「はあ、だれも見かけた者はありませんのです」  クラークの答えに、司法主任はしばらく首を傾けていたが、やがて刑事を顧みた。 「警察部と検事局に、変屍体のあることを報告しろ」  司法主任はようやく、事件が容易ならぬ複雑したものだと考えはじめたのだった。彼は 府の警察部と地方検事局の出動を求めたのである。  司法主任は室内をじろじろと見回した。室内には格闘をしたような跡は全然なかった。 ベッドに横たわっている死美人にも、全然、暴力を用いたような形跡はなかった。彼女は まるで眠るように死んでいた。少しも|苦悶《くもん》したような跡はないのだった。  司法主任は刑事に耳うちをした。 「女の履物を捜せ」  死美人は素足だった。ベッドの付近に彼女の履物が見当たらないので、|胴眼《けいがん》な司法主任 はそれを捜すべく部下に命じたのだった。  履物はどこからも出てこなかった。 「はてな、屍体として運んできたのかな」  司法主任は|眩《つぷや》いた。彼は最初から、女はベッドの中で死んだのではなく、死んでからべ ッドに寝かされたのだと|睨《にら》んでいたのだった。  司法主任はじろりと土井を眺めながら、 「きみは今日一日、どんなことをしていたのかね。詳しく話してみたまえ」  土井は今朝大阪に着いたこと、正午ごろまでこの部屋にいて、それからちょっと摂津ホ テルに知人を訪ねて、それから先はずっと道頓堀のカフェーにいたことをすっかり話した。 「大阪へ来た目的は何かね」  土井の話を聞き終わった司法主任は言った。 「それは、あのI」  土井はぐっと詰まってしまった。しかし、下手な返事をしてますます疑われるようなこ とがあってはならないと思ったので、彼は野崎氏の消息を探りに来たことを正直に言った。 「なに、野崎寛吉? それは最近、東京付近で殺された人じゃないかね」  さすがに、司法主任は軽井沢の怪事件を覚えていたのだった、土井は野崎氏があるいは 生きてはいないかという疑いがあって、かつ留守宅に電報が来たりしたので詳しい事情を 探りに来たのだと答えて、なお野崎氏の令嬢銀子が摂津ホテルに来ていることをつけ加え た。司法主任は|頷《うなず》きながら、 「なるほど、さっききみが摂津ホテルにいる知人を訪ねたというのはその令嬢のことだね。 ふん」  司法主任は急に目を光らした。 「ここに死んでいるのは、その銀子という娘ではないかね」 「いいえ、違います」  土井はとんでもないという風に、慌てて激しく首を振った。 「ふん」  司法主任は部下の刑事を呼んで摂津ホテルに電話を掛けて銀子のことを聞くように命じ た。  しばらくすると、刑事は部屋に帰ってきた。 「摂津ホテルヘ電話を掛けましたら、野崎銀子という婦人は午後に出たきり、まだ帰っ、㌦、 こないそうです」 「ええっ」  司法主任より先に、土井は驚いて跳び上がったのだった。 「そ、それは大変です。銀子さんはどこかで、ひどい目に遭っているに違いありません。 し、至急に行方を捜してくださいL 「静かにしたまえ」  司法主任は不機嫌な顔をしながら、 「われわれはきみの指図を受けることはないのだ」  そう言って、彼は刑事のほうに向き直った。 「その銀子という女の行方を、至急に捜し出してくれたまえ。それからー」  司法主任は小声で何かつけ足した。刑事は顔面を緊張させて頷きながら、ふたたび部屋 を出ていった。 「きみはどうしても、この死んでいる女を知らないというかね。もう一度よく考えてみた まえ」  土井のほうに向き直った司法主任は重々しく言った。  土井はきっぱりと答えた。 「何度お|訊《たず》ねになっても、答えは同じことです。全然知らない女です」  司法主任は黙った。そうして、探るような目つきで土井をじっと眺めていたが、彼がま んざら嘘を言っているようにも見えないので、主任は困惑したようにほっと溜息をついて 口の中で眩いた。 「実に奇怪な事件だ」  司法主任はじっと考え込んだ一、  しばらくすると、さっきの刑事が入ってきて何事かを報告した。  司法主任の顔は急に緊張した。 「おい、きみ」  彼は土井に呼びかけた。 「いま、たぶんきみの言うカフェーだろうと思って一、二軒電話を掛けさせてみたが、だ いたいきみの言ったことは嘘でないことが判明した。しかし、きみは一、二隠していた点 がある」 「わたしは何も隠しはしません」  土井が不服らしく言うのを、主任は押さえて、 「いいや、きみは隠している。黒眼鏡の女というのは、いったい何者かね」  黒眼鏡の女は何者かと|訊《き》かれて、土井ははっと顔色を変えた。  司法主任はすかさず畳みかけた。 「それに、きみは女から|貰《もら》ったのだと言って、奇麗なシガレット・ケースを持っていたそ うだ。その女というのはだれかね」 「え、そのシガレット・ケースはさっき言った野崎銀子さんから贈られたのです。こ、こ れです」  土井は黒眼鏡の女のことをごまかすために、話をシガレット・ケースのほうに持ってい こうと考えて、ポケットから箱を出して司法主任の前に差し出した。  司法主任はシガレット・ケースを受け取ったが、そんなことでごまかされはしなかった。 「それで、黒眼鏡の女というのは何者かね」 「      」 「きみは確かに何か隠しているね。黒眼鏡の女というのは、きみをつけ回していたのじゃ ろう。それできみはその女を邪魔にして、片づけてしまったのだろう。ここに死んでいる 女が、その黒眼鏡の女に違いない」 「そ、そんなことはありません。黒眼鏡の女は確かにわたしをつけ回していたかもしれま せんが、わたしがその女をこ、殺すなんて、と、とんでもない。絶対にそんなことはあり ません。ここに死んでいる女は、黒眼鏡の女とは別人だと思います」 「別人だと思います、とは、どうも|曖昧《あいまい》だね」  司法主任はますます怪しむように、土井を見た。 「もっとはっきり申し上げたいのですけれども、黒眼鏡の女も、そう確かには知らないの でl」 「なに、確かには知らない。そんなはずはないじゃないか。きみはきみを追い回している 女を、よく知らないと言うのかね」 「変な話ですけれども、よく知らないのです」  司法主任は|呆《あき》れたという風に、しばらく土井の顔を眺めていたが、 「どうも、きみの話は変だね。訳が分からん」  司法主任は土井から渡された黄金のシガレット・ケースをいじくりながら、訊問を続け ていたが、この時に偶然、|蓋《ふた》を開けるポッチに触れたとみえて、ぱっと勢いよく蓋が開い た。そのとたんに、中からぱらりと紙切れが落ちた。  司法主任ははっとしながら手早く紙片を取り上げたが、みるみる彼の目が光った。  彼は不意に、シガレット・ケースから見覚えのない紙切れが飛び出したので、|呆気《あつけ》にと られている土井の前にその紙片を突き出した。 「これは何じゃね」  土井はおどおどしながら紙片を覗き込んだが、あっ! と叫んだ。  紙片には、次のようなことが細かいペン字の女の筆跡で書かれていた。   あたし、ホテルヘ行って待っていてよ。大丈夫、悟られてやしないから。だから、早  く帰ってきて|頂戴《ちようだい》ね。  土井はぶるぶると頭えはじめた。またしても、彼は恐ろしい|陥穽《かんせい》に落ちたのだ! 「し、知りません。覚えがありません」  土井は必死に叫んだが、彼が|狼狽《ろうぱい》するだけ司法主任の態度はますます冷たくなった。 「知らないって、きみ、きみが肌身離さないで持っているシガレット・ケースに、こうい う紙片が入っているのをぎみが知らないはずがないじゃないか」 「まったく不思議です。いつそんなものが入ったか、まったく不思議です」  土井は上擦った声で、ぶつぶつと眩くように言った。  司法主任の、土井を見る目はすっかり違ってきた。彼は土井を怪しいと思い出したのだ った。 「どうも、きみの言うことは筋道が立たんね。少し取り|逆上《のぽ》せているんだろう」  彼は嘲笑うように言って、もうそれ以上に追及しようとしなかった。  そこへ、どやどやと警察部と判検事の一行がやって来た。そうして、屍体はひとまず天 満署に運ばれ、土井も同行されることとなった。  土井があくまで死美人を知らないと言い張るので、まずだいいちに死美人の身元を探る べく、刑事は八方に飛んだのだった。  屍体は解剖の結果、死後四時間くらいで、青酸中毒と判明した。しかし、いかなる経路 で青酸中毒を起こしたのかはまったく不明で、現在のところ他殺とも自殺とも、-あるいは 過失死とも断定ができないのだった。  翌朝になって、刑事の取調べから意外な事実が一、二発見された。それは昨日、野崎銀 子と称して摂津ホテルに投宿して、外出したまま帰らない女の着衣が浜ビルホテルの一室 に発見せられた女の着衣によく似ていたことと、同じような服装をした女が昨日の午後、 |北浜《きたはま》の|三越《みっニし》百貨店で黄金製のシガレット・ケースを買い求めたことだった。  天満署の捜索本部はこの報に、にわかに活気を呈した。ただちに、摂津ホテルのクラー クと三越百貨店の販売部の係員が召喚された。  摂津ホテルのクラークは屍体を見て、 「野崎銀子と言って、部屋を取った人は確かにこの女です」  と言った。  三越の係員は首を傾けながら、 「大勢の客の中ですからはっきりと申し上げかねますが、昨日午後二時ごろ、シガレッ ト・ケースを買っていった人はこの人だと思います。二、三日以前に一度来られて、頭文 字を入れることを命じていかれたのですが、その時にはわたしはおりませんでしたから、 同じ人だかどうか分かりません」  捜索本部では直ちに、鎌倉の野崎邸に銀子がいるかどうか問合せの電報を打った。折り 返し返電があって、銀子は一昨日夜行で下阪、摂津ホテルに投宿したと知らせてきた。  土井はさっそく署長の前に引き出された。 「きみは野崎銀子を知っているね」  署長の問いに、土井は答えた。 「はあ、よく知っています」 「ふむ。それでいて、あの死んでいた女は知らないというのだね」 「はあ、全然知りません」 「ばかを言うなっ」  署長は急に一喝した。 「きみは警察をなんだと思っているかっ。あの死んでいた女が銀子であることは、いくら 隠してもちゃんと分かっているぞ」 「えっ、あの女が銀子ですって」  土井は呆気に取られながら、 「じょ、冗談言っちゃいけません。まるで別人です」  土井の態度に、署長はやや拍子抜けしながら、 「きみはあの女は、野崎銀子じゃないと言い張るんじゃね」 「ええ、だれがなんと言っても、銀子じゃありません、断言します」 「うむ」  署長は困惑しながら捻ったが、 「きみは銀子から、煙草入れを貰ったそうじゃね」 「ええ、頭文字の入ったシガレット・ケースを貰いました。高島屋の包紙にちゃんと包ん で、摂津ホテルの帳場に預けてあったのです」 「なに、高島屋の包紙?」  署長は|眉《まゆ》をしかめながら反問した。  署長の反問に、土井は頷いた。 「ええ、高島屋の包紙でした。もっとも、ぼくはよく知らないのです。カフェーの女給が そう言いました」 「そうじゃろう」  署長は初めて、分かったという風に頷いた。 「女給がいい加減のことを言ったのだ。煙草入れは三越で買ったのだ」 「三越?」  今度は土井が反問した。 「違います。三越じゃありません。三越の包紙ならぼくはよく知っています。東京も大阪 も同じでしょう。あの包紙は断じて三越じゃありません」 「では、包み替えたのだろう」 「そうかもしれませんが、見たところはどうも、買ってきたままそっくりしてあったよう でした」 「ふむ、もうよろしい」  署長はひとまず土井を退けた。  死美人が土井の言うように銀子でないとすると、ふたたび身元調べからやり直さなけれ ばならないし、事件は非常に紛糾してくるのだった。署長は舌打ちしながら、摂津ホテル のクラークを呼んだ。 「野崎銀子というのは、これまでに投宿したことはあるのかね」 「いいえ」  クラークは頭を振った。 「お父さんはたびたび泊まられましたが、お嬢さんのほうは今度初めてです」 「ふむ。何か様子の変わったところがなかったか」 「さあ、そうおっしゃれば、野崎のお嬢さんにしてはどうも服装が少し安っぽいと思いま した。それに、東京から来たにしては荷物も少ないようでした」 「ふむ。荷物はどういうものだったかね」 「小さいスーツケースが一つでした」 「その荷物はどうしたかね」 「さきほど刑事さんが持って行かれましたが、たぶん、こちらにあるだろうと思います」 「そうですか。よろしい、どうもご苦労じやった」  クラークはほっとしたように出ていこうとしたが、署長は急に思い出したという風に呼 び止めた。 「もう一つ訊きたいことがあるが、野崎銀子はきみの所へ来ることをまえもって知らせた かね」 「はい、前日、電報で部屋を取っておくようにと言ってきました」 「よろしい、分かりました」  クラークが出ていくと、署長は司法主任を呼び入れた。 「摂津ホテルから、銀子のスーツケースを持ってきたそうだが、中を調べてみたかね」 「はあ、調べました。中には婦人用のいろいろの雑品が詰めてありまして、確かに銀子の 物に相違ないと思われます」 「ふふん、ところが、どうも死んでいる女は銀子ではないらしいのじや」  司法主任は頷いた。 「どうも、銀子ではないらしいですな。最近の婦人雑誌に銀子の写真が出ていますが、全 然違うようですから。実は、たったいまそれを発見して、お知らせしようと思っていたと ころでした」 「そうだったか。それから、土井は銀子に貰った煙草入れは高島屋の包紙に包んであった と言うのじゃが」 「ああ、それも、ちょうど部下の者が調べてきたところです。土井はカフェi『青い灯』 で包みを開けたのでして、傍で見ていた女給が確かに高島屋の包紙だったと言うので、さ っそく高島屋を尋ねてみたそうですL 「ふむ」  署長は|忙《せわ》しく訊き返した。 「そうしたら、どうだった」 「高島屋で黄金のシガレット・ケースを、昨日確かに売ったそうです。若い婦人が買いに 来たので、しばらく待ってもらって頭文字を入れたというのです」 「なに、頭文字を入れて、ふん」 「どうもおかしな話ですよ。それで、店員にすぐ来るように言っておきましたから、まも なくやって来るでしょう」  司法主任がこう言ったときに、刑事が高島屋の店員が来たことを告げた。  主任はさっそく店員を別室に入れて、問題のシガレット・ケースを見せた。  店員は手に取って、しばらく眺めたすえに、 「どうも、非常によく似てはいますが、わたしの店で売ったのとは少し違うようです」 「ふん」  司法主任は満足そうに頷いた。彼は期待していたとおりの返事が得られたのだった。し かし、彼は職掌柄、念のために訊いた。 「で、そのシガレット・ケースを買った女客というのは、どんな風だったかね」 「二十三、、四の令嬢で、非常な美人でした。東京の方らしく、はきはきした東京言葉で応 対されました」 「なに、美しい令嬢で東京言葉だった」  司法主任は思い当たるところがあった。 「ちょ,っと待ってくれたまえ」  彼は急いで部屋を出たが、・やがて、一冊の婦人雑誌を持って入ってきた。 「きみ、その買物をしたという令嬢はこの人じゃなかったかい」  主任は婦人雑誌の巻頭の写真の中から、野崎銀子の洋装姿を選び出して店員に指し示し た。一目見ると、店員は叫んだ。 「ああ、この人です。この人に違いありません」 「確かに違いないかね」 「絶対に間違いありません」 「きみの店に来たのは、何時ごろだったかね」 「午前十時ごろでした」 「別に何か変わった様子はなかったかね」 「変わった様子ですって」、  店員は司法主任の思いがけない質問に、目をぱちぱちさせながら、 「変わった様子なんか、なんにもありません。すこぶる元気で、きびきびしておられまし た」 「ふーん。それで、品物は自分で持っていったのだね。別に贈物にするようなことは言っ ていなかったかね」 「ええ、贈物にするのだと言っていました。しかし、晶物は自分で持っていかれました」 「ふーん。いや、どうもありがとう。また、何か訊きたいことが起こるかもしれんが、今 日はこれでよろしい」  司法主任は報告を待ち構えている署長の所へ帰ってきた、、 「署長、実に変ですなあ。`昨日のうちに野崎銀子は高島屋へ行って、死んでいた女は三越 へ行って、ほとんど同じような煙草入れを買っているんです。そして、どっちもK.Dと いう頭文字を入れさせているんです、ところが、土井が摂津ホテルで、野崎銀子からだと いって受け取った物は、包みは確かに高島屋の紙だったのですが中身は三越の品物だった のです」 「なんだって」  署長は頭の後ろをとんとんと|叩《たた》きながら、 「なんだか、わしは頭が悪くなったようじゃ。きみの言うことがよく分からんよ。いった い、それは包紙を取り替えたのか、それとも品物をすり替えたのかL 「どっちでも同じじゃありませんか。はははは」 「うーむ」  署長が捻った。 「同じようでもあるし、違うようでもあるて。なんにしても奇怪千万だ。一刻も早く死ん でいた女の身元を探り出し、同時に野崎銀子を見つけ出さなければならん。しっかり頼む ぞ」 「承知しました。まったく近来にない怪事件です。しかし、いずれにしてもあの土井とい う男は実に怪しいですよ。直接犯罪に関係しているかどうか分かりませんが、とにかく知 っていることを隠していますよ。あの男をもう少しとっちめたら、きっと何か泥を吐くで しょう」 「ふむ」  署長は司法主任の意見に、ちょっと同意できないという風に、 「しかしね、ぼくはどうも、あの男は深いところは知らんと思うね。まったく見ず知らず の婦人が、あの男の部屋で死んでいたらしく思われるが」 「わたしも初めはそう思っていたのですが、土井が死んでいた女を全然知らないというこ とはないらしいです。顔は知らないまでも、|噂《うわさ》に聞いていたとかなんとか、少しは覚えが あるらしいですよL 「なるほど、そんなことはあるかもしれんね」  署長と司法主任はなお、今後の方針について相談をした。そこへ、八方に散った刑事た ちは思い思いの報告をもたらして帰ってくるし、刑事課長や検事もやって来て、額を集め て捜索方針の打合せが始まった。  まず、死美人が、浜ビルディングに入った経路について、屍体となって運ばれたという 説と、生きて入ってきて部屋で死んだ(あるいは殺された)という説に分かれた:  屍体となって運ばれた説を支持する人は、第一に、履物がないということ、第二に、部 屋にはなんら毒薬らしいものがなく、また毒薬を与えた形跡もないこと、屍体が少しも抵 抗した跡がなく、しかも行儀よく寝台に寝かされていたこと、などを理由にするのだっ た。  それに反して、部屋に入っでから死んだということを主張する人はまず第一に、いかに 巧妙にやったところで、午後八時といえば相当|賑《にぎ》わっているホテルヘ、人目につかないで 屍体を持ってくるということはとうていできないということ。履物のないのは、彼女が足 音を忍ばすために階下で履物を処分して、裸足で上がってきたものと推定されること。青 酸は極く少量でしかも瞬間的に死ぬものであるから、彼女がベッドに横たわってから、隠 していた毒薬を|呑《の》んでああいう姿勢で死ねないということはないこと。また、あるいは彼 女のほかに第三者がいて、彼女を毒殺してから寝台に寝かせて逃げ出したのかもしれない こと、を理由にして、いずれにしても、ホテルに入ったときには彼女は生きていたという のだった。  他殺か自殺かということについては、他殺説が多数だった。  彼女が解剖の結果の示すとおり午後八時ごろ死んだものとすると、午後二時に三越で買 物をしてから約六時間、どこでどうしていたか。  解剖の結果、彼女の胃には食後二時間を経過した|蝦《えび》と、牛肉に野菜などが発見された。 彼女は午後六時ごろ、夕食に西洋料理を|摂《と》ったものと考えられるのだった。それで、同時 刻に彼女に似よりのものが食事をしたか否か、市内の西洋料理店について|風潰《しらみつぶ》しに探査す ることになった。  なお、土井が持っていたシガレット・ケースについては、さらに三越と高島屋の係員に 詳しく鑑定させることになり、ケースから出てきた怪紙片については筆跡鑑定その他の化 学検査をすることになった。  会議が終わって司法主任はほっとしたが、そこへ思いがけない客が来た。      水松警部の話  天満署の司法主任酒井警部補は名刺を取り上げて、ちょっと変な顔をした。名刺には軽 井沢警察署警部水松|房吉《ふさきち》と刷られていたのだったが、司法主任の頭にはすぐに、野崎事件 で訪ねてきたのだということが電光のように|閃《ひらめ》いたのだった。 「やあ、初めまして」 「お忙しいところを、どうも」  二人は初対面の|挨拶《あいさつ》が済むと、すぐに土井の事件の話に移った。 「実はわたしはl」  水松警部は言った。 「問題の土井という男を当地まで尾行してきたのですが、急に新事件にぶっつかってちょ っと目を離していました間に当署へ拘引されてしまったようなわけで、大きに面食らって いるのです、いったい、土井はどういう理由でこちらへ拘引されたのですか」 「それはね、こういうわけです」  司法主任は土井の部屋に姓名不詳の怪美人が|屍体《したい》となって横たわっていたこと、土井の 言葉に不審な点か多いのでとりあえず留置したこと、を詳しく物語った。 「ははあ」  さすがに怪事件に|馴《な》れてきた水松警部も、あまりにも奇怪な話に目を丸くしないではい られなかった。 「ところで  」 司法主任は言った。 「あなたが土井を尾行してきたのは、どういうわけだったのですか」 「それはね、とても一朝一夕には話せないほど、込み入ったことなのです」 水松警部は軽井沢事件のことをざっと話して、東京で悪漢を追跡中、浅草でふと土井 を見かけたこと、それからずっと彼を|尾《つ》けていることを話した。聞き終わった司法主任 は、 「なるほど。そうすると、土井という男はかなり事件に首を突っ込んでいるのですな」 「さあ、そこですよ」 水松警部は答えた。 「わたしも実は、土井が事件の深いところに触れていると思って、こうして絶えず尾けて いたのですが、どうも、ことによると彼はなんにも知らないで、怪漢の,一味に|翻弄《ほんろう》されて いるのかもしれないと思うようになりましたよ。ホテルの怪屍体についても、彼が全然見 知らないというのが本当かもしれないと思うのです」 「しかし、土井はわたしの面前で屍体を見たときに確かにぎくりとしましたし、それに持 っていた煙草入れから出た紙片に書いてあったことが、どうも逃れられない証拠だと考え られますがね」 「そうですね。その紙片を彼が知らなかったということは、実に不思議ですね」 「まったく不思議です。それはそうとl」 司法主任は思い出したように、 「あなたは新事件にぶっつかって土井の尾行を|止《や》めたと言われましたが、その新事件とい うのはどういうことなのですか」 「それがね、実に奇妙なことなんですよ」 水松警部はほっと|溜息《ためいき》をついた、そうして、しばらく黙り込んだすえに言葉を継いだ。 「わたしは土井を尾行して東京駅から汽車に乗り込んだのですがね、土井には顔を知られ ていますし、わざと土井の乗り込んでいる二等車の次の三等車にいたのです。すると、汽 車が|大船《おおふな》に|停《と》まったときに、黒眼鏡をかけた令嬢風の女が乗り込んできたのです」 「三等車のほうへですね」 「そうです。|身装《みなり》からいっても、どうも二等のほうに乗りそうな客でしたがね、ところが、 その黒眼鏡の令嬢にどうも見覚えがあるのですよ。そのうちにふと思い当たりましたが、 黒眼鏡の女は野崎銀子に実によく似ているのです」 大船から乗り込んだ黒眼鏡の令嬢が野崎銀子によく似ていたと聞いて、司法主任は跳び 上がるように驚いた。 「え、えっ、野崎銀子ですって。銀子はいつもは黒眼鏡をかけていないのですか」 「ええ、いつもは黒眼鏡はおろか、ただの眼鏡だってかけてはいません」 「それで、確かに銀子だということは分からないのですか」 「ええ、それがね、どうも確かには分からないのです。というのは、わたしは銀子にはよ く知られていますからね。悟られてはどうも具合が悪いと思うので、あんまりじっと眺め ることはできないのです。もっとも、わたしもちょっとした変装をしていましたから、向 こうでも気がつかないようでしたが」 「銀子は土井と相前後して大阪に来た形跡がありますから、恐らくその女は銀子だろうと 思われます」 「ええ」 水松警部は|頷《うなず》いた。 「大船から乗り込んだ点といい、どうも銀子らしいですよ。ところが夜中近くでした、奇 妙な事が起こったのです。というのは、わたしの前を通って二等室のほうへ、黒眼鏡の女 が一人歩いていくのです」 「ははあ、銀子が二等室へ行ったのですな」 「初めはわたしもそう思ったのです。ところが、その黒眼鏡の女はさっきの銀子に似た黒 眼鏡の女とは全然違う女なのです」 「えっ、では、黒眼鏡の女は二人いたんですね」 「そうなんですよ。どうもね、黒眼鏡をかけた女なんて、そうざらにいるものではありま せんからなあ。同じ列車に二人も乗り合わしているというのは、実に変ですよ。ご承知の とおり、女、ことに若い女の黒眼鏡というものは実にグロテスクなものですからなあ。夜 中に、いかにほかに乗客のある列車中とはいえ、わたしの前を通り過ぎた黒眼鏡の女が全 然別の女だったということは、あんまり気持ちのいいものじゃありません。わたしは通り 魔のような気がして、ぞっとしましたよL 「ごもっともですなあ。夜中に黒眼鏡の女が通る。それが前に見た黒眼鏡の女とは別人だ ったというのは、どうも気味が悪いですな。そして、その女はどうしました」 「すーっとわたしの前を通り過ぎて、二等室の中へ入りましたがね。それっきり帰ってこ ないのです」 「ははあ、二等室の客だったんですな」 「ところがそうじゃないのです。わたしは土井を監視する必要もあり、しばらくしてそっ と|覗《のぞ》いてみたのですが、彼女の姿は見えませんでした」 「はてね」 「二等室を通り抜けて先の車へ行ったか、それとも途中の停車駅を利用してプラットホー ム伝いにもとの車へ帰ったのか、どうも変なのですよ」 「なるほど、どうも変な女ですな。しかし、わたしはその女は土井に関係があると思いま す。というのは、土井が昨夜道頓堀のカフェーにいたときに、黒眼鏡の女がその跡を尾け ていたのです。たしか、カフェー『青い灯』で黒眼鏡の女が土井に、紙片に絵を|描《か》いたも のを女給に言付けて送った事実がありますL 「絵を描いた紙を?」 水松警部は司法主任の言った言葉を、思わず繰り返しながら、 「土井はそれを受け取って、どうしましたか」 「なんでもひどく|狼狽《ろうばい》して、女給を呼んで怒鳴りつけたそうです」 「どんな絵が描いてあったのでしょう」 「四本指の手みたいなものが描いてあったそうです」 「え、えっ」 四本指の絵と聞いて、水松警部は跳び上がった。警部の驚き方があまりに激しいので、 司法主任は不審そうに、 「ど、どうしたんですか。四本指の絵には何か|仔細《しさい》があるのですか」 「ええ、少し理由があるのです」 水松警部は言葉を濁した。これは野崎事件に重大な関係のあることで、たやすくは打ち 明けられないのである。 「黒眼鏡の女がその絵を、土井に送ったんですね」 「そうです」 司法主任は四本指の理由を深く追及しようとしないで頷きながら、 「ですから、あなたが汽車の中で見られた黒眼鏡の女は、確かに土井に関係があります よ」 「なるほど。しかし、土井にその怪しい紙片を送った黒眼鏡は銀子に似たほうかそうでな いほうか、分からないですね」 「そうです。その点はいまだはっきりしません」 「ふむ、それは残念ですな。それが分かると非常にいいのですがね」 「黒眼鏡の女から四本指の絵を描いた紙片を受け取った女給に人相を|訊《き》けば、あるいは分 かるかもしれません。それはそうとして、あなたは今朝大阪駅に着いてから、どういう行 動を取られたのですか」 「大阪駅に着いたときにはまったく弱りましたね。土井の跡も尾けなければならないし、 怪しい二人の黒眼鏡の女の行動も探りたいし、といったところで一人ではどうすることも できないというわけでしてね。しかし、わたしはとりあえず土井の後を追いました。する と、彼は出口の所でタクシーを呼んで、浜ビルホテルヘと言い付けましたから、とにかく 彼の落ち着く先は分かったのです。それで、わたしは急いで出口のほうを振り返りますと、 後から出てくる乗客のうちに黒眼鏡の女が交じっているのが目につきましたのでー」 「どっちのほうでしたか」 「それは銀子に似ているほうでした」 「いまだ、はっきり銀子かどうかということは分かりませんでしたか」 「それがね、あかあかと朝の日が当たっている所なのですが、どうもはっきりしないので すよ。銀子のようでもあり、どことなく違うようでもあり」 「ははあ、黒眼鏡一つで、それほど分からなくなるものですかなあ」 司法主任は別に皮肉の意味でなしに、感嘆したように言った。水松警部は頷きながら、 「ええ、黒眼鏡というものが、あんなに人相を変えるのに効果のあるものだとはいままで 考えていませんでしたよ。そこでね、わたしはとりあえず銀子に似た黒眼鏡の女の跡を尾 けることにしました。もう一人の黒眼鏡はあたりに見当たりませんでしたし、よし、いた ところで二人の跡を尾けることは不可能なのですから、|諦《あきら》めるより仕方がないのです」 「その黒眼鏡の女は、摂津ホテルヘ行きませんでしたか」 「いいえ、そこまで突き止めることはできませんでした。というのは、わたしは大失策を やったのです。まったくお話にならないです。黒眼鏡の女はすぐにタクシーに乗らずに、 上りの一、二等待合室に入りました。そうして、約一時間ほどそこにいました。たぶん、 だれかと待ち合わせるつもりだったらしいのですが、その人間がどうしたのかやって来な いので、とうとう|痺《しび》れを切らしたらしく、何かぶつぶつ言いながら外に出て、タクシーを 呼んで乗り込みました。わたしはむろん、すぐ別のタクシーを呼んでその後を追いまし たL 「里眼鏡の女を乗せたタクンーはー」 酒井司法主任は言った。 「もしや、|長堀橋《ながほりぱし》の高島屋へ行きはしませんでしたか」 「そのとおりです」 水松警部は驚いたように、司法主任を見上げた。 「どうして、分かりましたか」 「実はね、昨日の午前十時ごろに、野崎銀子らしい女が高島屋に現れているのです。それ で、その黒眼鏡の女が野崎銀子に違いないことが分かりました。もっとも、店員の話では 黒眼鏡なんか掛けていないようでしたが」 「ははあ、銀子らしい女が店員に認められているんですね。そうすると、やはりあの女は 銀子ですな。高島屋の中に入ると、素早く黒眼鏡を取ったのでしょう。そうだ、きっと手 洗所の中で取ったのに違いない。わたしは高島屋の中をあっちこっちと、黒眼鏡の女を尾 けて回るのにずいぶん骨を折りました。ご承知のとおり、混雑した百貨店の中というもの は実に尾行しにくいものですよ。しかし、さいわいに向こうは尾行されていることには気 がついていないようですし、黒眼鏡という特徴もありますし、うまく見失わないように尾 けていったのですが、やがて、彼女はたしか三階だったと思いますが、手洗所に入ったの です。まさか中までは尾けられませんし、それに出口は一つですから、必ず出てくるはず と、出口に近い所で頑張っていました。するとどうしたものか、+分|経《た》っても二+分経っ ても出てこないのです。わたしはよほど中へ入ろうかと思いましたよL 「ずいぶん手間取ったものですなあ」 「ええ、まったく弱りましたが、なんといっても婦人手洗所の前ですからなあ。そう、立 ったきりというわ,けにはいきませんよ。変態性欲者と間違えられちゃ困りますからね、は ははは。まあ、ぶらぶらとあたりを歩き回って、それとなく出口に目を配っていたのです。 すると、小一時間も経ったと思われるころ黒眼鏡の女がすーっと手洗所から出てきました。 そして、たちまち階段を降りはじめたのです。わたしはあいにく手洗所からは二、三間離 れた所にいましたので、慌てて階段の降り口に来たころには彼女はもうほとんど階段を降 り切っていました。私は飛ぶようにして階段を降りて、彼女に追いつきますと、はっと驚 きました」 「どうしたんですか」 「黒眼鏡の女が違っているんです。わたしの尾行していた銀子に似た黒眼鏡の女でなくて、 いつの間にか別の黒眼鏡の女に変わっているのです」 「へえI」 司法主任は目を丸くしながら、 「手洗所に入ったのは、確かに銀子に似たほうだったのですね」 「それは絶対に間違いありません」 「銀子の後から、もう一人の黒眼鏡が入ったのじゃありませんか」 「あるいはそうかもしれませんが、どうしてわたしがそれを見落としたろうと思うのです。 わたしはずっと、手洗所の出入口を見守っていたのですから」 「しかし、あなたは出る女にばかり気を取られて、入るほうにはつい目こぼしがあったの じゃありませんかね」 「そんなことかもしれません。しかし、銀子の後から黒眼鏡の女が入ったのを見落とすな んてことは、絶対にないと思うんですがなあ」 「そうですね。どうも奇妙ですな」 「まったく変ですよ」 水松警部はいかにも残念そうだった。 「二人の黒眼鏡の女の間には、何か関係があるのでしょうかね」 酒井主任は言った。 「さあ、それもはっきりしないのですよ。なにしろ、わたしが手洗所の前で小一時間も待 たされて、いらいらしているところへ黒眼鏡の女が出てきたので、てっきり銀子のほうだ と思ったのが失策でしたよ。もっとも女の行動が素早くてたちまち階下へ降りたもので、 充分それと確かめる暇もなかったのでしょうけれどもL 「それはどうも、失策とはいうものの仕方がありませんな。だれでもその手には一杯食い ますよ。それで、あなたはどうなさいました」 「いまさら階上へ引き返すわけにもいかないし、仕方がありませんからその身代りの黒眼 鏡を尾行しはじめました。すると、この黒眼鏡がなかなかどうして|強《したた》かな|奴《やつ》でしてね。尾 行されているのを知っていましてね、巧みに|撒《ま》こうとするのです。まったく弱らされまし た」 「ははあ、それはなかなかの女ですな」 「その女が野崎事件に関係があるということが確かに分かっていれば、わたしももっと熱 心になるのでしたが、銀子に似た黒眼鏡を追っているうちに思いがけなく別の黒眼鏡が出 てきたというわけで、それが偶然なのか計画的なのかはっきりしませんし、尾行している うちになんだかばかばかしい感じもするし、そんなことで、しばらくのうちにとうとう見 失ってしまいましたよ」 水松警部は頭を|掻《か》いた。どうなるかと思って熱心に聞いていた司法主任は、いざさか拍 子抜けがした。 「ははあ、とうとう逃げましたか」 「ええ」 警部は苦笑をしながら、 「わたしはさっそく高島屋に引き返しました。つまり、高島屋のほうが気になっていたの ですな。それが黒眼鏡の尾行を失敗した原因でもあったのです。けれども結局、高島屋で はなんの得るところもありませんでした。|二兎《にと》を追って一兎も得ないという形ですな。は よ十守十小 '"」 「それはどうも残念でしたな。あなたを撒いた黒眼鏡は夕方になるとがぜん道頓堀に現れ て、土井の後を見え隠れにつけまわして、例の紙片を彼に送ったというわけです」 「それを聞いて、実に残念だと思いますよ。あの黒眼鏡は野崎事件に、深い関係があるに 違いないのです。実に残念なことをしました」 「それから、銀子に似た黒眼鏡の女を取り逃がしたことも、かなり遺憾なことでした。彼 女は高島屋で黄金のンカレソトケースを買っているのです。それがね」 司法主任は、銀子は高島屋で、死美人は三越で、同じ日に同じような品を買い入れ、し かも、双方ともK・Dという頭文字を入れさせていることを話した。 水松警部は目を丸くした。 「どうも、変な話ですなあ。買物をした時間はどうなんですか」 「それは少し違います。野崎のほうが午前で死美人のほうは午後です」 「では、摂津ホテルのクラークにその紙包みを預けたというときは、何時ですか」 警部の問いに、司法主任ははっとしながら、 「そうでした。それを確かめるのを忘れていました」 そう言って、彼は急いで卓上電話を取り上げて摂津ホテルを呼び出して、そのことを訊 いた。すると、意外にも正午ごろという返事だった。それを聞いて水松警部は言った。 「してみると、死美人はいまだシガレット・ケースを買っていないわけですね」 「ところが、帳場に品物を預けたのは確かに死美人で、しかも三越の品なんですよ」 掃除人夫 水松警部と酒井司法主任は互いに当惑したように、顔を見合わせた。 銀子は午前中に高島屋で、シガレット・ケースを買い入れた。それは高島屋の店員も認 めているし、銀子らしい黒眼鏡の女が午前中に高島屋に入った事実は、水松警部が目撃し ているのである。一方、浜ビルホテルで怪死を遂げた美人は午後に、同じような晶を三越 で求めでいる。しかも、その美人が野崎銀子と称して、品物の包みを浜ビルホテルの帳場 に預けたのは正午ごろである。そして、包紙は高島屋で中身は三越の晶だった。三越の品 は正午には、いまだ店内に飾られていたはずである。 不可解!こんな不可解なことがあるだろうか。 水松警部は言った。 「店員が見違えているのじゃないでしょうか」 「いいや」 司法主任は頭を振った。 「熟練した店員はどうして、自分の店の品と他の店の品とはちゃんと見分けるものです。 しかも、両方の店員の言葉が一致しているのですから。両方とも間違えるなんてことは、 絶対にありませんよ」 「うーむ」 水松警部は独り言のように|捻《うな》った。土井を中心にして、少なくとも三人の女がいる。野 崎銀子と、怪しい黒眼鏡の女と、それから殺された女。そのうち二人までは身元も分から ず、また、何の目的で土井に近づこうとするのか少しも分からない。 「ああ、実に怪事件だ」 「まったくですよ」 司法主任は|頷《うなず》いた。 「近来にない怪事件です。あなたのお話を聞くと、浜ビルの事件もやはり野崎事件に関係 があるようです。このうえは、ひとつぜひ協力を願いたいですな。野崎事件についてお分 かりになっていることは、残らずお聞かせくださいませんか」 酒井司法主任の言葉には、水松警部も同感だった。野崎事件はあまりに怪奇で、あまり に複雑である。とうてい、彼一人の手で片づくことではない。ことに、こうして大阪にた った一人で来ているのだから、その地の警察の力を借りないでなにひとつできることでは ないのだ。 警部は頷いた。 「わたしも、ぜひお力を借りなくてはならないと考えています。野崎事件について知って いることは、すっかりお話ししましょう」 警部はそもそも最初の列車内の事件から、東洋ホテルの出来事、大宮における乱闘事件 をすっかり話した。 酒井司法主任の顔はみるみる|昂奮《こうふん》で真っ赤になった。 「うむ。奇怪極まる事件ですなあ、とても、ただの相手ではない。うむ、野崎事件という のは、とても根底の深い一大怪事件ですなあ。これはよほど用心をしてかからないと、と んでもない失策をしますよ。いやあなたがおいでくださったので、われわれはどれくらい 利益したか分からん。あなたの話を聞かなければ、浜ビル事件をもっと|見総《みくぴ》ったかもしれ ません。相手について重大な予備知識を得たことは、実に幸運でした」 司法主任は一方では敵の容易ならざる者であることを恐れるとともに、一方ではかえっ て勇気百倍したという有様だった。、 二人はなおも、お互いの知識を交換し合っていろいろと話していると、そこへ刑事が入 ってきた。 「酒井さん、浜ビルの掃除人夫が来て、ぜひ署長さんにお話ししたいことがあると言って いるのですが、署長さんは司法主任に聞いてもらえと言っています」 浜ビルの掃除人夫が、何を話そうというのか。酒井司法主任は水松警部に断って、別室 に来た。と、|胡麻塩頭《きましおあたま》の五十|恰好《かつこう》の男が浜ビルの|印神纏《しるしばんてん》を着て、落ち着きが悪そうに|椅子《いす》 に腰を掛けていた。 彼は司法主任を見ると、慌てて半分ばかり|尻《しり》を持ち上げて、ひょこひょことお辞儀をし た。 「署長さんですか。うちは|湯浅為吉《ゆあさためきち》いいます。ちょっと、内緒でお耳に入れたいことがご ざりますので」 「署長はね、いまちょっと差し支えがあるので。わしは酒井司法主任じゃ。浜ビルの事件 ならわしが係やから、なんでも遠慮せんと言うてみ」 彼は署長ではないという言葉を聞いて、ちょっと失望の色を表したが、すぐに、 「さよだすか。それでは申し上げます。実はお察しのとおり、浜ビルのことだんね。昨夜 の八時ごろのことだす、うちはな、ホテルの裏口の人夫部屋で独りなんにもすることがの うてぽかんとしてましてん。そしたら、裏口から二人連れですーと入っていく人がおまん ね」 「なに、八時ごろに」 司法主任は思わず|膝《ひざ》を乗り出した。 「男かね、女かね」 「二人とも男だす。その時はな、実言うとあんまり気にしまへなんでん。ところがな、あ とになって、ホテルではお客はんでもない女が死んでたとか、けったいな話を聞きますと な、なんやな、あの二人連れはややこしかったと思いまんね」 彼の話すところによると、二人連れは一人はやや背の高い色の浅黒い男で、一人はずっ と小造りで色の白い|華奢《きやしや》な男だった、背の高いほうは洋服だったが、小さいほうは鳥打帽 を|被《かぷ》って|夏《ちヤ》とんびを|着《 ち》ていたということだった。 「|夏《へち》とんび?《へ 》|」 司法主任の胸には、.すぐ疑念がむらむらと起こった。いかに例年になく涼しいとい?て も、いまは夏の盛りである。とんびを|着《ちちち》るほど涼しいわけはない。おかしいぞ、と思った が、.彼は人夫の話を中断させるのもどうかと考えて、黙って聞いていた。 二人は、そ0時にはそれほどには思わなかったが、あとで考えるとどうもなんとなく、 あたりを|偉《はばか》っているようだったそうである。二人は黙々として、忍び足で|裏梯子《うらぱし ヰ 》を昇って いった。いったい、浜ビルホテルの裏梯子は使用人がほんのときどき通るくらいで、普通、 泊まり客や泊まり客に用のある人は昇降しないのだった。 「どこへ行きやはるのかなあ、いまだ宵の口やし、エレベーターも動いてるのに、教えた げようかなあ思うてる暇に、もう姿が見えんようになりましてん。それからなあ、さよう だす、三十分か四十分も|経《た》ちましたやろか、今度はなあ、さっきの男連れのうちの一人が なあ、やっぽり裏梯子からそーっと降りてきやはりましてん」 「なに、一人で。そ、それは、どっちのほうだっ?」 司法主任はわれを忘れて叫んだ。 「背の高いほうだす」 司法主任の意気込み方がひどいので、掃除人夫はきょとんとしながら、 「それからハうちはまだしばらく人夫部屋にいましたけど、小柄のほうのはとうとう降り てきまへんでした」 「ふむ」 司法主任は非常な手掛かりを得たような喜びと、落胆した気持ちと半々だった。なるほ ど、ちょっと耳寄りな話ではあるけれども、といって確実性は少しもない、取り止めのな いことでもあった。 司法主任が黙り込むと、人夫はおそるおそる言った。 「もケ一つ、けったいなことがおますねん」 「なに、けったいなことて、なんや」 様子のありそうな人夫の言葉に、司法主任は考えに沈みかけていた頭を上げて、慌てて |訊《き》き返した。 「今朝のことだんね」 人夫は言った。 「裏口の|傍《そぱ》の|芥箱《  いみばニ》の中に、まだ|新《あら》の鳥打帽子と|下駄《げた》とが、ほかしたるのんを見つけまして ん」 「なにっ」 人夫の意外な言葉に思わず跳び上がった司法主任は、言葉こそ荒かったが、心の中では この重大な発見をもたらしてくれた掃除人夫に抱きついて、礼が言いたいくらいだった。 「へえ」 人夫は司法主任の剣幕がひどいので、まるで|叱《しか》られたように小さくなった。 「そ、その帽子や下駄はどうしたっ!」 司法主任の口は心と反対に、あくまで激しかった。 「こ、ここへ持ってきましてん」 人夫はおそるおそる、傍らの椅子を指した。見ると、そこに粗末な|風呂敷包《ふろしきづつ》みが置いて あった。 「見、見せてごらん」 司法主任は風呂敷包みを引ったくるようにして、大急ぎで結び目を解いた。中からは人 夫の言ったとおり、下ろしたてかと思われるほど新しい鳥打帽子と下駄とが現れた。 「うむ」 司法主任は稔りながら二つの品物をためつすがめつ眺めたが、鳥打帽子のほうは夜店の 品らしく、販売店のマークはなんにもついていなかった。下駄のほうには三越のマークが ついていた。いずれにしても、重大な手掛かりである。 「うむ、これが芥箱の中に捨ててあったんだね」 「へえ、そうだんね」 人夫は司法主任の態度が緩やかになったので、ほっとしたように答えた。 司法主任はじっと人夫を見ながら、 「この鳥打帽子は、きみが見たという男の被っていたものかね」 「そ、それは分かりまへん。けんど、そうやないかいなあ思いまんね」 司法主任はちょっと鳥打帽子の裏を|嗅《か》いでみた。ぷーんと、|微《かす》かながら香油のような|匂《にお》 いがした。 「鳥打帽子を被っていた男は確かに、下駄を履いていたかね」 「そ、それは確かだす。道で会うたんとちごうて、梯子段を上がっていくところやよって、 足のことは格別よう分かりましてん。確かに低下駄を履いてました。それも、この下駄み たいにまっさらだした人。一違いおまへん」 下駄のことになると人夫はよほど確信があるらしく、急に勢いづいて|喋《しやべ》りだすのだった。 「ふ」ん。足袋はどうだったね、|穿《は》いていたかね」 「穿いておへん。素足だした。女みたいな奇麗な足だした」 司法主任の目はぎらηと光った。 午後八時ごろ、二人の怪しい男が浜ビルの裏階段を上っていった。一人は鳥打帽を被り、 下駄を履いていた。ほどへて洋服を着たほうが一入だけ降りてきた。翌日、裏の芥箱に鳥 打帽と下駄とが捨ててあった。これだけの事実で捨ててあった品を、降りてこなかった小 柄な男が身に着けていたものだと断定することはできないかもしれない。しかし、そこに 充分な関係があると認めるのは、決して不自然ではない。ついに降りてこなかった小柄な 男、捨てられた帽子と下駄。司法主任の頭には、早くもある推論が組み立てられたのだっ た。 鳥打帽子を被って|夏《ヤヘ》とんびを|着《 ヤ》た小柄な男。ああ、それは男装した女ではなかったか。 浜ビルホテルの一室で奇怪な死を遂げていた女が、どうしてホテル内へ潜入したかという ことは全然不明だった。推定時刻あたりに、ホテルヘ入った似よりの女は全然なかった。 あらゆる関係者についで厳重に調べたが、そんな女を見かけた者も一人もなかった、がそ れは、こういう女を見かけなかったかと、女ということに重きを置いて|訊問《じんもん》したからでは 、 |き《り》 なかったか寸女、と訊くから、そんな女は見かけません、という答えが得られたのだ。も V` し、女が男装していたとしたら?ここで、あらゆる疑問は解けるのだ。 一人の男が一人の女を、鳥打帽子と|夏《 へ》とんびによってざっと|男《ちち》に変装させて、滅多に人 の通らない裏梯子からホテルの一室に連れ込む。連れ込んでおいてから彼女を奇怪な方法 で殺し、鳥打帽子と下駄とを持ってそっともとの階段を降りた。二品は芥箱の中に投げ込 んでいく。 「だが、とんびは?《ちち 》|」 司法主任ははっとした。そうして、すぐに人夫に問うた。 「一人で降りてきた男は手に、とんびを|持《ち ち》ってはいなかったか」 「持ってました」 人夫は急に思い出したように叫んだ。 「そうだす、確かに、手にこう引っかけて|外套《がいとう》みたいなもん持ってました。行きには確か に、何も持ってしめへん。そうだす、あれは確かにもう一人の男の着ていたとんびや。|妙《ちちへ》 なもんだんな、洋服着た人が手に持ってると、ようも見ないで外套や思いまんな。けんど、 あの人、外套着てしめへなんだ。も一人の人のとんびを|持《ヤヘち》って、降りてきたのに違いおま へん」 「うむ」一 酒井司法主任は思わず吟心った。彼の推察はしだいに確実になってきた。ホテルの一室で 奇怪な死を遂げていた美人は、鳥打帽子と|夏《ヤヘ》とんびで|男《ヘヤ》に変装してホテルヘ入ってぎたの だ。彼女を連れ込んだ男は発覚を恐れて、変装用のとんび・|帽《ちちち》子・下駄を持ち去った。そ のうち、帽子と下駄はホテルを出るや否や、裏口の芥箱の中に投げ込んだのだ。とんび《ちへち》|だ けはどこかへ運び去ったらしい。 司法主任は言った。 「きみはその帽子と下駄とを芥箱に投げ込んでいったらしい男の顔を、よく覚えているか ね」 「へえ」 人夫はやや得意そうに、 「よう覚えてまんね。|頭髪《あたま》を奇麗に分けてな、色の黒い、鼻の|尖《とが》った人だす」 「どうも、ご苦労でした」 司法主任は心から感謝するように言った。 「お陰で、たいへん重大なことが分かった。わざわざ知らせに来てくれてどうもありがと う」 「そないにお礼言われたら、困りますがな」 、'れ 人夫は嬉しそうに、にこにこしながら言った、 " 「お役に立ったら、あてもえらい|嬉《 ヤ》しおまんが」 「お役に立つどころじゃない。いまに事件が落着したら、署からも相当の礼をしますぞ。 それからね、今後もちょいちょい呼び出していろいろ骨を折ってもらうかもしれんから、 そのつもりで」 掃除人夫はぴょこぴょこと頭を下げて、何か、こう手柄を立てたというような気持ちを 顔一面に表しながら、帰っていった。 司法主任は証拠の二晶を大切そうに抱えて署長室に行き、委細の報告をして二品を警察 部の鑑識課のほうに回してもらうことを頼み、待たせてあった水松警部の所に帰ってきた。 水松警部はなにやらぼんやり考え込んでいた。酒井司法主任はにこにこしながら、 「やあ、お待たせしました。ちょっと面白い手掛かりが得られましたよ」 司法主任は浜ビルの掃除人夫の話を、ざっと繰り返した。水松警部は頷いた。 「なるほど、女を男装させて連れ込んだのですね。いや、どうして|強《したた》かな|奴《やつ》ですよ。わた しも東洋ホテルではまんまと一杯食わされて、成田と銀子が目の前で運び出されるのに気 がつかなかったのですからなあ。しかし、奴にも悩みはあったわけですな。帽子やマント はとにかくとして、下駄だけは置いときたかったでしょうな。履物がないということは、 疑われる基ですからなあ。といって、男物の下駄を置いといたのじゃ、変装のことがすぐ ばれるしll」 「それもそうですね。もっとも履物が必要なら、あらかじめ別の女下駄を用意しておけば よかったでしょうが。まあなんですね、奴らには、女を人に知れないように土井の部屋 に入れさえすればよかったんですね。あとはまあ、どうなって毛構わなかったのでしょ う」、 「そうなんでしょう。要するに、土井を陥れるのが大きな目的だったのでしょうな」 「あなたの先刻のお話と照らし合わせて、どうも土井は|嵌《は》められているらしいことがだん だんはっきりしてきました。署長と相談して、彼は釈放することにしましょう」 「そうしてくだされば好都合です。わたしはあくまで彼の跡を|尾《つ》けて、何か秘密を探り出 したいと思います」 「土井の監視は当方でもしたいと思いますがーー」 「結構です。お互いに協力してやりましょう。それから、いまお話の下駄ですね。三越の マークが入っていたということですが、ことによったら、殺された女が三越でシガレッ ト・ケースを買ったときに、ついでに買った物ではないでしょうか」 「なるほど、そうかもしれませんね。すぐ問い合わせてみましょう」 司法主任は部屋を出ていったが、やがて勢いよく戻ってきた。 「あなたのご推察どおりです。昨日の午後二時ごろ、男物の下駄を買った女があったのを 店員はよく覚えていました。それで、シガレット・ケースを売った店員とよく話し合って もらいますと、確かに同じ女だということが分かりましたL 「彼女自身が買ったのだとすると、せっかくの下駄も加害者の手掛かりにはならないわけ ですね。ですが、この事実によっ・て、彼女が少なくとも午後からすでに男装する計画をし ていたことが分かりますね」 「しかし、彼女は頼まれて、何の気なしに下駄を買ったのかもしれませんね。計画は後に なって聞かされたのかもしれない」、 「しかし、彼女はシガレット・ケrスも買っていますし、銀子だと言って摂津ホテルに泊 まって、問題のケースを帳場に預けていますしl」 「けれども、彼女が帳場に預けたのは正午ごろだと言いますし、包紙は高島屋だったそう ですし、どうも変ですよ」 二人は落胆したように顔を見合わせた。シガレット・ケースの問題になると決まって動 きの取れない暗礁に乗り上げてしまうのだった。 しばらくすると、水松警部は言った。 「シガレット・ケースの中に入っていたという紙片と、それから、死美人|屍体《したい》を一度お見 せくださいませんか」 「承知しました。屍体はまだ当署に置いてありますからl」 死美人の|蝋《ろう》のように美しく青白い屍体も、シガレット・ケースから出たという怪紙片も、 水松警部にとっては加害者を捜索する一つの証拠品でしかなかった。彼は何の感動も表さ ないで、それらの物を見た。死美人の顔も怪紙片の筆跡も、彼には全然見覚えのないもの だった。 「どうも、いろいろありがとうございました」 水松警部は言った。 「わたしは当分、浜ビルホテルに泊まろうと思っています。あそこにいれば、また何か手 掛かりが得られるかもしれないと思いますから」 水松警部が天満署を出たときには、もう午後を少し過ぎていた。空はからりと晴れて、 真夏の太陽は遠慮なく往来の人々を照らしていた。 水松警部の足は心斎橋筋の高島屋に向かった。彼はそこで、銀子に似た黒眼鏡の女を取 り逃がしたのが残念でたまらないので、もう一度現場を調査してみたいのだった。 高島屋の三階に上がって問題の手洗所の前に立ったときに、水松警部は中から|雑巾《ぞうきん》バケ ツを持った掃除婦がちょうど出てくるのを見た。 水松警部の頭には、ぱっとあるものが|閃《ひらめ》いた。浜ビルホテルの事件は思いがけなく、掃 除人夫の口から重大な手掛かりが得られた。高島屋0手洗所における奇怪な事件も、掃除 婦の口から何か端緒が得られはしまいか。 彼は掃除婦の傍に寄って、なにげなく聞いた。 「きみはこの手洗所の係かね」 出し抜けの質問に、掃除婦はびっくりしたように水松警部の顔を見上げたが、 「はあ、そうだす」 「昨日の朝の十一時ごろ、きみはここを掃除しなかったかね」 「十一時ごろだっか」 掃除婦はますます不審そうに警部の顔をじろじろと見て、警戒の色を表しながら、 「そうだんな、毎日のことだすよって、何時ごろってしっかり覚えてえしまへん。けんど、 昨日の朝やったら|高垣《たかがき》はんが掃除しやはったかと思うてまんが」 「高垣というのは、あんたの仲間の人だね。どこにいる?」 「さあ、いまどこにいますか知らんて。なんやったら、探してきまひょうか」 「そうね、そうしてもらえると好都合だが」 「何の用だすねん」 掃除婦はなかなか抜け目がなかった。 「なにね、ちょっと訊きたいことがあるので、実はね、昨日ここへちょっと忘れ物をした のでー」 水松警部は言ってしまってから、はっとした。忘れ物ならその係があるからそこへ行っ て訊くべきで、掃除婦に直接訊くということは何か隠してでもいるように疑うことになる のである。きっと掃除婦が機嫌を悪くするだろうと思って、警部は相手の顔を見た。とこ ろが、相手の掃除婦は何か心当たりがあるらしく、どきっとしたような顔色をしながら、 「ああ、さよだすか。あてもな、ちょっと|妙《ヤち》やな思うてることがありますねん。そしたら、 高垣はん、すぐ呼んできまっさ」 彼女はそう言ってぢょこちょこ走りにどこかへ姿を隠したが、すぐにもう一人の同じよ うな恰好をした掃除女を連れてきた。 「高垣はん」 前の掃除婦は連れてきた掃除婦に言った。 「あんた、昨日、朝の十一時ごろここを掃除したやろ」 高垣と呼ばれた掃除婦は変におどおどしながら、黙って頷いた。 水松警部は口を開いた。 「らよつと訊きたい二とがあるがねII」 するとどうしたのか、高垣は急に真っ青な顔をしてがたがたと|頭《ふる》えだした。 水松警部が口を開くか開かないうちに、相手の掃除女はがたがたと頭えだしたので、警 部はすぐに何か深い理由があると悟った。 「ここでは話しにくいからね、ちょっと待ってくれたまえ」 警部はそう言いながらあたりを見回して、手近にいた店員を呼んだ。そうして、肩書つ きの名刺を出して、高垣という掃除女にちょっと訊きたいことがあるので、どうか部屋を 貸してくれるように頼んだ。店員は名刺を見てちょっと驚いたが、すぐに心得て事務室に 案内して、応接室になっている狭い部屋を貸してくれた。 二人きりになったときに、警部は言った。 「さあ、だれも聞いている者はないから、隠さずにすっかり話してごらん」 掃除婦は相変わらず真っ青な顔をしていた。しかし、もうすっかり覚悟を決めているら しかった。 「|旦那《だんな》はん、すみまへんでした。どうぞ、堪忍しとくんなはれ」 「どういうことかね。まあ、言ってごらん」 「あて、,|悪《 へ》いことと知りながら、昨日、手洗所の中に忘れたったもん、と、|盗《と 》りましてん。 か、堪忍しとくんなはれ」 「何を拾ったんだね」 「黒い眼鏡だす」 「なにっ、黒い眼鏡?」 水松警部は思わず怒鳴った。 掃除婦は大きく頷いた。 「そうだす。そ、それに、まだ拾いましてん。ひ、光った|宝石《いし》だす。みんな返しま。か、 堪忍しとくんなはれ」 泣きじゃくりしていた女はとうとうここで、わああと泣きだした。 水松警部はややもてあましながら|騒《だま》しすかして、ようやくのことで委細を聞き出すこと ができた。掃除女の話によると、昨日の午前十一時過ぎ(それは例の黒眼鏡の女が手洗所 から出てしまったあとに相違ない)彼女が問題の手洗所に入ると、女便所の中に金縁の黒 眼鏡が忘れてあった。それだけなら彼女も別に横領する考えはなかったが、掃除している うちに、まもなく床の上にぴかぴか光る石(たぶんダイヤモンドだろう)が落ちているの を発見した。それを見ると急に欲しくなって、黒眼鏡と一緒に帯の間に隠してしまった。 しかし、こんなことは初めてなので、元来小心な彼女はそれから帰るまで変にそわそわし ていたので、|朋輩《ほうばい》に怪しまれたのだった。 聞き終わった警部は言った。 「正直に白状したから特別に罪にならないように計らってやるがね、その代わりに|嘘《うそ》を言 ったり隠したりしたら駄目だぞ。もうほかに拾ったものはないかね」 「もうありまへん。決して嘘は言わしまへん」 「きみが掃除に入る前に、黒眼鏡をかけた女を見かけなかったかね」 「見かけえしまへん。掃除に入ったら、黒眼鏡が忘れたったのんだす」 「それに違いないね」 「違いおまへん」 忘れてあった黒眼鏡というのは銀子に似たほうがかけていたものだろうが、はたして忘 れて行ったのか、それとも故意に置いていったのか。掃除女の言う光った石はやはり、銀 子に似た女が落としていったのだろうか。それとも、別の人間が落としていったのか。 「掃除したときに、便所の中に何か変わったことはなかったかね」 水松警部は訊いた。 掃除女はちょっと考えてから答えた。 「変わったことて、あらしまへんでした」 水松警部は重ねて訊いた。 「何かなかったかね。たとえば、便所の戸の|鍵《かぎ》が壊れていたとか、窓の|硝子《ガラス》が割れていた とか」 「そうだんな、そんなことはおまへなんだと思いまんがー」 ここでちょっと言葉を切った掃除女は、急に思いついたように、 「ああ、そうだあ、そない言われると、中に入ったときに、ぷんとなにや薬みたいな|臭《にお》い がしたような気いしました」 「なに、薬のような臭い!」 「はあ、そうだんね。それから、床に血が少しこぼれておました」 「なに、血が」 「そうだあ。けれど、女便所に血がこぼれているのは毎度のことだすよって、別に気にし めへなんでん」 「ふん、床にこぼれていただけで、壁にはついていなかったんだね」 「壁にはなんにもついてえしめへん。床にこぼれたんも、・ほんのちょっとだす」 「拾ったものは|自宅《 つち》に置いてあるんだね」 掃除女は頭を振った。 「だれぞにめっけられたらと思うと怖うて、うちへ置いとけしめへん。ここへ持ってきて まんね。部屋に置いたりま」 警部はすぐに品物を差し出させた。黒眼鏡には別に特徴はなかった。宝石というのは十 カラットもあるかと思われるほどの大きさで、|燦然《さんぜん》と光っていた。よほど高価なものらし く思えた。これくらいのものを失くしたとすると、黙っているわけがなく、すぐにも高島 屋に照会しそうなものと思われるのだが、調べてみるといっこうそんな照会は来、ていない のだった。 水松警部は掃除女の将来を深く戒めて、住所・姓名を聞いたうえで、ひとまず許してや った。そうして、店員の許可を受けて問題の三階の便所を詳しく調べてみたが、もう何回 となく掃除されたあとなので、もとより手掛かりになるようなものは全然見当たらなかっ た。 銀子に似た黒眼鏡の女は大阪へ着くと、一時間ばかり待合室でだれかを待ち合わせた揚 句、一入で高島屋に向かった。それとほとんど同じ時刻に、銀子が高島屋でシガレット` ケースを買っているところをみると、銀子に似た黒眼鏡の女はやはり銀子だったのかもし れない。しかし、尾行していた水松警部は彼女が黒眼鏡を取ったのを知らないのだった。 おおかた、後ろ向きのときかなんかに素早く外したのだろう。 銀子に似た黒眼鏡の女は(もし彼女が銀子だったら、シガレット・ケースを買ってから あとに)三階の手洗所に入った。そこで、小一時間ばかりの間に彼女は消失してしまった のである。 掃除女の話によると、手洗所に異様な薬の臭いが漂うていたというから、ことによると 手洗所の中には悪漢の一味の者が待ち伏せていて、彼女に麻酔薬でも嗅がせたのかもしれ ない。床の上の|血痕《けつこん》はその時に、彼女がどこか負傷したためで、ダイヤモンドの粒が落ち ていたのは、多少抵抗を試みた結果かもしれないのである。 だが、かけに銀子に似た女が悪漢に麻酔薬を嗅がされたとして、どうして手洗所から運 び出されたろうか。 水松警部は銀子に似たほうでない、もう一人の黒眼鏡のために誤らされて、手洗所の前 を離れた。もし、銀子に似た女が運び出されたとしたら、その|隙《すき》に相違ないのである。 |係《わ》|蹄《な》 昨日の出来事を、順序を追って思い起こした水松警部は手洗所を出てふたたび事務室に 行き、店員の主な人を捕まえていろいろと質問を試みた。 「昨日、正午前に便所の中で、婦人が卒倒したというようなことはありませんでしたか」 「さあ、そんな話は聞きませんがー」 一人の店員はそう答えて、傍らの同僚を顧みた。すると、その中の一人が、 「女にはないけど、男が何や酔うたとか言うて、ちょっと騒ぎがあったやないか」 そうすると、もう一人が思い出したように、 「そうそう、そんなことがあった。あれは何時ごろやったかいな」 「正午前やで。十一時ごろやったやないか」 「そうや。その時分や」 彼ら同士で話すのを聞いていた水松警部はたまりかねて、口を出した、 「どういう話ですか、それは」 「なにね、便所の中のことなんですがi」 「何階の便所ですか」 警部の問いに、相手の店員はまた仲間を顧みた。 「何階やったかな。三階やな」 「そうや、三階や」 仲間の者の答えに、警部は跳び上がった。 「えっ、三階!」 「そうだす。三階の便所でな、紳士が引っ繰り返ってましてん。それを他のお客さんが見 つけて起こしたんですが、なんでもえらい酔うてたんだそうで。うちの食堂では酒を売り まへんから、どこぞよそで飲んできたんですな。二、三人のお客さんが手を取り、|身体《からだ》を 抱えて外へ出しましてん」 「医務課のほうへ連れてこなかったのですか」 水松警部は|急《せ》き込んで|訊《き》いた。 「ええ、そこがちょっとおかしいのだすけれども、なにや騒いでる暇に二、三人で外へ連 れ出して、タクシーに乗せてもうたようでした」 「その紳士というのはどんな風の人でしたか」 「さあ、よく覚えていまへんが、小柄な色の白い人でした」 「なに、小柄で色が白いI」 水松警部は唇を|噛《か》んだ。 彼には昨日の出来事が手に取るように、はっきりと分かったのだ。悪漢たちはここでも、 浜ビルホテルで行ったのと同じ手を用いたのだ! 銀子に似た黒眼鏡の女が(彼女が銀子であることは、もう疑う余地がないのだ)高島屋 の手洗所に入ると、一かねて待ち設けていた悪漢たちは素早く彼女に飛びかかった。彼女が 叫ぼうとするのを押さえつけて、麻酔剤を|嗅《か》がして眠らしてしまった。そうして、手早く 彼女の着物を脱がせて、男の洋服を着せたのだ。便所の中に遺棄してあった黒眼鏡や、床 に付着してあうた|血痕《けつこん》が多少、.格闘の行われたことを物語っている。銀子は抵抗する弾み に、どこか負傷したものと見える。 銀子を男装させた悪漢たちは、銀子を外に連れ出す機会を待っていた。彼らはまず、外 に見張っている水松警部を|撒《ま》かなければならなかった。彼らの仲間の女は黒眼鏡をかけて 便所を飛び出すや否や、階段を急いで降りた。水松警部はまんまと彼らの策戦に引っかか って、すぐにその女の後を追った。その暇に、彼らは麻酔薬で|昏《ニんこん》々と眠っている銀子を酒 に酔つた紳士のように見せかけて、二二二人で百貨店の外へ担ぎ出してしまったのである。 ああ、銀子は東洋ホテルのときと同じように、水松警部の目の前で誘拐されたのだった。 ああ、銀子はまたしても、水松警部の眼前で悪漢たちに誘拐されていったのだb水松警 部は|歯噛《はが》みをした。. 手洗所から出てきた黒眼鏡の女は、彼らの仲間だったのだ。 彼女は汽車に乗っていた黒眼鏡の女と、同じ人間だったろうか、どうも、同じ人間だっ たように思われる。してみると、彼女は銀子を尾行してきたのだろうか。|好智《かんち》に|長《た》けた悪 漢団のことであるから、初めから水松警部の頭を混乱させる目的で、彼女に黒眼鏡をかけ させておいたのかもしれない。 「・りぬつ!」 水松警部の腹は煮え返るようだった。しかし、こうしてはおられない。彼は一時も早く 銀子の行方を捜し出し七、彼女を|救《たす》けなければならない。銀子の行方を捜し出すというこ とは同時に、浜ビルホテルの怪死事件を解決することにもなるのだ。 水松警部は高島屋の店員たちに礼を述べて、外に出た。 東洋ホテルのときには、木箱を積んだ貨物自動車という手掛かりがあった。しかし、今 度の事件にはほとんど手掛かりがないのだ。しかも、事件は昨日のうちに済んでいるので、 すでに時機を失しているのである。 水松警部は出口のタクシーの運転手の|溜《た》まりの所に行った。 「昨日の正午は大変な騒ぎだったね」 警部はそこに立っていた世話係らしい男に、なにげない顔をして話しかけた。 「へえ」 世話係の男は不思議そうな顔をして、警部を見上げた。警部はすかさず、押しつけるよ うに、 「ほら、酔っ払いの紳士を担ぎ出してさ、車に乗せるのに大騒ぎだったじゃないか」 「ああ、あれだっか」 相手の男はやっと分かったという風に、 「あれなら、騒ぎいうほどやあれしめへん。同伴者が仰山あったさかい、みんなで車の中 へ無理やりに入れてしまいましたが」 「昼間からぐでんぐでんに酔っているなんて、人騒がせの話だよ。ところで、あの酔っ払 いはどこへ運んだかね」 警部は相変わらずなにげない顔をして訊いたのだったが、相手の顔には、みるみる警戒 の色が浮かび上がった。 「さあ、どこやったか、知りめへん」 水松警部はこうなっては、普通の手段では容易に相手に口を開かせることのできないの をよく知っていた。彼はつかつかと世話係の|傍《そば》に寄って、警察手帳を示しながら|囁《ささや》いた。 「ぼくはその筋の者だがね、昨日の酔っ払いを乗せた自動車の行方が知りたいのだ。すっ かり話してくれたまえ」 世話係の男はきょとんとして、しばらく水松警部の顔を眺めていたが、やがて|頷《うなす》きなが ら、 「ああ、さよだっか。実はわたいも、あの|酔《ちヘヘ》っ払いは何や、怪しいと思うてたんです 力1」 そう言って、彼は昨日酔っ払いを乗せた車の運転手を呼んだ。そうして、ざっと|事情《わけ》を 話して、水松警部に昨日の送り先を言うように命じた。運転手は、 「ああ、昨日の酔った客ですか。あれなら、摂津ホテルヘ送りましたよ」 と、こともなげに答えた。 摂津ホテルヘ!ああ、なんという大胆不敵な悪漢だろう。彼らは銀子を麻酔させて男 装させ、白昼悠々と、大大阪市の一流ホテルヘ担ぎ込んだのだ。しかもそこは、浜ビルホ テルの死美人が銀子の名を|騙《かた》って泊まり込んだ所ではないか。 「うーむ」 悪漢団の大胆不敵な|遣《や》り方に、水松警部は|喰《うな》らざるを得なかった、彼は世話係の男と運 転手に礼を言うと、摂津ホテルに急いだ。 水松警部は摂津ホテルではもはや策略を用いないで、いきなり職名と姓名を名乗って、 クラークに、昨日の正午ごろに自動車で送り込まれた酔った客について訊いた。 「そういう客は確かにありました」 クラークは笠ロえた。 「酔っていた人は初めての客でしたが、あとの二人は二、三日以前から泊まっていた客で、 昨日の正午ごろ、友達がどうもすっかり酔ってしまって往生したと言いながら、ぐでんぐ .でんに酔っている小柄な紳士を連れてきました℃そうして、夜になると三人連れで|発《た》って 行かれましたL 「発っていくときには、酔っていた紳士の様子はどうだったかね」 「まだだいぶ気分がお悪いようで、ずっと一人の人に寄りかかるようにしていました」 「口は利かなかったかね」・ 「ええ、少しも口は利かれませんでした」 「行き先はどこかね」 「大阪駅までお送りしたようでしたがー-ちょっとお待ちください」 クラークは運転手を呼んで訊いたが、運転手は確かに大阪駅まで送ったと断言した。 水松警部はがっくりした。せっかく手繰ってきた手掛かりの糸がここで、ぷっつりと切 れたのだった。大阪駅へ送り込んだのでは、もうそれ以上追及することはほとんど不可能 である。彼らは上りの汽車に乗り込んだかもしれないし、あるいは下りに乗ったか、それ とも東海道線以外の鉄道を利用して、跡を晦ましたかもしれないし、次第によっては、汽 車に乗ったと見せかけて、そのまま市内へ引き返したかもしれないのだ。一日に何万とい ,う乗客.の昇降する大阪駅のことだから、駅員や赤帽について調べてみたところで、彼らの 消息はとうてい知れないだろう、 水松警部はいったんはがっかりしたが、すぐに気を取り直した。そんな弱いことではと ても、神出鬼没の悪漢たちに対抗することはできないのだ。 「その泊まっていた客の名は何といったかね。宿帳を見せてくれたまえ」 どうせ偽名をしているに違いないから無駄ではあるが、順序として、警部は宿帳を調べ てみた。 宿帳には、 |浅川伝蔵《あさかわでんぞう》会社員五十六歳 |花山幸吉《はなやまこ つきち》同三十二歳 とあった。 浅川のほうは|胡麻塩頭《コましおあたま》のでっぷり|肥《ふと》った男で、花山のほうは頭髪を奇麗に分けた、色の 黒い男だったそうである。 「その頭髪を奇麗に分けた男というのは、鼻のつんと|尖《とが》った男じゃないか」 水松警部は急き込んで訊いた。 「そうです。鼻がつんと尖っていました」` クラークは頷いた。 ああ、花山と名乗った男は確かに、浜ビルホテルに怪美人を連れ込んだ男である。浜ビ ルの掃除人夫が言った人相に、そつぐりではないか。ああ、悪漢団は大都会の心臓ともい うべき摂津ホテルに悠然と泊まり込んで、ここを根拠にして、土井を操り、銀子を誘拐し、 怪美人を殺害するなど、あらゆる暴虐をほしいままにしていたのだ。 「この客の泊まっていた部屋を見せてくれたまえ」 水松警部は彼らの部屋に行って、指紋その他、何か残していった手掛かりを見つけ出そ うと思ったのだった。 悪漢たちの泊まっていた部屋に案内された水松警部は部屋の様子を一目見ると、たちま ちがっかりしてしまった。客は昨日のうちに発ってしまったので、部屋はもうすっかり奇 麗に片づけてあったのだった。 |衣裳箪笥《いしようだんす》の中や机の|抽斗《ひきだし》の中はもとより、|屑籠《くずかコ》までちゃんと掃除が行き届いていた。水 松警部の鋭い目も、もはや何物も発見することはできないのだった。 水松警部は机の傍に寄った。そうして、上に載せてあった厚紙に|貼《は》りつけた吸取紙を取 り上げた。厚紙は手紙などを書くときに下敷きにするもので、貼りつけてある吸取紙は書 いた手紙を裏返しにして押さえつけて、すぐにインキを吸い取らせるようにできているの だが、この吸取紙はそう毎日取り替えるものではない。だから、往々、この吸取紙から重 大な手掛かりを得ることがあるのだ。 水松警部はじっと吸取紙を眺めた。この吸取紙はだいぶしばらく取り替えなかったとみ えて、かなり汚れていた。 ためつ、すがめつ、吸取紙を眺め回していた警部のむずかしい顔はやがて、少しほぐれ てきた。吸取紙の真ん中の黒ずんだ所に、|微《かす》かながらに、鎌倉|扇《おうぎが》ヶ|谷《やつ》、野崎という文字が 見えたのだった、、よく調べると、それらの漢字には仮名がつけてあるようだった。 「うん、銀子を呼び出すために「電報を打ったのだな」 警部は思わず口の中で|眩《つぷや》いたがハ彼らはいったいだれの名で銀子を呼び出したのだろう。 水松警部はじっと考えた。.と、突然、電光のように彼の頭に|閃《ひらめ》いたものがあった。 土井だ!土井の名を使ったのに違いない!水松警部には土井と銀子とがどういう関 係であるか、しっかりしたところは分かっていなかったが、土井が銀子の家を訪ねた点と いい、それからまもなく大阪に来た点といい、そこに何か黙契があったらしく思われる。 悪漢は土井が銀子から頼まれて下阪したことを知って、土井の名を利用して銀子を|誘《おぴ》き出 したのだろう。銀子が大阪駅で待ち合わしていたのは、きっと土井であろう:彼女が高島 屋に行って、土井の頭文字の入った|煙草入《たぱこい》れを買ったのも、それでどうやら理由が分かる のである。 水松警部はほっと|溜息《ためいき》をついた。いままで、土井を怪しい人間として追跡していた.のは 誤りだったのだ。土井は悪漢たちに操られているのに過ぎないのだ。しかし、土井はまだ 水松警部の知らない事実を、いくらか知っているらしいのだ。そうだ、水松警部は土井と 妥協しなければいけない。もう、彼を秘密に追跡することを|止《や》めて、公然と提携して、悪 漢に対抗しなければいけないのだ。 こんなことを考えながら、-なおも吸取紙をひねくっていた水松警部は突然、目をぎらぎ らと光らした。. 吸取紙の黒ずんだ中から."|鶴橋《つるはし》○之町○丁目〃という文字が、微かに読めたのだった。 水松警部にはそれがはたして、.昨日の夕べ発っていった二人の悪漢が書き残していったの か、それとも、それ以前の客が残していったのか分からなかった。しかし、前の鎌倉扇ヶ 谷と写っている文字とインクの色を比較すると、非常によく似ているのだった。 水松警部はホテルのクラークに断って、古い吸取紙を|貰《もら》うことにした、そうして、彼は 天満署に急いだ。彼の頭には、土井に会って彼の知っている事実を残らず訊くこと、最近 に鎌倉の野崎家へ電報を打った人間を郵便局に行って調べること、吸取紙に残された鶴橋 方面を調べること、の三つの仕事が組み立てられていたのだった。 天満署に引き返した水松警部はさっそく酒井司法主任に会って、高島屋で発見したこと を詳しく話したうえ、土井の口からいろいろ訊きたいことがあることを告げた。 司法主任は頷きながら、 「なるほど、実に大胆不敵な遣り方ですなあ。彼らは確かに土井をだしに|使《ヤヘ》って、すべて の嫌疑を彼に向けて、巧みに犯跡を晦ましているのですよ。あなたのお見込みどおり、土 井は彼らのことについて、もっ一と深いことを知っているのかもしれません。さっそく呼び 出してみましょう」 司法主任の前に呼び出された土井は、その傍にいた男が見覚えのある水松警部だったの でひどく驚いたらしく、顔を青くした。 水松警部はできるだけ穏やかに、 「やあ、土井くん、しばらくだったね。きみはいつも|貧乏籔《ぴんぽうくじ》を引いて、重大な嫌疑ばかり 受けて気の毒だね」 「ま9 `.」 土井は水松警部の顔を見た瞬間からただでは済まないと覚悟をしたのだったが、警部の 口から|洩《も》れた思いがけない優しい言葉に、|狐《きつね》につままれたような顔をしてきょとんと相手 の顔を見上げたのだった。 「きみがいつも目に見えない悪漢たちの|係蹄《わな》に|陥《お》ちて、覚えのない嫌疑ばかり受けている ことは、われわれにはよく分かっている。しかし、嫌疑を受けるということについては、 きみにもまんざら責任がないとはいえない。きみはいつ叩、も、何か知っている二とを隠し ているのだ。きみが知っていることを隠しているということは、きみ自身に不利益である ばかりでなく、われわれにも非常に不都合なのだ。土井くん、今日はわれわれに、すっか り知っていることを話してくれないか」 水松警部の事を分けた言葉に、土井は大いに感動した。それに、土井は度重なる怪奇な 事件に、もう彼独力で事件を解決しようなどという大それた望みは捨てていたのだった。 彼はいま、水松警部から訊かれたのをむしろ幸いにして、初めからすっかり話してしまう 気になったのだった。 「別に、いままでだってわざと隠していたわけじゃないのですが。それでは、わたしの知 っていることをすっかり話しましょう」 そう前置きして、土井は会社の社長から野崎事件の探偵を頼まれたこと、その夜浅草に 行って、浴槽で裸体の女が射殺されたのを見たこと、その帰り|途《みち》で自働電話の中で女の片 腕を拾ったこと、・その自働電話で思いがけなく鎌倉の銀子と話をして、翌日、彼女の家を 訪ねたこと、彼女に彼女の父が大阪から電報をよこしたことを聞き、大阪に来る気になっ たこと、狩田と名乗る怪漢のこと、女の片腕が紛失したこと、怪しい黒眼鏡の女のこと、 大阪へ来る汽車の中の怪事件、大阪へ来てから中央郵便局で探り出したことなどを、詳し く物語った。 「道頓堀のカフェーでの出来事は、お調べになってご承知のことと思います。それから先 は、お二人ともよくご存じのはずです」 土井の奇々怪々な物語は、いかに二人の警官を驚かしたことだろう。もし、二人が何の 予備知識もなしに土井の話を聞いたとしたら、二人は頭から信じようとしなかったであろ う。しかし、二人の警官はすでに大胆不敵な怪漢団が存在していることも知っていたし、 彼らが人もなげに、奇怪極まる行動をしていることもよく知っていた。二人は土井の物語 に、一点の疑いも差し挟まなかった。 が、なんという信じがたい奇怪な事件だろう。二人の警官は顔を見合わせて、思わずほ っと溜息をついたのだった。, 土井の奇々怪々な物語は二人の警官をひどく驚かしたが、なかにも、浴槽の女の事件と 公衆電話内の女の片腕と、それを|緯《めぐ 》る怪奇な出来事はもっとも彼らを驚かしたのだった。 水松警部はしばらくは、口が利けないほどだった。しかし、東京で起こったこの怪事件に ついては、差し当たりいかんともすることはできない。 水松警部はようやく口を開いた、. 「うむC実に奇々怪々な話だ、東京で起こった怪事件はここではどケしようもないが、と にかく、その黒眼鏡の女というのは確かにきみを尾行してきたので、ぼくが汽車中で見た 女に違いないと思う」 「えっ」 今度は土井がぴっくりする番だった。彼は|怪認《けげん》そうに水松警部を見上げながら、 「あなたはぼくの乗っていた汽車にー」 水松警部は笑いながら、頷いた。 「うん、ぼくもきみを尾行していたのだよ。はははは。しかし、あの黒眼鏡の女が同じよ うにきみを尾行していようとは、気がつかなかったよ。あの黒眼鏡の女はきみを尾行した ばかりではなくj汽車中でも、また道頓堀のカフェーでも、きみに紙片を送って|威《おど》かして いたのだ。彼女が野崎事件とどういう関係があるのか、悪漢団の一味なのか、また、全然 別の派なのか、いまのところはよく分かっていないが、実に怪人物だL 水松警部が感嘆するように言うのを受けて、酒井司法主任は、 「さよう、黒眼鏡の女の行動は実に奇々怪々です。-彼女はきっと本件を解決する重要な人 物だと思われる。それから、浜ビルホテルで死んでいた女が土井くんが調べたように、は たして野崎邸へ偽電を打った女だとすると、範囲が大いに縮まるわけだρあの女は恐らく 悪漢団の仲間で、さんざん働かされた挙句、何か都合の悪いことがあって仲間の手で殺さ れたのだろう。浜ビルホテルヘ連れ込んだのは、土井くんに疑いをかけるためなのだ」 「あっ、そうでした」 土井は急に思い出して叫んだ。 「大阪に一人邪魔になる女があるということを、悪漢の仲間の者が言っていました」 そう言って、彼は浅草で浴槽を|覗《のぞ》いたときに、二人の悪漢が話し合っているのを洩れ聞 いたことを話した。 「うむ」 司法主任は捻るように言った。 「それでは、いよいよぼくの推測が当たっている。とにかく、至急大阪から姿を晦ました 二人の男と、黒眼鏡の女の行方を突き止める手配をしよう」 司法主任は部下の者を呼んで、二人の怪漢と黒眼鏡の女の人相・年配・服装などを詳し く話して、至急手配をするように命じた。 部下の者が承知して引き下がると、司法主任はふたたび土井のほうに向き直った。 「浜ビルホテルで死んでいた女がどういう風にして連れ込まれたか、また、なぜ殺された のか、というような点はややはっきりしてきたが、分からないのはきみの煙草入れの中に 入っていた紙片だ、きみはまったく、あれには覚えがないのかね」 「何もかもすっかり話してしまったのですから」 土井は答えた。 「それだけ隠すわけがありません。まったく覚えがないのです」 「ふむ。覚えのないものが、いつの間にか煙草入れの中に入っているというのは、実に不 思議だね。不思議といえば、あの煙草入れも、きみは高島屋の紙で包んであったというが、 中身は三越の品なんだ。つまり、いつの間にか中身がすり変わっているんたねー」 司法主任がこう言いかけたときに、土井は何を思い出したか急に顔色を変えた、、 司法主任の言葉に急に顔色を変えた土井は、|吃《ども》りながら叫んだ。 「ちょ、ちょっと待ってください。そ、それなら、お、覚えがあります」 「なに、覚えがある!」 「ええ、いまあなたが、中身がすり変わっていると言われたので、急に思い出したのです、 実は、うん、こんなことがありました」 土井はカフェーを出て道頓堀の雑踏の中で、見知らぬ男にひどく突き当たられたことを 話した。そうして、その時は別に紛失物はなかったので少しも疑わなかったのだが、いま 酒井司法主任の言葉で思い当たると、その時に、ポケットの中にあったシガレット・ケー スをすり変えられたのではないかという意見をつけ加えた。 酒井司法主任の顔は、みるみる活気を帯びた。 「うむ。それで、すっかり分かった。きみがそのことをもっと早く言ってくれれば、いま まで苦しみはしなかったのだ。きみの言うとおり、その雑踏で突き当たった男がシガレッ ト・ケースをすり変えたのに違いない。きみがカフェーで開けて見たのは確かに、包紙も 中身も高島屋の晶じゃ。それを悪漢の一味の者が、あとで三越の品とすり変えたのだ。そ して、その中に例の紙片を入れておいたのだ。これで、あの女が三越でシガレット・ケー スを買った|理由《わけ》も分かったし、正午前に受け取ったきみのシガレット・ケースが、午後に 三越で買われた品だったという不思議も解決した。正午前に、摂津ホテルできみに渡され たシガレット・ケースは、まさしく高島屋の品じゃ。それが夜になって、三越の品とすり 変えられたのだ。はははは、子供でも分かるようなことだ。たいていの不思議というもの は、こんなものだよ」 不可解と思われた|謎《なぞ》の解けた司法主任は、上々の機嫌だった。が、土井には|脇《ふ》に落ちな いことだったので、彼は問い返した。司法主任は頷きながら、土井が高島屋の包紙から出 たというシガレット.・ケースが実は三越の晶だったので、非常に解決に苦しんだというこ とを詳しぐ話して聞かせた。 土井はびっくりしながら、 「ええっ、じゃ、あの死んでいた女は銀子さんが高島屋でシガレット・ケースを買ったの を知って、それと同じような晶を三越で買ったんですね。うーむ。初めからすり変えるつ もりだったのだなあ」 土井は後のほうの言葉は独り言のように言ったこ司法主任はそれを引き取って、 「うん、初めからすり変えるつもりだったのだ。それは疑う余地のないことじゃ」 「なるほど」 水松警部は言った。 ㍉銀子が高島屋で買物をしたときに、悪漢の一味の者が見ていたのだから、それから思い ついて計画したものですな」 と水松警部の言葉に、司法主任はどきっとしたように顔色を変えた。 「どうもまだ少し変だぞ。三越の店員の話では、シガレット・ケースの注文は二、三日以 前からしてあったということだ。ところが、高島屋のほうはその日の注文で、頭文字を入 れたのだ。してみると、悪漢たちは銀子がシガレット・ケースを買う以前に、すでに同じ ような品を注文していたことになる。うん、これは奇妙だL 「そうすると」 水松警部は言ったρ 「悪漢たちがかねて注文しておいた品とまったく同じような品を銀子が偶然買ったので、 悪漢たちがそれを利用しようと考えついたということになりますな」 「しかし」 司法主任は言った。 「悪漢たちがあらかじめ注文しておいた品と同じような品を、銀子が偶然買ったというこ とは少し偶然過ぎますな。どうもこれには、何かまだ隠された秘密があるらしいですよ」 せっかく不可解と見えた謎を解くことができたと思ったのも|束《つか》の間で、謎の裏にはまた 謎が潜んでいるのだった。司法主任はがつかりしたが、すぐ気を取り直して、 「いや、これぐらいのことでへこたれてはいかん。くそっ、いまにすっかり解決してみせ るぞ」 酒井司法主任がやや|昂奮《ニうふん》しながらこう叫んだときに、部下の刑事が入ってきた。そうし て、彼の報告によると、意外、とうてい消息の知れないと思っていた例の怪しい三人連れ は、大阪駅から確かに東京行の急行に乗り込んだということが判明したのだった。しかし、 黒眼鏡の女の行方は全然分からないのだった。 「うむ」 水松警部は捻った。 「それじゃ、ぼくはぐずぐずしてはおられない。さっそく東京に帰りましょう。下手をす ると銀子の生命にかかわるかもしれない」 警部の言葉に、土井は跳び上がるようにして叫びだした。 「ぼ、ぼくも帰してください。ぎ、銀子さんの身体に、ま、間違いがあっては、た、大変 です。ぼ、ぼくも帰してください」 「まあ、落ち着きたまえ」 警部はたしなめるように言った。 「きみのようにそう騒ぎ立ててはいかん。きみは銀子の名を聞くとすぐそう目の色を変え るから、敵に乗ぜられるのだ。も少し冷静にならなければいかんよ」 土井は真っ赤になった。 「ぎ、銀子さんの名を聞いて目の色を、か、変えるなんてことはありません。ぼ、ぼくは もう冷静になっています。け、決して、二度と敵の係蹄に陥ちるようなことはありませ ん」 「よま十" ``'」 酒井司法主任は軽く笑いながら、 「土井くんに対する嫌疑は晴れたから、署長に相談してすぐに釈放の手続きを取ろう。ま あ、ーしっかり探偵をやりたまえ」 水松警部は寸時もじっとしていられなかった。彼はいままで土井を追い回して、そのた めに空費した(全然、無駄というわけではなかったが)時間を一挙にして取り返すべぐ、 ただちに単独で帰京することにした。彼はもう、土井には勝手な行動を取らして構わない ことにしたのだった。ただ、気になるのは吸取紙に残った左文字の鶴橋|云《うんぬん》々の文句だった が、それの探求は一切酒井司法主任に|委《まか》せることにした。 その夜の東京行急行列車の中には、水松警部の|憔惇《しようすい》した顔が見いだされた。短時日の間 に重なる怪奇な事件に遭遇して、いまだ解決の|曙光《しよこう》さえ認めない彼は苦心焦慮するばかり で、この二、三日に、目立って|頬《ほお》の骨が尖ってきたのだった。 翌朝、東京駅に着いたときにはしとしとと|陰欝《いんうつ》な雨が降っていた。ほんの二日ばかりだ ったけれども、水松警部はなんだか久し振りで東京に帰ったような気がした。 ところで、彼はどうしたらいいのだろうか。土井から奇々怪々な出来事を話されて、勇 み立って帰ってきたもめの、どこから手をつけていいのかさっぱり見当がつかないのだっ た。 東京駅の前で、ややしばらく迷った警部はやがて、とにかく警視庁を訪ねて、浅草に怪 殺人事件はなかったか、また、土井の話した|礫死人《れきしにん》の身元は判明Lたかという点を訊いて みようと決心して第一歩を踏み出したが、その時に、彼はふと前方を歩んでいく若い女の 姿を見て、おやっと思わず立ち止まった。 深夜の恐怖 水松警部は前のほうを歩んでいく若い女の姿を見て、なぜ思わず立ち止まったのだろう か。それは前を歩んでいく女の後姿といい、横顔といい、汽車の中で見た黒眼鏡の女にそ っくりだったからだった。 はっと思って、いったん歩みを止めた足をすぐに早めて、女を二、三歩追い抜いてなに げないふりをして振り向いてみると、水松警部はどきっとした。黒眼鏡こそかけていない が、まさにあの女に相違ないのだった。警部はそれと悟られては具合が悪いので、すぐに 正面を切って素知らぬ顔をしたものの、心の中ではしまったと思ったのだった。黒眼鏡の 女は警部の顔をよく知っているのである。現に高島屋から追跡したときも、巧みに|撒《ま》かれ てしまったではないか。 警部は追い抜いて顔を見たことを後悔した。そうして、ちょっとあたりに気を取られて いるような|恰好《かつこう》をして立ち止まって、女をやり過ごした。女はわざとかそれとも本当にか、 いっこう警部には気がつかないような風をして、.平気でどんどん歩いていった。 「はてな」 女の態度があまり平然としているので、-警部はひょっと、人違いをしたのかと思った。 考えてみると、昨日大阪にうろうろしていた女が今朝はもう澄まして東京駅前を歩いてい るというのは、どうも不思議である。しかし、彼女は黒眼鏡こそかけていないが、どうし ても同一人としか思えないのである。.- 女は悠々と駅前の広場を横切って、'ビルディング街のほうに歩いていった。やがて、彼 女の姿は五階建ての堂々たるビルディングの一うに吸われるように消えた。水松警部はす ぐにそのビルディングの前に立ったが、彼の目は急に光った。ビルディングは昭和ビルだ った。昭和ビルといえばへ土井を|威《おど》かした怪漢狩田のいたビルディングではないか。 水松警部はすかさずビルディングに飛び込んで、怪しい女を追跡しながら忙しく頭を働 かせた。怪漢狩田と黒眼鏡の女は土井の話によると、仲間どころかかえって敵同士らしい のだ。なにゆえなら、狩田が非常に欲しがっている奇怪な女の片腕はどうも、黒眼鏡の一 味の手で盗み出されたものらしく、そのことを電話で土井の口から聞いた狩田は地団駄を 踏んで|口惜《くや》しがったのである。そうすると、彼女が昭和ビルに入ったのは、狩田を訪ねる ためではないのかもしれない。彼女の目的はほかにあるのだろう。 水松警部がこんなことを考えているうちに、女はすーっとエレベーターの中に入った。 警部は困惑した。-彼は彼女に顔を知られているのだから、狭いエレベーターの中で彼女と 並ぶことはできないのだ。彼は仕方なく、彼女を乗せたエレベーターが昇っていくのを見 送った。しかし、警部の目はエレベーターの入口についている指針の上に、じっと落ちて いた。 エレベーターは最初、二、三階で止まった。それから、最上階の五階まで昇っていった。 水松警部は折よく降りてきたもう一つのエレベーターに入った。 エレベーターが動きだすと、彼は言った、 「三階!」 目的の三階に着くと、彼はすぐにイロハ順に並べてある間借人の名札を眺めた。 彼はそこに、思いがけないものを見いだしたのだった。 『狩田法律事務所』 ああ、土井を脅迫して、奇怪な女の片腕を取り戻そうとした怪漢は意外にも、昭和ビル に堂々と事務所を開いているのだった。 追跡した黒眼鏡の女がはたして、狩田事務所に来たのかどうかは疑問であるが、奇怪な 人物狩田が堂々と名前を出して昭和ビルにいようとは、実に思いがけないことだったので、 水松警部は|唖然《あぜん》とした。しかし、あるいは悪漢が狩田の名を|騙《かた》って、事務所を利用したの かもしれないのだ。彼は黒眼鏡の女の追跡を一時中止して、狩田という人物の様子を探ろ うと決心した。 警部は部屋の番号を眺めながら、暗い廊下を歩いていった。するとはるか向こうの部屋 で、いましも一人の女が中に入ろうとしている姿が目に入った。その女は疑いもなく、警 部が追跡してきた女だった。 警部は女の姿の消えたあたりに急いだ。と、彼は多少は予期したことながら、思わずど きっとした。彼女の入った部屋こそ、狩田法律事務所だったのだ! 水松警部は思いがけない幸運を喜んだ。彼はまさしく一石に二鳥を得たのだ。偶然に東 京駅頭で黒眼鏡の女を見かけ、すかさず追跡すると、彼女は怪漢狩田の事務所に入ったの だった。狩田が堂々と昭和ビルに事務所を張っていることと、彼と黒眼鏡の女との間に何 か関係があるらしいことを、一時に発見することができたのは|天佑《てんゆう》といわざるを得ないの である。 しかし、水松警部はこうした喜びに長く浸っていることはできなかった。彼の前にはま だ幾多の難問が横たわっているのだった。彼はどういう方法で、黒眼鏡の女と狩田との関 係を探り出したらいいか。いや、それより以前に、二人の怪しい男女の素姓を探り出さな ければならないのだ。それから、奇怪な女の片腕の秘密と、それがはたして野崎事件にど ういう関係があるかということ、難問はそれからそれへと尽きないのだ。 水松警部は狩田事務所の前に立って、じっと中の様子を|窺《うかが》った。 女は容易に出てくる様子はなかった。もしかしたら、彼女はここの事務員ではないだろ うか。いや、事務員が出勤する時間としてはだいぶ遅いし、それに、彼女の服装その他の 様子が女事務員とは思えない。恐らく、仲間の者でなければ、訴訟依頼人かなんかであろ う。いずれにしても、やがて出てぐるに相違ない。水松警部は廊下の隅の暗い所に|身体《からだ》を 潜めて、辛抱強く待っていた。 約.一時間ばかり|経《た》って、ようやく女の姿がドアの外に現れた。彼女の後から、背の|高《モ》い 紳士風の男がついて出てきた。|外套《がいとう》も帽子も着ていないところを見ると、恐らぐこの事務 所の者が送りに出てきたらしい。年配なり態度なりから察するとへどうも事務所の主人の 狩田と思われるのだった。 紳士は丁寧に礼をしながら言った。 「どうも、わざわざ恐縮でした。どうか、富永さんによろしく」 ・女も丁寧に礼を返しながら、 「はい、承知いたしました。どうも、お邪魔いたしました」 .富永?なんだか聞いたことがある名だなと思いながら、水松警部は開いたドアから|洩《も》 れで出る、どんよりとした朝の光線にすっかり身体を|晒《さら》している、狩田らしい紳士の顔を つくづく眺めたが、, 「はてな、なんだか見たことのある男だぞ」 水松警部は目をぎょろぎょろと動かしたが、やがて彼の顔色はみるみる|青槌《あおざ》めてきた。 そうして、額には冷たい汗が|滲《にじ》み出した。 「うむ。|奴《やつ》は成田そっくりじゃないか」 警部はよろよろしながら、辛うじてこれだけのことを|眩《つぷや》いた。 ああ、なんという不思議だろう。水松警部の目には、怪漢狩田は野崎の支配人成田にそ っくりに見えるのだ。成田は東洋ホテルの一室から悪漢に箱詰めにされて連れ出され、大 宮付近でピストルのために|瀕死《ひんし》の重傷を負った。そして、悪漢の自動車に乗せられたまま、 どこともなく運び去られたのだ。水松警部は|屍体《したい》こそ発見されないが、成田は死んだもの と信じていた。その成田が、ここに狩田になって現れてこようとは、実に思いもつかない ことだった。 狩田ははたして、成田支配人が再生したのだろうか。それとも、他人の空似だろうか。 そういえば、水松警部は成田支配人にはホテルの広間で、ほんのちょっとしか会っていな いのである。大宮付近で乱闘の行われたときにはあたりは暗かったし、なんといってもあ の騒ぎの中であるから、しっかり見覚えてはいないのだ。そう思って見ると、狩田は唇の 下にインペリアル|髭《ひげ》をちょっぴり生やして、目つきその他、なんとなく成田よりも険しい ところがあって、全然別人のような気もする。が一方では、実業家の支配人らしく装って いた成田がわざとインペリアル髭などを生やして、弁護士らしい威厳を見せて|巧《 つま》く変装し ているようにも思えるのである。 水松警部があまりにも予期しない出来事に声こそ上げないが、驚きのために顔色を変え てよろよろとよろけている間に、女はそろそろと廊下を歩きはじめて、紳士の姿は早くも 部屋の中に吸い込まれると同時にドアはバタンと閉じられた。警部は瞬間に気を取り直し- て、ふたたび怪しい女の跡を尾行しだした。 女は相変わらず尾行されているのにいっこう気がつかないように、昭和ビルの外に出る とゆっくりした足取りでビルディング街を歩いていった。やがて、彼女はまたもや一つの 大きなビルディングに入った。そうして、なんの|躊躇《ちゆうちよ》するところなしに三階に上がって、 東洋石油株式会社と書かれた事務室の中にすーっと消えた。 尾行してきた水松警部は不意に、背中を打たれたような気がした。東洋石油といえば、 土井が勤めている会社ではないか。そこへ、黒眼鏡の女が平然と、まるで自分の家にでも 入るように消えてしまったというのは、いったいどういうことを物語るのだろうか。 水松警部は|頃合《ころあい》を計って、そっと女の入っていったドアを開けた。そこは|衝立《ついたて》で四角く 仕切っ九受付になっていて、薄暗い中にテーブルを前にして小娘が一人|坐《すわ》っていた。 「ちょっとお伺いしますがね、いまここへ入ってきた方は、|岡村《おかむら》さんじゃありませんか」 水松警部はでたらめの名を言って、かまをかけてみた。|小《ちへ》娘は首を振った。 「いいえ、香宮さんです」 「ああ、香宮さんでしたか。あの方はまだこちらに勤めておられるんですか」 「いいえ、ここに勤めておられるというわけではありません。あの方は社長さんの秘書な んです。でも、主にお宅のほうにいらっして、会社のほうには滅多にお見えになりません」 受付の小娘は警部の軽妙なトリックにかかって、なんの疑念も抱かないで知っているこ とを|喋《しやべ》ったのだった。 「そうですか。では、あの方はわたしの訪ねている方ではなかったかもしれません。どう も、ありがとう」 警部は小娘に礼を言って早々に事務所を出たが、彼の頭の中には|憤怒《ふんぬ》と悔恨の|錯綜《さくそう》した、 一種異様の感情が渦を巻いていた。 ああ、彼は土井に一杯食わされたのではなかったか。 黒眼鏡の女が、土井の勤めている会社の社長の私設秘書であるとは!たとえそれが私 設秘書であって、|稀《まれ》にしか会社に出ないとしても、土井が全然その顔を見知らないという ことはあり得ないではないか。土井が黒眼鏡の女を、少しも知らないように言ったのは、 |嘘《うそ》である! 水松警部は土井の言葉を信じたのを、ひどく後悔した。土井は黒眼鏡の女を知らないの ではないのだ。何か|理由《わけ》があって彼は黒眼鏡の女に追い回され、かつ威かされているのだ。 土井はそのことを隠しているのに違いない。 ビルディングの外に出て、当てもなくその辺を歩き回りながら、水松警部は歯を食い縛 った。黒眼鏡の女と土井と、野崎事件の間にはなにかしら深い関係があるのだ。そうして、 それには怪漢狩田弁護士と東洋石油の社長も関係しているのだ。野崎事件は調べれば調べ るほど|謎《なぞ》が大きくなり、新事実がそれからそれへと発見されて、いつまで経っても奥が分 からないのだ.、 .「うむ」 水松警部は歩きながら、苦しそうに|稔《うな》った。しかし、次の瞬間には彼の濃い|眉《まゆ》はきりり と|吊《つ》り上がって、決心の意気がその間に|溢《あふ》れ出た。 やがて、彼の姿はふたたび昭和ビルに現れたのだった。 彼はビルディングの事務室に入ってハ居合わせた事務員に|訊《き》いた。 「三階に狩田という弁護士がおられますね。あの方は相当の腕の方でしょうか⊂実は、ち ょっとした事件がありまして、ことによるとお頼みしたいと思うのですが」 「さあ」 事務員はちょつと困ったというような顔をして、 「むろん、相当の方だとは存じますが、どうも、信用上のことはちょっと申し上げかねま すので」' 「ごもっともです。しかし、わたしもお願いするからには、前もって安心のできるだけ調 へておきたいと思いますのでーなんですか、狩田さんはもう水くこちらのヒルティノク においでですかL 「いいえ」 事務員は頭を振った。 「まだ、ほんの来られたばかりです。さよう、かれこれ半年くらいのものでしょうか」 「それまではどこかで、やはり開業しておられましたのですか」 「さあ、詳しいことはわたしには分かりません。たぶんほかで開業しておられたのだと思 いますがl」 「おや」--, 水松警部はこの時に、不意に叫んだ。 水松警部と事務員とが対談している傍らには、電話の交換台があった。相当大きいビル ディングであるから電話の口数も多く、交換手も二人くらいはいるらしいのだが、ちょう ど|正午時《ひるどき》で一人は食事にでも出ているらしく、あとに残った一人のかわいい顔をした交換 手が忙しそうに交換事務を扱っていた。|硝子戸《ガラスど》で仕切られているので彼女の発する言葉は 聞きとれなかったが、様子はすっかり分かるのだった。 、水松警部は事務員と話をしながら見るともなしに、この|可憐《かれん》な交換手がてきぱきと仕事 をしているのを見守っていた。すると、その交換手がどうしたのか、急に顔を真っ青にし てがたがたと|頸《ふる》えはじめたが、.やがて、がっくりと交換台の上に突っ伏してしまったのだ った。それを見て、警部は思わず叫んだのである。 警部の叫び声に、事務員はびっくりして交換台のほうを見た。そうして、大急ぎで硝子 戸を開けて中に入って、突っ伏している交換手を抱き起こした。 「ど、どうしたんだ」 交換手はようやく顔を上げた。しかし、彼女の顔は紙のように白く、恐怖の表情に満ち 満ちていた。 「あの、あのI」 交換手は恐怖にぶるぶる顧えながら辛うじてこれだけのことを言ったが、傍らに|見馴《みな》れ ない水松警部が立っているのを見ると、そのままふっと口を|喋《つぐ》んでしまった。 「どうしたんだね、、急に|眩量《めまい》でもしたのかね」 事務員はただの急病と思ったらしく優しく訊いたが、交換手は首を振ったきり何事も答 えなかった。 水松警部は、あやすように、 「どうしたの。何か怖いことがあったの?え、隠さずに話してごらん」 事務員は水松警部の馴れ馴れしい態度に、少し不安を感じたらしく、 「なに、この子は軽い脳貧血を起こしたのですよ。応急の手当てはこちらでしますから、 あなたはどうぞあちらへ」 水松警部には、交換手が急に卒倒しかけたのは普通の病的原因ではなく、電話で何か恐 ろしい言葉を洩れ聞いたために相違ないと考えられた。そして、それがどうも、狩田の口 から出たものらしく直感せられるのだった。狩田はかつて土井に対しても、電話で恐ろし い脅迫の言葉を発したというし、このビルディングに、ちょっと洩れ聞いただけで交換手 を卒倒させるような恐ろしい言葉を出す者が、そんなに何人もいようとは思えないのだっ た。 水松警部は瞬間ためらった。いまここで官職名を告げてすぐに訊き出そうか、それとも、 あとでゆっくり訊き出そうかと考えたが、いまここで身分を告げたりすると事が大きくな って、狩田に感づかれるようなことになっては困ると思ったので、事務員の言うままに大 人しくもとの所へ戻って、早々に礼を言って事務室を出た。しかし、彼はそれからはずっ と昭和ビルディングを離れなかった。 五時近くまで、狩田らしい男は出てこなかった。五時になると、ビルディング内の勤め 人がいっせいに|潮《うしお》のように溢れ出てきた。その中から事務室の交換手を見落とさないよう にするのは、容易なことではなかった。 五時がだいぶ過ぎて、ビルディングから押し出してぐる人の波がぐっと減って、ほんの 二、三人ずつちらほらと出てくるようになったころ、ようやく交換手の姿が現れた。, 彼女は正午の恐怖がまだ去らないらしく、青槌めた顔をしてなんとなくそわそわとして いた。 水松警部はしばらく彼女の跡を|尾《つ》けた。そうして、人通りの少ない静かな横町に入った ときに、できるだけ威かさないように優しく呼びかけた。 「もしもし」一 水松警部が非常に苦心して呼びかけたにもかかわらず、.小娘はぎくっと跳び上がって驚 いた。そうして、振り向いてみて正午に事務室に訪ねてきた男が立っていたのを見ると、 唇まで血のけがなくな?てぶるぶると頸え出した。 「怖がらなくてもいいよ」 水松警部は言ったC 「ぼくは決して怪しい者じゃないから。少し訊きたいことがあるのだけれどもI」 交換手は警部の言葉の終わるのを待たなかった。彼女は|怯《おぴ》えた小犬のように、急いでそ こを逃げ出そうとしたのだった。 水松警部は仕方なく、彼女の腕を押さえた。彼女は必死にそれを振り払って、いまにも 叫び声を立てそうだった。 警部は|曝《ささや》いた。 「大丈夫、怖がることはないよ。ぼくは警察の者なんだから。声など立ててはいけないよ」 交換手はいくらか静かになった。 交換手はやや|腕《もが》くのを|止《や》めた。しかし、彼女の目には恐怖と疑惑が満ち満ちていた。水 松警部は警察手帳・名刺など、身分を証明することのできるものをすっかり示して、彼女 の疑惑を解こうとした。やがて警部の努力は報いられて、彼女はようやく彼が警官である ことを信じるようになった。 「それで、ちょっと訊きたいのだが」 警部は言った。 「往来では困るから、どこかその辺の喫茶店にでも来てもらえないかしら。むろんきみの 安心のいくような店でいいよ」 ,少女が承知したので、警部は連れ立って丸ビルの一階のある喫茶店に入った。そこは割 に|空《す》いていて、付近に客はいなかった。 「さっきね」 警部は口を切った。 「きみが急に卒倒しかかったね。あれは何か電話で聞いたんだろう」 警部がこう言い終わらないうちに、交換手はがたがたと頸えだした。そうして、恐ろし さに堪えないという風にあたりを見回しながら、|微《かす》かに|頷《うなず》いた。 「どんなことを聞いたのか、話してくれないかね」一 警部は熱心に問いかけたが、少女はただ口をぱくぱくさせるばかりで、容易に言葉を発 しなかった。警部はなだめたりすかしたりして、どうにかして聞き出そうと努力したが、 彼女の口はなかなか開かなかった。しかし、ようやくのことで次のようなことを聞き出す ことができた。 彼女はやはり電話を洩れ聞いて、その話があまりに恐ろしかったので|戦《おのの》いて倒れようと したのだった。電話は狩田の事務室から浅草方面に掛かったもので、声の主は狩田自身ら しいということだったが、その内容こそ、実に奇々怪々を極めたものだった。 「初めのうちは何か品物を処分するような話でしたが、そのうちに、屍体だの、手と足と を切り離すだの、とても恐ろしいことを言いだして、とうとうしまいに、この話を盗み聞 いている奴は殺してしまわなければならないと言うんですもの。わたしはもう、恐ろしく て恐ろしくてー」 交換手は正午の恐ろしさを事新しく思い出したようにぶるっと顧えて、顔を真っ青にし た。 「ふふん」 交換手の話は水松警部には、いちいち思い当たるものがあった。しかし、彼は交換手を これ以上怖がらせないようにわざと平気を装いながら、 「なんだ、そんなことかね、そんな話は冗談だよ。|昼日中《ひるひたか》、屍体をどうするだの、手足を 切り離すだのなんて、本気で話をする奴もあるまいよ。そんなに怖がったり、心配したり することはないよ」 「そうでしょうか」 警部の言葉に交換手はやや安心したように顔を上げた。冗談だと言われるとなるほど、 |真面目《まじめ》な話と思えない節もあるのだった。 「そうだよ、きっと冗談だよ。でなければ探偵小説か、それとも外国の犯罪事件の話でも していたんだよ。大丈夫、心配することはないよ」 「そうでしょうか。でも、なんだかー」 交換手はほっとしながら、まだなんとなく疑いが残っているようだった。 「大丈夫とも。その証拠には、二人ともその屍体を処分する場所は言わなかったろう。実 際にそんなことがあるわけはないんだから」 いったん安心しかかった少女はこの時に、さっとふたたび顔色を変えた。そうして、以 前より激しく顧えだした。 「いいえ、場所を言いました。確かに場所を言いました」 「なに、場所を言った?」 水松警部は意外だった。いかに大胆極まる悪漢とはいえ白昼電話で、屍体を処分する場 所を堂々と話し合おうとは思えなかったのだ。 「ええ、言いました」 交換手は大きく頷いた。 「|四谷《よつやば》の|番衆町《んしゆうちよう》だと言いました」 「時間は?」 警部は思わず釣り込まれて訊いた。場所まで打ち合わしたのなら、時間もひょっとした ら言ったかもしれないと考えたのだった。交換手ははたして頷いた。. 「ええ、真夜中の十二時I」 「うむ」 警部は思わず歯を食い縛った。 真夜中に四谷の番衆町で屍体を処分する!という相談を、大胆にも電話で話し合った とは!.なんという奇怪な、そうして官憲を恐れない|不将《ふらち》至極な奴らであろう、、 ー水松警部はしかし気を取り直して、小羊のように戦き頸えている小娘をなだめ慰めて、 決して恐れる必要はないと説き聞かせ、この話は絶対にほかの人に話さないように言い含 めて彼女の住所と姓名を聞いたうえ、家に帰らせた。 あたりはもう暗かった。時計を見ると六時を少し過ぎていた。今朝から|陰欝《いんうつ》な空で降っ たり止んだりしていたが、いまはまたしとしとと降りはじめていた。そのために、時間の 割にあたりは暗いのだった。 真夜中まではまだ六時間足らずある。その間をどう過ごそうか。水松警部はちょっと往 来に|停《たたず》んだ。 昭和ビルに引き返して、狩田を監視してみょうか。いや、狩田はもういないかもしれな いし、もし感づかれでもして、今夜の計画を中止されたらかえって|藪蛇《やぷへび》である。 それなら、警視庁へ行って今日のことを話して、応援を頼んで番衆町を包囲しようか。 いや、番衆町で屍体の処分をするなどということはほんの交換手が洩れ聞いただけで、確 実なことではない。|曖昧《あいまい》な事柄を警視庁に持ち込むのは考えものだし、それに、彼らが形 勢不穏と見て、計画を変更する恐れはやはり充分にあるわけである。 では、これから番衆町へ行って付近の地理を調べておこうか。それはいい考えである。、 しかしそれだってへ|迂闊《うかつ》に番衆町を歩いているところを一味のものに見られたらそれ.っき りという危険があるではないか。 いろいろに思い悩みながら、水松警部はふたたび歩きはじめた。 いずれにしても、交換手が悪漢たちの会談を洩れ聞いたこと、それを水松警部が交換手 から聞き出したということは絶対に悪漢たちに悟られてはならないのだ。むしろ、何食わ ぬ顔をして十二時までの時間を別のことで送って、真夜中になってから番衆町に出かける のがもっとも策を得たものである。 水松警部はこう結論した。結論すると同時に、彼は非常に空腹を感じた。考えてみると、 彼は朝からなにひとつ口に入れていないのだった。 警部は急に感じだした空腹を|充《み》たそうとふたたび足を転じて、丸ビルのほうに向かった。 そこにはいろいろと食物店があるのである。 警部が丸ビルの前に来かかると、おお、彼はまたしてもばったりと黒眼鏡の女に出会っ たのだった。今度はちゃんと黒眼鏡をかけていた。着物は昼間見たときと少し違っている ようだったが、|咄嵯《とつさ》のことでよく分からなかった。しかし、昼間のどきと違って向こうで も気がついたらしく、警部の姿を見てぎくっとしたようだった、 水松警部の姿を認めたらしい黒眼鏡の女は、ぎょっとして立ち止まった。警部は黒眼鏡 の女が狩田と関係があることを知っているので、もし彼女の口から、警部がうろうろして いたことが狩田の耳に入っては面倒だと思ったので、わざと素知らぬ顔をして、ついと丸 ビルの中に入った。そうして、黒眼鏡の女のことなどは念頭にないという風をして、ぶら ぶらと、並んでいる店のウインドーなどを|覗《のぞ》きながら地下室に降りた。そうして、そこの 食堂に入った。 料理を|説《あつら》えてからなにげなくあたりを見回すと、水松警部ははっとした。彼から二、三 テーブル離れた所に、後ろ向きに黒眼鏡の女が腰を掛けているのだ!彼女は懐中鏡を出 してしきりに化粧を直していたが、むろん、それは水松警部の行動を映し取るために相違 ないのだ。ああ、彼女は逆に警部を尾行して行動を監視しているのである。 彼女は水松警部を警官と知っているのだろうか。もし知っているとしたら、若い女の身 で警官の行動を監視するとはなんという大胆不敵なことであろう。 「うぬっ」 水松警部は憤激のあまりに、テーブルの下で握り|拳《こぷし》を固めた。しかし、やがて彼は胸を |撫《な》で下ろした。大事の前の小事である。今夜は四谷の番衆町へ行って、恐るべき敵にぶつ からなくてはならないのだ。いまはこういう女にかかわり合っているときではないのだ。 むしろ、女を撒いてしまわなくてはならないのである。 水松警部は平気で眺えた料理を食べはじめた。そうして、できるだけ悠々と食べ終わっ て、泰然と|楊子《ようじ》を使った。黒眼鏡の女はその間ずっと後ろ向きになって、なんとなく手持 ち|無沙汰《ぷさた》らしく待ち構えていた。 ようやく水松警部は立ち上がった。そうして、黒眼鏡の女の傍らを通り抜けようとした。 すると、彼女がぶつぶつと独り言のように曝くのが聞こえた。 (女の片腕だって。なんて恐ろしいことだろう) これには|流石《さすが》の警部もぎょっとして、思わず足を止めた。と、彼の顔は正面に黒眼鏡の 女と向き合ったのだった。警部はぎろぎろと目を光らして、女の表情から何物かを読み取 ろうとした。しかし、女の顔は眉ひとつ動かなかった。彼女は平然として、警部の鋭い視 線なんかまるで眼中にないような風で、なおも眩きつ、づけた。 (汽車の中と、ホテルの一室との殺人!ああ、たまらない!) 水松警部はもう、黙ってはいられなかった。 「失礼ですがI」 すると、黒眼鏡の女はまるで不意に眠りから覚めた人のように"ぎくりとして跳び上が った。 「まあ、どうしたというのでしょう。わたしは何か失礼なことを申し上げましたでしょう か」 「いいえ、別に」 警部は首を振ったc 「たガ、何か意味のないことを言ってらしただけです」 「まあ、どうしましょう。わたしはときどき独り言を言う癖がありまして。それがまるで |譜言《うわ ごと》のように、言ってしまってから自分にも分からないことがございますの。もし、何か お気に障ったことを申し上げましたら、どうぞお許しくださいませ」 「いや、別に謝られることはありませんが、ちょっとお訊きしたいことがありますので。 あなたはたぶん、わたしをご存じでしょうね」 「いいえ」 黒眼鏡の女は首を振って不審そうに警部の顔を見上げていたが、やがてはっと顔色を変 えながら、 「ああ、思い出しました。あなたとは大阪行の汽車の中でお会いしましたわ」 「ようやく思い出しましたね」' 水松警部はじっと相手を見詰めながら言った。 「それから、まだどこかでお目にかかったはずですね」 「汽車のほかに?」 黒眼鏡の女の顔には、・さっと不安の色が現れた。 「どこでしょう」 「どこかの百貨店で」 「百貨店で?まあ、どこでしょう」 「大阪の高島屋でです」 「大阪の高島屋ですって。まあ、それは人違いですわ。わたしはそんな所に行ったことは ありませんわ。高島屋ってどこにあるのか、それさえ存じませんわ」 水松警部の頭はやや混乱した。黒眼鏡の女の態度は、嘘を言っているように見えないの だった。高島屋で確かに黒眼鏡の女に会って、彼女のために外へ|誘《おび》き出されたのだったが、 あれはこの女ではなかったのか。 「そうですか。確かにお目にかかったと思いましたけれども、じゃ、違ったのかもしれま せん。ところで、あなたはいま変なことを言っていましたね。それについて、お訊きした いのですがIlL 「お待ちください」 彼女は急に警部の言葉を遮った。 「わたしはいま申しましたように、ときどき発作的に妙なことを口走る癖がありまして、 あとでは何を申したやらいっこう知らないのです。ただいまも、どんなことを申したか少 しも覚えておりません。ですから、せっかくお聞きくださいましても、お答えができない と存じますわ」 水松警部にはむろん、彼女の言葉は逃げ口上であることが分かり切っていた、しかし、 彼はわざと深く追及しなかった。 「そうですか。そういうことでしたら、お訊きしても無駄ですから止めましょう。では、 ほかのことで一つだけ訊きますが、あなたはわたしがどういう者であるかご存じですか」 彼女の顔には急に恐怖の色が現れた、彼女は一生懸命に彼女自身を励ましながら、微か な声で言った。 「いいえ、存じません」 「そうでしたか」 水松警部はちょっと考えたが、今日のところはなるべくこの女に長くかかり合っていた くないと思ったので、 「いや、どうも失礼しました。いずれあなたとはまた会う機会があると存じますから、今 日はこれで失敬します」 警部は悠々した足取りで食堂の外に出た。彼は背後から、彼女がそそくさと尾いてくる のを充分感じることができた。 警部は丸ビルの外に出た。外はもう真っ暗だった。相変わらず、湿っぽい雨がぽそぽそ と降っていた。 彼はどんよりした空に、ぱっと薄赤く電灯の光の反映している銀座の方向を目当てに、 ぶらりぶらりと歩きだした。黒眼鏡の女は必死に、彼を尾行してくるのだった。 警部の頭には一つの疑問が|閃《ひらめ》いた。黒眼鏡の女の尾行ぶりがあまりに一生懸命で、そし て素人|臭《くさ》いのだった。警部を巧みに撒いてしまった高島屋から出た黒眼鏡の女の|狡滑《こうかつ》さに 比べて、どうも幼稚過ぎるのである。それに、なにゆえこう必死に警部の後についてくる のか、どうも解せないのだった。 狩田に水松警部の尾行を命ぜられたのか。警部がどれだけ彼ら一味の秘密を知っている かを、探り出すためのスパイか。水松警部は嘆息した。 「ちょっと、今晩のことがなければ、あいつを捕らえていろいろ聞き出してやるんだがな あ」 今夜のことは水松警部にとっては、非常な重大問題だった。必死に尾行してくる黒眼鏡 の女を|糺問《きゆうもん》すれば、少しは新しい事実が訊き出せるだろうが、そんなことをして彼らの一 味に警戒心を起こさせることは愚だし、どうせこの女と会う機会は今後いくらもあるはず だ。今日のところは、一時も早く撒いてしまうのが得策である。 ところで、黒眼鏡の女を撒くことは何の雑作もないことだった。不意に横町に|逸《そ》れて、 そこを疾駆してきた円タクを呼び止めて、飛び込むなり車を走らせることで充分だった。 「浅草」 水松警部はとりあえず運転手にこう命じたc彼は幾度も背後を振り向いてみたが、尾行 されている様子はさらになかった。 時計を出してみると、七時である。 真夜中までにはまだだいぶあるし、土井の話で、一度浅草を調べてみたいと思っていた 考えが咄嵯の間に無意識に出て、運転手に浅草行きを命じたのだが、ちょうど時間もある し、いい機会となったのだったc彼はそのまま浅草に行くことに決心した。 そんなわけで、水松警部が浅草に出かけたのはまったく偶然ではあったが、そのために 彼は思いがけない拾い物をすることができたのだった。彼はその夜の幸運を、その後幾度 感謝したかしれない。 水松警部は一度ぐるっと公園を一回りしたが、いまだ宵の口のこととて、善良な小市民 たちがざわざわとざわめいているばかりで、表面的には犯罪の影らしいものも認めること はできなかった。警察時間というものは、もっと遅くから始まるものなのだ。 警部はぶらりとある映画館へ入った。毎年夏はこの社会の霜枯れ月なのだが、毎度繰り 返すとおり例年にない涼しさと、そのうえに映画が評判のいいものだったと見えぎっしり 見物が詰まっていて、中へ入るとすぐむーっと異様な人いきれがするのだった。 映画は甘い恋愛物だった。水松警部は退屈しながらしばらく辛抱していたが、彼の耳に は|闇《やみ》の中でぼそぼそと囁く声が聞こえてきた。 「今夜もまた例の仕事か。どうもありがたくないな」 「うん、何度見てもいい気持ちのものじゃない。大将も、あの道楽ばかりは止めてくれる といいな」 「まったくだよ。あれはなにかね、変態性欲というのかね。つまり血を」 「しーっ。滅多なことを言うものじゃないよ。壁に耳ありというくらいだ、周囲は人でい つぱいじゃないか」 一人の男はびっくりしたように相手をたしなめたが、その時はすでに遅く、彼らの会話 は人もあろうに、水松警部が全身を耳のようにして息を凝らして聞いているのだった。も し彼らがこのことを知ったなら、いきなり警部に|掴《つか》みかかって絞め殺そうとしたことであ ろう。 「うん」 相手の男は気のないように返事をした。 「だが、おれはどうも今夜のことを考えると|憂欝《ゆううつ》だよ」 この時に映画が済んで、館内の電灯がいっせいに|点《つ》いた。さして明るい光ではないが、 まぷいすくかぷひさし、 闇に馴れた観客の目は眩しさに射疎められた。水松警部は帽子を目深に被って、庇の下力 ら怪しい会話の洩れ聞こえたあたりをじろりと眺めた。 そこには、背広服を着た二人の男が並んで腰を掛けていた。その中の一人は色の浅黒い 鼻のつんと|尖《とが》った男で、水松警部はなんとなく見覚えがあるような気がするのだった。 どうも見覚えのある顔だと思った瞬間に、水松警部はぎょっとした。 色の黒い鼻の尖った男!それは摂津ホテルに泊まっていた怪しい男。そして、浜ビル ホテルに男装の女を連れ込んだ男の人相ではなかったか。水松警部は直接彼に会ったわけ ではなく人相だけを聞いたのだったが、それが彼の脳裏に深く刻み込まれていて、いまこ の男を見るとどことなく見覚えがあるように思われたのだった。 ああ、人相といい、怪しい会話といい、この男は水松警部の尋ね求めている悪漢の一味 の者に違いないのだ!警部は思わずぶるっと身頸いした。が、彼はすぐに思い直して、 彼らから目を離して、素知らぬ顔をしてスクリーンのほうを眺めた。 二人の男は彼らのすぐ傍らに警部がいようなどとは夢にも考えないらしく、平然として いた。けれども、さすがに怪しい会話を繰り返そうとはしなかった。 やがて、あたりは暗くなって、スクリーンにはふたたび画像が動きはじめた。 水松警部はもう映画どころではなかった。彼は暗闇の中でじっと目を据えて、怪しい二 人の男の行動を見詰めていた。 二人は容易に動こうとしなかった。色の浅黒い尖った鼻のほうは映画に興味を持ったら しく、スクリーンを見詰めていた。もう一人の男はなんとなく落ち着きがなく、きょろき ょろしているらしいのが水松警部に感ぜられた。 十時近く、閉場間際になって二人はようやく立ち上がった。そうして、何事か曝き合い ながら館を出ていった。水松警部はむろん、すぐにその後を追った。 水松警部の考えでは、・彼らはすぐにタクシーに乗って四谷の番衆町に走り、そこで彼ら の手によって、警部が洩れ聞いた気味の悪い場面が展開されるのだろうと思っていた。と ころが、彼らはいっこうタクシーに乗ろうとせず、薄暗い横町から横町へと無闇に歩き回 るのだった。 水松警部は気が気ではなかった。彼はまるで事件に関係のない人間を尾け回しているの ではなかろうか。彼らの一人が摂津ホテルや浜ビルで怪行動をした人間に似ているのと、 彼らのひそひそと交わした会話が、狩田が電話で話したという奇怪極まる作業を暗示して いたために、彼らを尾行しはじめたのだが、それはとんでもない思い違いではなかったろ うか。 もし、水松警部が間違った人間を追跡しているのだとすると、そんなことにぐずぐずと 暇取っていては大変なのだ。真夜中の十二時は遠慮なく押し寄せてくる。時間を空費して、 四谷へ行くのが遅れては一大事である。ことによると、二人は水松警部が四谷へ行くのを 妨げるために、こうして警部を釣っているのではないか。そんなことまで邪推されるのだ った。 しかし、二人は水松警部に尾行されていることにいっこう気がつかないようだし、まだ しばらくは時間の余裕もあるので、警部は心の中でいらいらしながらも、彼らの跡を尾け ていくことを止めなかった。 彼らはやがて広い表通りに出たが、まもなくふたたび横町に入った。そして、そこにあ った木造の西洋建ての家の中に消えるように吸い込まれた。 水松警部は何の関係もない通行人のように装いながら、その西洋館の前を通り過ぎた、 通り過ぎながら彼の目は忙しく働いたが、門柱に|狩野《かのう》外科医院と書かれているのを見ると 同時に、玄関の中でいま入り込んだ二人の男を迎えている人間の顔をちらりと見ると、警 部の顔色はさっと変わった。 狩野外科医院と書かれた洋館の玄関で、怪しい二人を迎えていた男を一目見て水松警部 がさっと顔色を変えたのも道理、彼こそは東洋ホテルから野崎銀子を箱詰めにして担ぎ出 し、大宮付近で水松警部の率いた警官隊と乱闘を演じた悪漢団の一人だったのだ。 心の中の動揺を巧みに隠して、狩野医院を通り過ぎた水松警部は二、三歩行くうちに、 早くもすべてのことを察した。 狩野外科医院というのは疑いもなく、悪漢の|巣窟《そうくつ》なのだ。そうして、彼らの奇々怪々な 外科手術はすべて、ここで行われるのに違いないのだ。屍体の手足をばらばらにするとい うようなことが、大都会の真ん中でどうして人に気づかれないでやることができよう、と はだれしも考えることであるが、彼らは外科医院の名に隠れてやすやすとそれを行ってい るのだ!彼らはここで、自由に人を殺すことも、屍体を切り開くことも、手足を切り離 すこともできるのだ。何の疑いを招くことなしに! ああ、水松警部は迂闊だった!屍体を切り開くような、聞くだけでも身の毛のよだつ ことが、閑静な住宅地で容易にやれることではないのだ。|宏壮《こうそう》な庭内に森があって、|臭《ふくろう》が |楴《な》いているというような大邸宅の奥深くなら知らず、普通の住宅区域では、大勢の人間が 出入りをしたり深夜に音を立てたりしたら、かえって注意を|惹《ひ》きやすく、すぐ疑いを招く のだ。 繁華な町なか、|喧燥《けんそう》な近隣の間にいてこそ、少々の変わったことは人の目につかないの だ。いわんや、外科医院ならば半死の人間が担ぎ込まれても、大勢の人間が出入りしても、 またどんな手術が行われても、だれ一人怪しもうとはしないだろう。この医院こそ、悪漢 一味の完全な避難所に違いないのであるc狩田が電話で四谷番衆町と言ったのは、彼らの 間の一つの隠語だったのだ。考えてみると、いかに大胆不敵の狩田だって電話で堂々と彼 らの|隠処《かくれが》の所在地を言うはずがないのだ。 水松警部は彼の幸運を喜んだ。彼が偶然浅草に来て、映画館で偶然隣り合わせた男の会 話を聞かなかったら、彼はいまごろ四谷番衆町に行って、不安と焦燥に駆られながら無駄 にその辺を訪ね回って、挙句にすごすごと引き返さなければならなかったのだ。 しかし、水松警部の幸運はいまのところ、悪漢の巣窟らしい家を見つけ出したというだ けである。さて、これからどうしたらよいだろうか。彼の前には、まだまだ非常な難関が 横たわっているのだ。 警部はわざと、狩野医院からぐんぐん遠ざかった。なぜなら、今夜は悪漢たちは多数彼 らの巣窟に集まっているのだ。彼らは油断なく、あたりの様子に気をつけているのに違い ない。まずだいいちに彼らに安心を与えて、警戒を緩めさせなければならないのだ。 水松警部はふたたび浅草公園に引き返した。そうして、そこで二時間足らずの時間を 悠々と送った。 十二時近く、警部は狩野外科医院の近くに舞い戻った。さすがに彼の心は緊張した。彼 はポケットの上から、中に忍ばせてあるピストルを|叩《たた》いた。 狩野外科医院の付近はもうすっかり寝静まって、しーんとしていた。 狩野医院の門も閉まっていた。門柱に取りつけられた赤い電灯が、あたりになんとなく 怪奇的な光を投げていた。 警部は医院の塀について、裏口に回った。そこはさいわいに暗かったので、身体を忍ば せるには好都合だった。彼は裏口の塀にぴたりと耳を当てた。別にこれという音は聞こえ なかったが、中に何事か行われているらしいのが感じられるのだった。 水松警部は全身を耳のようにして、狩野外科医院の様子を窺った。内部でなんとなく容 易ならないことが行われている気配はするのだが、それ以上に何の物音も聞こえないのだ った。 警部は塀に押しつけていた耳を離して、裏木戸の前に行ってそっと押してみた。すると、 彼の予期に反して、木戸はわけなく開いた。彼はあたりに気を配りながら、そっと中に入 り込んだ。 医院はちょっと見たのよりもはるかに大きかった。どの窓も閉ざされているとみえて、 内部からは少しも光が洩れなかった。 警部は建物の周囲を、そろそろと回りはじめた。と、彼は横手の非常口らしいドアがわ ずかに蹴降を見せているのを発見した。彼は猶予なくそれを押し開けて、中に滑り込んだ。 水松警部が入り込んだ所は廊下だった。真っ暗だったが、やがて目が馴れると、廊下の 片側は窓で、片側には病室らしい部屋が並んでいるのが分かった。水松警部は音を立てな いように要心しながら壁にぴたりと|守宮《やもり》のようにへばりついて、|摺《す》り足でそろりそろりと 進んでいった。 彼はやがて、廊下の曲がり角に来た。彼はいっそう要心しながら壁について回ったが、 そこもやはり片側は窓で、片側は部屋になっていて、あたりは相変わらず真っ暗だった。 水松警部は言い知れぬ恐怖に襲われはじめた。この広い医院がちょうど死に絶えた家の ように、しーんと静まり返っているのだ。灯火らしいものはどこからも|射《さ》さないで、どこ まで行っても真っ暗なのだcしかも、この家には確かに数人の人間がいるはずなのだ。そ して、それらの人間は何事か恐ろしいことを行っているのだ。少なくとも、行おうとして いるのだ。 水松警部の神経は極度に|尖《とか》り立っていた。どんなに|些細《ささい》な物音でも、たとえば羽毛がふ わふわと、舞い上がったとしても、そのために起こる空気の微動を聞き逃さないほどだっ た。 彼は突然立ち止まった。彼は金属と金属とが触れ合うような、ごく微かな物音を聞いた のだった。 彼はしばらく、身体を壁に押しつけたまま微動だにしなかった。やがて、あたりに人の いないことを確かめると、彼はそろそろと身体を縮めはじめた。 彼の目はやがて、ドアの|鍵穴《かぎあな》にぴたりと当てられた。 中は真っ暗だった。しかし、中で何事か行われているらしいことは、警部の第六感に確 かに感ずるのだった。 彼はようやく悟った。ドアの内側には黒い布が垂れているらしいのだ。彼らは鍵穴から 洩れる灯火さえ恐れて、中で黙々として何事か行っているのだ。 金属と金属とが触れ合うような微かな音が、今度はかなりはっきりと水松警部の耳に響 いた。 警部は|標然《りつぜん》とした。悪漢たちは確かに、この部屋の中で彼らの手術を行っているのだ。 屍体の手と足をばらばらに切り離す手術! ああ、聞くだけでもぞっとする、恐ろしいことが現在行われつつあるのだ。 水松警部の心は焦った。どうかして中の様子を知りたいと思った。しかし、どこからも |隙見《すきみ》することはできなかった。 彼は鍵穴から目を離すと、身体をまたもとのようにぴたりと壁につけて、そろりそろり と|後退《あとずさ》りをはじめた。そうして、次の部屋のドアの前に着いた。そうして、ドアを押して みると、さいわいにも鍵がかかっていなかった。 部屋の中は真っ暗だった。警部はしばらく中の様子を窺った末、思い切って身体を入れた。 部屋の中に身体を入れるや否や、水松警部ははっと身を引いた。部屋の中にはぷーんと 異臭が漂っているのだった。 警部は素早く部屋の外に出て、壁にぴたりと吸いついた。 一分、二分…・ わずかな時間が、警部には何時間にも感じられた。彼はいまにも真っ暗な中から急に巨 大な手が出てきて、彼め首筋をぎゅつと握り締めるのではないかと考えるのだった。 が、何事も起こらなかった。部屋の中には、まったくだれもいないらしいのだ。警部は 壁から身体を離して、ふたたび部屋の中に入った。そうして、ドアを用心深く閉めた。 さすがの悪漢も隣室の警戒は、幾分緩めていたので、この部屋から隣へ通ずるドアの鍵 穴は|塞《ふさ》いでなかった。鍵穴からはさっと一条の光が洩れて、床の|絨毯《じゆうたん》に薄ぼんやりと映っ ていた。 警部はふたたび部屋の中の壁に吸いつきながら、要心深く鍵穴の|傍《そば》に寄った。そうして、 |屈《かが》みながら穴に目を当てた。 警部はぶるっと顧えた。 部屋の中ほどに、鉄製の寝台が横たえられていた。その周りに、二、三人の男が息を凝 らして、微動だにしないで突っ立っていた。電灯に照らし出された彼らの黒い影はまるで、 墓穴を囲んだ人間のようだった。 寝台の上には、なにかしら|脹《ふく》れ上がったものが横たわっていた。二、三人の人間に取り 巻かれているため全体は見えなかったけれども、それは確かに、一糸も|纏《まと》わない全裸の人 間だった。腹部から下肢にかけてのなだらかな曲線と盛り上がった乳は、それが成熟した 婦人であることを示していた。 寝台を取り巻いて黙々として身動きもしない突っ立っている黒い人影の間から、切れ切 れに見えた曲線は美しかった。しかし、皮膚の色はまるで|蝋《ろう》のように青白かった。もし、 水松警部が何の予備知識もなしにこの場面を覗いたら、彼らが蝋細工の人形に何か細工を 試みていると思ったかもしれない。が、寝台に横たわっているものは屍体に違いないのだ った。しかも、病気で|艶《たお》れたものではない。健康な者が不意に、生命を奪われた屍体なの である! 黙々として突っ立っていた黒い影が不意に、ぴくりと動いた。とその間から、磨き澄ま したメスを握る生白い手が、まるで精巧な機械の操作のように滑らかに動くのが、水松警 部の目に幻灯のように映った。 水松警部の身体には、冷たい汗がじっとηと滲み出た。 彼は鍵穴から目を離した。そうして、深い|溜息《ためいき》をついた。 ああ、悪漢たちは何の目的で、こんな恐ろしい手術をするのだろうか。殺人の証拠を|潭 滅《いんめつ》するためか、または変態的な興味からか。それとも、何か別の目的があるのか。 警部は額の冷や汗を手の甲で|拭《ふ》きながら、真っ暗な部屋の中を振り向いた。 と、いままで気がつかなかったが、部屋の隅に何か薄白いものが置かれているのが、暗 闇に馴れた目に映じたのだった。 彼は思わずその傍に寄った。そうして、いままで危険を|慮《おもんぱか》って辛抱していたのを忘れ て、ポケットから懐中電灯を取り出して注意深く照らしてみた。 警部は思わず、懐中電灯を落とすところだった。 部屋の隅には古代彫刻の首と四肢の取れたトルソが置かれていたいや、トルソだと 思ったのは首と四肢を切り離した、胴体ばかりの屍体だったのだ! ああ、懐中電灯に照らし出された、胴ばかりのトルソのような屍体!なんとそれはグ ロテスクなものであったろう。さすがの水松警部も、思わず顔を背けた。 ああ、隣室では、いまや四肢を切り離されようとしている屍体がある。ここにはすでに 首と四肢を切り離された屍体がある。職掌柄、多年屍体を見慣れた水松警部だったが、身 体ががたがたと頭えるのを禁ずることができなかった。 彼は急いで懐中電灯を消そうとした。が、その光は彼に、もう一つの事実を示したのだ った。 部屋の中ほどには、隣室のように寝台が置かれていた。そうして、全体が白布で覆われ ていたが、その白布はむっくりと脹れ上がって、ちょうど人が寝ているような形をしてい たのだった! 水松警部は隣室に非常な注意を払いながら、寝台の傍に寄った。そうして、静かに白布 を取り|退《の》けた。 懐中電灯の円形の光の中にくっきりと照らし出されたのは、大理石の彫像かと思われる 美しい女の真っ白な顔だった。 「あっ」 警部は危うく叫び出すところを、辛うじて歯を食い縛った。 寝台に横たわっている女は野崎銀子だった。|捲《まく》り上げた白布からは彼女の丸々した肩と、 ふっくりした胸が覗かれた。彼女も、一糸も纏わない全裸のままで寝かされているらしい のだ! 死んでいるのか?水松警部はむろん彼女も殺されているのだ七思った。しかし、彼女 の肌にはまだほんの少しながら、|温《ぬく》もりがあった。じっと見詰めていると微かに、ほんの あるかないかというほどの呼吸をしているようである。 銀子はいまだ死に切ってはいなかった。大阪の高島屋から、白昼暴力で誘拐された彼女 は悪漢の巣窟に連れ込まれて、瀕死の状態に置かれて、いまや彼らの奇怪な手術の犠牲に なろうとしているのだ! 水松警部はしばらく危険な敵中にいることを忘れて、じっと銀子の顔を見詰めた。ああ、 それはなんという神々しい顔だったろうか。彼女はどういう方法で、,ほとんど仮死のよう な状態に置かれたのか分からないが1何か特別の薬品を用いたのであろう。先刻、水松 警部がこの部屋に入るときに異様な臭いを|嗅《か》いだと思ったのは、その薬品のためだったの だる?ー顔には一占の苦悩も表してはいなかった。それは一抹の汚れもない、清浄|毎垢 の姿だった。 ああ、悪漢たちは何の目的で銀子をこんな姿にして、さらに恐るべき、許すべからざる 冒漬《むくぽうとく》を加えようとするのか。 水松警部は一種言うべからざる悲壮な気に打たれた。彼には警察官としてはもとより、 人間として、こんな暴虐を許しておけないのだ。しかも、銀子はいまだ死んでいないので ある。断じて救わなければならないのであるっ 彼は白布をもとのとおり、大理石のような美しい顔に掛けた。そうして、懐中電灯を消 すと、足音を忍ばせて、ふたたびもとのドアの傍に寄った。 屈んで鍵穴に目を当てると、中ではもう手術がだいぶ進行しているらしかった。 黒い影が動いた。と、その手には長細いものが握られていた。 ああ、それは疑いもなく人間の腕だった! 警部はぴくりと身体を動かした。ああ、そうして、不覚にもドアに|肘《ひじ》を打ちつけたのだ った。 (しまった!) と思いながら、水松警部は息を凝らした。 が、さいわいにも悪漢たちは気がつかないようだった。彼らは手術に熱中しているよう に見えた。 警部は念のために、もう一度鍵穴に目を当てた。と、ちょうどきらりと'メスが宙に弧線 を描いた。そうして、一人の手に丸いものが高々と掲げられた。 首!首!首!房々と黒髪の垂れた首! 後ろ向きなので、はたして狩田であるかどうか分からないが、彼の手に高く掲げられた のは切り離されたばかりの女の首だった。彼は首を打ち振りながら、くくくと|咽喉《のど》の奥で 忍び笑いをしているようだった。 水松警部はぞっと襟もとが寒くなって、ぶるっと頸えた。 と、背後のほうで、微かな音がした。 警部はぱっと振り向いた。そうして、きっと身構えた。 カタコトと機械の運転するような音、それからキイキイと微かに|軋《きし》る音。 警部はもはやじっとしてはいられなかった。彼は決死の覚悟で、懐中電灯をぱっと照ら した。 「あっ!」 見よ、部屋の中ほどにあった寝台は仮死の状態で、全裸のまま寝かされている銀子を載 せて、静かに、静かに、床の中に沈みつつあるではないか。 何の目的で、寝台を沈ませるのか。銀子を隠すためか、それともいったん床下に沈めて、 それから隣室に引き寄せるためか。 水松警部は目的などを考えている余裕はなかった。銀子はいまだ死んではいないのだ。 床下に沈められて、隣室に引き寄せて奇怪な手術をされることは、どんなことがあっても 防がなくてはならない。 寝台はもはやほとんど床下に没していた。寝かされた銀子の身体だけがようやく床上に ある状態だった。 水松警部はぱっと銀子の身体に飛びついた。寝台だけを床下に送って、銀子だけを抱き 止める目的だった。彼は必死に銀子の腕のあたりを掴んだ。 と、水松警部は腕を掴んだままどっと|尻餅《しりもち》をついた。そうして、寝台は彼の失敗を笑う ように銀子を載せたまま床下に隠れた。次の瞬間、寝台の落ち込んだあとは硬い床で覆わ れてしまった。 水松警部は跳ね起きた。しかし、もう間に合わなかった。 しかし、彼の手に残されたものは? 彼は床の上に|放《ほう》り出した懐中電灯を取り上げて、照らしてみた。 ああ、彼の手に握られていたのは、女の片腕だった! 彼は銀子の腕のあたりを掴んだ。そうすると、彼は尻餅をついた。そうして、寝台は銀 子を載せたまま沈んだ。彼の手に腕が残った。ああ、銀子の腕は彼女の身体についていな かったのだ!腕はすでに切り離されて、そっと身体の傍に置かれていたのだった。 冷たい汗が彼の背中を|這《は》い回った。 もはや黙って見ているわけにはいかない。しかし、彼独力ではいかんともしがたいのだ。 一時も早く同僚の応援を得て、悪漢たちを一網打尽にしなければならぬ。 水松警部は女の片腕を握ったままそっと部屋を出て、もと来た廊下を伝って庭に出て、 裏木戸から外に出た。と、なんたる不覚!彼は不意に後頭部に一撃を受けた。彼はばっ たりと倒れた。彼は幻のように彼の前を|掠《かす》めていく姿を見た。 ああ、それは黒眼鏡の女! 黒眼鏡の女が彼の前から逃げていくのを|朦瀧《もうろう》と見ながら、水松警部はしだいに意識を失 った。後頭部に不意の一撃を受けては、鬼をも|挫《くじ》く警官もいかんともしがたかった。 が、彼の気力は張り切っていた。しだいに意識を失っていきながらも、必死に|昏倒《こんとう》する のに抵抗した。そのためか、彼がまったく意識を失った時間は十分にも足りなかった。彼 はやがて、しだいに意識を回復してきた。 彼はずきんずきんと痛む頭を抱えて、よろよろと立ち上がった。 その時に初めて気がつくと、彼が握っていたはずの女の片腕はどこへやらなくなってい た。あたりを捜しても見つからなかった。 疑いもなく、黒眼鏡の女が取っていったのだ!彼女はあの片腕を取るために、水松警 部を一撃の下に昏倒させたのだ! 土井が持って帰った女の片腕を盗み出したのも、黒眼鏡の女の仕業だった。いったいど ういう理由で、`彼女は女の片腕をそんなに欲しがるのだろうか。 しかし、水松警部はいまは黒眼鏡の女のことを考えている暇がない。一時も早く、狩野 医院の悪漢団を逮捕しなければならないのだ。 彼はよろよろしながら、懸命に歩いていった。と、不意にばらばらと彼の傍に駆け寄っ てくる二人連れがあった。はっと思う暇もなく、彼らは左右から飛びかかってきた。 水松警部はむろん、狩野医院から悪漢たちが追っかけてきたものと思った。彼は取り押 さえられては大変だと、必死になって抵抗した。しかし、相手は二人のうえに、たったい ま後頭部に打撃を受けて昏倒してようやく起き上がったところであるから、思うように動 けなかった。しばらく|揉《も》み合っているうちに、彼はふたたび昏倒して何事も分からなくな ってしまった。 ふと目を覚ますと、〜水松警部は柔らかいベッドの上に寝ていた。もう夜は明けて、窓か らは朝日が射し込んでいた。 水松警部が目を開くと、傍についていた見慣れない男が|嬉《うれ》しそうに声をかけた。 「やあ、お気がつかれましたか」 「ええ、.大丈夫です。いったいここはどこですか」 水松警部ができるだけ元気を出して訊くと、相手の男は気の毒そうに、 「ここは病院ですがね。昨夜はどうもとんだ失礼をしました。まったく知らなかったの で」 水松警部はだんだん昨夜の出来事を思い出してきた。彼は悪漢に捕らえられたと思って いたのだが、そうではなかったのか。 「いったい、どうしたんですか」 「いや、どうもとんだ失策をしましたのです。わたしは|象潟署《きさがたしよ》の刑事なんですが、昨夜管 内を警戒していますと、女がばたばたと駆けてきたので呼び止めて事情を聞くと、ついそ こで一人の男に暴行を加えられそうになって、一生懸命に振り切ってきたと言いますので、 ついうっかり信用して、同僚と女の言う所に来てみますとあなたがおられたので、いきな り飛びかかったのです。そうすると、あなたがなんにも言わないで抵抗されたものですか ら、ついー」 水松警部に飛びかかったのは刑事だったのだ。彼はいちがいに悪漢だと思ったので、無 言で抵抗したのが間違いの|因《もと》だったのだ。 「そうでしたか。わたしは悪漢だと勘違いしたものですからー」 「付近の交番へ担ぎ込んでから、はじめてご身分が分かりましたので」 刑事はひどく恐縮していた。 水松警部はしかし、別のことを考えていた。 狩野医院の悪漢たちはどうしたろうか。銀子の運命は? 女 秘書 「うーむ」 水松警部は|捻《うな》りながら起き上がろうとしたが、最初にやられた後頭部の打撃が案外重か ったとみえて、頭がぐらぐらとして立ち上がれなかった。 「うむ、残念だ。取り逃がしたかもしれない。きみ、すぐに手配を頼む」 水松警部は|歯噛《はが》みをしながら、狩野外科医院と昭和ビルの狩田事務所に即刻、逮捕隊を 向けることを依頼した。 逮捕隊から返事のあるまで警部はベッドの上で焦燥|煩悶《はんもん》を続けていたが、やがて彼の受 けた報告は彼が予期したとおり、狩野外科医院は事情を知らない薬局生や看護婦が二、三 人いたきりで、他の者はすっかり逃亡していた。昭和ビルも同様だった。狩野医院では厳 重に家宅捜索が行われたが、手足を切り取った|屍体《したい》や、女の首や片腕など、どこからも発 見されなかった。昨夜の内に悪漢たちは証拠になるようなものを持って、どこかへ風を食 らってしまったのだ。 水松警部の落胆は筆紙の尽くすところでなかった。せっかく彼らの巣を突き止めながら、 思わぬことで取り逃がしてしまったのだ。ああ、|瀕死《ひんし》の野崎銀子はどうなったろうか。狩 田ははたして成田支配人と同一人で、狩野医院も彼によって経営されていたのだろうか。 狩田の怪行動にも増して不審に堪えないのは、黒眼鏡の女の行動である。水松警部は彼 女のために、狩野医院の悪漢たちを逮捕することができなかったのではないか。 水松警部は翌日になって、ようやく起き上がることができた。・彼は起き上がるとすぐに、 黒眼鏡の女の追跡を始めたのは、けだし当然である。 彼はまずだいいちに、丸の内の東洋石油会社に行った。そうして、社長が富永といって 小石川の竹早町に住んでいることを確かめると、すぐに同所に出かけた。彼は富永の私設 秘書だという、黒眼鏡の女にそっくりの婦人の消息を探るつもりだったのである。 富永邸に行ったのは、午後早々だった。彼は門前に|仔《たたず》んで、しばらく様子を|窺《うかが》っていた。 するとしばらくして、玄関が開いて一人の男が出てきた。見ると、それは土井だった。土 井はいつの間にか帰京していたのだ。 「おい、きみ、きみ」 警部は土井が官甲水邸を出て、二、三間行きかけたところで呼び止めた。 「あっ、水松さん」 土井はびっくりして足を止めた。 「社長の所へ報告に行ったんだね。大阪のほうには、あれから変わったことはなかったか ねL 「ええ、わたしはあれからすぐ釈放してもらって、すぐ帰京しました。あのあと、別に変 わったことはないようです」 「社長はおられたかね」 「ええ、いました」 「女秘書は?」 「えっ」 土井は警部の質問に驚いて目を見張ったが、すぐ|頷《うなず》きながら、 「さすがは警部さんですね。香宮さんのことも、もうご存じなのですね」 水松警部は土井の口振りから、香宮という女秘書が事件に関係しているらしいことをす ぐ悟ったが、素知らぬ顔をして、 「ああ、香宮というんだね。いるだろうね」 「ええ、います」 「ありがとう。じゃ、ぼくはちょっと社長に会ってくるから」 水松警部は土井に別れて富永邸に入った。しかし、彼が玄関で取次ぎを頼んだのは社長 でなくて、秘書の香宮だった。 秘書の香宮は水松警部が取次ぎに渡した名刺を手にして、不審そうに出てきた。 「あの、どういうご用でしょうか」 「ちょっと、お|訊《たず》ねしたいことがあるんですが」 警部はこう言って、秘書の顔をじっと見た。確かに狩田事務所に入るのを見た女である。 黒眼鏡はかけていないが、もしこの女に黒眼鏡をかけさせたらあの怪しい女に寸分違わな いのだ。が、この女は不意に警部の訪問を受けて、何事かと多少おどおどはしているが、 顔は朗らかに澄み渡って一点の曇りもないのだ。ああ、この女ははたして、奇々怪々な行 動を取っている黒眼鏡の女だろうか。水松警部は迷わざるを得なかった。 「わたしにでございますか」 彼女はようやく落ち着きながら|訊《き》き返した。 「ええ」 「どういうことでございますか。どうぞ、お訊きください」 「あなたはたしか昨日、昭和ビルにおいでになりましたね」 「はい、富永さんの言付けで、あそこの狩田事務所へまいりました」 「その前の日はどこかへお出かけになりましたか」 「いいえ、どこへもまいりません。ずっと、ここにおりました」 水松警部はもう一度、香宮の顔を見直した。彼女は平然としている。大阪まで土井を尾 行していったのを隠している様子など、|微塵《みじん》もない。鼻や耳のあたりを注意して見たが、 眼鏡を始終かけているらしい|痕《あと》など少しもなかった。この女は黒眼鏡の女とは、全然別人 なのだろうか。 「そうでしたか。それでは、わたしの思い違いでした」 もし、間違った女を追及しているのだとすると、一時も早く切り上げるのがよいのだ。 彼は早々に帰り仕度をしたが、この時ふと気がつくと、香宮は両方の手に|華箸《きやしや》な手袋を|嵌《は》 めていた。このごろのおしゃれな女は夏にだって薄い手袋を嵌めているから、別にたいし て不思議なことはないが、なんとなく警部の目を|惹《ひ》いた。 香宮は警部の目がじっと彼女の両手に注がれていることに気がつくと、そっと組み合わ せて、なにげなく指先を隠すようにした。 警部はいつまでも、香宮の手袋を嵌めた指先を眺めているわけにいかないので、別れの |挨拶《あいさつ》をして外に出た。 しかし、彼の頭には香宮の手袋の下に隠された華著な指が、妙に気にかかりだした。じ っと考えてみると、どうも昨日も確かに手袋を嵌めていたようだった。ああ、彼女の手袋 の下には、何か秘密が隠されているのではないだろうか。 警部は考えながら、|傭《うつむ》き加減に歩いていた。すると、彼の|傍《そば》に寄ってきた者があった。 見ると、それは土井だった。彼は警部が富永の家に入ったのが気がかりだったと見えて、 警部の出てくるのを待ち受けていたらしいのだった。 「警部さん、どういう用であそこへいらしたのですか」 「なに、別に大した用じゃなかったんだ」 「あなたは香宮さんに会いに行ったのでしょう」 「うん、まあ、そんなことだ」 「あなたは香宮さんが黒眼鏡の女だと、思っていらっしゃるんでしょう」 「うむ」 警部はちょっと言葉に詰まって土井の顔を見た。すると土井は|憂欝《ゆううつ》な顔をしながら、 「実はぼくもそうじゃないかと思っていたんですが、どうも違うらしいんですよ」 土井の意味ありげな言葉に、水松警部ももう|曖昧《あいまい》な態度をしているわけにはいかなかっ た。 「きみの言うとおり、あの香宮という女が黒眼鏡の女にあまりよく似ているので、もしや と思って調べてみる気になったのだが、・きみがそうじゃないというのはどういう理由か ね」 「ぼくは昨日の朝、東京に帰ったのですが」 土井は相変わらず、浮かない顔をしながら言った。 「東京駅に着くと、すぐその足で下宿に行きました。そうしたら、いままでの疲れが出て、 昼ごろまでぐっすり寝込んでしまいました。昼過ぎになってようやく目を覚ますと、どう です、|枕《まくら》もとにまた例の筆跡で手紙が置いてあるじゃありませんか」 「ふーん、どんなことが書いてあったかね」 土井の意外な話に、水松警部は思わず|身体《からだ》を擦り寄せた。 「その手紙には、野崎銀子が浅草公園の近くの狩野医院に監禁されているが、彼女を救い 出すためには絶対に命令とおりにしなければならないー」 「えっ」 水松警部はますます驚いて、土井にほとんど寄り添うようにして彼の顔をじっと眺めな がら、 「そ、その命令というのは」 「その命令は、絶対に警察に知らせないで、今夜の一時きっかりに狩野医院の裏木戸の傍 に忍んでいろ。必要な命令はその時に下す。もし、銀子の無事な顔を見たいなら必ず命令 に背くな、とこういうのです」 「で、きみは命令どおりしたんだね」 「ええ、わたしはなんだか、その命令に背けないような気がしたんです。それで、一時き っかりに命ぜられたとおり、狩野医院の裏木戸の傍に行ってじっと隠れていました。そう したら、どこから出てきたか例の黒眼鏡の女がまるで幽霊のように、すーっと傍にやって 来ました。わたしは意気地がないようですが襟もとがひやりとして、身体じゅうの毛が総 立ちになりましたよ。黒眼鏡の女はわたしの耳もとで、いまに、この木戸から一人の男が 出てきますから、この棒で殴り倒してください。銀子さんを助けるためにはそれが絶対に 必要なんです、とこう言うかと思うと、わたしにステッキの切れ端のようなものを握らせ て、またすーっとどこかへ消えていきました。わたしは|呆然《ぽうぜん》として、夢を見たのじゃない かと思いましたが、手にちゃんと棒を握っていたので、やはり本当に彼女が来たのだと思 ったのでしたL 「うーむ」 水松警部は食い縛った歯の問から、捻り声を出した。土井は驚いた。 「ど、どうかしたんですか」 「い、いや、どうもしない。先を話したまえ」 「わたしは黒眼鏡の女に渡された棒を握って、しばらく呆然としていました。すると不意 に裏木戸が開いて、一人の男が出てきました。わたしはそれを見ると、まるで催眠術で暗 示を受けた人間のようにふらふらとその男の傍に寄って、背後から頭を目がけてガンと殴 りつけました。その男はばつたりと倒れました。そのとたんに急に恐ろしくなって、わた しは手にした棒を|放《ほう》り出すといっさんに逃げ出しました」 「うーむ」 水松警部はふたたび稔った。ああ、昨夜彼を大事な瀬戸際で|昏倒《こんとう》させてしまったのはほ かでもない、土井だったのだ! 土井は殴り倒した男が水松警部であることを、はたして知らないのだろうか。警部は探 るような目つきで土井の顔を眺めたが、そのとたんに、彼の頭にはむらむらと疑念が起こ った。土井は黒眼鏡の女と共謀しているのではないか。 水松警部は事件の最初には、土井を疑っていた。しかし、まもなく彼が何者かに操られ ているのに過ぎないことを発見して、それからは彼の言うことはかなり信じていたのだが、 昨夜、黒眼鏡の女に頼まれて警部を殴り倒したとすると、もう気を許すことはできない。 ことによると、そもそもはじめから黒眼鏡の女と共謀しているかもしれないのだ。しかし、 一面から考えると、警部の前でこんなことを告白するのは、やはり彼が黒眼鏡の女に思う ままに操られている証拠とも見られる。 水松警部は何食わぬ顔をしていた。 「いったんは夢中で逃げ出しましたが、しばらくするとまた気がかりになりまして、そっ ともとの所に戻ってみました。すると、そこにはもうだれもいませんでした。わたしに殴 られた男は案外大したことがなくて、起き上がっていったと見えます。わたしはほっと安 心しました。まったくわたしは自由意志でそんな乱暴なことをしたのではなく、自分の手 でありながら、まるで他人の意志に動かされたようにふらふらとやってしまったのですか ら、ひどく後悔していたんです。しかし、殺してしまったりしないでよかったと思ってい ます」 土井の話の様子では、彼は相手が水松警部であることも知らないようだし、まったく黒 眼鏡の女に催眠術にかけられて、ほとんど無意識に殴りつけたように思える。 水松警部はそれから先の話が聞きたかった。 「もとの所へ引き返して、それからどうしたかね」 「それから、また不思議なことに遭ったのです。わたしが狩野医院の裏木戸に引き返した ときには、いま申し上げたとおりあたりにはだれもいず、しーんと静まり返っていました。 わたしはしばらくどうしようかと思って迷っていますと、急に医院の中でがやがやと人声 がしだしたのです」 「なに、人声がー」 「ええ、わたしは逃げ仕度をしながら聞くともなしに聞きますと、男の声で、 やぷへぴ" 1ちょっ、もう逃けちゃったよ。いまさら外へ出て騒き立てちゃ藪蛇だ。 すると、もう一人の男が、 ーまた、片腕を持っていかれたが、女の腕を切る首領も首領だが、腕を持っていく|奴《やつ》 もいく奴だな。 1また首領の機嫌が悪いぜ。やりきれないな。 1大阪からやっと女を連れてきて機嫌を直したばかりだのに、とんだ失敗をしたな。 二人の会話を盗み聞いたわたしはあっと顔色を変えて、ぶるぶる|頸《ふる》えだしました。とい うのは、彼らの会話の内容が奇々怪々だったためばかりではありません。二人の声に確か に聞き覚えがあったからです。この二人は疑いもなく、いつか浴場で女が殺されたときに、 その傍でやはり奇怪な会話をしていた男たちに相違ないのです」 「うーむ」 水松警部は三度捻った。 「それから、きみはどうした」 「二人の会話はまもなく|止《や》みました。そして、あたりはまたもとのとおりしーんとしまし た。わたしは以前のときも懲りているので急に恐ろしくなって、急いでそこを逃げて下宿 に帰りました」 土井がもう少し我慢をしていれば、彼らが瀕死の銀子や、手足を切り離した屍体を担ぎ 出すところが見られたかもしれないのだ。いや、水松警部は今朝になってようやく昏倒か ら覚めたのだから、彼らは夜が明けてから悠々と引き揚げたのかもしれない。 警部が黙り込んだので、土井は木安そうにきょろきょろした。 土井は警部が黙り込んだのを、彼を非難する意味と取ったらしくおどおどしながら言っ た。 「黒眼鏡の女からの手紙のことをあなたに申し上げないで、単独行動を取ったのはまった く相すみませんでした。ですが、二人の男の会話にあった、大阪から連れてきた女という のは銀子のことじゃないでしょうか。そうすると、黒眼鏡の女の言うことも、まんざらで たらめではないと思います。昨夜もだれかが、というよりも、わたしが殴り倒した男でし ょうが、あそこから女の片腕を盗み出したらしいところを見ると、この前の片腕もやはり あの病院から持ち出したのじゃないでしょうか、そ、それに、ゆ、|昨夜《ゆうべ》の腕は、こ、こと によると、ぎ、銀子の腕じゃないでしょうかL 土井の頸え声の訴えを聞くまでもなく、水松警部にはもう分かり過ぎるほど分かってい ることだった。 東洋ホテルから銀子を連れ出した悪漢、|湯浴《ゆあ》みする女を殺した悪漢、大阪の浜ビルホテ ルヘ女を連れ込んで殺した悪漢、銀子を高島屋から誘拐した悪漢、それらはことごとく同 一の仲間で、昨夜狩野医院の裏木戸の傍で会話をしていたという二人が、その中の主だっ た者である。そうして、それらの悪漢の首領は疑いもなく狩田である。狩田が野崎の支配 人の成田と同一人であるかどうかはいまだはっきりしないが、狩野医院の経営者であるこ とは恐らく間違いはないであろう。 浴場で殺された女と浜ビルホテルの一室で殺された女とは恐らく悪漢の仲間であって、 首領の秘密を知ったために彼らの血祭りにされたものである。首領の秘密とは何か。それ が四本指の秘密であることはほとんど疑いを入れない。悪漢団の首領は四本指であり、野 崎を列車内で殺した犯人である。それが、狩田であることもほとんど確実である。 悪漢団の首領は恐らく惨虐性色情狂なのだろう。殺した屍体を切り刻むということは、 普通人ではできないことである。東洋ホテルから銀子を誘拐したのも、大阪から半麻酔の 状態で彼女を連れて帰ったのも、恐らく首領が彼女に|執拗《しつよう》な恋着を感じているためであろ う。野崎を殺したのも、あるいは銀子を手に入れる手段だったかもしれない。昨夜、彼女 はもうすでに首領の病的色欲の犠牲になろうとしていた。ぐずぐずしていると、今夜あた りは完全に生命を取られてしまうだろう。そう思うと、水松警部は気が気ではないのであ った。 水松警部の知っている限りの三つの殺人事件と、銀子の前後二回の誘拐事件は以上の説 明でほぼ明らかにすることができた。あとは狩田以下の逮捕と、銀子の救助とが残ってい るだけである(もっとも、これはなかなかむずかしい仕事ではあるが)。 これに反して、まったく訳の分からないのは黒眼鏡の女の行動である。はじめに土井の 部屋から女の片腕を盗み出したときには共謀者があるようにも思われたが、昨夜、土井を うまく利用した大胆な|遣《や》り方を見ると、どうも単独で行動しているらしい。彼女が狩田の 仲間でないことは確かである。といって、決して正しい人間ではない。正しい人間なら警 察を味方に頼みそうなものであるのに、彼女は警察を味方にするどころかかえって敵にし ている。女の身で、たった一人で大勢の悪漢と警察とを相手にして、縦横に奇怪な活躍を しているのはただ舌を巻くほかはないが、彼女が二回までも女の片腕を盗み出した理由は そも、何だろうか。悪漢団と警察とを相手にして、不可解極まる行動をほしいままにして いるのはどういう理由だろうか。 狩田を首領とする悪漢団の秘密はほぼ明らかになったが、解けないのは黒眼鏡の女の|謎《なぞ》 だった。水松警部はしばらく、あれかこれかと頭の中で考え悩んだが、この時に土井がき ょとんとして彼の顔を眺めているのに気がついたので、慌てて言った。 「昨夜の話は分かったが、きみがさっき言った黒眼鏡の女と、香宮とがよく似ているが、 別の人だというのはどういうところからきたのかね」 「わたしは今朝起きるとすぐに、社長の富永さんの所を訪ねたのです。一つには、大阪の 出来事を社長に報告するため、一つには、秘書の香宮のことが気がかりだったので、黒眼 鏡の女と同一人か違うかを確かめるつもりだったのです。社長は昨夜遅かったので、まだ 寝ていましたので、とりあえず香宮に会って話をしながらそれとなくいろいろ試してみま したが、彼女はいっこう平気で応対しまして少しも疑う余地がないのです、昨夜もずっと 家にいたようですし、この間からずっと東京にいてほかへ行った様子はありません。まっ たく、黒眼鏡の女とは別人だと思います」 「じゃ、別にこれという確かな証拠はないんだね」 水松警部は落胆しながら、 「もっと確実な、動かすべからざる証拠が欲しいものだね」 「わたしは確実だと思いますけれども、まだ不充分ですかしら。それでしたら、今後いっ そう気をつけて証拠を挙げることにしましょう」 「うん、そうしてもらいたいね。それからちょっと注意しておくが、きみはどうも警察を 無視して単独行動をしていかんね。それも成功すればまだいいのだが、いつも失敗ばかり しているうえに、疑いを招くようなことを重ねるんで困るね。昨夜だって、きみがはじめ から黒眼鏡の女と共謀してやったと考えれば考えられるんだ」 「ま、まさか、あなたはl」 「うん、まあ、そんなことは信じないがね、どうも困るよ。昨夜だって、きみが前もって 警察と打ち合わしておいてくれれば悪漢団を捕まえることもできたし、野崎銀子の|生命《いのち》も 助けることができたんだ」 「じゃ、あの、もう銀子さんはi」 「まだ分からんがね。非常な危険に|瀕《ひん》していることは確かだ。昨日、きみが単独行動を取 ったばかりにこんなことになったんだぜ」 「ど、どうも申し訳ありません。これからはきっと、何事も隠さずに前もって申し上げま す。銀子さんは大丈夫でしょうか」 「さあ、なんとも言えない。なにしろ、狩野医院の奴らは、根こそぎどこかへ逃げちゃつ たんだから」 「えっ、じゃもう、狩野医院のことはお分かりになっているんですか」 「ぼくたちを甘く見ちゃいかんよ」 水松警部はじっと土井を見詰めながら、半ば|詰《なじ》るように言った。 「ぼくたちには、狩野医院のことくらいはちゃんと分かっているよ。昨夜、きみに邪魔さ えされなければ、もう奴らはみんな|数珠繋《じゆずつな》ぎになっていたはずなんだ」 「えっ、じゃわたしが検挙の邪魔をしたんですかcど、どうしてです」 「うん、きみは確かに検挙の邪魔をしたんだよ。だがまあ、それは済んだことだ。それは そうと、きみは今朝富永の家を訪ねたというのに、ついいまし方あそこを出てきたのは、 ずっといたのかね」 「ええ、社長が待てと言ったものですから。社長は午後になって、ようやく起きたのです。 ああ、それから警部さん、わたしはとんでもないものを見たんですよ」 こう言った彼の顔は、ひどく|青槌《あおざ》めていた。 「なに、とんでもないものを見たとは、何を見たのかね」 水松警部は土井の言葉のうちに、なんとなく重大性のあるのを感じたので、急いで訊き 返した。 土井はますます顔を青くして、きょろきょろとあたりを見回した。そうして、言おうか 言うまいかと迷っていたようだったが、ようやく決心がついたとみえて口を開いた。 「実は、こればかりはどんなことがあってもだれにも言うまいと思っていたのですが、い ま、あなたが、今後警察へは一切隠すなと言われましたし、考えてみると、これまで隠し 立てをしたばかりにずいぶんしくじってもいますし、やはり申し上げたほうがよいと思い ます。しかし、このことがわたしから|洩《も》れたということだけは、絶対に秘密にしていただ きたいのです」 水松警部が直覚したとおりなかなか重大なこととみえて、土井の前置きはひどく長かっ た。警部は土井の真剣な顔を見て、頷いた。 「決してきみの迷惑になるようなことはしない。安心して話してくれたまえ」 土井は警部の傍に擦り寄った。そうして、低い声で|曝《ささや》くように言った。 「実は今日初めて気がついたのですが、社長の右手の指が一本足りないのです。四本指な んです」 「えっ」 何事か重大なことらしいとは予期していたのだが、それでも、あまりに思いがけないこ となので、水松警部は跳び上がった。 「ほ、本当のことかね」 「こんなことが、|嘘《うそ》や冗談に言えるものですか。まったく間違いのないことです」 「見間違いじゃないかね」 「大丈夫です。決して見間違いじゃありません」 「しかし、きみがいままで気がつかなかったのは、変じゃないか」 「ええ、気がつかなかったのは変だと言われれば、それっきりですが、何といってもわた しは会社に入ってからそう長くもありませんし、社長にそう近づく機会もありませんでし. たので。それに考えてみると、社長はこれまで、右手の指が一本足りないことをうまく隠 していたんだと思います、今日はちょっとした不注意から、わたしに見られたのじゃない かと思います」 「ちょっとした不注意とは」 「わたしの考えでは、社長は義指を嵌めているんだと思います。今日はわたしを長く待た したために、いや、そればかりでなく、わたしの話を早く聞きたいために慌てたのでしょ う。顔を洗うときかなんかに外したのを、そのまま忘れて出てきたらしいのです。社長は しばらくしてからはっと気がついたらしく、それからはなるべく右手を隠して見えないよ うにしていました」 「右手に相違ないね」 「違いありません」 「欠けていたのは、中指だったかね」 「さあ、それを確かめたいと思いましたが、あまりきょろきょろと手を見て変に思われて は困ると思いましたので、どの指が欠けていたのかその点ははっきり申し上げられません。 しかし、親指と小指でないことだけは確実です」 「社長はきみに四本指の秘密を悟られたこと、気がついていたようだったか」 「さあ」 土井は不安そうに答えた。 「たぶん、気がついていなかったと思います」 「きみは社長に、野崎を殺した犯人が四本指の男だということを話したかね」 「ええ、話したように思います」 土井は頷いた。 「その時の社長の様子は、どんなだったかね」 「さあ、たしか社長は驚いたと思います。しかし、高崎で降りたと信じられている野崎が 実は被害者で、被害者と信じられていた男が実は加害者らしいという話はだれが聞いたっ て驚かずにはいられないことですから、社長が驚いたってわたしは別に気にはしませんで した」 「それはきみの言うとおりだ」 水松警部はしばらく黙って何事か考えていたが、やがてふたたび問いかけた。 「社長は野崎が被害者で、四本指の男が加害者だということを聞いてから、きみに急に探 偵することを命じたのだね」 「そこのところはちょっと違います。社長は野崎寛吉が被害者だということを聞いて、急 にわたしに探偵させる気になったので、四本指の話はわたしに事件の探偵を命じてから知 ったのだと思います」 「ふむ」 水松警部はまたもやしばらく考え込んだが、 「富永社長の右手が四本指だからといって、ただちに野崎事件と関係があるとは断言でき ない。しかし、かなり重大な発見であることは確かだ」 「社長が犯人だなんて、そ、そんなばかなことはありません。汽車に乗っていた四本指の 男は、社長とはまったく別人です」 「まあ、そう|昂奮《こうふん》しなくてもよい。西洋の|諺《ことわざ》にも、犯罪は必ず発覚するということがある から、真犯人はいつか必ず捕縛されるよ、きみはしかし、社長が四本指だということは絶 対に他の人に言わないがいいよ」 「むろんです。社長に、わたしがそんなことを知ったということが分かっては大変です。 絶対に他言しません」 「ぜひそうしたまえ。それから、例の女秘書だがね、あれはいつごろから社長の家にいる のかね」 「ごく最近らしいです」 水松警部はすぐに何か言おうとしたが、急に開きかけた口を|喋《つぐ》んで、土井の肩越しにき っと前方を|睨《にら》んだ。 土井が警部の顔つきから、背後に何事か起こったのだと思って慌てて振り向こうとする と、水松警部は口早に言った。 「振り向いてはいけない。きみはここにじっとしていて、何か用がありそうにしていたま え」 そう言うかと思うと、彼は|大股《おおまた》に富永邸のほうに歩きだした。 水松警部は富永邸を出るとまもなく、土井に呼び止められて往来で立ち話をしていたの だが、案外話が重大でつい暇取ってしまった。こんなことなら、初めからどこか適当な所 へ行って話せばよかったのだが、初めはそんな長い話になると思っていなかったので、つ い立ち話になってしまったのだが、従来の経験から、土井はいついかなるときでも、必ず どこからか黒眼鏡の女に監視されているので、いまもあるいは近所に潜んでいないかと、 警部は油断なく鋭い目をぐるぐる動かしていたのだったが、はたして土井の背後の電信柱 の陰から、ちらりと彼女の姿が見えたのだった。 黒眼鏡の女の姿を見かけると、水松警部は土井にじっとしていることを命じて、反対の 方向に歩きだした。彼は富永邸に行って、女秘書が現在家にいるかどうかを確かめるつも りだったのである。 彼は富永邸の玄関で案内を|乞《こ》うて、出て来た女中に、香宮さんはと訊いた。その答え ↓よー 「あの、香宮さんはたったいまお出かけになりました」 女中の返事を聞くや否や、水松警部はたちまちもとの所に引き返した。 ,土井はきょとんとしながら立っていた。 「土井くん、そのまま歩きだしたまえ」 警部は小声で命じた。 土井は何事か分からぬながら命ぜられるままに歩きだして、警部は土井と肩を並べて歩 調を共にした。 約一、二町歩いたころ、警部は突然立ち止まった。振り向くや否や、ばらばらと駆けだ した。土井は驚いて警部の不意に駆けていく姿を見守ったが、その時に土井の目に、|狼狽《ろうぱい》 しながら小走りに逃げていく若い女の姿が映った。 みるみるうちに、警部は慌てて逃げていく女に追いついた。 「ちょっと待ってください」 女は|諦《あきら》めたという風に、立ち止まって振り向いた。黒眼鏡をかけていた。すんなりとし た、口もとの引き締まった美しい女である。 「香宮さん、黒眼鏡なんかかけてわたしたちを尾行してきたのは、どういうわけですか」 「わたしは別に、あなた方を尾行したわけじゃありませんわ。|用達《ようたし》に出かけて、たまたま 同じ道を歩いていただけですの」 香宮の答えは落ち着いていた。水松警部はにやりと笑った。 「ははは、その言い訳は通りませんね。あなたは明らかにわたしたちを尾行していました よ。先刻はつい急いだので、ゆっくり話ができませんでした。実は、あなたにはいろい ろお訊きしたいことがあるのです。ちょっと、警視庁まで一緒においでくださいません か」 香宮の顔は急に|強張《こわば》った。 「わたし、警視庁に行くことなんかご免です。なにも悪いことをしないんですもの」 「そうでもありませんね。故なくして他人を尾行すると、処罰される規則もありますよ」 「わたし、尾行したのじゃありません」 「じゃ、あなたがいままでかけていなかった黒眼鏡なんかかけているのは、どういうわけ ですか」 「こ、これは別に、意味はありません。いつも外に出るときには、ごみ|除《よ》けにかけるので す」 つつ一 ,一,ロJ 「ごみ除けですか、ははは、ごみ除けの眼鏡でも、変装用にならないとも限りませんから ね。とにかく、往来で話は困ります。一緒においでください」 香宮はしばらくためらっていたが、とうとう諦めたとみえて、 「そうおっしゃるなら、ご一緒にまいりましょう。わたしは少しも|疾《やま》しいところがないん ですから、平気ですわ」 「土井くん」 水松警部は、問近まで来てもじもじしている土井を呼んだ。 「タクシーを呼んでくれたまえ。それから、きみも一緒に来たまえ」 水松警部は土井が富永にでも知らせては面倒だと思ったので、タクシーに同乗させて香 宮と一緒に警視庁に連れ込んだこ警視庁では昨夜以来、水松警部のことはよく承知してい たので、何の面倒もなく調べ室を提供してくれた。 水松警部は土井を別室に待たせておいて、香宮一人を呼び入れた。 「香宮さん、お名前は」 香宮はきっと口を結んで、返答を拒絶するような様子を示したが、思い返したとみえて、 低い、しかし、しっかりした声で答えた。 「|雪江《ゆきえ》」 「|年齢《とし》は」 「二十三です」 「職業、現住所は分かっていますから、改めて問いませんが」 水松警部はここまで言って、急に厳かな口調に変わった。 「香宮さん、手袋を取ってください」 香宮は反射的に両手を重ね合わしたが、きっとなって、詰るように言った。 「なぜ手袋を取るのですか」 「取調べ上、必要ですから」 「嫌です、お断りします」 「香宮さん、素直にいうことをお聞きになったほうがおためですぞ」 「でも、嫌です。何か答えることでしたら、隠さずに言います。しかし、いきなり手袋を 取れなんて、侮辱です。失礼です。わたし、そんな失礼なことには応じられません」 「手袋をお取りくださいといったところで、別に侮辱でもなんでもありません。疾しいと ころがないのなら、素直にお取りになったらいかがですか」 「いいえ、侮辱です。わたし、疾しいところなんか微塵もありませんが、嫌です」 「そう|依情地《えニじ》になっては困りますね。もし、どうしてもお取りにならないなら、止むを得 ず強制的に取らせますよ」 香宮は唇をきっと噛んで、しばらく水松警部を睨みつけていたが、やがて張り詰めた勇 気が抜けたようにぐったりしながら、 「わたしはこんな所へ無理やりに連れてこられて、侮辱的なことをされるのを|口惜《くや》しく思 います。しかし、どうせ抵抗することはできないのですから仕方がありません」 そう言って、彼女は静かに手袋を脱ぎはじめた。 水松警部の目が光った。 が、彼の見たのは真っ白な、まるで|栴《こしら》えたもののように美しい、しかしすべてが生き生 きと動いている十本の指と、そうして、その一本に嵌まっている素晴らしいダイヤの指輪 だった。 香宮の態度から、手袋の下には何か秘密が潜んでいる、と考えて勢い込んでいた警部は がっかりした。 警部がやや|怯《ひる》んだ気色に、香宮はきっとなった。 「さあ、手袋を取りました。何かご不審がございますか」 「不審な点はこれから訊きます。わたしはただ、手袋をお取りなさいと言っただけです」 「でも、何か不審があればこそ、手袋を取れとおっしやったのでしょう」 「そうです。あなたが手袋を脱ぐのを嫌がる点に、不審を抱いたのです。まだ、わたしの 不審は晴れたわけじゃありません。まず、あなたがわたしを尾行した理由を伺いましょう」 警部は巧みに話題を変えた。 「わたしはあなたを尾行したのじゃありません」 「そうですか。では、どこへ行くつもりだったのですか」 「丸の内へ行くところだったのです」 「わたしが追っ掛けると、逃げ出したのはどういうわけですか」 「急にあなたが振り返ってわたしのほうに駆けだしてこられたので、つい、なんというこ となしに恐れて逃げたのです」 「丸の内のどこへ行かれるところでしたか」 「昭和ビルです」 「昭和ビルのどこですか」 「狩田事務所です」 水松警部はしめたと思った。香宮はでたらめの行き先を言ったのを、問い詰められて、 とうとう狩田の名を出したのである。 狩 田弁護士 水松警部は心のうちでにやりとした。香宮は問い詰められて、とうとう狩田の名を出し たが、彼女は狩田がとうの昔に事務所を逃亡していることを知らないのだ。 「狩田事務所へ行かれるのはあなたの用ですか、社長の言付けですか」 「わたしの用です」 「なるほど。では、あなたはご自分の用で、昭和ビルの狩田事務所へ行かれるところだっ たのですね。それに相違ありませんか」 「相違ありません」 「では、どういうご用事ですか」 「それは申し上げられません」 「あなたはさっき、何事も隠さずに話すとおっしゃいましたね。それにl」 「それは事柄によります。わたしは狩田さんに秘密の用事があるのです。私事まで申し上 げなければならぬということはありますまい」 「狩田さんとは、訪問の打合せをしましたか」 「はい、電話でいたしました」 「まままま '``'」 水松警部は軽く笑った、 「あなたはとうとう|尻尾《しつぽ》を出しましたね。苦し紛れに狩田の名を出されたところまではよ かったが、電話の打合せは余計でしたね。あなたはそんなことができるはずがありませ ん」 「え、それはどうしてですか」 「狩田はもう事務所になんかいません。たぶん、昨夜のうちにどこかへ逃げてしまったの でしょう」 「ええっ」 香宮はわが耳を疑うように叫んだ。そうして、すぐにヒステリックな声でつけ加えた。 「そ、そんなばかなことが。狩田さんが逃げるなんて、そんなばかなことが、ぜ、絶対に あるわけはありません」 「あなたがどうお思いになろうとも、事実だから仕方がありません」 「いいえ、なんとおっしゃっても、そんなはずはありません。狩田さんはきっと事務所に いらっしゃいます」 「なかなか自信がお強いですな」 警部はしばらく口を休めたが、やがて唇のあたりに皮肉な笑みを浮かべながら、 「じゃ、こうしましょう。あなたひとつ、狩田事務所へ電話を掛けてごらんなさい」 水松警部は香宮が|後込《しり  い》みをするだろうと思ったが、意外にも彼女は急に顔を輝かして、 勇み立ったのだった。 「ええ、ええ、掛けますわ。電話を貸してください」 警部は香宮を電話のある所に連れていった。 香宮は昭和ビルの電話番号を暗記していて、すぐに呼び出した。 「あの、狩田事務所へ|繋《つな》いでくださいな」 警部が予期していたとおり、狩田事務所はなかなか出なかった。香宮の顔には困惑の色 が浮かんだ。彼女は不安な表情をして、警部のほうをちらりと眺めた。 「無駄ですよ。もうお|止《よ》しなさい」 警部が香宮にこう言おうとしたとたんに電話が繋がったとみえて、彼女は急に声を張り 上げた。 「ああ、狩田事務所ですかC先生にちょっと電話に出てもらってください。わたし、香宮 ですわ。ええ、たいへん急な用ですの」 はてな、事務所にはまだだれか残っていたのかな、しかし、むろん狩田はいないと断ら れるだろうと警部が思っていると、意外、相手はそのまま引っ込んだらしい。 と、入れ違いに狩田が出たとみえて、香宮は|嬉《うれ》しそうに叫んだ。 「先生、狩田先生ですか。まあ、よかった。先生、わたし、とんでもない目に遭っている のですよ」 水松警部の頭は混乱した。狩田が事務所にいようとは!信じられない。彼が平然とし て昭和ビルの事務所にいようとは、どうしても信じられないことである! が、警部が信ずると信じないにかかわらず、香宮は|喋《しやべ》りつづけていた。 「先生、すぐ来てください。わたし、水松さんという警部に連れられて、警視庁へ来てい るんです。何の|疾《やま》しいところもないのに、侮辱的な質問ばかりするのです。わたし、とて も堪えられません。先生、すぐいらっしてください」 やがて、香宮は受話器を持ったまま振り返って、水松警部を卑しむように見ながら言っ た。 「あなたは|嘘《うそ》をおっしゃいましたね。狩田さんはお逃げなんかなさいませんよ。ちゃんと、 事務所におられます。すぐにここへ来ると言っておられます」 「ちょっと待ってください」 狩田がここへ来るって!水松警部は夢中で頭を振った。盗まれた女の片腕について土 井を恐ろしい言葉で脅迫した狩田、交換手を卒倒させるような気味の悪い電話を掛けた狩 田、彼は明らかに、手足をばらばらに切り離す手術の準備を電話で部下に命じていたでは ないか。狩野外科医院とも言わなかったし、場所も四谷番衆町などと言ったけれども、彼 があの恐ろしい事件に関係していることは、疑いもないことである。それだのに平然と事 務所に現れ、そのうえに自身で警視庁に出頭しようなどとはとうてい信じられないことで ある。 「香宮さん、ちょっと待ってください。ぼくが出ますから」 水松警部は辛うじてこれだけのことを言って、香宮に代わって受話器を握った。 「ほくは水松ですがー」 彼がこう言うか言わないうちに、狩田の力強い声が電線を伝ってきた。 「ああ、水松警部ですね。あなたは誤解しておられる。とんでもない誤解をしておられる。 はあ、わたしは狩田です。狩田に間違いありません。わたしはこれから警視庁に出頭しま す。そうして、すべてを説明しましょう。とにかく、香宮さんは絶対に潔白です、尊敬す べき女性です。決して間違った取扱いをしないように。それだけを、きっぱりお願いして おきます。それでは、後刻お目にかかります」 ガチャリと受話器を置いて、水松警部はほっと|溜息《ためいき》をついた。 香宮は勝ち誇ったように言った。 「すぐ帰していただけるでしょうね」 「そうはいきません。もうしばらく待ってください」 不服そうにしている香宮をもとの部屋に置いて、水松警部は捜索課長の所に行った。 「課長、今朝ほど手配をお願いしたのですが、昭和ビルの狩田はなぜ、検挙しないで押さ えてあるんですか」 「あれはきみ」 捜索課長はやや|処《とが》口めるような口調で言った。 「こっちから|訊《き》こうと思っていたのだが、きみの思い違いらしいよ。なるほど、狩野医院 のほうは怪しい点が多々あって、現に経営者も逃亡したまま帰ってこないが、狩田のほう は少しも疑うべき点がないよ。数年前からちゃんと正当に開業している弁護士で、なるほ ど名は似通っているが狩野医院には全然関係がない。あれじゃ、きみ、手がつけられない よ」 水松警部は警視庁の|手緩《てぬる》さが|歯痒《はがゆ》かった。野崎事件が地方に起こった事件なので、課長 も冷淡なのだとさえ思えるのだった。 彼は言い返そうと思ったが、狩田自身がここへ出頭するというのだからあえて争うこと もないと、そのまま香宮のいる部屋に引き返した。 部屋に引き返す途中、水松警部の頭は狩田弁護士のことでいっぱいだった。もし、捜索 課長の言うように彼の見込み違いだとすると、こんな大きな見込み違いはないのだった。 が、静かに考えてみると、土井が恐ろしい拾い物をしたときに狩田はちゃんと名を出して、 新聞に広告した。当時、土井が電話を掛けたところ狩田が電話に出てきたので、驚いたほ どだった。その後も狩田はずっと昭和ビルに堂々と事務所を構えていたのである。こう考 えると、あるいは捜索課長の言が正しいかもしれない。 水松警部はやや|情然《しようぜん》として部室に入った。しかし、そこに|坐《すわ》っていた香宮を見るとむら むらと反感が起こった。こんな美しい優しい顔をしていながら、黒眼鏡をかけては幾多の 怪行動をしたのだ。彼女は土井を|使咳《しそ つ》して、警部に危害さえ加えているではないか。 それを、狩田は尊敬すべき女性だって!ふん、土井を脅迫したり、女の片腕を盗み出 したり、警部を殴りつけて|昏倒《こんとう》させたりした女性が尊敬すべき女性なのか。そうだ、狩田 はいい加減なことを言っているのだ。この女から秘密が|洩《も》れるのを恐れて、みずから出頭 してごまかそうとしているのだ。危ない、危ない。危なく彼の策戦に乗せられるところだ った。彼が来るまでに、この女をとっちめなければいけない。 こう決心した水松警部はいきなり、高圧的に訊いた。 「香宮さん、あなたはどういう理由で、女の片腕を欲しがるのですか」 「ええっ、女の片腕ですって」 香宮は跳び上がるように驚きながら、 「そ、そんな気味の悪いものを欲しがるなんて、とんだことですわ」 「香宮さん、嘘を言わないようにしてください。あなたが土井くんを脅迫したことや、大 阪まで尾行したことや、昨夜、浅草め狩野医院の付近でしたことなど、すっかり分かって いるのですぞ」 「まあ」 香宮は大きな口を開いて、|呆《あき》れたような表情をしながら、 「なんのことだか、少しも分かりませんわ」 香宮の表情は極めて自然だった。どうしても、わざとしているとは思えなかった。これ がしらばくれているのだとすると、彼女は実に名優も及ばない巧妙な芝居をしているので ある。 「香宮さん、まだ隠そうとするのですかっ」 水松警部は彼女の白々しいと見れば見られる態度にかっとなって、本気に怒ったのだっ た。 「何も隠していませんわ」 香宮もむっとして反抗するように言ったが、すぐ小さい声でつけ加えた。 「あなたは誤解していらっしゃるのですわ」 「誤解?誤解ですって?狩田弁護士も先刻電話で、そんなことを言いました。わたし が何を誤解していると言うのです。どうか、説明してください」 香宮は急に悲しそうな表情をした。 「それは申し上げられませんわ。たぶん、狩田さんが説明してくださるでしょう。わたし は狩田さんの許しを得なければ、何事も申し上げられません」 「警察官たるわたしが訊いてもですか。狩田の許可がなければ、返事ができんと言うので すか」 「ええ」 香宮はいままでと違って、やや|萎《しお》れながら答えた。 水松警部は|訊問《じんもんあ》を|諦《きら》めた。彼は口を|喋《っぐ》んでじーっと香宮を見詰めたが、その時にふと目 が彼女の指に落ちた。そこには、見事なダイヤが|眩《まぷ》しいように光っていた。 「ああ、香宮さん、その指輪のことを話してください」 「えっ」 水松警部から指輪のことを言われると、香宮はさっと顔色を変えた。 いままで、何を言われても平然としていた彼女が思いがけないうろたえを見せたので、 警部はしめたと思った。 「たいそう見事なダイヤモンドですね。それには何か|曰《いわ》くがありそうです。ひとつ話して ください」 彼はわざと意地悪くゆっくり言いながら、にやりとした。彼にはこの時初めて、香宮が いつも手袋を|嵌《よ》めていて、先刻それを取ることを頑強に拒んだ理由が読めたのだった。彼 女の手袋の目的はほかでもない、このダイヤの指輪を隠すためだったのだ。 香宮はようやく口を開いた。 「この指輪は別になんでもありませんわこ父に買ってもらったのですわ」 「お父さんに。ほほう、お父さんはお金持ちと見えますね。どこで、お買いになったので すか」 香宮はますますうろたえてきた。 「あの、父と言ったのは間違いです。富永さんに頂いたのです。頂いたのですから、どこ でお買いになったのか存じませんわL この時に、水松警部の頭をさっと|掠《かす》めた二つの記憶があった。一つは、土井が自働電話 の中で拾った女の片腕に見事なダイヤの指輪の嵌まっていたこと、もう一つは、いま香宮 が名を出した富永が四本指であるということ。 香宮の嵌めているダイヤの指輪は、切り取られた女の片腕に嵌まっていたものではない か。香宮は富永の秘書である。富永は四本指である。富永と香宮とは、共に野崎事件に重 大な関係があるのではないか。 「ほほう」 水松警部はわざと感心したように、 「富永さんに買ってもらったんですって。そんな素晴らしい指輪を買ってくれるなんて、 いい社長さんですな。ですが、社長さんに買ってもらったのなら、なにもそう隠すことは ないじゃありませんか」 「わたしはなにも隠してはいません。こうやって、ちゃんと嵌めているんですもの」 「そうですか。では、ちょっと拝見させていただけないでしょうか」 香宮は片手で指輪を押さえた。 「嫌です。指輪なんてむやみに見せるものじゃありませんわ。それに、この指輪は固くて なかなか抜けないのです」 彼女は明らかに嘘を言っていた。指輪は固いどころか、どっちかというと少し緩いくら いだった。 「そう固くもないようですな。ちょっと抜いてみせてくださいよ」 「嫌です」 「どうも、あなたは頑固ですな。しかし、その指輪は富永さんに買ってもらったのに相違 ないでしょうな」 香宮はちょっとたじろいだが、|微《かす》かに|頷《うなず》いた。 「ええ」 水松警部がさらに訊問を続けようとするとドアが開いて、巡査が顔を出した。 「別室に待っている人が、これをあなたに渡してくれと言いました」 別室に待っている人といえば土井である。水松警部は不審に思いながら、巡査の差し出 した紙片を受け取った。それには鉛筆で、大急ぎで走書きがしてあったっ ー里眼鏡の女か現れました。香宮さんはそっちにいるはずですから、別人に違いあり ません。わたしはわざと|騙《だま》されたような風をして、彼女についていきます。 黒眼鏡の女が現れたという土井の走書きに、水松警部は首を|傾《かし》げた。 香宮が黒眼鏡の女ではないかという疑いは、土井は久しい以前から持っていたし、水松 警部も最近に同じ疑いを持った。そうして、一時はそうではないかと考えたが、ついいま し方、彼女は黒眼鏡をかけて警部と土井とを尾行した。いわば現行犯を目撃したので、警 部は猶予なく彼女を警視庁に|拉《らつ》しきたったのである。 さて香宮を調べてみると、彼女は潔白らしいところもあり、またひどく疑わしい点もあ る。水松警部はいささか困惑していたのだった。ところへ、土井が鉛筆の走書きをよこし て、別に黒眼鏡の女が現れたと知らせてきた。してみると、香宮はやはり潔白なのか。だ が1水松警部はまた思い返した香宮は現に、里眼鏡をかけているところを捕らえら れたのではないか。彼女の黒眼鏡をかけたところは、警部が汽車の中で目撃した姿と寸分 違わないのである。 ことによると、狩田が何か策動したのではないか。彼は香宮が拘引されたことを聞いて 急に黒眼鏡の女を仕立てて、土井を欺いて彼を|誘《おぴ》き出し、香宮がかねがね疑われている黒 眼鏡の女ではないと、信じさせようとしたのではないか。 捜索課長はああ言ったけれども、狩田には疑わしい点が多々あるのである。ああ、香宮 と狩田とを電話で話させたのは大きな失敗ではなかったか。水松警部はむろん、狩田が電 話に出ることはないと思ったので試みに掛けさせてみたのだが、いまとなっては取り返し がつかないことをしたように思われるのだ。 しかし、土井が行ってしまったのでは、いまさらなんと考えてみたところで仕方がない のだ。 水松警部は土井の走書きをくしゃくしゃと丸めて、巡査にもういいという合図をしてか ら、香宮に向き直った。 香宮はどうやら|気取《けど》ったらしく、 「土井さんがどうかしたのですか」 「なに、なんでもありません」 水松警部は即座に打ち消して、態度を改めてやや言葉を優しくしながら、 「香宮さん、どうです。そういつまでもてこずらさないで、本当のことをすっかり話して くださいませんか」 「わたし、なにもあなたをてこずらせるつもりはありませんわ」 警部の態度が変わったので、彼女も反抗的な口調を改めた。 「あなたが無理なことをおっしゃるからです」 「別に、無理なことなんか少しも言わないつもりですがね、たとえば、その指輪をどこで どういう風にして手にお入れになって、なぜわたしに見せられないほど、大切になさるの かということを訊くのが、無理なんですか」 「指輪は富永さんに頂いたのだと言ったじゃありませんか。お見せしたっていいんですけ れども、抜くのが面倒なもんですから」 「黒眼鏡をかけてわたしたちを尾行した|理由《わけ》も、訊くほうが無理だと言うんですか」 「いいえ、それは無理だとは思いませんけれども、わたし、狩田さんのお許しがなければ 何事も申し上げられませんの」 「そうですか。そうと決まれば狩田さんの来るのを待ちますが、いったいあなたは、狩田 さんとはどういう関係なんですか」` 「狩田さんはわたしの父の友達ですの。富永さんや野崎さんがアメリカでI」 香宮はここまで言いかけて、急にとんでもないことを口にしたという風にぎょっとして、 真っ青な顔をしながら口を喋んだ。 香宮が不用意に口を滑らした言葉を、どうして水松警部が聞き逃そうか。 彼は跳び上がって、顔を前に突き出しながら、 「え、え、富永さんと野崎とが知合いなんですって。アメリカで、二人は何をしていたの ですかっ」 しかし、香宮はもう|牡蠣《かき》のように口を閉じてしまった。 「わたし、なんだか夢中で喋っていましたので、何を申し上げたか忘れてしまいました。 わたしの父と狩田さんが友達だったことを、申し上げたつもりですけれども」 「香宮さん。あなたはいまどこで、だれの前で話をしているのかよく考えてくださいよ。 わたしは冗談にあなたに質問しているのではない。いいですか。あなたはむろん、野崎寛 吉氏が列車内で殺害されたことを知っているでしょう。わたしは職務上、その犯人を捜索 しているのですよ。恐るべき殺人犯は一日も早く捜し出して、社会の不安を除かなくては なりますまい。殺人犯人を検挙するということは法律的に言って、警察官たるわれわれの 責任ですけれども、幾分たりともその助けをするということは、道徳的に言って良民たる ものの義務ではないでしょうか。あなたは知っている事実を故意に隠して、犯人の検挙を 妨げていると言われても仕方がないじゃありませんか。それくらいの理屈の分からない方 ではありますまい。どうか、知っていることを隠さないでくださいL 水松警部の事を分けた言葉も、香宮を動かすことはできなかった。 「そうおっしゃられるとわたしは|辛《つら》いんですけれども、たびたび申し上げますとおり、狩 田さんから指図があるまで何事も申し上げることができません」 もう、香宮の口を開かせることは諦めなくてはならなかった。このうえは狩田の来るの を待つばかりである。 ところが、狩田はどうしたのかなかなかやって来なかった、いらいらした水松警部は幾 度か事務所に電話を掛けたが、先刻お出かけになりましたという返事よりほかには聞くこ とができなかった。 あれだけ堂々と出頭すると言い切りながら、狩田はいったいどうしたのだろうか。やは り水松警部の考えのとおり彼は悪漢の仲間で、うまく安心させながら逃亡してしまったの ではないだろうか。警部は気が気ではなかったが、先刻の捜索課長の態度では、狩田が逃 亡したらしいから至急手配してくれと言ってみたところで、取り上げてくれそうにもない のだ。 狩田が逃げてしまっては、せっかくこれまで苦心して|漕《こ》ぎつけた水松警部の努力も水の 泡である。といって、まさか香宮を拷問して自白を強制するわけにもいかないし、釈放す ることはなおさらできないし、彼はまったく進退きわまった形である。 だが、いくら焦ったところで、狩田の出頭してくるのを待つより仕方がないのだ。 やがて、日はとっぷり暮れた。しかし、依然として狩田からの消息はないのだ。水松警 部はもう我慢がしきれなくなった。彼は捜索課長の所に談じ込もうと思って部屋を出ると、 そこへ、彼に電話が掛かったという知らせがあった。 警部は狩田からの知らせかと、胸を躍らせながら受話器を耳に当てると、それは狩野医 院を見張っていた刑事からの電話だった。 「狩野医院の中で、うろうろしている男を見つけましてね。訊問すると、土井とか言って、 あなたの知合いだと言うのですが、厳重に見張っているところをどこから入ったのかさっ ぱり分からないのです。怪しいと思うのですが、あなたはそういう男をご存じですか」 ああ、またしても土井が黒眼鏡の女に操られて、何か事件を起こしたのだ! 水松警部は舌打ちしながら答えた。 「ええ、土井という男は知っています。実に厄介千万な男でーよろしい、これからすく 現場へ行きます」 警部は香宮を一室に置いて厳重に見張るように頼んで、タクシーを飛ばして狩野医院に 駆けつけた。 がらんとして人けのない医院内では、土井が刑事にとっちめられていた。彼は水松警部 の顔を見ると、ほっとしたように、 「警部さん、どうも相すみません。今度こそと思ったのにまたへまをやってしまって、な んとも申し訳がありません」 「困るね、いったいどうしたんだね」 「さっき、置き手紙をして申し上げたように、黒眼鏡の女が現れましてl」 「現れたというのは、どこへ現れたんだね」 「わたしの待っていた部屋のドアを開けて、紙切れを|放《ほう》り込んで手招きをしたのです」 「なに、きみの待っていた部屋へーでは、警視庁の中に入ってきたんだね」 「そうなんです」 警視庁の中まで入ってくるとは、なんという大胆不敵な図々しい女だろうL 「いつもの女に違いないんだね」 「絶対に間違いありません」 「紙切れには何が書いてあった?」 「四本指の絵が|描《か》いてありました。傍らに、狩野医院へと書いてありました」 「うん、それできみはぼくにあの置き手紙をして、黒眼鏡の女を追いかけたんだね」 「そうなんです。今度こそは捕らえて、くうの音も出ないようにしてやろうとー」 「その考えが悪いんだ。あの女はきみなんかの手に負える代物じゃない」 「まったく、そうでした。あなたのお指図を受ければよかったと、いまさらながら後悔し ています」 「後悔したところで、もう遅い」 水松極言部の機嫌は険悪だった。 「で、その女の後を追って、どうしたんだ」 「ここまで来たんです。そうすると、女は急に医院の中へ消えてしまいました。見ると、 地下室へ下りるような階段があるんです。で、わたしはすぐそこから中に入りました」 「どうも不思議なんです」 傍らにいた刑事が口を出した。, 「出入り口は残らず厳重に見張っていたんですから、そんな女が入るはずがないんです。 もし、この男の言葉を信じると、この家にはどこかに秘密の出入り口があるに違いないの です」 「きみには、その入ったところが言えないのか」 水松警部は土井に|叱《しか》るように言った。 「ええ、さっきから刑事さんに言われているんですが、入った場所が分からなくなってし まったんです。確かにここだと思うところに、入口なんかないんです」 「入口の|穿繋《せんさく》はあと回しとして、きみは中に入ってからどうした」 「中に入ってみますと、女の姿がどこにも見えないのです。それで、医院の中をうろうろ と捜し回りました。そのうちに玄関の所に出たものですから、見張りの刑事さんに見つか って、捕まってしまいました」 「じゃ、まだ女は中にいるんじゃないか」 「この男がそう言いますから」 刑事は言った。 「われわれで、すっかり家の中を捜したのですが、女はおろか|鼠《ねずみ》一匹出てきやしません.、 もし、この男の言うところが本当なら、その女はもう秘密の出口から出ていったのでしょ う」 狩野医院に、秘密の出入り口があるだろうということは考えられる。現に、水松警部は 銀子を載せた寝台が床下に沈んでいくのを見たのだから、そのほかにいろいろ仕掛けがあ るだろうということは想像されるのだ。 しかし、黒眼鏡の女がその秘密の出入り口を知っているということは意外だった。その うえに、彼女が土井を誘い込んで家の中に置き去りにして、ふたたび出ていったという目 的が全然不明である。 「ちょっ」 水松警部はふたたび大きく舌打ちをして、刑事のほうに向き直った。 「もう一度秘密の出入り口を調べて、女が中にいないかどうか見てくれませんか」 これが部下の刑事なら腹立ち紛れに怒鳴りつけるところだが、管轄が違うので、警部は 下手に出なければならなかった。 刑事もいい返事はしなかった。彼らはすでにさんざ家の中を調べた後だったから、嫌な 顔をするのも無理はないのだった。 水松警部は泣きだしたいよケな気持ちだった。狩田の消息は不明だし、香宮は|断乎《だんニ》とし て口を開かないし、土井はへまをやるし、黒眼鏡の女は相変わらず人もなげな振舞いをす るし、刑事たちは快く言うことを聞かないし、野崎事件のために数日間寝食を忘れて東西 に奔走した彼は、もう精も根も尽きんとしていた。 しかし、彼は最後の勇気を奮い起こした。そうして、ぼんやりしている土井を叱りつけ ながら彼を案内役にして、狩野医院の内と外を|蟻《あり》の穴でも見落とさないように調べ回った。 しかし、結果はやはり徒労だった。秘密の出入り口の発見もできないし、黒眼鏡の女の|片 鱗《へんりん》さえ|掴《つか》めなかった。 水松警部は落胆した。 彼は香宮を釈放して、ふたたび最初からやり直すよりほかに仕方がないのだった。 彼は土井に言った。 「きみがへまをやるので、黒眼鏡の女を逃がしてしまった。しかし、済んだことを言つて みたところで仕方がない。これは別の話だが、きみは社長の富永と殺された野崎とが、以 前から知合いだったという話は聞かないかね」 土井は首を振った。 「どうもそんな話は聞きません」 「社長がアメリカにいたことがあるというような話を、聞かないかね」 「それは聞きました。社長はなんでも若いころ、アメリカにいたそうです。そうして、向 こうで相当の資産を作って日本に帰ったのだそうで、石油事業に目をつけたのも、やはり アメリカで覚えたことだということです」 「狩田という男がやはり社長と知合いだということは、きみは全然知らなかったのだね」 「ええ、少しも知りません。狩田が社長と知合いなんですか」 「そうらしい。香宮が狩田と非常に親しいらしいからー」 「えっ」 土井は驚いたように叫んだ。 「香宮が狩田と親しいですって。狩田というのは、わたしを電話で|威《おど》かした狩田でしょ 、つ」 「そうだ」 「そうすると、どうもおかしいですなあ。例の、女の片腕は黒眼鏡の女が盗んだのに違い ないのですが、あの時に狩田は電話でひどく|狼狽《ろうばい》していましたから、黒眼鏡の女とは敵同 士かと思ったのですが」 土井がなおも喋りつづけようとしているときに、一人の刑事が水松警部の傍らに寄って きた。 「狩田とかいう人が、警視庁に来たそうです。あなたに、至急帰ってほしいという電話で す」 「え」 警部は自分の耳を疑った。 狩田が警視庁に出頭した! それは水松警部にとっては、実に意外なことだった。狩田はなにゆえにこんなに遅くな って、出頭してきたのだろうか。彼はまず、香宮を助けるために黒眼鏡の女を出動せしめ、 ついで黒眼鏡の女の追跡を妨げるためにみずから出頭してきたのではないか。 「油断はできないぞ。彼にごまかされてはならないぞ」 水松警部は警視庁に帰る途中で、何回となく彼自身に言い聞かせたのだった。 インペリアル|髭《ひげ》を生やした長身の狩田は相変わらず鋭い目をしながら、一室で水松警部 を待ち受けていた。彼は警部が入ってくるのを見ると、立ち上がった。 「やあ、たいへん遅くなって失礼しました。すぐ出頭しようと思ったのですが、つい|止《や》む を得ない用ができたものですから」 水松警部は口を開く前に、じっと狩田を見た。見れば見るほど、彼は成田に似ている。 しかし、とことなく違うところもあるー やがて、警部は重々しく言った。 「すぐ出頭すると言われながらなかなか来られないので、非常に迷惑しました。香宮さん があなたが来るまではと言って、どうしても答弁をしないものですからあなたはわた しがなにか誤解しているように言われましたね。それから、香宮さんを絶対に正しい人の ように言われましたが、それにはちゃんとした理由がありますか」 「お答えする前にわたしのほうから訊きたいのですが、あなたが香宮さんをここへ同行し て、なにか取り調べられるということにはどういう根拠があるのですか」 狩田は弁護士らしく、水松警部に逆襲するのだった。 警部は不快な色を隠しながら答えた。 「直接の理由はわれわれをーわれわれというのは、わたしと土井という男の二人ですが 1故なく尾行したという占です。わたしはその説明を求めるために、ここに来てもらっ たのですが、まだそのほかにもいろいろ訊きたいことがあるのです。それに少しも答えな いのですから、疑われても仕方がないと思います」 狩田は香宮のほうに向き直った。 「香宮さん、あなたは水松さんを尾行したのですか」 香宮は|青槌《あおざ》めた顔で答えた。 「いいえ、尾行したというわけではありません、偶然に後を」 「香宮さん、嘘を言うのは止しましょう」 水松警部は断乎として言った。 「あなたは何か理由があって答弁を拒絶せられたので、決して嘘を言われる方でないと信 じていましたが、そんなことを言われるとわたしの考え方を変えなくてはなりません。あ なたは黒眼鏡をさえかけて変装しながら、わたしたちの跡を|尾《つ》けたではありませんか。そ れとも、まだそうではないと言われますか」 警部に真正面から切り込まれて、香宮はしばらく|佑《うつむ》いてもじもじしていたが、やがて、 極まり悪そうに顔を上げた。 「嘘を言ってすみませんでした。わたしは確かにあなた方を尾行いたしました」 「ほほう」 狩田は意外だという風に、 「あなたが黒眼鏡をかけたりして、どうして尾行なんかしたんですか」 「あの、それは」 香宮はしばらく言い|淀《よど》んだが、 「姉に頼まれたのですの」 「なに、姉さんにー」 水松警部は思わず叫んだ。黒眼鏡の女の秘密が少し分かりかけてきたのだ!黒眼鏡の 女は香宮の姉だったのか。 野崎の秘密 狩田は|頷《うなず》いた。 「なるほど、姉さんに頼まれたのですか。あなたがそんなことをするはずはないと思った のですが」 そう言って、狩田は警部のほうに向きながら、 「いまお聞きのとおりで、香宮さんは姉さんに頼まれて、なんにも知らずにあなたがたの 跡を|尾《つ》けたらしいのです。香宮さんは決して、あなたの考えておられるようなー」 「分かりました」 水松警部は遮った。 「わたしの誤解していたのは、香宮さんと黒眼鏡をかけた女とを同一人だと考えていたこ とです。黒眼鏡の女が香宮さんの姉だとすると、なるほどと思い当たることがあります。 しかし、そうなるといよいよ、香宮さんが黒眼鏡の女のことについてなんにも知らないと は言わせません。黒眼鏡の女は実に奇々怪々な行動をしています。香宮さんはわたしに話 すべきことが、うんとあるはずです」 「ごもっともです、ごもっともです」 狩田弁護士は子供をあやすように、何回も頷いた。 「あなたにはわれわれがーわれわれというのは、わたしと香宮さんの姉を言うのですが 1実に奇怪に見えるでしょう。それは決して征理とは思いません。しかし、あなたは誤 解していられるl」 「何を誤解していると言うのですか」 水松警部はふたたび、狩田の言葉を遮った。 「あなたがこうして出頭してこられたからには、わたしはもう香宮さんに|訊《き》くのは|止《よ》して あなたに訊くことにしましょう。わたしはあなたに訊くことが、数え切れないほどあるの です」 「なんなりとお答えしましょう」 「では、だいいちに訊きますが、あなたは自働電話内の忘れ物について新聞に広告を出し たでしょう」 狩田は水松警部の予期に反して、案外平気で答えた。 「ええ、出しました」 「あなたはむろん、忘れ物の内容を知っているでしょうね」 「ええ、広告を出したくらいですからむろん知っています」 「では、あの新聞紙に包んであった奇怪な女の片腕の出所と、それをあなたが欲しがった 理由を説明してください」 「そのこtですか」 狩田はちょっと|眉《まゆ》をひそめた。 「いきなりそのことから説明するのは少し骨が折れますが、あの女の片腕は、ある悪漢団 の一人が自働電話の中に置き忘れたので、それを土井とかいう人の手から盗み出したのは 香宮さんの姉で、名は|春代《はるよ》といいます。あなたが黒眼鏡の女と言われる婦人です」 「里眼鏡の女はとういうわけでーいや、あなたのことから先に訊きましょう。あなたは 土井が広告によってあなたに報告したときには、ひどく土井を脅迫したし、また土井が何 者かに盗まれたことを報告したときには、ひどく|狼狽《ろうぱい》したそうですが、黒眼鏡の女が盗み 出したことを知っているのならなにもそう狼狽することもなく、土井を脅迫することもな いではありませんか」 「土井くんを電話で脅迫したのは、確かによくないと思います。しかし、あの片腕はわた したちにとっては非常に大切なものです。それを土井くんが拾ってしまって、なかなか返 しそうにもない。そういう時に、つまり、自己の正当の所有物を他人が横領しようとした ような場合、それを取り返すために多少脅迫の言葉を用いるぐらいのことは、財物に対す る正当防衛と認められていいと思います。また、土井くんが盗まれたと報告したときに狼 狽したのは当時、だれの手で盗ξれたのか分からなかったためです」 さすがは弁護士だけあって、言うことがすこぶる理屈っぽいのだった。 狩田弁護士の言うことは筋道が立っている。しかし、水松警部は屈しなかった。 「なるほど、あなたの言うことには一応理屈があるようです。では、もう一つ訊きますが、 あなたは昨夜、狩野医院で奇々怪々なことが行われることを、だれかに電話で話しました ね。いや、わたしはあなたが狩野医院の出来事に、深い関係があることを固く信じている のです。それについて、ご弁明を願いましょう」 今度こそ、狩田はうろたえるかと思いのほか、彼は依然として平気だった。 「弁明いたしましょう。わたしはあの電話を、あなたが盗み聴いていようとは夢にも思わ なかったー」 「お言葉ですが、わたしは盗み聴いていたのではありません。交換手から聞き出したので す」 「では訂正します。わたしはあなたがわたしの電話について、知っておられようとは思わ なかった。わたしは確かに、狩野医院のことについて電話を掛けました。掛けた相手はあ なたが黒眼鏡の女と言われる香宮春代さんです。わたしは春代さんに狩野医院のことを教 えたのです。しかし、わたしが狩野医院の出来事に関係があるなどと考えられては、迷惑 千万です。わたしはただ、春代さんに知らせただけです」 「狩野医院にああいう奇々怪々のことが行われることを、どうして知ったのですか。また、 そのことを知りながら、,警察に知らせなかったのはどういうわけですか」 「狩野医院にああいうことが行われるということは、わたしがかねてあの医院に注目して いたので、探り出したことです。警官であるあなたがそのことを知らなかったのは、かえ ってあなたが怠慢であったか、あるいは失礼ながら無能であったということにはなりませ んか。また、なにゆえわたしに警察に密告しなかったかと言われるが、わたしは犯罪が行 われつつあることを知ったとしても、それを警察に知らせなければならない義務はないは ずです」 狩田弁護士の|椰楡《やゆ》するような言葉に、水松警部はぐっと|癩《しやく》に障ったが、辛うじて怒りを 抑えながら言った。 「ではあなたが、とくに春代さんにそのことを知らせた理由を承りましょう」 この時に狩田は初めて、困惑の色を浮かべた。 「それは個人の秘密にわたることなのですが、つまり、春代さんは狩野医院の出来事を知 る必要があったのです。春代さんはそのために、若い女の身で単身活躍して、土井くんの 所から例の品を盗み出したり、また土井くんを大阪まで追跡したり、非常な苦心を重ねて いたのです。わたしはかねて春代さんから依頼を受けていましたので、さいわいに狩野医 院の秘密が判明したので、さっそく電話で彼女に知らせたというわけです」 「春代さんが狩野医院の出来事について、知る必要があったというのは、どういうことで すか」 狩田はますます困ったように、眉をひそめながら、 「どうも、それを言うのは困るのですが、雪江さんの疑惑を解かなければならないし、思 い切って申し上げましょう。春代さんの目的は、狩野医院でばらばらにされた、女の片腕 を|奪《と》るにあったのです」 そのことは水松警部にだいたい分かっていたから、たいして驚かなかった。彼は追っ駆 けて訊いた。 「切り放された女の片腕を欲しがるのは、どういうわけですか」 「それも言わなければなりませんか」 狩田はしばらく考えていたが、 「仕方がありません。申し上げましょう」 「香宮春代が」 狩田は言った、 「女の片腕を欲しかったというのは、片腕そのものよりも、それに付属しているものが欲 しかったのです」 水松警部は頷いた。 「なるほど、指輪が欲しかったというわけですね」 「そうです。そのとおりです」 「で、いったい」 警部は雪江のほうをちらりと見ながら、 「その指輪はどういうもので、どうしてそんなに必要なのですか」 「それについては、長い物語をしなければならないのです」 狩田はここでちょっと言葉を切って、しばらく考えた末にふたたび言葉を継いだ。 「あなたは野崎寛吉がアメリカに永くいたことはご承知でしょうね」 警部は頷いた。 「それは知っています」 「香宮春代と雪江の姉妹の父もやはりアメリカにおりまして、野崎とは親しくしていまし たL、 「東洋石油の富永さんも、そうだそうですね∴ 「そうです」 狩田はやや意外そうに、 「それをご存じなのですか」 「ええ。あなたもやはり、そのころからのお知合いだそうじゃありませんか」 .「それもご存じですか。さすがは水松警部ですな。、そヶです、あなたのおっしゃるとおり 野崎・富永・香宮・わたしはみんなアメリカで知り合いまして、かなり親しくしていまし た。その中では、富永さんがいちばん早く日本に帰ってハああいう風に成功したのです。 それで、富永さんが今回の事件にはいちばん関係が薄いでしょう」 「ははあ、富永さんは関係が薄いのですか」, そう言った警部の頭にはちらりと、富永が四本指であることが浮かんだ。彼はそのこと について狩田に質問しようかと思ったが、すぐ思い返して、狩田0話に耳を傾けた。, 「香宮姉妹の父はアメリヵで死にました。わたしは彼が死んでからまもな、く日本に帰り、 野崎がいちばん遅れて日本に帰ったというわけです。とヒろが、最近に分かつたことなの ですが、野崎は香宮の父に対して非常に不信なことをしていたのです。,それはどケいうこ とかと言いますと、香宮の父はアメリカにいる間に、メキシコだかアラスカだか、それと もほかの所か、いまのところまだはっきり分からないのですが、とにかく非常に有望な金 鉱を発見したらしいのです。それを野崎が横取りをしたのですL 「ははあ、しかし、.そのことがどうして最近まで分からなかったのですか。また、どうし てそれが分かったのですか」 「香宮の姉のほうが、父の残しておいた書類を整理しているうちに、ふとそのことを発見 したのです。それで春代さんはただちに野崎の所へ行ったのですが、彼は|嘲笑《あざわら》って取り上 げませんでした。ところが、春代さんはあなたもご承知のとおり女ながらどうしてしっか りしていますから、とうとう単独で野崎の秘密を探り出して、野崎がその金鉱の所在地を 地図かそれとも暗号の文字で、非常に細かい紙に書いて隠しているということを探り出し たのです」 「なるほど、野崎はそれをどこに隠していたのですか」 「ここまで申し上げても、お気づきになりませんか。野崎はその虫眼鏡で見なければなら ないほど細かく書いた小さい紙切れを、指輪の輪の中に隠していたのです!」 「指輪の輪の中に?」 「そうです。常識ではちょっと考えられませんが、小説には秘密の書類を義眼の中に隠し ていた話さえありますからー」 「ふむ」 小説ではそうしたことを読んだことはあるが、あまりに珍しいことなので、水松警部は 思わず軽く|捻《うな》りながら、 「指輪の輪の中に隠すというのは、よほど小さいものですね」 「ええ、極く薄い紙に書いたものらしいです。米粒に何十字と書いたという実例もありま すから、できないことではありますまい。輪は黄金で|蒲鉾形《かまぽこがた》にして、そこへ隠しておいた のです」 「なるほと、それで里眼鏡1いや、香宮春代さんがその指輪を奪ろうとしたのですね。 しかし、それならば切り放した腕は別に必要がないではありませんか」 「もちろん、腕なんか必要はありません。いや、かえって厄介なくらいですが、野崎は指 輪を彼の関係している女に与えてーそんな大切な書類の隠してある指輪ですけれとも、 |貰《もら》った女のほうではいっこう知りませんし、野崎はかえってそのほうが安全だと考えたの ですーやがてその女に飽きが来るとか、あるいは秘密を悟られたとか悪うと、彼は女を 殺してしまって手足をはらばらにするのでーー」 「ちょっと待ってください」 水松警部は叫んだ。 「女を殺して手足をばらばらにするというのは、狩野外科医院でやったことではありませ んか」 「そうです」 「そ、それならば、野崎がやったというのはどういうわけですか。野崎はすでに殺されて いますよ。ああ、だれか、野崎の手下でもやったのですね」 狩田は|怪詩《けげん》そうな顔をして、警部の|顔《 》を|覗《のぞ》き込んだ。 「あなたはまだ、そのことをご存じないのですか」 「そのこととは、何ですか」 「野崎が女の手足をばらばらに切り放すということです。ーあなたは土井くんから、自 働電話のことを聞きましたね」 「自働電話のこととは?」 「自働電話に、女の片腕が忘れてあったことです」 「それは先刻言ったとおり、聞いています。いや、聞いているというより、わたしはあの 時に悪漢の一人を追跡したのです。わたしは浅草で偶然、大宮付近で乱闘した悪漢の一人 を見つけたのです。それで彼を追跡しました。そこ-で彼は狼狽のあまり、女の片腕を自働 電話の中に忘れたのです」 「そのとおりです。しかし、あなたは土井くんが自働電話の中に入ったときに不意に電話 が鳴りだしたので、彼がびっくりしながら受話器を取ると交換手の声で、鎌倉が出ました と言って、それが思いがけなく野崎の家だったことを聞きませんでしたか」 「ああ、そうそう、そういえばそんなことを聞いたのを思い出しました。土井はその電話 を聞いてから、翌日野崎邸へ出かけたのです」 「あなたはなぜ、鎌倉の野崎邸が出たのだと思いますかし 「なぜってーああ、では、あの悪漢が野崎邸を呼ぴ出したのですね」 「そのとおりです。いまごろ、そのことに気がつきましたか。悪漢はなぜ、鎌倉の野崎邸 を呼び出したのでしょう」 「さあ」 水松警部には、すぐ考えが出なかった。 「悪漢は狩野医院で切り放された女の片腕を持って、そのことを報告するために野崎邸に 電話を掛けたのです」 「だれに報告するためですか」 「むろん、野崎に報告するためです。当時、野崎は殺されたということになっていたので、 一時大阪に逃げていました。-そして、手下の者に命じて彼の関係している女を殺させたの ですが、彼みずから手術をすることができないので、手下に腕を切断させたのです。彼に は腕よりも指に|嵌《ま》めている指輪が必要だったのですが、手下の者にはそれと言わずに腕を 坦り取るように命じたのです。腕を切り取った手下はそれを持って狩野医院を出ると、付 近の自働電話から、もしや野崎が大阪から本邸に帰っているかと思って電話を掛けようと したのです。それをあなたの姿を見たものですからハ電話を申し込んだまま|肝腎《かんじん》の腕まで 忘れて自働電話を飛び出したので、そのあとに土井くんが入ったというわけです」 「ふーむ」 水松警部はふたたび捻った。狩田の言うところにはどことなく変なところもあるが、筋 道は確かに立っているのである。 「しかし、野崎はー」 「あなたは野崎は列車内で殺されたように信じておられるようですが、何か確証がありま すか」 「 」・ 「別に確証はないでしょう。かえって反証のほうが多いでしょう。だいいち野崎は高崎駅 で下車しています。娘の銀子は|屍体《したい》の腕に彫物がしてあった点で、父でないと証言してい ます。屍体の顔はめちゃめちゃに切り刻まれて、判別することができないようになってい ます。それでも、あなたは屍体が野崎だと言いますか」 「うむ」 水松警部はちょっと言葉に詰まったが、すぐに言いつづけた。 「しかし、土井が証言している。土井は彼の前に|坐《すわ》っていた男は、確かに四本指だったと 言っています。屍体の指は完全だった。寝台車には、土井と四本指の男と野崎との三人よ り乗っていず、他の車から入り込んだ形跡はいっこうにな㌣してみると、屍体は野崎と 断ずるよりほかはありません」 「水松さん」 狩田は急に改まって、警部に呼びかけた。 「あなたは立派な探偵だ。しかし、今度の事件では惜しいかな、最初からスタートを誤っ ておられる。あなたは野崎が四本指であるということを、少しもご存じない」 「ええっ」 水松警部は耳を疑うように、驚いて跳び上がった。 「え、それは事実ですかっ」 「むろんです。いまさら|嘘《うそ》を言ってみたところで仕方ありません。あなたは四本指の男が 野崎を殺して、.みずから野崎に変装して高崎で下車したと信じておられますが、かりにそ のとおりであるとしたら、四本指の男は何を苦しんで屍体の指をそのままにしておきまし ょうか。彼は屍体の顔をだれとも分からぬように滅多切りにするついでに、指も切ってし まうべきです。もっとも、一本だけ指を切ったところで、傷口が古いか新しいかすぐ判明 がつきますから、彼は少なくとも全部の指を切ってしまうべきでしょう。そうすれば、殺 された男がはたして完全な指の所有者だったか、四本指だか分からなくなります。もし、 四本指の男が野崎を殺して、反対に野崎が四本指の男を殺したように見せかけるつもりな らば、屍体の指を完全にしておくはずがないではありませんかL 狩田の言うところには理屈があった。なるほど言われてみれば、四本指の男が野崎を殺 して、その屍体を彼自身と見せかけるつもりなら、指を完全にしておくはずがないのであ る。 「なるほど」 水松警部は頷いたが、すぐ気がついて言った。 「しかし、では、殺された人間が完全な指をしていたのは、どういうわけですか」 四本指の男が野崎を殺して、その屍体を彼自身と見せかけるためには、指を完全にして おくはずがないという狩田の理論は正しい。しかし、もし狩田の言うように野崎が四本指 の男を殺したものなら、やはり屍体の指が完全であるわけがない。そこに気のついた水松 警部はすぐに、狩田に突っ込んだのだった。 狩田はしばらく何事か考えているようだったが、 「列車の中には、土井くんと野崎と四本指の男と三人きりしかいないで、しかも、ほかか ら何者も入り込んだ形跡がないというのは、確かですか」 「絶対に間違いありません」 「では、屍体が野崎でなければ、四本指の男でなくてはならないですね」 「そのとおりです」 「では、屍体は四本指の男です」 「しかし、屍体の指は完全でした」 「それは恐らく、土井くんが最初から見違っていたのでしょう」 狩田は大胆に言い放った。水松警部は頭を振った。 「それはあまり無雑作過ぎます。いかに土井くんだって、完全な指を四本指とは見間違わ ないでしょう」 「むろんです。普通の場合なら、土井くんが見違うはずはありません。四本指の男は完全 な指でありながら、わざわざ四本指に見せかけていたのです。あなたはわたしの議論が、 あまり当て推量過ぎると思われるかもしれません。しかし、わたしの言うことには相当根 拠があるのです。野崎はアメリカにいたころかなり悪い方面に関係していましたから、敵 が相当あります。列車に乗り込んでいた男は、野崎の敵の一人です。彼は恐らく野崎を殺 そうと思っていたのです。彼はたぶん、野崎が四本指であることを知っていたのでしょう。 それで、彼みずからもわざと四本指のように見せかけて、野崎を殺したあとで捜索を誤ら せようとしたのです。ところが、野崎のほうでも気がついて、あべこべに四本指に見せか けていた男を殺してしまったというわけです」 「わざと四本指に見せかけていると、どういう利益があるのですか」 「それはかりに、彼が野崎を殺した場合、ちょうどいまの逆で、野崎が四本指の男を殺し たと考えさせることができるからです。なぜならハ野崎は四本指でありながら完全だと思 われていたのですから、屍体は野崎でなくて土井くんの見た四本指の男であるということ になりまし㌫う」 「なるほど」 水松警部は承服せざるを得なかった。 「野崎が四本指であり、四本指と考えられていた男が実は完全な指の所有者だとしたら、 もはや野崎が相手を殺したことは明白でしょう。これで屍体の指が完全であったことも、 銀子の知らない彫物のあったことも、説明がつくはずです」 -「うむ」, 水松警部はついに、屍体が野崎でなかったことを、承知せざるを得ないのだった。 「野崎が四本指であること、列車内で殺されていたのが野崎でなくて、実は野崎を殺そう としていた相手の男であることが分かっていただけたら、あとのことは別に面倒な説明は いりますまい。野崎は変態性欲者で、関係した女を片っ端から殺しては手足を切り放して いたのです。香宮春代は指輪を奪るために、ときに|止《や》むを得ず腕ぐるみ盗み出したのです。 これで、わたしたちが新聞に広告したり土井くんを|威《おど》したりして、女の片腕を欲しがった 理由がお分かりでしょう」 「少し分かりかけてきました。しかしまだ|脇《ふ》に落ちないことがあります。それは野崎銀子 のことですL、 狩田の説明は理路整然としていた。自働電話の中に女の片腕が忘れてあったことも、土 井がその中に入ったときに不意に|電鈴《ヘル》が鳴って鎌倉の野崎邸が出たことも、狩田が新聞に 広告したり、土井を威かしたりした理由も、また、黒眼鏡の女が女の片腕を盗み出した理 由も分かった。同時に浴槽で殺された女のこと、大阪の浜ビルホテルの一室で殺された女 のこと、それから、狩野医院で屍体の手足をばらばらに切り放した犯人も判明したし、狩 田がそのことを電話で香宮春代に話をした理由も分かった。 が、一つ分からないことは銀子のことである。列車内殺人の犯人が野崎であって、野崎 が狩野医院の主人だとするならば、なにゆえ彼は現在の娘を手にかける必要があったか。 いや、それよりも|湖《さかのぽ》って、なにゆえ野崎は銀子を東洋ホテルから誘拐しようとしたり、ま た大阪の高島屋百貨店から、彼女を麻酔させて無理に東京へ連れ戻す必要があったのか。 水松警部はそのことについて、狩田の説明を求めた。 「野崎が殺されたのでなくって、かえって彼こそ殺人犯人で、現に生きていると言うあな たの説は一応認めます。しかし、それならなにゆえ、野崎は娘の銀子を東洋ホテルから箱 詰めにして連れ出す必要があったのですか」 「それは当局の目をごまかすつもりです。彼はうまくあなたがたをごまかして、彼自身が 被害者だと思われている。ところが、娘を現場へ連れていって鑑定をされると、被害者は 彼でないということが暴露する恐れがある。そこで、彼は娘を誘拐したのです。あんな方 法を取ったのはあくまで、野崎の敵が野崎を殺して娘を奪ったと見せかける目的ですL 「なるほど、支配人の成田もやはり同じ理由で誘拐したのですね」 「そうです」 狩田は大きく頷いたが、この時、彼の目は異様にぎろりと光った。水松警部はここで、 いままで疑問にしていたことを訊いてみる気になった。 「狩田さん、あなたは野崎の支配人の成田をご存じですね」 「よく存じています」 「あなたは成田と何か深い関係があるのじゃありませんか」 狩田の目はまたぎろりと光った。そうして、大きく頷いた。 「いや、あなたのご|畑眼《けいがん》には敬服です。もう隠したところで仕方のないことです。実は、 成田はわたしの弟です」 「えっ、あなたの弟さん」 「そうです。彼はやはり狩田というのが本姓ですが、わざと成田と名を替えて野崎の経営 している会社に入って、一生懸命に彼の信任を得て支配人になりました。しかし、実は彼 は野崎の秘密を探るスパイだったのです」 成田と狩田とが実によく似ていると思ったが、さては兄弟だったのか。 「なるほど、そんなことでしたか。わたしはあなたをひと目見たときから、成田支配人に そっくりだと思いましたが1野崎の秘密というのはやはり、香宮さんのお父さんの鉱山 を横領したことや、狩野医院のことなんですね」 「ええ、そうです。ほかにもありましたが、主なることはその二つでした」 「野崎は成田がスパイであることを少しも知りませんでしたか」 「ええ、初めは全然気がつかないようでした。しかし、東洋ホテルから銀子と一緒に連れ 出した時分には、もう感ついていたのです。それでl」 「それで?」 「それで、とうとう弟は殺されてしまいました」 そう言って、狩田は目をしばたたいた。 成田支配人は|瀕死《ひんし》の重傷を負って自動車に乗せられたまま、消息は絶えていた。それを 殺されたと言い切る狩田は、どうしてそのことを知ったのだろうか。 「成田は行方不明になっていますが、どうしてあなたは殺されたことをご存じなのです か」 「弟のことですからーそれに、わたしは野崎の|遣《や》り方をよく知っていますので、弟が殺 されたことを疑いません」 「すると、弟さんはやはり、野崎が彼の秘密が暴露するのを恐れて殺したのですね」 「そぺつです。弟は野崎の四本指のことも知っていますし、屍体を見れば野崎でないことが すぐ分かるわけです。それで、彼は弟を現場に行かせまいとして、つい殺してしまったの です」 狩田の説明で、悪漢たちがどうしてあんなに|執拗《しつよう》に成田支配人を取り戻そうとしたかが よく分かった。彼らは瀕死の成田がひょっと何か言いはしないかと思って、自動車で連れ て逃げたのである。 「そうすると」 水松警部はふたたび狩田に問いかけた。 「鎌倉の銀子さんの所へ来た電報というのは、実際野崎が打たせたのですね」 「そうです。彼は情婦の一人に中央郵便局から打たせたのです。その情婦が浜ビルホテル で殺された女であることは、ご承知のことと思います」 「なるほど。しかし、野崎はなぜあの女に限って、屍体をばらばらにしなかったのでしょ う」 「それは大阪の出来事で、そうした恐ろしい手術をする適当な場所のなかったためでしょ う。.もう一つの理由は、土井くんに嫌疑を向けるためでしょう。野崎にとって土井くんは うるさい存在でもあるし、また彼に嫌疑を向けてあなたがたの捜索の方針を迷わすには、 絶好の存在でもあったのです」 「なるほど。それから銀子を大阪に呼び寄せたのも、やはり野崎の仕業ですね」 「そうです。彼は銀子を鎌倉に一人置いておくのが不安だったのです。銀子の口から何か 秘密でも|洩《も》れてはと、それが心配だったものですから」 「銀子に黒眼鏡をかけさせたのは、どういうわけでしょう」 「なに、銀子に黒眼鏡をかけさせた。そのことは知りませんでした。銀子は黒眼鏡をかけ ていましたか」 「ええ」 狩田はしばらく考えていたが、 「それじゃきっと、あなたがたの目を|晦《くら》ます一つの手段にしたのでしょう。野崎はきっと、 春代さんが黒眼鏡をかけていることから思いついたのでしょう」 「いったん大阪に呼び寄せたその銀子を麻酔させて、急いで東京へ連れ帰ったのはどうい う理由ですか」 「さあ、詳しいことはわたしにも分かりませんが、春代さんから聞いたことを総合すると、 野崎は春代さんとあなたとの二人に二方面から追跡されていることを悟って、|急遽《きゆうきよ》大阪を 引き揚げる必要が起こったので、ああいう非常手段を取ったのではありませんか」 大阪の出来事については、狩田も正確な判断を下しかねているのだった。しかし、遠隔 の地で起こったことでもあるし、彼は春代から間接に話を聞いたのであろうから、無理も ないのである。 水松警部は言った。 「じゃ、あなたは銀子が大阪駅に着くとしばらくだれかを待ち合わせていたことや、また、 高島屋に行って土井に贈るシガレット・ケースを注文した点については、詳しいことはご 存じありませんね」 「ええ」 狩田は頷いた。 「そういうことは少しも知りません。しかし、わたしのいままで言ったことでだいたいの 筋道はお分かりくだすったことと思います。わたしと春代さんのことについて、あなたは 確かに誤解しておられたのです。わたしたちは野崎一味の悪事には、全然無関係です」 「ひととおりは分かりました。しかし、銀子のことについてまだ合点のいかないことがあ ります。それはなぜ、野崎が現在の娘を殺そうとしたかi」 「いや」 狩田は遮った。 「そんなはずはないと思います。昨夜、狩野医院で銀子がどんな状態だったか存じません が、野崎が彼女を殺すようなことは絶対にありません」 「しかし、銀子は瀕死の状態でした。しかも、片腕はすでに切り放されていました」 「そんなことはないと思いますがーその片腕というのは、あなたが持って出られたもの ですか」 「そうです」 警部は苦笑した。 「春代さんが土井を|使倣《しそう》して、わたしを|昏倒《こんとろ》させて、奪っていったものです」 「そうでしょう。どうも"そうだと思いました。あれならば、決して銀子の腕ではありま せん」 「銀子の腕でない?それは確かですか」 「間違いありません、銀子は瀕死の状態のように見えていたかしりませんが、決して野崎 は殺しはしません。現在の娘ですから。その点は確かです」 「それで、春代さんは昨夜、目的の指輪を手に入れることができたのですか」 「遺憾ながら、まだ手に入らないのです。そのことでさきほど相談がありましたので、こ っちへ来るのがつい遅れたのでした⊂春代さんは|虎穴《こけつ》に入らなくては虎児を得ることがで きないからと、悲壮な決心をしてわたしが止めるのを振り切って狩野医院へ捜しに行きま した」 「うむ、では春代さんはあなたと相談のうえで、狩野医院へ行かれたのですか」 水松警部はじっと狩田の顔を眺めたが、やがて非難するようにつけ加えた。 「どうもあなたのような方がついていて、あの人にそういう非合法的のことをさせては困. りますな、なるほどハわたしはあなたがたを誤解していたかもしれません。しかし、それ というのも、非はかえってあなたがたにあると思います。あなたがたがわれわれに初めか らすべてを打ち明けてくだされば、われわれだってそうした誤解はしなかったでしょう。 あなたがたはわれわれに誤解をさせるように、行動をされたのです、ことに|今旧《こんにち》となって、 すでにあなたはわたしが誤解しているといって、それを解くために警視庁に来るとまで宣 言していながら、まだ春代さんに誤解の上塗りをするような非合法的な行動を取ることを 許すというのは、実に心得がたいことですな」 「そう言われては一言もありませんが、いま申し上げたとおり、わたしが許したというの でなく、春代さんがとうしても聞かないのでー」 .「春代さんがなんと言っても、あなたが阻止されるのが当然だと思います。あなたがたが 正しい人で、正当の権利について行動されることがはっきりしていたなら、われわれのほ うで決して不利益を計るはずはないのです。あなたがたが隠れてこそこそと行動されると、 どうもそれが正しい目的のためだと思われません」 「ごもっともです。しかし、われわれが決して不正なことをしているのではないことはお 分かりくだすったでしょうね」 「ええーしかし、まだ分からないことがあります、春代さんはとうして、狩野医院の秘 密の出入り口を知っていたのですかL 、「それは」 狩田はちょっと言い|淀《よど》んだが、すぐに言いつづけた。 「やはりわたしが発見して、春代さんに教えたのです」 「いつ発見して、いつ春代さんに教えたのですか」 「わたしが狩野医院の秘密の出入り口を発見したのは、極めて最近のことです。そのこと を春代さんに言ったのは、実は今日です」 「今日?それじゃ、あなたはわたしの電話に対してすぐここへ来るという約束をした後 で、春代さんに会って秘密の出入り口を教えたのですね」 「そうです」 「じゃ、あなたが春代さんを使倣して狩野医院へ行かせたものと認められても、仕方がな いじゃありませんか」 「決して、決して、わたしは春代さんを使嚥するどころか、単身で狩野医院へ行くことは せつに止めたのです」 「春代さんは単身で行ったのじゃありません」 「え、単身じゃないってI」 「ええ、土井を道連れにして行きましたよ」 「土井くんを」 「そうです。奇抜な方法で土井を|誘《おび》き出し、しかも、医院の前で彼を|撒《ま》いてへ黒眼鏡の女 は行方不明になりました」 「えっ、春代さんが行方不明になった。医院の中でですか」 「そうです」 「それは大変だ」 いままで何事を訊かれても、いかに鋭く突っ込まれても平然として、|爪《つめ》の先ほどのうろ たえも見せなかった狩田はこの時に初めて顔色を変えた。 「春代さんは野崎にやられたのかもしれない。実はわたしは先刻から、春代さんが姿を見 せないのを不審に思っていたのです。どういう風に行方不明になったのですか」 「春代さんが医院の中に入るのは、確かに土井が見ていました。医院の外に出たのはへだ れ一人見た者がありません」 「それじゃ、むろん中にいます。狩野医院には複雑な仕掛けがあって、秘密の部屋が数限 りなくあります。あそこにはまだ、野崎かあるいは彼の手下が潜んでいるに違いないので す。春代さんはきっと捕まえられたのです」 「しかし、春代さんは秘密の出入り口を知っているのですから、そこからだれにも見られ ないで外に出たかもしれません」 「もし無事に外へ出たものなら、まずだいいちにわたしの所に来るはずです。わたしは春 代さんに警視庁に行くことを話しておきましたから、ここへ来るはずです。いまだに来な いのは、彼女が無事でない証拠です。それで、土井くんはどうしたのですか」 「刑事と一緒に春代さんを捜すように言いつけて、医院に置いてきました」 「どうも気懸かりです。医院を張η番している刑事に、様子を訊いてください」 「よろしい。訊いてみましょう」 水松警部は狩田の狼狽ぶりを見て、何か心に頷きながら部屋を出ていったが、しばらく すると元気なく戻ってきた。 「狩田さん、どケも容易ならんことになってきました。土井も行方不明になりました」 「なに、土井くんが。どうしてですか」 「土井は春代さんを見失ったという責任があるので、わたしがこっちへ来てからのち、し きりに医院内を尋ね回っていたようですが、いつの間にどこへ行ったのやら、ちょうど蒸 発してしまったように姿が見えなくなったそうです」 「土井くんは蒸発したのじゃありません」 狩田は水松警部の言った蒸発という言葉にユーモアを感じたのか、にやりとしながら、 「むろん、悪漢のために春代さん同様捕まえられたのです。悪漢は確かに医院のどこかに 潜んでいます。二人が見えなくなったのが、なによりの証拠です」 「あなたはそういう危険を感じたので、春代さんが医院に行くのを止めたのですね」 「そうです」 「ところが、春代さんはどうしても医院に出かけて、目的の指輪を捜し出すと言って聞か なかったのですね」 「そうです。わたしはこうなっては、万事警察に打ち明けてその手で取り戻してもらって はと勧めたのですが、春代さんは一刻を争うことで、.警察に話していたりしては時機を失 するし、-いったん打ち明けてしまえば今後は単独行動を|製肘《せいちゆう》されるから、万一警察の手で |将《らち》が明かなかったときに非常に困る。それに、わたしたちの秘密を知られるのが嫌だと言 って、どうしても聞かなかったのです」 「春代さんが単独行動を取ると主張したことは分かりますが、それならなぜ、言葉どおり 一人で行かないで、大胆に警視庁の中まで入り込んできて土井を連れ出していったのでし ょう」 「そのことはいま初めて伺ったのですが」 狩田は思案するように、目をしばたたきながら、 「春代さんはこんな考えではなかったでしょうか。一人で行くと言ったものの、かなり危 険な所に行くのですから一人では心細いし、といって打ち明けて一緒に行ってもらう人も なしというわけで、土井くんに好奇心を起こさせるようなことをして、跡を尾けさせて道 連れにしたのではないでしょうかL.、 「じゃ、医院の前で撒いてしまったわけは」 「それはたぶんこうでしょう。土井くんを医院の前まで連れていって置き放しにすれば、 つか、、たす 万一春代さんが野崎の一味の者に掴まったときにあなたに報告するに違いない力ら救け てもらえると考えたのでしょう」 「ずいぶん虫のいい考えですな。警察に何事も打ち明けないで勝手な|真似《まね》をして、困った ときには警察に救けてもらうなんてーそれは春代さんの考えでなくて、あなたがそうし ろと教えたんじゃありませんか」 「決して、わたしはそんなことは教えません」 「しかし、あなたはわれわれにヒントさえ与えないで、春代さんに狩野医院の秘密の出入 り口を教えたのですからな」 「秘密の出入り口は教えましたが、土井を道連れにせよなんてことは言いません」 「あなたの言うことが本当だとすると、われわれは無駄な時間を費やしているときじゃあ りません。一時も早く、春代さんと土井を救けなくちゃならない。秘密の出入り口という のはどこにあって、どうして開けるのですか」 「秘密の出入り口というのはl」 狩田はポケットから万年筆を取り出して、ノートの上に図面まで書きながら詳しく話し た。. 「それをもっと早く教えてくださるとよかったのですがね。ではさっそく、警官隊に狩野 医院を包囲させて、その秘密の出入り口から決死隊に突入してもらうことにしましょう」 水松警部はそう言ってふたたび部屋の外に出たが、しばらくすると戻ってきた。 「さっそく出動してもらうことにしました。うまく間に合えば、春代さんも土井くんも無 事でしょう。ところで、その間にまだ訊きたいことがあるのですが」 真犯 人 狩野医院に警官隊が出動したということを聞いて、ほっと安心したらしい狩田は水松警 部の改まった質問を受けて、そのほうに向き直りながら、 「どういうことですか」 「あなたは富永さんが四本指だということをご存じですか」 「ええ、知っています」 「野崎も四本指だということですが、何か関係があるのでしょうか」 「いや、関係はないと思います。まったく偶然でしょう」 「しかし、野崎も富永さんも、共に若いころからずっとアメリカにいて、ことに野崎は何 かよくないことをして金を|持《こしら》えたのだということですし、何々団というギャングがあって、 その団員はわざと四本指になるというようなIL 「そんなばかげたことはありますまい。わざわざ四本指になるなんて。だいいち、悪いこ とをしたときに証拠になって損じゃありませんか」 「なるほど、そうでしたね。しかし、わたしはなんとなくその悪漢団が四本指の者を集め たのじゃないかというような気がするのですよ」 「そんなことはありますまい」 「そうすると、野崎と富永さんとが共に四本指なのは、まったく偶然なんですね」 「そうだと思います」 「ところで、野崎が四本指だということを知っている者はだれでしょうか」 「極く少数ですね。彼が四本指だということを知られるのを嫌って義指を|嵌《は》め、なるべく 手袋で覆うて努めて隠していましたから。そのことを知っている者はわたしと銀子とー そんなものじゃありませんか」 「官甲水さんは」 「さあ、知っていそうなものですが、どうですか、分かりません」 「そのほかには」 「そのほかには、ちょっと思い当たりません」. 「そうですか。では、彼が四本指だということはほとんど知られていなかったわけです な」 水松警部はここでちょっと言葉を切って何か考えているようだったが、しばらくすると 語りつづけた。 「まったく意外でしたよ。銀子さんが|屍体《したい》の彫物を見て父じゃないと言いましたが、犯人 はどうも四本指の人間と認められるし、被害者には野崎のほかに該当する者がないのでそ うと決めてしまったのですが、野崎が四本指だったとすると大変な間違いをやったもので す。しかし、野崎が真犯人で現に生きているものとすると、すべての奇々怪々な事件があ なたの説明によってすっかり氷解するわけですから、もはや疑う余地がないと思われます。 ところで狩田さん、あなたは野崎に殺された人間について、お心当たりがないでしょう か」 「野崎を恨んでいた人間ということは充分察せられますが、どうも、いまのところ、別に 心当たりはありません」 「あなたはその人間が完全な指でありながら、四本指に見せかけていたと言いましたね」 「ええ。もっともわたしも見ていたわけではありませんから推測なんですが、四本指に見 せかけておけば後で野崎を殺した場合に、野崎が四本指であることから、野崎が四本指の 男を殺したと思わせることができますからIl」 「それが逆に野崎に殺されたために、四本指の男が完全な指の男を殺した。つまり、野崎 が殺されたということになったのですね。そのことはよく分かりました。そこで、野崎は 銀子や成田支配人が屍体を見にいくことを恐れたのですね。ああ、そういえば」 警部は急に思い出したように、 「成田も、野崎の四本指のことは知っていたでしょうね」 「そうでした」 狩田は|頷《うなず》いた。 「つい、失念していました。一弟もむろん、野崎が四本指だということを知っていました」 「どうして、さっき思い出されなかったのでしょうね。極く少数しか野崎の四本指のこと を知っていなかったと言って、銀子とあなた自身とを数えて、その少数の中に成田を落と されたのはちょっと不思議ですね」 「まったく不思議でした。どうして、弟のことを思い出さなかったのでしょう」 「そうすると、・つまり野崎は警察には彼自身が殺されたように考えられている、ところが 銀子や成田が屍体を見ると彼でないことが判明する。そこで、二人が現場へ行くのを妨げ たと、こういうお話でしたね」 「そうです」 「それなら、なにゆえ野崎は高崎で堂々と下車したのでしょうか。彼自身が殺されたと見 せかけるつもりなら、変装したらよさそうなものじゃありませんか」 「さあ、それはたぶん、彼が高崎で下車するときにはまだ、被害者が彼だと考えられるこ とに気がつかなかったのじゃありませんか」 「それにしても、もし彼が加害者なら、高崎で慌てて下車するというのは|拙《まず》かったですよ。 わたしにはどうしても、彼が高崎で逃げ出したとより考えられません」 「そのとおり、彼は逃げ出したのじゃありませんよ」 「ところが逃げ出すのに、何の用意もなく逃げ出したのが不思議です。狩田さん、あなた の説明は実に明快で承服せざるを得ないのですが、|疑《うたぐ》り深いのはわれわれの常でお許しを |乞《いい》いますが、わたしは高崎で下車した男が確かに加害者に相違ないと思いますが、被害者 はやはり、野崎じゃないかと考えられてならないのです」 「被害者が野崎だって。じゃ、あなたは高崎で下車した男が真犯人で、野崎に変装してい たというんですね」 「ええ、どうもそう思われてならないのです」 「しかし、被害者の指は完全だったじゃありませんか」 「そこです。野崎があなたのおっしゃるとおり四本指だとするとちょっと説明がつきませ んが、かりに野崎の指が完全だとしてI」 「それは乱暴ですQ四本指のものを、四本指でないと考えて議論を進めていこうというの は」 「まあ、聞いてください。あなたは加害者が銀子と成田支配人の屍体を見に来るのを妨げ たのは、屍体が野崎でないことが発覚するのが恐ろしいからだ之言いましたね」 「そうです」 「つまり、屍体め指が完全だから、すぐ気がつくだろうというわけでしょう」 「そうです」 「ところが、銀子は屍体を見たときに指のことなどは少しも言わないのです。腕の所に彫 物があったので、父じゃないと言いだしたのです。もし、彼女が父の四本指のことを知っ ているならば、だいいちにそれを言いそうなものだと思いますけれども」. 「そのことは初めて聞きますが1銀子が父の四本指の事実を知らないはずはないと思い ますがね」 「ところが「それを言わないのです。のみならず、もし犯人が野崎でない人間を殺して野 崎だと思わせるためなら、指を完全にしないで切り取っておくべきだと思います。なるほ ど、野崎の四本指は少数の人にしか知られていないが、その代わりに、もしその事実を知 っている人が見ればすぐ分かってしまうことなんですから」 「けれども、その事実を知っている少数の人間さえ押さえてしまえば、ほかの人にはすべ て屍体を野崎だと思わせることができます」 「さよう、しかし、たとえ少数にしろ、その人たちをことごとく押さえてしまうというこ とは非常に面倒なことで、かつむずかしいことです。現に、悪漢たちはあなたが野崎の四 本指であることを知っているのを忘れている。こんなことじゃ、成田や銀子をいくら誘拐 してみたところで仕方がないじゃありませんか」 「こもっともです。しかしI」 狩田弁護士が口を開いたときに、突然ドアが開いて、一人の刑事が非常に|昂奮《こうふん》した面持 ちでずかずかと入ってきて、水松警部の耳もとでしばらく何事か|囁《ささや》いた。 警部の顔はみるみる変わった。 「狩田さん、大変なことが起こりました。警官隊は間に合いませんでした。狩野医院は|轟 然《 きいうぜん》爆発しましたρ地下室に爆弾が仕掛けてあったのでしょう。銀子も土井も、それから春 代さんも、|粉微塵《こなみじん》に砕かれてしまったらしいです」 「えっ」 狩田は驚きのあまり、よろよろとした。 「春代さんも、し、死んだのですって。うーむ」 「姉が、あの姉がー」 永い間、狩田と水松警部の問答を|他人事《ひと ヰ と》のようにじっと聞いていて、一言も口を利かな かった雪江は、いま姉の凶報を聞くとこう叫ぶなりたちまち気を失って、一|椅子《いす》から転げ落 ちようとした。狩田は慌てて抱き止めた。 「雪江さん、しっ.かりしてください」 しばらくは彼女の介抱で混雑した。やがて、彼女はようやく息を吹き返したが、血のけ のない土のような顔をして、・ぐったりとして口を利く勇気もないようだった。 -残念ですcまことに残念ですL 狩田は目をしばたたきながら言った。 「わたしが悪かったのですっわたしが止めさえすれば、ああ、わたしがあそこへ行かせさ えしなかったら、春代さんも、それから土井くんも、死にはしなかったはずです」 「春代さんに自由行動を取らせたのは、いけませんでしたね。少なくともその以前に、狩 野医院の秘密の出入り口のことをわたしに話してくだされば、こんなこ亡にはならなかっ たでしょうに」 「申し訳ありません。なんとも申し訳ありません」 「これで、野崎の秘密を知っている者はことごとくやられてしまったわけです。残るのは あなた一人です。わたしたちにとっては不幸中の幸いですが、あなたは今後ますます自重 していただかなくてはなりません。しかし、野崎一味があなたに少しも危害を加えようと しないのは、どういうわけでしょうか」 -「それはわたしがこれまで、あえてかれらの秘密を他に|洩《も》らそうとしなかったからでしょ う。しかし、わたしがこうやってかれらの秘密をすっかり|曝《さら》け出したことを知ったら、わ たしを無事では置きますまど,、∵一∵〜'∴∴∴、、 、あなたは野崎を殺そり七、てあべ4べ仁殺されたといわ巾`男や一また野萄の現在の行 動について、もっと詳しいこ一とを知づていられるのではありませんかL 「ところが、遺憾ながらこれ以上の=とね少しも知らないのです」 「しかし、あなたは狩野医院の秘密一〇入口を知っておられたのですから」, コええ、秘密の入口は知っていましお力それ以上のこ之はまガ知ちないのです」、,一 「あなたは春代さんが狩野慶砦くこ老岩そ秀、そ貴轟鷹に恐毛遼 弾が仕掛けてあることを知って小一かちでなあ力ま一人か」 「決して、決して、そんなことはあσません」 「ではお|訊《き》きしますが、あなたは|今《ほ》日の午後、わたしの鷹話に答えてすぐここへ来ろと言 っておきな考、夜になって宮そここ集亀ま★が、その輩何をして考れま したか」 「私用です、よんどころない私用がありて、.約束tながら来られないのでしえ」ー 「私用といいますと」 水松警部がなにげなく問いかけると、.狩田且むり之、たなケにハ 「私用はどこまでも私用です。私用の内容まで申し上サる必婆はありなす玄い㌧∵ー 「いや、これはどうも失礼いたしました、.実はさきほど、∴ここへまいった刑事が」彼は 狩野医院の警戒をしていたのですが、医院の周囲であなたの姿を見かけたと言ったもので すからL 「はははは、とんでもない。狩野医院の|傍《そば》になんか行くものですか」 「わたしもむろん、刑事の間違いだと思いますけれども、もしやあなたが春代さんの安否 を気遣って医院の様子を見にいかれたかと思ったのでー」 「むろん、春代さんの安否は気遣っていました。しかし、よんどころない用があったの で1実際のところ、わたしは医院の様子を見にいけはよかったと思っています」 「それだから、もしやと思いましたので。では、あなたは医院の傍へは行きませんでした ね」 「むろんです」 「ふん、じゃ、刑事の思い違いだ」 警部は独り言のように|眩《つぷや》いたが、 「お陰で犯罪の経路はすっかり分かりました。遺憾なのは多数の犠牲者を出したことです が、このうえは主犯の野崎を捕縛することが残っているだけです」 「では、わたしに対するお疑いは晴れたわけですね。雪江さんと一緒に引き取ってよいで しょうね」 「ええ、どうぞ」 狩田はほっとしたように、雪江の傍に寄った。彼女はまだ土け色の顔をして、ぐったり としていた。 「雪江さん、帰りましょう」 「ええ」 彼女は|微《かす》かに頷いて立ち上がろうとした。この時に、水松警部は思い出したように声を かけた。 「ああ、狩田さん、もう一つ訊きたいことがありますが」 「何ですか」 狩田は振り向いて、くどいと言わんばかりに警部の顔を見た、 「アメリカのギャングにハ四本指団というのはありませんか」 「ええ」 狩田はちょっとぎょっとしたようだったが、 「知りませんね。どうしてそんなことを訊くのですか」 「いや、ちょっと思いつきましてね。野崎が四本指だったというので、もしやそういうギ ャングがあって、そのギャング団では団員がわざと四本指になったりするのではないかと 思いまして」 「そんな話は聞いたことがありませんね」 狩田はばかばかしいという風に言って、香宮を促した。 「さあ、行きましょう」 狩田は雪江を抱えるようにしてドアの所に向かったが、そこで彼はぎょっとして立ち止 まって、まるで幽霊を見た人のように目を|瞠《みは》って息を凝らした。 しきいぎわふる 閾際には土井が突っ立っていた。彼の顔は真っ青で、ぶるぶる頸えていた。 それは確かに劇的場面だった。 狩田と土井はお互いに真正面に向かい合いながら、棒立ちになって立ち|煉《すく》んだのだった。 狩田は土井が死んだと信じていた。だから、不意に土井が現れたのを、驚きのあまり|把 然《まうぜん》と眺めたのは無理はない。 しかし、土井は何を驚き、何を恐れたのだろうか.. 土井の顔はまるで血のけがなかった。唇をぶるぶる頸わせて、いまにも倒れそうだった。 狩田はやがて気を取り直して、水松警部のほうに振り向いて詰問するように言った。 「土井くんが死んだと言われたのは、・どういう間違いだったのですか」 「あなたはそこに立っているのが、どうして土井だということをご存じなのですか。あな たは土井に会われたことはないはずですが」 水野警部は悠然と言った。狩田はたちまち|狼狽《ろうばい》の色を表した。 「そ、それは、春代さんから聞いていたのです。名乗り合ったことはないが、ちらりと見 たことはあるのでlL 「どこで見たのですか」 「と、とこだったか、よく覚えていないがー」 「それっ!」 水松警部が合図をした。すると、部屋の中にばらばらと刑事が|雪崩《なだれ》れ込んできて、あっ という間もなく狩田に縄をかけてしまった。 「こ、これはけしからん。わが輩をどうしようというのだっ。侮辱だっ。ひどい人|権躁躍《じゆうりん》 だっ」 狩田は|物凄《ものす ヰ 》い形相をして|猛《たけ》り狂った。 水松警部は平気だった。 警部は狩田が縄をかけられたのを見てほっと安心したらしい土井に、呼びかけた。 「土井くん、きみはこの男を知っているかね」 「し、知っています」 土井は頸え声で笠口・えた。 「き、汽車の中にいた四本指の男です。だいぶ様子は変わっていますが、た、確かに相違 ありません」 「ばかな」. 狩田は怒号した。 「何をたわけたことを言うのだっ。ぼくが四本指だなんて、こ、このとおりぼくの指は完 全だぞ。うむ、血迷ったのか、水松警部。きみはきみの力では真犯人をとうてい挙げられ ないので、土井に偽証させてぼくを犯人に仕立てるつもりだなっ」 「静かにレたまえ。きみは、野崎を殺そうとしていた男は完全な指をわざわざ四本指に見 せかけていたと、自白したじゃないか」 「ばかな。そ、それは自白じゃないっ。ぼくはその男が野崎を殺して、実はかれが野崎に 殺されたと見せかけるために、完全な指を四本指に見せかけていたと言ったのだっ」 「それがきみの自白なんだ。きみはその男が野崎に殺されたと言ったけれども、やはりそ の男が野崎を殺したのだ。その男こそ、きみなのだ。きみは完全な指を四本指に見せかけ ていたのだ。さっき、きみ自身が言ったとおりだ」 「ばかなっ」 「本当のことだよ。きみは野崎が四本指だと言ってすっかりぼくを面食らわせ、すべての ことを承服せざるを得ないようにしたのだ。野崎が四本指だなんてことは、真っ赤な|嘘《うそ》だ ったのだっ」 「けしからん。きみは何をもって、ぼくの言ったことを嘘だと言うのかっ」 「証人があるからさ。銀子さんも春代さんも、野崎が四本指だということを絶対に否認し ているL 「な、なんだって」 「ぼくはきみを油断させるために、銀子さんも春代さんも死んだと言ったのだ。二人は土 井くんが生きているように、ちゃんと生きているのだ」 「うーむ」 狩田は歯と歯の間から、地獄から洩れてくるような|岬《うめ》き声を出した。 「まったく危ないところだったよ」 水松警部は狩田を|後目《しりめ》にかけながら、落ち着き払って言った。 「もう少しで、|騙《だま》されるところだった。きみの言ったことは実に巧みに、いままでの奇々 怪々な事実を説明し尽くした。すべての犯行は野崎の所為と、信ぜざるを得なかった。し かし、ぼくの頭の中にはまだどことなく疑念が残っていた。それが幸いだった。ぼくは昨 夜の狩野医院の出来事を頭に浮かべてみた。医院の一室で恐ろしい手術をしていた人間が、 ほんの後姿を見ただけだったけれども、どうも野崎とは思えない。むしろ、きみの後姿に よく似ていたのだ」 「うーむ」 狩田はまた、恐ろしい|捻《うた》り声を立てた。 「きみの言りた話のうちで、成田支配人が兄弟だという点がどうもぼくにぴったりと来な かった。香宮姉妹があり、そのうえに、狩田兄弟があるということはあまりに不自然に聞 こえる。のみならず、きみが成田支配人を弟だと言ったときの態度がどうもどことなく、 取ってつけたようなところがあったのだった。兄弟なんてとんでもない。成田支配人と狩 田弁護士とは二にして一、すなわち同一人に過ぎないのだ」 「うーむ」 「その証拠には、野崎の秘密を知っている者を数えるときにきみは、自分自身を数えて成 田を数えるのを忘れてしまった、兄弟なら忘れる気遣いはない。同一人なものだから、つ いうっかり落としたのさ」 「 」 狩田はもう捻り声を立てなかった。稔り声の代わりに、彼は無言で|歯噛《はが》みをしたのだっ た。・ 「これより前に、ぼくはきみを疑っていた。ぼくはきみの説明をすっかり感服して聞いて いるように見せかけて、図に乗って|喋《しやべ》るきみがいつかきっと陥るであろう言葉の|破綻《はたん》を待 っていたのだ。ぼくはまず最初に、きみがここへ来るのがなにゆえ遅れたかということを 考えた。あれだけ固く約束しながら、しかも、非常な疑惑を受けているのを晴らすためな のだから、きみはすぐにも飛んでこなければならないのだ。それがなぜあんなに遅れたか と言えば、つまり、きみは何かしなくてはならない重大事があったということになる。こ こにぼぐの|鍵《かぎ》があったのだ。.きみは表面紳士を装おうて、捜索課長さえ欺かれるような信 用を得ていた。しかし、ぼくは騙されなかった。きみの正体を暴こうと|脳漿《のうしよう》を絞ったのだ。 きみがここへ来るまでに、奇怪なことが起こった。それは、またしても土井が黒眼鏡に|誘《おぴ》 き出されて狩野医院に連れていかれたことだ。ぼくは驚いて医院に行った。するとハ黒眼 鏡の女は姿が見えないで土井がうろうろしていた。ぼくが土井を励まして春代さんの行方 を捜させていると、きみがここへ来たという|報《しら》せが来てぼくは帰ってきたのだが、きみの 話を聞いているうちにぼくは突然、まったく突然に、はっと思った。ぼくは一種のインス ピレーションを得たのだ。きみがここへ来るのが遅れたのは、重大な仕事をするためで、 それは何かといえば、春代さんと、それから土井を遠ざけるためなのだ!きみは土井が 警視庁にいては、何か都合が悪いことがあるのだ。そういうインスピレーションを得たぼ くは刑事と打ち合わせて、土井を春代さん同様行方不明であったときみに言ったのだ。そ うしたら、きみはほっと安心したような顔をした。ぼくは跳び上がって喜びたいような気 持ちだった。ぼくは勝ったのだ、ほくは勝ったのだ」 水松警部が、 「ぼくが勝ったのだ」 と叫んだとき,に、狩田は、 「うーむ」 とふたたび物凄く坤いて、バリバリと歯を噛み合わせた。 警部は|嘲笑《ちようしよう》するような目で狩田を眺めながら、.語りつづけた。 「きみがほっとした顔をしたときに、ぼくはもう勝ったと思った。きみはなぜ土井と顔を 合わせることを避けるのか。言うまでもなく、きみは彼に顔を知られているからなのだ。 きみはしだいにきみに対する疑惑を深められて、|退《の》っ引きならぬことになりそうなので、 大胆不敵にも自身警視庁に出頭して、ぼくを言いくるめようとしたのだ。そのためにきみ の発明したトリックは、野崎が四本指だということだった。これは実にいい思いつぎだっ た。ぼくも危うくごまかされるところだった。 きみは野崎が四本指だと言ってぼくをごまかすためには、野崎のことをよく知っている 春代さんが邪魔だった。そこで、きみはうまく彼女を使って同じく邪魔な土井を連れ出さ せた。一石二鳥という方法で、悪漢ながらもきみの頭のよさには敬意を表するよ。もう一 人、邪魔な者に銀子さんがいるが、これはきみが|昏睡《ニんすい》状態に陥れて狩野医院の秘密室に隠 しておいたから、このほうは心配する必要がなかったのだ。 いまになって考えてみると、きみは銀子さんに野望を抱いていたのに違いないのだ。野 崎氏を殺した理由の一つは、銀子さんを手に入れたいためなのだ。ぼくが銀子さんを迎え に行ったときに、きみは銀子さんに|屍体《したい》の鑑定をさせるのを妨げるためと、彼女の自由を 束縛して意に従わせるために、ホテルから暴力で奪い出したのだ。あの時の計画はすべて、 きみの頭から割り出されたのだ。きみは何か秘密な話があるようなことを言って、銀子さ んを彼女の部屋へ連れ込んだのだ。そうして、疑われないためにきみみずからも箱詰めに なって、彼女を|撰《さら》ったのだ。きみは追跡されるのを妨げる目的で、自動車のガソリンに水 を入れておいたが、それがかえって発覚を早める|因《もと》になったのは、いささか知恵に|溺《おぽ》れた 形だ。 ぼくらの自動車が追いつくと、きみは実に巧みに芝居を打った。ぼくらのために、悪漢 と闘うように見せかけた。なにしろ暗い田舎道の出来事だし、あの乱闘の中だし、ぼくら にはきみの行動をそう詳しく見る暇がなかった。きみは|瀕死《ひんし》の重傷を負ったように見せた が、実は死んではいなかったこ恐らく、狩野医院で銀子さんを昏睡させたと同様に、何か 特殊の麻酔薬をみずから|呑《の》んだのだろう。 きみの部下たちはきみの身を案じたのか、きみを奪い去った。一つにはきみは成田支配 人として、消滅する必要があったのだ。きみは以前から狩田弁護士として二役を演じてい た。いや狩野医師として、三役を演じていたのかもしれぬ。'いずれにしても、野崎を殺し てしまえばもはや成田支配人としている必要はなく、そういくつもの役を演ずるのはさす がのきみにも煩わしかったのだ。 成田支配人は消滅した。しかし、銀子さんをぼくの手に奪回されたので、きみはあらゆ る方法で銀子さんを誘拐しようとした。とうとうきみは野崎の名を使って、彼女を釣り出 そうとしたが、思いがけなく針にかかってきたのは土井くんだった。土井くんが下阪して きたことはきみにとって、実に厄介千万だった。きみは春代さんを操って土井を|威《おど》かし、 かついろいろの手段で彼を陥れようとしたのだ。きみは香宮姉妹の父が野崎に奪われた利 権を取り戻してやると称して、巧みに春代さんを操縦した。春代さんに土井を監視させな がら、きみは一方で土井の名を使って、銀子さんを大阪に呼び寄せたのだ。 きみは銀子さんを呼び寄せるときに、彼女に黒眼鏡をかけることを勧めた。それはわれ われに香宮春代さんと混同させて、捜索の方針を誤らせようとする考えだったのだ。そし て、きみはそのことにある程度まで成功した。 銀子さんは大阪駅に着いたときに、待合室でしばらくだれかを待っていた。いまから考 えると、彼女はそこで土井の来るのを待っていたのだ。ところが、土井は姿を見せなかっ た。彼が姿を見せないのは当然なのだ。きみが土井の名を利用して、彼女を呼び寄せたの だから。しばらく土井を待ち受けていた銀子さんはやがて|痺《しぴ》れを切らして、高島屋に出か けた一、彼女は土井が、縁故の薄い彼女のためにいろいろと助力をしてくれるのに対して感 謝の意を表するために、何か贈物をしようと思い立ったのだった。 銀子は高島屋で^土井のためにシガレット・ケースを買った。銀子さんの跡を|尾《つ》けてそ れを見たきみはハすぐに情婦を三越にやって、銀子さんの買った品とほとんど同じような 物を買わせ、道頓堀の雑踏を利用して、手下の者を土井に突き当たらせて巧みにすり替え てしまった。このきみの巧妙なトリックは、いかに天満署員を悩ましたことだったろう。伽 まったく、きみの悪知恵の|勝《すぐ》れているのには舌を巻くほかない。 きみは春代さんを操縦して土井を監視させ、かつ威嚇させたが、結局、土井の存在はき みにとっては面白くなかったので、ちょうど秘密を知られてそろそろ片づけなくてはなら なかった情婦を、土井の泊まっている浜ビルホテルの一室に誘き入れて、そこで彼女を殺 害して、土井にその嫌疑を押しつけようとした。きみは殺した情婦を例によって、手足を ばらばらに切り刻みたかったであろうが、場所が大阪で、狩野医院のように便利な家を持 たなかったので、断念せざるを得なかった。 殺人の嫌疑を土井に負わせておいて、一方では、きみは銀子さんを大胆不敵な方法で、 白昼百貨店から暴力をもって引き撰っていった。ぼくはすっかりきみのトリックに引っか かって、現在この目で見守っていながら、二度までもきみに鼻毛を抜かれてしまったのだ。 きみがいったん大阪に呼び寄せた銀子さんを、再度暴力を用いて東京に連れて帰ったのは、 われわれの追跡が厳しいために大阪にいては危ないと考えたからなのだ。 しかし、きみは東京に帰っても、もはや安全ではなかった。ぼくの追及はひしひしとき みの身辺に迫っていった。狩野医院の秘密も感づかれた。きみは狩田弁護士となって巧み に人々の信用を得、警視庁関係者さへ|毫《  でつ》もきみを疑わないくらいだった。しかし、きみは さすがにぼくの追及は免れがたいと考えはじめたのだ。 きみは|煩悶《はんもん》したっいかにしてぼくの追及から免れ、危地を脱しようかと、最後の脳漿を 絞った。その結果、きみの考えついたのは野崎が四本指の男であるというトリックだった。 このトリックこそ、われわれすらが|好智《かんち》に|長《た》けているのに舌を巻くほどのきみが必死にな って考え出しただけあって、ぼくはもう少しのところでやられてしまうところだった。き みはもう、しめたと思ったことだろう。しかし、悪事というものはそうたやすくは成し遂 げられないものだ。危ないところで霊感を得たぼくは、辛うじてきみのトリックを見破る ことができたのだった。 きみは野崎が四本指であるということでわれわれを言いくるめるために、少なくとも三 人の邪魔者があった。それは銀子さんと春代さんと土井くんだ。土井くんは野崎が四本指 かそうでないかということについてはしかとは知らないのだが、彼は汽車内できみを見て 顔を見覚えている恐れがあるから、どうしても取り除いておかないと安心がならないのだ。 きみが野崎が四本指であるという素晴らしいトリックを思いついてわれわれを舌三寸で 言いくるめるために堂々と警視庁に乗り込んでくるについて、だいいちに邪魔なのは土井 だった。彼が警視庁の一室にいたのでは、きみもうっかり出頭することができない。そこ で、きみは春代さんに狩野医院の地下室の秘密の出入り口を教えて、そこに彼女の欲しが っている重要書類を隠した指輪があるが、いまのうちに取り出さなければ警察の手が入っ て万事休することになると、言葉巧みに説き、彼女を狩野医院に行かせた。しかも、その 時にまさかのときに用立てるために、土井を連れていくがいいと言って彼を誘き出させた のだ。 あとから考えると、きみは春代さんと土井を狩野医院に行かせる以前に、そっと秘密の 出入り口から地下室に滑り込んだのだ。地下室にはきみが恋慕している銀子が昨夜以来、 まるで死んだようになって|昏《こんこん》々と眠っていた。きみはできることなら銀子を助けたかった。 助けられないなら、せめてメスを振るって彼女の五体を寸断して、きみの変態性欲を満足 させたかったろう。しかし、|眉《まゆ》に火のついているきみは彼女を助け出すことはもちろん、 奇怪な欲望の犠牲にする暇もなかった。きみは|止《や》むを得ず銀子をそのままにして、地下室 に恐ろしい時計仕掛けの爆薬を装置したのだ、きみがぼくの要求に応じてすぐここへ出頭 のできなかったのは、これだけの仕事をしておかなければならなかったからである。 .地下室の装置も済んだし、春代さんに土井を連れ出させて、二人を地下室に誘き入れた。 これでもう安心だというので、きみは悠々と警視庁に現れたのだ、ところが、きみのだい いちの誤算は春代さんの後を追って続いて地下室へ入るはずの土井がまごまごして、春代 さんの姿を見失ってしまって外へ取り残されたということだった」 「うーむ」 狩田は残念そうに捻った。 「土井の薄のろめが。もっとも、|奴《やつ》が薄のろだったればこそ利用しようと思い、また利用 もしたのだが、|肝腎《かんじん》のところでとんだへまをやりおった」 「まったく、きみの言うとおり。土井が取り残されて医院の周囲をうろうろして、見張り の刑事に疑われたということはきみにとっては不幸だったが、ぼくにとっては|天佑《てんゆう》だった。 そのために、きみの|好計《かんけい》を見破ることができたのだから。 ぼくはきみを試すつもりで土井が行方不明になったと言うと、きみはほっとした。そこ で、ぼくはきみに狩野医院の秘密の出入り口のことを訊くと、安心し切ったきみはすらす らと教えてくれた。きみの考えでは、われわれが狩野医院に到達するまでに医院は粉微塵 になり、銀子はじめ三人の邪魔者は肉片一つ|止《とど》めないように飛び散って、物的にもまた人 的にも、きみに不利な証拠は一切空になるものと高を括っていたのだ。ところがなんぞ図 らん、きみは取り返しのつかない誤りをしていた。それは時計仕掛けの爆薬の装置をやり 損なったので、爆薬は予定どおり爆発をしなかったのだ」 「うーむ」 狩田は物凄い形相をして、地獄の底から洩れてくるような、人間とは思えない恐ろしい 捻り声を出した。 「畜生!それが、おれの破滅だったのだ!」 「そのとおり」 水松警部は快げに頷いた。 「それこそ、きみの破滅だったのだ。警官隊が地下室に飛び込んだときには、春代さんと 土井はうろうろしていた。銀子さんは相変わらず昏睡状態だったが、無事だった。警官隊 は三人を助け出し、かつ、いまだ爆発しない装置を安全に取り除くことができたのだ。 警官隊の報告でそのことを知ったぼくは、きみにわざと、狩野医院が爆破して銀子以下 三人は粉微塵になっているんだと言ったのだ。それを聞いたきみはすっかり安心した。も はや、きみは一片の証拠さえ止めないと思ったのだ。安心したきみは雪江さんを促して、 帰ろうとした。 人は安心したとき、初めて|隙《すき》ができるものだ。ぼくはきみがほっとした虚を|衝《つ》こうとし たのだ。もし、きみにいきなり土井を合わせたら、きみは得意の弁舌で彼を言い負かして しまったであろう。ぼくはそれを恐れたのだ。ぼくはきみの不意を衝いて、きみを自白さ せようとした。 きみは土井は狩野医院の地下の秘密室に入り込んで、同院の爆発のために粉微塵になっ て死んだと信じていた。そうして、すっかり安心し切っていた。そこへ、突如として土井 が現れてきみの面前に立ちはだかったのだ。さすがのきみもたじたじとした。そうして、 恐怖と困惑に顔をひん曲げて、無言のうちに重なる罪を自白してしまったのだ」 「うーむ」 さすがの狩田も額にたらたらと汗を流して、稔るばかりだった。 「どうだ、狩田くん、ぼくのいままでに言ったことは、少しも間違いあるまい」 「うーむ。きみの独り善がりの|饒舌《じようぜつ》の中には正しいこともあり、間違っていることもある が、いまさらそれを弁解しようとは思わぬ」 「では、きみはぼくの言った犯罪の事実を認めるのだな」 「うむ、認めてやるわ」 「さすがに大悪党だけあって、|諦《あきら》めがいい。男らしいところを|賞《ほ》めておこう」 「余計なことは言わないがいい。おれはきさまに賞められようと思って、素直に事実を認 めるのではないぞ。おれはおれ自身が至らなかったところがあったと思って、諦めたのだい 土井みたいな小僧はいつでも殺せたし、きさまのような田舎警部の息の根を止めるのはな んでもないことだった。田舎警部と侮って、一つは面白半分に|翻弄《ほんろう》してやるつもりだった のが、おれの失策だった。おれはとうとう田舎警部にやられたのだ」 「なんとでも思うがいい。ところで、たった一つ訊きたいことがあるか、きみはどういう 理由で汽車の中で四本指の|真似《まね》をしたのか。きみがわれわれを騙そうと思ったとおり野崎 が四本指なら、なるほど、きみが四本指を装うていると、野崎に嫌疑を向けることもでき よう。けれども、野崎は完全な指の所有者であるとすれば、実に無駄なことじゃないか」 「きみにはその理由が分からないのか」 「分からない。他に四本指の男があった。その男に嫌疑を向けるつもりとしか考えられな いがーまさか、きみは富水さんに嫌疑を向けるつもりじゃないだろうなL 「ふん、そうかもしれない」 「いや、違う。何かほかに目的があったに違いないと思う」 「ふふん、それがそんなに知りたいか。では、教えてやろう。おれが四本指なんだっ」 「えっ、は、はかなー」 「はははは.、だから、きさまは分かったようなことを言って、案外分かっていないと言う のだ。見ろ、この手を」 狩田は両手の指を広げて、水松警部の前へ差し出した。 「このとおり完全に見えるだろう。ところが、この右手の中指はつい最近まで欠けていた のだっ。おれは変態性欲ばかりではない、この指を完全なものにしたいばかりに、死体の 手足を切り放して研究していたのだっ。犠牲になった人間はみんな、おれの四本指のこと を気づいた者ばかりなんだ。わはははは」 狩田は大きな口を開いて|喚笑《こうしよう》した。その声は人間ではなく、まさに|妖魔《ようま》のそれだった。