蜘蛛 甲賀三郎  辻川博士の奇怪な研究室は葉の落ちた櫻ぴ大木にかこまれて、それらの木と高さを争うように、 |亭《ていてい》々として地上三十尺あまりにそびえている支柱の上に乗っていた。研究室は直径二間半、高さ 一間半ばかりの円筒形で、丸天井をいただき、側面に一定の間隔でおなじ大きさの窓が並んでい た。一年あまり風雨にさらされているので、白亜の壁はところどころ禿げ落ちて鼠色になり、ぜ んたいは一見不恰好な灯台か、ふるぽけた刈慰樫とも見えた。私はそれを感慨ふかく見上げた。  一年前に物理化学の蔚半である辻川博士がとつぜん大学教授の職をなげうって、まるで専門違 いの蜘蛛の研究をはじめたときは、世間にかなり大きいセソセーショノをまきおこしたが、さら に博士が東京郊外のこんな野なかに火見櫓のような研究室をつくって、地上三十尺の円筒形の建 物のたかにこもったのをみたときには、博士は狂せりと嘆じた人もすくなくなかったほどで、私 などもまったく博士の真意がくめなくて、いささか呆れた一人だった。  しかし、当の博士は、世人の非難や嘲笑にはいっこう無頓着で、|孜《しし》々として蜘蛛の研究に没頭 して、研究室のなかに百にあまる飼育函をおき、数かぎりなき蜘蛛の種類をあつめ、熱心に蜘蛛 の習性その他を観察した。半年とたたないうちに博士のこの奇妙な研究室には、世界各地の珍奇 な蜘蛛がみられるようにたったのである。  半年を経過するころには健忘症の世人は、もう博士がこの奇妙な研究室に閉じこもって、蜘蛛 の研究をしていることなどは思い出してみようともしたかったが、ある夜辻川博士を訪ねてきた 友人の大学教授潮見博士が、この研究室から墜落惨死した事件があって、一時また騒ぎだしたこ とがあった。そのころには物好きな人たちはわざわざこの研究室をみにきたものだった。むろん 辻川博士は容易に他人を室内へ入れなかったので、そうした人たちは地上から、五間も高くそび えている円形の塔を下から仰ぎみて満足するより仕方たかったのだった。  しかし、世間の人はすぐその事も忘れてしまった。辻川博士はふたたび世間と隔離して蜘蛛の 研究をはじめることができた。が、それはながくはつづかなかった。というのは博士は一月ばか り前に、ふとした不注意から熱帯産の毒蜘蛛に|咬《か》まれて、奇怪きわまるうわ言をしゃべりつづけ ながら瀕死の状態で病院にかつぎこまれ、一週間ばかり昏酔状態をつづけたのち、とうとう肇れ てしまったのだった。世人はむろんふたたび博士のことについて騒ぎだしたが、それもやはり永 くつづかず、博士の死とともにこの奇妙な研究室と、そのなかに生棲する数百の蜘蛛については いまはかえりみる人もなくなった。  私は大学の動物学教室に助手をつとめて、節足動物につきすこし専門知識があるので、ときお り博士にまねかれて、研究について相談をうけたりした。辻川博士はまえにものべたとおり物理 化学では世界的の学者だったが、動物学では素人なので、私のようなものでもいくぶん博士の研 究をたすけることができたのだった。しかし、それもほんのはじめのあいだだけで、博士のよう にすぐれた頭脳をもった人にはまたたくひまに私などが遠く及ばないぐらいの知識を獲得せられ るのはなんでもないことだった。私は一二度博士がなぜ専門の物理化学を|拠郷《ほうてき》して、とつじょ蜘 蛛 蜘 蛛の研究に従事せられたのかということをきいてみたが、博士は笑って答えられなかった。  遺族の人の困ったのは、この研究室の始末だった。というのは建物のこともそうであるが、さ らにそのなかにある数百の蜘蛛の処置にいたってはまったく手のつけようがないので、それらの 蜘蛛のなかには、人命をうばう毒蜘蛛もあるというので、彼らは恐れてちかづかず、処置はすこ し専門知識のある私に一切ゆだねられることになった。そこで、私は今日ここにこうして一人で やって来たのである。  さて私は落葉をふんでこの奇妙な建物にちかづき、しばらく感慨ぶかく円形の塔を仰ぎみたす え、急傾斜の鉄筋コソクリートの階段をのぽった。のぽりきると、そこにたたみ一畳じきよりす こしひろいぐらいの|踊《 フンいン》り|場《ンルノ》があり、そこに研究室内にはいる唯一のドアがひらいていた。階段と 踊り場はむろん円形の研究室に密接はしていたが、両者は別個につくられて、ごくわずかた間隙 をおいて、分離せられていた。(このことはささいなことであるが、のちに重要な関係をもつの で、とくにつけ加えておく)  私は研究室内にはいった。  博士の生前にたびたび出入したこともあり、動物学ことに節足動物門について専攻している私 には、じゅうぶん馴れているべきであるにもかかわらず、私は思わずぞっとしてたちすくんだ。  壁にそってずらりとならべられた函のなかにはそれぞれハ本の足をつけた怪物がおもいおもい に網をはって燈躍していた。大形のおb小むや、黄色に青黒い帯をしたじ♪ひト◇むや、脚がか らだの十数倍もあるざとうむしや、背に黄色い斑点のあるゆうれいぐもや、珍奇なきむらぐもや、 その他とたてぐも、じぐも、はぐも、ひらたぐも、こがねぐもなど、あらゆる種類の蜘蛛が、一 月ほど餌をあたえられないために、極度に痩せて、負林女な眼をギョロギョロと光らせていた。そ のうえに函の始末が悪かったためか、のがれでた蜘蛛たちは天井や部屋のすみに網をはっていた。 壁のうえ、床のうえにも幾匹となく無気味なかたちをしてぞろぞろと走りまわっていた。  私はしかしみずからをはげまして、充分に注意しながら函をのぞきまわった。熱帯産のおそる べき毒蜘蛛はさいわいにも厳重に密閉された函のなかにちゃんと収められていた。辻川博士がど んなふうにしてそれにかみつかれたのか、博士が発見されたときにはすでに瀕死の状態で、ただ とりとめのない呪いの言葉をとぎれとぎれにうなっていただけで、よくわからないのだが、とに かく、当の毒蜘蛛は週跳レていなかったので私はほっと安心した。それから私は部屋のすみずみ から書棚や机の裏側、床のつぎめなどを厳密にしらべはじめた。もしや私の知らないでいた有毒 の蜘蛛が逃げだしてひそんでいないかとおもったからである。  私はべつにそんな有毒な蜘蛛はみとめなかったけれども、博士常用の机の裏側をあらためたと きに、机の脚の一部に電流のスイッチが一つとりつけてあるのを発見した。電燈用や、暖炉用に してはへんなところにとりつけてあるので、私はふしぎに思って、≡二度パチパチとひねってみ た。しかし、予期した通りべつに室内の電燈もつかず、なんのためのスイッチかすこしもわから なかった。  私はすこし疲れをおぽえたので、ちょっと休息するために、部屋の中央の博士の常用の安楽椅 子のほこりをはらって、どっかと腰をおろして、煙草に火をつけた。窓外には|箒《ほうき》のように空ざま に枯枝をはっている櫻の大木をとおして、晴れわたった蒼空がみえて、冬の午後の日ざしが室内 までもはいりこんでいた。  煙草のけむりの行方をながめながち、私は博士の生前のことをぽんやり考えていた。博士はど っちかというと陰険な人つきあいのわるい人だった。そのために学問上には相当の功績をあらわ しながら、おなじ学者仲間からはむしろ嫌われていた。ことに博士の同僚だった潮見博士は快活 な明るい人だったから、辻川博士とはどうしても両立せず、陰気なだけ辻川博士のほうがいつも 圧迫されがちで、潮見博士のほうではべつだんなんとも思っていなかっただろうけれども、辻川 博士のほうでは潮見博士をよほど快よくおもっていなかったふうがあった。もっとも辻川博士は あくまで陰性で、面とむかって不快の状をあらわすようなことはなかったようだ。  こんなことを考えているうちに私はふと潮見博士が、研究室の階段から墜落惨死したときのこ とを思いおこした。それはいまから半年ばかり前の夏の終り時分のことだった。辻川博士から呼 ばれて午後七時ごろ私がこの部屋にはいってきたときには、辻川博士は私がいまかけている安楽 椅子に身体をうずめて、あい対した潮見博士としきりになにか話をしていた。辻川博士の調子は ふだんとちがってひどくはしゃいでいて別人のように高笑いをしたりしていた。博士は私の姿を みとめると、すぐに立上って、かたわらの椅子をすすめて潮見博士を紹介した。(潮見博士は入 口のドアをちょうど背中にして腰をおろしていた。したがってあい対していた辻川博士は、ドア のほうをむいていたわけで、私のはいった姿は辻川博士にすぐみえたわけである。潮見博士の位 置はのちに重大なる関係をもってくるので、ちょっとつけ加えて置く)  それから私たち三人は愉快に談笑をかわした。まえにものべたとおり、辻川博士が平素とちが って、ひじ=うに快活だったし、それに話上手の潮見博士がいたし、辻川博士と二人きりのとき には、いつも話のきっかけにきゅうする私も、つい釣り込まれて大いに喋った。私はこのときに 潮見博士のユーモアをまぜた独特の椰撤や皮肉と、よくまわる舌とに感心して、それにこころよ くあいづちを打つ辻川博士をみて、世上で二人の不和を云々するのは全く誤伝だとおもった。 (しかし、これは私の浅薄なおもいちがいだった)  私たちの話はなかたかつきなかった。ものの二時間もしゃべりつづけたと思う。そのときに突 如として潮見博士は飛びあがった。私はびっくりして博士の顔を見たが、土のように蒼かった。 博士は悲鳴をあげながら背後のドアに飛びついて、部屋の外に飛びだした。あまりに不意の出来 ごとで私にはなんのことやらわからなかったが、私はなんでも床の上をはっている珍らしい一匹 の蜘蛛を見たように思つた。その蜘蛛はたぶん潮見博士の足もとへはって行ったのだろう。 「とたてぐもの一種なんだよ。潮見君は毒蜘蛛と間違えたんだよ」  その床の上をはっている蜘蛛をさして辻川博士はそんなことをいったと思う。(私はあとに臨 検した警官にもそう証言した)  が、そのときはそんなことをくわしく耳に留めている余裕はなかった。というのは、潮見博士 が飛びだすと同時にドアの外でギャッという悲鳴とともに、ドタドタという物の落ちる音がした からで、私は驚いてドアの外へでようとした。すると、辻川博士があわてて私を抱きとめて、 「あぶない、階段が急だから」と口早にいって、私をひきもどして、博士のほうが先に外に出た。  それからさきは新聞にもくわしく出たとおり、外に飛びだした潮見博士は階段で足を踏みずべ らして、途中で二一二回、階段に頭をぶつけながら、階下まで転落して、その場で即死してしまっ たのだった。辻川博士と潮見博士とはあまり仲がよくたいということがつたえられていたりした ので、臨検した警官はかなり厳重に事情を聴取した。しかし、両博士がきわめて平和裡に談笑し ていたことは私が証言したし、潮見博士が突如として戸外に飛びだしたのは、まったく足許には いよったある種の蜘蛛をみて、毒蜘蛛とでも誤認したためとしか思われないし、その蜘蛛は毒蜘 蛛でもなんでもなく、誤認したのは潮見博士の過失であり、ことに階段から転落したのはまった く潮見博士の過失によるのであるから、辻川博士にはなんの責任もないわけである。そこで辻川 博士にはなんらの瞥めはなかった。しかし、この問題では各新聞紙が競って興味本位に報道して、 辻川博士が突如として大学をやめて専門ちがいの蜘蛛の研究をはじめたことや、三十尺の支柱に |支《ささ》えられる円形の塔にこもっていることなどをこと新らしく書きだして、大いに世人の好奇心を 辱た。そのために、研究室の下には蒔、見物人がむれて、辻川博士はひじょうに不快なめを したことは、前にものべたとおりである。その後も博士は蜘蛛の研究をやめようとせず、研究室 に閉じこもっていたが、最近ではすこし頭の調子が狂いだしたらしく様子が変だということを私 はきいた。  私は円形の奇妙な研究室のなかで、醜怪な蜘蛛類にかこまれながら、思わずも故辻川博士の懐 旧にふけったが、ふと気がつくと、テーブルの灰皿にはいつのまにすったのか、吸殻が林のよう に立っていた。私は時間のうつったのに驚きながら立ちあがって、念のためにもう一度、飼育函 のなかの蜘蛛類を観察して、それらの処分法について、頭のなかに一つのプラソをつくりあげた。 そこで、私がこの研究室にやってきた目的はたっせられたわけであるから、私は前にものべたと おりこの部屋に出入する唯一のドアに手をかけて静かに内側に開いて、なにげなく一歩外へふみ だそうとしたが、そのときに私はアッと叫んで、グラグラとしながらドアにしがみついた。私は もうすこしのことで直下三十尺を墜落するところだったのだ。それはなんと不可思議なことであ ろう。ドアの外にはたしかにあるべきはずの踊り場も階段も、影も形もなく消え失せているのだ った! はるかに脚下には三十尺の支柱の土台となっている円形のコソクリートの地盤が、私を さそうように冷たくよこたわっている。  私はいくどか眼をこすって見直した。しかし、錯覚でもなんでもなかった。私は室内を見まわ した。しかし、むろん、ここ以外にドアがあろうはずがない。私はドアをバタリと閉めて、よろ めきながら室内にはいって、ひとつひとつ窓をのぞきまわった。すると、どうだ。踊り場とそれ へかけられた階段は三つ目の窓の下にくっついていた。  私は荘然とした。窓から踊り場に飛びおりれば、私は階下へおりることはできる。だからこの 奇妙な塔上に閉じこめられることはまぬがれることができるのだが、しかし、きんきん一時間ぐ らいの間に鉄筋コソクリートの階段が移動したとはなんと不思議千万ではないか。  しばらく荘然と突ったっているうちに、私はふとあることに思いついた。私は窓から差込んで いる日足をじっと観察した。それから窓外にそびえている大木をじっと観察した。  私は発見した! この円形の研究室はそれをささえている支柱を軸にして静かに廻転している のだ! 私は突如思いあたった。私はこの部屋にはいるとまもなく机の裏側に妙なスイッチがあ るのを見つけて、パチパチとひねってみて、結局元どおりにしたつもりだったが、あのために電 路が閉じて、この直径二間半の鉄筋コソクリートの丸い塔が廻転をはじめたのにちがいないのだ。 私は塔の廻転した距離を目測したが、階段の移動は二間半ぐらいで、角度にして約百二十度ぐら いだった。移動に要した時間は約一時間であるから、廻転速度は約三時間に三百六十度すなわち 一廻転するものと思われた。  私はすぐスイッチをきろうかと考えたが、ふと完全に一廻転させて元の位置にかえしたほうが よいと考えて、そのままに放置した。そうしてふたたび部屋の中央の安楽椅子に腰をおろして、 なんのためにこの研究室が廻転するようにつくられているのであろうかと静かに考えはじめた。  私はハッとあることに思いついた。私はあまりに恐ろしい考えに、思わずグラグラとした。私 はいたむ頭をかかえて立ちあがった。そうして狂気のごとく部屋のなかを歩きまわった。それか ら私はあらあらしく部屋のなかのものを手当りしだいに押しのけて、なにものかを見つけだそう と焦った。私は辻川博士の秘密が知りたかったのである。この研究室のどこかに辻川博士の秘密 が隠されていると信じたのである。  まるで狂ったように荒れまわっていた私は、とうとう書架のうしろの秘密の隠し場所から、故 辻川博士の日記を発見した。私はふるえる手でバラバラとべージをくった。そうして、私はやは りそこに博士の秘密を見出したのだった。 ***  ×月×日  Sを殺そうと決心してから三ヵ月になる。このごろになってようやく一つのプラソを思いつい た。Sを殺さなければならない理由は、まったく主観的のもので、おれは良心を安んじさせるた めにジャスチファイする必要はないと思う。おれは世間をあざむけばよいのだ。良心をあざむく 必要はすこしもない。  おれはSを殺そうという考えが、すこしでもにぶりかけたら、彼がおれに加えたかずかぎりな き有形無形の侮辱を思いだせばよいのだ。Sは二人だけの場合であると、公開の席であるとにか かわらず・謝譲σ仮面のもとに、おれをあざけり、おれを軽蔑し、おれを圧迫し、おれをののし りつづけた。このことは彼自身が意識していると意識していたいとにかかわらず、おれには忍ぶ べからざる侮辱である。しかし、おれのいじけた性質と|訥弁《とつべん》にたいする、彼のはなやかな性質と 雄弁とは、おれを彼にたいして反抗を不可能ならしめて、つねに道化役者の地位においた。世人 は彼の雄弁と譜謹とにみせられて、咲笑をするたびに、そのかげにおれという被害者がはぎしり していることにぜんぜん気がつかなかった。いや、いまさらおれはこんなことをくどくどと書き つける必要はたい。結論はかんたんだ。おれはSを憎む。殺さなければならないほど憎む。それ はうごかすべからざる事実だ。問題は彼を殺すべき方法である。  おれは過去三ヵ月にわたって、あらゆる殺人方法について研究してみた。が、どの方法も確実 性と絶対不発見性とを具有しているものはなかった。  ただ一つちょっと面白い方法だと思ったのは、外国人のかいた短い探偵小説だった。  それはAという男がBという男を殺さなければならなくなって、ある大きいビルの一階と最上 階にまったくおなじ位置に各一室をかりうけて、それをまったく同様に飾りつけた。もし眼かく しして突然そのうちの一つに連れこまれたとしたら、眼かくしをとられた|刹那《せつな》はたして、どの階 にいるのかわからないことを必要とするのだった。こうしておいてある夜AはBを一階の部屋に 連れこんで、とつじょ彼の自由を拘束して、この部屋には自動爆発装置が敷設してあるといつわ り、いまより三十分後正九時にはこの部屋は爆発して、お前は粉微塵になるのだと脅かしたのち に、彼に睡眠剤をあたえて昏酔させた。そうして昏酔しているBをかかえて、かねて用意してあ った最上階の一室に連れこんで、時計を九時五分前に止めて部屋のなかにBをおきドアをとざし て逃げさった。このときに時計は必要な時間で止めておかねばならない。なぜたらばいつ眼ざめ るかわからないからである。  Bはふと眼ざめた。気がつくと手足をいましめられている。しかし、さいわいにそれはゆるん でいたので、さっそく振りほどいた。彼はしだいにAの脅迫の言葉を思いだした。(彼はむろん 一階の部屋にいると思っている)彼はハッとして時計をみた。九時五分前! 爆発にはあますと ころ五分しかない。彼は狼狽してドアに飛びついた。しかし、ドアはびくともしない。彼の狼狽 はその極にたっして、窓に飛びついた。ところが窓はさいわいにあいた。ここは一階であると彼 は思っている。1で、彼はいきおいよく飛びおりた。一瞬ののち彼はむろん街路に血にまみれ て即死していた。  この方法はなかなか巧妙である。しかし、静かに考えてみると、最上階と一階のおなじ位置の 部屋をかりうけて、これをまったく同一に飾りつけてほかから怪しまれないようにするにはそう とうの困難があり、かつ昏酔している人間を一人かかえて、一階から最上階までだれにもとがめ られないで、はこぶことはよういなことではない。そのうえにこの方法の致命的欠陥というのは 結果がぜんぜん偶然的で、必然性がないということである。というのは、眼ざめたBが註文どお り狼狽してくれればよいが、もし冷静に観察されると、まず第一に時計のとまっていることを看 破せられるであろう。第二に窓をひらいたときに、それが一階でないということをさとられるお それがある。そしてもっともおそるべきことはいったん看破られたが最後Bの陳述によってAは 殺人未遂というのがれられない運命をになうにいたるであろう。  そこでおれは右の方法に一つの改良をほどこした。それはBにたいしてなんら強制力をもちい ないことである。強制力をもちいさえしなければ、もしやり損なったさいもなんのとがめをうけ ずにすむわけである。  ×月×日  おれは予定どおり大学をやめた。郊外の研究室の工事も着々すすんでいる。おれははじめ邸内 の一部に研究室をたてようとおもった。そのほうがSをたびたび招いたりするのに都合がよいの であるが、いかに巧妙にいっても、人目のおおい市内では、おれの計略を見やぶられるおそれが あるから、不便な郊外をえらぶことにした。  ×月×日  とうとう研究室ができた。研究室の秘密については、おれは都合のよい人間をしっていたので、 絶対に他に洩れる心配はない。設計施工をやった人間は、研究上必要だと信じているのだ。まさ かおれが殺人をする目的で、こんな装置をしたとは思っていたい。  ×月×日  研究はいよいよ蜘蛛ときめた。はじめは蛇にするつもりだったが、蜘蛛類にも猛毒なものがあ るからそれを利用することにした。  ×月×日  今日深夜ひそかにテストをしてみた。しごく成績がよい。おれがはじめ心配したのは回転速度 だった。いったい吾人は等速運動をしている時に、ほかに比較すべきものがなければぜんぜん意 識しないものだ。下等動物のうちには、ほかに比較すべきものがあっても平気なものがある。た とえば蝿のごときものは、はしる馬の背にでもじっととまっている。この蝿の習性はかの蝿取器 なるものに利用されている。すなわち静かに回転する木片のうえに蝿の好むものをぬっておくと 蝿はそれにとまる。かれは木片がじょじょに回転して、ついにでることのできない穴倉におとし いれられるまで気がつかないのだ。  しかし、人間がはたして外界に比較すべきもののない場合に等速運動に気がつかないかどうか 1真の等速運動なら心配はないが、人為的等速運動においてーおれはすこし心配だった。そ れで回転速度をきわめてすくなくした。人は秒針の運動はよく認識することができる。しかし、 秒針の運動でもちょっとみた瞬間にはわからないもので、だから人は懐中時計が動いているかど うかを試すときに、眼によらないで耳によるのを普通としている。  分針の運動にいたってはほとんど認識できないといってよい。もっとも時計のおもてには区画 があるから、二三分見つめていると、一つの区画に近づくのでやや運動をみとめることができる。 区画がなければほとんどわからないであろう。もしそれ時針の運動にいたっては、ぜんぜん認識 することができないであろう。そこでおれは回転速度をおおよそ三時間に一回転としてテストを やってみた。結果はきわめて良好だった、  ×月×日  おれはまたプラソに一つの改良を加えた。最初の考えではおれはSと二人きりで研究室であお うと思っていた。しかし、二人きりではおれがあるいはSを突落したのではないかという疑いを うける加それがある。外部に目撃者をおくとすると、研究室の回転を見破られるおそれがある。 そのうえおれは夜あたりにだれもいないとき、かつ窓から外のものがみえないときを選ばなけれ ばならぬから、目撃者を外におくわけにはいかない。そこでおれは目撃者を内部におくことにし た。この方法は目的どおりSが墜落してから、研究室の移動をさとらしめないことに骨が折れる。 しかし、人は異常な出来事のさいには狼狽するものだから、このときには、急激に研究室を原状 にもどしても気づかれはしないだろう。  ×月×日  とうとう成功した。おれはSをよんでつとめて歓待した。Sは哀れにもいまに死ぬことを知ら ないで、あいかわらず皮肉をまじえておれを椰愉しながら談笑した。おれはおかしさをかみこら えて、彼に毒蜘蛛の恐るべきことと、最近一匹が逃げだしていまに行方のしれないことを話して きかせてやった。さすがの彼もひじょうに気味悪がっていた。しばらくするとかねてよんであっ た大学の動物学教室の助手をしているKがやってきた。おれはそっとスイッチをひねって研究室 をじょじょに回転させた。だれも気づかない。おれは気づかせまいとして一生懸命に話した。S やKはおれが平素のおれでないのに多少気づいたであろう。  おれはころあいを計ってかねて足許にふせてあったとたてぐもの一種を放した。蜘蛛はのその そとSの足許にはいよった。毒蜘蛛の話におびえていた彼は蒼くなって突立った。そしてドァの そとに飛びだした。(あるいはSはおれが彼を殺すつもりで毒蜘蛛を彼にむけたと思ったかもし れぬ。彼はおれが彼を恨んでいることを多少感づいていただろうし、彼の逃げかたがあまりに真 剣だったから)このときにドアは踊り場からほんの少ししか離れていなかったはずである。しか し、ほんのわずかでも離れていてはたまったものではない。彼はたちまち踏みはずして、いった ん階段のなかほどに落ちて、跳ねかえって地上に落ちた。彼は即死した。おれの目的は完全にた っせられたが、よし彼が即死しなくても、おれが殺したということができないはずである。目撃 者Kはむろんおれの殺意をみとめはしなかった。Sが蜘蛛をおそれて悲鳴をあげて外に飛びだし て、勝手に階段からすべり落ちたのである。おれはKが狼狽しているひまに研究室を原状に復し た。このときは加速度が加わったはずであるが、Kはすこしも気づかなかった。  ×月×日  阿呆どもが研究室の下にきてわいわい騒いでいる。一人ぐらいおれの計略を見破るものがあっ てよいのだが、そんなやつはいないらしい。  ×月×日  Sは死んだ。それは明かな事実だ。しかし、おれはSの死によって予期したようになぐさめら れないで、なんだか物足りなくてしかたがない。おれはSを殺せばこんな蜘蛛の研究はやめるつ もりだった。Sの死によって教授を失った大学はきっとおれを迎えにくるだろうと思っていたが、 大学からはなんともいってこない。残念ではあるが、おれはなんだか蜘蛛の研究がやめられない ような気がする。,  ×月×日  大学からはなんの音沙汰もない。おれはまたせっせと蜘蛛の研究をはじめだした。  ×月×日  今日は熱帯産の毒蜘蛛の雌雄が手にはいった。  ×月×日  おれはなんだか蜘蛛に呪われているようだ。飼ってある蜘蛛どもが、妙に探偵のような眼つき をしておれをにらんでしかたがない。  ×月×日  おれは呪われている! あの熱帯産の毒蜘蛛がSの亡霊だとは気がつかなかった。あの眼をみ ろ、あの眼はSがこの研究室の脚下に血まみれになってよこたわっていたときの眼だ。あいつは 毒蜘蛛になったのだ!  ×月×日  負けてたまるものか。たかのしれた毒蜘蛛に。SもSだ。殺されるような意気地なしだけあっ て、蜘蛛になりさがるとは。よし来い。おれは貴様とたたかうぞ。いじめていじめ抜いてやるぞ。 だがあの眼つきは、ああおれはこのごろ蜘蛛がおそろしくなってきた。眼だ眼だ。おそろしい蜘 蛛の眼だ。  ×月×日  蜘蛛の眼がおそろしい。おれはとうていこの部屋のなかで眠ることはできぬ。よしッ、あすは いよいよ最後の勝負だ。見ろ、Sの毒蜘蛛め、ひとつかみにつぶしてやるぞ。 ***  おそろしい蜘蛛の日記はここで終っていた。読み終った私はおそろしさにガタガタとふるえだ した。ふと気がつくと、私の周囲にズラリとならんだ函のなかから、幾百幾千と数限りない蜘蛛 が右から、左から、前から、後からゾロゾロと私めがけてよってくるのだ。私は無我夢中にドア にとびついて押しあけた。ふしぎなことにはそこにちゃんと階段があった。私はあとをもみずに 飛ぶように走りおりた。  数日のあいだ私は熱をだして病床によこたわっていた。そのあいだに奇妙な研究室は火を出し て、内部はすっかり焼けてしまい、数百の蜘蛛もことごとく焼け死んだ。当局の見込みは乞食か 浮浪人の類がはいりこんで火を出したのだろうというのだった。もし火を出さなかったら、あの 異様な塔は永久に静かに回転をつづけて、容易に人に気づかれなかったかもしれないと、私はい までもそう思っている。                             (〈文学時代〉昭和五年一月号発表)