【これは未校正のデータです。】 甲賀三郎「琥珀のパイブ」  私は今でもあの夜の|光景《あリちま》を忠い出すとゾッとする、それ は東京に大地震があって問もない頃であった。  その日の午後十時過ぎになると、はたして空模様が怪し くなって来て、髄風の音とともにポッリポッリと大粒の雨 が落ちて来た.、その朝私は糾聞に「今双半脚.風帝都に襲来 せん」とあるのを見たので役所にいても終日気に病んでい たのだが、`不幸にも気象台の観刈は見事に適中したので あった。気に病んでいたというのはその夜十二時から二時 まで夜警を勤めねばならなかったからで、畢風雨中の夜警 というものは、どうも有難いものではない、一体この夜警 という奴は、つい一月ぱかり前の東京の大震災から始まっ たもので、あの当時あらゆる交通機関が杜絶して、いろい ろの風説か起った時に、焼け残った山ノ手の人々が手に手 に得物を持って、いわゆる目警川なるむのを糾繊したのが 始まりである、  白状するか、私はこの沽谷町の高台からはるかに下町の 空に、炎々と|澁《みな》ぎる白、煙を見、足屯とには道玄坂を上へ上 へと逃れて来る足袋はだしに、泥々の衣物を看た心難者の 群を見た時には、実際この世はどうなる事かと…心った。そ うしていろいろの恐しい樽に驚かされて、白甘に伝家の一 刀を横たえて、家の|周囲《ミわり》を歩き廻った一人である、  さてこの自警団は幾日か経ってゆくうちに、ようやく人 心も落ち着いて来て、いつか}器を持つ事を禁ゼられ、や がて昼岡の警戒もκせられたが、さて夜の警戒というもの はなかなかやめにならないのである。つまり日旗一[団かいつ か夜警団となったわけで幾軒かのグループで各戸から一人 |宛《ずつ》の男を出し、一晩何人という定めで、順番にそのグループ の家々の周囲を警戒するので、後には警視庁の方でも庇止 を賛成し、団眞のうちでも随分反対者があったのである が、投票の結果はいつもろ数で存統と定まるものである、 私のごときも∴〈省の君記を勤め、もうやかてN心給もつこ うという四十幾つの身で、家内のほかに男とてもなし、す こぶる迷悲を戊心じなから、およて一週間に一度は夜中に拍 子木を叩かねばならないのであった。  さてその夜の話てある。十二時の交林頃から|畢凪雨《 し》はい よいよ木物になって来た。私は交替時問に少し遅れて出て 行くともう前の番の人は帰った後て、退役陣事大佐の肴木 進也と、新聞記者と自称寸る松木順三と云う青年との二人 が、不完全な番小屋に外査を着たまま腰をかけて什ってい た。この青木と云うのはいわば一」の夜警団の団.長と云う人 で、記者は  巧分探訪記者であろう  私の家の二、三 軒さきの家へ下町から雌難して来ている人であった、夜警 田の唯一の利益と云うべきものは、山ノ手のいわゆる知識 階級と称する、|介殻《へいポヘ》  大きいのは|栄螺《ポギごしえん》くらい、小さいの は|蛤《ままぐり》くらいの  見たいな家に猫の|額《ひたし》よりまだ秋い庭な垣 根で仕切って、隣の庭がみえても見えない振りをしなが ら、隣同士でも話をした事のないと云う階級の、習慣を破 ってとにかく一区劃内の主人同士が知りあいになったと云 うことと、それに各方面から避難して来ている人々も加わ って来るので、いろいろの職業に従事している人々から、 いろいろの知識が得られると云うことであろう、1しか しこの知識はあまり正確なものではないので後には「ああ 夜警話か」と云ったような程度で片づけられるようになつ たが。  青木は年輩は私より少し上かと思われる人だが、熱心な 夜警団の支持者で、かねて軍備拡張論者である。松本は若 いだけに夜警団廃止の急先鋒、軍備縮小論者と云うのであ るから、たまらない。三十分おきに拍子木を叩いて廻る合 問にピュウピュウと吹き|荒《すさ》んでいる嵐にも負けないような 勢いで議論を闘わすのであった。 「いやごもつともじゃが、」青木大佐は云った。「とにかく あの震災の最中にじゃ、竹槍や抜刀を持った自警団の百人 は、五人の武装した兵隊に|如《し》かなかったのじゃ。」 「それだから軍隊が必要だとはいえますまい。」新聞記者 はいった。「つまり今までの陸軍はあまりに精兵主義で、軍 隊だけが訓練があればよいと思っていたのです。我々民衆 はあまりに訓練がなかった。ことに山ノ手の知識階級など は、口ばかり発達していてお互に人の下につく事を嫌がり、 まるで団体行動など出来やしない。自警団が役に立たない と云う事と、軍隊が必要であると云う事は別問題です。」 「しかし、いくら君でも、地震後軍隊の働いた事は認める じゃろう。」 「そりゃ認めますとも。」青年は云った。「けれども、その ために軍備縮小は考えものだなんて云う議論は駄目です よ。一体今度の震災で物質文明が|脆《もろ》くも自然に負かされた と云う議論があるようだが、もってのほかの事です。吾人 の持っている文化は今度の地震位で破壊せられるものじゃ ありませんよ。現にビクともしないで残っている建物があ るじゃありませんか、吾人の持っている科学を完全に適用 さえすれば、或る程度まで自然の暴虐に填える事が出来る のです。吾人は本当の文化を帝都に|布《し》かなかったのです。 恐らく日露戦役後に費やされた軍備費の|半《なか》ばが、帝都の文 化施設に|費《つか》われていたら、帝都も今回のような惨害は受け なかったでしよう。もうこの上は軍備縮小あるのみです よ。」  私は青年のこの大議論を、うとうと塞風雨の音とチャソ ポソに聞きたがら、居眠りをしていた。ところが突然青木 の大きな声が聞えたのでスッカリ眼を|解《さ》まされた。 「いや、どうあっても夜警団を廃する事は出来ない。殊に じゃ善悪はとにかく、どの家でも犠牲を払って夜警を勤め ているのに、福島と云う奴は|怪《け》しからん奴じゃ。あんな奴 の家は焼き払って仕舞うがよい。」  大佐は夜警問題でまた松本にやり込められたのであろ う。その|余沫《とばちり》を、いつも彼の剛罵の的になっている福島と 云う青木の家とちようど背中合せで、折頃新築したかなり 大きい家の主人に向けたものらしかった。  私はびつくりして、喧唖にでもなれば仲裁に出ようかと 思っていると、松本の方で黙ってしまったので何事も起ら なかった。  そして一時三十五分過ぎ、二人は私を小屋に残して最後 の巡回に出かけた。暴風雨はまさに絶頂に達したかと思わ れた。  一時五十分1なぜこんなに精確に時間を覚えているか と云うと、小屋には時計があって、ほかに仕事がないので 何かあるときっと時計をみるからであるー拍子木を叩き ながら松本一人が小屋に帰って来た。聞けば青木はちよっ と家に寄って来ると云うので、彼の家の前で別れたそうで あった。二時に青木が帰って来た。間もなく次の番の人達 がやって来たので、しばらく話してから私と松本は番小屋 から左へ、青木は右へと別れたのである。私達がちようど 自宅の前あたりまで来た時に、はるかに吹きすさぶ嵐の中 から人の叫び声を聞いたと思った。  二人は走り出した。番小屋の人も走り出した。見ると青 木大佐が夢中で火事だ" と叫んでいる。私はふと砂糖の 焦げるような臭を|嗅《か》いだ。砂糖が燃えたなと思った。我々 は近所から駈けつけた人々とともに、かねて備えつけてあ るバケッに水を汲んで嵐の中を消火につとめた。  大勢の力で火は大事に至らずして消し止めたが、焼けた のは問題の福島の家であった。台所から発火したものらし く、台所と茶の間、女中部屋を焼き、座敷居間の方には全 然火は及ばなかったのである。  働き疲れた人々は大事に至らなかった事を祝福しなが ら、安心の息をついていた。私は家内があまり静かなの で、変に思って懐中電燈を照しながら、座敷の方へ入って 行くと、ちようど居間との境とも思われる辺に、暗|黒《かた》な|塊《まり》 が横たわっていた。  電燈を照すと確かに一人の男であると云う事が判った。 私は次の瞬問に思わずアッ! と声を挙げて二足三足|後退《あとずキ しり》 したのである。死体だ! 畳は|滴《したた》る|血汐《ちしお》でドス黒くなって いる。  私の叫び声に、ようやく火を消し止めてホッとしていた 人々がドヤドヤと入って来た。  人々の|提灯《ちようちん》によって、確かにそれが惨殺せられた死体で ある事が明らかになった。誰一人近づくものはない。その うち、誰かが高く掲げた提灯の光で奥の間をみると、そこ にはすでに寝床が設けられてあったが、一人の女と小さな 子供が床の外へ這い出したような恰好で、倒れているのが 見えた。間もなくそこに集った人々の口から、死者はこの 家の密守番の夫婦と、その子供である事が判った。福島の 一家は全部郷里の方へ避難してしまい、主人だけは残って いたのであったが、それも何でも今日の夕方に郷里の方へ 帰ったそうである。  私はこう云う人々のささやきに聞き耳を立てながら、ふ と死体の方を見ると、驚いた事には、いつの間にか松本が やって来て、まるで死体を抱きかかえるようにして調べて いるのであづた。その調子が探訪記者として、馴れ切って いると云うふうであった。  彼は懐中電燈を照しながら、奥の間へ入り、なおも詳し く調べていた。私はその大胆さにはまったく敬服してしま った。  そのうちに夜も白々と明けて来た。  やがて松本は死体の方の調査がすんだと見えて、,奥の間 から出て来たが、私が側にいるのに目もくれず、今度は居 問の方を見廻した。私も彼の目を追いながら、いくらか明 るくなって来た窓を見廻すと、気のついた事は隅の方の畳 が一枚上げられ、床板が上げられていた。松本は飛鳥のよ うにそこへ飛んで行った。私も思わず彼の後を追った。  みると床板を上げた|辺《あたり》に一枚の|紙片《かみきれ》が落ちていた。|目敏《めざと》 くその紙片を見つけた松本は、ちよっと驚いた様子で、一 度拾おうとしたが、急にやめて今度はポケヅトから手帳を 出した。私はそっと彼の横から床の上の紙片を|覗《のぞ》き込む と、何だか訳の判らない符号みたいなものが書いてあっ た。それに彼の手帳を見ると、もう紙片と同じ符号がそこ に写されているではないか。 「やあ、あなたでしたか?」私の覗いているのに気のつい た松本は、急いで帳面を閉じながら云った。「どうです。 火事の方を調べてみようじゃありませんか?」  私は黙って彼について焼けた方へ歩いた。半焼けの羅物 が無惨に散らばって、|黒焦《くろこげ》の木はプスプスと白い|蒸気《いき》を吹 いていた。火元は確かに台所らしく、放火の跡と思われる ような変った品物は一つも見当らなかった。 「どうです、やはり砂糖が焦げていますね。」松本の示した ものは、大きな|硝子《ゲラス》製の壷の上部がとれた底ばかしのもの で、底には黒い色をした板状のものが、コビリついてい た。私は内心にあの青木の叫び声を聞いて駈けつけた時、 「砂糖が焦げたのだなあ。」と|独言《ひとりごと》を云ったのを、ちゃんと 聞いていたこの青年の機敏さに、驚きながら、壷の中のも のは砂粗の焦げたのに相違ない事を肯定するほかはなかっ た。  彼はあたりを綿密に調べ出した。その中に、ポケットか ら|刷毛《はけ》を出して、手帳を裂いた紙の上へ何か床の上から掃 き寄せていたが、大事そうにそれを取上げて私に示した。 それは紙の上をコロコロころがっている数個の白い小さな 玉であった。 「水銀ですね。」私は云った。 「そうです。多分この中に入っていたのでしょう。」彼は そう答えながら、直径二|分《ぶ》くらいの硝子の管の破片を見せ た。 「寒暖計がこわれたのじゃないのですか。」私は彼にある 優越を感じながら云った。「それとも火の出たのと何か関 係があるのですか?」 「寒暖計ぐらいで、こんなに水銀は残りませんよ。」彼は 答えた。「火事に関係があるのかどうかは判りません。」  そうだ、分るはずがないのだ。私はあまりのこの青年の 活動に、ついこの人が秘密の鍵を見出したかのように思っ たのだ。  表の方が騒々しくなって来た。大勢の人がドヤドヤと入 って来た。検事と警官の一行である。  私と青年記者とは、警官の一人に、当夜の夜警であっ て、火事の最初の発見者たる青木の叫び声で駈けつけたも のであると答えた。二人はしばらく待っているように云わ れた。  男の方は年齢四十歳くらい で、よほど格闘したらしい形 跡がある。鋭利な刃物1そ れは現場に遺棄せられた皮|剥《む》 き用の小形庖丁に相違なかっ た。ーで左肺をただ一突き にやられている。女の方は三 十二、三で床から乗り出して 子供を抱えようとしたところ を後方からグサッと一刺にこ れも左肺を貫かれて死んでい る。茶の間と座敷-三人の 寝ていた部屋1の境の襖は 包丁で滅茶滅茶に切りきざま れていた。枕もとの机の上に 菓子折と艶があった。盆の中 に、寝がけに喰べたらしい|林《りん》 檎の皮があった。  そのほかに変ったものは例の床の板が上げられている事 と、怪しい|紙片《かみきれ》が残されている事である。  訊問が始まった。真先には青木である。 「夜警で交替してからさよう二時を二十分も過ぎていまし たかな、|宅《うち》の方へ帰りますに、」青木は云った。「表を廻れ ば少し遠くなりますから、福島の庭をぬけて私の裏口から 入ろうとしますと、台所の天井から赤い火が見えましたの じゃ。それで大声を挙げたのです。」 「庭の木戸は開いていたのですか。」検事は訊いた。 「夜警の時に、ときどき庭の中へ入りますでな、木戸は開 けてあるようにしてあるのです。」 「火を見つける前に見廻りをしたのは何時頃ですか?」 「二時少し前でしたかな、松本君。」青木は松本を振り返 った。 「そうですね。見廻りがすんで、小屋に帰った時が五分前 ですから、この家の前であなたに別れたのは十分前くらい でしょう、」 「この家の前で別れたというのはどういう訳です?」 「いや一緒に見廻りましてな、この前で私はちよっと|宅《らち》へ 寄りましたので、松本さんだけが、小屋に帰られたので す。」 「やっぱり庭をぬけましたか?」 「そうです。」 「その時は異状なかったのですね?」 「ありませんでした。」 「何の用で帰ったのですか?」 「大した用ではありません。」  その時に警官が検事の前に来た。検死の結果殺害がおよ そ午後十時頃行なわれた事が判ったのである、|小児《こども》の死体 は外部に何の異状もないので解剖に付せられる事となっ た。同時に菓子折も鑑定課に廻された。  時間の関係から、殺人と火事とが連絡があるかないかと 云う事が刑事問の論点になったらしい。  とにかく、ある兇漢が男の方と格闘の上、枕もとにあっ た皮むき庖丁で刺殺し、子供を連れて逃げようとする女を |後《へしろ》から殺した。それから死体を|隠蔽《いんべい》しようと思って床板を 上げたが果さなかった。襖を切ったのは、|薪《まぎ》にして死体を 燃す積りではなかったろうか。 「しかし、厳重に夜警をしている中を、どうしてやって来 て、どうして逃げたかなあ?」刑事の一人が云った。 「そりゃ訳もない事です。」松本が口を出した。「夜警を始 めるのは十時からですから、それ以前に忍び込めるし、火 事の騒ぎの時に大勢に紛れて逃げる事も出来ましようし、 あるいは巡回と次の巡回の間にだって逃げられます。」 「君は一体なんだね?」刑事は|癩《しやく》に触ったらしく、「大そ う知ったか振りをするが、何か加害者の逃亡するところで もみたのかね?」 「見りゃ捕えますよ。」松本は答えた。 「ふん、」刑事はますます績に触ったらしく、「生意気な事 を云わずに引込んでろ。」 「引込んでいるわけにはいきませんよ。」松本は平然とし て答えた。「まだ検事さんに申上げなければならん事があ りますから。」 「わしに云う事とは何かね?」検事が口を出した。 「刑事さん達は少し誤解してなさるようです。私には子供 の方の事は判りませんが、あとの二人は同一の人間に殺さ れたのではありませんよ。女を殺したものと、男を殺した 奴とは違いますよ。一 「何だと?」検事は声を大きくした。「どうだって?」 「二人を殺した奴は別だというのです。二人とも同じ兇器 でやられています。そうして二人とも確かに左肺をやられ ています。しかし一人は前からで、一人は|後《うしろ》からです。|後《うしう》 から左肺を刺すのは普通ではちよっとむずかしいじゃあり ませんか。それに襖の切口をごらんなさい。どれも一文字 に引いてあるのは、左から右に通っています。一体刃物を 突き込んだ所は大きく穴が|穿《あ》き、引くに従って薄くなりま すから、よく分るはずです。それからあなた方は、」刑事 の方を向いて、「林檎の皮を御覧でしたか、皮はかなりつ ながっていましたが、左巻きですよ。林檎を剥いたのが左 利き、襖を突いたのが左利き、女を刺したのが左利き、し かし男を殺したのは右利きです。」  検事も刑事も私も、いや満座の人が、半ば荘然として、 この青年がさして得意らしくもなく、説きたてるのに傾聴 した。 「なるほど。」やがて沈黙は検事によって破られた。 「つまり女はそこに死んでいる男に刺されたのだね?」 「そうです。」青年は簡単に答えた。 「ところで男の方は自分の持っている武器で、何者かに刺 されたというわけだね?」 「何者かというよりは、」青年は云った。「たぶんあの男と 云った方がよいでしょう。」  満座はまた驚かされた。誰もが黙って青年を見詰めた。 「警部さん、あなたはその|紙片《かみきれ》に見覚えはありませんか9」 「そうだ、」警部は、しばし考えていてから、艸るように 云った。「そうだ、そう云われて思い川した。これは確か にあの男の事件の時に-…」 「そうです。」青年は云った。「私も当時つまらない探訪記 者として、事件に関係していましたが、この紙片はあの『謎 の男の万引事件』として知られている、岩見慶二の室で見 た事があります。」  岩見と聞くと私も驚いた。岩見! 岩見! あの男がま たこの事件に関係しているのか。私も当時ぎようぎようし い表題で書き立てられた岩見事件には少からず興味を覚え て熟読したものである。なるほど、それで松本はさっき手 帳に控えた符号と引較べていたのだ!  私は当時の新聞に掲げられた話そのままを読者にお伝え しよう。  この会社員岩見慶二と名乗る謎の青年の語るところはこ うであった。  昨年の六月末のある晴れた日の午後である。かの岩見 は、白の縞ズボンに、黒のアルパカの上衣、|麦藁《むぎわら》帽に白 靴、ネクタイは無論蝶結びのそれで、ちようど当時のどの 若い会社員もしたような一分の隙もない服装で、揚々とし てふくらんだ胸、そこには本月分の俸給の袋と、もう一封 それは今年の夏は多分駄目とあきらめていた思いがけない ボーナスの入った袋をしっかり収めて、別に待つ人もない 独り者の気易さは、洋服屋の月賦、下宿の|女将《おかみ》の立替とを 差引いて、なお残るであろうところの金を勘定して、実際 は買わないが買いたいところのものを思い浮べながら、一 足一足をしっかり踏んで銀座街の|飾窓《シ   ウイソド 》から飾窓へと歩い ていたのである、  一体散歩に金はいらぬはずである。しかし|懐《ふとこる》に|費《つか》っても 差支えのない金を持って、決して買いはしないが、買いた いものの飾窓を覗き込む「よさ」はちよっと経験のない人 には判らない事である。岩見も今この「よさ」に浸ってい るのであった。  彼はとある洋品店の前に足を止めた。その時にもし彼を 機敏に観察しているものがあったら、彼が上衣の袖をそっ と引張ったのに気がついたであろう。それは彼がこの窓の 中に同僚の誰彼が持っていて、かねがね欲しいと思ってい た、黄金製ヵフス|釦《ボタソ》を見入った時に、思わず自分の貧弱な カフス釦が恥しくなって、無意識にかくしたのである。  思い切ってその窓を離れた彼は、更に新橋の方へ歩みを 進めて、今度は大きな時計店の前に|侍《たたず》んだ。彼はまた金側 時計か欲しいと思った。しかし無論買うのではない。それ から彼はやや足を早めて、|途《みちみち》々「買わない買物」の事を考 えながら、新橋を渡り玉木屋の角から右に曲って二丁ばか り行くと、とある横町を左に入ったのであった。その時、 彼はふと|右《ヘヘ》手を上衣のポケットに入れた。何やら覚えのな い小さなものが手に触れたので、ハテナと思いながら取り 出してみると、小さな紙包である。急いで開けると、あ! さっき欲しいと思った黄金製カフス|釦《ボマソ》じゃないか。彼は眼 をこすった。そのとたん左のポケヅトにも何やら重味を感 じた。左のポケットから出たのは、金側時計であった。彼 は何が何やら判らなくなった。ちようどお|伽噺《とぎばなし》の中にある -ように、魔法使いのお蔭で何でも欲しいと思うものが、たち どころに湧いて出ると云うような趣だった。しかし彼はい つまでも荘然としていられなかった。彼の時計を持ってい る手は、|後《ろしろ》から出て来た頑丈な手にしっかり握られた。彼 の|後《りしる》には大きな見知らぬ男が立っていたのである。彼はこ の見知らぬ男とともにさっきの洋品店に行くべく余儀なく せられた。彼が何が何やらさっばり判らないうちに、店の 番頭達はこの方に相違ありませんが、別に何も紛失したも のはないと答えた。次に時計店に連れて行かれた時分に、 岩見もようやく少しずつ判って来たような気がした。時計 店の番頭は彼をみるやいなや、この野郎に違いありません と云った。刑事1この大男は無論刑事であった。1は さっそく身体検査をはじめて、腰のポケットから一つの指 輪を取り出した。それは実に見事に光っていた。 「あまり見かけたい奴だが、」刑事は岩見に向って云った。 「|素人《しろうと》じゃあるまい。」 「冗談いっちゃいけません。」これは大変になって来たと 岩見は懸命に云い出した。「何が何だかさっぱり判りませ ん。一体どうしたのです。」 「オイオイ、いい加減にしないか。」刑事は云った。「お前 はカフス釦を買ったり、時計を買ったり、それはいいさ、 ついでにダイヤ入指輪をちよっと失敬したのは困るね、し かしいい腕だなあ。」 「私は時計も指輪も買った覚えはありません。」彼は弁解 した。「第一金を調べて下されば判ります。」  彼が白分の潔白を証明しようとして、内ポケヅトから月 給の袋とボーナスの袋を山したが、彼は顔色を変えた。封 が切れていた。  様子をみていた刑事は、少し判らなくなって来たので声 をやわらいで、 「とにかく庁まできたまえ。」といった。  警視庁へゆくと岩見は悪びれずに自分に覚えのない事を 述べた。青年の語るところを聞き終って、警部は頭を傾け た。青年の言が事実とすれば、実に妙な事件である。この 時ふと警部の頭にうかんだ事があった。それは岩見青年が ××ビルディソグ内、東洋宝石商会の杜員であるというの を聞いて、|端《はし》なくも二、三ヵ月前の白昼強盗事件が思い出 されたのである。さっそく岩見を訊問してみると、驚いた ことには彼は事件に最も関係の深い一人であることが判っ た。  白昼強盗事件というのはこう云う事件であった。  花ももう二、三日で見頃という四月の|初旬《けじハ》であった。ど んより曇った日の正午、××ビルディング十階の東洋宝石 商会の支配人室で、支配人は当日支店から到着したダイヤ モγド数|穎《か》をしまおうとして、金庫を開けにかかった。支 配人室と云うのは、杜員の全部が事務をとっている長方形 の大きな室の一部が|凹間《アペ  プ》になっていて、その室に通ずる方 にしか入口はないのであった。そして入口の近くに書記の 岩見が控えているのである。支配人が金庫の方へ向うとた んに、何だか物音を聞いたようなので、振りかえると、覆 面の男がピストルを突きつけて立っていた。足もとには一 人の男が倒れている。棒のようになった支配人を|睨《にら》みなが ら、曲者は次第に近寄って、机の上の宝石を掴もうとした 瞬問背後で異様な叫び声がした。それは倒れていた男岩見 書記1の口から洩れたのであった。その時、曲者はつと 入口の方へ退却した。次の瞬間に室にいた杜員がドヤドヤ と支配人室の入口に駈けつけた。そのとき、中から「支配 人がやられた! 医者だっ!」といいながら岩見が飛び出 して来たのである。そして社員達は、室へ入ろうとすると たん、真蒼な顔をした支配人と鉢合せをした。 「曲者はどうした。」支配人は叫んだ。何が何だか判らない のは社員達である。岩見は支配人がやられたと云って飛び 出して来る。次には支配人が曲者はどうしたと飛び出して 来る。とにかくも中へ入ったところの杜員達は三度びっく りした。というのは、そこには|呼吸《いき》も絶え絶えになった岩 見が倒れていたのである。  ようやく判明した事情は、岩見に酷似した又は岩見に変 装した兇漢が、正午で|人気《ひとげ》少くなった杜員室の間を岩見の ような顔をして通りぬけ、覆面をした後、機会を待ってい たのであった。そして支配人が金庫を開けるべく背をみせ た瞬間、岩見に躍りかかって、|短銃《ピストん》の台尻で彼に一撃を喰 わせ、ついで支配人に迫ったが、倒れたはずの岩見が|岬《うめ》き 声を挙げたので、ついに曲者は目的を果さずに逃げたので あった。  支配人は曲者が逃げ出すと、急いで助かった宝石を金庫 の中へ投入れて、金庫を閉めるやいなや、曲者を追ったの である。  多くの社員が駈けつけたときには、兇漢は岩見の風を装 い、支配人が負傷でもしたようなことを叫びながら、部屋 を飛び出したので、杜員一同まんまと|欺《あざむ》かれ、室内に入っ て再び岩見をみるや|唖然《あぜん》とした次第である。曲者はついに 見失ってしまった。しかし支配人はとにかく宝石に間違の なかったのを喜んで、騒ぎ立てる杜員をひとまず制して、 自分の部屋に帰り、念のためふたたび金庫を開いて調べて みると、支配人が大急ぎで金庫に投げ入れた宝石の一つ、 時価数万円のダイヤモソドが一|願《か》不足していた。機放な曲 者は支配人が金庫へ入れる前に、すでに盗み去ったとみえ る。  急報に接して出張した係官もちよっとどうしてよいのか わからなかった。支配人と岩見とは厳重に調べられたが、 支配人の言はまったく信用するに足るもので、岩見も当時 ほとんど人事不省の状態にあったのであるから、これまた 疑いをかける余地がなかったのである。  銀座街における万引嫌疑者岩見がこの白昼強盗事件の関 係者である事を知った警部は、一層厳重に訊問したが、彼 はどこまでも買物などをした覚えはいっさいないと抗弁す るのであった。しかしとにかく、現に|貯品《ぞちひん》を|懐《ふところ》にしてい たのであるから、拘留処分に付せられることとたり、留置 場に下げられた。  ところがまたまた一事件が起った。夜半の一時頃、留置 場の番人が見廻りの際、特に奇怪なる青年として充分注意 するように云い渡されていたので、注意すると、驚くべ し、岩見はいつの問にか留置場から姿を消していた。  警視庁は大騒ぎとなった。重大犯人を逃がしてはとただ ちに非常線が張られた。しかしそのままその夜は明けた。 そうして午前十時頃彼岩見は彼の下宿で難なく捕えられ た。  刑事は無駄とは思いながらも彼の下宿に張り込んでいる と、十時頃彼はボソヤリした顔をしながら帰って来たので あった。  彼の答弁はまたまた係官の意表に出たものであった。十 一時近く、巡査が留置場に来て、ちよっと来いと云って連 れ出し、嫌疑が晴れたから放免すると云って外へ出してく れた。夜も更けたことではあるし、幸い懐に金もあり、か つはあまりの馬鹿馬鹿しさに、一騒ぎ騒ごうと思って、彼 はそのまま電車に乗って品川に至り、某楼に|登《あが》って、今朝 方帰って来たのだと云う。 「一体あなた方は、」彼は不足そうに云った。「私を逃がし たり、構えたり、まるで私を|玩具《おもちや》になさるじゃありません か。」  ××巡査はすぐに呼び出されたが青年はこの方ですと云 ったけれど、巡査の方では全然知らないと答えた。一方品 川の某楼を取調べたが、時間もすべての点も青年の云う通 りであった。知能犯掛りも強力犯掛りも、額を集めて協議 した。その結果今回も以前の強盗事件のように、何者かが 何にも知らない岩見を操っているのではなかろうかと云う ことになって、岩見は無罪ではないかと云う説も多数にな った。  しかしこの不幸な青年はついに放免せられなかった。と 云うのは××巡査が白分が変装した悪漢のために、利用せ られたのを憤り、かつは自己の潔白を証明するために、岩 見の下宿を調べたところ、一つの奇怪な符号を書いた紙片 を発見したのである。そして宝石事件は証拠不充分で無罪 になったが、|窃盗《せつとう》事件は、とにかく現品を所持し、店の番 頭達も岩見をみて当人であることを証明したのであるか ら、ついに起訴せられ禁鋼二ヵ月に処せられたのであっ た。 「私は当時一探訪記者として、」松本は云った。「この事件 に深く興味を持ちまして、岩見の下宿を一度調べたことが ありますが、この奇怪な符号は今でも覚えております。こ の紙片の指紋をお取りになったら一層確かでしょう。」  検事は彼の意見に従った。検事と警官が打合せをしてい るところへ、表から一人の巡査に伴われて、でっぷり肥っ た野卑な顔をした五十近い紳士が入って来た。これがこの 家の主人福島であった。  彼はそこに倒れている死体をみると、青くなってふるえ 出した。検事はにわかに緊張して訊問を始めた。 「さようです、留守番に置いた夫婦に相違ありません。」 ようやく気をとりなおしながら彼は答えた。「それは坂田 音吉と申しまして、以前私方へ出入しておりました大工で す。浅草の橋場の者ですが、弟子の二、三人もおき、左利 きの音吉と申しまして、少しは仲間に知られていたよう です。仕事は身を入れますし、誠に穏やかな男でした。と ころが今度の震災で、十を|頭《かしら》に四人あった子供のうち、上 三人が行方不明となり、一番下の二つになる児だけは母親 がしっかり抱いて逃げたので助かったのです。本人の落胆 は気の毒な程でした(私の方では家族一同を一旦郷里の方 へ避難いたさせましたので、1もっとも私だけ取引上の ことでそう行き切りと云うわけに参りませんから、こちら に残りときどき郷里の方へ参りました。1ちようど幸い この夫婦を留守番に入れたのです。私は昨日は夕刻から郷 里の方へ出掛けまして、今朝程また出て来たのです。」 「昨日二人は、別に変った様子はありませんでしたか?」 「別に変った様子はありませんでした。」 「近頃坂田のところへ客があったようなことはなかったで すか?L 「ありません。」 「あなたは何か人から恨みを受けているようなことはあり ませんか?」 「恨みを受けているようなことはないと存じます。」こう 云いながら、彼は側に立っていた青木を見つけて、「いや 実は近頃この町内の方からはかなり憎まれております、そ れは私が町内の夜警に出ないと云うことからで、そこにお いでになる青木さんなどは、最も御立腹で私の宅などは焼 き払うがよいとまで申されましたそうです。」  検事はチラと青木の方を向いた。 「怪しからぬ。」青木はもう真赤になって口|籠《 ニも》りながら、 「わ、我輩が|放《つけび》火でもしたと云われるのか。」 「いやそう云うわけじゃないのです。」彼は冷然と答えた。 「ただあなたがそんなことを云われたと申上げたまでで す。」 「青木さん、あなたはそういうことを云われましたか∩こ 「ええ、それは一時の激昂で云ったことはあります。」 「あなたが火事を発見たすったのは何時でしたかね。」 「それはさっき申上げた通り、二時十分過ぎぐらいです。」 「火の廻り具合では、どうしても発火後二、三十分経過し たものらしい。ところがあなたはその前に二時十分前に、 この家の庭を通っておられる、そうでしたね。」 「その通りです。」青木は不安らしく答えた。「しかしまさ か私がー」 「いや今は事実の調査をしているのです。」検事は厳とし て云った。今度は福島に向って、「火災保険はつけてあり ますか。」 「はい、家屋が一万五千円、動産が七千円、合計二万二千 円契約があります。」 「家財はそのまま置いてありましたか。」 「貨車の便がありませんから、ほんの身の廻りのものだけ を郷里に持ち帰り、あとは皆おいてありました。」 「殺人について、何も心当りはありませんか?」 「さあ、何も覚えがありません。」  そのとき一人の刑事が、検事のそばへきて何か|嚥《モ  さや》いた。 「松本さん」検事は青年記者を呼んだ。「死体解剖その他 の結果が判ったそうです。これは係官以外に知らすべきこ とではないが、あなたのさっきからの有益なる御助力を謝 する意味においてお話ししますからちよっとこちらへおい で下さい。」  検事と松本は室の隅の方へ行って、|低声《こごえ》で話し出した。 私は最も近くに席を占めていたので、途切れ途切れにその 話を聞いた。 「え! 塩酸加里の中毒、はてな。」松本が云うのが聞え た。  話の様子では机の上にあった菓子折の中には|最中《もたか》が入っ ており、その中には少量のモルヒネを含んでいたのであ る。菓子折は当日午後二時頃渋谷道玄坂の青木堂と云う菓 子屋で求めたもので、買った人間の風采は岩見に酷似して いた。しかし最中は手をつけていないで、子供は塩酸加里 の中毒で倒れているのであった。  やがて検事は元の席に戻ってふたたび訊問を始めた。 「青木さんあなたが、夜警の交替時間に間もないのに、家 に帰られた理由が承りたい。」 「いやそれは。」青木は答えた。「別に何でもないことでと りたてて云う程の理由はないのです。」 「いや、その理由を申されないと、あなたにとって不利に なりますぞ。」  大佐は黙って答えない。私は心配でならなかった。 「さっきのお話では、」福島が云った。「青木さんは火事の 時刻に私の|宅《うムり 》においでになったのですか?」 「そんたことは|貴下《あなた》が聞かんでもよろしい。」検事が代っ て答えた。このとき、松本が隣室から何か大部の書物を抱 えて出て来た。 「やあ、福島さん、あなたは以前薬学をおやりになったそ うで、結構な本をお持ちですな。私も以前少しその道をや りましたが、山下さんの薬局法註解はよい本ですた。私は もうほとんど忘れていましたが、この本をみて思い出しま したよ。それも|塩剥《えんぼつ》の中毒と云うのは珍しいと思いまし て。」松本はあまり|唐突《だしぬけ》なのでいささか面喰っている検事 に向って云った。「山下さんの薬局法註解をみたのですが、 塩剥の註解のところに量多きときは死を致すと書いてあり ましたから、|小児《こども》のことではあり中毒したのでしよう。と ころが、」彼は書物を開いたまま検事に示しながら「こう 云う発見をしましたよ。L 「何ですかこれは?」検事は不審そうに指さされた個所に 目をやるとそこには、「クロール酸カリウム。二酸化マソ ガソ、酸化銅等ノ如キ酸化金属ヲ混ジテ熱スレバスデニニ 百六十度|乃至《ナイシ》二百七十度二在リテ酸素ヲ放出ス、|是《コレ》本品ノ 高温二於テ最モ強劇ノ酸化薬タル|所以《ユエソ》ナリ     又 本品二|二倍量《ヘヘヘ》ノ蕪糖ヲ混和シ此ノ混和物二強硫酸ノ一滴ヲ 点ズルトキハスデニ発火ス云々」と書かれてあった。 「私達が最初に火を発見したとき、砂糖の焦げる臭いを嗅 いだのです。ところで現場を調べてみると、大きな硝子製 の砂糖壷があって|壊《こわ》れた底に真黒に炭がついている。つま り私の考えでは、この塩酸加里が硫酸によって分解せられ て、過酸化塩素を生ずる性質を利用したのではないかと思 うのです。」 「なるほど。」検事は初めてうなずいた。「それでは加害者 が放火の目的で砂糖と塩酸加里を混合し、硫酸を滴加した のですね。」 「いや、私はたぶん加害者ではないと思うのです。なぜな ら殺人と放火の間にはかなりの時間の距離がありますし、 それにこの薬品の調合は恐らくよほど以前、たぶん夕刻く らいになされたものと思われます。」 「と云うと?」 「つまり|小児《こども》が死んだのは、母親がたぶん牛乳か何かに、 砂糖を入れた。ところがその砂糖の中にはすでに塩酸加里 が入っていたのでしよう。そのために小児は中毒したので す。」 「ふむ。」検事はうたずいた。 「これで私は本事件がやや解決できたと思います。小児か 中毒で苦しみ出してとうとう死んだとします。それをみた 父親は先に震災で三児と家を失い、今また最後の一児を失 ったので、たぶん逆上したのでしよう。突如発狂して母親 を背後から刺し殺し、畳|襖《ふすま》の嫌いなく切り廻って暴れた。 ところへちようど問題の岩見が何のためにか忍び込んでい ったのでこれに斬りつけたのでしよう。そこで格闘とな り、ついに岩見のため刺し殺されたのではないかと思いま す。放火が岩見でないことは、彼には恐らく薬品上の知識 はないでしようし、またその際、別にそんな廻りくどい方 法をとらなくてもよいでしょう。」 「すると放火の犯人は?」 「恐らくこの家の焼けることを欲する者でしよう。かたり 保険もあったそうですから。」 「失敬なことを云うな!」今まで黙って聞いていた福島か 怒号し出した。「何の証拠もないのに、まるで保険金目的 で放火したようなことを云うのは怪しからん。第一当夜僕 は家にいないじゃないか。」 「家にいて放火するなら、|塩剥《えんぽつ》にもおよびますまい。」 「まだそんなことをぬかすか。検事さんの前でもただはお かぬぞ。一  検事もこの青年記者の落着き払った態度に敬意を表した ものか、別段止めようともしなかった。 「君がそう云うなら、僕が代って検事さんに説明しよう。 いや君の考案の巧妙なのには僕も感嘆したよ。  僕は現場で硝子管の破片と、少しばかりの水銀をひろっ た。つい今までこれから何者をも探り出すことは出来なか ったが、子供が塩剥の中毒で死んだと云うことを聞いて、 薬局法註解を調べて始めて真相が判ったのさ。検事さん、」 彼は検事の方を向いて、言葉をついだ。「塩酸加里と砂糖 の混合物には一滴の硫酸、そうです、たった一滴の硫酸を 注げば、凄じい勢いで発火するのです。一滴の硫酸、それ を適当の時期に白動的に注ぐ工夫はないでしょうか。水銀 柱を利用したのは驚くべき考案です。直径一|糎《センチメ トル》の硝子 管、ちようどこの破片くらいの硝子管をU字形にまげて、 一端を閉じ、傾けながら他の一端から徐々に水銀を入れ て、閉じた方の管全部を水銀で充たします。そうしてふた たぴU字管をもとの位置に戻しますと、水銀柱は少しく下 ります。もし両端とも開いておれば水銀柱は左右相ひとし い高さで静止するわけですが、一端が閉じられておるため、 空気の圧力によって、水銀柱は一定の高さを保ち、左右の 差が約七百六十|粍《ミちリ》あります。すなわちこれが大気の圧力で す。ですからもし大気の圧力が減ずれば水銀柱の高さは下 るのは自明の理です。|昨夜《ゆうべ》の二時頃は東京はまさに低気圧 の中心に入ったので、気象台の調べによれば、午後五時頃 は気圧七百五十粍、午前二時は七百三十粍です。すなわち 二十粍の差が出来たわけです。すなわち一方の水銀柱は十 粍下り一方の開いた方の水銀柱は十粍上りました。そこで 開いた方の口の水銀の上へ少しばかりの硫酸を|充《みた》しておけ ばどうでしよう。当然硫酸は|温《あふ》れるわけです。福島さん、」 松本は青くなって一言も発しない福島を振り返り、「あな たはあなたがわずかに数万円の金を詐取しようとする心得 違いから、まず第一に留守番の子供を殺し、次にその母親 を殺し、ついには父親までを殺しました。そうしてあなた はあなたの恐るべき罪を青木さんにかけようとしている。 あまりに罪に罪を重ねるものではありませんか。どうです 真直ぐに白状しては。」  福島はひとたまりもなく恐れ入ってしまった。  検事は青年記者の明快なる判断に舌を巻きながら、 「いや、松本さん、あなたは恐るべき方じゃ、あなたのよ うな方が我が警察界に入って下されば実に幸いですがな あ。……それでどうでしよう、岩見が忍び込んだ理由、毒 薬の入った菓子折を持って来た理由はどうでしょう。」 「その点は実は私も判り兼ねています。」  青年記者松本はきっぱりした口調で答えた。  それから二、三日して新聞は岩見の捕縛を報じた。彼の 白状したところは松本の言と符節を合すごとくであった。 しかし彼もまた福島の家に忍び込んだ理由については一言 も口を開かなかった。  その後、私は松本に会う機会がなかった。私はまたもと の生活に|復《かえ》り毎日毎日戦場のように雑踏する渋谷駅を昇降 して、役所に通うのであった。ある日、例のごとくコツコ ッ坂を登って行くと、呼び留められた。みると松本であっ た。彼はニコニコしながら、ちよっとお聞きしたいことが あるから、そこまでつき合ってくれと云うので、伴われ て、玉川電車の楼上の食堂に入った。 「岩見が捕まったそうですね。」私は口を開いた。 「とうとう浦まったそうですよ。」彼は答えた。 「あなたの推定した通りじゃありませんか。」私は彼を賞 めるように云った。 「まぐれ当りですよ。」彼はこともなげに答えた。「ときに お聞きしたいと云うのは、あの福島の|宅《うち》ですね、あれはい つ頃建てたもんですか。」 「あれですか、えーと、たしか今年の五月頃から始まっ て、地震のちよっと前くらいに出来上ったのですよ。」 「それまでは|更地《さらち》だったんですか?」 「ええ、随分久しく空地でした。もっとも崖はちゃんと石 垣で築いて、石の階段などはちゃんと出来ていましたが。」 「ああそうですか。」 「何か事件に関係があるのですか。」 「いや。なに、ちよっと参考にしたいことがありまして ね。」  それから彼はもう岩見事件には少しも触れず、彼の記者 としてのいろいろの経験を面白く話してくれた。そうして ポケットから|琉珀《こはく》に金の環をはめた見事なパイプを出して 煙草をふかしながら、自慢そうに私にみせてくれたりし た。 彼と別れて宅へ帰り、着物を着かえようとして、ふとポ ケットに手をやると小さい固いものが触ったので出してみ ると、さっきの松本のパィプであった。いろいろと考えて みたが、これが私のポケットヘ入り得べき場合を考えるこ とが山来ながった。  私は当惑した、何といって松本に返そうかと思った。そ れから幾日か松本に返そう返そうと思いながら、ついにそ の機がなくそのまま過ぎ去った。  ある日一通の厚い封書が届いた。裏を返すと差出人は松 本であった。急いで封を切って読み下した私は、思わずあ つ! と声を上げたのである。  手紙の内容は次のごとくであった。  しばらくお目にかかりません、もうたぶん永久にお目に かからないかもしれません。  私はようやくあの岩見の奇怪な行動と暗号の意味を解す ることが出来たのです。あなたはこの事件に非常に興味を お持ちでしたから、一通りお話し致しましよう。  まず例の万引事件からお話し致しましよう。あの事件は たぶん岩見君は無罪でしよう。なぜなら、彼にはあんな巧 妙な技禰がないのみならず、前後の事情からするも、彼の 取った行動はどうも彼の無罪を証明しています。しからば 彼が現在所持していた品物はどうしたのでしよう。あなた は××ビルディソグの白昼強盗事件で、兇漢が岩見に変装 していたのをご記憶でしよう。銀座事件でもやっぱりこの 岩見に変装した悪漢が活躍したのです。この悪漢は岩見が 洋品店で立止り、カフス|釦《ポタソ》を欲しがるのをみると、岩見の 立去った後で、その店に入り釦を買いました。次に同様に 時計を買って、岩見のポケットヘ投げ込んだのです。|芝口《しばぐち》 の辺で岩見が始めてカフス釦をみて荘然としている隙にボ ーナスの袋を抜いたのです。次に岩見が時計をみて二度び っくりする暇に、袋の中から金を抜き取るとともにふたた び彼のポケットに返し、素早く万引した宝石をズボソのポ ケットに投げ入れて退却したのです。それからあとは彼が 刑事に捕まり、番頭までに証明せられるようになったので す。この兇漢がいったん自分が罪に陥しいれた岩見を、夜 分にまたまた刑事に|化《ぱけ》るような危険を冒して、岩見を連れ 出したのは何のためでしようか。それは恐らく岩見のあと をつけるためです。もし岩見が何か不正なことをして、盗 んだ品をどこかに隠しているとしたら、彼が窃盗の嫌疑で 捕われふたたび放されたときに、その隠場所へ心配して見 には行かないでしようか、それが兇賊の目的だったので す。岩見は何を隠していたのでしよう。それはあの有名な 事件で紛失した宝石の一つです。商会に入った賊は実に岩 見の叫び声のために、一物も得ずに逃げたのです。そして 支配人があわてて机上の宝石を掴んで金庫に入れるとき に、その中の最も価値ある一つの宝石は下へ落ちたので す。  支配人が賊を追って行くと、岩見はその宝石を見つけ、 悪心を起し、とっさに敷物の下かなんかに|秘《かく》した、そうし て仮死を|粧《よそお》っていたに違いありません。新聞で宝石の紛失 を知った賊は、岩見の所為とみたでしよう。そこで兇漢は 彼の計画を|齟齬《そご》せしめ、あの宝石を奪われたのを知ったと き、いかにこれを取返そうと誓ったでしよう。無論彼とし ては出来るだけの捜査をしたに相違ありません。そうして あの妙な符号はたしかに宝石の隠場所を示したものであ ることを、看破したのです。しかしそれは単に岩見の心覚 えにとどまって、ある地点1それは岩見にとっては容易 に覚えていられる地点であり、それから先を暗号によって 心覚えにしたのですから、暗号は解けてもその地点は判ら ないために、どうすることも出来ないのです。そこでかの 兇漢は岩見をいったん官憲の手で捕えさせ、そして自分が これを放免すると云う苦肉の方法を選んだのです。しかし それも岩見の品川行きと云う皮肉な行為で駄目になりまし た。もつともあとで考えれば、岩見の隠場所は岩見でさえ もどうにもならぬ状態にあったのです。  ところが兇漢は偶然宝石の在所を知りました。それは今 回の事件で岩見がある家に忍び込んだと云うことから、宝 石はたしかにその家のどこかに隠されていると云うことを 知ったのです。それからとは容易です。長方形の片隅の 矢印をした符号は、石段の角を示します。S、S、Eは磁 石の|南《サウスサウヌ》々|東《イヨフちト》です。31は無論三十一尺、逆の丁字形は直角で す。≦ー一㎝は|西《ウエスト》へ十五尺です。すなわち石段の角から南々 東へ三十一尺の地点から、直角に西の方へ十五尺と云うこ とです。岩見が宝石を障した時分には、その土地は空地で 石段だけはすでに出来ていましたが、一面の草原であった ことは、あなたの方がよくご存知です。岩見は万引事件で 禁鋼の刑を受け、宝石を取り出す時機を失しているうち に、その土地に福島の家が建ちました。そこで彼は出獄す ると福島の宅へ目をつけ、機会を待っていましたが、つい に留守番にモルヒネ入りの菓子を送り、麻酔させた上で、 ゆっくり宝石を取り出そうと企んだのです。そして|暴風雨《あらし》 を幸い、忍び込んだのです。ところが相手はモルヒネで寝 ているどころか、あべこべに斬りつけられるような目に逢 ったのです。床板の上っていたのはそう云うわけで宝石を 探そうとしたのです。  ところが宝石はどうしたのでしよう。  それは|私《ヘヘヘちち》がたしかに|頂戴《 ヘヘヘヘヘヘ》しました。もうすでにお|気《ヘヤヤヘヘヘちヘヘヘヘ》づ《ち》|き と|存《ヘヘち》じますが、|私《へちへ》が××ビルディング白昼強盗の本人で す。  お驚きにならないように、なお一つには私の手腕を証拠 立てるためと、一つには私の永久の記念のために、あなた の内ポケットに例の琉珀のパイプを入れておきました。怪 しい品ではありません、どうぞ安心してお使い下さい。