【これは未校正のデータです。】 情況証拠  甲賀三郎 第一の事件  法学博士|青山周吉《あおやましゆうきち》氏は「情況証拠誤判録」をバタリと閉じると、座席の上にポンと投げ出して、 ぼんやりと窓外を眺めた。  外は相変らず|氷雨《ひさめ》だ。どんよりした空は、正午近い現在を|黄昏《たそがれ》時のように暗くしている。 「百の情況証拠があっても、一の確証がなければl」  博士の頭の中で明日の法廷の弁論を組み立てていた。遠距離へ弁護に出かける時には、往路の汽 車の中で弁論を練るのが博士の習慣だった。貴族院に議席を占めている博士には一等のパスがあっ た。一等車はいつの場合でも、思考を凝らすに足るだけの静かさがあった。.  今日の下ノ関行急行の一等車も、矢張りその通りだった。殊に昨日以来のそぼ降る寒い雨は、一 層乗客を少なくしていた。  然し、車内は適度のスチームで、春のように|快《こころよ》く暖かい。 「十人の罪人を逸するも、一人の|無享《むこ》を罰するのは、法の恥ではないか」  博士は無意識に一旦傍に置いた、古めかしい|仮綴《かりとじ》の「情況証拠誤判録」を取り上げて、バラバラ と頁を繰った。 「そうだ、被告は断じて無罪だ」  博士は再び小冊子を閉じて、傍らに置くと、チョッキのポケットから時計を取り出した。  やがて、博士は静かに立ち上って、大股に食堂車の方に向った。  青山博士が頭を悩ましている事件はこうだった。  九州の或る一都市の一流の料亭観月楼の主人|佐治儀助《さじぎすけ》が三年ばかり以前の或る夏の夜、蚊帳《かや》の中 で就寝中、短刀様のもので|刺殺《さしころ》された。-それを発見したのは同家の女中だった。彼女はその朝何の 気なしに蚊帳の中を覗くと、主人が血に染まって|繁《たお》れているので、大きな声を上げた。彼女の叫び 声に驚いて、養子の|玉治郎《たまじろう》始め家人が駆けつけたが、玉治郎は家人を制して、傍に寄るなと云って、 養母にも妻にも屍体に触れる事を許さなかった。彼は後にこの事を弁解して、確かに他殺と認めた ので、現場を乱して、犯行の|証跡《しようせき》をなくするのを恐れたのだと云った。然し蚊帳の外から|直《じき》に他 殺と認めて、而も既に|緯切《こ どキト》れていると断じたのは、警官でもなく、医師でもない素人の彼としては、 少し不審である。それに、よし緯切れているとしても、一応は何とか|介抱《かいほう》して見たいのが近親者の 人情と云わねばならない。玉治郎が家人を傍に寄せず、医師を呼ぶより前に、人を警察へ走らした と云う事が、後に彼に養父殺しの嫌疑の掛かった一つの大きな原因だった。  急報によって、警察から係官が出張して、家の中が|鼎《かなえ》の湧くようになっている時に、玉治郎はそ     よそ         つ                     いつていじ の騒ぎを他所に、裏庭で米を掲いていた。殺された儀助と云う男は、眼に一丁字もない無教育な男 で、裸一貫から今日の位置を築いたのだった。それだけに|頗《すこぷ》る|吝薔《りんしよく》で|因業《いんごう》で、雇人上りの玉治郎 を養子にしてからも、雇人同様に扱っていた。そんな訳で、玉治郎は身体を休める暇もなく、雇人 の間に交って、米掲きなどもしていたのだ。然し、養父が何者かに殺されて、警官が出張している 際に、|素知《そし》らぬ顔をして米を掲いていると云う事は、常識で判断出来ない心理である。彼が嫌疑を 掛けられた第二の理由は之だった。  取調べの結果、寝所の近くの雨戸が一枚|外《はず》されているのが発見された。次いで寝所の金庫が開け 放されて中に収めてあった貴金属宝石の類が、そっくりなく次っているのが発見された。それで一 応強盗の|所為《しよい》であると云う説は成立?たが、老練な警吏は首を|傾《かし》げた。金庫が開け放たれているの と、雨戸が一枚外されているのを除くと、その他は少しも取乱した所はなく、キチンとしていた。 強盗の所為と見せかける為に、|態《わざ》と雨戸を外して置いた疑いが十分あるのだった。  そこへ玉治郎に対する不利な事実が続々現われて来た。その二つは既に述べたが、その他に玉治 郎には最近別れ話が持ち上っていた。彼は養父の気に入らないばかりでなく、養母にも現在の妻に も気に入られてなかった。尤も、初めは儀助が|見所《みどころ》があると云うので、雇人の中から拾小上げて、 娘には無理押しつけに養子にしたのだが、実直に見せかけていた玉治郎が案外の食わせ者で、籍を 入れる段になって、詐欺の前科がある事が発見されたりして、真先きに儀助が嫌い出した。女房や 娘は初めから嫌っていたのだから、この頃は養子とは名ばかりで、娘などは傍へも寄らないと云う 有様だった。従って別れ話が起ったのだが、玉治郎は籍こそ這入っていないが、養子に相違ないの だから、離縁するなら、全財産の半分を寄越せと居直った。そんな事で家の中はゴタゴタして、玉 治郎は毎日のように儀助といがみ合っていた、 ,開けられた金庫は最新式の精巧なもので、符号が二重になっていて、到底それを知らなければ開 けられるものではなかった。符号を知っていたのは、儀助と儀助の女房と娘と玉治郎の四人だけだ った。,  厳重な捜査の結果、外部にも亦内部にも、玉治郎以外に嫌疑を受けるべき者は見当らなかった。  更に玉治郎の嫌疑を決定的にしたのは、兇器の発見だった。  兇器は、裏庭の一隅にあるちょっとした野菜畑に、可成りの大きさの水瓶が置いてあったが、そ れを動かすど、その下に溝があって、その中から現われた|白鞘《しらさや》の短刀で、|所《ところどこ》々|血《ろ》に染まっていた。 儀助の女房と娘の証言によると、儀助が護身用に持っていたもので、平生は|箪笥《たんす》の|抽出《ひきだし》に入れてあ  ったものだった。尚、雇人某の証言によると、水瓶の下の溝は先年彼がセメントで築いたもので、 そこに溝がある事は、自分と儀助と玉治郎より他の人は絶対に知らない筈だと云うのだった。  幾多の不利な証拠によって、玉治郎は遂に|拘引《こういん》された。然し、彼は警察署でも、検事局でも、予 審廷でも、第一審の公判廷でも、断乎として犯行を否認し続けた。それにも拘らず、彼は数多くの ,情況証拠によって、常に有罪と認められて、第一審では遂に死刑を云い渡された。   玉治郎は敢然として控訴した。  彼の弁護に、在野|法曹界《ほうそうかい》の大先輩、その|明晰《めいせき》な頭脳、荘重の弁、創造的な法理論によって、刑事 弁護にかけては並ぶ者がないと云われた法学博士青山周吉氏が|蹴起《けつき》したのである。  長崎控訴院の大法廷は傍聴人で溢れていたが、しーんと水を打ったように静まっていた。裁判長 始め陪審判事検事その他に至るまで、襟を正して、青山博士の弁論に聞き入っているようだった。 「被告には数限りなき不利な証拠があります。然し、そのいずれもが|所謂《いわゆる》情況証拠である。情況証 拠による裁断が、いかに危険極まるものであるかは、|夙《つと》に賢明なる諸公の熟知せられる所であると 信ずる。ここに本弁護人が手にせる小冊子にも、その幾多の誤判例が載っているのであります」  そう云いながら、青山博士は右手を高く上げて、「情況証拠誤判録」を振りかざした。 「被告に不利な情況証拠、例えば兇器を隠した溝を、被害者及び被告と証人以外に知る者がなかっ たと云うも、それは必ずしも絶対的ではないのであります。何者かが知っていたかも知れない。又 前以て知らずとするも、犯人はそれを発見する事が出来るでありましょう。兇器は被害者の所有な りと云うも、何人と雛も之を盗み出す事が出来る。被告を陥れん為に、事件発見後、之を問題の溝 に隠す事も可能であります。  之によって、是を|観《み》るに、被告の有罪を断定すべき確証は一つもないのであります。而も、被告 は終始一貫、犯罪事実を否認しているではないか。  イギリスの|諺《ことわざ》にも日く、十人の罪人を逸するも、一人の|無享《むこ》を罰する勿れと。又、東洋に於て も、罪の疑わしきは罰せずと云う。百の情況証拠あるも、一つの確証なき本事件の如きは、以て罪 を断ずる事は出来ない。|速《すみや》かに無罪の云い渡しあらん事を請い願うのであります。尚、附言いたし ますが、近く刑事訴訟法の改正がありまして、証拠不十分の故を以て、免訴になった被告と雛も、 新たに確証が発見されれば再び起訴する事が自由となるのであります。本件の如き、|仮令《たとい》今日無罪 の云い渡しをなしても、他日確定的な証拠が挙がらば、その時に再び起訴するも、少しも妨げない と信ずるものでありますL  論じ終って、一博士は悠々と席に着いた。博士は何となく胸がすくような感じがした。思い通りに 弁論が出来た時に博士はいつでもそう云う風に感じるのだった。  青山博士の所論に感じたか、それとも裁判長に信ずる所があったか、越えて数月、玉治郎は証拠 不十分につき無罪と云い渡しを受けた、.  玉治郎の有罪を堅く信じていた多くの人は、無罪の云い渡しに唖然とした。中でも|悔《くや》しがったの は、儀助の妻と娘だった。娘は一旦玉治郎と夫婦の|契《ちぎり》を結んだけれども、今は仇敵以上に憎んでい るのだった。儀助の妻と娘は、目前に親の仇を控えていながら、どうする事も出来ないのを、裁判 の|所為《せい》よりも、青山博士の為だとして、大声に|罵《ののし》り|喚《わめ》いたと云う事だった。  然し、青山博士の所論は、玉治郎が全然兇行に関係がないと云うのではない。本人の自白がない 七、情況証拠ばかりで確証がないから兇行をやったかやらないか判らない。罪の疑わしいのを罰す る事はいけない。それだから、一先ず無罪にせよと云うのである。  玉治郎を検挙した所轄警察署では、彼の有罪を信じて疑わないのだが、いかんせん、動かすべか らざる確証がない。金庫の中から盗み去られた貴金属宝石の類の行方を突き留める事が出来れば、 確証になり得るから、可成りその方面に力を入れたのだが、どうしてもそれを発見する事が出来な かった。  二審の云い渡しがあると、検事も最早上告を断念した。警察も暫く新しい証拠を挙げようと努力 したが、間もなく諦めて|了《しま》った。  こうして、宮井玉治郎は三年ぶりに、|娑婆《しやぱ》に出る事になったのである。 第二の事件 第一の事件から二年あまりの歳月が流れた。 青山博士は書斎兼寝室の安楽椅子にグッタリと腰を下ろして、 悩ましげにじっと考え込んでいた。  庭前の老桜の蕾がふっくり|膨《ふく》らんでいるめが、窓越しに見渡される。空はクッキリと青い。然し、 室内はうすら寒い。 「うむ」  博士は時々苦しそうに|坤《うめ》きながら、思い出したように、足許の火のついていない電気ストーブに 手をかざした。博士は考え込むと、他の事にはすっかり放心状態になるのが癖だった。 「情況証拠と云えば情況証拠だIIだが、相当確実性がある」  博士は無意識に卓上の煙草入から、ウェストミンスターを一本取り上げた。が、直ぐには火をつ けようとせず、暫らく手の中でいじくっていたが、突然激しく頭を振った。 「いかん、いかん、予審廷での本人の自白がいかん。どうも、むつかしい」  博士は再びじッと考え込んだ。  それは某大会社の社長相川氏の毒殺事件だった。  去年の五月十八日の夜だった。富豪相川氏が居間で夫人と二人きりで相対して、紅茶を|畷《すす》りなが ら|睦《むつま》じそうに話しているうちに、突如苦悶を始めた。主治医を始め多勢の医師が駆けつけて、治療 に努めたが、その夜のうちにとうとう不帰の客となって了った。  死因は猛烈なアルカロイドの中毒だった。呑みかけの紅茶の中から、それが検出された。然し、 夫人の呑みかけの紅茶の中からも、紅茶を入れた急須の中からも、使われた砂糖壼の砂糖からも、 クリームからも、どこからも、毒物の反応は現われなかった。  邸内は|隈《くま》なく捜索された。多くの雇人は厳重に訊問された。然し、.何一つ、誰一人、疑わしいも のはなかつた。  当時相川氏は順風に帆を上げるように、万事好調で、主宰している会社は勿論、傍系の会社もい ずれも隆々たるものであったから、温良貞淑で美しい夫人との間に、一人も子供がないと云う不幸 の他には、何事も意のままにならない事はなく、元より自殺などとはてんで考えられないのだった。 と云って、過失や偶然で、相川氏の紅茶の中にだけ毒物が這入ったとは考えられないから、当局者 も他殺と断じ、殺害方法から犯人は内輪のものと見込みをつけたのだった。  そこで、嫌疑者であるが、先ず相川氏の死によって利益するのは、先ず第一が遺産を相続する夫 人仲子で、第二は遺産の一部を分けて貰う、相川氏の遠縁で、現に相川氏の秘書をしている|市野久 助《いちのきゆうすけ》の二人だった。夫人仲子は相川氏とは大分年齢の開きがある、有名な美貌の持主だが、若いにも 似ず派手嫌いで、二十余も年上の夫によく|仕《つか》え、夫婦仲も至って睦じいので、検察当局も|流石《さすが》に容 疑者とするのに|躊躇《ちゆうちよ》したのだった。  市野久助は相川夫人と|略《ほぼ》同年齢の独身者で、大した学歴はないが、眼から鼻に抜けるような敏捷 な男で、遠縁の関係もあったが、相川氏に大分可愛がられていた。所が、相川氏の死後調査された 結果によると、彼は案外の|遊蕩児《ゆうとうじ》で、相川氏の前では堅いように装いながら、芸者を落籍して圏っ たりして、高利貸から少からぬ金を借りて、首が廻らぬ状態だった。夫人はその事を薄々知ってい て市野を嫌っでいたが、何分夫の遠縁に当り、気に入っているのだから、知って知らぬ振りをして いたのだった。  所が、彼は最近に秘書の位置を利用して、会社関係の諸方面から金を|掠《かす》め取った事や、会社の帳 簿を|胡魔化《ごまか》していた事が社長の耳に這入ったらしく、信用していただけに、相川氏の憤怒は非常な ものだった。然し、流石に苦労人だけに、本人の将来を思って、そっと自宅に呼んで、会社を自発 的に辞することを申し渡した。無論遺産の一部を与えることも取消し、今後出入することも堅く禁 じた。この事は絶対に秘密にしてあった事なのだが、取調べの結果、夫人の口から洩れたのだった。 尚、夫人がそれとなく|灰《ほのめ》かした所によると、市野は夫人を|籠絡《ろうらく》しようとして、いかがわしい行動を したらしく、その事も相川氏の知る所となったのである。  そんな事で、市野は先ず第一に|拘引《こういん》された。然し、彼は断乎として否定するし、又仮りに犯人で あるとしても、居間の奥深く夫人と対坐していた相川氏の紅茶茶碗の中に、毒を投入する方法があ り得ない。而も当夜市野は相川邸とは遠く離れた某待合で馴染の芸者を相手に|浅酌低唱《せんしやくていしよう》を試みて いたし、相川邸内の召使いのうちにも、彼に買収されて、毒薬を紅茶茶碗の中に投じたようなもの はなかった。事実、紅茶は洗ったばかりの茶碗に夫人が自ら注いだのだから、召使いがそんな事を するのは不可能でもあった。  尤も市野は秘書だったから、相川邸へは自由に出入が出来た。だから、相川氏の居間にある洋酒 の瓶に毒薬を投入して置くとか、鉄瓶や砂糖壺の中に|予《あらかじ》め混入して置くとか云う事は出来ない事 ではない。然し、前にも述べたように、毒物は相川氏の呑みかけの紅茶以外からは、全然検出され なかったから、市野が予め何物かに毒物を投じて置いたとは云えないのである。  こう云う訳で、市野は間もなく証拠不十分で釈放された。さてそうなると、最早、いかに温良貞 淑であっても、夫婦仲が睦じくも、夫人以外に疑いを掛ける者がないのだ。殊に夫人の証言を市野 は絶対に否認したし、市野が相川氏に叱責されて、特権を|剥奪《はくだつ》されそうになって、その為殺意を生 じたと云う事は、他に誰も知らない事だから、それが夫人の作り事でないとは誰も説明出来ないの だ。  検察当局は今までの態度を俄然改めて、仲子夫人を留置し、峻厳な訊問を開始した。  その結果、多くの人々が意外に感じた事だったが、夫人は遂に夫を毒殺した事を自白したのだっ た。夫人の自白は予審廷まで続いたが、公判に廻ると、突如それを|翻《ひるがえ》した。彼女は断乎とし、夫 を毒殺した覚えはないと主張し始めたのだった。  その公判の続行が明日東京地方裁判所で開かれるのである。  青山博士は依然として、火のつかない煙草をまさぐりながら考えを凝らしていた。 「相川氏は確かに中毒死だ。その毒は相川氏の呑んだ紅茶茶碗の中からのみ発見された。どうして、 毒薬が相川氏の茶碗のみに這入っていたか。いや、それよりも、何者がそれをなし得るか。女中は 紅茶用器を運んだだけである。砂糖壼は主人専用のものだったが、そこからは何の毒物も検出され なかった。この場合、相川氏の茶碗に、何者が、毒薬を投ずることを得るか。1ああ絶望だ」  博士は又もや重苦しい溜息をついた。 「然し、断じて信ずる。あの夫人は無罪だ。それだけははっきり判っている。だがl」  博士は放心したように、いつまでも一つ所をじっと眺めていた。  いつの間にか、太陽が西の方に廻って、部屋の中はそろそろ暗くなりかかっていた。博士は漸く 決心したように、椅子から身を起した。 「法理論ではない。|権道《けんどう》だ。然しこの際法理論は少しも役に立たないのだ。儂は権道は嫌いだ。だ が、止むを得ない。やって見よう」  その翌日、法廷に立った青山博士の言は、満廷を驚かしたものだった。 「裁判長、被告は断じて無罪であります。本弁護人は遂に、本件の謎を解きました。真犯人を見出 したのであります。それを証拠立てるべき材料は自宅の書斎の金庫に収めてあります。近く整理の 上、裁判長の手許に差出す考えであります。私はそれによって、無実の被告を救い、憎むべき真犯 人を告発し得る事を信じて疑わないのであります」  博士のこの言葉は一時法廷をしーんと静まらせた。と、次の瞬間には裁判長の|叱咤《しつた》も、|廷丁《ていてい》の制 止も何の|利目《ききめ》もなく、傍聴席に溢れていた人々は、一斉にわあーと歓呼の声を上げたのだった。  裁判長も他ならぬ青山博士の言葉であるから、重大視して、陪席判事と合議の上、その日の公判 を打切り博士には速かに証拠を提出することを命じて、次回の公判期巳を宣して、閉廷したのだっ た。  青山博士はいつも弁論と後に見せる得意の色を少しも見せなかった。反対に苦悩の色を眉のあた りにアリアリと見せながら、重い足どりで退廷した。 第三の事件  第二の事件から一月半ばかりの後、法学博士青山周吉氏は次回公判に先立って、四月二十日の朝、 市内|角筈《つのはず》の新宿アパートの一室で、変死を遂げたのだった。私はこうして筆を執りながらも、恩師 の|非業《ひごう》の死の事を考えると、新たに涙が湧くのを覚える。  その朝、五時頃新宿アパートの門番のおかみは、ふと眼を覚ますと、何となく変な臭いが鼻を衝 くので、すぐ跳ね起きて部屋の外に出ると、臭気は、どうやら二階から洩れて来るらしく思われた。 彼女は漸くそれがガスの臭いで、二階の十三号室の中で洩れているのを突き留めた。そこで早速亭 主を起した。門番は驚いて十三号室の扉を叩いたが、中からは何の答えもない。扉は内側からしっ かり鍵がかかっている。そこで彼は何事かと怪しみながら、起きて来た止宿人の力を借りて、扉を 叩き破って中に這入ると、ガスの栓からシュウシュウとガスが洩れていて、寝台の上には一人の紳 士風の男が洋服のまま横たわって、虫の息で今にも絶え入りそうになっていた。  門番は急いでガスの栓を閉めて、窓を開け放した。  その間におかみは寝台の上の男を覗き込んだが、忽ち|頓狂《とんきよう》な声を上げた。 「アッ、こ、この人は知らない人だ。松沢さんじゃないッ」 「なにを馬鹿あ云うない」  門番は女房を叱りながら、覗き込んだが、 「ど、どうも可怪しいや。こいつあ人違えだ」  と、同じような頓狂な声を上げた。  松沢某が借りているアパートの一室で気息|奄《えんえん》々としていた紳士が、刑事弁護人として、当代を圧 する盛名ある青山博士と判明したのは、それから二時間ばかり後だった。博士は|直《すぐ》に駆けつけた医 一師に、不明瞭ではあるが「|儂《わし》が悪かったのだ」と云ったような三言を洩らして、息が絶えて終った。  青山博士が家人も友人も、全然そんな所に知合のある事を聞いた事のな㌧アパートの一室で、 奇怪な死を遂げていたと云う報道は、平素博士と親交のあるものは無論、.名を聞いている人達をど んなにか驚かしたか、計り知れなかった。  警察当局によって、|直《ただち》に前夜来の博士の行動が調べられた。前夜は築地の料亭銀水で、博士の友 人某判事が地方へ栄転するについて送別会があった。そこで酒豪の博士はしたたかに飲んだ。そう して十一時頃、友人達がしきりに自動車で送らせようと云うのを振切って、銀座を散歩するのだと 云って、よろよろする|足許《あしもと》で、ただ.一人で歩いて行った。それから間もなく博士はカフェ・スザン ナに現われた。そこで三十分ばかり飲むと、フラリと立ち上って、それから裏通りのバーに出かけ たらしい。博士の銀座に於ける消息は之で絶えている。  さて、新宿アパートの方であるが、その夜一時過ぎ、門番はひどく酔ったらしい男を、一人の男 がしきりに介抱しながら、二階に上って行く物音を、|夢現《むげん》の境で聞いた。無論そうした事は|在勝《ありがち》な 事なので、別に大しで気に留めなかうた。それから間もなく、一人だけ二階から降りて来て、外へ 出て行った。この事実は一階の止宿人の一人が、よく知っていた。何でもその外へ出て行った男は 佐渡おけさを大きな声で歌っていたと云う事で、二人連で二階へ上ってから、一人だけ降りて来る までの間は、せいぜい十分足らずであると云う証言だった。  その夜はこれ以外に深夜人の出入した事実はなかったから、この時に青山博士を連れ込んだのに 相違ない。即ち何者かが泥酔している博士をアパートに連れ込んで、十三号室に寝かせ、彼自身は すぐそこを立ち去ったらしいのだ。`その男の云うのは、恐らく十三号室の止宿人松沢某であろうと 考えられるのだ。  十三号室の右隣は空室になっていて、左隣には止宿人がいたが、彼は或る学校の教員で、最近ひ どい神経衰弱に悩んでいる為、その夜は十二時少し前に、強度の催眠剤を呑んで、間もなく眠りに 落ちたらしく、一時頃の出来事も暁方の出来事も、少しも知らないで、みんなに呼び覚まされるま で寝込んでいたと申し立てた。彼の申し立は十分信ずるに足るものだった。彼によると、十二時少 し過ぎまでは、何事も起らなかった事が確かである。  博士の屍体は解剖に附せられた。その結果ガス中毒死に相違ない事が決定した。尚ガスはどう云 う状態で洩れていたかと云うと、ガス・ストーブに連結されるべき|螺旋管《らせんかん》が、ガスの栓から抜き放 されてガスは柱にとりづけた栓から直接洩れていた。螺旋管は栓から一尺余も放れた所に転がって いた。一方の口はストーブにしっかり連結していた。ストーブの栓はやはり開け放しになっていた。 然し、ストーブの位置には少しも狂いはなかった。  さて、博士の死は、他殺か自殺か、それとも過失死か。この判別は非常に当局者の頭を悩ました ものだった。  ちょっと考えると、青山博士とも云われる人が、家人の証言によって又門番の証言によっても、 今までに全然出入りした事のないアパートの一室で、変死を遂げていたと云う事は、他殺以外には あり得ないようである。然し、深い考察を払うと、却って他殺を否定する事実が多いのだ。  先ず第一に扉が内側から鍵が掛けられていたこと。之は扉を破った門番|外《ほか》二三人の証言によるの であるが、更に門番の証言によると、窓も内側から締りがあったと云うから、扉の鍵はどうしても 博士が掛けたものとしか考えられないのだ。そうすると、博士は彼を連れ込んだ男が立ち去るのを 待って、鍵を掛けたので、寝台へ横たえられるや否や、前後不覚に寝入ったものではない。|所謂《いわゆる》本 性|違《たが》わずで、多少正気があったものと認められる。従って、もし相手がガスを放出して部屋を出た としても、それに気づかないで、寝入って終うほどではなかったと考えられるのだ。  第二に、之は最も肝要な事であるが、ガス放出の時間が少くとも八、九時間と推定されることで ある。アパートでは毎夜八時に、ガスの使用量を読むことになっているので、その事が大いに幸い .したのだが、当夜は四月下旬にしてはやや冷えたが、ストーブを焚くほどではなかったので、他の 部屋ではストーブに使用した所は全然なく、又炊事に使用した所もなかった。朝は事件が発見され た時間が早かったから、無論どの部屋でもガスを使用していなかった。事件発見後直にメートルの 栓を閉めたから、その時の読みと前夜八時の読みとの差が、十三号室に放出したガスの量になるの である。念の為に他に|漏洩《ろうえい》箇所はないかと調べたが、そんな所は全然なかった。  今述べたガスの量から、専門家の計算によると、十三号室には少くとも八、九時間ガスが放出さ れていた事になるのである。事件が発見されて、メートルの栓が閉められた時間から|遡《さかのぼ》ると、十 三号室には遅くとも十時以後からガスは放出していた事になるのだ。  もし十時過ぎからガスが不燃焼のまま放出していたら、博士等の這入った時には、ガスが室内に 充満して、いかに泥酔していたとはいえ、鍵をかけるだけの正気のある博士が気づかないと云う事 はないであろう。殊に隣室の男は確かに十二時まで起きていたのだから、臭気に気づかない筈はた い。  それに加えて、五時頃博士が発見された時に、虫の息ながら未だ絶命していなかった点と、室外 へ臭気の洩れる時間が遅かった点から、実際のガス漏洩はずっと短い時間と推定されるのだ。即ち 八、九時間のガス放出中少くとも半分以上の時間は、ストーブに点火されて、燃焼して居ったもの と推定されるのだ。即ち博士等の這入った時には、現にストーブは赫々と燃えていたので、|螺旋管《らせんかん》 が抜き去られたのは、恐らく、夜中の二時頃、即ち博士が一人になってからの出来事と推定される のである。  以上の事実から他殺説は|寧《むし》ろ否定されるのだが、然らば自殺かと云うと、之は博士の性質、環境 その他どんな点から云っても、絶対にあり得ない事である。  そうなると、当然過失死と云う事になるが、又実際当時は専ら博士が過ってガス管を蹴飛ばして、 ガスロから抜けたのも知らないで、そのまま寝て了ったのであると云う説が勢いを占めて、1そ れには博士の死際の儂が悪かったと云う言葉が大きな理由に数えられたー⊥青山家から、そう云う 風に発表もされたが、専門家の云う所によると、螺旋管は十分しっかりガスロに|嵌《は》め込まれていた そうで、故意に蹴れば兎も角、過失でつまずいた位では、決して抜けるものではないと云う事だっ た。そればかりではなく、ガス・,ストーブは寝台からずっと|隔《へだた》った部屋の隅にあって、すぐその横 には大きな洋服箪笥が置かれていて、而もストーブとガスロとの距離は短いからいかに酔っていて も、足が螺旋管に近づく事はないと思われるし、よし近づいても、ストーブを蹴飛ばす事はあって も、ストーブに触れないで、螺旋管だけを蹴飛ばすと云う事は、先ず起り得ないのだ。前にも述べ た通り、ストーブの位置は少しも狂っていないのだから之によって、過失説は否定されていいのだ。  だが、自殺でもなし、他殺でもなし、過失死でもなく、又自然死でもない死があり得るだろうか。  さて、私はここで、博士の死は暫く謎のままとして、博士が瀕死の状態で発見された十三号室の 借主、松沢某について説明しなければならないと思う。  所が又、この松沢なる人間が実に奇妙な存在なのだ。彼は一見教養のありそうな青年紳士だそう だが、十三号室を借リ受けたのは、|僅《きんきん》々一ヵ|月《へ》ばかり以前の事で、彼は何事か著述をする為に、家 庭外の一室が必要なのだと云って、一週のうち一回乃至二回ずつ宿泊する予定だと云う事だった。 そうして、契約がすむと、間もなく賛沢な寝台や洋服箪笥・椅子・机などの家具を持ち込み、その 上に書籍をギッシリ詰めた本棚を二つまで据えて、|絨毯《じゆうたん》も華美な高価なものを敷いたりアパート の一室を忽ち堂々たる書斎兼寝室にして|終《しま》ったのだった。而も、彼が事件の日までに実際に宿泊し -たのは僅かに二、三日だった。  この松沢と云う男は、当局者が予期した通り、事件後すっかり消息を断って、アパートによりつ かなかった。判明している人相や、部屋に残してある品物や、又、移転当時品物を運んだ人間につ いて、当局者は必死に追究したが、この怪人物の行方は|杳《よう》として判らないのだった。  さて、ここで話は再び以前に戻るが、青山博士の死は、絶対に自殺であり得ない。又過失死とも 認められない1当時世間に発表せられた死の原因は過失になっていたがーとなると、勢い再び 他殺に還らざるを得ないのである。  そこで、ガス放出の時間が意外に長く、且つ、不燃焼のまま漏れ出したのは、博士が部屋の扉を 内側から|鎖《と》ざし、彼一人になってから始まったものと確実に推定されるにもかかわらず、|当《ノ》局者は 一応他殺と考えて、犯人を追究することとなった。それには勿論松沢某の奇怪な消失が大きな原因 で、彼は唯一の有力な手係りとして、行方を厳重に探索されたが、同時に青山博士が先般申し立て た、相川事件の真犯人云々の言葉によって、犯罪の発覚を恐れる真犯人が、或いは犯行に及んだの ではないかとも考えられた。それについて、博士が死際に洩らした、儂が悪かったと云う言葉は、 或いは博士が法廷で洩らした言葉を後悔したのではないかとも解釈された。  然し、誰一人として、博士の死が二,年余も以前に起った第一の事件に関係していようとは考える 人はなかったのである。 第四の事件  四月二十八日の夜半、故青山博士邸内に、時ならぬ非常報知のベルが轟き渡った。漸く初七日が                                  翁 済んだばかりで、涙に夜着を濡らして、しめやかな夢を結んでいた家人は、潰れるように胸を轟か して、跳ね起きた。  それは全く家人にとっては二重の驚きだった。家人は邸内に非常報知のベルが備え付けてある事 を全然知らなかったのだ。故博士はいつの間にか書斎兼寝室に非常報知のベルを設備して置いたの だ。故博士は家人に少しも知らさないで、すべての事を専断する習慣があって、殊に二階の書斎に は容易に家人を入れなかったので、家人がそう云う設備すら知らなかったのは、無理のない事であ った。  書斎に忍び込んだ賊にとっても、非常報知のベルは、やはり大きな驚きだったらしく、彼は一物 も取り得ないで逃走して終った。  越えて五月五日の夜、邸内の物置小屋に放火を企てたものがあった。この時も幸いに大事に至ら ないで、消し止める事が出来た。  重なる怪事に家人は|顧《ふる》え上った。その為に、博士の生前から恩顧を受けていた私は、当分の間邸 内に寝泊りすることになった。所轄署でも、この前後二回の怪事を、故博士の死に関係のあるもの と見込をつけて、|頗《すこぷ》る重大視して、特に二名の刑事を邸内に泊らせて、|徹宵《てつしよう》警戒させることにな った。  五月十日、正しくは十一日の午前一時頃、私は激しく揺り起された。  私はガバと跳ね起きた。不意の事だったので、暫くは胸が割れるほど心臓が轟いた。  私を起こしたのは、不寝番に当っていた吉田刑事だった。彼の顔には容易ならぬ緊張の色が浮ん でいた。  私は直ぐに壁にとりつけてあった非常報知器を見た。赤い豆電燈が盛んに明滅している。以前の ベルでは|徒《いたず》らに賊を逃がすだけであるから、私達は音のしない報知器に替えて、交る交る寝ずの番 を勤めて、壁の豆電球を睨んでいたのだ。  私は急に身体が引締るような気がした。大森刑事は私よりも早く起きて、ちゃんと身仕度をして いた。  私達三人は無言のまま、足音を忍ばして、書斎に向った。そうして、かねての手筈通り書斎を包 囲した。  そっと中を覗うと確かに人の気配がする。私は音のしないように扉を開けて、直ぐ内側にある電 気のスイッチを探つた。そうして、|将《まさ》にそれを|捻《ひね》ろうとする途端に、暗闇の中から、低く然し力の 籠った声がした。 「ああ、明るい電燈はつけないで下さい。こちらのをつけますから」  私はぎょっとして思わず手を引込めた。それと同時に、卓上の電燈がパッとついた。濃い緑のシ ェードを通して、蒼白い光が静かに部屋に拡がった。  二人の刑事も|呆気《あつけ》に取られたように、棒立ちになっていた。  卓上電燈の側には、スマートな合服を着て、鳥打帽子を被った|濾洒《しようしや》たる青年紳士が立っている のだった。彼はニコニコしながら云うのだ。 「お驚かししてすみませんでしたね。どなたか金庫の鍵を持って来て下さいませんか」  私達三人は獣っていた。実は急に言葉が出ないのだった。 「急ぐんですが、実はあなた方にお知らせしないで行く積りだったのですけれども、この金庫が馬 鹿に頑丈なんで、十分や二十分で開きそうもないんです。急いで下さいませんか。三十分しかない んですから」 「貴様は何者だッ」  私は漸くの事で怒鳴りつけた。 「大きな声を出さないで下さい。私は松沢と云うものです」 「なにッ、松沢! じゃ、貴様だな、先生をアパートに連れ込んだのは」  私は血相を変えて詰め寄った。思いがけなく眼前に故博士の殺害者を見たのだ。殺気立たずにい られようか。 「違います。青山博士は私の借りていたアパートの一室でなくなられました。私が連れ込んだとお 考えになるのは尤もですけれども、私じゃありません」 「黙れ、今更そんな云い抜けは聞かんぞ」 「お願いですから静かにして下さい。私は|態《わざわざ》々報知器に触れて、皆さんに来て頂いた上、堂々と松 沢と名乗る位ですから、嘘は云いません。博士を連れ込んだ人間は別人です」 「そんな事を誰が信ずると思うか」 「あなたは|秋篠《あきしの》さんですね、弁護士のl」 「そうだ。だが、そう馴々しく呼ぶのは止して呉れ」 「秋篠さんでしたら、三年ばかり以前の|佐治儀助《さじぎすけ》の事件をご存じでしょう」 「うむ、知っている。だが、そんな事は今は関係のない事だ」 「所が関係があるんです。あの事件で起訴されて無罪になった宮井玉治郎が、最近、死病にかかっ ているのです。彼は、青山博士が無罪を主張されたけれども、実は確かに自分が養父を|殺《や》ったのだ と死の床で白状したのです」 「それがどうしたと云うのだ。青山博士は玉治郎が犯行に全然関係がないと云われたのではないぞ。 有罪とするべき確証がないと云われたのだ。そんな事を以て故博士の名声に影響する事じゃない ぞ」 「私はそんな事を云ってるのじゃありません。所が最近の相川事件では、博士は真犯人を知ってい ると云われました」 「法廷の弁論は自由だ」 「私は議論をしているのではありません。実際問題です。あなたはこの部屋に金庫があるのをご存 じでしたか」  そう云われて私は初めて気がついた。私は故博士の生前にも度々この部屋に這入ったが、金庫が ある事は少しも知らなかった。今見ると、厳めしい書籍をギッシリ詰めた書棚が二つに割れてその 奥の壁に塗り込められた小型の金庫が黒く光っている。  松沢と名乗る怪漢は悠然とポケットから煙草を取り出して、火をつけた。 「私は苦心の末やっと発見したんですぜ。実は秘密金庫が、この部屋のどの辺にあるか見当をつけ ようと思って、新宿アパートの一室を借り受けたんです」  私には何の事だか直ぐには判らなかった。 「お判りにならない? あなたは新宿アパrトの十三号室をごらんになったでしょう。気がつきま せんでしたか。あの部屋はこの書斎兼寝室と似てはいませんでしたか」  私は故博士の変死を聞いて、|倉皇《そうこうヰ》として十三号室に駆けつけ、間もなく遺骸をここに運んだので、 混乱した頭でよく考えても見なかろたが、そう云われて見ると、あの部屋は確かにこの書斎を伽微 たらしめるものがあった。 「すっかりこの部屋を模倣して飾りつけたんです。博士がお酔いになった所を連れ込めば、錯覚を 起した博士が、ひょっと金庫を開けようとして、ヤの所在の暗示を与えやしないかと思ってー」 「それ見ろ。貴様はやつぱり嘘をついているのだ。博士を連れ込んだのは貴様じゃないか。語るに一 落ちるとはその事だ。うぬッ」 「まあ、待って下さい。所が世の中には恐ろしい奴がいるものです。私の計画を巧みに悪用した奴 があるのです。奴は泥酔している博士を十三号室に連れ込みました。目的は? 無論博士に錯覚を 起させる為です。第一には私が計画したのと同じく、博士に自身の書斎と思わせること、先ずそれ は成功でした。博士は全く自身の部屋と思い込んで、奴を送り出した後に、いつもするように部屋 を内側から鍵を掛けられました。奴は帰って行くぞと云う風に|態《わざ》と大きな声で歌を歌って行ったん です。所が、奴には未だ第二の恐ろしい計画があったのです。秋篠さん、故博士は頭脳明晰、法理 論については実に卓抜した方でしたが、他の俗事、例えば科学と云った方面はゼロではありません でしたかL  正にその通りだった。あれほど法律については勝れた頭脳の持主だったが、俗事にかけては、時 に低能ではないかと思われるような事があった。例えば電気ストーブのようなものについても幾度 説明しても、つけ方や消し方がよく呑み込めないのだった。火のついていないストーブに平気で当 っているような事は稀ではないのだ。  私がうなずくのを見て、松沢は再び喋り出した。 「私は先刻、アパートの私の部屋とこの書斎が|酷似《こくじ》していると云いましたが、そこにたった一つ著 しい差があったのです。それはこの部屋は電気ストーブで温められていますが、十三号室はガス. ストーブです。奴の眼をつけたのはそこです。奴は博士を連れ込む前から、ガス・ストーブをつけ て置きました。博士の這入った時には部屋はひどく暖かでした。博士一人になってから、余り暑い ので、|酔眼朦朧《すいがんもうろう》としながら、ガス・ストーブを消されたのです。然し、それを消すのに、電気スト ーブと同じ方法を取られたのです」 「アッ」  私は思わず叫んだ。あり得る。確かにあり得る。平生の博士でもガス・ストーブを電気ストープ と同じ方法で消しかねないのだ。|況《いわ》んや、したたか酔っていたのだから、そう云う錯覚は十分起し 得るのだ。 「ガス・ストーブを消すのに管を引抜いたのだから、ガスが洩れるのは当然の事です。錯誤を利用 した殺人です。博士はその錯誤に気づかれたのでしょう。死際の儂が悪かったと云う言葉はそれを, 示しています」 ,「うむ」 「奴は勿論相川氏毒殺の真犯人です。博士が金庫に収めていると云う証拠を恐れたのです。さあ鍵 .を下さい。金庫を開けましょう」  私は|恰《まる》で酒に酔わされたような気持だった。松沢の云うままに家人を起して一束の鍵を受取って 彼に渡した。  「この鍵が合うようです」  彼は金庫の鍵穴に鍵を当てたかと思うと、苦もなくそれを開いた。そうして、中の書類を暫く漁 っていたが、  「之でしょう」と云って、封筒に収めたものを差出した。  封筒の上書には相川氏毒殺事件証拠書類と書かれていた。  私はブルブル|顧《ふる》える手先で、-それを開いた。確かに故博士の手である。中には簡単に、    この金庫を襲うもの、及びこの書類を盗み出そうとするものは、相川氏毒殺犯人又はそれに   関係のあるものである。  と書かれていた。私はハッとしながら松沢を睨みつけた。  「うむ。やっぱり貴様が犯人だッ、貴様は自ら|係蹄《わな》に落ちたなッ」  所が、松沢はニッコリ笑った。  「|係蹄《わな》、そうです。係蹄です。|流石《さすが》の博士も相川氏毒殺事件には策の施しようがありませんでした。 止むを得ず法廷であんな事を云って、犯人が係蹄に落ちるのを待って届られたのです。書斎には非 常報知ベルを備えつけられたのもその為です。現に犯人は一、二度係蹄に落ちかけました」  「そうして三度目にとうとう本当に係蹄に落ちたのだ」 「未だ落ちません。秋篠さん、過誤を利用して、本人に自殺させる。形は自殺でも無論殺人罪でし 、よう」  「うむII本人を自白させるより途はない」 「そこなんです。恐るべき犯人は相川氏の毒殺にも、偶然を利用しています。彼は角砂糖の内部に 毒薬を詰め込んで、それをたった一つ、相川氏の居間備付の砂糖壼に投げ入れて置きました」 「うむ。だが、それではその砂糖を相川氏が|執《と》るか、夫人が執るか判らないl」 「奴にはどっちでもよかったのです。相川氏が執れば、夫人に疑いがかかる。夫人が執れば相川氏 に疑いがかかる。どっちにしても、二人に傷をつける事が出来ます」 「うむ。恐ろしい事だ」 「本人の自白なくして、之を罰せますか」 .「出来ない。駄目だ」 「本人が現に毒薬を所持していても」 「駄目だ。情況証拠にしかならない」 「本人が居間で砂糖壺を覗いている所を、女中に見られていたとしても」 「駄目だ、そんな事は何とでも云い抜けられる」 「ですから、死んだ博士も手のつけようがなかったのです。その為に権道を選んで、|好智《かんち》に|長《た》けた 犯人に再び偶然の過誤を悪用されて、博士自らの生命を断ったのです。ーオヤ、時間が来ました。 どうか静かにこの部屋を出て、見つからないように隠れていて下さい」  私達はこの不思議な人物に|恰《まる》で催眠術をかけられたように、云うままに部屋の外に出たのだった。  やがて、室内へは窓を越して、別の人物が這入って来たらしい。ヒソヒソ話が洩れ聞えた。 「旨く行ったよ。やはり博士は君の犯行をちゃんと知っていたらしい」 「えッ、君は書類を読んだのか」 「うん、だが|旨《トつま》い方法だね。角砂糖の中に毒薬を入れて、よく元通りに見せかけられたね」 「なに、人と云うものは、砂糖壼の角砂糖が少々欠けていたって、ちょっと位様子が変っていたっ てそう気のつくものじゃないさ」 「紅茶に完全に溶けるアルカロイドと云うのは何だい」 「それは  ちょッ、ここで詰らない事を聞くなよ。それより盗んだ書類を早く寄越せ。僕も之で 助かったが、君もたんまり礼が貰えると云う訳だぜ」  私達三人は脱兎のように部屋に|闘入《ちんにゅう》した。  そうして折重なって、相川氏毒殺犯人を押えつけた。彼は市野久助だった。 市野は相川氏毒殺と、青山博士殺害で起訴された。然し、私は危んでいる。もし彼が自白を翻し て私達が盗み聴いた言葉を、単なる|出鱈目《でたらめ》と云い切れば、いつかの宮井玉治郎のように無罪になり はしないかと恐れる。 私達をして、相川事件と青山博士の死の真相を了解せしめ、且つ憎むべき犯人市野の口を割らし めた奇妙なる人物松沢は、私達が市野に折重なっているうちに素早く逃亡して終った。  私は元より彼が単に市野を捕縛させるだけの目的で、書斎に忍び込んだのでない事は信じていた が、後数日にして、彼から手紙が来るに及んで苦笑せざるを得なかった。 「1宮井が病床で犯行を自白すると共に、かつて盗んだ宝石の行方について、それが青山博士に 関係しているような事を云いましたので、私はつい博士の書斎の金庫-そんなもののある事は、 先日の法廷のお言葉で初めて知ったのですーに眼をつけたのです。あの夜、前に自ら試みて二回. まで失敗した市野が頼んだのでーお断りして置きますが、市野とはふとした事から以前から知合 でした。彼が私のアパートを悪用出来たのもその為ですll書斎に忍び込みましたが、彼は私が書 類を持って逃げるのを恐れて表で見張り、三十分後には書斎に這入って来る事になっていましたの で、ついあなた方を呼んで、鍵を貸して頂く必要に迫られたのです。例の書類を探すふりをして素 早く金庫の中をすっかり調べましたが、宮井の盗んだ宝石に関係す蒼ようなものは全然ありません でした。今更ながら高潔な博士をお疑いしたのを恥じています。因業で鳴った佐治儀助の溜め込ん だ宝石なら、どんな方法で取ってもいいと考えたのですが、その為博士を殺すに至ったのは申訳な い事です。尤も市野は何等かの方法で博士をないものにはしたでしょう。然しせめて市野の犯行を |発《あぱ》いたのが罪亡ぽしです。市野からは莫大な礼を貰う約束だったのを、棒に振ったのですから、そ の点認めて下さい。尤も奴は私のアパートを悪用して、危く私に恐ろしい嫌疑をかけようとしたの ですから、その復讐ででもあるのです。尚、玉治郎はとうとう死にま↓た。何かの役に立つかと思 って、彼の自白書を取って置きました。別便でお送りしましたI」  松沢某も中々どうして市野に劣らない好智に長けた奴である。が、そんな事は兎も角として私は この四つの事件を通じて犯罪、殊に殺人に於て、証拠と自白との微妙な関係について、しみじみと 考えさせられたのである。