悪戯 甲賀三郎 ---------------------  五四歩と突いたのが私の致命的の失策でした。ほんとうに文字どおり致命的だったのです。彼 はしばらく考えた後、五五桂を打ちました。私はハッと思いましたがもう遅かったのです。私は じっと盤を眺めました。眼のふちが熱くなって盤面中の駒がボーッと一つに見えます。彼の得意 そうな顔が私の見えない網膜にありありとうつります。今日の将棋はよせばよかったと後悔の念 がひしひしと胸を攻めました。  私と彼とは中学時代からの同窓で、ごく親しい間柄でしたが、お互いに会えば挨拶よりも先に 悪口が出るというふうで、彼は痩せぽちで私は肥っているという違いはありましたが、いずれも 剛情な、そうして多分に神経質を持ち合わせているという点では|優《まさ》り劣りがないので、相手に軽 蔑されたくないという考えから、しらずしらずの間に、二人の中には激しい競争意識が燃えてい るのでした。ことにこの将棋というやつは、明白に勝負のつくものですから私達二人はお互いに 相手を一言もないように負かして、相手のくやしそうな顔を眺めて、痛快な優越感を味わおうと いう気で一杯だったのです。  私達は数年前にほとんど同時に将棋を習い始めました。そうしてお互いに、余人はとにかくあ いつだけには負けたくないという考えで、一生懸命に稽古したのです。二人の天分が同じぐらい だったのか、それとも悪魔の呪いか、不幸にも私達は同じように上達していったのでした。とき に勝ち誇ったこともあり、ときに負け込んで泣き出したいようなこともありましたが、要するに どっちか一方が徹底的に他方を負かすというだけの力量の差がつかなかったのです。何年たって も二人はたいまで掴み合いをしていたのでした。  初冬にも似合わない|小春日和《こはるびより》の午後でした。私は家内と子供を遊びに出して、珍しく机に向か いながら、たまった翻訳の仕事の整理をしていました。ところヘブラリと彼が訪ねて来たのでし た。しばらく雑談をしているうちに、将棋が始まったのです。  この将棋は初めから危険でした。なぜなら二人は最近ふとしたことから、感情を害し合ってい るのでした。お互いに第三者に対して、ずいぶん口汚く|罵《ののし》り合いました。彼がこうして今日ヒョ ッコリ訪ねて来たのは、あるいはそのことを了解し合おうと思って来たのかもしれません。しか し、私達は意地にも自分から先に切り出そうとはしません。そのことに触れないうちに、将棋に なってしまったのです。  それは息詰るような手合わせでした。われわれの対戦を見馴れている人が見たら、きっと不思 議に思ったに相違ありません。なぜなら私達の対戦はうるさいほどお互いに悪口雑言をかわしな がら、相手の顔色を|覗《うかが》い覗い駒を運ばせるのがつねでしたが、この日はお互いに全く無言で、盤 面を睨めたきり,持駒さえ聞き合おうとはしないのです。正にわれわれの身辺からは一条の殺気 がほとばしり出ていたに違いありません。  彼一手、われ一手、中盤まで二人の駒組はなんの手落ちもなく、美事に進んで行きました。私 は今でもありありと覚えていますが、ここまでの将棋は高段名手に見せても恥ずかしくないと思 っています。それほど私達は真剣だったのです。  私は敵の|櫓囲《やぐらがこ》いの玉が三一にいて、二二に入っていないのに乗じて、激しく端と二筋から攻め 立て、二五桂と飛んで、銀柱の替わりをし、ついで、二四歩、同歩、同角、同金、同飛と、角と 切って、金銀を手にして、やや優勢に見えました。このときです。私は勢いに乗じて五五の歩を 五四と突いたのです。ところがすかさず、敵から五五桂と打たれて、六七の金に当てられたので す。私は五四歩を敵が同歩と取れば、五三歩と打って、五二に成り込むし、このままおけばたち まち五三へ成りますから、勝利疑いなしと軽率にも指したのですが、なんということでしょう。 五五桂と六七の金に当てられると、八筋の敵の飛車は通っているし敵角が四九に成り込んでいま すから、私の方はたちまち危険に|瀕《ひん》したのです。  私は苦しい胸の中を一生懸命に落ち着けて、受け手を考えました。が、考えれば考えるほど、 私の負けは明らかなのです。私はくやしさが一杯で、後にはただ盤面を睨んでいるばかり。頭は 空虚になってしまいました。碁や将棋をやられた方は誰でも経験のあることでしょうが、対手が 妙手を指したためとか、または自分が考えた末指した手が思いどおりゆかなかったとかいう場合 は、くやしいにはくやしくても、まだ諦めがつきますが、どうにち思い切れないのは、誰でも気 のつくようなつまらない見損じで、優勢な場面がガラリと引っくり返ったときです。しかも敵が 無慈悲にもその見損じに乗じて、とくとくとしているときた日には、どうにも辛抱のなるもので はありません。  今の場合がまさにそのとおりなのです。  私は軽率な一手によって、攻防たちまち場を替えたのです。私はじっと盤面を眺めたまま、顔 を上げることが出来ません。もし顔を上げれば私は彼の冷笑を鼻に浮かべた勝ち誇った顔を見な ければならないのです。しかし、後で考えてみると、私は思い切って顔を上げたほうがよかった かもしれません。私のおそらく真っ青な、そうして殺気にみちた顔を見れば、彼はあわてて冷笑 を引っ込めて、面を伏せたことでありましょう。そうすればこれから先の悲劇は起こらなかった かもしれないのです。が、そのときは、私は顔を上げるどころでなく、激しくなる息遣いを押え て、ブルブル震える拳を握りしめ、それでも相手に心の動揺を悟られぬように、必死の努力をし ていたのです。  そのときに彼は眩くように言いました。 「フフン。下手の考えは休むに似たりか」  この言葉が致命的な第二でありました。  私は前後の考えもなく猛然と彼に飛びかかりました。私は体格では彼が私の足許にも及ばぬ弱 敵であることを考慮に入れるのを忘れたのでした。気のついたときには彼は私の下敷になって、 私の右の手でしっかと喉を押えられて動かなくなっていました。私は静かに立ち上がって、醜く 横たわっている彼の姿を、ちょっと痛快な感じで眺めました。しかしそれはほんの束の間、私は たちまち打ちのめされた人のように、ガックリ坐り込んで、机の上ヘパラリと今圭で左の手で握 っていた汗ばんだ手駒の金と銀を投げ出しました。これからはしばらく魂の抜けた人のようにボ ンヤリしていました。暮れやすい冬の日はもう薄暗くなっていました。  それからどのくらいたちましたか、日はもうトップリ暮れていました。ふとかたわらに横たわ っている死骸を見たときに私は妻子が帰らないうちにどこかへ隠さねばならないと決心したので す。  幸いなことには小さい家ではありますが、郊外の一軒家みたいな所だけに、庭は充分あります し、そこに生い茂っている立木の落葉を棄てるために、一隅に大きな穴が掘ってあったのです。 この穴はもう落葉もだいぶ片付いたし、子供が落ちてけがでもすると困るから埋めてくれと、前々 から家内に頼まれていたのでしたから、今日埋めてしまったといって、家内が不審に思うことは ないはずなのです。  私は冷たい死体を抱き上げて庭に下りました。穴の中の落葉を掻き分けて死体を入れ、上から 充分に落葉をかぶせて、穴の廻りに小高く積まれた土を砕き入れました。一鍬ごとにバラバラと 落葉の上に土塊が重なってゆきます。闇の中に鍬を握った手首が白く浮かび出て、まるで手だけ が自分から離れて動いているように感じられました。ようやく、それでも無事に埋め終わりまし た。  埋め終わると私はぞっとしました。泥のついた鍬を手近の縁の下へほうり込んで、家の中へ駆 け上がりました。それでもそこいらを片付けて手がかりをなくすることは忘れませんでした。ぽ つねんと妻子の帰るのを待っていました。この夜の電燈は、今私の坐っている独房の電燈の光よ りも、どのくらい暗いと感じたかわかりません。  やがて妻子が帰って参りました。私は頭痛がするからといって、すぐ床をとらせて寝ましたが、 少しも|怪《あや》しんでいる様子はありませんでした。  その夜はそれでも異常な精神的打撃を受けたためか、かえってよく寝ましたが、翌日からはお ちおち眠れぬようになりました。自責、悔恨、恐怖の念が|交《こもごも》々湧いて出ます。昼間は見まいとし ても、庭の隅に眼が釘づけされるのです。夜は恐ろしい夢にうなされます。イライラと怒りやす くなり、食欲がへりいちじるしく憂欝になりました。妻はいつもの神経衰弱が昂じたのだと思っ ておろおろしていました。しかし幸いなことには誰も私の大罪を犯したことを悟る者はありませ んでした。そうして二、三日は無事に過ぎたのです。一度彼の留守宅から問い合わせに来ました が、私は何も知らないふりをして帰したのでした。毎朝、私は新聞の隅から隅まで熱心に眼をと おしましたが気になるような記事は少しもありませんでした。  四日目の昼でした。もう一人の将棋友達が訪ねて参りまして一向私の変わった様子に気付かぬ ふうで、挑戦いたしました。この友達は私より少し弱く、競争意識もさして強くない、ふだんな ら最も指しやすい一人なのですが、どうしても今の私が将棋を指す気になれましょう。しかし、 私の将棋好きを知り抜いている彼ですから、断わりでもして、怪しまれてはならぬとことさら平 気を装って、将棋盤を持ち出して彼の前へ据えました。彼は早速駒をバラリと箱から出して手早 く並べました。私もだんだんと駒を並べてゆくうちに、どうしたことか角と歩が足りないことに 気がつきました。  私はハッと顔色を変えたのです。  角と歩、角と歩、それはあの日の彼の手駒ではあり圭せんか。二=つ思うと、私はフラフラと立 ち上がりました。それから何をしたか少しも覚えていません。気がつくと、床の中に寝かされて、 額に氷を当てていました。そばには妻が心配そうに坐っていました。聞くと、私は駒が足りない、 駒が足りないと弱々しい声で眩きながら、いったん縁側まで出て、それからフラフラと茶の間に 入り、そのまま倒れてしまったのだそうです。友達は無論そこそこにして帰って行ったのです。  その夜です。私は妻子の寝息を|覗《うカカ》いながらそっと起き|出《し》でました。私はいろいろに考えました が、駒はどうしても彼が握っていたに違いない。ふだんから|喧《やかま》しくいって子供にもいじらせない ようにしている大切な駒が、故なくなくなったのではすまぬ、駒を取り返しておかなければ、第 一妻から疑われると思ったのです。妻は昼間の疲れと、私の思ったより回復した安心とで、グッ タリと寝込んでいました。  音のしないように雨戸を一枚繰ると、空は一面の星です。地面には雪かと見まがうばかりに霜 が降りていました。  寒さでガタガタ震える歯を喰いしばって、縁の下にほうり込んであった鍬を抱えて、一生懸命 に下腹に力を入れて、庭の隅に行きました。闇にもちょっと|堆高《うずたか》くなっている所はどうやらわか ります。私は腕を捲り上げて、ハッシと鍬を打ち下ろしました。ズシンと鈍い低い音が地の底か ら来る坤き声のように響きます。木立の闇の中から何者とも知れない恐ろしいものが、こっちを 見つめています。後ろからも何か襲って来るようです。私は夢中で鍬を振り廻しました。  私はギョッと立ち|疎《すく》みました。  着物の端らしいものが、穴の中から闇に馴れた眼に映ったのです。私はあわてて眼をそらそう としましたが、悪夢を見たときのように首が|微塵《みじん》も動きもしないのです。言い表わすことの出来 ない不快な悪感、総身から絞り出る冷たい汗、眼には闇の中から睨んでいる死人のものすごい形 相が幻のようにチラツキます。私は|渾身《こんしん》の勇を|奮《ふる》って、恐怖を払い落として、鍬を棄てると、両 手で落葉を掻き分けました。  手探りで、どうやら死人の手らしきものに触れると、私は思わず手を引っ込めました。氷のよ うに冷たい、それでいてジメジメといおうか、ヌラヌラといおうか、一種異様な手触り、一秒だ って触れていることは出来ません。  私は逃げ出そうとしました。しかし頭の中で悪魔が証拠をどうすると囁きます。  証拠! ああ悪魔よ! 私は人を殺したのだ。そうして証拠を残したのだ。どうしても奪い返 さねばならぬ。いつか私は悪魔の心になって死人の指を開きました。  どっちの手やらよく分かりませんが、とにかく、最初の手には駒がありませんでした。もう一 つの手を必死の力を奮って開けますと、どうでしょう、何もありません。あわてて最初の手を探 りましたが、矢張りありません。私は荘然としました。それから大急ぎで死骸に土をかぶせて元 通りにいたしました。|手洗鉢《ちようずぱち》で手をざっと洗うと、墓場から脱けて来た人のように居間ヘフラフ ラと入りました。このとき妻はちょっと眼を見開きました。私の姿が眼に入ると妻はたちまち起 き上がりました。 「ご気分はP」  こう彼女は聞きました。 「なんともない、もう治ったよ。便所へ行っていたんだ」  こう私が答えますと、妻は安心したらしく、ガックリと寝てしまいました。私は床に潜り込ん で、寝ようとしましたが、どうにも寝つけません。両手に異様な臭いがしみ込んで、鼻について ならないのです。強いて落ち着いて、駒のことを考えようと思いましたが、頭脳がズキンズキン と痛んで何事も考えることが出来ません。今考えると、私はこの一夜の仕事で、全生涯の精力を 費やし尽くしてしまったに相違ありません。よく一晩の中に髪の毛が白くならなかったと思いま す。  翌朝眼をさましたのはもう昼近くでした。身体が綿のように疲れて、少し熱があるようでした が、私は将棋のことが気にかかるので、無理に起き上がりました。食事をすますと、すぐに盤を 出して、並べてみましたが、不思議、駒はちゃんとあるのです。どう考えてみても、わけがわか りません。  第一に心配になったのは、昨日の友人のことです。私の怪しい行動を、彼はどこで話すかも分 からない。もう現在どこかで話しているかもしれない。そうすれば何かの拍子で刑事の耳に入る かもしれない。こう考えると私は居ても立ってもたまりません。私はどうしても彼に機嫌のよい 顔を見せて、昨日のことを笑い話にしてしまわなければなりません。私はすぐに妻に彼の勤め先 へ電話をかけさせて、昨日は失礼しました、今巳は気分も治りましたから、帰りがけに是非お立 寄りくださいと言わせました。  夕方彼の元気のよい声が玄関に聞こえました。私はすぐにいそいそと彼を出迎え、つとめて快 活に話しかけて、座敷に招じると、昨日の失礼を詫びまして、あまり将棋にこったので、頭が変 になったんだろうと、果ては二人で高声に笑いました。それから一番というので、盤が二人の間 に置かれました。  だんだん駒が並べられてゆくうちに、私は恐ろしい予感に襲われました。そして、ああ、事実 は予想どおりだったのです。私は化石した身体で、空虚な眼で盤面を見入りました。  駒が、駒が足りないのです。またしても角と歩が。  友達が君、君と呼びかけたように思います。私はハッと気がつくと、膝の前、盤の下の前後左 右を探し廻しました。しかしないのです。私は盤の上につっ伏しました。やがてゲラゲラと笑い 出しました。  それから私は夢中ですっかり私のしたことを話してしまいました。  私の顔は青かったでしょう。きっと死人のように青かったでしょう。けれども、私の話を聞き 終わった友人の顔も、血の気のない真っ青な顔でした。彼はとぎれとぎれに言いました。 「君、すまない。許してくれたまえ。君にそんな恐ろしい秘密があろうとは思わなかった。じつ は昨日君がフラフラと立ち上がったときに、盤の下に角と歩とが落ちていたのだ。君はそれを探 そうともせず、夢遊病者のように駒が足りないと言いながら居間のほうへ行って倒れてしまった のだ。今日はまた呼ばれて来ると、君の態度がそわそわしておかしい。僕はほんのちょっとした 悪戯気分から、駒を並べながら、手早く角と歩とを隠したのだ。それが君にそれほどの打撃をあ たえるとは思わなかったのだ」  そう言って彼は左の手に握っていた二つの駒を、盤の上に投げ出しました。  このとき私はなぜか決して彼を憎みませんでした。彼に秘密を話したことも少しも後悔しませ んでした。それよりも、かぶっていたものを脱いだように、頭がすっと軽くなって、せいせいし た気分になりました。次の間に妻の忍び泣く声が、洩れ聞こえましたけれども、私は悲しいより も、処刑を受けた後の妻子のことを、静かに考えておりました。