青服の男 甲賀三郎 青空文庫で公開されました。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000260/card1433.html 奇怪な死人  別荘1といっても、|二昔《ふたむかし》も|以前《まえ》に建てられて、近頃では余り人が住んだらしくない 古めか しい家の中から、一人の百姓女が|毬《まり》のように飛出して来た。 「た、大へんだア、旦那さまがオッ|死《ち》んでるだア」  |之《これ》が夏なら街路にはもう人の|往来《ゆきム》もあろうし、こんな叫び声が聞えたら、あすこ、こ・の別荘 から麓ザ多勢の人が飛んで来ようが、今は季節外れの十二月で、斑にこの別荘地帯は華ケ耀でも 早く開けた方で、古び九家が広々と庭を取って、ポツソくと並んでいる上に、どれも之も揃っ て空家と来ているので・誰一人応ずる者はな㌧百姓女の叫び声は、纏ぢにシーソとした朝の空 気に|反響《こだま》するばかりである。 「た、大へんだア、お、|小浜《おぱま》の旦那がオッ|死《ち》んでるだア」  百姓女が駈け出しながら、二度目にこう叫んだ時に、向うの垣根の端にひょっこり百姓男が現 われた。 「お|徳《とく》でねえか。ど、どうしただア」 「ハさア」|百《はち》姓女はホッとしたように息をついて、「お、小浜の旦那が死んでるだアよ」 「ハテね」  ハと呼ばれた百姓男はキョトソとして、 「小浜の旦那はもう大分前にオッ死んだでねえか」 「違うだよ」お徳はもどかしそうに手を振って、 「死んだ旦那の|跡取《あととり》の人だアよ」 「ふむ、甥っ子だが、あんでもそんな人が跡さ|継《つ》いだと聞いたっけが、跡取ってから一度もこの 別荘さ来た事がねえだ。どんな人だか、誰知るものもねえだが」 「その人がね、昨日の朝見えたゴよ」 「不意にかよ」 「ウソニャ、前触れがあってね、掃除さしといて|呉《く》れちゅうから|俺《おら》、ちゃんとしといたゞ」 「一人で来たのかよ」 「ウソ、顔の|蒼白《あえ》え若え人でな。年の頃はやっと三十位だんべい。ちょっくら様子のい>人だア よ」 「それでお前、オッ|惚《ぼ》れたちゅうのかい」 「このMは。馬鹿吐くでねえ。健の年でハア、惚れるのなんのちゅう事があるもソけえ」 「ハ\・、怒るでねえ。それからどうしたゴね」 「昼間は家ソ中や庭さ歩き廻って、何するでなしにソワくしてたっけが、夕方になって、健頼 まれた通り夕飯さ|持《こしら》えて持って行くと、どこにもいねえだ」 719 青服の男 「いねえーどうしたゾね」 「分らねえだよ。粛に角、どの嵐え探してもいねえだ。どこかへ行っちまったゴよ」 「だけども、|可笑《おか》しいでねえか。飯さ頼んで置いてよ」 「俺も可笑しいと思ったゴが、いねえものはいねえさ。断りなしに|帰《けえ》るとは変な人だと、ちっと ばかり腹さ立ったゾよ。だけどよ、不用心だと思って、締りさちゃんとして引上げたゾ。所がハ さア。今ソまの先、別荘の前さ通ると、裏口が開いてるでねえかよ。健不審に思って庭さ蒼〃っ て見ると、雨戸が一枚こじ開けてあるだ。|俺《おら》、大きな声で呼ばったゞ。何の返辞もねえだ。|恐《こわぐ》々 中さ|這入《へえ》って見ると旦那さアが書斎の籐椅子に腰さ掛けて眠っているでねえか。あれまア、こん な所で轍鳳さして・風邪引くでねえかと脇さ寄ると、健もう少しで腰さ抜かす所だったゞ。旦那 さアは眠ったようにオッ|死《ち》んでるだア」 「そいつは事だ㌔すぐにお医者さア呼ばらなくちゃならねえだ。健、町まで'と赴りして央べ い」 、 「ハざア、頼むからそうして下せえ。健、この辺で待ってるだ。燵、一人であの家へ行くのは、 おっかなくて、とても出来ねえだよ」  お徳は今更のように身頭いしながらいった。 僕は生きてる 「之アどうする事も出来ない。すっかり|緯切《ことき》れている」  ハ太郎の急報で飛んで来た町の寺本医師は死体を一眼見ていった。  それから眼を引っくり返して見たり、聴診器を当てたり、綿密に調べてから、 「狭心症だ。若いのに可哀想に1大分|以前《まえ》から心臓が悪かったらしいな」 「昨日初めて合いましたゴが」お徳はいった。 「蒼い顔さしていましたゴ。だが、こんな事になるなんて、夢にも考えましねえだったゴ」 「兎に角、遣族の人に知らせなくちゃならんが、宿所はどこかな」 「二三日前に手紙さ貰いましたゴから、それに書かっているべい」  一旦家に帰ったお徳は手紙を持ってやって来た、寺本医師はそれを取上げて、 「東京市淀橋区柏木緑荘アパート小浜信造。ハ・ア、アパートなんかにおる所を見ると、|未《ま》だ独 り者らしいな。|仮令《たとえ》自分の持家にもせよ、締りを破って|這入《はい》って、たった一人で死んでるという 事になると、一応駐在所に知らせた方がい》な」  寺本医師の指図でお徳は駐在所へ走って、長井巡査を呼んで来た。 「ふ》ん」お徳から仔細を聞いて長井巡査はひどく感嘆しながら、「≡二日|以前《まえ》に、昨日来ると いう手紙を寄越して、お前さんがちゃんと掃除して待ってると、約束通りやって来たんだね。そ して昼のうちはブラくしていて、夕方お前さんが頼まれた通り飯を運んで行くと、どこへ行っ たのかおらなかったんだね。そしで、いつ帰ったか戸締りを破って這入って、籐椅子に|任几《もた》れた ま>狭心症で死んでいたーふうん」ともう一度感嘆して、「よし直ぐ行く」  避耽鷹が駆けつけた長井巡査は寺本医師を見ると、丁寧に礼をして、 「先生、病死に違いありませんかね」 「狭心症に間違いありませんよ」 「いつ頃ですかなア、死んだのは」 「さようさ。今の様子が死後十時間|乃至《ないし》十四、五時間という所ですから、死んだのは|昨夕《ゆうべ》のハ時 から十二時の間でしょうか」 「八時から十二時」と巡査は手帳につけながら、「その間にこ》へ帰って来た訳ですなア」 「帰ってすぐ死んだとするとその通りですな」 「なるほど」と、手帳を訂正しながら、「帰って来たのはその|以前《まえ》かも知れませんなア。然し、 帰って来たのが十二時以後という事はあり得ない訳ですか」 「まアそういう事です」 「他殺でもなく、又変死でもなく、|只《たゴ》の病死だとすると、問題はない訳ですが、念の為に署の方 へ報告して置きましょう」  長井巡査は手帳を閉じてポケヅトに入れると、さっさと歩いて行った。  寺本医師も帰り支度をしながら、お徳に、 「この人は伯父さんから別荘を譲られてから、昨日初めてこ》へ来たんだね」 「そうでごぜえますだ。獄の旦那がなくなられますと、すぐ手紙が饗りまして、働はなくなった 人の甥っ子だが、別荘さ譲り受ける事にたったゞから、|前《めえく》々通り管理していてくんろっていって 来ましたゞ。それからハア、もう二年にもなりますだが、来たのは昨日さ初めてゴごぜえます だ」 「初めて別荘に来て、すぐ死ぬとは気の毒な人だねえ」 「全くでごぜえますだ」  お徳がそういって相槌を打った時に、お徳の亭主の|竹谷義作《たけやぎさく》が|紙片《かみきれ》のようなものを手にして、 頭をふりくやって来た。何とも訳が分らぬという顔つきだった。彼はお徳を見ると叫んだ。 「オイ、お徳よ。|俺《おら》ア、丸で狐に|撮《つま》まれたようだよ」                                 ゆ  そういって手にした紙片を出したが、それは電報だった。 「どうしたゴかよ」  お徳は何か恐いものでも取るように、オズくと電報を受取ったが、すぐ大きな声を出した。 「ひゃア、こ、これは、あんちゅう事だ」  寺本医師が電報を覗き込むと、   ナニノマチガイカ オバマシソゾウハイキテイル ヨクシラベコウ 「うむ」寺本医師は|捻《うな》った。「じゃ、この死んでいる男は小浜信造じゃないのだな。|之《これ》アいよい よ警察の仕事になって来たわい」 |鳶《とび》色の洋服 所轄警察署から小浜信造宛に、  スグオイデコウ  という電報が打たれた。  午後二時過ぎ小浜信造はやって来た。色の蒼白い三十そこくの翼紮な青年だった。  一旦警察署に出頭した信造は、司法主任以下に連れられて、現場の別荘に着いたが、お徳は信 造を見ると、卒倒するほど驚きながら叫んだ。 「あれまア、旦那さま」 「あ、、お徳さん」信造は|馴《なれく》々しくいった《 》|。 「昨日はどうも失敬したよ。夕方に急に思い出した事があったので、黙って東京へ帰って|終《しま》って ー」  司法主任の働雇警部は信造に向って、意外という風に、 「じゃ、あなたは昨日こ》へいらしたのですね」 「え>」今度は信造の方で不審そうに、「お徳さんからお聞きにならなかったのですか」 「聞きました。然し、その人間が死んだ人間と同じ人間だと思っていましたのでー」 「御冗談です。僕は死にやしません。こうやって生きてますよ」 「ふむ」淀郁の警部も狐に齪まれたような顔をしながら・「兎に角屍体召見て下さい」  信造は屍体を一眼見ると叫んだ。 「あ>、卓一だ」 「え、ご存じの方ですか」司法主任は反問した。 「え>、知ってますとも、|従兄弟《いとこ》です。もしかしたらそうじゃないかと思っていたんですが。 あ>、卓一君、可哀想にーこ、こんな有様で死ぬとは 」 「ふむ、従兄弟ですか」榎戸警部は信造と死者とを見比べたがら、「実によく似ている。従兄弟 とはいいたがら実によく似てますなア。然しこの人はどういう訳でこんな所へ来たのでしょう か」 「それについて心当りがあります。実は僕は卓一君と昨日こ》で会う約束があったのです。尤も それは僕の方からいい出したのではなく、卓一君の方で至急に秘密で会いたいといって来たので、 秘密の用ならこ>がい>だろうといってやりました。卓一君からは折返して、では金曜日の午後 1つまり昨日の午後ですね、別荘の方に行くからという手紙が来ました」と、信造はポケット を探ぐって、クチャくになった手紙を取り出して、「之です。この通り、金曜日の午後行くと 書いてありましょう。それで僕は管理人の竹谷さんの所に手紙を書いて、別荘を掃除して置いて 貰って、昨巳朝からやって来たんですが、卓一君は午後になっても姿を見せず、僕は元来気短か で待たされるのは何よりも苦痛なんですが、一生懸命に辛抱して夕方までいました。然し、夕方 にはもう磯らなくなって、大体向うから会いたいといって置きながら、約束を守らたいとは人を 馬鹿にするにも程があると、腹が立って、むしゃくしゃして、とうとうお徳さんにも断らず、こ こを飛び出して、東京へ帰って終ったのです」 「なるほど、その後で卓一君は来た訳ですか」警部はうなずきながち、「その秘密の用件という のはどういう事でしょうか。お差支えなくばー」 「多分金の事だろうと思います。卓一君はちょいく金の相談を持ちかけましたので1大方何 かい》事業があるから投資しろとか何とかいう事でしょう」 「なるほど、ではあなたは之までに卓一君の勧めで、時々投資なすったという訳ですか」 「い》え」信造は飛んでもないという風に首を振って、「卓一君の事業と来ちゃ、お話にならな い事ばかりでしてね、帽子の中に畳み込み.の傘を入れて置いて、イザ雨という時にボタソを一つ 押すと、パッと拡がるという発明だとか、靴の下に車をつけて、背中に蓄電池を背負っていて、 小さいモーターで廻す発明だとか、そうかと思うと、海の水から|金《きん》を採るとか、日本中の猫を買 い占めるとか{」 「なんの為に猫を買い占めるんですか」 「そうすると三味線が出来なくなって洋楽が盛んになるというんです。卓一君は洋楽が好きなも ソですから」 「ハ・アーどうも変っていますな」 「え\変っていますとも。そうかと思うと、アメリカから女サーカスを撤職レて一儲けするん だから資金を貸せだの・困ってる劇団があるから・金を出してやれだのーこの頃はひどく敏蹴 に凝りましてね」 「連珠P あ>五目並べの事ですか」 「五目並べなんていおうものなら、卓一君は眼に角を立て>怒りますよ。五目並べなんていった のは昔の話で、今では高木名人考案の縦横十五線の新連珠盤が出来て、段位も段差のハソディキ ャップも確立するし、国技として外国に紹介するには最もい》競技で、国際親善の為に大いに発 展させるべきものだといいましてね、その連盟とかに金を出せというんです。昨日の用というの もそれじゃないかと思っていました」 「どうして約束通り来なかったのでしょう」 「卓一君はね、何か途中でひょいと思いつくと約束も何にもない、すぐそっちの方に行って|終《しま》い ますのでね。そうかと思うと、急に思い立つと夜中でも何でも、どんく押しかけて来ます。そ んな男なんです」 「なるほど、中々変ってますな。一種の天才ですな。尤も天才は狂人と隣り合せだといいますが ーそれで何ですか。心臓は弱かったのですか」 「この頃は押の強い事を心臓が強いといいますね」信造はニヤリと笑って、「その意味では卓一 君は心臓の強さは一流ですが、本当の心臓はとても弱かったんです。僕アいつ心臓が停って死ぬ か知れんといつもいってました」 「そうでしたか」警部は一寸考えて、「では何ですな。卓一君は何か他の事を考えて、あなたと の約束を忘れていた所、夜になって急に思い出して、こ》へやって来たという訳ですか」 「え》、あいつの事だから、もう矢も楯も耐らなくなって、こ>へ来ると、戸締りがしてあるの も構わず叩き破って這入ったんでしょう。その途端に狭心症を起したんですな。可哀想に」  そういって、信造は悲痛な表情をして卓一の屍体を眺めた。 「だが、よく似てますなア」警部は感嘆したようにいった。 「え》」信造はうなずいて、「よく間違われました。母同志が姉妹でして。ですから卓一君は小 浜でなくて、北田というんです。僕とは従兄弟の関係がありますが、死んだ小浜の伯父とは全然 血の繋りがなく、従って伯父の財産はそっくり僕が継いだんです。所が僕は全くの独りぽっちで、 全然係累がありませんから、今の所、僕の相続人は卓一君で、僕が死ねば僕の財産はそっくり卓 一君のものになるんですが、先に死んで|終《しま》ってー」        - 「罐ハア」とお徳が口を出した。「こ>にオッ殖んでる人が、昨日昼来た人だとばかり思ってい たゞよ」 「並べて比べて見ると、違った所があるんだがね」信造はお徳にいった。「初めての人ではそう 思うのも無理はないよ。だが、お徳さん、洋服が違ってやしないか。どうだね、僕の洋服に覚え がないかね」  お徳はじっと信造の洋服を見つめていたが、 「そうだ、思い出したゾよ。確かに旦那さまに違えねえだ。昨日の昼ござらしたのはお|前《めえ》さまだ よ。確かに今着てござらっしゃる鳶色の洋服だよ。そういえば、そこに死んでござらっしゃる人 の洋服は青いだ》。健ハア、あんで洋服にさ気イつかなかったべい」 「そりゃ、君誰だって、こんな所に人の死んでるのを見たら、そこまでは気がつかんさ。無理も ないよ」 「全く健ア、小浜の旦那がオッ殖んでるだと思ったゞよ」 「いや、どうも」警部は軽く頭を下げて、「もう警察の問題ではありません。ではどうぞ。後片 づけをお願いいたします」  やがて警察の一行は引上げて行った。 二人の足取  警察署へ帰ると、榎戸警部は一行のうちに交っていた望月刑事を呼んだ。 「今日の事件は大体に於て怪しむべき点はないようだ。あの小浜信造という青年の説明した所に よると、死んでいた北田卓一という青年は突飛な性格の持主らしく、夜中に友達の家に押しかけ て、戸締りを破って這入るなどという事を平気でやる男らしい。死因も全く病気という事だし、 之以上突つく必要もないと思うが、|尚《なお》君、念の為、昨日と今日の信造と卓一の足取りを洗って見 て呉れ給え。当の信造にはもう何事もないようにいって安心を与え七置いたから、仕事はやり い>だろうと思う」  望月刑事は命を受けて、先ず第一に茅ケ崎の駅に出かけた。夏ならば兎に角、十二月という月 では乗降客も少いのでへ駅員が覚えてはいないかと思ったのだった。  果して駅員は覚えていた。  昨日の朝十時三十三分着の下り列車で、鳶色の服を着た信造らしい青年が下車した。それから 同日の午後六時三分発上り列車の発車間際に、やはり鳶色の服を着た信造らしい青年が駆けつけ て来て、アタフタと乗り込んだ。何だかひどく不機嫌で、切符売場で一寸駅員といいやったりし たという事である。それから今日の午後二時九分で、同じ服装をした青年が下車した。と、之だ けの事で、昨日以来の小浜信造の足取ははっきりした。  所が、青色の服を着た北田卓一の事はさっばり分らなかった。午後六時までは確実に彼は別荘 に来なかったから、六時以後、終列車までに来なければならない筈である。午後六時六分着から 午前零時三十四分着まで、合計九本の列車があるが、どの列車からも卓一らしい青年は下車しな かった。もしかしたら、乗越すとか、又は熱海にでも行っていて引返して来るという事もあるか ら、上り列車についても調べて見たが、やはり全然手係りはなかった。鳶色服の信造の事につい ては駅員がよく覚えていて、同じような青色服の青年を静避すとは考えられない。そうすると・ 卓一は汽車で来たのではないという事になる。汽車でなければ自動車である。  望月刑事は更に藤沢平塚間の乗|合《ぐ》自|動《ス》車について調べて見た。冬期で回数も少く、定員が少い 上に乗客は定員以下であるから、車掌は殆ど乗客を暗記している。所が、卓一らしい青年は乗っ ていなかった。  卓一が茅ケ崎の別荘にやって来た唯一の乗物は|乗用自《ハイヤ》動|車《 》である。  望月刑事は首を|捻《ひね》りながら、その日の夕刻東京に着いた。先ず第一に訪ねたのは小浜信造のい るアパート緑荘である。緑荘は鉄筋コソクリートの宏壮なアパートだった。信造は茅ケ崎にいて 留守なのは分り切っているが、彼は信造の友人と称して、アパートの管理人に訊いた。 「小浜さん、いますか」  管理人は首を振って、 「留守ですよ。茅ケ崎の別荘へ行きました」 「え」望月刑事は|態《わざ》と驚いて、「小浜さん、別荘を持ってるのかなア」 「小浜さんはどうして中々金持なんですよ。二年|以前《まえ》に伯父さんの遺産を貰ってね、何でも何十 万という事ですよ」 「何十万! そいつア初耳だ。そんな金持の癖にアパートに独り住居してるんですか」 「変ってますからね。厭川慰"ていうんだそうで。交際が嫌いでね。こ>にいても殆んど訪ねて 来る人はありませんよ。あなたはどなたですか」 「望月といいます。つい近頃お知合になったのでして。茅ケ崎へは何の用で行かれたんですか」 「それがね、|可笑《おか》しいんですよ。今朝、茅ケ崎の別荘の管理人から、小浜信造死んだ、遺族に通 知頼むってね、私宛に電報が来たんです」 「へえ、どういう事ですか。それは」 「丁度、小浜さんがいましたから、その電報を見せると、カソくに怒ってね、誰かの悪戯だと いって、すぐ返電を打ちましたが、折返し警察から、すぐ来て貰いたいという電報が来ましたの で、ブツくいいながら行かれました」 「どうしたという訳でしょうね」 「何かの間違いに極ってまさア。当人はピンノ\しているんだから」 「可笑しいですなア」 「全く変なんですよ。昨日は一日茅ケ崎の別荘で待ち|呆《ま》けを食わされたといいますから」 「昨日も茅ケ崎へ行かれたんですか」 「え、、誰かザね、茅ケ崎の別荘で会いたいというので朝から出掛けたんですよ。所が夕方まで 待ってもやって来ないというので、小浜さんはプソくしながら帰って来ました」 「何時頃お帰りでしたか」 「さア、九時半か、十時頃でしたろう」  信造は昨日午後六時三分茅ケ崎発の汽車で東京に向ってるから、真直ぐに帰ればハ時過ぎには アパートに着く筈である。途中で食事か何かの為に寄り道をしていたのだろう。望月刑事はそう 思いながら、 「その会われるという方はどなたでしょうか」 「知りませんね」管理人はジロリと刑事を見て、「大方従兄弟だという人だろうと思いますが、 私には分りませんよ」 「昨夕の十時頃帰って来て、それからずっと今朝までおられたのですね」 「えゝ、ずっとおられましたよ」  管理人はそういって、もう一度ジロリと刑事の顔を見た。刑事は今後の捜査上、身分を知られ ない方がいゝので、い》加減に切上げた。 「どうもお邪魔しました。なに、別に用はないんです。又来ます」 卓一という男  北田卓一の住居は蒲田区内のジメくした低地にあった。卓一も独り者なので、永辻栄吉とい う家に同居していた。近所で訊いて見ると永辻というのは円タクの運転手らしい。  望月刑事が|当家《こユ》へ訪ねたのは、日ももうトップリ暮れた頃だった。栄吉は稼ぎに出ていて未だ 帰らず、三十そこくと思われる狐獅そうな顔をした女房が留守番をしていた。  こ>では望月刑事は身分を隠さず、肩書つきの名刺を出した。おかみは亭主の栄吉が毎々交通 事故かなんかで、警察の呼出しを食ってると見えて、刑事と知っても格別そう驚かなかったが、 茅ケ崎署から来たのだと気がつくと突然眼の色を変えて叫んだ。 「卓一さんが死んだって、ど、どうしたんでしょうか。|先程《さつき》信造さんから知らせがあったんです けれども、|宅《うち》が出ているもソでどうしようもないんですよ」 「狭心症でね」刑事は静かにいった。「信造さんの別荘で死んでいたんですが、何ですか、卓一 さんは不断から心臓が弱かったですか」 「それがね、丸で嘘見たいなんですよ。顔色は蒼白くって、病人臭い所はありましたが、とても 元気な人で、構が強くて、つまり心臓が強いんでしょう。所が本当の心臓はいつ停って織うか分 らないんですって。まさかと思っていましたが、本当に停って終ったんですわねえ」 「昨日はずっと宅に居られたんですか」 「い>え、卓一さんがじっと宅になんかいるものですか。どこへ行くんだか毎日朝から飛歩いて いますよ。よくまア、あ>用があると思いますよ。自分の事はこれっばかしもしないで、人の事 ばかり世話を焼いて、いつも|懐中《ふところ》はピイくの癖に大きな事ばかりいって、信造さんの懐中ばか り当にしてるんですよ。信造が死にや、奴の財産は俺のものだから、いくらでも出してやるんだ がなア、なんて、そんな事ばかりいってるんですよ」 「じゃ、昨日茅ケ崎へ行った事はおうちじゃ知らなかったんですね」 「所がね、あなた、卓一さんは昨夕七時頃にひょっこり帰って来ましてね、腹が減った、飯だ、 飯にして呉れという騒ぎなんでしょう。私は泡食って仕度したんですよ。すると、御飯の途中で、 突然しまった、と大きな声を出すんです。私は|吃驚《ぴつくり》してどうしたんですって訊くと、信造と茅ヶ 崎の別荘で会う約束がしてあったんだ、すっかり忘れて終った、というんです。約束しといちゃ 忘れるのは毎度の事ですから、そう騒がなくてもい>でしょうというと、いや、他の事と違って、 相手は信造だ、それに今度はどうしても奴に金を出させなければならないのだから、奴を怒らし ては困るんだ。すぐ之から行くっていうんです。まさか今頃まで待っちゃいないでしょうといっ たんですが、いや、信造はあ>いう奴だから、今夜中は待ってるに違いない。よし帰って終った としても、兎に角僕は約束を破らないで別荘まで行ったという事を見せて置かないと、後が困る、 どうあっても行くって頑張るんです。それまではまアい>んですが、今度は宅の自動車に乗せて 行けといって|諾《き》かないんです。汽車で行きなさいといったら、汽車なんかのろ臭くって駄目だっ てね。なアに、よく聞いて見りゃ、汽車賃がないんですよ。宅も卓一さんにはちょくく借りら れて弱っていますので、汽車賃を|用達《ようだ》てるのは嫌だしといって商売物の車に乗せるのも嫌だった んですが、卓一さんと来ると口が旨いですからね。今度は必ず成功する、信造から|纏《まとま》った金が取 出せるから、その時にはウソとお礼をする。この機会を逃して後で後悔したって僕ア知らんよ、 なんて拝んだり麟したりして、とうとう宅を渋々承知させたんです」 (そうか、やっばり卓一は自動車で来たんだな、之で足取がはっきりした)と望月刑事は思いな がら、 「自動車で出かけたのは何時頃でしたか」 「そうですね、九時頃でしたろうか。何でも向うへ着いたのが、十一時過ぎとかいってましたっ け」 「こちらの御主人はすぐ引返したんですね」 「え》、所がね、向うへ行って、卓一さんが又駄々を|握《こ》ねましてね」おかみはしようがないとい う風に顔をしかめながら、「茅ケ崎の駅近くに来ると、卓一さんはこ・でい》、後は歩くという んですって。どうせ来た|序《つい》でだし、もう少しの事だから、家まで送ろうというと、いや、ひょっ と信造が待ってると、自動車の音が分るし、自動車に乗って来たなんて事が分ると、奴の機嫌を 損じるから、汽車で来た|心算《つもり》でこ>から歩くって、|諾《き》かないんですって。そこで宅は別荘の大分 手前で車を停めて、卓一さんを下七て、そのま>引返して来たんです。卓一さんはその時は別に 胸が苦しいような様子だったとは聞かなかったOですが」  之ですべては明瞭になった。もう之以上は訊くべき事もないと思ったので、刑事は腰を上げた。 「どうも、お邪魔しました」 「宅が帰り次第お手伝いに参りますからって、信造さんに宜しく僻郁って下さい」  |喋《しやべ》り疲れたか、おかみはホッとしたようにいった。 夜店の連珠 「なるほど、それじゃ問題にならんね」  望月刑事の報告を聞いた榎戸警部は煙草の灰を叩き落しながらいった。 「えゝ、どうも犯罪はないらしいですよ。卓一の死因が病死だとするとね」 「念の為再検視をしたが、全く狭心症の為と判明した。だから、殺人事件では絶対にない。それ に之が逆に信造が死んだのだとすると、卓一が財産を相続する事になって、多少の疑惑を生ずる が、卓一が死んだのじアね。何だろう、卓一の遺産なんてものはないんだろう」 「遺産どころか借金が残っていますよ。遺恨か何かなら知らず、金の為に卓一を殺す者はないで しょう」 「第一病死じゃ問題にならん。然し、卓一は何だって、人のいない別荘へ戸締を破って這入った んだろうね」 「そこが一寸不審に思われるんですが、何しろ卓一という男は、|他人《ひと》のものと自分のものを区別 しないというような男で、何事も行き当りばったり、気分の動くま》にやるという人間ですから、 他人といっても信造の別荘ですし、締り位破って這入るのは平気だろうと思います。それに考え て見れば、奴ア帰りの汽車賃がないんだから、信造のいるいないに係らず、あそこへ泊るよりな かったでしょう。翌日は信造なり、永辻なりへ電報を打って、金を送らせる|心算《つもり》だったのでしょ う」 「自動車で長距離を揺られて、それから若干歩いた上に、戸締りを破ったり、過激な運動をした ものだから、持病の心臓で参ったという訳か」 「そうでしょうね。兎に角、信造のいう事と、アパートの管理人や、永辻のおかみのいう事がピ ッタリ会いますから」 「え、と、信造は金曜日の朝、茅ケ崎へ行くといってアパートを出たんだね。その且的ははっき りしないが、別荘で従兄弟の卓一に会う為らしいと管理人はいうんだね。それから、その夜九時 から十時の間に信造は待呆けを食わされたといって、プソく怒りながらアパートに帰って来た。 一|方《へ》、卓一は当日朝から出かけて、夕方帰って来て、急に信造との約束を思い出して、永辻にむ りやりに自動車に乗せて貰って、茅ケ崎に向った。信造らしい青年が三度茅ヶ崎駅から乗降した のは確実で、一方卓一らしき青年は一回も乗降しておらん。怪しい点は一つもないな」 「只一つ分らない点は、信造がハ時頃東京に着いて、アパートに帰るまで何をしていたかという 点ですが」 「そいつア別に大した問題でもあるまい。信造に聞けばいうだろうし1別に聞くにも及ぶまい て」  とこういう訳で、この事件はそのま>になって終った。  それから四ヶ月ほど経って、急にポカくと暖くなった春の宵、望月刑事は別の事件で上京し て、渋谷の道玄坂の通りを歩いていた。  ふと見ると、例の大きな盤を置いた連珠屋を取巻いて多勢の見物が群がっている。望月刑事は 何気なくそこを通り過ぎようとして、見物の中に一人の男を発見して、急に立止った。ゾロリと した着流しで、帯の間に両手を挟んでニヤリくしながら盤に見入っているのは、疑いもなく小 浜信造だった。刑事は一寸声を掛けようかと思ったが、相手が迷惑するといけないと思って止め て、その代りに信造と盤とを見比べながら様子を眺めていた。  大きた碁盤には例の通り、黒と白の木で作った|碁石《いし》代りのものが、≡二十並んでいる。黒はど こへ打っても、すぐ四三か四々が出来て勝てそうだ。所が白に旨い手があって、先に五が出来て 止るようになっている。|二手《ふたて》目に黒の勝にならなければ、三十銭なり五十銭なり出して、薄べら な五六銭にも値いしないようなパソフレットを買わなければならないのだ。  連珠屋はうるさいほど喋りながら、しきりに客に勧誘する。見るく≡二人の人が手を出して、 必勝だと確信していたのがみんな外れて意外な顔をしながら、金を払った。  刑事は世の中は広いものだ、よくこんな軽率な人の種の尽きないものだと思いながら、もう興 味がなくなったので、そこを離れようとすると、信造が声を出した。 「一つやって見ようか」 「へえ、どうぞ」  連珠屋は鴨が来たとばかり、手にした木製の黒石を信造に渡した。  パチリ。  信造の打った所は急所らしかった。  連珠屋はうむと捻って、じっと盤面を見つめたが、パチリと白を下した。  パチリ、二つ目の黒石で、見事に四々が出来た。 「旦那、大した腕ですなア」  連珠屋は|渋面《じゆうめん》を作りながら、信造を賞讃した。  信造は得意そうにニヤリと笑って、そのま>列を離れて、さっさと行こうとした。  と、この時に、咄嵯に望月刑事の頭に閃めいたものがあった。  刑事は自分の考えにぎょっとしながら、早足に信造を追って、|背後《うしろ》から、 「北田さん、卓一さん」と呼んだ。  信造はぎょっとして振り返ったが、ジロリと刑事の顔を見ると、そのま>行こうとした。 「もしく、北田さん」と刑事は追纏った。 「人違いだ」  信造はそういって、ドソく行こうとする。 「待って下さい。待てといったら待たないか」 刑事のきっとした声に、思わず立止った信造の耳に、望月刑事は|低声《こゴえ》でいった。 「信造だなんて胡魔化しても駄目だぞ。お前は北田卓一だ。一緒に来い。指紋を取って調べるか ら」  と、信造は見るく額に|膏汗《あぷらあせ》を流して、フラくと刑事の肩に|任几《もた》れか>った。 ・三つの理由 「死んだのはやっばり信造だったんですよ」  望月刑事は司法主任の榎戸警部に|稽《やト》々得意そうに話していた。 警部は感嘆したように、 「一杯食わされていたのか。然し、君はよく発見したね」 「偶然、全く偶然でした。渋谷の道玄坂で、ふと信造を見かけたのですが、奴がむつかしい連珠 の問題を訳なく解いたので、ハッと気がついたのです。何しろ、信造という男は人嫌いの変り者 で勝負事なんか一切やらない筈なんです。それに反して、卓一は何にでも手を出す男で、事件の 起った時も連珠に凝っていたといいます。1信造が連珠!可笑しいなと思った途端に、ふと 思い出したのは|先達《せんだつて》の信造の態度でした。交際嫌いの変り者だというのに、実によくペラくと よく喋りました。その時はつい気がつかないで見過していたのですが、急にその事が頭に閃めい てー」 「然し、それだけでは十分じゃないー」 「え>、ですから試みに卓一と呼んで見ると、ぎょっとしたようでしたから、|隙《す》かさず指紋を取 るぞと威かすと、奴は|背後《うしろ》めたい事があるので、|忽《たちま》ち顔色を変えて、フラくと倒れか>りまし た。後は何の苦もなくスラくと白状しましたので」 「大した手柄だ」 「お賞めに尋,て恐縮です。奴の白状した所によると、つまりこうなんです。信造と茅ケ崎の別 荘で会おうと約束したのもその通りで、信造が別荘に行って待呆けを食って、むしゃくしゃして、 夕方に別荘を飛び出したのも、やはりその通りなんです。六時三分の上り列車に乗ったのは、正 真繍いなしの信造だったんです。それから先が違うので1立腹した信造はその足で直ぐ蒲田の 永辻の家へ行って、居合した卓一を|詰《なじ》ったのです。所が二言三言いっているうちに、信造の顔色 が変って・そのま、そこへ鑑れて終ったんです。信造は以前から心臓が弱くて、いつ狭心症を起 すか知れない状態だったんです。無闇に腹を立て>、汽車から降りると、豊腱のま}永辻の家へ 駆けつけたりしたのが悪かったんでしょうね。  思いがけなく信造が死んだので、卓一も永辻夫婦も驚きましたが、こ・で三人は相談をして、 卓一が死んだ事にして、卓一が信造になろうと決めました。卓一と信造とは元々よく似ていまし たから、別荘の方を胡魔化すのは何でもありません。むつかしいのはアパートの方ですが、之も 管理人に一寸顔を合すだけですから、どうにかやれると考えたのです。之が無口で交際嫌いの信 造の方が、お喋べりの交際の広い卓一に代るのですと、到底出来ませんが、逆に交際の殆どない 信造の方に化けるのですから、比較的優しい訳です。  之から先はもう何でもない事で、卓一の洋服を着せた信造の屍体を積んで、永辻は茅ケ崎の別 荘へ行き、卓一は洋服を取替えて、信造に成り澄して、アパートヘ帰りました。永辻は別荘が戸 締りがしてあったので、仕方がなく戸締りを破りましたが、卓一の不断のやり方から反って卓一 らしいと見られた訳です」 「なるほど、よく分ったが」警部は一寸眉をひそめたがら、「一体何の為に卓一は信造になる必 要があったのかね。そんなことをしなくっても、信造の財産はそっくり卓一のものになる訳じゃ ないかね」 「そこですよ。主任。えーと、相続税というものはどれ位か>るんですか」 「信造の財産はどれ位あったかね」 「五六十万でしょう」 「直系の親族でないもの>遺産相続だから、二割位かね。なるほど、それが惜しかったのか」 「未だ理由があります。卓一は俺が信造の財産を相続すれば、いくらでも金を出してやると方々 に約束していましたのでー」 「なるほど」警部は笑って、「|他人《ひと》の金だった時分には、いくらでも気前よく約束出来たが、自 分のものになって見ると、惜しいか。ハ…、人情の然らしむる所だね」 「卓一はそう|易《やすく》々と信造の遺産が手に|這入《はい》ると思っていなかったので1信造が結婚すればそれ っきりですからね。ですから、手軽に方々約束したんですが、思いがけなく遣産が手に這入って、 そういう連中に押かけられては事ですから、永辻を買収して、信造になって終ったという訳で、 永辻は卓一の遠縁に当って、欲もあるが義理もあって、引受けたんです。それからもう一つ、卓 一がいうんですが、今までの自分というものに愛想が尽きたので、之を機会に信造に|化《な》って、無 口で真面目な人間に更生しようと考えた、とこういうんです」 「兎に角、一寸犯罪史に類のない犯罪だね、結局の所殺人ではなし」と、警部は考えながら、 「相続税の脱税と、身分詐称かね、それから屍体遺棄「1屍体遺棄といえるかなア、別荘の中へ 置いたんだから」 「許可がなくて、屍体を運搬した罪がありませんか」 「そんな所だなア。それから家宅侵入  どうかな、之も成立するかどうか分らん」 「でも、犯罪は犯罪でしょう」 「無論犯罪だ」警部は大きな声でいった。「最も近代性があって、それから」と考えながら、 「|些《いさム》かユーモアのある犯罪だね」                              (〈現代〉昭和十四年一月号発表)