日本橋檜物町 小村雪岱 目次 入谷・龍泉寺 木場 日本橋檜物町 大音寺前 観音堂 「長谷雄草紙」礼讃 阿修羅王に似た女 古寺巡り 挿絵のモデル 春の女 新聞小説の挿絵 夢の中の美登利 女を乗せた船 泉鏡花先生のこと 泉鏡花先生と唐李長吉 「山海評判記」のこと 『参宮日記』と『日本橋』 『註文帳画譜』 教養のある金沢の樹木 水上瀧太郎氏の思い出 九九九会のこと 舞台装置の話 羽子のかぶろの暖簾 舞台装置家の立場から 歌右衛門氏のこと 大阪の商家 「春琴抄」のセット 民謡と映画 映画片々語 初夏の女性美 入谷・龍泉寺  清元「忍逢春雪解」の「冴返る、春の寒さに降る雨も暮れていつし力 雪となり、上野の鐘の音も凍る細き流れの幾曲り、すゑは田川へ入谷村」と いう三千歳、直次郎の凄艶な舞台面は、何度見ても、理窟は知らず面白い美 しい芝居でありますが、この廓の寮というものはどんなものでありましょう か。  私は子供のとき根岸で育ち、途中他所へ移り、中年にまた根岸へ住まいま した。その頃は丁度、故沢村源之助の宮戸座時代で、一つ狂言を二、三度ず つも観に通っていた時分の事で、その行きかえりに、入谷・龍泉寺辺は随分 よく歩きました。それから龍泉寺町には友達が住っておりました。それは金 杉上町の、三島神杜の角を曲って、すぐにお歯ぐろ|溝《どぶ》へ出ようという、左側 の小さな二階造りの長屋で、右隣が酒屋、左隣が車宿で、引子が大勢おりま した。  今から思えば、家は無論建て直ってはおりますが、多分、樋口一葉女史の 元の住居か、又はその隣であったと思われます。久保田万太郎氏の句に、 蓮咲くや桶屋の路次の行き止り  或は文字に私の覚え違いがあるかも知れませんが、これは私の大好きな句 であります。そしてこういう景色は、その当時は至るところに見られました。 溜池や、田圃や、蓮田などは沢山に残っていた有様でありましたから、この 芝居の書下しの時分は、全く「廓へ近き畦道も右か左か白妙に」であったこ とと思います。  この廓を取りまいていましたお歯ぐろ溝の近所は、それは屋根の低い、じ めじめした家で、路次の中まで、堀の水がひらくような陰気な所でありまし たが、また中々面白い所で、何度歩いても厭きるという事はありませんでし た。また一葉女史の『たけくらべ』に出ている水の谷の池も、その頃は、ま わりを料理屋の小座敷で囲まれ、そして往来の竹垣は破れたままであります から、中は池越しに見通しであります。丁度その当時の春の吉原大火の時、 この辺の家は、避難の遊女で、何処もかしこも一杯で、この小座敷も、艶か しい女の姿がこぼれるようで不可思議な景色でありました。この池も間もな く埋められて暫くは広い広い空地となり、子供の遊び場となっていましたが、 それも暫くの間で、家が重なるように建ち並んで仕舞いました。  |舷《ここ》にも久保田万太郎氏の句があります。     水の谷の池埋められついかのぼり  私の記憶違いでありましたら御許し下さい。全く一寸した事で、実にはっ きりと覚えておりますのは、或日お歯ぐろ溝の中に紫陽花の花が捨ててあっ た事であります。お歯ぐろ溝のあの黒ずんだ濁った紫色の中に、紫陽花の、 濃い藍、薄い藍、薄黄の花が、半ば沈み込んだ色あいは実に美しいものでし た。  今思えば惜しい事でした。未だその頃はこの辺に寮らしい家は、住み人は 変っても、沢山残っておりました。中を見せて貰っておけばよかったと思い ます。私は何故かこの女郎屋の寮というものに誠に心を引かれるのでありま す。龍泉寺のお歯ぐろ溝の左側を少し左へ入った所、又その通りを真直に行 って、あと少しで土手へ出ようという所をお歯ぐろ溝について右へ曲って大 門の裏へ出ようという道に、中々意味あり気なそれらしい家を見受けました が、門口だけで中は無論見られませんでした。唯一軒だけ田町の知人の家が、 元の寮でありましたので、これはまた見過るほどよく見ました。 今となっては誠に仕合せと思いますが、偶然に、昔の寮に住まっていた人 の所へ度々使いにやられた事がありまして、そしてその家の主人夫婦に、私 は大変に可愛がられて、行けば必ず終日遊んで帰るのが例でありました。そ れは私の十六、七の時で、父の御世話になる先輩の方の住居で、元何楼の寮 とか名を聞きましたが遂に忘れました。大きな寮を元のそのまま住っておら れました。  当時の田町は隅田川の河べりにありながら、妙に乾いたほこりの立った町 でありました。その通りの乾物屋と古道具屋の間に三尺ほどの間口の狭い路 次があって、両側は皆同じ腰障子の入った長屋が沢山に続きまして、そのつ きあたりに小さな格子戸のありますのが、その寮でありました。この長い路 次も中途で二箇所もうねりまして、如何にも元、田圃道の両側ヘ長屋を建て た事が解ります。  さてこの寮でありますが、これは又「忍逢春雪解」の舞台の粋な家とは似 ても似つかぬ頑丈なものでありました。寮と言っても皆それぞれの主人の好 みで、いろいろの家があった事と思いますから、別に不思議はありませんが、 実に広大なものでありました。讐えて申せば大きな質屋の勝手口とでも申し ましょうか、割合に小さな格子戸のくぐりをあけて入りますと、右側は黒い 土蔵が並んで、狭い道は敷石でありました。入口は四枚並んだ格子戸で、そ の前の狭い所に大きな八重桜が咲きこぼれるように咲いて、実に縞麗だと思 いました。  その格子戸の、くぐりをあけて入りますと、広い土間で、その広い暗い土 間の奥が、半ば玄関、半ば台所で、つまり入口をあけると、玄関と台所が一 所に見えます。それはその当時の長屋によくありました、入口の腰障子をあ けると、三尺が上り口、三尺が台所の流しという建て方と、大きさこそ違い ますが、型は一つでありました。その台所も広いもので二十畳位敷けそうな 板の間で、そのはずれ入口に近く、背を見せて、大きな光り輝く大釜や鍋が 五つほど並んだ大かまどがありました。玄関は式台なしの畳廊下で、正面は 壁、左へ行って右に廻れば、五間か六間ほどの立派な座敷が並んで、くるり と廻って茶の間から台所の板の間へ出るようになっており、台所は真黒にな った横桟の板戸の戸棚が塀のように高く並んでおりました。  また左へ廻れば、これも幾間かの小間があって、縁側伝いに離れ、また蔵 座敷があり茶室もありました。この蔵座敷の窓から、入口の八重桜が、黒塀 を後にしてよく見え、それは綺麗でありました。そしてこの蔵座敷の二階の 窓からは、浅草の観音堂、五重塔も、隅田川も、吉原も屋根の合間合間から 見えました。この二階は本箱が並んでおり、これも楽しみの一つで、『国華』 などという美術書も此所で初めて見たのであります。  庭もまた、たいしたものでした。広さは何百坪か知りませんが、とにかく 大きな池があり、船が浮べてあり、いつでも乗れるようになっておりました。 夏は池一面見事な蓮で、或時も帰りに十本ほど切って土産に貰いました時な ど、その時は日本橋の檜物町におりましたので、持って帰る途中、六尺近く もある蓮をかついで歩きますのに閉口した事も覚えております。池には鶴と 鴛鴛が放してあり、雪の中を鴛驚が飛びますのが実に見事だと思いました。 この池のある桜の咲いている大きな家に、小さな長屋がよりかかるように立 ち並んだ所は、不思議な気持が致しました。思うに、元、田圃の中の寮一軒 でありましたのが、後に追々と長屋を建てたものと思われます。この長屋の 持主も、寮の主人でありましたが、大震災の時に皆ことごとく焼けました。  下町の庭のない狭いたてこんだ家の町に住む人は、山の手の庭の広い住居 の人とは、花に対する好みが、よほど違うように思われます。桜にしまして も上野、向島、浅草、沢山にありながら一枝の桜を、瓶にさして飾った景色 をよく見ました。  或時、私は一寸した用事を言い付けられまして、別懇な町内の頭の所へ使 いに参りました。その家は、平家の長屋で、右隣は染物屋、左隣は何処かの 帳場へ勤める人が住まっていました。前の狭い空地に井戸があります。私は 門口から、何度も声をかけましたが、返事がありませんので、入口の腰障子 を開けましたところ、ただの一間しかない家ですから、眼の前に、その家の 十六、七の姉娘と、十四、五の妹娘が、貧乏徳利に、枝もたわわに咲ききっ た桜の枝をさして、畳のまん中に置き、戯れに匂いでもかいでいたのでしょ う、二人共、花の中へ顔を埋めていましたが、驚いて、こちらを向きました。 私も驚きましたが、美しいと思いました。その後、その人々は如何していま しょうか、姉は元ちゃん、妹をのぶちゃんと云って、二人揃って、親御が大 自慢の器量よしでありました。  また縁日の鉢植なども、先ず一軒残らずと云ってよい位にどんな家にもあ ります。窓の上、縁側、軒先に花は中々多いのであります。これも花の名は あとで聞きましたが、細い霧のような葉の中に、真紅な、小さな五弁の花が 実に可愛いよい花でありますが、吉原の午の日の縁日によく見かけたもので あります。名は|縷紅草《るこうそう》というそうであります。  龍泉寺町または入谷辺には、又、道の角や長屋と長屋の間などに、小さな、 石の地蔵様や、荒神様がありまして、小さい堂を建て、赤い頭巾をお着せ申 してあり、その堂の脇など、人の気のつかぬ所に、春の草など伸びておるの を見かけたり、また誰が上げたか、供えた花に蝶がもつれている事もありま す。私は門並ならんだ古着屋の店先に、色々な女物、男物、また場所柄とて 刺子など、ずらりとつるした正面の溝の縁に、小さな石の地蔵様がこちらを 向いて立っておられるのを見て、妙な気持になった事がありました。  また賑やかそうで妙に寂しく思いますのは|木遣《きやり》でありました。近来は見か けませんが、元はよく道であいました。春の静かに晴れた日などの建前に、 普請場から、木遣をやりながら、棟梁の家へ帰るのを見ますと、極めて勢い のよいものでありながら、何となく寂しいものでありました。その時は下町 の雑音もそれなりに一つのまとまった音となって、人々を妙な心持に致しま す。  千束神杜の神楽の音、町々を段々遠ざかり行く角兵衛獅子の太鼓の音も、 心なしか、外の土地で聞くのと少し違うように思われてなりません。  屋根は低く、家は小さく、町の物音は石臼のようにまとまって、そしてか すかに空へ消え、貸座敷の高調子は、つつぬけに空に響いて、蝶が遥かに虚 空を飛ぶのを見まして気が遠くなった事もあります。私は同じ土地でも、日 本堤の東と西とはよほど気持が違うように思うのであります。 木 場  木場は東京のうちで私の最も好きな景色の一つであります。震災の以前に はよく好い日和に、雨の日、雪降りに、また月夜に、この辺へ遊びに参りま すのが楽しみでありましたが、震災の後はいつとはなしに遠々しくなり、八 幡様、不動尊、また宮川曼魚氏の許へは時々参りましても、遂に木場へは足 を入れたことはありませんでした。このほど不図思いたち、誠に久しぶりに 木場へ参りました。近年至る所の町の様子がひどく変っておりますので、木 場などは特に非常な変り方でしょうと思っておりましたが、これは意外に変 っておりませんでした。町の筋が多少変ったり、木の橋が鉄橋になり、大き な邸がなくなったり、あったはずのお社が見えなくなったりしてはおります が、木場の心持は元と少しも変らず、八幡前の大通りの賑いを境として、別 の世の中を見せております。この町の静さを何と申しましょうか、木の香は 鼻のしんまで沁み通り、堀一杯の材木や道を圧して林立する裸の木材を見て おりますと、妙に深山幽谷が思われます。  しかしながら、四通八達の堀割には、筏を分けて通う船の膳の音、道には 材木を運ぶ自動車、自転車、手細の祥纏に紺の股引、紺足袋の人々が材木を 担ったり、長い鳶口を持ったり、高い高い木小屋の上に上がったり、縦に横 に十文字に動いておりながら、妙に音が聞えず、反って材木をひく鋸の音が 不思議なほど耳に立ち、|鋸屑《のこくず》の舞い上がったり材木の間の鉢植の春蘭の花や、 材木の下積の間から思いがけなく芽を出す春草などが目立ちまして、誠に威 勢よくも寂奥な眺めであります。色といえば空の色と、白木の材木と、堀割 の水の色で、道端に落ちた一片の蜜柑の皮の燈色さえ非常に眼につくのであ ります。  あまり歩いて少し|草臥《くたぴ》れました。或る小さな橋の上に休んで、一面に材木 を浮かせた堀を見ますと、材木を山ほど積んだ船が一艘岸につないでありま して、岸の石垣の上から船へ細い歩み板が渡してあります。折柄降り出した 糸のような春雨の中を、材木問屋の娘さんでもありましょうか、一人は島田、 一人は断髪の年頃の女が、お揃いの蛇の目の傘を肩にして、その細い板をし なわせながら、丁度玉乗りの女のような格好で笑いながら遊んでおりました。 妙齢の娘さんのその様子がいかにも木場の娘らしく見えました。 日本橋檜物町  私は明治四十二、三年の頃まで、日本橋の檜物町二十五番地で育ちました。 丁度、泉鏡花先生の名作『日本橋』にかかれました時代の事で、その頃のあ の辺は、誠に何とはなしに人情のある土地でありました。二十五番地と申し ますと、八重洲岸から細い路次を入って左側の一廓で、私のおりました家は、 歌吉心中と云って有名な家で、こまかい家の建てこんでいたあの辺に似合わ ず、庭に小さい池があり、間数は僅か四間の狭い家でありましたが、廻り縁 に土蔵のある相当に古い建物で、この土蔵の二階の真黒になった板敷に心中 の血を削ったあとが白々と残っておりまして、いかにも化物屋敷の名のつき そうな家でありました。私方ではこの事を少しも知らず、引越しの真最中、 前の染物屋の隠居に注意をされまして、老人などは甚だ気味を悪がりました が、とにかく此所に居据り、永年の間住まいましたが、別に不思議なことは ありませんでした。  家の横手にすこしの空地がありまして、真中に元の総井戸の跡へ引きまし た共同の水道栓があって、空地を囲って、芸者屋、役人、お妾さん、染物屋、 町内の頭、魚屋、魚河岸の帳つけ、それに私の家の小さな勝手口がぐるりと 取り巻いていました。  頭の家では雨が降りますと、多勢の人が集ってよく木遣の稽古をしており ました。私も門前の小僧で少しは覚えましたが、いつの間にか皆忘れてしま いました。この頭のおかみさんが此所でも評判の美しい人で、頭の恋女房と いう事でした。色の白い誠に姿のよい人で、小さな女の子がありましたが、 子を抱かせるのは気の毒なほどの若々しさでありました。このおかみさんが、 ひどい霜の朝など、前の晩の火事へ駆けつけて夜明に帰って来た頭の刺子神 纏を、水道へ|大盟《おおだらい》を持ち出して重そうに洗っていますのをよく見かけました。 ひどい寒さに白い手で重そうに刺子へ水をかけている姿をまことに、いたい たしくも美しいと思いました。その時分にいたずらをしていた近所の女の児 は、今では土地の大姐さんになっております。  そしてこの一廓は震災の時にことごとく焼けまして、あと暫く焼野原とな っていましたが、今ではその跡に見上げるような石造のビルデングが建ちま して、元の一廓は地面の底へ埋められたような心持がいたします。このほど 人を訪ねてこのビルデングへ参りました。この日は誠によく晴れた静かな目 でありましたが、応接間で人を待っておりますと、昔の事が思い出されて、 何となく空の方で木遣の声が聞えるような心持が致しました。 大音寺前  樋口一葉女史の名作『たけくらベ』の舞台に使われました下谷龍泉寺町の 辺をよく歩きちらしましたのは、明治三十六、七年頃からでありました。そ の頃は下谷坂本の三島神杜の角を曲って大音寺前から日本堤につき当るまで、 小さい低い長屋が並んで、その間に金魚屋の池などあり、その裏は蓮田や畑 でありました。久保田万太郎氏の俳句で私の大好きな、「蓮咲くや桶屋の路 次の行き止り」は全く実景でありました。龍泉寺町の一葉女史の旧宅の前も 幾度となく通りましたわけですが、まだ小説というものを読まぬ私の気のつ くわけもなく、唯片側がお歯ぐろ溝に添って見上げるような廓の建物と、細 い道をはさんで押しつぶされたような長屋が並んでいたことを記憶している ばかりであります。  この辺は吉原の大火の時に焼けまして、そのあとは二階建の長屋になりま した。その一軒に友達の親戚が引越しましたのでよく参りましたが、家は建 て替っても両隣の商売は変らず、酒屋と車宿でありました。この二階長屋も 大正の大震災で悉く焼けて、そのあとに建ちましたのが現在の龍泉寺町であ ります。最早平家などは一軒もなく、小さな洋館まじりに何所の町ともあま り変らぬ町になりましたが、それでも昔からの土地の匂いは今も残っており まして、戸袋の蔭に片づけられた枯れた植木鉢にも、思いなしか午の日の夜 店の買物らしく思われるのであります。 『たけくらべ』に、「赤蜻蛉田圃に乱るれば横堀に鶉なく頃も近づきぬ」と ありますあたりの路次を抜けようとして、途中の溝が開いて路次一面の水溜 りにあと戻りをした事もありましたが、今は見ちがえました。又これも『た けくらべ』に、 茶屋が裏ゆく土手下の細道に落か、るやうな三味の音を仰いで聞けば、仲 之町芸者が冴えたる腕に、君が情の仮寝の床にと何ならぬ一ふし哀れも深 く、此時節より通ひ初るは浮かれ浮かる、遊客ならで、身にしみぐと実 のあるお方のよし とある処もお歯ぐろ溝は埋められ、無論刎橋もなくなり、この辺に数々あり ました寮も見当らず、町の様子は全く変りましたが、その変った町ににじみ 出している昔ながらの心持は、誠に胸がつまるような気持がいたします。こ の辺の人々の顔立ちや姿形も何となく外の土地と違っておりますし、表に遊 ぶ腕白の顔などにも、三五郎、正太の悌を見るのであります。髪を結って他 所行のなりをした娘さんなどの路次の出入りを見ましても、何となくものあ われで、何か身の上に変った事でも出来たのではあるまいかなど、余計な事 を思わせるのであります。 観音堂  神や仏に縁の遠い近いはありますまいが、浅草寺の観世音ほど世間の人に 親しまれる仏様は少ないと思います。私は幼少の時、まだ汽車のない時分に、 祖父に連れられて、川越から夜船で、花川戸へ上って、浅草寺へ御詣りをし ましたのを記憶の初めとして、雨ふりにも雪ふりにも、月夜にも、夜更けに も、何百度となく、参っておりますが、この頃、初夏のよくよく晴れた日に、 仁王門を入って、薄群青色の空にそばだつ観音堂を仰いだ気持は、今更なが ら何とも申せませんでした。都会の音とでも申しますか、極々遠い雷のよう な音が御堂をめぐって、堂の中の御経や称名や鳩のたつ音や一切の音に足音 ---------------------[End of Page 26]--------------------- まで雑って、香のかおりと共に虚空に消えるのであります。このような時に 私は意味はよく解りませんが、有頂天ということを思い出されるのでありま す。はるかに大棟にとまった鳩の動くのも瓦が動いたかと思われました。 実相非荘厳金碧装成安楽刹 真身絶表象雲霞昼出補陀山 観音堂  向拝の柱にかけた大きな聯の文字も、何時とはなしに暗記して仕舞いまし たが、意義は知らずこの景色と同じ心持が致します。私は本尊は元より堂内 の一切の仏も、参詣の人も皆籠めて、御堂も大空も一緒に拝むような心持が したのであります。  さて堂に昇りまして、御本尊脇段を拝して、そして堂内の向って左の小さ な堂の並んだ、大黒天、毘沙門天、帝釈天、右側へ廻って、伝教大師、びん ずる尊者、文殊菩薩、地蔵菩薩、三宝荒神を巡拝してあるきました。  その一番奥の暗い所に、屋根も柱も腰板もことごとく黒塗の、入母屋造の 御堂がありました。この堂は、びんずる尊者の堂を隣にして、日本橋と書い た大提灯を横に、柱もかくれるばかりの供花に埋り、軒に紫の小幕、鈴の紐 は白と紫のないまぜ、そして小さな五色の折鶴を沢山下げてありました。御 仏は真に暗いのと、前の金網に無数のおみくじを結びつけてありますので拝 めません。  不図見ますと、その下の黒の腰板の前に、黒い羽織を着た襟の白い島田の 女がたたんだようになって拝んでおりました。ややしばらくして立ったのを 見ますと、ちかづきではありませんが、一ヶ月ほど前に、銀座の資生堂で隣 の卓にいた人でありました。それは近来珍しくも香蝶楼時代の国貞の画いた 女に生写しの顔で、それでよく覚えているのでありました。私は国貞の画で は五渡亭時代を最も好みますが、香蝶楼時代に或型に入った国貞の女の顔は、 あの型が出来た女の顔に何か仔細があるように思われるのであります。そし てこの香蝶楼の顔に似た参詣の女が、これはまた妙なことに、写真で見る映 画女優のメリー●ピックフォ1ドに誠によく似ているのであります。国貞の 女とメリー●ピックフォlドの心持に通うところのありますのが、誠に面白 く思われます。  女の帰りましたあとで、折鶴をかかげて蔭の額を覗きましたら、虚空蔵菩 薩とありました。 「長谷雄草紙」礼讃  この度の国宝重要美術品絵画展覧会を見られたのは、うれしい事の極みで ありました。はじめて拝見する絵は沢山あり、また二十年前、十年前に、あ るいは寺院あるいは秘蔵の御宅で拝見したまま、この度久々の拝観のものも 数多く、誠に千年伝世の尊さは何にたとえようもありません。そしてつくづ くと感じました事は、概して幾年目かで拝見した神品が、非常に奇麗で美し く新しいのに驚きました。私の記憶の方が古色がひどいのであります。今ま のあたり見ますと、古色蒼然とした奥から神彩の赫々として迫るところ、剥 落も槌色も眼に入らず、今描かれたように思えます。この恭ない心持を何と 申しましょうか、私はその言葉を知らないのであります。真に生きている甲 斐があると思いました。  初めての拝観では、入場早々かねて音に聞く細川侯爵家蔵、筆者不知の 「長谷雄草紙」に吸い付きました。これはまた物語と相侯って何という面白 さでありましょうか。  初の段は中納言紀長谷雄という、世に重く用いられ容貌も美しき人が、あ る日夕暮に内にまいらんとせられたる時、いまだ見も知らぬ人でただ人とお ぽえぬ人が訪ねて参り、双六をうたばやといい、そして敵おそらくは君ばか りならんと気を負った申し分、中納言怪しゅうは思いながら試みる気になり、 彼男の我至る所へおわしませとの言葉に従い、ものにも乗らず供をも具せず ただ一人、彼男に伴なわれて外へ出るというのであります。  絵は先ず都の夕暮、時節は晩春でしょうか、夕霞の中に門が見え、その前 に赤の総をつけた白馬と従者三人がいる。門の中には牛車がおいてあるのは 主の出門を待っ様子ではありますまいか。その奥大きな柳の木の下の廊に、 中納言と彼男が対座しているところ、中納言は実に色の白い、ふとって眼大 きく眉太く口赤く髭の黒い好男子の偉丈夫で、これがまことによくかけてお ります。冠に黒の抱、帯剣という装い、一人の男は面長で髭あり、鋭い大き な眼、高い頬骨で顔色のわけて黄色いのが目だちます。立烏帽子に緑の水干、 上へ自く一段とった黒の水干袴、素足に黒の履をはいている。さて話はきま りました。二人連れ立って表ヘ出ます。この二人が夕暮の道を行く景色が面 白い。  先ず一面に薄浅黄に夕霞がこめた街、物を売る小店では子を背負うた女房 が買物をしている。店は上へ鳥や草履を釣り下げ、下には魚を並べて子供が 商いをしている。側に大木が一本生えて、その蔭に車が置いてあります。そ の車の長く突出ている|韓《ながえ》に猿が一疋つないである。一人のいたずら者が子供 を抱えて猿の側に近づけようとする。猿は大いに怒る。子供は抱えられなが ら棒を持って身構えをする。隣の家の布袋腹の男は家の者と笑いながら見て いる。  遠くから子供が町を飛んで来る。小直垂にわらじの商人が荷をかついだま ま立ち停まる。この夕露の中に目立って赤い猿の面、それをめぐる一群の人、 その側を中納言と彼男は通り過ぎるのでありますが、誰も気がつく者はあり ません。この道行は長く続いたのでしょう。日もだんだん黄昏て彼男の立烏 帽子は何時か風折となっている。  次の段は二人が夕暗の中に魏然として立つ塗白壁の朱雀門の下に立ってお ります。男は見上げてこの楼上で双六をしようという。詞書に、「のぼりぬ べくもおぽえねど、男の助けにて、やすく登りぬ」とあります。夕暗こめた 街々の上にそびえ立つ朱雀門楼上の双六、この景色が実に結構であります。 彼男申す様、ただの勝負にては興薄し、賭物を致さんという。中納言何を賭 けるやと問わるれば、彼男われ負けたらば、みめも姿も心ばえもたらぬとこ ろなくおわさんさまならん女を奉るという。中納言は我の持ちたる宝をさな がら奉るべしという。この約束でいよいよ勝負が始まるのであります。下の 街々では夕餉の最中でありましょう。  さて双六の合戦は始まりました。戦うほどに中納言の方が勝目とみえる。 詞書に彼男「負くるにしたがひ、さいをかき、心をくだ」くとあり、そのう ちに赤面金眼の鬼となる。絵には衣裳は元のままで、顔と手の真紅な鬼が必 死になっている所が画いてあります。中納言は恐ろしと思いましたが、豪毅 な人でありますから、そのまま勝負を続け、ついに鬼の負けとなる。勝負が 定まりますと元の人の形に戻り、「からくも負け奉りぬるものかな、しかじ かその日わきまへ侍べし」と申したと詞書にあります。そして元のように楼 上からおろしてくれました。  その約束の日は来る。中納言は終日心待ちに待たれたでありましょう。そ の夜ふけに彼男参りました、光るような美しいあでやかな女を連れて。詞書 に「中納言めも珍かにおぼえて、これはやがて給はるか、と問へば、さうに 及ばず、……但こよひより百日が過ぐして、誠にはうちとけ給へ。もし百日 のうちにおかし給ひなば必ず本意なかるべし」という、とあります。そこで 中納言がこれを誓われると、彼男は女をとどめて立ち去りました。中納言は 夜が明けてこの女を見ると目も心も及ばず、この世にこのような人もあるか と、ただ呆然としておられたという。  この段の画には、夜更けの中納言の邸の庭に青葉の梅らしき枝振りの面白 い木があり、柳が青々と垂れている。室の中に中納言は立烏帽子に白の直衣、 奴袴の姿で、前の通りの装の彼男と向い合って座る。美女は垂れた簾の際へ 身を寄せ、後姿で黒髪を長く引いてまことに風情ある様子であります。装束 は薄紫地に白く桜の模様の唐衣に、表着に浅黄地へ白菊の模様をつけて、五 衣裳は白地に波、そして緋の長袴をはいている。この後姿はまことに恥らい の姿であります。  そして日をふるうちに、心ざまのやさしく情ある事もわかり、ただただな つかしくなられたのであります。日数八十日ばかりになりました時、中納言 あまりなつかしさに今の日数も多く積ったこと故、必ず百日と限らずともと いう心が出でました。詞書には、「たへがたくおぽえてしたしくなりたりけ れば、すなはち、女水になりて流れうせにけり」とあります。「中納言悔い のやちたび悲しめども、更に甲斐なかりけり」とはまことに左様でありまし ょう。  この段の画は矢張り深夜の心と見えます。前栽の木には熟した梅らしい実 をつけて、下は遣水が流れている。檜皮葺の室内に、中納言は立烏帽子に青 色の小袖で、薄色に白紫の梅の文をつけた赤い裏のA衣をかついでおります。 女は小桂に緋の袴で黒髪を長くうつふして、腰から下の衣紋の線は水となっ て|濤《せんせん》々と細く流れ縁より地へ消える。  次は詞書に、 かくて三月ばかりありて、夜ふけて中納言内よりいでられける道に、あや しき男きあひて、車のまへのかたよりきて、君は信こそおはせざりけり、 といひ、気色あしくなりて、ただよりにちかづきければ、中納言心をいた して、北野天神助け給へ、と念じ侍りける時、空に声あり、びんなきやつ かな、たしかにまかりのけと、おほきに怒りて聞えける時、男かきけつ如 くうせにけり、この男は朱雀門の鬼なりけり、女といふはもろもろの死人 のよかりし所どもを、とりあつめて人に造りなして、百日過ぎなばまこと の人になりて、魂定りぬべかりけるを、口惜く契ひを忘れておかしたる故 に、みなとけうせにけり、いかばかりか、くやしかりけん、 詞書はこれで終っております。 画は深夜の大路、白丁二人松明を持って先に立つ、中納言は牛車の中で横 顔を見せる。車の左側に赤鬼金の眼を輝かし、水干の両袖をはねて赤い両手 を出して近寄りつつあります。車の次に供人が五人おりますが、それを遥か にはなれて、鬼が夜気の中を赤い両手両足を出したまま走って終っています。  この終りの所も誠によいと思います。そしてこの鬼が人の姿の時の顔が、 現代の人で筆をとっては鬼神のようなある大家に悌が似ていると思いました。 阿修羅王に似た女  私のずっと前に、何かの雑誌にぽんたの顔がきれいだと書いたことを覚え ている。全くあの顔は、今でも美しい顔だと思っている。然し、それかと云 って、あの顔が私の好みの顔だと早合点して貰っては、大いに困る。  ぽんたに限らず、凡ての生きている女、または、かつて生きていた女は、 私の趣向にはぴったりと来ないのです。  妙な言い草だが持えられた物が私は好きで、能楽のお面が、コクリと首を 傾けて、下を見た時などの、あのふとした表情の動きなどが、何とも云われ ぬほど私には嬉しい。  仏像が好きになって、どうとかして、一生のうちにああした物を描いて見 たいものだという過大な念願を起したのは、まだ子供の頃でした。無論現在 も、未来も私はその念願に精進する心構えでいますが、何の実績も挙げてい ないのだから、その事を口にする資格は私にはない。丁度それはタバコを止 めるとか、明日から早起きをするとか云うことと同じで、実際にやって示さ なければ何の値打もないことなのです。  だから、私の仏像論なんか、三文の値打もないと云うことは、私自身が一 番よく知っています。  では、それを知っていながら、何故仏像の話を持ち出したか、と云うに、 それは一応絵描きとしての私、人間としての私の好みの焦点をはっきりさせ ておかないと、これから話して見ようとする私の過去の或事件が、その與味 の大半を喪失してしまいはしないかと思う懸念があるのです。  で、もう一度重ねて、何の価値もない私の仏像論を進めさせて貰います。 ー仏像の類はまた人間の数ほと多くて、同族と見なされる仏像にしてもそ の顔は、一つ一っ違っている。私がこれまでに見た数多くの仏像の中でも最 も心を惹かれたものは何であるかと云うと、先ず奈良の興福寺に安置されて いる阿修羅王の立像です。その阿修羅王というのは、ほっそりと痩せた、優 さ形の仏像で、顔が三つに手が六本あるもの。 45  阿修羅王に似た女  上野の日本画科に入って後、私はずっと根岸に下宿していました。もうか れこれ三十年も前のことで、今電車の線路が縦横に引かれているあの界隈は、 当時見渡す限りの田圃で、根岸から龍泉寺の方面にかけて、あちこちに大き な池があって、朝早く散歩していると、蓮の花が、かすかな音を立てて咲い たりなどしたものでした。  その辺りの気分が好きで、私は朝に夕に、そこの田圃道を散歩して、時と しては、お酉様の辺りから、吉原の茶屋町の中まで、うっかりはいっていた こともありました。  今あるかどうかそれは知りませんが、その頃は屋台のにわかがあって、舞 台をがらがら茶屋町の中まで引きこんで、両側の茶屋の客達が顔を窓からつ き出してそれを見物したものでした。  学生で、しかも|現身《あらみ》の女を毛嫌いしていた私です。むろんそのお茶屋へな ど上がる気づかいはありませんが、或夜、龍泉寺の蓮池のあたりを散歩して、 ぶらりと明るい灯の町に出て来ると、この移動舞台のにわかが茶屋町のはず れにとまって、これからにわかをはじめようとしているところでした。  で、さしせまった用事のある身でもないのだから、私はにわかのすぐ下の ところに立って、ぼんやりと前の方を見ながら、にわかの始まるのを待って いたのです。  向い側の通りのお茶屋で、お茶屋の間がせまい露地になっているのですが、 露地の入口は、軒灯の灯でぼっと明るくて、奥の方は暗闇でした。  ところが、その夜は丁度満月で、私がにわかのはじまるのを待っていると、 ほんの数分間に、その露地の奥にあたって、大きな銀盤のような月が、ゆさ ゆさとさし登って来たのでした。  賑やかな町に私は立っていました。  賑やかな町にも一つだけもの静かな露地があって、露地の奥は暗い。  その露地の奥から今しも大きな白い月がさしのぼった。 私もまだ若かった。ひどく感傷的な気持で、その月を見たことはいなめま せん。  その時、露地の奥の或家で、格子戸の開く音が聞えて、誰か通りの方へ出 て来るらしいのが、姿は見えない。からん、ころん1石だたみをふむ下駄 の音が聞えて間もなく、一人のおしゃくがそこへ姿を現わしました。 満月を背中に背負って長い挟をゆらゆらさせながら、こっちへ近づいて来 るおしゃくの姿は、まるで月の中から出て来た人間のように、微妙な蔭と色 彩を呈して、画学生の私の眼に、その姿を投げこんで来たのです。  その瞬間、私は「おや」と思った。  これは、確かにどこかで一度見たことのある顔だとその時思ったのですが、 さて、どこで逢った娘だか、そこをはっきりと思い出せない。  そのとき娘はもう露地を出はずれていて、気のせいかその娘は、まっすぐ に私の顔を見つめながら、賑やかな街を横ぎってこっちへ急いで来ます。  私は当惑して、そっとどっかへ逃げようかと思ったが、逃げてしまうには 何となく惜しまれるものが、私の心の中にあって、もじもじしている間に、 私とばったり顔を突き合わすあたりまで近づいて来たその豊麗なおしゃくは、 馴れた手つきで、ひょいと舞台の横ののれんのような青い幕をまくると、そ のまま中にはいってしまいました。  何のことだ、私は、自分が、この町の移動舞台の楽屋口のすぐ前に立って いたということをつい忘れてしまっていたのでした。  露地から出て来たおしゃくは、つまり今夜のにわかの役老で、今楽屋入り をしたところです。1単にそれだけのことで、それ以外に何の意味もなか ったのです。  間もなくにわかがはじまって、両側に並んだお茶屋の客は、謂わば桟敷の 客で、我々路ばたに立っているものは、一かたまりになって、夜店の手品を 見るように、舞台の上をのぞきこむのでした。  舞台といっても、屋台だから、むろん狭いにきまっている。その狭いとこ ろへ常磐津の連中もよこにいて、場所といっては畳で二畳かそこら敷ける位 のものです。  そこへ最初に出て来たのは、一眼見て|噴飯《ふきだ》さずにはいられない|滑稽《こつけい》な格好 の坊主でした。  しかも、後で唄っている唄の文句でその坊主が一休和尚であると知って、 私は面白くなりました。  和尚が出ると、その次に横手ののれんをまくって、紫の鉢巻をして、振袖 を着た女の子が姿を現わしました。  その女の子というのが、さっき露地から出て来たおしゃくで、役は野崎村 のお光。前へ出ている一休和尚にそのお光が惚れて、失恋の結果、気が狂う ってところらしい。  さまざまと恨み言を言いながら一休和尚の前で、その狂女が踊る。和尚は 和尚で、それをしきりに慰める。 「これさ、お女中、世の中というものは、そんな堅苦しいものではない。' つ思い直して朗らかに」  と云うような意味の科白が和尚のロから出る。そこへにな川新左衛門が出 て来て、問答をする。 「僧侶の分際で、女の子と遊ぶとば何事じゃ、衣の手前何とか申し開きを立 てましょうー」  と、息まく。和尚はあわてて、実はこれこれと訳を云うが、にな川は頑と して聞き入れぬ。そこへひょっこりと、地獄太夫が出現して、うまく三人の 間を仲裁し、おしゃくの扮する狂女がめでたく正気に返るというところでオ チです。  これは全く単純な筋のにわかです。  然し私は、片っ方からだけ受ける電灯の光で、顔に濃い隈を造りながら踊 っているおしゃくだけを見ていたのです。筋などはどうだってよかったので す。  にわかがはねた時、私の頭にはっきりと来たものがありました。  さっきおしゃくが露地から通りへ出て来た時、たしかにどこかで一度逢っ たことがあるように思ったのは、決して錯覚ではなかったのです。  このおしゃくの顔が、奈良の興福寺に立っておられる阿修羅王の仏像の顔 と瓜二つなのです。おしゃくが、顔に濃い明暗をつけて、踊っているのを見 ている間に、私はそのことをはっと思いあたりました。  興福寺に立っている三面六胃の阿修羅王に似ているなどと批評されては、 女にとっては迷惑なことに違いありません。  然し、その阿修羅王は、こわい顔じゃなくて、今生きているもの、また過 去に生きていた、世界中のどの女よりも美しく好ましい姿であるのです。い くよさんーあとで私達は交際をするようになったが、おしゃくの名前はい くよである。1にも、この失礼な批評は許してもらいたいものです。  その日から三十年近くの歳月が経って、私達が好んで散歩した道の、両側 の田圃や池も、全部地上からその姿を消し、そのあとヘギッシリと家が建っ て、電車線路が縦横に引かれてしまっています。  そのように、あの時、たしか十五か六であったいくよも、今ではもうすっ かりおばあさんになってしまっていることでしょう。その後はどうしている か絶えて消息を聞きませんが、その頃私が描いたいくよの顔の絵もたしかに 二、三枚はあったはずです。この四、五年の挿絵商売の忙しさに取り紛れて どこへしまいこんだものか、いく度捜しても見当りません。  その後不幸にして、あの阿修羅王の顔に似た女は、一人として私の前に出 現してくれません。 古寺巡り  小春日和の古寺巡りは、私にとって唯一の楽しみであります。このほど法 隆寺へ参り、十年目で夢殿の観世音の御開帳に参り合せ、仕合せを致しまし た。この御仏は人も知る何百年という長い間、秘仏として誰も拝んだ事がな く、御姿の様子も全く分らなくなっておりましたが、明治になって岡倉天心 先生が初めて開いて驚嘆せられたという事であります。微笑しておられるそ の御顔など、絶言語というばかりであります。一度拝んで参りますと暫く人 間が変ります。その日は実に珍しいよい日和でした。寺の後は荒れた草原で 名も知れぬ秋草が乱れ、とぎれとぎれに虫が鳴いています。すわりこんで、 今朝から拝んで歩いた御仏の上を思い、虫の音を聞いていると、現在が今の 事か昔の事か分らなくなる。岡倉天心先生の作にこういうのがあります。 夢の世の中、世の夢の中、泣て笑てわらうて泣いて、 何を便りに松虫の、沈々沈地露淋、沈々地沈地露淋、 月なき秋のやるせなや 残る涙が命の露よ、 沈々淋々沈ちろりん、 又、 桜木を砕きて見れば花はなし、あると見しよの三芳野や、霞を結ぶ雲の帯、 とけて流れて行末は、妹山背山緯るかや、三世同聴一楼鐘、花間に恨を君 なくは 三世同聴一楼鐘の句が頻りに思い出されました。 挿絵のモデル 個性なき女性を描いて  君の絵になりそうな美人がいるから会ってみないかと、誘われることがよ くありますが、会ってみて、なるほど美人だと思っても、直ちにそれを絵に してみようという気になるものではありません。世の中に美人は多いでしょ う、しかし美人と絵になる美人とはまた違ったものですし、殊に私の場合 少々厄介な註文がつきまといます。  私が好んで描きたいと思う女は、その女が私の内部にあるもの、何といい ますか、一口にいえば私の心像です。この心像に似通ったものを持っている 女です。そんな人を発見した時に私の好む女の絵が出来上がるのです。  たとえていえば、私は幼いころ見た、ある時ある場合の母の顔が瞼の裏に 残って忘れられません。ロではいい現わせない憧れに似た懐しさを感じて、 これが私の好きな女の顔の一つなのです。また京都の或るところで、とても いい御所人形を見せてもらったことがありますが、その艶々しい顔がまた忘 れられないものの一つなのです。錦絵では国貞のものに好きな娘の絵が一枚 あります、この娘も好きな女の一人です。  それから私は仏像がなによりもすきです。特に好きな仏像も沢山あります が、たとえば、奈良の興福寺にある阿修羅王の像は、威厳と艶麗とが溶け合 って、何ともいえない美しい姿です。これも好きなものの一つです。  以上述べたようなものが、常に心の奥に描いても憧れてもいる私の好きな 女の顔であり、美しい姿であり、美であるのですが、この私が心に描いてい る心像に似通ったものを持った女の人を現実に発見した時、私は求めたもの を遂にさがしあてたような喜びを感じて、それがあまりによく似通った場合 は薄気味わるくさえなりながら、それだけに喜びは大きく、かすかな興奮を おぼえて筆をとります。本当をいうと右に引いた母の顔、人形の顔、国貞の 錦絵、仏像は、皆実在の人物中にそれに似通った人をそれぞれ発見して、こ れまでにいろいろな女の絵に随分使いました。  人形や仏様を手本にするのですから、私の描く人物には個性がありません。 個性のない人物、これが私の絵の特徴で、同時に私の最も非難される点です。 しかし私としては、個性を描出することには興味が持てないのです。風景を 描く場合でも理詰めの遠近法は採りません。自然写生ということもやりませ ん。私が女を描く場合も、決していわゆる写生をしたことがありません。写 生と写実には興味が持てないのです。  では個性のない人物を描いてどこに興味を置いているのかといえば、私は あの能面の持つ力に似たものを希っているのです。能面は唯一つの表情です。 しかし演技者の演技如何によっては、それがある場合は泣いているようにも 見え、またある場合には笑っているようにも見えます。つまり私は個性のな い表情のなかにかすかな情感を現わしたいのです。それも人間が笑ったり泣 いたりするのではなく、仏様や人形が泣いたり、笑ったりするかすかな趣を 浮かび出させたいのです。これが私の念願です。勿論一度だってその念願を 達したことはありませんが、この念願を極めるのが私の仕事です。 春の女  朝起きると昨日の風に引かえて、あまりの晴天に俄に思い立って、十幾年 目で近郊の或る古寺へ詣りました。駅から寺まで、五、六町の畑道をぶらぶ らと小鳥の声を聞きながら歩くと、気が遠くなる。真黄色に咲いた菜の花の 根元に蜆の貝殻があったり、麦畑に赤いメリンスの小裂が落ちていたりして 面白い。時々遠くで太鼓や鉦の聞えるのは、今まで乗っていた電車に途中か ら乗り込んだ酔った花見の一行が、所嫌わずはやし立てたのが耳についてい たのでしょう。  寺は左側で大ぎな茅葺の門を入ると、遥かに正面に本堂が見える。その道 の両側にある沢山の桜は盛りを過ぎて、咲いている花よりも道に散っている 花の方が多い位でした。御詣りをして本堂の裏へ出ると、昔の講堂や僧房の 跡が一面の野原で眼がさめるようです。野原の周囲は本堂の方だけ開いて三 方は小山で囲まれ、丁度摺鉢の底のようになっている。山は向って正面から 左手へかけて松が青々と繁っていますが、右手の山は全くの枯草山、それに 日が当って黄金色に輝いております。空は薄群青色に澄み切って枯草山の彼 方に広がる。その辺りを見ていますと、春というよりは小春日和のような心 持がします。此所は桜も山の麓に四、五本若い山桜があるばかりで、花見の 客は一人も見えませんが、それでも東京の人らしい摘み草の女連れが三組、 五人連れと三人連れと二人連れと、各々離れた所ヘ包みを拡げておりました。 洋服の子供や髪を伸ばしかけたお嬢さん、束髪や丸髭の奥さんもまじる中に、 洋髪の令嬢二人の槌紅色の着物と萌黄色の着物とが美しく目立ちます。  青い草原に萌黄の色は一つになるという理窟もありますが、原も着物も緑 の中に白い顔と黒い髪が引き締まって奇麗だと思いました。摘み草といって |つくし《れんげ》 も、土筆は沢山ありますが盛りが過ぎたし、土地の乾いているためか紫雲英 はなし、董は一杯に咲いておりますが如何したものか色が淡い。ただ見事な のは一面に生い立った草の萌えるような緑です。多分あの人々もお弁当を食 べたり唱歌を唄ったりして遊んでおればよい気持なのでしょう。元気のよい 娘さん達は向うの枯草山へ遥かに登って参ります。その辺は夏になったら蛇 で大変でしょう。今は大和絵ならば黄土に金泥の返りぐまをとりたくなる処 です。  私は土筆を除けて仰向きに長々と寝ました。全く珍しい好日和です。昨日 の風は何所へ行ったかと思われる位で、門前の桜があのように地面一面に散 っているのも、昨日の風のためと思われますが、それにしてもこの静かさは 如何した事でありましょう。枯山の後はたしか海のはずですが波の音もしま せん。忘れた時分に摘み草の女の児の声が幽かに聞えるだけです。何所から か白い蝶が二つ舞い上がりました。見詰めているうちに、だんだん高く上が って蒼空にとけこんで見えなくなりました。  何時の間にか眠ったと見える。温か過ぎるので眼が覚めました。蝶があの ように高く飛ぶのを初めて見て、雲雀の上がるのは見たがなどと考えている うちに眠ったと見えます。摘み草の方はまだ元のまま遊んでいる。少し暑過 ぎて頭が重いので起き上がって本堂の方へ行く。何時来たか、村の子供が三、 四人縁の下へもぐって土を掘って何か探してる。|嬢姑《おけら》でも捕えようというの かしら、しかし今時分嬢姑のいる時かしらなどと考えながら、本堂を一廻り して、その隣にある何様か解りませんが三間四方位の御堂を廻って後側へ出 ようとして、はっと立ち止りました。御堂の縁に若い女が寝ているのです。 こちらへ背を向けて襟足を長く出して前屈みに倒れたように。薄色の着物に 白地の帯が眼につきました。病気か、泣いているのか、前へ廻ってそれとな く見ますと、頬を縁へつけるようにして指の先で縁板へ何か書いている様子 でありましたが、私を見ると顔はそのままにして眉を餐めて眼だけ笑いまし た。  逃げるようにしてまた本堂の方へ廻る、年は二十か一位、非常に色の白い 切れの長い大きな眼に締った小さな唇が真紅に見えた。咄嵯に|埃及《エジプト》古画の女 の顔に似ていると思いました。私は一寸どうかしたのでしょう、まだ縁の下 にいた子供にいきなり何を探しているのと聞くと、返事もせずに逃げてしま いました。私はどうも少々ぼんやりしたようで変な気になりましたので、そ ろそろ帰ろうと思ってそっと縁の方をのぞいて見ると、何時帰ったか姿はあ りません。気は答めましたが、何が書いてあるか見たくなりましたので縁へ 近寄ると、古びた板に錯落たる爪の跡が見えます。文字のようでありますか ら更に近く寄ってよくよく見れば、 青天白日覚亡子 白日青天寛亡子 青天白日寛亡子 新聞小説の挿絵 「忠臣蔵」を調べる  私はこれまで「忠臣蔵」というものは好きではありましたが、特に興味を 持ってはおりませんでした。「報知新聞」の「忠臣蔵」の挿絵をかきますに つき、泉岳寺は元より京都山科の大石閑居の跡、赤穂等を見て参りましてか ら、実に「忠臣蔵」が好きになりました。ことに赤穂は交通の不便なためか、 いかにも物静かなところで、昔の城下町の様子が誠によく残っております。 赤穂城などは建物こそありませんが、郭は皆元の如くで、元禄の絵図をひろ げて見ますと、義士の邸の跡も皆よくわかります。  大手の門内に大石邸、これは表門が元のまま残っております。水手門内に 奥野将監、塩屋門内が大野九郎兵衛の邸で、今は畑となり石垣には荒草が繁 っております。四十七義士の顔には困りました。画像や木像を随分見ました が、いずれも長幼の別だけで同じ顔が多いのです。結局、赤穂花岳寺住職の 厚意にすがりまして、木像堂の木像を皆写させて頂き、これによって顔をか きました。これは義士三十年忌に出来たと申すことですが、中々よい作で、 作者は三人くらいかと思われました。その日はちょうど小春日和で、お濠を 埋めた田の中の城の石垣の下におりますと、日が真黄色にてらし、苔の蒸し た石垣には真紅な蔦がからみ、裾には野菊が咲いておりました。 夢の中の美登利  或日、うたたねの夢に、上野の美術展覧会で鏑木清方先生の絵を見た。絵 は樋口一葉女史作の『たけくらベ』絵巻凡そ三十枚続き位の大作、お歯ぐろ 溝に紫陽花のしおれたのが一輪捨ててあるところ、朝霜の深い中に美登利が 金魚屋の池で金魚に見とれているところ、夕暮長吉が蚊柱を分けて龍華寺の 庭先へ顔を出すところ、反歯の三五郎の長屋の路次の行き止りに紅い蓮が咲 いている、筆屋の店先で、色の白い正太郎が祭の装いで「忍ぶ恋路」を小声 で唄っている、祭の夜筆屋店先の大喧嘩、美登利の太郎稲荷へ朝詣り、中田 圃のところ、廓のうちの真昼いろいろな芸人が落合うところ、夜筆屋の店の 秋雨、雨の中へ捨てられた紅入友禅の切れ、美登利午の日に縷紅草を買うと ころ、酉の市の人ごみの中にひときわ目立つ美登利の初々しき大島田、その ほか様々の場面があり、つくづく敬服して立ち帰り兼ねている所で眼が覚め た。考えて見るまでもなく、これは先年、清方先生が泉鏡花先生の註文帳を 絵にされたのを拝見して、誠に誠に讃嘆した事が、形をかえて夢になった事 と思われる。情なくも惜しい事には、覚めると同時にその絵が生彩を失って、 自分の絵になってしまった。  その夢の絵の中へ出て来るもので思い当るものが中々ある。紫紺色をした お歯ぐろ溝に紫陽花のすててあるのは実際見た事がある。路次の行き止りに 蓮が咲いたのは久保田万太郎氏の俳句、反歯の三五郎の顔は根岸のすし屋の 子、その他だいたい見当がついたが、さて肝心な美登利の心当りがない、何 所かで見たような姿とは思うが、如何しても思い出せなかった。  ところが四、五日前の晩、久しぶりにある山の手の小料理屋へ入ると、は っと気がついた。そこの妹娘が夢に見た美登利であった。その家は、揃って 姿のよい姉と妹で小ていに開いている店、妹の方は二十、色は少し浅黒いの にいつも白粉気なし、眼は活々としてきつい方、顎は心持つまって、形のよ い鼻先がちょっと上を向いている。これが酔払い客が悪くからかうと、鼻の 先を動かして、眼をくるくるさせてつっかかって行くのが、誠に可愛いらし い。江戸っ子に見えるが、生れは北海道だそうである。さてその晩は髪は眼 のつり上がるほど引っつめた今風の束髪、ちょっと見ると若い娘がくし巻に 結ったかと見える。地浅黄にお納戸の|村濃《むらご》、白く撫子を染めたゆかた、紫地 に浅黄で流れを出した帯、薄い黄色の背負上げ、|朱鷺《とき》色の手檸をきつくかけ て種痘の纐帯が見える。白いひだをとった前掛で相変らずの白粉気なし、今 年見た夏の女で美しいと思った一番最初の人。 女を乗せた船  父を失った私は、それまで住まっていた下谷根岸の家を畳んで、祖父母と 共に川越の叔父の家に引き取られました。まだ汽車はなく、浅草の花川戸か ら荷物と一緒に船に乗り、途中一晩泊りで川越へ参ったのです。  初秋の頃でありましたろうか、川には水嵩が増して、不気味な渦が無数に 流れておりました。途中で、田舎から東京ヘ出る一艘の船に擦れちがいまし たが、矢張り引越しらしく、家財道具を積み上げております。  そしてその荷物に佗しく僑りかかって、ぼんやり水面を|凝視《みつ》めている女が ありました。  今にも降り出しそうな曇空の下の活々と濁った大川の上で、思いがけなく も見かけたその姿を、限りなく美しくもまた淋しく思った事でした。  女を乗せた船はすぐ遠ざかり、やがて私共は田舎へ落着きました。  其処は旧城下の郭内で、菜種や桐の花が咲く夢のような土地でしたが、船 の中の女は時々思い出されて、その運命が優く想像されるのでした。私の一` 十歳か二十一歳ぐらいの頃のことです。 泉鏡花先生のこと  私が泉鏡花先生に初めてお眼にかかったのは、今から三十二、三年前の一` 十一歳の時でした。丁度、久保猪之吉氏が学会で九州から上京され、駿河台 の宿屋に泊っておられ、豊国の描いた日本で最初に鼻茸を手術した人の肖像 を写すことを依頼されて、その宿屋に毎日私が通っている時に、鏡花先生御 夫妻が遊びに見えられて、お逢いしたのでした。  久保氏夫人よりえさんは、落合直文門下の閨秀歌人として知られた方で、 娘時代から鏡花先生の愛読者であった関係から親交があったのです。  当時、鏡花先生は三十五、六歳ですでに文運隆々たる時代であり、たしか 「白鷺」執筆中と思いましたが、二十八、九歳の美しいす父子夫人を伴って 御出になった時、自面の画工に過ぎなかった私は、この有名な芸術家にお逢 い出来たことをどんなに感激したかわかりませんでした。その時の印象とし ては、色の白い、小さな、綺麗な方だということでした。爾来今日に至るま で、先生の知遇をかたじけなくする動機となったわけです。  鏡花先生は、その私生活においては、大変に人と違ったところが多かった ようにいわれておりますが、私などあまりに近くいたものには、それほどと も思われませんでした。何故ならば、先生の生活はすべて先生流の論理から 割り出された、いわゆる泉流の主観に貫かれたもので、それを承るとまこと に当然なことと合点されるのです。即ち人や世間に対しても、先生自身の一 つの動かし難い個性というか、何かしら強味を持っておられた人で、天才肌 の芸術家という一つの雰囲気で、凡てを蔽っておられました。その点偏狭と も見られるところもありましたが、妥協の出来ない人でした。しかしその故 にこそ、文壇生活四十余年の間、終始一貫いわゆる鏡花調文学で押し通すこ との出来たわけでもあり、文壇の時流から超然として、吾関せず焉の態度を 堅持し得られたものと思われます。  先生が|生物《なまもの》を食べないということは有名な話ですが、これは若い時に腸を 悪くされて、四、五年のあいだ粥ばかりで過ごされたことが動機であって、 その時の習慣と、節制、用心が生物禁断という厳重な戒律となり、それが神 経的な激しい嫌悪にまでなってしまったのだと承りました。  大体に潔癖な方ですから、生物を食べなくなってからの先生は、如何なる 例外もなく良く煮た物しか召し上がらなかった。刺身、酢の物などは、もっ てのほかのことであり、お吸物の中に柚子の一端、青物の一切が落としてあ っても食べられない。大根おろしなども非常にお好きなのだそうですが、生 が怖くて茄でて食べるといった風であり、果物なども煮ない限りは一切口に されませんでした。  先生の熱燗はこうした生物嫌いの結果ですが、そのお燗の熱いのなんのっ て、私共が手に持ってお酌が出来るような熱さでは勿論駄目で、煮たぎった ようなのをチビリチビリとやられました。  自分の傍に鉄瓶がチンチンとたぎっていないと不安で気が落着かないとい う先生の性分も、この生物恐怖性の結果かも知れません。  生物以外に形の悪いもの、性の知れないものは食べられませんでした。シ ャコ、エビ、タコ等は虫か魚か分らないような不気味なものだといって、怖 気をふるっておられました。ところが一度ある会で大変良い機嫌に酔われま して、といっても先生は酒は好きですが二本くらいですっかり酔払ってしま われる良い酒でしたが、どう間違われてか、眼の前のタコをむしゃむしゃ食 べてしまわれました。それを発見して私は非常に吃驚しましたが、そのこと を翌日私の所へ見えられた折に話しをしましたら、先生はさすがに顔色を変 えられて、「そういえば手巾にタコの流がついていたから変だとは思ったが 1」といってられるうちに、腹が痛くなって来たと家へ帰ってしまわれた。 まさか昨晩のタコが今になって腹を痛くしたのではないのでしょうが、私は とんだことをいったものだと後悔しました。  またある時、先日なくなられた岡田三郎助さんの招待で、支那料理を御馳 走になったことがありました。小さな丸い揚げ物が大変に美味しく、鏡花先 生も相当召し上がられたのですが、後でそれが蛙と聞いて先生はびっくりし、 懐中から手ばなしたことのない宝丹を一袋全部、あわてて飲み下して、「と んだことをした」と、蒼くなっておられた時のことも今に忘れません。  好んで召し上がられたものは、野菜、豆腐、小魚などのよく煮たものでし た。  食物の潔癖に次いで先生の出不精もよくいわれますが、これは一つには犬 を大変怖がられたためもありました。もし噛みつかれて狂犬病になり、四ツ. ん這いでワンワンなんていう病気にでもなっては大変だということからの恐 怖ですが、それだけに狂犬病については医者もおよばないくらいに良く調べ て知っておられました。犬の怖い先生は歩いては殆ど外出されず、そのため に一々車を呼んで出歩かれました。  雷と船も大変嫌がられましたが、これも神経的に冒険や危険に近づくこと を警戒される結果と思われます。  神仏に対する尊敬の念の厚かったことは、生来からと思われますが、神杜 仏閣の前では常に土下座をされて礼拝されました。私などお伴をして歩いて いる時に、杜の前で突然土下座をされるので、先生を何度踏みつけようとし たか知れませんでした。宮城前ではどんなに乱酔されていても、昔からこの 礼を忘れられたことはなく、まことにその敬慶な御様子には思わず頭が下が りました。  師の尾崎紅葉先生に対しても、全く神様と同様に絶対の尊敬と服従で奉仕 されたそうで、三十年来、お宅の床の間には紅葉先生の写真を飾ってお供物 を欠かされませんでした。  世間では鏡花先生を大変江戸趣味人のように思っているようですが、なる ほど着物などは奥さんの趣味でしょうか、大変粋でしたが、決して「吹き流 し」といった江戸ヅ児風の気象ではなく、あくまで鏡花流の我の強いところ がありました。  趣味としては兎の玩具を集めておられて、これを聞いて方々から頂かれる 物も多く、大変な数でした。  お仕事は殆ど毛筆で、机の上に香を焚かれ、時々筆の穂先に香の薫りをし み込ませては原稿を書かれていたと聞きます。  さすがに文人だけに文字を大切にされたことは、想像以上で、どんなつま らぬ事柄でも文字の印刷してある物は絶対に粗末に出来ない性質で、御はし と刷ってある箸の袋でも捨てられず、奥さんが全部丁重に保存しておられた ようで、時々は小さな物は燃やしておられました。誰でも良くやる指先で、 こんな字ですと畳の上などに書きますと、後を手で消す真似をしておかない といかんと仰言るのです。ですから先生の色紙なども数は非常に少なく、雑 誌社に送った原稿なども、校正と同時に自分の手元においてお返しにならた かったように聞いております。  煙草は子供のころからの大好物だそうで、常に水府を煙管で喫っておられ ました。映画なども昔はよく行かれたそうですが、煙草が喫えなくなってか らは、不自由なために行かれなくなりました。  御著書の装禎は、私も相当やらせて頂きました。最初は大正元年ごろでし たが、千章館で『日本橋』を出版される時で、私にとっては最初の装偵でし た。その後春陽堂からの物は大低やらせて頂きましたが、中々に註文の難し い方で、大体濃い色はお嫌いで、茶とか鼠の色は使えませんでした。  このように自己というものを常にしっかり持った名人肌の芸術家でしたが、 神経質の反面、大変愛矯のあった方で、その温かさが人間鏡花として掬めど も尽きぬ滋味を持っておられたのでした。  同じ事柄でも先生の口からいわれると非常に面白く味深く聞かれ、その点 は座談の大家でもありました。  ともかく明治、大正、昭和と三代に亘って文豪としての名声を輝かされた 方ですから、すべての生活動作が凡人のわれわれにはうかがい知れない深い 思慮と倫理から出た事柄で、たといそれが先生の独断的な理窟であっても、 決して出鱈目ではなかったのでした。  あの香り高い先生の文章とともに、あくまで清澄に、強靱に生き抜かれた 先生の芸術家としての一生は、まことに天才の名にそむかぬものでありまし た。 泉鏡花先生と唐李長吉  鏡花先生は非常な読書家で、中にも『東海道中膝栗毛』などは御自分でも いろ扱いとまで言っておられ、夜分お寝みの時は必ず枕元に二、三冊を置か れ、旅行中も小さな鞄に数冊をいれて一日も傍を離されませんでした。『雨 月物語』や、柳田国男氏の著書なども永年の間少しも変らず愛読しておいで でありました。私が繁々御目にかかるようになりました頃は、ちょうど唐の 李長吉の詩を熱心に読んでおられました時でありましたが、それは笹川臨風 博士が贈られました秩入の唐本で、これは昨年亡くなられますまで床脇に置 かれました。昭和三年に御自分が御書きになりました年譜の一節に、 明治三十九年二月祖母を喪ふ。年三十七。十月、ますます健康を害ひ、静 養のため、逗子、田越に借家。一夏の仮ずまひ、やがて四年越の長きに百 れり。殆ど、粥と、じやが薯を食するのみ。十一月「春昼」新小説に出づ。 うたたねに悲しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき。雨は屋を 漏り、臭軒に鳴き、風は樺の枝を折りて、棟の|柿葺《こけらぶき》を貫き、破裳の天井 を刺さむとす。藍の穂は霜寒き枕に散り、さ、蟹は、むれつ、畳を走りぬ。 「春昼後刻」を草せり。蝶か、夢か、殆ど悦惚の間にあり。李長吉は、其 頃嗜みたるもの。明治四十年一月「婦系図」を、やまと新聞に連載す。 とありますが、この一節などは誠に先生の心持と相通う処があるように私に は思われます。  その名作『春昼』の中に、 蝋光高懸照紗空、花房夜揚紅守宮、象口吹香競藍暖、七星桂城聞漏板、寒 入呆慰殿影昏、彩鶯簾額著霜痕。え\、何んでも此処は、|姑《けら》が鉤閲の下に 月に鳴く、魏の文帝に寵せられた|藪《けん》夫人が、後におとろへて幽閉されたと 言ふので、|鎖阿藪《あけんをとざす》とあつて、それから、夢入家門上沙渚、天河落処長洲 路、願君光明如太陽。妾を放て、然うすれば、魚に騎し、波を|撤《ひら》いて去ら む、と云ふのを微吟して、思はず、襟にはらはらと涙が落ちる。目を膵つ て、其の水中の木材よ、いで、浮べ、鰭ふつて木戸に迎へよ、と睨むばか りに|謄《みつ》めたのでござるさうな。|些《ち》と|尋常事《ただごと》でありませんな。詩は唐詩選に でもありませうか。 とありますのを読んで、先生に御尋ねしましたところ、これは唐詩選ではな く李長吉歌詩の中にあるという事を初めて伺いました。私はそれまで李長吉 という人の名を知りませんでした。  先生が李長吉を好まれましたことは非常なもので、いろいろ様々の御話を 承りましたが、随分不可思議に思われる詩もみな李長吉本来の性情から出で、 その間に一塵の雑り物もないのを好むという事を度々話されました。 「山海評判記」のこと 「山海評判記」は昭和四年七月から同年十一月ヘかけて、「東京時事新報」 へ掲載されました長篇小説で、泉先生五十六歳の作であります。これより先 き同年五月、能登国和倉温泉、和歌崎館へ遊ばれ、帰途、金沢市上柿木畠藤 屋旅館へ宿られました。この能登行は令夫人とそれから金沢市で針屋をして おられました鏡花先生の従姉に当られる、おてるさんというお方と御一緒で、 あまり旅行をされない先生としては珍しいことでありましたが、あとになっ て見ますと、この時の御旅行のことが「山海評判記」の中にしばしば出てま いるようであります。  このおてるさんという方は先年亡くなられましたが、この頃は五十歳あま りな御若いうちは|嚥《さぞ》と思われますような美しいかたで、しかも気性の激しい 方で、先年も金沢市を流れる浅野川にかかる大橋の真中でしかも雨中、鏡花 先生がすれ違っても眼の色を変えられるほど怖れておられた大犬をけしかけ て、先生があわてられるのを見て面白がっておられるような方で、私は先生 の名作「ささ蟹」の中の「お京」はこの方のような気がしてなりません。こ の旅行から御帰りになって間もなく、「山海評判記」が「時事新報」の紙上 に載ったのであります。  第一回から場所は能登国和倉の温泉宿でありました。私はこの小説に怪し げな挿絵を画きましたので、殆ど毎日のように先生に御目にかかりましたが、 先ず紙芝居の説明に驚きました。この紙芝居は何時頃から市中にあらわれま したか私は知りません。只今でこそ紙芝居といえば誰でも知っており、また 種々問題にもなっておりますが、昭和四年頃の私は初耳でありました。この 紙芝居を如何いたしても一度見る必要がありますので、先生と御一緒に随分 方々を歩きましたが、何分数の少なかった時分でありますから探すとなりま すと、中々行き当りません。芝の方まで探して漸く見つけた事もありました。  この芝には愛宕様の下あたりに、先生の前から御別懇の方で、女の踊の師 匠をしておられる方がありまして、其所へも御一緒に伺いました。縁先の箱 庭にあった焼物の白鷺や稽古の舞台、二階にある役者絵の小屏風の事など、 その外篇中所々にこの御宅の情景が見えるようであります。先生もこの事を 気にされましたと見え、丁度その家で「時事新報」をとっておられたので、 元来小説の内幕を人に話される事を極めて御嫌いになった先生は、「どうも 書きにくくなるから、出来上がったら本を上げるから、それまでこの小説を 読まずにいて貰いたい」と、繰り返し言っておいででありましたが、その家 の方が果して読まずにおられましたか如何か、私は知りませぬ。  それから先生が柳田国男先生の著書を非常に愛読しておられました事は、 久しい以前からの事でありましたが、この篇の中に柳田先生から御聞きにな りました、東北地方で篤く尊信せられるオシラ様という神様が、小説の中へ あらわれて非常な働きをなされます。  この篇の時代は昭和四年頃現在でありまして、水上瀧太郎、久保田万太郎、 里見淳氏などの御名前も中に出て参ります。この小説は起稿より御脱稿まで の凡そ五ヶ月間位、先生は外出もされず、あまり人にも遇われず、毎日必ず 組込みの五日前の原稿を一回宛お書きになられました。その精進はいつもの 事ながら恐れ入ったものでありました。 『参宮日記』と『日本橋』のこと  小説『参宮日記』は書きおろしの時は「二挺鼓」と題されまして、大正二 年八月から鰭崎英朋氏の挿画で「京城日報」ヘ連載されたものであります。 尤もこの小説の書きはじめ数回は、「森の中」と題して明治四十四年八月、 博文館発行の雑誌『太陽』の十七巻の十号に掲載されましたものです。  その後「京城日報」へ連載されましたものをまとめて単行本一冊として、 春陽堂から出版されましたのが、『参宮日記』であります。大正三年の事で ありました。そしてこの小説はまだまだ長くなる御腹案がおありのように伺 っておりました。この春陽堂版の『参宮日記』は、名取春仙氏の表紙装槙で 鰭崎英朋氏の口絵がありました木版刷のそれは精巧なもので、畷の雨の中を お玉が鵜の按摩に駒下駄を拾わせるところでよく出来ておりました。この本 が町へ出ました大正三年正月の初売には、丁度この時同時に先生の脚本で 『恋女房』が、日本橋檜物町の鳳鳴杜から発行されました。春陽堂と鳳鳴社 は所は近所でありましたので、年の内から樽を聞きまして、待ちかねて度々 発行所へ様子を聞きに参ったものでありました。この『恋女房』の装傾は橋 口五葉氏で、口絵は矢張り木版彩色刷の鏑木清方氏作、お柳が銀杏返しに結 って刺子祥纏を着て鳶口を持って吉原の火事場に立っているところ、名作で ありました。 『日本橋』はこれは初めから書きおろしの単行本で、泉家には親類同様な間 柄の法学士堀尾成章氏が経営された、本郷曙町の千章館から発行されました。 この小説は起稿されましてから御書き上げになりますまでに、一年近くおか かりであったように記憶しております。装偵は先生の御言葉で私が致しまし た。先生は御仕事の内容を人に話されますことを極度に御嫌いになりますた めに、この小説も最終の頁を御書きになるまで、「日本橋」という題名を御 示しにならず、永いこと暗中手さぐりの形でありましたが、終りに「日本 橋」という題名を伺って、大急ぎで表紙を画き直しました。この小説は後に 様々な形で出版され、また脚色もされまして度々上演されましたが、日本橋 という土地は先生が誠にお好きな処でありました。『日本橋』の篇中でも、 葛木晋三の口から「以来は知らず、何処へ参つても此のあたりくらゐ名所古 蹟はございませんな、といつてほろりとして……」といっておられます。実 際、日本橋檜物町、数寄屋町西河岸あたりは、先生に実にお馴染の深い土地 でありました。又この篇中に出て来る人々の中には、実際その悌のある美人 名士が大勢ありまして、永い事でありますから残せられた方もありますが、 現在誠に御繁昌の方々も多いのであります。先生御信心の西河岸の地蔵様に は、先年花柳章太郎氏の奉納されました、    初蝶の舞ひ舞ひ拝す御堂かな の句を御書きになりました額が掲げられておりまして、これから年が経ちま すほどいろいろな事を偲ばせる事と思われます。 『註文帳画譜』  先年、泉鏡花先生と御一緒に、鏑木清方先生の『註文帳画譜』を、三越で 催されました郷土会で、初めて拝見致しました時は、誠に嬉しゅう御座いま した。  家へ帰ってからも如何にも忘れられませんので、一日鏑木先生の御宅へ御 邪魔をしてゆっくり拝見したいと思い立ち、御伺いいたしましたところ、思 いがけなく拝借することが出来まして、自宅で何度となく拝見致しますうち、 初めはすぐ御返し致します心得のところ、段々御返しするのが何となく惜し くなりまして、気がとがめながら随分永いあいだ御借りして拝見致しました。  自分のことに古名家を引出すのは相済まぬわけでありますが、またまた 『一楽帖』の事を思い出して苦笑をした事も御座いましたが、さて実行する わけには参りませんし、何時まで御借りして置いても限りのない事でありま すから、思い切って御返しに上がりました。  その『註文帳画譜』がこのたび実に仕事熱心な島氏によって、木版の彫は 大倉氏、刷は田口氏で、一々鏑木先生の御校正を経て頒けられる事になりま したのは、誠に有り難い事で御座います。  私の畏敬致しております或る大家が申されました事に、鏑木先生の画の理 想は、清水の上澄の如きものとの事でありました。私も誠に至言と思います。 そしてこの『註文帳画譜』の味は、その清水の上澄へ一雫の涙を落して味わ ったような心持が致します。 教養のある金沢の樹木  東劇の「滝の白糸」は真先きに見に行って、理窟なしに面白く見て来まし た。泉先生と私との関係ですか、先生を知ってからは二十五、六年にもなり ましょう。尤も先生の作品は十歳頃から読み始めて、子供心にも、何となく 一種の魅力を覚えたので、それからは続いて出る作物は余さず拝読したつも りです。  初めてお目にかかったのは、私が絵を描くようになってからで、これには 妙なキッカヶがあるのです。私の家は日本橋檜物町にあって、私の処に来る 髪結さんが春陽堂に行く人なので、その人から、泉先生が春陽堂に見えるこ と、随分粋な人である事などを又聞きにして、是非一度お目にかかりたいと 思っていました。  ところが偶々、今福岡の医科大学の教授をしておられる耳鼻科の久保博十 と奥さんとが駿河台の宿屋に泊られ、その久保先生から、日本で初めて鼻茸 を手術された某先生の肖像画模写を私に委嘱されましたので、私は四、五日 その宿屋に通いました。この原画は豊国の描いた立派なもので、先生は、借 物でなくすると困るから通ってくれと申されたのです。久保先生は朝早く出 られてから夜おそく帰られるため、私は自然奥さんと御懇意になり、色々お 話を聞くうちに、この奥さんが大の鏡花狂とでも申す位、泉先生のことやそ の作物に精通されているのに驚いたのです。久保先生の家にお嫁入りしない 前から、泉先生の物は残らず耽読されていたそうです。  そこへ久保先生と御懇意な泉先生がこの宿屋に見えられたので、奥さんの 御紹介で計らずも多年憧れている泉先生にお目にかかったわけで、実に飛立 つほど嬉しい思いをいたしました。その時の泉先生の第一印象は、男にもこ ういう美しい人があるのか、と深く感に打たれた事です。今でも綺麗な方で すが、その時の先生の綺麗さはまた格別で、色の白い美男子で、しかも何処 かに気骨稜々たるところがあって、私は唯もう悦惚となったのです。  それから久保先生のお取持ちで、泉先生に懇ろにして頂き、先生の本が出 る時には、大抵その装偵や口絵を承ったものでした。総じて泉先生の作物を 絵にする事は非常に困難で、あの幽幻な風格を表すのは全く至難な業です。  今度の「滝の白糸」は前申したように大変面白く見ました。そして自分の 職業柄から、今度舞台装置をされた繁岡氏のそれを拝見して、よく出来てい ることに感心いたしました。同氏は金沢まで態々出向いて写生されたそうで すが、そうした地方色が頗る鮮やかに出ていました。私も先年、泉先生に伴 れられて金沢に行きましたが、白糸と欣弥とが逢う浅野川に架った卯辰橋の 場、あそこは実にいい景色で、繁岡氏はすっかり実景を取り込んでありまし たが、今度の十何場の中で一番よく出来ていました。私は各地を旅行して見 ましたが、金沢の樹木ほど風情のあるものはおそらく他にないでしょう。枝 ぶりや色合が野育ちでなくて教養があるのです。町や郊外やその外の森のあ らゆる樹木が皆そうです。まさか前田百万石の旧城下に育った木だから、氏 より育ちというわけでもありますまいが、これには殊のほか興味を有たされ ました。繁岡氏もこの教養ある樹木に注目されたかして、序幕から枝振りよ き大木を三場に亘って見せてくれましたが、あれは真に金沢特有です。水の 美しいことをも珍しく思いましたが、兎に角私はこうした種々相から、今度 の「滝の白糸」の芝居は、その演出の是非は別として、芝居全体を頗る興味 深く拝見いたしたのであります。 水上瀧太郎氏の思い出  水上瀧太郎氏の張りづめにした強弓の弦が突然音をたてて断れたような長 逝は、真に悼ましいとも惜しいとも申し様がありません。私は水上氏が永年 のあいだ苦心された小説随筆の文学上の位置を知りません。また並々ならぬ 努力を続けられました実業界の功績を語る資格をもちません。さりながら私 は人として、水上氏ほど立派な、神様とも仏様とも思えるような人を知りま せぬ。私は水上氏が文学に関係されませんでも、実業界を引退されても、山 林に籠られましても、あのような人のおられるという事が、今の世の中に誠 に必要であったと思います。返す返すも惜しい事を致しました。  私が最初に水上瀧太郎氏の名を記憶致しましたのは、大正五年であったと 思いますが、洋行から帰朝された時、眉目清秀な写真が入って新聞にその記 事が出ました時であります。その写真が実に立派で、清らかでありますので、 一度その顔を見たいように思いましたが、思いがけなく間もなくお近づきに なる事が出来ましたのは、それは泉鏡花先生のお蔭で御座いました。水上氏 は幼少の時から鏡花先生の非常な愛読者で、小説は元より随筆小品など、全 部をあらゆる方法で集めておられまして、洋行中は久保田万太郎氏が引き受 けて、集めては送っておられたそうであります。私は後に明治三十六年に、 「国民新聞」に出ました「風流線」や、明治四十年に「やまと新聞」に出ま した「婦系図」が単行本となって出版されました時、この相違を暗記して話 されるのを聞きまして、驚嘆した事が御座いました。兎に角、私は水上氏ほ ど鏡花先生の著作を読み、かつ所持しておられた方を知りませぬ。そして大 正五年の十一月に初めて、久保田万太郎氏に連れられて下六番町の泉先生の 御宅を訪ねられ、そして御一緒に日本橋の金喜亭という鳥屋で快よく一夜を 過され、又そのとき初めて、泉先生の小説「日本橋」の清葉といわれる名妓 寿々江さんにあわれたのであります。この寿々江さんが後に水上さんに紹介 しましたのが、当時表に土塀を囲らし、椎の木の繁った震災前の藤村という 家で、これが泉先生にも水上さんにも非常に気に入り、始終お出かけになり ました。これは昭和三年の五月から昭和十四年の十一月まで、一月も休みま した事のない九九九会という会を開いた家で御座います。  私も泉先生の小説は非常に尊敬して愛読しておりましたが、三十年以前は からず御目にかかる事が出来、御宅へも幸いに伺っておりましたために、間 もなく水上氏にも御目にかかることが出来、忽ちに御別懇になりまして今日 に至りましたわけであります。この水上さんの泉先生への尊敬と思慕と、泉 先生の水上さんへの信頼とは世にも珍しいほどでありまして、始終の事であ りますから取りたてて申すわけにも参りませんが、それは美しい御つきあい でありました。丁度その頃は泉先生も永年の物質上の御苦労が幾分減じかけ た時ではありましたが、それでも水上さんが岨治生命へ勤めて月給百円と聞 かれて、百円の定収があるのを驚いておられたようなわけでありました。こ のような事もありました。  前申しました藤村家へ御一緒に参りました時に、ちょうど泉先生が「鴛鴛 帳」という小説に御かかりの時で、その時の先生の苦心というものは、御様 子を見ましても胸がつまるほどで御座いました。この様子を見られた水上 氏は先生に内証で、私に明日さっそく出版所へ行って先生の前借を返して、 先生の気を楽にして上げて下さいと言われました。この事は先生も序文に御 書きになりましたから一寸拝借させて頂きます。大正七年の事でありました。    序 一寸内端話をいたします。 此の新編一冊を書躍さんに約束したのは、昨年 の九月の事で、年一杯と云ふと身売じみますが、然うではありません。年 内に書上げて、春の初売に間に合はせ、沢山儲けさしてあげるよ、と云ふ 手練を以て、例の苦しがりが、其月の算段に前借を申込みますと、早速承 知をしたのでございますが、馴染のない書律さん、とはいふものの何うだ らう、と半分、当にしないでは居られないのに、居ました処、其九月二十 九日、三十日は御存じの大暴風雨でございました。前日も可恐い大降で、 車軸を流す雨の中を、羽織袴で止善堂の真四角だが憎くない主人が、みえ て、約束通り耳を揃へて、……羨しがるに及びません、いや、もう柳少な 儀で、しかし私に取つては……大金を渡しました。大雨の中と言ひ車でお 運びはお気の毒だと申しますと、賛沢なやうですが、濡れた膝でお畳を湿 らしてはお気味が悪からうと存じて一台驕つて駆つけましたと云ふ挨拶。 これぢやあ期日が間違へられますまい。処で、腹案は七八年前から、世帯 持の懐中にも此ばかりは暖めてあつたのでございますから、早速折りめの つかない処を取かからうといたしますと、私どもには書きだし、皆様には よみはじめ、といふ処がなかく楽にまゐりません。一体は江月園の主婦 照吉のお新が、柴又あたりの川魚料理か何かで、三個の色魔が、突羽根の 娘を圏取にする処を、それとなく小耳に挟むのを「第一回」にしようと云 ふ考へでございましたけれども、一を上げても三を下げても何うしても隅 田川の流に調子があひません。まだ一枚もかけないで十月の九日に成つた のです。此の日は、私の父の命日ですから、何でも一行でもと思ひました が、目を据ゑたばかりでそれも出来ないで、十二日の夜は丁ど三番町の二 七の不動様の縁日。くるしい時の神だのみ、ふと思ひついて、江月園の寮 番が、那護三満多を唱へながら、月の夜ふけに綾瀬へ出かける処からかき はじめたのでございます。六七回次の「小掻巻」ヘかはつて法学士板倉光 年をはじめて御目にかけようとする処で、又つかへて、一寸も前へ出ない のでございます。 月日の方が勝手次第に駆足で飛びますから、忽ち月末と成る、此の瀬戸を 凌ぐのに、又前借を申込むと、快く持参に及んでくれたのが、大の月ゆゑ 勘定前の三十日の夜。今度はお天気は好うございました。大分御進行で、 勿論、と戦場往来の兵なれば、矢玉の中に悠然と、脂下つて答へたが、三 百枚は要らうと云ふのを、まだ三十枚に満ちません。書躍さんが帰つたあ とで、(お堅い方ですね、お金子の包を手首へ結んでおいででしたよ。)と 家内のやつが威かします。あ二扱は先方でも余り楽な金子ではあるまい、 さあ悠うしては居られないと気がせくと尚ほ不可い、苛つてあせつて、果 は弱つて、頭から夜具を被つて寝てゐる処は、酒さへ飲まねば病人でござ います。元々前借だにあらずんば、其病気といつても断つて書かずに済む、 が然ういかないで、義理に成つて、此の前借に苦む処は、篇中の苦界の姐 さんたちと、余り相違はございません。漸と筆が運びました。「蝋燭」の あたりまで一気に進んで、此間に雪岱さんに表と裏の見返しを読へました。 自分で申すも如何なれど、止善堂も店の看板にと云ふ大奮発、近来の美本 に仕立てようと云ふ意気込の処へ、雪岱さんが私と違つて、色ばかり、ま だ慾を知らない人ですから、手間を構はぬ骨折最中、また月末になつたで せう。 十一月、即ち前借、おなじことでお恥かしい、内金、先借とした処で、借 込んだのに違ひはない。新年の間に合ひませうか。もう半以上出来て居ま す。あとは徹夜で、十日前は、と今度は其気で請合つた時が、漸く「水神 伯」と云ふ処だつたのでございます。なかく何うして、あと十日や一週 間で遣抜けられよう筈がない。弱つたな、今度は師走で、千倉ヶ沖の大晦 日。書蜂の顔も三度と聞けばもはや金は貸すまいし、と云つて夜遁げも出 来ないし、義理は悪いと知りながら他を稼いで店賃米代勘定せずには置か れませんので、此の鴛驚は凍らぬ様に、密と炬燵に寝かして置いて此方は 夜稼ぎ荒稼ぎ、凄じなむと愚な中ヘ、無理な催促にも及ばないで、止善堂 から、御歳暮に、砂糖到来は苦かつた。漸と新年おめでたう。(中略) 日本橋辺の或家で、私一人はやけ酒を飲んだ時、実際つらい、と染々と言 ふと、金子と力のある色男で、割前勘定の大株主芝白金のやんちやん息子、 目下大阪のぼんくたる水上の瀧太郎が、一座の雪岱に囁いて、私のため に前借を其の書蜂へ返さうよ、明日行つて談判をして下さい、然うしたら 催促されずに済むだらう、と目を光らして言つたるよし。爾時は酔つて知 らず(後で聞いて泣かされました。尤も私には内証で計る約束だつたさう ですが、雪岱さんが中を取つて繕つて余り急がせない方が可からう、とお 庇で此の人まで気が強かつた。それは成程、いざと成れば、金子を返して あやまれば済む次第ですが、ここに済まぬのは作者へ貸したばかりでない、 書律さんの仕込の方は、表紙、見返し、扉をはじめ、箱張の絵に至るまで、 版木代、摺代、紙代と、もう積んで出来上つた此の仕込が些や少々の格で はないので、私だけ返すから、それで可いでは納まりません、といつた処 であせるばかりで、仕事は一向捗取らず。実は正月七草の晩は「第三十 回」を半(敦方へ)とまで書いて、其ツ切、人の情に奮起して、二月二十 日に(夜露にめげず)とまでで又続かず。二月の間に唯半枚の十行ばかり。 又書けなくなつて居る処……もう悠うなると附元気の岡惚の顔なぞより、 水上さんに逢ひたくなつて、三月の十日から大阪へ行つて二十日まで遊ん で来ました。(後略)  これは全く実録であります。私は一例としてこの序文の一節をここに拝借 しましたが、水上氏という方はほぼ三十年のあいだ少しも変らず、このよう な方でありました。大正十五年に泉先生の全集が出ましたが、その時の水上 氏の骨折りは目覚しいもので、元禄屋敷とよばれました番町の水上氏の家は 編輯所となり、永年苦心して集められた秘蔵の単行本は元より、新聞雑誌の 切抜き、談話の筆記より広告文に至るまで、いささかの物惜しみもせず提供 されました。この全集は水上さんのこの誠実がなければ非常に困難が多かっ た事と思います。  昭和三年五月二十三日に、水上さんが第一回の世話人で九九九会という会 が出来ました。場所は前に申しました日本橋の藤村、日は毎月二十三日、出 席の方々は、泉鏡花、水上瀧太郎、久保田万太郎、三宅正太郎、鏑木清方、 岡田三郎助、里見弾の先生方に私でありました。この会は昭和三年から昨年 まで十数年間、百三十六回、一回も休みなく続きまして、その間にはさまざ まの思い出も御座いますが、水上さんの瀬態を一度も見たことはありません でした。この会も昨十四年九月七日に泉鏡花先生逝去、同二十三日に岡田三 郎助先生逝去、この三月二十三日に水上瀧太郎氏の急逝にあいまして、一度 に淋しいことになりました。水上さんは初めて御目にかかった時分より少し 肥満されていましたが、逝去の直後肉が落ちられた故か、永年の重荷を降し て、神にも仏にも自分にも少しも悔を残さぬ生涯を送られました故か、その 御顔は神々しいまでに冴え冴えと青年時代の面影が見えました。 九九九会のこと  昭和十五年三月二十三日午後十一時十分、水上瀧太郎氏の、引き絞った強 弓の、突然折れたような逝去は、真に悼ましい事の極みで御座いました。惜 しいとも、情ないとも申様はありません。この二十三日という日は、永年続 きました九九九会の例会の日で、しかも、昨秋九月の二十三日には、同じ会 員の岡田三郎助先生が長逝されたので御座います。さて、この九九九会がは つきり会の名をつけ、帳面を作りまして、泉鏡花先生の筆になる「春鶯帖」 という出席簿が出来、場所を日本橋の藤村、日を毎月二十三日と定め、その 第一回を開きましたのが、昭和三年五月二十三日で、その世話人が、水上瀧 太郎氏でありました。その「春鶯帖」には昭和三年五月二十三日、雨、世話 人、阿部章蔵、次いで、泉鏡太郎、里見弾、小村雪岱、久保田万太郎、岡田 三郎助、と来会順に記されてあります。会員はこのほかに鏑木清方、三宅正 太郎、の二先生で、なお臨時に見えられた方々も数氏おいでで御座いました。  それで、この会の出来ましたそもそもの元は、水上瀧太郎氏が大正五年の 秋、外国から帰朝されて、親友久保田万太郎氏と御一緒に、幼少の時から一 方ならぬ崇拝をしておられました泉鏡花先生を、下六番町の御宅へ訪ねられ、 丁度その年は、|虎列刺《コレラ》病が流行したため、三、四ヶ月も外出をされなかった 泉先生が、初めて御一緒に、永年御贔贋の、大根河岸の初音という鳥屋へ行 かれましたが、時は経っても御話はますます面白く、そこを出て又、金喜亭 という、元の川崎銀行のそばの鳥屋へ行かれたそうで御座います。そしてこ の夜、この家で、泉先生が永いあいだ敬慕しておられた、寿々江さんという、 それは品のよい、静かな人にあわれたのであります。この時の様子は、泉先 生からも、水上さんからも、久保田さんからも、度々伺っておりますが、 寸「貝殻追放」から水上さんの文章を拝借させて頂きます。 又お鍋がぐつく煮詰り、熱燗の御酒の盃の数は愈々しげくなつたが、先 生があの人とあの人と二人名ざした芸者はなかく来なかつた。それでは 為方が無いから、その一人のうちのちひさい子を呼んでくれと頻りに寂し がる。玄人讃美者として並ぶ者なき泉先生の御贔贋はどんな人だらうとい ふ好奇心で、自分も少なからぬ期待を持つてゐた。「湯島詣」の蝶吉、「起 誓文」のお静、「婦系図」のお蔦、「白鷺」の小篠のやうな人でなければそ ぐはないと思ふと、幾度となく繰返して読んで、その人達は生きて世の中 に居るのと同じ様に親しくなつてゐるのだから、今晩こそめぐりあへるの ではないかといふ様な気もするのである。殊に、「日本橋」と真正面から 看板をあげた大作は、舞台が舞台なので、清葉もお孝もお千世も、其処い らの路地の奥から、駒下駄を鳴らして、先生の御座敷と聞いて駆けつけて 来るのではないだらうかと想像して居た。 とんくと梯子段を少しせき心で上つて来る気配がしたと思ふと、すうつ と襖があいて、若い芸者が廊下に膝をついて行儀よく頭をさげた。 『しまつた、こいつは勘定が違つて来たぞ。』 裾を引いて座敷にはいつて来たのを見て、先生は仰山に驚いて見せた。お 酌時分から刺身のつまのやうにはべつたのが、何時の間にかいつぽんにな つて居たのである。地蔵眉の福徳円満な相で、口数の少いおとなしさうな ひとだつた。年恰好から押して行つて、無理にもこの人をお千世にしてし まひたかつた。 間もなく、前後して二人のひとが来た。年は自分などよりも二つ三つ上ら しく、一切のとりなしが一見して此の土地切つての大姐さんに違ひなかつ た。一人はすぐれて背の高い、裾を引いた姿の素晴らしくい\人で、目に しほのある、鼻筋のいかつくなく涼しい線を見せた上品な人だつた。 『細りした頬に替を見せる、笑顔の其れさへ、おつとりして品の可い、此 姉さんは、潭名を令夫人といふ……十六七、二十の頃までは、同じ心で、 令嬢と云つた。敢て極つた旦那が一人、おとつさんが附いて居る。その意 味を調するのでは無い。其の間のせうそくは別として、爾き風采を称へた のである。 優しいながら、口を締めて-透つた鼻筋は気質に似ないと人の云ふ1 若衆質の細面の眉を払つて………』 と描かれてゐる『日本橋』の清葉に違ひ無いと思つた。 それは果してさうだつたが、もう一人を同じ作中のお孝に比べて見度い興 味から、そつと先生に聞いて見たら、い\え違ひますといふ返事だつた。 此の方は新橋とか赤坂とかいふ官員や軍人や成金の践雇してゐる土地には ゐさうもない、一口に芸者らしい芸者といふやうな型の人だつた。話上手 で、陽気で、目はしはき、ながら邪気のない、これは名だたる腕つこきに 違ひないと思つた。前のは先生が十三年間変らずつきあつてゐる人で、後 のはそれよりももつと古く、むかし吉原にゐた十七八の頃からの友達だと 紹介して下さつた。 「その頃、此の人が登張に岡惚れしましてねー」 などと先生はからかつてゐた。はつきりいへば此の二人は、日本橋の名妓 寿々江とお千代である。  私はこの「目にしほのある」云々という文句が、実に寿々江さんの情が出 ていると思って、敬服しております。この寿々江さんが初めて藤村という家 を水上さんと泉先生に紹介をしたのですが、この家は表に土塀をめぐらし、 椎の木が繁った、暗い古風な家でありました。水上さんも、泉先生もこの家 が大変御気に入りまして、始終お出かけになっておりましたが、大正十二年 の震災で焼けまして、その後、場所は少し変りましたが、家も立派に出来上 がりましたので、震災前から時々開いておりました会を、場所をこの家、会 費や日をきめて、九九九会の第一回を開きましたのが、昭和三年の五月二十 三日であります。それから世話人まわりもちで、昭和十四年八月まで一回も 休んだことがありませんで、百三十六回になりました。その間のさまざまの 事を想い出しますと、まことに胸がせまるのであります。昨年九月七日に泉 鏡花先生逝去、同月二十三日に岡田三郎助先生逝去、そして、この三月二十 三日に水上瀧太郎氏の逝去とは、何という事でありましょうか。  私は水上氏の逝去にあい、その遺骸を拝しまして、肉の落ちられました故 か一度に年をさかのぼって、初めて泉先生にあわれた頃の、大正五年頃の秀 麗な悌に拝され、真に感慨無量でありました。 舞台装置の話  舞台装置を作りますには、最初芝居の台本が廻って来ますと、それを精読 して大体のその芝居の気持を呑み込むのです。そして台本を読みながら、大 道具、小道具、衣裳、影曼等と必要なものを四分類します。気分を統一させな がら、又それにぴったりと適ったようにと、大道具その他を分けてゆくので すから、相当の努力が必要なのです。例えて申しますと、この武士には立烏 帽子が向くか、折烏帽子が好いかなどを大体定めておくのですが、途中で最 初の考えとは違ってきて取りかえる事などもあります。  それが殆ど整うと、舞台監督とその時の|座頭《ざがしら》に逢って、こちらの立案と向 うの考えとを照し合せて一緒にしてから、本当の仕度にかかります。  先ほど申しましたような四分類の大道具から始めてゆきます。それには道 具帳と申しまして、約五十分の一位の彩色をした見取り図とプランを作りま す。次に、衣裳を登場人物のそれぞれに定めて、染めるもの、縫いをするも の、全部に亘って用意します。小道具は、太刀でも、靴でも、火鉢でも、全 てこれに属していて、その場その場に必要なものが作られます。最後に髭で すが、これには役者がかなり神経を使うものですから、こちらも注意してそ れぞれの役者にぴったりしたものを作らせます。  こうしたものが準備されている間に、役者の方では芝居の稽古が行われて ゆきます。その最初は|本読《ほんよみ》で、これは全部の役者が集っている所で舞台監督 が、台本を棒読みして役者にその芝居の筋を知らせるのです。次が、|平稽古《ひらげいこ》 で、これはその役者だけの書き抜きしたものが渡され、舞台監督の指図の下 に自分のセリフを覚えるのです。それから|立稽古《たちげいこ》で、これは普通の座敷で立 って稽古を行い、ここで型を定めます。  この頃になると、私どもの舞台装置の支度もまとまり、稽古場へ立合って、 その場面の様子を見ております。そして、間口六間で足りると思ったものが 足りなくて八間に直したり、また長屋住いの芝居だから六畳ですむと思って いたのが、大立廻りなどで人の出入りが多く、八畳位でなくては間に合わな くなったりすると、直ちに最初のものを変更してゆくのです。  それから|附立《つけたて》が始まります。これは場面場面に鳴物を入れたり、虫の音、 |唯子《はやし》などをあしらう事で色々の註文も出て来ます。その翌日が総ざらいで、 この日は舞台を飾って衣裳を着ないだけで、鳴物、照明その他全部が揃って 最初の下準備が行われ、それから舞台稽古となります。舞台稽古は、殆ど初 日同様に舞台を飾り、衣裳をつけて行われます。  そして、舞台装置をする方では、実際に飾って具合の悪い時には、直ちに 変更しますし、又いろいろ手落ちのある事もありますので、稽古に立合いな がら徹底的に直してゆきます。そして万全を期して、初日の幕を上げるので す。  舞台装置を依頼して来る場合には、最高幹部が決める事もありますし、ま た作家の方で舞台装置をする人の註文を出して、幹部達が合議して決める事 もあります。元来、芝居は役者なしでは出来ないものですから、芝居の出し 物が決まり、役者が全部揃わないと世間に発表する事は出来ません。役者が 承諾しないと発表は出来ません。この時に大抵文句の出るのは二流どころか らであって、一流から出たのでは芝居が出来ませんし、また三流以下では問 題になりませんが、そんなこんなで遅くなり勝ちで、舞台装置の方の仕事は 二週間位はかかるのです。  私の経験から申しますと、大変やりよい小屋とそうでないのがあります。 例えて申しますと、間口十六間もある歌舞伎座は好いのですが、明治座では どうしてもアラが見え易いのです。これは、結局廻しの関係から起る事でし て、歌舞伎座は十六間の間口に対し八間の廻し舞台がありますが、明治座で はそれが小さいからなのです。以前の帝劇は間口と廻しとが同じでした。理 想から申しますと、間口より廻しの方が大きい事ですが、同じ位のものがあ れば、舞台装置はゆったりして作る事が出来ます。それに左右のフトコロの 狭い事はかなり困る場合が起って参ります。  それから、ト|書《がき》について申しますと、老練な大家の方のものですと、一幕 三場などいう芝居の場合にも、巧みに廻し舞台が扱えるようになっています が、若い作家などには、非常に無理な事などあってほとほと困ります。一場 が余り奥深く舞台を取ってしまって、二場が作れないなどという事さえあり ます。道具の出入りの時間、役者の着物を換える時間、そうしたものなどに も注意されていない芝居は、装置をする方では大変困るものです。  芝居には勿論主役、端役とありますが、余りに主役ばかり凝った衣裳を着 させますと、反って端役の単色の衣裳などに引かれてしまって、見ばえのし ない事もあります。それですから、主役を生かそうと思って、その反対の結 果になってしまう事もあります。  挿絵の場合には、何も文句が出ませんが、芝居の方は大勢でやる仕事だけ に色々な無理も出ますし、相当むずかしいものです。 羽子のかぶろの暖簾  昭和六年三月、尾上菊五郎氏が東京劇場の中幕に「浮れ坊主」と組んで出 した、「羽子のかぶろ」は全く素晴しいものでした。すっかり仕度が出来て 坐っておりますと、楽屋で向い合っておりましても誠に女の子供としか見え ません位で、実に妙でありました。舞台の評判は勿論申すに及ばず、今では 立派な一つの型になりました。  髪はあれやこれやの末、歌麿の絵から六代目と髪の方とが工夫したもので よい出来でした。着附は地色は丹色、模様は薬玉で、帯は黒地に銀の菊菱の 刺繍、大きな羽子板は、表金箔裏銀箔の上へ極彩色で松竹梅を画いたもので した。  それから三年ほどたって、、今度は歌舞伎座で矢張りこの羽子のかぶろが出 ました。話はこの時の事でありますが、初日前の稽古中に楽屋の部屋へ入り ますと、菊五郎氏に突然この前の東劇の時は後の暖簾は何色でしたかと聞か れました。私は考えるまでもなく紺と答えましたところが、紺ではない柿だ という人が一座に甚だ多いのであります。現在その舞台に勤めた方も多勢お りますし、それほど古いことではないし、誠に変な話ですが、中々きまりま せん。いずれに致せ最早過ぎ去った事、どちらでもよさそうな事であります が、菊五郎氏がまた中々よい加減にして置けない方ですから、いろいろな人 を呼び寄せて聞きますうちに、或人は今は亡き尾上梅幸氏が揚幕から見て、 あの柿色の暖簾は工合悪いと言われたのを聞いた人もありました。菊五郎氏 は紺の説でありました。それから私はその当時画きました「道具帳」を取り 寄せて見ますと、紺になっております。これは有力な証拠でありますが、そ れでも中々柿色の説の方が多いのであります。  そこで私が必ず紺だというわけは、初演当時大道具の仕度にかかる前に、 菊五郎氏と種々相談したのでありますが、その時に衣裳は丹色にするという 事を聞いていたのであります。しかもあの実に可愛らしい、暖簾から顔だけ 出す振のことを聞いて、それから道具にかかったのであります。多くの場合、 かぶろの暖簾は柿色が定式となっているかと思いますが、この場合暖簾の間 から白い顔を出しますのに柿暖簾では栄えません。かつまた衣裳の丹色も柿 の暖簾では合いませんから、如何にうろたえても柿色の暖簾を作ることは決 してないのであります。  そこで気がつきまして、この上は実物を調べるより外に致し方がないので、 暖簾は表の小裂の係りでありますから、その方へ頼みまして倉庫を調べて貰 いましたところ、その時の暖簾が二つ出て参りました。即ち柿と紺と両方あ ったのであります。尚よく調べますと、事情が分りました。小裂の方では手 廻しよく定式により柿の暖簾を跳えましてから、そのあとで紺暖簾というこ とが決ったのであります。そして舞台稽古に大道具を飾って見て初めてそれ が分り、大急ぎで染め直し、二日目から紺暖簾を使ったわけでありました。 つまり舞台稽古と初日を記憶している人は柿、それ以後は紺ということであ りまして、何れも事実なのでありました。  これは誠に一寸した事でありますが、芝居の内ではこのようなことは常に ありますことで、中々一図に物がいえないのであります。それに僅か二、三 年の前の事でさえこれでありますから、人の記憶というものも覚束ないもの と思われます。ついでに申しますと、歌舞伎座の時の衣裳は、六代目が前に 赤姫の役を勤められますので、緑地に|斧琴菊《よきこときく》の大模様を染めて刺繍し、帯は 黒地に銀の結び文をつけました。 舞台装置家の立場から  今月の明治座に「足利尊氏」の舞台装置を引き受けましたが、何分ともに 初開場の同座のことですから、万端手都合の行違いがあって、へまが多く恐 縮している次第ですが、由来舞台の成功した装置というのは、装置が舞台に 隠れてしまうのが最上のものかと思います。「これは素晴らしい舞台装置だ」 などと大向うを捻らせることは極容易な術で、子役が不自然なキイキイ声を 絞れば充分泣かされると同じ理由で、極彩色の書割にぽっと月でもせり出さ せれば喝采は受合いです。けれどもそれでは舞台装置の価値はありません。 矢張り何処までも舞台装置は、|所謂《いわゆる》背景とならなくてはなりません。それで いて充分情景が点出し得る技巧が、装置家の腕であり苦心でしょう。  が、先ず装置家の苦手は脚本の途方もないト書です。明治座の例に採って みると、舞台の奥行は六間です。これが近頃は一幕何場面で廻しになると、 一場に使える奥行は三間です。しかも両袖に奥行一間をとられてしまいます し、廻す舞台と舞台の背中合せに三尺の隙間は見なくてはなりません。これ で二重屋体に縁先がつくと、実際座敷の奥行は五、六尺となってしまうので す。ここへ床の間をつけてくれなどという註文があった日には、俳優の動き が出来なくなってしまいます。この寸法がわからなく、勝手なト書の附せら れた脚本には、全く装置家は泣かされます。  また各座とも、舞台装置費には大体一定の経費が決められていて、その範 囲で装置を苦心するのも並大抵ではありません。先月の本郷座の「すみだ 川」の装置にしても、二幕目葭町の場は大分非難を受け、葭町どころか玉の 井の場だなぞと悪罵を浴びましたが、私もあの装置は気に入っていませんが、 なにしろ手前から数えて四軒目が松葉屋というのです。あの狭い間口の舞台 に四軒並べるのですから、板塀も庭も植込みも、全然黙殺しなくてはなりま せんし、それに格子戸などという道具は総てこの道では新調を許されません。 つまりどの芝居にも格子戸などの道具は融通を利かせるもので、これを嵌め ながら舞台に四軒軒先を並べるのは実際に無理なのです。  もう一つは舞台装置の色彩の問題です。どうも装置家が狙った色彩は、そ のまま舞台に再現することは絶対不可能といってもいいでしょう。この問題 なども、劇場関係者にもっと色彩に対する感覚の発達と理解が望ましいと思 います。山川秀峰さんなどはこの問題で大憤慨したことさえあります。それ に舞台装置家といっても、衣裳の染めまで指定するのですから、色彩問題は 充分研究すべきでしょう。それには費用の点に制限のあるのも考慮に値する のでしょうが、近頃は追々装置に費用をかけますし、「玄宗の心持」の装置 の時などは、一台の車に数千円を投じた事さえあるのですから、立派な舞台 が見られるのも遠い将来ではないでしょう。  歌舞伎座の久保田さん、帝劇の鳥居さんが座附として努力されていますし、 田中良さんなどは配光方面にまで註文を出して、舞台装置の進出に苦心され ています。  私のこれまでに一番気に入っているのは、「黄門記」の装置でした。 歌右衛門氏のこと  永いあいだ重態を続けておられました中村歌右衛門氏も、ついにこのほど 逝去されました。今更ながらこれも演劇界に一の時期を劃する出来事と思わ れます。  歌右衛門氏が明治の名優市川団十郎、尾上菊五郎両名人の息のかかった明 治、大正、昭和の三代を通じての本格の名優であることは、元より申すまで もない事でありますが、舞台以外、日常においても実に立派な人でありまし た。  私が初めてお目にかかりましたのは、大正十五年四月歌舞伎座において、 松居松翁氏作並びに演出の「淀君小田原陣」という、一幕物の淀君の役を勤 められました時、私がその舞台装置や衣裳考案を致しましたのが初めてであ りますが、その間舞台装置や衣裳の考案は随分立て続けに致しまして、つい に昨年歌舞伎座の「桐一葉」の装置が最後となりました。その間舞台上の打 合せや相談で、度々千駄ヶ谷の広大な邸宅の奥の居間で相談を致しましたが、 実に御気の毒なほど身体の工合も悪かったにもかかわらず、床の上にきちん と端座して相当長時間相談をされました。  大体非常に行儀のよい方でありまして、その様子はちょうど徳川|家達《いえさと》公を も少し美男にしたような端麗な姿で、しかも大変聡明な方でありました。世 間で歌右衛門氏を非常に高ぶっていたといううわさを聞きますが、決してそ のようなことはなかったと思います。  人一倍義理堅い、行儀のよい、口数の少ない、育ちのよい、品位の高い、 聡明な、世にも稀な立派な人で、何の職になられても立派なことをされた方 と思います。唯あまり端麗な様子と、無口と行儀のよさと、それから如何な る人に対しても、決して人によって態度を変えられるような事をされず、ま た如何なる事でも胴に落ちぬ事は決して承知されなかったなどで、一部の人 からは誤解を受けられたかと思われます。この相手の人によって態度を変え られなかったことは、私の最も敬服している事であります。  私が初めて歌舞伎座で「淀君小田原陣」に関係致しました時も、その以前 帝劇の舞台装置しか致した事がありませんでしたが、大正十五年に小山内薫 氏から頼まれまして、新橋演舞場で正宗白鳥氏原作、小山内薫氏演出、市川 左団次氏所演の「安土の春」の舞台装置を致しました時、松居松翁氏がこれ を見て、丁度その翌月歌舞伎座初上演の予定の、「淀君小田原陣」の舞台装 置を試みに私に勤めさせようと考えられ、主役たる淀君を勤められる歌右衛 門氏にその事を相談されましたところ、そのような素性も技量も知らぬ者に 頼む事は不安心であるとて、決して賛成されず、松居氏の再三再四の言葉に より、漸くそれでは一応観ようという事になり、わざわざ演舞場へ「安土の 春」を観に行かれた上で、漸く承知されたような次第でありました。この事 はよほど後になり関係者から話を聞いて知りました。何事も手落ちのないよ うに念を入れた方でありました。それ以来非常に御懇意になりまして、数多 く舞台装置を致しました。  それから私方に歌右衛門氏筆の一枚の墨絵の竹の色紙があります。これは 昭和十年頃の作でありますが、その絵の画品、墨色等、まことに歌右衛門氏 の人柄がよく出ていると思われます。いずれこれは誰かの手本を習われたこ とと思いますが、今ではことごとくそれを忘れて、少しも模倣の気なく、見 せようという街気もなく、しかも墨色濃淡度を失わず、さながら歌右衛門氏 に対する時と同様な心持が致します。誠にただ一片の色紙ではありますが、 私はこれを余技の上乗なるものと思っております。  その「淀君小田原陣」の支度最中のこと、麹町の元園町に加りました私方 へ、夜更けに歌右衛門氏のお弟子が見えまして、淀君の量の雁金は如何しま しょうか、聞いて来るようにとのことでありました。あれほどのえらい位置 におられる俳優としては、全く珍しい方だと思いました。こういうことは非 常に物堅く、決して自分勝手なことはされませんでした。誠に小さなことで ありますが、仕事を致します老にとりましては実に気持のよいことでありま す。このように何事にも念を入れられるかわりに、初日が目の前に迫りまし ても、少しも騒がず悠々として考えておられるのには、私の方が大いにあわ てることが度々ありました。  昭和二年一月、歌舞伎座で岡本縞堂氏の原作「黄門記」が上演されました 時のこと、歌右衛門氏は水戸黄門の役で、あれは実に立派な黄門様でありま した。藤井紋太夫が市川左団次氏で、これはいろいろの事件がありまして、 ついに水戸黄門が小石川御館の能舞台の鏡の間で紋太夫を斬るところがあり ますが、綺堂氏のト書には、水戸黄門が能の鍾埴の扮装で赤頭とありますの で、その通りに支度を致しましたところが、ある学者が稽古中に楽屋へ見え まして、水戸黄門ほどの身分のこと故年配といい、この鍾値は白頭の方がよ ろしいと思う由を申されました。これを聞いて、歌右衛門氏は赤頭の派手よ り白頭の品位のある方に賛成されまして、是非自頭で勤めたいといい張られ ました。私はト書に赤頭とあり、赤頭と白頭とでは、位取りの上からも色の 配合の上からも衣裳等もすべて変りますので、ト書を変えなければならぬこ とになります。こうなりますと私の一量見に決めるわけになりません。初日 は近し、衣裳量の支度は遅れますし、非常に弱りました。歌右衛門という人 は、こういう風になりますと中々自信の強い人でありました。私はすぐに岡 本綺堂氏方へ飛んで参りまして相談致しましたところ、綺堂氏のいわれます には、なるほど老公の年齢や身分からいえば白頭がよいかも知れぬけれど、 この芝居は老公が高齢をつとめて若返り、元気を振い起して紋太夫を斬る、 その老公の気性をあらわすには赤頭の方がよいと思うといわれましたので、 直ちにとって返し、歌右衛門氏にこのことを申しますと、即座に理解されま して赤頭のことに確定致しました。中々一旦いい出されると強情な方であり ましたが、話は誠によく解る方でありました。  随分数多い狂言の髪、衣裳、持物など私が案を立てまして相談致しますと、 大抵その通りに決まりましたが、唯一つどうしてもその通りにされなかった 物がありました。それは尼の頭であります。尼の役を勤められた芝居を私は 四つか五つ勤めておりますが、一度も坊主頭になられたことがありません。 理窟はよく解っておられるのですが、どうも気が進まないと見えます。私の 関係致しましたものは皆鎌倉時代のもので、尼といっても白いきれを頭から かぶりますから、毛があってもなくても少しも見えないのでありますが、そ れでも坊主頭になるのを嫌われるので、襟の所で切髪にしてその上から白い きれをかぶせるように致しました。  その様子が、如何にも坊主頭になるのが色気がないような気がされたので ありましょう。誠にさとりきれない尼さんとは思いますが、これも不思議な 女形の心持だといつも思いました。  独り芝居には限りませんが、ことに芝居の衣裳というものは人をよく見る ものでありまして、非常によく似合うものとそれほどでない物とあります。 歌右衛門氏は品のよい色調の物なら何でも似合う方でありましたが、特に上 品な古代紫がよく似合いました。紫という色は誠に六ヶ敷い色で、上品な色 でありながら悪くすると非常に品が悪く見える事があります。  こういう事がありました。数年以前のこと、ある有名な若い女形が、坪内 迫遥博士の「牧の方」を勤められたことがありまして、私が舞台と衣裳に関 係致したことがあります。この「牧の方」は歌右衛門氏が度々上演されたも のでありますから、その時も道具や衣裳も大体前例によりました。舞台を一 杯に使う奥庭の場の大道具で、池の小島の牧の方は織物の小桂に|精好《せいごう》の濃き 色の袴で出ます。この時その通り作りましたところが、初日に駄目が出まし た。それは牧の方の袴が海老茶の袴でおかしいという批評であります。  そのようなはずはないと思って衣裳部屋で改めて見ますと、いつも通りの 濃き色であります。電気照明のためかと思って種々試して見ましたが、左様 でもありません。私も人によって色の効果が異なるのを今更ながら驚いた次 第でありまして、直ちに緋の袴ととりかえました。この濃き色は一寸深紫の ように見える色で、中々六ヶ敷い色でありますが、歌右衛門という人は、こ ういう色が好きでまた実によく似合いました。  打掛や腰巻の大変よくうつる方で、「桐一葉」の淀君を初めとして、数多 くの打掛姿の役を勤められましたので、私もちょっとは数え切れぬほど、打 掛や腰巻を作りましたが、実によく似合って、ほれぽれする位でありました。 打掛を着て両手で物を持って歩くのが六ヶ敷い話を度々聞きました。沢山作 りました打掛の中で、淀君で作りました黒地の打掛を好まれて、後に何れか の寺へ記念に奉納されたように聞いております。それは京都東山、高台寺の 奥の院の扉の高台寺蒔絵からとりまして、黒地の紋編子へ金の箔押の尾花を 大きく、その間に大きさ三寸位に、赤、緑青、群青の桃山時代の桐を刺繍し た物でありました。  大体非常に衣裳の着栄えのする方で、淀君なり、また将軍なりの扮装が出 来上がりまして、楽屋の部屋に端座しておられますと、実に立派で仮の姿と は思えぬ位でありました。そして扮装が済みますと、心構えも異なりますか、 一段と気品が出て、お弟子が次の間まで来て挨拶をされるのを、軽く受けら れるのも誠に自然でよい景色でありました。歌舞伎座の楽屋の部屋は一階で、 長い廊下の一番奥のつき当りの左の部屋で、次の間のついた立派な座敷で、 部屋の上手に床と棚、正面窓に面して大きな鏡台を据えてその前にすわり、 下手の鏡台の前は、それはそれは可愛がっておられた児太郎氏の座でありま した。 大阪の商家  谷崎潤一郎氏の『春琴抄』の映画のため、そのセットならびに風俗考証の 依頼を蒲田からうけたので、あらためて原作を読み返してみたが、大阪商家 の構造というものがどうしてもよくのみこめない。いくど読みかえしても家 の形が頭に浮かばず、これでは画にもならず、一つのセットもつくれない。 そこで忙しい身ではあったが、大阪まで出かけることになった。  大阪へ着いて早速、谷崎氏の紹介で地唄の師匠菊原検校にお会いし、矢部 BK放送部長の紹介で「上方」の南木芳太郎氏にお目にかかった。大阪のこ ととなるとまるで何一つ知識のないわたくしに対して、南木氏は痒いところ へ手のとどくように何くれと説明して、その上にいろいろと参考書画を見せ ていただいたので、わたくしはここで、大阪並びに大阪商家というものに対 して十二分の予備知識を授かり、仕事の上でおおいに助かった。  いよいよ実際の商家の、それも古い家屋を見せてもらうことにして、案内 には創元杜の和田氏が忙しいなかを同行してくださった。見せてもらったの は、主として船場と|靱《うつぽ》にのこっている旧家である。  にぶく黒ずんだ格子と整然とした瓦屋根の重みが、東京から来た者の眼に は、まず何よりも伝統への親しみ深い敬慶さをおぽえる。小さなくぐり戸を またいで一歩うちへ入ると同時に、土蔵にでも入ったような暗さと冷たさを 身近に感じて、その冷めたさのなかに、柱、敷居、障子、鴨居、畳などが整 然としてその位置を保っている厳然たる配置に、一種の圧迫感さえ感じられ た。  わたくしはまるで子供のような珍しさと、老人のような伝統への愛着心に 心をふるわせながら、下から二階ヘ、部屋から部屋ヘと案内してもらう。表 構えの質素なのにくらべて、屋内の賛をつくした好みとひとゆるぎもしない 均整美、たとえば金襖の豪奢さ、欄間の巧緻な浮彫、柱といい廊下といい、 その材料の良さ、職人の腕の冴え、それらが伝統のなかにくろずんでにぶい 光をただよわしている有様、美しい一個の歴史である。わたくしは、いわゆ る大阪商人のもつ豪勢さを目前にまざまざ見せつけられたように感じた。  中庭の配置もおもしろい。石、植込み、灯籠が一つ一つ静かなすがたをた たえて、中庭をとりまくおもやと廊下と離れ座敷の描く美しい線の流れ、つ くづくとながめていたい動的な静寂美である。ドームのように高い明り窓を もったひろい台所は、|三和土《たたき》からかすかな土の香りさえにおって来るし、二 階から物干しへ出るあたり、どこがどうというのではないが、東京の家屋で はみられないおもしろさである。  大阪の旧家というものは、文化住宅のような簡潔美と実用美をもって、そ れが伝統によってみがきあげられ、整然たる家屋の構造、そこに大阪商家の 厳正な家族制度の規律がとけ込んでいるのであろう。わたくしは近松物の義 理人情が、大阪の家屋を見てはじめてくみとれたような気がした。  大阪の古い街景としては、土蔵と水と橋が一つのポーズをもった|靱《うつぽ》の永代 浜の大阪らしい風景をおもしろくながめた。  滞在三日間、しかしはじめて大阪の香りをしみじみと感得できて、これで わたくしも安心して「春琴抄」の仕事が出来るというものである。 「春琴抄」のセット 芸術における真実について  芝居の舞台装置は、これまでかぞえ切れないほど手がけているが、映画の 方は、よほど以前に日活の「狂恋女師匠」、近くは新興の「おせん」のセッ トに関して部分的な相談を受けただけで、今度の「春琴抄」のように、セッ トから風俗考証の一切まで引き受けさせられたのは、これが初めてで、映画 における私の最初の仕事である。しかも出演俳優のメーキアップまで私が考 究することになっているので、並大抵の仕事ではない。  監督島津保次郎氏の意気込みも非常なものだし、一般からのこの映画に対 する期待も大きい。第一、谷崎潤一郎氏の原作からが問題の名作だけに、私 の仕事たるやまたやさしいものではないのである。蒲田の城戸所長から、故 尾上梅幸氏のお通夜の時にはじめて交渉を受けたのであるが、今になって見 ると、安受け合いに引き受けた自分の向う見ずを後悔さえしているのである。  とりあえず六個のセットをつくることにした。その六個のセットはいずれ も独立した家屋で、くわしくいえば、主人公春琴の道修町の家、同じく淀屋 橋の家、春琴の師匠春松検校の家、近江日野にある佐助の実家、有馬の湯治 宿、それに美濃屋九兵衛の天下茶屋の隠居所、この六個のセットで、それを 私が作った図形通りに実物の家屋として組み立ててもらうのである。  大阪の古い商家の構造というものは、私にはまるで見当がつかないので、 大阪まで出かけて|靱《うつぽ》や船場に残っている二、三の旧家について、親しくその 実際を見せてもらった。東京でも、震災以前までは伝馬町あたりに随分旧家 が残っていたが、大阪の商家はそれとは全くちがった構造と雰囲気を持った、 いわば大阪の古い伝統に根ざした渋い枯淡美のなかに整然たる姿を保ってい て、たんす、鏡台等の家具調度から庭先きの植木、石の細部に至るまで、東 京では見られない趣と美しさを示しているのである。その一っ一つをスケッ チし、ノートしたものにもとづいて、今度のセットを考案して行ったのであ るが、セット中、大阪以外の近江の日野と有馬へは出向いている日数がなか ったので、現存しているその土地の旧家の写真数十葉によって、その図形を 考案したのである。  実際の家屋を組み立てるといったが、その出来上がった家屋の全景という ものは、映画面では現われないであろう。芝居の舞台装置ならば、出来上が った装置全体がそのままの姿で観客の前に現われるが、映画となると、いく ら家屋が完全にセットされていても、その部分部分が背景として使用され、 利用され、監督の眼によってどのようにでも角度づけられ、細断されて、一 個の家屋が全体の姿でなく、部分の姿を映画面に現わすのである。  下は溝板から上は物干しまで、戸棚から便所の隅々まで実物の家屋同様に 完全にセットしても、その部分をどのように利用し、活用するかは監督の意 志によるので、その点装置そのままが観客の眼に一様にはいる舞台装置とは、 大いに趣を異にしているのである。だから芝居の舞台では時によっては、細 部は簡潔に省略することも出来るが、映画のセットは反対に細部を入念につ くりあげねばならない。全体の形がととのうとともに、部分が完全に出来上 がっていなければならないのである。  この部分の完全ということは、その背景が出来るだけ真実に近く、そこに 置かれた小道具が十分に考証され、考究された、「春琴抄」でいえば、明治 十五年ごろの大阪風俗をあやまりなく伝えたものでなくてはならないが、こ こで問題になるのはその真実と、誤りなき時代考証ということである。 芸術における真実とは、いうまでもなく真実らしさである。 真実そのまま の再現でなくて、真実の姿、真実のなかにかくれたその精神を端的に表現し、 核心を抽出することにある。舞台装置やセットにおいても同じく、如何にし て真実らしさを表現するかが重要な問題である。真実を表現するためには、 実物そのもの、たとえば柱の太さ、天井の高さ、格子の幅、その一つひとつ を実物自体と同様に作り上げるべきものでなく、ある点においては誇張し、 ある点においては省略して、その嘘のなかに真実らしい姿を表現し、その気 分をただよわすべきである。単にセットのみでなく、小道具類から俳優の扮 装に至る時代考証も、それが十分なる考究と考証を緊要とするのは勿論であ るが、果してそれが考究されたそのままを使用すべきかというと、いくらも の珍しい、完全に考証された物品であり、扮装であっても、それがもし映画 面の真実らしさをブチ壊したり、その映画の持っ傾向と背馳したものならば、 それは単なる時代考証の遊戯に堕してしまって、一種の道楽に終るのである。  実際に大阪へ出かけて、その旧家を観察し、明治年代の大阪風俗というも のを下駄、足袋から頭の髪形まで充分に考証し、考究したものの、私は決し て実際そのままを映画に無反省にとり入れようとは思わない。大阪の旧家に ただよう、あの伝統に培われた一種の香りと、大阪風俗の特異性を『春琴 抄』の持つ雰囲気に即しながら如何にセットの上にも、扮装の上にも十分に 表現すべぎか、1大阪の旧家や風俗をそのまま再現することは容易である、 しかしある点においてはそれを誇張し、ある点においてはそれを省略しなが ら、その大阪ならびに大阪の町家が持つ気分を如何にただよわして行くか、 そこが私の何より苦しんでいる点であり、それだけに興味をもってかかって いる力点である。  なお舞台装置にしろ、セットにしろ、それはどこまでも俳優の演技を助け るもので、舞台やセットが俳優の演技を押しのけて、観客の前にのさばるべ きものではない。それは文字通り背景であるべきだと私は常に考えている。 舞台装置やセットがその小道具類の細部にわたって、その凝り方、手の入れ 方、考証の深さを、もし観客が俳優の演技をはなれて好奇と興味の眼をもっ てながめるならば、その装置はある意味で失敗であるとともに、その演劇或 は映画は、すでに覆い切れない破綻と亀裂を生じているものだと私は考える。 舞台やセットは俳優の演技を活かし、その作品の気分あるいは精神を十分発 揮するように考案され、装置されるべきで、それ自体が観客の興味の焦点と なるべきものではない。たとえば所作事の舞台装置は簡単で、背景の山なり 松なり雲なりを描けばいいので、極くたやすいことのように思われるが、事 実は反対で、普通の舞台装置以上に所作事の舞台となると頭を痛めるのであ る。  演技者の扮装、色彩、持物から、演技中舞台を如何に右し左し、前後して 踊るか、その形、身振りまでを充分知りつくした上で、背景の山なり松なり 雲なりを、その演技に順応するよう配置、考案するので、ただ美しい山、美 しい雲を描くだけではすまないのである。そこに装置家の見えない苦労がひ そむので、これが演技は演技、背景は背景と個々に並立したならば、如何に その両者が立派なものであっても、すでに演劇としての美をなさないのであ る。  話は大分「春琴抄」をそれて来たが、最初にも書いた通り、今度の仕事は 映画における私の最初の仕事であるし、メーキアップの細部にまでわたって いるので、田中絹代氏を如何に春琴らしくつくりあげるか、セットは勿論そ んなこまかな点にまで、原作の味と大阪の色とを如何に織り出して行くか、 しかもその苦心のあととか、考証のあととかを観客に気どられず、どこまで も観客をして俳優の演技と作自体のおもしろさのなかに没頭させて、セット や扮装は、映画の味わいの蔭にかくれて観客の興味を引かないように努めた いと思う。もし映画「春琴抄」のセットが観客の好奇の眼を引くようであっ たならば、それは考案者である私の失敗であり、私の苦心が水泡に帰したと いうべきであろう。 民謡と映画  映画を初めて見ましたのも、考えて見れば、久しい事であります。神田の 錦輝館へ時々かかりました時の面白さは、言葉の外で御座いました。それか ら浅草の電気館が映画館となりまして、それから忽ちのうちに今日のように 盛んになりました。この間四十年位もたちましょうか。夢のようであります。 画も実に良くなりました。近来日本で作りましたものの中にも、実に良いも のがあると思います。しかし映画の見巧者と自らも許し人も許すきわの人の 中には、洋画の崇拝者が多く、とうてい日本の作品は洋画に及ばぬように言 われる方が多いように思われます。しかしながら私は一概に左様には申せぬ のではないかと思うのであります。元より洋画には真似の出来ぬ良いところ があると思います。聞くところによりますと、撮影の費用や時間など比較に もならぬ相違だと申しますが、それはさておき、洋画のよいところに敬服し て、その尺度で物を見る心構えが、日本の作品のよい所を見ぬようにさせは 致しませんでしょうか。俳優にしても、向うの俳優の立派な事は元より、そ の芸はたいしたものでありましょう。併し私は日本の俳優の持つ、幽韻とで も申しましょうか、余韻と言いますか、洋画に決して出ていない芸の味があ ると思います。小さな事でありますが、品物をいじる手許を見ましても、非 常な相違があると思います。私は洋画に出て来るあちらの名優の手許や足許 を見ておりまして、実に汚わしくて、見るに堪えぬ事が度々あります。  それにしても只今は、何と言わず、芸事が実際の生活と全く一つになって いると思います。生活と離れた芸は尽く滅びるものでありましょうが、中に は少しは生活をなぞらぬ、つかずはなれずの作品もあっては如何なものでし ようか、たとえば子供が子守唄を聞くような。私は大好きな民謡がありまし て、こういう映画も一っ位ほしいものと思っております。  それは文句は忘れて、うろ覚えでありますが、「向の山に猿が三疋ゐやる」 という文句にはじまります。或山の麓の八幡長者の乙娘が、夕暮に、橋の欄 干によりかかって、向の山を眺めておりますところへ、三疋の猿が出て参り まして、向の山へ花を折りにと誘うのであります。そして三疋の猿に袖や手 を曳かれて、夕月の中を、落葉を踏んで山へのぼります。山上は花の真盛り でありました。なんでも「牡丹 弓薬 百合の花 一枝折れば ばつと散る 二枝折れば ばつと散る 三枝がさきに日が暮れて いづこの御宿ヘ泊らう か」というようなわけで、その夜は花の中へ眠るのであります。そして夜が あけまして、麓の家へ帰った或日の夕方、前の橋の上で、また向の山を眺め ておりますと、遥かな谷間から、ちらちらと火が燃え上がって山火事になり ました。そしてこの火は、三日三晩燃えつづけ、花の山を焼きつくしました。 あとへしとしとと春雨が降るという。このような意味の唄であります。私は このような情を出した映画も、少しはあってほしいと思っているのでありま す。娘を神々しいまで端麗にういういしく、人間は唯一人、あとは三疋の猿、 花の山や、月夜の山路、また山火事などを十分に工夫して見たいものと思っ ております。  私はこの間「藤十郎の恋」を手伝わせて貰いまして、誠に久しぶりで、映 画に関係いたしました。この山本嘉次郎氏監督の作品なども、洋画の鑑賞眼 を標準として見るものではありますまいと思います。  そのとき入江たか子氏の、お梶のために誹らえた衣裳(宗清の離れに用い たもの)は、上着はお納戸地に銀鼠の桜小紋、帯は白茶地に色入りの花筏の 模様でありました。 映画片々語  私が挿絵を描いた諸作家の作品で、映画化された小説は数え上げると沢山 あります。  併しそれらの殆ど全部は筋が本位で、挿絵に拠る処はありませんから、従 ってそれらの映画を見ても、画家としての立場を離れて筋の面白さで見ます から、別に画家として批評を試みたり、意見を持つ事もありませんでした。  先頃新興で撮った邦枝完二さんの「おせん」は、特に挿絵の持つ浮世絵的 な味を出そうとして、私にも話がありましたが、あれなどは新しい試みだっ たでしょう。挿絵の味を活かそうとして努力している跡が見えているのが、 非常に私として嬉しく思いました。 「おせん」は新しい試みとしては成功だと云えると思います。  あれで興行的に成功なら尚更申し分ありませんが。  鈴木澄子さんの「おせん」は、あれ以上を望む事は無理だとおもいます。  肉附も恰度好い加減に柔らかい線も出てました。  ただ動き方に依って、一寸ばかり堅いところがありましたが、併し他の女 優さんに「おせん」を求めるとしても見当らないようです。  私は鈴木澄子さんに依って、あの絵が生きたように思いました。  最近初めて澄子さんに会いましたが、仲々奇麗な、そして感じの好い人で した。  私は泉鏡花さんの作品が特に好きなので、この頃でもなるべく気をつけて 読むようにしていますが、映画になった「滝の白糸」を遂に見ずに終ったの は甚だ残念でした。  評判が良いだけに一層惜しまれてなりません。  私はどう云う物か、映画を見ても役者の名前を覚えようとしないので|不可《いけ》 ません。  その癖関係が深いので、至るところで俳優さんに会う機会はあります。顔 を見るとわかりますが、写真を見る時は夢中で見るのでしょうか、それとも 筋に囚われるのかも知れませんが、何れにしてももっと熱心になりたいと思 います。 初夏の女性美  柏崎の宿で眼が覚めたのが朝の四時、海の音が聞える。気のせいか東海の 浜の浪とは、音が違うようであります。  このたび初めて越後へ来たのは、或人に頼まれてその家の家什を見に参っ たのですが、その用向も昨日で済みまして帰り道、柏崎へ宿ったのは、此所 から四里ほど山へ入った所が今は亡き友人の故郷で話にも聞き絵にも見た村 がある。友人は類稀な天分を持ちながら世に出る事もなく、惜しくも十数年 前この村で若死をしたのであります。その友達の絵に残った故郷の景色をま のあたりに見たり、墓へも詣りたいと年来願っていたのが、丁度このたびの 越後の旅で序というのも変ですが、今日はこれからその村を訪ねようと思っ たのであります。  さて旅なればこその早起で、七時には乗合自動車で早三里も離れた小駅へ 参りました。これから一里半の峠道七曲りという。宿を出る時から鼠色に曇 った空がいよいよ本降りとなりました。久々の山道越え、頭まで泥をあびな がらすたすたと歩く。時々空が明るくなると霧がはれて、眼の下に|合歓木《ねむのき》の 花があらわれる。友人の大好きな米山の姿も見えず、漸くその家へたどりつ いたのが九時過ぎで大雨の最中。  道で逢った人に家を聞いたのですが、田舎の事で門に表札はないのに此所 と生垣について入ると、前庭を広くとって突当りに大きな母屋がある。折柄 母屋の暗い入口から、白髪のお婆さんが頭が膝につくばかりに膝をまげて、 水溜りを除けながら横手にある納屋の方へ行かれる。これ幸いと後から声を かけましたが返事がない。追いすがって大声で言葉をかけても振り向きもし ません。その時声を聞きつけて、矢張ウ土間から傘もささずにかけ出して来 た、眼の醒めるような麗人がありました。その周囲は青葉が重り合い繁り合 って、しとしとと降る雨に緑を絞って流したようなその中へ、色の白い姿の よいこの人が、お納戸色へ花菖蒲を銀鼠で出した単物に、濃紫に水浅黄で花 菱をぬいた帯で急いで来る姿は、実に美しいと思いました9  あとで聞けば、それは友人の弟の夫人で年は二十三、お年寄はお母さんで 耳が非常に遠いのでありました。そこで座敷へ上がって初めてではあります が、様々友達の話などしましたが、それにしてもこの人の麗しさ、ことに顔 の色の美しさを何と讐えようもありません。すき透るような白さに心持黄ば んだ色は、名人の描いた絵か彫像のようにも見られます。思わず長談義に時 を過ごして、帰りは逆に雨は小降りで柏崎まで一走り、そのまま汽車に乗っ てその夜は赤倉の温泉に宿る。翌朝は空は晴天、土地は妙高の中腹なれば、 越後の山々を手にとるように眺めながら昨日の事を思い出せば夢のようであ ります。  あの麗人の美しさは、美しいといえば、昨日からかの夫人の悌が何かに似 ているように思われますが、思いつかない。とりとめもたい事を考えながら 高原を歩く、時々雲がかかって眼の前が真白になる。その雲の過ぎたあとを 不図見ると、何か紫がある。よくよく見れば、珍しくも山上に咲いた菖蒲で あります。実に美しいと思うと同時に気がつきました。麗人に似ていたのは 紫陽花であったのです。心ばえといい色も姿も着物の好みも、悉く紫陽花で ありました。 『日本橋檜物町』 昭和十七年十一月 高見澤木版社刊