灰色にぼかされた結婚 木津登良(1900-1950) http://web.archive.org/web/20031226091011/http://www006.upp.so-net.ne.jp/kitan-club/nakaryou.html http://web.archive.org/web/20020609023659/dc-powers.hoops.ne.jp/ykhp/gallery13.html A 序曲  一九〇〇年代の文化生活者は、都市の近郊に於ける田園 を、彼等の美学によって、トタン屋根と、アンテナと、漆 喰いと、タイルと、硝子とでもって征服していた。——大 自然の緑や赤土が、どんなにか彼等によってキュウビズム な陳えをみせていたことか。彼等はそんなことには全然御 構いなしに、その美学的感傷に浸り|乍《なが》ら、「よき田園生 活」を讃美していた。  一九〇〇年代のプロレタリアは、都市の中枢に於ける資 本主義の殿堂を、荒茫と、焦燥の原野に立ち還らせ様と苦 心した。  彼等は、貴族的な一切の逃避と感傷とを嫌って、極度に アイディアリズムを排撃し|乍《なが》らも、自分自身アイディアリ ズムを一歩も出ずることが出来ないでいた。マルクスに根 付けされて、マリネッチに示唆されたその美学は、速度と、 光と、電気と、ハンマーと、汗と、そして争闘とに立脚し ていた。彼等は世界をして、鉄と、ニュウマチック、ハン マーと、騒音と、|暗《やみ》と、電気ブランと、それから眼まぐる しさとで以てカモフラージュし様と企てていたのであった。 *** それからー年が経った時の世界の話である。 ***  感傷《センチメンタル》とロマンチックとに生き様とする人達と、それ等 の感情を排撃して、大砲弾の様にハッキリとした、当然す ぎるほどに科学的《サイエンティフィック》な生活を希求する人々との分野が、 余りにも明瞭に区別されて、世界がこの一つの色彩の交錯 に燦いている時代の話であることを、先ず皆さんは頭に置 いていなければならない。 B  ミス・ミカロウヰッチは真白なベッドの上に横わって、 蒼白い悩みをつづけていた。  たった今、吐いた血塊が銀盤のなかでピチピチとうごめ いている。陽光が突き刺す様な朱箭を射ぬいている。そし て彼女の口唇からは、未だ糸の様に細い血の筋が、その頬 に走っていた。  喀血のあとの、けだるい悪寒が、純白の夜具の絹ととも に、しっとりと彼女に纏わりついているのである。そして、 彼女は、蝕ばまれゆく肺臓の、ぽこぼこと不気味にひびく ラッセル氏音に、自分自ら聞き惚れていたのだ。  とにかく、ミス・ミカロウヰッチは、純白なベッドの上 で、蒼白い悩みに喘いでいた。  ドクトル・アイン・ケムベルヒと一緒に小高頓兵衛が、 入つて来た。 「や、吐きましたね。結構」  ドクトルは銀盤のなかに、どぶりと凝固したその血塊を みて云った。 「今朝よりも多い。昨日の午後よりも更に多い。……結構 なことです。此の模様でしたらもう七日もしたら退院です な」  ドクトルはひどく上機嫌だった。 「お蔭様で……」  小高頓兵衛は頭を下げた。  陽光が純白なベッドの上で笑った。 「では又、あとで回診しますからな」  ドクトルは、真紅な治療衣の裾を摘まみ|乍《なが》ら出ていった。 「あのね……」と、ミス・ミカロウヰッチ。 「何だ?」 「何だか変よ。肺臓が、どきどきと崩れてゆく様な響がき こえるのよ」 「いいじゃないか。早く崩壊させちゃうんだね」 「でも何だか淋しいわよ」 「ははは……。ドクトル・アイン・ケムベルヒは近来の名 医だからね」 「……そうじゃないの。ただね、こうして肺臓が腐ってし まってさ、両方の胸ががらん洞になるでしょう……」 「だから、あとでゴム製の肺臓を容れ様と云うんだよ」 「……そうじゃないの。そんなことを嫌ってるわけじゃな いけど、……あたし達は原始生活をしているでしょう。… …それだのに、自然の肺臓を崩壊させてしまって、代わり にゴム製の肺臓を胸のうちに蔵うなんて、しかも心臓のす ぐ横によ。あたし何だか原始生活の冒漬みたいな気がして ならないの」 「仕方がないさ。お前は、今更そんな抗議をするにしては、 少しばかり結核菌を飲み過ぎているんだからな」 「そりゃそうだけど。……どうか知ら、此のまま肺臓を崩 壊させっ放なしにしておくわけには行かないものか知ら」 「つまり、死を希んでいるんだね」 「だって原始生活を冒漬してまで生きてゆきたいとは思わ ないことよ。あたし、つくづく考えたの」 「……で、俺達二人の生活はどうなるんだ」 「まア、形の上では壊滅ね……」 「魂丈けが燃えている、と云うんだろう」 「それではいけなくって?」 「空気ばかりを吸うて生きている様なものだ。味もそっけ もないじゃないか」 「味覚の必要がなくなっている現代に、そんなものの言い 廻わし方ってありゃしないことよ」  小鳥が一羽陽光にのって窓ぎわに飛んできた。 「カナリアだな。お這入り」  小高頓兵衛は窓を明け様とした。 「いけません。そんなこと。……自然への反逆ですわ」  ミス・ミカロウヰッチが叫んだ。それから、又、かっと ばかりに一塊の血を銀盤に吐き出した。  陽光が思い出した様にキラキラと輝いた。 C 「では又、ひとつ呑み込んで貰いますかな」  ドクトル・アイン・ケムベルヒは、ミス・ミカロウヰッ チに一つのゴム風船玉を渡した。  ミカロウヰッチは黙って呑み込んでしまった。唇の外に、 細いゴム管が流れ出ていて、そのゴム管の先端は、ギラギ らと輝く機械のなかに吸い込まれていた。  ドクトルが、小さいハンドル・ポンプを動かして、胃の 中に落ちた風船玉へ、ブドウ液を送りこむと、室の隅の機 械が不意に軋り始めた。一九〇〇年代に流行した蓄音器の、 竹針がレコードの上で踊っている様な、ま、一寸あんな音 が、始めたのであった。 「これは素晴らしい」  ドクトルは機械の円筒部に描かれる、カーヴ(胃の蠕動 運動を利用して、身体の諸部に於ける疾患を知悉し様と云 う方法である。一九〇〇年の末頃、日本の福岡大学で研究 発表された、最新にして精確なる診断法である)……カー ヴを見ると思わず叫んだ。 「どうです。実に見事なカーヴですよ。あなたの肺臓は、 もうすっかり空虚になってしまったのです。大丈夫。お悦 びなさい」  ドクトルは実に有頂天であった。 「あ、とうとう無くなったのですか」  ミカロウヰッチは絶望に近いうめきを挙げた。 「ミカロウヰッチ。絶望しちゃいけません。投げ出しちゃ 駄目です。円筒のカーヴが鈍い下りを見せ始めたのだ…… もひと息ですぞ。摂取して、そうだ栄養気を摂取して」 「あの、小高頓兵衛はどこへ行ったんでしょう」 「小高? 知りませんね。さっき僕の部屋に来てた。珍し い硝子細工の鉢を呉れたんですがね。ミカロウヰッチ、あ なたは知っていますか。あの破れる硝子細工をね。……い や実に珍らしい硝子を頂きましたよ。何しろ、強い衝動を 与えると壊われると云うんですからね」  ドクトルは実に悦れしそうであった。 「そんなことじゃありません、小高、小高はどこへ行った んですよ」 「いいじゃありませんか。じきに戻って見えるでしょうか ら。それよりもあなたは栄養気でもとって……あ、これは、 いかん」  ドクトルは弾かれた様に飛び上った。円筒のカーヴが急 調子な奔騰をはじめたのである。 「いかん、いかん。早く栄養気を、……いやいかん。生命 気。そうじゃない鎮静気だ」  カーヴが乱調子に昇ってゆく。ドクトルが狼狽する。ミ カロウヰッチはベッドの上に、ぐったりと身体を投げ出し た。  緑色のコートを被けて、看護婦がひょっこり顔を出した。 興奮したドクトルが叩きつける様に云った。 「鎮静気だ。鎮静気だっ」  ミカロウヰッチが、また叫んだ。 「小高はどうしたんでしょう?」  ミス・ミカロウヰッチの異状カーヴは、ぐんぐんその調 子をあげていった。  鎮静気など、彼女のカーヴを一粍も下に復することは出 来なかったのだ。 「気狂いだ。これは狂人のカーヴだ」  ドクトルの疽高い声が、天井板に跳ね返えるのと同時に、 ミカロウヰッチはがっばりと失神した様になってしまった。  セルロイドの様に艶々した花をもって、小高頓兵衛が、 またやって来た。 「ミス・ミカロウヰッチ。自然への反逆かも知れませんが、 私は感情への奉仕として此の花を折って参りました。七日 のうちに挙げられるであろう吾々の結婚式の夜までミカロ ウヰッチ、あなたは此の花を胸につけていて下さい」  大袈裟な云い方をして真黒のパラを、手ずから彼女の胸 にさそうとした時、じっと腕を棋いていたドクトルが口を 開いた。 「いけません。触っちゃいけません」  小高はびっくりした。 「何故です? ミカロウヰッチは私の妻ですよ」 「いいえ、もう、やがて一箇の物質としての存在になって しまうのです」 「何ですって?」 「これをごらん下さい」  指さされた円筒のレコーダーを、・喰い入る様に覗き込ん だ小高に、冷静、氷の如きドクトルの説明が、突きささっ た。 「……ここが丁度、肺臓に崩壊を告げる点ですぞ。いいで すか。このままの線でダイアグラムが出来上れば、今晩の 深更を待って人造肺との置換をやるはずだったんですが、 突然怖しい急調が来ましてね……まるで気狂です。狂暴性 の気狂いです。御覧なさい、鎮静気をやると一時はちょっ と静まりますが、ものの三分とはたたないのですからね」 「気狂い? 気狂い? 本当ですか。それは」 「遺憾|乍《なが》ら、このカーヴが証明しますからね」  ドクトルは冷く口を結んだ。 「有難い。有難い。あの女、ミカロウヰッチにも、気狂い になるほどな興奮と熱情とがあったんです。そうです、熱 情があったんです。有難い。いったい誰れに感謝したらい いのでしょう」  小高は、彼自身こそ気狂いではないかと思われるほどに 悦んだ。 「御冗談でしょう。小高さん。ミカロウヰッチはそんな與 奮だとか熱情だとか云う感覚の衝動によって、発狂された のじゃありませんよ。謂はば、ま、……謂うてみるならば、 私のホンのちょっとした手抜かりからでしたね」 「あなたの手抜かり? それは又どうしたことです?」 「実は……」とドクトルは話しはじめた。  …-|科学的《サイエンテイフツク》な生活をつづけているドクトルにとって、 感情生活に心酔している原始生活者、ミス・ミカロウヰッ チの出現は、実に奇異そのものであったのである。  図表と、方程式と、試験管と、培養器とによって基礎つ けられ、末梢神経のはしばしに至るまでも、正確な感覚を、 先ず誇張や感傷のない感覚を、享け様と努めている彼であ るからして、感情の高いミカロウヰッチの、心理、行為た どは実に解釈しがたい危険そのものであった。  三角形の底辺を歩るいている科学的生活者にとって、原 始生活者は、まるで、鋭角の頂点でフォックストロットを 踊っている様に思われるのである。  で、彼女ーーミカロウヰッチの狂的症状の原因について も、彼は飽くまでも、興奮とか熱情とか云う非科学的な、 ……つまり測定し能わない、文学的な言葉を以て律したく なかったのである。 「つまり、肺臓がなくなったらしい、崩壊したそうだ、と 云う自意識ですな。あいつが、ひどく延髄を刺戟したんで すよ。私が、ちょっとそのための処置を怠っていたもので すから、……なに延髄を、外部からレントゲンにさらして さえ置けば何でもなかったのですけれど」  ドクトルは、そう云って眼鏡にちょっと触った。 「じゃ、矢張り興奮から来ているんじゃありませんか」 「いや、違う。一時は確かに放神の状態にあったはずです。 ごらんなさい、此のカーヴの低下を」 「……?」  小高は、羊皮紙をなめさせられた様な味気なさを感じた。  ドクトルは、円筒のダイアグラムを指した。と、突如、 又、鋭い律動が起って、ダイアグラムは滅茶滅茶に撹乱さ れた。 「いけない。いけない」  ドクトルと小高とが、どしんと突かれた様な驚樗に打た れた瞬間、床の上で死んだ様になっていたミカロウヰッチ が、がばりと跳ね起きた。 「嵐だ、嵐だ」  ドクトルが叫ぶ。 「ミカロウヰッチ!」  つきつめた小高の声。 「小高、小高。あ、小高」  ミカロウヰッチの鋭い悦び。  そして彼等愛人同志は、何の躊らいもなく相擁した、相 抱いた。 「小高、逢いたかったのよ。逢いたかったのよ」  ミカロウヰッチは泣いている。 「よく言ってくれた。よく言ってくれた。……で……」 「え。え。とうとう妾の胸は空っぽになったのよ。心臓丈 がたった一つ、それ、こんなにピクピクと動いているの よ」  と、不思議なことには、円筒のカーヴが、ぐんぐん下っ ていって、彼女の有するカーヴは、ついに平静に帰ったの である。 「莫迦な。莫迦な」  ドクトルが眩く様に舌打ちした。 「逢いたかったの、気が狂いそうだったわ。あなた、栄養 気の瓶を持ってったんでしょう」  ミカロウヰッチは、そっと小高に厳いた。 「そうだ。そうだった」  小高のポケットから取り出されたのは、空色の小さい瓶 だった。  円筒のカーヴが鈍く弧線を描いて低下した。 E  世界の製鋼界が、最初に、大規模な生産を促されたのは 反射の発明によってであった。それからベッセマー氏の転 爐が出来たり、シーメンス爐が発明されたりして、一九○ ○年に至って、エレクトロが全工業を支配する様になって からは、当然電気爐が発明された。つづいてクロームの適 量を混入することによって無錆鋼が実用化され、その精巧 品の硬度、靱度は、日本古代のマサムネ、ムラマサにも優 るものであることが、一九二九年には、日本の陸軍科学研 究所で発表されたりした。  ……以来、世界は真黒の鉄時代を過去に残こして、輝く 鋼の世界に入ってしまった。しかも従釆鉱石によって製錬 された鉄が、その原料を土、——主として黄土によって充 足される様になって以釆、鉄の価値は著しく下落し、従っ て普遍された。  かくの如き工業の進歩は、必然的に科学の飛躍を伴うも のであるが、今から(此の物語の時代から)約一世紀前に 行われた大規模の人口淘汰ほど、科学の進歩を如実に物語 り、如実に怖れさせたものはなかったであろう。  人口淘汰と云えば一つの合理的政策らしく聞こえるが、 具体的に云えば明瞭なる人間殺戮であった。   …と云うのが、さらでだに過剰しつつあった世界の人 口が、原始生活者の無制限なる出産によって、今や、人間 の住居が海上にまで溢れ出で様とする勢いになったので、 時の人類支配官、アツヒトによって発案されたのがこの人 口淘汰法であった。  この方法は約一年間に亘って、徐々と、しかも極秘裡に 行われた。  世界に向って、極めて微量のホスゲン瓦斯(これは一九 〇〇年代に於ける世界戦争の際、毒瓦斯として使用したも のである)を放出することによって、、先ず虚弱者を淘汰し 様としたのであるが、此の方法は実に予期以上を好成績を 納めて、世界の人口は一挙にして五分の四を失ったのであ った。  然し爾来、此の試練に耐えて窒息死しなかったものも、 どこか知ら肺を痛めたのであって、世界はあげて肺結核の 病院と化したのである。  と、その当然の結果として、著しく発達していた当時の 医学界は、直ちに人工肺と、自然肺との置換に成功して、 この人類の危難を見事切り抜けたのであった。  これよりさき、医学界に於ては、化学的療法と、物理的 療法との対峙によって理論闘争と、臨床実験とが屡々繰り 返えされたのであるが、大体に於て物理的療法を経過して、 それに化学的療法を完全に織り交ぜると云う風に、学界の 意向が決定してから、疾風の様な素晴らしさでもって医学 は進展したのであった。  その著しい例の一つとして、ウヰンナに在る栄養研究所 は、人体に於けるカロリーの摂取について、実に驚くべき 劃時代的な新学説を発表した。  ービタミンA、B、C、D……の如き、生存構成に欠 くべからざるものの如くに思われるものと錐も、カロリー の適当なる摂取法によって、何等これ等のものをして人間 生存に関係なき単なる無用の学説たらしめ得べし。若し人 間の身体全体を一つの|機関《エンジン》として考うる時、ピストンを躍 動せしむべき爆発気、即ちカロリーさえあるならば、人間 は、明らかに従来通りの人間として活躍すべく、むしろよ り明断なる頭脳を有するに至るべしー  ウヰンナ栄養研究所が一見奇異と思われるほどの説を発 表して二百四十八年目、上海にある栄養研究所が、とうと う此の説の真実を裏書きする様な新発見をしたのであった。  ……以来、全世界の人類は、完全に食糧問題から解放さ れて、配給所からうける定量の「栄養気」によって日常の 生活をつづけ、その身体的異状に従って、彼等は「鎮静 気」「興奮気」 「生存気」をうけることが出来る様になっ たのである。  即ち、上海栄養研究所では、人体を一つの内燃機関と仮 定して研究をつづけた結果、体内に適当の爆発気を送るこ とによって、戴を発散せしめてカロリーを得ることに成功 したのであった。  而してその爆発気は、空中窒素を|凝固《コンデンス》したもので、無尽 蔵に世界に溢れていた。  爾来、米、麦、芋等は、食糧としての存在ではなくして、 単に嗜好物として、林檎やメロンと同地位に置かれる様に なったのであった。 F 大きな蓄電槽のかげに、エリザの尻が慌しく隠れた。 「何て、大きな尻だ」 グロッスが眩いた。 ことほど、彼女の尻は大きかった。  今、二人は足場をつくって、板を敷き、蓄電槽の掃除を しているのである。  空中電気をとって蓄電しておいて、さて、三年間に二パ ァセントの落差しかないと云う大蓄電槽を七つ。lそれ が此の工場の生命、源動力であった。  一旦、隠れたニリザが又ぬっと現われた。 「何だって? 妾の尻がどんなに大きいんだって。ヘン、 莫迦にするない」  エリザの権幕は怖ろしかった。 「おお、大きいとも、向うのモートルよりは余っ程大きい や」  グロッスが応らえた。 「なにッ!」  そう云って、エリザがモートルの方を振り返った瞬間、 その偉大なる尻が、グロッスの敷板の端に触れると、弾み を食って忽ち、ボーンと跳ね上げられたグロッス。アッ! と云う間もない。折から藩進して来た移動クレーンに|打《ぶ》つ っかって、更に転落した彼は、ニヤァ・ハンマーのハンド ルで強たか腰を打って、そのまま金床の上に跳ね返ったの であった。 G  ドクトル・アイン・ケムベルヒ病院のとある病室で、ス ポンジ製の人工肺を容れたミカロウヰッチと、右脚と左手 とを砕かれて繍帯にくるまっているグロッスとが話してい た。月光が憂欝な蒼光を空いっばいに法らせていた。  ミカロウヰッチが云った。 「……でも、そのままでは不便じゃなくって? 明日から 働けないじゃないの」  で、グロッスが答えた。 「働けなくっても、……なアにそんなことよりも自分の手 や脚をなくすことの方が、どれほど辛いか知れませんよ」 「その代わり精巧な義手や義足が貰えるんでしょう」 「然し、貰い物は、やっばり貰い物だ。決して自分のもの じゃないからね」 「まるで、自分のものと同じ様に動かせると云うじゃない の」 「魂がないからね」  そこでミカロウヰッチはすっかり驚いてしまった。 「魂? 魂ですって? 驚いた。あなた方にもやっばり魂 の存在が問題になるのか知ら」  グロッスが妙な顔をして黙りこんだのも無理はないQ… …彼等は自ら、原始生活者に対して科学生活者だと呼んで いる様に、すべての挙作を科学的に解釈して、此の世界か ら、一切の夢、感傷を否定し様としているのである。  速度と、鉄と、電気と、光と、熱とが、此の世界の構成 分子だと主唱しているのである。  その科学生活老の一人、グロッスが、いま魂を肯定し様 としているのであるから、ちょっと問題である。 「では、愛などの問題はどんな風に解釈するの?」  ミカロウヰッチは重ねて問うた。 「愛? そんなものは差当り問題じゃたいね。要するに、 気持を偏在させるのは、ひとつのセンチメンタルだよ」 「そんなものか知ら、……では結婚は?……妾明日結婚式 を挙げるはずたのよ」 「何故今夜挙げないのだ?」 「でも、いろいろ準備が要るじゃない」 「では未だ、気持ちが決まらないという訳?」 「そんなことじゃないわ。ちゃアんと、これこの黒バラの 花が、|妾《わたし》の小高の心なの」 「莫迦にしてらアな。そんな花ぐらい、僕だってあんたに 上げることが出釆るよ」 「|妾《わたし》に? そしてあなたが……」  ミカロウヰッチの前に、突如として差し出されたものが あった。右手にしっかと握られた、六連発のピストルであ る。 「私の、女への贈物はこれだアね。いやだと云えば、女の 心臓に打ちこもうし。うんと云えば空に向って祝砲を放つ さ。ミカロウヰッチどんなものだろう?」グロッスの眼が 光った。  ミカロウヰッチは慧かれた様だった。いったいグロッス は何を云っているのだろう。本気で云っているんだろうか、 それとも冗談か知ら……それにしても男らしい力強い男だ な……。 「ね。グロッス。|妾《わたし》は、男の言葉を、いつも本当にしてき いていいものか知ら、それとも上のそらできいているがい いものか知ら……」  彼女は、蒼い月をみながら、言葉丈けは、眼の前のグロ ッスにかけた。 「どっちでもいい。どっちでもいいんだ。男だって、どっ ちでもいい様にして喋べってるだろうからナ」  グロッスの返事は冷めたかった。だが、ミカロウヰッチ の眼が急に輝いた。 「グロッス。グロッス……」然し、グロッスは黙って月光 に浸っていた。  その時、小高頓兵衛が、静かに、月光の部屋にはいって 来た。 「愈々明日です。愈々明日から、あなたは、ミカロウヰッ チ.小高になるんだ。ね。愈々明日ですよ」  小高ははしゃいでいた。  ミカロウヰッチは、黙って、グロッスの手を握っていた。 小高の眼が|敏《はや》くもみつけて各めた。 「小高」ミカロウヰッチが、ぴんと絃を張った。 「小高。|妾《わたし》は、あの穴居生活がいやんなったの。原始生活 かどうかは知らないが、|妾《わたし》は、やっばり太陽の下で暮らし たくなったの。穴居生活なんて、考えた丈けでもいやんな っちまったわ」 「ほう!」意外だった小高の声は淋しかった。 「では、明日から、……いや今夜からでも、|妾《わたし》はあの穴屋 を片附けてさ……」 「それから……?」 「此の人ーグロッスのアパートメントに移る考えよ」  小高にとって、実に意外た言葉であった。彼は身体中が うつろになった様に思われた。 「……で、僕との結婚は? そして、僕も、アパートメン トに行くんですか?」ミカロウヰッチは実に落着いていた。 「御随意に。……御覧。あなたの黒バラが、私の胸から除 かれた代わりに、私の胸には、あの人のバラが刺さったの よ」  グロッスが黙って六連発のピストルを、小高に擬した。  驚きと、怖れとに標えている小高が、両手を挙げたまま 一足一足退いてゆく眼の前で、ミカロウヰッチの言葉が床 の上に叩きつけられた。 「何が、原始生活だ。何が科学の否定だ。被ている着物。 靴。みんな科学の脱糞じゃないの。それよりも、毎日摂取 している『栄養気』だって、誰れが科学者のものだと思わ ないものがあろう。|妾《わたし》はいやだ。|妾《わたし》はいやだ。体裁のいい 遊戯の生活だ。お遊び。勝手に。そして、又いい黒バラの 贈り相手を捜がすがいい」  かくして、小高頓兵衛は完全に失恋した。 J  ドクトル・アイン・ケムベルヒが、にこやかに笑ってい た。  一つのベッドに並んで腰を卸したグロッスとミカロウヰ ッチは、同じ様にゴム風船玉を呑みこんだ。 「愉快だ。まるで奇蹟だ」  ドクトルは、円筒に記録される二人のカーヴが、余りに も同じ調子なのにすっかり驚いた。 「愉快だ。さ、結婚し様」グロッスが叫ぶ。 「新しい|首途《かどで》への今夜……」  ミカロウヰッチが、グロッスに抱きついた。 「祝砲だッ」  轟然たるひびき。部屋にこもった灰色の煙。そっと覗い ていた小高が、びっくりして飛び上った。      K  グロッスが、ミカロウヰッチの肩を軽く叩き|乍《なが》ら曝いた。 「俺れは、義手をつけるよ。そして、お前をしっかり抱く んだ。それから義足をつけて、明日、すぐに旅に出様よ」  ミカロウヰッチはその胸の中で、かすかに頷き|乍《なが》らも畝 泣していた。