国家主義以前 木下尚江  若き人よ。  僕等のような古き人間、明治時代第一期の少年は、君等の受けたような愛国教育と云うも のを、遂に知らずに過ぎてしまった。明治十八年の暮、僕が中学を出て来る頃、若い教員が 二三顔を寄せて、 「何でもこれから、国家主義の教育ってことになるんだそうだ」  こんなことを、不安げにささやき合って居るのを聞いた。僕等の少年時代は、君等の目に は、草蒙時代、暗黒時代、無知覚時代と見えるであろうが、何時の世にも時代相応の苦闘が ある。  明治九年の春、僕は八歳で始めて小学校へ行った。先ず「アイウエオ」を習い「糸犬|錨《いかり》」 だの「桃栗梨|柿《かき》」だの一と通り単語が済むと、連語と云うものへ進む。 「神は天地の主宰にして人は万物の霊なり」これが連語の第一句であった。第二句が「天道 を以て身を修め仁義を以て人に交《まじ》わる」たしかこうであったと思う。黒板の掛図の大きな文 字を、教師が細い鞭で指しながら教える。やがてそれを各自石盤へ石筆で書き取る。僕は、 この「万物の霊」の霊の字が、ヒョロ長くダダ広く崩れるように大きくなって、持て余まし たことを覚えて居る。  連語が終ると小学読本だ。 「大凡《おおよそ》地球上の人類は五つに分れたり。亜細亜《アジア》人種、欧羅巴《ヨ ロツパ》人種、亜非利加《アフリカ》人種、亜米利加《アメリカ》 人種、馬来《マライ》人種これなり。日本人は亜細亜人種の中なり。」これが読本巻の一第一章だ。  段々読んで行く中に、「神」と云う言葉がチョイチョイ出て来る。例えば、暗い所に一人 で眠《ね》て居ても、神は常に守りたまう故に、恐れることは無いと云うようなことが書いてある。 僕の小さな頭は、始めて妙だと思った.、  君は速断してはならない。僕は決して「神」と云う言葉を奇怪に思ったのでは無い。ただ、 能くは無論わからないが、それまで家庭で馴れて居る「神」と、今学校で読む「神」とが、 何か違って居るように感じたのだ。  僕の幼年時代、僕等の周囲には、無神論と云うような空気は、未だ香も無かった。僕等は 生まれながらに、神の中に育てられたものだ。第一に氏神と云うものがある。話は勿論信州 松本市のことなのだが、僕の氏神は大天白と云い、稲荷明神の中でも最高格の神だと云う話 を聞かされて居た。この氏神の数多き奇特談の中で「天白様は子供がお好き」と云うことが 普《あまね》く言い伝えられて居た。天白社の境内は氏子の子供等の遊戯場で、参詣人が携え来て恭《うやうや》し く供える油揚は、その人の手を離れるか離れないに、グルリと取り巻く群童に奪い取られて しまう。甚だ不都合な事に思い、昔し或る世話役の老人が、ひどく子供等を叱ったそうだ。 すると、この老人が病気づいて、なかなか本復しない。一夜、夢の中に天白明神が現われて、 子供を叱った神罰である旨《むね》を諭《さと》されたそうだ。その後、群童の乱暴は神慮に叶うものと云う ことで、現に僕の幼年時代にも、誰れ一人|咎《とが》めるものも無かった。  僕の家の庭内にも古く稲荷大明神の小祠が祭られてあった。これにも奇特談が色々あるら しかったが、僕の耳に尤《もつと》も手近く響いたのは僕の祖父が神罰を蒙むった一件である。祖父は 尚お男盛りで早く死んだそうで、僕は無論顔も知らないが祖母の話で考えると、どうも無法 な我儘な人であったらしく、閉門の所罰を受けるやら、家格を引き落されるやら、妻子など 泣かせたものらしい。然《そ》うした人だから、稲荷など厄介に思ったであろう、岡の宮と云う程 近き神社の、神官に談じて、或夜提げて行って、宮の森へ置いて来た。すると祖父がブラブ ラ病気に取りつかれて、医薬も一向に効験が無い。その時代の風習で、何か物の崇りでもあ るのでは無いかと、人が巫女《みこ》を連れて来て見て呉れた。忽ち稲荷明神がこの巫女に乗り移っ て、恐ろしい見幕《けんまく》して祖父を罵ったそうだ。その稲荷の仮声《こわいろ》を、祖母が上手に真似してよく 聞かして呉れた。「この男不心得にして、きたなき物でも捨てるように森の中へ置き放し、 振り向きもせずに立ち帰った」依て神罰を与えると言うのであった。さすがの祖父も閉口し、 早速連れ戻して不時の祭礼など行い、ひたすら神意を慰めたと云うことだ。  この外、竈《かまど》には竈の神がある。臼には臼の神がある。井戸には井戸の神、後架《こうか》には後架の 神がある。歳の暮には、伊勢から禰宜《ねぎ》が天照大神宮の御はらいを配って来る。別けても火と 云うものを非常に神聖視したものだ。母が毎朝第一の仕事は、竈の前に坐って火打函の蓋を 開けて、石を切って火を取ることであった。それを付け木へ移して釜の下を焚きつける。こ の台所でカチンカチンと火を切る音、引窓をカラカラと開ける音、白い烟がホノボノと引窓 から立ちのぼる姿、これが朝の賑わしい風情であった。それから、大晦日《おおみそか》の晩には、この家 中の神々へ灯明を供えた。これは家主の職務の重要な一つだが、僕の家には父が旅勤めの為 め年中不在なので、子供ながら僕が代理をさせられた。  こうして僕等は仔細なく「神」と云うものの中に生きて居た。けれど、いま小学読本で教 えて貰った神は、この伝説習慣の神と何やら違う感じがする。  その頃、中教院と云うがあって、僕はよく祖母に連れられて参詣した。中教院と云っても、 若い君にはわかるまいが、明治の初年「王政復古」祭政一致の潮流から生まれた神祗官《じんぎかん》の記 念の一つだ。東京に大教院を置き、地方に中教院小教院を置き、教導職十四級を設け、  第一条、敬神愛国の旨を体すべき事.、  第二条、天理人道を明にすべき事。  第三条、皇上を奉戴し朝旨《ちようし》を遵守《じゆんしゆ》せしむべき事。 この三条の教憲を定め  (一)神徳皇恩の説、(二)人魂不死の説、(三)天神造化の説、(四)顕幽分界の説、(五)  愛国の説、(六)神祭の説、(七)鎮魂の説、(八)君臣の説、(九)父子の説、(十)夫婦  の説、(十一)大祓《おおはらい》の説。 この十一個条の説教題目を立てて、毎月一回説教させたものだ。御本体は  天之御中主神《アメノミナカヌシノカミ》  高皇産霊神《タカミムスピノカミ》  神皇産霊神《カムミムスピノカミ》  天照皇大神 これを四柱皇大神と云うた。  神祗官は廃止になって神祗省となり、神祗省も廃されて文部省に合併し、僕の参詣した時 代は、文部省の支配の下にあったものだ。紅黄緑紫思い思いの装束した神官が溢れるばかり に集り、奏楽の中に祭事が済むと、説教が始まる。撲は或日の説教に、藤色の装束した美男 の神官が、那須与一《なすのよいち》扇の的《まと》を、一席朗々と講じたのを覚えて居る。今から思うと与一が馬の 鞍に打伏して、八幡大菩薩を始め別しては生国那須明神を一心に念願し、目を開いて見たれ ば、浪穏やかに扇の的が明かに定まったと云う、源平盛衰記のあの一点を眼目に、説教題目 の第一神徳を弁じたものらしい。  説教が終ると、参詣人がゾロゾロと帰り行く中を、祖母は僕を伴うて神前近く恭《うやうや》しく進む と、其処には銚子を携えて神官が控えて居り、素焼《すやき》の浅い盃ヘタラタラと神酒を注いで呉れ る。僕はそれを有難く頂戴して帰ったものだ。この中教院を、僕は子供心に何となく面白く 思って居たが、間もなく廃止になってしまった。 二 君よ。小学校と云う処は、時代の活きた模型だ。その頃は、士族と云うものが尚お封建時 代の余勢を保って、経済的にも未だ外観を維持して居たので、一つの小さな教室の中に、服 装にも言語にも態度にも、士族と平民との差別の色彩が判然と目立って居た。何かの機会に は、二つの童群に分立して喧嘩したものだ。この身分的旧階級の対立を横断して、複雑な混 乱状態に陥《おとしい》れたのが、貧富階級と云う新時代の新身分法であった。全市民を財産標準に、上 中下の三等に分類した。それに依て学校の月謝額が矢張りL中下の三等に分けてある。生徒 は皆な学校から渡された細長い木札を持って居て、月謝日には木札の細紐に銭を通して来る。 その頃の通貨は旧幕府時代の旧銅貨で、真中に四角な孔が明いて居た。その木札の姓名の上 に「上等」「中等」「下等」と明記してあるのだ。士族の子、平民の子の争闘は、何時《いつ》しか富 者の子、貧者の子の争闘に変って行った。士族にも貧富の一.一等があり平民にも同じく三等あ る。士族の上等階級は平民の上等階級と接近し、平民の下等階級は土族の下等階級と連合す る。僕の家は士族とは言うても元軽輩なので、士族平民の対戦の折にも、僕は離れて眺めて 居た。新階級法では、無論「下等」の月謝組だが、旧家老の家の児が書物が能《よ》く読めるでも なく、大町人の家の子が数学が能く出来るでもない。僕は、こうした自慢や争闘に殆ど厘毛 の感興も覚えなかった。  廃刀令と云うものの出たのが、明治九年の春であった。君よ、可笑《おか》しな話だが、僕も腰に 両刀を挿したことがあるのだ。男児五歳の冬の祝儀の時、裃《かみしも》と云うものを着せられ、両刀を 帯ばせられ、大病後の身を父に手を引かれて、氏神の天白社へ参詣したが、僅か二尺ばかり の子供の長剣が大きくて、持て余《あ》ましたことを思い出す。  既に家禄を失いたる上に帯刀をも奪われた士族に取て、唯一の慰めは先祖の系図のみであ った。学校の昼食の時間に、士族の子等は、よく自分の家の系図を語って、源氏だの平家だ の藤原だのとその先祖を誇ったものだ。然し平民の子等も最早決して負けては居らず、自分 の家も何代前までは何の何某と云う者で今も立派な函に系図が蔵《おさ》めてあると云うようなこと を、各自に競うて語ったものだ。先祖談や系図談になると、僕は全く無知だ。同級生の談話 を聴きながら、僕は心中|窃《ひそか》に、自分の家には先祖や系図のあるものか如何《どうか》を危ぶんだ。僕が 何時も黙して居るので、意地の悪い奴が、ワザと僕を呼び立てて「貴様の家にも系図がある か」と、さながら検事か予審判事のような調子で詰問した。僕が面を赤らめて返事もせずに 居ると、別の奴が増重して「貴様の先祖は木下藤吉郎だろう、あれは矢矧《やはぎ》の橋に寝て居て、 泥棒の蜂須賀小六《はちすかころく》に踏まれたんだぞ」と、さも憎々《にくにく》しげに、大口開いて笑う。同級生一同が 声を合わせて笑う。僕は口惜しく思ったが唇を噛んで目を伏せて忍んで居た。 三  君よ。僕は梟首《さらしくび》と云うものを見た。梟首と云う刑罰は、明治六年の六月に廃止されて居る から、僕が見たのは、其の歳の春、僕が五歳の時だ。人出の多かった日であったから、春の 彼岸《ひがん》であったろうと思う。その日、裏合わせの商家の婦人達が、多賀明神と云うへ参詣する ので、僕の母は僕を連れてその一行へ加わった。考えて見ると、僕の母には珍らしいことで あった。  城下を離れて南へ行くと、やがて出川の原と云うへ出る.原中に一里塚が残って居て、昔 からの刑場だ。うららかな日で、街道は往来の人で賑やかであった。すると、原中から何か 大きな声で呼ばって居るのが響いた。婦人達は皆なさッと紺青《こんじよう》の日傘を傾けて顔を隠くし、 急に無言になって、走るように行き過ぎる。母の背に負われて居た僕は、如何なる変事が出 来《しゆつたい》したかと、子供心に不安を感じて居ると、母が不意と立ち留まって、顔を半ば廻らして 「男は見て置くものだ」と言った。僕が母の肩に両手を支えて伸び上って見ると、街道から |稍《やや》々離れた草原に、白木の柱を二本立て、一枚の新しい板を置いた上に、男の頭が一つ晒《さら》し てある。紙のように白ちゃけた顔を稍々仰向けて、口を食いしばって眠って居る。その下に 四五人の男が莚《むしろ》の上に胡坐《あぐら》をかいて、大声を立てて呼ばって居るのだ。かねて話に聞いて居 る梟首《さらしくび》と云うのはこれだそうなと思った。  長い原を過ぎ、小さな宿場を過ぎて、多賀明神へ詣ったが、社前の茶屋で食事の時、若い 婦人の中には青い顔して、何も食えない人もあった。「今日は厭な物ばかり見る日だ」と言 うて、目を伏せてササやいて居た。それはこの朝、旧本城内に開設中の博覧会と云うものを 見て来たのだ。この博覧会で僕の目に残って居るものが三つある。場外の七面鳥と羊と、場 内の双児《ふたこ》の胎児のアルコール漬と、この二二つが今でも目に残って居る。七面鳥がパッと尾を 拡げて鷹揚《おうよう》に埒内《らちない》を歩きまわる堂々たる姿、羊が見物人の投げる白紙を食べる柔和な姿。胎 児の玻璃瓶《ガラスびん》の前では、婦人連は、斜めに見ながら顔を顰《しか》めて通った。それが又|梟首《さらしくび》を見せら れたのだから、気色を損じたのも無理はない。本街道は気味が悪いと云うので、東の山手の 別の街道に出て帰った。  僕は後年、石膏《せつこう》のヴェート:ベソのマスクを始めて見た時、その顔色面相、直ぐと出川の 原の梟首を思った。思うに、僕の見たのが最後の梟首であったかも知れぬ。斬首《ざんしゆ》の刑と云う ものは明治十四年まで残って居たから、僕の小学時代にも矢張り数々出川の原で執行された。 斬首のある時には、幕府時代伝来の様式で、横板に判決文を書いたものを、荒縄で棒に結ん で、学校の門前、千歳橋の橋側に立てたものだ。東京ならば日本橋の橋側と云う所だ。する と生徒等は何れも課業を棄てッぼかして、我勝ちに出川の原へ駈けて行った。やがて帰って 来た彼等は、盛に斬首の光景を語り合い、「血を見て来たので、昼飯がうまい」など、さも 愉快げに見えた。独り教室に残って居た僕は、臆病な男だの、女のような奴だのと、異口同 音に罵られたり嘲けられた。 四  君よ。同じ士族でも低い階級では、藩政の時代から決して禄米のみで生活したものでは無 い。農作の上に内職までして、辛くも一家を維持したものだ。その風が明治の初年、僕の子 供の時まで伝わって居た。上級士族の没落が早かった割りに下級士族が残ったのは、この労 働生活と質素な習慣との為であったと思う。  僕等は米食が本位ではあったが、麦が常食の多分を占めて居た。大麦よりも小麦を食べた。 |麺《めん》類を打つと云うことは、飯を焚くと云うことに並行して、婦人に取って日常大切の伎倆で あった。この麦は皆な自分の畑から取る。僕の家では父が不在で男の手が足らない為め、何 かと言えば人手を雇うたが、祖母でも母でも皆な手甲をはめ脚絆《きやはん》を着け笠を被《かぶ》って、田圃へ 出た。僕のような虚弱な子供でもそれ相当の仕事に逐い使われたものだ。何れの家にも普通 の農具が揃って居た。  舶来の紡績綿糸も既に来て居たようだが、「唐糸《とういと》は弱くて損だ」と云うて、在来の方法で、 糸車で生綿《きわた》から直接につむいだものだ。それを染める。この染色も、紺だけは染物屋へ頼ん だが、茶色だの鼠色だの云うものは、皆な家でやった。その染料は、草や木の葉や木の実の 煮汁《にしる》で、その原料は春秋に山や野から取って来て備えてあるのだ。それから機《はた》に掛けて織る。 この糸をつむぐ、機を織る、着物を縫う、これは女の児の三学問で、鏡台針箱に併《あわ》せて糸車 と云うものは、花嫁の必要な道具の一つであったらしい。「糸車」と云うても、若き君には 合点が行くまいが、印度でガンジーが革命の旗章にしたあれだ。あの頃の年末の母の忙がし さを回想すると、涙が浮ぶ。足袋さえ皆な母が夜更くるまで、暗い灯火の下で縫ったものだ、 足袋木綿だと云うので、織る時から特別に注意する。太い針で足袋裏を刺す。それから裁つ。 縫う。ー「買った方が却て安上りだ」と、その頃でも言う入があったが、銭を使わない習 慣と、特には「丈夫」と云うことを、考えたものだ。 「今年の繭《まゆ》で、お前の紋付羽織を織るんだから、手伝え」など言われて、僕も大きな尾籠《びく》を 脊負って、桑摘《くわつ》みに連れて行かれたことを思い出す。夕方になると、虻《ぶゆ》に食われて燃ゆるよ うにかゆい。「食われた所へ土を塗って置けば可《よ》い」と言われて、畑の土を血の流れる足へ 塗りつけた。すべて母でも祖母でも、その頃の婦人は、文字の知識は全く乏しいものであっ たが、食用薬用染料用など、草木|花卉《かき》の豊富な知識には、今考えて不思議なようだ。  春の末、山に蕨《わらび》が萌えて、谷間に雪が残って居る頃になると、味噌煮が始まる。この味噌 養と云うことは、子供に取て年中の一つの楽しみであった。その日は夜中から起きて土間の 大釜で豆を煮始める。朝、豆が煮えあがると隣り近所から男も女も手のある限り集まって来 る。男は臼を囲んで替り替りに大きな杵《きね》を振り上げて搗《つ》く。女達は広い板のまわりに坐って、 搗き上げたものを味噌玉に丸める。僕等のような子供はその味噌玉を別室へ運ぶ。笑いさざ めいて、ワイワイと云う騒ぎ。今日は何処《どこ》の味噌搗き、明日は何処と、毎日毎日順ぐりに行 く。  それがポツリポツリと、歯の抜けるように家が毀《こ》ぽたれ、人手の少なくなるに連れ て、この味噌藁の春の楽しみも、何時とはなしに寂《さび》れてしまった。  上級士族街の変り行く姿は、子供の目をさえ驚かした。旧城の濠側に家老の大きな屋敷が 三軒並んで居て、僕等は毎日この前を学校へ往復したものだが、第一家老の屋敷は全く毀《こぼ》た れて、白ペンキ塗の師範学校が建ち、次の屋敷では、家を半分切って売ってしまい、次の北 の端の屋敷では、奥まった部屋を僅かに残して殆ど全く取り毀ち、門もなく塀もなき草茫々 たる中に、病人でもあると見え、絹夜具の袖が、昼も障子の陰に漏れた。名門の顔よき娘達 が、夜陰茶屋の酒席へ出ると云う評判が立って来た。やがて或る武勇の家の門の柱に「一寸《ちよつと》 一盃」と記した行灯《あんどん》が掛かり、玄関前に浅黄の長|暖簾《のれん》が垂れ、姉妹の娘が客席へ出ると云う ようなことが公行されるようになった。かくて士族の娘とさえ言えば、直ぐ売笑婦と見下だ すような世間の傾向になってしまった。 五  夜業《よなべ》のひまひまに、祖母や母から様々な昔話を聞いた。母はよく禁裡様《きんりさま》の話をして呉れた。 君よ、未だ天皇陛下と云うような言葉を知らない時分なので、「禁裡様」とか「天子様」と か云う敬語を用いて居たものだ。されば僕は矢張り子供の時から口慣れた「天子様」と云う 敬語で言わして貰いたい。  幕府の末、和宮《かずのみゃ》様の関東御降嫁の折の話を、母は折々して呉れた。あの時、中仙道を御通 過になったので、僕の旧藩でも道中の警護に当ったのだ。街道筋には何処でも無位無格の小 社小祠など沢山に勧請《かんじよう》してあるものだが、そうした正体の知れないものは、皆な厳重に薦《こも》や 莚《むしろ》で包み隠してしまったそうだ。    御通行の御目障りになると云うことであったそう だ。その際、僕の母方の祖父になる人が、藩の会計の方に勤めて居て、現場に臨んで居たの で、母は祖父から親しく聴いたものらしい。  僕はまた母から星の降った異変を聴かされた。それは幕末、勤王だ攘夷だ討幕だと天下騒 然の際、或夜満天の星が雨のように西へ飛ぶ。人は皆な家を空にして外へ出て眺めた。天に は星が亡くなってしまった。何か非常な変事の徴候《しるし》に相違ないと、一同は胸を冷して語り合 ったそうだ。程経ての話には、悪人|輩《ばら》が禁裡様に恐ろしい企《くわだて》をしたので、御一命にも関わる 所、星が皆な御膳部へ飛び込んで、御無難であったと云うことだ。この満点の星が御膳部へ 飛び込んだと云う母の話には、僕は黙って聴いては居たが、実は幼き頭を少なからず悩めた ものだ。僕は自分の母と云う人が、決して義理に違うたことを為さず、また決して虚言を口 にしないと云うことを信じて居たが、只この星が飛び込んだ話だけは、何か母の人品の瑕瑾《かきん》 にでもなるように、窃《ひそか》に恐怖と疑惑を抱いて居た。青年の後、天文史に千八百六十何年記録 的大流星のことが書いてあるのを見て、僕は始めて多年の鬱積から自由になった。母が見た のは即ちこの宇宙史的大流星であったのだ。御膳部へ飛び込んだと云うのは、何時の世にも 何処の山の中にも必ず存在する漫談家の頓首だ。「       目がつぶれる」  これ は当時の信仰だ。  僕はまた、公卿《くげ》の貧乏と狡猾及び大名の破産状態の実話を母から聴いた。僕の藩主のお姫 様が、今城《いまき》様と呼ばれて居た上級の公卿へ縁付いた。僕の母方の祖父は、会計役で御供をし て京都へ行ったのだ。この今城様と云うのが、位階ばかりは高くても、とてもひどい貧乏で、 御姫様の御住居に充てられた建物が、屋根は漏るがまま、畳は破れるがままの有様。そこで 一切修繕して始めて住居が出来るようになると、忽ち「御住み替え」と云う御沙汰。住み替 えた建物は、右同断、屋根は雨漏り、畳は床《とこ》が出て居る。また修繕。  一切万事がこの寸 方。大名が公卿に縁組みすれば、所詮やり切れないと云う話なのだ。  けれど、貧乏は公卿ばかりで無く、人名自身が首の廻わらぬ始末であった。「大名の借金」 と云う話を、僕は母から聴かされて、奇異の感に打たれたものだ。母が尚お少女で実家に居 た頃、大阪の金主の番頭が年々|尋《ママ》ねて来たことを話して呉れた。鴻《こう》の池《いけ》だの茨木だのと云う 大阪商人の名を僕は始めて母から聞いた。また年末会計の急用で、祖父が木曾の大雪を冒し て大阪へ駕籠《かご》を飛ばしたことを、母がよく聴かして呉れた。母の話に依れば、僕の小藩など、 分外の大借金を脊負って居たので、あれが続けば自然破滅の外に道が無かったと云うのだ。 そう云うものであったのかと、僕は思った。 六  君よ。今日の小学校は高等科尋常科と分けてあるが、僕の頃には上等下等の二つに分け、 その下等が八級に分れ、年に二度の進級であった。入学後半年、始め貰った免状には「下等 小学第八級卒業候事」と書いてあった。  小学の二年、第四読本に天文及び物理の事が絵入りで説いてあった。君等には実に面目な い話だが、明治初年の僕等幼年児童は、この小学読本の「科学教育」で、先祖伝来何千年の 迷夢から始めて醒《さ》めた。それまでは、この仰いで見る雲の上に、更に「天」とか「天竺《てんじく》」と か云う別の世界がありでもするように思って居た。思って居たと云うよりは、幼な心に半信 半疑で迷って居た。僕にこの半信半疑の不安を抱かせたものは慥《たしか》に仏教だ。明確に言えば仏 教美術だ。  明治維新と同時に僕の故郷では、廃仏|毀釈《きしやく》を断行したので、本願寺派の寺院が存在したの みで、その他は尽《ことこと》く廃寺となり,僧侶は皆な還俗《げんぞく》してしまった。然し習慣の勢力と云うもの は政治の権力よりも強く、家庭では矢張り昔の如くに四季の仏事を取り行って居たものだ。 僕の家は元と曹洞派の禅宗であったから、釈迦の誕生日にも涅槃《ねはん》日にも、仏壇を飾り供物を して丁重に記念した。この涅槃日に掛ける古色蒼然たる涅槃図を、僕は始めて祖母から説明 を聴いた。真中に黄金色の釈尊が大きく横わって居る周囲に、真ッ赤な鬼も白い坊主も男も 女も、禽獣虫類一切の生物が悲歎に暮れて居る。釈尊の背後の高い木の枝に大きな赤地錦の 袋が引ッ掛って、天上遥かな雲の上には、若い貴婦人が、多くの男女を従えて、下界を覗い て居る。祖母はこの絵の由来を話して呉れた。釈尊の母君は、釈尊を産むと直ぐ死んで天上 へ生まれ替った。今我が子の臨終を聞き知った母君は、天上から薬袋を投げ下ろした。それ が運悪く木の枝に掛かってしまった。かくと見て、一匹の鼠が敏捷にも飛び出した所、猫が 忽ち駆けて行ってその鼠を食ってしまった。折角の天上の妙薬もこれが為めに枝に掛かった ままで用に立たず「釈尊」は終に死んで仕舞われた。  これが祖母の話の筋だ。この涅槃 図に、鳥類獣類凡て皆な書いてある中に、猫だけ書いてないのは、この為めだと云うのだ。  僕の母は、寧《むし》ろ仏教嫌いの傾向で、人が盛に地獄極楽の話などする時には「地獄極楽は生 きて居る中のことだ、死んだ後に何がある」と言い払って、知らぬ顔して居る人であったが、 祖母は恰も信仰の百貨店のような人で、日も拝めば月も拝む、宮へも行く、寺へも行く、 「故得阿耨多羅三藐《こうとくあのくたらさんみやく》i」と般若心経《はんにやしんぎよう》を鼻唄に、年中綿をつむいで居た。然し君よ、平田篤 胤《ひらたあつたね》翁のような人が「日本は上古、天と一つで、天が離れかけた後にも、梯子を掛けて往来し たもので、その頃の梯子が所々に倒れたままに残って居る。現に天の橋立はその一つだ」な どと、真面目に講義して居たことを思えば、当時七八歳の山里の童児が、雲の上にも国があ るのかと驚いたからとて、酌量して笑って貰わねば困る。  然かし、すべてこうした疑惑不安は、読本巻の四を開くと同時に悉《ことこと》く一掃されてしまった。 今までは、日は毎朝近い東の峯から出て、西の雪の山へ沈むものと思って居た。然るに日は 動くのでなく、却て自分等の住《すま》って居る地球と云うものの方が、休むことなく廻って居るの だと云う。「お月様」と呼んで、お日様と同格に思って居た月は、地球の周囲を回転して居 る、言わば自分等の従者のようなものだと云う。日蝕や月蝕は、日や月の苦悩疾病だと言わ れて居たが、その法則が明白になった。彗星《すいせい》と云うものは、凶事の使者と信じられて居たが、 何でも無いことになってしまった。  凡て神変不思議の伝説、心の隈々を填《うず》めて居た暗黒 の恐怖、こうした雲霧は綺麗に拭い去られて晴々とした。 七  君よ。土地も無く資本も無い士族の児は、知識を杖に立身の道を求めねばならぬ。それに は小学校だけでは役に立たぬ。其処で一般の風潮として、朝は朝飯前に漢学塾へ、夜は夕飯 後には算盤の師匠へ遣《や》られたものだ。当時漢文の教科書として普通に用いられたものは、先 ず頼山陽の「日本外史。」これを二三巻読んで、漢文の様子が聊《いささ》か解ると、「十八史略」へ移 った。君よ。欧羅巴《ヨ ロツパ》人の伝記を見ると十人が十人その幼年時代に於ける読書の感化として、 聖書とイソップ、それからプルタアクの英雄伝を言うて居らぬはないが、僕は、僕等時代の 漢学児童で、この十八史略と云う支那史の影響を受けて居らぬ者は無かろうと思う。僕が今 日、じっと静かに考えて見ると、頑是《がんぜ》なき当年の童児が、殆ど暗記するまでに反復読誦した 十八史略と云うものは、此の一巻に聖書とイソップとプルタアクとを、三部溶解したような 感化力を持って居た。簡潔な文章に賢愚男女大小無数の人物を活描し、治乱盛衰の因果を映 画の如く目に見せた十八史略は、実に一大戯曲であると同時に歴史の仮装した}大政治学で あった。 「天皇氏。本徳を以て王たり、歳は摂提に起る、無為にして化す。」 「(尭)天下を治むる五←年。天下の治まれるか治まらざるか、億兆の己を戴くを願うか 願わざるかを知らず。左右に問えど知らず。外朝に問えど知らず。在野に問えど知らず、 |乃《すなわ》ち微服して康衢《こうく》に遊ぶ。」 「老人あり、哺《ほ》を含み腹を鼓す、壌を撃ちて歌うて曰く、日出でて作《な》し、日入りて息《やす》む、 井を鑿《うが》ちて飲み、田を畊《たがや》して食す。          。」 こうした文章は、今でも僕を恍惚境に誘惑する。 八  明治十年の秋、西郷隆盛が亡《ほろ》んで、鹿児島の戦争が止んだ後、自由民権の運動が勃興《ぽつこう》した 時、僕の郷里にも、奨匡社《しようきようしや》と云う政治結社が出来て、演説会と云うものが盛に行われた。 演説会は諸方の寺の本堂で開かれた。僕の家の近く宝永寺と云う本願寺派の寺でも数々催さ れた。本堂の入口に提灯が一つブラ下げてある。堂内には、阿弥陀如来の前にテーブルを置 いて、ランプと水呑とが載せてある。その側に屏風を折りまわして、弁士の休息所にしてあ るが、未だ人が来て居ない。早くから来て居るのは近所の子供ばかりだ。広い本堂の暗い所 で、角力を取ったり、鬼ごッこしたり、遠慮なしに暴れて居る。草履や下駄を持ち込んで上 って居るので、畳の上は砂でジャリジャリして居る。何時しか聴衆の顔も揃う、屏風の中に も人声がする。やがて若い弁士が屏風から出て来て、壇に登る。子供等が皆な面白がって盛 に手を拍《、つ》っ。弁士の交替する毎に、手を拍って送迎する。弁士は大半小学校の若い教員であ った。知っている教員が登壇すると、「何先生」などと、子供等は大声に呼んで喜んだもの だ。  政談演説へ小学校の生徒が行ったと云うことを、君は定めて奇怪に思うだろう。小学生の みでは無く、婦人も皆な自由に行ったものだ。現に僕の祖母の如きは、義太夫や浮かれ節よ りも演説の方が面白いと言うて、殆ど開会毎に行った。教員の政談を禁止したり、婦人や子 供の集会を制限したのは、明治十三年に集会条例と云うものが出来た後のことで、それまで は絶対的自由自在なもので、警官の臨場など云うことも無論知らなかった。  この宝栄寺の演説会で、僕等はこう云うことを教えられた。  一、国会を開設して、人民が皆な政治に参与せねばならぬ事。  一、条約を改正して、外国人も皆な日本の法律に従うようにせねばならぬ事。  学校でも自然「国会開設」「条約改正」と云うことを、さながら流行歌のように口にする ことになった。 九  偖《さ》て君よ、小学校を出る時が近くなるに従い、小さな胸の底に一身の方向と云うことを、 苦悶せねばならぬことになる。君等は今日の青年の就職問題を見て、昔の人の呑気を想像す る。けれど、女は二十歳前に結婚するもの、男は二十歳を越せば家を持つものと云う習慣法 時代には、鬚の黒い制服の学生が球を投げたり音楽したりし、遊戯に余念なき今の青年の呑 気さを、夢にも見ることが出来なかった。  士族の子の行く道に、官吏になる事、帰農する事、この左右の両極があった。官吏を撰ぷ のが普通の順路らしかったが、僕の従兄《いとこ》等を見ると、一人は商人を志し、二人は医者を志し て居た。僕はこの帰農と云うことが一番立派な道だと、独り窃《ひそ》かに思うて居た。僕の家の直 ぐ近隣に渡辺燕石と云う老人があった。が、僕が未だ小学へ行かぬ前に、逸早《いちはや》く帰農して、 |荒蕪《こうぶ》な桔梗《ききよう》ケ原の開墾に従事して居た。身体は小さな人であったが、目がピカピカ光って、 頭には昔ながらの髷《まげ》を結んで居た。折々尋ねて来て、草鞋《わらじ》の儘腰掛けて、茶を呑みながら機 嫌よく祖母や母と高い調子で話して行った。無鉄砲な気違爺のように大抵評判して居たが、 僕の母は陰でもこの人を尊敬して、渡辺のおじ様と呼んで居た。談話の様子で察すると荒地 の開墾と云う事は、思ったよりも難業らしい。 「然し気楽だ。誰に頭を下げるでは無し」  こう言って、大口開いて高らかに笑ハ、て、元気よく老人は帰って行った。僕はこの人を英 雄だと思った。 十  僕は殺生《せつしよう》と云うことが嫌いなので、山へも行かず川へも行かず、書物を借り集めて読んだ り手写したりする外に、何の嗜好《しこもつ》も無い少年であった。直ぐ隣り町に加藤と云う先輩があっ て、雄弁な民権家で、髪を長く波打たせて、流行のゴム管の烟管《きせる》を手に巻いて烟草を吹かし て居た。或日、僕の肩を押えて、 「貴様、漢籍ばかり読んでも駄目だぞ。新しい文章を見にゃ駄目だぞ」  叱るようにこう言って、それから自分の所蔵の書物を、色々取りまぜて貸して呉れた。そ のうち僕に影響して、今も記憶に鮮かなものが二つある。福沢諭吉さんの「学問のすすめ」 と、今一つは「維新奏議集」というものだ。「学問のすすめ」の冒頭、 「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず」  この一句を見た時の感動は、言語に尽くせぬ素晴らしいものであった。 「維新奏議集」と云うものを見て、僕は自分が現に生活して居る世間の姿を、始めて朧《おぼろ》げな がら見ることが出来た。徳川慶喜の「軍職を辞するの表」と云う文章がある。封建制度が廃 されて明治の新政治になった分界を、これで知った。藩長土肥四藩主の「版籍奉還の表」と 云うのがある。これで、旧藩主が土地を去って東京へ引き移った来歴を始めて知った。蜂須 賀茂昭の「国債証書を作り華十族の禄を廃せんことを論ずるの議」と云うのがある。僕の四 五歳頃まで禄米と云うものが来たり、薪材が来たりしたものが、それが来なくなって、金禄 公債証書と云う紙片が来たことを覚えて居るが、その所以《ゆえん》もこれで始めて解った。けれど僕 の目を最も驚かしたのは、大久保利通の「都を遷《うつ》すの議」と題する一文であった。文章を読 む前に、「大久保」と云う名が先ず僕の胸に激動を与えたのだ。  君よ。僕の郷里松本と云う所は、大きな山に囲まれて居るだけで、古来曾て人材と云うも のの出たことを聞かないが、明治維新の当時、この無人材の中で秀才と言われた神方某と云 うが京都から帰って来て、 「今度、京都で神と云うものを見た」  と、驚歎の目を張って語ったそうだ。 「薩摩の大久保と云う人物を見たが、あれが神と云うものだ」  と言うたそうだ。この話が伝わり伝って、僕の小耳にも入って居た。大久保さんは明治十 一年に既に殺されて、民権家の演説には専制政治家として善く言われて居なかったが、僕は いま図《はか》らずもその神と呼ばれた人の文章を手にして居る。  大久保の「都を遷すの議」は維新史の資料として、珍らしいものでも面白いものでも何で も無いが、然し、いま僅か君に聴いて貰うのは、歴史の資料の話では無く、山国の一児童が 当年の感慨、その気分だ。  大久保さんが遷都《せんと》の議を上奏したのは、明治元年正月二十四日と云うのだ。その月の三日 が伏見鳥羽の戦、これから関東征討の大軍が三道から出発しようと云う大混乱の最中だ。そ んなことは大久保の眼中に無い。彼は直に明治新政の真髄を握って、その日輪の如き眼光を 前途に傾注して居る。曰く、  「今日の如き大変態は、開闢《かいびやく》以来未だ曾て有ざる所なり。然るに尋常定格を以て、豈《あ》に之  に応ずべけんや。  依て深く天下に注目し、触視する所の形跡に拘らず、広く宇内《うだい》の大  勢を洞察し、数百年来一塊したる因循《いんじゆん》の弊を一新し、国内同心合体し、一天の主と云もの  は斯《カく》の如きの頼むべきものなりと、上下一貫天下万民感動泣涕致す程の御実行を挙行われ  んこと実に今日の急務なり。」  三月二十一日、京都|御発輩《ごはつれん》、大阪へ行幸された。これを見て来た、神方さんが「あれが神 と云うものだ」と、大久保に傾倒したのも無理はない。  君よ、積習と云うものは恐ろしいもので、明治十三年の六月、甲州の山を経て信州へ御巡 幸があり、松本へ御到着の二十四日は、その朝大雨で、僕は母が急いで買って来て呉れた白 茶の蝙蝠傘《こうもりがさ》をかざし、学校の大旗を先頭に出川の原に奉迎し、市中連日、沸《わ》くような大景気 であったが、頑迷の老人の間には、これをさえ御威光の落ちた徴候のように、頭を傾けてッ ブやくものがあった。  君よ。こうした空気の間を、僕は小学から中学へ移って行った。                                  (昭和九年九月)