菊池寛 三家庭 タクシー夜話  新宿まで客を送って、チラッと見た駅の時計が、丁度十時 だった。こゝはまだ火の海、人の海、騒音の渦巻。十一月末の 夜空は青暗く、星を散らして、この二三日、寒さがさえて、ハ ンドルを握る指先に、しんと冷たさがしみ込んでいた。               と論しび      くれない  露店の並ぶ街に、やたらに続く燈の数。紅に、黄に、緑 に、薄紫にと、色とり八\のネオンのスヵイサイン。後や先 に、ギッシリつまった自動車、五六間先にお客らLい影を見 出しても、警笛を鳴らしつ間けて、先の車の動きを促すだけ で、なれた稼業とはいえ、いらくしてーこれだから夜《  》の新 宿賦、厭さあ1聞《ま》がわるいと、酒谷見付まで空車で流してし まうーと、徐行で、雑沓を押し分けたがら、大木戸あたり迄 くると、1もう内から幕を引いた硝子戸、お客のまばらに なった屋台店。犬が、さも用ありげに通りを横ぎる。その歩道 の際に、客ありやと目を配りながら、塩町の交叉点を越すと、 向う側の洋品店の飾り窓、その横の小さな煙草屋の明るい灯影 の中に、洋服と、鼻の先までショールを埋めた束髪の二人連れ の姿が、一つに塊まって、どうやら自動車を求めているらしい のを、すばやく見つけて、急力ーヴを切って、車を寄せると、 ありがたし、互いの話に笑い興じながら、行方も値も定めず、 無造作に乗ってくれた鷹揚な客。,そのまゝ十間ばかり走りだす と…. 「権田原《ごんだわら》を通って、麻布市兵衛町よ。」と若い艶のある声。信 濃町あたりでまた思いだしたように、「それからまた、引き返 して塩町迄帰ってもらうの。」とつけ加えた。 「いくらだい?」と寂《さび》のある男の声が、初めて訊いた。  思い切って一円といいたいところを、 「八十銭で参りましょ う。」というと、 -「丁度にしてあげるわね。」と楽しそうな女の声だった。  信濃町から、六本木に抜ける権田原、新坂町あたりは、昼間 一でも人通り少い、大きないかめしい建物ばかりの通り、まして 十時を過ぎては、電車停留場の赤い灯ばかりさわやかた寂翼た る暗い街だった。暗い街を通るときは、座席の客の姿が、あざ やかに前の硝子に映るものだった。  整然としたオーバーコートに、ぴたりと寄せた棒縞お召の 膝。あごを引いて、唇元《くちもと》に微笑を浮べ、始終上眼使いに、物を いっている女は、美しい人だった。  無人の境を行くが如く、なんの障害物もなく、運転に気を取 られないだけに、二人の会話は、切《きれぐ》々ながら、ハッキリと耳に はいってくるのだが、二人の関係は夫婦とは思えず、妾とすれ ば女の態度があまり明るく品があり、素人か商売人かさえ見当 が、つかなかった。  六本木へ出ると、また明るい街、前の硝子窓の影は、消えて しまった。  麻布の区役所を左に折れて、後は客の命ずるまゝ、右へ折れ るとやゝ下り勾配の、打ち続く邸|小路《こうじ》。中でも、相当広げな邸 宅のコソクリー}塀にさしかゝって、 「そこだよ。」と、男の客の声がした。  門の前で車を停めると、主人の帰りをかねて知ったか、門扉《もんび》 は開かれ、その辺に侍《たとず》んでいた女中らしい小女《こおんな》の影が、前燈《ヘツドラィト》 の光に照らしだされ、パッと前栽の植込の中に、飛び退《す》さった ように見えたのを、男は気がつかなかったように、 「じゃ、気をつけて!」と、ものやさしい別れの言葉を残し て、門の内に消えて行った。  門前の広場を利用して、ハンドルを二度に切って、方向を変 えて、.一二間走りだそうとすると、今男がはいったばかりの門 から、ひらりと降ってわいたように、走りだした、夜目に美し い女性が、 「その車待って下さい!」と、低いながら、鋭い叫び声で車を 追いかけて来た。何か用事かと、すぐブレーキを踏もうとした が、間髪をいれず、ほとんど同じ瞬間に、車中の女は、 「あっ!」と、叫びざま、素早く身体を片隅に避けると、「止 めちゃダメ! 早く、早くスピードをだして!」と、いう必死 な叫びだった。  呼び止めた女の声音《こわね》に、ありありと不正なものに対する憤《いきどお》 りを感じて、正義感に訴えられるものを感じはしたが、運転手 としては商売大事、乗せているお客本位に動く方がと思ったの で、思い切りてアクセルを踏むと、車は忽ち速力を増して、 二三度叫びつ間ける声を後に、飯倉片町の通りに出てしまっ た。  明暗ただちに変る夜の町を、女はまだ不安げに、後からも横 からも、のぞけないほど隅っこに身体を小さくして、物思わし げな唇元《くちもと》は、むすばれ通しであった。塩町で降りるとき、 「どうもありがとう。」  初めて、礼をいって、お礼心に、一円五十銭くれて、街路に 降り立つと、ほっそりした後姿《うしるすがた》を、寒そうに運んだ。  それから四谷見付、市ケ谷、牛込へ、空車のまゝ流してー1 やっばり、お妾だったのか、あの旦那、今頃はたいへんだろう 1女中にちゃんと立番をさせて置いて、飛びだしてくるなん て、なかく、ちゃっかりしている奥さんだなーなどと、人 のわるい一人笑いがこみあげて来た。  肴町から、少し筑土《つくど》の方へ寄った所で、ちょっと車を止めて いると、その時、遠くハッキリと、消防自動車のうなりが、き こえて来た。  本郷か小石川方面の空が、うすら赤い。  と、神楽坂の方から、小走りに走って来た二人連れが、手を あげて、車に合図しながら近寄って来た。  二人乗るかと思えば、洋服の女だけ身もかるく、走り込ん で、青年はドアに手をかけながら、残った。 「だいじょうぶ、春日町か指《さす》ケ谷《や》ですよ。だから落着いてお帰 りなさい。あまり、お急ぎになって、事故なんか起す方が、よっ ぼどわるいですよ。ね、君あの火事は、小石川だろう?」  と、いきなり話しかけられて、運転手は、 「さあ!」と、あいまいに返事をした。  少しでも、引き止めたいらしい青年にかまわず、車中の女性 ま㌔ 「駄目よ。宅《らち》は、とても心配性なんだもの。弥生町まで急いで ね。サヨナラ。」と、運転手を促した。  ひどく焦りだした女に、青年は、ちょっとあきれたような、 おこったような表情を見せながら、軽く頭をさげるとパタン と、ドアを閉じた。  砲兵工廠|傍《わき》を通って、水道橋に出ると、左手はるか高く低 く、空を彩《いろど》って、火の手は鮮やかだったが、方向はまさしく白 山の方だった。 「やっばり、本郷じゃないわねえ。安心したわ。」  さばけた物いいをしなければ、二十一二と思われる黒づく めの洋装の、しっくりと似合う愛らしい女。帝大と=局の間を 入って、.しばらく行くと、二つ太鼓で夜廻りが、 「火事は、白山御殿町、火事は白山御殿町!」  その夜廻りが、出て来た細い小路《こうじ》に、車をいれると、そこは しずかな屋敷町だった。  石柱に、鉄の扉のはいった家《うち》の前へ、車を停めて、火事を見 に出ていたらしい女中へ、無言で意味ありぼな瞬きを送ると、 女中はニッコリしながら、首を振った。すぐ揮りのない明るい 声で、 「御苦労さま。六十銭あげればいゝでしょう。」と、話の分っ た料金のくれ方だった。身軽に降りて、女中と並んで耳門《くぐり》から 中へはいると、ハイヒールの小砂利を踏む音が、しばらくきこ えた。  先刻から、後のバンパlが、ギイくと少し気になる音をだ していたので、降りて調べたついでに、門の標札を仰ぎ見る, と、滝山新二と、街燈の光りで、ハッキリよまれた。新聞か雑 誌で見たことのある名前だと思いながら、誰だったか思いだせ 次かっね  パックで、出るのには距離が遠いし、そのまゝ半丁ばかり徐 行して、丁字路のところで、車を回してから、本通りへ引き返 した。  池の端から、上野山下を流して見る気になって、藍染町の方 へ降りながら(世の中には、美しい女も沢山いるものだが、お かしな事も沢山あるものだ。今の女は、あの家のお奥《かみ》さんに相 違ないが、とすればあの青年は、なんだろう。だがあゝいう連 中に限って、料金をケチく値切らないからいゝや)ボンヤ ザ、そんな事を考えていると交叉点に来たのに気がつかず、危 く突き切ろうとして、左から来た三十二年のシボレlと、ぶつ かりそうになって、あわててハンドルを切ったが及ばず、後の フェシダーにぶりつけてしまった。  交番は近いし、こっちの失策を弁解する由なく、とうく相 手の運転手に二円の損害賠償を取られて、二人の女性からもら らった料金は、プイになってしまった。 (やっばり、あんな連中を乗せるのじゃなかった)  と、後悔しながら、上野の方へ回ったのは、十二時近くだっ た。 お友達  宮州房子夫人が、向ケ丘の見晴しのよい坂の上にある、静か な滝山博士の邸に、自動車を乗りつけたのは、夫人にして見れ ば早い外出の、しかしかれこれ、十二時近い頃だった。  取次ぎの女中の姿が消えると、忽ち、 「いらっしゃい! どうぞ6」と、いつもたがら、娘のように あどけない甘ったるいその人が、手を取らんばかりの欣びで、 「散らかしてあるけれど、私の騎部屋が落着けるわ。」と、通 されたのは、グルリ庭に面した、そこだけすっかり日本間のこ しらえになっている八畳の座敷。朱塗の銅火鉢をはさんで、す すめも、すゝめられもせぬ緩子《どんす》の座蒲団の上に収まったものの そこは女同士、学校時代からの仲善しで、互いに誘ったり誘わ, れたり、今日も三四日前に会ったばかりの、珍しくもない訪問 だのに、初めは気候の挨拶から、家族の安否を尋ねるなど、一 くだりすむのを待ちかねて、 「いゝもの見せましょうか、芝犬の子が五匹生れたのよ。とて も可愛いのよ。」と、さもたのしそうな博士夫人の笑顔を、じっ と見詰めて、 「いゝわねえ。あなたは!」と、いたく感に堪えぬ有様に、美 祢子《みねこ》は、子供っぽい瞳を、クルリと見張って、 ■「何よ。何が羨ましいの。」と、訊くと、房子は視点のない眼 を、見据えたまゝ、しばらくの間《あい》をおいて、 ■「わたしなんか生きてる甲斐がないわ。」と、いうと同時に、 見るく涙が一杯、演《はな》をクスンとすゝりあげると、瞼に持ち切 れない大粒が、ぽたりとお召の膝に落ちて来た。 「まあ。どうなさったの。」驚きあきれて、ぽんやり不安そう に声を落して、美祢子が訊ねた。  挟から、ようくハンケチを取りだして、涙を押しとvめ、 「御免なさい! 私、昨夜《ゆうべ》ちっとも眠ってないもんだからー どうか、しちゃってるの。」 「どうなすったの, 聞かして頂戴。」と、あたゝかい慰撫を こめた言葉に、涙腺が更に、ゆるけでもしたように、あとから 25                             ,4 あとから涙が、一時にこみあげて来て、物もいえなくなってし   まった。   -涙をせっせと(ふきとりながら、         甚   「わたし、また宅にだまされちゃったのよ。」と、子供のよう  に泣き笑いを浮べて、やっど両手を火鉢の縁に並べながら、   「私だって、随分修養しているつもりなのよ。いつか話したで  しょう。洋一ができた頃、新橋から落籍《ひが》した女の話ね、あの後   も三四人あるのよ。でも、素人はいやよって、いっているの   に、今度は素人らしいのよ。しかも、図々しく時々、家《うち》の前ま   で送ってくるので、私、昨夜女中に張番をさせて、正体を見て   やったの。そしたら、誰だと思う、ちょっと……」と、房子夫   人は、ジッと相手の顔を見つめた。一時に涙をだした後の、夕   立の後の名月。目元がさぇ、顔色もほの赤くー障子には陽が   一杯に明るかった。    美祢子とは、同じ年のたf早生れだけの違いで、学校のクラ   スも同じだけれど、こう並べて見ると、房子の方が五つくらい   は、年かさに見えた。    美祢子の実家は学者の家で、兄達二人も一人は博士、一人は   教授で、姉は結婚はしているが、C英学塾の教頭で、」家春族   学者なるを誇りとするためかどうか、美祢子も女学校を出たば   かりの、うら若くやさしくあでやかな年頃に、帝大医科の少壮   教授滝山博士に嫁いだのである。   ,房子夫人は、華美《はで》な容色そのまゝの性格で、昔からワイく   もてはやされるのが、大好きだった。美しく着飾って会合《パ テイ 》や、   音楽会に目立つ麗容を現している内に、富裕の実業家で政治家   である宮川氏の長男で、職業は弁護士であるが、遊んでいても   生活に困らない宮川孝三と、なんの障害もなく結婚した。    坊ちゃん育ちの良人の性格を、鷹揚だとか話がよく分ってい   るとか、お友達忙カナリャのようにかしましく、のろ廿ていた のは、ホンの一年半ばかり、その後は、芸者を妾にしたとか、 ダンサーと、どうしたとか、その都度美祢子の所へ愚痴をいい に来た。  だから、美祢子の方でも、そうくは驚かないで、合槌を打 つ事になれていたがー 「ねえ、ちょっと、今度の女誰だと思う, 私とても口惜しい のよ。ホラ、堀田の娘よ。家にいた堀田の。あなた知っている でしょうP」  さすがに美祢子も眼を見はらずにはいられなかった。宮川家 に、一二年前までいた食客で、土地や家屋の管理をしていた 堀田という老人の、母のない娘で、■房子夫人も何くれとなく面 倒を見て、たしか実科女学校か何かを卒業させてやったはずの 娘だった。 「素人はいやといっているのに、人もあろうに、私の知ってい る、しかも家にいた事のある娘に手をだすなんて、あんまりで しょう。しかも、相手が図々しく、家の前まで送ってくるなん て、……こんなに二重にも三重にも、良人にだまされている自 分を思うと、自分の生活というものが、どこにあるのか残念で 残念で、なんて自分はあ偉らしくおめでたく出来ているのかし らと、惰けなくなって、やりきれなくなって、もういっそ、洋 一と、耶奈子《やなこ》を連れて、実家へ帰ってしま騎うかと、思ってい るのよ。」と、そこまでいうと、また恨み深い涙が、じんわり 浮んでくるのだった。 「送ってくるのは、ちょっと癩ね。よっぽど、図々しい女ね。  …でも、お実家《さと》へ帰るなんて、つまりあなたがハ相手に負け ることに、なりゃしないこと。ー男なんて、チラく好きに なる女が、外に出来ったつて、あなたには気持の上で、特別な ものを残していらっしゃるんだわ。別れるのなんのって……」 「それならば、もっと打ち明けてくれゝばいゝのに、そりゃ見 えすいた嘘をついて、ごまかすのよ。昨夜《ゆうぺ》だって、堀田の娘に 相違ないのに、そりゃお前の僻目《ひがめ》だなんて、ごまかしてしまう のよ。」  話しているうちに、だんく胸のもやくが薄れて行く気配 に、美祢子夫人は、微かに助かったという気持で、笑いを浮べ ながら、危くじょうになりかけた火鉢に、切炭をついだ。  その美祢子の微笑の意味を見のがさず、 「でも、こゝへ来ていってしまうと、いくらか気がまぎれる わーでもあなたはいゝわ。私と違って、まるで滝山さんのすべ てでしょう。」というと、 「凡《オ ル 》てか無《オア ナツシング》かという言葉があるでしょう。あれよ。」と、 無造作にいって立ち上るのを、追いかけて、 「なぜ,」 「だって、安心されて、放りばなしにされているんですもの。 大事たのか大事でないか分らないじゃないの。」奥へ行くふす まに手をかけたまゝ、ちょっとふり返っていった。  美祢子は、お勝手へ、食事の用意をいいつけに行ったらし く、すぐ引返してくると、裾前を正して、坐りながら、 「私にも、子供でもあればいゝと、しみ人\思うわ。」といっ た。. 「賛沢だわ。子供さんなんか無くっても、あなたくらい、御主 人に愛されていらっしゃれば、幸福じ々ないの。」 「えゝ。」と案外素直にうなずいて、「そんな意味じゃ有難すぎ るの。でも、妻にとって、あんまり善良すぎる良人は、罪悪の 種よ。」  美祢子は二十五だった。滝山とは、十二違いだった。女学校 時代からのやさしい文学少女で、子供もない有閑な結婚生活 に、身体をもて余し気味の、書籍もよく読むし、道楽といえば■ 音楽で、レコードを沢山買いあつめるくらい。動物が好きで、 仔犬や小鳥の面倒を見ているのが、主な生活だった。  華手《はで》な集会や、ダンスなぞは、意地になって排撃しているよ うなところがあって、学者の妻としては、申分なかった。  滝山との結婚は、親友の房子にさぇもらさないで、アッとい う間にしてしまい、結婚後も、良人のことも、家庭生活のこと も、立入っては誰にも話さない1自分の幸不幸を口にしない 1見かけによらぬしっかりもので、そのくせ人|交際《づきあい》は、円転 すぎて、厭味ないほど巧《たく》みであった。  仲善しなれば、なんでもあけすけに、底の底まで、さらけ出 して見せなければ、気のすまない房子が、たまに、 「あなたって人は、いつも聴き役で、自分の事は、チョッピリ もいわないのね。私、いつも一人でしゃベワすぎて気がさすの よ。」と、嘆ずることがあった。  いつもむっつりしているが、しかし好感のもてる滝山の傍《そば》 で、小柄で愛らしい利口な夫人が、舌たるい調子で、物をいっ ているのは、二人の間に互いの愛情と信頼とが、にじみ出てい るように、側《はた》からも見よかったL、行住座臥衣食住には、一切 意を用いない博士の家庭に、夫人が来てからは、文学趣味の装 飾が、音楽が、絵画が巧みに取りいれられて外目には若い夫婦 が、この上もなく愉快な家庭を持っているものと、誰でも羨望 していた。  だが、美祢子にはi。美しい花にも、蝕《むしぱ》んだ花弁が、二三 片交っているように、彼女の心にも深いかげがあった。  女学校を卒業した年に、知り合になった久滋という青年と、 一生忘れがたいほどの、初恋をしたのだが、自分の家庭が厳し 過ぎて、深入り忙なるほどの往来《 ぎき》も出来ず、先方にも縁談があ り、美祢子も両親に、どう願っても、許されそうもなかったの, で、清くあきらめて、滝山と結婚してしまったのだが、一二 年も経てば、うすれて行くはずの心の傷が、結婚後六年の今も なお、永久に陽の当らぬ陰か何かのように残っていた。しか も、その陰が、この頃ではだんく大きくなって行くような気 さぇする時、彼女は久滋と逢ったのだった。  美祢子夫人が、昔の愛人である久滋と会ったのは、全く思い がけない遅遁だった。  九月の初め頃の木曜日に、久滋は滝山の知人の紹介で、彼の 自宅へ診察を受けに来たのである。  彼は、肺尖を病んではいまいかという疑いで、やって来たの であったが、滝山は胃カタルからの神経衰弱だと診断した。  その次の宅診日の木曜日に、久滋は大分元気でやって来た。  そして、その時美祢予と逢ったのである。別れて以来、五六 年ブッツリとお互いの消息を耳にしなかった二人は、思いが けぬ場所で、■思いがけぬお互いを見出して、ハッとした瞬間 に、極く平静な微笑を浮べ合っていた。年月がお互いの感情を |更《か》えていた上に、美祢子には人妻という障壁が設けられていて は、そのまゝ別れる外なかった。  久滋は、淡々と現在の生活を語った。今年の春、関西から 帰って来て、今は、某劇場の文芸部に働いていて、仕事が多い ので、身体を壊したといっていた。それきり、彼は滝山の自宅 に姿を現さなかった。  彼が(それ以来、来なくなったことは、美祢子には、かえっ てわび住居の雪の夜に、ほとくと扉をたゝいたまゝで、帰り 去られたような思いを残した。  が、その偶然が、諺通り三度続いえ。半月ばかりして、美祢 子が銀座の蓄音器屋で試聴室から出たとき、ーブラリ之入つて来 たのが、久滋だった。、  三度目が、昨夜の新響の音楽会だった。聞いたショパンの協 奏曲が、急にほしくなったので、牛込へ帰るという久滋と一 しょに神楽坂へ行って、ミドリ屋に立ち寄り(今日は帰らない かも知れない)と、月に二三度は、研究室で夜を徹してしま う、いつもの滝山の言葉に安心して、ついぞ自分の事は語らぬ 美祢子の唇が滑らかに動きだして、紅屋の二階で、一時間近く 久滋と話しこんだ。  すると本郷方面の火事!  心配性の滝山が火事に驚いて、家へ帰って来て、十一時過ぎ になっているのに自分がいなかったならーそう思うと、ひど  、おつと く良人が気の毒な気がして、自分でもおかしい程あわてて帰っ て来た。  だが、良人はとうノ\帰って来なかった。久滋は自分の振舞 を、笑止に思ったであろう。  久滋は、まだ結婚していなかった。あの時の縁談は、九分ほ どまとまりかけて駄目になり、その後二三機会はあったが、 あなたヘの意地も手伝ったのか、古だ独身でいるのですlと 久滋は笑いながらいった。その言葉を、昨夜《ゆうべ》は軽く聞き流した が、今日はもう一度会って、しみく\と話がして見たいよう な、おだやかならぬ物思いの矢先に、房子夫入がやって来たの である。  自分の事があるので、房子失人の愚痴をいつものようには、                          X 身を入れて聴いてやれなかった。  一々気の毒そうに、聞いていれば、昔からの気随気儘、何時 間でも自分の事ばかり、ことハ\しく話し立てる房子夫人が、 今日は少しくすぐったいi、といって久滋の事など、いいだ すべき筋でもないので、 「あなたのような旦那さまを持っても、悲しいし、私のような 旦那さまを持っても、なんだか物足りないものよ。女に生れて 来たのが、そもく間違いらしいわね。」と、いうと、 「私は、この次には、男に生れて来て、さんハ\浮気をして、 この敵打ちがしたいわ。」と、房子夫人が、いきり立つと、美祢 子は、 「私は、草花か何かに生れて来て、そよく風に吹かれていた いわ。」巧《たく》みに、話を換えてしまった。  昼食後、夕方まで坐り込んで、病的に頬が上気してしまうま で、房子夫人は話しこんでしまった。  美祢子は、夫人の話し振りでは、旦那様への面当《つらあて》に、今晩は 家に帰らず、こゝに宿《とま》るといいだすかも知れないと思ったの で、ともあれ夕食の用意と腰を浮せかけると、廊下に女中と誰 かとの賑やかな足音がしたと思うと、すぐ障子に影が映って、 「叔母さま。ちょっとー」と、若々しい声が呼んだ。 「まあ。恵美子、何しに。」■と立ち上って廊下へ出ると、 ,「御免なさい! お客様だのに、いきなりお邪魔して。でも、 恵美子、いそいでいるんだもの、今夜ね。」と、美祢子の頭を 抱き寄せるように、耳に唇を寄せて、 「お母さまに、こゝに来ている事にして下さいね。私自分で電 話をかけますから。」  どうでも、否とはいわせまい甘えた涼しい目元、白粉っ気の ない、叔母よりは一、二寸高い洋服の濃刺とした十八の娘だっ た。 「そりゃいゝけれど、一体どこへ行くの。あんまりヘンた嘘 じゃ、後で私がお母さんから恨まれるから。」 「大丈夫よ。お友達と『青衣の夫人』を見たいだけなのよ。そ れ充つて、お母さまい付ないというんでしょう。私淑母さまの 子だとよかつたわね。ね、お願いよ。お友達と一しょよ。爵友 達はお玄関にあげてあるの。電話をかけたら、すぐ出かける一 の。ね、ね。」笑いながら、合掌して見せた。 「何時頃、帰るの。」 「十時頃。それまでに、お宅《うち》から電話がかゝったら、うまく やってね。」 「そんな事、恵美子、請合《うけあわ》れない……」■  いいかけるのを、皆まで聞かず行きかけるのを、完談にも 「いけません!」といったら、泣きだしそうな無邪気さだっ た。  が、さすがに美祢子は責任を感じて、玄関にあげてあるとい う友達を、ちょっと見に行くと、見るからに、善良そうな気の 弱そうな少女が、ドギマギ顔を赤くして挨拶するのだった。 新政策  元の部屋へ帰って見ると、房子夫人は、他に客来《ぎやくらい》と見て帰り かけている容子だった。 「ゆっくりしていらしってよ。姉の娘なんですの。ホラいつか お逢いになったことがあるでしょう。姉と私と二十《はたち》も違ってい るものだから、娘なんか私より背がズッと大きいんですのよ。 生意気で甘ったれで……」と、い・っているうちに、辺《あた》りには父 かりのない電話の声が、手に取るように聞えて来た。 (叔母さまのお家《うち》へ、中条さんと二人で来てるの。十時頃まで 遊んで帰るわ。ええ……ええ……叔母さまお変りないわ。今お 客さまと話していちっしゃる:::)と、あまりに、あ打す妙な 物いいκ美祢子は思わず微笑して、 、「姉夫婦が、めちゃあちゃに厳しいもんですからj活動へなん かも私の家へ来たことにして、参りますの。可哀想なくらいで すの。」と、房子にいっていると、 (叔母さま、お電話にちょっと出てよ)快活に遠くから呼び立 てた。  恵美子が一しきり騒がして出てしまった後、主人川の滝山が 帰って来た。やへ猫背の、ちょっと支那人をでも見るような温 厚な青白い顔をして、口数が少い人だった。房子夫人は、知人 の中で、こんなとっつき難い.人はいないと思った。何を思って いるのか、何を話しかけたらいゝのか、向うからはなんにも話 しかけないし、こっちの話には短い返事しかしないし、と言っ てこっちを怒ってい.るのでもなげれば、嫌ってもいないのだっ た。  美祢子さんは、幸福ね、と口では言っているが、美祢子が、 無口の良人に、何やかや楽しそうに物をいっているのを見る と、こんな煮え切らない人の、どこがい、ゝのかしらーと、時 時思うことがあった。  滝山夫婦と三人で食事をした後、夜来のむしゃくしゃした気 持も、やゝ溶けたので、これから家へ帰って、善後策を考えて 見ようと思って、八時頃滝山の家を出た。 市兵衛町の家へ帰って見たが、もとよりその時分家にいる良 人ではなかった。洋一と耶奈子が、女中の手でスヤノ\眠入《ねい》っ ているのを見とfけて、さて自分の部屋に、独りぎりになる と、良人と昨日初めて知った新しい女との、堪えがたい幻影 が、i-相手の女をよく知っているだけに、今迄よりはマザマ ザと胸に浮んで、安からぬ物思いが続き、気持は滅入り、じれ にじれて、眼は冴えるばかり、美祢子に会っていくらか、まぎ れていた苦しみが、夜の更けるとともに、さかんになってくる のだった。良入の帰りかと耳をすます自動車のサイレンは、中 途で止まるか行きすぎるかして、とうノ\良人は帰って来な かった。  これは、宮川の常套手段だった。  妻に、新しい悪事を見つけられると、出来るだけうそでまる めて、逃げようとするが、理責めに会って、,どうにもならなく なると、窮承の如く、あベこベに強くなって、高飛車に出て、 |憤《おこ》りちらして次の夜は家を空けるという……。  と、いっ■て宮川は、房子夫人にとって、それほど薄情な良人 ではなかった。外で、女をこしらぇるという欠点を除けば、物 分りのいゝよく気のつく旦那さまで、土曜日の夜と日曜日とは 「家庭日」と称して、妻子本位に暮しているし、洋一や耶奈子 に対する極端に近い父としての愛情は、嫉妬に狂う折の房子夫 人にも、純粋無垢な頼もしいものに見えるので、…  男の性欲なんていうものは、一つの浅ましい感情で、そんな ものをお前に感じないからといづて、決してお前を愛していな い訳ではないのだとかI恋愛と性欲とは珍しい物に対する一 つのあこがれなんだ。毎日毎夜、顔を突き合わしている女房 に、そんなものを感ぜられるか、女房には、もっとじみな、し かしそれだけ深い尊い愛情を感じているんだとか、聴いていれ ば半分もっともで半分得手勝手な議論と、1それから前に いった父性愛とにまぎらされて、いく度か決心した離婚行をそ の度ごとに思い止まって来たが、しかし今度は…・  普段から、そればかりはと、禁物にしてある素人、しかも素 人も人によれ、一年前までは家にいた堀田の娘と、どこかの家 の茶の間で、今頃は、昨夜の出来事について、自分の批判など を交ぜて、なんと話し合っているのだろうと思うと房子は、胸 の内がたぎり立ってくるのであった。  今度は、どんなにさげすまれても、いゝから、あの娘《こ》の家へ 押しかけて、、父子《おやこ》を並べて置いて、さんざん恨みを述べてやろ う。たしか四谷辺にいるはずだから、探せば分らないことはな い。堀田も一つ穴のむじなで、久しくやって来ないところを見 ると、.宮川から資本でもだしてもらって、そのために資産を無 くしてしまったという米相場でもやって、いゝ気になっている のだろうと思うと、房子は堀田父子が仇敵のように憎まれて来 た。  だが、夜が更けて、眠れぬまゝに、房子夫人の思案は、変っ ていた。今まで、いつもやっきになって騒ぐので良人が何か張 合いでもがあるように、浮気をするのかもしれない巾今度は、 一つ家庭政策を転換して、絶対無干渉超然主義ということにし て見ようかしら。いくら、遅く帰っても悪い顔一つせず、どん な電話が,かゝうても怪しまず、良人が我家三寸離れた後の行動 は、.一.切不問に付して、.こっちのするだけの事は、ちゃんとし て、、私は美祢子さんの言草ではないが、そよくと風に吹かれ ている草花のように、すましていてやろうか。もっとも、それ には絶大の辛抱を要するには、違いないが。  房子夫人は、暁近く眠り、翌日は昼過ぎまで寝て、一昨夜見 張りに出しておいたお気にいりの、.綾という股肱耳目とあまや かした女中を、 「あやア。あやア。」  と呼び立てゝ、朝湯にはいり、、常より念入りなお化粧の傍に 綾を捉えて置いて、勝手なお喋舌《しやべり》をしいしい、少し薄気味が悪 い,ほど、御機嫌がよかった。 隣りは何をする人ぞ  渋谷|金王《こんのう》の中流の静かな邸宅街、,その一つの袋路《ふくるじ》の行きどま りに、まだ建ってから間もない新しい貸家へ、二三日前から 越して来た一家がある。表札は露店の表札書家の墨痕あざやか に堀田|何某《なにほう》。これは、宮川が房子夫人の探索を恐れ、にわかに 移した隠れ家である。  宵から来ている宮川と、切炭を盛んにおこした手焙《てあぶり》をはさん で、華美《はで》な大島に、茶っぽい袋帯をやや低く結んで、いかにも 奥様らしい装いの堀田の娘久美子。 「越して来て、ほんとによかったと思っているのよ。こゝの方 が、ずっと静かで……」 「おれがよせというのに。送っ■てくるのだけは、全く余計だっ たんだよ。」 「どうなんですの。その後の御機嫌は……」 「それがさ、あんまり晴《せいく》々していて、気味がわるいんだよ。」 「そう。なんだか恐ろしいわね。私だとお分りになったら、随 分憎んでいらっしゃるだろうに……でも致」方ないわ。」  と、.目尻《まなじり》にこびがあふれる。  この娘の母親は、その昔九尺二間に生い立った何町小町で、 米相場で失敗してのらくらしていた堀田を見捨てて行方不明に なったのが、久美子の七つの年だった。  母に似て美しいが、やっばり母の性格を受けていて、少女り ときから人絹は着ても木綿はいやという方で、父親をてこずら せ、房子夫人に世話になっている内にも、その華美《はで》好きの所だ け感化を受け、学校を出ると、娘の方が窮屈な食客生活に不服 で、父をそゝのかして、宮川家を出て、自分から口を探して、 丸之内会館のグリルのウェイトレスになっていた。と、そこヘ宮 川が、食事や宴会に来て、久美子の働いているのを発見した。  そんなふうに働いていると、また新鮮な美に温れる久美子の よく発達した肢体や、なまめかしい笑顔を、改めて美しいと感 心してはいたが、もとく主従に似た関係ではあり、初めは色 恋を離れた親しみを微笑に見せ、久美子の番に当ればチップを はずむくらいであったものを、今年の二月、久美子が風邪から 肺炎ぎみで一月以上寝ついたとき、宮川の事務所宛、無心の手 紙をよこした。  -奥さまには、あんまりお世話になっているから、この上 御面倒をかけるのが恥かしくって1…  と、いじらしい書き方に、ホロリとなり、二度金を届け、三 度目に見舞に行ってやったのが動機で、久美子はグリルをよし てしまった。  妾とい躰うか愛人といおうか、そうした関係になってしまう と今まで相手にしていた芸者やダンサ1とは違って、宮川は思 いがけないほど、久美子に心をひかれた。ダンスはする。スポ ーツはなんでも知っている。洋装をすればよく似合うし、評判 の映画は大抵見ているし、たしかに妻の房子よりは一時代新し い女性である。華美な性格で、男に甘えることも上手だし、モ ダンな手管も心得たものだし-…別れるという日のあるのを、 想像出来ないほど、宮川は久美子にほれこんでいた。  だから、久美子を房子夫人に見つけられたのは、宮川に取っ て、今までにない不覚だった。房子夫人には、恩のある堀田|父《おや》 子だし、もしかくれ家を探しあてられて、膝づめ談判をされた ら、恐れいって別れますと、言わなければならないのだった。 だから、物に動じない宮川も、今度だけは、少しあわてて久美 子を促してこゝへ移らせたのであった。 「でも、騎隣りの人達、とっても妙よ、あきれたわ。」と、久 美子がいった。 「妙って、どんなふうに。」と、孝三は早くも、神経質に表情 を変えて訊き返した。  その顔色には、おかまいなしに、サッサとつ間けて、 「あたし、すっかり憤慨しちゃっているのよ。もう隣りの家の 誰とも、ロなんぞきかないつもりよ。だって、お引越し蕎麦だ けじゃ、あんまりしきたりすぎると思ったのよ。それに、とて も感じのいゝ十七八のお嬢さんがいるし、御懇意になりたい と思って、昨日ねえやに虎屋の最中を持たせて、挨拶にやった のよ。そしたらね、一昨月《おとつい》やったお蕎麦の切手と一しょに、口 上つきで返してよこしたのよ。宅では一切虚礼廃止の主義でご ざいますから、今後とも盆暮の御心配などなさいませんよう に。気持の上の御交際を、どうぞ末長うって、恐《こわ》い眼鏡の奥さ んがやって来ていったんですって……あんなお隣りがあるか ら、こんないゝ家が、空いていたのよ。その恐い奥さんが、女 学校か何かの校長先生かなんかですって……」  御機嫌買いで、とかく人に物をやりたがる久美子が、意気揚 揚と、物を贈って返されたのだから、さも残念げに気負ってい うので、宮川も思わずおかしくなり、 「プ・…。まあいゝさ』世間にはそういう人種もいるん だ。向うで近所|交際《づぎあい》をしないつもりなら、結局都合いゝじゃな いか。うるさくなくってミ…」 「そりゃまあ、そうですけれど、その御主人ってのがね、これ も先生か、何かと見えて、背の低い八字髭ばかり立派な、おか しいような人物なの。そしてね、向うの中ニ階の窓から、時々 とっちを見ていることがあるのよ。垣根が低いからこっちが、 まる見えなんだわ。少し憂轡よ。」 「冬は障子を立てて置くさ。その内、樹でも植えてもらうとい い。」 「兄妹二《ぎようだい》人の子持らしいのよ。兄さんは、帝大の学生よ。妹の 方は、あんな親達には、似合わない、サバくした可愛い器嬢 さんなの。今日四時頃かしら、その騎嬢さんが垣根ごしに、お 宅へ子犬が迷って参りませんかっていうのよ。昨日の事もある し、(いゝえ)といって探してやらなかったら、さみしそう に、いつ迄も垣根のどころにいるのよ。そしたら、赤い小ちゃ な犬が"おどけた見たいな顔をして、よちく家の風呂場の方 から出て来たのよ。お嬢ざんが、いくら呼んでも行かないの。 気の毒だから、あたし、とうとう抱いてってあげたのよ。」  宮川の顔に、ほのかながら、なんだ、・つまらないという感じ が出るのを、話はこれからなのよというふうに、久美子は緊張 していた。 「する之ハびρべつするほど、うれしがってお礼をいくたびも いうのよ。芝犬という犬で、本郷とかの叔母さんにもらったん だりて、いなくなったら、泣いても泣き切れな小んですって。 そして頬ずりをしたり、胸に抱いたり、もうたいへんなのよ。 そうして私と話していると、縁側に出たのが、齢父さんめ八字 髭たの…。いきなり(恵美子、何をしています、恵美子!)っ て、ハッとするほど、大きい声で呼ぶの。あたしの名と似てい るから、とび上っちゃったわ。そして、・あ恥し仁は、ば礼もせ ずに、ひっこんでしまうの。痛にさわるったら……」 「ふーン。大家《おとや》に頼んで、垣根を板塀にしてもちうんだね。 ㌔っとも、そんなふうじゃ向うで板塀にするかも知れないが、 まああんまり万事気にしない方がいゝ。」  宮川ののびやかな調子に、イ人顔を見合わせて笑った。  あたゝかく、のびやかなのは、部屋の内だけで、外には十二 月の木枯しの音が、心を凍らせるように吹きつのり、夜廻りの 音が、さえかえってきこえた。  値川が次の座敷に立った後、久美子は、たちまち薔薇色のク レープデシンのパジャマに着更えて、黒いナイト・ガウンを、 フンワリ羽織っ九' .乏んな装《なり》をする亡n彼女はペルシャ猫のように、ニキゾチッ クでなまめかしかった。  久美子は、もとより賢い女じゃなかったが、「気合い」の優 れた女牲だった。ヒういう女性には"男が気合い負けをする。 .(自分は賢い)(盲分は美しい)といううぬぼれと、自信と が、彼女を本質以上に見せる。■  宮川には前からの恩もあり、最初の男性だからといって、宮 州の訪れを後生大事に待って、貞淑にしているといった女性で はなかった力宮川楓、いわばよいパ}ロンだった。彼とこう なって、■お金にも持物にも、不自由がなくなると彼女はその天 性看発揮して、いろくな集りや、.ダツス・ホlルに顔をだし ーて、■ワイノ\もてはやされるのを、喜んだ。 .塩町に一いる時分、.すでに再三ならず、宮川唐すっぽかして臣 夜遅くまで遊んで歩い九事㌔あるし、亡∫に来て、日も経たな いのに㌔う学生が訪ねて来て、門前で立話をしたり、すべて、 くったくなく放胆で、少カばかりでたらめだが悪気がなく、愛 らしい陽気な存在だった。空想と実際との区別のない、魅力に 富んだこの種の女性は、芸術家には愛されるが、道学者には眉 セひそめられるものだ。一一ー  宮川は、時々いらくさせられ(目を離すことが出来ないだ けに、.なお心を引かれて、房子夫人にどんなに騒がれても、別   れる心なんぞ微塵なかった。   新居の珍しさに、はしゃいでいる久美子は、三面鏡の前で、ー ■唇に思い切り西洋べにを塗り、耳たぶに、少しばかり塗香をふ   くませながら、   「明日ドライヴに連れてってくれない?」と、鼻声でいうと、   「うん。」と、次の間から返事した宮川の声も、たのしげ忙の   どかだった。    房子夫人が、機嫌のいゝのを幸いに、宮川は、その日とうと   う宿《とま》ってしまった。    よく晴れて、冬日のあたゝかな次の朝、ドライヴに行くから   といって、早起きの出来るような二人ではなかった。    日が高まって、二階の八畳いっばいに、初冬とは思われな   い、明るい光と温暖があふれている。宮川は、新聞をひろげな   がら階下へ、   「おい! 腹がペコくだよ。」と、催促すると、   「はーい。ただ今。」と、上機嫌な久美子の声が弾み上って来   た。    ドフランネルの寝衣《ねまき》に、丹前をひっかけた宮川は、縁側に   出て欄干によると、目の前に山茶花《さざんか》の白い花が真盛りだった。,   昨夜の久美子の話の一件は、どちら隣りかと眼をのばすと、右   は崖の上に立っていて、なんにも見えない。左は、というより   も裏隣りは、垣根の向うに、二百坪以上の無造作な庭があっ   て、和洋折衷の相当間数のありそうな建物で、下座敷は日本式   にガラス障子を建廻して、人影もなくしんとしている。   「こゝの家《うち》だね。これじゃこっちからも、丸見えじゃないか。」   と、口にだして肢きながら、欄干からのめりだして、あっち   こっち見廻していたが、やにわにヒョイと首をすくめて、部屋   へはいると、障子を半ば閉めてしまった。やがて、アルピナチ ーズと番茶を持って上って来た久美子に、 「いけねえ。見られちゃった!」と、右手を指して、 「あちらの二階の窓から、女の人がジッと見ていたよ。」 「どんな人:…う!」 「君がいっている眼鏡の恐い女の人さあ。チラと見たんだけれ ど、どこかで見覚えのある顔なんだ。くさるねえ、こう隣りが 近いのは……」 「どうして、こっちを見ているんでしょうね。」 「他人の生活が気になるのは、日本人のわるい癖充。その内で もとかく女はねえ。」 「ほんとに、だから女はいやねえ。」と、久美子も、いかにも 軽蔑していった。 「みんな君みたいに、サバノ\しているといゝんだが。」 「ほんとうによ。」と、久美子は、大真面目だった。  明日は、家へ四五人人を招待してあるので、房子夫人の御 機嫌を取って置く必要もあり、子供の顔も見たくなったので、 宮川は頃合を見計らって、 「今日は、もうドライヴなんかしないで帰るぜ。」と、いう と、久美子は、存外あっさりと、 「えゝ。どちらでもいゝの。」と、もう自分単独で暇をつぶす プログラムを考えているようだった。 「明日は客を招《よ》んであるから来《し》られないし、l明後日《あさつて》までお となしくいなけりゃ、ひどいよ。」 「えゝ、だいじょうぶ。家に、ずーっといてよ。」と、答だけは 神妙だった。  もう、ラジオの昼間演芸のハーモニカの音が、耳の底ヘウズ ウズと響いて来て、とても久美子と、新しい家になれぬ女との 食事の支度を待ち切れなくなったので" 「ドライヴに行かないとすると、どこかへ御飯をたぺに行こう か。」と、いうと久美子は、すぐ賛成して二人一しょに出かけ ることにたった。  袋路から、かなり広い本通りへ出たところで、その本通りに 門のある、問題の裏通りの人達が、門を出るところへ、バッタ リぶっつかった。 」  なるほど、夫婦の子にしては美しすぎる十七八のスマ1} な令嬢と、神経質らしい二十三四の色の浅黒いやせぎすな青 年と、先刻《さつき》二階から顔を見合わした夫人と、謹厳実直のカタロ グ見たいな髭の御主人と、一家総出の外出だった。  久美子は、失婦の批評家のような鋭い視線をあざやかに受け 流して、いかにも悪戯《いたずら》娘らしく、相手の懐へ近寄って、世辞世 辞しく馬鹿丁寧な挨拶をしたので、さすが謹厳な御夫婦も狼狽 して、タジタジとなりながらも、連れの宮川の方へも眼を転じ たので、宮川も帽子を取って、かるく挨拶しなければならな かった。その連中と、三間と離れない頃、もう久美子が声高《こわだか》 に、 「御連中温かなもんだから、代々木の原へでも散歩に行くの よ。で、なかったら動物映画でも見に行くのよ。」と、いいだ すのを、 「聞えるじゃないか。」と、たしなめて、 「おかしいな、どこかで見たような顔だ。Lと、宮川は眉をひ そめた。  校長か何かだという夫人の顔にも見覚えがあったし、令嬢の 方もどっかで見たような気がしたが、それがどこで見たのか分 らなかった。  渋谷の通りへ出て、自動車に乗ると、宮川は久美子に、 .ー「さわらぬ神にたゝりなしさ。お隣りの人を、からかったりし たらいけたいよ。.どうも見たことのある顔だしーーあの夫人が 家の女房の先生であったりして、そうでしたかなんて、きまり のわるいことになるといけないから。」と、警戒した。 「えゝ気をつけるわ。でも、先刻は痛快だった。胸が、すーと したわ。私が、挨拶したら困っているんですもの。あのお嬢さ ん、可愛いでしょう。でも、あんなお父さん、お母さんじゃ、 可哀想だわ。私がお友達になって、少し仕込んでやろうかし ら。」 「よしてくれ、お前が、そんなことを考えているから、向うで 警戒しているんだよ。ほんとに、注意なさいよ。」と、宮川は 微笑しながらも、真面目だった。 町内の風紀  和田工学博士夫人伊佐子女史は、滝山夫人の実姉である。和 田は、某専門学校の、どこといって特色のない教授である。だ から、杜会的には夫人の方が、ずーっと有名である。C英学塾 の塾長は、もう喜寿の祝いをすましたほどのめでたいお婆さん なので、教頭の伊佐子女史が学校の内外で多くの権隈を持って いる。近頃流行の新聞の相談欄も引き受けており、昔からキリ スト教信者で、すべてが物々しく、理解や融通が偏していて、 罪の処断には、ためらいなく一刀両断の切味を見せる。そんな ところが、一部からは軽蔑され、一部からはひどく頼もしがら れている。  平たくいぇば、蝉天《かエあ》下で、良人をかるく見て、ともすれば嵩《かさ》 にかゝりながら、そのくせ良人からは独立することは出来ない という質《たち》の婦人である。もちろん、厳格な一失一婦主義を遵奉 しているから、妾などは、言葉だけでも唾を吐きたいほど、増 悪を感じているのに、あたかも対等の階級のように、先方か ら、なれノ\し<挨拶をされ、気のよい良人が、それにつり込 まれ、相手の男に帽子を取って礼を返したのは、思っても腹立 たしい事だった。 、子供達の手前、欝憤は、その場では口にのぼちなかったが、 その夜夫婦卓をはさんで、向い合うと伊佐子夫人は、 「困りましたわ。」と、さも重大そうにロ火を切った。 「何が……」.  夫人は眼鏡の奥かち、小さく光る眼で、ジロリと夫君を見や りながら、 「裏の女のことですよ。なれくと挨拶をしたり、あたたもな すったり、困りますわ。隆】も恵美子も折角、間違いもなく大 ぎくなっていますのに、あんな者から、いやな感化を受けさせ たりしたくないんですわ。ほんとに……」  良人は心得て夫人の意を迎えるように、 「全く、よくあの家へはあゝいったふうな連中が、越してくる ね。行きどまりの袋小路で、人目に立たないからだろうけれ ど・::・」 「今度の方が、先の人達よりずっと、性質《たち》がよくありません よ。今朝なんかも、あの男の方が、そりゃしどけない寝衣《ねまき》姿 で、二階かちこちらをジロく探求するような眼で、見ている んですからね。どうしたものでしょう。」 「まあ、隆一や恵美子が、あの人達に感化されて、間違うこと もあるまいけれど、よく注意して、絶対に交際《つきあわ》ないようにして 置くんだね。」 「そりゃ、むろんですけれど、あ人一近くては、月につくし、い. やらしい流行歌などのレコードをかけているのが、おのずと耳 にきこえますし、あゝいうだらしのない無教養な人達には、こ んな所に住まってもらいたくありませんね。」 「その内に、この前やったように、世帯調査にくる巡査に告げ ておやりたさい。」とハ夫君の決定的な=一目に、 「あゝ、あれは利きましたわね。」と、伊佐子夫人のロ元に、 うすら冷たい笑いが漂った。 .隆一と恵美子の兄妹《きようだい》はほとんど一体同心のように、仲がよ かった。二人は、両親のくせは、ちっとも受けつがない、やさ しい素直な青年男女だった。七の二人は、物心つく頃から学校 から家庭へ、家庭から学校へと、勉強の課目に追いまわされて いた小さい兎だった。そして、キリスト教のお説教という鞭 が、ときハ\彼らの頭の上で、鳴った。  が、高等学校へ行き女学校へはいる頃から、二人とも、一徹 になんの潤いもなく、自分達の意見を強調する両親には、少し も抵抗しないで、秘かに道草を食う廻り路を、お互いに発見し てしまった。  隆一は秀才型の青年で、両親から受けた宗教的たもの、その 矛盾した旧い観念からくるすべてを、すっかり排撃して、友達 とかくれて、禁断の書を漁るようになっていた。  恵美子は、閉じこめられた勉強の暗い洞穴から、パッと外界 に(人一倍空想的な触手をのばしていた。  よく、本郷の叔母の家へ行った。,そこへ行くのは楽しかっ た。叔母の書棚には、色々に変形したロ、ミオ、ジュリエット物 語があり、お友達とのかくれ遊びの策源地でもあった。  いま両親の悩みの種になっている裏の女に、兄妹は互いに 異った意見を持っていたが、ある同情に似た感じを持っている 点は同じであった。 .隆一は、女は美しいと思った。次には、ある生若さからく る、妙に老成ぶった気持で、女がそうした境遇に、甘んじてい みらしいのが、あわれに思われた。  恵美子は、この頃よくアメリカ映画の主題になっている可憐 な・「お妾物語」の一つを見ているように、裏の女主人公を空想 していた。子犬を抱いて連れて来てくれたその女性の、深々と した双眸が好きだった。母のいないときには、話しかけ、微笑 みかけたいとさえ思っていた。  しかし、(裏の女と絶対に、つき合ってはいけません)とい う両親の注意に、兄妹は神妙にうなずいた。だが、いつか同じ 家に住んでいた年増の囲者を、両親が町内の風紀のために、そ れとなく、いびりだした事を考えると、兄妹は憂欝だった。  夫婦がそろって教育家であり、もうこゝに渋谷が開けかゝる 頃から住んでいるので、町内に隠然たる勢力があり、半丁ばか り行った、角の交雷の巡査達からは、町内で一番尊敬され、信 頼されていたρだから夫婦が、新しく越して来た人達が素姓が わるく、町内の風紀のためにわるいなどというとv日陰者の女 に対してなど巡査の世帯調査は、たまりかねるくらい辛辣にな るのだった。  宮川には、その日も次の日も、おとなしく家にいますといい ながら、久美子はその夜も次の夜も、十二時過ぎてから、帰っ て来た。  ずーっと晴れつ讐きの、その日も麗《うらと》かな小春日和の昼近<、 二階はまだ雨戸を閉したまゝの、薄くらがりの中で、久美子は 寝息さぇ立てず、死んだように寝入っていた。 「奥さま。奥さま。」女中に肩先を布団の上から、軽くゆす ぶられて、細く眼をあけたが、夢を見ているように、物の文色《あいろ》 も見えず、女中の姿さえ分らなかった。そのまゝ寝がえりをし て、また眠りかけようとすると、 「奥さま、巡査《おまわり》さんが見えて、色々訊きますんで、ちょっと階 下《した》へいらしって頂きたいんですけど、奥さま。」 ・「なあに、誰が来たの。」と、ようやく、枕元の女中の白いエ プロン姿に、頬をなでちれたような気持で、半身もたげると、・ ㌔なんですか、私には、よく分りませんのです。色々訊き↓、4す から、奥さまをお呼びしてくるってj申しましたんですけれど ……」 「だから誰がξ,」 「巡査《おまわり》さんでございます。」 ー久美子は、あらわに不機嫌になって、 「私が行かなくっちゃ、駄目なのかい〜」 「えゝ。」軽い舌打ちをして起き上ると、パジャマの上に、昨 夜ぬぎちらした衣物を、そのまゝだらしなくひきかけて、腰紐 を結びながら、 ■「一体何時なの2」 「十一.時半でございますよ。」と、いわれて、思ったより早い ・のに安心して、羽織のあるま、に、伊達巻のまゝで階下へ行く と、玄関の三和土《たたき》の上に、茶色の調査簿を持って、若い巡査が 突っ立っていた。眠気もさめないし、ぽんやり障子の傍に神妙 にすわると、 「お邪魔します。堀田久美子さんですか。あなたが世帯主です な。」 ./「はあ。」 「家族はなし〜」 口はあ。」 「病人もたし,」 「はあ。」 「大分夜遅くまで、お客様があるかね。」  巡査の言葉が、粗野だったので、返事をしなかったが、■眠気 は忽ちなくなってしまっていた。 「旦那があるようだね。」・ 「えゝP」と、何気ない顔で、深い問いをこめて訊き返すと、 「旦那があるならあるといってもらえばよい。この辺は、みな 良家ばかりで、夜の出入《でいり》が少い所だろう。だから、犯罪でも起 きた場合の参考に、知って置かないと困るからね。」と、巡査 の頬に妙な笑いが浮んだ。  こんなふうに訊かれたら、大概の女は、ドギマギ顔を赤らめ るか、つまらなくクドく弁解してつぎからつぎと根掘り葉掘 りに訊かれて、ついには旦那の名から職業迄いってしまい、次 ぎの戸口調査が頭痛の種となり、交番の前を通るのもいやにな り、急に肩身のせまい思いをして、越してしまったのが、この 前この家に住んでいた芸者上りらしいお妾だった。  だが、久美子は少し違っていた。返事を待って彼女をみつめ ていた巡査を前に、彼女の寝はれたような表情が、ピンとな り、首筋がシャンと引きしまった。 「随分失礼な質問をなさるのですね。」と、大胆な語尾に笑いさ え含んで、■若い巡査は却って手前の方が、ヘドくしてしまっ た。足もとに視線を落して、靴で三和土《たたき》をかるくけりながら、 「女ばかりの世帯に、男の出いりが繁ければ、そう訊かざるを 得ないからさ。」 「一家を持って豹りましたら、客もありますし、お友達も参り ますよ。」 「女主人のところへ、毎夜遅い客があるなぞは、少し困るから な。町内の風紀上よろしくない。この辺は、閑静な、学者とか 官吏とか真面目な家庭ばかりの町だから。」 「独り女《もの》は住めない所でございますか。」 「そんな事はないが、た間通ってくる騎客の素姓が分っていれ ばいゝんだ。」 「お調べの家族は、私と女中の二人ぎりですわ。時々《るお客 様を旦那と思い、私をお妾だろうと思うのは、他人様の勝手で すわ。それで結構じゃありませんか。それよりも、お隣りの御 夫婦、あれはどんな御商売なんですの。」 「あれは、有名な学者の御夫婦だよ。」  久美子は、■思いきり軽蔑の調子をこめて、 「たんだか知りませんが、こちらの家を隙見ばかりして、ほん とうに困るんですよ。あれもなん之か御注意して頂けません の。」と、聞えよがしの誰揮からぬ調子に、巡査は少し恐れを なしながら、 「あなたが、あまり目立つような恰好をしているからいけない んだよ。」 「へえ、わるうございましたわね。で㌔、あの奥さんだって、 旦那さんだって、まるで漫画か何かに出ているほど、目立って いますわね。」  久美子のヒステリ気味な、早くもそれと察した反撃に、巡査 は苦笑しながら、 「余計な悪口をいうもんじゃない。ともかくあまり町内の平和 を乱さないようにやってもらうことだね。」というと、後向き に格子戸を閉めて、靴音あらゝかに出て行った。  二人の問答を恐ろしいように、茶の間で聞いていた女中を呼 んで、 「あの巡査《おまわり》さん、隣りへ行ってから来たんだろう。」と、久美 子の眉のあたりが険しかった。 「はい、そうでございま七よう。」 「いまくしいわね。町内の風紀にいけないんだって。きっと あの眼鏡が、何かいったんだよ。あゝ口惜しい。もう、お隣り になんか遠慮するものか。」と、勝気な眼に、どうやら涙がう るんで、そのまゝ二階へ駈け上ると、忽ちカラリノ\と戸をあ けて、ヴィクトロラの蓋を払うと、かけたのがジャズの中で一 番かしましいピーナヅトヴェンダ。緑と紅の羽根布団と黒いガ ウンも、まく陽のあたる欄干に、これみよがしに乾しならベ た。  二階の物音に驚いて、上ってきた女中に、 「ねぇ、妾の留守の時は、十時になっても十一時になっても出 来るだけそうム\しいレコi品、をかけて置いてね。」  〃コードをかけるくらいの対抗策では、彼女の欝憤はサラリ とはならなかった。  三面鏡に向って、お化粧に長い時間を費しながちハ宮川が来 たら、すぐいいつけて、うさばらしをしようと思ったが、どう せ来るのは晩の八時か九時だろうし、それまで待っているの が、もどかしく、.銀座の宝石商店に指環の修繕を頼んで置いた のが出来ているはずだし、それを取りに行ってついでにブラ ブラしながら気を晴らして来ようと思った。  蔑まれたということが、ジッとしていても、身体中がムッと 暑くなってしまうほど、癩にさわった。隣りの人達のことと、 巡査の言葉とをくり返しくり返し、憤慨している之、しまいに は宮川のことまでが、腹立たしくなってきた。  なるベく人目に立たないように、こんな所ヘ自分を囲いたが る宮川が、いけないのだ。なんでも陰気なことが嫌で、華美《はで》に 陽気に暮したがる彼女は、はじめ宮川がこゝを捜した時から、 あまり気にいらなかった。同じ渋谷でも代官山の方に、赤いス ペイン瓦の屋根をつけた文化住宅が、格安な値で、売物になっ ていた。それを、久美子は宮川に買ってもらいたかったが、彼 ほ通うのに遠すぎるのを理由にして、いろくけちをつけて、 家賃もあまり高くないこの家を借りたのだ。女房よりも愛して いるとか、口先ではいいながら、財布の目ばかりは、グッと引 きしめている。今年もそろくクリスマス・イ1ヴのドレスを 作らなければならないのに、臨時のお小遣いをちっともくれな い。そんなふうだから、いわれなくってもいゝことをいわれて しまうのだー。 -と、久美子の頭の中には、暗いしるが、グルくめぐって宮 州にまでとばっちりが及んだ。貯金しろと呉れたお金も何かほ しいものがあったら、使っちまおうと腕時計を見ると三時だっ た。 「旦那さまの方が早かったら、夕方から銀座へ指環を取りに 行ったといえばわかるから……」と、家を出かけて、本通りへ 出て半丁ばかり行くと、学校の帰りらしい黄色いレインコIト に制帽を冠った、隣りの息子に出会った。青年は、尋常な目礼 をして、すれちがって行くのを、 「あの。」と、久美子は呼び止めた。  無言で不審げに、振りかえった青年の、どことなく、まだ子 供々々した唇のあたり、・神経質らしい眉の下に、二つの眼がさ えて明るかった。  両親の子に似合わず、身体《からだ》全体から若々しさと純潔さが温れ 出ていた。  1気取屋でもなし、さればといってはにかみ屋でもないよ うだ。制服の襟も帽子も油じみていないのは、神経質で縞麗好 きなんだろう。 .その上、両親のよう次眼では、自分を見ていないと、人の顔 色を見ることの得意な久美子は、ホソの瞬間に見て取ってし まったや 「あの、私いつも独りでございますから、 に、時々遊びにいらしって下さいませんっ. 友達になりたいんですのよ。」  久美子の唇から、■取って置きの言葉が、 微笑とともに、スラくと流れ出た。       さつき  久美子は、 お妹さんと御一.緒  私、お妹さんと騎 コケッティッシュな       先刻家にいる頃から隣家の夫婦をいやがらせるた めK.息子なり娘なりに往来で出会ったら、思いきりなれく しくしてやろうと考えていたのであった。 ,「ありがとう。でも、ちょっと伺われませんね。はゝゝゝゝ。」 (親達が御存じのとおり頑固で:…)之"いう意味を、眼と笑 いとで十分いわせたほど、.青年の態度はさばけていた。  久美子も、それがハッキリ分っていながら、.しかし言葉だけ は、いかにも、解しかねるという調子で、 「まあ、なぜでごぎいましょう。.是非お遊びにどうぞご乏、 し之やかに頭を下げて見せた。 「砥ムゝ、ム。」と青年は返事せず、だが久美子に不快を感ぜ させないように、飽べまでほがらかに笑いながら、もよっと目 礼して歩き去った。  青年の歩き去る靴音を、背で聞きながら、見たところより も、グッと物の分っているあんなふうの青年なら、こっちが押 しづよく、少しコケットリイを示してやれば、一どうにで屯なる ような気がした。  近くでよく見れば、均斉のとれた立派な体格をしているし、 今まで久美子の知っている、ダンス・ホlルで知合になった学 生達のように、.アメリカナイズされている連中の持つ厭味は、 ちっともなかった心スクノ\と伸びた桐の若木のような純潔さ が感じられる。  あれで、なんでもよく心得ていて、案外おとなしく両親のい いつけに、従うと見せかけて、かげでは相当なものかも知れなー い。  とにかく、上手に水を向けたらあゝいう青年は、自分のため にあらゆる奉仕を惜しまないだろう。  あの妹の方は、もっと仕事が簡単だろう。たんだか、両親の 重圧のために、おしひしがれながら、どうにかして自分の生活 を「伸ばそうと、人なつこい眼で、あたりを物色しているとい う、容子《ようす》である。あの子忙は、ちょっとやさしい友情の手をさ しのべたら、すぐとりすがってくるだろう。  宮川にも内緒で、あの若い二人を、自分の掌の上におどらせ て、それこそ町内を驚かせるような事をさせて、あの取りすま した教育者夫婦の方が、却ってこゝにいたゝまれないようにし てあげるから見ていらっしゃい……と、久美子は妄想をたくま しゅうしていた。  自分自身、なんの生活目的もない、久美子のような女性は、ー こんな事に、ヤヶに熱心になるものだった。 学者の妻  習慣になつている夕暮の犬の運動に、リォというコリーを先 に立てて、ー乳房の大きくふくれている芝犬の母を連れて、家の めぐりの道を一廻りLてくると、美祢子《みねこ》は手先や襟元が冷たく なってしまった。  ーーこんなに寒くなってしまっては、もうお前達は、あさや に連れて行って貰いなさいね。1と畜生に話しかけながら門 のわきの郵便箱の夕刊を取ると、真白い封筒が冷たそうに箱の 底に残った。「滝山美祢子様」と、達者に男らしくシッカリ 坐っているその万年筆の手蹟が、忽ち久滋を思いださせた。  破るのに骨の折れるほど、丈夫な封筒を、立ったまゝマニ キュアされた爪の先で、ボリく破って見ると、なんのこと音 楽会のプログラムに青い二枚の招待券だけ。味気ない気持でプ ログラムを展《ひろ》げると、十一月二十五日i明後日催されるハン ガリィの提琴家、ヨセ7・シゲッティの演奏会だった。プログ ラムの隅の方に、  1、当日、齢目にかゝれるのを楽しみに致しております。                      久 滋li  と、簡明に一行書かれてあった。  仔馬ほどもあろう、大きな身体を腰のあたりにすりょせて、 甘えるコリーを、うるさいように、愛撫するように、押しやり ながら、.犬小屋に連れ込んでしまうと、縁側から居間ヘ上っ て、封筒は机の上に、無造作に放りだし、するく帯を解い て、、、 「あさ! お風呂の加減を見て頂戴! すぐはいるから。」 と、甲高に藪鳴った。 ・女中の返事を待って、裸になると白いタイルの敷いてある流 しに降りながら、脱いだ着物の始末をしているあさに、 「おへ寒む、こんなに寒くなっては厭だア。」と、駄々児のよ 5に肩を揺って、 「明日から、,犬の運動をさせるお役目はあんたにゆずるわよ。」 と、いった。  あさは、外の空気を吸って来た夫入がにわかに、いきくと 機嫌のいゝのをうれしく思った。  冷えたすねに、ヒリくする湯を、ジッと我慢しながら、真 白い身体を、やがてトップリと湯に浸すと、美祢子はたまらな くいゝ気持そヶに、かるく眼をつむると、久滋のかいた、たっ た・一行の文句を頭の中でくり返した。  {当日、お目にかゝれるのを楽しみに致しておりますll ・万年筆を握っている、その人の手が思いだされた。ゴツ!、 骨っぽいが、細長い上品な指である。その手もよかった。  長い年月がたちながら、お互いに好きであった日の事が、 .ハッキゾ思いだされる。お互いの心の底に、むかしの情熱のお きがいくらか残《ぁ》っているだけに、会うことが重なるたぴに、.そ のために、苦しまなければならないのではあるまいか……。ま して私は、滝山があゝして荘漠としたとらえどころのない人だ けに……。  わずかばかりの、白粉気を洗い落してしまうと、みどり児の ような柔肌《やわはだ》は、一層生々と艶《っやく》々しく、素肌の美しい女だった。 露をふいて出ると、あさがもう、美祢子が好みで作った、紫縮 緬の無地の居間着に、臨脂《えんじ》の幅せまく仕立てた帯をそろえてい た。 .三つの花のレッテルに張られた白い陶器の壷から、よい香り のするナイト・クリームを、ほんの少し指先にとって、顔から 咽へ、後は驚鳥のパフで、軽く白粉をたゝきこみ、唇には荒れ. を止める程度にプランス製の棒紅《ル ジユ》をつけた。  湯から上って、二十分も経った頃、滝山がひどく疲れた寒そ うな顔をして帰って来たP湯上りの上気が薄らいで、皮膚は引 きしまって光沢を帯び、はだの色の白さは、紫の着物に、際立 ち冴えて美しかったが、美祢子の心づくしの化粧や苦心の居間 着の配色などには鈍く、盲といってよい滝山は、花の美しさや 香などよりも坐るなり、 「あゝ、お腹がすいたごと、まるで子供のようだった。 「お風呂を先になすったら、ー寒かうたから、私、先に頂い ちゃったのですけれど、いゝお湯ですわ。」 「面倒だよ。くたぶれていて……」と、両手で顔を、プルンと 撫でた。美祢子も、二度とはすゝめなかった。お湯ぎらいで、 |傍《はた》からなんといおうとも、面倒だとなったら、四日も五日もお 湯に入らないで、平気の人だった……6  あさに命じて、晩食の膳を運ばせた。例によって黙々と箸を 動かす良人に、美祢子は何かと話しかけた。 「ねえ。二十五日に音楽会へ行ってもいゝ……っ.」 .「うん。いゝ。」 「あなただって、あんまり研究室ばかりにいらっしゃると、欝 身体のためにもよくありませんわ。」 「うん。」 「たまには、一しょにお出かけになりませんか。音楽会とか、 郊外への散歩とか……」  滝山は、好物の浅漬の厚く切ったのを、パリくと音を立て てかみ砕きながら、美祢子の言葉には胎構いなしに、 「今月いくらか貯金したっ・・」 「はい!」 「新しい分はいくらになった〜」 「もう大分になりますわ、,四千円以上-…」 「僕がヒョッとした間違いで死ぬような事があっても、まず大 丈夫だね。」 「なぜ、急にそんなことおっしゃるの,」 「今日僕が解剖した死体の男は、死ぬ前に自分の死体を売りた いといったんだよ。」 「   」美祢子の美しい眉がくもった。 「ルンペンだが、女房らしい女がいるんだね。死体をいくらか にでも売って、その女にやってくれという遺言だったらしい。」 「まあ! いやだわ。」美祢子の、夕暮から、何がなし明るん でいた気持は、忽ち壊れてしまった。 「だが、それほどまで、妻を愛している男は珍しいじゃない か。」滝山は、ひどく感動しているらしかった。 「あら、でも女なんて、そんな事よりも、御主人が生きている 内に、散歩へつれて行ってくれるとか、半襟の一つでも買って もらう方が、うれしいかも知れないわ。」それは、美祢子の良 人に対する抗議でもあった。  滝山は、美祢子を心で愛している。しかし心で愛してくれる と同時に、身体で手で口で愛してくれないと、女性は満足しな いのである。それから、もう一つの不満は、彼の愛は、彼の妻 になる女なら、それが美祢子でなくて、ー他の何子であっても同 じだったろうと思われることだった。 ・つまり、美祢子の個性を愛し、その性格や趣味を愛していて くれるのではなく、美祢子が彼の妻であるために1彼の知っ ている唯'無二の女性であるために、愛していてくれると思わ れることだった。  彼は、凡そ芸術的なことは、なんにも分らなかったが、美祢 子が欲すれば、本も絵も買ってくれるし、高価なニレクトロラ も買ってくれるし、・1だが、その絵が壁にかけられ、よい音 楽が部屋の空気をうごかしていても、彼は無関心だった。  彼は、たど暖い芝生に、大きなコリiと戯れているやさしい 女性が、自分の生きている問はもちろん、死んだ後迄も彼の考 える意味で幸福であればよかったのである。  だから、何をさて置いても、月々貯金はしてくれるし、行き たいという所へはやってくれた心それで、美祢子を楽しくした つもりで、自分は学理の研究に投頭して、彼自身至極満足だつ た。  美祢子は、良人のそうした愛情に、圧迫を感じはしていた が、満足してはいなかった。 「あなたは、私をどう思っていらっしゃるの,」 「どうP ……って、やさしい好い人だと思っている。」  真面目に判を押したように、滝山の答はいつも-きまってい た。  そうした絶対の信頼は、美祢子をじりくさせた。そのため に、彼女は、手も足も縛られているような気がするからだっ た。久滋というものが現れたについて、美祢子は分り切ってい る良人の気持に、今宵また消息子《プ ジ》を入れてた。 「あなたが死ぬよりも、私が、ぽっかり死んだら、どうなる の?」、 「軽く考えても、一年くらいはボーッとして、研究なんか出来 ないような気がするね。」 「じゃあね。」と、美祢子は甘えて、すり寄りながら、 「万一、私が外の男を愛したりなんかしたら……」 「そうだね。殺してしまうかも知れないよ。」  その道の達者が、冗談半分にいうのと違って、真面目なの で、何か不気味だった。 「でも、あなたに分らないようにしたら。」 「あなたは、そんな悪い女じゃないもの。」  どうも、感情だけは年を取っていないという感じだった。感 情的には、ずーっと年下の青年のお守をしているように、美祢 子は思った。  ー明後《ヤあざつて》日の音楽会には行こうか、よそうかIl。  美祢子は、いじらしいような気持で、良入の頭を抱えて、や さしいお母様のように、接吻をした。良人の唇は、彼が愛用の チェリーの匂いがした。  たつた一枚のプログラム、わずか一行の文字で、美祢子は次 の日も、静心《しずこころ》なき日を過してしまつた。まだ過《あやまち》の崖の上にあ るというような怖れではなかったが、今の自分の心持からいゆ て、久滋と会うことが、なぜかしら不安であった。  研究室中心の良人。感激のない愛情と退屈な幸福。快楽《プレジヤア》とい うものは、どちらへ向いたら得られるのだろうか。五六年退 屈な静穏がつ間いた。子供も生れそうにはない。未来にもハ胸 をはずませ、息をつまらせるようなうれしい瞬間があるだろう か。何か、人生の流れからは、取り残されているような感じで ある。これが、ほんとうの生活だろうか。  一一枚の招待券! 房子夫人を誘おうとして止してしまい、姪 の恵美子を連れだそうとして止めた。結局独り行くつもりで、 「ドレスにするから、靴をきれいにして置いてね。」と、女中 にいいつけてからも、まだ行くのを止そうか、連れをこさえよ うかと考え迷っていた。  その落着かない気持を払いのけるため、エレクト4ラの蓋を のけ、一番低い音にして、リムスキィ・コルサコフのスぺイン 狂想曲をかけて見たが、その心臓をたゝくような小きざみな太 鼓の音が、却って久滋の面影を引きずってくる。  華色のサッパリしたデザインのアプタヌ1ンを着て鏡に向う と、久滋に会ったら、小娘のようにオドォドしそうな自分の瞳 や唇を、いと器しむように、冷たい指先で、いく度も押えつけ た。  久滋はi  彼は日本橋の有名な商家に育った末っ子で、小さい時からな みくならぬ美貌で、両親からも他人からもいたく愛されてい た。 -だから、自尊心が強くて、幾分冷笑的で、一本気で、しかし 愛矯があった。  こんなふうな男であっ,たから、人にも好かれたし(女にも惚 れられた。. ・家の商売は兄が継ぎ、彼にも相当の資産の分配があるわけだ が、濫るゝばかりのオ幹と、妙た意地張から、,裸一貫でやれる だけやるという建前で、関西へ行ってから数年。その間に劇場 関係者としての腕と、多少の文名とをかち得ていた。劇場の文 芸部長としての彼0位置は、彼の性能にも趣味にも適してい て、しかも独り者には、十分な報酬をもらっていた。だから、 誰の製肘をも受けぬ気まゝなアパ1ト生活に、風雲の志を抱い た青年の客気は、やゝおとろぇて、どうやらプチブルジョアの 安定した生活に尻をすえかけていた。 音楽会  文学好きであった久滋が、昔やっていた同人雑誌で知合に なった愛らしい文学少女が、.この頃ふと伝手《つて》を求めて、診察を 受けに行った医学博士の妻になっている。  六七年前の純な恋愛関係が、しきりに思い出される。手を 握り合うことはおろか、.胸がわくくして、口も禄にきかれな かった二人だった。そσ後、いろくな女性と交渉して、女を 獲ることの容易《たやす》さになれた彼も、彼女だけには何か特別の追憶 が残されていた。.  思いがけなく再会して、追憶の色は染め返され、憂愁の影を 帯びた美しい人妻に、何か近づきがたく、そのために心は却っ て深くひかれ、二度の会合は三度の会合を願い、彼から今日O 音楽会の切符を二枚ーひとりで来てもらいたいと心で願いな がらも、体裁をつくらって、一二枚送り届けたものである。. ,音楽会は、どんな集りょりもインテリな高級婦人達と、外人 客が多い。 、・舞台は粗末で、.音楽会の外は、そこでよくボクシングの仕合 があり、見物席も雑駁としていて何かうす寒く、そこでしかつ めらしい顔をして、・音楽を聴かねばならぬことは、あまり愉 決《カムプアタプル 》なことではない。・  久滋は、た間さり気なく切符を送ったと思われたかったの で、自分の席ばわざと隔てて取りてあった。ごんな小才覚をす る彼ではないのだが、.美祢子だけには、初恋当時のような遠慮 が残っているのだった。だから別に美祢子の姿を求めようとは せずに、開幕すると大いそぎで席に着き、序の軽いハンガリ イ`プォクト1ンを聴き、わずかな幕間が来たとき、初めて美 祢子の方へ目礼を送った。  そして、美祢子が一人で来ていることに、うれしさを感じ、 そして彼女のアストラカンの外套から、はみ出ているすみれ色 の胸や、頭にぴったりついた小さい帽子の下で、彼女の顔が、 処女めいた表情で、すがくしく微笑んだのをホンの一瞬の内 に、あざやかに胸裏に刻みこんでしまったのである。  次の演奏がすんで、十五分の長い休憩に、廊下に出て、お互 いに改った挨拶をすると、■双方からさりげなく、 .「器一人ですか。」と、いうような事を訊ね合ってから、先夜 の火事の夜の事を話して笑いあった。そして、壁にうがたれた ようになっているソプァに並んでこしかけた。■ 『何か最近面白いお話でもありますか。」 .「いゝえなんにも。相かわらず、犬と遊んだり、小説を吐磁んだ りしてますの。」  「面白い小説がありますか。」  「ないんですの。ドストエフズキイのものなんか読み返してい ると、やり切れなくなって→」殊に『永遠の良人』なんか読ん だら、五日も六日も沈んでしまって……」  「ドストェフスキイのものを読み返すなんて、そりゃ、良くな い現象ですね。よっぽど退屈なんですね。」  「おほゝゝゝゝ。そのとおりですわ。」  そして、また音楽が始まり、席につくと(良くない現象は、 久滋の上にも起りつゝあった。  ー久滋は音楽を聴いているのがも妙にいら立たしくなって来 た。彼は、美祢子と二三度会っているうちに、美祢子に対す る自分の気持が、かなり長い年月を経た今も、あまり変ってい ないのに気がついた。  二人ぎりでいると、彼女のかぼそい腕が、不意に自分の首に 巻きついて来て、あの聡明な大きい双眸が、接吻のために閉ざ される。むかし悩まされたそうした幻想が、今もまた彼の脳裏 に浮んで来て、彼は目のくらむような気持がするのだった。.  最近数年の間、いろくな女性に接して来たが、坐り直して 口説くような全身を投げ出した恋愛は♪男子たるもののたわけ た沙汰と、近代青年らしい恋愛観をいつめ間にか抱いている彼 が、今更美祢子に対してだけ、勃々たる情熱を感ずるのは、自 分でも不思議であった。  そんな事を考えて、我を忘れ、音楽の音さえも、ともすれ ば耳に入らない自分を見出すと、何物かに瑚笑されているよう な腹立たしさを覚えるのだった。  最後の演奏が終っても、渦巻起るアンコiルの声で、シゲッ ティは、ロンドか何かの短い曲を、二つばかり弾いた。それに 対して、聴衆は熱狂的な拍手を送りながら、立ち去りかねてい た。  やがて、我に返ったように、一度にドッと出てくる人の流れ に、肩や背をぶっつけながら、久滋は階段の所で、■示L合せた 一ともなく、美祢子と一緒になった。お互いに口はきかなかった が、そこからは連れ立って下へ降りた。  二階から降りて来て、一階の出日と一緒にたるところで、美 」祢子はつい目の先に、渋谷の甥と姪との姿を見つけてハッと なった。  だが、美祢子が気がつくよりも、さきに向うの三人は、叔母 を見つけて、二人の方で却って驚いているらしかった。  美祢子は、邪《やま》しいところは少しもないが、しかし若い青年と 連れ立っていたなど、やかましやの姉に知られたくないような 気がして、困ったなあと思った瞬間、恵美子は、  「まあ! 叔母さま!」と、いいながら人混みの中もかまわ ーず、近寄って来て、.肩につかまった。  隆一は、角帽の下で「やあ!」というような笑いをよこした なり、出口の方へ歩きつ間けている。  ふと見ると、隆一と並んで、青狐のショールを首にまいた洋 装の女が、つれだっている。おやと思っていると、  「叔母さま。今夜のこと内緒よ。お母さまにいったら駄目よ。」 と、恵美子が耳もとでいった。なんだ、こっちのい騎うとする ことを、向うでいうのかと安心して、  「なぜ〜」と、訊き返してやった。 「だって、ほらお兄さんと並んで歩いている方ね、あの方とお 交際したら、いけないとお母さまにいわれているのよ。」  美祢子は、恵美子にすがられたまゝ拙口の方へ押されなが ら、 「あの方、どなた?」 「裏の家の方よ。お妾さんらしいのよ。」と、恵美子は、なん のこだわりもないようにいってから、小声で、 「叔母さまも、お一人1じゃないのね。」といってすぐ美祢 子の後に寄り添っていた久滋をふり返って、その眼にぶっつ かつたらしく、頬をちょっと赤めながら、 「どなた? イレ・シャルマンね。」と、無邪気と生意気と を、ゴッチャにしたような、小さいつぶやきを漏らした。  女学生の仲間で、流行しているらしい言葉に、奇妙なアクセ ントをつけて、感歎したのが、おかしくて、つい微笑《ほとぇ》まされな がら、すかさず、 「家へいらっしゃる方よ。あなたこそお母さんに、おしゃべり を気をつけてね。」と、いうと、 「えゝ。分ってるわ。」と、心得顔に肯いて、もう一度ふり 返って、久滋を見上げ、久滋がちょっと目礼すると、今度は前 よりもつと赤くなりながら、 「サヨナラ。その内遊びに行くわ。」と、いい捨てると、人混《ひとごみ》 をすりぬけて、もう出口を出てしまったらしい兄を求めて、駈 け去って行った。  外へ出て、電車通りへ出たとき、久滋は帽子を軽く取って、 突然、 「こゝでお別れしましょうか。」と、気むずかしそうな声で いった。美祢子は、夜目にも分るほど動揺して、彼の表情を読 もうと努めながら、 「そんなにお急ぎですの。」と、しずかに訊いた。  久滋は、こんなふうにいきなり別れようとして、美祢子を試 して見ようというようなl底意があったわけではない。全く 美祢子と長くいることは、何か不安な恐ろしい事のように感ぜ られて、いらいらしてくるからだった。 「いゝや、急ぎの事なんかありゃしませんが。」と、苦笑を浮 べた。 「まだ、九時を少し過ぎたばかりですもの、-銀座でお茶く らいーいか間ですの。」 「結構ですけれど、iまた火事でお騒ぎになるんじゃありま せんか心」  美祢子は、軽く肩をすくめて、 「いやな方、まだあんな事を気にしていらっしゃるの。でも今 日は、ちゃんと宅の許可を得ていますし、第一本郷の火事なん■ か、■銀座にいちゃ分らないでしょう。」と、安心したように笑 いながら、もう久滋が一緒に、銀座ヘ出ることを承諾したもの として、内幸町のビルディング街の方ヘ電車通りを横ぎって歩 き出した。  空には、立待ち頃の月がさえていた、二人の影は、地にあざ やかであった。音楽を聴いた後の故《せい》か、美祢子はどちらかとい えば、浮々していた。 「あなたは、お変りになったわ。」久滋の顔を、なゝめに見あ げるようにして云った。 「前よりは、人が悪くおなりになったわ。」 「悪くーというよりも、僕は自分では実際的の人間になった と思りていますよ。」 「あなたが、この五六年の間、どうしていらしったか、関西 でどんなふうにしていらしったか、聴か」て頂きたいわ。」 「そんな話が、なぜ聴きたいんです。つまらんですよ。」  久滋は、全く無愛想すぎるほどの調子fそういった。  美祢子は、微笑みながら、相手の調子を気に止めず、彼の態 度や表情から、その心を探っているようだった。  久滋は、ますく息苦しい気持だった。  自分との恋が、とうてい遂げられないと見て取ると、あっさ り思い切って、アッという間に結婚し去った優美ではあるが聡 明な女性が、まだ自分に対して好意だけは寄せている。彼は出 来るなら、その好意にそっぽを向けたかったlと思いなが ら、結局それに引きずられて行く、それがなんとなく腹立たし い。二度会い、三度会った今宵は、それがはげしい。  銀座の大通りへ出ようとする一つ手前の横町の角で、 「どこでお茶を飲みましょうか。」と、久滋が訊ねた。 「それは、あたたに決めて頂くわ。」  久滋は美祢子とーとにかく人妻である以上、こんなふうに 歩いているところを、人に見られたくなかったので、銀座の通 りへは出ない方が、いゝと思ったので、その横町を左へ折れ て、ジャーマン・ベ1カリの方へ歩いた。  そこなら、表から内の容子を検《しら》べられるし、午後三時頃は、 新聞杜の記者など、顔見知りの連中も、沢山来ているが、いま の時間には、この辺にウロくしている知合などは、いないは ずだった。  知った顔のいないのと、割に空《す》いているのに安心して、扉《ドア》を 押して中にはいった。  室内は、ストーヴの暖かさと、煙草の煙とで、ムッとするほ どだった。  顔も近々と、さし向いに席に着くと、久滋は、ちょっと拗《すね》た ようにだまっていたが、美祢子は頬を上気させて、噂々として いた。 「私、うれしいんですの。」と、いった。久滋は、ちょっとギ クリとしながら、 「何が。」と、訊き返した。 「私うれしいんですの。あなた之、お喋りが出来るのが…..1」 と、驚くほど明らさまに、彼女はくり返した。 「うれしい……」  久滋は、がらんとした調子で、ジヅと美祢子を見つめたが、 美祢子はうれしそうな微笑《ほとぇみ》をますく大きくして、. 「えゝ、家にいると、お喋りが出来ないんですもの……滝山は 無口で、人間は解剖してみれば、内臓の外は、なんにもないっ ていうような顔をしているんですもの。だから、犬に物をいっ たり、大袈裟にいえば、壁にでも話しかけたくなるくらいです の。」 「滝山氏のようで、好いんじゃありませんか。人間に何を喋る ことがありましょう。」 「ひどいことを、おっしゃるわ。」と、美祢子は瞳を大きく見 ひらきながら微笑した。 「でも、お喋りって、人間にとって必要なことですわ。夜遅く まで、主人の帰宅を待っているときなど、ほんとうに話し相手 がほしいと思いますの。仕方なく、音楽を聴くんですの。音楽 は物事を忘れさせてくれますわ。でも、少し長く聴いていると 飽きますわ。でも、一人でいるときは、まだいゝんですの。主 人と顔を見合していても、私の話したいことは、なんにも話せ ないんですもの。」 「芥川竜之介の書簡集か何かのうちに、駄弁欲不充足とかいう ことがありましたよ。でも、滝山さんは、どうして、あなたの 話し相手になってくれないんですか。」 「えゝ。あの人は、神様見たいに超然としているのよ。神様と お喋りは出来ないでしょう。」 「そんなに偉い方ですか。」 「えゝ偉いの。」= 「賞友達はないんですか。」I 「ありますわ。でも、その方は、御主人に対する愚痴や非難 を、私に聴かせにいらっしゃるのよ。私の話をきいては下さら ないんですの。また、私のお喋りしたいことは"その方に話し ても始まらないことが多いんですわ。」 「でも僕だって、退屈な奥さまの話し相手なんぞに、向いてい るかどうですか。」.  口でこそ皮肉はいえ、久滋は美祢子が、現在の夫婦生活か ら、倦怠を感じて、心や感情が飢えきっていることを知るとい じらしくな■って来た。. 「だから、時々会って下さいませんP 一週間に一度くらい( 主人がそんなふうですから、外出は自由ですし、家ヘ遊びにい らっしって下さっても、.かまいませんわ。そして、私に珍しい 空気を吸わせて頂きたいわ。」■  そんな事をいいながらも、これは大変な事になりはしないか と、美祢子は少し後悔していた。  しかし、美祢子は自分の心をコントロlルする自信があった から、たとえ一週間に一度くらい久滋と会ったところが、良人 を裏切るような事には、絶対にならないと信じていた。  久滋も、美祢子が昔自分を、あんなにアッサリとあきらめた 事によって、どんなに賢い女性であるかを知っていたので、美 祢子のそうした提議を言葉以上に深く取って、後で馬鹿を見た りするのはつまらないと警戒しながら、. 「では、時々お伺いすることに致しましょうか。」と、平静に いった。 「えゝ。うれしいわ。この次の土曜日はいかf2」 「はア…・:」 「気のないお返事ね。いゝわ。きっと、いらっしゃるものと 思ってお待ちしているわ。」 ■もう、十時過ぎていた。  久滋は、冗談のように、次の土曜日を約束してから、今宵は 美祢子を追いたてるように、立ち上っていた。  出たところの電車通りで、■美祢子を自動車に乗せ、久滋は虎 の門のアパートまで歩くことにした。  美祢子をせき立てて早<別れたのは、一人になって、美祢子 に対して、どんなふうな態度に出るべきかを、しっかウ考えよ うと思ったからだった。  わざと、」日比谷公園の中の道を歩いて帰ったが、彼女の美し い眸ばかりが頭の中にチラくして、彼の意識は混沌として考 えようがなくなっていた。 久美子と兄妹  音楽会へ来ていた兄妹と久美子達も、やはりブ今く銀座の 方へ出て来たが、この小リオは真直ぐ銀座通りへ出てしまった ので、久滋達とは、再び出会わなかったのである。  ・久美子は、映画女優に見まがうほどの凝ったなりをしてい た。彼女は、隆一よりも恵美子に多く話しかけていた。  久美子と恵美子の会話は、散漫としていて、どこにも取り止 めたものはなく、つまらない事を珍しがったり、なんでもない 事に感心して見たり、まるで搭合万歳《かけあいまんざい》のような話し方をして、 ゲラくと笑っていた。しかし、そんな中でも、どうがする ■と、まるで謎のような眼《まな》ざしを、久美子は隆一の方ヘ向けてい た。  久美子はすこぶる気まぐれであった。しかしそれは、彼女が 気まぐれだというよりも、むしろ彼女は、ある神秘な力(然し すこぶる陽気な)……の支配に身を委せていて、その力のため に自由自在にあやつられ、彼女のさゝやかな頭脳は、その力の 気まぐれを制し切れないという感じだ。  久美子は、今までもよく、 「私はさびしいんですの。昔から、一人ぽっちでしょう。現在 だって、こんなふうでしょう。私と仲よくして下さいね。」と、 いうような事を、一二度会つた男に平気でいう。そして^いっ た傍から、■忽ちケロリと忘れている。一彼女の行為は、すべて矛 盾撞着の連続である。  しかし、■彼女が隆一に会った瞬間の感じはとてもよかった。 だから、,どうしても彼之親密にたりたくなった。そうなるとも う、教育者夫婦に対する面当《つらあて》9芝なざ、ヶロリと忘れてい る。忘れていなくっても、そんな事は二の次である。久美子 は、昨日折を見て、音楽会の切符を二枚恵美子にそっと渡した のである。  恵美子は、交際をさし止められた女性から贈られた切符で、 音楽会に行《ことが、やかましやの母に対するすばらしい反逆 のような気がして、兄にはそれと打ち明けないで、誘ったので ある。  隆一は、会場で裏の家の女がすぐ後《うしる》の席にいるのを発見し て、「はゝん!」と思ったが、彼は学校で、動物学をやってい るので、妹のすることなどにはなんにも干渉しない。  恵美子と久美子とは、もつばら先刻会った恵美子の叔母につ いて話していた。 「本郷の叔母さまつて、随分きれいな方ね。あなたのお母さま の御姉妹《ごぎようだい》だなんて思えないわ。」久美子がいうと、恵美子もう れしがって笑った。 ■「私のお母さまたら、あんまり小言ばかりいっているから、だ んくあんな顔になってしまうのよ。」 「あたし、先刻《さつぎ》の方、どこかでお見かけしたような気がするん だけど、思いだせないの。」久美子は首をかしげた。彼女は、 宮川家にいた時、宮川夫人を二三度訪問した事のある美祢子を 思いだせなかったの寿ある。、■ 「あのお連れの方、旦那さまなの2」しばらくして久美子が訊 いた。 「且那さまは、あんな綺麗な人じゃないの。あの人きっと叔父 さまの後輩か、でなかったら、患者かも知れないわ。」 「患者? じゃ、叔父さまはお医者様?」 「えゝそうなの。」 「いくら、お医者様の奥さんだって、患者と散歩するなんてお かしいわ。あの素敵な叔母さまの騎士《ナィト》よ。」 「そうーかしら。」  恵美子が、溜息まじりに眩いた。そして、二入は意味ありげ に、クスく笑い合った。  隆一は、二人の会話にすっかり毒気を抜かれている形で、仲 間にこそ入らなかったが、妹をたしなめようともせず、先刻か らニヤく笑っていた。■  彼は、珍しい蝶をでも採集したように、久美子という存在に 興味を感じていた。お妾といえば、どんな女でも控え目がち な、暗いかげを身につけているものだが、彼女はほがらかで、 他のいかなる女性よりも、幸福そうである。無意味な……母な どからいわすれば、軽蔑すべき生活を送りながら、濃刺たる魅 力を持っている。隆一は、その不思議な謎に、心をひかれかけ ていた。  彼らも銀座で、齢茶を飲んだ。  久美子は、なおも恵美子を相手に、止度《とめど》もない空虚なお喋り を続けているがーー曲者はその眼《まな》ざしである。二重《ふたぇ》の切れ深 く、長く、眸の色はすんでいて、コケティッシュになり、陽気 になり、そして忽ち疲れたようになり、物思わしげになる、よ くかわる眼ざしだった。そして、それをまともに、時々隆一の 方へ投ぽて来る。 「あなたは、何も話して下さらないのね。何かおっしゃいよ。」 「僕ですか、何もいう事なんかないですよ。あなたのお喋りを 聞いているだけで、随分面白いんだから……」 .「よっぼど妙な女だと思っていらっしゃるんでしょうね。ひど いわ。」 「そうですな、妙っていうのかな1僕にはあなたの言動のすべ てが、不思議ですよ。分らないんですよ。謎ですよ。だから、 あなたのいうことを聞いていると退屈しないんです。」  隆一は、生来非常に、率直に物をいう青年だった。そこが、 またひどく、久美子の好みに投じていた。 「謎ですって……有難いことだわ。」と、意味のないことを いって、久美子は笑った。  二人の眼は、空間でぶっつかりすぐお互いに避けた。 ■久美子にも、隆一のすべてが新鮮に感じられた。あゝいう夫 婦の間から生れている以上、生真面目一方の青年だから、頭か らなめてやろうと思っていたのが、少々|当《あて》がはずれ、ダンス場 で知合になった学生などとは、交際工合が全く違っていて、そ の大胆な二言三言《ふたことみこと》に、かえって彼女の方が打ちこまれた形で あった。隆一は、久美子の事を、 「あなたは、でたらめで余計な事ばかりして、暮しているので すね。」とか、「あなたは、人生の愉楽ばかりを願っていて田 それ以外には、なんにもないんでしょう。」とか、ズバノ\と やっつけたが、久美子はそれが、ちっとも癩に触らないで、 却ってこの青年に興味を持って行った。そして、 「あなたは、学校で何を勉強なさるの。」と、訊くと、隆一は 真面目に、 「僕は人生で、信用出来るのは自然科学だけなんです。だか ら、それをやっています……」と、ハッキリ答えた。久美子は 理由もなしに、その答に感心してしまった。  三人連れ立って、同じ円タクで帰るのは、さすがにためらわ れたので、久美子は数寄屋橋まで歩いて、そこで別れようとす ると、 「一緒にお帰りになっても、構いませんよ。僕達が、少し手前 で降りますから……」と、隆一は却って別れようとする久美子 を引き止めた。  久美子は隆一の物の分り工合が、全くうれしくなって、車に 乗ってから暫くすると、 「あなたも、映画を御覧にならないの。」と、訊ねた。 「あたたもは、ひどいですな。僕が、そんな老人に見えます か。」 「いゝえ、いゝえ。……でも、そうでしたら、今度御一緒に、 お伴させて下さいませんか。」久美子は、あわてていった。 「そんな機会があれば、いつでも……」隆一は、親しい友達を 見るような眼で、久美子を見やりながら答えた。 「映画なんか、御覧になって、器家でよろしいんですの。」と、 つい訊かずにいられなかった。 「いゝや、両親は喜ばないでしょう。しかし……」と、隆一は |半笑《なかぱ》いながら、「僕は、規則に縛られるのは大嫌いです。だ が、自分で規則正しい生活をするのは好きなのです.だから、 両親にかくれてしている事でも、ちゃんと規則正しくやってい ますから、両親には絶対に分りません。」 「じゃ、お酒なんかも規則正しく召し上るの。」と、久美子が 訊いた。隆一は笑って答えなかった。 「お兄さんは、私よりも、チャッカリしているのよ。つまり、 ずるいのよ。だから、お骨さまは、とても信用しているの。」 と、恵美子が横からいった。 「そうお。」と、久美子は、ほとく感に堪えぬというような 表情をした。  交番の二丁ばかり前で、兄妹は降りた。久美子だけ、家の近 くまで、タクシーを乗りつけた。  久美子は、初めて口をきいた青年のために、すっかりリード されたような気がした。老人夫婦に、復讐する気持などはどっ かに消しとんでしまって、あの青年と仲よくなつたら、どんな に愉しいだろうと考えていた。 侵入者  一日一日、綱をたぐるように、心待ちにしていた土曜日が、 来てしまった。芸ぴ  劇場の方も、中日に近く、ほとんど仕事もなかったので、一 時頃に、ちょっと顔だけ出して、閉場《はね》るまでに、帰って来れば いゝと思ったので、二時頃から本郷の滝山邸を訪問した。  銀座へちょっと寄って「ケーキを買って行った。  彼が、耳門《くヤり》を開けると、臆病なコリ1が、走りだして来て、 殺されそうな声で吠え立てた。犬嫌いな彼が、いさゝか辞易し て立ちすくんでいると、.     ・        、 「リオや、リオ! ーリオ!」と、甲高く叱りながら植込から飛 びだして来たのは、思いがけなく音楽会の夜に、チラと見た美 しい令嬢だった。一見して学校の帰りに、立ち寄ったらしい白 粉っ気のない生々とした顔で、はにかんだような、打ち解けた ような、なんともいえない可愛い風情の微笑を浮ベて、あどけ なく目礼をすると、右の手で犬の首輪をしっかりととらえなが ら、 「吠えるばかりで、何もしませんのよ。」と、いいながら、左 の手で扉を開けて、 「どうぞ!」と、いった。  そして久滋が門に入ると、犬を引きずるようにして、庭の方 へ廻った。 「お客さまよ。」と、そこで大きい声で、叫んでいるのが、久滋 に聞えた。  女学生時代の美祢子などと比べると、ずっと朗らかで、セン チメンタルな容子が、ちっともない。日本の男性は進歩しない が、女性は、十年を周期として、絶えず進歩しているなどと、 玄関に立ちながら考えていると、女中が出て来て、客間ヘ通さ れた。一二度来たことのある応接間とは違って、ここは美祢子 の趣味通りに、飾られてあった。  壁は、淡いグリンの紙で貼られ、カiテンも椅子も、女性ら しい優しい選択で統一されていた。アップライトではあるが、 ピアノがあり、その上の絵は、パステルでかいた女の肖像画で あった。  主人の不在に、夫人を訪問することが、かなり彼の心をと がめていた。今日の訪問についても、幾度か考え直した。しか し、久滋としては、人妻である美祢子に、危険な野心は、ちっ とも感じていなかったし、また自分を信じている以上に、相手 を信頼していた。たバ、お互いに、青春時代の思い出をたのし むための会合である。一それを、現実に引き戻して苦しむほど、 俺も馬鹿でない。第一相手の美祢子が馬鹿でないと久滋は思っ ていた。  たfなつかしい共通の思い出を持っ友達同士として、むかし 恋人時代の初期に、盛んに試みたような文芸談や音楽談の話し 相手になればいゝのだろう。元来物のよく分る女性だったから、 今だってそう見当違いな物いいはしないだろうと久滋は思って いた。しかし、そう思っているものの、顧みて多少の不安がな いでもない。これも一つの火遊びではないだろうか。相手も新 しい生活の刺戟を求めているのだろうし、自分だってーーと、 久滋は思い直して見た。  女中が、紅茶を運んで来たぎりで、美祢子は、なかく現れ て来なかった。 (何をしていて、齢れを待たすのだろうか。外では、昔と変っ .ていなくっても、家庭では主婦らしくすましこむのだろうか) と、考えていたとき、しのびやかに扉《ドア》が開いて、先刻の令嬢が 入って来た。              ・/ 「これお読みになって……」と、白い紙片《かみぎれ》をさしだした。  こんなに早く来て戴けるなんて、思わなかったものですか  ら、今しがたお風呂に入っておりますの。  おしゃれをしています。ほんの十分ほど、お待ち下さいませ  な。  これは、姪です。恵美子というヤンチャ。ピアノでも弾かせ  て下さい。割合上手です。  久しぶりに見るその入らしい可愛い手蹟と稚気に、ほおえみ ながら見あげると、相手は顔を赤くして首をさげ、すぐ彼と向 い合いの席に、チョコナンと腰をかけた。 「学校のお帰りなんですか。」と、訊くと、 「えゝ。」と、存外、ハッキリ返事をしながら、また顔を赤く した。恵美子は、のべつ顔を赤くして、興奮したような息づか いをしていた。  その声も、生毛《うぶげ》の生えた桃色の頬も、紅い小さな唇も、全体 がいかにも新鮮だった。  ジッと見ていると、この年頃の娘の常として、愛の予感に似 たような、ある悩ましい漠とした、感触が、その大きな双眸 に、しのび上り、忽ちまた消えるのだった。 「叔母さまが、お相手をしろって、困るなあ!」,と、男の子の ような物いいを、口の中で小さく咳くのを、 「叔母さまが、こゝにあなたが、ピアノがお上手だと書いてあ りますよ。聴かして下さいませんか。」と、いうと、 「まあ、意地悪、そんなこと書いてあるの。ひどいわ。」と、 ほんとに困ったように、両手をもんで、しかしすぐ続けて、素 直に小声で、 「何も弾けないのよ。……なんにしましょう。」と、訊ねた。 「なんでも、あなたのお得意なものを。」 「じゃ、モツァルトの私のお得意の二楽章だけをね。」  それは聴いていると、身体を揺って、調子を取りたくなるよ うな、快活な、魅力に富んだメロディの繰返しで、最初はアレ グロ、中半はアンダンテの二楽章だった。  恵美子は、少し上り気味に、大いそぎで弾いてしまうと、助 かったと云う顔つきで、 「もう沢山ね。」と、無邪気にいって立ち上った。  久滋は、かなり彼女の弾き方に感服した。そして、器量もわ るくないと思った。 「失礼しました。」  間もなく、廊下を小走りに急小で、陽気に入って来た美祢子 は、お化粧をしていたというのに、よほど気がせいていたと見 え、髪は耳の後で硫《とか》しつけただけで、紅や白粉も、いたずらの ように浮び上っていた。 「ピアノお弾かせになったのね。どう1相当なものでしょ う。」といいながらも、顔はそんな事は、(どうでもいゝ、あゝ うれしい)というように、相好を崩していた。 「まあ! ひどいわ、叔母さま!」と、いう恵美子と、ぴたり 身を寄せて坐ると、湯上りのせいか、生々としていて、人妻と いう気は少しも起らず、恵美子とあまり年の違わない姉妹のよ うにしか見えなかった。  久滋も、いまは人妻と交際しているという、小うるさい良心 の反省は、跡形もなくどこかヘ消え、眉の間があざやかに晴れ わたった。 「なかくどうしてお上手で、感服しているところなんです よ。」 「学校の方は、要領よく怠けるんですけれど、ピアノのお稽古 だけは、熱心なのでございますよ。」 .「学校は、どちらですか。」 「これの母が務めています:…1」と、美祢子がいいかけるの を、 「いやよ。私の事いろくお話しするの。」と、いいながら、 先刻から自分の眉のところまでグーンとひっばっていたカiテ ンの房をさかんにいじりながら、くすぐっ-たいような怒ったよ うな眼をして、叔母を見上げた。・ 「あなた、グロコールマンがあったはずだから、あさやにいっ て、持って来て頂戴な。」と、叔母にいわれると、敏捷に立ち 上って、扉の外に走り出た。  久滋は、二人ぎりになると、美祢子が、外で会っている時よ りも、ずーっと興奮しているのに気がついて、少し不安になり ながら、 「御主入は、いつ頃お帰りになりますか。」と、いって訊いた。 「十一時過ぎましょう。」夫人は、何か他人の事のように答え た。 「土曜日にでも、そんなに遅いのですか。L 「土曜日も、何もあるものですか。」 「でも、早くお帰りになるときもあるのですか。」 、「えゝ、一週間に一度ぐらいわね。」 「でも、毎晩外で遊んで遅く帰る主人に比べれば、あなたの御 主人なんか、結構じゃありませんか。」 「私も、初めはそう思って、あきらめておりましたの。でも結 局同じ事ですわ。時間と精力を、外《ほか》の事に使っている点では同 じですわ。妻にくれるものは、少しも残っていないんですも の。」  美祢子の可愛い眉が、くもるのを見ると、よっぽどその生活 が単純で、退屈なんだなあと、しみム\気の毒になって、 「でもあなたの御主人の場合は……」 「あら、あなたに、主人の話をして頂こうと思って、来て頂い たのではありませんわ。」と、美祢子は、キッパリ遮った。 「じゃ、なんのお話を致しましょうか。」久滋は、美祢子の烈 しい制止に、少しタジくとなっていった。 「あなたのお話をきゝたいんですわ。関西ヘいらしってからの :…」久滋を見あげた美祢子の眼は美しく輝いていた。 「僕の話なんか、つまらんですよ。」 「いゝえ、つまらなくないわ。宅の主人の生活なんかよりは、 ずーっと、面白いに違いないんですもの。」  几帳面な研究生活を、虫のはうように、ジリく進めてい る、良人の生活に比べたら、若くさかんな情熱に溢れていた久 滋の話は、きっと面白いに違いないと、美祢子は思っていた。 「僕なんかこの七八年来の社会情勢を見極めることが出来 ず、従ってどんな生活が、現代で一番有意義なのか分らない し、それかといって今まで育って来たブルジョア的な生活をあ きらめることも出来ず、結局、働かない生活はいけないと思っ て、親父の家を離れるために、関西へ行ったのですが、自分一 人でやり出して見て、どうにか生活が安定してくると結局、賓 沢を覚えたり、遊びを覚えたりして、これはいかんくと思い ながら、プチブルな生活に、尻を据えてしまいそうですな。で も、今でも何かしら不満で、これではいかんくと思っている のですよ。僕は、あなたのように、かしこく人生を見極めて、, 落着いていることが、以前から出来ない性分なんですね。」 「あら、私が、かしこく落着いているんですって・!・…」  美祢子は、眼をみは?て、激しく首を振りながら、 「違いますわ。私には、なんの目的もないんですもの。だから 不満を感じたがら、じっとしているだけですわ。」 「あなたがI何を、そんなに不満を感じていらっしゃるんで すか。」  美祢子は、ちょっと顔を赤らめたがら、 「だって、心から打ち込んで行く何物もないんですもの。た だ、こうして毎日主人を送り出して、毎日遅くまで主人を待っ て……レコードを聴いて、犬と遊んで11」  美祢子は、謎めいた眼で、ジッと久滋を見詰めた。久滋は、 不思議な興奮が、官分の身体ヘも伝わってくるのを覚えなが ら、 「ダンスなんかおやりにならないんですか。」 「あんな華手《ばで》なこと、昔から嫌いでしょう。」 「芝居は……」 「あまり見ません。音楽会だけ月に=一度…1・・」  久滋は、話しているうちに、息苦しくなった。これはいかん ーと思った。若く美しく、生活に充ち足らず、情熱のやり場 に困っている女性から、発散する妖気が、ひしくと彼を襲っ て来るような気がしたからである。  ちょっと間《ま》を隔《お》いてから、 「さっきのお嬢さんは、どうなすったのでしょうか。」と、訊 いて見た。その妖気を払いのけたかったのである。 「恵美子ですか,」美祢子は、依然として彼から眼を放たず に、ゆっくりとした調子でたずねた。 「はあ、あの方を呼んで、レコードでもかけて頂きたいです な。」美祢子の視線を避けて、先刻女中がはこんで来たグロコ ールマンの一房に、手をのばした。 「私と、二人ぎりで話していると、憂欝におなりになるの?」  久滋は、自分の言葉を美祢子が、そんなふうに取ったのを、 少々じれったく思いながら、首をかるくふった。 「そうじゃありませんよ。あまり、お話が理に落ちたからです よ。もっと、賑やかにしようじゃありませんか。」といった。 美祢子は、かるく肯いて立ち上ると、ミスタンゲヅトの「サ・ セ・パリ」に針をあてると、扉の外へ顔をだして、 「恵美子さん。恵美さん、遊びにいらつしゃいな。」と、呼ん だ。 、主人に呼ばれた犬のように、忽ち飛びはねるような足音がき こえると、自分よりはやゝ背の低い叔母の両肩に、両方の手を かけながら、恵美子が顔をだした。 「久滋さんが、三人でお話しようと、おっしゃるのですよ。」と、 美祢子がいうと、恵美子はうれしそうに、先刻の位置に腰かけ た。花盛りのライラックの一枝のように好もしい姿だった。  空気が、にわかに明るみ渡るようだった。久滋は愛矯深い視 線を恵美子に向けながら、 「恵美子さんは、何がお好きですか。」 「映画にスポーツ。」よどみない答だった。  スポーツは、何がお好き。水泳にラグビー。自分でやって見 たいものはスキー、でもお母さんが許してくれないの。そうし た理屈ぬきの会話から明るい笑いが、部屋の中にかもしだされ た。 「母が入れというものですから、仕方なく英学塾へ入っていま すの。でも、英語なんか嫌いですから、ちっとも出来ないんで すのよ。」 「じゃ、卒業なすったら、すぐ御結婚ですか。」 「いやだわ、結婚なんて、気味がわるいわ。」  恵美予が、朗かにいったので、レコードをかけかえていた美 祢子まで、つり込まれて笑った。  快活に、なんのこだわりもない恵美子の様子が、久滋の心を        はたち        セ与交5 たのしませた。二十歳以下の若い女性は、昔砥ど感傷的でなく なった。生活について考えぶかい顔をする前に、突き進んで、 これを楽しもうとしているのだと、久滋は思った。  美祢予が、マスネーの「絵画的風景」をかけると、久滋の為 に夕食の支度をするつもりで、部屋を出たが、出て一間ばかり 歩いたとき、鳥の羽ばたきのように、騒がしい思いが胸をつい て起った。 ・それは、久滋が恵美子の事をー⊥思美子が久滋の事をilど う思っているかということだった。                  勘こがれ  恵美子が、久滋の美貌に、少女らしい憧憬をいだいているこ とは、この前音楽会で逢った時から分っていたし、1久滋も 自分と緊張し過ぎる話をするよりも、恵美子と他愛もない話を する方がずーっと好もしげであるのも分っていたので、美祢予 は台所へ来て食事の指図を女中にする間も、座敷に残した二人 の事が何かしら気になった。といって久滋が恵美子のような少 女を、積極的に誘惑するような男でないことは信じていたが。  部屋へ帰って見ると、久滋と恵美子は、何か特別親しげに、 |声高《こわだか》に笑っていた。恵美子が、叔母が、はいってくるのを見る と、 「叔母さま。とても、うれしい事があるのよ。久滋さんが、こ れから劇場の切符を芝居があるごとに私と叔母さまとに送って 下さるんですって。」と、ふわノ\と止度《とめど》なく、上昇した機嫌 のよさが、美祢子の心をギョッとさせた。  久滋までが、彼女の凶《わる》い予感を裏書するように、ほがらかな 機嫌にたっていた。  美祢子は、いつも可愛い姪が、この時ほど憎らしい1侵入 者のような気がしたことはなかった。  恵美子と話している時よりも自分と話しているときの方が、 ずーっと冷淡のような気がして、全神経がチカくしてくるの だった。  三人でする食事は、美祢子にはあまり楽しくなかった。食事 が終って、久滋は一本のホープを吸いおわると、 「御馳走さま。僕もう失礼します。」といって、あっさり立ち 上ってしまった。すると、恵美子が、 「あすこの坂が暗くて恐《こわ》いから、久滋さんと御一緒に私も帰っ た方が、都合がいゝわ。」と、これも淡々として帰りかけるの だった。  何か二人が、示し合わせていたかのようで、美祢子の勝気 は、それ以上、ジッと落着いているわけにはいかなかった。  久滋の眼から、.恵美子の姿をおゝいたいような、否、彼の視 線の中へ、自分以外の女性の影を入れたくないような、・わがま まで酷薄な愛情が、にわかに彼女を駆り立てるのであった。  恵美子の靴は、パンプヒlルで、つっかけるだけの、造作も ないもの。彼女は先へ降りると、玄関先の植込の陰に立って、 靴をはいている久滋を待っていた。  その折を、美祢子はすばやく久滋の耳に、唇を寄せて、 「今日は恵美子がいるので、お会いしたような気がしません わ。私、やっばり外でお会いした方がいゝわ。このつぎ、いつ 会って下さいます。一お決め下さいませな。」と、興奮に戦いた 熱い息吹と共に、さゝやいた。  久滋は、不意だったので、立ち上ると強く美祢子の顔を見返 した。  彼女の顔は、恐ろしく真剣で、顔中が眼ばかりのように感じ られた。 戦 術  どこまで続く騎天気か、甚だ危いものながら、宮川夫人は、 良人へ対する嫉妬を、いさぎよく清算して、我家を離れた良人 の行動は一切不問に付することにして、心中は知らず、打ち見 たところ天晴れさばノ、した賢夫人振を示している。 .人にも、御自慢の躾で、洋一も耶奈子も、寝る時間がくれば さっさと寝部屋へいれられて、寂しがりもせず、眠ってしま う。昼間は、その子供達のよきママ、夜は刺繍や編物や、時に は女中や書生達を集めて、談笑したりコリント・ゲiムをした り、良人の帰りはいつになろうが一切無関心、十時になれば自 分だけは、サッサと寝てしまう。  宮川は、知人が熱海で、借地に関する訴訟事件を起したの で、頼まれて、二三日熱海へ行かねばならなくなった。彼は 職業上の事は、夫人に一切いわぬ習慣だったし、所が所だけ に、事実用件で出かけるといったところで、■当然夫人のあてこ すりや皮肉があるものと覚悟して、事後承諾的に、幾分残酷な 快感とは行かないまでも、それに似かよったある感じで、その 朝突然、 「用事があって、二三日熱海へ行くよ。午前の汽車だから、 大急ぎで支度。」と、ズバリといってのけたのに房子夫人は二 度と訊き返しもせず、良人の居間へやがて、シャツやら靴下や ら、新しいネクタイなどを胸もとに抱えて来て、スト了ヴに近 い長椅子に順序よく並べた。素直な態度が思いがけなく、物足 らぬような感じがするのは、却って宮川の方だった。  途中事務所へ寄って、久美子のところへ熱海へ行くから会え ないと断るつもりで、電話をかけて見ると、彼女は珍しく、朝 から出かけているという女中の返事だった。  前から、体よく編されているかも知れないと思うほど、頼り たい久美子の心、それゆえに却って引きつけられて、一度は完 全に自分のものにしてしまいたい情熱に、時々駆り立てられる のだが、この頃は、いよく頼りなく、うすら冷たいような久 美子だった。■  陽気なよそノ\しさなら、どこからでも切り崩されようが、 派手な女が、妙に暗くさびしそうに、彼の訪れも、むしろ迷惑 げに、よろず張りのない有様なのに"少してこずって、一昨夜 も、 「どうしたのさ!」と、やさしくたずねてやれば、 「あたし、この頃恋愛をしてんのよ、なあんてね。」と、真《まこと》ら しくも冗談らしくもいった。まだ、二十を越したばかりの娘 に、正面から詰問するわけにも行かず、そのまゝ黙ってしまっ たが、十一時頃でなければ起きない久美子の、午前中に外出し ているなどiひょっとしたら、ダンス・ホ1ルで知合になっ た男とでも浮気を始めて、昨夜から帰っていないのではないか. といヶ疑惑も起って,熱海の事件をサヅサと切りあげて明日中 にでも帰って久美子の行動を突き止めてやりたいような気に なった。  そんなふうにして、宮川が熱海へ行った日の夕暮だった。  学校帰りの隆一は、自分の家のある通りへ出てから、裏のお 妾の家の女中に、パッタリ出会った。自分の帰りを、わざノ\ 待っていたような気がした。計画的な行動らしい表情を浮ペ て、走り寄って来て、早口にさゝやいた。 ,「今晩七時頃、いらしって下さいますように。奥さまが、お友 達を集めて、お遊びなさいますんで、あなたさまに、ぜひどう ぞ!」 ー隆一が、ハッとして立ち止まったばかりで、返事をする暇も ないうちに、女中は小走りに先ヘ歩いて、小路《こラじ》の中ヘはいって しまった。  彼は、ニヤく笑いながら、そんなに甘くはないぞ、すっぽ かしてやれと思いながら、家ヘ帰って部屋に落着いたが、さて 机に向って考えて見ると、■自分が裏隣りに遊びに行くなぞは、 燈台下暗しで両親に知れっこなく、平生口やかましい母親をか つぐ悪戯《いたずら》としては、安全至極な冒険で、それだけでさえ、一つ 行ウて見たい謀叛気がわいて来るのに、誘った久美子の面影 が、何か不思議な蝶のように、彼の心の上をかけめぐって、杜 詩の巻四を取ってペラくとめくりそこに目当《めあた》った、 「百舌《もず》いずれの所より来《きた》る。重《ちようく》々として、■まさに春を報ず。」 という一句を、いく度もくり返したけれども、読みつ間ける気 も起らず、まして他の本を取って勉強する気にもなれず、彼は 食事の前に髪を整え、また洋服に着換えてしまった。母は、目 ざとく、 「どこかへお出かけ2」と訊ねた。 「えゝ、試験準備に、友達とノートを読み比べて、整理をする 約束をしましたから……」と、彼は台詞《せりふ》を暗記した役者のよう に、スラくといってのけると、母は安心して、. 「十一時頃迄には、お帰りだろうね。」と、いってそれなり、 食事は済んでしまった。  彼は、間もなく家を出た。  足音をは間かって、一度は交番のある方角へ(靴音高く歩 き、今度は向いの塀際を夜盗のように身を忍ばせて、帰ってく ると、久美子の家のある小路へはいった。そして、そっと久美 子の家の格子を開けた。それと知ってかたちまち、玄関へ出て 来て、笑いながら何か大きくいいだそうとする久美子へ、彼は 芝居気たっぷりな様子で、人指し指をピタリと唇にあてて見せ た。  しかし、その刹那、足元の三和土《たたぎ》に、二三足の男の靴と、女 ものの草履などを見つけると、久美子の友達の種類を考えた だけで、気落ちがし、来るのじゃなかったと後悔したが、久美 子に手を取られんばかりに、招じられて、下の十畳の部屋へ通 された。和洋折衷の装飾で、もう五六人、人が来ていた。  およそ部屋にいる若者達は、ヤンキイ趣味の粗雑な厭味なタ ・イプで、後で分ったが、蒲田の女優だというマヤ子という女性 も、ひとみと額ばかりが大きく、あくどく丁寧な化粧も、どこ か曲馬団じみていて、隆一は久美子の手前に、何か己の優越感 を誇りたいほどだった。.  久美子も、隆一だけには露わな好意を見せて、人々への紹介 にも、  「この方が、若い学者の和田さん。この入達は、みんな私のお 友達よ。」といった。誰かが、■  「十把一からげはひどいな。」というと、  「十把一からげにして置けば、後で追々分るじゃないの。」と いい返した。  そんなふうに、何か隆一に優先権を与えていた。  久美子は、一座の連中の女王のように、振舞っていたが、皆 .見かけよりは、善良な連中らしく、そんなふうに紹介されて も、ニコくして隆一に、愛想よくするのだった。  力iドで、何かしていたらしく、みんなの卓の上には、トラ ソプが散らばっていた。  「バカラをやっていましたの。」と言いながら、久美子が、ト ランプを片づけようとするのを、隆一は、  「仲間になりますよ。」と、止めた。  「そう。じゃ私の隣りにいらっしゃい。そして、私の親から始 めましょう。」と、久美子は隆一を自分の傍《かたわら》にすわらせた。  パカラは、すぐ続けられた。  若者達の、乱暴なくらい無遠慮な浮いた気分の中で、隆一は 最初は落着きを示して勝負にも強かったが、矢張りきびしく生 真面目に教育されて来た隆一は、いつか上せ上ってしまった。 .洋酒が出ていたし、紅茶の中にも、少量ながら、ウィスキイ が加味してあるし、隆一は頗を上気させ、いつの澗にか周翻の 連中と同じような笑い声を立てていた。  パカラの勝負は、彼が勝ちつ間けたが、最後に久美子と一騎 打して負けてしまった。 「これで案しまいよ。」  口惜しそうな彼の鼻先で、久美子はうれしそうに拍手して見 せた。  それから、一座は二組《ふたくみ》に別れて表情遊戯を始めた。  隆一と久美子が反対の組の銘々の頭《かしら》だった。  これは、敵の方からその組の一人に課した題を、課せられた 人が言葉ぬきの表情だけで表現し、それを味方が理解しなけれ ば、負けになる遊戯であった。  隆一の番になると、敵の組の久美子は、仲間と慎重に耳打ち をしていたが、やがて彼女は勝ち誇った微笑を浮べて、隆一を 衝立の陰に手招きした。  題を聞くつもりで、衝立の陰へ行くと、久美子は、晴々しい 目つきで、隆一の身体を、抱《いだ》こうとした。  隆一は、久美子の大胆な所作に、タジくとしたが、まさか その手を払いのけるわけにも行かないのをいゝことにして、久 美子は隆一の両肩を抱いて、耳にふれるばかりに唇を寄せる と、 「私、あなたが来て下さっπので、うれしいの!」といった。  隆一は、その色っぽい動作に、圧倒されそうなのをやっと、 踏み止まって、 「それが題ですか。」と訊き返した。 「あら、いやだわ。題は別よ。題は、サンゴロ1!」 「サンゴロ】! 落語家《はなしか》ですか。」 「そう。」 「むずかしいな。」 「出来なければ、皆の前で私のいうと翁り、なんでもしなけれ ばいけないことよ。」 「僕がうまく表現しても、味方が理解してくれなかったら、ど うしますP」  と、隆一は近々と見る久美子の美しさに、やゝしどろになり ながら訊ねた。 、「早く出て来ないと、怒っちゃうぞ。」と、誰かがわめいた。  隆一は、自分の胸の中に起りかけた感情を、誰かに察せられ たような気がして、あわてて皆の前に進み出た。  まず、手真似で羽織を脱ぐ真似をして、高座だということを 味方にうなずかせ、つぎに鰻をつかまえるような、くにゃく にゃした三語楼の手つきをかなり巧みに演出したが、ようよう 味方の一人が、 「落語家!」と、藪鳴っただけだった。 、「駄目よ。ちゃんと名前をいい当てなければ。」と、久美子が間 髪を容れずに叫んだが、隆一の組であったマヤ子が女性のすば やい直感で、 「三語楼!」と、見事にいい当てた。  久美子は、隆一を教育家の息子と見て、三語楼の真似など、 出来ないものと定《き》めてかゝっていたので、つまらなそうな顔を したが、後の連中は、一しきり隆「の手真似をほめて、笑いが なかく跡切《とぎ》れなかった。 「さあ、今度は、こっちの番だ。役者は、あなたでしょう。」 と、隆一は、久美子を招いた。  隆一は、先刻から彼女に当てて考えていたプランを、仲間に 素早く伝えると、彼女を衝立の陰に連れてはいった。  久美子は衝立の陰になると、なれくしく、すり寄って、隆 一の肩に、右の手をか吟ていた。  モデル、マネキン、ロボットと思案して、一番むずかしそう なロボットを選んで、 「ロボット!出来なければ、罰はシッペ!」といつたが、偉 そうな口を利いても、女を知らない隆一は、二度もつ間けて、 美しい久美子に、身近く立たれると、その肉体から立ちのぼる 妖気に当てられずにはいなかった。 ,彼女の髪の毛から発散する香気が、魂をしびらせ、彼女の眼 がチカノ\と柔かく輝き、彼女の半開の唇からもれる熱い呼吸 が、不透明な香り高い轟《もや》のように、彼を包んでしまい、彼は所 を忘れ、自分を忘れ、あらゆる道徳的反省を忘れていた。  若い隆一は、自分の出題した、ロボヅトのように、久美子の 持つ雰囲気に、魅され、支配されていた。 .久美子は隆一の出題に、暫く困《こう》じていたが、やがて一座の真 中に、立ち上った。  隆一は、久美子が、まじろがず前方を見つめている神秘めか しい瞳の色に、魂を打ちこんで見つめていた。  久美子は、しなやかな指で、ハlト型を作り、それを自分の 心臓のところに当ててから、両手をふりほどいて、それが無い ことを示し、また脈に手を当てて、それをふりほどいて、それ が無いことを示して、まず人形を暗示した。さて、そのふくよ かな胸の両乳房を、人造人間のボタンに見せて、着物の上から 強く押して、シャッキくと歩いたり、コクリくとうなずい て見せたが、敵も味方も、そのあざやかな身振りに、崩れるよ うに笑うだけで、久美子のすばらしい機智にも拘わらず、彼女 の味方は、ロボットとは、いい当てなかった。 「いやになっちまうな。」と、'久美子が匙を投げると、隆ーは すかさず、 「シッペをしますよ。」と、進み出て、久美子の右の手を取る と、そのまん円く暦《えくぼ》のある甲を、指の跡のつくほど、強くはげ しく打った。久美子は、却って強く打たれたことを喜ばしそう に、 「こちらはいゝの。」と、左の手をからかうように、隆一の鼻 先にさし出した。  或は、もぐらの真似。ジプシイの真似。その後も、馬鹿騒ぎ が続いて、遊びが種切れになったのが、十ー時頃だった。 「遅くなっちゃった。失礼するかた。」と、誰かがいったのが きっかけで部屋の空気は、忽ち動揺した。マヤ子が、 「あたし泊めてもら欝うかな。」と、いい出すと、 「三郎《さぶ》ちゃんにわるいがら、一緒に帰れよ。」と、久美子が、 男のように乱暴な口調でいった。  三郎というのは、のっぺりとした学生で、露骨にマヤ子と恋 人らしく、ふざけていた学生だった。 「帰ろうよ。」と、岸という、久美子に気のあるらしい青年 が、そう皆にいいながら、意味ありげな眼差《まなざし》を隆一の方へ送っ た。隆一も、かすかながら、ムッとした気持で、 「どうも、御馳走さま-僕も失礼します。」と、腰を上げると、 「あなたは、駄目ですよ。みなさんと、ドヤくとお帰りに なったら、お家の方ヘ知れるかも知れませんよ。ちょっと、お 残りになっ■てから……」と、きっばりすぎる程、ハッキリ彼を 引き止めてしまった。それは、隆一としても文句のないところ であった 銀座街頭  皆が帰り去った後は、文字通り杯盤狼籍、取りみだされた部 屋に、独り坐っていると、隆一は自分らしからぬ今宵の振舞 を、反省するよりも、魔法にでもかけられたように、唯々諾々 と、久美子の思うとおりになっている自分が、たv不思議で、 しかも今迄の生活になかったような甘美な感じがするのだっ た。 「恋かな、恋だとするととんでもない女に恋したものだ。」彼 はそう考えると、心の中でゾッとした。 「ベンニイ・ベンニイ・ベン。」甘たるい声で、イタリイ語の 歌の章句をくり返しながら、客を送りだした久美子が、浮々と 引き返して来た。        *  隆一が家に帰ったのは、十一時を過ぎていた。家族は、みん な寝入っていたので、隆一は、こっそり自分の寝間に入ってし まつた。  明け方、ようやく眠りについて、今朝は妹に、度々呼ばれて から起きた。彼が、食堂へ顔を出すと、 「昨夜《ゆラベ》は、大分遅くお帰りのようでしたね。」と、母は皮肉で なしに、彼の勉強を稿《ねぎら》って話しかけた。  彼は、簡単にうなずいてから誰とも話をせず、食事をした。 妹が、 「昨夜、裏の家、随分大変なさわぎだったのよ。兄さん、御存 じないっ・・」  話しかけたので、少しヒヤッとしたが、母が横から、 「ほんとに困った人達ですね。」合槌を打ったので、隆一はだ まっていた。  食事が済むと、サッサと家を出かけたが、もう自然科学をや る冷静な学徒ではなくなっていた。  昨夜人々が帰った後で、いきなり狂したように、自分の前に さしだされた久美子の唇を、戦《おのと》きながら払いのけて、たった今 迄自分も]緒になって演じていた馬鹿さわぎから、久美子の生 活を皮肉に口汚くのゝしり、 「あなたなんか魂のない、生きたロボットですよ。」と、いっ て棄てると、 「そう、おっしゃるとおりだわ。……じゃ、どうしろとおっ しゃるの……私、何を当てにして暮せばいゝんでしょう。」  払いのけられて、花のくずれたような形のまゝ言葉につくせ ぬ哀愁を、1なまめかしさのありったけを双眸にあつめて ジッと彼を見つめていた。 「私に、魂を誰が入れて下さるの。私にだって、純情な恋愛は 出来てよ。……仕方なしに不自然な生活をしているけれど、私 を本当に愛して下さる方があったらちゃんと出来てよ。今のパ トロンなんか、ちっとも好いていませんわ。」と、涙さえ浮ベ て、なおジッと見つめるのを、いきなり引き寄せて接吻したの は、誰をとがめる由もない自分の仕業だった。そして驚いて走 り出した玄関で、久美子が、 「明日会って下さらなきゃl学校がお退けになる時分、そう ね、三時頃ならいゝんでしょう。銀座のlどこに致しましょ うーー資生堂でーきっといらしって下さいね。」というのを 結局承諾してしまった事になった。 ,一体砕夕から自分は、何をして㍉るのか、あさまし、事で賦 ないか。妾の情夫! そんな言葉が彼の心を呵責した。  教室には入っても、講義は一切耳に入らなかった。総ては、 昨夜だけの悪夢にして置け、今後一切あんな女に、かまうもの か。  そう思いながら、彼の心はすぐ久美子にひきつけられてい た。  謎のような美しさ、蓮葉な、陽気た女が、忽ちしなぇて、世 にもあわれな瞳で、彼を見上げる矯態。  熱いさわやかな、唇から受けた幸福感!  それを考えると、反省も理性も、父も母も、みんなとりとめ なくなってしまう。 (きっといらしって下さいね)  久美子の言葉を思い出すと、なんともいえない愉しい誇らし い気持が、青春の歓喜こゝに極まるという感じで身体中に流れ るのであった。        *  熱海へ行つた宮川の用件というのは、割合簡単なもので、も とく熱海に別荘を持っている彼の知人が、用事にかこつけて 彼を招待したようなものであったから、忙しいといえばその日 の内にでも帰れる筋合のものだった。  だから、一泊して仕事が片づいてしまうと、冷然とし出した 夫人のことも、久美子のことも気がかり、その日の昼過ぎの汽 車で、東京へ帰って来てしまった。  彼は、新橋駅で降りると、すぐ渋谷の久美子の家へ行くつも りで、円タクに乗ったが、乗つてしまってから、(待てよ)と 自分自身に呼びかけて、 「おい! 渋谷へ行くのは止すよ。銀座へ行ってくれ!」運転 手㌍命じ値しえ。  あの夜以来、よそくしいほど晴れやかな房子夫人の態度 が、随分気になっていたが、今度の熱海行で、いよノ\これは おかしいと思ったので、今日のような時間に余裕のある時に、 何か品物でも見立てゝ買ってやって、浮気はするが、.妻にも良 人らしい誠意を、持っていることを、見せたくなった。  序《ついで》に子供達にも、久美子にもー。そう思って宮川は銀座通 ワを珍しく独りで、プラく歩き、見なれた商店をのぞき込み ながら、とうノ\ある宝石店で、房子夫人に、真珠のへヤピン を買い、そこを出てから子供には、松坂屋で、おもちゃを、久 美子にはとりい屋か田屋かで、ハンド・バッグでもと思って、 電車通りを横ぎろうとすると、目の前を通る自動車の窓ガラス に、チラと久美子の顔が見えた。 「やあ!」と、思わず口にだして叫びながら、ステッキをあぼ そうにしながら、遠ざかる自動車を見送ると、乗っているのは 久美子一人でなく、学生らしい男の肩が、正しく久美子の肩と 並んでいた。  しばらく、荘然としてしまって、危く青バスにひかれそうに なりながら、ようやく松坂屋の方に渡ったが、心中すこぶる穏 かならず、人に押されながら、ニレヴェ1タIに乗り、うつゝ なく五階ヘ行き、洋一に飛行機を、耶奈子にフランス製の人形 を買い、一散に松坂屋を飛びだし、渋谷へ自動車を走らせた。  久美子が、留守なことは分っていた。自分が、今日も帰らな いと思って、どんな事をしているか分らなかった。だが、帰っ てくるまで、待ってやろう。そして、帰って来たら、思いきり 責め、詰《なじ》ってやろう。都合で、別れてしまおう。  そう考えて来ると、妙に切迫した感じが、胸に迫って来た。 俄に久美子の出鱈目《でたらめ》なあどけない態度や、西洋人臭い立居振舞 いなぞが再び得がたいものとして、二倍にも三倍にも美しく感 ぜられ、あゝ自分は別れられるだろうか。あれを失うくらいた ら、一思いに殺してしまった方がいゝ、何か自分が下手人にな らずに殺す法はないか、などと、思いがけない激しい嫉妬の情 が、涌いてくるのを宮州は、グイと奥歯でかみしめていた。  暮れなずむ冬の夕空に、ぼんやりと視線をあずけて、両腕を むずと組み、今まで覚えないような嫉妬の苦しみに、肺脇をの た打たせていると、渋谷までが、三十分も四十分も、かゝるよ うな気がした。  久美子の家に着いて、いつもの通り、板敷の上に、ペチャン と坐って、 「い与っしゃいませ!」と、挨拶する女中に、いきなり、 「奥さんは、いつから出かけたんだ?」と、嘘をついても駄目 だぞ、と言外に威を持たせていうと、女中はにぶく、怪誘な表 情で、 「奥さまは、二時頃お出かけになりましたが……」という顔 を、つくぐ見返したが、嘘をいっているような様子は、■少し もなかった。  客間に通って、折鞄をドサッと投げだし、自分で、ストーヴ をつけ、長椅子の上へこしかけて見たが、糸目の切れた凧のよ うに、東京中をフラくしている久美子の事を考えると、何か しら落ちつけず、あの学生はどういう男であろうか、いつから の知り合いだろうか、などと愚にもつかない事が、真剣に考え られ、久美子と自分の年齢の違いや、気持の相違などが、今更 のように不安の種となり、金で買っている愛情の頼りたさが感 じられ、宮川は久美子に対する自信が、霧のように飛びちって 行くのを感じた。 相似  夕方になっても、久美子は帰らなかった。いつまでも待って やるぞという気持で、女中に命じてこさえた夕飯を、気まずく 食べた後、今度は久美子の居間の六畳へ入って、何か浮気をし ているような、ハッキリした証拠がないか、探して見る気に たった。  贅沢過ぎるほど、立派な三面鏡の前に、背の高いのや低いの や、自や青色のいくつもの罎に、人形の首のつまみのついた陶 器の粉白粉入や、その他いろくのお化粧道具が賑やかに並 び、部屋には、その人らしい香気が漂っていた。  壁には、銀のわくの額縁の内に、宮川自身がすましかえって おり、それと向い合いに、やゝ小さい型の額縁の中に、久美子 がお得意のポーズで納まりかえっている。  鏡台の抽斗《ひきだし》を抜いて見ると、汚れたパフや、ガーゼや、まる めた抜毛なんぞ、見たばかりでゾヅとするような代物ばかり が、一杯につまつている。  左の壁に沿って置かれている箪笥の抽斗なども開けて見た が、歌舞伎座や東劇の絵番組や、邦楽座や武蔵野館のキネマ・ ニュースといった他愛のないものばかりで、しかもどの抽斗 も、鍵などかゝっているのは、一つもない。  あっちこっち、ぽんやり眺めているうちに、気負い立った自 分が笑止に思われ、久美子は例によってj取るに足りない学生 と、フロリダヘでも踊りに行ったのだろう。たらばこんなに興 奮して待っ方が、大人気なく馬鹿々々しい、帰ろうかなと思っ て、以《もと》前の座敷の方へ引き返して来たが、そこでまた気が変っ た。  時々、こんなふうに、無規則に家をあけて、こっちにつまら ない心配をさせるのは、にがくしい。今夜こそ銀座で学生と 相乗りしていたところを見たのを、とってに取って、ぎゅう ぎゅういじめてやろう。いじめようという気持の中には、いじ めて謝らせて置いてから、久々で思い切り愛撫してやろうとい うほくそ笑ましい気持も、そっと忍んでいた。  女中に湯の支度をさせて、ゆっくり入って出たのが八時過ぎ だ。  二階から羽根蒲団を降させ、ソファの上に横になると、あゝ も叱り、こうも詰ってやろうと思っている内に、うとうとと眠 気ざして来た。        * 「あら、こんな所でどうなさったの〜」と、常にかわらぬ、 甘ったるく粘りつくような、久美子の声を聞いて、自分の考え では、こんな姿勢を取ってから、まだ十分と経ってはいまいと 思いながら、腕時計に薄目をやると、もう十時を過ぎていた。  不用意な時に、久美子に先手を打たれたので、思い通りの姿 勢が取れず、少しまごついていると、「風邪ひくわよ。」と、な れノ\しくか間みこんで、肩に手をかけようとしたので、思い 切り邪樫に、それを払いのけた。  じっと、久美子の容子を睨《ね》め回している宮川の眼を、久美子 は真面《まとも》に受けながら、 「おゝこわ。私がいなかったんで、憤《おこ》っているのね。ごめんな さい!」と、それがいつもの手の、愛らしい仕草で、ピョッコ リ頭をさげるのを、強く頭を振って、 「駄目々々。謝ったって、許すものか。どこで浮気していたん だ。」と、烈しくいうとヘ  「あら、浮気なんかしないわよ。マヤさんと銀座で買物をし て、邦楽座へ行ったのよ。」と、あっさりしたものだった。  「嘘を吐け、おれも、銀座へ行ったんだ。君が、学生と自動車 に乗っているのを見届けて、留守を承知で、この家へ来て待っ ていたんだよ。いつものようにごまかされはしないよ。」と、 冷淡にいかめしくいうと、長椅子から立って、彼女からわざと 遠ざかるようにと、腕椅子の方へ坐り直した。  だが、心の内では、彼女の答はおよそ分っているつもりだ? た。 (いやアん!)と甘えて(何々さんとさびしかったから、 どこそこへ踊りに行ったのよ)と、いうのであろうと高をく くっていると、その予想は見事に外《はず》れて、  「御存じなら「お聞きにならなくってもいゝじゃないの。」 と、ふてぶてしく忽ち笑いをのんで、つつぶくれた表情になっ て、しかも冗談気は、微塵もなかった。宮川は、思わずかっと なって、  「おい! あんまり、入を馬鹿にするのはよせ。それが、散々 ー待たせた俺に云う言葉か1一体君は、この頃どうかしている ぞ、昨日は午前中から家を開けているし、ちょっと僕が東京を 離れると、学生と一緒に遊び歩く」!-…少し勝手過ぎるとは思 わないか。君】人世話になっていると思うと、間違うよ。君の 親父さんにだって、相場の資金を一万円近くも融通してやった し、君にだつ七着物や身の回りのものだけだつて、一万円近く はこさえてやったし、貯金は……」と、いいかけて見たが、久 美子は達磨大師も三舎を避けそうな、鉄壁の沈黙の中にたてこ もってニコリともせず、宮川の言葉をはねかえしている様子 に、たまりかねて、 ・「おい! おれのいうことを聴いているのか。、おれのいってい ることに不平があるのなら、おれはもうこの家に来ないよ。」 と、定石の大人気ない脅し文句を、宮川はてれ臭い思いでいっ てのけた。 「だって……」と、ようやく唇をうごかしたが、そのまゝ黙り こんでしまおうとするので、 「だって、どうしたんだ!」と、いうと、 「だって私ハ若いんですもの。」と、久美子は、ケロリとして いった。 「若い!」と、宮川が気色《けしき》ばむと、 「蔚怒りになったらいやだわ。だって、あなたには奥さまが、 欝ありにな■って、私は近所隣りから「後指をさゝれるようた、 肩身のせまい暮しをしているんですもの。あなたのいらっしゃ らない時くらい、■遊んだっていゝじゃないの。年中あなたの顔 ばかり見ているということはないわ。」  宮川は、そういわれたときに、自分の顔を逆さに突きあげら れたような気がしたが、その時彼は自分が妻に対して時々いっ た言葉を思いだした。, (おれだって、事務所へ行っちゃ相当忙しい仕事をしているん だもの、何も毎日のように家へ帰って、年中お前の顔ばかり見 なければならぬということはないだろう)  彼は、いつも妻に不用意にいう、こうした言葉が、いわれる 方にはどんなに致命的た言葉であるかが初めて分ったような気 がした。  しかし、それは男性だけがいえる特権のある言葉のような気 がして、久美子にいわれて見ると、猛烈に腹が立って、 「おい! それはおれに愛想づかしをいっているのか。」と、 つめ寄ると、,久美子は、 「あら、そうじゃないわよ。た間、物の道理をいっているだけ だわピと、平然としていった。  すべてが、強気のふてくされで、宮川がいつか久美子に自分 の家まで送らせた時、妻に見つけられて、破れかぶれに房子夫 人に対して取った態度と、そっくり同じであった。  自動車に同乗しているところを見つけられるという事件の発 端までが、似ていた。た間、宮川の立場だけが、違っているだ けだった。  宮川はそんな事に気がつくと、何か因果応報という気がし て、むきになって久美子を響める気にもなれず、といって、可 愛い女から愛想づかしをいわれる年がいもない器量のわるさ に、苛立たしい沈黙をつfけていると、その内にどういう考え か、久美子は帯止をはずし、帯揚げをほどき始めた。  亡れ㌔、彼女の用いる戦術の一つで、今まで喧嘩をして、険 悪になると、忽ちしどけない恰好をして見せて、そのまゝうや むやにしてしまうという遣方《やりかた》だった。  今に、(今のは冗談よ)と、首にすがりついて来る彼女の両 手を期待しながら㌔、そこは男としての意地で、先手を取るつ もりで、 「いつもの戦術は、駄目だぞ!」乏、いい放つと、 「戦術τやなんかないわ。御飯を頂いたばかりで、苦しいから ですの。」と、白々と∵取力つく島のない物いいに、宮川は樗 然之して、驚きあきれるのだった。  戦術でないと迄いわれると、もう正面から最後の話をする外 はな<なったので、 「そうか。そうまでいうのなら、ハッキリ話をつけよう。おれ もそう物分りの悪い男じゃないし、君も世話になっている旦那 をだましているのじゃ辛かろう。正直におれが、いやになった とでも、外に好きな人が出来ましたとでも、ハッキリいえばい いのさ。おれもそうだったら、仕方がない、あきらめるよ。ど うだ、,騎れがいやになったんだろう。」と、宮川は、冷静に冷 静にと話すと、久美子は不敵な微笑《ほエえみ》を^チラと浮ベて、 「いやになんか、なりゃしないわよ一|好《い》い方《かた》だと思っている わ。前からあなたを好きな気持、ちっとも変ってなんかいない わよ。」 「好い方で、嫌いじゃないというだけじゃ、勇女の仲は面白く ないんだよ。情熱がなければ……じゃ、.前から好きな気持に変 りがないけれど外に恋人が出来て、情熱が無くなってしまった というんだろう。」  まさに、それに近いのであるが、久美子はまず、 「ふ与:…」之笑ってから、 「ひとりで、お決めになっておしまいになるのね。そんな事 当っていないわ。でも先刻《さつき》もいった通り、あなたにちゃんとし た奥さんがあり、お子さん達があって、あなたがその家族制 度ってものを立派に認めていらしって、御自身の都合のいゝ時 だけ、自由になすっていらっしゃるんでしょう。,私は、その、 お相手をしているんですもの。それと同じに私だってお妾って 位置は、ちゃんと心得ているのよ。でも、あなたがお見えにな らない時くらい、遊んでもいゝだろうと思って、つまり立場は 違っても、理屈はあなたと同じだろうと思ってるの。」  条理の立つような立たないようなY申訳のような申訳ではな いような事をいゝながら、着物からすっかり紐という紐をとっ てしまうと、 「絹や、私のお部屋に、■パジャマをだしといてね。」と、女中 にはすこぶる御機嫌のよい声で命じ、裾前もハラくと隣室へ 行くと、着物を着かえながら、女中をからかっているらしい、 クッくというしのび笑いが聞えてくる。 」自分に対してだけ、無愛想になっている久美子に、宮川は身 体のしんからムッとした、憤り乏も情けなさとも、みじめな気 持とも、分ちがたい感情がわいて来て、しみハ\嫉妬の情とい うもめは、なんと耐えがたい不快のものであろうかと思うので あった。  宮川は、薄ら寒い気持でへ常に自分を待っている妻の気持 が、とんでもなくしみ八\と胸に思いだされ、嫉妬する身がど んなに辛いかがはじめて分ったような気がした。 (じゃ、もう会わない事にしようね)と、=目きっぱりといっ て帰ってしまえばい\のだが-十宮川は、久美子に鉄鎖のよう に強い未練で、繋がれていた。  それを又、久美子がよく知っていた。  久美子は久美子で、隆一にわけもなく、心をさらわれてい た。  その両親に対する反感から、ちょっとちょっかいをだした相 手が思いの外に物分りがよく、純情で、率直で、今までの男友 達とは丸きり風格が変っ{いるのが、好きになり、好きになっ たとなると、一潟千里にほれてしまう久美子は、昭和通りのあ る鳥料理屋で、 (もう今日限り会わない)という隆一を、あの手この手で巧み に説き伏せて、宮川の来ない土曜日と日曜とだけ、二人ぎりの 時間を作ることを承諾させてしまった。だから、今の彼女の胸 の内は御機嫌の悪かろうはずがない、万々歳である。 ・だから、宮川に未練はないのだが、宮川とこうしているため に得られる賛沢という人生の快楽には、彼女もまた鉄鎖のよう な断ちがたい未練で、繋がれていた。  贅沢も亦、入生の最大な快楽の一つである。まして、久美子 のような女性にとっては、一時の情のために、みだりに捨てて はならない必要品なのである。  それに、相当かしこい久美子は隆一の両親があんなふうで は、この上二人がどのように愛し合っても晴れて一しょになる ということは、覚束ないということを、ハッキリ知っていたか ら、好きな限りは、会いつじけていようと思うだけであるか ら、そのために宮川と別れようとは思っていない。  だから、宮川は宮川で、相当機嫌を取って置けばいゝのであ るが、わがまゝで、どこか、天真な久美子は、隆一に強く心を 引かれている以上、■そんな心の余裕はないのであった。  だから、一|層《そ》のこと、これを機会に、宮川と清算して、自分 で働いて食う、もとの女給仕か、でなかったら、ダンサiにで もなって、しまおうかと、天晴れな心境が浮び上ったが、もと より気まぐれな久美子の空《あだ》な思いつきだけで、手近なところ、 見事身体にピタリと食いいる絹のパジャマや、高価なパリ製の 化粧品も、何不足ない部屋も、やすくとは清算しがたいもの ばかりである。  その上、豊かであれば恋愛もたのしいし、宮川という堰があ れば、却ってせかれるために、逢瀬が楽しくなると考えると、 また忽ち妥協する気になって…1 「そこへ行っても、もうつまらない事いわないか。……久美子 は、あなたの好い子ちゃんなのよ。いつまでも……あなたが勝 手に、やきもちを焼いて、変な事おっしゃるから、つい買言葉 で、久美子憎い見たいな事いったのよ。ごめんなさいね。そこ へ行っても、もう大丈夫2」  あざやかな転向。半開きの扉《ドア》から、顔をのぞかせて、この一 週間きかされなかった甘い言葉に、宮川が思わず苦笑すると、 黄色いパジャマは忽ち猫のように、ふんわりあたゝかく、彼の 膝の上に飛び込んで行った。 夫婦  昨夜、宮川が家へ帰って来たのは一時を過ぎていたから、そ のまゝ寝室へ行った。なかノ\寝つかれなかったが、朝は、案 外早く眼がさめた。  すぐ、頭にくるのは、久美子の事だった。別れたくない未練 で、だまされると知りながらだまされて、手もたくよいく よい、あわゝと、あやされてしまった感じであつた。しかし、 何か久美子の心の中に、異ったものが、忍び込んでいることだ けは、疑えなかった。少し浮気をされても、,平気でいられるく らいの女は、世話をして置いてもつまらないし、といってこっ ちが打ち込んでしまぇば、ちょっとした疑惑が起っても苦しい し、といって妻にしてしまえば、安心し切って面白くも齢かし くもなくなるし、それに、久美子が自分の位置を、ハッキリ認 識して、性道徳とか家庭制度などと、かれこれいいだしてくる と、いよノヘ苦しまさせられるのではないかと思ラと、宮川は 早朝から、少し憂欝になっていた。  廊下に足音がして、朝刊を持って房子夫人がしのびやかに、 寝部屋に入って来た。 品「あら。」……もうお目覚めなんですか。」と、いったまム、出 て行こうとするのを「■ 「事い!」と、叱りつけるように呼び止めたので、夫人はけf んな顔をふりむけて止った。 「ストーヴに火をつけてくれ。もう起きるから。」  返事はなくだまって、栓をひねって火をつけている夫人を眼 で追いながら、 「近頃、君は人が悪くなったね。前には、もっと肚と口とが、' 一しょだった。肚でゴテく思ってないで、なんでも素直にい えばいへじゃないか。」  起きがけから、いきなり何をいいだすことやらと、夫人は少 少あわてて、マ.ジくと良人の顔を見つめた。宮川は、少して れくさ<なりながら、 「そうじゃないか、旅行から予定より早く帰っても、仕事が早 く片づいたかとも、訊いてくれないし……」 「そりゃ、あなたがみんな悪いんですもQ申し上げたって、 無駄だと私に思いこませて、鴬しまいになったんですもの。」  房子夫人の表情には、,ありくと皮肉に冷たい、そして少々 恨みがましい妙な笑いが昇って来た。  そうきり込まれて見ると、受太刀はきまりが悪く、ヘナノ\ になってしまって、 「階下《した》へ行って御飯をたべるから。……」  そっぽを向いていうと、房子夫人は黙って出て行ったが、こ り一二年ついぞ聞かなかった、良人の、つっかゝるような、 物いいで、何故だか知らないが、良人の心がグーンと自分の胸 元に、飛び込んで来たように感じて、にわかに足音も晴れやか に階下へ降りると、女中に物をいいつけている声にも喜色が温 れていた。宮川は起ち上って鞄の底からヘヤピンをとりだす と、ガウンのポケットにつつこんで、のっしくと階下ヘ降り て来た。  階下へ行くと、昨夜子供部屋へそっといれて置いた包みを早 くも解いたと見え、洋一は飛行機の振子《ねじ》を巻いて、うれしがり ながら、 「パパ。今日は日曜?」と、訊いた。父が、朝から家にいて、  ー自分達の機嫌を取つてくれる日は、日曜だと子供心にも知って   いるからである。   「うゝん。今日は、日曜じゃないよ。」と、宮川は苦笑しなが   ら答えて、   「これ、ママさんにも、お土産……」と、いってさすがに、直   接に手渡すことが、気はずかしくガウンのポケットから小箱を   取りだして洋一に渡すと、洋一は非常に重大な使命を、父から   受けたように、飛行機を放りだして、勝手の方へ走って行っ   た。    間もなく、房子夫人は、手足をだらんとさせている耶奈子   を、両手で携げるように抱きながら、抱いた右の手先で箱から   取りだしたヘヤピンを持ちながら部屋ヘ入って来た。   「これお土産-なんだかきまりが悪いようね。」御機嫌とり   とは知っていながら、それでもうれしい女心の、率直に感じの   まゝいった。   「何がさー」と、わざと訊き返して、もう支度の出来ている   膳の前に、ドカリと坐った。   「僕に、ちょっと見せてよ。」と、生意気に、母親の手から、   ピンを取ろうとする洋一を、和《なご》やかになだめながら、早速にル   イズ巻の根元にさし込んで、また直ぐ抜いて見ながら、    「随分いゝものね。私、これに似たのをよっぽど自分で買おう   かと思つていたの。」と、娘の頃のように、あどけない笑顔に、   明るい表情をしている房子夫人の姿を、珍しいものでも見るよ   うに、宮川はしげくと眺めいった。    昨夜の今朝であるだけに、妻も子供も可愛く、こゝに安住し   ていれば、嫉妬も焦躁も、何もないのだがなあ、と、宮川は   思った。    「熱海、いかがでしたP 東京より、よっぽど媛かでしょう。」 と、箸を取りあげた良人に話しかけた。 「そうね。東京ほど、風が寒くないね。」 「パパ魚釣りした?」洋一が、今年の春、熱海ヘ行って魚釣り をしたことを思いだして、横からロをだした。 「魚釣りなんかしないよ。お父様は、御用で行ったんだもの。」 「じゃ、今度魚釣りに連れて行って。」 「うん。来年にでもなったらね。」 「来年の記正月P」と、洋一がきゝ込むのを、 「うん。まあ。」宮川が、ごまかしかけるのを、房子夫人が、 「騎正月に、パパさんに茄ねがいして、皆で行きましょうね。」 と、抱いている耶奈子に頬ずりをした。珍しく寛《くつろ》いだ気持で、 食事の後も、夫人と世間話をしている内に、ラジオの昼間演芸 の放送が始まっていた。 「今日は、出かけないで、家にいようか。」と、口にだして岐 きながら、ようやっと腰をあげかけると、房子夫人はしみぐ うれしそうに、 「ちょっとお待ちになって、お書斎に火の気が無くって寒いで しょうから、ちょっと暖めて置きますから……」と、ついと立 ち上って、ストーヴをつけに行っ,て、また立ち戻ってくる之、 「晩のお食事も家《うち》でなさるの?」と、立ったまゝ、ニコく訊 ねた。 「うん。君がよかったら、どこかへ一緒に食べに行こうか。」 「まあ、気味がわるいほどですわねえ。」と、いうのを、 「もっと、気味をわるがらせてやろうか。」と、宮川は立って 行って、夫人の肩に手をかけて、ひき寄せると、額際に軽い接 吻を与えたが、どうにも情熱というものが、なかった。  夫婦というものはどうしてこうも、情熱というものが、無く なってしまうのだろう。接吻などをすると、何か愛人ごっこで もしているような空虚な気がすると、宮川は考えた。 ・    にわかに生々と、二階を降りて下の廊下の電話に出ると、  書斎へ入つてデスクの前に、■腰をおろしはしたが、書類は大  「大阪から前田が今日出て来たので、四五人で飯を食うから、 抵事務所の方へ置いてあるので、整理する仕事もなく、ぼんや  君もぜひやって来ないか。」と、いう誘いであった。二つ返事 りとストーヴの火を見つめながら、スリIキャッスルを二本、  で、行くといいたいのを、夫人の手前、 三本。                         「そうだね。」と渋ると、 」硝子箱にいれてある古風な置時計も、友人から買わされた梅  「前田が、君にぜひ久しぶりであいたいといっているんだよ。」 原竜三郎の女の絵到」ヨの「「鼻薔の勇]」のナー兄ンまゑ」と↑重ね七いち-の佑、 な眼になれたものばかり ぼんやり何もしないでいると、妙な さびしさが、身体の中に忍び込み、馬鹿さわぎをする友達の顔 が、ぽっかり浮んで来て、あやしげな思い出が、妙な一人笑い と共に浮び、クラブで友達と面白く遊んでいるのを、切り上げ て、久美子のところへ行く時などは、(あゝ億劫だ。なんとい うつまらない事をおれはしているのだろう)と、面倒くさくも 腹立たしくも思われるが、こうして一日中家にいると宣言して しまうと、行くべき所は、こゝかしこと、楽しく眼前に浮んで 来て、ジッとして書斎で、日の暮れを待っていることが、修道 士の難行苦行のように感ぜられ、遊び好きの宮川としては、到 底辛抱出来ないことだった。 (家庭は平和である。しかし退屈である。こゝには、少しの刺 激もない。一生連れ添う女房だもの、疎略にして置いても、い づかは償いが出来る)と、いういつもの論理が首をもたげて、 部屋の中が、うす暗くなる頃には「街ヘ! 街へ!」といヶ要 求が、猛然とわいてくるのであった。でも、今更事務所へ用事 が出来たともいえず、観念の眼を閉じてジッと我慢している と、五時を少し廻った頃、女中が、 「お電話でございます。」と、知らせて来た。 「誰からP」と、訊き返すと、 「矢崎様からでございます。」と、遊び友達の名をい.ったので 「じゃ、都合で。」と、いかにも不承不承に承諾すると、 「都合でなんていわないで、必ず来たまぇ。場所は木挽町の清 田家だから。」と、いう追求だった。 「うん。」と、あいまいに電話を切ったが、渡りに舟とばかり、 心は早くもその方へかたむき尽されて、廊下のはずれにチラと 姿の見えた房子夫人に、 .「おい! 前田が大阪から出てきたので、やっばり、ちょっと 出かけてくるよ。」といった。 「お出かけ?」と、夫人は忽ち不平そうな顔つきをして近寄っ て来た。  夫人にして見れば、この電話が予定の電話らしく思われ、朝 からの御機嫌取りも、この電話で飛びだそうための準備工作で あったような気がし、良人からの御機嫌取りに有頂天になって いた自分が腹立たしく、気取り気もない仏頂面で、 「そう! じゃ、一緒に御飯をたべるなんて、おっしゃらなけ ればいゝのに、本気になっていたのに、つまらないわ。」 「だって、仕様がないじゃないか。前田が来たんだもの。」 「だって、器約束があったわけじゃないんですもの……」 「半年ぶりだもの、行かないというわけにはいかないよ。」と、 邪樫にいってしまった。 、宮川は、夫人にすまないと思いながらも、家にジッとしてお られない自分の気持なんか、説明しようにも出来ない事なの で、男というものは、どうしてこうも家庭から逃れたいノ\と 思うものかなアと、自分でも情けなく思いながら、夫人がもは や何事もいわずに、差しだす長儒神に手を通した。  もう、今朝からの一時|和《なご》やかな気分はたゝきつぶされて、夫 人は明らかに宮川を責めなじる不快な表情も露骨に、 「あや、自動車を呼んで!」と、女中に命ずる声も、まるで叱 りつけるようだった。  だが、そうした不愉快を忍んで一歩外へ出れば、・水を得て生 きかえった魚のように、澄刺と楽しく、自動車が、ゴーストッ プに止められるのさえ、時間の制限のある先でもないのに、い らくと気がもめるのであった。 」小鹿の如 く  久滋と恵美子が、連れ立って、美祢子の家から、帰った時の 事だった。  久滋は、恵美子と共に、逢初橋《あいそめぱし》の電車通りで、自動車を待ち ながら自分の傍に立っている恵美子が、■久滋が(送ってあげま しょう)というのを待ち望んでいるのではあるまいか、と思 い、 「どちらの方面へお帰りですか。」と、訊ねた。 「渋谷!」 「遠いですね。齢送りしましょうか。」 「だって、方角が違うのでしょう。」 →僕は虎の澗ですけれど、渋谷から赤坂にもどるくらい、なん でもありませんよ。」 ■「なら、いゝ事考えた。私が、久滋さんを途中で降してあげれ ばいゝのでしょう。赤坂へ廻るくらい、なんでもないわ。あれ 止めましまう。」と、物をいいながら、白い手をあげて、通り かゝった三十三年のプォ!ドを止めた。  久滋は、恵美子の女学生らしい、明るい潤達な精神をよろこ びながら、恵美子を先に、自動車に乗った。  自動車に乗ると、久滋はやはり美祢子の事を考えていた。 (会ってくれ)という彼女に対して、咄嵯の思案が出ず、(と にかく手紙をかく)といって別れたが、美祢子のせまるような 双眸が、眼の前にチラノ\して、それ以上会いつ間けること が、急に不安になって来た。 「久滋さん、お芝居にいつ呼んで下さるの。」と、不意に恵美 子に話しかけられて、 「あ、それだ。」と、.久滋はうっかり声を立ててしまった。 「まあ、なあー・に。」恵美子は、不思議そうに訊き返した。 「いや、つまらん事を考えていたのですよ。四五日のうちに、 叔母さまのところへ切符を送りますから、御一しょにいらっ しゃい。」 「そうお、1きっとね。家のお母さまとても旧式で、ちゃん とした理由がないと、中々夜なんか外出させて下さらないの、 だからお芝居なんか見たことないわ。でも、叔母さまと一しょ なら行かれるの。うれしいわ。」と、うれしそうに笑い返して 来た。  自動車は、神田から御所の欝濠に沿って走つていた。 「お家は虎の門の御近所〜」 「虎の門アパートです。」 ,「何鱒こ 「第七天国です……」 「じゃ、ジャネット・ゲイナアのような、可愛い方が、時々い らっしゃるの……」 「はゝ-栞。不幸にして、そんな人はまだいませんよ。Lと、久 滋は答えたが、初対面でありながら、うちとけた口の利き方を する恵美子の朗さが、彼の心の中にも、若々しい晴れやかさを 移し植えていた。  恵美子は、家へ帰るなり、母に呼ばれて、叔母の家での出来 事を、細かく訊かれ、 「いくら、本郷へ行っていたからといって、遅くなりすぎまし たよ。この頃、あなたの頭は、フラプラしていますよ。今日な んかぁ真直ぐ学校から帰って、勉強すべきだったのです。定期 試験も、すぐですのに、今夜は早く寝て、明日は今臼の償い に、一日勉強しなさい!」と、厳格に申し渡され、英語の格言 集と聖書とを持たされ、寝部屋に追いいれられてしまった。こ んな事は、しばくある事で、そのためには少しも悲しくな かったが、先刻まで久滋と一しょにいて楽しかったのが、独り になると、すベてが忽ち悲しみにも似た記憶となって、胸の中 にひろがって来て、じっとしていられたいぽど、悩ましかっ た。  恵美子は、ベソをかきそうな顔になって、靴下を取り、コル セットを脱ぎ、ワンピlスの洋服を、獅子がしらのように、頭 の上にたくしあげて、すつぽりと裸になってしまうと、タオル の清潔なパジャマを着て、燈《ひ》を消すと、冷《ひぇぐ》々としている寝台の 中に、きよらかな身を横たえた。  眼を閉じると、ひらめくように、久滋の顔が浮んで来て、明 日にでも思いがけない所で、久滋にひょっくり逢うことが出来 たら、どんなにうれしいことだろう。学校の帰りに、お友達と わずかの間だけでもよいから、銀座を歩いて見ようかしらー すると、叔母が久滋と並んで歩いてくるのと、パッタリぶっつ かるような想像が忽ち浮び上り、恵美子の胸はいよく息苦し くなってくるのだった』  彼女は、なかく眠れそうにもないので、手を伸ばすと枕許 の、小さいライト・スタンドの鎖を引いて、ほの明るさの中 で、胸の上に聖書を開いた。ところが、その開いたところに、  (愛のおのずから起る時までは、殊更に喚起《よびおこ》しかつ醒すなか  れ。わが愛する者の声きこゆ。視よ、山をとび、岡を躍りこ  えて来《きた》る。わが愛する者は樟《しか》の如く、また小鹿の如し。視  よ、彼われらの壁のうしろに立ち、窓より覗き、格子より窺  う。わが愛する者、われに語りて云う、わが佳綱《とも》よ、わが美  しき者よ。起《たち》て出で来れ、視よ、冬すでに過ぎ、雨もやみ  で、早去りぬ。もろくの花は地にあらわれ、鳥ρ瞬る時、 .すでにいたり:・…)  恵美子は、パタリと本を閉ざし、ライトの鎖を引いた。なん だか、自分の気持がすっかり書かれているような気がして、い よく悲しくなった。 (お母さんが聖書なんか二んなとき、読ませるからいけないん だわ。聖書なんかで、私0気持を落ちつけようとしたって、だ めだわ。お母さんのやり方って、いつもこうなんだわ。私、い よく久滋さんの方へ、小鹿の如く飛んで行ってやるわ)と、 恵美子は考えた。 -丁劇場の師走興行は、水谷八重子を加えた新派の連中で、だ し物は月並なものばかりで、あまり面白くはなかったが、久滋 は恵美子との約束はあり、美祢子に手紙をだすといったまゝ、 そのまゝになつているので、切符を送るついでに、手紙を書こ うと思ったが、机に向うと、(二人ぎりで会おう)という言葉 を、どんな程度に解釈していゝか分らないし、従ってうつかり 何か書けないという逃げ腰とで、つい延《のび も》々になり、一週間も 経ってから、やっと切符を送ることにした。そして、プログラ ムの外に、半切《はんせつ》の原稿紙に、 先日は、御馳走さまでした。暇を作ろうと思いながら、 ちょっと忙《せわ》しい事がありましたので、お約束も果せず、.切符 の方も、遅くなりましたので、とにかく明後日の切符二枚お 送りいたします。恵美子さまも、ぜひお誘い下さいませ。委 細は、お眼にかゝったとき申し上ぼます。  と、走り書きにして、速達で出した。  当日、開場間際には、久滋も入口のところで、ウロくして いたが、切符に当る座席も空《から》なり、二人の姿もなかく見つか らないので、■一時楽屋に帰り、第一幕の終った幕間に、また座 席をのぞいて見たが、まだ空のまゝだった。 (美祢子さんは、僕が手紙を書かなかったのを怒ったのかも知 れん)と思いながら、何か気がかりで廊下をブラく歩いてい ると、婦人のトイレットの前で、今宵は和服で、すっかり大人 びて見える恵美子が、こちらが思わず、微笑みたくなるような 愛らしい笑顔で、彼の前に立ちふさがった。 「やあ! 叔母さんは。」 「こゝ!」と、化粧室を指《ゆびさ》して、 「今日お母さまが、中々許して下さらないの。それで叔母さま に、わざく私の家まで来て頂いたの。だから、遅くなったの よ。それに、叔母さま、とても御機嫌がわるいのよ。」と、可憐 に眉がひそんだ。 「それに、また悲しい事があるのよ。試験があるので、九時ま でには帰らなければならないの。」と、悲しそうにいった。 「そりゃ、意味ないですね。」 ー「えゝ、ないわ。私、齢芝居が閉場《はね》てから、久滋さんと銀座を 歩いてお茶でも御馳走して頂こうと思っていたのよ・-!-」 「じゃ、八時頃まで御覧になったら、銀座へ出て、お茶を飲ん で……」 「でも、それじゃ叔母さまに悪いわ。」  恵美子が、そういった時、久滋は、自分の傍にぴったり近 寄っている美祢子に、気がついてあわてゝ挨拶した。 「やあ。・いらっしゃい!」 「今晩は。」と、美祢子はそういったが、恵美子の(叔母さま に悪いわ)という最後の言葉充けを、耳にしたらしい美祢子の 顔は、久滋がハッと思ったほど険しかった。  におうほど美しい、<すんだ紫の地に、ぼんやり白く淡く木 蓮の花片《はなびら》の浮いたお召を着て、黒の紋なしの羽織に、さび朱に 古代模様の綴子《どんナ》の帯を締めた美祢子の姿は、ピチくし火感じ で、あたりに群がる女性の中に、一段と浮きだしているよう だった。  久滋は、やっばり美しいなと感嘆し、その険しい顔の表惰か ら、何かある危険の迫っているような気がして、いうベき言葉 を取り落して、■ぼんやりしていた。  すぐ幕の揚がるベルが鳴りだした。 「このつぎの幕間《まくあい》に、食事をなさいますか。それなら、席を 取つて置きますから。」 「どうぞ。」美祢子は、探るようなひとみで、久滋を見た。 「じゃ、この幕が終ったら、前の廊下へ来ていますから。」そ ういって、久滋は楽屋の方へ去った。  叔母と姪と、座席に並んで芝居を見始めた。舞台には、仕出《しだし》 らしい二三の人が、出ているだけだワた。 「恵美さん! あなた、久滋さんと何かお約束したの?」と、 美祢子は、小さい声で訊いた。 「いゝえ。」 「何を話していたの〜」 「あたしが、試験で早く帰らなければならないといったら :::」    一' ・「あの人、なんといったの……」 「じゃ、八時頃こゝを出て、一しょに銀座を歩こうとおっ しゃったの。」 「それかち、どんなこと,」 「いやよ。叔母さん、一々覚えてなんかいないわ。」と、恵美 子は、叔母の追及を明らかに煩わしそうに、彼女としては、珍 しいほど、険しい調子でいった。 「そんな大きい声をしちや駄目よ。」 、美祢子も、なんとなくとげノ\しくいった。二人とも、何か いらくした気持だった。  美祢子は、恵美子が、丁度自分が同じ年頃に、久滋に感じた ような淡い恋心を久滋に寄せていることが、ハッキリしたよう な気がした。久滋も、自分と、おっかなびっくりで、旧情を温 めているより、恵美子と恋愛とまでは、行かなくても、におや かなほの八\した話をしている方が、ずっと無事で楽しい事に 違いないのだと思うと、独り取り残されているような、うすら 寒い思いに、却っていら立って来て、久滋にいわれれば自分も 困ってしまう愛の言葉を、いうだけはいってもらいたいという ような欲望が、胸の奥処《おくと》に、と讐ろノ\と鳴り渡ってくるの だった。  恵美子を、自分が久滋と会う折のダシに使うつもりでいたの に、まごくしていると、自分の方が久滋と恵美子の恋愛発展 のオブザーバーになるような気がして、彼女は気が気でなかっ た。  三人で、食事をする時も、美祢子は何か楽しくない思いで、 いらだってくる神経を、抑えることに努めていたが、恵美子 は、叔母の思いなどは、少しも気にしない年の若さからくる自 由さで、頻《しきり》に久滋に話しかけていた。・ 「もう一幕見たら、私帰ってもいゝP 叔母さま。」  食事が済みかけたとき、恵美子は黙りがちであった美祢子に いった。 「恵美ちゃんのわがまゝったらないわ。……私をわざノ\迎い に行かせて……」と、もう明らかに叱るような口調であったρ 「だって、九時にお帰りって、お母さまから、堅く申し渡され ているんですもの。」 「じゃ、今日なんか来たくってもいゝじゃないの。」 「だって、私久滋さんと、お茶でも飲んでおしゃべりがした かったんだわ。」  恵美子は、もう露骨に、自分のしたい事を、主張するのだっ た。美祢子は、少し憂欝になって、 「あなたが帰るのなら、私だって帰るわ。だって、あな九を 送っていって、お母さんに手渡さなけりゃいけないんですも の。あゝつまらない。」美祢子は、苦笑しながらいった。 「じゃ、一幕見たら、お帰りになりますか。僕も、用事があり ませんから、お伴して出ましょう。」  と、久滋はごく自然にいった。  その幕が終って廊下へ出て見ると、久滋は外套を左の腕に抱 えて待っていた。  美祢子達も(クロークで預けたコートを取り出して、外へ出た が、美祢子は、恵美子のために引回されているような気がして、 (私だけ、もっと見て行くわ)と、いって見ようかと思った が、それもヒステリックで、相手が年下の姪であるだけ、大入 気ない気がした。  劇場を出て、銀座の方へ歩いた。美祢子が、機嫌がわるくな ればなるほど、久滋は恵美子とばかり話していた。  美祢子は、久滋の心の動きの中心が、どこにあるのか、だん だん分らなくなって来た。  街には、薄い夜霧がかゝっていて、赤や青のネオンが、うる みにじんでいるように見え、冬とは思えないほど、夜気がゆる んでいた。 ■「お茶でも飲みましょうか。」と、久滋は、やっと美祢子に話 しかけた。 「だって、恵美ちゃんは、急いでいるんでしょう。早く帰った 方がいゝわ。」美祢子は、ヒゝぞと意地わるをいった。 「あら、お茶を飲むくらいいゝわ。だって、まだ九時前ですも の。」 「勝手ね、まるで、叔母さんを引っばり回しているのね。」 「あらいゝわ。叔母さんは、久滋さんといつでも遊べるんで しょう。私なんか、もういつお目にかゝれるか分らないんです もの。ねえ、久滋さん!」 一一恵美子は、もう大胆に敵手《ヲイパル》らしくふるまった。 火遊び 尾張町まで歩いて来て、久滋も恵美子も行きつ甘の、足の向 き易いジャーマン・ペ1カリヘはいった。恵美子が無邪気に、 自分本位に振舞つて、メリンゲンというお菓子に、オレンジニ ードを注文した。 「久滋さん、わたし学校でどんな仇名がついているか教えてあ げましょうか。」 「そうですね。あなたなら、花の名前、そうですね、カ1ネ打 ションとでもいっているのですか。」 「うゝん、違うの、オレンジエードって、仇名がついている, の。」 「なるほど、.この味もあなただなあ。」, 「いやだあ、久滋さんまで、・そう思うの。みんなに、甘く思わ れているのね。私だって、もっと大人びた味だってあるつもり よ。でも、これ飲んでいると、茄腹の中まで、縞麗になるよう な気がするわ。」と、いいながら、チラくと時計を気にして いるのがいじらしかった。 「そんなにお母さんが、きびしいのですか。」 「そうよ。クリスチャンのガリく屋さんですもの。それに、 私お母さんの学校へ行つているでしょう。だから、お母さんは 私を模範生か何かにするつもりなんですもの。いやになっちま うわ。」 「御同情致しますよ。」 「ねえ、久滋さん今晩送って下さるでしょう。」 「あなたの若い叔母さんと、御一緒でしたら。」 「えゝ、叔母さんは、私をお母さんに引渡さなければいけない んですもの。」美祢子はすっかりクサっていた。  恵美子のために、自分の久滋に対する気持が、だんく研ぎ ナまされていくのがいやだったし、まだ小娘と思いながらも、 敵手に対するような嫉妬を感じさせられた。  小鹿のように敏捷な振舞、オレンジエ1ドのように甘美な娘 らしい性格、恵美子のよさを、久滋も今はハッキリ両手の中に 受け容れているらしい……。  それでいゝではないか。所詮自分は、人妻であるし、家庭を 破壊してまで、久滋と、どうなろうと決心しているわけではな いのだから、恵美子などを敵手として、悪あがきするなど、い かにもみっともないし、こゝで眼をつむってしまう方がよいの だと思いながら、しかし久滋をこのまゝ失ってしまったら、ま た前のような刺激のない有夫の尼さんといったような、頼《よ》りど ころのない生活を続けなければならない。せめて、久滋のよう な思い出の恋人と友人として交際《つきあ》うくらいの楽しみがあっても いゝのではないかなどと思うと、なんとなく胸がせまって来 て、今までは可愛い妹のように思っていた恵美子に、軽いなが らも一抹の憎悪が感ぜられ、恵美子を送り届けた後、久滋と二 人きりになる時が、待ち遠くいらくとするのだつた。 「あゝ、大変々々、もう九時だわ。じゃすみませんけど、送っ て頂戴ね。」  恵美子が、あわてて立ち上つたので、三人は外ヘ出た。  自動車には、美祢子、恵美子、久滋という順に乗ってしまっ たから、自然美祢子は二人の会話から離れ、渋谷までの時間を 独り、随分長いように思うのだった。  車が、恵美子の家に近づくと、恵美子は久滋に、 「すみません、ありがとう。試験がすみましたら、すぐお休み なのよ。だから、また遊んで下さいね。」と、傍に叔母なきが 如く快活にいった。久滋も、ニコくと、 「ぜひ、どうぞ。」といった。  美祢子は、自動車を二十問ばかり手前に、止めさせて、恵美 子を連れて、姉の家の門にはいり、内玄関の格子をあ廿て迎え た女中に、 「私、遅いからすぐ失礼すると、奥さんにいって下さいね。」 と、いうと恵美子が、 「叔母さん、ちょっと上って行かない2」と、傍からいうの で(久滋さんが待っているじゃないの)というふうに、眼で知 らせると、 「あ、そうか。」と、さすがに、少してれながら、 「じゃ、一さようなら。」と足音高く、かけるように奥へはいっ てしまった。  やっばり、オレンジニlドと仇名のつくだけあって、甘い子 供なのだと思うと、それを相手にしてやきもきした自分が馬鹿 馬鹿しく思われながら、車の在るところヘ帰ってみると、久滋 は車の中で、煙草に火をつけていた。 「お待たせしました。」と、いって車に乗ったが、 エンジンを かけたまゝにしてあった運転手に、 「次はどちらでしょうか?」と、訊かれて、美祢子が返事に 迷っていると、久滋は更に、 「本郷へお送りしましょうか。」と、あっさりいった。  今まで辛抱したのに、このまゝあっけなく送られて帰るな ど、およそなんのための今宵ぞと思うと、美祢子は、急に情な くなって、物をいう気も起らず、一時に疲れが出たよラに、, ガッカリしてしまった。 「とにかく電車通りへ!」  久滋は、さすがに気を利かして、本郷へとはいわなかった。」 車が、一丁ばかり走った頃、 「つまらなかったわ、今日。」と、美祢子は、とうく本音を 吐いてしまった。  「なぜです?」 「だって、あなたとちっともお話が出来なかったんですもの。」 -久滋を見た美祢子の眸には、人妻にはふさわしくない矯笑が うかんでいた。  渋谷の電車通りへ出る迄、二人とも黙っていたが、電車通り へ来ると、運転手に訊かれる前に、行先を定《ぎ》めなければならな かった。 「まだ九時四十分だわ。」  美祢子は、ダイヤの粒石を周囲にちりばめてある、可愛い腕 時計を見ながらいった。  美祢子の言葉にかくされている意味を、それと察したよう に、久滋は、 「じゃ、いつかのように、神楽坂へ寄ってお茶でも飲みましょ うか。」と、いつた。 「そう! そうしてくださるご美祢子は、自分でも気がつく ほど、下手《したで》に出ていた。 「神楽坂へ!」  久滋は、運転手にいった。運転手は、うなずくと、外苑の闇 め方へ、ハンドルを切った。  いいたいことは、美祢子の胸に、温れるほどに、たまってい たが、みんな大きい声ではいえないデリケiトな話ばかりだっ たので、美祢子は久滋に、かるく身を寄せただけで、黙ってい た。  久滋も、煙草の煙が、・車内に立ち軍《こ》めるのを気にして、扉《ドア》の 上の窓を開けたり、またそれを心持ち閉めたりしながら、口を きかなかった。  神楽坂下で、車を止めると、二人は連れ立って坂を昇った。 冬の夜ではあるが、まだ十時前なので街はかなり賑やかだっ た。 「紅屋になさいますか。」久滋は歩きながら訊いた。 「私《わたし》、果物を食べたいの。田原屋がいゝわ。」と、いって…二 間歩いてから、「下の田原屋にしましょう。静かでいゝから。」 と、美祢子はつけ加えた。  果物を置き並べた台の間を、すりぬけるように通って、二人 は奥へはいった。  硝子戸が多く、三和土《たたき》の上に椅子を置いてある室は、寒々と していたが、お客は私立大学の講師らしい男が、隅の卓子《テエプル》に向 い合って腰掛けているだけだった。  二人は小さいストーヴに近い卓子に腰をおろして、美祢子の 好みで、紅茶とメロンとを、注文した。  美祢子は、華奢な小さい手で、スプlンを巧みに動かしなが ら、メロンを食ベ欝わると、じっと久滋の顔を、まともに見詰 めながらいった。 「久滋さん、私の事一体どう思っていらっしゃるの?」  久滋は、先刻からの美祢子の態度で、この程度の難問は、予 期していたらしく、別にあわてはしなかったが、さすがに飲み かけていた紅茶のコップを下に置くと、 「さあ、何と思っていたら、一番いゝんでしょうか。それは、 僕一人の気持で定まることではないと思いますが……」と、反 問した。久滋の反問を受けると、美祢子は鵬鵡返しに、 「でも、まずあなたの齢気持を欝訊きしたいのよ。」と、いっ た。 「そんな事|定《ぎ》まっていたんじゃありませんか。よいお友達にな ること。……あなたの趣味のお友達になること、映画や文学の お話の相手になること、そういうお約束じゃなかったのです か。」久滋は、本心は知らず、真面目くさって、冷静にいった。 、「あゝそう, たかしに、そうだったわねえ。それでよかった 筈なのね。……じゃ訊くわ、あなた恵美子をどう思っていら しゃるの。」 「あはゝゝゝ。恵美子さんなんか、どうも思っているもんです か、驚いたなあ。あはゝゝゝ。」久滋は、快活に笑いつfけた。 「そう。だって、あなたは、恵美子と話している時の方が、私 と話しているときより、楽しそうね。今日なんか、恵美子と話 す、五分の一も私と話して下さらないんですもの、私まるであ なたと恵美子とのオブザiパ1か、何かのような気がしたわ。」 「それは、あさはかなあなたの御観察ですよ。その人の前で、 自由に口が利けなくなると愛している証拠だ、とさぇいうじゃ ありませんか。」 「いやだわ。そんな嬉しがらせなんかおっしゃって、あなたも 人がわるくなったわ。私、そう思うんですわ。恵美子なんか私 よりずーっと時代が新しいわねえ。こだわらないで勇敢で、自 分本位で、私とあなたがどんな関係でいるかなんていうことは 全然問題にしないんですものね。今に、三人で会っていると、あ なたはすっかり、あの子にさらって行かれそうな気がするわ。」 「御冗談でしょう!」と、久滋は一口にいいすてたが、美祢子 にいわれるまでもなく、そうした不安は、彼の心にうごいてい ないでもなかった。・ 「叔母らしく、昔の恋人を姪に譲るなんて、どう,」 「そんなに、いゝ加減に譲られるほど、僕は個性のない人間で はありませんよ。それに、第一個性のない恋愛なんかには、 飽きノ\しましたよ。」久滋の瞳は、旧い情熱が忽ちよみが えったように輝いた。 「いうだけの事はおっしゃるのね。」美祢子の顔も、妖艶と ■いってよいほど、なまめかしく美しく見えた。 「、う充打じゃありませんよ。」  「そう。じゃどういう事になるのでしょうかしら…1-でも、私 も駄目ね。恵美子と、あなたとが親しく話をしているのを見る と、取り乱すなんて…:.」  それは、そういう言い方による求愛の言葉でなくして、たん であろう。久滋の心には、あらゆるものを焼きつくすような情 熱が、湛りわいた。  「明日、お暇がありますか。」しばらくしてから、久滋はいき ・なり訊いた。  「いつだってありますわ。」美祢子も、新しい興味に、胸を躍 らせたがら答えた。  「でしたら、横浜ヘフランスの、.M・Mの汽船が来ているんで すけれども、一緒に見物にいらっしゃいませんか。」と、久滋 はごく淡々として話した。  「そうおーお供させて頂こうかしら……面白いの?」  「たいして面自くはありませんが、会杜の自慢の客船なので、 見物に来てくれという招待状をよこすのですよ。船の中でいゝ 香水が、安く買えるかも知れませんよ。」  「そう、行?て見たいわ。」  「ついでに、海岸通りから地蔵坂ヘー御存じですか、あの外 人墓地のあるところですよーあの横浜独特の住宅地をドラィ ヴするのも悪くはありませんよ。」  「そう、嬉しいわ。」美祢子は、自分ながら恥かしいほど、嗜 嗜となって(久滋を見やると、  「じゃ、どこで待ち合せましょうか。銀座の千疋屋がいゝで しょう。午後一時から半までに、ね。ようございますか。」  「えゝ。」と深くうなずきながち、久滋が自分を連れだして、横 浜辺にまで、遊びに行くなどということは、久滋の自分に対す る気持が、それだ廿探くなって、ることを示すもので、恵美子 0事など問題でないのだと思タと、忽ち心が明るんでくるの だった。,・  良人の事も、明日横浜へ行ってから、どうなるかなどという ことは、、少しも、頭に浮んで来なかった。た間一日、久滋と一 緒にいられるという新しい喜びに、美祢子の心は傾きつくして いた。 炉  十一時近くなって、二人は田原屋を出た。肴町のほうへ歩き ながら、久滋がいった。 「今日は、火事がなかったから、ゆっくり騎話が出来ました ね。」 「いやな久滋さん。もう火事があったって、私この前のように は、あわてないわ。そんな皮肉を躰っしゃるのなら、私あなた をアパートまで送って行ってあげるわよ。」 ,「いや、僕がお送りしまし{う。」 「いやだわ、滝山は、なんともいわなくっても、近所の人に見 られるのがいやだから、私が送って行ってあげるわ。」 「順路じゃありませんし、レディに送られるという法はありま せんよ。じゃ本郷三丁目まで送つて行って、あすこで僕は降り ましょう。」 「そう。じゃ、そうして頂戴!」  美祢子は、長い単調な生活の後に、初めて感じる身を焼くよ うな興奮のうちに、五分でも十分でも長くいたいような気がし た。.,  自動車に乗ったとき、二人の手はどちらからともなく、バッ ク、ミラーを気にするような位置で、握り合わされていた。 出 来 事  家の前で、円タクを止めて、潜門《くぐりもん》を入って、小砂利の上を踏 むとき、美祢子は、初めて人妻としての反省で・恐ろしい呵責 が心のヶちに襲って来た。今宵こそ初めてたすべからざる事を なしたように思えたし、越すべからざる培を越したように思っ た。  今迄は良人にすまない事は、何一つしているとは思わなかっ たが、今宵は余計な事を二つした。横浜へ遊びに行く約束は、 不謹慎であったし、手を握り合ったことは、それだけで、非難 されても仕方のない事だつた。  しかし、こんな刺激のない、退屈な生活をしてい呑んだも の、あれ以上に進まなければ、少し危険性を伴った火遊びくら いしても許してもらえるのではないかしら。そう心で弁解しな がら、今すぐには良人の顔を見ることが恐ろしいような気がし て、良人がまだ帰っていてくれないか、でなかったらとっくに 帰って寝てしまっていてくれたら、どんなに気安いだろうと 思った。  美祢子の帰ったのを知って、出迎えた女中にいつになく緊張 して、 「旦那さまは,」と、訊いた。 「先刻《さつき》、お帰りでございます。」 「そう、もう、お休みになった?」 「いゝえ、まだお居間にいらっしゃるようでございます。」 .「そう。」と、美祢子は、さりげなくいったが、しかし今日ば' かりは、良人と顔を合わせるのが、なんとなく不安で、襖を開 け次がら、・ 「た讐今。」と、声をかけながら、はいったが、ふと見ると、 良人は十畳の居間の片隅にこさえてあった炬燵に洋服のまゝ 当って、顔をやぐらの上にのせたまゝ、スヤくと寝いってい た。  恐らく、.美祢子を待っているうちに、寝いってしまったので あろう。 「まあ!」  美祢子は、急に気安い気持になって、良人の傍にいざり寄る と、 「もし、もし、こんな所に器休みになりますと、お風邪を召し ますわ。もし、あなた!」と、二三度揺ったが、昼の疲れに起 きればこそ、 「うむノ\。」と、うなずくだけで、容易に眼を開けようとは しないのだった。 「爵休みになるのなら、お床の中へお入り遊ばせよ。もし、も し。」 「うむ。」頷きながら、良人の眼は開こうとせず、美祢子が上 衣を脱がそうとすると、可愛い坊やのように右によろけ左によ ろけていたが、やっと眼をかすかにあけると、 「あゝ眠い! 眠い!」と弦いた。  美祢子は、顔を近々とさし寄せて、チョッキを脱がし、ネク タイをほどいて、ズボンつりをはずして、ワイツヤツを脱が せ、次の間から寝衣《ねまき》を取って来て、着せてやったが、良人はま だそのまゝの姿勢で、動こうとはしなかった。  美祢子も冷え切った手足を、炬燵の中にそっと入れて、その まゝ暫く、ジッとしていると、家の中が、しいんと静かで悲し くなってくるのだった。折から、十一時半を知らす時計が、- たった一つわびしく鳴った。  良人は、.かほど迄に、自分に安心しきっているのか。良人の 心は、子供の心か、でなかったら、神の心である。陰も曇りも 宿さず、いつも澄み切っている。こんな良入を欺くのは、いや しむべき事であり、なし得ないことである。やっばり中止しよ うか。明日の約束は!  美祢子は、そう思うと、さえム\と、 「あなた、お寝間へいらっしゃいません。ね、ズボンをお脱ぎ 遊ばして、さあ!」と、いゝながら上半身を持ち上げようとす ると、 「ど、どうしたのさ。自分で脱ぐよ。」 「お眠いんでしょう。だから、転寝《うたしね》をなさらないで、本式にお 休みたさいませよ。」 「うん、うん、疲れちゃっ■た。今日はドイツの雑誌へ寄稿する 論文をかいたので。」と、いゝながら、.両眼は閉じたまゝである。  美祢子は、抱くようにして、良人を立ち上らせると、良人が ズボンを足で踏み脱ごうとするのを手伝って脱がせると、 「あーあ、あーあ。」と、欠伸《あくび》と溜息を、ゴチャくに、やゝ               、のび 青ぶくれた顔をしかめて、大きな伸をすると、細帯をらかん で、やっと立ち上った。 「靴下はー」 「もう、いゝよ。」と、子供のようにニンマリ笑って見せるの を、  「いけませんわ。靴下は、お脱ぎにならないと、持《もち》がとても、 悪いんですもの。」と、足にすがるようにして、靴下止をはず してやった。まだ、左の靴下は、脱げないまゝ、つぎの部屋へ 行こうとするので、 「あなたイ.」乏^呼び返すと"やっと敷居に、■靴下をすりつけ るようにして脱いで寝室へはいると、ドタリと横になる音がし 九。美祢子は、自分が着換をする前、ちょっと炬燵に当ってか ち、と思って手足をいれていると一三四分と経たないうちに、 もう軒の声がきこえて来た。  結婚以来「,叱られたことも一度もない。疑われた事も、曽て ない。一愛していてくれる事は分っているのだが、荘漠として、 捉えどころのない良人の事を、今更のように考えさせられた。 「美祢子、美祢子、おい美祢子。」  枕元で、そう呼ばれて、美祢子は薄眼をあけた。  昨夜、滝山はあんなに眠がっていたのに、今朝はとっくに起 きたと見え、もうすっかり洋服に着替えて枕元に立ってい た。,,  美祢子は、良人を見ると、(一体、もうそんな時間かしら) と、あわてて上半身を起すと、 「いゝよ。いゝよ。寝ていてもいゝよ。僕出かけるよ。」 「すみません、何時ですの。」 「もヶ九時近くだろう。」  美祢子は、昨夜良入のこと、久滋のことなど、とつおいつ思 案しながら、二時の鳴るのを聞いてから、やっと眠ったので、 寝すごしてしまったのである。  ちょっとの間に、胸元や裾前を、きちんと掻き合わせて、滝 山に並んで立つと、 「私、今日ちょっと、出かけますけれど:…晩少し遅くなるか も知れませんの。」, 「うむ。音楽会……?」  そのまゝ肯いても、1その日音楽会があるかどうかなど一 切無関心た滝山であるし、帰って来ても、面白かったとも訊く わけでもないからーかまわないのであるが、さすがに美祢子 は、ち寸っと顔をそらしながら、. 「いゝえ。」と、いった。 「僕は、御夕飯に帰らないから、遅くてもいゝよ。今日は、寒 いから、風邪を引かないように、気をつけなさい。」と、いい ながら"早くも帽子を被り玄関の方へ歩み去ろうとする。 「ちょっと、・横浜へお友達と……」 、「うむ。うむ。」と、横浜だろうが、どこだろうが、】切かま わないような、面倒臭そうな返事をしながら、玄関の方ヘ急い だ。-  もう美祢子の表情には、ためらいの色も消え、かすかな微笑 さぇ浮んでいた。  寝衣《ねまぎ》のまゝ良人を送りだして、女中にお風呂を焚くように命 じ、ぽんやり茶の間の火鉢に手をかざしていたが、良人の心 は、常に九分まで研究室に行っているのだ。自分のことなん か、家を一歩出れば、忘れてしまっているのだ。自分を妻とし て、.愛しているよりも、母か妹かのように思っているのだ。あ の寛《ゆる》やかさは、肉親に対する愛情である。  ほんの少しでもいゝから、自分を警戒してくれたら。昨夜《ゆうべ》で も一言でもいゝから、出先をでも訊き質《たゴ》してくれたら。これで はまるで、自分の心というものに、全然無関心である。これな ら、私がどんな事をしようと、良人にさえ迷惑をかけなけれ ば、良人をその渦中にまき込まなければ+十良人に対する自分 の態度をさえ変えなければ、それでいゝのだとさえ美祢子は考 えた。  十時半。湯上がりの柔肌には、お化粧がたくみに、よくのび た。  お初着《はつぎ》の、焦茶色に黄色の端切を使ったクレープ・デシンの アフターヌーンを着て、姿見の前ヘ立つと、単純平凡で無趣味 なー1女の美しさや着物の好みなど絶対に分らない滝山が、自 分を独占するなど、今まで分不相応な幸福を味わっていたのだ とさえ、思いあがっていた。  午後一時頃、銀座の千疋屋へ行くと、もう先に久滋が来て 待っていた。 「私の方が早いつもりでしたのに、あなたの方が、先でしため ね。お待たせしてすみません。」と、いって微笑しながら、さ し向いの席につく美祢子を、久滋はなんとなくてれ臭そうに、 見あげながら、■■ 「僕用事がなかったので、こゝに来てぼんやり、人通りを眺め ていたのですがーまだ十分ばかりしか経ちませんーあなた 何か召し上がりますかーそれと㌔向うで……」 一「えゝ、あちらへ行ってから、船でいた間ければ船で。でな かったら、ニュl・グランドでも……」 「そう、そめ方がいゝでしょうね。じゃ、すぐ出かけまし寸う か。」と、久滋はいうと、給仕の少女を呼んで、勘定をすませ ると、■外へ出た。 ■外は、風は寒かったが、うらゝかな日和であった。  新橋の方へ、わずかに歩いてj銀座パレスのわきで、客待ち を、ているタクシ■の中から、新七いデ.ソートを選みだす と、まず美祢子をすゝめて乗せた。 「横浜迄-「向うで、待ってもらう之して、一時間二円くらい の割で払えばいゝだろう。」  久滋は、乗ってから運転手にいった。 一.帽子から、オーパーコート、下の洋服もすべて同じ色の濃い 茶色でリュゥとした久滋の風采は美祢子と共に水際立って、よ く似合の若夫婦のように見えた。  昨夜の甘美な別れが、ほのかな尾を引いて、.二人とも、まだ 美祢子の娘時代の、たのしい逢瀬のように、心がのび<と明 るくJなっていた。  大森、蒲田、六郷の橋(晴れた青空の下に、キラノ\輝いて いる田園の風物も眼にさわやかに、デ・ソートは、波乗りをし ていろように、二人の身体を揺りあげ、揺りおろして、坦々た る国道を走っていた。 「僕は(再びあなたの力に、征服されたという形ですが、こう していると、昔のことがいろく思いだされて来ますね一」 ・「えゝ。私は、後悔していますの。」 「そう。あなたは、■後悔すべきですよ。あなたがいけなかった のですから……」  久滋に、そうハッキリいわれると、美祢子は、悲しくなって 黙ってしまった。  鶴見橋を渡る。 「寒くはありませんか。」と、久滋は(あたかも自分の物のよ うに、やさしく美祢子をいたわった。 ・生麦《なまむぎ》から、車はいよく横浜の街へ入った。  桟橋の近くまで、車が入るのを美祢子が少し歩いて見ようと いいだしたので、少し手前で車を降りてハニ人は並んで税関の 方へ歩きだした。  なんといっても、:十二月であるから、海の風は膚《はだ》を噛んだ。 波のうねりは、鉱物のよヲに冷たく重く、.日に光りながら、 ジ+ブリくと汽船の巨体を嘗めていた。 「相当立派なものですなあ。」と、クリ1ム色に塗られた船 体、赤く塗られた船首や、船室の形の変った窓などから、あた りに温れている異国的感じに、二人とも晴々となり、久滋は美 祢子を後にして、梯子を昇って行くと、■少しばかり出来るプラ ンス語で、ボーイに案内を頼み、デッキに出てから理髪所のあ る方に降りて、そこで美祢子は化粧品とハソカチーフを買っ た。  それから無遠慮に、船客にでもなったような気持で、美しい サロンでしばらく休憩Lてから、食堂に行き、ボlイに軽い食 事を命じ、フラシス船自慢の葡萄酒を注文した。 ・窓には空の青、海の青だけしか見えず、贅沢で清潔な食堂 に、白人のボーイ、とても横浜にいるという感じはなかった。  ヒゝが、どこか外国の港であり、しかもこんな悠々とした気 持で、久滋と二人で食事をしていられるのだったらと、美祢子 は思いながら、プォIクを動かしていた。  久滋とても同じ思いで、冗談のように(この船が、このまゝ 動きだして、フランスヘでも行ってくれゝばいゝなあ)とい騎 うかと思った。しかし、そんな事をいえば、たとい冗談らしく いっても、(滝山氏からあなたを奪ってもいゝか)という、意 味深い謎ともなり忽ちどういうふうに発展して行くかわからな いので、久滋は口にだすのをよしてしまった。  万葉集にある、 ー・人も恥き国もあらぬか吾妹子《あぎもニ》と携《たずさ》いゆきてたぐいておらむ  という歌が不意に喉元まで、こみ上げて来て、「下らんく」 と、彼は自らを制するのだった。  騎互いのそんなふうな沈黙は決して不自然でないのみか、不 思議な感度のあるもので、瞳を通じ微笑を通じて、心が互いに 相寄って行くものである。  だから、船を降りて待たしてあった自動車に乗り、海岸通り を地蔵坂まで行き、坂の上で車を捨てて、ぶらノ\歩きだすま で、二人はまだ物をいわなかった。なんの繋もなく、相愛して いる若者達のように、お互いに楽しげな表情をしていたが、ど ちらかが、口火を切って、腹の底をいい合えば、忽ち苦しまな ければならないような性質のものだった。 「久滋さん、なんだって黙っていらづしゃるの,」 「あなたこそ、御自分のことは、なんにもおっしゃらないで、 ,僕ばかりに何かいわせようとなさる。欲張りで、賛沢ですよ。」 「そうかも知れませんわ。でも、そうだったらいけませんの。」 媚のある返事がいとしかった。 「いけなくはないけれど、ずるいや。」と、子供のように、肩 の円みで久滋は、美祢子の身体を押した。  左手《ゆんで》に小さい谷を隔てて、フランス領事館がある。途の両側 に植えられた桜の若木が、寒そうだった。  坂を上って行った左側の建物に、天気予報の、風に千切れた 旗が出ている。白の四角(明日も晴)。  きよらかに静かな街である。久滋は煙草に火をつけて、歩調 をゆるやかにした。  外人墓地の白の十字架の形をした碑、円形の墓石。さわやか に晴々とした静寂。鉄柵によって、イ人は暫し立ち止った。  墓石には、それ八\愛の記念とか、愛の記憶とかいう言葉が 刻まれているが、その墓の一つに、生々とした薔薇の花が飾ら れているのを見ると、その花やかさが、こうした場所では、一 層しんと周囲の寂しさを深めるものである。  墓の下の谷、谷を隔ててほのかに見える海。そこに、先刻 乗っていたフランス汽船があざやかな建物のような姿を浮ベて いる。、  「いい所でしょう。僕は、時々独りで、こゝへやって来ます よ。」 ・「まあ! お独りでーそれは、どうだか怪しいものですわ。」  「じゃ、女性をでも連れてくるというのですか。こんな景色の いゝ所へ女を連れて来て、この景色の醸しだすリリシズムで、 相手をしんみりさせて、その効果を狙おうなんて、そんな意識 的な恋愛なんかした事はありませんよ。今日は、特別です。」 「特別!」 「えゝ特別に、淡々としてあなたに、こゝの珍しい空気を吸わ せようと思っただけ……」 「意地の悪いことを、おっしゃるのね。」 「だって、そうじゃありませんか。今頃、美祢子さんをしんみ 力させても、手遅れなんだから、僕たるもの苦しくても、淡々 とせざるを得んでしょう。」 「私が、しんみりしたら、どうなりますの。」 「だから、お互いにあんまり、しんみりとしないように、お喋 りをしようじゃありませんか。」 ・久滋は、気軽くいって、また歩きだした。  旧い教会堂、垣の低い縞麗な洋館がいくつも続いている。 フェリス女学校のある片側には、兎でもいそうな原が、所々に 在って、海が青々と眺められる。,  久滋は、コツくと靴音を刻みながら、 一「ほとんど(外人ばかり住んでいる街ですから、こんなに清潔 な豊かな感じをするのですけれど、われわれ日本人には、散歩 はしたいけれど、住んでみたいとは思いませんね。」 {そうおj私は住んで見たいと思いますわ。高台で、気持がい いじゃありませんか。」 「それじゃ、滝山さんにお話しして、こゝに別荘をお立てにな るんですな。」 「ひどい方、今滝山の事なんか、おっしゃって! 意地悪よ ……少し、寒いわ。」と、美祢子は、長い睡毛の中に媚をたゝ えて、久滋に少し身を寄せた。 「寒い?」と、久滋は不安そうに訊きかえして、人通りも無い 街だし、引きよせ七抱きかゝえてしまいたいのを、グッとこら えながら、横浜へなんか来るのではなかった。こゝは曲者《くせもの》だ ーもう切りあげなければーと思った。  美祢子の瞳が、今日ほど理智的な光を失い、た父情熱だけで 輝いている事はなかった。  久滋と正面に向い合ったら、美祢子はそのまゝ花の崩れるよ うに、彼の胸の中に落ちこんでくるに違いないという感じがし た。  寒いという美祢子を、久滋は地蔵坂のはずれにある植木園の 温室の中へ連れて来た。  広い温室の硝子戸は、湯気で曇っている。 「そのまゝでいらっしヰると、出てから風邪を引いてしまいま すよ、外套を脱いでいらっしゃい。」  美祢子は、その細かい注意をうれしく、軽やかなアプタヌi ンだけになると、青々と葉を繁らせている熱帯植物の中に潜っ て行った。 「これは、なんて樹でしょう。」 「ケンシス。」 「これは……」 「なんといったか忘れた。こゝの男に訊いて御覧なさい!」 「いゝの。あなたが御存じでないなら、私も知らないで置く わ。」  ノビウム、フリージア、力ーネーション。葵、薔薇。丁度腰 の高さの台の上に、限りもなく並ベられた鉢の間を、クル〈 と、時々、頬を寄せて花の匂を嗅ぎながら、久滋に心から楽し げな微笑を送ってよこす美祢子の振舞に、久滋はうっとりと我 を忘れていた。硝子戸に近寄って行って、■その曇りをふき、 .一「御覧なさい。あすこに見えるのが根岸の海ですよ。あの突き 出た丘に競馬場があるんですよ。」と、美祢子を招けば、近々 と顔をさし寄せてきて眺めながら、そっと久滋の肩にかけた手 はあやしく震え、つく呼吸《いぎ》さぇ艶やかにはずんでいた。  暮近く、そこには人影はなかった。どちらかの、どんな身動 きでも、二入を火のような抱擁へ誘ったであろう。だが、二人 とも紙一重のところで、踏み止まることが、もっと刺戟的であ ることを知っていた。 ,植木園で、紫の細かい花のびっしりと咲いた、ユリカの枝を 二枝ばかり買って外へ出ると、もうすっかり夕暮になってい た。  人通りの少い街のわびしさは、一層|寂《さぴ》しさや寒さを感じさせ るのだった。 「どうなさいます。横浜で支那料理でも召し上りますか。それ とも、東京へ帰って三その方が落着くでしょう。」 「東京へ帰って、どっか落着いたところで……」と、美祢子は いった。 「じゃ、車に乗りましょう。」と、二人は自動車の方へ歩いた。  ユリカの花の中に、噸《あご》を半埋《なカぱ》めて、車室の隅にひそやかに腰 かけている美祢子のやさしさに、久滋も今は、彼女が人妻であ ることを忘れかけていた。  日が暮れてから、■寒さは急にきびしく、運転台の横窓も閉め させたが、スピードが加わるごとに、冷気が身に浸みて来る感 じだった。二人、ぴったりと寄り添っていた。  車内の薄明りに、美祢子の顔が別して美しく思われて、久滋 はだんノ\なやましく(口数が少くなった。  美祢子も、あまり話さず「自動車の窓を、しきりなく去来す る両側の街の燈を、うつゝなく眺めていた。 .頭光《ヘツドヲィト》の照す以外は、国道は暗く事ありげに光っていて、,あ わた間しい宵闇だった。  すれ違う自動車の光で、久滋の顔が時々青白くパッと輝い た。二人は、昨夜と同じように、手を握り合っていた。  美祢子は、今日は楽しかったと思い、これからも楽しいであ ろうと思っていた。  「あなたは、レコIドを沢山,持っていらっしゃるんでしょ う?」と、美祢子が訊いた。  「それは、あなたの方が持っていらっしゃいますよ。僕は、ブ ランスウィックのエレクトロラを買ってあるんですが、レコi ドは、べートーヴェンは、.二三組しかないし、バッハ、ドビュ シーなど、五六枚つ間きの組曲が十組くらいありますかな。そ の他は、ジャズが少し……」  「聴かして頂けるかしら?」  「今夜ですか。卜「どうぞ、しかし僕の部屋は乱雑で……」  .美祢子は、久滋の部屋を見たかったし、持っているユリカの 枝を久滋の部屋に飾りたかった。食事をすましたら、久滋のア パートヘ寄ってーきっと、乱雑だなどといっても凝り屋なん だから、書棚、長椅子などにも、この人の趣味が出ているに違 いない、壁には、どんな絵をかけてあるだろうか。美祢子は、 久滋を隣りに置きながら、その部屋のあたゝかい空気と、その 部屋で二人落ちついてから……の幾情景を空想していた。  車は、四十|哩以《マィル》上の速力を出していた。  先刻渡った橋は、・鶴見橋だろう。こゝは川崎か蒲田か、六郷 -の橋は渡ってしまったかしらと、いつまでも同じような街道の 左右を見廻している時、左の人道から十二三の女の子が、つつ と走り出して来た。  「あぶない!」と、心に思つた刹那に、眼の前にその子の着て いる着物の模様までが、鮮かに浮み上ウた¢  運転手の肩が、ハンドルにしがみついた。自動車は、右に往 来の真中ヘググッと急力ーヴした。  美祢子は、その瞬間、もっと恐ろしいものを見た。それは怪 物のように双眸を輝かした巨きいトラックが、彼女に乗りかゝ るように突進して来た。 「危い! 美祢子さん!」と、ひきちぎれるように久滋が叫ん で、彼女をかばおうとしたが、既に遅く、パリノ\という硝子 の裂ける音がして、急激な震動で、身体が毬のように飛び上る と、どこかへ打ちつけられ、美祢子は気を失ってしまった。 ■人 間・以 上  レコードをかけかえている久滋の姿。チェリーの灰がズボン の膝に飛び散っている良人の姿。久滋の靴の音。フランス汽船 の梯子《タラツプ》。植木園で見た花のいろノ\勺花のに溢い。  美祢子の意識が漸く帰って来たのであるが、■時も所も、夢か |現《らつエ》かも、..分ちがたかった。  彼女はウッスラと眼を開けて見ると、自分の顔のすぐ上に、 ニンマリと子供のように笑っている滝山を見出して、自分は自 分の家の寝床に寝ているのだろうかと、瞬間頭の中で、思考が 混迷してしまった。 「もう、大丈夫だよ。ちょっと気絶しただけなんだよ。どこも 怪我はしていないんだよ。」  滝山にそういわれると、彼女の頭の一角が、みるぐハッキ リ冴え返りて来て、今日一日の事が思い返され、,恐れと恥と で、身体中の血が、一散に蹟の方へさし上ってくるのを感じ た。 (久滋は2 久滋はどうしたのであろう!) 美祢子は、不安な瞳を、・良人から身の周りに移し始めた。 |紛《まぎれ》もなく病院の一室である。自分は、ベッドの上に寝てい る。傍の椅子に、滝山は、ホッと安心したといったような欣ば しそうな微笑をたゝえて腰かけている。 (久滋はP)  美祢子は物問いたげに、悪戯《いたずら》をした子供のように、おどノ\ した瞳を良人に向けると、 (あのう……)  と、声を出そうとしたが、声は嗅《しわが》れて、物をい躯うとした刹 那、急に胸の痛さを感じた。  滝山は、、美祢子の何を訊かんとしたかを察した如くj 「お連《つれ》は…1・・久滋君といったかね。かなり怪我をしたが、生命 には万々別条ないから安心しなさい。」  久滋君といいながらも、恨みも疑いもはさまない、ふだんと 変らないやさしい言葉であった。美祢子は、救われたように思 いながら、 「こゝどこですの,」と、訊いた。 「京浜国道の共立S病院だよ。川崎だよ。物をいうと、胸が痛 むだろう。ジッとしていなさいよ。わしは、ちょっとお連れの 容態を見てくる。向うさんでも、君の事を心配しているらしい から、気がついた事を知らせてくる。」と、相変らず、背を猫 のようにか間めて、落着いた歩調で、出て行った。  ひとりになると、さまハ\な想念が、彼女を苦しめ始めた。  滝山は、一体今日の出来事を、なんと解釈しているだろう。 恐らくなんとも思っていないらしい。一二度診察した事のあ る久滋を覚えているかどうか。それは覚えているかも知れない が、その青年と自分が、同じ車に乗って遭難したことをなんと 思っているのだろうか。  それも、恐らくはなんとも思っていないらしいだけに、美祢 子の心は却って、暗く恥に震えだした。  良人は、二十分ばかりして部屋へ帰ってくると、 「いま、あの人の身体を診て思いだしたよ。久滋さんって人 は、小河原君の紹介で、二度ばかり、僕の家に来たんだね。そ れで、君は知ったんだねえ。」  美祢子は、そういわれて、ハッとしながら小さくうなずい て、良人の顔を見あげた。が、滝山の表情にはた間、医者とし ての深い関心があるばかりで、良人として妻を疑い、耐えがた い嫉妬や、不快などの煩わしい陰は、針の先ほどもたいのだっ た。 「久滋君の耳の後《うしろ》の傷は大した事もないが、腹部が単なる打撲 傷じゃないらしいんだよ。内部に傷害を受けているらしいか ら、今夜の内にでも、帝大へ連れて行って、内臓の手術をしな ければいけないらしい。」 「内部傷害なんて、危険なんでしょう。」 「うむ。余病が起ればね。しかし久原君に頼むから、大低大丈 夫だよ。お前起きられたら、あの人の傍へ行って見て御覧! お前が、.死にでもしないかと思って心配しているらしいか ら。」  全く滝山の心の良さは、際限がなかった。美祢子は、良人の 善良さにじりく圧しつぶされて、物がいえなくなった。  しかし(久滋の傷は、案外重いらしい。もしかしたら、滝山 は、自分と久滋とを不貞な妻と、その相手として、睨んでいな がら、表面は冷静を装って、じりくと、いじめようとしてい るのではなかろうかと、もう一度支那人のような、荘漠とした 良人の顔を、涙の眼で見あげた。すると、滝山は、 「なんです、涙なんか盗《こぽ》して。何も心配することはないよ。お 前の方は、打撲傷は軽いし、もう起きてもいゝくらいだよ。そ れ!」と、近寄って来て、脇に手を入れて、半身を抱き起して くれた。  美祢子は、シュミーズだけになって、胸に湿布が巻かれてい るのを見て、あわてゝ、. 「これ、・あなたがして下さったのP」と、訊いた。 ・「いや、こゝの病院から、電話がかゝって来て、驚いて駈けつ げた時にもう、すっかり二人とも、,十分手当がしてあったよ。 こゝの外科部長が、一昨年まで、久原外科の助手をして,いた し、万事、都合がいゝんだよ。お前の傷は、なんでもないの で、安心はしていたが、お前が気がつくまで、待っているの は、長くてつらかったよ。自分が、医者だという事を忘れて、 不安になるものだよ。」 「すみません。御免なさい!」  美祢子は、後《うしる》から良人に抱えられた姿勢で、ほろく泣きだ した。  洋服を着て、靴下をはいて、靴下に血が二三点乾いている のを見ると、久滋の血かも知れないと思うと、動悸が烈しくな り、胸の痛みと共に心も痛んでくるのだった。  美祢子は、良人に援けられながら、すぐ隣りの久滋の病室ヘ 入って行った。ー  ー美祢子が見たものは、白い枕の上に、痛々しい繍帯を巻きつ けた青|槌《ざ》めた顔だった。  これが、つい先刻まで、あんなにも楽しく語り合った久滋だ ろうか。美祢子は、恐ろしさに手足を震わせながら、彼のべッ ドの方へ近づいて行った。  久滋は眼をあけて、美祢子を見ると、微笑んで見せようとし たが、その試みは、悲しそうな渋面に変っていた。  美祢子が、久滋のベッドの傍《そぱ》の椅子に、腰をかけると、滝山 は、 「部長と打ち合せをして来るから。」乏、無造作にいって部屋を 出て行った。良人が出て行くのを待って、美祢子は、 「お痛みになりますの?」と、訊ねた。 「なに、大した事はありませんが。」と、久滋は首を動かさ ず、極めてかすかに、美祢子の不安と恐怖とを鎮めるように いった。  美祢子は、久滋を愛していたから、様変りのした久滋を見る と、その刹那良人のやさしさを忘れたような、大きな悲哀に打 たれて、その頬には、涙の糸が、ズルくと引かれた。 「あなたの御主人が、親切にして下さるのでーとても辛い。」 と、久滋は両眼を閉じて、しかし、かなり明るい調子で眩い た。その言葉から、美祢子は、久滋の確かな神経と、いつもな がらの素直な心の呼吸を感じて、心が鎮まって行った。  部長と滝山が、入って来た。 ■「帝大で、今夜中に久原さんに、手術が必要なれば手術をして 頂くように、お願いして、病室も準備させたから、これから久 滋君を寝台車で連れて行くことにする。僕は、久滋君と一緒に 行くから、お前はこゝで朝まで静かに寝ていらっしゃい。そし て、夜が明けてから、家へお帰りなさい。今、家の女中に来る ように電話をかけておいたから。」と、滝山は美祢子にいいき かせた。  久原博士といえば、内臓外科では、並びたき名手とLて、海 外にまで、その名を知られている国手《こくしゆ》である。 美祢子は、平素ぼんやりしていながら、いざとなると、万全 の心づかいをしてくれる良人を、ありがたく思った。  滝山は、また部長と、ドイッ語まじりで、低声で話し始め た。この真夜中に、久滋を送るについて、手当に関しての相談 らしかった。  久滋は、滝山から美祢子に、眼を転じて、もろくの思いの 涌き上っている自分の心底を、恥しげな微笑に託して、伝え ようとするのであった。  美祢子も、(どうぞ。安心していらっしゃい。万事大丈 夫!)と、そんな微笑を返せるほど、平静をとり返して来た。  良人と久滋とを送りだした後で美祢子は、一人病室のベッド に、横たわった。  腕時計を見ると、いつの間にか針が止まっていたが、もう一 時を回っているであろう。今日一日の事が、怖ろしい夢のよう に思われて来た。  先刻、横浜にいた頃など、久滋の寝台車に同乗して行く良人 の姿など、誰が想像したであろう。そんな光景を、見なければ ならぬ、苦しい立場に置かれようなどと、夢にも、思わなかっ たことである。すべて、神が自分を罰したのだと、考える外は なかった。この出来事、良入がどんなに善良で邪心がなく、ま るで十か十一の子供のように素直で、しかも医者としては親切 で、重傷者たる久滋に、万全を尽してやろうという、気持しか 動いていない事が分ると、美祢子は、いよく恐ろしくなっ・ た。.  自分の退屈から来る気紛れとわがまゝとで、この良人を欺こ うとした罪が、こんなにも速かに罰せられたのだ、としか思え なかった。しかもそれが自分に比すれば、ずーっと罪の軽い筈 の久滋の上に、.痛ましく及んでいる。 〈いけない。いけない! こんな事であの人が死んだら、私は 一生|寝覚《ねざめ》がわるい。どうぞ、無事で、万一の事のありませんよ う忙!)  国道を徐行している寝台車を、幻の中で追いながら、美祢子 は祈った。  それにしても、良人のあの態度は、どうだろう。見なれたわ が良人ながら、騒がずあわてず、おだやかで慎重で、いつもの 物臭に似ず、注意深<て「一緒に同乗して行ってくれるなど、 次滋さんをなんと思っているの充ろう。私と久滋さんが今日ど うしていたと、思っているのだろうか。子供のようになんにも 知らないのかしら。また神さまのように、みんな知っていて、 しかも総てを宥《ゆる》しているのか七ら。いずれにしても、あんな呆 けたような顔をしていて、しかも、なんというよい良人だろ う。 (私が、悪かったのだ。これから慎しみます。もう、決して 決して)美祢子は、心の中で幾度も咳いた。  二時頃に、女中のあさが"本郷から駈けつけて来たので、美 祢子は心が、大分安らかになった。しかし、朝までどうしても 眠れなかった-  夜が明けると、病院にいることが、なんとなく極りが悪く、 落着けなかった。身体を動かしていると、肩から胸にかけてか すかに鈍痛を感ずるだけだったので、昨夜のお医者などに、顔 を見られないうちに、帰りたくなった。自動車を呼んでもらっ て、逃げだすように病院を出た。  一町ばかり来ると、道の傍に、見覚えのある自動車が、ラジ エーターが一尺もへこみ、窓硝子を滅茶滅茶に砕かれたまゝ放 り出されてあった。美祢子は、■チラ乏それを見ると怖ろしさに 顔をそむけた。  美祢子は、本郷の家へ帰って来天またすぐ床にはいった が、不眠の頭の中は、綾のように乱れていて、神経はたかぶ り、涙もろくなっていた。  滝山は、まだ病院から帰っていなかった。もしや、久滋の結 果が、悪くなっているのではあるまいか。病院ヘ電話をかけて 見ようかと思ったが、それもなんだか空恐ろしい気がLて出来 なかった。 品女中が、朝刊を持って来て、枕元に置き、 「お食事はp・」と訊いたが、物悲しく頭を振ったばかりだっ たノ.  十分ばかりしてかち、何気なく枕元の新聞を取り、■,開けて見 ると、■美祢子は、 (アッ!)と叫び声が出る像ど驚いた。  三面に四段抜きで、「滝山博士夫人の奇禍」という見出しで、 昨夜の事故が報ぜられ、しかも協見出しには、運転手は即死と 書かれ、丁劇文芸部長久滋氏は重傷之報ぜられている∵  美祢子は^蒼官になってしまった。  自分と久滋との密会の事が、醜聞として報ぜられているの㌧で はないかと、息を詰らせて.一気に読んだが、そうした疑惑を 受ける文句はなく、騎しまいに滝山博士は語るとして、 (妻が横浜へ買物に出かけるので、一人ではと思い、自分の患 者であった久滋君に同行を騎願いしたところ、こんな事になり まして、久滋君にはまことにお気の毒です)とあるではない か。・  良人は、その数行の談話の中に、妻亡妻の男友達の上に、い まわしい世問の疑惑のかゝるのを、巧みに外らしてあるのだっ た。美祢子は、前に滝山がいるのでもないのK恥しさに顔 が真赤になった。  つね日頃、鈍感であると思った良人タその鈍感さに、こっち がいらだたしくなって鞭打てば、その鞭の下にさえ、どっかと 尻を据えているような良人の鈍さを腹立たしくさえ思っていた のに、■いざ鎌倉という時になると、神の如くすベてを知りつく して、■しかも神の如く計らっているような良人の処置嘆層雲 を破る太陽の光のように、燦として冴返っているではないか。 .,「まあ、なんという人であろう。あの人は、.あの人は……」 ■感激と感謝と讃歎の涙が、ゴッチャになって、美祢子は枕の 上に顔を伏せて、滑《さめぐ》々と泣き出してしまった。 「ありがとう!ありがとう!御免なさい!御免なさ い!」・  美祢子は滝山が前にいるかのように、口に出していった。 転心  美祢子は運転手が死んだ事を知ると、昨夜の事件の恐ろしさ が、しみム\と分った。久滋や自分の生命も、名誉もあの瞬間 に、重大な危機に面していたことが分った。  それを危く逃れたことは、ー幸運でもあるし、良人の細かい心 遣いの賜物もあった。  やがて、家の中に上ぼてある芝犬とコリーとが、玄関へ飛び 出して行った。  良人の足音をきゝつけたのであろう。美祢子も寝床から起き 上ると、寝衣のまゝで続いて駈け出した。毛穴のぶつノ\と開 いてしまった、青ぶくれのした顔をして、良人が帰って来た。 表情は疲れ切ってはいるが、暗くはないのを知ると、美祢子は 外套を脱がせてやりながら、 「御苦労さま、どうでしたの?」と訊いた。 「大丈夫だ。あの分じゃ、余病の方も心配ないよ。お前はいつ 帰って来たP」 ,「一.時間くらい前に。」 「よく眠れた?」 「いえあまり……」 「俺《わし》はすぐ寝る。」  それ以上はなんにも訊かず、洋服を例の調子で、無造作に脱 いで、寝衣《ねまき》に着替えると.ベヅドの置いてある自分の部屋へず んく入って行こうとする良人に、昨夜の事や新聞の事を詫び ようとして、 「あなた!」と、小さく呼び止めて、訴えるように良人を見る と、 「とても、眠い。あれから、付ききりだったものだから、安心 すると、急に眠くなった。眠くって、眠くって!」と、片眼を つむ?て、 「あゝ。あーあ。」と、色気もない大|欠伸《あくび》をして、部屋の中へ 入ってしまった。  美祢子は、後から追いかけて行って、ベッドの毛布などをキ チンと直しながら、 「お腹《なか》お空きじゃございませんの?」と、訊くと、 「うん。空いているが、眠い方が先きだ。」と、毛布を頭から 被ったが、 「久滋君も、僕が帰る頃には、寝ていたよ。夕方にでも見舞に 行ってあげなさい!」と、眠そうにいうと、くるりと向うをむ いた。  わざくそんなことまでいう、滝山の親切に気を打たれて、 立ち去りかねてそこのソファに腰かけながら、ぼんやり良人の 寝姿を見守っていると、早くもスヤノ\という良人の寝息が、 聞え始めて来た。  美祢子は、ぽんやりと自分の部屋へ帰って来たが、自分の気 持がいつの間にか、すっかり変っているのに気がついた。  久滋はもう大丈夫だと滝山にいわれた刹那、美祢子は昨日ま での久滋と自分との関係まで、スッカリ清算されたような気が した。滝山が、久滋のことなど、ちつとも気にしていないよう に、自分も、もう久滋のことなど、気にしなくつてもいゝよう にさえ思った。見舞いに行って上げなさい;といわれたと き、もう行っても行かなくても、久滋に会っても会わなくって. も、どちらでもいゝような気がした。  昨夜の事件で、夢が覚めたように、ケロリとしてしまってい る自分を考えると「.あさましくさえ思うのだった。  美祢子は、何かで読んだことがある。心中をしそこなった男 女は、それを機会に気まずくなる場合が多い。芝居の「尾上伊 太八」のように。 ・人生の危機に接すると、今まで眠っていた心が、1良心 や、認識や、理性が目を覚ますのであろうか。  しかし、このまゝ久滋の所へ行かないのも薄情である。とに かく、久滋に会って、向うの気持も知り、自分の気持も伝えた 方がいゝ。そう思って、美祢子は正午過ぎから、外出の支度を 始めた。.  身体を動かすと、肩から胸にかけて、かすかな鈍痛を感ずる だけで、起居は平常《ふだん》のとおりになっていた。 「旦那さまは、そっとして置いて、お休みの邪魔をしないよう に。」  と、女中達にいった。帝大まで歩いて行った。外科の病棟に 入ると、顔見知りの看護婦がいて、病室へ案内しながら久滋の 容子を話してくれた。容態は、ごく良好で、今眼を覚ましてい るというのであった。  病室へ入ると、久滋はすぐ美祢子の方を見た。  美祢子が予期していたほど、驚きも、あわてもしなかった。  頭に繍帯をした久滋の顔色は昨日のよラに、蒼白くなく、ほ んのりとした明るさが、いかにも病人らしく思われるのだった。  彼が、美祢子を迎えた瞳の色は、水のように、底冷たく澄み 切っていて、静かに落着いていた。  美祢子は、その瞳にぶっつかると、不安が一掃されて、自分 の心ばかりが、一変したのではないことを知った。  久滋もまた、その心境に、変化を来たしていることが、す寸 分った。  嘗て覚えたことのない気まずさだった。互いに、相手の心を さぐるようた態度で、  「手術なすったの?」と、美祢子が訊くと、  「うゝん。」と、かすかに首をふりながら、  「滝山さんは2」と、久滋が訊き返した。  久滋に、何よりも先に、良人の事を訊かれたのも意外だっ た。  「朝から、グッスリ寝ていますわ。」と、答えた。  「じゃ、あなたがこゝヘ来られたのは御存じないのですか。」 ■「いゝえ、滝山からあなたを齢見舞に行って来いと、いわれま したの。」美祢子は苦笑しながらいった。  「滝山さんには負けるね。なるほど、あれじゃうんとも、すん とも云わないだろう。」と、久滋も苦笑しながら、独言《ひとりごと》のよう に云いつfけた。  「あの人は神様だ! 美祢子さん、あなたは神様につかえる神 聖な巫女《みこ》なんだ。あなたが、何かすれば罰があたりますよ。」  久滋が考えていることも、美祢子が考えている事も同じだっ た。全然人を疑うことのない滝山を鈍感といぇば、どこまでも 限りが知れないような鈍感さだし、豪いといえば、まさに神さ まに近いような豪さだともいぇるし……。  昨夜のような出来事がなかったら、二人とも滝山の鈍感さを いゝ事にして、行くところまで、行ってしまったに違いたいの だが、あんな事件があって、九死一生といったような危険を、 滝山の尽力で、切りぬけて見ると、滝山に対する後《うしろ》めたさは、 滝山の豪さを羅《せ》り上げて、久滋は全く、これほど豪い男が、世 の中に又とあるかと思うのだった。  でも先刻までは、まだ未練があって、美祢子と一刻も早く会■ いたいと思っていた。  しかし、こうして会って見ると、自分の妻を、十分その間柄 を疑っていゝ男の見舞にょこして置きながら、悠々と眠ってい る滝山の立派さが、限りなく感ぜられ、自分達が、棄てがたい 恋情で、いじくと会いたがったり、ロマンティックな気分に 陶酔している事などが、ヶチくさくて、まるでお釈迦さまの掌《て》 の中で走り廻っている孫悟空のように馬鹿々々しくなり、美祢 子との関係が、むしろ腹立たしくさえ感ぜられるのだった。  と、にわかに美祢子が、畷泣《すすりな》きを始めた。 「どうしたんです。看護婦が入って来ますから、お止めなさ い1」と、いったが、心の中では美祢子が、なんのために泣い ているかが分るような気がした。  滝山のため㌍二人とも完全にノックァゥトされた悲しみの 涙でもあり、欣ぴの涙でもあろう。美祢子も、すぐ泣きやんだ とき、 「神さまと、喧嘩しても始まらないから、僕はあなたと会うこ とはよそう。」久滋は、苦笑しながらいった。 「僕も、危く命拾いをしたんだから、これを転機として、穏健 明朗なる結婚でもします。」と、久滋はつ間けていった。 「そうお。」と、美祢子も、諦めてしまった気安さで答えた。  お互いに胸襟を開いて、物をいってしまうと、久滋と美祢子 との会話は、長くは続かなかった。  久滋は、瞑想にでも耽るように、眼を瞑ってしまった。  間のわるい圧迫をお互いに、感じ始めたのである。その時 に、扉《ドア》の外に誰かはっきりとは分らないながら、ごく親しい誰 かが入ってくるような気配がした。  扉《ドア》がノックされて開いたので、美祢子が顔を上げると、看護 婦の肩の上に、恵美子のひどく思い入った真剣な、顔が覗いて いた。 「まあ。恵美子!」彼女は、神妙に足音を忍ばせて、叔母の傍 に寄って来た。 「やあ!」と、久滋がかすかに微笑みかけても、不安そうな表 情のまゝ、あるか無きかの低い声で、 「大丈夫なの。酷くわるいんじゃないの。」と、訊ねるのだっ た。久滋は、 「有難う。たいした事はないんですよ。」と、恵美子を安心さ せるように答えて、恵美子の顔の中の大袈裟な不安を、悦びと も驚きともつかぬ気持で、眺めていた。久滋にそういわれる と、今度は叔母に、 「厭だわ、随分びっくりさせるのね。私、今日の試験滅茶々々 にされちゃったわ。でもよかったのねえ。」そして、ちょっと 惨み出そうになった涙を、指先で押えながら、笑い始めた。そ して、きまり悪げに、また久滋の方へ顔をむけると、 「その繍帯の下、ひどい傷になっているのじゃないの。」 「うん。そんな事はない。癒れば跡はつかないでしょう。」 「叔母さまは,」 「私は、肩から胸を打ったの。」 「叔母さんと久滋さんとが、一緒に死んじゃったら、私もきっ と死に九くなったわねえ。」と、恵美子は無邪気にいいなが ら、安心してベッドに近い椅子に腰を降すと、 「久滋さんのお見舞は、私が引き受けちゃうわ一内科じやない んだから、毎日来て御本か何か読んでいればいゝんでしょう。」 と、久滋の顔を覗き込んだ。  狼狽《うろた》えて落した涙の雫が、まだ腱毛でキラくしている。  久滋は"恵美子の視線を受けながら、何か新鮮なほのλ\と した幸福を感じた。 婚約者  世間は、バタノ、とはたき落されるように、忙しくなって、 年の暮になった。柱暦《はしらごよみ》が薄平たくなってしまい、街には大売 出しの赤や青の大旗小旗が閃き、街を行く女に、島田髭や日本 髪が殖えて行く。  買物に出かける女連れの姿が多くなり、年の瀬の感じがハ新 鮮に遽しく感じられる。  渋谷道玄坂の通りを抜けて、大分上った電車通りを、少し横 ■へ折れると、こんな所にと思われるが、しかし口の賛沢な連中 に相当知られているプランス料理店がある。  どことなく明治初年ふうの感じで、装飾といえば、いくつも め柱に、それく\競走馬《り スホ ス》のすっきりした頭のブロンズが、取り つけられて、店主の馬好きを現している。  入口の突き当りのクロークで、洋装の久美子が、 ー「青山の三六三五に電話かけてね、和田之いう家だから、隆一 さんという人、呼びだしてね。向うで、こっちの名前をいった ら、二葉という学校の友達だといって頂戴! あなた上手に やってね。」・  いつもながら、術策に長じたる彼女、ボーイに外聞の悪い吊 事を頼みながら、ボIイが思わずニヤリと出かゝるのを、グッ と堪えたほど、さりげなくすました㌔のである。  控室に入って待っていると、すぐボーイが、 「騎|出《で》になりました。」といって来た。 「ありがとう。」と受話器を受取り、微笑も浮べない大真面目 た表情で、 「もし、もし、隆一さん12私お分りになった。道玄坂の 上の二葉亭に来ていますのよ。すぐいらっしゃいませんP え えじゃすぐね。」話は、ごく短かった。  控室に落着くといきくした双眸を輝かせて、ルージュとコ ンパクトを出して、粧い直し始めた。  隆一は、十二月|半過《なかぱす》ぎから、学校も休みになっており、宮川 は土曜日曜以外にも、暮ののっぴきならぬ用事のために、「今 日は行かれない。」と断ってくる日が多くなった。  暮の遽しさに、取残されているような二人だった。先刻《さつき》二階 から、隣りの庭をブラくしている隆一を見つけて、ウインク すると、隆一も赤くなりながら、手を振って見せたので、久美 子は、そゝくさと洋服に着換え、こゝヘ出て来たのである。 (すぐ行きます)という隆一の有頂天に近い興奮した返事、嬉 しそうに駈けつけてくるだろう。そしたら、私はヶロリとして .いてやろう、その方がよっぼど効果的である。こゝで、御飯を たべて、どっかヘドライヴでもしようか。などと、スケジュー ルを立てていた。 ■十分、十五分。二十分とは待たせなかった。学生服に、鼠色 のオしハー、同じ色の中折を被った隆一が、久美子の軽い微笑 に迎えられて、妙な表情で、その部屋の戸口に立っていた。 =食堂へ入って、差し向いの食卓に着くと、久美子は更に晴れ やかな眸を上げて、 ㍉なんだって、そんなに私を見ていらっしゃるの。」と、隆一 を脅かした。隆一は、赤くなりながら、 「不思議だから……」 「何が……」 「あなたに、誘われても、もう交際《つきあわ》ないつもりでいたが、いざ となると万事御意のま、北なりそうでーそんな自分が不思議 だから。」 「そんなに、私のいう通りになりそう。いゝ子だ。いゝ子だ。」 と、後はヶロリとして、パンをちぎりなぎら、 「今日のスケジュールは、村山貯水池か多摩川辺りヘドライヴ しょつと思っているの。、かg:::」  東京で、遊んでい土ら、宮川にぶつかりそうなので、ついこ の間も見つけられたし、郊外へ行きたかった。十二月の末とは いえ「麗かな天支が続いていた。 .「ドライヴは、真平ですよ。」と、隆一は一言で、却けてし まっ太。 「まあ! なぜ……」  隆一は、それに答えず、ボーイを呼んで、朝刊を持って来て 貰うと、三面を出すように、折り畳んで、 「ほら、御覧なさい。これ、僕の叔母です。」久美子は忙しく 記事に目を通して、 「まあ、ほんとね。いつか音楽会で逢った方でしょう。相手の 男の方も、あの時の方じゃない2」 「そうかも知れん。恵美子は、見舞に行っているんです。」. 「でも、ヒんなこと、ば々気にしていたら、自動車に乗れたく なっちまうじゃない?」 一「だって、こんな杜会記事に取り扱われちゃ。」 「大丈夫よ。私は、博士夫人じゃないもの。」  「だって、あなたと一緒の自動車で怪我したなんていうこと を、僕の家へ分っちゃ嫌だ。」  「臆病者ね。じゃいゝわ。小田急で、・どっかへ行かない? 電 車の中だけ、連れでないような顔していてあげるわ。ねえ、私 久しぶりで、あなたと郊外へ行って、清《すがく》々しい空気を吸いだい のよ。」ー  久美子は、自分達以外の世間には、どんなことが起ろうが、 おかまいなしといったように、新聞を片付けながら、甘い眼付 で、じっと隆一を覗き込みながら、しきりに誘った。  「今何時ですか。」  「」時廻ったばかりですよ。七時頃までには、帰してあげる ・わご  「   」 「ね、行きましょ」うよ。」と、忽ち、優しく絡みつくように^ フォークを休めて、■隆一を近々と見た。  隆一の心臓も、躍り出すばかり、弾んでいた。  ■隆一も、とうく半日を久美子と一緒に遊ぶことになった。  デザートになって、久美子が、鯉が麩を食うような恰好で" 唇を円く開けて、ババロア・クリームをスプーンから吸おうと した時だった。すぐ身近で、  「ママ」 ク、、、チャン、ク、、・チャンがいるウ。」という、嬉し げに鼻にかゝる甲高い男の児の声を聞いて、久美子は、ひょい と眼を上げるなりil軽くあいた唇の間に、息の通いが止った と思われるほど、表情が硬く凍りついてしまった。  久美子が宮川家にいた頃からーその後しげく止宮川の家 に出入《でいり》していた時分、陽気な彼女に一番よくなついて、耶奈子 が生れてからは、なおの事、一にも二にもクミチャンでなけれ ば、承知しなかった洋一である。思いがけない所で、長いこと 会わなかった人を、逸早く見出した洋一は、久美子の硬張った 表情を、不思議がりながら、予供らしいニタく笑いをつ間ほ て、房子夫人の手を、 「ねえ。々マ、ク、・・チャンが!」と、揺っていた。 「暫くー」と、房子夫人から、先に挨拶されて、久美子は、 死物狂いに平静さを、取りつくろうて、朗かな笑顔を作って、 「まあ奥さま。しばらくでございました。御無沙汰致しまして 相すみません。洋ちゃん、大きくなったのねえ。耶奈子さん は!」  巧みに、子供の方へ中心をうつして、洋一を綾に使って、.う まくこの場を切り抜けん、心がまえをした。だが、房子夫人 は、二三歩近寄って来て、 「まあ、ほんとに久しぶりね。あなた、一体どこにいるQ。 私、あなたの住居、この間じゅうから探していたのよ。」、  同じ卓子《テ プル》の隆一の存在など、ほとんど無視するばかりの房子 夫人の態度には、目下の者に対する無遠慮と針を含んだ厳しさ があった。  母子《おやこ》を案内して来たボーイは、房子夫人と久美子とをかたり 懇意な問柄と見て、 「御一緒になさいますか。」と、房子夫人にたずねた。  久美子は、すっかり腹を据え、死中生を求める覚悟で、 「奥さま。おかまいなければ、どうぞ。こちらは、私のお友達 で、差支ない方ですから。」と、円転滑脱に、同座をすゝめ た。  房子夫人は、初めて隆一に目礼してから、悪く落着いている 久美子の様子に、きっと蒼白んで、 「いゝえ。もう、あなたは艶済みのようですし……」と、洋一 の手を引いて別の席へ行こうとすると、 「ママ、いやア。僕、ク、ミチャンと一緒に食べるの。」と、洋一 は久美子の椅子の背に手をかけたまま、離れようとはしないの だった。 「いけません! お邪魔になりますよ。」と、夫人は邪樫にj 洋一の手をとって引き離し、ボーイのこさえた別の卓子《テ プル》へ、連 れて行こうとすると、 「いやだい! いやだい!」と忽ち、ベソを掻きそうになる洋 一を、久美子は椅子から立ち上って、 「じゃ、ク、・・チャんが、洋ちゃんの横に坐りますわねぇ。」 と、肩を抱えるようにして、.別のテーブルにボーイが置いた子 供用の椅子に洋一を腰掛けさせ、 「久し振りで、ク、・・チャンと、一緒に食ベましょうね。」と、 たといその場限りだけでも、房子夫人の機嫌を取繕わんとの必 死の働きぶりを、房子夫入は苦々しげに見やりながら、 .「久美子さん。私、あなたに少しお話があるのよ。」と、ねっ とりと重《モち》みのある言葉つきに、すわ身の上の大事と思いなが ら、 「えゝ。ー二三日の内に、爵話承りに伺いますわ。暮には、是 非一度お伺いしたいと思っていたところなんですの。」と、快 活に一|寸《すん》のがれの返事をすると、  「でも、あなたの二三月なんて、当にならないんですものね。 来ないとなると、一年でも二年でも平気でいらっしゃらないん でしょう。今日、ちょっとお話ししたいのよ。もしあなたお暇 なら、これから私の家へ一緒に来て下さらない?」  麻布の家へ、引張って行かれて、.宮川と対決でもさせられる と、どんな苦しいみじめな眼に会わされることになるかも知れ ないと思うと、今は久美子も四苦八苦の思いで、 「でも、奥さま。今日は、あの連れの学生を無理に誘って、こ れから郊外へ遊びに行こうとするところなんですの。だから、 あの方をお断りすること出来ませんわ。急ぎの御用でしたら、 今こゝで承りますわ。」  こゝで聴いたほうが、洋一もいるし、ボーイもいるし、隆一 も二間向うの卓子《テ プル》にいるし、極端にとっちめられることもある まいとの久美子の肚だった。 「そうね。私二人ぎりで、ゆっくり騎話ししたいんですけれど ーτや仕方がないわ。.でも、お連れの方は、控室で待って頂 .くことにしたらどう?」 「はあ。そう致しますわ。」久美子は、立って隆一のところへ 行っ免. 「ねえ、あの坊ちゃんが、私と一緒でなければ、御飯食べない というの。あなたすまないけれど、控室で二十分ばかり待って いてくれない!」 「いゝとも。」隆一は、素直に立ち上って、食堂を出て行った。 久美子は、ピンチに起用された投手のような悲壮な覚悟で、洋 一の横め椅子へ帰って行った。  洋一にナプキンをかけさせたり、ポタlジュをスプlンに半 分ぐらいずつすくい、それを口で吹いて冷《さま》しながら、食べさせ てやる間も夫人の攻撃が、まずどの方面を突いてくるかと、心 もそ讐ろである。 「ねえ、久美子さん。私、一番に聞きたいの。あなた、今何し ているのP」隆一が、別室に行ったため、今は洩れ聞く人なし と見て、昔通りの目下に対する物言いになってしまった。 「私……」といったが、この問いが、一番苦手である。ショッ プガール、女事務員といって承知するわけでなし、ダンサ1、 女給というのは、自分で口惜しいし、ー思い切って、 「:…・何も致しておりませんの。」と、言ってしまった。 「そうお……」と、夫人は頷いて、先刻《さつき》から久美子が、スプー ンを持ちながら気にしている、右の手の指の一粒ダイヤの、小 さいけれども素姓よき石を、じっと見つめながら、 「何もしないで、随分立派な御衣裳ね。その指環だって千円近 くするんでしょう。」  親子で、四五年も厄介になっていた義理があるだけに、な んといわれても、ロ答え一つ出来ぬ口惜しさを、じっと堪えて いた。 「ねえ、何をしているの。以前はどこかの食堂に勤めていたん でしょう。」 「えゝ。あすこは辞しました。」  二十《はたち》やそこらの若い身空で、度胸よく奔放自在な久美子も、 今は自分でも感ずるほどだらしがなかった。 、「じゃ、なんで生活しているの?」 「父が……」と、いったが、後が続かなかった。 「お父さんが働いているの?あの年で、可怪《おかし》いですわね。」  久美子は咄嵯に考えついて、 「でも、奥さま、父が去年相場で当てましたのよ。」と、苦し ければ、どんな嘘でもつく。 「相場だって、資本がなければ出来ないことよ。その資本誰が 出したの?」夫人の言葉は霜よりも鋭かった。 お「私"食堂で働いて、三百円ばかり貯金が出来ましたの。それ を父にやりましたので…一:」,  失人は、冷たい顔に→潮りに近い笑いを浮べながら、  「ねえ、久美さん。あなた㌔知っている通り、」宮川も相場をす るから、私だって、その方面のことは知っているのよ。この頃 は、証拠金が高くたっているし、殊にあなたのお父さんは昔か ちの相場下手で、財産をなくした方rやないの。三百円くらい の資本なんか、なんの足しにもなるもんですか。そんな嘘より も"あなたが往来でお金を拾っ九のだといってくれた方が一ま だ気持がいゝわ。」久美子は㌔う全くグロッキーだった。 ■.洋一は、母と久美子との間に、どんな険しい空気が漂ってい るかなどは、おかまいなし只久美子に小さK切ってもらった 魚を食べるので夢中である。  宮川夫人は、運ばれる皿を、どれも一旦百食べるだけで、 ボーイに下げさせているほど、興奮し切っている。 ー「私(何もあなたの生活が、どうのこうのって、訊く権利はな いの。■あなた方親子を世話したからといって、今更あなたの生 活に干渉しようという訳ではないのノた間私気になることがあ るのよ。」  夫人の舌鋒は、いよ<ヒステリックに冴えかえって→まさ に久美子の急所を扶《ぇぐ》り始めた。  久美子は、神妙に黙っている外はなかった。 ・「あなた、宮川と会っているのじゃない?」とうく、失人は ・本問題に触れて来た。久美子も、今は黙っておれず、  「いゝえ、奥さま。」と、ハッキリ打ち消した。  「そうお。でも私には、あなたは宮川の世話になっているよう  に思えて仕方がないの。」  「いゝえ、奥さま。私だってそんな大それた事を……」久美子 咲赤くたつて弁解した。 「そうお。だって、十一月の下旬だったかしら、あなた宮川を 送つて、私の家の門の前まで来やしなかった,」 「い÷ぺ奥さま。それは大変な人違いですわ。」 「私は、人違いだとは思えないんですよ。」  夫人は、ジッと、ー久美子を睨み据えて、 「四五年も、同τ屋根の下にいたあなたを見損うわけはないん ですよご 「でも、奥さま、私、旦那さまと亀、いつか食堂にいました時 に、一二度お目にかへっただけで、この半年ばかり一度もお目 にかゝったことなんかございませんのよ。」久美子は、しどろ もどろになっていた。  夫人のいうこと(総てが事実であるのだから、口ではいろい ろ抗弁しているものの、穴あらば入りたい気持、真面《まとも》に夫人の 顔を見上げるこ乏など、どうしても出来なくなった。・  属で、なんと言射うとも、.その眼に、その唇に、隠し切れな い真実が、ビクく痙璽しているようで、久美子は脇の下に鰺 む冷汗もいとわしく、どうにかして夫人の気持を柔げ、この場 を切り抜けようと、必死の智恵を絞っていた。  だが(こゝで逢うたが百年目といった感じの房子夫人の膵に は、やわか許すものかといった決心の色が、烈しく浮んでいる のだった。  ボーイが、皿を替える時だけは黙っているが、ボーイが三四 尺離れると、忽ち言葉を続けて、ー 「先刻《さつぎ》からあなたの話を聞いていると、辻棲の合わない事ばか -りじゃないの。第一、あなたの齢父さんが、よくなっていると いうのなら、あなたでもお父さんでも、手土産の一つでも持っ て、私の所へ早速報告に来るのが本当τやないの。」まさにそ の通りである。厚顔な久美子も、もう顔が上げられなくなっ た。 「あなたは十四五の時から、私の家にいたでしょう。恩に被 せるわけじゃないけれども、私なんか妹のように、親身に世話 をしてあげたつもりよ。あなたが、三百円でも資本を出して、 お父さんが相場で当てた。ーそれが本当なち、こんな結構な話な いじゃないの。そんな嬉しい話をl私だっで欣んであげたい わ。-」なぜ、もっと早く知らしてくれないの。どうして今迄 黙っているの。あなたのお父さんが相場で当てたなんて、私今 聞くのが初耳■。」 「すみません。伺おう、伺おうと思っているうちに、伺いそび れてハだんノヘ敷居が高くなりましたのー」と、やっと、ロ |籠《ごもり》ながらいう亡、■ 「それは(あなたが私に疾しい事があるからでしょう。」とピタ リと止めを刺してかち、 「私、あなたも知力ている通り、宮川の女道楽では、随分いや な思いをさせられたのよ。しかし、相手が見も知らぬ芸者とか 女給とかなら、士向うは商売だし、宮川は人並すぐれた浮気者ズ し、,諦める外はないと思って辛抱して来たのよ。でも、もし相 手があ血ただとする之、私辛抱出来ないことよ。人もあろう に、あなたかち宮川を盗《ど》られるほど、私、あなたに何か悪い事 をした,」 / ー久美子煙泣き出しそうになって、 「私、.そんな事夢にも、覚えのないこ乏オすわ。」乏、いい 切って見たが、たん之なく空《うつる》な響しかない。 「いゝえ。あなたが、どんなに上手に弁解しても、私、,信じら れないわ。私の眼で、眼《ま》のあたり見た事ですもの。それに、食 堂で給仕さんをしていて、わずかの間に三百円貯まるというの もおかしいし、第一あなたの身装《みなり》だって、暫く見ない内に久美 ちゃんなんて呼んだら、こっちでてれくさいほど、.まるで実業 家の若奥様といったような恰好をしているじゃないの。」もう 房子夫人は、自分自身の品位をも忘れて、久美子に食ってか かって来た。         、 「でも、これまでの事は、い《ら言りても仕方がないわ。実は 私、四谷を引越してからのあなたの行先を探していたの。こん な所でこんな話するのは、いやだけれども、ね克久美さん。あ なた宮川とだけは、別れてくれない?」  こうまで、■やっつけられてしまった以上、「宮川とは別れて ぺれ{」などといわれなくっても、久美子の性質としてこっち から(そんなに大事な旦那さまなら早速お返し致しますよ) 乏、逆襲したいところであるが、そう言ってしまえば、今まで の宮州との閥係を肯定することになり、それを肯定して平謝り に謝ることなどいかにも口惜しいことなので、ムヵノ\する気 持を抑えて、失人の荒ぶるまゝに任せておく偉かはなかった。 「久美さん。あなたも、■人妻になって見ると、こんな思いをす ることがハどんなに厭なものか、今によく分るわよ。……それ に、私にとっては、宮川は、たった一人の男でしょう。亭主に どんな浮気されたって、女房が外《ほか》で浮気をすることたんか、 今の日本では許されてないことなんでしょう。どんな浮気者の 亭主でも、たった一人の舅として、守って行く外ないんですも のね。之亡ろがあなたなんか、老うじゃないんだもの。若くて 縞麗なんだもの、なにも義理のわるい人に、ついていなくって も、今の学生さんのような若いお友達だって、あるんでしょ う!」と、隆一のことに触れた刹那、久美子は、プラ<とし て、 「奥さま。私、先刻から申し遅れていましたが、ほんとは、あ の学生さんと、婚約しておりますの。来年あの方が、学校を出 たら結婚することになっておりますの。だから、お邸の旦那様 と会っているの、騎世話になっているなんてことはあり得ない ことでございますわ。」 ・窮余の一策、隆一を婚約者だと嘘をついてしまうと、久美子 はさすがに、真赤になった。  藪から棒の久美子の話に、夫人は半信半疑! というより も、疑いの方が、ずーっと多いながら、流石《さすが》に女の、もしやそ うかという気も起って、  「本当ですか。」と、大分語勢がやわらいだ。  「本当でございますとも。」久美子は、少し立ち直って朗かに いった。  「じゃ、あなたは、あの学生さんからでも、多少の補助をして 貰っているというわけなの,」と、追及の手はゆるめない。  「そんなこと、ハッキリとは申し上げられませんわ。」と、恥 しげな思わせぶりは、そう取って欲しいとの謎であろう。  「一体、あの学生さんのお家というのは、何をしていらっしゃ るの?」  「お父さまは工学博士、お母さまは女流教育家でいらっしゃい ますの。」と、久美子がわがことのように威張っていうと、夫 人は心当りあるかのように、小首をかしげながら、  「じゃ、お名前は……」         、  「和田さんと、おっしゃいますの。」と、何気なく答える之、  「和田さん! じゃ、私のお友達の美祢子さんの率姉さんじゃ ないの!」と、房子夫人が、驚き叫べば、久美子もなるほどそ   うだったかと思い当って、一難去ってまた一難の思いである。 転向 声明  夫人にいわれて見れば、久美子も夫人の友達の美祢子には、 二三度会ったことがあり、またその姉に女流教育家があると いったような話も、聴いたことがあるようであったが、まさか 隆一が、そうした続き柄の人であろうとは、今の今まで夢にも 思っていなかった。  よろず、その日暮し、目先以外の事はどうでもいゝといった ような現在主義の久美子なので、そんな事の詮索はしてもいた ければ、しようとも思わない性質であった。 「不思議ねぇ。和田伊佐子女史の息子さんとあなたが婚約して いるなんて。でも来年卒業したら、結婚するくらい話が纏って いるのなら、無論親御さんも御存じなんでしょう?」  苦しいながら、仕方なく久美子は、 「えゝ。」と、曖昧に返事をした。 「それにしても美祢子さんが、なんにも知らないというのも、 ←おかしいしーまた、あんなに厳格でむずかしい和田さんのお 家ですもの、あなたの身許調べをするとすれば、当然私の家へ 訊き合わせがある筈だし:::」  尻尾だけは、無理に隠していても、頭の上に載せている笹の 葉は、アリくと見現わされている形の久美子を、夫人はジロ リと見据えていたが、急に思案が変ったらしく、 「まあ、それならそれでいゝわ。そうとして置きましょうね。 あなたに、こゝでお訊きしなくっても、そうと定《きま》っているもの 腹ら、美祢子さんにでも訊けば、すぐ分ることでしょう。ね、 そうじゃありません2」 「はあ。」破れかぶれである。 「それだと本当に、結構ですわ。和田さんのお家なら、あれで 御夫婦共稼ぎで、お金も随分出来ていらっしゃるというし、隆 一さんは真面目な秀才だというし、あなたも本当に立派な若奥. 様になれるわけだわ。」夫人の前にかしこまっている一分が、 一日にも思われるほどの苦しさである。 「結婚式には、ぜひ私達夫婦も、招待して頂きたいわ。」 「はあ。」と、.返事したが、久美子も我ながら、あまりの空《モらぐ》々 しさに、(何がはあだい!)と自ら嘲った。 「もし、そうだとすれば、私のあなたに対する疑いがすっかり 晴れることになり、今日私、随分失礼なことをいったことにな るわねえ。そのお詫びに、結婚のお祝いは、宮川とも相談し て、出来るだけのことをしてあげるわ。ねえ、それで勘弁して 下さいね。」  こっちの嘘を巧く逆用され、この仕合終始久美子に、いゝと ころは少しもなかった。後暗いことをしていれば、こうまで滅 茶苦茶に、やっつけられてしまうものかと思うと、流石の久美 子も、いろノ\理屈はつけていても、結局不合理な関係である ことの悲しさ、口惜しさが骨身の髄まで、染み透ってくるの だった。,  房子夫人の食事はやっと、デザートに入っていた。夫人は、 この一月あまりの欝憤を、みんな晴らしてしまったし、久美子 から(のっびきならぬ言質《げんち》を取上げたので、やゝ機嫌を直した らLく、ババロア・クリームだけは、かげも残さず食べてし まってから、 「ねえ、久美子さん。あの方、あなたと婚約しているし、,美祢 子さんの親類なら、.,私ちゃんと紹介して貰蔚うかしら。」と、 いった。そんなことになると、またどんな艦襖《エぼろ》が出るかもわか らないので、 「でも、奥さん、あの方、とても恥しがりやで、私と婚約し ているなんていうことは、お友達にも秘しているんですもの。」 と、逃げると、 「無論、あなたの婚約者としてでなく、美祢子さんの親類とし て、紹介すればいゝじゃないの。」 「でも、奥さんが、叔母さんのお友達だなんていうと、きっと 恥しがりますわ。」 「そう。じゃ、またこの次紹介して頂くとして……じゃ、随分 お待たせしたから久美子さん、先へお帰りになってもいゝこと よ。1ねえ、洋ちゃん、.クミチャンは、お友達が待ってい らっしゃるから。」と、洋一にいぇば、洋一はきゝわけよく頷 いた。久美子は、またもや御意の変らぬ内と、 「じゃ、奥さまお先へ失礼いたします。洋ちゃん、サ■ヨナラ。 クミチャン、きっと遊びに行きますねぇ。」と、子供騙し、親 騙しの空世辞を残して、全身に傷痕を受けたがらも、とにかく 虎の顧《あぎと》を逃れる心地で、サッサと控室の方へ来た。 「すみません。出ましょう。」と隆一を促して、行先を定める 相談はおろか、自動車を呼んで貰う余裕など更になく、遽し く、クロークに立つと、外套とショールを出して貰った。  今にも宮川夫人が、食堂からこっちへ移りはしないかと思う と、ボーイがさし出す、宮川にやいのやいのとせがんで、やっ と買ってもらった銀狐のショールが、狐まがいの犬で作るとい う、このごろ猫も杓子も肩にかけている貧弱な赤狐に変ってい てくれゝばよいと、この時ばかりは、■うすら寒い思いで願うの だった。  やっとの思いで、そこを出ると、久美子は両手の中に、キッ ドの手袋をもみしだき、隆一に向けた、ふくれた横顔を、まだ 身についている苦い思いを、振り落すように、激しく振って 「あゝ、あゝ、いや:…・私、断然転向するわ!」と、つく息さ え、あやしく震えながら、叫んだ。天を仰いで慨然たる久美子 の容子に、いつになく真剣なところがあるので隆一も、 ・「いったい、どうしたんです。」と、訊かずにはいられなかっ た。 「厭だわ、私がいったい、どうしたというのかしら……もう、 厭だわ。奥さんのある人の世話になっているなんて……あゝよ した、よした。今迄の生活を解消しちゃうわ。」  最後の」句に、やゝ平生の明るい彼女が、顔を出していた。  隆一も、久美子の生活の内容は、よく知っていたし、先刻《さつぎ》の 夫人との問答もいくらか推察出来たので、久美子の気持を変え てやるつもりで、 「大分遅くなったし、もうドライヴは出来ないでし一う。」 と、いうと、 「どこか静かな所へ行きたいわ。あなたにいろノ\な事聞いて 頂きたいの。」と、いいさして、不意に両手で顔をかくして、 「もう、何から何まで、厭になったわ。もう我慢が出来ない わ。」心から悲しそうに、肩をすくめた。久美子が、身も世も たく悲しげな容子をしていると、隆一はどんなにでも、慰め て、つねの晴れやかさを取り戻してやりたいという、優しい感 情が湧き上って来るのだった。 「いまから、どこへ行きましょう2 静かで暢気《のんき》な所ー…動物 園はどうですか。」  隆一は、こゝから近い郊外といっても、考えつかないので、 少しふざけ気味でいった。その呆甘たところが、久美子に気に -いったらし<、 「動物園はいゝわ。あなたは、やっばりエラいわ。こんな時 に、行くべき所を知っているわ。河馬の顔でも見ていると、雌 度《きつと》ムシャクシャが除《と》れることよ。」と、俄かに、いきくとあげ た瞳に、涙がうるんでいて、へんに子供っぽく見えた。  つねに、憂いも悲しみも知らぬげに、花やかに、笑いふざけ 散らし、隆一など子供扱いにしてしまう久美子が、急に梢気 返って涙など浮べて、狼狽《うろた》えていると、卸って心を打たれ、そ れを慰めてやることが楽しかった。 「本当に動物園へ行きますか。」  円タクを止めてから、隆一はもう一度久美子にたしかめた。 久美子は、快く頷いて、親しい微笑を浮べた。  自動車に乗ると久美子はまたしても、悲しげな調子で、 「私、随分間違った事をしちゃったわ。あなただって、私が今 のような生活をしていなかったら、もっともっと愛して下さっ たでしょう。」と、彼女はずるそうな調子でいった。 「現在《いま》だって、僕は随分あなたを好いていますよ。僕は、それ を隠そうなんて思わない……」 「そう蔚・1…・」と、仔細らしく頷くと、眼を澄ませて黙ってし まった。  すぐ眼の前に、運転手の背中がある。こうした所で、愛の話 をすることなどは、初心《うぶ》な隆一にはなんとなく面映《おもはゆ》いので、黙 りこんでしまった久美子に、動物園論を始めた。  人間が少し利口になると、世の中が馬鹿らしさ、忌《いまわ》しさのほ こりであるように見える。眼も口も開いてはいられないとい う、厭世厭人的な気持になったら動物園に行くに限る。そこに は、,珍しい獣が、無心な眼と、心なき戯れと、盛んな食欲とし か見せていたいー恋入連れで行ったら、キャラメルを食べな がら来た幼児の思い出などが数限りもなく、話も涌こう。動物 壌は子供ばかりの楽天地ではたい、入場料の安い、大人のため の心の遊歩場でもあるじゃありませんか、と頻りに話しかける のを、久美子は、耳を傾けもせず、 「私が、もっと真面目な職業婦人だったら、隆一さんは、結婚 して下さるでしょうね。」と、妙に熱心に話を、元へ戻してし まう。 「今だって、結婚ということを考えていますよ。……た讐、お 骨さんが難物ですね。」と、相手の真剣さに、つりこまれて、 思わず調子を合わせて返事をすれば、 「あなたが、本当に結婚する気になって下されば、私、あなた の躰母さんだって誰だって、世の中に恐《こわ》い者はなくなってしま うと思うわ。私、今あの奥さんに、大変なことをいってしまっ たの。あなたと婚約しているって!ところが、あの奥さん は、あなたの本郷の叔母さんの御親友なのよ。」  隆一も、急に自分の身の上の事になったので、せき込んで、 「何故、そんな事をいったんですか。」と、少し青くなった。 「だって……」と、口惜し涙を、今更のように頬に伝わらし て、口籠りながら、 「みんな私が、悪いんですの。私あの奥さんの旦那さまのお世 話になっているんですの。ところが、あの奥さん、それをすつ かり感付いていて、いろノ\詰問するんですもの。私苦しくなっ■ て、そんな筈はありません。私はあの学生さんと婚約していま すと、出鱈目《でたらめ》をいったの。つまり、あなたを当座の楯にしたの よ。ところが、嘘はつけないもので、あなたの名前を訊かれた からいうと、それじゃ美祢子さんの甥じゃないかといわれて、 ギョッとしちゃったの。」 「まずかったなあ!」  隆一も、もう久美子を慰めるどころの騒ぎではなくなった。  隆一は、年は若いし、こうした事件は初めてであるし、俄か に事の重大さを感じて、一時に緊張した。もう、久美子の横顔 を見やる気力もなく、 「弱ったなア。大変な事になった!」と窓外に眼をやったま ま、惰気ていた。  自動車は(広小路の雑沓を抜けて、上野公園の、樹の下道を 走つていた。 「隆一さん、あなたが考え込んだら、いよく困るわ。」  久美子は、そういって車から降りると、サッサと入場券を 買った。小砂利の道を歩きながら、 「あなた、私と遊ばなければよかったとお思いになってるの。」 隆】は、かむりを振った。 「わたし、本当に出発を間違っていたと思うの。あなたが、結 婚してもいゝと、ほんとに思っていらっしゃるのなら、わた 」j生れ変った気で、真面目に、やり直したいわ。そして、善 良な女性になるわ。」 「あなたは、僕の家庭が、どんなんだか知っているでしょう。 僕の家さえ許せばミ…結婚してもいゝんだがなあ。」隆一の最 後の言葉には真実が、こもっていた。・ 「あなたの気持が、ハッキリしていて下されば、わたし、あな たのお母様に申し上げるわ。」■ 「そんなこと。あなたと母と会ったら、おしまいですよ。」 「大丈夫よ。私だって、考えがあるわ。今までの私の生活は、 あなたのお母さんから見れば眼にあまるものだったでしょう が、これから更生しようというんですもの、クリスチャンで教 育家であるあなたのお母さんが、私の願いを聴かないというこ とはないと思うわ。」 「どうかと思うな。」 ■「だってーとにかく、お母さんに、ぶっつかる外はないわ。 |先刻《さつき》の奥さん、あなたと私との結婚が本当なら、夫婦で結婚式 に出席するというんですもの。私、断然招待してやりたいの。 とにかく、成否は別として、縁談だけはあることにしなけれ ば、私の立場がないわ。」  二人は、ジラプ失妻の艦の前に来ていた。彼らの胴体は、熱 帯の夢を畳んだ、美しい黄褐色の縞模様である。黒い硝子玉の .ような眼、長閑《のどか》に長くノ\延びた頸、夫妻は仲よくぽんやりし ている。  「私達も、結婚したら、家庭という艦の中で、ジラフさん達の ように、ぽんやりとしていましょうね。そうすれば、夫婦間の 悩みなんていうことは、何もなくなるわ。」と、久美子はやっと 明るく微笑しながらいった。隆一もやゝ元気になり、  「しかし、このジラフなんか、三角関係を作るにも、他に相手 がないんだもの。人問は、そうは行かないですよ。」と、言っ た。 笑 中 の 針  昼の内は、押し迫った大暮《おおくれ》の、片付けてしまいたい書類も あって、豆腐屋の劇臥の通る時分まで、宮川はグズくと家に いた。  書類の整理が、一段落つくと、さてと、これから倶楽部へで も行亡うと思ったが、昼頃から青山の墓地へ歳暮のお墓参りに 行った妻と、可愛い長男の帰るのを待って、顔を見せてから家 を拙え方が、よいだろうと、妙な義理心もあって、時を移すう ちに、・夕陽の影も消えて、いつか蒼荘と暮れかけて来た。窓ぎ わのソファに、朝からのパジャマに、裡砲《どてら》を羽織ったまゝ、宮 川は、ぽんやりしていた。  その時、扉《ドア》にノヅクが聞えて、宮川が答えるよりも早く、顔 を出したのは、細君の房子だった。 「あら……ほんとに、お出かけにならなかったの……?」 「うん。」 「電気をつけてもいゝんでしょう。」      " 「うん。」  ピチッと、壁のスイッチを押すと、外出着のまゝで、そこに 立っている房子夫人が、ひどく上機嫌なのを、宮川は心の内 で、自分が家にいたからだなと、推察して、 「遅かったね。お寺から、他所《よそ》へ廻ったのかい〜」と、優しく 問いかけると、 「えゝ。洋ちゃんと、プタバで御飯をいただいて、銀座ヘ廻っ たんですの。」と、いいながら、房子夫人は、宮川の顔を、 ジッと見つめたまゝ、何かまた言い出しそうにしながら、ニヤ リくと笑い出した。 「なんだい! 何が騎かしいんだい。」と、宮川もついつり込 まれた微笑を浮べて、極く穏《おだや》かに、そう訊ねた。 「今日ね、フタバで、とても珍しい人に会ったの。誰だか当て て御覧なさいませ。あなたも、よく知っている人だから……」  渋谷のフタバ、渋谷といえば鬼門である1真先きに、チラ と久美子のことが、胸裡に浮んだが、久美子に会ってこんなに 機嫌のよい筈はない、といってニヤく笑いは、曲老である。 ひょっとしたら、これから風向きが悪くなるかも知れんと、そ んな時の警戒にいつも使う、殊更子供っぽい表情で、 「見当がつかないね。」と、夫入の顔を見返し北。 「堀田の久美ちゃんに会ったのよ。」見つめ合ったまゝ造作な く言われて、宮川はギョ"としたがら、 「へえー」と、意外の感を示して、返事をした。 ㍉わたし、あなたに久美ちゃんのことを、あんな忙疑ってい て、悪かったわ。御免なさい!」と、薄ら笑いを浮べて、房子 夫人はいきなりソ7アの横に来て、腰をかけた。 「あたりまえさア。久美子など、俺がどうするものか。」と、 さりげな《言いながら、宮川捻、つと細君から顔をそむけたも のの、妻が何をいいだすか、心配で堪らなくなった。  久美子が、妻の前で慎しく振舞っていてくれゝばよいがなあ と、祈らずにはいられなかった。 「えゝ、本当に、すまなかったと思ったわ。あなたも、随分お 会いにならないんですってね。」 「そうさ。」と、宮川はホッとした。 「でも、久美ちゃんが食堂に出ていたとき、二三度お会いに なったんですって!」 「うん、あの頃、.二三度会った!」 (愛い奴! 久美子、才人だけあって、巧くいいぬけたな、感 心感心)と、思っていると、 .「で㌔久美ちゃん、とても素晴らしい恰好をしているのよ。小 さいけれど、性《たち》のいゝダイヤなんか嵌めていてイ」 「そうかね。」と、また一憂。 「あの娘《こ》、感心ですわね。自分で働いて貯めた金を、お父さん にやって、それで堀田が相場の資本にして、とても当てたんで すって!」 「ほう!」と、宮川は陰ながら、久美子の出鱈目《でたらめ》に感心してい ると、 「でも私言ってやったのよ。そんなによくなっているのなら、 なぜ家へ報告に来ないかってlあんなに世話を焼せていて、 よくなったら、てんでより付かないなんて、ひどいといって やったのよ。」と、少し雲行が不穏となりたので、 「しかし、よくなっていて、来ない方が救かるよ。しげく来 るようにたれば、どうせ無心に来るんだからな。」と、よそな がら久美子のために弁解すると、 「それもそうね。」と房子夫人は、巧みに長閑《のどか》な表情をしたが ら、「でも、まるきり来ないなんて、少し躰かしかない?」 「うん、しかし堀田は他人の世話になりながらも、■横着者だ し、久美子はあれで、モダンガiルだから、義理とかお務など は出来ないんだろうな。」と、宮川は、しきりに取り繕うのを、 房子はチラと皮肉な微笑を見せかけたが、急に朗かに笑いだす と、 「でも、とてもおかしいことがあるのよ。想像も出来ないほ ど、おかしいことなのよ。」と、房子夫人は宮州の顔を悪戯《いたずら》っ ぼく、眺めながらくっくと笑いつバけた。 .宮川にとっては、とても気持の悪い笑いである。騙されたと 見せて、その癖、腹に一物も二物もある笑い方である。宮川 は、妻が何をいいだすか、心配で堪らなくなった。 「騎かしいことったら、なんだい。」待ち切れなくなって、■ こっちから訊いた。 「久美ちゃんが、許婚《いらなずけ》だという学生を、連れていたのよ。」  宮川は、ハッとしながら、すぐに(それも、久美子が夫人を 欺く手段の一つではないか)と、考えながら、一向無関心な様 子を装《よそお》って、 「ちっとも、おかしい話じゃないじゃないか。」と、いい返す と、 「それが、とてもおかしいの。その学生さんが、-どうして 知合になったのでしょうね、ちょっと驚く七やないの〜 美祢 子さんの甥なのよ。和田伊佐子女史の息子さんなのよ。あんな 厳格な家の息子さんが久美ちゃんと、婚約するなんて、ちょっ と考えられないけれど、久美ちゃん、とても大真面目だから、 本当なんでしょうね。だから、私、結婚式にはあなたと一緒に 出席するって約束して来たの。」  そこまで言われて、初めて宮川は夫人の皮肉な笑いの意味 が、はっきりした之思った。夫人の心の中では、久美子に対す る疑いは、ちっとも晴れていないが、久美子が若い学生と一緒 にいたこと、またその学生と許婚だといったのを、奇貨措くべ しとなし、舞台をそのまゝグルリと廻して、巧みに良人にそれ を報告して、嫌がらせ腐らせて、■日頃の腹癒《はらいせ》をなし、併せて良 人と久美子の問に水を差そうという深謀遠慮、一石二鳥の戦術 なのである。  宮川は(こ奴!)と、腹の中で思いながら痛し痒しで手も出 せない。 「そいつあ、本当だとすれば、結構な話じゃないか。」海と、白っ ばくれて言ったが、そう言ってすましていられるほど、久美子 を信用していないから、腹の中には早べも不安と嫉妬とが涌い てくる。すましていても表情に暗い影がさす。  それは、夫人の思う壷に入ったわけであるから、夫人はます ます朗かに、 「えゝ。本当に、結構だわ。でも、久美ちゃんて、相当なもん ね。あんないゝ家の息子さんを巧く自分のものにするなんて ・…」と、嵩《かさ》にかゝって話し続けようとするのを、宮川はもう 流石に、合槌を打つ心の余裕もなく、 「おい! ㌔う夕刊来ているだろう。」.と、そんな話はどうでも いゝという顔をすると、 「えゝ、来ていますでしょう。久美ちゃんが、旦那さまにくれ ぐれも宜しくと申していましたよ。」と、夫人もさりげなく 言って、階下へ夕刊を取りに降りて行く。■  夕刊を取りに行く夫人の後姿を、さりげなく見送りながら、 宮川の心はひどく動揺していた。  渋谷の隠家《かくれが》の隣人が、人もあろうに、和田工学博士か。いつ か行きずりに挨拶Lたとき、何か見覚えのある連中だと思った のも、当然である。悪い所へ引越して行ったものである。  気紛れで蓮葉で、油断のならぬ久美子ではあるが、あんな反 感を抱いていた隣家の青年と婚約するなど考えられないが、し かし、フタバで一緒に食事をしているなど、怪しからないこと である。  婚約云々は、久美子の出鱈目にしろ、隣りが和田伊佐子女史 の家だとすると、妻と美祢子さんとの関係から、自分が久美子 の家に通りていることなど、遠からず女房に知られてしまう。 困→た! その方の手当をするのが急務である。これから、す ぐにでも久美子の家へ行って、事の次第をはっきりと訊き、女 房への善後策を、■取らねばならぬと思つた。  房子夫人は、夕刊を持って上って来たが、すぐには立ち去ら ず、何がなしに、宮川の身の廻りを取り片付けていた。宮川 は、新聞でまるっきり顔をかくしながら、これから家を出かけ て行く、自然な口実を考えていた。 「今夜は、家で御飯召し上るのP」と、夫人の方から切りだし た。 「そうだな。一日じゅう家にいると、欠仲《あくび》一つ景気よく出ない ほどボンヤリしてしまう。」と、それとなく呼吸をはかると、 夫人は機嫌よく、 「どうぞ、お出樹けなさいませな。御遠慮なく。」 「あっさりしているんだねえ。」と、椰楡《からかい》気味に、宮川は大柄 な夫人が、小腰を賜《かぁ》めて、机の下に落ちているパイプを拾うの を、眼で追いながら言った。 ㍉だって、どっちみち"お出掛けにたるんですもの。お止めし たって、無駄ですもの。」と、夫人は笑いながら言った。宮州 も苦笑しながら、 「もう洋服は、面倒だ。着物にしてくれ。」乏、いうと、夫人 ほバタノ\と階下《した》へ降りて行った。.  いつもと、違った素直さが、.気持が悪く、万事知られている のなら、またその覚悟もある乏、度胸を決めて、階下《した》ヘ降りて 行ったが、失人は足袋、長嬬神に、結城の着物に下着をキチン と揃えて、ニヤく微笑しながら、良人を迎え■た。その微笑 は、これから久美子の家へ駈けつけて、一騒書をする良人を見 |透《ずか》しているように、皮肉なものに取れるのだった。 江 戸 の 敵 ・家にいさえすれば、忽ち駈け出して来て人あら……)とか.ー (いらっしゃいませ……)とか、持前の甘ったるさで、粘りつ いて来る女であるのに……敷台に飛び出したのは女中だけで、 いたいのかと目顔で訊くと、 「いゝえ。お二借にいらっしゃいます。」と言うので、そのま ま二階へ上ろうとすると、階段の上に立ち塞って、 「階下《した》のお座敷でーちょっとまってて下さい。いま、すぐ参 りますから。」と、言った。久美子の観面な他人行儀に、宮川 はちょっと身内が引きしまった。  暫く待ウていると、いつに次くキチンと帯を締めて降りて来 たが、朱塗の胴丸火鉢の向う側に両手をピタリと揃えて、■伏目 に坐った様子が、只事ならず、眉一つ動かさない澄まし方だっ た。 「どうしたのさ……」と、宮川が、わざと事もなげに冗談めか して口を切って、お行儀よく並んでいる久美子の手を、・軽'く 打った。打たれると同時に久美子はその手先を、いかにも汚ら わしいといったように、すぐ引込めて、今度は膝の上にキチン と重ねてしまった' 「どうしたんだい!」乏、まじノ\顔を見詰めると、. 「奥様から、万事お聞きになって、いらしったのでしょう!」 乏、■切口上だった。 「聴いたよ。聴いたから、取るものも取り敢えず、駈けつけて 来たんだが……」 「それなら、いゝじゃありませんの。」と、ニコリともしない。 ■こういう情景《シ ン》になってしまっては、宮川が久美子の出鱈目を 叱る立場に発展させるには、大変である。最初はある程度ま で、久美子の不機嫌をあやしていなければならない。 「女房に、何を言われたのだい……」 「それは、色々とね。でも、どんなことを言われても、仕方が ないんですけれど……奥さま、どんなことを言っていらしっ. て……」 「君が(お隣りの学生さんと一緒に、食事をしていたと■いう …!:」 「そう。」  どこを風が吹くといったような返事の仕方で、そのまゝ伏目 になってしまった。 「僕が、ちょっと来ない亡、すぐ羽目をはずすんだな。だが、 その人と結婚するなんていゝ加減な出鱈目をいうから、お隣り の人達が美祢子さんの親類なんていうことが分って、今までの ことが、すっかり女房に暴露《はれ》一-、しまいそうじゃないか。早速家 を越すにしても困るじゃたいか。」 「御迷惑をかけて、すみません。ですから……」と、言いかけ て、またしんと静まり返ってしまった。  久美子に、静まり返られると、宮川は不安になって来た。こ の間から、少し態度が、おかしいし、本当に隣りの学生が好き になつて、本気に結婚で㌔する気になっているのではあるまい かと、気持が急に複雑に動いて来た。 「ですからーどうしたというのさP」と、あやし鎌《ずか》すよう に、宮川は久美子に問いかけた。 「ですからー私もう、お暇《ひま》を頂きたいんです。」  その言葉は、宮川にとって、全く寝耳に水だった。彼も流石 に、圭目白んで、 「僕と別れてくれろというのか。」と、気色ばんだ。 ■「えゝ。あなたには、いろノ\御迷惑を掛けますし、奥様から は人間でないように、やっつけられますし1私、つくム\こ んなことをしているのが、嫌になりましたの。」  昼間房子夫人に、・苛められた腹立たしさが、宮川を前にし て、新しく胸にグッとこみ上げて来たのか、ホロリくと涙が 頬を伝わっていた。宮州は、や、暫く黙っていたが、げいしや ■「別れるというのなら、別れてやってもいゝが、君が芸妓か何 かで、僕が金で落籍《ひかし》てこっちの気の向いた時だけに通っている という関係なら、君のいう筋も通るがl少しはお互いに愛情 があって、始めた生活じゃないのか。そんなに簡単に片をつけ ちゃ俺に悪いとは思わないか。もう少し落着いて考えて見たら どうかな。」と、宥《なだめ》るよう忙いうと、 「そんなこと同じことですわ。女がこんな生活をしていると「 やはり道碁扱いにされているような気がしますわ。私が、子供 で考えが足りなかったんです。奥さまから、今日あんなに、酷《ひど》 くやられない前から、うす<考えていたんです。本当に別れ て戴きたいわ。」  相手は自分と十八も年の違っている子供だ。愚図々々いった ところで、落ちる所は知れていると、心のどこかで、タヵをく くっていたのが、頗る怪しくなり、こんなにもスカリといわれ て見ると、宮州は愛情とも未練とも執着とも、たんともつかな い愛欲の心が、猛然と湧き上つて来て、放しともたさで、一杯 である。 ・「俺が、いつ君を道具扱いにした。君なんかより女房が、そう いえば、.俺は一言半句もないよ。もう二三年、まるで夫婦ら しいこともなく、暮」ているんだもの。しかし、君の方は、合 法的な関係でないだけに、出来るだけ愛してやっーているつもり なんだ。こういう関係は、齢互いの愛情だけが、頼りなんだ。 君も、僕がいつでも別れられるように、好きでも嫌いでもない のなら、僕を今まで、せい八\通わせることもないじゃない か。さんぐ無心をして置いて、今更間違っていたのなんのっ て、妙な理屈をいいだすのは止してくれ。」 「   」  久美子が、うなだれたので、少しはこっちの言分を聴いたと も思うと、宮川も、ようやく腰を据えて、声もいらくしく、 「僕が仕事が忙しくって、■ちょっと来られないと、学生などを 連れて食事に行く。だから女房なんぞに、見つかって、言わで ものことを言ったり、■言われなくっていゝ事を言われたりする んだ。ちっとは僕がしてやったことを考えたら、女らし<あり がたい、すまないと思ったらどうだい。僕が偶《たま》に来られない時 くらい、慎しく家にいられそうなものじゃないか。」といい進 むと、久美子はキッと顔を上げて、眼と眼を見合わせ、躊躇《ためら》わ ずいい返して来た。 「女らしければこそ、こんな事になったんですわ。あなたは、 私にして下さったことを、一々恩に被せていらっしゃるけれ ど、今日なんか、嵌めているダイヤまでが硝子玉か何かであれ ば、奥さまの前で、こうまで小さくならなくっても済むのにと 思ったわ。結局、こんなもので縛られている生活というもの が、どんなに惨めなものかということが分ったんですの。あな たとお別れするのだったら、買って頂いたものは、みんなお返 しするつもりだわ。」 -いうことが、.ますく不穏である。宮川は、常からこう思っ ている。お金や物質で女の心を繋ぐといって非難する人がある が、男性の女性に対する愛情は、一番はっきりと物質に換算さ れるものだ。千円の物を買ってやれる女は、五百円の物しか 買ってやれない女よりも、遥かに愛しているのだと。そのこと は、久美子へも幾度も話して聞かしてあるのに、女の心を繋ぐ と、宮川の信じている物質的栄華を、久美子に否定されては、 彼の自信は忽ちに、ぐらついてしまうのだった。  久美子の心が、こうまで変ったとすれば、彼女は本当の恋愛 -に、目醒めたとでもいうのであろうかと思って、 「じゃ、何かい。女房に言われない先から、その学生を好きに なって、僕と別れて結婚しようとでも思っていたのかい。」と、 やゝ器量の悪い問い方をした。 「いゝえ。そうじゃないわ。奥さまが、私とあなたとの間を、 テッキリそれと睨んでいたゝまれないようた皮肉をおっしゃる んですもの。私苦し紛れに、隆一さんと許婚《いとなずけ》だと言っちゃった の。でも、後で隆一さんに話したら、結婚してもいゝと言って 下さるから、私も奥さんの賞こぼれを頂戴して、奥さんにたん・ といわれても、グウともいわれないような生活をしたいと本気 で考え出したの。」  話を聴いて見れば、久美子らしい気紛れであるが、しかし、 それを裏づけている感情は、いつもよりは、ずーっと深いもの だし、それにいきなり隆一さんと、相手の名が、久美子の唇か ら愛称で呼ばれると、宮州の眼の前が、くらくと怪しくたっ た。  宮川は、流石に黙ってしまう外なかった。久美子の今までの 生活は、ともあれ、今考えていることだけは、女としては本筋 で、それを突きつめて、考えているとしたら、いゝ加減な気安 めやごまかしでは、どうにもならない事である、 「それに、奥さまったら、私風情に、結婚なんか出来るかって ように、あんまりな事ばかり、おっしゃるんですもの。私だっ て意地がありますわ。石に鶴り'ついても、結婚する気にたろう じゃありませんか。」  師直《もろなお》ではないが、ハッキリ先刻《さつき》の喧嘩に苛められた、意趣返 しである。宮川も、平生の冷静さを半失《なかば》って、 「じゃ、己《 れ》はどうなるんだ。己をどうして呉れようというん だ-己が、平生甘やかして、お前を束縛しなかったのを、いい 事にして、別れるの、結婚するのなんて・…・・」と、やゝしどろ もどろに、食ってかゝると、 「あなたは、どうにもならないわ。私が結婚をすれば、奥さま だつて、およろこびになるし、お寂しかったら、その方なら辛 抱すると、奥さまがおっしゃる芸妓《げいしや》でも、女給でも、騎世話な さるといゝわ!」 「黙れ!」怒鳴れば、負けであるが仕方がない。 「でも、そうじゃ御座いませんか。」 「うるさい。そんな憎まれ口をきく奴があるか。」  思わず、火桶を掻きのけて、久美子の頬に手が、飛びそうに なったが、女性に対して今迄、手荒い事をした覚えのない平生 の自慢を思いだして、、ジッと眼を据えて、危く堪《こら》えた。  入は、理想なしには生きがたいものか。・楽天的で、現実万能 のように見えた久美子でも、やはり何かしら変った生甲斐の生 活に、,艘澱を持っているのか。その憧憬に・女房に対する意地 が、伴ったとでもいうのか。この女なら、向うもこっちを愛し ていると思い、こちらも相当本気に愛してもいゝと思い、やゝ 有頂天になって通っていたのも、一人相撲に終ったのか。  年齢の相違、不自然な関係、昔、自分の家にいて、女房と一 緒に暮していた事など、いろく無理があったのだと諦めよう としたが、寂しさの底にひきずり込まれるような嫌な気持は、 自分ながら情ないくらいだった。だが、哀願したり、嚇《おど》しつ けたりする事は、宮川の趣味でない。・ 「よし分った。君の心が、こんなにあさはかだとは思っていな かった。じゃ、今日限り会わないことにしようね。君にやった ものは、みんな上げる事にしよう。女に一旦やったものを、取 返すほど、己は下品じゃないんだよ。君の今後の幸福も祈らな いし、また不幸も祈らないよ。じゃ、さよなら。」と、潔く立 ち上った。  久美子は、低項《うなだ》れて流石に言葉がなかった。  女、女たらずとも、男、男たれという、女性関係における騎 士道、それは平生宮川の信奉するところである。  宮川を送りだすと、久美子は玄関の柱に、ーぐったりと背を寄 せたまゝ、女中が座敷の茶道具を、片付けて下って行く物音 を、じっと聞きすましていた。  手足の先が冷たく、身体の芯が、力ーッと熱くなり、ひとた まりもなく、 縁 涙が頬へ筋を引いた。, 談 、次の朝も、久美子はいつもながらの寝坊だったが、眼覚めの 時の気持が、いわん方なく、悲しかった。  彼女は…宮川を縞麗さっばりあしらってしまったが、宮川が な騎忠犬のように、自分につきまとってくれることを、望んで いないでもなかった。  奥さんに対する欝憤、常日頃囲われ者の不満や、結婚してみ たいなあといった出来心が、かち合って、気持が自分も予期し なかったほど昂揚してしまって、自分の興奮に、我とわが身を 委せてしまった形である。 (今日降れば、お正月は好いお天気ですね)  誰の声か分らない、出入りの商人が女中と立話をしているの が、妙にはっきりと二階に響き上って来る。  久美子は、床から辻り出して、窓掛を開いて見た。  嗣翻《へんぽん》と雪が飛んでいる。空を軍《こ》めて、 霧《おぴただ》しい大粒のぼたん 雪が……久美子は、またベッドの中にもぐり込んだ。 (この家も、■少しずつ解散の準備をしなければならぬが、雪だ もの、もう少し寝ていよう!) 、・久美子は、女中を呼ん交朝刊を持って来るように命じた。  社会面を開けて、ぽんやりと、社会の出来事を漁りながら、 時々何を読んでいるか分らないほど宮川のこと、隆一のことを 考えていた。宮川のことを考えると悲しく、隆一のことを考え ると、頼りなかった。 .房子夫人の笑顔だけは、はっきりと口惜しかった。宮川のこ とは、あまりに男らしくサバノ\と出られたので、気の毒だっ た。  さて、隆一との縁談のことだが、自分で安請合に、なんとか するといったが、考えて見ると容易なととではない。工夫も策 も浮んで来ない。こんな時、相談相手になって呉れるよいお友 達でもあればいゝんだが。久美子は、杜会面から婦人欄に眼を 移した。ふと、そこにある相談欄に眼がふれた。担当者は(隆 一のお母さんである和田伊佐子女史である。   女性相談  同棲後、人間の変ってしまった内縁の夫と別れたい。  という問の見出しに、  あなたの努力に依って家庭愛を醸成して、正当な結婚ヘ!  という答の見出しである。  久美子は、和田夫人がしたり顔で、ーもっともらしい返事をし ているのを読むと、おかしかった。  そのうち、急に、(これだわ!)と、独《ひと》り語《ごと》をいうと、ニヤ ニヤ笑い出した。彼女は、自分の場合を和田夫人に相談しよう と考えついたのである。そして、和田夫人の回答におよその想 像をつけると、すっかり楽しくなってしまった。        *  久滋の経過は、その後も引きつfいて、良好であった。  健康で働いていると、仕事と友達の交際と、遊びのために寧 日《ねいじつ》なく、自分のしていることを、顧みて批判する暇もないが、 こうして病院にいると、全く世間と隔絶されて、いろノ\なこ とを考えるのだった。殊に、劇場関係の見舞人などの中には、 久滋と美祢子との関係を、滝山博士のように、素直に取ってく れる入など、極めて少く、久滋が生命に別条がないと知ると、 冗談まじりの皮肉をいりたり、擶楡《からかつ》たりする人がいた。 「久滋先生、あんまりドライヴが過ぎたんじゃありませんかご  新進売り出しの沢村何之助という役老など、平生の遊び友達 だけに、入って来ると、いきなり着護婦の前も輝らざる雑言《ぞうごん》 だった。・  そんなことを考えると、久滋も今までの結婚回避を清算し て、早く誰かと結婚して、君子人滝山氏の暗々裡に傷つけられ ているかも知れない名誉を、回復してやりたかった。  美祢子も、陰に立つ噂を恐れてか、あまり顔を見せなかっ た。滝山氏が、一日に一度は訪ねて来、二十分くらいは時々モ ヤノ\笑うだけで、話もなく坐っていてくれた。  午後三時頃になると、恵美子が毎日欠かさず、春の風のよう にやって来る。 「今頃、こゝへ来る口実が、とてもむずかしいの。叔母さんの お見舞というのも、もう利かないでしょう。だから、お友達と 手芸をしていることになっているの。Lと、いって膝の上に、 クッションを拡げて、黄や挑色や緑の糸を針につけて、小鳥の 型を刺しながら話しかけてくれる。そして、久滋が話すことを 重みのある晴れやか次眼付きで、じっと聞き込んでくれる。  久滋は、静かにベッドにいて、紫に光る恵美子の髪を見、こ まかな息づかいを聞いていると、病院にいるのではなくホテル にでもいるような気がする。 「明日《あした》から、御本を持って来て、読み嘗しょうか。」 「いゝです,な。」 「面白くなくても、文章の縞麗な本を、持って来るわ。そうす ると、私の朗読が、上手にきこえるから。」 「どんなものを読んで下さる。」 ・「オネーギンか、卸興詩人か、レルモントフの現代の英雄か何 か・…,」 「恵美子さんは、叔母さまに似て、文学愛好者だな。」 「そうでもないわ。叔母さんと比較しちゃいや。私にとって不 利益だわ。だって、私は小《ちい》ちゃいんですもの。」  久滋は、恵美子が、またとなく愛《いとお》しく思えた。 「いや、あなたはとても利口で、優しくて可愛いし……第一、・ 美祢子さんのように狡くないや……」  と思いがけなく、最後の一句は、美祢子に対する今までの不 満を言ってしまったので、久滋はハッとして、まだ回復し切ら ない青白い頬が、真赤になった。  恵美子は、久滋のいった狡いという意味が分らなかったの で、説明を待つような思いを、眼の中に漂わせて、じっと久滋 の眼を追っていた。  久滋は、その恵美子の無心と言ってよいほど、子供らしい若 い眼に追われると、彼も急に二十一二の無心な心に返るような 気がして、 「僕は、ほんとうにあなたが好きだ。ピアノをわけもなく弾い て呉れたときから、好きだったんだな……」といった一  恵美子の頬が、少し赤くなったが、黒い瞳は、不思議そう に、まだじっと、久滋の眼をみつめていた。 「実に、縞麗ないゝ眼だ。あなたの眼は……」と、言ってし まつた。 「久滋さんの眼も、碕麗よ。」恵美子は、生々と大胆に、そう いうと、赤くなって^刺繍に針を入れた。 「明日も来て下さる,」 「えゝ。あなたが退院なさるまで。でも日曜は駄目よ。お母さ んが、家にいるんですの。お父さまだけなら、巧く行くのよ。」  女らしい優しい、そのくせ美祢子の娘時代と比べると、セン チメソタリズムの少い物いいが、魅力であったゆ  美祢子と一緒にいることが、冷たい清い樹陰にいる好もしさ なら、恵美子と一緒にいることは、陽に輝く花園にいる朗かさ であった。  久滋は黙った。窓から、さし込む灰かな、夕陽《ゆうひ》の縞の光の中 で、「刺繍をする女」といったような美しいポ1ズの恵美子 を、見つめていた。  無言でいれば、無言でいられるほど、信じ切ったようなお互 いの隔てなさが、現れ始めた。        *  恵美子は、病院の帰りに小説を借りるつもりで、叔母の家に 寄った。  美祢子は、あの事件以来、目に見えて恵美子が、久滋に接近 して行くのを知って、初めは自分の心を乱しはせぬかと心配し たが、しかし結果はまるで反対だった。  自分でも思いがけなく、それ故に気が紛れるというふうだっ た。  真実に、久滋が恵美子を愛してくれるのなら、自分が仲に 立って、二人を結びつけようと思っていた。  彼女もまた、「町内で知らぬは亭主云々」という通り、悪意に 充ちた世間が、あの事件を滝山氏のように、素直に取ってくれ るとは思わなかった。そうしたゴシップを未然に防ぐために、 久滋と恵美子との間をまとめて、彼女を知る人達に、(なん だ。そういう訳だったのか)と、手を拍たせ、それと同時に、 滝山氏が、心の奥のまたその奥で、万一疑っていたとしたら、 その疑いをも、晴したかった。  それに、ゴリーの耳を弄《いじ》りながら、書庫ヘ小説を捜しに行っ た恵美子の様子が、思いなしか、いつもよりずーっと、大人ぴ て物静かなのが、気になった。久滋との問に、もう何かあるの かしらとさぇ思った。 「さよなら。」と、二三冊本を抱えて、早くも帰ろうとする恵 美子の傍《かたわら》へ立って行くと、美祢子は、 「どうしたの。何を持ち出して来たの?」と言って訊いた。 「レルモントフに、プlシキン、これちょっと借りるの。L 「それはいゝけれど……」と、美祢子は肩に右手をかけ左の手 で、恵美子の顎をもち上げて、顔を見ながら、 「元気がないじゃないの。久滋さんと喧嘩でもしたの。」と、 訊いた。 「いゝえ。」恵美子は、静かに叔母の手から、顎を引いた。 「まあ、なんてしかつめらしい返事をするのPまあ、恵美 ちゃん。あなたもっとお酒落をしなさいよ。そんな可愛い顔を している癖に、生際《はぇぎわ》の生毛を剃らないなんて。どれちょっと 剃ってあげるわ。イ  恵美子は、驚いたように、美祢子を見上げていた。  恵美子を三面鏡の前に坐らせると、西洋剃刀で、生毛にかく れて男の子のような感τのする恵美子の富士額を、縞麗に描き 始めた。 「今日は、久滋さんと、どんなお話をしたの?」 「私の眼が、縞麗だと賞めて下さったわ。」と、いってすぐ恥 しくなったか、赤くなっ九。 「恵美ちゃん。久滋さんが、あなたを好きだとしたら、どうす るの?」美祢子は、鏡の中の恵美子の顔を眺めたがら、いきな り言った。  恵美子は、その言葉を、久滋からでも聞いたように、真赤に                  はっ なって鏡の中の叔母の口元を、じっと瞭めた。 「あなた、お嫁に行ってもいゝと思っているの2」 「いや。叔母さまは、余計なことをいうから。いや、いや。」 と、身を腕《もが》きながら、ふり返って叔母に武者振りつくようにす ると、その胸に顔を埋めてしまった。 「まあ! 恵美ちゃん、びっくりするじゃないの。いきなり飛 びついてなんか来て……」と、優しく肩に手を置きながら、な 齢も耳元へ、 「御免なさいね。こんな事をいい出して。でも恵美ちゃんが、 そんなつもりだったら、私が、お母さんに、話して上げようと 田心って`:・:」  恵美子は、そう蟻かれると、びっくりしたように顔をあげ、 叔母の顔をちらと見たが、今度はまた顔を伏せると、柔かにク スくと鼻を鳴らして畷り泣きを始めた。  それが、甘えたテレ臭さを紛らせる、嬉し泣きであること が、美祢子には、感ぜられた。  姉に話す前に、自分の気持を、1美祢子の気持を久滋に話 して、彼の気持を確かめたいと、翌日美祢子は、昼少し前に久 滋の病室を訪れた。  衝立の陰から、美祢子が現れると、久滋は思いがけない思い がしたと見え、 「あゝ、あなたでしたか……」と、やゝ狼狽《うろた》えた表情で、美祢 子を迎えるのであった。 「いかがですの2」 「有難う。もう、大分痛みを感ずることが、少くなりました。 あなたはヲ…:」 「私は、もうすっかり元通りよ。何から何まで、元の軌道に 戻ったという訳ですの。」と、言って美祢子は、一種特別な微 笑を浮べた。 「そうですか。」久滋も、同じような笑いで答えた。美祢子 は、話の継穂《つぎほ》が絶えない中にと、 「そして、私、今度新しい役割を務めようと思っていますの。」 「新しい役割、.どんな役割です,」明らかに、久滋砥怪語な表 情で訊き返した。 「叔母の役割。あなたには、よきお友達の役割。実はね、恵美 子が、とても純な気持で、あなたを好いていますからーあな ただって、御存じでございまし、^うi。だからあなたのお気 持を訊こうと思って。」  と、いう意味ありげな物いいに久滋はすべてを悟り、美祢子 が、相変らず彼女らしく忽ち利口に立ち回っているのに、ある いまく                             そ や 忌々しさを覚えたので、ちょっと一言、皮肉な征矢を報いた かった。しかし、その瞬間、彼の心は一歩後に下っていた。彼 自身も、考えて見れば、恵美子の■うな素直な年若い少女と結 婚した方が、幸福であるし、それに自分達に立つかも知れない ゴシップを防寸ことだって出来るし、…… (僕も、結局自由主義気取りのよき良人になろうか)と、少し 自嘲の気持を交えながら、次なる美祢子の言葉を、無言で待つ のであった。  美祢子は、しかし敏感に、久滋の苦い薄笑いの、あらゆる意 味を見て取って、少し話の続きをかえて、. 「過去の事を考える奴は鬼になれっていう諺がないかしら。だ から、新しく考え直す方が、いゝんじゃない?」 「全く。僕達は、現実と過去との間を、き迷いすぎましたよ。 現実に飛込む勇気もなく、といって過去だけで我慢することも 出来ず…ミ」 「その話は打ち切り。ねえ、久滋さん、私恵美子をあなたのお 嫁さんに、仲人《なこうど》したいの。」 「して頂きましょうか。」 た 。久   滋   塗 他 言葉だけは不敵に、 の 縁 談 しかし、 多少忌々しげにいっ  暮の二十九日に、房子夫人から美祢子のところへ電話がか かって来た。 「美祢子さん。わたし1房子。御無沙汰していますわ。この 間はびっくりしたわ。でもお怪我がなくって、結構でしたわ。. お正月になったら、御年始かたく\遊びに行くわ。」 .電話でも、一人でお喋りを続けるので、美祢子はやっと間を .計って、 「あなたも、お変りないの,」と訊き返すと、 「いろくあるけれど、今度行ったとき、ゆっくりお話しする わ9それよりも、私ちょっと訊きたいことがあるの。」 ー「えゝ。」 「ねえ。あなたの渋谷のお姉さまね、あの方の御総領ね2」` 「隆一ですか。」 「隆】さんと、おっしゃるのP あの方最近に、何か御縁談が あるのじゃない,」美祢子には、■全く寝耳に水なので、 「へえ! 私、ちっとも知らないわ。」 「あなたが、知らなければ、ないんでしょうね。」 「という訳もないでLようが、まだ学校ヘ行っているんですも のね。」 「でも、来年の四月卒業じゃないの? 卒業したら、すぐ…… なんて言うことになっているのじゃない,」 「かも知れないわ。」 「じゃ、つまりあなたは、なんにも知らたいのね。」 「そう。」 「あなた最近に、渋谷へいらっしゃる〜」 「えゝ、行かなきゃならない用事がありますの。年が明ければ 行こうと思っていますの。」 「じゃ、その時ちょっとその事確かめて下さらない?」■ 「畏りました。でもあなた隆一の結婚に、何か御関係でもある の2」 「えゝ、ちょっとね。それは、いずれ来年話すわ。じゃ、いゝ 年をお取り遊ばせ、さよなら。」 「あなたも。さよなら、失礼。」  遽しい房子との応対に、どうした縁談か聞き質《ただ》す暇もなかっ たが、隆一にもし縁談がありとすれば、それは耳よりな話であ る。花嫁さんが、和田家に来るとすれば、恵美子は鬼千匹の小 姑になる。もつとも、和田の姉は、相当むつかしい姑だろう が、人なつこい恵美子は、忽ち兄嫁を誘って活動のお伴でもさ せそうな、朗かな小姑ではあろうが、しかし隆一が結婚する前' 尺恵美子を先に片づけてはと、久滋の縁談を持ち出すよい キッカケになることは、たしかである。  房子からの電話の、事実なれと祈りながら、`美祢子拡静かな. 篤学者の家庭にも、、流石は忙しい年の暮の、心づかいにかまけ ていた。  正月の三日に、美祢子は、電話をかけて姉の都合をきゝ合わ せてから、渋谷の家を訪ねて行った。  いろくな仕事に関係して、年中忙しがっている姉も、流石 にお正月は、暇なのだと思って行って見る之、年末年始休みで あった新聞が、四日から常態に復するのだが「女性相談欄」の 原稿がないので、至急書いてくれという使が来たとかで、二三 回分書くから、ちょっと待ってくれ乏いうので美祢子は姉の居 問で、ぽんやり待たされた。  恵美子は、病院へ行って留守、和田氏も隆一も留守だった。  久滋と恵美予とには、少し安請合に引き受けて来たが、頑固 な姉の事だし、久滋の職業が姉に気に入るかどうかなどと思う と、手軽に(うん)と言いそうもたい気がして、少し早まった ような後悔で、美祢子は妙な微苦笑が、独りでに涌いてくるの だった。  姉の伊佐子女史は、やっと二階の書斎から降りて来た。仕事 を片づけた後《あと》は、誰しも愉快らしく、眼鏡をハンケチで拭きな がら、上機嫌で美祢子と火桶をはさんで対坐した。 「あなたも、いつまでも子供がないからといって、娘のように |出鱈目《でたらめ》をするのね。」  いきなり、そう言われて、 「え÷:…」と、顔を上げると、伊佐子女史はニコ<しなが ら、. 「滝山さんに、よっぽど監督不行届だって、手紙を出そうと 思っていたのよ。新聞になんか出ると、この頃のように有閑夫 人の問題が、喧《やかま》しい時は、なんでもなくっても、不体裁よ。下 ライヴなんていうことはお止しなさいよ。」  真向《まつこトり》から、きめりけられても、流石は姉妹《きようだい》、久滋との事な ど、ちっとも疑っていないので、美祢子はホッとして、 「へい。へい。畏りました。でも、一緒に乗っていた久滋さん て方、滝山のところへよく来る患者で、滝山とはお友達になっ ている方なの。恵美ちゃんなんかも、よく知ってる方なのよ。 横浜に用事があって、一緒に行って頂いたばかりに、あんな事 になって、お気の毒な事をしてしまったんですもの。」と、円 転滑脱に自分の立場を分明にすると、 「もちろん、そうでしょうけれど、世間というものは、蒼蝿《うるさい》も のですからね。」と、伊佐子失人は、姉らしく慰めかつ戒めた。 「今日実はね、今の久滋さんの事で伺ったんだけれど、ー若 しかしたら、お姉様に叱られそうだけれどーちょっと茄話が あるのよ。」 「どんな話ですか。」 「その久滋さんという方が、私の家で恵美ちゃんを二三度見 て、是非騎嫁に欲しいというのですけれど。」 「お嫁に!」  話が思わぬ方に、逸《そ》れたので、伊佐子夫人はちょりとびっく りしたらしく、眼鏡の奥で、疑り深そうに小さい眼を、キラリ と光らせて、妹をじっと見つめた。 「えゝ。」と、相手の驚くのを軽く受けて、 「だって、お姉さんは、いつか恵美子は、学問の方は、あまり 思わしくないから、塾へは、入れておくものの、良縁さえあれ ば、塾の方はいつでも止めさせるなんて、おっしゃっていた じゃありませんの。」 「そりゃまあ、そんな事、言っていた事もありますがね……」 「塾は、あと、まる三年かゝるんでしょう。早くお嫁にやった 方が、いゝと思うわ。」 「だって、いきなり藪から棒じゃ、びっくりしますよ。一体、 久滋さんというのは、劇場の、何かですか,」 「文芸部長ですの。」  ' 「文芸部長! ほう、じゃ脚本か何かを書くのですか。」 「あまり、自分では書かないようですが、脚本の選択や、演出 のことを、いろくやつているんですよ。L 「じゃ、つまり文士ですな。」 ー「さあ……」と、いったが、平生から、姉の文士嫌い、小説嫌 いを思い出して、少しタジくとなりながら、 、「そういう事になりますかね。」と、■言葉を濁した。 「やつばり文士ですよ。文士なんていうものは、信用が置けま せんからね。一般に品行が悪くて禄な事をしないじゃありま せんか。」と、すっかり教育家口調になってしまった。 「でも、お姉さん。久滋さんは財産が、おありなのですよ。」 「ほう、どうしてです。」 「騎姉さん。日本橋に、丸久って有名な木綿問屋があるの御存 じ?」 「えゝ知りていますよ。あすこは四五百万円あるという話です ね。」 ,「当主は久滋吉兵衛というんでしょう。久滋さんは、その人の 弟ですよ。」 「そりゃ、普通の文士ではありませんね。それじゃ、問題が違 いますね。」姉は、膝をのり出さんばかりに、乗り気になって いた。  美祢子は、教育家の癖に、蓄財の念が強く、名聞利《みようもん》欲には、 人一倍敏感な姉を、心で軽蔑しながら、しかしこんな場合に は、.そうした弱点につけ込むほかはないので、 「男の兄弟は、久滋さんと二人ぎりよ。だから、久滋さんが分 家するとなると、二十万や三十万の財産は、黙っていても分け てくれるんでしょう。兄さん乏久滋さんとの間には、女の姉妹《きようだい》 ばかりで、一番上のお姉さんは、銀座の鶴屋商店へお嫁に行っ ていらっしゃるのよ。」 「あすこも、たいした財産家だそうですね。」  伊佐子夫人は、ダラシなく話に乗つて来た。美祢子も、やゝ 油が乗って来た形で、 「その次のお姉さんは、三井物産のどっかの支店長をしてい らっしゃる、林田さんとかなん乏か、おっしゃる方の奥さん よ。その次のお姉さんは、これは山上さんという貧乏華族へ 行ってるの。持参金を沢山持っていらっしたという噂よ。」 「ほゝう。それは、男爵ですか、子爵ですか。」 「公家華族だから、貧乏でも子爵くらいじゃないかしち。」 「子爵夫人、わるくありませんね。じゃ恵美子をさし上げて も、ちっとも恥しくはありませんね。みんな名門揃ですね。」 姉は、美祢子の方で、少し厭になるほど、感に堪えたという顔 をしていた。 「その方、年はいくつですか。」 「私より、二つ上だから、明けて三十でしょう。」 「じゃ恵美子と十一違いですか、恰度いゝですね。そのくら い、年が違っていないと良人として頼もしくありませんから ね。」 「当人は、帝大の仏文科を出ています。」 「ほう。学歴もある方ですね。それじゃ、一概に文士として、 |駈《けな》すわけには行きませんね。操行が悪いようなことはありませ んか。」 「少しは、お遊びになった方なの。しかし、利口な人ですか ら、羽目をはずしたり、溺れたりするようなことは絶対にあり ませんわ。頭のいゝ、ちゃんとした方ですわ。殊に恵美ちゃん は「かなり気に入っていらっしゃるようよ。」 「しかし、度を越えた交際などはしていないでしょうね。」 「それは、大丈夫ですわ。私が監督しているんですもの。」と、 言ったが、毎日恵美子が、病院通いをしていることを、姉が 知ったら、どんな顔をするだろうかと思うと、ついおかしく なっーて、■笑いたくなるのを、じっと堪《こら》えた。  「それじゃ、和田ともよく相談して、騎返事をしますよ。」 .「どうぞ。」と、言ったがその時、房子から頼まれていたこと を思い出し、  「お姉さん。隆ちゃんにも、縁談があるんじゃないですか。」  「隆一に、そんな馬鹿なことはありませんよ。そんな事いゝま した?」と忽ちしかつめらしい平生の姉に帰った。  「ちょっと、外《よそ》から聴いたのよ。」  「誰からです。」  「いゝえ。その方も、あるとは言わないんですよ。私に、本当 かどうか訊いたんですもの。」  「断然ありませんよ。隆一などは、学校を出て、自分で妻を養 うことが出来るまでは、結婚させない方針ですよ。とかく、早 婚は弊害がありますからね。」と、言ったが、恵美子が、まだ 二十前であったのに気がついたらしく、  「しかし、非常に良縁の場合は別ですがね。」と、つけ足した。  財産などよりは、人物本位などと口癖のように、言っている 姉が、久滋が財産家の二男だと知ると忽ち、乗り気になったの を見ると、案じたよりも産むが易く、その縁談は、九分通りま とまるものとの安心で、帰って行く美祢子の心は、却って寂し /いものだった。  美祢子を送り出してしまうと、伊佐子女史は、すっかり恵美 子の縁談で夢中になり、良人博士の帰りが待ちわびられた。  恵美子も、今年は十九、結婚させて早過ぎるという年ではな い。自分の信ずる理想的教育法で、暇理もなく育てて来たもの の、しかし母親の身としては、心配がないでもない。もし万一 失策でもあると、教育家たる自分の立場にも関することになる ので、人一倍神経過敏になりがちである。といって見る眼、嗅 ぐ鼻の取締りは出来ず、去年の暮から、手芸を始めたとかで、 学校の帰りがいつも遅いらしいが、元来少し浮ついて落着のな い子なので、女らしい手芸など始めるのは、性格の矯正にもな るので、止せともいえず、今日はお友達との新年の集りとか で、出搭けたまゝまだ帰って来ないが、お正月たれば叱るわけ にも行かず、気を廻せば、心配はなかく絶えない訳であるか ら、いっそ美祢子のいう通り、早く結婚させた方が、母親とし て、気軽になるという訳である。 一美祢子の話が本当だとすれば、なかノ\の良縁である。しっ かりした姻戚があれば、学校の経営にも、いざというとき.は、 後援して呉れるだろうし、子爵夫人などというのも、何かの時 には利用できるし……伊佐予には今までになかった楽しい想像 が、湧いて来るのだった。  八時過ぎ、九時ちょっと前に、恵美子が帰って来た。 「只今!」と、手をついて挨拶をすろ之、すぐ立ち上って行き そうにするので、 「今まで、お友達の処にいたのですか。」と、訊いた。 「はい。」 「女の方ばかり,」 「えゝ、面白かったわ。」 「いくら面白くても、齢昼から今までは、少し長すぎますよ。 あなたも一つ、年をとったのですから、もっと気をつけなさ い。」と、やはり舎監めいた口調ながら、いつになく穏かな物 いいである。恵美子は、莞爾《につこの》と頷いて、二階へ上った。  三十分ばかりして、良人の博士が珍しい新年の屠蘇の酔で、 眼元や頬をいつになく輝かせて、戻って来た。いつもキチンと している人が、身も瀬《けだる》そうに、仙台平の袴を踏みぬぐのを、流 石に妻らしく(何かと世話しながら、伊佐子女史は良人が外出 先の話を、・きり出さぬうち㌍と、 「今日、美祢子が年賀に参ヶましてね( しい話をきり出」た。 言行不一致 その序《ついで》に--」と、楽  あの日以来、宮川は、バッタリ来なくなった。  暮に、(俺の通っていた間の支払は、俺がしてやる)という 簡単な手紙を添えて、三百円の小切手が届けられた。.いつもな がら、金離れのよい男らしさに、ホロリとなったが、流石に自 .分から、繕《よ》りを戻そうという気にもなれず、こういう親切が、 男と女を義理攻にするという古い技巧の一つだと思って、それ に拘泥《こだわ》ろうとする気持を清算し、隆一とどうにでもLて、一緒 になるつもりだった。  隆一とは二日に一度、三日に一度会っていたが、実際間題の 話は、こちらもしたくなく、向うも気がたさそうなので、結局 暮の巷を、今は宮川に見つかる心配もなく、飛び歩いていただ けだった。  久美子の希望は、いつか投書した女性相談の自分の問に、隆 一の母親がする答にかゝっていた。事の成否は問わず、相手を 漫画的存在にするだけでも、無性に嬉しく、その新聞を懐に入 れて、隣家に行く自分の姿を想像するだけでも、一つの楽しみ だった。大晦日の晩は、隆一と遊んだが、一日二日は、,誰も来 ず退屈した。そんなときは宮川が恋しかった/三日は、またい つぞやのように、お友達を呼んで、隆一もこっそり招き、生《いきく》々 と馬鹿騒ぎをした。 ーその翌朝、何気なく新欄を欄廿ると、待ちかねていた時は、 容易に出なかった宕分の闘が、思いがけたく婦人欄のトヅプに 掲載されていた。  向うで、つけてくれた見出しは、隣家の真面目なる青年に愛 され、日陰者の生活を清算したい、というのである。  伊佐子女史の回答の見出しは、青年の両親に事情を打ち明 け、誤れる過去を清算し、正しき女の道に入れ! というので あった。  ニヤノ\しながら、伊佐子女子が、しかつめらしく、もっと もらしく答えている本文を読んで行くうちに(微笑が礫った く、頬にのぼり、藤てはクックと身をもんで、笑い出した。九 分通りは、思う壷の回答である。 (あなたの事情も、先方の御両親の事情もよく分りませんが、 あなたが過去の生活を後悔し、純粋な愛情に目ざめ、女性とし て正しき生活に入ろうというのは、まことに結構なことです。 相手の青年もあなたのお手紙の様子では、大変真面目らしい方 ですから、すべてを先方の御両親に打ち明けて、誠心誠意,お願 いしたら、相手が非常に頑冥不霊な方でない限り、あなたの心 を理解してくれるのではないかと思います)  艶正月のせいか、いつもコチくの伊佐子女史が、物分りの いい自由主義的な回答をしたのこそ^運の尽であると、久美子 は躍り上って欣んだ。 一  カラくと雨戸を開け払って、和田家の庭を見下しながら、 これから訪ねて行ったら、どんなに隣りの奥さんが、狼狽《うろた》え騒 ぐヒとだろう。つねに人を見下したような嵩にかゝった表情 が、忽ち度を失い、眼鏡の奥の眼が、どんなに醜く動くかなど と考えると、それを見るだけでも成功のような気がして、人の 悪い微笑が、間断なく久美子の唇辺に、■浮ぶのだった。  アッサリとお化粧をすると、年齢よりは、ずーっと地味な縞 のお召に、紋付の、黒い無地の羽織を着■新聞の婦人欄だけ を、懐に入れて、久美子は初舞台に現れる役者のように、緊張 して、ふざけた表情は、跡形もたく取り去って、澄まし返っ て、自分の家を出て行った。.  和田邸の玄関に立って、呼鈴を押したが、誰も出て来ないの で、構わず硝子戸をあけて、中にはいると、年賀の客に備え て、黒塗の名刺受の立派な台が、ひそやかに置かれている。  二度ほど呼ぶと、顔見知りの女中が、遽しく駈け出して来た が、意外な訪客なので、ぴたりと手をついたまゝ、呆気に取ら れたような顔をしている。 「お隣りの堀田ですが、奥さまおいででしょうか。」と訊くと、 女中は古い雛のように、平たくて、艶のある顔を上げて、 「おいでですけれど……」と、生意気にも、怪誇な表情が、あ からさまに顔に浮ぶ。 「おいでならば、是非お目に掛りたいんですが。」と、下手に |淑《しとや》かに頼んだ。 「はア、暫く爵待ち下さいまし。」と♪無愛想に奥へ帰ってし まって、なかく出て来ない。伊佐子夫人が会い渋っているこ とが、手に取るようであった。三四分も待たせて、やっと女中 が引き返して来ると、 「あの、申し兼ねますが、御用件を私が承ることは出来ません でしょうか。」と、口調だけは馬鹿に丁寧だった。 「是非、騎目に掛って、申し上げたい事なんですの。お手間は とらせませんから、五分問でも宜しいんですの。」久美子も腹 を据えていた。  女中は、再び奥へ入ったが、今度は伊佐子夫人も、観念した と見え、すぐ引き返して来て、 「生憎今出掛けますところですが、ちょっとで宜しかったら、 どうぞ。」と、言った。  招じ入れられて、猫でも滑るほど、よく磨かれた廊下を通っ て、」間もなく部屋に通された。  女史専用の客間であろうか、十畳の床の間を後に机が置か れ、机の上には書籍が整然と重ねられ、女史は机を前に端然と して坐り、眼鏡越しに、ジロノ\と、襖をあけて、入って来る 足音の主を待ち構えていたが、久美子を見ると、流石に礼儀正 しく、 「これは、まあどうぞ。私の方から一度伺わなければいけない んですのに、明けましておめでとう。さあどうぞ!」と、火鉢 の前に置いた座布団をさし示した。 「突然上りまして、お邪魔いたします。」と、久美子も怯《わる》びれ ず膝を進めて、座布団を敷き、さて身近な伊佐子女史を見る と、永い年月修練した、眼下のものに対する、隙のない堂々た る態度は、驚異に値するほど、相手を威圧して、流石の久美子 も、少し鼻白んで、どう切り出してよいか、戸惑うほどだった。  しかし、彼女もまた、これ天成の驕児で、・盲《めくら》蛇に怯じずの、 恐いもの知らずであるから、女中が茶菓を運んで、退いてしま うと、 「実は、私の一身上のことで、御相談に上ったのですが……」 と、自分の方から切出して、巧まぬ恥しげな、謙遜な徴笑を顔 一杯に浮べながら、 「私の思い余りましたことは、今朝ほど、新聞で、奥様から御 親切な回答を戴きましたので、大体の決心がついたのですが、 私が問の方に書きませんでした、細かい事情を、聞いて戴きた いと思って伺ったのですの。」というと、女史は-意外な面 持でまんじりともせず、久美子の瞳をみつめていたが、 「今朝の女性相談欄へ何かお拙し忙?」と、いったまゝ、憤り とも不安とも名状しがたい、一種の表情で驚いて訊き返すの を、久美子は黙ってうなずいた。伊佐子女史もさてはと思い 当ったらしく、黙ってしまった。  その後につ間いた二人の無言ほど、複雑な感情や事実を伝え 合う無言は、あまりないであろう。           、  伊佐子夫人は、気の毒にもだんく顔色が蒼ざめ、身体がそ わくと動き始め、火鉢の縁に置いた手が、火箸を取って灰を |弄《いじ》るとすぐ、それを止め(ちょっと久美子を見直したが、その 眼には、先刻《さつき》までの落着いた眼色は、跡かたもなくなってい た。それに反して久美子は、ゆっくりと落着き払ってしまっ た。  遠くで、ほのかに聞えていた万歳の音が、にわかに小路《こうじ》のあ たりで、朗かに、のどかに、きこぇている。外は、お正月気分 であるが、室内には粛殺の気が漂っズいる。 「あなたは、私をお郷捻《からかい》にいらっしたんですか……」と、伊佐 子夫人が、口元を歪めていうのに、久美子は%おい被《かぶ》せて、 「いゝえ、滅相もない。真剣に御相談を申し上げに伺ったんで すわ。」 「その隣家の青年って、一体誰ですか。」 「お恥しいですけれども、お宅様の隆一さんですの。」  伊佐子夫人は、半ば覚悟していたらしいが、ハッキリそう言 われると、のけぞるばかりに、動揺しながら、 「嘘おっしゃい!そんな筈はありません!」と、力一杯弾き 返して来た。 「あら、そんなことおっしゃったって、隆一さんは、昨夜も遅 くまで、私の家へ遊びに来ていらしったし、五日から赤倉ヘス キーに行く騎約束をしていますし……」  そういわれると、伊佐子夫入も、、やな事実を認めずに砥い られなかった。隆一が、お友達と、赤倉へスキlに行く許可を 求めているのは、昨年の暮からで(二三日なち行っていらり しゃい!)と、昨日の朝いったばかりである。恐ろしい破局に 面したように、伊佐子夫人の顔は、土のようになった。 「本当に、隆一さんは、お優しく、真面目にいって下さいます の。僕は、君のどんな過去でも許す。両親さえ納得してくれゝ ば結婚してもいゝって。私、本当に感激してしまいましたの。 そして、今迄の自分の生活が、間違っていたという事が、しみ じみ分りましたの。だから、私、誓って今までの事を清算いた しますわ。そして、誠心誠意奥さまにお願いいたしますわ。奥 さまは、女性相談なんか受け持っていらっしゃるし、私の問 に、あんな御同情のあるいゝ答をして下さるんですもの。私、 あのお答を見て、嬉しくなりましたの。あのお答で、力を得ま したものですから、隆一さんにも御相談しないで、思い切って 直接お伺いいたしましたの。私、本当に心を改めますわ。そし て、奥さまの御指導のもとに、正しい本当の生活に入りたいと 思いますの。」  突飛な遣方《やりかた》ではあるが、,いう事の筋は、ハッキリ通ってい る。学校で、赤くなった学生などを相手に、度々いい合った事 もあるが、これは事件が最愛の息子に関することであり、相手 が突飛で無教養であるだけに、始末に躰えない。伊佐子夫人 は、カメレオンのように赤くなり青くなりた。  家庭では善良にして、従順なる良人をお尻に敷き、学校では 女には稀な政治的手腕を揮って、校主以上の権力を、ほしいま まにして、我思うこと成らざるなき伊佐子夫人としてほ、これ は正に、一生の大難というべきである。 ■無教養な妾風情と軽蔑していても、肝腎の隆一を人質に取ら れた上、妙なトリックに、まんまと自分の言質をも、盗まれて いる以上、恐ろしい大敵であり、人を人とも思わぬ弁舌は、相 当なものである。 「隆一が、そんなこと本当にあなたにいったのでしょうか、」 と、今は最初の擬勢も、やゝ崩れて、おずおず訊くと、 「おっしゃいましたわ。嘘だと思召すなら、隆一さんをこゝへ お呼びになったら、いかがです。」  久美子は、まじろぎもしない。隆一は、二階にいる筈であ る。しかし、迂潤にこゝへ呼んで、もしこの女と対決させ、隆 一が自分の面前で、この女と夫婦にしてくれなどといい出した ら、それこそ始末におえないことになってしまう。隆一など呼 ばないで、別個に撃退するほかはないと覚悟をきめて、伊佐子 夫人は、平生の修養はこゝとばかりに、度胸をきめ、出来るだ け落着きを示しながら、 「私には、隆一がそんなことを言ったとは信じられないので す。みんなあなたが、私を椰楡《からか》っているとしか考えられないん です。また、たとい隆一が、二しんなことを言ったとしても、あ れはまだ親がかりの学生です。結婚すべき資格なんか断然あり ません。」 「だから、私むろん、隆一さんが卒業なさるまで、お待ちする んです。」 「卒業しても、自分で妻を養うだけの収入を得るまでは、断じ て結婚させません。」  伊佐子夫人の唇が、ぶるく震えているのに、久美子のそれ は、微笑さえ、洩しながら、 「だから、私、二年でも三年でも、お待ち致しますわ。その 間、奥さまに御相談してどっかの学校へでも入っていようかと 思いますわ。私だって(女学校をちゃんと出ているんですも の。」  久美子の、あゝいえばこういう綽々《しやくく》たる応対に、伊佐子夫人 は、いよノ\業をにやしながら、 「あなたなんか、何年待って下さっても駄目です。隆一が、ど んなお約束しているとしても、母たる私が、改めて器断りいた します。あれと、今後絶対に交際して頂きたくありません。」 と"いい放った。 「讐あ一一新聞での御回答とは、随分違っていますのね。」久 美子は、ますノ\落着くばかりだった。 「そうですとも。理論と実際とはいつも違いますよ。」夫人の 内心は知らず、言葉だけは、厳然としていた。 「へえ。ーそんなもんですか。」と、久美子が呆気にとられた顔 をLて見せると、伊佐子女史は、・グッと語気を強めながら、 「物には、原則と例外とがありますよ。あの回答は、原則を示 したのです。相手の青年が普通の家庭の息子であり、相談して いる当人が、普通の女性であれば、宜しいのです。ところが、 隆一は教育家の息子ですよ。父も母も、大切な人様のお子さん 達を預っている教育家です。それに第一、あなたが普通の女性 では、ありませんよ。」 「何故でし寸うか。」 ー「あなたは、今女学校を出たといわれたでしょう。女学校を出 て、人の妾になっているなどということは、あなたに少しも入 格のない証拠ですよ。.」苦しい女史のいい抜けに、久美子は、 いつか冷やかな笑みを浮べて、 「では、教育家の息子さんなんて、本当の恋愛も出来なけれ ば、また女性に対してハ実行拙来ない嘘の約束ばかりしている と、いうことになるんですか。」 「いゝえ、隆一の場合など、もし何か約束でもしたというな ら、それは、あなたに騙されたのです。」 「おほゝゝ。」と、久美子はおかしくなって笑いながら、 「じゃ、なぜ私のような人格のない女に騙されるような方に、 お育てになったのです。」 「それは……」と、ちょっと詰《つま》ったが、 「あの子は、純にくと育てたものですから、ついあなたなん かに誘惑されたのです。みんなあなたの責任です。」 「……でも、奥さんも、勝手な議論ばかりなさる方ですわね。」 と、正面からいうと、 「いゝえ、勝手な議論ではありません。た讐、あなたの悪ふざ けに乗らないだけですよ。今後とも、隆一とは、一切交際して 戴きたくありませんよごと、高圧的にいい切ると、久美子も 負けてはいなかった。 「それは隆一さんに霊っしゃればいゝことじゃありませんの。 私は、私の決心がございますわ。奥さまは、私の悪ふざけとし てお取り上げにならないとしても、私は、とても真剣なんです の。私は、どんなことがあっても隆一さんと一緒になって見せ ますわ一奥さまは教育家としてのお力で、隆一さんを、せいぜ い御監督遊ばすといゝわ。私は、隆一さんとなら、心中でもな んでも、しようと思っていますの。隆一さんも、私のためにな ら、■死んで下さると、私は信じていますの。では、これでお暇 いたします。たいへん、・お騒がせして、,租済みません。」  おどかしの嘘とは思いながら、万が一ーにも、そんなことでも されてはと思うと、伊佐子夫人は、震え上った。  坐ったまゝで、部屋を出て行く久美子を見送りながらも、伊 佐子夫入の両手は、火桶の縁で、小刻みに震えていた。 立つ鳥  父と子とは、将棋のよい相手であった。硝子障子から、よく 日の当る二階の広縁で、卓子《テ プル》の上に、足のない将棋盤を置き、 椅子にかけて、父子仲よく将棋を指している。お正月休みの簡 素な'風景である。このごろは隆一が少し強くなって来て、い つも和田博士が苦戦するのに、今日は隆一の旗色がわる<、ひ どく署《いじ》められている。  桂馬で追い出された隆一の玉が、中央へ逃げ出している。博 士の持駒は、飛車に金と銀、もう一手で詰である。しかし、隆 一の成角《なりかく》が利いているので、うっかりすると詰めそこなう。  父博士は、一心不乱に盤面を睨んでいる。  その時に、子供達の上り下りにさえ、口やかましい伊佐子 が、・小娘のようにバタノ\という足音をさせて…階段を駈け 上って来た、 「先生、ちょっと。」と、博士を呼んだ。伊佐子夫人は、ごく 上機嫌のときか、ひどく理屈ばるときは、良人博士を、(先 生)と呼ぶ癖を持っている。・ .-ク立前の空模様みたいな、すさまじい気配である。伊佐子夫 人の声が、ピリく震えているのに、将棋に夢中な博士は兎に 角この勝負に勝ってからというように自分の桂を飛んだ。敵の 成角の筋を防いでから、金を打って詰めようという算段であ る。 ,「ちょっと、お話が……」と、伊佐子夫人が、せき込むと、 「なんだい! お待ち。」■と、盤の上に腸み込もうとすると、 伊佐子夫人の手が、いきなり盤の上に延びて、ひっかき廻して しまった。 「将棋なんか後で。隆一は、下ヘ,降りていらっしゃい。」  いつもながらの暴君振りであるが、博士も隆一も馴れている から、別に騒かず、■隆一は崩した駒を小箱に入れると、下へ降 りて行った。  伊佐子は、隆一の足音が、きこえなくなるのを待ちかねて、 「先生、大変な事が起りましたよ。」 「一体なんだ㌔そんなに興奮して……」と、まだ中途でよし た将棋に未練を残しながらいうと、 「恥です。恥です。恐ろしい恥です。私達の一生涯の恥です よ。」と、失人は唇をふるわした。博士も、流石に不安そうな 顔にたって、 ■「まあ。そう興奮しないで、わけを話して御覧!」と、鋤《いたわ》るよ うにいった。 「いゝえ。興奮しないではいられないことですよ。人もあろう に、裏の女が隆一と一緒にさせてくれといって、押しかけて 参ったのですよ。」 「ほゝう。」流石に、鈍重な和田博士も眼を瞠《みは》った。 「こんな事になるのも、先生、あなたがあまり暢気なからです よ。私が、いっそあの家をこっちで買い取って、あんな者を追 い出してしまった方がいゝと、この間もあん血に申したじ.やあ りませんか。それに、隆一の監督も、もっと厳重にと常々申し ているのに、あなたが、あれは温和《 とな》しい性質《たち》だから大丈夫だな んて、おっしゃるもんですから、こんな大失敗をやるんです。 あの女の話では、隆一はあれの家へ遊びに行っているようです よ。」 「ほゝう。それは意外な。」 「いゝえ。今更お驚きになっても始まりませんよ。みんなあな たが、もっとしっかりなさらないからですよ。」  平生女天下でありながら、いざ何事か起ったとなると、すべ てその責任を良人の博士になすりつけてしまうことが、伊佐子 夫人の流儀である。  暫くの間、久美子が訪ねて来た容子を、ヒステリックに細々《こまるヤ》 と話してから、 「折角、恵美子によい縁談が始まっているのに、こんな話が世 間様に知られたら大変ではありませんか。そうノ\、私、今思 いだしましたわ。昨日、美祢子が参りましたとき(隆ちゃんに も縁談があるのじゃないの)と中しておりましたが、もしかし たら、あの女が隆一と結婚するなどと申すことを、世間へ言い ふらしているのかも知れません。もし、そうだとすると、これ は一大事でございますね。」 「全く。」和田博士も少からず、面喰っていた。 「そんなに、合槌ばかり打っていらっしゃらないで、善後策に 就ての御意見を、聴かして下さいませんか。」 「うむ。」 、「私は、隆一を責めたくありません。第一、隆」とこんな汚ら わしい話をしたくはありません。あの子には何事もなかったよ うに、解決いたしたいのです。」 「それは、わしも同感じゃ」 「それなら、あなたがこの際、一働きなさるベきではありませ んか。」 「それは、どういうふうに。」 「どういうふうにって!分つているじゃありませんか。相手 の女を始末するのです。どうせ、あゝいう教養のない女ですも の、話次第で、どうにでもなるじゃありませんか。」 「うむ、しかし、話には誰が行く?」 「それはもちろんあなたです。私は、あの女を窪《たしな》めて帰した以 上、体面上行かれませんよ。こういうことは、主人たるあなた のなさるべき事ですよご (嫌な事には女房を出せ!)と、下世話にはいうが、伊佐子夫 人のは(嫌な事には亭主を出せ!)であった。 「話をつけるとしたら、金を出さなければならぬが……」と、 博士が口籠ると、 「勿論、しかし、余計な金は出す必要はありません。三百円も やれば沢山でしょう。」  物事に執着がなく、一つの観念から他の観念へ、ひらりく と飛び歩いているような久美子は、今度の事件も、もとより成 功するとは思っていなかった。た間宮川夫人への意地張りと、 自分の考えついた名案に、陶酔して突発的にやっただけであ る。だから、相手を狂言に巧くひっかけ、相手にとっては気持 の悪い捨|科白《ぜりふ》を、巧みに残して来たことに、十分満足していた。  欲には、巧く隆一をひっばりだし、二三日熱海か箱根へでも 連れて行ったら、あの夫婦がひっくり返るような大騒ぎをする だろうと、思っているだけだった。  その案を実行するにしても近所にいては拙いし、また宮川と 別れた今、百円近い家賃の家に長くいる手もないので、二三日 の内にアパートヘでも引越しするか、でなかったら日本橋の相 場街に間借りしている父の下に、一時同居するつもりで、その 日かち引越しの下準備にかゝっていた。  婦唱|維《これ》従う温厚な和田博士も、その日はさすがに出渋って (相手も今日は興奮しているだろうから、今夜は一晩落着かせ て、明日行った方が話がし易い〕という口実で、翌日まで、延 繧してしまった。  明けて五日の午後、博士は外出先から帰ったまゝのプロック コートで、裏の女を訪ねることになった。  胸を、シャンとそらせ、こわらしいほど、身構えて、ガラリ と格子戸を開けると、……うちから出て来た、集金人ふうの男 と危く鉢合せする所であった。玄関の三和土《たたき》で、小さい下駄箱 が、百貨店の包装紙に包まれ、麻縄が、十文字にかけられて、 玄関の障子も、次の問の襖も、あけ放たれていた。 「御免!」と、いうと、奥の間から、洋服でストッキングなし で、ウェーヴの美しい断髪に、手拭を冠った久美子が、ヒョイ と顔を出して、 「あら、まあ!」と、他意のない驚きの声を揚げて、手拭を、 後にパッと払うと、■ 「まあ。どうぞお上り下さいまし!」と、ぴたりとそこに坐っ て、愛想よく挨拶され、和田博士は、すっかり毒気を抜かれた 形で、靴を脱いで敷台に上ると、 「どうぞ、こちらへー 散らかって密りますけれど……」と、 玄関の次の客間に通された。 「ちょっと、お紅茶をいれてね。」と、勝手元の方へ叫んでか ら、久美子は和田博士と、テーブルをはさんで腰をかけた。 「昨日はお邪魔いたしました。」と、久美子は素直に挨拶した。 (女房の目にかゝると、滅茶苦茶だが、なかく愛想のいゝ女 だわい!)和田は、心中で感心した。 「いや、実は昨日のことで、伺ったのですが、お引越しになる のですか。」と、和田博士が、盤勲に訊くと、 「えゝ。二三日の内に、越そうかと思っていますの。あまり長 くいると、お邪魔だろうと思いまして……」笑いながら、皮肉 ると、 「いやこれはどうも恐縮…こと、博士は久美子の心の内を、 測るように言葉を跡切らせたが、もしや隆一と示し合わせて、 二人で姿をかくしたりするのではないかと思うと、心から不安 になって、 「お引越しになることは、■隆一も存じているのでしょうか。」 と、尋ねた。 「さあ、私は、まだお話ししませんが……御存じかも知れませ ん。」  久美子の妙に絡んだ言葉に、博士はギョッとなった。久美子 は、緊張した博士の顔を面白そうに眺めた。  彼女は、今こそ、勝利者であった。昨日は、こゝへ引越して 以来、物貰いのような欝陶しさで、権利もないのに自分の上 に、おゝい冠さって来ていた、伊佐子夫人を思いのまゝに、 やっつけたし、今日はその良人の朴念仁博士が、鞠躬如として やって来ている。恐らく妥協降参の使節であろう。向うから、 こっちへやってくるなど、よっぽど昨日の捨台詞が、利いたの であろうと思うと、久美子は、・秋空の鷹の如く爽やかなる思い である。  もし、和田博士が不愉快なる態度で臨むたらば、更に隆一を 巧みに誘《おび》きだして、一さわがせ騒がしてやろうと、彼女の如才 ない態度の中にも、キラリとした刀身が蔵されていた。  しかし、博士は愛児の身の上に関することとて、真面目一方 であった。  博士は、実に言いにくそうな口振りで、 「御存じの通り、家内も教育家、私も学校へ出ていますので、 とかく世間の人から、いろノ\言われますので、謹慎の上にも 謹慎しなければならないのでございます。今度のことでも、私 が実業家か何かでございましたら、考えようもあるのでござい ますが、何分職業柄どうにも考えようがないのでございます が、隆一がなんと申し上げましたか、家内がなんと申し上げま したか存じませんが、今度のことは、どうぞなんにもなかった として、諦めて下さいませんでしょうか。私に、頭をさげよと たらば、どんなにでも謝罪致しますが……」 「   ・」 「家内も、あなたの前では(どんなに強がったことを申したか も知れませんが、いやもう大弱りで、昨夜も、ろくノ\休まな いようでございました。」  流石に博士は、久美子のような女の扱いようを知っていた。  久美子は、伊佐子女史の悶々たる胸中を察し、会心の微笑《ほムえみ》が ニヤく浮び上るのを、やっと制し乍ら、 「でも、奥様は、昨日は大変な剣幕でいらっしゃいましたの に、随分勝手なことを、おっしゃって威張っていらっしゃいま したのに、そんなお弱りになるわけは、ないじゃございません の。」と、静かに針を含んだいい方をすると、博士は額際の汗 を拭いながら、 「いや、どうも。どうぞ、騎手やわらかに。私達夫婦の立場を 御諒察下さって…何事もなかったことにして頂いて、どうぞ一 つーはあ-何分よろしく。」といって博士は、丁寧に頭を 下げた。夫人に比べると、どこかトボケていて、憎めない存在 だった。  諦めのいゝ久美子は、もうとっくに諦めていたし、また何入《なんびと》 にも、執念深く惚れるという性格でもなかった。 「あなたのように、、おっしゃって下さると、話が分りますの よ。奥さまのように、まるでこっちを入間扱いになさらない と、私カッとたってしまう性分なものですからねぇ。」 「御尤もで。」博士は、また丁寧に頭を下げた。 「おほゝゝゝ。そんなになさると痛み入りますわ。私、本当は 隆'さんを、ひっばり出して、二三日姿を隠そうと思っていま したの。でも、あなたがそんなにおっしゃるのなら、■よします わ、それに、私隆一さんだって、そんなに惚れている訳でもな いんですものね。」 「はあ!」  博士は、愁眉を開いて、ホッとしながら、 「どうも、大変ありがとうございました。これは甚だ失礼なん ですが、私達の寸志としてお納め頂きたいと思いまして……」 と、麗々しく寸志と書いた奉書の包み金を差し出した。手切金 の意味かと思うと、久美子は教育家夫婦の端的な物の考え方 に、個《あき》れてしまった。 「なんでございますの。これ。」 「金です。実にわずかな……」博士は、正直だった。  久美子は、きっとあの伊佐子夫人の高をくゝった指金からだ と思うと、カッとしかけたが、あまりに露骨なやり方が、少し 馬鹿々々しくなったので、 「どういうおつもりなんでしょう。立退料ですか、それとも 手切金ですか。一万円も下さるのなち頂いてもいゝんですが -…」と、笑いながら言った。 .「いや、そんな大金ではございません。ごく僅な……それに手 切金とかそんな意味では、決してございません……」と博士は 赤くなりながら、いゝわけした。久美子は、得たりかしこし と、すまし返って、 「まあ、どういうおつもりで、蔚金なんか下さるんでしょう。 私には、ちっとも分りませんわ。」と、言った。- 「いや、そうおつしゃられると、まことにどうも、恐縮なんで すが、これだけは、、どうかお納めねがいたい。」と、博士は盤 勲にくり返した。 「お金交なんでも片がつくと、あなた方は考えていらっしゃ るのでしょうか。奥さんは、兎も角そんなに考えていらっしゃ るんでしょうね。教育家なんて、やっばり俗人と同じなんです のね。どうぞ、これをお持ち帰りになって、奥さんに騎っ しゃって下さいません? 私は、妾《めかけ》は致しておりますけれど も、まだ自分の恋愛問題を騎金なんかでは、解決しませんて。 蔚分りになりました?」 .「はあ! はあ!」博士は、眼をパチくやっていた。 「と、いって、私もうこれ以上、あなた方に絡みつこうとは 思っていませんの。私だって、まだ若いんですもの。隆一さん なんかと一緒になって、あなたの奥さんのような方と、年中顔 を見合わせていなくってもいゝんですものね。」 「御尤も、御尤も。」 「それから、奥さんに、あまり他人の事や隣近所の事なんか、 方ッく言わないで、御自分の息子さんのことでも、しっかり 御監督なさるように、おっしゃって下さいません? ……」 と、・久美子がいゝ気持になって、何か言おうとしていると、女 中がひょっくり顔を出して、 「奥さま、お手伝いの方が、蓄音機に特別の荷造りをしなくっ てもハよろしいんですかってP」 「むろん、するのよ。でもまだいゝわ。今日晩にレコードをか けないと寂しいから……」といいさして、和田博士の顔を見返 Lながら、 「お喧ましいでしょうが、もう今日明日ぎりですから。」と、 微笑した。 ,「どうぞ<、御遠慮なく。じゃこれで私は、齢暇しますか ら。お言葉に従って、これを持ち帰ることに致しますから。」  博士は、金包を懐に入れると、幾度も胎辞儀をしながら帰り 去った。  久美子は、昨年来のこだわりが、みんな、きれいサヅパリ無 くなったので、なんだかサバノ\した気持になっていた。彼女 の心には、悲しみも怒りも口惜しさも、長くは尾を引かなかっ た。  たf今度男を持つなら、宮川のようにお金があって、隆一の ように若くて独身で感じのいゝ人をと、欲の深いことを考えて いた。人盛んに、色|美《うるわ》しければ久美子に来る春も、必ずしも遠 くはないであろう。 人妻憂絶えず  お正月も松が除《と》れ、十日、十五日と天気がつ間き、雨も涙ほ ど、雪も化粧ほどしか降らず、空気は乾燥し、寒さはゆるま ず、風邪が流行して、誰もが雨を願っていた。  二十日《はつか》過ぎ、今朝は珍しく雨に明けて、気温も暖く、かそけ <春の気配をひいている静かな雨だった。滝山氏は、相変らず 大学へ、広い家の中は、美祢子と女中と犬達とだけである。 「あさや!」と、一《ヤ 》呼んだが、勝手元にまで声が届かなかった。 そのかわり、コリーが、,バサくと大きな尾を振りながら身を 寄せて来て、手の甲に冷たい鼻面を押しつけた。  それさえ、邪樫に廊下の方へ押しやって、部屋の隅のエレク トPラに、モーツァルトのソナタをかけて、また元の位置に坐っ た。先刻女中にいいつけようとした用事も忘れて、ゆるくやさ しく戸外の雨と相和するソナタも、聞くともなく聞かぬともな べ、.紫檀の机に肱を、たせて、物思わし甘な仲まご人の眉のあた り、退屈にうすら淋しき午下りであった。  玄関で、ベルが鳴っている。誰かしら? 美祢子は、耳を傾 けた。 (久滋さんは昨日《きのう》来たばかりだし……) ■美祢子が仲に入った話は、思いの外にするくとまとまり、 一月の半《なかぱ》に、久滋が退院すると、正式に久滋家から結婚の申込 があって、昨日結納が美祢子の家に届けられた。これを渋谷へ 持って行こうとすると、今日の雨で、美祢子は一日延ばすこと にした。 .久滋が、恵美子との縁談を、たとい自分が切り出したことと はいえ、いそくと纏めてしまったことは、何かしら自分への 軽い面当のようにも取れて、美祢子は淋しかった。  事件以後、もう一月にもなって、生活が平坦な元の軌道に 戻ってしまうと、あの時の殊勝の心む、日一日うすれて、白紙 のような空々しさを、ともすれば感じるのであった。  あの時の良人の態度は、さながら曼陀羅の中の仏様の如く !世にもありがたい姿に拝まれ、(我君に仕えて、心のどか に暮さん)と決心したが、しかし一月もすると、良人はやっば り元の木阿弥、神経も感情もない木物、金仏のようにしか思わ れなくなり、我から纏めた縁談の目録などを見ても、何か気抜 したような淋しさを感ずるのだった。 「お客様よ。」  美祢子は、立ってエレクトロラのスイッチを切りながら、勝 手の方に声をかけた。  訪客は、新年になって初めて、顔を見せる房子夫人だった。  女中が茶菓を運んで来るまで、つゝましい社交的な笑い声を 立てて、新年の挨拶や、互いの無沙汰の詫びやら、改まったも のだった。, 「いゝ雨ですわねえ。これで、風邪も下火に次りましょう。家 じゃ全部やりましたのよ。とても、忙しかったんですの。み んな四、五日でよくなりましたけれど……随分、温かいお部屋 ね、ストーヴなんか、よござんすわ。外から入ってくると、ま るで温室のようですわ。」と、火鉢をはさんで、ずっと膝を進 めると、房子夫人は美祢子の顔を、しげく見ながら、 「あら、あなた、少し齢痩せになったんじゃないかしら。L 「そう見えますっこ 「えゝ一やっばり、自動車で衝突なすったのが、悪かったん じゃございません?」 「いゝえ。あれは、ほんとに大した事じゃなかったんですの。」 「じゃ、何か器悪いところでも、おありになるんじゃない めP」 「いゝえ。」 「なら、いゝけれど、少し箕《やつ》れて見えますわ。」と、いいなが ら、視線が床の間の美々しい結納の三宝に流れたらしく、 「まあ-御親類に、おめでたが、おありになるの?」と、話題 が変った。 「えゝ。姉の娘ですの。」 「恵美子さんとかいった方iどなたと?」 .「私と一緒に自動車で怪我した久滋さんという方-私達が仲 人なんですの。」と、あけすけに、さも快潤らしく微笑んだー: 「まあ、そう、それですっかり疑いが晴れたわ。,私あの方、あ たたの愛人か何かかと、少しは疑っていたのよ。」 「とんでもない。」と、美祢子は、ハッキリといいながらも、 流石に伏目になった。房子は、その話で久美子のことを思いだ したと見え、 「隆一さんに縁談があるという話は、嘘だったんでしょう。」 「えゝ。そんな話、ちっともないのよ。」 「私も、やっばり嘘だと思っていたの。でも、念のたあにお訊 きしたの。実は、いつかお話しした堀田の娘が……」と、房子 夫人は、持前のお喋りにいり、久美子とめぐり会った顛末を、 |精《くわ》しく話した。 「そんな訳で、苦し紛れの出鱈目《でたらめ》とは思っていたのーけれ ど、ついお訊きしたの。ところが私が、その時、さんハ\久美 子をやっつけたのが、利いたと見え、なんだか久美子とは、も う手が切れたらしいの。」 「それは、.おめでとう! じゃ、あなた今一番幸福なんでしょ う手.」  美祢子は、笑いながら訊いた。すると、房子夫人は、意外に も首を横に大きく振り、 「ところが、そうは行かないのよ。」と言った。旦那様には、 隠れて吸い習ったという、両切り煙草を片目にいれて、房子夫 人は、眼をシバくさせながら、いわねば腹|膨《ふくる》ることのよう に、良人の近況を話し始めた。 「本当に、宮川なんか、箸にも棒にもかゝらたい男よ。全く恐 るべき良人よ。女房や子供には、それほど邪樫でもなし、子供 なんか、人一倍可愛がっている癖に、家庭には、一刻も落着い ていられない性質に出来上っているのよ。久美子と、手が切れ たらしい当座は、暮だしお正月だし、十日ばかり家にいたんで すけれども、その間の不機嫌さったらないのよ。夜なんか家に いると、へんに拗《すね》てしまって、八時頃から寝てしまうんでしょ う。気難かしく、我儘で機嫌が取りにくゝって始末におぇない の。外《ほか》に、女がある時には、たまく家にいるときは、私達の 御機嫌を取るために、とても優しいし、私に着物や、子供に玩 具《おもちや》などをよく買ってくれるのよ。男なんていうものは、どうし て家庭に安住出来ないんでしょうね。もっとも、こちらの旦那 さまなんか、家庭本位で、本当に羨ましいけれど……」 ・美祢子は房子の話を聞いている内に、滝山が研究室に閉じ籠 るのも、結局、家庭に安住出来ない気持において、善悪の区別 こそあれ、宮川とどこか共通の所があるのではないかと思っ た。ともかく妻たる身にとっては、家庭以外の温柔郷に憬れ、 妻以外の女性の匂に慕い狂う宮川も、研学窮理の仕事にのみ生 甲斐を求めている滝山も、家庭に安住してくれない寂しさにお いては、同じではあるまいかと思った。  房子夫人は、美祢子の気持などには、おかまいもなく、 「家にいて、そんなに機嫌の悪い良人を見ていると、いっそ外 へ遊びに出てくれる方がいゝと、つくハ\思うことがあるの よ。もっとも久美子なんていう相手は困るんだけれど……で も、この頃また帰りが、だんく遅くなっているから、今に何 かきっと出来るかも知れないわ……だから、私の苦労はいつが 来ても絶えないわけね……」  しかし、房子の愚痴を時々、聴かされる美祢子の心の中の寂《さび》 しさも、また絶えないであろう。  人生婦人の身となる勿れ、百年の苦楽他人によると、古人の いいけん言葉は、いずれの代にも、新たなるわけで、人妻なれ ば憂絶《うれい》えざるものか(君独り嘆く勿れ、憂きは互いの身の上 ぞ)と美祢子はj言おうと思ったが、そんな細かい気持の分っ てくれる相手ではないと思うと、そのまゝ寂しく口を喋《つぐ》んで、 いつか暮れかけていた庭に眼をやった。  縁に近い葉ばかりの山茶花《さざんか》に、雀が雨に濡れたがら、チョン チョンと、小枝を渡っている。