菊池合戦1-------- 姉川合戦 ************************************ 原因 ************************************ 9 姉川合戦 ************************************  元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助力を得て、江北姉川に於て越前の朝倉義景、 江北の浅井長政の運合軍を撃肢した。これが、姉川の合戦である。  この合戦、浅井及び織田にては、野村合戦と云う。朝倉にては三田村合戦と云う。徳川にて は姉川合戦と云う。後に徳川が、天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったわけ だ。                        し ば  元来、織田家と朝倉家とは仲がわるい。両家ども欺波家の家老である。応仁の乱の時、斯波                    そむ        たいふ 家も両方に分れたとき、朝會は宗家の義廉に叛いた治郎大輔義敏にくっついた。そして謀計を めぐ 廻らして義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。織田家は宗家の義廉に仕え て、信長の時まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。だから、織田から云え 10 ************************************                                     いや ば、朝會は逆臣の家であったわけだし、朝倉の方から云えば、織田は陪臣の家だと賎しんだ。  だが、両家の間に美濃の斎藤と云う緩衝地帯がある内は、まだよかった。それが、無くなっ た今は、早晩衝突すべき運命にあった。                                         これ  江北三十九万石の領主浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが、兵馬剛壮、之 を敵にしては、信長が京都を出づるについて不便だった。信長は、妹おいちを娘分として、長 政と婚を通じて、親子の間柄になった。  だが、長政は信長と縁者となるについて条件があった。それは、浅井と越前の朝倉とは、   じつこん 代々陀懇の間柄であるから、今後朝倉とも事端をかまえてくれるなど云うのであった。信長は その条件を諾して、越前にかまわざるべしとの誓紙を、長政に与えた。  永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面した。佐和山は、当時浅井方の勇将、 磯野丹波守の居城であった。信長からの数々の進物に対して、長政は、家重代の石わりと名づけ たる備前兼光の太刀を贈った。この浅井家重代の太刀を送ったのは、浅井家滅亡の前兆である と、後に語り伝えられた。  然るに無力でありながら陰謀好きの将軍義昭は、近畿を廻る諸侯を糾合して、信長を排撃せ んとした。その主力は、越前の朝倉である。  信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪溶くるを待って、徳川家康ど共に敦賀表 に進発した。                   かかわ  しかも、前年長政に与えたる誓書あるに拘らず、長政に対して二言の挨拶もしなかった。信 11 ************************************ 姉川合戦 ************************************                     かえ 長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶しては却って長政の立場が困るだろうとの配慮があった のだろう、と云われて居る。  決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対しては、これまでにも、可なり 好遇している。  だが、信長の越前発向を聞いて、一番腹を立てたのは、長政の父久政である。元来、久政は                                    ゆえ 長政十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男故、あまり利                           いか 口でなく、旧弊で頑固であったに違いない。信長の違約を怒って、こんな表裏反覆の信長のこ                       おだに とだから、越前よりの帰りがけには、きっと此の小谷城へも押し寄せて来るに遠いない。そん              こちら な危険な信長を頼むよりも、此方から手を切って、朝倉と協力した方がいいど云った。長政の            みまさか 恵臣遠藤喜右衛門、赤尾芙作などは、信長も昔の信長どは違う、今では畿内五州、美濃、尾 張、三河、伊勢等十ニケ国の領主である。以前の信長のように、そんな不信な事をやるわけは ない。それに当家と朝倉とが合体しても、わずか一国半である。到底信長に敵するわけはな い。この際は、磯野丹波守に一、二千の兵を出し、形式的に信長に対する加勢として越前に遺    ひたすら わし、只管信長に頼った方が、御家長久の策であると云ったが、久政聴かず、他の家臣達も、                    そむ 久政に同意するもの多く、長政も父の命に背きがたく、遂に信長に反旗を翻して、前後から信 長を挾撃することになった。  越前にいた信長は、長政反するど聞いたが、「縁者である上、江北一円をやってあるのだか ら、不足に思うわけはない筈だ」ど、容易に信じなかったが、事実だど知ると、周章して、 12 ************************************ まうまう                                                     しんが 壮     } 這々の体で、間遺を京都に引き上げた。此の時、木下藤吉郎承って殿りを勤めた       ものがたり どして太閣出世課の一頁である。  信長やがて、岐阜に引き上げ、浅井征伐の大軍を起し六月十九日に発向して、 谷に向った、それが姉川合戦の発端である。 ************************************ 。金ヶ崎殿軍 ************************************     ’ 浅井の居城小 ************************************ 戦前記 ************************************  京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日二万有余の大軍を催して、岐阜を立 ち、二十一日早くも浅井の本城なる小谷に迫って町家を焼き払った。しかし、浅井が出でて戦 わぬので、引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。そして、横山城の北竜ヶ          きた 鼻に陣して、家康の来るを待った。六月二十七日、家康約五千余騎を率いて釆援した一            いくさ (家康に取っても、大事な軍であった、信長より加勢を乞われて、家康の諸将相談したが、本 多平八郎忠勝、家康に向って日く、「信長公を安心の出来る味方ど思っているかも知れぬが、                                  たく そうとは限らない。折あらば殿を難儀の軍などさせ戦死をもなさるように工まぬとも限らな         こと                                    よろこ い。今度の御出陣殊に大事である」と。家康その忠言を欣び、わざと多くの軍勢を引きつれず に行ったのだ。出先で敗れても、国許が手薄にならぬ為の用意であった)                           よしかげ                     かげ  長政も、越前に使を派して朝倉の援兵を乞うた。然るに、義景自ら出張せず、一族孫三郎景 たけ 健に、約一万の兵を与えて来援せしめた。                          そむ  長政は、朝倉に対する義理から、…−好意から信長に叛いているのに、肝心の朝倉義景は、                        うち             うち この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。隣の家が焼けている裡は、まずまずど云う考 えなのである。尤も、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の不覚でもあるが…:。                                    おおよせ  長政、朝倉の来擾を得て、横山城を救わんどし、二十五日小谷城を出で、その東大寄山に陣を 張った。翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。  かくて、織田徳川軍は姉川を挾んで浅井朝倉軍ど南北に対陣した。  今南軍即ち織田徳川方の陣容を見るに、 ************************************ 織田信長(三十七歳)    二百四十余万石、兵数六万、姉川に来りしものは、その半数           まさひさ ************************************ 13 姉川合戦 ************************************ 本第第第第第第  六五四三二一 陣陣陣陣陣陣陣 ************************************ 阪井 政尚 池田 信輝 木下 秀吉       (兵各三千) 柴田 勝家    よしなり 森  可成 佐久間信盛 信長(兵五千余) ************************************ 横山城への抑え 14 ************************************ 安氏丹 藤家羽 ************************************ 長秀(兵三千) 直元(兵千) のりとし 範俊(兵千) ************************************ 徳川家康(二十九歳)  i六十余万石、兵数約一万六千、 ************************************ 本第第第  一      1・一一■  一              一i  一       一 陣陣陣陣 ************************************ 姉川に来りしもの約五千 ************************************ 酒井 恵次(兵千余)    ながただ 小笠原長思(兵千余) 石川数正(兵千余) 家康(兵二千余) ************************************ 外に信長より家康への加勢として    稲葉 通朝(兵千余) ************************************ 徳川家康の部将中、酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけは、そうでない。小笠原 は、元、今川家の大将で武功の勇将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢と   かみがた              あきす     かすめと       はら して上方にでも遠征したら、その明巣に遠州を掠取らんと云う肚もないではない。家康もその 辺ちゃんど心得ているので、国には置かず、一しょに運れて来たわけである。つまり、まだ馴 15 ************************************ 姉川合戦 ************************************ れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来、戦争に使おうど云うのである。それだけの小笠                        また 原であるから、武功の士多く、姉川に於ての働きも亦格別であった。          このたび                         おお         そうろう (『武功絶記』に、「此度権現様小笠原与八郎を先手に被せ付けられ候。与八郎下心に挾む所                                その あり㌦難も、辞退に及ばずして、姉川にて先手致し勝利を得申し候。其時節与八郎家来渡辺金                   すぐ 太夫、伊達与兵衛、中山是非介働き殊に勝れ候て三人共に権現様より御感状下され候。渡辺金 太夫は、感状の上に吉光の御腰物下され候事也」とある。この小笠原は、小田原の時亡んだ。 恐らく現在の小笠原長幹伯は、その一族だろう) 、家康が、到着した時、信長は遠路の来援を謝しながら、明日はどうぞ弱からん方を助けてく れと云った。つまり予備隊になってくれど云うわけだ。家康嫌って、打ち込み(他と入り交っ                  かきん ての意ならん)の軍せんこと、弓矢の蝦理であるから、小勢ではあるが独立して一手の軍をし              かな たいと主張した。もし望みが叶わなければ、本国に引き返さんど云った。信長、左様に仰せら れるのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたい。尤も北国の大敵に向わせられるには、御勢ばかり                        えら では、あまりに小人数である。信長の勢から、誰か撰んでくれど云った。と、家康は、自分は 小国で小勢を使い習っているから、大勢は使えないし、心を知らぬ人を下知するのも気苦労だ から、自勢だけで沢山だと云った。信長重ねて、朝倉ど云う北国の大軍を家康だけに委したと            あざけ あっては、信長が天下の潮りを招くこどになるから、義理にでもいいから誼かを使ってくれ と、ひたすら勧めたので、然らば星非に及ばず、稲葉伊予守貞通(通朝、良通などども云う) をかしてくれと云った。織田の勢より、ただ一人、海道一の弓取たる家康に撰み出されたる稲 ************************************ 16 ************************************ 葉伊予守の面目、思うべしである、  稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人で、斎藤家以来名誉の士だ。茶室で信長に殺さ                       くもはしんれいによこたわつて れかけたのを、昧の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺』を読んで命を助かった文 武兼傭の豪傑である。  戦い果てて後、信長、稲葉の功を賞し、自分の一字をやって、長通ど名來れと云う。稲葉 よろこ                          めくら 悦ばずして信長に向って日く、「殿は盲大将にして、人の剛臆が分らないのだ。自分は、上方       やり                                            まと 勢の中では、鑓取る者とも云われるが、徳川殿の中に加わりては、足手纏いの弱兵にて一方の 役に立ったとも覚えず、自分の勲功を御賞めになるなど、身びいきと云うもので、三河の人の 思わむことも恥し」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を賞め上げるなど、外交手段を心得たな かなかの曲者である。  浅井朝倉の陣容は、次ぎの通りだ。 ************************************  浅井勢 浅井長政(二十六歳)  !−三十九万石、兵数約一万−           かずまさ    第一障磯野員昌(兵千五百)    第二陣浅井政澄(兵千)        あかん    第三障 阿閑貞秀(兵千) 第四障 薪庄 本陣 長 ************************************ 直頼(兵千)  政(兵三千五百) ************************************ 朝倉勢(朝倉義景)    八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万          かげのり    第一陣朝倉景紀(兵三千)    第二陣前波新八郎(兵三千)    本陣朝倉景健(兵四千) ************************************ 17 姉川合戦 ************************************                がた 『真書太閣記』に依ると、浅井朝倉方戦前の軍議の模様は、左の通りだ。      ふ  七日の夜深けて長政朝倉孫三郎景健に面会なし、合戦の方便を談合ありけるは、越前衆の じんどり                               みちのり            じき 障取し大寄山より信長の本陣寵ケ鼻まで道程五十町あり。直に押しか㌧りては人馬ともに力                                  しののめ 疲れて気衰ふべければ、明暁野村三田村へ陣替ありて一息つぎ、二十八日の農朝に信長の本            これ 陣へ不意に切掛り、急に是を攻めれば敵は思ひよらずして周章すべし、味方は十分の勝利を                    ひと 得べきなりと申しけるに、浅井半助どて武勇人に許されしものながら、先年久政の勘当をう けて小谷を追出され、濃州に立越え稲葉伊予守に所縁あるを以て暫時かくまはれて居たりし       いくさだて  よくよく                     このたぴ                              み つ かば、信長の軍立を能々見知りてありけるが、今度織田徳川矛盾に及ぶと、浅井を見続が   いよいよ               −ξつむ ずば弥不恵不義の名を蒙るべしとおもひ、稲葉には暇乞もせず、ひそかに小谷へ帰り、赤 18 ************************************ 尾美作守、中島日向守に就て勘当免許あらんことを願ひしに、久政きかず。殊に稲葉が家に かくまはれしものなれば、いよく疑心なきにあらずとて用ひられざりしかば、両人様々に       わぴごと                もだ 証拠をどりて詫言申せしゆゑ、久政も黙止しがたく、然らばとて免許ありて差置かれける   このあいだ          ちようの に、此間信長陣替の蒔丁野若狭守と共に討つて出で合戦し、織田勢あまた討捕りしかども                         き  え もん                  よつ 却て、丁野も半助も久政のにくみを受けながら、遠藤喜右衛門が能く取りなしけるに依て、   ようや        。    そぱ 久政も漸く思返し、此頃は傍近く出勤しけるにより、今日評定の席へも差加へられたり。然                 それがし             まかりあ るに長政の軍慮を承り、御存じの如く某は三ケ年濃州に罷在りて信長の処置を見覚えて候           えんこう ふが、心のはやきこと猿猿の梢を伝ふ如き撮舞に候へば三田村まで御陣替あらば必ずその手                                 しまらく   つかまつ           も                                            } 当を仕り候ふべし、若し総掛りに軍し給はど味方難渋仕り候はんか、今暫時敵の様を御覧                  のたま                      そのまま ありて然るべきかと申しけるに、長政宣ふ様、横山の城の軍急なれば、其儀に見合せがた              なかなか                     のぴのぴ            つい  せめおと し、敵の出で来るを恐れては勿々軍はなるまじ、その上に延々どせば、横山終に攻落さるべ            たす   てだて                         ほか し。但し此ほかに横山を援けん術あるべきや、今に於ては戦を始むるの外思案に汲ばずどあ                                     こづめ りけるを聞て、遠藤喜有衛門然るべく覚え候。兎角する内に、横山の城中の者も後詰なきを                               このかた 恨み降参して敵へ加はるまじきにもあらず、信長当方へ打入りしより以来、心のま㌧に働か せ候ふこど余りに云甲斐なし、早く御陣替然るべし。思召の如く替へおほせて、二十九日敵                               たと−又               このほ㌧つ 陣へ無二無三に切入り給はんには、味方の勝利疑ひ有るべからず。仮令ば敵方にて此方の色 を察し出向はど、その処にて合戦すべし、何のこはきことが候ふべき。喜右衛門に於ては必 定信長を撃捕るか討死仕るか二つの道を出で候ふまじと思定め候、早早御出陣然るべしと申 19 ************************************ 姉川合戦 ************************************                           よろしきこと               ばか  すにより、久政も此程遠藤が申すことを一度も用ひずして宜敷事無りしかば、此度許りは喜    じよう                                                         いずかた  有衛門尉が申す旨に同心ありて、然らば朝倉殿には織田と遠州勢と二手の内何方へ向はせ給 ふべきかと申せしにより、孫三郎何れ一なり共罷向ひ申すべくとありしかば、嚢いやく  某が当の敵は信長なり、依て某信長に向ひ候ふべし。朝倉殿には遠州勢を防ぎ給はり候ふべ  しと定めて陣替の仕度をぞ急がれける。遠藤喜右衛門尉は、兼て軍のあらん時敵陣へ紛れ入      うかが                            かた  り、信長を窺ひ撃たんど思ひしかば、朋輩の勇士に談らひ合せけるは、面々明日の單に打込             ひとえ  の軍せんと思ふべからず、偏に敵陣へ忍び入らんことを心掛くべし。然しながら敵陣へ忍び                     のが  入り、1冥加有て信長を刺し有るとも敵陣を遁れ帰らんこどは難かるべし。然らば今宵限りの                                  わかもの  参会なり、又此世の名残りなりと酒宴してけるを、諸士は偏へに老武者が壮士を励ます為の          いずれ  繰言とのみ思ひて、何も遠藤殿の仰せらるる迄もなし、我々も明日の單に討死して、栄名を  後世に伝ふべきにて候ふど答へしかば、喜有衛門尉も悦び、左様にてこそ誠の忠臣の道な れ、はや暁も程近し、面々用意にぐら落一とて、思ひくに別れけり。            すこぷ  かくの如く遠藤の決死は頗る悲壮であるが、彼は、長政が初めて佐和山に於て信長と対面し たとき、信長の到底頼むべからざるを察し、急に襲って討たんこどを提議し、長政の容るると                  このたび ころとならなかった事がある。また、今度長政が信長と絶縁せんとするや、到底信長に敵しが         かんし たきを知って極力諌止せんとした。しかも、いよいよ手切れとなるや、単身敵陣に潜入して、 信長を討たんことを決心す、実に、浅井家無二の思臣と云うべきであろう。  しかし、今度の戦い、浅井家に取って必死の合戦なりと思い決死の覚後をした者、他にもい 20 ************************************                     うたのすけ                  いつきのすけ ろいろ、その中にも、最もあわれなるは浅井雅楽助である。雅楽助の弟を斎宮助と云う。先年世 良田合戦、御影寺合戦(永禄三年)終って間もなく、浅井家の家中寄り合い、諸士の手柄話の 噂などした。その蒔、斎宮助、「我等が祖父大和守、又見なる玄蕃などが働きに及ぶもの家中 にはなし」と自慢した。兄雅楽助大いに怒って、かく歴々多き中に、その高言は何事ぞと叱り つけた。兄としては当然の話である。だが、斎宮助、衆人の前にて叱貴せらるる事奇怪なりと て、それより兄弟永く不和になっていたが、姉川合戦の前夜、二十七日の夜亥刻(今の十二 時)ばかりに、兄の雅楽助、弟斎宮助の陣所に行き、「明日討死をとげる身として何とて不和                 さかずき を残さん、今は遺恨を捨てて、名残の盃せん。父尊霊を見度くば互いの顔を見るこそよけれ」 と、眼と眼を見かわしていたが、やがて酒を乞いて汲み交し、譜代の郎党共も呼び、どもに死 別生別の杯を汲み交した。  浅井方の悲壮の決心推して知るべきである。これに比ぶれば、朝倉方は大将自身出馬せず、 しかも大将義景の因循姑息の気が、おのずと将士の気持にしみ渡っていただろうから、浅井家 の将士ほど真剣ではなかったであろう。 ************************************        朝倉対徳川戦                     かねくそ         あずさ  姉川は、琵琶湖の東北、近江の北境に在る金糞雷に発した梓川が伊吹山の西に至って西に折                なお れて流るる辺りを姉川と称する。尚西流して長浜の北で湖水へ入っている、姉川というのは、 えんま 閻魔大王の姉の竜王が此の川に住んでいるから姉川と云い初めたという伝説があるが、閣魔大 21 ************************************ 姉川合戦 ************************************ 王の姉に竜王があるどいう話はあまり聞かないから、之れは土俗の伝説に過ぎないであろう。                                      ただ 野村、三田村附近では、右岸の高さは六七尺以上で、昇降には不便であったらしい。ロハ当時の                         お 水深は、三尺位であったというから、川水をみだして逐いつ逐われつ戦ったわけである。  六月二十八日午前一二時に浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。  払暁を待って横山城を囲んでいる織田軍を攻撃せんど云うのであった。ところが信長が二十 七日の夜敵陣にたくかがり火を見て、敵に進撃の気配あるを察し、それならばこちらから、逆撃 しようと云うので、姉川の左岸に進出していたから、浅井朝倉軍が展開するのを見るや、先ず 織田徳川の軍から、弓銃をもって、挑戦した。これは浅井朝倉勢にとっては可成り意外だった ろう◎ .三田村の朝倉勢に対するものは家康、野村にある浅井單に対抗するものは信長勢であった。  先ず徳川朝倉の間に戦端が開かれた。家康は、小笠原長忠を先陣とし、右に酒井恵次、榊原                      ただよ 康政、左に本多平八郎恵勝、内藤信重、大久保恵世、自分自身は旗本を率いて正面に陣した。  本多忠勝、榊原康政共に年二十三歳であったから、血気の働き盛りなわけであった。               ずいしゆうけん      さ えもんのじよう ・朝倉方は、黒坂備中守、小林瑞周軒、魚住左衛門尉を先頭として斬ってかかった。徳川家 康としても晴れの戦であったから、全軍殊死して戦い、朝倉勢も、亦よく戦った。朝倉勢左岸 に迫らんとすれば、家康勢これを右岸に逐い、徳川勢右岸に迫らんとすれば、朝倉勢これを左 岸に逐いすくめた。    うち      やや  其の中徳川勢梢後退した。朝倉勢、すわいくさに勝ちたるぞとて姉川を渡りて左岸に殺到し 22 ************************************ たところ、徳川勢ひき寄せて、左右より之れを迎え撃った。酒井忠次、榊原康政等は姉川の上 流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたので、朝倉勢漸く浮き足立っ                     ろうばい た。徳川勢之に乗じて追撃したので、朝倉軍狼狽して川を渡って退かんとし、大将孫三郎景健 さえ乱軍の中に取り巻かれた。其の時、朝倉家に於て、唯一の豪の者ときこえた真柄十郎左衛 門直隆取って返して奮戦した。十郎左衛門は此の度の戦に景健後見どして義景から特に頼まれ                                       た ち て出陣した男だ、彼は講釈でも有名な男だが、北国無双の大力である。その使っている太刀は 有名な太郎太刀だ。  越前の干代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったど云われている。講釈では余り 幅が広いので、前方を見る邪魔にならぬよう窓をつけてあったと云う。それは、嘘だろうが、 重量を減すため、どころどころ窓があったかも知れぬ。が一説に五尺三寸ど云うから、其の方                        かつ が本当であったろう。だが真柄の領内で、この太刀を担げる百姓はたった一人で、常に家来が    にな 四人で荷ったというから、七尺八寸という方が本当かも知れない。  之に対して次郎太刀どいうのもあった。其の方は六尺五寸(一説には四尺三寸)あったと云 われている。                    なぎなた                    め て晦んで  直隆、景健の苦戦を見て、太郎太刀を「薙刀の如くしふりかざし、馬手弓手当るを幸いに薙         たて                  はぜとお          かぷと      よろい ぎ伏せ斬り伏せ、竪ざま横ざま、十文字に馳通り、向う者の兜の真向、鎧の袖、徴塵になれや         さすが ど斬って廻れば、流石の徳川勢も、直隆一人に斬り立てられ、直隆の向う所、四五十間四方は 小田を返したる如くになった。かくて孫三郎景健の危急を救い潮く右岸に退却した。だが、ふ                                        たす  り返るど味方が、尚左岸に苦戦してひきとりかねている者が多いのを見て、さらば、援けえさ  すべしとて引キ㌧返す。   此時朝倉方の大将、黒坂傭中守、前波新八郎、尚左岸にあり奮戦していた。前述して置いた                  ぐ ぷ  小笠原与八郎長忠は、他国の戦に供奉せしは一今度が初めての事なので目を驚かせる程の戦せ                                      や や .んとて、黒坂傭中守に馳合った。二人ども十文字の槍だったが、小笠原の十文字梢々長かった  為めに、黒坂が十文字にからみと石れ、既に危く見えたのを、小笠原槍を捨て、太刀をひきぬ                            しぱ  いて、備中守の兜を真向に撃ち、黒坂目くるめきながら、暫しは鞍にこらえけるを、二の太刀  にて馬より下へ斬って落す。黒坂撃たれて、朝倉勢乱れ立ち、全軍危く見えし所に、真柄十郎             なおもとか  左衛門及び長男十郎三郎直基馳け来って、父は太郎太刀、子は次郎太刀を持って縦横に斬り廻                              のが          わた   ったので、。徳川勢も左右に崩れ立ったので、越前勢漸く虎口を遁れて姉川を渉りて退く。真柄    しんがり                                  さきさか  父予殿して退かんどする所に、徳川勢の中より匂坂式部同じく五郎次郎同じく六邸五郎、郎                か  党の山田宗六主従四人真柄に馳け向う。真柄「大軍の中より只四人にて我に向うこどかわゆ               てやり         くさずり  し」とて取って返す。式部手鑓にて真柄が草摺のはずれ、一鑓にて突きたれど、真柄物ともせ                         かぷと  ず、大太刀をもって払い斬りに斬りたれば、匂坂が甲の吹返しを打ち砕き、余る太刀にて鑓を 戦打落す。式部が弟五郎次郎、兄をかばわんどて、立ち向うを、真柄余りに強く打ちければ、五       はばきもと                   もも 合郎が太刀を鋼元より斬り落し、右手の股をなぎすえた。五郎、太刀の柄ばかり握って、既に ”                            すきま      たす  きた 剛危く見えけ含を、弟六郎と宗六透間もなく救け来る。 23  真柄太刀とり直し、宗六を唐竹割に割りつけたが、其の時六郎鎌鑓にて、真柄を掛け倒す。 24 ************************************                  おい 流石無双の大力の真柄も、六十に近い老武者であるし、朝より数度の働きにつかれていた為め だろう。起き上ると、尋常に「今は之れ迄なり。真柄が首を取って武士が誉れにせよしど云った。  六郎、兄の式部に首を取れど云ったが、式部手を負いて叶い難し、汝取れど云ったので六郎 走りかかって首を打落した。『太閤記』では、匂坂兄弟が真柄一人にやられているところに、 本多平八郎忠勝馬をおどらせ馳せ来り、一丈余りの鉄の棒をもって、真柄ど決戦三十余合、北 国一と聞えたる勇士と東国無双と称する壮士とが戦い、真柄が老年の為めに、遂に思勝に撃た れることになっている。  しか  併しこれは、勇士真柄の最期を飾る為めに本多恵勝の為めに撃たれたことにしたのであろ う。真柄と恵勝どが、三十余合撃ち合ったどすれば、戦国時代の一騎討どして、これに勝るメ イン・エヴエントはないわけだが、本当は矢張り、匂坂兄弟に撃たれたのであろう。  予の十郎直基(隆基という本もある)は、父が撃たれたど聞くと、せめて父が討死せしとこ                                   ど こ ろを見ばやと、馬を返す所を、青木所左衛門出で合い、「音に聞えし真柄殿、何処へ行き給う                           にく          かな ぞや、引返し勝負あれ」と呼びければ、「引くとは何事ぞ、悪い男の言葉哉、いでもの見せんし と云うままに、父に劣りし太刀なれど、受けて見よやと、六尺五寸の次郎太刀打ち振り、青木                                       ひじ の郎党が立ち塞がるを、左右に斬って落す。所左衛門、鎌鑓を打ちかけ、直基が右手の肱を斬 って落す。直基、今は之れまでと思いけん、尋常に首を授く。  越前勢一万余騎の中、真柄父子の勇戦と、この尋常の最期とは、後迄も長く伝えられたどあ る。尚『太閤記』によるど、直基は討死する前に父のかばねと父が使っていた太刀とを郎党に 25 ************************************ 姉川合戦 ************************************ 持たせて、本国へ返したようにかいてある。戦争中、そんな余裕は無いように思われるが、併        のんき し昔の戦争は、呑気なところもあるから、そんな事があったかも知れない、                            きた 『三州志』によると、加賀の白山神社の真柄の太刀ど伝称し来るものあり、柄が三尺、刀身が 六尺、合せて九尺、厚さ六分、幅一寸六分あり、鎌倉の行光の作である。行光は正宗の父であ          け ぴ                さや る。ところが越前の気比神社に真柄の太刀の鞘だけがある。其の鞘には、小豆が三升入る。此 の鞘の寸法ど白山神社の鞘の寸法とは、少し違っているという事である。  姉川の沿岸は、水田多く、人馬の足立たず、殊に越前勢は、所の案内を知らざる故、水田沼 沢の地に人馬陥り、撃たるる者が多かった。真柄父子を始めとし、前波兄弟、小林瑞周軒、竜 門寺、黒坂備中守等大将分多く討死した、之に比べると、案内を知った浅井方の討死は少かった。  こう書いてくるど徳川勢は余り苦心をしていないようだ、併し朝倉勢に、裏切り組というの                      え があり、百人位の壮士を選び、各人四尺五寸、柄長く造らせたる野太刀を持ち、戦いの最中、 森陰から現われて、不意に、家康の旗本へ切りかかった。為に旗本大いに崩れ立ち、清水久三 郎等家康の馬前に立ち塞がり、五六人斬り伏せたので、漸く事無きを得た。              よりのぷ  之れは後年の話だが、徳川頼宣がある時の話に「加藤喜介正次は、常火刀脇ざしの柄に手を かけ居り候に付き、人々笑ったところ、加藤喜介日く『姉川合戦の時、朝倉が兵二騎味方の真         叢 似して、家康公の傍へ近付き抜きうちに斬らんとした。喜介常に刀に手をかけ居る故、直ちに 二騎の一人を斬りとめ他の一人は天野三郎兵衛討止めた。此の時家康公も太刀一尺程抜き、そ の太刀へ血かかる程の事なり。だから平生でも刀の柄に手をかけているのだ』と云ったと云う 26 ************************************ が、喜介よりも其の朝倉の兵はもっと勇敢だ。敵の中に只二人だけ乗り込み討死す。         むげん の首の中に二足無間』と云う、誓文を含んでいたと云う。さてさて思い切った、 り」と、褒めたどいうが、これで見ても、かなり朝倉方もやった事が分る。 朝倉勢が姉川を越えて、徳川單に迫った時は、相当激しかったのだろう。                                 侵        浅井軍の血戦 ************************************ 而も二人 豪の者な ************************************  浅井を向うに廻した織田勢の方は、もっと苦戦であった。浅井方の第一陣、磯野丹波守は勇 猛無双の大将だ。其の他之に従う高宮三河守、大野木大和守その他、何れも武勇の士である。 元来浅井軍は中々強いのだ。だから木下藤吉郎が、一番陣を望んだが許されなかった。それ は、秀吉の軍勢は、多年近江に居て浅井軍と接触している為め、浅井の武威に恐れているだろ うという心配だった。従って信長も長政を優待して、味方にしておき度かったのだ。丹波守を 先頭に、総勢五千余騎、鉄砲をうちかけて、織田の一番陣、酒井右近の陣に攻めかかる。丹波                  つわもの 守自ら鑓をとって先頭に進み、騎馬の強者真先に立って殺到した。  右近の陣は鉄砲に打ちすくめられ嫡子久蔵(十六歳)を初め百余人撃たれて、敗走した。二  ぞな                         うちなび 番側え池田勝三郎も丹波守の猛威に討摩けられて敗走した。 『太閤記』によると第三陣の木下秀吉が奮戦して丹波守を敗る事になっているが、之れは秀吉 中心の本だから、いつでも、秀吉が手柄を現すようにかいてある。本当は信長の陣が十三段の                                ぎようしよう 傭えの内十一段まで崩れたというから、木下秀吉、柴田勝家、森可成の騒将達も一時は相当 27 ************************************ 姉川合戦 ************************************ やられたらしい。一蒔は姉川から十町ばかりを退却したどいうから、信長の旗本も危険に瀕し                    かちいろ たに違いない。只家康の方が早くも朝倉勢に勝色を見せ初めたので家康の援軍どして控えてい る稲葉一徹が、家康の方はもう大丈夫と見て、浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城のお          うじいえ さえに残しておいた氏家卜全と安藤伊貿とが浅井勢の左翼を攻撃した、こうした横槍によっ て、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を破ったのだ“  戦後、信長、「義濃三人衆の横槍弱かりせば我が旗本粉骨をっくすべかりしが」と云って稲 葉、氏家、安藤三人に感状、名馬、太刀等をやったどころを見ると、戦いの様子が分ると思 う◎それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の将士も不安になって、みだれ始めたのだ ろう。  徳川と織田とは、非常に離れて戦っているようであるが、最後には乱戦になったらしく、酒        なぎなた 井忠次の払った長刀のほこ先が信長勢の池田勝三郎信輝の股に当った位だ。後年、人呼んで此・       きず α傷を左衛門疽と云った。池田と酒井とは、前夜信長の前で、家康を先陣にするかしないかで 議論をし合った仲なのだ。其の時酒井は、「兎角の評議は明日の鑓先にある」ど云って別れて 帰った。だから酒井の長刀が池田の股に当ったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわ             たが けで、双方とも前夜の言葉に遠わなかったわけで、「ゆゆしき撮舞いかな」と人々感じあった と云う。  浅井勢の中に於て、其の壮烈、朝倉の真柄直隆に比すべきものは、遠藤喜右衛門尉だ。喜右。 衛門の事は前にも書いてあるが、喜右衛門は、単身信長に近づいて差遠えるつもりであった。      さ             おもて けが                                          いずこ  おわ 28 彼は首を提げて血を以って面を穣し髪を撮り乱し、織田勢に紛れ込み、「御大将は何処に在し                                      これ  ますぞしと探し廻って、信長のいるすぐ側迄来たところ、竹中半兵衛の長子久作之を見どが          わきめ  め、味方にしては傍目多く使うどて、名乗りかけて引き組み、遂に遠藤の首をあげた。久作、        このたぴ  かねて朋友に今度の戦、我れ必ず遠藤を討取るべしと豪語していた。友人が其の故を問うと、            ごう  久作日く、「我れ且て江州に遊んで常に遠藤と親しむ、故によくその容貌を知っている。遠藤           さきがけしんがり  戦いある毎に、必ず魁 殿を志す、故に我必ず彼を討ち取るべし」と。果して其の言葉の通  りであった。   喜右衛門は、信長と戦端を開く時には、浅井家長久の為めに極力反対したが、いざ戦うどな  ると、壮烈無比な死に方をしている。浅井家第一の忠臣と云ってもいいだろう。                             あつせん   浅井方の大将安養寺三郎左衛門は、織田ど浅井家の同盟を斡旋した男だ。長政を落さんとし                        いけど  て奮戦中馬を鉄砲で射られて落馬したので、遂に檎りにせられて信長の前に引き鋸えられた。  信長は安養寺には好意を持っていたどみえ「安養寺久しく」と云った。安養寺、言葉なく、          と  「日頃のお馴染に疾く疾く首をはねられ候え」と云ったが、「汝は仔細ある者なれば先ず若者共  のとりたる首を見せよ」と云った。つまり、名前の分らない首の鑑定人にされたわけだ。小娃    おなお 。織田於直の持ち来れる首、安養寺見て「これは私の弟甚八郎と申すものに候」と云った。ま  た、小姓織田於菊の持ち来れる首「これは私の弟彦六ど申すものにて候」と申す。信長、「さ     ふぴん  てさて不欄の次第なり、汝の心底さぞや」と同情した。   竹中久作が取りたる首を見すれば、 29 姉川合戦 ************************************                         いさ 「之れは紛れもなく喜有衛門尉にて候、喜右衛門尉一人諌めをも意見をも申して候、其の他に は誰一人久政に;冒申すもの候わず。浅井の柱石と頼みし者に候」と云った。  其の後信長、安養寺に、此の勢いに乗って小谷に押しよせ一気に攻め落さんと思えど如何と                      それがし 聞いた。安養寺笑って、「浅井がために死を急く某に戦の進退を間わせ給う殿の御意こそ心得                                       さむらい ぬが、答えぬのも臆したるに似ているから答えるが、久政に従って小谷に留守している士が                                    たまぐすり 三千余人は居る。長政と共に退却した者も三千余人は候うべし。其の上兵糧、玉薬は、年来 貯えて乏しからず、半年や一年は持ちこらえ申すべし」と答えた。  この安養寺の答で、秀吉が小谷城進撃を進言したにも拘わらず、一先ず軍を返した。その 後、浅井は尚三年の久しきを保つ事が出来た。或書に、此の時、秀吉の策を用い、直ちに小谷 を攻撃したならば、小谷は一日も支える事が出来なかったのに、安養寺が舌頭に於て信長に疑 惑の思いを起したのは、忠節比類無しと褒めてある、  信長は、安養寺が重ねて「首をはねよ」と云うをきかず自分に従えよとすすめたが聴かない                                 にんじん ので、「然らば立ち帰りて、浅井に忠節を尽せよ」どて、小谷へ帰した。忍人信長としては大 出釆である。  浅井勢は総敗單になって小谷城へ引上げたが、磯野丹羽守は、木下秀吉、美濃三人衆等に囲                                か まれて散々に戦い、手勢僅か五百騎に討ちなされながら、織田軍の申を馳け破って、居城、佐                          くらのすけ 和山へ引上げた。稲葉一徹の兵、逐わんとしたが、斎藤内蔵助、「磯野の今日のふるまいは、 凡人に非ず、追うども易く討ち取るべきに非ず」どて逐わしめなかった。 厳島合戦 ************************************ 31 厳島合戦 ************************************  すえはるかた                                  さがらとおとうみのかみたけとう  ちようぐう  陶暗賢が主君大内義隆を殺した遠因は、義隆が相良遠江守武任を寵遇したからである。 相良は筑前の人間で義隆に仕えたが、才智人に越え、其の信任、大内譜代の老臣陶、杉、内藤 等に越えたので、陶は不快に感じて遂に義隆に反して、天文十九年義隆を殺したのだ。                すこぷ  此の事変の時の毛利元就の態度は頗る暖昧であった。陶の方からも義隆の方からも元就のど ころへ援助を求めて来ている、元就は其の子隆元、元春、隆景などを集めて相談したが、其の 時家臣の熊谷伊豆守の、「兎に角今度の戦は陶が勝つのに相違ないから、兎に角陶の方へ味方            うかが をしておいて、後、時節を窺って陶を滅した方がよい」という意見が通って、陶に味方をして いるのである。  いっくしま                                   ちゆう ・厳島合戦は、毛利元就が主君の為めに、陶晴賢を課した事になっているが、秀吉の山崎合 戦のように大義名分的なものではないのである。兎に角元就は、一度は陶に味方をしてその悪   みのが 業を見遁しているのである。 32 ************************************ もつと  尤も元就は、大内義隆の被官ではあるが必ずしも家来ではない。だから晴賢討伐の勅命まで                         あだ 受けているが、それも政略的な意味で、必ずしも主君の仇に報ゆるという素志に、燃えていた わけではないのである、  只晴賢と戦争するについて、主君の為に晴賢の無道を討つという看板を掲げ、名分を正した に過ぎない。尤も勅命を受けたこども、正史にはない。                 むし  毛利が陶と不和になった原因は、寧ろ他にあるようだ。晴賢が、義隆を殺した以後二一二年間                                はたがえし は無事に交際していたのだが、元就が攻略した尼予方の備後国江田の旗返城を陶が毛利に預 けないで、江良丹後守に預けた。これ等が元就が陶に不快を感じた原因である。  そして機を見るに敏なる元就は、陶が石州の吉見正頼を攻めに行った機に乗じて、安芸の桜 尾、銀山等の城を落してしまった。  その上、吉見正頼の三本松の城へ加勢を遺した。この加勢の大将は城より出で、陶方に対し            うまのかみ て高声に言うには、「毛利右馬頭元就、正頼と一昧し、当城へも加勢を入れ候。加勢の大将は それがし           おもて            ことごと    、 某なり、元就自身は、芸州神領表へ討出で、桜尾、銀山の古城を尽く攻落してやがて山 口へ攻入るべきの状、御用心これあるべし」ど叫んだ。      ぴっくり  陶はさぞ吃驚しただろう。芸州神領表どいうのは、その辺一帯厳島の神領であったのであ る、                            も、つ  兎に角元就は、雄志大略の武将であった。幼年時代厳島に詣で、家臣が「君を中国の主にな                    な ぜ さしめ給え」ど祈ったというのを笑って「何故、日本の主にならせ絵えどは祈らぬぞ」ど云っ ************************************ にのなな聯9)囲だ ************************************ ザしんサ鶯な 33 厳島合戦 ************************************ た程の男だから、主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して、我取って代らんという 灘志大略の方が強かったのである。  北条早雲が、横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆をとったやり方などよりは、 よっぱど、理窟があるが、結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。  元来元就は、戦国時代の屈指の名将である、徳川家康ど北条早雲とを一緒につきまぜて、二 つに割った様な大将である。寛厚慈悲家康に過ぐるものがある。其の謀略を用いる点に於ては         しんらつ                     ちようど 家康よりはずっど辛辣である。厳島合戦の時、恰度五十二歳の分別盛りである。長子隆元一二十      きつかわ                                         じじん 二歳、次子吉川元春二十三歳、三子隆景二十二歳。吉川元春は、時人梅雪と称した。  熊谷伊豆守の娘が醜婦で、誰も結婚する人が無いと聞き、其の父の武勇にめ・でて、「其の娘 の為めにさぞや歎くらん◎我婚を求むれば、熊谷、毛利の為めに粉骨の勇を励むらん」と言っ て結婚した男である。  乃木将軍式スパルタ式の猛将である。三男の隆景は時の人これを楊柳とよんで容姿端麗な武              のち 士であった。其の才略抜群で後秀吉が天下経営の相談相手となり、秀古から「日本の蓋でも勤                      えき    へきていかん             みん まみ」と言われたが、而も武勇抜群で、朝鮮の役には碧蹄館に於て、十万の明軍を相手に、決 戦した勇将である◎だから元就は「子までよく生みたる果報めでたき大将である」と言われ た。 、だが此蒔毛利は芸州吉田を領し、共所領は、芸州半国にも足らず、其の軍勢は三千五、六百 の小勢であった、これに対して、陶晴賢は、防、長、豊、筑四州より集めた二万余の大軍であ 34 ************************************ る、     ひらば  だから平場の戦いでは、毛利は到底、陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に築 城する事だ。  元就は、厳島に築城して、ここが毛利にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶     おび の大軍を誘き寄せて、狭隆の地に於て、無二の一戦を試みようどしたのである。  元就が厳島へ築城を初めると、元就の隠謀を知らない家臣はみんな反対した、「あんな所へ      も                                         ひし浄 城を築いて若しこれが陶に取られると、安芸はその胴腹にヒ首を擬せられるようなものであ る」と。                       はな  元就はそういう家臣の反対を押切って、今の要害鼻に城を築いた。現在連絡船で厳島へ渡る と、その船着場の後の小高い山がこの城祉である、城は弘治元年六月頃に完成した、                    いさめ  すると元就は家来達に対して、「お前達の諌を聞かないで厳島に城を築いて見たが、よく考 えてみるど、ひどい朱策をしたもんだ。敵に取られる為に城を築いたようなもんだ。あすこを 取られては味方の一大事であるしと言った、  戦国の世は、日本同士の戦争であるから、スパイは、敵にも味方にも沢山入り混っていたわ けだから、元就のこういう後悔はすぐ敵方へ知れるわけである。其上、其の頃一人の座頭が、 吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語って、いつか元就の城へも出入している。元就は、              ひざもと 之を敵の間者と知って、わざと膝下へ近づけていた。ある日、元就、老臣共を集め座頭の聞く                       めぐ か聞かないか分らぬ位の所で、わざと小声で軍議を廻らし、「厳島の城を攻められては味方の 35 厳島合戦 ************************************ 難儀であるが、敵方の岩国の域主、弘中三河守は、こちらへ内通しているから、陶の大軍が厳                     ささや 島へ向わぬよう取計らってくれるであろう」と畷いていた。  座頭は鬼の首でもとったように、此事を陶方へ注進したのは勿論である。  弘治元年九月陶晴賢(隆房と云ったが、後晴賢と改む)二万七千余騎を引率し、山口をうち            いくさ 立ち、岩国永興寺に陣じ、戦評定をする。晴賢は飽く迄スパイの言を信じ、厳島へ渡って、宮    せめほろば 尾城を攻滅し、そして毛利の死命を制せんという考である、           たかかね  岩国の城主弘中三河守隆兼は、陶方第一の名将である。元就の策略を看破して諌めて、「元 就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけはない。元就                                 たくらみ の真意は、厳島へ我が大軍をひきつけ、安否の合戦して雌雄を決せんとの謀なるべし。厳島 渡海を止め、草津、二十日市を攻落し、吉田へ押寄せなば元就を打滅さんこと、時日を廻らす べからず」と言った◎                 かんげん  だが頭のいい元就は、弘中三河守の諌言を封じる為に、座頭を使って、陶に一服盛ってある のだから叶わない。晴賢は三河守の良策を蹴って、大軍を率いて七百余艘の軍船で厳島へ渡っ てしまった。三河守も是非なく、陶から二日遅れて、厳島へ渡った。信長は桶狭間という狭隆 の土地で今川義元を短兵急に襲って、。首級をあげたが、併しそのやり方はいくらか、やまかん ぎようこう で僥倖だ、それに比べると、元就は、計りに計って敵を死地に誘き寄せている。同じ出世戦 争でも、英の内容は、此べものにならないど思う。         つい          そむ                    こ ひ        にいざと    しようゆう  厳鳥の宮尾城は、遂此の頃陶に叛いて、元就に降参した已斐豊後守、新里宮内少輔二人を 36 ************************************ 大将にして守らせていた。陶から考えれば、肉をくらっても飽足らない連申である。                                        おとり  而も此の二人に陶を馬鹿にするような手紙を書かしているのである◎つまり此の二人を囮に 使い、その囮を鳴かしているようなわけである。厳島に渡った陶晴賢は、厳島神社の東方、塔                  からびし の岡に障した、柵を結んで陣を堅め、唐菱の旗を翻し、宮尾城を眼下に見下しているわけであ る。                         じごぜん  ひたていわ  陶が鳥に渡ったと聞くど、元就は、要害鼻の対岸、地御前の火立岩に陣を進めた。ここは厳 島とは目ど鼻の地で、海をへだててはいるが、呼ばば答えん程に近い。だが敵は二万数千余、 兵船は海岸一帯を警備して、容易に毛利軍の渡海を許さない。而も毛利の兵船は僅か数十艘に                        くるしま   のじま 過ぎない。だから元就はかねてから、伊予の村上、来島、能島等の水軍の援助を頼んでおい た◎       いわゆる  この連中は所謂海賊衆で、当時の海軍である。  元就は二の連中に兵船を借りるとき、たった一日でいいから船を貸してくれと言った。所詮 は戦に勝てば船は不用であるからと言った。水軍の連中思い切ったる元就の言分かな、所詮戦                          こ は毛利の勝なるべしど言って二百余艘の軍船が毛利方へ漕ぎ寄せた、  陶の方からも勿論来援を希望してあったので、この二百艘の船が厳島へ漕ぎ寄するかと見る 間に、二十日市(毛利方の水軍の根拠地)の沖へ寄せたので、毛利方は喜び、陶方は失望し た。  あたか           みそか    にわ  宛もよし、九月晦日は、俄かに暴鳳雨が起って、風波が高く、湖のような宮島瀬戸も白浪が 37 厳島合戦 ************************************ 立騒いだ、      さすが  此の夜は流石の敵も、油断をするだろうから、襲撃の機会到れりというので、元就は長男隆                               っづみ 元、吉川元春など精鋭をすぐって、毛利家の兵船に分乗し、島の東北岸鼓の浦へ廻航した。其 の時の軍令の一端は次の如しだ。  一、差物の儀無益にて候◎        だすき               つかまつ  一、侍は縄しめ樺、足軽は常の縄馨仕るべく候事。    そうにんず       もうしきけ    しろぎれ  一、惣人数共に常に申聞候、白布にて鉢捲仕るべく候。                   もうし                きゆうし  一、朝食、焼飯にて仕り候て、梅干相添申、先づ梅干を先へ給候て、後に焼飯給申すべく   候。  一、山坂にて候条、水入腰に付申候事、                    せいばい  一、一切高声仕り候者これあらば、きつと成敗仕るべく候。        、  、  、                              、  、  一、合言葉、勝っかとかけるべく候、勝々と答へ申す可く候。  どても縁起のよい合言葉である、勝つかと言えば勝々と答えるわけである。水軍へ対する軍 令の一条に、            のりしゆう ひようろう  一、一夜陣の儀に候条、乗衆の兵糧つみ申すまじく候事。                                うち  とある、この厳島合戦は、元就の一夜障として有名である、が、一夜の中に毛利一家の興廃                             ぼつばつ を賭けたわけであるが、併し元就の心中には勝利に対する信念の勃々たるものがあったのでは ないかど思われる。 38 ************************************  元就は鼓の浦へ着く前、今迄船中に伴って来た例の間者の座頭を捕え、「陶への内通大儀な          こうぺ り、汝が蔭にて入道の頭を見ること一日の中にあり、先へ行きて入道を待て」と云って、海に                                ばくちお 投じて血祭にした。鼓の浦へ着くと、元就「この浦は鼓の浦、上の山は博突尾か、さては戦に                                     、  、 は勝ったぞ」と言った。隆元、元春、御意の通りだと言う、つまり鼓も博突も共に打つもので あるから、敵を討つということに縁起をかついだものである。博突尾は、塔σ岡から数町の所 で、その博突尾から進めば、塔の岡の背面に進めるわけである。  小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は之より先、漁船に身を隠して、宮尾城の急を 救う為、宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説で、当夜熊谷信直の部下を従え、 厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を乗り入れて、敵が各めると、「お味方に参った九                              とき 州の兵だ」と言って易々ど上陸し、塔の岡の坂下に陣して、本軍の岡の声のあがるのを待って いた。  即ち毛利の第一軍は、地御前より厳島を迂廻し、東北津鼓の浦に上陸し、博突尾の険を越 え、塔の岡の陶本陣の背面を攻撃し、第二軍は、宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が関の 声を発するを機とし、正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景これを率いた。                                   よつ  第三軍は、村上、来島等の海軍を以て組織し、厳島の対岸を警備し、場合に依ては、陶の水 軍と合戦を試みんとするものだ。                    しき                             なりただ  元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨が頻りに降ったので、輸送指揮官の児玉就恵が、元 就に唐傘をさしかけようとしたので、元就は拳を以て之を払除けた。 39 厳島合戦 ************************************  陶の方は、塔の岡を本陣どしたが、諸軍勢は、厳島の神社附近の地に散荏し、其の間に何等 の統制が無かったらしい。之より先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべき事を進言したけ                ついたち   き れども、陶用いず、城攻めは、十月朔日に定まってい夫。その朔日の早暁に、元就が殺到した わけである。  元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を尽く二十日市へ漕ぎ帰らしめた。正に生還を期せ                                     おのずか ぬ背水の陣である。吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上るに、其声自ら開 の声になって、陶の本陣塔の岡へ殺到した◎  陶方も毛利軍の夜襲ど知って、諸方より本陣へ馳せ集って防戦に努めたが、俄かに馳せ集っ た大軍であるから、配傭は滅茶苦茶で、兵は多く土地は狭く、駈引自由ならざるどころに、元      も 就の諸将、操みに操んで攻めつけたから、陶軍早くも浮足たった。                                   だいかんせい  かねて打合せてあった小早川隆景の軍隊は、本軍の開の声を聞くど、これも亦大減声をあげ て前面から攻撃した。大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、敵は少し、恐るるに足ら ず、返せ返せと叫んで奮戦したが、一度浮足たった大軍は、どっと崩れるままに、我先に船に 乗らんと海津を目指して逃出した。晴賢は、自身采配を以て身を操んで下知したが、一度崩れ        いかん         またた                     じゆうりん 立った大軍は、如何ともし難く、瞬く中に塔の岡の本陣は、毛利單に躁鰯されてしまった。                      あ わ  敗兵が船に乗ったので、陶の水軍が、俄かに狼狽て出したところを、毛利の第三軍たる村                       たちま 上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍は忽ち撃破されて、多くの兵船は、防州の矢 代島を目指して逃げてしまった、 40 ************************************  塔の岡の本陣を攻落された陶軍は、厳島神社の背面を西へ西へと逃走した。勇将弘申三河守   なかつかさ は同中務ど共に主君晴賢の退却を援護せんが為に、厳島神社の西方、滝小路(現在の滝町)を 後に当て、五百騎ばかりにて吉川元春の追撃を迎え撃った。弘中父子必死に防戦したから、流 石の吉川勢も斬立てられ、十四、五間ばかり退却した。元春自身槍をとって、奮戦している         あおかげ と、弘中軍の武将青景波多野等、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。                         はせあわ  此の陣吉川勢殆んど危かったのを、熊谷伊豆守信直等馳合せて、其の急を救ったので、弘中 しゆうか             、みせんどうたいしよういん  、。   、 衆寡敵せず、滝小路の民家に火を放って 弥山道の大聖院に引あげた 吉川勢は 其の火が                                       おおもとの 厳島神社にうつる事を恐れて、消火に努めている間に、晴賢は勇将三浦等に守られて、大元 、つら 浦に落ちのびた◎大元浦は、厳島神社から西北二、三町のところである。そこへ吉川勢に代っ た小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た◎    こ  こ  陶が此処にて討死しようどするのを三浦諌め、「一先ず山口へ引とり重ねて勢を催され候え。                       、                                 ま  ,ト   しんがり                                     カ                    ’ } 越中殿して討死つかまつらん」と晴賢を落し、斯くて、三浦越中守、羽仁越中守、同将監、 大和伊豆守等骨を砕いて戦った。三浦は、隆景を討たんとし、隆景の郎党、草井、山県、南、 井上等又隆景を救わんどして、尽く枕を並べて討死をした。殊に草井は、三浦に突伏せられな がら、尚三浦の足にからみついたので、三浦、首を斬って捨てた。  三浦の奮戦察すべきである。  隆景の苦戦を知って、元春の軍、後援の為馳付けた。      ことごと                               もくのすけ  三浦は随兵悉く討死し、只一人になって、山遺に休んでいるところへ、二宮杢之介馳付け 戦 合 島 厳 41 ************************************                        、 ると、三浦偽って「味方で候ぞ」という、味方でのでの字の発音山口の音なるに依って、二宮 敵なるを知って、合じるしを示さんことを迫る、三浦立上って奮戦したが、遠矢に射すくめら れ二宮の為に討たれた。 。大和伊豆守は、毛利方の香川光景と戦う。香川は大和と知合いの間柄だった。大和は、文武                      いけどり の達者で、和歌の名人であったから、元就かねて生檎にしまほしきど言っていたのを光景思出 し、大和守に其意を伝えて、之を生檎にした◎          、  陶入道は、尚西方に遁れたが、味方の兵船は影だになく、遂に大江浦にて小川伝いに山中に 入り、其辺りにて自害したと言われている。          か げ ゆ  伊加賀民部、山崎勘解由等これに殉じた。晴賢の辞世は、    なにを暗しみなにをうらみむもとよりも       此の有様の定まれる身に           かきなみ  この時同じく殉死した垣並佐渡守の辞世は、     しようはいのあとをろんずるなかれ     莫レ諭二勝敗跡一     ひと われ ざん じのじよう     人我暫時情     いち ぶつ ふしようのち     一物不生地     やまさむくかい すいきよし     山寒海水清  家臣は、晴賢の首を紫の袖に包み、谷の奥に隠しておいたが、暗賢の草履取り乙若というの          ありか がつかまった為、其在所が分った。 42 ************************************  弘中三河守は、大聖院へひき上げたが、大元方面へ退いた味方の軍の形勢を見て、折あらば            ねら                            もろ 敵を横撃せんと、機会を崩っていたが、大元竜ヶ馬場方面も脆く敗退した為、大元と大聖院と の間の竜ヶ馬場と称する山上へ登り、此処を最後の戦場として父予主従たった三人になる迄吉 川軍と決戦して遂に倒れてしまった。  此の人こそ、厳島合戦に於ける悲劇的英雄である。  これで厳島合戦も毛利軍の大勝に帰したわけであるが、晴賢自殺の場所については、厳島の    あおのりのうら 南岸の青海苔浦(青法どもかく)どいう説もあるが、晴賢は肥満していて歩行に困難であった と言うから、中央の山脈を越して南岸に出るわけは無いのである。  元就は合戦がすむと、古来此の島には、決して死人を埋葬しないことになっているので、戦 死者の死骸は尽く対岸の大野に送らせ、潮水で社殿を洗い、元就は三子を伴って斎戒して、社 前に詣で、此の大勝を得たことを奉謝している。                        がいせんしき  元就は斯くて十月五日に二十日市の桜尾城に於て凱旋式を挙行しているが、彼は敵将晴賢の               おお 首級に対してもこれを白布にて掩い、首実検の時も、僅かに其白布の右端を取っただけで、敵 将をみだりに恥かしめぬだけの雅量を示している◎其の後首級は、二十日市の東北にある洞雲 寺どいう禅寺に葬らせた。  厳島合戦は戦国時代の多くの戦争の中で圧倒的な大勝であるが、其間に僥倖の部分は非常に          き か                                   よ 少く、元就の善謀ど箆下の団結ど、武力との当然の成果ど云って宜い位である、元就は分別盛 りであるし、元春、隆景は働き盛りである、暗賢はうまうまとひっかけられて猛撃を喰い、 たちま 忽ちノックダウンされたのも仕方がなかったと言うべきである。陶軍から言わしたら垣並の 辞世にある通り、勝敗の跡を論ずる英れであったに違いない。 ************************************ 厳島合戦 ************************************ 43 44 ************************************ 川中島合戦 ************************************  川中島に於ける上杉謙信、武田信玄の一騎討は、誰もよく知って居るところであるが、其合               はなは             など 戦の模様については、知る人は甚だ少い、琵琶歌等でも「天文二十三年秋の半ばの頃とかや」 と歌ってあるが、之は間違いである。  甲越二将が、手切れとなったのは、天文二十二年で、爾来二十六年間の交戦状態に於て、川                   おも                             さいがわ 中島に於ける交戦は数回あったが、其の主なるものは、弘治元年七月十九日犀川河畔の戦闘と・ 永禄四年九月十日の川中島合戦との二回だけである。他は云うに足りない。此の九月十日の合 。                                    あずき 戦こそ甲越戦記のクライマックスで、謙信が小豆長光の銘刀をふりかぶって、信玄にきりつく ること九回にわたったど言われている。  武田信玄も、上杉謙信も、その軍隊の編制に於て、統率に於て、団体戦法に於て、用兵に於            りようが て、戦国の群燈をはるかに凌駕して届り、つまり我国に於ける戦術の開祖と云うべきものであ る。 45 川中島合戦 ************************************  その二人が、川中島に於て、竜虎の大激戦をやったのであるから、戦国時代に於ける大小幾 多の合戦中での精華と云ってもよいのである、             しんら  武田の家は、源義家の弟新羅三郎義光の後で、第十六代信虎の子が信玄である、幼名勝千                   いみな 代、天文五年十六歳で将軍足利義晴より講字を賜り、晴信ど称した。この年父信虎信州佐久の うん                          かこい 海ノロ城の平賀源心を攻めたが抜けず、囲を解いて帰るとき、信玄わずか三百騎にて取って返 し、ホッと一息ついている敵の油断に乗じて城を陥れ、城将源心を討った。しかも父信虎少し も之を賞さなかったど云う。その頃から、父子の間不和で、後天文十年父信虎を、姉婿なる今 川義元の駿河に退隠せしめて、甲斐一国の領主となる。時に年二十一歳、  若い時は、文学青年で詩文ばかり作っていたので、板坦信形に諌められた位である。だか ら、武将中最も教養あり、その詩に、     えんがいのふう こう ぷん がいあらたなり     簿外風光分外薪    すだれをまけばさんしよくぎんしんをなやます     捲レ簾山色悩ゴ吟身一     せんがん また がびのおもむきあり     尾願亦有二蛾眉趣一     いつしようあい ぜん びじんのごとし     一笑霜然如二美人一  歌に、                 あさじ    さみだれに庭のやり水瀬を深み浅茅がすゑは波よするなり              さくらぱな     ちとぜ    立ち並ぶかひこそなけれ桜花松に千歳の色はならはで  詩の巧拙は自分には分らないが、歌は武将どしては上乗の部であろう、 蝸 ************************************   けいしよ                                                               はやきことかぜのごとく  又経書兵書に通じ、『孫子』を愛読して、その軍旗に『孫子』軍争編の妙語「疾 如レ風 しずかなることはやしのごとししんりやくすることひのごとく うごかざることやまのごとし 徐如レ林侵酪如レ火不レ動如レ山」を二行に書かせて、川中島戦役後は、大将旗    がえい                                       なんぐう として牙営に翻していた。その外、諏訪明神を信仰し、「諏訪南宮上下大明神」と一行に大書 した旗も用いていた。  上杉謙信は、元、長尾氏で平氏である。元来相州長尾の荘に居たので、長尾氏と称した。先 祖が、関東から上杉氏に随従して越後に来り、その重臣となり、上杉氏哀うるに汲んで勢力を       ためかげ 得、謙信の父為景に及んで国内を圧した。為景死し、兄晴景継いだが、病弱で国内の群雄すら 圧服することが出来ないので、弟謙信わずかに十四歳にして戦陣に出で、十九歳にして長尾家           よ を相続し、春日山城に拠り国内を鎮定し、威名を撮った。  しかし、謙信が上杉氏と称したのは、越後の上杉氏の嗣となったのではなくして、関東管領                            のりまさ 山ノ内上杉家を継いだのである。即ち三十二歳の時、山ノ内憲政から頼まれて、関東管領職を 譲られ、上杉氏と称したのである、                                       うじやす  その責任上、永禄三年兵を関東平野に進め、関東の諸大名を威服し、永禄四年に北条氏康を              はすいけ                                 ねら 小田原城に囲んで、その城濠蓮池のほとりで、馬から降り、城兵が鉄砲で狙い打つにも拘ら         しようぎ ず、悠々閑々として休几に腰かけ、お茶を三杯まで飲んだ。  謙信も亦、信玄に劣らな文武兼備の大将で、文芸の趣昧ふかく、詩にはおなじみの、     しもはぐんえいにみちてしゆう き きよし     霜満二軍営一秋気清     すうこうの か がん つき さん こう     数行遇雁月三更 47 川中島合戦 ************************************     えつ ざんあわぜえたりのうしゆうのけい     越山併得能州景    さもあらぱあれか きようえんせいをおもう     遮莫家郷憶二遠征一  の詩があり、歌には、           、                       はつカり    もの㌧ふのよろひの袖を片しきし枕にちかき初雁の声 などある。現代の政治家や実業家の歌などよりは、はるかにうまい。                         かすが  また兵学に精通し、敬神家で、槍は一代に冠絶し、春日の名槍を自在に繰り、剣をよくし て、傭前鷲脇小豆長光二尺四寸五分の大刀を打ち撮うのであるから、真に好個の武将である。 信玄が重厚精強であれば、謙信は尖鋭果断のかんしゃく持である◎ 太田餐藩を評して、、謙信公のお人となりを見申簑tして八つは喧へその二っ は大悪人ならん◎怒りに乗じて為したまうこど、多ぐは僻事なり、これその悪しき所なり。勇 猛にして無欲清浄にして器量大、廉直にして隠すどころなく、明敏にして能く察し、慈恵にし  しも             ちゆうかん て下を育す、好みて忠諌を容るる等、その善き所なりLと云った。       、                                      た㌧  謙信は、川中島の一騎討などから考えるとどんな偉丈夫かど思われるが、「輝虎、体短小に  ひだりすね   きしゆ      れんきん                                                 ㌻  、 して左脛に気腫あり、撃筋なり」と云うから、小男で少しびっこと云うわけであるカら そ の烈々たる気醜が、短魑に溶れて、人を威圧した有様が想像される、  永禄四年川中島合戦には、謙信は上杉憲政から、一字を貰って、政虎と云っていたのであ る。その翌年将軍義輝から、一字貰って、輝虎と改めたのである、入道して、謙信ど云ったの は、もっど餉である。 48 ************************************    か  謙信會つて日く、「信玄は常に後途の勝を考え七里進むところは五里進み六分の勝をこよな き勝として七八分にはせざるよし。されど我は後途の勝を考えず、ただ弓矢の正しきによって 戦うばかりぞ」と云っている、これに依って、この二将の弓矢の取り方が分るど思テ。  元来、信濃には五人の豪族が割拠していた。次ぎの通りだ。    ω平賀源心(佐久郡◎平賀城)    ②諏訪頼茂(諏訪郡。上原城)              あずみ    ふかし    ⑫小笠原長時(筑摩、安曇郡、深志城〈松本〉)    ω木曾義康(木曾谷、福島城〈福島〉)         ちいさがた  はにしな       みちの           くずお    ⑤村上義清(小県、埴科、更科、水内、高井諸郡、葛尾城)  信玄は、天文九年から、天文十七年にかけて、これらの諸豪を順次に攻めて、これを滅し、   うち その中最も強大なる村上義清を駆逐して、遂に謙信にその窮状を訴えしむるに至った。  川中島合戦は、村上義清を救うための義戦と云われている。しかし北信にまで武田の手が延 びた以上、越後何ぞ安からんである。信濃から春日山城までは、わずか十数里である。常に武 田の脅威を受けていては、謙信上洛の志も関東経営の薙志も、伸すに由ないのである。今北信                             とな           ようちよう の諸豪が泣きついて来たのこそ、又どない機会である。義戦を説えて、武田を贋懲すべき時 が到来したのである。                     しきぷ  されば、川中島出陣に際して、越後岩船の色部勝長に送った書状にも、                                まちいり  「(前略)雪中御大儀たるべ」と難も、夜を以って日に継ぎ、御着陣待入候。信州味方中滅 49 川中島合戦 ************************************          そなえ  亡の上は、当国の備安からず候条」  ど云っている。義戦であるど共に、自衛戦でもあった。  信玄も亦、上洛の志がある。それには、後顧の憂を断つために、謙信に大打撃を与うること                                   もつぱ が、肝要である。されば、北条氏康、今川義元と婚を通じ、南方の憂を絶ち、専ら北方経営に 当らんどした。  そして、謙信が長駆小田原を囲んだとき、信玄は信濃に入って、策動したのである。  謙信は、永禄四年春小田原攻囲中、信玄動ぺど聴き、今度こそは信玄ど有無の一戦すべしど して、越後に馳せ帰ったのである、二年越の関東滞障で兵馬が疲れているにも拘らず、直ちに 献鱗に及び、姉婿長尾嚥餓に一万の兵を托して、春日山城を守らしめ、自分は一万三千の兵を 、率いて、一は北国街遺から大田切、小田切の瞼を越えて善光寺に出で、一は間道倉富峠から飯 山に出た◎ 「鵠麟信州の御働きは先年に超越し、御遺恨益々深かりければこの一戦に国家の安否をつける べきなり云々」とあるから、謙信が覚悟のほども察すべきである。       なかば                                とどま  時正に秋も半、軍旅の好期である。飯山に出でた謙信は、善光寺にも止らず、大胆不敵にも 敵の堅城たる海津城の後方をグルリと廻り、海津城の西方十八町にある妻女山(西条山どもか く)に向った。北国街遺の一軍は、善光寺近くの旭山城に一部隊を残し、善光寺から川中島を 南進し、海津城の前面を悠々通って妻女山に到着した。  甲の名将蔀滅弾正昌信の守る堅城の前後を会釈もなく通って、敵地深く侵入して妻女山に占 50 ************************************ 拠したわけである、正に大胆不敵の撮舞で敵も味方も驚いた◎しかし妻女山たる、巧みに海津 城の防禦正面を避け、その側背を脅かしている好位置で、戦術上地形判断の妙を極めたもので あるらしい。凡将ならば千曲川の左岸に陣取って、海津城にかかって行ったに違いないのであ る。                                 まもり 『越後軍紀』に「信玄西条山へ寄せて来て攻むるときは、彼が陣形常々の守を失ふべし、その 時無二の一戦を遂げて勝負すべし」とある。                        びしやもんてん  八月十六日妻女山に着いた謙信は、日頃尊信する毘沙門天の毘の一字を書いた旗と竜の一字 をかいた旗とを秋風に翻して、海津の高坂昌信を威圧したわけである。竜字の旗は突撃に用い                        ’ られ「みだれ懸りの竜の旗」ど云われた。            のろし  海津城の高坂昌信は、狼姻に依って急を甲府に伝え、別に騎馬の使を立てて、馬を替えつつ 急報した。自らは、城濠を深くして、死守の決心をなした、  かね  予て、かくあるべしと待ちかねていた信玄は、その報をきくと南信の諸将に軍勢を催促しつ つ、十八日に甲府を立ち、二十二目には上田に到着している。その兵を用うる正に「疾きこと 風の如し」である。  そして、上田に於て、軍議をこらして、川申島に兵を進めるや、これまた謙信に劣らざる大 胆さで、謙信の陣所たる妻女山の西方を素通りして、その西北方の茶臼山に陣した。  謙信が、海津城を尻目にかけ、わざと敵中深く入るど、信玄はまたそれを尻目にかけて、敵 の退路を断ってしまったわけである、 51 川中島合戦 ************************************  実に痛快極まる両将の応酬ぶりである。               ふくろ  かくて、謙信は、自ら好んで嚢の鼠となったようなものである、信玄大いに喜び、斥候を放 、                               こつづみ って、妻女山の陣営を窺わせると、小鼓を打って謡曲『八島』を謡っている。信玄案に相遠し て、諸方に斥候を放つと、旭山城に謙信の伏兵あるを知り、茶臼山の陣を撤して海津城に入っ た。自分の方が“妻女山と旭山城との敵單に挾撃される事を心配したのかも知れない◎  かくて、信玄は海津城に謙信は妻女山に相関時すること十余日に及んで、いつか九月九日 ちようよ、つ 重陽の節旬になった、  謙信は悠々として、帰国する容子はない、と云って海津城から、直接攻勢に出づることは不 利である。  節旬の祝を終って、信玄諸将と軍議を開いた。    おぷ                                     このたび  宿将飯冨兵部等、「先年以来未だ一度も手詰の御合戦なし、此度是非とも、御一戦しかるべ し」と云う。信玄、攻撃に転ずるに決し、山本勘助、馬場氏部に命じて、攻撃計画を立てさせ た◎  山本等の作戦計画は、次ぎの通りである。   一          うち                            たいら     くらしな 「二万の御人数の裡、一万二千を以て、西条村の奥森の平を越え倉科村へかかって、妻女山に 攻めかかり、明朝卯の刻に合戦を始める、謙信は勝っても負けても必ず川を越えて、川中島に 出でるであろう、その時信玄旗本八千を以って途中に待ち受け、前後より攻撃すれば、味方の 勝利疑いなし」 52 ************************************  と云うのである、  信玄、高坂弾正、飯富兵部、罵場民部、真田幸隆等に一万二千を率いしめて、妻女山の背面                                    きつっき を襲わしめ、謙信が巣から飛び出す処を打とうと云うのである、古人、之を「啄木鳥の戦法」 と云った。即ち啄木鳥が、木中の虫を捕えるとき、穴と反対の側をコツコツと啄き、虫をおど ろかして穴から出たところを喰へようと云うのである。その上、重陽の節句を利用して、敵の 油断に乗じたのである。  しかし、啄木鳥に穴の底を叩かれて、ノコノコ這い出すような謙信ではなかった。                 しよトつよ、つ  八月十六日以来、謙信は只々山上を遺蓬して吉詩を昧じ琵琶を弾じ自ら小鼓をうって近習         しやくしやく に謡わせるなど余裕緯々であった。直江大和守等これを不安に思い、「敵は川中島に陣取り、                      まさ                    すみやか 我が糧道を絶ちたるため、我が軍の糧食は今後将に十日にして尽きん。速に春日山の留守隊             っ              いかん に来援を命じ甲軍の背後を衝かしめられては如何」ど進言したが、謙信は「十日の糧食があれ ば充分だ」と云って聴かず、大和守は「もし晴信海津の城兵を以て我を牽制し彼自ら越後に入 らば策の施すべきなし」といえば、謙信笑って「春日山は厳重にしてあるから不安はない。晴           また 信もし越後に入らば我亦甲府をっかんのみ」と言ってすましていた、九月九日謙信は重陽の佳 節を祝した後、夕方例の如く古詩を謂しつつ高地を漫歩しつつ蓬に海津城をのぞめば炊煙異常                                 スッパ            きた に立ちのばっている。謙信は忽ち甲軍の出動を予感した。「しのびの兵」(透波間諜)のもち来                                     ようげき る情報も入ったので、甲軍が隊を二分し、一は妻女山の背後に廻り、一は川中島に激撃の計画 であることが分ったので、我先ず先んじて出で奇襲を試みようと決心した。謙信の得意思うべ しである。このことを期しての二十四日の辛抱であったのだ。穴中の虫は、啄木鳥の叩くを待た ず自ら躍り出でて信玄を襲わんど云うのである。この時の越軍の軍隊区分は次の如くで、やが て行動を開始した。時に午後六時である。    先鋒    柿崎大和守    中軍(旗本)色部修理進          竹俣三河守          村上義晴          島津規久          し ぱ た    右備    新発田尾張守          山吉孫次郎          加地彦次郎    左傭    本庄越前守          安田治部少輔          長尾遠江守 ************************************ 53 川中島合戦 ************************************ 後傭    中条越前守       吉志駿河守 後押   甘粕近江守     しちよう 小荷駄(輸重)直江大和守 54 ************************************  さて一般士卒には、           おお娃いだ          。      よ ふ  一、明十日御帰陣の旨仰出さる、尤も日短き故夜更けに御立あるやも知れず                さ一曇  二、静粛に行進して途中敵兵之を遮らば切りやぶって善光寺へ向うと心得べし  と伝えられた。  九日の月の西山に没するや(十一時頃か)、上杉軍は静に行動を起した。兵は物言わず馬は     いなな                                                                いぬ 舌を縛して噺くを得ざらしめた。全軍粛々妻女山をくだり其状長蛇の山を出づるが如くして狗 ヶ瀬をわたった。時正に深更夜色沈々只鳴るものは鎧の草摺のかすかな音のみである、只、甘 粕近江守は妻女山の北赤坂山に止り、後押として敵を警戒しつつ、十二ヶ瀬を渡って小森附近               かがりぴ に止った一一方妻女山には陣中の霧火は平常通りにやかれつづけ、紙の擬旗が夜空に、無数に ひるがえっていた。  かくて十日の午前二時半頃越軍は犀川の南方に東面して陣取り、剛勇無比の柿崎和泉守を先                                    あした 陣に大将謙信は毘字旗と日の丸の旗を陣頭に押し立てて第二陣に控えて、決戦の朝を待った。                        こいち  わたし ただ小荷駄の直江大和守は北国街道を北進して犀川を小市の渡にて渡り善光寺へど退却せしめ た。甘粕隊は遠く南方小森に於て妻女山から来るべき敵に傭えた。時に川中島は前夜細雨があ ったためか、一寸先もわからぬ濃霧である。 『川中島五度合戦記』に「越後陣所ヨリ草刈ドモニ一二十人未明ヨリ出デカケマハリ云々」とあ るは、天文二十三年のこととして出ているが、それは間違いであるから、おそらくこの時のこと であろう。越後の軍より草刈の農夫に化けた斥候が、川中鼻を右に左にはい廻ったのであろ 55 川中島合戦 ************************************ う。謙信は斥候を放って敵の旗本軍の行動をさぐらせ、甲軍が広瀬を渡ったことを知り、奇襲 して敵を粉砕し、旗本を押し包んで、信玄を討ち取ろうと、水沢の方向にむかって静かに前進 をおこした。戦わずして謙信は十二分の勝利である。  妻女山に向った甲軍は、地理に明かな、高坂弾正が先導で、月の西山に没する頃には海津を                            しようけ} 発し倉科の山越しに妻女山へむかった。しかしこれは山間の小径で秋草が道をおおっている ので行單に難渋した。しかも、一万二千の大軍であるから夜明け前に妻女山に到着する筈であ ったのが、はるかに遅れた。                           とら  一方信玄の旗本は、剛勇の山県昌景が先鋒となり、十日寅の刻(午前四時)に海津城を出 ・で、広瀬に於て千曲川を渡り、山県は神明附近に西面して陣し、左水沢には武田信繁その左に               もろずみ は穴山伊豆が障取り、又右には両角豊後内藤修理が田中附近に陣した。信玄は八幡社の東方附                         み た ち 近に、他の諸隊はこの左右前後に陣す。この位置は今三太刀七太刀ど称せられているど云う。 信玄の傍には諏訪神号旗と孫予の旗がひるがえっている。時に濃霧(川中島の名物)が深く立                            たつ ちこめて一寸先もみえない。甲軍は越軍が川中島に来るのは辰の刻(午前八時)とかんガえ、 厳然たる隊形は整えずにいたらしい、ただ信玄は腰をかけたまま妻女山をにらんで何等かの変 化を期待している。何ぞ知らんや上杉軍は半里の前方に展開してい喝のであった。                              よ と  既に卯の刻(午前六時)となったし、濃霧は次第にはれてきた。不図前方をみればこは如何 に、越の大軍弧鵜の如く我に向って餉進中である、正に−暁に見る干兵の大牙を擁するを」                          カカ だ、「武田の諸勢も之を見て大に仰天し、こは何蒔の間に新る大軍が此の地に来れる。天より 56 ************************************          わ                                    はや は降りけん地よりは湧き出でけん、誠に天魔の所行なりとさしもに薙る武田の勇将猛士も恐怖    あらわ の色を顕し諸軍浮足立つてぞ見えたりけるし(『甲陽軍記し  謙信は、一万三千の内旭山城に五千を残したから、精兵八千で、人数は同じであるが、不意 に出られた武田勢は、最初から精神的な一撃を受けたのである、  さすがに百戦練磨の信玄は少しもおどろかず、浦野民部に敵情をさぐらせたどころ、「謙信                                       きこしめ 味方の備を廻って立ちきり幾度もかくの如く候て犀川の方へ赴き候」との報告、信玄公聞召                          くるまがかり し、「さすがの浦野とも覚えぬことを申すものかな、それは車懸とて幾廻り目に旗本と敵の旗 本ど打合って一戦する時の軍法なり」とあって備を立直したど云う◎             ちよつと (だが車懸とは如何するのか一寸疑問で、大軍を立ちきり立ちきり廻すというのは、実際困難 である。だが、軍記作者のヨタでもないらしく、実際川中島に於ける謙信の陣立は水車の如 く、旗本を軸としてまわって陣し、全軍が敵單に当った。しかし精しいこどは分らない)            おおかぷら  越軍は先鋒柿崎和泉守が大蕪青の旗を先頭に一隊千五百人が猛進をはじめ、午前七時半頃水                 てんきゆう 沢の西端に陣取っていた武田左馬之介典厩信繁の隊(七百)に向って突撃してきた。典厩隊は 大に狼狽したが、槍をどって関をあげて応戦した甲軍は、まだ障の立て直しもすまぬ時であっ たが、おちついた信玄の命令にしたがって勇躍敵にあたった。信玄は陣形を十二段に構え、迂                 むかで 廻軍の到着迄持ちこたえる策をとり、百足の指物差した使番衆を諸隊に走らせて、諸隊その位 置をなるべく保つようにど、厳命した。  柿崎隊ど典厩隊との白兵戦は川中島の静寂を破り、突き合う槍の響き、切り結ぶ太刀の音凄 57 ************************************ 川中島合戦 ************************************       ひらめ    ぜいそう じく、剣槍の閃きが懐槍を極めた、柿晴隊は薪手を入れかえ入れかえ無二無一二につき進み切り 立てたため、さしもの典厩隊も苦戦となり隊伍次第に乱れるにいたった。この日、典厩信繁   こ跡ね         ぴし  まえだて                                      おど は、黄金作りの武田菱の前立打ったる兜をいただき、黒糸に緋を打ちまぜて絨した鎧を着、紺   ほ ろ                           か げ     またが 地の母衣に金にて経文を書いたのを負い、鹿毛の馬に跨り采配を振って激励したが、形勢非と                                 かたみ          しのぴ なったので憤然として母衣を脱して家来にわたし、わが子信豊に与えて遺物となし、兜の忍の 緒をきって三尺の大刀をうちふり、群がり来る越兵をきりすて薙たおし、鬼神の如く戦った が、刀折れ力っきて討死した。とにかく、信玄の弟が戦死する騒ぎであるからその苦戦察すべ しである。  ここに山県隊の一部が典厩隊を援けたため、柿崎隊も後退のやむなきにいたった。又前方で 新発田隊と穴山隊の混戦があったが、穴山隊も死力をつくして激戦した、この時越の本庄、安 田、長尾隊は甲の両角、内藤隊と甲軍の右翼で接戦し、甲軍の死傷漸く多く、隊長両角豊後守                  かえんがしら                 あしげ 虎定は今はこれまでと桶皮胴の大鎧に火烙頭の兜勇ましく邊しき葦毛に跨り、大身の槍をう ちふって阿修羅の如く越兵をなぎたおしたが、槍折れ力つきて討死した。    、  ここに於て両角、内藤隊が後退し、柿崎隊ど山吉隊は揚力して甲の猛将山県隊を打ち退けた                                   かくよく ので、信玄の旗本の正面が間隙を生じた。謙信はこれをみてとり、その旗本を鶴翼の陣、即ち 横にひろがる隊形に展開して、八幡原の信玄の旗本めがけて槍刀を揮って突撃した。その勢三 千、謙信の旗本も、猛然之をむかえて数撃し、右の方望月隊及び信玄の嫡子太郎義信の隊も、 ひだりそなえ   はやと 左。傭の原隼人、武田遺遥軒も来援して両軍旗本の大接戦となった。 58 ************************************  これより先山本勘助暗宰は、今度の作戦の失敗の責任を思い、六十三歳の老齢を以て坊主頭                     かすげ へ白布で鉢誉きをなし、黒糸絨しの鎧を着、糟毛の駿馬にうちまたがり三尺の太刀をうちふ り、手勢二百をつれて岡附近の最も危険な所に出で、越軍の中に突入し、身に八十六ケ所の重 傷をうけて部下と共に討死した。                                  かつち頃う  この頃両軍の後備は全部前線に出て一人の戦わざる者もなく、両軍二万の甲冑武者が八幡 原にみちみちて切り結び突きあった。壮観である。信玄の嫡子、太郎義信は時に二十四歳、武田    りゆうず              すそご 菱の金具竜頭の兜を冠り、紫裾濃の鎧を着、青毛の駿馬に跨って旗本をたすけて、奮戦したこ            はじかの                     えんご とは有名である。その際初鹿野源五郎思次は主君義信を掩護して馬前に討死した、越軍の竜字 の旗は、いよいよ朝風の中に進出して来る、  甲軍の旗色次第に悪く、信玄休几の辺りに居た直属の部下も各自信玄を離れて戦うにいた り、休几近くには二三近習のものが止ったにすぎない◎しかし動ぜざること山の如き信玄は休 几に腰をおろして、冷静な指揮をつづけていた、  。                                     みようちん             はつしよう  信玄は黒糸絨しの鎧の上に緋の法衣をはおり、明珍信家の名作諏訪法性の兜をかむり、後 刻の勝利を期待して味方の諸勢をはげましていた。時に年四十一歳、                              もえぎどんす   かたぎぬ  この日、越の主樗上杉輝虎(本当はまだ政虎)は紺糸絨の鎧に、萌黄綬予の胴肩衣をつけ、        たてえ ば ししろたえ           ぎようにんづつみ 金の星兜の上を立烏帽子白妙の練絹を以て行人包になし、二尺四寸五分順慶長光の太刀を抜     はうしよう き放ち、放生月毛と名づくる名馬に跨り、摩利支天の再来を思わせる恰好をしていた、  今や、信玄の周辺人なく好機逸すべからずとみてとった謙信は馬廻りの剛兵十二騎をしたが 59 ************************************ 川中島合戦 ************************************                        ぜんじよう えて義信の隊を突破し信玄めがけて殺到して来た、禅定のいたすところか、その徹底した猛                              やりぷすま 撃は正に鬼神の如くである、これをみた信玄の近侍の者二十人は槍襖を作って突撃隊を阻止         か したが、その間を馳け通って、スワと云う間もなく信玄に近寄った謙信は、長光の太刀をふり かぶって、信玄めがけて打ちおろした(謙信時に三十二歳)。琵琶の文句通り、信玄は刀をと              うちわ                                       きずつ る暇もない。手にもった軍配団扇で発止と受けとめたが、つづく二の太刀は信玄の腕を傷け、                                      かたわら 石火の如き三の太刀はその肩を傷けた。この時あわてて馳けつけた原大隅守虎義は傍にあっ                                    さんず た信玄の青貝の長槍をとって、相手の騎馬武者を突いたがはずれ、その槍は馬の三頭(背すじ の後部)をしたたか突いたので、馬はおどろいてかけ出したので、信玄は虎口を逃れた。例の 「五戦記』では、この騎馬武者を誰とも知らず越後の荒川伊豆守なるべしと取沙汰したが、そ          うちとどむべき                 もうし  ょし れを「政虎聞キ候テ可討留物ヲ残リ多シト皆二申候由」とある。戦国の世激戦多しと雄も未 だ主将が武器をどって一騎討したという例は、多くはないようである。信玄は、その後も神色 自若、孫子の旗ど法性の旗をかざして休几を動かず何事もなかりしが如く軍配をふって指揮し                                   あと たと云うが、あまりそうでもなかっただろう(後団扇を検したどころ八個所の痕があったどい うからよほど何回かうちおろしているわけである)、原大隅守は殊勲の槍を高くあげて、「今妻 女山より味方の先手衆駈けつけたぞ、戦いは味方の勝ちぞ」と叫びまわった。信玄の落着き振             まキ㌧ りと、この機宜の処置とは将に崩れかかった味方に百借の勇気を与えた。この時の有様を『甲 陽軍鑑』に、                                  わたが 「敵味方三千七百の人数入り乱れて突いつ突かれつ伐つ伐たれつ亙に具足の綿櫨みを取り合ひ 合戦2--------                                  やり 60 組んで転ぶもあり首をとつて立ちあがれば其首は、我主なりど名栗つて鑓つけるを見ては又其  者を斬り伏せ後には十八九歳の草履取りまで手と手を取合差違へ候」とある。両旗本の激戦の  様を記しているのである。他の諸隊も皆この通りであっただろう。とにかく甲越二軍の精兵が  必死に戦ったのであるから、猛烈を極めただろう。後年大阪陣の時抜群の働で感状を貰った上       ちかのり  杉家臣杉原親憲が「此度の戦いなぞは謙信公時代の戦いに比べては児戯のようだ」どいったこ  どがある。                                          せき    一方妻女山に向った甲軍は午前七時頃妻女山に達し足軽を出して敵に当らしめたが山上寂と  して声なく、敵の隻影もみえない。あやしげな紙の擬旗がすすきの間にゆれているばかりであ                      ときのこえ  る。そのうち朝霧のはれた川中島の彼方から晒声、鉄砲の音がきこえるので切歯して、十将           か  が川中島を望んで馳け降りた。かくて、最も近い徒渉場たる十二ヶ瀬を渡ろうと急くや、越の  殿軍甘粕近江守は川辺の葦聞から一斉に鉄砲の雨をあびせたので、甲州兵悩まされながら、川               わたし   の上下、思い思いに雨の宮の渡猫ヶ瀬等から川を渡り北進した。猫ヶ瀬を渡った小山田隊は最  も早く川中島に達し、越軍の最右翼新発田隊に向って猛烈に突撃した。この新手に敵し難く新  発田隊は退却をはじめ、狗ヶ瀬を渡った甲軍も、謙信の旗本の背後にむかって猛進した。今や            かんせい                                        とみ  、迂廻軍が敵の背後で減声をあげているのを聞いた信玄の旗本軍も、士気頓にふるい、各将は  「先手衆が来たぞ戦は勝ぞ」と連呼しつつ旗をふり鞍をたたいて前進した。形勢一変、今や越  軍は総退却のやむなきに至った。そこで主醤謙信は広瀬の方面に敵を圧迫していた諸将に速に                      みずか  兵をおさめて犀川方面に退却するよう命じ、親らも柿晴等と共に背後の妻女山を迂廻して来た 甲單に当りつつ退いた。太郎義信も軍をととのえて謙信の旗本を追撃した、謙信は諸隊の退却 をみどどけて最後に退いたが、甲軍の追撃猛烈のため犀川に退却するのが困難になったので、         みまきばたけ 東方に血路を開き三牧畠の瀬を渡って退いたといわれる。越軍の大部分は陣馬ヶ原で返撃し、 丹波島の犀川を渡って善光寺方面へ総退却した。この犀川をわたるに当って甲軍の新手の追撃 をうけて或は討死し或は溺れる者が続出した。犀川は水量が相当に多いのである。  越の殿軍甘粕近江守景持は部下を集めて最後に退却をおこした。甲軍はこれを越の旗本とみ たそうである。しかして田牧の北方附近にいたるや高坂弾正の急追をうけこれに応戦した。高 坂は妻女山より自分の持城たる海津城を気づかってこれに向い、それより八幡原に出たので、 時すでに敵を犀川方面に追討している時だったので、甘粕隊をみてよき敵にがすなどばかりど                                   たいせん  おおまとい っと突撃した。甘粕隊は時々逆襲しつつ犀川を渡り、悠々左岸の市村に陣取り大扇の大纏を 岸上に高く掲げて敗兵を収容した。この甘粕隊の殿軍ぶりはながく川中島合戦を語るものの感 嘆する所である。 ************************************ 61 ************************************ 川中島合戦 ************************************  これで、川中島合戦は終ったわけである。  大戦ではあったけれども、政治的には何の効果もなかった、このため、上杉、武田両家とも 別にどうなったわけでなく、川中島は元のままであった。  損傷を比べて見ると、   上杉方 62 ************************************  死者三千四百 武田方  死者四千五百 ************************************  これで見ると、武田方の方がひどくやられている。その上弟信繁は討死し、信玄自身、予の 義信も負傷している。上杉方は、名ある者は、一人も死んでいない。また作戦的には、武田方 は巧みに裏をかかれている。  しかし、戦国時代では戦争の勝敗は「芝居を踏みたるを勝とす」としてある。芝居ど云うの は、多分戦場と云うこどであろう。つまり戦場に居残った方が勝である。そう考えると、武田 方が勝ったことになる。  豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝なり、辰の刻   み より巳の刻までは武田方の勝なり」と云っているが、これは一番正当な批評かも知れない。そ                      すもう の後、永禄七年の戦に、甲越両軍多年の勝負を角力に決せんどし、甲軍より大兵の安間彦六、 越軍より小兵の長谷川与五左衛門を出して組み打ちさせ、与五左衛門勝って、川中島四郡越後 に属したとあるが、之は嚇らしい、  川中島合戦の蒔、信玄は四十一歳、謙信は三十二歳である。秀吉に云わせると「ハカの行か ない戦争をしやったに過ぎないかも知れないが、信玄は深謀にして精強、謙信は尖鋭にして果 断、実にいい取組みで、拳闘で云えば、体重の相逮もなく、両方とも鍛練された武器を持って いたわけであるからこの川中島の合戦も引分けになったのは、 ************************************ 当然かも知れないのである。 ************************************ 附 記 ************************************ 63 川中島合戦 ************************************ (一)上杉謙信が、入道して謙信ど称したのは二十歳頃からである。         どうかん (二)太田資正は道灌の孫で三楽ど号した。智謀あり、秀吉、家康に向って嵯嘆して日く、   −ζ』  「今鼓に二つの不思議あり、君知れりや」ど。家康日く「一つは三楽ならん、二つは分ら  ず」と。秀吉日く、「我匹夫より起りて、天下に主たると、三楽が智ありて一国をも保つ  能わざるとこれ二つの不思議なり」と。また秀吉三楽に向って日く、「御身は智仁勇の三  徳ある、良将なり、されど小身なり、我一徳もなし、しかし天下を取るが得手なり」と、  大小の戦い七十九度、一番槍二十三度、智は天下に鳴っている名将だったが、出世運の悪  かった男である◎ (三)謙信が幾太刀も斬りつけながら信玄を打ち洩したのはダラシがないようだが、馬上の  太刀打で間遠でどうにもならなかったらしい。後で「あのとき槍を持っていたならば、決      もら  して打ち洩すまじきに」と云って謙信が嘆息している。槍を持っていなかったため流星光 底長蛇を逸したのである。 作者 64 ************************************ 桶狭間合戦 ************************************ 信長の堀起 ************************************  天文十八年三月のこど、相遠参三ケ国の大名であった今川氏を始めとし四方の豪族に対抗し て、尾張の国に織田氏あることを知らしめた信秀が年四十二をもって死んだ。信秀死する三年   こわたり                                      ただち 前に古渡城で元服して幼名言法師を改めた三郎信長は、直に父の跡を継いで上総介と号した。        な こ の  信秀の法事が那古野は万松寺に営まれた時の事である。重臣始めきらびやかに居並んで居る 処に、信長先ず焼香の為に仏前に進んだ。  今からは織田家の大将である信長が亡父の前に立った姿を見て一堂の者は驚いた。長柄の太     し めなわ                 ちやせん                                はかま 刀脇差を三五縄でぐるぐる巻にし、茶笙にゆった髪は、乱れたままである上に袴もはかないと               ひとつか 云う有様である。そして抹香を一擾みに擾んで投げ入れると一拝して帰って仕舞った。信長の             かたぎぬ    いんぎん 弟勘十郎信行の折目正しい肩衣袴で懸勲に礼拝したのとひき比べて人々は、なる程信長公は聞 65 桶狭間合戦 ************************************ きしに勝る大馬鹿者だと潮り合った。心ある重臣達は織田家の将来を想って沈んだ気持になっ て居たが、其中に筑紫からこの寺に客僧どなって来て居る坊さんが、信長公こそは名国主どな る人だと云ったど伝えられて居る。この坊さんなかなか人を見る目があったど呑つ事になるわ けだが、なにしろ幼年時代からこの年頃にかけての信長の行状はたしかに普通には馬鹿に見ら                      じもく れても文句の云い様がない程であった。尾張の治黙寺に手習にやられたが、勿論手習なんぞ仕           ふな            ふき      なます 様どもしない。川から鮒を獲って来て蕗の葉で腫を造る位は罪の無い方で、朋輩の弁当を略奪 して平げたりした。町を通りながら、栗、柿、瓜をかじり、餅をほおばった。人が潮けろうが 指さそうがお構いなしである。                           か  十六七までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝タ馬を馳けさせたり、鷹野を催したり、春 から秋にかけて川に飛び込んだりして日を暮して居た。しかし朋友を集めて竹槍をもって戦わ しめたりする時に、褒美を先には少く後から多く与へた事や、当時から槍は三間柄が有利であ るどの見解を持って居た事や、更に其頃次第に戦陣の間に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱 心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの眼識を肯定出来そうである。  この様に何処かに争われない処を見せながらも、その日常は以前と異なる事がなかった。    なかつかさ  平手中務政秀は信長のお守役であるが、前々から主信長の行状を気に病んで居た。色々と いさ                     ききめ           うち 諫めては見るものの一向に験目がない。その中にある時、政秀の長男に五郎右衛門というのが あって、好い馬を持って居たのを、馬好きの信長見て所望した処、あっさりと断られてしまっ た。親爺も頑固なら息子も強情だと、信長の機嫌が甚だよくない。政秀之を見て今日までの輔 髄 ************************************                   しくじり 育が失敗して居るのに、更にまた息子の縮尻がある。此上は死を以って諌めるほかに道はない            うるう                                さ ど決意して、天文二十二年閏正月十三日、六十幾歳かの雛腹割いて果てた。  その遺書には、                           ぱか  心を正しくしなければ諸人誠をもって仕えない、ただ才智許りでなく度量を広く持たれます 様に、       え こひいき  無慾にして依古晟員があってはならない、能才を見出さなければならない、  武のみでは立ちがたいものである、文を修められますように、  礼節を軽んぜ。られませぬように、  等々の箇条があった。                                  お ぎ  信長涙を流して悔いたけれども及ばない。せめてど云うので西春日井郡小木の里に政秀寺と いう菩提寺を建て寺領二百石を附した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)                               ほとり  信長鷹野で小鳥を得ると、政秀この鳥を食えよと空になげ、小川の畔に在っては政秀この水 を飲めよど叫び涙を流した。     かんし                                   てんびん  政秀の諌死によって信長大いに行状を改めたが同時に、その天稟の武威を撮い出した。         おけはざま  十六歳の時から桶狭間合戦の二十七歳までは庸の安まる間もなく戦塵をあびて、自らの地盤 を確保するに余念がなかった。  元来織田氏の一族は屋張一帯に拡がって居て各々割拠して居たのだが、信長清須の主家織田   しの                              しぱ 氏を凌ぐ勢であったので、城主織田彦五郎は、薪波義元を奉じて、同族松葉城主織田伊賀守、 67 桶狭間合戦 ************************************          じよう 深田城主織田左衛門尉等と通じて一挙に信長を滅そうとした、信長、守山に在る叔父孫三郎信 光と共に、機先を制して天文二十一年八月十六日、那古野に出で三方より清須城を攻めた。・翌      つい                 うつ 年になって終に清須を落して自ら遷り住し、信光をして郡古野に、その弟信次を守山に居らし めた。処がこの守山(清須から三里)に居る信次が弘治元年の夏家臣と共に川に釣に出かけた 時に、一人の騎士が礼もしないで通り過ぎたのを、怒って射殺した事がある。殺してみた騎士 が信長の弟の秀孝であったので一信次は仰天してそのまま逃走して仕舞った。秀孝の兄の信行 は之を聞いて來森から馳せて守山に来り城下を焼き払い、信長また清須から馬を馳せつける騒 ぎであった。                                きくいく  さてまたこの信行であるが、末森城に於て重臣林通勝、柴田勝家等に鞠育されて居たが、老                                    いくさ 臣共は信長の粗暴を嫌って信行に織田の跡を継せようど企てた。しかし信長との戦では直に破                    なお                      そむ れたので一旦許を乞うた。信長も許したが猶も勝家等の諌を聴かずして叛こうとしたので、つ      はかりごと いに信長、謀をもって之を暗殺した。弘治二年十一月のことである。  更に異母兄に当る織田信広や、岩倉城主織田信安等の叛乱があったが、みな信長に平定せら れた。  以上は皆同族の叛乱であるが、この外に東隣今川氏の部将との交渉がある、愛如郡鳴海の城 主で山口左馬助と云うのが織田信秀の将どして今川氏に備えて居た。信秀が死んで信長の代に なるど、信長頼むに足らぬと考えたかどうか叛いて今川氏について仕舞った、そして愛知郡の 笠寺と中村に城を築き、自分は中村に、今川の将戸部豊政を笠寺に、自分の子の九郎二郎を鳴 68 ************************************ 海に居らせた。信長棄てて置かれないので天文二十一年自ら来って攻めたけれども却って破ら                      くつかけ れたので、勢を得たのは左馬助である。大高、沓掛等をも占領した。信長は今度は笠寺を攻め       ぎようゆう                                                よしなり て見たが豊政騎勇にして落城しそうもない。そこで信長は考えた末、森可成を商人に化けさ                    ざんげん せて駿河に潜入させ、義元に豊政のことを謹言させた。義元正直に受取って豊政を呼び返して 殺し、次いで左馬助をも疑って、之も呼び寄せて殺してしまった。  旧主に叛いた左馬助どしてみれば因果応報であるが、信長も相当に反間を用いている。尤も 乱世の英雑で反間を用いない大将なんて無いのであるから、特別の不思議はない筈であるが。  とにかく、この様な苦闘を経て、漸く勢を四方に張ろうとして来た信長と、駿遠参三ケ国を 擁して、西上の機を窺って居た今川義元どが、衝突するに至るのは、それこそ歴史上の必然で あったわけだ。 ************************************ 今川義元の西進 ************************************                  いたず  群確割拠の戦国時代は一寸見には、徒らに混乱した暗黒時代の様に見られるけれども、この       おのずか 混乱の中に、自ら統一に向おうどする機運が動いて居るのを見逃してはなるまい。英壁蒙傑 が東西に戦って天下の主たろうと云う望を各自が抱いて届るのは、彼等の単なる英雄主義の然 らしめたことではなくて、現実に、政治上からも経済上からも、統一の機運に乗じようと考え た処からである。此時代になって、兵農の分離は全く明かになり、地方的な商業も興り、足利 時代に盛になった堺を始めとして、東の小田原、西の大阪、山口等次第に都会の形成をも釆し 69 桶狭間合戦 ************************************           とき て来たのであるが、此秋に当って、小さく地方に、自分丈の持前を守って居ようなど考えて居 る者達は、より大なろうとして居る強者の為にもみつぶされて仕舞うことになる。志ある者は 必ず上洛して、天子の下に、政治経済の権を握って富強を致そうど望むのが当然である。こう して西上の志あった者に、武田信玄があり上杉謙信があった。今川義元も亦、三大国を擁して 西上の志なかるべからんやである。  義元、先ず後顧の憂を絶つ為に、自らの娘を武田晴信の子義信に嫁せしめた。北条氏とも和 した。さて、いよいよ西上の段取であるが、三河の西辺の諸豪族、特に尾張の信長を破らなけ れば、京に至る事は出来ない。そこで、義元は当時駿河の国府に居らせた松平竹千代に、その                                          む 先鋒を命じた。竹千代即ち、後年の徳川家康である。竹千代不遇であって、始めは、渥美郡牟 ろ 呂村千石の地しか与えられず、家臣を充分に養う事にさえ苦しんだ。鳥居伊賀守恵吉は自らの 財を多く松平家の為に費したとさえ伝えられている。後年三河武士ど称された家臣達は何事を も忍んで機の至るを待って居た。養兀の命のままに、西上の前軍を承って多くの功績を示した                                      ちかなが  むすめ が、義元西上の志が粉砕された事によって、竹千代(弘治二年末義元の義弟、関口親長の女を めとる、後元康と称し更に家康と改む)の運命が開れようとは当人も想いつかなかったであろ う。  松平元康が、どんなに優秀な前軍を勤めたかを簡単に示すならば、弘治三年四月には刈屋を      おおふ                                                     しげのり 攻め、七月大府に向い、翌永禄元年二月には、義元に叛き信長に通じた寺部城主鈴木重教を攻          ひようろう め、同じく四月には兵糧を大盲同城に入れた。 70 ************************************  勿論、此頃には信長の方でも準傭おさおさ怠りなく手配して居るのであって、かの大高城の                            も 如きも充分に監視して、兵糧の入ることを厳重に警戒した。.若し今川方から大高に兵糧を入れ                         ほ らがい る気配があったら、大高に間近い鷲津、丸根の二城は法螺貝を吹き立てよ、その貝を聞いたら                                      ごづめ 寺部等の諸砦は速かに大高表に馳せつけよ、丹下、中島二城の兵は、丸根、鷲津の後詰をせよ と命じて手ぐすねひいて待ち構えて居た。  四月十七日夜に入ると共に支度をして居た、松平次郎三郎元康は、十八の若武者ながら、大                     まさちか 任を果すべく出発しようどした。酒井与四郎正親、同小五郎忠次、石川与七郎数正等が「信長 ならば必ずや城への手配を計画して居る筈である。とても兵糧入れなどは思いもよらぬ」と諌                                  あおい めたけれども、胸に秘策ある元康だから聴く筈がない。一丈八尺の地に黒の葵の紋三っ附けた 白旗七本を押し立てて四千余騎、粛々として進発した。家康は兵八百を率い、小荷駄千二百駄 を守って大高城二十余町の処に控えて居た。前軍は鷲津、丸根、大高を側に見て、寺部の城に              うしみつ 向い不意に之を攻めた、丁度丑満時という時刻なので、信長勢は大いに驚いて防いだが、松平 勢は既に一ノ木戸を押し破って入り、火を放ったと思うとさっと引上げた、引上げたど思うと 更に梅ヶ坪城に向い二の丸三の丸まで打ち入って同じ様に火の手を挙げる。厳重に大高城を監                      おたけ 視して居た、丸根、鷲津の番兵達は、はるかに雄叫びの声がすると思っているうちに、寺部、       やみ 梅ヶ坪の城に暗をつらぬいて火が挙がるのを見て、驚き且ついぶかった。大高城に最も近い丸 根、鷲津を差置いて、寺部なぞの末域を先きに攻める法はないと独合点して居たからである。 怪しんで見たものの味方の危急である、取る物も取り合えず、城をほどんど空にして馳せ向っ 71 桶狭間合戦 ************************************                  はくそ え                            い い た。我計略図に当れりと、暗のうちに北翼笑んだのは元康である。このすきに易々として兵糧 を大高城に入れてしまった。  この大高城兵糧入れこそ、家康の出世絵巻申の第一景である。大高城兵糧入れに成功した元                 ころも 康は、五月更に大府に向い八月には衣城を下した、翌三年三月には刈屋を攻め、七月、束広 瀬、寺部の二城を落し、十二月に村木の砦を占領して翌年正月にこれを壌している。  もうこうなるど正面衝突よりないわけである。        っいたち  永禄三年五月朔日今川義元、いよいよ全軍出発の命を下した。前軍は十日に既に発したが、             うじざね 一日おいた十二日、義元予氏真を留守どして自ら府中(今の静岡)を立った。総勢二万五千、 四万ど号している。掛値をする処は今の支那の大将達ど同じである。  義元出発に際して幾っかの凶兆があった事が伝えられて居る。 。元来義元は兄氏輝が家督を継いで居るので自分は禅僧となって富士善徳寺に住んで居った。                   げんぞく                          だいふ 氏輝に予が無かったので二十歳の義元を還俗させて家督を譲った。今川次郎大輔義元である。                         りようしん 処が此時横槍を入れたのが義元の次兄で、花倉の寺主良真である。良真の積りでは兄である                                  のけもの 自分が家を継ぐべきなのに、自分丈が氏輝、義元ど母を異にして居る為に除者にされたのだ と、とうとう義元と戦ったが敗れて花倉寺で自殺したという事があった。                               支つくらごう  その花倉寺良真が義元出発の夜に現れ出でた。義元、枕もどの銘刀松倉郷を抜いて切り払っ た。幽霊だから切り払われても大した事はないのであろうが良真は飛び退いて日く、「汝の運 命尽きたのを告げに来たのだ」ど。出陣間際に縁起でもないことをわざわざ報告に来たわけで 72 ************************************                 おんてき ある。義元も敗けて居ずに「汝は我が怨敵である、どうして我に吉凶を告げよう」、人間でな    う そ くても虚言をつくかも知れないとやり込めた。良真は「なる程、汝は我が怨敵だ、しかし今川 の家が亡びるのが悲しくて告げに来たのだ」と云いもあえず消えてなくなった。  其他に、駿州の鎮守総社大明神に神使として目されていた白狐が居たのが、義元出発の日、 胸がさけて死んで居たとも伝える。  どれも妖語妄誕だから真偽のほどはわからない。義元この戦に勝ったならば、このような話 は伝らずにおめでたい話が伝っただろう。              ち り う  閑話休題、十五日には前軍池鯉鮒に、十七日、鳴海に来って村々に火を放った。 ************************************ 義元は十六日に岡崎に着いて、左の様に配軍せしめた。        いおはら  岡崎城守備 庵原元景等千余人  緒川、刈屋監視堀越義久千余人 ************************************ 十八日には今村を経て沓掛に来り陣し、ここで全軍の部署を定めた。  丸根砦攻撃  松平元康二千五百人             やすよし  鷲津砦攻撃  朝比奈泰能二千人  援軍三浦傭後守三千人          くずやま  清須方面前進   葛山 信貞 五千人 本    軍 鳴海城守備 沓掛城守備 ************************************ 浅岡今 井部川 ************************************ 義元 五千人 三信七八百人 政敏 千五百人 ************************************        うどの  更に大高城の鵜殿長照をして丸根鷲津攻撃の応援をさせる。この鵜殿は先に信長の兵が来り                  そうこん 攻めて兵糧に乏しかった時に、城内の草根木菓を採って、戦なき日は之れを用い、戦の日に は、ほんとうの米を与えたと云う勇士である。  この今川勢の、攻進に対して、織田勢も、準備を全くととのえてあった。すなわち、 ************************************ 鷲津砦 丸根砦 丹、下砦 善照寺砦 中島砦 ************************************ 織田 信平    もりしげ 佐久間盛重 水野 恵光    のぶたつ 佐久間信辰 梶川 一秀 ************************************ 四五百人 同右 同有 同右 同右 ************************************ 73 桶狭間合戦 ************************************  これらの砦は丹下の砦で四十間四方に対して、あとはみな僅に十四五間四方のものに過ぎな い。兵も今川勢に比べるど比べものにならない位に小勢ではあるが、各部将以下死を決して少 しも恐るる色がなかった。                            はたがしら     げんばのすけ 丸根砦の佐久間大学盛重は徒らに士を殺すを惜んで、五人の旗頭、服部玄蕃允、渡辺大蔵、 ************************************ 74 ************************************ 太田左近、早川大膳、菊川隠岐守に退いて後單に合する様にすすめたけれども、誰一人聴かな かった。                         ふ  永禄三年五月十八日の夜は殺気を山野に満したまま更けて行った。むし暑い夜であった。 ************************************ 両軍の接戦、桶狭間役 ************************************                              みつのり    まさちか  むし暑い十八日の夜が明けて、十九日の早朝、元康の部将松平光則、同正親、同政忠等が率 いる兵が先ず丸根の砦に迫った。かねて覚悟の佐久間盛重以下の守兵は、猛烈に防ぎ戦った。      たお 正親、政忠覆れ、光則まで傷ついたと云うから、その反撃のほどが察せられる。大将達がそん              たちま な風になったので士卒等は、忽ちにためらって退き出した。隙を与えず盛重等、門を十文字に 開いて突出して来た。元康之を望み見て、これは決死の兵だから接戦してはかなわない、遠巻 にして弓銃を放てど命じたので、盛重等は忽ちにして矢玉の真ただ中にさらされて、その士卒            かけひ                                いとま と共に倒れた。元康の士寛正則等が之に乗じて進み、門を閉ざす暇を与えずに渡り合い、松平 義忠の士、左右田正綱一番乗りをし、ついに火を放って焼くことが出釆た。元康はそこで、松                           かち 、平家次に旗頭の首七つを、本陣の義元の下に致さしめて、捷を報告させた。義元、我既に勝っ たと喜び賞して、鵜殿長照に代って大高城に入り人馬を休息させる様に命じ、長照には笠寺の 前單に合する様命じた。これが両軍接戦のきっかけであるが清須に在る信長は悠々たるもので あった。  前夜信長は重臣を集めたが一向に戦事を議する様子もなく語るのは世俗の事であった。気が 75 桶狭間合戦 ************************************ 気でなくなった林通勝は、進み出て云った。「既に丸根の佐久聞から敵状を告げて来たが、義 元の大單にはとても刃向い難い。幸に清須城は天下の名城であるからここに立籠られるがよか ろう」と、                ろうじよう  信長はあっさり答えた。「昔から籠城して運の開けたためしはない。明日は未明に鳴海表に 出動して、我死ぬか彼殺すかの決戦をするのみだ」ど◎之を聞いた森三左衛門可成、柴田権六               つかまっ     こた                                    、、 勝家などは喜び勇んで馬前に討死仕ろうど応えた。深更になった時分信長広間に出で、さい と云う女房に何時かど尋ねた。夜半過ぎましたど答えると馬に鞍を置き、湯漬を出せど命じ た。女房かしこまって昆布勝栗を添えて出すと悠々ど食し終った。腹ごしらえも充分である。 食事がすむと休几に腰をかけて小鼓を取り寄せ、東向きになって謡曲『敦盛』をうたい出し                                 すみか た、この『敦盛』は信長の常に好んで謡った処である。「……此世は常の栖に非ず、草葉に置                かなや                  さきだつ く白露、水に宿る月より猶怪し、金谷に花を詠じし栄華は先立て、無常の風に誘はる㌧、南楼   もてあそやから                                   げてん     くら の月を弄ぶ輩も月に先立て有為の雲に隠れり。人間五十年化転の内を較ぶれば夢幻の如く也、 ひとたび    う 一度生を稟け滅せぬ物のあるべきか……」  朗々として迫らない信長のうた声が、林のように静まりかえった陣営にひびき渡る。部下の 将士達も大将の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。本庄正宗の大刀を腰にすると忽                      いわむろ ち栗毛の馬に乗った。城内から出た時は小姓の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨 守、賀藤弥三郎の五騎に過ぎない。そのまま大手口に差しかかると、黒々と一団が控えてい る。見ると森、柴田を将とした三百余騎である。「両人とも早いぞ早いぞ」と声をかけて置いて、 ’ ************************************ 76 ************************************ ひた走りに駈けて熱田の解嚇に春いた時は、その数千八百どなって居た。熱田の町口には加藤 ずしよのすけよりもり                                                                  がんもん 図書助順盛が迎えに出て来て居て、出陣式法の菓子をそなえた。信長は喜んで宮に参り願文                 せきあん を奉じ神酒を飲んだ。願文は武井入道夕奄に命じて作らしめたと伝うるもので、 「現今の世椙混沌たるを憂えて自ら天下を平定しようと考えて居ます処、義元横暴にして来り                  とうろう  しやてつ           ぷんし         か 侵して居ます。敵味方の衆寡はあだかも蝦郷の車轍に当る如く、蚊子の鉄牛を咬むが如きもの があります。願わくば天下の為に神助あらんことを」と云った意味のものであるが、果してこ の様な願文を出したかどうか多少怪しい処はあるが、この戦をもって天下平定の第一歩である と考えて居た事は疑あるまいと思われる。         さいせん  信長、この時、寮銭を神前に投げながら、「表が出ればわが勝なり」と云った。神官に調べ                          ぜに             のり させると、みんな表が出たので将士が勇躍した。これは、銭の裏ど裏とを、糊でくっつけて置 いたものでみんな表が出るわけである。                                    は  既にこの頃は夜は全く明け放れて、今日の暑さを思わせるような太陽が、山の端を可なり高 く昇っている。信長顧みれば決死の将士千八百粛々として附いて来ているが、今川勢は、何し ろ十借を越す大軍である。少しでも味方を多勢に見せなければならないと云うので、加藤順盛         しようぶのばり  もめんぎれ に命じて町家から、菖蒲幟、木綿切等を集めさせ、熱田の者に竹樟をつけて一本ずつ持たせ、 高い処に指物の様に立たせて、擬兵をつくった。 『桶狭間合戦記』に、                 しずわ 「熱田出馬の時信長乗馬の鞍の前輸ど後輸とへ両手を掛け、横ざまに乗りて後輪によりか㌧り 77 桶狭間合戦 ************************************ 鼻謡を謡ふ」                               いちじよう  とある。大方、例の『敦盛』と同じように好んで居た「死のうは一定しのび單には何をし よぞ、一定かたりのこすよの:…」                。  と云う小唄でも口ずさんで居たのであろう。決戦間近かに控えてのこの余裕ぶりは何と云っ                             わき             ばか ても天才的な武将である。こんな恰好で神宮を出でたつと道路の傍に、年の頃二十計りの若者 が羽織を着、膝を付けて、信長に声を掛けられるのを待って居る様子である。信長見ると面体 すぐ 勝れて居るので、何者だと問うと、桑原甚内と云い、嘗つて義元が度々遊びに来た寺の小僧を した事があって、義元をよく見知って居るから、願えることなら今度の戦に義元と引組んで首 をとりたいど管又た。信長、刀を与えて供に加えた。毛利新助、服部小平太の両人が之を聞い て、この若者につきそって居て義元に出会おうと考えた。                  かみちがまのやしろ  今の時間で丁度八時頃、神宮の南、上知我麻祠の前で、はるか南方に当って一条の煙が、   あさひ 折柄の旭の光に、濃い紫色に輝きながら立ち上るのが見られた。丸根の砦の焼け落ちつつある                 こなるみ 煙だったのである。人馬を急がせて古嶋海の手前の街道まで来るど、戦塵にまみれた飛脚の兵 に出会った。丸根落ちて佐久間大学、飯尾近江守只今討死と告げるのを信長聞いて、「人学わ                                    すじか れより一時先に死んだのだ」と云って近習の十に銀の珠数を持って来させ、肩に筋違いにかけ                                     はし 前後を顧みて叫んだ。「今は各自の命を呉れよ」と云うが早いか栗毛に鞭くれて馳り出した。 従士達も吾劣らじと後を追うて、上野街道忽ち馬塵がうず巻いた。  丸根が落ちた後の鷲津も同様に悪戦苦闘である。今川勢は丸根に対した如く、火を放って攻 78 ************************************                        ことごと めたので、信平を始め防戦の甲斐なく討死して残兵悉く清須を指して落ちざるを得ない状態 になった、時に午前十時頃。        たむろ                   すえただ               しげよし  鳴海の方面へもへて居た佐々政次、千秋季恵、前田利家、岩室重休等は信長が丹下から菩照 寺に進むのを見て三百余人を率いて鳴海方面の今川勢にかけ合ったが衆寡敵せずして、政次、 重休、季思以下五十余名が戦死した。季忠は此時二十七歳であったが、信長あわれんでその子 孫を熱田の大宮司になしたど云う。前田利家はこの戦以前に信長の怒りにふれている事があっ                    ただち                けんざん たので、その償いをするのは此時と計り、直に敵の首を一つ得て見参に容れたが信長は許さな                                         のち い。そこで、その首を沼に投げ棄てて、更に一首をひっさげて来たが猶許されなかった。後森 部の戦に一番乗りして、始めて許されたと云う。         なおむね  笠寺の湯浅甚助直宗ど云う拾四歳の若武者は軍の声を聞いて、じっとして居れずに信長の乗 かえの馬を暫時失敬して馳せ来り敵の一士を倒して首を得たので、大喜びして信長に見せた処 が、みだりに部署を離れたとて叱責された◎  これずみ  惟住五郎左衛門の士、安井新左衛門家元は鳴海の戦に十七騎を射落して居る。  この様に信長の将士は善戦して居るのだが、何分にも今川勢は大勢であるから正攻の戦では 大局既に信長に不利である、  政次、重休、季忠三士の首が今川の本営に送られた事を善照寺に在って聞いた信長が切歯し て直にその本軍をもって今川單に向わんとしたのも無理はない。林通勝、池田信輝、柴田勝家                おお 等が、はやる馬の口を押えて「敵衆く味方少くあまつさえ路狭くて一時に多勢を拝し出す事が 79 桶狭間合戦 ************************************ 出来ないのに一どうして正面からの戦が出来ようLと諌めたが、いささか出陣前の余裕を失っ た信長は聴かずして中鳥に渡みうとした。此時若し信長が中島に渡って正面の戦をした肱叱 ば、恐らくは有大臣信長の名を天下に如らしめずに終ったことであろう。丁度、その時、梁田 政綱が放った斥候が、沓掛方面から帰って、「義元は今から大高に移ろうどして桶狭間に向っ                     でんがく た」旨を報じた。間もなく更に一人が義元の田楽狭間にもにた事を告げ来った。政綱、信長に 欝めるには義元今までの勝利に心駿って恐らくは油断して居るこどだろうから、この機を逃さ ず間道から不意を突けば義元の首を得るであろうと。今まκ駄々をこねて居た信長は流石名将                          きせ㌧ だけに、直に政綱の言に従って善照寺には若干兵を止め旗旗を多くして擬兵たらしめ、自ら帖                                         レレ 間遺より田楽狭間に向って進んだ。此日は朝から暑かったが畳頃になって雷鳴と共に豪雨が浦 燃と降り下り、風は山々の木をゆるがせた。為に軍馬の音を今川勢に知られる事もないので熱              やまじ 田の神助とばかり喜び勇んで山路を分け進んだ。  外史氏山陽が後に詠んだのに、     しようしはばいをふくみ うまはしたをむすぶ     将士街レ枚馬結レ舌     おけはざまおけのごとくらい へきれつす     桶狭如レ桶雷撃裂    きようりゆうもとをうしないはい りん とぷ     騎竜喪レ元敗鱗飛     めんをうつ せい ふう あめ  か ちか     撲レ面躍風雨耶血     いつ せんはじめてひらくはつらんの き     一戦始開撞乱機     ぱん  こ かい どう せん ふんめつし     万吉海遺戦気滅 80 ************************************ ただみるけつこんくれないにぶんけつするを 唯見血痕紅紋纈 ************************************ ************************************    笠寺の山路ゆすりしゆふたちの      あめの下にもか㌧りけるかな  これは幕末の井上文薙の歌である。                  ひんぴん  信長等が予想して居た通りに義元、頻々たる勝報に心喜んで附近の祠官、僧侶がお祝の酒 さかな 肴を取そろえて来たのに気をよくして酒宴をもよおして居た。                 ひたたれ                                       だい  此時の義元の軍装は、赤地の錦の直垂、胸白の具足、八竜打った五枚冑を戴き、松倉郷、大 さもんじ 左文字の太刀脇差を帯びて居た。この大左文字はすぐに信長に分捕られた上にその銘に、表に             うちとるかれのしよじのとうにこくす は永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀、裏には織田尾張守信長と刻込まれて仕舞った。     たけなわ 義元の酒宴酎である頃信長の兵は田楽狭間を真下に見る太子ヶ根の丘に在った。田楽狭間は 桶狭間へ通ずる一本道の他は両側共に山で囲まれて居る。こうなると義元は袋のなかの鼠であ る。丘上で信長馬から下りて斬り込むかと議すると森可成馬のまま馳せ下るがよろしいと管疋 たが、丁度昼頃になって風雨がやや静ったのを見計って、一度にどっと斬り込んだ。義元の本 営では、まさか信長がこの様な不意に出ようどは想って届ないので、味方同志の争が起った位                                    いばく に最初は考えて居たが、騒は益々大きくなる計りである。義元兵を制しようと帷幕を掲げた処 を例の桑原甚内が見付けてかかったが近習の士の為にさえぎられて斬られた。甚内に附きまと って来た服部小平太がこの中にまぎれ込んだのを、義元味方と間違えて馬を引けと命じたの  で、さてこそ大将と槍で脇腹を突いた。義元流石に屈せずに槍の青貝の柄を斬り折ると共に小  平太の膝を割ったので小平太はのめって仕舞った。同じく義元の首をねらった毛利新助が名乗                               あせ   って出るや義元に組付いて首をどろうとあせった。頭を押え様ど焦った新助は左手の人差指を               か  義元の口に押し込んだのを咬み切られながら、とうどう首を挙げた。不意を討たれた上に大将  が討死しては衆も寡もない。今川勢は全く浮足たって仕舞った。   今川の部将、松井宗信、井伊直盛等が本営の前方十町計ワの処にもにて居たが、急を聞いて  馳せ戦ったが悉く討死して果てた。    一説には、本営破れた時、庵原左近、同庄次郎が馳せ来り、事急であるから義元に大高に移  られる様にと云って十二一二騎で行くのを襲われたとも伝えられる。                                まごみ    一挙に勝を収めた信長は、敢て今川勢を遠く追わずに、直に兵を間米山に集め義元の首を馬 ’の左脇にさげて、日暮には清須に引上げた。まさに、神連なる行動である。熱田の宮では拝謝        やしろ  して馬を献じ社を修繕することを誓った。、          え                                 しもかた            いけどり      ごんあ み   凱旋の翌日、獲た首を検したのに二千五百余あった。下方九郎左衛門が生檎にした権阿弥を  して首を名指さしめた。   清須から、二十町南須賀、熱田へゆく街道に義元塚を築き大卒塔婆を建て、千部経を読ませ 餓 鯛たと云う。 桶  義元の野心煙と散じた一方、信長は地方の豪族からして一躍天下に名を知られた。 81  義元が逸した天下取りのチャンスは、はからずも信長の手に転がり込んで来たのである。 82 ************************************        結末並に余説                  かえ  この戦に於て、敗單に属しながら、反って不思議に運を開いたのが松平元康、後の徳川家康                   おと である。元康は五月十九日の朝、丸根を陥した後大高に居ったが、晩景になって義元の敗報が                  も 達した。諸士退軍をすすめたが、元康若し義元生きて居たら合わす顔がないとて聞かない。処 に伯父水野信元が浅井道思を使として敗報をもたらしたので、元康は部下をしてその真実であ ることを確めた後、十九日の午後十一時すぎ月の出を待って道忠を案内として三河に退陣した が、土冠に苦められながらやっと岡崎に着いた。着いて見るど岡崎城の今川勢は騒いで城を明 け退いていたので、元康すて城ならば入らうと云ってここに居った。後永禄五年五月、水野信 元のとりなしで信長ど清須城に会して運合を約し、幼少から隠忍した甲斐あって次第に勢を伸                         とむらい す基礎を得た。元康、義元への義を想って予の氏真に弔合戦をすすめたけれども応ずる気色                                       だけ もなかった。義元は、信長の為に一敗地にまみれたとは云え三大国を領するに至った丈にどこ か統領の才ある武将であったが、子の氏真に至っては全く暗愚であるど云ってよい。義元が文 事を愛した話の一つに、ある戦に一士を斥候に出した処が、間もなくその士が首を一つ獲て帰 った、義元は賞せずして反って斥候の役を怠ったとして軍法をもって処置しようとした。  その士うなだれたまま家隆の歌、    かるかや    苅萱に身にしむ色はなけれども       見て捨て難き露の下折 83 桶狭間合戦 ************************************                   やわら  とつぶやいたのを聞いて、忽ち顔の色を和げたど云うこどである。地方の大豪族である処か    く デ                   しばしぱ                     ・        おのず   みやぴや ら京の公脚衆が来往するこどが慶々であったらしく、義元の風体も自から雅かに、髪は総髪     か ね                                                                        、 に、歯は鉄漿で染めるど云う有様であった。その一方には今度の戦で沓掛で落馬した話も忘れ られてはならない。しかし、ども角文武両道に心掛けたのは義元であるが、氏真と來ては父の 悪い方丈しか継いで居なかった。               ほか  義元死後も朝比奈兵衛大夫の外立派な家老も四五人は居るのであるが、氏真、少しも崇敬せ              にゆうじやく                おどり ずして、三浦有衛門義元ど云う柔弱の士のみを用いて、踊酒宴に明け暮れした。自分が昔書 いた小説に『三浦右衛門の死』ど呑つのがあるが、あんな少年ではなかったらしい。自分の気           めかけ       つまぺに に入った者には、自らの妾を与え、播紅さして人の娘の美しいのに歌を附けたりまるで武士の                                  こ 家に生れたことなぞは忘却の体である。かの三浦の如きは、桶狭間の勇士故の井伊直盛の所領 を望んだり、更に甚しくは義元の愛妾だった菊鶴と云う女を秘かに妻にしたりしながら国政に 当るど云うのだから、心ある士が次第に離れて今川家衰亡の源を作りつつあったわけである。  天文二十二年に義元が氏真を戒めた手紙がある。           むふんぺつに                 や          わざなり  て御辺の行跡何とも無分別候、行末何になるべき覚悟に哉・−:弓馬は男の業也器用も不器    いらずそうろうべく           おさ                 かなう                  おもカら  用も不入候可稽古事也、国を治む文武二道なくては更に叶へか与ず候、…。其上君子重    すなわち  ずんば則威あらず義元事は不慮の為進退軽々しき心持候、さあるからに親類以下散々に智      みおよびそうらえども                          おもい  慮外の体見及候得共我一代は兎角の義に及ばず候と思、上下の分も無き程に候へ共覚悟前                かく ごとく            なるぺく    よくよく      これ  ならば蓄しからず候、氏真まで此の如にては無国主と可成候、能々此分別之あるべし…」 84  義元が自らの欠点をさらけ出して氏真を戒めて居る心持は察するに余りある。 ************************************                     むし  義元が文にかって居た将とすれば、信長は寧ろ頁の武将であった。戦国争乱の時には文治派                             いんぎよう より武断派の方が勝を制するのは無理のない話である。信長、印形を造らせた事があるが自                  かけん                       かいだいにくわわる らのには「天下布武」、信孝のには「文剣平天下」、信雄のには「威加海内」とした。もっ て信長の意の一端を伺うに足りる。                                    ゆきはらんかんをようし  しかし武断一点張りでなかった事は、暗殺しようどした稲葉一徹が、かの『雪擁藍関』 の詩をよく解したと云う一点で許した如き、義元が一首の和歌の故に部下を許した、好一対の 逸話をもっても知られる。                                   おのずか  幼少より粗暴であったと云う非難があるが、勿論性格的な処もあるにしろ、自らそこに細心 な用意が蔵されて居たのを知らなければならぬ。  又一方からは、足利末期の形式化された生活に対する革命的な精神の発露と見られる点もあ るのである。  細心であったことは人を用うる処にも現れている。信長の成功と義元の失敗とはその一半を 能材の挙否に帰してもよかろう。  近い例でこの桶狭間の役に梁田出羽守には、善き二言よく大利を得しめたと云って沓掛村三 千貫の地を与えたが、義元の首を獲た毛利薪助はその賞梁田に及ばなかった。賞与の末に於て さえ人の軽重を見るを誤らなかった。  とく し 『読吏余諭』の著者新井白石が、そのなかで信長成功の理由を色々挙げたうちに、                                      よくじよう 応仁の乱後の人戦闘を好みて民力日々に疲れ、国財日々乏しかりしに傭後守信秀沃饒の地  よ に拠つて富強の術を行ひ耕戦を事とし兵財共に豊なりしに、信長其業をつぎ、英雄の士を得                    けいし て百戦の功をたつ。其国四通の地にして、京師に近く且つ足利殿数十代の余光をかりて起ら れしかば威光天下に及ぶ。  ど云って居るが、当を得た評論であろう。 ************************************ 85 桶狭間合戦 86 ************************************ 田原坂合戦 ************************************ 西郷降盛が兵を率いて鹿児島を発したときの軍容は次の通りである。            くにもと ************************************  第一大隊長  第二大隊長  第三大隊長  第四大隊長  第五大隊長  第六大隊長     すぺ 大隊長は凡て ************************************ 、 ************************************ にも活躍した男である 隊には砲兵が加って居たカ       ほか あった。その外後に薩、 ************************************  篠原 国幹  村田 薪八  永山弥市郎  桐野 利秋  池上 四郎  別府 晋介 名にし負う猛将ぞろいである。殊に桐野利秋は中村半次郎と称して維新当時   。各大隊は兵数ほば二千名位ずつであるから総軍一万二千である。各大    、、、その有する処は、四斤砲二十八門、十二斤砲二門、臼砲三十門で    隅、日の三国で薪に徴集したもの、及、熊本、延岡、佐土原、竹田等 87 田原坂合戦 ************************************                                  かくかく の士族で来り投じたものが合せて一万人あった。この兵力に加うるに当時赫々たる西郷の威望 があるのだから、天下の耳目を驚かせたのは当然である。  薩軍が鹿児島を発した日から南国には珍らしい大雪となって、連日紛々として絶えず、肥後 との国境たる大口の山路に来る頃は、積雪腰に及ぶ程であった。しかし薩軍を悩したものは風 雪だけであって、十八日から二十日に至る間、無人の境を行く如くして肥後に入った。西郷東                  お び 上すどの声を聞いて、佐土原、延岡、猷肥、高鍋、福島の士族達は、各々数百名の党を為して 之に応じて、熊本に来て合した。熊本の城下に於てさえ、向背の議論が生ずる有様で、ついに 池辺吉十郎等千余人、薩單に馳せ参ずることになった。              た  私学校の変に次いで、西郷起つとの報が東京に達すると、政府皆色を失った。大久保利通   ゆううつ           ねむ は、悟蟹の余り、終夜睡る事が出来なかったと云う。そして自ら西下して、西郷に説こうとし たが、周囲の者に止められた。岩倉具視も心配の極、勝安房をして行って説諭させんとした。 これは江戸城明け渡しの因縁に依って、それを逆に行こうと云うわけであったが、勝が「全権 を余に委任する上は、西郷の意を容れなければいけない。それでよろしいか」と云うに及ん で、岩會は黙し、ついにその事も行われなかった。            うねぴ                        おんちやく  此年一月末明治天皇は畝傍御参拝の為軍艦に召されて神戸に御着、京都にあらせられた。              ぐ ぷ 陸軍中将山県有朋は、陛下に供奉して西下して居たが、西南の急変を知るや、直ちに奏して東 京大阪広島の各鎮台兵に出動を命じた。而して自ら戦略を決定したが、この山県の戦略が官軍 勝利の遠因を為したど云ってよい、山県は薩軍の戦略を想定して、 88 ************************************  一、汽船にて直ちに東京或は大阪に入るか                   ちゆうげん  二、長崎及熊本を襲い、九州を鎮圧し後中原に出るか                 うかが  三、鹿児島に割拠し、全国の動揺を窺った後、時機を見て中央に出るか                               いず  この三つより他に無いと見た。之に対して官軍の方略は、敵がその何れの策に出づるを顧み ず、海陸より鹿児島を攻むるにありとした。更に地方の騒乱を防ぐ為に、各鎮圧をして連絡厳 戒せしむる事にした。以上が山県の策戦であるが、山県の想定に対して、薩軍はその第二想定           よ の如く堂々の正攻法に拠ったのであった。       のば  薩軍、軍を登する前に隆盛の弟西郷小兵衛が策戦を論じた。日く「軍を三道に分って、一は 熊本を囲み、一は豊前豊後に出でて沿海を制し、一は軍艦に乗じて長崎を襲う」ど、云うの だ。処が桐野利秋が反対して、                ふう 「堂々たる行軍をしてこそ、天下風を望むであろう。奇兵なぞを用いなくとも、百姓兵共、何                               はやと 事かあらんしと云ったのでそのままになった。小兵衛出でて「薩摩隼人をして快く一死を遂げ しめるのは利秋である。また薩摩隼人をして一世を誤まらしむるものも利秋である」と嘆じた                 なんぴと と云うが、これは確に、後に至って何人も想い当った事に違いない。                   さねとみ  東京政府の狼狽は非常であった。三条実美、伊藤博文等は平和論を主張して居たし、朝廷に        たるひと ても、有栖川宮織仁親王を勅使として遺わされようと云う議さえあった。然るに熊本からの報 によれば、二十日か二十一日をもって蹄戦となろうとの事であるので、勅使の議はとり止めと            みことのり なり、十九日には、征討の詔を下され、織仁親王を征討総督に任ぜられた。山県参軍は二十五 89 田原坂合戦 ************************************                                 しようりゆうじ 日に博多に着き、征討総督も川村参軍を従わせられて翌日に御着、本営を勝立寺に置き給う た、官軍がこの地に本営を置いた事は、策戦の上でどれ程有利な結果を来したか知れないので              か ある。海陸運輸の便があり、嘗つて、北条氏、足利氏等の九州征略の際にも、博多はその根拠                 も 地となづた程である。薩單にして、若し早く此地を占めて居たならば、戦局は、多少異った方 面に発展したに相違ない。  此役に於ける官軍の編成は、旅団が単位であるが、一個旅団は二個連隊、四個大隊であり、 之に砲工兵各々一小隊が加って、総員三千余人だった。最初野津少将の第一旅団、三好少将の 第二旅団、総兵四千ばかりに、熊本鎮圧、歩兵第十四運隊の凡そ二千余が加って居た。勿論こ れで薩單に対抗は出来ないから、間もなく、    第三旅団 三浦少将    第四旅団曾我少将    別働第一旅団、同第二旅団、大山少将    別働第三旅団 山田少将                                         し  等の編成が行われ、諸軍合せて、歩兵は五十五大隊、砲兵六大隊、工兵一大隊、騎兵及機 ちよう                                                            およ 重兵若干、それにこの戦に特別の働があった警視庁巡査の九隊、総員凡そ五万人であ多。  兵器は、薩軍の多くが口装式の旧式銃であるのに対して、底装式、スナイドル銃と云うのを                         いかん 持って居た。兵力兵器に於て差があり、官賊の名分また如何ともしがたいのだから、薩軍の不                               ぎようめい  おのの 利は最初から明白であったが、しかし当時は西郷の威名ど薩摩隼人の騎名に戦いていたので 90 ************************************          きようきよう あるから、朝野の人心胸々たるものであったであろう。  熊本城に於ては、司令長官谷干城少将以下兵二千、人夫千七百、決死して城を守る事にな り、あらゆる準傭を怠らなかった。これから有名な熊本籠城が始まるのである。二月十九日、 大山県令から西郷の書を城中に致した、その文に日く、             かどこれあり               とうてい  拙者儀今般政府へ尋問の廉有之、明後十七日県下登程、陸軍少蒋桐野利秋、篠原国幹及び旧                           うけらるぺく     しようかいにおよぴ  兵隊の者随行致候間、其台下通行の節は、兵隊整列指揮を可被受、此段及照会候也。     明治十年二月十五日                 陸軍大将 西郷隆盛    熊本鎮台司令長官  陸單に於ける上官どして命令しようと云うのであるから、子供だましのようなものである。       すけのり                   しりぞ  城内の樺山資紀中佐は直ちに断然として斥けた。二十日には別府晋介の大隊が川尻に到着し        じゆんらへい て、其夜、鎮台の巡避兵四五十人と衝突した、これが両軍開戦の最初である。  二月十四日、乃木少佐は、小倉第十四連隊の一部隊を率いて、午前六時に折柄の風雪を冒し         ちゆうじき                      わらじ て出発した。黒崎で昼食したが、ここからは靴を草軽に代えて強行軍を続け、真暗になった 午後六時に熊本に達する事が出来た。この強行軍の一部隊の如きは、疲労の為に車馬を雇わざ るを得ない程であった。乃木は更に福岡の大隊を指揮する為に、熊本を去ったが、熊本から、                                  みなみのせき 直ちに入城すべしと云う急電を受けるや、すぐ引返した。二十二日午前六時南関を立って十 一壁筒瀬で昼食したが、此時、少佐は軍医と計って、酢を暖めて足を痛めて居るものを洗わし                      ここ               このは め、食後に酒を与えて意気を鼓舞した’午後一時弦を立って檀木に向ったが、木葉駅に至る頃一 91 田原坂合戦 ************************************ 賊軍既に植木に入って届ると云う報を受けたので、十数騎を前騒させ斥候せしむるに、敵は既 に大窪に退いたと云う。ここに於て、駅の西南に散兵を布いて形勢を窺う事にしたが、僅かに 一個中隊の兵力であった。                                  もや  。  日は既に暮れて、寒月が高く冴えて居る。白雪に埋った山野には、低く霜がかかって居て、 遠く犬の声が聞える。淋しさと寒さとの中に斥候の報告を待って居る散兵線はにわかに附近の 林中からの銃火を浴びた。乃木は我の寡兵を悟らせまいとして尽く地物に隠れさせ、発砲を禁                                        とつかん じ、銃剣をつけさせ、満を持した。午後七時薩軍は、ふり積む白雪の上を、黒々となって晒城                                  すこぷ して来た。乃木軍始めて発砲し応戦したが、薩軍の勢は次第に増し、乃木隊頗る苦戦である。 将校も負傷者の銃をとって射撃し、激戦午後九時にまで及んだが、薩軍は次第に官軍を包囲す る状態にまでなり、全滅の危機に臨んだので、退却を決意し、河原林少尉をして、軍旗を捲い              まも て負わせ、兵十余人を付けて衛らしめ、火を挙げるのを合図に、全軍囲を衝いて千本桜に退却            くぬぎ                          一 集合することを命じた。櫟木、山口の両軍曹に命じて火を挙げさせようとしたが、折あしく此 夜は、徴風も起たない穏かな夜なので、容易に火が挙らない。やっと火の付いたのが、九時四 十分頃であった。命令一下各自血路を開いて退却千本桜に集合出来たので、乃木少佐が隊列を 検閲すると、肝心の河原林少尉の姿が見えない。最後の激戦の時、刀を揮って挺身する姿を見 たから、或は敵手に陥ったのではないかとの事に、乃木少佐は驚いた。軍旗を失わば何の面目 があろう、我は引き返して軍旗を奪還するから、志ある者は我に従えとて、奮然として行こう とするのを、村松曹長、櫟木軍曹等が泣いて諌止した。これが、乃木将軍の西南役に於ける軍 92 ************************************ 旗を奪われた始末である。  二十三日にも第十四連隊は木葉附近に陣をとり、朝から優勢な薩軍と、銃火を交えた。中央 部隊の大隊長、吉松少佐は乃木に向って援兵を乞うた。応援させる兵は無いが、自分がその戦 線を代ろうかど乃木が云ったのに対して、吉松少佐は笑ってその必要の無いこどを答えたが、                                    たお 間もなく吉松の率いる兵の突撃する声が聞えた。吉松少佐はついに重傷を負って艶れた。                   しの  この応酬など戦国時代の古武士の風格が偲ばれる。日が暮れても薩軍の砲撃の少しも哀えな い為、乃木はまた退却を決心した。命を下そうとして居る際に、薩軍は大挙して押し寄せた。 目暮れである上に雨と硝姻の間敵味方もさだかでないままに相乱れて戦った。乃木の馬が疲れ                        あた たので、吉松の馬に乗り換えたが、忽ち弾丸が馬に中って、馬は狂奔して敵中に入ろうどし た。幸い、馬が中途で艶れたので、地上に投げ出された。そこを、薩兵つけ入ろうとしたの               すりざわ を、大橋伍長が身を以って防ぎ、摺沢少尉も返し合せて、身には数弾を受けながら乃木を救っ た。全隊辛うじて木葉川を渉って、川床で始めて隊伍を整える事が出来た。乃木は、さんざん の苦戦であったのである。  二十六日早朝、乃木はまた先陣として高瀬に向ったが、再三の敗北を残念に想い、兵を励ま                                         よ して奮闘した。薩軍は高地に拠って居るので味方は甚だ苦戦したが、ついに正面の断崖を撃                           たばるざか じ、安楽寺山を越え更に木葉に至った。その上に前軍は既に田原坂を占領したとの報がある。 勇躍した乃木は後軍の直に続かんことを伝えたが、意外にも三好少将の退却の命に接した。乃 木は此地一度失うならば、再び得難い旨を進言した。けれども許されない。止むなく退却した 93 田原坂合戦 ************************************ のであったが、もし、此の時田原坂を占領していたならば、田原坂の難戦は起らずに済んだか も如れない。                               きどめ  薩軍もまた、桐野は山鹿方面から、篠原は田原方面から、羽田は木留方面から、各々高瀬を                                せこま 攻略しようとした。二十七日には、この薩軍は第一旅団の兵が、高瀬川、迫間川の流域に要撃し               みぎひじ                 まさ て激戦を交えたが、三好少将も右膏は弾丸で傷き、官軍将に敗れんとした。野津少将の軍が来                             たお り援けた為、形勢は逆転して、高瀬川の南で、薩将西郷小兵衛を燈すに至った。  官軍二十七日の戦いに勝ったので、野津三好両少将は、斥候をして迫間川を渉って偵察せしめ たが敵影を見ない。いよいよ追撃を決して本軍(近衛一大隊、第十四連隊の一大隊、山砲日砲 各二門)は木葉を通って植木へ、別軍(近衛三中隊鎮台兵三中隊、山砲二、臼砲一)は高瀬か     きちじごえ ら伊倉、吉次越を越して熊本を目指すこととなった。官軍の追撃急であり、若しこの一戦に破 れれば、熊本包囲の事も水泡に帰するので薩軍は余軍のうち二千余をもって衝背單に当り、八 百余をして熊本城を攻め、其余の兵力は悉くこの守線に動員した。田原坂は特に私学校の精鋭 をして守らしめた。薩樗また各自に守る処を決し、桐野は山鹿方面を、篠原は田原方面を、村 田及熊本隊は木留方面に陣した。野出、太田尾、三ノ嶽、耳取の天険は蓬かに田原、山鹿に連                              おわ 絡して、長蛇の横わる如き堅陣は、容易に破り難く見えた。戦傭を了った官軍は、月が変って 三月三日、行動を起した。。野津少将は高瀬の第一、第二両旅団をして予定の行軍を起さしめ た。本軍が安楽寺村に達すると、稲佐村附近の丘陵に拠った薩軍は猛烈に砲撃した、薩軍は しましま 園例間道から奇兵を出して襲撃したので、官軍は損傷を受けることが多かったが、官軍もさる 94 ************************************ もの、間道の迂回線に多くの兵を割いて四方から攻撃したので、この塁も陥り、ついに木葉を       さかいぎ 占領し、更に境木を攻略するに至った。この様な山間の戦闘では、間道から敵の側面背面を、 急襲するのが有利である。別軍も伊倉を経て吉次越にさしかかみと、待ち構えた薩軍は、峠の 麓の立岩に在って砲火を開いた。官軍勇を奮って躍進するが、なかなか頑強であって、之を抜 く事が出来なかった。その筈である、丁度此処には、薩の勇将、篠原、村田が、頑張って居た のだから。  この日、両将は木留の本営に居たのであったが、急を聞いて部下三四百を率い、馳せ来っ          へこ て、吉次越の絶頂の凹んだ処に木と草とで忽ち速成のバンガローを造って、悠々と尻を落ちつ けて、指揮したと云う。最初、篠原が乗り込んで来た時は、官軍の追及急なので、薩兵少しく 浮足になって届るのを、篠原大刀を揮って之を叱した◎次いで単身、ゆるやかな足取りで来た                        なお のが村田である。薩軍やや元気を恢復したものの、猶危倶の念が去らないので、村田の姿を見 るど、「退却で御座いますか」と間うた者がある。村田潮笑って日く、「ひとつ官軍の奴共を、             みなごろし この狭隆の地に引入れて、襲にして見せるかな」ど◎容易に抜く事が出来なかっ。たのも尤で                こてん ある。別府晋介また、別路から、小天街道に赴いて海岸線を守ったが、此日、朝の十時から昼 の三時に至る間激戦少しも止まず、官薩の死傷相匹敵したと云う。  それにしても、官軍は境木まで前進するこどを得て居る。田原坂はもう、この境木の目の前 に在る。田原坂の血戦の幕が、切って落されたのは間も無くである。  当蒔東京日日の新聞社長であった福地源一郎氏が、従軍記者どして、田原坂戦闘の模様を通 95 田原坂合戦 ************************************ 信して居るのがある。その中に田原坂の要害を報じて、 「……坂は急上りの長坂にて、半腹の屈曲をなし、坂の両側は皆谷にて谷の内の両側は切り ー崖、樹木茂る。この険の突角の所を撰びて、賊は砲塁を二重にも三重にも構へ、土俵が間に合 はぬとて、百姓共が囲み置く粟麦などを俵のま㌧用ひたる程なり」  大体その険要の地であることが察せられるであろうと思う。                            やまが  三月四日に、第一回の田原坂攻撃が始まる。前夜、先ず、山鹿南関の間の要衝に兵を派して                         おもんぱか 厳戒せしめた。これは薩軍が迂回して背後を衝くのを慮ったからである。而して後、第二旅 団の全部と、第一旅団の一部を本軍どして、正面から攻撃することになり、第一旅団の残部は ふたまた 二俣を目指すことになった。本軍の先鋒青木大尉は、率先して進み、第一塁を陥れて勇躍更に 坂を上るが、薩軍の弾丸は雨の様に降りそそぎ、午後の三時になっても占領する事が出来ない ので退却した。坂の麓で督戦して居た野津少将は、再度の突撃を決意して、将士と共に決死の   く 酒を酌んで鼓舞した。折しも、時ならぬ雷雨が襲って、蟹然たる山峡は益々暗い。天の時なり           らつぱ                                           しげ        いたず と考えた少将は、進軍粥臥を吹かしめ、突進させた。しかし敵弾雨よりも繁しくて、徒らに多 くの死傷を出すに終づた。此時の戦に、谷村計介も戦死したのである。計介は始め、第十三連 隊長心得、川村操六少佐の旗下で、熊本籠城の一人であった。殊死して守城するに決心した谷 少将は、何とかして守城の方略を官軍の本営に伝えたいと思った。そこで川村少佐に相談した         ひととなり 処、少佐は計介の為人を知って居たから、この重大任務遂行の便者として、之を少将に推薦 した。計介は任務重大であって、その任でないと固辞したが、一度引受けるや、死をもって遂 96 ************************************                 すす げる事を誓った。顔から手足まで、煤を塗って人相を変え、夜陰に乗じて城を抜け出し、南関 へ行こうとして、忽ちにして捕えられた。しかし必死の計介は、監視の薩兵が居眠りして居る 隙に、爪で縄を断ち切って逃れた。この辺一帯、薩軍の眼が光って居るので、風の声にも心許                                       はいかい さず、やっと吉次山中まで潜り込んだ処を、再び捕えられた。異様の風体で、山中を俳個して                             ごうもん 居たものだから、てっきり官軍の間諜と目星を指されて、追究拷間至らざるは無しである。計           いつわ 介苦痛を忍びながら、伴って臆病な百姓の風を装ったので、幸い間諜の疑いは晴らされたが、 その代り人夫として酷使される事になった◎西南の役始終を通じて、官薩両軍ともに、戦闘員 の外に、非常に多くの人夫を使役した。ただでは計介も許されなかったわけである。しかし此            かす 処でも、うまく敵の目を掠めて、漸く官軍の戦線に到逢すると、今度は官軍の歩哨に縛られて 仕舞った。勇んで縛られて、野津少将の前に引出される時は、ものも云い得ずして、汚れた頬 に涙が伝るのを如何ともし難かったと云う。                          また  官軍の第一次の正攻が敗れた如く、二俣に向った軍も亦敗れた。本軍の奮戦と共に、吉次越 攻撃の別軍二個大隊半は、野津大佐(道貫と云う、野津鎮雄少将の弟)に率いられて、立岩の 塁を攻めた。薩軍は、砲を山頂に設け、銃隊を山腹の深林中に隠して、射撃する。絶頂で篠原 と共に指揮して居た薩将村田は、「両翼を張って挾み撃ちしてやろう」と云って軍を二分し、 一は半高山の絶頂から、一は三ノ嶽の中腹から、左右の翼を張らしめた。官軍は見事に術中に                                      えんごぷっ 陥入って算を乱して艶れる。時機はよしと、午後一時頃薩軍は突出して殺到した。掩護物の作 業をして居た官軍の工兵は、その不意に驚いた為、周章は全單に及んだので、ついに退却の止 97 田原坂合戦 ************************************ むなきに至った。原倉、伊倉に一大隊を置き、あとは悉く高瀬まで退いたのが午後六時であ る。此日猛烈な戦闘で昼食をとる暇がなかった。指揮官野津大佐は、敵弾を、一つは革帯に、 二つは軍刀に受けた程である。薩軍の勝ではあったが、篠原が此戦に死んだ事は、薩軍の士気                                      お に関するもので大打撃であった、此日、篠原国幹は、外套の上に銀かざりの太刀を楓び、自ら 刀を揮って指揮したのだが、官軍の江田少佐がその顔を知って居って、狙撃させて艶したので あった。その江田少佐自身も数弾を浴びて戦死して居る。  越えて六日には、早朝から、田原坂、二俣を攻撃したが、一進一退、容易にこれを抜く事が 出来ない。高瀬に在る野津大佐は、四十数名の選抜隊をして夜六時、二俣口の船底山の塁を、 間道から襲撃させた。これは成功して隊長本多中尉は、敵塁に火を放って占領を報じて、更に 背後の塁を衝かんとしたが、薩軍の抜刀して襲来すること三回に及んで、果すことが出来なか った。薩軍では抜刀隊を組織して居る事がわかったので、官軍も之に応じて、別働狙撃隊を新 に編成した。  七日、官軍の援兵大いに来って、歩兵は三十二個中隊に及んだので、薪手をもって次ぎ次ぎ                                      ぎんごう 攻めたてた。しかし一塁を抜いたど思うとすぐ奪還される始來なので、こちらにも、塑壕、胸 壁が必要であるどて、工兵が弾雨の間を作業した。薩軍の塁に近いのは僅かに二十六米、遠い のでも百米を下らない距離で、作業の困難は一通りでない。射撃の手を少し休めるど、忽ち抜 刀の一隊が押し寄せた。此夜、折角得た船底の塁もまた奪い去られた。終日の発砲で、銃身が 皆熱したので、中には小便をかけて冷したりして用いたが、それでも破裂するものがあった。 98 ************************************  八日から十一日まで、戦闘は相変らず激しいが、戦況は依然たるままであった。何時まで も、このままでは熊本城は危い。官軍は連日の戦闘で、部署が錯雑して陣形が乱れて居るの で、改めて陣容を建なおした。三浦少将の第三旅団は山鹿口を、大山巖少将の第二旅団と別働 隊、野津少将の第一旅団は田原口を夫々攻撃することになり、参軍山県中将も本営を高瀬に進 めた。十四日の午前六時、号砲三発山に木魂すると共に、官軍の先鋒は二俣口望んで、城声を 挙げる。歩兵に左右を衛られた中央部隊は、暁暗に白く大刀をひらめかして居る。これが、警 視庁から派遺されて居た巡査をもって編成した抜刀隊で、この抜刀隊の肉弾戦が、田原坂攻略                          あわて に大きな役割を果したのであった。不意の明城に薩軍の周章るのを、白刃と銃剣で迫り、一百 の抜刀隊は諸隊を越えて敵塁に曜り入り、忽ちにして三塁を陥し入れた。薩軍は支えずして、 逃れたが、しかし彼我百五十米位で止り、樹木や岩石に拠って猛射するので、官軍の艶れるも のが二百余に及んだ。塁や璽壕に躍り入る際に、木材を鋭く削って居るのに落ちて傷つく者も 多かった。が、敵塁を占領したのもしばらくで、忽ち薩の抜刀隊五十名余りが、わめき叫んで 逆襲して来た為に、官軍敗れ退いて、かの三塁も奪還された。  官軍の抜刀隊又之に屈せず逆襲したので、夜明けの山中に、頻々として白兵戦が展開され た。官軍の抜刀隊奮戦して、薩兵数十人を斬って走らせたので、再び塁を占領出来た。  薩軍は猶も之を取りもどそうど、大挙して押し寄せた。                        きた  官軍の抜刀隊は死霞を楯にして敵弾を防ぎ、歩兵の来るを待ったが、忽ちに三十余名が艶さ れたので、恨を呑んで引上げた。三度まで占領したが、最後にまた薩軍の手に帰したわけであ 99 田原坂合戦 ************************************ る。官單にとって結局は失敗であったにしろ、今日まで十数日の間、兵火を浴せて猶陥ちなか ったここを、この日の一撃でとにかく一度は占領する事の出来たのは、大成功であった。           よこひら  二俣の東南寄りに、横平山という高地がある。この高地は三ノ嶽の脈に当って吉次、半高の 諸山に連り、その支脈は更に田原坂、白木に及んで居る。  十五日α早朝、両旅団の砲兵は、二俣、田原に近く進んで、砲撃を開始した。  此日は深い霧で、砲煙は霧に溶け込んで、砲声のみが、無気味に響いて居る。官軍が砲撃し                            ばか て居る頃、黙々として、横平山の間道を撃じりつつある三百許りの人数があった。横平山頂の。 官軍の守塁に近付いた午前四時、不意に抜刀して斬り込んだ。追い落された官軍は、中腹を防 ぐけれども、高い処から狙い射ちに撃たれるのだからかなわない。若し、ここを奪われるな ら、二俣口の守線も打撃を受け、田原坂攻撃の策戦に、重大な影響を与えるので、応援の兵と 共に、必死に戦った。  薩軍は山腹に下って、林に隠れて射撃をする。官軍は銃に装剣して抜刀隊と共に進み、午後 二時になって、やっど山腹の二塁を奪還した。  然し、絶頂の一塁は猶敵手にある上に、薩軍は兵力を増加した様子である。薩軍の兵火少し           、                     まらま                     }      レ く衰うと見ると進み、激しいど見るど伏す。葡飼って進むのであるが、木や草が稀なので地物 どして利用するものが無い。胸壁を築きたくも、砂が無いので、近衛の工兵が、山麓から、土 砂を裸って袋に入れ弾雨の中を背負って運送し、自壁を急造した。                            メリヤス  此時は、両軍の距離が十米で、陸軍の旧制服や、海兵服や稟大小の股引等の服装をした薩兵 100 ************************************ が、手にとる如く見えた。  午後になって抜刀隊の巡査五十名を間道から進ませ、歩兵また、装剣して待機し、刺帆を合 図に、全軍一斉に挺進して数十人を斬り、砲茎全部を恢復し得た。  午後四時であるから丁度十二時間の戦闘である。抜刀隊中、死する者十二人、傷者三十六人 と云うから、ほとんど全滅したわけである。  三月二十日、官軍いよいよ最後の総攻撃を決したが、連日の激戦にも拘らず、おしまいは案 外容易に占領する事が出来た。天険田原坂も此日をもって完全に陥ったのである。  この日、昨夜からの豪雨が、暁になっても止まない。朝の五時には食事を終った官軍は、二 俣口から渓谷を渉り、田原坂の横に潜行して、各自部署に就いた。待つ事少時、三発の号砲を 聞くや、躍進して迫り、右翼第一線の塁を抜いた。二俣口から放つ砲弾も、盛んに後塁に落下 して届る。               は           まば                しかばね 。夜は既に明け放れて山霧全く舜れ、雨足も亦疎らになった。官軍は死屍を踏んで田原坂に進 み、更に一隊は、敵塁の背後に出でようとした。薩の哨兵が、本茎に之を報ずると、防守の望 み、既になしと覚ったか、塁を棄てて退却した。  始め、官軍は、一部隊をして、田原坂正面にもにしめて正攻に出づるが如くに見せて、薩軍 を欺いたのが成功したのである。既に本塁を我手に入れたのだが、田原口の部隊は、まだ之を 知らずに、盛んに坂上を射撃する。粥爪で報じてもわからない。一少尉が茎上に上り、旗を振 って叫んだので、漸く知ったと云う、  丁度十時頃になって居たが、全軍直ちに追撃して、檀木の営を衝いた。           たの  薩軍は、田原の険を侍んで、檀木の営の警傭を怠って居たので、鞘重を収める暇もない。町 に入り込んだ官軍は、民家に放火した。          さきさか  薩軍は総退却して向坂に入って、尾撃して来た官軍と対時した。                       と す  山鹿方面の薩軍は、田原敗るど聞いて、即日、鳥栖地方に退き、官軍の本営は、七本に移り 進んだ。向坂対陣中、薩将、貴島清、中島健彦等が熊本隊を率いて官軍を急撃した事もある が、大勢は既に決したのである。 ************************************ 101 ************************************ 田原坂合戦 ************************************    ひやくせん こう なし はんさいのかん     百戦無レ効半歳間     しゆきゆうさいわいにかざんにかえるをえたり     首耶幸得レ返ゴ家山一    わらつてわれしにむかう せんかくのごとし     笑儂向レ死如二仙客一     じん じつ どうちゆう き きようかんたり     尽日洞中棋響閑  岩崎谷の洞壁に書き終って、筆を投じた隆盛が腹を切るまで、人吉、豊後口、宮崎、延岡、 可愛嶽と激烈な転戦はあったが、田原坂の激戦は、西南戦争の最初にして、しかも最後の勝敗 を決したものと云ってよいのである。        いわゆる  この戦に於て所謂百姓兵の為すある事があり、徴兵制度の根本が確立したのである。  自分は、昭和五年に鹿児島へ行ったが、西郷隆盛以下薩軍の諸将の墓地が、壮大であるのに                                  こうりよう 引きかえ、西南戦争当時の官軍の戦死者を埋葬した官軍墓地ど云うのが、荒蓼どしていたの 102 ************************************ た¢よ  o    、 ************************************ 西 南 戦 争 当 時 の 薩 摩 の 人 心 の 情 勢 カミ 今 も な お レま ************************************ の ************************************ カ、 レこ 残 ************************************ つ ************************************ て ㌧、 る 気 カミ し て  、 ************************************ 興 昧 を 感 じ 長篠合戦 ************************************ 103 ************************************ 長篠合戦 ************************************              みかた  元亀三年十二月二十二日、三方ヶ原の戦に於て、信玄は浜松の徳川家康を大敗させ、殆ど家 康を獲んとした。夏目次郎左衛門等の忠死なくんば、家康危かった。  信玄が、三方ヶ原へ兵を出したのは、一家康を攻めんとするのではなく、三河より尾張に入 り岐阜を攻めて信長を退治し、京都に入らんとする大志があったからだ。                   おさかべ  だから、三方ヶ原の大勝後その附近の刑部にて新年を迎え、正月十一日刑部を発して、三河 に入り野田城を囲んだ。が、城陥るど共に、病を獲て、兵を収めて、信州に入り、病を養ったが          まさかげ 遂に立たず老将山県昌景を呼んで、「明日旗を瀬田に立てよ」ど云いながら瞑目した。     しぱら  信玄死後暫く喪を秘したが、いくら戦国時代でも、長く秘密が保たれるものではない。                                 かん  信玄に威服していた連中は、後嗣の勝頼頼むに足らずとして、家康に欺を通ずるものが多            つくりて い、その最たるものは、作手城主奥平貞昌父子だった。  奥平家は、その地方の豪族だが、初め今川に属し、後徳川に附き、更に信玄に服し、今度勝 4 0 1 ************************************   そむ 頼に背いて、徳川に帰順したわけである。大国と大国どの間に挾まる小大名、豪族などは一家         あち。ら の保身術として、彼方につき此方に付く外なかった。うまく、漉泳してよい主人についた方 が、家を全うして子孫の繁栄を得たわけである。  勝頼は、自分の分国の諸将が動揺するのを見、憤激して、天正二年正月美濃に入って明智城 を攻略し、同じく五年には遠江に来って、高天神城を開城せしめた。家康は、わずか十里の浜                  わたし 松にありながら後詰せず、信長は今切の渡まで来たが、落城と聞いて引き返した。  勝頼の意気軒昴たるものがあったであろう。徳川織田何するものぞと思わせたに違いない。       ながしの それが、翌年長篠に於て、無謀の戦いをする自負心となったのであろう。  翌天正三年二月、家康は新附の奥平貞昌をして、長篠城の城主たらしめた。                                   しばしぱ  長篠城は、甲信から参遠へ働きかける関門である。武田徳川二氏に依って、屡々争奪された  ゆえん る所以である。城は、豊川の上流なる大野川滝川の合流点に枕している。両川とも崖壁急で、 畳壁の代りを成している。東は大野川が城濠の代りをなし、西南は滝川が代りを成している。  天正三年五月勝頼一万五千の大軍を以て、長篠を囲んだ。城兵わずかに五百、殊死して防い だ。    すね  え  もんかつあき                                              まみ  鳥井強右衛門勝商が、家康の援軍を求めるため、単身城を脱し、家康に見えて援兵を乞い、                        とら            あざむ 直ちに引き返して、再び城に入らんとし、武田方に囚われ、勝頼を詐いて城壁に近より、「信                   はちまん 長は岡崎まで御出馬あるぞ、城之介殿は八幡まで、家康信長は野田へ移らせ給いてあり、城堅            うち                              はりっけ 固に持ちたまえ、三日の裡運を開かせ給うべし」と叫んで、礫にせられたのは、有名な話で 105 ************************************ 長篠合戦 ************************************ あるから略する。                           しだら  五月十八日、信長家康両旗の援軍三万八千、長篠の西方設楽の高原に、山野に充ちて到来し た。                     いえど  しかし、此の時の武田の軍容は、信玄死後ど難も、落ちていたのではない。信玄が死んでい る事さえ半信半疑で、戦前稲葉一徹が家康に向い、万一信玄が生きていて、不意に打って出た ら、どうするかと云い出して、信長に叱られた位である、  とにかく、武田の武名は、迷信的に恐がられていたのである。信長の出発に際して之を危ん  き か だ旗下の諸将多く、家康も必勝を期せず、子信康を岡崎に還らしめんとした位である。  織田徳川の軍勢、設楽の高原に着くや、信長(此時四十二歳)自らは柴田勝家を従えて、設 楽村極楽寺山に本陣を据えた。嫡男信忠(年十九)は河尻秀隆を従えて、矢部村勅養寺附近の                             し 天神山に、次男北畠信雄は稲葉一徹属して御堂山に、夫々陣を布いた。更に川上村茶臼山に      う えもんのじよう は、佐久間右衛門尉信盛、池田庄三郎信輝、滝川左近将監一益、丹羽長秀なんぞの勇将が控                   うじさと        ながよし え、以上四陣地の東方には、蒲生忠三郎氏郷、森庄蔵長可、木下藤吉郎秀吉、明智十兵衛光秀 等が陣した。都合総勢三万である。浅井朝倉を退治した信長は、此一戦大事と見てオールスタ ー・キャストで来ているのである。  家康(年三十四)は竹広村弾正山に、三郎信康(年十七)は草部村松尾大明神鎮座の山に布                       ただよ 陣した。これが本営であって、左翼の先陣は大久保思世兄弟、本多忠勝、榊原康政承り、右翼                                     まさちか の單には石川数正、酒井恵次、松平忠次、菅沼定利、大須賀康高、本多忠次、酒井正親等あり、 雌 ************************************           かね 総勢八千である、信長予てから武田の戦法を察し、対抗の戦略を立てた。元来信玄の兵法は、 密集の突撃部隊を用いて無二無三に突進し、・敵陣乱るど見るや、騎馬の軍隊が馳せ入ると云う 手段であって、常にこの戦法の下に勝を収めて来たのである。信長は、この武田勢との正面衝 突を避けた上に、薪鋭の武器鉄砲を以て狙撃しようどした。これ信長の新戦術である。北は丸                                   からぼり 山、大宮辺から南は豊川の流れ近い竹広あたりまで二十余町の間、二婁二重に乾堀を掘り土手                        めぐ を築き、且つ三四十間置きに出口のある木柵を張り廻らしめた。この土手と柵とに拠って武田      はば 勢の進出を阻み、鉄砲で打ちひしごうと云うのであるが、岐阜出陣の時、既に此の事あるを予 期して、兵士に各々柵抜を持たしめたと云う。鉄砲は当時五千余を持ち釆ったと云うが、この 新鋭の武器に対して、信長がかかる関心を持っていたのに対して、勝頼は父信玄の旧法を維持 する事をのみ知って、余り注意を払って居なかった事は、鉄砲入手の便が、信長勝頼の両地に 於て著しい相遠があったどは云え、武田家の重大な手落であった。弓矢とっての旧戦法が、新 しい銃器の前には、如何に無力であるかを、長篠の役は示して届るのである。                       いくさ  織田徳川の戦陣が整うのを見て、十九日、勝頼も軍評定をした。自ら日く、「総軍をして滝 川を渡り清井田原に本陣を移し、浅木、宮脇、柳田、竹広の線に於て決戦せん」と。信玄以来                          まさかげ の檀将、馬場美濃守信房、内藤修理昌豊、山県三郎兵衛昌景等は、これを不可であるとした。      ち頃うげん      とな 彼等は、既に中原に覇を称えて居た信長と、海道第一の家康の連合軍が、敗れ難い陣容と準 備とをもって来ったのを見抜いて居た。             も  内藤等は退軍をすすめ、若し敵軍跡を追わば、信州の内に引入れて後戦うがよいとした。勝 107 ************************************ 長篠合戦 ************************************ 頼は聴かない。そこで馬場等は、では長篠城を攻め抜いた後に退けば、武田の名にも傷つくま い。今城に鉄砲五百あるとして、味方の攻撃の際、最初五百の手負が生ずるであろう。二度目 の時はそれ以下ですむ。かくして千を出でない犠牲で、武田の家名を傷つけないで退く事が出                          おおいのすけかつすけ 来るが、あまりに武田の武力を自負している勝頼は跡部大炊助勝資の言を聴いて許さない。非 戦論者達は、では長篠城を抜いて勝頼を入れ、一門の武将は後陣となり、我等三名は川を越え て対陣し“持久の策を採らば、我軍の兵糧に心配ないのに対して、敵軍は事を欠いて自ら退陣 するであろう、と云った。跡部等は、何で信長ほどの者が引返そうや、先方から攻め来る時は 如何、と反対するので、馬場等はその時は止むを得ない、一戦するまでである、と答えた。跡 部等は潮けって、その期に及んで戦うも、今戦うも同じである、とやり返した。勝頼、今は戦           たてなし うまでである、御旗、無楯に誓って戦法を変えじ、と云ったので、軍議は決定して仕舞った。                         よろい 旗どは義光以来相伝の白旗、無楯とは同じく源家重代の鎧八領のうちの一つ、共に武田家の重                             おきて 宝であって、一度、これに誓う時は、何事も変ずる事が出来ない淀であったのである。かくて             かんげん 僑玄以来の智勇の武将等の諌言も、ついに用いられず、勝頼の自負と、跡部等の不明は、戦略 を誤り、兵数兵器の相違の上に、更に戦略を誤ったのである、勝頼は決して暗愚の将では無か ったのだが、その機略威名が父信玄に遠く及ばない上に、良将を率い用いる力と眼識が無く、 かく老将を抑えて自分を出そうとする我執がある。旗下の諸将との間が、うまく行かなかった                                      ようかん 事は彼の為に惜しむべきであった。跡部等が強硬に一戦を主張した裏には、信長の用間に陥 り、佐久間信盛が戦い半ばにして裏切ることを盲信して届たからだとも伝えるが、この事は単 8 0 1 ************************************ なる伝謙であろう。また跡部ど共に勝頼の寵を専らにした長坂釣閑が、馬場、内藤等と争って 事を誤たしむるに至ったども呑つが、長坂は此の時他の方面に出動していたから、後世史家の 悪口である。長坂、跡部共に、新主勝頼の寵を誇って専断多かった事は事実らしいが、必ずし も武田家を想わざる小人輩どは為し難い。長坂は、勝頼と天目山に最期を共にして居るのであ る。跡部もとにかく天目山迄は同行しているのである。その時に残った侍衆は四五十人だった と云うから、跡部も相当忠義な家来であると云ってよい。ただ彼等の智略が、馬場、内藤、山 県等に及ばなかった事、既に前年、争論の結果、相反目して居た。この戦の前年即ち天正二年       し晦く                                           。    はやとのすけ の末、山県の宿で馬場、内藤及び高坂昌隆の四人が小山田佐兵衛信茂、原隼人佐を加えて、明                    かねがね 年度の軍事を評議した事があった。其処へ兼々勝頼の側姦の士と白眼視された長坂、跡部の両                                 しゆつ 人がやって来た。短気な内藤は、「此席は機密な軍議の場である。信玄公卒するの時、武田家 の軍機は我等四人内密に行うべきを遺言された。この大事の席に何事だ」と怒鳴ると、長坂は 「勝頼一両年中に、織田徳川と決戦する覚悟である旨を受けて、軍議の処に来た」と答えた。            のぎつねめ         そその 内藤大いに怒って、「この野狐奴が、主君を唆かして、無謀の戦を催し、武田家を亡ぼそうと                           たた     ののし           いか 云うのか。柄にない軍事を論ずる暇があらば、三嶽の鐘でも鼓け」と罵った。長坂も怒り、刀                        さや に手をかけた処、内藤は、畜生を斬る刀は持たぬとて鞘ぐるみで打とうとしたのを、人々押止 めたと云う事がある。こんな遺恨から、今度の軍評定の席でも、両々相争ったわけだが、非戦                                      ちか 論者ついに敗れたので、馬場等は、大道寺山の泉を、馬柄杓で汲みかわし、決死を盟った。非        あきら 戦諭者はそれでも諦められずに、二十一日の決戦当日の朝、同じ非戦諭の山県昌景を代表とし 109 ************************************ 長篠合戦 ************************************ て、勝頼に説かせたが、勝頼は「いくつになっても命は借しいと見えるな」と皮肉を云って取 合わない。雷然として退いた昌景は、同志の面々が集まって居る席に来て「説法既に無用、皆                      かぷと 討死討死」と云い棄てて、縁側から馬に打乗り、甲の緒をしめるを遅しと戦場に馳せ向ったど 云う。  勇将猛士が非戦論である戦争が、うまく行くわけはない。みんな討死の覚悟を以て、無謀の 軍ど知りながら戦ったのである。                                         とび  勝頼戦いを決するや、長篠城監視を小山田昌行、盲同坂昌澄等二千の兵をもって為さしめ、鳶 ヶ巣の塁以下五つの砦には兵一千を置いた。そして次の如き布陣を行った。織田徳川勢に対し                            おもて て正々堂々の攻撃を為すつもりである。即ち、浅木附近大宮表へは馬場美濃守信房先鋒とし て、部将穴山陸奥守梅雪(勝頼の妹智)以下、真田源太左衛門信綱、土屋右衛門昌次、一条右   たいふのぶなり         しもすそ                                                    のぶ 衛門大夫信就等、中央、下裾附近柳田表へは、内藤修理昌豊を先鋒となし、部将武田進蓬軒信 かど 廉(信玄の弟)、原隼人佐、安中昌繁等。又竹広表へは、先鋒山県三郎兵衛昌景承り部将武田                うひようえ 左馬助信豊(信玄弟の予)、小山田右兵衛信茂、跡部大炊助勝資等。勝頼自らは、前衛望月右 近、後衛武田信友、同信光等と共に清井田原の西方に陣した。各部隊共兵三千、総軍一万五千                         いず である。各部隊の長は皆勝頼の一門であるが、揃って敦れも勝れた大将でもなく、この戦い敗 れた後は命全うして信州へ逃げ帰った。それに引代え、軍の先鋒は信玄の秘蔵の大将であり、                           すべ 其他の将士も皆音に聞えた猛士であるが、この戦に殆んど総て討死して仕舞った。智勇の良将 を失った勝頼は爪牙を無くした虎の如く再び立ち得なかったのも当然である。 合戦3-------- 0 1 1 ************************************  戦機いよいよ熟した二十日の夜である。織田の陣中に於て、最後の軍評定が開かれた。陣中                       えびすまい             えぴら       はや の座興にと、信長、家康の士酒井左衛門尉忠次に夷舞を所望し、諸将簸を敵いて雛した。充 分の自信があったのであろう。落付き払った軍議の席である。いよいよ評定に入るや、かの好 漢忠次真先に、鳶ヶ巣以下の諸茎を夜襲し、併せて武田勢の退路を断たんことを提議した。信                                 ひそ 長、迂愚の策を、上席に先んじて口に出したと、怒って退出したが、密かに忠次を呼び入れ                                         ひよう て、「汝の策略は最も妙、それ故に他に洩れるのを慮って偽り怒ったのだ」と云って秘蔵の瓢 たんいた     ぐつわ                                     とのものすけこれただ 竃板の忍び轡を与えた。忠次勇躍して、本多豊後守広孝、松平主殿助伊忠、奥平監物貞勝等と                                        かっちゆう 共に兵三千、菅沼新八郎を教導として進発した。松山越の観音堂の前で各々下馬して、甲胃 を荷って臓所をよじたが、宵閣ではあるし行悩んだ。忠次、そこで案内者を先に行かしめ、木                     ずっ の根に縄を結び付け、これにとり付いて一人宛登って行かせた。菅沼山に勢揃するに一人の落 伍者もなく着いた。っまりロック・クラィミングをやったわけである。甲冑を着けると、鳶ヶ                                        しげゆき 巣目がけて一勢に突撃した。本当は、旗本の士天野西次郎、一番槍であったが、戸田半平重之                     さらしくぴ と云う士、此戦い夜明に及ぶかと考え、銀の晒首の指物して來り込んだのが、折柄のおそい 月の光と、塁の焼ける火の光とで目覚しく見えた為に一番槍とされた。夜討の事だから誰も指 。物はなかったのであるが、半平だけ指物を持っていたので得をしたのである。塁の焼ける火が 長篠の城壁に光を投げたが、夜襲成功と見て、城将貞昌は、大手門を一文字に開いて之を迎え        さだよし た。奥平美作守貞能一番乗であったが、陣中に貞勝、貞能、貞昌、父子無事の対面は涙ながらであ ったと伝える。武田の本軍、鳶ヶ巣以下の落城を知りたが、敵軍を前にして今更騎虎の勢い、 111 ************************************ 長篠合戦 ************************************ 退軍は出来ない。天正三年五月二十一日の暁蒔(丁度五時頃)武田の全軍は行動を開始した。         いなな 初夏の朝風に軍馬は噺き、旗印ははためいて、戦機は充満した。此時、織田徳川方では丹羽勘 助邸漱等を監軍どし、前田又左衛門利家等が司令する三千の鉄砲組が、急造の柵に拠って、武 田勢の堅甲を射抜くべく待ち構えて居たのである。丸山、大宮を守る佐久間右衛門尉が五千騎 に向って、浅木辺より進軍する武田勢三千、その真先に、白覆輪の鞍置いた月毛の馬を躍ら     おどし              くわがた                                おい し、卯の花絨の鎧に錆色の星冑鍬形打ったのを着け、白旗の指物なびかせた老武者がある。武 田の騎将馬場美濃守信房である。手勢七百を二手に分けると見ると、さっど一手を率いて真一 文字に突入って、忽ち丸山を占領して仕舞った。そして新手を丸山の前に備えた。神速の行動 に、もろくも一の柵を破られたので、明智十兵衛光秀、不破河内守等が馳せ来って応援した が、既にこの時は、二の柵まで押入られた。しかし信房の兵も鉄砲の弾に中って忽ちにして二                                        ひようぷの 百余人となったが、信房少しも驚かず、二の柵を取払った。真田源太左衛門信綱、同弟兵部 梨“土屋右衛門尉等が、信房に退軍をすすめに来た時には、僅か八十人に討ちなされて居た。 信房は真田兄弟が防戦する間に退いた。明智の部下六七人が、真田兄弟の働き心にくしと見て                 しげい      うんの 迫るのを、兵部丞にっこり笑って、「滋井の末葉海野小太郎幸氏が後商真田一徳斎が二男兵部 丞昌綱討ち取って功名にせよ」と名來るや三騎を左右に斬って棄てた。自分も弾に中って死ん だのだが、兄源太左衛門も青江貞次三尺三寸の陣刀をふりかぶりふりかぶり、同じ所で討死し た。土屋右衛門尉も、池田紀伊守、蒲生恵三郎の傭えを横合から突崩した。側の一条右衛澗大             それがし                                          }さ 夫信就に向って云うには、「某は先月信玄公御法事の時殉死を遂げんとした処高坂昌澄に諌め 2 1 1 ************************************ られて本意なく今日まで存命した。今日この場所こそは命の棄て処であるLと。進んで三の柵 際ポで来て、自ら柵を引抜き出した。大音声で名乗りを挙げるが、織田勢その威に恐れて誰も                    かぶと 出合わない。雨の様な弾丸は、右衛門尉の胃に五つ当った。年三十一で討死である。  此手の大将馬場信房は、一旦退いたものの直ちに引返して、手勢わずか八十をもって三の柵、                                     もと 際に来り、前田利家、野々村三十郎等の鉄砲組の傭えを追散らして届た。勇将の下弱卒なしで ある。が、敵は近寄らずに、鉄砲で打ちすくめようどするのである。一条有衛門大夫来って退 軍をすすめた。もう此時分には、信房の右翼軍ばかりでなく、中央の内藤修理の軍も、左翼の 山県三郎兵衛の軍も、敵陣深く攻め入りながらも、いずれも鉄砲の威力の前、総崩れになろう                               しんがり として居たのである。一条の勧めに対して信房は、「勝頼公の退單に殿して討死仕ろう」と答    えんきよう    すざわ えた。猿橋辺から出沢にかけて防戦したが、勝頼落延びたりど見届けると、岡の上に馬を乗        っねもと り上げ、「六孫王経基の嫡孫摂津守頼光より四代の孫源三位頼政の後雷馬場美濃守信房」と名     ばん 乗った。塙九郎左衛門直政の士川井三十郎突伏せて首を挙げたが、信房は敢て争わなかった。                                    さら 年六十二。自らの諌言を取り上げなかった主勝頼の為に、ついに老骨を戦場に晒したわけであ る。十八の初陣から今まで身に一つの傷を負わないと云う珍しい勇将であるが、或時若き士達 に語って日く、                                  ひとり  一、敵方より味方勇しく見ゆる日は先を争い働くべし。味方臆せる日は独進んで決死の戦い   をすべし、  二、場数ある味方の士に親しみ手本とす。 113 ************************************ 長篠合戦 ************************************          うっむ  三、敵の脅の吹返し術き、指物動かずば剛敵、吹返し仰むき、指物動くは、弱敵なり。  四、槍の穂先上りたるは弱敵、下りたるは剛。  五、敵勢盛んなる時は支え、衰うを見て一拍子に突掛るべし。  と教えたど云う。  中央の内藤修理の軍の働きも華々しいものであったが、結局は馬場信房の軍ど同じ運命に陥 らざるを得なかった。滝川左近将監四千余をもって佐久間の右手柳田に備えて居るのを、修理 千五百を率いて押し寄せ、忽ちに一の柵を踏み破った。佐久間、滝川両軍の浮足を見て居た家                         わがまま 康は、。使をやって柵内に入り防禦すべく命じた。剛情我儘の佐久間は怒って、「戦わずして崩           みくずれ れるのを、武田家では見崩と称して大いに笑うものだ」と力み返った。家康これはいかんど云                                 いまし うので、自ら馬を飛して信長に事の次第を語った。信長直ちに使をやって誠めようとしたが時 既に遅く、両軍敗退の最中であった。修理は原隼人佐、安中左近、武田進遥軒と共に、一の柵 を馬蹄に蹴散らしたが、信長勢は二の柵に入り込んで、鉄砲ばかりを撃って居る。修理大音あ げて、「上方勢は鉄砲なくしては合戦が出来ないのか、柵を離れて武田の槍先受ける勇気がな         よばわ いのか、汚いぞ」ど呼った。汚いとあっては、武士の不面目とばかり、滝川一益、羽柴秀吉、                           あぜ 柵外に出たのはよかったが、苦もなく打破られて仕舞った。畔を渡り泥田を渉って三の柵に逃 げ込んだ。一益の金の三団子をつけた馬印を、危く奪われるど云う騒ぎである。しかし修理、 隼人佐、左近等も下馬して奮戦して居るうちに弾丸の為に倒れた。修理の首は、徳川の士朝日 奈弥太郎が、采配と共に奪いとった。信長の策戦功を奏して、馬場、内藤の部隊が悉く将棋倒 4 一1 1 ************************************                             かな しに会って居るのを見た。だが、いかなる勇蒋猛士も鉄砲には敵わないのだ、「鉄砲など卑怯 だぞ!」と理窟を云って見ても、相手が鉄砲を止めないのだから仕方がない。武田軍の左翼山 県三郎兵衛昌景は千五百騎を率いて、一旦豊川を渡り、概をしてない南方から攻め入ろうとし たが、水深く岸も験しいので、渡ることが出来ない。徳川の士、大久保七郎右衛門、同弟次右 衛門、六千の兵をもって、竹広の柵の前一町計りの処に陣取って届るのを幸どして、昌景一気 に徳川勢の真中に突入ったので、敵味方の陣が反対になった。物凄い中央突破である。昌景即 ち人数を二手に分け、大久保勢の柵内に逃げ帰るを防いだ。山県の士広瀬郷左衛門、白の幌張                                         つり の指物をさし、小菅五郎兵衛赤のを指して、揚羽の蝶の指物した大久保七郎右衛門、金の釣 かがみ 鏡の指物の弟次右衛門と竹広表の柵の内外を馳せ合せて相戦う様は、華々しい光景であった。                         、      こ、つむ                                            カ 小菅は痛手を蒙って退いたが、広瀬は猶敵勢のなかを馳け廻って、武者七騎を突伏せ、十三騎 に手を負わしたと云うから大したものである。山県勢、大久保勢と押しつ押されつの激戦をく り返して居るうちに、弾丸で死するもの、六百に及んだ。昌景屈せず、柵を破れと下知して戦        また              きず ったが、忽ちに復二百余りは倒れ、疵つくものも三百を越えた。しかし手負の者も、三ケ所以                    ふきかえし                 つるばしり 上負わなければ退かせない。昌景自身冑の吹返は打砕かれ、胸板、弦走の辺を初めとして総  たまきず て弾疵十七ケ所に達したと伝えるから、その奮戦の程が察せられる。昌景の士志村又有衛門、 昌景の馬の口を押えて、退軍して士気を新にすることを奨めた。そこで馬を返そうとすると、                 まえだて 既に敵の重囲の中であるから、宋の前立を見て、音に聞えた山県ぞ、打洩すなと許り押し寄せ て来る、広瀬郷左衛門、志村又右衛門等これを押え戦う暇に、昌景退こうとして、ふと柵に眼 115 ************************************ 長篠合戦 ************************************                                   くい を放つど、この乱軍の中に悠々と破られた柵を修理して居る男がある。「柵の杭はかく打つも                   なが                                 かやつ の、結び様はこの様にするものしと云い乍ら立ち働いて居るのを見て、昌景、「彼奴は尋常の 士ではない、打ち取れ」と馬上に突っ立つ処に、弾丸、鞍の前輪から後に射通した。采配を口  くわ                                                          はし に街え、両手で鞍の輸を押えて居たが、堪らず下に落ちた。徳川の兵馳り寄って首を奪い、柵 内に逃げもどろうどするのを志村遺かけ突伏せてとり返す事を得た。昌景初め飯富源四郎と称 したが、信玄その武功を賞して、武田家に由緒ある山県の名を与えたのであった。常々武将の                  おご 心得を語るのに、「二度三度の首尾に心騎る様ではならない。刀ですら錆びる。まして油断の 心は大敵である。心矯ることなく、家臣の思言を容れるのが第一である」として居たが、彼の 座右の銘が勝頼に解し得なかったのは是非もない次第であった。昌景が討死の前、眼をつけた 武士は、羽柴秀吉であったと伝えられる。武田左馬助、小山田兵衛尉、跡部大炊助等も別の一 手をもって、弾正台の家康を目指すけれど大勢は既に決した。望月甚八郎、山県討死の処に乗 入れて敗残の兵を引上げしめようとしたが、弾丸一度に九つも中り、脚と内冑を撃たれて果て た。ここに至って甲斐の武将勇卒概ね弾丸の犠牲となり終って、武田勢総敗軍の終局となる。 敵浮足立ったりと見るど、織田徳川の両軍は柵外に出でて追撃戦に移った。信長の使が徳川の                                     のぷなり 陣に来って、先陣せよと下知を伝えた処、大久保兄弟に属している内藤四郎右衛門信成、金の   うちわ 軍配団扇に七曜の指物さしたのが、「我主君は他人の下知を受けるものではない。内藤承って                   あが                                わきぞなえ 返答し。ラκりと申されよ」と云った。意気昂って鼻いきが荒いのである。徳川の脇傭、本多平                                か 八郎、榊原小平太、直ちに勝頼の本障に突懸った。勝頼騒がず真先に馳け合せようとするの 6 1 1 ************************************         くっわ を、土屋惣蔵馬の轡を押え、小山田十郎兵衛以下旗本の士四百騎が、悉く討死して防ぐ間を、 落延びさせた。力と頼む各部隊の騒将等が悉く討死して指揮を仰ぐに由ない上に、総大将の退 陣ど聞いては、さしもの武田勢も乱軍である。勝頼の後傭武田信友、同信光や、穴山梅雪の如 きは勝頼より先に逃げ延びた程である。滝川を渡り、西や北を目指して落ちて行った。前田利            ほとり 家、敗走軍を追って川の辺に来るど、鍬形打った甲の緒を締め、最上胴の鎧若けた武者一騎、 大長毛の馬を流に乗入れて、静々と引退くのを見た。落付き払った武者振只者に非ずと、利家 もろあぷみ                                  こうぺ         すきま 諸鐙を合せて追掛けるど、彼の武者また馬の頭を返した。透間もなく切り合い火花を散して           たかもも 戦っているうち、利家高股を切られて馬から下へ落された。退軍の今、首一つ二つ獲った処で と思ってか、彼の武者見下したまま、再び退こうとする処に利家の家老村井又兵衛長頼、馬を 飛してやって来た。主の傷つキ㌧倒れたのを介抱しようとするど、利家「敵を逃すな」と下知し た。又兵衛命のままに立向うと、大変な剛の者と見えて、忽ち又兵衛の甲の鉢を半分ほども斬                                       くさずり り割った。それで主利家と同じ様に馬から仰向けに落されたのだが、落ち際に相手の草摺に取 付いて、諸共に川の中に引摺り込んだ。相手が上にのし掛ったのを、又兵衛素早く腰刀を抜い          はねかえ        さすが                              ゆげ て、二刀まで刺して刎返したので、流石の剛の者も参って仕舞った。武田の弓隊長弓削某と云 う者だど伝える。織田徳川勢の追撃急な上に、勝頼主従の退却も、しかも滝川に橋が沢山ない      すこぷ               あ わ のであるから頗る危かった。余り周章てて居るので、相伝の旗を棄てたままにした。本多忠勝 の士原田矢之助これを分捕った。堀金平勝恵、武田勢を追いながら、「旗を棄てて逃げるとは、                                       ふる それで甲州武士か」と潮笑をあびせるど、武田の旗奉行撮り返って、「いやその旗は旧くなっ 117 ************************************ 長篠合戦 ************************************ たものだから棄てたので、かけ代え此処に在り」と云って薪しい大文字の旗を掲げると逃げ出 した。堀「尤も千万な申分である。馬場、山県、内藤等の老将も旧物であるから棄殺しした か」と云った。敗戦となると惨めなもので、どう云われても仕方がない。勝頼、猿橋の方を指                 はじかの して退いて居たが、従って居るのは初鹿野伝右衛門三十二歳、土屋右衛門尉弟惣蔵二十歳であ った。惣蔵、容姿端麗にしてしかも剛気であったので、勝頼の寵愛深かった。惣蔵、兄右衛門 尉の身を気づかって、馬を返すこと二度に及んだが、その度に勝頼も轡を返した程であった。 勝頼の後三四町の処を、武田左馬之助信豊一二四十騎をもって殿軍して居た。勝頼ふり返って、                                  か 信豊の様子を眺めて居たが、伝右衛門を顧みて日く、「我、信玄の時御先を馳けたるによって、      こんじでい ほろ 当家重大の紺地泥の母衣に四郎勝頼と記したのを指した。当主となった後は左馬助に譲った が、今見ると指して居ない。若し敵の手に渡る様なこどがあれば勝頼末代までの恥である。身 命を棄つるどもこれを棄てては引く事は出来ない」そこで伝右衛門、左馬助の許に馳せて聞く と、「戦い余りに激しかったので串は捨て、母衣は家老の青木尾張守に持たせて置いた」と答                             のち えて尾張の首に巻き附けたのを解いて渡した。勝頼上帯に挿んで後進もうとすると馬が疲労し                     きた 尽して動かない。笠井肥後守この体を見て馳せ来るや、馬から飛び下り、「この馬に召さるべ し」ど云う。勝頼「汝馬から離れれば必ず討死することになるぞ」と云うと、恩義の故に命は                こた 軽い、伜をどうぞ御引立下さいど応え、勝頼の馬の手綱を採って押戴き、踏止まって討死し た、此時にはもう追手の勢間近に迫って居たので忽ち徳川の兵十二一二騎後を慕って寄せて来 た、伝右衛門、惣蔵、渡合って各々一騎を切落し、惣蔵更に一騎ど引組んで落ち、首を獲る処 8 1 1 ************************************        かもん に折よく小山田掃部、弟弥介来かかって、辛うじて退かしめた。弥介は、伝右衛門奮戦の際、           ほつしよう                                               あお    ねぎ 持って居た勝頼の諏訪法性の甲を田に落したのを拾い上げた。勝頼、惣蔵を扇で煽いで労ら                                         ぎようぷ い、伝右衛門の軽傷を負ったのに自ら薬をっけてやった。黒瀬から小松ヶ瀬を渉り、菅沼刑部    ぶせつ 貞吉の武節の城に入り、梅酢で渇を医やしたと云う。勝頼の将士死するもの一万、織田徳川の 死傷又六千を下らなかったと伝わる。とにかく信長の方では三重にも柵を構え、それに依って               はば                                     すく 武田の猛将勇士が突撃するのを阻み、武田方のマゴマゴしている所を鉄砲で打ち萎めようと云 うのである。鉄条網をこしらえていて、それにひっかかるのを待って機関銃で掃射しようと云         まま う現代の戦術その蟹である◎こう云う戦術にかかっては、いかに馬場信房でも山県昌景でも、 生身である以上、忽ちやられるわけである。而も彼等が戦いを欲して進んだのでなく、勝頼か らの主命で止むなく突進して死んだのであるから気の毒である。勝頼が天目山で死んだのは天 正十年だが、武田はこの一戦で敗亡の形を現したのである。桶狭間では必死奇兵を弄して義元 を倒した信長は、ここでは味方の多勢を頼んで万全の戦術を考えているのである。喰えない大 将である。勝頼などが、到底及ばないのも仕方がないと云うべきである。天下が続一されたの は鉄砲が伝来された為であると史家は云うが、鉄砲の威力が極度に発揮されたのは長篠合戦が 最初である◎ 賎ヶ岳合戦 ************************************ 119 賎ヶ岳合戦 ************************************        清洲会議之事              きよす  天正十年六月十八日、尾州清洲の檀原次郎右衛門が大広間に於て、織田家の宿将相集り、主 家の跡目に就いて、大評定を開いた。これが有名な清洲会議である。                            これとう  この年の六月二日、京都本能寺に在った右大臣信長は、家臣惟任日向守光秀の反逆に依って        さんみ 倒れ、その長子三位中将信思も亦、二条の城に於て、父と運命を共にした。当時、織田の長臣   しゆりのすけ                             くらのすけ                           げんばのすけ 柴田修聖兄勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々内蔵助成政、前田又左衛門利家、佐久間玄蕃允 盛政、及び養子伊賀守勝豊以下を率いて、越中魚津に在陣中であった。本能寺の変が報ぜられ                           ひとかた たのは、同月四日の夜に入ってからであるが、陣中の周章は一方でなく、戦半ばにして、勝家                      しようげん は越前に、盛政は宮山に引き退いた。又滝川左近将監一益も、武蔵野に於て、北条左京大夫 うじまさ                 たちま 氏政と合戦中であったが、忽ち購和して、尾州長罵の居城に帰った、更に森勝蔵長勝は、上杉 0 2 1 ************************************ 家と争って居たのだが、信濃川中島へ退き松本を経て、美濃に退いて居た、さて最後に、羽柴 筑前守秀吉であるが、当蒔、中国の毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城水攻をやっていたが、                      ね 京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日子の刻であるが、五日の朝まで、信長生害の事      つい を秘して、終に毛利との嬢和に成功した。和成るや飛ぶが如くに馳せ上って、光秀の虚を山崎 たからでら 宝寺天王山に衝き、光秀をして三日天下のあわれを喫せしめた。この山崎合戦が、まさに、 秀吉の天下取りの戦争であった。そして信長の遺した事業に対し、偉大なる発言権を握ったわ けだ。勝家以下の諸将が、変に応じて上洛を期したけれども一秀吉の神連なる行動には及ぶべ くもなかった。だが、信長の遺児功臣多数が存する以上、すぐ秀吉が天下を取るわけには行か        なんぴと ない。遺児の中何人をして、信長の跡に据えるかと云うことが大問題であった。さて信長信忠    う の血を享けて居る者には、次男信薙、三男信孝及び、信思の子三法師丸がある。この三人のう                                  やかた ちから誰を立てて、主家の跡目どするかが、清洲会議の題目であった。植原館の大広間、信灘          かくぱしら 信孝等の正面近く、角柱にもたれて居るのは勝家である。勝家の甥三人も柱の近くに坐した。              しようにゆう         さ えもんのじよう 秀吉は縁に近く、池田武蔵入道勝入、丹羽五郎左衛門尉長秀等以下夫々の座に着いた。広間 の庭は、織田家の侍八百人余り、勝家の供侍三百余と共に、物々しい警固だつた。一座の長老                                      し 勝家、先ず口を開いて、織田家の御世嗣には御利発の三七信孝殿を取立参らせるに如くはな い、と云った。勢威第一の勝家の言であるから、異見を抱いて届る部将があっても、容易に口 に出し難い。満座粛として静まり返って居るなかに、おもむろに、異見を述べたのは秀吉であ                                         、 −       おおせ                                                                 ㌧カ る。「柴田殿の仰御尤のようではあるが、信孝殿御利発とは申せ、天下をお嗣参らせる事は如 121 ************************************ 賎ヶ岳合戦 ************************************ が                            おわしま 何であろう。信長公の嫡孫三法師殿の在すからには、この君を立て参らせるのが、最も正当 であると存ずるが、如何であろう」と。言辞鄭重ではあったが、勝家と対立せざるを得ない、 静り返っていた一座は、次第にさざめき来ったのであった。勝家の推した信孝は、三男と云う こどになっては居るが、実は次男なのだ。信薙信孝とは永禄元年の同月に生れ、信孝の方が二 十日余りも早かったのだが、信確が信忠ど母を同じくしたのに引かえ、信孝は異腹であったの で、人々信雑を尊んで、早速に信長に報告し、次男と云うこどになって仕舞った。信長に対す る報告が早かったので、信灘が次男になったのである。信雄は凡庸の資であるが、信孝は、相                 ひそ 当の人物である。長ずるに及んで、秘かに不遇をかこって居たのも無理はない。勝家を頼った のも、尤であるし、勝家またこれを推して、自らの威望を加えんど考えたのも当然であろう、 しかるに秀吉の反対は、一座を動揺せしめたが、秀吉の云い分にも、正当な理由がある。『太 閤記』などには、信恵−秀吉、勝家−信孝の間には、往年男色的関係があったなどとあるが、 それが嘘にしても、常からそういう組合せで伸がよかったのだろう。勝家を支持するもの、秀 吉を是どする者、各々主張して譲らず、果しなく見えた。勝家の昔り切るのは当然である。秀 吉この有様を見て、中座して別室に退き、香を薫じ、茶をたてて心静かに、形勢を観望した。 しかし間もなく、勝家に次ぐ名望家、丹羽長秀の言葉が紛糾の一座を決定に導いた。長秀日                       いず           すこぷ く、子を立てるとしたら此場合、信樽信孝両公の敦れを推すかは頗る問題となるから、それよ                              かな り秀吉の言の如く、嫡孫の三法師殿を立てるのが一番大義名分に応って居るように思われる。         あだ                                               かたき 其上、今度主君の仇を討った功労者は、秀吉である、只今の場合、先ず聴くべきは先君の敵を 2 2 1 ************************************ 打った功労の者の言ではあるまいか、と。 戦国の習い、百の弁舌より一つの武功である。 議すでに決し、柴田、一丹羽、池田、羽柴の四将は、各々役人を京に置き、天下の事を処断する 事となった。この清洲会議の席上で、勝家が、秀吉を刺さんこどを勧めたと云う話や、秀吉発 言の際、勝家声を荒らげて、已れの意に違うことを責め、幼君を立てて天下を窺う所存かど ののし                             はぱか 罵り、更に信灘等が奥へ引退いた後、衆を偉らず枕を持ち来らしめ、寝ながら万事を相談し、          かみがた      きゃしゃ 酒宴になるや秀吉は上方の者で華書風流なれど、我は北国の野人であると皮肉って、梅漬を実                     おおいぴき    ふ ながら十四五喰い、大どんぶり酒をあおり、大軒して臥した等々の語があるが、これ等は恐                ふんまん                                   いんぎん らく伝説であろう。しかし勝家の愈葱は自然と見えて居たので、秀吉は努めて懸惣の態度を失 わずして、勝家の怒を爆発させない様にした。信長の領地分配の際にも、秀吉は敢て争わなか ったのである。そればかりではない。勝家が秀吉の所領江州長浜を、自らの上洛の便宜の故を 以て強講した時も、秀吉は唯々として従って居る。ただ勝家の甥の佐久間盛政に譲る事を断っ て、勝家の養子柴田伊賀守に渡すことを条件としたに過ぎない。しかしこの事は、秀吉の深湛                           はら 遠慮の存する処であるのを、勝家は悟らなかった。危機を孕んだままに、勝家秀吉の外交戦                                      めぐ は、秀吉の勝利に終ったが、収まらぬのは勝家の気持である。直後秀吉暗殺の謀計が回らされ             ひそ たのを、丹羽長秀知って、密かに秀吉に告げて逃れしめた。勝家の要撃を悟って、秀吉津島か ら長松を経て、長浜に逃れて居る。自分でこんな非常時的態度に出て居るので、勝家の方でも                    たるい      ちゆうちよ 亦、秀吉の襲撃を恐れて、越前への帰途、垂井に留り購踏する事数日に及んだ、だが、秀吉 はそんな小細工は嫌いなので、それと聞くや、信長の第四子で秀吉の義子となって居る秀勝を 123 賎ヶ岳合戦 ************************************                 ようや 質として、勝家の下に送った。勝家薪く安心して木の本を過ぎて後、秀勝をやっと帰らしめ た。此時からもう二人の間は、お互に警戒し合っている。こんな状態で済む筈はなく、ついに しず  だけ 賎ヶ岳の実力的正面衝突となった。              ただ  勝家は越前に帰り着くと、直ちに養予伊賀守勝豊に山路将監、木下半右衛門等を添えて長浜 城を受取らしめた。勝家は、秀吉或は拒んで、戦のきっかけになるかも知れない位に考えたで あろうが、秀吉は湯浅甚助に命じて、所々修繕の上あっさりと引渡した。秀吉にして見れば一 小城何するものぞの腹である。争うものは天下であると思っていたのだ。既に秀吉は自ら京に                             じつこん 留り、山崎宝寺に築城して居住し、宮廷に近づき畿内の諸大名と嘱懇になり、政治に力を注い          おのずか だから、天下の衆望は自ら一身に集って来た◎柴田を初めとした諸将の代官なぞ、京都に来 ているが、有名無実である。更に十月には独力信長の法事を、紫野大徳寺に行った。柴田等に も参列を勧めたが、やって来るわけもない。芝居でやる大徳寺焼香の場面など、噛である。寺 内に一字を建て総見院と呼んだ。信長を後世総見院殿ど称するは此時からである。 ちゆうげん                                                               か  中原に在って勢威隆々たる秀吉を望み見て、心中甚だ穏かでないのは勝家である。嘗つて 諸将の上席であった自分も、この有様だと、ついには一田舎諸侯に過ぎなくなるであろう、      たいとう   秀吉の擾頭に不満なる者は次第に勝家を中心に集ることになる。滝川一益もその反対派の                  しず 一人であるが、この男が勝家の短慮を鎮めて献策した。即ち、寒冷の候に近い今、戦争をやる のは不利である。越前は北国であるから、十一月初旬から翌年の三月頃までは雪が深い。故に 軍馬の往来に難儀である時候を避けて、雪どけの水流るる頃、大軍を南下せしむべし、と云う 4 2 1 ************************************                         ぷんかさい              ながちか のである、勝家喜び同心して、家臣小島若狭守、中村文荷斎をして、前田利家、金森長近、不                   それがし 破彦三を招き寄せた。勝家の云うよう、「某とかく秀吉と不和である為に、世上では、今にも 合戦が始るかの様に騒いで穏かでない。今後は秀吉と和し、相共に天下の無事を計りたい考で                      もつとも あるから、よろしく御取なしを乞う」と。前田等尤千万なる志であるとして、途中長浜の伊 賀守勝豊をも同道し、宝寺に至って、秀吉に対面した。使者の趣を聞キ一終った秀吉は、「御家                    じ ご の重臣柴田殿をどうして疎略に考えよう。爾後互に水魚の如くして、若君を守立て天下の政務  と を執りたいものである」と答えた。使者達は大いに喜んで、誓紙を乞うた。処が秀吉は、「そ れこそ、こちらから願い度き物であるが、某一人に限らず、丹羽、池田、森、佐々等にも廻状  や を遣り、来春一同参列の上、取替したがよいであろう。殊に我々両人だけで、誓紙を取替した             いかが とあっては、他への聞えも如何であろう」と云って拒絶して仕舞った。尤な言分なので、使者                                         さら 達も、それ以上の問答も出来ず、帰った。勝家委細の報告を受けて、来春には猿面を獄門に曝                                        はか すぞど喜んでいたが、こうして秀吉に油断をさせていると思っていた勝家は、逆に秀吉に謀ら れて居たのである。秀吉は使者を送り還すや、家臣を顧みて笑って日く、「勝家の計略、明鏡                                       くく に物のうつる如くにわかって居る。この様な事もあろうかと思って、彼が足を清洲にて括って 置いたのだ」と。即ち湯浅甚助を呼出して、汝は長浜に行き、伊賀守勝豊並にその与力共を弁 舌もて味方に引入れよ。長浜引渡の時、彼等と親しくして居た汝のことだから仔細もあるま い、ど命じた。基助心得て長浜に来り、勝豊の家老徳永石見守、与力山路将監、木下半右衛門 等を口説いた。今度秀吉方につくならば、各々方も大名に取立て、勝豊はゆくゆく、北国の総            ちようせき 大蒋になるであろうなど、朝タ説くので、家老達の心も次第に動いて勝豊にまで励めること      さすが になった。流石に始めは勝豊も父に弓引く事を恐れて承知しなかったが、ついには賛成した。                         ごんろく 元来勝豊自身、勝家の養子ではあるが、勝家には実子権六がある上に、病身であって華々しい       うと                                あきた 働もないので疎んぜられて居たのだから、勝家に鎌らない気持はあったのである。ある年の年 賀の席で、勝家の乾した盃を勝豊に先じて、寵臣佐久間盛政が執ろうとしたのを、勝豊盛政の 袖を引いて、遠慮せしめたことなどさえある。此他種々の怨が、甚助の弁ど相まって、勝豊に 父を裏切らせるもととなったのである。勝豊の裏切りを見越して、長浜を体よく勝家にゆずっ て置いたわけである。かくて秀吉の戦闘準備は、勝家の知らぬ間に、著々と進められて居たの である。 ************************************ 秀吉、濃、勢、江、出馬之事 ************************************ 125 賎ヶ岳合戦 ************************************                                 きま  清洲会議の結果、三法師丸を織田家の相続どし、信雄、信孝が後見と定って居たのである              ま が、秀吉は、安土城の修復を侯って、三法師丸を迎え入れようとした。然るに岐阜の信孝は、 三法師丸を秀吉の手に委ねようとしない。秀吉をして三法師丸を擁せしめるのは、結局は信孝 自身の存在を稀薄なものとさせるからである。秀吉ついに、丹羽長秀、筒井順慶、長岡(後の    ただおき                                                     うじいえ 細川)恵興等三万の兵を率いて、濃州へ打って出でた。先ず、大垣の城主氏家内膳正を囲んだ           くだ が、一戦を交えずして降ったので、秀吉の大軍大垣の城に入った。伝え聞いた附近の小城は風                                    いちはや を望んで降ったので、岐阜城は忽ちにして取巻かれて仕舞った。信孝の方でも、逸早く救援を 6 2 1 ************************************            あいにく 勝家に乞うたけれども、生憎の雪である。勝家、猿面冠者に出し抜かれたど地駄太踏むが及ば                         むほん ない。そこへ今度は佐久間盛政の注進で、長浜の勝豊謀叛すとの報であるが、勝家、盛政が勝                ざんげん 豊と不和なのを知っているので、謹言だろうと思って取合わない。しかし、勝豊の元の城下、 丸岡から、勝豊の家臣の妻子が長浜に引移る為に騒々しいどの注進を受けては勝家も疑うわけ にはゆかない。驚き怒るけれども、機先は既に制せられて居る形である。岐阜の信孝も、勝家                                          ばん の救なくては、如何ともし難いので、長秀を通じて秀吉と和を講じた。秀吉即ち信孝の生母阪 氏並に三法師丸を受け取って、和を容れ、山崎に帰陣した。三法師丸は安土城に入れ、清洲の                               キ』よtつきよ}つ 信耀を移り来らしめて後見どなした。天正十年十二月の事で、物情胸々たる中に年も暮れて 行った。  明くれば天正十一年正月、秀吉、かの滝川一益を伊勢に討つべく、大軍を発した。秀吉とし ては天下の形勢日々に険悪で、のんびりと京の初春に酔い得ないのであろう。丹羽長秀、柴田 勝豊をして勝家に傭えしめて後顧の憂を絶ち、弟羽柴秀長、稲葉一徹等を第一軍(二万五千)          と き た らごえ                    かずうじ                      お ぼ じ として、近江甲賀郡土岐多羅越より、甥三好秀次、中村一氏等を第二軍(二万)として大君畑 越より、秀吉自らは第三軍(三万)を率いて安楽越よりして、伊勢に侵入した。この安楽越の 時、滝川方で山道を切り崩して置いたので軍馬を通すのに難儀した。ある処では馬の爪半分ほ どしか掛らない位であった。そこで馬の口を取るものが一人、屋を取るものが一人して通った が、馬はみな落ちてしまった。ある者が馬の口だけをとり、あとを見ずハィハィど云って引い た処が一匹も落ちなかったと云う。馬は馬なりに信用すればいいものと見える、一益は長島に 127 ************************************ 賎ヶ岳合戦 ************************************   あらかじ 在って予め兵を諸所に分ち、塁を堅くして守って居た。秀吉自ら、亀山城に佐治新助を攻め たが、新助よく戦った後ついに屈して長島に退いた。秀吉更に進んで、諸城を陥れんとして居 る処に、勝家出馬の飛報を受け取ったのである。伊勢の諸城を厳重に監視せしめて置いて、秀 吉は直ちに長浜に馳せ来った。秀吉、勝家決戦の機は遂に到来したのである。  勝家は信孝の急報に接しながら、雪の為に兵を動かす事も出来ずに居たが、雪の溶けるのを                               せつかく 待ち切れず、江州椿坂までの山間の雪を人夫をして除かせた。しかし折角取除く一方から、又 降り埋もれてその甲斐もなかった。何時までも、それだからと云って、待っわけにもゆかない                     げんばのすけ ので、三月七日、先鋒の大将として、佐久間玄蕃允盛政、従う者は、弟保田安政、佐久間勝 政、前田又左衛門尉利家、同子孫四郎利長等を始めどして、徳山五兵衛、金森五郎八長近、佐 久間三左右衛門勝重、原彦治邸、不破彦三、総勢八千五百、雪の山路に悩みながら進み、江北 木の本辺に着陣した。勝家も直に、軍二万を率いて、内中尾山に着いた。北軍の尖兵は長浜辺 まで潜行して、処々に放火した。本陣は内中尾山に置いて、勝家此処に指揮を執り、別所山に         とちだに                   はやしだに は前田利家父子、橡谷山には、徳山、金森、林谷山には不破、中谷山には原、而して佐久間   ぎよういち 兄弟は行市山に、夫々布陣したのである。勝家の軍がこの処まで来て見た時には、既に余吾  うみ の湖を中心として、秀吉の防傭線が張られた後なのである。勝家この線を打破らなければ、南 下の志は達せられないわけである。さて勝家南下の報に、長浜まで馳せ上った秀吉は、翌日に                     よごのしよう は総軍三万五千余騎、十三段に分って、堂々余吾床に打向った。先陣羽柴秀政。二陣柴田伊          こはやと 賀守の勢。三陣木村小隼人、木下将監。四障前野荘右衛門尉、一柳市助直盛。五陣生駒甚助政 8 2 1 ************************************   おでら      よしたか 勝、小寺官兵衛孝隆、木下勘解由左衛門尉、大塩金右衛門、山内一豊。六障三好孫七郎秀次、                       かもんのすけ                       、 のり 中村孫兵治。七陣羽柴美濃守。八陣筒井順慶、伊藤掃部助、九陣蜂須賀小六家政、赤松次郎則 ふさ   みこだ     まさはる 房。十陣神子田半左衛門尉正治、赤松弥三郎。十一陣長岡越中守恵興、高山右近。十二陣羽柴                  せ へi又のじよ、つ 次丸秀勝、仙石権兵衛尉。十三陣中川清兵衛尉清秀。最後が秀吉旗本である。先陣跣に行市 山の佐久間盛政の陣所近くに押し寄せ、双方から数百の足軽が出て矢合せしたが、其日はそれ 位で空しく暮れて行った。翌十二日の未明、秀吉、福島市松、中山左伝二人を連れて足軽の風            うかが 態で、盛政の陣所行市山を窺い、その有様を墨絵にして持ち帰った。弟小市郎秀長、甥の三好 孫七郎秀次などに向って「昨日の盛政の戦の仕様に不審を抱いて今日敵陣を窺って来たが、流 石老功の勝家、此処で合戦の月日を延し、其間に美濃伊勢両国に於て、信孝、一益等をして勢 揃なさしめ、秀吉を挾討ちの計略と見えた。彼をして容易に南下して信孝、一益等の軍と合せ ざらしめん為には、此処の要害最も厳重にしなければならぬ」と云った。秀吉はかの浅井長政 との合戦以来、江州には長く住んで居て、地理にも下情にも通じて居るので、忽ちにして要害 堅固な砦が出来た。盛政は秀吉の各所要害を一層に整傭するのを見て、勝家に一日も早くこの 難所を打ち通らなければ、ついには味方手詰りになると報じたが、時既におそしである。賎ヶ      しゆりのすけ 岳には桑山修聖兄(兵一千)、東野山には堀久太郎秀政(兵五千)、大岩山には中川瀬兵衛清秀      しんめい                        どうぎ (兵一千)、神明山には大鐘藤八(兵五百)、堂木山には山路将監(兵五百)、北国街道には小川 土佐守(兵一千)、而して木の本を本陣として羽柴秀長一万五干を以って固めた。英上に、丹           かいづ 羽五郎左衛門尉長秀を海津口の押となし、長岡(後の綱川)与一郎恵囲ハを水軍どして越前の海  岸を襲わしめると云う周到なる策戦ふりである。さて充分の配傭を為し終った秀吉は、木の本         しゆくしゆく   から大垣までの箔々に、駿馬を夫々置いておいて、自らは信孝包囲軍の指揮の為に、賎ヶ岳         おのずか  を去った。成算自ら胸に在るものと見えて、強敵勝家を前にして、そのまま他の戦場に馳せ  向ったわけである。つまり誘いの隙を見せたわけである。岐阜の信孝は、先に秀吉ど購和しな  がら、秀吉が伊勢に向ったと聞くと、忽ち約を変じて謀叛したので、秀吉の軍勢は再び岐阜を  囲むことになったのである。勝家の陣へは、苦しくなった信孝からの救援の便が、次から次と              あせ   やって来る。勝家大いに焦るけれども、容易には此処を通り難い。そこで盛政ど相談して、も  と、柴田伊賀守の与力であった山路将監が、一方の固めの将である、幸い、彼をして秀吉に裏 .切らしめ、秀吉の陣を乱そうと云うことになった。日頃将監ど親しかった宇野忠三郎と云う者   に、密命を云含ませた。恵三郎即ち夜半に将監が陣所に忍んで、面会を求めた。将監、今は敵  味方のこどであり、且つ陣中なればと云って会おうとしない。恵三郎、大小を棄て、是非にと                     もたら  願うので、将監これを引見した。恵三郎が齋した勝家の内意を知ると、将監は、主人勝豊も秀  吉の味方どなり、某も一方の固めを任された程である、今裏切ることは武士として情ない、と  答えて諾しようどしない。忠三郎は更に説いて、勝豊を主人と云われたが、貴殿は勝家から勝                  むし 戦豊の与力どして添えられた者で、寧ろ主従の関係は勝家との間に在る、誰か不義であると云わ 合 岳 ん、且つは帰参の恩賞には、勝豊の所領丸岡の城付十二万石を給わる筈なのである、ど勧める ケ                       くら 賎 ので、将監とうとう慾に目が眩んで裏切を承畑した。たしかに十二万石を呉れると云う誓紙ま 聰 で要求して居る位である。一度柴田方を裏切って、秀吉につき、今度は秀吉を裏切って柴田に 0 3 1 ************************************                                      はりつけ ついた。現代の政治家のある者のように節操がない。これでは妻子が秀吉のために傑にされ たのも仕方がないだろう。                                       いず  佐久間盛政は投降した山路将監を呼んで、攻撃の方法を尋ねた。将監の答えるに、「何れの                                       ごしら 要害も堅固であるから、容易には落ちまい。ただ、中川瀬兵衛守る処の大岩山は、急栴えで、 壁など乾き切らない程である。此処を不意に襲うならば、破れない事はあるまい」と。盛政喜 んで勝家の許に至り、襲撃せんことを乞うた。秀吉の智略を知り抜いて居る勝家は、敵地深く 突入する盛政の策を喜ばない。盛政は腹を立てて、今一挙にして襲わなければ何時になって勝 つ時があろうと、云うので、勝家止むなく許した。しかし、くり返しくり返し勝に乗ずること なく、勝たば早急に引取るようにと戒めた。勝気満々たる盛政のことだから、勝家の許しが出 たら、もう嬉しくて、忠言など耳にも入らない。大岩山襲撃の策が決ると、四月十九日夜盛政                                   はいごう を始めとして、弟勝政、徳山五兵衛尉、不破彦三、山路将監、宿屋七左衛門、拝郷五左衛門以 下八千騎、隊伍粛々として、余呉の湖に沿うて進んだ。、堂木山神明山塩津方面を監視の為に、 前田父子二千を以って当り、東野山方面の監視には勝家自ら七千騎を率いて出陣した。束の空 も白み、里々の鳥の声も聞える頃、盛政の軍は、余呉湖畔を進軍して居た。桑山修理亮の足軽 共が、馬の足を冷そうと、湖の磯に出て居るのを見付けた盛政壮、馬上から、討取って軍神の 血祭にせよと命じたので、忽ち数名が斬られた。僅かの者が、賎ヶ缶へ逃げ帰り知らせたの で、修理亮が物見を出して報告を受けた時は、もう大岩山では戦闘が始ろうとしている。修理 亮使をもって、大岩山は破れ易い砦だから早速に賎ヶ雷の方に退いたら如何と告げしめると、 131 賎ヶ缶合戦 ************************************ 瀬兵衛は、云われる如くに心許ない砦ではある、しかし、この先の岩崎山には高山右近も居る                              とかく 事だし、某一人引退くわけにゆかない、ど答えて退こうとしない。兎角するうちに盛政の軍は、 とき                                              ぱか 閤の声を挙げて押し寄せた。瀬兵衛もどより武功の士だから、僅か三尺計りの土手を楯に取っ て、不破彦三等先手の軍勢が躍り込まんとするのを防ぎ戦い、遂いに撃退した。盛政大いに怒 って自ら陣頭に立ち、息をもつかずに攻め立てたので、塁兵遂に崩れた。瀬兵衛も手勢五百を 密集させ、真一文字に寄手に突入って縦横に切って廻るので、寄手は勢に気を奪われた形であ る。盛政、徳山五兵衛尉を呼んで、長篠合戦の時、鳶巣山の附城を焼立てた故智に習うべしと         かんぺ 命じた。徳山即ち神部兵大夫に一千騎を添えて、敵の背後の方へ向わせた。瀬兵衛の兵も、盛                       の 政の薪手の勢の為に残り少なくなって居る処に、退き口である麓の小屋小屋に火の手が挙っ     これ                                                          よろい     とりすが た。今は是までと瀬兵衛敵中に馳せ入り斬り死しようとするのを、中川九郎次郎鎧の袖に取縄                        ゆえ り、名もない者の手にかからんことは口惜しい次第故本丸へ退き自害されよと説いた。瀬兵 衛、今日の戦、存分の働を為したから、例え雑兵の手に死のうとも悔いないと管疋たが、つい に九郎次郎の言に従って、九郎次郎、穂三尺の槍を揮い、更に竹の節ど云う三尺六寸の太刀で 斬死して防ぐ間に自殺した。岩崎山の高山右近は、大岩山陥ると聞くや、一戦もせずに城を出 て、木の本へ引退いた。大岩、岩崎を手に入れた盛政は得意満面である。早速勝家に勝報を致 す。勝家はそれだけで上首尾である。急き帰陣すべしと命じるが、今の場合聞く様な盛政では      しよ−つキ』く ない。盛政「匠作(勝家の別名、っまり修聖兄の別名である)それほど老ばれたどは知らな かった。軍の事は、盛政に委せて明日は都へ進まれる支度をした方がいい」ど豪語して、勝家 2 3 1 ************************************ の再三の使者の言葉を受けつけないのである。勝家嘆息して、「さても不了簡なる盛政かな、 これは勝家に腹切らせんとの結構なるべし、何とて、敵を筑前と思いけん、今日の敵は盛政な り」と云った。 ************************************ 賎ヶ岳七本槍之事 ************************************  桑山修聖一冗の飛脚が、大垣の秀吉の許に着いたのは、四月二十日の正午頃であった。秀吉使 いに向い、盛政は直ぐに引き取りたるかと訊いた。いや、そのまま占領した場所に陣している               ようとう       ひたい と聴くと、踏々と芝ふみ鳴らし、腰刀を抜いて額に当てて「單には勝ちたるぞ、思いの外早か った」と五六度呼ばわったと云う。思う壼に入ったわけである。氏家内膳正、堀尾茂助を岐阜 の押えとして残し、自らは一柳直末、加藤光泰二騎を従えるや、二時頃には馳せ出でた。四時                                か から五時の間にかけて一万五千の兵も大垣を発したのである。秀吉は馬を馳けづめに馳けらせ るので、途中で度々、乗り倒したが、前もって宿々に馬を置いてあるから、忽ち乗り換え乗り   もろあぷみ                                                                       たいまっ 換え諸鐙を合せて馳せた。更に途中に在る者共に命ずるには、一手は道筋の里々にて松明を 出さしめ、後続する軍の便宜を与うべし、更に一手は長浜の町家に至り米一升、大豆一升宛を       かゆ                      まぐさ                           きた 出さしめ、米は粥に煮て兵糧となし、大豆は秣として直ちに木の本の本陣に持ち来るべしとし た。用意の周到にして迅連なるは驚くべきものがある、、夜九時頃には既に木の本に着いて居たの である。  さて一方、盛政は大野路山に旗本を置いて、清水谷庭戸浜に陣を張って賎ヶ匠を囲んで居っ 133 ************************************ 賎ケ缶合戦 ************************************                せきよう                                           もはや たが、桑山修聖売の言を信じて、タ陽没するに及んで、開城を迫った。然るに修理亮等は最早                                        やたけ 救援の軍も近いであろうと云うので、忽ち鉄砲をもって挑戦した。盛政怒って攻め立て矢叫び の声は余呉の湖に反響した。丁度此時、丹羽長秀、高島郡大溝の城を出でて、小船で賎ヶ岳の                                        さつきゆう 戦況を見に来合せたが、賎ヶ畳の辺で矢叫び鉄砲の音が烈しいのを聞いて、さては敵兵早急             なぎさ に攻むると見えた、急き船を汀に付けよと命じた。供の者はこんな小勢で戦うべくもないど云 った処、長秀、戦うべき場所を去るは武将ではないと叱った。更に一人に、漕ぎ返って、海津            こちら 表七千騎の内三分の一を此方へ廻せと命じた。この火急の場合、五里の湖上を漕ぎ返っての注 進で、間に合いましょうやと尋ねるど、いや別段急くわけでもない。只今長秀、賎ヶ岳へ援軍 すると云えば、敵軍は定めし大兵を率いて来たものど察して猶予の心が出るであろう。其間に                ただち 馳せ着けばよいのだ、と云棄てて直に賎ヶ岳に上った。賎ヶ岳では折柄悪戦の最中であるか                                       きた ら、長秀来援すど聞いては、くじけた勇気も振い起らざるを得ない。盛政の方では長秀来ると 聞いて、気力をそがれて、賎ヶ岳を持て余し気味である。此時刻には、秀吉の大軍も木の本辺                  たがみ に充ち満ちて居たのである。先発隊は田上山を上りつつあったのであるが、そのうち誰云うと                    にわ なく、盛政の陣中で、秀吉来れりと云って俄かに動揺し出した。拝郷五左衛門尉、盛政にこの        あわ 由を報ずるど、「慌てたる言葉を出す人かな、秀吉飛鳥にもせよ十数里を今頃馳せ着け得るも                                        おびただ のにや」と相手にしない。処が弟勝政、不破彦三の陣所からの使は、美濃街道筋は松明移し く続いて見え、木の本辺は秀吉勢で充満すど見えたりと報じたので、流石強情我構の盛政も仰 天しないわけにはゆかなかった。此状勢を保って居られる筈はないから、早々陣を引払って、 4 3 1 ************************************ 次第に退軍しようと試みた。先に長秀の応援でいい加減気を腐らして居た盛政の軍は、今また 秀吉の遺撃があるとなると、もう浮足立つ計りである。十一時過ぎ、おそい月が湖面に青白い 光をそそぐ頃、盛政の軍は総退却を開始した、二十一日の午前二時には秀吉の軍田上山を降 り、黒田村を経て観音坂を上り、先鋒二千の追撃は次第に急である。拝郷五左衛門尉取って返 し、身命を借まず防ぎ戦うが、味方は崩れ立ち始めて居る。盛政は荒々しい声で、拝郷等は何                     あざわら 故に敵を防がぬかと叱ったので、五左衛門尉潮笑って、御覧候え、我々が身辺、半町ほどは敵 一人も近付け申さず。ただ敵勢鋭きが為に味方振わないのである。此上は面々討死をして見せ 申そうと計りに、青木勘七、原勘兵衛等ど共々に、遺い手の中に馳せ入った。青木勘七は血気 の若武者で、真先に進んで忽ち五人まで突落したとある。この青木は後に越前に在って青木紀   かずのり                                  やかた        一 伊守一矩に仕えたが、ある時同じ家中の荻野河内の館で、寄合いがあった際、人々に勧められ                           しゆうるし て、余呉湖畔戦の想い出語をした事がある。「金の脇立物、宋漆の具足の士と槍を合せたが、 その武者振見事であった」と語った処が、その武者が主人の河内であることが判り、互に奇遇 を嘆じたと云う話がある。中学の教科書などに出ている話である。それはとにかく、盛政の軍 は、拝郷、青木等の働きで何とか退軍を続けて居た。暁暗の四時過ぎ、秀吉は猿ヶ馬場に床几 を置かせ、腰打かけて指揮を執って届た。さて、安井左近大夫、原彦次郎等もようよう引退い て、盛政ど一手になったので、盛政少し力を得て、清水谷の峠へ退いて傭を立直そうとした が、秀吉の軍は矢鉄砲を打って追かけるので、備を直す暇もなく崩れた。彦次郎左近大夫二人                   ずっ                    しん逓り は、一町寓に鉄砲の者十人、射手五六人宛伏せて、二人代る代るに殿して退こうとするが、 賎ヶ缶合戦 ************************************ 5 3 1 ************************************                      いとま                  いいのうら 秀吉先手の兵が忽ちに慕い寄るので、鉄砲を放つ暇もない。止むなく、飯之浦に踏み止まろう                       じんだて どした。加藤虎之助、桜井左吉進み出て、盛政の陣立直らぬうちに破らん事を秀吉に乞うた。 秀吉笑って許さず、馬印を盛政勢の背後の山に立置く様に命じて置いて、菓子を喰い茶を飲ん で悠々たるものである。柴田勝政は三千余騎で、賎ヶ岳の峰つづき堀切辺りで殿戦して居た が、兄盛政から再三の退軍を命ぜられたので、引取る処を秀吉軍の弓銃に会い、乱軍となって 八方に散った。落ちて行くうちに不意に秀吉の千成瓢箪が行手に朝日を受けて輝き立って居る ので、周章狼狽した。秀吉この有様を見て居たが、すは時分は今ぞ、者共かかれと下知し、自 ら貝を吹立てた。夜も全。く明けた七時頃、秀吉は総攻撃を命じたのである。旗本の勢も一度に 槍を取って突かかったが、真先に石川兵助、拝郷五左衛門ど渡合った付れども、五左衛門が勝                                   すぐ った。兵助の首を取ろうとする処へ、盛政の使来って相談すべき事があるから直に来れと命を 伝えた。五左衛門聞入れず、引くべき場所を引取らぬ不覚人の盛政、今更何の相談ぞ、既に北                   かすや 国の運命尽きる日ぞど云って返し戦う。糟屋助右衛門、好敵と見て五左衛門ど引組んだ。助右 衛門、ついに上になり首を掻こうとするのを、五左衛門すかさず下から小刀で二刀まで突上げ たが、鎧堅くて通らず討たれて仕舞った。佐久間勝政も庭戸浜で戦って居たのを、加藤虎之助 同孫六真一文字に突かかり難なく追崩した。浅井吉兵衛、山路将監も今は防ぐ力もなく下余吾 方に落行く処を、渡辺勘兵衛、浅井喜八郎大音挙げて、見如ったるぞ両人、返し戦えと挑戦し                                    ほ ず み たが、二人共山の崖を踏外して谷底へ転げ落ちた。麓を通る大塩金右衛門の士八月一日五左衛 門に討ち取られたど云うが、一説には加藤虚之助と引粗み、崖から二一二十間も上になり、下に 6 3 1 ************************************                   と なりして転げ落ちた末、っいに将監首を獲られたども伝える。直木三十五氏が、加藤清止は山 路将監を討った以外、あまり武功がないとけなしていたが、山路将監を討ったと云ふ事も伝説 に近いのである。宿屋七左衛門尉は鳥打坂の南で、桜井左吉と戦って、左吉に痛手を負わせた 処を、糟屋助右衛門来った為に、両人の為に討止められた。佐久間勝政も、飯之浦で福島市 松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内等の勇士が槍先を並べてかかるのを、兵四人までを切落し て戦ったが、遂に斬死した。盛政も、奮戦し夫が、総軍今は乱軍のまま思い思いに退却であ る。盛政例によって大音声を挙げ、味方の諸士臆病神が付いたのか、と罵ると、原彦次郎日く 「仰せの如く味方の兵が逃げるのは、大将に臆病神取付いて引返して備うる手段を採らない故 である。退單に勝利のあるわけがない」と云い放った。盛政;冒もなしである。前田利家父子 は二千騎をも■って備えて居たが、敗軍ど見るや、華々しい働きもなく早速に府中に引取った。 利家の出陣は、別段、勝家の家臣であるからでもなく、ただ境を接するの故をもってであり、 且つ秀吉どは寧ろ仲が菩かった位であるから、体のいい中立を持したわけである。此合戦に先 んじて、秀吉利家の間にある種の協定さえあったと思われるのである。丹羽長秀、これを見て       しよさい                          つい 時分はよしと諸砦に突出を命じた。北国勢全く潰えて、北へ西へど落ちて行った。小原新七等 七八騎で、盛政等を落延びさせんと、小高き処で、追い来る秀吉勢を突落して防いで居るの を、伊木半七真先に進んで、ついに小原等を退けた。  此時の合戦に、両加藤、糟屋、福島、片桐、平野、脇坂七人の働きは抜群であったので、秀                 ずつ 吉賞して各々に感状を授け、数百石宛の知行であったのを、同列に三千石に昇らしめた。これ 137 賎ヶ岳合戦 ************************************ が有名な賎ヶ迂七本槍である。石川兵助、伊木半七、桜井左吉三人の働きも、七本槍に劣らな かったので、三撮の太刀と称して、重賞あったと伝わって居る。              (玄(ら  さて北軍の総大将勝家は、今市の北狐塚に陣して居たのであるが、盛政の敗軍伝わるや、陣 中動揺して、何時の間にか密かに落ちゆく軍勢多く、僅か二千足らずになった。勝家嘆じて、       はや          したが 盛政、血気に逸って我指揮に随わず、この結果となったのは口惜しいが、今は後悔しても甲斐                             めんじゆ なきこと、華かな一戦を遂げたる後、切腹しよう、と覚悟した。毛受庄助進み出て「今の世に 名将と称せられる君が、この山間に討死あるは末代までの恥である。よろしく北の庄に入っ て、心静かに腹を召し給え」と凱め、自らは勝家の馬印をもって止り防がんこどを乞うた。勝 家、庄助の恵諌を容れ、金の御幣の馬印を授けて、馬を北の庄へと向けた。庄助、兄茂左衛門 と共に三百騎、大谷村の塚谷まで引退いて寄せ来る敵と奮戦して、筒井の家来、島左近に討た れた。  勝家、其間に北の庄指して落ちたのであるが、前田利家の府中城下にさしかかった時は、従                                  よしみ う者僅かに八騎、歩卒三四十人に過ぎない。利家招じ入れると勝家、年来の誼を感謝して落涙                   かね ねんごろ に及んだ。勝家、利家に「貴殿は秀吉ど予て懇であるから、今後は秀吉に従い、幼君守立て の為に力を致される様に」ど云った。利家は、朝来、食もとらない勝家の為、湯漬を出し、酒                                       かめわり を勧めて慰めた。タ暮になって、乗換の薪馬を乞い、城下を立ち去ったが、嘗つての赦破柴          しようぜん 田、鬼柴田の後姿は、惜然たるものがあったであろう。                                        もろとも  四月二十三日、越前北の庄の城は、既に秀吉の勢にひしひしと囲まれて届た。勝家は城諸共 8 3 1 ************************************ 消え果てる覚悟をして居るので、城内を広間より書院に至るまで飾り、最期の酒宴を開いて居                            おだに た。勝家の妻はお市の方と云って、信長の妹である。始め、小谷の城主浅井長政に嫁し、二男 三女を挙げたが、後、織田対朝倉浅井の争いとなり、姉川に一敗した長政が、小谷城の露と消     キトと えた時、諭されて、兄信長の手に引取られた事がある。清洲会議頃まで岐阜に在って、三女と 共に寂しく暮して居たが、信孝勝家と結ばんが為、美人の誉高い伯母お市の方を、勝家に再嫁 せしめたのである。勝家の許に来って一年経たず、再び落城の憂目を見る事になった。勝家、 その三女と共に秀吉の許に行く様に勧めるが、今更生長える望がどうしてあろう、一緒に相果 てん事こそ本望であると涙を流して聞き容れない。宵からの酒宴が深更に及んだが、折柄、 ほととぎす 時鳥の鳴くのをお市の方聞いて、                       はととぎす    さらぬだに打寝る程も夏の夜の夢路をさそふ郭公かな  と詠ずれば、勝家もまた、    夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山郭公       あけがた  二十四日の暁方、火を城に放つと共に勝家始め男女三十九人、一堂に自害して、煙の中に亡                         うち び果てた。勝家年五十四である。お市の方は、生涯の中二度落城の悲惨事に会った不幸な戦国 女性である。秀吉もかねて、お市の方に執心を持っていたので、秀吉ど勝家との争いにはこう した恋の恨みも少しはあったのであろう、どいう説もある。お市の方の三女は、無事秀吉の手 に届けられたが、後に、長女は秀吉の北の方淀君どなり、次は京極宰相高次の室に、末のは将 軍秀恵の夫人となった。戦国の世の女性の運命も亦不思議なものである。  盛政は勝家の子権六と共に捕われ、北の庄落城前、縄付きの姿で、城外から勝家に対面キ、せ られている。権六は佐和山に、盛政(年三十)は六条河原に、各々斬られた。信孝(年二十六)                            −二− も木曾川畔に自決して居る。清洲会議の外交戦に勝った秀吉は鉱に全く実力の上で、天下を取 ったわけである。 ************************************ 後 記 ************************************ 139 賎ヶ岳合戦 ************************************ この合戦記を作るに際して、  「余呉床合戦覚書』及び「別本余呉床合戦覚書』上下を主たる参考本とし、諸本によっ                 すべ ては人名の多少異るものがあるが今は総てこの覚書に従った。 他に参考としたものは次の如し。   柴田退治記                   よしみ  これは合戦の当年天正十一年十一月大村由巳の著したもので最も真実に近いが故に、こ れによって訂正した処がある。   賎岳合戦記   太閣記   かわずみ   川角太閣記   ふかん   豊鑑   豊臣記 0 4 1 ************************************  蒲生氏郷記  佐久間軍記  崎いしよ弓き  清正記  脇坂家伝記 並に  近世日本国民史  豊臣時代史  日本戦史  やなせのえき  柳瀬役 ************************************ 碧蹄館の戦 ************************************ 碧蹄館の戦 ************************************ 1 4 1 ************************************        鶏林八道躁礪之事     そうよしとも                             かんぜい                 、  対馬の宗義智が、いやがる朝鮮の使者を無理に勧説して連れて来たのは 天正十八年七月で    おりから                        じ妙らく                                o ある。折柄秀吉は関東奥羽へ東征中で、聚楽の第に会見したのは十一月七日である この使が                 わいろう   れいこく 帰国しての報告の中に、秀吉の容貌倭魎面色繁黒、眼光人を射るとある。朝鮮人が見ても、猿 らしく見えたのである。又日く、「宴後秀吉小児を抱いて出で哉国の奏楽を聴く。小児衣上に           じよわ                               カ 遺尿す。秀吉笑って一女倭を呼びて小児を託し、其場に衣を更う。傍に人無きが如くである」 この小児と云うのは東征中に淀君が生んだ鶴松の事である。まだほんの赤坊であるが、可愛い 息子に外国の音楽を聴かせてやろうとの親心であったであろう。傍若無人はこうした応待の傭                                          カ ばかりでない。朝鮮への国書の中には、「一超直ちに明国へ入り、吾朝の風俗を四百余州に易           しねん え、帝都の政化を億万欺年に施すは方寸の中に在り」と書いて居る。朝鮮は宜しく先導の役目 2 4 1 ************************************ を尽すべしと云うのであった、                                   らいこう  朝鮮の王朝では驚いて為す所を知らず、兎も角ど云うので、明の政府へ日本来窟の報知を為 したのである。秀吉朝鮮よりの返答を待つが来ない。                    からいり  天正十九年八月二十三日、ついに天下に唐入即ち明国出兵を発表した。                                        な ご  兵器船舶の整備を急がせると共に、黒田長政、小西行長、加藤清正をして、肥前松浦郡名護 や                     ちんしん         かざもと 屋に築城せしめ、更に松浦鎮信をして壱岐風本(今勝本)に築かしめた。      か  松浦郡は嘗つての神功皇后征韓の遺跡であり、湾内も水深く艦隊を碇泊せしめるに便利であ ったのである。秀吉は、信長在世中、中国征伐の大将を命ぜられたとき、私は中国などはいら ない。日本が一統されたら、朝鮮大明を征服して、そこを頂きましょうと云っていた。                  さいぎ  それは、大言壮語してしかも信長の猜疑を避ける秀吉らしい物云いであったのであるが、そ んな事を云っている内に、だんだん自分でもその気になったのか、それとも青年時代からそん な大志があったのか、どちらか分らない。  明けて文禄元年正月、太閤秀吉は海陸の諸隊に命じて出発の期日並びに順序を定めた。一番                          かずえのかみ は小西摂津守行長、松浦法印鎮信以下一万三千、二番加藤主計頭清正以下二万二千、三番黒田 甲斐守長政以下一万一千、更に四番から二十番まで総軍合せて二十八万である。尤も実際に朝 鮮に上陸して戦闘に参加したのは十五万内外の人数であった。秀吉が本営名護屋に着いた四月 の末頃には、既に行長清正相次いで釜山に敵前上陸し、進んで数城を占領して居る。行長と清 正どが一番乗りを争って、清正が勝ったと云う話は伝説である。三番隊以下の後続部隊も日を ************************************ 143 碧蹄館の戦 ************************************ 隔てて次々に上陸した。先鋒の三軍各々路を三つに分ち、京城を目指して進んだが、処々に合 戦あるものの、まるで無人の境を行く如しと云ってよい位の勢いであった。                               ’ も2)    つ  、つ                              ーノー 一      1  、一  これに対する朝鮮軍の行動であるが、日本軍出動の報が入るど、申位、李鑑の二人をして辺     っかさど 防の事を司らしめた。申砿は京畿、黄海の二道、李鑑は忠清全羅の二道を各々巡視したが、                                     いたず ただ武器を点検する位に止った、申砿の如きは眼中に日本軍なく、暴慢で到る処で徒らに人を 斬って威を示す有様なので、地方官は大いに怖れてその待遇は大臣以上であったと云う。李鐙 は尚州の附近に駐屯して居たが、小西行長の先鋒は既に尚州に迫りつつあった。朝鮮軍の斥候                      かえ はこの事を大将李鑑に報告したが信用しない。反って人心を乱す者であるとして斬って仕舞っ     うち た。その中に陣の前の林中に怪しい人影が動く。人々どうも日本軍の尖兵ではないかと疑った。 が、うっかり云って斬られてもつまらないと誰も口にしない。その内、李鐙自身も怪しく思っ             たちま                                          と て騎馬武者を斥候に出すと、忽ちに銃声響き、その男は馬から落ちるど、首を獲られてしまっ た。まさしく日本軍である。令して矢を放つが届かない。忽ちにして全軍敗走した。李鐙自 身、馬を棄て、衣服を脱ぎ、髪を乱し、裸体で走り、開慶に至って筆紙を求め、使をして敗戦 を報じた。朝鮮側の記録に書いてあるのだから嘘ではなかろう。これが四月の二十四日の事で あるが、二十七日には忠州に於て申砿が敗れた。申位は最初の大言に似ず、日本軍連勝の報に                        こ 恐れをなして、恵州を出動して南下し、鳥嶺の瞼を験える時に行方不明になった。大将が居な      そうじよ弓 くては陣中騒擾するのは当然である。処が斥候の報ずる如くに翌日になっても日本軍が現れ          ど こ ないので、安心して何処からか出て来た。そして先の斥候は偽りを報じたとして之を斬った。 4 4 1 ************************************ 虫のいい話である。間もなく現れた日本勢ど闘ったが忽ちにして敗れ、申砿は南漢江に投じて                              はし 溺死して果てた。この戦場は弾琴台と云って、稲田多く、馬を馳らせるのに不便な処であっ               こ ぽざん た。この戦場より南一里の処に姑母山と称する古城がある。山峡重なって中に川が流れ、一夫                                よ 守って万夫を防ぐに足る要害である。日本軍は必ずや此処に朝鮮軍が拠って居るだろうと斥候                            あき を放ったのに、ロハ一人も守って居ないのに驚いた程である。呆れながら越えて見ると、稲田の     し                  りじよしよう 中に陣を布いて居た。後に明将李如松が日本軍を追撃して此処を過ぎた時、申砿の無策を嘆 じたど云う。折角頼みに思った二将が手もなく敗れた報が京城に達したから、上を下への大混                                  たの 乱である。朝廷諸臣を集めて評議を行ったが、或者が建議するに、敵軍の侍む処は利剣長槍で              かぷと                      かぶ ある。厚い鉄を以って満身の甲を造り、勇士を募って之に被らせ、敵中に突入させれば、敵は 刺す隙を見出せずして勝を得る事必せりと云う。試みに造ってみたが重くて、誰も動く事が出 来なかった。更に一人は漢江の辺に多くの高い棚を築き、上から伏射すれば敵は上る事が出来                             たま ないであろうと進言した。少し気のきいたのが、然らば鉄砲の丸も上る事は出来ないのである                       りんかい        かんきよう かと、反間したのでそのままになった。結局王子臨海君をして威鏡道に、順和君を江原道に                    こうかい         きゆうひん 遺して勤王の軍を募らしめ、王李昭、世子光海君以下王妃宮墳数十人、李山海、柳成竜等百    まも             もうじん 余人に護られて、遠く蒙塵する事になった。四月二十九日の午前二時、士民の哀号の声の中を 西大門を出たのである。  行長、清正の二軍は、恵州に棉会した後再び路を分って進み、五月二日の夕方に清正は南大 門から、行長は東大門から京城に入城した。京城附近の漢江に清正行き着いた時、河幅三四町 碧蹄館の戦 ************************************ 5 4 1 ************************************                           っな に及ぶが、橋が無いので渡れない。対岸を望むど船が多く繋いであるが、敵の伏勢が居ないと         しまら                かもめ も限らない。清正暫く跳めて居たが、『鴎が浮んで居る処を見ると敵軍既に逃げたと覚える、            董た 誰か泳いで彼の船を漕ぎ来る者ぞ』ど云った。従士曾根孫六進んで水に入り、一隻を漕ぎ還っ          らつ たので、次々に船を拉し来って全軍を渡す事が出来た。清正は更に開城を経た後大陸を横断し         かいていそう           とまんこう て西海岸に出で、海江倉に大勝し長駆豆満江辺の会寧に至−た。此処で先の臨海君順和君の二   とりこ                                      おらんカ㌧ 王子を虜にした。まだそれで満足しなかったど見えて兀良拾征伐をやって居る。兀良吟は今の 間島地方に住んで居る種族で、朝鮮人その勇猛を恐れて、野人或は北胡と称して居たものであ る。清正はかくして朝鮮国境まで突破したわけだが、北進中の海岸で、ある日東海はるかに富 士山を認め、馬より降り甲を脱いで拝したど云うが、まさか由日国士山ではあ渇まい。この情景は                                  〜た 昔の絵草紙などに書いてある。しかし懸單数百里望郷の情は、武将の心を傷ましむるものがあ ったであろう。清正の話では虎狩りが有名であるが、十文字槍の片穂を喰い取られたなぞは伝 説である。清正ばかりでなく島津義弘や黒田長政なども虎狩りをやって居る。中には槍や刀で ついに仕止めた話もあるが、清正が十文字槍で虎と一騎討ちをやった記録はない。自ら鉄砲で 射止めた事はあるらしい。  さて一方行長も七月半に大同江を渡って平壌を占領した。かくて、この年の暮頃の京城を中 心どした日本軍の配置はほば次の如くである。既ち京城には、総大将宇喜多秀家を始め三奉行 の増田長盛、石田三成、大谷吉継以下約二万の勢、平壌には、先鋒小西行長、宗義智、松浦鎮指          ぐうぼう        の妻す  ひろかど        、  たカ 以下一万八千の勢、牛峰には、立花宗茂、高橋統増、筑紫広門等四千の勢。開城には 小早川隆 6 4 1 ************************************ かげ  きつかわ 景、吉川広家、毛利元康以下二万の勢、其他占領した各処には、 て届たのである。 ************************************ 部将それぞれ守備を厳重にし ************************************ 於二平壌一行長敗退之事 ************************************                         しんそう  いちはや  日本軍襲撃の報を、朝鮮の政府が明第十三代の皇帝神宗に逸早くも告げた事は前に述べたが                                  あたり 如くである。明では最初この急報を信じて居なかったが、追々と琉球や福建辺からも諜報が飛                                きぴす んで来る。ついに朝鮮王は義州にまで落ちて来た。救援を求める使は、踵を接して北京に至る 有様である。あんまり朝鮮王の逃足が早いので、一明使は朝鮮王が、日本軍の先鋒を承って居                  しようすい                                     ここ るのではないかと疑ったが、王の顔色條悼して居るのを見て疑を晴した程である。明朝弦に    りようよう        そしようくん                                          しじゆ 於て、遼陽の一部将祖承訓に兵三千を率いしめて義州に南下し、朝鮮の部将吏儒以下の二千 の兵ど合して、七月十六日平壌を攻撃させた。平壌を守る小西行長、宗義智、松浦鎮信、黒田 長政等之を迎えて撃破した。長政の部下後藤又兵衛基次が、金の二本菖浦の指物を朝風に翻え し、大身の槍を馬上に揮ったのはこの時である。  さて朝鮮の武将吏儒はこの役に死し、祖承訓は残兵を連れて遼陽に還ったが、明の朝廷へ は、我軍大いに力戦して居た際に、朝鮮兵の一部隊が敵へ投降した為に戦利あらず退いた、と ごまかして報告した。朝廷では、群臣をして評議せしめた。或者日く、南方の水軍を集めて日     っ                                                   なか 本の虚を衝くべし。他は日く、兵を朝鮮との国境に出して敵をして一歩も入らしむる勿れと。          し                         いず 他は日く講和するに如かじと。議論は色々であるが何れども決定しない。しかし朝鮮は必争の 147 ************************************ 碧蹄館の戦 ************************************                     よ 地であり、自衛上放棄する事は出来ない。今能く朝鮮を回復する者があったら、銀一万両を賞 し伯爵を授けようど懸賞募集を行った。悪くない賞与ではあるが、誰も自信がないと見えて応                                    ていほうき ずる者狐無い。そこで今度は意見書を広く募った。その中で予選に当ったのが、程鵬起が海軍            ちんいけい  ゆうぜい をして日本を襲う策と、沈惟敬が遊説をもって退かしめる計とである。前者は行われなかった が、海軍をもって日本を衝く説は良策であったに相違ない。当時朝鮮海峡に於ても日本の水軍  しましま                                              も は園例朝鮮の水師に敗れ、なかなかの苦戦をして居る。今若し優秀強大な艦隊が朝鮮海峡に制 海権を握るならば、遠征の日本軍は後方との連絡を絶たれ、大敗したかも知れない。バルチッ ク艦隊を日本海に撃滅して置かなかったなら、満洲に於ける日露の戦局はどうなったかわから ないと同様である。朝鮮、明にどって惜しい事には、この海軍出動説はついに実現しなかっ た、一方の沈惟敬の説は直ちに採用されて、惟敬は遊撃将に任命された。この男はもと無頼漢                                 とり、㌧ であったが流れ流れて北京に来て居ったが、交友の中に嘗つて倭冠の為に鞠にされ、久しく日                   かねがね 本に住んで居た者があった。その友人から予々日本の事情を聴いて居た惟敬は、身を立っる好                                かんぷくざん 綴至れりとして、遊説の役を買って出たのである。八月末、平壌の城北乾福山の麓に小西行長 と会見した。何故行長が明の使ど会見したかと云うと、行長は既に日本軍遠征をこれ以上に進 める事も好まなかったからである。いい潮時さえあらば講和をなしたいど考えて居たからであ る、明使沈惟敬が来たのは、行長にどって歓迎する処であっただろう。そこで行長は明からの                                        しるし 正式の講穐便を遺わさんことを求め、五十日をもって期限どした。沈惟敬之を承諾して、標を 城北の山に敵てて日朝両軍をして互に之を越える事を禁じて去った。休戦状態である、沈惟敬 8 4 1 ************************************ は北京に遠って、行長等購稿の意ある事を報じた。処が明政府は既に李如松を提督に任命し                              と て、朝鮮救援の軍を遼東に集中しつつあったので、今更惟敬の説を採り上げ様としない、。聴か ない綿りでなく李如松は怒って之を斬ろうとさえしたが、参謀が惟敬をして行長を偽り油断ざ          だけ せる策を説いたので命丈は助かった。期日の五十日を過ぎても明使が来ないので、行長等怪ん で居る処へ、計略を含められた惟敬が来って、購和使の来る近きに在りと告げた。行長等は あざむ  ・ 給かれるとは知らないから大いに喜んで待って居たが、其時は李如松四万三千の人馬が、鴨                                ひだりわき 緑江を圧して、義州に集中しつつあったのである。全軍を三つに分ち、左脇、中脇、右脇と          ようげん                                  りじよはく                ちようせい 呼んだ。左脇は大将楊元以下李如梅、査大受等。中脇は大将李如柏以下。右脇は大将張世 しやく 爵、祖承訓以下。兵数各々一万一千を超え、ほとんど全軍騎兵である。  文禄二年(明暦で云えば万暦二十一年)の正月元目、この三脇の大軍は安州城南に布陣し                     さんたん               りゆうせいりゆう た。当時朝鮮の非常時内閣の大臣どして、苦心惨憎の奔走をして居た柳成竜が来て、陣中に                             たの 会見した。成竜平壌の地図を開き地形を指示したが、如松は倭奴侍む処はただ鳥銃である。我 れ大砲を用うれば何程の事かあらんと云って、胸中自ら成算あるものの姉くである。悠々とし て扇面に次の詩を書いて成竜に示した。    へいをひつさげせい や  こうかんにいたる     提レ兵星夜到二江干一     いうならく さんかんくにいまだやすからずと     為レ説三韓国未レ安     みん し妙 ひに かくしようせつのほう     明主日懸族節報     ぴ しんよるすつ しゆはいのかん     徴臣夜緯酒杯観 149 碧蹄館の戦 ************************************    しゅんらい さつ き こころなおさかんなり     春来殺気心猶レ壮    ここにようふんをさる ほねすでにさむし     此去二妖氣一骨已寒     、だんしようあえていう しようさんなしと     談笑敢言非二勝算一     む ちゆうつねにおもうせいあんにまたがるを     夢中常憶跨二征鞍一                                 また  如松、更に進み、先ず先鋒の将をして、行長陣に告げて日く、「沈惟敬復来る。宜しく之を 迎うべししと。行長等喜んで其士武内吉兵衛、義智の士大浦孫六等二十余人をやった。明軍は                                    ほか 迎えて酒宴を張ったが、半ばにして伏兵起り吉兵衛を檎にし従兵を斬った。孫六他二人は血路    ようや を開いて漸く平壌に逃げ帰った。鉱に至って行長等明の為に欺かれた事を知ったが既におそか った。              ぼたんだい  正月五日には、平壌の城北牡丹台、七星門方面は右脇大将張世爵以下の一万一二千が、城西普                      がんきゆうもん 通門方面は左脇大将楊元以下一万一千が、城南含毬門方面は中脇大将李如柏、朝鮮の武将李 鑑以下一万八千が、来襲した。東は大同江だから完全な包囲攻撃である。平壌に籠る日本再 は、一万一千、夜襲を塵々試みたが成功するに至らなかった。七日午前八時如松は総攻撃を命             7ランク    ヘきれき            ひ や 令した。明軍の大将軍砲、仏郎機砲、露露砲、子母砲、火箭等、城門を射撃する爆発の音は絶                              とつかん 間もなく、烙姻は城内に満ちる有様であった。日本軍は壁に拠って突城して来る明單に鳥銃を                      しかばね              よ あびせる。明軍死する者多いが、さすがに屈せず屍を踏んで城壁を撃じる。日本軍刀槍を揮 って防戦に努めるけれども、衆寡敵せず内城に退いた。李如松楊元等は普通門より、李如柏は                                   すえさと 合毬門より、張世爵は七星門より外城に進入した。此時牡丹台を行長の士小丙末郷、鎮信の士 0 5 1 ************************************ 松浦源次郎の同勢固めて居たが、源次郎は逃れ難くなったので、切腹して果てた。此夜、行長                             ほうざん は諸将と会して進退を議したが、既に兵糧庫も焼れて居るし、鳳山からの援軍も来ない上は、                       ひそか 一度京城へ退いて再挙するに如くはなしど決して、潜に城を出で大同江の氷を渡って京城へと                                     よしむね 落ち延びた。寒気厳しい最中の退却であるから惨憎たる有様であった、鳳山の大友吉統は、平 壌囲まると聞くや仰天して、行長より一足お先に京城へ逃げ込んだ。太閤秀吉聞いて、日本の 武威を汚すものとして、吉統の領国をどり上げた。  平壌に於ける敗戦までは、まだまだ積極的な態度であったが、これ以後の日本軍は処々の戦                                       へきていかん 勝あるどは云え、大局に於て退軍の兆が現れるようになった。だが、その間に在って、碧蹄館      ひ の血戦は、退き口の一戦どして、明軍をして顔色なからしめたのである。 ************************************        碧蹄館血戦之事                                       えけい  平壌敗れたりとの報が、京城に達したので、宇喜多秀家は三奉行と相談して、安国寺恵婁を                      かんぜい 開城へ遣して、小早川隆景に、京城へ退くよう勧説した。隆景日く、「諸城を築いて連珠の如                                    それがし くに守って居るのは、今日の様な事があるが為である。此地は険要であるから、某快く一戦                               さら して明軍ど雌灘を決する所存である。渡海以来の某は日夜戦陣に屍を暴すをもって本意として               かっ 来た。生きて日本へ帰る事など曾て思った事もない。老骨一つ、よし此処に討死しても日本の                 がえん                      ぎようぷしようゆう 恥にもなるまい」と頑張って退く事を肯じない。三奉行の一人大谷刑部少輔吉継、京城より 馳せつけて隆景に説いた。「貴殿の御武勇の程は皆々存じては届るが、今度は主力を京城に集 151 ************************************ 碧蹄館の戦 ************************************                              りんしんこう 結して決戦しようと考えて居るのである。且つはこの開城京城間の臨津江が春釆ど共に氷が解 ける事でもあらば、貴殿の進退は困難となろう」と説得して、ついに開城を中心として四方の                            二とごと 諸城の軍勢も、次々に退却して京城に集った。集った諸軍勢も悉く城内に入ったが、小早川 隆景、及び立花宗茂等の諸軍だけは城内に入らず、西大門外に陣を布き、迎恩門を先陣として 警戒怠りない。城中の諸将は隆景に、軍勢を城内に収めるがよかろうと恵告する上、隆景は瑚 笑って答えた。明の大軍南下するからには必ずこの城を包囲せずには置かないのである。今若                         、     、             しま                             ㌧  カ し我軍悉く城中に引籠って了ったならば、兵糧の道を如何にして守るつもりであるか。各々方 平壌の二の舞を踏みたいわけではあるまいと。 こう云われると誰も答え様がなかった。隆 景の武略、諸将を圧していたのである。さて隆景等が退いた開城には、既に李如松等代って入          めぐら     せんせいてい り、京城攻略の策戦を廻した。銭世槙は自重説を称え、奇兵を出して混乱に乗ずることを主張 する。査大受は、勝に乗じて一挙に抜くべしと論ずる。先ず敵情如何と、査大受一軍をもって           ま 偵察に出かけた処が、坂州を過ぎた附近で、日本軍の斥候隊と遭遇した。僅かな人数なので忽 ち日本の斥候隊は大受の騎兵団の馬蹄に散らされ六十数名の戦死者を出した。喜び勇んだ大受 は勝報を李如松に告げた。時に、日本軍の精鋭は平壌で殆ど尽きて、京城に在るは弱兵恐るる                          ただち に足りない者許りであるとの諜報も来て居るので、如松は直に若十兵を開城に置き、李寧、祖 承訓を先鋒として、自ら二万を率いて出動した。大谷吉継が予見したように、臨津江の氷は半                   かずら ば融けかかって居たので、柳成電工夫して葛をもって橋をかけたので、大軍間もなく披州に入 った。 £ 5 1  ・ ************************************                   たしか                                       まちまち  京城の日本軍では、いよいよ明軍来が確になったので、誰を先手の将どするか詮議区々で ある。隆景進み出て云う様、この大役は立花左近拝監宗茂こそ適役である。嘗つて某の父元就              よししず               た。たらがはま 四万騎をもって大友修理大夫義鎮の三万騎を九州多々良浜に七度まで打破った時に、この宗茂 の父伯書守、僅か二一二干騎をもって働き、ついに大友の勝利に導いた事がある。その武将の子 である宗茂及びその一党、皆覚えあるものと思う、宗茂が三千は余人の一万に当るであろうと 推挙するので、諸将尤もとして宗茂を先陣と定めた。若輩の宗茂は、歴々満座の中に面目をほ             むねと どこして我陣屋へ帰るど、宗徒の面々を呼び集めて、十死一生の働きすべく覚悟を定めた。第 一陣はこの宗茂、並びに弟高橋直正以下三千である。第二陣は、隆景旗下八干の兵、第三隊は    ひでかね 小早川秀包、毛利元康、筑紫広門等五千、第四陣は吉川広家が四千の兵。総勢二万の大将は隆 景である。秀家始め三奉行、黒田長政等も、各々順序を以って陣構えした。                    そ  先陣宗茂の部将小野和泉は、我に一将を副えて前軍ど為せ、敵の斥候隊を打破ろう。斥候が 逃げれば後続の大軍動揺するであろう。そこをつけ入るべしと勧めたから、宗茂は和泉に立花         まえぞなえ 三左衛門を副えて前備どした。池辺竜右衛門進出で、我日本の戦闘は小人数の打合が多い。 しかし明軍の戦の懸引は部隊部隊を以てして居る。これに対抗するには散兵戦では駄目であ                         きま る。と云うので、中備を十時伝右衛門、後備は宗茂と定った。準備は全く整った。その宵黒田 長政例の水牛の角の甲を被って宗茂の陣に来り、一方を承ろうと云った。宗茂の軍、長政の勇 姿を見て奮い立ったと云う。宗茂長政二人とも、二十五歳で、正に武将の花と云ってよかっ た。 153 ************************************ 薯蹄館の戦 ************************************  正月二十六日の午前二時、宗茂の軍は、十時但馬、森下傭中の二士に銃卒各数十人を率いさ せて斥候に出した。この時坂州の李如松も亦出登して京城へ進軍しつつあった。明軍の方でも 既に斥候を放つぱかりでなく、遠近の山野に伏勢を布いたりした。十時森下の一隊は伏勢を察 して、此処かしこ距離を置いて鉄砲を放ち、大勢であるが如くに見せかけた後、突入したから 伏勢は追い出されて散々である。宗茂この報を受けるや直ちに進登を命じた。この朝寒風が強     かゆ                             あたた い。宗茂粥を作って衆と共に喫し、酒を大釜に温めて飲みもって士気を鼓舞したと云う。前傭                  か 小野和泉が出登しようとして居る処へ馳け込んだのは中備の将十時伝右衛門である。伝右衛門 和泉に向って前備を譲らんこどを乞うた。和泉は驚き怒り、軍法をもって許さない。伝右衛門                      こ  ま は和泉の鎧の袖にすがって、今日の戦は日杢尚麗分目の軍と思う。某は真先懸けて討死しよ う。殊死して突入するならば敵陣乱れるに相遠あるまい。其時に各々は攻め入って功を収めら                      た れよ。先懸けを乞うのは八幡大菩薩私の軍功を樹てる為ではない。こう云って涙を流した。和 泉感動して、ついに前軍と中軍と入れ代った。霧が深く展望がきかないままに、明の先鋒査大            けいいんれい 受は二千の騎兵を率いて恵陰嶺を過ぎて陶下したが、十時が五百の部隊、果然夜の明けた七時        みろくいん                               い 頃に遭遇した。弥勒院の野には忽ち人馬の馳せかう音、豆を煎る銃声、剣戟の響が犬地をゆる がした。天野源右衛門三十騎計りで馳せ向うが、明軍は密集部隊であるから馬を入れる隙が無 い。引返さんかとして居ると十時伝右衛門内田忠兵衛と名乗って馬を駆け寄せ、椅をもって突 崩し五六騎を切って落したとある。名乗った処で相手にはわからないであろうが、やっぱり習                           ふう 償で名栗ったらしい。兎に角伝右衛門は必死だから、その風を見て勢いを得た部下は続いて突 4 5 1 ************************************ 入った。明軍は四借の大勢だから伝有衛門の部隊は忽ちに真中に取囲まれて仕舞った。伝右衛 門は総勢を一所に集めて、「敵を間近に引寄せて置いて急に後方に血路を開き、中備の隊まで 引取るべし。然る時は敵勢追って来るであろう。我部隊中傭と合したならば直ちに取って返し 一文字に突破すべし。かくすれば此敵安く追い払う事が出来るぞ」と下知して戦ったが、っい に手負竣災で討死した。自分が声明した通りであった。部隊の死傷百余人である。中傭小野和                     かえ                                とき 泉入替って戦うたが易く破れる気色もない。反ってまた危く見えた処に宗茂二千の兵一度に関 を挙げて押し脊せた。さしもの明軍も少しく退いたので、宗茂八百を後に固め、あとの軍勢は 追撃に移らせたが、此時には既に明軍の後属部隊も到着したから戦は簡単には行かない。池部 竜右衛門以下手負死人二百余に及んで居る、折から隆景の先手の兵が来たので宗茂は、一先ず                            かげお 部隊を引まとめて小丸山に息をつぎ、隆景旗下粟屋四郎兵衛景雄、井上五郎兵衛景貞の六千の 新手に正面の明軍を譲った。明軍の進撃の有様を書いたものに、          しず            ことのほか 「敵の人数色黒み備閑かにして勢い殊之外見事也。間近になるど拍子を揃え太鼓を鳴らし大筒   うちたて  を打立黒姻を立てて押寄すし  とある。相当なものである。また、 「馬の大きさはけしからず候。男もけしからず大きく候。上方衆(日本軍のこど)もけしから ず膨じ入り候也」どある。だから、日本軍も勢い死戦する外はないのである。隆景の先鋒粟屋 井上の両人は、両軍を一つに合して当ろうかと相談した。隆景の士、佐世勘兵衛正勝はその儀 然るべからずと燕めたから、四郎兵衛は左に、五郎兵衛は右に傭を立てて対陣し、大筒小筒を 155 ************************************ 著蹄館の戦 ************************************               みよし 打合ったが、四郎兵衛の手の内三吉太郎左衛門元高の旗持が弾に中って倒れた。其他の旗持之 を見て騒いだから、明軍望み見て関を挙げて攻め押せた。三千の日本軍浮足立ったのを、四郎                       かもん 兵衛馬を左方の高みへ乗上げて下知を下す。粟屋掃部、益田七内、村上八郎左衛門、石原太郎 左衛門、鳥越五郎兵衛、河内太郎左衛門等三十四人の勇士、各々槍を取って踏みこたえた。こ の苦戦の様を見た井上五郎兵衛は高地を下りて援軍しようとすると、佐世勘兵衛また馬の口を 控えて云うには、「暫く待ち給え。粟屋勢崩れるであろうしと止める。案の定四郎兵衛の軍は          わ                                      あっま 崩れて退き、明軍は湧く如くに馳せ上って来る。勘兵衛見て、時分はよし蒐り給えと云う。即 ち井上勢は明軍坂を上ろうとする処へ上からどっと駈け下ったから明軍は忽ちに追い散らさ                            ばうかくけん れ、粟屋勢も取って返した。時に十時頃である。隆景本陣を望客蜆の上に置き馬上戦陣の展開 を眺めて居たが、機正に熟すとして、全單に進撃の命令を下した。小早川秀包、毛利元康、筑 紫広門等五千の軍を右廻して明軍の左側面を衝かしめ、小丸山に待機中の立花宗茂三千の軍を 左廻りして右側面を襲わしめた。隆景自身、井上粟屋勢の後に続いた。追撃して高陽附近に至               すく る頃明将楊元新手を率いて来り援った。李如松も之に力を得、部将李如柏、李如梅、李寧等も いず 執れも自身剣を執って戦った。しかしこの戦場は水田が多く且つ狭隆である為に、騎兵の多い 明軍は自由に馬足をのばす事が出来ず、又密集体形を展開するのにも苦しんだ。日本軍は三方 から攻撃を続けるので明軍次第に敗色を現した。如松は始め、恵陰嶺を越え来る時にも、落馬 して額を傷っけたが、この乱軍の最中にまた馬から落ちた。井上五郎兵衛望み見て忽ち馬を馳   まキ㌧ せて将に椿を如松に付けようとした。明将李有昇馬を寄せて之を遮り、やっと他の馬に乗せて 6 5 1 ************************************                                     やまと 退かせる事を得たが、有昇自らは弾丸に中って戦死した。李如梅の如きは、金甲の倭を手ずか ら射殺すど云うから、日本軍の一隊長と渡合って之を倒しているわけである。この様に明軍も 蕎戦したけれどもやがて寒雨到り行動は益々敏活を欠くのに対して、日本軍は左右の高地から 十字火を浴せたのでついに支うべくもなくなった。激戦の高潮に達したのは正午頃であるが、 間もなく明軍の総退却どなり、日本軍は之を恵陰嶺まで追撃した。だが長追は無用ど云うので           よこた 立花の先鋒小野和泉馬を横えて日本軍を制し、隆景亦休戦を命令した。京城に凱歌を挙げて帰っ たのはその日の暮方で明国朝鮮連合軍の首を斬ること六千余級であると云う。碧蹄館の戦即ち これである。  さて大敗を喫した李如松は開城に退いて明朝へ上奏文を送ったが、その中に日く、                     やまい 「賊兵の都に在る者二十余万衆寡敵せず、且臣病甚し、他人を以て其任に代えんことを請う」 と。今でもそうだが、工合が悪くなったから、病気辞職をしようと云うわけだ。  朝鮮の忠臣柳成竜は之を見て、二十万なぞとは嘘だど云うと、「汝が国人がそう告げたのだ       お れ から、事実は乃公の知った事じゃない」と云った。時に兵糧欠乏を告げる者があったが如松は                 ひざまず 成竜の責任であるとして、之を廷下に脆かしめ、軍法を以って処分しようど怒った。いやし くも一国の廟臣に対して侮辱もまた甚しいわけである。成竜は大事の前の小事と忍んで陳謝し たが、国事のついに鉱にまで至った事を思うと、掌疋ず流沸せざるを得なかったど云う。  いよいよ  愈々加藤清正威鏡道より将に平壌を襲わんとして居るとの流言を聞くや、如松はこれをよい             しりぞ 口実として、成竜の切願をも斥けて聞城から平壌へど退いて再び南下しようどはしなかった。 !57 ************************************ 碧蹄館の戦 ************************************  碧蹄戦後に晋州城攻略の戦いがある。朝鮮役の前役即ち文禄の役中に於ては、この二っが最 も大きい戦争であった。碧蹄の敗後は、明の意気全く衰えて、間もなく購和の事がもち上った のである。日本軍も長い間の戦闘で可なり弱っても居るので、秀吉は一先ず大部隊を帰国せし                      なんじ  ほラ                          もたら めた。購和の交渉は色々曲折があるが、明使、「爾を封じて日本国王と為す」の国書を齋した 為、秀吉を怒らしむることになり、購和も全く破れて再度の朝鮮山兵が起る。これが慶長の役        うるさん で、加藤清正の蔚山籠城なぞはこの時の事である。  碧蹄館の戦いの主動者は、小早川隆景と立花宗茂の二人であることはまえの通りであるが、 此の時京城の日本軍は糧食尽き、三奉行を初め諸将退却の止むを得ざるを知りながら、口先で は強がりを云っていたのである。軍議区々であったが、隆景は病と称して評議の席に出でず、 いよいよ糧尽くる頃を見計いて、軍議の席に出て、「日本勢此都にて餓死しても後米日本のお 為にはならず、退却こそ然るべし」と云ったので、諸将皆隆景説に一致した。その時隆景又日  、「’二一、)’ 一、F日〔■ ■!一匡’一−一r z−)、・\  ノ・一ヨぶ)−)。)丈一\争一ζ〕o ヨ ㌧」\瓦ブ7一ナ 一戸  !コゴ一 く 。と一そて 行斑えく旧者を弓3、㌧耳ヌニしと堰オそξにイ雪左ポ、則ノノ雪ゲマ弁し宅づ、       いたずら るを知りて、徒に退く時は逃げたるに当るべし。是非妓は一ト合戦致し退かでは叶わぬ所な り。と云って全單にて戦わば、大勢退き難からん。明日の合戦は拙者致すべく、その間に人数  くりひか                                   しんが を繰引せられよ、随分一ト合戦致すべし」ど云って、殿り戦を引き受けて大勝したのが、碧蹄                  ま り してん 館の戦である。此の時の隆景の勇姿は摩利支天の如くであったと云われている。  隆景に賛成したのが宗茂で、桐共に雷戦したのである。加藤清正、安辺に在り、日本軍京城 8 5 1 ************************************ の大勝を聞いて、先陣は必ず立花ならんど云ったが、果してそうであった。  この戦いの容子から考えて、日本軍の不統一が分るわけで、京城在城の諸軍隆景と宗茂だけ よく日本のために万丈の気を吐いたわけである。  ある日、秀吉が諸大老と朝鮮の事を議しているどき、黒田如水壁越しに、秀吉の耳に入るよ                                     いくさ うに放言して日く、「去年大軍を朝鮮に遣わされしとき、家康か利家か、でなくば軍の道を知 りたる拙者を遺わさるれば、軍法定まりて滞りあるまじく、朝鮮人安堵して日本に帰順し、明                     ごと                         しおき を征伐せんこと安かるべし。然るを加藤小西若き大将なれば血気の勇のみにて、仕置一様なら ず・朝鮮の人民日本のF知法度を信ぜずして、山林へ逃げかくれ、安堵の思なく、朝鮮の三道 荒野となって五穀なし。兵糧を日本より運送するようにては如何で明に入ることを得ん」ど。 秀吉壁越しに聞き、尤もだと思ったと云うが、まことに朝鮮出兵失敗の根幹を指摘している。 ************************************ 後 記 ************************************  この物語を作るに際して参照した書物は次の如くである。    天野源右衛門覚書  別名『立花朝鮮記』と云われて居る様に、立花宗茂の戦功を、その部下の源右衛門が書い たものである。    吉野甚五衛門覚書   ちようひろく    懲嫁録              じ喰うりん                       いましめ  朝鮮の忠臣柳成竜が、八道を深麟された経過を述べて将来の誠としたもの。    征韓偉略          ちようじゆ                            。  水戸彰考館総裁川口長孫の著で、秀吉の譜、宗凪家記、毛利家記、黒田記略、清正記等 各部将の家記を始め、朝鮮の懲懸録、明の明史までも参照して簡単ではあるが信頼すべきも の。    堀本朝鮮征伐記      其他    日本戦史朝鮮役    近世日本国民史朝鮮役等 ************************************ 159 ************************************ 碧蹄館の戦 合戦4-------- 0 6 1 ************************************ 島原の乱 ************************************ 切支丹宗徒蜂起之事 ************************************  肥後の国字土の半島は、その南方天草の諸島と共に、内海八代湾を形造って居る。この宇土         かみじま                          せんぞく                    しらぬい 半島の西端ど天草上島の北端との間に、大矢野島、千東島などの島が有って、不知火有明の海 を隔てて、西島原半島に相関して居るのである。  天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を征した時、九州全土に勢威盛んであった島津も、                                         “                       たちま  ほうかい                             こう 東西の両道を南下する豊臣勢には敵すべくもなく、忽ち崩潰した程であるから、沿道の小名郷 し       ふう 士の輩は風を望んで秀吉の軍門に投じたのであった。  秀吉は此一円を、始め小西行長に属せしめたが、郷士土民はよく豊臣の制令に服従した。  徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は、豊臣の恩顧を想って敢て徳川幕府に仕 うる事なく、山間漁村に隠れて出でようとはしなかったのである。 161 ************************************ 島原の舌L ************************************            よしつぐ                                      えべ  行長の遺臣益田甚兵衛好次はそれら隠棲の浪士の一人である。始め肥後宇上郡江辺村に晴耕 雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年即ち天草島原の切利支丹一撲の乱が起 )一…一)〔、こ…戸≒二…−童戸雪二多 三三一王:一:二…r・一こニブJ二」,■一一、)茅…「中〕) 一た年の裏 メタ壁、凄に据り起壁、涌に杉り偉λて盾た 一■球乍長ほ域不支月宗の帰価老で麦一、              おしえ たから、その家臣も多くこの教を奉じて居たのであって、益田好次も早くより之を信じて居                          はつと               し た。天正十八年末、徳川幕府は全国に亙って切利支丹、法度たるべき禁令を布いた。これより 宗門の徒の迫害を受けること甚だしく、幾多の殉教哀史をとどめて居るこど世人の知るが如く である。  九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教も先ず、この地に伝わった。 伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じくニハ三七年であるから此間九十年近い歳月があ る。この長い年月に亙っての、宣教師を始めとした熱烈な伝逆は、国禁を忍んで秘かに帰依す る幾多の信徒をつくった。当時海外折衝の要地であった長崎港を間近に控えた島原天草の地に     とまや              ひそ は勿論、苫屋苫屋の朝夕に、密かな祈りがなされ、ひそかに十字が切られた。  大矢野島の益田好次に男子があった。名は四郎、五歳にして書を善くし、天性の英資は人々 を驚嘆させた。幼にして熊本の一藩士の小姓となったが、十二一二の頃辞して長崎に出て明人に                   み 雇われた。ある時一明人、四郎の風貌を観て此子は市井に埋まる者でない。必ず天下の大事を                                  ようや 為すであろう、と語ったど云う。父好次の下に帰ったのが寛永十四年、年漸く十六であった が、英敏の資に加うるに容資典雅にして挙動処女の如くであった。当時は、美少年尊重の世で              まと                                                  そうすい あったから、忽ち衆人讃仰の的となった。この弱冠の一美少年こそは、切利支丹一撲の総帥と 2 6 1 ************************************ なった天草四郎時貞である、                 しげつぐ                いたず         ほしいまま  当時島原一円の領主であった松倉重次は惰弱の暗君で、徒らに重税を縦にした、宗教上の          うんぜん 圧迫も残虐で宗徒を温泉(雲仙嶽)の火口へ投げ込んだりした。領主の暴政に、人心離反して          ひ ご                                                     こう 次第に動揺し、流言輩語また盛んに飛んだ。 病身がちであった将軍家光は既に莞じている が、未だ喪を発しないのだとか、この冬には両肥の国に兵革疫病が起って、ただ天主を信ずる  だけ 者丈が身を全うし得るであろうどか、紛々たる流言である。四郎時貞が父ど共に住居して届る 大矢野島に並んだ千東島に、大矢野松右衛門、千東善右衛門、大江源右衛門、森宗意、山善左 衛門と云う五人の宗門長老の者達が届た。これ等はこの島に隠れる事二十六年、熱心な伝道者       か であったが、嘗つては益田好次同様豊臣の恩顧を受けた者である。                          かみつうら    ば てれん  この年の夏彼等は人心の動揺に乗じて、「慶長の頃天草上津浦の一伴天連が、国禁によって 国外へ追放された時の遺言に、今より後二十六年、天帝天をして東西の雲を焦さしめ、地をし て不時の花を咲かしめるであろう。国郡騒動して人民困窮するけれども、天帝は二八の天章を この地に下し、宗門の威を以って救うであろうとあるが、今年は正にその時に当る」と流言を           かんばつ 放った。丁度この夏は干越で烈日雲を照し、島原では深江村を始め時ならぬ桜が開いたりした                                   はか から、人民は容易にこれらの流言を信ずるに至った。そこで松有衛門は好次と謀って、四郎を      くだ もって天帝降す処の天章ど為し、大矢野島宮津に遺場を開き法を説いた。来り会する老若男女    かたわら       むゆんじゆん                                       みは は、威風傍を払い、護々として説法する美少年の鳳姿に、まずその眼を瞠ったに相遠ない。 その上彼等が尊敬し釆った長老達が、四郎を礼拝する有様を見ては、驚異の念は次第に絶大の 163 ************************************ 島原の舌L ************************************ 尊崇に変った。更に四郎が不思議の神通力を現すと云う嘩は、門徒の信心を強め、薪たに宗門 に投ずる者を次第に増さしめた。四郎天を仰いで念ずるど鳩が飛んで来て四郎の掌上に卵を産                                    うなず み、卵の中から天主の画像と聖書を出したとか、一人の狂女が来ったのに四郎肯くと忽ちに正                         ののし                   おし     いざり 気に遠ったとか、またある時には、道場に来て四郎を罵る者があったが、其場に唖となり壁と なった、などと云う。こうして宗教的熱情は高まり物情次第に騒然となって来た。 「領主板倉氏の宗徒への圧迫ど課役の苛酷さとは、平時も堪えがたし。今年の凶作をもって、 如何にして之に堪えてゆかれよう。今は非常手段に訴えるよワ途はなかろう」この様な論議が 各村庄屋の寄合の席で持ち出される。大矢野島と島原との間に湯島と云う小島があるが、宗徒                                     こら 等は此処に秘密のアジトを置き、天草島原の両地方の人々が来り会して、策謀を凝した。後世         ゆえん 談合島と称される所以である。  島原の南有馬村庄屋治右衛門の弟に角蔵なる者があり、北有馬村の百姓三吉と土八に、熱烈な 信者であった。彼等の父は嘗つて藩の宗門改めに会って斬られた者達であるが、角蔵、三吉は      どくろ                                                      かんぜい 各々の父の燭鰻と天主像を秘かに拝して居たのを、此頃に至って公然と衆人に示して、勧説す るに至った。立ち所に帰する者七百人に及んだが、領内の不穏を察して居た有馬藩では、之が 逮捕に、松田兵右衛門以下二十五人をして、船に乗じて赴かしめた。両名の妻子共々に捕えた                              もと 時に、三吉は角蔵に向って「自分が身を以って教に殉ずるのは、固から願う処だ。しかし五歳 の男児ど三歳の女児の未だ教の何たるかを知らない者まで連座するのを見るど涙がこぼれる」 と云うと、角蔵は、「何と云う事を云われる。我等両人世々教に殉ずる事になったわけで、生 4 6 1 ************************************   はえ 前の栄、死後の寵何の之に加えるものがあろう」と答え笑って縛に就いた。たまたま三吉の家                                    みな で礼拝して居た男女が七十余人あったが、角蔵、三吉両家の者を始め、主謀者と認された者等 すべ 総て十六人が、藩船に乗せられて折柄暮れようとする海へ去るのを見送って、「自分等も早晩                      まみ 刑を受ける事であろう。今はただ相共に天国に見えん事を待つのみである」と呼ばわりなが ら、見送った。これは十月二十二日の事であるが、その翌二十三日、有江村の郷士佐志木作右   やしき 衛門の邸に信徒が集って居るのを耳にした代官林兵右衛門は単身乗り込んで、天主の画像を奪    かまど い破り、竈に投じた。忍従の信徒達もこれを見ては起たざるを得なかったのであろう。座に在           らいし った四十五人は等しく未耗を採って、兵右衛門を打ち殺して仕舞った。ここに於て佐志木作右                ま、                     、                ’カ                      ㌧ 衛門は、千束島の山善左衛門等と図ったが、結局坐ながら藩兵に攻められるより兵を挙ぐるに し 如かずどなった。           ことゆえ                    おそ                いわ 「天主の教を奉じての事故日本全土を敵どするも催るるに当らない。況んや九州の辺土をや。                                         げき 事成らばよし、成らずば一族天に昇るまでの事だ」聞く者皆唯々どして従ったので、挙兵の撤 ぶん                         ち ぢ わ 文は忽ちに加津佐、串山、小浜、千々岩を始め、北は有江、堂崎、布津、深江、中木場の諸村 に飛んだ。加津佐村の代官山内小右衛門、安井三郎右衛門両名は、信徒三十数名に襲われ、鳥     たお 銃の為に艶された。千々岩、小浜、串山三村の代宣目同橋武右衛門は、夜半放火されて驚いて出 る処を討たれた。其他諸々在々の諸役人も同じく襲撃されたのである。  時に島原の領主松倉重次は、江戸出府中の事であるから、留守の島原城は大騒ぎである。老 臣岡本薪兵衛は、士卒をして船で沿津を偵察せしめるが、ほとんど、津々浦々が一撲である。 165 ************************************ 島原の舌し ************************************            ことごと うかつに上陸した者は、悉く襲われる始末である。殊に一撲は代官所を襲って得た処の鳥銃 槍刀の武器を多く手に収めて居る。其上に尤来が島原の人民は鳥銃製造の妙を得て居て、操作            み え の名手も、少なくない。三会村の百姓金作は針を遠くに懸けて置いて、百発百中と云う程で、 人呼んで懸針金作と称した位である。          おおおの  銃の名手丈でなく大斧を揮う老農があるかと思えば、剣法覚えの浪士が居る。こうした油断 のならない一撲の群が何処にひそんで居るかわからないのだから、軍陣に慣れて居る藩士達も 徒らに奔命に疲れるばかりでなく、諸処に討死をする。一撲の方では三会村の藩の米倉を奪取 しようどさえした。  隣国の熊本藩、佐賀藩では急を聞いて援軍各々数千を国境にまで出したが、国境以外は慕命 がなければ兵を進めることは法度である。豊後府内に居る幕府の目付が救援を許さないので、 次第に騒動が大きくなるのを眺めているだけだった。  島原城から繰出した討手の軍勢も散々に反撃を受けて、早々に退き籠城しなければならなか った。宗徒勢は城下の民家社寺を焼き払って陣を布いた。此頃になると宗徒勢も大軍をなす程 であるから、誰か総大将を立てようとの論議が出て来た。さらば稀代の俊英天草四郎時貞こそ 然るべしと云うので、大矢野宮津の道場に急使をたてた。四郎は直ちに諾して、「我を大将ど                したが 仰ぐからには、如何なる下知にも随うべし。陣立を整う故に早々各地の人数を知らしむべし」 と命令した。道場の周囲には既に七百の武装氏が集って居た。間もなく四郎は警固の者四五十 人と共に、島原の大江村に渡った。首謀者達は此処で相談した結果、先ず長崎附近へ人数一万 6 6 1 ************************************               ひ み     も ぎ 二千余を二つに分けて遺わし、日見峠、茂木峠に布陣して長崎を見下し、使をやって若し宗門 に降らざる時は、一度に押し降って襲撃放火し、その後、勢いに乗じて島原蛾を乗取るべしと                              ま七』 定めた。要地長崎を窺う軍略は一時の暴徒の考え得る処ではない。将に、出動しようとして居 る処へ天草の上津浦から使が来た。日く、「寺沢家の支城雷岡では、宗徒鎮圧の為に三宅藤兵 衛を大将として、上津浦の近く島子志柿辺まで軍勢を指し向けたから至急に加勢を乞う」と。  そこで、長崎進撃を差置いて、四郎千五百を率いて天單に渡り、上津浦の人数ど合して三道                       もとど より進んだ。島子の一戦に寺沢勢を敗走せしめ、本戸まで追撃して、ついに大将藤兵衛を、乱 軍の中に自刃せしめた。何しろ、島中の人民はほとんど総てが信徒なので、征討軍が放っ密偵         もたら は悉く偽りの報告を齋すから、まるで裏をかかれ通しである、  十一月十九日、寄手の軍は富岡城を攻めた。総軍一万二千分って五軍となす。加津佐の三郎    くちの っ                                                     ありや 兵衛、口野津の作兵衛、有馬の治右衝門、千々岩の作左衛門以下千五百人、有家の監物、布津 の大右衛門、深江の勘右衛門以下千二百人、大矢野の甚兵衛、大矢野の三左衛門以下二千五百   もとわたり 人、本渡の但馬、楠浦の弥兵衛以下二千人、上津浦の一郎兵衛、下津浦の治右衛門、島予の                    たぐい 弥次兵衛以下三千七百人、部将皆郷士豪農の類である。総大将四郎時貞は相津玄察、下津浦の          き か 次兵衛と共に二百の塵下を従えて中單に在った。陣中悉く白旗を掲げ十字架を画いた。「山野 悉く白旗に満ち、人民皆十字架を首に懸けるであろうしと云ったバテレンの予言は、此処に実 現したわけである。城は二の丸まで押し破られたが、城兵も殊死して防ぎ、寄手の部将加津佐 の三郎兵衛を艶したりした。既に城も危くなった頃、四郎時貞は不意に囲を解き、軍船海を圧 して、島原に帰って行った。 あった。 ************************************ 江戸幕府急を知って ************************************      きた 、征討の軍来る事近しとの報を受けたからで ************************************ 167 ************************************ 島原の舌L ************************************        板倉重昌憤死之事  江戸慕府へ九州動乱の急を、大阪城代が報じたのは寛永十四年十一月十日の事である。大老 酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋、土井利勝等の重臣、将軍家光の御前で評定して、会津侯   まさゆき                                           ゆる 保科正之を征討使たらしめんと議した。家光は東国の辺防を寛うすべからずと云って許さず、         しげまさ                 いしたに よって板倉内膳正重昌を正使とし、目付石谷十蔵貞清を副使と定めた。両使は直ちに家臣を率                                     たださと いて出府した。上便の命に従うこととなった熊本の細川光利、久留米侯世子有馬忠郷、柳川侯 世子立花忠茂、佐賀侯弟鍋島元茂等も相次いで江戸を立ったのであった。  さて天草から島原へ軍を返した四郎時貞は、島原富岡の両城を攻めて抜けない中に、既に搭 軍が近づいたので、此七は何処か要害を定めて持久を謀るより外は無い、ど断じた。口津村の 甚右衛門は、嘗つて有馬氏の治政時代に在った古城の原を無二の割拠地として勧め、衆みな之 に同じたから、いよいよ古城を修復して立籠る事になった。口津村の松倉藩の倉庫に有った米 五千石、鳥銃二千、弓百は悉く原城に奪い去られた。上使が有江村に着陣した十二月八日に は、原城は準傭整って居たのである。                                      あしづか  城の総大将は勿論天草四郎時貞であるが、その下に軍奉行として、元有馬家中の藍塚忠兵衛                      ありやひさとも 年五十六歳、松島半之丞年四十、松倉家中医師有家久意年六十二、相津玄察年三十二、布津の 8 6 1 ************************************                               よしとも 太右衛門年六十五、参謀本部を構成し、益田好次、赤星主膳、有江休意、相津宗印以下十数名                    にながわ の浪士、評定衆どなり、目付には森宗意、鰭川左京、其他、弓奉行、鉄砲奉行、使番等数十名 の浪士之を承った。如津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々 岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜等十数ケ村の庄屋三十数名が物頭役として十單に分った総 勢二万七千、老若婦女を合せると三万を越す人数を指揮した。  上意をもって集る官軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光 利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして諸将各々兵を出し、城中の兵数に数借する大軍で                 はまて ある。上使重昌は、鍋島勢を大江口浜手より北へ、松倉勢は北岡口浜の手辺に、有馬勢はその                                とき 中間に、立花勢は松倉勢の後方近く夫々に布陣した。十二月十九日寄手関の声を揚げると城申                あわて からも同じく声を合せて、少しも周章た気色も見えない。重昌、貞清、諸将を集めて明日城攻                               キーと めすべく評議したが、有馬忠郷と立花恵茂は共に先鋒を争うのを重昌諭して忠茂を先鋒と定め       れいめい た。二十日の黎明、恵茂五千の兵をもって三の丸を攻撃した。家臣立花大蔵長槍を揮って城を よ                                          かぶと 撃じて、一番槍ど叫びもあえず、弾丸三っまでも甲を貫いた。忠茂怒って自ら陣頭に立って戦        かね うが、城中では予てよりの用意充分で、弓鉄砲の上に大石を投げ落すので、寄手の討たれる者 忽ち算を乱した。重昌之を見て、松倉重次に応援を命ずると、卑怯の重次は、勝てば功は忠茂 に帰し、敗るれば罪我に帰すとして兵を出そうとしない。重昌は忠茂の孤軍奮闘するを危ん で、退軍を命ずるが、土民單に軽くあしらわれた怒りは収らず、なかなか服しようとはせず、 軍使三度到って漸く帰陣した。大江口の松山に白旗多く見えるのを目懸けた鍋島勢も、白旗は 169 ************************************ 島原の舌L ************************************ 単なる擬兵であって、勝気に乗じて城へ懸ろうとすると、横矢に射すくめられて、手もなく退 いて仕舞った。  籠城軍が堅守の戦法は、なかなか侮り難い上に、寄手の軍勢は戦意が薄い為に、戦局は、一           うんぜんおろし              ふる 向はかばかしくない。温泉蔵の寒風に徒らに頭え乍ら、寛永十四年は暮れて行った。其頃慕 府は局面の展開を促す為、新に老中松平伊豆守信綱を上使に命じ既に江戸を発せしめたとの しらせ              ほう 報がなされた。この報を受け取った板倉重昌は心秘かに期する処あって、寛永十五年元旦を                     レ」ら もって、総攻撃をなすべく全單に命じた。元旦寅の下刻の刻限ど定めて、総勢一度に関を挙げ て攻め上げた。三の丸を打ち破る事は出来たが、城中の戦略は十二月の時と同じく、弾丸弓矢 大石の類は雨の如くである。卯の上刻頃には、先鋒有馬勢が崩れたのを切っかけに、鍋島勢、 松倉勢、みな追い落された。立花勢は友軍の苦戦をよそに進軍しないから、貞清之を促すと、 「諸軍の攻撃によって城は今に陥るであろうが、敵敗走の際に我軍之を追わんが為である。且  き晩うろう つ旧磯我軍攻撃に際し・ては諸軍救授を為さなかったから、今口は見物させて戴く事にする」 と云う挨拶である。一旦退いた松倉勢も再び攻めようとはしないので、重昌馬を飛ばして、 「今度の大事、松倉が平常の仕置き悪しきが故である。天下に恥じて殊死すべき処を、何たる                  けしき 態である」と、詰問したけれども動く気色もない。板倉重昌、石谷貞清両人の胸中の苦悩は察 するに余りある。重昌意を決して単身駆け抜けようとするのを石倉貞清止め諌めると、重昌、                     みち 我等両人率先して進み、諸軍を奮起させるより途はないと嘆いた。進軍して諸軍を顧みるが誰                             いでたち    こんおどしのよろい も応じようとしない。従うはただ家臣だけである。重昌その日の山立は、紺絨鎧に、金の采 0 7 1 ************************************                    と}つま                               と 配を腰に帯び、白き絹に半月の指物さし、当麻ど名づける家重代の長槍を把って居た。城中の                                    まも 兵、眺め見て大将ど認め、斬って出る者が多い。小林久兵衛前駆奮撃して重昌を護るが、丸石             さお                なお 落ち釆って指物の旗を裂き竿を折った。屈せず猶進んだ重昌は、両手を塀に懸けて躍り込まん とした時、一丸その胸を貫いた。赤川源兵衛、小川又左衛門等左右を防いで居た家臣も同じく 討死である。久兵衛重昌の死体を負って帰ろうとしたが、これも丸に当って艶れて果てた。伊                           たけたば 藤半之丞、武田七郎左衛門等数名の士が決死の力戦の後、竹東に重昌を乗せて営に帰るを得 た。重昌年五十一であった。       あさぎ              えが  石谷貞清も浅黄に金の五の字を画いた指物見せて、二の丸近くに押しよせた。しかし崖は数 丈の高さであり堀も亦至って深い。城兵また多く来襲して、貞清自らも肩を槍で衝かれた。家 臣湯浅覚太夫がその城兵を突伏せたので、危く重囲を脱し得たが、従士は次々に艶れるばかり          ひようたん                                                  か である。その処を赤い瓢箪の上に小熊を附けた馬印を押し立て、兵五百に先頭して、馳け抜              もんどのすけしげのり ける若武者がある。重昌の子主水佐重矩である。父の弔合戦、父が討死の処に死のうとの血相 すさ                                             いまし 凄まじい有様を貞清見て、貝を吹いて退軍を命じ、犬死を誠めて、切歯するのを無理に伴い帰 った。全線に亙り戦いも午刻には終ったが、寄手は四千余の死傷を出した上に大将を討たせた 様な始末である。之に引かえ城中の死傷は僅に百に満たなかったのであった。  始め幕命を受けて直ちに板倉重昌江戸を出発した時、柳生但馬守宗矩、折柄有馬玄頭邸で能                       はず 楽を見物して居たが、この由を耳にするや、席を外して出で、馬に乗って重昌の後を追った。 品川を駆け抜け川崎まで走りかけたが、っいに追い着く事が出来なかった。日も暮れて仕舞っ 島原の舌L ************************************ 1 7 / ************************************                                         たい たので、止むなく引返した宗矩は、登営して将單に謁し、至急上使を変えんことを乞うた。台 餓を論議する言であるというので、家光の不興は某しい。二冒も下さずに奥へ立った後を、夜 半に及ぶまで宗矩は端然と黙坐したまま退かない。我を折った家光は、ついに宗矩の言を聴い て見るとこうである。 「雌そ宗門の徒は深く教を信じ、身命を軽じても弥えない事武士の節義に於けると異ならない 位である。織田信長の兵威をもってして、如何に本願寺の宗徒、或は伊勢長島、三河の一向一 撲に手を焼いたかを見てもわかる次第だ。内膳正重昌、若い頃、大阪陣に大任を果したから、                                        いえど 百姓一撲何程の事あろうと思召されようが、それは大違いである。且亦、重昌人物たりと難も 三河深沢に僅か一万五千石の小名に過ぎない。恐らくは、細川の五十四万石、有馬の二十一万 石、立花の十一万石等々の九州の雄藩は、容易に重昌の下命に従わないであろう。その為に軍 陣はかばかしからず、更に新に権威ある者を遺すことにで沌力った暁ド重昌何の面目あって帰                           カんけん   さすガ ろうや。あたら惜しき武士一人殺したり」情理整然とした諌言に、流石の家光も後悔したけれ ども及ばなかった。悲しい事には、宗矩の言一々的中したのであった。重昌出陣に際して書残           しる したものに、次の如く誌されてあった。  去年の令畔は江城に腺陣升の緒をしめ、令常の今日は島原に甲の緒をしむる。誠に移り変れ  る世のならひ早々打立候。     あら玉の年の姶に散る花の        名のみ残らばさきがけど知れ 2 7 1 ************************************  重昌の志や悲壮である。名所司代板倉重宗の弟で、兄に劣らぬ器量があり、兄は重厚、弟は 俊敏であったが、つまらない貧乏くじを引き当てたのである。 ************************************ 松平信綱謀戦之事 ************************************  松平伊豆守信綱(此時四十二)が、改めて征討の正使として、嫡男甲斐守輝綱(此時十八)                        ごくげっ 以下従士干三百を率いて西下したのは、寛永十四年極月二十八日であった。副使は美濃大垣の       うじてつ 城主戸田左門氏鉄(此時年六十一)。明けて十五年の正月四日、有馬表に着陣したのであるが、 直ちに軍令を発し陣法を厳重にした。老中の指揮であるから従軍の諸大名も、今度は板倉重昌 の場合の様に、馬鹿にするわけにはゆかない。  十日、信綱は海上から鉄砲で城を撃たせたが、船が少ない上に城は高く思う様にならない。                     オランダ そこで大船を求めしめた処が、丁度平戸沖に阿蘭陀船が碇泊しているのを知った。直ちに廻送       いしぴ や せしめ、城へ石火矢を放たせた。阿蘭陀は当時新教でカソリック教とは新旧の違いこそあれ同 じ宗教の為に闘って居る城へ、大砲を撃ち込むのは心苦しかったであろうが、何しろ当時の日 本政府の命令だから止むを得ない。「智慧伊豆ともあろうものが、外国船の力を借りて城を攻 めるとは、国の恥を知らないものか」手厳しい批評を城中で為して居る者が居る。が、宗徒は スペィンなどからの援兵をひそかに期待していたかも知れぬから、外船からの攻撃は兵気を阻 喪させたに違いない。  信綱は持久の策を執る決心をして居たから、兵糧米を充分に取寄せて諸單に分った。二月初 173 ************************************ 島原の乱 ************************************ 旬には、九州の諸大名も薪手をもって来り会したから、信綱は令して諸軍の陣所を定めた。即 ち北岡浜上り西南へ二百二十六間を熊本藩、次の十九間を柳川藩、次九間島原藩、次に十九間 久留米藩、次百九十三間佐賀藩、次四十間唐津藩、次三百間は松平忠之兄弟、長蛇の陣はひし                                     いくさ ひしと原城をどり囲んだのである。信綱、氏鉄並に、板倉重矩等は中軍を形造り軍目付馬場利           なりずみ                               よりみつ 重を熊本勢へ、同牧野成純を柳川、久留米、島倉の営へ、榊原職允を佐賀の陣へ、林勝正を福 岡唐津の軍へ、夫々遺わして、本営との連絡を厳重にした。更に信綱は各陣に指図して、高い 井楼を築かしめた。井楼の上から城を術して矢丸を射込もう策戦である。  信綱は更に城中の大将四郎の甥小平をして、小左衛門の手紙を持って城内に入らしめた。そ の手紙の趣と云うのは、                                        ばら  一、寄手の軍勢は数十万余にて候…・−(中略)江戸様よりの御詫に、切利支丹の百牲原に侍  衆そこなはせ候こと、いらざる儀と思召され候間、柵の所に丈夫に仰付けられほし殺しにな  され候やうにと仰聞かされ候。  一、(前略)城より落つるもの三四人御座候処に、命を御助けなされ、其上金銀を下され、  あまつさ                             つかまつ  剰 へその在所の内にて当年は作り取に仕り(後略)  一、天下様仰出でられ候は(中略)、切利支丹の儀は、当歳子によらず御果しなされ候に相                                まカ  定め申し候。いま発起に附きて(中略)無理に切利支丹に勧められ罷り成り候は、聞召し届                                      あいそむ  けられ、御助けなさる可く候事、上意の由に御座候(中略)勿論切利支丹宗の儀相背き難く  存じ候者は、籠舎仕り相果て候とも、その段は銘々次第と存じ候。(後略) 4 7 1 ************************************  一、城中大将四郎ど申す儀、隠れなく候。その年来を聞召し候へば、十五六にて諸人を勧    かよう                      これなく                                        これ  め、薪様の儀を取立て申す儀にては無之候と思召し候条、四郎が名を借り取立て申すもの有  あり  之と思召し候。左様の事に候はど、大将四郎にて御座候とも、罷り出でたる者これ在るに於  ては、御赦免罷り成る可きの由に御座候事。        かく  一、我等ども此の如きの身上に罷り成り、右の通り申し遺し候事、相果て候を迷惑に存じ申 入る様に思召され御心中御恥しく存じ候。ゆめく左様にては御座なく候。一中略一城中よ  り出で申し度しと申す者ども御出し候はど、御断りを申し城中へ参り、一処に相果て申す可  く候。(後賂)  言々誠意の溶れるのを見る事が出来る。この手紙と同時に、四郎の母と姉からも、城中の甚 兵衛、四郎宛に、同趣旨の手紙を送って居る。四郎の母は法名をマルタど称し、四郎旗挙げに 際して、熊本藩の手に捕われたのだが、母の為に臆するなく存分に働けと四郎へ云い送った程 の女丈夫である。  しかし事ここに至っては肉身の情に打ち勝ち難かったものと見える。  この二つの手紙の返事は即日城内より齋された。それには「各々御存知の如く他宗の者。を無 理に切利支丹にして居る事は無い。満城の衆みな身命を天主に捧げる覚悟までである」  と書かれてあった。  事実城を抜けた者は三万人中前後数名に過ぎず、信仰の力は、天下の勢を前にして催れなか ったのである。             、 175 ************************************ 島原の舌し ************************************  この後信綱自ら四郎へ、降伏すべき手紙を送ったが、四郎の返書には、松倉氏の暴政を綿々 として訴え、信仰の変え難きを告げ、                         戸                    こハはが                         ユ                                                         ー  ’’  −’ 「みな極楽安養すべきこと、何ぞ疑ひこれあるべく候哉、片時も今生の暇、希ふばかりに候」 と結んで居る。  智慧伊豆の謀略をもってしても、今は決戦する丈の道しか残されて居なかった。  十日頃、城中に於て度々太鼓が鳴り響いて舞踊をして歌を歌う者がある。寄手耳を傾けて聴 いてみると次の様な文句である。             よせしゆう     か㌧れ、か㌧れ、寄衆もつこてか㌧れ、寄衆鉄砲の玉のあらん限りは、     とんどと鳴るは、寄衆の大筒、ならすどみしらしよ、こちの小筒で、          りしよう     有りがたの利生や、伴天連様の御影で、寄衆の頭を、すんど切利支丹。                    しろぎわ  十一日、寄手は、地下より角道を掘って城際に到ろうど試みるど、城の方でも地下道を掘っ て来る始末である。日暮れた頃、城中三の丸辺から火が挙がるのを寄手見て失火であろうと推      あに 測したが、山豆計らんや生木生草を焼いて、寄手の地下道をくすべて居たのであった。                          へきえき              くすのき  其後、この地下道へ、糞尿を流し込んで、寄手をして畔易せしめたりした。楠流の防戦ふ りには信綱以下大いに困却したに相違ない。信綱は止むなく城中を探ろうと、西下途次、近江 甲賀から連れて釆た忍びの者達に、探らしめたが、城内の者は皆切利支丹の文句を口にするの で、一向心得のない忍びの者達は、城中にまぎれ住む事が出来ない。これも亦失敗であった。  さて籠城軍も、寄手の持久の策に困惑して来た。四郎時貞、五奉行等と議して、 6 7 1 ************************************                       なお 「我が弾丸兵糧も残少なくなって来た。我軍の力猶壮んなる今、敵営を襲って、武器糧米を奪       −li うに如くはない。細川の陣は塁壁堅固の上に銃兵多いから、之を討てば味方に死傷が多かろ う。有馬、立花の陣は地形狭くして馳駆するに利なく、結局特に鍋島、寺沢、黒田の三陣を襲 わん。出づる時には刀槍の兵を前にし、退く時は銃隊を後にし、かけ言葉はマルと相呼ばん」 と定めた。        おばろ                やぐら  二十一日の夜、藤月夜に暗い二の丸の櫓に、四郎出で立って、静かに下知を下した。  黒田の陣へは、藤塚恵兵衛、大江の源右衛門、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千四 百、寺沢の営へは、相津玄察、大矢野三左衛門、有馬の治右衛門始め六百人、池田清左衛門、 千々岩の五郎左衛阿、加津佐の三平以下一千人は鍋島の営へ、夫々粛々と進み近づくや、一斉 に関を挙げ火を竹東につけたのを投げ込んだ。  用心はして居ても不意の夜襲であるから、黒田藩の家老黒田監物は討たれて形勢非であった が、黒田隆政自ら槍を揮って宗徒三人を突伏せ更に、刀を執って進み、「隆政これに在り」と 叫んで衆を励まして漸く追い払った。           たいまつ           かばね  監物の子作左衛門、松炬を照して父の屍を見て居たが、自らも従士五六十を率いて突入して 果てたと云う。                       なぎなた                  きず  寺沢の陣でも騒動したが、三宅藤右衛門、白柄の薙刀を揮って三人を斬り、創を被るも戦う のを見て諸士亦奪戦して斥けた。藤右衛門は、本戸の役に自刃した藤兵衛の子であるから仇討 ちをしたわけになる。宗徒勢を討つこと三百人余であった。                            キー 信綱、氏鉄、夜討ちの現場を視察して、城兵の死霞の腹を割かしめて検した処が、海草の類 を見出した。これによって、城内の兵糧少ないのを知ったのである。 ************************************ 聖旗原城頭推落之事 ************************************ 島原の乱 ************************************ 7 7 1 ************************************  城中の糧食尽きたのを知った信綱は、諸将を会して攻撃の方略を議した。其頃、上使の一人             かっしげ として出陣した水野日向守勝成は、「我若き時、九州に流浪して原城の名城なるを知る。神祖 家康公が高天神城を攻めた時の如く、兵糧攻めに如くはない」  と云いも終らず、戸田氏鉄は、 「然らば糧尽くるを待とう」  と云った。勝成大声に、 「既に今日まで百日余の遠巻きをした。糧尽きたのは明かだ、今はただ攻めんのみし  と怒号した。                      、  氏鉄は又、             、 「さらば城に近い細川鍋島の勢をして攻め、他は聞を合しめよう」と云うど、勝成潮笑って、           あずきざか  ういじん 「我十六歳にして三州小豆坂に初陣して以来τ十余戦、未だ踊の声ばかりで鶏軍した覚えがな       あわ        いかん い。諸軍力を協せずして如何ぞ勝とうや。老人の長居は無用、伜美作守勝俊も大阪陣大和口に て、後藤又兵衛出張の時名を挙げた者だ。御相談の役には立つ筈」と云い棄てて起って仕舞っ た。 8 7 1 ************************************                   きま  ここに於て、軍議は二十五日総攻撃と定ったのである。当時城内の武傭の有様を見るに石火                                      やかぜづつ 矢八十挺、三二十目玉から五十目玉までの大筒百挺、十匁玉より二十目玉までの矢風筒三百 挺、六匁玉筒千挺、弓百張、長柄五百本、槍三百本、具足二百領、其他とあるから、相当なも のである。  さて期日の二十五日も、その翌日も雨なので、攻撃を延期して届る中、二十七日の昼頃、突 然鍋島の一隊が命を待たずして攻撃に移った旨を、本営に告げる者があった。信綱楼に昇って                                 つづみ 望むと告ぐるが如くである。「火を挙ぐるを見て起き、鐘を聴いて飯し、鼓を聴いて進み、貝 を聴いて戦え」と云う軍令も今は無駄になった。信綱即ち、直ちに全單に進撃を命じた。  先駆けを試みた鍋島勢を目付して居るのは榊原職充であるが、総攻撃令近づくや先登したく  たま て堪らず、鍋島勝茂に向って、「公等は皆陣を布いて柵を設けて居る。我等は軍目付の故をも              よりのぷ って寸尺の地もないが、愚息職信始め従士をして柵を結ぶ事を学ばしめたいから」と云って割 込んで仕舞った。職信年十七の若武者で秘かに従士七八人と共に、城の柵を越えて入った。見 覚えのある上に赤の布に白い餅の指物が、城を乗り越えて行くのを見て、流石の職充も驚い た。直ちに白に赤い丸二つの指物がその後を追う事になる。  一番驚いたのは鍋島勢である。信綱の命を伝うべき軍目付親子が敵城へ乗入れたのだから、                            うえしろ 今はとかくの場合ではないと、軍勢一同に動いて、鍋島勝茂の上白下黒筋違いの旗も、さっと 前へ進んだ。鍋島勢が信綱の命に反して先駆したのではなくて、軍目付自ら軍律に反した始末 なのである。 179 ************************************ 島原の舌L ************************************  この職充は平常士を好んで、嘗つて加藤清正、福島正則等、国を除かれ家を断たれた時、そ、 の浪士数十人を引取った程である。この時の戦いにこの浪士達が日頃の恩顧を報じて功を立て て居る。  水野勝成は、鍋島先登の事を聞くや、五千の軍を整えて、子勝俊の来るのを待った。  勝俊白馬に乗り、金の旗掲げて来るど、五千の兵勇躍して進んだ。        しつた  勝俊は馬上に叱喀して、 「鍋島勢を排して進め」と命じた。  城外の地勢険阻な処に来ると、馬を棄てて子の伊織十四歳になるのを伴って進んだ。激戦な                         もくのじよう ので、掲げる金の旗印が悉く折れ破れた。旗奉行神谷杢之丞、漸く金の旗を繕って、近藤兄弟 をして、崖を登って掲げしめた。  城外に在った勝成は、            た 「大阪の役に児子の功を樹てた事があったが、今日児孫の先登を見る」と云って涙を流して喜 んだ。                             しようじようひ  細川越中守忠利は、地自、上に紺の九曜の紋ある旗を掲げ、狸々緋の二本しないの馬印を 立て、黒白段々の馬印従えた肥後守光利と共に、三の丸前門を攻撃した。  先鋒の部将長岡式部、城中に姻が起るのを見て一直ちに前門に進撃した。  奥野伝右衛門なる士が刀を揮って門を破り聞いた。前兵悉く城内へ行ったが、城の部将大塚 四郎兵衛、相津左兵衛三千五百の人数で門を守って居るのと衝突した。西門を、有江掃部五百 0 8 1 ************************************ で守って居たのが、式部を見て、槍を並べて突出した。武部の軍欝戦して斥け、逃げるのを追 。った。  黒田恵之、同長興、同隆政は、大江門を目指して進んだが、忠之は余り急いだので甲を着け             すいおう                               かぶと て居る暇がない。老臣黒田睡鶴追い付いて諌めたので、鎧は着けたが、猶冑を冠らない。              など  冑を冠るど左右が見えない等ど理屈を云い乍ら進むと、城の部将本渡の但馬五千を以て逆襲 し、その勢いは猛烈である。                   しりぞ                      うえした  為に黒田勢三百余忽ち討たれて少しく郁くのを、忠之怒って、中白上下に紺、下に組みの紋 ある旗を進め励ます、睡鴎は然るに自若として休に坐して動こうとしない。                     おいば  忠之、「如水公の時屡々武功あったと云うが老童れたのか」と罵って之を斬ろうとする処に                              たいかっ 弟隆政現れて漸く止めた。睡鶴暫く四方を観望して居たが、忽ち大喝して軍を進めついに大江 門を抜いた。                         くぎぬき        とりげ  もう此頃には、三の丸池尻門辺に、上白下黒白黒の釘貫の旗や、白い鳥毛二つ、団子の馬印          とようじ が立てられて、有馬豊氏、同恵郷の占拠を示し、三の丸田尻門辺には立花忠茂の上白下黒、黒 の処に紋ある旗や、松倉重次の黒に中宋筋一つの旗が眺められた。  二の丸辺に、熊毛二段の団子、下に金の団子の馬印が動くのは、寺沢恵高が乗り込んで居る からであり、その後に、赤い旗が進むのは、小笠原忠政、同長次が進みつつあるからである。  信綱の子輝綱は、従士十数名と共に、馬印も掲げず秘かに城へ向うを、地白紋登りはしごの 総帥旗の下に、地白紋赤き丸三つの旗掲げた戸田氏鉄と共に、本営に指揮して居る信綱に見付 181 ************************************ 島原の舌L ************************************                        や    。          いわかみ かった。信綱軍令に反すとなして、酒井三十郎を遣って止めるが聴かない。岩上角之助行っ て、鎧の袖を掴んで放さないので、輝綱は怒って斬ろうとした。角之助は、敵手に艶れんより 公の手に死なんと云って猶も放さない。遂いに止められた。  信綱は徒らに兵を損ずるを憂えて、諸單に令して、各々占拠の地に陣を取り、夜明けを待っ ことを命じた。        かがりび    せきぜん  陣中の盛んな簿火は、寂然たる本丸を、闇の中に浮き出させて居た。                    ひと  二十八日卯の頃、総軍十二万五千余は、均しく内城に迫った。城中の宗徒も今日が最後と覚       やだま 悟したから、矢丸を惜しまず、木石を落し、器具に火をつけて投げ、必死に防ぐ。攻囲軍たじ ろぐと見ると門を開いて突出したが、反撃に支え切れず再び城に逃げ込んだ。  寄手はそこで石火矢を放ったから、城内は火煙に包まれて、老弱の叫声は惨億たるものであ る。      ひおどし  板倉重矩緋絨の鎧に十文字の槍をさげ、石谷十蔵と共に城内に乗り込んで、      かたき 「父重昌の讐を報ぜん為に来た。四郎時貞出でて戦え」と大呼した。  たまたま              よしとも                                おどら  会々宗徒の部将有江休意、黒髪赤顔眼光人を射る六尺の長身を躍して至った。重矩の従士左 右から之に槍を付けようとするのを、重矩斥けて立ち向った。重矩の椅が休意の額を刺し、血 が流れて眼に入ったので、休意は刀を抜いて斬りかかって来た。重矩抜き合すや、休意の有肩 を斬り下げてっいに艶した。                          お  後に間もなく、信綱知って之を賞し、水野勝成は自ら侃ぶゑ千多国房の刀を取って与えたと 2 8 1 ************************************ 云う。                                  すけざ えもん  細川の先鋒長岡佐渡等の一隊は、四方に四郎時貞を求め探した。その士陣佐左衛門は、火煙                                       ゼぱ をくぐって石塁中に入って見ると、一少年の創を受けて臥床するのを発見した。一女予傍に在 って嘆き悲んで居る。佐左衛門躍り込んで少年の首を斬って出ようとすると、女が袖を放さな い。三宅半右衛門が来て、その女をも斬った。  忠利、少年の首は時貞のであろうと信綱の見参に入れた。時貞の母を呼んで見せると、正し く時貞の首であった。                  せいさん  かくて籠城以来、本丸に翻って居た聖餐の聖旗も地に落ちて、さしもの乱も終りを告げたの であった。  これより先、寄手の放った弾丸が、原城中の軍議の席に落ちて、四郎を傷けたことがある。                         けんげき        あた 城兵は、四郎を天帝の化身のように考え、矢石当らず剣戟も傷くる能わずと思っていたのに、                     とみ 四郎が傷いたので、彼等の幻影が破れ、意気頓に沮喪したと云われる。                          さら  幕軍は、城中に在ったものは老幼悉く斬って、その首を泉した。  天草の乱平ぎ、切利支丹の教えは、根絶されたと思われた。  しかし、こばれた種は、地中にひそんで来ん蕎を待っていた。  明治初年信教の自由許され、カソリック教の宣教師が来朝し、長崎大浦の地に堂宇を建て      きと,つ て、朝夕の祈穣をしていると、どこからともなく集って来た百姓が、宣教師の背後に来て、し ずかに十字を切った。 183 ************************************ 島原の舌L ************************************       ふ その数が日に殖えて ************************************ 後 記 ************************************ 、日本に於けるカソリック教復活の先駆を成したのである。 ************************************ この物語を作るに際し参考どしたものは次の如し。   島原天草日記   松平輝綱の陣中日記   島原一撲松倉記   天草士賊城中話 城中の山田佐右衛門の口述書で、一名『山田佐右衛門覚書』ども云う。   立花宗茂島原戦之覚書   肥前国有馬古老物語   原城紀事   徳川実記   其他 4 8 1 ************************************ 山崎合戦 ************************************  明智光秀は、信長の将校中、第一のインテリだった。学問もあり、武道も心得ている。戦術 、も上手だし、築城術にも通じている。そして、武将としての晶位と体面とを保つ事を心がけて  いる。        もつたい  それだけに、勿体ぶったもっともらしい顔をして居り、偽善家らしくも見えたのであろう。 リアリストで、率直を愛する信長は光秀がすまし過ぎているので、「おい! すますない!」 と云って時々は肩の一つもつつきたくなるような男であったのであろう。  神経質で陰気で、条理も心得て居り、信長のやり方を腹の中では、充分批判しながら、しか しすまして、勿体ぶった顔をしている光秀は、信長には何となく、気になる、虫の好かない所 があったのだろう。  と、云ってガッチリしているのだから、役には立つし、軍役や雑役に使ってソツがないの で、だんだん重用しながらも、信長としては、ときどきそのアラを探して、やっっけて見たく 王85 ************************************ 山崎合戦 ************************************ なるような男であったに違いない。             ばつてき                 ものお  信長は、人を褒賞したり抜擢したりする点で、決して物吝しみする男ではないが、しかしそ                       うち のあまりに率直な自信のある行動が自分の知らぬ裡に、人の恨みを買うように出来ている。浅                                         そむ 井長政など、可なり優遇して娘婿にしたのにも拘わらず、朝倉征伐に行ったときその背後で背 かれた。例の金ヶ崎の退陣で、さんざんな目に会った。 「浅井が不足を感ずるわけはないが」  と云って、信長は浅井の反逆の報を容易に信じなかった。しかし、自分が恨まれないつもり で、恨まれている所に、信長の性格的欠陥があったのであろう。  荒木村重なども、やはりそうである。村重と始めて会った時、壮士なら之を喰らえと云っ て、剣尖に餅か何かをさして、之をさしっけた。村重平然として、口ずから喰ったと云うが、 後で考えればひどい事をする奴だと思ったに遠いない。村重なども、相当重用しながら背かれ ている。松永久秀などもそうである。  光秀反逆の原因は、丹波の波多野兄弟を、光秀が、命は請け合ったど云って降服帰順させた のを、信長が殺してしまった事。家康が安土に来るとき、光秀に饗応の役をさせた所、あまり に鄭重に過ぎたので信長が怒って途巾で止めさせた事。森蘭丸が信長に近江にある亡父の旧領 がほしいと哀願したところ、三年待てと云った。どころがその旧領は、現在光秀の所領なの で、三年の裡には、自分の位置が危いことを知って、反逆の意を堅めたと云う説。                                   き か  その他いろいろあるが、三年待て云々の話は多分嚇だろう。此の頃の信長塵下の武将など、 6 8 1 ************************************ 信長勢力の発展と共に、その所領は常にいろいろ変更されているのだから、近江で呉れたもの を中国辺で呉れるものと思えば、心配することはないのである、とかく蘭丸と光秀とをいろい ろからませている話は、若年にして本能寺で死んだ蘭丸の短生涯を小説化するため、大抵は仕 組まれたもので、信長が蘭丸に光秀を折橋させたなども多分嘘である。戦国時代の武将が主君        ちようちやく 自らの心安立ての打灘なら、或は辛抱するかも知れないが、小姓などを使って殴られて、寸 時も辛抱するわけはないと思う。そんな事があれば、その場で抵抗するか、或は切腹したに違 いない。           そむ  しかし、光秀が信長に反いたのは、平生の蟹憤を晴すと同時に、あわよくば天下を取ろうと する大志が、あったに違いない。秀吉が、信長の横死を機会に信長の子孫を立てずに自分で天 下を取ったのを、光秀はもっと積極的に、自分の私憤を晴すと同時に、天下を志したに違いな い。「三日天下」など云う言葉が残っている以上、当時天下の人心は、光秀のそうした大志を           けいし 知っていたに違いない。京師の地子銭を免除したり相当政治的なこどをやった以上、信長を殺 せば後は野となれ山となれ的な棄鉢でやった事ではない。    あたご  例の愛宕山の連歌で、         あま        さつき     どきは今天が下知る五月かな                               ろうかい   しようは  ど云う発句を見ても、天下を狙う大志が躍動しているわけである。老櫓なる紹巴は、その時                         、                        カ                 、 、 気が付いていたど見え、光秀の敗軍と知るや愛宕山に馳けつけて、知ると云う字を消して、そ の上に再び如るど、かいて置いた、そして、秀吉に訊間せられた時、「天が下成る」であ。った 王87 ************************************ 山崎合戦 ************************************               、  、 のを自分に反感を持つものが、知るに訂正したのであると云った。知るどあるのを消して再び 知るとかいた所に紹巴の頭のよさがある。         はら  とにかく光秀の肚は、反逆五分、大志五分であったのであろう。天下を取るこども、必ずし も空想ではなかった。勝家は北国に、秀吉は中国に、滝川は関東にめいめい敵を控えているの だし、秀吉なども光秀の眼からは、現在我々の考えているような英雄に見えるわけはなく、自 分と同輩もしくは以下に見えたであろう。それに、毛利と云う大敵を前に控えて、簡単に攻め 上って来るとは思えなかったのだろう。実際柴田などは、グズグズしてなかなかやって来なか った。                                     よしみ  秀吉や柴田が、グズグズしている裡に、畿内を経営して、根拠を築き、毛利と誼を通じて秀 吉を挾撃して、之を倒せば天下の勢い我に帰すべしと、光秀は思ったに相違なく、そう思った ことをあまり無理だと云えないところもある。その証拠に、堺にいた家康など泡を喰って本国 へ逃げ帰っている。これは、光秀の成功が可能に見えた証拠である。              ただおき  その上、光秀は女婿の細川忠興と親友の筒井順慶など、きっと味方してくれると思ったに違 いない。光秀は、順慶の世話は随分焼いていたのだから、そう思うのも当然であった。  また主殺しなどど徳川時代の思想からは大逆と見られているが、戦国時代に主君を殺したも のは松永久秀、斎藤道三、宇喜多直家以下沢山いるし、親兄第も、邪魔になると殺しかねない 時代であるから、それが名分上の非常な損になるとは思わなかったかも知れない。  とにかく光秀は、私憤を晴すと共に、天下を計ったに遠いなく、私憤だけなら、光秀ほどの 8 8 1 ************************************ 利口な武将が、どうにか理窟をつけて、辛抱出来ない筈はないのである。  光秀の本能寺襲撃は、物の見事に成功した。信忠まで、二条城で父に殉じた。太田錦城と云      こうがい う漢学者は懐慨の士だが、信忠がこんなときに逃げないのは無智の恥を肚じているので犬死だ と云っている。義経が、屋島で弱弓を肚じたのも、無智の肚で、武将たるものはそんな事を肚 ずるに当らないど云う議論である。  秀吉は、中国に在って、信長の死を聞いて相当あわてた。その第一報は、黒田如水の所へ京      そうじん 都の長谷川宗仁ど云うものから飛脚が釆たのである。秀吉は、外に洩れるといけないからその 飛脚を殺せと云った。如水は、手柄こそあれ殺すべきものにあらずど云って、秀吉に内緒でか くまったと呑つが、寛仁な秀吉が、そんな事を云い出すのだから、可なりあわてていたに遠い。 ない。  むろん、毛利には兇報を秘密にして、和を講じた。和成った後、兇報を知らして、かくの次                         ちよつと                 たかかげ 第だが追撃をするかどうかと訊いた。毛利の方でも、一寸迷ったが例の小早川隆景、秀吉の大                                   は 量を知って、此上戦うの不利を説いたので、秀吉後顧の憂いなくして京師に走せ上る二とが出 来た。その上毛利の旗さしものを借りて、毛利の援兵があるように見せかけることにした。当 時秀吉の居城は、姫路である。秀吉魔下の者にとっては、故郷である。だが秀吉は姫路を通る とき、家へ立ち寄るものあらば斬るべしと厳命した。秀吉の軍兵が光秀の予期よりも早く淀川 を圧して攻め上って来たのも故あるかなである。本能寺の兇変が、天正十年六月二日で、山崎 合戦は同じく十三日である。秀吉の用軍の神速知るべしである。 189 ************************************ 山崎合戦 ************************************                                       そば  備中の陣に、兇報が来たとき、黒田如水は秀吉に悔みを呑つかわりに、するするど傍へ寄っ て、その膝を叩き、 「御運の開けさせ給う時節到来せり、よくせさせ給え!」  と云った。秀吉が、心の底で思っていることを、あまり露骨に云ったので秀吉は、生涯如水            はばか を信頼しながらも、一昧偉るところがあったど云われている。  秀吉だって、信長の死はわが開運のチャンスと思ったに違いない。光秀は、私憤を利用し て、無理にそう云うチャンスを作ろうとし、秀吉は、偶然そう云うチャンスが到来したので、 信長の死をチャンスだと考える点では、同じであっただろう。  だから、『太闇記』の作者は、 「天下順に帰するや山崎の一戦なり。天下逆に帰するや山崎の一戦なり。順と云ふも至順にあ らず、逆と云ふも至逆にあらず、順逆ともに似て非なるものなれども、これを明らかにする かがみ           さと     さとし                                   もてあそ 鑑なく、これを察らする識なく、英燈一個の心智を以て、四海万姓を弄ぶ事、そも/\天の 意なるや」となかなかしゃれた事を云っている。  秀吉の軍勢は、二万六千余で、先陣はわが戦国時代のクリスチャン・ゼネラル高山右近であ                    しようにゆうさい った。第二陣は中川瀬兵衛、第三陣は池田勝入斎だ。           ち  勝入斎は、信長どは乳兄弟なので、その弔合戦に先陣を望んだが、高槻の城主高山右近は、                      からす 「わが帰城は最も京に近い。京近き合戦に、わが鴉の旗見えねば、高山いかにせしかと云われ んしとて、先陣を望んで止まないので、到頭その届城の順一序に依って、高槻の盲同山、茨木の中 0 9 1 ************************************   はなくま 川、花隈の池田の順になった。                 くらのすけ  光秀の方は、光秀摩下の灘将斎藤内蔵助が中央軍の先頭で明智十郎左衛門、柴田源左衛門等         ひだりぞなえ 之につき、四千人。左傭は津田与三郎、志水嘉兵衛など三千五百人。右備は伊勢与三郎、藤 田伝五郎等二千人である。中央軍の第二陣は、松田太邸左衛門で、その後に光秀旗本五千余騎 を従えて、進んだ。  此の中で、左傭の津田与三郎は、尼ヶ崎の城主で信長の甥である七郎兵衛信澄の家老だっ た。  この信澄は、信長の弟信行の子で、信行は信長に殺されたのだから、信澄に取って信長は伯         あだ 父ではあるが父の仇である。その上、信澄の妻は、光秀の娘である。だから、織田の一族では                   よろこ あるが、本能寺の兇変を聞いて躍り上って悦び、光秀の為に中国から攻め上る秀吉を防ぐつも りでいたが、あまりに早まりすぎて、大阪にいた丹羽五郎左衛門のために殺されてしまった。  織田の一族である信澄が健在で光秀の方に加っていたら、名分の上からも、いくらかごまか              けいしよう しがつくし、殊に此の信澄は軽捷無類の武術があまりうまくなり過ぎて、武術の師匠を冷遇 したので、その連中が丹羽方へ内通したど云われるだけに、生きていたら山崎合戦に於ても、 さぞかし目ざましい働きをしたに遠いない。一国の城主で、織田の一族であるから、光秀に取 っては無二の味方になったに違いないのである。信澄が倒れた後でさえ、家老の津田が軍勢を 率いて加勢に来ているほどである。 『太閣記』などによると、戦場と時刻を秀吉が光秀に通知したなどあり、芝届の『太閣記』 191 ************************************ 山崎合戦 ************************************ 十段目の「互の勝負は云々」など、これから出ているであらうが、そんな馬鹿なことはない。             やく               はぱ  が、光秀が山崎の隆路を掘して秀吉の大軍を阻まんとしたのは戦略上、当然の処置であり、 秀吉の方も亦山崎に於ての遭遇戦を予期していたのであろう。  山崎で戦うどすれば、大切な要地は天王山である。光秀が之を取れば、随時に秀吉の左翼か   こぶしさが ら、拳下りに弓鉄砲を打ち放して切ってかかることが出来るし、秀吉が之を取れば逆に光秀                     いわゆる 軍の有翼を脅威することが出来るのである。所謂兵家の争地である。  だから、光秀は十三日の早暁中央軍第二陣の大将松田太郎左衛門に二千人の兵を附して、そ の占領を命じた。  秀吉も同じく、十三日の早暁堀尾茂助を先ずやり、それでも心もとなく思って、更に堀久太                               、つし 郎をやっている。人数は堀尾、堀二人で四千人である。光秀の方は、丑の中刻で、秀吉の方は 丑の上刻であったと云う。丑の上刻と云えば二時半で、中刻は三時だから、三十分遠いであ る。  が、光秀の方が早かったと云う説もある。正確な時計がないのだから、三十分位はどちらが 早かったか分るものでない。然し、出立の時刻よりも、天王山に到る道程の劇係や、登り遺の 関係も考えねばならぬ。とにかく、秀吉軍の方が、先きへ天王山の頂上を占領して、後から来 る松田政近の軍勢を、追い落した。山崎合戦の勝敗の岐路は、天王山への登山競争にあったわ けである。光秀もその戦略眼に於ては、一歩も秀吉に譲らなかったのであるが、天王山の地理 などには、光秀の方が、その所領の関係上暗かったかも知れないのである。 2 9 1 ************************************                   かはん  光秀は、十三日午前中、全軍を円明寺川畔に展開した。秀吉軍が、展開するのは、ずうっと 遅れた。なぜ、光秀が展開を終った隊勢で、まだ隊勢の整わざる前の秀吉軍を打たなかった か、それが一つの敗因であると戦術家は批評している。  戦争開始前、高山右近の家来の甘利八郎太夫と云う男が、抹几に依って戦機の熟するのを待 っている右近の前に出て、 「私は、只今どちらにしていいか分らない事があるから、御判断を願いたい。お殿様は、私を 無能の人間として、禄など少しも下さっていない。その私が、ここで手柄を現すと、殿様の不 明を現わすこどになって不忠になる。と云って、臆病な振舞をすると、父祖の名を汚して不孝 になる。いずれに致しましょうか」と、三度までくり返して訊いた。皮肉な奴が居たものであ る、右近心中に怒り、斬り捨てんと思ったが、大事の前の小事であり、かつは年々のクリスチ ャンであるし、だまっていると、「不恵の名を取るとも、累代の武名を汚すわけには行かぬ」 と云って、明智勢に切り入って、一番槍、一番首、二番首の功名を一人でさらってしまった。  戦いは、午後に入って始まった。高山右近は、明智の中央軍斎藤内蔵介に向ったが、棉手は 明智方第一の剛将なので盲同山勢さんざんに打ちまかされ、やっと三七信孝、丹羽長秀の応援に   ようや 依って漸く盛り返すことが出来た。  第二陣の中川瀬兵衛清秀は、光秀軍の右翼伊勢与三郎等の單に向った。中川は、元荒木村重               ぬかっか の被官で、以前此の山崎附近の糠塚で、和田伊賀守と云う剛将を単身で打ち取った剛の者で、 勝手知ったる戦場ではあるし、目ざましい奮戦をつづけて、早くも勝機を作ったのである。光 193 ************************************ 山崎合戦 ************************************                       かもん 秀は、之より先天王山が、気になったので、並河掃部、溝尾勝兵衛の二人を応授にやったが、 既に松田の軍破れ松田は討死して、天王山は全く秀吉の手中に落ちてしまっていた。       ちかまさ      はやと  秀吉、生駒親正、木村隼人を天王山方面に増援して、横槍についてかからせた。こうなる                                          おお と、光秀の軍は絶えず右翼を脅威せらるることになり、中央軍の奮戦に拘わらず、敗色既に掩 いがたきものがあった。  それど同時に、左翼は淀川を頼みにして、配備が手薄であったところ、秀吉の第三軍たる池          かちだち 田勝入斎が川沿いの歩立の小路を発見し、潜行して、光秀軍の左翼たる津田与三郎等の陣に切 ってかかった。  光秀が、天王山に関心しながら、淀川の方を気にしなかった事も亦、一っの敗因でなかった かと云われている。  中央軍の斎藤利三父子を初め、左右両翼とも、明智方の将上は、よく奮戦した。関ヶ原当時 の西軍などとは比べものにならない。光秀がいかに人十を得ていたかを知るに充分である。  しかし、天王山が秀吉單に帰し、そのほうから横撃されては、万事すでに去ったと云うべ         ほら く、それと同時に洞ヶ峠にいた筒井順慶の大軍が裏切りして淀川を渡り、光秀の背後に襲いか かって来た。  順慶は光秀の世話になって居り、無二の親友である。だから順慶自身は、光秀の勧誘に、心                        いさ うごいたが、家老杉倉右近、畠左近の二人が主人を諌めて出陣せしめず、ただ人数だけを山崎 の対岸なる八幡の洞ヶ峠に出した。 4 9 1 ************************************  そこで、戦争を見物していて、勝った方へ味方しようど云うのである。今から考えれば、秀 吉が勝つのだから、秀吉の方ヘハッキリ附いていた方が、『洞ヶ峠』など云う醜名を後世にま で残さないでよかったのであろうが、順慶の立場は可なり困難な立場であったし、秀吉光秀の 勝敗も、後世の我々が考えるように簡単に見通しのつくものではなかったに違いない。  後になって、たった四万石の石田三成に二万石で召し抱えられたほどの豪傑、島左近にだっ て分らなかったのである。  とにかく、後世からはその首鼠両端の態度を潮笑されているが、しかし当時は明智の無二の 親友でありながら、家を全うすることが出来たのは、松倉、島両家老の処置宜しきを得たため であるど云われていた。  筒井までが、裏切ったのでは、万事休してしまった。筒井の二心を見ぬいて、明智方でも斎 藤大八郎、柴田源左衛門等が傭えていたが、こうなっては一たまりもなかった。  先陣の斎藤内蔵介は旗本に合するを得ず、戦場を落ちたが明智方の勇士多く討死した。                                おぐるす  光秀は、一旦勝竜寺城に入り、夜の十二時頃に桂川を渡り深草から小栗栖にかかって、土民                   おちうど の手にかかった。物騒千万な世の中で、落人となったが最後、誰に殺されても文句がないので         ひぞく あるし、また所在匪賊のような連中がいて、戦争があるとすぐ落人狩をやり出すのである。本 能寺の変を聴いτ堺から伊賀を通って、三河へ帰った家康だって土民のために危かったし、現 に家康と同行していた甲斐の旧臣穴山梅雪は土民のためにやられている。                                         まん  山崎の合戦の時、近隣の連中が陣見舞に酒肴をもたせて光秀の陣に来た。その中に京都の饅 山崎合戦 ************************************                           ちまき 職巖塩瀬三左衛門と云うものも伺候したが、光秀が献上の綜を、笹をどらずに瞳ったのでび                        こうそう っくりし、これでは、戦争は敗だと思ったど云う。「交綜手に在り」云々の詩がある所以だ。              −    ,,     , ・  , 一  ,   、〕  ・:一・中Σ 、’ 一}コ・、) ) 。’ヨ’F二、一」㌧  ! り一 ) 塩瀬と云う菓子屋は、その頃からあ一、たもので麦るらしい、たカ砂糎ほヤ、一と当咲行メし六這 のだから、現在のようなおいしい饅頭があったかどうか疑問である。その頃、砂糖入りの菓子 を南蛮菓子と云った。今の洋菓子と云うのと同じである。  光秀は、神経質な武将だけに、小胆であろうから、そんな事があったのかも知れない。死ぬ 時辞世がある。    じゆんぎやく にもんなく     順逆無ニニ門一     ご じゆう ご ねんのゆめ     五十五年夢     たい どう しんげんにてつす     大道徹ゴ心源一    さめきたれぱいつしんにきす     覚来帰二心一  多分後世の仮作であろうが、光秀も死ぬまで順逆を気にしていただろう。戦争が済んだ時、                                こし 三七信孝は中川瀬兵衛に近寄って、その戦功をねぎらったが、秀吉は輿に乗っていながら、 「瀬兵衛骨折骨折しと云ったので申川は「あいつ、はや天下を取った気でいやがる」とつぶや いたと云う。  とにかく、光秀どしては宿怨を晴らし、たった十一日間にしろ京師に号令したのだから、石 田三成に比べると、そう口惜しくはなかったに遠いない。 ************************************ 5 9 1 6 9 1 ************************************ 鳥羽伏見の戦 ************************************ 戦前の形勢 ************************************  再度の長州征伐に失敗して、徳川幕府の無勢力が、完全に暴露された。この時既に長州は薩 摩と連合して討幕の計画を廻らしていた。  温健派の山内容堂は、幕府の命運既に尽きたるを察して、幕府をしてその終りを全うせしむ               ゆえん る意味で、大政奉還の止むなき所以を説いた建白書を、慶喜に呈した。当時在京中の慶喜悟る 所あり、十月十三日在京の諸大名群臣を二条城に集めて諮問したる上、翌十四日朝廷へ奏間に 及んだのである。  いずくんぞ知らん、その日は薩長二藩に対し、討幕の密勅が、下された日である。         ともみ  即ち薩長や岩倉具視の肚では武力を以て圧倒しようとする所に、幕府の方から、頭を下げて 釆たのである。 197 ************************************ 鳥羽伏見の戦 ************************************  王政維新の実を挙げ、朝廷の実力を発揮するためには、幕府に一撃を与えて、実力的に圧倒                               かゆ するこどが必要だと思っていたから、幕府からの大政奉還は、痛し痒しであったのである。  だから、それに対して、朝廷には二つ議論があった、その一つは、公武合体派で、慶喜の大 政奉還の許を嘉賞して、新政府組織についても、慶喜に旧将單にふさわしい一役を与えようど 云うのである。他の一派は、宕倉を中心とする排幕派で、既に討幕の密勅も下っている所へ、 大政奉還を申し出でたので、勝手が違ったが、たとえ武力で圧倒できなくなったにしろ、他の           じゆうりん 手段で、幕府の勢力を躁隅しようと云うのである。  所が、排幕派の議論が勝利を占めて十二月九日、王政復古の号令が発せられ、アンチ徳川の    ことごと 連中は悉く復活し、公武合体派は参朝を禁ぜられてしまった。  その夜、小御所に於ける王政第一回の御前会議は、歴史的にも最も意義のある会合で、山内 容堂、松平春嶽が大に慶喜のために説いたが、岩倉、大久保のために、容れられず、両派の論 争激越を極め、一時休憩どなったが、その時薩藩の岩下佐次衛門は、退席していた西郷隆盛に                              ひしゆ 計ったところ、隆盛泰然として「口先では、果しがない、唯一ヒ首あるのみだ」と云った。岩                              なお 下、之を岩倉に告げたので、具視大いに決する所あり、土越二藩尚前説を固執するならば、い                          しげのり かなる不測の変あらんも測られざるに至ったので、浅野茂勲その間に周旋して遂に容堂、春嶽 をして譲歩せしめた。  岩倉説勝を占めて、その翌日慶喜に対し、将軍職辞退の聴許があり、更に退官納地を奉請す      キ』と るように、諭されることになった。 8 9 1 ************************************  此の結果に対して、幕府の上下会桑二藩が、承服する筈はない。  慶喜が、大政奉還を奏請したる以上、その善後策の朝議には、慶喜を初め会桑二藩も当然参                                        しま 加せしめらるべきものと、期待していたに拘わらず、会桑二藩は禁門の警衛を解かれて了う し、慶喜は朝議に参加せしめられないばかりか、新政府に何等の座席をも与えられないのであ るから、彼等の憤葱察すべきものである。              また  此時は、芸兵入京し、長兵も亦入京していたので、慕府及びその一統が、憤慨して手を出せ             はら ば、やっつけてやろうと云う肚が排幕派にあったのである。             き か  その時、二条城には幕府摩下の遊撃隊を初め、例の新選組、見廻り組、津大垣の兵など集っ ていたが、朝廷の処置に憤激止まず、また流言ありて、今にも薩長の兵が二条城を来襲して釆             うが ると云うので、城壁に銃眼を穿ち始めると云うさわぎである。  慶喜は、このまま滞京していてはいかなる事変が突発するかも知れないと思ったらしく、激 昂する塵下を慰撫しながら、閣老参政及び会桑二藩士を率いて、大阪へ下ったのである。  此の下阪に対し朝廷側では大阪の要地を占め、軍艦を以て海路を断ち薩長を苦しめるためだ ろうど疑うものもあり、一大決戦の避くべからざるを力説するものがあり、大阪城中に於て は、会桑二藩の激昂なお止まず、幕府に対する苛酷の処置は岩倉卿を初め、薩長二藩が至上の                                   かん 御幼少なるに乗じて私意を蓬しゅうするものであるから、兵力に依って、君側の肝を除く外ない と切言する。    あんたん  形勢暗溶たるを憂いた尾、越、土の三侯は、慶喜が大阪にいては、いよいよ朝幕の間が疎隔 199 ************************************ 鳥羽伏見の戦 ************************************                             かんぜい するばかりであるから、再度おだやかに上京したらどうかと、勧説したが、幕府側の蔽者は、 今おだやかに上京するなど、最も不利である。上京するなら君側の肝を除く意味で、兵力を率         し いて、上京するに如かずど云う。その賛成者がだんだん多くなって行く。  その時、江戸では、薩摩系の浪士が、乱暴を働いて、西丸に放火したらしい嫌疑さえあり、 遂に三田の薩邸焼払い仁なった。之等の飛報が大阪城に達すると、激昂していた人、心が更に油 をかけられるわけで、温健なる慶喜も、遂に討薩の表を作って、上洛することに決した。  慶応四年の正月三日である。むろん、之より先、伏見、鳥羽、淀には幕兵を配置していた訳 なので、先ずそれらに進軍を命じた。  維新の原動力たりし連中には、武力的に幕府をやっつけない以上、長く禍根を残す憂あり と、信じていたわけであるから、わざわざ幕府を怒らせるように、仕向けた点もあったわけで                             ますみっ ある。江戸に於ける浪士の暴動など、西郷隆盛の密命に依って、益満休之助などが、策動した ことになっているが、しかしこうした事は、文書など残っているわけでないから、いつまでも歴 史上の謎として、残るであろう。  慶喜の上洛は、星越両侯から上洛を勧められたからと云うのは、表面の口実で、内実は討薩 の表を奉って、京都から薩長の勢力を駆逐するつもりであったのであろう。  全軍三万と称したが、ほんどうは一万三四千人であったであろう。         フラン ス  幕軍の中心は、仏蘭西伝習隊で、訓練もよく銃器も精鋭であった。それに、会津、桑名、松 山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。 0 0 2 ************************************          たくみ  京軍の方は、毛利内匠、山田市之丞、交野十郎の率いた八百の長軍、伊知地正治、野津七左 衛門の率いた薩軍が主力で、それに屋張、越前、芸州等、勤王諸藩の兵が加わって一万足らず であったであろう。  幕軍は、伏見鳥羽の両道より進んだ。まだ、ハッキリ交戦状態でないのだから、威圧的に関 門を突破して京都へ入るつもりであったのかも知れない。  鳥羽街道は、大目付滝川播磨守が先鋒となり京町奉行の組与力同心を引き連れていた。人数           こ てすねあて も、わずかに数人で、籠手蹄当して、手槍を持ち、小銃を持っているものは、わずかに数人 で、大砲は一門もなかった、  鳥羽街道は、むかしの羅生門に通ずる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばか り手前の石橋の所まで来た蒔、東寺に駐屯していた薩兵が鳥羽街道を下って来るのとぶっつか った。  両方とも殺気立っているが、まだ戦争ではない。慕軍の方で、「徳川殿上洛せらるるにっき、 我々は先駆である」  と云ったが、藩兵は「我々の方は、未だその御沙汰なければ通しがたし」と云う。再三、押                         しぱら し問答の上、薩兵の方では、「然らば、御所へ伺う間斬日く待たれよ」と云う事になったので、 滝川播磨守は、土地の豪家村岡某の家に入り休息していると、薩長の兵はいつの間にか村岡の 家を包囲し、石橋の上には大砲二門を引きすえ、今にも発砲しそうな擬勢を示したので、播磨 守は形勢の険悪なるを察して、引き退いた。 201 ************************************ 鳥羽伏見の戦 ************************************  午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は、 薩兵ど中島、東池の辺で出会った。           このたぴ  桑名藩より、徳川殿今度勅命により召寄せらるるにより、先手の者上京する由を告げたが、                  にわか 薩兵聴かず、問答を重ぬる裡、。薩州より俄に大砲を打ち出したが、最初の一発に桑名の兵、十 数人打ち重って倒された。これが鳥羽伏見の戦の最初の砲火である。両軍銃火を交えて戦った が、慕軍は行軍のままの隊形だったし、小銃が少いものだから、薩長のために、打ちすくめら      すこぷ れて、死傷頗る多かった。  幕軍が下鳥羽まで退却して、夜の十時近く夜食を喰っているところを、京軍更に夜襲して、 一大激戦となったが、幕軍再び敗れて退いた。だが、京軍の方でも、市木、大山、後藤等の諸 将が倒れた。  伏見口の方には、最初から新選組が幕軍の前衛として、駐屯していた。                げんばのかみ  慶喜が二条城を去った後、永井玄蕃頭が、之を預り大場一心斎塵下の水戸兵二百人ど、薪選 組百五十人が守備に任じていたが、大場は元来勤王思想があるので薩長と気脈を通じている容 子があるので、近藤勇は憤慨して、十七日に二条を去って伏見に来て、其地の奉行所衛兵と合 同して、警傭の任に就いた。                              き ね たろう  所が、以前に近藤勇の為めに、倒された転向勤王派たる、伊東甲子太郎の残党なる鈴木三樹      やすのしん      なりお 三郎、篠原泰之進、加納就確などが、薩摩の伏見屋敷に庇護されていた。  十二月十八日、近藤が上京した帰途、伏見街道藤森に於て突如物陰から狙撃され、その右肩 202 ************************************ に重傷を負った。むろん、伊東の残党の計画であるが、そのために近藤は鳥羽伏見戦争には参                 としぞう 加するこどが出来なかったので、土方歳三が指揮をしていた。  新選組も、この頃は、剣ばかりではどうにもならないのを悟ったど見え、幕軍の間宮鉄太郎 の隊より大砲二門を借りて来ていた。  伏見の方は、戦前から両軍が対時していたわけで、鳥羽口の砲声が、開戦の合図になった。  土方歳三は、伏星斥橋口に陣を布いていたが、鳥羽の砲声を聴くと、浜通りを東へ、京町を 北へ進撃して戦った。所が伏見の東方桃山は、彦根藩が守って居り、幕軍では、自分達の味方 だと思っていた所、薩藩は開戦となると、朝命を以て彦根勢を退去せしめ、その後に自軍の大 砲を運び上げ、伏見の町を眼下に見おろして、打ちまくった。新選組は、伏見の奉行所の門前 に戦っていたが、味方なりと思っていた背後より撃たれたので、一たまりもなく敗れて、勇の         たお 養子周平外十七人艶された。  此夜、十二時近くなって、戦線に到着した窪田備前守塵下のフランス伝習隊は、幕軍の精鋭                                       ふせ で、目覚ましき奪闘をなし、薩藩を破り長州勢を破り、墨染まで北進したが、薩兵の伏に陥 り、傭前守が討死したため、遂に退却した。        はげ  此の夜は終夜烈しい半市街戦が行われ、両軍とも死傷が多かったが、結局幕軍不利で淀まで 退却した。  翌四日、土方は昨夜の敗戦に激怒して、千本松に陣立をなした。鉱は、右は淀川で、左は水 沢の地で頗る要害の隆路で京軍を支えんとしたが、薩長の兵は小銃隊を以て、進撃して手もな                            すすむ く、新選組を打ち破った。そして、大衆文芸でおなじみの山騎蒸を初め三十人ばかり討死し た。剣では、どうにも仕方がなかったのであろう。                       こら                       }  数年来薪選組は、京洛の地に於て、薩長の志士と睨み合っていたが、その清算が今度の戦争 で行われたわけである。                  よ だ  その後、江戸に来ていた近藤勇に、依田学海が「伏見の戦争はどうだった?」と訊いたとこ     そば ろ、彼は傍の土方歳三を顧みて「此の男に訊いてくれ」と云った。土方が、「これからの戦争                 かな は、刀や槍では役に立たぬ。鉄砲には敵わない」と、苦笑しながら答えたのは、有名な話であ る。 ************************************ 203 ************************************ 鳥羽伏見の戦 ************************************                               よしあき               またが 。翌四日にも、幕軍は敗勢を返さんとして戦ったが、此日仁和寺宮嘉彰親王が、金甲馬に跨 り、前駆に錦旗を翻して、陣頭に進まれたので、絶えて久しき錦の御旗を仰いだわけで、官賊 の別が判然としたので、薩長の軍は意気軒昴となり、幕軍は意気沮喪して、いよいよ敗勢の著 しいものがあった。                            あつさのすけ  五日には、淀城附近で会津の槍隊が奮戦して、敵の隊長石川厚狭介などを艶したが、淀城の 城主稲葉家は、例の春日の局の血縁で、幕府には恩顧深き家柄であるに拘らず、朝廷に帰順の 意を表して、幕軍が淀城に拠るを許さず、また幕府のために山崎を守備していた津の藤堂家の 藩兵は、天使を受けて帰順の意を表し、ひそかに薩長の兵をわが陣中に忍ばせて置いて、六日 橋本に陣している幕軍を側面より砲撃せしめた。幕軍の狼狽察すべしである。 4 0 2 ************************************              かいそう  このあたりから、幕軍全く潰走して、大阪へ逃げるものあり、紀州に落ちるものあり、桑名 藩士等は大和から本国へ直接逃げて行った。  慶喜は、六日夜大阪に退き、同夜近臣数人と天保山沖で軍艦聞陽艦に乗ろうどしたが、暗夜 のため見つからず、先ず米国砲艦イロユイスに身を寄せ、翌七日開陽艦に移乗し、八日の夜抜 錨して江戸に向った。 ************************************               しゆうそう 鳥羽伏見戦の第一夜の印象を「秀草年録』の著者は、次ぎのように語っている。   一昨三日、薄暮より伏見の辺に当り、失火、暫くして砲声頻々響き、家屋上に上り見候処          はのお                                    たちま   四五ケ所より出火熔立上り、遂に伏見一円火中どなると見ゆ、忽ちに又右淀城と覚しき   あたり         ごうごう   辺より、砲声轟々烈しく相成り候間、然らば阪兵入侵薩土と合戦の事と推察し、長谷川             おり   氏に至り候処三沢も参り居、種々評議、私は平子と相携へて、大仏に走り、耳塚に上り見                                いでもうすぺし  まかりかえ   候処砲声漸く近く相成り候間、。阪兵入京と相成らば、御所にも伺上出可申と罷帰り、門       かた                             しく      これ   北お御所の方に当り一道の火気を発し、甚だ騒々敷候間、是阪兵への内応と申居り候間、   忽に鎮定、その内に伏見の砲声も追々遠く相成り、京軍勝利の様子に相成り候ま㌧終夜砲    にぶ    これなく   声鈍る事無之、朝四時迄にわづかに相止み申候。 京都の一市民の戦争当夜の感じが、よく出ていると思う。 鳥羽伏見の戦いは、戦いと云うのでなく、一つの大競り合いである。通せ通さぬの問答から の喧嘩のようなものである。  小笠原壱岐守などが、もっど武将らしい計略があったならば、華々しき戦争が出来たのでは ないかと思う。            ま、つ主(                                               こ,つはい            尋     } 、  しかし、当時勤王思想が溝癖どして起って居り、幕府縁敵の諸藩ども轡背に迷って居り、幕 軍自身が、薪選組や会津などを除いた外は、決然たる戦意がなかったのであろう。                しま                   まぎわ  どにかく、幕府はすぐ瓦解して了い、明治政府は成立間際の事なので、この戦争について も、戦記の正確なものが乏しいのは、遺憾である。 ************************************ 205 ************************************ 鳥羽伏見の戦 6 0 2 ************************************ 大阪夏之陣 ************************************ 夏之陣起因 ************************************  今年の四月初旬、僕は大阪に二三日いたが、最近昔の通りに出来たと云う大阪城の天守閣に 上って見た。  天守閣は、外部から見ると五層であるが、内部は七重か八重になっている。五階までエレヴ ェーターで行き、後は階段を昇るのであるが、自分は心臓が弱いため、高所にあると云う感じ だけ                                        ぱいえん                   べつけん 丈で胸苦しくなり、最高眉の窓からわずかに、足下に煤姻の下に横たわる大阪市を瞥見したに 過ぎぬが、その視野の宏大なるは、さすがに太閣の築きたるに恥じないと思った。                                     たかかげ  きつかわ  大阪城の天守五重説は、徳川蒔代の天守が五重であったから起った説で、小早川隆景と吉川                                  げんごにおよばず 元長が、秀吉の案内で天守に上った時の感想には、「大天守は八重にて候、不ン及ゴ言呈巾一候」と ある。だが、実見者の大阪落城絵図では、外見五重になっているから、外見五重で内部は八重 207 大阪夏之陣 ************************************ になっていたのであろう。        ひがしなり                                                       きでん  城は、摂津の国東成郡に属し、東に大和、西に摂津、南に和泉、北に山城を控えて、畿旬                        また                     てんま の中央にあり、大和川の長流東より来り、淀の大江亦北より来って相合して、天満川の会流と なりて、城北を廻りて、西南は瀬戸内海に臨んで、まことに天下の形勝である。  石山本願寺時代、信長の雄略を以てしても本願寺門徒を攻め倒すこどが出来ず、十一箇年の 星霜を費して、やっど購和している。                           のこ            かえ  しかし、秀吉がその愛児秀頼に、この難攻不落の名城を遺したことは、却って亡滅の因を遺 したようなものである。有史以前の生物であるマンモスとかライノソ⊥フスとかいろいろ難し                         ほろ い名の巨獣類は、みんな武器たる爪や甲羅のために、亡んでいる。それは爪や甲羅が大きくな りすぎて、運動秘敏活を欠くためである。                                        ど  秀頼も、秀頼を取り巻く連中も、天下の権勢が徳川に帰した後も、大阪城に拠れば、何うに かなるだろうと思ったろうし、家康も本多正信も秀頼は恐くはないが、大阪城にいる以上、ど うにか始末をつけねばど思ったろうし、結局大阪城は秀頼亡滅の因を成したと云ってよかろ ・つ。  家康にしたところが、絶対に秀頼を亡そうど思っていたかどうかは疑問である。絶対に亡そ うと思っていたら関ヶ原以後、十四年、自分が七十三になるまで時期を待ってはいなかっただろ うと思う。それまで、豊臣恩顧の大名の死ぬのを待っていたなど云うが、しかし家康だって神 様じゃないし、自分が七十三迄生き延びる事に確信はなかっただろうど思う。 8 0 2 ************************************                                   しやしよく  もし、豊家に人が在って、自発的に和州郡山へでも移り、ひたすら豊家の社稜を保っこと に腐心したら、今でも豊臣伯爵など云うものが残っていて、少し話が分った人だったら、大阪 市の市長位には担ぎ上げられたかも知れない。  しかし、秀頼の周囲は、伸々強気で、秀頼が成長したら、政権が秀頼に帰って来るように夢 想していたのであるから、結局亡びる外仕方がなかったのだろう。             1                                             いくばく  大阪冬の陣の原因である鐘銘問題など、甚だしく無理難題である。家康が、余命幾何もなき を知り、自分の生前に処置しようと考え始めたことがハッキリ分る。  秀吉が、生前大阪城を攻め亡すには、どうしたらよいかど戯れに侍臣に語ったところが、誰                          ほり  つぷ も答うる者がなかったので、自分で「一旦扱いをして、濠を潰せば落ちる」ど云ったと云う。 多分後人の作為説であろうが、家康の大阪城に対する対策も同じであって、大阪冬の陣に、和 議を提議したのは徳川の方からである、一度、戦争をして、和議の条件として濠を潰させ、そ の後でいよいよ滅してやろうと云うブラン通りに、大阪方が乗って、行動するのであるから、                              よつき 一たまりもなく亡びるのは当然である。せめて、冬の陣のままで四月か半年も頑張ったなら         よじん ば、当時は戦国の余矯がやっと収まったばかりであるから、関ヶ原の浪人も多く、天下にどん な異変が生じたか分らないと思う。                              てんぽう  大阪冬の陣の嬢和には、初め家康から、一、浪人赦免、二、秀頼転封の二条件を提議し、大 阪方からは、一、淀君質として東下、二、諸浪人に俸禄を給するために、増封の二条件を回答          ばん した。購和進行中に塙団右衛門が蜂須賀隊を夜襲するなどの事があって、大いに気勢を挙げ、 209 大阪夏之陣 ************************************                                     いかく 大阪方可なり強気であったが、家康天守閣、千畳敷などを砲撃して、秀頼母子を威嚇し、結局 の嬢和条件は、次ぎの通りであった。  一、城中薪古将士の罪を間わざるべし。                 うず  二、本丸を除き二、三の丸の濠を埋むべし。                    はるながしちご  三、淀君質となるを得ざるを以て、有楽治長質子を出すべし。  この嬢和条約遠反から、夏の陣が起るのであるが、徴堀だけを潰す約束であったのに、二の 丸三の丸の堀まで潰したので、大阪方が憤慨したど云う説、いや初めから二の丸三の丸を潰す こどを大阪方も認めていたと云う説もあって、決しがたい。濠の問題以外に、家康は大阪方の             ことごとくあいはらわれ                               お 浪人を扶持するに対して「悉被二相払一」と要求したばかりか、古参の衆まで逐わしめんどした と云う。  然し、夏の陣の開戦の直接原因は、秀頼の転封問題である。冬の陣の嬢和の時に、転封問題 はあったのであるが、それは増封の伴った転封であったのであろう。大阪方で転封と云うこと がなければ、大事の城の濠を潰させるわけはない。内約的に栄転的転封を約したのであろう。  三月中旬に、大阪より青木一重、淀君の妹の常高院などが駿府に下り、家康に増封を請願し ているのでも分る。大阪方では、集った諸浪人の扶持のために、ぜひとも増封が欲しかったの である。  つまり、大阪陣と云うのは、ある点からは、関ヶ原で失業した諸浪人の就職戦争であるか ら、購和になった場合には、浪人の扶持問題が起るのは、当然なわけである。 合戦5-------- 210 ************************************  此・の増封を拒絶されて、四月五日に秀頼は、聞戦を決している。  四月二十四日に、家康が大阪に遺した最後通牒は、次ぎの通りだ。       ほうゆう  一、秀頼の封邑中、去年の兵乱に摂津の百姓離散せるは疑うべからざるも、河内は然らず。                            はんばく    (之は変だが、つまり秀頼よりの増封の要求の理由を反駁したのである)  二、嬢和以後浪士は、速かに解放すべきに、却て多数の浪士を招集せしは何故ぞや。  三、城中戦備を整うるを以て、人心の動揺甚し、暫く大和郡山に移封あるべし。  増封乃至は増封的転封を拒絶し、転封だけさせようと云うのであるから、大阪方が怒ってしま・ ったのである、そうすると家康は「止むを得ざる仕合せ」と云って兵を出している。  家康の肚では、濠を潰すための購和であったから、濠が無くなれば、開戦はいつだって、い いのである。濠を潰させる好餌として、有力な人の口から、増封を匂わせたに遠いないのであ る。でなければ、大阪方が何の代償もなしに、大事な濠を潰すわけはないのである。            ばか                  みぐるしき 「大阪の城堀埋り、本丸許りにて浅間ど成り、見苦敷体にて御座候との沙汰にて御座候し            こんちいん  と、正月二十日附で、金地院崇伝は細川思興に消息している。つまり、現在ある大阪城と同 じになったわけである。  家康は、冬の陣以後すぐ戦争準傭にかかり、冬の陣の経験から、大砲を作らしている。『国            ごじよういにより                  きゆうにすんぷにめされられ 友鍛冶記録』に「権現様為二御上意二兀和元年卯之正月、急駿府被為召、同十一日に百五十目   おんつつ                                                はりたてさしあげもうすぺきのむね 玉之御筒十挺、百二十匁玉之御筒十挺、百目玉の御筒三挺、昼夜急き張立指上可レ申之旨、上 意−−−夏の御陣へ早速指上、御用に相立申候」、とある。  また家康は駿府には帰らず、途中でウロウロして、二月七日に遠州中泉で次ぎのような非常 時会議をやっている。            なかいずみにとぎよ まずおぜんをけんじしぱらくおくのまにおいて着おごしよもごたいめんあ灼、 「二月七日辰刻、将軍家渡二御中泉一先献二御膳一暫有下於二奥之間一大御所御対面上本多佐渡守 おなじくこうずけのすけをごぜんにめされ  ごみつだんにときをうつす 同上野介召ゴ御前一御密談移レ刻」  四月初旬には、多くの諸侯に、出征準備の内命を発している。  四月四日には、家康、子義直の婚儀に列する為ど呑つ口実で駿府を出発、十八日、二条城に 入っている。 ************************************ 211 大阪夏之陣 ************************************        塙直之戦死                          。          あかね  ふきぬき  大阪方でも、戦備に忙しく、薪規浪人を募集し、秀頼自ら巡視した。「菌の吹貫二十本、金           やり の切先の旗十本、千本鑓、瓢箪の御馬印、太闇様御旗本の行列の如く……」と、『大阪御陣覚 書』に出ている。  だが、大阪方としては、城濠を失っているのであるから、城を捨てて東軍を迎え撃ち、あわ よくば西将軍の首級を狙う外、勝算はないわけである。                               すな  西軍の作戦として、東は大和口の東軍と河内口の東軍とが河内の砂に相会する所を迎え撃                                       むねよし ち、南は熊野の土冠ど相結んで、稿歌山の浅野を挾撃し、又別に古田織部正の家老木村宗喜に しよく 嘱し、家康秀思の出馬した後京都に火を放どうと云うにあった。                          きた  先ず大野治艮の兵二千、四月二十六日藤掌母虎の砂に来るを待ち要撃せんとしたが、高虎到 212 ************************************       やみ                                                   たつた らざるため、暗峠を越えて郡山に火を放ち、筒井定昌を走らせ、法隆寺村、竜田村に火を放 ち、国府越より河内に引き去った。これが夏の陣の第一出動である。                     ながあきら  四月二十八日大野治房同じく道犬等、浅野長歳の兵を迎え撃たんどして、住吉、堺を焼き、               ばん        なおゆき    かしい 兵火を利用して南下し、先鋒の塙団右衛門直之は、樫井に於て、浅野の先鋒亀田大隅と戦って 敗死した。       なだい  団右衛門も名代の豪傑であるが、大隅も幽霊から力を授ったど云う大豪の士で、その後江戸                                         とぴ 城普請の時、大隅受持の石垣がいく度も崩れるので、秀忠から文句を云われたどき「自分が鶏 の尾の槍を以て陣したときは、一度も崩れたことがないが、石垣は無心のもの故是非に及ばな い」ど豪語した男である。  塙の首級は、暑気の折から損ずるだろうど云うので、家康に抜露しなかった。所がその夜、   かもんのかみ                 つかえ     うわごと 井伊掃部頭の陣中にいた女が、癌おこり護言を口走る。「我も一手の大将なり。然るにわが首                                たたり の何とて、実検に合わざるぞ。かくては、此度の勝利思いも依らず。我崇をなし、禍いを成さ                 けなげ んしど。家康之を聞き「団有衛門は健気なるものなり、首は見苦しくとも実検せん」とて、法 通り実検した。すると、女の瘡は忽ち怠った。家康笑って、団右衛門ゆかりの者なるべしと て、調べるど果して、団右衛門が不びんをかけた吉千屋ど云うものであった。              きはく  これに依って、戦国女性の気醜も分るが陣中に女を伴っていたことも分る。 213 大阪夏之陣 ************************************        片山道明寺附近の戦                      およ  道明寺は河内志紀郡にあって、大阪城の東南凡そ五里、奈良より堺に通ずる街道と、紀州よ り山城に通ずる街道との交叉の要地である。    みそか  四月晦日、大野治房等は樫井の敗戦から還り、大阪で軍議をした。後藤基次先ず国分の狭隆                                すすきだかねすけ を掘し大和路より来る東軍を要撃することを提議した。前隊は基次、薄田兼相、兵数凡そ六千                        ついたち              ひらの 四百。後隊は真田幸村、毛利勝永兵一万二千。五月朔日、前隊は出でて平野に舎営した。                                       れいめい  五日夜、幸村と勝永天王寺より平野に来り基次に云う、「今夜鶏明道明寺に会し、黎明以前                       1   、                       むカ                              ー に国分の山を越え、前後隊を合し、東軍を瞼隆に遺え、三人討死するか両将軍の首をとるかを 決せん」と。軒昂として訣別の杯をかわした。                 さむらい  幸村は、大名の次男だし、基次は士大将に過ぎない。それでいて、意気東軍を呑んでいる のであるから、その気塊その勇気、今でも人気があるのは、当然である。                    かっなり  六日黎明、基次、東軍大和口の先鋒水野勝成、本田恵政、伊達政宗等と片山道明寺附近で遭                                ようせいどう 遇して激戦の末戦死した。之より前家康、本田正信の親族、相国寺僧揚西堂をつかわし基次に 帰降を勧めた事がある。その時、基次「大阪方の運開け関東危しとならば、また考えようがあ                                         から る。只今のように大阪方非運の場合、左様の事は思いも及ばない。さるにても、自分は、唐ま で聞えた秀吉公の御子息から、此上なく頼まれている上に、今また将軍家から、そんな語があ るなと、日本一の武士と云うのは自分の事だろうしと豪語した。しかしその事件から基次、関 214 ************************************         かでん                                        さっそう 東に内通せりとの誰伝ありし為既に死は決していたらしい。その心情の楓爽たる実に日本一の                              あるまじく 武士と云ってもよい。彼の力戦振りは、「御手がら、げんぺい以来有間敷と申すとりざたにて 御座候。日本のおばへためしなきやうに存候」と『芥田文書』にある。彼の奮戦は日本中の評 判になった事が分る。                   。                                かねカた  基次自ら先頭に立ち兵を収めんとしたが、銃丸に胸板を貫かれ、従兵金方某之を肩にせんと                     くぴ  は            うず するも体彊肥肝、基次また去るを欲せず命じて頸を刎ねしめ之を田に埋めた。同日、薄田兼相 亦戦死した。これは、岩見重太郎の後身と云われているが、どうか分らん。濃霧により約東の                                        なら 期に遅れた真田勢は遂に基次兼相の死を救うことが出来ず、伊達隊と会戦した。幸村槍を餅べ        しようき  かつちゆう て迎え、六文銭の族旗、甲冑、その他赤色を用いし甲州以来の真田の赤隊、山の如く敢て退 かず◎午後二時頃城内より退去令の伝騎来って後退した。幸村自ら殿軍となり名退却をなす。           つかまつり                                    もうし 一しづくとしつはらひ仕関東勢百万も候一、男は一人差く候よし讐申、大阪一引取申 候Lと『北川覚書』に出ている。                 あせ  幸村は総大将だけに、基次ほど死を焦らないところ名将の器である。「男は一人もなし」ど 雑言しても、関東勢返す言葉はなかったろう。 ************************************ 八尾若江の戦 ************************************ 五月六日、片山道明寺附近の会戦と同日、 八尾若江両村は道明寺の北二里余。 ************************************ や お 八尾若江方面にも激戦があった。                              なわてみち    高野街道、奈良街道の要地にして、地勢卑湿、水田沼地多く畷道四通する所だ。                   もりちか        これ    大阪方の主将は木村重成、長曾我部盛親の二人。是に向うは河内国の先鋒藤掌筒虎兵五千、   井伊直孝三千二百。                           そうげき                 たかのり    盛親摩下三百を長瀬川堤上に伏せ、敵の十間に追るや槍撃す。藤堂勢中藤堂高刑、藤堂氏勝   等の重臣戦死した。大阪方の奮戦知るべしである。    木村重成も同日午前五時若江に達し、藤堂隊を迎えその右翼を撃破した。然るに井伊直孝優  勢なる銃隊を以て、敵を玉串川の左岸に圧迫し、木村の軍は裏崩れをし重成戦死す。             あしはら            めしつれとおり                        とい   「安藤謹んで日く、今日藍原を下人二一二人召連通候処、麓原より敵か味方かど問、乗掛見れ    さむらい                          ならび       それがし          かもんのかみ 、ば、士一人床机に掛り、下人四五人並居たり。某答て、我は掃部頭士某、生年十七歳敵なら             かの  ば尋常に勝負せよと申。彼士存ずる旨あれば名は名乗らじ、我は秀頼の為に命を進ずる間、首  取って高名にせよと、首を延べて相待ける。     かさね           しようぷなく       とるはうなく   某、重て、士の道に無二勝負一して首取無レ法槍を合せ運を天に任せん、と申ければ、げに誤       おつとり           いなおり             あわせ     すて  りたりと槍押取、床机の上に居直もせず、二一二槍を合、槍を捨、士の道は是迄也。左らば討て  とて     ぜひなく                          いなや■  連待ける故無一是非一首をとる。兼て申付たるか、下人は槍を合するや否、方々へ逃げ失せぬ」                        しよ、つよう 陣 と、「古老物語』にあるが、戦い敗れた後の重成の従容たる戦死の様が窺われる。 之さかやき   たしなみ 夏  重成の首は月代が延びていたが異香薫り、家康これ雑兵の首にまぎれぬ為の嗜、惜む可き 阪 大 の士なりと浩歎した。 15 2 6 1 2 ************************************ 岡山天王寺口の戦 ************************************  五月七日、幸村は最後の戦場を天王寺附近ど定め、城中諸将全部出でて東軍を誘致して決戦            たけなわ し、一隊をして正面の戦酎なる時迂回して背後を衝かしめんとした。  幸村茶臼山に陣し、毛利勝永は天王寺南門に傭え、大野治長の先鋒銃隊東に在り、左方岡山                     なりとよ 口は大野治房を配し、迂回すべき遊軍は明石全登が精兵三百を率いた。又秀頼自ら桜門に出馬 した。                いた  東軍は昨日奮戦した藤堂井伊を労わり退かしめ、岡山口の先陣を前田利常、天王寺口のそれ    ただとも             かんゆう を本多忠朝に定む。然るに桿勇なる松平忠直は、自ら先登を企てた。前日、家康に叱られて、                            ま  こ カッとなっているのである、「公(忠直)は湯漬飯を命じ近侍真子平馬に膳を持たせ、立なが                                         お ら数椀喫せられ、食終て公餅々と諸單に向い、最早皆々満腹すれば討死しても餓鬼道へは堕ち                              、  、  、  、 ず、死出の山を越して直ちに閣魔の庁に入るべし」ど。この辺のいきさつは僕の『思直卿行状 記』の発端である。                             ただなか  東西両軍必死に戦い、東軍では先鋒本多忠朝及び小笠原秀政忠惰親子戦死す。幸村は越前兵              いず に突入した。此の日諸隊躍進何れも先駆の功名にはやり後方の配備甚だ手薄だった。「御所様       さ えもんのすけ 之御陣へ真田左衛門佐か\り候て、御陣衆を追ちらし討捕り申候。御陣衆三里ほどづ㌧にげ 候衆も皆々いきのこられ候。三度目に真田もうち死にて候。真田日本一の兵いにしへよりの物    これなきよし 語にも無之由惣別これのみ申事に候しと「薩藩奮記』にあるが、講談で家康が、真田に遺かけ 217 大阪夏之陣 ************************************               さすが られる話も、全然臓ではない。流石直参の三河武士も三里逃げた。真田一党の壮烈な最後は                            そなえお 「日本にはためし少なき勇士なり。ふしぎなる弓取なり。真田備居る侍を一人も残さず討死さ せる也。合戦終りて後に、真田下知を守りたる者、天下に是なし。一所に討死させるなり」と 云われている。        こちら                      いつせんにおよぴ     あいささえ  此の一戦は「此方よりひたもの無理に戦を掛候処、及二戦一戦数刻相支候て、半分は味方、                       あまたこれある 半分は大阪方勝にて候ひつれ共、此方の御人数、数多有レ之に付き御勝に成る」と『細川家記』 にあるから、大阪方も必死の戦いをしたことが分る。           もうすにおよばず                まかりなり 「大阪衆手柄之儀中々不レ及レ申候。今度之御勝に罷成候へども大御所様御運つよきにて、御 勝に罷成候」と「薩藩奮記』に出ている。  か                        おんしゆく         むねなり  斯くて、大阪方は明石全登、御宿正友、仙石宗也の諸部将相次いで戦死し、城内では内通 者本丸に火をかけ、城内狼狽を極め、遂に松平忠直第一に城に入り斬獲二万余に上る。        すて 「路には御馬印捨候を伊藤武蔵と云ふ広島浪人跡より来り捨たる御馬印を取揚て、唐迄聞えた         おちゆく る御馬印を捨置、落行段大阪数万の軍勢に勇士一人も無し、伊藤武蔵、御馬印を揚帰るとて御 馬印を指上げ城に入る」ヒ「大阪御陣覚書』にあるが、落城の悲惨さが分る。  大野治長は千姫を脱出せしめて、秀頼母予の助命を請うたが、その効なく、東軍は秀頼の籠    くるわ                                                          はやみ る山里曲輸を目がけて砲撃したから、翌五月八日、遂に秀頼淀君と共に自刃し、治長、速水守                 ちなみ                                              く ヂ                                        } 久、毛利勝永、大蔵卿等之に殉じた。因に、『土御門泰重卿記』に依れば京の御所では公卿衆 が清涼殿の屋根から大阪城の火の手を見物して居たと云う。 ’8 1 2 ************************************                         いくさ                     プライド  冬の陣はどもかく、夏の陣は最初から、到底勝てない戦であったが、淀君や秀頼の衿持が強 いのど幸村、盛親、基次、直之などが、いずれも剛直の士で、徳川の世に生きて、かがまって          いさ いるよりも、一死を潔ぎよくしようど思っている連申ばかりなので、到頭不利な戦争をやりど げたものであろう、その上諸浪人なども、戦国時代生き残りだけに気がつよく、みんな元気が よかったのであろう。それに比べると、徳川方の連中は、金持喧曝せずの方で、家康への義理 戦で、打算戦であるだけに、大阪方の勇名ばかりが残ることになったのだろう。  長曾我部盛親だけが大名格で、後は前に書いたように陪臣級である。それにしては、よく戦 ったものである。大阪陣の文献は、みんな徳川時代に出来たものであるにも拘わらず、大阪方       ま の戦死者は、費めちぎられているのは、幸村、盛親、基次、重成など、典型的な武人として、 当時の人心を感動せしめた為であろう。幸村、基次、重成などの名前が、今でも児童走卒にも 伝っているのは、。後世の批判が公正な事を示していて、うれしい事である。こう云う名前は、        にわか 映画や大衆小説の俄作りの英雄豪傑どは又別に、百世に伝えたいものである。  大阪城の勇士の事を思うと、人は一代名は末代と言う格言を素直に肯定出来る。 真田幸村 ************************************ 真田対徳川 ************************************ 219 ************************************ 真田幸村 ************************************                                   てんきゆう  真田幸村の名前は、色々説あり、兄の信幸は「我弟実名は武田信玄の舎弟典厩と同じ名に  あざな                        のぶしげ                たしか て字も同じ」と云っているから信繁と云ったことは、確である。                                      のぷよし 『真田家古老物語』の著者桃井友直は「按ずるに初は、信繁ど称し、中頃宰重、後に信賀と称 せられしものなり」と云っている。                                   のぷより  大阪陣前後には、幸村ど云ったのだと思うが、『常山紀談』の著者などは、信仰と書いてい る。これで見ると、徳川時代には信仰で通ったのかも知れない。しかし、とにかく幸村と云う 名前が、徳川時代の大衆文学者に採用されたため、この名前が圧倒的に有名になったのだろ ・つ。                             すぐ  むかし、姓名判断などは、なかったのであるが、幸村ほど智才秀れしものは時に際し事に触 220 ************************************ れて、いろいろ名前を替えたのだろう。          うんの        まついん  真田は、信濃の名族海野小太郎の末胤で、相当な名族で、祖父の幸隆の時武田に仕えたが、 この幸隆が反間を用いるに妙を得た智将である。真田三代記と云うが、この幸隆ど幸村の子の 大助を加えて、四代記にしてもいい位である。  一体真田幸村が、豊臣家恩顧の武士と云うべきでもないのに、何故秀頼のために華々しき戦 死を遂げたかと云うのに、恐らく父の昌幸以来、徳川家といろいろ意地が重っているのである。  上州の沼田は、利根川の上流が、片品川と相会する所にあり、右に利根川左に片品川を控え た要害無双の地であるが、関東管領家が亡びた後、真田が自力を以て、切り取った土地であ る。  武田亡びた後、真田は仮に徳川に従っていたが、家康が北条と購和する時、北条側の要求に 依って、沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田に沼田を北条へ渡してくれ、その代りお 前には上田をやると云った。  所が、昌幸は、上田は信玄以来真田の居所であり、何にも徳川から貰う筋合はない。その        ほこ                                     かな 上、沼田はわが鋒を以て、取った土地である。故なく人に与えんこと叶わずと云って、家康の 要求を断り、ひそかに秀吉に使を出して、属すべき由云い送った。天正十三年の事である。  家康怒って、大久保忠世、鳥居元恵、井伊直政等に攻めさせた。  それを、昌幸が相当な軍略を以て、撃退している。小牧山の直後、秀吉家康の関係が、むつ                かげかつ かしかった時だから、秀吉が、上杉景勝に命じて、昌幸を後援させる筈であったとも云う。 221 ************************************ 真田幸ネ寸 ************************************    せりあい  この競合が、真田が徳川を相手にした初である。と同時に真田が秀吉の恩顧になる初であ る。            わぽく  その後、家康が秀吉と和睦したので、昌幸も地勢上、家康と和睦した。  家康は、昌幸の武勇侮りがたしと思って、真田の嫡予信幸を、本多忠勝の婿にしようとし                       あるまじき た。そして、使を出すと、昌幸は「左様の使にて有間敷也。使か聞き誤りならん。急き帰って 此旨申されよ」ど云って、受けつけなかった。  徳川の家臣の娘などど結婚させてたまるかど云う昌幸の気概想うべしである。  そこで、家康が秀吉に相談すると、   もつとも   なかつかさ 「真田尤也、中務が娘を養い置きたる間、わが婿にとあらば承引致すべし」と、云ったとあ る。  家康即ち本多恵勝の娘を養女とし、信幸に嫁せしめた。結局、信幸は女房の縁に引かれて、             したが 後年父や弟と別れて、家康に随ったわけである。                    、つじまさ  所が、天正十六年になって、秀吉が北条氏政を上洛せしめようとの交渉が始まった時、北条 家で持ち出した条件が、また沼田の割譲である。先年徳川殿と和平の時、貰う筈であったが、 真田がわがままを云って貰えなかった。今度は、ぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると 云った。此の時の北条の便が板部岡江雪斎と云う男だ。  北条どしては、沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうが、そう云う難題を出して、北条 家の面目を立てさせてから上洛しようど云うのであろう。 2 2 2 ************************************                  うち  秀吉即ち、上州に於ける真田領地の中沼田を入れて、三分の二を北条に譲ることにさせ、残        なぐるみ りの三分の一を名胡桃城と共に真田領とした。そして、沼田に対する換地は、徳川から真田に 与えさせることにした。                             いのまたのりなお  江雪斎も、それを諒承して帰った。所が、沼田の城代となった猪俣範直と云う武士が、我無 しゃらで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃まで、攻め取ってしまったのである。昌 幸が、それを太閣に訴えた。太閣は、北条家の条約違反を怒って、遂に小田原征討を決心した のである。  昌幸から云えば、自分の面目を立ててくれるために、北条征伐ど云う大軍を、秀吉が起して くれたわけで、可なり嬉しかったに違いないだろうと思う。関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく 大阪に味方したのは、此の時の感激を思い起したのであろう。                                      てかせ  これは余談だが、小田原落城後、秀吉は、その時の使節たる坂部岡江雪斎を捕え、手枕足椥                          ほろ をして、面前にひき出し、「汝の遠言に依って、北条家は亡んだではないか。主家を亡して快      のの                                                わる きかしど、罵しった。所が、この江雪斎も、大北条の使者になるだけあって、少しも怯びれ ず、「北条家に於て、更に違背の気持はなかったが、辺土の武士時務を知らず、名胡桃を取り しは、北条家の運の尽くる所で、是非に及ばざる所である。しかし、天下の大軍を引き受け、 はんさい 半歳を支えしは、北条家の面目である」と、豪語した。                  はりつけ  秀吉その答を壮とし「汝は京都に送り礫にしようと思っていたが」と云って許してやった。 その時丁度奥州からやって来ていた政宗を饗応するとき江雪斎も陪席しているから、その堂々 たる返答がよっぽど秀吉の気に叶ったのであろう。  とにかく、最初徳川家ど戦ったとき、秀吉の後援を得ている。わが領地の名胡桃を北条氏が 取ったと云う事から、秀吉が北条征伐を起してくれたのだから、昌幸は秀吉の意気に感じてい たに違いない。  その後、昌幸は秀吉に恵誠を表するため、幸村を人質に差し出している。だから、幸村は秀 吉の身辺に在りて、相当好遇されたに違いない。. ************************************ 関ヶ原役の真田 ************************************ 223 真田幸村 ************************************  関ヶ原の時、真田父子三人家康に従って、会津へ向う途中、石田三成からの使者が来た。昌 幸、信幸、幸村の兄弟に告げて、相談した。  昌幸は、勿論大阪方に味方せんと云った。兄の信幸、内府は薙略百万の人に越えたる人なれ   うちほろば        。                          し ば、討滅さるべき人に非ず、徳川方に味方するに如かずと云う。  こ、』  弦で、物の本に依ると、信幸、幸村の二人が激諭した。佐々木昧津三君の大衆小説に、その 激論の情景から始まっているのがあったど記憶する。                くみ  信幸、我本多に親しければ石田に与しがたしど云うと、幸村、女房の縁に引かれ父に弓引く ようやあると云う。                            りく  信幸、石田に与せば必ず敗けるべし、その時党与の人々必ず薮を受けん。我々父ど弟どの危 きを助けて家の滅びざらんこどを計るべしど、幸村日く、西軍敗れなば父も我も戦場の土どな 4 2 2 ************************************ らん。何ぞ兄上の助けを借らん。天正十三年以来豊家の恩顧深し、石田に味方するこそ当然で                    いさぎよ ある。家も人も滅ぶべく死すべき時到らば、潔く撮舞うこそよけれ、何条汚く生き延びるこ                                ま              まセ』                                             レ どを計らんやど。信幸怒って将に幸村を斬らんとした。幸村は、首を刎ねることは許されよ、 幸村の命は豊家のために失い申さん、志なればと云った。昌幸仲裁して、兄弟の争い各々その 理あり、石田が今度のこど、必ずしも秀頼の為の忠にあらずと、信幸は思えるならん。我は、 幸村と思う所等しければ、幸村ど共に引き返すべし。信幸は、心任せにせよど云って別れたと 云う。                       いぬぷし  この会談の場所は、佐野天妙であるども云い、犬伏と云う所だど云う説もある。此の兄弟の 激論は、恐らく後人の想像であろうと思う。信幸も幸村も、既に三十を越して居り、深謀遠慮 の良将であるから、そんな激論をするわけはない。まして、父と同意見の弟に斬りかけようと するわけはない。必ず、しんみりどした深刻な相談であったに違いない。  後年の我々が知っているように、石田方がはっきり敗れるとは分っていないのだから、父子                         じよせい 兄弟の説が対立したのであろう。そして、本多忠勝の女婿である信幸は、いつの間にか徳川に 親しんでいたのは、人間自然の事である。  そして、昌幸の肚の中では、真田が東西両單に別れていればいずれか真田の血脈は残ると云 う気持もあっただろう。敗けた場合には、お互に救い合おうど云うような事も、暗々裡には黙 契があったかも知れない。父予兄弟とも、頭がいいのであるから、大事な場合に、激諭などす る筈はない。後世の人々が、その後の幸村の行動などから、そんな情景を考え出したのであろ う。 ************************************ 225 真田幸村 ************************************  真田が東西両單に別れたのは、真田家を滅ぽさないためには、上策であった。相場で云えば      ぎよく 売買両方の玉を出して置く両建ど云ったようなものである。しかし、両建ど云うのは、大勝す  ゆえん る所以ではない。真田父子三人家康に味方すれば、恐らく真田は、五十万石の大名にはなれた だろう。信幸一人では、やっと、十何万石の大名として残った。  しかし、関ヶ原で跡方もなく亡んだ諸侯に比ぶれば、いくらかましかも知れない。                                     いくさ  信幸、家康の許へ行くど、家康喜んで、安房守が片手を折りっる心地するよ、單に勝ちたく       しるし             さげお ば信州をやる証ぞと云って刀の下緒のはしを切って呉れた。  昌幸と幸村は、信州へ引き返す途中沼田へ立ち寄ろうとした。沼田城は、信幸の居城で、信 幸の妻たる例の本多思勝の娘が、留守を守っていたが、昌幸が入城せんとすると日く、既に父  あだ 子仇となりて引き分れ候上は、たとい父にておわし候とも城に入れんこと思いも寄らずと云っ                  うまや      あしげ て、門を閉ざし女房共に武装させて、厩にいた葦毛の馬を、玄関につながした。昌幸感心し て、日本一と世に云える本多中務の娘なりけるよ。弓取の妻は、かくてこそあるべけれと云っ                                       えき て、寄らずに上田へ帰った。本多平八郎思勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山の役、たっ                                  とんぽ た五百騎で、秀吉が数万の大軍を牽制して、秀吉を感嘆させた男である。購蛉切り長槍を取っ                                ほり て武功随一の男である。ある時、忠勝子息の忠朝ど、居城桑名城の濠に船を浮べ、子息恵朝   かい                                  ごうりき に、擢であの葦をないで見よと云った。忠朝も、強力無双の若者であるが、擢を取って葦を払 うと、葦が折れた。忠勝見て、当世の若者は手ぬるし、我にかせと、自身擢を持って横に払う 6 2 2 ************************************                                      かぶと と、葦が切れたと云う。そんな事が可能かどうか分らぬが、どにかく秀吉に恵信の冑を受け継 ぐものは、思勝の外にないと云われたり、関東の本多恵勝、闘西の立花宗茂ど此べられたりし た典型的の武人である。  昌幸が、上田城を守って、東山道を上る秀忠の大軍を停滞させて、到頭関ヶ原に間に合わせ なかった話は、歴史的にも有名である。  関ヶ原役に西軍が勝って諭功行賞が行われたならば、昌幸は殊勲第一であったであろう。石 田三成が約束したように、信州に旧主武田の故地なる甲州を添え、それに沼田のある上州を加 えて、三ケ国位は貰えたであろう。  真田安房守昌幸は戦国時代に於ても、恐らく第一級の人物であろう。黒田如水、大谷吉隆、 小早川隆景などと同じく、政治家的素質のある武将で、位置ど境遇どに依って、家康、元就、                              かくかく 政宗位の仕事は出来たかも知れない男の一人である。その上武威赫々たる信玄の遺臣として、 その時代に畏敬されていたのであろう。大阪陣の時、幸村の奮戦振を聞いた家康が、「父安房 守に劣るまじく」ど云って賞めているのから考えても、昌幸の人物が窺われる。所領は少かっ たが、家康などは可なりうるさがっていたに遠いない。  秀忠軍が、上田を囲んだとき、寄手の使番一人、向う側の味方の陣まで、。使を命ぜられた が、城を廻れば遠廻りになるので、大手の城門に至り、城を通して呉れと云う。昌幸聞いて易                  からめて き事なりとて通らせる。その男帰途、又搦手に来り、通らせてくれと云う。昌幸又易き事なり と、城申を通し、所々を案内して見せた。時人、通る奴も通る奴だが、通す奴も通す奴だと云 って感嘆したと云う、     しろぜめ                           み こがみ  此時の城攻に、後年の小野次郎左衛門事神子上典膳が、一の太刀の手柄を表している。剣の 名人必ずしも、戦場では役に立たないと云う説を成す人がいるが、必ずしもそうではない、寄 手力攻めになしがたきを痢り、抑えの兵を置きて、東山道を上ったが、関ヶ原の間に合わなか った。  関ヶ原戦後、昌幸父子既に危かったのを、信幸信州を以て父弟の命に換えんことを乞う。だ                    と                       ちゆう が昌幸に邪魔された秀思の怒りは、容易に釈けなかったが、信幸父を訣せらるる前に、かく中 す伊豆守に切腹仰せつけられ候えと頑張りて、遂に父弟の命を救った。時人、義朝には大いに      かな 異なる豆州哉と、感嘆した。 ************************************ 大阪入城 ************************************ 227 真田幸村 ************************************                  ふもと   かむろ しゆく  関ヶ原の戦後、昌幸父子は、高野山の麓九度禿の宿に引退す。この時、発明した内職が、真 田紐であると云うが……昌幸六十七歳にて死す。昌幸死に臨み、わが死後三年にして必ず、東 西手切れとならん、我生きてあらば、相当の自信があるがと云って瑳嘆した。  幸村、ぜひその策を教えて置いてくれと云った。昌幸日く策を教えて置くのは易いが、汝は 我ほどの声望がないから、策があっても行われないだろうど云った。幸村是非にと云うたの                          み の で、昌幸日く「東西手切れとならば、軍勢を率いて先ず美野青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しか し、それは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって、瀬田へ引き取るのだ。そこでも、 螂 四五日を支えることが出来るだろう。かくすれば真田安房守こそ東軍を支えたと云う噂が天下  に伝り、太闇恩顧の大名で、大阪方へ附くものが出来るだろう。しかし、この策は、自分が生  きていたれば、出来るので、汝は武略我に劣らずと云えども、声望が足りないからこの策が行  われないだろうLと云った。後年幸村大阪に入城し、冬の陣の時、城を出で、東軍を迎撃すべ  きことを主張したが、遂に容れられなかった。昌幸の見通した通りであると云うのである。                                 は   大阪陣の起る前、秀頼よりの招状が幸村の所へ来た。徳川家の禄を食みたくない以上、大阪  に依って、事を成そうとするのは、幸村として止むを得ないところである。秀頼への思節と云  うだけではなく、親譲りの意地でもあれば、武人どしての夢も、多少はあったであろう。                            ながあきら   真田大阪入城のデマが盛んに飛ぶので、紀州の領主浅野長歳は九度山附近の百姓に命じて  ひそかに警戒せしめていた。   所が、幸村、父昌幸の法事を営むとの触込みで、附近の名主大庄屋ど云った連中を招待し               し                                       かね  て、下戸上戸の区別なく酒を強い、酔いつぶしてしまい、その間に一家一門予て用意したる支  。度甲斐甲斐しく百姓どもの乗り来れる馬に、いろいろの荷物をつけ、百人ばかりの同勢にて、        さや  槍、なぎ刀の鞘をはずし、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川を渡り、大阪をさして出発した。附近  の百姓ども、あれよあれよと騒いだが、村々在々の顔役共は真田邸で酔いつぶれているので、  どうすることも出来なかった。浅野長最之を聴いて、真田ほどの者を百姓どもに監視させたの  は、此方の誤りであったと後悔した。   その辺、いかにも軍師らしくていいと思う。                                ていはつ  大阪へ着くと、幸村は、只一人大野修理治長の所へ行った。その頃、薙髪していたので、伝 、げっそう   、      、きとう          おりから 尤月翼ど名乗り 大峰の山伏であるが 祈穣の巻物差しあげたいと云う。折柄修理不在で、番                 ばか 所の脇で待たされていたが、折柄十人許りで、刀脇差の目利きごっこをしていたが、一人の武 士、幸村にも刀拝見と云う。幸村山伏の犬おどしにて、お目にかけるものにてはなしと云っ                  やいぱ     かね て、差し出す。若き武士抜きて見れば、刃の匂、金の光云うべくもあらず。脇差も亦然り。と        なかご てもの事にと、中子を見ると、刀は正宗、脇差は貞宗であった。唯者ならずど若武士ども騒い でいる所へ、治長帰って来て、真田であることが分ったと呑つ。        か  その後、幸村彼の若武士達に会い、刀のお目利きは上りたるやと云って戯れたと云う。 ************************************ 真田丸 ************************************ 229 真田幸村 ************************************  東西手切れとなるや幸村は城を出で、東軍を迎え撃つことを力説し、後藤又兵衛も亦真田説 を援けたが、大野渡辺等の容るる所とならず、遂に籠城説が勝った。前回にも書いてある通 り、大阪城其物を頼み切っているわけである。                                   とりで  籠城の準傭として、大阪城へ大軍の迫る道は、南より外ないので、此方面に砦を築く事にな った。玉造口を隔てて、一つの笹山あり、砦を築くには屈琵の所なので、構築にかかったが、 その工事に従事している人夫達が、いつとはなしに、此出丸を堅固に守らん人は、真田の外な しと云い合いて、いつの間にか、真田丸と云う名が、附いてしまった。  城中詮議の結果、守将たることを命ぜられた。しかし幸村は、譜代の部下七十余人しかない 0 3 2 ************************************ ので辞退したが、後藤が、「人夫ども迄が、真田丸と云っている以上、御引受けないは本意な い事ではないか」と云ったので、「然らば、どてもの事に縄張りも自分にやらせてくれ一と云 って引き受けた。                              かねざし  真田即ち昌幸伝授の秘法に依り、出丸を築いた。真田が出丸の曲尺とて兵家の秘法になれり と『慶元記参考』にある。                             しようさい  真田は冬の陣中自分に附けられた三千人を率いて此の危険な小砦を守り、数万の大軍を四 方に受け、恐るる色がなかった。 ************************************ 家康の勧誘 ************************************  真田丸の砦は、冬の陣中、遂に破られなかった。購和になってから家康は、幸村を勧誘せん            のぷただ とし、宰村の叔父隠岐守信ヂを使どして「信州にて三万石をやるから」ど言って、味方になる ことを、勧めさせた。  幸村は、出丸の外に、叔父信ヂを迎えて、絶えて久しい対面をしたが、徳川家に附く事だけは きっぱり断った。                                      あておこな  信ヂはやむなく引返して、家康にその由を伝えると、家康は「では信濃一国を宛行わん間 い か 如何にと重ねて尋ねて参れ」と言った。信ヂ、再び幸村に対面してかく言うと、「信濃一国は                          そむ          っかまっ 申すに及ばず、天下に天下を添えて賜るとも、秀頼公に背きて不義は仕らじ。重ねてかかる 使をせられなば存ずる旨ありしと、断平として言って、追返した。 231 真田宰村 ************************************ 『常山紀談』の著者などは、この場合、宰村がかくも豊臣家のために義理を立通そうとしたの は、必ずしも、道にかなえり、どは言うべからずど言っている。                     そむかず 「豊臣家は真田数世の君に非ず、若し、君に不背の義を論ぜば、武田家亡びて後世をすて㌧山 中にかくれずばいかにかあるべき」  など評している。  が、幸村どしてみれば、藍臣家には父昌幸以来の恩義があると共に、徳川家に対しては、前 に書いておいた如く、矢張り父昌幸以来のいろいろの意地が重なっているのである。でないと した所が、今になって武士たるものが、心を動かすべき筈はないのである。                                         だん  豊臣家譜代の運中が、関東方に附いて城攻に加っているのに、譜代の臣でもない幸村が、断 “』 平大阪方に殉じているなど会心の事ではないか。なお、これは余談だが、大阪方についた譜代 の臣の中で片桐且元など殊にいけない。  坪内遺蓬博士の『桐一葉』など見ると、且元という人物は極めて深謀遠慮の士で、秀吉亡き 後の東西の感情融和に、反間苦肉の策をめぐらしていたように書いてあるが、嘘である。 『駿府記』など見るど、且元、秀頼の勘気に触れて、大阪城退出後、京都二条の家康の陣屋に                  せめぐち まかり出で、御前で、藤堂高虎と大阪攻口を絵図をもって、謀議したりしている。  また、冬の陣の当初、大阪方が堺に押し寄せた時、且元、手兵を派して、堺を助け、大御所 への忠節を見せた、など『本光国師日記』に見えている。        いまわ                                               なにがし  且元のこうした忌しい行動は、当蒔の心ある大阪の民衆に極度の反感を起さしめた。何某と 2 3 2 ************************************ いえる侠客の徒輩が、遂に立って且元を襲い一その兵百人ばかりを殺害したどいう話がある。  且元、後にこれを家康に訴え、その佼客を制裁してくれど頼んだが、家康は笑って応じなか った。  当時の且元が、大阪びいきの連中に、いかように思われていたかが分るわけである。「桐一 葉』に依って且元が忠臣らしく、伝えられるなど、甚だ心外だが、今に歌右衛門でも死ねば、   や 誰も演るものがないからいいようなものの。 ************************************ 東西和睦 ************************************  和平が成立した時、真田は、後藤又兵衛とともに、関東よりの停戦交渉は、全くの謀略なる ことを力説し、秀頼公の御許容あるべからずと言ったのだが、例によって、大野、渡辺等の容 るる所とならなかったわけである。      たまたま                   はやとさだたね  幸村は、偶々越前少将忠直卿の臣原隼人貞胤と、互に武田家にありし時代の旧友であったの で、一日、彼を招じて、もてなした。    すうこん                                               くせまい  酒盃数献の後、幸村小鼓を取出し、自らこれを打って、一子大助に曲舞数番舞わせて囲ハを尽 した。                              つい   き傘うせん  まかりな  この時、幸村申すことに「この度の御和睦も一旦のことなり。終には弓箭に罷成るべくと 存ずれば、幸村父子は一両年の内には討死とこそ思い定めたれしと言って、床の間を指し「あ       かかえづの れに見ゆる鹿の抱角打ったる冑は真田家に伝えたる物とて、父安房守譲り与えて候、重ねて 233 真田幸村 ************************************ いくさ の單には必ず着して打死仕らん。見置きてたまわり候えLど云った。            しろかわらげ                            す  それから、庭に出て、白河原毛なる馬の邊しきに、六文銭を金もて摺りたる鞍を置かせ、ゆ                             こわ          ひらば  いくさ らりと打跨り、五六度乗まわして、原に見せ、「此の次ぎは、城壌れたれば、平場の戦なるべ                                      ひとしお し。われ天王寺表へ乗出し、この馬の息続かん程は、戦って討死せんと思うに■つけ、一入秘蔵 のものに候」と言って、馬より下り、それから更らに酒宴を続け、夜半に至って、この旧友た ちは、名残を惜しみつつ分れた。  果して、翌年、幸村は、この冑を被りこの馬に乗って、討死した。  また、この和睦の成った時、幸村の築いた真田丸も壌されるこどになった。               まさずみ  この破壕工事の奉行に、本多正純がやって来て、おのれの手で取壌そうとしたので、幸村大 いに怒り抗議を申込んだ。  が、正純も中々引退らぬ。  両者が互いにいがみあっている由がやがて家康の耳に入った。すると、家康は「幸村が申条 ことわり 理也、正純心得遠也」と、早速判決を下して、幸村に、自分の手で勝手に取壕すことを許し た。                    あくまで                ひ  この辺り、家康大に寛仁の度を示して、飽迄幸村の心を関東に惹かんものと試みたのかも知 れない。が幸村は、全く無頓着に、自分の人夫を使って、地形までも跡方もなく削り取り、昌 幸伝授の秘法の跡をとどめなかった。 4 3 2 ************************************ 天王寺口の戦 ************************************  げんな                                                                             一  元和元年になると東西の和睦は嚴に破れ闘東の大軍、はや伏見まで着すと聞えた。                                        と害」  五月五日、この日、道明寺玉手表には、既に戦始り、幸村の陣取った太子へも、その関の 声、筒音など響かせた。                       にんず                         こえきた  朝、幸村の物見の者、馳帰って、旗三四十本、人衆三二万許り、国府越より此方へ験来り候                              よ と告げた。これ伊達政宗の軍兵であった。が、幸村静に、障子に俺りかかったまま、左あらん とのみ言った。  午後、物見の者、また帰って来て、今朝のど旗の色変りたるもの、人衆二万ほど竜田越に押                          そらねむ 下り候、と告げた。これ松平忠輝が軍兵であった。幸村虚睡りしていたが、目を開き「よしよ し、いか程にも験えさせよ。一所に集めて討取らんには大いに快し」とうそぶいた。  單に対して、既に成算のちゃんと立っている軍師らしい落着ぶりである。     ゆうげ              おもむ  さて、タ炊も終って後、幸村徐ろに「この陣所は戦いに便なし、いざ敵近く寄らん」と言っ て、一万五千余の兵を粛々と押出した。その夜は道明寺表に陣取った。            あたり                     ただす     かつなり  明れば六日、早旦、野村辺に至ると、既に渡辺内蔵助糺が水野勝成と戦端を開いていた。                            きた  相当の力戦で、糺は既に身に深手を負っていた。幸村の軍来ると分るど、糺は使を遺わして    ’      きず        また                               かけひき 「只今の迫合に創を蒙りて復戦うこど成り難し。然る故、貴殿の蒐引に妨げならんと存じ人衆 を脇に引取候。かくして横を討たんずる勢いを見せて控え候。これ貴殿の一助たるべきか」と 235 真田幸村 ************************************ 言って来た。                おどろ  幸村、喜んで「御働きの程、目を傍かしたり。敵はこれよりわれ等が受取ったり」と言っ て、軍を進めた。                             いよいよ  水野勝成の軍は伊達政宗、松平忠輝等の連合軍であった。幸村愈現われると聞き、政宗の 兵、一度に掛り来る。  ここで、野村どいう所の地形を言っておくと、前後が岡になっていて、その中間十町ばかり          でんちゅう。 が低地であり、左右田醇に連っている。  幸村の兵が、今しも、この岡を半ばまで押上げたど思うと、政宗の騎馬鉄砲八百挺が、一度 に打立てた。  この騎馬鉄砲は、政宗御自慢のものである。  仙台どいえば、聞えた名馬の産地。その駿足に、伊達家の士の二男三男の壮力の者を乗せ、 馬上射撃を一斉に試みさせる。打立てられて敵の傭の乱れた所を、煙の下より直ちに乗込ん で、馬蹄に蹴散らすどいう、いかにも、東国の兵らしい莞々しき戦法である。  この猛撃にさすがの幸村の兵も弾丸に傷き、死する者も相当あった。         ここ  然し、幸村は「麦を辛抱せよ。片足も引かば全く滅ぶべし」ど、先鋒に馳来って下如した。                ひれふ 一同、その辺りの松原を楯として、平伏したまま、退く者はなかった。  始め、幸村は暑熱に兵の弱るのを恐れて、冑も附けさせず、鎗も持たせなかった。かくて、 敵軍十町ばかりになるに及んで、使番を以て、「胃を着よ」と命じた。更に、二町ばかりにな 236 ************************************ るに及んで、使番をして「鎗を取れ」と命じた。                            しのぴ  これが、兵の心の上に非常な効果を招いた。敵前間近く冑の忍の緒を締め、鎗をしごいて立 った兵等の勇気は百借した。  さしもの伊達の騎馬鉄砲に耐えて、新附仮合の徒である幸村の兵に一歩も退く者のなかった のはそのためであろう。  幸村は、漸く、敵の砲声もたえ、姻も薄らいで来た時、頃合はよし、いざかかれと大音声に                    またた              さきて 下知した。声の下より、皆起って突かかり、瞬く間に、政宗の先手を七八町ほど退かしめた。 政宗の先手には、かの片倉小十郎、石母田大膳等が加っていたが、「敵は小勢ぞ、引くるみて 討ち平げん」など豪語していたに拘らず、幸村の疾風の兵に他愛なく崩されてしまったのであ る。  これが、世に真田道明寺の軍と言われたものである。  新鋭の兵器を持って、東国独特の猛襲を試みた伊達勢も、さすがに、真田が軍略には、歯が 立たなかったわけである。  幸村は、それから士卒をまとめて、毛利勝永の陣に来た。  そして、勝永の手を取って、涙を流して言った。「今日は、後藤又兵衛と貴殿とともに存分、                              はかりごと 東單に切込まんと約せしに時刻おそくなり、後藤を討死させし故、謀空しくなり申候。これ も秀頼公御運の尽きぬるところか」と。                  あけ                                            も  この六日の朝は、霧深くして、夜の明も分らなかったので幸村の出障が遅れたのである。若 レ・し ************************************ 、そんな支障がなかったら、 ************************************ 関東軍は、 ************************************ 幸村等に、どれ程深く切り込まれていたか分らな ************************************         うか        なが                                          いにしえ  勝永も涙を面に涯べ「さり乍ら、今日の御働き、大單に打勝れた武勇の有様、古の名将に もまさりたり」と称揚した。                         とっ  幸村の一予大助、今年十六歳であったが、組討して取たる首を鞍の四方手に附け、相当の手 傷を負っていたが、流るる血を拭いもせずに、そこへ馳せて来た。                       たた  勝永これを見て、更に「あわれ父が子なり」ど称えたという。                    みずぎわ  こうして、五月六日の戦は、真田父子の水際立った奮戦に終始した。 ************************************ 237 真田幸村 ************************************        真田の棄旗                      しゆりのすけ       よ  五月七日の払暁、越前少将思直の家臣、吉田修聖兄光重は能く河内の地に通じたるを以て、 先陣として二千余騎を率い大和川へ差かかった。  その後から、越前勢の大軍が粛々ど進んだ。                         ほとり たたず  が、まだ暗かったので、越前勢は河の深浅に迷い、畔に停むもの多かった。大将修聖兄は 「河幅こそ広けれ、いと浅し」と言って、自ら先に飛込んで渡った。      つと  幸村は、夙にこの事あるを予期して、河底に鉄鎖を沈め置き、多数が河の半ばまで渡るを待 って、これを一斉に捲き上げたので、先陣の三百余騎、見る見る鎖に捲き倒されて、河中に倒 れた。 238 ************************************     さみだれ      はげ  折柄、五月雨の水勢烈しきに、容赦なく押流された。  ここ  蘂に最も哀れをとどめたのは、大将吉田修理亮である。彼は、真先に飛込んで、間もなく馬                   まつさかさ の足を鎖に捲きたおされ、ドウと許り、真倒まに河中に落ちた。が、大兵肥満の上に鎧を着 ていたので、どうにもならず、翌日の暮方、天満橋の辺に、水死体どなって上った。               きようどう                           、  また、同じ刻限、天王寺表の響導、石川伊豆守、宮本丹後守等三百余人が平野の南門に着                                         うかが した。見ると、そこの陣屋の門が、ぴったり閉めてあって入りようがない。廻って東門を覗っ                     りゆう        ふきなび たが、同様である。内には、六文銭の旗三四族、朝風に吹摩いて整々としていた。 「さては、此処がかの真田が固めの場所か。迂潤に手を出す可らず」その上、越前勢も、大和                            か し 川の失敗で、中々到着するけしきもないので石川等は、東の河岸に控えて様子を覗っていた。  夜がほのぽのど明け始めた。そこで東の門を覗ってみると、内は森閑として、人の気配もな かった。何のことだ、と言い合いつつ、東の門を開いて味方を通そうとしている所へ、越前勢 の先手がやっどのこどで押し寄せて来た。  大和川に流された吉田修聖兄に代って、本多飛騨守、松平壱岐守等以下の二千余騎である。  が、石川宮木等は、これを真田勢の来襲と思い違い、凄まじい同志討がここに始まった。        あおい  石川宮木等が葵の紋に気付いた時は、嚴に手の下しようのない烈しい戦いになっていた。よ                                  しず うやくのことで、彼等が、胃を取り、大地にひざまずいたので、越前勢も鎮まった。  しかし、こんな不始末が大御所に知れてはどんなことになるかも知れない、とあって、彼等 は、その場を繕うために、雑兵の首十三ほどを切取り、そこにあった真田の旗を証拠として附 239  ;真;E日弓≡…オ寸 ************************************ けて、家康に差出した。  家康いたく喜ばれ「真田ほどの者が旗を棄てたるはよくよくのことよ」ど御褒めになり、そ           かたわら の旗を家宝にせよとて、傍の尾張義直獅に進ぜられた。  義直卿は、おし頂いてその旗をよく見たが、顔色変り「これは家宝にはなりませぬ」と言 ・つ。  家康もまた、よく見れば、旗の隅に細字で、小さく「棄旗」と書いてあった。「実に武略の                    いささ 人よ」と家康は、讃嘆したとあるが、これは些かテレ隠しであったろう。                                       いしのはな  寄手の軍が、こんな朱敗を重ねてぐずぐずしている間に、幸村は軍を勝曼院の前から石之華              りゆうしよう 表の西迄三隊に傭え、旗馬印を竜粧に押立てていた。  殺気天を衝き、黒雲の巻上るが如し、という概があった。  ひ  陽も上るに及んで、愈々合戦の開かれんとする時、幸村は一子大助を呼んで、「汝は城に還      ごしようがい りて、君が御生害を見届け後果つべし」と言った。が、大助は「そのことは譜代の近習にま かせて置けばよいではないか」ど、伸々聴かなかった。そして、「あく迄父の最期を見届けた          すか い」と言うのをなだめ嫌して、やっと城中に帰らせた。        うしろすがた          ほんだ                         てい  幸村は、大助の背姿を見、「昨日誉田にて痛手を負いしが、よわる体も見えず、あの分なら 最後に人にも笑われじ、心安し」と言って、涙したという、  時人、この別れを桜井駅に比している。幸村は、なぜ、大助を城に返して、秀頼の最後を見 届けさせたか。その心の底には、もし秀頼が助命されるような事があらば、大助をも一度は世 240 ************************************ に出したいと云う親心が、うごいていたど思う。前に書いた原隼人との会合の時にも「伜に、 一度も人らしい事をさせないで殺すのが残念だ」と述懐している。こう云う親心が、うごいて                    しの いる点こそ、却って幸村の人格のゆかしさを偲ばしめると思う。 ************************************ 幸村の最期 ************************************  幸村の最期の戦いは、越前勢の大軍を真向に受けて開始された。      しぱしば                                          たっ  幸村は、慶々越前勢をなやましつつ、天王寺と一心寺との間の竜の丸に傭えて士卒に、兵糧 を使わせた。                        かもんのすけなりとよ  幸村はここで一先ず息を抜いて、その暇に、明石掃部助全登をして今宮表より阿部野へ廻ら          うしろ せて、大御所の本陣を後より衝かせんとしたが、この計画は、松平武蔵守の軍勢にはばまれて 着々と運ばなかった。                                        おんはた  そこで、幸村壮毛利勝永と議して、愈々秀頼公の御出馬を乞うことに決した。秀頼公が御旗 御馬印を、玉造口まで押出させ、寄手の勢力を割いて明石が軍を目的地に進ましめることを計 った。真田の穴山小助、毛利の古林一平次等が、その緊急の使者に城中へ走った。  この使者の往来しつつある猶予を見つけたのが、越前方の監使榊原飛騨守である。飛騨守は 「今こそ攻めるべし、遅るれば必ず後より追撃されん」と忠直卿に言上した。  思直卿早速、舎弟伊予守忠昌、出羽守直次をして左右両軍を連ねさせ、二万余騎を以て押し                    まちみかた 寄せたが、幸村は今暫く待って戦わんと、待味方の備をもって、これに当っていた。 241 真田幸村 ************************************  するど、意外にも、本多思政、松平忠明等、渡辺大谷などの備を遮二無二切崩して真田が陣 へ駆け込んで来た。また水野勝成等も、昨日の敗を報いんものと、勝愛院の西の方から六百人 許り、踊を揚げて攻寄せて来た。幸村は、遂に三方から敵を受けたのである。                        ますはながた 「最早これまでなり」ど意を決して、冑の忍の緒を増花形に結び  これは討死の時の結びよ                             ひぢりめん うである  馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より賜った緋縮緬の陣羽織をさっと着流し て、金の采配をおっ取って敵に向ったど言う。  三方の寄手合せて三万五千人、真田勢僅かに二千余人、しかも、寄手の戦績はかばかしく上            も                   たづけ 、らないので、家康は気を操んで、稲富喜三郎、田付兵庫等をして鉄砲の者を召連れて、越前勢         っるべうち                    ∫ の傍より真田勢を釣瓶打にすべしと命じた位である。  真田勢の死闘の程思うべしである。                              くぴずり      あた  幸村は、三つの深手を負ったところへ、この鉄砲組の弾が左の首摺の間に中ったので、既に                                   に  え  もん 落馬せんとして、鞍の前輪に取付き差うつむくところを、忠直卿の家士西尾仁右衛門が鎗で突 いたので、幸村はドウと馬から落ちた。                                 かつ  西尾は、その首を取ったが、誰とも知らずに居たが、後にその胃が、嘗て原竿人に話したと                        か ころのものであり、口を開いてみるど、前歯が二本醐けていたので、正しく幸村が首級と分っ たわけである。  西尾は才覚なき士で、その時太刀を取って帰らなかったので、太刀は、後に越前家の斎藤勘 四郎が、これを得て帰った。 2之2 ************************************  幸村の首級と太刀どは、後に兄の伊豆守信幸に賜ったので、信幸は二男内記をして首級は高 野山天徳院に葬らしめ、太刀は、自ら取って、真田家の家宝としたと言う。                     ことごと                    碓きたか  この役に、関西方に附いた真田家の一族は、尽く戦死した。甥幸綱、幸莞等は幸村と同じ    たお 戦場で艶れた。  一子大助は、城中において、秀頼公の最期間近く自刃して果て、父の言葉に従った。 ************************************ 応仁の乱 ************************************ 天下大乱の兆 ************************************ 応仁の乱 ************************************ 3 4 2 ************************************  応仁の大乱は応仁元年より、文明九年まで続いた十一年間の事変である。戦争どしては、何 等目を驚かすものがあるわけでない。勇壮な場面や、華々しい情景には乏しい。活躍する人物 にも英灘豪傑はいない。それが十一年もだらだらど続いた、緩慢な戦乱である。  併しだらだらでも十一年続いたから、その影響は大きい。京都に起った此の争乱がやがて、                       ぜんどう 地方に波及拡大し、日本国中が一つの軟体動物の蠕動運動の様に、動揺したのである。此の後 に薙るものが耽識戦国時代だ。即ち実力主義が最も露骨に発揮された、活気横溶せる時代であ る。武士にどっては滅多に願ってもかなえられない得意の時代が来たのだ。心行くまで彼等に 腕を撮わせる大舞台が聞展したのだ。その意味で序幕の応仁の乱も、意義があると云うべきで ある。 4 4 2 ************************************                                   ひせい  きようしや  応仁の乱の責任者として、吉来最も指弾されて居るのは、将軍義政で、枇政と騒著が、そ の起因をなしたど云われる。                                  は  義満の金閣寺に真似て、銀閣を東山に建てたが、費用が足りなくて銀が箔れなかったなど、                   かんしよう               し し 有名な話である。大体彼は建築道楽で、寛正の大飢饅に際し、死屍京の賀茂川を埋むる程な のに、新邸の造営に余念がない。  彼の豪書の絶頂は、寛正六年三月の花頂山の花見宴であろう。咲き誇る桜の下で当時流行の 連歌会を催し、義政自ら発句を作って、 「咲き満ちて、花より外に色もなし」と詠じた。一代の享楽児の面目躍如たるものがある。併                                     ようや し義政は単に一介の風流人ではなく、相当頭のよい男であった。天下大乱の兆、漸くきざし、        あっれき 山名細川両氏の軋櫟甚しく、両氏は互いに義政を利用しようとして居る。ところが彼は巧みに                                ぞうおん 両氏の間を泳いで不即不離の態度をとって居る。だから両軍から別に憎怨せられず、戦乱に超                             げこくじよう 越して風流を楽んで居られたのである。政治的陰謀の激しい下剋上の当時に於て、暗殺され なかっただけでも相当なものだ/尤もそれだけに政治家としては、有っても無くてもよい存在 であったのかも知れぬ。                                    ちようへき  事実、将軍としての彼は、無能であったらしく、治蹟の見る可きものなく、寵壁政治に堕 して居る。併し何ど云われても、信頼する事の出来ない重臣に取捲かれて居るより、愛妾寵臣               また                     いんかん                         よし の側に居た方が快遺であるし、木安全であるに違いない。股竪遠からず、現に嘉吉元年将軍義 のり          みつすけ  しい 教は、重臣赤松満祐に斌されて居るのである。 245 ************************************ 応仁の舌L ************************************                      ごふうかん          ただ  ホ飢饅時の普講にしても、当時後花園天皇の御調諌に会うや、直ちに中止して居る。これな どは、彼の育ちのよいお坊っちゃんらしさが、よく現れて居て、そんなにむきになって批難す るにはあたらないと思う。  所詮彼は一箇の文化人である。近世に於ける趣昧生活のよき紹介者であり、学芸の優れた保 護者である。義満以来の足利氏の芸術的素質を、最もよく相続して居る。天下既に乱れ身辺に    うれい        わずか 内戚の憂多い彼が、纏に逃避した境地がその風流である。特に晩年の放縦と騒書には、政治家                   あんたん として落第であった彼の、ニヒリズムが暗潅たる影を投げて居る。  故に表面的な騎書と枇政の故に、義政を以て応仁の乱の責任者であると断ずるは、あたらな     むし  うま い。彼は寧ろ生る可き時を誤った人間である。借金棒引きを追って、一撲の頻発した時代だ。 天下既に大変草を待って居たのである。                               たた  徳政は元来仁政に発する一種の社会政策である。即ち貝を吹き鐘を鼓いて、徳政の令一度発 せられるや、貸借はその瞬間に消滅するのであった。                    とな  増大する窮民はその一撲の口実に徳政を称え、亦箸修の結果負債に窮した幕吏も、此の点に 於て相応じたのである。義政の時代には、十三度も徳政令を出して居る。         なかんずく     きようちゆうにらんに妙うす しかして             らんに准うして  ぞうもつ      あまつさえ 「九月二十一日、就中土一撲乱二入京中−而土蔵其他家々に令乱入、雑物取る。剰放二 さんぜんよちようにほうかしてしようしつす 火三千余町一焼失」(『人乗院寺社雑事記』)  加るに鎮圧に赴いた碍士の部下が、却って一撲に参加して諸処に強奪を働いたと云う。  その乱脈思う可きである、 6 4 2 ************************************      ばくち  亦当蒔は博突が非常に盛んであった。                                   と  キ』  武士など自分の甲冑、刀剣を質に置いてやった、勢い戦場には丸腰で、只鯨波の声の数だけ に加わるような始末である。それも昂じて他人の財産を賭けて、争うに至ったと云う。つまり       ど こ            ほうもつ                          つかわ 負けたらば、何処其処の寺には宝物が沢山あるから、それを奪って遺すべしと云ったやり方で ある。  こんな全く無政府的な世相に口火を切って、応仁の乱を捲き起したのが、実に細川山名二氏 の勢力争いである。              し ぱ  元来室町幕府にあっては、斯波、畠山、細川の三家を三職ど云い、相関に管領に任じて、幕                うち                           ちようらく 府の中心勢力どなって来た。此の中、斯波氏先ず衰え、次で畠山氏も凋落した。独り残るは 細川氏であり、文安二年には細川勝元が管領になって居る。  一方山名氏は、新興勢力であって、持豊に至って蟹然として細川氏の一大敵国をなして来た           ちはつ                がんろう のである。持豊は即ち薙髪して宗全と云う。性、剛腹頑魎、面長く顔赤き故を以て、世人これ を赤入道ど呼んだ。 『塵塚物語』と云う古い本に、応仁の乱の頃、山名宗全が或る大臣家に参伺し、乱世の民の苦 しみに就て、互に物語ったどある。其の時其の大臣が、色々昔の乱離の世の例を引き出して 「さまざま賢く申されけるに、宗全は臆したる色もなく」一応は尤もなれど、例を引くのが気 に峻わぬと云った。「例どいふ文字をば、向後、時といふ文字にかえて御心得あるべし」と、 直言している。  これ  此は相当皮肉な、同時に痛快空冒葉でもあって、彼が転変極まりなき時代を明確に、且つ無 作法に認識して居る事を示して居る。                あなた            こ、  宗全は更に、自分如き匹夫が、貴方の所へ来て、薪うして話しをすると云うことは、例のな いことであるが、今日ではそれが出来るではないか。「それが時なるべしし(即ち時勢だ)と言 い放って届るのである。              しりぞ        あ  故に共同の敵なる畠山持国を却けるや、厭く迄現実的なる宗全は、昨日の味方であり掩護者 であった勝元に敢然対立した。尤も性格的に見ても、此の赤入道は、伝統の家に育って挙措慎 重なる勝元と相容れるわけがない。                        のりすけ  動因は赤松氏再興問題であって、将軍義政が赤松教祐に、その■家を嗣がしめ播磨国を賜っ                                  これ た、勿論此の裏面には勝元が躍って居るのである。山名宗全、但馬に在って是を聞き、  。      はうこく 「我軍功の封国何ぞ賊徒の族をして獲せしめんや」   かくど                                       じゆらく  と嚇怒して播磨を衝き、次いで義政の許しを得ないで入洛した。当時此の駄々ツ児を相手に 出来るのは細川勝元だけであった。 ************************************ 247 ************************************ 応仁の舌L ************************************ 戦乱の勃発 ************************************  唯ならぬ雲行きを見て、朝廷は、文正二年三月五日に、兵乱を避ける為め改元をした。応仁 とは、  じんのものにかんじ  もののじんにおうずるは かげのかたちにしたがうがごとく なおこえのひびきをいたすがごとし                   つぐなが  かん 「仁之感レ物、物之応レ仁、若二影随ぢ形、猶二声 致サ 響」と云う旬から菅原継長が勧 248 ************************************ じん 進せる所である。  而も戦乱は、その年即ち応仁元年正月十八日に始まって居るのである。  慎重な勝元は、初めは反逆者の名を恐れて敢て兵火の中に投じなかった。ところが、積極的 な宗全は、自ら幕府に説いて勝元の領国を押収せんとした。かく挑発されて勝元も、其の分国 の兵を募り、党を集めたのである。  細川方の総兵力は十六万人を算し、斯波、畠山、京極、赤松の諸氏が加った。即ち東軍であ                             およ る。一方西軍たる山名方は一色、土岐、六角の諸勢を入れて総数几そ九万人と云われる。尤も 此の数字は全国的に見た上の概算であって、初期の戦乱は専ら京都を中心どした市街戦であ る。  一種の私闘の如きものであるが、彼等にもその兵を動かす以上は、名分が必要であったらし                             りんし い。周到な勝元は早くも幕府に参候し、義政に請うて宗全追討の紛旨を得て居る。時に西軍が だいり 内裏を襲い、天子を奉戴して幕府を討伐すると云う購が立った。勝元は是を聞くや直ちに兵を 率いて禁中に入り、主上を奉迎して幕府に行幸を願った。倉卒の際とて、儀伎を撃疋る暇もな く、車駕幕府に入らんとした。所が近士の侍の間にもめ事があって、夜に至るまで幕府の門が                            じらい     あんざいしよ 開かなかったと云う。こんなやり方は如何にも勝元らしく、爾来東軍は行在所守護の任に当っ て、官軍ど呼ばれ、西軍は止むを得ず賊軍となった。  宗全は斯うした深謀には欠けて居たが、実際の戦争となると勝元より蓬かに上手だ。      ししようじつばう  先ず陣の布き方を見ると、東軍は幕府を中心にして、正実坊、実相院、相国寺、及び北小 249 ************************************ 応仁の舌L ************************************                                、       か げ ゆ 路町の細川勝元邸を連ねて居る。西軍は五辻通、大宮東、山名宗全邸を中心に、勘解由小路に                                        やく まで延びて居る。即ち、東軍は只京都の北部一角に陣するに反し、西軍は南東の二方面を掘し て居る訳だ。  あだか                           もたら  恰も西單にどって、一つの吉報が齋された。  即ち、周防の大内政弘、及び河野通春の援軍が到着したことであった。既に持久戦に入って 来た戦線は、漸く活況を帯びて来たのである。  応仁元年九月一日、西軍五万余人は大挙して三宝院を襲い、是に火を放って、京極勢の固め て居る浄花院に殺到して行った。  西軍の勢力は、日々に加わり、東軍は多くの陣地を蚕食されて、残すは只相国寺と、勝元邸 だけとなった。兵火に焼かれた京都は、多く焼野原と化して、西軍の進撃には視界が開けて居 て好都合である。昂然たる西軍は此の機に乗じて相国寺を奪い、東軍の羽翼を絶たんとした。                               だいがらん          えんえん  先ず彼等は一悪僧を語らって、火を相国寺に放たしめた。さしもの大伽藍も焼けて、煙姻高                               たそがれ く昇るのを望見するや、西軍は一挙に進撃した。此の決戦は未明から黄昏まで続いたけれど勝                           しらくも 敗決せず、疲れ果てて両軍相共に退いた。此の日の死霞は白雲村から東今出川迄横わり、大内 及び土岐氏の討ち取った首級は、車八靹に積んでも尚余り有ったど云う。                               もうもう                じよう  丁度将軍義政の花の御所は、相国寺の隣りに在った。此の日余姻濠々どして襲い、夫人上 ろう 蔑達は恐れまどって居るのに、義政は自若として酒宴を続けて居たと云う。こうなれば、義政 も図々しい愉快な男ではないか。 0 5 2 ************************************  戦後小雨あって、相国寺の焼跡の煙は収った。  此の戦闘以後は、さして大きな衝突もなく、両軍互いに持久戦策をどり、大いに防禦工事を 営んで居る。宗全は高さ七丈余もある高楼を設けて、東軍を眼下に見下して得意になって居 た。一方東軍では、和泉の工匠を雇入れて砲に類するものを作らせ、盛んに石木を発射せしめ     かくらん て敵陣を擾乱させたど云う。                     べにきぬ      さ  亦面白いのは彼等将士の風流である。即ち紅絹素練を割いて小旗を作り、各々歌や詩を書い て戦場に臨んだと記録にある。  その上、兵士達には、何のための戦争だか、ハッキリ分らないのだから、几そ戦には熱がな かったらしい。『塵塚物語』に「およそ武勇人の戦場にのぞみて、高名はいとやすき事なり。                         あだ           しもべ さルど、敵ながら見知らぬ人なり。又主人の為にこそ仇ならめ、郎従下部ごときに至て、いま だ一ことのいさかひもせざる人なれば、あたりへさまよひ来たる敵も、わが心おくれて打ちが                      ほか たき物也どかく義ばかりこそおもからめ、その外は皆ふだんの心のみおこりて、おほくは打ち はづす事敵も味方もひとし」  誰も戦意がなく、ただお義理に戦争しているのだから、同じ京都で十一年間も、顔を突き合           き わしていても勝負が、定まらないのだ。 ************************************ 「 な れ や 矢口 る  、 ************************************ 都 京 は 都 野 の 辺 の 蒐 夕雪廃 雲簑 牢1 ************************************ あがるを見ては落つる涙はL有名な古歌である 251 ************************************ 応仁の舌し ************************************  京都の荒廃は珍しいこどでなく、平安朝の末期など殊に甚しかったように思う。併し応仁の 大乱に依って、京都は全く焼土と化して居る。実際に京都に戦争があったのは初期の三四年で                       くげ   ことごと あったが、此の僅かの間の市街戦で、洛中洛外の公卿門跡が悉く焼き払われて居るのである。 「応仁記』等に依って見るど、如何に被害が甚大であったかを詳細に列挙して、「計らざりき、 万歳期せし花の都、今何ぞ狐狼の臥床とならんとは」と結んで居る。  思うにこれは単に市街戦の結果とばかりは、断ぜられないのである。敵の本拠は仕方がない                   かす としても、然らざる所に放火して財宝を掠め歩いたのは、全く武士以下の歩卒の所業であっ        ばつこ た。即ち足軽の政盾である。                                    せきがく    かねよし 『長興記』をして、「本朝五百年来此の才学なし」とまで評さしめた当時の碩学一条兼良は しようだん 『樵談治要』の中で浩歎して述べて居る。              はべ 「昔より天下の乱る㌧ことは侍れど、足軽といふ事は旧記にもしるさどる名目なり。此たびは                      それ妙え                            じっさっ じめて出来たる足軽は、超悪したる悪党なり。其故に洛中洛外の諸社、諸寺、五山十刹、公 家、門跡の滅亡はかれらが所行なり。ひとへに畳強盗といふべし。か㌧るためしは先代未聞の ことなり」  そして更に、これは今の武士が武芸を怠った為に、足軽が数が多く腕っ節が強いのを頼み、 ろうぜき                   さ 狼籍を働くのであって、「左もこそ下剋上の世ならめ」と憤慨して居る。                     よしひさ  此の『樵談治要』は応仁の乱後、彼が将軍義尚に治国の要道を説いたものから成って居るの であるから、先ず当時に於ける悲惨な畑識階級の代表的な意見であろう。彼自身、家は焼かれ 2 5 2 ************************************ 貴重な典籍の多くを失って居るのである。  とに角職業的な武士が駄目になって、数の多い活澄な足軽なんかが、戦術的にも重要な軍事 要素となったことは、次に来る戦国時代を非常に興昧あるものどして居る。  併し一定の社会秩序に生活の基礎を置く貴族階級にしてみれば、これ程心外な現象もない し、実際下剋上と云う言葉の意味も、現在我々が想像する以上に、深刻なものだったらしい。  兼良は奈良の大乗院に避難して居る。元来奈良の東大寺、興福寺等の大寺では、自ら僧兵を 置いて自衛手段を講じて居たので、流寓の公卿を養う事が出来た。併し後には、余りに其の寄 寓が多いので費用がかさみ、盛んに、その寺領である諸国の荘園に、用米の催促をして居るの である。諸荘では大いに不満の声を上げたが、此度は是ヰにも徴集に応ずべきことなりと強制 されて居る。  其他公卿は、地方の豪族に身を寄せたり、自ら領地に帰って農民に伍して生計を立てたりし て、京都に留る者は殆んど無かった。  其の頃ある公卿に謁せんどした所、夏装東にて恥しければど言う。苦しからずとて、強いて 謁するに、夏装東ど思いの外、蚊帳を身に纏うて居たと云う話がある。又袋を携えて関白料で あるど称し、洛中に米を乞うて歩いた公卿も有ったと云う。                                たちぱな  こんな世相であるから、皇室の式微も甚しかった。昼は禁廷左近の橘の下に茶を売る者あ           ないしどころ り、夜は三条の橋より内侍所の燈火を望み得たとは、有名な話である。                                       しんぴっ  畏れ多い限りではあるが『慶長軍記抄』に依れば「万乗の天子も些少の銭貨にかへて震筆を                                     み す 売らせ給ひ、銀紙に百人一首、伊勢物語など望みのま㌧をしるせる札をつけて、御簾に結びっ        も、つ け、日を経て後詣づれば寅筆を添へて差し出さる」とある。 ************************************ 戦乱の末期 ************************************                                 こうえい    此の戦乱の後期で注目す可きは賊軍の悪名を受けた西軍が南朝の後蕎を戴いたことである。   日尊ど称する方で、紀伊に兵を挙げられた。『大乗院寺社雑事記』文明三年の条に、             じつぽうにほうしよをなししゆじゆけいりやくのひとこれあり  ごだいごいん   「此一両年日尊ど号して十方成一奉書一種々計略人在レ之。御醍醐院之御末也云々」とあるが、  朝敵として幕軍の為めに討たれて居るのである。其の後、日尊に取立てられた小倉の御子で、                                    ひたたれ  御齢十七歳なる方が、大和に挙兵されて居る。其の兵七十騎を従えて、錦直垂を着用すどあ   る。宗全雀躍して是を迎えて奉仕したど云うが、詳しい御事蹟は記録にないが、大衆文学の主                                さかのば  人公どしては、面白い存在ではないか。大衆作家も、もっと時代を濁れば、いくらでも題材   はあるわけである。                                     はいかい   とに角斯かる伝奇的な若武者が、既に遠い南朝の夢を懐いて、吉野の附近に俳個して居たと 、云うことだけで、如何にも深い感興を覚えるのである。 乱  文明四年にはそろそろ平和論が称えられて来た。 の 仁  対時すること既に六ケ年、在京の諸将が戦いに倦んだこどは想像出来るのである。加るに彼 応等の闘心は、単に京都だけの戦闘だけではなかった。其の留守にして居る領国の騒乱鎮圧の 螂 為、兵を率いて帰国する者もあった。 4 5 2 ************************************  元来応仁の大乱は、純粋なる利益問題でなくて、権力争奪問題の余波である“諸将が東西に 分れた所以のものは、射利の目的ど云うよりは寧ろ武士の義である。故に必呪の死闘を試みる                                  ほうと 相手でなく、不倶戴天の仇敵でもない。和議を結んで各領国に帰ってその封土を守り、権力平 均を保てば足りるのである。                       よろこ  これには、勝元も宗全も異議は無かった。独り悦ばぬのは赤松政則であって、それは休戦に なればその拡張した領土を山名氏に遠さねばならないからである。政則は勝元とは姻戚の間で あり、東單に在っては其の枢軸である。勝元は彼を排してまで和するの勇気もなく、此の話は 中絶した。         もとどり  此の後、勝元は善を切ろうと云い出し、宗全は切腹をすると言って居る。思うに共に戦意 無きを示して、政則を牽制せんと計ったのでもあろう。同時に彼等は此の大乱の道徳的貴任を                         しんきん 感じて居るらしいのである。多くの神社仏閣を焼き、震襟を悩まし奉る事多く、此の乱の波及 する所は全く予想外である。つまり、二人どもこんな積りでなかったとばかりに空恐しくなっ たのであろう。殊に勝元など、宗全ど異って、少しでも文化的な教養があるのだから、此の乱         おお の赴く所随分眼を掩い度い様な気分に襲われたんではないかと思う。宗全にしてもそうだが、 共に中世的な無常感が相当骨身にこたえたに遠いない。只勝元は薙髪するど云い、宗全は切腹 するど云う所に、二人の性格なり、ものの感じ方なんかがはっきり現れて居て面白いと思う。                   よわい  流石剛頑な山名宗全も、文明五年には齢七十である。身体も弱ったのであろう。既に軍務を 見るのを好まず、其の子政豊に、一切をまかせて居たのである。此の年の正月、宗全の病歿が 255 ************************************ 応仁の舌し ************************************ 伝えられて居る。  さる                     に晦うめっしおわる 「去二十一日夜山名入道宗全入滅畢。其夜同一族大内新助降参方御陣に参候」(『寺社雑事 記』)                                    ぴしやもん  此の宗全の死も、降服も訟伝であった。併し此の年の三月十九日には、鞍馬毘沙門の化身と 世人に畏怖せられて居た宗全も、本当に陣中に急逝したのである。       おく  宗全の死に後れるこど約ニケ月、細川勝元も五月二十二日に病歿した。時に四十四歳であ             いんつい る。即ち東西の両星一時に瞑墜したわけである。而も二人の歿した日は共に、風雨烈しい夜で あったと伝う。                                          よし  戦乱はかくて終煉したと云うわけでない。東單には尚細川政国、西單には大内政弘、畠山義 のり 就等闘志満々たる猛将が控えて居る。併し両軍の将士に戦意が揚がらなくなったことは確か だ。  以後小ぜり合いが断続したが、大勢は東單に有利である。先ず山名政豊は将單に降り、次い  とがし                                        けだ で富樫政親等諸将相率いて、東單に降るに至った。蓋し将軍義政が東單に在って、西軍諸将の     はくだっ 守護職を剥奪して脅したからである。  天文九年十一月、大内政弘や畠山義就は各々その領国に退却して居る。公卿及び東軍の諸将 皆幕府に伺候して、西軍の解散を祝したと云う。  欺くて表面的には和平成り、此の年を以て応仁の乱は終ったことになって屠る。                                   はか  併し政弘と云い、義就と云い、一旦その領国を固めて捲土重来上洛の期を謀って届るのであ 6 5 2 ************************************                                     にら る。亦京都に於ける東西両軍は解散したが、偏国して後の両軍の将士は互いに瞬み合って居 る。                         でんぱ  つまり文明九年を期して、中央の政争が地方に波及伝播し地方の大争乱を捲き起したのであ る。 戦国時代は此の遠心的な足利幕府の解体過程の中に生れて来たのである。 四条畷の戦 ************************************ 建武中興の崩壌 ************************************ 257 四条畷の戦 ************************************  中島商相が、足利尊氏のために、災禍を獲た。尊氏の如く朝敵となったものは、古来外にも 沢山ある。朝敵とならないまでも、徳川家康以下の将軍などは、それに近いものである。殊に 温厚そうに見える二代将軍秀忠の如き、朝廷に対して、悪逆を極めている。       だけ  だが、尊氏丈が、どうして百世の下、なお憎まれ者になっているか。それは、純忠無比な楠 公父子を向うに廻したからである。尤も、中毘商相を弾劾した菊池中将(九州の菊池神社を中 心として、菊池同族会なるものあり、申将はその会長である。自分もその会員である)の先祖               いちず たる菊池氏も亦、五百年間勤王一途の忠勤をつくした家柄で、山陽をして「翠楠必ずしも黄花                                  かくかく に勝らずしと云わしめたが、活躍の舞台が、近畿でないから、楠公父子の赫々たる事蹟には及         なわて ばない。今、四条畷の戦いを説くには、どうしても建武中興が、如何にして崩壕したかを説か 8 5 2 ************************************ ねばならない。  元弘三年六月五日、後醍醐天皇は王政復古の偉業成って、めでたく京都に還幸された。楠正    ながとし     がいせん                                          だいり    、 成、名和長年以下の凱旋諸将を従えられ、『増鏡』に依ると、其の行列は二条富小路の内裏から       らくえき          ぐぷ              ほうき 東寺の門まで絡緯として続いたどある。供奉の武将達も、或は河内に、或は伯青に、北条氏討 滅の為にあらゆる苦悩を昧った訳であるから、此の日の主上及び諸将の面上に漂う昴然たる喜 色は、想像出来るであろう。  かくて建武中興の眼目なる天皇親政の理想は、実現されたのである。だがそれと同時に、早                                  きざ くも此の新政府の要人連の間に、逆境時代には見られなかった内部的対立が兆していた。つま     く  デ り武家と公卿が各々、自分こそ此の大業の事実上の功労者であると、銘々勝手に考え出して来 た為である。  武家にすれば、実力の伴わぬ公蝋達の如何にもとり澄した態度が気に食わなかったに違いな い。恐らくは、「俺たちに泣きついて来た当時を忘れたのか」と言い度いところであろう。そ れに一緒に仕事をしてみても、何だか調子が会わない。その平和になって、文事ばかりになる と、河原の落書にまで「きつけぬ冠上のきぬ、持もならわぬ笏もちに、大裏交りは珍らしや」        しやく                                          てんりやく ど愚弄されるのも癩に触る。その上、素朴な一般武士の頭には、延喜天暦の昔に還らんどす る、難しい王政復古の思想など、本当に理解される訳はないのである。  唯自分達の実力を信ずる彼等は、北条氏を滅ぽしたのは、俺達の力だど確く信じ、莫大なる 恩賞を期待して居るのである。 259 四条畷の戦 ************************************  一方公卿の方にも、此等の粗野ではあるが単純な武家に対して、寛容さを欠いて居たし、之 をうまく操縦する方略にも欠けていた。頼朝以来武家に奪われていた政権が、久し振りで自分 達の掌中に転がり込んだのであるから、有頂天になるのは無理もないが、余りにも公卿第一の 夢の実現に急であった。窮迫した財政の内から、程厳なる大内裏の造営を企てたりした。共他 地方官として赴任した彼等の豪著な生活は、大いに地方武士の反感を買った。一時の成功にす ぐ調予に粟るのは、苦労に慣れない貴族の通性であろう。彼等はしばしば厳然たる存在である 武家を無視しようどした。  北畠親房は『神皇正統記』に於て、武家の恩賞を論じて「天の功を盗みて、おのが功と思へ り」ど言って居る。歴史家として鋭い史眼を持って居た親房程の人物でも、公家本位の偏見か ら脱する事が出来なかったのである。  これでは武家も収らない。 『太平記』の記者は、  ひごろ         ほんじよ  なみ                                    なり 「日来武に誇り、本所を無する権門高家の武士共いつしか諸庭奉公人と成、或は軽軒香車の後             ひざまず に走り、或は青侍格勤の前に脆く。世の盛裏、時の転変、歎ずるに叶はぬ習とは知りながら、        こうけ                                        ぞうにん 今の如くにして公家一統の天下ならば、諸国の地頭御家人は皆奴牌雑人の如くにてあるべし」 と、その当時武士の実状を述べて居る“  其の上、多くの武士には恩賞上の不満があった。彼等の恵勤は元来、恩賞目当てである。亦 朝廷でも、それを予約して味方に引き入れたのが多いのである。云わば約束手形が沢山出され 合戦6-------- 0 6 2 ************************************ ていたのである。  後醍醐天皇が伯書船上山に御還幸の時、名和長重は「古より今に至るまで、人々の望む所は 名と利の二也」ど放言して、官單に加ったことが『太平記』に見える。其の真疑はとにかく、 先ず普通の地方武士など大体こんな調子であろう。伝うる所によれば、諸国から恩賞を講うて     までのこうじ 入洛し、万里小路坊門の恩賞局に殺到する武士の数は、引きも切らなかったと言う。だから充       きんてん 分なる恩賞に均雷し得ない場合、彼等の間に、不平不満の声の起きるのは当然である。     えんや  或日、塩谷判亘局貞が良馬竜馬を禁裡に献上したことがあった。天皇は之を御覧じて、異朝                           いかに                      ほうそ は知らず我が国に、かかる俊馬の在るを聞かぬ、其の吉凶如何と尋ねられた。側近の者皆宝柞    かずい 長久の嘉瑞なりと奉答したが、只万里小路藤房は、政道正しからざるに依り、房星の精、・化し て竜馬どなり人心を動揺せしめるのだと云って、時弊を痛論した。即ち元弘の乱に官單に加っ            あずか た武士は、元来勲功の賞に与らん為のみであるから、乱後には忽ち幾千万の人々が恩賞を競望         く げ して居る。然るに公家一昧の者の外は、空しく恩賞の不公正を恨み、本国に帰って行く。かか    かかわらず る際にも不拘、大内裏の造営は企劃され、諸国の地頭に二十分の一の得分をその費用として割               りんし  たなごころ                             とうりよう 当てて居る。其上、朝令暮改、紛旨は掌を翻す有様である。今若し武家の棟梁たる可き者               そね が現れたら、恨を含み、政道を猜むの士は招かざるに応ずるであろう。夫れ天馬は大逆不慮の            いいさ 際、急を遠国に報ずる為め柳か用うるに足る丈である。だから竜馬は決して平和の象徴ではな い、と云うのだ。                かんそう  それが、『太平記』の有名な竜馬諌奏の一挿話である。元来太平記は文飾多く、史書として 其の価値を疑われ、古来多くの学者から排撃されて居る。併し藤房をして中興政治の禍根を指                     けいけい                    こ・つけい 摘させて居る所など、『太平記』著者の史眼は燗々どして、其の諭旨は肯繋に当って居ると思 ・つ。  思うに尊氏はその所謂棟梁である。門閥に於ては源氏の正統であり、北条氏でさえ之と婚姻 を結ぶのを名誉と考えた程の名家である。何時頃から此の不平武士の棟梁どしての自分を意識 したか知らないが、六波羅滅亡後、一時京都が混乱に陥った時、早速奉行所を置いて時局を収 拾した芸当など、実に鮮かなものである。一見極めて矛盾した様な性格らしく、それだけに政        いんえい 治家としては、陰繋が多い訳だ。  だから誇張されれば、いくらでも悪人になり得る。直木三十五は「尊氏は成功した西郷隆盛 である」と評して居るが、人物としては相当なものである。中島商相位に賞められてもいいの であるが、前にも云った如く、人間として純粋無比な楠公父子を相手にしなければならなかっ た所に、彼の最大の不幸があると思う。恐らく勝利の悲哀を此の男程痛切に昧った者は、国史  すくな には紗いのではなかろうか。 ************************************ 正成ど正行 ************************************ 261 四条畷の戦 ************************************ 楠氏は元来橘氏の出である。勿論其の由緒に就ては詳しいことは何も分らない。当時、河内 の東条川に拠った一小豪族に遇ぎないのだ。 恐らく挙兵前の大楠公は、地方によく有る好学の精神家であり、戦術家であったろうと思 262 ************************************ ㌻つ                                         おん  足利、新凪の如く源家嫡流の名家でもないし、菊池、名和の如く北条氏に対して百年の怨 しゆう                                                                          びよう 讐を含んでいたわけでもない。亦皇室から特別の御恩を戴いたこともないだろう。然るに瀞 たる河内の一輝士正成が敢然立って義旗を翻すに至った動機には、実に純粋なものがあるの                   ぞうけい だ。学者の研究に依ると、正成は宋学の造詣が相当深かった様だ。宋学の根本思想の一つは忠 孝説である。つまり学問的に正成は恵義の何物たるかを熟知して居たのだから迷わないのだ。 最初から、功利的忠義ではないのだ。尚、宋学は当時後醍醐天皇初め南朝公家の間に盛に行わ                               なんか れて居たから、正成は天皇と同系統の学問をして居たことになる。南河の夢で正成を笠置に召                            お し出したのが奉公の最初であるとする、『太平記』の説はさて措き、早くからこの君臣の間に、 ある関係があったことは想像出来る。正中の変前に、日野俊基が山伏姿で湯治と称し、大和、                        しる 河内に赴いたことは、『増鏡』や『太平記』に立派に記してあるが、恐らくこんな時、楠氏と 朝廷どが結ばれたのかも知れない。或はもっと早く、学問上の関係から、天皇ど正成は相共嶋 する所があったのではあるまいか。  とにかく正成は出発点からして、他の多くの諸将と違って居る。つまり学問上の信念を純粋 に実践に依って生かして居るからだ。『太平記』の記者などは、所きらわず正成を褒め倒して                        よぼう 居るが、これなども戦記作者を通じて、当時一般の輿望が現われているのである。  或日、武将達が集って、建武中興で一番手柄のあった者は誰だろうど議論があった。各々我 田引水の手柄話に熱を上げて届ると、正成は「それは菊池(武時)だろう」と言った。滅多に 263 ************************************ 四条畷の戦 ************************************ 人をほめたことのない新田義貞も、此の二言には非常に感動したと云う(『催澄文書』)。その 謙抑矩るべしだ。  戦後の論功行賞にしてもそうだが、尊氏や義貞に比して、正成は寧ろ軽賞である。それでも                                    さんぜん 黙々どして恵勤を励む其の誠実さは、勘定高い当時の武士気質の中にあって、燦然として光っ ている。                                   まさつら  最近公刊されたものであるが『密宝楠公遺訓書』ど呑つ本がある。正成が正行に遺言として 与えたものであると云う、その中に、 「予討死する時は天下は必ず尊氏の世となるべし。然りと云へども、汝、必らず義を失ふこと なかれ。夫れ諸法は因縁を離れず、君となり臣となること、全く私にあらず。生死禍福は、人        したが                 のが 情の私曲なるに随はず。天命歴然として遁る㌧処なし」とある。少し仏法臭を帯びては届る                                         こ が、秋霜烈日の如き遺言である。名高い桜井の訣別の際の教訓にしてもそうだが、兎に角斯う した一種の忠君的スパルタ教育で、小楠公は鍛えられたのだ。幼少時代の正行を記すものは、            みなとがわ                                         いさ 『太平記』唯一つである。湊川で戦死した父の首級を見て、自殺せんとして母に諌められ、其 の後は日常の遊戯にまで、朝敵を討ち、尊氏を追う真似ばかりして居たと云う。          すべ  思うに彼を取誉く総ての雰囲気が、此の少年を、亡父の義挙を継ぐべき情熱へと駆り立てて 行ったのであろう。               もろなお 『吉野拾遺』に、正行が淫乱な師直の手から弁内侍を救ったと云う有名な話がある。 「正行なかりせばいど口借しからましに、よくこそ計ひつれ」と後村上帝が賞讃し、内侍を正 4 6 2 ************************************ 行に賜らんとした。すると正行は、 「どても世に、ながらふべくもあらぬ身の、仮の契をいかで結ばん」  と奏して辞したと云う。  多分に禁欲的な、同時に自己の必然的運命を早くから甘受して居る聡明な青年武将の面影が 躍如どしている。 ************************************ 正行の活動 ************************************                    あんぐう  延元四年の秋、後醍醜天皇は吉野の南山行宮に崩御せられた。北畠親房は常陸関城にあって                                  かく 此の悲報を聞き、「八月の十日あまり六日にや、秋露に侵されさせ給ひて崩れましましぬと聞    ぬ えし。寝るが中なる夢の世、今に始めぬ習ひとは知りながら、かずく目の前なる心地して、 おい                                                      どうこく 老の涙もかきあへねば筆の跡さへ滞りぬ」と『神皇正統記』の中で働巽して居る。    つと                  あきいえ  正成夙に戦死し、続いて北畠顕家は和泉に、新田義貞は北陸に陣歿し、今や南朝は落漢とし      すさ て悲風吹き荒び、ひたすら、新人物の登場を待って居た。  そこへ現れたのが、楠正行である。彼は近畿に残存する楠党を糾合し、亡父の遺訓に基いて その活動を開始したのである。  元来楠党は山地戦に巧みである。正成が千早城や金剛山に奇勝を博し得たのは、一に彼等の 敏捷な山地の戦闘力に依ったのである。従って正成の歿後も、河内一摂津、和泉地方の楠党は 山地にかくれ頑強に足利氏に抵抗して居たのである。だからそうした分敵的な諸勢力を一括し 265 四条畷の戦 ************************************ た正行は、今や北朝にとっては一大敵国をなして居るわけだ。  正平二年七冴、畿内の官軍は本営を河内東条に移し、菊水の旗の本に近畿の味方を招集し始             たかすけ めた。即ち北畠親房、四条隆資等の共同作戦計画が出来たので、本営を此の地に据えて、吉野 の軍と相策応したのである。実に正成の本拠であった河内東条と、行宮のある吉野は、官軍の               けいき 二大作戦根拠地であった。時の京畿官軍の中心は言うまでもなく、正行の率いる楠党であっ た。  八月十日、正行は和泉の和田氏等の軍を以て紀伊に入り、隅田城を急襲して居る。これは東 条と吉野との連絡を確実にする為であって、大楠公の赤坂再挙の戦略と全然同一のものであ る。果然これを機会として京畿の官軍は一時に蜂起し、紀伊熊野諸豪多く官單に応じ、和泉摂                               おどろ       あきうじ 津にも之に響応する者が少くなかった。此の報を得た賊軍側は大いに駁き、細川顕氏に軍を率 いしめ、八月十九日に大阪天王寺を出発せしめて居るが、彼は泉州に於ける優勢な楠勢にはと                                    きよ七つきよ、つ ても敵せぬと、京都に報告して居る。小康を得て居た当時の京都の人心は為に倒々として畏             きみかた 怖動揺したとみえる。洞院公賢は其の日記に此の仔細を記して居るが、京都の諸寺一時に祈蒔 の声満つると云う有様であった。  然るに楠軍は一旦兵を河内に還して居る。そして九月九日に八屋城を攻撃し、十七日には河 内の藤井寺附近に於て、大いに顕氏の軍を破り、正行は初陣の武名を挙げたのである。 『細々要記』に「京都より細川陸奥守以下数十人河内発向藤井寺に障す。基仮正行等不意に寄 せ来り合戦。京勢敗北死人数を知らず」どあるから、今や正行怖る可しと痛感したようだ。 6 6 2 ************************************                                   ようげき  次いで十一月二十六日、正行は和田助氏を先障として住吉天王寺附近の敵を激撃した。此の戦 勝は圧倒的であり、したたかにやられた賊軍はすっかり、狼狽したらしい。彼等の記録に、  こんせき      きず                  もつて 「今タ討死、疵を蒙る輩数を知らず。以の外のことなり。之を為すこと如何」と放心の状であ る。    いくさ  此の戦は霜月のこどであるから、橋から落ちて流れる敵兵五百余人の姿は、惨濾たるものが          あわれ                                             きず あった。正行は是を欄んで彼等を救い上げ、小袖を与えて身を温め、薬を塗って創を治療せし めたと『太平記』にある。「されば敵ながら其情を感ずる人は、今日より後心を通はせん事を                 やが 思ひ、其の恩を報ぜんとする人は、擁て彼の手に属して、後四条畷手の戦に討死をぞしける」 一いくらか美化して書いたのであろうが、小楠公を飾る絶好の美談であろう。                  こうのもろなお  周章した足利直義は、遂に十二月、高師直、師泰兄弟を総大将どして中国、東海、東山諸 道の大軍を率いて発向せしめ、最後の決戦を企てた。  元来正行は常に寡兵を以て、敵の不意を襲って大勝利を得て居る。尤もそれより外に方法は ないのだ。四条畷の戦では、敵は比較にならぬ程の大軍であり、其の精兵は日一日ど増加して 居る。佐野佐衛門氏綱の軍忠状に依るど、合戦の日の五日の日にまで、敵には続々馳せ参ずる 兵があったど云う。此の敵に対し堂々の陣を張る事が不得策であるのは、明瞭であるから、正                                       あだか 行は敢て東条に退いて自重せず、速戦速決で得意の奇襲に出でたど解す可きだろう、時恰も鎮 西に於ける官軍の活動も活澄であった。正行にすれば、此の際東西相呼応する大共同作戦も胸 中に描いて居たらしい。併し何としても敵は十数ケ国の兵を集めて優勢である。味方は、河内 和泉などの寡兵である。南朝恢復の重任を以て任じて居たものの、正行も、到底勝つべき戦と は思っていなかったであろう、 ************************************ 正行の戦死 ************************************ 267 四条畷の戦 ************************************                      くらがり  今や楠党は主力を東条に集結し、別軍は河内の暗峠を固めて、敵を待った。此の間、彼が作 戦奏上の為め、吉野に参廷したあたりは、正に『太平記』中の圧巻であって、筆者は同情的な 美しい筆を自由に撮って、悲槍を極めた光景を叙述している。  即ち、参廷して父の湊川に於ける戦死を述べ、今こそ亡父の遺志を遂行する心からの歓喜に                             こんじよう 言及し、師直兄弟の首に自らの首を賭けて必勝を誓って居る。「今生にて今一度竜顔を拝し奉 らんために参内仕りて候ふど申しもあへず、涙を鎧の袖にかけて、義心其の気色に顕れけれ     いまだ               ひたたれ                                   み す ば、伝奏未奏せざる先にまづ直衣の袖をぞぬらされける。主上則ち南殿の御簾を高く捲せて玉   うるわ 顔殊に麗しく、諸卒を照臨ありて正行を近く召して、収前両度の戦に勝つこどを得て、敵單に 気を屈せしむ。叡慮先づ憤を慰する条、累代の武功返すぐ轟妙なり、大敵今勢を尽して向                            こ こ−つ ふなれば、今度の合戦天下の安否たるべし、…・−朕汝を以て股肱とす。慎で命を全ふすべしど 仰せ出されければ、正行頭を地にっけて、兎角の勅答に及ばず』                          あいそなわ  場所は古来伝称の吉野山である。君臣の義相発して情景相具った歴史の名場面ではないか。 かくて共に討死を誓った一行は後醍醐天皇の御廟に詣で、如意輸堂の壁に各姓名を書き連ね、 その奥に有名な「かへらじと」の歌を書きつけたとある。だが、これはうそである。普通に常 8 6 2 ************************************ 識の有る者が、御陵の傍のお堂に、勝手な落書をして行くなんて、考えられないのである。ま して、正行の如き純粋な忠臣に於てをやだ。楠公万能の義公であるから仕方がないとしても、 『大日本史』までもが『太平記』の真似をして「同盟の姓氏を如意輪堂の壁に題し、歌を其の 後に書して日く」とやって居るのは、どうかと思うのである。恐らく、名前は寺の過去帳に書 いて行ったのであろう。それが今、如意輪堂に行くど、堂々と此の歌を書きつけた扉が残って 居る。書きつけた壁でも残って居るのならまだしも、扉になって居るのは二重の間違いであ る。                       たかのり  然し、少し嘘がある方が、歴史は美しい。児島高徳の桜の落書と云い、「太平記』にも大衆 文芸の要素があるのだ。  四条畷の戦は正月五日に起って居る。此の日の戦闘を『太平記』なんかで考えてみるど、先 ず師直は本営を野崎附近に敷き、その周囲には騎兵二万、射手五百人を以て固めて居る。              たむろ  その第二隊は生駒山の南嶺にもに、大和にある官單に備えて屠る。師泰の遊軍二万は和泉堺 を占領し、楠軍出動の要地である東条を、側面から衝かんどして集結中である。要するに賊軍 の配備は消極的で、東条を包囲して徐々に半円径を縮めんとするものらしい。                                まさのり  一方官軍は三軍を編成。し、正行は弟の正時と共に第一軍を率い、次郎正儀は東条に留守軍と                     ひっさ なって居た。吉野朝廷からは北畠親房が老魎を提げ、和泉に出馬し、堺にある師泰に対抗して 居た。亦四条隆資は、河内等の野伏の混成隊を以て、生駒山方面の敵を牽制して居る。『太平 記』は正行の奮闘は詳説するくせに、此等の諸軍の動静を閑却して居るが、師泰なんか四条畷 269 四条畷の戦 ************************************              渡うあつ 戦後、北畠單に大いに進軍を防遇されて居るのである。  正行直属の兵は凡そ一千人位で、当時大和川附近の沼沢地に陣して居た師直の本営を掩撃す 可く突撃隊を組織した。  五日早旦、恐らく午前六時頃だろう。正行は自ら突進隊五百騎を提げて、一直線に北に強行                 じゆうりん 突破を企てて居る。敵の前哨は全く躁燭されて、約半里も北に圧迫されて居る。此の時四条 隆資單に牽制されて居た生駒山方面の敵は、この有様を術鰍して、四条軍を捨ててどっど山を 下り、楠軍の後続部隊に躍りかかった。つまり思わぬ新手の出現で、楠軍の突進隊は後方から 切断された訳だ。  此の時正行の手兵僅かに三百。なおも果敢な肉迫戦を続けて行く中、流石の師直の本陣もさ      なぴ っと左右に摩いた。踊躍して飛び込むと、早。くも師直は本営を捨て、北方、北条村に退かんど                                        ま古』 して居る。恰も此の辺は沼沢地であり、走るに不便だ。追うこと暫くして、其の間半町、将に             かみやま           いつわ 賊将を獲んとした時、賊将上山六郎左衛門、弊って師直の身代りになって討死した。  その為に大分暇をとった。それでも執撤に追撃の手をゆるめなかったが、突然敵方に強弓の               す ず き 一壮漢が現れた。九州の住人、須々木四郎と名乗って雨の如く射かけたから堪らない。  楠次郎は眉間をやられ、正行も左右の膝口三ケ所、左の眼尻を深く射抜れた。               げんとう  午後四時頃であろう。野崎の原頭、四条畷には群像の如き三十余騎の姿が、敵單に遠く囲ま れながらだ然として立ちすくんで居る。長蛇を逸した気落ちが、激戦三十余合で疲労し切った 身体から、総ての気力を奪い去って居る。 0 7 2 ************************************    おろし                          しようじよう  飯盛蔵に吹き流される雲が、枯草が、蘇条として彼等の網膜に写し出され、捉える事の出            や 来ない絶望感が全身的に灼きついて来たのであろう、      ああ  正行は、「瑳、我事終れり」と嘆じて、弟正時と相刺し違えて死んだ。相従う十三余士、皆 とふく 屠腹して殉じた。  正行戦死の報が京都に達すると、北朝では歓呼万歳を唱えて喜んだと云う。可なり嬉しかっ                                         あ たんだろう、それだけに此の悲報は南朝にとっては大打撃であった。為に後村上天皇は難を賀 の う 名生に避けられ、吉野の行宮は師直の放火によって炎上し、南朝の頽勢は既に如何ともし難 い。  恐らく正吏に於ける正行の活動は数年に過ぎない。亦正成にしても、大体そんなとこであ               うた る。それで今日までその純思を調われるのであるから、人間としてもまずこれ程立派な父子 は、日本吏中古今稀である。その正成父予に対する崇拝が反尊氏思想となり、日本一の不忠者                       たた のように云われ、六百年の後まで、中島商相にまで崇るのである。然し、当時正成の策戦を妨 害して、正成に湊川で無理な軍をさせ、事を誤った公卿の子孫である、貴族院の子爵議員など が、。今更尊氏の攻撃をするのはおかしい。 小田原陣 ************************************ 関東の北条 ************************************ 271 ************************************ ノ』’田原陣 ************************************  天正十五年七月、九州遠征から帰って来た秀吉にとって、日本国中その勢いの及ばないのは 唯関東の北条氏あるだけだ。尤も奥羽地方にも其の経略の手は延びないけれど、北条氏の向背                        ぴようたん               すべ が一度決すれば、他は問題ではない。箱根山を千成瓢撃の馬印が越せば、総て解決されるの である。  じゆらくだい                   しつか  こうとう  聚楽第行幸で、天下の群確を膝下に叩頭させて気をよくして居た時でも、秀吉の頭を去らな かったのは此の関東経営であろう。だから、此のお目出度が終ると直ぐ、天正十六年五月に北 条氏に向って入朝を促して居る。  一体関東に於ける北条氏の地位は、伊勢新九郎(早雲)以来、氏綱、氏康、氏政と連締たる おおしにせ 大老舗の格だ。これを除けば、東日本に於て目ばしいものは米沢城に在る独眼竜、伊達政宗位 272 ************************************ だけだ。北条氏は、箱根の天瞼で、上方方面からの勢力をぴったりと抑えているのと、早雲以 来民政に力を注いだ結果、此の身代を築き上げたのである。    さすが                    ようや  併し流石の名家も、氏政の代になって薪く衰退の色が見える。家来に傳いのが出ないのにも 依るが氏政自身無能である。お坊っちゃんで、大勢を洞察する頭のないお山の大拝だからであ る。                   あだか  或る時、若年の氏政が、戦場に在った。恰も四月末だったので、百姓が麦を刈り取って馬に 積み、前を通った。すると氏政は側近の者に、あれで直ぐ麦飯を作って持って来いと命じた。 ところが、此の時は武田信玄ど両旗であったと見え、同席している信玄が、流石に氏政は大身                              つ である、百娃の事は知らないのも無理はないが、麦は乾かしたり揚いたりしなければ、飯には た                            ・ 炊けないと云って説明した。                   わら  信玄のことだから、恐らく腹の中では潮って居たことであろう。  氏政の頭は、こんな調子である。それだけに名君の誉ある父の氏康の心痛は思いやられる。                   とどろ                きず 氏康は川越の夜戦に十借の敵を破り勇名を轟かした名将で、向う創のことを氏康創と云われた 位の男である。  一日、父予で食事をしたところ、氏政が一杯の飯に二度汁をかけて食った。氏康これを見て 落涙し北条家も自分一代で終るど言った。食事は毎日のこどだから、貴賎に限らずその心得が なくてはならない。初めから足りない様な汁のかけ方をするような不心得では、軍勢の見積り など出来るか。それでは戦国の世に国を保っことは思いも寄らぬと言って長歎したど云う。昔 273 小 ************************************ 田原陣 ************************************ の食事は、汁椀などはなく、大きな鉢に盛った汁を各自の飯椀にかけるのだった。先日、京都 の普茶料理を瞳べながら、この逸話を思い出した。普茶料理に昔のおもかげがある。食事の仕               へいしんのう 方で、人物批判をされたのは、平親王と氏政の二人である。           し  子を見るこど、父に如かず氏巌の予言は適中して、凡庸無策の氏政は遂に大勢を誤ったので ある。即ち秀吉の実力を見そこなったのである。秀吉に上洛を追られた時、忙しくて京都まで 行って居られぬど断った。尤も氏政にしてみれば徳川家康がその親戚であるから、まさかの時 は何とかして呉れる位には楽観して居たのだろう。  も  若し此の時素直に上洛して、秀吉の機嫌をとっておけば、二百八十万石を棒に振らなくても 済んだのである。秀吉にとって北条氏は全滅させなければならぬ程の宿怨があるわけでないか らだ。                       っぷ  もう天下を八分まで握っていた秀吉は一度顔を潰されたとなると、決して容赦はしない。家 康に調停を乞い、一族の北条氏則を上洛させて弁解に努めたけれど、時機は既に遅い。沼田事 件に於ける北条氏の不信を鳴らして、天正十七年十一月二十四日には痛烈な手切文書を発して                                     キ』 届るのである。沼田事件ど云うのは、氏政上洛の条件として上州沼田を真田から割いてくれ、            さと                          よしひで          なくるみ と云った。秀吉が真田に諭して、沼田を譲らしめた。だが、真田視秀の墳墓のある名胡桃だけ は除外した。しかるに、北条氏の将が名胡桃まで略取してしまった。これが、開戦の直接原因 である。              そむ                          いずくん 「然る処、氏直天道の正理に背き、帝都に対して好謀を企つ。何ぞ天罰を蒙らざらんや。古 4 7 2 ************************************                            ともがら      ちゆうばつ 諺に日く、巧詐は拙誠に如かずど。所詮普天の下勅命に逆ふ輩は、早く課伐を加へざるべか らず云々L  実に秀吉一流の大見得である。勅命を奉じて天下を席捲せんとする其の面目が躍如として居 る。                               のち  この氏直は氏政の子であって此の時の責任者だ。氏直を入れて、後北条は五代になるのだ。                      なげう  此の手切文書を受けとった氏政は、是を地に灘って弟の氏照に向い、一片の文書で天下の北   どうかつ 条を個喝するとは片腹痛い、兵力で来るなら平の維盛の二の舞で、秀吉など水鳥の羽音を聞い     かいそう ただけで潰走するだろうと豪語したと云う。上方勢は、柔弱だと云う肚が、どっかにあったの であろう。  武田信玄でも上杉謙信でも、早くから北条氏には随分手を焼いて居る。つまり箱根ど云う天 然の要害に妨げられたからである。謙信など長駆して来て、小田原を囲んだが、懸軍百里の遠 征では、糧続かず人和せず、どうにも出来なかった。ただ城濠の傍近く馬から下り、城兵に鉄 砲の一斉射撃を受けながら、悠々としてお茶を三杯飲んだと云うような豪快な逸話を残してい る丈だ。  併し秀吉は、信玄や謙信の様に単なる地方の豪傑ではない。既に天下の秀吉だ。箱根の麓あ たりで独り思い上って居る北条は、こんなところで取返しのつかない大誤算を犯したと云うべ きだ。 秀吉の出障 ************************************ 275 ************************************ ノ1’田原陣 ************************************                   ,つじキ㌧と  天正十八年二月七日、先鋒として蒲生氏郷が伊勢松坂城を出発した。続いて徳川家康、織田                        うしお 信樽は東海道から、上杉景勝、前田利家は東山道から潮の様に小田原指して押しよせた。「先           つき 陣既に黄瀬川、沼津に著ぬれば、後陣の人は、美濃、尾張にみちみ」ちたる」とあるくらいだか                                  よしあき ら、正に天下の大軍である◎その上、水軍の諸将、即ち長曾我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆等 も各々その精鋭をすぐって、遠州今切港や清水港に投錨して居るのだから、小田原城は丁度三 面包囲を受ける形勢にある。    っいたち  三月朔日、いよいよ秀吉の本隊も京都を出発した。随分大げさな出立をしたものとみえ、 『多聞院日記』に「東国御陣立どて、万方震動なり」とある。         からかんむり かぷと       きんざねひおどし           しげとう  作り髭を付け、唐冠の甲を若け、金札緋威の鎧に宋塗の重藤の弓を握り、威儀堂々と馬に                     とぎしゆう 乗って洛中を打ち立った。それに続く近習や伽衆、馬廻など、皆善美を尽した甲冑を着て伊 達を競ったから、見物の庶民は三条河原から大津辺迄桟敷を掛けて見送ったと云う。  こんな一種の稚気にも、如何にも秀吉らしい豪快さがあって、鎖国時代以後のいじけた将軍 の行列なんかには到底見られぬ図であろう。        ひら                                                  たの。  その上途中に展ける東海道の風光が、生れて始めて見るだけにひどく心を愉しませたらし い。清見寺から三保の松原を眺めて、    もろひと    諸人の立帰りつ㌧見るどてや、関に向へる三保の松原 276 ************************************  ど詠んだ。其の他沢山に歌を作って居るが、其の先鋒諸隊に対する、厳重な訓令は怠らなかっ                                      か た。殊に家康の領内を行進するのであるから、こんな点抜け目のある男ではない。欺くて二十 七日には、家康や信耀に迎えられて沼津城に入って居る。  一方北条方では、此の間どうして居たか。  天正十八年正月二十日に、氏政、氏直父子は一門宿将を小田原に招集して、評議をやって居                           ようげき る。初めは三島から黄瀬川附近まで進撃し、遠征の敵軍を敷撃する策戦に衆議一決しようとし        のりひで                              たの た。此の時松田憲秀独り不可なりと反対し、箱根の天瞼に侍み、小田原及関東の諸城を固めて 持久戦をする事を主張した。此は元来北条氏の伝統的作戦であって、遂に軍議は籠城説に決定 した、                              にらやま  そこで直ちに箱根方面の防傭は固められた。先ず要鎮の一である韮山城は、氏政の弟、氏則                      かげずみ が守り、山中城には城将松田康長の外に、朝倉景澄等の腹心の諸醤を派遺して居る。朝倉景 澄、この時秘かに心友に向い、山中城は昨年以来相当に修繕はしてあるが、秀吉の大單にはと                               そうが ても長く敵することは出来ぬ、今我等宿将を此処に差し向けるのは、爪牙の臣を敵の餌食にす る積りだろうと云って歎じたと云う。重臣ですらこれである。一般の士気は察すべきだ。  三月二十八日、秀吉は沼津を発して三島を過ぎ、長久保城に入って家康ど軍議を凝らして居 る。小田原攻撃の前哨戦は、先ず誰が見ても此の山中、韮山二城の奪取でなければならない。  山中城に対する襲撃は、三月二十九日の早朝に始まって居る。寄手は秀次を先鋒にして堀尾 吉晴等の猛将が息をもつがせずに急襲した。秀吉は此の蒔、蓬か後の山上に立ち、あれを見                 しり  ひきまく よ、あれを見よとばかりに指さし、腎を引捲り小躍りしたと云うから、相当に目覚しい攻撃振                                  も りだと思われる。もっとも腎をまくるのは秀吉の癖である。一挙にして操みつぶしてしまっ た、秀吉の得意思うべきである。此の日、下野黒羽城主大関高増に手紙をやり、                     きつと            これまた 「今日箱根峠に打ち登り候。小田原表行き、急度申付く可候、是又早速相果す可く候」 ’と軒昂の意気を示して居る。今、十国峠あたりから見るど、山中は湯河原なんかと丁度反対側 の小集落だ、併しどに角、箱根山塊の一端だから「今日箱根峠に打ち登り候」と子供の様に喜 んで居るのだ。又それだけに、箱根山脈が如何に当時の武将の間に、戦術上の要害どして深刻 に考えられて居たかが分ると思う。                            うじのり  一方韮山城攻囲の主将は織田信雄である。併し城主の北条氏規は、北条家随一の名将どして 知られて雇る程の人物だから、四万四千の寄手も相当に苦戦である、流石の福鳥正則みたいな 向う見ずの大将も、・一時、退却したくらいだ。実際に氏規の韮山城の好防は、小田原役の花と うた 謹われたものである。              キ』ま  韮山城が容易に陥ちないと定ると、秀吉は一部の兵を以て持久攻囲の策をとり、袋の鼠にし て置いて、全軍を以て愈々小田原攻撃の本舞台に乗り出した。 ************************************ 277 ************************************ ノ』’田原陣 ************************************        小田原包囲                                       はつらつ  四月五日、秀吉は本営を箱根から、湯本早雲寺に移した。山の中とはことかわり、澄渕たる                      やっ                       ものう たいとう 陽春の気は野に丘に満ち、快い微風は戦士等の嚢れた頬を撫でて居る。ともすれば傾い飴蕩た 8 7 2 ************************************                         ひしめ る春霞の中にあって、十万七千の包囲軍はひしひしと韓き合って小田原城に迫って居る。  さかわ  酒匂川を渡って城東には徳川家康の兵三万人、城北荻窪村には羽柴秀次、秀勝の二万人、城 西水之尾附近には宇喜多秀家の八千人、城南湯本口には池田輝政、堀秀政等の大軍が石垣山か        し ら早川村に陣を布いて居る。その上、相模湾には水軍の諸将が讐傭の任にっき、今や小田原城 は完全な四面包囲を受けて居る。此の蒔北条方にとって憎む可き裏切者が出た。即ち宿老松田 憲秀であって、密便を早雲寺の秀吉に発し、小田原城の西南、笠懸山に本営を進むべきことを 説いて居る。そこで秀吉が実地検分してみると、小田原城を真下に見下して、本陣としては実                                       やぐら に絶好の地だ。よいど思ったら何事にも機敏な秀吉のこどだから、直ちに陣営の塀や櫓を白紙 で張り車て、前面の杉林を切払って模擬城を築いた。一夜明けて小田原城から見ると、石坦を                 書 築き、白壁をつけた堂々たる敵営が讐えて居るのだから、随分面喰っただろうと思う。     キーま 「凡人の態ならず、秀吉は天魔の化身にや」                       なき             ほととぎす   くちずさ  と驚いて居る時、秀吉は既に此処に移転して、コ岬たつよ北条山の郭公」と口吟んで、涼し い顔をして居た。  此れが有名な石垣山の一夜城であって、湯本行のバスの中なんかで、女車掌が必ず声を張り 上げて一くさりやる物語りである。                                   そうそう  此の語の真偽はとにかく、戦略上の要点を見付けるのに天才的な秀吉と、鐸々たる土木家で         ながつか ある増田長盛や、長束正家なんかが共同でやった仕事だから、姑息な小田原城の将士の度肝を         い い 抜くことなんか、易々たるものだったと思う。                               かん娃い どどろ      き し   七日、秀吉は総攻撃を命じて居る。全軍一斉に銃射を開始し、械声を響かし、旗職を撮って                      かね  進撃の気勢を示した。水軍も亦船列を撃んて鉦、、太鼓を鳴らして陸上に迫らんとした。城中か   らは応戦の声が挙ったけれど、此の日は何の勝負もなかった。   秀吉は此の日、北西二方面の攻撃力の不足を肴破し、韮山攻囲軍の過半を割いて救援させて  居る。欺くして戦線の兵は次第に増大し、海陸の兵数は実に十四万八千人に上った。併し流石   に天下の名城だけに、小田原城の宏大さは一寸近寄り難い。                        こみね   「此城堅固に構へて、広大なること西は富士と小嶺山つどきたり。この山の間には堀をほり、  東西へ五十町、南北へ七十町、廻りは五里四方。井楼、矢倉、隙間もなく立置き、持口々々に                              よそお  。大将家々の旗をなびかし、馬印、色々様々にあつて、風に翻り粧ひ、芳野立田の花紅葉にやた         ぬりこ                              ちくい  どへん。障屋は塗籠め、小路を割り、人数繁きこと、稲麻竹葦の如し」   と『北条五代記』にある。如何にも五代の積威を擁して八州の精鋭を集めただけあって、上  方勢が攻めあぐんだのも無理はない。   九日には長曾我部元親、加藤嘉明等の水軍は大砲を発射して威嚇に努めて居るが、城内は泰  然としてビクともして居ないのである。 陣  そろそろ此の辺から、戦いは持久戦になって来た。秀吉も攻めあぐんだ。小田原評定なんて 岬云う言葉の起一た所以である。一寸緊張が綴むと、面白いもので、家雫信繋北条方へ内通 小 して居ると云う謡言が、。陣中にたった。尤も火のない所に煙は立たないもので、小牧山合戦以 胴 来未だ釈然たらざる織田信雄なんかが策動して、家康を焚き付けたこどは想像出来るのであ 0 8 2 ************************************ る、だから先に秀吉が駿府城に迎えられた時、率直な秀吉は馬から下るやずかずかと進み、信 樽、家康逆心ありど聞く、立上がれ、一太刀参らうと、冗談半分に、一本、釘を打って居るの である。此の場は家康の気転で収ったが斯うした空気が常に二人の間に流れて居たことはわか る。  亦此の陣で、関白が僅か十四五騎ばかりで居たことがある。井伊直政は今こそ秀吉を討ち取                                         むご る好機だと、家康に耳語したところ、「自分を頼み切って居るのに、籠の鳥を殺すような酷い                        ひっきよう こどは出来ない。天下をどるのは運命であって、畢琵人力の及ぶ所でない」と、たしなめた 。と云う。一  強い者に対した時だけ、信義を撮り廻すのが一番であると確信して居る家康の処世術のこれ が要訣である。つまり、家康は無理はしたくなかったのである。                    み な  とにかく秀吉は、斯んな流言を有害と見傲して、早速取消運動にかかって居る。自ら巡視と 称して刀を従者に預けたまま、小姓四五人を連れて大声をあげて家康の陣に行き、徹宵して酒          てきめん を飲んで快談した。観面に此の効果はあがって謡言は終熔したが、要するに今後の問題は、持 久戦に漸く倦んだ士気を如何に作興するかにある。  此の時小早川隆景進言して言うのに、父の毛利元就が往年尼子義久と対陣した際、小歌、踊     はやし り、能、噺をやって長陣を張り、敵を退屈させて勝つこどが出来たと言った。秀吉も此の言を 嘉納し、ここに小田原は戦塵の中にあって歓楽場に変ったのである。       こ、つじ  東西南北に小路を割り、広大な書院や数寄屋を建て、庭には草花などを檀え、町人は小屋を 281 ************************************ ・』・田原陣 ************************************ かけて諸国の名物等を持って来て市をなして屠る。京や田舎の遊女も小屋がけをして色めきあ ったど云うが、恐らく事実は此れ以上に賑ったことと思われる。  その上秀吉は諸将に、その女房達を招き寄せることを勧め、自分でも愛妾の淀君を呼び寄せ て居る。淀君が東下の途中、足柄の闘で抑留した為、関守はその領地を没収された様な悲喜劇 もあった。或時は数寄屋に名器を備え、家康、信灘等を招待して茶の湯会をやって屠る。やが て酔が廻り、美妓が舞うにつれ一座は、裏と浮かれ、一どんとろく、どろ差るかまも、 どろ㌧なる釜も、湯がたぎる、たぎる、たぎるやたぎる」と、謡ったところ、釜の蓋もわきか えり、拍子を合せるようであったと云う。          ほあん  此の情景を描いた甫奄は最後に、「群疑を静め、諸勢を慰め、浮やかにし給ひし才には中々 信長公も及ぶまじきか」と批評して居るが、適評である。  一方小田原方でも負けないで、持久の計を立てて居る。 「畳は碁、将棋、双六を打つて遊ぶ所もあり。酒宴遊舞をなすものあり。炉を構へて朋友と数                                   つづみ 奇に気味を慰もあり。詩歌を吟じ、連歌をなし、音しづかなる所もあり。笛鼓をうちならし乱            しかれ 舞に興ずる陣所もあり。然ば一生涯を送るとも、かって退屈の気あるべからず」と『北条五代 記』にあるから、此又相当なものである。見たところ此れ位呑気な戦争は、戦国蒔代を通じて 外にあるまい。こうなった以上根気較べの他はない。 282 ************************************        小田原城の陥落                           お は こ ,戦争のやり方も相手に依りけりだ。いかに寵城が北条の十八番でも、のびのびと屈托のない                       ふうし 秀吉に対しては一向利き目がない。それどころか夫子自身、此のお家伝釆の芸に退屈し始めて 来た。  そこで広沢重信は、城中の士気を振作すべく、精鋭をすぐって、信灘と氏郷の陣を夜襲し                           やりきず た。蒲生氏郷自ら長槍を揮って戦い、胸板の下に三四ケ所鎗疵を受け、十文字の鎗の柄も五ケ          なまずお    。 所迄斬込まれ、有名な鰭尾の兜にも矢二筋を射立てられ乍ら、尚も悪鬼の如く城門に迫って行 っ。たとあるから、兎に角強いものである。小田原陣直後奥州の辺土へ転封され、百万石の知行                               ちゆうげん にあきたらず、たどえ二十万石でも都近くにあらばど、涙を呑んで中原の志を捨てた位の意    ほうふつ     うかがわ 気は、箸髭として覗れるのである。  此の頃になると、関東方面に散在して居る諸城は、相次いで陥落し、小田原城は愈々孤立無 援の状態にある。                                     つい  六月二十二日には、関東の強鎮八王寺城が上杉景勝、前田利家の急襲に逢って潰えて居る。                         おし 石田三成の水攻めにあいながらも、よく堅守して居る忍城の成田氏長の様な勇将もあったが、 小田原城の士気は全く沮喪して仕舞った。      さみだれ  此の年の五月雨は例年より蓬かに長かったらしい。霧を伴い、ホ屡々豪雨の降ったこどは当 時の戦記の到る所に散見して見える。 283 ************************************ ■』’田原陣 ************************************                  りんう  十重二十重に囲まれ、その上連日の霜雨であるから、いくら遊び事をして居たって、城内の 諸士が相当に腐ったのは想像出来る。  気持ちが滅入って来ると、疑心暗鬼を生じて来る。前には松田憲秀の様なスバイ事件もある し、機敏な秀吉は此の形勢を見て、盛んに調略、策動をやった。薪くて「小田原城中群疑蜂起      ちまた                                                  むっま し、不和の岐どなつて、兄は弟を疑ひ、弟は兄を隔て出けるに因て、父子兄弟の間も睦じから   いわん ず、況や其余をや」の乱脈撮りとなった。こうなっては戦争も駄目だ。  六月二十六日、本普請にかかって居た石垣山の陣城が落成した。その結構の壮偉なるは大 阪、聚楽に劣り難しと、榊原康政は肥後の加藤清正に手紙で報告して居るが、多少の、、一ソはあ るにしても、其の偉観想い見る可しだ。  秀吉は同夜の十時に、全單に令して一斉射撃で城中を威嚇して届た。  遂に七月五日に、氏直は愈々窮して弟氏房を伴って城を出て、家康を介して降服を申し出で た。そこで秀吉は家康ど処分法を議し、氏直の死を許し、氏政、氏照等を新った。                             あっせん  思うに氏直の独断的降服は軽率であった。尤も家康なんかの斡旋を頼りにして届たのだろう が、家康は其の実見捨ての神だ。北条家の肩をもって余計な口をきき、秀吉の嫌疑を受けるの を極度に戒心して居たからである。         くじ                                    もどりばし さち  恐らく一番貧乏籔を引いたのは氏政だろう。首は氏照ど一緒に、京都一条の戻橋で巣され て届るのである。  併し此の戦争で一番鰭けたのは家康だ。関八州の薪領土がそっくり手に入ったからである。 4 8 2 ************************************ 尤も東海の旧領と交換だった。  これより先の一日、秀吉は家康と石垣山から小田原城を術蹴した。 「家康公の御手を執て、あれ見給へ、北条家の滅亡程有るべからず。気味のよき事にてこそあ               まい れ。左あれば、関八州は貴客に進らすべし」(関八州古戦録)ど言って、敵城の方に向い一緒 に立小便をした。  これは有名な「関東の連小便」の由来だと云うが、どうだか。  これで見ても、秀吉には早くから家康に関八州を与える意図は有ったらしい。  尤も徳川方の御用歴史家なんか此の移封を以て一種の左遷と見徴し、神君を敬遠したるもの              あんしよう どして秀吉に毒づいて居る。安祥以来の三河を離れるこどは相当につらかったであろう。  併しそれにしたところで、後で考えてみて、駿府あたりに開府するより、広潤な江戸に清新 な気を以て幕府を開いた方が、家康にとってどれ位幸福だったか如れやしないと思う。 ************************************ 余誤 ************************************  しかし、この時秀吉が、北条氏を滅してしまったことは、高等政策として、どうだったかど 思う。せめて氏直氏規の二人に、七八十万石をやって、関東に北条家を立てさせた方が家康を せいちゆう                                                                        、 制肘する役に立ったのではあるまいかと思う。尤も秀吉の腹では、北条家を残して置けは、 姻威関係のある家康の無二の味方とでもなると思ったのだろうか。九州の島津に寛大でありな がら、北条氏に少し苛酷である。尤も、島津は北条ほど、秀吉に面倒をかけていないが、しか 285 小田原陣 ************************************ し、北条家が関東σ大藩として残っていた方が、徳川の勢力が、あんなにも延びなかったので はないかど思われる。秀吉死後など、北条家はどんな行動をしただろうかなどと考えて見る と、なかなか興昧が深い。  氏政、氏照は殺されたが、籠城の士は凡て、生命を助けられた。ただ忌諌に触れていた連中 は、捕えられた。  裏切をした松田憲秀は、二男の左馬介が氏直に、この事を訴えたので、捕えられて、城中に 押し籠められていたが、このとき長男の薪六郎と共に黒田如水の所へ預けられていた。秀吉、 左馬介を憎んで殺せと、如水に命じた。如水承ると云って、左馬介を殺さずして、長男の薪六 郎を殺してしまった。秀吉怒って、何とて新六郁を殺せじゃ、左馬介は父予を訴えし憎き奴な                                  そむ れば殺せと云ったのだと怒ると、如水日く「新六は父と共に譜第の主人に背きしものなれば武 道に背き、恵孝ともになきものなり。左馬介は、父には背けども、主人には忠なり。左馬介と                                 め 新六郎と取り違えたりとも損どは申されじ」ど、云った。秀吉「ちんば奴が、空どばけやがっ て!」ど、苦笑してそのままになった。  また、北条家の使節として、秀吉の所へやって釆た事のある板部岡江雪斎も捕えられて、手 かせ足かせを入れられて、秀吉の前に引き出された。  秀吉怒って、「汝先年の約東に背き、主家を滅し快きか」と面罵した。すると、江雪斎自若 として、「辺上の将、時勢を知らず名胡桃を取りしは、これ北条家の武運尽くる所なりしかれ ども、天下の勢を引き受け、数ケ月を支えしは、当家の面目之に過ぎず」と、云い放った。秀 6 8 2 ************************************          はりつけ                                                         う 吉「汝は、京に上せ傑にかけんと思いしが、わが面前に壮語して主家を恥しめざるは、愛い 奴かな」と云っ。て命を助けて、お側衆にしてくれた。爾後、板部を取ってただ岡江雪斎ど云っ た。秀吉の寛大歎ずべしだ。柴田勝家の甥なる在久間安次とその弟は、勝家滅後大和に在っ て、秀吉に抗していたが、そこも落されて、小田原に籠り、小田原落城後、武州金沢の称名寺 にかくれていたが、秀吉之を呼び出し、「勝家の甥として、我に手向うは殊勝なり。然れども 今や天下我に帰したれば、汝達の立てこもる場所もなかるべければ、今よりは我に仕えよ」と 氏郷の与力どして、三千石と二千石を与えた。  秀吉が、後世まで人気のあるのは、こう云う所にあるのだろう。  この陣中、奥州の政宗が初て御機嫌伺いに来たどき、大軍の手配を見せてやるとて、政宗に    はいとう 自分の楓刀を持たせて、後に従えさせてただ二人で小高き所に上り、いろいろ説明をきかせた のは、有名な話しである。政宗を「うごく虫らども」とも思わざる容子である、と書いてある                                      むほん が、秀吉得意の腹の芸である。政宗も田舎役者ではあるが相当なもので、その後も謀反の嫌疑 をかけられたとき、いつも秀吉どの腹芸を、相当にやっている。秀次事件のときなど、政宗が 秀次と仲がよすぎたど云うので訊間されたときなど、         たが                                                 かつぱ 「太閣がお目利の違われたる関白殿を、政宗が片眼で見損うのは当然である」と、燭破して、 危機を逃れている。だから秀吉だって、政宗を虫けらとは、最初から思っていないだろう。  とにかく、小田原陣は、烈しい戦争はなかったにしろ、今に「小田原評定しなど云う言葉が残 るのだから、秀吉にとっても相当苦心の長陣であり、日本中の関心の的であったのであろう。 ⑳ 文春文庫 ************************************ 410−2 ************************************ 日木合戦言軍 ************************************ 定価はカバーに 表示してあります ************************************ 1987年2月10日 第1刷 ************************************ 著 者 ************************************ 発行者 ************************************ 発行所 ************************************ 菊池 寛 西永達夫 株式会社文襲春秋 ************************************ 東京都千代田区紀尾井町3−23〒102 TEL 03・265・1211 落丁・乱丁本映お手数ですが小社営業部宛お送り下さい。送料小社負抵でお取替致します。 ************************************ 印刷・凸版印刷 製本・加藤製本 ************************************  Printed in J即an ISBN4−16−741002−8