【これは未校正データです】 菊池寛「ある敵打の話」「死者を嗤う」「肉親」 ある敵打の話 やかたき 鈴木八弥は十七歳の春、親の敵を打つ為に、故郷讃 さんしゆうまるがめ 州丸亀を後にした。 かたき つい其年の正月迄は、八弥は自分に親の敵のある事 を知らなかったのである。自分の生れぬ以前に父を失 った事は、八弥の少年時代を通じての淡い悲しみであ ひごう ったが、其父が、人手に掛って非業の死を遂げた事 は、その年の正月に八弥が元服をする迄は知らなかっ たのである。 しつか 元服の式が終ると、母親は八弥を膝下に呼んで、父 やもんまえかわまごべえ の弥門が同藩の前川孫兵衛に打たれた次第を語って、 八弥に復讐を誓わしめたのである。八弥は母の血走る しかかエ 眼を見た。而して自分の身体に責任の懸って居る事を 知った。 そぱ 九つの歳から、若殿のお傍に召しいだされて、足掛 十年近くも小姓を勤めて居た八弥は、まだ世間を知ら うぶ ぬ初心な少年であった。其上一つ年上の若殿の気に入  とん って、殆ど友人関係に立って居た彼は、なんの気兼も ホはまゆみナご なく若殿と破魔弓の的を競ったり、讐六の相手をした おいとりがり り、追鳥狩や遠乗にも、一緒に行った。藩の文学の老 ちちも 儒の講義を若殿と同席で聴いてしびれを切らして後で そこ 腹をかゝえて笑い合う時などは、其処に主従の関係は き 全く消滅して居た。八弥は城中という大家族の中に起 が 臥して彼は割合に幸福であり気楽であった。十七にな って元服すると共に初めて、ある特定の人間を殺して しまわねばならぬという、困難な緊張した仕事を与え られたのである。 * かんぷん 寛文の年号がまだ若いある年の三月に、八弥は馴れ わらじ ぬ草鞍に足を堅めて、只一人復讐の旅に立ったのであ たどつ*こんぴら玉ね る。多度津の港に船がかりをして居た金毘羅船は、八 うちうみ 弥をその乗客の数に加えて、瀬戸の内海を吹く春風に 帆を充分に張って、大阪表を指して海上を滑るように 走った。 ほぱしらてんしよう 彼は船の帆摘を背にしながら、若殿から拝領の天正 すけさだうずくま 祐定の一刀を、肩にもたせながら露って居た。陸地 から離れるに従って彼の心のうちの激動が段々静にな った。厳しい母の訓戒や、若殿からの激励の言葉など さえ、其の効果が夢のように薄らいで行って、彼の心 には昂奮の後にくる倦怠と淡い哀愁とがあった。彼は 自分が少しも関知しない生前の出来事が自分の生涯を 支配して居るという事実を、痛切に感ぜずには居られ なかった。実際彼は今迄父親の事を余り深く考えなか ったのである。彼の母は父親のない悲しみを、なるべ く彼に味わしめぬようにと、父という言葉を、彼の聴 覚のうちでいう事を避けて居たのである。その上彼が .若殿のお傍に召し出されてからは、父親に対する要求 は殆ど感じなかった。彼の生活は幸福であると共に、 費満であったから。それが今十七になると一時に今迄 は始ど意識になかった父親に、子として充分な愛を 持ち、今迄少しも知らない前川なにがしに、敵として 大なる憎悪を懐かねばならなかったが、彼の教養と周 かたき 囲とは、彼をして親の敵に対し充分な敵意を持つ事を 教えて呉れたのである。 かたき 八弥は敵の顔を色々に想像した。なんとなれば彼の かたき 母は敵の前川はそう深くは知らなかった。前川と八弥 の父とは又となき親友ではあったが、結婚して間もな い新家庭を、前川は訪間する事をなるべく遠慮して居 たのである。 おとの で、八弥は前川を知る誰彼を訪うて、彼の人相を尋 ねねばならなかった。親切な人達は十七八年前の記憶 しま を色々に据り出して八弥に満足を与えようとした。が その人達の旧い印象をどんなにつき合わしても、八弥 は離が撫叡㌍思い浮べる事は出来なかった。で八弥は 仕方なく若殿の文庫の中にあった藩のお絵師のかいた 欝群嚇諏"あるゴ藤の顔を基本としてそれに二つの修 かたき 飾を施して、敵の顔を色々に想像するよりほかはなか った。彼はなるべくそれを憎々しく想像する事に努め た。憎々しければ殺す張合があると思ったからであ る。がその人相の確実な唯一の特徴は、右の横顔にほ もち くろがあるというだけであった。 さぬき 船は曽くは、讃岐の海岸に添うたが、高松の港に寄 なにわ ってからは一文字に浪華を指して走るのであった。 かたき 敵がどんなに強いか、それも八弥には分らなかった。 が彼は幼い時から「武芸の修業は何よりも大事じゃ」 という母の教訓を守って、剣法だけは一心に努めて来 けいしようはや た。軽捷にして大胆なる太刀筋は藩の指南番の夙くか ら認むる所であった。八弥の母が彼に復讐の仕事を負 わせたのも、此の指南番の保証を得たからである。 彼は復讐という事に多少の不安が伴ったものの、全 体としては、華やかな前途に、多くの勇ましい事と美 しい事があるような気がした。復讐という事がどんな に困難であるかは知らぬが然しそれは華やかな、人問 としてやり甲斐のある仕事である事は確だと思った。 彼の心は自分の仕事に可なり熱狂する事が出来た。 あじ 安治川に満くと、彼は船宿に足を止めてから、浪華 かたき の町を見て歩いた。すべての繁華な街々を彼は敵を探 すという心持でのみ観て歩いた。 一月ばかりの後に京へ出た八弥は、京都の美しい寺 からすまどおヨ 寺を訪ねた。室町や烏丸通の繁華な町をも通った。鴨 川にかゝる四条、五条、三条の橋を日にく幾度も越 えて歩いて居た。物真似狂言の笛や太鼓の音を耳にし かたき た。が京都の名所古蹟にも敵は居なかった。敵の居ら ネきおん ぬ祇園や島原や四条中局は、彼にとって無味な乾燥な 場所であった。 も 彼が京を立ったのは初夏の一日であった。萌えそめ た鮮やかな、新緑の朝のうちにある京を捨てて、彼は 江戸を志したのである。 はしだもとちウうじき 京から大津を経て瀬田の橋快に、彼は且食の為に茶 ひる 屋を見付けたのである。まだ正午には少し問があった が、彼は少しばかり渇を覚えたので休んで行く気にな ふな ったのである。彼は此のあたりの名物の鮒ずしを食べ あいさよう た。茶屋の女が愛嫡に話しかけるのをよそにしなが かたき ら、彼は腕組をして又も如何にして、敵を発見すべき を考えて居たのである。ふと気がつくと自分と同じ讃 岐なまりの言葉がどこからともなく耳に付くのであ る。彼は早くも軽い興奮を覚えて、その声の方を振向 いた。それは琵琶湖に面した離れ座敷から聞えて来 なまり た。物の言い方はまさしく武士である。讃岐託言の武 かたき 士、それは彼が尋ねる敵の一要件であった。彼は思わ かたわらすけさだ ず傍に置いてあった祐定の一刀を引き寄せた。する と、其途端に武士は女中を叱り付けながら、荒々しい 物音を立てて離座敷から店の問に出て来たのである。 めいていでいすいしや 可なり酩酊をして居たその武士は、泥酔者に特有な妙 かたき 余る重荷として感じて居た敵打が急にロマンチックな いのし、 一っの冒険のように感ぜられた。山狩に行って猪を ちたまぐさ 追いまわすような、血腱い多少危険の伴った冒険とし て感ぜられるようになったのである。其上に彼は自分 の腕に対する自信を得た。此上にも道中で修業をした ならば、どんな大敵でも物の見事に打ち取ろうという 華々しい野心が湧いたのである。彼は以前よりも、も っと復讐に熱狂して東海道を江戸へと往還の土を強く かたエさし 踏んだのである。が、敵打は八弥が最初思ったほど、華 やかなものではなかった。それは非常に根気の要る一 まつキ しかリ の労働であった。その年の夏の真盛に江戸へ上った彼 は、年の末迄江戸に滞瑠して、敵の手がかりを求めた が、それは空しい努力であった。次の年は中仙道を大 阪に下り故郷の山々を速く見ながら山陽道を長州へと 下って見た。が、其旅も幻を追うように徒労であった。 ほくろくえきろ 第三年目の春は彼は北陸の駅路に二旦二日と旅寝の夢 かたき を結んだが、到る処少しでも敵らしい疑を起させる人 問にさえ逢わなかった。二十の春を彼は仙台の青葉城 下に迎えたのである。もう四年目であった。彼も、故 かユ んき 郷を懐しがる日が多くなった。一日も早く敵を打って よろこかたき 帰国の欣びを得たいと思った。彼は、敵打そのものに は、もうなんの不安をも感じなかった。四年目の遍歴 修業は彼の腕前を殆ど名人の域に持ち上げた。その上 冒険的な旅行には夜盗を斬り山賊を殺す事などが多か カたき った。彼は敵がどんなに強くとも、助太刀が幾十人あ かたきてりひらかえ ろうとも、目指す敵を打つは掌を翻すよりも易いと 思った。 ねがわ 願くば、目覚しい働きをして本望を達したいと思っ かたきかたきかいこう たが、敵を打つ資格の充分な彼にも、た父敵との避遁 が唯一の問題であった。 二十一の春の初であった。八弥は再び中仙道から信 じようしゆうまにわ 越へ入るつもりで江戸を出た。上州問庭の樋口の道場 乞力いじじゆう に四五日滞在した後、彼は前橋の酒井侍従の城下に入 かたき った。敵打の費用は、藩から充分の供給を受けて居た 彼は、可なり上等な宿を取るのを常とした。其夜も脇 ほんじんとま 本陣上野屋太兵衛の家に宿ったのである。 夕食がすむと、彼は習慣になった旅口記を記してか ら床に入るのが例である。彼が床に入ろうとして日記 お の筆を欄いた時に、廊下に面した障子が静かにスルス あん ルと開いた。見ると其処に平伏して居るのは一人の按 ま 摩であった。 「お客様按摩の御用は如何でござりまするか。」と言 いながら彼は再び頭を低く下げた。八弥は其日樋口の 道場で門人達と十幾番の仕合をして居たので、彼の肩 は可なり凝って居たのである。 もみ 「あゝ按摩か、よい所へ参ったな、一操もんで貰おう しようづい かな。」と八弥はいった。盲人は痛々しく樵惇した身 体を静に八弥に近づけて徐々に肩を操み初めた。指 先には余り力がなかったが、彼は急所を操む事を解し て居る。其上この按摩はよく宿々で見かけるそれとは 違って、恐しく沈黙であった。主客の沈黙の内に盲人 は段々操み進んで来た。八弥は少しく眠気を催しかけ た。そしてその眠気を払う為に盲人に話しかけた。 「そちは中年からの盲目と見えるな。」 ぎよいめい 「御意で、三十三で明を失いました。勘が悪い為、何 かにつけて不自山を致しまする。」彼はしわがれた声 で低く答えた。が、八弥はそれを訊くと、此の盲人の 語勢にふと不審を感じたのである。 りん 「そちの生れ故郷はどこじゃ。」と八弥の声はやゝ凛 として居た。 「四国で。」 「四国はどちらじゃ。」 「讃岐でございます。」 「高松領か丸亀領か。」八弥はやゝせき込んで来たの である。 「丸亀領でございます。」 「百姓か町人かいずれじゃ。」 「お恥しながら之でも元は武士でござる。」と盲人は 其言葉のうちに、生れながら持っている威厳を幾分か ひらめ 閃かしたのである。 きよらごくどの 「武士と言えば京極殿の浪人だな。」と言いながら、 八弥は振り向いて盲人の顔を、じっと見つめたのであ あんどん る。行燈の光ではあったが、盲人の青ざめた横顔に、 かたきちちちありく 敵の唯一の手がかりであるほくろを、歴々と見出した のである。 てくびっか 八弥は右の手を延ばして盲人の手頚をグッと掴ん だ。 「汝は前川孫兵衛とは申さぬか、どうじゃ。」と言い ながら強く引いた。盲人はなんの手答もなく、ひょろ ひょろと、へたばってしまった。 「どうじゃ、前川孫兵衛とは申さぬかどうじゃ。」と、 彼は再びせき込んだ。 盲人は最初は少しく驚いていたが、彼はしきに冷静 に返った。 「お恥しながら、いかにも御意の通りでござる。して そなた様は。」彼の声は、少しも取り乱しては居なか った。 「よく白状致した。其方の為に、非業な死を遂げた鈴 どうみよう 木弥門の一子同苗八弥と申すものじゃ。もはや逃れぬ ところと尋常に覚悟いたせ。」 きょうがく 盲人の驚拷は非常であった。彼は暫くは荘然とし た。その灰色の見えぬ眼に、強い感情が動いて居るの が看取された。が、其驚きは自分の身に、危険が迫っ たのを知っての驚きではなかったらしい。 「なにく弥門どのに、一子がござったとな、さては あの時お八重殿が妊娠されて居たと見えるな…-それ かたき ではそこもとは今年二十一でおじゃろう-・・-拙者を敵 さすらいめい 打の事如何にも承知致した。漂泊の旅に明を失い命を しにぱな 持て余して居る所でござる。拙者も之で死花が咲き申 とぎれ すわ。」と、盲人の言葉は跡切くであって、そして おしまいに淋しく笑った。彼の全体の言葉は懐旧の情 うるお と、しっとりとした謙虚の感情で湿うて居るように思 われた。 かたき 八弥はすべてが意外であった。彼は自分の敵として 瀬田の橋で逢ったような剛情我慢の武士を期待して居 てきがい た。その人間を見れば、憎悪と敵撫で心が一材になる まのあたり ような武士を望んで居た。然るに、目前に見出した正 かたき 真正銘の敵は一個半死の盲人である。彼は非常な失望 を感ぜずには居られなかった。その上に此の盲人が八 こわね 弥の父母の名を呼ぶ声音には、無限の懐しみを湛えて 居る。彼は今迄自分の父の名が之ほどの懐しみを持っ て、発音されるのを聞いた事がないのである。八弥は かたき 敵と面しながら、今迄に自分が予期しない感情に襲わ れて、余儀なく沈黙を続けて居た。すると盲人はまた 語をついで、 わナそなた 「弥門殿の遺れ片身の其方に、打たれるとなれば、思 い残す事はない。が、こゝでは拙者が多年世話をかけ た宿屋に迷惑をかける、大儀ながら利根の河原はすぐ 其処でござる故、それへ御伴を致そう。さあお仕度な されい。」 盲人は如何にも落着いて居た。八弥は一種の発作に 陥ったようにた然と仕度をして、荘然として盲人に続 いた。宿屋の人は妙な好奇心を以て二人を黙送した。 往来へ出ると二人は暫くは無言であった。が、少し歩 くと、 そつじ 「率爾ながら母上は御丈夫か。」と盲人は訊いた。 「慰災でござる。」と八弥は答えたが、もう先きのよ 'けわ うな瞼しい声音ではなかった。 ちくば 「弥門殿と拙者とは世にいう竹馬の友でござる。何事 あいしよう にも相性で、影と形の如く馴れむつんだものでござる はげ が、時の機みには魔がさすものか、其上あの夜は、二 人とも酩酊致して居った。あの過ちを致した後、其場 かつぷく"、κやぴと=くおん を去らず割腹とは存じたが、母者人に止められて国遠 致したのが、拙者一生の不覚でござる。今迄二十年一 夜も弥門殿を殺した悔恨に苦しめられぬ日はござら ぬ。弥門殿には一子もない為、名乗って打たれるすべ めぐ もないと存じて居たが、思いのほかにそなたに回り会 よろこ うて罪亡しの出来るのは何よりの欣びでござる…-武 士たるものが町人共の情に依って生き延びるのも心外 と存じて居たが、もう此の笛も無用じゃ。」と彼は、 習慣上右に持って来た笛を地上に捨てた。 こきがいしん 八弥は先刻から、此盲人に対して敵撫心を持とうと 努めても、それが心の底の方からいつの問にか崩れて かたき 行くのを感じた。彼は親の敵に回り合いながら不甲斐 たゆ なく擁んでしまう自分の心を、幾度か叱責しようとし た。が、彼にはどうしてもこの盲人の存在を絶とうと する意志が起らなかった。彼は今迄自分が色々の場台 に、あんなに容易に殺人の出来た事がむしろ不思議に 思われた。 盲人は河原へ出る迄数町の問、八弥の父の事を何か と語った。彼は死際に青年時代の回想を懐しんで居る ようであった。八弥は盲人の口から、初めて父の明か なつか な性格を知って新しい懐しみが湧くように思った。が 店 亡き父に対して新しい懐しみを懐く事が決して盲人に 対する悪意とはならなかった。そして盲人は最後に八 弥を一目見ぬのが残念だと言った。 やがて此の異様な同伴者の前に、月光に照された利 根川の河原が現われた。すると盲人は彼の杖を捨てな がら、 そつじ 「八弥どの、近頃率爾ながらその差添えをお貸しなさ '…ねいぬじに れい。身共も武士でござる。たズ手を供いて犬死は致 さぬぞ。」と言いながら、八弥に差添えを惜りて身構 えした。それが八弥に対する好意の虚勢である事は余 りに見えすいて居た。 八弥は心の内で思った。その過ちを後悔し、自分で 自分の生存を否定しようとする人間を殺すのがなんの 復讐であろうかと思った。 おく 「八弥どの怯されたか、いざおかゝりなされい。」 と盲人は声を励まして叫んだが、その声は夜の河原 に物哀しい響を伝えた。八弥は腕組をしたまゝ考え込 んで居たのである。 その翌朝河原に近い人達は、其処に一の死体を見出 した。然しそれが盲人孫兵衛の死体である事は後で漸 わか く判った。なんとなれば其の死体には首がなかったか らである。しかもその死骸には、腹に一文字の傷があ って、当人の自殺であるようにも思われた。 かたき 八弥は敵の首を下げて帰郷した。そして百石ばかり かぞうかたきかたき の加増さえ得た、が彼はどこで敵を打ったのかいつ敵 かたきにせくび 荏打ったのか明かにしなかった為、敵の首は偽首だと うわさかたきえう いう噂さえ立った。そして敵を得打たぬ臆病者とそし るものさえあった。その為かどうかは知らぬが彼は間 えんぼうすにきわかさ もなく浪人した。延宝の頃、江戸四谷坂町に鈴木若狭 という剣客があって、勇名を府内にと父ろかして居 た。之が八弥の後身であるとある人が言った。 (大正七年頃) 死者を嗤う 二三日降り続いた秋雨が止んで、カラリと晴れ渡っ こよろよ た快い朝であった。 え」どがわ¢いつ 江戸川縁に住んで居る啓吉は、平常ものように十時 ひがしごけんちよう 頃家を出て、東五軒町の停留場へ急いだ。彼は雨天の フエ タル 日が致命的に嫌であった。従って、こうした秋晴の朝 は、今日のうちに何かよい事が自分を待っているよう 魚気がして、何んとなく心がときめくのを覚えるので あった。 こざくらぱし 彼はすぐ江戸川に差しかゝった。そして、小桜橋と いう小さい橋を渡ろうとした時、ふと上流の方を見 いしきりばし た。すると、石切橋と小桜橋との中問に、架せられて いる橋を中心として、そこに、常には見馴れない異常 な情景が、展開されているのに気が付いた。橋の上に も人が一杯である。堤防にも人が一杯である。そして すべての群衆は、川中に行われつゝある何事かを、一 心に注視して居るのであった。 啓吉は、日常生活においては、興味中心の男である。 彼はこの光景を見ると、すぐ足を転じて、群衆の方へ 急いだのである。その群衆は、普通、路上に形作らる るものに比べては、可なり大きいものであった。然 らんかん も、それが岸に在っては堤防に、橋の上では欄粁へと ギシくと押し詰められて居る。そしてその数が、刻 刻に増加して行きつゝあるのだ。 群衆に近づいて見ると、彼等は黙って居るのではな わめ い。銘々に何か喚いて居るのである。 はしげた 「そら!また見えた、橋桁に引っかゝったよ。」と みわろきし 欄杵に手を掛けて、自由に川中を術轍し得る御用聴ら けいしよう しい小僧が、自分の形勝の位置を誇るかのように、得 意になって後方に抑掛けて居る群泉に報告して居る。 としま 「なんですか。」と啓吉は、白分の横に居合せた年噌 き の女に訊いた。 しか 「土左術門ですよ。」と、その女は一寸眉を螢めるよ うにして答えた。啓吉は、初めからその答を予期して 居たので、その答から、なん等の感動も受けなかった。 水死人は社会的の現象としては、極く有り触れた事で できしにん ある帥漸聞社に据猫啓吉はよく、溺死人に欄甘る通信 が、反古同様に一瞥を与えられると、すぐ屑籠に投ぜ られるのを知って居る。が実際死人が、自分と数間の、 距離内にあるという事は、全く別な感情であった。そ の上啓吉は、可なり物見高い男である。彼も亦死人を とニリ 見たいという、人間に特有な奇妙な、好奇心に囚われて いくぱく しまった。彼は幾何かの強力を以て、群衆の層の中へ と、自分の身を割込ませて行ったのである。が、その 群衆は可なりの密度を持って居て、容易には新来者を 容れないのである。啓吉は、懸命に努力して、群衆の はい 中心へ這入る事が出来た。が、まだ自分の前には≡二 人、人が居て水面の一部をも覗き込む事は出来なかっ たが、大抵の様子は判った。死人は啓吉の立って居る 岸のすぐ下の水中に在るらしい。そして巡査一人と、 しきり 区役所の人夫が二、三人とで、頻に引揚に掛って居る らしかった。 はい 「這入らなきゃ、駄目じゃないか。思切ってはいっち まえよ。そんな手付じゃ引っかゝりっこはないよ。」 と、一番形勝の位置に居る、橋の上の群衆は、盛ん に人夫等を、指導して居る。が、その人夫達は成る可 く手足を濡らさないように、成るべく、汚い思いをし ないように、成るべく労力を費やさないように、手際 こしろ よく引揚を、試みて居るらしい。 そのうちに群衆は、益々殖えて行った。千人を超し た群衆が、この橋を上流下流、四五十問の間ぎっしり と詰めかけて居る。が、そのうちのホンの少数のみ が、引揚作業を、目撃し得る位置にあったが、その人 達は、自分の看て居る事を、後方へ報告する義務を怠 りはしない。 「男ですか、女ですか。」 「どうも女らしいですよ、今髪が見えたようですか ら。」 「こんな水の浅い川で死ねるのでしょうか。」 はh 「夜通し、這入って居ると、凍え死に死ぬのですよ、 もう水の中が冷たいですからね。」 と、啓吉のすぐ横に居る洋服を藩た男と、啓吉の前 に、川中を覗き込んで居る男とが、話して居る。 すると突然、橋の上の群衆や、岸に近い群衆が、 「わあ!」と、大声を揚げた。 しよく 「あゝとうく、引掛けやがった。」と所々で同しよ かぎさお うな声が起った。人夫が、先に鉤の付いた竿で、屍体 の衣類をでも、引掛けたらしい。 けかあしだまに 「やあ1女だ。」と又群衆は叫んだ。橋桁に、足溜 を得た人夫は、屍体を手際よく水上に持ち上げようと して居るらしい。 群衆は、自分達の好奇心が、満足し得る域境に達し たと見え、以前よりも、大声を立てながら騒いで居る、 が、啓吉には、水面に上って居る屍体は、まだ少しも 見えなかった。 みド した 然し、彼は人間、然もその生前には、その身嗜みの 為に、絶抗ざる考慮を払ったに違いない、女性の身体 が、ゆで蛸か何かのように、鉤に釣るされて、公衆の けいちよう 面前、然もなん等の同情もなく、軽挑な好奇心ばかり で、動いている群衆の面前で、引揚げられるというこ とは、その屍体に対する侮辱のみではなく、人間全体 ひど に対する、酷い侮辱であるように思われて、憤りと悲 しみの混じったある感懐に、囚われずには居られなか ったのである。 すると、突然「パシャッ」と、水音がしたかと思う と、群衆は一時に「どっ」と大声を立てて笑った。啓 吉は、最初その場所はずれの笑いの意味が、分らなか った。如何に好奇心のみの、群衆とはいえ屍体の上る のを見て、笑うとは余りに、残酷であった。が、その 意味は周囲の群衆が発する言葉ですぐ判った。一度水 面を離れかけた屍体が、鉤の脱ずれた為、再び水中に 落ちたからであった。 「しっかりしろ!馬鹿!」と、吠笑から静まった群 衆は、又人夫にこうした激励の言葉を投げて居る、 その内に、また人夫は屍体に、鉤を掛ける事に、成 功したらしい。群衆は、 「今度こそしっかりやれ。」と、叫んで居る。啓吉は、 又押し詰まされるような、気持になった。彼は屍体か 群衆の見物から、一刻も早く、逃れる事を、望んで居 た。すると、また突然水音がしたかと思うと、以前に も倍したような、笑声が起った。無論、屍体が、再び 水面に落ちたのである。啓吉は、当局者の冷淡な、事 務的な手配と、軽桃な群衆との為に、屍体が不当に、 さら 曝し物にされて居る事を思うと、前より一層の悲憤を 感じた。笑って居る群衆も群衆である、水中へ飛び込 き んで、抱き上げない、人夫も、人夫である。定まった ぎきよう 日給で働いて居る人夫だ、そうした義侠的行動をしな いのも無理のない話である。 が、この時彼はふと、二三年前、浅草で見た活動写 真の事を思い出した。それは、米国のユニヴァサルの ヒロイン フィルムで、非常に肥満した女優を、主人公とした、 追掛け沢山の、喜劇であった。そして、大女の女優 かえ が、真先になって、追掛けた後、却って自分が湖水の てんらくちちヤヤ 中へ、顯落する。それを皆が寄ってたかって救助にか つか かる。投げ込んだ縄に女優が掴まる。皆が力一杯引き 揚げるが、丁度水面から、一間ばかり離れると、縄を 引いている連中の力が、抜けてダラシなく縄を緩める ので、女優は、水音高く再び水中に落込んでブクく やる。それを見ると、見物は訳もなく嬉しがった。そ こう の段取を、幾回となく繰返すに連れて、潮のような咲 しよう 笑が、見物席に幾度も、湧き立った。啓吉も、腹を抱 えて、笑った一人である。彼は、此のフィルムのヤマ しぼ で、フィルム作者が頭を搾って考え付いた場而で、如 何にも巧みに、群衆の笑いの心理を、掴んで居たので ある。 ところが、現在啓吉の目撃して居る、屍体引揚げの 場面も、此の活動の場面と全く同じではないか。たズ 快活な喜劇の女優の代りに、悲惨な屍体があった。 がその他の境遇は、全以胴じである。そしてフィ7{ 作者が、見物の咲笑を惹起する為に、考え出した場面 が、屍体を中心として、実人生の間に皮肉に再現され て居るのに過ぎなかった。 啓吉は、群衆が咲笑する心理が、判ったようにも思 った。が、それでも、啓吉の感情は、それらの喚笑を ジヤスチフアイわら 正当視する事が出米なかった、死者を嘘って居る群衆 を、啓吉の感情はどうしても許さなかったのである。 人間が人聞の屍体に対して、こんなに笑ってもいゝも のかと思った。見物の笑いは啓吉に取っては、人間が 人問の死をあざ笑って居るようにも、思われたのであ る。 三度目に廃体が、とうく正確に鉤に掛ったらしい。 「そんな所で、引揚げたって、仕様がないじゃないか、 石段の方へ引いて行けよ。」と、群衆の一人が叫んだ。 タイムリイ 之は如何にも時宜的な助言であった。人夫は屍体を竿 にかけたま\概棚から石崖の方へ渡り、石段の方へ、 水中の屍体を引いて来た。 石段は啓吉から、一間と離れぬ所にあった。岸の上 に居た巡査は、屍体を引揚げる準備として、石段の近 くに居た群衆を追い払った。その為に、啓吉の前に居 た人々が払い除けられて啓吉は見物人として、絶好の 位置を得たのである。 気が付くと、人夫は屍体に、縄を掛けたらしく、そ つか の縄の一端を掴んで、屍体を引きずり上げて居る。啓 吉はその屍体を一目見ると、悲痛な心持にならざるを キリシヤボ ゼ 得なかった。希臓の彫刻で見た、ある姿態のように、 うしろはくろうまつナぐ 髪を後ざまに垂れ、白蝋のように白い手を、後へ真直 そ に反らしながら、石段を引ずり上げら札る屍体は、確 に悲壮な見物であった。殊に啓吉は、その女が死後の たしたもエひタらが 嗜みとして、男用の股引を穿って居るのを見た時に悲 劇の第五幕目を見たような、深い感銘を受けずには居 なかった。それは明らかに覚悟の自殺であった。女の ヰカタ ストロフにじ 一生の悲劇の大団円であった。啓吉は暗然として、滲 おもてそむさすが む涙を押えながら而を背けてそこを去った。流石に屍 体をマザくと見た見物人は、もう自分達の好奇心を 充分満たしたと見え、思いくにその場を去りかゝっ て居た。 シ ン 啓吉も、来合せた電車に乗った。が、その場面は、 仲々に、啓吉の頭を去らなかった。啓吉は、こういう 場合に、屍体収容の手配が、甚だ不完全で、その為に 人生に於ける、最も不幸なる人々が、死後に於ても、 さらいきどお 尚曝し物の侮辱を受ける事を憤らずには居られなか った。それと同時に啓吉は死者を前にして映笑する野 卑な群衆に対する反感を感じた。 その内フト啓吉は、今日見た場面を基礎として、短 編の小説を書こうかと思い付いた。それは橋の上の群 衆が、死者を前にして、盛んに咲笑して居るうちに、 あまり多くの人々を載せて居た橋は、その重みに堪え …ら ずして墜落し、今まで死者を畷って居た人達の多く が、溺死をするという筋で、作者の群衆に対する道偲 的批判を、そのうちに匂わせる積りであった。が、よ く考えて見ると、啓吉自身も、群衆が持って居たよう な、浮いた好奇心を、全然持って居なかったとは、言 われなかったのである。 (大正七年) 5ヱ --------------------- 肉親 肉 親 私は、肉親というものに多くの親愛を、感じ得ない 人問だった。義務や責任だけを感じて、1その義務 や責任が、あまり重すぎるせいか、私は親愛を感ずる 余裕がないというように、自分で言い訳をしたのだっ た。 今、生きている父母に対してさえ、その生活を保証 しなければならないという重くるしい義務を感ずるほ かは、私は無関心である。 今、私が去年亡くなった兄のことを書くのも、弟と しての特別な愛情が、あるのではない。今私の心に、 ほかになんにも書くことがないので、亡くなった兄の 事でもかいて見ようかと思うだけである。 私達の兄弟は、不思議に親密でなかった。それかと いって、仲が悪いのでもなかった。兄弟が、親しくす るということが、妙にテレくさいといったような、気 らと づまりだといったような気持から、いつの問にか、疎 うと 疎しくなって行ったのだった。私は、兄弟と長い間同 じ家にいて、ロクく向い合って、話し合ったことが き なかった。お互に用があるとか、訊きたいことがある と、大抵は母を通じて弁じたのだ。 ひろし 「お母さん1寛の試験は、どうだったの?」 兄は、私が目の前にいても、私には訊かないで、母 き に訊いた。私も、兄に直接口を利くのが嫌だった。長 兄とは、それでも趣味が、どこか似ていたので、時々 ちゆうけい 一緒に釣に行ったりすることがあったが、仲兄とはど こへも一緒に行ったことがなかった。一緒に行ったこ とがないばかりでなく、同じ中学に兄が通っていると いうことが、私はなんだか嫌だった。私は学校で赤ち ゃけた小倉の服を蒲ている、兄の姿を見ても、なんた か気の引けるような恥しいような気持がした。人から 兄のことを言われても私は嫌だった。 なぜ 何故、そんなに兄が嫌だったのか、私にも十分分ら ない。が、恐らく一番近い原因は、兄があまり自分に 似すぎているためであっただろうと思う。 ようぼうっ値 兄は、容貌も私に似ていた。歩き態や眼の近いとこ ろなども同じだった。兄は、つまり客観化されている ぷかつこうつき ・私だった。その兄の無格好な歩き態や容貌が、私に絶 えず「お前もあんなふうなのだ!お前もあんなふう しゆうじよ ・なのだ!」と、反省させているのだった。醜女が、鏡 す の前に絶えず、引き据えられているのは、苦痛に違い ない。私も、それと同じように、私に似た兄が、絶え ず眼の前で、うろくしていることは、不快であった めに違いないのだ。 「君は、兄さんとよく似ているぜ!」 友達から、そういう挨拶をされることは、私が中学 時代に感じた苦痛の一つだった。 性格的にも、兄が私と同じ欠陥を持っていること Lが、私には嫌だったのだ。つまり、兄は私の外貌なり 性格なりの欠陥の見本だった。 私は、私自身の欠陥が嫌だった。が、私自身の欠陥 けんおうぬぼれ に対する嫌悪は、私自身の他の美点に就いての、自惚 や自信で緩和されるが、兄の欠陥に対する嫌悪は、そ ういう意味では、緩和されなかった。 兄は、それでも私より秀れている点もあった。それ りちぎ は、兄が私よりも小心であったことだ。律義であった こ ことだ。そういう性質を、私の国の方言では、気が固 ちゆう 中だといった。固中という字は、どんな漢字を当てれ ばいゝのか、私には分らない。私の母は、よく、 りようへい 「良平は気が固中だから、よく腹を立てる。」と言っ て、私の亡き兄をかばった。 お正月が来ると、私の家では楽しみに、勝負事をし もてあそ た。母も、私の伯母達などと集って、花札を弄んだ。 それは、八八ではなく、た父当り前に札を合せて、 はぎいφし、 数で勝負を争うのだった。たゞ、萩の十の猪の絵の 付いている札だけが、ワンと呼ばれて、トランプの ジョウカア 戯奴のように、どんな札をでも無制限に、喰い付いて さら 引っ櫻って行けるのだった。 れいさいと 私達兄弟も、よくそれを見習って、零細な金を賭し すゆぱちちちヤヤ て、いろくな勝負事をした。摺鉢こけらしといっ て、摺鉢の縁から、穴の開いた一文銭をこけらし込 む。一文銭が、摺鉢σ真中に幾つも溜る。自分のこけ かさた らした一文銭が、中に溜っている一文銭に重ると、重 っただけの一文銭を勝ち得る遊びもあった。穴一とい って、一文銭を幾つかずつ出し合って、それを壁に技じ る。跳ね返って来た一文銭を、自分の手中の一文銭で 打ち当てて取る遊戯があった。そんな金をかけた遊び うとく には、私も兄との平生の疎々しさを忘れて、つい一生 懸命に勝負を争うのだった。そんな時、私は兄と必ず ずる 喧嘩をした。その原因は、私が狡いことをするので、 気の固中な兄が、腹を立てる場合が多かった。 兄と喧嘩をするのは、こんな場合だけではなかっ た、ともすると、私の考と兄の考とは衝突した。ある 時、私の家で遠方の人に金を返さなければならないこ とかあった。それは、私の長兄の遊び友達で、その金 も長兄が遊びのために借りた金だった。私はそれを、 かわせ 為替で送ったらいゝと言った。兄は、相手が信用の出来 ない人だから、為替では不安心だと言った。相手が信 用の出来ない人だから、受取っても受取らないと言う かも知れないと言った。私は兄の人を信用しない小心 いら さを畷った。兄は怒って私に飛びかゝって来た。それ と同じような事があった。私の長兄の妻の伯父が、監 獄の看守として採用されることになって、私の長兄に 保証人になって呉れと言って、頼んで来た。兄は、そ れにも極力反対した。保証人なんかしていると、本人 が使い込みをしたときは、弁償しなければならない9 そんな事になると、大変だと兄は言った。長兄の妻の 伯父という人も、あんまり信用の出来る人ではなかっ た。でも、看守という微職に居る者が、どうして監獄の 金などを使い込む機会があろう。それに、親類同士保 証人にでも、お互になり合わなければ、どこになって 呉れ手があろう。私は、そのときもう寝床に入って、 兄が父や母に説いているのを聴いていたが、兄の固中 な考え方を、どうしても黙って聴いている訳に行かな かったので、私はわざく起き上って行って、兄に反 対した。気短な兄は、しきに私に飛びかゝって来た9 二人は格闘した。が、その頃兄はもうよほど、身体を 悪くしていたので、私に立ち向って来ると同時に、息 つか をせいく切らしていた。私達は掴み合ったが、兄の 腕に少しの力もないので、少し悲しい心持がした。 このように、私達兄弟は、少しも打ち解けないで暮 した。お互に身の上の相談をするなどいうことは、思 いも及ばないことだった。兄の愛も親しみも感ずるこ とが出来なかった。深い心の奥は知らず、表面だけ や は、偶然同じ家に生れ合せているので、止むを得ず同 居しているというだけだった。それでも、たゞ一度だ け、私は兄らしい配慮を受けたことがあった。それ は、私がまだ高等小学校の二年か三年かであった。私 はある晩、遅くまで町で遊んで、1その頃、毎晩の ように、私は夜遊びをした1十時頃、帰って来る道 で、うどんやへ立ち寄った。すると、兄がやっぱりそ の家で、うどんを喰っていた。私は、兄が居るのな ら、入るのでなかったと思ったが、もう遅かった。こん き なとき、私達兄弟は決して、口を利かなかった。兄は、 私の顔をジロリと見ただけだった。私も知らない振を して、兄となるべく遠い場所へ腰をかけて、うどんを 喰った。私は、兄が早く帰って呉れればいゝと思って いた。が、喰い終って勘定をすませて、帰りかけた兄 は、なんと思ったのか、ツカくと私の傍へ来た。 「おい!モニイ持っているか。」 マニイなま それは、銭という言葉を、私達は託ってそう言った のであった。 「うむ。持っとる。」 げんか 私は、言下にそう答えた。兄は、私の代金を払って 呉れるつもりだったのだ。兄の愛、それは愛でなく単 なる配慮であるかも知れないが、とにかくそんなもの を感じたのは、これが最初で、そしてこれが終りだっ た。それだけに、今でも、そのときの光景が、奇異な 感情と一緒に、私の心に時々浮んで来る。 が、私が長ずるに従って、だんく兄にあきたらな きようだ く思い出して来たのは、兄の怯儒な煮え切らない生活 まじめ 態度だった。私の目には、真面目に人生を渡ろうとす る勇気も覚悟もないように見えた。兄は、中学二年の ときに、一度落第した。三年のときには二度つゞけて よ 落第して、学校を廃した。が、兄のは決して頭が悪い ためではなかった。小学校時代には、相当の秀才だっ た。たズ中学に入ってからは、だらしなく怠けたため だった。兄は、落第をしても、家にノラクラしてい た。私の母は、善良な、子供を甘やかす母だったが、 殊に兄には寛大だった。兄の方が、長兄よりも家では 信用があった。母は、気短な兄の気を損ずるのを恐れ しりけ て、兄に峡らしい躾は少しもしなかった。また、私の 父は、藩の文学の家に生れたのだから、当然教育家で、 なければならないのだが、子供の教養などに就いては、. なんの意見もない。従ってなんの干渉もしない平凡な 父だった。私の家は、極度に貧しかったが、兄にとっ て、決して住みにくい所ではなかった。兄は、三十六 で死ぬまで、家でノラクラしていた。 もつと 尤も、その間に、兄はいろくな職業に就こうとし た。市立の病院へ、薬局生の見習として勤めた事もあ る。私の父が、その時その病院の会計係をしていたの つて で、その伝手で入ったのだった。私は、兄が其処で薬剤 の知識を得て、薬剤師にでもなって呉れれば、どんな にいゝかと思っていた。が、少し調剤にもなれて、見 やとい 習から給料の貰える雇になろうとすると、父が会計に 居て、子が薬局にいるのでは、その間になん等かの不 いなか 正が行われはしないかというような、田舎の市役所の とんざ 吏員でも、考えそうな理由から、兄の採用は頓挫して よ しまったのである。兄は問もなく病院を廃した。が、 兄は薬剤や処方の知識を得たので、その知識を盛んに どた 家庭で振り回した。兄が、気短な声で坂鳴り立てる と、母や長兄の妻などは、一も二もなく信じてしまう のだった。 「家には博士が居るから。」 母は、そんなことを言って長兄の子供の病気などに は、よく兄の意見が行われるのであった。 兄は、その後土地の郵便局の吏員採用の試験を受け  しそく て、運よく通った。兄は、その時に出た四則の問題を、 解き得たことが、得意らしく、後々までもよくその自 慢をした。『甲乙二つの汽船あり……』といったよう あらた な問題だった。兄は、自分の新に得た位置が可なり得 意だったと見え、よく自慢をした。 やまじはなぷさ 「中学校を卒業したって、駄目しゃ。山路や花房やこ し、郵便局へ来ているけれども、俺の半分ほどの働き もありゃせん。」 山路や花房というのは、兄の同窓であったのだが、 兄が二度も三度も、落第しているうちに、中学校を卒 業して、同じ郵便局へ勤めているのだった。私は、そ の頃中学の五年にいたので、兄が中学を旺すのが不快 だった。 「中学校は、郵便局の事務員になるために、卒業する のじゃありません。」 私は、よっぽどそう言いたかったのを、黙ってい た。兄は、入るとすぐ履歴書を出したが、それには中 学四年修業と書いてあった。私は、兄がつまらない嘘 つ を吐くなと思っていた。 が、兄はかなり順調に進んだ。気の小さい兄が、大 まほ 勢の間に交じって辛抱しているのを母はよく賞めてい た。兄が、郵便局へ勤めるようになってから、半年ば かり経った時だった。ある晩、私が外から帰って来る と母は待ちかねたように言った。 「お前どうかならんか知らん。」 「何が。」 私は、そう答えて灯の暗い座敷の中を見た。そこに は、兄を中心に父や母や長兄が、集って相談してい み た。兄が、私の方を向いた顔は、かなり当惑に充ちて いた。 話を聰いてみると、兄の勤め振がいゝので、今度雇 から書記に任用して呉れることになったのだが、それ には中学の三年を修業しているという中学校の証明書 が必要だというのである。兄の履歴書を見ている係長 は、兄が四年を修業しているものと信じて、兄に証明 書を持って来るように命じたのだった。 ひろしもら 「寛!どうにかならんか知らん。お前が証明書を貰 って来て、それを兄さんが使うことは出来んか知ら ん。」 母はそんな分らないことを言った。兄が証明書を貰 えないということは、書記に任用されるーそれが昇 進の第一階段であるが1望みが失くなるばかりでな く、兄が履歴書に嘘を書いたということから、現在の 位置を失う危険さえ伴っていたのである。一家は思案 につきて、とうく兄が履歴書の虚偽を白状して、罪 を謝するのが、一番いゝということに落藩した。私 い叱ぐち は、兄がわずかに得た昇進の緒をさえ、その中学生時 代のふしだらから失わなければならないのを、気の毒 に思うと同時に、はがゆく思った、 それでも、兄は履歴書の嘘のために、免職にはなら なかった。二一二年も郵便局で辛抱していた。その頃、 兄はある家から、養子に望まれた。むろん、余りいゝ のり 家からではなかったが、一家がわずかに口を糊して行 く位のものは、ある家らしかった。その頃、私は中学 を出て上の学校へ行くに学資がないために、養子に行 ってでも、学問をして見たいと思って居たので、兄が 自分で独立して一家を持ち得る、唯一の方法である養 子の縁談を、すぐ断ったのが、私にはあきたらなかっ た。 それから間もなく、私は東京へ来たので、兄の生活 については知らなかった。私の国に、一等郵便局が無 くなるので、郵便局をよさねばならなくなった。その 時に、大阪へ行けば使って呉れるというのを兄は、行 かなかった。私は、兄が大阪へ行って何故、白分の運 ひら 命を拓かないかということに就いて、可成り不満だっ た。兄には、自分の生れた家を、離れる気はなかった こしろよ のだ。貧しい家も、兄に取っては快い巣であったの だろう。母が、また兄をあくまでかばっていた。 『良平は、内気で病身じゃから、旅へなどはいけんの じゃ。L 母はよくそんなことを言っていた。私の長兄がま た、重大なことに就いては、決して何も言わない男だ った。長兄は若い時に、少し遊蕩したが、その後師範 を出てコツくと教員をしていた。兄が、二十年近く こごと ノラクラしていても、何一つ小言は言わなかった。 兄は、その間怠けてばかり居るのではなかった。私 の、もう、ぼんやりした記憶に依ると、一度郵便局へ 復職したようである。そして、一時は長兄よりも多い 月給を取っていたことさえあった。私が帰省したとき などにも、母は、 「大きい兄さんより、小さい兄さんの方が、月給が多 いんじゃ。」 と、兄を持ち上げるようにした。それも長兄が士二 円で、兄が十四円という一円の相違であった。母は、 なぜだか長兄よりも次兄びいきだった。コツくと働 いている長兄は、長男だから仕方がないというよう いたわ に、あまり助らないように見えた。 月給を取っている頃の兄は、長兄の長男を可なり可 できあい 愛がった。ほとんど、溺愛していた。私が、長兄の長男 なぐ を、殴ったことから、兄と喧嘩をしたことさえあった。 そのうちに、また兄は仕事を失った。死ぬ前の五六 }吉メ 年は、家にのらくらしていた。胃病が、それも不摂生 から来たものだがだんく重くなって、病人のよ うに色が青く、絶えずぶらくしていた。夏休みなど きせい に、帰省して見ると、兄は狭い家のあちらこちらで、 昼寝ばかりしていた。 その頃の兄は、一文の小遣もなかったらしい。よ まトさ く、台所で薪を割ったり魚を料理したりする兄を見な がら、母はlI 「良平にも、五十銭でも小遣をやろうと思っているん じゃけども、何分暮しの方が、不自由じゃけん……」 と言っていた。郵便局へ勤めていた頃に、兄は二三 枚の着物をこしらえたが、今では収入の見込が少しも ない兄は、その衣類をなるべく保存するために、家で はボロくの乞食のような着物を着ていた。 長兄の長男は、兄からいろくな物を買って貰って いた頃は、『おっさん!おっさん!』と言って、よ く兄につきまとっていたが、その頃はあまり近よりも おい しなかった。小遣のない兄は、甥を愛するにも愛しよ うがなかったのである。 お 私の家は、その頃窮乏の底に陥ちていた。教員とし ての長兄の月給では、どうにも暮して行けないのだっ おふ た。その上長兄の子供は、二年隔き位に、一人ずっ殖 えて行った。私の家は、士族であったから、住む家だ けはあったのだが、それが私の学資のためと、家の生 ていとう 計の不足とで、借金の抵当になっていた。私は、もう その頃、大学にいたが、まだ他人から学資を貰ってい わずらわ たので、もう経済的には家を煩すことはなかった が、私のために負うている借金のことを考えると、ま た私が将来問接に保証しなければならぬ一家の生活の あんたん ことを考えると、私はいつでも暗濃たる気持にならず にいられなかった。 大学を卒業しても、文学士としての収入で、一家の 借金を返したり、十人に近い家族の生活を間接ながら 保証することが、可能かどうかさえ疑われた。そんな 事をしていると、自身の生活とか幸福とかは、いつが来 たら得られるのか、見当が立たなかった。私は、どん な時でも、家のことを考えると、底なしの淵に、臨ん でいるような気持がした。その底なしの淵は、私の将 ことノマ 来の労力や希望を悉く吸い込んでしまうように思わ のろ れた。私は、肉親というものを呪わずにはいられなか った。そのうちでも、私は家でブラくしている兄を 呪わずに居られなかった。長兄は、とにかくもコツく と一家を支えるために働いているのだった。が、兄は すいせいむし もう四五年も、家で酔生夢死しているのであった。し  あんぜん がない小学教員の家庭に、兄が襲然として、いつまで も厄介者になっているのが、私にははがゆくて堪らな いのだった。兄さえ、少しでも働いて呉れたら、一家 の暮しもいくらかでもよくなり、従って私に将来残さ れる負担が少しでも軽くなると思っていた。 私は、兄を責めたいと思った。が、実際よく考えて よ 見ると、兄は中学を廃してから、いくらかでも月給を 取って、直接問接に家を助けているが、私は中学を出 て、もう八九年にもなるが、学資のために家に借金を も つ 負わせたほかは、一文だって儲けて居ないのだった。 帰省したとき、母は兄をかばうようにいった。 「良平も、この頃は非役で困るのじゃけど、半病人の ように、ぶらくしているし、郵便局やってどこやっ て、中学校をちゃんと出ている若い人が沢山行くの で…ー」 そう言われて見ると、三十を越している病身の兄 つとめぐち に、それほど勤口が容易に見付かる訳はないのであっ た。その上、もう三十を越している兄には、何一つ職 業を覚える余地も力もないのであった。私は、兄が、 あくひフきようせいひようぼう その頃よく新聞に広告を出している悪筆矯正を標榜す る習字の会の会員になっているのを見て、むしろ悲し い気がした。 そのうちに、私は大学を出た。が、就職口は、容易 に見付からなかった。私が、就職口がなくて困りぬい うたが ているのに、母は早くも送金を促して来た。私は、腹 が立った。が、困りぬいている一家のことを考える とが と、母のそうしたあわた父しさを讐めることは出来な. かった。≡ニカ月してある新聞社に入ると、私はその 月給の中から三分の一以上を国へ送らねばならなかっ た。また、それが一年送っても、二年送っても五年送、 けつさいあ  し っても、決済する当はないのだった。私は、わずか な月給と大きな負担とを考えると、肉親の負担の亘く るしさを感ぜずにはいられなかった。私は、社会上の いろくな慣習に反抗することが出来た。が、肉親に の 対する負担だけは、どうしても払い除けることの出来 きはス ない鵬絆だった。母は、少しでも送金が遅れると、き っと催促の手紙を書いた。私は、その手紙を見ると、 ゆうしリつ 一も二もなく参ってしまって、その日一日は憂轡にな った。私は、人に対して割合好意を見せることの出来 る人間だが、その好意を示すことが強制されたり、義 てのひらひるがえ 務になったりすると、掌を翻すように、その事が嫌 になるのであった。私は、肉親に取って大なる義務を 感ずれば感ずるほど、私の心は肉親に対して、冷たく なって行くのだった。 私が・少しでも送金するにウれ・私は兄の齢潜を前 よりも、もっと非難し、また非難する資格があるよう な気がした。私は、母に送る手紙で…二度、兄の怠惰 を責めたような気がする。 兄の死んだ大正八年には、私はもういくらか世の中 に名を成していた。学生時代には、思いがけもない出 世だった。私は、家の借金を返す当が出来て来た。私 は、家の借金を返すために、将来の送金の参考に、一 き 家の経済状態を訊き合わした。その返事は、母の名前 ではあったが、兄の筆跡であった。そのうちの収入の 部に、 一金五円也良平市役所へ勤務 と書いてあった。私は兄が、私の非難を聴いて、市 よろこ 役所へ勤めているのだと思うと、兄のために欣ぶと同 時に、私は悲しかった。きっと、清潔係とか、そんな ものをやって、収入の一部を家へ出しているのではな いかと思った。 兄が、キトクだという電報が来たのは、その年の六 月であった。私は、その時兄が、死んではならないと は決して思わなかった。私は、これから決して一家を あて 成す当のない病身の兄を考え、いつまでも貧しい長兄 の家にぶらくしていることを考えると、私は死ぬの なら今だと思った。殊に、兄を愛している、また兄弟 の中では、一番親と親しい兄は母が存命してい.るうち に、死んだ方が、どれほど幸福であるか分らないと思 った。私は、見舞の手紙も見舞の電報も打たなかっ た。実際、私は病状をきゝ合せたり、回復を祈ったり する気は、少しもなかったのである。たズ私は、電報 かわせ 為替で金を送った。私のその時の生活からいって、そ れは相当の金であった。私は、そして兄の死去の知ら せが来るのを待っていた。その知らせは、予想にはず れて、容易に来なかった。私は、回復したのではない かと思ったが、そう思ったからといって、別に嬉しい 気はしなかった。一週間ばかり経って、兄が死んだと さすが 云う電報が来た。流石に帰れとは、書いてなかった。 私は、その時家に来合せた若い友達と、ノートラとい いちべつ うトランプの遊びをしていたが、電報を一瞥すると、 ふけ また何気ないようにその遊びに耽っていた。昔の武将 おどろすゝきあし仏と が肉親の戦死を聞いても腰かず、『芒にまじる薦の一 えむら 叢』という句に、『古沼の浅き方より瀬となりて』と いう上の句を付けてから、やっとその死を発表したと さすが いう話よりも、もっと冷静であった。が、流石に心の むW うちでは、兄の平凡な無為な一生を考えていた。私 は、あわい淋し味を感じた。が、それは兄の死から、 あいしゆう 当然弟の身にふかくひズいて来る死に対する哀愁で、 兄の亡くなったことに対する悲嘆ではなかった。私 くや は、悔みの電報も手紙も出さなかった。たズ、葬式の 費用を電報為替で、送っただけだった。 長兄からの、手紙が届いた。『天もこの善人の死を すこぷ 悲しみしにや、その日は頗る晴天にて---』と、葬式 の模様をかいてあった。私は、長兄のように兄を善人 として、ゆるすことは出来なかった。私だったら、悪 事をしてでもいゝから、長兄の家などには厄介になら ない方が、どれほどいゝか分らないと思った。たゞ、 私は長兄が、二十年近く厄介になっている弟に対して、 最後までもよい感情を持っていたことに打たれた。 むろん、私は国へは帰らなかった。が、ちょうどそ 親の晩は、原稿の締切日で、私は催促を受けた。私は、 肉かく題材を少しも持っていないのだった。私は、謝絶 の言葉に窮した。 「実は、国の兄が死んだので……」 そう言うと、善良な記者は、一も二もなく、私の言 おどろ うことを信じ骸いた。 「それは、どうもお気の毒さまですな。それじゃ、今 月はむずかしいでしょうな。」 くどく 私は助かった。兄が、私に与えて呉れた功徳は、こ れが少いうちの一つであったかも知れない。が、その こうでん 代りその書店から、私は香輿を貰って、その処置に窮 したのであった。 私は、その年の秋、国へ帰った。母などはよく兄の 死前死後のことを諾りたがった。私は努めて聴くこと を避けた。「誰よりも、良平はお前の名前が出るのを  がき 喜んで居たのじゃぜ。死ぬ前も、お前の『我鬼』とい う本が、まだ出んかく言うて、待っていたのじゃ ぜ。」 それを聴いて、私はまた憂欝になった。兄などとい おもてそむ うものは、私に取って面を背けたい現実の一つに違い なかった。 (大正十二年)