菊池寛 第二の接吻 かくれんぼ        一  ゴッコッとかすかなノック。 「おは入り!」と云うと、美智子の眉の長い可愛い顔がのぞき 込む。, 「村川さん、かくれんぼしない?」 「かくれんぽですか、また!」  村川は、少しタジくとなる。此の川辺《かわべ》家へ来てから、幾度 かくれんぽに引き出されたか分らない。 「いしわよ。なさいませよう、ね。村川さん!」  犬歳にして.既に女らしい媚態を持つ、おませな現代少女《モダ ンガ ル》の 美智子である。 「ね、お姉さまも、倭文子《しずこ》さんもおは入りになるのよ。いちっ しゃいませよ。」  と云って、村川は此の可愛い強請を、断らねばならぬほど用 のある身体《からだ》でもない。まして、今日は日曜の午後である。  村川は、此の四月に京都大学の法科を出て上京して以来、.下 宿を見つけるまでのしばらくを此の川辺家に寄寓しているのだ が、彼は、此の家の主人から、ずっと前から世話になってい る。・高等学校時代からの学資も、此の家の主人の尽力で、実業 家の今井当之助から出してもらった。彼が卒業すると、すぐ今 井商事会社に勤めることになったのも、一つはその恩義に報い るためである。1 .彼は、秀オで美男であった。しかも、近代的な美男であっ た。…二年振りに、彼に会った此の家の長女の京子が、 「村川さんは、ルプモンナバロに似ていやしない?」 'と、従姉妹《いとこ》の倭文子《しずこ》にさゝやいたほどである。 「えゝ似ているわ。でもナバロよりは顔が短いわ。」 「そうかしら。でも、眼付なんか、そっくりだわ。」 "そう云って、活動好きの二人が話し合った。だが、村川は此 の色男役のスターよりも、もっと背が高く堂々としていた。だ が、肉感的な頬、愛矯のある眼付、物怯じしたような温厚な風 貌は共通していた。  村川は、美智子に促し立てられて、かくれんぽに参加するた めに階下に降ウた'階下の座敷には京子や倭文子が彼を待ち受 けていた。京子に気に入りの小間使の一枝《かずぇ》もいた。  京子は、今年二十一になっていた。背のスラリとした、美し い女である。輝かしいほどの美貌であるが、たf額が少し広す ぎるのと、鼻があまりに端麗なので、人に高圧的な印象を与え た』 「まあ! 村川さん、到頭ひっばり出されたのねえ。」  彼女は、からかうように村川に云った。そのくせ、ひっばり 出した当人は彼女であるのに。 「美智子さんに、会っちゃ敵いませんよ。」 「苦手ね。」  京子は笑った。 「日本館あるの?」  美智子の兄の十《とお》になる宗三《そうぞラ》が云った。 「あるわよ。日本館がなければ、直ぐめっかちまうわ。」  美智子が兄をたしなめるように云う。 「お庭はなしよ。」 「お庭に降りたら鬼。」 「でも、此の問のように、僕のは入れない騎母さんのお居間の 押入の中なんか、いやですよ。日本館でも、お父様とお母様の お居間|丈《だけ》はなしにしましょう。」  村川は、運動場規定《グヲウンドル ル》を自分に都合のいゝように定《き》めようとし た。 「あゝお父さまの騎居間丈はなしにしようよ。お母さまの需居 間はありさ。大丈夫だよ。村州さん。お母さんなんか大丈夫だ よ。ね、いゝだろう。」と宗三が云った。 「じゃ、ジャンケン、石と紙とホイ。」  美智子が、要領よく紙を出したのに、村川は石を出したの で、皆の紙に包まれてしまった。 「村川さんは、馬鹿ね。」美智子がクスノ\笑った。 「なぜ、石を出したら馬鹿です,」 「だって、石と紙とホイと云ってるじゃありませんか。石と紙 とに制限して石を出せば負けるにきまっているわ。」  京子が、やっつけるように云う。 「そんなポ当な制限はありやしない!」 「口惜がってもダメよ。」 京子は、村川に対して始終攻撃的だった。       二 「じゃ、仕方がない、かくれて下さい!」  村川はあきらめて云った。 「村川さん、こゝに居ちゃ駄目よ。此方へいらっしゃいよ。」  美智子は、村川を引き立てゝ、暖炉の前に立てゝある衝立の 蔭へ連れて行った。 「しゃがんでい七頂戴よ。」 「さんざんだな。」  村川は、苦笑しながら衝立を背《うしろ》にしてしゃがんだ。皆《みんな》は、笑 いきざめきながら、日本館の方へ出て行った。■  仕様事なしに、窓かち外を眺めると、汚く梢に残っている八 重桜の花の間から、晩春の空が名残りなく晴れているのが見え る。 「まあだだよ!」 「まあだだよ!」  美智子と宗三との声が遠くから、彼方庇方《あなたこなた》に動きながら聞え て来る。  此の家は、可なり広かった。主人の、川辺宗太郎が、二十年 近き前桂内閣の閣僚の椅子を占めていた全盛時代に、小石川原 町の高台を五千坪近く買って、営なんだ邸宅|丈《だけ》に、日本館と洋 館とを合せて間数三十幾つを数えて、かくれんぽをするのに は、絶好の広さである。尤も、その後ずっと不遇な位置に在っ て、貴族院議員の歳費丈では、やって行かれない主人は、その 広い宅地を五百坪、七百坪と云った風に切売《きりうり》して、今では此の 建物の周囲の千幾坪しか残っていない。此の広壮な建物も、若 しかすると、抵当には入っているかも分らない。でも、とにか く洋館などは、すぐる大地震に煉瓦一枚落ちなかったほどに、 堂々として、内部の装飾も家具も此の頃の文化住宅の薄ぺら な、吹けば飛ぶような安手なものとは違って、荘重典雅を極め ている。安楽椅子、肱掛椅子などにも、わざとならぬ時代が付 ーいて、部屋の中に落付いた空気が漂っている。窓毎に、房のつ いた鳶色の椴子《どんす》の窓揖が重々しく垂れている。 「此の家に居て、時々かくれんぼの相手をしているのも、下宿 料が入らなくてよい。だが、下宿か間借かをして、何物にも煩 わされない生活もわるくはない。」  そんなことを、ぽんやり考えていると、 「ようし。」と、云う宗三の声が遠くからほのかに聞えて来た。 「ようしと聞いた。」  村川は、小声で云って立ち上った。うまく見つけてやろうな どと云う心はなく、たfこんな遊戯に調子を合せている白々し い大人の心があるだけである。  洋館の方も、座敷の外に階上階下十幾つの間数がある。まさ かj誰も自分が此処にいるのに二階に上るほど大胆ではあるま い。しかし階下には隠れていないとは限っていない。村川は、 座敷の次ぎの京子の部屋のドァを開けて見た。くすんだ朱色に 塗った大きな机、同じ木材を使った革張りの椅子、机の上に は、桃色の覆《シエ ド》いのかゝった洋燈《ランプ》台、レースの肱附、金飾《きんかざり》のつい た小型の万年筆、女らしい調度がちらかっていた。 .グランドピアノの下あたりに、誰かかくれて居はしないかと のぞき込んだが、誰もいなかった。  村川は、その部屋のドァを閉めると、応接室の卓子《テ プル》の下、主 入の書斎の安楽椅子の下、等身の書棚の背後《ラレろ》、人のかくれ得る 可能性を持つ隅々を捜したが、人影は更になかった。  やっばり、日本館だ、厄介だな、そう思いながら、長廊下を 伝わって日本館へ行った。とっつきの二十畳の大広間、次ぎの 十二畳、その次ぎの六畳、其処は倭文子《しずこ》の部屋だった。  彼は、倭文子のことはあまり多くを知ってい■ない。彼が、一 高時代に川辺家へ出入りしていたときには、倭文子はまだいな かった。倭文子が、実父が死んだために関西の田舎から、伯父 の家にたよって来たのは、二三年来の事らしい。伯父の家に来 ている以上、彼女はむろん、好遇されるべき筈である。だが、 彼女の此の居室《いま》なども、何と云う簡素なさびしさであろう。長 さ三尺にも足りない小さい机と、それに適《ふさわ》しい本箱、三重《ふたかさ》ねの 小さい箪笥、た間女らしい彼女の身だしなみを見せて、部屋は キチンと整っていて、塵一つ散っていない。村川は、中へは 入って押入をあけるのも、何だか気の毒のような気がして、開 けた障子を直ぐ閉めて、廊下を隔てた夫人の居間の障子を開け た。 三 「御免なさい!」 「おや、また村川さん鬼ですか。」 「そうです。」 .夫人は、居間で、小遣帳らしいものを出して検《しら》べていた。五 十に近い小柄な細面の顔は年よりも更けて見えた。 「また、美智子がおねだりしたのでしょう。本当に御迷惑です ね。」 「いゝえ、そこの押入を一寸開けてもいゝですか。」 「はい、どうぞ。」  夫人は押入の前から、身を退《すざ》ってくれた。村川は、近づいて 押入の襖に手をかけようとした。すると、押入の中が、ひとり. でκゴトくと働いて→宗三が姿を現した。 ■「いやガ■、いやだ! 騎母さんが云いつけるんだもの。」 「まあ」誰㌔(云いつけはしませんよ。」 「だって、退いちゃいやだよ。お母さんに此処に居て頂戴と 云ったじ.やないの。」 「だって、ぞんな事は、無理ですよjねえ、村川さん!」 .村川は苦笑七ていた。 「つまんたいなあ。」 [ずるぴわ。兄さん!」  讐智子が、いつ品の間にかそのかくれ場所から出て来ていた一 「なに」一け麟てんば!」 ∵宗三は気危ばんだ。 「鬼になって、じぶくる奴は……」 ㌔美智子は、片足でトンく廊下を駆け去りながら叫んだ。 べ京子之倭文子とが並んで、洋館の方から来た。 「村川さん、■駄目ね。私達、彼方《あちら》にいたのよ。」京子ば得意に なって云った。 「そうですか、何処に⇒」 「あなたの書斎に。」 「それむや、二階に上りたのですか。」' 「もちろ㌔」 「驚いた。寒さか二階へは上るまいと思った。」 「あなたの机の上の手紙読んでよ。」 「ひどいな、そんな事をするのは。」 「松|井芳枝《よしぇ》って、誰,」 「誰だって、いゝじゃありませんか。」 「女から、沢山手紙が来るのは不良のしるしよ。」  「京子、失礼なことを云ってはいけませんよ。」  夫人は娘をたしなめた。  「いゝのよ。村川さんなんか、時々たしためて置く方がいゝの よ。」  村川は、京子の挑戦が、結局は形を変えた好意のある媚態で あることは、よくわかっていた。だが、わかっていたがら、そ れをそれとして受け取ることが出来なかった。彼はそれにヒだ わった。こだわった後には、気まずい後情《こラじよラ》が、尾を引いてい た。  「そんなに、■僕が不良に見えますか。」  「見えるわねぇハ倭文子さん。」  倭文子は、山上の湖に、微風が訪ずれたようた、かすかな微 笑を浮べた。それが微笑のための微笑で、外の意味は少しもま じっていなかった。、た讐微笑するとき、彼女は限りなく可憐に 見えた。  「そうかな。これだって、品行方正ですよ。」  「そんなに"ムキになって弁解なさるから、なお怪しまれるの よ。」 「おやく。」 ■「宗ちゃん。あなたが、見つかったの。じゃ、ちゃんと鬼にな 一りなさい。い、一、そこに坐っているのですよ。きあかくれま しょう。」 ・姉に云われて、一宗三は、不平らしく母の蔭にうずくまった。        四  村川は、一番後に夫人の居間を出た。央人と、二言三言、世 問話をしていたからである。洋館へ来た時、■京子も倭文子《しずこ》も影 は見えなかった。美智子が、二階で、「まあだだよ!」と連呼 しているのを見れば、皆二《みんな》階へ上ったのだろう。 、皆の居る二階へ上るのも変だし、それかと云って、かくれ場 所を本気に探すのも、馬鹿々々しいし、村川は、座敷の安楽椅 子に腰をかけて、ぽんやりしていると、 「誰もよしと云ってくれないんだな。いゝよ。いゝよ。よしと 聞いたこ之にするかち。」  と、叫びながら、廊下を走って来る宗三のけたゝましい足音 が近づいた白■一  村川もjあわてゝ立ち上った。少くとも体裁丈にでも、か くれなければならない。咄嵯に周囲を見廻したが、卓子《テ プル》の下、 椅子の蔭、何処も一目で見透しである。  た間、部屋の一隅の窓掛の帯がはずれて、ひだの多い布が重 重しく、床に垂れているのを見た。  村川は、足音を忍ばせると、ひらりとその力iテンの蔭に身 を投げ込んだ。と、意外、彼は暖かく柔かい肉塊に身を打ち突 けて、■思わず声を立てようとした。  そこに彼よりも先に、.倭文子の柔艶な身体《からだ》がかくされてい た。彼が、あまりに勢いよく飛び込んだので、二つの身体は一 つに押しつけちれ、倭文子は、 「あら!」  と、軽いかすかな叫び声を立てた。だが、その叫び声につ讐 いた矯差を帯びた微笑は、村川の心を異常に衝き動かさずには いたかった。自分一人の秘密な場処だと思っている所へ、男性 の侵入を受けた処女の矯毒、それには当惑がアリノ\と見え た。だが、それが不快にまで行っていないことは、彼女の濁ら ない眸《ひとみ》が示していた。極端に恥かしいが、いやではない。当惑 しているが、然し嫌悪はしていない。村川は、直ぐ出るのが、 本当だと思っていたが、.かくれんぼをしているのを口実に、一 秒でも二秒でも、長くこうした希有《けう》の境遇に、身を置きたい気 もした。 ・倭文子《しずこ》はどちらかと云えば、浅黒い顔が、赤らんで、眸が美 しく輝いている。やゝ興奮しているらしい呼吸までが、きゝと られる。張り切っている可愛い頬、もし村川が京子の云うよう に不良だったならば、こんな自然な姿勢を利用して、巧に接吻 の一つ位は、盗んだに違ない。  しかし、村川は美男に似ず、純真であった。そんないたずら な気は起らなかった。だが、彼は、すれノ\に立っている倭文 子を、■此の家に来て以来、初めて愛すべきものと思った。彼は 今まで、倭文子を看落《みおと》していた。それは、京子という月の、直 ぐ近くにあるために、常に光を奪われていた星だったのだ。  こうLて、っくみ\見ると、その人なつかしそうな眸《ひとみ》、強い 男性の支持な《しては、生きて行かれそうもないような、か よわい身体、一つの掌《てのひら》の中には入ってしまいそうな二つの 頬。 「失礼しました。」  宗三の足音が、応接室で停滞しているらしいのそ、村川は倭 文子のそばでさゝやいた。 「いゝえ。」 .「ちっと竜知らなかったものですから。」  知って居ながら、わざと飛込んだと思われやしないかと、村 川は心配した。 「僕出ましょうかしら、御迷惑じゃありませんか。」 「いゝえ。」  小さい赤い唇が、かすかにつぶやぺ。村川は、一秒でも二秒 でも、長くいたかった。宗三が二階へ上ってくれゝばいゝと 祈っていた。        五  宗三は、二階へ二足三足《ふたあしみあし》とん之んと上りかけたが(直ぐ降り て来た。 「やっばり下が怪しいな。」  応接室のドアを、烈しく開ける音がした。 .「おや、居ない。」  そう云ったかと思うと、彼はバタくと、座敷へ飛込んで来 た。村舛が、アッと思う間もなく彼のかくれていたカーテンは 容赦もなく引き開けられた。 「あ人居た! 居た! 村川さん。」  宗三は、-大声で叫んだ。  倭文子も、真赤になりながら、村川につ間いて出た。 「おや! 倭文子さんもいたの! ずるいな! ずるいなー.」  宗三は、前よりももっと大きい声で叫んだ。 「何がずるいんだい!」  村川も、宗三の云われなき非難に抗議した。 「ずるいや、ずるいや、一緒になんか隠れて! ねえ齢姉さ ま。」 宗三は「大きい声で、隠れてる京子を呼んだ。  階段を急ぎ足に降りて来る足音がして、美智子と一緒に京子 が現われた。 「宗ちゃん、何うしたの。」  京子が訊ねた。 ■「ねえ(お姉さま、ずるいんだよ。村川さんが、倭文子さんと 一緒にかくれていたのよ。」 「まあ! 何処に?」 「この力i.テンのかげにさ。くっついてかくれているのよ。」  倭文子娃真赤な顔をして立ちすくんだ。 「倭文子さんが→かくれているのに気がつかないで、僕が後か 伽 ら飛込んだのですよηいゝじゃないか。一緒にかくれたっ て!」 「いけないや、ずるいや。大人同士が一緒にかくれるなんて、 |可笑《おか》しいや。ねえお姉さま。」  京子は、何とも云わなかった。そして、真赤に立ちすくんで いる倭文子を、じっと見つめていた。 「いゝじゃないの、一緒にかくれたっていゝわ。」  美智子が、いつものくせで、兄に反対した。 -「そうとも。いゝじゃたいか、ねえ美智子さん、」  そう云つて、・村川は真赤な洋服を着ている美智予を抱き上げ た。 「じゃ。村川さんと倭文子さんとジャンケンして、鬼になる ジャンケンして。」  美智子は、抱き上げられながら云った。 一「ジャンケンなんかしなくっても、村川さんが先に見つかった んだよ。じゃ、堪忍してやらあ。村川さん、鬼だよ。」  宗三は、もう妥協していた。 .■だが倭文子はなぜか妙に、しょげてしまって、其処に在った 安楽椅子に腰を降ろしてぽんやり青い力ーペットに目を落して いた。 口じゃ、かくれましょう、お姉さま。」  美智子が、京子の手にすがりつくと、彼女はそれを邪樫に振 り払った。      ,              1ー!、 「妾《あたし》は、ようした。」 「いやだな。よすの。」  宗三が、不平ちしくなじるのを聴きながら、京子は自分の部 屋へ入ったかと思うと、ピアノの鍵盤を、隻手《もるて》でヤケにたゝき 鳴らした。  嵐のような激しい音に、村川も倭文子も、気味のわるい圧迫 を感ぜずに捻いられなかった。■        六 「わたくし、お八ツ頂いて来るの。」  利口な美智子は、一座の空気が険悪なのを感ずると、そんな ロ実をうまく考えて、臼本館の方へ走り去った。 「僕も。」  宗三も、直寸妹の後を追りた。  村川は、京子のすね方が、馬鹿々々しかった。一緒に力iテ ンの後《うしる》にかくれていたのが、何うしたと云うのだろう。だが、 倭文子が、スッカリしょげてしまって、黙りこんでいるのを見 ると、冗談ではない気がした。 「何《ど》うしたのです。そんなに、しょげなくりてもいゝじゃあり ませんか。何も悪いことをしたのじゃあるまいし。」  倭文子はだまっていた。 「京子さんは、怒りすぎますよ。」  村川は、そヲも云って見た。だが、倭文子はなおだまってい た。ふと、気がつくと、彼女の黒い瞳を覆う長いまつげが、一 杯濡れていた。村川は、軽いツヨックを受けて、自分もだまっ てしまう外はなかうた。  その涙が、倭文子の現在の生活を、彼にすっかり説明してく れた心  伯父の家に寄食している倭文子は、わが儘で勝気な従姉《いとこ》の掌 中に、生きていると云ってもいいのだりた。京子の一餐一笑 に、彼女の幸福や不幸が胎《やど》っているのだった。京子の機嫌の悪 いときは、彼女の生活は暗くなってしまうのだった。  倭文子が、もりと図々しく、もっと世間を知っていたなら ば、京子の機嫌を取りむすぶ位は何でもなかったのだる51。彼 女が、もっと強い女であったならば、京子と不即不離に生きて 行けたのだろう。だが、初心《うぶ》で温良で策も術もない彼女は、京 子の強い光の中で手も足も出さず、ただおずノ\と暮している のだろう。京子が、あの程度に機嫌を損じていることは、倭文 芋の生活に対してどれほどの脅威か分らないのだろう。これか ら先の何日か陰に陽に、あたり散らされることを考えると、倭 文子はつい涙ぐまずにはいられないのだろう。  馬鹿々凌しいが、今の倭文子に取うては、それが重大な生活 問題なのだろう。  そう考えて来ると、村川は倭文子の心持が、いじらしくてた まらなかった。彼は、出来る丈のととをして、倭文子をかばっ てやろうと思った。 「京子さんに僕がよく云って置き斎しょう。怒らないように。」 、まあ!・いいえ。」 ,・倭文子は、自分の心持を見透かされたのが、いやだったのだ ろうωあわてて打ち消した。 「怒るべぎことでない=とを、怒りているのですからね。で も、僕が飛込んだのがわるかったのです。でも、こんなことで 怒るなんて馬鹿々々しいですねピ ・村川は、笑いごとにしてしまおうとしても、倭文子は、何う しても笑わたかった。  ヤケに叩き鳴らしていた京子のピアノの音は、ふっつり断た れてしまりた。断たれてしまうと、倭文子は更に、不安になっ たかのように、首をうなだれた。 「僕が、ー一寸京子さんに会りて見ましょう。怒っているわけ は、ありませんよ。」 ・そう云って、村川は気軽に倭文子の傍から立ち上ろうとL た。 「い〜んでございますの。」  倭文子は"とりすがるように止めた。 「でも、こんなことで、こだわっているのは、いやですから。」  そう云って、村川は倭文子の傍を離れて"京子の部屋のドア の前に立■って、ノックした。        七  村川は、京子の部屋の下アを、可なり強く叩いた。だが、中 からはぶつっとも音がしなかりた。 「京子さん、僕です。は入ってはいけませんか。」  まだ、何とも返事をしない。 「京子さん、は入ってはいけませんか。」 「いゝわ。」  やっと、かすかな声で答えた。  村川は、ドアを開けた。京子再、ドアの方へ背を向けて机の上 で何かかいていた。  村川は机の傍に歩み寄りながら云った。 「怒っているのですか」 「うゝむ。」京子は首を振った。「それとも、貴君《あなた》何か妾《わたし》に怒ら れることしたの。」 「飛んでもない。」-' 「じゃ。心配しなくてもいゝじゃないの。」 「だって、貴女《あなた》がいきなり、およしになるのですものピ 「よ」ちゃ、わるいの?」 「悪くはないですけれど。」  京子は、ば思地わるそうに笑った。 「ねえ、村川さん。貴君、妾の部屋へは入るときは、感心に ノックするわねえ。」 「だって婦人の私室ですもの。」 「そう、じゃ倭文子《しずこ》さんの力ーテンの中には入ったときもノッ クしたの。」  村川は、少しドキマギして、ー顔が赤くなったが、やっと立ち 直って、 「まだ、あんなことにこだわっているのですか。」 「だって、貴君だってこだわってるから、妾の所へ来たので しまう。」 「僕は、こだわっていないのですよ。でも倭文子さんが、貴女 が怒ったので心配しているからさ。」 「御親切ね。但し、妾にではありませんよ。」 「つまらない。機嫌を直して下さいよ。」 「大きなお世話。」■一 .京子は、またぷいと向うを向いてしまった。世話のやけるわ がまま娘だな、村川はつくづくそう思った。ーでも(怒らせてし まっては、いよく倭文子にわるいと思ったので、彼はしばら くしてから、また言葉をついだ。 「倭文子さんは可哀相に心配していますよ。」 「そう、御心配でしょうね。」 「何がです。」 「何でもないの。」 「京子さん、ほんとうにこだわらないで下さい。倭文子さん- が、かくれていたところへ僕が飛込んだと云って、それが何だ■ と云うのです。僕が、気がつかなかったからじゃありません か。」 「だから、妾何とも思っていやしたいわ。」  京子は、いらくしげに云った。 「それが、何とも思っている証拠ですよ。」 「そう、お気の毒さま。でも、妾《あたし》、貴君や倭文子さんのお気に 入るように、自分の心持の調子を変えることは出来ませんわ。」  村川は、手がつけられないと思った。 「でも、倭文子さんはたいへん、しょげていますよ。」 「そう。でも、あの方《かた》は何にでもしょげる人よ。泣き虫よ。あ の人はしょげることに依って、人に甘えているのよ。あなたに なんか、きっとそうよ。いゝから甘えさせてあげなさい、ね村 川さん。あなただって甘えられるのは、悪い気持ではないで しょう。」 「困ったな!」  村川は、ほんとうに困って立ち上がった。■ 芽ぐみ行く愛        一 ■村川は、、力γテンの蔭で、危うく倭文子《しずこ》と接吻しようとする 夢を見て、目がさめた。かくれんぼの日以来、倭文子のことが 絶えず意識の底に、こびりついていて、夢にまで見るのであろ う。そのくせ、あの日以来、廊下で二三度行き会っただ汁であ る。或は、彼女の方で、自分を避けているのではないかと思っ た。 =彼は、顔を洗って帰ると、寝室から、書斎の方へ移った。す ると、書斎の机の上に、忘れな草のフランス刺繍をした肱付《ひじつき》が 置いてあった。白と茶と緑との配合が美しくあざやかであっ た。 ,村川は年若い処女の好意のシムボルそのものと云ったような その肱付《ひじつき》を、ば寸ときめく心で取上げた。すると、その一端に 真紅の糸で、MSとローマ字を小さく組合せて、入れてある石㌔ 彼は村川貞男と云った。自分の姓名の頭字を組合わせて入れて 呉れたものだと思えば、それでいゝのであるが、それでは何と なく物足りなかった。そのSを倭文予《しずこ》にしたかった。倭文子 が、自分に対する贈物に、彼女の名の頭字と、自分の姓の頭字 とを、組合せたものと考えたかった。 「何と云う好《ナイスプ》き贈物《レゼント》だろう。」  彼は、甘ったるい微笑が、自分の頬に浮んで来るのを何うと もすることが出来なかった。何と云うつゝましい求愛だろう。 彼女にふさわしい求愛の手段だ、村川はそう考えた。  彼は、美男であるために、京都大学時代から、いろル\な女 の求愛に接した。彼が、少し色魔的な分子を持っていたなら ぽ、彼は幾人もの女の愛を、自分自身を少しも傷つけるこ之な ルに、享受し得たかも知れない。だが彼は、温良《おとな》しい上に、た だ一つの潔癖がある。それは、自分が愛し得ない女には、指一 つ触れることさえ出来ない性情だった。愛の潔癖性、それが彼 を青春時代の危機から、救って呉れた。  学生時代に、友人に連れられて祇園のお茶屋に行ったときな ど、彼は其処に来た二十四五になる美しい名妓から、一目惚れ された。彼女は、彼を追って階下へ降りると、彼の耳にさゝや いた。 「あんたはん、この次一人でおいでやすや。あてえ、こゝの家 へあんじょう云っときますわ。あした欝いでやすか、それとも あさりてに紀しやすか。」  村川は、真赤になりながらも、返事もしないで二階へ上って 行った。 ・女は、それでもあきらめなかった。彼の友人を通じて、幾度 も彼を引き出そうとして、失敗すると、友入から彼の宿所を訊 いて、下宿へ…=度押しかけて来た。喰べ物のお土産たどを 持って。村川は、それを頭から、追い斥けもしなかった。温良《おとな》 しい彼は、親切におだやかに応対した。女はいろノ\に彼を誘 惑した。結局彼は、彼女に唇一つ与えはしなかった。彼は、心 の中に愛を感じ得ない女に、唇を与えるような白々しいことは 出来なかった。 ■下加茂撮影所のスターとして光っていた園村春子、四条の菊 水の女王と歌われていたお澄と云う女給、下宿の評判娘など、 村川は若き女性から幾度手紙をもらったか分らなかった。  だが、そうした多くめ誘惑から、常に浄き手を以て、逃れて 来た。  実際また、男性に対して、そうした誘惑に出る女に、彼の求 めている様なつゝましさはなかうた。  毒恥感情、それはヴイiナスの帯よりも女を美しくする。差 恥感情を亡くしたクレオパトラよりも、初心《うぶ》な田舎娘の方が、 どれほど男の心を捕えるか分らない。  彼が倭文子に強く惹きつけられたのも、彼女の満身にこぼれ ている処女らしい差恥のためであると云ってもよかった。        二  村川が、Zプγヌ刺繍を見つめながら、それを刺繍した倭文 子の手付まで、空想していると、女中が、覇食の出来たことを 知らせて来た。  いつも、八時を過ぎてからでないと起きたい村州は、此の家 では最後に一人で朝食を食うのである。だが、その日は食堂へ 行って見ると、美智子が、白いニプロンをかけながら、一人で 御飯を食べていた。小芋の煮たのを、お箸に四つばかり突き通 して、右の手に持っていた。齢もちゃにしながら、一つずつ食 べようと言うのであろう。 「いゝお団子ですね。」 ㍉う≒む。これお芋よ。」 .「おいしそうですね。」 ,「村川さん、寝坊ね。」 「どうして。あなただbて、今御飯食べているのでしょう。」 「だりて、おたし仕方がないんですもの。」  、美智子は、自分が返事に困ると、いつもそう云うて皆を笑わ せていた。 「もう、かくれん繧しないのですか。」 「ええ、だって、お姉さまが、爵怒りになるんですもの。」 →まだ、お姉さま怒りているの。」 「ねぇ、村川さん、いゝこと教えてあげましょうか。」 「何です。」  美智子は、小さい身体《からだ》を延ばして、村川の耳に口を寄せた。 そして必要以上に低い声で、 「あのね、倭文子さまが、昨日お泣きになっていたのよ。」  村川は、いやな気がした勺京子にいじめられたことを、直ぐ 想像したからである。 「ほんとうですか。」 『ほんとうですとも。」 一「何処で。」 口御自身の爵部屋で。」 「どうしてでしょう。」 「どうしてだか知らないわ。」 「でも、た間お泣きになる訳はないでしょう。」 「ええ、そうよ。きっと、お姉さまが騎いじめになったのよ。」 「そんなに、お姉さまは倭文子さんを、いじめるのですか。」 「うゝむ。でも時々。」 「時々でもいけないな。悪いお姉さまだな。」 「だって、わたし仕方がないんですもの。」  そう言って、美智子は口を一杯開けて、お芋を二つつづけて 食べた。 、村川は、倭文子が京子から、そんなにいじめられていること が、皆自分の責任であるように思った。だが、偶然一緒に力ー テンの蔭にかくれたことが、それほど京子を怒らせていると は、何うしても考えられなかった。でも、もしそのこと丈《だけ》で、 京子が怒っているとしたならば、京子が嫉妬していることにな るのだが、でも、嫉妬しているとしたならば、京子が自分を愛 していることになるのだが、そうした姿態を京子に見出すこと は、到底出来なかった。自分に対して高飛車に出ることは、あ あした女性が、あらゆる男性に対して持つ一つの逆な媚態で、 それが自分丈に対する愛の表情であるとは考えられなかった。  しかし、つまらない原因からにしろ、倭文子がいじめられて いることは事実である。それを慰めることは、村川の義務でな ければならない。いな、義務と云うよりも彼の烈しい要求なの である。慰めなければならないのでなく、慰めたいのである。  彼は、とにかくどうにかして、倭文子に会おうと思った。だ が、力iテンの蔭に一緒にいても、あんなに腹を立てる京子が 居るとすれば、一緒に話なんかしているところを見つけられて は、たいへんである。   同じ家に居ながら 村川にとっては倭文子は籠の鳥である。  村川は倭文子と親しく話をする機会を待ちながら、一日一日 と空しく過ごしていた。廊下で遠くから見かけたり、障子越し に声を聞いたりする丈で、顔を見合わす機会さえ容易に来な かった。彼が、もっと策略のある青年であったならば、そんな 機会を作るのは容易なことであったに違ない。だが、彼は不 自然なことはしたくなかった。ムリな機会を作りたくはなかっ た。  ある晩、五月に入ってから、村川は京子と倭文子との三人 で、帝国ホテルの演芸場へ、赤色ロシアを亡命している美しい 女流ピアニストのコンサ1トを聴きに行ったことがある。  彼は、京子が御不浄へ立つかどうかして、倭文子と二人|限《き》り になる機会が、必ずあるに相違ないと楽しみにしていた。だ が、京子が立つと倭文子は影のように寄り添って立った。京子 が村川を一尺離れると、倭文子は二尺離れていた。京子が一間 離れると倭文子は一間一尺離れていた。その上、グリルルーム で三人で食事をするときなど、.倭文子は村川には、直接には一 言も口をきかなかった。村川の方から話しかけると倭文子は、 出来るだけ短い返事を探し出して答えた。そして、村川の顔な どは、正面から一度だって見なかった。 「村川さんとは、少しでも親しくしてはいけません。」  そんな無上命令が、京子から出て居るようだった。むろん、 ハッキリと口に出しては云われてなくっても、暗々裡にそう命 ぜられて居るようだった。  村川は、ショパンのワルツを聴きながら、スッカリ憂欝に なってしまった。倭文子が、これほど京子を揮っている以土、 自分がどれほど彼女を愛しても絶望に違ないと思った。だが、 そうした障害を感ずれば感ずるほど、彼の思慕は募って行くの だーった。  その上、倭文子が上部《うわべ》丈は、彼に対して、どんなによそノ\ しい態度をして居ても、彼は力iテンの蔭で、彼に対して与え た彼女の微笑を忘れる事は出来なかった。それは、毒《はじら》いながら も、彼の闇入を許している微笑だった。彼の閣入と云うより も、彼自身を許している微笑だった。彼が、心から彼女に愛を きゝやいたならば、きっと許すに違ないことを約東している微 笑だった。  倭文子のよそくしい態度は(結局それが彼女の心にもない 擬態で、その擬態の一皮下には彼に対する好意のある微笑が用 意されていることを忘れることは出来なかった。たf力ーテン の蔭におけるが如く。二人切りになれさえすればよいのだ。彼 はそう信じていた。.  それから、≡二日したある朝、彼は書斎へ行って、椅子に腰 をかけると、何だかいつもと、感じが違っているので、,立上っ一 て検《しら》べて見ると、真紅《まつか》なレースで編んだクシ.ヨツが、いつのま にか置かれているのである。  あの倭文子の微笑が、今度はクションの形で横たわって居る のだと思うと、村川は限りなく幸福だった。  それにしても、何うして彼女は自分を避けるのであろう。そ れが、村川に取っては、不思議でならなかった。  その夜のことである。初夏の月が、あまりによく澄んでいる ので、彼は書斎から庭へ出て見る気になった。もう十時過ぎてー いた-宥寝《よいね》の習慣を持っている川辺家の人々怯皆寝しずまっ て、月のみが、樹木の多い庭園を昼のように照らしていた。小 石川の植物園と同じ丘陵の上に在る庭は大樹が多かった。それ をそのまゝに、少しも人工を加えない庭砥、却って高雅で幽蓬 な感じがした。  村川は、庭の一隅に立っている四阿《あずまや》の縁に腰をかけて、夜の 爽やかた静寂の中に坐っていると、ふとその静寂を破るかすか な足音を聞いた。  振り顧ると、一人の女性が樹の間を洩るゝ月光を半身に受け て、しずかに大樹の下を歩いているのであった。        四 ■彼は初め、その女性を女中か何かでないかと思った。だが、 そのしとやかな歩き振りで、京予か、でなければ倭文子に違 ないことが分った。;もし倭文子だとすると、-こんないゝ機会は ない。彼は、そう思って躍り上る胸を押えながら、四阿を離 れ、直ぐ傍《かたわら》の大樹の蔭に身をひそめて、その女性の近づくの を待っていた。  近づくまゝに、彼女は月光のあかるい条《しま》の中に、全身を現し た一顔は半面しか照らし出されていなかったが、オ:ルバック に結った額際は、直ぐ倭文子であることが分った。  だが、急に飛出して行って、彼女をびっくりさせてはならな い。そう思ったので、彼は彼女が二三間行きすぎるのを待っ て、低い声で呼んで見た。 「倭文子さん!」  彼女は、一寸振り返った。だが、それを幻聴だと思ったのだ ろう。立ち止まりもしないで→直ぐ歩み去ろうとした。. 「倭文子さん、倭文子さん一」  二度、つfけて呼んで村川は、倭文子に近づいた。倭文子 は、ギョッとして立ち止まった。そして危く駆け出しそうな姿 勢を採った。 「僕です。村川です。」 と、云って彼は倭文子の前に立った。彼女は、恐怖からは やっと恢復したものゝ、「まあ!」と、かすかに云ったまゝ、■ 其処に蒼白になって立ち辣んでしまった。 「御散歩ですか。」  倭文子は、口がこわばったように返事をしなかった。 「びっくりなすったのですか。どうも、失礼しました。」 「いゝえ。」  とかすかに答えたものゝ、彼女の顔になごやかな表情は浮ん で来なかった。彼女はこうして、向い合っていることが、不安 で仕方がないと云ったように、その夜目《よめ》に黒い瞳を落着きな く、動かして居た。何かの口実があれば、こ、を去りたがって いることが露骨に見えた。  村川は、スッカリしょげてしまった。倭文子を呼ぴ止めたこ ど、こうして向い合って立って居ることが、苦痛になり出し た。 「いゝ月ですね。」  彼は、お互の間の気まずい空気を払い除けようとして云っ た心 「えゝ。」と云ったまゝ、倭文子は月を見ないで、地上を見つ めていた。  村川は、倭文子の打ち溶けない堅い心が、自分の胸につかえ て来るのを感じた。彼は、倭文子に対して持っていた予想が、 はずれかけているのを感じた。  五分、七分、二人の不自然な心と姿勢との上に時が流れた。  倭文子のこわばっていた身体《からだ》が少し動いた。 「もう遅うございますから、失礼しますわ。」  村川は、真向から突き飛ばされたような気がした。 だが、絶望だと感ずると、却って村川に積極的な勇気が湧い て来た。 「倭文子さん。僕はあなたに、お話があるのですが。」  倭文子は前よりも蒼白になって立ちすくんだ。       五  倭文子の顔には、当惑の色が、強く浮き出ていた。 「お話をする間、一寸一緒に歩いて下さいませんか。」 .「でも、わたくし。」  倭文子は泣き出しそうな声で云った。. 「ホンのー寸でいゝのです。」  村川も必死になっていた勺 「でも、こんなに遅く……。」 「御迷惑だと仰しゃるのですか。」 「いゝトえ、で・も:::。」 「御迷惑はかけないつもりですが。」  倭文子は、だまってしまった。と、云った㌔のゝ村川は、何 から話していゝのか分らなかった。自分自身の心の中に、火の 塊の如く燃えひろがってゆく心を、どう彼女に打ち開けていい か分らなかった。、 「いや別に、たいしたお話があるわけではないのですが、此の 間のことであなたは、京子さんから何か云われたのではありま せんか。」■  倭文子はだま一っていた。 「何か京子ざんが、あなたに云ったのではありませんか。」 「いゝ・え!三:。」  倭文子は、つぶやくように答えた。 「僕はあんなことのために、あなたに御迷惑をかけやしないか と、心配していたのです。」  「いゝえ、そんなこと、ございませんわ。それではまた……。」  倭文子は、一刻も早く村川の前から、逃れたそうにした。村 川は、倭文子が冷淡になればなるほど、熱して来た。  「あなたは、そんなに僕と一緒に居るのは、お嫌いなのです か。」  「あら!」と云った倭文子は、真赤た顔をしてうつむいた。  「京子さんと同じようにあなたも僕を不良青年だと思ってい らっしゃるのですか。」  「まあ!」,  倭文子は、泣き出しそうに云った。  「僕が、あなたに対して、どれほど親しみを感じているか、御 存じでないでしょう。あなたが、僕のことを、何と思っていて 下さるか分りませんが、何だか僕は、あなたが京子さんの思惑 を揮って僕によそくしくしておられるように、思われて仕方 がないのです。」  村川は、肱附《ひじつき》やクションのことを思い出して、大胆にたっ た。  「あなたが、僕に好意を持って居て下さることは、よく分って いるような気がするのです。それだのに、京子さんの存在のた めに、お互の心持をねじ曲げて居るなんて馬鹿々々しいと思う のです。」  倭文子は、だまってしまった。 ■「あなたが、僕を嫌っていらっしゃるなら、僕は何も云うこと はたいのです。しかし、そうでもないものを、第三者をはf かって、よそくしくするなんて、そんな個性のない生き方が あるでしょうか。倭文子さん… 僕は、あなたさえ頼って下さ れば、どんなことだって出来るのです。僕は、何だかあなたに 頼っていた間きたいのです。僕はあなたに頼られて、あなたの ために、凡ての力を尽して見たいような気がするのです。僕は 失礼ですが、何だか貴女が、いたノ\しいような気がして、仕 方がないのです。僕は、あなたを護りたいのです。あなたのた めに働きたいのです。あなたのために戦いたいのです。何うで す。倭文子さん、あなたのために、そうさせて下さることは出 来ませんか。」  倭文子は、だまって返事をLなかった。 「ね。僕のお願いをきいて下さることは出来ませんか。」  村川が、倭文子の答えを促したとき、彼女はシクく泣き出 した。. 「僕の云ったことが、お気にさわりましたか。」 「いゝえ。妾《わたし》うれしいのです。L  倭文子は、そう云いながら、声を立てゝむせんだ。        六 「妾は、寂しかったのです一頼りにする人が誰もなかったので す。」  倭文子は、泣きつfけた。父も母も失って、伯父の家に引き 取られ、わが儘な従姉に虐げられながら、彼女は孤独な寂しい 日々を暮していたのだ。村川の言葉は、荒涼たる人生の海に 漂っている彼女に投げられた力強い生命の綱であり、幸福の綱 だったのだ。 「そうですか。僕はこんなうれしい事はありません。僕は、ほ, んとうは貴女を愛しているのです。あなたさえ許して下され ば、直ぐ結婚してもいゝと思うのです。」  彼女はだまっていた。 「僕と結婚して下さる気はないのですか。」 「いゝえ。でも、妾《わたし》京子さんが、こわいわ。」  彼女は、初めて胸中の秘密を打ちあけた。 「なぜです。」 「でも、貴君と一緒に力iテンの蔭にかくれたと云って、それ はそれはいやなこと仰しゃるのよ。」 「そうですか。」  村川も、暗然とした。 「こんな所で話している所を、誰かに見つけられて、京子さん に云いつけられたら、妾此の家にいられませんわ。」 「居られなくなれば、出ようじゃありませんか。」 「でも。」 「ほんとうに、愛し合っている二人の前には何の障害もない筈 です。障害が障害らしく見えるのはお互の愛が足りないからだ と思うのです。」 「でも、わたくし京子さん恐ろしいわ。」  彼女は、恋する少女が、厳格な父親を恐がるよヶにつぶやい た。 「だって、此の家を出さえすれば、京子さんなんか、恐がる必 要はちょっともないじゃありませんか。」 「でも、あんな執念ぶかい方なんですもの。」 「じゃ、あなたは京子さんが恐いから、僕と逢うのはいやだと 云うのですか。」 「いゝえ。」  倭文子は、首をかすかに振った。 「僕達の心さえ、しっくり合っていれば、京子さんの反対なん か何でもないじゃありませんか。勇気を出して下さい。」 「妾も、そう思いたいのです。でも……。」 「そんなに恐いのですか。ね、僕を信じて安心していらっしゃ い。」  彼は、しずかに寄り添って、倭文子の肩に手をやろうとし た。倭文子は、そっと身体を退けた。だが、それが蓋《はずか》しさのた めであって、嫌悪のためでないことはよく分った。 「あの妾、もう帰りますわ。今日は遅うございますから。」  倭文子は、不安らしく立ち上った。 「じゃ、あしたまた来て下さいますね。」  倭文子は、だまっていた。男と会合の約東をすることたど は、彼女に取って余りに恐ろしいことだったのだろう。 「あしたの晩、丁度今頃来て下さいますか。」  ,  倭文子は、だまっていた。 「ね、来て下さい。ねえ、ねえ。お願いですから。」  倭文子は、まだ返事をしなかった。 「十時カッキリに来て下さい。僕は早ノへから待って居ますか ら。ね、いゝでしょう。ね、ねぇ。L  村川は、子供をすかせるように、倭文子の耳にさゝいた。  倭文子は、やっとかすかに肯《うなず》く。村川が引き寄せようとする のを、軽く振りのけながら、家の方へ歩み去った。 「何と云う可愛い女だろう。俺は凡てを彼女のために、さゝげ るぞ。」  村川は、倭文子の後姿《うしろすがた》を見守りながら、心に誓った。        七  恋人同志が、会合《ヲンデプ 》をするときは思いの深い方が、その場所へ 先へ行っていると云われている。村川は、そんなことを、つい 今月号の雑誌で読んだので、その翌晩は九時半になるともう心 が落着きを失なっていた。  倭文子が昨夕《ゆうべ》はあんなに承諾しても、一晩のうちにどんなに 気持が変っているかも知れない。気の弱い彼女は、人目を忍ん でする恋の危さ恐さをおそれ、今にして思い切った方が、結 局幸福ではないのかしらと、考え直していやしないか。そんな 不安が後から後から頭に浮んで来る。でも、その晩は、何うし たのか九時半が来ても京子が書斎に居て、日本館の方へ引き 取ってくれない。庭ヘ出るつもりで、京子の部屋の前などを通 り、つい声を掛けられたら、ことだと思ったので、村川はいら だって来る心を抑えて、じっと書斎で待っていた。すると、十 時近くになって、京子の部屋のドアが開いた。そして間もなく ,京子が廊下を伝いたがら歌っているらしい歌が聞えて来た。  鐘が鳴りますかやの木山に .山は寒空、うすあかり   一つ星さえちらつくものを  なぜにちらとも出て見えぬ  京子は美しい肉声が、自慢であった。此の歌も幾度も聞かさ れた歌だが、この場合庭の四阿《あずまや》で、自分を待っている倭文子の 心を、そのまゝ歌っているように聞えたので、村川は京子の足 .音が聞えなくなるのを待ちかねて、飛ぶように階段を駆け降り た。  月は、昨夕《ゆうべ》よりも澄んでいた。露をしっとりと含んだ庭の 樹々は、銘々の黒い影を地に投げていた。  四阿に近づいて見ると、倭文子はしょんぼりと縁に腰をかけ ていた。村川は、その後姿を見ると、いとしさで胸が張りさけ るようだった。何も云わずに、後《うしろ》から抱きしめて、キスをした いような衝動を感じたが、彼はそれほど大胆ではなかった。  「よく来て下さいましたね。」 ■一倭文子は、何も云わないで、顔を上げただけだったが彼女の うれしさは、その美しい砕に一杯になっていた。 「お待ちになりましたか。」  倭文子は、だまって首を振った。 「考えて下さいましたか。あなたが、どんな障害と戦っても、 ■僕と一緒になろうと決心さえして下されば、僕は直ぐにでもあ なたと結婚したいのです。別に、あなたに縁談があるわけでも ないでしょう。」一  倭文子は、また黙って首を振った。  「僕は、生涯きっとあなたを愛しつ讐けます。」  「でも、わたくし京子さんが……。」 「京子さんなんか鬼に喰われてしまえ! です。京子さんの反 対なんか何です。それとも、あたたは僕が、不満なのですか。」  「まあ! 妾、もったいないと思っていますわ。」  「僕こそ、もったいないと思っているのです。」 「まあ!」  「ね、僕は何んなことがあつても、あたたを捨てませんよ。捨 てませんじゃない、離れませんよ。あなたが僕から逃げようと しても決して逃がしませんよ。いゝですか、僕が一生涯附きま とうものと覚悟して下さいよ。」  村川は、情熱の募るまゝに、倭文子を抱き寄せながら、キス をしようとした。だが、倭文子は栗鼠《りす》のように、すばしこくそ れをさけた。 ・「齢いやですか。」  「いゝえ。でも恥かしいわ。」  「恥かしいって。」  村川は、再び力強く倭文子を引き寄せようとした。倭文子 は、また身悶えしてさけた。  「絶対にいやですか。」  「いゝトえ。でも」 「恥かしいことはないじゃありませんか。」 「どうぞ。この次ぎに。」 「じゃ、明日また会って下さいますか。」 「えゝ。」 最初の接吻  恋愛関係において、一番楽しい瞬間は、恋人同志が、その思 いをうち開けて、最初に手を取り合った時だといわれている。 それはあらゆる楽しい希望を含み、しかも少しも性的な陰窮を 持っていない無垢な歓楽の頂上かも知れない。だが、あまりに. |清教徒的《ピユリタニク》だ。一歩を進めて、恋人同志が最初の接吻に魂と肉と をかたみにふるわせた瞬間こそ、一番楽しい瞬間だといって も、誰も抗議する人はないだろう。  村川は、その翌くる日の晩が、待たれた。彼は、会杜にいっ ている間、仕事が少しも手につかなかった。■いつもより三十分 も早く帰つた。夕食をすませた後も、時計の針は、容易に廻ら なかった。一時間が、二時間も三時間ものように思われた。あ んまり、時間が経たないで白山の坂上まで散歩にいった。近頃 はや 流行って来た薬屋兼業のカプェlで、時節には早いアイスクリ ームを喰べて帰って来ると、まだ八時三十分である。  九時をすぎると、彼は部屋に、ジッとしておられなかった。 今夜こそ、自分が先にいって倭文子《しずこ》の来るのを待とう、その方 が一分でも二分でも早く彼女に会えるわ甘だ。そう思って、彼 は九時十分に書斎を出た。庭へ降りて見ると、夕暮から雲の多 一かった空は、スッヵリ密雲に閉されて月の所在さえわからな かった。しかし、人目を忍ぶものに、月夜よりも暗夜《やみよ》がよいこ とは、昔も今も変りがない。村川は、月のないのが気やすい気 がした。  建物から、二十間も離れている四阿《あずまや》で、小さい灌木を避けな がら歩いた。彼は、倭文子が来るまでは、三十分は待たなけれ ばならない。そう思って四阿に近づくと、意外、月のないため 遠方からは見えなかったが倭文子は昨夕と同じ姿勢で、ちゃん と腰かけているのである。  村川は、心が張りさけるように、緊張した。烈しい昂奮と情 熱とで足がふらくと震えて来た。村川は、その情熱の火花の 中に、彼女に最初の接吻をしようと思った。なまじい、口に出 して頼むからはずかしがるのだ。言葉よりも実行だ。いきり後《うしろ》 から、彼女を抱いて接吻をしよう。そう思ったので、彼はつか つかと倭文子の後《うしろ》へ迫った。彼女は、闇の中で、ちらと村川を 見返ったようだったが、村川と知ると安心したようにまた向う をむいた。  村川は、その動作で彼女も既にそれを許していると思ったρ 彼は、背後から彼女の細いなで肩を抱きしめ、彼女の頬に彼の 唇をよせた。 .何という歓喜であろう。倭文子も彼の唇を受けようとして、 顔を後へ向けてくれたではないか。二つの唇は、いなずまのよ うに会った。一分二分、ば一人には世界の凡てが消滅Lて、火の ように熱しているお互の唇があるばかりであった。村川は、た だ今宵の接吻一つのために今まで二十五年の半生を生きて来た ような気さえした。■  ■相手もおそらくそうだったろう。彼の身体も、おなくと震 えていた。三分四分、二人は、息ぐるしくなって、顔を離し た。彼女は、はじかれたように向うをむくと、はずかしさのた めに、うつむいてしまった。  差恥と歓喜との四、五分が経った。二人は、だまっていた。 村川は、やっと口を開いた。 「どうも済みませんで」た。」■ 「済みませんもないものだわ、いやな村川さん、いきなり接吻 なんかしてさ。」 一それは、倭文子のつゝましい声とは、似ても似つかなかっ た。まぎれもない京子の高い華やかな声である。  村川は心の中でアッと悲鳴を挙げた。       二  村川は、いきなり千尺の断崖を、逆さまに投落されたような 気がした。彼の意識も感情も、めちゃくちゃに混乱した。名状 しがたき悪感が、全身を伝わり、手足がわなノ\と額えた。彼 は、知らずに毒を含んだ人のように、口中のつばを吐き出した かった。  それは、まぎれもなく京子であった。暗《やみ》の中ではあるが、髪 の格好と云い、両肩の容子と云い、まぎれもなく京子である。  何という取返しのつかない恐ろしい間違をしたのだと思う と、村川は腸《はらわた》がちぎれるような苦痛を感じた。彼は足下の地 が壁《さ》けて、自分とこの失策とを一緒に呑んで呉れゝばいゝとさ ぇ思った。  だが京子には村川の心持はちっとも伝わ?ていなかった。彼 女は初めて、男性から受けた接吻のために、スッカリ興奮し 切っているらしかった。 「村川さん、妾、怒ってはいないことよ。ほんとう云いましょ■ うか。」  そう云って京子は村川を見上げた。夜の花のように、彼女の 笑顔は闇の中にほのぼのと白かった。村川にはそれが女怪《メツサ》の顔 のように恐ろしかった。  「ね。-ね。村川さん、ほんとう云いましょうか、ね、ね。」  村川は返事が出来なかった。そのほんとうを聞くのはおそろ しかった。  「妾、今だから白状するわ。妾、ほんとうは貴君を愛していた のよjそれはずうっと先からよ。一高時代に、貴君《あなた》が時々妾の 家へ遊びに来たでしょう。あの頃から、妾貴君が好きだった ノの。」  初めて、■お互の思いを打ち開けた後に、恋人同士は、自分達 のお互の恋の芽生えを話し合うものだが、京子も村川に対する 恋心の成長を話そうと云うのである。村川は死刑囚が裁判長の 判決理由書を、読み聞かされているような気がした。  「だから妾《わたし》、去年からずうっと、お嫁の話断っていたのよ。そ れで貴君が卒業して上京するのを待っていたの、でも妾変な性 分よ。自分から云い出すの、どうしても嫌い(自分が云い出す のは、死んでも嫌い。だから妾、貴君が云って下さるのを待っ ていたの。むろん妾、,自信があったわ。貴君がきっと妾を愛し て下さるだろうと。でも、心細くなったわ、いつまで待っても 貴君は何とも云ってくれないんだもの。それに、倭文子さんと 一緒に、力ーテンの中なんかヘかくれるんですもの、シャクに さわったってたいわ。ーでもうれしいの。到頭、妾の自信が裏付 けられたのだもの。」  京子は闇の中で、村川の顔を見上げながら、村川の着物の襟 をいじっていた。村川はいじぢれる度に魂を凍らすような悪感 が身体中に伝わった。 「でも、驚いたわ。いきなり、接吻なんかなさるのですもの、 でもその方がい上わ。徹底しているわ。騎互に愛し合っている ことが、分りさぇすれば、方法《プロセス》なんかどうだりていゝわ。ね ぇ、村川さん、そ肇じゃない?」  村川には、どう答えるすべもなかりた。 「あなた、どうしてそんなにだまっているの。」  京子はなれノ\しくのぴ上って村川の顔に接吻しようとし た。        三  村川は、自分の顔をのぞき込もうとする京子を、そっと押し のけた。しかし、村川の愛を信じ切っている彼女には、そんな 事は少しも苦にならなかった。 「ねえ。村川さん、貴君《あなた》何時から、妾を愛していて下さった の。妾ちっとも気がつかなかったわ。」  村川は、最初の恐ろしい激動が去ると共に、今宵の失策の結 果が、マザくと頭の中に浮んで来た。、京子に誤って、接吻と 云う恋愛の約束手形を振り出したことは、恐ろしい間違に違 い液かりた。その約束手形は、ほんとうの愛情では、支払えな いのはもちろんだが、見せかけ丈の愛情で、支払うととも夢に も思い及ばなかった。しかし、彼の約束手形は、もう京子の掌 中にハッキリと握られているのである。彼女が、その手形の支 払いをあらゆる手段で、催促することは当然であった。だが、 そ*よりもおそろしいごとは、この失策のために、倭文子との 間花なり立りたばかりの恋愛が滅茶苦茶にたることであった。 こうしている間にも倭文子が、忍ん力来て京子と自分との問答 を聴いてはいやしないかと思うと、村川は烈しい心の苦痛のた めに、身体も心も引き裂かれるような気がした。  京子に、村川の心持がわかるはずがなかった。 一「ねぇ、村川さん! でも、妾が肱突《ひじつき》やクツヨンを上げたのを 知っていたのでしょう。あれで、妾の心がわかったでしょうー」  おやノ\肱突もクショソも、京子の手で作られたものだと知 ると、彼は最後の止《とぁ》めを刺されたような気がした'彼は心の中《うち》 で、絶望のうめきを洩らした。  この恐ろしい破局に立りて、何う身を処していゝか、村川に はわからなかった。京子に「間違って接吻をしたのです。」とは どうしてもいえなかった。それは、自分の失策を償うために、 京子を擁死せしめることである。人間として、そんなことは死 んでもいえなかりた。だが、それをいわない以上、京子が村川 め愛を信じ、愛を受けたものとして、振舞うことに一言も文句 はいぇないのである。 「妾、初めは驚いたわ。でも、こんなうれしいことはないわ。 妾、あなたが、倭文子きんを愛しほしないかとそればかり心配 していたのよ。でも、やっばり妾だったのねえ。妾、倭文子さ んに悪いことしたわ。かくれんぼうのことで、怒ったりなんか して。妾"倭文子さんにあやまって置くわ。八  村川は、地獄に引きずり込まれるような気がした。京子は、 村川が「石のようにだまっているのを少しも気にかけないで、 快活に愛のさゝやきをつ讐けた。 「えゝ、村川さん。妾、あなたの接吻を直ぐ受けたでしょう。 でも、妾をはしたないと思《し  》ったらいやよ。妾、貴君だから、 ちっとも躊躇せずに受けたのよ。ねぇ、その代り、妾を一生捨 てたら、ぎきませんよ。もし、】時のおもちゃになんか、した のであったら、妾あらゆる手段で、復讐をすることよ。L  京子は、ニコノ\笑いながら云った。 「ね、捨てはしないでしょう。」 .i京子は、立ち上って、・村川の胸にとりすがった。 ,「ね、それを誓って下さい。誓う代りに、もう一度接吻してく れないっ ギヴニ、・・ザ・セコンド・キス!,第二の接吻をし て下さいよ。」  京子は甘えながらねだった。 、,女らしい妖艶さが、全身に温れた。.村川は、身顧がした。 たとい.死んでも第二の接吻なんどしてたまるものかと思っ た。 「ねえ、ねえ、第二《ザセコン》の接吻《ドキス》を!」        四 「まあ、どうしたの! お怒りになったの。妾があまり図々し いから愛想《あいそ》が尽きたの。」  京子は、黙っている村川の顔を、なれノ\しぽにのぞき込ん だ。彼女の真赤な唇が、毒草の花のように不気味であった。 「え、なぜ黙っていらっしゃるP」 「僕、僕は……とにかく、帰して下さい。今日は、とにかく。」 「まあ。変な方! 妾に接吻して急に後悔したの?」 ,「とにかく、僕は考えたいのです。」 「まあ、考えてからしたのじゃないの! いゝわ、.■お考えなさ い。でも、妾もうすっかり安心したわ。」  京子は、村川から離れて立ち上った。 「今度、何時会って下さる?」  村川には、返事のしようがなかった。 「妾の気のむいたとき、・貴方のお部屋へ行ってもいゝでしょ う……でも、此の四阿《あずまや》もいゝわねえ。しずかで、誰も来ない し……f 「とにかく、今日は失礼します。」  村川は、そう云うと、二三歩歩き出Lた。 「まあ、一寸お待ちなさいよ。今度は、いつ会って下さる2 妾、ちゃんとお話しがしたいの。よく、お話をきめて妾から、 お父さまに云うわ。」  村川は、自分を縛る綱が、だんノ\身に喰い入って来るのを 感じた。  村川はだまっていた。 「ねえ、明臼《あナ》会って下さるでしょう。明晩ずっ之お部屋にい らっしゃる,」  村川は、仕方がなく肯いた。彼は一刻も早く京子の把握から 逃れたかったからである。 「そう、じゃ、また明日《あす》。」  そう云うと、京子は思い切りよく村川を離れると、闇の樹立 の中を、ほの明るい建物の方へ歩き去った。  この思い切りのよいのが、村川には恐ろしかった。彼女は、 今宵の接吻一つで、村川を完全に占有しているつもりで居るの であろう。 ー京子に離れると、村川はあらゆる精気が抜けた人間のよう に、ベッタリ四阿の縁に腰をついた。今日の失策の恐ろしさ が、全身にしみわたって来る。一番、恐ろしいことは、.倭文子 が、自分と京子と話しているのを、何う思りたかと云う之とで ある。もし倭文子が、一寸でも京子の言葉を立聞きしたなら ば、彼女はきっと身傑《みぶるい》をして、自分から離れ去るだろう。  倭文子にどんな結果を及ぼすか、それが一番恐ろしかった。 倭文子さえ、自分を離れないでくれれば、京子に誤って与えた 恋愛の約束手形の無効を通告することだって、やってやれない ことはないと村川は思った。  彼は京子が去るのを待って、倭文子が約束通り、来てくれは しないかと思ったのだが、彼がわざノ\持って来た時計は、も う十時半を廻っている。倭文子が、此の辺に今までさまエって いる訳はなかった。彼女は、・遠くから村川と京子との姿を見つ 汁ると、猛犬の姿を見た兎のように、胸をとfろかせて、いっ さんに自分の部屋に帰ったに違なかった4品  自分の軽率な間違から、倭文子と自分との成立ったばかりの 恋愛を恐ろしい羽目に、投げ入れたことを考えると、村川は悔 恨と絶望との苦しみに、胸が張りさけるように痛んだ。,  だが、どんな簸難でも来たれ、障害の上に障害は重なれよ、 決して決して倭文子を放すものかと彼は心のうちで、幾度も 誓った。. 二つの縁談        一 「何うにかして倭文子《しずこ》に会いたい。」 一・村川は、.一日中会杜の事務を採りながら、考えていた。昨 夜、ほとんど眠られなかったので頭がカサノ\に乾いて、・しび れるような疲労が全身に感ぜられた。  倭文子が動揺さえしてくれなければ結局何うにかなるのだ。 倭文子を失いたくないから、凡てが恐ろしいのだ。村川は結局 其処へ考えついた。だが、倭文子と会うことは、今の場合危険 な冒険に違なかった。彼女の傍には、恐ろしい番兵が、くっつ いているのだ。  世の中で、一番会いたいものと一番会いたくないものが、一 緒にいるのだ。  五時の時計が鳴るのを聞いてから、村川は会社を出た。が、 足がいつものように、大手町の停留所に向かないのだ。  小石川の家へ帰る勇気が、何うしても出て来ないのだ。帰り たいのは帰りたいのだが、書斎へは入ると、直ぐ京子が飛込ん で来そうなので、何うしても足が向かないのだ。 一早く倭文子と会いたい。倭文子の心持をきいて、昨夜の事件 が彼女に、何の影響をも与えて居ないことを知って安心した い。だが、どうして彼女と会おうか、子供の遊戯にあるよう に、彼女の傍には、鬼が居るので、とても行かれないのであ る。  手紙をかく! だが、それを手渡すこともなかく困難なこ とに思われた。それに今度のような大事件の後では、会って彼 女の顔色からも、呼吸からも、彼女の態度からも、彼女の心を 訊き質して安心したいのである。  彼は、いつの間にか鍛冶橋を渡っていた。家へ帰る時間を、 少しでも延ばしたかったのだ。京橋から銀座へ出た。そのと き、ふと彼はある手段を考えついた。  それを考えつくと、彼は少しく歩調を早めて、尾張町の交叉 点を通りすぎて、カフェー・オゥロラに入った。  二三度来たことのあるヵフェーである。天井と壁とを、青磁 色の壁紙で張りつめ、黒色の卓子《テ プル》と椅子とを用いた漁酒な装飾 が、彼に気に入っていた。  中途半端な時間なので客は少なかった。 「いらっしゃいまし。」  彼とは顔馴染の目の少し落込んだ、しかし可愛い顔をした小 柄なウよイトレスが、■注文を聞きに來た。 「テイスクリーム在る? iあればアイスクリーム。」  村川は、今朝から食事さえ十分喰っていないので、その一杯 のアイスクリームが舌にしみ入るようにおいしかった。ウエィ トレヌは、村川の傍へ椅子を引き寄せて坐った。 …ねえ、頼みたいことがあるんだがね、きいてくれるかね。」 「えゝ。どんなことです。」 「電話をかけてもらいたいんだがね。」 「えゝ何番です。」 「小石州の五百三十六番だ。川辺と云う家なんだ。其処へ、電 話をかけてねv山内さんのお嬢さんは、いらっしゃいますかと 云うんだ。」 「まあ躰安くないのですね。」 「馬鹿! そんなのとは違うんだ。」  村川は、真赤になりて打ち消した。 「それで此方《こちら》は何と宏うのです。」 「岡野と云りてくれないか。本八が出れば僕が代るから。」 、まあ、何だか変ですね。」  女給は、調ヤノ\笑りた。 、つまらないことを疑わずにかけてくれたまえ、お願いだ。」 「えゝ。か汁ますわ。」  彼女は、そう云って、帳場の傍《かたわら》に在る電話の方へ去りた。  村川は、こうした技巧《トリツク》が、何だかいやらしいように考えられ て、それを倭文子が軽蔑しはしないかと思うと、落着かない心 を押えようとして、もう無くなりているアイスクリiムを、し きりにスプーンで掬うていた。       ,ニ .村川に頼まれた女給《ウエィトレス》は、気軽に小石川の五百三十六番を呼び 出した。 「あの%宅に山内さんのお嬢さんが、いらっしゃいますか。 ・,…・ああそうですか。どうぞお電話口まで。」  村川は、心配になって電話の傍へ行りて立っていた。 ㌔お待ち遠さま。」  女給は村川をからかりた。  だが、倭文予は此方《こつち》の名前も訊き質さないで電話に出た。 「お出になりました。」  そう云りて、女給《ウエィトレス》が受話器を渡してくれたとき、村川は胸が つまづて、咄嵯に言葉が出ない栂どだった。 「倭文子さんですか。僕です、村川です。」 「えゝ。」  倭文子は、あるかなきかの小さい声で返事した。 .「僕の声が分りますか。」 .「えゝ。」 「昨夜は失礼しました。昨夜はあなたは、何うなすったので す。彼処へ来て下さりたのですか。」 倭文子は、何とも返事しなかった。 「偶然京子さんが彼処に居たのです。御存じですか。」  倭文子は、■何とも答えなかった。 「もし、もし。もし、もし。」 「えゝ」  倭文子は、かすか忙返事をした。. 「僕は、貴方に今直ぐにでも、お目にかゝりたいのですが、家 では安心して、お話が出来たいのです。どこか外へ出て下さる ことは出来ませんか。」  倭文子はだまってしまった。 「㌔しく一出て下さること出来ませんか。」  倭文子は返事をしない。 「もしく」 「えへ。」 「僕の云りていることお分りになりますか。」 「え㍉」  村川は、倭文子が煮え切らないのでじりノ\した。 「何うして、ハッキリ返事をして下さらないのです。出て来て 下さるのですか。下さらないのですか。」 -「えゝ。」  村川は受話器を壁にたへきつけたくなった。 「何うしたのです。何うしてハッキリ返事をして呉れないので す。」  倭文子はまただまってしまった。 「横に誰か居るのですかご 「えゝそう。」 ー倭文子は初めて返事をした。 ・「居るって誰です。女中ですか。」 「いゝえ。」 「τや、京子さんですか。」ー 一倭文子はだまった。 「京子さんですか。」 「そうです。」  村川は、ガッヵリして受話器をかけてしまった。  彼は、前よりも、もっと暗い気持になって、卓子《テヨプル》へかぇっ た。女給《ウエィトレス》が傍へ来た。 「何か強くないコクテルを貰おうかね。、ミリオンダラアか何 か。」 「やっばりお安くないのですね。」 「馬鹿なことを云うなよ。」  村川は、吐き出すように云った。  彼が、京子の家に帰ったのは、その夜十一時をすぎていた。 彼のために、玄関のとびらを開けてくれた女中は、 「あの、旦那さまが、明日会杜へいらっしゃる前に一寸お会い したいのですって。」と云った。        三 ■その翌日、村川は朝食を了えると、直ぐ主人の部屋へ行っ た一昨夜女中から聞いた伝言《ことづて》が、気にかかってならなかったか らである。、  川辺家の主人は、朝早く起きて西洋草花の手入れをするの が、此の三四年以来日々の仕事である。村川が部屋へ行ったと き、主人はもう庭園から部屋に帰って、新聞を読んでいた。 「お早うございます。」  そう云って、村川は敷居の上に手をついた。 「あへ。お早う。此方《こつち》へおは入り。」  髪は、すっかり白くなっていたが、無髭の童顔はつやくと して、どこかに往年の精力を忍ばせた一 ■村川は、一間ばかり隔てゝ坐ったが、主人とこうして向い合 うことが、滅多にない丈に、何となく窮屈である。 ■「どうだ、会杜の方は、,毎日行ってるか。」 「はあ。」 「少しは容子が分ったか。」 「はあ。少しは分りました。」 「今井は毎日出て来るか。」 「お見えになっているようです。」 「女房が死んで、いくらか元気を落しているだろう。」 品今井商事会社の杜長は、つい今年の正月夫人を亡くしてい た。 「ぞうですか。私には分りません。」 「女房之云えば、君は女房をもらう気はないか。」 …村川は、との突然な問に甚だしく、狼狽した。京子が、こん なにまで早く、父親に云欝うとは思っていなかったからであ る。村川は、暫くの間返事が拙来なかった。 「どうだい。結婚する気はないか。」  村川は、この機会に思い切って倭文子をもらいたい意志を述 べようかと思った。その方が、京子の機先を制することではな いかと思った。だが、直情径行を以て、政界を切って廻した此 老政治家はそれだ廿の余裕も見せなかった。 「どうだ。わしの娘をもらってくれんか。わがまゝ娘だがな、 ハ・…。」  村川は、京子がこれほど素早く、.これほど簡明率直に自分に 追って来るとは思いも及ばなかった。 「どうだ一気に入ちぬか。気に入らないとともないだろう。」  断ることは、簡単だった。しかし、京子を断った後改めて倭 文子を貰いたいと云い出すことが至難なことを考えると、村川 は躊躇せずにはいられたかった。 「あまり、突然で急にお答えが出来ません。」 「うむ、それもそうだろう。じゃよく考えてからにしてくれ。 それから、一寸念を押して置くが、ごれは主に当人の希望だか らな。わしは、子供のことは一切子供の思い通りにさせる主義 だからな。その点もよく考えてくれ!」 「はあ。」 一村川は、なぜか急に胸の中が、熱くるしくなって来た。京子 の自分に対する思慕の烈しさ、老政治家の子供に対する優しさ に、打たれたからである。 'だが(しかしそれかと云って、愛するものをさし置いて、こ うした縁談を受け容れることは絶対に思いも及ばなかった。". ,彼は、逃げるように主人の前を離れた。問題が、具体化した 以上いつまでも、京子に対して曖昧な態度を採ってはいられな くなった。・ハッキリ断ることが、・訂分を救い、併せて京子を救 うことになるのだ。  それにしても、是非倭文子とゆっくり会いたかった。彼女に 会うことに依って、勇気をつけたかづた。京子を断ることは川 辺家と断ち、川辺家の恩義に反くことである。それを為すため には、異常な勇気が必要だった。この場合こんな勇気を養うも のは、倭文子の愛の保証より外には何もなかった。  彼が混乱した気持で会杜へ行き、社長から頼まれた手紙を幾 本もかき損じていると、給仕が彼の机の傍へ来た。 「村川さん。お電話でございます。」 「誰から。」 「川辺さんからです。」・ 、あっ1 京子だなと思うと、村川はすっかり憂欝になって立 ち上りたノ 四  村川は、.引きずられるような重くるしい心持で電話口に出 た。京子の得意な華やかな声で圧迫されることを予期していた からである。  .   //ノ 「もし、もし、村川です。」 「村川さん? 妾《わたくし》、お分りにたりまして。」  それは思いがけなく、可愛い、中途で消えてなくなるように 低い倭文子《しずこ》の声だった。 「まあ! 倭文子さんですか。」  村川は、激しい感激で心が躍った。 「ありがとう。ありがとう。」 .村川は、何故とたくそう感激してしまった。 「もし、もし。」  倭文子の声は、きれぎれに続いた。 「何処から、かけているのです。」 .「白山の自動電話です。」  村川は、話したい.ことが、沢山あって送話器のなかには入れ 切れないので、いらいらした心 「昨日のお電話中途で切れましたから、そのつ讐き……。」  と倭文子が云った。倭文子の明るい言葉で、村川は急にうれ しくなった。. 一「それは…どう㌔清がとう。 r昨旧云いまし牝通り、→ぜひ、何 処かでお話ししたいのです。」 『妾《わたくし》も、急に騎話ししなければならな<なったのです。」 「じゃ、何処で待って下さいます。今直ぐで大丈夫ですか。」 「今、京子さんお留守なの、それで妾出ましたの。」 「そう。・それは万歳ですね。何処がいへで七4う。植物園は?」 ・「・えゝ。.いムわ。」、. 「じゃ門の所で待っていて下さい。」一  一電話は、一蔀屋の一隅にあったが、村川は出来る丈小声で話し た。だが、蔀屋中の視線と聴覚とが、自分の背中に一面に集, まっているような気がした。  …自分の机に帰っセ∴全速力で仕事を片づけた。課長に急用が 出来たことを告げて、・杜を出た。 、東京駅前の大通へ出ると、折よく通りかゝったタクシjを呼 び止めた。  恋する者は、幾度相手の心をたしかめても安心出来ないもの だ。まして、村川は、一度|限《ぎ》りしか倭文子と会っていないので ある。今白こそ、倭文子の心をたしかめ自分の決心を告げて、品 十分な勇気と覚悟とで、京子に対する問題を処理せねばならな いのだ。そう思うと、■何か冒険に走《は》せむかう勇士のように、村 川の心は軽快になってきた。  シトロゥエン号の下《おろ》して間もないらしい車は、.自動車道とレ ては一番障害の少い大手町から一つ橋へめ道をまたゝく間に疾 駆して、神保町から小石川白山へと■一文字に走った。 .白山下を、■左へ折れ狭い道を、植物園に沿うて徐行して行く と、其処に立って居る電信柱の蔭から、倭文子がちらと横顔を 出した。 「ストップ!」村川は、あわてゝ叫んだ。「  でも、自動車は惰力のために坂を二三間すべって止まった。  村川は、料金を払うと、後がえりして倭文子の立っている電 信柱へ近づいた。  倭文子は、顔を真赤にして、パラソルの先で、地上に大きい 図を描いていた。  茶がかった飛白《かすり》の銘仙のそろいを着た華奢な身体に、処女ら しい美しさが、みずノ\しく香うていた。        五  村川が、近づくと倭文子は、あわて八ハラソルをひろげて、 それで自分の上半身を掩うてしまった。  村川は、導ーズ色のパラソルに話しかけた。 「お待ちになった?」  倭文子は、それに返事をしないでクヅノ\洋傘《パラソル》の中で笑いな がら、先に立って坂を馳せ降りた。 「よく出られましたね。」  倭文子は、返事をしないで限りなき恥かしさを、笑うことで まぎらしていた。植物園の門をは入ってから、彼女はやっと笑 い止ん充。そして、洋傘《パラソル》を右の方へ倒して、やっと村川に顔を 見せた。 「すみません。お呼び出しして。」 「いゝえ。僕こそ、どんなにお会いしたかったか分らないので す。」  二人は、門から直ぐ左に折れて嬰粟畑《けしばたけ》とお茶畑との間の道 を、睡蓮の花が咲いている小さい古池の汀《みぎわ》に出ていた。  恋人同志がこうして一緒に歩くと、初夏の樹々はみんな欣ぴ に、身を額わせているように見え、道端の芝生までが、・光りか がやいているように美しい。  池の汀のベンチの上に、村川が先に坐った。そして倭文子を 招いた。倭文子は、ば一尺も問を隔てゝ坐った。日曜でない植物 園の昼は、人の気勢《けはい》さえしなかった。 「一昨日の晩、四阿《あずまや》へ来て下さいました,」 「えゝ。」 「京子さんがいたでしまう。」 「えゝ。妾《わたくし》びっくりしてしまいましたの。」 「それで、私達の話きゝましたか。」 「いゝえ。妾驚いて、とんで帰りましたの。」 「その後、京子さんが何か云いましたか。」 「いゝえ。何も。」 村川はやっと、安心した。 「それで、貴女のお話と云うのは。」 「妾恥かしくて云えませんの……。」  倭文子は、また洋傘《バラソル》をかざしそうにした。, 「そんな事を云っていた日には、爵話しが出来ないじゃありま せんか。何でもハッキリと云って下さい。」 「でも……」  倭文子は小さい顔を右へかしげた。 「何の話です。」 「あの、縁談ですの。」 「縁談! 突然ですね。」 「いゝえ。今までに、二三度ありましたの。」 「いつも、断っていたのですか。」 「えゝ。此の話も一月も前から、ある話なの。でも、今度は伯 父さまでも、ぜひにと仰しゃるの。それに京子さんが、いゝ口 だいゝ口だと仰しゃるの。妾《わたくし》が、倭文子さんだったら、喜ん で行くなんて仰しゃいますの。」 「馬鹿にしていらあ。そんなとと云うより自分が行けばいゝ や。それで、貴女《あなた》、むろん断りてくれたでしょう。」 「でも、折角云って下さるのですもの。その場では断れません でしたの。」  倭文子は、かなしそうに首をうなだれた。 「ハッキリ、断って下さい。それに、もうお互に曖昧なこと は、云っていられなくなったのです。私は、貴女と一緒に川辺 家を出なければならないかと思うのです。」 「なぜ。」  倭文子は、不安そうに訊いた。 「そのわけは、後で云いますが、貴女はどんなことがあって も、どんた障害があっても、どんな人の反対があっても必ず、 私の所へ来てくれますか。それを一番に誓っていた間きたいの です。」 「えゝ。」  倭文子は反射的に云った。 「その程度じゃ、駄目です。もっと真剣にもっと本気に誓って くれなけりゃ駄目です。」 「だって:…・。」 ■倭文子は真赤になって口ごもった。        六 「貴女が、本当に誓って下さらなきゃ、とてもお話なんか出来 ないことです。」 「どんなお話ですの。」  倭文子は、不安そうに訊いた。 「いや、先ず誓って下さい。つまり、どんな事が在っても、僕 を離れないと云うことを誓って貰いたいのです。つまり、ラ ヴ・イズ・ザ・オンリイ・ロゥ、恋愛こそ唯一の捷、そう決心 して貰いたいのです。」  背後の丘の上に生えている楓《かぇで》の大樹が、水色の葉を付けた大 きな枝の一つを、・二人の真上にさしかざしている故《せい》か、倭文子 の顔色は青白く見えた。 .「とにかく、其処まで決心して貰いたいのです。その決心が役 に立つかどうかは、別問題です。我々の愛が世間の道徳と一致 する場合は本当に幸福です。だが、一致しなくなった場合は、 社会も道徳も凡てを捨て、恋愛の捉に殉ずると云う決心をして もらいたいのです。」  倭文子は、凡てが重大で、何となく恐ろしく思ったのであろ う。口をかたく閉じたまゝ、小さい顎をだんノ\胸にうずめ ね 「何うです。誓って下さいますかご 「えゝ。」 「もっと(ハッキリ誓って下さい。」 「でも、……」  倭文子は、顔を赤くした。 「もっと、心をこめて誓って下さい。」 「えゝ駈冒いますわ。」  村川は、まだ何だか物足りなかった。もっと、彼女から、力 が欲しかった。 「じゃ、云いますが、本当は僕、川辺の御主人から京子さんを 貰ってくれと云われたのです。」 「まあ!」」 ・倭文子は、美しい瞳が、ぬけ出るほどに目をみはった。色が カッと蒼ざめた。 「ほんとうですか。」 「嘘なんか云うものですか。」  倭文子は、ベンチから立ち上った。 「まあ! 妾、いや、いや。今の誓いとり消します。どうぞ、 京子さんと結婚して下さい!」  倭文子は、駆け出しそうな姿勢をした。 「何を云うのです! 馬鹿な!」  村川は、倭文子の撫肩をしっかり掴んだ。 「私、いやです。どうしても、いやです。」  倭文子は、村川の手を振切った一村川は、ヵッとした。 「倭文子さん! あなた其処へ坐って下さい! 何と云う、馬 鹿なことを云うのです。それほど、貴女は京子さんが、恐いの ですか。それほど、貴女は自分よりも、他人が大事なのです か。京子さんと貴女の関係は何です。ホンの一時の関係ではあ りませんか。一時の関係のために、貴女の将来をj犠牲にする のですか。他人のために、自分の運命を狂わすなんて、そんな 馬鹿なことがあるでしょうか。」 ,倭文子の今まで、かくれていた一つの性格が、,今突然村川に 現れたような気がした。彼女の感情は純真ではあるけれども、 地震計のように感じ易いのだ。そうして、ぞの感じによって彼 女の心は、水銀の玉のように、ころくころがり廻るのだ。 「貴女は、何のために誓ってくれたのです。貴女の心はそんた に変り易いのですか。」 .倭文子牲、一|真蒼《まつさお 》にふるぇながら、黙って立っていた。        七  村川は、美しい蛾の羽のように、もろい傷つきやすい心を 持っている倭文子をいだいて、眼前に迫る難関を突破すること が、どんなにか難かしいかを考えた。  何よりも、彼女の心に鉄のような:…と行かなくっても、こ んなにもろく動揺しない覚悟を植えつけることが、一■番大事だ と思った。 「もう一度、,腰かけて下さい。それとも歩きながら話します か。」  菖蒲《あやめ》の咲いている向うの細長い池の汀《みぎわ》を、三人の女学生が此 方へ歩いて来るのを見た倭文子は、村川の言葉を直ぐ受け容れ て歩き出した。  樫や楓の大樹が、枝を交えている丘を上ると、急に眺望が開 けて広々とした草原に出た。其処は、外国の公園に見るよう に、青い芝生の上に、杉や縦《もみ》や楓や柏などの大樹がのびのびと 五月の朋るい空の中㌍、思う存分枝をのぽしてもた。 一木蓮の大樹が、まだところ八\に花を残していた。チ誓ウセ ンレンギョウと云う白い立札の立った大きい灌木の一列が、黄 色の花を一杯につけていた。  村川は、倭文子に寄り添って歩いた。倭文子は、それを少し ずつ気にして避けるので、二人は斜にく歩いた。 「何うして京子さんを、そんなに恐がるのです。僕がついてい るじゃありませんか。あなたの一身を安心して、僕の両手の中 に託してくれないのですかねえ。」  村川は、少しく恨みがましく云つた。倭文子の顔色は、少し も恢復していなかった。 「ねぇ、倭文子さん、僕はこう云ケことを考えているのです。 我々が、何かの問題雫人生の岐路に立つとするでしょう。右 してよいか左してよいかわからない。誰に訊いたって、いくら 考えたって、分らないときがある。そんなとき僕は、こう思っ ているのです。自分の府心の叫びにぎくのが一番いゝと思うの です。人への遠慮とか、人への義理とか、人の意見とか、そん なことを考えないで、自分の本当の心が望む通りにすることで す。右へ行った方が幸福か、左へ行った方が幸福か、■それは神 さまだって分ることじゃないのです。自分の思い通りしたため に、不幸の真中へ落ちて行くこともあるでしょう。だが、自分 の思い通りにしたときは、失敗しても諦が付くと思うのです。 自分の思った通りだから、仕方がないと。だが、人への遠慮、 義理、人の意見などで、自分の考えを曲げて、それで不幸に落 ちた場合は、諦が付かないと思うのです。」  村川は、そう云って倭文子の顔を見た。自分の言葉の効果を 知りたかったからである。だが倭文子の蒼ざめた顔には、わず かな赤味が萌しそめただけであろ。 「それで、貴女の本当の心は、何うなんです。僕を信じていて くれるのでしょうか。」  倭文子は、だまっていた。村川は、おとなしい倭文子が、も どかしかった。 「こんなときは、ハッキリ云ってくれなきゃ困るのです。お互 の運命が分れるときなんですからね。あなたの騎心一つで、僕 の運命もきまってしまうのです。」  村川は、息をはずませて、倭文子に迫った。倭文子は思い 切ったらしく云った。 「妾、あなたを信じていますわ。でも、妾のことで、いろく 難かしいことが起ったり、京子さんがお怒りにたったり、その ために貴方が川辺さんをお出になったりするようなら、妾死ん だ方がましだと思いますわ。」  彼女は、皆の十字架を背負おうとする女であった。        八 「たとい、そのためにゴタくが起ったって、貴女《あなた》一人の責任 じゃないじゃありませんか。貴女一人が、犠牲になって、周囲 を円く納める必要が、何処にあるのです? もっと、自分を生 かすことを考えて下さいよ。」ー .村川は、倭文子の弱さが、もどかしかった。しかし、よく考 えて見ると、やっと二十歳《はたち》になっだばかりで、父も母もな<・ー 伯父の家に身を寄せてい石倭文子の心が、日蔭に咲く花のよう にだんノ\凋《か》れ萎びて行くのは、当然のように思われた。彼女 の弱さ、いじらしさを感ずれば感ずるほど、村川は彼女をしっ かり把握したい慾望が、燃えさかるのを感じた。 「貴女は、目をふさいでじっと僕の腕に身を委して置いて下さ い。僕をしっかり掴んでいてくれゝば、きっと明るい幸福な生 活へ貴女を連れて行きます。僕を信じて、僕にしっかりつか まっている訳には行きませんか。」  二人は、いつの間にか公孫樹《いちよう》め大木の下の白いベンチに腰を 下していた。 「恋を譲るとか、自分を犠牲にして周囲の円満を計るとか、そ んなことは古い間違った道徳だと僕は思うのです。自分自身の 本当の心を押まげたところに、本当の生活はない筈です。貴 女は、僕を愛していてはくれないのですか。」  倭文子の蒼ざめた顔が、少し赤味を帯びた。 「それが問題ですよ。貴女が僕を愛し、僕が貴女を愛している 以上.問題はないじゃありませんか。本当に愛し合って居れ ば、千万人といえども、我行かんです。何が恐いのです。貴女 は、そのために僕が川辺家と不和になるのがいけない之云うの ですか。僕が、貴女との愛を打ちあけて、州辺先生にお願いし たら、きっと了解してくれるだろうと思うのです。僕は、そん なことが心配じゃないのです。た間、、貴女のお心が不安なので す。ねえ、■倭文子さん、ちゃんと心をきめてくれる訳には行か ないのですか。」  倭文子が、一鼠が猫を恐れるように、京子を恐がっていること が、村川にはハッキリした。もし村川と倭文子が結婚したとき など、京子がいかなる態度に出るかを考えると、.倭文子ほ魂の 底まで顧えおのへ一くのだろう。 「ねぇ、僕に安心させて下さい。安心して、京子さんとの縁談 を断れるようにして下さい。あなたが、動揺すれば、僕の乗っ ている土台が崩れるようなものですからね。」  倭文子は、すっかり考え込んでしまつていた。 「ねえ、ハッキリした返事を聞かせて下さい。どんなことが 在っても、僕と離れませんか。」  倭文子は、かすかに、首を動かした。 「じゃ、僕は断りますよ。その結果、どんな事件が起っても、 貴女はちゃんと僕につかまっていてくれますね。」 「でも……。」 「何が、でもです……。」  村川は、つい烈しい声をあげた。 「いゝですか。きっと動揺しませんね。」  倭文子は、涙ぐみながら、うなずいた。 「あゝ、そうく先刻《さつき》の縁談の話ですね。先方はどんな人で すご 「そんな事申し上げられませんわ。」 「参考のため、きゝたいですね。」 「でも、もう妾もすぐ断ってしまうのですもの。」■ 「でも、名前だけ位云って下さい。」 「却って、お気を悪くするといけませんわ。」 「じゃ、僕の知っている人ですか。」  村川は、不安になった。 .「どうぞ、どうぞ、これだけはきいて下さいますな。」 「いやだな、気持がわるいな。」 「でも、妾直ぐ断るのですもの。」 「でもどんな方面の方です。」 「どうぞ。どうぞ。」  そう云って、倭文子は立ち上った。 「妾、もう帰らなきゃなりませんわ。」 「そうですか。じゃ、途中まで一緒に行きましょう。」  二人は、園の裏門の方へ歩いた。  村川は、倭文子の心を掴んでいるようで、そのくせ不安だっ た。■彼女の心は村川の掌中に掴まれながら、そのくせふわく していた。女性に対して不安を感ずれば感ずるほど、男性の心 は惹きつけられるものだが。        一  京子は、その朝父の部屋に、村川が呼ばれていたとき,母の 部屋で母と話していた。彼女の心もさすがに、落着きを失って いた。そのそわくした彼女を、母はからかっていた。 「村川さんもいゝけれども、あんな大人しい方と結婚すると、 お前のわがまゝが、一生なおらないね鼻。」 「うそ! 妾《わたし》だって、御主人ときまれば、何でも言うしとを聴 くわ。」 「何うですか。怪しいものだねえ。」 「お母さんの言うことだって、此の頃よく聴いているじゃあり ませんか。」 「そうねえ。自分に都合のいゝことだけはねえ。」 「あら。此の間だって宗ちゃんの袷、縫ったじゃありま甘ん か。」 「そうね。何日かゝったかしら。■あれでも縫ったことになるか しら。」 「だって、ピアノのレッスンもあるし、お花のお稽古もある. し、お縫物ばかりは出来ないわ。」 「お前、お台所の稽古も、少しはして置かないといけません よ。お世帯を持っても、丸きり、女中委せじゃ。」 「妾だって御飯ぐらい、炊けるわ。そりゃ妾上手よ。去年逗子 へ行って居たとき、毎日炊いたのよ。」  そのとき、村川が向うの廊下を洋館の方へ去るのが見えた。 京子は、一刻も早く、父と村川との話の結果が知りたかった。 「妾、お父さまの所へ行って訊いて来るわ。」 ■母が、驚いて止めるのも聴かずに、京予は父の部屋へは入っ て行った。  一 「まあ。何という娘《こ》だろう、ちっとも恥かしいと云うことを知 らない娘《こ》だね。」  母は京子の後姿《うしろすがた》を見ながら、嘆息した。 「お父さま。何うだったの。」  父の部屋へは入って、父の前に坐ると、京子はさすがに顔を 少し赤めながら訊いた。彼女は、母よりも父の前にもっとわが まゝだった。 「うむ。考えさせてくれと云うのだがねえ。至極もっともな言 い分だ。」  京子は、それを聴くと、急に白い二つの頬をふくらませた。 「えゝ。考えさせてくれッて?」  人を馬鹿にしている! と彼女は、心の中《うち》で怒った。 「もっともだよ。二つ返事で承諾するような男なら、頼もしく もないよ。」 「そうかしら。だって。」 「何も、そう急ぐことはない。同じ家に居るんだもの。」  京子は、自分に接吻をして置きながら、父の前で、「考えさ せてくれ」など云う、村川の白々しさが癩にさわった。彼女 は、村川の部屋へ行って、詰りたかった。だが、自分があまり やぎもきしているのを、男に知られるのが恥かしかったので、 父の前に十分ばかり辛抱していた。  洋館へ帰って、玄関へ行って見ると、もう村川の赤革の靴が たか9た。昨夜も夜遅く、自分が寝てしまった後でなければ帰 らなかった村川のことを考えると、京子はじりくして来た。 自分が、あまりに大胆に彼の接吻を受けたので、厭気がさした のではないかと思ったりした。  午後になると、彼女は益ぐいらいらして来た。何だか今日 も、村川が遅く帰って来るような気がしてならなかった。一層 のこと、自分から出かけて行って、村川に会おう、そして一刻 も早く、彼の承諾をきゝたい。そして、一緒に丸之内から銀座 の方を散歩しよう。彼女も、銀座を歩くとき、街の灯に、か間 やく青春をかざして歩く恋人同志を見て、幾度か胸を躍らして いた。今日こそ村川と一緒に恋人同志として歩いて見よう。彼 女は、そんなことを考えると、胸が愛慾のなやましさで張りざ けるようだった。 「ねえ。お母さま。妾銀座まで行ってもいゝ。」 「何の御用P」 「いつかの指輪たおしてもらうの。」 「一人で。」 「いけない2」 「倭文子さんと、いらっしゃいよ。」 「倭文子さんなんかいや!」 「じゃ、暮れない中に帰っていらっしゃい。」  京子は、自分の羽織と着物と帯との一番よい配合を考えて、 盛装した。        二  京子は、白山から電車に乗った。出かける前、電話で知らせ ようかと思ったが、不意に村川を驚かしたい気持もあったの で、電話はかけないで家を出た。  彼女は、盛装すればするほど、美しくなる顔だった。オlル バヅクにも七三にも飽きた彼女は、真中から二つに割ってい た。鼻が高く、目が大きくクッキリと白い顔には、古代紫の霞 模様の地紋の在るシャルムーズ縮緬《ちりめん》の羽織が"ぴったりと身体《からだ》 についていた。  乗客の視線が、泊分の身体にふりそ\一ぐのを感じながら、彼 女は村川と一緒に、銀座の宵を散歩する幸福を、いろノ\に想 像していた。  だが、京子が大手町で降り、今井商事株式会社の在るビル ディングには入り、其エレベiターで胸を躍らせながら吊り上 げられていたとき、直ぐそれと並んだもう一つのエレベーター で、村川か倭文子ど会うために"胸を躍らせながら吊り下げら れていたのを、夢にも知らなかった。二人は中途ですれ違っ た。丁度、それが二人の運命を暗示するように。  五階で、エレペーターを捨てると、其処に在る図面で、今井 商事会杜の所在は直ぐ分った。  今井商事会杜には、父が紹介した人が村川の外に、幾人も居 るので、京子は知った人に顔を合わせるのが、いやだったが、 どうせ自分と村川との関係は直ぐ公になることだと思い切って 受付と書いたドアを開けた。  直ぐ其処に受付の女事務員が居た。 「あの村川さん、いらっしゃいませんでしょうか。」 ■女事務員は京子の美しさに驚いて、目をみはりながら云っ た。 「其処でお会いにたりませんでしたか。.今齢出になったばかり ですよ。」一 「いゝえ、気がつきませんでした。」 「欝出かけになったぱかりですよ。」 「そうですか。」  京子は、ひどくがっがりした。 「ニレベータ{で、おすれ違いになったのでし・よう。」 「もう、帰ったのでしょうか。」 「もしかするとγ.躰茶でも飲みにいらっしったのか知れませ ん。」一  京子は希望を持とうとすると、向うの机からジロく京子の 顔を見ていたもう一人の女事務員が云った。 「いゝえ。村川さんは、電話がかゝってお帰りになったのよ。」 ・京子は、気持が全く暗くなってしまった。誰から電話が懸っ たのか、急にじりくして来た。 づそう。じゃ、また。」 .彼女が、むしゃくしゃして廊下へ出で一二間歩くと、彼女は 急に後から呼び止められた。 「川辺さんのお嬢さんでいらっしゃいますか。あの杜長がぜひ お目にかゝりたいと申して居ります。」  先刻《さつき》の女事務員が、女王に対するようた丁寧たお辞儀をした。 ■■今井当之助とはへ京子は幾度も会っていた。だが、今日なん か決して話したい相手ではなかった。 「あの折角ですが、一寸急いでいますので。また此次ぎに …:。」  そう云って、京子が去ろうとすると、今井があわた間しくドー アをあけて廊下に出て来た。今井は、三十をいくらか過ぎてい. た。立派な顔だが、どこかしまりがなかった。よくこうした実 業家の後嗣《あとつぎ》に見るように、何よりも一番挨拶が上手であった。 「まあ。一寸、私の部屋へお通り下さい。受付の者が、大変失 礼しました。村川君に御用だったのですか、丁度今帰ったばか サだそうですよ℃何でもお宅から電話がかゝって来たとかで・ー まあ、一寸休んでいらっしゃいませ。こんな殺風景な事務室で も、お茶位はございますから。」 「宅から電話がかゝりましたって。そんな筈はないんでござい ますが。」 「まあ。とにかくおは入り下さい。調ぺさせましょう。」  京子は、つい、ひっ返さずにはいられなかった。        三  今井は、京子を社長室に案内した。仮事務所ではあったけれ ども、さすがに椅子や卓子《テ プル》は落着きのある立派なものを使つて いた。 「どうぞ、おかけなさいませ。一昨日でしたかその前の日でし たかお父さまに齢目にかゝりましたっけ。」 「左様だそうでございますねえ。」 「今日は村川君に、ご用事ですか。」 「えゝ。」 ■今井は(盛装した京子を、悦惚として見ていた。女事務員が お茶を持って来た。 「そうく・先刻村川さんに何処から、・電話がかゝって来た か、よく訊いて欝いで。」 「あの川辺さんとおりしゃいましたよ。私が、電話に出たので ございます。」  女事務員は直接に京子に答えた。・ 「そうでございますか。」彼女は心の中の失望や疑惑を押えて 平気に答えたが、なぜ自分の家から電話がかゝったのか、どう 考えても分らなかった。 「此間、お父様にお目にかゝったのは、山内倭文子さんの御縁 談です、欝聞きになりましたか。」 .「えゝ承りました。もうよっぽど進んだそうでございますね。」 「此方《こつち》の方は、すっかり定まっているのですけれども、倭文子 さんの方が。」 「倭文子さんも、きっと御承諾なさいますわ、.妾、■極力すゝめ ていますの。」 「此次ぎは、虜なたの順番ですな。」 「いゝえ。妾の方がさきへきまりますわ。」  京子は、そう云いたいのを堪えて、微笑していた。 「僕も、此のまゝ独身では行かれないのですが。いゝ候補者は ないでしょうかな。」 「ございますわ。きっと、有すぎて困る位でしょうよ。」 「どうですか。再婚ですし、子供が一人あるんですからね。」 「いゝじゃございませんか。そんたこと、考えようでは何でも ありませんわ。」 「そうですかね。でも、貴女や倭文子さんのような美しい方 ば、来ていた間けませんね。」 「いゝえ。そんなこともございξぜんでしょう。」  そう云って、京子は少し顔を赤くしながら笑った。心の中で は、、 .「慾ばっている! 再婚で子供があって、ーその上赤坂や新橋と いろいろうわさを立てられているくせに、まだ処女を要求して いる!一だれが」と心の中でべーと舌を出した。 「妾、もう、失礼いたしますわ。」  .そう云って京子は、立ち上った。ー 「直ぐお宅へお帰りですか。」 「いゝえ。一寸銀座へ出まして。」・ 「あの私が、お送り致しましょう。今、私も帰るところですか ら、畠動車で銀座からお宅へ、お送りしましょうご 「いゝえ。それには及びませんわ。」 「いゝじゃありませんか。偶には貴女のような美しいお嬢さん を送らせて下さい。」 「いやな方。」 「お立腹ですか。」  それほど、単純な京子ではなかった。こんな太刀打なら、ど んな男性と立ち向っても、負けている彼女でなかった。 「そう。では送っていたバくわ。」 「じゃ、そろく出かけましょうか。」  芸妓《げいしや》などとの合乗には、あきあきしている今井は、こうLた 令嬢との合乗に、新しい生活の興奮を感じながら、京子を先 に、■買ったばかりの自慢のカデラックに乗った。 四  自動車は、東京駅の前を斜に、鍛冶橋にさしかゝった。道 路がわるいために、盛んに動揺するけれど、それが優秀な車体《ボディ》 とクションとのために、快い震蕩となって、身体に伝わって来 る。ともすれば、人を肉感的にする震蕩だ。  今井は、かねてから京子の美しさに心をひかれていたが、妻 があったときは、蕩児たる彼もそれを禁断の果《このみ》だと思ってい ーた。今では必ずしも、そうでない。花柳界の女性に食傷してい る彼は、こうしてすれム\に坐っていると、京子の処女らしい 香いと魅力とで、なやましくなってしまう。彼は着物を通じ て、彼女の両肩や乳房のあたりのはり切った水々しい肉体にな やまされるのだ。白い頬など、つやくして輝いている。  その上に、彼女に見る女性としての品位、尊厳、それは、金 力の前に媚を売る女性などには到底見られない精神的装飾だ。 そうした品位や尊厳や、.処女としての毒恥を一枚々々はいで、 そうして彼女のあらゆる真実を自分のものにするのでなけれ ば、女性猟人の対象としては、面白くないのだった。  彼は、こうした女性を相手としてこそ、どんな面白い恋愛冒 険でも出来ると思っ.ていた。  尾張町を過ぎると、京子は直接に運転手に命じて、車を止め させた。 「一寸、お待ち下さいませ斌。」 ・そう云って、プエルトの草履で、軽く歩道に降り立った。一 人残った今井は、どうして彼女を一刻でも長く自身の傍にひき つけて置くべきかを考えていた。 「お待ち遠さま。」 ・京子は微笑をしながら帰って来た。 「お邸へですか。」  運転手はそう訊いた。      、、 「そうだね……」  今井はまだ考えがついていなかった。 「何うです、お嬢さん。此の辺のカフエでお茶でも飲んで行き ましょうか。,折角銀座まで来たのですから。」 「いゝえ結構でございます。」 ・京子は、一刻も早く家へ帰りたかった。早く帰って、村川 に、一体だれが電話をかけたかを確かめたかった。 「ホンの一寸でいゝですから、交際《つきあ》って下さいませんでしょう か。」 「妾、直ぐ帰らしていた間きたいのです。」 「そうですか。カプェなんかおは入りになると、お家《うち》で叱られ ますか。」  それが、勝気の彼女を、少し傷つけた。、 「そんなねんねえじゃ、ございませんわ。父でも母でも、妾の ことは干渉なんか一切致しませんわ。」 「じゃ。一寸|交際《つきあ》って下さってもいゝじゃありませんか。」 「えゝ、お供いたしますわ。」  京子は、こんなうすっぺらな男を恐がって居るとでも思われ るのが心外だった。 『何うです。日吉町に地震後出来たカフェでうまい家《うち》があるの ですが。」 「工i・ワン・カフェでしょう。」 「よく御存じですね。ついでに彼処《あそこ》へ行って、晩餐を御一緒に いた間きましょうか。別にお宅で御心配になることはないで しょう。」 「いゝえ。決して。」  京子は、こんな男から小娘らしく思われるのが、いやだっ た。相手の云う通りにして、しかも一指もゆるすまじき品位を 見せてやろうと思っていた。 「じゃ。日吉町へ。」  今井は運転手に命令した。       五 食事のとき、今井は、 「失礼して一杯いたぺいて、よろしゅうございますか。」  と、京子に断って、コクテルを注文したが、それがいつかウ イスキーに変り、三杯となり、四杯となり、食事を終って、自 動車に一緒に乗った時は、彼の白い顔が、微醸を帯びて輝いて いた。  街は、すっかり夜になっていた。数寄屋橋から、直ぐ右に折 れ、丸の内の大道を滑るように走った。自動車の中には、さわ やかな初夏の宥が在った。 「今彼処に新橋の芸妓《げいしや》が三人居たの。御存じですか。」 「存じています。貴方にあいさつした人達でしょう。」 「それまで、気がついていらっしゃるのですか。これは恐れ入ー りました。」 「妾だってその位なこと、気がつきますわ。」 「あゝ云う連中を、あなたは何う云う風にお考えになります か。」 「美しい人達だと思いますわ。」       一  ■∴ 「そうですかね。僕は教養のない美しさにはあきくしまし た。女性も、頭のない美しさは時代遅れですね。精神的品位と 教養、それがなければ泥人形ですね。」 「そんなことを仰しゃる資格がお在りになるの?」  そう云って、ひやかしたいくすぐったさを、京子は微笑でこ らえていた。 「そこへ行くと、あなたや山内のお嬢さんの美しさは……」 「およしなさいませ。倭文子さんを賞めるのに妾を引き合いに 出すのは。」 「いや、私が賞めたいのは、貴女です。」 「どうもありがとうございます。」  そう云って、京子は丁寧に頭を下げた。 「いや、貴女はオ気縦横と云うところがおありになりますね。■ 貴女のようなお嬢さんが……。」 「今井さん。よっぽど酔っていらっしゃいますね。」 「いや、本気です。現代の婦人美は、玄人からすっかり素人に 移りましたね。今の十七八歳から二十歳までのお嬢さんの美し さは……」 「今井さん、妾は二十一なのよ。」 「これは失礼致しました。この頃のお嬢さんは、二十四五で も、十七八にしか見えません。僕は、本当に美しいお嬢さんと  …」  自動車が大きい力ーブをLた。.今井は、その動揺を利用する ように、京子の身体《からだ》に、しなだれかゝった。京子は、眉をひそ めて、,身体をぐっと遠ざけた。 「いや、僕は、.とんなうれしい晩餐は初めてです。これから、 ときく\ごう」てお目にかーりたいものですね。」  ば尽子は"だまっていた。■ 「京子さんρ,これで僕はまだ三十二歳です。あなたとは十一違 いです。もっとも子供は一人ありますがね。女の子だし、乳母 をつけて置けば、結婚生活の邪魔には少しもなりません。僕 は、頭のいゝ、教養のあゑ音楽や美術の分る、それで美しい …:」 「それじゃ、妾など、とても資格はございませんね。」 「いや、何う致しまして、僕は実はその……」,,.  今井は、京子の右の手を、彼の左の手でそっと握った。 .京子は、その手をパッと払いのけた。 「今井さん、妾、芸妓じゃございませんのよ。」 「なるほど。これは恐れ入りました。」 「あゝ、運転手さん、其処の角で止めて下さいな。私こヘから 歩きますから。ば父番で断ってもらうのは面倒だから。」 .自動車は、白山下で止った。 「今井さん。どうもありがとう。」 ,「いや、これは恐れ入りました。」        六 京子は、家に帰ると、直ぐ母の居間へ行った。母は、食後の しばらくを、倭文子とむつまじそタに話していた。  母は、驚いたと云った風に、京子の顔を見上げた。 「まあ! 何うしたの。一こんなに遅く。御飯食べて来たの。」  「それよりも、お母さん!」 「何ですの! あなた、.立ちながら、親に口をきいて……」  京子は(面倒くさいと云ったように、スカーフをかなぐ力捨 てると、敷居際に、横坐りに坐った。 「・お母さんー.村川さんの会杜に電話をかけて?」 「いゝえ、かけませんよ。なぜ? いきなりそんなこと訊い てピ  京子は、母に答えないで、倭文子の方をじっと見つめた。 「倭文子さん、あなたはまさか、かけはしないでしょうね え!」  京子の鋭い視線を受けると、倭文子の小さい顔は、急にまた その半分位に小さくち間み上った。 「い、え。」  彼女の声は、かすかに振えた。 「そう、家の者だれもかけやしないかしらご■ 「お母さんが云いつけないんだもの、誰もかける訳がないじゃ ないか。何うしたの、そんな険しい顔をしてご 「いゝの、それよりも、村川さん居て?」 「いらっしゃるよ。・でも、お前、何をそんなに腹を立てゝいる の?」 .京子は、ぷいと立ち上った。そして・呆れている母を徴ぽし で、廊下へ出た。自分の部屋へ行って不断着に着換えるのさ え、彼女はもどかしかった。村川が父に却答しなかった不満、 会杜へ尋ねて行って、,徒労になったくやしさ、村川に自分の家 の名を使って電話がかゝって来た不安、おしまいには、今しが た今井に手を握られた憤慨までが一しょになって、彼女の心に は激情が一つの火の塊となって、燃え狂っていた。その火の塊 を思う存分村川に投げつける外はなかったのだ。彼女は、息を 切らしながら、洋館の階段を上ると、村川の部屋のドァを、白 い柔い拳で、思い切り打った。  中には物音がしなかった。 「村川さん、は入ってもいゝ。」  まだ中から、物音がしなかった。 「は入ってもいゝ、村川さん。」  彼女の声は、はげしかった。 「どうぞ。」  村川の声は、ひくい、然しながら、どこかに覚悟のひそんで いる声だった。  京子はサッとドアを開けた。白い頬が赤らみ、美しい眉が心 持逆立ち、大きい瞳が輝き、隠し切れぬ殺気が、スラリとした 長身に流れていた。 、村川は椅子から立ち上って、チラリと京子の方を見ると、直 ぐ瞳を、ヵiペットの上に落していた。いゝ血色が光りを失 い、大きい瞳が、オドくとふるえていた。  京子は、づかノ\と村川の傍に進んだ。 「そんなに、四角ばって妾を迎えなくてもいゝことよ。どうぞ おかけ下さいなー妾もかけますから。」 、■そう云うζ京子は、壁際にあったひじかけ椅子を引きよせ て、村川と相対して腰をかけた。        七 ・「ねえ、村川さん妾お尋ねしいたことがあるのよ。」 ・村川は、しずかに顔を挙げた。一昨日《おととい》からのもだぇ苦しみ で、彼は別人の如く樵埣していた。 「でも、お尋ねする権利があるか、どうかは分らないことな .の。もしお気にさわったらゆるして下さいな。」  京子は、ニッコリ笑った。しかし、それは殺気を含む美しい 笑いであった。 「実は、先刻あなたの会杜へ伺ったのよ。いらっしゃいません .でしたね。」 .「あゝ、そうですか。それはどうも。」  村川は、少しあわてた。あせて居る顔色が、更にあおざめた ようだった。 「電話が、かゝってからお出かけになったそうですね。」 「そうです。友人から、電話がかゝったものですから。」  村川は、じっと京子の顔を見た。彼の瞳は、恐れおのゝいて いる彼の心をかくすことは出来なかった。 「何と云うお友達なの。」  「岡野と云う男です。」  村川は明らかに狼狽していた。  「そう。岡野さんと云う方なの、嘘つきねえ。」  ■京子は、はき出すように云った。 ・「だれがです。」 .「あなたの会社の女事務員よ。ー川辺さんから電話がかゝったと 云うのよ。・,幾度聞いてもそう云うの曳・妾、可笑《おか》しいと思った わ。家《うち》からあなたに電話がかゝるわけはないのですものねえ。 ねえ。そうでしょう。」  京子は、村川の顔を1狼狽してあおざめている顔を、近々 とのぞき込んだ。  村川は、意地のわるい京子の凝視をさけてうつむいた。  「電話の話は、それでい三わ。どうせ、たいした話ではないの ですものね。あなたの会杜の女事務員の間違でなく、本当に だれかぺ家の名前を云ったにしろ(その方が都合のいゝことな ら何でもないことだわ。そんなこと、妾彼是云うことはない わ。御免なさいね。村…川さん。」  京子は美しい撞をまたゝきもせずに、村川を見つめていた。 それは、美しい女王が、鞭打たれる奴隷を見ているような目付 だった。. 「それよりも、妾お訊きしたいことがあるの。これ丈はハッキ リお答え」ていた父きたいの。」  村川の頭は、前よりももっとうなだれた。 「■一昨日《おとムい》の晩、お庭の四阿であなたが妾にしたこと覚えてい らりしゃる,」 ・京子の体は一時に緊張した。彼女の顔には、村川の答えに よってはゆるすまじき色が、ありくと浮んだ。  村川の顔には、一苦脳の雲がもくくと動いた。 「覚えていらっしゃる?」  村川は、一蒼白になってしまった。 .「覚えていらっしゃるP」  村川のヵiペットに置いてある両足はガクくとふるえた。 「覚えていらっしゃるP」  京子は、無表情の声で、リプレインのように、つ間けた。 「覚えています」  村川は重罪囚が、白状するように頭を下げた。 「そう、それなら、いゝの。-でもそれならなぜ、お父様から申 し土げた話を直ぐ承諾して下さちないの。」 の ろ い        一 「貴方、父に考えさせてくれと、仰しゃったんですって。考え るも考えないもないじゃありませんか。妾そんな煮え切らない こと、仰しゃる方嫌いだわIi。」  京子の声には、露骨な非難が、ひ間いた。 「妾に、あんな取り返しのつかないことをなすって、考えるっ て、何をお考えになるのです。よくく考えてからなすったこ とじゃないの。」  村川の顔には、残っていた血色が、ことぐく無くなり、ふ るえる身体をさゝえるつもりで、右の手を差しのばし、机の一 端を握っていたが、その手にはげ七いわなゝきが、絶えず起っ た。 「妾は、芸妓《げいしや》や娼婦ではありませんよ。」■  京子は先刻、今井に去ったことを、つい又くり返したので、 怒りていながら自分で可笑しかった。 「妾、だれの前にもはずかしくない清浄な処女だわ。貴方だっ て、立派な紳士でしょう。結婚なさる意志がなくて、処女の唇 に触れていゝか悪いかは、お存じでしょう。」  村川は、死人の如く、声がなかった。 「処女の唇は、ー貞操のしるしよ。その女の貞操の旗《ベナント》だわ。結 婚する意志がなくて、処女の唇にふれるような男があったら、 妾他人のことだって、許して置かないわ。そんな男が、一人で も世の中に存在したら、妾処女の神聖のために、この世の中か ら追い出してあげるわ。女同志の連盟を作って追い出してあげ るわ、きっとく、その男をた口き出してあげるわ。」  京子は、火のような性情の女だった。いな火と云うよりも、 爆弾にしかけた口火の様な女だった。 ■「妾、何も云うことはないわ。お父さまの所ヘ直ぐいらしって 下さい。そして、直ぐ承諾の返事をして下さい。何をお考えに なるのです。今更お考えになる権利も必要もないと思うわ。」 「京子さんゆるして下さい。」  村川は、狂気のように叫んだかと思うと、腰かけていた椅子 からずり落ちて、一勇{ペットの上に、ひざまずいた。 「どうぞ…ゆるして下さい。みんな僕のあやまちです。どうぞ ゆるして下さい心」`  京子は沖急に笑い出した。 「おほゝへゝ、一妾、許す許さないと云っているのではないわ白 妾、許しているじゃありませんか。許しているから、お父さま に、すぐお願いしたのじゃありませんか。」 『いゝえ、そうじゃありません。僕のあやまちです。僕は…… 艘は{㌔」」 ,村川は、口ごもった… 「じゃ、あなたは、結婚する意志がなくて、たf一時のなぐさ みに…{」. 「いゝえ、そうじゃあり富せん。」  村川は、身もだえして打ち消した。 「そう、それじキ、■いゝじゃありませんか。ーでも結婚する時期 を延してくれと仰しゃるの。」 「あゝ、京子さん。何もかも云ってしまいます。どうぞ、僕を ゆるして下さい。,僕は……実は貴女をあやまって、貴女をある 人と取り違えて……」 ー京子の顔色は、忽ち土の如くあおざめた。 「えゝっ'! 何と仰しゃるんですって?」        二 「申訳ありません。どうぞ、ゆるして下さい、僕はあやまって 貴女を……」 ■村川は、ヵiペットに頭をすりつけた。  京子の顔は、パッと赤くなったが、それが見るくうちに、 うすれると、今度は逆に白く白くすみわたって、恐ろしい殺気 が、・二つの瞳から、ほとばしった。彼女が、普通の女であった ら"この恐ろしい恥のために、声を立てゝ泣き倒れたバろう。 たT、ー彼女の勝気は、悲しみ庖怒りに換えて、じっと辛抱tて いるのであった。 「京子さん! どうぞゆるして下さい。」  京子は、唇を破れるまでかんで、五分間近くもだまってい た。彼女は、怒りのために、ふるえんとする手や足を、懸命の 力で支えていたのである。 「どうぞゆるして下さい!」  村川が、幾度目かに許しを乞うたとき、彼女の覚悟はやっと きまったのだろう。彼女は、冷たい低い声で云った。 「ねえ、村川さん、人としてゆるせる事とゆるせない事とがあ るでしょう。そうじゃない'」.. ■一村川は、だまってうなずいた。 「妾は、貴方が本当に愛して居て下さると思ったから、また貴 方を本当に愛していたから、あんなに大胆にあなたに許したの でしょう。それは、間違だからと云って取り返せる亡とかし ら、妾は、女として自分の失にしか許せないことをしてしまっ たのよ。そんなことを、貴方がさせていて、それで過だからゆ るしてくれ。それじゃ。妾、何処に立つ瀬があるの。」、■  村川は、ひざまずいたまゝ面を上げようともしなかった。 「村川さん。よして下さいよ。そんなところへ坐るのなんかη ちゃんと腰をかけて聞いて下さいよご 、京子は、うずくまっている村川の手を取って、むりに椅子に かけさせた。村川は、女の先生に叱られている小学児童のよう に→.大人しく腰をかけた。 「それに(貴方が、過と思うなら、ちゃんと償いをするのが当 然じゃないかしら。あやまったのは、みんな貴方の責任じゃな い, たとい夜だからと云って、妾を自分の愛レている女と、 取り違えるなんてそんた不覚な間違いようがあるかしら。また その女の人、だれだか妾知らないわ。でも、■その女の人を本当 に愛しているなら、どんな暗い闇の中だって、その人だか、そ の人でないか、感じでも、においでも、直ぐ分りそうなもの ね。それが分らないとすれば、本当に愛しているのじゃないで しょう。.ねえ二そうでしょう。そうだと、騎っしゃいよ。」  村川は、京子にたゝきつけられても、答うべき答は出て来な かった。 「いゝわ。妾間違われて、キスされたのでもいゝわ。それでも 与れしいわ。もとノ\、貴方を愛していたのだもの。妾、うれ しいわ。妾、それを喜ぶのは、当然だと思うわ。ねえ、妾怒ら ないわ。■その代り、その間違を、■本当にして下さいねえ。妾、 おねがい{ 妾、あむたに取返しのつかないことをしたのだも の。妾あなたを心の中で愛していたこと分ったでしょう。あな たも愛して下さいよ。.初めは間違の接吻、その次から本当の接 吻、ねえ村川さん、妾があなたを愛しているの分ったでしょ う。,妾を愛して下さいよ。」  京子は、自分の椅子を離れると、■.村州に近づき、村川の膝に すがりついた。 ・「ねえ、村川さん、.妾を愛」て下さいよ。そして、今度ほ妾. に、本当の接吻をして下さいねえ、妾に第二の接吻を、て下さ いね。」 川京子の顔には、ー怒がいつかとけて、妖艶な微笑が温れてい たρ.-,,                     ー.,       三  村川は、・自分の膝に取りすがっている京子のやわらかい手の 触感や、妖艶な笑いや、むせるような呼吸のに齢いに、可なり. 心を動かされたのは事実である。その上、.勝気な京子が、亡ん なにまで下手に出るのを見ては、いじらしさで、胸がつまって 来るのだった。しかし、一度やった失策を、更にくり返すよう ないゝ加減なごまかしは出来なかった。云うベきことは、これ 以上の間違を防ぐたあにも、ハッキリと云って置かねばなちな かった。それが、どんなに京子を怒らし、丸てをどんな破局に 導くにLたところで。■ 「京子.さん、あなたのお心はうれしく思います。でも僕には ……僕にはもうあなたの御好意を受ける丈の自由がないのそ すρどうぞ僕をゆるして下さい。」  京子は、じっと村川の膝に面《かお》をふせていた。 「外の点では、どんな償いでも致します。どうぞ、■,僕をゆるし て下さい。」  京子は、それには答えなかったが、ふいと顔をあげた。 「い<ら、お願いしても駄目?」  京子は美しい瞳で、じっと村川を見つめた。村川はその凝視 を慌てゝさけながら哀願した。 「どうぞ、ーゆるして下さい。」 一「もう一度、お願いするわ。ねえ、村川さん、妾を愛して下さ い。妾、心からあなた老愛しているρよ。む亥、村川さん^ど うぞ妾を愛して下さいませ・これが、最後の……妾の一生のお 願い、ねえ村川さん、妾あなたを愛しているのよ。」  京子は、女性の凡てのかよわ岩を身体にあらわして哀願し た。、. ・「どうぞ、京子さん、許して下さい。」  取りすがる京子の手を、しずかに押しのけたがら、村川は逆 に京子に哀願した。 「そう1 いゝわ。」 ーば尽子は、サッと身を起すと、元の椅子に帰った。彼女は、一 瞬のうちに、凡ての笑いと媚とを無くしたはがねのように冷た い女になっていた。 「ゼうぞ、おゆるし下さい。」  村州は、重ねて頭を下げた。 」京子はそれを見ないで、目を本箱の大英百科全書の方へやっ ていたが、ひとり言のように云った。 「そうね-間違?て、ある女を接吻する.そして間違だと云つ てつきはなす。そλな冷酷無残な話があるかしら。たとい間 違ったにしろ、女の面目を立てゝもらいたいわねえ。ほんとう に妾の心をいたわってくれるのなら、何とか仰しゃりようがあ ると思うわねえ。接吻をした三分間の間だけでも、本当に愛し ていたと云ってもらいたいわ。貴方の一寸した失策のために処 女の誇を失ってしまった妾。まだ、ー色魔のために傷っけられた 方が、どんなにうれしいか知れないわ。色魔だって、接吻をす るときは、その女に、.本当の愛が動いているでしょう、妾に対 する何の愛もなしに、あんなことをされたかと思うと、くやし い!・くやしい! あんな接吻される位なら、乞食にだって、 泥棒にだってキスされた方がまだいゝわ、その方がまだあきら めがつくわ。くやしい!」  彼女は、そこまで云ってくると自分の言葉で、激昂したと見 え、着ていた縮緬の羽織の袖を口にくわえてベリくと引きさ いた。 四 「いゝわ。さんざん妾をふみにじって置きたさい! 妾が、こ れで泣き寝入りになると思うの。妾、きっときっと、此の仕返 してあげるわ。」  京子は、そう云いながら、羽織の袖を、幾条にも引きさいて しまった。 「あゝそう。妾訊きたγこ之があるわ。妾をどなたに間違えた のかハッキリと仰しゃって下さい!」  村川は、両手で顔を覆うたまゝだまっていた。 .■「今おかくしになったって直ぐ分ることじゃたいの。」■  京子の云う通り、かぺしおゝせる事ではなかったーでも、村 川のロから、何うしても云えなかった。 ・「おっしゃれないの? 卑怯な方! じゃ、妾当てへ見ましょ うか。倭文子《しずこ》さんでしょう?」  覚悟をしていた発覚ではあるけれども、村川は身体がふるえ た。 「そうでしょう!.そうでしょう。」 .村川は、うなずくことも出来なかった。 「そうでしょう。やっばり倭文子さんでしょう。あなたが、御 返事がなければ、こゝへ倭文子さんを呼びましょうか。」  京子は、立って呼鈴《ベル》を押しそうにした。 「そうです、倭文子さんです。」  村川は、あわてゝ云った。 「そう!」  京子は、瞑目した。あおい少しも血色のない顔だった。額の ところが、ほのかに汗ばんで、それが凄惨な感じを起させた。. しばらくすると、京子はパッと目を開いた。青い炎の出るよう な瞳だった。 「村川さん。お気の毒ですが、妾命をかけても、倭文子さんを あなたのものにしないから、そう思って下さい。妾どんなこと をしても、きっと邪魔するわ。どんないやしいことでも、どん な卑劣なことでも、どんなあさましいことでもして、邪魔をす るわ、わたし、邪魔をする権利があると思うの。どんなこと が、あったって、きっと邪魔をするわ。」  今まで、うなだれていた村川も、この思いがけない挑戦に面《おもて》 を挙げずにはいられなかった。 「えゝ邪魔しますとも。倭文子さんばかりではないわ。あなた が、接近するあらゆる女を、妾、あなたから奪ってしまうの。」  村川は、もうだまってはいられなかった。 「僕が、こんなにあやまっても許してくれないのですか。」 「許せませんとも。」 「しかし、倭文子さんと僕との問題はまるで別問題じゃありま せんか。」 「何が、別問題です。一人の男は、一生に一人の処女の唇しか 得られないのです。」 「しかし、それがあやまって……」 「あやまった場合は、あなたの一生で、お償いゐさいませ辺」 「そんな馬鹿な。倭文子さんを、僕から……」  と云ったが、村川にはそれ以上を云う自信がなくて口ごもっ た。 「奪りますとも。そんなこと位、何でもないわ。」 「だが^あなたはそんな事をして、何時かは僕があなたと結婚 するとでも思って待っているのですか。」 「うぬぼれも、たいていにたさいませ! 妾は、あんなに妾を 侮辱した貴方と、結婚なんかするものですか。だれが、そんな 事を待つものですか。妾、.明日にでも、外の男の人と結婚する わ。そしてあなたに接近するあらゆる女を、貴方から奪って、 あなたを、のたうち廻らせてあげるわ。そんな復讐位、あなた に対する一番かるい復讐よ。」  村川は男性らしい怒りが、はじめてほとばしった。 「馬鹿な夢を見るのは、およしなさい。あなたの几ての努カ は、愛している者の力がどんなに強いかを証拠立てる丈でしょ う。」 「そうかしら。あんまり、.一そうでもございませんでしょう。 しっかり倭文子さんをつかまえていらっしゃい。今に、倭文子 さんが、煙のように、あなたの手から消えてなくなるでしょ う。左様なら、お邪魔いたしましたわ。ねえ村川さん、お休み なさいませ。」  京子は、馬鹿丁寧に頭を下げるとドアをあけて出て行った。 振りか、る花片       一 悔と不安とにもだえて、村川は終夜ねむれなかった。だが、 凡ては自分の不覚な過が、起原になウている以上、一途に京子 を恨むことも出来なかった。勝気な火のような京子が、あのよ うにのゝしり狂うのは、当然であるかもしれなかった。また、 京子の呪の言葉が、丸きり空に了るとは考えられなかった。そ の言葉は可なりな実現性を以て、村川を脅威しているのだ。た だ、頼むべきは倭文子《しずこ》の心であるが、倭文子は京子の恐ろしい 妨害がなくてさえ、ふわノ\しているのだった。  特に敵は、地の利を得ている。倭文子は京子の掌中に在ると 云ってもよいのだった。た間でさぇ、京子の前に、震えている 倭文子だった。京子の脅威の一言が、倭文子を完全に震い上ら せてしまうのはもちろんだった。 「た讐死力を尽して戦う外はない。」  村川は、悲壮な決心をして、動揺する心を押えて眠りに入ろ うとしたが、何うしても眠れなかった。  あくる朝は、頭の中に、ジャリジャリ砂がは入っているよ5 に、気持がわるかった。食事のときには、京子とも倭文子とも 顔を合わさなかった。とても会杜ヘ出て働く気に㌔なれ液 かつたが、家に居て京子に監視されながら、悶々としているよ りも、まだ会杜の仕事をしている方が気がまぎれそうな気がし たので、いつもよりは三十分も遅れて出杜した。  村川が出杜したのを見ると庶務課主任の宮田が、タイプライ タアで打った書類を持って、村川の机に来た。 「村川君、これを一つ翻訳してくれたまえ。」  見ると、買入契約書についている仕《スペシプ》 様《ィケ シ》 書《ヨン》だった。それ は、やさしい英語だっ九がハこうした文書になれていない村川 には、それぞれのテクニックに対する訳語が容易に見つからな いので、昼近くなっても訳し切れなかった。  宮田の所へ行って、訳例を見せてもらいたかったのである が、宮田のつんと取りすました皮肉な態度に、何とたく親しま れないところがあるのと、この文書を訳させることが、自分に 対するテストのように思われたので、村川は我慢して考えつf けた。だが、考えて居ると、倭文子の顔や京子の顔が、かわり がわり意識の中に浮んで来てた間さぇ腺瀧としている意識を 一層濁してしまうのだった。 「村川君、まだですか。」  十二時が鳴ると、宮田は村川の机の所ヘ来て、のぞき込ん だ。 「えゝもう一寸。」 「どうせ、僕が後で手を入れますから、ある程度でよろしいの です。」. 「そうですか。」 ー村川は、素直に答えたが、何だか少し馬鹿にされたような気 がした。.  彼が訳し了ったのは、■一時過ぎていた。十枚に近い |仕様書《スベシフイケ シヨン》だが、あまり長くかゝりすぎたのが自分でも気持がわるかっ た。  宮田の所へ、おそるノ\持って行くと、宮田は意外に機嫌が よかつた。 「村川君、社長が今晩、君に夕飯を御馳走するそうだから、そ のつもりでいてくれたまえ。」  村川は、平生だったら、むしろ喜んだに違いない。しかし、 身体も心も、平静を失っている今日は王様の招待でも断りた かった。 「今日僕は……」 「断りなんか云うものじゃないよ。社長が、折角君と話がした いと云っているんだもの。」  村川は仕方なく承諾した。        二 「君は、今日は主賓だから、其方《そつち》へかけたまえ。」  宮田は、補助座席《スベヤシ ト》へ腰かけようとする村川を、無理に今井の 傍へかけさせ、自分は村川に対して腰をかけた。  宮田は、今井とは中学校が同じだと云うことだった。そのた めに、庶務課長として、信任があるばかりでなく、彼は今井の 遊蕩生活において取巻であり、お相手であるらしかった。  今井は、金ロのシガレットをくゆらせながら、ニコく村川 に話しかけた。 「君とは、一度ゆっくり話したいと思っていたんだよ。でも、 暇がなくってねえ。」. 「いや、私こそ一度ゆっくりお礼を申したいと思っていたので す。」  村川は学生時代もらっていた学資の礼を云った。 「いや、そんなお礼は一切ヌキにしようよ。僕は、そう思って いるんだよ。僕のようなものが学資のたい人達の面倒を見るの は、当然の義務だよ。またもらう方七や、だれからもらったっ てこれ丈は恥にならないものだよ。お糺を改めて云うにも当ら ないさ。君が、それで有為の人物になつてくれさえすればいエー のだ。将来も「僕の会杜で働いてくれゝばけっこうだが、君が 気に入らない場合は何時何処ヘ行ってくれてもいゝんだよ。」■  今井は、いかにも物の分ったような顔をして云った。 「かゝえ。何うい光しまして。」  村川は、少しくすぐったい気がしたがら答えた。  車は、尾張町を過ぎ、歌舞伎座の前を通って、築地へは入っ て、二三町進むと、右側の家の前に止まっ.た。. ー其処は、地震後浜町から築地へ越して来た有名な日本料理の 家だった。 門から玄関までが、長く狭い敲土《たたき》の道になっていた。 「おこしなさいませ!」  女中が、三四人迎えた。 「電話をかけて置いた筈だがね。」  宮田が云りた。 「はい承知しています。先刻から齢待ちしていました。」  三人は、狭い廊下を、三四度直角にまがった。一番奥の茶室 風の六畳へ通された。 - 、  ・       ,{ 「おせまいことはございませんか。」 「いやけっこうだよρ」・  宮田が、女中に答えた。  やがて、お茶やぬれ手拭が運ばれた。黒塗りの膳が、めいめ いの前に運ばれた。  村川は、■疲労と窮屈の外は、何もなかった。ずり落ちそうに たる眠気と、倭文子の上に京子がどんな魔手を弄しているだろ うとの不安とが、かわりばんこに、.彼を襲って来た。・運ばれた 料理に対して、少しの食慾さえなかった。 「さあ、村川君、君も一杯やりたまえ。さあ、お酌をしてあげ てくれ!」  宮田が、女中に云ったので、.村川は仕方なく杯をさし出し た。  今井は杯を二三杯重ねると"前よりももっと機嫌がよくなっ・ て、村川に話しかけた。 「昨日、君の留守に川辺のお嬢さんが、君を訪ねて来たぜご 「あ、.そうだそうですね。」 「君とね、よっぽど親しいのかねえ。」 358 ,「いゝえ。別に。」 ヤだが、一緒の家にいるのだかち、よく顔を会わすだろう。」 「それはそうです。」 ■「京子さんは、何う云う人なんだ?」        三 「京子さんですか。」  と云ったが、村川は京子については、今何にも話したくな かった。 ㌔僕は、実はあの人と一緒に夕飯をたべたのだがねえ。どうも 驚いたよ。とてもたいへんな人だね、と云って悪い意味じゃな いが、態度と云い、会話と云い→とてもキビくしているね え一あれじゃ、どんな男性とで㌔太刀打出来る人だねえ。」  今井捻、京子にはねつけられた外の点はすっかわ感心Lてい た。 「僕は、我々と対等に話が出来るのは、芸妓《げいしや》……それも多少年 増の芸妓ばかりだと思っていたよ、だがどうしてもう芸妓なん か話が古いねえ。京子さんなんか話題が広いし→見識はある し、しっかりしているし、あんなにしっかりしていれば何処へ 一人で出しても澗違はないねえ。」 r今井は、しみτみ感心していた。  「それに之ても、■シ」ヤンτやありませんかじー 「美人だねえ。.ねえ、村川君、一まだ愛入とか婚約者などはない でしょうねえ。L  「ございませんでしょう。」 一村川は苦笑した。「 「何うです。満更、あなただって資格がないわけはないでしょ ヶ。」 帰宮田が今井に云った。 「うゝむ。とても、歯が立たない。」  今井は、あきらめよく云った。 「そんなことはないでしょう。」 「いや、とてもー」 ー村川は、ぽとんど飲めないので宮田と今井とは、しきりに杯 を重ねていた。 ■「ねえ。村川君、山内のお嬢さんとも話したことがあるでしょ う。」  それはたしかにあった。 ,「あります。」 一「僕は、=二度見かけた丈だが、あの方はどうですかね。性格 は,」  此の方も、村川はふれたくなかった。 「分りませんねえ。」  「そうですかねえ。」,ー 「しかし、倭文子さんの方は、爵となしそうだねえ。」 「そうらしいです。」 ■村川も、それ丈は肯定したかった。 「京子さんとは、反対の性格だね。ー結局妻として、あゝした人 がいゝのだろう。京子さんのように烈しい人だと、妻としては 持ち切れたいだろう。その点じゃ、安心だよ倭文子さんの方 が、どうだい、宮田君!」、  宮田は、柄になく顔を赤くした。. 「倭文子さんの方は安心だよ。」 ,.今井は、宮田の顔をニコノヘ凝視しながら云った。村川は、 倭文子の名が、■今井の口に上るのさえ不快だった。■  「村川君には、云って竜い\差ろう、実は、こゝに居る宮田君 と倭文子さんとの間に縁談が持ち上がっているんだよ、あはゝ はゝ」 「困りますね。そんなことをすっばぬいちゃ。」  宮佃はオールバックにしている顔をかき上げながら抗議し た。 「どうせ、まとまれば分ることじゃないか。それに、今更花婿 になるからと云つて、ー恥かしがる柄でもない七やないか。」 「どうして僕だってこれで…ー」 「あ砥ムゝゝ素人にかけちゃ初心《うぶ》だと云うのかねえ。あはゝゝ は。」 ■今井は、ーかなり酒が廻っているらしく、愉快そうに供笑し た。        四  村川は、倭文子から彼女に縁談のあることを聞いていた。だ がその縁談の相手が、いつも自分の鼻の先に、背広を着て、す まし込んでいようとは思わなかった。彼の傷ついていた心はま た土足で、二三度ふみつけられた。 「あはゝゝ、宮田君も、独身生活にあきたというわけなんだ よ。独身生活で出来るいゝことは、大抵し尽したんだろう。あ はゝゝゝ。」  今井は、宮田をからかいつ間けた。 「いけませんねえ。■そう、頻々と、すっばぬいちゃ。」 「-いろく悪いことをしたが、急に一念発起して、結婚に志す と云うのだろう。」 「冗談云っちゃ困ります。これでまだ貴君億ど悪いことは ・::!」, 「いや、何《ど》っちが何っちだか。」  二人は、顔を見て笑い合った。  村川は、すべてがけがらわしかった。彼は席を蹴たてゝ立ち たいのを、じっと辛抱していた。 「どうだねえ。村川君、良縁とは思わないかね。」  今井は、だまり込んでいる村上に話しかけた。村川は気がつ くと、■いつの間にか持っていた箸を両方とも、半分に折ってし まっていた。 「もう確定したのですか。」  村川は、倭文子が断るとは云っていたが、つい不安になって 訊いた。 「先ず九分通りはたしかだろう。川辺先生御夫婦が、のり気に なっていらっしゃるのだから、一当人だって、いや茄うはないだ ろう。それは京子さんだって、至極賛成だし:..:」 「そうですね。」  村川は打ちのめされて、うなった。彼は、さながら不安と焦 燥との地獄にうめいていた。いきなり立ち上って、今井と宮田 との頭を、つ間けさまになぐひたいような、・いらぐしさを感 じた。  ふと、その時、部屋の中が、急に明るくなったように、三人 の若い女性がは入って来たと思うと、 「今晩はどうも。」 「おや、いしさま、わたしどなたかと思ったわ。」 「みーさん、貴君は、うそつきね。」  そんななまめかしい声が、しばらくの間、村川の重い心を取 巻いてうずまいた。村川は、ぼんやり彼女達を見た。だが、そ の美しい女性の姿も、村川の心に入らないで、はね返った。彼 は、前と同じように、膳の上に目を落していた。 .「あら、貴方お箸が折れていますわ。わたしもらって来てあげ ましょうね。」  一番若い、一本になって間もないらしい妓《こ》が、そう云うと、 気軽に立ち上った。  横に居た青い無地の襟をかけた妓が止めた。 「女中さんに云うといゝわ。」 「あら、わたし自分で行って来るわ。」  足ばやに廊下へ出た。 「そう、それじゃ、なみ子さん、ついでにお銚子をそう云って ね。」 ■彼女は、白い、うるんだような面を後《うしろ》に向けて、一寸うなず いた。 「どうです。村川君、この人達、なかくきれいでマ)よう。」  今の村川にも、美しいものはやはり美しかった。 「なかくきれいです。」 「此の人が、今新橋第一の美人……。」 「外がなかったらでしょう。」  青い襟をかけた妓が云った。 「うゝむ。外があっても第一だよ。此の人が美佐子と云うん だ。今出て行った人が、此の人の本当の妹で、なみ子と云うん だ。二人とも名実兼備の美人だよ。」 「そうですか。」  村川は、かたくなって答えた。 「そうですかはないだろう。何とか抵めてやりたまえ。」l 「あら御迷惑ですわねえ。」  美佐子が、それにかぶせて云った。 「はい、これ、割ってあげましょうねえ。」  先刻出て行った妓が、いつの間にか村川の前に帰って来てい た。そして、割箸を袋の中から出して、白い可愛い手で、二つ に割っていた、        五  村川は、割箸を彼女から受けるとき、初めて彼女の顔を見 た。大きい真黒なキレの長い眼、それを覆うている細長い眉、 仏画の仏の顔を近代化したような品のよい顔であった。それ で、色がくっきりと白く、一味の妖婦味《ヴァムパィヤみ》がたfようていた。 折梅の染小紋の着物を、裾を引いて着ていた。  妹の顔を見たので、彼は本当の姉だと云う美佐子の顔を見な おした。彼女は、妹とはすっかり違って、目も鼻も口も耳も、 尋常にとゝのった顔だった。芸妓と云うよりも令嬢と云っても よい茄となしい顔だった。真青な無地の襟に黒地に白をぬいた -飛白《かすり》のお召が、ピッタリと合っていた。  「おい、なみ子、此の人はなかノ\いゝ男だろう。」  宮田は、村川をさして云った。  「えゝ。私の好きな人に似ているの。」  「齢前の好きな人ったら誰だ。」  「なみ子さんの好きな人ったら、きまっているわ。活動の役者 よ。」  姉の美佐子が云った。  「活動の役者と云ったら、誰だ。尾上松之助か。」  今井が云った。  「まあいやだわ。私日本物きらい!」  そう云いながら、なみ子は村川の欝膳についていた鮎の塩焼 を取り上げた。  「ねえ、お箸お貸しなさいな。あなたむしるのは下手だわ。妾 鮎の骨を取るのが上手よ。」  そう云いながら、なみ子は鮎の身を箸でやわらか<たゝいた かと思うと、手ぎわよく骨から身をきれいに離してLまったー 「騎い、いやに親切にするんだね。」  宮田がからかった。 「だって此方、妾の岡ぼれに似ているんですもの。」 「齢れは、誰かに似ていないかなア。」 「似ているわ。みーさんは、尾張町にいる交通巡査に似ている わ。」. 「馬鹿!.お前は、何うしてそう口がわるいんだ。ねえ、美佐 子。おれだって、これでいゝ男だろう。」 ■「えゝ、,いゝ男ですとも。わたしは、みーさん大好き。」 「でも、みーさんは、交通巡査のようにすましているから、嫌 い。時々ストップとこう云う風に、手を挙げると似合うわ。」 .=なみ子は、白い二の腕を、あらわにしながら手を挙げる真似 をした。 「おい! 器前はお客を何だと思つているんだ。御祝儀をやら ないぞ。」. 『あゝい\わ。お前は芸妓《げいしや》を何だと思っているんだ、御酌をし て上げないよ。」 「こいつー・」. 一宮田は、なみ子をにらむ真似をした。 「あゝいゝよ。こわくないわ。いざとなったら、あなた妾のた めに奮闘して下さるでしょう。ねえ、ねえ、あなたお名前何と おつレやるの。」. .なみ子は、大きい瞳を、じっとみはって村川を見た。 「馬鹿! お前の味方なんかするものか。」 「そんなことないわねえ。活動写真でも、バアセルナスやナ ヴァロは、きっとレディーを助けて奮闘するわ。」 「それが何うしたと云うんだ」 「でも、この方妾の好きなナヴァロに似ているんですもの。」  ふと、電燈が消えた。 「あら停電だわ。」  なみ子は、驚いて声を立てた。        六  真暗になったので、誰も暫くの間は、身動きもしなかった。 「さあ。しめたぞ! なみ子、先刻から生意気なことばかり 云っているから、.闇に乗じていじめてやるぞ。」  宮田が云った。 「かんにん。御免なさいねえ。いたずらをしたらいやよ。」 .なみ子が甘えた調子で云った。 「じゃ、かんにんしてやる代りに、手を握らせる?」 「えゝ。いゝわ。握手しましよう。」 「じゃ、手をお出し。」 「何処、み】さんの手?」              ■におい  村川は、闇の中になまめかしい香とやわらかなきぬずれの音 とを感じた。 「おゝいたい!.そんたにひどく握りちヰいやよ……放して よ。おゝいたい! だから、みーさん嫌い。」 「残念! 握った序《ついで》に、うんとつねηてやろうと思っていたの だ。」 「ひどい人……ねえ、此方《こちぢ》。」  彼女は真面に村川の方を向き直った。 「貴君とも握手しましょうね。お手お出しなさいね。」  村川はむせるような、若い女の香が、むっと襲いか、るの を感じた。だが、彼は手を差し出すような心は、少しもなかっ た。むしろ、ち間かまるように、身を退いていた。  白い手が、■闇の中で彼の胸にすれくに左右に動いた。 「何処! 何処- 手をお出しなさいねえ。」  村川は、頑固に手を膝につけていた。 「まあ。お出しにならないの。いゝわ。」  そう云ったかと思うと、彼女は闇の中で手さぐりに、お膳を さけながら村川に近づいた。そして、両手で村川の右の手を 握った。 「まあ! お行儀よく、膝の上に置いていらっしゃるのねぇ、 きあ握手!」 'そう云って、なみ子は村川の握りしめている手を、ムリに開 けながら、自分の右の手でしっかりと握った。 「村川君、■そんな奴と握手したら駄目だよ。」 「いゝわねえ。大きなお世話。明るくなるまでこうしていま しょうね。」 「馬鹿-・村川君jうんとつねってやりたまえ!、!…」.・■ 「誰が……あなたのような邪樫な方とは違いますわねえ。」  そう云いながら、彼女は村川の手を強く握りしめた。・ 一なやましい感覚が、村川の全身を襲った。だが、それは皮一 重の奥へは、は入って来なかった。彼の心の中には(先刻から の焦燥や苦悶が、ハッキリと形が崩れずにつバいている。た だ(彼の感覚だけが、此のはげしい刺激に、ともすれは揺り動 かされた。だが、彼は右の手に、少しの力を入れることもしな かった。■た間、彼女のなすまゝにまかせていた。 .「まあ。貴方騎となしい方ね。何とか、おっしゃいよ。怒って いらっしゃる?」  村川は、首を振ったが、闇の中なので、彼女には見えなかっ た。 「妾があまり一図々しいので驚いていらっしゃるの。」 「そうさ。お前のよヶなおてんばに会っちゃ、誰だって驚く さ。一う、うんとつねってやりたまえ、村川君。」        七 ー電燈が、点いて明るくなってからも^なみ子は村川の傍を、 容易にはなれようとはしなかった。 「お宅の電話番号教えて下さいな。」 「教えてやろうか。」  宮田が、横から口を出した。、∵ 「えゝ教えて。」 「小石川の五百番だよ。」 「ウソ! 五百番は電話局じゃないの。」 「五百番で訊けば分るんだよご 「ヨタねえ。」 「だって五百番で訊けば何だって教えてくれるじゃないか。」 「じゃ訊いて見ようかしら。みーさん以上の浮気者があるかっ てP」 「それはお前がよく知っているじゃないか。女で云えばお前 さ。」 ,、「ウソ{ 此方《こちら》、そんなこと信じないわねえ!」  彼女は、村川の顔をのぞき込むように見上げた。, 「さあ! ボツボツ帰ろうか。」  今井が立った。 「彼処《あすこ》へお寄りにたるでしょう。」 ・.美佐子が、目くばせしながら云った。 「うむ、一寸寄ってもいゝな。」  村川は、やっと解放された気になった。 「私は、もうお暇《いとま》いたします。」・  改まって、今井に云った"  その堅くるしい初心《うぶ》な態度をなみ子は不思議そうに見てい た。 「君も、つきあい給え、いゝじゃたいか、まだ九時前だよ。」 「あの、僕は一寸用事がありますから。」 「そうか。じゃ、自動車を呼ぼう。」 「いゝえ。それには及びません。電車で帰ります。」. 「そう遠慮したもうな、いゝじゃないか。」  宮田は、女中に命じた。 「あなた。そんなに茄急ぎになるの。ねえ、もっといらっしゃ い。後生だから。」  なみ子は、また村川の手を取ってゆリ動かしながら云った。 「いや、僕は帰りたいのです。」 「いやに堅くるしい坊やねえ。いゝ子だからもっといらっしゃ い!」 「おい誘惑したらダメだよ。」  宮田が立ち上りながら云った。村川も立ち上った。 「うゝん。妾、誘惑するの。妾、こう見えても妖婦《ヴアムパイヤ》よ。」 「そんな日本物の妖婦《ヴアムバィヤ》はダメだよ。」 「だって、此方《こちら》だって日本物の色魔よ。だからいゝじゃない の。あなたのお帽子これ……」  なみ子は、村川の帽子を取り上げて裏を見た。, 「あゝ分った村川さんとおっしゃるの。」 「お前のように、初めて会った記客に、そうノヘ図々しい奴は ないねえ。」  今井が冗談とも真面目ともつかずに云った。 「そう、悪かったわねえ。すみません、これから気をつけま す。でも、いーさんも偶には気の利いたお客を連れて来るわね え。これから、きっと此の方連れて来てねえ。」 「あゝ連れて来るとも。その代り、お前をよんでやらないよ。」 「いゝわ。だまって押かけて来るから、いゝわ。ねえ此方、ま たいらっしゃいねえ。」  彼女は、・乱れさく牡丹のように妖艶だった。        八  外へ出て見ると、今井の自動車と一緒に村川のためのタクシ も来ていた一  村川は、今井や宮田が、自動車に乗るのを送った。そして自 分一人タクシに乗った。,すると一番遅れて出て来たなみ子が、 今井の自動車に乗らないで、村川の車のドアをあけて、サッサ と村川の横へ坐ってしまった。 「なみ子さん。此方の車におのりなさいよ。其方《モちら》はお帰りにな るのよ。」  姉の美佐子が、しまっていた向うの車のドアをわざノ\開け て、此方へ呼びかけた。 「い♪わよ-妾、送っていた間くの。ね、いゝでしょう。一寸 廻り道して送って下さいね。」  村川は、苦笑しながらうなずいた。  車は、つ讐いて動き出した。 「お宅どちら。」 「小石川です。」 「そう。妾、送っていた間くの、うそよ。妾に送らせて下さい ね、いゝでしょう。ねぇ。運転手さん、小石川ヘ。」 「駄目です。僕は一人で帰るのです。前の車の行くところへ 行って下さい。」 「うそよ、運転手さん、小石川へ!」 「いや、それは困ります。向うの車の通りにやって下さい。」 「うそ! ねえ運転手さん小石川へね。」 「駄目です。駄目です。」 「いゝの。いゝの。妾の云う通りしていればいゝのよ。」  なみ子は運転手台の方ヘ、半身のり出しながら云った。運転 手は微笑しながら、 「畏まりました。」 、「困るな、貴女はあちらヘ行かなければいけないのでしょう。」 「いゝえ。今井さんのお座敷なんか、誰がつとめてやるもので すか。あんな、鼻摘み。」 「だって僕が困るですな。」 「あなた、おいや、妾が御一緒じゃ。」 「でも、僕は、困ったな……。」 「いゝじゃありませんか。妾をこわがっていらっしゃるの? ・妾、これでおとなしいのよ。」 「それは、・そうでしょう。でも僕は……。」  前の車は左へ折れた。. ■「君、あの車の後へ……。」  村川は、可なり一生懸命に呼んだ。 ・「小石川へね。ね、運転手さん、妾の云う通りねえ、御祝儀う んと上げるわ。」 ,運転手は、苦笑しながら、 「小石川は、どちらです。」 .「小石川はどちら?」  彼女は、村川の方を見た。 「困ったな、君、僕はこゝで降りたいな。」 「まあ。おどろいた! そんなに妾がお嫌い?」  「そうじゃありませんよ、茨して。」 「じゃ、いゝじゃありませんか。あなたも度胸をきめなさい よ。」 「別に度胸をきめるほどの事でもないけれども・…!.」 「そう、そう、その調子/\。ね、もうそんなこと云いっこな し、伸よくしましょうね。」  そう云って、彼女は自分の両手の中に村川の左手を入れて、 |愛撫《キヤレス》した。        九、  村川となみ子とをのせた自動車は、馬場先門から、宮城前の 広場へは入り、あの妨《さぇ》ぎる物もない大道を、冷たい夜風を巻き 起しながら、疾駆した。  二人ぎりになってしまうと、なみ子は急にしずかになってし まった「彼女は、今までの自分のはしたなさに、すっかりてれ てしまったように、いつか村川の手から、自分の両手を離して いた。  先刻のお客を騎客とも思わないような、おきゃんな彼女の代 りに、年は年丈にあどけない少女らしく、だまりこんでいた。 車内の薄ぐらい光の中に、彼女の白い顔がハッキリと浮び、赤 いくちびるがいかにも肉感的な色を持っていた、村川は、彼女 の姿から、あるなやましさを感じるので、なるベく彼女の顔を 見ないようにつとめていた。  村川の感覚だけは、なみ子になやまされていたが、彼の心 は、むろん倭文子を中心にしていろくな憂慮や不安で切り刻 まれていた。宮田のことを聞いてから、その憂慮や不安が一倍 深刻になった。ー周囲の事情がみんな不利に動いていた。その上 つかんでいる筈の倭文子の心が、彼の掌中でふわふわと動いて いるような気がした。 「お兄さま。ほんとうに、またいらっして下さる?」  なみ子は、ふと顔を上げて、村川の方を見た。^先刻とは、ま るで違った哀願するよケな色が眸の中に動いていた。 「い\え。僕は行かれません。」 「なぜ。」 「だ、っ亡、僕は今日招痔されて行ったのです。」 「一、人じゃい与,っしゃれないの?」 .「むろんでナむ」 「まあ一」,㌃ 「   」 「じや、ごれっきりZ」 「だって、…何も僕は…一:」 「え廿・毛ヶだわ。、貴方は御用はないでレよう。でも、妾はお 日にかギ与たいの。」.・.・. 「そのラち、.品お目にか.ゝれるでしょケ。」、!ー 「そのうちは"心細いわ。ねえ、妾の家の電話銀座の五五五 よ。あなた鴬暇のときかけて下さいな・妾、カプエでも何処ヘ でも行くわアねえ、.かけて下さいね。」 .村川は、だまっていた。 「ねえ、・銀座の五五五よ。覚えいいでしょケ。妾、、昼間だった ら、何時でも出られるO。」 .自動車は、いつの間にか白山下へ来ていた。村川は、おどろ いて車を止めた。■ 「ねえ、ねえ、,ぎつと、騎願いだから、げんまんコ」 彼女は、右手の小指をカギにして出した。だが、村川は、そ れには応じないで、いそいで、車を降りた。 「じゃ、きワと。」、  彼女は、ポロの中から半身を出しながら、幾度も念を押し ち  村川は、不得要領にあいさつした。.だが、十間も歩いて振り かえると、-彼女はまだ美しい笑顔を此方へ向けていた。村川は かすかに、いじらしい気がした。 「村川さんステキですね。」  村川が、おどろいて振り返ると川辺にいる書生の野村だっ た。夜学の帰りらしく、ズックを持っていた。 「何だ、君か!」 「あれ、芸者ですか。い一女ですな。」 村川は、.すσかりしょげてしまった。憂欝がまた新しい根を 一つ出した。一 好 謀・        一 倭文子が、お部屋でぼんやり坐っていると、赤い弁慶縞のネ ルを着た美智子が、駆け込んで来た。 「倭文子ねえさま。お姉さまが、一寸いらっしって下さいっ てご 「何処にいケっしやるの,」 「西洋館の方のお部屋。」 倭文子は立ち上って美智子と一しょに西洋館へ行った。 .廊下で、美智子がチャイナマ!ブルの箱を出した。 「一つ上げますわ。赤がいゝの、青がいゝの。」 「どちらでもけっこうですわ。」 366 ---------------------[End of Page 52]--------------------- 第二の接吻 「じゃ、赤いの上げましょうね。」 .「どうもありがとう。」,  西洋蝕へ来て見ると、一京子は客間のソツプに腰かけて倭文子 を待っていた。 「ねえ、美智子、あなたいゝ子だから、霊母さまのところへ 行りていらっしゃい。」 「えゝ。」  美智子は、ば寸悲しそうな顔をしたが、直ぐ思い返してノメ タノ\と駆け去った。  村川と植物園で会って以来"倭文子は京子の傍へ来るのが何 となく気がとがめた。 「御用していらっしたの。」 「いゝ・え。口 「ねえ"倭文子さん。わたし、面白いものを拾ったのよ。」■  京子は、・意地のわるそうな笑いをもらしたリ 「何でございますの。」 「云い当て御覧なさい。」  倭文子は、小さい首をかしげた。 「分りませんわ。」一  京子は、意地わるそうにニコニコ笑っていた。  倭文子は村川が".自分にくれる手紙を落したの■ではないかと 思ってあおくなった・ 「どなたの手紙^ゴ」. 「面白いの。とても面白いの。」  京子は、面白そうに笑いつ間けた。倭文子は、それにつれて 不安になった。 「どんな面白い手紙ですの。」- 「秘密の手紙、しかもラブレターよ。」 ,.倭文子は、真蒼になっていたρン 「妾ね、だまって誰にも云うまい之思ったの。で㌔、・湘手がに くらしいの。だから、あなたにだけ見せて上げるわ。これ……」  京子は、懐から桃色のレターペーパーを出した。  女性の手紙だったので、倭文子は揖っと安心したけれども「. それを開こうとする気はなかった。 「ね。一寸見て御覧なさい。とて㌔衙白いのぱ。」■ 「でも、妾何だか恐いわ。し 「いゝじゃないの。貴女に責任はないのですもの。ねえ、一寸 御覧なさいね。」 .京子は、レターペーパーを【ひろ甘てさ↓出した。・ …倭文子は、いやでも読まずには居られなかった。それは、可 愛らLい女手であった一甘れども、可なり下手な字であった。 でも、一かく一かくハッキリと書いてあるので、スラくと読 めた。 「昨晩は、ほんとうにうれしゅうございました。でも同じ家《うち》 に、住みながら何と云うはかない逢瀬でしょう……。」  倭文子は、あまりに自分の身に近いので、アッと心の中で、 おどろきの声をあげた。 二 もっと、いつまでもくお目にかゝっていたいと思います わ-会って直"別れなくてもすむような国が見っかるまで、 一もうお会いしないで置きましょうか。お会いしている喜び と、同じ家の中でもお別れしているさびしさと、私にはとて 一もく比べられないのですもの。 でも、お会いしている時は、此の世の中が幸福で一杯です お。騎やさしいお手にだかれていると、何も申すことはあり ませんわ。一 でも、貴方のような立派な方に恋愛なんかしている妾は、 馬鹿者でないかと思いますわ。 でも一番幸福な人間であることもたしかですわ。 大 倭文子は、自分の心そのまゝが、字はまずいけれども、マザ マザと書かれているのを見ると魅せられたような心持になっ て、魂までが、レターペーパーの中に吸込まれて行った。■ ・でも、貴方の愛が、ほんとうにはまだ信じられませんの。真 剣な真面目なものだとは、まだまだ信じられません、キスな んかなさるのが面白くて、私をからかっていらっしゃるとし か思われません。そうでしょう。ねえ。あらニャく笑って いらっしゃるわ。きっとそうよ。.でも、妾、だまされている のだっていゝわ。妾、」だまされているのだってくやしくない ・わ。妾あなたにだったら、だまされていても、うれしいわ。 .でも、「お捨てになることはいやよ、茄捨でになったら、だ まって死にますよ。 こよいも、お目にかゝれると思うとどんなにうれしいか分り ませんわ。でも、昨夜のようにまた待たされると思うとくや しくてたまりません。十時に、一分でもお<れると、わたし ーどんなことがあってもお許ししませんよ。いゝえ、それはウ ソですわ。.妾きっと、夜があ汁るまででも騎待ちしています わ。  文句は、そこで終っていた。倭文子は、読み了ると、大きい 溜息が、心の底から出た。喪心したように、それを京子の手に かえした。 京子は、ニャノヘ笑っていた。 「ね、貴女誰が書いたと思って,」 「分りませんわ。」 「そう、妾、初めあなたじゃないかと思ったの。」 「まあ!」  と"云おうとした言葉が、倭文子ρ目のところでこわばって しまりた,. 「でも、貴女にしては、字がまずいでしょう。」 「いゝえ、妾だってまずいわ。」 『いゝえ。貴女は、お土手だわ。それに貴女の字とは丸きり 違っているでしょう。」 -「えゝ違つているわ。」ー 「で、妾よく考えたの。ところがハ,驚くじゃないの。これ一枝 なのよ。」 .「まあ!」一.. 「でも、■文句はうまくない2」 「えゝお上手だわピ 「なまい唐ね一十七のペせに、こλなヨブレ汐■なんかかい て。」 「ほんとうに。」 「それで、貴女相手億誰だと思うの。」  倭文子は考えた。同じ家に住んでいる'枝の相手、それは書 生の野村より外にはなかった。 「云って悪いかしら、でも野村さんより外にはないでしょう。」 「そう! 妾も、そう思ったの。ところが、驚くじゃないの。 此の封筒御覧なさいよ。」  京子は、懐から鼠色に鈴蘭の模様のある封筒を取り出した。 その表κは朋らかにMさまとかいてあった、        .三 「Mさまりてだれでしょう。」・  倭文子は、一寸思いあたらなかった。 「まあ」 貴方気がつかないの。」  京子は大きい眼をみはった。「だからあなたはお人好しよ… おほほ御免なさいね。」 「だって、妾分らないわ。」 「分らないことないじゃないの。此の家でMさまと云えば、村 川さんより外ないじゃないの1」  倭文子は、カッとした。だが、狼狽はしなかった。彼女は、 村川セ信じてい九。 .「そんなことありませんわ。」l 「まあ! なぜ。」 「でも村川さんが、■まさかそんなことなさらないわ。」■ 「だかち、貴方はお人好しだわ。それともあなた、村川さんの ことよく御存じ?」 .「いゝ}え。」 「じゃ、tない之云う七とがなぜ「お分りになるの。」 ..「でも。」  京子は'急にまじめになった。 「貴女、何も御存じないのねえ。妾、実はあなたの事心配して いたのよ。村州さん、,貴女に何もしないP」 ■倭文子は、蒼くなった。だが、勇気を振い起して云った。 「何もなさりませんわ。」■ 「そう。それなら、いゝわ。あの方、とてもひどい方よ、いつ かの晩……四五日前の晩だわ。妾が、夜お庭の四阿《あずまや》にいると、 あの方がやって来たのよ。それで、いきなり妾にキスなさろう とするのですもの。妾びっくりしたの、びっくりしたよりも、 腹が立ったわ。妾思いきり、突きとばしてあげたのよ。」  倭文子の顔が、まっさおになり、唇がブルくふるぇた。 ■「それだのに、あくる日はすま七ているのよ。昼間銀座の方へ おいでになる用事があったら杜の方ヘお寄りになりませんか だって、ほんとうにあきれてしまうわ。夫《それ》に此手紙でしょう。 一枝なんか何も知らないから一も二もなく、だまされてしまう んだわねえ。女性に対する良心なんか、てんでないのでしょ う、いきなりキスしようとなさるんですもの。恋愛でもないの よ。きっと性愛だけよ。そして、女の唇から唇へと巡礼してあ るくのでしょう。ほんとうに、■ひどいわね。女性の敵だわご  京子は、美しい眉をつりあげた。悲憤の表情が美しい顔をい ぴつにした。  倭文子は身体中が氷のようになってうつむいていた。 「一枝こそ可哀そうだわ。あれで、身体の秘密をみんな知られ て、ポンと捨てられてしまうのよ、きっと、三月とはつvかな いでしょう。■でも、一枝だから、まあいゝのだわ一それが貴女 であったら、どうでしょう。」  倭文子は落ち込んだ絶望の穴からやっとはい上った。 「でも、妾、まさか村川さんが。」  彼女は、村川が自分以外の女性を、これほどかるがるしく愛 しようとは思わなかった。 「そう、℃や、貴女は村川さんが、妾にキスしようとしたこと をお信じになれないの。」  倭文子は、うちのめされてだまった。 「妾も、村川さんを信じてあげたいの。まさか、一枝のような 子供を弄ぶ人だとは思いたくないの。」 「何かの間違ですわ。■その手紙丈は。」 '倭文子は泣き出しそうな声で云った。        四 「そうね。何かの間違かしら。私もそう思いたいわ。村川さん の人格のために、ねえご  京子も思い直したように、やさしく云った。 「きっと間違ですわ。きっと。」  倭文子は、やっと逃げ道を見つけたように、必死になって 云った。 「そうね。こんな手紙丈で、■疑ってはわるいわねえ。妾、いっ そ一枝を呼んでしらべて見ようかしら。」 「可哀そうですわ。そんなことなさるの。」  倭文子は、あわてゝ止めた。 「それもそうね。」京子は、何か考えていたが、「妾ね、この手 紙本当はそこの階段のところで拾ったのよ。階段を上る人と 云ったら村川さんの外ないでしょう。」  京子は、大きい瞳を倭文子の賛成をうながすように動かし た。 「でも、これ丈で信ずるのは、村川さんにすまないわ、一層の こと妾、村川さんのお部屋へ行ってしらべるわ。」 「まあ。およしなさいませ! そんなこと遊ばすの。」 「いゝじゃありませんか。こんなこと、ハッキリときめて置き たいわ。一枝の身体だって妾があずかっているのでしょう。万 一のことがあるといけないわ。あなた一緒に立ち合ってくれな いp」 「まあ!」 ー' 「おいや?」 「いゝ}え、で「もo」 「妾が、一人でしらべるの。貴女はた間一緒に来て下さればい いの。」  京子は、はや立ち上った。  倭文子の心にも、疑惑がむくくと首をもちあげていた。そ れにつれて、生れて初めて嫉妬が、不快な痛みで、純真な胸を つゝいていた。たしかめたい、一枝と村川について真実《ほんと》のこと を知りたい。この不快な疑惑を晴らしたい。わるいことだが、 た讐立ち合うこと丈はゆるされよう。彼女はそう思って、京子 の後について階段を上った。  京子は、十二三の子供が、いたずらをしに行くように快活 だった。 「きっ乏、村川さんの机の引出に、こんな手紙がいくつも在る のよ。見てやってもいゝわ。あんなひどい人、どんなことをし てもいゝわ。」  京子は、足ばやに階段を上った。だが、倭文子は足も心も重 かった。凡てが悪夢を見ているように、突飛で、その上、マザ マザと苦しかった。  村川の部屋へは入っても、倭文子はドアの所で足がすくん で、中へは入れなかった。京子は何の躊躇もなく机に近づい た。一番左の端の引出を最初にあけた。 「おや、からっぽだわ。おやく洋服屋の受取があるわ。」  京子は、それをしめると、真ん中の引出をあけた。 「おやジレットがあるわ。リームツマの箱が三つもあるわ。な まいきねえ。金口なんか吸って。おや肱附《ひじつき》があるわ。これあな, たが、こさえてあげたのじゃないP」■  京子は、フラツス刺繍の肱附を高くさしあげて倭文子に見せ た。 「いゝえ。存じませんわ。」 「そう。だれでしょう、こんなもの村川さんにあげるの……な いわ。手紙らしいもの、ちっともないわ。」;  京子は引出の内容を必要以上に、かき廻しながら云った。 「ねえ。もうおよしになりませんか。妾何だか恐うございます わ。」  倭文子は身体がかすかに、ふるえるように感じた。        五 「いゝじゃないの。責任は妾にあるのですもの。」  京子は、.一番右の引出をまた無造作にあけてしまった。其処 には、・万年筆とカルモチンの小箱が三っばかりころがってい た。村川が悶々として不眠の夜を過ごしていることなどは、少 しも京子の神経にふれなかった。 「おかしいわ。こんなはずはないんだがねえ。」 ,倭文子は、救われたように喜びながら云った。 「やっばり、村川さんじゃございませんのよ。」 「いゝえ。きっと村川さんよ。でも、こんた手紙は引出なんか には入れないのよ。妾、きっと探し出すわ。妾、名探偵よ。」  京子は、机から三四歩後へ身を退くと、部屋をじっと見廻し た。 ・「あゝ分った。」  そう云って、左側の書棚に在る大英百科全書を、一々さわっ て見た。でも、最新版の厚さ一寸にも足りない】冊一冊には、 手紙をはさんであるような厚味は感ぜられなかった。  京子は、また部屋の中央へ帰って、部屋中をじいっと見渡し た。と、いきなり彼女は、身を燕のようにひるがえすと、左手 の壁にやゝ高く掲げてあるルソ}の影響を受けたらしい明るい 色の油絵の額面に手をふれた。 、あゝ在ったわ。在ったわ。これこんなに。」  彼女は、額面の後《うしろ》から、ふくれ上った女用の西洋封筒を幾つ も、次ぎくに取り出した。 「まだあるわ。幾つでも在るわ。」  倭文子の顔の色は、見るノ\土色にかわった。彼女は、京子 や油絵や机や書棚がくるく廻り出しそうな感じがした。彼女 は、両足に力がなくなり危く倒れようとするのを、壁に身をよ せかけることでやつとこらえていた。 「倭文子さん。これ一つノ\見ましょうね。随分あるわ。丁度 五つあるわ。」 「いゝえ。妾、失礼しますわ。」  彼女は低いけれども、必死な声でそう云うと、ドァをあげて 外へ出た。そして階段をころげるように駆け降りた。 「倭文子さん、御まちなさい。ひどいわ。妾をおいてけぼりに して。」  京子は後からよびかけた。だが倭文子は後をふりむこうとも しなかった。  倭文子の足音が聞えなくなると、京子は急に笑い出した。彼 女は、雀躍りするように、身体を動かしながら笑った。ヒステ リックに、いつまでも笑いつ間けた。 ■そして、やっと笑い止むと、持っていた封筒を、一つ】つ破 り出した。中の手紙を取り出して読んでは、クックヅ笑った。 器しまいの二つからは、た讐真白なレターぺーパーが出た丈で ある。  彼女は、引出から先刻の万年筆をとり出すとそのレターペ ーパーに何か二三行かいた。それを机の上に置いた。だが、思 い返したらしく、その紙を引出に入れた。それで部屋を出よう としたが、またひき返して来て、引出から、その紙を取り出す と、四つに折って机の上に置いた。だが、それも気に入らない らしく、今度は電気スタンドの台の下にはさんだ。それで、 やっと安心したらしく村川の部屋を出て行った。        六  自分の部屋に逃げ帰った倭文子《しずこ》は机にもたれたまゝ、いつま でも泣いていた。■心の苦しみはある程度まで行くと、肉体的な 苦痛を伴うものだが、倭文子も胸が痛み、お腹にあるものゝ凡 てが何かでかき廻されるように苦しかった。時々、はき気が催 して来るのを彼女は、じっとこらえていた。涙がしきりに出て 来た。彼女は横顔を机にくつつけて泣いた。涙が机の上にポト ポトと落ちた。彼女は、悲しみが烈しくなると、机にすがりつ いた。此の小さい机より外に、彼女のとりすがるものは世の中 に何もなかった。  一時間も泣きつバけても、胸の苦しみはちっともとれなかっ た。彼女は、机の上に落ちた涙を指につけて、いたずら書きを 始めた。それが、一みんな悲しい字になった。ふと村……とかき かけても、どうしてもその後がかけなかった。もう、彼の名前 をかくことさえが、恐ろしい苦痛だった。  色魔!■彼女は、机の上にそうかいた。だが、それが恐ろし かったので、直ぐ消した。だが彼女の心にかゝれていた愛の肖 像《ポ トレ ト》は、もう真二つにひきさかれていた。心が、純であればある ほど、極端な信頼から極端な疑惑へ、一またぎにしてしまうの だった。  彼女は、もう一度村川に会って、自分の口でたしかめようか と思った。だが、ふみにじられた彼女の心には、もうそんな勇 気がなかった。もう一つ念のために、こよい十時に村川と】枝 とが、会うかどうかたしかめたいと思ったが、彼女にはそんな 恐ろしいことは出来なかった。ただふみにじられたならば、ふ みにじられたまゝ、じっとあきらめることが、彼女に一番ふさ わしいことだった。  晩の御飯には、彼女は箸を取った間けで、御飯はちっとも咽 喉を通らなかった。美智子が来て、新しいレコ1ドをかけるか ら、いらっしゃいと誘ってくれたが行かなかった。 .恐ろしい苦痛が、少しもゆるむことなしに倭文子を、さいな んだ。彼女は、もし床にはいったら、偶然なねむりが、それを 救ってくれやしないかと、九時前から、寝床をしいて、床につ いたが、いくら蒲団を頭からかぶっても、意識は水のようにす み切って、すみ切った意識の中で、苦しみの匁が縦横に彼女の 心をきりきざんでいた。  十時が、近づくにしたがって、彼女の苦しみは増した。両手 で、じっと胸をかゝえ、何も考えまいとして、つとめればつと めるほど、いやなまぽろしが、ハッキリと頭の中に浮んで来 る。  右をむいても左をむいても、ねむれなかった一目がさえてし まって、電燈を消した部屋の中までが、アリノ\と瞳にうつっ て来る。  苦しみの時間は容易に経たなかった。十時が来なければいゝ と思い、また早く来てしまった方がいゝとも思っていたが、そ の十時は容易に鳴らなかった。ふと、廊下に面した障子が、ス ルくと開いた。 「倭文子さん、お休みになったの。」  倭文子は、おどろいて床の中に起き上った。それは京子の声 であった。 「いゝえ。」 「一寸話があるの。電燈っ吟てもいゝでしょう。し  倭文子は、ゾヅとしたΦまた京子が、何か恐ろしい話をする だろうと思ったからである。  カチッと音がしたかと思うと、パッとついた電燈の光の中 に、白と黒とのあざやかな棒縞を着た京子が、ニコく笑いな がら立っていた。        七 「わるかったわねえ。お休みになっているところを。」  京子は、そう言いながら、ちっとも悪かったらしい顔をしな いで、後《うしろ》の障子をしめると、そこの柱を背にして、腰を齢ろし た。、 「いゝえ。妾、まだねていませんでしたの。」 「ねえ、倭文子さん。妾また村川さんのあること聞いたのよ。」  倭文子はそれを「何ですの」と云って訊きたfそうとする勇 気はなかった。 「ねえ、一寸村川さんがね。昨夕芸者に送られて帰って来たの ですって。」 .倭文子は見はった眼から危く涙がこぼれそうになった。 「ほんとうですの。」 「ほんとうですとも。野村が見つけたんですって。」 .「まあ!」 「それでも、まだ貴女《あなた》、あの方を艶信じになるの。」  倭文子は、うつむいたまゝ言葉がなかった。  京子は、しばらくだまっていたが、 一「あ\もう直ぐ十時だわ。もう五分前よ。」彼女は左の手首に つけたプラチナの時計を見ながら、言いつ父けた。 「貴方、気にならない。」  倭文子は、涙ぐんだ瞳をちらとあげたが、すぐ顔を伏せた。 「妾、何だかくやしいのよ。気になっちまうの。やきもちやき かしら、妾、十時前から一枝に用を言いつけてやろうと思=って いたら、もうとっくにいないのよ。」  倭文子は、胸がやけるようにあつくなった。 「行って見てやりたいわねえ。でも、そんなことをすると、此 方《こつち》がいやしく見えるわねえ。」  倭文子は、はやく京子が去ってくれゝばいゝと思った。京子 の一語一語が、彼女の心をむざんにブツブツとつきさした。 「ねえ倭文子さん。話というのは外でもないのよ。妾、四五日 海岸へ行こうかと思っているの、あなた、つき合って下さらな い。」  倭文子にも、それは何よりの救いだった。京子と一緒に行く にしろ、此の家にいるよりは、どれ丈心がなぐさめられるか分 らないと思った。 .「えゝ、おつき合いしますわ。」 「そう。それはありがたいわ。ねえ、わたし家《うち》の別荘よりも、 今井の別荘へ行こうと思うのよ。彼処《あすこ》なら留守番がいるから御 飯こさえてくれるのよ。」 「えゝ結構ですわ。」 ,「あした早く行かない。なるペく早くね、七時半頃に家を出ま しょうねえ。」 「えゝ。」 「あなた、今夜中にこしらぇしなくってもいゝ2」 「えゝ、少ししまし{うかしら。」 「カバンでも、バスケットでもあるわ。女中に持ってこさせる わ。」  京子は、立ち上って倭文子の机の傍までゆくと、そこにあっ た呼鈴《よびりん》のベルを押した。■  廊下に足音が聞えて女中が来た。 「お母さまにね、倭文子さまも一緒にいらっしゃるから、小さ いヵバンを出して下さいって。お居間の右側の押入の上にある 方を出して下さいって。」  女中が、 「かしこまりました。」  と云って去ろうとすると、京子はふと思いついたように呼び 止めた。 「あの一枝帰って来た?」 「いゝえ、まだでございます!」, 「そう。」 「探して参りましょうか。」 「いゝの。」 「もし帰ったら、私のお部屋へよこしてね。」 「はい!」  女中は去った。京子も立ち上った。 「じゃ倭文子さん、あしたね。お休みなさいね。グットナイ ト1 グットスリープ。早く起きなければならないのですか ら、早くお休みなさいね。」  倭文子は京子の足音がきえると「わーっ」と、かけぶとんの 上へ泣き倒れた。泣いても泣いても彼女の悲しみは、少しもう すらがなかった。■ 八  村川は、家へ帰って部屋には入ると、被ぶっていた中折を、 左手の帽子掛に見かけて投げつけた。■自分の頭の中の憂欝や不 安を投げつけるように。むろん、帽子は反動で、…二尺はねか えって床に落ちた。それから、上衣をぬぐと肱附《ひじつき》椅子の上に、 たゝきつけるように置いた。  彼は、頭の毛をかきむしった。そのように、頭の中のいろい ろな不快をかきむしりたかった。村川の帰ったのを知って、女 中が湯の案内に来た。だが、彼は頭を振って、ことわった。一 刻も早く倭文子に会いたかった。自分で、倭文子の部屋におし かけて行きたかった。だが、今まで一度も倭文子の部屋を訪ね た事がないし、もう九時を廻っているらしいので、そんな事は 思いも及ばなかった。ただ、どうかして手紙でも出したかっ た。だが、女中に手渡してもらうことが、危険である上に、自 分でそっと手渡す機会なども、容易にあろうとは思えなかっ た。彼は、ふと考えついた。恋は多くの場合に、発明の母であ るが、彼もまたかいた手紙を邸外へ持っ-て出て郵便で出すこと を考えついた。それは廻りくどいことである。だが、しかL安 全で一番適確な方法であったーしかも、一番疑われない方法で ある。彼は、その方法を考えつくとその馬鹿々々しい廻りくど さと、しかも間違ないたしかさに、つい愉快になって、救われ た明るい気持で机に向った。  机の引出から、万年筆と書簡筆を出した。彼は秀才の上に文 章は可なり自信があるのだが、字は悪筆であった。会杜で杜長 の代筆を、嫌々ながら、二度すると、三度目には先方で頼まな くなった。彼は、まずい字を恋人に見せるのはイヤだった。で も、勇気を出して書き出した。  彼が三行ばかり書くと、電気スタンドが少し邪魔になるのを 感じた。彼は、左手を出して、それを遠くに押やろうとした。■ すると、その下から白い紙片がはみだしているのを見つけた。 「おや!」と思って、彼はその紙片をとりあげた。  それは、純白のレターペーパーだった。■鈴蘭の模様がついて いるので、少女用であるのが直ぐ分った力.彼は胸があつくなり ながら、それをひらいた。  その瞬間、夕暮の海のように暗かった彼の顔に、サヅと金色 の光がみなぎった。彼は万年筆を放り出すと、部屋中をきりき り舞いしたがら、飛んで歩いた。  彼は机の前へ帰って来ると、またその紙片をとり上げて、見 直した。最初見た通りの、 「今晩、十時、あずまやでお待ちして居ます。ぜひくお出で 下さいませ。倭文子。」  という字が、そのまゝに在るのが、奇蹟としか考えられな かった。こんな手紙が、世の中に存在していることが奇蹟だっ た。 ・「倭文子さんが、この覚悟なら、京子が逆さまになったって、 恐くないぞ、見事に倭文子さんと結婚してあの高慢ちきな京子 を、ギャフンと言わせてやろう。」  彼は心の中でそう叫びながら、部屋の中を飛び廻った。       九  それでも、村川ははずみ切った心を押えて、十時十五分前ま で部屋にいた。それまで、」待つ事は可成り苦しいことだった。 彼は足音をしのばせながら、階段を降りると、洋館の玄関のド アをソッとあけて外へ出た。  日本館の台所には、女中達がまだ起きていた。話声のする窓 下を通って、奥庭へ出た。  満月の夜は、遠く過ぎて、晴れた初夏の夜であるが、月は未 だ出ていなかった。樺《けやき》の梢越しに洗われたようた星空がはるば るとかゝっていた。花の香か樹の新芽かが、夜の闇にほのぽの と香って居た。白いさつきの花が白じらと咲きみだれていた。 しかし、恋人との会合《ランデプ 》はハッキリ相手の顔を見合せるまでは、 喜びよりも不安の方が先に立つものだ。どんな堅い約束を交し ていても、しっかりと手と手を握り合うまでは安心が出来な かった。まして、村川は此の前の夜の会合に、取り返しのつか ぬ失敗をしていたから。  四阿《あずまや》の近くへ来ると、村州は身体も心も、不安と喜びとでふ るえた。彼は、倭文子が先へ来ていやしないかと、遠くからた しかめようとした。だが、四阿の中は、暗かった。彼は、闇の 中に目をみはりながら一歩一歩近づいた。若いかえでの樹の下 をくぐると、もう四阿は目の前にあった。  彼は、其時四阿の中に、ハッキリと人影をみとめたので、う れしさのために、あやうく声を出すところであった。  彼は歓びにあえぎながら、かけつけた。だが、先夜の失敗が あるので、いきなり中へ駆込まずに、一間位手前のところで、 一一度立ちどまった。.  すると、村川の姿をみとめた中の入影はあきらかに狼狽した らしく立ち上った。彼はそれが倭文子ほど、背の高くないの に、気がつくと、驚樗と失望とで、ー立ちすくんで、まった。 「まあ、村川さんですか。」  相手は小間使の一枝であった。 「君か。何だ。」  村川は、絶望して叫んだ。「君は、何だって今頃こんな所に いるのだ。」 「あの、一寸考えごとしていましたの。」 「そうか。」  村川は、此の可愛い小娘に対して、烈しいにくみを感じた が、それかと云って、今の場合何うすることも出来なかった。 「考えごとをするなんて、何うしたんです。もう遅いんだか ら、行ってねたらどうです。」 「でも、お部屋だと何も考えられませんもの。」 彼女は、いつの間にかまた腰を,おろしていた。  村川は、生意気なことを云うと思ったが、しかしそれ以上、 立入って命令することなどは出来なかった。  彼は、つぎ<に襲って来る凶《わる》い偶然に、ほとんど泣きたく なった。だがどうすることも出来なかった。無理に一枝を追っ たりなんかすると、直々京子に告口されることは明らかだっ た。.  彼は応急手段としてあずまやへ近づいて来る倭文子の姿を見 つけたら、一枝に知られないよう此方《こつち》から中途で迎えようと思 いながら、四阿を背にして目をみはっていたが、入影も見えず それらしい物音もしなかった。闇の中で、時計をすかして見る と、もう十時になんなんとしていた。       十  村川は、いらノ\しさで焼ける胸を抑えて、二三分辛抱して いたが、どうにも堪らたくなって、再び一枝の方にふりむい た。 「ねぇ。一枝さん、僕はこゝで一人になって、考えたいんです がねえ。」  闇の中で一枝は一寸村川の方を振り返ったらしかった。だ が、ただ顔がほのじろく動いた丈で、笑っているのか、悲しん でいるのか、分らなかった。  村川は、あせって一枝の方へつかつかと進み寄った。 「ねぇ、一寸。彼方《あつち》ヘ行ってくれませんか。僕こゝで一寸考え たいのですが。」  一枝は返事をしなかった。 「ねえ、いけませんか。」  一枝は、じっとうつむいたまゝだまっている。村川は相手の 不得要領な態度に、ージリノ\したので、思わず彼女の肩に手を かけた。 「ねえ、一枝さん。僕の頼んでいることが分らないんですか。」  すると意外にも、一枝は村川にかけられた手を振り払うと、 身体をねじらせて、腰かけている縁の上に顔を伏せてしまっ た。 「何うしたのです夕何うしたのです。」  村川は、おどろいて彼女の身体をゆすぶっていると、彼女は いつの間にかシクシクと泣いているのである。 「ちぇっ!」  村川は、いらノ、しさから、烈しい憤怒にまで、昂奮した。 だがシクく泣いている少女をどうすることも出来なかった。 また、彼女がなぜに泣いているのか、その原因を訊ねてやるほ どの余裕はなかった。  彼は、胸がジリノ\と焼けた。彼は大きい声で、怒鳴りつけ てやりたかった。それをじっとこらえて、 「ねえ、彼方《あつち》へいらっしゃい! 家《ヰも》の中へいらっしゃい!」  そう云って、一枝を抱き上げようとしても、彼女は凡ての筋 肉をだらげさせて、村川の手が少しでもゆるむと、またペッタ リと縁に腰をかけてしまった。  彼は、■一枝を去らせることは絶望した。仕方なく四阿をはな れ、直ぐそばの小高い芝生の小山に上り、折からさしのぽった 月の光をたよりに、近よって来るのかもしれたい倭文子の姿を むさぼるように求めたが、だんくハッキリとして来るどの小 鶴・どの樹かげにも、それらしいものはなかった。時計を見る と、一枝とのいきさつに時が経って、十時を二十分も廻ってい た。  彼は、 膓《はらわた》がブヅく音を出して切れるように苦しかった。■ それをこらえて、五分待ち十分待った。ふと、向うの樹蔭に人 影が動いたので、ハッと思って目を定めると、それは先刻あん なに彼を手こずらせた一枝が、今やっと四阿を出て、台所の方 へ}ボノ\歩いて行くのだった。 -彼は、不快な邪魔者であった彼女を追かけて行って、地上 にたたきつけてやりたかった。.時計を見ると、十時四十分であ る。でもとにかく一枝の去ったことはうれしかった。気が少し 落ちついた。一枝の去ったのを見定めて、きっと来てくれる倭 文子だろうと、新しい希望を胸に湧かして待っていたが、五分 立ち十分立ち、彼の袖が夜露にしめるまで待ったけれども、倭 文子はとうとう来なかった。  彼は、十二時まで待って^漸く思い切った。家に帰って寝室 には入ったが、一睡も出来なかった。夜が白む頃、やっとまど ろんだかと思うと、烈しい自動車の爆音で目をさまされた。 ハヤマの海        一 ,自動車の爆音に夢を破られて、目をさました村川は、枕元の 時計を見たが、七時を廻ったばかりである。こんなに早く此の 家へ自動車が来るのは、珍しい。一体だれが来たのだろうと、 寝衣のまゝベッドから降り、青い力ーテンをあけて下を見る と、玄関にオープンの自動車が横づけになり、運転手が乗手の 来るのを待っている。  おやノ\だれが乗るのだろうと思っていると、さわがしい人 声がして、玄関のドアが開き、一番先に走り出たのは美智子で ある。だが、美智子は外出行《よそゆき》の洋服を着ていないのを見ると、 彼女が乗るのではないらしい。と見ると、彼女は両手で、パラ ソルを持っている。それは、見覚えのある京子のパラソルであ る。と直ぐ、美智子とつ寸いて、京子が玄関に姿を現した。村 川は京子を、もとからすきではなかった。だが、着物の都会的 な好み丈には、いつも心をひかれる。初夏そのものを思わせる ようなさび青磁の羽織が、その長身の美貌を引立てゝ、初夏の 麗人と云ったような新鮮な美しさにか間やいている。京子が、 どこかへ外出するのだと思っていると、直ぐ後から、鳩色《はといろ》羽織 を着たおとなしい姿の倭文子が、うつむきがちに、玄関を降り て来た。と、直ぐつ寸いて細長い旅行カバンが二個、バスケッ トが一つ。 ■旅行だなと思うと、村川はその前にたった一言でも倭文子と 言葉を交わしたかった。だが、つい二三日前激語を交し合った 京子がいる。その上、玄関へ出て行くのには、寝衣《ねまき》である。な ぜ、昨夕約束を破ったのか、それとも一枝の姿を見かけて来な かったのか、咽喉の焼けるほど訊きたいことは沢山あるが、村 川はた父だまって見つめている外はなかった。  川辺夫人までが、玄関に送り出て居る。長い旅行だと思う と、村川はいよノ\情《なさけ》なくなって来ると共に、それが京子が倭 文子を自分から離そうとする策略であることがハッキリ分って 来た。だが、■倭文子に対して、公然とは何の権利もない村川 は、たバ胸をかきむしってくやしがる外はなかった。  と、一時止まっていたエンジンが爆発し始め、京子と倭文子と の顔が並んで、美しく微笑しながら、家人にあいさつしたかと思 うと、自動車は一二度の警笛の音を名残りに邸外へ走り去った。 「あら、村川さん。そこにいらっしゃるのP」  二階の窓から、荘然と顔を出していた村川を地上の美智子が 見つけたのである。  村川は、■返事が出来なかった。 「お姉さま、何処へ云ったか御存じP」 「いゝえ。」 「教えて上げましょうか。」 「どうぞ。」  村川は、うれしかった。 「ねえ、こ、へかぎますよ。」  美智子は、六つだけれども、もう片仮名を教わっていた。地 上に、指でかいた。 「分りませんね。」 .「そう、じゃ待?てゝね。」 .・美智子は、二三間かけ出して行ったかと思うと、地上に落ち ていた竹ぎれを拾づて来た。 「ねえ。見ていらっしゃい。」  地上に大きくハヤマと書いた。        二  初夏の葉山の海は、緑にか間やいていた。 .「地震後妾初めてよ。まあ磯があんなに出てしまったわ。名島 のところまでつfいて居そうね。」  京子は、目をみはりながら云った。 .倭文子は、葉山が初めてfある。駿河湾を遠くへだてゝたな びいている灰色の雲の間に、見えがくれする真白な富士の姿さ えめずらしかった。 .二人をのせた自動車は森戸橋を渡り、黒い岩床が露出してい る海岸に沿ヶてすゝみ、左へ大きい力ーブをしたかと思うと、 直ぐ宏壮な洋館の前に、ぴったり止まった。  留守番の夫婦は、あわてゝ玄関前に迎えに出て来た。一二度 来たことのあるらしい京子は、夫婦と鷹揚にあいさつすると、 自分の家には入るよりも、もっ之気軽く倭文子をうながしなが ら中へは入った。 ■「二階のお部屋は、みんなお掃除して置きましたから、どうぞ 自由にお使い下さいませ。」  三十に近い目の丸い色白の女房は、そう云いながら、幾度も 齢じぎをした。 ■「あゝそう。御苦労だったわね。」  ,京子は、うなずきたがら、.倭文子と一緒に二階に上った。二 階の部屋々々は、長い眠りから急に目をさましたように、明る い五月の光を一ばいに受け入れて、はればれとまばたきをして 居た。西と南が、一面のガラス戸で、凡てがサンル1ムのよう に明るかった。  清浄な白い籐の椅子、テiブル、純白なカーテン、海の色そ のまゝな真青《まつさお》な敷物《マツト》、南に海を受けたそこは二十畳に近い座敷 だった。  そのとなりの部屋は、寝室になって、寝台が二つ置きならべ ・てあった。 「あなた寝台にねられてP」 「どうですか、妾まだねたことありませんの。」 …「そんなら、此方《こつち》でお寝《ゃす》みなさいね。」  そう云づて、京子は、廊下を隔てた部屋の戸をあけた。その 部屋は陸に面した部屋だった。やっばり洋室にこさえためだ が、その後模様がえして中には畳がしいてあり、茶箪笥が置い てあり、押入まで出来ていた。そのとなり、やはり陸に面した 部屋は、書斎になっていた。卓の上に、去年の七八月頃の婦人 雑誌などがつみ重ねられてあった。 「これ今井さんの奥さまが、よんでいたの。とても、おとなし い美人だったのよ。あなた一度会いやしなかった。」 「いゝえ。」 「そうかしら、家へも二一度来たことがあるのよ。」 「そうですか。」 「いゝ奥さまよ、今井さんなんかに、惜しかったのよ。あんた 馬鹿なお坊ちゃんなんかに。」 「まあ!」 「こんな別荘だって惜しいわねえ。あんな馬鹿息子がこんな財 産をつぐのが、今の資本主義制度の弊害ねぇ。」 「まあ!」  倭文子は、京子の顔を思わず見上げた。 ・「だから、せいぜい妾達で、使ってやりましょう。此方へい らっしゃい、とてもいゝけしきよ。」  そう云って、京子は先に立って廊下へ出た。 「あれが御用邸よ。ほら、海の中に細長い岩が出ているでしょ う。あすこの所が御用邸。」  小さい美しい湾は、初夏のかぐわしい日の光の中に、ほのぼ のとまどろんで居た。御用邸を中心に海岸一帯の別荘は、赤い 屋根、白い屋根、とりどりに浮き出すように、まぢかに見え た。 「あれが長者ケ崎。」  京子が此の別荘の立っている海岸と相向いて此の湾を抱いて いる老松の生えている岬を指さしたとき、階下でけたゝましく 電話のベルが鳴った。        三 「おや電話がかゝって来たのね。家《うち》からかしら。」  京子が、一寸不思議がっていると、階下からさっきの女房が 上って来た。 「あのお嬢さま。あの東京の此方《こちら》の御主人から、お電話でござ いますの。」 「そう!」  京子は、階段を降りながら、昨夕今井の留守宅へ電話をかけ て、此方へ来ることを断って置いたので、きっと今井がそれに 対するあいさつをするのだろうと思った。 「あゝもし、もし。」 「あゝ京子さんですか。先日はどうも失礼いたしました。」  京子は、自動車の中の出来ごとを思い出したので、つい可笑 しくなるのをこらえて、 「いゝえ。」 「昨日は、またどうもお電話をありがとうございました。今実 はお宅の方へ、電話をおかけしたのですが、もうとっくに其方《そちら》 へ行らっしゃったとのことでしたから。あれぎり御立腹になっ て、つきあって下さらないことかと思っていました。」 「何ういたしまして。」 「別荘を使って下さって、こんな光栄たことはございません。」 「いつもわがまゝばかり申しましてすみません。」 「いゝえ。如何です。此の頃の葉山はっ・`」 「たいへん、けっこうでございますよ。此方へ来てほんとうに せいせいして居ますの。」 「何日頃まで、御滞在ですか。」 「一週澗ばかり、お邪魔するつもり。」 「どうぞ、御ゆっくり、貴女方のいらっ↓やる間に、僕も一度 お邪魔致したいですね。」  ウルサイと思ったが、ふと京子にある考えが浮んだ。 「えゝ、どうぞ。ぜひ。」 「お邪魔じゃないですか。」 「いゝえ。決して。あのね、いらっしゃる時、ぜひ宮田さんを 齢連れして下さいね。倭文子さんとの話、早くまとめてあげた いの。その意味でもっと、婚前交際をさせてあぼたいわ。」 「えゝ何ですって。」 「婚前交際、お分りになりませんP」 「分りませんな。」 「結婚前の交際よ。」 「なるほどね。けっこうですな。」 「ぜひいらっしって下さいね。」 「伺いますとも。」 「さようなら。」 「さようなら。」  京子は、受話器を掛けると、一寸階段の上を見た。倭文子が 聞いてやしないかと思ったからである。だが、倭文子の姿が見 えないのを知ると、安心して階段を上った。  倭文子は、ヴェランダのてすりに身をもたせて、遠く天城《あまぎ》の 連山をながめていた。そのさびしそうな後姿《うしるすがた》が、京子の良心に、 ホンの少しばかりこたえたが、彼女は苦笑でまぎらせて、親し げに倭文子の傍へ寄ると、すれ八\にてすりに身をもたせた。 「今井さんが、別荘を使って下さって、光栄ですって。倭文子 さんにもよろしくって。」 .「そう。」 「わたし達の居る間に、一度来たいんですって。」 ' 「まあ。」 「誰が、いやなことと思ったので、妾ハッキリ断って置いたの よ。でも、図々しいから、分らないわ。」 「おいでになったら、困りますわねえ。」  倭文子は、その場合の当惑を予感した。 「いゝのよ。あんな人、妾がうまくあしらって、すぐ追い返し てしまうわ。霊ほゝゝゝゝ。」  京子は、五月の海のようにさわやかに笑った。        四  その晩、京子は倭文子が寝た後、自分一人書斎へ行って、手 紙を書いていた。三四度、かき直した後、やっと次ぎのような 原稿が出来上った。 幾度も幾度も、思い返しましたが、やっばり御手紙を差し上 げて、私の心持をハッキリ申し上げて置いた方が、私の心の かなしみを、少しでも少くするように思いますので、思い 切ってお手紙を差し上げます。 私、貴方とお約束いたしましたが、いろいろ悲しい事が重な るにつれ、どうしても、あなたを信ずる事が出来なくなって しまいました。 ある人達は、初めからあなたの事を、いろくに批評なさい ました。でも、私はそんな事ちっとも、信じていませんでし たの。でも、人のうわさや批評はともかく、自分の目で見、 耳できくことは、何うとも打ち消しがたい真実として、私の 心をふみにじってしまいました。いつかの晩、あなたとお目 にかかるお約束をして、十時の時計が鳴るのが待ち遠しく、 やっと人目を忍び、胸をおどらせ、足は宙をふんで、あずま やへ参りますと、貴方は思いがけなく京子さまと話してい らっしゃいました。多分、京子さまが偶然あすこにいらっ しゃいましたことゝ思って、あまり気にかけていませんでし たが、昨日京子さまから、恐ろしいことをきいてしまいまし たわ。ほんとうに、世の中が真暗になってしまいましたわ。 それで、一度お目にかゝり、お心をたしかめたいと、昨日か きつけを、騎机の上におき、ー今日こそお目にかゝれると思っ て参りますと、……あゝもう何も申しあげませんわ。これだ け書く丈でも、地獄の苦しみでございますわ。これ以上申し 上げなくとも、貴方はみんなお分りのことだと思いますわ。 貴方からおっしゃれば、きっといろくな御弁解もあること と思いますわ。でも、二度もあんなところを目にしました私 の心は、もうどんな御弁解も、受け入れられないと思います わ。私もう死んだ気になって、あなたのことをあきらめて しまいたいと思いますの。どうぞ、いろくなことをおっ しゃって、この上、私をお苦しめ遊ばさないで下さい。貴方 もどうぞ、一日も早く私のことをおあきらめ下さい。と申し あげても、私など、貴方は多くの中の一つでございましょう から、おあきらめになる必要など、少しもありませんでしょ う。すべては、短い悪夢で御座いました。こんな悲しいお別 れするのでしたら、初めからお目にかゝらなかった方が、ど れ丈よかったか分らないと思いますわ。では御機嫌よろし く。此方へ決してお手紙下さいますな。もしお手紙を、京子 さまなどに見つけられると、わたし恥かしくて生きてはいら れませんもの。          倭文子  京子は、その原稿をまた、白い大きいレターペーパーに、丁 寧に浄書すると、それを桃色の封筒に入れた。そして表書は丁. 寧にかき、裏へは、S・K生とかいた。それを書棚の真赤な表 紙の本の頁の間にはさむと、漸く寝室へ来た。それを書くため に、二時間近くもかゝったのだが、倭文子はまだねむっていな かった。 「まだおやすみになれなかったの。」 「えゝ、ちっともねむれないわ。」 「倭文子さん・何か煩悶がおありになるの。」 ・「いゝ}え。」 ・そう言って、倭文子は、涙がほとばしりそうになる目の上に 羽ぶとんをかけた。 「そう。初めての家だと、ねむれないものね。気を落付けてお やすみなさいね。あした、きっと、いゝことがあってよ。」        五  京子と倭文子との葉山の生活は、二日三日と続いた。倭文子 の心の傷は、五月の太陽と海と風と、東京からの距離とのため に、漸く痛みが薄らぎ始めて居た。それに、彼女と村川との心 の関係は突発的で短かった。彼女の恋心は、目ざまされたばか りに直ぐたゝき付けられていた。温柔な心はそれに堪え忍び^ 犬がその傷口をなめるように自分でそっといたわっていた。  だが、京子の心の傷は、いえなかった。いえなかったという よりも、自分でいやさなかった。彼女は、わざとその傷目を自 分でひっかき廻し、その痛みを強くし、強くなった痛みの刺戟 で生きようとしていた。そして、自分以上の痛みを人に与える ことに依って、自分の痛みをこらぇようとしていた。  葉山へ来てから、四五日目の夕方、それは土曜日に当ってい た。二人は、つれ立って散歩に出た。御用邸の前を通って、遠 く長者ヶ崎まで歩いた。だが、あの岬を廻り、大崩れの海岸を 一目見ると、.荒涼たる風景に心が痛み、直ぐ引返した。夕暮の 雲がしずまり、二三日見なかった富士が、くれそめた波の彼方 に、いつまでも淡く残っていた。シーズン外れのさびしい葉山 の街には、もう燈《ひ》がともっていた。 「倭文子さん。あなた宮田さんとの話、もう一度お考えになっ たらどう。」  しばらくの間、だまって歩いていた京子は、急にまじめな話 をはじめた。  倭文子は、その話は一度、断って置いたのである。だが、そ のときと今とは、事情が違っている。でも、こんな場合、すぐ そんな話を受け入れるほど、彼女は浮薄ではなかった。 「えゝ。」  彼女は、その中に軽い否定の意味をふくませた。 「妾、けっこうだと思うわρ申分ない方じゃないの。レ 「でも……」 「あの方の何処が齢気に入らないの。」 「まあ。気に入らないなんて、もったいないわ。でも、妾何だ か気が進まないんですもの。」 「そう。父や母は、それはく心配しているのよ。父なんか倭 文子には義理があるから、あれの縁談をきめてしまわない中 は、京子の方の話は一切しないと言ってるのよ。」  村川が、京子から求婚せられたと自分に告げたのは、ウソら しい。あの人ならどんなウソでもつくに違いない。倭文子は頭 の中でそう考えながら聞いていた。 「とても旧弊よ、義理がたくてねえ。つまりあなたが、お嫁に 行かない中は、妾行けないことなのよ。おほゝゝゝ・^ゝ。人を馬 鹿にしているわねえ。でも御心配遊ばすな。妾そんなに順番を 待っている程、齢行儀がよくないわ。気に入ったところがあっ たら、貴女よりも先に、どんノ\行ってよ。おほゝゝゝゝほ。」  京子は、何のこだわりもないように笑った。だが、倭文子は その冗談のオブラートに包んでいる彼女の皮肉やいやみを、 ハッキリと感じた。 「でもね。父も母も、貴女が早くおかたづきになったらどんな に喜ぶかもしれないわ。」  それらの言葉は、目に見えぬ鞭となって返答に躊躇している 倭文子の心をピシくと打った。 「そうですね、妾考えて置きますわ。」  倭文子は泣き出しそうな心持でそういった。こんな嫌な催促 をのがれるためには、豚とでも犬とでも結婚した方が、まだ救 われるような気がした。 山 ノ\  別荘へ帰る道の断崖の下には暗い夕潮が白く砕けていた。  倭文子は、京子ど並んで歩くことが、苦痛だった。大抵の場 合には隠忍して居る彼女も、京子の露骨な結婚強請には堪えら れなかった。彼女は、もう村川のことは思い切っていた。だが 彼を心の中から斬りとった傷あとは、まだ血をにじませてい て、こんな非道な方法で、触られると飛び立つような痛みを感 じた。  京子は京子で、 「そうですね。妾、考えて置きますわ。」という倭文子の返事 が、気に入らなかった。彼女の柔順さも、ある程度まで、押し て行くと、自動車のクションのように、バネを感じるのが、気 に食わなかった。  二人は、むきノ\な心で帰って来た。見ると、別壮の玄関に 自動車が横付けになっていた。  京子は、土曜日に来るべき今井を心待ちにしていたので、少 しも驚かたかったが、倭文子は、 「まあ。自動車が着いてるわ。」  と、低いおどろきの声をあげた。 「今井さんかしら。」  京子は、そうつぶやくと、倭文子にはかまってい次いで、玄 関を上ると、どんく二階へ上った。  もう、すっかり暮れてしまった海と空とを前に、今井は宮田 と籐椅子を囲んで、紅茶を飲んでいた。 「いらっしゃい!」京子は快活に叫んだ。 「やあ、お帰りなさい。先刻からお待ちしていました。」 「一寸散歩に出ていたものですから。」 「お嬢さん。しばらく。」  宮田が京子にあいさつした。一 「お邪魔じゃないかと思ったのですが、先日騎電話であゝお? しゃって下さったものですから図々しく押しかけて参りまし た。」今井は、まだ立ちながらいった。 「まあ。今井さんおかけなさい……」 「えゝかけます。どうぞ、あなたもη」. 一.京子も、テーブルに向ってこしかけた。 「御迷惑じゃありませんか。押しつけがましくやって来まし て。」 「いゝえ。妾達二人で、そろくあきかけていたところです の。二人じゃ。何も遊びごとは出来ないし。」了ジ, 「ごもっともです。それで実は貴女方に一つ麻雀をお教えしよ うと思って、東京から道具を持って来たのです。」 「まあ、御親切さま一でも、麻雀なら、私の家にもございます のよ。」. 「じゃ、むろんやり方も御存じですか。」 「え、存じていますわ。美智子でも、よく存じて居ますのよ。 この間、四喜臨門《すしいりんめん》をして皆を驚かせましたのよ。」 「おや、おや、こいつは恐れ入りましたな。じゃ、貴女もむろ ん選手《エキスパ ト》でいらっしゃるのですか。」 「いゝえ、妾、カラ駄目でございますわ。」 「いやどうして。そんな御謙遜は信じられませんな。宮田君、 こいつは参ったね、少々。貴女方を牛耳るつもりで来たのが、 スッカリあべこべになりそうですね。」 「いや、どうして。こうなれば、お互に実力を発揮して堂々と 覇権を争う外はありませんた。はゝゝゝ。」  宮田がいった。 「おほゝゝゝ結構ですわね。」  京子は笑った。 「倭文子さんは。」■  今井が、初めて不思議がった。 「おや、直ぐいらっしゃるはずよ。」  と、いいながら、京子は倭文子を求めるベく立ち上がった。 招かれざる客        一 「倭文子さん、倭文子さん。」 京子は、階段の上から、呼んだ。 階下の薄ぐらいホールで上ろうか上るまいかとためらってい た倭文子は、京子の声を聞いたが、 「はい。」と、気軽に返事をする気は、何うしても起らなかっ た。でも、 「いらっしゃらないの、倭文子さん。」  と、京子が二三段降りかけたので、あわてゝ、 「いゝえ、直ぐ参ります。」  と、答えて階段を上って行った。 「今井さんがお見えになったのよ。あなたの好きな方も、ご一 緒よ。」  京子は、倭文子を階段の途中で迎え、笑いながらいった。 「好きな方」が何人を指すのか、倭文子には、ちっとも見当が 立たないので、 .「え㌔」  と、あいまいに答えると、. 「まあ(ついていらっしゃい!」  と京子は先に立った。  倭文子は、京子の蔭に身をかくしながら部屋には入った。 「倭文子さん、しばらく、どうも、とんだ、・お邪魔をします。」  今井が立ち上ってあいさつした。 「いゝえ。どういたしまして。」という外、倭文子は、言葉が 口から出なかった。 「倭文子さん。この方お忘れでないでしょう。」  京子は、今立ち上った宮田を指した。  倭文子は、=一度宮田と会ったことがある。だが、縁談が始 まってからは、これが初めて間ある。殊に二三十分前、京子か らその人の話を、きかされていたfけに、倭文子は、はげしい 衝動を受け、身体中が不快な悪感のためにふるぇた。 「しばらく。宮田です。お見忘れになりましたか。」  つやノ\としたオールバックに、縁なしの眼鏡をかけた宮田 は、ニャノ\笑っていた。 「お見忘れになんか、ならないわ。ねえ、倭文子さん。今も、 二人でおうわさをしていたの。」 「光栄ですね。まことに。」  そういって、宮田は頭をなで上げた。 「ところが、あまりいゝうわさじゃないのよ。」 「おや、おや。」  倭文子は、だまって頭を下げた丈である。彼女は、宮田など という男のことを、今少しも考えたくはなかった。 「貴方がた、御飯召し上って。」 「食べて参りましたとも。貴女方は。」今井がいった。 「御飯いた讐いてから、散歩に出ましたの。」 「そうですか。じゃ、早速一ゲームなさいませんか。」 「えゝ、・けっこうですわ。倭文子さん麻雀なさらない。」  倭文子は、遊戯が嫌いであった。麻雀なども、美智子や、宗 三にすゝめられるので仕方なしに牌を手にしているものゝ興味 はちっとも感じられないのであった。  だが、今四人の群《むれ》で、四人なければ出来ない遊戯に、彼女一 人ぬけることは、許されなかった。 「えゝ。」  彼女は、低い小さい声でうなずいた。  牌は、方形に並べられた。最初の荘家《おや》には、京子がなった。 方形に並べられた牌の中から、一度に四枚ずつめいめいの牌を 取った。  荘家《おや》の京子が、最初に九万とかいた牌を捨てた。 「九万」彼女は勢いよくいった。 「吃。」  そういって、横に居た宮田が、その牌を取り上げると、自分 の持っている牌の中から、 「東風《とんふおん》。」  と叫びながら、「東風」とかいた牌を手早く捨てた。       二 「ぽん。」  宮田が、「東風」を捨てるのを見ると、京子はとっさに叫ん だ。 「おや、欝や。貴方の風《ふおん》ですねえ。こいつは、少々まいった。」  宮田がいった。 「一|筒《とん》。」  そういって、京子は「東風」を取りた代りに青と赤のうずま きをたった一つかいた牌を捨てた。  次ぎの宮田は、方形に並べた牌の中から、一つ取り上げてそ れを手駒の牌と見比べてから「北風《べいふおん》」と叫んで、「北風」と書 いた牌を捨てた。 「南風《なんふおん》。」  今井が、叫んで「南風」を捨てた。  倭文子は、心が少しも落着かず、手駒の十三枚の牌をどんな に配列して戦うべきかさえ分らなかった。彼女が、まごノ\し て居ると、 「倭文子さん。欝早く!」  と、京子に注意されたので、あわてゝ、 「発《ふわあ》。」  といって、白い板に緑で「発」とかいた役札を捨てたが、 「ぽん。」  といって、宮田がそれを取った。  ゲームは、こうして進んだ。最初の一回は、京子が上りを占 めて勝った。次ぎは、今井、その次ぎは宮田だった。こうし て、一ラウンド近くなるにつれ、京子はよく戦い、今井と宮田 とを圧倒するほどだった。親でかつと、いつまでも親をつ間け られるのだが、京子が親で三回も勝ちつ間け、連荘《れんちやん》の名誉をほ しいまゝにした。 「躯どろいたね。こいつは、頭がいゝ。これほど京子さんがう まいとは思わなかった。」  今井がいった。 「なかなか玄人ですね。ちっとも大役をねらわずに、上りばか りを心がけているなんて。どうして心得たものだ。」  宮田が、感歎した。 「そんなに賞めて置いて油断させようとしても、その手にはの らないことよ。」 「おや。おや。これは計略を見破られましたな。」  宮田は、頭をかいた。  京子が、勝ちつfけに勝っている間、倭文子は、一度も上り を取れなかった。外の人達が、もう何回となく、上《あが》りを取って いるのに、倭文子丈は一度も勝てなかった。勝てなくてもいゝ とは思っているものゝ、一度も上りを取らないことは、あまり にきまりがわるかった。あまりにかなしいことだった。  ワン・チャンスになっていたり二《ツウ》チャンスになっていなが ら、最後の所で人に先きんぜられた。最初から、手駒の配列が 非常によく今度こそはと思っていると、運わるく他人が二《ふた》まわ り位で上ってしまった。あせればあせるほど、倭文子は上《あが》れな かった。 .「倭文子さんは、運がわるいですね。|ニ《ツウ》チャンスじゃありませ んか。」今井がいった。 菊池寛集 「とっくに|ニ《ツウ》チャンスになっていましたの。L 「それで上れないのですか、お気の毒ですね。L  そんな同情をされると、倭文子は一層かなしかった。  もう、二三回で、一ラゥンドが了ろうとしたとき、倭文子は やっと上った。 「ろん!」と、小さい声でいって倭文子は手駒をさらした。 「おめでとう。」  宮田が、そういってくれたのが、きまりがわるかった。  すると、そのさらした駒を、ジロノ\見ていた京子が、 「倭文子さん、間違っているわ。これ六|筒《とん》じゃないの。」  七筒、八筒、九筒と数の順序に並べなければならぬ牌が七 筒、,六筒、九筒となっているのだった。間違って上《あが》ったと称す ることは「沖和《ちよんほ》」といって、大きい恥であるばかりでなく、他 の三人に、三百点ずつ罰料を払わねばならぬ大失策なのである。 「あら、どうしましょう。」  倭文子はいきなりさらした牌の上に顔を伏せた。        三  牌の上に顔を伏せた瞬間、倭文子は先刻《さつき》からの悲しさ、いな 数日来のかなしさを抑えていた心が一時にゆるみ、あつい涙が とめどなべ温れて来た。顔を覆うている両手の指をもれ、象牙 の牌をぬらした。  涙が出ると、またそれが恥かしさを増して、何うしても顔を 挙げられなかった。 「ねえ、今のは、やり直しにしましょう。」  今井がいった。 「賛成です。」  宮田も、直ぐ応じた。 、「そう、それでもいゝわ。でも、規則通りにしないと、つまら ないわ。」京子がいうた。 「だって、別にお金をかけているのじゃないし、いゝじゃあり ませんか。」 .宮田がいった。 「宮田さんは、いやに倭文子さんのひいきをするのね。でも、 騎金をかけていないから、規則丈でも厳重にしないとつまらな いわ。」 「御もっともです。でも、そこをその……情状酌量というわけ には行きませんか。」 「いけませんわ。ねえ、倭文子さん罰金お出しになるのでしょ う。」  倭文子は、うつむいたまゝうなずいた。京子は、倭文子の代 りに数取りの札を計算して、皆に三百点宛渡し、自分も取っ た。そして、かりかんの印丈を、倭文子の手許に押しやった。 同じ印を倭文子は五つ六つ持っていた。  皆は、また凡ての牌を、卓上でめちゃくにかきまわし始め た。かるたの札《ふだ》を切るのと同じ訳である。だが、倭文子は顔を 上げなかった。 「倭文子さん。ちょっとお顔をお上げになって。」  そう云って、京子は倭文子の顔を上げさせ、その下に在る牌 を取り出した。牌がぬれているので、倭文子が泣いていること が初めて分った。  さすがに、京子も牌をかきまわしていた手を止めた。 「まあ、倭文子さん、泣いていらっしゃるの。」  そういわれると、倭文子はまた悲しくなって、止まっていた 涙が、新しい勢いで、ボトくと卓の上に落ちた。、  男達二人は、もう目がきけなかった。二人とも、てれてし まって、やけに牌をかきまわしつバけていた。白々しい沈黙が つfき、牌がふれ合うひ間き丈がその静《しず》けさを破った。 「つ父けて、齢やりになる。およしになる?」  京予が、しばらくして倭文子にきいた。 「妾、もうよしますわ。」  倭文子の声には、涙が温ふれるほどふくまれていた。 「じゃ、よしましょうね。」  京子は、男達にいった。.そして、自分の前に、山とつまれて いた点数の札を、ガチャくかき廻した。 「まあ。妾こんなに在るわ。」 、「どうも我々の及ぶところでありません。」  今井が、冗談に頭を下げた。 「倭文子さん。如何です、頭痛でもなさるんじゃありません か。少しお休みになったら如何です。」  宮田がいってくれた。倭文子は、それが救いだった。 「妾失礼させていた讐きますわ。」  倭文子使顔の涙を皆に見せないように立ち上がった。 「妾達、寝台の方を使っているのよ。いゝでしょう。」  京子が今井にいった。 「けっこうですとも、どうぞ、御自由に。」 「じゃ、倭文子さん、先へおやすみたさいね。」  京子も、倭文子を泣かせた責任が過半自分に在ることを感ず ると、急にやさしくそういった。倭文子はさびしいなで肩を、 更に小さくすぼめながら、部屋を出て行った。 ・「実は、京子さん。貴女方射二人だけの所へ、僕達が泊るのも 変ですから、泊る丈は宿屋の方へ行こうと思っているのです。」  今井がいった。 「まあ。貴方は、そんな紳士っこ 「と言うわけではありませんが。」 「妾達、不良少女じゃありませんから、そんな御心配御無用 よ。」  その時、別荘番の女房が、あわたfしく上って来た。 「お嬢さま、あの東京からお人がお見えになりました。」        四  倭文子を京子にうばい取られてからの村川の苦悩は大きかっ た。しかもその倭文子の心持が、今では、村川には少しも見当 がつかなかった。人を最も苦しめる者は不安だ。地獄へ堕ちる までのその道筋だ。  京子ののろいがまざくと実現してきそうな恐怖が、彼の心 を、圧倒して来た。彼女ののろいの言葉通り、倭文子は彼の抽 握の中から煙のように立ち去りかけて居るのだ。  葉山の何処に行って居るのか、彼には見当がつかなかった。 川辺家の別荘は、大磯にあって、葉山ではなかった。彼は美智 子や宗三にそれとなく聞いて見た。だが二人ともはっきりとは 知らなかった。美智子は、 「待ってゝね。私お母様に聞いて来てあげるわ。」といきおい よく立ち去ったが、そのまゝ、彼のところへ帰って来ないの で、晩の御飯の時に、 「美智子さん、さっきの事聞いてくれた?」  と聞き直すと、彼女はけろりとして、 「あゝ忘れちゃった。だってお母様がお八つを下さったので、 すっかり聞くのを忘れちゃった。」  と、彼女は平気な顔をしていった。  実際女中等も、京子が葉山の何処に滞在して居るのか知って 居ないらしかった。た間夫人だけは知って居るのに違いないの だが、彼は、京子の縁談を露骨に断ったので、今更京子の滞在 先等を聞く事は出来なかった。そればかりではなく、川辺家に 居る事さえ何となく居づらく感じられて来て居た。たf川辺家 を去ると、それでなくてさえ望み少くなって来た倭文子との 間がらが、一糸のつながりもなくなってしまう事が堪えられな か-った。  京子が邪魔をすればする程、こゝにふみ止《とど》まって、京子の策 略と戦い、倭文子を取り返す事は、男らしい態度だと思われた ので、彼は時々新聞のよろず案内等で、下宿の広告を注意しな がらも、川辺家を去る心はなかった。  すると彼は、意外にも、倭文子からの絶縁状を受け取った。 その手紙は、彼を絶望のふちにたゝきおとした。だがそめ手紙 ーで、倭文子の心持がはっきり分ったので、彼は却って新しい曙 光を見た。  すべては偶然の機会から起った誤解である。■京子と誤って接 吻をした事丈は容易に解け難い誤解ではあるが、しかし倭文子 がほんとうに心を傾けて聞いてくれゝば、解いて解き難い誤解 ではなかった。.  彼は倭文子の手紙で、むしろ安心した。と同時に、倭文子にあ いたいという心が、はげしい飢渇のように彼の心をおそった。 彼は葉山へ行って、軒毎に倭文子のありかを探したいとさえ 思った。こうなれば、京子が傍に居ようとも、自分の心をはっ きりと倭文子に告げよう、そしてすべてのいきさつを、はっき りと彼女にはいおう。もう倭文子が、それをきいて京子に対す る義理から、自分を思い切るというなら、自分も男らしく、倭 文子の言葉を甘受しよう。そう決心して、彼は絶望の中に、す んだあきらめを得た。  だが、京子が葉山の何処に滞在して居るか、まだ分らなかっ た。すると土曜日の午後三時頃である。彼は仕事が一段落すん だので、たばこに火をつけて居ると、何時の間にか社長、今井 が、自分の机の側に来て立って居た。 「おい。村川君。京子さんはまだ帰って来て居ないかい。」 「いゝえ、帰って居られません。」 」「今日あたりまだ帰って来ぞケにないかな。」三….,.、,ゴ, 「まだそんな様子はありません。」 「あゝそう。」  今井は立ち去りそうにした。村川はふと思いついてきいた。 「葉山はどちらに居られるのでしょう。」 「僕の家《うち》の別荘に居るんだよ。」  今井は無造作にいいすてゝ、社長室の方へ去った。村川は思 いがけない福音に、世の中が急に明るくなつた。 「よしこれから行ってやろう。」  彼は心の中にそう叫んだ。       五 ・「え。東京からのお客ですって。まあだれ!」  京子は、さすがに、おどろいた。. 「村川さんという方です。」 「村川さん!」  美しい顔が曇った。 ・「あの倭文子さんに、お目にかゝりたいと仰しゃっているので ございますよ。」  京子は顔が少し蒼ざめた。 「なに村川君、直ぐ上げればいゝじゃありませんか。むろん、 これは出来るのでしょう。」 今井は、そういって卓上《テ プル》の麻雀《マ ジヤン》の牌をとり上げた。  京子は、それに、答えないで" .「妾、下へ行って一寸会って来ますわ。」  そういうと、取次の女房よりも先に、とんとんとん階段を降 りた彼女は、悲壮な敵撫心に燃え、身体が冷水を浴びたよう に、ひきしまるのを感じた。階下のホールは暗かつた。彼女 は、そこでさすがに、足がやゝためらったが、勇気を出すと、 つかくと玄関に出た。  玄関の半分開かれたドアの外に村川は普段から大きい眼を、 昂奮のために、更にギロく光らせながら立っていた。 「いらっしゃい!」  京子は、ニコリともせず、冷たい触《ふれ》れば切れそうな声でいっ た。  村川は、目をみはったまゝ、】寸会釈した。 「何か急な御用?」 「えゝ。急に倭文子さんにお会いしたいことがあるのです。」  京子は、だまって、するどい目で、村川の顔をまともから見 た。 「倭文子さんは、もうお休みになっているわ。」 「こんなに早くお休みになるわけがないでしょう。」 「いゝえ。もうとっくに。」 「まだ八時十分じゃありませんか。」 「時計が何時だか、そんなことを妾知らないわ。」  村川は、身体をかすかにふるわせた。 「京子さん、僕は貴女に遠慮するために、葉山へ来ているので はありませんよ。」 「そう。でも、こゝの家は妾が借りてる家よ。お入れしようと しまいと妾の考え一つだわ。」 「卑怯なことをなさいますな。」 「そんたこと初めから、断ってあるじゃありませんか。」  村川は、だまって京子をにらんだ。 「貴君も、男らしくもなく、葉山へなどお出でになりました ね。倭文子さんが、貴君をどう思っているか御存じないの!」  村川は、さすがに胸を一撃されたような気がした。 「いや、それは分っていないことはありません。だが、僕は倭 文子さんに会って直接にあの方の気持をきゝたいのです。」 「そんなこといったって無理よ。その男が、どんなに嫌いに なったって、その人の前で直接そんなことがいえるかどうかお 考えになれば分るじゃありませんか。」  村川は、カッとなって叫んだ。 「僕は、一どんなことをしても倭文子さんに会うのです。どいて 下さい!」  村川は、靴を脱ぐと、京子を押しのけようとした。 「何をなさるの!」  京子は、憤然として村川を支えようとした。村川は、それを 満身の力で、押しのけて階段を上りかけた。  京子は、それを追おうとはしなかった。その代り急に、ヒス テリックに笑った。 「おほゝゝどうぞ、齢上りなさいませ。二階には倭文子さんが 沢山いらっしゃるわ。」        六  村川は、勢いよく階段をかけ上った。彼は先刻京子が階段を 降りて来るのを見ていたので、倭文子も二階にいることを疑わ なかった。上り切った廊下は、暗かった。だが、左側の大きい 部屋にはカユアシ越しに電燈が、あかくと輝いて、ドアさえ 半ば開かれたまゝなので、彼は倭文子がきっとたfひとりぽつ んと腰かけているだろうと、心を躍らせながら、ドアを思い 切って開け、入口のところに立った。  だが、部屋の真中に卓子《テ プル》をかこんで、煙草を吸っている二人 の男を見ると、彼は大きい手で両肩をグッと押えつけられたよ うに、そこへ立ちすくんだ。 …今併「は、ー村洲め顔均混ゐ汝…μ汁ソヘ笑わ-た㈹………ヤ……一 「村川君、君もやって来たのかい。何時の汽車だった。」  村川は、心の中のすべての勇気、熱情があわの如くふつく と空しく消えて行くのを感じた。 「六時三十五分です。」 「じゃ、おれ達より一汽車遅れたんだね。」 「さあ。村川君、こちらへ来たまえ。」  宮田は、そういって椅子を直してくれた。人間の感情が、正 当なはけ口を得ないほど、人の心を苦しませるものはない。村 川は煮られるようなやるせなさをこらえて椅子に腰かけた。 「今まで、麻雀《マ ジヤン》をやっていたのだが、倭文子さんが、頭痛がす ると言って寝室へ行ったものだから、三人になって困っていた ところなのだ。君が、来たので丁度いゝ。」  村川は京子の言葉が、嘘でないのを知った。だが、同時に激 しい絶望を感じた。倭文子と二人ぎりになって話をすることな どは、この境遇《シチユエ シヨン》では思いも及ばなかった。それよりも、今 では如何にこの場を体裁よく脱け出すかゴ問題だった。  京子は、村川が階段を上り切ったのを見ると、自分も足早に 階段を上った。だが、座敷のドアからそっと中をのぞき、村川 が今井などにつかまっているのを見ると、安心して引き返し た。毛して、倭文子の入っている寝室のドアを開けて中へは、 入った。  電燈㌍、濃い青色の覆《ジエヨド》いが、かゝっているので部屋は、薄ぐ   らかった。倭文子はまだ寝ていなかった。自分の寝台の傍の床   の上に、膝をつき顔を寝床の中に埋めていた。恐らく泣いてい   るのであろう。   .「まだ、おやすみにならないρ」   「えゝ。」 .;…ー,倭文子はハ一止顔を上げずにうなずいたF…ー…ー.…-…≡…一,,   「ちゃんとお休みになったらどう。」   「えゝ。」   「羽織だけでも、お脱ぎになったらどう。脱がせてあげましょ   うか。」    京子は、やさしく寄り添おうとした。   .「いゝえ。妾自分でぬぎますわ。」   「そう。」   倭文子は、一寸顔を持ち上げて、羽織をぬいだ。電燈のせい   か、倭文子の顔は真蒼《まつさお》だった。   「早く、お休みになって、頭を休めるといゝのよ。」   そういい捨てゝ、京子は部屋を出た。だが、彼女はドアの内  側のかぎ穴に入れてあづたかぎを、そっとひき出した。そし   て、外へ出てドアをしめると、音のしないようにかぎ穴にかぎ  をさし入れてそっとまわした。         〜七   ポカポカした、この日和に何しに来た    コンくないて来たばかりよ 京子は、そんな歌を歌いながら、部屋の中=ヘは入って来た。 「村川さん。いらっしやい。」 そういって、彼女は敬めて村川にあいさつした。 「何です。今お歌いになっていた歌は。」 「むかし幼稚園で覚えた歌を、ひょっくり思い出したのよ。 (ソリャウソだろう、家の庭でケッケッ鳴いてるのが、欲しい のだろう)というのよ。」 「何です。それは。」 「つまりね。狐が鶏をねらって来たのを、犬が見破って、狐を 追いかける歌なのよ。」 「それが、何うしたのです。」 「どうもしないの。ひょっくり思い出したの、意味もなく。」 「僕のことを皮肉っているのじゃありませんか。」  宮田は(苦笑しながら言った。 「なあぜ。」 「僕達が、つまり狐だというのでしょう。」 「あら。」 「そうでしょう。つまり、村川君が犬ですな。犬も、、ポインタ アか、セッタアか形のいゝ猟犬だ。村川君の役まわりからいっ て、きっとそうだ。つまり、悪漢を追いかける色男役ですな。」  宮田は確信を以ていった。  京子は、笑いくずれた。 「まあ、邪推ぶかい方ね。」 「だって、そうですよ。そうじゃありませんかね。ね社長! だから僕はこゝへ来ることは、■賛成しなかったんだ。」 「あはへゝゝゝ、まあ、そう悲観したもうな。時々は追いかけら れて見るのもいゝじゃないか。村川君どうぞ脂手やわらかに。」  今井が、宮田の冗談に調子を合わせた。 「じゃ、鶏はだれ,」 「むろん、貴方と倭文子さん。」 「妾なんか、鶏じゃなくってよ。狐なんかにねらわれないわ。」 「じゃ。倭文子さんだ。」 宮田がいった。 「まあ、貴方、倭文子さんをねらっていらっしゃるの。だっ て、あなた、ねらう必要なんかないじゃありませんか。もう ちゃんとね、ねえ、ねえ……。」 「ねえ、ねえというのは、どういう意味ですか。」 「あら御自分で分っていらっしゃるくせに。」 「あんまり、分ってもいないが、分っていることにしましょう か。」 「どうぞ、ぜひ。」 「じゃ、狐の持って行きどころがなくなりましたねえ。」 「そう。だって、狐だってこの頃は、ほゝゝゝゝ狐だっていろ いろあるわ。」 「なるほどね、昔はよく色若衆といって美少年に化けたものだ が、この頃は背広を着たオールバックのハイカラな青年紳士に でも化けますかね。というと、村川君にわるいな。とにかく、 我々男性は皆女性に対してある程度まで、狐かもしれません な。」  宮田がいった。 「そう思っていれば、間違はないわ、でも本当の狐丈は今に、 しっぽを出すことよ。」  村川の顔は、土のように蒼ざめていた。椅子のひじかけを両 手でしっかりとつかみ、ふるえんとする身体を支えていた。        八  村川は、憤怒のために、身体が燃えた。彼の教養が、乱暴な 言葉や行為を制していた。一座は、白けた。イヤな空気が重《おもピち》々 と漂った。だが、京子丈は丸きり平然とその空気を呼吸してい た。  「ねえ、倭文子さんは、とっくに、%休みになったわねえ。」  京子は今井に賛成を求めるようにいった。  「今までこゝに居られたんですよ。どうです。もう一度倭文子 さんを起して来ては。村川君が来たというと、喜んで起きて来 -られるかも知れませんJご    、一一,、 、 一  「うゝむ。あまりそうでもないの。」  「おやおや、これは少し手きびしい。」  「じゃ、僕の方がまだ脈がありますかね。」宮田がいった。  「もちろんだわ。」 、村川の眼は血ばしった。彼はしばく京子の七三に結った高 慢ちきな額際を思いきりなぐりつけたいような衝動を感じた。  「村川さん、■貴方だけには申し上げてもいゝと思うのよ。倭文 子さんは、今度宮田さんにお話がきまりそうなのよ。」  村川は致命的な一太刀を受けてうめいた。でも、そのうめき 声は、やっばり言葉になって出た。  「そうですか。」  「今度も、そんな意味で結婚前のお郊瞬をしていた間くため に、宮田さんにわざく来ていたfいたの。」  村川は、もううめき声が口に出なかった。  「京子さん。冗談いっちゃ困りますね。村川君、本当にしてく れては困りますよ。そんなありがたい話で来たわけじゃないの ですからね。あはゝ、ゝ。もっともそんな話だと、どんなに結 構だか分らないがねえ。」  「あら。妾も倭文子さんもそのつもりよ。」  「これは、耳よりの話ですな。」  「あら、おとぼけになったら、いけません。」  「じゃ、僕もそのつもりになりますかな。」  「どうぞ。」  「あはゝゝゝ。」  宮田は冗談ともつかず笑い捨てた。だが、村川は激しい憤怒  の激情が、胸を焼けた間らせた。その激しい苦痛を、ずっと堪  らえていた。倭文子がたとい絶縁状を自分に送って来たにし -ろ、辛うまで早く他の男性の手に身を委ねようとは、夢にも思 わなかったが、京子という策士がついている以上、それもバッ  キリとは信じられなかった。た間、倭文子が単に自分を離れる  のなら、尚辛抱が出来るが、直ぐ他の男性の手に渡ることを考  えると、村川は堪えられなかった。  「村川君。君もどうせ、今日は宿《とま》って行くのだろう。」   村川が、青い顔をしているのを見て、今井が、話しかけた。 村川は、一寸返事が出来なかった。すると、京子が、横合か  ら、口を出した。  「お宿《とま》りなんかならないわねえ、妾達が宿っている上に、村川 さんまで御厄介になったら、すまないわ。」  「そんな馬鹿なことがあるものですか。下にだつて、部屋は沢 山あるし。」  「騎部屋が沢山あるなんて、そんなことは仰しゃらないでもよ く存じています。」  「おやおや、すぐ皮肉ですね。京子さんに会っちゃ敵《かな》わない。」  「村川さん。お帰りになる2」京子は、村川の顔を見上げて  いった。  「むろん、帰ります。」   村川の声は、さすがに険しかった。  「それがいゝわ。いゝ子だから、お帰りなさいね。」  村川は、つい拳に力がは入ったのを、あわてゝゆるめた。       九  村川は、だまって帰る外はないと思った。京子を面責し、彼 女を罵倒することも、やってやれないことはなかった。だが、 それはあまりに下等で下品だった。そして、凡てを破壊しつく し、倭文子にどんな迷惑を被《き》せるか、分らなかった。胸にたぎ り立つ怒りを抑え、彼はしずかに立ち上る口実を考えていた。 「村川君は、何か用事があるのじゃありませんか。」  今井がいった。 ・「用事なんかないことよ。」  京子は、傍からまぜ返した。 「本当に用事があるのなら、僕達は遠慮してもいゝのですよ。」  宮田がいった。 「用事がある, たいでしょう。それとも倭文子さんに何かお ありになるP」  村川は、あらゆる自制を以ていった。 「いゝえ。た父一寸鎌倉の友人を尋ねて来た序《ついで》に。」 「じゃ、これから鎌倉へいらっしゃるのでしょう。」  村川は、京子の顔を見た。大きい二つの眼に、恨みの色がひ らめいた。  一 「そうです。僕はこれで失礼します。」 「何うです。麻雀《マ ジヤン》でもやって、宿《とま》って行ったらどうですか、 ちっとも、遠慮は入りませんよ。」  今井が、いった。 「いや一寸急ぎますから。」  村川は、椅子から立ち上った。 「そう。じゃ、妾下まで送って行ってあげるわ。」  村川の後から、京子は階段を降りた。だが、彼女は村川を、 さんざん傷つけている丈に恐ろしかった。丁度手負獅子を追っ ている猟犬のように、階段を下り切ったとき、先に立っている 村川が、クルリと向き直った。京子は少し不意だったので、ギ クリとして、二三歩後へ身を退《すさ》った。 「京子さん。貴女は、こんなことで僕と倭文子さんとをひき離 したつもりでいるのですか。」  村川の声は、思ったより冷静だった。  「つもりではないわ。もう引き離してしまったじゃないの。」  京子の言葉は、更につめたかった。 、「そうですか。なるほど、僕は倭文子さんから、絶縁状のよう なものをもらいました。でも、それがあの方の本心だとは、ど■ うしても思えないのです。」  「おめでたいわねえ。」  京子は、ニッコリ笑った。  「僕と倭文子さんとがこれぎりになると思っている貴女こそ、 おめでたいのではありませんか。」  京子は、少しカッとして、  「どちらが、おめでたいか。今に分ってよ。」  「ほんとうです。僕は、倭文子さんに会えなくて、失望して帰 ります。あなたの下等な妨害に会って、帰ります。だが、倭文 子さんと僕との間が貴女の妨害で本質的に少しでも変ろうとは 思えないのです。」  「貴方位、うぬぼれがつよいと(一生幸福に暮せますわねえ。」  二人は、恐ろしいにくしみの眼を交しあった。  「倭文子さんは、あなたのかっている犬ころじゃありません よ。」  「同時に、あなたにすぐさらわれるような鶏でもありません よ。」    村川は、京子につかみかゝりそうな容子を見せた。   「どうなさるの。」   村川はすぐ思い返した。   [どうもしません一」   そういうと、村川は手早く靴をはいて、戸外の闇へ飛び出し た 結婚促進運動        一  村川を送り出してから、京子はさすがに興奮する呼吸を、じ いっと静めていた。京子はこの頃漸く感じ出したことだが、村 川をいじめればいじめるほど、不思議な快感が、心の中にしみ 出して来た。村川の顔が青ざめ、眼が血ばしり呼吸がはずみ、 はげしい精神的苦痛が、その美しい眉目の間にきざまれかける と、彼女は興奮し緊張した。おしまいには、×××にまで昆奮 した。××x×××××××××x××××××xx×xx× ××メ××ツ、彼女の神経や感情に沁み渡った。彼女は、もっ と㌔っと村川をいτめたかった。村川を手許にひきつけて置い て、彼の心臓にきゅっと爪を立てゝやりたかった。こうして村 川が、案外思い切りよく、手際よく引き上げると、彼女は掌中 のものを取落したように寂しかった。倭文子と会わせない程度 で、もっとひきつけて置いて、㌔っとじりく気長にいじめる のであったと思った。村川の足早に遠ざかって行く後姿《うしろすがた》を見 ながら、彼女はさびしかった。  二階へ上つて、今井や宮田と顔を会わせることが、彼女は少 しものうかったが、それでもとんノ\と勢いよく二階へ上っ た。座敷には入る前、寝室のドアのかぎをはずし、■中をのぞき 込んだ。.  倭文子は、ベッドに顔を埋めた盤、先刻《さつき》と同じ姿勢でいた。 ーヨ彼女ば安心しで傍へ歩み寄った。  「今人が来たの御存じ。」  倭文子は、うなずいた。  「だれか知っていて。」  倭文子は、頭を振った。  「そう。倭文子さん、お休みなさいね! 悪いことはいわない わ。ねえお風邪召しますよご  彼女は、そういってまた倭文子を一人残した。  座敷へ帰って見ると、宮田は書斎の方へでも行ったらしく、 今井が廊下近い安楽椅子に横になって、葉巻をふかしていた が、京子のは入って来たのを見ると、あわてゝ身を起した。  「どうしたのです。いやに、つらく当るじゃありませんか。」  「なぜ。」  「だって、わざノ\来たものを、追返すにも当らないじゃあり ませんか。」  「でも自業自得だわ。」  「そんなに村川君は、悪い人ですか。」  「とてもいけないの。」  「なぜです。」  「でも、倭文子さんにうるさくつきまとっているのですもの。」  「おやノ\。」  「よく葉山くんだりまで来られたわねえ。」  「それは少し耳がいたいですね。」 「貴方は別ですわ。」 「あんまり、別でもありませんね。」 「まあ、そう御謙遜遊ばすな。」 「村川君が倭文子さんに、つきま乏うなんて、じゃ、倭文子さ んは嫌っているのですか。」 「まあ、そうですわ。」 「そうですかね。■あんな好男子でも嫌われますかね。L 「でも、心がけがわるいのですもの叩」 「なぜです。」 「だって、最初は妾に、うるさくしたのでしょう。妾が、はね つけると、今度は倭文子さんよ。それじゃだれだって相手に出 来ないわ。」 「なるほどね。だが、僕たちがいて、とんだ邪魔で」たな。」 「いゝ気味だったわ。」 .「あゝ先刻仰しゃいましたね。結婚前の交際って。」 「えゝ申しましたわ。」  京子は、美しい眼をみはって今井を見た。        二 「結婚前の交際って、あれは宮田君と倭文子さんとの間丈です か。」 「えゝ。そのつもりだわ。なぜ。」 「そいつは少し参りましたな。電話ではそうは聞えませんでし たがな。」 「まあ、妾、なにか別の意味のことを申し上げまして。」 「そう正面から仰しゃられると、困りますな。僕は婚前交際と 言うことは貴女と僕とにも適用することゝ思っていましたよ。」 「まあ。し  京子は、さすがに処女らしく顔を赤くして、うつむいた。 「でなければ、僕はわざく葉山まで伺ったのが:…」 「まあお気の毒さま。」 「これはごあいさつですね。」 「でも、貴方と妾など。」 「問題になりませんですか。」 「でも、何だかおかしいわ。」 「恐れ入ります。でも、こう見えても、なかく誠意のある頼 もしい男ですよ。」 「それはよく存じて居ります。」 「あはゝゝゝゝ貴方にかトっちゃ。いやどうも、でも全然お考 えになることは出来ませんか。」      テープル                 .             やすな  京子は、卓子の上のグラフィックを開けて菊五郎の保名の写 真を見ながらいった。■ 「いゝえ。考えられないこともありませんわねえ。貴方と妾 だって、結婚する可能性《ポシビ ティ》がないともかぎりませんわねえ。」 「可能性《ポシビ テイ》は、可哀そうですね。ーせめて蓋然性《プロパピリティ》といって下さい。」 .京子は美しく首を振った。 「駄目ですかね。」 「一寸今井さん。あなたの奥さんにはこんな方がいゝ事よ。」  京子は、グラフ.イックの一ぺージに写された令嬢の写真を、 今井につきつけた。 「からかっちゃ困りますねえ。なるほど、キレイだな。実業家 河井栄一氏令嬢|優子《まさこ》十九か。でも、貴女には遠く及ばない。」 「まあ、そんなに、おだてゝ下すっても、駄目ですわ。」 「ねえ。京子さん、そんなに茶かさないで、真面目に考えては 下さいませんか。」  京子は立ち上った。窓際にいたが、    「†寸、今井さん。あんなに、火が見えていますわ。あれが、   いさり火でしょう。」    「古語にいういさり火ですな。」      と    「何を捕っているのでしょう。」    いか …ー一一鳴賊¢沖津ψ葎せ汐冷し…ー…ーー…≡し.…ー……..「……    「烏賊, 烏賊を何うして捕りますのピ    「そんなこと、どうでもいゝじゃありませんか、それよりも   ……。」    「婚前交際の話ですか。あなたそんなにお気に入ったならラジ   オで講演なさいませ-婚前交際の話並にその心得。」    「あゝそう、この別荘へもラジオを取りつけるのだった。」    「旅行用のオザアカという機械がありますわねえ。」    「あれは駄目ですよ。乾電池が直ぐなくなりますから、それよ   り力《さ》:::」    「又婚前交際ですか。」    「そうです。そうです。あはゝゝゝゝその話ですよ。」          三 「あゝ困った。今井さんなどに、あんな言葉を教えなければよ かった。」 「阿呆の一つ覚えになりましたかね。」 「妾、倭文子さんのために、つくしてあげなければいけません の。」 「と、いいますと何ういうことですかね。」 「はやく宮田さんとのお話まとめてあげたいわ。」 「結構ですね。僕も及ばずながら御尽力いたしますよ。」 「どうぞ、ぜひ。」 「その代り、話がまとまったら、何かごほうびがあるでしょう なご  「まあ。もうごほうびのことを考えていらっしゃるの。」京子  は、微笑をふくんだ上眼で今井をにらんだー「随分功利的な方  ですわね。」 ーー[にれぽ広疹りぽし恥ドす枠添心を観しにし建い撞Lレたかな…」…  「いゝわ。ごほうび上げますわ。」  「きっとですか。」  「えゝ、きっと。」  「何です。ごほうびの品は。」  「考えて置きますわ。それとも、何か騎望みがあって。」  「望みはいろくありますね。」  「あまり慾ばっても駄目ですよ。」  「おや、爵や。」  「ねえ、今井さん。」   京子は、いいよどんだ。  「何です。」  「あのね。倭文子さんも、早く結婚なさりたいのよ。あれで私  の家《うち》に居るのには、可なり気がねしていらっしゃるのよ。」  「なるほどね。それに、貴女がいじめるだろうし。」  「まあ。妾いじめたりなんかしませんわ。」  「いや冗談です。失礼。」  「だから、倭文子さんは直ぐにでも結婚なさりたいのよ。」  「じゃ何も問題はないじゃありませんか。宮田君は、十分乗気 だし。」  「でもね、あの方たいへんな内気な方でしょう。」  「貴女と(つき合わせると丁度いゝんですね。」  「まあ、わたしそんなにお転婆に見えまして。これから慎みま すわ。」 「いや、失礼、決してそんな意味で.・.…」 「まあ。そんなことどちらでもいゝわ。とにかく倭文子さんは 内気な方でしょう。だから、村川さんが、うるさくす・ると、 やっばり村川さんに気がねしていらっしゃるのよ。それで、宮 田さんとの話に、すぐハィと仰しゃらないのよ。」 -「たるほどね。だが、村川君との間は何もないのですか。」 「何もないですとも。た間嫌っていらっし々る丈。」 「じゃどうすればいゝと仰しゃるのです。」 「あのね、だから妾、倭文子さんを、もっとハキく決心なさ るように導きたいの。」 コ寸問題がデリケイトですね。」 「妾、それについて一寸考えがありますの。」 「何か名案がありますかね。」 「貴君、きっと賛成して下さる。」 「賛成しますとも。つまり、貴女と二人で、結婚促進運動をす ればいいのでしょう。」 「えゝ。そう。」 一「やりますとも、あなたと御一緒なら、何でもやりますよ。」 「頼母しいわ。」 「初めて、おほめに預かったわけですね。」        四  そのあくる日、日曜の午後四時頃、京子は急に、鎌倉まで買 物に行くといって、自動車を呼んだ。京子が、支度をして出か けようとすると、今井がいった。 「京子さん。何時頃帰っていらっしゃるのです。」 「六時頃。」 「じゃ、僕ものせて行ってくれませんか。海浜ホテルにいる外 人に、一寸用談があるんですがね。」 「迷惑だわ。」 「そんなに仰しゃらないで。」 「そう! じゃ、仕方がない。乗っていらっしゃい。」  二人は、連れ立って自動車で出かけた。  倭文子は、一人取残されることが、どんなに迷惑に思った か。だが、こんな場合、彼女はただだまって、京子のすること を見ている外はなかった。  日が暮れるまで、彼女はヴェランダへ出て海を見ていた。別 荘の下の海には、黒い岩が、いくつもいくりも突き出ていた。 三四日前海が暴《あ》れた揚句なので、海草が岩にからんで一杯に浮 いていた。風がなくても、大洋を受けているので、岩に砕ける 波が、すさまじい音を立てゝ、白いしぶきを絶えずあげた。  倭文子は、宮田がなるベく遠くにいてくれゝば、いゝと思っ た。彼女は、別に宮田を嫌う理由もなかったし、また嫌っても いなかったが、親しくない男性、しかも縁談などのある丈に、 傍へ来られるのは嫌《いや》だった。そうした倭文子の身構えが、宮田 にそれとたく感ぜられると見え、彼も敢て近づこうとはしな かった。  彼は、書斎へ行って本を読んでいるらしかった。ときム\ 座敷へ来て、煙草を吸ったりした。一度は、ヴエランダヘ出て 来て、倭文子に、 「お寒くありませんか。」  と声をかけたが、倭文子が、 「いゝえ。」  と、いった丈で、笑い顔一つしなかったので、彼は一茜分傍 に立っていた丈で、また書斎の方へ去った。あとで倭文子は、 あまりそっ廿なくしたので、少し悪かったと思った抵どであ る。  だが、京予の云った六時が来ても、京子達は帰って来る容子 がなかった。室内の電燈がともり、海上がいつとなくたそが れ、最後までほのかに見えていた天城の連山も、夕雲にとざさ れ、闇が海上を覆}りk泣傾」に菰わκ捲…壇仔-漣ポ批傭"r凍… なかαたひ,一,.……  倭文子は、到頭籐椅子から、身を離し、座敷へ帰って来なけ ればならなかった。  その座敷には、宮田が先刻から退屈そうに金口のシガレット をふかしていた。  「おそいですね、京子さんは。」 ・「えゝ一」・  倭文子もそう答えないではいられなかった。 「どうしたんだろう。全くおそいや。」  宮田は、.左手の手首の腕時計を見た。 「もう十五分で、七時ですな。いけないな。僕達丈を捨てゝお いてご  倭文子は、宮田と二間もはなれて長く使わないらしいスト1 ブの横にある安楽椅子《ア ムチェア》に腰をかけた。 二体京子さんは、何の買物に行ったのでしょうかな。」 「何でございますかしら。」  倭文子は、顔も十分にあげないで、低い小さい、中途で消え てなくなりそうな声で答えた。        五  七時がなると別荘番の女房が上って来た。 「何うしたのでございましょうか。まだお帰りになりません ね田御飯はお二人丈でも先へ差しあげましょうか。」   倭文子は知らぬ男と、差し向いで御飯をたべることは考えて  見る丈でも、胸につかえた。   「妾、京子さんのお帰りになるまで、お待ちしますわ。」   「そうでございますか。貴方様は?」 …'女房は窟由に聞いた。ヨ… ……ー ヨ「ー …  ≡……≡-「   「僕もまだたべたくありません。御一緒でけっこうです。」  「じゃ、しばらくお待ちしましょうか。もう騎っつけお帰りに  なることでございましょう。」   そう言って女房は下へ降りて行った。   また、しらじらと時間が流れた。倭文子は、だまっていつま  でもうつむいていた。寝室へ行ってしま躰うかとも思ったが、  それではあまりに相手にわるいと思うので、倭文子は身体《からだ》がし  めつけられるような、きまりのわるさ、窮屈さをこらえてい  た。  「七時三十分だ。どうもおそいな。どケしたのでしょう。」  「さあ。」  「こんなに待たせるなんて、ほんとうにいけませんな。だが、  今井さんの用事が長びいているのかな。待ち遠しいですな。ど  うです、こちらへいらっしゃいませんか。お話しでもなさいま  せんか。」  「えゝ。」   といったが、倭文子は顔を赤くした丈で、椅子を離れようと  しなかった。  「貴女が、こちらへいらっしゃらないのなら、僕がお傍ヘ行き  ましょうか。山が、マホメットの方へ来ないから、マホメット  が山の方へ行くという話がありますね。あはゝゝゝ。」   宮田は、てれかくしにそんなことをいいながら、倭文子にー  番近いソファヘ席を移した。. 「一度、ゆっくりお話したいと思っていたのです。今井さんか ら、いろく茄うわさはきいていましたが。」  倭文子は、前よりも二寸位首を低くたれた。 「今井さんも、川辺さんも、貴女もみんな御同藩だそうです ね。今井さんの話では、貴女《あなた》の家はなかなかの御名家だという ことじゃありませんか。何でも、貴女の家《うち》が御家老で、川辺さ んの家が馬廻りで、今井さんの家は足軽だそうですね。」  倭文子は、自分の家のことをいわれるのが、一番いやだっ た。 「川辺さんとは何ういう御関係ですか。」 「妾の母が川辺から参っているのでございます。」  倭文子の声は、泣き出しそうな声だった。 「じゃ、川辺さんは母方の伯父さんですね。」 「はい。」. 「じゃ、なかく深い御関係ですね。それで、齢母さまはお たっしゃですか。」 「いゝえ。」 「じゃ、とっくになくなられたわけですね。お父さまは。」 .倭文子は、涙ぐんだ。彼女は何か責苦に会っているように、 悲しかった。 一「お父さまはおたっしゃですか。」  倭文子は、顔をそむけながら頭を振った。 「いや、どうも大変失礼なことを伺いました。御両親が、い らっしゃらないのには、しみじみ御同情いたしますよ。僕のよ うに三十を越すと、親などはあってもなくても同じですが、貴 女のように二十《はたち》前後で、御両親殊にお母さまのいらっしゃらな いのは、全くお気の毒ですね。」  倭文子は、宮田の言葉をきいていると、先刻からのなさけな さが、目惜しさが、 上に落ちた。        六 急に大つぶの涙になって、 ポトノ\と膝の  倭文子の落した涙を、宮田は自分の慰めの言葉の効果だと 思って得意になっていた。そして自分の言葉に、こんなにも手 答えがあるのなら、この女の心を自分のものにするのは、何で もないと思った。だが、そう思いながら、彼は倭文子の涙を見 ると、驚いたらしくいった。 「いや、これはどうも、たいへん失礼しました。つまらないこ とを申しあげて。いや、ごもっともです。全くごもっとーもで す。つい、どうもお母様のことなど申上げて、失礼しました。」  倭文子は不覚に落した涙に、われながら狼狽して、あわてゝ 心を持直して、ぬれた頬を袖でふいていた。そして、どうして 他人の前で涙を落したのかと、後悔していた。 「だが、川辺さんのようたいゝ御親類が在って、,お仕合せです ね。それに京子さんとは、たいへんお仲がいゝようじゃありま せんか。御姉妹《ごきようだい》同様ですな。京子さんはいろくあなたのお力 になっているのでしょう。」  倭文子は、だまってうなずいた。 「それに、貴女のような器やさしい方には、だれだってお力に なりたいですからな。あはゝゝゝ。」  だが、倭文子が、ちっとも表情をうごかさなかったので、宮 田の笑いは、しらじらしたひfきを残した。  もう八時であった。下から女房がまた上って来た。 「いかfでございます。もう、御飯めし上ったら。お帰りにな るにしても、御飯をおすませになってからだろうと思います が。」   「そうですね一じゃ、いた間きましょうかな。いか間です2」   宮田は、倭文子の方を向いた。倭文子も、断るべき口実はた   かった。   「えゝ。」    宮田は、女房にいった。    やがて、二つのお膳が、中央の卓子《テ プル》の上に、置かれた。倭文   子は、いやでも宮田と差し向いで、食卓に着かねばならなかっ   た。   「いや、貴女と御一緒に御飯をいた間けるなど、全く思いがけ   ないことです。御迷惑でしょうが、これも交際だと思って、一   しょに召し上って下さい。」   「おつけ致しましょう。」    女房が下へ降りて行ってしぱらく上って来ないので、倭文子   はハ女としてそういわずにいられなかった。   「いや(恐れ入ります。」    倭文子は、宮田に御飯をよそってやったが、自分でよそう気   はちっともしなかった。何だか、心持が落ちつかず、いらノ\   して、一刻も早く、自分一人にたりたかった。   「京子さんと、あなたは全く反対ですな。御性格が、全く反対   ですな。でも、僕など、やっばり蔚となしい方が、好きです   曳京子さんのような方は、あゝ頭の働く方は、始終御一しょ   に居ると、こちらの方で疲れてしまいそうですね。僕など、   やっばりおとなしいしずかな方が好きですね。」    宮田は、御飯をたべながらしゃベりつ讐けていた。    女房が、下からお茶を持って上って来た。.だが、彼女はお茶   を置く前に、一枚の紙片を差し出した。   「お嬢さま、あの電報が参りました。」  倭文子は何事かと驚きながらあけて見た。  「カイモノノツゴウデトウキョウヘカエルアススグユク  キョウコ」ー  と読まれた。  買物の都合で、東京まで帰り、あす直ぐ来るというのは、何 でもない事かもしれなかった。だが、その何でもない事から、 この家に親しくない男性と、二人きりで取りのこされること ぽ、何でもない事ではなかった。倭文子《しずこ》は先刻から沈んでいた 心が、さらに暗潅としてしまった。おとなしい彼女も、京子の わがまゝを、にくまずにはいられなかった。先刻から、四時間 ばかり話をしないで一しょにいた丈でも、彼女の神経や感情 は、疲れ切っている。まして、これから寝るまでの時間、明朝 起きてからの幾時間を考えると、倭文子の心は憂欝になってし まうのだった。 「何うしたのです。何か事件でも起ったのですか。」  電報を見ている倭文子の顔が、だんだん蒼ざめて来るのを見 て、ー宮田がきいた。 「いゝえ。」 「どなたからの電報です。」 コ足子さんから。」  倭文子は電報を差し出した。 「何だって、電報なんか打ったのだろう。」  そう言いながら、宮田は電報を読んだ。 「帰らないというんですな。今井さんは、どうしたんだろグ。 今井さんも、一しょに東京へ帰ったのかな。L  宮田も、一寸眉をひそめた。 「そういってくれゝば、僕も一しょに帰るのに、僕は、今日帰 りたかったのですよ。それを杜長がもう一晩|宿《とま》って、あした早 く帰ろうというもんだから、宿る気になったのですよ。ほった らかして行ったのだとすると、ひどいな。」  宮田は、如何にも迷惑そうにいった。だが、倭文子は、凡て が偶然の出来ごとだとは、何うしても思えなかった。いつも、 突飛な思いがけないことをする京子だが、急に東京に帰るとい うことが、如何にもおかしいと思った。殊に自分と宮田とが、 二人きりになるということが、ハーッキリ分っていながら、そん なこ之をするのが、騎かしいと思った。自動車で出て行くと き、今井が、そゝ《さと一しょに出て行った、あわた間しさ。 凡てが、■何かの計画を含んでいるようで、倭文子は、かなしい いやな気がした。 「だが(京子さんは(きっ乏何か急用があったのに違いありま せんよ。京子さんの事だから、買いたいと思い出すと、一日も 猶予が出来ないので」一う。」  それは、たしかにそうだった。しかしお客があるのに、自分 を一人ぎりにするのは、どう考えてもひどい之思った。 「僕は、決して何とも思っていませんよ。貴女は御迷惑でしょ うな。お察しいたします。」  倭文子は、食事の手をやすめたまゝで、もう再び箸を取る気 はLなかった。彼女は、食事がすめば、なる丈早く寝室へ引き 取りたい之思■っていた。 「いや、僕はこういう機会でもなければ貴女とゆっくりお話す ることが出来なかったかもしれません。僕は、貴女にはぜひい ろノ\お話したいと思っていたのです。」  そういわれると倭文子は、身がちぢまるように思った。彼女 はどうにかして、■この気づまりな境遇から逃げ出したかった。 「もう、東京へ帰る汽車は、ございませんでしょうか。」 「そんたに、僕と一しょにいらっしゃるのがおいやですか。」 宮田は、一寸不快な顔をした。 思わざる 一 罪  倭文子は、真赤にたってうつむいた。 「汽車はたしか九時幾分かのがあったはずですよ。これから急 げば間に合わないこともないでしょうが、お帰りになります か。」  倭文子は、どうしていゝか自分でも分らなかった。 「器帰りになるのなら、お伴しますよ。僕も帰りたいのですか らね。」  こゝにと甘まっても、東京に帰っても、どちらにしても、宮 田との気づまりな息ぐるしい接触を、免れることが出来ないと したなちば、こゝに居て折を見て、寝室ヘひきとった方が、ゼ れほどいゝか分らなかった。 「お帰りになりますかね。お帰りになるとしても、お伴しない わけには行きませんね。㌔う遅いし、お一人じゃ心配ですから ね。」 「いゝえ。」  倭文子は決心して、首を振った。 「お一人でお帰りになりますか。」 一「いゝえ。」    「お帰りにならたいのですか。」    倭文子はうなずいた。    「けっこうです。じゃゆっくりお話しようじゃありませんか。」       はなし    その話するということが、倭文子には苦労の種だった。彼女 ;ーーはド生伽つ樽観↓Kほい汰汝雛しkいは乏ド顔がカツ沈之レて≡   すぐ頭痛がして来るのだった。まして、.二人ぎりで差し向いの   話などは心の苦しみ丈でなく、同時に肉体的に苦痛を伴った。    別荘番の女房が、お膳を下げに来た。それを機会に、倭文子   はどうにかして、自分の部屋へ引きとりたいと思ったが、宮田   は絶えず倭文子に話しかけて、その機会を与えなかった。    「先刻から私達が、どうしてうちとけられないか、御存じです   か。」    しばらく、沈黙がつ間いた後に宮田がいった。倭文子は不思   議そうに宮田の顔を見上げた。   .「いや、こういった丈では、騎分りにならないでしょう。私達   は話すべきことを話していないからですね。私達の間で、一番   大事のことをね。」    倭文子は、それを考えて見ようとも思わなかった。    「あはゝゝゝ、一番大事なことに触れることを恐れていたから   ですね。そうじゃないでしょうか、つまり私達の間の縁談です   ね。それをお互に、かくそうかくそうとしているからですね。   だから、お互に感情がこだわってしまうのですね。あはゝゝゝ   は。」    宮田は、いかにも大発見をでもしたように、ほがらかにいっ   た。だが、倭文子は心の内でちっとも賛成しなかった。そんな   ことを話すれば、もっともっと気づまりになり、もっともっと   苦痛を感ずるに違いないからである。   「あなただって、私達の間に、縁談のあることを御存じないこ  とはないでしょう。」   倭文子は、小さい、両手の中にはいってしまいそうな顔を、  卓子《テ ブル》とすれ八\になるまで、低くたれていた。明るい電燈の下  では、黒いまつげまでも、ハッキリと見えた。色はやゝ浅ぐろ ≡ーいが光沢《つや》めあ垢りやソヘした類ド処女らしい真赤た小きい唇一…  宮田は彼女の頬を両手ではさみその美↓い唇を、接吻にまで持  ち上げるときのことを考えると、なやましいまでに、感情が興  奮した。  「私達は、正面からその話をした方が、いゝと思うのですが、  お互にそれについてお話した方が、人委せにするよりも、いく  らいゝか分らないと思うのです。」   倭文子は、顔をそむけて、床に敷いた青い敷物の中にさいて  いる一輪の花をみつめていた。         二  「こうなれば、私はすっかり申しあげましょう。初め杜長か  ら、貴方との縁談がありましたとき、私は無論良縁だと思って  喜びましたのです。覚えていちっしゃいますか臣私が貴女に初  めてお目にかゝったときを。」   倭文子は、こんな話に、返事をする気は少しもなかった。こ  んな話に調子をあわせるのに、彼女の心は、あまりに処女らし  くとざされていた。  「たしか歌舞伎座の新築興行のときですよ。そうそう『家康入  国』をやって居たときです。廊下で杜長に紹介していた間きま  したよ。あのときもたしか、京子さんと御一緒でしたね。覚え  ていらっしゃいますか。私は、あのときから、貴女はほんとう  に純な方だと思ってい雷した。その次ぎに、お目にかかったの  は、邦楽座の研精会のときですね、二度とも私は貴女がどんな 風次着物を着ていら9しったか、今でもよく覚えていますよ。」  倭文子は、顔をあげることが出来なかった。頭がぼlとな り、顔が熱く、胸がしぎりにさわいだ。彼女は、村川から初め て恋をさゝやかれたとき、やっばり心がこんな風に動揺した。 だが、あのときはその動揺の中に、ほのかな身も心もとかして しまうような、太陽の熱があった。だが、今はそれがない。喜 ぴにふるえる胸ではなくして、た間苦しく不快にさいなまれて いる心だった。 「だから、今度のお話も、願ってもない良縁だと思ったのです よ。だが、やっばり縁談でした。まとまったら、幸せだが、ま とまらないでも仕方がないとこう思っていたのです。ところが です。昨日、社長が別荘へ行かないかというものですから、つ いついて来たのです。むろん、貴女方が、いらっしゃるなどと は、夢にも知らなかったのです。中途で、杜長から打ちあけら れたときでも、私はあなたとゆっくり見合いが出来る位にしか 思っていなかったのです。だが昨夕《ゆうべ》からだんだん、貴女の御容 子を見ていると、縁談が縁談でなくなってしまったのです。商 取引のような、まとまらなければ、また今度といったような、 そんなのんきな心持でいられなくなってしまったのです。」  宮田は、緊張した顔をしていた。倭文子は相変らず顔をそむ け、青い敷物をみつめている姿勢をちっともうごかさなかっ た。 「何でも京子さんのお話では、川辺さん御夫婦も賛成だし、妾《わたし》 も良縁だといろくすゝめているのだが、何だか本人の倭文子 さんが今一息だと、こうおっしゃるのですがね。ほんとうです かね。」  倭文子は、やはり返事をしなかった。 「直接こんなことを、お尋ねするのは、失礼かもしれません。 だが私はつまらない遠慮などをしていて・あなたのような方 を、失いたくないのです。あなたが、どんな点で、私が欝気に 入らないか、それを伺いたいと思うのです。それが、貴女の誤 解などである場合、十分私の申すこともきいていた寸きたいの です。」  倭文子は、こうしている苦痛に堪えられなくなった。彼女 は、ふいに椅子から立ち上った。 「あの、妾、失礼いたしますわ。」        三  倭文子が立ちあがるのを見ると、宮田も直ぐ立ちあがった。 「なぜです。僕と一緒にいらっしゃるのがそんなにお嫌《いや》なので すか。」  宮田はテーブルをまわって倭文子に近づいて来た。男性の暴 力が目に見えぬ妖気になって彼女を包んだ。不快な悪感が彼女 の身体中を流れた。彼女は今まで腰かけて居た椅子に身をよせ て立ちすくんで居た。 「何故です。何故僕と一緒に居るのがそんなにお嫌なのです。」  宮田の生白い顔が、二倍も三倍もの大きさになって、倭文子 の横顔にせまって来た。 「僕だって紳士ですよ。僕が話して居る中いきなり座をお立ち に成るなんて、そんな侮辱をお与えにならないでもいゝでしょ う。」  宮田は昂奮して息を凝らして居た。だが、倭文子は何も考え て居なかった。唯一刻も早く宮田の前をのがれたいだけだっ た。 「すみません。でも妾《わたくし》。」  倭文子はそう云うと、左の袖で顔をおおうた。むせび泣く声 が直ぐもれはじめた。  「お泣きになるのですか。困りましたな。」  宮田は、二三歩引きさがった。卓子《テ プル》の上の煙草に手をやっ た。  「妾、失礼しますわ。」 …倭文予は、そタ言タど袖で顔なおおテた承.、足早に部屋から 出ようとした。  「倭文子さん待って下さい。」  宮田はあわてゝ追いすがると、倭文子の右の肩をつかんだ。  「どうしても僕の話をきいてくれないのですか。ね、お願いで す。もう一度僕の話をきいて下さい。話をきいて下さってから おいやでしたら、おいやだと言って下さい。」  倭文子は身もだえして肩にかゝって居る宮田の手をふりほど いた。ふりほどかれても、宮田はこりずに幾度も倭文子の肩に 手をやった。彼女のほっそりとしたえりすじや、身もだえする 毎に見える涙にぬれたうす桃色の頬などが、好色の宮田には、 激しい誘惑だった。引きとめようとする宮田は、彼をふりほど こうとして身もだえする倭文子の弾力のある、しなやかた肉体 を、羽織を着ない袷一枚の下に生《なまく》々と感じた。処女らしいに騎 ■いや、感触が宮田の感覚をそゝった。宮田はそれを享楽する為 にだけでも、もっとく倭文子を引き止めたかった。  「じゃ、もう十分だけ、僕の話をきいて下さいませんか。そし て貴女の御機嫌が直ってからおやすみになって下さい。」  「妾、頭痛がしますから。」  、涙で洗われたため、さらに生《いきく》々と輝いて居る小さい顔をふり むけて倭文子は言った。  「そんな事を仰言らないで。」  宮田は倭文子の正面から彼女の両肩に手をやった。倭文子は  くるりと身をさけた。   「ね。いゝじゃありませんか。」   今度は向うへ振り向いた倭文子の後《うしる》から肩へ手をやった。倭  文子は身をかわしてそれをさけた。 ー…「吃汎抵㌍何が犠嫌いねゆ鷲け伽い庫県旗が.たんーなに僕を乱暴屠「  あつかいになさるのなら、僕だって乱暴者になれますよ。」  ■倭文子は宮田の言葉が、耳には入らぬ様につゝとドアの方へ  いそいだ。宮田は追いすがった。二人はそこでまたもつれ合っ  た。そのとき倭文子はカチリと音がしたと思うとハ部屋の中が  -パッと急に暗くたった。宮田が倭文子を押し止めながら、電燈  のスイッチを押したのである。   闇の中で男性の強い両手が強い力で倭文子の両肩をつかん  だ。 四  闇の中で、宮田の両手が倭文子の両肩にかゝったとき、今ま ではおびえた小鳥のように、た讐オドくしていた倭文子の心 に身を守る強い覚悟が爆発した。ー 「何をなさいますの。」  彼女の草の茎のようにかぽそい両手は劔のように冴え、防禦 のない宮田の胸を烈しく突いた。 「あっ!」  宮田が、不意を喰らって、少したじろいだ腕り下をく間る と、倭文子は矢のように階段をころび落ちるように、かけ下っ た。  玄関のドアを烈しい音を立てゝあけると、戸外の闇へ走り 入った。 ・宮田は、倭文子の必死の勢いに、一寸呆然としたが、彼女が どんたことをするかも知れぬと思うと、蒼くなった。そう思う と忽ち崖下に砕けているどうどうたる海の音が、聞えて来た。 彼は、恐ろしい予感に傑えながら、階段をかけ降りた。  ドアをあけて、跣足《はだし》のまゝ道路へ出て、左右を見ると、森戸 の方へ走って行く倭文子の姿が三十間ばかり彼方の海岸に立っ ている街燈の下に見えた。  宮田は、凡てを忘れて追いすがった。二十間、.十間、前に 走っている倭文子の白たびが、土を蹴るのが見えるほどになっ た。  と、倭文子は、振り返って宮田を見た。彼女の身体に絶望的 な容子が浮んだように思われた。 と、彼女は道の端の二尺ばかりの石塀を越えると、海岸の大 きい岩の上にひらりと飛び降りた。 「あっ! いけない。」  宮田は悲鳴を挙げた。  倭文子は、その大きい岩の上を這いながら、白いしぶきの 散っている海波の方へ急いだ。 「倭文子さん、待って下さい。いけません! いけません!」  宮田は、石塀をまたぐと岩の上へ飛び降りた。  倭文子は、宮田が追つて来るのを見ると、なおさら海へ急い だ。   一 「待って下さい。倭文子さん、あやまります。おねがいです。」  宮田は、必死に叫びながら、倭文子を追うた。  倭文子は、もう一問位で崖の端《はた》へ.とfく所であった。だが、 彼女はそこで、岩のわれ目に片足をとられたと見え、それをぬ こうとしてあせっていた。  宮田は、やっとのことで幾度目かに倭文子の肩口をつかん だ。  宮田は、倭文子の肩口をつかんだまゝ物がいえなかった。 「はなして下さい。」  倭文子は、はげしく身をもだえた。 「いゝえ。放しません。」 「はなして下さい! はなして下さい。」  倭文子は、身震いしながら、汚らわしげに宮田を振りはなそ うとした。. 「僕が、あやまります。どうぞ、一度だけ帰って下さい。」  宮田は、頭を幾度も下げた。 「いゝトえ。いゝえ。」  倭文子は、宮田を振りはらって、直ぐにでも海へ飛び入りそ うな擬勢を示した。        五 .そこはともすれば潮のしぶきが飛びかゝるほど、海に近かっ た。倭文子は、岩の上にぴったり身体をくっつけたまゝはなれ なかった。 「もう、決してあんな亡とはいいません。どうぞお帰りになっ て下さいー.」  宮田は、両手をつかんばかりに頭を下げた。倭文子捻、白く 死面のようになった顔に、真赤な唇をぐっとかみしめていた。 そして、少しもじっとしていないで、宮田に取られた右の手を 振りほどこうとして、身をもがいていた。彼女のかぽそい全身 が、蛇のようにうごめきながら、宮田に反抗した。 「倭文子さん。どうぞ、気をしずめて下さい。どうぞ、帰って 下さいー.」  宮田は、両手に力をこめて倭文子を抱き起そうとした。.倭文 子は身をのけざまにして、それを拒んだ。 「倭文子さん。こんな所に居て、人が来たらどうするのです。 貴女だって、僕だって!」  宮田は、声をふるわした。 「貴方こそお帰り下さい。」 「僕が帰れるもんですか。すなおに帰って下さらないのなら、 力ずくでもおつれしますよ。」  倭文子は、さし延ばした宮田の手をさけて立ち上った。彼女 は、また崖ばたへ急ごうとするのを、宮田が飛びついて、抱き 止めた。ふりもごうとする倭文子の全身を宮田は男性の力で やっと支えながら、道路の方へひきずった。  道路の上を、自動車が、一つ走りすぎた。だが、もう十時に 近いので、人は先刻から'人も通らなかった。通ったにしろ、 二人の争いの声は、海のひ間きにのまれて聞えなか、ただろ う。  道路まで、倭文子を引ずって来ると、宮田は安心した。安心 して手をゆるめると、倭文子はそれを待っていたように、必死 な力で宮田を振りはなしてまたひらりと石堤をとびこして、 岩の上に飛び降りた。  岩の上の勝手が、前よりよく分っている乏見え、倭文子は足 早につゝと岩の上を走った。 「お待ちなさい!」  宮田は、必死な声をあげて追いすがった。そして海へニ間位 のところで、やっ乏倭文子を捕えた。 「何をするのです、馬鹿な手.」  宮田はあえぎながらいった。倭文子も全身に波うつように、 苦しーくあえぎながら、なお宮田を振りはなそうとした。 「僕も、こうなれば、,どんな乱暴でもしてあなたをつれて帰り 寒す。」  宮田はそういう乏、,倭文子の両手を一緒にしてつかみなが ら、岩の上をぐいくひっばろうとした。  倭文子は、それを烈しく拒んだ、膝をすりむいたと見え、あ らわに見える真白な脛に、血が一筋流れていた。 「強情ですなあ、あなたも。浮赤藪扮κ拓知りぽ揖ん鱗じコーヨ  宮田は、そういって、少しやぶれかぶれで力一杯倭文子の両 手をひっばった。 「あっ!」  倭文子が悲鳴を挙げた乏きである。宮田の右の頬が、闇の中 で、すさまじい音を立てゝ背後から打たれた。 、「騎い! 乱暴なことをするな■」       六 「なにっ!」  振り向いた宮田は、いきなり烈しい力で、突き飛ばされた。 身体が宙に浮いたと思うと、足を岩角に取られて、仰向けに ひっくり返った。. 「倭文子さん!」  その男は、宮田の方は振り向きもしないで、宮田の手から自 由になって起き上ろうとする倭文子を助け起した。 「あっ!」  倭文子は、心の底から、悲鳴とも歓喜ともつかない声をあぼ ると、男の懐に身をなげこんだ。 「どうしたというのです。これは。」  それは、激昂している村川の声だった。彼は、昨夜とこよい と、倭文子に会う少しの機会でもないかと、別荘の周囲を、夜 盗のようにうろつきまわっていたのだろう。  そうきかれると、倭文子はわっ! 乏泣き出した。冷えきっ た彼女の身体の激しいふるえが、村川の胸に感ぜられた。  丁度そのとき、今度は反対に、 「何をするのだ、貴様!」 彼は後《うしろ》から、右の頬を思いきり烈しく打たれた。  彼は、余りのうれしさに、後にいる敵を忘れていたのであ る。 「なにをする!」 ■振向くと、宮田が真蒼な顔をして、立っていた。宮田は、村 川だと知ると、一寸おどろいたらしいが、擬勢は少しもくずさ たかった。. 「君は村川じゃないか。」 「そうだ。」 「君は、僕と知って打《ぶ》ったのか。」 「そうだ。」  二人は、初めて敵となって、相対した。四つの視線が中途 で、烈しく斬り合った。 「どうして打《ぶ》つのだ。」 「倭文子さんに、手荒なことをするからだ。」 「馬鹿! 僕が、倭文子さんの無分別を止めているのが分らな いのか。」 ■「そうですか、倭文子さん。」ー  村川は、彼の手をすべり落ちて岩の上にうずくまっている倭 文子にきいた。倭文子は恨めしそうに宮田を見た。 「はっきりいって下さい!」 「でも。」 「でも、どうしたのです。」 「でも、宮田さんが……。」  倭文子は、いいにくそうに、いいよどんだ。 「馬鹿なことをいっちゃ困りますよ。倭文子さん。」 「だまってろ! 君は。」 村川は、宮田をどなりつけた。 「貴様、だまっていろ!」 「なに!」 「何だ!」  二人はつかみ合いそうな勢を示した。 「君は、倭文子さんに、失礼なことをしたのだろう。」 「馬鹿をいえ!」  宮田は、必死になってどなりかぇした。 「京子さんや、今井さんはどうしたのです。」 「急に東京へお帰りになりましたの。」 「貴女も、なぜ一しょにお帰りにならなかったのです。」 「でも、知らして下さらないのです。」 「じゃ、貴女とこの男と二人ぎり残ったのですか。」  倭文子はうなずいた。  村川は、凡てが了解したようにこぶしをにぎった。 「貴様!」  村川ははげしいにくしみで、宮田を見返した。        七 「なに!」  宮田も、村川と倭文子《しずこ》との関係をハッキリ会得したと見え、 村川に対して明らかなにくしみを示した。 「君は、倭文子さんに無礼なことをしたのだろう。」  村川の言葉からは、侮蔑と憤怒とが、火花のように散っ た。 「ウソをつけ! 失礼なことをいうな、貴様こそ不良少年のく せ仁。」 「なに!」 「何だ」」  もう、言葉の戦いは了っていた。どちらからか飛びかゝる とたく、二入はつかみ合った。 、、、肉体と肉体とが、,打ぢ合ヶ無気味疲音が、、波0ぴ讐きよりも 高く聞えた。倭文子は恐ろしさに目を覆うた。村川は柔道の心 得があるので、相手の拳をさけながら、敵の腰に手をやった。 だが、.それで相手の身体を持ち上げようとすると、自分の足が 岩のわれ目には入ったと見え、腰が砕けて、敵の身体をいだい たまゝ、後《うしろ》へ転倒した。二人は上になり下になり、あらゆる方 法でお互に、傷つけ合った。  宮田も、しばしば村川の逆を取ろうとして、お互に敵が、強 敵であるのを知ると、夢中になって戦った。  倭文子は、ふと目をあけてみると、二人は組み合ったまゝ、 岩の傾斜をすべり、崖端近くへころげて行った。そこで、村川 は宮田に組みしかれていた。そこから海へはもう一間となかっ た。 「およしなさいませ! およしなさいませ!」  倭文子は悲鳴を揚げたがら、近づいた。だが、恐ろしさに、 指をさえることも出来なかった。  村川を組みしいた宮田は、息を切らしながら叫んだ。 「どうだい! 馬鹿! ざまを見ろ!」  村川は、苦しげにうめいていた。 「苦しいか、どうだ。もう少ししめてやろうか。どうだ、まだ 抵抗するか。」  村川は、組しかれながら、倭文子が近づいたのを知った。彼 は、恋人の前で敵にくみしかれている恥が、満身の血を煮えた だらした。彼は最後の力をふりしぼった。両足に力を入れる と、宮田の身体を左へはね返した。その勢で、二人はもつれ 合いながら崖|端《ばた》の方へころげて行った。宮田の足が両方とも崖 からはずれた。 「あっ!」  宮田は、おどろいて、落ちまいとしてもがいた。村川も、さ すがに敵を落すまいとして、懸命に宮田を支えてやった。宮田 がもがけばもがくほど、宮田の身体《からだ》はズルくと岩角をはずれ た。宮田に胸倉を取られている村川の身体も、ズルノ\と崖端 をすべった心 「あっ!」  宮田が悲鳴を挙げたとき、二人の身体は、そこで一回転する と、もつれ合ったまゝ、四間に近い断崖を、折りしも砕け散っ た怒濤のしぶきの中へ、烈しい水音を立てながら転落した。       八,  二人の落ちるのを見たとき、倭文子は、 「あっあっ!」と悲鳴を挙げながら、崖端へ走り出した。二人 の落ちようとする身体を抱き止めようとでもするように。彼女 は、そこで身をか父め、崖下をのぞき込んだが、暗い崖下に は、砕けちった白い波が、ごうノ\とまき返っている丈で、二 人の姿はおろか、声さぇもきこえなかった。 「村川さん!」  彼女は、初めて村川の名を呼んだ。だが、それは烈しい夜の 海風に吹きとばされて、しぶきが、彼女の面を打つだけだっ た。  倭文子は、自分のためにこの恐ろしい事件が起って来たのを 思うと自分も二人の後を追いたいとさえ思ったが、先刻からの 恐ろしさに、身体がガタくふるえて来て、夜の海の恐ろしさ が、今更のように身にしみて来た。崖端に、.倒れたまへ一、気が 遠くなって、人を呼ぼうという気さえ起らなかった。  何分か経った。人の気配がするので、ふと目を上げる乏、三 尺はなれないところに、満身ズプぬれになった村川が立ってい た。 「あっ■・」 ,倭文子は、狂喜のように、村川にすがりついた。 「ぬれますよ。ぬれますよ。」  村川は(倭文子の白い手をそっとはずした。名状しがたいう れしさに湯のような涙が倭文子の冷え切った頬を流れた。 「宮田君は、まだ上って来ませんか。」 「いゝえ、それよりも、あなたお負傷《けが》は。」 「大丈夫です。すり傷位はあるかも知れませんが。」 「宮田さんも、大丈夫でしょうか。」 「大丈夫ですとも。こんな浅いところで、死ぬわけはありませ んよ。波さえ来なければ、腰の所位しか水はないんですから ね。」  村州は、スッヵリ落着いていた。彼は、上着をぬぎ、水をし ぼっ.ていた。倭文子は身体が、ガタくふるえて止まなかっ た一 ,シャツ一枚になった村川は、崖端ヘ出て行くと、 「おい! 君。宮田君!」一  と、幾度も、つ父けてよんだ。だが、彼の声も、風波の音に せかれて、遠くへひfきそうにもなかった。 「落ちたときは、お互に放れていたのですがね。すぐ波をか ぶったのです。まさかあの位の波で、流されるはずはありませ んね。柔道は先刻の容子《ようす》じゃ僕以上だし、泳ぎだって知ってい るでしょう。最も泳ぎの方は、僕に敵《かな》いっこないだろうが。」  村川は、倭文子の傍へ腰をおろしながらいった。倭文子は、 村川が学生時代水泳の選手であったことを思い出した。 ■「こゝで待っていると、先生きっとノコくとはい上って来ま すよ。上って来たら、もう一度やりますかな。」 「おねがいだから、およしなさいませ。あんなのを見ているl り、死んだ方がましですわ。」 「なに、大丈夫ですよ。あんな先生は、もっともっとやっつけ て置くといゝのです。」 「宮田さんが、もしこのまゝになったら、どうなるのでしょ う。」  倭文子は、恐ろしさに身をふるわしながらきいた。 ある結婚        一 「御安心なさいよ! このまゝになりっこはありませんよ。だ が、†へ降りて行って探して見ましょう。敵を愛せよというこ ともありますからな。貴女は、僕の帰るまで、こゝを動かない ようにして下さい。後でぜひ、お話したいのですから、」  倭文子は、強くうなずいた。そして、落着きはらっている村 川を、たのもしく見上げた。村川はズブぬれの身体を、元気よ く起すと、先刻上って来た降り口の方へと闇の中へ消えて行っ, た。       ,  倭文子の身体のふるえは、.止まらなかった。彼女は、先刻ま   で宮田の顔を見るのもいやだったが、こうなって見ると、彼女  は一時も早く宮田の姿を見たかった。宮田が、このまゝになっ たときの村川や自分のことを考えると、彼女の心は目前に横た  わっている海よりも、もっと暗くなった。  二十分近く経っただろう。.村川の姿が、先刻消えて行った方  、、角かぢだんλ\濃くなりて来だ。ーやがて彼は倭文子d前に来.   て、だまりて立った。   「どうっ・・」   ,倭文子は、ほのじろい顔を振り上げてきいた。   「落ちた所まで行ったのですがね。背は立つのですよ、波が来   たって、持って行かれることはないんだが、だが、もしかする   と・…:。」    村川の声は、重くなった。   「もしかすると、どうなるのp.」    倭文子の声は、不安にふるえた。   「もしかすると、落ちたときに、何処かを打ったのかな。」   「打ったとしたら。」.   「気絶するか。運がわるければ、それぎり死んでいるですな。」   「まあ!」    倭文子は大きな目をむなしく刮《みひら》いた。   「仕方がないですな。」   「でも、貴方はどうなるのP」   「さあ。僕が殺したことになるのですがな。殺意がなくたっ   て。」   「あゝ、.妾どうしましょう。」    倭文子は声を立てゝ、おいく泣き叫んだ。   「だが、僕はどうなったっていゝ。貴女とこうして会った丈で   も満足だ。し   「まあ。なぜ、こんな所へいらっしゃったの。こんな所へい  らっしゃるから、とんでもないまきぞえに会ったのよ。」   「だって、あなたがあんな手紙をくれるんですもの。来ずには  居られないじゃありませんか。」   村川は、声をはげしくした。 …ーイどん蹴手紙? わたしがお手紙なんか、さしあげたこと、な  いわ。」   「ないことがあるもんですか。」   村川は、よこに置いてあるぬれた上着を取り上げると、内側  のポケットから、■西洋封筒を取り出して、倭文子に渡した。そ  の封筒もベトくぬれていた。   「まあ。こんな手紙……妾の名前で。」   「頭字だけども、消印は葉山だし。」   倭文子は、よろノ\立ち上ると、道路に立っている街燈の光-  の方へ岩の上をつたった一   「危いですよ。」   村川は、その手紙が倭文子のでないと知ると、倭文子の愛を  取り返し得る光が、闇にか間やき出したので生々として倭文子  の危い肩を支えてやった。         二   街燈のほのかな光の輪の中までたどりつくと、倭文子は手に  していた手紙に、顔を押しつけるようにして、三四行読んだか  と思うと、汚らわしいものゝように、それをパヅと投ぼ捨て  た。   「まあ……。」   悲鳴に近い声をあげた。   「貴女τやないのですか。」.  村川は、落ちた手紙を拾いとった。 「まあ! 妾、貴方に手紙なんか書いたことありませんわ。」 「だって、これはあなたの手蹟じゃありませんか。この間、僕 の机の上に置いてあった書付と同じですよ。」 「そんな書付、妾知りませんわ。」  村川は、薄闇の中で大きくうなずいた。 「やっばり、そうか。僕もそうじゃないかと思っていたのだ。 貴女、その書いた人がだれか分っていますか。」  倭文子は、だまっていた。 「こんなまさかの場合には、ハッキリといって下さいよ。ね え、ねぇ。分っているでしょう。」  倭文子は、うなずいた。 「そう。それで、貴女はこの手紙にかいているようなこと思っ ていらっしゃるの。」 「どんなこと書いてありまして。」 「なるほど、貴女は知ちないはずだな。明るいところへ行っ て、スッカリよんで下さい。貴女が少しでもこんなことを疑っ ていらっしゃるのでしたら、いくらでも弁解しますから。」 「いやですわ。妾、そんなもの読むのは恐ろしいわ。」倭文子 の吉'はふるえていた。 『じゃ僕が内容をいいましょう。つまり、僕が貴女以外の女を 愛しているから、僕と別れるというのです。」  倭文子は、蒼ざめ切った顔を伏せていた。 「そんなこと思っていらっしゃるのですか。誰からそんなこと を聞かされたのです。僕が外の女を愛しているなんて、誰にき かされたのです。こんな恐ろしい手紙をかく人からでしょ う。」  倭文子は、ふと顔をあげて村川のぬれた身体を見た一 「貴方、お寒くございません?」 「ちっとも。それよりも、僕と別れるなどと思っていらっ しゃったのですか。」 「もう。何も騎っしゃいますな。みんな分りましたわ。」 「そうですか。じゃ僕を信じてくれますか。」 「えゝ。」 .村川侭倭文子を抱こうとしてさし延べた手を、すぐひっこめ た。彼は、この時急に自分の身体が、氷のように冷え切ってい るのを感じたからである。 「でも、宮田さんはどうなったのでしょう。」  倭文子は、また背後の恐ろしい海を振り返った。 「死んだら、死んだときのことですよ。」 {どうなりますの。」 「僕が、過失殺傷罪で、.二三年刑務所へは入ればいゝのです よ。」 「まあ恐《こわ》いわ。」 「何が恐いことがあるものですか。貴女さえしっかりして下さ れば、きっと一緒になれますよ。」 一「わたし、もういや、いや。妾、京子さんと一緒に暮すのなら 死んでしまいますわ。貴君、妾の傍をはなれないで、ねえ、ね え。」  倭文子は、今までにない烈しい熱情で村川のつめたい身体に すがりついた。■       三  村川の身体にすがりついた倭文子は驚いていった。 「まあ! 冷えていらっしゃいますのねえ。」  村川も、急に身体がガタく震え拙した。    「僕だけじゃありませんよ。貴女だって、・冷え切っているので しょう。」   「あの、とにかく別荘へいらっしゃいません,」■   「大丈夫ですか。」    「大丈夫ですわ。別荘番の居る家は、別になっていますの。」  …ー中七うしまし渡うか。、これじゃ、宿屋にぽ帰れないし。」    「まあ、宿屋に泊まっていらっしゃいますの。いつ、いらっ   しゃいまして。」    「昨日の晩、僕が別荘へ訪ねて行ったのを話しませんでした   かピ    「いゝえ!」    「ちぇっ! 馬鹿にして居やがる!」    「京子さんとお会いになったのっ・1」    「そうですよ。あの人のやり方は、滅茶苦茶ですね。人の事な   どは何も考えないんだから、ひどい! 全くかなわない!」    「妾、こわいわ。京子さん、とても恐《こわ》いわ。だりて二どうし   て、妾に意地のわるいことなさるのでしょう。」    村川は、さすがに答えられなかった。最初の接吻をあやまっ   たこと丈は、こうなっても話したくなかった。    村川は、格闘した場所へ引返して、靴や帽子をやっとのこと   で探し出した。二入は、石堤を越えて道路へ出た。倭文子は、   また恐ろしそうに海を見た。    「宮田さんは、駄目でしょうか。」    「案外、先まわりして別荘へ帰っているかも知れませんよ。」   .「でも、いよノ\駄目でしたら。」    「まあ、そんなことは考えないことにしましょう。」    二人の疲れ切ったからだに、不安がヒタくとかぶさって来   た。 「一寸待って居て下さい! 妾、家の容子を見て来るわ。ま あ、こんなに袖口がほころびているわ。」  倭文子は、門の所へ村川を待たせると、身づくろいしなが ら、玄関を上って行った。  二階ハ止る破攻ゆ駿潅ド肘洲揖い¢疹ルKポ浮戸戸越レに見 ていた。彼女はすぐまた玄関へ現れた。 「宮田さん帰っていないの!」  彼女は、絶望したような、そのくせ邪魔者のないのを喜ぶよ うにいった。 「お上《あが》りなさいませ!」 「大丈夫ですか。」 「大丈夫ですわ。もう別荘番の人達は寝たらしいわ、ちゃんと 戸締りがしてあウますの。」  村川は、倭文子と一しょに階段を上った。たとい、どんな犠 牲を払ったにしろ、彼女と・一しょにこうして、同じ家に一夜を 明かし得るかも知れぬことはうれしかった。たとい、明日には 何んな恐ろしいことが待っていようとも。  倭文子は、二階へ上ると、一寸思案した。 「人が来ると、いけないから、こゝの部屋へおは入りにならな い?」  彼女は、寝室のドアを開けた。 「こゝなら、大丈夫ですわ。」  村川は、倭文子と一しょに寝室へは入るのが、少し心をとが めた。だがいやしい想像から浄い倭文子は、そんなことは何と も思っていないらしかった。 「残念だが、石炭がありませんね。」 「とって参りますわ。お湯殿の傍に積んでありますの。」 「僕がとって来ましょう。」   [.みつかるといけませんわ。妾、行って参りますわ。」   倭文子は愛入をかくまう映画の女主人公《ヒロィン》のように、かいハ\   しく出て行った。         四   村川が、寒さにふるえながら待っていると、倭文子はバケッ   に一杯の石炭を持って来た。そして悲しみと不安之の中にも、   一寸村川と顔を見合せて、笑った。   「なかなか力がありますね。」   「だって、故郷《くに》に居ましたときは、お台所もしていましたの   よ。」   ・農文子は、軽く息をはずませながら、親しそうに物をいった   が、村川のシャツ一枚の姿に初めて気がついたように、   「まあ! お寒いでしょう。何か着物を持って参りますわ。」   「いゝですよ。いゝですよ。」■    倭文子は、それを聞かないで出て行ったが、一枚のどてらを   持って帰って来た。   「そんなもの持って来て大丈夫ですか。」   「でも仕方がありませんもの。」   「悪いなあ。」   「いゝえ。大丈夫ですわ。■妾、覚悟していますもの。」   「覚悟って、どんな覚悟です。」    倭文子は、それに答えないでマッチを擦って石炭に火をつけ   ようとしていた。            おか   村川は、つい可笑しくなって笑った。少くとも自分は笑っ たつもりだったが、寒さのために声がかすれて、笑いらしくは きこぇなかった。   「駄月ですよ。マッチから覆ぐじゃ、つきませんよ。マッチで すぐ石炭につけるようじゃ、貴女がお台所をしたというのも怪 しいですね。何か薪ありませんでしょうか。」 「そう! ありますわ、お菓子箱でいゝかしら。」 「そんなものをなるベく沢山持って来て下さい。」  倭文子が、部屋を出て行った間に、村川はぬれたものを、 スッカリ身体からのけてどてらに着換えた。■  倭文子は、新世帯の炊事をでもしているように、お菓子箱の 空箱を両手に抱えきれぬほど持ってはいって来た。悲しみのな かにも、どこかいそノ\した容子を見ていると、村川はいじち しさにまぶたが熱くなって来るのだった。  菓子箱を壊しては、炉の中へ投げ込んだ。でも、石炭の火の つくまでは、可なり時間がかゝった。 「京子さんは、何うして東京へ帰ったのです。」 「なぜだか知りませんの。」 「今井君と一しょにですか。」 「えゝ。鎌倉まで、いらっしゃるといってそのまゝ東京へお帰 りにな?たのです。」 「みんな策略ですね。あの人のでたらめな策略ですね。」 「まあ! そうでしょうかしら。」 「まだ、あなたはあの人をいくらかでも信じているのですか。」  倭文子もさすがに、だまっていた。漸く燃え始めた石炭の光 で、倭文子の蒼ざめた顔が血の色をとり返し始めた。 「それで、二人ぎりになると、宮田がいやなこと言い始めたの ですか。」  倭文子は、恥かしげに首をうなだれた。 「無理にでも、宮田と結婚させようとする京子さんの姦計です よ。でも、最後まで貴女が反抗して下さったのは、嬉しいです ね。僕はあなたがそんな強いところがあるとに思わなかった。」     「京子さんが本当にそんなことをなすったとしたら、妾どうし    ましょう。妾、死んでしまいたいわ。」     「何をいうのです。僕がついているじゃありませんか。」     「じゃ、どんなことがあっても妾からお放れにならないI。」     「放れませんよ。」 …ー………→いづまでも。]     「むろんですよ。」     「何時でも、一時間でも。」     「それは無理ですな。」     「でも妾一人でいるのは恐《こわ》いわ。どうしたら、何時でも貴方の    そはにいられるのでしょう。」           五    「男と女とが、いっでも一しょに居るためには結婚する外はあ    りませんね。」     倭文子は、結婚という意外な言葉に顔を真赤にLた。    「まあ!」    「いっそも一緒に居られるのは夫婦丈ですよ。」    「でも、結婚なんか出来ませんわ。」    「なぜです。」    「二人ぎりで、そんなこと出来まして。」    「出来ますとも、二人以外には、何が入るのです。」    「そう。川辺の伯父さんなんかが承諾して下さらなければ。」     彼女は心持赤らめた顔を、村川の方へふりむけた。彼女の顔    は折り立ての草花のように純真だった。    「男と女とがお互に凡てをゆるし合えば立派な結婚ですね。法    律上の手続や社会上の儀式などはとにかく。」     倭文子はその意味がハッキリと分らぬように首をかしげた ・ゝ,あ |ィ《カ》 「そうすれば、いつまでも妾の傍に居て下さる。」      4ヱ 「傍に居られるかどうか。でも、永久に貴女は僕のものです し、僕はあなたのものです。」 「傍に居て下さらなきゃいーい沖忙け伽"凄ド明旧めし汁にを考え… ると、恐ろしくてたまりませんの。先刻のようないやな思いを する位なら、死んだ方が、よっぽどましですわ。宮田さんが、 死んでいるときのことを考えると、おそろしいわ。」 「貴女の覚悟さえ、しっかりして居れば、何もおそろしいこと はありませんよ。貴女さえ、事情をよく話して下されば、僕 だつて罪になることはありませんよ。どんな困難が、ふりか かって来ても、貴女さえ堪えて下されば、二人は直ぐ一緒に居 られるようになりますよ。」 「でも、その間は、妾、貴方とお別れしていなければならない のでしょう。」 「三月か四月か長くて半歳の辛抱ですよ。」 「でも、いやですわ。妾、もう絶対にいやですわ。もう京子さ んとは、一日だって一緒に居るのはいやですわ。妾、もうすぐ 死にたいの。でなければ、どこかヘ逃げたいわ。」 「だって、逃げたりなんかすればすぐ僕達に嫌疑がかゝるじゃ ありませんか。」 「じゃ死んでしまいたいわ。」 「困りましたなあ。そんな気の弱いことで、一何も僕が宮田君を 殺したのじゃなし。」 「でも、妾恐いわ。そんな疑いが、貴方にかゝって、妾が証人 になるなんて、考えてもいやですわ。あゝ死んでしまいたい。 死にたいわ!」 「そんなに、宮田君を死んだことにきめないで、もっと待って 見ようじゃありませんか。」 「でも、今まで帰って来ないとしたら、もう十一時頃じゃない かしら、先刻から二時間も経っていますわ。」 「とにかく明日まで待って見ましょう。」 「でも、こゝに居ることは、いやですわ。」 「でも、こゝに居なければ、あの男の生死は分りませんよ。」 『でも、恐いわ。あの人が、生きて帰って来ても死んでいて も、いやですわ。ねえ、村川さん妾をつれて、逃げて下さい。 妾あなたと結婚でも何でもしますわ。」 「こゝに居て、凡てに男らしく向うことは出来ませんかな。逃 げたり、死んだりしないで、お互の愛を力として、あらゆる現 実と戦うわけには行きませんか。」 「じゃ、貴方だけそうなさいませ。」 「そして、貴女は?」 「妾、ひとりで死んでしまいますわ。」 「馬鹿なッ! 何をおっしゃるのです。」  村川は、烈しく倭文子の肩をいだいた。        六 -倭文子は、シクく泣き始めていた。 「もっ乏、しっかりして下さい! 齢願いですから。」  村川は、倭文子の左の肩にかけた手で倭文子の身体な強くひ きよせた。  倭文子は、引き寄せられるまゝに、村川にぴったり身体を寄 せた。 「生きるにしても、死ぬるにしても、貴女一人ということはあ りませんよ。死なゝければいけないのだったら僕もー緒に死に ますよ。」 「いやですわ。貴方に死んでいただいたら、もったいないわ。」 「じゃあ、一しょに強く生きて下さい!」 「でも、離れているのは、いや。貴方とはなれて、いろくい やな目に逢うのはいやですわ。」 「そう。じゃ宮田君が生きていたら、問題ないじゃありません か。」 「そうでしょうかしら。」 「貴女も川辺さんを出るし、僕も出て同棲すればいゝのですか らね。」 「でも、伯父さまはそんなこと許して下さるでしょうか。」 「だから、覚悟をなさいというのです。伯父さんに背く……」 「宮田さんが死んでいたら。」 「それは、そのときの事ですよ。」 「じゃ、宮田さんが、生きて居ても死んで居ても、妾の傍をお 離れにならない!」 「無論ですとも。」 「そう! 誓って下さる?」 「誓いますとも。」 「うれしいわ。」 . 「その代り、貴女は、僕の愛人、妻……」 「何にでもなりますわ。」 「ほんとう?」 「うそなんかいいませんわ。」 「僕に凡てをゆるして下さふー」 「えゝ。」  倭文子は、心の底から、村川の強い腕の中でうたずいた。  不安と憂慮のために消えていた村川の情熱が、ストーブの火 が燃え盛るのと一緒に烈しく燃え上った。倭文子のうっとり と、半ばとざされた瞳が、××xxxxx×××x×に見え た。  「ねえ、ねえ、……」  「なあに!」  「接吻してはいけないi」  「いやですわ、}てんなこと恥かしいわ。」  そういりて、倭文子は銘仙のたもとの袖で急に顔を爵蔚う た。  「何をおっしゃるのです。」  村川は、倭文子の顔をおおうている両手をはずした。手はも ろくはなれて、紫色の袖のはずれから、倭文子の真赤な小さい 唇が現れた。村川は、それにすばやく接吻した。最初、それ を拒もうとした倭文子の抵抗は、すぐ止まって、二人は凡ての 心と魂とを、めいノ\の唇にこめたように、長い強い接吻をし た。  その後に、不安とその不安を圧倒しつくしたような歓喜とに  つかれた二人は、しばらくだまっていた。  「宮田君が、死んでいなければいいがなあ。」 、  村川は、心からそうつぶやいた。  「ほんとうですわねえ。」  だが、今まで二人とも気がつかなかった波の音が、閉めきっ たドァの隙問から、二人の幸福を脅かすようにきこえて来た。 ー「あゝ宮佃さん、どうぞく、生きていて下さいませ!」  初あて恋愛の歓喜を味わい、恋愛に依って生の楽しみを知っ た倭…文子は、低く祈るようにつぶやいた。  「結婚ということは接吻することなの?」  そういって、倭文子は顔を真赤にしながら、村川を見上げ た。 村川は、何も知らない倭文子に、みなぎるような愛を感じ て、彼女のやせてしなやかた身体をカ一杯だきしめた。 第二の接吻  東京の家へ帰っていた京子は、翌朝早くから女中に起され た。彼女は、ねむりたらぬ目で女中を軽くにらんだ。 「何なの,」 「あの葉山からお電話でございます。」 「お前聞いて置けばいゝじゃないの。」 「でもぜひお嬢さまにと仰しゃるのです。」 「誰? 向うに出ているのは。」 「おきちさんのようでございます。」  女中は、別荘番の女房の名をいった。 「うるさいね!」  そういいながらも、京子はある不安にかられて、色のやゝさ めた銘仙の寝衣のまゝ廊下づたいに電話室に入った。 「きち、何なの。」 「齢嬢さまですか。」オドノ\して、声がふるえていること が、よく分った。 「そう。何なの。」 「あのお客様達が、お見えにならないのでございますが。」 「お客様達って宮田さんと倭文子さんかい!」 「はい左様でございます。」 「見えないって何時から。」 「今朝早くからでございます。東京へお帰りになっているので ございませんか。」 「いゝえ。そんなことはないよ。」  京子は少し心配になった。 「でも、こちらにはいらっしゃらないのでございますよ。お散 歩にでも、お出になったのかと思って、先刻から待っていたの ですが、二時間も経つのにお帰りにならないのでございます よ。」 「そう,」  京子は、どう考えていゝか分らなかった。 「ゆうべお出かけになったらしいの〜」 「ゆうべですか(今朝早くでございますか、何しろ私共で起き たのが、六時半頃でございますが、その頃にはもういらっしゃ らなかったのでございます。」  彼女は宮田と倭文子とが一緒に何処かへ出かけたとは考えら れなかった。別々だとすると……彼女の頭にも、不安な想像 が、つぎくに起って来た。・ 「じゃ、いゝわ。妾とにかく、すぐそっちへ行くわ。どうせ、 昼頃までには、行こうと思っていたのだから。」  そういって京子は、電話を切った。食事の時にも、父や母に は何もいわなかった。もし、いうと、倭文子を男性と同じ家に 一人取り残して来たことを、叱られるに定まっているからであ る。   .   .          , .彼女は、急いで支度をすると、小間使の一枝をつれて、東京 駅へ急いだ。  逗子から、自動車で、またゝく間に葉山へ着いた。  きちが、蒼い顔をして玄関へ出迎えた。 「まだ、帰って来ない!」- 「まあどうしたのでございましょうか。」  京子は、それに答えないで、階段をかけ上った。そして、自 分達の部屋のドァをあけて、中へかけ込んだ。一番に倭文子の 寝台の周囲を見まわした。そこに倭文子の持物は、何一つ残っ ていなかった。その上、彼女の衣類を入れたスiッケiスが、 向うのソプァの上から影をかくしていた。 「駆落《エロき フメント》〜」  京子は、頭の中で考えて見た。だが、宮田と倭文子とがエロ ーブするような原因は、何一つ考えられなかった。  彼女は、自分達の部屋を出ると(向う側の宮田の部屋を見 たpぎちんとしかれていた寝床の傍のみだれ箱の中に、宮田の 持物全部、時計や財布までが入れてあった。 「心中でもなすったのではございませんか。」 「馬鹿なことをお云いでないよ。」  そういって、京子はきちをたしなめたものゝ、自分の頭にも それ以上に合理的な想像は浮んで来なかった。■       二  京子の頭の中の想像の輪は、どうしてもつながらなかった。 宮田が、倭文子に失礼なことをしたので、倭文子が自殺する一 それを悔いて宮田が逃げる……とすれば、倭文子の持物は全部 残ってい、宮田の持物こそ全部無くなっていなければならな かった。だが、現実は丁度その反対なのだ。だが、二人の身の 上に恐るべき事件が起っていることは、もう疑うべき余地がな かった。何の事件も起らないで宮田が洋服も着ないで、長い間 帰ってこない訳はなかった。また騎となしい倭文子が、自分に 無断で夜中にこの家を去るわけもなかった。  京子は自分のした悪戯《いたずら》半分のトリックが、案外大きい波欄を 生んだのを知ると、、さすがに心の底でおのゝき始め一ていた。 「ねえ、一枝! 今井さんの会社へ電話をかけて今井さんを呼 び出しておくれ!」  彼女は、召使いにそう命じて、再び自分達の部屋へ帰って来 た。そして部屋をもう一度よく見直すとストーブのふたが取り のぞかれてい、石炭の新しい灰が盗れるように残っている。 「まあ、ストーブを焚いたのね!」 「まあ!」  別荘番の女房も驚いて声を立てた。 「お前が焚いてあげたのじゃないの。」 「いゝえ、ちっとも存じません。」  京子は、首をかしげた。不安が刻々に彼女の胸に喰い入って 来た。一枝が階下から上って来た。 「今井さんは、まだお見えになって居ないそうでございます。」 「それならいゝρ」  京子は、、そう答えると再び倭文子の寝台に近づいて、上に のっている羽蒲団をめくって見た。彼女は倭文子の遺書のよう なものがありはしないかと思ったからである。だが、寝台の上 にもその傍の小さい卓子《テ プル》の上にも何もなかった。 「警察へでもお届けいたしましょうか。」 「何をいうの。だまっておいで。」  別荘番の女房をたしなめると、京子は寝室を出て隣の座敷へ は入った。  そこは、昨日彼女が見捨てた時と、寸分違っていなかった。テ ーブルの上の演芸グラフィックも昨日と同じく麻雀《マ ジヤン》とかいう女 賊に扮した栗島すみ子の大きい横顔の写真が開かれたまゝであ る。!だがその横に在るシガレット入の銀の小箱を見ると、東子 は目をか間やかして、それを取りのけた。その下から、西洋封 筒が三分の一ばかりハ、ミ出しているのを見つけたからである。  表には、ちゃんと「川辺京子様」とかいてあづた。宮田から だと思って、裏を返すと村川生とかいてある字が、鋭い短剣の ように、京子の眼を突き刺した。 あなたの好計が因をなして、宮田君が行方不明になりまし た。生きて帰ってくれるかどうか、我々にはわかりません。 ,宮田君が無事であってくれゝば、我々もまた帰って来るつも りです。我々というのは(よく覚えていて下さい)僕と倭文 子さんとの事です。今度、貴女にお目にかゝるときは、夫と 妻としてお目にかゝるつもりです。宮田君が、死んでいる場 合でも、僕は貴女に堂々と二人手を取り合ってお目にかゝる つもりです。、だが、倭文子さんは、それがいやだというので す。あの人は、貴女のような下劣な卑怯な汚らわしい人が住 んでいる同じ世の中に生きているのがいやらしいのです。僕 がいくらなだめても、承知しないのです。自分一人でゝも死 にたいといってきかないのです。僕は、貴女のような人が居 れば居るほど、.いかに本当の愛の力が、あらゆる陰謀、あら ゆる悪意に打ちかつかということを知らせる必要があると思 うのですが、倭文子さんの心は、貴女のお傍にいたゝめに、 あまりに傷リいてしまっているのです。それも、もっともで す。あの人はつまり女狐と住んでいたおとなしい雌鶏でし た。 京子は、 こゝまで読んで来て、、唇を血のにじむほどがグッとかんだ。 三 いや倭文子さんばかりでなく、人間らしい心の持主は、あな たのお傍に居ると、あなたのお心のとげのために、刺し殺さ、 れずにはいられないでしょう。あなたの官我中心のわがまゝ が、倭文子さんを殺したと同然です。 だが僕は生きて帰って来るつもりです。僕の愛で倭文子さん を力づけ必ず生きて帰って来るつもりです。  ' だが、それはとにかく、貴女はいつか仰しゃいましたねえ。  (お気の毒ですが妾命にかけても、倭文子さんをあなたのも のにさせないからjそう思って下さい)と、だが、倭文子 さん自身が命にかけても僕のものになりたいというのですか ら仕方がありませんね。死んでも京子さんの傍には居たくな いというのです。貴女はまた(どんないやしいことでも、ど んな卑劣なことでも、どんなあさましいことでもして邪魔を ㌔する)と、おっしゃいましたが、そんなことは結局何になり ました-結局僕のいった通り(愛している者の力が、どんな に強いかを証拠立てた)丈ではありませんか。貴女はまた  (今に、倭文子さんが、煙のようにあなたの手から消えてな くなるでしょう)と仰しゃいましたが、今倭文子さんは、世 の中のあらゆる実在よりも、もっと生きくと僕の両腕の中 に抱かれているではありませんか。そして、死生を越えて僕 が彼女のものであり、彼女が僕のものであることは、世の中 のあらゆる法則よりも確実です。 きっと、そのうちにお目にかゝって、直接にいろノ\申上げ たいと思います。たバわれくの行方を捜させるようなこと は、なさらないで下さい。凡てを自然のなりゆきに委して下 さい。でないと、貴女はこれ以上に我々\の運命を狂わすこと になるかも知れませんよ。 倭文子さんは、何も書かないそうです。僕が、 かくのにさぇ反対しています。 こんなことを 読み了ったとき彼女の美しい顔は、口惜しさのために、ひき つっていた。激しい怒りと憎悪とで、その手紙をみじんに破っ てしまった。死ぬかも知れない倭文子にすまないといったよう な心は、少しも起らなかった。彼女は、激しい嫉妬で、目がく らんだ。  村川と倭文子とが、かわるみ\自分の顔を踏みにじっている ような気がした。 「口惜しい! 口惜しい!」           "  彼女は、低い声で叫んだ。 「お嬢さま、どうなすったのでございます。」  また別荘番の女房が顔を出した。 「いゝじゃないの。ひっこんでおいで。L  と、ひっばたくように手を振って、それを斥けると彼女は 口惜しさのために、涙がハラハラとこぼれて、仕様がなかっ た。  一層のこと、警察へ訴えて、二人を取押えてもら騎うかし ら。だがそんなことをするのは、自分の恥をも明るみヘ晒すこ とだった。だが、捨てゝ置くと、二人は死ぬのか知ら、死ぬの はいゝが、一緒に死なせるのは口惜しい。何の仕返しもしない で、二人を一緒に死なせるのは、.何う考えても口惜しかった。 とい.って、絃をはなれた矢のように、行方知れぬ二人をどうす ることも出来なかった。何事も自分の思い通りに振舞って来た 京子も、生れて始めて、どうにも出来ない口惜しさに身をもが いた。 四  村川と倭文子とが、一緒に箱根の芦の湖に身を投じたのは、, 葉山を去ってから四日目の深夜であった。村川は、その前に幾 度もなだめすかしたが、彼女はひたすらに死を求めて止まな かった。初めは、宮田の死を確かめてからということだった が、おしまいにはそんな条件ヌキに倭文子は死を求めていた。 生きて京子と会っ北り川辺家へ帰って来ることが、彼女には恐 ろしいことであったのだろう。村川は、あまりに反対すると、 倭文子はそっと抜け出してでも死にかねない容子を示すので、 村川も到頭自分自身を捨てゝ、彼女への愛に殉ずる覚悟をし た。倭文子は、自分一人死ぬといって村川を拒んだが、しかし 彼女は最後まで拒み切るほど強くもなかった。  小舟から、一緒に水に投ずると同時に、覚悟を極めていた倭 文子はすぐ窒息していた。そして愛人の手に抱かれて安らかな 眠ったような顔を水上に浮ベた。だが、村川は死に切れなかっ た。彼は、倭文子さえ、■もがいてくれゝば、それにつれて自分 も溺れることを待っていたのだが、最初水に沈むと共に、倭文 子はすぐ窒息してしまったので、彼女の美しい身体は、オフィ リャのそれのように、水面に静かに浮んでしまった。それを抱 いている村川は、少年時代から水にはなれ切っている。彼の足 は、いつの間にか平泳ぎの型で水をかいていた。だが、彼は倭 文子の神々しいまでに美しい顔を見ていると、自分も早く彼女 の後を追いたいと思うのであるが、彼の身体は十数年馴れてい る水の中へは、どうしても沈まないのである。冷静になればな るほど、彼は浮き切ってしまうのである。たr彼はこうして山 上の湖水の寒気のために、凍死するのを待つより外はないと 思っていた。彼の考えは間違っていなかった。最初は、身を切 るように感じていた水の冷たさが、いつの間にか分らなくなっ たと思うと、青く湖心にすんでいる月の光が、朦瀧となり、両 腕に抱えている倭文子の顔が微笑したと思うと、彼はこの愛す べき倭文子をどうしてもはなすまいと、もう一度決心し直すと 同時に、自分自身を失ってしまった。  その翌朝、早く湖水を横ぎった一つの小舟の船頭は、水上に 相擁して漂うている二入を見っけた。そして、静かな湖上に時 ならぬ騒ぎが起った。  二人は、宿《とま》っていたxxホテルに収容され、そこで応急の手 当を受けた。だが、倭文子は頭到蘇らなかった。彼女の望み通 り、この煩わしい世の中を、永久に見捨てることが出来た。  だが、水泳選手として鍛え上げた強い村川の心臓は、恐ろし い疲労と寒気とに拘らず、生命の鼓動をつ間けていた。彼は人 事不省のまゝで、ベッドの上に横たわっていたが、医師は回復 の見込が、充分にあることをいった。  この報知が、川辺家へ伝わった時、京子の父は狂気のよう に、村川と倭文子とを怒りのゝしった。だが、二人を引き取ら ない訳には行かなかった。家の執事が、箱根へ急行することに なった。  と、今までだまつていた京子が、 「お父さま。妾も一しょに行きますわ。」  といった。 「馬鹿!.お前なんかの出しゃばる所じゃたい!」  父親は、いつになく険しく京子を叱《しつ》した。 「でも、倭文子さんに悪いわ。女は女ですもの。妾行って倭文 子さんの方を、ちゃんとして上げたいの。」  京子は眼をうるませていった。  父は京子の女らしい心持に、うごかされたと見え、京子が箱 梗へ行くことをゆるしち        五  最初の電報は、二人ともキトクと報じていた。そのときは、 京子は完全に自分がたゝきつけられたことを感じた。二人が、 とうてい自分の何うすることも出来ない世界へ行って、相愛の 凱歌を挙げているのを感じた。そして彼女は、一生二人の凱歌 を耳にして、生きて行かなければならぬような気がした。それ は彼女としても、たまらない苦痛だった。だが、その次ぎの電 報は、倭文子の死を報じ、村川のタスカルミコ、ミを伝えた。京 子は、それに依って蘇った。二人の自分を征服しょうとした計 画は、半ば失敗したのだ。彼等の勝利は、完全ではないのだ。 いな、まさしく挫折したのだ。 「それ御覧なさい!」  と、京子は心の中で、つぶやいた。彼女の良心を押しのけ て、低く低くつぶやいた。  出発する間際になって、.村川のヶイカヨロシと報ずる電報が 来た。京子の心は明るくなった。うなだれている彼女の鶏冠《とさか》 は、だんく元のように、立ち直り始めた。  京子の父が、政党関係から警察方面へ早く手をまわしたの で、事件は新聞社の通信員の耳目に触れることを完全に防い だ。  執事と京子と書生との三人は、小田原から自動車で、湖畔の 町へ急いだ。  京子は、村川の前でしみじみ餓悔をしようと思った。半分本 当の餓悔をし、それにうその餓悔を接《つ》ぎたそうと思った。そう すればどんな村川だって、自分をある程度まで、許さないこと はないと思った。  箱根町へ入って、×xホテルの玄関へついたとき、一行はし ずかに二階の一室へ通された。京子はさすがにその部屋の前 で、身体がすくむのを覚えた。 「さあ。どうぞ、村川君も倭文子さんも同じ部屋ですよ。」  先には入った執事は、直ぐ出て来ていった。京子は、震える 足をふみしめて中には入った。  村川は、寝台の上に、こんくとねむっていた。だが、その 寝台ごしに向うの床の上に、白布に覆われている倭文子を見出 したとき、「あっ!」と、声を挙げた。京子はそれに走りよる と、白布の上に両手をかけたまゝ声をあげて泣いた。  彼女の鳴咽の声は、しずかな部屋の空気の中に、二十分も三 十分もつバいていた。彼女は、泣きつ間けることに依って、自 分の艮心の苛責を、畜うにかこうにかゆるくすると、漸く立ち 上った。 「倭文子さんを、一緒に置いてはいけな小わ。どこか別な部屋 へ移してあげたいわ。」 「はい。御もっともでございます。先刻、ボーイに申しつけま した。」  執事は、京子の提言をもっとも至極だと思つた。  村川のために、某医学博士が、東京から呼びよせられること になった。  京子は、その夜遅くまで、村川の看護に当った。倭文子の遺 骸は、別室に移され、彼女と村川との間には、何の邪魔者も居 なくなった。執事も書生も、寝てしまった。季節はずれの湖畔 のホテルの夜はしずかであった。た間、村川がときどき、低い うめき声を出す丈で、眠りりYけているのが、物足りなかっ た。 、十二時近い頃、京子は村川の唇に、小田原から来た医師が残 して行った水薬を、与えた後、彼のやゝ血色をとりもどした顔■ を、じっと見つめていた。  と、今まで眠りつ讐けていた村川が、パッチリ眼を開いた。 最初、朦瀧としていた瞳が、だんだん確かになると、京子の顔 をじっと見つめ始めた。京子は微笑した。村川も微笑した。彼 は、蒲団に覆われた手を動かそうとした。京子は、蒲団をめ くって、その手を自由にしてやろうとした。すると村川は、そ のためにさしのべた京子の手を、しっかりつかんだ。そして、 強く京子をひきつけた。京子は、ひきつけられるままに、身体《からだ》 を寄せた。すると村川は、重い頭を少しもたげながら、京子の 唇を求めた。京子は夢中になって、唇を寄せた。二つの唇は、 久し振りに合った。 「あなた、許して下さるのですか。」  京子は、狂気のように叫んだ。 「許すも、許さないも、ないではありませんか。貴女もよく生 きていてくれましたね。倭文子さん、決して僕の傍をはなれて はいけませんよ。」  京子は、その声をきくと、村川の手をふりほどき、はじかれ たように、一間ばかり身を退けると、壁際の長椅子に、崩れる ように身を投げたのであった。