菊池寛集 仇討新八景 吉良上野の立場        一  |内匠頭《たくみのかみ》は、玄関を上ると、すぐ、 「|彦右《ひこぇ》と|又右《またぇ》に、すぐ来いと云え!」  と、云って、小書院へ拡入ってしまった。 (そらっ! また、いつもの痛癩だ)  と、家来達は、眼を見合わせて、ば一人の江戸家老、 衛門と藤井又右衛門の部屋へ走って行った。 ・内匠頭は、女共に|長上下《なががみしも》の紐を解かせながら、 ・「何うもいかん! また物入りだ! 仕様がない!」  と、岐いて、袴を脱ぎ捨てると、 「二人に早く来るよう、云って参れ!」 安井彦右 と催促した。 暫くすると、安井彦右衛門が、急ぎ足には入って来て、 「何か御用で!」  と云って坐った。 「|又右《またぇ》は?」 「お長屋に居りますから、すぐ参ります」 「女共は、あちらへ行け! 早く行け1」  と、内匠頭が手を振った。女は半分畳んだ袴、|上下《かみしも》を、周章 て抱いて、|退《さが》ってしまったρ 「例の京都からの勅使が下られるが、また接待役だ」 ,「はっ!」 「物入りだな」 ・「然し・御名誉なことで・仕方がありまぜんな」 「そりゃ、仕方がないが」/」■  之、内匠頭が云った之き、藤井又右衛椚が、 「遅くなりました」 'と、云っては入って来た。 「又右衛門、公儀から今度御下向の勅使の御馳走役を命ぜられ たが、それについて相談がある」 .「はい」 「この前-知秤三年か、勤めたときには・いくら入費がか かったか?」 「えゝ1」  二人は、首を傾けた。藤井が、 「凡そ、四百両となにがしと思いますが」■ 「その位でした」 と、安井が頷いた。 「四百両か! その持分と今とは、物価が違っているから、四 百両では行くまいな。伊東|出雲《いずも》に聴くと、あいつの時は、千二 百両かゝったそうだ」   「あの方の溢勤めになりましたのは、元禄十年lたしか十年 でしたな」   「そうだ」   「あのとき、千二百両だと致しますと、今日ではどんなに切り つめても、千両はかゝりましょうな」    内匠頭は、にがい顔をした。   「そんなに、かゝっちゃたまらんじゃないか。わしは、七百両 位で、どうにか上げようと思う」   「七百両!」    と、二人は首を傾けた。   「少すぎるか」   「さあ!」    二人は、浅野が小大名として、代々節倹している家風を知っ ていたし、内匠頭の勘定高い性質も十分知っていたので、   「それで、結構でしょう」    と、云う外はなかったが、伊東出雲とて、少しも裕福でない のに、-その伊東が千二百両かけたとしたら、御当家が七百 両では、少し|何《ど》うかしらと、二人とも思っていた。   「第一、近頃の世の中は、あまり賛沢になりすぎている。今度 の役にしても、肝煎りの|吉良《きら》に例の|附届《しつけとぁけ》をせずばなるまいが、 これも年々額が殖えて行くらしい」   「いゝえ。その附届は、|馬代金《ぱだいぎん》一枚宛と、|定《きま》って居ります」   「それだけでも、要らんことじゃないか。吉良は肝煎りするの が役目で、それで知行を貰っているのだ。わしらは、勅使馳走 が、役の者ではない。役でたい役を仰せつかって、七八百両見 す見す損をするーこっちへ、吉良から附届でも貰いたい位 だ」                      」  二人の家老は頷くより外はなかった。        二  用人部屋へ戻って来た二人は、 「困ったなあ!」  と、云って腕組をした。、 「|吉良上野《まらこうずけ》と云う老人は、家柄自慢の膀曲りだからな」 「家柄ばかり、高家で、ぴいく火の車だからなあ」 「殿様は、賄賂に等しい|附届《つげとオけ》だと、一口におっしゃるが、町奉 行所へだって|献残《けんざん》(将軍へ献上した残り物と称して、大名が江 戸にいる間、奉行の世話になった謝礼として、物品金子を持参 することを云う)を持ち込むのだからな。大判のー枚や、小判 の十枚位、ケチくして吉良から、意地の悪いことを、されな い方がいゝがな。もし一寸した儀式の事でも、失敗があると大 変だがな」 「然し、前に一一度お勤めにたったから、その方は大丈夫だろう が、七百両で仕切れと、おっしゃるのは、少し無理だて」 「無理だ」 「勅使の御滞在が、十日だろう」 「そうだ」 二日百両として、千両。前の時には、日に四十両で済んでい. るが、|天和《てんな》のときの慶長小判と、今の|鋳替《ふぎかぇ》小判とでは、金の値 打が違っているし、-それに諸式が|上《あが》っているし……」 「御馳走の方も、だんくぜいたくになって来ているし」 「そうさ。出雲だって、千二百両使っているのに、浅野が七百 両じゃ11ざっと、半分近いのでは、勅使に失礼に当るからな あ」. 「困った」 「困ったな。急飛脚でも立てゝ、国許の大野か大石かに、殿を 説いて貰う法もあるが、■大野は|吝《けち》ん坊で、七百両説に大賛成で あろうし、大石は仇名の通り、昼行燈で、|算盤珠《そろばんだま》のことで、殿 に進言すると云う柄ではないし……」 「困ったな。出来るだけ、切りつめて目立たぬところは、手を 抜くより、法はない」 「黙って家来に任して置いて貰いたいな、こんな事は」■ 「いくらか、こんなと音に、平素の埋合せが、らく位にな」 「悪くすると、自腹を切ることになるからな」 「そうだ!」 「とにかく、先ず第一に伝奏屋敷の畳替だ」  二人は、接待についての細かな費用の計算を始めた。        三 殿中で|高家月番《こラけつきぱん》、畠山民部|大輔《だゆう》へ、 「今度の、勅使饗応の費用の見積りですが、一寸御目通しを」 と云ぞ内匠頭が、奉書に明細な項目を書いたのを差し出し た、畠山は、それをしばらく眺めていたが、 「わしには、こう云うことは分らんから、吉良にtT度、来 ているようだから」  と、云って鈴の紐を引いた。坊主が、 「はい」  と、云って手を突いた。 「吉良殿に、一寸お手すきなら、と云って来い!」 「はっ!」  坊主が立ち去ると、 「とんだ、お物入りですな」  と、畠山が云った。 「この頃の七八百両は、こたえます」 「しかし、貴殿は塩田があって裕福だから」 「そう見えるだ廿です」 「いや、五万三千石で、二百何十人と云う士分が居るなど、|他《ほか》 では見られんことですよ力裕福なればこそだ」 ・古云ったとき、吉良上野がは入っ七来た。 「浅野殿の今度の見積りだが、今拝見したが、|私《わし》には判らん。 |肝煎《きもいり》指南役が一つー」■・  畠山が書付を、吉良へ渡した。 「なかノ\早いな。どうれ←ー  吉良は、じっと眺めていたが、 「諸事あまりに、切りつめてあるようじゃが」  と、内匠頭の顔を見て、・ 「これだけの費用じゃ、十分には参らぬと思うが」 ■と、つけ足した。 「七百両がで、ございますか口 「そうだ」 「しかし、これまでのがかゝりすぎているのではありません か、無用の|費《ついぇ》は、避けたいと思いますので」■  上野は、じろっと、内匠頭をにらんで、 「かゝりすぎて居ても、前々の例を破ってはならん。前からの 慣例があって、それ以下の費用で、まかなうと、自然勅使に対 して、失礼なことが出来る」 「しかし、礼不礼と云うことは、費用の|金高《きんだか》には依りますま い!」 「それは、理窟じゃ、こう云うことは前例通りにしないと、と かぐ間違いが出来る」 .「しかし、年々出費がかさむようで……」 「仕方がないではないか。諸式が、年々に上るのだから、去年 千両かゝったものが、今年は千百両かゝるのじゃ」 「然し、七百両で仕上りますものを、何も前年通りに.:.こ 「どう仕上る?」 「それは、舷にあります」 、  そう云って、内匠頭は書状を差し出した。 「それは、とくと見た。しかし、そう度々の勤めではないし、 貴公のところは、聞えた裕福者ではないか。二百両か五百両 ー」 .「一口に、おっしゃっても大金です。出す方では……」 「とにかく、前年通りにするがいゝ」  吉良の声は少し険しくなっていた。 「じゃ、この予算は認めていたfげませんか」 「こんな費用で、充分にもて次せると思えん」 「お聞きしますが、饗応費は、い<らの金高と、公儀で内規で もございますか」 「何!」  |上野《こうずけ》は赤くなった。 「後の人の為にもなりますから、私この度は七百両で上ぼたい と思います」 「慣例を破るのか」 「慣例も時に破ってもいゝと思います。後の人が喜びます」 「馬鹿!」 「馬鹿とは何です」 、畠山が、 「内匠っ!」  と言って叱った。 「慣例も時に依ります」  内匠頭は、青くたって云いつ讐けた。 「勝手にするがいゝ」  吉良は拳をふるわせて、内匠をにらみつけていた。        四  藤井が去ると、 「怪しからん奴だ」  と、上野は眩いた。用人が、 「浅野から//」  と、云って藤井の持って来た手土産を差し出した。 「それだけか」 「はい」 「外に、何にも添えてなかったか」 ■.「添えて御座いません」 「|彼奴《きやつ》め-近年手許不如意とか、諸事倹約とか-|内匠《たくみ》と同 むような事を云っていたがーそうか」  上野は冷えたお茶を一ηのんで、 「主も主なら家来も家来だ」 「何か、申しましたか」 「馬鹿だよ。あいつらは。揃いも揃って吝ん坊だ!」 「何う致しました」 「浅野は、|表高《おもてだか》こそ、五万三千石だが、外に塩田が五千石あ る。こいつは知行以外の収入で、小大名中の裕福者と云えば、 五本の指の中へは入る家ではないか。それに、手許不如意だな どと、何を云っている!」 「全く」 「下らぬ手土産一つで、慣例の金子さえ持って来ん。大判の一 枚、小判の十枚、わしは欲しいから云ヶのじゃない。慣例は、 重んじて貰わなけりゃ困る。一度、,前に勤め九ことがあるか ら、今度はわしの指図は受けんと云う肚なのだろうが、こう云 う事に慣例を重んじないと云うことがあるかー馳走費を、 たった七百両に減らすし、わしに慣例の金子さえ持って来ん。 ーこう云うことは、主人が何と云おうと、家の長老たるべき ものが、よきに計らうべきだが、藤井も安井も算勘の吏で、時 務と云うことを知らん。国家老の大石でも居れば、こんな馬鹿 なことをすまいが、浅野は、今度の役で、評判を悪くするぞ。 公儀の覚えもめでたくなくなるぞ」  |上野《こうずけ》は、内匠頭にも腹が立ったが、江戸家老の処置にも怒り が湧いて来た。 (わしの云うことを聞かないのなら、此方にもそのつもりがあ る)  そう考えて、 「手土産など、突っ返せ!」  と、云った。用人が、 「それはあまり……」  と、云った。  上野は、だまって何か考えていた。       五 龍の口、|堀通角《ほりどおりかど》の、伝奏屋敷は、塀も壁も、すっかり塗り更 られて、庭の草の代りに、白い砂が、門をは入ると、玄関まで つfいていた。  |吉良《ぎら》が、下検分に来ると云う日なので、揖りの人々は、早朝 から詰切って、不安な胸でいた。 「何処も、手落ちはないか」 「無いと思う」 「思うではいけない」 「じゃ断じてない」 「でも、七百両ではどこかに無理が出よう」、 「相役の伊達左京の方は、いくら使ったかしら?」 「それは判らん!」 「伊達より少いと、肩身が狭いぞ」 「第一評判が悪くなる」  と、人々が云っている時、 「吉良上野介様あ!」  と、玄関で呼ぶ声がした。 「そらっ!」  人々が立ち上った。玄関の式台、玄関脇には、|士《さむらい》が、|小者《こもの》 が、つゝましく控えていた。玄関の石の上に置いた黒塗りの駕 から、上野介が出て、出迎えの人々にかるく一礼して、玄関を 上った。人々は、上野の顔色で、上野の機嫌を判断しようとし た。 「|内匠頭《たくみのかみ》は,」 「只今参上いたします」  上野は、内匠頭が玄関に出迎えぬので、いよく腹立ちと不 愉快さとが重なって来た。そして式台を上って、玄関に一足踏 込むと、 「この畳は?」  と、下を見た。 「はっ!」 「取更えた畳か?」 「はっ!」 「何故、|繧網縁《ろんげんべり》にせぬ?」  人々は、玄関を上るが早いか、すぐ鋭く答めた上野介の態度 と、その掛グも内匠頭も居ないのとで、どう答えていLか分ら なかった。・ 「内匠を呼べ!」 「はい只今1」 「殿上人には、繧綱縁であることは子供でも知っている。この 縁と繧綱とでは、いくら金がちがう2」 「玄関だけは、繧欄でなくてもよろしかろうかと1…:」  |士《さむらい》の一人が答えかけると、 「だまんなさい! お引き受けした以上、万事作法通りになさ い! 出費が惜しいのなら、なぜ手許不如意を口実に、断らん か。お受けした上で、慣例まで破って、ケチくすることがあ るか1内匠を早く呼びなさい!」  上野が、こう云っていたとき、内匠頭が険しい眼をして、足 早に家来の後方へ現われて来た。 「何か不調法でも致しましたか」  上野に、礼をもしないでそう云った。 「不調法〜」  上野は頷いて一 「不調法だ! この畳の|縁《へ 》は何だっ!」 「|繧網《うんポん》です」. 「繧網にもいろくある。.これは、何と云う種類か」 「それは知りません。然し、畳屋には、繧網と云って命じまし た。確に繧網です」 「模様が違う。取更なさい!」 「取更る,」 「そうだ!」 「今から」 「作法上|定《き》まっている模様は、変えることはなりませぬぞ。い くら、貴殿が慣例を破っても、こう云うことは勝手には破れん からな。即刻、取り更なさい。次I」  そう云うと、上野は内匠頭の返事も待たず、次ぎの間には 入った。               εろ芸た  内匠頭は、蒼白になって、その後姿をにらんでいた。■        六  |明日《あす》の、勅使の接待方の予定が、少し変ったと聞いて、内匠 頭は、伊達左京を探して聞こうとしたが、茶坊主が、 「もう、お|下《さが》りになりました」  と、云った。 「吉良殿は,」 「居られます」  内匠頭は、廊下へ出て、高家衆の|溜《たまり》へ歩きつゝ、 (上野に訊くのは、残念だが……)  と、思った。 (然し、伊達に訊きにやるのも面目にかゝわるしt)  そう思って、松の間の廊下へ出たとき、上野が向うから歩い て来た。 「暫く」  上野は、じろっ! と内匠頭を見て、立ち留った。 「明日、模様|更《がぇ》がありますそうで、どう云う風にー」 「知らないのか」 「聞き洩しましたがーどうかお教えを!」 「聞き洩した! 不念な、どこで何をしていた?」 「一寸|忙《ぜわ》しくて」 「忙しいのは、お互だ」  上野は、行き過ぎようとした。 「しばらく、どうぞ明日の」  と、云って右手で、上野の袖をつかんで引いた。 「何をする!」  上野は、腕を振って、大声を出した。腕が内匠頭の手に当っ た。 「何一つ、わしの云う事を聞かずに置いて、今更のめくと何 を訊く2」  上野が、大声を出したので、梶川が襖を開けて、顔を出し た。内匠頭は、蒼白になっていた。 「わしを、あるか無しかに扱いながら、自分が困ると、1袖 を引き止めて何を訊くか,」  上野は、内匠頭が、だまっているので、 「馬鹿々々しい!」  と、喧いて行き過ぎようとした。 「教えて下さらんのか?」 「教えて下さらんと云うのか、内匠、貴殿わしが教えて聞いた ことがあるかヨ」 「明日のことは、儀式の事にて、公事ではござらぬか」 「公事なればこそ、先刻通達したときに、なぜ聞きもらした2」 「それは、拙者の|不念《ぶねん》ゆえ、お教えを願っているのに」 「貴公の不念の尻拭いをしてやることはない!」  上野は、そう云って歩き出した。 「教えんと、おっしゃるのか」 内匠は、|後《うしろ》から必死の声で呼んだ。 「くどい!」 .「公私を混同して……」,  と、内涯が云うと、 「それは、貴公だろう。金の惜しさに、前例まで破って!」 「何!」 梶川が、 「あっ!」  と、低く叫んで立ち上った。上野は、 「何をする!」  と、叫んだ。内匠頭の手に、白刃が光っていた。  上野は、よろめいて|蹟《つまず》くように、逃げ出した。内匠頭が、及 び腰に斬りつけたとき、梶川が、 「何をなさる!」  と叫んで、組みついた。        七 「内匠頭は、切腹と|定《き》まりました」  と、子の左兵衛が、枕元へ来て云った。  上野は、横に寝て、傷の痛みに、顔を歪めていたが、 「そ5、だろう」  と、答えた。 「お|上《かみ》では、乱心者として、もっと寛大な処置を取ろうとなさ いましたが、内匠頭は、乱心でない。上野は、後の人ρため に、|生《いか》して置けんなどと、いろく理窟を云ったそうで、とう とう切腹にー」 「あの意地張りの|気短《きみじか》め、どこまで考え無しか分りゃしない。 そして、殿中では何う評判をしている。どちらが悪いとかいゝ とか」. 「えゝ、内匠頭の短慮と吝薔は、よく知っていますが、殿中で 切りつけるには、よくく堪忍の出来ぬことがあっての事だろ うと云うので、やはり洞情されています。梶川の評判はよくな いようです。何うしてもっと十分にやらせてから、抱きとめな かったかとll」 「無茶なことを云う、十分にやられてたまるものか。わしは、 軽い手傷だし、向うは切腹で家断絶だから、向うに同情が向く だろうが、と云ってわしを非難するのは間違っている」 「いや、父上を一概に非難してはいませんが」 「いや、事情の分っている殿中で、その位なら、たf事の結果 だけを見る世間では、きっとわしをひどく云うだろう。わし は、今度のことでわるいとは思わん、わしは|高家衆《こりけしゆラ》で、幕府の 儀式慣例そら云うものを守って行く役なのだ。その慣例を無視 されたのでは、わしにどこに立つ瀬があるか。■事の起りは、|彼 方《あちら》にある。ところが、殿中でわしに斬りつけると云う乱暴なこ とをやったため尺よくくの事だと云うことになって、忽ち |彼奴《きやつ》が同情されることになるのだpわしが、あの時殺されてい ても、やっばり向うが同情されるだろう。あいつが、出鱈目の ことをやったと云うことが、世問の同情を引くことになるの だ。馬鹿々々しい」 「然し、訳を知っている人は、よく判っています」 「そうだろう。だから(お|上《かみ》からも、わしはお|答《とがめ》がなくて、あ いつは切腹だーしかし、世間ほ素直にそれを受け容れてくれ ないのだ。|彼奴《きやつ》が、乱暴なことをしただけで、向うに同情が向 くのだ。思慮のない|気短者《きみじかもの》を、対手にしたのが・.|此方《こちら》の不覚 だった。まるで、|簸《まむし》と喧嘩したようなものだ。相手が悪すぎ た」 「全く」 「内匠も内匠だが、家来がもつと気が利いていれば、こんな事 件にはならないのだが。わしは、迷惑至極だ。斬与れた上に、 世間からとやかく云われるなんて。こんな災難が、又とある か」  医者が次ぎの間から、, 「あまり、お喋りになっては」  と注意した。        八  上杉の|附家老《つけがろう》、千坂兵部が、薄茶を喫し了ると、■ 「近頃、浅野浪人の噂を、齢きゝになりましたか」と、|上野《こうずけ》に 云った。 「|何《ど》んなっ-」 「内匠頭のために、御隠居を討つと云う」  上野は笑って、 「何でわしを討つ2 内匠頭に斬られ損った上に、まだその家 来に斬られてたまるか」  ■   - 「なるほど、内匠頭が切腹を命ぜられたのは、自業自得のよう たもので.恨めば公儀を恨むべきで、老公を恨むところはない 筈ですが、た寸内匠頭が切腹のとき、近臣の士に、この怨みを 晴してくれと、遺言があづたそうで、皿家臣の者の中に、その遺 志が継ごうと云うものが|数多《あまた》あるそうで」 「|主《しゆ》が、自分の短慮から命を落したのに家来が、その遺志を継 ぐと云う法があるものか」 ■「所が、世間の者は、.精しい|事由《わけ》は知らず嘆た皇敵討と云う だけで、物を見ます。こう云う衆愚の力は、恐ろしいもので す。その吹く笛で踊る者が出て来ます、それに、浅野浪人も、 扶持に放れた苦しみが、この頃漸く身にしみて来ましたから、 何かしらやりたいのです。,仕官も思い通りにならないとする と、局面打開と云う意味で、何かやり出すにきまっています。 彼等は、位置も禄もありませんから、強いのです。何かして、 うまく行けば、それが仕官の種になりますし、失敗に了っても ■元々です。だから、この際、思い切って、上杉邸へお引き移り になったら、如何ですか」 「いやた事だ!」  上野介は、首を振った。  「わしは、j。十も悪いことをしたと思っていない。わしと、内 匠頭の喧嘩は、七分まで、向うがわるいと思っている。それ を、こんな世評で、|白金《しろがね》へ引き移ったら、吉良はやっばり|後暗《うしろぐら》 いことがあると云われるだろう。わしは、それがシャクだ」 「御隠居も、なかく片意地でございますな」 「うむ。だが、わしはつまらない喧嘩を売られたとしか思って いない。わしは、喧嘩を売った内匠の家来達に恨まれる筋はな いと思っている」 「理窟は、|左様《そう》かも知れませぬが」 「一体、浅野浪人の統領は誰だ!」 「大石と申す国家老でございます」 「大石内蔵助か、あの男なら、もっと|事理《わけ》が分っている筈だ。 わしを討つよりか、家再興の運動でもすると思うが。わしを 討って見い、浅野家再興の見込みは、永久に断たれるのだが」 「左様でございましょうが、禄を失いました者共は、それほど の|事理《わけ》を、考える暇がございますまい。公儀と云う大きい相手 よりも、手近な御隠居を……」 「分つた! 分った! 然し、内匠頭をいじめたようにとか く、噂されている上に、今度はその敵討を怖れて、逃げ廻って いると云われて、わしの面昌に拘わる。来たら来たときの事だ が、千坂結局噂だけではないか」 「なれば結構でございますが、しかし、万一の御用意を」 「だが、引き移るのはいやだよ」 「それならば、お|附人《つけぴと》として、手の利いたものを詰めさせる儀 は」 「うむ。それもいゝが、なるべく世間の噂にならぬように」 「はゝ」  千坂は、この頑固な爺と|気短《ぎみじか》な内匠頭とでは、喧嘩になるの は、尤もだと思った。しかし、この頑固さを世間で云うように 剛慾とか吝畜とかに片づけて了うのは、当ちないと思った。        九  どゝっと物の倒れる"めりくと戸の破れる、すさまじい響 が、遠くの方でして、入の叫びがきこえて来た。上野介は、耳 をすました。 「火事だ!」  と云う声がした。 (この押しつまった年の暮に|不念《ぶねん》な1邸内かな、それとも隣 屋敷かー)  と、思いながら上野は、 「火事か」  と、隣にいる筈の近侍に声をかけた。そして、半身を起す と、畳を踏む音、家来の叫びが、きこぇた。 「火事は何処だ1誰か居ないか!」  気合をかけたらしい、鋭い声がした。近い廊下の雨戸が、叩 き落されたらしい音がした。同時に、どっかの板塀にかけやを 打ち込んでいるらしい音がつ間けざまに聞えた。 「浅野浪人かな?」  上野は、|有明《ありあけ》の消えている闇の中で脇差をさぐり当てた。 と、薄い灯の影がさして、 「御前」  側用人が、叫んでは入って来た。 「狼籍者が、押込みました」 「浅野浪人か」■ 「そうらしいです。すぐ、お立退きを」  上野は、、周章て起き上った。|太刀打《たちうち》の音がした。|懸声《かけごぇ》がきこ えた。人の足音が、庭に廊下に部屋に入りみだれかけた。 「こちらへ!」 「何処へ行く」 「お臼†く、お早く」  側用人は、勝手口に出て、戸を引き開けた。雪あかりであっ た。いろくな物音が、冴えかえって、ハッキリときこえて来 た。用人は、炭小屋の戸をあけて、 「あ」人一へ7・」  と云った。上野は、|跣足《はだし》のまゝ、中へは入ると、用人はすぐ 戸をしめてしまった。 「大勢か」 .「五六十人I裏と表から」 「五六十人!」  上野は、そんなに大勢の人間が、浅野の家来の中から、自分 を討つために、残っていようとは思えなかった。 「外の加勢でもあるのではないか」 「さあ」 「別に、悪いことをせん人間が、喧嘩を売られて、傷を受け世 間からは憎まれた上に、また後で|敵《かたき》として討たれるなんて、こ んな馬鹿なことがあるものか」  上野は、世間や敵討と云ったような道徳に、心の底から、し み出て来る怒りを感じた。 「御前、しっ、.黙っていないと、見つかります」  上野は、肢くのを止めた。炭小屋の中は、しんくとして、 冷え渡っていた。外の、人の叫び、足音は、だん/、烈しく なって来た。 「本当に、浅野浪人か」 「そうらしいです」 「これで、|俺《わし》が討たれて見い、俺は末世までも悪人になってし まう。敵討と云うことをほめ上げるために、世間は後世に|俺《わし》を 剛慾非道の人間にしないでは置かないのだ。俺は、なるほど内 匠頭を、少しいじめた。だが、内匠頭は、わしの面目を潰すよ うなことをしている。わしの差図を聴かない上に、慣例の金さ え持って来ないのだ。これはどっちが、いゝか悪いか。しか し、先方が乱暴で、刃傷と云った|乱手《らんて》をやるために、忽ち俺の 方が、|慾深《よくふか》のように世間でとられてしまった。あいつはわし を、斬り損じたが精神的に、わしは十分斬られているのだ。そ れだのに、まだ家来までがわしを斬ろうなどと、主人に斬られ 損ったからと云って、その家来に敵と狙われる理由が、どこに あるか。まるで、理窟も筋も通らない恨み方ではないかηわし に、何の罪がある一ひどい! 全く、出鱈目だ!」  上野介は、寒さと怒りとに、がたくふるえながら首を振っ た。物音が、少し静になった。 「行ったのかな」 「いゝえ一まだく」  二人は、炭俵の後方に、ち間んでいた。雪を踏んで、足音が 小屋を目指して近づいて来るのがきこえた。       十 戸が軋って、雪明りがほのかにさしこんだ。 「しまった。駄目だ」  と、.思ったとき、戸ロヘ火事装束らしい姿の男が、現われ て、槍をかまえながら、は入ろうとした。  用人が、薪を掴んで立ち上ると、投げつけた。その男は、忽 ち戸ロヘ飛ぴ出すと「 「この中が怪しいぞ」  と、叫んだ。そして、もう一度槍を構えて、 「出ろ!」 ■と、叫んでじりノ\とは入って来た。用人は、炭を、薪を投 げつけたが、用人の|後《うしろ》の白衣を着た上野の姿を見つけると、 「〜えゝい…・」 .と、叫んで、・突きかけて来た。上野は、|後《うしろ》へ下ろうとして、 ・荒壁へどんと背を、-ぶっつけた途端に、太股をつかれて尻餅を ついた。 (何の罪があって、わしは殺されるのだ。どこに、物の正不正 があるのだ。わしは、殺された上に"永劫悪人にされてしまう のだ。わしの云い分やわしの立場は、敵討と云う大鳴物入りの 道徳のために、ふみにじられて了うのだ) 、上野は、炭を掴んで投げつけた。用人が、槍を持っている男 の側を兎のようにく間って、外へ出た途端、雪の上に黒い影が 現われて、懸声がかゝると、用人はよろめいて手を突いた。 「この中が、怪しいのか」  もう一人の男が、ずかくとは入って来て、上野の着物の白 いのを|見当《みあて》に、 「参るぞ!」 …と、.刀を振り上げた。 「大石がいるか」  上野が訊いた。 「誰だ! 貴公はし ,「大石がいたら……」 「居たさる」 ー上野は、 (大石がいたら、この筋の立たない敵討を詰じってやろう)  と、思いながら、立ち上ろうとして、よろめいた。|後《うしろ》から来 た男が、襟首を掴んで、引きずろうとした。  上野は、 (主も無茶なら、一家来も無茶な事をする連中だ)  と、感じたが、恐怖に心臓が止りそうで声が出なかった。そ して、ずるくと引きずられて出た。 「やあ! |白輪子《しるりんず》を着ている」  外で待っていた一人が云った。誰か父、呼子の笛を吹いた。 (白輪子を知っている。何も物事が分らんくせに、白論子だげ を知っている。わしはどうして浅野主従のために、■重ね《\ひ どい目に遭うのか)  上野は混乱した頭の中,で、 (わしは内匠頭に殿中で斬られたために、剛慾な意地悪爺のよ うに世間に思われた。わしの方が何か名誉恢復のために仕返し でもしたい位だ。■それだのに、わしが前に斬られかけたと云う ことが、なぜ今度殺される理由になるのか。丸きり物事があベ こべだ)  人々が黒々と集って来た。,  小肥りの、背のあまり高くないのが来ると、 「大夫、どうも上野殿らしく!」  と、一人が丁寧に云った。 (これが、大石か)  と、上野が思ったとき、 「|傷所《ぎずしよ》を調べて見い」  二三人が手早く肩を剥き出して、手燭をさしつけた。 「あります」  大石は、頷くと、雪の中へ膝を突いた。上野は、おやっと思 いながら、ちらっと見ると、 「吉良上野介殿とお見受け申します。われわれは元浅野内匠頭 の家来i1大石内蔵助良雄以下、四十六名の者でありますが、 先年は不慮の事にて、……」  と、雪の中に手をついて名乗りかけた。 (なるほど、これだ。大石は、やはり大石だ。なぜ、あのとき 江戸に居らなんだ。大石が居れば、わしも齢前もこんな事にな らずに済んだのだ。大石だけが、わしの心をいくらか知ってい る。そうだ、凡てが不慮の事なのだ/わしの馬鹿々々しい災難 なのだ。災難とあきらめて討たれてやろうか)  上野が、混乱した頭で、自分勝手なことを考えていると、大 石は何か云い終って、短刀を差し出すと、 「いざ!」  と云った。  短刀を突きつけられると、上野の頭に、わずか萌していたあ きらめは、忽ちまた影をかくした。自分の立場も云い分も、敵 討と云うもののために、永久にふみにじられてしまう怒りが、 また胸の中に燃え上っていた。  彼は、浅野主従、世間、大衆、道徳、後世、そのあらゆるも のに、刃向って行く気持で、その短刀を抜き放ってふら<と 立ち上った。 「未練な!」 「卑怯者め1」 (何が卑怯か、わしには正しい云い分があるぞ!)  そう思いながら、あてもなく短刀をふり廻していると、 「|間《はざま》! 切れ!」 と、大石が云った。 (大石にも、不当に殺される者の怒りが分らんのか) と思ったとき、 「えゝっ!」 と、かけ声がかゝった。 下郎元右衛門   ー/」敵討天下茶屋 一 「弥助」  と、源次郎の声がした。 (もう少しだのにー)  と、弥助は低く舌打をしたが、 『,はい」・ 「講義を始めるから、藁を打たんよう」  かしこまりました。と云おうとしたが、徴かに不服な心が あったので、 「はい」  と、だけ答えた。|所《ところム》々の|穴《ち》のあいた、煤けた障子の向うで、 源次郎は、四五人の町人百姓を前にして、 「始める」  と、云った。弥助は、草鮭を作るため、藁を打っていたが、 その手の槌を、藁の中へ置いて、打って置いた藁をないかけ た。 (いくら、貧乏しても、齢坊ちゃんだ。聞いたって、訳の分り そうもない|代物《しろもの》を集めて、講義をして、心付けが多いときで、 月に百四五十文、l講義をしている間に藁が打てたら、今夜 はわしが一人でも、七八十文にはなるのに1槌の音が、喧ま しい、講義の邪魔になる。とーだが、まあ、あゝして土百姓 の前ででも、威張って、講義でもしなさるのが、この貧乏な中 でのせめてもの尉心めに"遅いない)  弥助は、土間の底冷0する所へ、藁をしいて、もう薄暗くな りかけているのに、|灯《あかり》もなしに、草鮭を作り始めた。 「孫子|曰《いわ》く、凡そ用兵の法たるや、高陵は向う|勿《なか》れ、背丘は逆 う勿れ、|律《いつわ》り|北《に》ぐるに従う勿れー高陵とは高い土地の事だ。 敵が高い土地の上にいる時には、向ってはいけない。然しl これは、孫子の当時の如き、弓矢だけの戦のごとであって、今 日の如く、鉄砲であるとか、大砲であるとか、云うものの出来 た時代では、高陵に向うには、向う法が出来たー」  源次郎は、物好きな人々が、二三人しか来ない時でも、熱心 に、講義をした。入々が主従四人の貧乏を気の毒がって、心付 を持って来ても、 「多すぎる」  とか、 「それには及ばん」  とか云って、断りがちだった。そのくせ、金が要ると、 「弥助! |元右《もとぇ》衛|門《もん》!」  と、すぐ二人の者に命ずるし、いよノ\つまると、 「何とかせい!」  と、云うだけで、自分は、本を読んだり、兄と話したりして いた。        ニ コ寒い! 寒・い!」  元右衛門の声が、|忙《せわ》しそうに、表口でした。 「しっ!」  弥助が、源次郎に気がねをして、低《叱ったとき、建附けの 悪い、がたノ\格子が開いて、 「寒い!」  と、云いながら元右衛門が帰って来た。 「しっ! 御講義の最中だよ」  元右衛門は、首をすくめて、弥助の前へ来ると、 「何うにもならん」 と、云って|鱒《うずくま》りながら、風呂敷の中の米を見せた。弥助 は、一寸覗いて、 「御苦労だなあ!」  と、云いながら、,元右衛門を見ていたが、|布子《ぬのこ》を着ていない のに気がつくと、 「布子は?」  と、訊いた。 「質へ入れた。そうでもせんと、これだけ米を、かしてくれ ん」  弥助は、草鮭をなっている手を止めて、 「つくづく、嫌になって来た」  しみじみした声で岐いた。 「宇喜多家の御家老の息子様で、不自由知らずのお育ちだか ら、無理がないと云や、それまでだが……」 「愚痴は兄貴らしくないぞ」 ・と、元右衛門が云った。 「|敵《かたき》の1敵の、|当麻《たいま》三郎右衛門を討ちたい一心で、こんな貧 乏を辛抱していなさるのは、よく判つているがIそれに重治 郎様は、お|脚《あし》が不自由だし、働きようがないと云えば、それま でだが・ーiそれにしても、のう|元《もと》、愚痴も云いたくなるよ。|先 刻《さつぎ》もな、わしが|明旧《あした》の米代にしようと、草鞍の藁を打っている と、槌の音がやかましいと云ってお止めなさる。わしは、米代 紅刀をお売りなされとか、激討の用意の晴着をお売りなされと か、そう云うことは云いたくないが、少しは、われくの心労 も察して頂きたいものだ。なあ、そうじゃないか、|元《もと》!」 「うむ」  元右衛門は、腕組をしながら、頷いて、 「だが、世が世なら、兄貴、禄に口もきけん我々風情を、頼み きっていらっしゃると思えばこそ、|俺男《おらあ》として、ー」 「元、ありがとう、お|前《めぇ》の気持はよく分る。わしのような代々 の主筋でなく、年季奉公のお前が、この寒空に布子を脱いで、 米を買って来てくれる、その|志《ことろざし》が、何うしてお二人に判らん のか、わしは、それが情ないのだ。お前は、好きな酒も断って いるしllその若さで、女買い一つするじゃなし……」 「兄貴、愚痴は、よそうよ。|俺《おらあ》、飯を焚いてくるぜ」  元右衛門は、涙をためている弥助の前かち立って、暗い汚い 勝手元へは入った。弥助は、また草鞍を編み出した。        三  草鮭問屋へ、草鮭を売りに行った元右衛門は、主人が、うす うす事情を知っていて、一足一文ずつ高く買ってくれた上に、 いくらかの|酒代《さかて》まで、くれたので、嬉しさに急いで戻って来 た。  朝食を喰って、|猪飼野《いがいの》を出てから、.夜に入るまで、食事をし なかった元右衛門は(酒|肴《さかな》あり)と、書いた油障子が、一枚鈍 い光に|点《て》り出されているのを見て、 (何か惣菜を少しと、俺も腹をこしらぇてiニしれ位のことな ら、悪いことじゃない、問屋の主人のくれた|酒代《さかて》で、間に合う ことだから)と、思って油障子をくfった。  軒下には、木の葉が、サラくと薄寒い音を立てゝ、風と一 しょに舞込んでいた。 「御免よ」  |家《うち》の奥で、多数の人が集っている気配がした。元右衛門が" ■土間へは入っても、誰も声をかけてくれなかった。 「御免よ」 「騎いで!」  やっと、親爺が、奥から出て来て、  「お|上《あが》り」と云った。 「えゝ」  元右衛門は、懐掛が空いているのに、なぜ上れと云うのか分 らなかった9 「やっているよ。最中だ」 「何が!」 「何んじゃ、遊びと違うのか」 「飯を」 「御飯の方は、もうあらかた種切れじゃが」  と、云いながら土間へ降りて来た。 「何でもいゝが」  と、云いながら、元右衛門は土間の将几に腰を齢ろした。  奥では、賭場が立っているらしく、十四五人ばかり車座に なっていた。そうした人声がj物音がきこえて来た。 、酒は入らんぜ!」  元右衛門は、親爺に云った。 「えらい固いな」 「何か、|家《うち》へ持って行く惣菜がほしい」 「えらい、|娩孝《かとあ》行じゃな」 .「鰺じゃない」  と、云ったとき、こうした飲食店につきものの白粉をこく ぬった女が、お銚子をとりかえに奥から出て来た。 「お出でやす」  と、元右衛門に挨拶して、|傍《そぼ》に来ると、 「|元《もと》さん、えらい、久しぶりじゃのう。|貴君《あなた》も、奥で遊んだ ら」  と、云った。 「いや、戻りが急ぐ故!」 「目が出なんだら、|妾《わたし》が立更えてやる。出たら、酒でものんで 員気よくーこの寒空に、素面で若い男がうろつけるかい。さ あー」  女は、元右衛門の手を引っばって、|媚《こび》のある眼で、奥へ誘っ た。 「いやー」  と、元右衛門が、手を引くと、 「これでもかい+・」  と、云って女は、両手で元右衛門の首を抱くと、 「遊んでおいで。そして、もし目が出たら、わたしが後で可愛 がって上げるよ」 ■と、さゝやいた。        四  すゝけた天井の下に、破れた障子、すりきれて、黒ずんだ 畳、隙間風がすうくと、は入って来る所に、薄蒲団を敷い て、ねていた弥助が、気がねして表戸を叩いているのに気がつ くと、 「元か!」  と云った。 「遅うなって、すまんが、開けてくれ」  弥助は、次の間の兄涕に、心を配りながら、|燧石《ひうちいし》を打って、 手燭を点けた。 「どうしたり.」  元右衛門に、酒の匂いがあった。 「寒いから、畔てくれ、臥て話す」・  弥助は、            一   `. (何かいゝことがあったのだろう。坂田庄三郎様にでも逢う て、酒でもよばれて来たのかな)  と思った。御兄弟が坂田様か、坂田の主人の壇様にでも、す がればこんなに、貧乏しないでも済むのにと思った。 「|土産《みやげ》」  と、元右衛門は、折詰を蒲団の前に置いて、 「俺のも布いて、おいてくれたのかい。すまん、一人でハいゝ ことをして」  と云った。 「何かいゝことがあったのかい?」 「うん。土産を買って来た。|明日《あした》、お二人に差しあげたいが、 鼠のつかんところにー」  元右衛門は勝手に行って、桶の中へ土産を入れて、蓋をL た。. 「消すよ」  弥助は、手燭を吹き消した。二人は、脚をちバめて、蒲団に しがみつくと、 「問屋の主人が、うすく訳を知って居てのう1一両、金を 貸してくれた。兄貴に相談してと思ったが、折角の話なので」. コ両!」  弥幼は、話がうますぎる上に、金高が多すぎると思った。 「返さんでもいゝ金だ」  元右衛門は、弥助がどんな顔をしているか見たかったが、し かし暗くて自分の顔を見られぬのが、結局気楽だと思った、  弥助は、しばらくの間だまっていた。 「兄貴どうした2」 「うむ」 「ねむいのかい2」 「いゝや」 「そして、酒をだしてくれてー」.■ 「そりゃよかった」 「明日から、藁を少し沢山買うて、台をこしらえて、槌をも一 つ買うて「俺も手伝って作るよ」■ 「そればありがたい」 「土産は、煮肴だ!」 「それも問屋でくれたのかいP」  元右衛門は、ハッとした。 ㍉いゝや、あれは一寸戻り道でー」 「まあ、いゝや、よく働いてくれる」-1じゃ、寝よう。もう、 |丑三《ラしみつ》を廻ったろう」  元右衛門は、弥助がいくらか怪しんでいるのを感じたが、賭 場と女ど、それから自分の運のよかったことを思い出して、微 笑していた。        五 一だが、凡ての勝負事は、|初心《うぶ》のときに、不思議に勝つもので ある。そして、その勝に乗じて、深入りすると、きっと負け出 すものである。  元右衛門が、|失敗《しま》ったと思って、心も顔も蒼くなって、焦り 出した時には、草鮭を売った金が、殆どなくなってしまってい た伯 「張らんかい?」  と、胴元が云ったとき、 「今日は、持ち合わせが、みんなになった。よそう」  胴元は、すぐ壷へ手をかけて、から窪を音させて、 「さあ! 丁と出た、丁と出た。丁つ間きだ。おや、又半と 張ったな、その意気!その意気!」  と、喋り立てゝいた。元右衛門は、しばらく腕組をしていた が、 「皆さん。さよなら」  と、挨拶して立ち上った。 、壁の所へ、もたれかゝって、じっと、場を眺めていた女が、 壁から背を離して、元右衛門に、金をにぎらせた。 「えっ!」  元右衛門は、女の顔をじっと見た。 「一文なしで、お|家《うち》の首尾がわるいだろう」 「ありがとう。|明日《あした》返すよ」 「いつでもいゝよ。目の出ん日は、早く切り上げた方がいゝ」 「うむ」 ,元右衛門は、世の中と貧乏とに、三年越し悪闘をして来て、 少し疲れていた。そして、こう云う|情《なさけ》に、餓えすぎていた。 「本当にi」  之、まで云って(すまん)と、つバける言葉が、咽喉に止 まってしまっていた。涙ぐみたいようになって来た。 (この女は、俺に惚れている、そして人間もいゝらしい。少し 金さえあれば、女房にしたいがー)  と、思うと、いつ打てるか分らぬ敵を、|当《あて》もなくーそれ も、ろくく捜しもしないで待っている兄弟に、かるい反感が 湧いて来た。 (あれだけの奉公を|他家《よそ》でしたら、年四両五両の給金はだまっ ていてもくれる。そして、この女が自由になるんだ。二人で世 帯を持って//)  と、,いくら尽しても尽しがいのない、酬いられぬ奉公が、し みλ\嫌になって来た。 (だが、もう一息だ。|当麻《たいま》三郎右衛門は、御城内にいるらしい んだ。それに、久しく探していた人形屋幸右衛門も見つかりそ うだ。幸右衛門が見つかったら、あれがいろく尽力してくれ るだろう。そして、首尾よく、敵が打てたら、俺だって士分に なれる- |士《さむらい》になったらあの女がどんなに|欣《よろこ》ぶだろう)  だが、表へ出て一二町歩くと、 「帰りたくないわ」  と咳いた。汚い住家よりも、後に残して来た女と賭場と酒の 匂いとが恋しかった。それに、草鮭の金の売上げが、女のくれ た金では、ー少し足りないのを、どう言いわけしようかと思う と、足がすくみがちだった。=        六 、弥助は、まだ床も敷かないで、上り口の板の間で、草鮭を 作っていた。 「まだやっているのかい」と、元右衛門は云った。  弥助は侑むいていた顔も上げないで、暫く草鮭を編んでいた が、、 二寸話がある」  と、云った。 「今日の売上げ、主人が生憎留守で、いつもほどに買ってくれ ん」  元右衛門は、財布のまゝ弥助の傍へ置いた。 「そうだろう。今日問屋の主人が、こゝへ来た」 一元右衛門は、どきんとした。 「え!」  弥助は、初めて手を休めて、顔を上げると、小さい声で、 「この間の一両、ありゃどうした金だいっ・・」 「何うしたって,」 「|匿《かく》さずに云ってくれ」  元右衛門は、弥助が何を訊き何を云需うとしているか間、す ぐ分った。だが、すぐ返事が出来なかつた。 「まさか盗んだ金ではないだろうがー」  弥助は、暫くしてからこう云った。 「盗む?」 「悪うとるな。なあ、|元《もと》。夫婦仲でも、貧乏でも、三年目位か ら、そろく危くなるんだ。こう云っている俺でさぇ、この貧 乏がそろく嫌になって来ているんだ。しかし、人間勝つか 負けるかは、そこん所さ。踏こたえて押し切るか、あべこぺ に腰砕けるか、ほんの一足のことだ。お前は、年も若いし、男 振もいゝし、外へ出り沖女も目につくだろうし、おもしろい こと齢かしい事にも、かゝり易いだろう。それは、十分察しる が、だが人間そこが肝心だ。折角、こゝまで来て、人形屋幸右 衛門の|在処《ありか》も、判りかけている間際で、へこたれちゃ、千日に 苅った茅が! ……」 「兄貴!」 「こゝで、おかしな……」 コ寸待ってくれ。案前の心持はよく判る。また有難いとも思 う。然し、こゝまでお互に暮して来たのに、兄貴は俺の心が判 らないかな……」 「判っているよ。だがー」 「いや、判らないらしい。俺だって、御兄弟をお助けしたい と云う男の意地で、こうやってお前と一しょに辛抱しているん じゃないか。それが、無けりゃ一季半季の渡り者だ。とっく に、どっかもっと暖かい所へ奉公しているよ」 「そうか。それはよく判った。じゃが、あの金は2」 「昔馴染の朋輩から借りた金だ!」 「しかし、一両と云う大金をな……なあ元。いつか、お前が夜 遅く戻って来たときにな、茄前の眼は血走っていたしヘ息使い ぽ荒いし、言葉は、上ずっていたし、i俺は、だまっていた が、あの金をお前がどうして取ったか、俺には判っていた。勝 負って奴は勝つ事もあるが負けることもある。その負けた時 に、ふッと変な気がさすが、そいつが恐ろしい。俺は、敵の|当 麻《たいま》などこわくはないが、それよりも重治郎様が、時々わしは早 く死んだ方が、ましだなどとおっしゃる方が、恐ろしい。俺 は、勝負事をやったらいかんとは云わないが、負けた時勝った ときに、ふらくと女が欲しい酒が飲みたいと云う気が起きる のが恐ろしいと云うのだ。  それもいゝが、一度女を買ったら、酒を飲んだら、それが最 後、この貧乏が忽ち嫌になるだろう。俺は、それが恐ろしいの だ。貧より辛い病はないと云うが全くつらい。た讐でさえ、辛 抱出来んのだ! それをもし、女や酒の味を知ったら:1…」  弥助が、こゝまで云った時、奥の間から、 「元右衛門!」 .と、重治郎が呼んだ。 「へえ」 コ寸参れー・」  二人は、いつの間にか大きい声になっていたのに気がつい て、顔を見合わせた。   「何か御用で」   「こゝへは入れ。坐れ」  「え」    元右衛門は重治郎が、二人の話を聴いたのだと思った。重治   郎は、汚い枕を胸に当てゝ腹這いながら、   「いろく苦労をかけ世話になっている。よく働いてくれる。   それは、よく判つている。しかし、元右衛門! 不正なことを   した金で、助けて貰おうとまでは思わぬぞ。いゝか、わしら兄   弟は、尾羽打ち枯しているが、人に恥を受けんだけの用意はあ   る。弥助なり、その方なりが、居なくなるとか、病気になると  ーか、万一の時には、これー」    と、云■って、敷蒲団の下から、財布を出した。そして、   「小判で、三十両。これが、武士の|嗜《たしな》みと申すものだ。働ける   間は、働いてくれるといゝ、万一の時には、飢えんだけの用意   はしてあるー」    元右衛門は、|身体《からだ》中が赤くなる位に、腹立ちと憎みとが、   起って来た。   (一通りや、二通りの苦労かい。手にゃ、ひ間が入るし、足   にゃ、あかぎれが出来るし、昼飯を抜いたり、布子を脱いだり、   1それを知っていて三十両も、せめてその中の五両でも出し   たって、罰も当るまい。出来ん辛抱をしている人間を、さんざ   ん働かせておいて、三十両も、のめのめとかくしている。こち   とらを牛か馬とでも思っているのか……)    元右衛門は、三十両の大金をかくして、→言も話さなかっ   た重治郎の態度に、心から憎悪が起って来た。   「お前達、下郎の眼から見ると、何故二両や三両は、困ったと きに出さぬと云うかも知れぬ。しかし、それを出したいのを出 さぬ辛抱は、お前達の辛抱よりも、辛いぞ」  元右衛門は、  「勝手に、理窟をぬかせ!」  と思った。 「金と申すものは、一両出すと、すぐ二両が出る。あると思う と、気がゆるむ。まして、|敵《かたき》を討つ身として、いよくとなれ ば、晴の仕度もせねばならぬ。|林《はやし》の家の伜として、先祖の顔を 潰すようなことも出来ぬ。わしは、幾度かこの金を出そうと 思ったか知れぬρその度に、いやくと思って、ひっこめた。 源次郎にさえ、この金のことは|明《あか》してない。可愛そうなと思う ,こともあるが、心を鬼にして、|今日《ぎよう》までか<していた。だが、 お前が、不正なことしてまで金を、作るような気になったとす ると、打ち明けずに居られなくなった。わしの貧乏は、ちゃん と心がけがあっての貧乏だ。お前に不正なことをして貰ってま で、餓を凌ごうとまでは思っていないのだぞ。武士の貧乏は、 心得のないそち達下郎の考えるものとは違うぞ」  元右衛門は、少しも|此方《こつち》の気持を察してくれない、1たと え賭場で儲けた金にしろ、その金をそっくり弥助に差し出した 自分の心を察してくれないで、たバ下郎々々とさげすんでいる 重治郎の態度に、腹の底から、怒りが萌して来た。 (三年越、こちらに養われて来て何の下郎だ。宇喜多の家老 の息子と家来なら、それでいゝが、浪人して|此方《こつち》の厄介になっ て居れば、同じ人間同志ではないか。それも弥助のように、親 代々の|小者《こもの》ならいゝが、わしは給金目当の仲間奉公だ。それ だのに、男の意地と情誼で、三年も辛抱してやっているのに。 三十両もしまい込んで置いて、下郎不正な金では世話にたりた くないと、何が不正な金だ。俺達を、こんなに不当に働かしな がら、貯めて置く金こそ、不正の金ではないか)  と、思ったが、 「退れ、よく考えてみい!」  と、重治郎が云ったので、元右衛門は、だまってお辞儀をし て部屋を出た。        八 (人間じゃない! あの|破《ちんぱ》め!)  元右衛門は、弥助の寝息を聞きながら、 (だから、破になんぞなるんだ。|敵《かたき》を討つ身で破になるなん ぞ、何と云う業の深い奴だ! みんな、あんな心掛の報だ。そ れに比べると、俺が一文なしになったのを見て、小遣をくれた あの女は:…・)  元右衛門の眼の底に、財布が、ちらくして来た。 「あの中に、三十両ー三十両ありゃ、江戸ヘ行って、二人で 世帯が持てる。江戸へ逃げりゃ知れる気遣いはない」  元右衛門は、弥助の寝息を伺って、自分で重治郎の枕元へ忍 込んで行くのを、想像した。  そして、 (盗んで逃げようか)  と思って、ハッとした。 (昔の口ぐせとは云え、下郎、下郎って、その下郎に世話に なってた奴は、一体何だ。金はあるが、貧乏しろ。俺達が、働 いてへたばってしまったら、その後で三十両でゆっくり暮そう と云うのか。何んて、人間だ!)  元右衛門は、口惜しくて、眠れなかった。 (年中寝ているから、働いている者の辛さは知るまい。貧乏は 知っていても、金を作る苦労は知るまい。自分で、|明日《あした》の米代 でもかせいで見い。それから、俺達に文句を云え!)  元右衛門は、重治郎に、自分で働いて食う生活を、一度させ て見ることが、何よりの仕返しになると思った。 (そしたら、年季奉公の俺が、た間主従と云う名のついている ばかりに、どれだけ辛抱しているか分るだろう。自分で、草鮭 を作って、それを問屋に運んで、米代に替えて見い。そうする と、俺達の真心が分るだろう。人間同志で、人間の真心の判ら ん奴は畜生だ!)  元右衛門の眼の底に、女の姿が現われて来た。 (あいつは、喜んで一しょに逃げてくれるだろう。そして小さ い商売でも始めて、1楽しいだろうなーいつまでも、こう しているよりも、それに|当麻《たいま》を討ったところで、あんな冷たい 心では、何をするか判りやしない。弥助一人を武士にとりたて て、俺をお|払画《はらいぱこ》にしたって、何処へ尻の持って行きようもな い)  元右衛門は、床の中で、帯をしめ直して、そして、 (盗んでやろうか、あの金を1一文もなくさせたら、初めて 貧乏のほんとうの辛さを思い当るだろう。そうだ1)  弥助は、よく眠っていた。元右衛門は、重治郎の部屋の様を じっと伺っていた。何の物音もしなかった。        九, (金が無いと思うと、人間と云うものは、心細くなって、つい 道を踏み外す事もあるが、万一の場合三十両あると思うと、 却って安心をして、つらい辛抱も出来るであろう。あいつの、 まめノ\しい働きもよく分っているが、年が若いだけに、とき どき考えがぐらくするらしい。三十両持っていると云った ら、どう変るか。多分よい方に変るだろう。貧乏はしていて も、|賭突《ぱくち》の金はいかん、あれに手を出すと破滅の基になる)  重治郎は、そう考えながら、三両しかは入ってないーそれ は源次郎と自分とが、万一当麻のために、|返討《かぇりうち》にでもなった 折、,埋葬して貰うために、餓えても、武士の嗜みとして手離す, ことの出来ない金を、蒲団の下へ入れた。 (源次郎は、幸右衛門が、伏見に居ると云うので探しに行った が、いつ帰って来るだろう。幸右衛門が見つかったら、■弥助も 元右衛門も、楽をさせることが出来るだろう。全くよく仕えて くれる)  そう思いながら、寝入った。 λ自分の敷いている蒲団に人の手が触れたー)  と、■眠い頭に感じると、すぐ刀を取ろうとした。置いてある 所になかった。延びた手の二三尺向うを、人の身体がうごいて いるのを闇の中で感じた。 「弥助! 元右ッー.」  と、叫んで、何者とも知れぬ曲者へ、備えるため、身体を廉 したとき、曲者の足音が、敷居を出ようとしていた。不自由な 身体を延ばして、刀をさぐると、遠くで手に当った。 「待てっ!」  と、叫んだのと、|向背《みね》打ちに払ったのと、同時であったが、 手答えがなかつた。その代りに、 「うん」  と、息づまるようた烈しい捻きが、次の間でした。 、(曲者がやられたか、どっちかの家来が、やられたか)  重治郎は、刀を構えて、暗い中で坐ったまゝで、 「弥助っ!」  と叫んだ。あわてた足音が、入ロでしてすぐ消えた。 「元右衛門!」  二人とも、返事をしなかった。 「弥助、何をしている」  うゝんと云った|捻《うめ》きと、足で昼を蹴る音が、■聞えた。  重治郎は、次の間の方へ、いざり寄ると、燧石を打った。一 瞬の光の中に、見えたのは、弥助の悶えている姿と、元右衛門 の居ない|臥床《ねどこ》であった。 (あの金のためにーあの金を盗んでーー)  重治郎は、身体も脚も、引きずるようにして、弥助の傍へい ざり寄った。そして、手燭へ火をつけると、自分の脇差が、捨 てゝあった。弥助は、それで胸の急所を突かれていた。 .「弥助!」  重治郎は、涙を落しながら、胸を押えてやった。 「弥助! 弥助!」 .と、つfけざまに呼んだ。だが、もう|白目《しるめ》が返って、落ち入 ろうとするところだった。■        十 「どうして、そう蒼い顔をしているの」  と、女が云った。 「俺と、江戸へ行って世帯をもってくれんか。そんな気はない か」 「お前とー」  女が、うすら笑いをした。 「いやか」 「嫌でもないがi少し藪から棒だねー賭場で少しばかり、 金を貸して、一々|此方《こつち》が惚れたと思われちゃ、身体がいくつ あっても、足りむいよ」 ■「こゝにlIし元右衛門棺、懐へ手を入れて、 コニ十両あるが」  と云って見て、手にふれた財布の軽いのに、初めて気がつい た。 「三十両! 豪気だね。それだけの甲斐性があれば、物は相談 だが、どれお見せ」  元右衛門は、とり出した紙包の薄いのに、 「おや」と、つぶやいた。 「それが、三十両! 五両もは入っていないじゃないの」と、 女は笑って、 「わしはお前さんの、|初心《うぶ》な所が好きだが、惚れるとか夫婦に なるとか、それは別だよ。1こんな所にいる女が、一寸のこ とで、惚れたり、夫婦になったりしちゃ、商売にならないじゃ ないのL  と、つfけて云った。  元右衛門は、蒼くなっていた。 (三十両と云ったのに、高々二三両しかは入っていないのは?)  そして、紙包の裏を返すと、「回向料」と書いてあった。 (しまった)  元右衛門は、|腸《ちよう》がねじれるような気がした。 (どうして、三十両などと、嘘をついたのだろうi弥助が、 組みついて来たので、手に持っていた脇差で突いたが1何う したか、死んで呉れなけりゃいゝが。俺は、】体何をしたと云 うのだ。1この女は惚れていたいし)  元右衛門は、 「酒十.」  と、云った。そして、紙包の封を破った。 「少しどうかしているのね」  と、女が云った。 「だまっていてくれ!」 「夫婦にならんと云うと、もうそう邪樫なの〜」 「うるさい! 酒を! 酒を!」  元右衛門はどなった。        十一 コ兀右衛門!」  振向くと、伴を四五人連れた立派な武士が、 「久しぶりだのう!」  と、云った。見たような顔だと思って、考えて見ると、岡山 の城下でいく度か、見かけたこ之のある|当麻《たいま》三郎右衛門だっ た。  元右衛門が、当麻だと気がついたときには、向うの家来に、 ぐるヶと、囲まれていた。 「林兄弟はどこにいる?」  当麻は、じっとにらみつけた。 「   」 「匿すと命がないぞ!」 「えゝ」  元右衛門は、まだ兄弟にいくらか好意が残っていた。 「在り|体《てい》に云え! 云えば、礼金を出す」  当麻はつfけて云った。 (金! 三十両あれば、あの女に軽蔑されなくってもすむ。林 兄弟には人非人のように、思われているんだ。どうせ思われつ いでに、鬼とも蛇とも思われてやろうか)  当麻は、しばらくだまって考えていたが、■微笑しながら、 「手引しろ。首尾よく兄弟を討ちとったら、三十両遣わすぞ」 コニ十両!」 「やるか」 「やりましょう」 元右衛門は、ふるえながら云った。  その晩、元右衛門は、当麻達に、取り巻かれて前の主人の家 の方へ歩かせられながら、心の中で思った。 (どうして、俺はこんなひどい悪人になってしまったんだろ う。別に、おれは特別悪人に生れついたとは思えないんだが、 なぜ俺がこんた大それた男になったんだろう。敵討、貧乏、 女、|賭変《ぼくち》、忠義、人情、そんなものが妙に、こんぐらがってし まったんだ。そして、俺がいつの間にか、こんな悪人になって しまっているんだ。俺は悪人じゃないが)  そんなことを考えていると、歩いている自分が、自分だか他 人だか分らないような気がして来た。 仇討兄弟鑑        一 「また始めやがった!」  やらずの勘兵衛が眩いた。 「だんノ\、|彼等《あいつら》、仲が悪くなりますな。親方」  勘兵衛は、|祖衣《どてら》の前から、揮を見せて、あぐらに坐っていた が、 「兄弟のどちらの申分にも一応の理窟があるから、仲裁も出来 ねぇや。俺達やくざ仲間なら、討つか討たぬか、すぐ|定《ぎま》ってし まうが、侍仲間じゃ、またそれ相当の義理も道理もあるからの う」  一人の子分は、膝小僧を、丸むきにして坐っていたが、 「俺は、源さんの云い分が、尤もと思う。俺なら、サッサと兄 弟分の盃を|返《けぇ》しちゃって、兄貴と別れてしまうが……」 「盃を返したって、血がつながっていらあ!L 「|手前《てめぇ》まで、理窟を抜かすようになったな。景気が悪いと、と かく人間ってものは、愚痴っぽくなるーどうも、そうらし い」  勘兵衛と、五六人の子分達が、世間話をしている次ぎの間 で、進藤|甲吾《こうご》と弟源吾とは、何か口論をしていた。進藤兄弟        Uもつぎ 力たき は、去年享保二年霜月、敵を尋ねて江戸を立って、三度目の東 海道を下って来る途中、兄0甲吾がこの沼津宿で病み着くと同 時に、路銀が絶えたので、駿州切っての貸元、やらずの勘兵衛 の家に厄介になっていた。今は、九月の終りだから、もうすぐ 一年になる。 「然しー考えて見ると1敵討なんてものは、嫌なもんだの う。居ると|定《 ぎ》まった三島へ女郎買いに行ったって……」 「ようく|手前《てめぇ》のは、そこらあたりの飯盛女郎じゃないか」 「飯盛女郎なら、向うから飛び出して来て、ひっばり込むが、 |敵《かたき》って奴は、どこに潜っているか、大川で|泥鱈《どじよう》を掬っているよ うなもんだからのう。源吾が、飽きてしまったのは、無理はね ぇや。何しろ丸七年になると云うからのう」 「足かけ八年じゃ」 「それに、源吾は十字町に新いろが出来たと云うじゃないか。 一寸、沼津は離れられめい! 溢う! 甲吾さんが、怒鳴った ぜ!」 「|腸《はらわた》が腐ったかって、夏のさんまだ1親方、止めねえと、 切り合いが始まりそうだぜ」  二人の話を、腕組して、耳を立てゝ聴いていた勘兵衛は、 「それ程の、無分別でもあるまいさ」と、云って、 「そろく灯を入れて、・お開帳の支度をしろ」と、命じた。        二  弟の源吾は、姿までが|遊人風《あそぴにん》になっていた。|髪《もとどり》の銀杏がだ んノ\小さくなっていた。膝を|懐《だ》いて、柱にもたれながら、少 しばかり蒼ざめた顔をして、唇に微笑を浮べていた。 「この家を出ると云うなら、出るのもいゝが、これから先どう して旅をするかー路銀の用意なしに、三年かゝるか五年かゝ るか分らない旅に……」 「先の事を考えていて事が、成就するか?」 「然し先の事を考えずに妄動したのでは……」 「こゝへ世話になるときだって、路銀が尽き、わしが病み付い ていた。だが、どうにか道が開けた。この先だって、我々の決 心さえ堅ければ必ず道は開ける……」 「|当《あて》になるものか、だんく世の中が、せち辛くなって来てい る。延宝元禄頃までは、敵討の浪人など云うものは、世間から もてはやされた。だが、敵討ばやりの近頃では、もう鼻もひっ かけてくれない。一宿一飯の|合力《ごうりよく》だって、容易にしてくれるも のではない。五十両、百両とまとまった路銀がなしに、どうし て敵討の旅などに出られるものか」 「じゃ、貴様は此の土地で、一生遊人で終る所存か」 「まあ、そう|定《き》めたわけではないが」  源吾は、青い剃りあとの顎を撫でて、ニャリと笑った。 「この浅ましい奴等と……」 申吾は、さすがに次ぎの間の人々を気兼して低い声で云っ た。 「それが違っているんだ」源吾が、大声で云いつ間けた。「そ りゃ、世間が何も知らねえで、この仲間を見ての話だ。兄さ ん、武士は相身互だなどと云うが、武士がこの仲間ほど、義理 が堅いですか。故郷の親類朋輩が、われ等敵討の旅に出て以 来、どれほど路銀の合力をしてくれましたP 一昨年の暮の手 紙には、返事さえよこさなかった。あの薄情さを、この連中の 親切に比べると……」 「さあ。その親切だ、こう云う連中の親切を甘んじて、いつま でも受げ居られるか。その親切に馴れて、お前のように、平気 で飲み食いし、ばくちの仲間入りまですると云うことが、武士 のする事と思うか……」 「なるほど、侍の建前から云えば、そうかも知れぬ。しかし、 侍の生き方だけが、人間らしい暮し方だとは云えんからな!」  「何!」  「又、怒る! 怒らずに話して下さい!」  「お前のように、魂の腐った奴と怒らずに話が出来るか!」  「今度は、 |腸《はらわた》から魂になった。どちらでもいゝがiしか し、また敵討の旅に出て、無駄な苦しみをするよりか、こゝの 客分でいて、しずかに時節を待っている方が……」源吾は、脚 を延して、両手を、|後方《うしろ》に突いてから、「理窟は抜きにし て、のう、兄さん。|敵《かたき》が、江戸の方にいるかも知れないに、|上 方《かみがた》へ上るのは、馬鹿々々しいし、敵が上方にいるかも知れない のに、江戸へ下るのは馬鹿々々しいし、日本国中当のない旅 をするよりか、こゝは、海道筋だし、こゝにこうしている方 が、下らない苦労をするよりか、いくら捌巧だか分らない。人 間の運って……」 .「馬鹿! そんな心で|敵《かたき》が討てるか。草を分けてもと云う心で なければーそう云う精神で次ければ、敵に巡ぐり合うことが 出来るものか。四五年前まではわしを引き擦るようにして、諸 国を廻ったその方が、そこまで成り下ったか」  甲吾は、憤りと、悲しみと憐みとを混じえた口調で、こう 云って、 「ぜひもない、わしは一人で敵を探して歩く。これで、もう逢 えぬかも知れぬぞ」  源吾は、だまって眼を閉じていた。 「お前の心が、そう、変改していれば、たとい連れて行っても 役には立つまい。却って、手足まといじゃ。一両日の|中《うち》に、暇 乞いして旅に出よう」  甲吾は、こう云ったものの、立たなかった。源吾も立たな かった。 「客人が、ござったぞ!」  勘兵衛の怒鳴る声がした。 「一つ、兄上への饅別の金でも、かせぐか」  と云って源吾が立ち上った。甲吾は、じろっと睨みつけた が、だまって動かたかった。        三  若い妾の酌で、朝酒を飲んでいた勘兵衛が、 「止めやしねえが、'ー1日本国中広いからのう、甲吾さん」 と、云った。 「親方、兄は一徹者ですから」  と、源吾が云った。 「侍は、一徹がいゝんだ。それでなきゃ、いかんがー1蔚駒、 そこの仏壇の下の|欝金《うこん》の……」 .妾が、立って、仏壇の下の引出しから、金財布を出して来 た。 「ホンの草鮭銭だ」  勘兵衛が、いくらかの紙包みを投げ出した。甲吾はそれを押 し頂いてから、勘兵衛の膳の横に、さし出した。 「何から何まで、ありがとう存じますが、これは一度頂いたこ とにして、どうぞお収めを……」  と、お辞儀をした。 「気に入らねえのかい2」 「いや、決して」 「じゃお持ちかい、懐に?」 「別に」 「じゃ、どうして収めねえんだ」 「御立腹なさるかも知れませぬが、手前御当家の家業が、何と 致しましても、性に合いませぬ上、永々のーそれも一方なら ぬお世話、それに対して万一の御恩返しも致さず、勝手に退転 致します段、心に管めて居ります上に、弟を訓戒いたしました 節、さまぐ御家業の事を、あしざまに申しましたーかたが た、,このお金を頂戴致しましては、人間の冥利に尽きまする」 「固すぎらあ。四五臼して、|飢死《うぇじに》してもいゝんですか」 「いや、武運に尽きれば、それも覚悟しています」 「親方、およしなせえ、現在の弟からの銭別さえ受けねえんで すから」 ,と、源吾が云った。 「いや、わしの出す金と、お前さんの出す金とは別だ。なあ、 甲吾さん、この勘兵衛が頼むから持って行ってくれないか。え え、頼むから、そう片意地張らずに」  甲吾は|傭《うつむ》いた。眼に涙をためているらしかった。ー .「旅をするのに、お金は何よかも先に立つものですわーね、 進藤さん、持っていらっしゃい」  と、妾が、そう云いながら、紙包みを甲吾の膝の上に置い た。 「はい」  甲吾は、低くつぶやくように云った。 「兄さんーだから、俺こゝにいて、万一の時にゃ、親方のた めに、棄てたいんだ。侍の義理もあろヶが、こう云う人間同志 の義理もあるからな。わしには、こう云う方が早判りがするん だ」  源吾は、一徹な兄に、ほのかな尊敬と、ほのかな憎みとを感 じていた。 四 (兄は、どうしているだろう。 勘兵衛親方から、三十両貰って 行ったが、今月でもう十ヵ月になる。いくら、つましい兄だっ て、もうそろく路銀の無くなる頃だがー1)  源吾は、備前屋の二階で、抱えのお|染《そめ》の部屋で、お染が先き へ起きた後で、ぼんやり天井を眺めながら、考えていた。一枚 開いている雨戸から、朝の光が、室内に流れこんでいた。  兄のことを考えると、胸が少しく苦しくなるが、しかし勘兵 衛の身内では、だんく箔がついて来ていた。去年の三島在の 喧嘩で、腕を振るってから、名実共に兄貴と立てられていた。一 勘兵衛から、右の腕と頼まれて、信任が増していたし、小使銭 には不自由しなかったし、お染からは|間夫《まぶ》扱いにされるし、好 きな酒は飲めるしl1侍奉公などは、二度とすベきものでない ように、遊人の世界に安住していた。  (|敵《かたき》、敵ってil大体、相手の|石渡《いしわたり》だって、意趣遺恨で父を 斬ったのでなし、武士の意地からの果し合いで、斬る斬られる の|二道《ふたみち》で、斬られた方が不運だったのだ1斬った石渡だって ,禄には離れるし、日本中逃げ廻って苦労しているだろうし、 ーそれを|此方《こつち》も苦労して殺しに行く必要が、どこにあるーー 尤も、兄は敵を討てば加増にもなるだろうし、好きな|宮武《みやたけ》の鴬 |妙《たぇ》さんと夫婦になれるし……だが、俺は敵討の|御相伴《おしようぱん》をさせら れた後で、また窮屈な部屋住じゃ……)  源吾は、やはり兄について行かなかった云い訳を、頭の中 で、いろく考えていた。  「源さん。起きなさいよ。もう四つ半だぜ」  お染が下から上って来て、源吾の枕元で立膝で坐ると長ぎせ るで、煙草をすいつけて腹這いになった源吾にわたした。宿場 女郎にしては、細面の姫ぬけのした顔をしていた。  「いけすかない。|昨夜《ゆうべ》は、ぐうノ\ねちゃってさ」  「|一昨日《おととい》、夜っぴて賭場があったものだから」  源吾は、|睡《ヨ》そうな|生《なま》あくびをすると、ぐるりと身を廻して、 上半身を起した。 「どうだか。どこか、外へ行って御機嫌をとるから、わしの所 へ来ると、そうねむがってばかりいるんだろう」 「馬鹿な!」  源吾が、そう云って立ち上ろうとしていると、階段の所に、 女中が顔を出した。 「源さん。三太さんが、下へ来ていますぜ」 ■「三太! 何しに来た」 「一寸急用ですって」 「じゃ、舷へ通してくれ」 ・女中が降りて行くと、とんくと云う元気な足音がして、三 太の特別小さい銀杏にゆった頭が、階段に現われた。 「兄貴、親方が急用だぜ!」 「そうか、すぐ帰ると云ってくれ」 「兄貴、お楽しみの所をすまんな」三太が、ひやかした。 「何を云いやがる!」  源吾は、お染の着せる黄八丈の袷に手を通すと、枕元の脇差 を取り上げた。 「今度はいつ!」  お染が声をかけるのを、きゝ流して、階段を馳け下りた。        五  源吾が、勘兵衛の居間に、は入ろうとすると、襖の所に立っ ていた子分が、手で止めた。そして、源吾の代りに、 「親方!」  と、襖の中へ呼びかけた。返事がなしに、襖が開くと、勘兵 衛が出て、 「こっちへ1|一寸《ちよつと》」  と、小声で云って、源吾をそこの廊下の片隅へ連れて行っ た。 「お前の藩は、蜂須賀様だったのう」 「そう」 「|敵《かたき》の名は」 「石渡弥三郎」 「うむ。似たような名だ、石堂弥太郎と云っているが」 「誰が」 「今わしと話している旅人だが」 「|容子《ようす》は」 「四十五六で、眉のうすい。こゝに疵のある」  と、勘兵衛は、小びんの所へ手をやった。源吾は、じっと勘 兵衛の眼を見ながら、 「それらしい」 「どうする〜」 「さあ!」.  源吾は、ちらっーと淋しい原の中を、ひとりでさまよって いる兄の姿が、眼の前にうかんだ。 (大して憎くはないが、みすノ\来たものを看逃しては、勘 兵衛身内の批判もあろう。とにかく対面した上で、討つか討た ぬか|定《き》めよう)と、思った。 「親方、とにかく会おう」 「そうかい! 気をつけてのうi腰の物はP」  源吾は、もう二年近くも偲用したことのない、|天正祐定《てんしようすけさだ》の大 刀をとりに、自分の部屋へ行った。        六 「おゝっ!」  と、しばらく源吾の顔を、みつめていた石渡が、こうつぶや くと、刀をとって立ち上った。 「騒ぐない」  源吾は坐ったまゝで叫んだ。 「勝負しよう。尋常の勝負」  石渡は、源吾が、この|家《や》の身内だと知ると、落着を失って、 あせっていた。 「兄は、どうした。一しょにかゝれ!」  源吾は微笑して、 「命は惜しくないのか」と、云った。 「それは、|此方《こつち》で云うことだ」 「何っ!」 「父もろとも、冥土へやってくれる。父子久々の対面せい!」 「うろたえるな。家の中で、斬り合えるか、庭へ降りろ」 「よし」  石渡は、源吾の方を注意して、じりノ、庭へ降りながら、         こもつ 「勘兵衛殿。只今、此奴を討ちとって拙者の腕前を、御覧に入 れる。甲州の仙吉の添書が、偽かどうかお試し下されい!」  と云った。  源吾は、石渡も、きっと逃げ廻っている|裡《うち》に、悲惨な姿をし ているだろうと考えていたのに引きかえ、少し古ぼけてはいる が羽二重の黒紋附の揃いを着ているので、 (自分達兄弟の苦労に引きかえ、|此奴《こいつ》うまくやっていたのだ な)  と、思うと急に憎みが起って来たのと、甲州の黒駒の仙吉 の添書を以て、こゝの用心棒を志願して来たのだと思うと、急 に敵撫心がこみ上げて来た。 .「小伜、少しは上達したかマ」  庭へ降りた石渡が、たすきをかけながら云った。源吾は、そ れに答えず、子分の渡した手拭で鉢巻をすると、庭へ飛び降り た。子分が、奥の間一杯に集って来た。 「お前達、源が、足腰の立つ内は、手だしはならんぞ。お前達 の助太刀で、敵を討ったんじゃ、武士がすたる。石渡さん、 源! お役人衆を呼びますぜ。討っても討たれても立派な敵討 だ。ようがすかい!」  二人はうなずいた。 「源、しっかりやれ。お前の息の通っている内は、助太刀はな いぞ。お前がやられた後で、子分が仕返しをすると云いや、こ れまた別だ」  勘兵衛の言葉が、暗々の裡に、相手をおびやかした。  刀を抜いた石渡は、星眼につけながら、 「甲吾はどうした」と云った。 「兄は居らぬ」 「死んだか」 「うるさい! 来い!」  源吾は、相星眼につけると、二三年来眠っていた武士の魂 が、勃々としてよみがぇって来た。        七 「兄貴滑るぜ」 「おっと、株があるぞ」  子分達は、源吾に味方した。 「黙っていろ!」  勘兵衛が叱った。  源吾は、 (何処で修業したのだろう。聞いたよりは出来る。油断なら ん)  ちらく、頭の中でこんな考が閃いた。石渡も源吾も|蒼白《まつさお》 になっていた。石渡は、年のせいか汗が額際に出ていた。 「えい。えゝいっ!」  源吾が、必死の|突《つき》に行ったとき、石渡はかわそうとして、そ こにあった庭石に左側がからむと、つーと滑った。 「待てっ!」  左手で防ぎながら、絶叫した。 「卑怯だ1」 「卑怯だ! そんな法があるか」  と、子分が叫んだとき、源吾は刀を引いて、大きく肩で一息 しながら、 「立て!」  と、云った。石渡は、左で刀を構えながら、立ち上った。 「あわてるな!」  源吾が低くつぶやいた。・ 「さあ」 「岩」  また二人の刀が合った。 「兄貴しっかり」  と、一人の子分が叫んだとき、石渡が、. 「おうっ!」  と、絶叫して突いて来た。源吾は首を右に避けながら、一足 |退《すさ》ったはずみ、苔のはえているジメノ\した土に、足をすべら して、よろめくと、右膝をついた。 「あっ!」 「兄貴!」・  子分達が、うめいた瞬間、石渡が振りかぶって、 「えゝいつ手・」  と、真向から斬りおろそうとした。 「卑怯だ!」 「|先刻《さつき》待って貰ったのを忘れたか1」 -気の早い子分が、二三人縁側から飛び降りた刹那だった。右 膝をつきながら、源吾が、横に払った捨身の一刀-ー石渡は、 振上げた刀から左手を離すと、顔を歪めた。 「胴あり!」  源吾は、坤くように叫んで、立ち上ると八相に構えた。そし て石渡の容子を、じっとみつめていた。石渡は、苦痛に眼を閉 じると、立木へよろめきかゝって、右手の刀を地に突くと→そ れによりかゝろうとして、崩れて倒れてしまった。        八 「神仏の冥加と申すものじゃ」  と、役人は盃を手にして云った。 「全く、こゝへ、のこのこやって参るなんて」  勘兵衛が、合槌を打った。 「帰藩なされたら、御加増の沙汰もあろう。何さま、躰めでた い!」  と、役人は杯をのみほした。  白い布に包んだ首が、仏壇の前の机に置いてあった。仏壇に は、|灯《あかり》がゆらいでいた。  源吾は、|身体《からだ》の中から、何かf抜け出して行ったように、物 足りなさがあった。 (兄をさし置いて自分が討つべきではなかったのだ。あの熱心 な兄をさし置いて、自分が敵を討つなどーこれで、兄はどう すればいゝのか。兄が半生の目的を、自分が横合から奪ったよ うなものだ)  と思うと、兄に対する心苦しさ、兄の立場を無くさせた悲し さがーだが、入々に|称《ほ》められると、嬉しくもあった。 「|明日《あナ》にも、国許へ戻って、一つ、その親類や朋輩の奴等に威 張ってやりなせえ。姿、形は、遊人に落しても武士の魂は|易《か》え ないと云うところをー」  と、勘兵衛が云った。 「いや、遊人は顔が広いし、舷は街道筋だし、舷に網を張って ござれば、たいていの鳥はひっかゝるというものじゃーい や、武士の身分を町人に落すのは、なかく容易でござらぬ、 よく御決心なされましたのう。|髪《たぶさ》の先をつめるのさえ、中々勘 考するのに」  と、役人が高声に笑って、 「勘兵衛殿も、これで男が一段と上ったぞ」 「お蔭さまで」  源吾は、思いがけなく来た偶然と、訳もなく只|称《ぬ》める人々の 言葉に対して、軽い反感さえ起っていた。 「首だけ、国へ送って、わしゃ舷に居りますぜ。親方」 「何を云うんだ。源吾さん! 国へ戻って、殿様にお目見得し て、立派な武士になって親類達の前で大手を振って来て……そ れから、武士が、いやになって、又来るなら来るでよいが、と のまゝ遊人にして置いては、わしが世間からわるく云われる よ。それに、こんな門口に一杯の人だかりでは、場が立てられ ねえではないか、1おっと、これはお役人さまの前でとんだ 事を」  ^  勘兵衛は、口を押えて、役人へお|叩頭《じぎ》をした。 「掴へ戻らんなどと、進藤|氏《うじ》、それは竜を描いて|購《め》を入れぬよ うなものじゃ。|敵《がたぎ》を討って、故郷へ錦を飾るなど、武士に生血 た一代の面目ではござらぬか。主家の名誉にもなり、吾身の出 世にもなる。|明日《あす》にも早々お立ちなさったがよい」  源吾は、だまって国のことを考えていた。吉野川に添うてい るしずかな城下町や、生家のある五番丁の土塀のつ寸いた|士《さむらい》 屋敷の町並が、頭にうかんだ。自分の家にある|杏《すもと》の樹が、もう 花を開いているだろうと思った。 .(戻って行ったら、もう人々が忘れかけている時分だけに、驚 くであろう。だが、自分が国へ帰って家督を相続すると、兄 は,.どこに、兄の立つ瀬があるか、自分が敵を討って帰国し て、首尾よく家督をついだとすると、兄はーあの一徹な正し い兄は、一体どうするだろう)  と、思うと、頭の中が、暗くなる思いがした。        九 ■帰国すると、遠縁に当る家老|伊木但馬《いきたじま》に、君前への披露を頼 みに行った。源吾を待たして置いて、登城した但馬は、上機嫌 で帰って来た。 「上々吉の首尾だったぞ。噂は、とうにお耳には入っているの で、いつ戻るかいつ戻るかと、心待ちに待って居られたよう じゃ。|明日《あす》、同道登城せよとの御沙汰じゃ。五十石か百石かの 御加増は、|定《じよう》じゃぞ。この頃、諸侯方が、柳営で落ち合う之、 御家中での敵討の御自慢をなさるそうじゃが、御当家では延宝 三年以来敵を討ったものがないので、お|上《かみ》も御自慢の種がな かったのじゃ。これで、立派に御自慢の種が出来たわけで、え らい御機嫌だぞ。■場所は街道筋の沼津だし、武士が遊人に身を 落して、敵を狙ったと云うので、えらい評判じゃ。お前の帰る 半月も前から当地へも聞えていたぞ。八年の間、よく辛苦致し たのう」 「恐れ入ります」  源吾は、家老の云う言葉を否定するわけには行かなかった が、このほめ言葉も、あらゆる栄誉も自分が受けるべきもので なくして、どっかの野の末をさまよっている兄に相当するもの だと思うと源吾は、暗い淋しい気がした。 「甲吾は、何とした」 「兄は……」 「一緒でなかったのか」 「別々に手を別けて探しておりまして、手前運よく廻り合いま したので」 「そうか、それは運不運で止むを得ない。甲吾が帰れば、何分 の沙汰をするとして、とにかく敵を討取ったその方へ家督を 仰せつけられるとのお沙汰であったぞ。甲吾が、帰れば特別に 何とか御沙汰があろうぞ」  だが、兄は帰って来るだろうか。帰ってくれゝば、自分が申 し出でて家督を兄に譲ることだって出来るのだが、あの一徹の 兄が、自分と争った意地からでも、帰って来るだろうかと思う と、源吾は憂欝になった。  その晩、伊木但馬は、源吾のために親類朋輩を|蒐《あつ》めて、祝宴 を張ってくれた。しかし、源吾は仇討の苦心談を、いろノ\に 訊かれても、何もしゃべらなかった。       十  |先知《せんち》、百石に百石を加えて、二百石下しおかれると云う御沙 汰に、新に屋敷まで賜って、源吾は上々の首尾だった。源吾 は、わるい気持は、しなかった。むかしー薄情だった親類朋輩 も、みんなペコくしたし、城下を歩くと、町人百姓が、一斉 に振り向くし、源吾はやっばり、国へ帰って来て、よかったと 思った。  だが、夜中にふと目がさめると、兄のことが気になった。■ (もう、敵を討って半年近くなる。兄の耳には入っていたいこ とはないだろう。自分に書状でもよこして、相談してくれると いゝんだが)  と、思った。だが、一徹の兄の性質を考えると、暗い心に なった。 (兄だって、お妙さんのことも気になるだろう。お妙さんも、■ 自分より二つ下だから、二十六だ。あの人も、貞節を守って兄 を待っているんだが。しかし、兄が今帰って来ると、家中の人 人は、兄の志を汲まないで、兄を悪評するに違いないlそう 云うことを考えると、兄も帰りにくいのだろうが) ,源吾は、そう思うと、世の中と云うものが、1世の中に行 われる事件に対する批判が、どんなに馬鹿々々しいかと云うこ .とが分った。 (あんなに、武士の道を守って、敵討に精進した兄が、故郷に も帰れぬような悲惨な境遇に落ち、偶然石渡の顔を見るまで は、敵討のことなどは、夢にも思わなかった自分が、こんな栄 誉を受けるなんて、人間のすることなどはと思ったがiしか し、神さまと云うものがあったとしたら、正当な批判を下すの だろうが、しかし神さまも、ありそうにない。神さまがあった ら、石渡は兄に討たせるように導く筈なのだが)  そんな風に考えて来ると、源吾は暗澹とした。■  源吾が帰ってから、一年近くなる頃だった。ある日、伊木但 馬が、城中で、源吾を片隅へ呼んだ。 「源吾、お前はお妙どのと、甲吾が許婚になっていたのを存じ ているか」 「存じています」 「もう、お妙どのも今年は二十七じゃが、甲吾に貞節を立て て、また縁づかずにいるが、どうじゃ。もう甲吾は、国へ戻っ て来ぬと思うが、騎前の考えはっ・・」 「さあ!」 「もう、今までに帰らなければ、お前に敵を討たれて、面目な いと思って、帰れないのであろう」  源吾は、だまっていた。 「それで、親類中、よりく相談したのじゃが、どうじゃお妙 どのの貞節をめでて、兄の代りにお前が齢妙どのを貰ってはく れないか。少し、年を取りすぎていて気の毒じゃが、知っての 通り、器量よしだし:…1」  源吾は、だまっている|裡《うち》に、だんく顔色が蒼くなった。 「その儀は、平におゆるしなされませ。兄をさし置いて、敵を 討ち家督をつぎましたことさえ、心苦しく思っていますのに、 兄の許婚のお妙どのを、妻に致しましては、兄に対して面目が ございませぬ」  源吾は、思い切って答えた。       十一  初夏の日の、暮れて間もない頃だった。  源吾が、庭で自分で打水をしていると、近所に住んでいる同 じ馬廻りの佐竹が、庭から廻って来た。 「源吾、甲吾が帰国していると云う噂だぞ」 「兄がっ・・」  源吾は、騎どろいて立ちすくんだ。 「いつ! 何処に!」 「藤田は、お前達の昔の五番丁の屋敷の前で、甲吾らしい男を ちらっと見かけたと云うし、わしの家の佐平は、今|真行寺《しんぎようじ》の門 の所であった武士の|後姿《らしるすがた》が、どうしても甲吾様だと申すのだ がil」 ,「真行寺!」源吾の持っていたひしゃくが、そこへ投げられて いた。  それは、源吾の家の菩提寺だった。 「真行寺へは入ったのか」 「は入つたらしい」 「腰の物!」  源吾は、佐竹に答えないでどなった。女中があわてゝ腰の物 を持って来た。 「御免!」  佐竹に、そう言葉をかけると、庭草履のまゝで、そこの柴折 戸に立ちふさがっている佐竹を押しのけると、佐竹のは入って 来た裏口から、狂気のようにかけ出した。    武運|拙《つたな》きを|糖《は》じ割腹致すもの也      享保四年五月                   進藤甲吾|兼道《かねみち》  進藤家先祖代々の墓石の並んでいる前の広場に、見事に切腹 している兄の、懐中から出た遺書を見ると、源吾はまたわーっ と泣いた。 (兄さん、すまん。わしが、石渡を討つのではなかったのだ。 わしが、兄さんの一生の目的を奪ってしまったのだ。遊人に なっていたわしが、敵を討つなんて、いらぬおせっかいだった のだ。兄さんハすまん! すまん!)寺男がさし出している提, 灯の暗い光の中で、源吾は人目も擁じずに、男泣きに泣きつど けていた。  源吾が、父、兄、及び石渡の菩提のための廻国修業と称し て、徳島を逐電したのは、その年の秋だった。だが、彼は出家 したのではなかった。後年、やらずの勘兵衛の二代目をつい で、海道筋に侠名をはせた大親分は、武士を捨てた源吾の変る 姿だったと伝えられている。 .敵討順逆かまわず        一  御倹約令について、城代家老|立見《たちみ》左膳の家で、集りのある夜 であった。  |相楽《さがら》半之丞が、家中の者の集っている大広間へは入ろうとし たとき、玄関番の仲間が、後を追って来て、 「お供町お返しいたしますか、お待たせになりますか」 と、訊いた。多勢の集りだったので、五+畳敷に近い部屋 も、煙草の煙と人いきれとで、一杯だったし、玄関脇の供待部 屋も、ぽ入れ切れなかった。半之丞は、襖を開けて半分|身体《からだ》を 入れながち振り返って、 「帰れと申し伝えて貰いたい」 と、云った。そして、一足足を踏み出した時、すぐ足の|下《もと》に 坐っていた|三角《みすみ》市郎右衛門の刀へ|蹟《つまず》いた。刀は、鍔でころく と、一尺ばかり転った。三角は鋭く見上げながら、転って行く 刀を押えた。 「これは、御無礼」  半之丞が、小腰をか間めて謝罪したとき、主人の|立見《たちみ》が、 「相楽遅かったな。こゝへくるがいゝ」 と、遠くから声をかけた。今日の肝煎役で、殿からの倹約令 についての答申書の草稿をかゝせてあった相楽を、立見は待っ ていたのである。■ 「下書がおそくなりまして」 「こゝへ来るがいゝ」  相楽は、.|三角《みすみ》にもっと謝罪して、三角の返事も聴きたかった のであるが、|傍《モぱ》に人が沢山居るし、通り道に刀を置いていた向 うもいけないし、それに三角とは割合懇意の中であるし、|此方《こつち》 が悪意のない過失であることを充分認めていてくれるだろうと 思ったし、-第一気が急いていたので、そのまゝ立見の傍へ 行うた。  すると、三角のすぐ傍に坐っていた工藤|求女《もとめ》が、相楽の後姿 を睨みながら、 「無礼者が」と、可なり高い声で叫んだが、すぐ|三角《みすみ》の方を振 り返って、 「三角、こんな恥辱を受けながらハなぜもっと謝罪させぬ」  と、云った。三角は(工藤が、今年の正月、御前での競射 で、相楽に惨敗して以来、相楽を恨んでいるのを知っていた。■ 相楽への反感から、事を荒立てようとしているのだと思うと、 可なり不愉快だったので、 「いや、場所がわるい、こんな席で荒立てゝはいかん」 「それは判っているが、事による。武士の魂を足蹴にされて  …」  と、云った時、立見が、 「それでは、相楽の認めて参った|下書《したがぎ》をよんでから、銘々の御 意見を聴いて、書き加えることに致そう」  と、云った。一座は、静かになった。立見が奉書の紙を開いた。        二  相談が、終って人々は退出しかけた。|相楽《さがら》が、人々の後から 続いて行くと、 「相楽|氏《うじ》、一寸!」  」人が、声をかけたーふり返ゐと、工藤、山路、吉岡、それ に|三角《みすみ》が、やゝ蒼白な顔をして、立っていた。 「騎ゝ」 「話がある。暫く残っていて貰いたい」  山路が云った。三角以外は、皆相楽と伸が悪かった。俺に反 感を持っている連中が集って、自角をけしか甘ているのだと思 うと、相楽は三角が気の毒になった。 「何か御用?」 「後で話す」  三角が、 「とにかく外へ出よう。長居をしては、舷の迷惑になる」 「それがいゝ」 ■三角と相楽を取り巻くようにして、みんなは外へ出た。そこ は、]一の丸の|堀濠《まり》だつた。もう人々の姿は無べ、提灯だけが、 遠くに見えているだけだった。 「どう云う話だ」■  相楽は、相手を促した。 「相楽、貴公は立見に覚えのいゝのをよい事にして、あまり無 礼な態度ではないか」  と、工藤が云った。 「何が?」 「三角の刀を足蹴にしておいて、これは御無礼で済むか」と、 工藤が云つた。 「両手を突いて謝るべきところだ」山路が云った。 「三角も又、意気地のない。刀を足蹴にされて黙っているとは 臆病な!」 「相楽、地上へ両手を突いて謝るがいゝ。三角が腰抜けでも、 我々が承知出来ん」  ロ早に左右から詰めよった。三角は、|気色《けしぽ》ばんで工藤達に   云った。                      ぞうごん   「意気地なしとか、臆病とか何を雑言する」   「雑言ではない。口惜しければ、相楽に手を突いて謝らせたが   よい」    三角は、皆を押しのけて相楽に向った。   「相楽氏、行きがかり上、是非に及ばん。手を突いて謝られる/   か」    と云った。   「いや、それはならぬ」   「じゃ、拙者の面目をどうしてくれる」   「足蹴にしたのは・拙者の不覚だが・足蹴にされるような所ヘ   置いた貴公も、不覚でないとは云えぬ」    工藤が、   「相楽、曲言するな」    と、云うと、三角が、   「ぜひに及ばぬ、刀にかけて謝らすぞ」    と、一足引いた。   「そうか。貴殿に何の意趣もないが、止むを得ぬ」相楽も、少   し離れた。他の三人が、   「よし武士らしくやるがい八俺達が見届けてやる」    と、叫んだ。|後《おく》れて、立見の|邸《やしき》から出て来た二三人が、二人   の身構えを見て、   「何うしたっ-・」    と、云って寄って来た。   「訳は後で話す。|退《ひ》かれん意地だ。邪魔をするな」    と、工藤が云った。   「三角、やめろ! 相楽を相手にして勝てるか!」と、その人 が云つた。 .「そう云われて、|退《しりぞ》く三角ではないぞ。相楽氏来られい」  そう云って、■三角は刀を抜いた。        三  相楽は、三角を切り伏せると、すぐ見物していた工藤達の方 へ向いて、 「貴公等、三角を|後立《うしろだて》して、我等に向わせたからは、よもこの ま、【では済まされまい。かゝって来られい! いざ」と、云っ た。 相楽の太刀先の鋭さに、|後込《しりご》みして、三入ともだまっていた。  相楽は、 「朋輩に意地は、立てさせても、御自分の意地は立てなくてよ いのか」  と、せゝら笑いながら、刀を鞘に収めると、ぬいでいた草履 をはいて、静にその場を去った。  相楽は、その足で、立見の邸へ来た。 「武門の意地ならば是非もないが」  と、立見は話を聴くと、考え込んでいた。 相楽ば、 「喧嘩両成敗と申します上は、潔く淀通り、御処置を受けま しょう」 ■と、云ったが、立見は殺すには惜しい武士だと、なお考え込 んでいた。 「それとも、切腹致しましょうか」  と、相楽が云うと、 「殿の御沙汰を待つがよい」  と、立見は答えた。翌日、立見が登城して、仔細を言上すると、 「御前の申す通り、殺したくないが、何とか考えて処置をして くれんか」 と、含蓄の多い返事であった。それで、高崎の安藤家の家老 へ|添状《そぇじよう》を書くと、相楽に云った。 「お前の気性として、こゝで逃げたくはないだろうが、殿のお |情《なさけ》ある言葉もあるし、一旦退転したらよいだろう。一命は、い っだって捨てられるのだから」  相楽は、三角の前に手を突く事だって、いやだったので、今 こうした場合に、命を惜しんで逃げるのは、いやだったが、殿 や立見の好意を、無にすることも出来なかった。  相楽は、決心した。いずれ捨てる命だから、三角の息子が、 大きくたるまで待って討たれてやろう。三角とは割合懇意だっ たし、果し合の刹那だって、自分が三角を憎んでいなかった如 く、三角だって自分を憎んでいなかった。武士の面目だけで殺 した三角の霊のために、伜の|大市郎《たいちろう》に討たれてやろう、大市郎 はたしかに十一二だろうが、もう五六年経って、元服するまで 待ってやろう。それが、三角への回向であるし、自分の死所と して一番立派だ。そう考えると、立見に云った。 「士の心すべき所は死所であります。この泰平の御世に、ご馬 前での|討死《うちじに》も、出来ますまい。私も、不本意ながら、畳の上で 死ぬことかと思っていましたが」 「|俺《わし》の云うことが分らないのか」 「いや、そう云う意味ではありません。高崎へ参って、三角の 伜大市郎の成人を待ちたいと思います」  立見は、暫くじつと相楽の顔を眺めていたが、 「うむ」  と、大きくうなずいた。 「御了察願えましたか」 「大市郎の成人を待って、討たれてやるつもりか」  ' 「はい、五六年恥を忍んで生き延びましょう。大市郎元服致し ましたならば、必ずおよこし下さいますよう。高崎に落着きま せんでしたら、江戸に居ります」 「うん。天晴れの決心じゃ。お前ならば、言葉を違えることも あるまい」 「恐れながら」  そう云うと、相楽は大刀を引き寄せて|金打《きんちよう》した。  この事は、殿へも三角の妻にも、それから勿論家中にも伝っ た。相楽に反感を持っていた人々も、称めたければならなかっ た。  そして、相楽は備前岡山を、・寛永十七年に退転した。 四  それから、七年経った。三角の伜大市郎は、十八になってい た。彼は、十六の春に元服して、家督を嗣いでいた。しかし、 十六の暮に、大病を患って以来、ぶらくしていた。一刀流の 奥村権左衛門に入門していたが、剣の方は少しも進歩しなかっ た。敵討への|出立《しゆつたつ》が、|三月《みつき》と延び半年と延びていた。  だが、三角を討った相楽の噂も、家中では、いつとなく薄ら いでいた。相楽が、高崎の安藤家で、家老の客分である裡に、 三角を討ったと云う事が、評判になり、新知百五十石で召し|出《いだ》 されたと云う噂もーいつの間にか薄らいでいた。  だから、誰も大市郎に、敵討の旅に出ろと云って、勧める人 はいなかった。たf、大市郎は始終相楽のことが気になってい た。  それは、相楽を討ちたいと云うために、気になっていたので はなく、相楽を討たなければならぬと云う事が、気になってい たのだ。 (相楽は、俺に討たれてやると云って国を出て行ったそうだ が、しかしあれから七年も経つから、どう気が変っているかも 知れないし、それにたとい気が変っていなくっても、討たれる と云うことは、尋常の立ち合をすることだから、太刀先の勝負 になると……)  大市郎は、自信がなかった。それに、|許嫁《いいなずけ》になっている|従妹《いとこ》 のお久美が、だんだん美しくなっていたし、…ー、彼はお久美 が遊びに来たときのその白い頸を見ながら、 .(敵討をしないで、結婚をするとは云い出せないし、と云って 俺のこの腕で、藩中でも屈指の腕前であρたと云う相楽に立ち 向うのは、,大冒険だしーどうして、父は相楽などと果し合い をしたのだろう)  と、恨んでいた。 (安藤の家で、だんノ\出世していると云うから、いよく俺 に討たれることなんか、いやになっているか分らないし、向う で知己も友人もだんノ\殖えているだろうから、俺の痩せ腕で 討ちに行ったのでは1…!・)  大市郎は、相楽のことを考えると、いつも憂欝になっていた。  だが、大市郎は十八歳の末、家老の立見の邸へ呼ばれた。 「病気も大方いゝのだろう」  立見は、たf背だけ、ひょろ長い大市郎を見ながら云った。 「はあ」 「のう、敵討に出ては、どうか。相楽から、わしに時候見舞の 文が来たが、宋尾に其方の|出立《しゆつたつ》を促しているような文意があっ たぞ」  そう云って、手文庫の中の手紙をとり出して、大市郎の方へ 押しやった。 二白 大市郎殿の病気は、その後いか廿なされ候や、旅行に堪える       つかわ                         まかりあb」 ほどなら、お遣し下されたく、いつにても覚悟罷在候  大市郎は、その文句を見て、少し蒼くなった。 「どうじゃ。出立したら」 「はあ!」  大市郎は、もうこの上出立を延すことは出来なかった。め でたく敵討が済んだら、騎久美と結婚出来ると云う望みに勇気 づけられて、殿から充分なお|手当《てあて》を頂戴して、敵討の|首途《かどで》につ いた。        五  立見からの消息で、大市郎が岡山を立った事を知ると、相楽 は前からの覚悟を、固めて大市郎の到着を待っていた。  彼は、三角を討ったとき、」妻に死別して間がなかったし、そ の後もどんなに勧められても妻帯しなかったので、死後の始末 も殆ど入らなかった。た間、刀好きで|蒐《あつ》めた刀類を、|知音《ちいん》に なった人々に、折にふれ、形見代りに頒けたり、道具や掛物を 出入りの者に与えたりしていた。悟淡で平素から入に厚く施し ていた上に、今度のことがあるので、,家中ではいよく評判が よくなっていた。  相楽の所へ出入りする若|武士《ざむらい》達は、相楽の覚悟を聴くと、 「何を先生、馬鹿な、返り討ちになさい。武士の誉ですしと、 云った。 「そうは、行かん。約束をした事だ」 「そんな約束などし 、いや、約東をハリキリ守るほど、武士として、立派な事はた い。いつも申す通り、意趣遺恨の果し合でなし、その場で切腹 してもよかったのを、旧主と家老との|情《なさけ》に反きがたくて、生き 延びているわけなのだ。どうぞ、お止め下さらぬように」  と、云った。誰もだまってしまった。 「武士|気質《かたぎ》の廃れて行く世0中に、昔気質の一徹な所を見せる のは、当安藤家に対しても、旧池田侯に対しても、せめてもの 御奉公と云うものではないか」  と、云って、相楽は微笑していた。  潤達な安藤|重長《しげなが》は、それを聞いて、相楽を呼んで、  一自ろよ 「快い話だ。討たれてやれ。逃げ廻って討たれた話は数多い, が、こっちから待って討たれた話は、滅多にない。これを祝わ ずして、何を祝うのだ」  と、云って、重臣達を|蒐《あつ》めて、相楽のために、訣別の宴を開 いてくれた。相楽は、酒の|半《なかば》に立って、 「討たるゝ者も、討つもげに、一睡の夢なれや。ものゝふは名 こそ惜しけれー…」  と、歌いながら、】さし舞った。  だが、大市郎は、いくら待っても高崎へ現われて来なかっ た。  相楽は、半年近く待った。そのうち、大市郎が、江戸までは 来ていると云う噂を聴いた。彼は、二日か三日かの旅である高 崎へ、なぜ出向いて来ないのか、はがゆくなって来た。彼は、 待ってじりくしているより、|此方《こちら》から江戸へ出てやろうと 思った。江戸へ行って、備前藩の藩邸で訪ねたら、大市郎の|在 処《ありカ》は、すぐ分るだろうと思った。彼は、■その由を殿に言上し て、永の|暇《いとま》を賜り、知己友人達の止めるのを振り切って、江戸 へ出たのが、|正保四《しようほう》年の暮で、時に相楽四十九歳であった。  大市郎は、江戸まで来たが、そこから高崎へ行くことが出来 なかった。何となく、心と足とが疎んでしまった。七年の裡 に、相楽の心がどうかわっているかも知れない。それに、討た れると云っても、手を挨いて首をさし伸べるわけではない。 いざと云って立ち上ると、武士としての本能から、どんな心変 りがするかも知れない。それに、腕前が違っているのだから、 どんなハズ、ミで、……そう思うと、武士の面目、郷里のこと、 許婚のこと、ほのかにおぽえている相楽の邊しい顔、そんな いろくた思いが、彼の心を暗くした。  それに、岡山藩で殿も立見も、相楽を惜しんだように、安藤 家でも、きっと相楽は相当な入望を得ているに違いない。相楽 が討たれるつもりでも、周囲にいる人達が、どんな策動をする かも知れない。  大市郎は、国からつれて来た家来の六平に、姿をかえさせ て、高崎へ、相楽の消息、評判などを聴きにやった。  六平は、十日ばかりして帰って来た。 「相楽が、|貴君《あなた》の来るのを待っていると云う評判で、たいへん でございます。相楽には、兵学の弟子が、五六十人もついて居 り、いくら先生が討たれようとしても、討たせぬのが弟子の取 る道だと云って、相談をきめたと云う話まで伝っています。な かくたいした人気です。元来、評判のよい方だのに、今度の ことで、いよく家中で評判者になっているようです」  大市郎は、それを聴いて、相楽よりも、弟子の方が恐くなっ てしまった。  大市郎は、江戸に半月も滞在したら、高崎へ行くつもりでい たのが、一月になり、二月になった。最初は、岡山藩の上屋敷 にいたのだがハ家中の手前だんノ\居にくくなったので、町宅 を借りて、六平と暮していた。六平も、高崎へ旅することは、 虎穴に、は入るようなものだと思っていたから、主人が何か云 い出す前は、自分の方から何も云わない方が、得策だと思って いた。  大市郎は、江戸に来てから、三日目には、吉原へ通い始めて いた。       七  江戸へ来た相楽は、その足ですぐ岡山藩の上屋敷へ行った。 そして、自分と遠縁に当っている|有阪《ありさか》頼母を訪ねた。 「噂には聴いていた。祝着の至りだ」と、頼母は相楽をみると 云った。 「いや、それどころではない。大市郎に討たれに参ったのだが」 「二月ばかり前、高崎への途中だと云って、当お上屋敷に逗留 していたが、まだ高崎へは行かぬか」 「来ぬ」  頼母は、℃っと相楽の顔を見ていた。 コ兀々、武門の意地の果し合から出来たことだし、逆に捜して まで討たれいでもよいではないか」  相楽は笑って、 「俺の取っている道は、間違っているか」 「いや、間違っているどころか、立派な道だが」 「では、なぜそんな事を云うのか。だんく武士の意地を、|算 盤《そろばん》ではじく世の中になった。それだから、|俺《わし》は武士の意地と は、約束とは、かくの如き物であると云うことを身を以て示し たい。そして高崎で教えた若者どもに、身を以て教訓したい。 これが、安藤家から拾われた高恩κ対する奉公㌍もなる。大市 郎は、高崎へ参ったとしても、|俺《わし》が江戸に来たことが分った ら、■すぐ帰って参りましょう。とにかく、当お邸へは消息が知 れるでしょう。知れたら、俺の|在処《ありか》をお伝え下さい。只今、|通 石町安《とおりこくちよラ》兵衛|店《だな》に居ります」 「だが、大市郎が討たたかったら」 「手を取って討たせます」 「斬らなかったら」 「怒らせて斬らせます」 「怒らなかったら」 「大市郎は、何歳ですか」 「十八歳だ」 「青年血気の身で、怒らぬことはありますまい」 「しかし、貴公の前に姿を現わさなかったら」  相楽は、大声で笑った。 「いや、一つの手段を考えています」 「どうする」 「今に分ります。それよりも、どうぞ大市郎をお探し下さっ て、討ちに参るようおすゝめ下さい。通石町安兵衛店に居りま す。お忘れにならぬよう料紙にかいて置きましょう。どうぞ、 硯を拝借!」 -有阪は、溜息をつきながら、 「当代珍しい仇討だな。それにしても、大市郎は江戸と高崎と の間で、何を致しているのだろう」  と、云った。        八 「よう。こんな所ヘ高札が立ったぜ」  |筋違橋《すじかいぱし》の広場、.河添いの大木の下に、口上と書いた高札が 立っていた。  口 上 一、去んぬる|庚辰《かのぇたつ》の誓約に依り  |被討《うたれん》として在府|罷在《まかりあり》   正保四年吉月吉日,             通石町安兵衛店                 相楽半之丞|建之《これをたつ》  町人も侍も、子供も、それから橋番所の役人も来たが、高札 を立てゝはならぬ乏云う場所ではなかったし、高札の文句が公 儀の御法を|棄《みだ》るわけでもなかったし、討たれんとして罷在ると 云う文句が、前代未聞だったし、それに立てた者の住所が、書 いてあるので、役人もそのまゝにした。  高札の噂は、江戸中へ拡まった。老人は、札の前で口上を筆 記するし、いなせな若い衆は、 「落ち行く先は、九州|相良《さがら》って、前から敵討に関係のある名 だ」 「えらい人だ。この人は、落ち行かないや、江戸に頑ばって討 たれようと云うんだ」 「討たるゝや……」 「|黒衣《くろご》が来ると起ち上り、とはどうかね御隠居さん」 「うるさい、討たるゝや江戸の桜か……」 「梅に松、赤よろしですか」 「江戸の花かや武士の意地、えヘん、討たるゝや……」 「江戸の花かや武士の意地、命無ければ歩かれもせず」 「こいつ」  若い衆は隠居の手を払って逃げ出した。  大市郎は、吉原でこの噂をきくと、自分の方が相楽に狙われ ているような気持で、筋違橋へ来た。  彼は、相楽が高札を立てた気持がどうしても分らなかった。 これほどまでにして、なぜ討たれたいのか。自分なんか敵討の 途中にいても、|小夜衣《さよぎぬ》のような女に|出会《でくわ》すと、つい心がにぶる し、それだから人間の世の中は、面白いと思っているのに、こ うした高札を立てゝどうしようと云うのだ。そんなにまでして 早く討たれたいのか。いや、恐らくそうでは、あるまい。こう して自分を釣り寄せて、返り討にしようと云うのではあるまい か。大市郎は、分らなくな■ってしまっていた。  一ヵ月あまりの後、高札の余白に、 一、遅延に|於而《おいては》、 卑怯の|護可有《そしりあるべし》   と、かき加えられていた。噂は、また江戸中に拡がった。  「何だい、弱い敵討だな。討たれる方から催促されていちゃ、 ,形なしだ」  ■「いや、討つ方は、江戸にいないんだろう」  .噂は、とりどりだった。大市郎は、今更のめくと、出て行  けないような気がした。  討つにしても、堂々と奉行へ願い出て、竹矢来でも結んで、 尋常の勝負をしないと、討つに却って趾になると思った。津々 浦々の端ならともかく、江戸の真中で、催促されてまで、出か けて行ったのでは、子供がお菓子を貰うようで、世問の物笑い  になると思う。どうしても決心がつかなかった。その内に、ま  た半月ばかり経った。.   すると高札の余白に、次ぎのような文句が書き加えられた。  高札の口上、貴聞に入らざること、よもあるまじ。なお、遅  滞に及ばば貴殿尊名大書|可致《いたすべ》きか  大市郎は、その文句を|人伝《ひとづて》に聞いて、少し憤り麺憾じた。こ れが向うの手ではないか。自分を引き寄せて、若武士どもに討. たせようと云う…1-、もう少し容子を見て、高札の文句の変る のを待ってもいゝと思っていた。  又、一月経った。  今度は、高札がすっかり、削り直されて、次ぎの文句がかゝ  れていた。  一、急患を|獲而《えて》、|復起《ふたヤびた》つ|不能《あたわず》、斯時を逸すれば、貴殿先考、  拙者共、成仏の期|無《なか》るべし。何を遅疑して参られざるや、  |只管《ひたすら》に、来着を神仏に|祈而《いのりて》、臥床立願するのみ英                   相楽半之丞建之  大市郎は、深編笠を被って、柳の木の下の高札をのぞいて見 た。雄渾な字であったが、筆勢が乱れていた。何かしら相楽を 気の毒に思った。  仇敵を討つと云う心ではなく、相楽を救わねばならぬと云う 気持だった。まさか、自分を引き寄せるために、これほどの嘘 はつくまい。自分が、今まで疑ったことが、間違いだったの                    や婆 だ。こうまでして討たれようとしている者を病で死なせるの は、死に行く者に対する礼でないと思った。  それでも、大市郎は大事を取って、夜に入ってから、周囲を 警戒しながら、高札に出ている安兵衛店を訪ねた。        九 「は入れ、戸は開いている」  中から答えた。そして、 「誰だー. この深夜に」 「三角大市郎です」  燧石の火が、闇の中へ…二度散ると、付木が燃えて、相楽の 髭ののびた痩せた顔が幽鬼のように微笑んでいた。その|微笑《ぬしぇみ》 は、満足と歓喜とに額えているようだった。 「遅くなりました」  大市郎は、土間から表の間へ手をついて、礼をした。 「うん。待ちかねた。■でも、よく来た。江戸にいなかったのだ ろう」 (いた)とは、答えられなかった。  相楽は、床から起き上ろうとして、苦しそうに|身体《からだ》をうごか していた。 「どうぞそのまゝで1私も旅で病んで居りましたので」  大市郎は、安心すると、相楽への同情と尊敬と、親しみが、 旧師にでも会ったように湧いて来た。 「そうだろう。三角の伜だもの。わしを避けるわけはない。こ れで、わしの武士道が立つ、よく来た、ありがたい」  大市郎は、なぜもっと早く来なかったかと云う後悔で、胸が 痛んだ。             - 「大市郎、わしは武士の|誓言《せいごん》がどんなに尊いか、お前達若者に 示したかった。だから、高札まで立てた。しかし、お前が江戸 にいないらしいので、生前では会えぬかと思っていた。病は重 くなるし、犬死かと思っていたが、よく来た。ほんとうによく 来てくれた」  大市郎は、心から櫨死したいと思った。 「しかし、気の毒なことに、わしは、もうお前とは立ち合えぬ ぞ。不本意だろうが、許してくれ。さあ、かゝっ■て来い、斬れ 斬れ、親の|敵《かたぎ》だもの、病人とて容捨するな、斬れく」 「でも、そんな御病体を斬ったのでは、手柄になりません」 「尤もだ。済まん、しかし、俺を救うつもりで斬ってくれ。成 仏出来るように斬ってくれ。病で死ぬよりも切腹したいし、切 腹するよりも斬られたい。さあ、斬れ!」  病床から、半身をのり出すいたノ\しい姿を見ると、大市郎 はどうしても、刀を抜く気になれなかった。 「俺にも、刀を抜けと云うのか、よし、抜くぞ」  相楽は、刀を杖にして、よろめいて立ったが、大市郎に|援《たす》け られて、壁によりかゝりながら、やっと刀を抜いた。  だが、大市郎が手を離しかけると、壁に添りたまゝ、ずるず る倒れかけた。ー 「いかん。とても、立ち合は出来ぬ。犬市郎気の毒だが、腹を 切るぞ。さあ、介錯! 介錯!」  相楽は、崩れたまゝにそこへ坐ると、抜いた大刀を形だけ腹 へ擬した。・ 「さあ! 介錯!」  大市郎は蒼白になって、涙をためながら、頭を下げて、刀を 抜くと、相楽は左の手で大市郎の刀の尖をもって、自分の頸動 脈へ当てながら、 「苦しませぬように、一気に。それ!」と、声をかけた。 返り討崇禅寺馬場        一  白木の位牌の前に、香の細い煙が、三筋ばかり、ほのかに立 ち迷っていた。白い紙の燈籠が、二つ左右に吊されて、季節の 果物が、盆にうずたかく供えられていた。  檀那寺の住職が、頭を剃り立てた弟子僧を左右に、読経して いた。  十二畳と八畳との座敷を打ちぬいた向う側に、親類の人達が 石高で年配順で居ながれていた。  みんなかたびらを着始めた五月の|半《なかば》だった。  手前には、仏の母のおかよを|上座《かみざ》に、仏の兄の治右衛門、他 姓を継いでいるが、やっばり仏の兄に当る安藤喜八郎が坐って いた。その次ぎに、治右衛門の結婚したばかりの若い妻が、 坐っていた。  遠藤惣右衛門が、同家中の|生田《いくた》伝八郎に打たれて、横死をし てから、丁度今日が四十九日に当っていた。 「御焼香を」  住職は、読経をすませると、左と右とに、一礼してから治右 衛門の方へ向いて、挨拶して云った。 「|母者殿《はとじやどの》!」  治右衛門は、|先刻《さつき》から涙を、両眼に|湛《た》めて、黙々として坐っ ている母に、耳打ちした。 「   」  母は、うなずきもしないで坐っていた。 「母者、御焼香を」 「|和殿《わどの》から、まあ」 ー母は、やゝけわしい冷たい声で云った。 「治右衛門、そちが当主だから、骨者より、先きでよいだろう」  向う側の上席に坐っている父方の伯父の|真木《まき》弥太郎が云っ た。 「ハアー!然らば、|母者人《はとじやひと》お先ヘ!」  治右衛門は、立って焼香台の前に直ると、香を二度につまん で焚くと、丁寧に礼拝した。そして、自席に帰ると、また母の 方を向いて云った。 「母者殿! さあ」  母は、頑固に立ち上ろうとはしなかった。仏には、実の母で あったが、治右衛門にも喜八郎にも、|生《な》さぬ仲だった。腹を痛 めたたった一人の惣右衛門を打たれた母は、四十九日の仏事の 日まで、愁傷と怨みと、未練とで取りみだしているのだった。 「母者人、いざ。でたいと、後がさしつかぇます」  喜八郎が、見かねて言葉をかけた。 「なら、喜八郎殿、そなたからたさるがよい」  母は、すぐ皮肉に、すねて云った。 「と申して、それでは順序が狂います。|兄者《あにじや》は、ともかく私は ……他姓をついだものでありますし」  喜八郎が、半分云いかけると、骨は喜八郎をふりむいて、 「それでは他姓をついでいるから|敵打《かたきラち》にも出ぬとお云いやるの か……」  母は、涙にうるんだ眼を、きっと見ひらいて、喜八郎を見た。 「それは……」  思いがけない言葉に、,喜八郎は、言葉がつまって、顔が真赤 になった。  水を打ったように、一座が白けた。 「母者人、敵打の詮議には又の日がござりますのに……」  治右衛門が、たまりかねたように、母に云った。 「いゝえ。私は、初七日にも、三十五日にも、敵打の話がもう あるか、もうあるかと待っていましたのに、|到頭《とうとう》、四十九日に なってしまった。それだのに……」  母は、狂乱じみていた。 「爵かよどの。仏事は、仏事、敵打は敵打でござるに、焼香の 順になって、左様なことを云い出しては、仏が浮ばれぬわ」  老人の真木が見かねて制した。 「いゝえ。仏事など、いく|度重《たぴかさ》ねても、何になりましょうぞ。 武士が、非業の死方をして、仏事などで、浮ばれましょうか。 兄が、二人まであって、のめくと|敵《かたき》を見ゆるして……」  母は、そこまで云ヶと、自分の感情を制しきれぬように、 わーっと泣き伏した。  治右衛門は、膝の上に、じっと手をついていた。|生《な》さぬ仲の 母の冷たさが、意地わるさが、身にしみているらしかった。彼 は、弟の敵打に出ぬつもりではなかった。しかし、弟の|仇《かたき》は、 武家の作法から云って、必ずしも打たなければならぬと云う法 はなかった。先ず、仏事をすまして"藩の重役達の意轡を聴い て、それから敵打出立の願いをしてもいゝと思っていた。母 が、愛児を打たれたやるせない悲しみが、怨みになり、念りに なり、だんノ\、狂気じみて行く母を、感じながらも、彼はだ まつていた。それが、今日突然、こんなに親類縁者が集ってい る席上で、爆発したのだった。  母の泣き声は、治右衛門喜八郎兄弟を非難するように、いつ ま。で、Jもつ間いていた。 「喜八郎、かまわず、焼香せい!」  真木が見かねて云った。        二  別室で、伯父の真木と治右衛門の妻の父の三谷八太夫と、治■ 右衛門と喜八郎とで、首を|鳩《あつ》めていた。 「まるで、狂乱の体だ」  と真木は、つぶやいて眉をひそめた。 「わずかの意趣で、惣右衛門が、伝八郎に切りかゝったのだ し、伝八郎はふりかゝる火の子を払ったわけだし、家中の評判 では、惣右衛門の若気から事が起ったのだと云っているし、敵 打に出なくても、あながち武士の面目が立たぬわけでもないの だが、母者があの体では困ったのう」  三谷八太夫は、新婚後まだ半年にもならない自分の娘の気持 を察して、憂欝にたっていた。 「|目下《めした》の|敵《かたぎ》は、打たぬが定法だし……」  三谷は、つ間けてつぶやくように云った。  治右衛門は、蒼白になった顔を、うつむけてだまっていた。 「兄者……」  喜八郎は、血ばしった眼で、兄をふりかえった。 .「何!」 「母者に、多勢の前で、あゝつけくと云われたのでは敵打に 出.ないでは、私達の面目が立ちませぬな」 「うむ。だが、出るとすれば、わし一人で出る」 「いや、|私《わたし》もお伴します」 「いや、そちは養家先の老母がいる。わし一人で立つ」 「いや、私もお伴します。伝八郎は、家中でも、評判の腕利き でもありますし、兄者一人をやることは出来ませぬ。のう、伯 父上」  喜八郎は、伯父を見て云った。  真木は、病弱な治右衛門の身体を考えていた。兄弟三人の|中《うち》 では、一番武芸執心で、伝八郎の父の指南番生田惣兵衛の門下 では、免許を取っていた彼等の弟惣右衛門を、わずか三四合の 斬合で、斬り伏せてしまった伝八郎の腕前を考えると、治右衛 門一人では討てる|敵《かたき》ではなかったし、喜八郎が同行したところ で、容易な敵ではなかったーそう思うと、兄弟二人を死地に 追いやる|生《な》さぬ仲の母が、にくらしかった。 「行くとなれば、喜八郎同道、無論のことだが、1ししかし、 藩の重役方の意縛を、もう一度たしかめてからでよいではない か。たかf女性の、母者の泣き言を、それほど気にしなくても よいではないか」 「いや、伯父上。私は、この上遅延致しまして母者の怨み言 を、きゝとうござりませぬ。たとい返り討になりましても、出 立致しとうござります」  喜八郎は、思い切って云った。 「治右衛門は〜」 ,真木は、兄の方を見た。 「弟同断でござります」  治右衛門は、蒼白い顔をかるく、けいれんさせながら云っ た。        三  惣右衛門を討って和州郡山を立ち退いた生田伝八郎は、大津 にある|知音《ちいん》を頼って、しばらく身をかくしていたが、元来惣右 衛門の兄達を怖れていなかったし、郡山からの消息で、惣右衛 門の兄達が、敵打に出る意志がないことを確めると、|天満《てんま》与 力佐川郡兵衛を頼って、大阪に来た。  郡兵衛は、伝八郎の父の剣術の弟子であったし、伝八郎とは 幼な友達であったので、伝八郎を親身になって|合《ごうりよ》カした《く》|。 「貴公ほどの腕を遊ばせて置くと云う法はない。町道場をお開 きなさい。門弟は、拙者がかり|蒐《あつ》める」  大阪へ来て、一月ばかり経つと、郡兵衛はぶらく遊んでい る伝八郎に勧めた一伝八郎は、無為にして郡兵衛の世話になる ことが、やゝ苦痛になっていたので、郡兵衛の勧めにまかせて 天神橋北詰に、道場を開いた。 「郡山と大阪とでは、あまりに近すぎるから、|敵《かたき》をは讐かる貴 公でもあるまいが、何とか|変名《へんみょう》でもするか」  と、郡兵衛がきいた。 「いや、それには及ぶまい。敵打に来たら来たでよいし、どう せ和州に近い大阪では、変名を致しても現われることだから、 本名を名乗った方が、男らしくてよかろう」  伝八郎は、惣右衛門に斬りかけられた初太刀で、小びんに受 けた、まだ|生《なま》あたらしい傷あとを、左手の指先でなでながら、 浅黒い苦味のはしった顔に、ーーヤリと笑いを浮めて云った∵ 「それもそう。その方が、人気にもなる。じゃ、東軍流指南生 田伝八郎でよいか」 「よろしい」 「だが、こう云う着板をかゝげると、郡山ヘは十臼も経たぬ裡 に知れるだろうし、知れると討たぬつもりでいても、意地にも 打ちに来るが、それでよいか」 「よろしい! 打ちに来れば、尋常の勝負をする。打たれても よいし、返り打にしてもよい。遠藤兄弟となら、いつでもや る。ははあ……」  伝八郎は、屈托もなく笑った。       四  重役へ願い出た敵打のためのお|暇《いとま》が、容易に|下《さが》らなかった。 伝八郎の父の惣兵衛が、三百石の|惣頭格《そうがしら》であったし、藩公のお 覚えが、殊の外よかったし、それに惣右衛門が、剣術の仕合の 遺恨から、伝八郎に切りかゝったと云うことが、藩公や重役達 の心証を害していたし、弟の敵打を許すべきか許すべからざる かと云う事も問題になったので、藩の決定が二月ばかりもか かった。だが、遠藤兄弟の親類一同から、再度歎願に及んだの で、漸く敵打のお|暇《いとま》が出た。  だが、それが出るより前に、生田伝八郎が大阪で町道場を開 いていると云うことが、兄弟の耳には入って居た。  正徳五年十月の|初《はじめ》、兄弟は大阪をさして発足した。大阪では 藩の蔵屋敷へ草鞍を解いて、翌日から、伝八郎の道場のある天 神橋附近を、俳個して、伝八郎を狙った。 ■伝八郎の新しい道場は、新しもの好きの大阪では、可なりは やっていた。,天満の与力達が重なる門弟だった。それに町人、 地廻りの若い衆、遊び人など、毛色の変った門人達で、|竹刀《しない》の ふれ合う烈しい音が、遠くまできこぇていた。  兄弟は、天神橋の橋の挟や、町家の軒下にかくれて、伝八郎 の他出を待っていた。  伝八郎は、容易に出て来なかった。だが、|此方《こつち》から不知案内 の家に斬り込むことは、人数の関係から云っても、志を遂げら れそうには思えなかった。深夜に、兄弟は二度ばかり、伝八郎 の道場の塀外に立って見た。しかし、戸締りは厳重だったし、 五六人の内弟子がいることが、分っていたし、弟の喜八郎は可 なりあせったが、兄は不賛成だった。 「本名を名乗っている上は、逃げかくれる心底ではあるまい。 気長に、よい時を待とう」  塀に手をかけそうにする弟を、兄が制した。  十月が終りに近づいた。毎日、そこの町角、こゝの軒場に立 つ兄弟の姿が、町家の人々の目につき始めた。こうしている程 に、|敵《かたき》に知られては不利であると思いながら、どうすることも 出来なかった。 ーたf、一度曇った十月の終りに近い日の七つ|下《さが》りに、伝八郎 の家から、伝八郎の乗っているらしい駕籠が出た。門弟らしい 男が二人供をして天神橋を南へ渡った。兄弟は、十町ばかり後 を追った。だが、それが|戎橋《えびす》筋の町家へは入るところを見る と、駕籠の中から出たのは、十徳を着た老人だった。  その内に、|到頭《とうとう》十一月には入った。  三日の夜だった。兄弟が、天神橋から引き上げて、蔵屋敷へ 帰って見ると、留守に思いがけなく、敵伝八郎からの書状が届 いていた。      口  上 惣右衛門殿の恨を晴さんとして、大阪表へ|御出向《おでむき》の儀尤も神 妙に存じ候。依って、明四日|卯刻《ラのこく》、浜村崇禅寺馬場に於て( 尋常の勝負致すべき間、相違なく出張なさるベく候。    正徳五年十一月三日                 生田伝八郎   遠藤治右衛門殿   安藤喜八郎殿 その書状をよむ治右衛門の手はかすかにふるえていた。 「伝八郎奴! 不敵なっ!」 弟は、拳を握りしめて、膝を兄の方へすり寄せれ。 「ちゃんと、気づかれて居った」 兄は、うめくように云一、た。 「どうなされます」 「|敵《かたき》から、果し状をつけられて、出会わぬわけには行かぬ」 「我々を引き寄せて返り討ちにしようと云う|手段《てだて》かも知れませ ぬな」 「と云って参らぬわけには行かぬではないか」 兄も弟も、敵から機先を制せられて、不安と恐怖とで心が、 かすかにふるえていた。 五  伝八郎は、門弟達と、別れの杯を汲んでいた。彼の快活な性 格と、天性の愛嬌と、鋭い伎禰とで、彼はわずか三月ばかりの 間に、百名ばかりの門弟を集めていた。今日は、その中で明日 の果し合を打ちあけた別けて|入懇《じつこん》の人達が、七名だけ席に列っ ていた。  郡兵衛を初め四名が、|天満《てんま》与力衆で、外の三名が、木津の仙 吉と云う侠客の身内の者だった。 「打たれる方から、果し状をつけるのは、前代未聞じゃ」  郡兵衛が云った。 「左様、まず……」  伝八郎は、苦笑いして郡兵衛のさした盃を、口にふくんだ。 「左様な事をなさると、相手は、助太刀を多勢連れて参りませ ぬか」  与力の松井と云う長い顔の男が云った。 「いや参ったとて、決死の太刀を合わせるものは、遠藤兄弟の 外はござるまい。義理からの助太刀など、必死の場合には……」  伝八郎は、自信κ充ちて盃を飲み砥した。 「でも、先生、そう云う場合の用心も、ござればどうぞ、我々 の同行をおゆるし下されい」松井が云った。 「いや、先刻から度々申す通、お断り致したい。御同行にた ると、自然拙者不利の場合は、手拙しをなさるであろう。さす れば、生田は敵をおびきよせて、大勢でとりかこんだなどと ……」 「でも、相手に助太刀があれば、えゝじゃござんせぬか」  仙吉の身内で、喧嘩早い船場の正吉と云う男が云った。 「いや、打つも打たるゝも、拙者一人でやりたい。郡兵衛どの は、介添のために、同行して頂くことにしたが、これとても、 助力は堅くお断りしている。御身達、伝八郎を鷲案じ下さるの は、ありがたいが、伝八郎毛頭打たれる所存ではござらぬゆ え、御放念ありたい」 「でも、先生。我々も、剣道の御指南にあずかる上は、その実 地の……真剣を合わせる斬合いを拝見致したいて」 「いや拝見でなく、とてものことに、一合たりとも、真剣をあ わせとうござる……」  一番、年の若い与力が、到頭本心を云ってしまった。彼等は 道場での熱心な稽古からはぐくまれて来た闘争心を、こんな場 合、少しでも発散させたかった。竹刀でない、触れゝば相手を 傷ける真剣を振りまわして見たかった。真剣を振り廻してもよ い口実と機会とがほしかった。 「あはゝゝゝそれだから、なおのこと、御同行をお断り申すの じゃ。御好意は恭いが、貴殿方の助太刀を受けたのでは、伝八 郎の武士が廃り申す。遠藤兄弟が恐ろしければ、伝八郎大阪表 で、本名など名乗り申さぬ。敵打に参れば参ったで、尋常に勝 負致すことは、かねての覚悟でござる。どうぞ、御案じ下さら ずに、明日の御同行も御見物もたって、お控え下され」  門弟達は、伝八郎の男らしい武士らしい態度に、感激すれば するほど、何かしら心の中が、むずがゆくなって、この人のた めに、働きたいー尽くしたい気持になっていた。        六 「責め馬の人達が居なければよいが」  伝八郎は、落ちついた気持で、同行の郡兵衛に云った。 「夏は夜明けから、馬を責めるが、冬は大方、|辰刻《たつのこく》からだ」  夜は、ほのかに明けたばかりだった。馬場には入ると、人影 がなかった。一面に霜が降っていた。馬場を突っきって、崇禅 寺の松原の方へ歩いた。 「来ているだろうか」 ー郡兵衛が云った。 「来ているだろう。此方から、果し状をつけたのに、逃げると 云う法はない」  伝八郎は、着込みを着た上に、羽二重の紋付を着、その上に たすきをかけ、たすきの分らぬように、羽織を着ていた。袴を はいていたが、脚絆はつけず、雪駄をはいていた。  松原の真中が、少し開け、そこに小さい稲荷の|杜《やしろ》があった。 その杜の前の、大きい根上りの松の根に、こしかけている人影 が、遠くから見えた。 「いる!」  郡兵衛が云うと、伝八郎はだまってうなずいた。  伝八郎は、松の間を縫いながら、真直に近づいて行った。  松の根から、立ち上った人影は、二人だった。 「治右衛門、喜八郎しばらくじゃ」伝八郎は、距離がせまると 云った。  兄弟は、だまっていた。昂奮に狂っている四つの眼が、飛び つきそうに伝八郎を見た。兄は槍を、弟は|長刀《な なた》を持っていた。 (太刀打では敵わないと見て、槍を、長刀を持って来たのはよ いが、治右衛門の細腕で大身槍が扱えるか)と、思うと伝八郎 は、敵悔心よりもあわれみを感じた。彼は、羽織を脱ぐと、郡 兵衛に渡した。そして、兄弟にきこえるように、大声で云っ た。 「郡兵衛どの、兼ねて申す通、我等利不利にかゝわらず、|合 力御《ごラりよく》無用じゃ」 「承知」  郡兵衛は、受取った羽織を二つにたゝむと、左の手に持ちな がら云った。 「伝八郎覚えたか」・  あせっている治右衛門は、伝八郎が刀をぬくのを待ちかね て、かゝって来た。  弟の喜八郎が、長刀を中段にかまえて、伝八郎の|馬手《めて》に廻っ て来た。  伝八郎は、雪駄をぬぐと、五間ばかり右へ身を引いて、その あたりの松の中で、一番根の上っていない松を、|背後《うしる》にした。 惣右衛門を斬ったとき、少し歯こぽれのした|波平《なみのひら》の|行安《ゆきやす》の一刀 を下段に、身体は治右衛門を七分、喜八郎を三分に、心は喜八 郎に七分、治右衛門に三分にかまえていた。 「えい!」  治右衛門は、必死の気合で突き出して来た。だが、その穂先 は、おのずと左へ流れると見ると、かるく右にかわしただけ で、打込んで来る喜八郎の|長刀《なぎなた》を、左に払いのけた。  兄弟は、第一撃を失敗すると、サッと身を引いた。 「二人一度にかゝるのは、卑怯だぞ。一人ずっかゝれ!」  兄弟にも、伝八郎にも思いがけない声が、稲荷の社の|後《うしろ》です ると、乱れたあわた間しい足音がして、六七人の人が三人を囲 んで立っていた。 「伝八郎、卑怯!」  兄弟は血走った眼で、周囲を見廻すと弟の喜八郎が、眉を逆 立てゝ伝八郎をのゝしった。  松井、工藤、西条、正吉、仙太。昨日、あんなに云って置い た連中が、みんな昂奮した顔をして、立っているのを見ると、. 伝八郎は、絶望に近い当惑を感じた。 「貴殿達、なぜおいでなすった。迷惑至極、早々茄引き上げ を」 「でも、先生、卑怯ではござらぬか。二人一度にかゝるなど」  若い工藤が云った。 「貴殿等の口出すところではない。お引き取りをお引き取り を」 .「・えいー・」  伝八郎の油断を見て、突き出した治右衛門の槍が、伝八郎の 袴の裾にふれた。 「おゝっ!」・  伝八郎は、三尺ばかり飛びのくと、つ讐いて打ち込もうとす る喜八郎にかまえた。  治右衛門は、助太刀ありと見て、必死になっていた。 「・えいっ! トえいっ!」  気合だけは鋭いが、穂先の流れがちな槍がつ間けざまに、伝 八郎を襲った。 「先生、一人は拙老が引き受け申す」  工藤が、突然刀を抜くと、喜八郎に走しりかゝっていた。松 井が、それにつ間いた。正吉が、また刀を抜いた。 「何をなさる! 松井殿、工藤殿、何をなさる」  伝八郎が、その方へ駈け出そうとすると"治右衛門の槍が、 脇腹をかすめた。 「・えいつ+・」  伝八郎は、流れた槍の穂先を、切り落していた。  刀を抜いて走しりかゝった治右衛門と渡り合いながら、伝八 郎は必死に叫んだ。 「方々、お|退《ど》きなされい1 伝八郎一生の不覚になる。需退き なされい!」 一だが、喜八郎をとりかこんで夢中になっている連中にはきこ えなかった。  喜八郎は、額を一太刀斬られながら、 「伝八郎! 卑怯! 卑怯!」  と、絶叫していた。  伝八郎は、それを聞くと、胸が挟ぐられるような気がした。■        七 ・兄弟の死骸を前にして、伝八郎は、苦り切っていた。 「済んだことは、仕方がない。生田殿、了見めされい!」  郡兵衛が云った。 「物には了見が出来ることと出来ないことがあ呑。これで、伝 八郎の武士が立つと思われるか。兄弟をおびき寄せて、多人数 でとりかこんで、打ちとるなど、武士の致すベきことか。この 伝八郎が、相手を恐れ、御助力を頼んでいるならば、方々の蔚 志は、ありがたいが、昨夜くれム\も騎願い致して置いたでは ないか」  若|武士《ざむらい》は、先刻の昂奮がさめてみんな蒼い顔になっていた。 「武士の意地で、斬る、斬られるは、是非もないことだが、卑 怯にも助太刀を頼んだなどと、死んで行つた兄弟の者の霊に も、伝入郎合わす顔がない。方々、伝八郎が、あれほど御助勢 をお断りしたことを、助太刀ほしやの反語とでも、おとりに なったのか。伝八郎をさほど不甲斐ない武士として、お|情分《なさけぶん》の 助太刀とでも、仰せらるvあか」  みんな、うなだれて言葉がなかった。 「世上のきこえ、人の批判、伝八郎生涯の生き恥を、かき申し たぞ」 「申し訳ございません」  工藤が、地の上に手をついて云った。 「先生。拙者共助太刀致したなどと、夢にも口外致しませぬ」 .松井が云った。 「たとい、世上に伝らずとも、伝八郎一人の心にも了見致しか ねる事じや。それに、この人だかり、もはや二百名にも近うご ざる。これが、世上に伝わらずに済み申そうか」  遠巻きにして、いつの間にか、二三百名の人がき\らたえて 集って来て、おずく見物していた。 「先生の、その潔いお心持が、自然と世につたわらぬことは、 ござるまい。われらが、差し出がましい助太刀と云うことを、 出来る限り吹聴致すほどに、この度のことはまげて、御勘弁 を」  松井が云った。  だが、伝八郎は、それに答えなかった。懐中から料紙を出し て、郡兵衛から借りた矢立の筆で、次ぎのようにかくと、それ を喜八郎が持っていた長刀の柄にまきつけて、観世よりでゆわ いつけた。 一、今日|此所《ここ》にて|及勝負《しようぶにおよび》候意趣は、 と|申者《もうすもの》、見捨てがたき儀御座候に付、 相手の弟遠藤惣右衛門 |仕留《しとめ》立ち退き候処、両 人恨み申すと相尋ね参候間、此処に|出向《でむぎ》勝負仕候。拙者門 弟共助勢有之候事は、拙者存じの外にて、尤も迷惑に存じ 候。御検分の方御座候わば、右の趣仰せらるべく候。                生田伝八郎   十一月四日        八  新町の茶屋の松庄の離れで、伝八郎は久しぶりに、|押妓《なじみ》の小 染を待っていた。  遠藤兄弟を打ってから、五日ばかりの問、快々として楽しま なかった。助太刀をした、七人の門弟は、遠慮して顔を見せな かった。関係のない門弟までが、一日ごとに少くなってい た。  返り討のことが、大阪中に知れ渡ったことは、門弟達の態度 で知れた。しかし、それをどう批判しているか、誰も伝八郎に きかせてくれなかった。 「小染なら†」小染と自分の間なら、かくさずに云ってくれる だろう」  そう思って、伝八郎は、新町に来たのである。  茶や菓子を運んでくる女中達が、・いつになく言葉が少ないの が、伝八郎に気になっていた。  半刻ばかり待っていると、襖が開いて紫色のうちかけを着た 小染がは入って来た。伝八郎を見ると、彼女は崩れるように、 伝八郎の膝によりすがった。 「まあ、どうなさって、貴方評判が悪うおすえ」 「そうか」 「まあ、えろうわるう騎すえ。門弟を三十人もつれて、可哀相 な兄弟をだまし打ちにしなはったそうで、ほんまどすかえ」 「   」 「わてえは、生田先生に限って、そなえな事はない云うて、云 いわけしとりますけど、誰も聴きよらへん……」 二体どう云っている、かくさずに……」 「日本一の卑怯者じゃ、云うとりますえ。兄弟を崇禅寺馬場 へ、だましてひきよせて、多勢でとりかこんで、砂を入れた目 つぶしをぶつけて、松の上から、弓で射て:…」 「そうか、それから」  伝八郎は、観念の眼をとじていた。 「多勢でなぶりごろしにして、そのくせ御検使に出す書付に は、助太刀を頼んだ覚えはないと、しらを切らはってるそうで ・:・」 「そうか、それから」 「そんなこと、また仰山云うてますえ、|廓《くるわ》の中でも寄るとさわ る之、その噂どすえ、わてえが、躍気になって違うノ\云うも んやさかえ、わてえが行くと、みんなだまりますけど、陰では もっともっとひどいことを云うていやはりますぇ」 「そうか」 「あなた、みんなほんまどすかえ」  伝八郎はだまっていた。そのまつげに、,無念の涙がかすか に、にじんでいた。 「すまん、つながる縁で齢前までが、口惜しい思いをするだろ う。すまんのう」  そう云うと、膝に泣き伏している小染のうなじをかるくたゝ いた。  小染は、いたわられて悲しくなったのだろう。かすかにすゝ り泣きに泣いていた。        九  その年の十二月の末、」郡山城下の町はずれにある常称寺の墓 地に、武士体の男が、一通の書置を残して、割腹していた。 御機嫌恐れ奉り今日切腹仕候 いさぎよく死出の雪見る今宵かな 生田伝八郎  伝八郎のやる方なき気持は、死ぬより外仕方がなかったのだ ろう。「雨月物語」の作者上田秋成は、伝八郎と小染との忘れ がたみだと云われているが、真偽のほどは分らない。 敵討二重奏     -石井兄弟亀山讃1        一 「佐平、この上は、源左衛門の親爺を討つ外はあるまい」  と、石井兵右衛門が云った。i 「さあ」  若党の佐平は、うつむいたまゝで、膝をみつめて居るだけ だった。  二人は相当に長い間、仇敵赤堀源左衛門を尋ね廻っているの であったが、何の手懸りもなかった。齢の若い兵右衛門は、|苛 苛《いらいら》してきて、宿へついても物を云わない日があったし、 「いやになるなあ!」  と、|批《な》げ出すように弦いたり、舌打をしたり、1佐平 は、それを慰めるのに一苦労だった。そして、その佐平でさえ 時々、溜息をもらす位に、二人とも疲れきっていた。そして、 二人が大阪に来たときに、源左衛門の親の|遊閑《ゆうかん》が、大津石ケ辻 にいることを(聞き出したのであつた。 「どう思う」 「しかし」  と、云って佐平は顔を上げた。 「赤堀が、・大旦那を討ったからと申して、旦那様が遊閑をお討 ちになれば、五分五分で、どっちが|仇敵《かたぎ》か、どっちが|討手《うつて》か判 らなくなってしまいますが」 「それは、そうだが、元々遊閑にもお餐めのあるべき筈を、運 よく免れているのだし、遊閑を討ってそリ由を、世間へ知らし たならば、いかな源左衛門とて、だまって引き込んでいる訳忙 も行くまい。源左衛門を怒らし、器びき出すための手段とし て、討つのだから、武士道に外れたことでもあるまい。こうし て、当もなく歩いていたところで、懐中は乏しくなるし、気 は苛立って来るし、……俺は、今の場合、遊閑を討つより外に 上策はないと思う。非難する奴があれば、非難するがい、。こ う云う気持は、非道に親を打たれた者のみが判る気持だ」  佐平は、いらぐしている主人に、この上逆らってはいけな いと思った。 一 「手前もよくお察ししています」 「気にしてはいかん、お前の親が殺されたと云う訳ではない。 実際、あゝいう殺され方をされると「源左衛門を八つ裂にし ても、飽きたらんとおもうし、俺が当の無い旅を、こうして 苛々しながら、して居るのに、源左衛門の父が、安閑として居 るかと思うと、じっとして居られぬ位、腹が立って来る。第 一、遊閑の態度は、殿をないがしろにして居るではないか」 …「よく判りました。遊閑めを、討つことに致しましょう」 「そうか、同意して呉れるか。遊閑でも討ち取ったら、ちっと は腹が癒えるかも知れぬ、このまま旅をつfけて居ようものな ら、俺は気が狂ってしまうかも知れぬ」  兵右衛門は、そう云ってから勢よく、 「|明日《あす》にでも行こうか」 「参りましょう。早いが、よろしゅうございましょう」 「よし、これで、気が安まった。お前が、物固く反対しはせぬ かと思って、|昨夜《ゆうべ》は眠れなかったぞ」 「何を、且那の仰せに、手前が反対仕りましょう」  そう言って、二人の主従は、お互に信頼の心を固くした。        二 大津で、石ケ辻の遊閑の宅を尋ねると、すぐ知れた。 門前に植込みがあって、茶室作りの住居であった。兵右衛門 は、その幽美な住家を見ただけで、腹が立って来た。 .「これは、よう参られた。寒いのに、どうぞ。どうぞ」 遊閑は明るい顔をして自分の伜のために、父を討たれて苦労 している二人を慰める為、どんな事でもしたいと云う表情をし ていた。  兵右衛門は、そうした遊閑の態度に、 (気の毒な)  と、感じたが、それでも若いだけに、もう言葉に、額えを見 せて、 「源左衛門殿の|在処《ありか》は、まだ判りませぬか」  と、訊いた。 二向に…品-」  遊閑は、うつむいて、きちんと両手を膝にのせて、 「判りますれば、|詰腹《つめばら》切らすか、貴殿へ在処を知らすか致しま すが、何の便りもなく、殿ヘも何とお詫びしてよいか、万事拙 者の不調法、ーいろノ、と辛苦しながら、浮世を狭く送って 居ります」  二人は、だまっていた。 (討たなくてはならぬ……しかし、少し気の毒な)と云う矛盾 した気持が、混乱していた。 「齢さぇとって居りませんと、共々草を分けて、捜しますが、 何分にも六十八で、御覧の通り老いぽれて居りますので……」  遊閑は、そう云って鼻汁をかんだ。薄く、涙が光っていた。 兵右衛門は、ちらと佐平の方へ目をやったが、佐平はうつむい ていた。 (討つと決心してこゝへ来た以上、討たずに出る訳にも行かた いが)  そう考えても、■何う云って討ちかゝって、いゝか判らなかっ た。                        や蘇 「貴殿には憎い奴でござれど、親の身になりますと、病で死ん だか、どっかで落ちぶれて、見る影もなくなつて居るかと、雨 につけ風につけ、思い出されまして-・…」 ■兵右衛門は、遊閑の愚痴を聞いている内に、じりノ\苛立っ て来た。 「遊閑どの、源左衛門殿、行衛が分らぬ上は、さしずめ貴殿 がハお相手じゃが、お覚悟か?」 -と、叫んだ。  伜の不届の罪を詫びて、切腹でもするのが、本当だのに、逃 げかくれして、その伜に未練があるなど、こう云う親だから、 あんな伜が出来るのだ。そう思うと、遊閑を討ってもいゝよう な気がして来た。  遊閑の顔色が、サッと変った。割合落ちついた声で、 「御尤も。御尤も」  と、口早に眩いた。 「仕度り・」  兵右衛門は、刀を取って、|柄《つか》へ手をかけた。  遊閑が、 .「この上は、是非もない。思いのまゝに、討たれましょうが、 死後の始末もござれば、しばらく御猶予を……」  と、云って畳へ手をついた。 -早くなさい!」  と、佐平が横から云った。 三  兵右衛門の建てた遊閑の家の前の高札の事は、すぐ京大阪の 噂になった。高札には、 「赤堀源左衛門、卑怯なるが故に、父遊閑を討ち取るもの也。 無念に存じ候わば、美濃国|宝平《ほうへい》村へ罷り越さるべし。石井兵右 衛門」  と、書かれていた。  源左衛門は、それを聴いて、 (何が、卑怯者だ!)  と、憤った。 (兵右衛門の父は、武士の意地とLて、討つべくして討った以 上、飽くまで逃げ匿れて命を完うする事は、士道の上で許され ている。卑怯でも、何でもない。|己《 のれ》のカが足りないで、俺を 討ち得ない腹いせに、老衰の父を討つこそ、卑怯だ。こうなれ ば、あいつこそ、|此方《こつち》に取って親の|敵《かたき》だ)  源左衛門は、自分が相手の親を殺して、相手をどんなに無念 がらせているかと云うことは考えないで、相手に自分の父を討 たれた無念さだけを、 |腸《はらわた》の痛くなるほど感じた。 (彼奴の父の宇右衛門は、武道の達人であった。俺が、彼奴の 父を討ったときは命がけであった。だが、俺の父は、兵右衛門 の血気盛りから見ると、赤子に等しいものだ。それを殺して、 俺を誘きよせようと、1高慢な、生意気な、立派そうに、宝 平村に罷り越さるべしなんて、……行ってやるとも。しかし、 俺は尋常には行かんぞ。貴様が、俺の父を殺したように、抵抗 出来ぬ所で殺してやる)  源左衛門は、石井の父を殺して以来、今まで逃げ廻っていた' ので、今まで一度も父に会っていなかったことを考えると、父 に対してしみん\、涙が出て来た。 「いゝ父だった。俺のことで責任を感じて、世の中を狭くして 謹慎しているのに、押しかけて行って、俺を見つけ得ない腹い せに、殺すなど、それが武士か)  源左衛門は、 「畜生ッ!」  と、叫んだ。顔色が変って、眼は狂人のようにか讐やいてい た。 (どんな手段を取っても、討ち取ってやる。東照君も、親の|仇《あだ》 は鉄砲にて討ち取るとも、苦しからず、女の手を借るともゆる すべし、と仰せられた。向うが、卑怯た真似をするなら、俺も 卑怯な事をして、この無念を思い知らせてやる。卑怯な刃に倒 れることが、どんなに口惜しいか、今に思い知らせてやるから i) ,源左衛門は、すぐ旅装を調えて、美濃国に立った。        四  宝平村の、妹の嫁入先、犬飼瀬兵衛の家に、落着いた兵右衛 門は、自分の家中に於ける、今度自分の取った態度に対する批 評と、自分の心の曝きとを聞いていた。家中の人々は、 「遊閑は、腹でも切って、殿へ伜の不始末を詫びなければなら ぬのに、のめく逃げたのだから、これを討っても悪いことで はない」  と、兵右衛門の考えて居た通りに、評する人もあったし、 又、兵右衛門の心の底のどっかの隅で、岐いていた声のよう に、 「少し無残だ。武士の意地と云う事もあろうが、武士の|情《なさけ》と云 う事もある」  と、非難する人もあると、聞えて来た。兵右衛門は、遊閑を 討って、|苛《いらく》々した気が、おさまって来ると共に、遊閑が討たれ るときの、思いの外に、従容とした姿が、眼の底に、ハヅキリ と浮んで来た。そして、 (討たない方がよかったかも知れぬ。もっとも、どちらがよ かったかはまだ判らぬが)  と、思った。しかし、遊閑を討たないで、今まであのような 旅をつ間けていたなら、どうなっただろうかと、考えると、 (自分が生きて行くために、仕方のなかった事だ。家中の奴等 は、旅の辛苦を知らないから、勝手に批評できるが、一度、怨 恨に充ちた心と|身体《からだ》で、当もなく日本中を廻ってみろ!)  と、思った。然し、日が経つにつれ、源左衛門が現われない につれ、遊閑の死に際の姿が、だんノ\濃くなって来た。 (無駄な殺生だったかも知れぬ。あゝまでしなくとも、時期が 来ればj源左衛門に逢えたかも知れぬ)  と、思うようになったし、又、 (遊閑を討りて、旅を中止したので、源左衛門は、却って安心 してしまったのかも知れぬ。そして、どっかに落ちついて暮し ているかも知れぬ)  そう思うと、遊閑を殺したことが、手段としては、よかった か、わるかったか、判らなくなってしまった。あゝした建札を 建てた以上、もう敵打の旅に廻れなくなってしまった。  兵右衛門は、毎日同じような事を考え、旅行していたときと は、又別な意味で、苛々して来た。-        五 (抵抗力の無い者が殺されるとき、どんなに無念なものか思い 知らして呉れるぞ)  赤堀源左衛門は、百姓姿になって、懐に刀を入れて、宝平村 を彷僅した。 (自分の父であるないは、ともかく、弱い者を殺したと云う、 武士らしく無い仕業に対して、思い知らしてやるのだ)  源左衛門は、汚い頬|被《か》むりをして(犬飼家の裏手の生垣から 忍び込んで、邸の中をうか寸っていた。薄暗い一本燈心の柱懸 行燈が、湯気につゝまれて、ぼんやりしていた。そして、湯殿 の中に湯を使っている音がした。源左衛阿は、胸を沈めなが ら、忍び寄った。 (今こそ、屈寛の時だ)  そう思いながら(首を延してのぞくと、久しく見ないが、 うつむいている横顔は、兵右衛門だった。源左衛門は、一足 |退《さが》って、|四方《あたり》の様子をうかバってから、刀を抜いた。そして、 それをかくして、入口の方ヘ廻った。 竹に紙を貼っただけの破れ窓からもう一度のぞくと、風呂桶 に、刀が立てかけてあった。 (さすがに、用心しているな)  と、思ったが、もう外の事を考えている余裕が無くたった。 (風呂から、上らせてはいけない〉  と、思って、忍び足に近づいたが、その短い距離に費す時間 が、とても長いものに感じた。そして、入口の戸に手をかける と、刀を構えてーサッと、引きあけると、兵右衛門の顔が、 |此方《こちら》を向いた。そして、眼が光ると、風呂桶の中で立ち上っ た。右手を立てかけてある刀へやろうとして、一寸背を見せた ところを、 「卑怯者!」  と、叫びながら切りつけた。 「何を?」  凡ては、ホンの瞬間だった。兵右衛門は背中を割られて、温 れ出る血が、湯の中へ音を立てるばかりに流れた。ー 「佐平!」  と、叫んだ。だが、刀を持つ手にさえ、力がは入らなくなる 位、深く切られたと感じると、全力で源左衛門を突いた。だ が、もう力が足りなくなって、|尖先《ぎつさき》が下り、太股を突いただけ だった。 「覚えたか」  と、源左衛門は叫んで、走りか叶ながら、 「無念か! 卑怯者、思い知れ!」  と、口早に低く叫ぶと、人々の足音の近づくのを背中に感じ ながら、闇の中へ走り出した。蒼白な顔、よろめく脚に、走り つバけながら、 「ざまあみろ!」  と、心の中で叫びつfけた。 (どんなに、無念がって、坤っているだろう。|止《とオ》めを刺す暇の なかったのも、|彼奴《あいつ》に思い知らせるのには、よい事だ)  と思うて、微笑が、自然に浮んで来た。  だが、それと同時に、追われる身の危険さを感じて、見えな いと知りつゝも時々、後を振返って見た。        六 「不覚だ! 不覚だ!」  兵右衛門は、顔を苦痛にゆがめて、血まみれになって、叫ん だ。それは、|敵《かたぎ》に対して、大言を吐いて置きながら、不意を打 たれて、致命傷を負わされたと云うことに対しての、悔恨でも あるし、風呂場で裸のまゝ斬られたと云う自分の姿の醜さに対 する恥辱の念もあるし、伺時に自分の採って来たこれまでの行 動が、何うも.完全ではなかったと云う事について間もあった。  傷は、一尺余り、背中を斬り裂いていて、出血多量の為に、 そしていゝ医者の居ないために、すぐ全身の色が変って来た。 「腹を斬らせてくれ! 腹を!」  兵右衛門は、もう起き上る力もなくなっていたが、せめて自 分の力で、腹を切って、潔い最期を遂げて、 「|流石《きすが》に」  と、云われたかった。 「傷は浅い!」  と、犬飼は云ったが、 「不覚だ! 不覚だ! 腹をーー武士の|情《なさけ》に腹を切らしてく れ」  兵右衛門は、もう眼を開いている気力が無くなって来たが、 |嘆言《うわごと》のように、この二つの言葉を繰り返していた。そして、鈍 くなった頭の中で、遊閑の姿を現わしたり、久しぶりに見た源 左衛門の大きい鼻を見たり、父の無念そうな瞳を描いたりして いた。そして心の奥の方で、 (彼奴の親爺を斬ったのは、悪かったかもしれぬ)  と、云うような事を、ぼんやりと感じていた。そして、源左 衛門の叫んだ言葉に、傷の痛むよりも、口惜しさを感じなが ら、 (俺のこの無念をはらしてくれ、弟達よ……)  と、だんだんもうろうとして|来《し   》る頭の中で、叫んだ。■齢の行 かぬ二人の弟の顔が、ちらっとしたが、すぐ真暗になってし まった。       七  父の石井宇右衛門が、殺された時、未だほんの子供であっ た、兵右衛門の二人の弟、源蔵と半蔵とは父と別れ、兄とも早 く別れていたから、兵右衛門が、源左衛門を憎むほど、憎みが 深くなかった。 (父兄の仇故、討たねばならぬ)  とは、感じていたが、世評に耳を傾けるだけの余裕があっ た。  兵右衛門が殺されたと云う噂が、家中に伝わつたとき人々 は、 「自分で建札まで立てゝ置きながら、揮一本も、しめないで殺 されるなど、大の不覚だ」  と、言った。 「そうは云えぬ。不意を討たれては、誰しも不覚は取る」 「討つ方が、討たれる者になったと云う事が、土台いかん。父 の仇なら、自ら探し求むべきで、安閑と待っているから、自然 油断に乗ぜられるのだ」 「この事件は、双方ともあまり、賞められん。|兵右《ひよりぇ》は、腹立 まぎれに、遊閑を討つし、源左も、闇討同然に、兵右を討つ 1建札で、堂々と名乗っているのだから、堂々と勝負して舞 互の遺恨を晴らさないのか。闇討にする位なら、まだ助太刀 を頼んだ方がよい」 「!や、元来、両人とも、た父怨恨に狂うて、武士の道に暗 い。どっちの手段も賞められんと思う」  人々は、いろくの批評をした。それは、両人の平生を知っ ているからでもあった。  だがハ世の中の人々は、兵右衛門の返り討を憐れむと同時 に、源左衛門が、返り討にしたことを賞めた。 「大津の高札の事件は、建てた方が却って討たれたと云う」  と、云うと、 「そりゃ、赤堀と云う男は|出来《あか》した」 「あの高札を建てる程なら、余程の手利きであろうが、之れを 文面通りに、出かけて行って討つたど、天晴れ侍だ」 「|敵《かたき》の用心の厳しい中へ、一人で乗り込んで親の敵を打つなど  :.」  人々は感心した。結局、源左衛門は、親の敵を打ったことに なった。源左衛門のかくれていた勢州亀山の城主、板倉隠岐守 が、■この評判を聞いて、源左衛門を、百五十石で召し抱えた。 そして赤堀水之助と名を改めた。        八 「吾々、二人の面目問題もあるし、父と兄との無念さを晴さな くては、このまゝに居れんが、世の中の噂では、赤堀もわるい が、兄者が、相手の父を殺したため、敵打の名分が乱れたた め、とかく批評がある。吾々としては、彼奴を討つのも肝心だ が、立派に名乗りかけて、堂々と勝負をすることが、何よりも 大切だと思う。たとい、返り討ちにあっても、武士として、何 一つ|後指《うしるゆび》をさゝれぬ事が、肝心だと思う」 「そうだ、その通りだ」  弟の半蔵が云った。 「所で、赤堀は、亀山の城中にいると云う話であるが、吾々 が、きっと来るだろうと思って、用心厳重との話である。町中 や、野原での太刀打と違って、城中で、亀山の諸士も見るだろ うし、微塵、卑怯な振舞はしたくない。たとい、取り巻かれて も、殺されても、尋常に勝負して、武士らしく戦おう。この心 がけでやろうではないか」 「やろうではない。やらなくてはならん。武士の重んずる所 は、その結果ではない。その態度だ、弓で云う|射前《いまぇ》だ。その位 の事は、俺も心得ている。それが兄の汚名を雪ぎ、赤堀を幾す 唯一つの方法だ。そして、もし吾々が敗れても、赤堀はきっと 世間から爪弾きされるに違いない」 「お前が、それだけ分っていてくれゝば、心丈夫だ」  二人の兄弟は、殿へ|仇討《あだうち》の願を出して、|暇《いとま》を頂くと、たとい 返り討になっても二人の志が判るよう、江戸町奉行川口摂津守 に、仇討を願い出た。元禄十一年十一月十六日附で、  一、浪人石井源蔵中上候、私親石井宇右衛門と申者、青山因  幡守殿に、知行二百五十石取相罷在候処、二十五年以前ハ摂  州大阪に|而《て》、赤堀源左衛門と申浪人、父宇右衛門を闇討仕  り、其節|立退《たちのき》申候。|其刻《そのとき》、私五歳にて、弟一人二歳に|而罷在《てまかりあり》  候。唯衿伴蔵と申罷在候、|相煩罷在召連不《あいわずらいまかりありめしつれ》ご|坤《もうさ》の|蕨《ず》。右源左衛  門父の敵に御座候間、見合次第討申度候、為後日申上候由、  右源|蔵申来候《もうし たり》。  と、川口より幕府に出した|仇討届済書《あだうちとどけずみがき》が残っている。  そして、二人の兄弟は亀山へは入って、可成り苦心をした。 城中の警戒が、厳重であるし、赤堀が城中から出ない為であっ た。  兄弟は、仲間奉公に身を落した。そして、城中には入る|伝手《つて》 を得た。        九  兄弟は、神社の床下にかくして置いた刀を出して、夜、城中 へ忍び込んだ。五月五日の節句の祝儀に、赤堀が、本丸へ行く ことを知ったからである。  だが、兄弟は、赤堀の顔を知らぬので、提灯の紋を目当にし ていたが、赤堀らしい人間も、提灯も通らなかった。  そして、そのまゝ人通は、絶えてしまった。 「来ない」 「こうなったら、十日でも二十日でも、こうして待っていよ う」  二人は、石垣と、その側に立っている小屋の間には入った。  そして夜明けまで、潜んでいた。夜が明けると、小者風をし ていた二人は、しゃがみながら、草をむしっていた。 「あれでないか」  半蔵が云った。聞いている赤堀によく似ていた。 「どうせ、名乗りかけて、勝負するのだから、前へ行って、訊 いて見よう」  源蔵は、立ち上って、来かゝった侍に、 「赤堀水之助殿でござりますか」  と訊いた。 「左様」,  と、素直に答えた。  半蔵は、赤堀の横に廻りかけたが、一切卑怯なことはすまい と、思い直して、すぐ正面へ出た。 「吾々は、石井惇右衛門の伜の鯨蔵、半蔵と申す」  赤堀は、色を易えると、一足退って、身がまえをした。源蔵 は、大声に、 「お互に、武士なら、尋常に勝負をしようではないか。|計事《はかりごと》だ の、闇討だのは、卑怯だぞ」  と、叫んだ。赤堀も微笑して、 「そうだ」  と云った。二の丸の門の足軽が、走って来た。赤堀が、 「邪魔をするな・見て居れ」と・叫んで"「討つ討たれ㌃は時 の運だ。わしも、赦で討たれるなら、其方達の|父兄《ちちあに》を殺した罪 亡しになる。と云って、闇々と討たれる赤堀ではないぞ」と、 一云いつfけた。 兄弟は・刀を聾て㌣が・半察・ 「兄上から」 と、-叫んだ。 「いざ」 と・声をか莫ξ蓄か㍗ぞ来る侍が、三四人足早 に集って来て、 「赤堀氏、何とした」  と、云った。 「助太刀無用。これが、兵右衛門の弟達じゃ。健気な奴だ。お 妨げなきよう」  半蔵が、 ー「御助勢なさるなら、壬別がお相手仕ろう」と、云った。  赤堀は、兄弟の健気な態度を見ていると、彼等が亡兄のやり 方を反省して、飽くまで正々堂々とやるつもりだと云うことが 分った。自分も、こゝで卑怯な振舞は出来ぬ。先年、風呂場で 闇討した恥を、今こゝで、堂々と戦うことで、|雪《そお》がなければ ならぬと思った。  兄弟の太刀先が、鋭いので、忽ち識だ炉になりながらも、伎 は同僚の助太刀を拒みながら、戦った。  源蔵の斬り込んで来た刀が、思ったよりも、深いので受けて 退く途端、■ 「御免」と、半蔵が、捨身に斬り込んだ。赤堀は、高股を切ら れながら、 (これで・武士らしい最期が遂げられる)と、思ったとき、源 蔵の刀が、肩へ来た。  .五月二十六日に、二人は江戸には入って、町奉行へ右の趣き を届け出でた。旧主、青山因幡守から、士分八人、足軽二十人 が迎いに来て、源蔵は旧知二百五十石、半蔵は新知二百石に なった。家中の人々は、  「えらい弟達だ。二人とも揃いも揃って」    と、云って、   「赤堀も悪運つきた」    と評した。   「赤堀も尋常に戦いました」    と、云っても人々は、取り合わないで、   「二人とも見事な態度だ」と賞めていた。 敵討愛慾行        一  空には、天の川が流れていた。  萩の花が自く夜の目尺乱れ咲いていた。泉水を廻って行く 奥庭の隅、小さい|杜《やしろ》があって、松の老木が二株、隣屋敷の方へ も枝を垂れていた。  泉水の向うに見える離れからは、ほのかな灯がもれていた。  松のやゝ上った根元に、お|珠《たま》は、|先刻《さつき》からうずくまってい た。  つぶてが一つ、隣の|築地《ついじ》をこして、ポッツと音を立てゝ、そ この叢の中に落ちた。  お珠は、手さぐりに、小石を一つ拾うと、そのつぶてを投げ た人には、当らぬように、そのつぶての来た方角とは、一間ば かり離れた方へ、そっと投げ返した。  築地の上に人の姿が現われる。お珠は、その方へかけ寄った。 「伸太郎さま」 「うむ」 「どうぞ」  身がるに、築地をのりこすと、サッと物音も立てず、飛び降 りると、いきなり女に寄り添った。情熱的な抱擁。  かたびらを着流して小刀だけを、たばさんだ長身の青年。 「待った?」 「いゝえ、いつもよりは、お早う来て下さいました」 「そう。|其方《そなた》の方の都合は〜」 「上々でございました」  二人は、抱き合ったまゝで、松の根元に並んで、腰をおろし た。 .会えば、抱き合ったぎりで、言葉のない二人であった。  去年の夏ふりつ寸いた長雨で、両家の間の|築地《ついじ》が十間ばかり もくずれた。その崩れた築地ごしに、は入って来た隣の飼猫 を、伸太郎が抱いてお|珠《たま》の手に渡してやつた。そのときに交し た|一言《ひとこと》が恋の初めで、人目を忍んで、その破れた築地ごしに語 り合っていたが、築地が新しく築かれる頃には、二人の間は深 くなって、新しい築地もものかわと、雨のふらない晩は、五つ 半を計って、お互に打つつぶてを合図に忍び合っていた。 「今日、城中で一寸気にかゝる事を聴いたのですが、遠藤との 話は、どうなりました?」  男は、最初の抱擁からやっと手を解くと、女の美しい横顔を のぞき込みながら訊いた。 「さあ……」 「どうせ、いつかはまた起る話と、覚悟はしていますが」  お|珠《たま》は、彼女の父長山右膳にとっては、組頭である遠藤喜左 衛門の嫡子喜一郎の嫁として望まれていた。  良縁ではあるし、父と父との関係から断り切れる縁談ではな かった。去年の冬危く|定《き》まりかけていたのが、喜左衛門の妻 女が、病死したため、その忌服のために延びていた。しかし、 もう半年以上も日が経ったし、伸太郎は不安になっていた。 「喜左衛門殿が、二三日前お宅へ見えられたと云う話ですが .ミ」 「はあ」  お珠の涙ぐんでいるのが、伸太郎には感ぜられた。 「どうぞ。騎かくしなく、ほんとうの事をおっしゃって下さ い」 「実は、父から昨日その話がございました。九月には、結納を とり交そうとやらで……」  女は、きれハ\につぶやいた。 「   」  男は、予期はしていたが、ブヅと胸にこたえたと見え、しば らくだまっていた。 「拙者にも|許嫁《いいなずけ》があり、そなたにも許嫁があり、末とげぬ恋と は、思っていたが、そなたいとしさが日に増すばかりで、つい 逢瀬を重ねてしまった…・-今となっては、手を携えて他国へ走 るより外、二人が添いとげる道はないが……そなたを、そゝの かして出奔したとあっては、この彦根一藩の人から、人でなし のように云わるゝも無念ゆえ……」 「   」  お珠は、だまってすゝり泣きしていた。 「だが、夫婦になるばかりが、まことの恋でもあるまい。そな たが遠藤へ|嫁《ゆ》かれても、一生の間まことに恋しいと思うは、こ の伸太郎であろう。拙者も、心ならぬ妻を迎えても、心にいと しと思う女は、そなたの|他《ほか》に生涯あるまいと思う。なあ、そう ではないか」 「   」  女は、言葉なくうなずいた。 「他人の妻、他人の良人となって、生涯心の中で愛し合ってゆ く、それがまことの恋かも知れぬ。のう、茄珠どの、拙者が 云っている言葉が、そなたにも分るっ・1」 「分るように思います」 「拙者は、今こゝでハッキリ誓う。この世の義理で、そなたを 他人にやろうとも、拙者がたった一人の心の妻はそなたじゃ。 そなたも同じことを誓って貰えるP」 「はい」 「そうでも、誓い合えば、別れゆく二人の悲しみが、いくらか でも、薄くなる。そなたのやさしい|情《なさけ》は、いつまでも拙者の心 に残っているだろう。拙者は、それを思い出して、生きて行く のじや」  女は、よゝと泣き伏した。男は、また女をしっかり|背後《うしる》から 抱きかゝえてその白い頬に、自分の頬をぴったりと寄せた。        二  田崎伸太郎は、自分の家と恋人の家との平和のために、お珠 と清く別れた。自分には老年の父母があったし、お珠には父母 があり兄弟があった。自分が、恋人を携えて出奔したならば、 藩風峻厳なこの彦根藩では、両家とも改易になることは、確か だった。  絶ちがたき愛慾の絆ではあったが、涙をのんで恋人之別れ た。一面には、恋人の心さえ掴んでいれば、たとい別れて暮し ていようとも、お珠は自分のものだと思っていた。  だから、彼はお珠が輿入れの騒ぎにも、じっと目をふさいで いた。だが、お珠が婚礼の晩には、彼は終夜ねずに、醸転し た。  自分のみが、その秘密を知っているお珠の美しい肉体に、 -少し受け口になっている可愛い唇に、うぶげの生えている 白いうなじ、掴めば折れるかと思う細い二の腕に、喜一郎の木 刀だこの|出《  》来た手が、むさぽるように、触って行くめかと思う と、たまらない思いがした。  心を掴んでいる方が勝利者だと云う彼の思想は、危く揺りう ごかされた。  彼は憂欝になって、十日間位、公務の外はどこへも出なかっ た。  九月十三日、彼は稽古に通っている東軍流太田|鬼斎《ぎさい》の道場の 稽古日であるのを思い出すと、木刀でも思うさま振ったら、少 しは気がまぎれるだろうと思ったので、八つ頃から三町とはな い道場へぶらりと出かけて行った。  道場へ一足は入ると、彼はすぐ後悔した。道場の真中で、鬼 斎の打ち込む木刀を、「流水の受太刀」の型で受け止める稽古 をしているのは、遠藤喜一郎だった。 「先生今一本!」 「よし! えいっ」 「おゝ!」  喜一郎は、それを中段でかるく受けとめながら、右に払いの けた。 「よろしい。その呼吸! その呼吸さえ忘れねば、どんな名人 上手の打つ太刀も、きっと受け止めることが出来る」  鬼斎は、そう云いながら、は入って来た伸太郎をちらっI と見ると、 「田崎|氏《ラじ》、拙者に代って、遠藤殿を一本打ち込んで見やれ!」  と云った。  伸太郎は、悪いところへ来たと思った。この道場の相弟子と して、二人の腕は互角だった。平生も競争相手として、仲がよ くなかったし、今の自分の心持ではと思ったが、辞退する口実 もなかったので、稽古着に着換えると、手馴れた木刀を持って 立ち向つた。 「田崎氏、遠藤殿は恋女房を貰ったばかりであるから、少し手 加減をなさったらよかろう」  道場での、ひょうきん者の咲山と云う男が云った。遠藤はニ ヤリと笑って、 「女房を貰ったからと云って、腕のにぶる拙者ではない。田崎 |氏《うじ》、御容捨なく」 .咲山の言葉と、遠藤の返事とが、伸太郎の頭にグンと来た。 伸太郎は、何か自分の頭の中に、殺気を感じた。 (打ち込んでやろう。「流水の|受太刀《じゆだち》」だって、よもや鉄壁で はあるまい)  彼は、そう考えると、潭身の力をこめて、木刀をふりかぶっ た。 .「・えいー・」  す、こい気合だつた。鬼斎は、真剣でもないのに、どうしてこ んなすごい気合がかゝるのか不思議でならなかった。 ー「》えい!」 ,二度目に、伸太郎はそう叫ぶと、右足をふみこみながら、真 向から打ちおろした。  喜一郎は、中段で受けとめたが、伸太郎の必死の力に押され たのだろう。受けた太刀先が、下って伸太郎の木刀の先が、か すかであったが、喜一郎の小びんを打った。  喜一郎は、蒼白になっていた。' 「たしかに、打ち込みましたでござりましょう」  伸太郎は、鬼斎の方を顧みて云った。 ■「されば……」  鬼斎は、「流水の受太刀」の型が、もろく破れたので、不興 にたって、すぐには判定を下さなかった。 「いや、飛んでもない」  喜一郎は、伸太郎の自分に対する敵意を感ずると、蒼自に ねった顔が、いつのまにか真赤になってい九。 「飛んでもないとは、拙者が打ち込めなかったと申されるの か」 「左様!」 「これは、笑止なことを仰せられる! 拙者の太刀先が、御辺 の小びんに当ったではないか」 「当ったのではない。かすったのだ」 「卑怯な云い逃れを云わるゝ。木刀なればこそ、かすったとも 云われよう。真剣ならば、御辺の頭が|真二《まつぶた》つになったのじゃ!」 「何!」  喜一郎の眼が、血ばしった。 「田崎氏、遠藤氏、先ず先ずお控えなされい!」  鬼斎が仲には入ったが、もう遅かった。 「真剣なれば、拙者の頭が二つになるかならぬか、ためそうか」 「望むところ」 「よし、その言葉を忘れるな」  そう叫ぶと、喜一郎は、稽古着をかなぐり捨てるように脱ぐ と、手早く身仕度をして、なだめすかす同門の人々をふり払っ て帰って行った。        三 乗!」  喜一郎の声が、いつもより少し険しいように思いながら、 「はい」  と、答えて、急いで座敷へは入って見た。 「これを作平に届けさせてくれ。返事が要る!」  良人の差し出した書状を見て、お珠は色が変った。「田崎伸 太郎殿要用」友人でもたければ、知己でもない伸太郎殿に、何 の用事だろうと思うと、お珠はもしやと云う心配で、胸がふる えた。が、良人に訊くべき筋はないので、勝手に下ると、作平 を呼んで渡した。だが、(何の用事だろう)と思うと、お珠は 動悸が、しずまらなかった。  婚礼を挙げてから、今日で十三日になる。お珠は、た間良人 が恐いだけだった。秘密を胸に抱いているだけに、彼女はつね に良人の前に心をち父めていた。良人は伸太郎のようなやさし い言葉を何にも云わなかった。だが、自分を抱く強い力や、自 分をみつめる強い|目《まな》ざしの中に、・喜一郎がどんなに自分を愛し ているか讐分った。だが、お珠はそれをうれしいと思うよりも 恐ろしいと思った。  半|刻《とぎ》ばかりすると、作平が帰って来た。欝珠は、作平から、 書状を受けとると、裏を返して見た。田崎伸太郎と云うなつか しい人の名前を見ると、心が痛んだ。何かしら、この手紙が恐 ろしい事の前兆だと思った。 「お返事でございます」  喜一郎は、蒼自い緊張した顔で受け取ると、引きさくように 開封して、、一瞥した。 「珠」」 「はい」 「もっと、|此方《こつち》へ寄れ!」 「はい」  騎珠は、自分と伸太郎とについて、何か恐ろしい事を云われ るのではないかと思って、色を|易《か》えながら、にじり寄った。 「武士は、御主君のため、いつ命を捨てないものでもない。そ のことは、当家へ参るとき、心得ているだろう」 「はい」 「ひとり、御主君のためばかりではなく、武士道の意地から、 命を捨てることもあるが、それも心得ているか」 「はい』  お珠の大きい丸髭が、絶えずゆれていた。 「しかと心得ているか」 「心得て居ります」 「然らば話す。今宵田崎伸太郎と武士道の意地に依って、果し 合を致す!」 「あっ!」  欝珠は、のけぞるようにおどろいた。良人と伸太郎さまと、 ……とっさにお珠は伸太郎の身の上が案じられた。 「どのような御趣意で」  自分の事だとは、もう思っていなかった。自分の事なれば、 良人が自分に対して、これほど平静であるわけはないーと 思ったから。 「今日、鬼斎先生の道場での意恨からだ!」 「はあ!」  お珠は、恐ろしい|中《うち》にも、ボッとした。 「伸太郎と拙者とは、腕前は互角。勝敗は時の運じゃ。拙者打 たるれば、それまで。もし幸いに相手を打ち果せば、今夜彦根 を立ち退いて、江戸へ下る所存。江戸に落ちついてから、そち を呼び迎える所存。しかし、それは万一のことだ。大方は、|相 討《あいうち》だろう。別れの杯をする、舎弟や下人どもに悟られないよう 用意せい」  お珠は、良人の云ったことを、すぐ伸太郎の身の上に、|訂《なお》し て考えていた。果し合などをなすって、討たれるか相討ちにな るか、でなかったら出奔なされるような羽目になるのだった ら、なぜ私を連れて出奔して下さらなかったのだろう。今日道 場での出来事と云っても、あの方の心の中には、きつと私が あったに違いないのだ。私のために、果し合までなさるような ら、なぜ私をつれて、逃げて下さらなかったのだろう。あの方 が殺され、喜一郎殿が生きのびて、江戸の寓居へ呼び迎えられ るようになったら、私はどこに生き甲斐があるかと思った。  三方に盃をのせて、良人の前に出しながら云った。 「お互に思い|止《とオ》まり遊ばすようなことにはたりませぬか」 「馬鹿を申せ」  喜一郎は、蒼白い顔で笑った。  暮六つの鐘が鳴っていた。 「支度! 袴を出せ。六つ半に、西方寺の墓所でやる。それま では、舎弟はもとより親類中にも知らすな。七つになっても帰 らなかったら、皆に知らせ」  たすきをかけ、目立たぬように、その上から羽織を着ると、 お珠に裏木戸を開けさせ、もうとっぷりくれている戸外へ出て 行った。  少しも未練のなさ、武士らしい振舞を見ると、お珠は初め て、良人を男らしいと思い、何かしらすまない気がした。        四  良人を送り出したお珠は、自分の部屋へ引き返すと、そこで しばらくの間、失神したように泣き伏していた。どうしていゝ か分らなかった。彼女の小さい胸にはあまりに大きすぎる事件 だった。舎弟の喜四郎にだけでも知らそうかと思つた。でも、 喜四郎に知らすれば、喜四郎はすぐ馳けつけるに違いない。そ うすれば、伸太郎の御身が危い、そう思うと喜四郎にも告げ ることが出来なかった。自分一人の胸で、良人が勝つか伸太郎 が勝つかの恐ろしい半|刻《とき》をじっと、待っている外はないと思っ た。 自分は、どちらが勝つのを望んでいるのか、それはお珠にも 分らなかった。彼は、良人が仲太郎の手にかゝることは恐ろし いことだった。と云って、伸太郎が良人の手にかゝることは悲 しいことだった。  身も魂もちぎれるような瞬問がつ間いていた。 「姉上様!」  とつぜん、襖の外で喜四郎の声がした。 「はい!」  齢珠は、ふるえ上るような思いで答えた。 「兄上は、そこにいらっしゃいますか」 「いゝえ」  襖が、半分|開《あ》いた。元服したばかりの、兄と比ぺて、色白の 背の高い喜四郎が、そこに坐っていた。 「お部屋にも見えませんが、どちらでございましょうか」 「   」  騎珠は、どう答えていゝか分らなかった。 「先刻、朋輩吉井のところへ参りましたら、少し心配な事を承 りましたので」 「まあ。ーどんた事ですの,」 ■お珠の声はふるえていた。 「今日、鬼斎先生の道場で、兄上が田崎伸太郎殿と、武術の 上の口論をなされ、はたし|眼《まなこ》になってお帰りになったそうで すが、姉上にはその後の兄上の御容子を御存じありません か?」 「   」  器珠は、恐ろしさに返事が出来なかった。 「もしや、兄上の御容子に変ったこともないかとお訊ね致すの ですが……」  お珠は、この上かくすことは出来なかった。 「喜四郎どの。実は、兄上は先刻……」 「えゝっ!」 「田崎伸太郎殿を打ち果すと仰せられて……」 「え、っ、どこへ2 どこへ行かれました」 「西方寺へ。西方寺の墓所でやると、齢っしやって出て行かれ ました。誰にも告げるなと、欝っしやったので、今までだまっ ていました」  喜四郎は、サッと色をかえると、 「先刻とは、何時でございました〜」 「半刻ばかり前!」 「騎父さまには?」 「申し上ぽてありません」・ 「姉上Y御免」と、叫ぶと喜四郎は立ち上って、|長押《なげし》にかゝっ ていた短槍をとりおろすと、裏庭に|跣足《はだし》で飛び下り、先刻喜一、 郎が出て行った同じ裏口から飛び出して行った。  お珠は、喜四郎が短槍を持ってかけ出すのを見ていることが 出来なかった。あの短槍が、伸太郎殿の|背後《うしる》から、突き刺され るのではないかと思うと、彼は喜四郎がそこらあたりの石にで一 も、づまずいて少しでもいゝから、遅れてくれと望んだ。  またお珠に苦しい時が、つ讐いた。  でも邸内は、静かであった。離れにいる父喜左衛門が、「|熊 野《ゆや》」をうたっている声が、ほのかにきこえて来た。  半刻ばかり時間が経った。お珠は自分の部屋の窓をあけて、 じっと耳をすませていた。誰かの足音がしないかと耳をすませ ていた。もう(五つ近いと思われた。西方寺までは、十五町位 あるから、喜四郎殿は、もうとっくに馳けつけているに違いな いと思った。十七日頃の月が出て、庭がほのかに明るくなって いた。  あわた寸しい足音がした。裏木戸が烈しく引きあけられ た。 「父上!」  喜四郎は、かけ込むとすぐ離れへかけつけて叫んだ。 「何じゃ!」  |謡《うたい》の声が止まると、さすがにあわてない父のしずかな声がし て、障子が開いた。 「父上、|兄者《あにじや》は只今西方寺に於て、田崎伸太郎に打たれまし た」, 「え㌔喜一郎が,」 「はあ!」 「果し合か」. 「左様で」 「相手はどうしたっこ 「私かけつけましたときは、既にいずれかへ!」 [馬!」 .喜左衛門は、大声で叫んだ。  お珠は、喜四郎の報告をきいていると、胸の恐ろしい緊張が 一時にとけた。その代りに烈しい悲しみが来てよゝと、縁側の 上に泣き倒れた。        五  喜一郎の三十五日の法事が済むと、弟の喜四郎は直ちに、|敵 打《かたきうち》の旅に出るために、お|暇《 いとま》を主君に願い出でた。  お珠は、婚後喜一郎とわずかの契りであ.ったから、そのまゝ 里方へ帰ることになっていた。だが、喜四郎が打ち立とうと云 う間際になって、急にお珠は舅に向って、自分も|敵打《かたきうち》の旅に一 しょに出たいと云い出した。お珠の|健気《けなげ》な申出は、みんなを感 動させた。実父母の方も、異存がなかった。お珠の志望は、 叶って、お珠、舎弟喜四郎、下男作平の三人が、敵打の旅に出 たのは、正保三年の春の終りであった。  お珠は、道中目だたぬよう、若衆の姿になった。瓜実顔で あったから、若衆まげがよく似合った。紫の手甲脚絆に、編笠 を着た姿はなまめかしく美しかった。  伸太郎が、多分江戸へ下っただろうと云うので、東海道を|東《あずま》 へ下ることにした。  兄の婚儀の時に、初々しい姉の丸髭姿を見たときから、喜四 郎は美しい姉に、ひそかに心をひかれていた。 しかし、喜四郎は、真面目な青年だったから、兄嫁に対し7 邊な気持など、つゆ持とうとは思っていなかった。ところが、 兄の横死は、意外にも彼を兄嫁に近づけてしまった。  彦根を出てから、今日|御油《ごゆ》近く来るまで、毎夜毎夜の泊り に、彼は姉の美しい寝姿を、嫌でも見ずにはいられなかった。  その度に彼の心は、少しずつ姉の方へ惹かれて行くのをどう することも出来なかった。 「姉上、まえ歩き方がハ内股になりますぞ」 「おほゝゝゝ。でも、通行人は今誰も居らぬのではございませ んか」 「でも、くせになります」 「おほゝゝゝ」 「それから、昨夜岡崎の|宿《しゆく》でも、お言葉が、少しやさしくなり ましたぞ」 「でも、|貴君《あなた》も一度姉上と、おっしゃったではありませぬか」 「あはゝゝゝ、あれは拙者の粗忽」 「おほゝゝゝ」  と、お珠も編笠の中でつゝましく笑った。  右手には青い海が見え、.左には遠く秋葉山がかすんでいた。 麦が六七寸近く伸びていた。|快《こムろよ》い微風が吹いて、晩春の空 は、ほがらかに澄んでいた。  敵打の旅が、こんなに楽しくてもいゝのだろうか、喜四郎は そう思うと、何かわるい気がした。だが、編笠のはずれから見 えるほのぼのと白い姉の顔を見ると、彼はこうした旅がいつま でもつfいて《れゝばいゝと思った。 「今日のおみ足の容子は、どうですか」 「今日は、昨日よりもずっといゝようでございます」 「それは、けっこうです」  喜四郎は、騎珠のうるみのある甘ったるい声が、いく度でも きゝたかった-四五町歩くと、また話しかけた。 一「姉上」 コ一人ぎりのときでも、珠之助とおっしゃったらどうですの、 でないと、|貴君《あなた》のおっしゃったように、くせになりますわ」 「なるほど、では珠之助殿」 「弟に殿と云うのは変ですわ。珠之助とお呼びすてなさいま せ」 「では、珠之助」 「はい」 「でも、何だか変ですね」 「いゝえ。ちっとも変じゃありませんわ」 「田崎伸太郎は、貴女の御隣家ゆえ、顔はよく見知って居られ るでしょう」 「はい」  お珠の顔が急にくもった。 「拙者は一二度会っただけゆえ、その点では姉上がたよりで す」 「   」  騎珠は、だまっていた。編笠のはずれから見える美しい頬 が、青ざめていた。やはり、女性だけに、|敵《かたぎ》の名前を云うと、 色が変るのだと思うと、喜四郎はいじらしい気がした。  |御油《ごゆ》の|宿《しゆく》に着いたのは、六つ過ぎであった。折悪しく紀州侯 が、江戸からお国入りの道中、御油泊りにぶっつかっていた。 本陣脇本陣を初め、主なる旅籠は満員だった。  喜四郎の一行は、仕方なく宿はずれの旅籠に宿った。だが、 そこも紀州家の仲間小者が、二三十人も|宿《とま》っていた。-  三畳敷の小さい部屋一つしかなかった。食事が運ばれるま で、一|刻《とき》近くもかゝりた。いざ、寝るとなると作平は、主人に 遠慮して帳場へ行って、ゼこかの片隅にでも寝ると云った。三 畳の部屋には、喜四郎とお珠と光った二人寝ることになった。  女中が、床を敷きながら云った。 「ほんとうに、齢狭くてすみません。お床が二つしきかねます が、御一緒ではいけませんか」 「いけない!」  喜四郎は、だまってうなずきたいのを、勇気を出して、そう 叫んだ。 「じゃ、二つ並ぺてお敷きしましょう。お床がすこし重ります けれども」  三畳の部屋に、床を二b並べて敷くことは可なり無理だっ た。敷布団も重ったし、かけぶとんも重り合った。 「姉上、御窮屈でしょうが」 「いゝえ」  お珠は、袴だけを脱いだまゝ、部屋の隅にきちんと坐って いた。今までは、同じ部屋に作平と三人で寝た。同じ部屋でな くとも、すぐ次ぎの間に作平が寝ていた。そして、襖はいつも あけてあった。 「じや、齢先へ」  喜四郎は、宿の浴衣に着かえると、先に床には入った。 .だが、■お珠は裾の方に、うずくまったまゝ、容易に着換えを しようとはしなかった。旅立の初め、お珠は喜四郎に云った。 「私は、男の姿になった上は、きっと男の通りにします。|貴君《あなた》 も、私を女だと思わないで下さい」 「かしこまりました」  喜四郎は、お珠にそう誓ったし、心の中でもそう誓った筈で ある。  だが、騎珠が容易に寝ようとしないのは、彼女自身が、女ら しさを示した事であるし、また喜四郎は、もう四五日前から、 お珠の美しい襟脚や、その触れゝば溶けるようなやわらかい頬 にあらゆる女らしさを感じていた。  お珠が、裾にうずくまっている以上、喜四郎はどうしても目 をとずることが出来なかった。いな、あらゆる神経が、齢珠の 方へ飛んで行ってしまっているのだった。        六 .喜四郎は、お珠が裾に、うずくまっているのが、気になって どうしても眠れなかった。それに、お珠が自分と、床を並べて 寝るのをさけて、眠らないとすると、明日また続けなければな らない旅に、すぐ差し支える事なので、喜四郎は、そのまゝに して、置けなかった。 「姉上。お休みになりませんか」  彼は、床の上に起き直ると、お珠に云った。 「えゝ」  一本心の暗い行燈の傍で、お珠の白い顔が、ゆれた。 「さあ。お休みなさりませ」 「えゝ」 「姉上が、お休みになりませんと、喜四郎も休むわけには行き ませぬ」  でも、お珠は、容易に動こうとはしなかった。 「|身体《からだ 》を、お休めにならないと、明日の旅に差し支えます」 「えゝ」  お珠は、素直にうなずいたが、うごこうとはしなかった。 「さあ。どうぞ」 「でも私は、起きて居ります」  爵珠は、低いがしかし(どっか落着のある、しっかりした声 で云った。死んだ兄に対する、貞節から起るたしなみだと、思 うと、喜四郎は嫉妬が、かすかながら、胸を、さした。 「お姉さまが、起きて居られるなら、代りに喜四郎が、起きて 居りますほどに、|貴女《あなた》がどうぞお休みなさりませ」 「でも、それでは……」 「姉上は、|女性《によしよう》の身、起きて居られては身体がたまりません。 喜四郎が、起きて居りましょう」 「いゝえ。それには及びません。それでは、私休みますから」  姉の心が、うごいたのを知ると、喜四郎は、やっと安心して 身をよこたえた。  やっと、姉を説き落したらしいうれしさよりも、美しいなま めかしい姉の身体が、半間とはなれていない傍に、よこたえら れることが、喜四郎の心をときめかした。  喜四郎は、眼をとざしていたが、衣ずれの音で、姉の身体 が、どううごいているかが、ハッキリ分るような気がした。  姉は、立ち上ると、蒲団と壁との間を、かけぶとんを持ち上 ぴて、通って来ると、ソヅと蒲団を持ち上げて、身をよこたえ たらしかった。  喜四郎は、姉が床には入ったと感ずると、ソッと目をあけて 見た。枕に若衆髭をかるくのせて、向うを向いて寝ている襟足 の白さが、行燈のほのかた光りになまめかしかった。何だか、 急に女だけが持つ特有の体臭が"自分を襲ってくるような気が した。だが、そんななまめいた心を起しては、死んだ兄にすま ない。そう思って、喜四郎は、眼をつぶろうとした。裾の方 に、うずくまっていたときよりも、すぐ三尺向うにお珠の白 い、まだ処女の初々しさが、少しも取れていない身体が、よこ たわっていることが、喜四郎の感覚に大きな嵐を起していた。 少し、身をころがせてゆけば、ホンの一回転すれば、自分の足 がー手が、お珠の身体にと思うと、喜四郎は眼が冴々となっ てしまうのだった。  姉は、自分のことを、どう思っているだろう。自分と|敵打《かたきうち》 に同行したことから考えても、自分を嫌っていないことはたし かだった。敵打に出る位だから、契りのごく浅い兄を愛してい たに違いない。が、兄が死んだ後は、兄とは肉親である自分を 愛しないまでも、頼っているに違いない。頼っていればこそ、 果てしらぬ幾日の旅の|明暮《あけくれ》を、自分と一しょに暮そうと云う気 にもなれるのだ。  喜四郎の頭は、いろノ\な妄想で、踊り動いた。  お珠も、眠られないらしく、時々かけぶとんのかすかにうご く音がした。 「姉上、お休みになれませぬか」  喜四郎は、声をかけてみた。 「えゝ」 「御窮屈でござりませぬか」 「いゝえ」 -お珠は、向うをむいたまゝ答えた。|此方《こつち》を向くのが、恥し かったのだろうが、喜四郎は此方を向いて、寝てくれたら、ど んなに幸福だろうかと思った。  どこかで九つの鐘が鳴るまで、喜四郎は眠れなかった。はげ しい興奮で頭が、痛くなった。 七  泊りが重って、箱根を越える頃には、喜四郎の頭は、お珠 のごとで一杯になっていた。いかに男らしくふるまっても、朝 夕起居を共にしている内には、それとなく見えるお珠の女らし さ。白いうなじ、下着の下にふくらんでいる二つの乳、男とは 違って、どことなくやさしみのある腰付、一瞬の間も、そう云 うものが、喜四郎の頭をはなれない。心臓をくすぐられる言葉 のやわらかさ、時々見上げる黒い瞳の中にふくまれているそれ とはなき|媚《こび》。,  喜四郎は、作平が一、二町も遅れたときなどは、いきなりお 珠の首筋に手をかけて、引き寄せたい衝動に、駆られた。だ が、そうした下品な、直接的行動には出られなかった。今ま で、神妙に付き合って来ている以上、そんな振舞いをすること は、姉の愛を求めそこなえば、忽ちその軽蔑を受くることだと 思った。そんな軽はずみな求愛をするよりも、自分の心持をほ んとうに打ちあけて、敵打が了ったのち、晴れて夫婦になって、 頂こう。それが、自分の取るべき一番正しい道だと思った。  箱根の関にかゝる時は、お珠はいやでも、女の姿に帰らねば ならなかった。関所の手形には、ちゃんと女になっていたの で、三島の宿で、旅宿のものゝ目を忍んで頭を女の髭に結い直 した。女本然の姿になって関所を通った。 ,箱根権現に詣でて、首尾よく敵を討たせ給えと念じてから、 藍の湖に添うた|堤《どて》の上で、昼食のわりごを開いた。  女姿になった姉を見ていると、喜四郎は、今までの節制が忽 ち、どっかへ飛び去るような気がした。  胸いっばいの愛慾が、火と燃え狂って、はけ口を見出さずに はいられなかった。 「姉上。遅かれ、早かれ敵は討てるものと思いますが、敵を討 ちましたら、姉上はどうなされます」 「どうするとは、お国へ帰ってからの事でござりますか」 「左様」 「私尼になろうと思います」 「えゝっ」  喜四郎はおどろいて、 ,「そんなお若さで、尼などとはきこえませぬぞ」と、云った。 「でも、良人に死に別れました上に、良人のためとは云え、.人 一人手にかけることでございますから、罪亡しに尼になろうと 思います」 「でも、それでは……」  喜四郎は、姉の心をきくと、このやさしい|二十《ぽたち》足らずの女の 心に、そんな冷たい決心がひそんでいることに、タジタジと なった。 「   」  喜四郎は、何も云えない気持になって、しばらくだまってい たが、 「でも姉上、兄者とは結婚して、まだ十日も経たぬ浅いお契り であるし、兄者の非業の死も、いわば姉上の災難でござりませ ぬか。そんな短い契りでありながら、|敵打《かたきうち》にお立ちなされたこ とで、姉上の妻としての道は、ー立派に立っているではござりま せぬか。それに、首尾よく敵打をおすまし仁なった上に、尼に おなりにたるなどは、蔚考え過ぎではござりませぬか」 「でも、私は外に生きて行く道がございましょうか」  お珠は、伸太郎と良人との果し合が、表は剣道の遺恨である とは云え、伸太郎の心の底に、ハッキリ自分があったことを感 ずると、伸太郎にも済まなく思ったし、良人にもすまない気が した。自分が肌をゆるした二人の男が、斬り合ったと云うこと だけでも、|情《なさけ》ないあさましい事だった。そして、良人が既に死 に、伸太郎もやがて、|敵《かたき》として打たれるとすると、二人に対す る罪亡しとては、死か-…でなければ、尼になるより外にない と思っていた。喜四郎に、従いて敵打の旅に出たのは、恋しい ,伸太郎の前途を見きわめてから、自分の身の振り方を定めるた めだった。 「外に生きて行く道。ござりますとも! 首尾よく、本望を果 して帰国なされたならば、御再縁たさればいゝではありません が」 「でも、私のようなふつゝかた者を・一…・」 「何を仰せられます。姉上ほどの、御器量ならば、御縁は、ふ るほどでござりましょう。それに……」  喜四郎は、自分が兄に代って、家督を継ぐとすれば、ぜひ姉 .上を、|宿《やど》の妻に、思い切って、そこまで云って了おうと思った が、騎珠を愛していればいるほど、そうした露骨なことは云え なかった。 「再縁致すほどならば、敵打には参りませぬ」  お珠は、低いけれども凛とした声で云った。  欝珠の云い分は、当然すぎるほど、当然だった。喜四郎は、 もうそうした話から、自分の心持を打ちあける|緒《いとぐち》は、なく なってしまったので、だまってしまった。 八  主従三人が、江戸には入ったのは、五月の中旬であった。  喜四郎が、江戸の藩邸に住っている親類へ立廻って、田崎伸 太郎の消息をきいて見ると、江戸で田崎伸太郎を見かけたと云 う噂があることを知った。その見かけたと云う仲間を尋ね出し て、訊いて見ると、呉服橋の上で、すれ違った|士《さむらい》が、田崎伸 太郎によく似ていた。が、何分日暮れ時分で、横顔がそっくり だったとは思うが、正面から見たのではないから、確言は出来 ぬと云う話だった。 一でも、それは耳よりな話であったので、主従は江戸に|止《とど》まっ て、.田崎伸太郎を|捜《たず》ねることになった。  本郷丸山町に小さい家を借りて、仮の住居とした。お珠は、 もう若衆姿に、身をやつす必要はなかった。髭も島田に結いか ぇて、一家の主婦らしくふるまった。喜四郎と作平とが、朝早 く家を出て、一日は別々に、一日は一しょにと云った風に、江 戸中を探し廻った。  喜四郎が、夜に入って帰ってくる時など、お珠はいそノ\と して出迎えた。 「今日は、遅いので、どうなされたかと案じていました」 「本所から深川の方へ廻りましたので、遅くなりました」 「本所深川と申せば、隅田川よりも向うでござりまするなL 「左様、深川の八幡宮に参詣致し、それから亀井戸に廻り、亀 井戸の天神宮に参詣してまいりました」 「何ぞ、手がかりでもござりましたか」 「左様、深川仲町に東軍流の道場がありときゝ、田崎とは同流 でござる故、入門志願の由、申し立て、それとなく田崎が立ち 廻りはせぬかと、訊ねましたが、無駄でござりました」 「さあ。お|腹《なか》がお空きでござりましょう。どうぞ御飯を」  と、お珠は膳を運んで来る。騎珠の給仕で、夕食に着くの が、喜四郎にとっては、何よりの慰安だった。 「作平は2」 「今日は、白金のお下屋敷へ行って、心当りの人がある故、田 崎の事をきいて見ると申して出ましたゆえ、|晩《おそ》くなるのでござ り斎しょう」  さし向いに、こうして坐っていると、喜四郎は、いつも烈し い愛慾の心が、湧いて来るのだった。姉の再縁問題などから、 姉の心を探ぐることが出来ないとすれば、いっそ思い切って、 自分の心を率直に打ちあけて見よう、その方が、姉の心を動か す可能性があるのではないかと思った。  この四五日、姉と二人ぎりになる機会は殆どなかった。今宥 を、はずすと、またいつ来るか分らないと思うと、喜四郎の心 は、いらだって来るのだった。 「姉上」  喜四郎は、お珠が喜四郎の喰べ|了《おわ》ったお膳に手をかけて立ち 上ろうとしたとき、声をか甘た。 「えゝ」  お珠は、喜四郎の改まった声に、少しおどろいて、黒い眼 で、じっと喜四郎を見上げた。 「姉上、姉上は死んだ兄者のことがどうしてもお忘れになれま せぬか」  それは、お珠にとって、意外な問いであった。胎珠の忘れら れぬのは、喜四郎の兄ではなかった。 「   」  お珠は、目をみはって、だまっていた。 「姉上、まだ|轍《かたき》も打ちませぬ今、かような事を申しますのは、 見下げはてた男と、おさげすみになるかと思いますが、私は ……」  喜四郎は、顔を真赤にして、しばらくうつむいていた。  お珠も、喜四郎の云おうとすることが、ほ間分ったらしく、 忽ち顔色が、青ざめてしまった。 「私、いく|度《たび》思い返したかも分りませぬが、国元を立って今日 で三|月《つき》、姉上のお傍にいればいるほど、姉上の美しさ、姉上の おやさしい姿が、身にしみて、今では、姉上恋しさで心も空に なってしまいました」  そう云うと、喜四郎は頭を下げて、両手を畳の上についた。 「不義者とも、恥知らずとも、お憎み下さい。でも喜四郎奴 は、姉上のお|情《なさけ》を受けいでは、生きている甲斐が、ござりませ ぬ。と、申して只今すぐ、道ならぬことを申し上ぼるのではご ざりませぬ。首尾よく敵打が済み、本国へ帰参致し、七百石の 跡目、この喜四郎に相違なく下し置かれましたとき、喜四郎の |宿《やど》の妻になってやろうと、九った一言約束して下さいませぬ か。そのお約束さぇ下されば、喜四郎の悦ぴ、この上はござり ませぬ」 そう云って、喜四郎は、目をあげて見ると、お珠は白い蟷の ような顔になり、ぶるく|身体《からだ》をふるわしていた。 「申しわけない難題でござりましょうが、喜四郎の心をあわれ と思召して、御承引下さいませぬか」  喜四郎は、誌珠の顔を、じっと見てる裡に、だんくふかい 絶望に囚われて行った。お珠の顔は、死相に近いほど、悲し かった。喜四郎の申出が、少しでもお珠の心の、どっかに、浸 み入って行く余地があるならば、こんな怖ろしい顔にはならな い筈だと思った。  自分が、何にも云い出さない裡は、お珠は、義理の姉弟以上 の親しみを見せていてくれた。一度云い出して、こんたにお珠 の心を、きずつけてしまった上は、これからの同棲生活の気ま ずさ、あじきなさが、胸を圧して感ぜられた。でも、云い出し た以上、どうにかしてお珠の心を少しでも動かしたいと思っ た。 「姉上、姉上は死んだ兄者のことを思うて、兄者に済まぬと、 考えて居られましょうが、|女性《によしよう》の御身で敵打の旅に|出《い》で、見事 敵を打ちおおせたならば、立派に義理は果したことになるでは ござりませぬか。この喜四郎を、ふつふつ齢嫌いとならば、致 し方はござりませぬが、少しでも不欄と思召し下さらば死んだ 兄の嫁が、弟の嫁となることも、世の中に|例《ためし》もござりますゆ え、どうぞ喜四郎の願いを叶えて下さりませぬか。只今、どう のこうのと申すのではござりませぬ。・た間お約束だけで、喜四 郎は、欣び勇んで、敵を尋ね、一日も早く本懐の達しますよ う、心命を致すつもりでござりまする」  喜四郎は、心のたけをつくして云った。そう云って手をつい て、顔を上げて見ると、騎珠は横ざまに畳に顔をふせていた が、ぞの蒼白い横顔が、涙にぬれているのが見えた。ーその凄壮 な顔のどこに、色恋があろうか。返事は、何もしなかったが、 喜四郎は、鋭い剣で、胸を刺される思いであった。  少しでも、恥しがってくれるとか、ホンの少しでいゝから 顔を赤くしてくれるとか、少しは色よいところが、顔に、身体 の上に、あら、われてくれゝばと思ったが、、た間凡ては、当惑、 凡ては拒絶、それを顔であらわしているのだった。  喜四郎は、絶望だと感ずると同時に、イライラした。身も心 も、この人のために、さゝげてもいゝと思っていただけに、一 綾の望みもないと分ると、もう凡ては、どうにでもなれと思っ た。 「姉上、姉上はそれほど、喜四郎がおいやでござりますか」  よゝとお珠は、泣き声を立てただけで、返事をしなかった。 「もとより、敵打の道中、かような事を申し上げることは、武 士にあるまじき事とは思っています。出立のときの、お約束に も背いたことになっています。だが、喜四郎㌔人の道は、心得 て居りますから、みだりがましい振舞など、致したいのではご ざりませぬ。これからも、左様のこと、露ほども致そうとは思 いませぬ。た間、抑えきれぬ姉上恋しさの心、うちあけて、行 末の騎約束だけを願っているのではありませぬか」  騎珠は、何も云わなかった。身体が、ふるぇて何も云われな いのだった。 コ督四郎の申すことが、それほど理不尽でござりましょうか。 喜四郎が、それほどお嫌でござりましょうか」  喜四郎も、声がふるえだした。少し釣り上っている眼が、血 走っていた。  お珠は、よゝと泣きつ間けていたが、,喜四郎が、重ねて、 「それほど、お嫌でござりますか」と、云ったとき、畳にぺっ たりつけている顔を、少し横に振った。しかし、それは仕方な く振っていることが、喜四郎には、ハッキリ分った。 「今、喜四郎が申し上げたこと、きゝ届けては下さいませぬ か」 と、またお珠の泣き声は、高くなって行った。もう駄目だと 喜四郎は思った9涙にあらわれたなまめかしい横顔を見ている と、愛慾と怨恨とが、渦を捲いて湧き起った。いっそ、力ずく でもと思う心を、彼はやっと抑えた。  しかし、こうなってしまっては、もう姉との同居生活は、騎 互に苦痛であり、恥であると思った。 「姉上、くどうはござりますが、どうしても、きゝ届けては下 さいませぬかL  お珠は、やっと泣き止んだが、畳に伏せた顔を、石のように 堅くしたまゝだづた。  喜四郎は、もうこれまでだと思った。彼は、先刻から考えて いた事を云う外ないと思った。 「姉上、かような恥しいことを申し上げ、それを姉上が、お きゝ届け下さらぬ上は、今日限り姉上と朝夕、顔を見合わす面 目はござりませぬ。喜四郎は、明日からは姉上と別れ、.た讐一 人になって敵を探そうと思います。もし、敵が見つかりまし て、姉上をお呼び致す暇がござりましたら、必ず欝迎いに参り ますゆえ、作平と一しょに、この|家《や》にお暮しなさりませ。それ では、喜四郎は只今限りこの|家《や》を出て参りますゆえ、作平が帰 りましたならば(喜四郎殿は、敵の手がかりあって、旅に出 た)とでも、お話し下さいませ、では、御免!」  そう云うと、喜四郎は立ち上って、身支度を始めた。  お珠は、それでも、執拗にだまっていたが、喜四郎が、身の 廻りのわずかな品物をあつめ、 「然らば姉上、御機嫌よく」  そう云って、挨拶したとき、やっと血の気の全くなくなった 顔を上げた。 「喜四郎殿。お約束いたします」  それは、必死の顔であつた。 「でも、それは姉上の御本心ではござりますまい」 「   」  お珠は、だまった。. 「御本心でないお約東では、喜四郎うれしくはございません」 「いいえ、本心でございます」  お珠は、唇をかんで云った。それは、すごいぽど美しい顔 だった。 九  騎珠の承諾を得たものへ、.二人の同居生活は、忽ち地獄のよ うに、|荒《すさ》んで、しまった。お珠の顔から、微笑が消えてしまっ た。それは、切羽つまっての承諾であることが、初めから、 分っていたし、五日と経ち十日と経っても、お珠の顔は、蒼白 く緊張していた。目に見えて、やせても行った。  喜四郎は、以前の方が、いくら楽しかったか分らないと後悔 したが、もう遅かった。凡てが、形ばかりになった。朝夕の食 事にも、ちゃんとお給仕はしてくれたが、さし向いになって も、お珠はやさしい言葉一つかけてくれなかった。  齢珠の形だけ獲て、その心は永久に、喜四郎の手から、離れ てしまった。  でも、喜四郎は、首尾よく、|仇《かたき》を討って、めでたく帰参し て、結婚でもしたら、またお珠の心に、自分に対する愛が、芽 ぐまぬこともあるまいと云うことを、一縷の望みとして、懐い ていた。そのためにも、一臼も早く敵の|在処《ありか》を、知りたいと苦 心するのだった。  敵の在処は、案外容易に知れた。七月七日の|七夕《たなぱた》の日、作平 はいつものように、彦根藩の上屋敷、中屋敷へと、縁類を頼っ て、田崎の消息を訊きに行っていたが、七つ下りと思われる 頃、息を切らしながら、丸山町の家へ|走《は》せ帰って来た。  作平は息が切れそうだったので、台所へ行って、水を二三杯 のんで来ると、縁側でけぬきを|使《   》っていた喜四郎に、 「旦那様、|敵《かたき》の在処が知れましたぞ!」  と云った。 「知れたか!」  喜四郎は、けぬきを|捨《サぴり》てると、立ち上って、本能的に、床の 間に置いてある大刀を、とり上げた。 「何処にいる?」 「江戸では、ござりませぬ。中屋敷の近藤多門様の話では、一 度江戸へは来たが、喜一郎殿に切られた肩先の傷が、痛むとか で傷養生にどっかの温泉へ行ったとかでござります。多分、熱 海か湯河原かでなければ、伊香保、草津あたりを探したら、必 ず見つかるだろうとの事でござります」 ー「それはよい知らせだ。傷ならば、湯河原か草津だ。作平、明 日にも立とう」 「はあ!」  喜四郎は、勇み立った。だが、次の四畳半の自分の居間にい る筈のお珠は、作平の声がきこえている筈だのに、しばらくの 間出て来なかった。 「姉上。お聞きなされましたか」  喜四郎は、襖ごしに声をかけた。. 「えゝ」  お珠は、低い声でそう云ったまし一へ出て来なかった。こん な、.欣ばしい吉報に、主従三人手をとりあって喜ぶべきだのに と思うと、喜四郎はたまらないほど、いやな気がした。 ー「作平、出立の用意をしよう。|大家《おエや》へ行って、家を|空《あ》けると 云って来い。出入の|商人《あきんど》達の払いも今日中に、済ませてしま え」 「はあ」  作平は、すぐ家を出て行った。それだのに、霊珠は出て来な かった。  |敵《かたき》の|在処《ありか》が、知れかゝったことが、お珠には嬉しくないの か。嬉しくないとすれば、敵打はうれしくても、その後に迫る 嘗分との縁組が、いやなのだろうと思うと、喜四郎は、悪感 が、胸の中に湧き立って来るのだった。 「姉上。およろこびになりませぬか」 そう云いながら・喜四霧・その敵の襖を明けて見た。する と、騎珠は畳の上に、うっ伏して泣いているのだった。■  喜四郎は、お珠に対する憎悪さえ感じた。ひどいー.あまり にひどすぎる。彼は怒りに声がふるえた。 「敵の在処が知れかゝったことが、姉上にはうれしくございま せぬか」  喜四郎は、胸一杯の恨みを、ふくめて云った。 「   」  お珠は、返事をしなかった。 「なぜ、お欣びになりませぬか、姉上」 「うれしゅうございます」  お珠は、泣きながら云った。 「それなら、なぜお泣きなさるP」  喜四郎は、いらくしていた。, 「でも何となく悲しくて」 「左様でござろう。敵打が済めば、喜四郎の妻となることが、 悲しいのでござろう」  お珠は、よゝと泣きしきったが、そうでないとは云わなかっ た。喜四郎は、お珠が、憎らしくさえ感じた。        十  草津までの旅は、徒労であった。草津から引き返して、湯河 原へ向ったのは、■秋も漸く更けた九月の中旬であった。春、東 海道を下ったときのような楽しい旅ではなかった。  お珠は、小田原で|宿《とま》って、明日は湯河原へと云う晩、また泣 き出して、喜四郎を不愉快にさせた。  三人一しょに、湯河原へ行ったのでは、すぐ目に立つと云う ので、作平一人湯河原へ先行した。そして、その日の夕方、小 田原へ|走《ま》せ帰って来た。敵田崎伸太郎が夏の終りから、湯河原 の百姓屋の一間を借りて、傷養生に努めていることが分ったか らである。  お珠は、その晩は泣かなかったが|終夜眠《よもずがら》れなかったらしい容 子が、その翌朝の寝みだれ髪で知れた。  喜四郎は、もう意地になっていた。お珠が、どんなに悲しん でいようとも、約束の手前、妻にせずに置くものかと思ってい た。妻にして了えば、たか父女一人、どうにでも出来ないこと はないと思っていた。  三人は、朝早く起きると、銘々支度をとゝのえて、|明六《あけむ》つに 小田原を経った。  湯河原へ着いたのは、四つ前であった。疲れてはならないの で、焦らずにゆっくり歩いた。  敵の居る百姓家は、藤木川に添うた水車のある家だった。一 軒家だったし、周囲に気兼せずに、一気に斬り込むことにし た。喜四郎は、表から、作平とお珠とは、裏手の方へ廻つた。  鷹儂ののびた嵐が見違えるほど青くなった田崎が、縁側で、 日向ぼっこをしているのを見付けると、喜四郎は垣根もない庭 へ走り込んだ。 「田崎久しぶりじゃ。喜一郎の舎弟喜四郎が参ったぞ」  喜四郎は、田崎が喜四郎の姿を見て、片膝立てたときに、名 乗りかけた。  田崎は、少しもあわてなかった。一寸、喜四郎の顔を、苦笑 をしたようにさえ感じられた。 「よく、訪ねあてたなし  田崎は、そう云うと立ち上って、奥へは入ると、大刀を持っ て出て来た。 「尋常に勝負せい」 「するとも」 .田崎は、そう云うと、庭へ降りて来たとき、喜四郎も注意し たがら、納屋の方へ行くと、そこの入口にあった荒縄で手早く 裡をした。 「姉上。作平」  敵を見つけたことを、まだ知らないらしい齢珠と作平とを、 喜四郎は大声で呼んだ。  姉上と云う言葉を聴くと、伸太郎の顔色が変った。 「姉上とは、お珠どのの事2」 「勿論」  喜四郎は、余計のことを云うなと、云う風に云った。 「騎珠どのまでが……」  伸太郎はうめくように云った。  お珠と作平とが、そこの山吹の植込の中を抜けて姿を出し た。  伸太郎は、お珠の顔を見ると喜四郎が刀の鞘を払っているの もかまわず、つかくとその方に歩み寄った。 「お珠どの、|其方《そなた》までが、拙者を恨んでいるか」 「いゝえ」 ■欝珠は、喜四郎の居ることなど、忘れて熱に浮かされている ように答えた。  喜四郎は、鉄槌で、力iンと、頭を殴られたような気がし た。 「然らば、なぜ敵打に同行された」 「一目お目にかゝりたくて」 「おゝう」  伸太郎が、手を差し出そうとしたときだった。 「不義者!」  喜四郎は、狂気のように叫ぶと、伸太郎に抱かれようとした お珠を、襲った。伸太郎は、齢珠を抱えるようにして、喜四郎 の太刀先を避けたが、避け切れないで、切先がお珠の右の肩 を、一尺ばかり切り下げた。 「本望でございます」  ・お珠は、斬られながら叫ぶと、伸太郎の腰のあたりに抱きつ いた。  伸太郎は、左の手でお珠を抱きながら、刀を抜き合わせた。 「喜四郎殿。お恥しいが、騎珠は、拙者と契った女だ。浮世 の義理で、喜一郎どのにやったが、拙者が重々のあやまり…」 「伸太郎さま。どうぞ、喜四郎どのに討たれて、一しょに死ん で下さい!」  お珠は、|重手《おもで》に弱りながら、必死に叫んだ。  喜四郎は、お珠の行動のあらゆる謎が解けたような気がし た。自分が、裏切られているばかりでなく、兄まで裏切られて いるのだ。嫉妬と怒りとで、喜四郎は、猛獣のようになってい た。 「よし、お珠どの。おん身のために命を捨てるぞ、喜四郎切 れ!」 「何を!」  喜四郎は、畳みかけて斬り込んだ。 「あはゝゝゝゝゝ」  伸太郎は、肩に小びんに斬り込まれながら、顔を引きつらせ て笑いつ鳥けた。  喜四郎が、気がついたとき、二人の男女は、彼の足下に、ズ タくに斬り倒されていた。 然し、肉体的に二人を、ズタくに斬った喜四郎は、精神的 に二人から、滅茶々々に斬られていた。 荘然として、見ていた作平を顧みると、喜四郎は云った。 「作平、帰国しても、此の始末は口外するな」 「はあ!」 「恐ろしい肚だ!」 それは死んだ兄の肚である。と同時に、喜四郎の恐ろしい肚 であることを作平は知らなかった。 堀部安兵衛        一 「あゝ、こら! こら! |其方《そのほう》ども、何を致し居るか。この御 静詮の御世に、御府内をもは間からずしかも自昼、喧嘩など致 し居る奴があるか。こら、止まれと申すに」  上野山下の三枚橋の橋の挟で、安兵衛は運よく、火消人足 と、大工らしい男が喧嘩しているのを見つけた。 彼は、今まで|浅草寺《せんそうじ》境内を稼ぎ場にして、喧嘩の伸裁で、酒 にありついていたが、この頃すっかり、その手を知られてし まって、喧嘩をしている町人、遊び人などが、あっても、安兵 衛の姿が、ちらっと見えると、きっと野次馬の一人が、 「齢い、よしねえったら。安兵衛が来たじゃないか。喧嘩をし て、|酒銭《さかて》を取られて、それで|手前《てめぇ》達割に合うのか」  と、忠告すると、 「おゝ、安か。こいつは、いけねえ。いまいましい奴だが、こ の次ぎにあずけて置く」  と、一方が云うと、片方でも、 「何を云いやがる! こん畜生! 安さぇ来なければ、叩きの ばしてやるんだが」 「何を!」 「何を!」  と、にらみ合いながら、安兵衛が、.近づくと、二人とも群衆 の中に、まぎれ込んで了うので、全然商売にならなくなった。  で、今日は|河岸《かし》を更えて、上野山下へ出かけて来たのであ る。  だが、舷は浅草寺などと比ベると、まるで人の出ようが違う ので、安兵衛は|正午《しよううま》の時から、今|暮六《くれむ》つ近くまで待って、やっ とこの火消人足と、職人との喧嘩を見つけたのである。 (火消人足の方は、どうせ文なしに違いないが、職人の方はい くらかあるだろう。だから、職人の方に花をもたせるように仲 裁して)  と、見込みをつけながら、組んずほぐれつなぐり合っている 傍に、野次馬を押しのけながら、立ちはだかったのである。 「こら! よせ! と申すに。止まれ! と申すに」  彼は、先ず火消人足のえんぴを、むんずと|抑《ち  》えた。こうし て、今まで|勝目《かちめ》である火消の方の自由を束縛して、職人の方に 少しなぐらせて、金のある職人の方に、彼を感謝させるように すれば、後で出す|酒銭《さかて》も、少しははり込むだろう。彼は、いろ いろ仲裁術を心得ていた。  所が、彼に喰ってかゝったのは、職人の方である。  ` 「騎い! |武士《きむらい》、何をしやがる2 何邪魔をさらす。俺達は、 二人ぎりで、思うさまやりてぇのだ!」 「そうとも、放さねえか」  火消人足も、振り放そうとして、身をもがいた。 「放してやりねえ」 ■職人も、喧嘩をよして、安兵衛にかゝって来た。江戸っ児ら しい、|正道戦《フエアプレィ》の観念から、えんぴを捕えられている火消入足を |橿《な》ぐることを、いさぎよしとしないのであろう。 「不心得者めが!」  それは、安兵衛の思うつぼだった。 「仲裁は、時の氏神と申し、総別ありがたく心得べきである。 まして、浪々の身とは申せ、武士たるものが、町人風情の喧嘩 の仲裁を致してつかわすに、却って雑言を致す。不心得者め が!」 「何を、この野郎!」 「何を!」  職人も火消も、めいくの喧嘩をよして、安兵衛に飛びか かって来た。浅草でも、初めの|裡《うち》はいつもこうだった。この方 が、安兵衛としては、仕事がし易いのである。 「喧嘩の仲裁人に、却って喧嘩を売りつける! この横道者め が!」  そう、叫ぶと安兵衛は、先きに飛びかゝった火消の左の手の 逆を取っていた。 「あゝ、痛い! あっ! あっ1」 「この野郎!」  後かち、飛びかゝった職人も、いきなり、右の手の逆を取ら れていた。 「どうじゃ。おとなしく喧嘩をよすか」  相手をやっつけながらも、安兵衛の立場は、あくまで仲裁と しての立場である。 「何を!」 「何を!」  逆を取られて、安兵衛の方に、背を向けながら、二人は屈し ない。 「じゃ、もう少し苦しみを与えて、つかわす」  安兵衛は、逆にとった手に、ぐっと力を入れた。関口流で、 |練《きた》えた指先には、骨をも砕くような力があった。 「いてい!  いてい…1」  二人は、伺じように悲鳴を挙げた。 「どうだ! 喧嘩をよすか」 「よさねえ!」 「よさねえ!」 「強情な!」  これでは、誰が喧嘩をよさないのか分らなかった。 「安だ!」, 「喧嘩安だ!」  見物の中に、安兵衛を見知っている男が、だんく殖えて 行った。 「何だ! この頃は、こんな所まで来るのか」  そう云っている男もいた。  だが、安兵衛は、自分の何者であるか間、知られている方 が、仕事がし易かった。  遊び人風の男が、野次馬の中から出て来た。 「おい! 齢前、吉次郎じゃないか」  と、職人に云った。 「おゝ、兄貴! いゝ所へ来てくれた、この|武士《さむらい》がー1」  職人は、救助を求めた。 「齢前、この先生を知らねえのだな。こりゃ、安兵衛先生と 云って、当時浅草では、誰一人知らねえ者もない高名の先生 だ。お前達が、いくら歯ぎしりをしたって、かなうことじゃね え。早く謝りねえ、早くったら!」 「だって!」と、職人が不服らしいのを、遊び人は、相手がわ るいと云う目くばせを、した。 「先生、どうぞかんべんしてやって下さい。こいつは、|私《わつし》の友 達なので」  遊び人風の男は、小腰をか父めながら、安兵衛が逆に取って いる手を、そっとはなしてやった。 「いや、|俺《ふし》がかんべんするもしたいもな㌧た間喧嘩をさえ、 よして呉れゝば|俺《わし》は満足なのじゃ。わはゝゝゝ」  安兵衛は、大仰に笑います。 「おい、そっちの兄さんも、あやまりなせえ! これは、浅草 じゃ喧嘩安……おっと違った、安兵衛先生と云って、とても高 名な方ですぜ」 「どうぞ、御かんべんなすって下さい!」  火消も仏頂面をしながら、あやまった。 「いや、重畳々々! これで、万事まるく収まったと云うもの じゃ。おい! みんな喧嘩は済んだのじゃ、どけく!」そう 云つて、安兵衛は野次馬達を、追いちらしてから、・「時に、折 柄の夕飯どきだし、どうだ町人ども、これからどっかへ行っ て、仲直りの酒宴でも致そうか」  これが、うかく従いて行くと、たいへんだった。安兵衛は 斗酒尚辞せず、その上梯子酒だったから、夜通し飲みあかさね ば承知しなかった。 「おい! 一寸二人とも来てくれないか」  遊び人は、火消と職人とを、傍へよぶと、なにかひそノ\話 をしていたが、めいく懐中からなにがしかの鳥目をとり出す と、それを遊び人が、両替してから、紙につゝんで安兵衛のと ころへ持って来た。 「先生! 甚だ申し上げかねますが、三人とも用達しの途中で ございますので、御一緒致しかねますので、これはホンのわず かでござ、ますが、これで一こん召し上って:..:」 「何だ! 用達しの途中か、用達しの途中で、喧嘩をする奴が あるものか。これで、一こん飲め! その志は殊勝じゃが、一 体いくらじゃp」  安兵衛は、紙をめくって見る。 「何だ! たった一分か!」 「何分、しがない町人どもでございまして」  と遊び人が、小腰をか父めた。 「たった一分の仲裁料か、まあいゝ、かんべんしてつかわす」  やゝずりこけていた朱鞘の大刀を、前へひっばり出すと、 「やあ、町人ども雑作であったぞ」と、挨拶すると、ゆっくり 歩き去った。        二 、安兵衛は、お|成《なり》街道の|金蛸《きんだこ》と云う小料理屋で、暮六つ頃ま で、のんでいた。安酒を、三升ばかり、それでも少し足りない ので、焼酎を五合ばかり、■飲み足して、鎗脹として神田八丁堀 の裏|店《だな》へ帰って来た。  留守居もなければ、盗まれるものもない一人|住居《ずまい》、がらりと 表の障子戸をあけると、上りがまちの薄ぐらいところに腰かけ 待っているのは、伯父菅野六左衛門の家で、顔見知りの|仲間佐 平《ちゆうげんさへい》だった。 「いよう。佐平かよく参ったな。伯父上が、小遣いでも騎恵み 下さるお使か。それとは違うか、あはゝゝ今、用向きは、何 じゃ」 「驚手紙が、ございます」 「どれ!」  安兵衛は、それを受とけると、家の中は、もう暗いので、戸 外へ出て、薄あかりの中に、開いた。ー   舌代   申し談じたき|事有之《 ことこれあり》、この書状披見次第即刻の|入来《じゆらい》、待ち   入りそろ,  」 伯父    安兵衛殿  と、云う簡単な文面だった。  事によると、仕官の口でも、見つけてくれたのかも知れない ぞ、でなければ、おざく手紙で呼びつける訳はないと思っ た。 「伯父から来いと云うお手紙じゃ。じゃ、却刻同道しようか」 「どうぞ」 「|喰《くら》いよっているので、少し気まずいが、あはゝゝゝ」おんでん  安兵衛は、佐平を連れて外へ出た。神田から、青山穏田ま では、二里に近い里程だった。行き着いたのは、もう四つ半時 だった。  松平右京太夫殿の屋敷内、百石頂戴の菅野の家は、割合に手 広かった。  内玄関から、案内もなく上ると、低い|謡《うたい》をたよりに、奥十畳 の居間、 「安兵衛、参上致しました。は入ってもよろしゅうございます か」  障子の外で、手をついて云ったjもう酔は、すっかりさめて いた。 「大事ない」  口ずさむ謡の声が止んで、ものしずかな伯父の返事がした。  障子をあけて、伯父の前に、いざりよると、 「しばらく、.御無沙汰致しました。いつも、御健勝で」  安兵衛は、さすがに、謹厳そのもののような挨拶をして、伯 父の顔を見上げた。伯父の表情で、いゝ用事でよんだのでない ことが、すぐ分った。 「遠いところを呼んですまんが、少し聞き及んだ事があって ……」 「はあ……」  いよくいけないと、安兵衛は思った。 「これは、人の口じゃに依って、すべて信じているわけではな いが、その方は、近頃浅草寺境内或は、下谷広徳寺前などを俳 桐いたし、町人どもの喧嘩の仲裁などを致し、.それにかこつけ て酒食の饗応にあずかり、甚しきは金銭まで受納すると云う噂 じゃが、この伯父はまさか左様な、無頼な振舞を致すその方で もあるまいと思っているが、どうじゃ」  安兵衛は、まだ早春であるのに、背中に、冷汗がにじむのを 覚えた。今日も、そう云う金で、したゝか喰らいよった後だ け、顔を上げられない気持だった。 「さような事は、遊挾無頼の徒の致すことで、いやしくも武士 たるものが、ゆめノ\致すべき振舞でないと思うが、どう じゃ」  安兵衛は、畳に頭をすりつけるばかりだった。 「その上、その方は中山家再興の大望を持つ身ではないか。金 銭に不自由致さば、なぜこの伯父に|合力《ごうりよく》を乞わぬか。合カなど と申すよりも、この家へ参って同居いたせと度々申したではな いか」 「はっはっ!」  安兵衛は、さんざんであった。伯父が、自分を愛していてく れる気持が、よく分っているだけに、慈心をふくんだ訓戒は剣 のように、するどかった。  しかし、伯父の家に同居する窮屈さを考えると、同居するこ とだけは、どうにもいやだった。殊に下戸の伯父の家で、自分 一人酒をのんでいるわけにも行かなかった。 「どうじゃ、この|家《うち》へひっこして参れ! どうじゃ」  到頭、こんな話になるのか、困ったことになったと思った。 「はっ!」 「明日からでも参れ!」 「はっ! 考えました上で、お返事致しまする」 「何亀考えることも、相談することもいらぬではないか」 「でも、ムりまするが、|考《ござ》えました上で、半月か十日の内に は、多分`…・」え    しゃく  安兵衛は、一寸逃れば、尺とやら思っていた。 「強いてとは、申さぬが、|此方《こちら》へ参った方が、身のためだと思 うが」 「はあ、ありがとうございます」  叱ってすむと、伯父はさすがに、いつの間にか、温顔になっ ていた。 「この程、備前物を求めたので、そちに見せようと思ってい た」  伯父は、立って床の間の横の押入れを開けた。  刀の話になれば、もう|此方《こつち》のものだ。その備前物を、うんと 賞めてやろうハ刀の事だと夢中になる伯父は、忽ち機嫌がよく たってj一杯のますに違いないと思っていた。        三  安兵衛は、伯父の家にひっこしたくなかった。棟割長屋の路 次の一番奥の、たった六畳と二畳との汚い|家《うち》だったが、長屋中 の人々から、親しまれていて、夫婦喧嘩の仲裁、子供め名付、 書き物の代筆、掛け合いごとなど、何でも引き受けてしてやっ た。殊に、■その達筆は長屋中の尊崇の的で(遠く聞き伝えて、 字のお手本を頼みに来るものが、多かった。  殊に、安兵衛の気がるな性質は「お武家様」から「中山様」 になり、「中山様」から、「中山さん」になり、.到頭急転して 「安さん」と云われていた。.  御飯は、長屋中交替に、案内に来たし、身入りの多かった者 は晩酌め用意をしてから、安兵衛を迎いに来た。しかし、何と 云っても、裏長屋の連中の饗応では、飲み足りないので、そう 云う時は、仲裁押し売業を始めるわけである。  だからハのん気な生活だった。洗濯ものは、路次を出た通の 差配のお婆さんが、大の安兵衛ファンで、一切引き受けてやっ てくれた。家賃は、この家には入って、三年間に、三度ばかり 払った間けであるが、たまに安兵衛が、その云いわけをしかけ ると、差配のお婆さんが、 「なあに。家賃なんか、今に安さんが立派な齢武家に出世な すったときに、十倍にして返して貰いますよ、わしは、その方 が楽しみさ」■  と、云うのである。  だから(安兵衛は、今の生活が気楽だった。中山家再興の望 みが叶って、せめて五十石百石の武士に取り立てられるのな ら之ろかく、伯父の家の食客になるために、この長屋を引き払 うことなどは、とうてい考えられない事なのである。伯父が、 自分を愛してくれ、自分の身のなりゆきを心配していてくれる ことは、よく分っていたが、しかし伯父の家ヘ行って、伯父や 伯母に朝夕の挨拶をすることやら、伯父や伯母と顔を見合わせ ながら、食事の膳につくことなどを考えると、到底たまらな かった。  青山の伯父の家で、十日ばかり考えさせてくれと云って、 帰ってから、もう二十日にもなる。だが、安兵衛は伯父の家に は行きたくなかった。だまっていれば、伯父もあきらめるだろ う。そう思いながら、】日のばしに日を送っていた。  その日、安兵衛は石町の酒問屋の大看板をかいてやったお礼 が、大枚一両届いたので、彼は大福々であった。長屋での飲み 友達である左官の金と、飴売りの親爺とを呼んで|午《ひる》前から酒を 飲んでいた。 「武士の生活は、堅くるしくていかん。用もないのに、登城し て殿さまの前に、かしこまっていなけりゃいかんし、万一何か しくじると、すぐ腹を切らなけりゃいかん。それに比べると、 この長屋住居はまるで極楽じゃ、なあ、飴爺、そうじゃない か」 「だが、わし達長屋の者は、どうかして安兵衛さんを出世させ たいと申して居りますよ。あの男前だし、あの腕前だし、捨売 にしても二百石のものはあるし、安兵衛さんが、立派なお|武 士《さむらい》になんなすったら、長屋中で金を出し合って、騎祝いに、 立派な|搾《かみしも》を一つこしらえて上げようなどと、・話して居ります よ」 「いやありがとう。お前達の、その親切があればこそ、わしは この住居が、長屋附の立派な邸よりも、住みよいのじゃ。あは はゝ㍉さあ、金公も、どんノ\のめ! 今日は、金がある ぞ!」  八つ刻まで、飲みつどけて、飴爺の娘の|十《とお》になる子が、■酒屋 へ五六回往復した今は、豪酒絶倫の安兵衛㌔泰山将に崩れんと してハ壁によりかゝったまゝ、うつらくと眠をもよおしかけ ていた。 「御免下さい」  障子が、あいて紺かんばんの|下《さが》り藤の紋のついた仲間が、は 入って来た。  安兵衛は、酔眼でじろりと見た。顔は見知って居ないが、紋 を見れば伯父の家の仲間に違いないと思った。うるさい奴が来 たと思った。 「此方は中山さまで?」 「そうじゃ、身共が中山安兵衛だ」 「青山穏田菅野から、お使いに参りました」  そう云って、文箱をとり出した。 「返事が入ると申したか」 「いや、御当人にしかとわたせーもし御不在の節は、差配に七 かと渡せと申されました」 「、よし、しかと受けとった。|使《つかい》、大儀! どうだ一杯のまぬ か」 「けっこうで御座います」 .仲間は、安兵衛の酔態を見ると、下手にまつわられると、う るさいと思ったのか、早々帰って行った。 「青山の伯父さまからのお手紙でしょう。何かいゝ御用事でご ざいませんか」  左官の金公が云った。 「馬鹿を申せ。うるさい用事だ。|俺《わし》に、青山の|邸《やしぎ》へひっこして 来いと云うのだ。この間、伯父の家へ呼ばれて、さんく\油を 絞られた上、ひっこして来いと云うもんだから、十旧中には何 とか返事をすると云って帰ったが、その催促だ。伯父の家で、 食客をするより(こゝでのさばっている方が、いくら楽しいか 分らんぞ。なあ、そうだろう、金公、飴爺!」 「御尤もさまで」 「わしは、二百石以上の武士に、取り立てられない裡は、断じ てこの長屋を出んぞ!」■ 「御もっともさまで」一  安兵衛は、伯父からの文箱の蓋も取らないで、それを尻目に 見ながら、ぐいくのみつどけた。 「でも、安兵衛さま。とにかく、封だけはお開きに次っては」 「いや、開かないでも分っとる。中の文句まで分っている。前 略、過日お話し致せし、当邸へひっこしの件、一日一日延引致 し候ては、|其許《そこもと》の為良ろしからずと存ぜられ候については、こ の状披見次第早々、ひっこし成さるべく、その為一筆|件《くだん》のごと し……きっと、こう云う文句だ。違っていても、ホンのわずか だろう」  半|刻《とぎ》ばかり時が経った。  差配の婆さんがひょっくりは入って来た。 「いよう。おいで、婆さん、今日は福々だぞ」  と、安兵衛が云った。 「福々もいゝけれど、飴爺さんのところのみい|公《  》が、家の前を 徳利を提げて、これで十一ペん通ったぜ。もう、たいがいにし たら、どんなものだ」 「いや、ありがとう。だが、五升や六升の酒で、性根を乱す、 この安兵衛ではない。安心せい!」 「だが、そんなに余分な騎金があるとき、ぴんろうじでもよ《 ち  ち》|い から紋附を一つ、こしらえなさい。その紋附は、羽二重だろう が、|目割《めざ》きはするし、裾は切れているし……」 「あはゝゝゝ、婆さん余計な心配はするな。今に、拙者が槍一 筋の武士になったら……」 「その時は、その時で、さしせまって少しは小ざっばりした ……」  婆さんは、そう云いかけて、ふと上りがまちに置いてある文 箱に目をつけた。 「まあ!蒔絵のけっこうな文箱じゃ。どうして、開いて見ん のじや」 「それか、伯父からの手紙じゃ。見んでも分っている」 「そんな事を云って、どんな急ぎの用事かも分らん。ー寸、見 なされ!」  婆さんは、そう云うと自分で、文箱の紐を解いて、中の書状 を取り出すと、安兵衛の方へ押しやった。  一刻近く、・放り出して置いたので、安兵衛も少し、心がとが めていた。封の上書を見ると、火急の二字。安兵衛は、ひっこ しの催促だとは、思いながらも不安も感じた。奉書の巻紙も、 それにしては、重かった。  例の伯父の達筆で、  一つ書き置きの事。 ,武道の意地に依って、今日八つ半時高田の馬場に於て、同藩  村上兄弟と打ち果すもの也。相手には、助太刀のあるやも知  れず、老後の思い出花々しく、斬死致す所存。此書状、|其許《そこもと》  に遣わすは、決して拙者生ある間の助太刀を望むに非ず、た  だ相手村上兄弟生き残りたる節は、死後の妄執其許の太刀先 に依って、お晴し下されたく候。  安兵衛は、書状を読んでいる裡に、|真蒼《まつさお》になった。何と云う 不覚、何と云う寛怠。伯父の好意を無にして、その好意に甘え たばっかりに、手紙を読むに一刻ばかりの遅滞。 「今、何時じゃ!」  安兵衛の必死の叫び。 「もう、かれこれ七つじゃ」 「南無三!」  あの仲間が来たとき、すぐに披見したら、高田の馬場は、一 里半近くあっても、七つ半には、間にあったのだ。  武士の意地沖(生ある間の助太刀は望むにあらず)と、云わ れても、心の裡では、どんなに腕に覚えのあるこの|俺《わし》が、かけ つけるのを待たれたであろう。伯父上が、立派に武士らしく振 舞って居られるのに比べて、酒に喰いよって、伯父の手紙に、 高をくゝったこの俺のまぬけさ。|悔《   》恨の蛇は、安兵衛の身体中 を喰いさいた。 「何じゃ、安さん」  金公と、飴爺がのぞき込むのを、 「うるさい!」  と、云ってはねのけると、酒の肴に出してあった、にぎりず しを、三つ四つ腹ごしらぇに、ほうばると、壁にかけてあった 失鞘の一刀を腰に、容子を訊こうとする差配の婆も、はねのけ て、高田の馬場をさして、奔馬の如くかけつけた。  漸塊と後悔とに心の狂った魔物だった。  高田の馬場の健闘は、世に現れたれば、舷に書かない。 「ゆるせ、伯父。不覚無道の安兵衛をゆるせ! 伯父上」  安兵衛は、心の裡で絶えず叫びながら、村上兄弟を斬り、中 津川祐範を斬った。  高田の馬場の功名で、忽ち江戸中の名物男になったのを、長 屋中の人々が、欣んで、みんな金を出し合って、灘の剣菱のこ もかむりを持ち込んだが、不思議やのんべの安兵衛、一滴も飲 もうとしなかった。