世話狂言一夕話 岡本綺堂  世話狂言の研究というようなものを書けという注文を受けたが、それはなかなかの大仕事であ る。わたしが此の頃つづけて世話狂言を書くので、おそらくこんな命令が下ったものと察せられる が、何かと特別に研究しているという訳でもなく、我流で無暗に書きなぐっているのであるから、 こんな難題を突き付けられては甚だ困る。さりとて全然御免を蒙ってしまうわけにも行かないよう な破目《はめ》になっているので、世話狂言の研究などと云うむずかしい事は遠慮して、単に世話狂言につ いて自分の思い付いたことを順々に列べてみることにする。もとより特別の新研究や新発見がある わけでも無いのであるから、これまで私が他の諸雑誌に発表したものと多少重複の点があるかも知 れない。それは最初にお断わり申して置く。  そこで、まず世話狂言の類別であるが、これが容易でない。世話狂言とか世話物とか、口では無 雑作《むそうさ》に云っているものの、さてどこまでが本格の世話狂言であるかと云うことになると、ちょつと 返事に困ることになる。殊に古い頃の狂言は時代かと見れば世話であり、世話かと思えば時代であ るというような、入りまじりの物が多い。これは観客を倦ませないために、わざと眼先きを変えた ものであろう。したがって、ある幕は大時代《おおじだい》であり、ある幕は生世話《きぜわ》であって、ほとんど木に竹を 継いだような別世界の観をなすのも珍しくない。後世になっても、いわゆる「時代世話」という種 類があって、半分は時代物、半分は世話物という組み合わせになっているのがあるから、見方に因 ってはそれが時代物とも云えるし、また世話物とも云えるような種類の物も少なくない。また原作 は時代物の部に属すべきものであったが、後年にはその世話場のみを選んで上演するので、自然に 世話物の部に編入されてしまったようなのもあって、その区別は頗る面倒なことになる。  そういうわけであるから、その狂言の全部が世話場から成り立っているもの、たとえば近松の小 春治兵衛とか梅川忠兵衛とか云うたぐいの物に限って、それを世話狂言というか。たとい時代物の 背景を持っていて、現にその幾幕は時代物らしく書かれているもの、即ち前に云った時代世話のた ぐいの物でも、その世話場が主となっている場合には、やはり世話狂言の部に組み入れるか。まず その定義から決めてかからなければならないのであるが、今ここでは極めて大まかな世間普通の解 釈にしたがって、時代物、世話物、その間《あい》の児《こ》のような時代世話1この三種に類別して、その中 で時代でもなく、時代世話でもないものを、仮りに世話物と呼ぶことにして置いた。それは便宜上 の話で、厳密の類別でないこと勿論である。又、ひと口に世話物と云っても、上方式の世話狂言も あれば、江戸式の世話狂言もあって、皆それぞれの特色を有しているのであるが、ここでは専ら江 戸式の世話狂言について云うことにする。  時代物を一番目に据え、世話物を二番目に据えるので、世話物を二番目狂言とか二番目物とか、 或いは単に二番目とかいう。前にも云う通り、むかしは時代と世話の区別がすこぶる混淆《こんこう》していた のであるが、明らかに二番目らしい形式を備えて来たのは、並木五瓶などの作からであろうと思わ れる。寛政八年、桐座の春狂言には一番目に「曾我大福帳」を据え、二番目に五瓶作の「隅田春妓 者容性《すだのはるげいしやかたぎ》」を据えている。それは梅の由兵衛の長吉殺しである。なんと云っても上方仕込みの作者で あるから、どこかに重苦しい処があって、すっきりした江戸前の調子にはなり切っていないが、大 体に於いて二番目らしい狂言であると云ってよい。それに続いて、かの四代目南北があらわれた。 これはまがい無しの江戸っ子であるから、すべての調子が水際立って出来あがっていて、ここに世 話狂言の形式も内容も完成されたのである。その衣鉢を伝うるものに、三代目桜田治助あり、三代 目瀬川|如皐《じよこう》あり、二代目新七の河竹黙阿弥あり、それで二番目物の型も一定されてしまった。勿論 そのあいだに多少の変遷が無いでもないが、一種の型に囚われて、それより一歩も踏み出すことが 出来ないような窮屈な形にもなったのであった。  世話狂言は江戸時代に於ける現代劇である。時代狂言が荒唐無稽であるのに対して、世話狂言が 努めて写実を旨としているのは云うまでもないが、その内容は必ずしも写実ではない。そこがお芝 居であると作者も云い、観客も決して怪しまなかったのであるが、ともかくも其の形式だけは成る べく写実に近寄るように努めていたのは、疑うべからざる事実である。しかもここに見逃すべから ざる欠点は、日本の俳優は雄弁術について余り多く研究していないことであった。勿論それは俳優 の罪ばかりでない。社会一般の風習が雄弁や能弁を余りに重んじない傾向があって、武士でも町人 でも相当の身分のある者は、行儀よくおもむろに口を利くのを正しいとして、詞《ことば》の抑揚や活殺を巧 みにする、いわゆる話上手と云うたぐいは、巧言令色の徒として卑しめらるる風があった。その因 習が今日にも伝わって、日本人は外国人に比較して会話が巧妙でない。そういうわけで、目本の俳 優も多数の観客を前に控えている以上、その会話については相当に工夫したに相違ないのである が、普通の会話ではどうしても単調に陥り易い虞れがあるのと、もう一つには劇場の構造が不完全 で、普通の発声では場内隈なく聞こえ渡らない虞れがあるのとで、時代狂言を演じる場合は勿論、 世話狂言を演じる場合にも、やはり普通の会話とは懸け離れた特別の台詞《せりふ》まわしを案出しなければ ならないことになった。  したがって、さのみ重要でない台詞は作者もほとんど写実の形式を用いて書き、俳優も普通の会 話に近い口調で云うのであるが、ひとたび重要なる台詞になると、どうしても一種のリズムの付い た台詞廻しをしなければならないことになる。それが自然の習慣になって、今までは普通の対話を 交換していた人達が、何か重要の事件を語り出す場合には、忽ちその調子をあらためて一種特別の 台詞まわしになる。普通の座談と特別の用談とはその調子を異にするものであるとは云いながら、 その変わり方が余りに甚だしいので頗る不自然に感じられるが、そうしなければ観客を倦ませずに 長い台詞を聴かせ、また場内全体にひびき渡らせることが出来なかったのである。それがために世 話狂言の台詞なるものは、写実かと思えば忽ちに七五調となり、七五調かと思えば更にまた写実と なるなど、頗る不調和不自然なるものになって、純然たる写実からは甚だしく遠ざかってしまった のは已むを得ない。たとい其の一局部には写実らしい所があっても、全体から観ればやはり写実と は云えないのが多い。  その著しい例は、かの「厄壌い」なるものである。誰が云い出したのか知らないが、その台詞ま わしが彼《か》の節分の夜に来る厄擁《やくはら》いに似ているというので、普通一般にこう呼び慣わす事になったの である。「四谷怪談」の三角屋敷に於ける直助権兵衛が「三文花や線香の、けむりも細き小商人《こあきうと》」 の台詞や、「三人吉三」の大川端に於けるお嬢吉三が「月もおぼろに白魚の、かがりも霞む春の 空」の台詞や、こういうたぐいは総て、厄擾いの部に編入されるのである。これらも最初から厄壌 いを云うが為に作られたものではなく、重要なる台詞を面白く云いまわすが為に作られたのであろ うが、それがだんだんに昂《ごう》じて来て、後には厄擾いを云わんが為に、わざと厄擾いの台詞を作り設 けるようになって来た。俳優も好んでそれを歌い、観客もよろこんでそれを聴くのである。かの源 氏店で切られ与三郎が「しがねえ恋のなさけが仇」の厄嬢いを云わなかったら、観客はどんなに失 望するであろう。かの浜松屋で弁天小僧が「浜の真砂と五右衛門が」の厄壌いを云わなかったら、 観客の興味はおそらく半分を殺《そ》がれるであろう。それほどにかの厄援いなるものは、世話狂言に於 いて必要欠くべからざる役目を勤めることになったのである。  「厄擁い」も最初のあいだは、普通の会話を七五調に云いまわす位の程度であったが、それが流 行するに連れて、作者もその辞句を洗練して大いにその技禰を誇るようになった。それは黙阿弥に 於いて最も甚だしい。黙阿弥の世話狂言のうちで、かの厄懐いを聴かせ場、又は見せ場としていな いものは絶無と云ってよい位である。黙阿弥の作から一切の厄懐いを引き抜いてしまったら、頗る 荒涼索輿たるものになるであろう。厄懐いは確かに世話狂言の一要素で、黙阿弥などは最初に立案 の当初、どこの場では誰に厄懐いを云わせるかと云うことを、あらかじめ考慮の中に加えていたに 相違ないと思われる。  俳優が好み、観客が喜ぶという以外に、「厄壌い」は劇場側の一種の宣伝用にもなったらしい。 江戸時代には芝居の仮声《こわいろ》というものが大いに流行して、仮声つかいを商売にしている者は勿論、素 人のあいだにも仮声を使う者がたくさんあった。酒宴の席上ばかりでなく、銭湯の中でも、往来の まん中でも、仮声をつかっている者がめずらしくなかった。仮声には普通の対話では面白くない。 どうしても彼《か》の厄穣いでなければ工合が悪いと云うことになる。その仮声の種本として「鵬鵡石《おうむせき》」 という小冊子さえも出版されている位であるから、その流行は思いやられる。商売人も素人も、そ の仮声はなるべく新しいのを誇りとしていたから、厄擾いの多い新狂言は彼等の仮声に因って早く 世間に伝播され易い。広告術の発達しない当時にあっては、仮声の広告とても見逃すことは出来な いのである。そんな意味からして、厄擾いが奨励され、利用されたらしい。  「厄擾い」は不完全なるエロキューションの単調を救い、あわせて観客を楽しましめ、あわせて 劇場の宣伝用となったとすれぱ、聰明なる作者たちが頻りにそれを利用したのも無理はない。但し 黙阿弥がいつまでも古い型を守って、明治以後のざんぎり物にも依然としてかの厄擾いを濫用して いたのは、時世を観るの明を欠いていたと云わなければならない。 二 だんまり  だんまりー普通に暗挑と書くーこれも世話狂言に欠くべからざるものになっている。「だん まり」にも二種あって、単に暗挑を見せるがために作られた「だんまり」というものもある。それ は多く時代物の形式を仮りたもので、たとえば山神の祠《ほこら》の前などに種々の扮装をした人物があらわ れて、宝物や白旗などを奪い合い、最後に祠のうちから大百日《おおびやくにち》のかつらを被った山賊の頭領のよう なものが現われて、柱巻きの見得などをする。こうした類の「だんまり」は後段に幾分の連絡を保 っているのもあるが、多くは一種の独立したものとして用いられているのであるから、別にとやか く云うべきではないが、世話狂言にもこの「だんまり」がしばしぱ繰り返されて、前者と区別する ために、普通に「世話だんまり」と呼ばれている。  この「世話だんまり」はいつの頃から始まったか知らないが、式亭三馬の「浮世風呂」第四編 (文化九年作)に、老人と若い者が芝居の噂をしている件《くだ》りに、こんなことを云っている。   古左衛門「兎角てきぱきと早手廻しなことが流行る世の中、それだから御覧《ごらう》じろ、団扇売のせ  りふだの、たばこ売りのせりふだの、朝比奈のつらね、対面のつらねなどといふものが廃り切っ  た。」云々。中六「むかしは優長だから列ねやせりふを掛け合ってゐたらうが、今ぢゃア流行おく  れだ。」あば民「さうよ。そのひまにはだんまりの幕か何かで、三人の出合、小きびがいゝぜ。」  古左衛門「それだから今の衆は相手なられぬ。役者が三人出て、だんまりとかがんばりとか云っ  て、何かわからず引張り合って、幕をちょいと閉める。とんと壬生《みぷ》狂言を見るやうで、何の真似  か根っからわからぬ。」中六「あれがおめへ、後の幕の条《すじ》にならア。」云々。  この対話は大時代の「だんまり」でなく、いわゆる「世話だんまり」の噂である。三人の出合 い、小きびがいいと云って、江戸の若い衆たちにはよろこばれたらしいが、老人連には好評を以て 迎えられなかったのを見ると、その由来は余り遠くないらしい。「四谷怪談」の隠亡堀《おんぽうぽり》などは、そ の当時に於ける「世話だんまり」の代表的なるものであろうが、それでも南北の作にはさまでに多 くない。その最も盛んに流行し始めたのは天保以後のことで、黙阿弥や如皐に至ってかの「厄はら い」の台詞と共に、「世話だんまり」は世話狂言に必要欠くベからざるもののようになって来たの である。  由来、だんまりなるものは即ち「黙《だん》まり」で、無言で芝居をするのから起こった名称であるが、 芝居を書く上に頗る好都合な一種の作劇術と見倣《みな》されている。第一は事件を未解決のうちに終わら せることが出来る。本来ならば、そこで何とか解決を付けなければならない事件も「だんまり」と いう手段に因ってそのまま未解決に終わらせ、そうして其の事件を次の幕まで引きのばして行くこ とが出来る。或いはそのだんまりの際に、手紙とか紙入れとか簪《かんざし》とか云うたぐいの物を落とすと か拾うとか云うことに因って、さらに後段の波欄や葛藤の種を播くことも出来る。  しかもこの「だんまり」は、昔の作者や俳優らの空想によって案出されたものではない。燈火の 乏しい江戸時代には、暗夜に無提灯で歩いていれば、往来の人に突き当たるようなことが往々あっ て、自然に透かし合い、探り合いの形にもなる。芝居の「だんまり」はそれを誇張して、一種の形 式美を加味したに過ぎないのである。  第二には「だんまり」に因って、その舞台効果を頗る有利ならしむることが出来る。たとえばあ る川端か路ばたで、悪事の相談をする。或いは人殺しをする。単にそれだけで幕をしめては、少し く物足らないかと思われるような場合に、更にここへ第三者を点出して、いわゆる「世話だんま り」の形式を用いるときは、その幕切れがよほど面白いものになる。殊に室内で「だんまり」を演 ずる場合は極めて少なく、大抵は往来のまん中であるから、いかなる種類の人物も自由に出入する ことが出来るという便宜もあたえられている。かの黙阿弥作の「都鳥廓白浪《みやこどりながれのしらなみ》」の如き、もとより梅 の由兵衛の長吉殺しを模倣したものではあるが、忍ぶの惣太が梅若を殺して百両の金を取るだけで 幕を閉じず、さらに偽按摩の丑市が出る、男伊達の葛飾十右衛門が出る、最後には花魁姿の松若が 出る。これらの人物が百両の金と系図の一巻とを枷《かせ》にして、花盛りの隅田堤で「だんまり」を演ず ると云うことに因って、いかにこの一幕を芝居らしい華やかなものにしているか判らない。「世話 だんまり」はいつも斯ういう意味に於いて頗る有効のものとして用いられている。  第三には、この「だんまり」に因って、作者は俳優を満足させ、あわせて観客を満足させること が出来る。狂言作者がすべて座付きであった時代には、どうしても一座の俳優の顔ぶれは勿論、各 俳優の地位をも考慮して筆を執らなければならない。しかも狂言の組立て上、どうしても某々俳優 には差したる見せ場をあたえられないと云うような場合には、この「だんまり」を利用して、その 場へ顔を出させることになる。前にもいう通り、どうせ往来のまん中の出来事であるから、大抵は 自由にそこへ出て来ることを許されるので、見せ場の少ない俳優をここへ連れ出すことにして本人 の役不足を満足させ、あわせて韻眞の観客をも満足させ、一挙両得の処置を取るのである。本筋の 上から云えば、有っても無くても差支えないような役でも、前の幕で何か「厄嬢い」の台詞をなら べ、後の幕でそれが「だんまり」に顔を出せば、どうにか斯うにか一廉《ひとかど》の役らしい形式になって、 大抵の俳優は先ず得心するのである。したがって、かの「厄棲い」や、「だんまり」のたぐいは、 単に観客の耳や眼ばかりを考慮するのでなく、時には楽屋内の苦情をも考慮して作り出されるよう な場合もあったらしい。いずれにしても、その当時の作劇術として「だんまり」ほど便利にして且 つ有効なものはなかったと云ってよい。  「厄嬢い」の形式が千篇一律であるが如く、「だんまり」の形式もまた千篇一律で、所詮は登場人 物の多少と、その扮装の相違というだけに帰着するのであるが、幾たびそれが繰り返されても、昔 の観客は飽かずにそれを喜んだのである。「だんまり」を書くなどと云うことは、作者としてむず かしい仕事ではない。「だんまり」などを演ずるのは、俳優としてもむずかしい芸ではない。作者 も楽で、俳優も楽で、舞台効果が多くて、観客が喜ぶというのであるから、こんな都合のいいこと は無い。現在でもかの「め組の喧嘩」の序幕に於ける「八ツ山下のだんまり」などはやはり一般の 観客には喜ばれているらしい。      三 浄瑠璃  むかしの江戸狂言に竹本のチョボを用いなかったのは、誰も知ることである。一種の所作事《しよさごと》のよ うにして、幕のあいだに富本や常磐津の浄瑠璃を挿入したことは珍しくないが、かの人形芝居のよ うに義太夫の浄瑠璃を仮りて普通の芝居を演じた例はない。あやつり芝居が劇化されて、「忠臣蔵」 や、「おしゅん伝兵衛」が歌舞伎の舞台にも上演されるようになってから、そういう芝居はもとも と義太夫から生まれたものである為に、歌舞伎の方でも同じくその義太夫を仮り用いることにして いたが、それはそういう特別の狂言に限られたことで、新作の狂言に対して義太夫を用いると云う ことは決して無かった。 「四谷怪談」でも、それが後世の作ならば、おそらくお岩の髪流きと三角屋敷ぐらいには義太夫を 用いたろうかと思われるが、南北時代にはまだ其の習慣が無かったのである。普通の世話狂言に義 太夫が用いられ、チョボという言葉が一般に用いられるようになったのは、やはり天保以後のこと で、これも黙阿弥や如皐の時代からである。その流行を作った第一の有力者は四代目市川小団次で あろうと思われる。  彼は江戸に生まれたと称するけれども、所詮は上方仕込みの俳優である。故老の談によると、小 団次は江戸末期の名優には相違ないが、かの五代目菊五郎などを標準にして彼を想像すると、その 想像はよほど間違ったものになる。勿論、体格や音声のせいでもあろうが、彼は菊五郎のようなス ッキリした、見るからに江戸っ子肌の俳優ではなかった。悪く云えば、その押出しもその芸風も少 し泥臭い役者であったのである。その弱点を補うためと、もう一つには上方仕込みであるが為に、 彼は一面に写実を売り物にしていながら、一面には世話狂言にチョボを用いるというような矛盾を 敢てしたのである。  しかし何と云っても、彼は名人と呼ばれるほどの技禰を所持していたので、江戸生粋の世話狂言 に義太夫を仮りるという矛盾が格別に障りをなさないばかりか、却ってそれが一般の人気にかなっ て、たとい江戸前の世話狂言といえども、その三《さん》の切《きり》とでも云いそうな愁嘆場や性根場《しようねば》には必ずチ ョボを用いるという、一種の新例を作ってしまったのである。かの如皐の「与話情浮名横櫛」の観 音久次の件りは、「四谷怪談」の三角屋敷の模倣であるが、原作にはチョボがない。如皐の作には チョボがあって、観音久次は小団次が勤めているのである。前後相距る約四十年、そのあいだに江 戸の世話狂言もこれだけ変化したことが知られる。  最初は新例であったにしても、それが自然の習慣になって、黙阿弥の世話狂言にチョボのないも のは殆んど無い。一種の狂言のうちに必ず幾場かはチョボを用いている。観客の方でも亦、そこが 最も芝居らしい場面として期待するようにもなったので、これも「厄懐い」「だんまり」と同様に、 世話狂言には欠くべからざる要素となってしまったのである。それが更に技巧を加えて、嵌め物の 義太夫を用いることにもなった。即ちその狂言のために新しく書かれたチョボでなく、人の耳に聞 き慣れている在来の義太夫をそこへ巌め込むのである。  これは南北なども曾て試みた例が無いでもないが、小団次時代にはそれが又一種の形式となって 来た。かの鬼あざみ清吉が自殺するときに城木屋お駒の義太夫を用い、鋳かけ松が自殺する時に野 崎村の義太夫を聞かせると云うたぐいである。  これは写実を標梼する世話狂言にチョボを用いるという不自然を、幾分か救おうという下心であ ったかも知れない。嵌め物を用いる場合は、二階で誰かが義太夫を俊っているとか、隣りの家で義 太夫を語っているとか云うことにして、その浄瑠璃が自然にここへも聞こえて来るのだという一応 の理窟は付く。勿論、その理窟が正しいか正しくないかを、今ここで論ずるにも及ぶまい。ともか くも、そういう無理|故事付《こじつ》けの理窟のほかに、一種の技巧ということが強く働いていたらしく、在 来の義太夫の文句をどういう風に新狂言にあて嵌めてゆくかと云うことが、観客に取って又特別の 興味を誘われる材料ともなったらしい。悪く云えば一種のお茶番で、もとより問題にもならない事 であるが、すでに義太夫の文句がある以上、作者はそれに合わせて狂言を書かなければならない。 さりとて義太夫の文句にビタ付けに書いてしまえぱ、原作と同じ物になるような虞れがあるから、 |即《つ》かず離れずの態度を取って、巧みにその義太夫の文句を織り込んで行くというところに、作者の 苦心もあり、味噌もあったことと察しられる。世話狂言に義太夫を用いることすらすでに邪道であ ると思われるのに、さらに嵌め物を用いるなどはいよいよ罪が深いと思われるが、その作風は明治 の後までも依然として行なわれていた。  前にもいう通り、チョボ以外の浄瑠璃は久しい以前から江戸狂言にも用いられていたが、それは 本筋に関係のある人物が輩場すると云うだけのことで、正しく云えば一種の独立した所作事と見る べきたぐいの物が多かった。その浄瑠璃がチョボと同じように、狂言と密接の関係を持つようにな って来たのは、やはり南北以後のことであるらしい。如皐や黙阿弥に至って、それがはっきりと認 められるようになった。即ち男女の道行とか、心中とか、濡れ場とかいう場面にふさわしい凄艶の 情景を添えるために、チョボに換えるに清元あるいは常磐津の矯音を以てすることになった。十六 夜清心の稲瀬川に清元を用い、小夜衣千太郎の日本堤に常磐津を用いるたぐいである。これらは単 に所作事として見るべきではなく、それに因って劇的事件がいろいろに展開してゆくのであるか ら、みだりにそれを取り除けぱ狂言の筋が判らなくなる。この場合、清元または常磐津は明らかに その狂言の一部を構成しているのであって、それを切り放して独立させることは許されないように なっている。  チョボは世話狂言の附き物である。チョボほどではないが、清元や常磐津のたぐいも大抵の長い 狂言には一場を受け持たせられている。殊に清元が多い。黙阿弥の世話狂言に清元の浄瑠璃の多い のは、家元の娘お葉の婿に延寿太夫を媒酌した関係であるが、延寿太夫の妙音もまた時好に投じた に相違ない。そうして、これらの清元または常磐津の浄瑠璃によって、世話物情調ともいうべきも のを豊富にしたのは事実である。  厄擾いーだんまりIl浄瑠璃ーこの三者が江戸時代に於ける世話狂言に欠くべからざる三大 要素であると云ってよい。 四 世話狂言の作者  江戸に於ける世話狂言の作者としては、まず初代桜田治助を筆頭として、初代並木五瓶、福森久 助、四代目鶴屋南北、三代目桜田治助、三代目瀬川如皐、二代目河竹新七(黙阿弥)等を屈指の人 物として挙げなければなるまい。初代治助を一代の大家とすることに於いて異論はない。初代五瓶 は何分にも上方出身の作家であるので、その代表作ともいうべき「五大力」や「梅の由兵衛」のご ときも、何となくアク抜けのしないところがあって、江戸前の世話狂言とは受け取りにくい憾みが ある。福森久助には著しい当たり作もなかったらしいが、ともかくも凡手でないことは明らかであ る。かれの書いた清元の浄瑠璃で今に伝えられているものは少なくない。  世話狂言の形式や約束がおのずからに一定したのは、まず文化文政時代からで、近世の世話狂言 作者としては、何と云っても鶴屋南北を第一に推さなければならない。南北に就いては近来その全 集も刊行せられ、その研究もしばしば発表されているから、今更くどく云うにも及ばないのである が、南北時代の狂言は一番目二番目と分かれていても、それが全然独立したものではなく、大抵は 前後が繋がっているのであるから、六幕または七幕の長いものが多い。したがって、観客を倦ませ ない用心から或る場面は時代、ある場面は世話、ある場面は喜劇、ある場面は所作事という風に、 種々の場面を組み合わせてある。  今日の各劇場では一回の興行に必ず四種又は五種の狂言をならべている。それはどうも面白くな い事のように思われるのであるが、汀戸時代の狂言とても表面は一回一種の通し狂言のように見せ ながら、実は前に云ったように、時代狂言やら、世話狂言やら、喜劇やら舞踊劇やらを幾種も並べ て、それを都合好く繋ぎ合わせてあると云うに過ぎないのであって、その内容は今日と変わらない のである。殊に南北時代の作物にはその繋ぎ合わせが著しく眼立っている。したがって、大体の筋 立てから見れば頗る無理が多い。  怪奇と残酷とが南北の作物の特色となっているのは周知の事実であるが、作者自身が好んで怪奇 残酷の事件を主題としたのかどうかは、頗る疑問と云わなければならない。怪奇残酷はその時代に 於ける一般の作物に認められるのであって、決して劇場の世界のみには限っていない。すべての読《よみ》 |本《ほん》にも合巻物《ごうかんもの》にも怪奇と残酷は附き物であって、かの京伝の読本などには幽霊の出現しないものは 絶無と云ってよい。馬琴の作物に勤王論の影が見えるからと云って、馬琴が実際どれほどの勤王家 であったかが疑われると同じ意味に於いて、南北の怪奇残酷も所詮はその作物に其の時代の影が映 じているというに過ぎないのであろう。手っ取り早く云えば、そういう種類の狂言でなければ観客 に喜ぱれないから、劇場側でも俳優側でも好んで怪奇残酷の狂言を選定し、作者もまた努めてそう いう種類の題材を選んだというだけの事であろう。要するに、作者が平地に波瀾をまき起こして、 怪奇残酷の狂言を独自に創出したのではなく、時代の要求に迫られて、むしろ受け身の態度でその 注文に応じたのではないかと想像される。  勿論、南北にかぎらず、在来のいわゆる座付作者なるものは、すべて受け身の態度で筆を執るべ き事情の下《もと》に置かれていたのであるから、たとい製作の動機が受け身の態度であったとしても、そ の作物の成績が優良であればそれで結構であると云わなければならない。その成績に於いて、南北 は確かに優良であった。その時代の劇作に対して、全局の上から観てとかくの批評を下すのは無理 である。唯その局部について如何にそれが巧妙に表現されているかを鑑賞すれば足りるのである。 その意味に於いて、南北は確かに成功していると思われる。単に一種の思い付きに過ぎないと云え ば其れ迄であるが、ともかくも彼がそれからそれへと種々の趣向を案出する才能に驚かされざるを 得ない。かれに学識の乏しかったことは其の経歴を見ても想像されるが、彼が「先づ」という字を 知らないで「待つ」と書いたとか、「旗」という字を知らないで、「畑」と書いたとか云うような伝 説は少しく疑わしい。いかに彼が天賦の才能を所有していたと云っても、それほどの無学文盲であ れだけの作物を生み出すことはむずかしい。第一、彼がいわゆる無筆でない以上、たとい二年でも 三年でも手習師匠に通ったものと見なければならない。少なくも一年間、手習師匠のもとへ通った とすれば、「先」や「畑」の字を知らない筈はない。もし果たして、彼が自筆の台本にそんな甚だ しい誤字があったとすれば、その誤字は無学の為でなくして、無頓着から来ているのではないかと 察せられる。その時代の台本は楽屋の稽古用にとどまって、それが出版されると云うことは全然予 期されていないのであるから、文字などは何でも構わない。殊に彼が作物は推敲鍛錬《すいこうたんれん》を加えず、ほ とんど一気に書き流されたらしいのであるから、興に乗じて走らせる場合、手当たり次第に文字を 使用したのではあるまいか。「先づ今日はこれぎり」の「先づ」という字ぐらいは、他の台本を見 ても容易に知れることであるから、その誤字を以て南北の不注意を責めるのはよい。その誤字を以 て南北が全然無学文盲であったという証拠にするのは、少しく考え物である。その程度の差こそあ れ誤宇は今日の作物にも随分見いだされる。みだりに南北ひとりを無学と嘲るわけには行くまい。  小説の悪人を巧みに描いたからと云って、その作者の人物を疑うのは、松本幸四郎を悪人と思う が如きものであると、馬琴は云っている。松本幸四郎が悪人でないと共に、その松本幸四郎のため に専ら悪人を描いた南北もまた悪人で無いばかりか、おそらく悪の讃美者でもなかったろうと思わ れる。由来、「善」を描くよりも、「悪」を描く方が比較的に容易である。又、むかしからの諺にも ある通り、親不幸の話は何人《なんぴと》もよろこんで聴くが、親孝行の話には耳を傾けないのが世の習いであ る。殊に文政時代の観客を相手にして、また悪人を得意とする松本幸四郎を主役として筆を執る以 上、南北が専ら「悪」を描いたのは当然のことで、その価値は如何に巧みにそれを表現したかとい う点にある。  南北の作といえば、一と口に怪奇残酷を以て片付けてしまうが、他の一面に滑稽酒脱の要素を多 量に含有している事を見逃してはならない。今日の眼から観ると、その作にあらわれている怪奇残 酷はやや椿え物の感がないでもないが、その間にあらわれている滑稽酒脱の風致は実に自然の流露 であって、今日の人の容易に追随すべからざる妙がある。残酷にまじえるに滑稽を以てして自然の 調和を計るということは、あらゆる劇作家の慣用手段で、特に南北を推奨するには及ばないが、そ の点に於いても南北は特にすぐれたる手腕を有していた。その時代の江戸っ子の通有性ともいうべ き一種の茶気を、かれは多量に所有していたらしく、作者が無理に作り設けた怪奇残酷の事件より も、作者がさのみ巧まずして書いたらしい滑稽味の方が遙かに面白く現われていると思う。わたし は好んで異論を立てるのではないが、もし南北が怪奇作者たらずして喜劇作者となったらぱ、さら に巧妙なる作物を残してはいないかと考えることがしばしばある。  三代目桜田治助は「越白浪」の鬼神お松や、「三世相」のおその六三を以て知られているが、さ らに彼の名を成さしめたのは例の鈴木主水であろう。晩年はあまり振わなかったようであるが、江 戸時代の世話狂言の作者としては記憶せらるべき一人である。  三代目瀬川如皐は時代物を得意としたと伝えられているが、その著名の作物はやはりかの「切ら れ与三郎」「うはばみお由」のような世話狂言である。至って手堅い書き方で、南北のような奔放 自在という点は少しも見えない。この点は黙阿弥と共通である。これは作者の個性ばかりでなく、 弘化嘉永度に於ける世間一般の人気が文化文政度に比べると、だんだんせせこま、く窮屈になっ て、万事が理窟詰めになって来た結果であるかも知れない。-  南北の後継者を求むれば、なんと云っても黙阿弥である。黙阿弥も手堅い一方の作者であること は云うまでもない。大体が穏健とか平明とかいうべき作風で、それに対して雄勤とか深刻とか云う ようなものを求めることは出来ないが、秩序整然、いわゆる一糸乱れずというような作風はかれを |措《お》いて他に求むべくもない。作者がいかに細心に鍛錬工夫を凝らしたかと云うことがありありと看 取される。あまりに細心であったが為に、すべての作があまりに常識的に陥り過ぎた嫌いはある が、前にも云う通り、最も秩序整然たるものが其の特色であると云ってよい。他の特色は詩趣に富 んでいることである。南北の作には詩趣が乏しい。おそらく本人自身も詩趣などというものを無視 していたかも知れない。如皐の作にも詩が乏しい。その詩趣を多量に含んでいるのは黙阿弥の作で ある。これは明らかに本人が意識して、詩的の清景を作り出すことに努めたものと認められる。  南北にしろ、如皐にしろ、黙阿弥にしろ、それらの世話狂言をよむ場合に、その内容などを今さ ら論議するのは野暮である。筋立ての巧拙を批評するのも第二段のことである。それらの作物から 我々が最も多く教えられるものは、その時代の世相で、ある場合のスケッチの如きは、到底今日の 人間には知り得られないものが往々ある。言語、風俗、習慣、今日の我々が全く知らないものを、 それらの世話狂言から教えられることがあって、.その時代の人間でなければどうしても書き表わせ ないであろうと思われるようなことをしばしば発見するcほとんど千篇一律と云ってもよい幾多の 世話狂言も、この特色に因って皆それぞれの生彩を放っているのであるが、それを全然除外しては 世話狂言の価値を十分に認めることは出来ない。  唯ここに注意すべきことは、それらの世話狂言について其の時代の世相を学ぶ場合に、どこまで が正真の写実であるか、どこまでがいわゆるお芝居であるかということをよく鑑別する必要があ る。いつの時代でもそうであるが、江戸時代にも忌誰が多い。殊に天保以後は、江戸の地名さえも 明示することを避けて、吉原が大磯になったり、浅草観音が長谷の観音になったりしているのであ るから、作者は故意にその写実を避けて、お芝居式の嘘を書いている場合が往々ある。たとえば南 北や黙阿弥の世話狂言に出て来る捕手は、いつでも黒の四天《よてん》を着て、鉢巻きをして、十手を持って いる。その捕方の頭人はブッ裂き羽織を着て、野袴をはいている。しかし南北や黙阿弥時代の捕方 にこんな服装をしている者は決して無い。そういうたぐいが他にも往々あるから、うっかり釣り込 まれると飛んだ間違いになる。世話狂言にかぎらず、江戸時代に作られた小説や講談落語の類に も、他に揮るところがあって、嘘と知りつつ嘘を云っているのが往々あるから、めったに油断は出 来ない。わたしなども時々それに惑わされることがあって困る。  こんなことを書いていると際限がないからここらで筆を欄く。    (昭和二.歌舞伎研究) 附・世話狂言の嘘        この一文は、縞堂が主宰した戯曲雑誌「舞台」の第一回誌友大会開        催の節の講演速記である。縞堂の講演振りを偲んで附録とする。  只今、額田(六福)がいろいろ手前勝手なことを申したようであります。とにがく初めての会で あり、殊に月末でありますし、また日曜で、お天気も好いから、どうかと思って居りましたところ が、意外に皆さんのお顔を拝見しましたことを、私より一同に代ってお礼を申し上げる次第であり ます。  まず、わたくしが前座に出ましたのでございますが、わたくしは此の夏から少し身体を悪くして 居りまして、今日も伺うのは助けて貰うように申したのでありますけれども、それはいけない、お 前が出て御挨拶をしなければいけないと云うような訳で参りました。従って、何もお話しすると云 う程のことを纏めて考えても居りませぬ。しかし、宜いことには此の頃は漫談という言葉が流行り ます。まことに都合の好い言葉で、私も実はその漫談で御免を蒙るつもりで出て参りました。しか し漫談という題はいけないと云うことで、何か仔細らしい題を付けましたが、要するに内容は漫談 と御承知を願いたい。  さて、世話狂言の嘘という題でございます。題がすでに嘘でありますから、私の話すことも当て になりませぬ。昔から芝居は嘘と云います。もっとも、絵は絵空事と云いますし、講談にしても 「講釈師見て来たやうな嘘を言ひ」などと申します。又芝居の方は、悲しくもないのに泣くと芝居 をやると云う。要するに昔から芝居は嘘である。今更われわれが摘発して是が嘘であると云っても 始まらない。事実について是は事実と違って居ると云うことを洗い立てするのではない。ただ芝居 として世話狂言と云いますと、江戸以来の世話狂言でも是は嘘がないとか云うことは問題ではな い。しかし、今日江戸研究と云うことがだんだんに行なわれて参りまして、江戸時代の世話狂言と 云うものを通して、江戸時代の思想を知ろう、世話狂言を通じて其の時代の社会状態、生活状態を 種々参考にしようと云う傾きがある。それで私共の所に来る方に、しばしぱ若い方から斯ういう問 いを受ける。江戸時代にこういうことがありましたか。私はありませぬと云うと、でも黙阿弥の何 とかいう芝居にこう云うことがあります。こういう芝居にこういう事がありますと云う。それで、 私が答えるには、そこが芝居だ、本当ではない、芝居としてそういう風にして居るのである。こう いう答をする。昔の人は其の時代の人であるから、これは嘘である、これが本当である、この先き が芝居であると云うことは判るのでありますが、もう年月を経た今日になりますと、どこまでが芝 居なのか、どこまでが本当であるかという区別に迷う。これもいわゆる時代狂言、時代物になりま すれば、これは議論はありませぬ。始めから終わりまで嘘に極まって居るから、これは問題は起こ りませぬが、世話狂言というと大分|傍目《わきめ》が加わっている。でありますから、どこの所が本当の所で あるか、芝居であるかという区別が判りかねるのでありますが、これは今の方としては無理もない ことでございます。  たとえば例を申しますと、四谷怪談という芝居がある。これに権兵衛という人間が出る。これは どういう所に住んで、どういう事をしているかと云うに、深川の寺門前に住んでいて、家は樒《しきみ》や線 香を売って居る。一方に芝居では鰻掻きをしている。これが芝居である。私の考えでは、江戸時代 に寺門前で以て自分の家が樒や線香を売る商人である者が、一方に鰻掻きをする訳はない。本人が しても寺が承知しない。寺から、樒や線香を売って居りながら鰻掻きをしては本職に身が入らない からいけないと云う。でありますから、もし権兵衛という人があったとしても鰻掻きをする筈がな い。そうかと云って、権兵衛という凄い人間が、八百屋になって唐茄子や何かを売って居っては不 釣合いで困る。殊に前に戸板流しなどという場があると、鰻掻きでもして居なければ困ると云うの で以てする。ところが見物の方でも樒や線香を売って居る者が鰻掻きをする筈はないが、これは芝 居であると思って黙って見て居る。  そこで、私は是から一つそう云うように、これは芝居である。これは嘘であると云うことのお話 を少ししようと思って居ります。まずちょっと手近かな例を申しますと、切られ与三郎という芝居 のいわゆる玄冶店《げんやだな》の場で、ここに蝙蝠安《こうもりやす》と与三郎がお富の所に無心に行く。そこで、お富と会って いろいろなことがあった後、お富が編蟷安にむかって金を一分やる。すると蠕蟷安は非常に喜ぶ。 ところが与三郎が一分じゃあ帰られねえと云う。それはほかに種々な原因があるから別問題である が、お富が一分やると云うことですが、まず私の考えるところでは、これは芝居であると思う。江 戸時代に一分なんと云う大金を、縁もゆかりもない無頼漢《ならずもの》に、しかもあの芝居で見ると、お前、こ ないだも来たじゃないかと云うようにチョイチョイ来る、そうして蠕蟷安のような、安っぽい汚い 無頼漢に一分もやる必要がない。そこが芝居である。  なぜかと云うと、御婦人のお出での席で申し上げるのは失礼ですが、江戸時代に囲者《かこいもの》……お妾《めかけ》の 一と月の相場は三分から一両なのが原則である。そうすると、一分をやることになれば、月三分貰 う人は三分の一、一両の給金の人は四分の一で、縁もゆかりもない奴に、三分の一も四分の一もや る訳はない。精々やったところで、一朱すなわち一分の四分の一もやったらいい。又、編幅安も大 体収入の判っている囲者の家に行って、一分……その時代で云う千匹なんか貰おうとは思っても居 なかった。しかし、芝居ではお富が一朱くらいやったんでは工合が悪い。それで気前を見せて、う んとやらなければ工合が悪いから一分やる。昔……その時代なら見物も、本当ならば一分やる訳が ないが、そこが芝居であると思って黙って見ているが、今目になって見ると判りかねる。まず妾宅 へあんな奴が来れば、一分くらい気前を見せてやるものか知らんと考えるが、あれは私の考えでは 絶対に嘘である。藤八が天保銭を一つやって怒られると云うが、天保銭も余りひどいが、精々一朱 もやれば上等であって、文句はない。三分くらいの給料で以て一軒持ち、女中を使っている人間が 三分の一にも当たる一分をやる訳はないから、あれはつまり芝居の嘘であるという風に考えていた だきたい。  大体これは、申し上げるまでもありませぬが、芝居というものは総て金が多くて、金銭を湯水の 如く使う。ちょつとしたことでも五十両とか百両とか云う。たとえば今夜のうちに二百両の金がな ければどうだとか云う。しかし、その時代は今日の如くそういう風に、百両とか二百両とかを考え るものではない、百両とか二百両という金は、普通の人間が考うベきことではない。今までそんな 金もない者が、今夜のうちに百両なければならないと、云うようなことはありよう筈がないし、ま た考える人間は一種の誇大妄想狂であるが、そうかと云って、今夜暮れ六つまでに三両がなければ 困る。一両の金がなければ困ると云っては気持が薄いから、これを大きく三百両とか百両なければ 困ると云うが、見物も今申す如くその時代の人であるから、嘘とは知りながら、芝居であるから と、こう思って居ります。今日から考えて昔はこう云うことがあったかと考えることは問違いであ る。  大体に昔の江戸時代の人間が幾ら金を持って歩いたかと云うと、何か芝居では事があると直ぐ五 十両出してやって身投げを助ける。又、三十両要ると云うと出してやるが、一体、江戸時代には外 へ出て歩くに十両の金を持って歩く人は、いわゆる八丁堀の旦那……泥坊を掴まえる八丁堀同心、 これは奉行所の御令として、いつも十両の金は懐ろに持っている。それはなぜかと云うと、犯罪人 に出会ってこれを追っ駈けると云うことがある。都合に依ると、それからそれと追っ駈け廻って、 関東八州を駈け廻るときに、家へ帰って金の工面をすると云うことでは困るからして、必ず外に出 るときには十両の金を持って居ろ、十両の金を絶やすなと云う。それにしても、八丁堀同心の収入 と云うものは、表面は三十俵二人扶持か三人扶持で、これは表面だけにしましても、米の値はその 時代に依って違いますが、一石一両と見ても十二石では十二両、一年に十二両であるから一ヵ月一 両であるが、その人が絶えず十両の金を持っていようと云うことはなかなか出来ない。表面そうい うことになって居るが、そこにいろいろ弊害が起こるから出来ないし、また十両と云うものは実際 は持っていない。  そういうわけで、十両|外《そと》を持って歩く人と云う者は、何か特別に、今日は払いをしなければなら ぬと云う人は別として、普通の武士の家でも、武士仲間の参会のあるときには一両持って行け、一 両以上は持ち合わせがないと云っても恥ではないが、一両以下はないと云っては恥である。だか ら、一両持って行けと昔は云って居りました。まず普通の侍の家ではそうであります。そういう何 か極まった武士同士の寄合いでも一両であるが、その武士でさえも、自分が勝手に出歩くときには 一両は持って歩かない。一分か二分である。そういう工合でありますから、懐ろにたくさん金を持 って居る人は決していない。ただ、そこいらを歩いて居ると云う人が一両か一両二分持って歩いて おれば、金を持っている人である。だから、単に五十両スラリと出したとか、二十両取られたとか 云うことは嘘である。従って、芝居で以て十両以上の金を懐ろから出す奴があったらば、それは芝 居であると思って間違いがない。実際は十両の金を懐ろにした人間が、そこいらに殆んど世の中に は歩いて居ないと思って差支えない。  また、世話狂言によくありますのは、終《しま》いへ行くとお白洲《しらす》の場というものがある。町奉行所の場 とか、大岡越前守の場とかで罪人の裁きをする。あれは芝居として巳むを得なくああ云うことをや る。本当のことをすれば、当時、奉行所から叱られるからでもあるし、芝居の方の都合もあり、本当 のことは遠慮して已むを得なくやったのであります。しかし、あれは実際とは著しく違っておりま す。普通芝居でありますと、二重になっておって、上に奉行、真ん中に書役《かきやく》、それから其の下に調 査される科人《とがにん》という者が出て、白洲の砂利の上に坐ると云うことになっている。本当は奉行自身が 罪人を調べる者ではないのであります。奉行は調べる場合に、いっさい口を利く者ではない。大岡 越前守が名奉行であると云っても、決して科人を調べることはない。奉行所の調べる所は三間に仕 切られて居って、奉行は上《かみ》に居り、真ん中に吟味与力、その脇が書役、一番|下《しも》には若い与力格-… 同心の見習の者が控えている。これは警戒のためと見習のために大勢控えている。そうして罪人を 調べるのは、真ん中の部屋に坐っている吟味与力が徹頭徹尾調べる。奉行は罪人に向かっては直接 に口を利かない。もし部下が調ベて居るのを聴いておって、何か聞きたいことがあると云うときに は、吟味与力に聞く。あの者は本所へ泊まったと云うが、晩何時頃泊まって、朝何時頃立ったかと 云うことを、吟味与力に向かって訊ねると、吟味与力から罪人に向かって其の事を訊ねると云うよ うに、奉行は徹頭徹尾、罪人とは直接交渉がない。あの人は罪人の顔を見ないで裁判をしたと云う が、しかし、本当は自分は唯坐って聴いておればいいので、そこが芝居だ。芝居でする場合に、吟味 与力が一人初めから終わりまで調べて、肝腎の大岡越前守が終わりまで黙っていては困る。第一、大 岡越前守をする役者がなくなってしまうから、真ん中に大岡越前守が坐って、村井長庵を調べると 云う、それが芝居であって、実際は嘘である。また芝居では調べられる人間は必ず下に坐っている が、それも上中下の三種あって、士分でも旗本以上、坊主でも一箇村の住持、神官でも宮司と云う 者は下に坐らずに、上にあがって、吟味与力と向かい合って調べる。それから一格下った士分、す なわち御家人、普通の坊主、それから、神官でも宮司でない禰宜《ねぎ》という連中が、薄縁《うすべり》を敷いた縁側 に坐って、町人、百姓、職人がいわゆる砂利の上に莚《むしろ》を敷いた所に坐る。この坐り方が上中下にな って居る。芝居であると、調べられる者が一番上に上がってしまって、調べる人と向かいあって調 べるのでは工合が悪い。どうしても調べる人が上におって、調べられる者が下におり、上下で以て 見下してやらないと、見た目も悪いし、芝居もしにくい。だから調べられる者は、いつも下に居る と云うことになっている。これも芝居であると思わなければならぬ。  又、よく拷問の場があります。調べて白状しないと其の人間を拷問に掛ける。しかし、本当は拷 問と云うことはしないことになっている。拷問をすると云うことは、調べる人問の恥辱である。も し調べ方が上手であれば、拷問をしないでも、相当の証拠を以て、巧く問い落とせば白状させるこ とが出来る筈であるが、白状させることが出来ないで拷問したなんて云うことは、吟味与力の未熟 であると云うことになる。だからたびたび拷問をすれば役目を代えられるから、なるべく拷問をし たくないと云うのが、奉行所の意志である。それを知っているから、前科者の図々しい奴は拷問を する訳はないと多寡をくくって困る。芝居は無暗に拷問をしますが、実際拷問をした数は甚だ少な い。殊に拷問……撲ったりするのは別でありますが、蛇責めをするなどと云うには、老中に伺いを 立てて、老中の承認の意を取らなければ出来ない。それは非常に面倒であって、また自分たちの失 態でもあるから、拷問はしない方が本当であります。これも芝居です。  又、その場で以て拷問しなければ工合が悪いから、そこで以て引っ叩いたりしますが、奉行所で 以て拷問をするものではない。芝居では奉行所で拷問しますが、それは今日の裁判所と同じ訳で、 奉行所は裁判をするだけで以て、拷問をする道具も備わっていない。拷問は日本橋の伝馬町《てんまちよう》にある 牢屋でする。γ.】の牢屋の中に、まさか拷問所と云う名も付けられないから、穿撃所《せんさくじよ》と云う名の付い た建物があって、小規模であるが、奉行所の白洲と同じ形になっておって、奉行所から吟味与力が 出張をして行って拷問をする。町奉行所ではしない。拷問をするにはそこで以てする。従って、拷 問の場合には大抵町奉行は行かない。奉行の見ている前では拷問はしない。吟味与力の一手のみで やる。奉行はよくよくの重大犯人でなければしないし、また奉行が行っても奥の襖の中で聴いてお って顔を出さない。しかし、芝居ではそれでは困る。手数を掛けて奉行所で調べて、また穿繋所へ 連れて行くなんて二度手間で面倒であるから、その場で以てするが、それは芝居であるからであっ て、実際はそうではない。  拷問をして石を抱かせるのは別ですが、打つ場合に多く割竹を用いますが、柄が長くって恰好が 好いから用いますが、これは江戸ばかりでなく、どこの藩中にも拷問を割竹で以て打つと云う所は ない。必ず打杖と言って、別に造られてある物がある。これは竹を細くして集めてこれを麻で以て 厳重に縛って、その上に観世繕《かんぜより》の太いのを巻いて、それで長さは一尺五寸くらいだから短い。殊に 利く所に依っては白い麻が付いて居るが、それでは芝居では面白くないから、長い割竹で以て打 つ。しかし、実際は割竹で打つことは全然ない。  それから世話狂言に捕物と云うものがあります。そういう芝居に出て来る人で、江戸時代に出来 た黙阿弥さんの物でも何でも、みんな捕役の頭という者が鉢巻をして、ぶっさき羽織を着て袴を穿 いている。袴を穿いて、鉢巻をして十手を下げ、ぶっさき半纒を着た捕手なんて実際はありはしま せん。人を捕えに行く頭、すなわち八丁堀同心にしても、それを捕えに行く手先にしても普通の縞 の羽織を着て、普通の町人の儘で、捕えるとき精々羽織を脱ぐか尻を端折るくらいで、別に武装を しない。勿論、武器も持たない。十手ぐらい持って、芝居では御用々々と頻りに云いますが、大抵 は何も持たずに手捕りであります。向うが刃物を持っていても、こっちが空手で以て捕ると云うこ とが法であります。ちょっと考えると危険のようでありますが、これは多年の習慣で以て、素手で やると云うのが徳川時代の本当のことである。また御用と言って十手を振り上げますが、十手は振 り上げる物ではない。下に繋《かざ》す。上《かみ》の御用であるぞと云って下へ繋すので打つ物ではない。また十 手で以て刃物を打ち止めるのであって、なるべくこれを用いないと云うのが普通であります。  余りお饒舌《しやべり》しましたから引き下がってもよろしいが、拷問などという殺風景なお話で引き下がる のも何ですから、ちょつとあとに、もう少し色気のあるお話を申し上げて引き下がることに致しま す。よく世話狂言には道行《みちゆき》と云うものがございます。必ず世話狂言には何か吉原の物が出る。吉原 の花魁が駈落ちをするとか、吉原の花魁と熱くなって、家から勘当されると云うことがあります が、そこが芝居であると云うことを二、三申し上げます。芝居ではよく吉原の女郎屋があって、侍 がさすがに長い刀を差しては居ないが、短い刀を差して、脇役の侍が「左様々々」と云っておりま すが、実際は御承知でもありましょうが、決して吉原の貸座敷では刀を持って上がれるものではな い。入り口で如何なる人でも刀を取り上げられてしまいます。女郎屋に差して行ったと云うことは ない。佐野次郎左衛門の芝居で以て、八橋を斬ったことをしますが、それは芝居であって、実際 は、佐野次郎左衛門が八橋を斬ったのは、橘屋と云う引手茶屋で以て斬ったのであって、女郎屋で 斬ったのではない。引手茶屋から行くお客は茶屋で以て刀を預かってしまうから、女郎屋の二階に 刀はない。だから女郎屋の中で心中するに、刀や脇差を用いることは出来ない。つまり小刀《さすが》か剃刀 でやる。  私は世話狂言を見てそう思うが、たいてい世話狂言には片方に情夫があって、片方に侍とか金持 の商人とかが居て、それが女に振られると云うことになりますが、この振ると云うことであります が、御婦人のお出での所で、こういうことを申し上げるのはよろしくないが、これは研究の為に申 しますと、ここに男の方がお出でになってお覚えもありましょうが、落語にしても、芝居にして も、振ると云うことをよく申しますが、一体、女郎屋に行って、振られると云うことがあるかない かが根本問題ですが、おれは振られた、と云う人があれば嘘である。そんなことがあるべき筈がな い。殊にいわゆるカワフチと称えるひどい小店へ行けば、乱暴でもあるし、取締りもルーズである から、そういうことがあるかも知れないが、芝居でする店は、立派な侍が行くとか、仙台さまが行 くと云うような、茶屋から送られて行くような大店へ行って振られると云うことは絶対にない。よ く芝居でする敵役とか金持を前に置いて、花魁が「私はお前が嫌じゃわいな」と云うことは、決し てない。そんなことを云ったとすれば、女は、身命を賭して吉原におられない覚悟なら格別、さも なければ、そんなことは云わない。又そういう大きい仙台さまか、何かだとすれば、必ず引手茶屋 から送られて行くに違いない。引手茶屋は原則としてお客の味方であるから、自分の家から送って 行った客を大勢の前で「お前嫌じゃわいな」と云ったら、引手茶屋の者なり、お内儀さんが黙って 居ない。「お前は坐っておいでなさい」とか、場合に依っては女郎の髭を掴んで倒す。  とにかく、お客を振ることは嘘であるから、若し皆さんが何かお書きになる場合には、それは用 いないでいただきたい。こういうことを、一々挙げてお話しすると半日掛かりますが、詳細にお話 をすると、どうして岡本はそんなことを知って居るか、お里が知れると云うことになると、人格に 拘わりますから、これで……。