「半七捕物帳」の思い出 岡本綺堂  初めて「半七捕物帳」を書こうと思い付いたのは、大正五年の四月頃とおぼえています。 その頃わたしはコナン・ドイルのシャアロック・ホームズを飛びとびには読んでいたが、 全部を通読したことが無いので、丸善へ行ったついでに、シャアロック.ホームズのアド ヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて三冊を読み 終えると、探偵物語に対する興味が|油然《ゆうぜん》と|湧《わ》き起って、自分もなにか探偵物謡を書いてみ ようという気になったのです。|勿論《もちろん》、その前にもヒュームなどの作も読んでいましたが、 わたしを刺戟したのはやはりドイルの作です。  しかしまだ直ぐには取りかかれないので、さらにドイルの作を|獲《あさ》って、かのラスト.ギ ヤリーや、グリーン・フラダや、|櫨畔《ろはん》物語や、それらの短篇集を片っ端から読み始めまし た。しかし一方に自分の仕事があって、その頃は時事新報の連載小説の準備もしなければ ならなかったので、読書もなかなか|捗取《はかど》らず、最初からでは約ひと月を|費《ついや》して、五月下旬 にようやく以上の諸作を読み終りました。  そこで、いざ書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というも のが無い。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新たに探偵を主 としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語を 書くと、どうしても西洋の模倣に陥り易い|虞《おそ》れがあるので、いっそ純江戸式に書いたなら ば一種の変った味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。幸いに自分は江戸時 代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引などの生活に就いても、ひと通り の予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。  その年の六月三日から、まず「お|文《ふみた》の|魂《ましい》」四十三枚をかき、それから「石燈籠」四十枚 をかき、更に「勘平の死」四十一枚を書くと、八月から国民新聞の連載小説を引き受けな ければならない事になりました。時事と国民、この二つの新聞小説を同時に書いているの で、捕物帳はしばらく中止の形になっていると、そのころ文藝倶楽部の編集主任をしてい た森|暁紅《ぎようこう》君から何か連載物を寄稿しろという註文があったので、「半七捕物帳」という題 名の|下《もと》にまず前記の三種を提出し、それが大正六年の新年号から掲載され始めたので、引 きつづいてその一月から「湯屋の二階」「お|化《ばけ》師匠」「半鐘の怪」「奥女中」を書きつづけ ました。雑誌の上では新年号から七月号にわたって連載されたのです。  そういうわけで、探偵物語の創作はこれが序開きであるので、自分ながら覚束ない手探 りの形でしたが、どうやら人気になったと云うので、更に森君から続篇をかけと註文され、 翌年の一月から六月にわたって又もや六回の捕物帳を書きました。その後も諸雑誌や新聞 の注文をうけて、それからそれへと書きつづけたので、捕物帳も案外多量の物となって、 今まで発表した物語は四十数篇あります。  半七老人は実在の人かーそれに就いてしばしば問い合せを受けます。勿論、多少のモ デルが無いでもありませんが、大体に於いて架空の人物であると御承知ください。おれは 半七を識っているとか、半七のせがれは歯医者であるとか、或いは時計屋であるとか、|甚《はなは》 だしいのはおれが半七であると自称している人もあるそうですが、それは恐らく、同名異 人で、わたしの捕物帳の半七老人とは全然無関係であることを断わっておきます。  前にも云った通り、捕物帳が初めて文藝倶楽部に掲載されたのは大正六年の一月で、今 から振り返ると十年余りになります。その文藝倶楽部の誌上に思い出話を書くにつけて、 今更のように月日の早いのに驚かされます。        (昭和2.8「文藝倶楽部」)