小栗栖《おぐるす》の長兵衛《ちようべえ》(一幕一場)       登場人物      初演配役     百姓長兵衛  (二世市川|猿之助《えんのすけ》のちの猿翁《えんおう》)     その父長九郎  (市川|米左衛門《よねさえもん》)     その妹 おいね   (市川かつみ)     婿《むこ》七之助 (市川|左喜之助《さきのすけ》)     馬士《まご》弥太八   (坂東|寿三郎《じゆうざぶろう》)     猟夫《かりゆうど》伝  蔵     庄屋与茂作  (二世市川左升)     僧法善 (二世市川荒次郎)     巫女《みこ》小鈴 (二世市|川松蔦《しようちよう》)     堀尾茂助吉晴  (六世市川|寿美蔵《すみぞら》のちの寿海《じゆかい》)     百姓丑五郎、彦松     立場《たてぱ》茶屋の重助、その女房おくろ、その娘おかん     吉晴の家来など。         大正九・一一、明治座初演      山城国《やましろのくにバ》、宇《ェ 》治郡、小栗.栖村。      鯖瓢敷1験《しも》離讐ポ籟磁|講欝欝叢寵《かやぶたてばハォ 》"跡㍑震纏㍉瓢     たは森、田畑などが遠くみゆ。     (天正十亀パ月十四日の午後・百姓丑五郎と彦松の二人は店さきの床几に腰をかけ、茶屋の女房おく     ろと娘おかんとが茶を出している。水の音きこゆ。) おくろ  相変わらず毎日お暑いことでございます。 丑五郎  まったく今年の暑さはいつもより少しきびしいようだ。 彦松   これで旱《ひでり》さえ続かなければ、作物《さくもつ》のためには好いのだが、こういう年にはとかくに空照《からで》      りが続くものだ。 おかん  それでも軍《いくさ》が早く片づいて、まあ、まあ、結構でございました。 丑五郎  ほんとうにそれが何よりのことであった。だが、あれほどの大いくさがたった一日で片     づこうとは思わなかった。明智方《あけちがた》もあんまり脆《もろ》かったではないか。        (茶屋の亭主重助はぬれ手を拭きながら、奥の縄暖簾《なわのれん》をくぐりていず。) 重助  もし、お二人《ふたり》さん。これが世にいう三日天下で、明智光秀《あけちみつひで》ほどの大将もたった一日の山      崎合戦で他愛もない総崩れとは、まったく夢のようでございますね。 彦松  なんと言っても明智は謀叛《むほん》人。一方の羽柴《はしはハヨ 》どのは主看の弔《とむら》い合戦というのだから、 日      が二日、二目が三日に延びたところで、所詮《しよせん》は明智の負けいくさになるのが順当らしいよ。 重助  なるほどそんなことかもしれませんね。わたくしどもの商売では、どっちが勝っても負      けてもいいから、ちっとも早く軍《いくさ》騒ぎの納まってくれるのが何よりでございます。きのうも      明智方の落ち武者が十五、六人もどやどやと押し込んで来て、ひと釜の飯をみんな食い倒さ      れ、肴《さかな》も煮染《にしめ》も手づかみの暴《あば》れ食いに、商売も半休みになってしまいました。 おくろ  おまけにこの娘《こ》をつかまえて、悪ふざけをする者もあるので、ほんとうに困ってしまい      ました。 おかん  わたしはほんとうに怖くって、どうなることかと顛《ふる》えていました。 丑五郎  それはとんだ災難だ。一人前の侍なら真逆《まさか》にそんな乱暴もしまいが、雑兵足《そもひょう》軽どもでは      行きがけの駄賃に、どんないたずらをするかわからないから、そんな時には早く店をしめて      しまうことだ。 彦松  だが、もう大丈夫。明智方はたいていどこへか散りぢりに引き揚げてしまったらしいか      ら、当分はここらも静かだろう。 重助 どうかそうしたいものでございますよ。        (上のかたより百姓長九郎、五十余歳。娘おいね、十七、八歳。おいねの婿《むニ》七之助、二十一、二歳。        三人連れ立ちていず。) 丑五郎  おお、長九郎どの。家じゅう揃ってどこへ行きなすった。        北ゆず 長九郎  (珠数を見せる。)これでござります。 彦松  ははあ、お寺まいりかね。 長九郎  きのうは六月の十三日、死んだ女房の三回|忌《き》にあたるので、墓まいりに行ってやりたい     と思っていると、つい眼と鼻の山崎ではあのとおりの大いくさで、流れ丸《だま》がとんで来るやら、     落ち武者が逃げ込むやら。うかうかと外へ出てとんだ災難をうけてはならぬと、家のなかに      みんな小さくなっていましたので、一日おくれてきょうの墓まいり、土の下にいる女房にも      よくその断わりを言って来ました。 重助  それはおかみさんもさぞ喜びなすったろう。かんがえてみると早いもので、亡くなった     おかみさんももう三年になりますかね。        (このうちに、おくろとおかんは床几《しようぎ》をまえに持ち出して、長九郎らに掛けろという。三人は会釈《えしやく》し        て床几に腰をかける。) 丑五郎 だが、まあ、おいね坊にも七之助さんという立派な婿どのができて、こうして三人が仲     よく揃って御|参詣《さんけい》に行ってやれば、死んだおかみさんもどんなに喜ぶか知れやあしない。 彦松  ほんとうに長九郎さんの家《うち》でも良い婿《むこ》を取りあてて仕合わせだと、近所でもみんな羨《うらや》ん      でいますよ。 長九郎  (うれしげに。)はい、はい。人さまの前で自分の家《うち》の婿を誉《ほ》めるのも異《い》なものでござりま      すが、まったくこの七之助はみなさんもご存じの正直者で、朝から晩まで畑仕事には精をだ      し、年を取ったわたくしに孝行を尽くしてくれます。 おくろ  それに、おいねさんと夫婦仲のむつまじいのが、第一の親孝行というものでございます      よ。        (七之助とおいねは顔を見あわせて、恥ずかしそうにうつ向く。) 重助  それにつけても、あの長兵衛さんがもう少しどうにかなってくれたら。 おくろ  これ。(眼で制する。)        (重助も気がついて口をつぐむ。丑五郎と彦松も眼を見あわせて、気の毒そうに黙っている。) 長九郎  (嘆息する。)まったくここの御亭主のいうとおり、あの長兵衛めは自分の生みの伜《せがれ》ながら      も、愛想《あいそ》の尽きた役雑《やくざ》もので、博変《ばくち》は打つ、酒はのむ。おまけに子供の時からの喧唾《けんか》好き      で、なにかと言えばすぐに腕ずくで暴《あば》れ散らすという、それは、それは、箸《はし》にも棒にもかか      らぬ奴。いくたびか勘当《かんどう》しようとは思いながらも、やっぱり肉身の恩愛《おんない》で、きょうまで堪忍《かんにん》      していますが、あいつの噂《うわさ》が出るたびに、つながる縁の妹や婿どのにも、肩身のせまい思い      をさせますのが、ほんに気の毒でござります。 丑五郎  どこの息子もそれが多いが、長兵衛さんは少し念が入り過ぎているようだ。そうしてき      ょうのお墓まいりにも、長兵衛さんはいっしょに出ては来なさらないのだね。 長九郎  なんの、なんの、きのうの朝から家を出たぎりで、どこをうろついていることやら、今      まで姿を見せませぬ。あんな奴のことなれば、自分の母親の祥月《しようつき ユ 》も命日も、おおかた忘れて      いましょうよ。 彦松  そんなことかもしれないな。(丑五郎と顔を見あわせる。)なんにしても困った男だ。 七之助  今度の軍《いくさ》がはじまると、おれもこのどさくさまぎれに金《ヤ ちヤ》儲けをするのだと言って、竹槍     を持って出たままで、今に戻って来ませぬので、もしやなにかの間違いでもありはしまいか     と、わたくしどもも案じております。 《たけれ ハの》重助なに、竹槍を持って出た:…・。それはなるほ聴安心三 おいね  おおかた野武士の仲間入りをして、落ち武者の鎧や刀でも剥ぎ取るつもりでござりまし      ようが、相手は侍《さむらい》、 こっちは百姓、もし仕損じたらたいへんと、七之助さんもわたくしも      きのうから胸を痛めております。 長九郎  いや、いや、あんな不孝者は、いっそ流れ丸《だま》にでもあたって死んでしまう方が、世問の      若い人達のよい見せしめでござります。 おくろ  なるほど、無い子には泣かないというが、あんな息子を持った長九郎さんは、ほんとう      にお察し申しますよ。        (下のかたより馬士弥太八いず。) 弥太八  おお、長九郎さん、ここにいなすったか。ちょうどいい所で逢いましたよ。 長九郎  おお、弥太八さん。わたしに何ぞ用でもありますかえ。 弥太八  用というのはほかでもねえ。おまえさんにはちっと気の毒だが、あの鰻《まむし》野郎がね。 長九郎  え、伜《せがれ》がどうかしましたか。 弥太八  嬢野郎の長兵衛がおれの家の馬を盗んだのだ。(大きな声で言う。) おいね  そんなら兄《あに》さんがおまえの馬を……。 七之助  して、それはいつのことでござります。 弥太八  今から五日まえの晩に、おれの馬小屋へ忍び込んで、大切の粟毛をぬすみ出した奴があ      る。あれを盗まれてはその日の商売もできねえので、毎日方々をさがしていると、きょうに      なってようようその手がかりがついた。二、三日前におれの栗毛を引っ張って、隣り村の源      右衛門のところへ売りに行った男、それがあの腹の長兵衛に相違ねえのだ。 七之助  はて、ふた口めには嬢々と、大きい声で言ってくださるな。そんなら長兵衛どのが、お      まえの馬をひき出して、となり村へ売りに行きましたか。 弥太八  そうだ、そうだ。ひとの飼い馬を断わりなしに牽き出して、よそへ売ってしまったから      は、言わずと知れた馬どろぼうだ、その掛け合いにゆく途中で、ここでおまえ方に逢ったの      がちょうど幸いだ。さあ、おやじさんも婿《むこ》どんもこの始末をどうしてくれる。(つめよる。) 七之助  (起ち上がりてさえぎる。)まあ、待ってくだされ。なるほどおまえの方には確かな証拠も      あろうけれど、なにをいうにも相手の長兵衛どのは、きのうの朝からゆくえが知れぬので、      わたし達も心配しているところ。ともかくも当人が戻って来た上で、その実否《じつぷ》をよく聞きた      だして……。 弥太八  では、おれが根もないことをこしらえて、言いがかりでもすると言うのか。 七之肋  いや、そういうわけでは決してござらぬが、くどくも言うとおり、その相手の長兵衛ど      のが留守《るナ》であれば……。 弥太八  あんな役雑《やくざ》者は初めから相手にしねえ。おれはおまえ方を相手にして、なんとか将《うち》をあ     けてもらうつもりだ。さあ、馬を返すか、それだけの金を払うか、二つに一つの挨拶をして     もらおう。(七之助の腕をつかむ。) おいね  (さえぎる。)それだと言って、今すぐには……。まあともかくも、二、三日のところを……。 弥太八  (おいねを突きのける。)ええ、二、三日はさておいて、もう一日も待たれねえのだ。 長九郎  (起《た》ちあがる。)はて、手荒なことをさっしゃるな。おまえの理窟《りくつ》はよくわかりました。あ      らためて本人を詮議《せんぎ》するまでもなく、その馬はきっと長兵衛めが盗み出したに相違ござるま      い。あんな伜《せがれ》を持ったが親の因果《いんが》、たとい田畑《でんばた》を売り払っても必ずおまえに損をかけますま      いから、勘弁《かんへん》しにくいところであろうが、わたしに免してもう二、三日、どうぞ待ってくだ      さるまいか。 七之助  わたしもともどもにたのみます。 重助  ふだんから村じゅうでも正直者と評判のおやじさんと婿《むこ》さんが、こうして頼みなさるの     だから、おまえもおとなしく料簡《りようけん》して、まあ二、三日待ってやることにしたらどうだね。 丑五郎  そうだ、そうだ。決しておまえに損をかけるような長九郎さんではない。 彦松  きょうのところは我慢しろ、我慢しろ。 弥太八  (しぶしぶうなずく。)みんながそれほどに言うものを、おれ一入《ひとり》がじやじゃ張るわけにも      いくめえ。ほんとうに忌《いまいま》々しいのは馬どろぼうの長兵衛めだ。おれはこれから隣り村へ行っ      て、ともかくもあの馬を取り戻して来なければならねえ。では、おやしさん。また逢おうぜ。        (弥太八は上のかたへ去る。) 長九郎  なんと言われても一言もござらぬ。ほんに憎いのは馬どろぽうの長兵衛めでござります、        (皆々も気の毒そうに黙っている。上のかたより庄屋与茂作、僧法善と連れ立ちていず。) 与茂作  おお、皆の衆もここにいたか。 重助  おお、庄屋さま。お暑いことでございます。        (皆々|会釈《えしやく》する。) 長九郎  (進みいず。)庄屋さま。ここらの軍《いくさ》も静まりましてまずまず結構でござりました。和尚《おしよう》さ      ま。先刻《せんこく》はお邪魔をいたしました。        (七之助もおいねも会釈する。) 法善  こなた衆はあれからここにござったのか。 七之助  はい。あの、少し面倒なことができまして……。 法善  ほう、なにか知らぬがそれはお気の毒じゃな。        (丑五郎と彦松は起《た》って床几《しようぎ》をゆずれば、与茂作と法善は腰をかける。) 与茂作  さて、ここにあつまっている人達にも、話しておきたいことがある。と言うのは、今度      のいくさに限らず、近ごろは村々の百姓どもの気があらくなって、ややともすれば竹槍や鉄      砲などをかつぎ出して、落ち武者の鎧兜《よろいかぶと》などを剥《は》ぎ取ろうとするのは、もってのほかのこと      だ。百姓は鋤《すき》や鍬《くわ》を持って、耕作に精出すのがめいめいの務めで、猪狩りの時のほかには、      竹|槍《やり》や鉄砲などをむやみに持ち出すはずのものではない。その道理をわきまえずに、このご    ろの若い百姓どもは、とかくに乱暴で欲張りで、野武士や強盗の真似《まね》をしたがるのは、言語《こんご》     道断《どうだん》の不坪《ふらち》とあって、羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》どのからたった今きびしいお触《ふ》れがまわって来た。今度の     いくさについても、右様の不将者は強盗と同罪、一々に搦《から》め取って礫《はりつけ》の刑に行なうとある。 重助 おお、はりつけ……。        (皆々おどろく。) 法善  この村の人達は皆おとなしい正直者、そんな不心得の御仁《ごじん》は一人《いちにん》もあるまいと、わしも      安心していますが、それでもまた大勢のうちには……。(長九郎を見る。)どんな人間がどんな      できごころで、どんなことを仕出来《しでか》すまいものでもない。万一そんなことがあったら、本人      はもちろん、村じゅうの者もまたどんな迷惑を受けまいものでもござらぬ。じゃによって、      誰《だれ》も彼も気をつけて、かならず野武士のような真似をしてはなりませぬぞ。よいかな。 一同  はい、はい。わかりましてございます。        (この以前より猟夫《かりゆうど》伝蔵、火縄筒《ひなわづつヘエ 》を持ちて下のかたよりいで、庄屋と僧との話を聴《や》きいたりしが、大       勢をかき分けて進みいず。) 伝蔵  もし、庄屋さま、和尚さま。どうもとんだことを致しました。(鉄砲をまえに置きて、土に     手をつく。) 与茂作  とんだこととは……。 伝蔵  実はこの鉄砲をかつぎ出しまして……。(泣く。)どうもたいへんなことになってしまい     ました。 与茂作  むむ。では、その鉄砲で……。(撃つ真似をする。)やったか、やったか。 伝蔵 (おなじく撃つ真似をする一)やりましてございます。 法善  その相手はやはり明智《あけち》方の落ち武者かな。 伝蔵  はい。立派な鎧《よろい》を着ていましたので、ついふっとできごころで、遠くから一発|撃《う》ちまし     たが、 猪《いのしし》や猿をうつのとは違いまして、人間を撃つのは生まれて初めてなので、なんだか     ぶるぶると手がふるえて、とうとう撃ち損じてしまいました。 丑五郎  むむ。撃ち損じて、それからどうした。 伝蔵  どうもこうもない。なにをいうにも相手は立派な侍《さむらい》、見つけられたら命懸けと、あと     をも見ないで一目散《いちもくさん》に逃げて来た。 彦松  いや、弱い男だ。 与茂作  いや、弱くって仕合わせだ。もしその落ち武者を首尾よくずどんと撃《ちヤちう》ち留《と》めて、その鎧《よろい》      でもはぎ取ったが最後、おまえはすぐに縄にかかって、京の町々を引き廻しの上に礫《はりつけ》だ。     いや、考えてもおそろしい。へ身をふるわせる。) 法善  南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。なむ阿弥陀仏。(珠数《じゆず》を爪繰《つまぐ》る。) 伝蔵  まったく怖ろしいことでございます。(泣く。)つきましては庄屋さまにも和尚さまにもわ     たくしが一生のお願い、どうかこのことは御内分になすってくださいまし。御承知のとおりわ     たくしには、女のくせに毎晩|寝酒《ねさけ》を一升ずつ飲む女房もございます。泣くと食おうのほかには     何の能もない子供も六人ございます。万一わたくしがそんなお仕置きにでもなりますと、その     女房や子供がみんな路頭《ろとう》に迷わねばなりません。もし庄屋さま……和尚さま-…・。お察しな     すってくださいまし。お助けなすってくださいまし。もし、このとおりでございます。        (伝蔵は泣きながら手をあわせる。) 重助  正直者の伝蔵さんがどうしてそんな気になったのか。これもふだんから猪や猿を殺した、      殺生《せつしよう》の報いかもしれない。 おくろ  それにしても鉄砲一つ撃ったために、引き廻しのうえに礫とは……。 おかん  あんまり悲しい、むごたらしい。        (重助、おくろ、おかんの三人は声をあげて泣く。) 与茂作  まあ、待った、待った。そんなに泣いて騒ぐことはない。これ、伝蔵。 伝蔵  はい、はい。お助けなすってくださいまし。 与茂作  それだから功けてやる。なるほど落ち武者を狙《ねら》ったというのは、貴様が重々わるい。し      かし相手を殺したというわけでもなし、物を取ったというわけでもなし、貴様は猟夫《かりゆうど》で鉄砲      をうつのが商売、人間を猪と間違えて、ついうっかりと引金《ひきがね》をはずしただけのことだ。 法善  左様でござる。そうしてみれば伝蔵どのに罪はござらぬ。 伝蔵  では、お助けくださいますか。 与茂作  おお、助けてやります。皆の衆も聞くとおりの次第だから、どうぞ内分にたのみますぞ。 伝蔵  (一同に。)どうぞ御内分に願います。 これでわたくしも生き返りました。ありがとうご      ざいます。ありがとうございます。       (伝蔵は土に額をすりつけて、庄屋と僧とに幾たびか礼をいう。この時、むこうにて女の叫ぶ声。) 小鈴  あれ、あれ。なにをしなさるのじゃ。あれ、あれ……。        (むこうより小栗栖《おぐるす》村の長兵衛、二十七、八歳、村一番のあばれ者、少し酔っているていにて、片手        に穂先を切られたる竹|槍《やり》をかつぎ、片手に小鈴の手をとりていず。小鈴は十七、八歳の美しき巫女《みこ》、        狩衣《かりぎぬハェ》に緋《 き》の切袴《りばかまハヨ》をはきて、手には榊《さかぎ》の枝を持っ。長九郎はこれを見て、悪い奴が来たというこころ        にて、七之助にささやき、自分だけは店の暖簾口《のれんぐち》に入る。) 長兵衛  はて、いいからいっしょに来いというのに……。遠くまで行くのじゃあねえ。あの立場《たてま》      茶屋まで来て酌《しやく》を一杯してくれればいいのだ。別に面倒なことを頼むのじゃあねえ。さあ、      早く来てくれ。       (いやがる小鈴の手をひきて、無理無体に茶屋の前に引きずってくる。これを見て、一同たち上が       る。) おいね  おお、兄《あに》さん。 七之助  どうなすったのでござります。 長兵衛  どうするものか。このお巫女《みこし》に酌《やく》をしてもらおうと思って連れて来たのだ。 おいね  おお、おまえは八幡さまのお巫女さん。どうして兄さんに連れられて……。 小鈴  今そこで長兵衛どのに行き逢いましたら、わたしに酌をしてくれと言って、いやがるも     のを手|籠《こ》めにして……。 おいね  またいつもの悪い癖《くせ》が始まりましたか。八もあろうにお巫女さんを手籠めにして連れて     来るとは……。 七之助  あまりと言えばあまりの無体、もうそんなことはおやめなされませ。 長兵衛  なにを言やあがる、黙っていろ。おい、亭主。べらぼうに暑いな。その床几《しトつつぎ》を風通しの      好いところへ出してくれ。 重助 はい、はい。        (重助はよんどころなしに床几を直せば、長兵衛は小鈴の手を収りしまま床几に腰をかける。〕 長兵衛  なんでも好いから酒と肴《さかな》を持って来てくれ。明智の落ち武者とは違うから、おれは食い      倒しや飲み倒しはしねえ。まあ、安心してどしどし持ち出してくれ。 おくろ  長兵衛さん。たいそう御機嫌《ごきげん》のようですが、なにか好いことでもありましたかえ、 花長丘ハ衛いいことどころ"娩触鵠捨艶鯵|鱈幡《やけ》だ。欝になるのも無理はあるめ      え。まあ聴いてくれ。明智日向守光秀、羽柴筑前守秀吉、この二人が山崎で天下分け目の合      戦。その大|博亦《ばくち》大のなかへ割り込んで、おれの名前のちょうと出《ちヤヤ》るか、半《ハェ》と出るか、うまい金      儲《もう》けをしようと思って、朝からそこらをうろついて、いくさの様子を見ていると、明智方は      いや散々《さんざん》の大敗北。そのうちに日はくれる、空は雨催《あまもよ》い、これはおあつらえの稼《かせ》ぎ時だと村      はずれの竹|藪《やぶ》にもぐり込んで、藪っ蚊に食われながら待っていたところが・--.。いやもう型      なしの番狂わせよ。それでもこっちは白痴《こけ》未練で、とうとう夜あかしをした上に、そこらに      手負いや討ち死にでも転《ころ》がっていたら、明智方でも羽柴方でも頓着《とん弄く》はねえ。見つけ次第に鎧《よろい》      でも太刀でも斜《よ》ぎ取って、きのうからの立前《たちまえ》にしてやろうと、この暑いのに汗みずくになっ      て、二里三里のあいだを駆けまわったが、このごろはだんだんに世が悪くなったので、勝った      方でも負けた方でも如才《じよさい》はねえ、誰がどう始末してしまうのか知らねえが、槍一本だって満      足なものは落ちていねえ。これがほんとうの骨折り損のくたびれ儲けで、暑さは暑し、眠く      はなる。足は重くなる、腹は減る。もうがっかりして帰ってくると、ちょうどそこでこの美      しいお巫女《みこ》さんに出逢ったから、無理にたのんでいっしょに来てもらったのだ。どうだ、亭      主。こうことがわかったら、昼間の木兎《みみずく》のように眼をぱちくりさせていることもあるめえ《ヤヤ ち》。      小粟栖《おぐるす》の長兵衛|源《みなもと》のなにがしのお指図《さしず》にしたがって、酒を持って来い。肴《さかな》も持って来い。 重助  はい、はい。でも、おまえはもう酔っているような。 長兵衛  あんまり忌《いまいま》々しいから、途中で一杯引っかけて来たが、そんなことでは虫が納まらね      え。さあ、早くしろ。ぐずぐずしていると、この竹|槍《やり》で土手っ腹をお見舞い申すぞ。(竹槍を      投げ出す。) 重助 (おどろいて飛び退く。)はい、はい。ただ今すぐに……。        (貢助はおくろと顔を見あわせて、二人は奥の暖簾口《のれんくち》に入る。) 小鈴 あの、わたしは……。        (小鈴は起《た》ちかかるを、長兵衛は押える。) 長兵衛  ええ、逃げてはいけねえ。お神楽《かぐら》に出る八股《やつまた》の大蛇《おろち》のように、取って啖《く》おうというので     はねえ。ただ酒の相手をしてもらえばいいのだ。      (一同は呆《あき》れてながめている。与茂作は見かねて進みいず。) 与茂作  これ、これ、長兵衛どの。自棄酒《やけさけ》を飲むと飲まぬとはおまえの勝手だが、神様に仕える      巫女《みこ》どのを捉《つかま》えて、酒の酌《しゃく》をしろなどとは、あんまり穏《おだ》やかではあるまいぞ。酒の相手がほ      しければ、そこにいるおかん坊に酌をしてもらいなさい。第一にそんな竹槍などを担《かつ》きまわ      って、落ち武者を剥《ま》ぐの、金|儲《もう》けをするのと、大きな声でどなってはならないぞ。 長兵衛  子供のときから野良《のら》へ出て、大きな声で猪《しし》を逐《お》う癖がついているので、それが地声《じえ》にな      ってしまったのだから仕方がねえ。大きな声でどなっては悪うございますかえ、 与茂作  その大きな声もことによる。今も言って聞かせたとおり、落ち武者の鎧《よろい》をはぐの、太刀《たも》     を取るのと、そんなことを無暗《むやみ》にどなっていると、おまえの命にかかわるのだ。 法善  長兵衛どのはまだ知るまいが、羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》どのからお触《ふ》れが出て、野武士の真似《まね》などを      する百姓は一々に召し捕って礫《はりつけ》にかけるという、きびしい御沙汰じや。 長兵衛  それはほんとうかえ。馬鹿なこともあるものだ。自分たちは勝手に人殺しや分捕り功名      をやっていながら、おれ達がうっかりしたことをすれば、すぐに礫《はりつけ》……。あんまり手前勝      手にもほどがある。おれはそんなお触《ふ》れは肯《き》かねえ。いやだ、忌だ。 七之肋  たとい肯《き》こうと肯くまいと、それが世にいう泣く子と地頭《じとうハヨ 》で、上《かみ》の御沙汰ならば是非が      ござりますまい。 おいね  そんなことがおさむらい衆の耳へでもきこえたらばなおなお罪の重なる道理、なんでも      おとなしくしているに限ります。 長兵衛  やかましい。なんぞと言うと倒口《りこう》ぶってつべこベとうるさく口《ちちちち》を出す奴らだ。(奥にむか      って呼ぶ。)おい、おい、なにをしているのだ。早く酒を持って来い。 おいね  それにしても、このお巫女《みこ》さんを……。帰してあげてくださりませ。        (おいねは二人のあいだに入りて、小鈴を引き放そうとすれば、長兵衛はおいねを突き倒す。七之助        とおかんはあわてておいねを介抱する。) 長兵衛  ええ、幾度言ってもわからねえ奴らだ。阿兄《おあにい》さんにむかって意見がましいことなんぞ言      やあがると、ひきがえるのように踏み殺すぞ、        (奥より重助とおくろは、酒と肴《さかな》とを運びいで、床几《しようぎ》のはしにおく。) おくろ  お待ちどおでございました。 長兵衛  ここの家《うち》の酒はあんまりよくねえが、おなじ村のよしみに飲みに来てやるのだ。ありが      たく思うがいい。(茶碗を取る。)さあ、酌《しやく》をしてくれ。 おくろ  はい、はい。 長兵衛  ええ、おまえのような南瓜《かほちや》ではいけねえ。おれは唐瓜《とうがんハエ》のように色の白いお巫女《みこ》さんに頼    んでいるのだ。(小鈴に。)おい、笑い顔をして機嫌《きげん》よく酌をしてくれ。 ゆるさかき 小鈴  わたしにそんなことはできませぬ。どうぞ免してくださりませ。(榊をとり直して顔をそむ    けてVる」 長兵衛  なに、酌はできねえ。別にむずかしいことではねえ、手のある人間なら誰《だれ》にでもできる      ことだ。一体そんなものを大事そうにささげているから、肝腎《かんじん》の手が塞《ふさ》がってしまうのだ。       (長兵衛は小鈴の手より榊を引ったくりて地に投げつける。」 与茂作  や、清浄《しようじよう》のお榊を……。       (人々も呆《あき》れる。長九郎は奥よりうかがいいで、こらえ兼ねて前に出ようとするを、七之助とおいね       が制して、無理に奥へ押し込む。) 長兵衛  (あざ笑う。)なにがお榊だ。こんなものはどうでも構わねえ。(足にて榊を踏みにじる。)さ     あ、手があいたら酌《しヰぐ》をしてくれ。(酒壷を小鈴に撰鯖""輪。) 法善  これ、これ、長兵衛どの。それはあまりの乱暴狼籍というものじゃ。庄屋さまも言われ      たとおり、酌をしてもらいたければここの娘にたのむがよい。神に仕える者や、仏につかえ      るものを、職の人とおなじように思うてはならぬ。もうよい加減にさっしゃれ。 長兵衛  なに、神に仕える者や仏につかえるものを、唯の人と思うなと……。へん、乙《おつ》うわが田へ水      を引くな。仏に仕える乞食《こじき》坊主なんぞに初めから用はねえ。西瓜《すいか》頭を抱えて引っ込んでいろ。 法善  さりとは余りに度《ど》しがたい人《ハと》物じゃ。現にきのうはこなたが母御の三回|忌《き》というに、朝     から郷を飛び出したままで、きょうの墓参りにもこなた一人が欠けているではないか。 葦ハ衛 きのうは陳蝉の三回忌…。なるほどそんなことかもしれねえが、おれの代わりにこい     つらが……。(七之助とおいねを指さす。)殊勝《しゆしよう》らしく拝みに行けば、それでいいのだ。おかげ     で和尚《おしよう》毛幾らかのお布施《ふせ》にありついたろう。はは、うまくやったな。 法善  これは怪しからぬ。わしはお布施のことなどを言うているのではござらぬ。おまえの不     孝を叱っているのじゃ。 長兵衛  そんなお説教はそこらにいるおめでたい人間どもに聴《ざご》かしてくれ。それよりも酒のさか      なに、その坊主頭に鉢巻きでもして、景気よく一番踊ってくれ。おれのよう准|亡者《もうじや》には、そ      の方がよっぽど功徳《くどく》になる。さあ、さあ、猫じゃ猫じゃでも、湯灌場踊《ゆかんば ヨ 》りでもなんでも構わ      ねえ。亡者に魔がさしたようなところを一つ見せてくれ。おい、和尚《おしよう》。やい、坊主。早くや      れ。 法善  はて、慨《なげ》かわしい。こなたこそまことの悪魔|外道《げどう》じや。 長兵衛  悪魔でも外道でもひょっとこでも構《ちちヤヤち》わねえ。お巫女《みこし》に酌《やく》をさせて、坊主に踊らせれば、     神仏かけあいで、こんな酒落《しやれ》たことはねえ。さあ、さあ、やってくれ。おお、おまえも手が     塞《ふさ》がっているのか。そんなものを持っているからいけねえ。邪魔なものは思いきりよく打っ     捨《もや》ってしまえ。      (長兵衛は法善の珠数《じゆず》を奪い取りて、これも地に投げつける。、 七之助  もし、おまえ、とんでもない。       (七之助は見かねて支えんとすれば、長兵衛はよろよろしながら見かえる。) 長兵衛  なんだ、なんだ。また出しゃばるのか。 七之助  でも、おまえ。仏さまの罰《ばち》があたりまする。 長兵衛  へん、罰はこっちであててやるわ。        (長兵衛は七之助をなぐり倒す。おいねは介抱する。上のかたより弥太八は栗毛の馬をひいていず。) 弥太八  おお、長兵衛。いいところで貴様を見つけた。さっきもおやじに掛け合ったが、おれの      馬小屋からこの栗毛を引っ張り出したのは貴様に相違あるめえ。 長兵衛  なんだ。その栗毛をどうしたと言うのだ。 弥太八  盗人|猛《たけだけ》々しいとは貴様のことだ。貴様がこれを盗み出して、となり村の源右衛門に売っ     たという噂《うわさ》を聞いたから、すぐに行ってみれば案のとおりだ。この馬がなくては一日も商売が      できねえから、買い主《ぬし》の源右衛門にわけを言って、ともかくも馬を返してもらって来たのだ。 長兵衛  返してもらえばそれでよかろう。ほかに言い分はねえはずだ。 弥太八  馬鹿をいえ、買い主がただで返してくれるか。馬の代の三両はあとで払う約束にして来      たのだ。その代金は貴様が払え。 長兵衛  生馬《いきうま》の眼をぬくとさえいう世のなかに、貴様が間ぬけだから誰かに盗まれたのだ。おれ      がその尻|拭《ぬく》いをする謂《い》われはねえ。 弥太八  こいついよいよ太い奴だ。もうこうなれば慈悲《じひ》も容赦《ようしや》もねえ、おやじには気の毒だが、      貴様を馬どろぼうとして、村役人のところへ引き摺《ず》って行くからそう思え。おお、ちょうど      ここに庄屋どのもいる。うぬ、逃げようとしても逃がしはしねえぞ。 長兵衛  なにが怖くって逃げるものか。おれが盗んだか盗まねえか、その馬に聞いてみろ。それ      が確かな証人だ。(馬の前にゅく。)やい、こん畜生。おれが今、貴様のあたまを一つなぐるか      ら、もしほんとうにおれが盗んだのならば、もうと一帰《ちヤな》け、もうと一《ヤヤ》喘け。おれがまったく盗ん      だのでなければ、ひんと、帰《ヤち》け、ひんと一《 ち》帰け。さあ、いいか。みんなもよく聞いていろ。 (拳《こぶし》      をふりあげる。) 弥太八  (長兵衛の腕をとらえる。)ええ、 いい如減に人をばかにするな。馬がもうと一曝いてたまる      ものか。もし、庄屋どの。このとおりの横着者《おうちやく》、どうぞ御裁判をねがいます。 与茂作  では、この長兵衛がその馬をぬすんだに相違ないな。 弥太八  正銘《しょちめい》まがいなしの馬どろぼうでごぜえます。(無理に長兵衛を地にひきすえる。)もし嘘《うそ》だと      思《おぼ》し召すなら、隣り村の源右衛門を証人によんで来てもよろしゅうごぜえます。        (この間においねは小鈴にささやき、おくろとおかんも誘いて小鈴を店のなかへ連れ込む。) 伝蔵  (進みいず。)おい、長兵衛さん。さっきから黙って聴いていたが、どうもおまえがよく      ないようだ。なんでも人間は正直が肝腎《かんじん》、たといいったんは心得ちがいをしても、すなおに      白状してあやまれば、皆さんもまた堪忍《かんにん》してくださると言うものだ。        (丑五郎と彦松も進みいず。) 丑五郎  そうだ、そうだ。わしらもさっきから後《あと》の方にさがって聴いていたが、みんなおまえが      悪いようだ。 彦松  第一に和尚《おしよう》さまや巫女《みこ》どのに乱暴を働いて、珠数《じゆず》をなげつける、榊《さかき》を踏みにじる。あま      りに神仏を恐れぬ仕方だ。 七之助  ほんにそうでござります。わたくしもさっきから、どうなることかとはらはらいたして      おりました。もし、兄《あに》さん。みなさんもああして御親切に言ってくだされば……。 おいね  おまえも強情を張らないで、おとなしくあやまってくださりませ。 七之肋  馬の代金はわたくしの方からきっと買い主につぐないますれば、もし、お庄屋さま、ど      うぞこれも御内分になされてくださりませ。 おいね  わたくしにはたった一人の兄さんでござりますれば、馬どろぼうの科人《とがにん》になりませぬよ      うに、どうぞお慈悲を願います。        (二人は土に手をつく。) 与茂作  (うなずく。)はい、はい、ようござる。かならず心配さっしゃるな。乱暴者の兄貴にひき      かえて、婿《むこ》どのといい、妹といい、揃いも揃って正直な人達だ。どうだ、弥太八。このおと      なしい二人に免じて、馬どろぼうの長兵衛を今度だけは勘弁《かんべん》してやろうではないか。 弥太八  なるほど、長兵衛めは憎いが、婿どのや妹には気の毒だ。買い主の方へこの馬の代金さ      え素直につぐなうなら、わしは勘弁してやります。 七之助  それはさっきおやじさまも言われましたとおり、決して御損はかけませぬ。 法善  さてさて奇特《きどく》なことじゃ。わしもさっきから感心して聴いていました。おなじ巾をわけ      きようだい 、     た兄妹でも 兄と妹とはこれほどにも違うものか。それにつれ添う婿どのもあっぱれ見あげ     たものでござるのう。 伝 蔵  兄貴はこの小栗栖《おぐるナ》の村じゅうでも、嬢《まむし》のような憎まれ者。 丑五郎  その妹や、妹婿は、仏のような正直者。 彦松 どうすればこうも変わるものか。 長兵衛  (地に坐りしままにてどなる。)ええ、そうぞうしい藪《やぶ》っ蚊《か》どもだ。なにを|がやがや《、、、、》言って      いやあがるのだ。やい、七之助、妹もここへ来い。貴様達はよくもこいつらといっしょにな      って、この阿兄《おあにい》さんに馬どろぼうの悪名をきせたな。 七之助  なんでわたしがそんなことを……。 長兵衛  いや、そうだ、そうだ。そんならわたくしの兄にかぎって、決してそんた人同ではござ     いませんと、なぜ立派に言い訳をしねえ。頼みもしねえのに出しゃばって、馬の代金はつぐ      ないますからどうぞ御勘弁をねがいますと、初めから俺をどろぼうと決めてかかった挨拶、      それが第一に気に入らねえ。さあ、なんでこいつらといっしょになって、おれを馬どろぼう      と決めたのだ。訳を言え、わけをいえ。 おいね  でも、おまえ、みすみす証拠があるものを:…・。 長兵衛  なにが証拠だ。誰《だれ》が証人だ。この馬が口をきいて、長兵衛が盗みましたと言わねえ以上      は、誰がなんと言っても水掛け論だぞ。 弥太八  いや、呆《あき》れた無法な奴だ。婿《むこ》どのや妹に免じて、いったんは勘弁してやろうと思ったが、      そうあくまで図太く出るならば、おれはもう堪忍《かんにん》がならねえぞ。 長兵衛  堪忍ができなければ、どうでもしろ。 (腕まくりして起ち上がる。)堪忍ができねえとはこ      っちで言うことだ。 伝蔵  (さえぎる。)まあ、待った、待った。ふた口目には腕ずくが、ふだんからの悪い癖だ。 長兵衛  なにを言やあがる。(いきなりに伝蔵の持ったる鉄砲を奪い取る。)さあ、こいつら。ぐずぐず      言うなら腕で来い。矢でも鉄砲でも持って来いとはこのことだ。        (長兵衛は鉄砲を逆《さか》に持ちて振りあぐる。一同はおどろきて思わずあとへさがる。奥の暖簾口《のれんぐち》より長        九郎は珠数を持ちて走りいず。) 長九郎  これ、長兵衛。(その腕をとらえて床几の上に押し戻す。)さっきから出よう出ようと思いな      がら、みなの衆の手前、あんまり面目ないので出るに出られず、今まで小さくなって隠れて      いた親の心を察してみろ。この小栗栖《おぐるす》の村じゅうでたった一人のあばれ者、役雑《ベくさ》者、不孝者。      親のつけた長兵衛という名のうえに、腹《まむし》という結構な紳名《あだな》をつけられて、自慢そうにのさ《ヤヤち》ば      いあるく大馬鹿者。きょうという今日は、もう堪忍《かんにんり》も料簡《ようけん》もならぬ。庄屋どののみる前で、      おのれはたった今|勘当《かんどう》した。 七之助  もし、親父《おやじ》さま。 長九郎  ええ、なんにも言うな。生みの親が勘当したからは、この村に一時《いつごき》でもいることはなら      ぬ。早く行け、どこへでも勝手に出ていけ。 長兵衛  出ていこうと、行くまいと、こっちの勝手だ。親父の指図《さしず》をうけるものか。 七之助  (割って入る。)もし、親父さまに向かってそのようなことを言うてはなりませぬ。 おいね  わたしどもがお詫びをしますから、まあ、黙っていてくださりませ。 長兵衛  また始めやあがった。うるせえ奴らだ。貴様達のような、毛の三本足りねえ獣物《けだもの》なら知      らねえこと、こうして満足に生きている人間が、肇禄《もうろく》親父の言うことなんぞを、おとなしく      はいはいと肯いていられるか。積もってみても知れたことだ。 七之助  まだおまえ、そんな無法なことを……。 長兵衛  なにが無法だ。そんな親父はこっちが勘当するから、貴様達が負ぶうとも抱くともして、      轡雌へでも連れていけ。おれ繕騨跡取りさまだから、めったにあの家を動くことでは      ねえ。釜の下の灰までおれの物だ。 長九郎  総領でも跡取りでも、親が勘当した以上、わが家の門《かど》ばたも踏ませぬのが、世問一統の     習わしだ。さあ行け。立ち去らぬか。(長兵衛の腕をつかんで引っ立てる。) 長兵衛  (振り払う。)そんな指図《さしず》はおれは受けねえ。出て行くならそっちで出ていけ。 長九郎  まだそんなことを……。おのれ、どうしてくりょう。 (長兵衛の襟髪《えりがみ》をつかんで珠数《しゆず》にて打      つ。) 長兵衛  (長九郎をつき放す。)いくら親父《おやじ》でもおふくろでも、人の見ている前でなぐられては、こ      の長兵衛の面《つら》が立たねえ。そっちよりもこっちがもう勘弁《かんべん》ができねえぞ。        (長兵衛は鉄砲をふり上げる。七之助とおいねはあわてて支える。) 長九郎  おのれ、あくまで根性骨のまがった奴。さあ、ぶてるものなら打ってみろ。 七之助  はて、親父さまもあぶのうござります。 伝蔵  長兵衛もその鉄砲をこっちへ戻せ。       (伝蔵は鉄砲を取りにかかるを、長兵衛は一つ撲《う》っ。七之助とおいねはそれを遮《さえぎ》ろうとする。長九郎       は捨て台詞《せりふ》にて長兵衛につめよる。長兵衛は支えるおいねを突き倒して、長九郎を鉄砲にて撲つ。       長九郎は額に傷つきて倒れるに、一同おどろきて駆けよる。おいねと七之助は長九郎を介抱して店       のなかに連れ込み、小鈴とおくろとおかんも手伝いて介抱する。伝蔵は長兵衛にむしりつきてその       鉄砲を奪わんとす。) 弥太八  親に傷をつけた奴。引っ縛れ、ひっくくれ。       (弥太八、丑五郎、彦松、重助も伝蔵に加勢して、長兵衛を取りおさえんとすれば、長兵衛は鉄砲を       ふり廻してさんざんにあばれる。与茂作と法善はあとにさがりて見物している。五人を相手にあば       れ疲れて、長兵衛はついに得物《えもの》を奪われ、がっかりして倒れるところを大勢に押し伏せらる。重助       は店より荒縄を持ち来たり、大勢にて長兵衛を縛りあげる。) 与茂作  おお、よい、よい。さすがのあばれ者も多勢《たぜい》に無勢《ぶせい》で、丹波《たんぱ》の荒熊のように生け捕られ      てしまった。余事はさておいて、現在の親のひたいに傷をつけるとは、呆《あき》れた奴だ。 法善  いよいよこれは悪魔の所行《しよきよう》じゃ。 伝蔵  いくらお慈悲ぶかい庄屋どのでも、親に傷をつけた不孝者を、もう助けてはおかれます      まい。 重助  お触《ご》れにそむいて、野武士や強盗の真似《まね》をする。それが第一。 弥太八  そのつぎは馬どろぼう。 丑五郎  そのつぎは兄妹をなぐり、人をなぐり。 彦松  あまつさえ現在の親に傷をつける。 与茂作  こりゃどう考えても傑《はりつけ》ものだ。 重助  命が二つあっても足りないくらいだ。 弥太八  こりゃもういっそ賓巻《すま》きにして、川へ投げこんでしまうがよかろう。 長兵衛  さあ、どうとも勝手にしろ。 丑五郎  役人に引き渡すまでもなく、所の法にしたがって賓巻きにするからそう思え。        (弥太八と伝蔵は長兵衛の縄をとり、丑五郎と彦松と重助の三人は奥より賛を持ち来たる。) 長兵衛  ええ、なにをしやあがるのだ。 彦松  なにをするものか。貴様を川へなげ込んで水葬礼《すいそうれい》にしてやるのだ。 法善  もう是非がない。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。なむ阿弥陀仏。 弥太八 さあ、早くしろ、早くしろ。       (一同は長兵衛をひき倒して管《す》巻きにする。長九郎は額の傷に鉢巻きして、七之助とおいねに扶《たす》けら       れていず。) 七之助  おお、兄《あに》さんは筈巻きにされて…: おいね  こりゃ情けないことになりましたな。 長九郎  それもみんな不孝の報いだ。貴様のような奴は管巻きにされて、鮒《ふなな》や鯖《まず》の餌食《えじぎ》になって      も、親や兄妹《きようだい》は泣かないぞ。おれには七之助というよい婿《むこ》どのもある。おいねというよい娘      もある。貴様のような生まれぞこないは、早く死んでしまう方が世間のためだ。 与茂作  長九郎どのには気の毒だが、所の法に行なうよりほかはない。さあ、早くその筆巻きを      川端へ運んで行かっしゃれ。 一同  あい、あい。        (人々は管巻きにしたる長兵衛を運んで行こうとする時、上《かみ》のかたより堀尾茂助吉晴、鉢巻き、鎧《よろい》、        陣羽織《じんはおり》にて、家来三人をつれていず。家来の一人は血に染みたる竹槍の穂先を持つ。) 吉晴  こりゃ、こりゃ、その方どもに少しくたずねたいことがある。 一同 はい、はい。        (筆巻きを下にころがして、一同はうずくまる。) 吉晴  まず第一にたずねたいは、この小栗栖《おぐるザ》村の土民のなかに、竹槍のたぐいを持ち出して落      ち武者の路をさえぎりし者はないか。 重助 はい。それは……。 与茂作  これ、(眼で叱る。)庄屋のわしをさしおいて、迂潤《うかつ》にお答えをしてはならぬ。(古晴に。)い      え、この小栗栖の村じゅうにそんな者は一人《いちにん》もござりませぬ。 吉晴  たしかにないか。 一同  (口をそろえて。)一人もござりませぬ。 吉 晴  さりとは不審。いつわらずに申せ。まったく竹槍を持ち出した者はないか. 一同 一人もござりませぬ。 吉 晴  まてのう。(首をかしげる。)こりゃ、その竹槍の穂を……。 家来  はっ。        (家来の一人は竹槍の穂をわたせば、吉晴は他の家来に床几《しようぎ》を立てさせ、槍の穂を手に、取りて一同に        みせる。) 吉晴  その方どももおおかたは存じておろうが、きのうの山崎合戦に謀叛《むほん》人の明智方は総崩れ      と相成って、大将の日向守光秀《ひゆうがのかみみつひで》は夜にまぎれて勝竜寺の城を立ち退《の》き、主従二、三騎にて落      ち行く途中、この小粟栖の村はずれの藪《やぶ》ぎわにて不意に槍をつけたる者あり。 一同  おお。 吉晴 槍は脇腹に趨りしかど、さすがは光秀すぐに太刀をぬいてその槍の穂先を切って捨     て、そのままに馬を急がせたれど、急所の痛手にたまり得ず、二、三丁も駆けぬけて、つい      にその場で落馬いたした。 与茂作  では、光秀はその竹槍で……。 吉晴  むむ、とても助からぬと覚悟して、光秀はついに切腹、その亡骸《なきがら》のほとりに落ちてあり      しは、血に染みたるこの穂先じゃ。竹槍にて突きたるはまさしく武士の仕業《しわさ》でない。ここら      の村の百姓どもの猪《しし》突き槍と見て取って、さてこそわざわざ詮議《せんき》にまいったが、どうでも心      当たりはないか。 与茂作  いえ、そのような者は。 一同  一人もござりませぬ。 吉晴  どうでも知らぬか。しからば隣り村を穿索《せんさく》いたそう。(床几《しようぎ》を起《た》つ。)皆もまいれ。 家来  はっ。        (吉晴は家来を連れて上のかたへ引っ返そうとする時、賓巻きにされたる長兵衛はにわかに叫ぶ。) 長兵衛  もし、もし、お待ちくださりませ。 吉晴  (見かえる。)誰じや。 一同  え。(顔を見あわせる。) 吉晴  呼び止めたは何者じゃ。 長兵衛  (ころげながら叫ぶ。)もし、もし、ここでござります。 吉晴  はて、わからぬ。どこで呼ぶのじや。 長兵衛  實《す》巻きにされているのでござります。 吉晴  なに、簑巻きにされている。(初めて長兵衛に限をつける。) 長兵衛  ゆうべ明智光秀を竹槍で突いたのはわたくしでござります。 吉晴  しかとさようか。 長兵衛  たしかにわたくしでござります。その証拠にはそこらに槍の柄がほうり出してあるはず      でござります。どうぞその穂先と継《つな》ぎあわせて、切り口をおあらためくださりませ。 吉晴  むむ。        (願《あこ》にて指図《さしず》すれば、家来どもは其処《そこ》らを見まわす。)             お素b 長兵衛  さあ、大金もうけになる仕事だ。みんなも手伝って探してくれ。 の        (これにて一同も起ち上がり、亜助は店の前におちたる竹槍を拾いて家来に渡せば、吉晴は持ったる        穂先をその切り口にあわせて見る。) 吉時  なるほど寸分もたがわぬ。切りロがしっくり合うからは確かにこれじゃ。それ、彼のい      ましめを解け。 一同  はっ。        へ人々は長兵術の簑巻きを解く。長兵衛準一、旭い起きる。) 吉町  その方の名はなんと中す。 長兵衛  艘の、長兵衛と申します。 吉哨  こりゃよく承《うけだまわ》れ。百姓どもが野武士の真似《ユはトね》をして、竹槍などをたずさえいずるは、 き     びしい御禁制と相成りおれど、これはまた格別じゃ。謀叛《むほん》の大将明智光秀を突き留《と》めたるは      天晴《あつば》れの功名手柄。おそらく莫大の御|褒美《ほうび》を下さるであろうぞ。 一同  やあ。(顔を見あわせる。) 長兵衛  ありがとうござります。 吉晴  詮議《せんぎ》相済んだれば、それがしはすぐに立ち帰る。その方もあとより都へまいれ。かく申      すそれがしは羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》どのの家来、堀尾茂助吉晴と申す者じゃ。わが名をたずねて、御陣      へまいれ。 長兵衛  かしこまりました。では、堀尾さま。 吉晴  蟷《まむし》の長兵衛、かさねて逢おうぞ。        (吉晴は槍の柄と穂とを家来に持たせて行きかかる。) 長兵衛  もし、もし、その槍を両方持って行かれては、なんにも証拠がなくなります。柄《え》の方だ      けを置いて行ってくださりませ。 吉情、 それももっとも。では、戻すぞ。        (槍の柄を長兵衛に戻せば、長兵衛はうけ取る。) 吉晴  大将もお待ち兼ねであろう。早くまいれよ。 長兵衛  すぐにあとから参ります。        (吉晴は家来を連れて向こうへ去る。長兵衛は槍を杖にして見送る。) 与茂作  これ、長兵衛どの。おまえはえらい手柄をしなすったな。 長兵衛  ちょいとしてもまずこんなものだ。実はゆうべこの竹槍を持って、村はずれの藪際《やぶぎわ》に忍      んでいると、なんでも騎馬《きば》武者が三、四人、勝竜寺の方から急いで来た。 一同  むむ。(思わず長兵衛のまわりに寄って来る。) 長兵衛  真っ暗やみでなんにも見当《けんとう》はつかねえが、きっと明智方の落ち武肴に相違ねえと睨《にら》んだ      から、その通るのを持ち受けて藪《やぶ》の中から突き出すと、一の槍は突き損じて、初めの武士は      通りぬけてしまった。つづいて二の槍を繰り出すと、今度はたしかに手ごたえがあったが、      相手も心得のある侍だ。すぐに刀をぬいたとみえて、槍はこのとおり、穂先からすっぱと切     られてしまった。 一同  むむ。 長兵衛  忌々《いまいま》しいとは思ったが、相手は三、四人、こっちは一人《ひとり》、とても追っかけて行く元気はね     えから、切《へ》られた槍の柄《え》を引っかついで、そのまますごすご帰って来たのだ。ところが、人     間の運はわからねえ。今あの侍《さむらい》の話を聞けば、おれが突いたのは明魯光秀だということだ。 弥太八  なるほどそれはたいへんな手柄だ。 重助  羽柴筑前守《はしはちくせんのかみ》どのからお召し出しになって、莫大の御|褒美《ほうび》を下さるのも無理はない。 伝蔵  まったく人間の運は判らない。人もあろうに明智光秀を打ち留めたとあっては、今度の      いくさで一番の大手柄だ。 与茂作  これが侍ならば大名にも取り立てられるかもしれないが、百姓のこなたではそうもなる     まい。まず家屋敷を賜わるか。 丑五郎  それとも小判か。 彦松  田畑《てんばた》か。 法善  なんにしても偉い出世じゃ。長兵衛どの。おめでとうござる。(頭を下げる。) 与茂作  これ、長九郎どの。こなたの息子どのは偉いことになりましたぞ。 長九郎  はい、はい。まったく偉いことになりました。(進みょる。)これ、長兵衛。おまえは偉い      手柄者だ。その竹槍で明智光秀をつき留めた功によって、莫大の御|褒美《ほうびべ》を下さるとは、おま      えの仕合わせ、わしの仕合わせというものだ。こんなうれしいことはない。はははははは。 小鈴  (すすみいず。)八幡《はちまん》さまの氏子《うじこ》からお前のような偉いお人が出るという、こんなおめでた      いことはござりませぬ。 法善  (小鈴を支える。)はて、長兵衛どのはわしの檀家《だんか》じゃ。わしの檀家からこのような市1が      出たというのは、愚僧も鼻が高いようでござるわ。いや、愚僧ばかりでなく、本尊の阿弥陀      如来《によらい》もさだめて御満足でござろうぞ。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、なむ阿弥陀仏。 重助  そのお祝いに、ここであらためで、ひとロ召し上がってはどうでござりましょうな。 長兵衛  むむ、前祝いに一杯のもうか。(床几《しようぎ》の上にあぐらをかく。) 重助  はい、はい。ただ今すぐに支度《したく》をいたします。おくろも娘も、さあ、早く手伝ってくれ。 二人  あい、あい。        (重助らは忙がしそうに店に入る。) 与茂作  くどくも言うようだが、御褒美は家屋敷か、小判か、土地田畑か。なんにしてもめでた                            わ 、るす    まむし                ちようしゃ      いことだ。これ、皆の衆もよろこぶがよい。この小粟栖村に腹の長兵衛という偉い長者がひ      とりできましたぞ。いや、長九郎どの。こなたも良い息子どのを持たれて羨ましいのう。 丑五郎  長九郎どのはよい娘や婿《むこ》を持って仕合わせだと思っていたが、ζつしてみると、やっぱ      り総領は総領だけのことがある。 彦松  まったく兄貴は兄貴だけに、妹や婿どのよりもずっと偉いんのだ。        (七之助とおいねは怖《おずおず》々すすみいず。) 七之助  兄《あに》さま。このたびのお手柄、お祝い申し上げまする。 おいね  おまえさまが御出世あそばして、こんなおめでたいことはござりませぬ。 長九郎  ええ、おまえ達はそっちへ引っ込んでいろ。役にもたたぬ癖《くせ》に出しゃばるな。これ、こ     れ、御亭主。酒の支度《したく》はまだできませぬかな。長兵衛はなかなか口が著《おご》っているから、酒は     なるたけ良いのを吟味《ぎんみ》して持ち出してくだされ。 重助 はい、はい。        (重助とおくろとおかんは酒肴《さかな》を運びいず。) 長九郎  さあ、長兵衛。めでたく祝って一杯飲んでくれ。はは、めでたい、めでたい。        (茶碗を出す。小鈴は長九郎を押し退《の》けて進みいず。) 小鈴  もし、そのお酒を八幡《はちまん》さまの御神酒《おみき》になぞらえて、わたしがお酌《しやく》をいたしましょう。 長兵衛  むむ。やっと素直に酌をしてくれるな。はは、ありがてえぞ。 小鈴  これからはおまえの御運長久を毎日神さまに祈りまする。(酌をする。) 長兵衛 おまえのような女をお雲にして、鈴ばかり振らしておくのは惜しいものだ。これから      は時々にこうして酌《しやく》をたのむぜ。 小鈴 (恥ずかしそうに。)はい。        (長兵衛は飲み干して茶碗を出せば、小鈴はふたたび酌をする。) 法善  (羨《うらや》ましそうに。)やっぱり女子《おなご》は仕合わせじや。 長兵衛  (茶碗を置く。)いや、ゆっくり飲んではいられねえ。これからすぐに出かけようか。 長九郎  善は急げということもある。日が長いようでも京の町までは余ほどの路程《れちのり》だ。暮れない      うちに早く行って来るがよかろう。なにか用があるなら、この七之助を供に連れて行って、      遠慮なくどしどし使うがよい。 長兵衛  なに・邪魔な道連れはいっそいねえ方がいい。(趣ちあがる。)だが、これから京の町まで      歩くのはちっと大儀だ。おい、弥太八。その馬を俺に貸してくれ。 弥太八  あい、あい。(蝦いだる馬を解いてひき出す。)こんな駄馬がお役にたてば仕合わせだ。        (長兵衛は竹槍を持ちて馬にのる。) 長九郎  これ、御|褒美《ほうび》をもらったら、かならず家へ戻って来てくれよ。 法善  長兵衛どのの息災延命。 小鈴  もろもろの禍を擾《はら》いたまえ。        (法善と小鈴は祈る。) 長兵衛  さあ、日の暮れねえうちにひと走りだ。        (長兵衛は馬を早めて向こうへ走り去る。皆々あとを見送る。) 与茂作  (扇をあげる。)いや、偉い、えらい。やっぱり長兵衛は村一番の男だな。 長九郎  鳶《とんび》が鷹《たか》を生んだとはこのことで"こざりましょうか。 弥太八  さあ、腹《まむし》を生んだおやじどのを胴あげにして、みんなめでたく祝え、祝え。 一同  それがいい。それがいい。        (皆々わやわや言いながら、長九郎を胴あげにして担《かつ》ぎまわる。)                                  -幕1ー