甲字楼夜話 岡本綺堂 い、化政時代の戯曲  大袈裟な標題を据えて置きながら、特殊の研究を発表するなどと云うわけではない。単に思い出 づるままに、秩序もなしに列べ立ててみるばかりである。  江戸文化を語る者は直ちに文化文政を説くのを例とする。勿論それが当然であろうが、単に文芸 の上に於いて見るときは、化政時代は小説の方面の全盛期であって、演劇方面は必ずしも全盛期と は云えない。小説方面は江戸時代を通じて、文化文政あわせて二十六年間が空前絶後の全盛期と云 ってよい。小説の作家としては、京伝、馬琴、三馬、一九、種彦などが輩出して、各々その特長を 縦横に発揮している。まことに光彩燦欄、今から振り返ってもまばゆい位である。  さて、劇作家の方面を見かえると、寛政時代に「五大力」を書き、「梅の由兵衛」をかき、コ一人 新兵衛」を書いた初代並木五瓶は、文化以後にも二十余種の作を発表しているが、それらはいずれ も強弩《きようど》の末であって、後世に流伝するほどの佳作なく、文化五年六十二歳を以て世を去った。安永、 天明、寛政を全盛時代としていた初代桜田治助も、文化三年七十三歳を以て残した。したがって、 化政時代を代表すべき作家はわずかに四代目鶴屋南北と福森久助の二人あるに過ぎない。久助は五、 瓶、治助、南北に対抗するほどの技禰もなく、且《かつ》は文政の初年を以て残しているのであるから、真 に化政度を代表する作家というべきは、南北一人にとどまることになる。  南北はその当時に於いても名人と呼ばれ、殊に近年はますますその声価を高めたようであるが、 公平に観察するときは、遺憾ながら其の力量に於いては、彼と時を同じうする京伝、馬琴、三馬ら と匹敵することは出来ないように思われる。勿論、小説と戯曲とは別種の物であるから、馬琴らが 劇作家となったら、果たしてどれだけの成績を挙げ得たか判らない。南北が小説家となったら、果 たしてどれだけ成功したか判らない。しかも小説家としての京伝、馬琴らと、劇作家としての南北 とを対比して考うる時には、どうしても前者に団扇が揚がりそうである。種彦は正本《しようほん》仕立てを書い て、おれにも劇作が出来ると云うことを灰《ほの》めかしているようにも見えるが、所詮は一種の読み物と して書かれたものであるから、それを以て種彦が劇作の技禰を窺い知ることは出来ない。彼も座付 の作者となって、本気になって正本を書いたらば、もっと好い物が出来たかも知れない。いずれに しても化政度は戯曲界が小説界に圧倒された時代である。  化政以前は江戸の小説方面がまだ発達せず、演劇方面には治助や五瓶が手いっぱいに働いていた から、戯曲界が小説界を圧していたこと勿論である。化政以後の幕末には小説も戯曲も共に振わな かったが、それでも演劇方面には三代目瀬川如皐あり、三代目桜田治助あり、さらに河竹黙阿弥が 控えているに反して、小説方面にはいわゆる草双紙書きのほかには殆んど著名の作家を見ず、小説 界は再び戯曲界に圧倒されてしまった。要するに、戯曲は化政以前に小説を圧し、化政以後に再び 小説を圧し、その中間に位する化政時代は「間《あい》の宿《しゆく》」という所で、まったく小説に圧倒されていた 観がある。したがって、この二十六年間は南北一人の孤軍奮闘時代とも云うベきであろう。  こうなると、化政度の戯曲を論ずるは、南北を論ずるに過ぎないことになるが、南北のことは従 来しばしば紹介されているので、特に新研究が発見されない限りは、所詮は同じようなことを繰り 返す虞れがあるので、ここでは何んにも云わないことにする。唯、一言云いたいのは、南北の部下 に属していた松井幸三のことである。彼は僧侶の後身で比較的に文字の素養があった為に、常に南 北の懐ろ刀となっていたと云う以外、彼に就いて私は全然知らない。伊原青々園氏の近世目本演劇 史にも「幸三は始め鴻三といひ、桑門の出なれば仏学にも通じき。おもに五世宗十郎にしたがひ、 南北の部下に属して一幕づつの作は多けれど、立作者としての作は稀なり。」とあるに過ぎない。  しかも私の観るところでは、かの松井幸三は殆んど南北に伯仲するほどの技禰を有していたらし い。曾てかの大南北全集を読んでいる際に、その一幕が頗る巧みに書かれているので、無論に南北 自身の執筆であろうと思いながら読みおわると、その幕の終わりに作者松井幸三と署名してあるの を発見して、頗る意外に感じたことを記憶している。その次の幕には南北の署名があったが、それは 幸三の執筆の幕ほどに面白くなかった。これに因って考えると、松井幸三という作者は、もし南北 の部下に属せずして、天保以後に現われたならば、おそらく如皐や治助を凌ぎ得られたであろう。 それと同時に、作者の署名の無い脚本のうちで、われわれが南北の筆とのみ信じ切っている幾幕 が、或いは幸三の筆に成っていることが無いとも限らない。何分にも合作制度の時代であるから、 一切の功名を南北に奪われて、彼はむなしく日かげの人間となってしまったのではあるまいか。南 北を研究する者は、松井幸三に就いてもう少し研究する必要があるとも思われる。  坪内博士の四世鶴屋南北之伝には「松井幸三との協力は勝俵蔵時代からで、随分久しい。仏教や 漢文学の知識は、おそらく彼れの注入か加筆であったらしい。」とある。それは疑いもない事実で あろう。南北と幸三とは僅かに一両年の差を以て世を去ったのであるから、幸三は終始、南北の女 房役を勤めていたわけで、南北が彼に負うところ少なからずと云ってよかろう。わたしが松井幸三 のために幾行の筆を費したのはここにある。           (昭和三.六.歌舞伎研究) ろ、化政劇漫談  池田大伍君が左団次一行と共に露国行の旅へ出られたので、私がその名代として再び化政度歌舞 伎劇研究の筆を執らなければならない事になった。由来代り役にあまり好いのは少ない。しかし都 合のいいことには、この頃は漫談という詞《ことば》が頻りに流行するので、私もその漫談の名のもとに文宇 通りの漫談を試みることにする。  わたしは前号の研究号に、南北に取って有力の味方であったらしい松井幸三のことを書いて、南 北を研究する者は松井幸三に就いてもう少し研究する必要がある、と記述すると、あたかも同じ誌 上に於いて富倉二郎氏の松井幸三紹介の記事が発表されて、その初代と二世とに就いて可なりに詳 しい研究を示されたのは、頗る嬉しいことであった。もう一歩進んで、その作風や筆癖を研究した ならば、たとえば「東海道四谷怪談」の第幾幕が幸三その人の筆に成ったかと云うことも確かめ得 ると思う。在来の歌舞伎劇の脚本には一種の窮屈な型があって、誰が書いても同じ型に嵌められて しまうようではあるが、仔細に研究するときは、各作者の作風や筆癖を発見し得られないことはあ るまい。ただ何分にも面倒な仕事であるので、何人《なんぴと》も迂闊に手を出さないだけの事である。今後も 富倉氏のような研究家が続々あらわれて、今までは縁の下の力持ちに終っていた松井幸三の力量が 更に認められることになるかも知れない。  もし馬琴と種彦が同じ座付の狂言作者であったならば、種彦の働きは馬琴に奪われてしまったか も知れない。三馬と一九がおなじ座付の作者であったならば、一九の働きは三馬に奪われていたか も知れない。それを思うと、個々独立していた小説作者は幸いであった。合作制度に囚われていた 狂言作者は不幸であった。  江戸の化政度は、戯曲界が小説界に圧倒された時代であると、私は前号に書いた。しかも自作の 小説が劇化されて舞台に上《の》せられるということは、小説作者に取って頗る得意であったらしい。  馬琴は「復鎌奇談|稚枝鳩《わかえのはと》」や「三国一夜物語」が大坂で上演されたことを、みずから得意らしく 書いている。京伝も自作の「復儘奇談|安積沼《あさかぬま》」や「浮牡丹全伝」の一節が江戸の舞台に劇化された のを喜んで、知人を誘いあわせて見物などしている。それらを考えると、彼等は狂言作者よりも一 段の高きにいるような顔をしていながらも、やはり自作小説の歌舞伎化を誇っていたらしい。舞台 にのぽれば、その小説の名が拡まるという以外に、歌舞伎その物が一種の魅力を有していて、その 舞台に上《の》せられると云うことが何となく嬉しいように感じられたのであろうと察せられる。さもな ければ、傲岸の馬琴などは自作が勝手に脚色されるのを寧《むし》ろ不快に思わなければならない筈である のに、却って得意らしい口吻を洩らしているのを見れば、内心頗る愉快であったに相違ない。  その馬琴も自作の劇化について大いに憤慨したことがある。「里見八犬伝」の第七輯に、犬飼現 八が犬村角太郎の家をたずねて、角太郎の腕の血をその亡父の燭鰻《どくろ》にそそぎ、現在の父は怪猫にし て、まことの父はこれに在りと説き明かすくだりは、八犬伝中でも有名の一節であるが、その草稿 がいまだ出版されない前に、馬琴がその梗概を本屋の美濃屋甚三郎に話して聞かせると、甚三郎が 又それを劇場関係者に洩らしたので、劇場側では一と足先きにそれを脚色してしまったというので ある。その顛末は馬琴のせがれ宗伯の日記に詳しく書いてあったが、それが今わたしの手もとに無 いので、座名や狂言の名題を詳記することの出来ないのが遺憾である。  ともかくも馬琴はそれと知って大いに怒って、早速かの甚三郎をよび付けて詰責すると、甚三郎 もひたすら恐縮して謝罪した。本人が恐れ入ったのを見ると、まったく彼がおしゃべりをしたもの であるらしい。自作が発表されてから劇場側で採用するのは差支えないが、発表以前にそれと同じ ような筋を上演されると、小説の方が歌舞伎を剰窃したものと認められて、自家の面目に関する次 第であると、馬琴は大いに立腹したのである。親孝行の宗伯は父以上にそれを憤慨して「三年の苦 心水泡に帰す、嘆息々々」と日記に記載してあったように記憶している。  八犬伝の第七輯は文化十年の版であるから、いずれその以前の事であろうが、歌舞伎の方ではど ういう風にそれを取り入れてあるのか、比較してみたら面白いかも知れない。但し亡父の燭鍍にそ の子の血をそそいで親子を知ると云うだけの事ならば、それは晴の王少|玄《ハと》の故事に拠ったもので、 敢て馬琴の創意とは云えない。殊に第六輯の末にも巳《すで》にその一端を洩らしているのであるから、甚 三郎のおしゃべりを待たずして劇場側でも知っている筈である。所詮はその取り入れ方の如何によ って議論が定まるわけであるが、いずれにしても馬琴父子がそれに就いて非常に憤激したのは事実 で、自作が歌舞伎化されるのを得意としていながら、それと反対に、自作が歌舞伎を模倣または剰 窃したと云われるのを甚だ嫌っていたことが窺い知られる。そこにやはり彼等の誇りがあったのか も知れない。  かつて伊|東橋塘《きようとう》氏に聞いた話であるが、黙阿弥翁は八犬伝の第五輯を読んで、かの荒芽山の件り で犬山道節と犬川荘助が力二と尺八の兄弟に替《かわ》られるように書いてあるのに驚いたということであ る。しかし舞台の上の二の替りまでを考えて、馬琴が小説の筆を執ったのであろうか。そこまで考 えるのは黙翁の力負けではあるまいかと思われるが、もし果たしてそうであるとすれば、その時代 の小説作者の上演慾の旺盛なるに全く驚かされざるを得ないことになる。団十郎と初代左団次も道 節と力二、荘助と尺八をニタ役替りに勤めているが、それは偶然の廻《めぐ》り合わせで、原作者が最初か ら意図したことではあるまい。  前号では渥美清太郎氏の「南北以外」も面白く読んだ。実際、いかに四代目南北が偉くとも、独 自の力で文化文政度に於ける江戸の劇界を支持し得られるわけのものでは無い。そのほかにも相当 の作者がいなければならない筈で、彼等はみな南北一人の大名《たいめい》の下に圧せられてしまったのであ る。力量の相違と云えぱ、まことに拠《よ》んどころないことではあるが、徒らに英雄崇拝的に南北一人 を祭り上げないで、日かげや下積みになっている作者らをも皆それぞれ紹介してやるべきであると 思っているが、残念ながら私にはその資格がない。然るに今や其の人を得て、南北以外の作者幾人 を詳細に親切に紹介されたのは喜ばしいことである。  清の紀暁嵐の「閲微草堂筆記」に、顧侠が元詩選を作った時、薄暮に衣冠の者数百人が来たって その門前に羅拝したという。詩選に編入された元《げん》代の詩人の霊が来たり謝したのである。渥美君の 門前にも幾多の霊が来たり謝してもよいと思う。  こんなことは幾ら書いても、研究の補いにはなるまい。そこが漫談の漫談たるところであるとし て筆をおく。                        (昭和三.七.歌舞伎研究)      は 桜姫と芋と狐と  鶴屋南北作の「桜姫東文章《さくらひめあずまぷんしよう》」で、吉田少将|惟房《これふさ》というお公家《くげ》様の息女桜姫が小塚ッ原の女郎 になるというのは、随分奇抜の筋であるに相違ない。しかしこれは必ずしも南北の創意ではなく、 江戸の町奉行所の手にもかかって其の頃大評判であった事実を取り込んだもので、この時代の作者 の慣用手段と云ってよい。それだけに観客にも受けたのであろう。物識りがって種あかしをするで もないが、まだ御承知のない人たちの為に、ざっと其の事実を紹介するのも何かの参考になるかも 知れない。  それは蜀山人の「玉川砂利」のうちに書いてある。蜀山人は当時公用で多摩川方面に出役中で、 「玉川砂利」はそのあいだの見聞雑記ともいうベきものである。勿論、誰かの通信によったのであ ろうが、多摩川にいる蜀山人の耳にもはいったくらいであるから、江戸市中におけるその評判は思 いやられた。「玉川砂利」には町奉行所申添書の全文をかかげているが、その要を摘むと左のごと くである。  品|川宿《しゆく》の旅籠屋《はたごや》安右衛門の抱え売女にお琴という女があった。奉行所の申添書であるから、よし 原以外の遊女屋をすべて旅籠屋と記してある。お琴は勤めのあいだに駈落ちをして浅草の善兵衛と いう者の家へ引き取られた。善兵衛は源空寺門前の久蔵の庇《ひさし》を借りているもので、どういう関係が あったか判らないが駈落ち者のお琴を引き取って自分の養女分にしたのであった。単にそれだけの ことであれば彼と遊女屋との椚着《もんちやく》に過ぎないのであるが、かれら親子が奉行所の各をうけたのは他 に理由があった。  お琴は京都の日野中納言家の息女であると称していた。善兵衛は養父ながらその家来分になっ て、その名を若狭《わかさ》とあらためた。お琴は手蹟を能くしたらしく、色紙や短尺に和歌をかいて、正二 位または左衛門|局《のつぽね》と署名していたが、公家の息女と云うのが諸人の尊敬と信用を得て、その筆蹟 を所望するものも多かった。しかし一方にはかれの前身を知っている者もあって、品川の女郎が公 家の娘であったというのはめずらしいと、いろいろに尾鰭をつけて言い触らすものもあるので、町 奉行所でも捨て置かれなくなった。勿論、品川の抱え主からも駈落ちの告訴を出したので、お琴は |町方《まちかた》の手に取り押えられることになった。  しかし普通の駈落ちとは違って、それが仮りにも日野中納言家の息女と名乗っている以上、町方 でも無暗に踏み込んで召捕るわけには行かないので、捕方の者は先ず善兵衛の宅へ出張して一応の 身許しらべを行なうと、お琴は日野家の娘に相違ないと答えた。品川へは芝の五兵衛という者の娘 分で身売りをしたのであるが、その仔細は明かされないと云った。お琴は先ずそれとしても、善兵 衛はみだりに駈落ち者を引き取るばかりか、日野家の息女と知りながら訴え出る心体《しんてい》もなく、却っ て若狭などと改名して彼女に附き添いあるいているのは不将である。いずれにしても其の儘には捨 て置かれないというので、かれとお琴はあらためて奉行所へ呼び出された。  初めて町奉行所へ出張したときのお琴の風俗は異体であった。かれは冠下《かむりした》と称して髪を長く下げ て、むらさき縮緬の鉢巻をしていた。身には白絹の小袖を被ていた。奉行の取調べに対して、かれ はやはり日野家の娘に相違ないと主張した。身分は正二位、左衛|門内侍局《ないしのつ ね》であると云った。善兵衛 もまったくそれを信じているらしかった。  申添書その他には其の吟味の模様がくわしく記してあるが、奉行所の方でも一応の吟味では彼女 を果たして真物であるか、あるいは偽者であるかを看きわめることが出来なかったらしい。お琴は そのままに下げられて、さらに京都表へ向けてその実否を問いあわせに遣ると、日野家ではそんな 娘を持たないという返事が来た。  お琴が真物であっても、偽者であっても、日野家としては斯う答えるの外はなかったであろう。 おそらく偽者であったのであろうが、奉行所の申添書には身分をいつわるとは記してない、「京都 表糺しの上、日野家息女に無レ之段相分り候ふ上は、日野家息女との申分立ちがたく」とある。駈落 ち者であるから元の抱え主に引き渡されそうなものであったが、彼女は「不届に付、重追放仰せ付 けられ候」という判決を下された。善兵衛の各めは案外に軽く済んで、かれに手錠を申渡された。 この事件の落着したのは、文化四年四月十八日である。  いつの代にもおなじ人情で、ある者はその判決の通りに解釈して、お琴はなにかの山師事《やましごと》を巧む ために、京都生まれを幸いに公家の娘などと詐ったので、一種の女天一坊に相違ないと云った。又 ある者はどうも真物であるらしい、それは彼等の仕置が比較的に軽いのをみても察しられると云っ た。いずれにしても、こうした事件が南北の薬籠中のものとなったのである。       *  蜀山人の随筆を紹介したついでに、彼にひどく憎まれた加賀屋歌右衛門のことをかく。これは前 の事件の翌年、文化五年の冬である。当時江戸にくだっていた中村歌右衛門は日本|橋高砂町《たかさごちよう》の名主 で俳名をサイバ(西馬か)という男と懇意であった。その縁故で御厩河岸《おんまやがし》の米屋なにがしの韻偵に なって、かれに連れられて吉原の丸海老屋《まるえびや》へ遊びに行った。  もちろん大店《おおみせ》であるから、丸海老では歌右衛門を客にはしなかった。かれは単に座敷だけで帰っ たのであるが、その座敷へ出た遊女が彼に一両一分の祝儀をやった。たとい歌右衛門であろうが何 であろうが、相手が歌舞伎役者である以上、素手《すで》で帰すわけには行かないというのが其の当時の吉 原の遊女の権式であった。しかし歌右衛門は腹を立った。自分は加賀屋歌右衛門である。野帯間《のだいこ》同 様に満座のなかで祝儀をくれるとは何事であると思ったが、贔眞客の手前もあるので、その場はお となしく胸をさすって帰った。かれは駕籠にゆられて帰る途中で、その遊女に対する復讐の手段方 法をかんがえた。そうして、その遊女のロの鉄漿《おはぐろ》がすこし剥げていたのを思い出したときに、かれ は供んでいる腕をほどいて膝を打った。  歌右衛門はあくる日、自分の附き人に云いつけて、ゆうべ貰った一両一分だけの鉄漿《かね》を買わせ た。そうして、昨夜の返礼としてかの遊女のところへ届けさせた。それを受け取った女も勿論立腹 したに相違なかったが、丸海老屋では更に怒った。歌舞伎役者、殊に上方者《かみがたもの》の分際で、江戸の吉原 の遊女に対して面当てがましいこの贈り物は言語道断である。しかし先方からわざわざ届けて来た ものを受け取らぬのも卑怯であるというので、ともかくも礼を云って受け取って、とりあえずその 返礼として酒十駄を歌右衛門に贈った。但しそれはおたがいの挨拶であって、歌右衛門がこっちに 対して挑戦的の態度を取ったという問題はまだ解決されないのであった。丸海老でもいろいろ肝胆 を砕いてその報復手段を講ずることになった。  気の早いものは歌右衛門の宿へ押し掛けて行って、かれの面《つら》へ鉄漿を塗ってやれと云った。しか し丸海老ではそんな平凡な復讐手段に満足しなかった。相手が皮肉に出て来た以上、こっちも皮肉 な復讐をして彼を苦しめなければどうも勘弁が出来ないと思っていると、ここに一人の知恵者があ らわれた。それは丸海老の主人自身であるか、あるいは他の軍師であるか判明しないが、ともかく も相手を困らせるという意味に於いては最も痛烈なる手段を案出したのであった。  丸海老ではすぐに下谷《したや》の金杉や箕輪の方面へ手を廻して、金二十両の芋を買い占めさせた。この 時代に金二十両の芋を買ったら何俵あるかわからない。それを大八車で送り込んで、吉原からの贈 り物として歌右衛門が出勤している堺町の芝居の木戸まえに積み上げさせようと云うのであった。 積み物に事を欠いて、芋俵を山のように積まれては堪らない。誰が内通したか、それが歌右衛門 の耳にきこえたので、さすが強情我慢の彼もおどろいた。こんなことをされては江戸じゅうの物笑 いにならなければならない。かれはこの手痛い復讐をひどく恐れた。もう斯うなったら尋常に兜を ぬいで降参するのほかないと覚悟して、前に云った高砂町の名主のところへ彼はすぐに駈けつける と、名主もこれには胆《きも》をひしがれた。  しかし、こういう行きがかりになっていては、直接に丸海老にかけ合っても所詮|将《らち》があくまいと 思ったので、高砂町の名主は吉原の名主にむかって其の仲裁をたのむことにした。名主は迷惑に思 ったが、丸海老をいろいろに説得して、ようやく勘弁させることにした。丸海老に対して歌右衛門 からあらためて詫びを入れたのは云うまでもない。これで先ず芋の贈りものはくいとめたが、その 前に贈られた酒十駄の返礼として、歌右衛門はたくさんの鴨を入れた青籠を吉原へ贈った。  この問題がようやく解決すると、あくる文化六年正月元日の晩に日本橋左内町の家主茂兵衛の宅 から出火して、堺町・葺屋町の芝居はみな焼けてしまった。その前年、中村座で歌右衛門が清盛を 勤めて、唐《から》装束で夕日をまねき返すところを演じたので、それが火を招く前表であったと江戸じゅ うで噂された。       *  七代目の河原崎権之助ー九代目団十郎の養父になって、後に押込みの賊に斬られて死んだー の壮年時代にこんな話が伝えられている。  権之助はその頃の芝居者に似合わない、素行の正しい厳格の人物であった。しかも豪胆で意地の 強い男で、味方にすれば千人力、敵にまわせば手に負えない。むかしの髪の自休などというのも丁 度こんな人物であったろうと、七代目団十郎はひそかに畏敬していたというほどで、彼が強盗に屈 しないで、あたら非命の死を遂げたのも、畢菟はその負けじ魂が禍いをなしたのであろうと云われ ている。彼の死は慶応の末年で、これは嘉永年間のことである。権之助はある秋の日、本所法恩寺 橋の雁金屋の寮へ行って、帰る頃にはもう宵過ぎていた。  供の下男に提灯を持たせて、本所三笠町の屋敷町を通りかかると、横町から十六、七の娘が素足 で駈け出して来て、その挟にすがった。かれは助けてくれと権之助に泣いて頼むのであった。その 仔細をきくと、かれは日本橋横山町の町医者の娘で、親類にあたる本所の与力なにがしの家へ行儀 見習いに行っている者であるが、その屋敷の次男が彼女に懸想してしばしば云いよるのを、娘はい つも情《すげ》なく断わっていた。次男は大いに腹を立って、今夜は家内みな出払っている留守をみて執念 く彼女に云い寄った。そうして、どうしてもおれの心にしたがわなければ覚悟があると、彼は脇差 をぬいて嚇したので、娘は絶体絶命の危い場をどうにか斯うにか摺りぬけて、ともかくもここまで 逃げ出して来たとのことであった。  なるほどそんな災難に出逢いそうな娘らしく、提灯に照らされた彼女の顔はすぐれて美しかっ た。権之助も気の毒に思った。  しかし彼は浅草へ帰るのである。娘の宿許は横山町で、まるで其の方角が違うのだから、権之助 は一緒に帰るわけには行かなかった。さりとて若い美しい娘を唯ひとりで帰してやるのは不安であ った。権之助は駕籠を雇って娘を乗せて、供の下男に送らせてやろうと云ったが、娘はそれを断わ った。自分は血の道があるので、船や駕籠に乗るとすぐに眩量《めまい》がするから、たとい夜道が不安でも |徒《かち》でゆくよりほかはないと心細そうに云った。権之助はこれには困った。徒歩きとなると、やはり 年の若い下男ひとりを付けてもやられないので、結局かれも一緒に連れ立って娘を横山町の家まで 送りとどけてやることになった。  娘は跣足《はだし》である。定めて冷たくもあろう、難儀でもあろうが、そこらの町屋《まちや》のあるところまで行 きぬけたらば草履を売る所もあろうと権之助は先きに立ってあるき出した。半町ほど行くうちに月 が明るくなった。ここらは往来の少ない屋敷町で、ところどころには竹藪などもあった。どこかで 月夜鴉の声もきこえた。権之助はふと気がついて、今更のように娘の姿を見かえると、かれは夜露 を恐れるように、袖をかきあわせて傭向き勝ちに歩いていた。  権之助はそっと懐中を探って、太い煙管《きせる》を逆手《さかて》に持った。彼はわざと娘のそばへ摺り寄って、た わむれるようにその手を握ると、娘は別に振り払おうともしなかった。かれは引かるるままに男に 寄り添って来た。もう半町ばかりゆくと、そこには辻番があるのを知っているので、権之助は握っ た手をゆるめもしないで歩いてゆくと、月は又しばらく雲に隠れて、大地にうつる三人の影を暗く してしまった。辻番所がもう目のまえに近づいたときに、権之助は娘の手をいよいよ固く握った。 あまりに強く握られて、娘は思わず見かえったところを権之助は片手に持っている煙管を取り出し て、その島田髭の頭のうえを骨も砕けろと続けさまに突いた。不意におどろいて、娘は声をも立て 得なかった。かれは掴まれた手をふりもぎって逃げようとしたが、権之助は少しもゆるめないで、 猶もつづけて幾たびか突いた。繊弱《泳よわ》い娘を小突きまわして、引き摺り倒して、踏みにじった。供の 下男は呆気《あつけ》に取られてうろうろしていると、この騒ぎをみて辻番所から番人も駈け付けて来た。  権之助は下男に向かって、その辻番人の棒をお借り申して、この女をぶちのめせと云った。下男 はその指図通りにすると、権之助は更に声を励《はげ》まして、その女は化け物だ、容赦せずに打ち殺せと 云った。下男はつづけて打った。権之助にさいなまれ、下男に打ち据えられて娘は半死半生になっ て倒れたままで再び起きあがる気力もなかった。権之助は今までの始末を辻番人に訴えて、これは 狐か狸の化け物に相違ないと云った。その証拠には、さっき月が出たときに、地面に映った三人の 影、その二つは確かに男の影であったが、その一つは人の影でなかった。それは獣《けもの》の姿のようにみ えて、尖った耳までも映っていたと彼は説明した。  その頃の本所に狐や狸の出るのはめずらしくなかった。狐や狸の化けるということも諸人に信じ られていた。辻番人は半信半疑でその娘を引き起こそうとして、思わずあっと叫《ちち》んだ。娘の姿はい つの間にか年古る狐に変わっていたのであった。憎い畜生めと権之助は云った。しかしこのままに 捨てて置いて、犬に食わせるのも不欄だというので、彼は下男と二人でその狐を向う側の藪のきわ まで引き摺ってゆくと、狐はまだ生きていた。これに懲りて再びこんな悪戯《わるさ》をするなよと云い聴か せて、権之助はかれを放してやると、狐はよろよろと這いまわりながら藪のなかへ姿をかくした。 渡辺綱の戻り橋《ハエ 》も大方こんなことであったろうと、権之助は後日に人に語ったということである。                                 (大正一四・演芸画報) に 如皐と黙阿弥  少し調べたいことがあって、古い歌舞伎新報を繰っているうちに、明治二十五年九月の部に行き 当たった。その時の歌舞伎座では新作の「仕立卸薩摩上布」(五大力の実録)と「与話情浮名横櫛」 を上演していたのである。その薩摩上布については別に云うこともないが、今更のように「浮名横 櫛」の正本《しようほん》を繰り返して読んでいるうちにlその時は源氏店《げんじだな》の一幕を演じただけで、歌舞伎新報 のもその一幕の正本しか載っていなかった1自分が若い時に西田|董披《きんぱ》老人や條野|採菊《さいぎく》老人から聞 かされた瀬川|如皐《じよこう》の話を思い出した。  「浮名横櫛」と「うはばみお由」と「佐倉宗吾」とが如皐一代の傑作であることは云うまでもな い。しかしこの劇通の諸老人の説によると、如皐はその当時、時代物の作者として知られていた人 で、一と口に一番目物は如皐、二番目物は新七(黙阿弥)と云われていた。その如皐が世話狂言を 書いたと云うので、観客も少し不安に思っていると、それが案外の成功でびっくりさせられたとい 一つ。  しかしこの作の面白いのは、木更津の浜辺と源氏店の妾宅との二幕で、その他は唯ゴタゴタする ばかりで江戸前のすっきりした気分に乏しい嫌いがある。そのときに編蟷安を勤めた仲蔵の『手前 味噌』にも如皐は文車《ぷんしやハニ》の講釈種に拠って書き下ろしたのを、それでは面白くないと云って、与三郎 を勤める八代目団十郎やお富を勤める梅幸らが相談の上で、しん生《しよう》の人情話を基にして稽古の時に 改作したと書いてある。生世話《きぜわ》の狂言を人情話に拠らないで、講釈種に拠ったと云うのを見ても、 如皐という人の作風が想像される。彼はどこまでも時代物式の重苦しい作風の人であった。  その一例として、かの源氏店で有名な与三郎の台詞《せりふ》の中に「その白化か黒塀の、格子づくりの囲 い者は、死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも御存じあるめえ。」とある。それを如皐は「格子 づくりの囲い女《め》は」と書いた。八代目がそれを見て、囲い女と云っては与三郎らしくないと云う と、如皐は五七の調子の都合でそう書いたと云う。八代目は笑って「師匠は江戸っ子のようでもな い。たとい囲い者はと書いてあっても、口で云う時には囲《りり》いもなアと詰《りりり》めて云うに決まっているか ら、ちっとも五七の調子に差支えない。」と答えたと云う話が伝えられている。なるほど「囲い女」 は面白くない。これを見ても如皐という人は飽くまでも一番目式の作者であったと云うことが判 る。それと同時に、一言一句の事といえども等閑《なおざり》にすべきものでないと云うことも身にしみて考え られる。  「浮名横櫛」の正本全部を読んだ人は十分に気がつくであろうが、大体に於いてそれが非常に長 い、むしろ冗漫に傾いていると云う嫌いがある。この作に限らず、如皐という人は根気の好い綿密 な作者で、どの作もみんな長いのを以て有名である。如皐さんのものはどうも長くて困ると、その 当時でも、楽屋内一般の評であった。で、何の狂言の時であったか忘れてしまったが、小団次が彼 の正本の長いのを恐れて、一つの狂言は横書(横綴じにした脚本)七十丁を越ゆべからずという制 限を加えた。その正本が脱稿して、いざ本読みになると、やはり長い。どうも制限の七十丁を超過 しているらしいので、本読みが済んだ後に小団次は彼に向かって「如皐さん、ちょいと正本《ほん》を見せ て下さい。」と云うと、如皐は何かあいまいな挨拶をして、慌ててその正本を風呂敷に包んでしま おうとするので、こっちはいよいよ怪しんで、無理にその正本をうけ取ってみると、なるほど約束 通りの七十丁には出来あがっているが、紙を小さく勇《き》ってそこにもここにも一面に貼り足してあっ て、その実際の分量はやはり八、九十枚に達していることが判ったので、小団次も思わず噴き出し たという。あまり綿密なのがわずらいをなして、彼の書く芝居は、いつもこんなに長くなるのであ った。  江戸時代の狂言作者といえば、すぐに放縦癩惰な生活を連想させるが、江戸末期の二大作者であ った如皐も黙阿弥もみな小心な謹直家であった。かの鍋島の猫騒動は如皐の書き下ろしである。こ れを書くにあたって、如皐はその妖猫の崇りをひどく恐れたが、座元から強《し》いられて余儀なく筆を 執った。その初日の幕間《まくあい》に、如皐が土間に来ている知人のところへ挨拶にゆくと、誰が投げたのか 一つの猪口が飛んで来て、彼の顔に中《あた》って少しばかり血が滲《にじ》んだので、彼はおどろいた。その晩に 家へ帰ると、留守の間に女房が気絶したと云うのである。夕方の薄暗がりに女房が台所の引窓《ひきまど》をあ けると、上から大きい猫が口をあいて睨んでいたので、びっくりして気を失ったと云うのである。 その話を聴いて、如皐はいよいよ額えあがって、それから気病みで床について、化け猫の狂言興行 中は劇場へ立ち入らなかったと云う。この時代の劇場関係者に通有の迷信も手伝っているには相違 ないが、いかに彼が小心の神経家であったかと云うことが知られるではないか。  これに似寄った話は黙阿弥にもある。四谷怪談と小幡小平次とを兄妹《きようだい》に仕組んだ「雨夜鐘四谷怪 談」という草双紙を柳下亭|種員《たねかず》が書いてたいそう売れた。ところが、これを書くと何かの崇りがあ るという伝説に脅《おびや》かされて、種員は二編まで書くと病気になった。そのあとを頼まれて、黙阿弥が 書きつづけることになると、これも忽ち病気に罹ったので、黙阿弥はおどろいて直ぐに断わってし まった。結局そのお鉢が仮名垣魯文に廻ったが、魯文は物に頓着しない男であったから、何の崇り もなしに書きつづけた。  話にだんだんと枝が咲いて来たが、そのついでに黙阿弥のことに就いて、あまり世に伝わらない ことを少しばかり書いてみたい。これは條野採菊老人の話であるが、黙阿弥は河竹新七と改名して |立《たて》作者の地位に昇ったものの、河原崎座の座元たる河原崎権之助は新作を好まなかった。今目《こんにち》でも そういう議論を唱える人が無いでもないが、彼の議論として、昔から在り来たりの狂言は必ず何処 かに面白いところがあればこそ今日まで寿命を保っているのである。それに比較すると、海の物か 山の物か判らない新狂言は甚だ危険である。何でも在り来たりの物さえしていれば間違いはないと 云うので、彼はひどく新作を嫌った。それがために約十年間、黙阿弥は何の仕いだすことも無しに 楽屋の飯を食っていなければならなかった。本人も無論残念であったが、親類や友達からもいろい ろの苦情を云い出した。甚だしいのになると、せっかく狂言作者になりながら芝居を書くことが出 来ない位ならいっそ作者を罷めてしまえと云った。本人が書けないのではない。座元が採用してく れないのであるが、それらの事情が局外の素人にはよく呑み込めないで、所詮は彼に新狂言を書く だけの力が無いものと見くびられたらしく、蔭へ廻って悪口を云う者もあり、面と向かって責めた 者もあった。  黙阿弥も遂にはその圧迫に堪えられなくなって来た。ある暗い夜に両国橋を渡って、薄明るい水 の光りを眺めた時に、人間は斯ういう時に身でも投げる料簡になるのであろうと、しばらく立ち停 まってつくづく考えた。翁はそれを後に採菊老人に語って「しかし私は意気地が無いから、思い切 ってとび込む気にはなれませんでした。」と云ったそうである。私はその話を更に採菊老人から聴 かされた時に思わずひやりとした。意気地が無くて結構であったと思った。いや、意気地があった から飛び込まなかったのかも知れないと思った。  白浪作者の名を謳われた黙阿弥も固《もと》より泥坊に知己のあろう筈はない。謹直な彼は博変打や遊び 人のたぐいとは決して交際しなかった。それでどうして彼等の生活状態や彼等社会の術語などを諸《そらん》 じていたかと云うと、その頃の講釈師に琴鶯というのがあった。それが博変打ちのあがりで、それ らの消息を詳しく心得ていたので、黙阿弥は専ら彼に因って其の材料を得たのであると云う。これ も採菊老人の話である。                   (大正七.三.新演芸)      ほ 黙阿弥と延寿太夫  黙阿弥翁が明治二十六年一月二十二日の午後、鳥越の中村座焼失とほとんど同時に絶命したこと は、あまねく人の知るところである。翁の死に当たって、こんなことがあったと永|谷秀葉《しゆうよう》君がわた しに話した。  その頃、秀葉君は采女町《うねめちよう》に住んでいて、春陽堂から発行される黙阿弥の『狂言百種』の校正を担 当していた。すると、その日も秀英舎から例の如く校正刷りを郵送して来たので、何心なく封を切 ると、印刷所の間違いと見えて、狂言百種でない他の原稿が封入されていた。それは「九死一生」 という小説であった。秀葉君は眉を寄せた。  黙阿弥翁の病気は秀葉君も無論に承知していた。その模様はだんだん悪い方に傾いていることも 承知していた。その折柄、狂言百種の代りに「九死一生」を投げ込まれたのであるから、秀葉君も 神経をおののかせた。どうも気になってならないので、その頃は南八丁堀に住んでいた竹柴|其水《きすい》氏 の家をたずねて師匠の容態はどうですと訊くと、其水氏も顔を曇らせて、実はまだ世間へ発表しな いが、師匠の容態はきのうからいよいよ面白くないので、私も心配しているのだと云う。秀葉君が かの「九死一生」の話をすると、其水氏も落ち着いていられなくなった。どの道これから見舞いに 行こうかと思っていたところであるから、それでは直ぐに行こうと云うことになって、二人は一種 の予覚に脅かされながら本所|二葉町《ふたばちよう》へ急いでゆくと、黙阿弥翁は今や瞑目しようと云うところであ った。もし狂言百種が間違いなく郵送されて、その校正を終わった後に駈けつけたら、秀葉君は或 いは師匠の死に目に逢われなかったかも知れなかった。有意か無意か、印刷所の方から「九死一 生」を報告してくれたのである。翁の狂言百種はこれが最後の出版であった。  黙阿弥翁のことは河竹繁俊氏の著作に詳しく記されているから、他人のわれわれが今更余計なこ とを附け加える必要はないのであるが、繁俊氏の著に洩れていることで、わたしの聞いているもの を二つ三つ列ベると、維新前にたった一度、黙阿弥翁は芝居をしたことがあると云う。狂言は、 「源|平布引滝《ぬのびきのたき》」で、翁は瀬尾《せのお》に扮した。押出しは立派、その仮声《こわいろ》は七代目白猿そっくりであったが、 体はちっとも動かなかったと云うことである。勿論、ほんとうの芝居小屋ではないのであるが、そ の場所が何処であったかを忘れてしまった。その時に落語家の円朝も一座して「皿屋敷」のお菊を 勤めたと聞いている。  ある年の暮れ、勿論、これも江戸時代のこと。翁と親交のある金座役人に高野《たかの》なにがしと云うの があった。高野という姓をコウノと呼ばれるのをひどく嫌って、おらあ師直《もろのお》じゃあねえと啖呵を切 るのが癖。この人、型の如く道楽者で、やはりその高野から思いついたのか、十二月十七日、浅 草の歳の市の夜を期して、馬道《うまみち》の黙阿弥翁の宅へ夜討ちにゆくことになった。一味徒党の面々は、 芳幾、有人、玄魚など十余人、いずれも赤穂義士をそのままの山道だんだらを染め抜いた印半纏を 着て、おもちゃの槍や弓などを携えて、表口から夜討ちだ夜討ちだと畷鳴り込むと、内は鎮まり返 って音もしない。少しく張り合いが抜けて鷹路していると、やがて奥から女中が出て来て、どうぞ こちらへと案内する。はてなと思いながらぞろぞろと付いて行くと、案内されたのは裏の物置で、 なかには炭俵が積んである。つまりはこの物置を炭部屋になぞらえた趣向で、正面には黙阿弥翁が 坐って茶を立てている。皆さん好うこそと云うわけで、まんまと返り討ちを食って一夜作りの義士 の面々、えエ残念とじだんだを踏んだ。  いかに黙阿弥翁でも、即座の計略にしては余りに手が廻り過ぎる。おそらく徒党のうちに変心の 者があって、あらかじめ内通したのであろうと云う噂であったが、それは確かに判らない。翁は更 にこれを材料にして新浄瑠璃を書いたと云う。かの「歳市廓討入《としのいちくるわのうちいり》」というのが其れかとも思う が、わたしはその浄瑠璃を読まないから知らない。  先年市村座で上場されて好評であった因果小僧の狂言を書いた時に、翁がその本読みをしている と、因果物師の小兵衛をあてられた亀蔵が高輪《たかなわ》の場の本読みを聴きながら、どうも納まらない顔を して、時々に舌打ちしていた。そのうちに本読みもだんだん進んで、小兵衛と伝次の別れになっ て、伝次が行きかかるを小兵衛が呼び止めて「おい、ちょつと待ちねえ。」と、うしろから切火《きりび》を 打ってやる。これを聴くと、亀蔵はにやにや笑いながらうなずいた。彼はこの切火で納まったので ある。昔は作者も俳優もすべて斯うしたところを喜んだのであるから、舞台技巧はいろいろに工夫 されたのである。勿論、それがために内容を閑却してはならないが、こうした微細の注意は今日の 劇作家もすべからく学ぶべきところであろう。  翁が鼠を愛し併《あわ》せて猫を愛したことは繁俊氏の著にも見えているが、食い物で最も好きなものは 勝栗であったように聞いている。勝粟を砂糖煮にして重箱に詰めさせ、それを机のそばに置いて、 小楊枝で突き刺して食いながら脚本の筆を執ったということである。翁が最も嫌いなのは風の吹く 日であった。  翁も如皐と同じく綿密丹念な人であったことは有名であるが、その一例として、翁は螢のような 火種で気長に炭をおこすことが得意でもあり、好きでもあった。新富座の楽屋にいるときに、翁は 作者部屋の大火鉢の前に坐って、例の如く、微かな火種で頻りに火をおこすことを工夫していた。 ほかの人達は、師匠の道楽がまた始まったと思って、みんな黙って見物していると、そこへ楽屋の 下足番が通りあわせた。この男は新参で、翁の癖を知らなかったと見えて、師匠が火をおこすのに 苦労しているのを気の毒に思ったらしい。どこからか大きい十能《じかうのう》へいっぱいの火を入れて来て、は い御免なさいと云いながら、その火鉢へざらざらとぶちまけた。せっかく苦心惨憎の最中を滅茶め ちゃにされて、翁はむっとした。持《ちち》っていた火鉢を灰に突き立てて、しばらく相手の顔を睨んでい た。もとより悪気《わるぎ》でした事で無いのは判っているので、温厚な翁は別になんにも云わなかったが、 その後二、三目はその男と顔をあわせても、いっさい口を利かなかったと云うことである。こんな ことを一々書いていても際限がないから、ここらで筆をおく。       *  黙阿弥翁の事を書くに付けて、清元延寿翁(五代目)を思い出さずにはいられない。汀戸の末期 から明治へかけて清元隆盛の基礎を築いたのは、云うまでもなく延寿翁の力であるが、延寿があれ ほどに名をなしたのは黙阿弥翁の引き立てにょるので、黙翁の作物に清元の浄瑠璃の多いのは一つ には延寿引き立ての為であったらしい。  延寿がまだ素人で斎藤源之助と云った頃に、吉原の岡本楼の遊女長太夫と心中を図って舌を噛ん だことは有名の話である。それがために実家を勘当されて、知人のところを渡り歩いているのを清 元千蔵が気の毒に思って、自分の宗家の清元太兵衛の家へ婿養子に周旋した。その当時、太兵衛は もう此の世にいなかったが、家にはその後家さんと娘のお葉《よう》がある。源之助はそのお葉の婿になっ て延寿太夫を襲名するのであるが、千蔵一人でこの話を纏めるのは少し荷が重いので、彼は黙阿弥 翁にその口添えを頼んだ。翁は快く承諾して、進んでこの縁談を取り纏めたので、翁は延寿に対し て媒酌人でもあり、親分でもあるという関係上、どうしても延寿を引き立ててやらなければならな いことになって、翁は彼のために「夜這星」の大浄瑠璃を書いた。市村座で小団次がこれを上演す ると、この浄瑠璃が大当たりで、延寿太夫の名は忽ち江戸じゅうに拡まった。運命は皮肉である。 かつて舌を噛んだ人が声楽の大家になったのである。  それから間もなく、延寿は人形町の三光新道に住んでいる藤間藤政という踊りの師匠と親しくな って、それがために清元の家を離縁されることになってしまった。たといどれ程の技禰があっても 延寿太夫の名を剥奪されてしまっては何処の劇場でも使ってくれないので、延寿もいまさら途方に 暮れた。藤政とは断然手を切って、彼は黙阿弥翁に詫びを頼んだ。今後は必ず身を慎むから、どう ぞ家元へ詫びを入れて、お葉ともとの通り夫婦にしてくれと云うのである。  翁も気の毒に思って、取りあえずお葉をたずねて其の取次ぎをすると、お葉は形をあらためて、 それは思いも寄らないことである。たとい遊芸とは云いながら、一流の家元として多数の門人を支 配する身があんな不身持ちでどうなろう、折角のお心添えながら此の儀は堅くお断わり申すと、剣 もほろろの挨拶であった。理窟を云えばそれも一応もっともなので、翁も取りつく島がなく、そこ そこに帰って来た。  ところが、それから幾日も経たないうちに、お葉が黙阿弥翁の家へたずねて来て、先日は有難う 、こざいましたと礼を述べた上で、門弟や世間の手前、一旦はあのように平ったくお断わり申した が、ほかならぬお師匠さんのお扱いであるから、勘弁の出来にくいところを勘弁して、再び呼び戻 してやりたいと思いますと、過日とは打って変わった口上振りに、翁も云い甲斐があったと喜ん だ。お葉はお師匠さんに免じてと繰り返して云った。翁も自分の顔を立ててくれたことと嬉しく思 った。そうして、近いうちに自分が延寿を同道して家元の家に送りこむことに約束して別れた。  しかし、その時は次ぎ興行の書き物が忙がしかったので、翁もつい其のままで十日ばかりを過ご すと、お葉がまた催促に来て、お忙がしいところを心無いようではあるが、勘弁すると決まった以 上は一日も早い方がいい。殊にあなたのお庇で劇場の方からも出勤の相談を向けられたが、本人の 太夫が居ると居ないとでは其の掛合い振りも違うから、よろしくお察しを願うとの事であった。そ れもまんざら無理もない請求だと思ったので、翁は忙がしい中を繰り合わせて、延寿の隠れ場所へ 尋ねて行った。そうして、彼を連れて家元の家へ行って、滞りなくお葉に引き渡して帰った。  こうして延寿は家元に復帰したのであるが、その後、彼は翁のところへ一言の礼にも来ない。お 葉からも何の沙汰もない。あまりに義理を知らない夫婦だと、翁も内心不満に思っていると、後に なって其の事情が判った。翁が最初に詫びを云いに行った時のお葉と、お葉自身が翁のところへ出 向いて来た時とは、彼女の料簡がまるで変わっていた。その数日のうちに、お葉と延寿とは或る機 会から秘密に妥協してしまったのである。さりとてずるずるに延寿を引き入れる訳にも行かないの で、さきに詫び言を云いに来たのを幸いに、お師匠さんに免じてなどと黙阿弥翁を巧く口説いて、 うわべだけの人形に担ぎ出したのであった。おとなしいようでも女は油断がならないと、翁もさす がに感心したそうである。  黙阿弥翁と延寿翁とは、こういう関係があったことを知って、黙翁の清元を読むと又別種の興味 が湧くように思われる。                     (大正七.四.新演芸)      へ 小坂部伝説  わたしは帝劇のために「小坂部《おさかべ》姫」をかいた。それを書くに就いて参考のために、小坂部のこと をいろいろ調べてみたが、どうも確かなことが判らない。伝説の方でも播州姫路の小坂部といえば 誰も知っている。芝居の方でも小坂部といえば、尾上家に取っては家の芸として知られている。そ れほど有名でありながら、伝説の方でも芝居の方でもそれがはっきりしていないのである。  まず伝説の方から云うと、人皇第九十二代のみかど伏見天皇のおんときに、小刑部《おさかべ》という美しい 女房が何かの科《とが》によって京都から播磨国に流され、姫山1むかしは姫路を姫山と云った。それが 姫路と呼びかえられたのは慶長以後のことで、むかしは土地全体を姫山と称していたのを、慶長以 後には土地の名を姫路といい、城の所在地のみを姫山ということになったのであるーに隠れて世 を終わったので、それを祭って小刑部明神と崇めたというのであるが、それには又種々の反対説が あって、播磨鑑には小刑部明神は女神にあらずと云っている。播磨名所巡覧図会には「正一位小刑 部大明神は姫路城内の本丸に鎮座、祭神二座、深秘の神とす。」とある。それらの考証は藤沢衛彦 氏の目本伝説播磨の巻に詳しいから、今ここに多くを云わないが、まだ別に刑部姫《おさかぺひめ》は高師直のむす めだと云う説もあって、わたしはそれによって一篇の長編小説をかいたこともある。しかし、小坂 部il小刑部とも刑部ともいう1明神の本体が女神であるか無いかという議論以外に、その正体 は年ふる狐であるという説が一般に信じられているらしい。なぜそんな伝説が拡まったのか、その 由来は勿論わからない。  一体、姫路の城の起源は歴史の上で判っていない。赤松が初めて築いたものか、赤松以前から存 在したものか判然《はつきり》しないのであるが、とにかくに赤松以来その名を世に知られ、殊に羽柴筑前守秀 吉が中国攻めの根拠地となるに至っていよいよ有名になったのである。慶長五年に池田輝政がここ に入って天主閣を作ったので、それがまた姫路の天主として有名なものになった。しかし徳川時代 になってからも、ここの城主はたびたび代っている。池田の次に本多忠政、次は松平忠明、次は松 平直基、次は松平忠次、次は榊原政房、次は松平直矩、次は本多政武、次は榊原政邦、次は松平明 矩という順序で約百四十年のあいだに城主が十代も代っている。平均すると一代わずかに十四年と いうことになるわけで、こんなに城主の交代するところは珍しい。それはこの姫路という土地が中 国の要鎮であるためでもあるが、城主が余りにたびたび変更するということも、小坂部伝説にはよ ほどの影響をあたえているらしい。  それについて、こんなことが伝えられている。この城の持ち主が代替りになるたびに、かならず一 度ずつは彼《か》の小坂部が姿をあらわして、新しい城主にむかってここは誰の物であるかと訊く。こっ ちもそれを心得ていて、ここはお前様のもので、こざりますと答えればよいが、間違った返事をする と必ず何かの崇りがある。現にある城主が庭をあるいていると、見馴れない美しい上繭があらわれ て、例の通りの質問を出すと、この城主は気の強い人で、ここは将軍家から拝領したのであるから、 俺のものだと、きっぱり云い切った。すると、その女は怖い眼をしてじろりと睨んだままで、どこ へかその姿を隠したかと思うと、城主のうしろに立っている桜の大木が突然に倒れて来た。城主は 早くも身をかわしたので無事であったが、風もない晴天の日にこれほどの大木が俄かに根こぎにな って倒れるというのは不思議である。つづいて何かの禍いがなければよいがと、家中一同ひそかに 心配していると、その城主は問もなく国換えを命じられたということである。こんな話が昔からい ろいろ伝えられているが、要するに口碑にとどまって、確かな記録も証拠もない。  小坂部明神なるものが祀られてあるにも拘らず、かれは天主閣に棲んでいると伝えられている。 由来、古い櫓や天主閣の頂上には年古る猫や髄その他の獣が棲んでいることがあるから、それらを 混じて小坂部の怪談を作り出したのかも知れない。支那にも何か類似の伝説があるかと思って心が けているが、寡聞にして未だ見あたらない。日本の怪談は九尾の狐ばかりでなく、大抵は三国伝来 で、日本固有のものは少ないのであるから、これも何か支那の小説か伝説がわが国に移植されたも のではないかとも想像されるが、出所が判然《はつぎり》しないので確かなことは云えない。  さて、それから芝居の方であるが、これは専門家の渥美さんに訊いた方がいい。現にわたしも渥 美さんに教えられて、初代並木五瓶作の「袖簿播州廻《そでにつきばんしゆうめぐり》」をくりかえして読んだ。魚書《つのがき》にも姫館 妖怪《ひめやかたようかい》、古佐壁忠臣《こさかべちゆうしん》と書いてあるのをみても、かの小坂部を主題としていることはわかる。二つ目の 姫ケ城門前の場とその城内の場とが即ちそれであるが、この狂言では桃井家の後|室堪《きぬた》の前がこの古 城にかくれ棲み、妖怪といつわって家再興の味方をあつめるという筋で、若殿陸次郎などというの もある。これは淀君と秀頼とになぞらえたもので、小坂部の怪談に託して豊臣滅亡後の大坂城をか いたのである。現に大坂城内には不入《いらず》の間があって、そこには淀君の霊が生けるがごとくに棲んで いるなどと伝えられている。それらを取り入れて小坂部の狂言をこしらえあげたと云うのは、作者 が大坂の人であるのから考えても容易に想像されることである。しかし、ともかくも小坂部という ものを一部の纏まった狂言に作ってあるのは、この脚本のほかには無いらしい。これは安永八年三 月、大坂の角の芝居に書きおろされたものである。  尾上家でそれを家の芸としているというのは、かの尾上松緑から始まったのであるが、一体それ はどういう狂言であるか判っていない。他の通し狂言のなかに一幕はさみ込まれたもので、取り立 ててこれぞというほどの筋のあるものではないらしい。しかし江戸では松緑の小坂部が有名であっ たことは、「復再松緑刑部話《またぞろしようろくおさかべばなし》」などという狂言のあるのを見ても知られる。この狂言は例の四代 目鶴屋南北の作で、文化十一年五月に森田座で上演している。すでに「復再」と名乗るくらいであ るから、その以前にもしばしば好評を博していたものと察しられるが、それがわからない。明治三 十三年の正月、歌舞伎座の大切浄瑠璃「闇梅《やみのうめ》百物語」で五代目菊五郎が小坂部をつとめた時にも、 家の芸だというのでいろいろに穿索したそうであるが、一向に手がかりがないので、古い番附面の 絵すがたを頼りに、三代目河竹新七が講釈種によって劇に書きおろしたのであった。今度もわたし は尾上松助老人について何か心あたりは無いかと訊いてみたが、老人もやはりかの歌舞伎座当時の 話をして、自分も多年小坂部の名を聴いているだけで、その狂言については何にも知らないと云っ ていた。  小坂部の正体が妖狐で、十二ひとえを着て姫路の古城の天主閣に棲んでいて、それを宮本|無三四《むさし》 が退治するというのが、最も世間に知られている伝説らしく、わたしは子供のときに寄席の写し絵 などで幾度も見せられたものである。こんなことを書いていながらも、一種今昔の感に堪えないよ うな気がする。  そういうわけで、芝居の方では有名でありながら、その狂言が伝わっていない。そこを付け目に して、わたしは新しく三幕物に書いて見たのであるが、何分にも材料が正確でないので、まずいろ いろの伝説を取りあわせて、自分の勝手に脚色したのである。  松緑のも菊五郎のも、小坂部の正体を狐にしているのであるが、狐と決めてしまうのはどうも面 白くないと思ったので、わたしは正体を説明せず、単に一種の妖麗幽怪な魔女ということにして置 いた。したがって、あれは一体何者だと云うような疑問が起こるかも知れないが、それは私にも返 答は出来ない。くどくも云う通り、昔は播州姫路の城内にああいう一種の魔女が棲んでいて、ああ いう奇怪な事件が発生したのだと思って貰いたい。又、その以上には御穿索の必要もあるまいと思 っている。  今度の上演について、おそらく此の小坂部の身許しらべが始まるだろうと思われるから、ちょつ と申し上げておく。                     (大正一四.二.演芸画報)      と 四谷怪談異説  四谷怪談といえば何人《なんぴと》もおなじみであるが、さてその実録は伝わっていない。四谷左門町に住ん でいた田宮伊右衛門という侍がその妻のお岩を虐待して死に至らしめ、その亡魂が崇りをなして田 宮の家は遂にほろびたというのが、まず普通一般に信じられている伝説である。しかも、そんなた ぐいの話は支那にたくさんあるから、お岩のこともやはり支那から輸入されたものではないかと思 われるが、現に江戸時代には左門町にお岩稲荷があり、今日でも越前堀に田宮稲荷が現存している 以上、まったく根拠のないことでもないらしい。  それに就いて、こういう異説がまた伝えられている。お岩稲荷はお岩その人を祀ったのではなく して、お岩が尊崇していた神を祀ったのであると云うのである。すなわち田宮なにがしと云う貧困 の武士があって、何分にも世帯を持ちつづけることが出来ないので、妻のお岩と相談の上でひとま ず夫婦別れをして、夫はある屋敷に住み込み、妻もある武家に奉公することになった。お岩は貞女 で、再び世帯を持つときの用意として年々の給料を貯蓄しているばかりか、その奉公している屋敷 内の稲荷の社《やしろ》に日参して、一日も早く夫婦が一つに寄り合うことが出来るようにと祈願していた。 それが主人の耳にもきこえたので、主人も大いに同情して、かれの為にいろいろの世話を焼いて、 結局お岩夫婦は元のごとくに同棲することになった。  主人のなさけも勿論であるが、これも日、ころ信ずる稲荷大明神の霊験であるというので、お岩は 自分の屋敷内にも彼《か》の稲荷を勧請《かんじよう》して朝夕に参拝した。それを聞き伝えて、自分たちにも拝ませて くれと云う者がだんだんに殖えて来た。お岩はそれを拒まずに誰にもこころよく参拝を許した。そ の稲荷には定まった名が無かったので、誰が云い出したともなしにお岩稲荷と一般に呼ばれるよう になった。こういうわけで、お岩稲荷の縁起は、徹頭徹尾おめでたいことであるにも拘らず、講釈 師や狂言作者がそれを敷術《ふえん》して勝手な怪談に作り出し、世間が又それに雷同したのである。お岩が 鬼になったから鬼横町であるなどというのも妄誕不稽で、鬼横町などという地名は番町にもあるか ら証拠にはならない。  この説もかなり有力であったらしく、現にわたしの父などもそれを主張していた。ほかに四、五 人の老人からも同じような説を聴いた。してみると、お岩稲荷について、下町派すなわち町人派の 唱えるところは一種の怪談で、山の手派すなわち武家派の唱えるところは、一種の美談であるらし い。尤もその事件が武家に関することであるから、武家派は自家弁護のために都合のいい美談をこ しらえ出したのかも知れない。怪談か美談か、ともかくも一説として掲げて置く。勿論、南北翁の 傑作に対して異論をさしはさむなどと云うわけでは決して無い。 ち 自来也の話  自来也も芝居や草双紙でおなじみの深いものである。わたしも喜劇「自来也」をかいた。自来也 は我来也で、その話は宋の沈淑《ちんしゆく》の「譜史《かいし》」に載せてある。  京城に一人の兇賊が俳掴した。かれは人家で賊を働いて、その立ち去るときには必ず白粉を以て 我来也の三字を門や壁に大きく書いてゆく。官でも厳重に捜索するが容易に捕われない。かれは相 変わらず我来也と大書して、そこらを暴《あら》してあるく。その噂がますます高くなって、賊といえば我 来也の専売のようになってしまって、役人たちも賊を捕えろとは云わず、ただ我来也を捕えろと云 って騒いでいるうちに、一人の賊が臨安で捕われた。捕えた者は彼こそ確かに我来也であると主張 するのであるが、捕えられた本人はおぼえもない濡衣《ぬれぎぬ》であると主張する。臨安の市弄《しいん》は後に尚書と なった趙という人で、名奉行のきこえ高い才子であったが、何分にも証拠がないので裁くことが出 来ない。どこかに貯品《しようひん》を隠匿しているであろうと詮議したが、それも見あたらない。さりとて迂閥 に放免するわけにも行かないので、そのまま獄屋につないで置くと、その囚人がある夜ひそかに獄 卒にささやいた。 「わたくしは盗賊に相違ありませんが、まったく彼の我来也ではありません。しかし斯うなったら どのみち無事に助からないことは覚悟していますから、どうかまあ動《いた》わって下さい。そのお礼とし てお前さんに差し上げるものがあります。あの宝叔塔の幾階目に白金が少しばかり隠してあります から、どうぞ取り出して御勝手にお使いください。」 「それはありがたい。」  とは云ったが、獄卒は又かんがえた。かの塔の上には登る人が多いので、迂闊に取り出しにゆく ことは出来ない。第一あんなに人目の多いところに金をかくして置くと云うことが疑わしい。こい つそんなことを云って、おれにからかうのではないかと鷹曙していると、かれはその肚《はら》のなかを見 透かしたように又云った。 「旦那、疑うことはありません。寂しいところへ物を隠すなどは素人のすることで、なるたけ人目 の多い賑やかいところへ隠して置くのがわたくし共の秘伝です。まあ、だまされたと思って行って 御覧なさい。あしたはあの寺に仏事があって、塔の上には夜通し燈火《あかり》がついています。あなたも参 詣の振りをして、そこらをうろうろしながら巧く取り出しておいでなさい。」  教えられた通りに行ってみると、果たして白金が獄卒の手に入ったので、かれは大いに喜んだ。 そのうちの幾らかで酒と肉とを買って内所《ないしよ》で囚人にも馳走してやると、それから五、六日経って、 囚人は又ささやいた。 「もし、旦那。わたくしはまだ外《 か》にも隠したものがあります。それは婆《かめ》に入れて、侍郎橋の水のな かに沈めてありますから、もう一度行ってお取りなさい。」  獄卒はもう彼の云うことを疑わなかったが、侍郎橋も朝から晩まで往来の多いところである。ど うしてそれを探しにゆくかと思案していると、囚人は更に教えた。 「あすこは真っ昼間ゆくに限ります。あなたの家の人が竹籠へ洗濯物を入れて行って、橋の下で洗 っている振りをしながら、そっとその嚢を探し出して籠に入れる。そうして、その上に洗濯の着物 をかぶせて抱えて帰る。そうすれば誰も気がつきますまい。」 「なるほど、お前は悪知恵があるな。」  獄卒は感心して、その云う通りに実行すると、今度も果たして鶏を見つけ出した。覇にはたくさ んの金銀がはいっていた。獄卒は又よろこんで、しきりに囚人に御馳走をしてやっていると、ある 夜更けに囚人が又云った。 「旦那、お願いが、こざいます。今夜わたくしをちょっと出してくれませんか。」  それは獄卒も承知しなかった。 「飛んでもない。そんなことが出来るものか。」 「いや、決して御心配には及びません。夜のあけるまでには屹と帰って来ます。あなたがどうして も承知してくれなければ、わたくしにも料簡があります。わたくしにも口がありますから、お白洲 へ出て何をしゃべるか判りません。そう思っていてください。」  獄卒もこれには困った。飽くまでも不承知だといえば、こいつは白洲へ出て宝叔塔や侍郎橋の一 件をべらべらしゃべるに相違ない。それが発覚したら我が身の大事となるのは知れている。飛んで もない脅迫をうけて、獄卒も今さら途方にくれたが、結局よんどころなしに出レてやると、かれは 約束通りに戻って来て、再び手枷首枷をはめられて獄屋のなかにおとなしく這入っていた。  夜があけると、臨安の町に一つの事件が起こっていることが発見された。ある家へ盗賊が忍び入 って金銀をぬすみ、その壁に我来也と大きく書き残して立ち去ったと云うのである。その訴えに接 して、名奉行の趙も思わず嘆息した。 「おれは今まで自分の裁判にあやまちは無いと信じていたが、今度ばかりは危うく仕損じるところ であった。我来也は外にいる。この獄屋につないであるのは全く人違いだ。多寡がこそこそ泥坊だ から、杖罪で放逐してしまえ。」  かの囚人は獄屋からひき出されて、脊中を幾つか叩かれて放免された。これでこの方の将があい て、獄卒は自分の家へ帰ると、その妻は待ち兼ねたように話した。 「ゆうべ夜なかに門《かど》をたたく者があるので、あなたが帰ったのかと思って門をあけると、誰だか知 らない人が二つの布嚢《ぬのぷくろ》をかついで来て、黙って投り込んで行きました。なんだろうと思って検《あらた》めて みると、嚢のなかには金銀がいっぱい詰め込んでありました。」  獄卒は覚った。 「よし、よし、こんなことは誰にも云うなよ。」  それから間もなく、獄卒は病気を云い立てに辞職して、その金銀で一生を安楽に送った。我来也 はそれからどうしたか判らない。獄卒のせがれは放蕩者で、両親のない後にその遺産をすっかり遣 い果たしてしまった。 「おれの身代はもともと悪銭で出来たのだから、こうなるのが当たりまえだ。」と、その伜が初め て昔の秘密を他人に明かした。  支那の我来也はまず斯ういう筋である。日本でこの我来也を有名にしたのは、感和亭鬼武《かんわていおにたけ》が最初 であるらしい。鬼武は本名を前野曼助といい、以前は某藩侯の家来であったが、後に仕《し》を辞して飯 田町に住み、さらに浅草の姥《うば》ケ池のほとりに住んでいたと云う。かれの著作はたくさんあるが、そ のなかで第一の当たり作は「自来也物語」十冊で、我来也を自来也に作りかえたのが非常の好評を 博して、文化四年には大坂で歌舞伎狂言に仕組まれ、三代目市川団蔵の自来也がまた大当たりであ った。絵入りの読本《よみほん》を歌舞伎に仕組んだのはこれが始まりであると云うのをみても、いかに「自来 也物語」が流行したかを想像することが出来る。そのほかにやはり鬼武の作で「自雷也|話説《ばなし》」とい う作があると云うが、わたしはそれを読んだことがない。おそらく自来也が当たったので、又なに か書いたのであろう。そうして、自来也を更に自雷也と改めたらしい。  こういうわけで、支那の我来也が日本の自来也となり、さらに自雷也となったのであるが、それ がまた児雷也と変わったのは美図垣笑顔《みずがきえがお》から始まったのである。笑顔は芝の涌泉堂という本屋の主 人で、傍らに著作の筆を執っていたが、何か一つ当たり物をこしらえようと考えた末に、かの鬼武 の「自来也物語」から思いついて、蝦墓《がま》の妖術、大蛇《おろち》の怪異という角書《つのがき》をつけて「児雷也豪傑諏」 という草双紙を芝神明前の和泉屋から出すと、これが果たして大当たりに当たった。所詮は鬼武の 「自来也物語」を焼き直したものであるが、主人公の盗賊児雷也を前茶筆のやさ姿にして、田舎源 氏の光氏式に描かせた趣向がひどく人気に投じたらしい。画家は二代目豊国である。 「児雷也豪傑諏」の初編の出たのは天保十年で、作者も最初から全部の腹案が立っていた訳でもな いらしく、それが大当たりを取ったところから、図に乗って止め度も無しに書きつづけているうち に、第十一編を名残りとして嘉永二年に作者は死んだ。しかも児雷也の流行は衰えないので、その あとを柳下亭種員《りうゆかていたねかず》がつづけて書く。又そのあとを二代目の種員が書くというわけで、いよいよ止め 度が無くなって、幕末の慶応二年には第四十四編まで漕ぎ付けたのである。ともかくも、かの「田 舎源氏」や「しらぬひ諏《ものがたり》」や「釈迦八相」などと相列んで、江戸時代における草双紙中の大物と 云わなければならない。  この作がそれほどに人気を得たのは、前に云った豊国の挿絵が時好に投じたのと、もう一つには 人気俳優の八代目団十郎が児雷也を勤めたと云うことにも因るらしい。尤もこの作の評判がよいか ら、芝居の方でも上演したのであろうが、それに因ってこの作も、さらに一層の人気を高め、女子 供に愛読されたこともまた争われない事実であろう。その上演は嘉永五年、河原崎座の七月興行 で、原作の初編から十編までを脚色して、外題はやはり「児雷也豪|傑諦話《ものがたり》」1主なる役割は児雷 也(団十郎)妖婦越路、傾城あやめ、女巡礼綱手(岩井粂三郎)高砂勇美之助、大蛇丸(嵐璃寛) などであった。  この脚色者は黙阿弥翁である。翁が後年、條野採菊翁に語ったところによると、河原崎座の座主 河原崎権之助という人は新狂言が嫌いで、なんでも芝居は古いものに限ると主張しているので、黙 阿弥翁が何か新狂言の腹案を提出しても一向に取り合わない。これには黙阿弥翁も困り抜いている と、かの「児雷也」の草双紙の評判がよいので、さすがの権之助も一つやってみようかと云い出 し、黙阿弥翁もここだと腕を揮って脚色すると、その狂言が大当たりを取ったので、権之助もすこ し考え直したとみえて、来年も何か草双紙を仕組んでくれと云い、今度は「しらぬひ諏」を脚色す ると、これが又当たったので、権之助もいよいよ兜をぬぎ、成程これからの芝居は新狂言でなけれ ばいけないと云い出した。黙阿弥翁もそれに勢いを得て、つづいて「小幡小平次」をかき、「忍ぶ の惣太」を書き、ここに初めて狂言作者としての位地を確立したのであると云う。  勿論、黙阿弥翁のことであるから、遅かれ早かれ世に出るには相違ないが、ここに「児雷也豪傑 諦」という評判物の草双紙がなかったらば、或いはその出世が三年や五年はおくれたかも知れな い。してみると、児雷也と黙阿弥翁、その間に一種の因縁がないでもないように思われる。  鬼武が最初に我来也を自来也にあらためたのは、我来也という発音が目本人の耳に好い響きをあ たえない為であったらしい。それでも「我来」を「自来」に改めたのはまだ好い。さらに「自雷」 にあらためたのはどういうわけか判らない。まして後の作者が「児雷」に改めたのは、いよいよつ たない。しかもそれが最も広く伝わったので、児雷也というのが一般的の名になってしまった。                                (大正一四・五・演芸画報) り 女学士の報怨 女の怨み、女の呪い、女の崇り、どこの国にも昔から数え切れないほどに伝えられているが、ど れもこれも同じ筋道で余りに変わったのは少ない。清の沈起鳳の「譜鐸《かいたく》」のうちに、奇女雪怨と題 してこんな話を載せてある。  線娘《せんじよう》は夏邑の士族の娘である。学問があり、詞賦を善くするので、老師や宿儒にも嘆賞されて、 あっぱれ女学士と認められていた。年十七のときに父母が相前後して世を去ったので、線娘は唯ひ とりで故宅に棲んでいると、その隣りは某生の別宅で、娘の庭に栽えてある一本の玉蘭が両家の地 境いの垣に椅りかかっていた。ある朝、娘が早く起きてその花を摘んでいると、となりの某生がそ れを望み見て、垣の下に走って来て長揖《ちようカう》の礼を行なった。某はまだ独身の好青年である。 女学士と云っても恋を知る頃であるから、好青年に会釈《えしやく》されて線娘は顔を赤くした。早々に答礼 して、逃げるように立ち去ろうとすると、青年はしずかに呼び止めた。 「わたくしは宋|玉《ハさ》ではありません。みだりに培《かき》にのぼってお隣りのお嬢さんを窺うようなことは致 しません。何分にも独学で師と頼むべき人がないので、拙《つたな》い文章の御添削をねがいたいと思うので すが、いかがでしょう。」  こう云って、かれは一巻の草稿を取り出して丁寧にその添削を求めた。そこで断わってしまった ら無事であったかも知れなかったが、線娘もいささか女学士の才をたのむ気味もあったらしい。結 局それを受け取って書堂に戻って、初めから仔細に読んでみると、その文章は才華余りあるが、間 間《まきホ》二、三の鍛がないでもなかった。そのなかでも挙人や進士の試験の妨げになりそうな部分を一、 二添削して、あくる日再び花を折りに出ると、となりの青年はそれをうかがってすぐに出て来たの で、娘は垣越しにかの草稿を返してやると、かれは拝謝して受け取った。  こういうことが度重なるうちに、青年は大胆にも垣を乗り越えて、こちらの庭へ入り込んで来る ようになった。しまいには書堂へも進入するようになった。若い女ひとりが棲んでいるところへ若 い男が親しく出入りをするのであるから、彼等はその当然行き着くべきところへ行き着くよりほか はなかった。かれらは山河に誓い、日月に盟って、半年ばかりの歓会をつづけていた。  そのあいだに線娘はしばしば結婚を催促したが、青年は口で承諾していながら遷延《せんえん》日を送ってい るばかりか、遂に他家のむすめと婚約を結ぶことになったのを、娘は初めて知って驚いた。それで                                        あんぽう も一度訣別をして清く別れてしまおうと、垣の下に立って毎日待ち暮らしていたが、青年は鷺鳳の 新巣を営むに忙がわしくして、また昔日《せきじつ》の野合|鴛鴛《えんおう》をかえりみるの暇がなかったので、線娘は憤椀 の極、わが書堂の戸を鎖ざしてみずから緯《くぴ》れて死んだ。  あとでそれを知って、青年もひどく驚き悔んだが、今更どうする事も出来なかった。その後、か れが郷試を受けに出て、巻を執って思いを構えていると、どこからともなくかの線娘があらわれて 来たので、青年は大いに恐れおののいていると、線娘はちっとも怒りの色を見せないで、かれのた めに紙を開き、墨を磨って、巧妙の文字をかれに書き教えてくれた。そのおかげで青年は首尾よく その試験に合格した。  つづいて礼部の試験を受けることになると、線娘は復《また》あらわれて来て、前と同じように紙を払 い、墨を磨って、かれの文章の至らざるところを添削してくれたので、青年はこれにもとどこおり なく合格した。さらに殿試にも甲科を得て、青年は農部の官吏になり済ました。自分を怨んでいる 筈の線娘がいつも影身に添うて自分を助けてくれるので、青年はしきりにその恩を感謝している と、あるときに線娘が久しぶりで姿をあらわして、かれにこんなことを曝いた。 「あなたは都の役人をして升斗《しようと》の禄を受けていたところで、容易に宙嚢《くわんのう》を充たすことは出来ますま い。早く運動して地方へ出ることをお考えなさい。」  青年も成る程とうなずいた。それから地方官の運動をはじめて、二年ならざるうちに或る地方の 郡守に抜擢されることになった。都の小官吏が地方へ下って、その一地方の権を握ると、俄かに慾 心が増長して、いわゆる地方貧吏の型にはいってしまった。それも頗る念入りの方で、かれは細民 の膏血を容赦なく絞り取って、専ら私嚢を肥《こや》すことに汲々としているうちに、盗賊から賄賂を取っ て法をゆるめたということが発覚して、棄市《きし》の刑に行なわれることになった。かれは殺されて、そ の死骸を市《いち》に棄てられるのである。この重罪の申渡しを受けて、いよいよ明日は刑場へ牽き出され るという夜、黒髪をふり乱して線娘が彼の前に又あらわれた。 「幾年の冤憤を今初めて伸べることが出来たのだぞ。あの時すぐに亡ぼしてやる筈であったが、一 個の書生を窓の下で殺してみても詰まらないから、わたしが蔭ながらお前の加勢をして、陞《のぼ》るとこ ろまで陞らせて置いて、世間の人の見る前で重罪犯人としてむごたらしい最期を遂げさせ、末代ま でも悪名を残させてやったのだ。はは、思い知ったか。」  女学士の冤鬼《えんき》はけらけらと笑って消え失せた。  すぐに相手には崇らないで、却って彼を佐《たす》けて立身させ、さてその上で惨痛の報復をあたえよう としたのは、あまりに類例の多くない崇り方である。わたしはこれからヒントを得て「小坂部姫」 の戯曲を書いたのであったが、どうもこれほどに物凄く行かなかった。  ぬ 病妻の金環  おなじく支那の話である。  清のA削曲園の「右台仙館筆記」のうちに、四谷怪談の民谷伊右衛門式の記事が載せられてある。 楊氏の女《むすめ》とばかりで其の名を書き洩らしてあるが、その女は江西の程《てい》氏の子に嬰られることになっ た。程の家は元来|大家《たいけ》であったが、両親が早く死んで誰も検束する者がなかったので、程は少年の ころから始末に負えない道楽者になりすまして、さしもの大家もだんだんに傾きかかって来た。番 頭共もそれを心配して、然るべき嫁が出来たらば、少しは身持ちも治まるであろうと云うので、楊 氏の女を聰することになったのである。  楊氏の父が承諾したので、この縁談は無事にまとまったが、無事でないのは夫婦仲である。楊女 は見るから風流の軽薄児らしい夫を好まなかった。程もまた野暮堅いお嬢さん育ちの妻を好まなか った。番頭共の苦心も仇となって、程は相変わらず花柳の巷と博突場へ入り浸っているという始末 で、身代はいよいよ傾いて来た。それを苦に病んで、楊女はとうとう病人になってしまった。  家は潰れかかって、道楽の金にもだんだん詰まって来たので、程は妻の嫁入り道具を片っ端から 持ち出してゆく。妻の病気はいよいよ重ってゆく。奉公人共もだんだんに散ってゆく。型の通りの |大世話場《おおせわば》のなかでも、程の放蕩は決して止まなかった。きょうか明日かという大病人の枕もとに突 っ立って、夫は楊女に何か貸せというのである。 着物や指環は勿論のこと、楊女が手まわりの道具のなかでも幾らかの金になりそうなものは皆持 ち出してしまったので、その化粧箱のうちは殆んど無一物である。まして楊女はもう口も利かれな いほどの重態であるから、気息奄々、ただ黙っていると、程は焦れて罵った。 「お前はまだ何か持っている筈だ。それを貸せ。」  楊女はやはり黙っているので、程はいよいよ焦れ込んで、病める妻の袖を無理無体にまくりあげ た。糸のように痩せている左の手には黄金の腕環が嵌めてあることを、彼はふだんから知っている のであった。せめてそれだけは自分の身につけて墓の中まで持って行こうと思っていたのである が、楊女はもう争う気力もないので、残酷なる夫が奪い取るに任せるのほかはなかった。程は妻の 強情を罵りながら、獲物をつかんで出て行った。  楊女の腕環の紛失したことを女中たちが発見して騒ぎ出すと、病人は微かに首を悼った。 「いいえ、尋ねるには及びません。」  そのあくる日、不幸なる若き妻は死んだ。  それから幾年の後、楊女の妹婿のなにがしが官途に就いて北京へのぼると、正陽門外でひとりの 乞食を見た。乞食はかの程であった。 「とうとう其の姿になりましたか。」と、なにがしは嘆息した。「都へまで来てそんな恥を晒してい るよりも、早く故郷の江西へ帰って、なんとか身を立てる工夫をしたらいいでしょう。あなたが其 の積りならば、わたしが身のまわりや旅費はこしらえてあげます。」 「おまえは役人で役人の仕事をしている。おれは乞食で乞食のことをしている。おたがいに係り合 いはないのだ。余計な世話を焼くな。」と、程はあざ笑った。 妹婿が見かねて贈った十両の金を突き戻して、かれは何処へか瓢然と立ち去った。 楊女に呪われずとも、彼が零落するのは当然であろう。しかも下流に甘んじて痩せ我慢か何か知 らぬが、ともかくもそんな太平楽をならべているのを見ると、貞淑なる楊女はかれに崇ろうとはし ないのか。或いは崇ろうとしても、かれの陽気強盛にして弱い女の魂などをよせ付けないのかも知 れない。いずれにしても妻の腕から金環をもぎ取った程という男は、妻の蚊帳を剥ぎ取った伊右衛 門よりも少しく強いようである。 る 羽衣伝説  謡曲の「羽衣」は誰でも知っている。それが劇に取り入れられ、五代目尾上菊五郎の新古演劇十 種の一として、初めて歌舞伎座の舞台に上演されたのは、明治三十一年の一月興行で、菊五郎の天 人、栄三郎(後の梅幸)の伯了であった。それを常磐津の浄瑠璃にかいたのは、三代目河竹新七で ある。  三保の松原の羽衣伝説、これも古来有名なもので、今更その伝説研究をするまでもあるまい。由 来、わが国の伝説や怪談に独創のものは少なく、その多くは朝鮮、支那、天竺から輸入されたもの であるが、この羽衣伝説も唐渡りらしい。支那にはそれに似寄った話が往々あるが、その中でも最 も古いのは、晋の干宝《かんぽう》のかいた「捜神記」であろう。その第+四にこんな話がある。  予章の新喩県のある男が田へ出ると、田のなかに六、七人の女が遊んでいるのを見た。その女た ちはみな毛衣《けごろも》を着ていた。男は不思議に思って窺っていると、ひとりの女はその毛衣をぬいで地に 置いたので、男はそっと這って行って先ずそれを盗み取った。それから他の女たちのも剥ぎ取ろう として近寄ると、みな驚いて鳥のすがたになって飛び去ってしまった。しかし毛衣をうしなった女 ひとりは去ることが出来ないので、やはり元の女の姿のままでさまよっているのを、男は連れて帰 って自分の妻とした。そうして幾年か無事に暮らしているうちに、女は三人のむすめを生んだ。  ある時、その娘たちは父に向かって、母の毛衣はどこにしまってあるかと訊いた。それが母の指 尺《さしがね》であることを知らないで、父は娘たちにうっかりとしゃべってしまった。かの毛衣は庫《くり》の積稲の 下に隠してあったのである。娘たちはそれを探し出して母に着せると、母はたちまち鳥のすがたと なって飛び去った。父はおどろいて失望していると、やがてその母が再び迎いに来て、一二人の娘も みな鳥となって何処へか飛び去った。  この捜神記の一節が土台となって、支那にもいろいろの話が伝えられるようになった。それが又 わが国に渡来して、かの羽衣伝説をうみ出したらしい。 を 関羽と幽霊  これは俳優に関する一種の怪談である。清の人のかいた「客窓渉筆」(この著者の名は伝わって いない)の中に「天津旅居」と題して、こういう話を伝えている。 清朝のはじめの康煕年間のことである。天津の城外にある旅館の奥の部屋には、とかくに奇怪の 出来事がつづいて、泊まり客がしばしばおどろかされると云うので、宿の主人はその部屋の戸に錠 をおろして、不入《いらず》の間にして置くと、ある時そこへ旅役者の一行が泊まりに来た。なにかの祭礼 で、どこの旅館も混雑している。この旅館も満員であるので、主人はそのわけを云って断わると、 役者たちはほかに泊まるところがないから是非泊めてくれと云う。主人はよんどころなしに、かの 不入の間のことを話して、そこでよければお泊まりなさいと云った。 「よろしい。鬼も結構、化け物も面白い。どうぞ泊めてくれ。」と、かれらは平気で答えた。  この旅役者の座頭は関羽が得意で、到るところで関羽を売り物に旅廻りをしているのであった。 一行の役者たちは元気をつけるために酒を飲んで、みな好い心持ちになってかの不入の間へはいっ た。しかし化け物が出ると聞いては安々とは眠られないので、かれらは相談の上でこういう珍趣向 を凝らした。関羽を売り物にしている一座であるから、その衣装や小道具はみな持っている。そこ で座頭は顔を赤く塗って、長い髭をつけて、抱を着て靴をはいて舞台をそのままの関羽になりすま した。一座の和事師《わごとし》は顔を白く塗って、手には印を持って、関平の役になった。かたき役は顔を墨 で塗って大太刀を持って、周倉の役になった。  こうしていれば、大抵の鬼も化け物も恐れて近寄るまいというので、関羽は燈火の下で書を読ん でいる。関平と周倉とはその左右に控えている。すべて舞台の形をそのままで、この見得よろしく 居列んでいると、果たして夜の更け渡るころに、炉のうしろから一人の若い女の姿があらわれた。 女は色蒼ざめて髪をふりみだしている。それを一と目みると、座がしらの関羽はふるえ出した。そ れでも周倉に扮する役者は根が敵役《かたきやく》だけに体格も頑丈に出来ている。声も大きい。かれは一生懸命 に形をととのえて舞台以上の大きい声で畷鳴った。 「お前はなんの恨みがあって、関帝に訴えるのだ。」  女はうしろを見かえって、二度までも炉の方を指さした。 「よし、判った。あしたになれば屹とおまえの恨みを晴らしてやる。立ち去れ、立ち去れ。」と、 周倉はまた戯鳴った。  女は無言で三人を伏し拝んで、消えるように姿をかくした。 「首尾よく芝居を仕負うせた。それにしても、あの炉のうしろにはどんな秘密がひそんでいるのだ ろう。」  三人は安心してその夜は快く眠った。夜があけてから早速その炉のうしろを掘りかえしてみる と、ゆうべの女らしい一つの死骸を発見したので、宿の主人をよんで詮議すると、この家はある金 持ちの住居であったのを、今の主人が買い取って旅館にしたのであるが、以前の持ち主にはひとり の妾があって、それがいつか行くえ不明になったという噂であるから、おそらく其の死骸であろう と云うことになった。 「そういうわけですから、今夜もう一度出て来たらぱ、よくその仔細を聞きただしたらどうです。」 と、主人は云った。 「なるほど、それも面白かろう。」  三人は今夜もゆうべと同じこしらえで、かの女の再びあらわれるのを待ちかまえていると、戸の 外には主人をはじめ他の相客たちも身をひそめて、内の問答をうかがっていた。やがて夜がふける と、かの女は又あらわれた。 「これ、おまえに詮議することがある。」と、周倉は声をかけた。 「ええ、なにが詮議だ。」と、女はゆうベとは大違いの凄まじい権幕で彼等を罵った。「わたしはお 前をほんとうの関帝だと思ったから、恨みを訴えて出て来たのだ。この乞食役者の偽者め、貴様た ちに頼んだところで何が出来るものか。」  かれは眼を瞑《いか》らせて、ハッタと睨んだので、関羽はまず悲鳴をあげて倒れた。周倉も関平も気絶 した。女は燈火《ともしび》を吹き消して立ち去った。戸の外にかくれていた人々もおどろいて駈け込むと、こ の始末である。介抱されて、三人はようやく人心地が付いたが、もうとてもこの部屋に泊まる勇気 はないので、かれらは主人に泣き付いて、台所の隅に寝かして貰うことにした。  それから二、三日の後、この役者たちは近所のある芝居小屋で開演することになった。勿論、例- の関羽を出し物にしたのであるが、旅館の一件が早くも世間に知れ渡ったとみえて、一向に人気が ない。 「幽霊に逢って眼をまわすような関羽を観ても仕様がない。」  売り物の関羽にけちが付《ヤち》いて、この興行はさんざんの失敗に終わった。彼等はよくよく幽霊に崇 られたのである。日本ならば、はて怖ろしき執念じゃなあと云うべきところであろう。     わ 清の董潮《とうちよう》の演劇会の禍い 「東泉雑抄」のうちに、「銭塘洪太学」と題して、こういう事件を記録している。  康煕戊辰の年、銭塘の洪太学肪思昇が長生殿伝奇を作ると、それが名作として世間に喧伝せら れ、康煕帝の内覧に供することにまでなったので、北京の都ではその評判がいよいよ高まった。そ こで当代の名士たちがあつまって生公園に大会をひらき、名優をすぐって此の劇を上演させること になった。その主唱者は梁清標で、その廻状を発したのは趙執信である。当代の名士が会合して、 当代の名優に一代の名作を演じさせると云うのであるから、その評判がまた高くなった。作者の得 意思うべしである。  ところが、虞山の趙徴介という役人は北京に滞在中であるにも拘らず、名士と認められなかった とみえて、その廻状の通知に洩れた。かれは大いに憤って、なんとかして其の復讐をしてやろうと 待ち設けていると、恰もその演劇会が康煕帝の生母の命目に開かれたのである心祥月ではないが、 ともかくも命日に相当している。そこで、趙徴介は上奏した。かれらは皇太后の御忌辰をも揮ら ず、演劇会を催して遊び興ずるなど大不敬の所為、実に言語道断でござると云うのであった。康煕 帝は支那歴代中の明主で、文学芸術の保護者ではあったが、この上奏に動かされて、すぐに当夜の 参会者名簿を調査の上で、その五十余人の士籍を削ってしまった。士籍を削られると、官途に立つ ことが出来ないのである。有名の詩人査初白などもその罰を蒙った一人であった。そのなかでも廻 状を書いた趙執信が崇りをうけること最も甚だしく、それがために終身世に埋もれてしまった。か れが晩年の詩に、     あわれむべしいちやのちようせいでん  こうめいをだんそうしてはくとうにいたる     可憐一夜長生殿。断送功名到白頭。  一夜の劇のために、死ぬまで功名富貴の途を断ち切られては、まったく遣り切れないことであっ たろう。それでも彼は発企者の一人であるから、まだまだ致し方がないとも云えるが、さらに気の 毒なのは陳なにがしという人で、なにかの用で都に出て良郷というところに行っていたが、この会 合があると聞いて、昼夜兼行で引っ返して来ると、あたかも劇がもう終わって散会する時であった ので、えエ遅かりしと残念がりながら、自分の知己の誰れ彼れと挨拶しただけで帰った。それでも やはり参会者の一人にかぞえられて、他と同罪の処刑をうけたと云うことである。但し出演の名優 らはどういうことになったのか、それは何も書いてないので判らない。  これがほんとうの祥月命日であれば、公然の忌辰であるから誰も遠慮するが、単に命日というだ けであるので、つい心付かずにこの大会を催して、大会が更に大禍を醸《かも》してしまったのである。そ れも公然の問題とならなければ、康煕帝もあるいは黙過したかも知れなかったが、表向きに大不敬 の上奏となって現われたので、どうしても其の儘には捨て置かれなくなったのであろう。その本《もと》を ただせば、この演劇会で趙徴介という男を案内しなかった為である。こうなると案内の通知洩れも なかなか怖ろしい。めったに油断の出来ないことである。 か 老優と青年俳優  むかしの人間はすべて早熟であったと云ってしまえばそれ迄であるが、実際、劇方、曲のことだけ を回想しても、昔の俳優がすべて早熟早成であったらしいことは、今から思えば嘘のようである。 五代目菊五郎が「三人吉三」の十三郎を勤めたのは万延元年正月、かれが十七歳の春であった。例 の弁天小僧で大好評を博したのは文久二年、かれが十九歳の春であった。現今の俳優で、十七歳に して十三郎をつとめ、十九歳にして弁天小僧を勤め得る者はおそらくあるまい。かりに勤め得たと しても、それはいわゆる子供芝居になりはしないかと危ぶまれる。  五代目菊五郎は一種の天才であるとしても、まだ其の他には田之助もある。文久二年八月、かの 「村井長庵」の書きおろし当時、小夜衣《さよぎぬ》をつとめた坂東三津五郎、千太郎を勤めた中村福助、いず れも十七歳の子供揚がりでありながら、日本堤道行の場のごときは大好評で、その常磐津浄瑠璃は '今もひろく行なわれている。殊に長庵の宅へ押し掛けて来る千太郎は上出来で、その相手をつとめ る長庵の小団次も激賞したと伝えられている。こういう例はほかにもたくさんあって、江戸時代の 役割をみると、大体に於いて若い俳優が主要の役をつとめ、老巧の俳優はその後見を勤めていると いう形で、歌舞伎の舞台は若い俳優の世界であった。  それが明治以後には一変した。勿論それには団十郎とか菊五郎とか左団次とか伸蔵とかいう名優 らが劇壇を占領して、他の若い俳優らは実力に於いても到底それを凌ぐことが出来なかったという 事情に原因するのであるが、その習慣はいつまでも継続して、歌舞伎の舞台は老巧の俳優の世界と なってしまった。それが善いか悪いかは考うべきことである。  それに対しては、二様の意見がある。  江戸時代とても若い俳優ばかりでは芝居が出来ない。相当の年配で、相当の貫目のある中年また は老年の俳優も必要であること勿論である。そこで、若手俳優らを専ら活動させ、その急所急所を 老巧の俳優が押さえてゆく。それが芝居を面白く見せる所以《ゆえん》である。四代目小団次あたりからそれ が頽れはじめて、さらに団十郎菊五郎に至って全く頽れてしまった。それがために舞台がおのずと 一定の型に嵌って、芝居はだんだんに活気のない、面白くないものになった。ーこれは若手俳優 韻演の説である。  又、むかしとても若い俳優が必ずしも上手であったと云うのではない。江戸時代には俳優の贔演 というものがたくさんあった。その贔眞連は自分の最眞による俳優が好い役を勤めてさえいれば、 その巧拙を論ぜずに誕《よだれ》を流しているのである。殊に人気のある若手俳優に好い役をあたえて置きさ えすれば、それで観客は満足していたのである。その結果、劇場側では興行政策として、若手俳優 を先陣に立たせ、人気の比較的に薄い老巧の俳優を後備《あとぞな》えに置くという陣立てをしたに過ぎない。 それが明治以後には時世が変わって、単に若手であるとか人気があるとか云うだけでは持ち切れな くなった。実力本位でなければ、観客が承知しなくなった。そこに自然に団十郎や菊五郎がいつま でも舞台の上を占領して、実力の足らない若手俳優はその後塵を拝するという結果になったのであ って、昔に比較すれば観客の鑑賞眼が進歩したとも云える。むかしの俳優をむやみに褒める者は、 いわゆる「古《いにしえ》を栄し、今を慶す」の筆法で、決して当てにはならない。小団次が褒めたの、誰が 褒めたのといっても、それは商売人同士のあいだに行なわれる一種のお世辞でないとも限らない。 1これは老優崇拝者の説である。  こうなると、どちらが正当か、私たちには判断が付きかねることにもなる。しかし公平に見たと ころで、老優には老優の長所がある。若手俳優には若手俳優の長所がある。それは争うべからざる 事実であるから、大体に於いては現在の通りの中年又は老年俳優本位でもよいから、少なくも一幕 ぐらいは若手俳優本位の出し物をして、中年または老年の俳優がそれに附き合うと云うことにした い。前にも云う通り、それが或いは一種の子供芝居になるかも知れないが、又それに因って若手俳 優の長所を十分に発揮することが出来ないとは限らない。子供芝居の短所は、いかなる老人も老女 もすべて子供が勤めると云うところにあるから、それはいけない。若手俳優は自分に相当する若い 役だけを受け取って、他は老巧の俳優らの助力を頼むことにして、毎回興行に一幕以上の新作を上 演させ、若手俳優に思うさま暴れさせて見たらばどうであろうか。勿論、時に成功もあり、失敗も あろうが、それに因って行き詰まっている歌舞伎劇に新しい針路を見いだし得ないとも云えない。  若手俳優ばかりを新人として尊敬するのもいけない。さりとて老優ばかりを神様として崇拝する のもいけない。両者の長を採って、思い思いにその長所を示すことになれば、現在の芝居でもモッ と面白く見せ得ると思う。                   (昭和二.五.演劇新潮)      よ かたき討の芝居  復讐は人間の本能であるから、遠い昔から存在したに相違ない。それに就いては他の専門家の研 究が発表されているから、私は単に目本の芝居に於ける「かたき討」について少しく述ベることに する。  改めて註するまでもないが、普通に用いられる「かたき討」という言葉は、ひろい意味における 復讐ではない。君父兄弟、あるいは親類縁者の仇を報いるために、その相手を殺す場合に限られて いるのである。江戸時代に流行した「かたき討」の芝居や小説や講談のたぐいも、皆この限られた る復讐の範囲を出でない。したがって、千篇一律の単調になるのもまた巳むを得ないのである。  能楽にも「小袖曾我」「夜討曾我」「望月」のたぐいが仇討物として一般に知られている。殊に 「望月」の如きは頗る劇的に出来ていて、芝居の方面にも種々の影響をあたえているように思われ る。この「望月」は明治以後に劇化されて、新富座で上演されている。西鶴その他の小説にも仇討 物があり、また実際にも仇討事件が諸国に行なわれたのであるから、劇の方面にも仇討物を脚色す るのは当然で、江戸時代に上演された仇討狂言はおびただしい数字にのぽっている。芝居道には 「曾我物」という通言《つうげん》さえあって、毎年正月には必ず曾我兄弟に縁のある狂言を上演するのを例と していた位である。  江戸の三座は十一月の顔見世狂言、一月の初春狂言、三月の彌生狂言、五月のさつき狂言、七月 の盆狂言、九月の秋狂言、この六回を以て一年の興行を終わるのを例としていた。その中で、初春狂 言に曾我物をえらむのは前述の通りである。そのほかに、いつの頃から始まったのか知らないが、 皐月狂言には仇討物を上演することになっていた。それは五月が曾我兄弟仇討の当月であるが為か と思われる。  そんなわけで、一年六回興行の中で二回は仇討物を上演するを例とし、特に例外が無いでもなか ったが、原則としては此の慣例を守っていたのであるから、仇討狂言がしばしば繰り返されたのも 怪しむに足らないことで、渥美清太郎氏の説によると、江戸時代に生まれた歌舞伎狂言の三分の一 は仇討物であるという。  劇場側では勿論なにかの意味があって仇討物を繰り返したのではなく、それが一般観客に喜ばれ たが為に過ぎない。江戸時代の士人は芝居小屋などに足を入れないのが普通で、劇場の観客は、 農、工、商の三階級に限られ、殊に商人と職人が多数を占めていたのは周知の事実である。それに も拘らず、仇討物が一般に歓迎されたのを見ると、仇討礼讃は我が国民性というべきであろう。芝 居や講談の仇討物で代表的と認められるものは曾我兄弟の仇討、赤穂浪士の仇討、伊賀越の仇討 で、なかんずく、曾我と赤穂浪士の一件を脚色したものは数百種にのぼると云われている。  曾我は芝居道で吉例と称する「曾我の対面」以外に、代表的の狂言はない。しかも年々歳々の初 春狂言に上演するのであるから、単に五郎とか、十郎とか、朝比奈とか云う名を仮りただけで、そ の内容は史実に頓着なく、勝手次第に脚色されたのが多く、歌舞伎十八番の「助六」すらも、助六 実は曾我五郎と云うたぐいであるから、他も推して知るべしで、大磯の虎が八百屋お七を兼ねると いう始末。観客もまた曾我に縁のある人物が登場して、かたき討の一件を背景にして動いていれ ば、舞台の上では如何なる狂言を演じていても容めないという風であった。甚だしきは曾我に何の 縁もない狂言を上演して、その外題だけに「何々曾我」と冠らせたのもある。要するに、その内容 の如何を問わず、なんでも「曾我」と云えば観客も納得し、今度の春狂言には「曾我」を上演する と聞けば、それだけで春らしい気分を感じたのである。  曾我と違って、赤穂の仇討には「仮名手本忠臣蔵」という代表的の狂言がある。「忠臣蔵」は竹 田出雲、三好松洛、並木千柳の合作で、寛延元年八月、大坂の竹本座のあやつり芝居に上演された ものであるが、大好評を博して十一月まで興行した。それが間もなく三都で劇化されると、いわゆ る「脚なくして天下を走る」という勢いで、全国の津々浦々にまで行き渡り、四、五十年の後には 殆んど「忠臣蔵」の名を知らざる者なく、略して「くら」と云《ちち》っても直ぐに判るほどになったばか りか、これを上演すれば必ず成功するというので、芝居道の独参湯《どくじんとうハエ》と呼《 》ばれるようになった。これ に次いで近松半二作の「太平記忠臣講釈」がある。  右の如くに「忠臣蔵」を第一とし、「忠臣講釈」を第二として、その他に赤穂一件を脚色したも のは、義太夫にも歌舞伎にもたくさんある。これも前に挙げた「曾我」と同様、しばしば繰り返す うちには材料も尽きてしまって、殆んど史実には関係なく、単にその人名を仮りただけで、全く作 者の空想に出でたものが多くなった。かの「明烏」の浦里と時次郎も赤穂一件に関係があり、かの 「四谷怪談」のお岩や田宮伊右衛門も赤穂一件に関係があるように作られてあるのは、観客に馴染 の深い「忠臣蔵」に縁のあるように企てられたに過ぎない。  次は伊賀越の仇討で、その代表的の物は近松半二作の「伊賀越道中双六」である。これは半二の 絶筆で、天明三年四月、やはり大坂の竹本座のあやつり芝居に上演されたものであるが、その九月 には直ぐに大坂の中座で歌舞伎化され、かの「忠臣蔵」と同様に忽ち三都に拡められた。仇討物語 としては、荒木又右衛門、沢井又五郎の名は甚だ有名であるが、劇としては曾我や忠臣蔵に遠く及 ばず、この一件を脚色した狂言の種類も多くない。  以上の三者のほかに、仇討狂言として有名なものは「天下茶屋」「亀山の仇討」「崇禅寺馬場」 「田宮坊太郎」「合邦辻」「鶯塚」「艦襖錦《つづれのにしき》」のたぐいで、女の仇討でよく知られているのは「加賀見 山」のお初、「白石噺」の宮城野|信夫《しのぶ》などであろう。殊に寛政以後、小説界にも劇界にも仇討物が 多くなったのは注意すべき傾向で、怪談物の流行と共に、時代がようやく頽廃期に入ったのを語る ものである。  小説に演劇に仇討物を愛好するのは、わが国民性であることは前に述べたが、その以外に強い刺 戟を追求する傾向が著しく現われて来たのは寛政以降のことで、文化文政に至って、いよいよ甚だ しく、惹いて江戸末期に及んだのである。怪談物と仇討物と、その本質は異なったものでありなが ら、それが車の両輪の如くに併立の流行を来たしたのは、強烈の刺戟を求むる点において一致して いるからである。怪奇と残酷と、それでなければ小説の読者と演劇の観客を満足させることが出来 なくなったのである。怪談物は姑《しぱら》く云わず、仇討物も在来とは次第にその形を変えて来たのを見逃 すことは出来ない。  仇討物を好むのは忠孝の精神の発露と認むべきであるが、忠孝以外に残酷を好むようになったの は、確かに頽廃的である。在来の仇討狂言には差したる残酷の場面はない。しかも、寛政以降の仇 討物には「返り討」ということが多くなった。前に挙げた「天下茶屋」「亀山」「崇禅寺馬場」その 他、いずれも「返り討」を以て有名となっているのである。  「返り討」は云うまでもなく、仇を狙う者が却って仇の為に討たれるのである。その事が巳《すで》に不 愉快であるのに、返り討は決してあっさり片付けられる事なく、仇の本人が多勢を侍み、或いは相 手の病弱に乗じて、極めて残酷の手段を以て相手を虐殺するのである。したがって、なぶり殺しの 血みどろな場面がしばしば展開される。今日では「返り討」の場が上演されるとしても、極めてあ っさりと演じ去るのであるが、故老の談によると昔の「返り討」の場は、これでもかこれでもかと 云うように、あらゆる残虐の手段を尽くし、文字通りに「眼を掩う」の惨状を演出したという。こ うなると、忠孝も節義も問題でない。観客は唯その凄惨の情景に魅せられて、病的の快感に酔えば よいのである。その目的に合致するために仇討物とは云いながら、最後の仇討は甚だ簡単に片付け られてしまって、その間の「返り討」に主力をそそぐようになる。つまり、返り討を見せ場として 一日の狂言を組み立てることになってしまったのである。悪人が暴力を揮って大いに威張る、善人 が血みどろになって踏みにじられる。そういう筋の芝居でなければ、仇討狂言も一般観客に歓迎さ れないようになったのは、一種の変態であると云ってよかろう。  「返り討」の残酷だけでは、まだ満足されないと見た場合には、更に又、甚だしい恋愛の濡れ場 を加える。猶その上に、殺された者の幽霊が現われると云うような凄い場面を加える。残酷、卑狸、 怪奇、これらの責め道具を取り揃えて、観客に満足を迫るのである。こうした責め道具は必ずしも 仇討物には限らないのであるが、仇討物の形式を仮りるのが比較的に便利であるのと、仇討物とい うことが一般の人気を呼ぶにも都合が好いので、劇場側では好んで仇討物にこの手段を用い、観客 もまたそれを喜んだのである。この傾向はまず大坂の小芝居に始まって大芝居に移り、さらに江戸. に移ったのであると云い伝えられているが、その起源の前後はともあれ、江戸でも大いに流行した のである。  江戸時代の作者、たとえば鶴屋南北、桜田治助、河竹新七らの脚本をみれば、その傾向がありあ りと看取される。今目出版されている江戸時代の脚本類は、発売禁止を恐れて相当の改訂を加えて あるから、それ程にひどいとは思われないのであるが、その原作を見たら大変、残酷と云おうか、 卑狼と云おうか、よくもこんな物が舞台の上に実演されたと驚嘆するようなのが往々ある。仇討物 を武士道と結び付けて考えたりすると、案外の間違いが出来ないとは限らない。  勿論、最初は武士道の影響を受け、わが国民固有の忠孝節義の精神から仇討物を歓迎したに相違 ないが、中頃から変じて右の始末となってしまった。実際に於いては、江戸末期まで仇討は絶えな かった。世間でもそれを讃美した。したがって、かたき討の芝居を演ずることは人気を呼ぶ一つの 興行法であったが、その内容は著しく変わっていた。たとい其の題目は仇討であっても、忠孝節義 の一点張りでは観客が承知しない時代となったのである。こうした傾向は伝統的に江戸末期まで継 続したが、明治以後はさすがに面目を改めなければならなくなった。文明開化の世間も承知せず、 第一に当局者が許可しないことになったから、狂言の形式もおのずから変わって来た。  個人の仇討は禁止された。世間も仇討を否認するようになった。その結果、明治以後には仇討狂 言の新作が少なくなった。稀れに新作が出るとしても、大体の筋は実録に拠ったもので、残酷や怪 奇を見せ場とするものは殆んど跡を絶った。江戸時代の仇討狂言が再演される場合でも、適当にカ ットされ、アーレンジされて、昔の色も匂いも甚だ稀薄なものになってしまった。五月狂言に仇討 物を上演するという慣例も疾《と》うの昔に忘れられた。  唯その中で、代表的というべき曾我の仇討、赤穂浪士の仇討、伊賀越の仇討、これだけは今も廃 れない。この三者は江戸時代でも血みどろの「返り討」などを仕組んだものは無い。事実が余りに 明白で、曾我十郎を返り討にしたり、大石|主税《ちから》を返り討にしたりする事を許されなかった為でもあ ろう。しかし「忠臣蔵」の傍系の物には、四十七浪士以外の人物が活躍して、残酷や卑狼を見せ場 としているものが無いではない。勿論そんな物は今廃れた。今日これらの代表的仇討狂言を鑑賞す るのは、江戸末期の頽廃気分を清算して、さらに最初の本道に復したものとも云い得る。その行為 を論ぜず、その精神を味わうならば、曾我も赤穂も伊賀越も仇討狂言として舞台の上に生命を保っ であろう。 今日、一部の観客に歓迎される「剣劇」というものがある。これは江戸時代の仇討狂言の系統を 引いたようなもので、単に闘いを主眼とした殺伐な劇である。それが非芸術な物であるのは云うま でもなく、しょせん永続すべきものでもあるまい。          (昭和一一.歴史公論)      た 夏狂言  人形芝居の方でいわゆる「夏狂言」らしい浄瑠璃を上演したのは、かの「夏祭|浪花鑑《なにわかがみ》」に始まる のは誰も知っている事実である。この浄瑠璃は延享二年七月十六日が初日で、残暑のきびしい時節 であるところから考えて、人形の衣裳に帷子《かたびら》を用いた。その上に人形つかい吉田文三郎の工夫で、 かの長町裏で団七九郎兵衛と義平次との立ち廻りに、泥仕合いということを思い付いて、人形の衣 裳に本水をかけ、あまつさえ本当の泥を塗って見せた。それが非常の大当たりを取ったので、歌舞 伎の方でもむかしから其の型を踏襲することになっている。今日でも歌舞伎の世界で夏狂言といえ ば、まず第一にこの「夏祭」に指を折らなければなるまい。舅殺しが不倫であるとか、泥仕合いが 残酷であるとかいうので、二、三年前にその上演を差し止められたとか聞いたが、それも免《ゆ》りたら しい。この浄瑠璃は竹田小出雲、三好松洛、並木千柳らの合作で、作の上から見れば、取立てて云 うほどの佳作でもないが、夏狂言の元祖という意味と、一般の見物に眼馴れているという点とで、 この狂言はまず当分はその寿命を保つことが出来そうに思われる。  その次は並木五瓶作の「伊勢音頭|恋寝刃《こいのねたば》」で、福|岡貢《みつぎ》の帷子《かたびら》姿は今更くだくだしく説明するまで もあるまい。それに次いでは黙阿弥の「縮屋新助」であろう。勿論、そのほかにも夏場を当て込ん で、涼しそうな世界を取り入れた狂言も少なくないが、多くはその時限りで、その後もしばしば繰 り返されるという程の当たり作は少ない。明治になってから、かの円朝の続き話の「牡丹燈籠」が 一つ殖えた。  丁寧に一々|穿索《せんさく》すれば、浴衣を着たり、本雨を使ったりするような狂言は、近年いよいよ其の数 を増したらしいが、何と云ってもかの「夏祭」と「伊勢音頭」とが最も代表的の夏狂言で、それに やや次ぐのは「縮屋新助」と「牡丹燈籠」とであろう。しかも、どの狂言もあまり優れた作ではな い。それらがたびたび繰り返されるのは作の優れている為ではなく、夏狂言の種類が少ない為であ るらしい。  夏狂言に優れた作の少ない第一の原因は、江戸時代に於いて夏狂言というものが殆んど不要であ った結果にほかならない。江戸時代に於ける芝居道の一年は、十一月の顔見世興行を振り出しとし て、正月の春興行、三月の彌生興行、五月の皐月興行、九月の秋興行、以上の五回を普通として夏 場はすべて休場であった。勿論、俗に「夜芝居」と称して、暑中にも午後から開場する場合もない ではなかったが、それには主なる俳優らは出勤せず、単に中通りの俳優ばかりが出勤する値安興行 であるから、芝居の方でも見物の方でも余り重きを置いていなかった。  こういう事情であるから、芝居の方ではいわゆる「夏狂言」の必要を多く認めなかった。旧暦の 五月と云えば可なりに暑かったかも知れないが、それでも帷子を着る時節でないと決められていた 位であるから、しいて夏向きの狂言を択み出す必要はなかったらしい。すでに必要がないとすれ ば、誰も好んで書く者はない。書いても採用されない。夏狂言の種類の少ないのは当然の結果であ った。  もう一つには、時代物が重んじられた結果である。近松の時代には、浄瑠璃も時代物が専ら重ん じられ、世話浄瑠璃は一種の際物《きわもの》あつかいされていた。作者もやはり其の心で、どの人も時代物の 方にその全力をそそいでいた。今目でこそ近松は世話浄瑠璃の名作者として諸人に尊敬せられてい るが、その存在の当時においては却って時代物の名作者として尊敬せられていたのであった。それ は其の当時に於いて彼の三傑作と唱えられたものが、すべて時代物であるのを見ても容易に首肯さ れるであろう。この因習が歌舞伎の方にもやはり附きまとって来て、南北や五瓶の江戸狂言がひろ く行なわれるようになっても、時代物を尊む癖はなかなか取り除けられなかった。その以後、作者 には黙阿弥があらわれ、俳優には小団次が出て、写実の世話狂言がいよいよ流行す呑ようになって も、まだまだ其の因習は去らなかったらしい。  江戸末期に於いて黙阿弥と対立していた瀬川如皐は、かの「切られ与三郎」や「うはばみお由」 も書いているが、大体に於いては時代物を得意としていて、瀬川は一番目作者、河竹は二番目作者 と称されていた。そうして、故老の話によると、明治以後は格別、その以前に於いては如皐の方が 黙阿弥よりも一枚上に認められていたと云うことである。それも畢党は時代物を重んずる結果にほ かならないので、その因習は現在に於いても芝居師の頭を力強く押さえているらしい。  こうした因習が善いか悪いかは姑く措いて、ともかくも時代物を重んずる気風が今日よりも更に 大きく強かった江戸時代に於いて、どの作者も時代物に趨《おもむ》くのは自然の勢いで、時代物にはII殊 にその時代の時代物には、季節の関係などは余り重要視されていなかったばかりでなく、単に服装 の上から云っても、時代物の狂言に浴衣や帷子は不必要でもあり、不釣合いでもあるので、大抵は 厚綿のぼたぼたしたものを着る。それらの関係から時代物の中で夏狂言らしいものを見いだすのは 極めて困難なことであって、夏狂言らしいものはどうしても世話物の中から見付け出すよりほかは ない。しかも、その時代物の方が重んじられたと云うことになると、夏らしい狂言の少ないのも無 理はない。  夏場は休みであるのと、時代物が重んじられたのと、この二つの原因から夏狂言の優れたものが 自然に乏しくなったのは、前に述べた通りである。明治以後になっても、八月の暑中には殆んど開 演しなかったもので、七月の盆興行すらも小劇場はともあれ、大劇場はあまり好成績を挙げなかっ たようである。その結果、明治以後になっても夏狂言の思わしいものは現われなかった。盆興行と いえば、まず藪入り小僧を相手という頭があるから、たとい新作が出るとしても、狂言作者の方で も余りに力を入れなかったらしい。  また一つの大きい原因は、芝居師の方から云えば、夏狂言などと云うものは無くても済むからで ある。寒中に浴衣や帷子を着る芝居を興行することは出来ないが、暑中に厚綿を着ても鎧を着ても 一向に差支えない。土用のうちに「先代萩」を上演しても「千本桜」を上演しても、興行の上に何 の不便も影響もないのであるから、紋切り型の「夏祭」か「伊勢音頭」以外に、強いて夏らしい狂 言を見付け出す必要を認めない。舞台の俳優は暑がっていても、興行師や見物人はさのみ暑いとも 感じていないのである。これも夏狂言の少ない原因で、今後とても同じ事情をくり返すのではある まいか。  以前と違って、近年は七月でも八月でも休みなしに開場することが流行り出して、その成績も悪 くないように聞いている。したがって「夏狂言の研究」などと云う課題を私の方へも廻されたので あろうが、前にも云う通りの次第で、私は夏狂言なるものに就いて余り多く語るべき材料をもって いない。一体、わたしの考えでは、舞台に白地の浴衣を着た人物が出て来れば、それで見物が涼し げに感じるであろうか。水道の水を滝に落として見せれば、見物の汗は収まるであろうか。大夜具 を着て火鉢をかかえたような人物があらわれても、その狂言が面白ければ見物は暑さを忘れる。裸 体で氷を背負ったような奴が出て来ても、その狂言が面白くなければ見物はゆだってしまう。要す るにその狂言の善悪如何に因るので、夏の興行だからと云って、特に夏らしい狂言を択《えら》む必要はな いらしく思われる。勿論、それが夏らしくて、しかも面白い狂言があれば、それに越したことはな いが、さもなければ無理に夏らしいものを穿索するにも及ぶまいと思う。雨が降ったり、滝が落ち たりするだけで、見物は決して涼しくなるものではない。      (大正九.七.演芸画報)  れ 怪談劇と探偵劇 江戸時代の怪談劇は、大抵六、七、八の三月《みつき》のあいだを択んで上場されたようである。 つまり夏一 狂言とか盆替りとか云う場合に、怪談物を選択したらしい。暑い時節に怪談をみせて、夏なお寒き を覚えしめるという趣向かも知れない。 勿論、怪談の狂言に時代物もあるが、怪談として凄味の多いのは世話物である。その意味から云 って、世話物は舞台の装置も人物の扮装もアッサリしていて暑苦しくない。それがまず第.に夏向 きである。第二には、暑中の観客はとかくに茄《うだ》り易い。その茄り気分を強く刺戟するには怪談など がお読え向きである。それらの事情から、自然に怪談が択《えら》まれる事になったのであろうと思われる。  南北は怪談作者のように云われ、私もそう思っていたのであるが、かの大南北全集を通読する と、真の怪談劇と認むべきものは甚だ少ない。例の「四谷怪談」でお岩と小平を見せ、「彩入御伽 草《いろえいりおとぎぞうし》」で小平次と皿屋敷を見せ、「成田利剣」で累を見せているくらいで、他は真の怪談劇と云うベ き物では無いようである。黙阿弥にも「小幡小平次」以外には、怪談劇らしい物は無い。明治にな ってから「箱根鹿笛」を書いているが、これはむしろ怪談否定劇である。  明治以後に出来た怪談劇では、円朝の話を脚色した「怪異談牡丹燈籠」が最も知られている。そ れから、同じ円朝物の「真景累ケ淵」が近来有名になった。しかし大体に於いて怪談劇に余り面白 いものは少ない。その大関とも云うべき「四谷怪談」とても、昔は知らず、今日の観客はむしろ伊 右衛門や直助権兵衛の方に多分の興味を感じて、肝腎のお岩さまの方は二の次にされている傾きが ある。  小山内薫氏が曾て云われた通り、怪談は所詮「怪談」で、ストーリーの領分に属するものらし い。劇として怪談の凄味を見せようとするのは、昔でもなかなかむずかしく、殊に現代の舞台の上 では猶更むずかしそうである。いかに照明などを巧みに利用しても、あまり良い効果を得られそう もない。私も何か新しい怪談劇を書いてみたいと心がけているが、どうも巧く行かない。その小手 調べとして、去年の夏は本郷座に「牡丹燈記」を上演し、今年の春は歌舞伎座に「雷火」を上演し てみたが、どちらも舞台の上ではやはり成功しなかった。  在来の怪談劇の狙い所は、事件そのものの怪奇と云うことよりも、早替りとか仕掛け物とかいう 一種のケレンにあったらしい。俳優もそれを得意とし、観客も亦それを喜んだらしいが、そう云う ケレンが最早喜ばれないとすると、今後の怪談劇はよほどむずかしい事になる。鈴木泉三郎君の 「生きている小平次」などは、近時発表された怪談劇の尤《ゆう》なるものであるが、最後に小平次の姿を 見せた方が好いか悪いかは種々の議論のある処で、その合理不合理とを別問題として、私は今も猶 どちらが好いかの判断に迷っている。  いずれにしても、在来の怪談劇が現代の舞台の上からだんだんに消えてゆくのは判り切ってい る。そうして、それに代るべき新しい怪談劇が出現するかどうかと云うに、いかに文明が進歩して も、怪を好む人情の消え去らない以上、なんらかの形式に於いて怪談劇は依然繰り返されることで あろう。しかも優れたる怪談劇は容易に出現しないであろう。  前にも云う通り、在来の怪談劇は早替りとか仕掛けとか云うことを主としている。それは勿論俳 優本位から考え出されたものであるが、一般の観客も亦、幽霊その物の姿を見なければ得心しなか ったらしい。演劇にかぎらず、在来の小説などに描かれている幽霊も、大抵はその姿をありありと 現わしているようであるが、小説は格別、今後の舞台の上に幽霊の姿をあらわす事はむずかしい。 それが怪談劇であれば、猶更その姿を明らさまに見せることを避けて、一種の鬼気とか妖気とか云 うものだけを感じさせた方が、観客の恐怖心を誘い出す上に於いて有効であるらしい。  これは演劇ばかりでなく、怪談全般に就いて云うべきことであるが、わが国在来の怪談はあまり に辻棲が合い過ぎる。たとえば甲が乙を殺したが為に、甲又は甲の春族が乙の幽霊に悩まされると 云ったような類で、勿論それには因果応報の理も示されているのであろうが、余りにその因果の関 係が明瞭であるために、却って凄味を削減される憾みがある。しょせん怪談というものは理窟の判 らないところに凄味もあり、興味もあるのではあるまいか。と云って、その理窟のわからない怪談 を、舞台の上で凄く見せることは一層の難題であるに相違ない。今の流行詞《はやりことば》でいえば怪談劇はトテモむずかしい。                           (昭和三.七.演芸画報)       *  近頃だいぶ世間では探偵小説が流行して来たので、劇界にも探偵劇が一つのセンセイションを起 こしはしまいかと云う御質問だが、わたしは芝居としての探偵物は仇討物や怪談物と違って、詰ま らないものであると思っている。まずその詰まらない理由としては、最初に事件の真相を、つまり 一番面白い場面を観客に見せてしまわなければならないので、観客の方が一と足ずつお先きに劇の 進行を感付いているから、結局「なあんだ」ということになる。  また仮りに舞台に犯人の嫌疑者が二人現われて、一方が羽左衛門で、ほかの嫌疑者が下廻りの役 者であるとすると、いくら芝居の方がうまく書けていて、プログラムヘも筋書へもその内容に関す ることを何一つ書かずに置いても、探偵物で犯人と云えば主要な人物であるから、その主要な人物 を下廻りの役者がやる気遣いがないと云うことになって、「ははあ、羽左衛門の役の方が本当の犯 人だな」と、観客の頭に直覚的に感じられて、結局作者の苦心にそれだけの効果が生じて来ない。  例えば大岡政談の芝居なども一種の探偵劇であるが、これなども初めから種が割れているから、 探偵物としての興味はない。天一坊にしろ、誰だって天一坊が将軍のほんとうの子だとも思わなけ れば、まんまと成功するとも考えない。従って大岡越前守が失敗して腹を切るだろうと思ってハラ ハラするような感じも起こらない。天一坊ばかりでなく、村井長庵にしろ、観客の方で長庵が善人 だとは最初から思っていないから、ほかにいくら嫌疑者が出て縛られても観客の方で「ああ、あれ は無罪だ」と感づいてしまうので、いわゆる探偵劇としての興味はなくなって来る。ただ大岡越前 守が如何に苦心をするかと云うことに興味を感じるだけであって、今日の探偵小説のように事件の 真相が分からないところに興味を感ずるのとは、おのずから意味が違う。  単にこうした単純な興味だけで観客を惹きつけると云うのなら、在来の竹本劇にもそうした興味 は多い。大抵は善人であると思っていた人物が悪人であったとか、悪人だと思われていた人問が最 後になって善人であったと云うような筋である。  であるから、探偵劇としての興味よりも、肝腎の筋以外の人情味と云うような処に興味を求める のなら別であるが、探偵的興味を主眼にしようとするのは労して功なしだと思う。映画ならば小説 の持つ探偵的興味を十分発揮させられるが、芝居となると、たといレビューの筆法を用いても、ま ず幾分探偵物らしい気分が傍系的に漂っていると云う以外、映画や小説ほどの効果は得られない。  尤も、前に云ったように舞台に二人の嫌疑者を出して、観客にはあくまで羽左衛門の役の人物を 真犯人であると見込ませておいて、最後に実は下廻りの役の人物が真犯人であったと云うような、 パラドックス式の書き方をすれば、まだ一時的には探偵劇としての興味を喚起させる事も出来るで あろうが、それとても一度限りで、二度もその筆法を繰り返すわけには行かないし、芸術的価値か ら云っても、単に観客を担ぐために仕組んだ苦肉の策であって、劇としての存在価値のない、全く の際物《きわもの》的なものである。  以上のような理由で、どうも私には探偵劇は芝居として詰まらないもの、従って仇討や怪談ほど に流行するものではないと思う。  西洋でも、探偵劇と云うと、劇そのものよりも、その劇の原作の有名さに依って観客の興味を惹 いていると云った物が多くて、実際の芝居としては詰まらないもののように考えられる。  こう云うと、自分で探偵劇を書いておきながらと云われるかも知れないが、実のところ、こう云 う私も、もう探偵劇を書こうという興味はない。          (昭和四.七.演芸画報)      そ 所謂ケレンに就いて  今日では映画と云うものが実に巧みにトリックを使うので、演劇の方の所謂《いわゆる》ケレンなるものは全 く影が薄くなってしまった。  それに大体ケレンとかトリックとか云うようなものが主に超自然的な、いわゆる怪談物とかロマ ンティックな芝居に応用されるものであるから、今日の時代ではいくらケレンを使って名優がお化 けの秘術を尽くしてせいぜい怖がらせるつもりでも、肝腎の見物の唯物論的の頭がこの世の中には お化けなんかいないと信じているのだから、お化けの方で秘術を尽くせば尽くすほど可笑《おか》しくもあ り、馬鹿々々しくもなって来て、結局は折角感激して観ていた芝居がお化けが出た為に台無しにな ってしまう。従って勢いお化けの方でも遠慮して舞台へは出なくなり、また出るにしても複雑なケ レンを応用する程でない単なる幻影ぐらいで、あくどいお化けは現われなくなるので、ケレンも亦 お化けに殉じて来る訳であろう。  そこへ行くとさすがに梅幸が、お岩の見せ場は「髪流きです」と云って、お化けになってからケ レンで見せる場面を第二義的に考えているのは慧眼である。実際、現代の人たちの眼にはお岩があ の小さな提灯の中から出たりするその技巧には感心するが、そうかと云って梅幸が提灯から抜け出 る事を以て、梅幸の芸の本領だと感心する人は一人もあるまい。また、梅幸にしても、ケレンのた めに自分のお岩が凄くなるのでは、決して俳優として名誉ある訳ではない。従って技巧-強いて 云えばケレンに感心してしまって、お化けその物に感心しないとなると、ケレンのための芝居であ って、芝居のためのケレンでなくなると云うデレンマを生じて、結局演劇そのものから云えば邪道 に陥って来る訳である。  ところが、南北などは却ってこの邪道に目を付けて、それに依って客を呼んでいたものである。 従って、ある芝居になるとケレンの方が主で、演劇の筋は従になっている感がないでもない。  尤も、ケレンと云うと昔から大抵夏のものであるが、実際いくら昔の人だって、暑いのに朝から 夕方までじっと固苦しい桝の中に小さくなっているのであるから、ただの芝居ばかり見せられては |茄《ゆだ》ってしまうので、勢いアッと云わせて見物の心胆を寒からしむるようなケレン本位の場面を出し て、一種のアドソール法をやった訳であろうし、見物の方でもそうした軽業《かるわざ》式の物を好んだに相違 ない。であるから、作者は如何にしたならば見物をアッと云わせ得るかという事を先ず頭に置いて 脚本を書くから、勢い筋そのものが従になってしまうのである。  そうは云うものの、仮りに演劇論から離れて単にケレンそのものを独立させて考えて見ると、電 気やいろいろの文明の機械のない時代に、提灯抜けとか戸板返しのような事を編み出した南北は確 かに天才であったに違いない。その他、今でこそ珍しくもないが「廻り舞台」や「せり出し」など も工夫された当時は一種のケレンとして、確かに見物の度胆《どぎも》を抜いたに相違ないが、その発明者の 並木正三などもまた天才である。特に「廻り舞台」に至っては百何十年後に、初めてラインハルト がドイツ劇場に模倣した事を考えると、いよいよ並木という人の偉さが解るような気がする。  私は前に電気や文明の機械が無い時代にと云ったが、又、一面から考えて見ると、そうした便利 な機械が無かったればこそ、あれだけの発明が出来たのかも知れない。と云うのが、電気や機械の 黄金時代の今日の舞台の上に、南北や正三などの工夫した物以外にどんな発明があるであろうかと 云う事を考えて見れば、結局金持ちの息子にあまり偉い人間が出ないのと同じ理窟で、文化の程度 の低かった昔、つまり貧乏暮らしの時代なればこそ、ああした人物も出、工夫も出来たとも云える であろう。どうも金持ちの息子に育ったわれわれはまことに申し訳のない次第である。  そこへ行くと外国人は偉い。ラインハルトの「廻り舞台」にしろ、べルリンの国立劇場の「引き 舞台」にしろ、ドレスデンの国立劇場の「せり出し舞台」にしろ、その他いろいろと舞台上の新工 夫がある。これは一つには外国ではこうした舞台の新工夫を真面目に舞台監督自身が考えるがー 例えばラインハルトの廻り舞台、ブラームの引き舞台の如ぐ1日本では昔こそ作者自身がそうい う事にまで頭を絞ったが、却って文化の盛んな今日では、舞台監督や作者は全然そうした方面に新 機軸を出そうとはしないで、大道具に一任してしまう悪い傾向があるからではあるまいか。  ケレンの仕掛けなども、在来の怪談物に使用される機会はいよいよ少なくなるであろうが、将来 グラン・ギニョール式のグロテスクな芝居が日本にも新興しないとも限らないから、そういう時の ためにも大いに研究して置いたなら、また違った生命を持って、あるセンセイションを起こすよう になると思う。そうなってから慌て出さずに、今のうちから研究して置くことも損ではないであろ う。  今でこそケレンと云っても見物は剣劇ほどにも興味を持たないが、それでも明治時代は随分盛ん であったし、また上手《うま》くもあった。確か明治二十年か二十一年だと思うが、中村座で五代目菊五郎 の小間物屋の才次郎が蟻《うわばみ》の腹をたち割って出て来る処など、実に物凄いものであった事を今でも記 憶している。そうして、時代はケレンだけでは満足できず、しまいには軽業までが劇の領分にはい って来た。例の石黒政之の丸太乗りを応用した「獅々退治」とか、竹沢藤治という軽業師の奴凧と 云ったものまでが、堂々と歌舞伎座で興行を続けていたが、特に竹沢という人の奴凧などは、花道 の上でなく見物席の真上に針金を引いて、その上で奴凧を踊ったものであったが、どうしてなかな か上手いものであった。  ケレンのうちでも殊に宙乗りとなると、楽屋内でも大事を取るし、実際、危険率も高いものであ った。今はそうした危険のなくなったのは、機械が完全になったからかも知れないが、昔はよく宙 乗りで不具になった役者もあった。先代の芝翫(歌右衛門の父)なども美濃へ巡業に行って法界坊 を演った時、ツリが落ちて破《びつこ》になったし、新派の山口定雄も姐妃の宙乗りから落ちて破になってし まったが、そうした重立った人たちでさえ幾人も不具になっているのであるから、地方などで名も 無い役者からどのくらいそうした犠牲者を出しているか分からない。  それからこれはケレンではないが、芝居に応用された結城孫三郎のあやつりなどは実に上手いも のであると思う。かつて拙作の「頼豪阿闇梨」の鼠を結城孫三郎があやつりでやった事があるが、 一匹ならとにかく、ほとんど何十匹という鼠が或いは悪僧の顔を趨ったり、柱へ這い上がったりす るのが、まるで真に迫っていた。(尤も、孫三郎は舞台稽古だけで、あとは殆んど彼の弟子がやつて いた。)堀川の猿《ハユリ》なども子役が演《や》るよりもあやつりでやった方がうまく行くし、見た目も不自然で ないから、見物の物笑いになるような事もないと思う。  物笑いと云えぱ、芝居のお化けと御同様に馬や犬も近頃の見物には物笑いの対象となっている。 歌舞伎劇にはそれ自身の伝統があって、それを理解出来ないからゲラゲラ笑うのだといくら力説し たところで、時代がゲラゲラ笑うのであるから仕方がない。いくら小道具の藤波が新工夫の縫いぐ るみを持えても、その中にはいる人間の脚と本物の馬や犬の後脚とは膝の関節の折れ方が反対であ る以上、その新工夫も結局徒労である。それも熊谷《くまがい》の馬のように、馬が芝居をするような場合には 巳むを得まいが、ただ役者が乗って出るだけの馬とか、舞台に引っ張って出る犬などは将来は本物 の馬を使った方がいいと思う。尤も、先代の宗十郎が本物の馬を引いて花道へ出たところが、粗相 をして却ってとんだ物笑いになったと云う話もあるが、それはいきなり不用意に本物の馬を舞台へ 上げたからであって、馬と云う奴は厩の床板を踏むと両便をする習慣になっているのに、舞台の上 を踏ませたから厩と問違えて粗相をしてしまったので、これは馬が悪いのではなく人問の不注意で あんな物笑いを演じてしまったのである。であるから将来は小道具の藤波あたりで、舞台専門の馬 とか犬とか猫のようなものを飼って、充分馴らせて置いたなら、不自然な縫いぐるみや本物の獣の 粗相から来る物笑いを醸《かも》さずに、見物をして真剣に芝居を鑑賞させる事が出来はしまいか。特に新 作のリアリズムを骨子《こつし》とした歌舞伎劇には尚、こうした注意が必要になって来ると思う。またその 位の注意をしてこそ、初めて小道具の専門家としての藤波の存在価値もあるのではあるまいか。私 は巴里で本物の犬が舞台の上手から下手へ勢い込んで飛んで行くところを見て、その訓練に感心さ せられた事があったが、現在の日本みたいに、いちいち役者が舞台で本物の犬を使いたいと云うと き、みんなが血眼になって探し廻ると云った泥縄式でいつまでも済む訳には行くまい。私の「西郷 隆盛」を左団次が明治座で演ったときにも、まさか縫いぐるみの犬を引っ張ってノソノソ花道から 出られないと云うので、本物の犬をと云う事になったが、さあ第一に純和犬で、大きくなくっては いけないと云ったところで、今どき純和犬などは滅多にあるものではなし、みんな鉦と太鼓で東京 市中を探し廻って、やっと梅若万三郎さんの所の犬が条件に適《かな》っていたので、借りて来た事があっ た。このあいだの明治座の「ノビレ少将」の時にも舞台で使う本物の犬を宣伝にしていたようであ ったが、そんな事を宣伝するようでは劇界の進歩も誇れない。小道具は生き物は取り扱わないなど と云わずに、こうした方面からも劇界に貢献して貰いたいものである。  「所謂ケレンに就いて」も話が馬や犬に下がって来ては、勢いお仕舞いにせざるを得なくなって 来た。尤も舞台の上で本物の獣物《けだもの》を使うと云う事も一種のケレンかも知れないし、さらに人間が馬 や犬になるのは尚ケレンであるから、そういう意味で「所謂ケレンに就いて」と云う題にまんざら 縁がなくもないであろう。                    (昭和四.九.演芸画報) つ 舞台の詞と扮装と  明治四十四年、帝国劇場が初めて開場した年である。その六月興行の一番目に「振武軍」を上演 した。これは塚原|渋柿園《じゆうしえん》氏が新小説に寄稿した小説を、右田|寅彦《とらひこ》君が脚色したものであった。  その脚本の梗概は今ここに説明する要はないが、振武軍なるものはかの彰義隊の別派ともいうべ きもので、むしろ彰義隊とは意見を異にする人々が別に振武軍というのを組織して、武州|飯能《はんのう》を根 拠として官軍に抵抗したものであった。脚本はその振武軍を主題とした維新史劇であるから、幕ご とに江戸の武士が出る。戦闘の場面もある。原作者の渋柿園氏はその実況を知っている人であり、 又かの渋沢喜作氏も振武軍の一人であったというので、それらの人々が脚色者にいろいろの注意や 助言をあたえて、努めてその当時の状況を写実で見せると云うことになった。なるほど、われわれ の見たところでは、登場人物の扮装といい、言語といい、いかにも維新当時の写実らしく思われ て、狂言以外に一種の感興を惹いたのであるが、ただ困ったのは、登場人物の台詞《せりふ》に対して、一般 の観客がややもすればゲラゲラ笑い出すことであった。  たとえば、大小をさしたり、陣羽織を着たりした武士たちが、互いに向かい合って、「君」と呼び、 「僕」と云い、「失敬」というたぐいで、そういう台詞を聴くたびに観客はいつでも笑うのであっ た。これは勿論、笑う方が間違っている。君とか僕とか失敬とか云う詞は、明治以後の書生さんが 初めて云い出したのではない。江戸時代から云い慣わして、それが明治時代まで伝わって来たので あるから、彰義隊や振武軍の人たちが君と云い僕と云うのはむしろ当然のことで、毫《ごう》も怪しむには 足らないのであるが、一般の観客にはどうもそれが不調和にも滑稽にも感じられたらしい。大小を さした武士はやはり「貴殿」とか「拙者」とか云わないと、異様にきこえるらしいのである。笑う 奴の方がわるいと云っても、この場合、どうにも仕方がない。結局、幾日かの後、右田君がその台 詞を多少改訂したように聞いている。  これもその一両年前の事と記憶しているが、中洲《なかず》の真砂座《まさござ》でやはり渋柿園氏原作の「脱走兵」を 上演した。その脚色者は篠山|吟葉《ぎんよう》君であったらしい。これが同じく維新当時の事件を取り扱ってい るので、登場する江戸の武士たちが例の「君、僕、失敬」の台詞を連発するので、観客がおなじく 笑った。  こういう場合、どうすればいいのか。いたずらに観客の無智無学を罵ってばかりはいられない。 理窟はさておいて、それが喜劇でない限り、大事の狂言中にゲラゲラ笑われては困る。しかもそれ が観客のイリュージョンを破り、観客の感興を殺すということであれば、作者も演者も一考しなけ ればならない。たとい嘘と知りながらも、それがしとか拙者とか、お手前とか貴殿とか云う方が無 事安全である。なるべくそんな危険を避けた方がいい。  これは少し遠い昔であるが、明治二十二年の五月、歌舞伎座で「十二時会稽曾我」を上演したこ とがある。それはかの近松翁の「曾我会稽山」を桜痴《おうち》居士が改作したものであったが、その二幕 目に、曾我の家来の団三郎が鹿の皮をかぶって狩場へ忍び込んで、工藤祐経《くどうすけつね》に見あらわされる件《くだ》り がある。祐経は団十郎で、団三郎は新蔵であった。ところが、この団三郎の台詞に「ししの皮を身 にまとい、人問の身にて畜生の真似する団三」というのがある。勿論、この場合の「しし」と云う のは鹿を意味するのであるが、一般の観客はそれを猪と解釈したらしく、鹿の皮をかぶっていなが ら「しし」と云うので、いつでもドッと笑う。新蔵も閉口して、作者にその改訂を申し出ると、相 手が桜痴居士であるからなかなか承知しない。昔は鹿を「しし」と呼んだのである。それを笑うの は、笑う奴が間違っているのであるから、勝手に笑わして置けという。しかし俳優の身になると、 毎日そこで笑われるのも辛いので、いろいろ哀願して、結局「けものの皮」ということに改めて貰 ったことがある。  こんな例は他にもたくさんあろう。何分にも小説と違って、芝居は耳で聴くものであるから、い かに作者の書いた方が正しくても、観客に笑殺されてしまう場合がしばしばある。くどくも云う通 り、見すみす嘘とは知りながらも、作者はそれらの危険を避けるために、努めて安全の方法を択《えら》ば なければならない。  以上は言語に就いてのことであるが、扮装とても同様である。現代劇は格別、その他の劇に於い ては真の写実は到底望まれない。久保田|米斎《べいさい》氏などとも毎々話し合うことであるが、人物の扮装な ども所詮かの絵巻や浮世絵の姿をそのままに実現させるわけには行かない。その人物の役柄から考 えて、たとい嘘でもその時代を繰り上げたり繰り下げたりする例はしばしばある。鎌倉時代の人物 に足利時代の扮装をさせたりすることは、勿論いいことではないかも知れないが、舞台の上ではど うしても已むを得ないことで、その方が却って舞台効果を強める場合がある。専門家の眼から観る と、他がすべて鎌倉時代の扮装をしているなかに、唯一人が南北朝時代や室町時代の扮装をして現 われるということは、水に油で確かに不調和に相違なかろうが、一般の観客は有職故実家でもなけ れば、歴史家でもない。なまじい写実に拘泥して、前に云った「君、僕、失敬」の失敗をまねくよ りは、見た目本位でその役柄相当の扮装をさせた方が、安全でもあり又有効でもある。舞台は故実 を教えるところではなく、他に大いなる目的を有しているものであるから、扮装などは枝葉の問題 に過ぎない。単に観客のイリュージョンを破壊しない程度にとどめて置けばいいのである。その以 上の穿索はいらない。  ところが、鎌倉時代や室町時代は遠い昔のことであるから、それでも大抵は済むのであるが、時 代がだんだんと新しくなって、江戸時代  殊に文化文政以後から江戸末期に近づくほど、この写 実問題が面倒になってくる。なにしろ、現在それを目撃した人も生存しているし、それに関《かか》わる記 録や絵画のたぐいがたくさん残っているので、嘘と本当がすぐに鑑別されることになるから、写実 問題も自然にやかましくなって来て、文化時代にあんな着物はなかったとか、安政時代にあんな笠 は被らなかったとか、女の髪の結い方が違うとか、半襟が違う、帯が違う、下駄が違うと云うよう な非難が続出することになる。こういう問題で、わたしも専門家からたびたび叱られているが、こ れはどうも仕方がない。  いや、仕方がないと云って、自分の不穿索を胡麻化そうとするのは怪しからんと、又もやお叱り をうけるかも知れないが、まったく仕方がないのである。その一例をあげると、去年の夏、帝劇で わたしの「両国の秋」を上演したときに、梅幸の蛇つかいの扮装が違っていると云って、江戸通の 人達から叱られた。一々ごもっともで、わたしも両国の蛇つかいがあんな扮装をしていようとは思 わない。梅幸が水色の悼をきている扮装は、手妻使いを標本にしたのである。この劇の・一十人公であ るから、いくらか縛麗に感じさせなけれぱならない必要があるのと、幾度も衣裳を着かえるので眼 先きを変える必要上、一度は樟を着せることにしたのであるが、真面目な考証論になるとそれが間 違っていると云うことは争われない。しかし決して負け惜しみを云うのでなく、私は前に云った見 地から舞台の上ではその位の間違いは仕方がない、むしろ間違った方がいいのではないかとも思っ ている。  そんな例を一々あげていると、長くなる。舞台上のリアリズムなどと云うことが頻りに論議され る時節、わたしは唯、自分の見聞した二、三の実例を参考のために書いてみただけである。                                  (大正二ニ・五・劇壇) ね 円朝全集  ある人が来て何かの話の末に、このごろ円朝全集を読みつづけているが、どれも予想したほどに 面白くない。あれでも名人であるのかしらと云うような話があった。勿論その人は円朝の口演を実 際に聴いたことのない二十代の青年である。  予想したほどに面白くない。1それはむしろ当然であると、わたしは答えた。  円朝全集は円朝の口演を速記したものであるから、単に活字の上で読んだのでは其の興味を感じ られないのは当然ではあるまいか。たとい相当の興味を感じ得られるとしても、その実際よりも大 いに割引きされるのは見易き道理である。たとえぱ、雨がザッと降って来たと云っても、それが円 朝の口から出れば、いかにも大雨浦然として来たった感じをあたえるが、活字の上では単にそれだ けのことである。円朝の名人たるのは其の話術の妙にある。しかもそれを活字の上で読んだのでは どうにもならない訳である。  円朝が曾てその弟子たちを戒めたという話が伝わっている。 「おまえ達は物をくどく云うからいけない。たとえばお化けが出たときに、お前達は『わあ、大変 だ。お化けが出た。』という。それでは話というものにならない。唯、『わあ』という一句で、お化 けが出て大変だというだけの意味を含ませなければいけない。『わあ、大変だ。お化けが出た。』と いうのは小説である。小説は文字の上だけで読むのであるから、一々丁寧に『わあ、大変だ。お化 けが出た。』と書かなければならないが、話は口でいうのであるから、その云い方でどうにでもな る。少なくも『わあ、大変だ。』ぐらいで聴き手に会得させる工夫をしなければいけない。」  円遊もおなじようなことを私に語ったことがある。 「話でくどいことを説明するのはいけません。早い話が『表へ出ると、真っ暗でございます。』と いう。その『真っ暗でございます。』の一句で、いかにも夜の暗いことを感じさせるのが話の上手 というものです。それをくどく説明して、『一寸先きも見えない』とか、『墨を流したように黒い』、 とか、いろいろのことをならべ立てるのは初心《しよしん》の者のやることで、却って聴き手の受けが悪いもの です。」  わたしは若いときに円朝の話をしばしば聴いたことがあるが、その話は円朝全集にあらわれてい るものよりも更に簡潔であったように記憶している。円朝全集の原稿はやまと新聞その他に掲載さ れたものを土台にしているのが多い。新聞社ではそれを連日の続きものとして読ませる都合上、幾 分か其の口演に加筆したように思われる個所が無いでもない。いずれにしても、円朝らは自分のイ キ一つで其の話を面白くも聴かせ、悲しくも嬉しくも、物凄くも怖ろしくも、聞かせるのを能事と していたのであるから、それを高坐の上から聴かないで、紙の上や活宇の上から見ようというのは 間違っている。その間違いを棚にあげて、予想したほどに面白くないなどと云われては、円朝も迷 惑するであろう。  それは円朝らの人情話や落語ばかりではない、戯曲の上にも同様であると思う。作者が舞台の上 で観るべく書いてある戯曲を、単に紙の上や活字の上で読んだだけで、面白いとか面白くないとか 云う批評は容易にくだせる筈のものではない。前に云った円朝の「わあ」や、円遊の「真っ暗」と おなじことで、文字の上では何だか物足らない、興味の薄いもののように感じられても、それが舞 台の上で実演されると、思いのほかの効果を挙げ得ることがある。落語ばかりでなく、芝居にもイ キがある。そのイキは舞台に掛けてみなければ、本当にわかるもので無い。その意味から云うと、 円朝らもその口演の筆記を発表せず、劇作家もその戯曲の原稿を発表せず、前者は高坐に於いての み、後者は舞台に於いてのみ発表するのが最も安全であるとも考えられる。むかしの人達は皆それ. であった。  しかし今日ではそうも行かない。そうして、円朝は活字の上で批評をうけ、戯曲作者は活字の上 で批評を受けなければならないのである。 な 新聞劇評の今昔  前号には新聞劇評家の噂がいろいろ出ていた。その当否については私として何とも云うべき限り でないが、今日のような状態では、その劇評の内容はともかくも、その形式が殆んど一種の型に嵌 ってしまうのは已むを得ないことのように思われる。  わたしも若いときには新聞劇評家の一人であったが、その当時はどこの大劇場でも毎月開場する ことは決して無い。多くても一年に五、六回を越えず、あるいは三、四回にとどまることもある。 又その開場初日も毎月の一日ときまってはいない。五日に開場することもあり、十日に開場するこ ともあり、或いは月末の二十五日二十八日などに開場することもある。興行の回数が少ない上に、 その初日が一定していないのであるから、新聞劇評家の観劇が毎日つづくと云うようなことは滅多 になかった。  ところが、明治の末に帝国劇場が始まって以来、この劇場は年中無休ということを標榜して、毎 月一日に必ず開場することにした。ほかの劇場も自然それに倣って毎月必ず開場することになり、 その初日も必ず一日ということになってしまった。そこで、よんどころない事情のない限りは、各 劇場が一年十二回の興行をつづけることとなり、その初日もみな一日となったので、新聞劇評家も 毎月一日から少なくも五、六日間はかならず劇場へ通わせられる。職務とはいいながら、こうなる と随分疲れる。殊に此の頃は夜間の興行であるから、昼間は出社しなけれぱならない。昼は社の仕 事に働かされて、夜は毎晩つづいて空気の悪い劇場内に入り込んで夜更かしをする。それが毎月の ことであるから、まったく疲れてしまうのも無理はない。劇に対する神経も自然に麻痺して来る。 その結果、時にはほんの申し訳的の劇評を書くようになるのも致し方のないことだとも云える。  もう一つは各新聞の劇評が短くなったことである。以前は各劇場の興行回数の少なかったせいも あろうし、比較的に新聞記事も少なかったせいでもあろうが、新聞の劇評がみな長かった。一つの 劇場の批評が一回分七、八十行1ーその頃の新聞は一行二十二字詰が普通であったlで二、三回 又は四、五回にわたって掲載されたから、相当に詳細の批評を書くことも出来たのである。それが 今日では、一つの劇場の批評が僅々五、六十行  しかも此の頃は大抵一行十五字詰であるlIで 片付けられることになったので、とても詳しいことなどを書いている余裕はなく、極めて簡短な個 条書のようなもので済ませてしまうことになった。勿論、簡潔に書いても面白く書けないとは限ら ないが、四種も五種もある狂言に対して五、六十行では思うように書くことを許されないので、自 然一種の型に嵌ったような文句をならべることにもなる。  それらの弊を拭うには、各新聞社で二、三人の劇評記者を置いて、各自交代で見物する事と、劇 評の行数にも自由をあたえて、論議すべき場合には相当に論議させるという事にするのほかはな い。現在の状態で、むやみに各新聞社の劇評記者を難ずるのは少しく無理であるらしい。  しかし、外国の新聞の劇評も、ある特殊の問題劇は格別、普通の興行に対しては、一種の紹介程 度を越えないのが多いように見られる。そこが新聞と雑誌との相違であろう。 ら左団次の渡欧  左団次一行の露国行きはいよいよ露国側との調印をすませて、七月中旬出発に決定したことは各 新聞所報の通りで、その上演目録も已に発表せられている。  最初の予定では「忠臣蔵」と「寺子屋」を主なる出し物とする筈であったらしいが「寺子屋」は 露国側から断わられた。武部源蔵が幼君菅秀才の身代りに他人の子の首を斬るなどとは、露国の一 般観衆に喜ばれまいという理由からだそうである。その意味から云うと、「忠臣蔵」にもよほど危 ない処があるので、三段目の喧嘩場と、四段目の城渡しと、大詰の討入りとを上演して、赤穂浪人 の復讐顧末報告劇にとどめて置くことになったと云うことである。勿論、短時間の興行に幾種の狂 言を列べようと云うのであるから、こうした省略は已むを得ないかも知れない。  芸術に国境無しと云っても、国情と国民性の相違は争われない。したがって、「寺子屋」が露国 の一般観衆に呑み込めない点があるのは察するに難からずであるが、すでに日本の歌舞伎劇を紹介 するという以上、日本で最もポピュラーの物を上演するのが当然であって、露国の国情や国民性を 顧慮する必要はあるまい。要するに、日本の古い歌舞伎劇とは斯ういうものであると云うことを紹 介すれば好いのである。  理窟を云えばそうであるが、又一方露国側から云えば、相当の費用をなげうって日本の歌舞伎劇 一行を呼び寄せて、それを本国人に見せるのであるから、なるべく本国人の理解し得る物、なるべ く本国人の喜びそうな物、それらを選びたいと希望するのもまた無理がないようにも思われる。そ の折衝が両国の当事者に可なりの面倒をあたえたのは拠んどころないことであろう。今度の露国行 きに就いては、わたしの作が三種も上演される筈であるから、私としては、狂言の選択について余 り彼れ是れ云うのを差控えなければならないが、唯かの「寺子屋」中止のことに就いていささか述 べてみたい。  先年、わたしが米国のロスアンゼルスに滞在しているときに、あたかもハリーウードの小劇場 で、「寺子屋」を上演するというので、臨時会員となって一夕見物した。俳優はいずれも素人であ ったが、舞台装置も扮装も演出法もすべて日本の歌舞伎の通りで、案外に面白く見られたには敬服 した。そこで、その「寺子屋」劇に対する新聞の批評をみると、いずれも劇中の千代に最も同情す るような書き方であった。千代が我が子の小太郎を源蔵のとこへ弟子入りさせて、見すみづ殺され ると知りながら別れて帰る処、ここは日本でも婦人の観客を泣かせる処ではあるが、それが最も同 情を惹いたらしく思われた。次ぎは松王で、かの源蔵夫婦の苦衷の如きは殆んど問題にされていな いかのように見られた。源蔵夫婦の忠義というものが好く理解されないのか、たとい理解されても 同情を持ち得ないのか、いずれにしても此の劇において重大の役目を受け持っている源蔵夫婦は、 とかく等閑に付せられているのであった。それを見たときに、わたしは今更のように、彼我国民性 の相違を著しく感じた。実をいえば、主君の子の身代りとして無断で他人の子を殺すなどと云うこ とは、日本人でも今日の観衆には得心されない事であろう。唯、それが遠い封建時代に作られた物 であることを承知しているのと、歌舞伎という伝統的芸術を讃美するのと、この両様の意味に因っ て、今も猶その名声を博しているのであるから、その国情を異にし、その国民性を異にする外国の 観衆が、なんの予備知識も無くして卒然それに向かった場合には、源蔵夫婦の忠義とか苦衷とかい うものに対して、十分の同情をそそぐことの出来ないのも已むを得ない。それを以て妄りに外国の 観衆を無理解として責めるのは酷であろう。  それと同時に、外国で傑作と称せられ、佳作と謳わるる物も、かならず我が国で歓迎されるとも 限らない。前にもいう通り、いかに芸術に国境無しを主張しても、所詮それは程度の問題であっ て、完全に国情と国民性を征服することは、それが異常の傑作でない限り、よほど困難であると思 わなければならない。したがって、手当たり次第に外国の作物を紹介し、あるいは外国の作物を全 然模倣したような物を提出して、それを歓迎せざる日本の一般観衆をただ一途に無理解とか幼稚と か低級とか罵倒し去るのは、遠慮しなければならない事だと思われる。 む尾上松助 尾上松助が歌舞伎座の楽屋で稽古中に倒れた。動脈硬化症から脳溢血を発したので、たとい回復 しても再び舞台の人にはなれまいと伝えられている。  門閥を重んずる俳優社会にあって、彼は何の門閥をも持たなかった。彼は俳優として、舞踊の素 養にも乏しかった。第一に男振りが悪かった。近年は老いてむしろ其の男振りを揚げた観がある が、中年時代の彼は品格の乏しい一種の敵役《かたきやく》に過ぎなかった。それらの諸点を合算すると、彼は俳 優として甚だ恵まれない立場に置かれていたのであるが、五十以後めきめきと発達し、八十六歳の 今日まで健全に舞台を勤め通して、いわゆる名優の一人と称せらるるに至ったのである。その詳細 の経歴を伝うるがごときは他に其の人があるから、ここでは云うまい。  唯、ここで一言紹介したいのは、彼が無名の俳優時代は勿論、漸く其の技禰を認められるように なった中年時代、又その名声を高めつつある老成時代、その一生を通じて、彼は常に謙譲の徳を守 っていたことである。芸術家には謙譲の心が無ければならない。その生きた手本は我が尾上松助に 於いて初めて示されたと云ってよい。彼は猶ほかにも種々の美点を具えているが、私は謙譲の美徳 を具えている人物の典型として最も彼を尊敬したいと思う。  彼が謙譲の人物であったのは、その天性に因ること勿論であるが、彼自身の語るところによれ ば、その下廻りの俳優であった当時、楽屋の風呂で、これも名人と云われた三代目伸蔵から「おま えも大きい役者になろうと思うならば、若いうちに死に急ぎをしちゃあいけねえ。」と教えられ、 それを生涯|服膚《ふくよう》していたのであると云う。仲蔵が斯う教えた意味は、将来大いなる俳優とならんと する者は自から筥《う》らんとしてはいけない。努めて売り出そうとして燥《はや》るのは自滅の基で、みずから 死を急ぐに等しい。しずかに修養して、しずかに時節を待つのが、他日の大を来たす所以《ゆえん》であると 云うのである。  仲蔵もほとんど門閥を有しないのみならず、その容貌の揚がらざることは更に松助以上であった が、晩年大成して名人と呼ばるるに至ったのを見ると、彼も他に教えた如く「死に急ぎ」をしない 方針を取って、おもむろに其の運命を開拓して行ったのであろう。彼の眼から観れば、他に「死に 急ぎ」をする俳優が多かったに相違ない。そのなかで教うるに足ると見込んだ松助に対して、その 秘訣を授けたのであろう。  しかもその仲蔵の晩年は、一面に名人と尊敬されているに拘らず、一面には鋭い皮肉屋として楽 屋一同から畏れられた。時には「あの意地悪じじいめ」と蔭口を云われることもあった。その教え を受けた松助は、晩年に至るまで一種の好《こうこう》々|爺《や》として諸人に敬愛せられているのは、仲蔵以上の謙 徳を具えているが為であろう。その点は教えた人よりも、教えられた人が優っているとも云われる。  いつの代にも「死に急ぎ」をする人は絶えない。仲蔵といい、松助といい、後輩は彼等に就いて 学ぶべきである。 一つ 芝居の番附  このあいだも二、三人の人々と話したことであるが、東京では芝居の番附というものが震災以後 いつとは無しに絶えてしまった。帝劇だけは依然として番附を発行しているが、ここの番附は創業 以来特殊の形式をなしているもので、在来の番附とは少しく違っているから、江戸以来行なわれた 芝居の番附というものは先ず消滅してしまったと云ってよい。  勿論、実用の点から云えば、在来の番附なるものは余り便利なものではない。勘亭|流《ハエ 》の細字で役 割を記してあるのが可なりに読みにくい上に、古来の習慣として「捨て役」というものが附け加え られている場合が往々ある。たとえば座頭の俳優が事実に於いては一役か二役かしか勤めていない 場合でも、他に二役か三役かの役割が附け加えられてある。それは出たらめにこしらえた嘘の役割 である。それであるから、それが誰も知っている狂言の場合には、どれとどれとが本役で、どれと どれとが捨て役であるかを、判別することが出来るが、新狂言の場合には見当が付かない。加藤清 正とか家主長兵衛とか書いてあっても、その清正や長兵衛が果たして登場するのかどうだか判らな いのである。それは座頭ばかりでなく、中軸や書き出し等の位地に坐っている主なる俳優は皆それ であるから、真偽混渚で随分困らせられる。  なぜそんな不便な習慣を作ったかと云うと、昔の番附は幕毎の登場人物を記すのでなく、前にも いう如く、書き出し、中軸、座頭という風に、俳優の位地に因って排列して、一人が一目じゅうの登 場役割を一つところに悉く列べて書くことになっていたので、たといそれが重要の役を勤めていて も主要なる俳優が番附の上に唯一役というのでは、見た目がいかにも寂しい感じがする虞れがあ る。それを救うがために、捨て役というものを作り設けて、一人が三役か四役を勤めるように見せ かけたのが始まりである。明治二十二年十一月、かの歌舞伎座が新たに開場すると共に、その番附 は在来の慣例を破って一幕ごとに登場人物の役割を記すことにした。無用の捨て役は当然廃せられ た。番附の一進歩である。その方が確かに便利であるので、他の劇場もおいおいにその例に倣うこ とになって、番附の体裁は昔と変わった。そうして、震災当時まで継続して来たのであるが、それ が又いつか廃止されて、今日では薄っぺらな西洋紙に粗悪な印刷を施した、見るから安っぽいプロ グラム式のものになってしまった。進歩か退歩か知らないが、これもまた番附の一変化である。  さて、こうなって来ると、便利とか不便とかいうことを第二として、われわれのような旧東京育 ちの人間には、むかしの番附というものがなつかしくなって来る。昔の番附とても特に上等という べきものではない。中には随分粗悪な目本紙を用いているのもあって、印刷の加減で一種の忌な匂 いを放つのもあった。しかも番附の匂うときには、その芝居は屹と大入りであるなどという伝説も あって、芝居好きの人々は新しい番附の墨の匂いを喜んで嗅いだものである。こんな馬鹿々々しい ことは、殆んど今の若い人たちには想像も付くまい。しかもその番附の匂いをかぐと否とは別とし て、むかし育ちの私たちは今日の安インキのプログラムに対した時と、昔の芝居番附に対した時と の間に、著しい感じの相違のあることを否《いな》むわけには行かない。  式亭三馬の「客者評判記」のうちに、襟巻をした裕福な町人らしい人物が炬燵を前にして春狂言 の番附を見ている挿画がある。その絵模様をここで詳しく説明することは出来ないが、歳の暮れに 正月の芝居の番附をうけ取って、今度の狂言はどうであろうかとか、今度の役割はどうであろうか とか、胸のうちにいろいろの想像を描きながら、来る春を楽しく待つという暢《のび》やかな気分が、いか にも好く現われていたように記憶している。勿論、文化文政度の江戸時代の人間と今日の人間とは 一つになる筈もないが、せめて芝居の番附にむかった時などは、やはり昔のような一種の落ちつい た暢やかな気分でありたいと思う。それには昔風の番附でなければいけない。狂言の名題と役割 と、入場料と開場時間と、食堂の鮨や弁当の値段さえ判ればそれで好いというような、今日の安っ ぽいプログラム式の番附では、単に用が足りるというだけのことで、芝居らしい気分も暢やかな気 分も到底浮かみ出して来そうもない。  それに連れて今日の一般の観客は、なんだかざわざわして一向に落ち着きのない、しんみりと芝 居を味わうという心持ちのない、むやみにテムポの早い芝居をよろこんで、幕が下りたら廊下へ駈 け出して早く煙草を呑もうとか、食堂へ飛び込んで何か食おうとか、待ちかまえているような風に なって来た。劇場もまた其の注文に応じるように、なんでもハイスピードでばたばた片付けること を工夫する。私たちに云わせると、今日の劇場と観客とは、安インキの薄っぺらなプログラム一枚 に因って好く象徴されていると思う。  これは少しく余談にわたるが、以前はどこの劇場でも毎月開場するなどと云うことは決して無 い。多くて一年に五、六回に過ぎず、時には三、四回のこともある。したがって、好劇家にはその 開場が待ち遠しいこともある。新聞の紙上などには、どこの劇場は来月何日頃に開場するそうだと 云うような芝居だよりがちらほら現われても、なかなかそれが実現しない。そのうちに馴染みの芝 属茶屋や出方《でかた》などが番附を配って来る。それは郵便のように門口《かどくち》から投げ込んでゆくのではない。 裏口か表口から丁寧に案内してはいって来て、暑さ寒さの挨拶を述べた上で、いよいよ何日から芝 居が明きますから御見物をねがいますと云う。こちらは待ちかねている処であるから、今度の狂言 の噂、俳優の噂、それからそれへといろいろのことを訊く。ひまな時には内へ呼びあげて、一時間 も二時間も話しているようなこともある。勿論、いくらかの祝儀をやる。今日のような忙がしい時 代には、とても出来ない芸であるが、むかしの人が芝居を観るには、先ずそういう準備が要る。そ うして、何目頃に見物にゆくという日取りを予約して出かけるのである。  わたしの家へは、新富座の茶屋の菊岡、市村座の万金などの若い者が番附をとどけて来た。夏な どは木戸口から庭先きへ通って、縁側に腰をかけて父とよく話していたのを子供ごころに記憶して いる。わたしは菊岡の若い者に連れられて、近所の絵双紙屋で三枚つづきの芝居の似顔絵を買って 貰ったことがある。その頃のわたしには何んにも判らなかったが、父に取っては定めて高価の似顔 絵であったことと察せられた。  こういう風に、甚だ手数もかかり、無駄な費用もかかる代りに、そうして受け取った一枚の番附 は、二銭切手の開き封で投げ込まれた、今日のプログラムとは受け取った者の感じが全然相違する ことは争われない。一家内が集まって丁寧に見る。近所の知人にも貸してやる。そうして又、丁寧 に綴じ込んで置くという次第で、好劇家に取っては一種の宝物であるかのようにも珍重されたので ある。  わたしの家にも明治初年の古い番附がたくさんに保存されていたが、先年の震災でみな灰にして しまった。その番附に対してはさのみの愛着心をも懐いていないが、その番附の行なわれた当時の 暢やかな世界が何と無しになつかしい。あわせて、その時代に生きていて、その暢やかな心持ちで 芝居というものを観ていた自分の昔がなつかしい。今のわたしは劇作家という名のもとに、安イン キのプログラム式の仕事をしているのである。         (以上五篇.昭和三.不同調) ゐ喜劇時代  喜劇時代来たるーこれは私が数年前から唱導していたところで、かつて宝塚国民座に向かって も新しい喜劇一座を組織するように進言したことがあったが、実現されずに終わった。その国民座 もようやく昨年八月頃から喜劇本位ということになったが、以来二、三ヵ月にして閉場するの已む なきに至ったので、思わしい効果を揚げることも出来なかったのは遺憾であった。  日本人の笑い  それは或る場合には外国人にとって不可解のものとされているがIlは世界的 に有名であると云ってよい。日本人ぐらい能く笑う国民はないらしい。悲しむべき時にも笑い、怒 るべき時にも笑う。それが或る場合には馬鹿らしくも見え、或る場合には陰険にも見えて、外国人 らの誤解を招くこともあるが、なにしろ笑いを好む国民には相違ない。  「若い娘は箸が転げても笑う」と昔から云うが、若い娘ばかりでなく、相当の年齢の人間と錐も 「箸が転げても笑う」お仲間が多い。そういう国民のあいだに喜劇や滑稽小説が発達しない筈はな い。江戸時代に最も多く読まれた書物は「唐詩選」と「三世|相《ハこ》」と「膝栗毛」であるという。これ に因っても、「膝栗毛」の笑いが如何に一般国民に歓迎されたかが判る。  然らば、劇の方面はどうかと見渡すと、明治以前には独立した喜劇というものは極めて少なく、 わずかに多少の滑稽浄瑠璃があるに過ぎない。さりとて、日本人の「笑い」が舞台の上に封じられ たわけではない。  悲哀や残酷を調和するために滑稽を加味する位のことは、いつの時代の作者も皆よく知っていた のであるから、一幕のうちにも必ず多少の滑稽味を加えることになっていた。つまり独立した喜劇 の存在しなかった代りに、どの劇にも喜劇らしい場面が多少なりとも存在していたのである。さら に云えば、喜劇趣味を「なし崩し」に発揮していたわけで、それは私が今更説明するまでもなく、 江戸時代の脚本を一読すれば容易に発見されることである。  明治以後もやはり其の習慣を継続していたので、歌舞伎には独立した喜劇というものは少ない。 明らかに「喜劇」と銘を打って上演せらるるようになったのは、川上音二郎一派の新派劇誕生以後 のことである。しかも、明治時代には喜劇も差したる発展を見せず、大正以来、殊に震災以後の大 正末期から俄かに勃興の機運をかもし出して、昭和の今日はますます其の隆盛を示すに至ったので ある。  私は「隆盛」と言った。しかも、それは在来の劇を標準としての言葉であって、正しく云えば敢 て隆盛と称すべき程のことではない。他の史劇や杜会劇、舞踊劇等に比較して、喜劇がこのくらい の割合に上演せられるのはむしろ当然のことで、今まで継子《ま ヰ こ》扱いをうけていたものが実子同様に認 められるようになったと云うに過ぎないのである。  したがって、私のいわゆる隆盛は一時の現象にとどまらず今後持続するであろうと思われる。  それにつけて思い出されるのは、今から四十二、三年前のことである。わたしが中学生であった 頃に、英国大使館の書記官アストン氏と共に、神田の神保町通りを散歩したことがある。  その頃には今の電車通りはない。今日《こんにち》で云えば南側の裏通り、すなわち東京堂や文房堂前の裏通 りが神田の大通りであったのである。それとても今日に比べると、路幅はよほど狭い。家並はわる い。各商店の前には種々の物が積んである。往来には塵挨や紙屑が散乱している。一見、実に不体 裁なものであった。 「倫敦《ロンドン》や巴里《パリ》の町に、こんな械い所はありますまいね。」と、私はあるきながら訊いた。 「勿論です。」と、アストン氏は顔をしかめながら答えた。「新嘉披《シンガポ ル》や香港《ホンコン》にもこんな町は少ないで しょう。」  こう云った後に、アストン氏は又云った。 「しかし私は、日本の町を歩くことを好みます。そこには倫敦や巴里は勿論、新嘉披や呑港にも見 いだされないような大きい愉快を感ずることが出来るからです。それがあなたにわかりますか。」 「わかりません。」 「それは途中で出逢う人ー男も女も、老人も子供も、みんなチヤーフルな顔付きをしていること です。どの人もみな楽しいような顔をして歩いています。こればかりは恐らく他の国には見いださ れますまい。それを見ていると、私も自然それに釣り込まれて、おのずからなる愉快と幸福とを感 じます。それが嬉しいので、私は努めて東京の市中を散歩することにしています。」  倫敦や巴里の人はどんな苦《にが》い顔をして歩いているか、私には想像が付かないので、ただ黙って聴 いていると、二、三間行き過ぎてから、アストン氏は更にこんなことを云った。 「東京の町はいつまでも此の儘ではありません。町は必ず縞麗になります。路も必ず広くなりま す。東京は近き将来に於いて、必ず立派な大都市になり得ることを、私は信じて疑いません。しか し其の時になっても、東京の町を歩いている人の顔が今日のようであるかどうか、それは私にも判 りません。」  最後の言葉に頗る悲観的の意味を含んでいることは、年の行かない私にもよく判った。アストン 氏はそれを悲しむような低い溜息を洩らしていた。  それから四十余年の歳月が流れた。そうして、アストン氏の予言したような時代が来た。わたし は神田の大通りを行くごとに、その当時の往来の人の顔と、今日の往来の人の顔とを見くらべて、 今昔の感に堪えないことがしばしばある。どの人の顔も昔とは違って来た。或る者は悩ましく、或 る者は悲しく、或る者は険しく、笑いを好む国民が近来は笑いを吝《おし》むような傾向になったらしくみ える。  その時代に喜劇が要求されるのは、理に於いては当然であり、情に於いては自然であろう。笑い を好む国民は、せめてその劇場にある間だけでも、昔のチヤーフルな顔の所有者に復《かえ》らなければな るまい。その意味に於いて、わたしは今後もよりよき喜《ちヤ》劇のますます出現することを切望する一人 である。                             (昭和六・八・舞台) の戯曲と江戸の言葉 私はしばしばこういう質問を受ける。「戯曲に用いる江戸の言葉は、どう書いたらいいでしょうか。」  その場合に、私はいつも斯うあっさりと答えて置く。 「あまり末梢的にわたる穿索は、このごろ流行らないようであるから、まあ大抵は現代語で書くこ とにして、参考のために南北か黙阿弥の脚本でも読んだらいいでしょう。」  それで切り抜けられる場合は好いが、もう一歩踏み込んで詮議された場合には、私も何とか具体 的の回答を与えなければならない事になる。しかしそれはなかなかむずかしい。どこの国でもそう であるが、地方の言葉というものは一種自然の習慣から成り立っている場合が多いので、必ずしも 一定の文法や理窟に当てはめるわけには行かない。  それに就いて、こんな話がある。上方のある俳優が江戸へ出て来たときに、上方弁を使って江戸 の観客に笑われてならぬと云う用心から、大いに江戸弁を研究した。そこで上方で「何々じゃ」と 云うところを、江戸では「何々だ」という。誰に訊いてみても、確かにそうであるというので、そ の俳優は舞台に出て、「そうじゃあねえ」と云うべき台詞を「そうだあねえ」と云うと、観客はみ な笑い出した。  こうして、その俳優は意外の失敗を演じたのであるが、実を云えば、その俳優の考え方は決して 間違っていないのである。上方で「そうじゃ」と云うところを、江戸では「そうだ」という以上、 「そうだあねえ」と云うべき筈であるが、実際はやはり「そうじゃあねえ」という。それには何の 文法もなく、理窟もなく、単に多年の習慣に過ぎないのである。そう云うわけであるから、江戸の 言葉はこうであると云って、一定の文法を説くわけには行かない。所詮は一句一句について、これ はこう、あれはどうと、一々に説明してかからなければならないのであるが、そんな面倒なことは 到底出来そうもない。  しかし戯曲のように、その全部が対話で成り立っているものになると、言葉の選択や洗練が大切 であるから、江戸っ子が無暗に「そうだあねえ」を振り廻されては困る。それでは舞台の上の気分 もめちゃめちゃになってしまう虞れがある。たとい純写実の江戸弁でなくとも、まあ江戸らしいぐ らいのところ、即ちイリュージョンを破らない程度のところまでは、漕ぎ付けて置かなければなら ない。たとい隅田川や大川でなくとも、せめては利根川か市川ぐらいのところまでは、漕ぎ付けて 置かなければならない。なんにしても「そうだあねえ」では困る。  そうは云うものの今ここで江戸の言葉について一句一句説明することは、前にも述べたような次 第で、とうてい出来ない相談である。実は私自身とても完全には知らない。そこで、今はその大体 論だけにとどめることにして、江戸時代の各階級の人々は、一体どんな言葉を使用したかと云うこ とだけを簡短に説明して、なにかの参考に供したいと思う。  江戸の人間は士、商、工の三種で、農は近在にこそ住んでいるが、市中に住んでいないこと勿論 である。その武士と商人と職人、まだその他に、神官、僧侶、医者もある。更に詳しく云えば、そ のほかに儒者もある、画家もある、書家もあるが、それらの少数は別として、まず武士と商人と職 人とが江戸市中に雑居していたと思えばよい。  ここに記憶すべきことは、江戸も山の手、下町、場末と分かれていて、同じ江戸の人間でも、山 の手に住む者と下町に住む者とは言葉の調子が少しく違っている。したがって江戸時代には、その 人の言葉を聞けば山の手か下町か大抵わかったそうである。そんなわけであるから、一と口に江戸 の言葉と云っても、厳密に研究すればいよいよむずかしいことになるが、今ここで云うのは大体論 であるから、そのつもりで聴いて貰いたい。 もう一つ注意して置きたいのは、今日一般の人々は何によって江戸の言葉の予備知識を得ている かと云うことである。私の想像するところでは、大抵の人は寄席の落語などからその予備知識を得 ているかのように思われるが、それは少し困る。もちろん落語家が高坐で話すことが全然間違って いるとは云わないが、かれらの口から出る言葉には非常な誇張がある。  元来、落語の目的は聴衆を笑わせるにあるから、嘘でも本当でもかまわない、努めてそれを誇張 して面白く可笑しく話せばよいとしている。したがって、かれらの口にのぼる熊さん八さんの如き 職人のたぐいは実際この世に存在していなかったとも云い得るのである。多少はそれに似よりの人 物が存在したのは事実であるが、落語家が極力それを誇張して高坐の上で紹介した結果、江戸の職 人といえば直ちに熊さん八さんを連想するようになってしまった。落語家に比べると、講談の方が やや正しいが、これも相当の誇張がある。そういうわけであるから、落語を聴き、講談筆記などを 読む場合には、それを単なる参考にとどめて置いて、それを全部鵜呑みにすることは止めて貰わな ければならない。繰り返して云うが、落語家が紹介するような江戸っ子は、おそらく此の世に実在 していなかったと思われる。  落語などの大部分は、江戸時代に作られたもので、その聴衆もその時代の人間であったから、落 語家がいかに誇張して話しても、どこまでが本当であるか嘘であるかということを聴衆は承知の上 で笑っていたのであるが、時代の隔たった今日になると嘘と本当の境が判らなくなって、自然その 嘘に釣り込まれるようなことにもなる。その点はよほど警戒しなければならない。  さらに又、注意しておきたいのは、江戸にかぎらず、すべての都会人はみなそうであるが、多年 訓練の結果として、言葉の使い分けを自然に心得ていることである。  すなわち一面には非常にぞんざいな、乱暴なインポライトな言葉遣いをすると共に、他の一面に は非常に丁寧な、礼儀正しい言葉遣いをする事に馴らされている。乱暴な言葉と、礼儀正しい言葉 と、こんなにも違った言葉がどうして同一人の口から出るかと怪しまれる程に、あざやかに使い分 けられるのである。熊さん八さんでも、鼠小僧でも稲葉小僧でも、権三と助十でも、いざとなれば 今日の紳士以上の立派な応対をなし得る準備を有していることを記憶しなければならない。  私は曾て「権三と助十」の戯曲を書いた。かれらは盛んに「べらんめえ」式の雑言を連発してい るが、それは彼等が自宅の裏長屋にいる場合だからであって、もしも町奉行所の白洲の場を書いた としたらば、私は決して彼等の口からあんな乱暴な言葉を吐かせないであろう。かれらは大岡越前 守に対して「仰せの通りでござります。委細こころ得て居ります。わたくし共は何事も存じて居り ません。」と云う風に、行儀正しく答えさせるに相違ない。熊さんや八さんは如何なる場合にも 「べらんめえ」であると思ってはならない。  取り分けて、いわゆる悪党と称せられるような人間は礼儀正しいものである。行儀の悪い奴は安 っぽい悪党、木ッ葉野郎として軽蔑されるのである。奉行所において悪党を取調べる際に、被告が 行儀正しく、物の云い方も正しいと、こいつはなかなか手剛い奴だと認めて、吟味の役人らも用心 してかかる。被告の行儀が悪く、物云いも我殺《がさつ》であると、こいつは安っぽい野郎だ、少し嚇かせば 脆く白状するに相違ないと、役人らも多寡をくくってかかる。行儀の好い各人には油断するなと、 古参の役人は新参に教えたということである。こう云うわけであるから、悪党だからと云って、時 を嫌わず、場所を嫌わずに、「そうじゃあねえ」などを無暗に振り廻してはいけない。前の権三と 助十同様、相手次第で「左様でござります、承知仕りました。」と極めて丁寧な物云いをするもの と心得ていなければならない。悪党がすでにこの通りであるから、況《いわ》んや他の善人に於いてをやで ある。  それから武士の言葉であるが、これはちょっとむずかしい。何分にもその階級が多いからであ る。一と口に武士と云っても、そのあいだには種々の階級がある。大別すれば、江戸の武士、徳川 家直参の家来は、旗本と御家人《ごけにん》の二種に分かれていて、御目見得《おめみえ》以上、すなわち将軍の前へ出られ る資格のあるものを旗本といい、御目見得以下、すなわち御目見得のかなわない者を御家人という のであるから、旗本の方が上格であること勿論である。  徳川時代の制度として、一万石以上を大名と云うのであるから、一万石以下、すなわち九千九百 九十九石から、だんだんに下がって、百石に至るまでを旗本格とする。したがって、同じ旗本でも その勤め向きは勿論、その生活様式も全然相違して、少なくも三種に分かれている。第一は百石な いし二百石の貧乏旗本から五百石まで、第二は五百石から千石まで、第三は千石から九千何百石ま でと云うことになるのであるが、第三種に属するものは甚だ少ない。第二種もさのみ多くない。大 抵の旗本はみな第一種に属するのである。  かくの如く、旗本も三種に分かれているから、その生活も違えばその言葉遣いも同様でない。第 三種の千石以上となれば、立派な殿様である。第二種の五百石以上も先ず殿様である。第一種は名 こそ殿様であるが、どうも殿様らしくないのが多く、甚だしいのになると自分の屋敷で賭場を開く などいうのもある。これで大抵その言葉遣いも想像されると思う。  御家人は旗本よりも更にその種類が多く、家柄によって百石以上の家もないではないが、それは 甚だ少数で、まず百石以下と見ればよいのであるから五十石六十石は好い方で、更に下がって、二 十俵三十俵というような小身者もある。その勤め向きもその生活様式も多種多様で、幾種に区別し てよいか判らない位である。それに準じて言葉遣いもまちまちで、武士だか町人だか殆んど区別の つかないようなのもある。  そうは云うものの、多年の習慣で武士の言葉がある。商人と職人は町人の部であるが、その職人 と武士とが一番ぞんざいな言葉を遣う。諸氏の上に在るべき武士が職人同様の言葉を遣うというの は、何だかおかしいようであるが、実際江戸の武士はぞんざいな物云いをする。 「なんだ、べらぽうめ、この野郎。ぐずぐずしていると、引っぱたくぞ。」  こう云うと、まるで裏店《うらだな》の職人の言葉のようにも聞こえるが、これが江戸の武士の日常普通の言 葉である。御家人なぞの軽輩ばかりではない。かりにも殿様と呼ばれるような旗本格の武士もやは り其の通りである。私は若い時に新聞記者であったので、社用で勝海舟伯を氷川《ひかわ》の邸に訪問したこ ともある。榎本武揚子に逢ったこともある。一方は江戸城明渡しの勝安房守、一方は画館戦争の榎 本和泉守、いずれも金看板の江戸の武士であるが、どの人も「なんだ、べらぽうめ」である。殊に 勝海舟などと来たら私たちに対して「あなた」とも「君」とも云わない。すべて「お前」である。 それも話がはずんで来ると「おめえ」になって、「おめえなんぞのような若けえ奴に、江戸のこと が判って堪まるものかよ。」などと云う。これでその平生を察すべしである。  しかし、その武士がいざという時には、忽ちに「なんだ、べらぼうめ」を取り払って「仰せの通 り、左様でござる」に早変わりをする。前にも言ったことであるが、武士でも商人でも職人でも、 このあざやかな早変わりを心得て置かなければならない。「べらぽうめ」に偏してもいけない。「左 様でござる」に偏してもいけない。非常にぞんざいな時もあり、非常に礼儀正しい時もあり、その 場合によって変化自在と思わなければいけない。  武士と職人に比較すると、商人が最も丁寧である。落語などを聴いていても、商人の言葉が一番 写実に近いようである。殊に中流以上の商人の言葉などは頗る丁寧であったらしく、「身分のよい 商人などと話をしていると、こっちが恥かしい位であった。」と、私の父が曾て語ったことがある。 勿論、武士にも種類がある。商人にも種類がある。職人にも種類がある。千差万別、一々穿索し たら際限のないことであるが、まず大体はこんなものであると思えばよい。(昭和七.四.舞台) お 劇の名称  演劇を我が国では一般に「芝居」と云う。しかも江戸時代に「シバイ」と云う人は少ない。知識 階級の人は格別、一般の江戸人は皆誰って「シバヤ」と云っていた。その習慣が東京にまで伝わっ て、明治の初期から中期の頃までは、やはり「シバヤ」と云う人が残っていた。殊に下町の婦人な どにはそれが多かった。  私が二十歳《はたち》の時、ある宴会の席上で一人の年増芸者に逢った。その芸者は私の膳の前に坐って、 芝居の話などしていたが、そのうちに彼女は私の顔を眺めながら突然にこんなことを訊いた。 「あなた、お国はどちら?」 「東京。」 「そうでしょう。そんならなぜさっきからシバイなんて変なことを云うの。あれはシバヤと云うん ですよ。」  叱られて、私は恐縮した。実際、明治二十四、五年の頃までは、柳暗花明の巷《ちまた》でシバイなどと云 うと、お国はどちらと訊かれるくらいであった。それがいつか消滅して、今日では一般にシバイと 正しく云うようになった。今日の芸妓に向かってシバヤなどと云ったら、あべこべにお国はどちら と訊かれるであろう。思えば、今昔の感に堪えない。  そこで「芝居」という名称であるが、これは誰も知っている通り、昔の興行物は演技の場所だけ に舞台が作られていて、一般の観客は芝原に坐って見物していたからである。したがって、芝の上 に居て見物する以上、すべての興行物はみな「芝居」と呼ばれたのであるが、そのうちで演劇のみ が最も発達し、最も隆盛に赴いた為に、芝居という名称は演劇に独占されることになってしまった のである。しかも芝居という言葉は興行物ばかりでなく、戦場にも用いられたらしい。たとえば、 敵の攻撃に対してある陣地を維持するという場合に、「芝居を踏み堪《こた》える」とか、或いは「芝生を 堪える」とかいう。この場合の芝居とか芝生とかいうのは、芝の生えている所、すなわち陣地の野 原というような意味であろう。そんなわけで「芝居」という言葉も昔はいろいろの場合に用いられ ていたのであるが、それが演劇に限られてしまったのは、いわゆる「判官は義経に奪われ、黄門は 光囲に奪わる」の類であるかも知れない。  そこで、今度は戯曲のことであるが、支那の戯曲史については唐に伝奇あり、宋に戯曲あり、金 に院本、雑劇ありという順序で、それが元代に至って大いに進歩して今日に至ったのである。  我が国では演劇の台本を称して、昔は「台本」又は「根本《ねほん》」と呼んでいた。上方《かみがた》では専ら「根 本」と称していたらしい。それが転じて「正本《しようほん》」と呼ぶようになった。江戸末期から明治初年、す なわち瀬川如皐や河竹黙阿弥の時代には一般に「正本」と呼ばれていたのである。それが明治二十 年前後、演劇改良の勢いが盛んになって、かの演劇改良会なるものが朝野知名の政治家、実業家、 学者らによって発起されることになった頃から、在来の「正本」という名称はなんだか古めかしく 感じられるというので、誰が決めたのか知らないが、「正本」の名は「脚本」と改められた。これ は支那で「戯脚」と呼ぶのを模したのである。そうして、竹本の浄瑠璃を「院本《まるほん》」と呼ぶようにな った。  それで先ず二十年間ほども継続して来たのであるが、明治の末期頃から「脚本」は更に「戯曲」 という名称を生んだ。爾来、或いは脚本といい、或いは戯曲といい、両者並び称されて現在に至っ ている。厳密に云えば「曲」という以上、それが歌うベきもののように思われるが、一般に「戯曲」 という言葉が行なわれているので、私なども敢て異を唱えず、まずは世間並に「戯曲」と称してい るが、支那では普通に「戯劇」又は演技と称しているらしい。勿論、古い物は戯曲といい、上海か らは、 「戯曲大全」などと云う書物も出版されている。  戯曲を脚色することを昔は「仕組む」と云っていた。芝居の口上看板にも「新狂言取仕組み御覧 に入れ申候」などとある。それが「脚色」という言葉に変じたのも、やはり明治二十年前後のこと で、かの脚本や院本などと同時代の生まれである。元来「脚色」とは履歴書を作るということであ って、支那ではその昔、初めて官途に就く者は履歴書を呈出する。すなわち何処の出生で、今まで に賞罰をうけた事があるか無いかと云うようなことを明細に書き出すのであって、それを「脚色」 と称したのである。  勿論、最初はその「脚色」を正直に書き出したのであろうが、後には横着な人間もあらわれて来 て、自分の履歴を都合好くこしらえて書き出す者がある。そこで、あいつは巧く脚色したとか、お れも少しは脚色しなければならないとか云うようになって「脚色」とは、「物を作り椿える」とい う意味に転用されるようになった。したがって伝奇や戯曲のたぐいは、当然「脚色」されることに なったのである。支那でも後世に至っては、履歴書はやはり「履歴」といい、それを脚色とは云わ なくなった。そうして「脚色」の名は伝奇や戯曲の上にのみ伝えられ、前にも云う通り「戯脚」な どと云う名称も生まれたのである。こう考えると、脚色の語源はあまり善い意味では無いらしい が、今さら致し方もないのである。支那の「脚色」については猶いうべきこともあるが、先ずこの くらいにとどめて置く。  ついでに云うが、近来の人が往々使い誤っているのは「科白」の文宇である。云うまでもない が、「科」は動作を云い、「白」は言語をいうのである。更にいえば、「科」はシグサで、「白」はセ リフであるから、シグサのみの場合に「科白」といい、セリフのみの場合に「科白」というのは、 みな誤っている。シグサのみの場合は単に科といい、セリフのみの場合は単に白と云わなければな らない。今日一般に用いられている「科白劇」というのは何等の音楽を仮用しない劇を指すのであ って、我が芝居道では「素の芝居」と呼んでいたものである。     (昭和八.一〇.舞台) く 十七年はひと昔  四月の東京劇場には私の旧作「修禅寺物語」と「正雪の二代目」とが上演された。観客は何と思 って眺めているか知らないが、作者自身がこの旧作二種を同時に、同じ舞台の上で見せられると、 そこに一種の感慨がないでもない。  「修禅寺物語」は明治四十二年三月作、明治四十四年五月明治座初演である。「正雪の二代目」は 昭和二年三月作、同年五月本郷座初演である。すなわち前者は今より二十四年前の作、後者は六年 前の作で、そのあいだ十七年を隔てている。勿論おなじ舞台の上で百年も百五十年も隔てている作 物を列べて観ることは珍しくないが、自分一個の作物として観る時は、僅かに十七年とはいいなが ら、その間に於ける劇界の変遷と、自分の作劇の態度の変遷とに想到せざるを得ないのである。  明治の末期、すなわち明治三十年以後、十四、五年のあいだに、劇場以外の作家の筆に成る戯曲 で普通の劇場に上演されたものは、松居松翁君の史劇三、四、山崎紫紅君の史劇三、四に過ぎない。 それがいずれも史劇に限られていたのは、史劇は学問の力が手伝ってどうにか書きこなすことが出 来るが、世話物になるとそうは行かない。舞台の呼吸を充分に心得ている玄人でなければ書きこな す事が出来ない。  もう一つには、劇場側からみて、世話物ならば黙阿弥、如皐、近くは三代目新七、竹柴其水、そ の他の劇場附作者の作物がたくさんに貯えてあるから、別に不自由を感ずるようなことは無い。比 較的に欠乏を感じているのは史劇である。在来の時代物はあまりに史実を無視した荒唐無稽のもの が多いので、今日の舞台には上《の》せにくい。そこで局外者の新作に対しては、いつでも史劇を要求す る。書く者の側でも、史劇を書く方が勝手がいいから専ら史劇に手をつける。そういうわけで、そ の時代に戯曲の新作を試みる者が、殆んどみな史劇作家となってしまったのである。私なども其の 一人であった。  「修禅寺物語」もそういう空気の中に生まれたのであるが、明治時代の観客と昭和時代の観客と は全く其の種類が違っているので、新しい史劇を書く者は余計な苦労をさせられた。誰にしても、 新しい史劇を書くほどの者は、その組立て方にしても、その言葉遣いにしても、在来の時代物や活 歴物の型に外《はず》れている。作者は在来の型を破ろうとして故意にそうしているのであるが、一般の観 客はそう認めてくれない。一途《いちず》にそれを作者の未熟と認める。未熟なるが故に軌道を外れたものと 認める。作者の苦心は結局一種の脱線として一笑に付されてしまうのである。  取り分けてわれわれの窮したのは、史劇のコ言葉」である。云うまでもなく、われわれは努めて 現代語に近寄せようとするのであるが、それでは観客が承知しない。早い話が、何々であると云う 場合に「何々だ」と云うと観客はどっと笑う。要するに「何々で候」とか「何々でござる」とか云 わなければ承知しないのである。笑う位ならばまだ好いが、中には腹を立って「馬鹿野郎」などと 畷鳴る人さえある。そこで、作者も思い切って「何々だ」とは云い切れず、そこを折衷して「何々 じゃ」ぐらいのところで我慢して貰うことになる。万事がこういう始末であるから、作者も困る。 俳優も困る。実に共難儀であった。  「修禅寺物語」の主人公たる夜叉王の一家は職人であるから、比較的自由に現代語を使いこなせ るのであるが、右の事情でそれが自由にならない。殊に頼家などになるといよいよ困る。よんどこ ろなく或る場合には一種のリズムのあるような台詞廻しにしてしまったが、その鶴《ぬえ》式のところを耳 立たないように胡麻かそうとするのに又苦しんだ。今から思えば、実に無駄な苦労をしたものであ るが、それでも上場の暁にどんな結果になるか。観客に笑われるか、観客に怒られるかと、内心頗 る危ぶんでいたのであった。  そんなことを一々書いていては際限がないが、それから十七年のあいだに劇界の形勢は著しく変 わった。その当時は脱線に近い「修禅寺物語」なども、今ではもう古い型になってしまった。それ だけに「正雪の二代目」を書くときは、私も頗る気楽であった。警視庁の許す限りはI今度は検 閲係から少し台詞の改訂を命ぜられたが1何でも勝手なことを書きまくる事が出来た。 もし、かの「修禅寺物語」が初演の当時、この「正雪の二代目」などを上演したらば恐らく一般 の観客は笑うのを通り越して怒るであろう。これは何という芝居だ、あんまり人を馬鹿にするなと か云って、入場料を返せなどと騒ぎ立つかも知れない。伊井蓉峰一座が新富座で森鴎外博士の「仮 面」を上演したときに、観客は騒ぎ立って、こんな芝居をみせて金を取るのは一種の詐欺であると 叫んだ。そういう時代に、「正雪の二代目」などを上演したならば、やはり同じ運命に陥ったであ ろう。  私の「小栗栖の長兵衛」も、「修禅寺物語」時代に立案したものであったが、迂闊に持ち出すと 飛んだ目に逢うと思ったので、約十年間も伏せて置いた。大正九年、もうそろそろ好かろうと思っ て初めてそれに着手したのであった。  こんな事をそれからそれへと追想しながら、今度の東京劇場の舞台を眺めていると、前にも云う 通り、一種の感慨に堪えないのである。               (昭和八.五.舞台)      や 創作上の注意点  「舞台」誌友の投稿のレヴェルがだんだんに高くなって来るのは、喜ばしい事である。古い誌友 諸君はもう足かけ四年の勉強を積んでいる。相当の進境を見るのは当然の事とは云いながら、十年 勉強しても進歩しない者もある。それを思えば、諸君の進歩は、大いにわれわれの意を強うする次 第である。  額出が前号にも書いている通り、「現代物は相変わらずカフェーと、チョッピリした共産党の匂 いを入れたと云ったようなものが多い。」ーそれを必ずしも悪いとは云えないが、いやしくも作 家たる以上、もう少し視野を広くする必要があると思う。  カフェー、バア、アパート、イデオロギー、ー1それが現代生活の全部ではない筈である。誰も 彼も申し合わせたように、同じ場面、同じ題材を繰り返しているのでは、その間に多少の優劣の差 はあっても、結局は異曲同工で、月並的作物である事を免れない嫌いがある。これは注意すべき一。  近来は「朗らか」と云う美名のもとに、他愛のないナンセンス物が流行するが、私は余り喜ばな い。単にだらしの無い、他愛の無い馬鹿々々しいものを、決して「朗らか」などとは云い得ないの である。ナンセンスを決して悪いと云うのではないが、ナンセンスを書く以上、それが文字通りの ナンセンスに終わってはならない。一貫したテーマがなければなるまい。これは注意すべき第二で ある。  額田は又云う。「髭物は多種多様になって来た。」ー1これは確かにいい傾向である。現代物と同 様、同じ場面と同じ題材を繰り返すのはよろしくない。ただ、現代物と違って、髭物はその時代が 広範囲にわたる為に、その時代の生活と云うものを一応研究してかかる必要がある。足利時代と徳 川時代を一緒に取り扱っては、書いた事が嘘になって、イリュウジョンを破る虞れがある。これは 注意すべき三。  最後に最も戒むべきは、現代物と髭物とを問わず、その作品がセンチメンタリズムに堕すること である。これは絶対にいけない。私は昔からセンチメンタルな作品は大嫌いである。近代人はセン チメンタルであってはならない。しかも今日迄見るところ、誌友諸君の作品には有意識又は無意識 のあいだに、一脈のセンチメンタリズムを漂わせているのが多い。これは注意を通り越して、大い に警戒すべきである。私は無意味のナンセンスを批難したが、時代後れのセンチメンタルな作品を 書くほどならぱ、無意味のナンセンスを書いた方が、まだしも優しであると思うくらいである。  私は外国映画を多く観ていないので、はっきりした事は云えないが、外国製の映画にも同式のセ ンチメンタリズムに新しいヴェールを被せたような作品が相当にあるらしい。古い革嚢《かわぷくろ》に新しい酒 は盛れないと云うが、新しい革嚢に古い酒を盛ったのはなお困る。劇作修業の一つとして外国映画 をみるのは、勿論差支えないが、知らず識らずに釣り込まれてはならない。革嚢の新しいのに眼を くらまされて、その酒の新しいか古いかを丁寧に吟味することを忘れてはならない。  まだ、申し上げたい事もあるが、今度はこれだけに止めておく。    (昭和八.八.舞台) ま 劇作家の悲哀  本誌十月号に吉田君の「独白」という文章が掲載されている。額田も「十月のノlト」に同じよ うなことを書いている。いずれも劇作家の悲哀を訴えたものである。一読、まことに同情に堪えな い。  しかもそれが吉田君一個の述懐であり、額田一個の愚痴であるならば、ひそかに同情するだけで 済ませてもおくが、世間多数の劇作志望者のうちには、両者と同様の嘆を洩らす人が少なくあるま いと想像するにつけて、私はいささか自分の見解を述べたい。  私は両者に同情すると云った。自動車を買いたい。多額の上演料を貰いたい。観客が作家の苦心 を認めてくれないーそれらの述懐も愚痴も諒とするに吝《やぶさ》かなるものでないが、その以外に作家は 「作ることを楽しむ」の襟懐が無ければなるまいと思う。若しその「楽しみ」が無いならば、おそ らく作家の愚痴も述懐も永久に消滅する時節はあるまい。なぜならば、劇作家が自動車を買い得る とか、一般の観客が劇作家の苦心を認めてくれるかと云うような時代は容易に出現しそうもないか らである。  芸術は自己満足である。-それは古い文句でありながら、やはり永久の真理であらねばならな い。今時そんなことを云っていては遣り切れないと云うかも知れないが、少なくもペンを握ってい る間だけは「他の仕事に換えられない」程の愉快と興味とを持続しなければならない。自動車や、 上演料や、観客の認識や、一々そんなことを考えていた日には、とてもペンを走らせていられるも のでは無い。ペンを持つことも単に一種の労働に過ぎないと云えば云われるが、吉田君も額田もそ の意味で議論をたてているのではあるまいから、悲哀は悲哀、愚痴は愚痴として、もう少し自分の 仕事を楽しむの心持ちを養って貰いたい。これは両者ばかりでなく、他の人々にもお願い申して置 くのである。  もう一つ、これも両者に対してのみ云うことではないが、一応こころ得て置くべきは、一般の作 家又は作家希望者が外国の作家の境遇をあまりに高く買い被っていることである。外国の作家とて も決してその全部が恵まれているのではない。むしろ恵まれない境遇に置かれている者が多数を占 めていることを記憶しなければならない。  新聞や雑誌に外国の作家なにがしが多大の印税を受け取ったとか、原稿料を貰ったとか、云うこ とが折りおりに報道される。それを見ると、なるほど外国の作家は偉いものだ、羨ましいものだと も思われるのであるが、それは一流の作家か、あるいは特に大当たりを取った作物の場合で、それ が珍しいことであればこそ新聞雑誌にも報道されるのである。たとえば某夫人が十万ドルのダイヤ モンドの指環を買ったという新聞記事が現われたとする。それは外国でも珍しい事であるから新聞 の材料となるのであって、単にその一例をみて、外国婦人はみな金持ちであると思ったらとんだ間 違いになるであろう。外国婦人にも三度のパンさえも満足に食えないのがたくさんある。  それと同じことで、外国の作家とても金満家の叔母さんでも持っていない限り、大抵は家根裏の 哀れな生活に悩んでいる事を知らなければならない。一流の作家や人気作者の生活を標準にして、 どの作家もみんなそんなものかと思ったら、十万ドルのダイヤモンドの例に洩れないことになる。 昨年五月の舞台誌友大会席上で、松|居松翁《しようおう》君が「金儲けの道」という題名のもとに、金儲けをする には劇作をするに限るというような講演を試みたそうである。その時わたしは病気の為に欠席した ので、どんな話であったか知らないが、おそらく松居君一流の皮肉もまじって、外国の偉い作家や 当たり作などの例を引いて、誰は何万ポンドを儲けたとか、誰は何十万ドルを稼いだとか吹聴した のであろうと察せられるが、それは特殊の例で、柳の下にいつも泥鱈《どじよう》は居ないと思わなければなら ない。  私が先年ホリー・ウードヘ行った時に、シナリォ一編の原稿料はどの位かと訊いたらば、まず百 六十ドルぐらいだという事であった。電車の車掌も二百ドルの月給を取るのに、シナリオ一編百六 十ドルは廉すぎるではないかと訊き返したらば、その作家が大いに売り出して映画会社の方から特 に依頼するようになれば格別、普通の持ち込み原稿では大抵そんなものであると聞かされて、いず こもおなじ秋のゆうぐれと私は嘆息したことがある。  そんなわけであるから、みだりに他を羨んではいけない。他を羨むと、自然に不平が大きくな る。物質上の問題ばかりでなく、観客の認識の問題もほぽ同様ではあるまいか。ロンドンのまん中 でもイプセン劇は一週間で没落し、チュウ・チン・チャウのような芝《ハエ 》居は三年越しの上演を続け た。どこへ行っても、作家の天国は設けられていないらしい。そこで繰り返して云う、いずこも同 じ秋のゆうぐれーまあ、そのつもりでお互いの仕事を楽しもうではありませんか。                                  (昭和八・十一 ・舞台) け野崎村懐旧  妙な標題を掲げたようであるが、実は舞台十月号に岸井良衛が「近頃の憂欝の原因」と云う題の もとにこんなことを書いていた。 「野崎村のお光を見て、現代の人は同感しないと思う。」  まことにご尤もである。私は大正の初年にそう考えた。そこで某婦人雑誌に「西洋の野崎村」と 題して、目本の「野崎村」と、スタンレー・ホートンの「ヒンドル・ウエークス」とを比《ハエ 》較して、 今後のお光は後者の女主人公のように改作されるであろうと論じた。  それから二年ほどの後、ヒンドル・ウエークスは坪内|士行《しこう》氏に因って翻訳され、「村の祭」とい う題名で有楽座に上演された。私は勿論面白く見物した。しかも世評は余りよろしくなかった。そ の女主人公を評して、一種の冷評的の意味を含んだ「新しい女」と認めた。  それから間もなく、額田六福が「後日の野崎村」を発表してこれも有楽座で上演された。ヒンド ル・ウエークスほどに積極的の物ではなかったが、一時的の感激と興奮とで久松と別れ、尼となっ てしまった後の、お光の悔恨と懊悩とを描いたもので、要するに野崎村のお光に対する一種の批難 であった。これも世評はよろしくなかった。  私の「野崎論」も、坪内氏の「村の祭」も、額田の「後日」も、みな問題にならないのを見て、 わたしは観念した。 「時がまだ早い。」  爾来、ほとんど二十年の歳月が流れた。その間に世態人情の著しく変化したのは云う迄もない。 岸井が今更そんなことを論ずるのは時すでに晩《おそ》しの感がある。  と云いかけて、待て暫し……私は更に思い直して、岸井に斯う呼びかけた。 「君、そんなことを云ってもいけない、時がまだ早いよ。」  劇場の興行者は作者に向かって、「ウンと泣くものを書いてくれ。」と頼んでいるではないか。映 画の当事者は、「大当たりを取るのは新派悲劇に限ります。」と唱えているではないか。実際、一般 の観客は野崎村、又は野崎村類似の狂言に対して、惜し気もなしにハンカチーフを湿《ぬ》らしているで はないか。  二十年の歳月は短いようで長い。その前と後とを比較対照して、私は徒らに今昔の感に堪えない ばかりである。野崎村のお光が久松に向かって、 「お前のような男はこっちで断わる。私は大阪に行って独りで働く。」  こう云い切っても観客が驚かない時代は、いつ来るであろう。哀れなる岸井良衛よ、まず当分は 憂欝であれ。                          (昭和九.+二.舞台) ふ 明治時代の女形  明治初期の女形といえば、まず第一に岩井半四郎(八代目)を挙げなければなるまい。彼は七代 目半四郎の実子で、初めは粂三郎といい、明治五年二月に八代目を襲名し、同十五年二月十九日に 五十四歳を以て世を去ったのである。  明治十五年はわたしの十一歳の時であるから、私も彼の舞台を多く観ていないが、わたしの幼い 記憶によると、かれは上品な美しい容姿を具えていたが、その音声はやや鐵枯《しやが》れたような低い調子 で、大体に於いて活気に乏しい舞台であった。老人たちの話を聞いても、その当たり役というのは 押出しの立派なことを唯一の条件という役々に限られていて、単に技芸の点に於いて好評を博した ものは少なかったようである。したがって、彼が粂三郎と呼ばれた青年時代も、門閥と美貌とに因 って常に好い位地に据えられていながらも、その人気は田之助、芝翫《しかん》、権十郎(後の九代目団十 郎)、羽左衛門(後の五代目菊五郎)等に及ばなかった。  彼が美貌であったという例として伝えられたのは、彼が十六夜《いざよい》に扮した姿をみて、清心《せいしん》を勤める 小団次が「あの女なら堕落しても好い」と云ったことである。その小団次も雪の下のゆすり場にな って、+六夜が肩にかけていた手拭をいつまでも外さないのを観て、「手拭は肩に縫い付けてある 訳じゃあるめえ」と云ったそうである。これに因っても、小団次は一面に彼が容貌《きりよう》の美を讃嘆しな がら、一面にはその技芸の拙を嘲笑していたことが判る。半四郎は個人としても、極めて温厚な、 遠慮深い人物で、めったに役不足などを云ったことが無かったと伝えられているから、その人物と しての美点が舞台の上には一種のわずらいをなして、とかくに活気の乏しい、なんとなく陰気な感 じを与えることになったのであろう。  そうは云っても、舞台の上の押出しは彼に及ぶものが無かったので、その当時の諸名優も甘んじ てその相手になっていたものと察せられる。明治の初年に彼の舞台をみた某外国人はあくまでも彼 が真の女であることを主張し、幾らでも金を賭けると云ったそうであるから、彼の美貌が晩年まで 衰えなかった事もまた察せられる。半四郎以後、半四郎無しと称せらるる所以《ゆえん》はここにある。  その次ぎは沢村田之助(三代目)であるが、彼はしょせん江戸末期の人で、明治以後は手をうし ない、足を失い、わずかに昔日《せきじつ》の人気を以て舞台に立っていたのであるから、明治十一年七月を以 て世を終わるまで、思わしい活動は出来なかったのである。私は田之助の舞台を一度も観たことが 無いので、なんにも知らない。  田之助の死と同年の五月に、市川門之助(五代目)も五十八歳を以て世を終わった。彼は三代目 中村仲蔵と共に故実家として知られた名優で、団十郎の地震加藤に対する幸蔵主《こうぞうす》の如きはその傑作 と称せられている。彼は「千両幟」で稲川の女房を勤めた時、「相撲取りを男に持ち」のサワリの 間、なんにもせずに櫛道具を片付けていて大いに好評を博したと伝えられるのを見ると、やはり渋 い芸風の人であったらしいが、この人に就いても私はなんの記憶もない。  半四郎以後、頭角をあらわした女形は源之助、福助(後の歌右衛門)、梅幸らであるが、これら の人々は誰しもよく知っていることで、改めて紹介するまでもない。そのほかには、国太郎、松之 助、秀調、多賀之丞、女寅などがある。  河原崎国太郎-やや陰気な芸風であったが、舞台顔も卑しからず、年の若いくせに年増役を得 意としていた。時代、世話どちらにも向く人で、団十郎菊五郎の相手も勤めていたのである。元来 が寂しい質《たち》であるので、浪人の女房とか、貧家の女房とか云ったような、哀れっぽい役廻りで好評 を博していた。たとえば「新皿屋敷」で魚屋宗五郎の女房、「今文覚」で浪人萩原良作の女房、「鵜 |飼瞭《がいのかがりび》」で米屋の女房というたぐいで、殊にこの米屋の女房は亭主に捨てられて俄か盲になり、子 供をつれて甲州の身寄りへ尋ねていくというお説え向きの役廻りであるだけに、始終上出来で、笹 子峠下の安泊まりで菊五郎の芸妓小松に逢い、亭主をだました女とも知らずに身の上話をする処 は、見物がみな泣かされた。「四千両」では富蔵の女房、いつでも見物を泣かせる役廻りは此の人 の受持ちで、舞台に国太郎の顔が見えると、時の鐘、床の浄瑠璃になるというのがお定まりであっ た。そういう風であるから、「扇屋」の桂子《かつらこ エ 》などは当人も迷惑、観客も迷惑の方であった。しかし 同じ竹本劇でも、芝翫の「五斗《ごとう》」で関女を勤めた時などは好評で、中途から病気引きをして岩井松 之助が代り役を勤めたが、鉄砲の件りは色気があるので松之助が勝、それまでの処は国太郎が勝と いう評であった。以てその芸風を知るべしである。  国太郎の舞台の寂しかったのも、元来病身の為でもあったらしい。彼は常に胃病に悩んでいたそ うで、明治二十年の七月、市村座で「先代萩」と「伊勢音頭」を上演した時、かれは政岡とおこん を勤め、殊に政岡は好評であったが、興行半途にして病いに什れた。年は三十八歳、これからと云 う働き盛りを惜しいことであった。晩年は専ら市村座に出勤していたのである。  尾上多賀之丞ー尾上菊次郎の養子だそうで、家柄のせいもあろうが、明治初年にはあっぱれの 並ザ鱗役者で、団十郎の「金看板の甚九郎」で女房をつとめ、団十郎の「切られ与三郎」でお富を 勤めていたくらいであるが、柄の好いにも拘らず、調子に一種の癖があって、なんだか鳥の鳴くよ うにも聞こえるので、ある観客には嫌われていた。そうは云っても、半四郎に対抗する女形として は、まず多賀之丞を挙げなければならないのであったが、北海道へ巡業に行ったのが不運の始まり で、借金のために容易に帰京することが出来ず、旅から旅を幾年か流浪した末に、明治二十六年の 六月久しぶりで、市川九蔵(後の団蔵)と共に浅草座に出勤し、「熊谷陣屋」の相模と「弁慶上使」 のおわさなどに扮したが、旅廻りのあいだに頗る健康を害したらしく、舞台の上にも昔日のおもか げ無く、多賀之丞も薯《オま》けたようだなどと云う不評のうちに一年ほどを送って、それから又どこへか 旅かせぎに出てしまった。聞くところに拠ると、六年後の明治三十二年六月、加賀の金沢で興行中 に世を去ったそうである。その末路の悲惨であったことは想像するに難くない。一  岩井松之助  これも一方に雄視した女形で、団十郎の岩藤でお初を勤め、菊五郎の加賀鳶でそ の女房を勤めたほどの役者である。小肥りに肥った丸顔の人で、上品な役には余り向かない方であ ったから、菊五郎の敦盛に対する玉織姫などは不評であったが、色気のある世話物の女形などには 一種妖艶の趣があって、いつも好評であった。女形に似合わない大酒で、楽屋でも常に冷酒を岬っ ているという風の人物であったので、自然に大歌舞伎から遠ざかって第二流の劇場へ出勤するよう になってしまった。晩年は専ら地方巡業に出廻っていて、明治三十九年頃に北海道の旅先きで脳溢 血のために急死したと伝えられた。やはり大酒が禍いをなしたのであろう。多賀之丞といい、この 人と云い、女形にはとかくこうした運命の人が多いようである。  坂束秀調-単に技芸の点から云えば明治時代における第一の女形であったかも知れない。彼は 名古屋の生まれで、田舎廻りの役者から市川小団次の弟子となって、初めに米丸といい、さらに米 十郎とあらため、明治七年、二十八歳のときに初めて上京し、守田勘弥の弟子分となって坂東秀調 と改名したのである。沢村田之助が初めて彼を見た時に、あとで傍らの人に語って、「あれで女形か。 瓢箪を逆さにしたような奴だな。」と云ったとか伝えられる。その真偽は別として、ともかくもそ んな噂が伝えられているほどに、彼は女形として不適半な容貌《をしりよう》の持ち主であった。音調も低くて、 かすれ勝ちであった。背丈も低かった。  こうした種々の不利益に打ち勝って、彼はついに団菊左の相手方として唯一の女形となったので あるから、如何にその技禰の優れていたかを察し得るであろう。彼はどちらかと云えば、.一番目物 よりも一番目物が得意であった。その柄から云っても、当然女房役であった。しかし彼はその当時 人気盛りの福助の十次郎に対して初菊を勤め、三浦之助に対して時姫をつとめ、常に好評を博して いたのは、まったく技芸の力であると云ってよい。容貌のせいでもあろうが、彼は舞台の上にちっ とも愛嬌がなく、いつもツンと取り澄ましているように見えたので、ある一部の観客からは高慢の 批難を受けたが、たとい高慢であろうが無かろうが、どの役々も殆んど仕損じが無いのであるから 仕方がない。「合邦」の玉手御前、「阿波の鳴門」のお弓などは、実に模範的の出来であった。  明治三十四年九月、彼は五十五歳を以て世を去った。  次ぎは市川門之助1これは比較的に新しいから、記憶している人々も多いであろう。彼は明治 十八年、かの鳥熊の芝居を春木座で興行した時に、その一座に加わって大阪から上京したのであ る。先代右団次の弟子だそうで、市川福之丞と云っていたが、明治二十二年から団十郎の門に入っ て市川|女寅《めとら》とあらため、師匠にしたがって常に歌舞伎座に出勤していた。容貌は先ず普通で、調子 も上方風の粘り勝ちであったが、団十郎門下にはそのころ適当の娘形がなかったので、彼は次第に 昇進して、「春雨傘」の薄雲を勤め、「大森彦七」の千早姫をつとめ、ついに一廉《ひとかど》の女形となった。 団十郎の一座にある関係上、しばしば活歴物にも出演したが、上方出の人だけに竹本劇が最も得意 であった。殊に晩年まで娘形をその本領としていた。  彼は明治四十二年六月、五代目門之助の名跡を継いで、歌舞伎座でその披露をした。そのときの 出し物は伊原青々園氏作「出雲の阿国」であった。以来、やはり歌舞伎座に出勤して、大正三年六 月、五十四歳を以て興行中に世を去った。  明治時代の女形はこれで語り尽くしたわけではない。そのほかにもまだたくさんあるので、更に 思い出すがままに二、三を紹介する。  岩井しげ松lI半四郎の弟子で、京都の生まれだそうである。わたしは勿論その若いときを知ら ないが、大柄の上品な女形で、専ら老役《ふけやく》を得意としていた。どの辺の位地の人であったか知らない が、老役ならば大抵の名優の母になっていたのも不思議である。明治二十五、六年頃に七十歳前後 で死んだ。  中村富十郎lこれは大阪の生まれで、初めは中村梅太郎といい、かの市川女寅らと共に春木座 の鳥熊芝居に買われて来たのである。爾来東京にとどまって、明治二十三年に富十郎と改名し、後 には歌舞伎座にも出勤して、団十郎の「岡崎」の幸兵衛にその女房を勤めた。やはり竹本劇を得意 とし、容貌も調子も悪くなかったが、女形としては何分にも大兵《たいひよう》であったので、十分に発達するこ との出来なかったのは気の毒であった。明治三十四年二月、四十三歳を以て世を終わった。その子 が当代の団右衛門である。  岩井小紫-これも半四郎の弟子で、新富座時代には有望の若女形として知られていた。かの 「霜夜鐘」のお嬢お兼に扮して、池の端で清元の口説きを演じていた頃が其の売り出し時代で、一 時は半四郎の後継者などと噂されたくらいであったが、これも旅廻りに姿をかくして数年のあいだ は消息なく、明治二十二年帰京して中村座の三月興行に出勤し、団十郎の「琵琶の景清」で源之助 らと共に三人上戸の女|仕丁《しちよう》を勤めたが、昔とは見違えるように素枯れてしまって舞台にも活気が無, く、その後も思わしい役が付かないで、いつか二流の劇場に落ちて行ったが、やがてまた東京から 姿をかくした。  明治三十二年の四月、わたしが川越の喜多院の桜を観にゆくと、町の小さい芝居小屋の看板に東 京歌舞伎俳優岩井小紫の名を発見した。かれはここで「先代萩」の政岡と、「五斗」の関女を勤め ているらしかった。彼が最初の勢いで順調に進んで行ったらば、今頃は東京の大歌舞伎でもこの位 の役を勤めているであろうと思うと、私は一種の暗い心持ちになって折りからの細雨《こさめ》のなかに立っ て、しばらく其の看板をながめていたことを記憶する。そんなわけであるから、私はその終わると ころを知らない。彼も所詮は多賀之丞や松之助らとおなじ運命を辿ったのであろう。  あまりに長くなるから、先ずこの位にとどめて置く。       (昭和五・七・演芸画報)      こ 団十郎を語る  九代目市川団十郎のことは、私はこれまで新聞雑誌にしばしば書いているので、今度の追遠《ついえん》興行 に際しても、特にこれぞというべき所感もない。ただ、三十年の月日のあまりに早いのに驚かるる ばかりである。  もう一つ驚かるることは、この十一月の歌舞伎座における三十年追遠興行が予想以上の好成績を 収めて、日々割れ返るほどの大入りを占めていることである。その狂言の列べ方をみると、高時の 天狗舞、勧進帳、助六、忠信のたぐい、近来幾たび、舞台の上に繰り返されるものが大部分を占め ていて、特に今度の興行に限られたものは、三升《さんしよう》の「解説」と翠扇の「団十郎娘」に過ぎない。そ れでこれほどの観客を吸い寄せるというのは、もちろん劇場側の宣伝や運動も手伝ったのであろう が、いずれにしても素晴らしいものである。  俳優の顔揃いということも其の原因の一つに数えられるであろうが、たといこれだけの俳優が顔 を揃えても、それが普通の興行であった場合には、おそらくこれだけの好成績を挙げ得なかったで あろうと思われる。要するに「団十郎」という名がおのずからに観客を惹き付けたのである。死後 三十年、しかも刹那に消えてゆく舞台芸術の所有者にして、かくの如く万人に尊敬せられ、追慕せ らるるのは、他にその類例が少ないと云ってよい。  その団十郎について何事かを語るべく注文されたのであるが、今度の追遠興行に際して団十郎に 関する断片的の談話は、諸人の口によって巳《すで》に各新聞雑誌にも発表されている。私も断片的記事に ついては種々の材料を持っている。しかも翻って考えると、今日の若い人たちは一と口に団十郎と いうけれども、特殊の研究家を除いては、団十郎というのはどんな経歴の俳優であるか、どんな芸 風の俳優であるかを良く知っている人は少ないようである。  したがって、ここでは断片的の追憶談や批評のたぐいを語るよりも、終始一貫して団十郎という 名優の輪郭を説明した方がよいかと思う。平たく云えば「団十郎早わかり」というような物を語り 出すつもりであるから、そう思って読んで貰いたい。  団十郎は今から九十四年前の天保九年三月、七代目市川海老蔵の子と生まれた。十二人の兄弟の うちの五男で、母は海老蔵の妾おためというのである。五歳のときに河原崎座の座元河原崎権之助 に所望されて養子となり、弘化二年三月、八歳にして初めて舞台を踏んだ。幼名の長十郎をそのま ま芸名として、河原崎長十郎と称していたのであるが、嘉永五年、十五歳のときに権之助の一字を 取って権十郎と改めた。それは時の十二代将軍に男子出生して、長吉郎と命名されたので、その当 時の慣例として長の字を揮って改名したのである。へ  養父の権之助はその時代の芝居道には珍しいと云われるほどの、気むずかしい、理窟っぽい人物 で、あだ名を神主さんと呼ばれていたそうである。そういう人物であるから、彼は養子の権十郎を 寵愛すると同時に、その教育は非常に厳重であった。まず浅草馬道の手跡指南森田藤兵衛に就いて 読書羽目字を修業させ、土佐派の画家|花所隣春《かしよちかはる》について絵画を学ぱせ、舞台上に必要な舞踊、浄瑠 璃、琴、三味線は勿論、生花、茶の湯のたぐいに至るまで残りなく稽古させた。  それがために、長十郎の幼年時代より権十郎の少年時代にわたって、団十郎はほとんど朝から晩 まで息をつく暇がなかったと伝えられる。少しぐらいの病気では権之助は容赦しないで、怠けては ならぬと叱り付けて稽古に追い出すという始末。それでも団十郎は素直に勉強していた。しかも権 之助の育て方があまりに厳酷であるというので、周囲の者はみな団十郎を欄れんだ。いかに修業が 大切だと云っても、遊び盛りの子供に殆んど半時の暇もあたえず、それからそれへと追い廻すのは 余りに苛酷であるという噂がしきりに伝えられた。  海老蔵の弟子たちも見るに見かねて、それを師匠に訴えた。あのままに捨てて置いたらば若旦那 は責め殺されてしまうであろうと云うのである。海老蔵もそうかも知れないと思った。しかし一旦 他家へやった以上、いかに実父でもみだりに口出しをすることは出来ない。殊にその当時は座元の 威勢が甚だ強いのであるから、座元の権之助に対して迂闊なことを云うわけにも行かない。それで も或るとき権之助にむかって、海老蔵は冗談のように云った。 「あなたは長十郎をよく仕込んで下さるそうですが、あんまり仕込み過ぎて、今に責め殺すかも知 れないという噂ですよ。」  それに対して、権之助は綴然として答えた。 「成程そうかも知れません。その代りに、もし責め殺されずに生きていれば、屹とあなたよりも好 い役者になります。」  海老蔵も苦笑して黙ってしまったと云う。権之助の予言あやまたず、果たして実父以上の名優と なり負《お》おせたのであるが、その当時に於いては権之助の厳酷な教育法に対して、反感を懐く者が頗 る多かったと云うことである。団十郎も後年は人に対して「これも養父《おやじ》が仕込んでくれたお蔭で す。」と云っていたが、その当時はなんと思っていたか判らない。いずれにしても、彼はおとなし く養父の命令に服従して、他念なく勉強していたのであった。  しかし舞台の上では座元の伜、いわゆる若太夫であるから、少年時代から優遇されて、興行ごと に相当の役も付き、観客にもまた認められて、やがて花形役者の一人となった。そうして、若い婦 人客のあいだには「権ちゃん、権ちゃん」と騒がれるようになったのであるが、養父の監督が依然 厳重であるのと、本人自身の性格とに因って、かかる青年俳優にあり勝ちの艶名を謳わるるような 出来事は絶無であった。  青年時代における彼の芸風について一般に伝えらるるところによると、彼が観客に認められ、婦 人らの人気を博したのは、その家柄と其の容貌《きりよう》とに因ったのであって、舞台の芸は別に賞讃すべき 程のものでは無かった。一部の見巧者からは大根役者と嘲けられていたと云うことである、後年に はあれほど雄弁の俳優となったが、青年時代の彼は弁舌がよくなかった。何だか舌の長いような台 詞廻しで、とかくに聴き辛い場合が多かった。殊にその時代の青年俳優のあいだには、坂東彦三 郎、中村芝翫、沢村田之助、市村羽左衛門(後の五代目菊五郎)のごとき花形役者が大勢控えてい たので、権十郎の名声は彼等に圧倒され勝ちであった。勿論、将来の彼が日本随一の名優になろう などと期待している者は、ほとんど一人もなかったのである。  彼は三十歳にして東京の人となった。江戸時代における半生の修業が、明治時代に入って大いに 其の効果を発揮したわけである。しかも其の年、すなわち明治元年九月二十三日の夜に養父権之助 をうしなった。維新当時に流行せる浪人組の強盗六、七人が今戸の宅へ押し込んで来て、金百両を 奪った上に、主人権之助を殺害して立ち去ったのである。その夜、権十郎も在宅したのであるが、 他の家族らと共に二階に隠れて、わずかに難を免れたという。思えば危《あぶな》いことであった。  養父の残後、当然の結果として彼は河原崎権之助の名跡を継ぐこととなった。芸名もその通りに 改めて、俳名を三升《さんしよう》と号した。  この頃から彼はその団十郎らしい芸風をおいおいに発揮して、好劇家を刮目《かつもく》させることになった のである。明治二年三月の市村座における「勧進帳」の弁慶、同年八月の市村座における「地震加 藤」の清正の如き、三年五月の市村座における「一の谷」の熊谷のごとき、他に比類無しという好 評を博した。彼はもう「権ちゃん」などの人気を頼まずに、一個の大立者《おおだてもの》として舞台を闊歩するよ うになったのである。聞くところによると、かの「権ちゃん」時代にも、その贔慣はいわゆる御殿 女中の婦人たちに多く、町家の女たちには比較的に人気が薄かったと云う。それに因っても、彼の 芸風が大かた推知せらるるのである。  明治六年九月、権之助はその俳名を芸名として、市川三升と改めた。八代目団十郎は早く死ん で、劇界に市川の家名漸く衰えんとして来たので、それを復興する一着手として先ず市川三升と名 乗ることになったのである。前にもいう如く、その技芸は年を逐うて進歩して、彼こそは九代目団 十郎を相続すべきものと世間一般から認めらるるに至ったので、その翌七年の七月、芝の新堀に河 原崎座を建築すると同時に、養家の河原崎権之助の名跡を親戚の山崎福次郎に譲り、自身は市川家 に復籍して、ここに初めて九代目団十郎を名乗ることになった。その河原崎座新開場の狂言は一番   しんぶたいいわおのくすのき               そでがうらこいのみちゆき 目「新舞台巌楠」中幕コ谷徽軍記」ワキ狂言「寿二人狸々」二番目「袖浦恋紀行」であった。  好劇家の語るところによれば、団十郎の「活歴」なるものは先ず此の頃から芽を吹き始めたので あると云う。この狂言の一番目に団十郎は児島|高徳《たかのり エ 》を勤めていたが、例の桜樹に詩を題する場で、 彼は鎧の上に蓑を着て出で来たり、無言で桜樹に詩を題し終わると、上《かみ》のかたより沢村訥升の千種 中将忠顕が窺い出で、たがいに顔をみあわせて無言で幕。要するに徹頭徹尾無言劇で、一種の活人 画ともいうべきものであったので、その当時の観客は煙《けむ》にまかれた。団十郎は大いに新機軸を出し たと称して、頗る得意であったと云うことである。  今日の芸術観を以て、いたずらにこれを幼稚浅薄と評してはならない。時は明治の初年である。 在来の作劇術から云えば、児島高徳はここで何かの述懐の台詞があるか、或いは行在所《あんざいしよ》に対してよ そながら苦衷を訴うるの台詞があるか、或いは警固の番卒らが彼を捕えんとするので立ち廻りがあ るか、所詮はもう少し芝居らしい段取りがあるべき筈である。私はこの狂言の原作を読んでいない が、おそらくまだ何かの筋立てがあったのを、団十郎が一切省略してしまったのであろうと察せら れる。その善悪はしばらく措いて、この時代の舞台の上にこれだけの事を敢然断行するの勇気ある ものは、団十郎以外に求め得られなかったのである。  これに限らず、彼は当時の観客が理解すると否とを問わず、感服すると否とを問わず、自分が好 しと信じたことは勇敢に遂行するのを常とした。彼は他人に引き摺られず、他人に征服されず、常 に他人を引き摺って行き、常に他人を征服しようと試みていたのである。団十郎は傲慢であるなど と一部の誤解を受けたのもこれに起因するのであるが、一代の名優としては、かくあるべきがむし ろ当然であろう。  河原崎座の興行成績はよくなかった。その後ともかくも興行をつづけてはいたものの、負債は次 第に嵩んで来て、団十郎は東京に身を置くことが出来なくなった。よんどころなく地方廻りなどを していたが、これとても余り思わしくなかったので、東京へ帰って来ても自宅に入ることが出来 ず、他人の家に身を潜めているという始末で、ここ四、五年問は彼が貧乏の絶頂であった。いくら 働いても借金に責め立てられるので、舞台の上では常に好評を博していながらも、その生活の内状 は実に悲惨であったと、今も劇界の語り草に残っている。団十郎といえば、大名のような豪著な生 活をしていたと早呑み込みをしてはならない。彼が芸術の上では最も得意の時代というべき新富座 時代ですらも、彼は菊五郎らと共に座主守田勘弥の借金の連借人に署名していた関係上、常に債鬼 の迫害を蒙っていた。彼がどうやら其の苦患《くげん》を逃れて、ともかくも団十郎らしい生活を営み得るよ うになったのは、最後の十二、三年に過ぎないであろう。仮りにも市川団十郎と名乗る以上、まさ かに裏店《ろらだな》にも住んでいられないから、相当の門戸を張り、自家用車にも乗り廻していたが、その内 証はいつも火の車であったのである。  明治九年の五月、彼はその貧困と闘いながら、中村座で「重盛諌言」を演じた。普通、演劇史の 記録によれば、団十郎の「活歴」はここに始まると云うことになっている。田村成義翁の『続々歌 舞伎年代記』には「この諌言場はすべて平家物語にならひ、河竹(黙阿弥)が筆を執り、況んや就 中などと雅俗混渚のせりふを用ひ、見物を姻に巻きたるものなり」とある。その当時の観客は皆こ んな風に眺めていたのであろう。明治十一年十月、新富座の中幕に「二張弓千種重籐《にちようのゆみちぐさのしげとう》」を上演し た。やはり黙阿弥作の史劇で、斎藤実盛が木曾義仲の身代りに秩父重能の伜の首を受け取ってゆく という筋であるが、このときに彼は実盛を勤めて、立烏帽子、水干、大口袴、附髭という扮装で舞 台にあらわれた。在来の例によれば、これらの役は神又は長神であるべく予想されていたのに、彼 が立烏帽子水干の姿で出て来たのを見て、いずれも意外の感に打たれた。或る者は神主のようだと 批評した。或る者は団十郎の悪い道楽だと批難した。  いわゆる「活歴」なる名称はこの時に始まったのである。その名付け親は仮名垣魯文で、彼はそ の主宰する仮名読新聞に実盛の劇評をかいて、それを活歴と呼んだ。活きたる歴史ともいうべきを 活歴の二字に省略したのである。しかもそれは一種の冷評的の新熟語で、あんなものは芝居という べきものでは無い、単に歴史を活かして見せるに過ぎないという意味で、魯文は勿論この実盛の演 出に対して反感を懐いていたのである。それに共鳴する人々は、いずれも「活歴」という新熟語を よろこんで用いた。それがだんだんに世間に拡まって、在来の型を破った団十郎式の新史劇をすべ て活歴と呼び慣わすことになったのである。  そういうわけで、いわゆる「活歴」なる名称は好意を有する言葉ではなく、一種の嘲笑または冷 笑の意を含んだものであったが、それが年月を経るにしたがって、好意でもなく、悪意でもなく、 単に一種の名称に過ぎないことになったのである。その当時、それらの冷評悪評が団十郎の耳に入 らない筈はなかったが、前にもいう通り、彼はそれらに一向頓着せず、敢然として自己の信ずると ころを遂行していた。  今日《こんにち》から観れば、団十郎の活歴には種々の議論もあろう、種々の批難もあろう。魯文の冷評がむ しろ正当で、団十郎の活歴は単に歴史を活かして見せるに過ぎなかったかも知れない。しかも在来 の荒唐無稽の時代劇を一新して、写実風の新史劇を創造せんとした彼の創意と努力とは、十分に認 識すべきである。人問は概して保守的のものであるから、新しい試みは先ず批難を浴びるものと覚 悟しなければならない。殊に明治の初年に於いて、まかり間違えば自己の声価を失墜し、自己の位 地を傾けるかも知れない危険を冒して、活歴風の新史劇に通進した団十郎の勇気は、確かに賞讃と 尊敬に値すると思われる。烏帽子をかぶったり、髭を付けたりするのは、団十郎の道楽であったな どと云い伝えるのは、あまりに不真面目の説である。  誰が何と云っても、団十郎の「力」には敵し得なかった。その活歴の新史劇が「仲光」となり、 「高時」となり、「伊勢三郎」となり、更に種々の物となって現われるに至って、観客はだんだんに 征服されて行った。活歴が団十郎の特色となった。単に団十郎の登場する劇ばかりでなく、新作の 史劇は皆その活歴の形式に従うことになってしまった。  団十郎が最もその技禰を発揮したのは、明治十年頃から明治二十三、四年に至る十数年間であろ う。いわゆる新富町時代で、守田勘弥が新富座を経営した頃である。勿論、他の劇場へも出勤した が、団十郎の本城は先ず新富座であった。一座は五代目菊五郎、初代左団次、中村仲蔵、岩井半四 郎、中村宗十郎らで、一時の名優みなここに集まるの観があった。河竹黙阿弥も専らこれに筆を執 ったのである。作者も俳優もみな揃っていたので、新富町の黄金時代を現出したのであろう。  守田勘弥が蹉蹟して、新富座が衰えると共に、東京劇界の中心は歌舞伎座に移って、新富町時代 は木挽町時代に変わった。明治二十二年十一月に歌舞伎座の新築落成して、団十郎はここに籍を移 した。この頃から其の生活も安定して、安楽に暮らすようになったらしい。爾来、明治三十六年ま で十四年間の舞台生活をつづけて、その年の九月十三日、相州茅ケ崎の別荘で世を去った。最後の 舞台は歌舞伎座五月興行の「春日局」における春目局と徳川家康の二役であった。  団十郎に就いて語るべき事はなかなか尽きない。殊にその当たり役とか、その芸風とかいうもの に就いて精細に語ろうとすれば、優に一部の大冊をなすべき程であるから、到底ここでは云い尽く せない。 「団十郎はどんな俳優でしたか。どんなに上手であったのですか。」  これはしぱしば繰り返される質問であるが、遺憾ながら私には其の質問者を満足させるような答 弁をあたえることが出来ない。所詮、団十郎を観ない人には団十郎は判らないと云うのほかは無 い。私の生涯のうちで幸福の一つは、団十郎、菊五郎、左団次らの芝居を幼少から二十年以上も見 つづけて来たというにある。その以上には何とも答えることが出来ない。  団十郎の舞台姿は写真で観ることも出来るが、それが活きて動く時はどうなるか、とても具体的 に説明し得るものではない。なにしろ彼がその得意とする英雄豪傑に扮して、音吐朗々、活殺自在 の雄弁を揮って満場の観客を威圧し去るの壮観は、実に劇界の驚異であったと云ってよい。彼が舞 踊に秀でていたのも周知の事実で、明治三十年の二月、歌舞伎座で「関の扉《と》」を上演した時には、 団十郎の関兵衛、五代菊五郎の墨染、両者ともに晩年に近づいてはいたが、その舞台の情景は今も 眼に残っている。  三十年追遠興行が今日も満員の噂を聴きながら、 筆を欄く。 (昭和七・改造) え仁左衛門と梅幸  十月十六日、十一代目片岡仁左衛門は大阪に客死し、十一月五日その本葬を東京で営んだが、そ の前夜に六代目尾上梅幸は歌舞伎座の舞台で倒れ、遂に八日の朝を以て仁左衛門のあとを追った。 仁左衛門と梅幸の死1たとい其の昔、団十郎と菊五郎とを殆んど同時に失ったほどの痛手ではな くとも、現在の劇界に取って手ひどい打撃であるに相違ない。  晩年の両者は舞台の上では余り多くの交渉を持たなかった。明治三十六年の秋、すなわち団菊の 残後に、仁左衛門は大阪から上京して歌舞伎座に籍を置くことになったので、その当時は両者一座 して出勤していたが、梅幸は明治四十四年から帝国劇場に籍を移すこととなったので、爾来約二十 年、両者はその舞台を異にしていた。昭和五年から帝劇は松竹の経営に移って、梅幸は再び歌舞伎 座の舞台を踏むことになったが、仁左衛門はその時すでに頽老多病、結局は掛け違いの形で、いず れも世を終わったのである。仁左衛門は七十八歳、梅幸は六十五歳、これを団十郎の六十五歳、五 代目菊五郎の六十歳に比ぶれば、かれらの舞台生活は短いとは云えないが、両者同時に歌舞伎の舞 台からその影を残したことを思えば、梨園蒲条の感は深い。  仁左衛門は立役、梅幸は女方であるばかりでなく、その性質、その芸風をまったく異にしている ので、両者を比較してかれこれ云うことは出来ない。また、両者の経歴等は巳に諸新聞にも詳しく 記載されているのであるから、ここに改めて紹介する必要もない。私はただ漫然と古い記憶をたど 「って、両者に対する自己の感想を語るに過ぎないのである。  順序として先ず仁左衛門を想う。彼は安政四年、江戸の浅草|猿若町《さるわかまち》に生まれたので、みずから江 戸っ子と称していたように聞いているが、父の仁左衛門は大阪の俳優であり、自分も大阪に生長し たのであるから、まず上方系統の俳優と云ってよい。明治九年に上京して、明治二十年大阪に帰 る。その壮年時代を私はよく知らない。彼は多く二流の劇場に出勤していたからである。  明治三十年の二月、再び上京して本郷の春木座(本郷座の前身)に出勤し、一番目の「神霊菅原 実記」で菅原道真、中幕の「鰻谷」で古手屋八郎兵衛に扮していた。私が舞台の上で初めて彼を見 識ったのは、この時であった。その印象は今や甚だ朦朧となってしまったが、道真が舞台の上で書 生の剣舞のような詩吟などをして、頗るぶち段しであった事だけは記憶している。八郎兵衛も余り に上方式で、東京の舞台を見馴れている私を悦ばせなかった。これは私ばかりでなく、東京の一般 観客に歓迎されなかったと見えて、彼は問もなく大阪へ引き揚げてしまった。その当時、片岡我当 という名さえも禄々に記憶していない位に、私は彼に重きを置いていなかった。  それから六年後、彼が又もや上京して、団菊残後の歌舞伎座に出演すると聞いて、私は少しく意 外に思った。僅々数年のあいだに、彼がそんな名優になったのかと疑ったからである。しかもその 技芸は著しく錬熟して、数年前の道真や八郎兵衛の比でなかった。その後、大阪へ帰って仁左衛門 を襲名し、さらに上京して歌舞伎座、明治座などに出勤、明治の末期から東京に居付きの俳優とな って今日に至ったのである。したがって、私たちが彼をよく知っているのは、彼が五十歳以後の舞 台に過ぎないのであるが、その晩年の芸風は老熟の二字に尽きていると思う。  仁左衛門といえぱ、沼津の平作とか、野崎村の久作と云ったような、義太夫狂言の老役《ふけやく》を連想さ せるのであるが、彼自身はそれと反対に、むしろ新作物を得意としているようであった。坪内博士 の「桐一葉」や「孤城落月」は今日種々の俳優によって上演されているが、明治時代に最も早くそ れを上演したのは仁左衛門であった。その他の「桜時雨」と云い、「名工柿右衛門」と云い、彼は 常に新作物の主人公として成功していた。彼は人に向かって「いつもいつも同じような役ばかりや らされて、気色が悪い。」と云っていたそうであるが、それは努めて新しがるばかりでなく、実際 に旧套を追うことを悦ばず、何か新しい工夫を案出しようと念じていたらしかった。仁左衛門が義 太夫狂言や古い型物のみを墨守している俳優のように認められていたのは、世問一般の誤解であっ たのではあるまいか。  彼は大正の初年に俳優養成所を創立して、少年俳優の教育をこころみ、その当時の有楽座で試演 会を催したこともあった。彼は在来の歌舞伎の楽屋に楯籠って、後生大事にその畑を耕しているに 廿んぜず、何かして新しく出よう出ようと考えている進取的の俳優であった。もし劇場当事者もそ れを認め、世間もそれを認めて、彼に進出の機会をあたえたならば、彼は更に大きい足跡を舞台の 上に残していたかも知れない。劇場側では彼に在来の老役をあたえ、一般観客も亦それを期待して いた為に、彼は有形無形の製肘を受けていたのでは無いかとも察せられる。団十郎やアーヴイング のような特殊の地位にあれば格別、大抵の俳優は自分の思う通りを舞台の上に持ち出すことはむず かしい。劇場側の注文もあり、周囲の事情もあって、まずは好い加減のところで妥協してしまうの ほかは無いのである。  彼は若い時から、いわゆる負けじ魂の人物で、殊に非常の神経質であった。それがために他人と しばしば衝突して、時には気ちがい扱いをされた事もあった。その点においては融通の利かない人 物であるらしかったが、それだけに彼の本性は正直であり、善良であったのである。その神経質は 舞台の上にも現われて、開幕中にも拘らず、舞台に芥などが落ち散っているのを発見すると、手づ から拾ってそっとうしろへ投げ隠すというのが有名の話になっていた。そこらに芥などが散ってい ては、なんだか眼障りになって、芸が仕にくかったのであろう。したがって、その芸は細かい。或 る一部の人々からは諺《くど》いと眉を餐《しか》められる位であったが、それだけに彼は舞台の芸に熱心であった のである。芸に細かい人は何となく俗気を帯びるものであるが、彼は又別に一種の風骨を備えてい た。  軒端の柿の梢をみあげて立つ名工柿右衛門の姿は、再び舞台の上で見られない。          *  仁左衛門が幼時に父をうしなって、兄の我童と共にほとんど孤児のごとくに生長したに引きかえ て、梅幸は頗る恵まれた環境に生長した。前にいう如く、仁左衛門がその負けじ魂を発揮してしば しば他人と衝突したのも、梅幸が曾て人と争わず、温厚の人格者として知られたのも、各自の性格 とは云いながら、所詮はその生長の歴史に因る所が多いかとも思われる。前者は孤立無援の闘士で ある。後者は名家の若旦那である。  梅幸は明治三年名古屋に生まれたのであるが、早くから五代目菊五郎の養子となって東京に生長 し、折りおりの地方巡業を除いては曾てその居を移したことが無いので、純然たる東京系統の俳優 である。彼は仁左衛門の如く、或いは大阪に、或いは東京に、幾たびか移動したものとは、全くそ の系統を異にしている。しかも名家の若旦那として順調に進んで来たので、晩年に栄三郎と泰次郎 の二子をうしなった不幸以外には、その生涯に著しい波瀾もなかったらしい。  かくの如く、彼は恵まれた環境に生長して来たのではあるが、養父菊五郎の存世中、すなわち彼 が三十三、、四歳の頃までは、厳しい養父の薫陶を受けて、技芸の上では常に叱られ続けていたらし かった。それが後年の彼に多大の利益をあたえた事は云うまでもないが、養子の彼としては可なり の苦痛であったに相違ない。物質的には恵まれていても、精神的には余り恵まれていなかったかも 知れない。養父は有名の痛癩持ちである上に、芸道の吟味は非常にやかましい人であったので、青 年時代の彼は普通の叱言《こごと》を通り越して、舞台の上でさんざんに罵倒されたこともあった。甚だしい 時には、その芝居が已《すで》に興行を終わってしまったにも拘らず、徹夜でその稽古を繰り返させられた 事もあった。  それでも名家の子であるだけに、明治二十四年、すなわち彼が二十二歳の夏、栄三郎と改名して 名題俳優の一人となった。その当時、中村福助(後の歌右衛門)が人気の絶頂にあったが、栄三郎 もそれに次ぐ花形役者と謡われ、明治二十五年七月、歌舞伎座で「牡丹燈籠」を初演の当時、かれ は飯島の娘お露に扮して好評を博した。それまでにも彼は相等の役を勤めていたが、それは養父の 余光に因るものとして、私たちは余り多くの注意を払っていなかった。しかもこのお露はそれらの 情実を離れて好い出来であった。可憐にして凄艶、いかにも牡丹燈籠の持ち主であるらしく見られ た。その後にも「牡丹燈籠」の芝居は繰り返して上演されるが、私は彼以上のお露を再び見ないの である。  爾来十余年、彼は専ら歌舞伎座にあって順調にその位地を進め、明治三十六年の春、養父菊五郎 の残後に六代目尾上梅幸を襲名した。しかも歌舞伎座には歌右衛門が控えていて、それが立役と女 方とを兼ねているので、梅幸は自然第二位に置かれる傾向があって、十分にその手足を伸ばしかね るような形であったが、明治四十四年、帝国劇場の開場と共に、彼はこれに籍を移して、専属俳優 の委員長となった。彼が今日の名声を博し得たのは、其の後二十余年間に於ける舞台の成績に因る のである。  彼は帝国劇場の専属であったが、同劇場と松竹興行会社との契約によって、毎年一、二回は歌舞 伎座あるいは市村座に出勤した。梅幸の専売として喧伝せられる「河内山」の三千歳、「十六夜清 心」の十六夜、「かさね」の累、「切られ与三」のお富のたぐいは、主に羽左衛門を相手にして歌舞 伎座の舞台にしばしば繰り返されたものであった。  彼が得意とするのは、前にいう三千歳やお富のような役々で、要するに世話物役者であったが、 一面には養父の系統を享けて、「土蜘《つちぐも》」や「茨木《いばらぎ》」のような変化物《へんげもの》をも得意としていた。来春三月 の養父三十三回忌追善興行には「茨木」を出すと云っていたが、それを果たさずに世を去った。彼 は舞踊を善くするので、坪内博士の「お夏狂乱」などには好評を博し、現に歌舞伎座の十月興行に も上演した。  私は仁左衛門を主人公として戯曲を一度も書いたことは無いが、梅幸のためには「平家蟹」「く ちなは物語」「雪女五枚羽子板」「御影堂心中」「両国の秋」「小坂部姫」「小梅と由兵衛」「お化師 匠」「五右衛門の釜」「おさだの仇討」などを書いている。最後の「おさだの仇討」は昭和三年一月 の帝国劇場の舞台に上演されたが、その興行中に梅幸は舞台で倒れた。軽い脳溢血で、それが第一 回の発病であった。彼はもう一度おさだをやってみたいと云っていたが、それも果たさずに終わっ た。彼は養父譲りで芸道に熱心な人であり、且はあれだけの技禰を具えていた人であるから、新作 物にも皆それぞれに成功して、ほとんど不評を取ったような例はなかったが、その得意とするのは 新作よりも黙阿弥式の世話狂言であった。この人去った後、江戸を背景とする黙阿弥式の世話狂言 は、次第に歌舞伎の舞台から影を潜めることになるであろう。  勿論、今後にも彼に匹敵する女方が出現しないとは限らない。しかもその技禰の巧拙は別問題と して、いわゆる江戸情緒を表現する点に於いて、梅幸のごとき俳優は恐らく再現しないであろうと 思われる。その意味に於いて、彼は江戸式の世話狂言を演ずる最後の女方であった。  梅幸の死について伊原青々園氏は左の意味のことを語っている。 「この人がなくなって、ああ云った女方が又とは出ないのみならず、一体に女方というものが歌舞 伎になくなってしまいました。女方の欠乏ということは、殆んど六十年来、すなわち団菊の盛んな 時からの傾向でありますが、その間に歌右衛門が現われ、つづいて梅幸があらわれて、どうにか調 節が取られていたのが、歌右衛門があの有様であり、梅幸がなくなったのでは、歌舞伎劇を料理に たとえると、鰹節か味醗を失ったようなものです。云々。」  私もこれに同感である。伊原君は更に附け加えて「こうした欠陥から歌舞伎劇は衰亡を早めるで あろう。」と悲観している。その点は私と少しく意見を異にしているが、少なくとも、梅幸の如き 俳優の死によって、在来の歌舞伎劇がその領域を狭ばめられたのは事実である。それは梅幸のみで ない、仁左衛門についても同様のことが云える。かれの死に因って、竹本劇系統の親父型の老役に 扮する老優を失ったので、大歌舞伎の舞台で野崎村や沼津のごとき狂言を上演する機会が自然に少 なくなるのは、客易に想像されることである。  私は梅幸の死を悲しみ、仁左衛門の死を悼むに於いて、余人に劣るものではない。しかし黙阿弥 式世話狂言の女方をうしない、義太夫狂言の老役を失って、在来の歌舞伎劇に欠陥を生じた結果、 そこに新しい歌舞伎劇を生む曙光が見いだされるとすれぱ、ただ一途に歌舞伎の前途を悲観すべき ではないと思う。梅幸も仁左衛門も明治、大正、昭和の三代にわたって、かれらの為すべきだけの 事をなした。かれらは過去の演劇史にその足跡を残した。後来の俳優らは彼等が苦心のあとを尋ね て、さらに新しき領域を開拓するに努力しなければなるまい。     (昭和九.十二.改造) て源之助の追憶  四月二十一日の朝刊をみると、四代目沢村源之助が昨日の午後四時四十五分に死去したという。 享年七十八歳と聞けば、古今の俳優のうちでも屈指の長命者であろうから、今更その死を惜しむの は未練であるかも知れない。  源之助の経歴や逸話などについては、他に紹介する人々があろう。私はここで自分の思い出を語 るに過ぎないのである。私は少年時代にあまり多くの芝居を観ていない。初めて沢村源之助という 美貌の青年俳優を明らかに認めたのは、明治十八年二月、日本橋久松町の千歳座(明治座の前身) の舞台開きであった。そのときの狂言は一番目が「碁盤忠信」、二番目が「筆売幸兵衛」で、ほか に「山伏摂待」と「曾我」が付いていたように記憶している。  私は当時十四歳であった。殊におくれて行ったので、一番目は中途から見物した為か、なにが何 やらよく判らなかった。中幕の山伏摂待もおもしろくなかった。二番目はその当時の現代劇である から、序幕の吉原を除いては先ず大抵のことも判った。劇の主人公たる筆売幸兵|衛《ハエ 》のような人物 は、舞台以外でもしばしば見馴れているから、殊におもしろく感じられた。発狂の場などは息をつ めて見物した。  前にいう通り、私のような少年の観客に取っては、吉原の場は少し困ったが、それでも今日と連 って、吉原の光景や吉原の華魁《おいらん》は、絵草紙屋の店にかけてある錦絵や、新聞雑誌の挿画などでもし ばしば見馴れているから、今日の少年諸君ほどに未知の世界ではなかった。その吉原の千歳楼に幾 人の縛麗な華魁が出たが、そのなかでも最も眼についたのは小雛という華魁で、それが沢村源之助 であることを番附で知った。今にして思えば、その当時の源之助は二十七歳の若盛りであった。源 之助の華魁は顔ばかりでなく、声も美しく、姿も美しかった。  その次ぎに、私が源之助を舞台の上で認めたのは、翌十九年の新富座五月興行で、「夢物語|盧生 容画《ろせいのすがたえ》」すなわち渡辺畢山と高野長英の芝居に、源之助は新宿の豊倉屋の抱妓《かかえ》おたきを勤めていた。 これも去年の千歳座とおなじような役で、その以来、源之助といえば美しいお女郎役者として私の 頭に刻み付けられてしまった。  美しい人を形容して、水が滴《たれ》るようだと昔から云うが、まったく若盛りの源之助は水が滴るよう な美しさであった。今の歌右衛門、すなわち其の当時の福助も美しかったが、これは端麗ともいう べきたぐいで、濃艶の点に於いては源之助が一ときわ優れていた。それだけに又、気品に欠けると ころがあるので、源之助が武家の女房などに扮すると、どうも粋になり過ぎて、勤め揚がりとでも 云いそうな嫌いがあった。  彼は芸妓のような役にもしばしば扮して、常に好評であったが、やはり遊女の役には及ばなかっ た。その遊女も高等な遊女-私は前に華魁と書いたがーよりも、むしろ中店以下のいわゆるお 女郎に最も適していた。これは私の先入主ばかりでなく、およそこの人ほどお女郎に適している俳 優はなかった。部屋着を肩から外《はず》れそうに着て、草履をバタバタ穿いて出て来ると、不思議に其の 人になり切っていた。私たちの若いときには、源之助の芝居を観ていると吉原へ遊びに行きたくな るなどと云った位であった。  八代目岩井半四郎は明治十五年を以て世を去った。その他に坂東秀調、河原崎国太郎、岩井松之 助らの女形も少なくなかったが、源之助は新富座の座附俳優として常に団・菊・左の諸名優と同じ 舞台を踏んでいた為に、その技禰も位地も早く進み、世間から早く認められて、数年の後にはおの ずから半四郎の後継者たる位地を占めるようになった。しかもその全盛期は余り長くなかった。明 治十八、九年から二十三、四年に至る六、七年間が、その生涯に於いて最も華やかな時代であったろ う。明治二十三年の七月、市村座で「嶋衛《しまちどり》」を上演した時、菊五郎の嶋蔵、左団次の千太に対して、 彼は弁天おてるを勤め、同年の十一月、歌舞伎座で「河内山」を上演した時、団十郎の河内山、菊 五郎の直侍、左団次の市之丞に対して、彼は三千歳《みちとせ》を勤めていた。おてるも三千歳も初演は半四郎 の役で、彼は歌舞伎の女形としてまさに絶頂に達したのであった。  その絶頂から彼は忽ち墜落の悲運に遭遇した。明治二十四年六月、神田三崎座が新築されて、そ の舞台開きに大谷馬十、尾上幸蔵、沢村田之助らが出勤したが、源之助も出勤して中将姫と切られ お富を勤めた。当時の規約として、大劇場付きの俳優は小劇場に出勤を許されないことになってい た。三崎座はもちろん小劇場であるから、一旦それに出勤した以上、彼等は当分大劇場から出勤を 拒まれるか、さもなければ三興行は名題下として出勤するの制裁を覚悟しなければならなかった。 それを知りつつ彼等はなぜ三崎座出勤を敢てしたか、私はその内情を知らないが、それに禍いされ て源之助は団・菊・左の相手方たるの資格を失った。彼は東京の劇界を去って大阪へ流転した。  それから五、六年の後に、俳優細合の規約は改正されて、大劇場俳優も小劇場出勤を許されるこ とになった。明治二十九年十月、源之助は中村時蔵(後の歌六)と共に帰京して、久しぶりで市村 座の舞台を踏んだ。一座は団蔵、訥子、芝鶴らで、彼は一番目の「山荘太夫」で難娘のおさん、中 幕の「廿四孝」で濡衣、二番目の「鈴木主水」で白糸を勤めた。白糸は得意のお女郎であるだけに 帰京早々大好評で、「末はどうした主水さん」などは、やはり此の人に限ると云われたのであるが、 その後の発展は思わしくなかった。  翌年の四月、歌舞伎座で団十郎が「春雨傘」を演じた時に、傾城丁山を勤める俳優を見いだすに 苦しんで、源之助は再び歌舞伎座に立つことになった。これも不評ではなかったが、なぜか一回か ぎりで用いられなかった。その後、初代左団次と共に明治座に幾年を送ったが、さらに宮戸座に出 勤し、明治座に復帰し、爾来各劇場に出勤していたが、大正以後はいわゆる強弩の末で、源之助の 本領は多く発揮されなかった。要するに、時代も彼を迎えず、彼も時代に顔をそむけていたのであ ろう。  多くの人々は晩年の源之助をも讃美して、歌舞伎役者の典型のように云い唯していたが、その全 盛時代を知る私としては、むしろ一種の悲哀を感じていた。前に云った弁天おてるや三千歳の役 役、その芝居見たままが残されていないのが惜しい。        (昭和=.六演芸画報) あ市川中車の死  ことしの四月に沢村源之助逝き、七月に市川中車逝く。いずれも普通以上の寿を重ねたのである から、天命の当然、特に悔むべきではあるまいが、老優の凋落、名残惜しいのも人情である。  市川中車の名も、現代の若い観劇家には余り多くの親しみを持たれないかも知れないが、その市 川八百蔵時代から、おなじ時代を経て来た私たちに取っては、殊更に名残惜しくも思われる。  この人も源之助と同様、明治時代の俳優であった。大正以後も歌舞伎座大幹部の地位を占め、そ の七年に中車と改名したのであるが、元来が艶のない芸風である上に、老いて次第に枯淡に傾いて 来たので、その存在は華やかでなかった。  中車の全盛期は明治二十三、四年頃より明治の末期に至る約二十年間であろう。その売り出しは明 治二十四年の三月、近松原作を福地桜痴居士が改作した「出世景清」五幕が歌舞伎座で上演された 当時である。団十郎の景清に対して、彼は頼朝を勤め、大詰の鎌倉御所に於いて景清を説得する件 りで、「そもそも日の本は神の御末」などという一種の勤王論を唱うる処が、文字通りの雄弁酒々、 実に満場を魅了し去ったのであった。その以来、八百蔵の名声は俄かにあがり、劇場の待遇も改ま ったのである。  師匠の団十郎が史劇を得意とするは云うまでもなく、その相手はいつも初代左団次であったが、 左団次は歌舞伎座に暫く出勤しなかった関係上、左団次の代り役は自然に八百蔵と決められてしま って、彼は歌舞伎座に欠くべからざる重要の俳優となった。団十郎の西光《さいこう》と重盛に対して、彼が清 盛を勤めた頃は、その生涯の歴史上、最も華やかな時代であったろう。名も知れない旅廻りの一俳 優から立身して、日本一の歌舞伎座で団十郎の西光を足蹴《あしげ》にする清盛を勤めるなど、おそらく本人 自身も思い及ばぬことで、その社会に於いては異数の出世であったに相違ない。  明治三十六年、菊五郎と団十郎が年を同じゅうして残した時、幸四郎、梅幸、羽左衛門らもまだ 若かった。歌舞伎座は大阪から仁左衛門を迎えて後ろ備えとしたが、その中堅は八百蔵であった。 彼が中心となって、団菊残後の歌舞伎座を路みこたえていたのである。前にも云う通り、何分にも 艶の薄い堅実一方の芸風であったから、ぱっとした人気は立たなかったが、明治大正の演劇史に相 当の足跡を印した俳優の一人たるを見逃すことは出来ない。 仁左衛門、梅幸、鷹治郎、源之助、中車1その過去牒を繰ってみると、我が歌舞伎劇に革命の 機運が漸く迫り来たったことを何人《なんぴと》も直感するであろう。       (昭和一一.八.舞台)