慈悲心鳥《じひしんちよう》 岡本綺堂  人びとの話が代るがわるにここまで進んで来た時に、玄関の書生が「速達でございます。」 といってかさ高の郵便を青蛙堂主人のところへ持って来た。主人はすぐに開封すると、それは 罫紙に細かく書いた原稿ようのものに、短い手紙が添えてあるらしかった。主人はまずその手 紙だけを読んでしまって、一座のわれわれの方へ再び向き直った。 「ちょっと皆さんに申上げたいことがございます。わたくしの友人のTという男1みなさん も御承知でございましょう、獄膨の怪談会のときに「木曽の旅人」の話をお聴きに入れた男で す。  あの男が二、三日前に参りましたから、実は今夜の「探偵趣味の会」のことを洩らし ますと、それは面白い、自分もぜひ出席するといって帰りました。それが今夜はまだ見えない ので、どうしたのかと思っていますと、唯今この速達便をよこしまして、|退引《のつぴき》ならない用向き が起って、今夜は残念ながら出席することが出来ない。就いては、自分が今夜お話ししようと 思っている事を原稿に書いて送るから、皆さんの前で読み上げてくれというのでございます。 一体どんなことが書いてあるのか判りませんが、折角こうして送って来たのですから、その熱 心に免じて、わたくしがこれから読み上げることに致します。御迷惑でも暫くお聴きくださ い。」  一座のうちには拍手する者もあった。 「では、読みます。」と、言いながら主人はその原稿の二、三行に眼を通した。「ははあ、自叙 体に書いてある。このうち私というのは丁自身のことで、その友人の森君という人との交渉を 書いたものらしく思われます。まあ、読んでいったら判りましょう。」  主人は原稿をひろげて読みはじめた。 「この降りに、出かけるのかい。」  わたしは庭のハつ手の大きい葉を青黒く染めている六月の雨の色をながめながら、森君の方 を見かえった。森君の机のそばには小さい旅行カバンが置かれてあった。 「なに、ちっとぐらい降っても構わない。思い立ったら、いつでも出かけるよ。」と、森君は 巻煙草をくゆらしながら笑っていた。  森君の旅行好きは私たちの友達仲間でも有名であった。暇さえあれば二日でも三日でも、時 によればふた月でも三月でも、それからそれへと飛んであるく。したがって、ちっとぐらいの 雨や風を念頭に置いていないのも当然であった。 「これからすぐに出掛けるのか。そうして今度はどっちの方角だ。」と、わたしも笑いながら 訊いた。 「久しぶりで獅齢慌から鎌津の方へ行ってみようと思っている。途中で宇都宮の友達をたずね て、それから……。」 「日光へでも廻るか。」 「日光...…。」と、森君は急に顔をくもらせた。「いや、日光はもう十年以上も行ったことがな い。あるいは一生行かないかも知れない。」 「ひどく見限ったね。日光はそれほど悪いところじゃあるまいと思うが……。」 「無論、日光の土地が悪いというわけじゃ決してない。僕も|紅葉《もみじ》の時節になると、また行って みたいような気になることもあるが、やはりどうも足が向かない。なんだか暗いような気分に 誘い出されてね。」 「なぜだ。日光で何か|忌《いや》なことでもあったのか。」と、わたしは一種の好奇心にそそのかされ て訊いた。 「むむ。」と、森君は今ついたばかりの電燈の弱い光りを仰ぎながら|溜息《ためいき》をついた。 「日光で一体どうしたんだ。」 「実はね。」と、言いかけて、森君は急に気がついたように懐中時計を出して見た。「や、こり やいけない。もう三十分しかない。上野まで大急ぎだ。」 「いいじゃないか、ひと汽車ぐらいおくれたって……。別に急ぎの旅でもあるまい。」  森君は|焦《じ》れったそうに|衝《つ》と起ちあがって、本箱のなかを引っ掻きまわしていたが、やがて一 冊の古い日記を持出して、投げ出すように私のまえに置いた。 「この日記のハ月のところを見てくれたまえ。そケすれば大抵わかるよ。僕は急ぐから失敬す る。」  客のわたしを置き去りにして、気の短い森君はカバンを引っ提げて、すたすたと玄関の方へ 出て行ってしまっ㌃森君は三+轡齢の今年まで独身で、譲了とりと書生一人の気楽な生活 である。雑誌などへ時どき寄稿するぐらいで、別に定まった職業はない。多年懇意にしている 私は、今夜もただ簡単に|会釈《えしやく》しただけで彼を見送ろうともしなかった。老碑や書生が玄関でな にか言っているのをよそに聞きながら、わたしはその日記帳を手に取って、ハ月のところを探 してみようとしたが、電燈の光線の工合が悪いので、わたしは初めて起ちあがって森君の机の 前に坐り直した。あたかもその時に、縁側から内をのぞいている書生の顔が障子の|硝子《がらす》越しに 黒く見えたので、わたしは笑いながら声をかけた。 「先生はもう行きましたか。」 「はあ。」 「僕はもう少しお邪魔をしていますよ。」 「どうぞごゆっくり。」と、書生の顔はすぐに消えてしまった。  わたしは書生のいう通り、ゆっくりとそこに坐り込んで森君の古い日記帳と向い合った。日 記の表紙には今から十二、三年前の明治××年と|記《しる》されてあった。わたしは急いでそのハ月の ぺージを繰ってみた。月はじめの三日ばかりの間には別に変った記事を見つけ出されなかった が、とにかく森君は七月の末から日光の町に滞在して、ある小さい宿屋の裏二階の四畳半に泊 っていたということだけは判った。その当時の森君は或る私立大学の文科の学生であったこと をわたしは知っていた。わたしは日光の古い町にさまよっていた若い学生のおもかげを頭に描 きながら、その日記をだんだん読みつづけてゆくと、ハ月四日の条に、こういう記事を発見し た。  四日、晴。午前七時起床。散歩。例に依りて|挽地物屋《ひきじものや》の六兵衛老人の店先に立つ。早起きの 老人はいつもながら仕事に忙がしそう|也《なり》。お冬さんは店の前を掃いている。籠の小鳥が|騒《そうぞう》々し いほとさえずる。お冬さんの顔色ひとく悪し、なんだか可哀そう也  。  六兵衛老人のことも、お冬という女のことも、前にはちっとも書いてないので、わたしも一 時は判断に苦しんだが、その後の記事を読んでゆくうちに、お冬さんというのは老人のひとり 娘で、ちょっと目をひく若い女であることが想像された。森君は毎日この店へ遊びに行って、 親子と懇意になっていたらしい。  五日、晴。涼し。1お冬さんは別に身体が悪いのでもないよう也。ほかに何か苦労がある らしく思わる。予の隣りの大きい旅館に滞在せる二十六、七の青年紳士も、朝夕にたびたびこ この店に立寄って、お冬さんに親しく冗談などいう。お冬さんの顔色の悪きは、あるいは彼に なにかの関係があるのではないかとも疑わる。1午後六時ころ再び散歩。六兵衛老人の店先 に腰をかけていると、かの青年紳士は小せんという町の芸妓を連れて威張って通る。お冬さん の眼の色いよいよ|瞼《けわ》しくなる。これにて一切の秘密判明。紳士は磯貝満彦といいて、東京の某 実業家の息子なる|由《よし》。1  森君がこうしてお冬という娘のことを気にかけているのを見ると、その日記にいわゆる「な んだか可哀そう」という程度を通り越しているらしい。森君もおそらく眼を瞼しくして、彼女 と青年紳士との行動に注意していたのであろう。しかし六日と七日の日記の上にはお冬さんに 関する記事はなんにも見えない。もっともこの二日間は毎日おそろしい雷雨がつづいたので、 森君もさすがに外出しなかったのであった。 八日、晴、|騨雨《しゆうう》。 午前七時起床。けさはぬぐうがごとき快晴なり。 食後散歩。挽地物屋の店 にお冬さんの姿みえず、老人もめずらしく仕事を休みて店先にぼんやり坐2ている。例のごと く挨拶したれど、老人なんの返事もせず。  |午飯《ひるめし》の時に宿の女中の話によれば、お冬さんは きのうの夕方に雷雨を欝して出でたるまま帰らずとのこと也。愉充でもあるのかと訊けば、お 冬さんは町でも評判のおとなしい娘にて、浮いた噂などかつて聞いたこともないという。彼女 が無断にて家出の子細は誰にもわからず。なんだか夢のようなり。  夕より俄かにくもりて、 瞭雨、雷鳴。お冬さんは今頃どうしているにや。夜に入って雨やみたれば、ハ時ごろ散歩。|挽 地物屋《ひきじものや》の店にはやはりお冬さんは見えず。老人が|団扇《うちわ》づかいの唯さびしげなり。 131 慈悲心鳥  九日、晴。虫が知らしたるか、けさは早く醒めると、雨戸をあけに来た女中から思いもつか ない話をきく。お冬さんはゆうべの十一時過ぎに、ちらし髪の素足でどこからか帰って来たる よしにて、お山の天狗にさらわれたるならんとの噂なりとぞ。奇妙なこともあるものなり。食 後すぐに行ってみると、お冬さんは真っ蒼な顔をして店に坐りいたり。声をかけても返事もせ ず、六兵衛老人の姿もみえず。さらに見まわせぱ、老人の道楽にてたくさんに飼いたるいろい ろの小鳥の籠はひとつも見えず。お|父《とつ》さんはどうしたと重ねて問えば、お冬さんは微かな声で、 奥に寝ていますという。鳥籠はどうしたときけば、鳥はみんな放してやりましたという。なに か子細がありそうなれど、この上の詮議もならねばそのままにして別れる。晴れて今日は俄か に暑くなる。1午後再び散歩。鷲谷川のほとりまで行って引っ返して来ると、お冬さんの店 にはかの磯貝という紳士が腰をかけて、何か笑いながら話している。お冬さんの顔は鬼女のご とく、幽霊のごとく、たとえん|方《かた》もなく物凄し。宿に帰れば宇都宮の田島さ|冗《 》より郵便来たり、 今夜からあしたにかけて泊りがけで遊びに来いという。すぐに支度して行く。  田島さんというのは森君の友人で、宇都宮で新聞記者をしている人であった。森君も九日の 午後の汽車で宇都宮に着いて、公園に近い田島さんの家に一泊したことは日記に詳しく書いて あるが、この物語には不必要であるからここに紹介しない。とにかく森君は翌十日も田島さん の家で暮らした。その晩帰るつもりであったところを、無理にひきとめられてもうひと晩泊っ た。森君が田島さん夫婦に歓待されたことは日記を見てもよく判る。こづして彼はハ月十一日 を宇都宮で迎えた。彼の日記のおそろしい記事はこの日から始まるのである。      二  十一日、醸凹ゆうべは蜘帳のなかで碁を囲んで夜ふかしをした為に、田島の奥さんに起され たのは午前十時、田島さんは予の寝ているうちに出社したという。きまりが悪いので早々に飛 び起きて顔を洗い、あさ飯の御馳走になっているところへ、田島さんはあわただしく帰り来た り、これから日光へ出張しなければならない、丁度いいから一緒に行こうという。田島さんに せき立てられて、奥さんに挨拶もそこそこにして出る。停車場に駈けつけると、汽車はいま出 るところなり。二人はころげるようにして漸く乗り込むと、夏の|鳥打《とりさつち》帽をかぶりたる三十前後 の小作りの男がわれわれよりも先に乗っていて、田島さんを見て双方無言で挨拶する。やがて 彼は田島さんにむかいて「あなたも御出張ですか。」といえば、田島さんはうなずいて「御同 様に忙がしいことが出来ました。」という。それを口切りに、二人のあいだにはいろいろの会 話が交換されたり。だんだん聞けば、予の留守のあいだに、日光の町にいたましき事件が突発 して、かの磯貝満彦という青年紳士が何者にか惨殺されたるなり。 兇行は昨夜ハ時頃よりμ藤っ四時頃までのあいだに仕遂げられたらしく、磯貝は繧鼠え擁    ろ        がんまん  ふち            のど の上に組の羽織をかさねて含満ケ渕のほとりに倒れていたり。両手にて咽喉を強く絞められた らしく、ほかには何の負傷の痕もなし。また別に抵抗を試みたる形跡もなきは、その薄羽織の 少しも破れざるを見ても察せられる。かれは片手にステッキを持っていたれど、それすらも振 廻す暇がなかったらしいという。それは新聞社に達したる通信にて、田島さんの話なり。また、 鳥打帽の男の話によれば、磯貝の紙入れはふところから|掴《つか》み出して、引裂いて大地へ投げ捨て てありしが、在中の百余円はそのままなり。金時計は石に叩きつけて携甥してあり。それらの 事実から考えると、どうしても普通の物取りではなく、なにかの|意趣《いしゆ》らしいという。こ,の鳥打 帽の男は宇都宮の折井という刑事巡査であることを後にて知りたり。  午後に日光に着けば、判検事の臨検はもう済みて、磯貝の死体はその旅館に運ばれていたり。 田島さんと折井君に別れて、予は自分の宿にかえる。宿でもこの噂で大騒ぎなり。こんな騒 ぎのあるせいか、今日もまただんだんに暑くなる。午後二時ごろに田島さんが来て、これから 折井君と一緒に現場を検分に行くが、君も行ってみないかという。一種の好奇心にそそられて、 すぐに表へ出ると、折井君は先に立って行く。田島さんと予はあとについて行く。やがて下河 原の橋を渡って含満ケ渕に着く。たびたび散歩に来たところなれど、ここで昨夜おそろしい殺 人の犯罪が行われたかと思うと、ふだんでも凄まじい水の音が今日はいよいよ凄まじく、踏ん でいる土は震うように思わる。ここの名物の|化《ばけ》地蔵が口を利いてくれたら、ゆうべの秘密もす ぐに判ろうものを、石の地蔵尊は冷たく黙っておわします。予は暗い心持になって、おなじく 黙って突っ立っていると、折井君は鷹のような眼をして頻りにそこらを眺めまわしている。田 島さんもそれと競争するように、眼をはだけてきょろきょろしている。  やがて田島さんはバットのあき箱を拾うと、折井君は受取って子細らしく|嗅《か》いでみる。箱を あけて振ってみる。それからまた三十分ばかりもそこらをうろうろしているうちに、折井君は 草のあいだから薄黒い小鳥の死骸を探し出したり。ようように巣立ちをしたばかりの雛にて、 なんという鳥か判らず。田島さんは|時鳥《ほととぎす》だろうという。折井君は黙って首をかしげている。 ともかくもその雛鳥の死骸とバットの箱とを挟に入れて折井君はもう帰ろうと言い出したれば、 二人も一緒に引っ返す。その途中、折井君は予にむかいて「あなたは先月からここに御逗留だ そうですが、ここらの挽地物屋で、小鳥をたくさんに飼っている|家《うち》はありませんか。」と訊く。 それはお冬さんの家なり。予は正直に答えると、折井君はまた思案して「そのお冬というのは どんな女です。」と重ねて訊く。予は知っているだけのことを答えたり。  予はここで白状す。お冬さんがこの事件に関係があろうとは思われず。たとい関係があると しても、おとなしいお冬さんが大の男を絞め殺そう筈はなし、どのみち直接にはなんの関係も ないらしく思われながら、予は妙に気おくれがして、お冬さんが家出のことをこの探偵の前に さらけ出すのを躊躇したり。別に子細はなし、若いお冬さんの秘密を他に洩らすのがなんだか 痛々しいような気がしたるためなり。他のことはみな正直に言いたれど、この事だけは暫く秘 密を守れり。  折井君には途中で別れ、田島さんは予の宿に来たりて新聞の原稿を書く。きょうは坐ってい ても汗が出る。陰りて蒸し暑く、当夏に入りて第一の暑気かも知れず。田島さんは忙がしそう に原稿を書き終りて、夕方の汽車で宇都宮へ帰る。予は停車場まで送って行く。帰りぎわに田 島さんは予にささやきて「折井君はお冬という娘に眼をつけているらしい。君も注意して、な にか聞き出したことがあったら直ぐに知らしてくれたまえ。」と言う。なんだか忌な心持にも なったけれど、ともかくも承知して別れる。宿へ帰る途中で再び折井君に逢う。折井君は汗を ふきながら大活動の様子なり。しかもその活動を妨げるように、日が暮れると例の雷雨。  十二日、晴。神経が少し興奮しているせいか、けさは四時頃から眼がさめる。あさ飯の膳の 出るのを待ちかねて、早々に食ってしまって散歩に出る。六兵衛老人の姿はけさも店先にあら われず。お冬さんに訊けば、気分が悪いので奥に寝ているという。お冬さんの顔色もひどく悪 し。予は思い切って「警察の人が何か調べに来ましたか。」と訊けば、誰も来ないという。少 し安心して宿に帰れば、かの小せんという芸者が店口に腰をかけて帳場にいる女房と何か話し ている。まんざら知らない顔でもなければ、予も挨拶しながら並んで腰をおろすと、小せんは ゆうべいろいろの取調べを受けた話をして、被害者の磯貝は財産家の息子で非常の放蕩者なり、 自分は彼の|贔贋《ひいき》になっていたれど、兇行の当夜はほかの座敷に出ていて何事も知らざりしとい う。予はそれとなく|探《さぐ》りを入れて、磯貝はお冬さんと何かわけでもあったのかと訊けば、小せ んは断じてそんなことはあるまいという。予はいよいよ安心して自分の座敷に戻る。  午後一時頃に田島さん再び来たる。被害者が資産家の息子だけに、この事件は東京の新聞に も詳しく掲載されてあるとの話なり。現に東京の新聞記者五、六名も田島さんと同じ汽車にて 当地に入り込みたる由なれば、田島さんも競争して大いに活動するつもりらしく見ゆ。田島さ んは宿で午飯を食いてすくに出て行く。晴れたれども涼しい風がそよそよと吹く。1夕方に 田島さん帰り来たりて、警察側の意見を予に話して聞かせる。兇行の嫌疑者に三種あり。第一 は東京より磯貝のあとを追い来たりしものにて、彼の父は実業家とはいえ、金貸を本業として 巨万の富を作りたる人物なれば、なにかの遺恨にて復讐の手をその子の上に加えしならんとい う説。第二は小せんの情夫にて、かれは鹿沼町の某会社の職工なりといえば、一種の嫉妬か、 あるいは小せんと共謀して欲得のために磯貝を害せしやも知れずという説。第三はかのお冬の 父の六兵衛ならんという説。折井君は頻りに第三の説を主張していれど、これは根拠が最も薄 弱なりと田島さんはいう。予も同感なり。  第二の説もいかがにや。欲心のために磯貝を害せしならば、紙入れや金時計をも奪い去るべ き筈なるに、紙入れは引裂きたれど中味は無事なりしという。金時計も携窺して捨ててあり。 これから考えると、これも根拠が薄いようなり。ただし小せんはなんにも知らぬことにて、単 に情夫の嫉妬と認むればこの説も相当に有力なるべし。こう煎じつめると、第一の説が最も確 実らしいけれど、磯貝親子の人物についてなんにも知らざれば、予にはその当否の判断が付か ず。ことに昨今は避暑客の出盛りにて、東京よりこの町に入り込みいる者おびただしければ、 いちいち取調べるもなかなか困難なるべしと察せらる。  夕飯を食ってしまうと、田島さんはまた出て行く。二階の窓から見あげると、大きい山の影 は黒くそびえて、空にはもう秋らしい|銀河《あまのがわ》が夢のように薄白く流れている。やがて田島さん が忙がわしく帰って来て、折井君はとうとう六兵衛老人を|拘引《こういん》したという。予はなんだか腹立 たしく感じられて、なにを証拠に拘引したかと鋭くきけば、田島さんも詳しいことは知らず。 しかし現場にてきのう拾いたる巻煙草の空き箱に木屑の匂いが残っていたのと、それを振った ときに細かい木屑が少しばかりこぼれ出したとの、この二つにて兇行者が挽地物細工に関係あ るものと鑑定したらしいとのこと也。しかし挽地物屋はほかにもたくさんあり。もうひとつの 証拠はかの薄黒い雛鳥の死骸なりといえど、これは折井君も秘していわざる由。  それを聞かされて、予はなんとなく落ちついていられず。田島さんが原稿を書いている間に、 宿をぬけ出してお冬さんの家を覗きに行く。夜はもう八時過ぎなり。店先からそっとうかがえ ば、お冬さんの姿はみえず、声をかけても奥に返事はなし。すこし不安になりて、となりの人 に訊けば・お冬さんはたった今どこへか出て行ったという。不安はいよいよ鑑りてしばらく考、 えているうちに、ふと胸に浮かびしことあり。もしやと思いて、すぐに含満ケ渕の方へ追って 行く。 三  森君の日記にはこれから先のことを非常に詳しく書いてあるが、わたしはその通りをここに 紹介するに|堪《た》えないから、その眼目だけを掻いつまんで書くことにする。森君はお冬を追って 行くと、果して含満ケ渕で彼女のすがたを見つけた。彼女はここから身でも投げるらしく見え たので、森君はあわてて抱き止めた。お冬は泣いてなんにも言わないのを、無理になだめすか して訊いてみると、彼女の死のうとする子細はこうであった。  前にもいう通り、六兵衛という老人は小鳥を飼うことが大好きで、商売の傍らに種々の小鳥 を飼うのを楽しみにしていた。磯貝は去年もこの町へ避暑に来て、六兵衛の店へもたびたび遊 びに来るうちに、ある日小鳥の飼い方の話が出ると、六兵衛は大自慢で、自分が手掛ければど んな鳥でも育たないことはないと言った。その高慢が少し|面憎《つらにく》く思われたのか、それとも別に 思惑があったのか、磯貝はきっと相違ないかと念を押すと、六兵衛はきっと受合うと強情に答 え㌃それから五・六日経つと磯貝は一箇の薄黒い卵を持って来て、これ轍してくれといっ た。見馴れない卵であるからその親鳥をきくと、それは慈悲心鳥であることが判った。  日光山の慈悲心鳥-それを今さら詳しく説明する必要もあるまい。磯貝は途方もない物好 きと、富豪の強い贅沢心とからで、その慈悲心鳥を一度飼ってみたいと思い立って、中禅寺に いる者に頼んでいろいろに|猟《あさ》らせたが、霊鳥といわれているこの鳥は声をきかせるばかりで形 を見せたことはないので、彼は金にあかしてその巣を探させた。そうして、結局それは|時鳥《ほととぎす》 とおなじように、う鶯げ巣で育つということを確かめて、高い値を払ってその卵を手に入れたが、 それをどうして育ててよいか見当がつかないので、彼は六兵衛のところへ持って来て頼んだの であった。頼まれて六兵衛もさすがにおどろいた。ほかの鳥ならばなんでも引受けるが、慈悲 心鳥の飼い方ばかりは彼にも判らなかった。しかも生れつきの強情と、強い自信力とがひとつ になって、彼はとうとうそれを受合った。育ったらば東京へ報らしてくれ、受取りの使いをよ こすからと約束して、磯貝は二百円の飼育料を六兵衛にあずけて帰った。  名山の霊鳥を捕るというのが怖ろしい、更にそれを人間の手に飼うというのは勿体ないと、 妻のお鉄と娘のお冬とがしきりに意見したが、六兵衛はどうしても|肯《き》かなかった。かれは深い 興味をもってその飼い方をいろいろに工夫した。そうして、どうやらこうやら無事に卵を轡 たが、雛は十日ばかりで|敵死《たお》れてしまったので、かれの失望よりも妻の恐怖の方が大きかった。 お鉄はその後一種の|気病《きや》みのように床について、ことしの三月にとうとう死んだ。磯貝から受 取った二百円の金は、妻の轟癬らいにみな遣ってしまって、六兵衛の身には殆ど一文も付かな かった。.しかし慈悲心鳥の敵死れたことを彼は東京へ報らせてやらなかった。磯貝の方からも催 促はなかった。  そのうちに今年の夏がめぐってきて、磯貝は再びこの町に来た。かれは六兵衛の不成功を責 めた。あわせて|今日《こんにち》までなんの通知もしなかった彼の横着をなじって、去年あずけて行った二 百円の金をかえせと迫った。その申訳に困って、六兵衛は更に新しい卵を見つけて来ると約束 した。かれは三日ほど仕事を休んで、山の奥をそれからそれへと探しあるいたが、霊鳥の巣は 見付からなかった。よんどころなしに彼は鶯の巣から時鳥の卵を捕って来て、磯貝の手前を一 時つくろっておいたが、その秘密を知っている娘はひどく心配した。さりとて二百円の金を返 す目当てはとてもないので、どうなることかと案じているうちに、卵は艀った。六兵衛は、そ の時鳥の雛を磯貝の旅館へ持って行ってみせると、なんにも知らない彼は非常に喜んだ。六兵 衛が帰ったあとで、磯貝はこれを宿の者に自慢らしく見せると、おなじ鶯の巣に育ちながらも それは慈悲心鳥でないことが証明されたので、彼はまた怒った。ハ月七日の午後に、磯貝はか の雛鳥の籠をさげて六兵衛の店へ押掛けて行って、再びその横着を責めた。かれは詐欺取財と して六兵衛を告訴するといきまいて帰った。  お冬はもう|堪《たま》らなくなった。このままにしておけば父が罪人にならなければならないので、 彼女はすぐに磯貝のあとを追っていって、泣いて父の罪を詫びると、磯貝は少し相談があるか ら一緒に来いといって、無理に彼女を中禅寺の宿屋へ連れて行った。そうして、父の罪を救う のも救わないのもお前の料簡次第であると迫られた。その晩は山も崩れそうな大雷雨であった。 お冬はそのあくる日も帰ることを許されなかった。夜になって磯貝が酔い倒れた隙をみて、彼 女ははだしで宿屋をぬけ出して、暗い山路を半分夢中で駈け降りて帰った。可愛い娘がこれほ どに。礎っ塵機されたことを知って、六兵衛は燃えるような息をついて磯貝を呪った。かれは仕事 を投げ出してしまって、傷ついた野獣のように奥のひと間に喰りながら横になっていた。たま しいも肉も無残にしいたげられたお冬は、幽霊のようになって|空《むな》しく生きていた。  抑えられない胤癖と悔恨とに身をもがいて、六兵衛は自分の店に飼ってある小鳥をみな放し てしまった。しかしこの事件の種である時鳥の雛だけは、どういう料簡かそのままに捨てて置 いた。九日の午後に磯貝が中禅寺から帰って来て、もうこうなった以上はいっそ自分の妾にな れとお冬に再び迫ったが、彼女はどうしても承知しなかった。それをきいて六兵衛のはらわた はいよいよ憤怒に焼けただれた。その翌晩のハ時ごろに、磯貝が散歩に出て挽地物屋(り前を通 ると、六兵衛は籠のなかから時鳥の雛をつかみ出して、すぐに彼のあとを追って行った。そう して、二時間ほどの後に帰って来た。磯貝が冷たい死骸となって含満ケ渕のほとりに発見され たのは、そのあくる朝であった。 「ハ日の晩にわたくしがいっそ中禅寺の湖水に飛び込んでしまえばよかったんです。なんだか むやみに家が恋しくなって、町まで帰って来たのが悪かったんです。」  お冬は泣いて|悔《くや》んだ。彼女は自分の父が殺人の大きい罪を犯したのを悲しむと同時に、磯貝 にしいたげられた自分のぬぐうべからざる|汚辱《おじよく》を狭い町じゅうにさらすのを恐れた。彼女は父 が今夜はいよいよ拘引されたのをみて、自分も決心した。磯貝の死に場所であった怖ろしい含 満ケ渕を、彼女も自分の死に場所と決めたのであった。  森君は無論お冬に同情した。|身悶《みもだ》えして泣き狂っている彼女を慰めていたわって、再び挽地 物屋の店へ連れて帰った。しかしお冬の家は親ひとり子ひとりで、その親は拘引されている。 そのあき巣に娘ひとりを残して置いては、なんどきまた何事を仕出かすかも知れないという不 安があるので、森君はお冬を自分の宿屋へ連れて帰って、主人にあらましの訳を話して、当分 はここに置いてもらうことにした。  ハ月十二日の日記はこれで終っている。田島はその翌あさ帰った。それから十九日まで一週 間の日記は甚だ簡単で、しかもところどころ抹殺してあるので殆ど要領を得ない。しかしお冬 がその日まで森君の宿屋に一緒に泊っていたことは事実である。森君はあまり綿密に日記をつ けている暇がなかったらしい。ハ月二十日以後の日記にはこういう記事が見えた。  二十日、晴。けさは俄かに秋風立つ。午後一時ごろに六兵衛老人は宇都宮から突然に帰って 来る。おどろいてきけば、殺人の嫌疑は晴れたる由。老人はその以外には口をつぐんでなんに も言わず。お冬さんは嬉し涙をこぼして自分の家へ帰る。予も一緒に行く。近所の人たちも見 舞に来る。めでたきこと限りなし。1夜七時頃にお冬さんがたずねて来て、二時間ほと語り て帰る。夜はもう薄ら寒きほどなり。当分当地に滞在する由をしたためて、東京の兄や友人ら に郵書を送る。兄からは|叱言《こごと》が来るかも知れねど是非なし。  二十一、二十二の二日間の日記には別に目立った記事もない。ただ森君がお冬さんと親しく 往来していた事実を伝えているのみである。二十三日には折井探偵が再びこの町に姿をあらわ したと書いてある。芸妓の小せんは再び拘引された。それは磯貝から預かっていた金をそのま ま着服したことが露見した為である。二十四日は無事。  二十五日、陰。微雨。l宇都宮から田島さん来たる。磯貝殺しの犯人は、鹿沼町の某会社 の職工にて、昨夜再び日光の町へ入り込みしところを折井刑事に捕縛されたりという。その職 工は小せんの情夫にはあらず、情夫の膿劃にて小牧なにがしという者なり。田島さんの報告に よれば、小牧は東京にて相当の生活を|営《いとな》みいたりしが、磯貝の父のために財産を差押えられ、 妻子にわかれて|流転《るてん》の末に、鹿沼の町にて職工となりたる也。兇行の当夜は小せんの情夫と共 に日光に来たり、ある料理店にて小せんと三人で遊んでい番うちに、小せんは二階から往来を みおろして、あれは東京の磯貝という客だと教えしより、泥酔していた小牧は、むかしの恨み を思い出してむらむらと殺意を生じ、糀沸に行く振りをして表へ飛び出し、彼のあとをつけて 含満ケ渕まで行くと、磯貝は誰やらとしきりに言い争っている様子なり。それがいよいよ彼の 反感を挑発して、突然に飛びかかって磯貝の咽喉を絞めつけ、そこへ突き倒して逃げ帰りしな りという。  磯貝の言い争っていた男は即ち六兵衛老人なり。老人も磯貝のあとを追っ掛けて、無理無体 に含満ケ渕の寂しいところまで連れて行き、娘を凌辱したる罪を激しく責め、その償いに貴様 の命をわたすか、但しはこの時鳥を慈悲心鳥として更に三千円の飼養料を払うかと、腕まくり の凄まじい権幕に談判し、磯貝がこれだけで勘弁してくれと百円ほど入れたる紙入れを突き出 したるに、彼は怒ってずたずたに引裂いて捨て、磯貝が更に金時計を差し出したるに、これも 石に叩きつけて打段し、どうでも三千円を渡せと罵るところへ、かの小牧が突然に飛び込みて 一言の問答にも及ばず、すぐに磯貝を絞め殺してしまいたり。これには六兵衛も|呆気《あつけ》にとられ て少しぼんやりと突っ立っていたるが、自分の眼のまえに倒れている磯貝の死骸をみると、彼 は俄かに言い知れぬ恐怖におそわれ、掴んでいたる雛鳥を投げ捨てて、これも早々に逃げ帰り しなり。これらの事情判明して六兵衛はゆるされ、小牧は捕わる。まことに不思議の出来事だ と田島さんはいう。  真の犯人が逮捕されるまでは、この事件に関する新聞の記事を差止められていたが、あした からは差止め解禁となって何でも自由にかけると田島さんは大得意なり。記事差止めが解除と なれば、あしたからは各新聞紙上にこの事件の真相が詳しく発表せらるるならん。犯人の小牧 はもちろん、被害者の磯貝のことも、嫌疑者の六兵衛老人のことも……お冬さんのことも.- 。 田島さんは今夜一泊。  二十六日、雨。けさの新聞を待ちかねて手に取れば、宇都宮の新聞は一蘇に筆をそろえて今 度の事件を詳細に報道したり。ハ時頃お冬さんをたずねると、まだなんにも知らない様子なり。 言って聞かせるのもあまりに痛々しければ黙っている。田島さんはいろいろの材料をあつめて 昼頃に引揚げて行く。雨はびしょびしょと降りしきりて昼でも薄ら寒い日なり。月末に近づき て各旅館の滞在客もおいおいに減ってゆく。いつもながら避暑地の初秋は儲しきもの也。午後 四時ごろに再びお冬さんを訪ねんとて、二階の|階子《はしご》を降りて行くと、たった今お冬さんがこの 手紙をほうり込んで行ったとて、女中が半紙を細かく畳んだのを渡してくれる。急いで明けて みると、1もうあなたにはお目にかかりません  。  森君の日記には、その後お冬さんについては何も書いていない。いや、書いたらしいが、み な抹殺してあるのでちっとも解らない。しかしお冬さんも六兵衛老人も決して無事ではなかっ たことは、九月二日の記事を見ても知られた。  九月二日。きょうは二百十日の由にて朝より影れ模様なり。もう思い切って宿を発つことに する。発つ前にOO寺に参詣して、親子の新しい墓を拝む。時どきに大粒の雨がふり出して、 強い風は|卒塔婆《そとば》を吹き飛ばしそうにゆする。その風の絶え間にこおろぎの声きれぎれにきこゆ。 i午前十時何分の上りの汽車に乗る  。  森君が|今日《こんにち》まで独身である理由もこれで大抵想像された。森君を乗せた汽車は今ごろ宇都宮 に着いたかも知れない。森君の胸には|旧《ふる》い疵が痛み出したかも知れない。わたしは日記の上か ら陰った眼をそむけた。  今夜の雨はまだやまない。