青空文庫で公開されました。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card43577.html |百物語《ひやくものがたり》 岡本綺堂  今から八十年ほどの昔Iと言いかけて、0君は自分でも笑い出した。いや、もっと遠い昔にな るのかも知れない。なんでも弘化元年とか二年とかの九月、上州の或る大名の城内に起こった出来 事である。  秋の夜に若侍どもが夜詰めをしていた。きのうからの雨のふりやまないで、物すごい夜であっ た。いつの世もおなじことで、こういう夜には怪談のはじまるのが習いである。そのなかで、一座 の先輩と仰がれている中原武太夫という男が言い出した。 「むかしから世に化け物があるといい、ないという。その議論まちまちで確かには判らない。今夜 のような晩は丁度あつらえ向きであるから、これからかの百物語というのを催して、妖怪が出るか 出ないか試してみようではないか。」 「それは面白いことでござる。」  いずれも血気の若侍ばかりであるから、】座の意見すぐに一致して、いよいよ百物語をはじめる ことになった。まず青い紙で|行燈《あんどう》の口をおおい、定めの通りに燈心百すじを入れて|五間《いつま》ほど|距《はな》れて いる奥の書院に据えた。そのそばには一面の鏡を置いて、燈心をひと筋ずつ消しにゆくたびに、必 ずその鏡のおもてを覗いてみることという約束であった。勿論、そのあいだの五間にはともしびを 置かないで、途中はすべて暗がりのなかを探り足でゆくことになっていた。 「一体、百ものがたりという以上、百人が代るがわるに話さなけれぱならないのか。」  それについても種々の議論が出たが、百物語というのは一種の形式で、かならず百人にかぎった ことではあるまいという意見が多かった。実際そこには百人のあたま|数《かず》が揃っていなかった。しか し物語の数だけは百箇条を揃えなければならないというので、くじ引きの上で一人が三つ四つの話 を受け持つことになった。それでもなるべくは人数が多い方がいいというので、いやがる茶坊|主《ヨ 》ど もまでを狩りあつめて来て、夜の五つ(午後八時)頃から第一番の浦辺四郎七という若侍が、まず 怪談のロを切った。  なにしろ百箇条の話をするのであるから、一つの話はなるべく短いのを選むという約束であった がそれでも案外に時が移って、かの中原武太夫が第八十三番の座に直ったのは、その夜ももう八っ (午前二時)に近い頃であった。中原は今度で三度目であるから、持ちあわせの怪談も種切れにな ってしまって、ある山寺の尼僧と小姓とが密通して、ふたりともに鬼になったとかいう紋切形の怪 談を短く話して、奥の行燈の火を消しに行った。  前にもいう通り、行燈のある書院までゆき着くには、暗い広い座敷を五間通りぬけなければなら ないのであるが、中原は最初から二度も通っているので、暗いなかでも大抵の見当は付いていた。 かれは平気で座を起って、次の間の襖をあけた。暗い座敷を次から次へと真直に通って、行燈の据 えてある書院にゆき着いたときに、ふと見かえると、今通って来たうしろの座敷の右の壁に何やら 白いものが懸かっているようにぽんやりと見えた。引っ返してよく見ると、ひとりの白い女が首で も総ったように天井から垂れ下がっているのであった。 「なるほど、昔から言い伝えることに嘘はない。これこそ化け物というのであろう。」と中原は思 った。  しかし彼は気丈の男であるので、そのままにして次の間へはいって、例のごとくに燈心をひとす じ消した。それから鏡をとって透かしてみたが、鏡のおもてには別に怪しい影も映らなかった。帰 るときに再び見かえると、壁のきわにはやはり白いものの影がみえた。  中原は無事にもとの席へ戻ったが、自分の見たことを誰にも言わなかった。第八十四番には|箆甚《かけひ》 五右衛門というのが起って行った。つづいて順々に席を起ったが、どの人もかの怪しいものについ て一言もいわないので、中原は内心不思議に思った。さてはかの妖怪は自分ひとりの眼にみえたの か、それとも他の人々も自分とおなじように黙っているのかと思案しているうちに、百番の物語は とどこおりなく終った。百すじの燈心はみな消されて、その座敷も真の闇となった。  中原は試みに一座のものに|訊《き》いた。 「これで百物語も済んだのであるが、おのおののうちに誰も不思議をみた者はござらぬか。」  人々は息をのんで黙っていると、その中でかの箆甚五右衛門がひと膝すすみ出て答えた。 「実は人々をおどろかすもいかがと存じて、先刻から差し控えておりましたが、拙者は八十四番目 のときに怪しいものを見ました。」  ひとりがこう言って口を切ると、実は自分も見たという者が続々あらわれた。だんだん詮議する と、第七+五番の本郷弥次郎という男から始まって、その後の人は皆それを見たのであるが、|迂潤《うかつ》 に口外して臆病者と笑われるのは残念であると、誰も彼も素知らぬ顔をしていたのであった。 「では、これからその正体を見とどけようではないか。」  中原が行燈をともして先きに立つと、他の人々も一度につづいて行った。今までは薄暗いのでよ く判らなかったが、行燈の灯に照らしてみると、それは年のころ十八九の美しい女で、|白無垢《しろむく》のう えに|白縮緬《しろちりめん》のしごきを締め、長い髪をふりみだして首をくくっているのであった。こうして大勢に 取りまかれていても、そのまま姿を変じないのを見ると、これは妖怪ではあるまいという説もあっ たが、多数の者はまだそれを疑っていた。ともかくも夜のあけるまではこうして置くがいいという ので、あとさきの襖を厳重にしめ切って、人々はその前に張り番をしていると、白い女はやはりそ のままに垂れ下がっていた。そのうちに秋の夜もだんだんに白んで来たが、白い女の姿は消えもし なかった。 「これはいよいよ不思議だ。」と、人々は顔を見あわせた。 「いや不思議ではない。これはほんとうの人間だ。」と、中原が言い出した。  初めから妖怪ではあるまいと主張していた連中は、それ見たことかと笑い出した。しかしそれが いよいよ人間であると決まれば、打ち捨てては置かれまいと、人々も今更のように騒ぎ出して、と りあえず奥掛りの役人に報告すると、役人もおどろいて駈け付けた。 「や、これは島川どのだ。」 島川というのは、奥勤めの中老で、折りふしは殿のお|夜伽《よとぎ》にも召されるとかいう噂のある女であ るから、人々は又おどろいた。役人も一旦は顔色を変えたが、よく考えてみると、奥勤めの女がこ んなところへ出てくる筈がない。なにかの子細があって自殺したとしても、こんな場所を選む筈が ない。第一、奥と|表《ハと》との隔てのきびしい城内で、中老ともあるべきものが何処をどう抜け出して来 たのであろう。どうしてもこれは本当の島川ではない。他人の空似か、あるいはやはり妖怪の仕業 か、いずれにしても粗忽に立ち騒ぐこと無用と、役人は人々を堅く戒めて置いて、さらにその次第 を奥家老に報告した。  奥家老下田治兵衛もそれを聴いて眉をしわめた。ともかくも奥へ行って、島川どのにお目にかか りたいと言い入れると、ゆうべから不快で臥せっているからお逢いは出来ないという返事であっ た。さては怪しいと思ったので、下田は押し返して言った。 「御不快中、はなはだお気の毒でござるが、是非ともすぐにお目にかからねばならぬ急用が|出来《しゆつたい》い たしたれば、ちょっとお逢い申したい。」  それでどうするかと思って待ち構えていると、本人の島川は自分の部屋から出て来た。なるほど 不快のていで顔や形もひどく|輿《やつ》れていたが、なにしろ別条なく生きているので、下田もまず安心し た。なんの御用と不思議そうな顔をしている島川に対しては、いい加減の返事をして置いて、下田 は早々に表に出てゆくと、かの白い女のすがたは消えてしまったというのである。中原をはじめ、 他の人々も厳重に見張っていたのである、それがおのずと煙のように消え失せてしまったというの で、下田も又おどろいた。 「島川どのは確かに無事。してみると、それはやはり妖怪であったに相違ない。かようなことは決 して口外しては相成りませぬぞ。」  初めは妖怪であると思った女が、中ごろには人間になって、さらにまた妖怪になったので、人々 も夢のような心持であった。しかしその姿が消えるのを目前に見たのであるから、誰もそれを争う 余地はなかった。百物語のおかげで、世には妖怪のあることが確かめられたのであった。  その本人の島川は一旦本腹して、相変わらず奥に勤めていたが、それからふた月ほどの後に再び 不快と言い立てて引き籠っているうちに、ある夜自分の部屋で首をくくって死んだ。前々からの不 快というのも、なにか人を怨むすじがあった為であると伝えられた。  してみると、さきの夜の白い女は単に一種の妖怪に過ぎないのか。あるいはその当時から島川は すでに|緯死《いし》の覚悟をしていたので、その|生霊《いきりよう》が一種のまぼろしとなって現われたのか。それはいつ までも解かれない謎であると、中原武太夫が老後に人に語った。これも前の話の離魂病のたぐいか も知れない。L