青空文庫で公開されました。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card43576.html |白髪鬼《はくはつき》 岡本綺堂 S弁護士は語る。  私はあまり怪談などというものに興味をもたない人問で、他人からそんな話を聴こうともせず、 自分から好んで話そうともしないのですが、若いときにたった一度、こんな事件に出逢ったことが あって、その謎だけはまだ本当に解けないのです。  今から十五年ほど前に、わたしは|麹町《こうじまち》の半蔵門に近いところに下宿屋生活をして、神田のある法 律学校に通っていたことがあります。下宿屋といっても、素人家に手入れをして七|問《ま》ほどの客間を 造ったのですから、満員となったところで七人以上の客を収容することは出来ない。いわば一種の 素人下宿のような家で、主婦は五十をすこし越えたらしい上品な人でした。ほかに廿八九の娘と女 中ひとり、この三人で客の世話をしているのですが、だんだん聞いてみると、ここの|家《うち》には相当の 財産があって、長男は京都の大学にはいっている。その長男が卒業して帰って来るまで、ただ遊ん でいるのもつまらなく、また寂しくもあるというようなわけで、道楽半分にこんな商売を始めたの だそうです。したがって普通の下宿屋とはちがって、万事がいかにも親切で、いわゆる家族的待遇 をしてくれるので、|止宿人《ししゆくにん》はみな喜んでいました。  そういうわけで、私たちは家の主婦を奥さんと呼んでいました。下宿屋のおかみさんを奥さんと 呼ぶのは少し変ですが、前にも言う通り、まったく上品で温和な婦人で、どうもおかみさんとは呼 びにくいように感じられるので、どの人もみな申し合わせたように奥さんと呼び、その娘を伊佐子 さんと呼んでいました。家の苗字はー仮りに堀川といって置きましょう。  十一月はじめの|霧《は》れた夜でした。わたしは四谷|須賀町《すがちよう》のお|酉《とり》さまへ参詣に出かけました。東京の 酉の町というのをかねて話には聞いていながら、まだ一度も見たことがない。さりとて浅草まで出 かけるほどの勇気もないので、近所の四谷で済ませて置こうと思って、ゆう飯を食った後に散歩な がらぶらぶら行ってみることになったのですから、甚だ不信心の参詣者というべきでした。今夜は |初酉《はつとり》だそうですが、天気がいいせいか|頗《すこぶ》る繁昌しているので、混雑のなかを揉まれながら境内と境 外を一巡して、電車通りの往来まで出て来ると、ここも露天で賑わっている。その人ごみの問で不 意に声をかけられました。 「やあ、須田君。君も来ていたんですか。」 「やあ、あなたも御参詣ですか。」 「まあ、御参詣と言うぺきでしょうね。」  その人は笑いながら、手に持っている小さい熊手と、笹の枝に通した|唐《とう》の芋とを見せました。彼 は山岸猛雄1これも仮名です。ーという男で、やはり私とおなじ下宿屋に止宿しているのです から二人は肩をならベて歩き始めました。 「ずいぶん賑やかですね。」と、わたしは言いました。「そんなものを買ってどうするんです。」 「伊佐子さんにお土産ですよ。」と、山岸はまた笑っていました。「去年も買って行ったから今年も 吉例でね。」 「高いでしょう。」と、そんな物の相場を知らない私は|訊《き》きました。 「なに、思い切って値切り倒して……。それでも初酉だから、商人の鼻息がなかなか荒い。」  そんなことを言いながら四谷見附の方角へむかって来ると、山岸はあるコーヒー店の前に立ちど まりました。 「君、どうです。お茶でも飲んで行きませんか。」  かれは先に立って店へはいったので、わたしもあとから続いてはいると、幸いに隅の方のテーブ ルが|空《す》いていたので、二人はそこに陣取って、紅茶と菓子を注文しました。 「須田君は酒を飲まないんですね。」 「飲みません。」 「ちっともいけないんですか。」 「ちっとも飲めません。」 「わたしも御同様だ。少しは飲めるといいんだが……。」と、山岸は何か考えるように言いました。 「この二、三年来、なんとかして飲めるようになりたいと思って、ずいぶん勉強してみたんですが ね。どうしても駄目ですよ。」 飲めない酒をなぜ無理に飲もうとするのかと、年の若い私はすこしおかしくなりました。その笑 い顔をながめながら、山岸はやはり子細ありそうに溜め息をつきました。 「いや、君ねぞは勿論飲まない方がいいですよ。しかし私なぞは少し飲めるといいんだが……。」 と、彼は繰り返して言いましたが、やがて又|俄《にわ》かに笑い出しました。「なぜといって…-。少しは 酒を飲まないと伊佐子さんに嫌われるんでね。ははははは。」  山岸の方はどうだか知らないが、伊佐子さんがとにかく彼に接近したがって、いわゆる|秋波《しゆうは》を送 っているらしいのは、他の止宿人もみな認めているのでした。堀川の|家《うち》では、伊佐子さんが姉で、 京都へ行っている長男は弟だそうです。伊佐子さんは廿一の年に他へ縁付いたのですが、その翌年 に夫が病死したので、再び実家へ戻って来て、それからむなしく七、八年を送っているという気の 毒な身の上であることを、わたし達も薄々知っていました。|容貌《きりよう》もまず十人並み以上で|阿母《おつか》さんと は違ってなかなか元気のいい活溌な婦人でしたが、気のせいか、その蒼白い細おもてがやや寂しく 見えるようでした。  山岸は三十前後で、体格もよく、顔色もよく、ひと口にいえばいかにも男らしい|風采《ふうさい》の持ち主で した。その上に、郷里の実家が富裕であるらしく、毎月少なからぬ送金を受けているので、服装も よく、金づかいもいい。どの点から見ても七人の止宿人のうちでは彼が最も優等であるのですか ら、伊佐子さんが彼に眼をつけるのも無理はないと思われました。いや、彼女が山岸に眼をつけて いることは、奥さんも内々承知していながら、そのまま黙許しているらしいという噂もあるくらい てすから、今ここで山岸の口から伊佐子さんのことを言い出されても、私はさのみに怪しみもしま せんでした。勿論、妬むなどという気はちっとも起こりませんでした。 「伊佐子さんは酒を飲むんですか。」と、わたしも笑いながら|訊《き》きました。 「さあ。」と、山岸は首をかしげていました。「よくは知らないが、おそらく飲むまいな。私にむか っても、酒を飲むのはおよしなさいと忠告したくらいだから……。」 「でも、酒を飲まないと、伊佐子さんに嫌われると言ったじゃありませんか。」 「あははははは。」  彼があまりに大きな声で笑い出したので、四組ほどの他の客がびっくりしたようにこっちを一度 に見返ったので、わたしは少し気まりが悪くなりました。茶を飲んで、菓子を食って、その勘定は 山岸が払って、二人は再び往来へ出ると、大きい冬の月が堤の松の上に高くかかっていました。|霧《は》 れた夜といっても、もう十一月の初めですから、寒い西北の風がわれわれを送るように吹いて来ま した。  四谷見附を過ぎて、|麹町《こうじまち》の大通りへさしかかると、橋ひとつを境にして、急に世間が静かになっ たように感じられました。山岸は消防署の火の見を仰ぎながら、突然にこんなことを言い出しまし た。 「君は幽霊というものを信じますか。」  思いも付かないことを問われて、わたしもすこしく返答に鷹路しましたが、それでも正血に答え ました。 「さあ。わたしは幽霊というものについて、研究したこともありませんが、まあ信じない方です ね。」 「そうでしょうね。」と、山岸はうなずきました。「わたしにしても信じたくないから、君なぞが信 じないというのは本当だ。」  彼はそれぎりで黙ってしまいました。|今日《こんにち》ではわたしも商売柄で相当におしゃべりをしますが、 学生時代の若い時には、どちらかといえば無口の方でしたから、相手が黙っていれば、こっちも黙 っているというふうで、二人は街路樹の落葉を踏みながら、無言で麹町通りの半分以上を通り過ぎ ると、山岸はまた|俄《にわ》かに立ちどまりました。 「須田君、うなぎを食いませんか。」 「え。」  わたしは山岸の顔をみました。たった今、四谷で茶を飲んだばかりで、又すぐにここで|鰻《うなぎ》を食お うというのは少しく変だと思っていると、それを察したように彼は言いました。 「君は家で夕飯を食ったでしょうが、わたしは午後に出たぎりで、実はまだ夕飯を食わないんです よ。あのコーヒー店で何か食おうと思ったが、ごたごたしているので止めて来たんです。」  なるほど彼は午後から外出していたのです。それでまだ夕飯を食わずにいるのでは、四谷で西洋 菓子を二つぐらい食ったのでは腹の虫が承知しまいと察せられました。それにしても、鰻を食うの は瞥沢です。いや、金廻りのいい彼としては別に不思議はないかも知れませんが、われわれのよう な学生に取っては少しく賛沢です。今日では方々の食堂で鰻を安く食わせますが、その頃のうなぎ は高いものと決まっていました。殊に山岸がこれからはいろうとする鰻屋は、ここらでも上等の店 でしたから、わたしは遠慮しました。 「それじゃああなたひとりで食べていらっしゃい。わたしはお先へ失敬します。」  行きかけるのを、山岸は引き止めました。 「それじゃあいけない。まあ、付き合いに来てくれたまえ。鰻を食うばかりじゃない。ほかにも少 し話したいことがあるから。いや、嘘じゃない。まったく話があるんだから-….。」  断り切れないで、私はとうとう鰻屋の二階へ連れ込まれました。 二  ここで山岸とわたしとの関係を、さらに説明しておく必要があります。  山岸はわたしと同じ下宿屋に住んでいるという以外に、特別にわたしに対して一種の親しみを持 っていてくれるのは、二人がおなじ職業をこころざしているのと、わたしが先輩として常に彼を尊 敬しているからでした。わたしも将来は弁護士として世間に立つつもりで勉強中の身の上ですか ら、自分よりも年上の彼に対して敬意を払うのは当然です。単に年齢の差があるばかりでなく、そ の学力においても、彼とわたしとは大いに相違しているのでした。山岸は法律上の知識は勿論、英 語のほかにドイツ、フランスの語学にも精通していましたから、わたしはいい人と同宿したのを喜 んで、その部屋へ押し掛けて行っていろいろのことを訊くと、彼もまた|根《こん》よく親切に教えてくれ る。そういうわけですから、山岸という男はわたしの師匠といってもいいくらいで、わたしも彼を 尊敬し、彼もわたしを愛してくれたのです。  唯ここに一つ、わたしとして不思議でならないのは、その山岸がこれまでに四回も弁護士試験を うけて、いつも合格しないということでした。あれほどの学力もあり、あれほどの胆力もありなが ら、どうして試験に通過することが出来ないのか。わたしの知っている範囲内でも、その学力はた しかに山岸に及ばないと思われる人問がいずれも無事に合格しているのです。勿論、試験というも のは一種の運だめしで、実力の|優《まさ》ったものが必ず勝つとも限らないのですが、それも一回や二回で はなく、三回も四回もおなじ失敗をくり返すというのは、どう考えても判りかねます。 「わたしは気が小さいので、いけないんですね。」  それに対して、山岸はこう説明しているのですが、わたしの視るところでは彼は決して小胆の人 物ではありません。試験の場所に臨んで、いわゆる「場打て」がするような、気の弱い人物とは思 われません。体格は堂々としている。弁舌は流暢である。どんな試験官でも確かに採用しそうな筈 であるのに、それがいつでも合格しないのは、まったく不思議と言うのほかはありません。それで も彼は、郷里から十分の送金を受けているので、何回の失敗にもさのみ屈する気色もみせず、落ち つき払って下宿生活をつづけているのです。わたしは彼に誘われて、ここの|鰻《うなぎ》の御馳走になったの は、今までにも二、三回ありました。 「君なぞは若い盛りで、さっき食った夕飯なぞはとうの昔に消化してしまった筈だ。遠慮なしに食 いたまえ、食いたまえ。」  山岸にすすめられて、私はもう遠慮なしに食い始めました。ともかくも一本の酒を注文したので すが、二人とも殆ど飲まないで、唯むやみに食うばかりです。蒲焼の代りを待っているあいだに、 彼は静かに言い出しました。- 「実はね、わたしは今年かぎりで郷里へ帰ろうかと思っていますよ。」  私はおどろきました。すぐには何ともいえないで、黙って相手の顔を見つめていると、山岸はす こしく|容《かたち》をあらためました。 「甚だ突然で、君も驚いたかも知れないが、わたしもいよいよ諦めて帰ることにしました。どう考 えても、弁護士という職業はわたしに縁がないらしい。」 「そんなことはないでしょう。」 「私もそんなことはないと思っていた。そんな筈はないと信じていた。幽霊がこの世にないと信じ るのと同じように……。」  さっきも幽霊と言い、今もまた幽霊と言い出したのが、わたしの注意をひきました。しかし黙っ て聴いていると、彼は更にこんなことを言い出しました。 「君は幽霊を信じないと言いましたね。わたしも勿論信じなかった。信じないどころか、そんな話 を聴くと笑っていた。その私が幽霊に責められて、とうとう自分の目的を捨てなければならない事 になったんですよ。幽霊を信じない君たちの眼から見れば、実にばかばかしいかも知れない。ま あ、笑ってくれたまえ。」  わたしは笑う気にはなれませんでした。山岸の口からこんなことを聞かされる以上、それには相 当の根拠が之ければならない。といって、まさか幽霊などというものがこの世にあろうとは思われ ない。半信半疑でやはり黙っていると、山岸もまた黙って天井の電燈をみあげていました。広い二 階に坐っているのはわれわれの二人ぎりで、隅々からにじみ出して来る夜の寒さが人に迫るように も思われました。  しかし今夜もまだ九時頃です、表には電車の往来するひびきが絶えずごう、こうと聞こえていま す。下では|鰻《うなぎ》を焼く|団扇《うちわ》の音がぱたぱたと聞こえます。思いなしか、頭の上の電燈が薄暗くみえて も、床の間に生けてある茶の花の白い影がわびしく見えても、怪談らしい気分を深めるにはまだ不 十分でした。もちろん山岸はそんなことに頓着する筈もない、ただ自分の言いたいだけの事を言え ばいいのでしょう。やがて又向き直って話しつづけました。 「自分の口から言うのも何だが、わたしはこれまでに相当の勉強もしたつもりで、弁護士試験ぐら いはまず無事にパスするという自信を持っていたんですよ。うぬぼれかも知れないが、自分ではそ う信じていたんです。」 「そりゃそうです。」と、私はすぐに言いました。「あなたのような人がパスしないという筈はない んですから。」 「ところが、いけないからおかしい。」と、山岸はさびしく笑いました。「君も御承知だろうが、こ としで四回つづけて見事に失敗している。自分でも少し不思議に思うくらいで……。」 「私もまったく不思議に思っているんです。どういうわけでしょう。」 「そのわけは……。今も言う通り、わたしは幽霊に責められているんですよ。いや、実にばかばか しい。われながら馬鹿げ切っていると思うのだが、それが事実であるからどうにも仕様がない。今 まで誰にも話したことはないが、わたしが初めて試験を受けに出て、一生懸命に答案を書いている と、一人の女のすがたが私の眼の前にぽんやりと現われたんです。場所が場所だから、女なぞが出 て来るはずがない。それは痩形で背の高い、髪の毛の白い女で、着物は何を着ているかはっきりと わからないが、顔だけはよく見えるんです。髪の白いのを見ると、老人かと思われるが、その顔は 色白の細おもてで、まだ三十を越したか越さないか位にも見える。そういう次第で、年ごろの鑑定 は付かないが、髪の毛の真白であるだけは問違いない。その女がわたしの机の前に立って、わたし の書いている紙の上を覗き込むようにじっと眺めていると、不思議にわたしの筆の運びがにぶくな って、頭もなんだか㌍として、|何《ヰまう》を書いているのか自分にも判らなくなって来る……。君はその女 をなんだと思います。」 「しかし……。」と、わたしは考えながら言いました。「試験場には大勢の受験者が机をならべてい るんでしょう。しかも昼間でしょう。」 「そうです、そうです。」と、山岸はうなずきました。「まっ昼問で、|硝子《がらす》窓の外には明るい日が照 っている。試験場には大勢の人間がならんでいる。そこへ髪の毛の白い女の姿があらわれるんです よ。勿論、他の人には見えないらしい。わたしの隣りにいる人も平気で答案を書きつづけているん です。なにしろ、私はその女に邪魔をされて、結局なんだかわからないような答案を提出すること になる。何がなんだか滅茶苦茶で、自分にも訳が判らないようなものを書いて出すのだから、試験 官が明き|盲《めくら》でない限り、そんな答案に対して及第点をあたえてくれる筈がない。それで第一回の受 験は見ごとに失敗してしまった。それでも私はそれほどに悲観しませんでした。元来がのん気な人 問に生まれ付いているのと、もう一つには、幸いに郷里の方が相当に暮らしているので、一年や二 年は遊んでいても困ることはないという安心があったからでした。」 「そこで、あなたはその女に就いてどう考えておいでになったんです。」 「それは神経衰弱の結果だと見ていました。」と、山岸は答えました。「幾らのん気な人間でも、試 験前には勉強する。殊にその当時は学校を出てから間もないので、毎晩二時三時ごろまでも勉強し ていたから、神経衰弱の結果、そういう一種の幻覚を生じたものだろうと判断しました。したがっ て、さのみ不思議とも思いませんでした。」 「その女はそれぎり姿を見せませんでしたか。」と、わたしは追いかけるように|訊《き》いた。 「いや、お話はこれからですよ。その頃わたしは神田に下宿していたんですが、何分にも周囲がそ うぞうしくって、いよいよ神経を|苛立《いらだ》たせるばかりだと思ったので、さらに小石川の方へ転宿し て、その翌年に第二回の試験を受けると、これも同じ結果に終りました。わたしの机の前には、や はり髪の白い女の姿があらわれて、わたしが書いている紙の上をじっと覗いているんです。畜生、 又来たかと思っても、それに対抗するだけの勇気がないので、又もや眼が|眩《くら》んで、頭がぼんやりし て、なんだか夢のような心持になって……。結局めちゃめちゃの答案を提出して……。それでも私は まだ悲観しませんでした。やはり神経衰弱が|崇《たた》っているんだと思って、それから三月ほども湘南地 方に転地して、唯ぶらぶら遊んでいると、頭の具合もすっかり好くなったらしいので、東京へ帰っ て又もや下宿をかえました。それが現在の堀川の家で、今までのうちでは一等居ごころのいい家で すから、ここならば大いに勉強が出来ると喜んでいると、去年は第三回の受験です。近来は健康も 回復しているし、試験の勝手もよく判っているし、今度こそはという意気込みで、わたしは威勢よ く試験場へはいって、答案をすらすらと書きはじめると、髪の白い女が又あらわれました。いつも 同じことだから、もう詳しく言うまでもありますまい。わたしはすごすごと試験場を出ました。」  あり得べからざる話を聴かされて、わたしも何だか夢のような心持になって来ました。そこへ蒲 焼のお代りを運んで来ましたが、わたしはもう箸をつける元気がない。それは満腹の為ばかりでは なかったようです。山岸も皿を見たばかりで、箸をとりませんでした。 三  うなぎを食うよりも、話のつづきを聞く方が大事なので、わたしは誘いかけるように又|訊《まし》きまし た。 「そうすると、それもやっぱり神経のせいでしょうか。」 「さあ。」と、山岸は低い溜め息を洩らしました。「こうなると、わたしも少し考えさせられました よ。実は今まで郷里の方に対して、受験の成績は毎回報告していましたが、髪の白い女のことなぞ はいっさい秘密にしていました。そんなことを言ってやったところで、誰も信用する筈もなし、落 第の申し訳にそんな奇怪な事実を|握造《ねつぞう》したように思われるのも、あまり卑怯らしくって残念だか ら、どこまでも自分の勉強の足らないことにして置いたのです。ねえ、そうでしょう。わたしの眼 にみえるだけで、誰にも判らないことなんだから、いくら本当だと主張したところで信用する者は ありますまい。まして自分自身も神経衰弱の崇りと判断しているくらいだから、そんな余計なこと を報告してやる必要もないと思って、かたがたその儘にして置いたんですが、三度が三度、同じこ とが続いて、おなじ結果になるというのは少しおかしいと自分でもやや疑うようになって来た。そこ へ郷里の父から手紙が来て、ちょっと帰って来いというんです。父は九州のFという町でやはり弁 護士を開業しているんですが、早い子持ちで、廿三の年にわたしを生んだのだから、去年は五十二 で、土地の同業者間ではまずいい顔になっている。そのおかげで私もまあこうしてぶらぶらしてい られるんですが……。その父も毎々の失敗にすこし|呆《あき》れたんでしょう。ともかくも一度帰って来い というので、去年の暮から今年の正月にかけて……。それは君も知っているでしょう。それから東 京へ帰って来たときに、わたしの様子に何か変わったところがありましたか。」 「いいえ、気がつきませんでした。」と、わたしは首をふりました。 「そうでしたか。なんぼ私のような人間でも、三回も受験に失敗しているんだから、久しぶりで国 へ帰って、父の前へ出ると、さすがにきまりが悪い。そこは人情で、なにかの言い訳もしたくなる。 その言い訳のあいだに口がすべって、髪の白い女のことをうっかりしゃべってしまったんです。す ると、父は|俄《にわ》かにくちびるを|屹《きつ》と結んで、しばらく私の顔を見つめていたが、やがて厳粛な口調で、 お前それは本当かという。本当ですと答えると、父は又だまってしまって、それぎりなんにも言い ませんでしたが、さてそうなると私の疑いはいよいよ深くならざるを得ない。父の様子から想像す ると、これには何か子細のあることで、単にわたしの神経衰弱とばかりは言っていられないような 気がするじゃありませんか。その時はまあそれで済んだんですが、それから二、三日の後、父はわ たしに向かって、もう東京へ行くのは止せ、弁護士試験なぞ受けるのは思い切れと、こう言うんで す。実家に居据わっていても仕方がないので、わたしは父にむかって、お願いですから、もう一度 東京へやってください。万一ことしの受験にも失敗するようであったら、その時こそは思い切って 帰郷しますと、無理に父を口説いて再び上京しました。したがって、ことしの受験はわたしに取っ ては背水の陣といったようなわけで、平素のん気な人間も少しく緊張した心持で帰って来たんで す。それが君たちに|覚《さと》られなかったとすると、私はよほどのん気にみえる男なんでしょうね。」  山岸は又さびしく笑いながら語りつづけました。 「ところで、ことしの受験もあの通りの始末……。やはり白い髪の女に|崇《たた》られたんですよ。かれは 今年も依然として試験場にあらわれて、わたしの答案を妨害しました。言うまでもない事だが、試験 場におけるわたしの席は毎年変わっている。しかもかれは同じように、影の形に従うがごとくに、 私の前にあらわれて来るのだから、どうしても避ける方法がない。わたしはこの幽霊1まず幽霊 とでもいうのほかはありますまい。この幽霊のために再三再四妨害されて、実に腹が立ってたまらな いので、もうこうなったら根くらべ意地くらべの決心で、来年も重ねて試験を受けようと思ってい たところが、二、三日前に郷里の父から手紙が来て、今度こそはどうしても帰れというんです。こ の正月の約束があるから、わたしももう強情を張り通すわけにもいかないのと、もう一つ、わたし に強い衝動をあたえたのは、父の手紙にこういうことが書いてあるんです。たとい無理に試験を通 過したところで、弁護士という職業を撰むことは、お前の将来に不幸をまねく基であるらしく思わ れるから、もう思い切って帰郷して、なにか他の職業を求める事にしろ。お前として今までの志望 を拠棄するのは定めて苦痛であろうと察せられるが、お前にばかり|強《し》いるのではない、わたしも今 年かぎりで登録を取り消して弁護士を廃業する。」 「なぜでしょう。」と、わたしは思わず|啄《くち》をいれました。 「なぜだか判らない。」と、山岸は思いありげに答えました。「しかし判らないながらも、なんだか 判ったような気もするので、わたしもいよいよ思い切って東京をひきあげて、年内に帰国するつも りです。父はF町の近在に相当の土地を所有している筈だから、草花でも作って、晩年を送る気に なったのかも知れない。わたしも父と一緒に園芸でもやってみるか、それとも何か他の仕事に取り かかるか、それは帰郷の上でゆっくり考えようと思っているんです。」  わたしは急にさびしいような、薄暗い心持になりました。どんな事情があるのか知れないが、父 も弁護士を廃業する、その子も弁護士試験を断念して帰る。それだけでも聞く者のこころを暗くさ せるのに、さらに現在のわたしとしては、自分が平素尊敬している先輩に捨てて行かれるのが、い かにも頼りないような寂しい思いに堪えられないので、黙って術向いてその話を聞いていると、山 岸は又言いました。 「今夜の話はこの場かぎりで、当分は誰にも秘密にしておいてくれたまえ。いいかい。奥さんにも 伊佐子さんにも暫く黙っていてくれたまえ。」  奥さんはともあれ、伊佐子さんがこれを知ったら定めて驚くだろうと、わたしは気の毒に思いま したが、この場合、かれこれ言うぺきではありませんから、山岸が言うがままに承諾の返事をして 置きました。  お代りの蒲焼は二人ともにちっとも箸をつけなかったので、残して行くのも勿体ないといって、 その二人前を折詰にして貰うことにしました。それは伊佐子さんへお土産にするのだと、山岸は言 っていました。熊手と|唐《とう》の芋と、うなぎの蒲焼と、重ね重ねのおみやげを貰って、なんにも知らな い伊佐子さんはどんなに喜ぶことかと思うと、わたしはいよいよ寂しいような心持になりました。  表へ出ると、木枯しとでも言いそうな寒い風が、さっきよりも強く吹いていました。宿へ帰るま で二人は黙って歩きました。 四  おみやげの品々を貰って、伊佐子さんは果たして大喜びでした。奥さんも喜んでいました。その 呉れ手が山岸であるだけに、伊佐子さんは一層嬉しく感じたのであろうと思うと、わたしは気の毒 を通り越して、なんだか悲しいような心持になって来たので、そうそうに挨拶して、自分の部崖へ はいってしまいました。  堀川の家で止宿人にあたえている部屋は、二階に五間、下に二間という間取りで、山岸は下の六 畳に、わたしは二階の東の隅の四畳半に陣取っているのでした。東の隅といっても、東側には隣り の二階家が接近しているので、一間の肱かけ窓は北の往来にむかって開かれているのですから、こ れからは日当たりの悪い、寒い部屋になるのです。今夜のような風の吹く晩には、窓の戸をゆする 音を聞くだけでも夜の寒さが身に沁みます。もう勉強する元気もないので、私はすぐに冷たい|裏《よぎ》の なかにもぐり込みましたが、何分にも眼が冴えて眠られませんでした。いや、眠られないのがあた りまえかとも思いました。  わたしは今夜の話をそれからそれへと繰り返して考えました。髪の白い女というのは、一体何者 であろうかとも考えました。山岸はそれを幽霊と信じてしまったらしいが、さっきも言う通り、白 昼衆人のあいだに幽霊が姿をあらわすなどというのはどうしても私には信じられないことでした。 しかも山岸が彼の父にむかってその話を洩らしたときに、父の態度に怪しむべき点を発見したらし い事を考えると、父には何か思いあたる|節《ふし》があるのかとも察せられます。ことに父も今年かぎりで 弁護士を廃業するから、山岸にも受験を断念しろという。それには勿論なにかの子細がなければな らない。それから綜合して考えると、これは弁護士という職業に関連した一種の秘密であるらし い。山岸は詳しいことを明かさないが、今度の父の手紙にはその秘密を洩らしてあるのかも知れな い。そこで彼もとうとう|我《が》を折って、にわかに帰郷することになったのかも知れない。  わたしの空想はだんだんに拡がって来ました。山岸の父は職業上、ある訴訟事件の弁護をひき受 けた。刑事ではあるまい、おそらく民事であろう。それが原告であったか、被告であったか知らな いが、ともかくも裁判の結果が、ある婦人に甚だしい不利益をあたえることになった。その婦人 は、髪の白い人であった。かれはそれがために自殺したか、悶死したか、いずれにしても山岸の父 を呪いつつ死んだ。その恨みの魂がまぼろしの姿を試験場にあらわして、彼の子たる山岸を苦しめ るのではあるまいか。  こう解釈すれば、怪談としてまずひと通りの筋道は立つわけですが、そんな小説めいた事件が実 際にあり得るものかどうかは、大いなる疑問であると言わなければなりません。  さっき聞き落としたのですが、一体その髪の白い女は試験場にかぎって出現するのか、あるいは 平生でも山岸の前に姿をみせるのか、それを詮議しなければならない事です。山岸の口ぶりでは、 平生は彼と没交渉であるらしく思われるのですが、それも機会を見てよく確かめて置かなければな りません。そんねことをいろいろ考えているうちに、近所の米屋で、一番鶏の歌う声がきこえまし た。  あくる朝はゆうべの風のためか、にわかに冬らしい気候になりました。一夜をろくろく眠らずに 明かした私は、けさの寒さが一層こたえるようでしたが、それでも朝飯をそうそうに食って、いつ もの通りに学校へ出て行きました。その頃には風も止んで、青空杢高く晴れていました。  留守のあいだに何事か起こっていはしないかと、一種の不安をいだきながら、午後に学校から帰 って来ますと、堀川の一家にはなんにも変わった様子もなく、伊佐子さんはいつもの通りに働いて います。山岸も自分の部屋で静かに読書しているようです。私はまずこれで安心していると、午後 六時頃に伊佐子さんがわたしの部屋へ夕飯の膳を運んで来ました。このごろの六時ですから、日は すっかり暮れ切って、狭い部屋には電燈のひかりが満ちていました。 「きょうは随分お寒うござんしたね。」と、伊佐子さんは言いました。平生から蒼白い顔のいよい よ蒼ざめているのが、わたしの眼につきました。 「ええ、今からこんなに寒くなっちゃやりきれません。」  いつもは膳と|飯櫃《めしびつ》を置いて、すぐに立ち去る伊佐子さんが、今夜は入口に立て膝をしたままで又 話しかけました。 「須田さん。あなたはゆうべ、山岸さんと一緒にお帰りでしたね。」 「ええ。」と、わたしは少しあいまいに答えました。この場合、伊佐子さんから山岸のことを何か 聞かれては困ると思ったからです。 「山岸さんは何かあなたに話しましたか。」と、果たして伊佐子さんは|訊《き》きはじめました。 「何かとは-・…。どんな事です。」 「でも、この頃は山岸さんのお国からたびたび電報がくるんですよ。今月になっても、一週問ばか りのうちに三度も電報が来ました。そのあいだに郵便も来ました。」 「そうですか。」と、私はなんにも知らないような顔をしていました。 「それには何か、事情があるんだろうと思われますが…・㌔あなたはなんにもご承知ありませんか。」 「知りません。」 「山岸さんはゆうべなんにも話しませんでしたか。わたしの推量では、山岸さんはもうお国の方へ 帰ってしまうんじゃないかと思うんですが-…・。そんな話はありませんでしたか。」  わたしは少しぎょっとしましたが、山岸から口止めをされているんですから、|迂潤《うかつ》におしゃべり は出来ません。それを見透かしているように、伊佐子さんはひと膝|摺《す》りよって来ました。 「ねえ、あなたは平生から山岸さんと特別に仲よく交際しておいでなさるんですから、あの人のこ とについて何かご存じでしょう。隠さずに教えてくださいませんか。」  これは伊佐子さんとして無理からぬ質問ですが、その返事には困るのです。一つ家に住んでいな がら、一体この伊佐子さんと山岸との関係がどのくらいの程度にまで進んでいるのか、それを私は よく知らないので、こういう場合にはいよいよ返事に困るのです。しかし山岸との約束がある以 上、わたしは心苦しいのを我慢して、あくまで知らない知らないを繰り返しているのほかはありま せん。そのうちに伊佐子さんの顔色はますます悪くなって、飛んでもないことを言い出しました。 「あの、山岸さんという人は怖ろしい人ですね。」 「なにが怖ろしいんです。」 「ゆうべお土産だといって、うなぎの蒲焼をくれたでしょう。あれが怪しいんですよ。」  伊佐子さんの説明によると、ゆうべかの蒲焼を貰った時はもう夜が更けているので、あした食う ことにして台所の戸棚にしまっておいた。この近所に大きい黒い野良猫がいる。それがきょうの午 前中に忍び込んできて、女中の知らない問に蒲焼の一と串をくわえ出して、裏手の掃き溜めのとこ ろで食っていたかと思うと、口から何か吐き出して死んでしまった。猫は何かの毒にあたったらし いというのです。  こうなると、わたしも少しく係り合いがあるような気がして、そのまま聞き捨てにはならないこ とになります。 「猫はまったくそのうなぎの中毒でしょうか。」と、私は首をかしげました。「そうして、ほかの|鰻《うなぎ》 はどうしました。」 「なんだか気味が悪うござんすから、母とも相談して、残っていた鰻もみんな捨てさせてしまいま した。熊手も|殿《こわ》して、|唐《とう》の芋も捨ててしまいました。」 「しかし現在、その鰻を食ったわれわれは、こうして無事でいるんですが……。」 「それだからあの人は怖ろしいと言うんです。」と、伊佐子さんの眼のひかりが物凄くなりました。 「おみやげだなんて親切らしいことを言って、わたし達を毒殺しようと巧らんだのじゃないかと思 うんです。さもなければ、あなた方の食べた鰻には別条がなくって、わたし達に食べさせる鰻には 毒があるというのが不思議じゃありませんか。」 「そりゃ不思議に相違ないんですが……。それはあなた方の誤解ですよ。あの鰻は最初からお土産 にするつもりで|持《こしら》えたのじゃあない、われわれの食う分が自然に残って、おみやげになったんです から……。わたしは始終一緒にいましたけれど、山岸さんが毒なぞを入れたような形跡は決してあ りません。それはわたしが確かに保証します。鰻がひと晩のうちにどうかして腐敗したのか、ある いは猫が他の物に中毒したのか、いずれにしても山岸さんや私には全然無関係の出来事ですよ。」  わたしは熱心に弁解しましたが、伊佐子さんはまだ疑っているような顔をして、成る程そうかと も言わないばかりか、いつまでもいやな顔をして睨んでいるので、わたしは甚しい不快を感じまし た。 「あなたはどうしてそんなに山岸さんを疑うんですか。単に猫が死んだというだけのことですか。 それともほかに理由があるんですか。」と、わたしは詰問するように|訊《き》きました。 「ほかに理由がないでもありません。」 「どんな理由ですか。」 「あなたには言われません。」と、伊佐子さんはきっぱりと答えました。余計なことを詮議するな というような態度です。  わたしはいよいよむっとしましたが、|俄《にわ》かにヒステリーになったような伊佐子さんを相手にし て、議論をするのも無駄なことだと思い返して、黙ってわきをむいてしまいました。そのときあた かも下の方から奥さんの呼ぶ声がきこえたので、伊佐子さんも黙って出て行きました。  ひとりで飯を食いながら、わたしはまた考えました。余の事とは違って、仮りにも轟殺などとは 容易ならぬことです。伊佐子さんばかりでなく、奥さんまでが本当にそう信じているならば、山岸 のために進んでその|冤《えん》をすすぐのが自分の義務であると思いました。それにしても、本人の山岸は そんな騒ぎを知っているのかどうか、まずそれを訊きただしておく必要があるとも考えたので、飯 を食ってしまうとすぐに二階を降りて山岸の部屋へたずねていくと、山岸はわたしよりもさきに夕 飯をすませてどこへか散歩に出て行ったということでした。  わたしも頭がむしゃくしゃして、再び二階の部屋へもどる気にはなれなかったので、何がなしに 表へふらりと出てゆくと、そのうしろ姿をみて、奥さんがあとから追って来ました。 「須田さん、須田さん。」  呼びとめられて、わたしは立ちどまりました。家から十五、六問も離れたところで、路のそばに は赤いポストが寒そうに立っています。そこにたたずんで待っていると、奥さんは小走りに走って 来て、あとを見返りながら小声で|訊《き》きました。 「あの……。伊佐子が……。あなたに何か言いはしませんでしたか。」  なんと答えようかと、私はすこしく考えていると、奥さんの方から切り出しました。 「伊佐子が何か|鰻《うなぎ》のことを言いはしませんか。」 「言いました。」と、わたしは思い切って答えました。「ゆうべの鰻を食って、黒猫が死んだとかい うことを……。」 「猫の死んだのは本当ですけれど……。伊佐子はそれを妙に邪推しているので、わたしも困ってい るのです。」 「まったく伊佐子さんは邪推しているのです。積もってみても知れたことで、山岸さんがそんな馬 鹿なことをするもんですか。」  わたしの声が可なりに荒かったので、奥さんもやや躊路しているようでしたが、再びうしろを見 返りながらささやきました。 「あなたも御存じだかどうだか知りませんけれど、このごろ山岸さんのところへお国の方から電報 や郵便がたびたび来るので、娘はひどくそれを気にしているのです。山岸さんは郷里へ帰るように なったのじゃあないかと言って・…:。」 「山岸さんがもし帰るようならば、どうすると言うんです。伊佐子さんはあの人と何か約束した二 とでもあるんですか。」と、わたしは無遠慮に訊き返した。  奥さんは返事に困ったような顔をして、しばらく黙っていましたが、その様子をみて私にも|覚《さと》られ ました。ほかの止宿人達が想像していたとおり、山岸と伊佐子さんとのあいだには、何かの綜がつな がっていて、奥さんもそれを黙認しているに相違ないのです。そこで、わたしはまた言いました。 「山岸さんはああいう人ですから、万一帰郷するようになったからといって、無断で突然立ち去る 気づかいはありません。きっとあなたがたにも事情を説明して、なにごとも円満に解決するような 方法を講じるに相違ありませんから、むやみに心配しない方がいいでしょう。伊佐子さんがなんと 言っても、うなぎの事件だけは山岸さんにとってたしかに|冤罪《えんざい》です。」  伊佐子さんに話したとおりのことを、わたしはここで再び説明すると、奥さんは素直にうなずき ました。 「そりゃそうでしょう。あなたの仰しゃるのが本当ですよ。山岸さんが、なんでそんな怖ろしいこ とをするものですか。それはよく判っているのですけれど、伊佐子はふだんの気性にも似合わず、 この頃は妙に疑い深くなって……。」 「ヒステリーの気味じゃあないんですか。」 「そうでしょうか。」と、奥さんは苦労ありそうに、眉をひそめました。  伊佐子さんに対しては一種の義憤を感じていた私も、おとなしい奥さんの悩ましげな顔色をみて いると、またにわかに気の毒のような心持になって、なんとか慰めてやりたいと思っているところ へ、あたかも集配人がポストをあけに来たので、ふたりはそこを離れなければならないことになり ました。  そのときに気がついて見返ると、伊佐子さんが|門口《かどぐち》に立って遠くこちらを窺っているらしいの が、軒燈の薄紅い光に照らしだされているのです。わたし達もちょっと驚いたが、伊佐子さんの方 でも自分のすがたを見付けられたのを|覚《さと》ったらしく、消えるように内へ隠れてしまいました。      五  奥さんに別れて、|麹町《こうじまち》通りの方角へふた足ばかり歩き出した時、あたかも私の行く先から、一台 の自動車が走ってきました。あたりは暗くなっているなかで、そのヘッド・ライトの光が案外に弱 くみえるので、私はすこしく変だと思いながら、すれ違うときにふと覗いてみると、車内に乗って いるのは一人の婦人でした。その婦人の髪が真白に見えたので、わたしは思わずぞっとして立ち停 まる間に、自動車は風のように走り過ぎ、どこへ行ってしまったか、消えてしまったか、よくわか りませんでした。  これはおそらく私の幻覚でしょう。いや、たしかに幻覚に相違ありません。髪の白い女の怪談を 山岸から聞かされていたので、今すれちがった自動車の乗客の姿が、その女らしく私の眼を欺いた のでしょう。またそれが本当に髪の白い婦人であったとしても、白髪の老女は世問にたくさんあり ます。単に髪が白いというだけのことで、それが|山《 》岸に|崇《たた》っている怪しい女であるなどと】|途《いちず》に決 めるわけにはいきません。いずれにしても、そんなことを気にかけるのは|万《ばんばん》々間違っていると承知 していながら、私はなんだか薄気味の悪いような、いやな心持になりました。 「はは、おれはよっぽど臆病だな。」  自分で自分を嘲りながら、私はわざと大股にあるいて、灯の明るい電車路の方へ出ました。ゆう べのような風はないが、今夜もなかなか寒い。何をひやかすということもなしに、四谷見附までぶ らぶら歩いて行きましたが、帰りの足は自然に早くなりました。帽子もかぶらず、外套も着ていな いので、夜の寒さが身にしみて来たのと、留守のあいだにまた何か起こっていはしまいかという不 安の念が高まってきたからです。家へ近づくにしたがって、わたしの足はいよいよ早くなりまし た。裏通りへはいると、月のひかりは霜を帯びて、その明るい町のどこやらに犬の吠える声が遠く きこえました。  堀川の家の|門《かど》をくぐると、わたしは果たして驚かされました。わたしが四谷見附まで往復するあ いだに、伊佐子さんは劇薬を飲んで死んでしまったのでした。山岸はまだ帰りません。その明き部 屋へはいり込んで、伊佐子さんは自殺したのです。その帯のあいだには母にあてた一通の書置を忍 ばせていて、「わたしは山岸という男に殺されました」と、簡単に|記《しる》してあったそうです。奥さん もびっくりしたのですが、なにしろ劇薬を飲んで死んだのですから、そのままにしておくことは出 来ません。わたしの帰ったときには、あたかも警察から係り官が出張して臨検の最中でした。  猫の死んだ一件を女中がうっかりしゃべったので、帰るとすぐに私も調べられました。そこへあ たかも山岸がふらりと帰ってきたので、これは一応の取り調べぐらいではすみません、その場から 警察へ|引致《いんち》されました。伊佐子さんは自殺に相違ないのですが、猫の一件があるのと、その書置 に、「山岸という男に殺されました」などと書いてあるので、山岸はどうしても念入りの取り調べ を受けなければならないことになったのです。  警察の取り調べに対して、山岸は伊佐子さんとの関係をあくまでも否認したそうです。 「ただ一度、ことしの夏の宵のことでした。わたしが英国大使館前の桜の下を涼みながらに散歩し ていると、伊佐子さんがあとからついてきて、一緒に話しながら小一時問ほど歩きました。そのと きに伊佐子さんが、あなたはなぜ奥さんをお貰いなさらないのだと|訊《き》きましたから、幾年かかって も弁護士試験をパスしないような人間のところへ、おそらく嫁にくる者はありますまいと、わたし は笑いながら答えますと、伊佐子さんは押し返して、それでも、もし奥さんになりたいという人が あったらどうしますかと言いますから、果たしてそういう親切な人があれば喜んで貰いますと答え たように記憶しています。ただそれだけのことで、その後に伊佐子さんからなんにも言われたこと もな/\わたしからもなんにも言ったことはありません。」  奥さんもこう申し立てたそうです。 「娘が山岸さんを恋しがっているらしいのは、わたくしも薄々察しておりまして、もし出来るもの ならば、娘の望みどおりにさせてやりたいと願っておりましたが、二人のあいだに何かの関係があ ったとは思われません。」  ふたりの申し口が符号しているのをみると、伊佐子さんは単に山岸の帰郷を悲観して、いわゆる 失恋自殺を遂げたものと認めるのほかないことになりました。猫を殺したのも伊佐子さんの仕業 で、劇薬の効き目を試すために、わざと|鰻《うなぎ》に塗りつけて猫に食わせたのであろうと想像されまし た。猫の死骸を解剖してみると、その毒は伊佐子さんが飲んだものと同一であったそうです。  ただ判りかねるのは、伊佐子さんがなぜかの猫の死を証拠にして、山岸が自分たち親子を毒殺し ょうと企てたなどと騒ぎ立てたかということですが、それも失恋から来た一種のヒステリーである といえばそれまでのことで、深く詮議する必要はなかったのかも知れません。  そんなわけで、山岸は無事に警察から還されて、この一件はなんの波欄をもまき起こさずに|落着《らくぢやく》 しました。ただここに一つ、不思議ともいえばいわれるのは、伊佐子さんの死骸の髪の毛が自然に 変色して、いよいよ納棺というときには、老女のような白い髪に変わってしまったことです。おそ らく劇薬を飲んだ結果であろうという者もありましたが、通夜の席上で奥さんはこんなことを話し ました。 「あの晩、須田さんに別れて家へ帰りますと、伊佐子の姿はみえません。たった今、内へはいった 筈だが、どこへ行ったのかと思いながら、茶の問の長火鉢のまえに坐る途端に、表へ自動車の停ま るような音がきこえました。誰が来たのかと思っていると、それぎりで表はひっそりしています。 はてな、どうも自動車が停まったようだがと、起って出てみると表にはなんにもいないのです。す こし不思議に思って、そこらを見まわしていると、女中があわてて駈け出して来て、大変だ大変だ と言いますから、驚いて内へ引っ返すと、伊佐子は山岸さんの部屋のなかに倒れていました。」  ほかの人たちは黙ってその話を聴いていました。山岸もだまっていました。私だけは黙っていら れないような気がしたので、その自動車は……と、言おうとして、また騰蹄しました。なんにも知 らない奥さんの前で、余計なことを言わない方がよかろうと思ったからです。  伊佐子さんの葬儀を終った翌日の夜行列車で、山岸は郷里のF町へ帰ることになったので、わた しは東京駅まで送って行きました。それは星ひとつ見えない、暗い寒い宵であったことを覚えてい ます。待合室にいるあいだに、かの自動車の一件をそっと話しますと、山岸は唯うなずいていまし た。そのときに私は|訊《き》きました。 「髪の白い女というのは、あなたが試験場へはいった時だけに見えるんですか、そのほかの時にも 見えるんですか。」 「堀川の|家《うち》へ行ってからは、平生でも時々見えることがあります。」と、山岸は平気で答えました。 「今だから言いますが、その女の顔は伊佐子さんにそっくりです。伊佐子さんは死んでから、その 髪の毛が白くなったというが、わたしの眼には平生から真白に見えていましたよ。」  わたしは思わず身を固くした途端に、発車を知らせるベルの音がきこえました。 昭和三年八月作「文芸倶楽部」