|馬妖記《ぱようき》 岡本綺堂 M君は語る。  僕の友人の神原君は|作州津山《さくしゅうつやま》の人である。その祖先は小早川|隆景《たかかげ》の家来で、主人と共に朝 鮮にも出征して、かの饗蹴餓の戦いに職の郵姻機の大軍を撃ち破った武功の家柄であると伝え られている。隆景は筑前の|名島《なじま》に住んでいて、世に名島殿と呼ばれて尊敬されていたが、彼は 慶長二年に世を去って、養子の|金吾《きんご》中納言秀秋の代になると、間もなく慶長五年の関ケ原の戦 いが始まって、秀秋は裏切り者として名高くなったが、その功によって徳川家からは疎略にあ つかわれず、筑前から更に中国に穣搦して、働献難倫五十万石の鷲脇となった。神原君の祖先 茂左衛門|基治《もとはる》も主人秀秋にしたがって中国に移ったが、やがてその主人は乱心して早死にをす る、家はつぶされるという始末に、茂左衛門は二度の|主取《しゆど》りを嫌って津山の|在《ざい》に引っ込んでし まい、その後は代々農業をつづけて|今日《こんにち》に至ったのだそうである。  神原君の家は、代々の当主を茂左衛門と称しているが、かの茂左衛門基治以来、一種の家宝 として大切に伝えられている物がある。それは長さ一尺に近い|獣《けもの》の毛で、大体は青黒いような 色であるが、ところどころに灰色の|斑《ぶち》があるようにも見える。毛はかなりに太いもので、それ は人間の手で丁度ひと掴みになるくらいの職をなしている。油紙に包んで載苅庫に藤められて、 文庫の丘諏きには「妖馬の毛」と識されてある。それに倖楡する伝説として、神原家に凶事か 吉事のある場合にはどこかで馬のいななく声が三度きこえるというのであるが、当代の神原君 が結婚した時にも、神原君のお父さんが死んだ時にも、馬はおろか、犬の吠える声さえも聞え なかったというから、この伝説は単に一種の伝説として受取っておく方が無事らしいようであ る。  しかしその「妖馬の毛」なるものは、明らかにその形をとどめていて、今でも家宝として秘 蔵されている。その由来に就いては、茂左衛門基治の自筆と称せられる「馬妖記」という記録 が残っているので、江戸時代はもちろん、明治以後になっても遠方からわざわざ尋ねて来て、 その宝物と記録とを見せてもらってゆく人もあったということである。わたしも先年、出雲大 社に参拝の帰路、津山の在に神原君の家を|訪《と》うて、その品々をみせて貰うことが出来た。  その記録にはこういう事実が伝えられている。  |文禄《ぷんろく》二年三月、その当時、小早川隆景は朝鮮に出征していて、名島の城には留守をあずかる 侍たちが残っていた。九州一円は太閤秀吉に征伐されてから日が浅いので、なんどき何処から 一揆の騒動なども起らないとも限らない。また朝鮮の戦地には|明《みん》の大軍が応援に来たというの であるから、その|軍《いくさ》の模様によっては更に加勢の人数を繰出さなければならない。それやこれ やで留守あずかりの人びとも油断がならず、いずれも緊張した心持でその日を送っていたが、 そのなかでも若い侍たちは張り切った馬のように自分のからだを持て扱っていた。 「なぜ留守番の腰ぬけ役などに廻されたかな、せめて虫押えに一揆でも起ってくれればよい が……。」  戦地から出陣の命令が来るか、それとも近所に一揆でも起ってくれるかと、そんなことばか りを待ち暮らしている若侍たちの耳に、こういう噂が伝えられた。 「|多《たた》々|良《ら》川に|海馬《かいぱ》が出るそうだ。」  名島の城は多々良村に築かれていて、その城下に近いところを流れて海に入るのが多々良川 である。この正月の春もまだ寒い夜に、村のある者がこの川端を通ると、どこからともなしに 異様な馬のいななく声がきこえた。暗いのでよくその見当は付かなかったが、その声は水のな かから響いて来るらしく思われた。そうして、それが水を出て、だんだんに里の方へ近付いて 来ると、家々に飼ってある馬があたかもそれに曝えるように、一度に狂い立って嚥ぎ始めた。  家々の馬が狂って噺いたことは、どこの家でもみな知っていた。どうしてすべての馬が一度 に噺いたのかと不思議に思っていると、あくる日になってかの者の口から異様な馬の噂を聞か されて、いずれもいよいよ不思議に感じた。そこらの畑道には大きい|四足《よつあし》の跡が残っていた。  それから注意して窺っていると、毎晩ではないが、三日に一度か五日に一度ぐらいずつは、 家々の餓腰が一度に狂い立って噺くのである。水から出て来るらしい馬の声は普通の馬より鐵 く大きい。あたかも牛と馬との暗き声をひとつにしたように響き渡って、それが二、三度も高 く噺くと、家々に繋がれているたくさんの馬はそれに|応《こた》えるのか、あるいはそれを恐れるのか、 一度に噺いて狂い騒ぐのである。だんだん調べてみると、飼馬はかの怪しい馬の声を恐れるら しい。その証拠には、かの馬の声のきこえた翌日は、どこの馬もみな|痛高《かんだか》になって物におどろ き易くなる。こういうわけで、かの馬は直接になんの害もなすというではないが、家々の飼馬 をおどろかすだけでもよろしくない。もうひとつには一種の好奇心もまじって、村では|屈寛《くつきよう》 の若者どもが申合せて、かの怪しい馬の正体を見届けようと企てた。  勿論、それが本当の馬であるかどうかは判らないのであるが、仮りにそれを馬と決めておい て、かれらはそれを馬狩りと唱えた。馬狩りの群れは二、三人幾組にも分れて、川筋から里に つづく要所要所に待ち伏せをしたが、月の明かるい夜にはかの噺きが決して聞えないで、いつ も暗い夜に限られているために、その正体を見届けるのが頗る困難であった。殊にそれが水か ら出て来るのか山の方から出て来るのか、その足跡がいろいろに乱れているので、確かなこと は判らなかった。しかしその声は川の方からきこえ始めるような場合が多いので、それは海か ら川づたいに埠つて来るのであろうということになったが、かの馬は決して続けて噺かない。 続けて暗けば、その声をしるべに尋ね寄ることも出来るのであるが、その噺くような吠えるよ うな声は、最初から終りまで僅かに三声か四声である。したがって、声のする方角へ駈け付け ても、そこにはもうそれらしい物の気配もしないのである。  何分にも暗くてはどうにもならないので、かれらは|松明《たいまつ》を持って出る事にすると、その夜に は一度も噺きの声が聞えなかった。怪しい馬は火の光りを恐れて姿を現さないらしいのである。 火がなくては暗くて判らない。火があっては相手が出て来ない。まことに始末が悪いので、か れらは相談して一種の|陥《おと》し|穽《あな》を作ることにした。その通路であるらしい所に、二ヵ所ばかりの 深い穴を掘り下げて、枯柴や藁などでその上を櫨って置いたが、それもやはり成功しなかった。 「海から来るならば格別、もし山から来るならば足跡のつづいていない筈はない。概よくそれ を|穿索《せんさく》してみろ。」  老人たちに注意されて、|成程《なるほど》と気付いた若者どもは、さらに足跡の詮議をはじめると、山の 方角にはどうもそれらしい跡を発見し得なかったので、怪しい馬はやはり海から上って来るこ とに決められてしまった。 「海馬か、トドだ。」  海獣が四本の足を持っているかどうかということを、その時代の人たちは考えなかったらし く、それを一種の海獣と鑑定したのである。そのうちに、ここにひとつの事件が起った。  それは二月なかばの陰った夜である。本来ならば月の明るい頃であるが、今夜は雨もよいの 暗い空に弱い星の光りが二つ三つひらめいているばかりであった。こんな晩には出て来るかも 知れないと、馬狩りの群れは手配りして待ち構えていると、やがてかの噺きの声がきこえた。 つづいて一ヵ所の陥し穽で|鳴子《なるこ》の音がきこえた。|素破《すわ》こそと彼等は一度そこへ駈けあつまって、 用意のたいまつに火をともして窺うと、穴の底に落ちているのは人であった。 二  人は隣り村の鉄作という若者である。彼は今頃どうしてここへ来て、この陥し穽に落ちたの かと・不思議ながらに引揚げると、鉄作はほとんど半死半生の伐で、しばらくは砥ろくに口も 利けないのを、介抱してだんだん詮議すると、彼は今夜かの怪しい馬に出逢ったというのであ った。  この村の次郎兵衛という百姓の|後家《ごけ》にお福という女がある。お福はことし三十七、ハで、わ が子のような鉄作とかねて関係を結んでいたが、自分の家へ引入れては母の手前や近所の手前 があるので、自分の家から少しはなれた小さい森のなかを逢引きの場所と定めていた。ところ が、この頃はかの海馬の騒ぎで、鉄作はちっとも寄りつかない。それを待ちわびしく思って、 お福はきょうの昼のうちに隣り村へそっとたずねて行って、今夜はぜひ逢いに来てくれと堅く 約束して帰った。年上の女にうるさく催促されて、鉄作は今夜よんどころなく忍んで来ると、 さっきから自分の家の|門《かど》に立って待ち暮らしていたお福は、すぐに男の手をとって、いつもの 森をさして暗い夜道をたどって行くと、狭い道のまん中で突然に何物かに突き当った。  こっちは勿論おどろいたが、相手も驚いたらしい。大きい鼻息をしたかと思うと、たちまち にひと声高く噺いた。それがかの怪しい馬であると知ったときに、鉄作は気が遠くなるほどに 驚いた。驚いたというよりも、怖ろしさがまた一倍で、彼はもう前後の考えもなく、|捉《と》られて いる女の手を振払って、一目散にもと来た道へ逃げ出したが、暗いのと慌てたのとで方角をあ やまって、かの陥し穽に転げ込んだのである。  そう判ってくると、騒ぎはいよいよ大きくなって、大勢は|松明《たいまつ》をふり照らしてそこらを穿索 すると、果して道のまん中に次郎兵衛後家のお福が正体もなく倒れていた。お福は介抱しても もう生きなかった。横ざまに倒れたところを、かの馬の足で脇腹を強く踏まれたらしい。|肋《あぱら》の 骨がみな踏み砕かれているのを見ても、かの馬がよほど巨大な動物であることが想像されて、 人々は顔をみあわせた。 「次郎兵衛後家が海馬にふみ殺された。」  その噂が又ひろまって、人びとの好奇心は次第に恐怖心に変って来た。海馬だかなんだか知 らないが、そんな巨大な怪物に出逢っては醜わないという恐怖心にとらわれて、その以来はか の馬狩りに加わる者がだんだんに減って来るようになった。暗い夜にはどこの家でも早く戸を 閉じてしまった。怪しい馬は相変らず三日目か五日目には異様な噺きを聞かせて、家々の飼馬 をおびやかしていた。 「どうも不思議なことだな。しかし面白い。」と、その噂をきいた城中の若侍たちは言った。  前に言ったような事情で、かれらは何か事あれかしと待ち構えていたところである。その矢 先へこんな風説が耳にはいっては猶予がならない。糟屋甚七、古河市五郎の二人は、すぐに 多々良村へ出向いてその|実否《じつぷ》を詮議すると、その風説に間違いはないと判った。 「もう三月ではないか。正月以来そんな不思議があったら、なぜ早く俺たちに訴えないのだ。」  二人はさらに隣り村ヘ行って、かの鉄作を詮議すると、彼はその後半月あまりも病人になっ ていたが、この頃はようよう元のからだに戻ったとのことで、甚七らの問いに対して何事も正 直に答えた。しかし、自分の出逢った怪物がどんな物であったかを説明することは出来なかっ た。何分にも暗い夜といい、かつは不意の出来事であるので、半分は夢中でなんの記憶もない のであるが、それは普通の牛や馬よりも余ほど大きい物で、突きあたった|一刹那《いつせつな》に感じたとこ ろでは、熊のような長い毛が一面に生えているらしかったというのである。  その以上のことは判らなかったが、ともかくも一種の怪獣があらわれて、家々の飼馬を恐れ させ、さらに次郎兵衛後家を踏み殺したというのは事実であることが確かめられたので、甚七 と市五郎とは満足して引揚げた。城へ帰る途中で、甚七は言い出した。 「しかし貴公、この事をすぐにみんなに|吹聴《ふいちよう》するか。」 「それを俺も考えているのだが、むやみに吹聴して大勢がわやわや付いて来られては困る。い っそ貴公とおれと二人でそっと行くことにしようではないか。」  いかなる場合にも人間には|功名心《こうみようしん》がある。甚七と市五郎も海馬探検の功名手柄を独り占め にしようという|下心《したごころ》があるので、結局他の者どもを出しぬいて、二人が今夜ひそかに出て来 ることに相談を決めた。  三月もなかば過ぎて、ここらの春は暖かであった。あたかもきょうは午後から薄陰りして、 おそい桜が風のない|夕《ゆうべ》にほろほろ散っていた。 「今夜はきっと出るぜ。」  二人は夜が来るのを待ちかねて、誘いあわせて城をぬけ出した。市五郎は鉄砲を用意して行 こうかといったが、飛び道具をたずさえていると|門検《もんあらた》めが面倒であるというので、甚七は反 対した。二人はただ身軽に|扮装《いでた》つだけのことにして、|戌《いぬ》の|刻《こく》を過ぎる頃から城下の村へ忍んで 行くと、轟えむきの暗い夜で、今にも雨を運んで来そうな饗濫い南風が彼らの頬をなでて通 った。城下であるから附近の地理はふだんからよく知っている。殊に昼のうちにも大抵の見当 は付けておいたので、二人は眼先もみえない夜道にも迷うことなしに、目的の場所ヘ行き着い た。  どこという確かな|的《あて》もないが、怪しい馬は水から出て来るらしいというのを頼りに、二人は 多々良川に近いところに陣取って、一本の大きい櫨の木を小櫟に忍んでいると、やがて一薙も 過ぎたかと思われる頃に、どこからか大きい足音がきこえた。 「来たらしいぞ。」  二人は息をころして窺っていると、彼らの隠れ場所から十|間《けん》余りも|距《はな》れたところに、一つの 大きい黒い影の現れたのが水明かりでぼんやりと見えた。黒い影はにぶく動いて水にはいって 行くらしかった。つづいて水を打つような音が幾たびか聞えたので、甚七は市五郎にささやい た。 「水から出て来るのではない。水にはいるのだ。」 「どうも|魚《さかな》を捕るらしいぞ。」 「馬が魚を食うかな。」 「それが少しおかしい。」  なおも油断なく窺っていると、黒い影は水から出て来て、暗い空にむかって高くいなないた。 それを合図のように二人はつかつかと進み寄って、袖の下に隠していた知織を振り照らすと、 その小さい火に対して相手は余りに大き過ぎるらしく、ただ真っ黒な物が眼のさきに突っ立っ ているだけで、その正体はよく判らなかった。それと同時に、その黒い影は|蛍《ほたる》よりも淡い火の ひかりを避けるように、体をひるがえして立去ろうとするのを、二人はつづいて追おうとする と、目先の方に気を取られて火縄をふる手が自然おろそかになったらしい。あたかも強く吹い て来る川風のために二つの火縄は消されてしまった。はっと思う間もなしに、市五郎は|殴《はた》かれ たか蹴られたか、声を立てずにその場に倒れた。  甚七はあわてて刀をぬいて、相手を斬るともなく、自分を防ぐともなく、半分は夢中で振廻 すと、黒い影は彼をそのままにして静かに闇の奥に隠れて行った。甚七はまだ追おうとすると、 わが足は倒れている市五郎につまずいて、これも暗いなかに倒れた。彼は起きかえりながら小 声で呼んだ。 「市五郎、どうした。」、  市五郎は答えないで、唯うめくばかりである。暗いのでよくは判らないが、彼は怪物のため に手ひどい打撃を受けたらしい。こうなるとまず彼を介抱しなければならないと思ったので、 甚七は暗いなかを叫びながら里の方へ走った。 「おい、おい。誰かいないか。」  馬狩りの群れはこの頃いちじるしく減ったのであるが、それでも強情に出ている者も二組ほ どあった。その六、七人が甚七の声におどろかされて駈け集まって来た。相手が城内の侍とわ かって、かれらはいよいよ驚いた。用意の松明に火をとぼして、市五郎の倒れている場所へか け付けると、彼は鼻や口からおびただしい血を流して、上下の前歯が五本ほども折れていた。 市五郎は怪物のために鼻や口を強く打たれたらしい。取りあえずそこから近い農家へ運び込ん で、水や薬の応急手当を加えると、市五郎はようように正気づいたが、倒れるはずみに頭をも 強く打ったらしく、容易に起き上がることは出来なかった。  これには甚七もひどく困った。城内へ帰って正直にそれを報告する時は、いかにも自分たち の武勇が足らないように思われるばかりか、無断で海馬探検などに出かけて来てこの失態を演 じたとあっては、縫が硬らからどんなに叱られるか判らない。さりとて今さら仕様もないので、 彼は市五郎の看護を他の人びとにたのんで、自分だけはひとまず城内へ戻ることにした。戻る と、果して蹴硫の始末であった。 「お留守をうけたまわる身の上で、要もない瓢齪をして朋輩を怪我人にするとは何のことだ。 侍ひとりでも大切という今の場合を知らないか。」と、彼は組頭から厳しく叱られた。 「いったい我れわれを出し抜いて、自分たちばかりで手柄をしようとたくらむから悪いのだ。」 と、彼は他の朋輩からも笑われた。  叱られたり笑われたりして、覚悟の上とはいいながら甚七も少しく取り|逆上《のぽ》せたらしい。か れは危うく切腹しようとするところを、朋輩どもに支えられた。それを聞いて組頭はまた叱っ た。 「市五郎が怪我人となったさえあるに、甚七までが切腹してどうするのだ。他の者どもを案内 して行って、早く市五郎を連れて帰れ。」  朋輩共も一旦は笑ったものの、ただ笑っていて済むわけのものではないので、組頭の指図に したがって、十人はすぐに支度をして城を出た。甚七は無論その案内に立たされた。神原君の 先祖の茂左衛門基治はその当時十九歳の若侍で、この一行に加わっていたのである。  その途中で|年長《としかさ》の伊丹弥次兵衛がこんなことを言い出した。 「組頭はただ、古河市五郎を連れ帰れというだけの指図であったが、海馬の噂は我れわれも聞 いている。そのままに捨てておいては、お|家《いえ》の威光にかかわる事だ。殊に甚七と市五郎がかよ うな不覚をはたらいたのを、唯そのままに致しておいては、他国ばかりでなく、御領内の|民《たみ》百 姓にまでも|嘲《あざけ》り笑わるる道理ではないか。まず市五郎の容態を見届けた上で、次第によっては 我れわれもその馬狩りを企ててはどうだな。」  人びとは皆もっともと同意した。かれらが里に近づいた頃に、家々の飼馬は一度に狂い噺い て、かの怪物がまだそこらに俳徊していることを教えたので、人々の気分はさらに緊張した。 年の若い茂左衛門の血は沸いた。 三 古河市五郎が運び込まれたのは、かの次郎兵衛後家のお福の家であった。お福の家は母のお もよと貰い娘のおらちという今年十六の小娘と、女ばかりの三人暮らしであったが、そのなか で働き盛りのお福は海馬に踏み殺されて、老人と小娘ばかりが残ったのである。幸いにおもよ は六十を越してもまだ壮健であるので、やがてはおらちに相当の婿を迎えることにして、とも かくも一家を保っているのであった。そういう訳であるので、おもよは我が身の不幸に引きく らべて、傷ついた若侍にもいっそう同情したらしく、村の人びとの先に立って親切に彼を介抱 した。  そこへ城内の人々がたずねて来た。市五郎の容態はなにぶん軽くないのをみて、一行十一人 のうちから四人は彼に附添って帰城することになった。その四人の中に甚七も加えられた。そ れは伊丹弥次兵衛の意見で、彼がふたたび失態を演じた場合には、今度こそほんとうに腹でも 切らなければならない事になるのであるから、いっそ怪我人を守護して帰城した方が無事であ ろうというのであったが、本人の甚七はどうしても|肯《き》かなかった。武士の面目、たとい命を捨 ててもよいから是非とも後に残りたいと言い張るので、結局他の者をもって彼に代えることに なった。  こうなると、甚七ばかりでなく、怪我人に附添ってむなしく帰城するよりも、あとに残って 海馬探検に加わりたいという志願者が多いので、弥次兵衛も少しくその処置に苦しんだが、ど うにかその役割も決定して、怪我人を戸板にのせて村の者四人にかつがせ、さらに四人の若侍 がその前後を囲んで帰城することになった。あとには弥次兵衛と甚七をあわせて、七人の者が 残されたわけである。 「馬妖記」にはその七人の姓名が|列挙《れつきよ》してある。それは伊丹弥次兵衛正恒、穂積権九郎宗重、 熊谷小五ハ照賢、鞍手助左衛門正親、倉橋伝十郎直行、粕屋甚七常定、神原茂左衛門基治で、 年齢はいちいち|記《しる》されていないが、十九歳の茂左衛門基治、すなわちこの「馬妖記」の筆者が 一番の年少者であったらしい。この七人が三組に分れた。第一組は弥次兵衛と助左衛門、第二 の組は権九郎と小五ハ、第三の組は伝十郎と甚七で、茂左衛門一人はこの次郎兵衛後家の家に 残っていることになった。要するにここを本陣として、誰か一人は留守居をしていなければな らないというので、最年少者の茂左衛門がその留守番を申付けられたのである。組々の侍には 村の若者が案内者として二人ずつ附添い、都合四人ずつが一組となってここを出発する頃には、 夜もいよいよ更けて来て、暗い大空はこの村の上に重く掩いかかっていた。  留守番はもちろん不平であったが、茂左衛門は年の若いだけに我慢しなければならなかった。 土間にころがしてある鰯櫨に腰をかけて、彼は黙って表の闇を睨んでいると、おもよは湯を汲 んで来てくれた。 「御苦労さまでござります。」 「大勢がいろいろ世話になるな。」と、茂左衛門はその湯をのみながら言った。それが口切り となって、おもよは海馬の話をはじめた。茂左衛門も心得のためにいろいろのことを訊いた。 「ここの女房は飛んだ災難に逢って、気の毒であったな。」 「まことに飛んだ目に逢いましてござります。」と、おもよは眼をうるませた。「しかし立派な お侍さまさえもあんな事になるのでござりますから、わたくし共の娘などは致し方がござりま せん。」  立派な侍さえもあんな事になるーそれが一種の侮辱のようにも聞かれて、年の若い茂左衛 門は少しく不快を感じたが、|偽《いつわ》り飾りのない|朴訥《ぼくとつ》の老婆に対して、彼は深くそれを答める気に もなれなかった。それにつけても市五郎らの失敗を彼は残念に思った。 「ここの女房は海馬に踏み殺されたのだな。」と、茂左衛門はまた訊いた。 「さようでござります。あばらの骨を幾枚も踏み折られてしまいました。」 「むごい事をしたな。」 「わたくしも実に驚きました。」と、おもよはいよいよ声を陰らせた。「それも|淫奔《いたずら》の|罰《ばち》かも知 れません。」 「隣り村の若い者が一緒にいたのだそうだな。それは無事に逃げたのか。」 「それは隣り村の鉄作と申す者で、やはり男でござりますから、お福を置き去りにして真っ先 に逃げてしまったと見えます。」と、おもよは少しく恨み顔に言った。「お福はわたくしの生み の娘で、ことし三十ハになります。次郎兵衛というものを婿にもらいましたが、夫婦の仲に子 供がございませんので、おらちという貰い|娘《ご》をいたしまして、それはことし十六になります。 次郎兵衛はおととしの夏に亡くなりまして、その後は女三人でどうにかこうにか暮らしており ますと、お福はいつの間にか隣り村の鉄作と……。鉄作はことし確か|二十歳《はたち》の筈で、おらちと |従弟《いとこ》同士にあたりますので、ふだんから近しく出入りは致しておりましたが、お福とは親子ほ ども年が違うのでござりますから、わたくしもよもやと思って油断しておりますと、飛んでも ない淫奔から飛んでもない災難に出逢いまして……。腹が立つやら悲しいやら、なんともお話 になりませんような訳で、世間に対しても殖蹴が悪うござります。」 「その鉄作はどうしている。」 「この頃はからだもすっかり癒りまして、自分でもお福を見殺しにして逃げたのを、なんだか 気が筈めるのでございましょう。時どきに講ねて来ていろいろの世話をしてくれますが、あん な男に相変らず出入りをされましては、なおなお世間に外聞が悪うござりますから、なるべく 顔を見せてくれるなといって断っております。」 .言いかけて、おもよは気がついたように暗い表に眼をやった。 「おや、雨が降ってまいりました。」  茂左衛門も気がついて表を覗くと、闇のなかに雨の音がまばらに聞えた。 「とうとう降って来たか。」  彼は|起《た》って軒下へ出ると、おもよも続いて出て来た。 「皆さまもさぞお困りでござりましょう。どうもこの頃は雨が多くて困ります。」  家の前にも横手にも|空地《あきち》があって、横手には小さい|納屋《なや》がある。それにふと眼をつけたらし いおもよは急に声をかけた。 「そこにいるのはおらちではないか。さっきから姿が見えねえから、奥で寝ているのかと思っ ていたに・:…。この夜更けにそんな所で何をしているのだ。」  叱られて納屋の蔭からその小さい姿をあらわしたのは、おもよが改めて紹介するまでもなく、 ことし十六になるという孫娘のおらちであることを、茂左衛門はすぐに覚った。おらちは物に |怖《お》じるような落ちつかない態度で、二人の前に出て来た。 「お城のお侍さまに御挨拶をしないか。」と、おもよはまた言った。  おらちは無言で茂左衛門に艶繊して、あとを見かえりながら内にはいると、おもよは独り言 のように、あいつ何をしていたかと眩きながら、入れ代って納屋の方へ覗きに行ったかと思う 間もなく、老女は忽ちに声をとがらせた。 「そこにいるのは誰だよ。」  それに驚かされて、茂左衛門も覗いてみると、納屋の蔭にまだひとつの黒い影が忍んでいる らしかった。おもよは筈めるようにまた畷鳴った。 「誰だよ。鉄作ではないか。今ごろ何しに来た。お福の幽霊に逢いたいのか。」  相手はそれにも答えないで、暗い雨のなかを抜け出してゆく足音ばかりが聞えた。そうして、 それが家の前からまだ四、五間も行き過ぎまいかと思われる時に、きやっという悲鳴がまた突 然にきこえた。つづいて噺くのか、吠えるのか、喰るのか、簾のわからない一種の叫びが闇 をゆするように高くひびいた。 「あ、あれでござります。」と、おもよは俄かに瀦えるようにささやいた。  もう問答の職まもない。茂左衛門はおどるように表へ飛び出すと、雨はだんだんに強くなって いた。引っかえして火縄をつける間も惜しいので、彼はその叫びのきこえた方角へまっしぐら に駈けて行くと、|草鮭《わらじ》は雨にすべって路ばたの菜畑に転げ込んだ。一旦は転んでまた起きかえ る時、彼は何物にか突き当ったのである。それが大きい獣であるらしいことを覚ったが、あま りに距離が近過ぎるので、茂左衛門は刀を抜くすべがなかった。  彼は必死の覚悟でその怪物に組み付くと、相手は強い力で振り飛ばした。振り飛ばされて茂 左衛門はまた倒れたが、すぐに|刎《は》ね起きて刀をぬいた。そうして、暗いなかを手あたり次第に 斬り廻ったが、|刃《やいぱ》に触れるものは菜の葉や菜の花ばかりで、一向にそれらしい手ごたえはなか った。耳を澄ましてその足音を聞き定めようとしたが、あいにくに降りしきる雨の音に妨げら れて、それも判らなかった。 「残念だな。」  がっかりして突っ立っているところへ三、四人が駈けつけて来た。ぞれは第三の組の倉橋伝 十郎と粕屋甚七と、案内の者どもであった。かれらはあの怪しい叫びを聞き付けて駈け集まっ たのであるが、もうおそかった。伝十郎も|口惜《くや》しがったが、取り分けて甚七は残念がった。彼 は宵の恥辱をすすごうとして、火縄をむやみに振って駈けまわったが、結局くたびれ|損《ぞん》に終っ た。  第三の組ばかりでなく、第一第二の組もおいおいに駈け付けた。そうして、たいまつを照ら してそこらを探し廻った。それもやはり不成功に終ったので、よんどころなく本陣にしている 次郎兵衛後家の家へいったん引揚げることになった。ここで初めて発見されたのは、茂左衛門 の左の手に幾筋の長い毛を擁んでいたことであった。  いつどうしてこんなものを掴んだのか、自分にも確かな記憶はない。だんだん考えてみると、 暗いなかを無職に斬っているあいだに、何物かを掴んだことがあるようにも思われる。あるい はその時、片手は獣の毛を掴んで、片手でそれを切ったのかも知れない。あるいは確かにそれ を切るという気でもなく、ただ無暗に振りまわした切っ先があたかもそれに触れたのかも知れ ない。茂左衛門自身もいっさい夢中であったので、何がどうしたのか、その説明に苦しむので あるが、ともかくも自分の手に怪しい獣の毛を掴んでいるのは事実である。彼はその毛を夢中 でしっかり握りつめて、片手なぐりに斬って廻っていたものらしい。 「いや、なんにしてもお手柄だ。灘遜の纏が鬼の腕を斬ったようなものだ。」  今夜の大将ともいうべき伊丹弥次兵衛は褒めた。 四  もうひとつ発見されたのは、半死半生で路ばたに倒れている鉄作の姿であった。これも同じ 家にかつぎ込まれて人びとの介抱をうけたが、その暁け方にとうとう死んだ。 「わしが海馬に蹴殺されるのは、お福の恨みに相違ない。」と、鉄作は言った。  彼は死にぎわにおもよに向って、怖ろしい餓悔をした。  お福は海馬に踏み殺されたのではなく、実は鉄作が殺したというのである。前にもいう通り、 鉄作とおらちとは従弟同士で、そのおらちがお福の家の娘に貰われていった関係から、鉄作も しばしばそこへ出入りをして、次郎兵衛の死後にはいつか後家のお福と|情《じよう》を通ずるようになっ たのである。勿論それは女の方から誘いかけた恋で、親子ほども年の違う二人のあいだの愛情 が永く結びつけられている筈がなかった。殊にお福の貰い娘になっているおらちがやがて十六 の春を迎えるようになって、鉄作のこころは次第にその方へ|惹《ひ》かれて行った。それがお福の眼 にもついて、たちまちに嫉妬のほのおを燃やした。たとい|身腹《みはら》は分けずとも、仮りにも親と名 のつく者の男を寝取るとは何事であると、お福は明け暮れにおらちを責めた。まして鉄作にむ かっては、ほとんど|夜叉《やしやぎ》の|形相《ようそう》で激しく責め立てた。  おらちは身におぼえのない轍菰であることを説明しても、お福はなかなか承知しなかった。 母の手前、お福も表向きには何とも言うことは出来なかったが、蔭へまわっては執念ぶかくお らちをいじめて、時にはこんなことも言った。 「おまえのような奴は、いっそ海馬にでも踏み殺されてしまえ。」  たまらなくなって、おらちはそれを鉄作に訴えると、彼は年上の女の激しい嫉妬にたえ難く なっている折柄であるので、ふとおそろしい計画を思いついた。お福のいわゆる「海馬にふみ 殺されてしまえ。」を、彼はそのまま実行しようと企てたのである。彼は暗夜にお福を誘い出 して、突然かの女を路ばたに突き倒して、大きい石をその脇腹と思われるところに投げつける と、お福は二言といわずに息が絶えてしまった。そのあばらの骨の磯けているのはそれがため であった。  相手の死んだのを見すまして、鉄作はその石を少しく離れたところヘ運んで行った。証拠を 隠してしまって、あくまでも海馬の|仕業《しわざ》と思わせるたくみである。そうして、自分はそのまま そっと立去るつもりであったが、彼はあたかもその時にほんとうの海馬に出逢った。これに|胆《きも》 を消して、うろたえ廻って逃げ出す途中、あやまってかの陥し穽に転げ落ちたのである。こう なってはもう仕方がないので、彼は救いに来てくれた人びとに向って、嘘と誠を取りまぜて話 した。お福と一緒にここまで来た事と、海馬に出逢った事と、この二つが本当であるので、正 直な村の人びとはお福が海馬に踏み殺されたことまでも容易に信じてしまったのである。ほん とうの海馬があたかもそこへ現れて来たのは、彼にとっては実に|勿怪《もつけ》の幸いともいうべきであ った。  こうして世間の眼を|晦《くら》まして、彼は老いたる情婦を首尾よく闇から闇へ葬った後、さらに若 い情婦を手に入れようと試みた。おらちも従弟同士の若い男を憎いとは思わなかったが、養い 親と彼との関係を薄うす覚っていたので、素直にそれに騨こうともしなかった。その煮え切ら ない態度に鉄作は焦れ込んで、今夜もおらちをそっと呼び出して、納屋のかげで手詰めの談判 を開いているところを、あたかも祖母のおもよに発見されたのであった。この場合、見付けら れてはもちろん面倒であるので、彼はおもよの呼ぶ声をあとに聞き流して表へ逃げ出すと、四、 五間さきで再び海馬に出逢ったのである。かれはお福の死について一|場《じよう》の嘘を作った。そう して、自分がその嘘の通りに死んだ。  茂左衛門もその|餓悔《ざんデ》を聴いた一人であった。彼はその「馬妖記」の一挿話として、「本文に は要なきことながら」と註を入れながら、鉄作の一条を比較的に詳しく書き留めてあるのをみ ると、その当時の武士もこの事件について相当の興味を感じたものと察せられる。  その夜の探検は不成功に終って、雨のまだ晴れやらない早朝に、七人の侍はむなしく城に引 揚げた。そのなかで、ともかくも怪しい獣の毛をつかんでいる茂左衛門が第一の功名者である ことは言うまでもなかった。古河市五郎は|療治《りようじ》が届かないで、三月末に死んだ。四月になって も、多々良村では海馬の噂がまだやまない。こうなると、城内でももう捨て置かれなくなって、 かの弥次兵衛のいう通り、他領への聞えもあれば、領内の住民らの思惑もある。かたがたかの 怪しい馬を狩り取れということになって、屈寛の侍がハ十人、鉄砲組の足軽五十人、それぞれ が五組に分れて、四月十二日の夜に大仕掛けの馬狩りをはじめた。先夜の七人も皆それぞれの 部署についた。  四月に入ってから雨もよいの日が続いたのは、月夜を嫌う馬狩りのためには仕合せであった。 しかし第一夜は何物をも見いだし得なかった。第二夜もおなじく不成功のうちに明けた。第三 夜の十四日の夜も亥の刻(午後十時)を過ぎた頃に、第四組が多々良川のほとりで初めて物の 影を認めた。合図の|呼子笛《よぴこ》の声、たいまつの光り、それが一度にみだれ合って、すべての組々 も皆ここに駈け集まった。神原茂左衛門は第五の組であったが、場所が近かったために早く駈 けつけた。  怪しい影は水のなかを行く。それを取逃がしてはならないというので、侍は岸を遠巻きにし た。足軽組は五十挺の鉄砲をそろえて|釣瓶《つるべ》撃ちにうちかけた。それに驚かされたかれは、岸の 方にはもう逃げ路がないと見て、水の深い方へますます進んで行く。それを追い撃ちにする鉄 砲の音はつづけて聞えた。またその鉄砲の音を聞きつけて、村の者もほとんど総出で駈け集ま って来た。たいまつは次第に数を増して、岸はさながら昼のように明かるくなったが、怪しい 影はだんだんに遠くなった。そうして、深い水の上を泳いで行くらしく見えたが、やがて海に 近いところで沈んだように消えてしまった。  船を出して追わせたが、その行くえは遂に判らなかった。万一水底をくぐって引っ返して来 る事もあるかと、岸では夜もすがら|筆火《かがりび》を焚いて警戒していたが、かれは再びその影を見せな かった。迦がれて海に去ったのか、溺れて海に沈んだのか。それも勿論わからなかった。たい まつはあっても、その距離が相当に隔たっていたので、誰も確かにその正体を見届けた者はな かった。したがって、人びとの説明はまちまちで、ある者はやはり馬に相違ないといった。あ る者はどうも熊のようであるといった。ある者は|佛《ひひ》々ではないかといった。しかし馬に似てい るという説が多きを占めて、茂左衛門の眼にも馬であるらしく見えた。馬にしても、熊にして も・それが普通の物よりも遥かに大きく、そうしてすこぶる長い毛儘われているらしいとい うことは、どの人の見たところも皆一致していた。  この報告を聞いて、城中の医師北畠式部はいった。 「それは|海馬《かいば》などと言うべきものではあるまい。海馬は普通にあしかと|唱《ちちち》えて、その四足は水 掻きになっているのであるから、むやみに陸上を俳掴する筈がない。おそらくそれは水から出 て来たものではなく、山から下って来た熊か野馬のたぐいで、水を飲むか、魚を捕るかのため に、水辺または水中をさまよっていたのであろう。」  それを確かめる唯一の証拠品は、茂左衛門の手に残ったひと掴みの毛であるが、それが果し て何物であるかは北畠式部にもさすがに鑑定が出来なかった。何分にも馬であるという説が多 いので、海馬か、野馬か、しょせんは一種の妖馬であるというのほかはなかった。  妖馬は溺れて死んだのか、あるいは鉄砲に傷ついたのか、あるいは今夜の攻撃に怖れて遠く 立去ったのか、いずれにしてもその後はこの村に怪しい叫びを聞かせなくなった。名島の城下 の夜は元の静けさにかえって、家々の飼馬はおだやかに眠った。ー神原茂左衛門基治の記録 はこれで終っている。  M君は最後に付け加えた。  僕は多々良という川も知らず、名島付近の地理にも詳しくないが、地図によると海に近いと ころである。現にその記録にも妖馬は海に近いところで沈んでしまったと書いてあって、その 当時も多々良川が海につづいていたことは容易に想像される。して見れば北畠式部が説明する までもなく、ここらの住民は海馬がどんな物であるかをかねて知っていそうな筈であるのに、 それが陸にあがって世間を騒がしたなどというのは、少し受取りにくいようにも思われるが、 ここではまずその記録を信ずるのほかはない。かの妖馬の毛なるものは、近年二、三の専門家 の鑑定を求めたが、どうも確かなことが判らない。しかしそれは陸上に棲息していたものらし く、あるいは|今日《こんにち》すでに絶滅している一種の野獣が、どこかの山奥からでも現れて来たのでは ないかというのである。  それからずっと後の|天明《てんめい》年問に書かれた橘|南渓《なんけい》の「西遊記」にも、九州の深山には|山童《やまわろ》とい うものが棲んでいるの、|山女《やまおんな》というものを射殺したという記事が見えるから、その昔の文禄 年代には、ここらにどんな物が棲んでいなかったとも限らない。もし山から出て来たものとす れば、|果《はて》しもない大海へ追い込まれて、結局は|千尋《ちひろ》の底に沈んだのであろう。そうして、それ が我が国に唯一匹しか残っていなかったその野獣の最後であったかも知れない。コナン・ドイ ルの小説にもそれによく似たような話があって、ジョン・ブリュ1・ギャップというところに 古代の大熊が出たと書いてある。ドイルのはもちろん作り話であろうが、これはともかくも実 録ということで、その証拠品まで残っているのだから面白い。