葛西善蔵・顔  またK分署から来いと云つて来たので、行つて見ると、昨日とは別な、若い 学校出らしい警部が出てゐた。 『A館から昨日の告訴状を取下げに来てるんだがね、一体これはどうしたと云 ふのかね?』と、警部は穏かな調子で訊いた。 『え、それは、実は私はA館に宿料が五六十円滞つてゐるので、ところが今度 急に婆さんが病気になつたので、金に困るところから|傍《はた》の人問共が寄つて、あ んな全く根も葉も無い|虚構《うそ》ごとの告訴状なんか出したやうな訳で、実に不都合 な話て    』  告訴状が取下げられたと云ふことを聞いて、彼も昨日とは全く穏かな調子に なつて、警部に一通りの話をした。 『併し兎に角A館でも告訴状を取下げに来てるんだから、君の方でも金を払つ てやつたらいおだらう。A館でもひどく困つてるんださうぢ やないか』 『え、かなり困つてるらしいです。てんで下宿人なんて無い んですからね。ひどく気の毒な婆さんです。では私も早速金 をこしらへることにしますから    』  斯う云つて、彼はほつとした気持になつてK分署を出た。 兎に角金をこしらへて一刻も早くA館を出よう1婆さんの 死なぬうちに  三月三日lI三日前の日のことである。(彼は昨年学校を 出たのだが、定職を持つてなかつた)この日彼は久しぶりで 幾らかの金が這入つたので、先月分の払ひを綺麗に済まし た。で、婆さんはひどく上機嫌であつた。 『僕も今度は引続き仕事をすることにして、だんく減らし て行くやうにしますからね』と、彼は云つた。 『ほんとうですよ。あなたなど仕事をなさるとそれだけのお 金になるんだから、精々まめで勉強なさるんですね。そして 私の方も早く片附けて頂きませんと。ほんとうですともね …-』婆さんはしんみな調子で斯う云つた。  彼は久しぶりで床屋へ行つたり、お湯へ行つたりした。晩 には近所の洋食屋へ行つて酒を飲んだりして、十時頃帰つて 来た。やわらかな春の雨がしとく降つてゐた。彼はひどく 淋しかつた。で一旦押入れから蒲団まで出したのだが、また 出かける気になつた。薄暗い茶の間の長火鉢にもたれて、お よねといふ二十七八の女中がいつもの陰気相な顔をして坐つ てゐた。十五になる二人の小女は、頭を突合はして居睡りし てゐた。彼はおよねに傘を借りた。  玄関わきの六畳に床を敷いて、額に濡手拭を載せて婆さん は寝てゐた。平常は非常に達者な婆さんであつた。 『どうかしたんですか?』と彼は閲の外に立つて声をかけ た。 『え、どうも少し気分がわるいやうで……』と婆さんは元気 のない太い声してこたへた。 『それはいけませんね。風でも引いたんでせう……』  彼は斯う云つて室へ這入つて、婆さんの枕元に坐つた。幾 らかお喋舌りがしたい気持でもあつたのだ。 『僕今夜遊びに行つて来ようと思つて……』 『結構ですね。行つていらつしやい』 『雨が降つてるんで退儀だな』 『却つてよろしいでせう』  婆さんはふと思ひ出したやうに♪やはり元気の無い調子で 彼に云つて聴かした。 『いよく|家《うち》のことがきまりましたよ。あのこの問中手伝ひ のやうにして来てゐた年増の女1あれで八王子の問屋の|妾《めかは》 なんですがね、あれがこの家を買つて商売をやらうと云ふん で、近いうちに人が来てすつかりきめることになつたんで す』 『さうですか。それはまあ……。で大抵これ位ゐの家だと幾 ら位ゐのものなんです?』 『まあ二千円と云ふんですがね、それも払ふところへすつか り払つて了ふとあと幾らも自分の手には残りやしないんです がね、でもさうなるとこの子と二人きりですから、裏長屋へ 引込んで義太夫の師匠見たいなことをやつても、どうにかま あご飯だけは戴いて行けさうなものだと思ひましてね。いつ までも斯んな商売をして気苦労のし続けでは、寿命がたまり ませんや』  婆さんは眼を瞑つたま系ひどく獺げな調子で云つた。婆さ んの男のやうに広く角張つた額、頬の垂れ下がるやうに肥え た大きな顔は一層赤くなつて、額には油汗が|浸染《にじ》んでゐた。 そのこれから二人きりになるのだと云ふ五つになる男の貰ひ 子は、婆さんと並んで小さな枕の上に安らかな寝顔を見せて ゐた。 『あれであのお妾さんなかく持つてるんだからね、あの人 の代になつたらあなたが五十や六十溜めたかつてうるさくな んか云やしませんよ。あ、見えてあれでなかく気のい\女 ですからね』  婆さんは斯んなことも云つた。  雨の中を、彼は麹町から四谷の通りを、幾らか物悲しい気 持になつて歩るいて行つた。何十年も住んで来た自分の家を 手放すことになつて、婆さんは|惰《しよ》げてゐるのだと思つた。こ の間中見えてゐた丸髭の浅黒い顔した年増の女のことが浮ん だりした。  婆さんは、あの鬼総監とまで|謳《うた 》はれた有名なM総監時代 に、敏腕で鳴らしたある刑事の細君であつた。刑事は退職後 十年程も中風を患つて、二年前に死んだ。残された婆さんは すつかり貧乏であつた。親戚らしい親戚とてもなかつた。場 所もよし、室数も多く、旅館も兼ねて居るのだが、まるで手 入れと云ふことをしないので、這入る客は無かつた。近所の K分署の巡査が二三人泊つてゐたこともあつた。やはりK分 署の刑事で、人相の善くない若い男が茶の間の長火鉢の前に 坐つてゐるのを、彼はよく見かけることがあつた。彼は昨年 の九月に越して来たのだが、やはり貧乏の為め引越せずに居 るのだ。が彼はここの婆さんの見かけによらず優しい、よく 世問を知つた、善良な性質を、平常から好いてゐた。…-  翌くる日も婆さんは寝てゐた。夕方には町内のSと云ふ頭 の禿げた医者が見えてゐた。  昨日は朝から近所の見舞の人がぽつく見えてゐた。 『医者が何だつて云ふの?』 『さあ何ですか、私達にはわかりませんわ』女中達はひどく 心配さうな顔してゐるが、はつきりしたことは云はなかつ た。  家の中が一層陰気になつて、彼の気分を落付かせなかつ た。午後彼が出がけの時に、白い服の看護婦が氷のバケツを さげて病人の室に這入るのを見た。病人の額には氷嚢が載つ てゐた。『チブスか何かぢやないかしら…-』さうした不安 が感じられた。  友達のところで遊んで、彼は九時過ぎに帰つて来たのであ つた。茶の間には近所の人達が四五人集つてゐた。彼は廊下 の足音を忍ばせて二階の自分の室へ行つたが、呼鈴を押すの も遠慮されて、ぼんやり机の前に坐つてゐた。『どうかして 金をこしらへて引越したい-…』彼はそのことを思つてゐ た。  小さな女中がそうつと障子を開けて、顔を出した。 『あなたにね、|先刻《さつき》Kの分署から直ぐ来て呉れつて……』 『俺に?・…-Kの分署から?…・-何だつて?』 『何の用ですか私にはわかりませんわ』女中は斯う顔を赤ら めて云つた。  何の用事か見当はつかなかつたが、警察からと聞いたぐけ で、彼はある威嚇と不安を感じない訳に行かなかつた。彼は しばらく愚図々々してゐたが、思ひ切りわるく立ちあがつ て、汚れた帽子を|被《か》ぶつて出かけて行つた。と意外にも、婆 さんから彼に対する傷害の告訴状が出てゐたのであつた。S 老医の診断書まで添えてあつた。  1家人等ノ言フ所二依レバ、三月三日午後十時頃右寺島 おすえガ頭痛不快ニテ臥床中、止宿人山崎某ハ酩酊シテ其枕 元二入リ来タリ、長時間ノ談話ヲ仕カケ、且患者ノ頭髪二手 ヲ掛ケタリトノコトナリ。勿論斯ノ如キ行為パ脳溢血ノ直接 ノ原因トハナラザルモ、間接ノ誘因タラザルコト無シトハセ ズ云々II  S老医の診断書は、斯う云つたやうなものであつた。 『飛んでもないことです1 私が何であの婆さんの頭髪なん かへ手をかけるーそんなことのあらう筈が無い…-』  彼は顔色を変へて、声を震はして云つた。 『併し君はその晩泥酔しとつたさうぢやから、自分のしたこ とが自分に分つて居らんのぢやらうが。現にその|家《 つち》の者が、 君が婆さんの頭髪に手をかけたのを見たと云つてるぢやない か』  額の抜けあがつた年輩の警部は、斯う嚇すやうな調子で云 つた。 『いや飛んでもないことです。私はその晩はちつとも泥酔な んかしてゐませんでした。それに家人等と云つたところで、 あの|家《うち》の女中達だけでせう、あいつ等が何で……』  彼はその晩のことを詳しく話した。自分の借金のことも話 した。病人の氷代にも困るだらうと云ふ位ゐのことも、察し られないではなかつた、併し何と云ふ悪辣さだ1 そしてそ れが皆なこおの分署のあの人相の善くない若い刑事の企らん だことで、無論この警部もさうした事情を知つてゐて、やは り斯うした態度に出るー 『兎に角むかうから告訴状を取下げない以上、私は金を払は んつもりです。私もどこまでも出るところヘ出て争ふつもり です。斯んな無法な話つて無い!』 『併しA館から告訴状を取下げないうちに婆さんが死んだと なると、事情はどうあらうと、警察としては兎に角一応書類 を検事局へ廻さにやならんことになる。さうなると事がひど く面倒になるぞ。だからそんなことのない前に示談にして、 つまり払ふべきものは払つて、取下げさせることにした方 が、結局君の利益だらうて』警部は終ひに斯う云つた。  彼は家に帰つて来ると、茶の間に集つてゐた、その一人の 近所の菓子屋の主人だと云ふ中年の男1この男が刑事との 共謀者だと思はれたので、その男に向つて云つた。 『-…・ひどいことをしますね。知らん人が聞いたらほんとの ことだと思ふでせう。飛んでもない話だ。兎に角あの告訴状 は取下げて貰ひませう。その上で私の方でも払ふものは払ふ ことにしますから』  その男も、他の人達も、何とも云はなかつた。  彼はひと晩中睡むれなかつた。『斯うしてゐるうちにも婆 さんが死んだら?……』このことがいろくな意味から彼を 脅かさずに置かなかつたのだ。…-  が今日呼び出されて行つて見ると、告訴状だけは取下げら れてゐた。彼はほつとした気持になつてK分署を出た。そし て電車に乗つて郊外に住んでゐる友人のSを訪ねて行つた。 Sは午後の日の当る縁側に椅子を出して本を読んでゐた。 『だいぶ会はなかつたね。馬鹿に顔色がわるいやうぢやない か』とSは云つた。 『あ、ひどい目に会つてね……』  彼は今度の一件を話した。『どうかして婆さんの死なお いうちにあの家を出たい。実にたまらない。夜も睡れない -…』と彼は云つた。がSも貧しい生活をしてゐた。金で彼 を助けることは出来なかつた。 『ゐなかへ電報を打つて頼むほかあるまいよ』とSは云つ た。  二人して電報の文句を考へた。結局ーフカウデキタ六〇 ヱンタノムlと彼はSの万年筆を借りて書いた。同時に手 紙も書き出した。彼の万年筆を持つた手がぶるく震へて、 幾枚となく書き損じた。『僕でよかつたら書いてやらうか?』 とSが見兼ねて云ひ出した程である。斯うした電報や手紙を 受取る郷里の貧しい老いた父のことを、彼は思はずにゐられ なかつたのだ。  婆さんは依然として昏睡状態が続いてゐた。婆さんのたつ た一人の姪だと云ふ女も、電報で北国から出て来た。彼が電 報を打つてから三日目の晩に、郷里から電報為替が来た。併 し彼の要求した額の半分しか来なかつた。やはり一睡も出来 ない夜を彼は過した。『どうか死なおいで呉れ、俺の出るま で死なおいでゐて呉れ……』と、彼は怖ろしくなつて、蒲団 を出て狭い室の中を歩るき廻りながら祈るやうに思つた。 『婆さんはよく承知してゐる。俺は婆さんの病気には関係は 無いのだ。婆さんは俺を怨んでなんかゐやしない……』併し 何としても死神に頭髪に手をかけられてゐる婆さんを考へる ことは、怖ろしいことだ。惨酷なことだ。  朝、金を受取つて来ると、彼は誰かに自分の室ヘ来て呉れ るやうにと云つた。この間から昼も夜も見えてゐる近所の傘 屋の主人だと云ふ六十位の、ひどく小柄な、頭の禿げた、正 直さうな、仔細らしげの顔した爺さんが出て来た。 『三拾円金が来ましたが、二拾五円だけ差上げて、私は今日 中に引越したいと思ふんです。差当つてほかに金の出来る当 は全く無いのです。であとは月賦の証書にでもして置きます から、どうか引越さして頂きたいものです』と彼は云つた。 『さうなさいまし。併し一応皆さんへも相談して来ますか ら』  爺さんは斯う云つて階下へおりて行つたが、話はすぐにき まつて了つた。  彼と爺さんとは揃つて、日比谷の方の会社に勤めてゐる彼 の友達を訪ねて行つた。彼は爺さんを外に待たして置いてそ この応接室にあがつて行つたが、しばらくして出て来ると、 『友達は、ほかの保証ならまた何だが、君の食つた下宿料な んかの保証に立つのは厭だと云ふもんですから、……それで ご苦労ですがほかの方へ行つて見ますから』と額の汗を拭き ながら云つた。 『それはさうでございませうな。それでそのほかの方と云ふ のはあなたのご親戚か何かにでも?』爺さんはやはり町暉な 調子で、並んで歩るきながら云つた。 『いや、やはり友達なんですが……』 『さうですか。それではやはり行つてご覧になつても、同じ ことでせうて。ではよござんす、私が立合保証人と云ふこと になつて、お引請けすることにしますから。あなたもひどく お疲れになつてるやうだから……』この間からの事情をすべ て知つてるらしい爺さんは、斯う同情の口調で云つた。  彼は爺さんと別れて、郊外近くの方へ下宿を捜しに行つ た。そして四時頃帰つて来て、外に悼屋を待たして置いて、 僅かばかしの荷物を片附け始めた。爺さんがあがつて来て、 印紙など貼られた月賦の借用証書が作られた。 『ほんとに今度はいろくお世話になりました。お蔭様で ……』と彼は爺さんに云つた。 『どういたしまして。お互ひ様で……』  爺さんは斯う云つて、小さな健康さうな眼を彼の清せこけ た青い顔に向けたが、 『……実は、こんなことを申しあげては誠に失礼な話です が、またあなた方のやうな学問のお有りになる方から見れ ば、何をこの年寄が馬鹿なことを云ふかとお思ひになりませ うが、実は私はこの間から、あなたのことをお年もお若いの に何と云ふ顔色のよくない、青い顔をしてゐらつしやると、 ほんとにお気の毒に思つて居りました。実は私は少し変つた 方でしてな、私は天理教の方を信仰して居る者ですが、つま り何ですな、私達の方から申しますと、そんな風にお顔色が よくないと云ふやうなことにしましても、つまり平常天の理 に反いた生活をしてゐるからだと云ふんですがな、……また 今度のやうなことで不時の心配ごとに遇ふと云ふのも、つま り平常にどこか天理に外れた行ひをしてゐる報ゐだと、まあ 斯う云ふ風に考へるのでしてな、それでどうかして平常から 天理に適つた生活をしたい、天理に適つた行ひをしたいと、 まあ斯う云ふ風に考へて居るのでございます。兎に角たいへ んあなたのお顔色はよくありませんやうで……』  平常から斯うした説教をし慣れてゐるらしい調子も感じら れたが、併し彼は爺さんの言葉を温かい気持で聴いたb  外には砂埃りの風がたつてゐた。彼は悼に荷物を積んで、 病室の障子を少し開けて外から無言で頭をさげた。                     (八年四月)