花束 十一谷義三郎  若い口笛師が部屋に戻ると小さな花束と女持ちらしい名刺が卓子《テーブル》の上に載ってい た。名刺の表には頭文字が二つ裏には、今宵|閉場《はね》てから楽堂の裏門から三本目の街 灯の傍の幌馬車の中でお待ち受けいたします。と書いてある。幸福な予感が彼の心 臓を溢れて全身を揺《ゆる》がせた。彼はぐるりと一度卓子の周りをまわって吐息をついた。  彼がこの楽堂に雇われるようになってからもう二週間になるが、こうした経験は 今夜が初めてだった。と云うのは、こうして夜おそく馬車の中で自分を待って呉れ る人が出来たのは、全く彼が生れて以来のことだったのだ。  彼は幼い時に暗誦させられた問答書の中の言葉を思い出した。神は讃むべきかな 天国は近きにあり……で彼は、世界中の幸福を握り締めている人のようにゆっくり と微笑《ほほえ》みそれから唇を丸めて原始的な「光りと風」を吹き鳴しながら廊下に出た。  低い天井に喰付《くつつ》いた古びた枝形灯架から落ちて来る鈍い光りを浴びて老いた提琴 家がパイプを食《くわ》えて只独り立っていた。彼はその前を寄切《よぎ》りながらちょっと頭を下 げた。 「もうお済みになったのですか。」 「ああもう済んだよ。」  そして老人はパイプから立ち騰《のぼ》る煙りの中に没表情な眼をじっと見開いた。恰《あたか》も 世の中の一切のことがもうひと通り済んでしまったと云ったように。  老人が若い時に恋人と駈落ちしたことや、その恋人に逃げられて以来独身である ことや、老人の姿が時々此町の売春婦達の下宿の窓に見えると云ったことは、もう 殆ど此の楽堂の伝説になっていた。  彼はすぐに老人に背を向けて裏口の方へ歩きだした。歩きながら彼は、ほんの少 し許《ばか》りだが、老人の様子が自分の心の上っ面《つら》を掠《かす》めるのを感じた。  廊下の突き当りに窓があって外に月光が流れていた。彼は其処に立ち止って瞳を |凝《こ》らした。雨上りの所為《せい》か仄白《ほのじろ》い水気がいちめんに立ち罩《こ》めその中から馬の地べた を蹴る音が微に響いて来た。  彼は両手を顔に当てた。頬が熱くなったのだ。それから密《そ》っと扉を押し開いて外 に出て街灯の方へ歩いていった。二十間ばかりすると第一本目のところへ来た。そ こで彼は向うの靄《もや》の中に青い馬車の灯がじっと灯《とも》っているのを認めた。  彼は立ち停って吐息をついた。夫人であろうか、令嬢であろうか。明色であろう か、暗色であろうか。彼は舞台から見た幾つかの顔を思い浮べた。夫々《それぞれ》美しさはあ ったけれど際立って彼の魂を掴《つか》んでいるようなのは無かった。で彼は、きっと何処 か自分の気のつかないところから、何時の問にか自分を見、自分の口笛に聞き惚れ、 そして自分を大事に思って呉れる人、ああその人が花のように美しくて象牙のよう に清らかで無くてどうしよう。  彼がそんな風に考えていた時、黒いフェルト帽を真深に冠った老提琴家の姿が裏 口から出て来た。彼は秘密を抱いている人のように少し慌てて踵《きびす》を返した。  老人は彼に近づくといきなり大きな掌で彼の脊中《せなか》を叩いた。 「おい、約束するんだ。明日の晩はきっとどちらへでもご案内致しますってね。」 「どうしたんです?」 「どうしたんです? そして老人は彼の眼の先へ綺麗な皺のよった顔を寄せて微笑んだ。 「仕様がない。承知しました。」  ちょっとの間して彼がそう云うと、老人は肩を揺すって笑いながら向うへいった。 それを見送りつつ彼は思った。 「自分の命と魂とは恋人のものだから差上げる訳にゆきませんが、外のものなら何 んでも……」  それから彼は五六段ある裏口の階段を二足で飛び上り、躍るような足取りで廊下 を部屋に戻った。  閉場《はね》までにはまだ十五分の余《よ》もある。彼は鏡に向って、目立たぬ様にクリームを 頬に摩《す》り込み、薄《うつ》すらと唇に紅を引き、それから手袋と洋杖《ステツキ》と帽子とを卓子の上に 置いて椅子に掛けた。  ふと彼は、いつか老提琴家が彼にして呉れた話を思い出した。  老人がまだ若くて人気の出初めた頃のこと、或る夜、黒い紗《ヴエール》で顔を包んだ女客 に招ばれて料理屋にいった。其処で彼は少し許り酒を飲み、型のような話をやって、 さて女の独り住んでいると云う家へ行くべく馬車に乗った。  馬車が動き出すと老人が云った。 「貴女のお美しい顔をもっとよく拝見させて下さい。」  女は顔の蔽《おお》いを決して取らなかったのである。 「ご覧になったら屹度《きつと》愛想をおつかしになるでしょうから。」そう云って彼がどん なに頼んでも聴き入れようとしなかった。老人はそうして男を焦《じ》らす女の術をよく 心得ていた。 「ではせめて貴女の美しいお手を。」そして彼は女の手を真紅な手袋の上から聢《しか》と 握り締めた。 「いけません。」  女は身を摺らせて強く手を引いた。と、その拍子に手袋がするすると抜け、女の、 骨張った、皺の寄った、手首の生地《きじ》の冷たさが掌へ伝わった。彼は思わず身震いし て手を離した。 「勿論彼女が厭に低い声で話すとは思ったがね。」と老人が最後に云った。そして 附け足した。「だから、恋なんて云うものは、決して最後までゆかないことなん だ。」  拍手の音が響いて来た。彼はも一度名刺をとり上げた。其処に書いてある「馬車 の中でお待ち受け致します」と云う文句が大変な自信を持って書かれているように 思えた。で、使いの者をやって断ってしまう方がいっそ好いんでは無かろうか 「思し召しは有難うござんすが、今夜はあい憎《に》く先約があってお伴を致し兼ねます。 神様が明日の晩にでも、貴女の下僕《しもべ》に、貴女のお手を接吻する幸運を与えて下さい ますように。」そんな風に云わせたら……  演奏が終ったらしくひと群れの男女が廊下を過ぎていった。その騒ぎを聞くと同 時に先刻見た青い灯の灯った幌馬車の影像がはっきりと彼の頭に浮び上って来た。 彼は殆ど無意識に手袋と帽子と洋杖《ステツキ》とを取って立ち起《あが》った。  彼が馬車に近づいた時、馬車の扉は内から静に押し開けられた。  馬車は直に動き出した。 「何と云う好い夜なんでございましょう。」  と彼女が向いに坐っている彼にじっと微笑みかけながら若々しい声で云った。彼 はちょっと頭を下げて答えた。 「ほんとうに結構な夜でございます。お嬢さん。ああ若《も》しそうお呼びするのが間違 っていたらごめんなさい。」  それを聞くと彼女は馬車の外へ響き渡るように笑った。小さな瓦斯洋灯《ガスランプ》の光りが その白い笑顔から水色の絹の着物に辷り落ちて、彼女の姿を細かい模様のある褥《しとね》の 上へ鮮かに浮び上らせていた。 「妾を覚えていて下すって?」と彼女が睫《まつげ》の長い眼を彼に向けて尋ねた。彼は胸を 膨らませながら眩しそうに彼女の顔を見返した。そして直ぐに答えた。 「貴女はお羨ましい方です。一度お見うけしたら二度とお忘れすることが出来ませ ん。」  すると彼女もすぐに云った。 「それは妾から申し上げる言葉でございます。それに貴方は何と云う美しい口笛を お吹きになるのでございましょう。ほんとうに妾、魂の底まで痺れてしまうようで した。そして何だかこう空恐ろしい気が致しました。」  彼は叮嚀《ていねい》に頭を下げた。そして微笑みながら 「ああ貴女はお上手でいらっしゃいます。」  彼女もちょっと微笑んで、少しからだを斜めにしながら無心らしく馬車の天井を 見た。彼は少し固くなりつつ、何処かしら媚《なま》めかしい彼女の様子を凝《じ》っと見守った。 そうして二人が口を緘《つぐ》んだ時夜の街を駈けてゆく蹄の音と鞭の鳴るひびきが静に滲 み込んで来た。  彼はショパンの「小鳥の歌」を吹き鳴し初めた。そうしながら彼は唇の丸め方と か眼の湿《うるお》いとかそうした表情にあらゆる魅力を集注した。そしてそれがすぐに彼女 の上に働きかけてゆくのを感じた。  彼女は眸を高く上げ唇を心持開き、それから左り脚を右の膝に載せて小さな靴の 爪先きを軽く揺す振った。其度に彼女の真紅な靴下がちらちらと見え隠れするのだ。  此の彼女の様子を見ると熱い血がいち時《どき》に彼の頬に上って来、そうしてその額か ら汗が流れ落ちた。彼はピタリと口を閉じて彼女を凝視した。彼女は極めて自然に その視線を外《そ》らして窓の外を見た。彼は彼女の横顔が微かに痙攣《けいれん》していることを知 った。  その時、御者《ぎよしや》がひと声叫び、鞭がぴしりと空を切った。馬車が坂道にかかったの だ。彼等はほっと吐息をついた。その辺は道の両側に古びた館《やかた》が立ち並びそれらに 這い上った蔦の葉が月光の中に揺れていた。 「もし失礼でなかったら、どちらへお供を致すのでございましょうか。」と彼は静 に尋ねた。 「もう此の坂道の上でございます。妾の宅へ御案内致したいと存じます。」そして 彼女は立ち上ってちょっと身繕《みつくろ》いした。それから改めて附け足した。 「良人《おつと》もどんなにか喜ぶことでしょう。お話し相手が無くて退屈しつづけなんです もの。」 「ああ御主人様に……御主人様が……それは大変な幸せです。ほんとに。」 「ずうっと臥せって居りますものですからね。」 「それはお困りのことと存じます。」彼は少し上の空で答えた。 「もう老病なんですものね。御同情下さるでしょう。」そして彼女は蓮葉に笑いな がら探るように彼を見た。何時の間にか彼女の靴の爪先きが彼のそれに触れていた。  彼はふと或る女と懇意になったが為にその女の夫に射殺されたピアニストのあっ たことを思い出した。で彼はじっと口を緘《つぐ》んで眼を|■[目へんに爭]《みは》った。 「ああ考えちゃいけません。考える者は馬鹿よ。」そして彼女は突然彼の手を取っ て劇《はげ》しく揺さ振った。  馬車が小造りな門の前に来て止った。彼は扉を明けて先に下りて彼女の方へ手を さし伸べた。  彼女はそれを強く握り締めながら月光の中へ飛びおりた。  そこで彼は改めて彼女に恭々しく礼をして云った。 「では奥さま、私の今夜の役目はこれでお終いになったと存じます。」  すると彼女が同じように叮嚀に答えた。 「大層礼儀正しくいらっしゃいます。ではお別れと致しましょう。」それから彼女 は傍に立っている御者に云った。 「この紳士をお宅までお送りしてお呉れ。」  そして彼女はそのまま静に見返りもしないで玄関の方へ歩きだした。  彼は御者台のわきへ飛び上った。そして眼を円くしている御者に云った「好いか らうんと鞭を当てろ!」  翌朝、レストランで老提琴家と一緒になった時、口笛師は血色の好い顔に朝の光 りを湛えながら、昨夜の話を悉皆《すつか》り説明した。そしてお終いに得意そうに云った。 「どうでしょう。少し苦しかったけれど出来は上だと思うんですがね。」  それを聞くと老人は椅子から転げ落ちる程に笑いながら答えた。 「馬鹿、馬鹿、馬鹿、然しこれからだよ。」  その夜、彼が楽堂の彼の部屋に入っていった時、卓子の上に、花束と名刺が昨夜 と同じように載せられていた。そして名刺の裏に「昨夜と同じ時刻に同じところま でどうぞお運び下さいまし。心からお待ち受け致します」と書いてあった。  彼は微笑みながら呟いた。「どうすれば好いんだ、今夜は。」                              (一九二三年七月)