寿阿弥の手紙        一  わたくしは澀江抽斎の事蹟を書いた時、抽斎の父定所の友で、抽斎 に劇神仙の号を謹つた寿阿弥陀仏の事に言ひ及んだ。そして寿阿弥が 文章を善くした証拠として其手紙を引用した。  寿阿弥の手紙は葛堂と云ふ人に宛てたものであつた。わたくしは初 め蒼堂の何人たるかを知らぬので、二三の友人に問ひ合せたが明答を 得なかつた。そブ一で蓮堂批憧かわからぬと書いた。  さうすると早速其人は駿河の桑原理堂であらうと云って、友人賀古 鶴所さんの許に報じてくれた人がある。それは二宮孤松さんである。 二宮氏は五山堂詩話の中の詩を記憶してゐたのである。  わたくしは書庫から五山堂詩話を出して見た。五山は其詩話の正篇 に於て、一たび理堂を説いて詩二首を挙げ、再び説いて、又四首を挙 げ、後補遺に於て、三たび説いて一首を挙げてゐる。詩の采録を経た るもの通計七首である。そして最初にかう雷ふ人物評が下してある。 「公圭書法爛雅、兼善音律、其人温厚謙惜、一望而知為君子」と云 ふのである。公圭は理堂の字である。  次で置塩葉園さんの手紙が来て、わたくしは理堂の事を一層精しく 知ることが出来た。  桑原蒼堂、名は正瑞、字は公圭、通称は古作である。天明栖粋牝生 れ、天保八年六月十八日に歿した。桑原氏は駿河国島田駅の素封家で、 徳川幕府時代には東海道辻仁鰥の恢締を命ぜられ、兼て引替御用を勤 めてゐた。引替御用とは為換方を謂ふのである。桑原氏が後に産を傾 けたのは此引換のためださうである。  菊池五山は蒼堂の詩と書と音律とを称してゐる。蒼堂は詩を以て梁 川星巌、柏木如亭及五山と交った。書は子目卯を宗とし江戸の佐野東洲 の教を受けたらしい。又画をも学んで、峯山門下の福田半香、その他 勾田台嶺、高久隆古等と交った。  蒼堂の妻は置塩薦庵の二女ためで、石川依平の門に入つて和歌を学 んだ。匿庵は巣園さんの五世の祖である。  蒼堂の子は長を霜崖と云ふ。名は正旭である。書を善くした。次を 桂叢と云ふ。名は正望である。画を善くした。桂叢の墓誌銘は斎藤拙 堂が撰んだ。  桑原氏の今の主人は喜代平さんと称して蒼堂の玄孫に当つてゐる。 戸籍は島田町にあつて、町の北半里許の伝心寺に住んでゐる。伝心寺 は桑原氏が独力を以て建立した禅寺で、寺禄をも有してゐる。桑原氏 累代の菩提所である。  以上の事実は巣園さんの手書中より抄出したものである。巣園さん は置塩氏、名は維裕、字は季余、通称は藤四郎である。居る所を聴雲 楼と云ふ。川田蜜江の門人で、明治三十三年に静岡県周智郡長から伊 勢神宮の神官に転じた。今は山田市岩淵町に住んでゐる。わたくしの 旧知内固魯庵さんは巣園さんの妻の姪夫ださうである。  わたくしは寿阿弥の手紙に由つて巣園さんと相識になつたのを魯んだ。  寿阿弥の手紙の宛名桑原琢堂が何人かと云ふことを、二宮孤松さん に由つて略知ることが出来、置塩巣園さんに由つて委く知ることが出 来たので、わたくしは正誤文を新聞に出した。然るに正誤文に偶誤 字があつた。市河三陽さんは此誤字を正してくれるためにわたくしに 書を寄せた。  三陽さんは祖父米庵が盛堂と交はつてゐたので、斑堂の名を知つて ゐた①米庵の西征日乗中癸亥十月十七日の条に、「十七日、到島田、 訪桑原弦堂已宿」と記してある。癸亥は享和三年で、安永八年生れの 米庵が二十五歳、天明四年生の斑堂が二十歳の時である。客も主人も 壮年であつた。わたくしは主客の関係を詳にせぬが、遊堂の詩を詩 藷中に収めた菊池五山が米庵の父寛斎の門人であつたことを思へば、 米庵は蒼堂がためには、啻に已より長ずること五歳なる友であつたの みではなく、頗る貴い賓客であつただらう。  三陽さんは別に其祖父米庵に就いてわたくしに教ふる所があつた。 これはわたくしが澀江抽斎の死を記するに当つて、米庵に言ひ及ぼし たからである。抽斎と米庵とは共に安政五年の虎列拉に侵された。抽 斎は文化二年生の五十四歳、米庵は八十歳であつたのである。しかし わたくしは略抽斎の病状を悉してゐて、その虎列拉たることを断じた が、米庵を同病だらうと云ったのは、推測に過ぎなかつた。  わたくしの推測は幸にして誤でなかつた。三陽さんの言ふ所に従へ ぱ、神惟徳の米庵略伝に下の如く云ってあるさうである。「震災後二 年を隔てて夏秋の交に及び、先生時邪に犯され、発熱劇甚にして、良 医交々来り診し苦心治療を加ふれど効験なく、年八十にして七月十八 日滝然属綴の哀悼を至す」と云ふのである。又当時虎列拉に死した人 人の番附か発刊せられた。三陽さんは其二種を蔵してゐるが、並に皆 米庵を載せてゐるさうである。  寿阿弥の麸堂に遣った手紙は、二三の友人がこれを公にせむことを 勧めた。わたくしも此手紙の印刷に附する価値あるものたるを信ずる。 なぜと云ふに、その記する所は開明史上にも文芸史上にも尊重すべき 資料であつて、且読んで興味あるべきものだからである。  手紙には考ふべき人物九人と理堂の親戚知人四五人との名が出てゐ る。前者中儒者には山本北山がある。詩人には大窪天民、菊池五山・ 石野雲嶺がある。歌人には痒本弓弦がある。画家には喜多可庵がある。 茶人には川上宗寿がある。医師には分家名倉がある。俳優には四世坂 東彦三郎がある。手紙を書いた寿阿弥と其親戚と、手紙を受けた蒼堂 と其親戚知人との外、此等の人物の事蹟の上に多少の光明を投射する 一篇の文章に、史料としての価値があると云ふことは、何人も否定す ることが出来ぬであらう。  わたくしは寿阿弥の手紙に註を加へて印刷に付することにしようか とも思った。しかし文政頃の手紙の文は、縦ひ興味のある事が巧に書 いてあつても、今の人には読み易くは無い。忍んでこれを読むとした ところで、許多の敬語や慣用語が邪魔になつてその煩はしきに堪へな い。ましてやそれが手紙にめづらしい長文なのだから、わたくしは遠 慮しなくてはならぬやうに思って差し控へた。  そしてわたくしは全文を載せる代りに筋書を作つて出すことにした。 以下が其筋書である。  手紙には最初に二字程下げて、長文と云ふことに就いてのことわり が言つてある。これだけば全文を此に写し出す。「いつも余り長い子 紙にてかさばり候故、当年は罫紙に認候。御免可被下候。」わたくし は此ことわりを面白く思ふ。当年はと云ったのは、年が改まつてから 始めて遣る手紙だからである。其年が文政十一年であることは、下に 明証がある。六十歳の寿阿弥が四十五歳の班堂に書いて遣ったのであ る。  寿阿弥と蒼堂との交は余程久しいものであつたらしいが、其詳な ることを知らない。只此手紙の書かれた時より二年前に、寿阿弥が猛 堂の家に泊つてゐたことがある。山内香雪が市河米庵に随つて有馬の 温泉に浴した紀行中、文政九年丙戌二月三日の条κ、「二日、藤枝に 至り、荷渓また雲嶺を問ふ、到墨田間理堂、寿阿弥為客こゝにあり、 掛川仕立墨投宿」と云ってある。帰途に米庵等は斑堂の家に宿したが、 只「主島囲蘂堂」とのみ記してある。これは四月十八日の事である。 紀行は市河三陽さんが抄出してくれた。  荷渓は五山堂詩話に出てゐる。「藤枝家荷渓。碧字風暁。才 調独絶。工画能詩。(中略)於詩意期上乗。是以生平所 作。多不僚己意。勘毀擢焼。留者無幾。」菊池五山は西駿 の知己二人として、荷渓と葛堂とを並記してゐる。  次に書中に見えてゐるのは、不音のわび、時侯の挨拶、間安で、其 末に「貧遺無異に勤行仕候間乍憚御掛念被下間敷候」とある。 勤行と書いたのは剃髪後だからである。当時の武鑑を閲するに、連歌 師の部に浅草日輸寺其阿と云ふものが載せてあつて、寿阿弥は執嘩目 輪寺内寿阿曇窟生記してある。原来時宗遊行派の阿弥号は相摸国高座 郡藤沢の清浄光寺から旧すもので、江戸では浅草芝崎町日輸寺が其 出張所になつてゐた。想ふに新石町の菓子商で真志屋五郎作と云って ゐた此人は、寿阿弥号を受けた後に、去つて日輪寺其阿の許に寓した のではあるまいか。  寿阿弥は単に剃髪したばかりでは無い。僧衣を着けて托鉢にさへ出 た。托鉢に出たのは某年正月十七日が始で、先づ二代目烏亭焉馬の八 丁堀の家の門に立つたさうである。江戸町与力の停山崎賞次郎が焉馬 の名を襲いだのは、文政十一年だと云ふことで、月日は不詳である。 わたくしが推察するに、焉馬は文政十一年の元日から襲名したので、 英月十七日に寿阿弥は托鉢に出て、先づ焉馬を驚したのではあるまい か。若しさうだとすると、菰堂に遣る此遅馳の年始状を書いたのは、 始て托鉢に出た翌月であらう。此手紙は二月十九日の日附だからであ る。  寿阿弥が托鉢に出て、焉馬の門に立つた時の事は、仮名垣魯文が書 いて、明治二十三年一月二十二日の歌舞伎新報に出した。わたくしの 手許には鈴木春浦さんの写してくれたものがある。  寿阿弥は焉馬の門に立つて、七代日団十郎の声色で「厭離焉馬、欣 求浄土、寿阿弥陀仏々々々々々」と唱へた。  深川の銀馬と云ふ弟子が主人に、「怪しい坊主が来て焉馬がどうの かうのと云ってゐます」と告げた。  焉馬は箒を持つて玄関に出て、「なんだ』と叫んだ。  寿阿弥は数歩退いて笠を取つた。 「先生悪い洒落だ」と、焉馬は棒を投げた。「まあ、ちよつとお通下 さい。」 「いや。けふは修行中の草撞穿だから御免蒙る。焉馬あつたら又蓮は う。」云ひ畢つて寿阿弥は、岡崎町の地蔵橋の方へ、錫枚を衝き鴫ら して去つたと云ふのである。  魯文の記事には多少の文飾もあらうが、寿阿弥の剃髪、寿阿弥の勤 行かどんなものであつたかば、大概此出来事によつて想見することが 出来よう。寛政三年生で当時三十八歳の戯作者焉馬が、寿阿弥のため には自分の贔屓にして遣る末輩であつたことは論を須たない。       回  次に「大下の岳母様」が亡くなつたと聞いたのに、弔書を遣らなか つたわびが言ってある。改年後始めて遣る手紙にくやみを書いたのは、 寿阿弥が物事に拘らなかつた証に充つべきであらう。  大下の岳最が何人かと云ふことは、巣園さんに問うて知ることが出 来た。駿河国志太郡毘田駅で桑原氏の家は駅の西端、置塩氏の家は駅 の東方にあつた。土地の人は彼を大上と看ひ、此を大下と云った。葛 堂は大上の檀那と呼ばれてゐた。理堂の妻ためば大下の置塩氏から来 り稼した。ための父即ち班堂の岳父は置塩薦庵で、母即ち理堂の岳母 は匿庵の妻すなである。  さて大下の岳母すなば文政十年九月十二日に歿した。寿阿弥は其年 の冬のうちに弔書を寄すべきであるのに、翌文政十一年の春まで不音 に打ち過ぎた。其詫言を言つたのである。  次に「清右衛門様先はどうやらかうやら江戸に御辛抱の御様子故御 案じ被成間敷侯」云々と云ふ一節がある。此清右衛門と云ふ人の事蹟 は、菓園さんの手許でも猶不明の廉があるさうである。しかし大概は わかつてゐる。麸堂の同家に桑原清右衛門と云ふ人があつた。同家と のみで本末は明白でない。清右衛門は名を公緯と云った。江戸に往つ て、仙石家に仕へ、用人になつた、当時の仙石家は但馬国出石郡出石 の城主仙石道之助久利の世である。清右衛門は仙石家に仕へて、氏名 を原逸一と更めた。頗る録節のある人で、和歌を善くし、又画を作つ た。画の号は南田である。晩年には故郷に帰つて、明治の初年に七十 余歳で歿したさうである。文政十一年の二月は此清右衛門が奉公口に 有り附いた当座であつたのではあるまいか。気節のある人が志を得な いでゐたのに、咋今どうやらかうやら辛抱してゐると云ふやうに、寿 阿弥の文は読まれるのである。  次の一節は頗る長く、大窪天民と喜多可庵との直話を骨子として、 逐年物価が騰貴し、儒者画家などの金を獲ることも容易ならず、束惰 謝金の高くなることを言ったものである。  大窪天民は、「客歳」と云ってあるから文政十年に、加賀から大阪 へ旅稼に出たと見える。天民の収入は、江戸に居つても「一日に一分 や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中 位」であつた。それから「どつと当るつもり」で大阪へ乗り込んだ。 大阪では佐竹家蔵屋敷の役人等が周斑して大買の書を請ふものが多か つた。然るに天民は出羽国秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫義厚の抱 への身分で、佐竹家蔵屋敷の役人が「世話を焼いてゐる」ので、町人 共が「金子の謝礼はなるまいとの間ちがひ」をしたので、ここも所得 は少かつた。此旅行は「都合日数二百日にて、百両ぱかり」にはなつ た。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、 「出かけただけが損」だと云ってある。  天民が加賀から帰る途中の事に就て、寿阿弥はかう云ってゐる。 「加賀の矯り高堂の前をば通らねばならぬ処ながら、直通りにて、其 夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飲む故なるベし。」天民の上 戸は世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒を嗜んだことがわ かり、又理堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は世葬、 一に世夷に作る、字は希之、別に天均又皆梅と号した。亦駿河の人で 詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。  皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め萩野由之さんに質して知 つた。これがわたくしの雲嶺の石野氏なることを知つた始である。後 にわたくしは拙堂文集を読んでふと「皆梅園記」を見出だした。斎藤 拙堂はかう云ってゐる。「老人姓石氏。本為市井人。住藤枝駅。風流 温藉。以善詩聞於江湖上。庚子歳余東征。過憩駅亭相見。 間暗半日。知其名不虚。爾来毎門下生往来過駅。靹嘱訪 老 人。得其近作以覧観焉。去年夏余復東征。宿駅亭、首間老 人近状。駅吏日。数年前辞市務。老於孤山下村。余即往訪之。 従駅中左折数武。槐花満地。既覚井尋常行慶。竹確茅屋間。 得門而入。老人大喜。迎飲於其舎。園数畝。経営位置甚 工。皆出老人之意匠。有菅神廟林仙祠。各奉祀其主。有賜春館。 傍植東叡王府所賜之梅。其他、皆以梅偽名。有小香国鶴避茶寮鶯 運憂玉泉等勝。前対巌田洞雲二山。風煙可愛。使人徘徊賞 之。」庚子は天保十一年で、拙堂は藤掌畳猷に層随して津から江戸に 赴いたのであらう。記を作つたのは安政中の事かとおもはれる。  天民の年齢は、市河三陽さんの言に従へば、明和四年生で天保八年 に七十一歳を以て終つたことになるから、加賀大阪の旅は六十一歳の 時であつた。秦通りをせられた理堂は四十四歳であつた。  喜多可庵の直話を寿阿弥が聞いて書いたのも、天民と五山との詩の 添削料の事である。これは首尾の整った小晶をなしてゐるから、全文 を載せる。「画人武清上州桐生に漉侯時、桐生の何某申侯には、数年 玉池へ詩を直してもらひに遺し候へ共、兎角斧正魔漏にて、時として 同字などある時もありてこまり申候、これよりは五山へ願■可申侯間、 先生御紹介可被下と頼候時、武清申候には、随分承知致侯、帰府の上 なり共、当地より文通にてなり共、五山へ可申込侯、しかしながら麦 に一つの訳合あり、謝物が薄ければ、疏漏は五山も同じ事なるべし、 矢張馴染の天民へ気を附て謝物をするがよささうな物と申てわらひ候 由、武清はなしに御座侯。」武清は可庵の名である。又笑翁とも号し た。対顯門で八丁堀に住んでゐた。宰氷五年生で安政三年に八十一歳 で歿した人だから、此話を寿阿弥に書かれた時が五十三歳であつた。 玉池は天民がお玉が池に住したからの称である。菊池五山は寿阿弥と 同じく明和六年生で、苦華水二年に八十一歳で歿したから、天民よりは 二つの年下で、寿阿弥がこれを書いた時六十歳になつてゐた。  寿阿弥は天民の話と可庵の話とを書いて、さて來情の高くなつた二 とを言ってゐる。其文はかうである。「近埠搬緒切給金のみならげ、 儒者の束惰までが高くなり、天民貧道など桑疑塾に居侯時分、百疋持 た耕升州が参れば、よい入門と申侯物が、此頃は天でも五山でも、二 炉の弟子入はそれ程好いとは思はず、流行はあぢな物に御座候。」寿 阿弥は天民と其に山本北山に従学した。桑疑塾は北山の家塾である。 北山は寛延三年生で文化九年に六十一歳で歿したから、束惰百疋の時 代は、恐らくはまだ二十に満たぬ天民、寿阿弥が三十幾歳の北山に師 事した天明の初年であらう。此手紙は北山殿後十六年に書かれたので ある。天は天民の後略である。  次は寿阿弥が怪我をして名倉の治療を受けた記事になつてゐる。怪 我をした時、場所、容体、名倉の診察、治療、名倉の許で避遁した怪 我人等が頗る細かに書いてある。  時は文政十年七月末で、寿阿弥は姪の家の板の聞から落ちた一そし て両腕を傷めた。「骨は不砕候へ共、両腕共強く痛め侯故」云々と云 つてある。       六  寿阿弥が怪我をした家は姪の家ださうで、「愚姪方」と云ってある。 此姪は其名を詳にせぬが、尋常の人では無かつたらしい。  寿阿弥の姪は茶技には余程精しかつたと見える。同じ手紙の末にか う云ってある。「近況茶事御取出しの由川上宗寿、三島の鯉昇などよ り伝聞仕候、宗寿と申候者風流なる人にて、平家をも相応にφたり、 貧道は連歌にてまじはり申侯、此節江戸一の茶博士に御座候て、愚姪 など敬伏仕り居侯事に御座侯。」これは班堂が一たびさしおいた茶を 又弄ぶのを、宗寿、鯉昇等に聞いたと云って、それから宗寿の人物 評に入り、宗寿を江戸一の茶博士と称へ、姪も敬服してゐると云った のである。  川上宗寿は茶技の聞人である。宗寿は宗什に学び、宗什は不白に学 んだ。安永六年に生れ、弘化元年に六十八歳で歿したから、此手紙の 書かれた時は五十二歳である。寿阿弥は姪が敬服してゐ拓と云ふを以 て、此宗寿の重きをなさうとしてゐる。姪は余程茶技に精しかつたも のとしなくてはならない。手紙に宗寿と並べて挙げてある三島の鯉昇 は、その何人たるを知らない。  寿阿弥は両腕の打撲を名倉弥次兵衛に診察して貰った。「はじめ参 侯節に、弥次兵衛申候は、生得の下戸と、戒行の堅固な処と、気の強 い処と、三つのかね合故、目をまばさずにすみ申侯、此三つの内が一 つ闕候ても日をまばす怪我にて、貝をまばす程にては、療治も二百 日余り懸り可申、目をばまばさずとも百五六十日の日数を経ねば治し がたしと申侯。し流行医の口吻、昔も今も殊なることなく、実に其声 を聞くが如くである。  寿阿弥は文政十年七月の末に怪我をして、菜時から日々名會へ通っ た。「極月末までかゝり申侯」と云ってある小ら、五箇月間通ったの である。さて翌年二月十九日になつても、「今以而金快と申には無御 座侯而、少々麻癖仕候気味に御座候へ其、老体のこと故、元の通りに は所詮なるまいと、其儘に而此節は療治もやめ申侯」と云ふ転掃であ る。  手紙には当時の名倉の流行か叙してある。「元大阪町名倉弥次兵衛 と申候而、此節高名の骨接医師、大に流行にて、日々八十人九十人位 づゝ怪我人参候故、早朝参候而も順繰に待居候間、終日かゝり申候。」 流行医の待合の光景も亦古今同趣である。炊で寿阿弥が名倉の家に於 て避遁した人々の名が挙げてある。「岸本椎園、牛込の東更なども怪 我にて参侯、大塚三太夫息八郎と申人も名倉にて遜遁、其節御噂も中 出侯。しやまぶきぞのの岸本虫旦流は寛政元年に生れ、弘化三年に五 十八歳で歿したから、寿阿弥に名倉で逢った文政十年には三十九歳で ある。通称は佐佐木信綱さんに問ふに、大隅であつたさうであるが、 此年の武鑑御弦師の下には、五十俵白銀一丁目津本能声と云ふ人があ るのみで、大隅の名は見えない。能声と大隅とは同人か非か、知る人 があつたら教へて貰ひたい。牛込の東更は艸体の文字が不明であるか ら、読み誤つたかも知れぬが、その何人たるを詳にしない。大塚父 子も未だ考へ得ない。       七  寿阿弥は怪我の話をして、其末には不沙汰の詫言を繰り返してゐる。 「怪我労」で疎遠に過したと云ふのである。此詫言に又今一つの詫言 が重ねてある。それは例年には品物を贈るに、今年は「から手紙」を 遣ると云ふので、理由としては「御存知の丸焼後万事不調」だと云ふ ことが言ってある。  寿阿弥の家の焼けたのは、いつの事か明かでない。又その焼けた家 もどこの家だか明かでない。しかし試に推測すればかうである、真志 屋の菓子店は新石町にあつて、そこに寿阿弥の五郎作は住んでゐた。 此家が文政九年七月九日に松田町から出て、南風でひろがつた火事に 焼けた。これが手紙に所謂丸焼である。きて其跡に建てた家に姪を住 まばせて菓子を売らせ、寿阿弥は連歌仲間の浅草の日輪寺其阿が所に 移つた。しかし折々は姪の店にも往つてとまつてゐ次。怪我をしたの はさう云ふ時の事である。わたくしの推測は、単に此の如くに説くと きは、余りに空漢であるが、下にある文政十一年の火事の段と併せ考 ふるときは、稍プロバビリテエが増して来るのである。  次に遊行上人の事が書いてある。手紙を書いた文政十一年三月十日 頃に、遊行上人は駿河国志太郡焼津の普門寺に五日程、それから駿河 本町の一華堂に七日程留錫する筈である。さて島田駅の人は定めて普 門寺へ十念を受けに往くであらう。菰堂の親戚が往く時雑選のために 困まぬやうに、手紙と切手とを送る。最初に往く親戚は手紙と切手と を持つて行くが好い。手紙は普門寺に宛てたもので、中には証牛と云 ふ僧に世話を頼んである。証牛は寿阿弥の弟子である。切手は十念を 受ける時、座敷に通す特待券である。二度目からは切手のみを持つて 行って好いと云ふのである。寿阿弥は時宗の遊行派に縁故があつたも のと見えて、海録にも山崎美成が遊行上人の事を寿阿弥に問うて書き 留めた文がある。  次に文政十一年二月五日の神田の火事が「本月五日」として叙して ある。手紙を書く十四旦剛の火事である。単に二月十九日とのみ日附 のしてある此手紙を、文政十一年のものと定めるには、此記事だけで も足るのである。火の起つたのは、武江年表に暮六時としてあるが、 此手紙には「夜五つ時分」としてある。火元は神田多町二丁目湯屋の 二階である。これは二階と云ふだけが、手紙の方が年表より委しい。 年表には初め東風、後北風としてあるのに、手紙には「風もなき夜」 としてある。恐くは徴風であつたのだらう。  延焼の町名は年表と手紙とに亙に出入がある。年表には「東風にて 西神田町一円に類焼し、又北風になりて、本銀町、本町、石町、駿 河町、室町の辺に至り、夜亥の下刻鎮まる」と云ってある。手紙には 「西神田はのこらず焼失、北は小川町へ銑け出で、南は本町一丁目片 かば焼申侯、(中略)町数七十丁余、死亡の者六十三人と申候ことに 御座候」と云ってある。  わたくしの前に云った推測は、寿阿弥が姪の家と此火事との関係に よつてプロバビリテエを増すのである。手紙に「愚姪方は大適一筋の 境にて東神田故、此度は免れ候へ共、向側は西神岡故過半燐失仕り 侯」と云ってある。わたくしはこの姪の家を新石町だらうと推するの である。 八  文政十一年二月五日に多町二丁目から出た火事に、大道一筋を境に して東側にあつて類焼を免れた家は、新石町にあつたとするのが殆ど 自然であらう。新石町は諸書に見えてゐる真志屋の稟子店のあつた街 である。そこから日輪寺方へ移る時、寿阿弥は菓子店を姪に謹つたの だらう、其時昔の我店が「愚姪方」になつたのだらうと云ふ推測は出 て来るのである。  寿阿弥は若し此火事に姪の家が焼けたら、自分は無宿になる筈であ つたと云ってゐる。「難渋之段愁訴可仕水府も、先達而丸焼故難渋 申出侯処無之、無宿に成侯筈」云々と云ってゐる。これは此手紙の中 の難句で、句読次第でどうにも読み得られるが、わたくしは水府もの 下で切つて、丸焼は前年七月の真志屋の丸焼を斥すものとしたい。既 に一たび丸焼のために救助を仰いだ水戸家に、再び愁訴することは出 来ぬと云ふ意味だとしたい。なぜと云ふに丸焼故の下で切ると、水府 が丸焼になつたことになる。当時の水戸家は上屋敷か小石川門外、中 屋敷か本郷追分、目白の二箇所、下屋敷か永代新田、小梅村の二箇所 で、此等は火事に逢ってゐないやうである。寿阿弥が水戸家の用達商 人であつたことは、諸書に載せてある通りである。  寿阿弥の手紙には、多呵の火事の条下に、一の奇聞か載せてある。 此に其全文を挙げる。「永富町と申候処の銅物屋大釜の中にて、七人 やけ死申候、(原註、親父一人、息子一人、十五歳に成侯見せの者一 人、丁稀三人、抱への鳶の者一人)外に十八歳に成侯見せの者一人、 丁稀一人、母一人、嫁一人、乳飲子一人、是等は助り申侯、十八歳に 成候者愚姪方にて去暮迄召仕候女の身寄之者、十五歳に成候者愚姪方 へ通ひづとめの者の宅の向ふの大工の伜に御坐候、此銅物屋の親父夫 婦食慾強情にて、七年以前見せの手代一人土蔵の三階にて腹切桐果申 候、此度は共恨なるべしと皆人申候、銅物屋の事故大釜二つ見せの前 左右にあり、五箇年以前此辺出火之節、向ふ側計焼失にて、道幅も 楕別広き処故、今度ものがれ可申、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじ と申候に、鳶の者もさ様に心得、いか様にやけて参侯とも、此大釜二 つに水御坐候故、大丈夫助り侯由に受含申候、十八歳に成候男は土蔵 の戸前をうちしまひ、是迄はたらき候へば、私方は多町一丁目にて、 此所よりは火元へも近く候間、宅へ参り働き度、是より御暇被下れと 申侯て、自分親元へ働に帰り侯故助り申候、此者の一処に居侯間の事 は演舌にて分り候へども、其跡は推量に御坐候へ共、とかく見せ蔵、 奥蔵などに心のこり、父子共に立のき兼、鳶の者は受合努故彼是仕 候内に、火勢強く左右より燃かゝり候故、そりや釜の中よといふやう な事にて釜へ入侯処、釜は沸上り、烟りは吹かけ、大釜故入るには鍔 を足懸りに入候へ共、出るには足がゝりもなく、釜は熱く成労にて 死に侯事と相皃え申侯、母と嫁と小児と丁稀一人つれ、貧道弟子音屋 佐吉が裏に親類御坐候而夫へ立退候故助り申候、一つの釜へ父子と丁 擢一人、一つの釜へ四人入候て相果申候、此事大評判にて、釜は檀那 寺へ納候へ共、見物移敷参侯而不外聞の由にて、寺にては(自註、 榎津忠綱寺一向宗)門を閉候由に御坐候、死の縁無量とは申ながら、 余り変なることに御坐候故、御覧も御面倒なるべくとは華 存候へ 共書付申候。」       九  此銅物屋は屋号三文字屋であつたことが、大郷信斎の道聴途説に南 つて知られる。遺聴途説は林若樹さんの所蔵の書である。  釜の話は此手紙の中で最も欣賞すべき文章である。叙事は精緻を極 めて一の剰語をだに着けない。実に拠つて文を行る間に、『そりや釜 の中よ』以下の如き空想の発動を見る。寿阿弥は一部の書をも著さな かった。しかしわたくしは寿阿弥がいかなる書をも著はすことを得る 能文の人であつたことを信ずる。  次に笛の彦七と云ふものと、坂東彦三郎とのコンプリマンを取り次 いでゐる。彦七はその何人なるを考へることが出来ない。しかし「祭 礼の節は不相変御厚情蒙り難有由時々申出候」と云ってあるから、江 戸から神楽の笛を吹きに往く人であつたのではなからうか。 一坂東彦三郎も躍申出、兎角駿河一参りたいくと計申居侯一の 句は、人をして十三駅取締の勢力をしのばしむると同時に、盛堂の襟 懐をも想ひ遣らせる。彦三郎は四世彦三郎であることは諭を須たない。 寛政十二年に生れて、明治六年に七十四歳で歿した人だから、此手紙 の書かれた時二十九歳になつてゐた。「去夏狂言評好く拙作の所作事 勤侯処、先づ勤めてのき侯故、去顔見せには三座より抱へに参候仕合 故、まづ役者にはなりすまし申侯。」彦三郎を推称する語の中に、寿 阿弥の高く自ら標置してゐるのが窺はれて、頗る愛敬がある。  次に茶番流行の事が言ってある。これは「別に書付御覧に入侯」と 云ってあるが、別紙は佚亡してしまつた。 「何かまだ申上度儀御座候やうながら、あまり長事故、まづ是にて欄 筆、奉待後鴻候頓首。」此に二月十九日の日附かあり、寿阿と署 してある。宛は菰堂先生座有としてある。  次に盛蛍の親戚及同駅の知人に宛てたコンプリマンが書き添へてあ る。其中に「小右衛門殿へも宜しく」と特筆してあるから、試に菓園 さんに小右衛門の誰なるかを問うて見たが、これはわからなかつた。  寿阿弥は此等の人々に一々書を裁するに及ばぬ分疏に、「府城、沼 津、焼津等所々認侯故、自由ながら貴境は先生より御口達奉 願 候」と云ってゐる。わたくしは筆不精ではないが、手紙不精で、親威 故旧に不沙汰ぱかりしてゐるので、読んで此に到つた時寿阿弥のコル レズボンダンスの範囲に驚かされた。  寿阿弥の生涯は多く暗黒の中にある。抽斎文庫には秀鶴冊子と劇神 仙話とが各二部あつて、そのどれかに抽斎が此人の事を手記して置 いたさうである。青々園伊原さんの言に、劇神仙話の一本は現に安胃 横阿弥さんの蔵葬する所となつてゐるさうである。若し其本に寿阿弥 が上に光明を投射する書入がありはせぬか。  抽斎文庫から出て世間に敵らばつた書籍の中、演劇に関するものは、 意外に多く横阿弥さんの手に拾ひ集められてゐるらしい。珍書刊行会 は曾て抽斎の奥書のある喜三二が随筆を印行したが、大正五年五月に 至つて、又飛蝶の劇界珍話と云ふものを収刻した、前者は無論横阿弥 さんの所蔵本に拠つたものであらう。後者に署してある名の飛蝶は、 抽斎の次男優善後の優が寄席に出た頃看板に書かせた芸名である。劇 界珍話は優善の未定稿が澀江氏から安田氏の手にわたつてゐて、それ を刊行会が謄写したものではなからうか。 十  寿阿弥の生涯は多く暗黒の中にある。写本刊本の文猷に就てこれを 求むるに、得る所が甚だ少い。然るにわたくしは幸に一人の活きた典 拠を知つてゐる。それは伊沢蘭軒の嗣子榛軒の女で、菓軒の妻であつ た曾能子刀自である。刀自は天保六年に生れて大正五年に八十二歳の 高齢を保つてゐて、再も猶聡く、言舌も猶さわやかである。そして寿 阿弥の晩年の事を実験して記憶してゐる。  刀自の生れた天保六年には、寿阿弥は六十七歳であつた。即ち此手 紙が書かれてから七年の後に、刀自は生れたのである。刀自が四五歳 の園は寿阿弥が七十か七十一の頃で、それから刀自が十四歳の時に寿 阿弥が八十で歿するまで、此崎人の言行は少女の日に映じてゐたので ある。  刀自の最も古い記憶として遣ってゐるのは寿阿弥の七十七の賀で、 刀自が十一歳になつた弘化二年の出来事である。此賀は刀自の父榛軒 が主として世話を焼いて挙行したもので、歌を書いた微紗が知友の間 に配られた。  次に寿阿弥の奇行か稀がつた刀自に驚異の念を作さしめたことがあ る。それは寿阿弥が道に溺する毎に手水を使ふ料にと云って、常に一 升徳利に水を入れて携へてゐた事である。  わたくしは前に寿阿弥の托鉢の事を書いた。そこには一たび仮名垣 魯文のタンペヲマンを経由して写された寿阿弥の滑稽の一面のみが現 れてゐた。劇通で芝居の所作事をしくんだ寿阿弥に斯の如き滑稽のあ つたことは怪むことを須ゐない。  しかし寿阿弥の生活の全体、特にその僧侶としての生活が、啻に滑 稽のみでなかつたことは、活きた典拠に由つて証せられる。少時の刀 自の目に映じた寿阿弥は真面目の僧侶である。真面日の学者である。 只此僧侶学者は往々人に異なる行を敢てしたのである。  寿阿弥は刀自の稀かつた時、伊沢の家へ度々来た。僧侶としては毎 月十七日に醐かさずに来た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二 年三月十七日に歿した蘭軒の忌日である。此日氾は刀自の父榛軒が寿 阿弥に読経を講ひ、それが畢つてから饗応して還す例になつてゐた。 饗齪には必ず蕃槻を皿に一ぱい盛つて附けた。寿阿弥はそれを剰さず に食へた。「あの方は年に馬に一駄の蕃槻を食へるのださうだ」と人 の云ったことを、刀自は猶記憶してゐる。寿阿弥の着てゐたのは木綿 の法衣であつたと刀白は云ふ。  寿阿弥に講うて読経せしむる家は、独り伊沢氏のみではなかつた。 寿阿弥は高貴の家へも回向に往き、棄封家へも往つた。刀自の識つて ゐた範囲では、飯田町あたりに此人を請ずる家が殊に多かつた。  寿阿弥は又学者として日を定めて伊沢氏に請ぜられた。それは源氏 物語の講釈をしに来たのである。此講莚も亦独り伊沢氏に於て開かれ たのみではなく、他家でも催されたさうである。刀自は寿阿弥が同じ 講釈をしに永井えいはく方へつ維ポと云ふことを聞いた。  永井えいはくは何人なるを詳にしない。医師か、さなくぱ所謂お 坊主などで、武鑑に載せてありはせぬかと思って検したが、見当らな かつた。表坊主に横井栄伯があつて、氏名が稍似てゐるが、これは別 人であらう。或は想ふに、永井氏は諸侯の抱医師若くは江戸の町医で はなからうか。       士  寿阿弥が源氏物語の講釈をしたと云ふことに因んだ話を、伊沢の刀 自は今一つ記憶してゐる。それはかうである、或時人々が寿阿弥の醇 をして、「あの方は坊さんに省なりなさる前に、奥さんがおありなさ つたでせうか」と誰やらが問うた。すると謹やらが答へて云った。 「あの方は己に源氏のやうな文章で手紙を書いてよこす女があると、 已はすぐ女房に持っのだがと云って入らっしやったきうです。しかし さう云ふ女がとう/\無かつたと云ふことです。」此話に由つて観れ ぱ、五郎作は無妻であつたと見える。五郎作が千葉氏の女壻になつて 出されたと云ふ、喜多村甥庭の説は疑はしい。  寿阿弥は伊沢氏に来ても、回向に来た時には雑談などはしなかつた。 しかし講釈に来た時には、事果てて後に暫く世間話をもした。刀自は それに就いてかう云ふ。「惜しい事には其時寿阿弥さんがどんな話を なさつたやら、わたくしは証えてゐません、どうも石川貞白さんなど のやうに、子供の面白がるやうな事を仰やらなかつたので、後にはわ たくしは余り其席へ出ませんでした。」石川貞白柑伊沢氏と共に橿山 の阿部家に仕へてゐた医者である。当時阿部家は伊勢守正弘の代であ つた。  刀自は寿阿弥の姪の事をも少し知つてゐる。姪は五郎作の妹の子で あつた。しかし恨むらくは其名を逸した。刀自の記憶してゐるのは蒔 絵師としての姪の号で、それはすゐさいであつたきうである。若し其 文字を知るたつきを得たら、他日訂正することとしよう。寿阿弥が蒔 絵師の株を貰ったことがあると云ふ甥庭の説は、これを誤り伝へたの ではなからうか。  刀自の識つてゐた頃には、寿阿弥は姪に御家人の株を買って遣って、 浅草菊屋橋の近所に住はせてゐた。其株は扶持が多く附いてゐなかつ たので、姪は内職に蒔絵をしてゐたのださうである。  或るとき伊沢氏で、蚊母樹で作つた櫛を沢山に病家から貰ったこと がある。榛軒は寿阿弥の姪に談へて、それに蒔絵をさせ、知人に配つ た。「大そう牙の長い櫛でございましたので、其比の御婦人はお使な さらなかつたさうです、今なら宜しかつたのでせう」と刀自は云った。  菊屋橋附近の家へは、刀自が度々榛軒に連れられて往つた。始て往 つた時は十二歳であつたと云ふから、弘化三年に寿阿弥が七十七歳に なつた時の事である。英頃からは寿阿弥は姪と同居してゐて、とうと う其家で亡くなつた。刀自はそれが孟蘭盆の頃であつたと思ふと云ふ。 嘉永元年八月二十九日に歿したと云ふ記載と、略符合してゐる。  寿阿弥の姪が茶技に精しかつたことは、伯父の手紙に徴して知るこ とが出来るが、その蒔絵を替くしたことは、刀自の話に由つて知られ る。其他蒔絵師としての号をすゐさいと云ったこと、寿阿弥がために は妹の子であつたこと、御家人であつたこと等の分かつたのも、亦刀 自の賜である。  最後に残つてゐるのは、寿阿弥と水戸家との関係である。寿阿弥が 水戸家の用達であつたと云ふことは、諸書に載せてある。しかし両者 の関係は必ず此周達の名羲に尽きてゐるものとも云ひ難い。  新石町の菓子商なる五郎作は富豪の身の上ではなかつたらしい。そ れがどうして三家の一たる水戸家の用達になつてゐたか。又剃髪して 寿阿弥となり、幕府の連歌師の執筆にせられてから後までも、どうし て水戸家との関係が継続せられてゐたか。これは稍暗黒なる一問題で ある。       十=  何故に生涯宮人ではなかつたらしい寿阿弥が水戸家の用達と呼ばれ てゐたかと云ふ問題は、単に彼海録に見えてゐる如く、数代前から用 達を勤めてゐたと云ふのみを以て解釈し尽されてはゐない。水戸家が 此用達を待つことの頗る厚かつたのを見ると、問題は一層の暗黒を加 ふる感がある。  手紙の記す所を見るに、寿阿弥が火事に遭って丸焼になつた時、水 戸家は十分の保護を加へたらしい。それゆゑ寿阿弥は再び火事に遭っ て、重ねて救を水戸家に仰ぐことを憚かつたのである。これは水戸家 の一の用達に対する処置としては、或は稍厚きに過ぎたものと見るべ きではなからうか。  且寿阿弥の経歴には、有力者の渥き庇保の下に立つてゐたのではな からうかと思はれる節が、用達問題以外にもある。久しく連歌師の職 に居つたのなどもさうである。啻に其職に居つたと云ふのみではない。 わたくしは寿阿弥が曇窟と号したのは、芝居好であつたので、綬帳の 音に似た文字を選んだものだらうと云ふことを推する。然るに此号が 立派に公儀に通って、年久しく武鑑の上に赫いてゐたのである。  次に澀江保さんに聞く所に依るに、寿阿弥は社会一般から始終一種 の尊敬を受けてゐて、誰も蔭で「寿阿弥が」云々したなどと云ふもの はなく、必ず「寿阿弥さんが」と云ったものださうである。これも亦 仔細のありさうな事である。  次に寿阿弥は徴官とは云ひながら公儀の務をしてゐて、頻繁に劇場 に出入し、俳優と親しく交り、種々の奇行かあつても、曾て咎を被つ たことを聞かない。これも英類例が少からう。  此等の不思議の背後には、一の巷説かあつて流布せられてゐた。そ れば寿阿弥は水戸侯の落胤ださうだと云ふのであつた。此巷説は保さ んも母五百に聞いてゐる。伊沢の刀自も知つてゐる。当時の社会に於 ては所謂公然の秘密の如きものであつたらしい。「なんでも卑しい女 に水戸様のお手が附いて下げられたことがあるのださうでございます。 菓子店を出した時、大名よりは増屋だと云ふ意で屋号を附けたと聞い てゐます」と、刀自は云ふ。  わたくしはこれに関して何の判断を下すことも出来ない。しかし真 志屋と云ふ屋号の異様なのには、わたくしは初より心附いてゐた。そ して刀自の言を聞いた時、なるほどさうかと頷かざることを得なかつ た。兎に角真志屋と云ふ屋号は、何か特別な意義を有してゐるらしい。 只その水戸家に奉公してゐたと云ふ女は必ずしも寿阿弥の母であつた とは云はれない。其女は寿阿弥の母ではなくて、寿阿弥の祖先の母で あつたかも知れない。海録に拠れば、真志屋は数代菓子商で、水戸家 の用達をしてゐたらしい。随つて落胤問題も寿阿弥の祖先の身の上に 帰着するかも知れない。  若し然らずして、嘉永元年に八十歳で歿した寿阿弥自身が、彼凝間 の女の胎内に合ってゐたとすると、寿阿弥の父は明和五六年の交に於 ける水戸家の当主でなくてはならない。即ち水戸参議治保でなくては ならない。       圭  わたくしは寿阿弥の手紙と題する此文を草して将に稿を母らむとし た。然るに何となく心に撮ぬ節があつた。何事かば知らぬが、当に做 すべくして做さざる所のものがあって存する如くであつた。わたくし は前段の末に一の終の字を記すことを猶与した。  そしてわたくしはかう思惟した。わたくしは寿阿弥の墓の所在を知 つてゐる。然るに未だ曾て往いて訪はない。數其名を筆にして、其 文に由つて其人に親みつゝ、程近き所にある墓を尋ぬることを怠つて ゐるのは、遺憾とすべきである。兎に角一たび往つて見ようと云ふの である。  雨の日である。わたくしは意を決して車を命じた。そして小石川伝 通院の門外にある昌林院へ往つた。  住持の僧は来意を聞いて答へた。昌林院の墓地は数年前に撤して、 墓石の一部は伝通院の門内へ移し入れ、他の一都は洲崎へ送つた。寿 阿弥の墓は前者の中にある。しかし柵が結つて錠が卸してあるから、 雨中に詣づることは難儀である。幸に当院には位牌があつて、これに 記した文字は墓表と同じであるから仏壇へ案内して進ぜようと答へた。  わたくしは問うた。「柵が結つてあると仰やるのは、寿阿弥一人の 墓の事ですか。それとも石塔が幾つもあつて、それに柵が結ひ繰らし てあるのですか。」これは真志屋の祖先数代の墓があるか否かと思っ て云ったのである。 「墓は一つではありません。藤井紋太夫の墓も、力士谷の音の墓もあ りますから。」  わたくしは耳を歌てた。「それは思ひ掛けないお話です。藤井紋太 夫だの谷の音だのが、寿阿弥に縁故のある人達だと云ふのですか。」  僧は此間の消息を詳にしてはゐなかつたαしかし昔加ら一つ所に 葬つてあるから、縁故があるに相違なからうとの事であつた。  わたくしは延かれて位牌の前に往つた。寿阿弥の位牌には、中央に 東陽院寿阿弥陀仏曇窟和尚、嘉永冗年戊申八月二十九日と書し、左右 に戒誉西村清常居士、文政三年庚寅十二月十二日、松寿院妙真日実信 女、文化十二年乙亥正月十七日と書してある。  僧は「こちらが谷の晋です」と云って、隣の位牌を指きした。神誉 行義居士、明治二十一年十二月二日と書してある。 「藤井紋太夫のもありますか」と、わたくしは問うた。 「紋太夫の位牌はありません。誰も参詣するものがないのです。しか しこちらに戒名が書き附けてあります。」かう云って紙牌を示した。 光含院孤峯心了居士、元禄七年甲戌十一月二十三日と書してある。 「では寿阿弥と谷の音とは参詣するものがあるのですね」と、わたく しは問うた。 「あります。寿阿弥の方へは牛込の藁店からお婆あさんが命日毎に参 られます。谷の音の方へは、当主の関口文蔵さんが福島にをられます ので、代参に本所緑町の関重兵衛さんが来られます。」       十四  命日毎に寿阿弥の墓に詣でるお婆あさんは何人であらう。わたくし の胸中には寿阿弥研究上に活きた第二の典拠を得る望が萌した。そ二 で僧には卒塔婆を寿阿弥の墓に建てることを頼んで置いて、わたくし は藁店の家を尋ねることにした。 「藁店の角店で小間物屋ですから、すぐにわかります」と、僧が教へ た。  小間物屋はすぐにわかつた。立派な手底な角店で、五彩目を奪ふ頭 飾の類が陳べてある。。店顕には、雨の盛に降つてゐるにも拘らず、蛇 目傘をさし、塗足駄を穿いた客が引きも切らず出入してゐる。腰を掛 けて飾を選んでゐる客もある。皆美しく粧つた少女のみである。答に 応接してゐるのは、紺の前掛をした大勢の若い者である。  若い者はわたくしの店に入るのを見て、「入らつしやい」の声を発 することを躊魔した。  わたくしも亦忙しげな人々を見て、無用の間話頭を作すを憚らざる ことを得なかつた。  わたくしは若い丸髭のお上さんが、子を負って門に立つてゐるのを 顧みた。 一それ、雨こんくが降つてゐます一などと、お上さんは背中の子を 蕨してゐる。 「ちよつと物を為尋ね申します」と君つて、わたくしはお上さんに来 意を述べた。  お上さんは怪訶の日を腰つて聞いてゐた。そしてわたくしの語を解 せざること良久しかつた。無理は無い。此の如き熱闇塲裏に此の如き 間一百話を弄してゐるのだから。  わたくしが反復して説くに及んで、白い狭い額の奥に、理解の薄明 がさした。そしてお上さんは覚えず被顔一笑した。「あゝ。さうです か。ではあの小石川のお墓にまゐる省婆あさんをお尋なさいますので すね。」 「さうです。さうです。」わたくしは薯禁ずべからざるものがあっ た。丁度外交官が談判中に相手をして自己の葉主張に首肯せしめた刹 那のやうに。  お上さんは繊い指尖を上権に衝いて足駄を脱いだ。そして背中の子 を簾しつゝ、帳塲の奥に駿れた。  代つて現れたのは白髪を切つて撫附にした姐である。「どうぞこち らへ」と云って、わたくしを揮いた。わたくしは姪と帳場楕子の傍に 対坐した。  婚名は石、高野氏、御家人の女である。弘化三年生で、大正五年 には七十一歳になつてゐる。少うして御家人師岡久次郎に嫁した。久 次邸に壮二人の兄があつた。長を山傭葉と云1ひ、仲を鈴木菓と云って、 師岡氏は其季であつた。三人は同腹の子で、皆伯父に御家人の株を買 つて貰った。それは商買であつた伯父の産業の衰へた目の事であつた。  伯父とは誰ぞ。寿阿弥である。兄弟三人を生んだ母とは誰ぞ。寿阿 弥の妹である。        圭  寿阿弥の手紙に「愚姪」と書してあるのは、山崎、鈴木、師岡の三 兄弟中の一人でなくてはならない。それが師岡でなかつたことは明白 である。お石さんは夫が生きてゐると大正五年に八十二歳になる筈で あつたと云ふ。師岡は天保六年生で、手紙の書かれたのは師岡未生前 七年の文政十一年だからである。  山崎、鈴木の二人は石が嫁した時皆歿してゐたので、石は其齢を記 憶しない。しかし夫よりは余程の年上であつたらしいと云ふ。兎に角 齢の懸隔は小さからう筈が無い。彼の文政十一年に既に川上宗寿の茶 技を評した人は、師岡に比して大いに長じてゐなくてはならない。わ たくしは石の言を聞いて、所謂愚姪は山崎の方であらうかと思った。  若し此推測が当つてゐるとすると、伊沢の刀自の記憶してゐる蒔絵 師は、均しく是れ寿阿弥の妹の子ではあつても、手紙の中の「愚姪」 とは別人でなくてはならない。何故と云ふに石の言に従へば、蒔絵を したのは鈴木と師岡とで、山崎は蒔絵をしなかつたさうだからである。  蒔絵は初め鈴木が修行したさうである。幕府の蒔絵師に新銀町と 皆川町との鈴木がある。此両家と氏を同じうしてゐるのは、或は故あ ることかと思ふが、今遽に尋ねることは出来ない。次で師岡は兄に此 技を学んだ。伊沢の刀自の記憶してゐるすゐさいの号は、鈴木か師岡 か不明である。しかしすゐさいの名は石の曾て聞かぬ名だと云ふから、 恐くは兄鈴木の方の号であらう。  然らば寿阿弥の終焉の家は誰の家であつたか。これはどうも師岡の 家であつたらしい。「伯父さんは内で亡くなつた」と、石の夫は養っ てゐたさうだからである。  峨の如くに考へて見ると、寿阿弥の手綻にある「愚姪」、伊沢榛軒 のために櫛に蒔絵をしたすゐさい、寿阿弥を家に居いて生を終らしめ た戸主の三人を、山崎、鈴木、師岡の三兄弟で分坦することとなる。 わたくしは此まで考へた時事の奇なるに驚かざるを得なかつた。  初めわたくしは寿阿弥の手紙を読ん決時、所謂「愚姪トの女である べきことを疑はなかつた。俗にをひを甥と書し、めひを姪と書するか らである。しかし石に聞く所に拠るに、寿阿弥を小父と呼ぶべき女は 一人も無かつたらしいのである。  爾雅に「男子謂姉妹之子為出、女子謂姉妹之子為姪」と云ってある。 甥の竿批江れ㌍販礼て頗る多義である。姪は素女子の謂ふ所沈あつて も、公羊伝の舅出の語が広く行はれぬので、漢学者はをひを姪と書す る。そこで桑疑塾に学んだ寿阿弥は甥と書せずして姪と書したものと 見える。此に至つてわたくしは既に新聞紙に刊した文の不用意を悔い た。  わたくしは石に夫の家の当時の所在を問うた。「わたくしが片附い て参つた時からは始終只今の山伏町の辺に批沙無した。其頃は組屋敷 と申しました」と、石は云ふ。組屋敷とは黒鍬組の屋敷であらうか。 伊沢の刀自が父と共に尋ねた家は、菊屋橋附近であつたと云ふから、 徹離れ過ぎてゐる。師岡氏は弘化頃に菊屋橋附近にゐて、石の嫁して 行く文久前に、山伏町辺に遷つたのではなからうか。  わたくしの石に問ふべき事は未だ尽きない。落胤問題がある。藤井 紋太夫の事がある。谷の音の事がある。       芙  わたくしは師岡の未亡人石に問うた。「寿阿弥さんが水戸様の落胤 だと云ふ噂があつたさうですが、若しあなたのお耳に入つてゐはしま せんか。」 石は答へた。「水戸様の落胤と云ふ話は、わたくしも承はつてゐま す。しかしそれは寿阿弥さんの事ではありません。いつ頃だか知りま せん松・なんでも寿阿弥さんの先祖の事でございます、水戸様のお屋 敷へ御奉公に出てゐた女に、お上のお手が附いて妊娠しました。お屋 敷ではその女をお下げになる時、男の子が生れたら申し出るやうにと 云ふことでございました。丁度生れたのが男の子でございましたので 申し出ました。すると五歳になつたら連れて参るやうにと申す事で。こ ざいました。それから五歳になりましたので連れて出ました。英子は 別間に呼ばれました。そしてお前は侍になりたいか、町人になりたい かと云ふお尋がございました。子供はなんの気なしに町人になりたう ございますと申しました。それで別に御用は無いと云ふことになつて 下げられたさうでございます。なんでも真志屋と云ふ屋号は英後始て 附けたもので、大名よりは増屋だと云ふ意であつたとか申すことで、こ ざいます。その水戸様のお胤の人は若くて亡くなりましたが、血筋は 寿阿弥さんまで続いてゐるのだと、承りました。」  此言に従へば、真志屋は数世続いた家で、落胤問題と屋号の縁起と は其祖先の世に帰着する。  次にわたくしは藤井紋太夫の墓が何故に真志屋の墓地にあるかを間 うた。  石は答へた。「あれは別に深い仔細のある事ではないさうで、こざい ます。藤井紋太夫は水戸様のお手討ちになりました。所が親戚のもの 織w淳て葬式をいたす、、とが巣ませんで裟。轟真憧の先 祖が御用達をいたして怜結けψ沈い内々お許を戴いて死骸を弓き取り ました。そして自分の菩提所で葬をいたして進ぜたのだと申します。」  わたくしは落胤問題、屋号の縁起、藤井紋太夫の遺骸の埋葬、此等 の事件に、彼の海録に載せてある八百屋お七の話をも考へ合せて見た。  水戸家の初代威公頼房は慶長十四年に水戸城を賜はつて、寛文元年 に薨じた。二代義公光囲は元禄三年に致仕し、十三年に薨じた。三代 粛公綱条は享保三年に薨じた。  海録に拠れば、八百屋お七の地主河内屋の女毘は真志屋の祖先の許 へ嫁入して、其時お七のくれた祇吊を持つて来た。河内屋も真志墨の 祖先も水戸家の用遠であつた、お七の刑死せられたのは天和三年三月 二十八日である。即ち義公の世の事で、真志屋の祖先は当時既に水戸 家の用達であつた。只真志屋の屋号が何年から附けられたかば不明で ある。  藤井紋太夫の手討になつたのは、元禄七年十一月二十三日ださうで 諸書に伝ふる所と、昌林院の記載とが符合してゐる。これは粛公の世 の事で、義公は隠居の身分で藤井を誅したのである。  此等の事実より推窮すれば、落胤問題や屋号の由来は威公の時代よ り遅れてはをらぬらしく、余程古い事である。姶て真志屋と号した祖 先葉は、威公若くは義公の胤であつたかも知れない。        十七  わたくしは以上の事実の断片を湊含して、姑く下の如くに推測した。 水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家の女が水戸家に仕へて、殿 様の胤を舎して下げられた。此女の生んだ子は商人になつた。此商人 の家は水戸家の用達で、真志屋と号した。しかし用達になつたのと、 落胤問題との孰れが先と云ふことは不明である。その後代々の真志屋 は水戸家の特別保謹の下にある。寿阿弥の五郎作は此真志屋の後であ る。  わたくしの師岡の未亡人石に問ふべき事は、只一つ残つた。それは 力士谷の音の事である。  石は問はれてかう答へた。「それは可笑しな事なのでございます。 好くは存じませんが其右概毘は真志屋の出入であつたとかで、それが 亡くなつた時、何のことわりもなしに昌林院の墓所にいけてしまつた のださうでございます。幾ら簸員だつたと云ったつて、死骸まで持つ て来るのはひどいと云って、こちらからは掛け合ったが、色々談判し た挙句に、一旦いけてしまつたものなら為方が無いと云ふことになつ たと、夫が話したことがございます。」石は関口と云ふ後裔の名をだ に知らぬのであつた。  余り長座をするもいかゞと思って、わたくしは辞し去らむとしたが、 ふと寿阿弥の連歌師であつたことに就いて、石が何か聞いてゐはせぬ かと思った。武鑑には数年間日輸寺其阿と寿阿曇窟とが列記せられて ゐて、しかも寿阿の住所は日輸寺方だとしてある。わたくしは是より 先、浅草芝崎町の日輸寺に往つて見た。一つには寿阿弥の同僚であつ た其阿の墓石を尋ねようと思ひ、二つには日輸寺其阿の名が一代には 限らぬらしく、古く物に見えてゐるので、それを確めようと思ったか らである。日輪寺は今の浅草公園の活動写真館の西で、昔は東南共に 街に面した角地面であつた。今は薪屋の横町の衝当になつてゐる。寺 内の墓地は半ぱ水に浸されて沮測の地となり、蘭を生じ芹を生じてゐ る。わたくしは墓を検することを得ずして還つた、わたくしは石に間 うた。「若し日輸寺と云ふ寺の名をお聞になつたことはありません か。」 「存じてをります、日輪寺は寿阿弥さんの縁故のあるお寺ださうで、 寿阿弥さんの御位牌が置いてありました。しかし昌林院の方にあれは、 あちらには無くても好いと云ふことになりまして、只今は何も、こざい ません。」  わたくしはお石さんに暇乞をして、小間物屋の帳場を辞した。小間 物屋は牛拠瞬胸で当主を浅井平八郎さんと云ふ。初め石は師岡久次郎 に嫁して一人女京を生んだ。京は会津東山の人浅井善蔵に嫁した。善 蔵の女おせいさんが婿平八郎を迎へた。おせいさんは即ち子を負って 門に立つてゐたお上さんである。  寿阿弥の事は旧に依つて暗黒の中にある。しかしわたくしは伊沢の 刀自や師岡の未亡人の如き長寿の人を識ることを得て、幾分か諸書の 誤謬を正すことを得たのを喜んだ。  わたくしは再び此稿を畢らむとした。そこへ平八郎さんが尋ねて来 た。前に浅井氏を訪うた時は、平八郎さんは不在であつたが、後にわ たくしの事を外祖母に聞いて、今真志屋の祖先の遺物や文書をわたく しに見せに来たのである。  遺物も文書も、浅井氏に現存してゐるものの一部分に過ぎない。し かし其遺物には頗る珍奇なるものがあり、其文書には種々の新事実の 証となすべきものがある。寿阿弥研究の遣は幾度か窮まらむとして、 又幾度か通ずるのである。八百屋お七の子づから縫った微紗は、六十 三年前の嘉永六年に寿阿弥が手から山崎美成の手にわたされた如くに、 今平八郎さんの手からわたくしの手にわたされた。水戸家の用達真志 屋十余代の継承次第は殆ど脱漏なくわたくしの日の前に展開せられた。        十八  わたくしは姑く浅井氏所蔵の文書を真志屋文書と名づける。真志屋 文書に徴するに真志屋の祖先は威公頼房が水戸城に入つた時に供に立 つてゐる。文化二年に武公治紀が家督して、四年九月九日に十代目真 志屋五郎兵衛が先祖書を差し出した。「先祖儀御入国の湖御供仕来元 和年中引続」云々と書してある。入国とは頼房が慶長十四年に水戸城 に入つたことを指すのである。此真志屋始祖西村氏は参河の人で、過 去帳に拠る生、浅誉日水信士と法諡し、元和二年正月三日に歿した。 屋号は真志屋でなかつたが、名は既に五郎兵衛であつた。  二代は方誉清西信士で、寛永十九年九月十八日に致した。後の数代 の法諡の例を以て推すに、清西は生前に命じた名であらう。  三代は相誉清伝信士で、寛文四年九月二十二日に歿した。水戸家は 既に義公光囲の世になつてゐる。  四代は西村清体居士である、清休の時、元禄三年に光圀は致仕し、 粛公綱条が家を継いだ。  此代替に先つて、清休の家は大いなる事件に遭遇した。真志屋の遺 物の中に写本西山道事並附録三巻があつて、其附録の末一枚の表に 「文政五年壬午秋八月、真志屋五郎作秋邦謹苔」と署した漢文の書 後がある。其中にかう云ってある。「嗚呼家先清休君、得知於公深、 身庶人而俸賜三百石、位列参政之後」と云ってある。公は西山 公を謂ふのである。  此俸禄の事は先祖書の方には、側女中島を娶つた次の代廓清が受け たことにしてある。「乍恐御西山君様御代御側向御召抱右島之御方と 被申候を妻に被下置厚き奉蒙御重恩侯而、年々御米百俵宛三季に 享保年中迄頂戴仕来冥加至極難有仕含に奉存候」と云って ある。しかし清休がためには、島は子婦である。光圀は清休をして島 を子婦として迎べしめ、俸禄を与へたのであらう。  八百屋お七の幼馴染で、後に真志屋祖先の許に嫁した島の事は海録 に見えてゐる。お七が株紗を縫って島に贈つたのは、島がお屋敷奉公 に出る時の餞別であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水 戸家から下つて真志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ち此毘であつ たことは、わたくしは知らなかつた。畠の奉公に出た屋敷か即ち水戸 家であつたことは、わたくしは知らなかつた。真志屋文書を見るに及 んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とが倶に島、其岳父、英 夫の三人の上に嬢り来るのに驚いた。わたくしは三人と云った。しか し或は一人と云っても不可なることが無からう。其中心人物は島であ る。  真志屋の祖先と共に、水戸家の用遠を勤めた河内屋と云ふものがあ る。真志屋の祖先が代々五郎兵衛と云ったと同じく、河内屋は代々半 兵衛と云った。真志屋の家説には、寛文の頃であつたかと云ってある が、当時の半兵衛に一人の美しい女が生れて、名を島と云った。畠は 後に父の出入屋敷なる水戸家へ女中に上ることになつた。 十九  河内屋は本郷森川宿に地所を持つてゐた。それを借りて住んでゐる 八百屋市左衛門にも、亦一人の美しい女があつて、名を七と云った。 七は島より年下であつたであらう。島が水戸家へ奉公に上る時、饒別 に手づから株紗を縫って贈つた。表は緋縮緬、裏は紅絹であつた。 島が小石川の御殿に上つてから間もなく、森川宿の八百屋が類焼し た。此火災のために市左衛門等は駒込の寺院に避難し、七は寺院に於 て一少年と相識になり、新築の家に帰つた後、彼少年に再会したさに 我家に放火し、其科に因つて天和三年三月二十八日に十六歳で刑せら れた。島は七の死を悼んで、七が遺物の微紗に祐天上人筆の名号を包 んで、大切にして持つてゐた。  後に寿阿弥は此株紗の一辺に、白羽二重の切を縫ひ附けて、それに 縁起を自書した。そしてそれを持つて山崎美成に見せに往つた。  此株紗は今浅井氏の所蔵になつてゐるのを、わたくしは見ることを 得た。微紗は燧袋形に縫った更紗縮緬の上被の中に入れてある。上被 には蓮華と仏像とを画き、裏面中央に「倣尊澄法親王筆」右辺に 「保午浴仏日呈寿阿上人蓮座」と題し、背面に心経の全文を写し、其 右に「天保五年甲午二月廿五日仏弟子竹谷依田瑳薫沐書」と記して ある。依田竹谷、名は襲、字は子長、盈科斎、三谷庵、又凌寒斎と号 した。文晁の門人である。此上被に画いた天保五年は竹谷が四十五歳 の時で、後九年にして此人は寿阿弥に先つて歿した。山崎美成が見た 時には、上被はまだ作られてゐなかつたのである。  上被から引き出して見れば、被紗は緋縮緬の表も、紅絹の裏も、皆 淡い黄色に擢めて、後に寿阿弥が縫ひ附けた白羽二重の古びたのと、 殆ど同色になつてゐる。寿阿弥の仮名文は海録に謹つて此に写さない。 末に「文政六年癸未四月真志屋五郎作新発意寿阿弥陀仏」と署して、 邦字の華押がしてある。  わたくしは更に此株紗に包んであつた六字の名号を披いて見た。中 央に「南無阿弥陀仏」、其両辺に「天下和順、日月清明」と四字づゝ に分けて書き、下に祐天と署し、華押がしてある。装演には葵の紋の ある錦が用ゐである。享保三年に八十三歳で、目黒村の草蕎に於て祐 天の寂したのは、畠の歿した享保十一年に先つこと僅に八年である。 名号は島が親しく祐天に受けたものであらう。  島の年齢は今知ることが出来ない。遺物の中に縫薄の振袖がある。 袖の一辺に「三誉妙清様小石川御屋形江御上り之節縫箔の撮袖、英頃 の小唄にたんだ撮れ〃六尺袖をと唄ひし物是也、享保十一年丙辰六 月七日死、生年不詳、家説を以て考ふれば寛文年間なるベし、裔孫西 村氏所蔵」と記してある。  島が若し寛文元年に生れたとすると、天和元年が二十一歳で、歿年 が六十六歳になり、寛文十二年に生れたとすると、天和元年が十歳で、 歿年が五十五歳になる。わたくしは毘が生れたのは寛文七年より前で、 その水戸家に上つたのは、延宝の末か天和の初であつたとしたい。さ うするとお七が十三四になってゐて、株紗を縫ふにふさばしいのであ る。いづれにしても当時の水戸家は義公時代である。  さていつの事であつたか詳でないが、義公の猶位にある間に、即 ち元禄三年以前に水戸家は義公の側女中になつてゐた島に暇を遣った。 そして清休の子廓清が妻にせいと内命した。島は清休の子婦、廓清の 妻になつて、一子東清を挙げた。若し島が下げられた時、義公の胤を 合してゐたとすると、東清は義公の庶子であらう。 二十  既にして清休は未だ世を去らぬに、主家に於ては義公光圀が致仕し、 粛公綱条が家を継いだ。頃くあつて藤井紋太夫の事があつた。隠居西 山公が能の中入に楽屋に於て紋太夫を斬つた時、清休は英場に居合せ た。真志屋の遺物写本西山道事の附録末二枚の欄外に、寿阿弥の手で 書入がしてある。「家説云、元禄七年十一月十三日、御能有之、公羽 衣のシテ被遊、御中入之節御楽屋に而、紋太夫を御手討に被遊候、 (中略)、御楽屋に有合人々八方へ敵乱せし内に、清休君一人公の御側 をさらず、御刀の拭、御手水一人にて相勤、拠申上けるは、私共愚昧 に而、かゝる奸悪之者共不存、入魂に立入仕侯段只今に相成重々奉 恐入候、思召次第如何様共御俗仰付可被下置段申上ける時、公笑は せ玉ひ、余が眼日をさへ眩ませし程のやつ、汝等が欺かれたるは尤も のことなり、少も咎中付る所存なし“しかし汝は椿別世話にもなり たる者なれば、汝が菩提所へなりとも、死骸葬り得さすべしと仰有之 候に付、則菩提所伝通院寺中昌林院へ埋め、今猶墳墓あれども、一 華を争向る者もなし、僅に番町辺の人一人正忌日にのみ参詣すと云ふ、 法名光含院孤峰心了居士といへり。」  説いて此に至れば、独所謂落胤問題と八百屋お七の事のみならず、 彼藤井紋太夫の事も亦清休、廓清の父子と子婦島との時代に当つてゐ るのがわかる。  清体は元禄十二年閏九月十日に歿した。次に其家を継いだのが五 代西村廓清信士で、問題の女島の夫、所謂落胤東清の表向の父である。 「御西山君様御代御側向御召抱右島之御方と被申候を妻に被下置、厚 き奉蒙御寛恩侯而、年々御米百俵宛三季に」頂戴したのは此人である。 此書上の文を翫味すれば、落胤問題の生じたのは、決して偶然でない。 次で「元文三年より御扶持方七人分被下置」と云ふことに改められた。 廓清は享保四年三月二十九日に歿した。島は遅れて享保十一年六月七 日に歿した。真志屋文書の過去帳に「五代廓清君室、六代東清君母儀、 三誉妙清信尼、俗名嶋」と記してある。当時水戸家は元禄十三年に西 山公が去り、享保三年に粛公綱条が去つて、成公宗莞の世になつてゐ た。  六代西村東清信士は過去帳一本に「幼名五郎作自義公拝領、十五 歳初御目見得、依願西村家相続被仰付、真志屋号拝領、高三百石被 下置、俳名春局」と詮してある。幼名拝領並に初御目見得から西村家 相続に至るには、年月が立つてゐたであらう。此人が即ち所謂落胤で ある。若し落胤だとすると、水戸家は光圀の庶児頼重の曾孫たる宗莞 の世となつてゐたのに、光圀の庶子東清は用達商人をしてゐたわけで ある。  過去帳一本の註に拠るに、五郎作の称が此時より始まつてゐる。初 代以来五郎兵衛と称してゐたのに、東清に至つて始めて五郎作と称し、 後に寿阿弥もこれを襲いだのである。又「俳名春局」と註してあるの を見れば、東清が俳講をしたことが知られる。  真志屋の毘号は、右の過去帳一本の言ふ所に従へば、東清が始て水 戸家から拝領したものである。真志屋の紋は、金沢蒼夫さんの言に従 へば、マの字に象つたもので、これも亦水戸家の賜ふ所であつたと云 ふ。  東清は宝暦二年十二月五日に歿した。水戸家は成公宗莞が享保十五 年に去つて、良公宗翰の世になつてゐた。 =士  真志屋の七代は西誉浄賀信士である。過去帳一本に「実は東国屋伊 兵衛弟、俳名東之」と註してある。東清の掲養子であらう。浄賀は安 永十年三月二十七日に歿した。水戸家は良公宗翰が明和二年に世を去 つて、文公治保の世になつてゐた。  八代は薫誉沖谷居士である。天明三年七月二十日に歿した。水戸家 は旧に依つて治保の世であつた。  九代は心誉一鉄信士である。此人の代に、「寛政五丑年より暫の間 三人半扶持御滅し当時三人半被下置」と云ふことになつた。一鉄の歿 年は二種の過去帳が記載を殊にしてゐる。文化三年十一月六日とした 本は手入の迹の少い本である。他の一本は此年月日を書してこれを抹 殺し、傍に寛政八年十一月六日と書してある。前者の歿年に先つこと 一年、文化二年に水戸家では武公治紀が家督相続をした。  十代は二種の過去帳に別人が載せてある。誓誉浄本居士としたのが 其一で、他の一本には此に浄誉了蓮信士が入れて、「十代五郎作、後 平兵衛」と註してある。浄本は文化十三年六月に叶沈日に歿した人、 了違は寛政八年七月六日に歿した人である。今邊に孰れを是なりとも 定め難いが、要するに九代十代の間に不明な処がある。浄本の歿した 年に、水戸家では哀公斉情が家督相続をした。  これよりして後の事は、手入の少い過去帳には全く載せて無い。二 れに反して他の一本には、寿阿弥の五郎作が了連の後を襲いで真志屋 の十一代目となつたものとしてある。寛政八年には寿阿弥は二十八歳 になつてゐた。  寿阿弥は本江間氏で、其家は遠江国浜名郡舞坂から出てゐる。父 は利右衛門、法諡頃誉浄岸居士である①過去帳の一本は此人を以て十 一代目五郎作としてゐるが、配偶其他卑属を載せてゐない。此人に妹 があり、姪があるとしても、此人と彼等とが血統上いかにして真志屋 の西村氏と連繁してゐるかば不明である。しかし此連繋は恐らくは此 人の尊属姻戚の上に存するのであらう。  寿阿弥の五郎作は文政五年に出家した。これは手入の少い過去帳の 空白に、後に加へた文と、過去帳一本の八日の下に記した文とを以つ て証することが出来る。前者には、「延誉寿阿弥、俗名五郎作、文政 五年壬午十月於浅草日輪寺出家」と記してあり、後者は「光誉寿阿弥 陀仏、十一代日五郎作、実江間利右衛門男、文政五年壬午十月於日輸 寺出家」と記してある。後者は八日の条に出てゐるから、落飾の目は 文政五年十月八日である。  わたくしは寿阿弥の手紙を読んで、寿阿弥は姪に菓子店を譲つて出 家したらしいと推測し、又師岡未亡人の言に拠つて、此姪を山崎葉で あらうと推測した。後に真志屋文書を見るに及んで、新に寿阿弥の姪 一人の名を発見した。此姪は分明に五郎兵衛と称して真志屋を継承し、 尋で蒜阿弥に先だつて歿したのである。  寿阿弥が自筆の西山道事の書後に、「姪真志屋五郎兵衛清常、蔵西 山道事一部、其書誤脱不為不多、今謹考数本、校訂以胎後生」と云 ひ、「文政五年秋八月、真志屋五郎作秋邦謹書」と署してある。此年 月は寿阿弥が剃髪する二月前である。これに由つて観れば、寿阿弥が 将に出家せむとして、戸主たる姪清常のために此文を作つたことは明 である。わたくしは少しく推測を加へて、此を以つて十一代の五郎作 即ち寿阿弥が十二代の五郎兵衛清常のために書いたものと見たい。  此清常は過去帳の一本に載せてあり、又寿阿弥の位牌の左辺に「戒 誉西村清常居士、文政十三年庚寅十二月十二日」と記してある。文政 十三年は即ち天保元年である。清常は蒋阿弥が出家した文政五年の後 八年、真志屋の火災に遇った文政十年の後三年、寿附弥が班堂に与ふ る書を作つた文政十一年の後二年にして致した。書中の所謂「愚姪」 が此清常であることは、殆ど疑を容れない。しかし此人と石の夫師岡 久次郎の兄事した山崎某とは別人で、山崎某は過去帳の一本に「清誉 涼風居士、文久元酉年七月二十四日、五郎作兄、行年四十五歳」と 記してあるのが即是であらう。果して然らば山崎は恐らくは鈴木と 師岡との実兄ではあるまい。所謂「五郎作兄」は年齢より撞すに、寿 阿弥の兄を謂ふのでないことは勿論であるが、未だ考へられない。  清常の歿するに先つこと一年、文政十二年に、水戸家は烈公斉昭の 世となつた。        二士一  清常より後の真志屋の歴史は愈模糊として来る。しかし大体を諭 ずれば真志屋は既に衰替の期に入つてゐると謂ふことが出来る。真志 屋は自ら支ふること能はざるがために、人の臨下に椅つた。初は「麹 町二本伝次方江同居」と云ふことになり、後「伝次不勝手に付金沢丹 後方江又侯同居」と云ふことになつた。  真志屋文書に文化以後の書留と覚しき一冊子があるが、惜むらくは その載する所の沙汰書、伺書、願書等には多く年月日が開けてゐる。  此等の文に拠るに、家道褒微の原因として、表向申し立ててあるの は火災である。「類焼後御菓子製所大被に相成」云々と云ってある。 此火災は寿阿弥の手紙にある「類焼」と同一で、文政十年の出来斑で あつたのだらう。  さて二本伝次の同居人であつた当時の真志屋五郎兵衛は、病に依つ て二本氏の族人をして家を嗣がしめたらしい。年月日を聞いた願書に、 「願之上親類麹町二本伝次方江同居仕御用向無滞相勤候処、当夏中 より中風相煩歩行相成兼其上甥鎌作儀病身に付(中略)右伝次方私従 弟定五郎と申者江跡式相続為仕度(中略)奉願候、尤従弟儀未班 年に御座侯に付右伝次儀後見仕」云々と云ってある。署名者は真志屋 五郎兵衛、二本伝次の二人である。此願は定て聞き届けられたであら ・フ。  しかし十二代清常と此定五郎との接続か不明である。中風になつた 五郎兵衛が二十歳モ殘した清常でないことは疑を容れない。已むこと なくば一説かある。同じ冊子の定五郎相続願の直前に、同じく年月目 を閤いた沙汰書か載せてある。これは五郎兵衛の病気のために、伯父 久衛門が相続することを聴許する文である。此五郎兵衛を清常とする ときは、十三代久衛門、十四代定五郎となるであらう。  次に同じ冊子に嘉永七寅霜月とした願書かあつて、これは真志屋が 既に二本氏から金沢氏に転寓した後の文である。真志屋五郎作が金沢 方にゐな成ら、五郎兵衛と改称したいと云ふので、五郎作の叔父永井 栄伯が連署してゐる。此願書か定五郎相続顕の直後に載せてあるのを 見れば、或は定五郎は相続後に一旦五郎作と称し、次で金沢氏に寓し て、五郎異衛と改めたのではなからうか。それは兎も角も、山崎久次 郎を以て児とする五郎作は、此文に見えてゐる五郎作即ち永井栄伯の 兄の子の五郎作ではなからうか。因に云ふ。寿阿弥を講じて源氏物語 を講ぜしめた永井栄伯は、真志屋の親戚であつたことが、此文に徴し て知られる。師岡氏未亡人の言に拠れば、わたくしが前に諸侯の抱医 か町医かと云った栄伯は、町医であつたのである。  わたくしの真志屋文書より獲た所の継承順序は、概ね此の如きに過 ぎない。今にして寿阿弥の手紙を顧ればその所謂「愚姪」は寿阿弥に 家人株を買って貰った鈴木、師岡、乃至山碕ではなくて、真志屋十二 代清常であつた。鈴木、師岡は伊沢の刀自や師岡未亡人の言の如く、 寿阿弥の妹の子であらう。山晴は稍疑はしい。案ずるに偶然師岡氏と 同称であつた山崎は、某代五郎作の実兄で、鈴木と師岡とは義兄とし てこれを遇してゐたのではなからうか。清常に至つては寿阿弥がこれ を謂って姪となす所以を審にすることが出来ない。       二圭  わたくしは師岡未亡人に、寿阿弥の妹の子が二人共蒔絵をしたこと を聞いた。しかし先づ鴨絵を挙んだのは児鈴木で、師岡は鈴木の傍氾 あつてその為す所に傲つたのださうである。  わたくしは又伊沢の刀自に、其父榛軒が寿阿弥の姪をして櫛に蒔絵 せしめたことを聞いた。此蒔絵師の号はすゐさいであつたさうである。  餉岡未亡人はすゐさいの名を識らない。夫師岡が此号を用ゐたなら、 識らぬ筈が無い、そこでわたくしは蒔絵師すゐさいは鈴木であらうと 推測した。  此推測は当つたらしい。浅井平八郎さんは真志屋の遺物の中から、 写本二種を選り出して持つて来た。英一は蒔絵の図案を集めたもので、 西郭、渓雲、北可、玉燕女等と署した画が貼り込んである。表紙の表 には「画本」と題し、裏には通二丁目山本と書して塗抹し、「寿哉所 蔵」と書してある。其二は浮世絵師の名を年代順に列記し、これに略 伝を附したもので、末に狩野家数世の印譜を写して添へてある。表紙 の表には「古今先生記」と題し、裏には「一昂水四辛亥養」と書し、其 下に「鈴木寿哉」の印がある。伊沢榛軒のために櫛に蒔絵したのが、 此鈴木寿哉であつたことは、殆ど疑を容れない。寿哉は或はしうさい などと訓ませてゐたので、すゐさいと聞き錯られたかも知れない。  初めわたくしは寿阿弥の墓を討めに昌林院へ往つた。そして昌林院 の住職に由つて師岡氏未亡人を知り、未亡人に由つて真志屋文書を見 るたつきを得た。然るにわたくしは曾て昌林院に至ゆし日雨に阻げら れて墓に詣でなかつた。わたくしは平八郎さんが来た時、これに告ぐ るに往訪に意あることを以てした。其時平八郎さんはわたくしに意外 な事を語った。それはかうである、近頃昌林院は墓地を整理するに当 つて、墓石の一都を伝通院内に移し、爾余のものは別に処分した。そ して寿阿弥の墓は伝通院に移された墓石中には無かつた。師岡氏未亡 人は忌日に参詣して、寿阿弥の墓の失践を悲み、寺僧に其所在を問う て已まなかつた。寺僧は資を損てて新に寿阿弥の石を立てた。今伝通 院にあるものが即是である。未亡人石は毎に云ってゐる。「原の寿阿 弥のお墓は硯のやうな、締麗な石であつたのに、今のお裏はなんと蚤 ふ見書しい石だちう。」.  わたくしは嚢に寺僧の言を聞いた時、寿阿弥が幸にして盛世碑砥の 厄を免れたことを喜んだ。然るに当時寺僧は実を以てわたくしに告げ なかつたのである。寿阿弥の墓は香華未だ絶えざるに厄に罹つて、後 僅に不完全なる代償を得たのである。  大凡改葬の名の下に墓石を処分するは、今の寺院の常習である。そ して警察は措いてこれを問はない。明治以降所謂改葬を経て、瞭迹の 尋ぬべからざるに至つた墓砥は、その幾何なるを知らない。此厄は世 世の貴人大官碩学鴻儒乃至諸芸術の聞人と雖免れぬのである。  此間寺僧にして能く過を悔いて、一旦処分した墓を再建したものは、 恐らくは唯昌林院主一人あるのみであらう。そして院主をして肯て財 を投じて此稀有の功徳を成さしめたのは、実に節岡氏未亡人石が梱誠 の致す所である。 二茜  真志屋の西村氏は古くから昌林院を菩提所にしてゐた。然るに中。こ ろ婚嫁のために江間氏と長島氏との血が交ったらしい。江間、長島の 両家は浅草山谷の光照院を菩提所にしてゐたのである。  わたくしは真志屋文書に二種の過去帳のあることを言った。余り手 入のしてない原本と、手入のしてある他の一本とである。其手入は江 間氏の人々の作した手入である。姑く前者を原本と名づけ、後者を別 本と名づけることにする。  原本は昌林院に葬つた人々のみを載せてゐる。初代日水から九代一 鉄まで皆然りである。そして此本には十代を浄本としてゐる。  別本は浄本を歴代の中から除き去つて、代ふるに了蓮を以てしてゐ る。これは光照院に葬られた人で、恐らくは江間氏であらう。次が十 一代寿阿弥曇窟で、此人が始て江間氏から出て遺該を昌林院に埋めた。  長島氏の事蹟は頗る明でないが、わたくしは長島氏が江間氏と近密 なる関係を有するものと推測する。過去帳.別本に「貞誉誠範居士、 葬于光照院、長島五郎兵衛、口代五郎兵衛実父、ロロロ月」として 「二十日」の下に記してある。四字は紙質が湿気のために変じて読む べからざるに至つてゐる。然るにこれに参照すべき戒名が今一つある、 それは「覚誉泰了居士、明和六年己丑七月、遠州舞坂人、江間小兵衛 三男、俗名利右衛門、九代目五郎作実祖父、葬于浅草光照院」と、 「四日」の下に記してある泰了である。  試みに誠範の所の何代を九代とすると、江間小兵衛の三男が利右衛 門泰了、泰了の子が長島五郎兵衛誠範、誠範の子が真志屋九代の五郎 作、後五郎兵衛一鉄と云ふことになる。別本一鉄の下には五郎兵衛と してあつて、泰了の下に九代目五郎作としてあるから、初五郎作、後 五郎兵衛となつたものと見るのである。  更に推測の歩を進めて、江間氏は世利右衛門と称してゐて、明和六 年に歿した利右衛門泰了の嫡子が寛政四年に歿した利右衛門浄岸で、 浄津の弟が長島五郎兵衛誠範であつたとする。さうすると浄岸の子寿 阿弥と誠範の手一鉄とは従兄弟になる。わたくしは此推測を以て甚だ しく想像を牽にしたものだとは信ぜない。  わたくしはこれだけの事を考へて、二重の過去帳を、他の真志屋文 書に併せて平八郎さんに還した。  わたくしは昌林院の寿阿弥の墓が新に建てられたものだと聞いたの で、これを訪ふ念が稍薄らいだ。これに反して光照院の江間、長島両 家の墓所は、わたくしに新に何物をか教へてくれさうに思はれたので止 わたくしは大いにこれに属望した。わたくしは山谷の光照院に往つた  浅草聖天町の停留場で電車を下りて吉野町を北へ行くと、有側に 石柱鉄扉の門があつて、光照院と書いた陶製の標札が懸けてある。墓 地は門を入つて右手、本堂の南にある。       二童  光照院の墓地の東南隅に、殆ど正方形を成した扁石の墓があつて、 それに十四人の戒名が一列に彫り付けてある。其中三人だけば後に追 加したものである。追加三人の最も右に居るのが真忠屋十一代の寿阿 弥、次が十二代の「戒誉西村清常居士、文政十三年庚寅十二月十二 日」、次が「証誉西村清郷居士、天保九年戊戌七月五日」である。寿 阿弥は西村氏の菩提所昌林院に葬られたが、親戚が其名を生家の江間 氏の菩提所に留めむがために、此墓に彫り添へさせたものであらう。 清常、清郷は過去帳原本の載せざる所で、独別本にのみ見えてゐる。 残余十一人の古い戒名は皆別本にのみ出てゐる名である。清郷の何人 たるかば考へられぬが、清常の近親らしく推せられる。  古い戒名の江間氏親戚十一人の関係は、過去帳別本に徴するに頗る 複雑で、容易には明め難い。唯二三の注意に値する件々を左に記して 遺忘に備へて置く。  十一人中に「法誉畑性大姉、寛政十年戊午八月二日」と云ふ人があ る。十代の実祖母としてあるから、了蓮の祖母であらう。此知性の父 は「玄誉幽本居士、宝暦九年已卯三月十六日」、母は「深誉幽妙大姉、 宝暦五年乙亥十一月五日」としてある。更にこれより湖つて、「月窓 妙珊大姉、寛保元年辛酉十月二十四日」がある。これは知性の祖とし てあるから、祖母ではなからうか。以上を知性系の人物とする。然る に幽本、幽妙の子、了連の父母は考へることが出来ない。  十一人中に又「貞替誠範居士、文政五年壬午五月二十日」と云ふ人 がある。即ち過去帳別本に読むべからざる記註を見る戒名である。わ たくしは其「何代五郎兵衛実父」を「九代」と読まむと欲した。残余 の闕文は月字の上の三字で、わたくしは今これを読んで「同年五月」 となさむと欲する。何故と云ふに、別本には誠範の右に「連誉定生大 姉、文政五年壬午八月」があつたから、此の如くに読むときは、此彫 文と符するからである。果して誠範を九代一鉄の父長島五郎兵衛だと すると、此名の左隣にある別本の所謂九代の祖父「覚誉泰了居士、明 和六年己丑七月四日」は、誠範の父であらう。又此列の最右翼に居る 「範曼道規庵主、元文三年戊午八月八日」は、別本に泰了縁家の祖と 誼してあるから、此系の最も古い人に当り、又此列の最左翼に居る寿 阿弥の父「頃誉浄岸居壬、寛政四年壬子八月九日」は、泰了と利右衛 門の称を同じうしてゐるから、泰了の子かと推せられる。以上を誠範 系の人物とする。江間氏と長島氏との連繋は、此誠範系の上に存する のである。  此大墓石と共に南面して、其西隣に小墓石がある。台石に畏毘氏と 彫り、上に四人の法諡が並記してある。二人は女子、二人は小児であ る。「馨誉慧光大姉、文政六年癸未十月二十七日」は別本に十二、代五 郎兵衛姉、実は叔母と註してある。「誠月妙貞大姉、安政三年丙辰七 月十二日」は別本に五郎作母、六十四歳と註してある。小児は勇雪、 了智の二童子で、了智は別本に十二代五郎兵衛実弟と註してある。要 するに此四人は皆十二代清常の近親らしいから、所謂五郎作母も清常 の初称五郎作の母と解すべきであるかも知れない。別本には猶、次に 記すべき墓に彫つてある連誉完生大姉の下に、十二代五郎兵衛養母と 註してある。清常には母かと覚しき妙貞があり、叔母憲光があつて、 それが西村氏に養はれてから定生を養母とし、叔母慧光を姉とするに 至つた。以上を清常系の人物として、これに別本に見えてゐる慧光の 実母を加へなくてはならない。即ち深川霊岸寺開山堂に葬られたと云 ふ「華開生悟信女、享和二年壬戌十二月六日」が其人である しか し清常の父の誰なるかば遂に考へることが串来ない。        二美  次に遠く西に離れて、茱萸の木の蔭に稍新しい墓石があつて、これ も台石に長島氏と彫つてある。墓表には男女二人の戒名が列記してあ る。男女の戒名は、「浄誉了蓮居士、寛政八辰天七月初七日」と「運 誉定生大姉、文政五午天八月二十日」とで、其中間に後に「遠誉清久 居士、明治三十九年十二月十三日」の一行か彫り添へてある。了蓮は 過去帳別本の十代五郎作、定生は同本の十二代五郎兵衛養母、清久は 師岡久次郎即ち高野氏石の亡夫である。  定生には父母があつて過去帳別本に見えてゐる。父は「本住院活法 日観信士、天明四年甲辰十二月十七日」、母は「霊照院妙憲日曜信女、 文化十二年乙亥正月十三日」で、並に橋場長照寺に葬られた。日観の 俗名は別本に小林弥右衛門と註してある。然るに了運の祖母知性の母 幽妙の下にも、別本に小林弥右衛門妻の註がある。此二箇所に見えて ゐる小林弥右衛門は同人であらうか、又は父子襲名であらうか。又定 生の外祖母と称するものも別本に見えてゐる。「貞円妙達比丘尼、天 明七年丁未八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるもの が即是である。  了蓮と定生との関係、清久の名を其間に風へた理由は、過去帳別本 の記載に由つて明にすることが出来ない。師岡氏未亡人は或はわたく しに教へてくれるであらうか。  わたくしが光照院の墓の文字を読んでゐるうちに、日は漸く暮れむ とした。わたくしのために香華を墓に供へた姻は、「竣燭を点してま ゐりませうか」と云った。「なに、もう済んだから好い」と云って、 わたくしは光照院を辞した。しかし江間、長島の親戚関係は、到底墓 表と過去張とに籍つて、明め得べきものでは無かつた。寿阿弥の母、 寿阿弥の妹、寿阿弥の妹の夫の誰たるを審にするに至らなかつたの は、わたくしの最も遺憾とする所である。  わたくしは新石町の菓子商真志屋が文政の末から衰運に向って、一 たび二本伝次に寄り、又転じて金沢丹後に寄って僅に自ら支へたこと を記した。真志屋は衰へて二本に寄り、二本が真志屋と倶に衰へて又 金沢に寄ったと云ふ此金沢は、そも〃どう云ふ家であらう。  わたくしが此「寿阿弥の手紙」を新聞に公にするのを見て、或日金 沢蒼夫と云ふ人がわたくしに音信を通じた。わたくしは蒼夫さんを白 金台町の家に訪うて交を結んだ。蒼夫さんは最後の金沢丹後で、祖父 明了軒以来西村氏の後を承け、真志屋五郎兵衛の名義を以て水戸家に 菓子を調進した人である。  初めわたくしは澀江抽斎伝中の寿阿弥の事蹟を補ふに、其尺頗一則 を以てしようとした。然るに料らずも物語は物語を生んで、断えむと 欲しては又続き、此に金沢氏に説き及ばさざることを得ざるに至つた。 わたくしは此最後の丹後、真志屋の鑑札を侃びて維新前まで水戸邸の 門を潜つた最後の丹後をまのあたり見て、これを絨點に附するに忍び ぬからである。        二圭  真志屋と云ふ難被船が最後に漕ぎ寄せた港は金沢丹後方である。当 時真志屋が金沢氏に寄った表向の形式は「同居」で、其同居人は初め 五郎作と称し、後嘉永七年即安政元年に至つて五郎兵衛と改めたこと が、真志屋文書に徴して知られる。文書の収むる所は改称の願書で、 其願が聴許せられたか否かば不明であるが、此の如き願が拒止せらる べきではなさきうである。  しかし此五郎作の五郎兵衛は必ずしも実に金沢氏の家に居ったとは 見られない。現に金沢蒼夫さんは此の如き寓公の居つたことを聞き伝 へてゐない。さうして見れば、単に寄寓したるものの如くに粧ひ成し て、公辺を取り繕ったのであつたかも知れない。  蒼夫さんの知つてゐる所を以てすれば、金沢氏が真志屋の遺菜を継 承したのは、蒼夫の祖父明了軒の代の事である。これより以後、金沢 氏は江戸城に菓子を調進するためには金沢丹後の名を以て鑑札を受け、 水戸邸に調進するためには真志屋五郎兵衛の名を以て鑑札を受けた。 金沢氏の年々受け得た所の二様の鑑札は、蒼夫さんの家の霞に満ちて ゐる。鑑札は白木の札に墨書して、烙印を押したものである。札は孔 を穿ち緒を貫き、覆ふに革袋を以てしてある。革袋は黒の漆塗で、そ の水戸家から受けたものには、真志の二字が朱書してある。  想ふに授受が真志屋と金沢氏との間に行はれた初には、縦や実に寓 公たらぬまでも、真志屋の名前人が立てられてゐたが、後に至つては 特にこれを立つることを須ゐなかつたのではなからうか。兎に角金沢 氏の代々の当主は、徳川将軍家に対しては金沢丹後たり、水戸宰相家 に対しては真志屋五郎兵衛たることを得たのである。「まあ株を買っ たやうなものだつたのでせう」と蒼夫さんは云ふ。今の語を以て青へ ぱ、此授受の形式は遂に「併合」に帰したのである。  真志屋の末裔が二本に寄り、金沢に寄ったのは、啻に同業の好かあ つたのみではなかつたらしい。二本は真志屋文書に「親類麹町二本伝 次方」と云ってある。又真志屋の相続人たるべき定五郎は「右伝次方 私従弟定五郎」と云ってある。皆真志屋五郎兵衛が此の如くに謂った のである。金沢氏は果して真志屋の親戚であつたか否か不明であるが 試に系譜を検するに、皇早中に歿した初代相安院清頓の下に、「長島 検校」に嫁した女子がある。此塙は或は真志屋の一族長島氏の人であ つたのではなからうか。  金沢氏は本増田氏であつた。豊臣時代に大和国郡山の城主であつた 増田長盛の支族で、曾て加賀国金沢に住したために、商家となるに及 んで金沢屋と号し、後単に金沢と云ったのださうである。系譜の載す る所の始祖は又兵衛と称した。相摸国三浦郡置名村に生れ、江戸に入 つて品川町に居り、魚を鷺ぐを業とした。蒼夫さんの所有の過去帳に 「桐安院浄誉清頓信士、貞享五年五月二十五日」と記してある。 皐八  増田氏の二代三右衛門は、享保四年五月九日に五十八歳で歿した。 法諡実相院頃誉浄円居士である。此人が菓子商の株を買った。  三代も亦同じく三右衛門と称し、享保八年七月二十八日に三十七歳 で歿した。法諡寂苑院浄誉玄清居士である。四代三右衛門の覚了院 性誉一鎚自聞居士は、明和六年四月二十四日に四十六歳で歿した。五 代三右衛門の自適斎真誉東里威性居士は、天保六年十月五日に八十四 歳で歿した。此人は増田氏累世中で、最も学殖あり最も文事ある人で あつた。所謂田威、字は伯孚、別号は東里である。詩を善〃し書を善 くして、一時の名流に交った。文政四年に七十の賀をした時、養拙斎 高岡秀成、字は実甫と云ふものが寿序を作つて贈つた。二本伝次の妻 は東里が長女の第八女であつた。真志屋が少くも此家と間接に親戚た ることは、此一条のみを以てしても証するに足るのである。六代三右 衛門はわたくしの閲した系譜に載せて無い、増田氏は世駒込願行寺を 菩提所としてゐるのに、独り此人は谷中長運寺に葬られたさうである。 七代三右衛門は天保十一年十月二日に四十四歳で歿し、宝龍院乗誉依 心連戒居士と法諡せられた。  按ずるに此頃に至るまでは、金沢三右衛門は丹後と称せずして越後 と称したのではなからうか。文化の宋に金沢瀬兵衛と云ふものが長崎 奉行を勤めてゐたが、此人は叙爵の時越後守となるべきを、菓子商の 称を避けて百官名を受け、大蔵少輔にせられたと、大郷信斎の遺聴塗 説に見えてゐる。或はおもふに遺聴塗説の越後は丹後の誤か。  八代は通称金蔵で、天保三年七月十六日に六十一歳で椴した。法諡 梅翁日実居士である。九代は又三右衛門と称し、後に三輔と改めた。 隷紙卦蹴支配玉屋市左衛門の子である。明治十年十一月十一日に六十 四歳で歿し、明了軒唯誉深広連海居士と法諡せられた。十代三右衛門、 後の称三左衛門は明治二十年二月二十六日に歿し、栄寿軒梵誉利貞至 道居士と法諡せられた。此栄寿軒の後を襲いだ十一代注箔獺椚が今の 蒼夫さんで、大正五年に七十一歳になつてゐる。その丹後壕と称した のは前代の勅賜に本づく。  天保元年に真志屋十二代の五郎兵衛清常が歿した時、増田氏の金沢 には七十九歳の自適斎東里、五十九歳の梅翁、三十四歳の宝龍院依心、 十七歳の明了軒深広、十歳の栄寿軒利貞が並存してゐた筈である。嘉 永七年に最後の真志屋名前人五郎作が五郎右衛門と改称した時に至る と、明了軒が四十一歳、栄寿軒が三十四歳、弘化二年生の蒼夫さんが 九歳になつてゐた筈である。  わたくしは前に、真志屋最後の名前人五郎作改め五郎兵衛は定五郎 ではなからうかと云った。それは定五郎が真志屋文書に載する所の最 後の家督相続者らしく見えるからであつた。しかし更に考ふるに、此 定五郎は幾くならずして廃められ、天保弘化の間に明了軒がこれに代 つてゐて、所謂五郎作改五郎兵衛は明了軒自湯ぽあつたかも知れない。  真志屋の自立してゐた間の菓子店は、既に展云ったやうに新石町、 金沢の店は本石町二丁目西角であつた 早九  わたくしは駒込願行寺に増田氏の墓を訪うた。第二畳等学校寄宿舎 の西、巷に面した石垣の新に築かれてゐるのが此寺である。露次を曲 つて南向の門を入ると、左に大いなる鋳鉄の井欄を見る。井欄の前面 に掌大の凸字を以て金沢生記してある。恐らくは増田氏の盛時のかた みであらう。  墓は門を入つて右に折れて往く螢域にある。上に仏像を安置した墓 の隣に、屋董形のある石が二基並んで、南に面して立つてゐる。台石 には金沢屋と彫り、墓には正面から向って左の面に及んで、許多の戒 名が列記してある。読んで行く間に、明了軒の諡が系譜には運海と書 してあつたのに、此には違海に作つてあるのに気が付いた。金石文字 は人の意を用ゐるものだから、或は系譜の方が誤ではなからうか。  拝し畢つて帰る時、わたくしは曾て面を識つてゐる女子に逢った。 恐くは願行寺の住職の妻であらう。此女子は曇の日わたくしに細木香 以の墓ををしへてくれた人である。 「けふは金沢の墓へまゐりました。先日金沢の老人に逢って、先祖の 墓がこちらにあるのを聞いたものですから。」とわたくしは云った。 「さやうですか。あれはこちらの古い檀家だと承はつてゐます。昔の 御商売は何でございましたでせう。」 「菓子屋でした。徳川家の菓子の御用を勤めたものです。維新前の菓 子屋の番附には金沢丹後が東の大関になつてゐて、風月堂なんぞは西 の幕の内の末の方に出てゐます。本郷の菓子屋では、岡野栄泉だの、 藤村だの、船橋屋織江だのが載つてゐますが、皆幕外です。なんでも 金沢は碍箪家や大名ぱかりを得意先にしてゐたものだから、維新の時 に得意先と一しよに滅びたのださうです、今の老人の細蒼は木場の万 和の女です。里親の万墜和助なんぞも、維新前の金持の番附には幕の 内に這入つてゐました。」  わたくしはこんな話をして女子に別を告げた。美しい怜悧らしい言 語の明断な女子である。  増田氏歴代の中で一人谷中長運寺に葬られたものがあると、わたく しは蒼夫さんに聞いた。家に帰つてから、手近い書に就いて谷中の寺 を検したが、長運寺の名は容易く見附けられなかつた。そこでわたく しは錨り聞いたかも知れぬと思った。後に武田信賢著墓所集覧で谷中 長運寺を輸出して往訪したが、増田氏の墓は無かつた。寺は渡辺治右 衛門別荘の辺から一乗寺の辻へ抜ける狭い町の中程にある。  蒼夫さんはわたくしの家を訪ふ約東をしてゐるから、若し再会した ら重ねて長運寺の事をも問ひ質して見よう。 早  諸書の載する所の寿阿弥の伝には、西村、江間、長毘の三つの氏を 列挙して、曾て其交亙の関係に説き及ぼしたものが無かつた。わたく しは今浅井平八郎さんの蘭し来つた真志屋文書に拠つて、記載のもつ れを解きほぐし、明め得らるゝだけの事を明めようと努めた。次で金 沢蒼夫さんを訪うて、系譜を閲し談話を聴き、寿阿弥去後の真志屋の なりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの糸を断ち裁つた縫新の 期に遣んだ。わたくしの言はむと欲する所のものは略此に尽きた。  然るに浅井、金沢両家の遺物文書の中には、検閲の際にわたくしの 目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することとする。  浅井氏のわたくしに示したものの中には、寿阿弥の筆跡と称すべき ものが少かつた。秋紗に記した縁起、西山道事の書後並に欄外書等は 自筆とは云ひながら太だ意を用ゐずして写した細字に過ぎない。これ に反してわたくしは遺物中に、小形の短冊二葉を糸で綴ぢ合せたもの のあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あ すはみむ八十のちまたの門の松」と書し、下に一の寿字が署してある 今一葉には「八十になりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見 る八十のちまたの門の松」と書し、下に「寿松」と署してある。  此二句は書佑活東子が戯作者小伝に載せてゐるものと同じである。 小伝には猶「月こよひ枕団子をのがれけり」と云ふ句もある。活東子 は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、 月今宵責々と書いて孫に遣りけるとぞ」と看つてゐる。  寿阿弥は由華水元年八月二十九日に八十歳で歿した㎞ら、歳暮の句は 弘化四年十二月晦日の作、歳旦の句は嘉永元年正月朔の作である。 後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も 同じ年の中秋に成つて、後十四日にして病革なるに至つたのではな からうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣ったと云ってゐるが、 寿阿弥には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別る ることの」云々と云ふ狂歌が、寿阿弥の辞世として伝へられてゐるが、 わたくしは取らない。  月今宵は少くも濯脱の趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反 して極て平凡である。しかし万葉の百足らず八十のちまたを使ってゐ るのが、寿阿弥の寿阿弥たる所であらう。  短冊の手迹を見るに、寿阿弥は能書であつた。字に媚撫の態があつ て、老人の書らしくは見えない。蒜の一字を署したのは寿阿弥の省略 であらう。寿松の号は他に所見が無い。 三士  連歌師としての寿阿弥は里村昌逸の門人であつたかと思はれる。わ たくしは真志屋の遺物中にある連歌の方式を書いた無題号の写本一冊 と、弘化嘉永間の某年正月十一日柳営之御会と題した連歌の巻数冊と を見た。無題号の写本は表紙に「如是縁庵」と書し、「寿阿弥陀仏印」 の朱記がある。巻尾には「享保八年癸卯七月七日於京都、里村昌億翁 以本書、乾正豪写之」と云ふ奥書かあつて、其次の余白に、「先師次 第」と題した略系と「玄川先祖より次第」と題した略系とが書き添へ てある。運歌の巻々には左大臣として徳川家慶の句が入つてゐる。そ して嘉永元年前のものには必ず寿阿弥が名を列して居る。  先師次第にはかう記してある。「宗砥、宗長、宗牧、里村元祖昌休、 紹巴、里村二代昌叱、三代昌琢、四代姑程、弟祖白、五代昌陸、六代 昌億、七代昌適、八代凸桂、九代昌逸、十代昌同」である。玄川先祖 より次第にはかう記してある。「法眼紹巴、同玄仍、同玄陳、同玄俊、 玄心、紹ヂ、玄立、玄立、法橋玄川寛政六年六月二十日法橋」である。  二種の略系は里村両家の承続次第を示したものである。宗家墨叱の 裔は世京都に住み、分家玄仍の裔は世江戸石原に住んでゐた。しかし 後には両家共京住ひになつたらしい。  わたくしは此略系を以て寿阿弥の書いたものとして、宗家の次第に 先師と書したことに注日する。里村宗家は恐くは寿阿弥の師家であつ たのだらう。然るに十代呂同は寿阿弥の同僚で、連歌の巻々に名を列 してゐる。其「先師」は一代を湖つて故人昌逸とすべきであらう。昌 逸昌同共に「百石二十人扶持京住居」と武鑑に詮してある。  寿阿弥の連歌師としての同僚中、坂昌功は寿阿弥と親しかつたらし い。真志屋の遺物中に、「寿阿弥の手向に」と端書して一句を書し、 下に「昌功」と署した短冊がある。坂昌功は初め浅草黒船町河岸に住 し、後根痒に遷つた。句は秋季である。しかし録するに足らない。川 上宗寿が連歌を以て寿阿弥に交ったことは、葛堂に遣った手紙に見え てゐた。  真志屋の扶持は初め河内屋畠が此家に嫁した時、米百俵づゝ三季に 渡され、次で元文三年に七人扶持に改められ、九代一鉄の時寛政五年 に暫くの内三人半扶持を滅して三人半扶持にせられたことは既に記し た。真志屋文書中の「文化八年未正月御扶持渡通帳」に拠るに、此 後文化五年戊辰に「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持被下置」 と云ふことになつた。これは十代若くは十一代の時の事である。莫志 屋文書はこれより後の記載を闕いてゐる。然るに金沢蒼夫さんの所蔵 の文書に拠れば、天保七年丙中に又二人扶持借上暫くの内一人扶持 被下置」と云ふことになり、終に初の七人扶持が一人扶持となつたの である。しかし此一人扶持は、明治元年藩政改革の時に至るまで引き 続いて 水戸家が真志屋の後継者たる金沢氏に給してゐたさうである 呈士一  西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衛が、西村氏の真志屋五郎兵衛と 共に、世水戸家の用達であつたことは、夙く海録の記する所である。 しかしわたくしは真志屋の菓子商たるを知つて、河内屋の何商たるを 知らなかつた。そのこれを知つたのは、金沢蒼夫さんを訪うた日の事 である。  わたくしは蒼夫さんの家に於て一の文書を見た。其中に「河内屋半 兵衛、元和中より窮粉類御用相勤」云々の文があつた。河内屋は粉商 であつた。島は粉屋の娘であつた。わたくしの新に得た知識は啻にそ れのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞い てゐたが、いつからと云ふことを知らなかつた。その元和以還の用達 たることは此文に徴して知られたのである。慶長中に水戸頼房人国の 供をしたと云ふ真志屋の祖先に較ぶれば少しく遅れてゐるが、河内屋 も亦早く元和中に威公頼房の用達となつてゐたのである。  金沢氏六代の増田東里には、弊帝集と題する詩文稿があることを、 蒼夫さんに聞いた。わたくしは卒に聞いて弊帝の名の昇に熱してゐる のを怪んだ。後に想へば、水戸の粟山潜鋒に弊帝集六巻があつて火災 に罹り、弟敦恒が其嬢余を拾って二巻を為した。載せて苛雨亭叢書の 中にある。東里の集は偶これと名を同じうしてゐたのであつた。  わたくしの言はむと欲した所は是だけである。只最後に附記して置 きたいのは、師岡未亡人石と東条琴台の家との関係である。  初め高野氏石に一人の姉があつて、名をさくと云った。さくは東条 琴台の子信升に嫁して、名をふぢと改めた。ふぢの生んだ信升の子は 天し、其女が現存してゐるさうである。  浅井平八郎さんの話に拠るに、石は嘗て此縁故あるがために、東条 氏の文書を託せられてゐた。文書は石が東条氏の親戚たる下田歌子さ んに交付したさうである。 ■  わたくしは琴台の事蹟を詳にしない。聞く所に拠れば、琴台は信 濃の人で、名は耕、字は子威、小字は義蔵である。寛政七年六月七日 芝宇田川町に生れ、明治十一年九月二十七日に八十四歳で歿した。文 政七年林氏の門人籍に列し、昌平黌に講説し、十年榊原遠江守政 令に璃せられ、天保三年故あつて林氏の籍を除かれ、弘化四年榊原氏 の臣となり、嘉永三年伊豆七島全図を著して幕府の謹貴を受け、榊原 氏の藩邸に幽せられ、四年講せられて越後国高田に往き、戊辰の年に は尚高田幸橋町に居つた。明治五年八月に七十八歳で向島亀戸神社 の祠官となり、眼疾のために殆ど失明して終つたと云ふことである。 先哲叢談続編に「先生後獲罪、謂在越乏高田、(中略)無幾王 室中興、先生嘗得列官于朝しと書してある。琴台の子信升 の名は、平八郎さんに由つて始て聞いたのである。                     (大正五年五、六月)