維新侠艶録  井筒月翁著 勤王芸者中西君尾の話 伊藤俊介の英国密航 俗論派と正論派の正面衝突 高杉晋作と祇園芸者おりか 都々逸作者、久坂玄瑞 中川宮の御活躍 長藩堺町御門を追われる 雨の中に七卿都落ち 玄瑞から愛人お辰へ 長州の志士潜入 古高俊太郎捕わる 池田屋事変 即死七名、生捕二十三名 物情騒然たる京の内外 男を上げた品川弥二郎 箱屋に化けた桂小五郎 歌右衛門が賞めた京美人 押入れへ隠れた桐野利秋 君尾の意地ずくに惚れた近藤 君尾の女隠密 島田左近の暗殺 暗殺に次ぐにまた暗殺 舞妓君香の養父文吉 長野主膳の妾加寿江 多田帯刀を斬る 石部宿の与力斬り 絵師冷泉為恭 恋の西郷隆盛 奇兵隊馬関の遊興 山県狂介と津山太夫 高杉晋作とおその 生麦事件の飛ばっちり 伊藤大隈の鞘当て 右団次とお六狂乱 神戸奈良屋の三人娘 業平朝臣の御気取 神風連騒動 薄命児前原一誠 大阪富田屋のお雄 田中光顕さん 内海忠勝と職人の娘 岩崎弥太郎の恋 噛み切った記念の夜具 生疵の井上聞多 富田屋の大活劇 井上、お雄、誓いの一言 井上の面上、お雄の青疾 伊藤、房鶴、珍な道行 築地梁山泊の豪傑 シナ人奴隷事件 一週間正に預り申し候 副島種臣の銭湯通い 横浜の富貴楼お倉 銀座の役人本田の妾 名付親は天下の糸平 陸奥宗光の端唄 臨時列車の追手 天下の糸平の豪遊ぶり 岩崎、お倉に縄る 岩崎、政府の隠密を籠絡 伊藤と大隈会見の橋渡し 品川楼の嘉志久 清河八郎の妾 序 「男」のための維新史は多い。「女」のための維新史ありや。 今は昔、二十年も前、京洛鴨東に中西君尾と会し、浪華南地に富田屋お雄と語る。 いずれも談屑維新の渦中を出でず、順序もなくノートせるもの、この冊子の骨となる。  史実としてみるには無論不充分であろう。しかし一夕の感興としてのみ聞き捨つる にはあまりに惜しい。トコトンヤレ時代の名妓が舌頭に弄する維新前後の達引、果た して史家はこの記述をうべなうや否や、色即是空、空即是色 「女」のための維新史  気組みは大きいか内容は果たして如何。  萬里閣書房に話して版木に載せ江湖に問うこと然り。    昭和戊辰冬日                                月翁      一 勤王芸者中西君尾の話  京都の祇園新地に中西|君尾《きみお》をたずねると、いつも長火鉢のそばでお茶をのみながら ゆっくりゆっくり京なまりで話してくれた。中風が起りかかったころであった。維新 当時の活きた歴史ともいうべき、この老妓の口から、「西郷はん」とか、「木戸はん」 とか呼ばれるのをきくと異様の感じがしたものである。  君尾は十七歳の春、祇園の島村屋という置屋から芸者になって出た。島村屋という のは、そのころ名代の置屋で、君尾は美しくもあったし、たちまち祇園での売れっ妓《こ》 となった。  君尾が、「勤王芸者」と呼ばれるようになったのは、井上|聞多《もんた》(侯爵井上|馨《かおる》)に関 係してからである。  そのころ長州の高杉|晋作《しんさく》(吉田松陰門下の傑物)などは、縄手《なわて》大和橋北入東側の魚 品《うおしな》という貸座敷で遊んでいた。ここは長州藩の侍がひいきにしていた家である。伊藤 俊介(公爵伊藤博文)などは高杉からみると後輩で、高杉が遊んでいるのをぽんやり 玄関で待っていたほどであったと君尾はいっていた。  この時代には芸者にも勤王党と佐幕党とがあって、芸者同士が反目していた。君尾 は高杉晋作の取りもちで井上聞多と関係したのであった。 二 伊藤俊介の英国密航  ある日のことである。伊藤俊介が三条の橋の上を通っていると同藩の野村弥吉に逢 った。内談があるというので四条のある料理屋にゆくと井上聞多、山尾庸三、遠藤謹 介、井上勝などがいる。そして異人の国へいって様子をみようじゃないかと、外国へ 密航の相談だ。イギリスイギリスというが全体どっちじゃ、馬関《ばかん》と江戸とを十ペん往 復するくらいのところじゃろ、うといった調子で、てんで外国の知識はない。  行くことにはきめても先だつ金がないというので、長州藩の利《き》け者で新知識に富ん でいる村田蔵六に相談した。村田というのは九段の靖国神杜に立っている銅像の大村 益次郎である。村田は「よろしい、やり損なったらこれだ」と腹を切る真似をして見 せて、すぐに御金蔵から五千両取り出してくれた。  そこで、横浜の英吉利《イギリス》一番館のガールという人に頼み込んで洋行という段取になっ た。断髪する悲哀、五千両を為替にする不安、ダブダブの洋服を着る滑稽《こつけい》、この密航 にはいろいろの珍談奇話があるが、本筋でないから略する。  さて、いよいよ洋行ときまると井上と君尾は別れを惜しんだ。君尾はしばし別れの 印にと鏡を井上に贈った。この鏡はそのころ流行していた縫いとりの袋にはいったも ので、この袋の布だけでも一寸四角いくらというほど高価なものであった。  伊藤、井上は、洋行中さまざまの苦労をした。長州と外国の軍艦と砲火を交《まド 》えると いうことをきいて、これは君国《くんこく》の一大事とばかり帰ってきた。伊藤も井上も断髪はし ているし夷敵《いてき》の犬だときらわれたが、ずいぶんきわどい働きをして、どうやら各国軍 艦と長藩との間を講和させた。 三 俗論派と正論派の正面衝突  長藩には正義派と俗論派とあった。正義派は幕府のいうことを容れてはならぬと主 張し、俗論派は幕府のいうとおりになって君家の命脈をつなごうというのであった。 伊藤や井上は正義派であった。  元治元年九月二十五日、長藩の御前会議でまだ三十歳という元気な井上はさかんに 俗論派を攻撃した。そして海外の事情を述べて幕府の命数も長いものではないという ことを痛論した。御前会議があまり長くなったので帰りが夜になった。  井上は、下僕《しもべ》の浅吉とい広ノのに提灯をつけさせて袖付橋《そでつきぱし》へかかった。 「貴殿は井上聞多殿か」と闇の中から声がした。 「いかにも拙者《せつしや》は井上  」と答えも終らぬうちに、ハラハラと闇の中から侍、八方 から斬ってかかった。井上も刀をぬいて立ち向かったが、もうすでに斬られている。 頬から願《あご》へかけて、足、背:1背は幸いに井上の刀が斜《はす》に背負うようになっていたの で、真二《まつぷた》つにはならなかったか血潮  。  井上は相手は多勢、衆寡敵《しゆうかてき》し難しとみて、隙をうかがうなりさッと駈け出す。後か ら「逃がすなッ」という声、そのとたんどうしたはずみかドブiンと溝《みぞ》の中に落ち込 んだ。刺客《しかく》等はそれッとぼかり溝のまわりに集まって、一人の侍は井上の横腹を目が けてグサリと突き刺した。  通行人に発見されて兄の家に引き取られたが、創《きず》は全身、四十余針縫われた。二、 三日の間はピクピクと息をしているばかりであった。 「井上さんは平家蟹《へいけがに》のような顔だとか、汚ならしいとか、人は言いますが、この袖付 橋の遭難を思えば、よく生きられたものだと思いますよ。汚ならしいより男らしいじ ゃありませんか」と君尾はよく言った。  溝の中に落ちた時に刺された横腹の一太刀は致命傷であった。しかし、しかし、そ れが助かったのは君尾が井上に贈った鏡が懐中にあったからであった。芋刺にされた が鏡の袋が裂けたのみであった。骨も通れと刺した切尖《きつさき》は鏡がカチリと受け止めてく れたのであった。君尾の真情《まごころ》こめた鏡を、肌身はなさず持っていた井上は、鏡を身代 りにして蘇生したのである。 四 高杉晋作と祇園芸老おりか  そのころのお座敷というものはずいぶん殺風景なものであった。高杉晋作などは、 「武士は、いつ切腹しなければならぬかわからない、切腹の稽古をしよう」と、皆肌《みなはだ》 をぬぎ、刀の鞘《さや》を払って切腹の真似をするので、芸者などはヒヤヒヤさせられたもの であった。  高杉は祇園のおりかという芸者に熱くなっていた。こうした乱暴者の中に一人粋人 がいた。久坂玄瑞《くさかげんずい》である。久坂は吉田松陰門下で高杉と共に兄たり難く弟たり難しと いう秀才であった。  その家は長州侯の典医であるが、幼少で父を失ったので、吉田松陰の門に入って兵 学を志ざした。敏慧にして気概あり、松陰は、天下の俊秀を論ずる時には、常にまず 第一指を玄瑞に屈し「少年奇才国士無双」とほめていた。高杉が十九歳で入門したの はその後の事で、松陰は一見して「その才通武(玄瑞)に比すべし」と観破した。  二人とも言論壮快流るるがごとくであったが、高杉はそのころいささか自分の才を 気負って、あまり勉強をせず常に大言壮語して先輩の諸士などをも小馬鹿にしていた けれども、玄瑞は言行を慎み自から江月斎《こうげつさい》などと称して、学芸すでに一家を為すの風 があったものである。  松陰は、高杉がなにか大きな事を云い出すと、いつも玄瑞をその論敵に当らせて、 ついには高杉を押さえつけてしまうようにしたので、高杉も後には大いにこれを悟り、 後悔して、心魂を傾けて学芸に努め出した。  ある時、高杉は松陰に向かって、 「先生、私はいくら勉強してもどうも久坂には追いつきません、久坂は天下の奇傑で す」 といった。傍にあった玄瑞、これをきいて 「いや、私こそ高杉の才には遠く及ばないので残念です」 と謙遜した。松陰は、静かに二人の肩を叩いて 「二生相譲るかくのごとし、これわが国家の大幸じゃよ」 と、欣《よろこ》ぶこと限りなかったという。  すなわち井上、伊藤からいえば、ずっと先輩である。私どもと俳句を作っていた人 に久坂誠一という法学士がいた。花囚と号して俳句もうまかったが、大正十五年病死 した。この花囚君は玄瑞の曾孫にあたる。いつか玄瑞の遺品のことを聞いたら、家に は何もないといっていた。むしろ、私のノートに自分の知らないことが多いといって いた。 五 都々逸作者、 久坂玄瑞  久坂玄瑞は小柄な男だったが、いつも頭は坊主だった。なかなか粋《いき》な男で詩歌の道 にも通じていたが、今でも唄われている都《どど》≒逸《いつ》や端唄《はうた》の中にも玄瑞の作が相当に多い。 君尾が記憶しているだけ並"へる。   咲いて牡丹といわれるよりも           ちりて.桜といわれたい   立田川無理に渡れば紅葉がちるし           渡らにゃ聞えぬ鹿の声   加茂川の浅きこころと人にはみせて          夜は千鳥でなきあかす  町芸者に竹内たつというのがあった。島原にいったとき、角屋《すみや》でふとこのお辰にあ ってから妙な気がしたと久坂はいっていたそうだが、後にはこれを囲ったほどの仲に なった。  ある夕、久坂が桂小五郎(後の木戸孝允)と、三本木を歩いていると易者の看板が あった。桂のはさほど悪くはなかったが久坂のはひどく悪く、不時の死をするという のであった。 「どうせ国のために死ぬるんだ。早いも遅いもあるものか」久坂はそういって笑った。  久坂はそのころ撰夷《じようい》の期日をきめろと、鷹司公に迫っていたのである。公は関白で あったが、久坂等勤王派の熱に動かされて上奏するまでになっていた。  その後、禁中の変転は各藩策謀のいかんによって、急転また急転、ついに文久三年 八月十八日の大政変なる事件がやって来た。そのときまで禁中において大勢力を占め、 堺町御門の親衛に任じていた長州藩が、にわかに京を追われ、藩主毛利|慶親《よしちか》父子が勅 勘を蒙るに至ったのである。  そのときまで長州系志士の活動は、主上大和に行幸を仰ぎ、それからただちに穣夷 を決行するという段取りをつけていたのであるが、当時の事情は、壌夷実行すなわち 討幕というような結果になっていたので、京都守護職の会津中将松平|容保《かたもり》が、先きに |乾門《いぬいもん》の守衛を免じられて不遇にあった薩藩とひそかに結んで活躍し、すなわち八月 十七日の深更|子《ね》の刻、つまり十八日の午前一時に中川宮尊融親王の急遽|参内《さんだい》となり、 長州の志《こころざし》は、がんどう返しになってしまった。 ノ《ユ》|、 中川宮の御活躍  中川宮は、その前、十六日にも、夜明けを待って参内し、親しく主上を御寝所に拝 して、行幸御取止めの意中を奏上せんとしたのであるが、折悪しく主上御病のためお 出ましに手間どれていらせられるうちに、長州系の公卿がぞくぞくとして参内したた め奏上の機会を失して退いたもので、十七日夜の再度の参内には、あらかじめ周到な る準備を遊ばされた。  参内と同時に宮からは、守護職会津侯をはじめ、当時所司代だった淀藩の稲葉|長門 守《ながとのかみ》正邦、それに薩摩と、この三藩へ急使を以て、 「子の刻を以て参内、禁闘《きんけつ》を守衛すべし」との命令があった。三藩の兵は、またたく うちに鎧《よろい》冑あるいは具足鎖などを着用し、全く戦争の覚悟でぞくぞくとして参内入 門し、唐門《からもん》以下の九門を閉塞、追って松平相模守、分部左京亮《わけべさきようのすけ》、上杉弾正大弼《うえすざだんじようたいひつ》、松 平備前守など京都にある諸大名に兵を率いて参内を命じ、三十一将部署の定まるを待 って、凝華洞《ぎようげどう》にあった会津藩の陣営から大砲一発、諸員整備を報じて、京の夜半の夢 を驚かした。  やがて中川宮から、主上の御言葉が宣された。それによると、 「夷秋《いてき》御親征之儀は未だその機会にあらずとの叡慮なるに、ただただ御沙汰のごとく にのみ取り計らいたるは全くの大御心に反している、ただし撰夷の叡慮には少しもお 変りはあらせられず、いずれ御親征の事もあるべけれども、行幸はひとまず御延引遊 ばされる」 というのである。  長州ではすでに、先きに一度撰夷期限として申し渡された五月十日という口取りを 楯として、馬関でメリケンの商船を砲撃し、英米仏蘭の四国とも、喧嘩をしている。 もとよりこれは、撰夷の決行によって、徳川幕府を困らせようという策戦であったが、 この事については、六月一日朝廷から、 「叡感斜めならず」 との御沙汰書を賜わり、小倉藩が対岸でありながら、この戦争に応援しないのは怪し からんとのお答《とが》めさえあった上に同月六日には諸国大名一同に対し、 「長藩すでに壌夷の端を開きたる上は一致協同して叡慮を貫徹すべし」 との戒諭《かいゆ》があり、さらに十四日には、正親町公董を、壌夷監察使としてわざわざ長州 まで使いせしめ、 「期限を誤らず外夷を腐懲《ようちよう》せしこと褒賞あらせらる」 との勅旨をさえ伝達しているほどなのに、今にわかにこんな事になっては、悲憤せざ るを得ないのももっともであった。 七 長藩堺町御門を追われる  長州が堺町御門から追われたとともに三条|実美《さねとみ》卿をはじめ穣夷決行派、つまり長州 系の公卿は、即刻参内を禁じられ、その上、他人との面会をもお許しのない事となっ た。  長州では、末家に当る毛利元純や吉川経幹および益田右衛門介などが、関白の鷹司 邸に集まって、 二|夕《せき》にしてこんな事になったのはどういう訳だろう」 と聞いてみたが、関白にもその間の事情がはっきりわからない、何分にも寝耳に水の 御沙汰であるというに過ぎなかった。  そこで鷹司関白は参内して、三条実美らのため、いろいろと弁解もしてみたがこう なっては御取上げのはずもなく、鷹司邸の周囲は、会津薩摩の兵がぞくぞくと取り囲 んで手も足も出ない。益田右衛門介以下堺門に屯集《とんしゆう》した長州勢は、小具足陣羽織など を着用し、合印として白木綿の鉢巻をしてはいるが、薩摩はこの方面へ大砲の筒口を 並べて、いざといえば火蓋を切る準備、じつに危機一髪、敵味方|固唾《かたず》を飲むというあ りさまであった。  この睨《にら》み合いがまる一日つづいた。  その間に中川宮、二条、徳大寺の諸卿は禁中御庭先きに鳳琶《ほうれん》を奉じ、もし発砲でも される事があれば、比叡山か、加茂八幡宮かへ御動座を仰ぐ用意までした。しかしこ こでこのさい火蓋を切る事は朝敵の汚名を着る恐れがあるので、三条卿を中心に長州 藩士および諸国の志士は、 「かくなっては万止むを得ない、いったん退く方がいい」 という事になり、七つ半刻、日の暮れ方になって、堺町御門と、鷹司邸の裏門から、 鎧姿の、二千七百余名が、四隊に分れ、情然と涙を呑んで、わざと藩邸へは入らず、 大仏の巨刹妙法院に引き揚げて行った。      八 雨の中に七卿都落ち  これに加わっていた久留米の志士真木和泉などは極力戦闘論を称えたが用いられず、 肥後の宮部鼎蔵、土佐の土方楠左衛門(後の宮内大臣、土方久元伯)など、三条実美、 三条西|季知《すえとも》、四条|隆調《たかうた》、東久世|通禧《みちとみ》、壬生基修《みぷもとおさ》、錦小路|頼徳《よりとみ》、沢|宣嘉《のぶよし》の七卿に随行し て、長藩と行動を共にし、いったん妙法院へ落ちついたが、さらに、雨のしきりに降 る中を、京を落ちて長州へ走った。  この時久坂玄瑞はすっかり鎧で身を固め、手槍をついて落ちて行く七卿一行の先き に立った。胸中の悶々を遣るに方なく、歩きながら自然に彼の口をついて出た今様《いまよう》は、 さすが久坂の文才を示した立派なものである。これを二度三度繰り返した。おしまい には他の武士達も、雨の中で泣きながらこれに和して歩いたという。 世はかりこもと乱れつつ、茜《あかね》さす日のいとくらく、瀬見の小川に霧立ちて、へだ ての雲となりにけり、うらいたましやたまきわる内裏にあけくれとのいせし、実 美朝臣、季知卿、壬生、沢、四条、東久世、そのほか錦の小路どの、いまうき草 の定めなき、旅にしあれば駒さえも、進みかねてはいばえつつ、降りしく雨の絶 え間なく、涙に袖のぬれはてて、これより海山|浅茅《あさじ》が原、露霜わきてあしかちる、 難波の浦にたく塩の、辛き浮世はものかわと、ゆかんとすれば東山、峰の秋風身 にしみて、朝な夕なに聞き馴れし、妙法院の鐘の音も、なんと今宵は哀れなる、 いつしか暗き雲霧を払いつくして百敷の、都の月をしめでたもうらん。  越えて二十四日には、三条実美以下七卿の官位を奪い、 ある諸大名に参内を命じて、親しく謁を賜わった上、 二十六日には改めて京都に 「これまでの勅命には真偽不明のものもあるようだが、十八日以後のものは、真の叡 慮であるから諸藩一同心得違いの無いように」 との御沙汰があった。  二十九日には、長州侯の京都ヘ入るのを禁じられたばかりでなく、藩邸にあっては 留守居のほか添役として一両名を置くほか、ことごとく帰国すべしとの命があった。      九 玄瑞から愛人お辰へ  残念ながら京都を引き揚げるということになった久坂が、その忙しさの中に愛人お 辰へやった手紙がある。その事情もわかるし久坂の風流もまた窺われる。 その後は如何案じ致し参らせ候。私事俄かに国へ帰らずてはならぬ事差起り目も じも致し不申心ならぬ事いかにも推もじ被成《なさる》べく願い参らせ候。この節の事はお もしろからぬ事|許《ぱか》りにて、国に帰らずてはならぬ次第になり何《なん》とも口惜しき事に て候。さて出足の折おかしき事ながら、  桂の川の水鳥の、たちのなげきに旅ごろも、あかつきくらき村しぐれ、涙をし  ぽるたもとなれ。大内はいずこもわかぬ、駒さへさすがいばえけり、へだての  雲と加茂川に、のぽるのぎりぞかなしけれ。 と今様《いまやう》うたいて出足致し参らせ候。我事の心すいもじなさるべくねんじ参らせ候。 その後もお前様の事のみおもいつづけ候。軒端の月に露とすむ、寒きタベは手枕 に、ついねられねばたちばなの匂える妹の恋しけれ。  この消息文は、名文として後に遺されることと思われる。 かも国を憂うる情はひしひしと読む人の胸をうつ。 情至り文うつくしく、 し 一〇 長州の志士潜入  京都を追われたといったところで、こうなっては長州の志士は、そのまま国へ帰っ てはいられない、間もなくいろいろに変装してひそかに京へ入り込んで来た。商人に なっているものもあれば、乞食もあり、僧侶の姿になっているものもある。  八月十八日の禁門の政変のあった時、薩摩藩で樹てたその夜の計画の中にコ、取 締致すべき者共」と、ことに名前を書き誌したものが十二名あった。   松村大成、宮部鼎蔵、真木和泉、丹羽出雲守、久坂義助、桂小五郎、佐々木勇也、   楢崎弥八郎、萩野鹿助、轟木、増田、川上。  義助はいうまでもなく玄瑞。轟木は轟武兵衛。増田は益田右衛門。川上は川上弥市 の事。萩野鹿助というのは、そのころ、萩野鹿之助と偽名していた長州奇兵隊の山県 狂介(後の山県有朋公爵)の事であるらしい。  この中でも桂小五郎は、いちはやく入洛し、久坂義助も、肥後の宮部も、京の内外 に潜行して、命を的の危ない綱渡りをやっている。その上、長州藩士は、いろいろな 名目を設けて、一人二人とぽつりぽつりと藩邸ヘ入り、ほどなく相当な同志が集まっ てしまった。  政変のあった文久三年は、なんとなく底気味悪い思いで、明くれば四年の春。この 三月に改元あって元治元年となった。京に潜入した長州志士の活躍は、あるいは落首 となり、あるいは投文となり、五月二十二日には、守護職会津中将の家来松田鼎が暗 殺されて、その首が大仏に晒された。二十七日には大阪へ行っていた中川宮の家来高 橋健之丞が、 同地の本願寺前で惨殺されるという具合であった。 古高俊太郎捕わる  長州を主とする勤王志士の活動はついに京都を兵火の巷とし、その混雑にまぎれて 主上に御動座を乞い、長州へ行幸を願い出て、ここに討幕の旗を翻《ひるがえ》そうとの策謀が具 体化し、六月二十日の前後、烈風の夜を利用して、恐れ多くも禁廷の風土ヘ火を放ち、 ・同時に中川宮にも放火して、これに驚いて参内する会津侯松平容保を襲うて軍神の血 祭にしようと、その実行方法が寄々相談されるようになった。  桂小五郎は藩邸の奥深く隠れていたが、宮部鼎蔵は、四条寺町で古道具と馬具を売 っている桝屋喜右衛門方に下僕と二人寄宿していた。桝屋は本名古高俊太郎正順、近 江国坂田の生れで、元山科毘沙門門跡に仕えていた志士中でも知られた人物であった。  この家が早くも壬生の新撰組に睨まれた。当時新撰組は、守護職の股肱として局長 近藤勇昌宜の号令一下、二百余名の武士が手足のごとくに働いて、神出鬼没を極めた ものであったが、六月五日の払暁、まだ夜のすっかり明け切らぬうちに、桝屋へ踏み 込んで、厳重な家探しとと永uに、古高を捕え、武具、弾薬、焼き玉、志士間の往復文 書などを多数に押収して引き揚げた。  宮部は幸いにその前夜から外泊していたため、捕えられる事は免れたが、古高は、 新撰組の屯所で、梁から逆さに釣るされて、足の平から裏へ五寸釘を突き通され、そ れへ百目蝋燭を立てて、火をつけ、とろりとろりと蟻を肌へ流すようにしたひどい拷 問にたまりかねて、ついにこのたびの大陰謀の一件を自白してしまった。  それによって、今明日の間に、どこかで志士の会合が行われる事がわかり、それか ら生証人に押さえられた古高を新撰組から奪取するために、何らかの武力的行動も起 しそうだという事が薄々わかった。 二 池田屋事変  新撰組は即刻、守護職および所司代、町奉行与力同心と協力し、六月五日、京都祇 園祭の宵宮の夜戌の刻(八時)を期して出動し総狩りをする事に評決し、間諜を八方 に放ったが、間もなく志士は三条小橋を中心に、河原町東入る北側池田屋または四国 屋などに会合するらしいことが知れた。  あいにく江戸から行った隊士の中には、京の夏の烈しさに敗けた者もあり、大阪へ も出張していたりしたので、局中その夜の出動の間に合う者を点検するとおよそ三十 人余、これへ非常命令を発して、着込の上に浅黄地にだんだら染の袖印のある制服羽 織を着用させた。近藤勇が、板倉周防守家中の者から貰った養子の周平はわずか十七 歳、初陣として手槍をもってこれに参加する事となった。  しかし困ったのはそのころの微妙な政治関係から、この際、志士を狩りつくしてか えって、長藩の感情を激発させはしまいかという守護職の心配である、出来る事なら そっとしておきたい、それで済めばその方がいいというのは、何事にまれ当時の人々 のすべての物事に対する態度であった。  八時という打合せの時間が出ても、守護職からはなかなか人数が繰り出さない。近 藤はとうとうこれを待ちかねて、午後十時に一手は副長土方歳三に任せ、自分はわず かに、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、周平、この四人を引きつれ、自から陣頭に立 って、問題の池田屋へ、 「旅客調べ」 と称して斬り込んだ。  二階には、宮部鼎蔵をはじめ松田重助、吉田|稔麿《としまろ》、杉山松助など、一粒|選《よ》りの立派 な人物が二十名近くもいて、ちょうど、会議が済んで車座になって酒を飲んでいたと ころであった。ただ桂小五郎のみは、対州屋敷へ行っていたために、近藤が乱入した 時には、運よくその場に居合せなかった。      一三 即死七名、生捕二十三名  土佐の北添信磨《きたぞえきつま》がまず近藤の一撃に発《たお》され、池田屋の上下がひっくり返るような騒 ぎとなったところへ、四国屋へ廻った土方組がそこには一人もいなかったので、ただ ちに池田屋へ引き返して来たため、志士はことごとく出口をふさがれ、その上、守護 職所司代の手の者三千名も、ほどなく出合わせたので、ついに、宮部鼎蔵、長州の吉 田稔麿、同杉山松助、肥後の松田重助、播州の大高又次郎、土佐の石川潤次郎、同じ く土佐の北添信磨の以上七名は現場に即死。中川宮を指して「姦魁某王を斬るの文」 というのを懐中していた京都の志士西川耕蔵以下二十三名は生捕りとなった。  激戦は二時間にわたった。新撰組では、藤堂平助は刀の刃が切出ささらのようにな るまで奮闘しついに深手、永倉新八は刀が折れてこれは浅手を負ったが、この外には 別に取立てて傷らしい傷を負ったものはなかった。守護職家来に深手二人、所司代家 来では一人戦死し、一人深手を負った。  当夜の分捕品は、具足十一領、槍二十五筋、木砲五挺、短筒三十挺、焼薬十本、尖 矢五百筋、重籐弓十一挺その外、着込、刀、長刀武器類長持へ五つ程あって、これら を取り片付け、全く一同が池田屋を引き揚げたのは、翌六日の昼九ツ時(+二時)で あった。沿道この血潮を浴びた一同の引き揚げを見るために、人の黒山を築いた。  この功により、新撰組一統には褒美として金子五百両、局長の近藤には別に会津鍛 冶長道の刀を賜わった。 一四 物情騒然たる京の内外  会津侯が心配したごとく、この池田屋の事変の飛報により、長州藩内は、上下を挙 げて悲憤の絶頂に達し、相抱いて切歯号泣するもの多く、鼎《かなえ》の湧くような騒ぎであっ た。  来島又兵衛が、報を得るやいなや、先発して一気に京へ駆けのぽった。次いで家老 福原越後は江戸に用件があるから京都はただ通過するのみだと称して手兵三百を引い て、六月二十二日には早くも大阪ヘ入り、二十四日には伏見に迫った。  久坂玄瑞、真木和泉、この手も三百の兵をもって、大阪に入るやいなや、淀川から 舟で山崎へ出る。これに応じて、京の藩邸に潜伏していたもののほか、約三百人がに わかに嵯峨の天龍寺へ集まった。  長州の者を京都に入れないというならば、あえて強訴するほかはない、というがそ の実こんどは一戦の覚悟であり、その準備もして来ている。  京都の騒ぎは大きい。久坂は天王山の陣地にいたが、急にお辰にあいたくなって、 駕籠で京都に入り島原の角屋《すみや》にのり込んだ。角屋ではよく知っている久坂ではあるが、 厳しい御達し、それに新撰組も近いし、万一の事があってはと断った。 「そうか」と久坂はおとなしく帰ったが、そのあとでお辰はこの事をきいた。 「久坂様がッ」というなり、足袋はだしになって、千本通を南ヘ南へと駆け出した。 東寺に近いところでやっと追いついた。ふたりは泣いた。  久坂は天下の形勢を説いて、 「おれもいつどうなるやらわからない、からだを大切にせよ」と親切にいいきかせた。 そして別れた。金を二十両、久坂はお辰に渡した。  六月二十六日に、福原越後の手兵三百は、抜身の槍を持ち鉄砲をかつぎ、旗指物を ひるがえし、白昼禁廷近くをもはばからず、堂々と武装行軍をして、伏見から嵯峨へ 出て、天龍寺組と合した。  幕府方もこれに応じて兵が動き、会津はもちろん彦根、大垣、膳所《ぜぜ》の兵を立て、伏 見、大津の方面を押さえ、これまた一戦を辞せざる覚悟である。したがって長州対幕 府、長州対禁廷の交渉が繰り返され、いたずらに日を重ねて、ついに六月事無く、七 月も中旬を過ぎた。  元治元年七月十八日の夜五ツ時、満を持して嵯峨天龍寺に集まった長州の一隊はに わかに動き出した。蛤御門の方では来島又兵衛が必死になって戦っている。会津の兵 も彦根の兵も越前の兵も。  久坂は手勢をつれて堺門内の鷹司邸に押しかけ面会を申し込んだ。関白も会うには 会ったが、こう混乱して来てはどうにもしようがない。返事が鈍っているうちに気早 の面々もう発砲し始めた。禁裡の方に砲声が起る。火、石火矢、爆裂、長州勢は鷹司 邸を足場として戦う。一方は鷹司邸へ火をかけて足場を焼こうと焦る。  砲声|轟々《ずマつサヤつ》、会津、彦根をはじめ六藩の兵は雪崩のように押し寄せてくる。長州勢も 討死が多い。久坂は味方をはげましていたがもう形勢は非とみてとった。 「われわれの最期は今ぞ」と高らかに叫んで玄関先で腹を割き切った。火が出た。重 傷の者七、八人も久坂と一緒に火の中に飛び込んだ。久坂玄瑞、年二十を越す六か七。  三本木で易者にみてもらった卦があたったかどうかわからぬが、結果は中《あた》ったこと になった。易をみてもらって間もないことである。 五 男を上げた品川弥二郎  この戦争になる少し前のこと、長州藩の一隊は淀川から八幡まで船でいって、さら にのぽろうとした。ところが八幡の幕吏が長州の船ときいて何といっても通させない。  隊長も弱り切っているところを、私が交渉しましょうと難役を買って出たのが、品 川弥二郎(後の子爵)である。まだ二十一歳の青年であった。  品川は夜になってそっと役所近くいってみるとドンチャン騒ぎをやっている。浮い た浮いたの役人の中へぬうッとはいっていった。 「御愉快中突然無礼を致して相済まぬが……」と品川は切り出した。眉目秀麗の青年 が切口上でやるものだから役人も驚いた。長州藩ときいて癩にはさわるが、何しろ浮 いた浮いたの醜態を見られているから役人も弱味がある。長州藩の方針を洛々《とモつとトつ》と述べ、 全く冤罪である。われわれはこの冤をとくために嘆願書を持参してゆくもの  と船 の通行を頼みこんだ。  役人も弱い尻をつかまれているので、とうとう伏見までゆくことを許した。  この品川の男らしい様子を、またたきもせず見ていたのは君尾であった。君尾はほ かの芸者といっしょに、祇園から八幡まで呼ばれていたのであった。 「まあ、何という男らしい……」君尾は品川も姓名も知らずに、この劇的場面の主人 公を思い込んだのであった。  ある日、君尾は客に連れられて、朋輩三、四人と紙屋川に梅見にいった。そこへ泥 酔したならず者がやってきて、君尾にいたずらをする。客も手を出しかねているとこ ろへ侍が三人やってきた。侍は悪漢を投げつけて君尾を救ったが、それが誰あろう君 尾が胸の裡に烙きつけていた凛々しい侍、品川弥二郎であった。  これが機縁となって品川と君尾とは深い仲となった。久坂が割腹した騒ぎのあと、 長州藩の者はちりぢりに身を隠した。品川も君尾の家に匿してもらった。 一六 箱屋に化けた桂小五郎  長州は蛤御門の合戦でまたまた一敗地にまみれた。後の木戸孝允の桂小五郎も、ま た身を隠さねばならなかった。長州の桂といえば誰知らぬ者もない、そこで法被《はつぴ》を着 て本願寺の男衆というこしらえ、やっと京都を落ちは落ちたが、まだまだ京都には、 いろいろの用がある。動静もさぐらねばならぬ。そこでひそかに引き返して来て、三 本木の芸者幾松のうちにころげ込んだ。  幾松の父は若狭小浜の生咲市兵衛という武家であるが、浪々して京都に出で、つい に娘が芸者とまでなった。しかし父は武家出、母は同藩の典医細川太仲というものの 娘であるだけに、どことなく品があり、また気概があった。  桂は幾松を恋していたが、幾松の母が強欲たので思うようにならなかった。それを 知って伊藤俊介(博文)が母親を説得し、二人の仲をとりもったのであった。それ以 来二人はゆききしていたので、桂は幾松の家に忍んで来たのである。  あまり外には出ないようにしていたが、近藤勇らの新撰組の様子を探りたくてたま らない。幾松と相談の上箱廻し(東京の箱屋)と化け込んだ。  祇園の鳥居屋の座敷で近藤勇が二、三人の仲間と密談しているのを知った桂小五郎 は、障子越しに耳を立てて聞いていた。  さすがに近藤勇だ。障子の外に人の気配がすると知ってガラリと開けた。 「何奴《なにやつ》だ。拙者らの話をきくからには長州の隠密に違いあるまい」 「いえ、どういたしまして、私はご覧の通りの箱廻しで、ちょっと君尾さんに用事が あるので、探して居るのでございます」 「嘘をつけ! 白状せねば痛い目を見せるぞ」 「ど、どういたしまして、私は源助と申します箱廻しで……」  しきりに詫びるが、近藤は聞かない。例の大刀を引き寄せて、白状しろと詰め寄る。  そこへ折よく通りかかったのが君尾であった。 「おや」と桂の顔をみて、近藤をみて、この場の空気を知った。 「おや、源助さんかい、何か粗相したのかい」 「へえ、ただ今、あなたを探しておりましたんで、つい、そのへえ……」 「あたしを探していたP ほんとうにお前さんもグズだからしようがないね」と近藤 の方へ向き直って、「近藤様、これは私の箱廻しで源助と申すグズな男でございます   なにか失礼な事をいたしましたそうで、どうぞ私に免じて御許し下さいまし」と 手をついた。 「源助さん、ほんとうに折角の御遊びに、いやなお気持をさせて済まないじゃないか。 何というグズだい」といいさま、桂の頬ッペたをパッと張りつけた。  近藤の疑いはようやく解けた。  君尾は桂をつれて家へかえった。そして桂の前にさめざめと泣いて詫びたのであっ た。 「何と申してよいやら、私のような芸者|風情《ふぜい》のものが、立派なお侍様の御顔を殴りま した……でも、あの場合、私もせっば詰ってのことでございます」 「なアに心配するな、私の方から御礼をいわねばならぬ」桂はからからと笑った。  桂は幾松の家にも居られなくなって乞食の仲間にはいった。毎日三条河原で道をゆ く人に物を乞うては木屋町、祇園あたりの様子を探っていた。幾松や君尾は毎日三条 の橋の上に来ては握飯《にぎりめし》を放ってやった。橋の下から桂が出て来て拾って食った。幾 松は毎朝太陽を拝むふりをして竹の皮の握飯を落したのであった。  幾松の家にいた時に会津の侍が押入ったことがある。桂は奥の間にいたが、幾松は いないという。侍は踏み込むという。幾松は三味線を振り廻して防いだ。この間に桂 は逃げたので、乞食をしても幾松の家には寄りつけないのであった。  乞食仲間にも怪しまれてきたので桂は辻駕籠かきになった。その相棒は後に参議に なった広沢兵助である。  後の従一位木戸孝允の令夫人は誰あろう、この幾松である。桂は明治の元勲として 位人臣を極めたが、京都にくると三条の橋の上で感懐に耽ったという。明治十年五月 二十六日、四十五で、病んで京都で没した。  ついでだが、広沢兵助は後真臣と改名して、明治政府にあって参議として長州を代 表し、木戸孝允とその覇を争うものの如くであったが、明治四年一月九日、年わずか に三十九で、何者かのために妾と同裏《どうきん》中を暗殺された。妾はそのまま何事もなかった ので、その下手人について、妾に疑いがかかり、さらにその情夫家令某をも取調べた が、どうも痴情関係とは思われぬ点が多く、結局政治上の勢力争いと見て、暗殺者の 黒幕に木戸孝允が動いているなどという風評さえ立つに至ったので、広沢参議下手人 に関する裁判には、参座制によって、今の陪審法のような事をしたものであった。 「俺が下手人だ」と自白する者が度々出たけれども、結局調べて見ると、下劣な極悪 人が、死花を咲かせるためのでたらめの自白ばかりで、真の下手人というものは、未 だに判明しないのである。土佐の坂本龍馬を斬った人物と共に、永久にはっきりせず に終るであろう。  広沢は萩の産だが、学問も出来たが槍術が達者で、丈の高いなかなか偉丈夫であっ た。明治維新の功なって、二年木戸と同じく永世賞典禄千八百石を賜わり、長州ヘ帰 省していた時は、毛利侯は、広沢を掲げて、藩参政の首席としていたものである。      一七 歌右衛門が賞めた京美人 中村歌右衛門がいつか私にこんな話をした。 「この年になるまで、いろいろ美しい女の方をみましたが、 子供の時にみた京都のお 加代という芸者さんほど美人だなあと思ったことはございません。あまり多くの婦人 をみなかった時だからあんなに美人にみえたろうと自分で割引をして考えますがやは り美人でしょうなあ、お加代さんの顔が光ってみえるのですからね」  このお加代は江戸加代といって、桂に愛され、お加代もまた桂の夫人になれるもの と思い込んでいたらしい。君尾などもよくお加代から、桂の噂をきかされて弱ったも のだという。  桂が東京に移ってからは、よくお加代を呼び寄せ、自分も京都にいって会ったりし ていたが、そのうちに桂が死んでしまった。お加代のふさぎ方はひどく、一生男はも たぬとか、祇園会《 きおんえ》の練り物にも出ないとか、悲観し切っていた。  それを伊藤がきき込んで、それは気の毒だ、お金はいくらでも出すから出たがいい ということになり、お加代は奥女中風に装うて練り物に出た。そして洋犬《かめ》を引いて歩 いた。洋犬はその頃珍らしがられたものである。  伊藤は人が煙草に気を転ずるごとく、女に気を転ずる。女を煙草ぐらいに心得てい たとみえて、お加代をも愛するようになった。伊藤が煙草代りに愛した女はずいぶん 多かろうが、一代の間にお加代ほど気に入った女はあるまいと祇園では取沙汰された。 しかし、 三年もたたぬ間にお加代は三井源右衛門に落籍《ひか》された。 八 押入れへ隠れた桐野利秋  すねさんという通人が舐園町を騒がせていた。呉服問屋の主人でなんでも人のする ような遊びはきらいであった。  ある日、きょうは公卿遊びをしようというので、君尾や照香ら十幾人を官女風に仕 立てて遊んでいた。  そこへ一人の侍が、あわただしく駆け込んできて、 「追手につかまっては一大事、どうぞおかくまい下され」と息せき切ってたのむ。  君尾は何の事やら、わけは分らぬながら押入れに隠してやった。そこへ侍が十人ば かりどやどやと追ってきた。 「ここへ侍が一人逃げ込んだろう、どこに隠したか教えてくれ」 「知りまへん」 「知らないことがあるものか、それ探せッ」と隊長らしいのが声をかけた。  君尾はつッと立っていった。 「ここを何と心得らるる。畏《かしこ》くもさるやんごとなき方のお忍びの酒席、それに無作法 な、もしものことがあっては後日のお答めは必定、それが御承知なら勝手に探しや」  侍もなるほど、官女はいるし、無暗なことも出来ず、そのまま引き返した。  この逃げ込んだ侍は中村半次郎とその頃いっていたが、後の桐野利秋であった。こ ういうことは、その頃よくあったとみえて、長州の野村和作(後の野村靖)なども会 津の兵に追いかけられた時、万亭で君尾が助けたことがあった。   ……宮さん宮さんお馬の前にきらきらするのは何じゃいな:…・  あの有名な唄は君尾が登茂恵家という店をもったころ、品川弥二郎がよくやってき たが、その時品川が唄をつくり君尾が節付をしたものであった。  品川が九州へ立つ時、君尾にやった歌がある。   また来んといつとさだめず不知火のきょう九重の都をぞたつ  君尾はこれに返した。   千早振よろずの神に祈るなりわかれし君のやすかれとのみ      一九 君尾の意地ずくに惚れた近藤  新撰組の局長近藤勇は、一力《いちりき》を根城によく遊んだ。  島原の木津屋には深雪《みゆき》太夫という深い馴染《なじみ》があったが、三本木の芸者駒野というの とも、深い間柄であった。土方歳三も東雲《しののめ》太夫というのへ通いつづけ、見廻組の与頭《かしら》 佐々木只三郎は浪路太夫というのと深かったが、近藤は遊びは好きだが、あまりどん ちゃん騒ぎはやらなかった。  通う時でも、駕籠はきっと垂れを下げたし、そうでなければ頭巾で顔を包んで行く という風であった。深雪太大は、のちに、七条醒ケ井橋下るところの興正寺下屋敷へ 囲った。その頃二十三、四で、一枚絵に出るほどの美しさであった。  この深雪太夫の妹にお孝というのがあったが、近藤はこれにも手をつけた。深雪太 夫が病気で、医者の家に寄宿して治療している間に、酒の上で、まだ十八になったば かりのお孝と関係したのだが、深雪太夫も諦めて、自分は金を二百両ほど貰って、島 原の廓内へお茶屋を出した。  このほか、島原には金太夫というのがあり、祇園の「山絹」という家の養女お芳と も関係して、これには男の子が出来た。お孝にも女の子が出来て、これはお勇と名を つけていたが、勇の刑死後、男の子は東福寺に入って仏弟子となった。お勇の方は、 |女街《ぜげん》の手にわたって、転々した末が、明治十五、六年のころは、馬関(下関)で芸者 をして、なかなかの売れっ妓《こ》になっていた。伊藤博文だの、井上馨だの、西郷従道だ のという人が、大の贔屓にしたという事である。  一夜君尾も招かれた。近藤は君尾のふるまい、気性を見ぬいてすっかり惚れ込んだ。  関東男が京女を口説く。すベてぶッきらぽうであったが、君尾もまんざらではなか った。どうみても男らしい男であった。 「近藤様、お話は身にしみて有難うございます。したが、あなた様は幕府方、ここで 禁廷様の御味方をなさるようなら、不東《ふつつか》ながら私、喜んで御言葉に従いまする」  近藤を勤王派に引き入るれば、たいしたものであったが、そこは近藤である。「君 尾、貴様はみあげたおんなだ、その意地が千金、立て通せ立て通せ、おもしろい奴 だ」少しも機嫌を損ねず、面白く杯をくみかわした。  その後、君尾が勤王派の座敷に出ている所を、新撰組の荒武者にみつかって壬生の 屯所まで引き立てられたことがある。その夜の物凄かったことを、君尾は身を傑わし てよく語った。闇の中の抜刀、槍の穂先1そこへ近藤かやってきた。「おや、あな た様は」というわけで、近藤は部下から、あらましを聞いてから君尾の縄目をといて くれた。「君尾、お前はやはり意地を立て通すのだな。よしよし、帰れ帰れ、何も言 わんでいい。ただ君尾、新撰組は女子供を殺しなんかはしないから、そこのところは よく承知してくれ」  君尾は駕籠で、ていねいに送られた。 二○ 君尾の女隠密  そのころ、京都で飛ぶ鳥を落すという勢いの島田左近というのがあった。美濃加納 の生れで、本願寺につかえていたが、後に九条左大臣道季公の諸太夫となった。弁舌 にたくみで、学才もあり、聞く人を皆感動せしめたというから、よほどの才物であっ たらしい。それに稀な美男了であった。  この人が、一力、奈良富、吉松、吉米などのお茶屋で大尽遊びをするのだから、花 柳界のもて方というものは、たいしたものであった。ところが、志士達の間には、一 日も早く島田を亡き者にしないと形勢不利であるというので、早くも暗殺の計画はす すめられた  というのは、島田は、安政年間、時の関白九条尚志公の参謀となって、 井伊大老の家来長野主膳と心を合せ、自分達に反対すると見てとれば公卿でも大名で も志士でも、盛んに圧迫したものである。かの有名な安政の大獄を巻き起して天下騒 然、いわゆる大恐怖政治を布《し》かしめた張本人であった。  島田左近と長野主膳の画策によって、いわゆる安政の大獄に座した主なる者のみで も七十名に及んだ。安政六年の八月三日、島田左近の書によって、井伊大老の謀臣長 野が上京したが、京を中心に、梅田雲浜《うめだうんぴん》ら学者志士の活動物凄く、時態は寸刻の猶予 をも許さないので、飛脚をたてて、老中間部詮勝の急遽上洛を促した。井伊大老は九 月三日、間部を上京させた。その前、すでに時宜によっては梁川星巌《やながわせいがん》、梅田雲浜など を捕えるという相談だけは出来ていた。  九月一日に、井伊、間部と通じてその立場を擁護せんとしていた関白九条尚志公は、 幕府改造に力を尽くしている鷹司、一条、二条などの宮中の勢力に圧せられて関白を 辞した。けれどもこれには幕府の同意を得なければならぬ規定になっていたので、ま だ公式には勅許あらせられないところへ、中山道から西上して、下諏訪へ着いた間部 が、時の所司代酒井侯の急使でこれを知り、江戸の井伊大老へ急達したところ、大老は 「関白の辞職には断じて同意出来ない、かかる謀企《くわだて》をなす好賊手先の老共を厳重に吟 味すべし」との事だった。井伊大老の「好賊」とは、水戸の斉昭を指したものである。  間部はやがて入京したが、病気と称して参内をしない。島田左近、長野主膳などと 密謀して、公卿の背後にある志士の掃滅のため、極力その逮捕に努めた。その遣り口 は辛辣骨をも刺すものがあった。  捕えられた志士の処分を見れば、大ていその前後の事情は解かるから、参考のため 下に記して見る。 水戸藩士 同 同 同 同 鷹司家諸太夫 安島帯刀(切腹) 鵜飼幸吉(獄門) 鵜飼吉左衛門(死罪) 茅根伊予之介(死罪) 鮎沢伊太郎(遠島) 小林良典(遠島) 浪人 近衛家老女  小姓組曾我権右衛門家来  越前藩士  浪人  御蔵小舎人    外永押込    押  込    中追放    所  払    遠  島    手  鎖 其他関係者九名処罰 池内大学(中追放) 村岡(押込)   t以上安政六年八月二十七日 飯泉喜内(死罪) 橋本左内(死罪) 頼鴨崖(死罪) 山科出雲守(永押込) 三人 四人 六人 三人 二人 二人 1以上同年十月七日  長州藩士  日下部伊三次伜  豊作伜  鉄砲方与力    外押込    永押込    中追放 其他関係者七名処罰  茅根伊予之介伜    外中追放    手  鎖  浪人  西園寺諸太夫 吉田松陰(死罪) 日下部裕之進(遠島) 勝野森之助(遠島) 藤田忠蔵(押込)   六 名   二 名   二 名   -以上同年十月二十七日ー 茅根熊太郎(遠島)   二 名   一 名    以上同年十二月十六日ー 梅田雲浜(獄死) 藤井尚弼(同)    薩藩士         日下部伊三次(同)    先手組与力       中井数馬(同)    僧月照の弟      信  海(同)    成城院坊官       近藤正慎(同)  この結果として、当然島田左近が志士の間に仇敵視されるようになった。首を狙う ものが多くなった。  君尾は、この島田に見染められたのであった。あたり前なら、芸者として当年の島 田ごときに恋されれば、光栄がるべきであるが、君尾はキッパリとことわった。君尾 は「勤王芸者」であり、島田は佐幕党の旗頭であるから  吉松の座敷で、夜ッぴて 口説かれたけれども、君尾はきかなかった。  ある日、ひょっこり君尾をたずねてきた侍があった。それは勤王党の寺島忠三郎で ある。 「そなたが、島田を振りぬいたという話をきいて、われわれはさすがは君尾だと感心 した  ところか、ここに一つ頼みがある  というのは、その島田を客にしてもら いたいのじゃ。これは寺島一個の頼みじゃない、同志一同の頼みじゃ」  君尾も、これには驚きかつ弱った。寺島の話によると島田を抱き込んで、佐幕党の 機密を探るために女隠密になってくれというのである。そして「われわれ同志が助か るばかりじゃない、大きくいえばお国のためじゃ」とまで頼みこんだ。 「よろしゅうございます」君尾も理をわけた話に、苦しい納得をした。      二一 島田左近の暗殺  それ以来、久坂玄瑞、寺島忠三郎等は、君尾の内通によって、島田の動静を手にと るごとく知るようになった。清河八郎、村上俊五郎、小河弥右衛門、海江田武次、こ んな面々も島田をつけ狙った。  文久二年六月二十日、同志の一人、小河弥右衛門が、転々と宿所をかえて行衛を晦《く りま》 している。島田を伏見で見かけたので、同志に知らせて後をつけたが、見失ってしま った。  ある日は堺町の島田の本邸に斬り込んだ。もう風を食って姿が見えない。 「しかし、まだ、この蒲団はあたたかい」 「遠くへはゆくまい」と、志士の面々は隣の法恩寺を探した。やっと庫裡《くり》から島田が 脱いでいった着物を見つけたが、もう寺内にはいる気配はなかった。 、島田は法衣をきて菅笠をかむり、丹波の山の中に逃げこんだ。そして折をみて引き 返し、九条家の門内にかくれたり、主家の領地内へ逃れたりした。  七月二十日の夕方、島田は妾の君香の家にいた。木屋町二条下ル山本屋という家で ある。ここにいることを突きとめたのが、田中新兵衛、鵜木孫兵衛、志々目献吉の三 人であった。斬り込まれた時、島田は縁先で湯上りを団扇を使いながら東山の夕ぐれ を眺めていた。人の聲に驚いて庭に飛び出し、板塀を乗り越そうとするところをサッ と一太刀それは田中新兵衛。有名な薩摩の「人斬り新兵衛」である。  斬られながら、塀を越して逃げようとしたところを石につまずいた。サッと又一太 刀、田中の刃は島田の首に触れた。  三日三夜、島田の首は二条河原町の長州の屯所で水に浸されてのち、四条河原に青 竹に突き立てられて曝された。立札に曰く、   此島田左兵衛大尉事、大逆賊長野主膳に同腹致し、不謂好曲を相巧、天地に不可   容大賊也、依之加訣教、令臭首者也   文久二年壬戌七月 君尾は二、三日色青ざめていた。 二二 暗殺に次ぐにまた暗殺  島田左近は、当時世の風評では、巧みに公武の間に出没して、不義の金子十万両以 上を貯えありとの事であった。その全盛時代の豪著な栄華はのちのちまでの語り草と なった。  この七月二十日夜の、島田暗殺は、今まで張り切っていたような京都の暴行熱に点 火した。それからは暗殺に次ぐにまた暗殺、血生膣《ちなまぐさ》い噂があっちにもこっちにもあっ て、帝のいます京の地も、百鬼夜行の恐ろしさとなって終った。  翌々閏八月二十日の夜には、越後の浪人本間精一郎がやられて、その首が四条河原 に晒《さコリ》された。この暗殺の下手人は、例の薩摩の人斬り新兵衛の田中が加わって、土佐 の平井収二郎、松山深蔵、弘瀬健太、岡田以蔵の以上五名であった。  本間は才智人にすぐれた上に、詩文もうまかったし、剣術もなかなかよく出来た。 早くから勤王の志士として諸藩の有志とも交りを結んでいたのだが、元来が性質疎暴 な人物であった。同志を侮り、かつ機密がこの男の口からちょいちょい洩れた様子も ある。しかしこれくらいの事で、大切な同志一名を殺すという事はうなずきかねるの であるけれども捨札には、薩長土三藩をさまざまに誕訴して離間策を企て、その上非 理に財貨を貧り取るというのを理由としてある。一部の史家は、同志の軋礫によるも のと見てもいるが、とにかく疑問の殺害であるだけに気の毒な人である。  それからわずかに二日目に、島田左近と同腹だったというので、九条家の諸太夫を している宇郷玄蕃頭が、肥後藩の堤松右衛門に殺されて、首は松原鴨河原に臭《さコり》された。 ≡二 舞妓君香の養父文吉  目明しの文吉は、見るからに悪態な人物であったが、二条新地に芸者屋を開き、そ の養女の君香という舞妓を、島田左近の妾としていた。したがって、町人どもの間に 文吉の勢力というものは大変なもので、虎の威を籍って、勝手気ままな振舞をつづけ、 悪銭をとってはこれを蓄えて、賛沢三昧な日を送った。  京の御菩提池村の生れで、百姓の子ではあるが、若い時から博徒を渡世として、各 地を流れ歩いた。ついに目明しとなって、ひたすら金のために幕府の犬を勤め、相当 敏腕であった。志士の間では早くから文吉暗殺の話はあったのだが、八月に入ると、 土佐藩の志士達の間に、大いにこの話が持ち上って来た。  土佐の先覚|武市瑞山《たけちずいざん》のいた木屋町の宿所に集まって、いよいよ犬を斬ろうという話 が出ると、斬りに行きたいという希望者がわれもわれもというありさまで「文吉ごと きをやるためにそんなにぞろぞろ出かけて行く訳にも行くまい、こりゃ、抽籔でやろ う」と人を殺しに行く抽籔がはじまった。清岡治之助、阿部多司馬、岡田以蔵の三人 がその選に当たって、三人万歳を叫んで喜んだ。  すると選に洩れて少し不平だった島村恵吉が、 「文吉ごとき犬猫にも劣る奴を斬るに、武士の刀は用いられない、あんな者を斬って は刀の汚れだから、絞め殺す方がよろしいぞ」 といった。 一同、 「そうだ、そうだ」 という訳で、同志の中の上出宗児と五十嵐幾之進というのが、近くの麻縄屋へ細引を 買いに行った。  清岡に、阿部、岡田の三名は、この細引をふところへ入れて出かけ、うまいことを 云って文吉を高倉押小路上るの自宅から三条河原まで連れ出した。文吉もさすがに商 売がら、途中怪しいと思ったので、逃げようとしたけれども、もう一歩でも表へ出た ら仕方がない。三人にぐんぐん引きずられて河原へ来てしまった。 「助けて下さい、助けて下さい」 と泣いて頼んだが、三人は聞こえないふりをして、細引を首筋へぐるぐる巻きにして ちょうど犬を絞め殺すようにして殺した上、屍体を真ッ裸にし、河原で布を曝す時に 使う柱へ縛りつけた。局部などへ釘を打ち込んだりして、さんざんな姿にして引き揚 げた。  しかし、文吉の殺し方は、首を絞めたまではよかったが、その後、釘を打ったりし た事は武士の為すべき事ではないと、のちのち他藩志士の間にはあまり評判はよくな かった。ただ文吉がいかに人々に憎まれていたかと思われる事は、その死態《しにざま》を絵に描 いて、残されているものが諸々にある事でもわかるようである。  捨札は久留米の松浦八郎という人物が書いたというが「右金子借用候者は不及返済 候此之後とても、文吉同様之所業相働候者有之に於ては、其身分高下に不拘、即時令 天訣老也」と結んである。金子の件は島田左近の金を預って、高利に貸していた事を 指すものである。 二四 長野主膳の妾加寿江  村上加寿江はその頃四十五、六、色の白い小柄な、なかなか品のある女で、長野主 膳の妾をしていた。安政の大獄の時には、主膳の後ろにあって、相当な役割も勤めた ようである。これが島原の一貫町に隠れ住んでいる事を、阿波の志士で中島文吉とい う京都の案内をよく知っている人物が臭ぎつけて、目明し文吉を殺して二ヵ月目の、 文久二年十一月十四日の夜に、加寿江の寝込みを襲うた。  これに加わったのが長州から楢崎八十槌以下十余名、土州から小畑孫三郎以下十名、 両藩約二十名の人数であった。十三日の夜に北野天満宮の境内に会合して打合せをし て、翌晩襲撃した。寝ていた加寿江の襟髪を、志士の一人が鷲づかみにして「声を立 てると命がないぞ」 と脅して、戸外へ引きずり出した。  加寿江はさすがに、うろたえ騒ぐような事はなかったが、顔色は土のようになって いた。この女は、江州多賀神社の神主の娘で金閣寺の代官で多田源左衛門というもの に嫁し、二人の間に子があってこれは多田帯刀といった。母子とも長野主膳に、味し て、九条家その他公卿の間に出入し井伊大老の手足となって、志士にとっては一大敵 国の観があったものである。  そのまま大勢の男が、ぞろぞろ一人の女を三条大橋まで引っばって来たは来たが、 誰かが、 「多寡が女だから殺すにも及ぶまい」 というので、それもそうだと、大橋の左側の行詰の柱へ縛りつけて、生き晒しにする 事にした。 「この女は、まだ大好井伊が部屋住みでいた頃に関係があったが、その後お古になっ たのを長野の奴に始末させようとしたのを、その長野が関係して妾にした、犬畜生の ような奴だ、この女の腹から出た多田帯刀もわれわれの仕事には事ごとに邪魔をして いる、彼奴も是非とも斬らねばならぬがナ」 と志士の一人がいう。河原の寒風が針を刺すように吹く中で、 は黙って下を向いてしまった。 こういわれると加寿江      二五 多田帯刀を斬る  加寿江の伜の帯刀はその頃もう二十三、四になっていた。いい男であったが、花柳 の巷に溺れて不身持であった。しかし島田左近、長野主膳などの手先きとなってよく 働いた人間である。  志士が加寿江のところを襲った時に、帯刀もその家にいるものと思い、実は、ここ で発見したら直ぐに斬ってしまうつもりだったが、そこにはいず、加寿江も頑として この伜の居所は告げないので、、ついに家主をも引き出して、 「貴様知っているに相違ない。隠しだてをするとためにならぬぞ」 と脅した。家主ががたがた棟え出しているので、 「あすの夜三条の橋までつれて来い。つれて来なければ貴様首がないものと思え」 とし《さ》|《り》|う  翌晩、どうだましたものか、家主は帯刀をつれてのこのこと三条橋へやって来た。 「それッ」 といって、志士達が取り囲んで、すぐに斬ろうとしたけれども、 「ここではいかにも御所が近いし、昨夜もこの辺でうろうろしていたのであるから、 ひょっとして、幕府の犬どもが臭ぎつけでもしたらうるさい。一つ蹴上の辺まで引っ ぱって行こう」 と、蹴上まで引き出して、ここで首を斬った。手拭で目隠しをして、最初土佐の小畑 孫三郎が一太刀浴びせたがよく斬れない、斬り損なったので帯刀が暴れ出すのを取り 押さえ、長州の誰かが、二の太刀を下ろしてようやく首にした。おまけに髪《もとど》口を、路《り》傍 の立木の枝につるして、ぶらぶらするままの晒し首とした。  母の加寿江の捨札には、   此女長野主膳妾にして、戊午之年以来主膳好計相助、稀成大胆不敵之所業有之、   不可赦罪科に候得共、其身女たるを以、面縛の上、罪一等を減じ候、尤加寿江白   状に依て、好吏名目一々糺し畢、尚此上其役方再応遂吟味、右好吏共逐一厳刑を   可加者也    十一月十五日 とあったが、帯刀に対しては、   此者儀島田左兵衛、加納繁三郎、長野主膳等と、互に好計相働、第一戊午之年に   至り、有志之徒之書面を令開封、渡辺金三郎相渡候より事露顕致し、憂国赤心之   者共、一時地を掃うに至る、其罪実に天地に不可容、其余逐一白状之条々不可枚   挙、伽て其一端を挙げ、天訣を加うる者也    十一月十六日 というものであった。      二六 石部宿の与力斬り  京洛の美女を相手に、色っぽい話に花を咲かせている勤王の志士も、いったん剣を とれば、じつに勇猛簡単に、人の命を奪い廻った。その遣《や》り口には相当惨虐なものが あった。後年、勝てば官軍の地位を得たため、暗殺虐殺のごときは、ひとり幕府新撰 組などばかりがやったように云われるに到ったけれども、事実は以上の実話のほか、 多田帯刀母子に暴行をするの前に、薩摩の田中新兵衛、長州の久坂玄瑞、寺島忠三郎、 土州の清岡治之助、山本喜三之進、堀内賢之進、平井収二郎、弘瀬建太、岡田以蔵な ど同勢二十二名が、石部宿まで追いかけて京都町奉行組与力渡辺金三郎、同格森孫六、 同大河原重蔵の三人を殺した。その時重傷した同心目付上田助之丞も間もなく死んだ。  与力金三郎は、町奉行所中の腕利きとして、老中間部詮勝の命により、常に敏捷 |隼《はやぶさ》のごとき行動に出て、志士の策謀にとっては一敵国の観をなしていた。幕府は内 命の筋あって、これを江戸に呼び寄せたので、文久二年九月二十三日に京を発して下 向の途につき、同夜石部宿に入り、用心をして、各別々の宿をとり、橘屋、佐伯屋な ど四軒へ分宿したのを、前記の二十四名が探知して、四軒に分かれて襲撃したもので ある。殺した三人の首は、わざわざこれを携えて京に戻り、粟田口に臭《さヤり》した。  そのころ俗にカタライ侍と称して道中臨時雇の名儀で帯刀を許されて、勅使のお供 などをする事を商売にしている道中馴れたものがあった。これが往々朝廷の威光を笠 に着てよくない事をした。その懲らしめのためといって、京の相国寺の門前にいた平 野屋寿三郎と、鞍馬口にいた煎餅屋半兵衛という取るにも足らぬ小者を、十月十九日 の夜、長州の寺島忠三郎など八、九名が出かけて三条上る加茂川畔まで引き立て、こ こで二人を一日間|生晒《いきざら》しにした。平野屋などは、その家で斬り殺そうとしたのを、 つ八つの女の子が、手を合せて「おとっさんは助けて下さい」 と泣いたので、斬る事だけは止めたのであった。 七      二七 絵師冷泉為恭  京の雪花の巷には知れていた宮殿古実官位の人物書き、絵師冷泉為恭が恐れ多くも 廃帝の先例を調査したとの嫌疑を受け、典医岡本保徳は関東と通じて、主上に対し神 罰も当るべき企てをしたと、根も葉もない事を云いふらされて、志士浪人に憎まれ、 共に身の置きどころさえなくなって、遠く高野山の麓にかくれたのが、同じこの年の 閏八月二十五日。九条家の諸太夫宇郷玄蕃頭重因が松原鴨河原で所謂天訣を受けた三 日後であった。  しかし、ここもなお、しつこい志士の追撃を避ける事が出来ず、元治元年の春二人 とも浪士のために為恭などはまだ三十を越したばかりの歳で哀れな最期を遂げてしま った。為恭の画風は浮田一薫に似てむしろそれ以上と称され、緻密鮮明を極めたもの であった。晩年知恩院の什物法然上人の四十八巻伝を臨写して一新機軸に向わんとし ていたところであった。  町奉行同心小寺仲蔵は気の小さい好人物であったが、渡辺金三郎が殺されたのを気 にやんで、自殺して果て、高屋助蔵なるものは大小を棄てて剃髪し、行衛不明となっ た。 二八 恋の西郷隆盛  西郷隆盛の話は、やはり君尾からきいた。聞いた私も、まだ二十歳ぐらいだったか ら聞き方が悪かった。どの話もどの話も本筋ばかり辿ろうとして、そのころの社会相 とでもいうべき周囲《まわり》のことをちっとも聞いていない。君尾もとっくに死《ちさち》んでしまった し、今となってみればじつに残念なことである。  大西郷は相撲甚句が上手であった。弟の従道(後の大臣、侯爵)も上手であったが、 南洲の方が肥満していただけに、じつに見事な踊りで、君尾も七十になるまでの長い 芸者生活にも、吉之助さんのような甚句は見たことがないといっていた。  大西郷は酒席では、いかにも無邪気に遊んでいた。そんなところをみると、偉いの やら馬鹿やらちょっと得体のわからない人だった。酒を呑んでも大きい声を出すでも なく、ほかの志士のように元気一ばいに振舞いもせず、ただ静かに邪気なく遊んでい た。  肥った男は清せた女、肥った女は瘡せた男が好きだ、などとよくいうが大西郷はそ の反対だった。肥っていて肥った女が好きだった。ことに象のように肥満している女 を愛したようであった。  そのころ奈良屋というお茶屋があった、後の金岩の場所である。この奈良屋にお虎 という仲居がいたが、非常に肥っていたので、大西郷はお虎お虎と愛していた。芸者 などで大西郷に愛されたものはいないが、このお虎だけは随分可愛がられたようであ る。  大西郷が、いよいよ幕府を討つために京都を出発するということになった。お虎は 別れを惜しんで、京都から大津まで駕籠をうたせて見送った。  大西郷は非常によろこんだ。 「戦の首途《かどで》に虎が送ってくるちゅうは縁起がよか」と大変な上機嫌で、褒美に三十両 出した。その頃の三十両というのはたいした金である。  お虎は西南戦争で、大西郷が死んだと聞いて、ひどく悲しんだが、それから三年し て自分も死んだ。 「恐らく西郷さんから、女でお金を貰ったのはお虎さんだけでしょう」と君尾はいっ ていた。祇園の川端井末の女将のお末は若い時井筒の仲居をしていた。この女も豚の ように肥っていた。  大西郷はお末が好きのようであったが、お末は逃げてばかりいた。井筒の座敷をド ンドンとひびかせて、大西郷がお末を追いかける、お末も豚のような体をもて扱いな がら逃げる。随分おかしかったーと君尾はいう。 「そうして、お末さんが押入れの中にもぐりこんで、押入れの内から戸が開かないよ うにしめると、西郷さんがアア帰ろう帰ろうといって、お帰りになるという風で、い かにもあっさりしていました」  お末はそのころまで大西郷が偉いか馬鹿かをしらずにいたのであった。後にあの甚 句を踊る人が西郷吉之助というえらい人だときいて、「へえ、あの人が  」と驚い ていたという。ここいらにも、大西郷の面目躍如たるものがある。 二九 奇兵隊馬関の遊興  この頃の馬関(下関)は事件の巷であった。維新の大衆読物をみると京都方面にば かり地盤をえらんでいるが、馬関など調べてみたら随分おもしろい位置にあったと思 う。  長州の志士、,土州、薩州、諸藩の志士の会合はみな馬関でやっている。それに地の 利からいっても便利であった。出船千隻、入船千隻、そのころの馬関はなんといって もいい港であった。したがって千石船の旦那衆がもてたにちがいたい。遊女屋で船の 親方と問屋とが幅を利かす町であって、貧乏な志士のようなのは汚ながられるくらい が落ちであった。  馬関の廓は女郎屋と、お茶屋と、置屋と三つから出来ていた。女郎といえばたいし たけんしきのあるものとされて、立兵庫《たてひようご》の髪、重い櫛笄《くしこうがい》、緋縮緬刺繍模様の禰福《うちかけ》、 下着を五枚も重ねて、新造に禿《かむろ》、芸者に封m間、男衆を連れて八文字、塗木履《ぬりぽくり》を踏んで お茶屋に練り込んだものである。だから、芸者などは女郎の付属物としかみられてい なかった。  こういったありさまだから、志士のごときが女郎の客となることは、まあ出来ない こととされた。厄介な手数と、時間と、莫大な金を要する。とても千石船の旦那衆の 向うは張れないので、勢い女郎の付属物視されているお手軽な芸老に向って動いたの であった。  芸者は奴島田、着物は多く奉書の紋付、いかな寒い日でも素足で歩いた。どこまで も地味なつくりであった。そのころ芸者はいっさい客をとることが禁じてあった。も しこの禁を破ったら、女郎から叱られ、ほかの女郎からはいろいろな懲罰が加えられ るーといった風だから、芸者も自然女郎に対して反感をもっていた。そこへ志士な るものが出現したのである。  長剣、短袴、高下駄でめざましい元気をみせた奇兵隊は、馬関新地町に仮寓してい た。そして遊廓の綿勘というのを根城に遊んでいた。この奇兵隊のほかに奉行隊とい うのがあって、勢力を争っていたので、毎夜のように廓で双方隊員の小ぜりあいがあ った。  奇兵隊の高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎、山県狂介(後の公爵、有朋)、花山俊介 (伊藤公の変名)、井上聞多、こういう手合いだから、ずいぶん元気な遊びをやったら しい。稲荷町の林亀という茶屋など、そのころのものが残ってはいないかと思う。  奇兵隊の連中はお茶屋の門口まで馬で乗りつけるので、古い習慣も何もめっちゃめ っちゃにされて、お茶屋ではずいぶん困ったらしい。何しろ、みな暴れん坊だからた まらない。  高杉など漂桿無比、伊藤ですら米吉という芸者が無礼なことをいったといって刀を 抜いたくらいだ。国亀楼の主人が仲にはいって米吉の首をつないだというが、粋人伊 藤まで野暮な刀をぬいたのをみても、ほかのあばれん坊の遊び方が窺える。 三〇 山県狂介と津山太夫  このあばれん坊の中で、割合に高踏的な遊びをしていたのは山県狂介であった。公 爵山県も奇兵隊時代にはよく遊んだもので、奇兵隊士としても一方の利けものであっ た。 「山県はんは変人や  」廓ではそういうあつかいを受けただけ、他の志士とはちが っていた。お手軽な芸者などに手を出さず、廓の習慣通り堂々と女郎を呼び、多くの 取巻きをつれていた。その女郎といっても御職で、千石船の大旦那を向うに回しての 遊びであった。  宮屋に津山太夫というのがいた。千石船の大旦那で、西出孫三郎という立派な男が ついていた。それが、どういう風の吹き廻しか、山県に恋したのである。この津山は、 茶の湯、歌、俳譜のたしなみもあって、馬関では押しも押されもせぬ太夫であった。  ある日津山太夫は、旦那の西出が、ある芸者に手を出したことを聞いた。西出は津 山にとって大切な客である。今は山県という意中の人があるけれども、廓のしきて、 自分の顔、そこで西出と芸者に対して怒ってみせた。西出はいい気なもので津山は自 分に未練があるな、などと甘くなっていた。しかし、どういうものか、山県がぴたり と来なくなってしまった。  津山は気が気でない、奇兵隊の連中にたずねても、京都にいったのだろう、くらい の心細い返事であった。  半年ぶりに山県が、ぶらりとやって来た。津山はうれしいやら、うらめしいやら、 黙って来ない怨みつらみをいってやろうと思っていると、本陣から使いが来た。別室 で、何かひそひそ話をしていたが出てくるなり、 「太夫、折角来たが急用が出来た。きょうはこれで帰る」 と云った。津山は泣いた。 「……あんまりです、西出さんのことでも気を悪くして……」 と怨じかけた。 「馬鹿なッ、おれは武士だ」とたった一言、津山はその時ハッと頭を下げて言葉に詰 ったが、言葉は料紙、硯、   待ったほど遊ぶ日はなし松の内     津山太夫  筆跡におやかに差出すと、山県はにやりと笑った。 「わかったわかった」と本陣へかえっていった。  その翌年、伊藤と井上は海外からかえったが、山県と津山のことを詠んで酒席でよ くこんなでたらめの唄をうたった。   山は山々多けれど、山につく山、下の山:・:  山県と津山のあてこすりである。  いよいよ奥羽の戦場へ山県も向うこととなった。 η 「これは今まで世話になった心ばかりのお礼だ」といって、山県はまとまった金を津 山に渡した。津山は泣きに泣いた。 「せっかくのおぽしめし、有難く頂戴はいたしますが、今日のかなしい思い出に、こ のお金で、きれいに足を洗いとうございます」 と決心を語った。山県も承知したので、宮屋の主人と交渉して、津山もめでたく足を 洗った。  その後、津山は馬関の廓を去って行方がわからなくなった。明治四十年ごろ瓢然と どこからか下関にかえって来て、あじ気ない生活をしていた。  明治四十二年十月二十七日、下関電話として、大阪毎日新聞にこんな意味の記事が 載っている。要点だけ摘む。   津山太夫こと長尾たつは目下下関春帆楼の片ほとりに天理教師として浮沈多かり   し余生を送り居るが、伊藤公が今回露国へ渡航の途中、春帆楼に思い出多き一夜   を明したる際、仲居のお静に向い、「山県からその昔、津山ののろけをさんざん   聞かされたものだが彼《あ》の女はどうしているか」とたずねて今の消息を聞き、「気   の毒だな、今度の帰りには逢ってやろう」といって出発せし由、津山太夫は伊藤  公ハルピン凶難の報をきいて悲嘆久しゅうし、「満州からおかえりの時は是非お  目にかかりたいと念じブ、いましたのに、誠に残念です。伊藤さんは山県さんと私  との事でいろいろ御心配下さったこともありましたが……こんなことになるなら  ば、せめて御出発の時蔭ながらお顔を拝んで、冥途のみやげにいたしましたもの  を……」と涙に目もあかず、云々。 その後間もなく津山も死んだように私は覚えている。 三一 高杉晋作とおその  高杉晋作は、前にもいったように、伊藤、井上、山県などよりずっとずっと先輩で 奇兵隊もいわば高杉の奇兵隊であった。  文久年間、外国の軍艦が馬関を攻撃した時など、芸老を大勢つれて伊勢音頭を唄わ せ、自分は高下駄に蛇の目の傘、ゆうゆうと下田の陣営に乗り込んだという変り者で ある。  いよいよ休戦ということになると、長州の代表として高杉が外国軍艦に使いするこ とになった。伊藤は休戦についてサトー将軍としばしば交渉した関係から軍艦に先着 して待っている。高杉の乗っている船が遠くに見えて来た。 「あれ、誰ありますか」 「家老です」 「おかしい服ありますね」 「あれは日本の礼服です」  サトーと伊藤とはこんな会話をした。サトーがおかしく思ったのも無理はない、高 杉は直垂に烏帽子をかむって、小さな伝馬船に乗り波にゆられながらふらふらとやっ てくるのであった。伊藤も吹き出した。高杉は長州の大家老宍戸備後と名乗り隙あら ばサトーを刺そうと目をぎょろつかせていたので、伊藤は側からひやひやしたのであ った。  高杉は、こういう男だけに平気で白刃の間を往来した。二十四歳の時馬関の廓芸者 のおそのと相思の仲となったが、おそのは赤襟になったばかりの少女であった。高杉 は絶えず幕吏から狙われているので、西に東に隠れ歩いていた。坊主になったり町人 になったり、さまざま変装しては九州に、四国に、京阪に、席あたたまるということ はなかった。この間を、おそのは短刀を常に懐中して、高杉の身のまわりを警戒して いた。なかなか勝気な女で、高杉が豊前小倉で捕えられかけた時など、おそのの口先 きでヤットごま化したのであった。  広島の町はずれの木賃宿でも足がつきかかったが、おそのの機転で高杉は危きを逃 れた。京都では高杉はずいぶん遊んだが、おそのは遊興から足がつかないように、自 分で見張りをしていた。  高杉が肺病で死んだのが二十八歳で、その時おそのは二十三歳だった。四年の間お そのは高杉に伴れ添うていたのである。おそのは高杉が死んだ後長州の吉田村に引っ 込んで髪を下し梅匠尼と名を改め忍辱の衣を纏うた。明治四十二年八月、法身のまま 命を終った。一時いろいろの噂を村人の間にたてられたが、寄る年波の、餓悔しつつ 仏に仕えたということである。  伊藤が、公爵夫人となった梅子と結婚したのもこのころのことである。井上(聞多、 後の侯爵、馨)が馬関の芸老力松を落籍《ひか》せたのもこのころのことである。しかし力松 とは二ヵ月ばかり世帯をもって別れてしまった。  馬関で三流どこの茶屋に竹兵というのがあったが、井上はここでお照という舞妓を 呼んでいた。  井上が長州地方を旅していた時に、十二、三歳の美少年を携えていた。 「あれは見どころのある少年で、拙者の小姓格、預って世話いたしおる」と井上は知 人に会えば語っていた。何がさて、小姓どころか、この美少年こそはお照の変装した ものであった。しかしこのお照とも、そう長い交渉はなかったが、井上の手切金でお 照は博多柳町に店を開いたはずである。 三二 生麦事件の飛ばっちり  文久三年五月十日に、メリケン船のぺムブロiグ号、同じく二十三日にはフランス 軍艦キンシャン号、同二十六日にはオランダのメジュサ号、六月一日には同じくメリ ケンの軍艦ワイオミング号、同五日にはフランスのセミラミス号及びタンクレlド号 と、引きつづき、馬関の砲台から浴びせかけた一件は、前の通り高杉晋作がことごと く奇智を弄して取り片づけたが、今度は薩摩が、生麦事件の飛ばっちりのため、七月 二日に鹿児島湾内で、イギリス軍艦を相手に大戦争をやった。  今の東郷元帥もこの海戦には出陣したし、同じ元帥の井上良馨子爵もこの戦では左 の高股に敵弾を受けて、この傷跡が未だに冬になれば痛み出すといっている。烈しい 戦であった。  前年すなわち文久二年の八月二十一日午後三時ごろ、薩藩の島津三郎が行列を正し て東海道川崎の宿を発し、生麦村にさしかかったところ、横浜からやって来た英国人 のリチャードソン、マlシャル、クラlク、ポラデlルの四人が、馬上で行列の左側 を通ったので薩摩藩士は「引っ返せ」と合図をした。四名が馬の轡を転じようとした 時に、島津の徒目付奈良原喜左衛門が突然「無礼老」と大喝して、抜き討ちに真先き にいたリチャードソンに斬りつけた。左の肩から一太刀、腹のあたりに一太刀充分の 深手を負わせ、他の武士達も一斉に抜きつらねて外人を追った。クラーク、マーシャ ルともに一太刀ずつ、ポラデールは帽子から髪の毛を斬られ、逃げるリチャードソン を森利休というのが、またさんざんに斬りつけた。  それでも気丈なリチャードソンは八町ばかりも逃げた。右腹の傷口から腸が抜出し て馬から落ちたのを海江田武次(後の信義子爵)、奈良原幸五郎(後の繁男爵)など六 名が追いついて、附近の畑の中へ引きずり込んで、皮一枚でつながるほどに首を斬り、 惨殺した。  マーシャル、クラークは、神奈川本覚寺の米国領事館に逃れ、ポラデールは横浜ま で行って、殺されることだけは免れた。  英国は談判の結果この償金として十一万|碑《ポンド》を幕府からとったが、さらに薩摩に対 して遺族扶助料として二万五千膀を要求した。その上、下手人を引き渡せというので、 六月二十七日に軍艦七隻が堂々として鹿児島湾へ入って来た。  薩藩との談判は元より不調、四日目には戦争になった。薩摩の応戦猛烈を極め、二 日から三日四日とつづいた。ついに四日目に、英艦は錨を抜く暇もなく、これを海底 に切離したまま遁走した。薩摩も英国も、この時は互いに敗けたつもりで口惜しがっ たが、後になって薩摩が勝ったのだという事がわかったという珍談がある。  英国は海軍が錨を置き放したという大醜態を演じたが、後に薩摩は無条件でこれを 返却した。当時の新知識達は、 「軍艦が錨を置いて行くのは一国海軍の恥辱だ。これを無条件で返すなどという馬鹿 な事はない」 と笑ったが、薩摩は事実、錨がそんなに海軍として大切なものであるかどうかは知ら なかったのである。  しかし、この事件も結果は、薩摩が十月一日に、リチャードソンの遺族扶助料とし て金七万両(三万弗)を支払って済むこととなった。  私はかつて薩摩の故小牧昌業博士のこの件についての講演を聞いた事があるが、こ の鹿児島湾の戦争のはじまる前に、英国の軍艦はどがどが入って来て薩摩の商船三隻 を捕獲し、いざ戦争となると、素早くこれに火をつけて焼いてしまった。怪しからん といって談判したら、生麦で当方の人を殺しておいて相当な挨拶をせぬからだ。あれ は一体どうする、こっちから要求する事があってそれに応じない場合には、その代償 をとっておいて、さて談判を開くのが万国公法にあるという。こっちではそんな万国 公法なんか知らん、大名行列を乱したものは斬り捨てるに不思議があるかというよう な訳だった。しかし先方では大名行列を乱すと殺されるという事は知らなかったとい うような妙な話になってしまってとうとう償金七万両を払わされる仕儀になったとの 事であった。 三三 伊藤大隈の鞘当て  太平三百年の夢は破られ王政復古。三田尻に学校を起そうと考えた伊藤が、外人を 教師にすべく神戸にやってくると、大変な騒ぎで、神戸の港は外国の兵で埋まってい る。伊藤は英公使パークスに会って、王政復古の機運がいよいよ熟したことを話した。  長州薩州が外国と事を構えてひとしおそうなったが、当時神戸、大阪は志士の集会 所の形であった。  大隈(後の侯、重信)、東久世(伯、通禧)、西郷(隆盛)など、京都、大阪、神戸の 間を奔走して国事を憂えていた。  兵庫に奈良屋という茶屋があった。離れ座敷の一室は豊太閤の桃山御殿の一部を移 したといわれ、建物も数奇を凝らしていた。しかし、その桃山御殿よりもお末という 娘の方が大評判であった。  このお末を張り合ったのが、大隈と伊藤とである。後年政治向きで両者の仲はよく なかったが、維新のどさくさ騒ぎの間に一女性のことからして咬み合っていた。  さすがの伊藤も大隈を打ち負かして、お末を手に入れるには、並大抵《なみたいてい》のことではな かった。お種という腕の凄い仲居がいたが、早くも伊藤はお種に一切を吹き込んだ。 お末もお種の策戦にはかなわなかった。  大隈は、ある夜大西郷といっしょに粉辰で呑んでいたが、お末のことがあるので奈 良屋へいった。廊下でばったり伊藤と出会った。この時、伊藤は、お末の座敷から出 て来たところであった。大隈と一口二口、形勢が変なので西郷が仲にはいった。 「つまらんことつまらんこと」と西郷がいった。  伊藤とお末のことを知って怒ったのは小西新左衛門である。小西は伊丹の酒造家で 奈良屋の旦那としてbいした羽振であった。 「伊藤が何んだ、おれが承知せぬ」 と小西はひどく伊藤を悪んだ。  伊藤は、その翌日、井上といっしょに奈良屋へやってきて、お末を井上にみせつけ ようとした。どうしてもお末がやって来ない。伊藤は大焦れに焦れるがお末は姿を見 せない。  一方では、小西がお末を引きつけて放さない。そして酔をかって伊藤の座敷へ暴れ 込むべくグイグイ酒をあおっている。この様子をみて一番困ったのは仲居のお種であ る。小西にもし暴れ込まれたら、伊藤との間にどんな騒ぎが起らないとも限らない。 そこでお末とも牒《しめ》し合わせて、一生懸命に小西に泣きつき、なだめた。もう決して伊 藤には妙な真似をさせないということを誓ってその場はおさまった。 三四 右団次とお六狂乱  このころのことである。長州のお歴々が藩侯を奈良屋に招待したことがある。その 夜伊藤の肝煎で柳原のお六という芸者を殿様に侍せしめた。お六はややガラガラのお もしろい女であったが、ひどく殿様のお気に召したとみえて、殿様は十日も遊びつづ けていた。  阪東という近侍は、この事を心配して近藤という藩士と、どうしたらいいか相談し た。近藤は美男子であった。主君には相すまぬが、主君が芸者風情に身をやつさるる のは外聞も悪く、いわばお家の一大事である。ここは悪人となって主君のために謀ろ うということになって、近藤がお六にあたった。  お六は近藤の美しさにまいってしまった。この評判がばっと立つと殿様の耳にも入 った。殿様も初めて目が覚めて神戸を引きあげた。  お六はあるべきものがなくなった。殿様の胤であるか、近藤の胤であるか、分らな くなった。近藤とても子供を養育することなどは思いも寄らぬ。思案にあまっている ところへ、その子を貰いましょうという者が現われた。  それは今は死んだが当時の市川右団次、後の市川斎入である。てっきり毛利公の御 落胤と忠い込んで藁の上から引き取りましょうということになったのであった。  さて生れたのは男の子、お六も生むまではいやだいやだと思っていたが、さて生ん でみると、そこは母の情である。何だか人にやるのが惜しくなってきた。しかし今と なっては右団次にやらなければならぬ破目になっている。お六はもう一日もう二日と、 一日のばしに子供を渡すのを延ばした。  いよいよ床をあげることになった。明日はどうあっても右団次の迎えの者に子供を 渡さねばならぬ押し迫った夜となった。 「なんて鬼のような気になったのであろうーこの子を人にやるなんて  ああ、い やだいやだ坊や、坊やー」お六は、ひねもす子供を抱きしめては泣いた。  その夜は雨がふり出した。朝になっても雨はしとしとと降りつづいていた。奈良屋 では右団次のところから迎えがくる時刻なので、お六の住居《すまい》に使いをやってみると、 お六はいない、いくらさがしてもいない。  大変だーというので、奈良屋では若者を八方に出してお六を探させたが、みな疲 れ切って帰ってくるのであった。II-お六は雨の夜、とこかへいとしい子をかかえた まま家出したのである。  母性愛IIお六のこの前後の気持の移り変りは、いかにも母の情を現わしておもし ろい。  さて、困ったのは奈良屋である。右団次の使いには、病気とかなんだとか、適当の 言葉を構えて、取りあえず帰したが、あとの始末をどうするか。  柳原の封巾間に魚駒というのがいたが、これの女房が、お六と同じ日に、同じ男の子 を生んだということか耳寄りな  話に転じてきた。奈良屋から人を仲に入れて魚駒 の子供を所望した。  魚駒も考えてみると、媒酌は一流の奈良屋、相手は千両役者の右団次だ。  魚駒 の子が、お六の子ということになって、右団次に養われたのである。  お六は、とうとう、その夜きり、行方がわからなくなった。 三五 神戸奈良屋の三人娘  このお六、お万についで、柳原の若吉が評判の芸者であった。これはそのころの相 場師で雷光将軍と紳名された安田という男の持ちものとなったが、その前に伊藤が馴 染んでいた。  中常盤《なかときわ》にお国というのがいたが、お高と共に中常盤の双美人と唄われていた。この 二人のうしろには、おやなという海山千年の軍師がいて、なかなか駈引巧妙を極めた。  伊藤は京都から君尾ほか二、三人をつれて神戸に来たが、中常盤でお国を見染めた。 お国がよほどお気にいったと見えて、出発を一日延ばして、京都の芸者もお国もとも ども舞子へ遊びにいった。  この時六百円入りの、紙入れを預けて伊藤は一切の仕切りをお国にまかせた。舞子 の万亀を立つときに「お国、茶代はP」と伊藤がきくと、 「ただ今とらせます」と、主人を呼んで五十円ほうり出した。 「お茶代です、少ないけれど、支払いは別に」と、お国はすましていた。その頃の五 十円は今の二百円にもあたる茶代である。万亀の主人もお国は只物ではないと睨んだ。  これはズッと後の話だが、兵庫六十五銀行の支配人なにがしも、お国のために財産 はもちろん行金に手をつけたことから首になったが、こういうことはずいぶんあった。  この奈良屋は兵庫柳原でも押しも押されもせぬ茶屋であったが、時の力にはかなわ ない。同家の名妓お鍋の子にあたる佐平という主人の代になって、不幸つづきで、と うとう暖簾をおろしてしまった。  少し余談になるが、この佐平に娘が三人あった。とよ、ちよ、ぎんといって揃いも 揃った美人連であった。とよはお蓮、ちよは奈良栄、ぎんは奈良吉と名乗って大阪北 の新地の梶川席から芸者に出た。お蓮は十七、奈良栄は十三、奈良吉は九つ。  神戸の奈良屋の娘が売りだしたというので非常な人気であった。三人とも舞の家に 育ったから、芸の方も素敵だった。  お蓮は姉だけに二人の妹の面倒をみていた。常川といういい旦那も出来たが、何と なく浮き浮きしなかった。常川につれられて神戸にかえり、西常盤に宿った晩、身う け話まで出たが、どうしたものか、お蓮は死を決した。夜ふけて西常盤を抜け出し、 |南京《ナンキン》墓の下に来て宇治野町に出るところにある岩の上にあがり、松の枝に緋縮緬《ひぢりめん》の |扱帯《しごき》をかけて、悲惨な最期を遂げた。  末の娘のおぎんの奈良吉は、十六の春まで大阪で勤めて神戸にかえった。柳原から 出たときに、伊藤の目にとまった。  その後東京ヘ出たということであるが、どうなったか、二人の娘の行方は人の口の 端にのぽらなくなった。      三六 業平朝臣の御気取  その後、伊藤は三条公に従って北海道を視察したことがある。かえりに一行は出羽 路をとって秋田へ入った。三条公は瀬川方、大木参議(喬任)、巌谷書記官(修、一六 居士)は児玉方、陸奥は那波方、伊藤参議の書記官中井弘(桜洲)は山中方に先着し ていた。  伊藤は工部卿であったから、大館から阿仁へかけて巡回していた。  巌谷一六、中井桜洲、三島通庸など廓の鶴屋というので豪遊を極めた。  一六から桜洲へその遊興の割前をもたせてやった手紙が、今も残っている。   頓冷御宿悲御悩みの由、折角御自愛奉祈候   過夜の会計両人分二円四十銭為持上候間御落手可被下候   呉々も宝山空手一騨千金ドッコイ一円残念に存候   今夕は伊藤君御着との事、定めて業平朝臣の御気取にて妹許ゆくや米町の軒の燈   にチラリと見染め、両三日居つづけは四十両ならで四円八十銭なるべし 呵々    九月十三日                         修      中井先生  このころの役人など、ずいぶんのんきなものであったらしい。伊藤は秋田で四日間 遊んでいたが、その会計は二十五円ぐらいだという。  一行が秋田を立って、山形、福島とかえってくる。そこへ神風連の騒動が起って、 電報がきたので、三条公以下一行あわてて東京ヘかえった。 三七 神風連騒動 神風連の騒動(一に敬神党の変) というのは、明治九年十月二十四日の夜十二時を 期して、熊本にいる撰夷敬神の同志百七十名が熊本鎮台を襲撃した事件である。これ は全く政治的の意味を含まず、同志にはさらに野心というものが無かった。ただただ 真純熱誠が暴発した事件であった。  この同志は加屋|霧堅《はるかた》、太田黒伴雄を主としたが、多くはそのころは神官になってい たけれども、剣道名誉のものであった。電信柱の下を通る時は、からだが汚れるとい って白扇をさッと開いて、これを頭へかざして通ったし、洋服を着た男などと、路上 で行き違ったりすると、鼻をつまんで大急ぎで歩く。家へ帰ると、塩で全身を清める という風であった。  熊本には、明治四年すでに藩公が建てた洋学校というものがあり、米国人の教師な どもいて、キリスト教は相当盛んになっていたので、神風連はこれらの人と逢った時 挨拶でもされると袖をばさばさやって悪気を払ったものである。しかし、いずれも礼 儀は正しい人達で、個人的に乱暴するというような事は全くなかった。  それが、同志を七隊に分け、突如鎮台を襲撃した。甲冑のものもあれば烏帽子|直垂《ひたたれ》 のものもある、祭神を背負って行くものもある。年少者は十五、六歳ぐらいの人もい た。  加屋、太田黒の指揮でわずかな同志の活躍は物凄く、妾とねていた種田少将が斬ら れ、安岡権令もやられた。種田の妾は、もと東京で芸者をしていたが、   ダンナハ、イヶナイ、ワタシハテキズ という電報を出したことから、当時ひどく有名になった。福地桜痴が、これを流行歌 にして花柳界では大はやりをした。  はじめは鎮台兵が神風連の襲撃に狼狽したため、ひどく襲撃側が優勢であったが、 何者か二の丸兵営ヘ放火したために、兵舎が焼け、そのため周囲が昼のように明るく なった。神風連は活動は自由になったけれども、自分を敵の前に晒し、その人数がは っきりわかったので、敵は小敵と見て陣容を改め、準備を整えたのである。襲撃老に とって、自分の兵力を敵に知らしめる事は禁物であった。  戦況やや逆転し、神風同志が午前四時、夜の白々明けとなって、ひと先ず蒔崎《ともつツし》台に 引き揚げそれから藩公細川家に立ち寄って、自刃したものもあり、捕縛されたもあっ た。鎮台の種田少将を叩き斬った高津運記、反対派の実学党太田黒維信を襲った浦楯 記、安岡権令をやった吉村義節など、同志中の鐸々は、やがて獄中において斬られた のである。 三八 薄命児前原一誠  この神風連および佐賀の江藤新平一味と、一脈の通ずるものあって、早くより策応 していたのが、長州の前原一誠である。一誠ははじめ彦太郎と称し明治二年には参議 となり、翌三年兵部大輔となったが、九月に突然これを辞任して、故郷へ帰ってしま った。  佐賀の乱の起きた頃は、ただ静かに故山の朝夕に親しんでいた。時の県令中野梧一 に頼まれて長州県下の士族一同に「仮りにも動揺するような事の無いように」と諭書 を発表した。長州人の信頼は、ややともすれば術策の多い木戸孝允などよりは、厚か ったともいう。  この故山に静養する前原の周囲に木戸の放った探偵が出没し、伊藤博文なども、と かく疑いの眼をもって接し、一誠は自然圧迫を感じ、維新以来の自分の死力を尽くし た思い出や同郷の人々にさえ裏切られ行くのを思ってにわかに不平の心が湧いて来た。  ついに明治九年十月二十八日、萩の明倫館を占領し、同志百六十余名を率いて製練 所の小銃弾丸などを占領し、萩を去る十数里、須佐に赴いて、与党数百名を募集し、 「山陰道から東京へ上り、君側の好を除く」という激文を発した。木戸孝允は東京に あって、自から長州に駆け下り、一誠を討伐せんと奔走をした。  一誠は二十九日石見浜田に向って出発したが、再び明倫館に逆戻りをし、三十一日 に、県庁を襲ったが敗れて東に走った。これと相応じて東京では旧斗南藩士永岡久茂 等が、千葉県庁を襲撃して、ここを東京方面の足場にせんと企てたが、思案橋から武 器を運んで船に乗らんとして、これは大した事もなく捕えられた。  一誠の乱は、かねて木戸一派の探偵が行き届いていたために、一戦毎に敗北し、翌 十一月四日には、一誠は同志横山俊彦、奥平謙輔などとちりぢりになって出雲の瓜生 港まで逃げ延びたが、ついにここで捕えられ、英雄の末路悲しむべく、ついに翌十二 月三日、神風連の浦楯記と共に、同志の有力者七名断首されるの悲劇を演じた。 三九 大阪富田屋のお雄 その後もいろいろの話はあるが、私は大阪南地富田屋のお雄の話を少し書いてみた い。  まだ王政復古の宣言が中外に発布されない前のことである。伊藤博文、東久世通禧 の二人は、使節として神戸にいった。そして王政は復古する、近くその事は宣言され るが、あらかじめ政府の変ったことを心得てもらいたいと、外国公使団に向って諒解 を求めた、このかえりに伊藤は大阪に滞在したが、初めてお雄を知ったのであった。 お雄は伊藤との情交から急に有名になったといっていた。  しかし、押しも押されもせぬ名妓としての資格は立派に具えていた。  私が会ったのは明治四十二年の夏で、もういいお婆さんであったが、小柄の、いか にも清らかな美しいところがあった。君尾はもうろくしかけていたが、お雄はまだな かなかしっかりしていた。しかし聞く方の私が、まだ二十一、二の青二才だったもの だから今となってみれば、案外おもしろい話を聞き落しているかもしれない。  豪気堂々大空に横たわる-ー伊藤は得意の頂上に立とうとしている。やがて王政は 復古する、伊藤は外国語も出来、今までの交渉もあったので、兵庫県参事となる。す ぐ外国御用掛となり、続いて徴士参与勅任官三等外国官判事というのになる。大阪府 判事を兼ね神戸在留外人専管を仰せ付けられた。やがて兵庫県知事になった。  お雄の話をきいたのは、二日にわたったが、少しからだの工合が悪いといって寝て いた。寝て話すので、何だか話しにくそうであったが、私の旅程が急ぐので、無理に たのんだのであった。  君尾といい、お雄といい、生きた歴史中の女性は今故人となってしまった。私ごと き青二才でなく、もっと史実に精通した人が聞いておかれたら、明治維新史の裏面に どれほど女性が活躍したかが分ったであろう。男性の維新史はうんとあるが、女性の 維新史はない、ほんとうは女性のための維新史があっていいわけである。直接に間接 に、花柳界の女性といえども維新のために働いていたのである。私はそのつもりで聞 いた話であるが、聞く私の予備知識が足りなかった。何度も繰り返すようであるが、 今日となってはいかにも残念である。  そこで、いよいよお雄の話に移るがこれからの話はお雄の言葉をそのまま記述した い、ただし私は大阪弁は出来ないから、東京言葉に翻訳する。井上、伊藤のほか岩崎 弥太郎という豪快な人物が出てくるので興味が新しくなってくる。 四〇 田中光顕さん これからは、今は死んだが大阪南地富田屋お雄からきいた話である。 自叙体にする。  明治二年の暮、私が二十三の年、初めて伊藤さん(公爵、博文)を知りました。  お座敷は南の九郎兵衛町の「坂なつ」でした。木戸さん(孝允)をはじめ、長州藩 の方々十人ぐらいの御宴会だったと思います。その酒の席で羊嚢《ようかん》色の羽織を着て冗談 ばかりいう人がいました。その人が伊藤さんであることはちっとも知りませんでした。  芸老は、後に尼さんになりましたお千代が小縫といって売り出している盛り、それ に久鶴、お初、お徳など一流がずらりといました。すると、その羊嚢色の羽織がしき りに私に杯を下さるのです。私もツイいただき過ぎまして、少しほろ酔気味でした。  宴会がすみますと、網島に藤田伝三郎さんの御屋敷があって、田中光顕(伯、後の 宮内大臣、現存)さんが、借りて住んでいられまして、田中さんはそのころ兵庫県権 判事大蔵少丞戸籍頭という、恐ろしい長い肩書のお役人でした。  その田中さんの網島へゆこうと、羊嚢色の羽織さんが誘われますので、仲居のお久 と三人、九郎兵衛町の深里の浜から船にのりました。すると、お久には、もう金が食 べさせてあったとみえまして、船の中で私にいろいろなことを申します。  その時に伊藤さんということを初めて知りました。伊藤さんなら、さっきお座敷に いた小縫さんの客であったものを  ああ悪いところへ来た。と思いましたがもうあ との祭です。船は川筋をずんずん下ってゆきます。どうにもしかたがなくなりました。 ままよ、ゆくところまでゆけ、先方までいったらなんとか逃げられるだろう。と、腹 はきめましたか1後悔、贋《ほぞ》を咬むとでも申すのでこさいましょう。お腹まで痛くな ってきました。  御屋敷について、座敷に出ますと、お久が根気よく口説くのです。私は、 「小縫さんの客ですから、まっぴら御免蒙ります」ときっばり断わりました。  伊藤さんは、恐ろしい顔をされて脅されます。 「いい出したからには、おれも男だ。刀にかけても  」それでも私は頑としてきき ませんでした。 「さっきも申します通り、小縫という人があるのに、そんな事になっては、廓で何か あった時に、私は立派な口が利けません。平にお断り致します」一生懸命でしたが、 お久は二十二や三の私をそのままにはしておきませんでした。 「それはよくわかっています。しかし決して、世間に知れるような、そんなへまなこ とはしません。ここのところは、うんと承知しなさい」と泣くように頼みます。  そこへ田中光顕さんがはいって来られました。この様子をみていた田中さんも驚か れたでしょう。 「なんだ、騒々しいじゃないか」 「貴公が知ったこっちゃない。あっちへ行け行け」と、伊藤さんは手をふって追い出 そうとされる。 「この家は拙者の住居だぜ。それに城を明け渡せというのか」と田中さんも頭をかか えました。この晩の田中さんのてれ工合は今でも目に見えるようです。 その後、 四一 内海忠勝と職人の娘  二、三度伊藤さんに神戸につれてゆかれましたが、私のために、小縫はま るで相手にされませんので、その後は義理を立てて、伊藤さんの御座敷には出ないこ とにしました。そのうちに伊藤さんは、南地天王寺屋の房鶴に関係されましたから、 自然私の方へも疎くなってまいりました。すると、ある晩のこと、房鶴のいる座敷に、 知らぬ顔をしてきてくれというしらせがありました。私も変な御座敷もあればあるも のーと思いつつ行ってみますと、 「人にいっては困るが、おれは神戸のある職人の娘を見染めた」というお話しなんで す。御自分でいろいろとそのいきさつをお話しになりました。 「その娘はお時というのだが、お前や、房鶴よりいい女だ。おれの側におきたかった が内海が欲しそうじゃったからやってしまった」と笑われました。内海というのは内 海忠勝さんです。  内海さんは長州ですが、なんでもお若いころは吉田といったとかいう話で「吉田吉 田」と呼んでいる方もありました。のちに兵庫の方で監獄のお役人をしていましたが、 長崎の県令になって段々御出世をなさいました。明治三十三年でしたか、貴族院の議 員さんになりすぐに桂太郎さんが内閣をおやりになった時、内務大臣をやりました。  その後、しばらく伊藤さんともお目にかかりませんでしたが、その翌年の十二月に 私にとっては大変な騒ぎが持ちあがりました。  忘れもしません、朝から霞《みぞれ》が降っている陰気な日でした。私は炬燵《こたつ》にあたってぼん やりしていますと、お雪という仲居が、炬燵にはいってきました。お雪というのは富 田屋でも腕利きの評判者でした。あたりの様子をそっと見て私に申すことには岩崎弥 太郎さんが、大変な執心である、金になるがどうだろうというのです。私も驚きまし た。岩崎さんといえば今の三菱をこしらえあげたえらい人ですが、その頃はまだ大三 菱というわけには行かないが  もう例の九十九商会というものをやっていられたと 思います。土佐の小参事というもので、大阪の留守居役をした事がありましたが、あ の人の太っ腹なことはかねて評判ではありました。三十六、七で、男ぶりも相当、そ れになかなか学問が深いんだという話でした。  土州藩で持っていた船が、明治も三年となっては少し荷厄介で困ってしまって、大 阪留守居で藩のお金の事を扱っていた岩崎さんにこれを任せて、そこで岩崎さんが、 運漕をはじめたのです。土佐の殿様の山内容堂さんという人が、江戸の方で大変派手 な遊びをしているという噂が、京都にまで伝わっていましたけれども、藩のふところ 具合は苦しいんだとみなさんお集りの席などで、ひそひそ話をしているのを聞いた事 があります。  これをうまく岩崎さんが切り盛りして、どんどん商売をやる。藩の金はお札などに して他のまだまだ困っている藩へ高利で渡してやる。御維新の戦争の後で、みんな閉 口している時ですから、これが大そう利益になって、自然岩崎さんのふところも大変 なものだったらしいのです。  土佐の後藤象二郎さんというのが尻を押しているし、岩崎さんがまたなかなか抜目 がない。この時分、お酒の席で岩崎さんの話がよく出ました。なんでも若い時分 といっても十五か十六ぐらいの時の話でしょう。お父さんが藩の村役人と喧嘩をして 牢へ入れられた。それには郡奉行の何とかいう人もぐるで、ひどく酷い目に逢ってい るという便りを、そのころ、江戸で勉強している岩崎さんへ知らせてくれた人があっ たので、岩崎さんはその知らせを受け取ると、その晩のうちに江戸をたって野へねた り山へねたり、ほとんど乞食同様になって土佐へ戻った。そしてすぐに奉行所へ掛合 ったがどうも話のらちが開かないというので、奉行所の門柱へ「役人が賄賂をとって 勝手な事をするのは怪しからん」と墨で筆太々とこんな事を書いた、翌朝役人がこれ を見つけて削ってしまうと、夜になってまたそっと出かけて書いて置く、毎晩毎晩、 繰り返し繰り返しこれをやって、とうとう、この子供の弥太郎のしつこさに驚いて、 お父さんは許したが、弥太郎は、城下の周囲四カ村内に住んではいけないと所払いに なった。「彼奴のその大胆としつこさにはかなわん、あれでなくちゃ商売は出来んな」 と、伊藤さんなんか、この話をきいた時に大変感心していました。 四二 岩崎弥太郎の恋  岩崎さんは、翌年の明治四年、あの廃藩置県という時に、大阪御留守居も会計方も やめ藩から預っていた船も、みんなお返しして、九十九商会というのもやめましたが、 それでも懐中に余っていた八万両とか九万両とかいう金を、みんな綺麗さっばりと投 げ出して、土佐の士族の困らぬような資本金にしたくらいですから、私といざこざの 起きたのはこの一年前の話ですから、お武家としては不相応なほどのお金が吟心ってい たのでしょう。なにしろあの有名な土佐の坂本龍馬という人が、自分で苦心してこし らえた土佐の海援隊というものを、そのまま岩崎さんに譲り渡したというくらいの人 物ですから、日の出の勢いで金の出入も随分大ぎそうでした。なんにしても富田屋で は上客の随一で、さかんに札ビラを切って遊ぼれるのですから、本来なら一も二もな くいうことを聞かねばなりません。現に思い焦れているような妓も沢山あったのです。 しかし、妙なものでどういうものか私は虫が好きませんでした。 「岩崎さんは、虫が好かないからいやです」とはっきりお雪にことわりました。お雪 は鉄砲玉を食った鳩のように、びっくりしていました。それは全くびっくりするのは 無理のない話で、日の出の岩崎さんをことわるなんて、馬鹿か阿呆と思ったにちがい ないのです。  もっとも、私も二十三、四、売り出しの盛りですから、なにも岩崎さんをお客にし ないでも、降るほとお客はあり、おもしろいほとお金が儲かっていましたから  な あンだ岩崎くらい  と成りあがり者扱いをしたわけでした。      四三 噛み切った記念の夜具  すると、その夜しらせがあったので、なんの気もなしに出てみますと、 御座敷なんです。 岩崎さんの 「伊藤に関係したのはお前だったな」と、もういやなことをいわれるのです。だから 虫が好かないンだ  と胸のうちで思ったことです。  金はいくらでもバラ撒くという遊び方ですから、岩崎さんのもてかたというものは たいしたものでした。その晩もおかしなことがありました。 「そんな乱暴なことはきらいです。御免なさい」と私は帰ってまいりました。  その晩、私が帰った後、岩崎さんは富田屋の浜座敷でぽんやりしていられました。 外には塞がなおも降りつづいていました。仲居のお雪が岩崎さんの心持を察してか、 「お寒いこと。炬燵にでもおはいりなさいませ。曲らぬ枝を無理に擁めるのは趣のな いもの、曲るものは、そのうちに自然に曲りますもの」と慰めたそうです。しばらく すると、 「ああつまらん」と、岩崎さんが溜息をつかれて炬燵にはいられました。お雪はこれ をみて、あの豪傑の岩崎さんが、こんな弱気をみせられるなんて、よっぽどドウかし ていられるとしみじみ感じたそうです。  お雪が出ていった後、岩崎さんは炬燵の蒲団に頭を埋めていられましたが、私にふ られたのが、口惜しかったか、たまらなくなったのか、覚えず夜具を噛み切られまし た。  この話は、みんな、あとでお雪からきいたことで、お雪も岩崎さんが夜具を噛み切 るほど、思い詰めているのだから、いくら虫が好かないでも真情は買ってやるものだ と、私を責め立てました。  その夜具は記念のために五、六年とってありました。 「お雄も随分罪な奴だ」と、岩崎さんも、よくその夜具を見ては笑われたことです。  何にしても、こう様子が迫ってきては、このままではすみません。お雪がうまく采 配をふったのでしょう、岩崎さんから、大枚のお金が出て、それが富田屋の女将の手 にわたる、話が面倒になる、抱えられているかなしさはドウにもいたしようがありま せん。とうとう私は岩崎さんのものになって岩崎家の定紋のついている黒紋付を一か さね貰いました。 四四 生疵の井上聞多 それからというものは、岩崎さんは息を吹き返したように元気で、 しかも夢中です。 毎日毎夜遊ばれますし、ほかのお客もまた岩崎さんの向うを張ってくるので、富田屋 も大変儲かりました。毎日芝居にもゆけば散財もする。お金を下さるから相場もやる。 栄耀栄華というのは全くこのころの私でした。  その頃、築地の瓢亭というのに侍が集ってごろごろしていました。ある晩、そこか らしらせがあったのでまいりますと  それが大変なことになりました。  お座敷で四、五人の芸者と一緒に陽気に騒ぎましたが、私が便所《はぱかり》にいってお手水鉢《ちようずばち》 の水を手にかけようとすると、出しぬけに後から、 「おい、お前が岩崎の女か。おれのいうことを聞け」と首に手をかけた人があります。 手にかけた水を切って、 「となたり」と、見あげますと、総髪の侍、首筋には血が垂れそうな生疵  私は、 キャッといったまま気を失いかけました。全く廊下のうすくらがり、そこへ出しぬけ に刀の創だらけの侍、うしろから抱きしめられたのだから、びっくりするのも無理は ありますまい。私は、その晩は、髪は潰し、友禅の大模様を着ておりました。  肩の手をふり離そうといたしますと、その侍が「おい、井上をしらないかい」とい われます。ははあ、この人が長州の井上聞多(侯、馨)さんかと思いまして、一緒に 御座敷に戻りました。 「あなたの生疵にはびっくりしましたよ。全体その疵はどう遊ばしたのです」とおた ずねしました。 「この疵か。これは長州の袖付橋という処で、反対派の奴に膳《なます》のように斬られたのだ。 おこのみなら四十三針縫ったのをみんな見せてやろう」とおっしゃいますから、 「いえ、もう先刻《さつき》びっくりしただけで沢山です」 二度は死んだが、まだ娑婆に未練があると見えて生き返ったのだ。お前のような美 しい女でもみて楽しめって云うことなんだろう」とお笑いになりました。  そのころは新聞なんて、今日のようにありませんし、私どもは王政復古のことなど、 ロから口で承知するくらいのもの。井上さんの袖付橋の御災難など、てんで存じませ んでした。この時まで、まだ刀創で全然治ったわけでなく、生々して見えたのでござ います。  これも後で聞いたのですが、井上さんは何しろ長州の高杉晋作さんや久坂玄瑞さん なんかと一緒になって、文久二年の暮れに、江戸の品川御殿山の異人館に焼討をかけ たり、この袖付橋で怪我をしてからしばらくは別府温泉へ行って、駕籠屋になってい たなどというくらいでごく荒っぽい元気のいい人でした。どうもどこか男らしい武士 で、声が大きくて、その後よく私はお座敷で、なにやらわけのわからぬ歌を、座敷中 割れ返るような声で唄われて、困ったものでした。  ずっと後になって、 「井上は背中になにか文身《ほりもの》があるはずだ、貴様見たか」 なんかと、云われましたが、これは私も見ませんでした。いつ文身をしたのか、それ がなんであったか、私は知りませんが、あのざっくばらんな方も、御維新後はとても これを隠していたとの話でした。 四五 富田屋の大活劇  さて、この夜、井上さんにいろいろと申されました。しかし私は岩崎さんに義理立 てをしておことわりしましたが、井上さんがなかなか承知されません。 「生意気な」と刀をスラリと抜かれましたので、私はハッと気が遠くなりました。ま ったく、あの時ばかりは斬られた! と思いました。  とうとう井上さんと妙なことになりましたので、これが先刻申す大変な騒ぎの原因 となったのでございます。  五、六日たってのことです。富田屋の奥座敷で、土州と長州の大宴会がありました。 六十三のこの年になっても、この晩ほど苦しい恥かしい思いをした事はございません よーと申しますのは、井上さんと私のことを、岡本健三郎さんか例の仲居のお雪と グルになって焚きつけたものです。  岡本健三郎という人は、土佐の海援隊といって、見廻組頭をしていた旗本の佐々木 只三郎とかいう人に京都で暗殺された坂本龍馬さんのやっていた土佐海軍の人で、あ の御一新の騒ぎには坂本さんと一緒に方々奔走して歩いた立派な志士だといっていま したが、どうも、どうした訳か私どもの間では評判がよくなかったのです。  岩崎さんは火のようになって怒ったらしい、それも無理のないこと、全く私が悪か ったのです。  そんなこととは露しらず、私は御座敷に出ました。土佐方は坂本さん、岩崎さん、 いろいろの顔が見えます。長州方は木戸さん、井上さん、伊藤さん、いろいろの顔ぶ れでした。私から申せば、伊藤さんも岩崎さんも、井上さんもみんな関係筋で、それ に岩崎さんの顔色が、日頃と違っておりますので、ひやひやしていました。  だんだんにお酒が廻ってくる、みんな陽気になっているうちにどうも岩崎さんのと ころだけが17ーンとして、何だか変な気味合なんです。私も、はしゃぎながら、 岩崎さんの方へ気はとられていました。  すッと岩崎さんが立たれた。私の胸はもう早鐘をつきはじめました。岩崎さんはズ カズカと井上さんの前にいリて、 「おい井上、貴様に今遣るものがある!」と、破鐘のような声。  満座の人々は何事が起ったかと、井上さんと岩崎さんの顔を見くらべて居ります。 井上さんが、返事をするもしないも1寸分の猶予を与えず、岩崎さんは襖をあけら れるとかねて用意がしてあったと見えまして、長さ五尺もあろうかという大きな大き な婁斗《のし》! 「品物はこれだッ。くれてやるから受け取れッ、井上!」と、その大璽斗を私の背に べったりと貼りつけられました。喫斗には糊が一ばいついていました。  私は真青になって逃げ出しました。お座敷では、「井上の腰抜けH」という声、「岩 崎を逃がすなヅ」という声。物の割れる音。人の叫び声ー  今までの陽気さはどこへやら、刀の音までしたような気がして、私は小さな一間に ガタガタ陳《ふる》えていました。  ちょうど、そこへ西郷(隆盛)さんが、木戸(孝允)さんに用事があって訪ねて来 られました。ところがこの騒動です。すぐ二階ヘ上って来られて、まあまあまあと仲 におはいりになりまして、ドウやら機嫌が直り笑い声さえ聞えて来ました。階下《した》で私 はホッとしたことです。  岩崎さんは、手順がきめてあったと見えまして、浜座敷で、紀の庄の初枝というの を呼んで、この騒ぎを笑っていられたということです。      四六 井上、お雄、誓いの一言  こうなれば私も意地ずくです。岩崎さんから貰った紋付を一かさね、すっかりお返 しいたしました。考えれば考えるほど口惜しい。大勢の前で赤恥をかかされたかと思 うと、人前に出られないような気がします。今となっては井上さんを頼るほか、力に する人もなくなってしまいました。そこでその夜、宴会がすんでから、 「井上さん、今夜のことは一生忘れませんよ」といいますと、井上さんも口惜しかっ たと見えて、 「うむ、おれも一生忘れん」とおっしゃいました。  そこで、私も考えたことです。人様にも富田屋のお雄といわれる私、それが、こん なことで顔を潰されては、井上さんとも手を切ってしまわねばなりません。 「井上さん、私はどうしてもあなたとお別れ申さねばなりません。そしてつまらぬ私 の顔でも立てないことには、この稼業がやってゆけません。私もお雄です、今後どん なことがあってもほかの男の方と浮き名をうたわれるようなことはいたしませんから、 ここのところはあなたもよッく、お含み下さいまし」  井上さんも、私の話に感じられたのでしょう。「うむ、この井上も武士だ、お前に こんな苦労をかけたからには、おれとてこの大阪で又と女はこしらえない。このこと は誓っておく」こう立派におっしゃいました。私もさすがは井上さんだ、お侍は堅い ものだと心中うれしく思いました。  話はそのまま進めばいいのですが、飛んだことが持ちあがったものです。こんなこ とがあって二、三日してのこと、私は二、三人の芸者と客につれられて坂町の坂三と いう料理屋へまいりました。すると、この家へ房鶴が来ているのです。この房鶴は伊 藤さんと関係のあったはずだのに、お客は井上さんだというのです。しかも二人ッき りです。私はかっとして座敷に飛び込んでやろうかと思いましたが、それもはしたな く、思い返して、その晩は口惜しまぎれの酒をあおづて引き取りました。  それからというものは、寝ても覚めても口惜しくてたまりません。井上さんも武士 だとおっしゃった舌の、まだ乾かぬうちにモゥ房鶴に手を出していられる。あまりと いえばあまり、私としては生死の境を通ったほどの目にあった井上さんである。あの 騒ぎのあとで一生忘れぬ、と誓われた言葉が今はうらめしく、泣くにも泣けず、じり じりしながら井上さんに会うのを待っていました。 四七 井上の面上、 お雄の青疫  そのうちに、築地の瓢亭で宴会がありました。十二人のお客でしたが、その中に井 上さんのお顔が見えます。藤田さんのお顔も見えます。  藤田さんは御承知の通り長州萩の人ですが、無暗に斬ったり張ったりの事はしない。 黙ってじみにしていらっしゃいますけれども、どこか頼もしいところがあって、私ど もはよく「藤田さんは今に大金持になる人です」などと話し合った事があります。こ の時分にはもう商売人として、御歴々を対手に立派な身分だったと思います。西洋の 靴を真似て、これをこしらえ出したのは、この前年でしたか翌年でしたか、なんでも そんなに遠い事ではなかったと思います。  房鶴もその席に来て居ります。私は気が気じゃありません。井上さんの方を睨みつ けているとなんだかお尻が落ちつかない、そわそわしていられるのです。  藤田さんが、横になってしまわれましたから、風邪を召さぬ様にお世話している内 にふッと井上さんの姿が見えなくなりました。房鶴もまた、いつのまにか姿が消えて いました。  あまりといえばあまり、何度くりかえしても、あまりといえばあまりの仕打です。 私も富田屋お雄、このままにしては名折れも名折れ  もう腹に据えかねましたから、 二人の行方を探すと離座敷にいることがわかりました。  さッと襖をあけると、井上さんはびっくり、房鶴は向うの襖をあけて逃げてしまい ました。私は立ったまま井上さんを睨みつけました。 「この、お雄の顔をどうして下さる、井上さん!」 「そう怒るな、まあ坐れ」 「井上さん、廓の意地というものは、あなたも御存じでしょう。私は揮《はぱか》りながら大阪 では富田屋のお雄と、少しは名も知られています。是非顔を立てていただきましょう ……武士だとおっしゃったお言葉に対しても」  井上さんは笑い出されて「そう野暮なことはいうな、そんなことはもう止せ止せ。 お房もあっちにいったし、そうガミガミいわないでもいいじゃろ。怒るな怒るな」と、 てんで取り合われないものですから、私はなおさらいきり立ちました。 「何です、侍らしくもない。お雄の顔を潰されたからには、あなたの顔も潰してあげ ます。井上さん、お雄はこんなもンです」と井上さんの顔にプッと疾をひッかけまし た。  武士の顔に疾を吐きかけたのです。私も抜き打ちは覚悟の前 「そう怒るな、おれが悪かった」と井上さんは紙を出して、自分で疾を拭きとられま した。それをみて私、あアあ、井上さんはえらい人だ。雷御前といわれたほどの滴癖《かんぺき》 の強い人、その人か女のことては怒られない  さすかに大きい人物だとつくつく思 いました。 四八 伊藤、房鶴、 珍な道行  井上さんも、私に対する意地もあったでしょう。また房鶴もなにかれと煽《おだ》てたにち がいありませんが、間もなく房鶴を落籍《ひか》して、東京ヘつれてゆかれました。  このことが、井上の奥さんに知れてやかましくなったものですから、間もなく房鶴 を嫁にやられるようなことになりました。  こんな調子の女ですから、嫁にいっても折合のよいわけがありません。すぐ戻って 来ましたから、下役のところへ預けておかれました。  昨年(明治四十一年)、富出屋にいました文光を東京新橋の大阪家から出そうという ので、私がつれてまいりましたところ、伊藤さんが、御馳走しようというので、品川 のある方の別荘にとまりました。その晩伊藤さんが、遅くまで起きていられて、昔話 をされました。  私もいろいろ御相手をしているうちに、房鶴の後日讃とでもいうことをお聞きした のです。 「それ、お前か知っている天王寺屋の房鶴という女だ。井上かつれてきた女さ  あ れを井上が下役のところに預けておいたからちょっと失敬したさ。というのは井上よ りおれの方が房鶴とは早いおつきあいだからね」  伊藤さんのお話をきいていながら私も昔のあの当時  岩崎、井上、伊藤、みなさ んの卍巴《まんじともえ》時代を思い浮べました。 「ある晩のことだ、房鶴が散歩しようというから、おれも一緒に出た。房鶴の奴、い ろいろの物を買いおる、次第に風呂敷包みが重くなるのじゃ。気の毒で見てもいられ んから、おれか持ってやろうと受けとった  」 「御前も、相変らず御親切ですね」と私も半畳を入れたことです。伊藤さんという方、 あんなにえらくおなりでも、こういうところはサッパリしていました。そしてこうい う風に持ったと、風呂敷包みを両手で右肩のところへ持ち上げる真似までなさるもの ですから、文光も笑いこけました。 「屋敷へかえると奥(梅子夫人)か、少しは外では慎しめ  とこうなんだ。これは ちょっとおれも弱った。婦人関係のこととは察したが、ドウも話の輪廓がハッキリせ んから、お前は何か勘ちがいしてはおらんかというてやった。    妾《めかけ》をおかれるのがイケません  とこういうのだ、はてな、誰か房鶴のこと を焚きつけたなり と思ったので、おれは弱味をみせてはならん  何をいう、伊藤 博文のことは、お前に頼んだか知れんが、妾のことは頼んだ覚えはないぞ。    妾はいいです。しかし井上さんのお古を授かって喜ばれるのは体面にかかわり ます。しかも大道を、女のお供をなさって、おまけに、風呂敷包みを昇《かつ》がれるのは体 面にかかわります  とこう申すのです。お慎みなさい  。  これには、おれも参った。正にお面と来た。それよりも誰がいいつけたか不思議で ならぬ。    全体誰からそんなことを聞いたP    誰からでもありません。あなたのうしろから見て歩きました。  おれも汗を流したよ。お雄、昔は元気一ばいで、こういうこともやったものだが、 お互いに年をとったのうーー」と、その晩、いろいろの昔話でございました。      四九 築地梁山泊の豪傑  お雄の直話《じきわ》は、まずこのあたりでおしまいにして、舞台を東京の方へ引き戻すこと にしよう。  前にも述べた通り神風連の騒動が鎮まると、間もなく前原一誠の事件が起り、やが て西南の役となった。  西南戦争といえば明治も十年であるが、まだまだ維新の空気は脹《みなき》っている。  桂小五郎の木戸孝允は十年の戦争半ばに六月二十五日年四十五で、京都の別荘に病 没する。大久保利通はその翌年参朝の路上、島田一郎等に暗殺される。  伊藤も今までは先輩が多かったが、次第に頭があがって内務卿となった。  十五年には憲法政治を行うという議が定まり、伊藤は洋行して、独逸《ドイツ》でグナイスト について研究をする、英国の憲法をしらべる、填太利《オ ストリア》ではスタインに学ぶという風で、 諸外国の政治を調査するのに忙しかったが、一方にはまた、風流にも忙しかった。  まだ維新の空気の濃厚だったころ、築地のいわゆる梁山泊《りようざんぱく》は最も聞えていた。御 留守居役から若年寄になった、戸川播磨守の旧邸である。  築地の梁山泊といえば、豪傑の集合所として誰もが承知していた。  隠然政治の中心をあつめた形であった。  その顔触れは大隈、伊藤、井上をはじめとして、副島種臣、薩摩の五代友厚、渋沢 栄一などで、維新時代の豪傑もちょいちょい顔を出していた。  この梁山泊の連中は、烏森の浜の家を根城としてよく遊んでいたものである。伊藤 などはこのほかにさかんに占原通いもやった。馬へのって、供をつれて、それに太政 官の提灯を持たせて繰り込んだものである。これらの連中の馴染みは金亀楼で、店の 前には馬繋ぎの場が出来ていた。この楼《うち》の華魁《おいらん》は、大てい一枚絵の錦絵になって出た が、小太夫、瀟湘《しようしよう》、今紫などの名妓が覇を争った。  伊藤、井上、五代、渋沢、みなよく飲んだが、この豪傑のうちで敢然として脂粉の 気を近づけなかったものが二人あった。  それは大隈重信と副島種臣であった。  副島はことにひどく武張.リていた。  蓬頭垢面、風呂には一ヵ月もはいらないくらい平気で、蛮骨稜々、梁山泊名物であ った。  伊藤や井上は、これをおもしろがってさかんに誘い出すけれども、副島は応じない。 やっとのことで、この仙人を浜の家へ引っ張り出したが、副島の歩いたあとは拭いて 歩かねばならぬというほど汚ない。  酒を飲んで酔うと何かわからぬことを庖障する。  よく聞くと詩吟らしいといった調子で、芸者仲間でも、評判の変りものになった。  後に浜の家の女将になったが、そのころ小浜という名で武蔵屋から出ていた芸者が あった。  評判の美人で、それに修羅場(話す調子)が妙に人をひきつけるのだった。  どうしたはずみだったか、木石に花が咲いて副島がまいってしまった。  伊藤を蔭に呼んで、 「あの芸者をとりもってくれ、すっかりまいった」と副島がいう。 「どうだ、わが党に加盟するか」 「するッ」 「あんな堅いことばかりいうな」 「いわぬッ」  そこで伊藤が小浜を別室に呼んで、 「どうだ、副島がお前にまいっているが、お前に気はないか」 と砕けた調子でもちかけた。  小浜も驚いた、無論驚いた。汚ない、汚ない、乞食のように汚ない副島。 「いくらなんだって、副島さんだけは許して下さい」 「その副島だ、今こそあんなだが将来きっとえらい人物になる。日本の政治を左右す るほどのえらい人間になる。第一あの汚ないのがえらい証拠だ。一つ考えてくれ ー」  小浜はしばらく考え込んでいたが、 「そうまでおっしゃるなら私に副島さんを貸して下さいませんか。一週間だけでよろ しゅうございます、別に煮ても焼いても食べませんから」 「そいつはおもしろい、よろしい一週間だけお前に貸そう」  この事を副島に話すと、彼も、 「うむ、一週間預けられよう、おもしろい」 ということになった。      五〇 シナ人奴隷事件  この副島種臣という人物は面白い。ことにこの人の筆蹟を私は好む。墨蹟にはその 人の個性がよく出るものだが、副島の字には面目が躍如としている。経学にも長じ漢 詩もよくし、至誠己を持して堅く、じつに立派な大人物であった。この人が恋をした のだから面白い。  佐賀の藩士で、副島家の養子になったのだ。神童の聞え高く、なんでも若くして藩 の学校の先生になった。それに藩主鍋島閑隻公にも覚えめでたく、いろいろ進言する ところがあった。  漢学ばかりではなく洋学もやった。宣教師フルベリキを雇って佐賀藩が長崎へ塾を 開いたことがある。副島はこの塾の大将になって、自分も洋学をやった。もっともこ の前から高野長英などの書いたもので、研究はしていた。  明治元年が四十一歳、働き盛りだ。参与ということになって、従四位か従五位を賜 わろうとしたが「なかなか以て、叙位など恐れ多い。微臣まだ何の功を仕らず」と辞 退したほど変っていた。  翌年には参議になった。お上から御剣を賜わり、正四位に叙せられた。今度は有難 く頂戴した。  副島が、めきめきと手腕をみせて男をあげたのは、外交関係である。樺太の境界に ついて面倒な問題が起ったのでホシェット湾に赴いた。そして岩倉具視が欧米にいっ たので、その後を襲うて外務卿になった。何でもこのごろ有名なシナ人奴隷事件とい うのが起ったのだ。  この奴隷事件というのは、秘露《ペル 》の商船マリアルズ号がシナ人を奴隷として売買する ために、うんとこさと積み込んで漢門《マカオ》を出帆して横浜に寄航した。  この秘露《ペル 》という国は未だ条約国ではないので、日本の法に従え、シナ人奴隷を処分 する権利は日本政府にあると副島が言い出した。人道問題として敢然として起ったの である。  世論は喧ましくなって来た。なんでもかんでも外国第一、外国文明に溺れている当 時として、たとい小国なりとはいえ、秘露《ペル 》を向うにまわすことは恐ろしいというので、 ずいぶん反対があった。副島は、そんな事に頓着なくさッさと奴隷扱いされているシ ナ人を一人残らず解放してしまった。これには日本全国はもちろん外国人もあッと驚 いた。日本の外交の面目を発揮したわけである。  そこへもってきて、台湾蕃人の邦人虐殺事件というのが起ってきた。 五一 一週間正に預り申し候  この事件は後年台湾が我が領土となる前触の出来ごととしておもしろかった。事件 そのものは蕃人が日本人を殺した、その解決をどうするかというきわめて単純な事で あるが、副島がシナと談判する特命全権大使となったのだから問題が面白くなったわ けである。  副島がシナヘ行った結果は、台湾は清国の化外の地であるということを確実に取り 極めた。そして、シナが昔から外国使臣と皇帝と会見させない例をぶッこわして、 堂々と清帝と謁見した。いかにも副島らしいやり方である。  征韓論が起った時には、外交事情に通じている副島のことだから、いろいろ説をな したが用いられない。そこで西郷や板垣退助らと共に官を辞して浪人してしまった。 ! 何でもシナでは副島の器量に馬鹿に惚れ込んでしまって、李鴻章自身、漫遊に来た副 島をつかまえて、招聴しようとしたが、副島はキッパリ断ってしまったという話が残 っている。  その後は宮中関係に専ら尽した。侍講にもなった。宮中でも随分逸話がある。枢密 院へ入ったり、松方内閣の内務大臣になったりしたが、明治三十八年に死んだ。年は 七十八。重ねていうがこんな人物が、恋をしたのだから面白い。 二週間正に預り申し候」と、小浜が伊藤から副島を預かって、さて帰ってからどう したか。  梁山泊での噂は大変である。あの女ぎらいの副島が、小浜に惚れたのも面白いが、 小浜も、あんな汚ない男をつれてかえってドゥするだろうと、一同一日千秋の思いを して、副島の出現を待ち焦れていた。 五二 副島種臣の銭湯通い 小浜の家では、副島が、 生れて初めての生活が始まった。女の家、 芸者屋の居候、 周囲の白粉の匂い、調度から一切、頑固な副島のかつて経験しなかったものばかり。 小浜に任せた体、煮るなと焼くなと彼は酒ばかり飲んでいた。  あくる日のことである。副島は小浜に揺り起された。 「さアお起きなさい、そして私と一緒に外に出るんですよ」すべて命令が出る。小浜 のあとから付いてゆくと日本橋の大丸呉服店へはいった。 「番頭さん、この方に似合うような羽二重《はぷたえ》地のものを見せて下さい」番頭も驚いた。 こんな汚ない男というものは大丸開業以来見たこともない。副島も面喰らった。芸者 から着物をこしらえて貰うなんて、妙な世の中になってきた。 「少し急ぎます。三日の間に仕立て上げて下さい。寸法はこの着物よりズッと長く   」つんつるてんの書生がすりを副島は着ていた。 「さあ帰るんです」また命令が出た。  下駄、帽子、羽織の紐、帯、と小浜が、要るものをさっさと買ってゆく。副島は従 いてゆく。  帰ってから湯屋へゆく。三助にたのんで、垢をよく落して貰う。何しろ一度で落ち る垢ではないというので、毎日風呂へやられる。  床屋を呼んで散髪させる、髪を剃らせる、歯を磨かせる、爪を切らせる。  そこへ大丸から着物が出来てきたので着せてみると、馬子にも衣裳どころか、根が 立派な男だから、りゅうとした丈夫《ますらお》だ。 「まあ副島さん、ぽんやりしていないで、お坐んなさい」と、小浜は副島を正座に据 えて、ほれぽれと打ち眺め、 「さて、副島さん、あなたの御心持は伊藤さんから、よッく伺っております。あなた が初めから、こういう風に立派にしていられたら、私がなんの否やを申しましょう」  涼しい目に媚《こぴ》をたたえた。副島は何と答えていいか、ぽうっとしていた。 「今から伊藤さんや井上さんに御挨拶にゆきますから、あなたもいらっしゃい」  ちょうど、一週間目に小浜は副島を築地梁山泊へつれかえったのでありました。  驚いたのは井上、伊藤の面々である。 「おわかりですか、副島さんですよ」と、聞かされて、二人もいまさらながら顔を見 合わせたのであった。「な、な、なる程、副島か!」  小浜が一週間といったわけもわかって、それから酒宴が催され、ここに初めて副島 と小浜の契が結ばれたのであった。 五三 横浜の富貴楼お倉  横浜は黒船以来開けて来た港であるが、横浜の富貴楼お倉もまた維新後の、ある意 味の権勢であった。  伊藤、井上、築地梁山泊の豪傑連でもお倉には一目も二目もおいたくらいであった。 お倉の矯舌は、元老大官連をよく動かしたので、天下の糸平をはじめ、政府大官筋へ 頼み込むことがあれば、みなお倉に口を利いてもらったものである。  このお倉は天保七年十二月、東京浅草松葉町に生れた。渡井たけというのが、本名 であるが、のちには楼主の姓の斎藤を名乗っていた。祖父の徳次郎というのが、新門 辰五郎と相許したくらいの男で、父の丑之助も辰五郎の世話になったことがある。  お倉の六歳の時、一家ちりぢりになって、お倉は星野某に引き取られて育った。の ちに鉄砲鍛冶松屋の鉄六というのと結婚したが、運が悪く、貧乏もひどいつづきよう であった。  仕方がないものだから、安政六年の冬、鉄六のために身を売って新宿の豊倉屋から 出た、源氏名をお倉といった。後年明治政界の裏面に活動したお倉も、東京の場末新 宿の一娼婦に過ぎないのであった。  この新宿時代に情夫が出来た。斎藤亀次郎というので、これがとうとう楼主になっ てお倉が死水をとってやったのである。全体お倉もずいぶん気まぐれで、前後二十五 人の情夫があったといわれるが、それでもこの亀次郎とは悪縁断ちがたく、六十年の 間添い遂げたのであった。  お倉が新宿へ出た時の評判はたいしたもので、きりりとしまった、どこまでも江戸 前の美人であった。  亀次郎もまた、江戸前の五分のスキもない遊び人風の好い男で、ふたりは似合いの 夫婦であった。しかし亀次郎は酒と賭博が生活で、それに打ち込んだお倉もまた伝法 肌で、いくら亀次郎から無心を吹きかけられても快く応じていた。  とどのつまりは、お倉も豊倉屋にいられなくなり、根岸辺へずらかってしまった。 そこにも亀次郎は、付きまとうていた。  同心の高橋というのが二人の仲にはいって、お互いのためでないと手を切ることに なり、お倉の方から手切金を出した。しかし、すぐまた元の仲になって、とうとう二 人手に手をとって駈落ちした。 これがお倉二十七歳の春である。      五四 銀座の役人本田の妾  さて、相思のふたりは駈落ちはしたものの、路銀につまって、またもや江戸表へ引 き返した。  食うや食わずの日がつづいたところを、落語家の玉輔に助けられた。玉輔は落語は たいして上手ではなかったが「西郷隆盛」などというものをよんで、なかなか物堅い 人物であったが、どちらにせよ、救ったといっても落語家の収入でそう心〃小〃だ一 〃としてもいられない。品川の湊家からお倉が出ることになった。この身代金が三年 で百五十両、この頃の百五十両という金はたいしたものであった。  お倉と亀次郎との約束では、この百五十両で当座の払いをすませたら、何か商売で も始める。そうして稼ぎためて一日も早く亀次郎がお倉を迎えにくるというのであっ た。  ところが、十日も経たぬうちに亀次郎は百五十両を賭博で負けてしまった。これに はお倉もがっかりした。そして三日にあげず小使銭をせびりにくる亀次郎であった。  しかし、お倉は美貌と才気は大評判で、二月とたたぬうちに、お職となり三間の部 屋持という全盛である。  そのころ銀座の役人に本田某というのがあった。銀座といえば、たいした家柄であ って、今一石橋となっているが、あの橋をはさんで後藤と後藤が豪勢を張っていた。 後藤と後藤(五斗と五斗)〆て二石橋」といったわけで、この後藤が金銀の鋳貨を やっていたが後には衰微してしまった。その銀座の役人の本田がお倉を身受けすると いい出した。  お倉はあまり気乗りはしたかった、が本田の方は大騒ぎで抱え主と交渉して二百両 で身受けということになった。お倉は深川扇橋の側に小ぎれいな寮をもらって住んで いた。亀次郎は相変らず本田の目を盗んで忍んできた。これがために永くも寮にいら れなかった。またもや亀次郎と手に手をとって駈落ちという段取りになった。  さんざん苦労したあげく、ひょっこり吉原仲の町から芸者になって出た。ここでも 流行ったが、借金もまた多くなった。亀次郎の手遊びの金やら自分の気前をみせる金 やら、並大抵《なみたいてい》ではなかった。 「お倉、お前はずいぶん道楽をするそうだが、役者は誰を買っている」とある客が聞 いたことがあった。 「はばかりながら、このお倉は役者衆とは枕を並べませぬ」と、きっぱり言い切った。 なるほどそうであった。お倉は死ぬるまで役者と関係したということは聞かなかった。  吉原もまた借金で首が廻らなくなり、また亀次郎と飛び出して大阪へいった。大阪 北の新地にちょっと顔を出したが、亀助という芸者の伝手《つて》で南地に移った。江戸ッ子 芸者の評判が高く、なかなか売れたが、亀次郎のため縮尻《しノちじ》ってまた横浜まで帰ってき た。 五五 名付親は天下の糸平  横浜に着いたものの、落ちつかれそうにもないので、お倉は東京ヘかえって新宿の 相模屋の女将の添書をもらって、横浜に引き返し岡本という旅館に落ちついた。この 添書はお倉夫婦は上方で二百両ぐらい金を貯めてきたから、しかるべき商売をさせて くれという文意であった。二人の様子を見た岡本は「ははあ、これは相模屋が一ぱい 食わされたな」と感づいたのであるが、のちのちまでこの事は口に出さなかった。  この岡本の女将のおしゅんというのは、八丁堀の与力高橋という人の姪で、お倉が 品川に出ていたころ、高橋がさかんに遊ぶため、お倉のことも聞き知っていたのだっ た。のちに「女長兵衛」と唄われた三州屋の女将がこのおしゅんである。  明治元年、紅毛人が珍しい頃である。お倉夫婦は岡本の世話になっているうちに、 高砂町三丁目新道(今の住吉町と常盤町の間あたり)に小さな貸家があったのを幸い、 岡本のおしゅんの夫、伊兵衛の肝煎《きもい》りで借り受けて、高田屋という芸者屋を始めた。 そして品川に勤めていたお兼という芸者を抱えた(、  翌二年、松心亭という待合が売物に出たので、岡本が世話をして、すっかり譲り受 けて開業した。その時屋号はなんとしようかと考えているところへ、天下の糸平田中 平八がやって来た。糸平はそのころすでに株界の大御所として飛ぶ鳥を落す勢いであ った。誰も田中平八などという者はなく、天下の糸平で真に天下に通用した。糸平は 生糸の売買をやっていたので、その糸と平八の平をとったものである。  糸平は信州の生れで幼少のころには釜吉といったようである。はじめ魚屋などをし ていたが、感ずるところあって大いに発憤し、当時の大道場斎藤弥九郎について神道 無念流の剣術を稽古し、田中という人の養子となって名も田中平八政春と改めた。一 時は剣術使いになる心でもあったが、安政六年六月に横浜開港と聞いて、翻然志をひ るがえし、八方に奔走して、生糸と製茶の貿易をはじめたものだ。まだ何人も手をつ けていなかった時なのでこの商売が当って大儲けをした。  それからというものは七転び八起き、荘内の郷士で、後に江戸赤羽橋で、佐々木只 三郎達に暗殺された志士の清河八郎正明などとも交際して、ある時は国事に大奔走、 元治元年のころは京都を中心に勤王志士の間にあって、例の近藤勇池田屋の斬り込み の時などは長州の吉田稔麿の密書をふところにして、久坂玄瑞の許に走ってこれを手 渡したりしたものである。  武田耕雲斎筑波の義挙には、材木伐出と称し山に登った。一味に参加したが那珂港 の戦いには意見を異にする事が多かったため脱退した。官軍に捕えられて牢へ入れら れたり、神奈川、程ヶ谷間の飛脚屋になったりしていたが、再び横浜へ出て洋銀売買 をやってまたこの山が当った。  慶応三年に故郷の信州へ帰った時にはもう一流の商人として、古い借金を全部返し た上に、莫大な土産物を配った。親類なぞには、どんどん金を貸し出して名声大いに 揚っていたのであった。  明治五年に、新橋と横浜との間に鉄道が通じて、明治大帝が横浜まで御出ましにな ったがこの時の横浜港民の代表者がこの糸平、金銀相場から米相場、各地物産の輸出 入と、天下の糸平のふところにはいつも金が吟心っていたものであった。  この糸平が、「茶屋の名なら富貴楼とつけろ、牡丹は富貴の花だ」といってそのま ま富貴楼となった。その富貴楼に牡丹侯が遊んだのも後で考えるとおもしろい。  開業早々遊びに来たのは三井の手代の重次郎と伊集院兼吉の二人であった。名づけ 親の天ドの糸平がやってきて豪遊を極める。そしては天下の名士をどしどし引っ張っ てきた。お倉も亀次郎もどうやら仕事が身につくようになった。  伊藤、井上、大隈、松方、それに三条実美、そういう人々が追々にくるようになっ た。尾上町へ引っ越してからは、名士大官の遊びにくるのがますます繁くなった。実 業家では三井の重次郎、糸平、原善三郎、茂木茂兵衛、そういった顔触れが、常得意 であった。  ある日、お倉が相生町を歩いていると、向うからぶらぶら天下の糸平がやってきた。 買手に廻っているのに毎日不首尾、さすがの糸平も万策尽きてぶらぶら思案しながら やってきた。 「どうしたんです。旦那」とお倉が糸平の背をポンと叩いた。糸平がハッと振り向く 途端、肱がお倉の乳にあたったので、お倉はすかさず「そこだそこだ」といった。  これを聞いて糸平、ポンと手を打ち、 「そこだそこだ底だ底だ」と一種の霊感を受けたごとくに躍りあがって、ますます買 い募った。  天下の糸平の名をなす彼のことだから才智も優れていたが、お倉の冗談をたちまち 霊感として商機に活用したなどは、いかにも天下の糸平らしい。  こんな関係もあり、糸平は、またなくお倉を贔屓にしたのであった。 五六 陸奥宗光の端唄  神奈川県令は傑物が多かった。しかし大江でも中島でも、 子供扱いにしていた。沖守固など息子同様だった。  しかし陸奥宗光にはさすがのお倉も一目おいていた。 林でも野村でも、 お倉は 「伊藤、井上、大隈、陸奥とこう並べると、陸奥さんが、役者が一枚上だ」とお倉は よくいっていた。維新のごたごたではずいぶん偉い人物も出たが、いずれも戦争が強 かったり、大小を叩いて威張っていて、金を湯水のごとくに使う事は知っていても、 一文だって儲け得るような人物は少なかった。  坂本龍馬がある時、陸奥(り肩をたたいて、 「天下人多しと云えども、刀を脱《と》ってもなお安らかに食って行けるのは俺と君ばかり だ」 といった事がある。  陸奥ははじめ陽之助といっていた。維新のさわぎに、紀州の家老と大喧嘩をして脱 藩しすぐに土佐へ飛んで行って坂本龍馬、後藤象二郎などと交って、さかんに活動し た。明治元年に外国事務御用掛となって、正に後年の「剃刀《かみそり》外相」の端を発したが、 なかなか荒っぽい殺伐な気象があって、土州藩の連中と一緒になって、白川屋敷の陸 援隊に居候をしていた時などは、先立ちになって血河の巷に出入した。  坂本龍馬が暗殺された時、その下手人の蔭に、紀州藩の公用人三浦休太郎(後の貴 族院議員、安)がいるという事をどこからか耳へ入れて来たのがこの陸奥であった。 三浦は伊予の人だが、当時は本家の紀州家にその材幹を認められてお抱えとなってい たのである。紀州藩の明光丸という船と、土佐海援隊いろは丸とが、慶応三年の四月 二十三日夜、讃岐箱崎沖で衝突し、いろは丸は沈没した。坂本はこの談判を紀州と開 始して、薩摩の五代が調停役となり、大威張りで八万三千両というものを取っている。 紀州に恨まれて、やられるというこの陸奥の聞込みももっともなものであった。  それで、たちまち当時流行の天訣論が出て、京都の油小路花屋町下る天満屋惣兵衛 方に滞在している三浦を襲撃したのが、この年十二月七日の午後十時、綿のような雪 の降る中を鉄砲まで持って行った。陸奥を筆頭として、岩村誠一郎、山脇太郎、山崎 喜都馬、大和十津川の郷士で居合の達人と云われた中井庄五郎など十六名。  しかし、三浦の方には、あらかじめ新撰組の剣士斎藤一、中村小次郎など十名が用 心棒として付き添っていたので、この夜の襲撃にはわずかに三浦の頬をかする浅手を 与え、新撰組の宮川信吉(近藤勇の親戚)を驚しただけで、・味方は中井討死、竹中与 一は左の手首を斬落され、おまけに中井の屍をそのまま現場へ放り出して逃げるほど の醜態を演じたけれども、陸奥の元気と無鉄砲とは大したものであった。  三つ児の魂百までで、明治二十九年五十四で死ぬまではこの気性が抜けずずばりず ばりと思い切った事ばかりやっていた。外国事務局権判事を勤めて大阪にいたころに、 甲鉄艦問題というのが持ち上がった。これはかねて徳川幕府がアメリカヘ注文してお いた甲鉄軍艦が、慶応四年の四月二日に横浜ヘ着いたが日本はあの騒ぎ、幕軍も官軍 もこれを手に入れたいのは山々だがなんとしても金がない。  当時ばりついていた外交官の大隈が京都で苦心惨塘したが駄目で、大阪へ行って陸 奥へたのんだ。陸奥が「よしッ」と承知して、商人をおどし廻るとわずか五、六日の 間に十万円、鴻池加島屋、長岡作兵衛の一万二千円をはじめ殿村の一万円、その他、 十万円は一日でこしらえてしまった。この手腕には政府の役人ども舌を巻いて驚いた。  ただし余談だが、この十万円を入れて集めた二十五万円は、甲鉄艦に支払わず、眉 に火がついたような上野彰義隊討伐の軍資金になってしまったという。  陸奥が初めて富貴楼に遊んだとき、お倉がよほど気に入ったとみえて夜深うなるま で飲んでいた。   気に入らぬ風もあろうが糸柳、ふと、なびくとある中に、つい一筋の   心から、結ぶえにしの捨小舟、流れにみさおはあるわいな。  陸奥自作の端唄である。これを陸奥が巻紙に書いて渡すと、「ちょっと、いけます ね」といって、三味線をとって調子をつけていたが、直ぐ本調子で節付をした。これ には陸奥も感心した。  お倉は三味線は下手なのだが、陸奥と気が合ったのか、即席の節をつけた。才気以 て知るべしというところだ。  陸奥は二、三日遊んで帰ったが、それが縁となって、糸平とも知り合いとなった。  明治四年全権大使岩倉具視(右大臣)、副使木戸孝允(参議)、大久保利通(大蔵卿)、 随員伊藤博文(工部大輔)、山口尚芳(外務少輔)等、欧米派遣の使節一行四十余名、 東京から横浜へ出て、米船アメリカ号で出帆するまでは富貴楼が歓楽の中心であった。 使節一行を見送りにきた大官名士雲のごとく、横浜の花柳界は時ならぬ賑わいを見た。 富貴楼には木戸、大久保、伊藤の一行と大隈、井上、山県の見送りの連中も宿った。  陸奥が一切を仕切って招待の形になったのだから、お倉は新橋、柳橋あたりから美 妓を呼び寄せ、東京の町家からも美しい娘を借りて給仕に出した。  今は亡くなったが、木挽町の芝居茶屋武田屋や、築地の瓢家の女将もこの時にお座 敷へ出た仲間である。  この時に富貴楼へ陸奥から出た祝儀は銀貨で百円、今なら先ず千円というところで ある。  福地桜痴がこの一行に加わって、出帆前高島町の岩亀楼にあがり、 などと、戯れて楼中を大騒ぎさせたのもこの時であった。 俺は木戸参議だ      五七 臨時列車の追手  そのころ糸平は名力士高砂を贔屓《ひいき》にしていた。女房をもたせたいとお倉に相談の上、 品川の芸者お亀というものを見立てて、お倉が親代りになり、糸平が媒酌人になって、 富貴楼で盛大な結婚式をあげた。  富貴楼に出入していた芸者は十二、三人もあったが、皆一流のぱりばりだった。お 倉の願の先で使われていた。当時横浜には富貴楼のほか太田町に佐の茂という料理屋 があるばかりだった。  伊勢山に皇太神宮を奉遷した時の賑いというものは非常なもので、県令陸奥も昼夜 お倉のところを本陣として呑んでいた。富貴楼は一週間は毎日満員であった。  お倉は、どんな座敷へ出てもペコペコしなかった。  明治五年六月の大火は関内全部を焼き払ったが、お倉はもうびくともしないでよか った。十万円近くの財産は出来ており二万円の株は銀行へ預けてあった。尾上町の埋 立地二百余坪を買って家も新築し、その年の暮にはもう稼業を始めた。この家が後に 郵船の林民雄の有となり、脇沢金次郎の手に移ったのだ。  この家を引き払う時に、富貴楼の名を惜しんで、目をかけた佐の茂の女中頭おきみ という愛矯者に金を出してやり、真砂町の麦斗《ばくと》という料理屋のあとを買って待合を出 させ、富貴楼の名をつがせたが、三年たたぬ間に潰れてしまった。  亀次郎はお倉の目を盗んでは放堵をする。富貴楼の抱えだった〆吉という芸者と東 京へ駈落ちしたことがあった。お倉は怒って腹心の芸者三人に若者二人をつけて後を 追わせた。午前二時ごろ、追手は六郷川の特別仕立の渡舟に六両二分をとられて東京 へ入り、やっと、二人のありかを突き止めて連れ戻した。その途中亀次郎は大森で服 装を玄冶店の与三郎ばりに仕立て、菅笠を被り、漬物入りの曲げ物をぶら下げて、追 手の老と一しょに、ぶらぶら戻ってきたのんきさにはお倉も驚いて、何ともいわなか った。  お倉は憎い〆吉を清元の師匠信太郎と一緒にしてやり待合を開かせた。その〆吉と は誰あろう、これも後に大臣大将を手玉にとった築地瓢家のおとりである。  亀次郎は、吉原で名うての芸者栄吉が、喜津栄と名乗って横浜に来ていたが、これ にも手を出して駈落ちをした。この時にもお倉はかっと怒って鉄道頭の井上勝に頼み 込み、横浜駅長の土井某に臨時列車を出させ、これに追手を乗り込ませた。とうとう 亀次郎を連れ戻したが、嫉妬から臨時列車を出させたお倉の勢力は凄まじかった。 五八 天下の糸平の豪遊ぶり  俳優の団十郎と菊五郎が、よく富貴楼ヘ来た。  ある日、芸者歌之助に何か踊れとお倉が注文した。まだ若い歌之助は、団菊の前だ から毒《はにか》んでいると、 「今、天下に私のいう事を聞かない者は一人もない。お前は私に恥をかかすのかい」 お倉はすぐ歌之助を追い出して箱止めにした。四、五日すると「先日はちっとひどか った気がする」といって、以前に倍して歌之助を可愛がるという風であった。この歌 之助は後に新内の師匠をしていたはずである。  天下の糸平が、同じ信州出の、三井の大番頭の後をついだ紀国屋事三野村利助を招 待した座敷に、この歌之助が出た。その頃糸平の座敷へ出なければ肩身が狭かったの で、歌之助もお倉に頼み込んでいたのである。 「何という芸者だ」と糸平がきいた。歌之助は柳橋から来たてのホヤホヤで、まだ扇 歌と名のっていたが、新内語りめく名だから、もじもじして即刻答えかねていると、 「天下の糸平に口を利かぬ奴は下がれッ」と怒鳴りつけられた。  それでも、にこにこ笑って座敷を出なかったものだから、糸平も強情が気に入って、 贔贋にするようになった。  芸者は糸平からカセギを貰うことを光栄にしていた、カセギというのは、今の信玄 袋のようなもので、糸平が金を詰め込み、芸者や芸人の祝儀に持って歩いていたもの である。機嫌がいいとこのカセギをポンと芸者一人にくれてゆくこともあった。  お倉は常に亀次郎にいっていた。 「後生だから同じ死ぬなら私より先きに死んで下さい。私より後れては葬式どころか 墓を建てる金もなくなるから」  お倉の願い通り明治二十七年亀次郎はお倉の手厚い看護を受けて死んだ。その葬式 には政界の名士、京浜間の豪商、力士、俳優、新橋柳橋、その当時の名妓という名妓 は白襟の紋付で会葬した。  この葬いをみるために、東京から泊りがけで入り込んだものもあって、横浜停車場 は混雑をした。いよいよ棺が出ると「それッお倉さんだ」と見物は雪崩をうった。  お倉は黒髪をプツリと切って黒紗の被布姿、水晶の数珠、目は腫れていた。  埋葬後一七日まで、付近の貧民に施米した、白米四十三俵。墓は東福寺にある、お 倉の戒名と亀次郎のと並べて彫ってある。 五九 岩崎、 お倉に纏る  明治六年、征韓論に破れで、西郷隆盛が辞表を捧呈した前後、大久保利通、木戸孝 允などという反西郷派の人達の秘密会議はわざわざ横浜まで出かけて、この富貴楼で 開いたものである。近衛兵の薩摩から出た人達は桐野利秋、篠原国幹などをはじめど んどん国へ帰って行く。伊藤博文などがしきりに使い走りをして情報を集めて来るが、 西郷がにわかに帰国した時などは、明日にも戦争が始まるような騒ぎであった。  西南戦争の原因は、西郷にも、大久保にも、木戸にも互いに見込違いがあって、結 局はあんな事になってしまったが、戦争のある度毎にうまい事をするのは、何時の時 代でも船舶関係者である。明治七年佐賀の江藤新平の乱にも岩崎弥太郎は戦地への輸 送をやって大儲けをした。それから、三菱が海運界に躍動しはじめて、米国太平洋汽 船会社と、上海、神戸横浜間の競争をした。そうして外国の会社に打ち勝った。  岩崎弥太郎は、これをいい機会に政府から補助金を得て、汽船を買い入れようとし た。表面大久保内務卿、大隈大蔵卿に願い出るとともに、裏面からお倉の助けを借り た。  その結果は富貴楼で大久保と岩崎との密会となった、こんな時にお倉も気前を見せ て他の客を一切謝断した。時は明治八年である。岩崎は大久保にいった。 「西郷さんはきっと謀反を起されますぞ。その時政府はどうなさる、汽船の御用意は ありますか」  大久保も大隈もやや意が動いた。お倉は境町の万花亭に西洋料理を注文し、菊五郎 を呼んで、座のとりもちなどをさせた。  この会合は成功して、百六十万円を政府から三菱ヘ補助し、三菱は四隻の汽船を買 い入れた。  岩崎はお倉に報酬として三菱汽船の株を与えた。この株は後に郵船株に書きかえら れた。  西郷従道もお倉のところで遊ぶようになった。芸者を落籍《ひか》せたこともある。  西南役前後には、お倉は困るほど金を儲けた。儲けた金はずいぶんよく散じた。俳 優には関係しなかったが贔屓にはした。団十郎でも菊五郎でも、横浜で興行する時に は、先ずお倉に挨拶をした。この挨拶で人気が素晴らしくちがった。  今の鴨治郎の父、中|村翫雀《がんじやく》が大阪から上ってきて、団十郎半次郎の大一座とともに 横浜で興行した。翫雀も富貴楼に早く顔を出さねばならぬことは知っていたが、生糸 商や、大阪堂島の客につれられて当時名物の西洋料理屋で、ぐずぐず二日も過した。  富貴楼に顔を出すとお倉は会わない。これは失敗《しくじ》ったと引返して、芝翫(歌右衛 門)に頼んで詫びを入れて貰った。お倉は委細わかると、文句もいわずに翫雀にも会 い御馳走もした。 六〇 岩崎、 政府の隠密を籠絡  岩崎弥太郎が、一年間にわたって文武諸官を富貴楼に招き、西南役の凱旋祝いをし たことがある。宴会費七万円にのぽったといわれている。  岩崎は得意の絶頂で、川田小一郎、古川泰次郎と富貴楼で飲んだ時、 「大臣諸公を手の中にまるめたからは、天下になんの障りなしだ。ことに薩州の老は 酒色で捕虜にすることが出来る、長州は金でないと抱き込めぬ」と豪語した。  これをきいていたお倉は岩崎に食ってかかった。 「岩崎さん、長州の方をあまり悪くおっしゃるものじゃござんせぬ。私もいろいろ長 州の方には世話にもなっています。岩崎さんだッて、あンまり大きなことはいえます まい。お倉がいますよ」  これにはさすがの岩崎もグッと詰ってしまった。豪胆岩崎も、(こいつアしまった、 うっかりした)と胆を冷した。  いろいろとお倉の御機嫌を直すことに力《つと》めたが、とうとうその甲斐なく、お倉はす ッかり冠りを曲げてしまった。  元来、岩崎はお倉に対して弱味があった。それにはこういうことがある。  大久保利通が内務卿で、前に述べたように、岩崎の願いを容れて汽船買い入れのた め政府から補助をした大久保もただの鼠じゃない。岩崎が果たしていう通りの状態で あるかどうか、森田某を密偵として三菱へ入り込ませたのであった。  岩崎だって目は利いている、早くも森田を隠密と見込んで籠絡にかかった。  お倉を参謀に、富貴楼を根城として、森田を丸め込みにかかった。森田は三菱の利 益が一カ年一千万円からあることを知って、政府に内報しようとした。三菱で、もし そんなことを内報されたら補助金の必要はないということになる。そこで岩崎も必死 だし、お倉も一生懸命森田を泥鰯《どじよう》にして酒で殺しにかかった。森田も酒や女にひっか かって、政府へ内報しようかどうしようかと、まごまごするうちに大久保は横死した。  こんな事をお倉が知っているので、岩崎もお倉の口を塞ぎにかかったがもう及ばな い。お倉は長州の何人かにこの事を話してしまった。長州人の多い政府は、たちまち 岩崎に向って圧迫を加えた。これにはほとほと岩崎も閉口したということである。 六一 伊藤と大隈会見の橋渡し  政府の大官、実業界の巨頭、みな富貴楼に集まるので、警察署でも富貴楼係を置く ほどであった。したがって富貴楼は治外法権の形で、女中を捉えて戯《ふざ》けたり、中には 弄花に耽る者もあった。  この反動として料理屋、茶屋の恐慌一方ならず、神風楼の遊女、宮内、小中条、浜 菊、渡会などは、富貴楼を怨み自由党の壮士に頼んで、富貴楼に一泡吹かせようとま で相談したが、どうすることも出来なかった。  明治十八年二月、清国と談判のため参議宮内卿伊藤、農商務卿西郷(従道)、陸軍 少将野津、海軍少将仁礼等がシナヘ赴いた。  西郷は出帆の前夜から富貴楼に泊っていたが、乗船の事について相談があった。当 時競争している三菱の船と共同運輸の船とどちらにしようというのである。伊藤は三 菱にしようといい出した。お倉は座にいたが、是非共同運輸になさいと、伊藤と西郷 を説いた。  この裏には、お倉が岩崎の秘密をバラして以来、三菱の川田などから「お倉は政府 の犬だ」と嫌われているので、その欝憤を晴らそうという腹があった。  また、こんな事にも口を出したことがある。  井上が二十年九月、外務大臣をやめて、総理の伊藤が外務を兼任したがドゥも評判 がよくない。国会の開設は近づいているし、何とかして民心を転換させなくてはなら ぬ。そこで伊藤は、民間の有力者を政府に入れようと考えた。  当時の民間の有力者といっては、大隈重信を措《お》いてほかにない。しかし、十四年以 来、伊藤と大隈とは感情の衝突をしているから、二人が会見するということからして 困難な事情にあった。  ある日、伊藤は箱根に遊んで福住で飲んでいたが、お倉もまた芸者を伴れて座にあ った。  人気の少ないところをみて、お倉は伊藤に囁いた。 「大隈さんとお会いになりませんか」  伊藤はびっくりしたが、「お前の力で会えるか」 「ええ、お取り持ちいたしましょう」と引き受けた。お倉は政局の移り変りをよく承 知していた。  お倉の奔走は果たして効果があった。翌年正月十日の夜、富貴楼で伊藤と大隈の会 見となり、両者の談熟して、大隈は二月一日外務大臣となった。この口の出し方など、 お倉の私情を交えない、いい意味の口の出し方であった。  菊五郎は、死んだ亀次郎の子(お倉のほかの女に出来た子)を養子にした。これが天 折した天才菊之助である。  お倉は団十郎を菊五郎以上に贔屓にしていた。参議など新富座にゆくと団十郎が挨 拶に出た。紹介者はいつもお倉であった。  東京横浜の芸者十四、五人をつれて、団十郎の芝居を見物するのが楽しみであった。 いつも成田屋の部屋で弁当を食った。鰻が好物で、田所町の和田平の、一串一円の蒲 焼をとり寄せた。  京都の君尾が、生糸商人に伴れられて横浜へ来たことがあるが、お倉は歓待した。 お倉は明治四十  何年だったか忘れたが、伊藤から貰った遺愛の寝台の上て死んだ。        *            *            *            *    京都の君尾、大阪のお雄、下関の津山、横浜のお倉と語り来って、ひと先ずこ の物語を打ち切ります。維新前後、明治創業以後の社会相が、 得られたとすれば、筆者の満足とするところであります。 いくらかでも窺い 品川楼の嘉志久  隊長近藤勇をはじめ、新撰組の生残り四十余名が乗った幕艦富士山丸は、慶応四年 正月十五日の、夜の白々明けに品川沖ヘ入って来た。いい天気で、青い江戸の空には、 朝霧がうすく流れている。  暮の十八日、伏見墨染で、鉄砲で不意を射たれた左の肩の傷が、まだずきずき痛み 通しで、厚い繍帯で巻いてはいるが、勇は、土方歳三とただ二人、甲板に立って、い ろいろな思い出にふけりながら、江戸を見詰めている。  思えば残念な鳥羽伏見の一戦、味方はさんざんに敗れてしまった。同じ武州の日野 生れで子供の頃から取り立てた井上源三郎も討死したし、養子に貰った谷万太郎の弟 周平も、近ごろようやく槍を一人前につかえるようになったと思ったら、この一戦で やられてしまった。  伍長の伊藤鉄五郎もやられ、隊の剣道師範頭をしていた名剣士の池田小太郎もやら れ、小林峰三郎、今井祐三郎、三品二郎に、正直一途な会計方の青柳牧太夫までやら れた。青柳などは、本当の災難で、ちょっと本陣から会津の林権助のところへ用達し に行こうとして、外へ出るとすくに、一発ひゅう  と飛んて来てやられたのだ。  ひとかとの物の役に立つ侍ばかりでも三十幾名、じつに惜しい事をした  こうし た勇の気持を考えると、この戦は自分が全責任をもって出かけただけに、土方は、と きどき、勇に済まないような気持がした。  いまの時間でいう午前四時ごろ、寅の刻少し前に、富士山丸は、静かに碇を下ろし た。 二  ひとまず品川では旅宿へ着くが、手狭ではあろうけれども、この際お互いに辛抱す るようにとの御目付からの達しがあった。手狭だろうがなんだろうが、江戸の土がふ めるというだけで結構、隊士達はきのう迄死屍の中を歩いて来た事も忘れたように、 晶川楼の嘉志久 ただ子供のように喜んでいた。  旅宿は釜屋といった。家の前に新たに仮りの関所が出来て、東海道の出入を非常に 厳重に堅めている。あらかじめ手狭であろうけれどもとの達しであったが、いかにも 狭い。京の街を、大手をふって歩き馴れた隊士達は、 「さしている刀が互いに邪魔になって、寝るも起きるも出来ない」 と愚痴をこぽした。  人斬りの名人沖田総司は、船づかれ気づかれで、肺病が少し重くなって顔色が真っ 蒼になっていたが、相変らず元気で、無駄口を叩いては、拳をかためて、右の肩をぽ んぽんと叩く癖をまる出しにしている。永倉新八もいるし、原田左之助もいる。斎藤 一もいる。尾形俊太郎もいる。この五人が、生き残った副長助勤で、尾形を除いた他 の四人は、みんな人を斬りに生れて来たような、すばらしい腕達者ばかりである。  ここで五日くらした。  うまく行ったらいずれも旗本でも千石や二千石の御歴々にはなれそうだった連中だ けに幕府は五日目に、これに丸の内大名小路、鳥居丹後守役宅跡を与え、宿舎とした。 土方が改めて名簿をこしらえてみたら、隊長の勇を加えて四十四名、このうち二十四 名が、伍長以上の役付で、平同十が残る二十名。 「少し頭が重過ぎるな」 と、沖田が例の無駄口をきいて、ひどく、土方に叱られた。 三  大名屋敷へ入ったものの、幕府がもうこうなっては、京都で、勤王方を向うに廻し て一生懸命に働いたような仕事もない。隊長の近藤は神田和泉橋の医学所へ入って、 傷の手当を専一にしているし、留守居をする土方は、主に高等政策に没頭せねばなら ぬので隊士達はそろそろ退屈しだして来た。  一橋家を浪人している大石鍬次郎と川村隼人が、浪士調役というのだが、どうにも こうにも仕方がない。隊の馬術の先生をしていて大坪流の名人と云われた江戸ッ児の 安富才輔が、仕方がないので、会計方へ廻って、しんき臭そうにパチパチ算盤の手伝 いなどをしているというありさまであった。  紀州の公用人三浦安の用心棒に雇われていて、去年暮の七日亥の刻(午後十時)に、 陸奥源二郎(後の陸奥宗光伯)、岩村誠一郎など十六名に、京都油小路花屋町下る天満 屋惣兵衛方に襲撃された時に、深手を負って、伏見の戦には、旗扱という閑職につい て、勇同様実戦の出来なかった梅戸勝之進も、ようやく傷は癒ったが、頬っぺたの辺 から今にも血が吹き出しそうな生々しい刀痕を見せて、ただ、ぶらぶら遊んでいた。 「どうも退屈で仕方がない、一つ深川の仮宅へでも出かけようではありませんか」 と、ある日、伍長を勤務している島田魁が云い出した。この人物は、ずっと明治二十 四、五年のころまでは存命したはずであるが、剣術もなかなかよく使ったし、愛矯者 でもあった。  一同、誘う水あらば  の時である。 「よし! 出かけよう」 となる。さア着物だ履物だで、大さわぎをやって、旗頭が副長助勤の永倉新八、それ に伍長の林信太郎に前野五郎、島田魁、中村小三郎、平同士中の腕達者蟻通勘吾と、 例の恐ろしい顔をした梅戸、この七人が、いっせいにどやどやと繰り出した。  深川の仮宅というのは、今の洲崎、ここに品川楼というのがあった。久しぶりで、 江戸の土を踏んで、江戸の廓で遊ぶのである。連中の元気当るべからずで、品川楼の 階段を踏み割るような勢いで二階へ登った。 「さア、女をつれて来い、酒もどんどん持って来い、芸者も招べよ」 とせっかちに叫び立てる。           四  芸者は十名余り。お職の小亀をはじめ、嘉志久、紅梅などを総揚げにして、さて敵 娼《あいかた》のくじを引くと、ちょうどよく小亀が永倉へ、嘉志久は中村小三郎という事になっ た。  隊士は、大杯に満々と酒をつがせて、ぐいぐいと飲む。中にも酒豪の前野五郎など は杯洗の水を開けて、これへ酒をつがせた。太鼓を叩く、三味をひく、仮宅中がひっ くり返るようなさわぎであったという。  遊女も、いずれも敗けず劣らず、酒の相手をしているが、ただ一人、中村の敵娼嘉 志久ばかりは、杯一つ手にしない。一同が朱達磨のようになって、わいわいいってい る中にこの女ばかりはしらふで、おとなしく、相手をしている。  永倉がふとこれに眼をつけた。 「どうして飲まんのだ、貴様この一座が気に喰わんのか」 という。小亀がふッふッ笑って、 「どういたしまして、嘉志久さんはお侍のお客が三度の御飯より好きで、町人衆はい つもふり飛ばしているんですもの、でもお酒はいけませんよ、酔うと乱暴をするので お部屋(楼主の事)から堅く止められているのですから」 といった。永倉、これを聞くと喜んで、 「そうか、それア面白い奴だ。よし! 俺が許す、構わんから飲め飲め」  中村はすかさず杯洗へ満々と酒を注いで嘉志久へ差した。 「さア飲め、さア飲め」  で、嘉志久は息つかずに三杯飲んで、はじめてふう  ッと息をした。 五  嘉志久はたちまち酔ってしまう。酔ってしまうとさア大変で、たれかれの見さかい なく悪口雑言思い切った事をいう。これが通常の武士ならば、聞くに堪えず、腹も立 てるであろうがいずれも本藩を脱走し、血河の巷に出入して、胆っ玉が据《すわ》っている上 に、毒舌悪罵は耳馴れた壮士である。かえってこれが気に入って、一座はいよいよ陽 気になる。ついには連中酔い崩れて、みんなその場に倒れてしまった。  翌日は流連《いつづけ》した。  連中にして見れば、久しぶりの江戸の酒の味という事もあるが、心の底の方には絶 えず「俺達の落ち行く先きももう山が見えた。あるいはきょうあって明日無い生命か も知れない、伏見鳥羽の一戦で、もう幕府の気力は無くなっているような心地がする。 もう駄目だ」という心地やら、これまで、離合集散、あるいは暗殺され、あるいは断 首され、あるいは脱走した隊士達のことが、今さらのようにまざまざと思い出されて、 なんとなくはかないような気持にも襲われるのであった。淋しさを紛らすため  そ うしたはっきりした意識はなくとも、やはりそれと同じような淋しさを忘れようと努 める心もあった。  永倉に云いつけられて、刀痕生々しい梅戸勝之進が、大門口の役人に談判に行って、 これまで仮宅はじまって以来例のない、華魁《おいらん》の門外道中をやらせる事にした。泰平に 馴れた江戸の花街役人は、先ず梅戸の顔を見て、価床え上がってしまった。 「きっと差支えないな」 「へ、へ、どうぞ御自由に--1」 六  華魁道中は、門の外へ繰り出して、洲崎楼という名代の料理屋で、大酒宴を催して 引き揚げた。  その翌日もまた品川楼に流連した。  この間、隊士達にはほとんど夜も昼も無かった。さすがの永倉も少しからだもあた まも、ぽうッとして来た。暁方からとろとろして、それでもお昼ころまではぐっすり 寝たが、ふと眼を開いて見ると、隣りの部屋で、まだ連中ががやがややっている。そ れが廓の昼で、ことりという物《ちちち》音もしない時刻《こくげん》だから、ひどく耳元へがんがん響いて 来る。  永倉は、とこか静かなところでゆっくりしてみたいというような心地がした  す ぐに着物を着ると、女の小亀へも黙って、庭草履のようなものを引っかけると、ぶら りと品川楼の裏門を潜って出た。  出合い頭に、入ろうとしていたこの家の若い衆と逢った。 「ああ吃驚《びつくり》した  おや、旦那お出かけですか」 「うむ、少し静かなところでも歩いて見ようかと思ってな、海岸へでも行くかな」 「そうですかえP あっしはまたお刀なんかお持ちですから、お帰りかと思いやし た」  永倉は黙って歩き出した。廓の中で刀などを持って、いかにも無粋のようではある が、自分達は、一歩外へ出れば四方八方に敵のある今の身の上だ、眠るにもうっかり してはいられないのだ、刀を一時も傍を離す事なんか、とうていもとうていも、心淋 しくて堪らない、京都でさかんに人を斬っていたころも、刀は自分の唯一の味方であ った、現在でもまたこの刀が親兄弟よりもなつかしい自分の味方ではあるけれども、 あの時の刀に対する愛着と今のこの刀に対する愛着とは、同じようで、しかもまるで 違っている。今は  助けてくれ  お前の力で自分の生命を守る  こんな心地で ある。刀と共々に働くという考えから、刀に哀れみを乞うているような、いまの自分 の心が本当に可哀そうであった。 七 永倉は突然笑い出した。   「何んでえ、この俺が、こんな弱え心になってどうするものか。きのうも近藤隊   長がいっていた、将軍家におかせられては、来春を待って、われわれ新撰組隊士   を甲州城へ差し遣わされるお思召だそうだ。土方の言い草じゃねえが、うまく行   ったら甲州百万石、近藤が十万石、土方が五万石、俺や沖田総司や原田左之助な   どが三万石ずつの大名だ。捕らぬ狸の皮算用だろうが、こうなれば先ず男子の本   懐さ。俺は旧藩主の松前侯と、千代田の城中で諸侯としてお目にかかる事が出来   るような気持もするなア、はッはッはッ……夢だろうが、いい夢だなア」  思わず、ぶつぶつとひとりごとを云った。 「旦那え、何にをおひとりでぶうぶつとおっしゃっていらっしゃいますえ」 「おや、貴様まだついて来たのか」 「へえ、お供いたしやす」  永倉がゆうべ投出した御祝儀が利いたと見える。若い衆は、もみ手をしながら心易 そうに後をついて来る。  小格子の小店がつづいて、それから素人屋などがぽつぽつある。細い通りで、先き の方に小さな橋が見えている。真ッ昼間だけに、ほとんど人通りはなかった。  風はない。陽はカンカン照っている。正月を目の前にしている師走ではあったが、 小春のように暖かであった、、           八  若い衆が先きになって歩いて行く。ぷうーんとどこからか潮の香がしてくる。  橋にさしかかった時に、ちょうど向うから勤番者らしい三人の田舎武士がやって来 た。三人とも肩を從耳やかして、自っぽい小倉の袴をつけて、ひとかどの武芸者らしい 格好をしている。高足駄をはいている。  この三人と、こちらの二人が狭い橋の上ですれ違った。そのすれ違う拍子に右手を 内ふところにしていた永倉の肱が、向うの武士の一人の肩の辺へ突き当たった。  永倉はすぐに、 「いや、これは失礼いたしました」 と珍らしく挨拶をして、行き過ぎようとすると、武士は、 「失礼で済むか!」 と、大声で怒鳴って、振り向いた。  永倉は持前の疽癩である。 「何を!」 というと腰をおとして、刀のつかに手をかけた。  ところが、どうしたものか、喧嘩を売りかけた三人づれは、そのまま、言葉も返さ ずすたすたと行きかけたのである。永倉も少し気抜けがして、 「馬鹿にするな」  両頬にうす笑いを浮べて、ぶらぶら歩いて行く。若い衆は、 「旦那、あっしは、どうなる事かと思いましたよ。もう、胸がどきどきして歩かれま せんよ」 という。永倉は吹き出して、 「何にもやりゃしないじゃねえか」 「でも、旦那が、何を! といって、眼をぎろりと光らせた時にゃ、あっしは、もう いけねえと思いやした」 「うふッ、そんな事じゃア、長生は出来ねえぜ」  二人は笑いばなしをしながら、ぶらぶらやって行く。 九 「やッ、旦那!」  若い衆が、突然|畠《きぬ》を裂くような声で叫んだ。永倉、 「え!」 と吃驚して、はじめて気がつくと、一旦行き過ぎた三人づれの武±が、袴の股立を高 くとって、足駄を脱いではだし、一斉に刀を抜き、これを大上段にふりかぶって疾風 のように追いかけて来ている。  永倉はニタリと笑った。  人を斬ることは馴れ切っている  冷やかな笑いだ。ゆうゆうと刀を抜くと、切先 きを地へ向けて、だらりと垂れ、半身を開いて、こっちからじりじりと攻め寄った。 新八、松前の脱藩者、剣は神道無念流岡田十松道場の門末である。そのころ年三十一、 元治元年六月五日、京の三条小橋池田屋惣兵衛方の事変をはじめ、新撰組始終の剣戟 にはすべて出入し、剣風漸く熟している。師に当たる岡田十松は、古今の名人と称さ れた。埼玉郡砂山の人で、江戸の戸ヶ崎知道軒熊太郎について、二十二歳早くもその 奥儀を極めたという。江戸で門弟を養う事前後三十年、神田猿楽町の道場には、門弟 常に溢るるの盛況であった。その下の逸足として知らるる百合本昇三とは新八かねて 誓ある仲であった。十松先生死後、その遺業を継いだのが、幕末三剣客の一人、九段 坂上練兵館の斎藤弥九郎篤信斎で、すなわち永倉とは同流門の出である。 一〇  この新八の「龍尾之剣」は、一代の剣客群がる新撰組の中にあっても、じつに驚嘆 すべき手練として、鉄中鐸々の名があったものである。刀をだらりと下げている。面 から胸へかけて、すきだらけになっているので、ここへ相手が斬り込んで来る。  その太刀が、面を向って来るやいなや、だらりと下った刀の背は、敵の刃を下から 上へ猛然とすり上げて、跳ね返した上、これが頭の上で一と廻りをして、大上段とな って電《いなずま》のように落ちて行く、敵の振り下ろす刀の力を逆用した一手で、すなわち尾を 打てば頭来り、頭を打てば尾来るという恐るべき剣法であった。  その刀を龍尾につけて、新八はじりじりと攻め寄った。敵手の真っ先きの一人が、 「やッ!」 というと、案の定、鋭く切リて下ろす。下ろした! と思う瞬間に、彼の刀は宙へす り上げられて、新八の龍尾の剣は、型通りざくりと、彼の横面へ斬り込んだ。血がさ ッと送《ほとぱし》り出て、虹のようにかかった。  もとより二合とする事もなく、そのまま仰向けにどッと倒れて、手足をビクビクし ているに過ぎない。あたりにはどくどくと血が流れて出る。  新八はまたニタニタと笑った。 「お後の二人、さア来いよ」 と、撃剣の稽古でもするように、皮肉に誘った。顔色も変っていなければ、別に力み 返っているような様子もな、。寄らば斬る、退かはあえて追わず  ただそれだけで あった。           一一  二人の武士は、これを見ると、立ちすくんだ。出るどころか、きびすを返すとはだ しのまま、夢中になって逃げ出してしまった。  永倉が見ると、側にいた若い衆がいない。その代り、恐いもの見たさに、どこから 集まったか、黒山のように人が集まっている。 「こりゃ困った、大さわぎになったな」  こう思うと、永倉は、白昼、しかも、粋な廓の中で剣戟の沙汰に及んだことが、い かにも大人気ないように思われて、にわかに恥かしくなったので、刀の血を押拭うと、 とッとと品川楼へ引っ返して来た。  と、見ると、裏口の上りかまちのところに、さっきの若い衆が打ち倒れて、女中ど もが介抱し、水などを飲ませている。そこへ、相変らず平気な顔で、内ふところへ両 手を入れた永倉が、肩で裏の切戸を押して、物ぐさそうに入って来ると、 「まア、旦那」 と、一同がいかにも意外そうな顔をしている。  敵娼の小亀が、おろおろして、 「お怪我はP」 ときいた。 「怪我はないさ、だってお前、斬ったのが俺で、斬られたのは向うじゃあねえか」 「でも、先方から刀をぬいて  」 「刀は先きにぬいたって、後にぬいたって、斬る斬られるは別な話さ。してまた若い 衆はどうしたんだP」  だんだん聞いてみると、永倉が三人を相手に斬合をはじめた、きっと斬られるから 助けに行ってくれと、二階の同志に注進して、そのまま目を廻しているんだとの事だ った。  永倉はエヘエヘ笑って、二階ヘ上って行くと、島田魁が真っ先きで、仰々しい裡が けをして、中村、蟻通、梅戸、前野。林などはもう刀を抜き身にして、酔っばらい女 の嘉志久の部屋に集まって、今、駆け出そうとしているところであった。 「止せよう」  こういって、永倉は、ぬッと入った。           一二  嘉志久は、すぐに永倉の刀を受け取った。夜、一同と酒を飲んで、ぐでんぐでんに 酔っばらっている時とは、全く別人のように、物腰態度が、しっかりしていて、刀を 受け取るのも法に叶い、巧みな手つきであった。  そして、片隅の箪笥の前に座ると、小抽斗から小さな箱を取り出して、さてその刀 をすう  と静かに抜き放った。 「危ねえ危ねえ」  島田が声をかけた。永倉はさっきからそれを知っていたが、どうするのかと思って、 ただ黙って眺めていた。 「でもお刀がよごれたでしょう」  嘉志久はにっこり笑って見せた。  そして、軟らかい紙で、刀に拭いをくれている。少しの危な気もなく馴れ切ったも のである。すっかり拭ってしまうと、打粉を出して軽くくれた。 「ね、永倉の旦那、相手はすぐに斬られてしまったんですか、一度も打合わせずに   」 「うむ」 「でもお刀の峰に少しすり傷が出来ました。上から斬って来たのを旦那は下からすり 上げて、そのまま相手をお斬りですね、そうそう何んとか云いましたっけ、ああ、龍 尾の剣……、そうそう、ね、旦那、龍尾の手でしょう」 「うむ」 「そうすると、相手は横面をやられましたね」 「うむ」  永倉は、あっ気に取られていた。他の同志もただ黙って女を見、女のする事を見て いるだけであった。           一三  永倉は、杯を置くと、 「おい嘉志久、貴様なかなか刀いじりが馴れているな、どこでそんな事を覚えたんだ。 それに刀の峰の傷を見て、龍尾を当てたなんてのは貴様ただの女郎ではねえな」 といった。嘉志久は、只オホオホ笑っている。 「剣術の一手や二手は習った女だな、大いにわが意を得た奴だ、名乗れ名乗れ、さア 名乗らなければ酒をこの盃洗で十杯休まずに飲め」  一同が攻め立てたので、嘉志久は、打粉箱をしまいかけながら、 「あたしこれでもねえ旦那」 といった。 一同喜んで、 「いざやこれより物語らんと来たな、第一、女郎が打粉箱を持っているなんざア話せ る話せる」  嘉志久は、ぽつりぽつり身の上話をした。弘前藩の足軽の娘であるが、父のそれが しという者が、微賎に似合わず、よく武芸を励んで、美事な剣術を使った。そのため 自然に娘のこの嘉志久も剣術の話をきき、時には一手二手くらいを教えられたので、 真剣を見てもさほどに驚かぬくらいの度胸ッ骨はついていた。  その上、性来が男のような勝気で、自分がすすんで剣術の型などを教わったが、そ の父の剣術上手がかえって身の上に災いして、悲壮な最期を遂げねばならぬような事 になってしまった。           一四  嘉志久がまだ十六のころである。江戸の藩邸で、身分の上下を論じない剣道の試合 があって、父がこの試合で家中の若侍達を総撫でにした。  八丁堀の親父橋傍で、雨のひどく降る寒い晩、何者にか殺されたのは、それから四 日目のことで、一家がたちまち離散してしまわねばならぬような事が、ぞくぞくとふ りかかった。病弱の母が間もなく死ぬ、妹一人に弟一人を日本橋の商家へ奉公に出し たが、父の時代からの少なからぬ家の借財は、ついに長女を嘉志久と名乗らせて、深 川仮宅の品川楼から遊女に突き出す事となったのである。  父を殺したのは、藩中の誰であるかはわからない。 「八丁堀の町方のお役人は、物奪りの仕業らしいと申されるんです。敵を知りたい。 そして一日も早く敵討をしたい  これかあたしの一生の願いなのてす」  こういって、嘉志久は、はじめて涙を見せた。  猛者《もさび》連中もさすがに沈黙している。 「よし、よし、泣くな、泣いたって仕方がねえさ、敵が出たらこの永倉が助太刀をし てやる、安心しろ、安心しろ  」 「  父の片身を御覧下さ、」  嘉志久は、こういって、箪笥から、蝋鞘《ろうざや》の大刀を取り出して来た。鍔《つぱ》は鉄ごしらえ に、金の細かい龍の象眼があった。           一五  永倉は静かにこれを受け取ると、すらりと鞘を払った。一点の曇りもたく、手入れ が行き届いている。遊女嘉志久が、刀の打粉箱をもっていた訳もこれでわかった。 「ほう  新刀も江戸物だね」  永倉はこういった。 「おめきき下さいまし」  嘉志久は、真面目にいう。 「はッはッはッ……刀を抜いたら敗けはせんが、鑑定はちと閉口だね」 「でも」 「どうだ前野君、君は日頃から鑑定《めきき》自慢だ、一つ見てくれ」  前野はじつはさっきから、横から一生懸命刀をにらんでいたので、ほぽ見当はつい ていたと見え馴れた手付で刀を受け取ると、 「江戸鍛冶荘司直胤、先ず天保中ごろの作でしょうな」 ときっばりといった。 「御美事です」  嘉志久は一膝にじり出た。一同は、 「偉い偉い」 と、手を打って褒めそやす、、前野は阿波徳島の浪人で、これまでさしたる武功はない が、刀の鑑定は隊中第一と云われ、伍長を勤務している人物である。剣術も相当にや ったが馬をよくのったという。 「永倉先生、この刀工の作ですよ、例の心形刀流の小天狗伊庭八郎が箱根で斬りまく ったのは  。鋼ぎたえの水心子正秀の門から出て出藍の誉という奴ですな。刀のか たちに幅があって、この地鉄のさんぐりとして、底に青黒い心があり、上の方の白く 煙っているのは、この直胤のいいところです。荒沸、砂流しの深い匂は実に堪りませ んよ。長さは二尺三寸1いいなア」  一同感心して、しばらくは刀剣談に花が咲いた。  永倉の斬った侍は、何処の藩のものかついにわからない。熊本だとも云い、仙台の 伊達家だともいうが、役人が出張しないうちにいつの間にか、友達が、血だらけにな ってまだ少し息があるらしく、手足をピクピクさせているのを、駕籠屋に、大変な金 をやって何処ぞへ運ばせて行ったという話を後で聞いた。           一六  また酒になって、嘉志久はぐでんぐでんに酔っばらった。一夜二夜を契ったのだか ら、いざ敵が知れたら、中村小三郎が表向きの助太刀をするということになったが、 どういう訳か、嘉志久はその敵の手がかりになりそうなことについてははっきり云わ ない。 「それを云って、貴様のためにならんというなら聞かんでもよろしい、その代りそん なに信用のない俺なら助太刀も御免蒙るよ」 と、中村はとうとう腹を立てた。  そして、二つ三つ云い募った末が、 「敵討などとうまい事を云うな、貴様むかし昔の白石|噺《ばなし》のような事を云って、武家 の客を釣る手練手管にしていやがるんだ。あの刀だってどうせ客をだましてせしめた ものに違いねえ」  とうとうこんな事に喧嘩の花が咲いてしまった。嘉志久はこういわれると、気でも 狂ったように残念がって、着ている緋縮緬の寝儒神を、びりびり噛み破って、歯の間 から生々しい血を流した。 「口惜しい口惜しい、こんな商売をしていればこそそんな事も云われるんです、いく ら女郎だって惚れた腫れたの嘘はついても、そんな嘘はつかない」 と、隊士のいる部屋から部屋を、暴れ廻った。  さすがの連中も、どうにも手の出しようがなく、閉口しているのを、楼主達が二階 へ上って来て、どうやら取り鎮めて連れて行った。  じつは、もう一夜、最後の愉快をしてと思っていたのが、そんなこんなで少し気ま ずくもなったので、永倉は、日の暮れ方になって、 「帰ろう」 と云い出した。  楼主を呼び出して、ぽんと投げ渡した黄金百両(永倉新八の語り残した話に百両とあ るが真偽は不明)、楼主はかえって胆をつぶしてしまった。  客は新撰組生残りの暴れもの。文久三年二月八日新徴浪士隊三百三十余名の上京か ら、いわゆる壬士浪《みぶろう》となり、さらに天下御直参の御扱いとなって江戸へ戻るまでの新 撰組の血生臭い話は、輪に輪をかけて耳に入っている。  それに、いったん上洛して、間もなく江戸へ逆戻りをし、本所の小笠原屋敷を屯に していて後には新徴組となった浪士達にはたびたび手ひどい目に逢わされているので、 勘定どころか、もし心にさわる事でもあって、ぶった斬られては大変と、その方の心 配ばかりをしていたのである。  そこへ投出された金が百両、楼主はむしろ呆気にとられ、 「ど、ど、どういたしまして、御勘定の儀はいずれ後ほど御ゆっくり・-・-」 と、どもくりどもくり訳のわからぬ事をいった。  永倉達は、渡すものを渡すと、酔いつかれた足許が少し危なく、そのまま刀を下げ るとさっさと帰ってしまった。           一七  階段の下まで送って出た嘉志久は、永倉の羽織の裾をつかんで、 「永倉先生、私のわるいところはお詫び申します。でも、私はあなた方へ、これッぱ かりも嘘やいつわりは申しませんでしたから、それだけはどうぞ信じてやって下さい よ。中村先生 本当にあんなひとい事をおっしゃるのは勘弁して下さいまし」  嘉志久は涙を一ばいためている。中村は黒い縮緬の頭巾をしながら、 「ながなが世話になった。俺のいった事は座興だ、水に流してくれ」 という。永倉は大きな口を開いて、 「うむ、わッはッはッ……」 と笑いながら、チャラリと雪駄へ足を入れた。黒いびろうどの緒に、白い足袋が目立 つ。 「また来させて貰うぜ」  一同、大きな声でこういいながら、ぞろぞろ品川楼を出て行った。  大名小路の鳥居丹後守邸宿舎へ帰ると、副長の土方歳三が、奥座敷にただ一人火鉢 を前に苦虫を噛みつぶしたような顔をして考え込んでいた。深川仮宅の橋の上におけ る一件はもうちゃんと耳に入っている。 「永倉君、軽いからだでは御座らんぞ、少し自重されたいものだな」  こういうと、そのまま、後は一言も叱言らしい事は云わなかった。 「いや、重々  」  永倉もこういって引ぎ退った。別に副長だ助勤だで、叱ったり叱られたりするほど の隔てもなし、最初から苦労を共にした仲ではあるが、じつは永倉もちと遊びすぎた と思っていたので、大人しく詫びをしたのである。           一八  この二、三日の留守の間に、隊中随一の剣客沖田総司が、またこのごろの烈しい寒 気にやられて、病が重ったためか、隊士へ剣術を稽古している間に血を吐いて倒れた ので、浅草今戸八幡境内にあった幕府典医頭松本良順(後の男爵松本順)の私宅へ運 んで治療をしているが、だいぶ悪いとの事であった。永倉は、非常な淋しさに襲われ ざるを得なかった。  一月は過ぎた。二月になって、永倉らは、それでも十一日に上州甘楽郡宕戸村の庄 屋大井田吉五郎の二男天野八郎という人物が、一雑司ヶ谷の茗荷屋に会合を開いて、徳 川家のために憤然として立ったという話をきいた。 「まだ同志がある」 と思って喜んでいるうちに、次の十二日には、将軍家が、非戦論を御採用になって、 江戸のお城から上野寛永寺の子院大慈院へ移るということ。近藤隊長が悲壮な顔をし てしきりに出たり入ったりしていたが夕方になって、 「明十二日は、総員平服のまま八ツ刻、丑の刻までに出動準備、将軍家上野ヘの御道 筋を見えかくれに御警護申上げる。ただし衣服の下に着込、鎖など適宜に用いてさし つかえない」 との命令が出た。命ずる方も、命ぜられる方も、今にも泣き出しそうな顔をしていた。  十二日は、将軍家御居城お出ましが、暁の七ッ半、今でいう午前五時、まだ真っ暗 であった。           一九  新撰組が甲州鎮撫隊となって江戸を出発したのが翌三月の一日で、近藤隊長は若年 寄格として、長棒引戸の駕籠に乗り、土方は馬、永倉などは青ただき裏金輪抜けの陣 笠をかぶり、陣羽織を着て、徒歩《かち》ではあったが、じつに堂々たるものであった。新た に加わった兵もあり、烏合とは云いながら同勢二百余人、大砲二門を引いた。  第一日の泊が、江戸を出て第一の宿場、新宿の女郎屋を全部買い切って、ここへ泊 った。その夜の隊士達の豪遊ぶりは、ずっと後、明治になって、あの遊廓がまだ裏町 へ引っ込まぬ時には、古老達の間にいろいろな語り草となって残っていたものである。  出発の日、上野へ集合した同勢を点検した時に、何故か近藤はほろほろと涙を落し た。お上から下さった鉄砲を持ちながら、その担ぎ方さえろくに知らぬものが多く、 隊伍のたて方さえ云って聞かせてもわからないような人達であった。それも道理、新 たにお取り立てとなった浅草新町弾左衛門の手下が大部分であった。  心ある隊士達は「これが最後の遊びだ」というような心地が、云わず語らずの間に 胸の中を往来した。原田左之助は 「俺は、今度こそ死ぬような気がしてならねえ」 と、繰返し繰返し浴びるほど酒を飲んで、刀をぬいて、剣舞をやった。みんなほとん ど一睡もせずに、翌朝出発、そこで飲み、ここで飲み、飲みつかれて目的の甲州城を 目の前にした時は、もうすでに官軍がこれを占領して、一同には手も足も出なくなっ ていた。 二〇  ここで新撰組はさんざんになる。原田左之助は新宿の女郎屋での話がその通りにな って、胸元へ再び立っ能わざる鉄砲を、しかも二発も受けてしまった。これが化膿し て、遂に本所猿江町神保伯者守邸内で死んだのは、それから間もなくのことである。  近藤や土方が下総流山に逃れ、これでまた脱走兵鎮撫と称して、一旗揚げようとし たがわずか一と月、翌四月三日には近藤が薩摩の有馬藤太に捕えられて、同月二十五 日ついに岡田藩横倉喜惣次の太刀取で、武州板橋で斬られてしまう。  胴はひとまずそこへ埋め(遺族が三日の後に掘り出して武州三鷹村大沢の龍沢寺へ埋め た)、首は焼酎づけにして京都へ送って、四条磧へ晒した。それからその首はどうし たか、後にいろいろ行方を探す人もあったが、とうとう知る事が出来なかった。  土方は、函館へ脱走し、榎本武揚の軍に従って、またまた激戦をつづけたが、つい に翌明治二年五月十一日、馬上弾丸に当たって戦死した。  永倉新八は、甲州の戦地で、江戸での再会を約して、鎮撫軍の殿をつとめたが、江 戸へ帰ってから、近藤土方と意見の相違を来たし、松本良順から金子三百両を借りて、 これで、島田魁などと、新吉原金瓶大黒へ駕籠を飛ばせて、豪遊したのを名残りに、 潔く袖を分かって、深川冬木の弁天社内に住居していた剣士芳賀宜道を訪ね、相談の 結果、最後まで徳川のために戦うというので靖兵隊を組織し、旧新撰組の、林信太郎、 例の鑑定家の前野五郎、平同士中条常八郎、松本小三郎など、ほかに約五十名が加盟 した。  しかし結局は、この隊も、会津城まで行ったが、悲惨なる末路を告げ、永倉は明治 二年二月から旧藩主松前義弘侯の許に帰参して、百五十石を賜わった。翌年は藩地福 山に帰り、医家杉村松柏の養子となった。明治三十年からは北海道小樽に住み、大正 四年一月五日に年七十六を以て病死した。 二一  永倉は、必死の巷に出没しながらも、品川楼嘉志久の事はよほど気にかかったと見 え、時折りその消息を聞こうとしたが、ややその身が落着いた時には、もう嘉志久は 品川楼にいなくなっていた。別に明治に入って遊女の仇討をしたという話もなく、嘉 志久らしい仇討もなかったところから見ると、嘉志久もとうとうその願望を遂げなか ったか  それとも中村のいった通り客釣りの偽孝女であったか、それは判明せずじ まいになっている。  一説には、身受けされて徳川の御家人上りの指物師の女房になって果てたともいう。  話はだいぶ前へ戻るが、この永倉新八が  -というよりは新撰組がまだ京都で、バ リバリいっていたころ、島原遊廓内亀屋の芸妓小常というのが、この永倉とは只なら ぬ仲であった。  それが慶応三年の七月に、永倉の子を産んだ。女の子で永倉は「磯子」と名をつけ てやったが、困ったことに、小常の産後がひどく悪くて、きょうあすという生命とな った。しかし、このころから暮にかけては結果において幕府滅亡の土端場であっただ けに、永倉にはなかなか島原などへ出かけて行く暇はない。一隊女禁制で、死物狂い の活動をしていた時である。  十一月十一日が会津公用方からの急使で、 「天下の形勢は御承知の通り、すべて出陣の用意をもって下向されたし」 との注意書付で、一同に、堀川の本陣を引き払い、大阪の伏見奉行邸へ入るべしとの 命令。そのころ小常はとうとう病死して、生れたばかりの赤ン坊は、小常の姉が祇園 の大和橋にいるのへ預けて、仕送りやたよりは、隊の小使を使いにやるくらいのもの であった。  いよいよ大阪下向となったので、このむねを知らせてやると、ちょうど、一同が鎧 を着て、上を下への大さわぎをしているところへ、乳母が磯子を抱いて馳けつけて来 た。じつは永倉はまだ、赤ン坊の生れたという事だけは聞いているが、その顔をさえ 見た事がなかったのである。  本陣では面会どころの沙汰ではないので、乳母をすぐに真向いにあった八百屋へつ れて行き、奥の小座敷を借りてここで、あわただしい中の父子の対面をした。  永倉はこの赤ン坊の行末を思うと、涙が出た。 「引き取るにもこのさわぎで引き取る事も出来ない。ここに金が五十両ある。これを 当座の小使として渡して置くから、江戸の松前藩の邸にいる拙者の従兄永倉嘉一郎を 訪ねその子を渡してもらいたい。この巾着は亡き伯母の形身であるから嘉一郎はよく 知っている。これを証拠に持って行ってくれ。拙者は、いまここで出陣すればもとよ り生きて帰るものとは思われないから」  乳母もただ、 「はい、はい」 といって泣いているばかりである。  そうしているうちにも、本陣のごたごたしている有様が手にとるようにわかる。手 びしゃくで水を飲み、指へつけて、赤ン坊の唇をしめしてやって、さすがの永倉も腸 が千切れるような思いで、父子の別れをした。           二二  その後、この磯子はどうなったか。松前の江戸邸にも来ず、戦乱治まって永倉が、 剣道指南に関西地方をうろうろして廻った際、わざわざ訪ねて行って見たが、小常の 姉も亡く、乳母もいず、磯、†の消息を知る由もなかった。  ところがそのころ、関西方面ですばらしい人気を呼んでいた尾上小亀という女役者 があった。  ふとした事で、これが永倉の娘である事が知れて、父子相逢わざる事三十年にして はじめて、泣きながら名乗り合った。往年新撰組の猛者も、年すでに六十に近く、 髭を撫して語りながらも、深い思い出に耽ったという。 清河八郎の妾  文久三年四月十三日、江戸赤羽橋柳沢侯の邸の前で、幕府見廻組佐々木只三郎らの ために暗殺された清河八郎正明の妾はお蓮といった。出羽の熊井出村の生れで、医者 の娘であるが、なにか家の事情があって、鶴岡の町の遊女屋に売られていた。  まだ十八で痛々しいのを、八郎が眼をつけてすぐに手に入れて妾とした。妾といっ ても生涯本妻のなかった八郎にとっては妻と同じことで、はじめの名はなんといった か判明しないが、 「泥中にあっても蓮のように美しいものもある」 という意味で、これに「お蓮」と名をつけた。  八郎が江戸へ出て、東西に奔走している時に、よく内助の功をつくしたもので、ど こから見ても立派な武家の妻女で、これが遊女をした事があるなどとは、どうしても 思えなかったという。少し瘡せぎすで、顔はきつかったが、同志に対してはじつに物 やさしいものであったという。  八郎が、両国万八楼の書画会の帰りに町人を斬った。そのためかねてねらわれてい る身の江戸にいられなくなって、神田お玉ヶ池の「文武教授所」を、その夜のうちに 逃げた時などは、お蓮の落着いた様子と、少しでも八郎や同志に迷惑をかけまいとす る態度は、じつに立派なもの.であった。  八郎をはじめ、実弟の斎藤熊三郎、同志安積五郎、伊牟田尚平、村上俊五郎と共に、 川越在奥富村まで逃げた。ここでしばらく隠れていたが、またまた幕吏に知られたの で八郎はお蓮と熊三郎を残して、再び行方を晦《くら》ましたので、幕吏は仕方なくお蓮を捕 え、たびたび手ひどい拷問をつづけて、その行先きを白状させようとしたが、お蓮は 一切口を開かず、ついに文久二年八月七日、しかも閏の八月で、きびしい暑さと拷問 に堪えかね、江戸の荘内藩の牢中で病死した。  逃げ廻っている八郎は、少しもこれを知らない。自分の消息を知らせる事も出来な いし、またお蓮のその後を知る由もない。とにかく牢へ入っている事だけはわかった のでしきりに大赦運動をはじめ、 った浪士募集がはじまった時は、 ようやくこれが物になって、例の新撰組の母体とな 残念ながらお蓮はもうこの世の者ではなかった。 二  さすがの清河もこれはよほど悲しかったと見え、その後間もなく荘内の母に宛てた たよりの中に、この妾のお蓮のことを細々《こまごま》と書いてある。  元来八郎は、武芸はお玉ケ池の北辰一刀流千葉周作の免許をとっていたが、それよ りも学問の方がしっかりしていたので、わずか二十四歳の生涯としては驚嘆するほど の著作もあり、その手紙のごときはじつに一世の文範とするに足るが、長州の久坂玄 瑞、高杉晋作、その他品川弥二郎の小唄、都々逸《どどいつ》の手紙などとともに、維新前後の、 こうした人達の気持のよくわかる名手紙の書き主である。  ことに、八郎から故郷の母に宛てたるこの妾のお蓮に関する手紙は、哀情切々と胸 に迫るものがある。お蓮の墓は二人の心情を知る山岡鉄舟が、八郎の墓とともに、東 京小石川伝通院内に建ててやったので、未だに、苔むして、夜半人無きところに当年 の恋々を語るもののごとくに並んでいる。 三 さて又おれんこと、まことにかなしきあわれのこといたし、ざんねんかぎりなく 候。されど、このことは、なだかき士、四人もしにしゆえ、その人々とともに、 めいどにまいるなれば、まさかにふそくもあるまじく、くさばのかげにてはうれ しくおもいおるべきながらもまことにまことにかなしき事いたし申候。いずれの 人にも、みなよきものとほめられ、このことにても、かみがたまでも、よきみさ おの女子とて、女のほまれになりしゆえ、当人ばかりにもなくわたくしも、うれ しきことにおもいおりしところ、はかなくなりて、まことにざんねんに御ざ候。 くりことにも、世のひょうばんよろしく、ほめられ候ゆえ、まずはあんどいたし、 なにとぞなにとぞわたくし本妻とおぽしめし、あさゆうの、えこう御たむけ、子 供とひとしく御思召被下度、くりことにも、ねがい申候。 わたくし、ひそかに、清林院貞栄香花信女とおくりないたし候故、くりことにも 私の本妻同前に思召し、御たむけのほど、偏えに願上申候。 まことに評判よろしく、たとい、はててもうれしく候えども、うきめにて死にし こと悲しくかぎりたく候。 それにつきても、れんの母親のあんどするように、拾両つかわし候故、父上と好 きよう御はからい、おくりくだされたく、親も年よりのよし故、なるたけ早くあ んどいたさせたく候。これまた願上候。  お蓮を本妻同様に思召して、朝夕の回向をたのむというあたり、八郎の心情がしの ばれる。鉄舟先生は、お蓮のために、その墓石には特に「貞女」の二字を冠してやっ ている。 『維新侠艶録』昭和三年十二月 萬里閣書房刊 (小野賢一郎)