内村先生 岩波茂雄  私は中学を終わった明治三十三年の夏を郷国信州の小諸の伊藤長七氏の寓居で過ごしたこと があったが、内村先生の講演があるというので、小諸から上田まで出かけて行って聴衆の一人 となった。何の話をされたか覚えていないが、先生の|謦咳《けいがい》に接したのはこの時が初めてであっ たと思う。それからその年の暮れ、伊豆の伊東に静養して加った時に先生が来られ、温泉旅館 山田屋で講演をされたのを聴きに行ったことがある。その時は深い感動を受けたとみえ、教育 上に関する事柄で今なお記憶に残っているものがある。翌朝先生は徒歩で熱海に行かれるとい うので、私は熱海まで荷物を持ってお送りした。その時佐藤武雄氏も随行者として一緒であっ た。天気のよい日で、途中峠の茶屋で休んだ時、茶代に銅銭を出して老婆にやったことや、北 海道の自然は大陸的であるというようなお話の出たことを忘れたい。ちょうど熱海に着いたの が昼頃で、その辺の宿屋の二階で牛肉をいただいた。私が非常に恐縮し御馳走を遠慮したのに 対し、先生は人足を頼んで来たとすれば云々と言われた。先生が私を気の毒がらせまいとして 言われたに相違ないこの言葉に、驕慢なる青年であった当時の私は虫がおさまらなかった。自 分が先生に従って来たのは先生を敬慕する余りの純情そのものであって、伊東より熱海までの 間先生に親災して来たというそのことに絶大の光栄と喜びを感じていたから、御馳走になるそ の事はもったいないような気がして遠慮していたのに、先生の御言葉は当方の心持を一向汲ま ず、人足扱いにされたと誤解したのである。それで後から先生に手紙を差上げ、憤慨の心持を 率直に訴え、今後先生には師事しないと言ってやった。ところが先生から懇切たる手紙が来て、 さらに先生とお会いすることとなり、感情問題はここに解消して、私はそこで先生の日曜講演 に出席する特権を与えられたのである。これを機会として毎日曜、先生の所ヘ通うようになっ た。その頃集まった人々の中で記憶に残っている者は、小山内、倉橋、中村、畔上、若林、田 中、志賀、黒木らの諸氏である。当時のお宅は角筈の今の浄水場の側の櫟林の中にあった。今 の内村博士は祐さんと言うてほんの子供であった。集まった者にそれぞれ先生は聖書の中の愛 諦の句を言わせたこともある。自分は旧約にある「義しき者になやみなし」などと言った覚え がある。その頃の志賀直哉氏などの流暢でない祈りも思い出される。どのくらいの期間行った か覚えていないが、行かなくなった後も『聖書之研究』だけは毎月読むことを楽しみとし、最 後の巻まで怠らなかった。研究誌は三十一号から購読し始めたことを覚えているが、一号より 三十号までは先輩の木山熊次郎氏のものを借りて通読し、また先生の著書も一通りは読んだ。 この木山氏は先生の尊敬者で、私に先生の偉いことを説き、その著書を読むことをすすめた人 である。今生きているとすれば、相当社会になくてはならぬ人となったと思われる人で、早く たくなられたのは惜しいことをした。木山氏のごとく、個人的に先生に会わない方で先生の理 解者である人は限りなくあると信ずる。私は定まった聖書の講義などよりも先生の感想などに 興味を持ち、その中には暗記したものも多くあった。中には先生が自分のために言ってくれた のではないかとさえ思われるものもあった。自分が本屋をやるようになってからも、卑俗なる 雑誌などは売れるといっても店に陳列することをさけ、『聖書之研究』は毎月出来ごとにその看 板を立てることにしていた。また先生の著書はまとめて陳列したこともあった。先生も稀には 店に見えられた。ある時一度、先生を柏木にお訪ねしたが、先生は神田の基督教青年会にて講 演を承諾しないのに自分が講演をするごとく宣伝され迷惑せられることを訴えられたので、私 がこれをお引受けして当事者に談判し、即時に講演の立札にある先生の名をぬりつぶさせ、な お「小生今夕青年会館に於て演説すべしとの約束を為さず、内村鑑三」と書いて店の前に立看 板を出したこともあった。その先生自筆の下書は今もなお手許に旧床存している。先生は藤井武 君にこのことについて、岩波は勇敢な男であるといわれたと同君が笑って語られたことがある。       *  私は、先生の力瘤を入れられた甚督の再臨を始めとして純福音なるものを遂に体得すること が出来ず、トルストイのいわゆる「信仰なき処人生なし」の境地はわずかに想望するにとどま り、ついに信仰生活にははいることが出来なかった。先生にとって私は救われざる徒輩である。 先生を悲しましめし者の一人でもあったであろう。信仰なき私に先生の偉大性がわかるはずが ない。だが私は、先生の常に忌み嫌ってやまなかった先生の人間的感化を受けたことは事実で ある。神の国の福いは遂にわからなかったとしても、この世の栄のつまらないことはしみじみ 教えられた。永遠なるものと泡沫のごとく消え行くものとの区別も教えられた。真理や正義や 真実は何物にもまして尊重すべきものたることを教えられた。民衆を眩惑する外面的の事柄よ りも、密室における一人の祈りが遥かに大事業であることを力強く教えられた。社交のつまら たくて、自然を友とすることと典籍に親しむことの楽しさとを教えられた。今目私が宴会たど にあまり出席せず、交際を極度に縮小しようと心がけているのも先生の影響であろう。先生に とって私は憐れむべき迷児に過ぎなかったであろうが、私にとって先生は非常なる感化を及ぽ して下さった恩師であった。今の仕事も自分はその成立を予期しなかったが、老後の思い出に もとかりそめに始めたのである。世は我れを容れず、我れは世に従わず、結局その仕事は破綻 に終わるだろうときめこんでいた。それで東海の辺りに地を卜し、朝夕絶愛する不二を友とす る晴耕雨読の生活に、安住の境地を想定し、自分の最も尊重する独立、自由、誠L実を守ること が出来なかったらいつでもこの境涯を放郷して憧慣の生活にはいる考えであった。しかるにこ の田園生活はそのままとなって、かりそめに始めし一市民としての商売生活が継続されて、今 日に至ってはこの生活に多少とも杜会的意義を感ずるようになった。複雑な社会において商売 を営むに頑鈍愚直で押し通し、かけ引きを商売の生命とする時代において断然これを排撃し、 古本の正札販売を厳行したり、出版をするようになってからはできる限り低廉の定価を付し、 紅合の実行に先立ち定価販売を断行し、習俗に媚びず世間に阿らず、主義を頑張り所信に生き て来たことは、先生の感化、特にその独立の精神に負うところ少なくないであろうと考えられ る。       *  国歩艱難の現時において私は、国賊と言われ、非国民と罵られ、偽善者と侮られた先生を想 うの情特に切たるものがある。先生に人間的弱点がなかったとは思わない。誤解される素質を 多分にもっておられたかのようにも思われる。されど鹿の漢水を慕うごとく真理を愛慕するこ と先生のごとき人が何処にかある。正義を尊重し、家国日本を熱愛し、真実に生きたる先牛の ごとき人が何処にかある。あの怖ろしい鋭い風貌の中に、先生はきわめて正直な心と限りなき 情瞬、とを包蔵せられた。信仰人としての先生は、暴風怒濤のごとく強烈無比の戦士であると共 に、日常人としての先生は臆病と思われるほど弱く、一片の花片を手にしても涙ぐむほど優し い人であった。先生は衆と共に平和協調の世界に安住するを楽しむというより、迫害の裡に孤 高の戦を続けてますますその本質を発揮する闘士であった。敬度なるもの、荘厳なるもの、高 貴なるもの、謙虚なるもの、熱切なるものとして、先生の祈りのごときを、私はほかに知らな い。砕けたる魂、悔いたる心をもって、脆いて神の前に先生が祈られる時、懐疑不信の私のご とき者にすら、宇宙には万古にわたりて滅びざる、あるものの厳存を感得せしむるものがあっ た。思うに今日の日本ほど正義や真実からかけ離れている社会はまたとあるまい。忠君愛国を 唱うる者はざらにある。思想善導の学者もどこにも転がっている。だが、先憂後楽、真に国を 憂い義を慕う者はない。これが現代日本の憂患である。私は、先生のごとき種類の国賊、非国 民、偽善者が出て、価値の顛倒をなし、真理の何者たるかを示して一世を指導し、日本の現状 を救ってくれることを祈って止まない。                           (昭和九年五月『内村鑑三先生』)