誠実を教えた母 岩波茂雄  母は私が大学を出た年、明治四十一年六月二十五日に死にました。私は三十年余を経た今日 でも、この母のことは涙なしには思い出すことは出来ません。心配のかけ放しで死にました。 もうしばらく生きていてくれたらと、諦めようとしても諦めきらぬものがあります。  私の生家は信州の中洲村で、年貢米が百俵ほどとれる、まあ田舎では中以上の家でした。父 は体が弱かったので百姓仕事はせず、役場の助役をつとめていましたが、私が十六歳の時、亡 くなりました。突然父に死なれて、私は勉強も手につかず、半年くらいはぼんやりしていまし た。  その頃、私は博文館か何かの雑誌を取り寄せてさかんに投稿していましたが、その中の批評 の中にはこんなのもありました。大ヘん嬉しかったから今でも覚えていますが「末頼もしき青 年なる哉。」  こんなことに刺激されて、私はどうしても東京ヘ出て勉強したいとひそかに決心していまし た。しかし、父は死に、長男である私には「百姓の家業を継ぐ」という重い責任と、強い習慣 がのしかかっていました。私が東京へ出ることを申し出れば、伯父をはじめ親類中がきっと反 対することはわかりきっているのです。その間に立つ母の苦しみも思いやられ、私はずいぶん 思案しましたが、思いきって母に打ち明け、歎願しました。「私には財産も何もいらない。妹 にやってくれ、私に自由を与えて下さい」母はさすがにえらかった。私の言うことをじっと聞 いていましたが、「それほどお前がいうなら」と、私の志をあわれんで許してくれました。  だが、親類の手前、毎も知らぬことにして私は家を逃げ出しました。  家を飛び出た私は、東京府立第五中学校長だった故伊藤長七先生が当時郷里の小学校の教其 をしておられたので、この伊藤先生の下宿を訪ね、最初の宿を貸してもらいました。翌朝、ほ のぽのと夜が明け始めた頃、私は出立した。先生は町はずれまで送って下さった。西に傾いた 残月が淡く湖水にうつっているのを眺めながら、先生は高らかに詩を吟じられた。  「男児立志出郷関……」  東京に出た私は、一生懸命勉強した。しかし、それは長く続かなかった。この頃ちょうど、 自分より一級下だった藤村操君が「人生は不可解なり」と言って自殺したが、このような思想 誠実を教えた母 が若い人たちを魅了していました。私も「何のための勉強、何のための生」と煩悶しました。 「田端の自殺組」などと呼ばれ、藤村操君の死に感激し、自殺を憧れ、生きているのは勇気が なく真面目さが足りないからだとさえ考えるに至りました。こんな状態ですからもちろん学校 も見事に失敗しました。  深い絶望と自殺病から私を救ってくれたのは、やはり母の無言の愛情でした。故郷で私の帰 りを淋しく待ち佗びている母の姿でした。  母は学問はありませんでしたが、大ヘん活動的な人でした。男まさりの気性で、村のいざこ ざなど一人で世話をやいたり、愛国婦人会の支部創設に骨折ったり、よく村のために尽くしま した。また、正しいことはどこまでも押し通して行く誠実た人間でした。一度上京したことが ありましたが、私が上野公園に連れて行きますと、母は一番に西郷さんの銅像にていねいに頭 を下げました。そして私にいいました。「西郷さんには時々お参りに来なさいよ。」母は正義を 愛しました。  せっかく上京した母に芝居だけでも観せてやろうと思ってすすめますと、かえって叱られま した。「お前が学校を卒えるまでは芝居なぞみないよ。」そして「銀世界」ヘ梅見にだけ行きま した。「銀世界」というのは、代々木のガスタンク跡の梅林です。  私はこれまで誠実ということをモットーにしてやってきました。つまらぬ妥協をしたり、か け引きをしたりせず、ただ誠実をもってすベての事に当るよう心がけました。つまらぬながら 私が今日あるも、母の無言の教えのおかげです。母も私が誠実に生きて来たことには地下で満 足しているでしょう。  母はまた親切で、情深く涙もろい一面を持っていました。貧しい人たちの面倒をよくみてや り、小作の人たちにも大へんやさしくしていました。  ある年の春、私は野尻湖に浮いている弁天島に渡り、そこの荒れ果てた神殿に四十日あまり 寝起きしたことがありました。一町に二町くらいのこの島には、舟つき場と神殿があるのみで す。  妙高の頂きをかすめ行く雲の動きをじっと眺め、林の中を歩き廻り、湖水をのぞき、なすこ ともなく、考えることもなく、自然の懐の中で生活しました。自然を愛するとかいう生やさし いものでなく、自然に同化したような気持に充たされて私は幸福でした。  風雨が激しく荒れた晩、神殿の板の間に横になりながら、私はこの大自然の怒りをじっと聞 いていました。ふと雨戸の隙間が、ボーッと明るくなったと思うと、黒い人影が入って来まし た。驚いて起き上がると、それはびしょぬれになった母でした。無理に船頭にたのんで舟を出 し、嵐をおかしてやって来たのです。  母の姿をみた私は、母の愛に動かされて心ならずもこの愛着の島を去ることにしました。こ のなつかしい島を別れる時は地に伏して号泣しました。  母は今やなし。母には心配のみかけた。何一っ母を喜ばせることが出来なかった。  母のことを思うと自然に泣けて来ます。  私は僅かながら人様のためにと郷里へ水道を引き、小学校の庭をひろめたりしましたが、こ れは母への残された孝養だと思い、また母への何よりの追善になることと、自分を慰めており ます。                             (昭和十五年二月『新興婦人』)