回顧三十年感謝晩餐会の挨拶 岩波茂雄  本日は、私が、小学校時代より今日まで、教えを受けました諸先生、知遇を蒙りました諸先 輩、また特別の御高誼を賜わりました友人各位に対し、感謝の意を表したく、今の仕事を創め てから今年三十年になりましたのを機会にお招き申上げたところ、時局多端の折柄、公私御多 用中をお繰り合わせ御光来下され、一時に皆さまに御礼申上げる機会を与えていただきました ことは、私の最も光栄とし、感激に塔えざるところでございます。  私はこれまで一度もかかる催しをしたことはございませんでした。創業二十五年を迎えた時 には、世問並みに何か催しをしようとする議もないではありませんでしたが、支那事変勃発の ために差し控えて、平和になる暁を待つことに致しました。しかるに肝変は大東市戦争にまで 発展し、もはや今日では、私ども国民はますます長期戦を覚悟せねばならぬ情勢にあります。 したがって戦後を期したのでは、私のごとき年輩の者は、恩顧を蒙りました皆さまに対し終生 御礼を申し上げる機会を得られないかも知れませぬ。それでは誠に遺憾千万でございますし、 またかかる感謝の企てたらば現時においても許されはしまいかと存じ、明治に生まれ明治に育 てられた私どもにとって思い出の深いこの明治節を選び、御案内申上げた次第でございます。  さて、皆さまの前でみずからを語ることは、はなはだ揮り多いことではありますが、お礼を 中上げる順序といたしまして、私の生い立ちから、どんた気持でこの仕事をするに至ったかを 述べさせていただきます。  私は信州の農家に生まれ、きわめて野育ちのまま腕白な少年として成長致しましたが、よう やくもの心のついた十六の歳に父を亡い、この時初めて人生の悲しみを経験し、半年くらいは 荘然としてなすところを知りませんでした。一日、「身を立て、道を行ひ、名を後世に揚げ、 以て父母を顕はすは孝の終なり。」という孝経の句に接し、子供心にも孝養の道の未だ残され ていることを知りまして、取り返しのつかぬという気持からはやっと救われました。そこで大 いに発奮したと見えまして、本来ならば学業を罷めて家業に従事すべきものを、特に母の許し を得て、前年入学した郷里の実科中学の通学をそのまま続けさせてもらうことになりました。  当時は、日清戦役の後を受けて、英雄崇拝の風が盛んでありました。私なども、今日から考 えるとおかしいほどその影響を受け、西郷南洲翁の肖像を机の側に掲げて勉強したり、また吉 田松陰伝に感激して、暗記するほど読み耽ったり、維新の志士を夢中になって追慕したもので あります。したがって十七歳の時、伊勢参宮に単身初旅を試みました時にも、その帰途、わざ わざ京都に郷党の先覚佐久間象山先生の墓を弔ったり、鹿児島に赴き、南洲翁の墓前に額づい て平素の崇敬の情を捧げたりいたしました。山国に育った私としては、海を見るも船に乗るも これが初めで、汽車に乗るのさえ、たしか二度目であったと記憶します。  その後、杉浦重剛先生の高風を慕って東京に出て、日木中学を終りました。上京に先立ち、 自分は働きながら勉強したいから学僕にしていただきたいと、郷里から先生にお願いした手紙 が、四十年後の今日、日本中学図書室から発見されて、ただ今、私の手もとにあります。これ を見ると、当時の心境と今日の心境とほとんど変わりなく、依然たる旧阿蒙たるにみずから驚 くのであります。  私の二高時代は、いわゆる人生問題が青年の最大関心事で、俗に煩悶時代ともいわれた頃で ありまして、畏友藤村操君の死が、私ども青年に与えた衝撃は実に大なるものがありました。 私どもは君を勝利老のごとく考えて讃歎し、自分のごときは美に憧るる純情が足らず、真剣さ が足らず、勇気が足らざるがゆえに死の勝利をかち得ず、敗残者として生きているのだとさえ 考えたのであります。当時、私は北村透谷などを愛読し、またトルストイに傾倒し、翁と同時 代に地上に生きることを仕合わせとするくらいに考えたものであります。殊に『我が繊悔』の ごときは、私のために書かれた書物のごとくに感じ、「信仰なぎところ人牛なし」という言葉 から受けた感銘は、今なお記憶に新たであります。私はどうやら、ここに一条の光を与えられ ました。一巻の聖書を携えて房州の海岸に行ったのも、この時であります。名を後世に揚げる というようた、それまでの立身出世主義の人生観は全く魅力を失い、むしろこれを蔑視するよ うになりましたが、同時に勉学の目的をも見失って、一時私は学業さえ放郷したのでありまし た。信州野尻湖上の孤島に白然を友とし、飽くことを知らなかったこと承あります。この時、 母は私の身を案じ、暴風雨を冒して夜半孤島に私を尋ね、懇々として諭されましたので、私は 涙をのんでこの自然に別れ、再び学校に戻り、どうやら大学の課程を終わることが出来ました。 この年六月、母は突然に亡くたりました。少年時代、父を喪ってより、一方ならぬ苦労をかけ た母は、私の一片酬ゆるところなきに、世を去りました。これは私の一生を通じての最大恨事 であって、今に至るまで、涙なくして母を思うことはできないのであります。  学校を出ますと、私は都下の女学校に奉職いたしました。当初はいささか抱負をもって、女 子教育に微力を尽くそうと思ったのでありますが、私には、人生における根本信念があるわけ ではありませんから、人を教える前に教うべきはみずからである、人を救う前に救わるべきは 自分である、というような悩みを感じ、数年ならずして私は、人の子を|賊《そこな》う苦痛より免れて、 心の落着きを他の境涯に求めるような気持になったのであります。  もともと私は何の才能もありませんが、自然を愛する心だけは多分に恵まれており、山桜の 咲くこの国に生まれたことを常に幸いとし、学生時代、海外に移住せんとした時にも、富士山 に別れることが何より辛いと感じたほど日本の自然に愛着をもっているのであります。それに 元来が百姓で、少年時代より草を刈り田を耕して育ったのでありますから、土に親しむことに は、さながら郷里に帰るごとき感をもちます。それで教職を去ろうと決心すると共に、私は、 東海の辺りに朝た夕な富士に親しみながら、晴耕雨読の生活をしようと思いました。当時、そ れが私の最も憧れた境涯であったのであります。  しかし私はこの時、まだ三十を越したばかりの若さでありましたから、田園生活をしばらく 取っておきにして、一商人としてもう一度都会の生活を試みてみようと考えました。失敗して も老後の思い出になる、商人の生活は士農工商の最下級に位するが、そのやり方によっては、 必ずしも自己を卑しくせずとも、やってゆけるに相違ない、すなわち人の必要とするものを、 なるべく廉価に提供し、扱う品物にも吟味を加え、かくて、人の必要を充たすと共にn分の生 活が成り立つならば、それでよいではないか、商売は決して本来が屈辱の生活であるはずはな い、少なくともここには人の子を賊う心配はない、「低く幕らし高く想う」の生活は、責任が 軽く、心か安らかである点において、むしろ望ましい独立の境涯ではないかiこう考えたの であります。しかし、掛け引きもせず商売が成り立つことは、実際には恐らく許されぬであろ う、試みてもし独立と誠実とが守れたいならば、敢えて惜しむに足らぬ境涯であるから、即時 放郷して田園生活にはいろう、と肚はきまっておりました。新宿中村屋の相馬さんは早稲田の 学園を出られて、商売をお始めになった方であり、同郷の先輩でもありますので、その御意見 を伺ったところ、何商売にせよ、素人でも充分やってゆける、と御自分の体験を話して下さい ました。私が商人になることを決心したのは、ただ今も申したとおりの気持によるのでありま すから、商売は何をしてもよかったのであります。現に相馬さんに教えられて、新宿に売物に 出ていた乾物屋の店を覗いたことさえもあります。しかし、古本屋ならば資本が少なくて出来 る、多少とも今までの生活に縁故もある、また一つには、たまたま大正二年二月、神田の大火 の焼跡に、以前奉職していた学校に出入りの書店が新しく建てた貸し店がちょうど空いておっ た、という事情もあって、私は古本屋を開くことに決めたのでありました。その店を借り受け て開店いたしましたのが大正二年八月五日、現在の神保町の小売部がそれであります。開店の 挨拶状には、その頃の私の考えがよく出ておりますゆえ、それを読ませていただきます。  粛啓益ヒ御清祥奉賀候 陳ば野生儀感激なき生活の繋縛を脱し、且つは人の子を賊ふ不安と  苦痛とより免れんため、教職を辞し、兼てより希ひし独立自営の境涯を、一市民たる生活に  求めて、左記の処に書店開業仕り、新刊図書雑誌及古本の弗買を営業と致し候。就ては従来  買主として受けし多くの苦き経験に鑑み、飽くまで誠実真塾たる熊度を以て、出来る限り大  方の御便宜を計り、独立市民として、偽少なき生活をいたしたき希望に候。不敏の身盆、珊の  資を以て険難の世路を辿り、荊棘を開いて新なる天地に自己の領域を開拓せんとするには定  めて遭逢すべき多くの困難可有之事存候、野生が新生活に於ける微少たる理想を実現する為、  御同情御助力願はれ候はば、幸之に過ぎず候 敬具  はじめ偽なき生活と書いて、これを「偽少なき生活」と、書き改めたことを記憶しておりま す。  なお、この開店の辞の印刷物の裏に、私が好んだ格言が七つ記してあります。ついでに、こ れも読ませていただきます。   桃李言はざるも下自ら蹟を成す。   低く暮し高く想ふ。   天上辰星の輝くあり、我衷に道念の幡るあり。   此地尚美し人たること亦一の喜たり。   正しき者に患難多し。   正しかる事は永久に正しからざるべからず。   正義は最後の勝利老なり。  以上のような次第で、私は古本屋を開業しましたが、もとより、独立の生活をするのが私の 願いでありましたから、旧来の商売上の習慣を無視して、乱暴なくらい自己の所信に従ってや りました。当時、破天荒の事といわれた古本の正札販売などを実行したのは、その一例であり ます。その頃、理想に突貫するのはしばらく措いて、まず普通のやり方で商売をし、芯礎が出 来た後に理想に遍進したらよいではないかと、親切にいってくれた友人もありましたが、私は 少しも妥協的態度を採らず、気のすむ道を歩みました。 「古木を言い値で売るものがあるか」 と、お客さまから叱られたこともしばしばでしたが、もとより買主の便宜をはかってしたこと ですから、私の店の態度はついに認められ、堅実な顧客の信頼を得ることができ、店の運常は 漸次順調に向ったのであります。  その頃、台湾総督府図書館創立の任務を帯びて、今は故人となられた太田為三郎先生が突然 店を訪問され、囲書購入について私の意見を徴せられた結果、一万円の注文をされたことがあ りました。当時、店の一日の売上げが十円か二十円でなかったかと思いますが、全く何の縁故 もなかった人が、私に対しこれほどの信頼を寄せられたことについては、私も非常に感激して できる限りの御便宜をはかり、先方でも、本はこれほど安く買えるかと驚いたようなこともあ ります。  以上のような次第で、小売の営業も順調にゆきましたが、大正三年、夏目先生の『こ\ろ』 を処女出版として、出版の方面にも力を致すようになりました。  大正の初期、わが国の思想界の混乱時代に当って、哲学の基礎的知識を普及する必要を痛感 し、友人諸君の尽力によって「哲学叢書」を出しました。また、自然科学の日木文化において 最も遅れていることを教えられ、諸先生の御指導のもとに「科学叢書」を出しました。哲学の 書も、科学の書も、みな同じような見地に立って出版いたしたのでありますが、いずれも世に 迎えられました。その後、講座、全書、新書、六法全書、教科書、その他各方研の単行本に手 を拡げてまいりましたが、私としては、いつも世の中の必要に応じたい、わが口に欠けたもの を補いたいという念願から出発したのであります。これらは、皆さますでに御〃じのごとく、 幸いにすべて順調にまいりました。  円木の時代に、学芸の普及の形式はかくありたいものだと、ドイッのレクラム版にたらって 岩波文庫を創設した時のことは、特に忘れられません。この時には非常に反響が大きかったの であります。何百通という感謝状、激励文が未知の読者から寄せられ、その中には「わが一生 の教養を岩波文庫に託す」というような言葉さえもあって、私は、非常に感動いたしました。 「本屋になってよかった」と、その時、初めて思ったのであります。  かように致しまして、諸先生の御指導のもとに、私がかくあるベきであると思ってやった仕 事は、幸いにして、ことごとく事業としても成り立ったのであります。鼎軒田口卯吉先生は、 出版先覚者としても私の尊敬する方でありますが、「世のためになることをすれば、経済的に も成り立つものである」ということを言われたそうであります。私の経験から見ましても、た しかにそうであると思います。  今日では、私の仕事が日本の文化に多少ともお役に立ったかのごとく、予期せざるお褒めの 言葉をいただくことも往々ありますが、これは私にとっては過分のお言葉であります。先刻も 申上げたように、私が商売を始めたのは、いわば市井に隠れ家を求めてのことであって、責任 の軽い、心の苦しみのない、気のすむ生活をしたいという、きわめて消極的な気持から出たの であります。日本の文化に多少でも貢献しようとか、学術の振興に寄与しようなどという拘血 をもって始めたのではありません。私の青年時代から苦しんで来た人生問題は、ひっきょう生 死の問題であり、この年になっても、まだ私には、人に語るほどの信念はありません。しかし いやしくも生を否定せぬ限り、他人の厄介にならずして一日も暮らすことはできませんから、 なるべく人の迷惑にたらぬよう、身辺の小さな義務だけでもできるだけ忠実に尽くすベきだと 思い、小売の場合にも、出版の場合にも、私はこのことだけは忘れぬように心がけて来たに過 ぎないのであります。その生活態度が今日のごとき結果を来たしたのであります。何か私の功 績らしく見えるものがあるとすれば、それはすベて諸先生の研究なり、思想なり、芸術なりの 余光でありまして、私自身は、ただ、これを忠実に世に伝達いたした一配達夫に過ぎないので あります。一時のつもりで始めた仕事が、人もわれも予期せざる結果をもたらし、最も不適当 と思われた町人としての私が商売に衣食し、志をまげずして今日に至りました上に、多少とも 世のためをはかり、風樹の歎をみずから慰むることのできるようになりましたのは、私にとっ て、もったいないくらい有難いことでございます。  それにつけましても、私は、実に多くの方々から恩誼を恭うしていることを、今さらのごと く痛感いたします。  第一には、私が直接間接に御指導を受けました諸先生、諸先輩であります。本日御列席の、 学界の者宿と仰がれる諸先生の御指導なくしては、公私ともに今日の私はあり得なかったと存 じます。第二には、四十年来変わらざる交誼を賜わった友人諸君であります。これらの友人諸 君が、商人に転身した私の心事をよく理解され、著述に、編集に、また経営に、陰に陽に私の 仕箏を支援されたことが、私の事業の発展にとってどれだけ大きな力となったかは、今さら申 上げるまでもありません。その他、全国にわたる各方面の方々が、私の出版に対する一片の誠 意をお認め下され、ある時は著者として、またある時は助言者として、何によらず私を激励し 支援し、御指導下さることがなかったなら、とうてい私は志をまげずして事業を今日に至らし めることが出来なかったでありましょう。  また、喰接事業とは関係なき方面におきましても、人間としての私が並々ならぬ御懇情を賜 わった方々がたくさんございます。  私の事業に好意を注がれる天下幾百万の読者の方々までも数えるとすれば、知ると知らざる とを問わず、まことに数限りない多くの方々から、私は御芳志をいただいてまいりました。わ けても本夕、御案内申上げました皆さま方は、特に得がたい御高誼を賜わった方々でございま す。多年の尽きぬ御厚情に対し、ここに謹んで御礼を申上げます。  なお、すでに故人とたられました夏目漱石先生の知遇と、寺田寅彦先生の御懇情とは、この 際特に忘れ難いものに存じます。現存の方々の御芳名を一々挙げることは差し控えますが、た だ、学生時代より常に叱正を吝まれなかった安倍能成君はじめ友人請君、及び同じく学生時代 より知遇を受け、この仕事を始めてからは特に私の最も不得手とする経営上の御指導を恭うし た明石照男氏の御高誼に対し、ここに厚く御礼申上げます。また、不断に私の身辺に♪、ωって献 身的努力を尽くされた堤支配人御夫妻を始めとして、絶えず協力を吝まなかった店員、同に、 深く感捌いたす次第でございます。  私が不敏の身でありながらも、高遠なる理想の方向に一歩なりとも近寄りたいと希い、及ば ずながら白ら驚馬に鞭うち、今日まで一筋の途を歩み続けて来ることができましたことについ ては、至誠一貫、道義の尊きを教えていただいた杉浦重剛先生、人間としての、尚き境地をお教 え下さったケーベル先生、永遠の事業の何ものなるかをお教え下さった内村鑑一`一先生、独立自 尊の町人道を教えられた福沢諭吉先生、また公益の精神をもって全牛涯をつらぬかれた青渕渋 沢翁に、負うところ多大であるのでございます。  たお、畏れ多いことでございますが、私が今日まで市業を進めてまいるに半.一て、国民とし て常に仰いで指標として来ましたム、のは、明治大帝の五ヵ条の御哲一[文でありました。  思弓に、あの五カ条の御誓文は、開国の指針であるばかりでなく、皇国永遠の理念であると 私は壁く信ずるのであります。この聖旨を奉戴して、学術の進屡に、教養の向上に、不断の努 力を傾倒することが、麟古の国難を突破するべく、われわれに課せられた職域奉公の道である と信ずるのであります。この感謝晩餐会を、特にこの明治節の佳き日に選びましたのは、いさ さかなりともこの志を表わさんがためであります。私は残れる生涯をこの精神に殉じ、この理 念に生き抜き、陛下の赤子として、国民の一人として、遺憾なきようにと念願いたします。こ こに謹んで在来の御懇情を深く謝すると共に、なお今後の御指導、御鞭捷を願ってやまないの でございます。  今夕の御来会に対して、重ねて厚く御礼を申上げます。私のまとまりなき話を長ながと御清 聴いただきましたことは、まことに恐縮に存じます。時局柄とはいえ何の風情もなく、席次そ の他、万端不行届きの点はすベて御許し下さいまして、ゆるゆるお歓談あらむことを切にお願 いいたします。  まことに、まことに、有難う存じました。                              (昭和十七年十二月『図書』)