経濟學協會演説 明治三十年三月廿日経済学協会に於て 書生の境遇 侯爵 伊藤博文君演説       速記社々員速記 私の学問は元来八百屋学問であつて、御話しすることも又八 百屋的であるから、左様御承知を願ふ、 此席に御出の方を見渡すと、概して私より若き方々が御出の やうであるが、私共が若い書生の時の境遇と、当時の若い書 生の境遇と比較すると、私共の若い時の書生の境遇と云ふも のが、又如何なる有様であつたかと云ふことが分る、そこで 此書生の境遇と云ふ表題に付て、私が幼年より国事上に関係 を持つた時からの事を一と通り御話を致します、今の書生の 御方は誠に結構であるが、私共書生の時には欧羅巴に行かう と云つても、帆前船に乗つて行くやうな訳であつて、行く者 も少ない、当今は皆あちらへ行くは立派な蒸汽船に乗つて御 出になれる、又初から立派な洋服を着て向ふへ行かれると云 ふ有様で、誠に私共が若い時の事に比較して見ると如何にも 羨しい訳である、況や今日はどう云ふ学問をしようと云つて も、各種の洋書が沢山に日本に輸入されて居るから、少しは 価の高いものもあるかは知らぬが、金さへ持つて行けば直ぐ に間に合ふ、又翻訳書なども幾らも出来て居る、私共が洋行 する時分には如何なる有様であつたかと云ふと、堀辰之助と いふ人の翻訳した薄い英吉利の辞書が、たつた壱冊あつた、 此辞書も翻訳の上に沢山間違ひのある辞書であつた、それは 其筈である、当時はなか/\本当に英書を読み砕く者が無か つた、其間違ひのある一冊の辞書と、山陽の日本政記とを携 へて私共は洋行をしたのである、私の洋行をしたのは文久癸 亥の年で、今を去ること三十五年前のことで、此時に私は今 日の東京、当時の江戸を去つて京都に行つて届つたが、当時 日本の国内の議論と云ふものは、なか/\今日の政党の議論 や、又議会の議論なぞよりは、もつと喧しかつたやうに考へ る、所謂当時称して開鎖の議論と言つて居つた、開鎖の議論 と称して届つたけれども、此開国の議論を唱ふるものが甚だ 微弱にして、鎖国と云ふ議論が勿論勝ちは占めて居つた、此 鎖国の議論の当時の有様を今日例へて申すと、丁度外交強硬 政略と云ふものに頗る縁の近いのである、何ぜかと云ふに、 強い議論を云ふ人程滅多に抵抗し難い議論はない、強い議論 を唱ふる人程大千を振つて歩ける議論はない、併ながら強い 謙論程又実行の出来難いものはない、依つて私は薙にちよつ と歴史的の事を問に入れて、言葉を仮りて御話をしますが、 彼の豊公の朝鮮征伐の時、明の大軍が押し寄せて来た時に、 平壌に届る所の我日本の兵は最早戦ひ疲れて居つて、到底兵 数に対して見ても、亦糧食の数量に対して見ても、彼れの十 分の一にも足らぬ、所が当事諸将の議論は城を枕にして討死 をすると云ふやうな甚だ強い議論である、故に三奉行も大い に困つて、日々軍議をするけれども唯一人退かうと云ふこと を云ひ出す者がない、そこで小早川隆景は思慮のあるものだ から、あれを呼んで相談したら宜からうと云ふことに評議が なつて、隆景を呼んだけれども病気と云つて出て来ない、な んで此時隆景は出て行かぬかと云ふと、諸将が城を枕に討死 すると云ふのは虚言である、虚喝である、あれは唯自分達が 強いと云ふことを装ふて、誰れか弱い事を言ひ出すのを待つ て居るのである、是れは今出て行つた所が仕方がない、そこ で隆景は窃に病気に事寄せて糧食の数量等を調べて見た所、 到底十日は支へ難い、所が諸将の議論は石を食つてやると、 斯う云ふことを言つて居つて、毎日軍議しても評議が纏らぬ から、隆景は已むを得ず出て行つて、諸将に会して、さて諸 将の意見はどう云ふ御考であると云ふと、諸将は城を枕にし て石を食つても討死する積りだと言ふ、そこで隆景の言ふ に、今ま諸将が言はるゝに、石を食つても戦はねばならぬと 言はるゝが、此隆景が率ゆる兵卒は石を食つては戦へませ ぬ、又あなた方は此少数の兵を以て彼の大軍と戦ふと仰つし やるが、唯骨を此地に埋めるのみが日本国の為であるか承ま はらん、唯れも二言もない、然らば兵を退くより仕方がない ぢやないかと隆景が言ふと、今まで強い事を言ふて居つた先 生達が如何にも尤至極だと云つて、石を食つて死ぬると言う た先生達ちが其晩からコソ/\兵を退き出したから、隆景大 いに憤つて日く、是れは驚入る、兵を退くには順序がござ る、無暗に兵を退くことは出来ますまい、兵を退くにはどう しても、舷で一戦敵を挫いて退かなければならぬ、唯此儘明 兵に追捲くられて退いてはならぬ、是非一戦して退かなけれ ばならぬ、其一戦に付ては隆景御引請申さうと言つた、諸将 は実に驚いた、さうして彼の碧蹄の戦に於て彼れは実に摩利 支天の如き勢を振つて、僅に少数の兵を以て明兵を敲き挫い て、兵を順次に引上げたと云ふ事がある、そこで懐夷論も丁 度其通りで、えらい勢で外国人を打掃はなければならぬと云 ふ、宜しい、それならどうして打掃ふかと云ふと、日本国の 海岸一面に大砲を残らず花べて備へる、羊、れならば共鉄砲の 地金はどこから持つて来るかと云ふと、御寺に釣つてある釣 鐘を持つて来て鋳潰すと云ふ位が通論であつた、又本当に開 園論を上張する者がない、若し開国論を本当にする者がある と、立ち所に暗殺されるから、誰もする者がない、それてあ るから先づ開国の論をする者は一身を拠たう、一身を勉つで、 然る後に田を開かねぱならぬと云ふことになつた、丁度其撰 夷論の焼点に達したる最中私は西京に居つた、樋か其年であ つたと思ひますが、将軍家茂が上洛になつで、、加茂に行幸が あつた…………其前年でてあつたか能く見えぬが、なんても 将軍在京中に撰夷の繭議が極らなければならぬと云ふ危機 で、程なく撰夷の勅旋が出るといふ、胆しい際であつた、共時 に是非西洋へ行かうと云ふ仲間が出来た、今居る井上馨と鉄 道に屑たる井上勝と\.れから山尾庸三、それと造幣局に居つ た、一昨年死ん、た遠藤謹助と、私と都合五人であつた、所が 私は撰爽論仲閲に少し頭を突込んで居つたから、相談しなけ ればなか/\出て行くことが出来ない、そこで已むを得ず私 は白分の志を久坂玄瑞と云ふ同志の人に相談した、此人は後 に京都の騒勅に死んだ人だ、此人に相談した一所が、それはい かぬ、今日になつて外国へ渡航なん云ふことは既に晩し、是 非やめろと云うて止められた、それから是れは相談した所が 沖τいかぬ、なんとかして渡航したいと片心して届る所が、 井上などは是非私を引張つて行かうと云ふ考へだ、其時に私 は束京に来なければならぬ用向きを言ひ付かつて東京に来 た、さうすると後との四人も又東京に出て来て、是非行かつ ぢやないかと云ふから、それなら行かうと云うて私は一結ド 出掛けた、私は亡命で、後との者は内命を蒙つて出掛けた、 併ながら幕府に於ては此海外渡航といふことは厳しく禁じて あつて、横浜に這入つて来るのでさへ大小を差しては這入れ ぬ、這入るには大小を脱いで町人の姿にしなければ這入れぬ と云ふやうに、なか/\厳重であつた、其時東京の藩邸に村 田蔵六と云うた人が居つて、後に大村を改称し、維新後兵部 大輔となり、後に此人は殺されたが、是れは古い闖入者であつ て、犀敷内で教授をして居つた、それなどにも相談した所が、 宜からう、行つたが宜からうと云ふから、それなら何分跡を 御頼み申す、一片の書面を捌、㎜め置いて出るから、お前に依頼す ると云つて私は出て行つた、行く時にど}うして行つたかと云 ふと、どうも外国船に乗るには外田人に付て依頼しなければ 油も出来ぬ故、丁度其時横浜運上所の傍に英古利一番の商館 があつて、前から両三度も行つて知つて居るから、此英一の 方へ頼つて、さうしてガールと云ふ人が日本語に能く通じて 居るから、それに依頼した、それなら宜しい、私が船に乗せ て上げませうと云ふことになつた、そこで五人で、五千両持つ て行つたから、それを横浜の弗に交換して貰つた、交換して 貰つたら丁度ハ千弗になつた、五干両の金が八千弗になつ た、其金は途中入費の為に少しばかりづゝ、各々用意金に懐 中して大部分は、勿論ガールの方へ頼んで為換して貰つた、 さうして神奈川の台に今の高島嘉右衛門が住んで居る、丁度 あの下の所に下田榛、と云茶屋があつた、舷は長州の出入りの 者にて長州人が始終休む茶屋である、そこへ行つて大小を脱 いで町人の躰になつて横浜に這入り、或る宿屋に泊つて居つ て、そうして窃に西洋人の店へ買物に行つた、其時分は横浜 は今のやうに、なか/\町を為して居らぬ、あつちに離れ、 こつちに離れて、チラパラ{`家がある、そこへ行つて楴神を買 一ノた、洋服と云つても水夫の着るやうな占着ばかりよりない から、仕方なしにそれを買つた、それから靴を買つた、所が ハ一方の靴に両方の足がヨ.旭入るやうな大きな靴で、殊に共時 一ガはまだ髭をみんな結つて居るときであるから、服を着て靴 を穿いた、其様子は実に妙であつた、それから上海へ其頃始 めて蒸汽船が通ふことになつて、それで今晩乗せるから夜中 吋分に英古利一蚕に来い、船長が食事をするから食事が済む と船へ連れ一-、行つて乗せてやるからと云ふことであつた、な んでも英占利一番は今でもある、あすこの塀の中に小さな山 かある、其山の所に来て待つて居れと云ふから、そこの庭の 隅に屈んで居つた、此待つて居る中に各々斬髪になつた、当 叶は汀弓医者には撫髪と云ふのはあつたが、兀服丁顕が俄斬髪 になつたのだから、実に妙な様子f、あつた、さうすると食事 か済んで、最早十二時にもならうかと思ふ頃、ガ!ルが出て 来て言ふのに、能く船長と談じたが、どうも幕府の禁制の人を 連れる訳にはいかぬ、請合はれぬといふから、いや斗、れはど うも困る、最早頭は斬髪になり、斯ういふ姿になつて居るか ら、舷で連れていかれなかつたへ、必ず此姿で外へ出れば規 はれるに違ひない、それなら宜しい腹を切る、、どうせ縛られ て殺されるなら舷で腹を切るといふ一同決心をした、さうし たらガールも驚いて、それなら少し待つて呉れと云つて、奥 へ行つて段々談判になつて、遂に連れて行くといふことにな つた、なんでも夜の二時頃、人静まつて四隣寂冥たる時、船 長は先きへ行つて仕舞つた、ガールは私共を案内して連れて 行くのに、ビク/\して運上所のある其前を通らなけれぱな らぬから、なんでも宜いから日本人に分らぬやうなことを私 が英語で話をするから、お前達運上所の前を通るとき、大き な声で話をして来いといふから、それから其教への通り大き な声でなんだか訳の分ら.ぬことを、育つて此運上所の前を通つ て、波止場に行つた、するとバツテーラが着して居つて、そ れに東つて本船に行つた、所が又此所に運上所の見張りが届 るから、それに見付られては溜らぬからと言ふので、蒸汽船 の蒸汽釜の側に入れられて、出帆するとき、そこに堀んで居 つた、間もなく夜が明けて観音崎あたりまてやつて来ると、 出ても宜しいと云ふから甲板に出た所が、横浜を出てから.L 海に行くまでの間は非常な暴風雨で、波が荒いので、船中で ロクに物も食ふことが出来ぬといふ有様であつた、それで上 海に着して久し振りで陸地を歩いて見たが、流石は外国の居 留地などは余程能く行届きたるものである、そこで我々一行 の中に多少英語の分るのは鉄道の井上で、外は皆分らぬから 井上を以て是れからどうして欧羅巴へやつて呉れるかと聞い たら、欧羅巴に行く船便のあり次第乗せてやるといふことで あつた、なんでも今考へて見ると、上海の河に繋泊して居る 航海の出来ない蔵船に乗せられたと思ふ、阿片を積んで置く 蔵船に使つたものと思ふが、其船に乗せられた、食物はパン と洋食の食ひ残りで、犬にでも食はせるやうなものを食はさ れた、併し時々上陸もすることがあつて、英吉利一番の代理人 をして居つたケセキといふ人が折りく呼んでは御馳走をし て呉れた、上等の御馳走といふのではないが、マズイものば かり食つて届るから非常な御馳走のやうに思はれた、さうし て書物などを呉れたり何かして今に欧羅巴に送つてやるから といふことであつた、所が向ふでは小児の如く思つて居る が、こつちはどうかと云ふと、私は旧暦で二十三歳、井上は 私より六つ歳が上だから二十九である、鉄道井上は私より一 つか二つ下だ、遠藤山尾は私より三つか四つか上であるが、 なかく日本では子供どころではない、やかましい議論をや つて、大騒ぎをやつて届る者が、向ふでは誠に小児の如く取 扱はれることになつた、それから丁度其頃に支那より欧羅巴 へ茶を積んで行く船があつた、今で考へるとなんでも一千四 五百噸位の商船で、三十問ばかりの長さの帆前船であつたと 思ふ、それへ大きな方の井上(馨)と私が乗せられた、どう一云 ふ所に乗せられたかと云ふと、船に舳がある、其舳の側にち よいとした水夫の部屋がある、其側にちよいと二段になつて 居る所がある、そこへ二人押込れたが、固より我々を待遇,〕 る所には尋常の厩はなし、用あるときは舶の舳の横に桁が出 て居る、そこで皆厨の代りをすることであるが、激浪の時に は身体潮水に湿れて実に困り切つた、それから後との三人は 一週間余り遅れて外の船に乗った為に、なんでも中等の船客 位の扱ひを受けて食事する時なども食堂に出て一緒に食はさ れたやうである、我々の方は船の乗込みの者が食うた後とて なければ食はせない、勿論水夫と一緒には食はせなかつた が、船乗りにでもなるものとでも思つたか、水夫からでも教へ る積であつたか、雨の降つたり、何うかすると水夫の手が足り ないと、綱を引く手伝ひなどを水夫と共にさせられた、さう して朝寝でもして起きていかぬと、水夫が綱の先きを持つて ピシャく殿目のあたりを打つて、日本人起きろと云つて来 る、大変苦んだこともある、それで当時はまだスエズの掘割 を通るといふやうな訳にいかぬで、喜望峰を回つて行くと云 ふやうな有様で、上海を出て以来倫敦のドツクに這入るまで の間、どこヘも着いたことがない、殆ど四箇月近くの歳月を 海上で費した、それで土地に沿うて行つたから喜望峰の土地 も見えれば、彼の掌破喬一世の流されたセント、ヘレナの如 きも皆目の前に見える、けれども寄れば日数も掛るし、入費 も要ることであるから寄らぬ、唯頗る難儀をしたのは水であ る、水は天水を取つて届る、桶を拉べて天水を取つて居るの てあるが、雨の降らぬ時は飲用水に困難をする、食物は何だ と云ふと、乾からびたビスケツトで、中に…蛆の生いて居るも りと、それから樽詰の塩牛の角に切つた、それを食つたり、 一週間に一遍豆り汁を吸ふが最上の馳走である、そこで乗組 みの人や何かの話しに、英語を覚えなければ油もいかぬと云 ふし、まだ其時分は二人は英語が分らぬから、此航海中に苦 し紛れに堀辰之助の字引によつて頻りに研究した、其為に倫 敦に着いた時には多少水を呉れ、湯を呉れといふやうなこと は楽に言へるやうになつた、さて船は志なく倫敦のドツクに 道入ると又向ふに運上所の役人が居つて、それが来て一切の 荷物より小さな手廻のものなどを残らず調べる、乗込人の方 は一人も残らず上陸せしめた、さうして船は全く運上所の役 人の保管となつた、是れは所謂禁制品などが隠しちやないか といふことを調べる為であつたと思ふ、井上は其朝船の炊夫 と共に上陸した、私は其時一人で残つて届つた、所が出て行 つたのは宜いが、晩方になつても帰つて来ない、追々腹は減 つて来るし、茶を呑むことも飯を食ふことも出来ない、こち らを見れば運上所の役人が、きつと容儀を正して居るのみで 誰も居らぬ、まさか運上所の役人に空腹を訴ふることも出来 す、困つたものだと思つて居る中に、予ねて日本に来て居つ た英一の持船の船長が私を迎に来た、それから直ぐとタワ ー、オブ、ロンドンと云ふ所に行つて、「アメリカン、スク エアー」に旅宿をした、舷は重に船乗りの泊る場所である、 翌日其人が風呂屋へ案内して呉れて、ちつとは身なりも奇麗 にしなければならぬからと云つて、理髪店に連れて行かれ、 仕立犀へも連れて行かれ、それから靴屋へも連れて行かれ て、やう/\一人前になつた、まだ此時まではあちらに日本 の書生といふものは届らなかつた、我々が書生として行つた のが一番初であつた、そこで英一の書記が其後「プロフエツ ソルしなどの所へ連れて行つて、どうだいお前の所へ此日本 人を預つて世話をしては呉れぬかといふと、何分日本人は初 めて見た位であるから様子が分らぬと云つて段々受付けられ ぬ所もあつた、併し到頭仕舞ひに倫敦大学の化学専門の教授 をして届るドクトル、ウヰリヤムソンと云ふ人の世話になる ことになつた、井上と山尾は別に或画工の家に行くことにた つた、私はそこに居つた所が、毎日のやうに能く世話をして 呉れる、ウヰリヤムソンの妻君も能く世話をして呉れて、学 校の先生だから朝に晩に来て教へて呉れる、さうして日々学 校に行つて、或は電気の世話をしたり、それから管を吹いた り色々のことをやる、其間に一方では算術を教へて呉れ、一 方では言葉を教へて色々の物を書かせるけれども、なか/\ タイムス新聞を読むといふ理屈にはいかぬ、所が家内の中で 新聞を読む者があつて、お前日本はどこだといふから、長州 だと言ふと、長州といふのは下の関ではないか、下の関では 外国船を砲撃した、左すればお前の所だらうと言ふ、どんな 事が書いてあるかと思つて、井上にお前もう=遍能く読むが 宜いと云ふと、是れはなか/\容易ならぬ木兆だ、、、パアリ ヤメン」でもどうしても征伐しなければならぬといふ議論が あると云ふ、そこで熟々考へるに、欧羅巴の形勢を見ると非 常な開け方である、日曜の休みの時などにキエウガデンの天 文台や、グリンウヰツチの大砲製造所や、軍艦製造所とかい ふやうな、大概倫敦のさう云ふやうな大きなものは見せられ た、そこ一で是れはどうも此文明の勢であるのに、`長州などが 撰夷を無謀にしようといふのは以ての外だ、思ひもよら.ぬ、 是れは此有様で打捨て\匿くと、取り返しの出来ぬことが起 る、屹度国が亡びるに相違ない、我々は仮令舷に学間をして 居つて業成るも白分の生国が亡びーて何の為になるか、是れは 我々の力を以て止め得るや否やは分らぬが、身命を賭けても 止める手段をしなければならぬといふことに片上(馨)と私と 、一人が決心して、それから直ぐに山尾に鉄道井上と遠藤の三 人に向つて貴様等三人は残つて店つて我々`上人が欧羅巴に学 問をしに来た志を継いで学業を遂ぐるが宜いと、固く約束し て私と井上は分れた、然るにウヰリヤムソンはなか/\心配 してやかましいことを.言ふ、聞けば尤のやうに聞えるが、お 前達ちはまだ青年の身分であつて国へ帰つた所が何稚の効果 はない、請りお前達は学間をするのが嫌やになつて、さうい ふ口実を設けて帰るのだらうと言ふけれども、そんな勧告で やめらるべき筋ではないと云つて、断乎として帰るレ与、口ひ張 つた、そんなら仕方がないから、帰るが宜いと云つて、又船に 乗せて貰つて喜望峰を廻つて帰つて来たから、思ひの外に日 数が掛つて、上海に着いたのが子年であつて、最早其頃には ちよつと話しは出米るから、段々様予を聞いて見ると、近ロ 馬関へ砲撃に行くらしい、そりやお前達迎も帰つても問に合 はぬといふ話だ、併し折角帰る積で舷まで来たからどうでも 帰ると云つて、長崎には船が寄らないから共船で横浜に帰つ て来た所が、貴図らんや長州邸は焼かれ、長州人は東京の岸 敷を追い払はれて、長人とし言へば広き日本国中を歩くこと も出来ぬといふ有様であつた、勿論二人は帰途船中で頻りに 談じて、帰つたらどうしようか、斯うしようかと講り合つ て、先、.つ当時日木の識見家である佐久間象山、あれが信州に 居るから、あすこへ行つて一と面会をして我々の所見を談じ ようといふことに決して、横浜に帰つて見れば、なかく容 易なへぬ形勢で、日木人が船から、出たと云ふやうな事が知れ ては一身が危険f、あるから、ハリソンと云ふ人が英一の関係 から知つて居るから、甘ハ人に頼んで西洋人の泊る宿犀、がある から、そこに泊めて貰うた、さうした所がそれに通ふに使が 日木人であるから、ハリソンの、言ふには、どうもお前達日本 人と云つでは危ぶないから、葡萄牙人と言ふが宜からう、さ う云ふ箏にしよう、併し葡萄牙というたばかりではおかしい から、なんとか苗字を付けなければならぬと云つて、私にデポ 十Iと云ふ名を付けた、井上はなんと云ふ名だつたか覚えぬ、 さうして共宿斥、に泊つて居つて色々考へたが、どうしても陸 叶勢じは長州まで帰ることが出来ぬ、出れば必ず捕へられるに 柑違ない、金は少々は持つて居つたが、金は何んの用もなさ ぬ、去りとて海賂を取つで.行くの便なく、殆んど策に窮して 店つた、そこで段々様子を聞いて見ると、最早十日を出ずし て各国の軍艦が下の関を砲撃に行くと云ふ話である、軍艦は 茂艘かときくと、十ハ艘だと云ふ、是れは到底仕方がない、 それなら英古利の公使に泣きつかう、身を英古利公使館に投 ヂるより仕方がないと覚悟をした、其時は横浜に公使館があ ノたので、直ぐにウオルコックといふ,ミニストルーの許に "つて頼んだ、共時は今のサトウも、シイボルトも、ラウダ も、皆居つて大概日本語を知つて居つた人のみだから誠に宜 かつた、ウオル」ックの所に行つて、実は私等は「プリンス」 から言ひ付けられて、欧羅巴に行つて居つたが、此度戦争が 姑まると云ふことを聞いて容易ならぬ事と考へて帰つて来た か、此戦争を止める積りである、私共、其位の言ひ分は貫く から、どうぞ私共を長州まで送つて呉れぬかと斯う頼んだ、 ド川がそれはお前達が帰つた所が油も長州の勢は止らぬ、最早 、」ちらでは大概極めて店るからと云ふ論であつたから、マー とうぞ私共折角欧羅巴から其為に帰つて来たのである、私廿、ハ 屹度此戦争は止めて御目に掛ける積であるから、是非どうか 側依頼を中したいと懇ξ一弓た所が、それでは待つて呉れ、 一つ仏蘭西、亜米利加、和蘭等の公使にも相談しようといふ ことになつて、此各公使とそれから、英占利、仏蘭西の水師 提督なども会合して、斯う云ふことが起つたが、どうである か、是れを送つてやるかどうかといふ評議になつた、兵評歳 でさう云ふ訳なら強て戦争を好む訳イー、ないから送ることにし ようと云ふことになつて、共席へ来いと云ふから甘一へ所に行つ た、さうするとお前達は送つて呉ろといふから一送つてもやら うが、船は何地に着けようかと言ふから、海図を出して長州 の海岸へは砲撃の虞あれば船が着けられぬから豊後の姫島に 着けて呉れと頼んだ、宜しい着けてやる、そんなら其返答を するに何日掛るかと言ふから、何日と云ふても其地から山口 に行つて、亦姫島まで帰つて来なければならぬから、どうし ても往復の日数が掛るから、、とうぞ一.週間待つて呉れ、評儀 もしなければならぬからと言つた、所が一週間より待たれぬ、 待つて呉れ、待たれぬと云ふので到頭十二日間待つと云ふ約 束をして、乃ち英十口利の軍艦一艘と仏蘭西の軍艦一艘と都合 二艘で送られた、サトウも此時一緒に行つた、さうして姫局 に着いてから私共両人は漁船を雇うて周防の国の戸海と云ふ 所に行つた、三田尻の点き近辺であるが、船着きだからそこ に着けて呉れと言つて戸海に上陸した、所が長州は其時は撰 爽論の極点に達して屑る時で、男子は勿論、婦女に至るまで白 鉢巻で檸をかけて長刀を使ふと云ふやうな騒ぎである、所が 我〃、は散髪'"」あつて、漸く人に頼んで棋浜で単物を一枚買つ て貰つたきりで、大小を差したり袴を着けたりするやうなこ とは出来ぬ、それから戸海から三田尻といふ所まで二里ばか りあるが、そこに代官をして居つた湯川平馬といふ男を知つ て居るから、早駕籠で行つて実は斯ういふ訳で帰つて来たの だから、山口まで急に行かなければならぬ、それまで身体が 安全に保てぬと困るから、どうぞ貴様に頼む、やつて呉れぬ かといふと、それならやつてやらうとなつて、そこで袴羽織 に着物と大小を借り集めて揃つたが、山口に這入るには途中 に関門があつてなかく厳重だ、其当時は擁夷論なり、幕府 に反対するなりで、他から探偵などにヨ一氾入つて来るやつを厳 しくやつて居るので、鑑札がなければ通れぬ、やうく代官 から鑑札を貰つて、夕方に山口に着して、其晩宿屋に泊つ て、翌日君側の役人をして居る毛利登人といふ者に逢つて、 予ねて知つて居る人であるから、実は斯うく云ふ訳で帰つ て来たのだから、君公の前に出て殺されても宜しいから、ど うか逢はせて呉れと云つたら、大きに驚いて、マー能く帰つ て来た、此国難の時に当つて能く帰つて来た、早速君公に逢 はせてやるから安心せよ、それは誠に有難いと云つて宿屋に 帰つて、翌日呼び出しになつて家老始め列席の所に於て尋ね られたから、なんでも四時間ばかり先づ地図を指して我々の 耳目に見聞して居るだけの欧羅巴の文化の形勢をいふより仕 方がないと思つて其事を述べてそれから今正さに横浜に集つ て居つて馬関の砲撃をなさうとする所の十八艘の船は斯の如 き構造である、大砲の数は幾門、弾薬はそれに応じて備へで、 ある、且ツ一切の兵器の備つて居ることも述べて、是れに抵 抗して戦争をした所が勝てる目的はない、のみならず毛利家 が僅かに一藩を以て之に抵抗して何等の益があるか、それよ りは寧ろ舷で和睦して、王政を復古して、日本の国力を統一 しなければ、注も外国には抵抗することは出来ぬといふ議論 であつた、所が横浜を発するに当て各国の公使から毛利公に 宛てたる書翰を出して、お前達、帰るなら持つて行つて呉れ と云ふから受取つたが、此手紙の中に何が記してあるか分ら ぬ、迂潤に此手紙を出すことは出来ぬ、出せば西洋人の御使 に帰つたとしか見られない、不徳義かは知らぬが是れは出さ ぬと極めて握り潰した、其手紙にはヒドイことが書いてあ る、長州は関西十一国の諸侯と共同して日本和親を結んだ各 国に対して故なく砲撃を加ふる、斯の如き所為は世界のコン モン、エネミーと認める、公敵は其儘に差し置かぬから近口 各国申合せて軍艦を送つて砲撃する積である、併ながら殿下 が      其時分プリンス、ハイネスを用ゐて居るが …殿下の命を以て欧州へ学問をさせに遣はされてあつた、両 名の青年は自国の危難を救はむとて、ワザく帰つて来て各 国公使に申出たに依つて、殿下の許へ送る、付ては此送るだ けの好意に対しても各国が敢えて長州の砲撃を好むものでた. い、故なく戦争をするものでないと云ふことが、御推祭が…■ 来るだらう、併しながらそれに拘はらずおやりなさるど云ふ ことなら致し方がない、砲撃する、砲撃した以上はどうする かと云へば、嘗て英仏両軍が合して北京に攻入つた如く、闘 下に行つて天子の勅許を請ふて開港するより外ないと斯う云 ふ文章であつた、それは私は出さなかつたが、さう云ふやう なことも一々私は話をした、所が久し振りで座つたものだか ら急に君公の側を立つことが出来ぬ、それからマア座つて評 戯の模様を見て居つたが、どうしよう、斯うしようと云ふこ とでなかく急に決せられない、そこで我々は旅宿に退きた り、井上は山口で、私は萩だから、なんでも御互にない命 た、三日保てるか、四日保てるか分らぬから、兎に角父母に 久し振りで逢つて暇乞ひをして来てはどうかと云ふから、そ れなら行かうとなつて出て行つた、彼是れする中に議論が動 いて来た、動いて来た時に、先鋒隊というて君側を警固して 居る隊から、是りや井上伊藤が欧羅巴から帰つて来て色々の 事をいうた為めに藩議が動くことになつたからあれを置いて はいかぬ、今夜暗殺するといふ事になつた、そこで井上は言 ふに、我々は折角帰つて来たが志を得ずして人手に掛つては 遺憾だから自殺すると云ふから、私は井上に向つてそれはい かぬ、最早どうせ斯うやつて居る以上は人手に掛つても仕様 がない、若し今夜来たら多勢に無勢でも刃向つて切り死をし ようと云ふことに決して、腹を切ることは止めた、さうした 所が幸に藩から先鋒隊を制したために暗殺と云ふことも止ん だ、其当時長州に騎兵隊と称する穣夷隊あり、元は高杉が作 りたり、山県も其内に加はゝり届たり、高杉と云ふものは其 後政府の役人であつた、皆懇意であつた、高杉は故ありて 我々帰国の当時牢に這入つて居る時て、あつた、騎兵隊の連中 は時々やつて来て君等は以前同志だから仕方がない、同志だ から殺す訳にいかぬといふことで、其お蔭を蒙つた、今の改進 党自由党の間にもさういふ訳があるかも知れぬ、それから 段々する中に日限が経過する、其間に余程危ぶない事が沢山 あつたが、細かいことはよして大躰を御話するが、十二日間 といふ日限が臆て切れるといふ事になつて、軍艦は待つて居 るし、どうしても返答をしなければならぬ、どうしたら宜か らうと云うて其間に政府の役人と相談したけれどもどうも極 らぬ、それが到頭日限が切迫して返答に行かなければならぬ と云ふ場合になつた、その中に山口の政事堂と云ふ参政の会 する、即ち今日の内閣といふやうなものが開かれて居つて、 其政事堂で相談して、抑々長州が撰央をやるにも勅命で朝研 の御意を奉じてやつたのであるから、此撰夷といふことをや めるに付ても朝廷の命を伺はねば私にやめる訳にはいかぬ、 何れ長門守上京天意を朝廷に伺つた上で御返答甲さうから罵 関へ来ることは三箇月猶予して呉れ、併しそれも聞かぬとい ふことなら何時でも戦ひの用意をして御待ち申さうといふ返 答だ、それから此返答では実に外国人に約束した通りにいか ぬから甚だ困る、井上とも相談した所が井上の言ふに、どう もさう云ふ訳の分らぬ返答は幾ら外国人と云つても出来ぬぢ やないか、併しそれもさうだけれども、欺くより此返答をし た方が増しだ、それなら行かうと云つて、今度は三田尻より 船に乗つて姫島に行つた、丁度十二日の日切りの満つる前 夜、正に明朝出帆しようと云ふ其晩に着いた、確か此事は 、ブルー、ブツクLの中に出て居ると思ふが、サトウに逢つ たら能く帰つて来た、油もお前達は活きて届らうとも思はぬ だつたと云つて、シヤンパンを抜いて出して、談しはどうし たといふから、色々尽力をして見たが泣もいかぬ、手紙の返 答はといふから手紙の返答は別にないと斯う言つたら、受取 もないかといふから、受取もない、即ち我々の生命を以て御返 答申すと一一..弓た事も「ブルー、ブツクしに書いてある、そん なら今度何れ弾丸雨注の問に御目に懸ると云ふやうな話で、 惰然としで、我々は分れた、ゾてれから困へ帰つた所が、丁度其 時長州では三条公以下七卿を連れて、さうして此間死んだ一兀 億公長門守と云つた人が京都に出て行かうといふ騒ぎになつ た、既に京部には福`原、益田、国司の三人に、それに木戸など も居つた、さうして戦争を今にも始めようと云ふ容易ならざ る所へ、三条以下七卿が出f、行くと云ふことになつた、其出て 行くのは、衣血は哀訴歎願、哀訴歎願だけれども許して呉れ といふ話でなくつて、朝旨を奉じてやつたと云ふ弁疏的のこ とである、其実どうかといふと、兵を交へるといふ仕掛だ、所 が近時著さるゝ維新史料といふ、歴史を詮索するに、あの中に 書いてある巾で我々の知らぬことが一ツ出て来た、其中に長 門守上京の趣意はどうだといふに、井上聞多、伊藤俊輔が近 日欧羅巴から帰つて来て報告する所に依れば、容易ならぬ外 国の景況である、軍艦を率ひて摂海に乗込んで開因の勅許を 迫ると云ふことだ、実に国家重大なことであるから出て行く と云ふやうなことで、我々の帰つたのが口実になつて出て行 くやうに書いてある、此事は当時聞かなかつた、此間も井上と も話したが、御互ひに知らぬことで、是れは全く藩吏が出し方 ものに違ひない、所が先刻御話をしようと思つた、清水清太. 郎と云ふ家老があつて、此清水清太郎といふ人の先祖は清水 長左衛門といふ、彼の尚松城水責めの時腹を切つた、あの家 で一日私の話を聞きたいと云ふから、話をした所が貴様の話 は如何にも尤だと同意した、此人はどつちかと云ふと、小早 川隆景流の男だが、貴様の話は尤だ、今日より貴様に同意す る、而して撰夷心は`五十年の間腹の中に納めて置くから直ぐ 京部に行つて呉れぬか、今あすこで事を起されてはどうもな らぬ、京都に行つて宍戸左馬介等と談じて、なんでも貴様の 量見で話して呉れ、ど一うか穣曳論を止めさして其勢を以て王 政復古をやれと云ふから、そんなら宜しい、行かうと云つて 備前の岡山まで来ると、京都より戦争をした敗兵がヒヨロ /\して帰つて来るに会つた、三条以下七卿は海路播州案、の 津まで米て引返したと云ふことで、仕方がないから私も三田 尻に帰つた、所が君公には会議を開くといふことになつた、京 都で負けたので余秘長州の形勢も変じた、馬関に軍艦を引入 れてもう一戦やるのは甚だ困難だから、何とか之を防ぐ.工夫 はないかといふ議論になつた、夫はムヅカシイ今日になつて は    併しやつて見ようか、当時横浜に石かうといふの はムヅカシイから、長崎に出て行くより仕方がない、それな ら工夫して見ようと云つて、僅の日数の経過した中に、姫島 に十八艘の軍艦が来た報知のありたる其夜、山口の宿屋に泊 つて居つた所が今兵庫県の知事をして居る周布の親父の政→/し 助、是れが我々が帰つた時には蟄居させられて居つた、りてれ が俄に呼出しになつて、所謂内閣と云ふやうな所で、軍艦が 来たさうだが、ゾ、うかして止めやうがないかといふから、\、 れはムヅカシイと思ふ、今度外国人も覚悟をして来て居るか ら、辿も止らぬ、けれども何とか方法はないかといふから、 それなれば今薪水食料を与へて馬関交通を自由に詐すといふ 条件にでもしたらどうか、それで宜しい、それなら君公の書 翰を認め印判を取つて出掛けて見ようと云ふことになつブ、、 人を呼び評議する暇がないから書面を書いて君公の寝て屑る 所に行つて印判を貰つて三田尻の松島弘蔵といふ水師提督と 弓して届る者を同行すると云ふことになり、直に命令を下し て翌朝私は三田尻に出て行つた、それからバツテーラに乗つ て姫島まで七八里もある、そこを漕ぎ出して半ばまで行く と、今の三時過ぎであつたが、蒸汽船が煙りを焚いて下の関 の方に行くのを見た、是れは注もバツテーラで行つた所が追 ひ付く話でないといふもので引返した、どうせ事が始まると 思つたから三田尻に泊つて翌日山口に帰つた、帰つた所が萩 で牢に入れられた高杉が出て居る、尤も共頃は自分の家の座 敷内で牢居して居つた、此以前帰朝早々高杉と我々の意見を 談合し置くの必要を感じ井上は萩に行きて面、略したる故、高 杉直ぐに同意した、そこで私も久し振りで高杉に面会した所 が、オレは牢に這入つて屑つたが、罪を免すと云ふ事もな く、御用がある出て来いと云ふ、実に何んといふことか分ら ぬ、兎に角舷に屑つても仕方がないから、馬関に出掛けて見 ようと云つて、其日の乍後二時頃私は高杉と共に駕籠に乗つ て出掛けた、井上は其前に馬関に行つた、夫から山口から二 果程もある小郡近くへ行くと、大砲の音が馬関の方面に間え る、凡四つ時分、今の十時過ぎと思ふが、白鉢巻目、ハ足で駕に 乗つてドン/\来る者がある、誰れだといふと、長府の士 だ、何事だと云ふと今日馬関に於て戦争が始ま?、κから御本 家様へ御注進だと云ふ、それから構はず行くと、又駕籠が来 る、今度は誰れかといふと、井上が馬関に行つた帰りだ、三 人そこへ駕を下ろして評議した、井上の話に馬関に行つた所 が話しする所でない、軍艦に往きてサトウにも面会せり、サ トウは.一、一口ふに今度は此弾丸を御進物にするからと云ふことで 話にならぬ、それから今日夕方より開戦になりたり、帰り掛 けム壇の浦の砲台のある所を通過したるが、アムストロングの 大砲の丸は存外的らぬで、皆上に行くやうである、併し兎に 角鉄砲を打たれた以上は一と戦争せずして和議をやらさぬや う、させねばならぬ、さうしなければ目が覚めぬ、是れから 三人とも山口に帰つて君公の出馬を勧めよう、之れは防長の 士気を作興する為にも、看公の出馬が宜からうと云ふので、 翌日御前会議を開いたら、至極尤だから出るといふことにな つて、其翌日君公は小郡まで出て、井上は小郡の防禦を言ひ 付つた、之は山口の関門である、高杉と私は馬関の戦争の方 に参るといふ話だ、それで出て行き清末と云ふ処迄行くと、 君公から急に御用があるから帰れと云ふので、小郡まで帰つ て来た所が、君公は和議論に極つたと云ふ話だ、井上と私と 高杉と三人和議論の事を仰せ付つた、段々嬢夷をやつたけれ ども、権謀を以て一時休戦するから和議をと云ふ話だ、それ から高杉は捻ぢ込んで、今日に至つて和議といふことは甚だ 聞えませぬ、戦争が起らぬ前ならやるけれども、起つた以上 はどこまでも御貫きなさるが宜しいと云うたら、君命を聞か ぬかと言はれた、君命を聞かぬと言へば其結果割腹より外は なし、それからマー君命を聞かぬといふ事ではないと言つ て、漸く和議と定むる時に、各部の兵隊に休戦を命ずる必要 あるが為めに、一面には君側の重役を派出して君命を伝へ、 其報を待て我々は軍艦へ談判に出掛けようといふのである が"長府まで行つて見ると、兵隊押への使ひは帰らず、仕方 がないから、私一人行つて軍艦の砲撃だけ止めさせようと云 つて、漁船に乗つて軍艦に行つた、さうすると一番大きな 「コンクエスト」七十二門の大砲を備へた軍艦が届つて、そ れに乗船しようと云うて軍艦の番兵と話した所が上らせぬ、 旗艦はアノ船だくといふから「ユラヤルス」と云ふ船ヘ行 つて旗艦はこれかと言うたら、サトウが出て来た、アー伊藤 さん、戦争にアグミましたかと尋ねたり、私はどうか水師提 督に面会したいから逢せて呉れというたら、今陸上の大砲を 分捕る指揮をして居るから、マアこつちへ御出なさいといふ から這入ると、カビテン、アレキサンダーと云ふ人は足を撃 ち抜かれて居つて、今あなた方の人がこんな悪いことをした と云ふやうな訳で、誠に気の毒であつた、さうかうして居る 中に、水師提督が帰つて来たから、どうかポンバートだけは 止めて貰ひたいと言うたら、直ぐに止めた、君公はなぜ出て 来ないと云ふから、君公は病気だから使ひだ、さうかうして 居る中に漁船に乗つて山高杉は宍戸備後と名乗り烏帽子垂衣で ヒヨコく来る、眼鏡で見て居ると其姿がおかしい、やがて 来て談判をした所、委任状を持つて来たかといふから委任状 は持つて届らぬ、それぢや戦争は止める訳にはいかぬ、是非 君公を連れて来いと云ふ、それから其時色々条件を付して請 求された、和議の成るまで彦島を占領すると云様な事もあり たれども、之は断りたり、私は高杉と共に一応君公へ伺ふた めに船木の本陣迄帰る、誰れか一人残れといふ話になつて、 井上が残るとなつて、高杉と私は帰つて、それだけの用意を しなければならぬといふことになつた、そこで其話をして行 くと、本陣にて評議中なんだか十四五人ざうくして居る、 妙な事だと思つてると、モト私共が手習に行きました師匠の 只子久保孫三、半時船木代官が来て窃に高杉と私に告るに、 今度お前達ちを暗殺すると云ふ訳だ、当時山田顕義品川弥二 郎の率ゐたる御楯隊中の者、京都一敗後和議嫌ひで暗殺をや ろと云ふ者等なり、それからマー困つた奴が居る、此時高杉 け私に云て日く、是れはいかんぞ、我々は此大事のことを抱 へて届るのに暗殺すると云ふ者が眼の前に現はれて居つても 政府はどうすることも出来ぬ、実に犬か畜生か、もう斯うな つては仕方がない、去るに如かずと云つて、殆ど二里三里夜 通し行つて山中の農家に隠れた、久保と云ふ人は我々を保護 するために隠伏の援助を与へたり、同人も長州は斯う云ふ情 態では滅亡だ、どうも仕方がないといつて大に憂慮したり、 我々潜伏の為に政府も大に驚いて井上を下の関に呼びにやつ て、井上も帰て来て君公始め政府も両人の身躰上に於て決し てそんな不慮なことはさせぬと保証をして、我々の潜伏所は 久保が熟知するゆゑ久保の案内にて宍戸磯と井上の二人は君 命を帯びて迎ひに来た、それから仕方がない、また再び船木 に帰つて来て、今度は家老其他十一人を連れて馬関に出て、 列頭談判和議の決了をしたと云ふ訳であります、               『東京経済雑誌』三十年四月十日号