映画界手近の問題 伊丹万作  だれかが私に映画界の七不思議を選定してみないかといったら、私は即座に四社連盟をあげる。そ してあとの六つはだれか他の人に考えてもらう。  四社連盟というものの不可思議性については以下私が申し述べるところによっておのずと会得され るだろうと思うが、とりあえず私は自分の知っている範囲で四社連盟とはいかなるものかという具体 的た説明から始めようと思う。  四杜連盟というのは松竹・日活・新興・大都、以上四社が共同利益を目的とする協約を結んだこと によって新たに効力を発生した一つの結社をさすのであって、その協約を四杜協定(以前の五杜協 定)という。  四社協定というのは、四社所属の従業員たちから就職に関する多くの自由を合法的に剥奪すること を目的とする一種の秘密協約であって、その内容を正確に知っているのは前記四社の主脳部ばかりで ある。我々はいつとなく聞き伝えたり、あるいはたまたまその効力の発生した場合の実例を観察する ことによって、ほぼその内容について知っているが、多くの従業員たちは自己の生存権をおびやかす この協約に関してほとんど無知であり、なかにはその協約の存在を意識しないものさえある。  さて、四社連盟は一つの登録名簿を備える。登録の範囲は前記四杜所属の監督、俳優などの過半数 であって、いやしくも一技能ある俳優ならば月収四、五十円程度のものまで登録されているというか ら意外に広範囲にわたっていることがわかる。  そしてこの登録はあくまでも一方的であって事はまったく被登録者の意志と知識の外において行わ れる。  被登録者の意志と知識の外においてなされた登録が、いったん効力を発生するや突如として被登録 者の意志と利益を躁躍してあますところがない。すなわちこの名簿に登録されたが最後、従業員は会 社の同意なくして自由に退社する能力がなくなってしまうのである。  たとえ押し切って退社はしても協定加入の残り三社のいずれに対しても入社の希望を持つことがで きないのだから遊んで食うだけの資産でもないかぎり結局退杜はできないことにたる。  なぜ他杜に対して入社の希望が持てないかというと、たとえば私がいままで日活にいたと仮定する。 そしていま私は会杜がそれを希望しないのに自由に退社して松竹へ入杜しようと試みたとする。この 場合松竹は決して私を雇わないであろうし、また実際問題として松竹はたとえ私を雇いたくても雇え ないのである。  つまり日活は会社の同意なくして退杜したものの名まえを登録名簿から取り消さないでおくことが できるし、日活が取り消さないものを松竹で雇い入れることは協定に反するからできないのである。 そして協約を破った会社は、その相手会社に対して十万円の違約金を支払う義務がある。松竹が発狂 したいかぎり十万円出して私を雇う心配はないからこの場合私に残された道は二つしかない。すなわ ち四杜連盟以外の会社に就職するか、あるいは五年間映画界を隠退するかである。  五年間というのはこれも協定の条文によって定められたところであって、つまり五ヵ年を経過すれ ば他の会社は私を雇ってもいいことになっているのである。しかし現在の私の身分では五年間(たと えそれが三年であっても同じことである。)の食いつなぎはとうてい不可能である。たとえ塩をなめ てその間を食いつなぎ得たとしても、さて今から五年目に、さあ伊丹万作作品でございと売り出しが きくかどうか。  映画界という所は忘れっぽい所である。ここの五年は他の世界の十年、十五年に該当する。私は相 当うぬぼれの強い人間であるが五年間作品を出さずにつないで行く自信はない。  すなわち映画界で五年間の休業をしいられることは実際問題として生きながら日ぽしにされること と何らえらぶところはないのである。  してみるとここに設けられた五年という期間は単に文書上の体裁をつくろうにすぎないのであって、 この規約条項制定の精神をわかりやすくいえば「自由退杜をあえてするものにはふたたび立つあたわ ざる致命傷を与う」という殺風景な文句となるのである。  しかし、我々の場合はまだいい。不幸引退のやむなきに立ちいたっても、明日から氷屋をやるくら いの資本と生活意欲は持っている。  これが、一銭のたくわえもない薄給俳優などの場合はどうなるか。  四社連盟以外の会社へ運動するにしても、わずかに東宝系のP・C・L、およびJ・0各撮影所、 千鳥系のマキノ撮影所くらいしかないが、これはいずれも仕事がやっと緒についたばかりであったり、 あるいはやっと緒につこうとしつつあるところであったりして、その収容力はまことに微々たるもの である。  それにこれらの各会杜でも同業者に対する遠慮から、そういう種類の人たちはなるべく雇い入れな い方針をとっているし、万二雇うにしても、うんとたたいて安く雇い得る立場にあるのである。なぜ ならば「おれたちのほうで雇わなかったら君はもう行く所はないじゃないか」という腹があるから話 はともすれば一方的になりやすい。  してみると四社連盟による利益を蒙るものは必ずしも協定加入の各会杜ばかりではなく、その余沢 は不加入会社にまで及んでいることがわかる。右のような次第で、結局被登録者には退社の自由はほ とんど皆無といってもさしつかえない状態になっている。  しかも右の協定は雇用に関する相互契約の有無にかかわらず適用される。つまり始めからまったく 契約のないものでも、あるいは契約満期後のものでも会社が契約の続行を希望した場合にはみな一様 に適用されるのである。  一例をあげると私たちは同志相寄って連合映画杜なるものを創立し、業いまだ緒につかざるに先だ って一敗地にまみれてしまったが、このメンパ1の中にはだれ一人として会社との契約に触れる行動 をとったものはない。そればかりか、退社後もひっかかりの仕事には全部出勤して、ことごとく従業 員としての責任と、杜会人としての徳義を全うしたものばかりであるQ  それにもかかわらず新興キネマは、杉山、毛利、久松の三名を挙げ、右は会杜に迷惑をかけたふら ちものであるから、絶対に雇用するなかれという意味の通告を各社に向って送付している。この無根 の報道によって前記三名がその将来においてこうむる社会的不利益はおそらく我々の想像を絶するも のであろう。  なおこの協定には以上のほか種々なる細目があるらしいが、秘密協定であるから我々には精密なと ころまではわからない。しかし肝腎の点はあくまでも前述のごとく、従業員から転杜の自由を奪い取 った点にある。そしてそれは同時に従業員の報酬に対する無言の示威運動でもある。  そもそも映画会社が引抜防止策としての協定を結んだ例は従来とても再三にとどまらなかったので あるが、いまだかつて現存の四杜連盟のごとくに実際的効力を発揮した例はない。  なぜ今回に限ってかかる実例を作り得たかといえば、それは一には各社とも長年にわたる監督・俳 優争奪戦に疲労し倦み果てた結果である。元来引抜きという語の持つ概念から考えてもわかるように、 この語の原形、すなわち引き抜くという他動詞の主格はいつの場合にも会社であり、俳優や監督は目 的にしかすぎない。  引き抜くのは必ず会社が引き抜くのであって、いまだかつて俳優が会杜を引き抜いたためしなどは どこの世界にもありはしないのである。  したがって、この問題に関するかぎり、よいもわるいもことごとく引き抜く側の会社の責任であっ て決して引き抜かれるほうの責任ではない。早い話が、法律はよその畠の大根を引き抜いた人間を処 罰するが、決して引き抜かれた大根を罰しない。  もっともこの例は少々じょうだんめいて聞えるかもしれない。なぜならば大根は自分の意志を持た ないけれども俳優や監督は自分の意志を持っているから。しかし俳優や監督がどれほど引き抜かれる ことを熱望していても会杜側が手をくださなかったら引抜きという作業は絶対に完成しないものであ ることを記憶してもらいたい。  反対にたとえ監督や俳優が転杜を希望していない場合でも引き抜くほうの側は金力その他の好条件 をもって誘うことによって多くの場合その目的を達することができるのである。  要するに事引抜きに関するかぎり、会杜側がいかに抗弁しても、アクティヴの立場にあるものは常 に会社側であり、俳優監督はどこまでもパッシヴであるという事実はあまりに明白過ぎていまさら議 論の余地はないのである。  したがって引抜きがもしも不徳義であるならば、その罪の少なくとも大部分はアクティヴな立場に ある会社側が負うべきであって、決して監督俳優の責任ではない。  ここの理窟が十分にわからないものだから映画ジャlナリストたちはいたずらに会杜のプロパガン ダにあやつられてともすれば引き抜かれた監督俳優を不徳義、無節操呼ばわりをする。そのくせ引き 抜いた主人公である会社側に対しては一言も触れない場合が多いのは我々の常に了解に苦しむところ である。  さて、こうはいうものの私は決して引抜きが悪いものだとは思っていたい。そればかりか、むしろ これはなくてはいけないくらいに考えているのである。  たぜならば、私には映画産業の最も健康な発展形式は自由競争をほかにしては考えられないからで ある。  そしてこの一条は私にとって金科玉条であり、いやしくも映画産業に関する私の考え方はことごと く右の定理の上に築かれ発展しているものと認めてもらって何らさしつかえはない。  したがってこの意味からいえば映画の産業統制といい、また映画産業ブロック化の傾向といい、前 者は画一主義を予想させる点において、後者は限られた資本系統の独占からくる無数の弊害を伴うで あろう危険性においてともに私の最もむしの好かぬ現象である。たとえば映画統制の手始めとして着 手された日本映画協会は、創立されてもう一年近くにもなるが、いまだかつて同協会が人道的な意味 から四杜連盟の存在を検討したという話を聞かない。それどころかむしろ彼らの間では話題にさえの ぼったことはないであろう。なぜならば四社連盟の張本人たちがことごとく協会の主要な椅子を占め ているのだから。  この一事をもってしても我々は日本映画協会などというものから文化的には何らの意味も期待でき ないことがわかる。ただこのうえはさいわいにして彼らが無能であってこれ以上映画界に害毒を流す ことさえなければまことに見つけものだと思ってそれだけで十分消極的に喜んでしかるベきであろう と思う。話が少し横にそれたようだ。  さて、すでに根本において自由競争を最も合理的な発展形式と認める以上、よき技術者の争奪は避 くべからざる現象であって別に大騒ぎをするには当らない問題であると私は考える。もっとも会社側 からいえば、それでは不安でしようがないというかもしれぬが、そんな不安を除去する方法はいくら でもあるように私には考えられる。  たとえば自分の杜の従業員は、常にほんのわずかでも、他の会杜よりはよい条件のもとにおいてあ るという自信があれば、そんな不安はほとんど解消してしまうに違いない。  なるぺく悪い条件で使いたい、しかしよそへはやりたくないというのが今の会杜側の考え方である。 そんなむしのよい話が世間に通用するものかどうか私は知らない。  いま一つは双方とも契約の期間をせいぜい短くするように心がけるべきである。映画界の情勢は一 年もすればすっかり変ってしまう場合が多い。それを考慮しないで長期にわたる契約をするものだか らほうぽうで見苦しい契約違反沙汰が持ち上るのである。長期契約はいずれのためにもよくない。  次に会杜はもう少し後継者の養成に留意しなければいけない。第一線に立つもののことばかりしか 念頭においていたいから、ごく少数のものが一時に去ると大きな図体をした会社がたちまち悲鳴をあ げて立ち騒ぐのはあまりに大人気ない図ではないか。Aが去った場合にはB、Cが去った場合にはD というふうに補充兵を不断から用意しておくならば引抜きの不安などはどこかへ消し飛んでしまうで あろう。  これは余談であるが、だれか人気のある俳優が他へ引き抜かれるとその翌日あたりの新聞にその会 社側の談として「去る者は追わずです」という言葉が必ず掲載される。そしてしばらくするとおおわ らわになって引戻しに努力している正体が暴露したりする。こういうことはいかにも醜態であるから 以後はなるべくつつしんでもらいたい。 「追わず」と声明した以上は追わないようにしてもらいたいし、あくまでも追うつもりなら最初から、 「追わず」などとへたな見えはきらぬほうがよい。これでは映画界の人間はいつも腹の中とは正反対 のことばかり声明しているものだというふうに世間から解釈されてもいたし方がない。  いずれにしても映画の事業は自動車会杜や紡績会社の経営とは根本的に違うものだということを、 もう少し資本家が理解しなければいけない。  使われてる人間のくせに高給をむさぼりすぎるとか、威張りすぎるとかいうような偏見をまず打破 してしまわなければこの仕事はやってはいけない。早い話がポスターにいくら株主の名前を並べたっ て客は一人も来はしないのだから。そして現在のところではまだ興行成績に関しては何らの寄与もな し得ない人たちのほうがもうけすぎているのだという事情を十分理解しなければいけない。  引抜き問題にからんで思わぬ脱線をしてしまった。  次に四杜協定が長続きをした理由の一つとして、ここ一、二年映画界にあまり大きな変動がなかっ たことも数えられる。  それといま一つの重大な理由は違約金十万円という数字の威力である。  つまり、A社を自由退杜することによって協定に触れたものの出演映画がB杜系統の館に上映せら れた場合、B社はA社に対して金十万円を支払う罰則が設けられているのである。  したがってA杜を自由退杜することによって協定に触れたものは、他の三社系統のいっさいのプロ ダクションにおいて働くことができないばかりか、他の三社系統の館に配給されるいっさいの映画に 出演することができないわけである。  かくのごとくに四杜協定というものは、その動機においても性質においても、つまり一から十まで 会杜側の御都合主義にょる勘定ずくの話であって、この協定のどこの部分を拡大鏡にかけてみても精 神的な結合などは毫も発見されたいのである。  だからこの協定もある温度のもとにおいてはあとかたもなく消失するある種の化合物に似ている。  我々は必ずしもあらゆる場合に従業員側の行動を正当づけようと試みるものではない。たとえば仕 事の途中でこれを拠棄して他へ走るがごとき無責任た行動は杜会人としても許し難いばかりでなく、 それが往々にして、真撃なる動機によって行動するものにまで累を及ぼすことは私のかぎりなく遺憾 とするところである。  しかしそれとこれとはまたおのずから別の話である。道徳上の問題は道徳的制裁によって解決すれ ば足りる。  たまたま一部に不徳漢があったということは決して四社連盟を正当づける理由とはならない。  不徳行為に対する制裁は不徳者一個人の範囲を超えてはならぬ。  四社連盟は|無辜《むこ》の従業員過半数の生命線を犯さんとする暴圧である。  いったい映画従業員ほどおとなしいものはもはや現在の世の中にはどこにもいはしないのである。  映画の従業員はまったくおとなしいのである。彼らは天下泰平の夢を見続けて、今に至るまで一つ の組合さえ持たなかったのである。愚かな彼らは「芸術家」という一枚の不渡手形を、後生大事とお しいただいて、三十何時間労働というような、他に例のない肉体酷使をあえてしてまで、黙々と会杜 をもうけさせてきたのである。(こういえば、会社はもうかっていないというであろう。しかし会社 がもうからなくても会社を組織している特定の個人だけは常にもうけていることを我々は知ってい る。)  しかも彼らの働く場所はいまだに工場法の適用されない、あの日本中のどこよりも空気が悪いとい われるダーク・ステージの塵埃の中である。そこで会社の命ずるままに夜間撮影をやり、徹夜の強行 撮影をやり、ぶっとおしに翌日の夜まで働いて、へとへとになった彼らの手に握らされたものは、一、 二枚の食券のほかに何があったであろうか。  それでも彼らは何もいわない。映画従業員はこれほどおとなしいのである。  まだある。  映画会社には最低給料に関する規定がない。したがって映画従業員の月給は上は数千金から下は無 給の例さえあるのである。  映画会杜には恩給制度、退職手当に関する制度がほとんど行われていない。年功にょる昇給に関す る確然たる規定がない。賞与に関する規定がない。  規定がないということは、つまり実質的にもそういうものが存在しないことを意味する。  なぜならば会杜は規定にないことまでは決して実行しないから。  つまり映画会杜は従業員の生活の保障に対して具体的には何らの関心をも示していないのである。  いいかえるならば、映画会杜はまだ世間並の企業会杜として一応の形態を備えていないのである。 かかる場所で働いている従業員の不安を考えてみるがよい。  彼らはなるほど会杜間を転々する。なぜならばそれ以外に昇給の方法を知らないから。  彼らは盛んに会社から借金をする。なぜならば彼らにはほとんど賞与というものがないから。  また俳優などは入社に際してよく一時金というものを取る。なぜならば彼らには退職手当というも のがないから。  なるほど一流の監督俳優だけは立派に暮している。なぜならば彼らは自分の力によって取るだけの ものは会社から取るから。  しかしそれ以外のものはどうするか。どうすることもできない。ただ黙って働いているだけである。  しかるに、これでもまだ足りたいのか。いまや、会社側は四社連盟によって堂々と団結し、この慧 |気地《くじ》のない無抵抗主義者たちに向かって華々しく挑戦してきたのである。  かくして日本映画界においては従業員よりも資本家たちのほうがはるかに闘争的であるという世に も不可思議なる事実が証明せられたのである。少なくともまず最初に団結の力を認め、これを実行に 移したものが資本家であったということは日本映画界が世界に誇るに足る珍記録であり、チャップリ ンといえどもとうてい企図し得ないすばらしいギャグではないか。  あだしごとはさて置き、日本映画従業員の境遇は四社連盟の結成と同時に、遺憾ながら奴隷、ある いは監獄部屋の人たちの境涯にはなはだしく似かよってきたことは覆うべからざる事実である。  話もここまでくれば、これはもはや思想的立場を引合いに出すような現代的な問題ではない。むし ろこれはアメリカに南北戦争はなやかなりしころの、いとも事古りたる人道問題の領分である。  私は映画界の末席をけがす一人の人間として、かくのごとく不可思議な、しかもあまりにも時代錯 誤的な話題を天下に提供することに堪え得ざる屈辱を感じる。しかもなお、それをあえてするゆえん は、日本映画界をより健康な状態にまで連れて行くために、あるいはこの一文がほんのわずかな示唆 の役割でも勤めはしないかというはかない空頼みのためである。  それにしても四社連盟の策謀者はだれか。  それは私にはわからない。おそらくだれにもわからないであろう。  しかし、私にもおおよその見当はついている。おそらくだれしもおおよその見当はついているであ ろう。  その人こそ、その人の名こそ、日本映画史にふたたび拭うべからざる汚点を残したものとして、日 本に映画のあるかぎり、日本に映画人のあるかぎり、永く呪わるべきであろう。                                 (『改造』昭和十一年八月号)