寸言帖 伊丹万作 賞金の行方  文部大臣賞がどんなふうに処理されるかということは我々として一応関心を持つ問題であるが、私 はこれを製作スタッフの間で分配するのが当然だと信じ、残る問題は分配の割り振りだけと考えてい た。  ところが日活芦田所長談(『朝日』)にょると「文部省の意向は直接の製作関係者に与えたいという のだが、『土と兵隊』はいわば撮影所を打って一丸とした力で作ったものだから、撮影所全員の幸福 になるような方法で使いたいと思う。以前『五人の斥候兵』の賞金では撮影所に芝生を造り、『土』 の賞金では所内図書館の建設資金とした、うんぬん」(概略)とある。  なるほどこうした使い方もあるのかといったんは感心したが、少し考えるとこの使い方に対しては 多くの疑惑が起ってくる。  いうまでもなく賞金の処理にあたって最も重要な示唆を仰ぐべきは、授賞者たる文部当局の意見で あるが、その文部当局はすでに「直接製作関係者へ」という意図を明らかにしているのである。そし てこの言葉は別のいい方をすれば、芸術作品としての創造に直接参与したものという意味である。こ の意味を十分に了解するならば会計の事務員や宣伝部員などのいっさいを含む「撮影所を打って一丸 とした力で」作ったから直接製作者だけに与えることは困難だという主張には一種の所長センチメン タリズムが感じられて我々の理性は簡単にこれを承服し難いのである。  たとえば氏は所員を思うの情せつなるあまり「打って一丸とした」中に原作者がいることなどは忘 れてしまっているようにさえみえる。そしてさらに大きな誤りは氏が撮影所とその所員を不動の存在 だと考えているらしいことである。いうまでもなく撮影所はたくなることがあるし、所員は絶えず動 いているものである。  スタッフのうちの重要なものが受賞当時すでに去ってその杜にいない場合もあり得るし、その撮影 所以外から監督や主演者を借りてくる場合もある(例、「残菊物語」)。また関係のシナリォ作家がど の撮影所にも属していない場合もある(例、「土」の八木隆一郎)。  だから我々は「所員全体の幸福」というような標語に眼がくらんで重要なスタッフが当然与えらる ぺき栄誉をさえむしり取られるような場合を見落してはならないと考えるのである。「多数の幸福」と いう言葉それ自身は美しいが、しかし多数という言葉を使いさえすれば少々筋違いのことでも正当化 されると思ったら大変なまちがいである。  このたびの賞が最初から撮影所を単位として考えられたのでなく、作品を単位として企図し実施さ れている以上、それはあくまでもスタッフ本位に処理さるべきで、最初からそれは一会社や一撮影所 がわたくしすべき性質のものではないのである。  ことに撮影所内の厚生施設や文化施設はだれが考えても会社が自己の責任において営業の利潤の一 部をもってこれにあたるべきが当然である。一作品に対する賞金をこれに流用するがごときはいわゆ るみそもくそもいっしょにして省みざるものといわれてもしかたがなかろう。  この問題は一日活撮影所の問題ではない。今にしてわるい前例をつくられると将来に禍根をのこし、 ひいてはせっかくの文部省の意図がきわめて有効ならざる結果に終ることをおそれる。  願わくは当事者はなお十分慎重なる考慮を費し、いついかなる場合に及ぼしても不都合のないよう な処理方法を研究すべきであろう。 はげ頭・医務室 「大日向村」の映画が近くできあがるそうだが、この題材は自分の最も心をひかれたものだけに発表 が待たれる。(もちろん見に行くことはできないのだが。)ところで私の気になってならないのは翫右 衛門のふんする浅川村長のはげ頭である。映画ではどうなるのか知らないが、以前にやった芝居では 浅川村長の若はげを忠実に模してとくとくとしている様子が、パンフレットの写真から察しられた。 実地踏査とか事実から学ぶ態度とかはむろん結構なことであるが、選択もたしに事実を模倣し、年齢 にふさわしくない若はげまでも似せる必要はない。  浅川村長のはげ頭が劇内容と関係があるたら格別、この場合は単なる模倣だからやめるべきである。 ことにこの種のリアルな作の演出においては人工的な扮装はなるべく避けるほうが、外見からいって もまた演技者白身のつごうからいっても得策である。ことに(現在の技術ではなおさら)はげ頭のヅ ラは劇のパトスを破壊する力を持っている。いわんやアレが映画に出てきた場合を考えると、私はお そろしい。  もしもさいわいにして再起の機を与えられたならば、私は日本の撮影所の衛生思想ならびに設備の 普及、衛生的諸条件の改善、ことに呼吸器病予防のために微力をいたしたいものと深く心に念じてい たところが、最近東宝撮影所内に医務室が設置せられたとの報を得てまことによろこびに堪えない。 聞くところでは同室には医薬ならびに看護婦を常備し、かつ診療日を定めて週何回か嘱託医が勤務す るよし。設置口なお浅いが、すでに呼吸器系統の病気の早期発見その他種々好成績をあげて従業員の 好評を博しているそうだが、要するにこれは我々の希望の一端が始めて実現した、かなり注目すべき できごとである。  少なくとも私はこの実例をもって東宝の首脳部たちがその従業員の健康に対して良心的な考慮をは らう意思のあることを実地に示したものと解釈する。すでに彼らは一歩を踏み出した。一歩はやがて 二歩となり三歩となり、ついには従業員の健康保険制度の確立にまで前進させたいものである。                                  (昭和十五年九月二十日) シナリオ賞のこと  昨年だったか『日本映画』でシナリォ賞制定の企画が発表された。  私は、これはいいことだと思い、実現の日を楽しみにしていたのであるが、いつか企画がお流れに なったとみえ、今にいたるも実現の気配がない。ところが、最近人に聞くと、お流れの原因は、映画 作家協会の一部と、監督協会の某氏らが強硬に反対態度をしめしたためだという。しかも、その反対 の理由というのがおもしろい。 『日本映画』の発表した鈴衡委員の中に自分たちの気にいらぬやつがいるから、というのだそうだ。  もともと人づてに聞いたことで、これがどこまで真実であるかは私にもわからないが、もしも事実 とすれば、近ごろこんななさけない話を聞いたことがない。頑是ない小学一年生でさえも、同級生に 気にいらないやつがいるからといっていちいち学校を休みはしない。映画のような大切な仕事を受け 持つ人々が小学生ほどの分別もないとしたら問題であろう。また区々たる子女の情に類した言い分を とりあげて、せっかくの企図を批棄するとは、『日本映画』もどうしたことか。いちいちそんなもの にかまっていないでよしと信ずるところはどしどし実行したらどうだろう。いかなる場合にも問題の 第一義を忘れてくだらぬ末節に拘泥していたら、有意義な仕事は何一つできるものではない。  よいことは万難を排してもやろうではないか。それよりもまずよいことに対してはともかくもやる という気構えを持とうではないか。それに伴う弊害や不純物についてはあとでいくらでも対策が考え られるではないか。  このようたせっかくの企図を破壊し、自分たちの利益や幸福を拒否しておきながら、シナリオ作家 の待遇がどうのこうのと絶えず繰り言をいうのはどういうわけだ。  それはともかくとして、私の衷情は、ただ、かの企画が再検討されて復活実施され、日本映画界の ために役立つ日の一時も早くきてくれることを祈るばかりである。(十一月二十二日) いなごの大群 先ごろ、某女優のナマを見るため、十万という大群集が劇場に殺到して問題を起した。 新聞によってこれを知った私は、ただ何となくいなごの大群を連想したばかりであるが、ある人た ちの説明にょると、政府の娯楽機関に対する考慮が足りないからこんな事態が生じたのだそうだ。  私は必ずしも政府の娯楽機関に対する考慮が万全であるとは考えないが、しかしこの問題をすぐさ まそれと結びつけてしまうのはどうであろうか。第一、娯楽という広い問題と、一女優に対する狭い 興味とを混同してしまってはしようがない。  なお、聞くところにょると某女優は日本で生産し、満支で加工したものだという。それを逆輸入し て舶来品に見せかけることも、商売とあらば是非もないとして、問題は、そのような品物にひっかか る側にある。  ふだんからレヅテルさえ横文字であれば、逆輸入品でも高い金を惜しまなかった日本人根性が、こ んなところまで根を引いているわけで、いまどきこんなことを書かねばならぬ私は日本人としてかぎ りなく不幸である。  キュリー夫人が生前アメリカに渡ったとき、アメリカの大衆は、ちょうど今の日本の大衆が、某女 優に対して示しているくらいの興味を示したらしい。私は概してアメリカはきらいだが、右の二つの 場合の比較に関するかぎり、我々の教養はアメリカの前に問題にならない。キュリー夫人が一連隊た ばになってやってきても、今の日本の大衆はふり返りもしないだろう。  一女優に対して異常た興味を示すこともいい。しかし、それならそれに比例して、他の部門におけ る興味の現われ方も、それ相応に発達していなくては、人間として、国民として不具といわたくては ならぬ。  さておしまいを政府の責任に持って行きさえすればいいなら、あらゆる論説の結論は簡単なものだ が、それでは、みなで富士山に鼻くそをなすりつけているようなものだ。結局国民が互に反省するよ りしかたがないo 演出ということ          一 観兵式の実況放送を拝聴するたびに遺憾に思うことは、軍楽隊にょる君が代演奏と、らっば手にょ る君が代吹奏とが、いつも同時に重複して行われるために、両者は互にその音楽的効果を|相殺《そうさい》して、 いやがうえにも森厳なるべき一瞬が、聴覚のうえでは必ずしも所期の成果をまっとうしていないよう に感ぜられることである。  国歌の君が代も、軍隊らっばの君が代も、その名曲たる点においては、互に相譲らざるものではあ ろうが、しかし、それらはいずれも全く独立したメロディーであるから、両者の間に音楽的調和は存 在しない。したがって、それらを同時に重複して演奏することは、いかなる意味からも効果的でない ように思う。  右の事例は、そこに我々の言葉でいう「演出」がないことを示しており、単に陪観の外国人に対す る効果だけを考えても、何となく残念な気がするのである。 二  だいぶ前の話だが、あるとき、まったく素質も素養もない女優を使わされたことがあった。  最初私はカメラを女優の顔の近くにすえた。演技のテストを命じ、さんざんねばってみたが、彼女 の顔は失神した人のように表情を欠き、しかも失敗するたびに卑しく笑う。とても見るに堪えないの で、今度は全身の写るくらいの遠さにまでカメラを退けてみた。  結果はなお悪かった。前には彼女の顔面の動きだけに遺憾の意を表すれば足りたが、今度はその範 囲が全身に拡大した。彼女のまずさは、ために数倍して見えた。窮余の策として、私は彼女をうしろ 向きにし、背後からこれを撮影しようと試みた。  結果はいっそう悪かった。前面から見て気づかなかったあらゆる欠点が、今はレントゲンをかけた ように歴々とあらわれてきた。彼女の醜さは一躍百倍したように思えた。 二つの印象  かつて後藤文夫氏が撮影を見学したときの感想を何かに書いておられたが、それによると、今まで 気にもとどめなかった映画の一カットを撮るため、かくも長時間にわたる真剣な努力と、あくたき追 求がなされていることに驚き、帰途についてからは、あれこれといろんなことを思いくらべ、打ちの めされたような気持ちになっている自分を発見したとあった。  私は従来政治家の口から、映画に関して、このように率直な、しかも謙虚な表現がなされた例をま ったく知らないので、この一文はひどく印象に残った。  しかし、撮影というものは、いつもこのような感動を見る人に与えるものではない。私の友人に、 東京市役所に勤めているささやかな役人がある、この男が初めてセット内の撮影を見て、私にもらし た感懐は、あまりの非能率さに対する怒りにちかい言葉であった。現在の撮影現場における進行形式 の不完全、命令系統の不整備、責任の帰趨の不明などのため、おそるべき時間と労力の浪費がくり返 されていることを、この男は一ぺんで見抜き、役所であのような仕事をしたら即日くびだと断言した。 「お役所仕事」という言葉がある、そのお役所の人間からこのような極めをつけられた「撮影所仕 事」はまことに光栄のいたりというべきである。  先の後藤氏の感想と、この男の見解とは一応矛盾するようであるが、実際を知るものとしては、同 時に両方の見方を肯定するほかはない。  撮影の仕事のうち、偶然にか、それとも意識的にか、芸術家の追求の激しさだけを見る機会を持て ば、当然後藤氏の感想となるであろうし、逆に、撮影の仕事のうち、特に事務、労働たいし作業的な面 の形式的欠点のみに眼を注ぐ機会を持てば、私の友人の見解となるのはやむを得ない現状なのである。  撮影の仕事が後藤氏に与えたよき印象を失うことなしに、しかも、私の友人に与えたような悪い印 象を払拭することができる日はいつであろうか。(昭和十六年五月二十一日) 偶感二題  肥満しているので有名な女優が、最近所属の会社をひいたとき、彼女のもらった退職手当は二百円 であった。十五年間、実直に勤めあげたあげくのはてが二百円である。  最近私は東京から京都へ引越したが、家具の荷造りと運賃とで五百数十円を要した。断っておくが、 私には蒐集癖などはないから、特別な荷物などは何一つありはしない。  さて、以上二つの場合の金額を比較考量してみるに、どうも大変よく調和がとれているとは考えに くい。 「夜明け前」の放送を評して、島崎藤村氏が「少し泣きすぎる」といわれたように聞いている。至言で あるが、いったい近ごろはなぜかわけもなく泣きすぎる脚本や演技がはびこっているように我々は感 じており、事は決して「夜明け前」にかぎられた問題ではないと思う。近ごろよく演ぜられる「元禄忠 臣蔵」の劇にしても、前線の将兵たちを扱った劇にしてもよく泣いている。あのように感情の制御が できず、すぐに興奮し、号泣するようた人間の集りが、どうして|一期《いちご》の大事をなし得ようかと怪しま れる。おそらく世界のどこをたずねても、今の日本ほどむやみに泣く芝居をやっている国はなかろう。  元来日本の国民は、ことに武士の誇りを持つほどのものなら、人前で手放しで泣くがごときことは 醜態の最たるものとして厳にしりぞけてきたはずである。我々の祖先が悲哀の感情をどう処理してき たか、あるいはどう表現してきたか、少なくとも、いかなる表現を美としたかということは、卑近な ところで、「寺子屋」でも「新薄雪物語」でもいい、古典悲劇を一つ二っ見ればわかるはずである。 そして、さらに肝腎なことは、我々の生活感情も、ひっきょうかかる伝統と影響の範囲外にあるもの ではないということだ。(六月十六日) 無題  来客の話に「どんぐりと椎の実」という少年むきの映画を、子供に見せたく思い、出かけて行った ところが、一緒に上映している映画が「非一般用」であったため、子供を入場させることができず、 むなしく立ち帰ったよし。このようなことが実際にあるとすればずいぶん味気ない話で、これでは 「一般用」を指定した当局の意図が、途中から行方不明になったようたものである。監督官庁と館の 経営者との間で少しくふうすればこのような愚かしい事態をなくすることはわけのないことであろう から、ぜひ当事者の一考をわずらわしたい。  近ごろ、時計だの安全かみそりの刃だのを食ってみせるという見せ物がよく現われるようだがこれ は広告を見ただけでも、虚無的な、救いのない感じがする。  今さら、身体髪膚うんぬんのたとえを引合いに出すまでもな/\自分のからだだからどんな破壊行 為をしてもいいという考え方は、陛下の赤子の一人として許さるべきではなく、ことに、それを公衆 の前でやってみせて生計を立てるにいたっては言語道断である。  なお、大東亜建設の意気に燃える、今日の日本の帝都の中央においてこのような不健康な見せ物を 興行して平気でいる紳士たちにも深い反省を求めたいし、同時にこれを許可した当局も一考の要があ ろう。 欲なことはいわない、出版を許可されている程度のこと、舞台の上演を許可されている程度のこと は、映画においても、これを許可してもらいたい。我々はまま子ではない。  また、そろそろ暑くたってきた、今夏も各撮影所のスタジオで倒れる人が続出することだろう。去 年某撮影所では二人も気が変になり、一人は入院後もN・Gのことばかり口ばしっていたそうだ。映 画ならびに狂人製作所!          (『都新聞』昭和十五年四月七日〜十六年七月十六日号)