私の活動写真傍観史 伊丹万作  明治三十九年の秋だったと思う。  当時七歳の私は父に連れられて神戸港新開地の掛小屋で活動写真に見いっていた。  天幕のすきまからはいってくる風にあおられて波のようにうねる映写幕には日露戦争の実況(?) が写っていた。  我々は観客席(といってもそこは材木と布でしきられた何坪かのじめじめした地面にすぎないので あるが)に立って押しあいながら見ていた。もちろん私のような子供は一番前まで出て行かぬことに は画面を見ることができなかった。地面は暗いのでよくわからないまでも、足を動かせばみかんの皮 やラムネのびんに触れたり、歩こうとすれば大きな雑草の株につまずいたり、およそわびしいかぎり の光景であったようだ。  幹の細長い木立の中に陣地を構えた野砲兵が敵にむかって盛んに砲撃をやっている。  一発うつたびに白い煙がぱっと立つ、いきおいで砲車があとずさりをする。砲兵たちは身をかわし てぱっと散る。すぐに集ってきて次の行動に移る。実にチョコチョコと小まめによく働いた。とても 実際にはああは行くまいと思われるほど、動作の敏捷さが人間ばなれをしているのである。しかし悲 しいことにはこのチョコチョコとよく働く砲兵たちも、一人二人と次第に驚されて行って、おしまい にはとうとう一人になってしまった。しかしこの最後の一人の働きぶりこそはまさに|金鶏《きんし》勲章的であ った。いま|弾丸《たま》を運ぶかとみると次の瞬間にはそれを装填していた。そうかと思うと間髪を入れずし て射撃手の席に座を占めている。白い煙。砲車の逆行。薬葵の批郷。弾薬の運搬。ああ。見ていて眼 が痛くなるほギ一の早さである。もうそれは人間業ではない。鬼神が乗り移って日本のために超スピー ドの砲撃をやっているのであろう。しかしついにこの鬼神の働きもおわるときがきた。敵の弾丸が砲 車のすぐ近くで炸烈し、画面が煙だらけにたったと思ったら、この最後の砲手もその煙の中で棒を倒 すように倒れてしまった。画面には青白き雨の筋が無数に上から下へ走っている。  私の記憶に存する範囲では、私の活動写真傍観史はこの時に始まるようである。  湊川神杜の近くに八千代座というのがあった。(大黒座というのもあったように思うがどうもはっ きりしない。)  やはり同じころ、親戚のものに連れられてそこへ活動写真を見に行った記憶がある。それは全部西 洋の写真ばかりで、そのうちの一つは子供の出る短い物語りであった。家の入口が高いところにあり、 入口から地面まで幅の広い階段が設けられている。階段の一方には丈夫そうな、装飾つきの欄干があ って、女の人や、子供がその欄干に沿うて階段を上下した。その写真について覚えているのはそれだ けである。欄干つきの階段がうらやましかったためかもしれない。  ほかに実写が二っ三つあった。一つはサンフランシスコかどこかの万国博覧会であろう。大きな人 工的な池がある。天よりも高いところから池の水面に達する幅の狭い斜面がこしらえてあり、人の乗 った舟がおそろしい勢いで斜面を滑ってきて池に飛びこむのである。舟が水面に達した瞬間水煙がま っ白く立って舟と人の運命はどうなったか判定がつかなくなる。しかしすぐ次の瞬間には水煙の間を つき抜けて舟のへさきが白鳥の首に似た曲線を現わす。やがて何ごともなかったように舟の男女は笑 い興じながら漕いで行く。そしてその時はもう次の舟が水煙を上げているのであった。この光景は活 動写真とは思えないほど生き生きした印象を残している。  次に天女の舞のようなダンスがあった。これは感じからいうとどうもイタリヤ色が濃厚だったよう に思う。美女が身に纏うた大風呂敷のようなものをうち振りうち振り、あたかも自分の肉体の一部で あるかのように自由自在にそれを操って、曲線や曲面を交錯させた不思議な美しさをえがきながら踊 るのであるが、その大風呂敷は絶えず次から次へと変化する美しくも妖しき色に染められ、ことにそ れが毒々しいばかりの真紅になったときは、あたかもめらめらと揺れ上るほのおの中で立ち舞ってい るような奇観を呈した。  一番しまいにはやはり美しくいろどられた目も綾なる花火の実写があった。  その変幻きわまりない不思議な美しさは私を荘然とさせてしまった。そしてひたすらこの美しい魔 法が永久に終らないことを希望するのであった。今にも終りはしないかという心配で私の胸は締めつ けられるようであった。そして遂に終りの時がくると絶望的な深い寂しさを感じた。  神戸で見た活動写真の記憶は以上で尽きる。  八歳のとき私は郷里の松山へ帰った。そしてそこで十八の春まですごした。  松山に常設館というものができたのは私が十三の年であった。  常設館ができるまでは巡業隊の持ってくる写真を芝居小屋か招魂祭の掛小屋で見ていた。  招魂祭の掛小屋で乃木大将の一代記というのを見た覚えがある。その写真は乃木大将の少年時代か らのことが仕組まれてあって、まだ前髪をつけた乃木大将が淋しい田舎道を歩いていると、大入道や 傘の一本足のばけものやその他いろいろのばけものが趣好をこらして入りかわり立ちかわり現われた。 乃木大将は新しいばけものが現われるたびにカラカラとうち笑って「それしきのことに驚く|無人《なきと》(大 将の幼名)ではないぞ」という同じせりふを何べんとなくくり返した。もちろんそれは弁士のつたな い声色であるが、この年になってもいまだにその節まわしが耳に残っているところをみると人間の記 憶力の気まぐれな選択作用に驚かされる。  そのころ松山には四つの芝居小屋があった。四つのうち二つは目抜きの場所にあり、そのうち新栄 座というのが一流で寿座というのが二流どころであった。  あとの二つは場末にあってともに三流であるが、この三流のうちの片方はまったくはいったことが ないので私は知らない。  知っているのは伊予鉄道の松山駅のすぐ傍にあった末広座という小屋である。  末広座というのは比較的新しい名前であるらしく、私の祖母などは常に旧名を用いて大西座と呼ん でいた。  この小屋は今はなくなってしまったが、実に不思議な小屋で、それは駅の傍というよりもむしろま ったく駅の構内にあった。  舞台と観客席は建物の二階と三階が使用されていて、この小屋には一階がなかった。  一階にあたるところは駅の引込線がはいっていて、ちょうど扉のない倉庫のような体裁を備えてお り、しかもだれでも通りぬけ自由であった。そのかわり夜などはまっ暗で線路につまずかないように 注意して歩かねばならず、ときにょるとまっ暗な中にまっ黒な貨車が引きこんであるのに鼻をぶつけ そうになったり、またある時は壁に沿うて塩俵が山と積まれ、通るところがなくなっていてめんくら ったりした。  もともとあまり大きくもない駅の構内にあるわけだから、駅の中心からいくらも離れていない。し たがって汽笛の音、蒸気の音、車輪の音、発車のベルの音その他、すべて鉄道事業の経営に付随する 各種の音響は遠慮なく劇場の中へ飛びこんできて見物の注意を奪ったから、不幸なこの小屋の見物た ちは忠臣蔵の芝居を見ているときでも、自分のからだがプラットフォームの近所にいることをどうし ても忘れることができなかった。  今になって考えるとこの小屋は、その敷地の位置からおしてあるいは伊予鉄道会杜が経営していた のかとも思われるが、万一そうだとするとこの二つの事業の関係はかなり奇妙なものである。  およそ考え得る劇場の位置として、停車場の構内よりも不適当なところはあまり多くあるまいと思 われる。最も鋭く、最も現実的た音響を聞かせて、絶えず見物の幻想を破壊しながら芝居や活動を見 せようという仕組みになっているのだから、見物の身にしてみればやりきれたわけのものではない。 何のことはない、遊興してよい気持になりかけると入りかわり立ちかわり借金取りが現われるような ものである。  はたしてこの劇場はまもなく取り壊されてしまったが、この小屋で見た写真で記憶に残っているの を拾ってみると「碁盤忠信」、「滝の白糸」、「祐天吉松」などというのが思い出される。  俳優などはまったくわからない。  たしかにアメリカの写真だと考えられるものもこの小屋ではじめて見た。  白人とアメリカ・インディアンとの間に争闘が行われ、騎馬の追っかけがあり、鉄砲の撃ち合いが あり、まったく躍りあがるほどおもしろかった。これが活劇というものを見た最初かもしれない。  この小屋の近所に御堂という変った苗字の靴屋があった。私たちは夕方になるとその家へ遊びに行 って八時すぎまで待機の姿勢をとる。八時すぎになるとみなでぞろぞろと小屋の前へやって行って下 足番のおやじにむかって運動を開始する。もちろん臨時無料入場認定促進運動である。  ところが妙なことにこの運動はいつも効を奏したので、私はこの小屋だけは金をはらってはいる必 要がなかった。  いったいに寂しい小屋でときどき思い出したように蓋を開けるが、一年のうちの大部分は戸が締ま っていた。  興行の種類は人形芝居、壮士芝居、活動写真などで、そのほかにしろうと浄瑠璃大会、学術参考的 見せ物などをやっているのを見たことがある。  あるとき人形芝居がかかると私の知っている近所の子供が舞台を手伝いに行き始めた。  聞いてみるとその子の父親が実は人形使いなので、ふだんは職人か何か堅気の職業に従事している のであった。それにしても、その子供がいったい何を手伝いに行くのかと思ったら、赤垣源蔵の人形 が徳利を置くと、その徳利をじっと持っている役目だという。  なるほど人形芝居は塀のようなものの上で芝居をするのだから、徳利などはいちいちだれかが支え ていなけれぽ塀の下に落ちてこわれてしまう勘定である。  私たちはこの話を聞くとたちまち例の運動を起して華々しく徳利の総見をおこなった。  赤垣源蔵が徳利を置くと黒い布をかぶった小さいやつが出てきて、徳利を両手に支えた。  顔がわからないのが残念であるが、この黒ん坊があの子供に相違ないのである。  こちらからは見えないがむこうからはよく見えるらしく、注意していると黒ん坊はどうやら布の中 で我々を見て笑っているらしいのである。そのためか徳利がしきりに動くので私はたいへん気になっ た。  大勢の客が徳利の動くのを見て笑い出したら一大事だと思ったが、だれももはや徳利のことなどは 忘れてしまっているとみえて一人も笑うものはなかった。  二流どころの寿座という小屋では「ジゴマ」の写真を見た。小学校の五年か六年のときである。  駒田好洋という人がこの写真を持ってきて、自分で説明をした。「すこぶる非常に」という言葉を いやになるほどたくさん使用したのを覚えているが、子供心にもこれはわるい趣味だと思った。  それからのちに「ジゴマ」の本を読み、ポーリン探偵は我らの英雄になった。  ポーリン探偵はその四角なひたいの上半を覆いかくすような髪のわけ方をしており、得意なときに も困った時にも人さし指をとがったあごに持って行って、いかにも思慮ぶかそうに上眼を使って考え た。  ポーリン探偵の助手はニック・カータlである。この人はポlリン探偵より背が高く、やや柔和そ うにみえた。我々はポーリン探偵の笑い顔を想像することは困難であったが、ニヅク・カ1タ1はす ぐに笑ったりじょうだんをいったりしそうであった。  新馬鹿大将というのと薄馬鹿大将というのと二様の名まえもこの小屋で覚えたが、この両名が別人 であったか、それとも同じ人であったかいまだに疑問である。  のちに中学校へはいったとき、運動会の楽隊の稽古をしていた上級生から新馬鹿マーチという名ま えを教わった。なるほど耳になじみのあるその曲を聞くと、私の頭の中で条件反射が行われ、新馬鹿 大将の行動があざやかに見えるような気がした。  そのころの弁士の口調を思い出して見ると、ただ新馬鹿大将とはいわないで、新馬鹿大将アンドリ ューとつづけて呼んでいたようである。  やはり小屋で見た写真で、非常に美しい天然色映画を一本思い出す。  深い深い海の底へ主人公が泳いで行って、竜宮のような別世界へ到達するのであるが、到達してか らのちのできごとについては一つも覚えていない。  ただ深い色をした水の底へ、身をさかさまにした主人公がゆっくりゆっくり泳ぎくだって行くとこ ろだけが不思議に鮮明な画像となって残っている。  日本の新派の写真も二種類ばかり思い出すことができるが、題名も筋もわからないから人に伝える ことはできない。  ただそのうちの一本の写真がラストに近づいたとき、弁士がカメラの位置変更についてあらかじめ 観客の注意をうながし、急に視野の範囲が変るが、場面は同一場面で、動作は連続したものであるか ら誤解のないようにしてもらいたいとくどくどと断ったことを覚えている。  はたして弁士の言葉どおりカットが変るといままで岡の一部を背景にした全身の芝居であったのが、 今度は大ロングになって岡の全景が現われ、芝居は岡の上下をふくむ範囲において行われるようにな った。  弁士がくどくどと断ったことからおして考えると、その当時はまだこんなふうに芝居の途中でカッ トの変ることは珍しかったものとしなければならぬ。  次に市の一流劇場新栄座において見たものをあげると、一番印象の深かったものは「ユニバース」 とかいう変なもので、山崎街道は夕立の光景と弁士がどなると雲が恐ろしい勢いで動き出すのである がこれは実演と実写と本水を同時に使用したようなものであったらしいが、どうもよくわからない。  もの言う活動大写真というのも来た。西洋の写真といっしょに怪物のうなり声のようなものがどこ かで聞えたように思ったらそれでおしまいであった。  旧劇では「柳生の二蓋笠」というのをここで見た。ここで見た西洋の写真についてはいっこうに憶 えていないが、赤い鶏のマークだけはどうもこの小屋と離して考えられないのが不思議である。常設 館ができてのちにも、松之助の「忠臣蔵」と「曽我兄弟」だけはこの小屋で見た。特別興行という意 味合のものか、そこらはよくわからない。  これものちの話であるが中学五年のとき実川延一郎が実演でこの小屋にきたので見に行った。出し ものは「肥後の駒下駄」と、「お染久松」、「土蜘蛛」、「輝虎配膳」などで、延一郎は駒平、お染とで っちの早変り、これは人形振り、「輝虎配膳」は他の役者の出しもので延一郎は出なかった。  この時分の延一郎は眼のよく光る綺麗な男であったが、自分が使うようにたった延一郎はしわくち ゃのじいさんで、眼もしょぼしょぼしていた。  そして会うたびに懐しそうに手を握ったり、こちらの肩へ手をかけたりしては「また使うておくれ やすや」と言う男であった。ト1キlになってからはわずかな語数のせりふでもまちがえて何ベんと なくやりなおさねばならなかった。そしてやっとすむと、すぐにやって来てこちらの膝へもたれ込む ようにして「何でどすやろ、何でどすやろ」とまちがえたことをさも心外そうにそう言うのであった。 そんなときにうっかり「齢のせいだよ」などと言うことはどんなに残酷なことになるかわからないの で、私はこの善良な老人を慰める言葉に窮してしまい、黙ってさびしく笑うよりしかたがなかった。  話を元へもどす。  常設館は世界館というのが中学一年のときに始めてでき、つづいてその翌年あたり松山館というの もできた。  世界館の開館のときの写真は松之助の「宮本武蔵」であった。松之助、関根達発、立花貞二郎など という名まえをこの館で覚えた。松山館では山崎長之輔、木下録三郎、沢村四郎五郎、井上正夫、木 下八百子などを覚えた。  西洋物では「名馬天馬」などという写真が松山館に現われた。  松山館の弁士はよく「空はオリーブ色に晴れ渡り絶好の飛行|日和《びより》」と謡うように言った。オリーブ 色の空というのはいまだによくわからない。  井上の写真はわずかであったが、翻案物の「地獄谷」というのを憶えている。  自分のすまいの関係から中学三年ごろは松山館のほうを多く見、四年五年ごろは世界館のほうを多 く見た・五年のころには松之助の似顔絵が上手になり、友だちなどに見せて得意になっていた。  似顔をよく似せるために私は松之助の写真について顔の各部を細かく分析して研究したが、彼の眼 が普通の人々よりも大きいとは認められなかった。彼の顔の中で普通の人よりも大きいのは口だけで あった・ことに下唇の下に鼓の胴を横にしたような形の筋肉の隆起があったが、これは松之助を他の 人と区別する最も著しい特徴であった。  こんなつまらぬことを研究していたために、当時の私は知能の発育がよほど遅れたようであった。 中学を終えると、すぐに私は家庭の事情で樺太へ行かねばならなくたった。  その途次東京に寄ったとき、浅草の電気館で「赤輪」という写真を見た。  その時私は活動写真はこんなに明るいものかと思って驚いた。いなかの館とは映写の光力が違うし、 それに写真が新しいから傷んでいない。おまけに田舎は一、二年は遅れて来るから、それだけの日数 に相当する発達過程を飛ばして見せられたことにもなる。ことにあの写真はロケーションが多く、そ れも快晴ばかりで、実に写真全体がアリゾナあたりの太陽に飽和していた感じがある。いま考えてみ てもあんな明るい写真はたくさんなかったような気がするくらいである。  それから函館か小樽かのいずれかで「獣魂」という写真を見た。そしてもみあげ長きフランシス. フォードという役者を覚えた。  樺太に半年ほどいて東京に来た。ちょうどそのころブルー・バード映画の全盛時代がきた。  エラ・フォール、メi・マレー、ロン・チャニ1、モンロl・サルスベリl、エディl・ポロlと かたかなの名まえを覚えるのがいそがしくなった。  私は絵描きが志望であったから東京最初の一年は鉄道省につとめたが、やがてそこをよして少年雑 誌の挿絵などをかきながら絵を勉強することにした。  しかし活動はつづいて見ていた。  この時分はピナ・メニケリというイタリャ女優のファンであった。芸よりも顔の美しさに圧倒され たのであった。あんな典型的な美しさと大きさを持った女優はその後見ない。美しさもあれくらいま で行けば芝居などどうでもよくなってくる。ただいろいろに動いて、いろいろな角度の美しさを見せ てくれればこちらは彫刻を見ているような気持ちで結構たのしめるのである。  私が十九か二十歳のときに松竹が映画事業をはじめ研究生を募集した。ちょうどそのころ伊藤とい う友だちが呉の海軍書記生をやっており、かたわらしろうと芝居に熱中していた。  ゴーリキーの「どん底」を|演《だ》してナタ1シャの役か何かをやったことなどを報告してきて、しきり に演劇のほうへ進みたい意向をもらしていたやさきなので、私は同じことならこれからは映画のほう が有望だと考え、松竹の試験に応募してみたらどうだとすすめてやった。伊藤はすぐに上京して私の 間借りしていた三畳の部屋へやってきた。  根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であ ったが、ただ変った点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな 札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであった。  主人は五十を越した男で、だいぶ頭も薄くなっていたし、体躯も小がらのほうであったが、それで いて変に悪党悪党した強そうなところのあるおやじであった。  このおやじは家にいないほうが多く、たまに帰ってくると何もしないでたばこをすったりひるねを したりして日を送った。  いつも猿股と腹巻をしてその上に何か尻までくらいある薄いものを引っかけていた。  話ぶりなどは何かひどく粗野で、そのために一種の滑稽感がありそれがときどき人を笑わせたが本 人は決して笑顔を見せなかった。  それが「何しろ家のかかあのやつときたらー」というような調子で本人を目の前において、その 肉体の秘密を私たちにずばずばとしゃべってのけたりするものだから、彼の若い細君はもちろん、聞 いているほうでも照れたりあっけに取られたりした。  しかもそんな話を当人は顔の筋一つ動かさずに冷酷な気むずかしい表情とすきまのない呼吸でやる ものだから、その場には|狸雑《わいざつ》な感じなどの介在する余地は全然なくなって、ただもう部屋中に妖気が 立ちこめているようた気持ちになってくるのであった。  あるとき私は近所の七つくらいの女の子を二時間ばかり借りてきて写生したことがあったが、その 子が帰ってから、どうも少し齢のわりに小ましゃくれているという批評が出たとき、このおやじはす ぐそれにつづいてあの子供は性的対象として十分可能であると断定した。 「そんなばかなことを」と細君が笑ってうち消そうとすると、おやじは顔色を変えんばかりの勢いで 細君をしかりつけ、さらに激しく自分の所信のまちがっていないことを主張した。  およそ、そういうふうに性の問題に関するかぎりこのおやじの態度や考え方にはどこか一般社会の 風習や秩序と相いれぬものがあり、しかもその気魂には実際彼が口でいうとおり実行しかねまじき、 あるいはすでに実行してきたような切実感があって聞くものをすさまじく圧倒した。  私はこのおやじに会うまでは性に関する話をかくのごとく露骨にしかもむきになっていささかの臆 面もなく話す人を見たことがなかったし、また、こうまで徹底的に非道徳な態度をとって安心しきっ ている人も見たことがなかったのですっかり驚いてしまった。  私はこの家にかれこれ半歳以上もいたように思うが、結局しまいまでこのおやじの職業を知ること ができなかったし、また何のために入口にプロぺラの破片を飾っておかなければならないのか、その 理由を知ることもできなかった。  さて、伊藤がやってきた当時の私の部屋には別にもう一人居候がいたので、合計三人を負担して、 三畳の部屋はまさにその収容力の極限に達した。  これにはさすがのプロペラおやじも驚いたとみえ、ある日突然二階に上ってきて我々に即時撤退を 要求した。そのうち伊藤も試験にパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり、一定の給費を受けて通 学するようになったので、我々は谷中真島町の下宿に移って別々の部屋におさまった。  この時分から伊藤は映画脚本の試作を始め、できあがるとまず私たちに読んで聞かせ、それから小 山内先生に見てもらった。  小山内さんの批評はかんばしくないのが常で伊藤はたいがい意気錆沈して帰ってきたようである。 しかし伊藤の努力はわりに早くむくいられて、松竹キネマ創立期の写真には彼の脚本が多く用いられ た。  松竹キネマ作品の最初の公開が明治座かどこかで行われたときにもむろん、彼の脚色になる写真が あったので私は伊藤といっしょにそれを見に行った。  私は伊藤との交友二十年の間に、その夜の彼ほど嬉しそうな彼をかつて見たことがない。  かくて我々数人の所有にすぎなかった伊藤大輔という名まえはその夜から世間の有に帰した。  二十一歳の五月に私は入営をした。(この時分から伊藤は蒲田に移り住んでいたようである。)広島 の野砲隊、三カ月の補充兵役である。  入営の前夜、広島の盛り場で見送りにきた父と二人で活動写真を見た。その写真は井上と水谷の 「寒椿」である。  入営中も伊藤は筆まめに手紙をくれたが、封筒の中にはいつも、その時々の彼の脚色した写真のポ ジが何コマか入れてあった。その当時のポジはみな染色されてあったので、封筒を逆さまにすると色 とりどりのポジがヒラヒラと寝台の毛布の上に舞い落ちるのは私の殺風景な兵営生活にただ一つの色 彩であった。  その翌年にも演習召集で三週間服役したが、それを終って東京へ出るときはあらかじめ伊藤に依頼 していっしょに棲む部屋を借りておいてもらった。青山学院の近所、少し渋谷の方へ寄ったほうで八 畳か十畳の二階であった。  その時分には研究所はすでに解散して伊藤は松竹キネマ脚本部員となっていたが、当時伊蕨の月給 は九十円で、しかも仕事は無制限にやらされていた。急ぐものは二、三日で書かされ、「お初地蔵」 などはほとんど一晩で書いてしまった。それで月給以外には一文ももらっていなかった。  いっぽう私は挿絵のほうで月百円内外の収入はあったから、二人の生活はさして苦しいはずはなか ったのであるが、使い方がへたたためか、二人ともいつもピイピイいっていた。  この時分に二人で見に行った館は赤坂帝国館、葵館などがおもで、チャールス・レイあたりのもの が記憶に残っている。それから当時の俳優では二人ともフランク・キ1ナンが好きで、この人の出て いる写真はたいがい欠かさず見た。  研究生の中で伊藤が一番親しく交際していた人に淵君というトウ・ダンスのうまい青年がいたが、 この人は研究所解散後もよく遊びにきた。その後ずっと音信不通になっているらしいが、今でも伊藤 と会うとときどきこの人のうわさが出る。何となく切れあじのよさそうな感じのする人であった。  それより以前に松竹が研究生たちを歌舞伎の仕出しに使ったことがあった。伊藤や淵君ももちろん 使われた仲間であるが、あるとき歌舞伎座で「川中島合戦」をやったとき雑兵に使われたことがあっ た。  そのときの伊藤の話にょると、雑兵をやっていて中車の山本勘助に追いこまれるのであるが、中車 にカヅとにらまれると本当にこわくなって思わず身がすくむような気がしたそうである。  こんな話は青山の二階へ淵君などが遊びにきたときあたりに聞かされたのではないかと思う。青山 の共同生活は半年あまりで解消になった。伊藤は蒲田へ移り住むことになり私は新宿のほうの親戚へ 寄寓することになったのである。新宿へ移ってから従姉のおともなどをして武蔵野館へよく行った。  ターザンやキックインをここで見たことを憶えている。当時この館では写真の合間にオ1ケストラ が歌劇の抜葦曲などを必ず一曲演奏することになっていたので、そのころやっと音楽に興味を感じは じめていた私にはそれがたのしみであった。ここの指揮者は毛谷平吉という人であった。最近「気紛 れ冠者」という写真を作ってその音楽の吹込みをしたとき大阪から来た楽士の中に混って毛谷平吉氏 がバイオリンを弾いている姿を見かけて、私はむかし懐しい想いをしたことであったが、同氏の風貌 は十数年以前と少しも変っていなかった。  そうしている間に私は、もっと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人 が郷里で肺病になって寝ついてしまったので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。  そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。それから私は本気に勉強を始めた。勉強 に身を打ち込んで始めて私は人生の意味がわかってきたと同時に、いろいろなものの見方に形がつい てきた。それと同時に自分の意見というものが少しずつできて行った。  そのころから活動写真に対する興味が次第に薄れてきた。自分の生活から活動写真の観賞を全然除 外してもさらに苦痛を感じなくなった。  活動写真にかぎらず、そのほかのもろもろの楽しみを除外することに苦痛を感じなくなってきた。  ただ、文学から受ける楽しみを除外することだけは最後までできなかった。  ある夜、私は急に、武者小路氏の「幸福者」という小説を読みたい衝動に駆られた。私は一応この 衝動と闘ってみたが遂に勝てなかった。  せめて一日のばしたいと思ってみたが、それすらもかなわなかった。  夜ふけの街を古本屋のある町のほうへ急ぎながら私の心の中はくやしさに煮えかえるようであった。 このとき私の心は全く二つに分裂してしまっていた。 「おまえは絵かきではないか。文学が何だ。武者小路が何だ。絵だけで安心ができないのか。何を求 めてそんなにがつがつとやせ犬のように、夜までうろつかなければならないのだ」と一つの心は泣き ながら叫びつづけた。  それにもかかわらず、一つの心は容赦なく私の身体を動かして古本屋のほうへ追いやった。  その夜の苦しみは私の一生の悲劇を暗示しているようにみえる。  かくて私は活動写真にはまったくごぶさたしたままで翌年を迎えた。その年もずっと郷里で絵をか いていたが、五月には肺病の友人が死に、秋になると関東の大震災に驚かされた。  震災の歳の暮れに上京すると、私は初山滋君の住んでいる長崎村が気にいったので、すぐさま、同 君の近所の小さい家を借りて自炊を始めた。  それから三年間、二十七歳の秋まで私はそこで暮したが、この三年間は物質の窮乏に苦しみとおし たので活動写真もほとんど見ていないが、それでも、「罪と罰」、「白痴」、「鉄路の白ばら」をこの間 に見た。中でも「罪と罰」をやったヴィクトル・クマラとかいう人の演技はいまだに強い印象を残し ている。やはりそのころ池袋の平和館へ何かむしかえしの外国物(「ジゴマ」の再上映?)を見に行 ったことがあるが、その折阪妻の「影法師」という写真を見せられた。  この前後数年間に私の見た日本映画はほとんどこの写真一本にすぎない。  こうしているうちに私の生活は一日一日と苦しくなってきた。二十七の秋にはいよいよ食って行け なくなった。絵かきとしての自分を殺すか、人間の自分を殺すか、方法は二つしかなかった。ちょう どそのときやはり同郷の人で絵をやっていた男が、いっしょに松山でおでん屋をやらないかという相 談を持ちかけてきた。  金は何とか都合がつくという。死ぬるよりははるかにいい話なので私は喜んで賛成した。  かくて松山の土地に最初のおでん屋が出現した。  このおでん屋は最初は毎日平均二、三十円の売り上げがあって、うまく行ったが次第にわるくなっ てだんだんやって行けなくなった。  そのうちいっしょにやっていた友だちが次々と二人ともやめてしまったので、私は借金といっしょ に一番あとに残された。  翌年の夏には困っておでん屋を処分したが、あとにまだ借金が残った。  かくて私はついにマイナスつきの無一物になった。そして夏から秋まで、友だちの厄介になったり しながらぶらぶらしていた。  本来無一物という声がそのころはいつも耳の側で聞えていた。本一冊、銭一銭、もはや自分の所有 物というものをこの世の中に見出すことができなかった。それはさびしいけれどもまことに身も心も 軽々としたいい心持ちのものであった。  いっさいの付属品と装飾を取り去られたのちの正味掛け値なしの自分の姿を冷静に評価する機会を 持ち得たことはともかくもありがたいことであった。  私はけし粒ほどの存在をじっと見つめた。それがいつわりのない自分自身の姿なのであった。  まことに情ない事実ではあるが、しかしこの発見はやがて私にのんびりとした安心をもたらした。 それは、もはやいかなる場合においても自分はこれより小さくはならないし、これより貧しくもなら ないということがわかったからであろう。  この付属品なしの自分の姿は、それからのちの私の世界観を正す一つの基準として非常に役立つこ とになったのであるが、これらの事実は本稿と直接の関係を持たないからいっさい省略して、さてそ の年の秋私は伊藤に手紙を出して就職の世話をたのんだ。伊藤とは震災の前年から音信を断っていた ので住所もわからない始末である。「京都下加茂日活内」として出したのだから郵便屋さんもあきれ たかもしれんが、しかしその手紙は届いたとみえ、伊藤から折返しあたたかい返事がきた。そうして その十月京都の伊藤の家へ転がりこんだのであるが、その間、つまりおでん屋を開くために松山へ帰 ってから、ふたたび松山を去るまでの一年間に私の見た写真が数本ある。  伊藤の「流転」、「忠次旅日記甲州篇」、現代劇で「彼を|続《めぐ》る五人の女」、阪妻の「大義」、右太衛門 の「紫頭巾」、片岡千恵蔵の「万華地獄」などである。そうしてそれらの写真によって、はじめて大 河内、岡田時彦、右太衛門、千恵蔵などの諸君の顔を憶えた。  当時大将軍にいた伊藤は私を加えて三人の食客を養っていた。いま千恵プロにいる香川良介、「下 郎」の作者中川藤吉の両者と私、それと猫が三匹もいた。  私の志望はこのときはっきりしていなかった。要するに何とかして自分の力で食えるようになりさ えすればよいというのでそれ以外に欲望はなかった。すると伊藤が脚本を書けといい出した。  脚本たど書けといわれたところで、おいそれと書けるものとは思えなかったが、伊藤がむりに書け というのでしかたなく「花火」というのを書き、またしばらくして「|伊達主水《だてもんど》」というのを書いた。 これはのちに「放浪|三昧《ざんまい》」と改題した。  伊藤はそれらを見ても別にいいとも悪いともはっきりいわなかったが大河内君たどが遊びにきたと き、私の書いた脚本の筋を話して、「そういう脚本を書く男です」などといって話していたから、多 少は何とか思っているのかなと考えたりした。  そのうち、谷崎十郎という人を主として奈良にプロダクションができたので、伊藤家食客全員はこ こへ大量輸出をされたから、私も十一月から奈良で自炊生活を始めた。  この伊藤家食客時代にも数種の映画を見ているが、そのおもなるものは伊藤の「下郎」、キング. ヴィダーの「ビッグ・パレード」などであった。奈良のプロダクションはどうもうまく行かなかった らしい。私は一カ月ばかり捕手ばかりになって働いていたが、自動車に乗せられて仕事に行ったこと は一度も無かった。いつも歩かされた。しかし奈良の公園あたりをちょんまげをつけて悠々と歩く気 持ちはちょっととぼけていておつなものである。内容はともかくとして形式だけは確かに現代を超越 しているのだ。  さすがの樗牛もこの手があることだけは気がつかなかったにちがいない。  奈良の一カ月間に暇をみて「|草軽《わらじ》」というシナリォを書いた。  のち、監督をやるようになったとき、第一回に用いたのはこのシナリオである。  奈良のプロダクションは容易に給料をはらってくれなかったのでしまいにはみな仕事をやめて、働 いた分の給料を待つだけの目的で毎日撮影所へ詰めかけていた。  この間に我々の仲間の若い連中は、何かうまい食物はないかと考えたあげく、鹿を一頭眠らせよう という企画を立てた。  さすがの私もこの非合法な案には賛成しかねたので行動隊には加わらなかったが、いよいよ鹿の肉 をあぶる香が聞えてくるという段取りになれば、それから先の行動はどうなったか、いま考えてもあ まり責任は持てない気がする。  若い連中は日本刀の斬れるやつを携えて、何でも二晩か三晩つづけて辻斬りに出かけて行ったが、 何度も失敗して遂にあきらめてしまった。  それでも最後のやつは相当|深傷《ふかで》を負わせたらしく、翌朝行ってみたらそこらはたいへんな血であっ たそうだ。  十二月の末になるといっしょに自炊していた香川君が台湾ヘ巡業の口ができ、私にもいっしょに行 ってみないかという。プロダクションのほうは、もうまったく見込みがなさそうだし、どう考えても 行かないでいる理由が一つもないので私は行くことにした。  台湾巡業は翌年の四月までつづき、その間私は斬られるさむらいや、通行人ばかりになって舞台の 上に身をさらしていたが、演技に関する私の理論はこの間の経験が重要な示唆となっているようであ る。  台湾巡業中に見た映画は片岡千恵蔵「三日大名」、月形龍之介「道中秘記」、嵐寛寿郎「鬼あざみ」、 それから伊藤の「忠次信州血笑篇」など。月形君の写真を見たのはおそらくこのときが最初であろう。 格別うまいとは思わなかったが内輪な芝居で演技にも人がらにも好感が持てた。  台湾から帰途船が瀬戸内海にはいると松の緑など目が覚めるようで、日本はこんなに美しい国だっ たのかと驚いた。  伊藤の家へ帰ってみると、もう奈良のプロダクションは消えて跡もなく、そのかわりに日本映画連 盟というものが京都|双《ならび》ガ丘に生れ、その中の片岡千恵蔵プロダクションのシナリオ・ライタI兼助監 督として私がはいることに話が決っていた。  帰るや否や、独立第一回作品のシナリオを一週間くらいで書けという足もとから鳥が立つような話 なので私はすくなからずめんくらったが、それでもとにかく注文の日限に「天下太平記」というもの をこねあげて渡したら、大枚百円なりを即金でもらった。  何しろ台湾巡業中は御難つづきでこづかいもろくにもらえず、文字どおりたばこ一本を奪いあうよ うな生活をつづけてきたので、そのときの百円は実に豪華版であった。  私はその夜南座へ芝居を見に行き、そこの事務所で百円札を細かくしてもらいながら、その使い道 を楽しく胸に描いた。  私の活動写真傍観史はひとまずこれで終る。  これから先はもはや自分の商売だから、なかなかもって傍観などをしている段ではなくなってくる のである。  しかし遅かれ早かれ将来においてはふたたび傍観する時がくるはずである。そのときいかなる立場 からいかに傍観すべきかということは私にとってかなり切実な問題たるをうしなわぬ。                                  (昭和十一年十二月八日)