映画俳優の生活と教養 伊丹万作  現在をも含めて、従来の映画俳優の生活はどんたふうであったか、またその著しい特色とは何かと いうことを、主としてその矛盾、病弊などの面から検討し、ひいて、将来の映画俳優の生活はどう改 善さるべきかということを、主として建設的な視角において見通してみたい。  もとより、かような問題の探求は、常に時代との関連においてなされるのでなければほとんど意味 を持たないものであるが、しかし、今のこの時が、どういう時期であるかということは、お互日本人 にはもはや身に沁みてわかっているはずであり、いまさら私の説明を必要としないことと思うから、 それはいっさい省略して、直ちに本論に入るが、|壁頭《へきとう》に掲げたような問題を解明するためには、まず 順序として、従来の映画俳優生活の解剖から始めなければならぬ。  そこで、いったい従来の映画俳優生活の著しい特色は何かと考えてみる。  おそらくそれは一つや二つにとどまらないだろうが、少し深く考えてみると、多くの特色が、みな 同じ一つの原因から派生していることがわかる。  ではその一つの原因とは何かというと、それは映画俳優の「商品性」というものである。  私の見るところにょると、従来の映画俳優の生活を特色づけている根本のものは、実にこの商品性 であって、仮りにもしもこれを度外視して映画俳優の生活を考えた場合、我々はほとんどその現象を 理解することができなくなってしまうだろうと思われる。  ところで、私はいま商品性ということばを用いたが、改めて言うまでもなく、俳優は本来人間であ って、決して商品ではない。しかるに俳優の商品性、あるいは商品価値というようなことばは、現在 だれに気がねもなく使われているし、俳優自身も別にこれらのことばから侮辱的な印象は受けないよ うに訓練されてきているのである。  しかし、もともと人間には人間としての評価の仕方があり、商品には商品としての評価の仕方があ るべきだ。ところが映画俳優の場合はその辺の区別が必ずしも明瞭でなく、観念的にもまた実際生活 の上にも、往々にして人間性と商品性との混乱が見られ、いわゆる著名なスター(この愚劣な名称も、 もはや清算の時期が来ている。)ほど人間の商品化が露骨に行われている現状にある。しかし、直ち にこれを目して俳優の罪となすことはあたらない。また資本家の罪と称することも妥当でない。しか らば映画観客層全般の罪かと言うに、これもいまだ|肯繁《こうけい》にあたらない。  結局それは「無条件に放任せられたる自由主義経済の罪」である。  だからたとえ一、二の俳優がせっかく人間性に眼ざめようとして努力しても、従来の機構の下では それは望み得べきことではなかった。すなわち彼らが商品性を脱却して、真に人間性を回復し得る機 会がもしありとすれば、その期待は挙げて今後にかけらるべきであろう。  さて次にはこのような商品性が、実際には、どのような現われ方をして映画俳優の生活を特色づけ ているかを逐次調べていってみょう。  そこで思いつくままに挙げて行くと、まず、  一、映画俳優の報酬は、必ずしもその専門の技能に比例しない。 という事実を見のがすわけには行かない。  しかし、もしも我々が少し厳格な眼で見るならば、技能と報酬との比例が完全に保証されている職 業などというものは実は世の中に一つもありはしないのだ。それにもかかわらず、たいした不平も起 らずに世の中が治まって行っているのは、所詮人間の技能を測定する度量衡がないためと、いま一つ には実生活の複雑性を計算に入れて、何人もある程度以下の誤差はいちいちこれを問題にしないとい う不文律を自然のうちに体得しているからである。  ところが映画俳優の場合は、我々の杜会常識はあまり役に立たない。  ここにある誤差はもはやそんな不文律などが何の役にも立たない程度のものである。  少し皮肉に考えるならば、映画俳優の報酬は、技能に反比例するのであろうかと疑いたくなるよう な極端な例も決してめずらしくはなかったのである。  しかし、俳優の技能に対して、かくのごとく「反抗的」な報酬が、一度俳優の商品価値に対すると 猫のごとくに従順になるのはまことに興味深い事実といわなければならぬ。すなわち、  一、映画俳優の報酬は、ほぼその商品価値に正比例する。 というのは、第一項を裏返しにすればすぐ出てくる定理である。  幸か不幸か、多くの映画俳優は、報酬に関する限りにおいては、疑いもなく、人間としての評価を 打ち切られ、もっぱら商品としてのみ評価されているわけで、その結果は、教養や技能において何ら 人を首肯せLむる点を持たないにかかわらず、一人のスターが、下積み俳優六十人分の俸給を取って いるという、|滑稽《こつけい》た事実となって現われているのである。  また、映画製作には俳優以外に多くの人材を必要とするが、彼らはそれぞれ専門の技術を身につけ、 学識、経験、仕事への熱情、努力などいずれの点より見ても俳優に劣るとは思えないし、作品を左右 する力に至ってはむしろ俳優以上の場合が珍しくない。しかも彼らのうち、どの部署が抜けても、作 品は出来上らないのであるが、その報酬は平均、著名スターの十分の一以下である。  このような矛盾、不均衡は、すべて人間を商品に換算するところから生じた結果であって、人間と しての正当なる価値判断を押し進めて行ったのでは、どこまで行っても説明のつけようがないのであ る。なお著名スターたちの報酬を荒唐無稽につり上げることについて、最も功労のあったのは各会社 間のスター争奪戦であった。  しかも|羅《せ》りにかかったスターの値段は、皮肉なことに時には商品価値以上の高値をさえ呼ぶにいた った。現在においてはスターの価値の低落と相まって採算の困難なスターは珍しくないかと思うが、 会杜はその方面のロスを埋めるため、他の人件費を切りつめたり、製作条件を悪くして帳尻を合わし ている場合が多いからこの点は十分警戒を要する。  以上述べたような不合理も新体制の下においてはある程度まで是正せられることを期待してやまな い次第であるが、それについては後にくわしく触れることとし、今は次の項へ進もう。  一、映画俳優は名声の獲得が容易である。  もっとも、この裏には、単なる名声をさえ取り逃した、多くの無名俳優たちの存在を忘れてはなら ぬが、しかし、それらを勘定に入れても、なおかつ、この職業で、虚名もしくは実名を博することの 容易さは、他の職業の場合とほとんど比較にならない。  そしてその原因が、映画の宣伝力の旺盛な点にあることは、ほとんど疑いをいれる余地がないが、 してみると、これは映画の本質と直接につながる問題であり、したがって我々はかかる現象を否定し たり抑圧したりする能力を持たない。  ただもしもかかる傾向が、何らかの意味で弊害を伴うとしても、その対策は必ず弊害そのものに対 する処理の範囲を超えるべきでたく、たとえ弊害の原因であるにしても、映画の宣伝性は、あくまで もこれを尊重し、利用するように心がくべきであろう。  なお、映画の宣伝性によって俳優自身が毒されることのないように、その質を高め、生活を改善す べきことはもちろんであるが、もとよりこれは俳優自身への課題であると同時に、為政者ならびに業 者の深く考慮すべき問題であろう。  次は、  一、映画俳優の名声は、その実力に比例しない場合が珍しくない。 という問題であるが、これは既に述べた報酬と実力との関係に非常に類似している。  しかし報酬の問題は社会との関係が間接的であるに引きかえ、名声の問題は直接杜会と関連してい るところに特色がある。  いったい、現代文化の特質について、多少でも考えてみたことのある人ならば、現代においては、 ジャーナリズム、映画、ラジオなどの宣伝力の過剰が、名声と実質との均衡を、いかに破壊しつくし ているか、また、お好みとあらば、一夜のうちに|案山子《かかし》のごとき名士を作り上げることがいかに容易 の業であるか、したがって今の時代においては、相撲、碁、将棋など少数の例外を除いては名声と実 質との間に、何らか有機的な関係を見出すことが著しく困難になっている事情などを理解しているに 違いない。  しかし一般杜会というものは、いまだその点に関して驚くべく素朴であり、名声と実質との間にあ るおびただしい誤差に対してまったく色盲である。彼らの多くは、有名と偉大との区別さえも知らな い。したがって彼らは、名声あるものに対してはほとんど無批判、無条件にこれを過信し、特別の礼 遇を惜しまない。  実力なくして名声ある俳優の危機は、実にここにかもされる。かくて次第に社会の厚遇になれるう ち、いつしか彼らは、自己の名声をもたらしたものはその実力であるかのごとき錯覚におちいる。加 うるに、観客の人気、会社の阿談的態度などが絶えず周囲から彼らを甘やかし、かつ勇気づけ、その 錯覚的自信をますます拡大強化する役目を果すために、遂には演技は何一つできないくせに、自信の 強大なことだけは言語に絶するという、一種の誇大妄想狂のごときものが出来上る場合がある。  このような俳優をあてがわれた場合、演出家はどのような困難に直面しなければならぬか、またそ の仕事がどれほど無意味な努力によって満たされるかはけだし一般の想像の外であろう。  しかしこのような極端な例を挙げるまでもなく、現在、映画俳優をもって目されている人々のうち、 僅少の例外を除けば、ほとんど全部実力に何倍、あるいは何十倍する名声を得ている事実は、あらた めてここに指摘するまでもない事実であるが、こんなにまで成長してしまった名と実との誤差を、ど う処理すればよいかということは、やはり将来の映画政策上の興味ある課題の一つであろう。  次は、  一、映画俳優の成功の法則は、はらわれた努力に無関係な部分が多い。 ということであるが、元来俳優という職業が多分にその肉体の先天的条件に依拠する性質を持ってい る以上、このことはある程度まではやむを得ないことかもしれない。  しかし、才能と努力が合致した場合においては肉体的条件の不利も、ずいぶん克服され得るものだ し、役によっては肉体的短所をそのまま利用して長所に変ずることもあながち不可能ではない。  加うるに近代リアリズムの道は、演劇、映画を問わず、俳優に型を要求するかわりに個性を要求す る傾向が強い。この傾向は次第に従来の概念的な俳優の適格性を否定、もしくは変更せしめつつある。  つまり俳優の資質のうち、単なる肉体的条件の占める重量は徐々に軽減しつつあると見てさしつか えない。そのかわり、他の一面において、個性の鮮明でないものは適格を失いつつあるわけだから、 全体として俳優志願者の負担すべき困難は軽減しないかもしれないが、ある決まった型の人間以外は 俳優として成功しにくいというようた、従来の不公平は次第に解消しつつあり、したがって俳優の適 格性の範囲は、少なくとも拡大する傾向にあることだけはたしかである。  しかし右のような傾向を認めながらも、他の一面においては、社会が、現代人の美の典型を映画の 中に追求しようとする執拗なる要求を見のがすわけには行かないのである。  この問題については、のちにあらためて触れるつもりであるが、要するに社会が、映画の中にその 時代の典型的な美を備えた俳優を要求する心理は、相当の根拠のあることで、必ずしも不健康な要求 ではないのであるが、従来の商業主義があまりにもこの点を利用しすぎたがため、遂には俳優であり ながら演技の巧拙などは不問に付せられ、単なる美男美女でさえあれば、法外の高値で取引きされる ような弊風を生じたため、遂には識者の反感を買い、果ては美男美女の登場自体が何か不健全である かのような感銘をさえ与えるにいたったのである。  要するにこれも俳優商品化の一つの形態であり、それが演技者としての俳優の進歩を妨げているこ とは言うまでもないが、その最もいとうべき影響はやはり演技力の軽視と、ひいては投機的、機会主 義的処世観を蔓延させることである。  ことにまだ修業期にある年少の俳優たちが、かかる影響のもとに、いかに毒されつつあるかという ことはけだし思い半ばに過ぎるものがあろう。  さて、私はこれまで主として成功者の側に焦点を置いて考えてみたのであるが、これからは少し焦 点を変えて、不成功ないし未成功者の側を覗いてみたい。なおそれについては別に一項を設けること が必ずしも必要ではないが、前項の末尾においてたまたま投機性の問題に触れたから、ここでは主と して、  一、映画俳優の生活環境は投機的な空気に支配されている。 ということを中心に筆を進めてみょう。  まず、多くの無名俳優の連中を一瞥して、だれしもすぐに気がつくことは、はなはだしい無気力と 自棄的な気分が彼らを支配している事実であろう。  その原因はいろいろあるが、まず第一に彼らの給料はわずかに一人の口を糊するにも足りないくら いである。そして与えられる仕事といえば通行人か捕手であり、まれに役がつけば女中か申し上げま すの程度である。  しかも彼らの将来に対する希望は極めて乏しい。自己の運命を切りひらくために、どこへどのよう な力を用いればよいかが少しもわからない。  信ずるものがなく、よるものがない。いくら周囲を見まわしても生活の拠りどころがない。  したがって人生に対しては懐疑的になり、社会に対しては反抗的になる。遂にははなはだしく自分 の仕事を厭悪するようになり、絶えず慢性のサボタージュを続けるようになる。  かくて彼らの限りなき不満は多くの場合その所属の会社に向けられるのであるが、しかし彼らは会 社に対して率直に不満を|披渥《ひれき》するほどの勇気はない。わずかに大衆撮影などの際に、極めて消極的な 方法で進行を妨害したりして轡を散じるのであるが、いったん集合を解かれて、一人二人に分散した 彼らはたちまち猫のようにおとなしくなるのが常である。  なお最近はそんなこともあるまいが、この間まで彼らはひまさえあれば|博変《ばくち》かマージャンをやって いた。俳優をさがすには(これは俳優に限らないかもしれぬが)まず一番にマージャン屋ヘ行くこと は、つい近ごろまで映画界の常識であった。  映画俳優の博突好きは、その淵源が遠く舞台俳優の生活因襲から来ているので、このことは無言の うちに我国映画俳優発生史の一ぺージを物語っているものというべきである。  しかし更に別の観点からこれを見るときは、彼らの博突好きは、あまりにも投機的な彼らの処世哲 学なり世界観なりを、最も端的に表現しているものということができる。  おそらく彼らの大半は、最初から投機的な考慮によってこの職業を選んだのではたいかとさえ疑わ れる理由があるが、たとえそうでなかったにしろ、彼らの大部分は、決して、幾度か辛酸を嘗めて志 始めて堅しという類の孤高なる精神の持主ではない。  要するに彼らも人の子である。その人の子は絶えず自分たちの周囲に、少数の成功者を見せつけら れ、いやでもそれらの人々の豪奢な生活と、自分たちの佗しい生活とを比較しながら暮して行かねば ならないことになっている。  元を洗えばこの間まで彼らといっしょに十手を持って走り、あるいはともに飲み、ともに腐り、と もにサボッテいた仲間にすぎない。  ところが今ではその元の仲間の一月分の給料を彼らは五年働きつめなきゃ取れない。  そこで彼らはこの目の廻るような開きを生じた理由について考え始める。  しかしいくら考えたとて答はでない。  天才か。否。努力か。否。そこで彼らは遂に自分自身に言い聞かせる。  すべては運だ。つまり、あてたやつが勝ちだ、と。かくて彼らは、ほとんど例外なしに投機的人生 観を抱くようにたり、浅薄な機会主義者となってしまうのだが、一般に機会主義者というものは正当 な努力を支払うことなしに、ただ機会を掴むことにのみ熱意を示す。その態度はもちろん唾棄すべき であるが、静かにその由って来るところを考えるときは、むしろ同情にこそ値すれ、一概にこれを責 めるべき理由のないことに気づくのである。  言うまでもなく、その直接間接の原因は、今まで述べきたった俳優の商品性に根ざした特色のすべ てである。したがって、かかる弊害を除去するためには、遠くその源にさかのぽって、従来の俳優生 活の根元にメスを入れるのでなければ、容易に効果はあがらないことがわかる。  なおこの項の最後にあたって、私は最も憂轡な例について、さらに一筆を追加しておかなければな らぬ。それは、かのもはやとっくの昔に投機性をさえ失ってしまった人たちである。  青春の夢は既に遠くのかなたに過ぎ去って、今では思い出すさえ|億劫《おつくう》である。しかも時の営みは冷 厳にして一刻も仮借せず、彼らの髪にはようやく霜の多きを加えんとしつつあるが、いまだに彼らは 十手を握り若いものに混って、息を切らせながら走る以外になすことを知らないのである。  おそらく彼らは最初に出発を誤ったのであろう。またせめて彼らの気の休まるよう些一.口えば、運が 悪かったのでもあろう。しかし彼らがそれに気がついたときは、もう既に遅かったのである。彼らの 巾にはときとして、大正年代ころに、相当重要な役を勤めていた人たちの顔を見受けることさえもあ る。そのような場合はひとしおであるが、いずれにしても彼らの姿くらい私の心を傷めつけるものは ない。したがって私が従来接してきた幾人かの俳優志願者に向かってきまって説いて来たのは、いつ もこれらの人々の例を挙げて、深甚な反省を求めることばのみであった。しかし、もしも将来、映画 俳優の生活が、私の期待する程度に改善せられたならば、これらの悲劇の、少なくとも極端なる場合 だけは必ず解消し得ることと思う。 以上で私の考え得る範囲での映画俳優生活の特色はほぽこれを述べ尽したと思う。もっとも私生活 の細部にわたれば、まだこのほかにも、いろいろ特色があると思うが、それは本稿の目的に遠いから 取り上げないことにする。  ところで以上の特色を通覧してだれしもすぐに気のつくことは、どの項目も必ず矛盾を蔵しており、 したがって明朗性に乏しいことである。  映画俳優の生活はかくのごときものであるといって、右の条々を明示された場合、志操堅固にして みずからたのむところのある青年が、はたしてこの道を選ぶ気になるであろうか。  またもし仮に実力と気概ある青年が、一度はこの道を志したとしても、身をもって右の真相に触れ た場合、はたして永くこの世界にとどまる気になれるだろうか。  私は憂えずにはいられない。  かくては映画俳優の質の向上など、とうてい思いもよらないのであるが、このことは映画俳優の生 活機構が現在のままであるかぎりやむを得ないこととしなければなるまい。  しからば映画俳優の生活はどんなふうに是正せらるべきか。  言うまでもなく、その答は、「俳優の商品性を駆逐せよ」という一語に尽きる。けれども、それだ けでは単に一つの標語以上でなく、だれもそれによって具体的方法を示唆されない。よって私は、商 品性を駆逐するためにはいかなる方法が必要であるかを、いま少し詳細、かつ実際的に述べなければ ならない。 さていよいよ私は答案を書かねばならぬ時期に達したことを感じる。  しかし、実をいうと私はこの答案を書くことに非常な困難を感じている。  否、答案そのものは、必ずしも困難とは考えないが、問題は答案以後にある。すなわちその実現の 可能性に関してである。つまり現在の映画会社の機構のもとにおいては、以下述べんとする私案は、 ほとんど実現の予想が持てないのである。  ほとんど実行に関する期待が持てないような空想的な案を並べてひきさがるということは、決して 良心的な態度とはいえないだろう。  しかしながら、ひるがえって考えてみるならば、この変動の時期に際して、現在の映画会杜の機構 がいつまでも続くものとは、何人といえども保証の限りではあるまい。  してみれば、今日においては、ほとんど痴人説夢の類と目されるものも、明日は実践的な改革案と してまじめに取上げられることがないとは言い切れない。  なおそれに関して私が自信をもって言えることは、会杜の機構を現在のままに保っておいて俳優の 生活だけは、これを改善するというような都合のいい方法は絶対にあり得ないことと、少たくとも以 下述べんとする私の案の内容が、ある程度まで実現する時が来ないかぎり、映画俳優の生活は決して 本質的には改善されないだろうということである。  さて映画俳優から商品性を駆逐し、その生活の合理化をはかるためにだれしもまず第一に考えるこ とは、「国家的見地から帰納された、俸給の適正値段の考慮」であろう。  率直に言えば、撮影所が一人のスターを整理することによって、数人の大臣を雇うことができる現 状は、国防国家としていささかも反省の要がないとは言えないと思うのである。  ただし誤解されては困るが、いくら国防国家とは言っても、一般に芸術家の収入が必ずしも政治家 の下位にあらねばならぬ理由は毛頭ない。  その仕事の実績において十分尊敬に価する天才が現われてきた場合には、その人が一国の首相の十 倍二十倍の報酬を得ても別に不思議はない。  しかし現在、我々の国民常識の判断に訴えて首相以上の俸給を取るのが当然だと思えるような映画 俳優が一人でもいるだろうか。  才能の乏しい、平凡な俳優が単に偶然の成行きから首相の何倍もの報酬を得ている点に問題がある のである。  ではこれに対処する具体的方法としてはどんなことが考えられるかといえば、私一個の考えとして はクラス制度の設置ということを想像している。つまり全国映画俳優を統一的に何級かに分ち、各ク ラスの最高価格を決めてしまうのである。もちろん各クラスヘの帰属は厳重なる演技実力の査定によ って決まる。かくすれば会杜はクラスの最高価格を無視して俳優の報酬を自由に増すことができなく なるから、引抜きによる価格のつり上げという現象も自然に消滅するはずである。  なおこれに附随した注文としては、最高クラスの最高価格は遠慮なく非常な高額を設定することが 望ましい。そのかわり上の一、二級はふだんはおおむね空位であり、主としてそれは稀代の才能が現 われた場合の特別席として用意したい。  報酬の問題については、今は以上の輪郭にとどめるが、ここで誤解を避けたいのは、私は決して俳 優の収入を減少させるために努力しているのではないということである。申すまでもなく私の主意は、 もっばら極端な「利潤の偏在を是正」する点にあるので、全体としてはむしろ俳優の収入の増加を希 望する気持ちはあっても、減少を期待する理由は少しもない。  なおこれに並行して考えなければたらぬ問題は、「投機性の抑圧」ということである。しかし、右 のクラス制が採用された暁においては、当然演技実力が重要視されると同時に、成功者不成功者間の 生活条件のはなはだしい懸隔が是正されることとなるであろうから、そうなれば、当然の結果として 種々の矛盾や不均衡が取除かれるにいたり、投機性は自然に影を潜め、かくて映画俳優の仕事は、健 康なる職業の一つとして再出発することになるであろう。  しかし既に現在においても、それらの矛盾や不均衡を取除くための動きは徐々に始まっていないと は言えないのである。  たとえば映画法による俳優登録試験である。これは現在のところ、わずか一回しか経験されておら ず、その功過はいまだまったく不明というほかはないが、少なくとも全体として俳優の素質を引上げ ることに、あるいは俳優たる素質に乏しきものを淘汰することによって、多くの悲劇を除去すること に役立ってくることは確かであろう。  しからばそれだけでも既に俳優生活の改善について相当の効果があることがわかる。  なお、いま一つの注目すべき動きは、やはり映画法実施以来、各社のあくなき利潤追求が、少なく とも製作量、企画の質の二面から監督官庁の手によって強硬に是正せられつつあることである。  映画が社会教化の能力と同時に義務を負うべきは当然であるから、当局の方針はもとより至当であ るが、もしも今後さらに映画政策が強化せられて、利澱を第一義とする業者の存在が許されない時代 がくれば、そのときにはおそらく現在のごときスター・システムは自然に何らかの形に修正される運 命にあるのである。  なぜならば放恣なる自由士L義経済の帰結が、樋端なる利潤の追求であり、極端なる利潤追求の生ん だ一つの病弊がスタi・システムであるからだ。  ところで以上二項のうち、後老は国家《.映画政策の根本に触れる重要問題であるが、それ自身とし ては、俳優生活論の範囲を逸脱しているのでしばらくこれを預り、今は前者すなわち試験制度につい て、少々考えてみたい。  いったい人問の社会に試験というものができたそもそもの理由は何だろう。私の考えでは、その最 大の動機は、要するに実力と待遇との関係をできるだけ人の納得の行くようにしたい要求からにほか たらぬと思う。  少なくとも、現在までのところでは、実力と待遇との関係を調整する機能において、試験以上に信 頼のできる方法も、試験以上に便利な方法もまだ発見されていないことだけは確かである。  その意味において映画法の中に試験制度が採り入れられたことは当然でもあり、歓迎すべき出来事 でもあるが、しかし、どうせ試験制度を採用する以上は、その利用を現在の程度にとどめず、試験の 長所を徹底的に発揮させることにしてはどうであろう。たとえば前述のごとく映画俳優のクラス制度 を設定し、下級より上級への昇進には必ず何らかの形において試験を課することにすれば、現在のご とき矛盾や不均衡はほとんど跡を断つに相違ない。ただし試験の対象が芸能であるだけに実際問題と しては、かなり微妙な技術と複雑な機構を必要とすると思うし、相当の困難はむろん予期しなければ ならぬが、しかし、いよいよ実施となればいろいろ方法は考えられるし、また必要に応じて優秀な頭 脳を集めて智慧を絞ることもできるから、決して不可能な問題ではない。 もし、また私の考えているような全面的試験制度の実施が困難な場合は、せめていわゆるスター級 に相当するクラスの関門にだけは、何とかして試験の関を設けるような気運に早くしたいものだ。そ れができないうちは、演技実力の重要視ということは、実際問題としておそらく成り立たないと思う。 そればかりでなく、各クラスの最高額の制定案も試験制度と別個に考えては意味のないことだから、 結局クラス試験制実施いかんは、成功者、不成功者間の条件懸隔の問題にも関連し来り、要するに公 平なる試験制をほかにしては、投機性の抑圧ということは不可能と断ぜざるを得ないのである。  ところでここにもう一つ問題が残されているのは例の下級俳優の問題である。  彼らは表向き、その職業を俳優と称し、みずから芸人、あるいは芸術家のごとく錯覚しているが、 その課せられている仕事は純然たる労働である場合が多い。彼らの不幸はかかる仕事の分化上の混乱、 不透明からも多分に来ている。すなわち彼らは俳優としての目的を達することもできないと同時に、 ⊥場労働老としての合法的権利も剥奪されているため、その不幸は常に倍加されているわけである。 関西の撮影所においては、彼らは多く撮影所に専属し、定給を|食《は》んでいるが、それでもなお相当数の 職業エキストラがいる。関東の撮影所においては、エキストラの多くは定給を食んでいるほうがはる かに少ないようであるが、それだけに関東のほうが、俳優と労働者の分化がいくぶん進んでいるらし く感じられるu  もちろん、これは一日も早く俳優と労働者との区別を明瞭にすべきである。そしてそれは主として 会社の責任であろう。もっともどこまでが労働でどこからが演技かという境界を決める場合に、多少 の疑念が生ずるかもしれぬが、さして困難な問題とも思えない。なお、この境界は相互の生活の便宜 のために設けるのであるから、たとえば労働者の中に俳優としての才能を発見した場合などは、遠慮 なく境界を超えて転職するを妨げない。  なおエキストラのことを考えるたびに憂欝になるのは、どこのエキストラも零細な日当の中から必 ず三割くらいの口銭を搾取されていることである。搾取はいわゆる周旋業者か、まれには会社のその 方面の係によって行われる場合がある。前者の場合はまだしもであるが、会杜の俸給を食んでいるも のがさらにエキストラの上前をはねるということは全く理由のないことで、明らかに|漬職《とくしよく》行為である。 会社の主脳部はよろしくこの辺の消息にも通じ、少なくとも会杜が支出しただけのニキストラ料は、 残らずニキストラ自身の手にはいるような制度なり、処置なりを考えてやってもらいたい。 次に、これも必ずしも映画俳優生活の本質的な特色ではないので、私はわざと問題から除外してい たのであるが、現在の状態では、何分にも俳優が無意味に撮影所に縛りつけられている時間が多過ぎ るのである。 「映画俳優の仕事の九割九分は|待《ちち》つことだ」というのは、|現《ちム》在彼らの全部が痛感している馬鹿げた事 実であり、したがって彼らの胸裡に深く内攻している共通の不満である。実際彼らは朝の八時に出勤 を命ぜられて夜の十二時までも無為に待たされるというようなことが決して珍しくないのであるが、 このような長時間を絶えず待機の姿勢においてすごすということがどのような苦痛であるかは、一度 類似の経験を持ったものにはよくわかることである。  そしてこのような苦痛と|憤慈《ふんまん》のために全く感情の平衡を失した時分に呼び出されて演技を命ぜられ たとて、はたして彼らが微妙な心理の陰殴羽などを表現できるかどうか全く疑問というのほかはたい。 この意味からいっても演出者が自己の都合によって必要以上に俳優を待たせるということはあり得べ からざることと信ずるが、右のような俳優の憤懸の的となるのはいつも演出者に決まっているのであ る。  このことは演出者というものの位置からいってやむを得ないことかもしれないが、実を言えば演出 者といえども御同様に「待つこと」がその仕事の大部分を占めているのである。  否、多少誇張して言うなら、現在の撮影所で働くものはほとんどだれもかれもが例外なしに絶えず 何かを待っているようにみえる。そのような不思議なことのあるべき道理はないのであるが、実際に はそれを不思議がるものさえもなく、撮影とはこのようなものだと思いこんでみんなあきらめきって いるようである。  しかし、我々の仕事が先天的にかような性質を持っている理由などはとうていあり得ないのである から、かかる弊風は一日も早く打破すると同時に、撮影所において、無意味に空費する時問を奪回し て、お互の教養ないし休養の時間を少しでも豊富にするように努力することは、何よりも我々自身へ の義務なのである。そしてこのようなことに関しては会社の経営者に対してほとんど期待が持てない ことは、従来の経験に徴して明らかであるから、解決の道はもっばら現場に働くもの同士が自身で発 見する以外にはあるまい。そのためには我々が現に持っている、映画人連盟組織の機能を活用するこ とが何よりの近道であることだけを指摘しておきたい。  なお映画俳優の生活と教養を高めるためにぜひとも考慮されなければならぬ重要な課題として映画 俳優養成機関の問題がある。しかし養成機関の問題は、俳優の部門に限らず映画各部門に共通の問題 であり、したがってこれだけを取り上げても限られた紙数でかりそめに論ずるには大きすぎる問題で あるし、第一私はまだ残念ながら自信をもってこの問題を解明するだけの用意がない。しかし映画法 の実施と相まって、既に当局において養成機関に対する考慮が進められているように聞いているから、 我々はほぼ安心してこれに期待していいかと思うが、ただこの問題に関して私の予測する困難を中す ならば、現在の日本には(あるいは世界には)まだ映画に関する権威ある理論がないことである。  いわんや学としての映画が理論的体系をうちたてるまでにはなおかなりの年月を必要とするように 考えられる。しかし物事は完全た条件が揃う機会をまっていては何一つ着手できないのが常であるか ら、とりあえず実践を試みながら、理論的研究の集大成をまつこともあるいは一方法であろう。  それと同時に、他の一面においては、私はまた大いに実際に即した教育方針を強調したい。少なく とも映画人の養成機関が一般の学校と同じように、実際の職場から遊離した観念や理窟のための議論 を押売りする場所となってはまったく意味がないのであるから、ぜひとも従来のいわゆる学校の概念 を打破した新しい教育形態を創造し、実際の職場との有機的な連繋のもとに、本当に生きた教育を施 し得るよう、深甚た考慮が費されることを当事者に希望してやまない次第である。  さて、映画俳優生活改善に関する私案は、以上でほぽその大要を尽したわけであるが、しかし実社 会のことというものは、常に人間の観念よりは複雑である。したがって容易に理論どおりには動かず、 もし動いても非常な時間と手数を要する場合が多い。  そこでたとえば、映画産業機構のごときも、この際できれば徹底的に改組してしまったほうがよい ことはだれにもわかっているのであるが、それは一つの理念としてわかっているのであって、あらゆ る実際問題の処理方法、および、よって生ずるところのいっさいの影響への対策などが具体的にわか っている人はおそらく一人もあるまいと思われる。  だから我々は期せずして新体制下における映画産業機構の全面的改組を予想していながらも、実際 にはそれがどの程度まで行われるか、またいつごろ実現するかというようなことは少しもわかっては いない。  ところが私の考えているような俳優生活の改善案は、相当思いきって映画産業機構が改革せられる のでなければ、その効果を期待し難いのであるが、万一そのような気運に際会した場合には、あるい は多少の参考になるかもわからないと思うのであえて愚案を陳列した次第である。  ごらんのごとく、私の改善案はいわば試験万能論のごときもので、何ら目新しいところはないが、 要するにその意図するところは、人間として、また芸術家としての価値をもって、在来の映画俳優の 商品価値に置き換えることにある。  映画俳優という職業の空虚な特殊性から脱却して、もっと質実な職業人として、また健康なる一国 民として再出発を試むべしというのが論旨の要点である。  最後にかくて再出発した映画俳優は、国家杜会的にいかなる役割を受け持っべきか、およびその把 握すべき自覚と|衿侍《きんじ》とについて少しばかり述べてみたい。  まず映画俳優と杜会との関係・交渉を考えるとき、決して見のがすことのできないのは、彼らが社 会に与える風俗的影響力である。  風俗とい?ても私は比較的広い意味において、これを用いているので、必ずしも帽子や衣裳の流行 のことばかりを指しているわけではない。  風俗というものは、その一端において道徳とも入り混っているし、ある場合にはまた生活態度を規 定する力ともなる。  さて一般に映画の観客というものは、自分の気に入った映画の一部分を、ことに気に入った俳優の 何かを、実に素朴な、あけひろげた態度で模倣しようとする傾向を持っている。  そうしてその模倣の結果は、彼ら自身が意識すると否とを問わず、その実生活のどこかへ必ず具体 的に現われるのである。  このことは大正から昭和へかけての風俗を考察するにあたって、もしもアメリカ映画の影響を度外 視したならば、ほとんど何事も理解できなくなるだろうところの事実が、何よりも雄弁にこれを物語 っていてくれるo  早い話が、現在四十歳前後以下の年代の人間なら、このことは自分自身の経験として、それぞれ多 少の思い出は持っているはずである。  たとえばお笑いぐさに私自身の思い出を白状するならば、私は青年時代にフランク・キlナンとい う俳優の歩き方をはっきり意識してまねていた憶えがある。それからいま一つ、私は今でもマスカッ トを食べるとき、「間諜X72」という写真を連想せずにいることができない。  この写真の中で、ワーナi・オランドという俳優の役である一間諜が、一身の危機すでに迫れるを 悟って、自殺を決意するまでのほんの二、三秒間の高潮錯綜した心理を表わすのに、彼は持ちまえの 無表情な顔で、卓上のマスカットの房から一願をもぎとって口に入れ、しばらくもぐもぐやってから おもむろにその種を吐き出すのであるが、この数秒間の彼の演技は驚くべき深刻さで私の脳裡に彫り 込まれたとみえ、爾来私はその時のワーナー・オランドの顔を思い出さずには、一粒のマスカットも 食べられなくなってしまった。が、しかし、それはまだいい。もっとひどいことは、今でもマスカッ トを口に入れてもくもくやっているとき、ふと気かつくと、いつの間にか自分の顔かl冊意識にあ の時のワーナー・オランドの表情を模倣していることを発見して、めんくらうことがたびたびである が、これには全く弱ってしまう。  もっともこの例は少々変則かもしれないが、しかしこれだけでも映画の影響力の不思議な強さの証 明にはなるだろうと思う。  なお右の場合は、表情、ゼスチュアなどの影響の一例であるが、まだこのほかに、顕著なものとし て、衣服、髪形の影響、言葉の影響などがある。  この中で、衣服、髪形の影響にいたっては、あらためて説明の要がないほど一般的であるから、別 に取り立てて言うことは何もない。  言葉の影響ということはかなり重要な問題で、後でもう一度触れるつもりであるが、現在の日本に は、いい意味での影響を与え得るほど、言葉の魅力を縦横に駆使している俳優はいない。  どこで聞いてくるのか、私の子供も「わしゃかなわんよ」などと言って親を閉口させているが、こ んなのが言葉に関する日本の映画俳優の影響の実例であることは淋しい。  さて、以上は全部俳優の個人的影響の例ばかりであるが、このほかにまだ俳優を通じてA杜会の風 俗・習慣がB社会に影響する場合がある。  たとえばアメリカの風習が日本へ伝染したり、束京の風俗が他の地方へ伝播したりすることである。 これらの現象は必ずしも俳優自身の影響力とは言えないかもしれぬが、しかしまた、俳優という存在 を介してでなければ成り立たない影響であるから、便宜上、一応俳優の影響力と見なしてもたいした 不都合は起るまい。  ところで、このほうの実例も、ちょっと考えればだれでもすぐ思い浮ぶにちがいないから、いちい ち具体的には触れないが、ついでであるからアメリカの影響ということについてちょっとだけ所懐を 述べておきたい。  いったいこれまでアメリカ映画の影響というものは非常に誤解されているのである。それは思想的 にも、風俗的にも、ひどく日本の青年を毒し、有益な点は少しもなかったように言われているのであ るが、私の見解はむしろ反対で、日本の青年はアメリカ映画から利益は受けたが、毒されてなどはい ないと信じている。なるほど、一時もみあげを長くし、らっばズボンをはいた変な連中が銀座を歩い たことはあったが、そんな生活から遊離した現象は風俗の泡のごときもので、気に病むまでもなくす ぐに消えてしまった。そのかわり生活と密接に結びついた女事務員の風俗などは、大体においてアメ リカ化の傾向を辿ってきているが、別に毒されているという印象は受けない。現在の風俗にかわる何 が用意されているかと反問したらだれも返事に困るであろう。  我々青年にしても、アメリカ映画によって思想的になど決して毒されはしなかった。現に私などは アメリカ映画を何百本見ているかわからないが、現在手のつけられない悪党にはなっていたい。  元来アメリカ映画というのは十中八、九まで勧善懲悪を骨子としたメロドラマであり、大体の空気 は健康明快で、思想的悪影響の心配などはまずないと言ってよい。  そのかわり知らず知らずの間によいほうの影響はずいぶん受けているのである。  まず第一に我々はアメリカ映画によってスピーディーな生活様式を学んでいる。たとえばこれは卑 近た点では歩行の速度にまで及んでいるのであるが、かかる影響がいつの間にか思いがけないところ へ忍びこんで、たとえば繁文|褥礼《じよくれい》のお役所風がいくらかでも修正されるに役立っていないとだれが言 えよう。  次に我々は彼らによって行動的な気構え、快活な挙措を学んだ。  つづいて我々は彼らの積極的、意志的、ときに闘争的な生活態度を学び、人問としてのほこりを大 切にし、何ものに対してもものおじしない彼ら一流の骨っぽい処世哲学を学び取った。  以上の中で我々に対して最も強く、最もよき影響を与えたと思われるのは、もちろん最後の骨っぽ い処世哲学であるが、これはまた同時に彼らの物語るロマンスの主人公たちが一様に身に備えている モラルでもあり、おそらくは、これがアメリカ魂の真骨頂かと想像される。  しかしこれをモラルと見るのは国情の違う我々の見方であって、彼ら自身は一つの風俗・習慣とし て、もっと無意識的な、もっと日常的な行為としてそれを身につけているらしい。というのは、つま り我々のような無数の複雑な敬語を持つ生活圏の中において、上長や、先輩や、老人や、上役や、金 持や、貴顕や、社長や、その他あらゆる意味の目上に対し、人間として対等の心がまえを確保するた めには、我々は心理的な問題よりもまず、十重二十重に我々を取り巻いている言語や習慣とたたかわ なければならない。  しかるに彼らの場合においては、外部的に何らの努力をも必要とする理由がないのである。  すなわちこれで見るとAの社会では風俗であることがBの社会では道徳である場合のあることがわ かる。またある社会において道徳が一般化し、社会的に固定した場合には、それは既に風俗であると 言えるo  つまり、道徳と風俗とは、そのおのおのの一端において互に混り合っているのである。  しかし、それはそれとして、かかる平等観の上に立った風俗習慣が移入されることは、我国の秩序 と相容れないではないかという心配が一部で行われているかもしれないが、そしてその心配は決して 理由のないことだとは思わないが、少なくとも現在までのところでは、実際に照してそのような心配 は必ずしも必要でないと私は思っている。ただ我国には古来長上を敬う美風がある。これはわが国体 や、家族制度と関係の深い国民性のあらわれであって確かに美風に相違ない。しかし物事は一長あれ ば必ず一短があるもので、かかる美風もその裏面を見れば、目上、ことに権力者に対する|阿談《あゆ》もしく は卑屈と見られても仕方のないほど、度を越した屈従形式をとっている場合が珍しくない。  礼節は礼節として、どこまでもこれを尊重し、実践しなければならぬのは言うまでもないが、一個 の独立した人間としてのほこりを棄ててまでも、長上の意を迎えんとし、あるいは必要以上に平身低 頭し、あるいは追従笑いをし、塵を払い、靴を磨き、専務囲碁を好めば社員こぞって囲碁ファンとな り、病院長ヤソ教なれば、看護婦あらそって讃美歌をうたうの類は、枚挙にいとまがないほど我々の 周囲に充満している風俗であるが、かかる病弊は片端から打破しなくては健全な国家は出来上らない。 しかもかかる風俗について最初に反省の機会を与えてくれたのは、実にアメリカ映画であったと私は 考えている。青年よ、もっと毅然たれ。もっとほこりと気概を持て。下役よ、卑屈になるな、阿談す るな。と、どのアメリカ映画も叫んでいるように私には見える。  アメリカ映画からは、他に学ぶべきものは何もない。アメリカ映画から学ぶべき唯一のものは、実 にこの骨っぽい処世訓である。そしてもしもこれを見のがしてしまったなら、過去二十何年間輸入し つづけたアメリカ映画から我々は何の栄養も吸収し得なかったことになるのではないかと思う。  映画俳優の影響を論じているうち、右は少々脱線の形であるが、映画に現われる風俗がこのような 影響力を持っていることだけは、ぜひ直接の媒介者たる俳優諸君に知っておいてもらっていいことで ある。  さて、次には「映画俳優の美しさ」ということの杜会的意味についてちょっと考えてみたい。  まず、映画を構成する画面的な美しさの中から、自然の美しさ、カメラにょる技術的な美しさなど を引き去ると、後には、素材としての俳優自身の肉体的な美しさが残る。  もっとも俳優の美しさといっても、実に千態万様で、その中には典型的な美もあれば、個性的な美 もあり、また常識的には醜く感ぜられるような複雑な美もあるわけで、なかなか一概には論じ難いの であるが、要するに何らかの意味において俳優は美しくなくてはならず、また少しでも美しいほうが いいということは、絶対的な定理であろう。  しかし今はその問題はしばらく預かり、ここでは特に典型的な美しさ、一般的な美しさ、いわゆる 美男美女型俳優というものの意味を考えてみたいと思うのである。  だれも知っているように美男美女型俳優というものは通例批評家やインテリ層から、軽蔑ないし反 感の的とされてきたような傾向があるが、もしも}ての軽蔑や反感の理山が、これらの俳優が天与の美 質に相応しない演技力の不足を暴露したためや、またその単なる肉体的な美があまりに高価に取引き されていることなどに対する反動であるならば、それは一応理由のあることとしなければならぬ。  しかし、もしも美男美女の映画への登場を全的に拒否することが最も正しく、最も高級な態度だと 考えているような人がもしあるとしたら、おそらくその人は映画というものの木質を半分しか理解し ない人にちがいない。  現に我々は各一流文化国の標準的な、あるいは典型的な美男美女を、おおよそその国の映画によっ て知ることを許されている。  けれどもこれは何も映画にのみ限られた現象ではなく、エジプト、ギリシャの昔から、人類はその 芸術の中で絶えず美男美女を讃美しつづけて来たのであり、したがって、任意にある国のある時代の 芸術、ことに美術を取り上げて調べてみるならば、我々はいつもその中に、その国のその時代の理想 とした美男美女の姿を発見することができるのである。してみれば、映画のごとく端的に風俗を反映 する芸術においてはなおさら、その国現代の標準的美男美女の登場が要求せられるのは自然の数であ ろう。  なおことばは同じ美男美女でも、理知的た傾向の強い国民層の中からは理知的な美男美女が選ばれ るであろうし、消費文化の欄熟した社会においては頽廃的な美を備えたものが珍貢されるであろうし、 建設の意気に燃える新興国家においては当然健康澱刺たる美男美女が尊重せられることはみやすい道 理である。  すなわち美男美女の型はある程度までその属する国家杜会の文化の質を象徴する傾向があり、この 意味からいっても、美男美女を一種の文化の華と見る伝統的な考え方は必ずしも根拠のない説とは言 いきれないのである。  ここにおいてか我々の映画も光輝ある新体制の日本文化を飾るにふさわしい新しい魅力と健康横溢 せる美男美女を持つことに少しも遠慮する必要はないのである。  そしてさらに私の理想を言うならば、彼らのうち、ことに女優は、その職務の範囲をもっと広汎に 考えて、たとえば対外的な社交場裡における斡旋的役割なども大いに受け持たせることにしてはどう かと思っている。もちろんそのためには、彼女たちがまず理知と教養と健康美とによってみずからを 輝かせ、みずからを高めなければいけない。  このことは少々突飛なように聞こえるかもわからないが、日本のように家庭の女性が社交の半面を 負担したい国がらの下においては、そして職業的杜交婦人の教養があまりにも低く、かつあまりにも 知性が欠乏している現状のもとにおいては、ほとんど希望を持ち得る唯一の方法ではないかと思う。  かくて問題は、いつの間にか、将来の映画俳優の新しい自覚と務侍の領分へ移り始めているのであ るが、何といっても将来の映画俳優にとって最も必要な心構えは、自己の職業の特殊性への信仰から 脱却することであろう。何かよほど変った珍奇なことをやっているのだというような先入観念をまず 打破することである。そしてもっと質実な職業人として、あるいは勤勉なる俳優学の一学徒として再 出発することである。そうでなしに、従前どおりに空虚な運命観や、上っ調子な投機精神の上に寝そ べって、浮華な夢を見つづけていることは、少なくとももはやはなはだしく危険である。  次に、将来の映画俳優は、その極めて民衆に親近せる位置を自覚し、国家のため、みずから進んで 文化的奉仕者たるの誠意を示してもらいたい。絶えず民衆と接触し、絶えず民衆と|交罐《こうかん》を遂げている ことこそ、何ものにも換え難い映画俳優の職業的特権であると同時に、ここにこそ彼らが職場以外に おいても国家に奉仕すべき機会なり、役割なりがあるはずである。  たとえば民衆に対する啓蒙的な国家の宣伝事業に彼らが協力した場合を考えてみてもよい。早い話 が街頭宣伝によって直接民衆に呼びかけるような場合、民衆に親しみのない何々局長や何々部長が声 をからしてやるのと、銀幕で始終顔なじみの俳優何某がやるのと、いずれが民衆にとって魅力的であ るか、したがっていずれがより効果的であるかは、おそらく勝負にならないくらいであろうと思う。  このような映画俳優の生かし方は考えればまだいくらでもあるはずであるから、政府当路者は正し く彼らを利用する道を考えるべきであると同時に、彼らもまた国家のため大いに利用される光栄を期 待すべきである。  次に、将来の映画俳優は、その出演する映画を通じて、常に風俗の規正者たるの見識を持ってもら いたいものである。このことは現在の状態においては前途程遠しの感慨なきを得ないのであるが、将 来においては、現代日本の標準的良風良俗、なかんずく、礼儀・作法の典拠は映画の中にあると言わ れるくらいにまで、ぜひしたいものだと思う。むろんこれは俳優だけの力では達成し難いことで、他 の部門の協力を必須とするがそのためにはもちろん全体としての映画人の自覚、向上が要望される。  ことにその中でも重要なのは言葉の問題である。もともと今の時代は言葉の混乱している時代で、 悪質の言葉は日を追うて氾濫するが、良質の言葉は、日一日と駆逐され消失せんとしているのに、い ままでの日本映画はさらにこれに環をかけて、ブロークンやスラングばかりを宣伝奨励した観があり、 純良本格の日本語の価値というものにはさらに介意しなかったばかりか、どだい、言葉の問題に関す る映画の役割などについていくばくの考慮も費してはいない状態である。  しかしこれも実を言えば映画だけの落度ではないので、学界においてさえ、話す言葉としての日木 語の学的研究は昨今やっとその緒についたばかりであり、言ってみれば、それは今まで全く学問の鍬 のはいっていない処女地のようたものである。しかしかような問題はいつも学問と実際とが並行して 進まなければ意味がないのであるが、映画俳優の立場はもちろん学的なものではなく、当然実際的な 部署につくべきものであるから、必ずしも体系的・綜合的に学としての言語を研究する必要はないが、 しかし直感として、言葉の美に対する神経だけはぜひ養っておかねばなるまい。言うまでもなく、こ の問題も|畢菟《ひつきよう》他の部署、すなわち主として演出部門を預かる人々との協同による切瑳琢磨にまつほか はないのであるが、最も実際的な研鎖を積まなければならないものは結局俳優自身であることを忘れ てはいけない。  同じことをくり返すようであるが、現代の標準とするに足る正しく美しく、しかも生きた日本語は やはり映画の中にあると言われるようにしたいのが我々の念願である。  以上で将来の映画俳優の社会的役割に関する私の希望はほぼこれを述べ得たかと思われるが、この 試論の前半をなす改革案と、後半の対社会的考慮とを通じて、私の強調せんとするところは、要する に、従来の映画俳優の概念から脱却して、質実なる一国民として甦生すると同時に、また一面素朴な る芸術家としで、、また標準的国民風俗の規正者として、新しき文化中枢へ参画せよということである。  なお、またさらにさらに短い一言をもってこれを要約せよと言うならば、 「商品より人間へ!」 これが、本論における私の結論である。(昭和十五年十月二十一日)                             (『映画演技学読本』昭和十六年八月)