映画と芸術院 伊丹万作  いままで養老院は貧しい人たちのためにだけしかなかった。貧乏人さえ持っているものを富裕な人 問が持っていないのはけしからんというので、政府は今度高級養老院をこしらえ、これに芸術院とい う名をつけた。つづいて収容人員の姓名・年齢・略歴などが新聞に発表されたが、さいわいにして私 の見た新聞は、もっばら美術関係を除いた二十六名のことだけを書いていたので、これによって私の 得た知識もまたこの二十六名の範囲に限られた。さいわいにしてというのは少しでも手数がはぶけて 助かるという意味である。  さて発表された事実から帰納して考えると、まず政府はその人選にあたって何よりも高齢に重きを 置いたことが察せられる。しかしこれは養老院というものの性質から考えて当然の処置というべく、 二十代や三十代のいい若いものが養老院にはいっていたら、それこそよほど不思議である。  おそらく政府の意向は最低年齢を五十歳と定め、それ以上なら幾歳であろうと無制限に収容する方 針であったかと思われる。その証拠に菊池寛氏の五十歳が最低で、四十代およびそれ以下は一人もい ない。高齢のトップは国分青崖という老人の八十有一歳であるが、政府の力をもってしても、さすが にこれ以上の高齢者は見つからなかったとみえ、九十代、百代が一人も加わっていないのは|九傍《きゆうじん》の功 を|一管《いつき》に欠いたうらみがあっていかにも同情に堪えない。  なお参考のために、右二十六聖人の年齢を小別けしてみると、八十代が一人、七十代が八人、六十 代が十三人、そして五十代は四人である。これで見ると五十代などは、いわばまあお情で入れてもら っているくらいにしか受け取れない。しかして右の平均年齢は六十六・六歳だから、人間の定命を六 十年と見積っても、適度に生きて死ぬる人たちにはまず縁のないところだと考えなければならぬ。す なわちこれを養老院と認めることは少なくとも数学的には誤っていたいと思うがいかん。  さて、右のうち、高齢の記録保持者、国分青崖という仙人はいかなる商売の人か、まことにおはず かしい話であるが、私の知識の範囲では何とも判断のしようがなかったので、取りあえず紹介略歴を 参照すると、漢詩のじょうずな人だと書いてあった。私の従来の方針からいうと、漢詩のじょうずな 日本人の名前などはしいておぼえなくてもいいことになっているし、もしうっかりおぼえてしまった 場合はやむを得ないから、忘れるまでは憶えておいてもいいことにしている。要するにおぽえていな くても別に自分の方針には触れない名前だということがわかったので私は大いに安心をした。しかし 考えてみるとこの人の場合など、少々合点のゆかない点もある。たとえば日本の和歌のまねごとのじ ょうずな中国人があるとする。その人が、それだけの芸で中国のアカデミ1(もしあれば)にはいれ るかしらん、などと考えてみる。  このほかには橘糸重女史(名前から判じて御婦人と認めたのであるが違ったら失礼。)などという 人も我々年端も行かぬものには初めての名前である。芸術院でもできなかったらあやうく一生知らず に死んでしまうところであった。  この女史と幸田延子(?)女史とはともに音楽名手であり、ことに幸田延子(?)女史のごときは 最も当を得たる人選として新聞も筆に力を入れてこれを支持しているところであるが、私はまだ両女 史ともに御縁がないので、ここでその技禰を評価する失礼をあえてしなくてすむことはさいわいであ る。  断っておくが私は最近十年間に京、大阪で催されためぽしい音楽会はほとんど聞いているし東京に 出たとき、運よくいい音楽会にぶつかればこれもまた見のがさぬように心がけている。つまり環境の 許す限度において音楽に接触しようとつとめてきているわけであるが、それでなおかつ両女史の演奏 には一度も接する機会がなかったのであるから、これは必ずしも私の手抜かりだとばかりはいえない ようである。  このほかにもまだ、雅楽の名手だとか、書道の名手だとか我々|下《しもじも》々のものはほとんど始めてうけた まわる名前がいくつかあった。  要するにだれでもが知っているようなものは平凡である。低級に決っている。なるべく人の知らな い、平民どもとつきあいのないものを選ばないと政府の威信に関する。思想においても現役性を保有 しているものはたるべく避けたほうがいい。そんな連中はとかく問題を起してうるさい。功成り名遂 げて身退かんとしているものか、ないしはすでに退いたのがいい。功成り名遂げて養老院へ! うむ、 この標語はよい。野人よりも官人を。これを忘れてはならぬ。私学よりも官学を。これも大事だ。ど ちらもかんじんのタイトルだ。よし、方針はきまった。次は交渉だ。というようなことだったのだろ うo  はじめ芸術院の企画が新聞に出て、しばらくすると政府があちこちと交渉してまわる模様が記事に 現われはじめた。それらの記事を綜合してみると、大概の人が必ず一度は断るものらしい。そして大 概の人が結局は必ずはいるものらしい。どうせ最後にはいるものなら、なぜ最初に断るのか私にはわ からない。同様に最初に断ったものがなぜ最後にはいるのかも私にはわからない。役人に意味のない 手数をかけるのは国家的不経済だと思うがどうか。 「絶対に拒絶する」などと新聞記者の前で力みかえっていたのが、翌日の新聞であっけなくはいって いたりするのは、映画ならワイプを使用すると喜劇的効果のあがるところだ。  おのれの主義がアカデミーと相容れないからといって断るのなら、断る理由としてももっともであ るし、この場合には断ることが正しいと思えるのであるが、そういって断った人は一人もいなかった。 もっとも一度右のようた理由で断ったら、あとではいるときには非常にぐあいが悪いことになる。だ からその点はみなよく心得たものだともいえる。  菊池寛氏だけは最初から喜んではいったらしい。芸術院大賛成だという声明までしている。態度が 終始一貫して、筋がよく通っている点、まことに氏の書く新聞小説に似て明快であった。もっとも、 あれだけ常識的で平明な小説を書く人がアカデミーに反対などしてみたところで始まらないといって しまえばそれまでの話である。おしなべて日本の芸術家などよわい五十ともなりぬればこぞってアカ デミーに宗旨がえするものとみてまちがいなさそうである。  芸術院などをあまりいい気になってめでたがっていると、今に統制でえらい目にあうぞと警戒につ とめている人もある。つまりこれも統制の手始めだというのである。  しかし、はたしてそういう積極的な目的を持つものならば、こんなに老人ばかり狩りあつめていっ たいどうしようというのだろう。としをとって浮世ばなれがして、まず言ってみれば神通力を失った 仙人のごときものを集めて何ができるというのだろう。  もっばら統制の実をあげるためには、強大な実力を備えた威嚇より有効なものは一つもない。そし てそれは芸術院のようなお上品なものの助けを借りなくても、現在の政府の力だけで十分可能ではな いか。  兼好法師でさえいいたいことをいっているのに今の日本人はいいたいことはいわしてもらえず、手 紙はみな途中で封を切られるが、それでも平気ですましている国民である。芸術統制なんて、このう えはもはや一挙手一投足の労にすぎないではないか。  自慢ではないが我々のやっている映画などときたら最初から統制されるために生れてきたようなも のである。いまさら統制などとはおかしい話で、いったいこれのどこをどう統制しようというのだろ うo  いよいよ今口から統制という日がきたら、おそらく映画がかりの役人は、上吏に向って、もうこれ 以上統制はできませんといって報告するほかはないだろう。  ところで、今度の芸術院の組織を見てもわかるように映画はやはり芸術ではなかったのである。映 画が芸術であるというのは幼きものどもの主張であって、かんじんの映画人自身も従来あまり主張は していたいのである。少なくも我らの政府は映画などという芸術の存在を認めていないという事実 が、今度の機会に明白になったわけで、おかげで我々は非常に楽になった。  今後は何といっても、政府のてまえというものがあるから、むやみに映画を芸術呼ばわりすること は遠慮したほうがよい。  あまり芸術呼ばわりをしていると、政府がつい錯覚に陥って、早朝から文部次官を伊丹万作邸に差 し向けたりせぬとは限らぬ。こういうふうに想像し得るあらゆる災難を考えておかないと安心ができ ないのは私の悪いくせである。  しかし私は養老保険にはいってまだ間のない人間である。今から二十年たってこれが満期にたって もまだ六十には間があるのだからまず安心なものである。  我々の仲間で最年長者であった村田実が、もう五、六年しんぼうしていたら芸術院適齢の最低に到 達するところであったが、映画が芸術でないことに決定したので、気がゆるんだのか早速死んでしま った。  映画と同様に演劇も黙殺された。結局どうなったかしらぬが、一時は歌舞伎が騒いでいたようすで、 中でも羽左衛門の俳優芸術家説たどまことに可憐|掬《きく》すべきものがあった。なるほど歌舞伎俳優には芸 術院適齢者が決してとぽしくない。歌右衛門あたりになるといよいよ齢に不足がない。あるいは堂々 八十一翁国分青崖大仙人の塁を摩したりするかもわからない。中村歌右衛門などという名前の感じか らいっても、老齢、半身不随などの諸点から考えても資格において欠くるところがない。  しかし遺憾ながら演劇には官学というものが存在しないことが、何より弱味である。しかも彼らの 過去には河原者というまことに政府向きでない歴史がある。こういうきたならしいものはまず入れな いほうが安全である。ついでに美人画や、風俗画の絵描きも追い出したらどうだ。昔は浮世絵といっ て由緒ある絵師はもし描いても署名をしなかったほど卑しいものであった。小説家などもむろん追い 出したほうがよろしい。あの前身は戯作者といって|蓄間《ほうかん》とたいしてかわらなかったものである。  だいたい芸術などというものの素性がたいして上品なものではないのだ。ひげをはやした堂々たる 官吏の手をわずらわすに足るようなものではない。結局芸術院などをこしらえなければ、手数がかか らなく一番よかったのである。こしらえさえしなければ、入れてくれないといって怒るものも出てこ ないし、断っておいてあとからこっそりはいったりする不所存者も現われないですんだのである。電 報一本でははいらないが、官吏が官費(これは税金の変形したもの)を使って汽車に乗って頼みにく ればはいるというようなわけのわからないことをいって、認識の程度を暴露するようた悲劇も起らず にすんだのである。  およそ、今回事の前後を通じて、こちらも無関心なら、むこうも無関心、噂にものぼらたければ世 間も問題にしない、それでいてご当人たちの間に何らの不服もなかった連中は、わが映画人だけであ ろう。世人がもしもこれをもって、映画人の鈍感なせいにしたり、あるいは意気地のないゆえだと考 えるならば、それは少しく見当が違う。  我らはぎょうぎょうしく映画を芸術なりと主張もせぬが、また必ずしも芸術扱いされることを拒絶 もせぬ。要はいずれでも差支えないのである。映画がもしも真に芸術でないことに決定したとしても 我々は今さら何の|痛痒《つうよう》も感じない。  我々は映画が芸術なるがゆえに映画をやっているのではない。我々は映画が映画なるがゆえに映画 をやっているものである。  人は映画から芸術の名を奪うことはできても、芸術よりはさらに新しきものに従事する自覚と満足 とを我々から奪うことはできない。  かかる自覚と満足を持つ我々にとって、芸術の名義などは昨日の入場切符のごときものである。い わんや芸術院においてをや。映画人が芸術院問題に対してあくまでも悟淡な態度を持しているのは一 に右のごとき理由にょるものと私は信じている。(七月一日)  (『シナリォ』昭和十二年十二月号)