演技指導論草案 伊丹万作 ○演技指導という言葉はわずかにこの仕事の一面を表出したにすぎない。この仕事の真相は指導でも なく、監督でもなく、化育でもなく、叱正でもない。最も感じの似通った言葉をさがせば啓発であろ うが、これではまだ少し冷たい。  仕事中我々は意識して俳優に何かをつけ加えることもあるが、この仕事の木質的た部分はつけ加え ることではなく、抽き出すために費される手続きである。 ○俳優から彼の内包せる能力を抽き出すためには必ず多少の努力を要するものであるが、抽き出そう とする能力があまりにも深部にかくされており、俳優自身もその存在を確信しないような場合には我 我の仕事は著しく引き伸ばされ、仕事の形式は訓練という言葉に近づいてくる。 ○ある時問内の訓練が失敗に終ったとしてもあきらめてしまうのはまだ早い。その次に我々が試みな ければならぬことは、さらに多くの時間と、そしてさらに熱烈な精神的努力をはらうことである。た とえばめんどりのごとき自信と執拗さをもって俳優を温め温めて、ついに彼が艀化するまで待つだけ の精神的強靱さを持たなければならぬ。 ○演技とは俳優が「自己の」肉体を通じて、作中人物の創造に参与し、これを具体化し完成せしむる ことによって自己を表現せんとする手続きをいう。 ○演技指導とは演出者が「俳優たちの」肉体を介して、作中人物の創造に参与し、これを具体化し完 成せしむることによって自己を表現せんとする手続きをいう。 ○演技指導は行動である。理論ではない。 ○読書の中から演技指導の本質を探り取ろうとするのは地図をにらんで戦争を知ろうとするようなも のだ。いくらにらんでも地図は地図だ。戦争ではない。 ○演技指導の方法論に関して私にできるただ一つのことは、その具体的な手続きのうちに比較的法則 めいたことを発見してこれを書きとめるということだけだ。 ○法則というものに対する信頼にはおのずから限界があるべきを忘れてはいけない。 「美のためには破ってならない法則は存在せぬ。」(ベ1トlヴェン) ○法則とは自分が発見したら役に立つが、人から教わるとあまり役に立たぬものだ。 ○演技指導の本質の半分は「批評」である。 ○演技指導について少し広義に記述しているといつかそれは演出論になる。 ○演技指導について少し末梢的に記述しているといつかそれは演技論になる。 ○自信と権威ある演技指導というものはすぐれた台本を手にしたときにだけ生れるものだ。作のくだ らなさを演技指導ないし演出で補うなどということはあり得べきこととは思えない。  くだらぬ台本を手にした場合、俳優に注文をつける自分の声はいちいち空虚な響きをもって自分の 耳にはねかえってくる。 ○演技の一節を、あるいは一カットの演技を顔に持って行くか、全身に持って行くか、あるいはうし ろ姿にするか、それとも手の芝居にするかというような問題はすでに演技指導を離れて広く演出の分 野に属するが、これらのコンティニュイティ的処理のいかんが演技の効果に影響する力は、ときに演 技指導そのものよりも、はるかに根本的であり、その重量の前には区々たる演技指導の巧拙などはけ し飛んでしまうことさえある。 ○演技指導における俳優と演出者の関係は、ちょうど一つの|駕籠《かご》をかつぐ先棒と後棒の関係に似てい る。先棒の姿は後棒に見えるが、先棒自身には見えない。 ○演出老と俳優と、二つの職業的立場を生み出した最大の理由は、人間の眼が自分を見るのに適して いないためらしいo O俳優に対する演出者の強みには個人的なものと一般的なものと両様ある。個人的なものとはもっば ら演出者の個々の眼の鋭さに由来するが、一般的なものは、演出者がいつもカメラの眼を背負って立 っているという職分上の位置からくる。 ○カメラの眼の位置はすなわち観客の眼の位置である。 ○演出者とは、一面観客の象徴である。 ○どんなに個性の強烈な演出者と、どんなに従順た俳優とを結びつけても、俳優が生きているかぎり、 彼が文字どおり演出者の偲偏になりきることはあり得ない。 ○どんなに妥協的な演出者と、どんなに専横な俳優とを結びつけても、演出者が|機械《フち》を占領している かぎり、俳優はいつまでも彼を征服することができない。 ○どの俳優にでもあてはまるような演技指導の形式はない。 ○演技指導をそれ以外のものから明瞭に切り離し得るのは観念の中においてのみである。  実際には種々なものと複雑にからみ合っていて、純粋な抽出は不可能である。 ○演技指導はそれが始まるときに始まるのではない。通例配役の考慮とともにそれは始まる。 ○百の演技指導も、一つの打ってつけた配役にはかなわない。 ○最も能率的な演技指導は成功せる配役である。その逆もまた真である。 (したがって純粋な立場からいえぼ、配役は演出者の仕事であるが、実際には必ずしもそうは行かな い場合が多い。) ○私の見るところでは、俳優は偉大なる指導者(それは伝説的であってもいい)の前では多少ともし やちこばってしまう傾向を持っている。したがって駈け出しの演出者こそ最も生き生きした演技を彼 らから抽き出し得る機会に恵まれているというべきであろう。 (このことを方法論的にいうならば、演出者は威厳を整えるひまがあったら愛矯を作ることに腐心せ よということになる。) ○演技指導の実践の大部分を占めるものは、広い意味における「説明」である。しかし一般に百を理 解している人が百を説明しきれる場合は稀有に属する。私の場合は四十パーセントがあやしい。これ は自分の天性の劣弱なことにもよるが、もっと大きな原因は我々が古色蒼然たる言論蔑視の倫理に締 めつけられてきたことにある。いわく「ことあげせず」。いわく「不言実行」。いわく「雄弁は銀沈黙 は金」。いわく「巧言令色|鮮《すく》たいかた仁」。いわく何。そうしてついに今|唖《おし》のごとき演出家ができあが って多くの俳優を苦しめているというわけである。将来の演技指導者たらんとするものはまず何をお いても「説明」の技術を身につけることを資格の第一条件と考えるべきであろう。 ○俳優の一人一人について、おのおの異った指導方法を考え出すことが演技指導を生きたものたらし めるための必須条件である。 ○演出者の仕事の中で演技指導こそは最も決定的でかつ魅力的なものだ。カッティングやコンティ ニュイティを人任せにする演出者はあっても、演技指導を人任せにする演出者はない。 ○演出者は平生から日本中のあらゆる俳優についてできるだけ多くのことを知っているほうがいい。 しかしもしもそれが困難だとすれば、せめて近い将来において仕事のうえで自分と交渉を持つことを 予想される幾十人かの俳優についてだけでも知り得る範囲のことを知っているべきである。そのため には直接彼らと知り合って談笑のうちにその特質や性癖を見抜くことはもちろん必要であるが、一方 ではまたできるだけ彼らの出演している舞台や映画を見てまわって、その演技や肉体的条件をよく記 憶しておくことが必要である。  しかしかくして得た予備知識がどんなに豊饒であろうとも、それがただちに俳優に対する評価を決 定する力にたるとはかぎらない。 ○俳優に関するどんな彪大な予備知識も、演出者として半日彼と交渉することとくらべたらほとんど 無意味に等しい場合がある。 ○厳密な意味において俳優を批評し得る人は、その俳優と仕事をした演出者以外にはない。 ○俳優のほとんど残らずは、彼が自身のいかなる演技中にも決して示さないようなすぐれたアクショ ンや、魅力的な表情や、味の深いエロキュlシ.ンを日常の生活の中に豊富に持っているものである。 演出者はそれらをよく観察し、記憶していて、彼の演技の中へこれを移植しなければならぬ。 ○演技指導の基本的な二つの型として、おもに演技をやってみせる方法と、おもに説明に依拠する方 法とがある。前者は端的であり成功した場合は能率的であるが、ただしこれは指導者が完全た演技者 に近い場合に限るようだ。ところが実際においてかかる実例は極めて乏しい。不完全な演技を示すこ との結果は、往々にして何も示さないことよりもっと悪い場合がある。かくして極めて迂遠ながら第 二の説明に頼る方法が取り上げられる。現在は日本の演出者の大部分はおそらくこの方法にもたれか かっていると想像されるが、さてここで用心しなければならぬことは、説明ということの可能性には 限界があり、しかもその限界がかなり低いということと、我々の説明技術の貧困がその限界をさらに 低下させているということである。 ○私自身の演技指導はいったいどの型であろう。演技をやってみせることは私にはできない。説明の 才能はほとんど落第点である。それにもかかわらず私はあくまでも自分の意志を相手の肉体のうえに 顕現しなければならない。そこで私は無意識のうちに次のような方法にすがりついて行った。つまり 私は第一にできるだけ動いて見せることを避け、説明をもってこれにかえよう。そして次には、さら に、できるだけ説明することを避け、「何か」をもってこれに代えよう。「何か」とは何であろう。こ の「何か」の説明くらい困難たことはない。あるときはそれは沈黙であり、あるときは微笑であり、 あるときは椅了から立ち上って歩くことであり、あるときは瞑目することであり、あるときはー。 これでは際限がないから、私はこれにへたな名前を与えよう。いわく、「暗示的演技指導」。 ○俳優をしかってはいけない。彼はいっしょうけんめいにやっているのだから。私は公式主義からこ んなことをいうのではない。私は俳優を打ったこともある。私も人間であり相手も人間であるからに は、ときとして倫理も道徳も役に立たない瞬間があり得る。しかし法則を問われた場合には私はいう。 どんなことがあっても俳優をしかってはいけない、と。 ○俳優にむかってうそをついてはならぬ。たとえそれがやむを得ない方便である場合においても。 ○演技に際して俳優が役に成り切るべきであるように、演技指導に際して演出者は俳優になりきるべ きである。このことは一見俳優に対する批評的立場と抵触するようだが、実際には抵触しない。万一 抵触するにしても、そのためにこの法則を撤回するわけには行かない。 ○俳優の演技を必要以上に酷評するな。 それは必要以上に賞讃することよりもっと悪い。 ○俳優をだれさすな。カメラマンをだれさしても、照明部をだれさしても、俳優はだれさすな。 ○いかなる演技指導もむだだと思われるのは次に示す二つの場合である。  一、俳優の芸がまったく|可擁性《かとうせい》を欠いている場合。  二、俳優が白己の芸は完全だと確信している場合。 (以上のようた実例はおそらくないだろうとだれしも考えがちであるが、 既成スターの中には右の典型的な例が珍しくない。) ○可擁性のないものを曲げようとすれば、それは折れる。 ○自分は健康だと信じているものは薬をのみはしない。自分は完全であると信じきっているものは決 して忠告を受けいれない。 ○演技の中から一切の偶然を排除せよ。  予期しない種々な偶然的分子が往々にして演技の中へ混りこむ場合がある。  たとえば俳優が演技的意図とはまったく無関係にものにつまずいたり、観客の注目をひいている俳 優の顔に蝿がとまったり、突然風が強く吹いてきて俳優のすそが乱れたり、などなど、その例は枚挙 にいとまがないが、要するにあらかじめ演出者の計算にははいっていない偶発的できごとは|一切《いつさい》これ を演技の中に許容しないほうがよい。ところが我々は実際においては、ともすればかかる偶然を、こ とにそれが些事である場合は、いっそう見逃してしまいたい誘惑を感じる。  そしてその場合、自分自身に対する言いわけはいつも「実際においてもこういうことはよくあるじ やないか」である。  しかもかかる偶発的些事というものは、もともと自然発生的であるだけにその外見は極めて自然で 受けいれられやすい姿をしている。我々の経験によるとこれらの偶然のほうがときには計量された演 技よりもむしろ立ちまさって見える場合さえある。だからなおさら我々は偶然に対していっそう用心 深くならなければいけないのである。  あらかじめ計算されざる偶然はなぜ排除しなければならぬか、その理由はただ一つ。  作中の世界は作者によって整理された世界でなければならぬから。しかして整理とは一面無意味な 偶然の排除を意味する。ここでぜひとも思い浮べなければならぬことは、いつも時間とともに流れて いる映画の本質である。映画の美は時間と関連せずには考えられないし、映画の世界のできごとはど んなに複雑でも通例二時間以内に圧縮整理されてしまう運命を持っている。たえず美の法則に従って 映画の流れを整え、時間を極度に切り詰めて最も有効に使わなければならぬ映画作者がどこに無意味 な偶然を許容する余裕を持ち得るだろう。「実際にもしばしばある」ということは偶然を許容する理 由としては何の意味をも持たない。なぜなら我々の作っているのは芸術であり、偶然はなまの事実に すぎない。芸術の構成中の偶然は米の中の石つぶのごときものだ。それは人の歯にがちりとさわる。 映画の場合は、それは美しき流れを乱し、時間を|撹拝《かくはん》する。しかし私はこれらの結論を理諭の中から 導き出したのではない。私の経験にょると撮影のときにそれを許容する気持ちにさせた偶然が、試写 のときには必ず多少とも後悔と自責の念に私を駆り立てずにはおかないからである。はっきりいえば その実際の経験だけが私に偶然の警戒すべきを教えるのであって、理窟は実はどうでもいいのである。 ついでだからもう一つ例をあげると、俳優が偶然あるせりふにつまって絶句したとする。かようたこ とは実際の人生には絶えずあることで、むしろむだのない長せりふを順序を違えず一つの脱落もなく、 絶句もしないで活々としゃべることこそはなはだしき不自然だといえる。だから絶句は自然だといっ て許しておいたらどういう結果になるかは考えるまでもないことである。もちろんこのことはアク ションの場合においても同様である。  要するに我々の人生はこれを芸術的に見れば数限りもない無意味な偶然と、|無脚《ぷりよう》と倦怠と、停滞と 混沌と、平凡にして単調なる、あるいは喧騒にしていとうべきことの無限の繰り返しによってその大 部分を占められているのであるが、まずこれらの不用な部分を切り捨てて、有用な部分だけを拾いあ げ、美的秩序に従ってこれを整理することが芸術的表現の根幹であり、無意味な偶然というものはひ っきょう不用の部分にすぎないのである。 ○演出者によってあらかじめ計量し採択せられたる「偶然」は、もはや「偶然」ではない。 〇十分なる理解と、十分なる信頼と、そして十分なる可撹性と。俳優の中にこれだけのものを発見し た瞬間に演技指導の仕事は天国のように楽しくなり、演出者は自分が天才のように思えてくる。 ○この仕事の制度上の位置が俳優に対して上位を占めていることを過信し、無反省に仕事の優位性の 上に寝そべることは極めて危険である。しかし実際においては我々はたえず彼らの上に立ち、ときに は|叱陀《しつた》し、ときには命令しなければならぬ。つまりこの仕事を成り立たせるためには俳優に対して少 なくとも形式的には自分自身を上位に保つことが必要なのである。しかしただ漫然と形式上の優位性 にあまえることは厳に戒めなければならない。  我々はむしろ仕事の価値観のうえではまったく俳優と等位にあることを信ずべきである。しかしそ れにもかかわらず我々はあくまでも自分の仕事に権威を持たなければならない。そしてそのためには 仕事自体の持っ形式的な優位性などはすっかり|拠榔《ほうてき》してしまうほうがいい。そして微量でもいいから 自分一個の実力にょる権威ができあがってきて、つまりは極めて自然に自分自身を優位に導き得るよ うに人間として芸術家としての自分を高めて行く努力をつづけるよりしかたがない。そしてかかる実 質的た権威以外に真に自分を優位に支えてくれる力は決してあり得ないことを知るべきである。 〇一般に演出者がある俳優を好きになることはいけない。好きになった瞬間に批判の眼は曇ってしま うo  しかしもしも意地わるき|姑《しゆうとめ》のごとく冷い眼を持ちつづけることさえできるならば、演出者は安心 して俳優に惚れこむべきである。 ○演出者以外のものが、演技指導に関係のあることを直接俳優に言ってはいけない。  たとえば録音部が直接俳優にむかってせりふの調子の大小を注文したり、カメラマンが直接俳優に むかってアクションの修正を要求したりしてはならぬ。それらは必ず一度演出者を通じて行われねば ならぬQ ○非常に低度の演技、つまり群衆の動きや背景的演技などを対象とする場合は必ずしも右の原則によ らない。(ただし群衆撮影の場合あまりカメラマン任せにすると、カメラマンの多くは群衆を一人残 らず画面内に収めようとしすぎるため、画面外には人間が一人もいないことがわかるような撮り方を する傾向があるから注意を要する。) ○衣裳小道具などを俳優が勝手に注文してはいけない。 ○俳優がはじめて扮装して現われた場合、演出者は必ずやり直しをさせるつもりで点検するがよい。 でないと眼前に現われた俳優の扮装にうっかり釣りこまれてしまうおそれが多分にある。  演出者のいだいているものはいくら正しくても|畢寛《ひつきよう》イメージにすぎないが、これに反して俳優の扮 装はいくらまちがっていてもそれは実在であるから我々はともするとその現実性にだまされて「うむ、 このほうがいいかな」と思ってしまうのである。 ○仕事の場にのぞんで「さあ何かやってみせてください」という顔で演出者を見まもる俳優がいる。 そういう俳優にむかって私は言う。「やって見せなきゃならないのは君のほうだよ。」 ○俳優のつごうにょるせりふの改変を許してはいけない。一つでもそれを許したら、あとはもう支離 滅裂である。しかしこれを完全に遂行するためには、演出者のほうでも仕事の途中でせりふを書直し たり、未完成のシナリオで仕事にかかったりすることをやめなければいけない。 (これは秘密だが、もしも私が俳優だったらせりふをなおさずにやれるシナリオはただの一つもたい じゃないかと言いたいような気がする。)  右の括弧の中は俳優に読まれたくないものだ。 ○地面に線を引いてあらかじめ俳優の立ちどまる位置を確保したり、移動するカメラと俳優との間隔 を一本の棒で固定したり、かようなあまりにも素朴な機械主義とは、もういいかげんに訣別したいも のである。  人間がこんなにも機械の侮辱にあまんじていなければならぬ理由はたい。 Oテストのとき、厳密には本意気になれない性質の俳優があるようだ。これは理論的にはもちろんい けないことだが、実際問題としては多少の考慮をはらってやるべきである。かかる俳優の演技のテス トに際しては微妙な計算が必要である。 Oテストの回数はしばしば問題となるが、私の考えでは、一般的な法則としては、それは多ければ多 いほどよい。  テストが多過ぎるとかえって演技の質が落ちると主張する俳優はみずから自己の演技が偶然に依存 している事実を告白しているようなものだ。  このことはその反対の場合の、あらゆる古典芸術の名人芸を思い浮べてみたら容易に納得の行くこ とである。彼らの芸は練習回数の|驚多《かた》によって乱され得るほど偶然的ではない。 ○演出者が意識して演技の中に偶然を利用しようとする場合は無反省にテストをくり返してはいけな い。たとえば非常にアクロバティックな演技や、子役を使う場合などにはある程度以上のテストは概 して無効である。 ○経験の浅い女優などに激情的な演技を課するような場合は、偶然的分子が結果を支配する率が多い からテストの回数を重ねることは危険である。  なお一般に激情的なカットを撮る場合に考慮すべきことは人間の感情には麻癖性があるという心理 的事実である。通例いわゆる甲羅を経た俳優ほど感情を動かすことなくして激情を表現し得るもので あるが、多くの俳優は演技の必要に応じてある程度まで自分の感情を本当に動かしてかかっているの である。したがって前者の演技は持続的な麻癖の上に立っているがゆえにもはや麻癖の心配はないが 後者は麻痒によって感激が失せると演技が著しく生彩を欠いてしまう。  ことに演技中に落涙を要求する場合などは、いかなる俳優といえども麻痩性の支配を受けないもの はないのであるからテストは最少限度にとどめ、でき得るならばまったくテストを省略するように工 夫すべきである。 ○演出者は演技指導中はできるだけ俳優の神経を傷つけないように努めなければならぬ。そのために は文字どおりはれものにさわるような繊細な心づかいを要する。なかんずく俳優が自信を喪失する誘 因になるような言動は絶対に慎しまなければならない。  演技指導とは俳優を侮辱することだと思っているらしい演出者がいるのは驚くべきことだ。 ○演出者は俳優がテストに際してどんなに拙い演技を示しても、決してそれにょる驚きや失望を色に 現わしてはいけない。彼の示した演技と、自分の望む演技との間にたとえ非常な距離があるにしても、 いきなりその距離の大きさを俳優に知らせることはよくない。数多いテストによって少しずつ俳優を 引きあげて行って次第にその距離を縮めて行くように試みるべきである。 ○俳優がすぐれた演技を示した場合には何らかの形で必ず賞讃すべきである。 ○俳優がせりふを暗記しようと努めているふうが見えるときは話しかけてはいけない。 ○重要たあるいは困難な演技をシュートするときは必要以外の人間を仕事場に入れてはならぬ。 ○セットはたえず掃除せよ。しかし掃除していることが目立ってはいけない。  つつましやかにいつもセットを掃除していてくれるような働き手を演出者は見つけるべきである。 そういう人が見つからないときは自分で掃くがよい。それほどこれは肝腎な仕事なのだ。セットがき たないことは仕事の神聖感を傷つけ、緊張をそこね、そこで働く人たちを容易に倦怠に導く。ことに 俳優への心理的影響が軽くない。  通例照明部の人たちは泥のついたコードを曳きずり、泥靴をはいたままで、殿様の書院でも江戸城 の大広間でも平気で|躁躍《じゆうりん》してまわる。その後から白足袋で歩いて行く大名や旗本は、演技にかかるま えにもうその神経を傷つけられてしまうのである。かかる無教養ながさつさはおそらく|畳《ヤちちフ》というもの の意味を知らない西洋人技師の所業を無反省にまねたことから始まったのだろうと思われるが、一度 しみ込んだ悪風は容易に除かれないものである。 ○俳優は実生活では軽い化粧カバンさえ持つのをいやがって弟子と称するものに持たせるくせに演技 中には絶えず何かを持ちたがる。  しかし彼らの望みに任せてむやみに物を持たせてはいけない。芝居が下品になる。 ○俳優は常に手を内懐かポケットの中ヘ隠したがる。ある俳優のごときは娘の結婚式の来客を迎える 紳士の役を、両手をズボンのかくしヘ突込んだままで押し通したのを私は見て人ごとながら冷汗を流 した。彼らの手をかくしから引っばり出せ。でないと折目正しい演技はなくなって、すべてが猿芝居にな ってしまう。 ○俳優のしゃべるせりふが不自然に聞えるとき、そしてその原因がはっきりつかめない時は、ためし にもっと声の調子を下げさせてみるがよい。それでもまだ不自然な場合は、さらにもっと調子を下げ させる。こうすれば大概それで自然になるものである。  一般に、こうして得たせりふの調子がその人の持ちまえの会話の声の高さであり、せりふが不自然 に聞える場合のほとんど九十パーセントまでは持ちまえの声より調子を張っているためだといってい い。したがって録音部の注文で無反省に俳優に声を張らせるくらい無謀な破壊はない。  我々はいかなる場合にも機械が人間に奉仕すべきで、人間が機械に服従する理由のないことを信じ ていてまちがいはないo ○声を張ることを離れてはほとんど表現ということの考えられない舞台芸術の場合には前項の記述は まったく役に立たない。  たとえどんなにリァルな舞台でももしも我々が映画に対するとまったく同一の態度でこれを見るな らば、そこには自然なエロキューションなどは一つもないのに驚くだろう。 ○しぐさに関する演技指導の中で、視線の指導くらい重要でかつ効果的なことはあまりない。その証 拠に、俳優が役の気持ちに同化した場合には別に注文しなくても視線の行き場所や、その移行する過 程が、ぴたりびたりとつぽにはまって行く。  ちょうどその裏の場合、たとえ俳優自身はその役のそのときの気持ちを理解していなくても、視線 の指導さえ正確緻密に行われるならばその結果はあたかも完全なる理解の上に立った演技のごとく見 えてくる。  気持ちの説明が困難た場合(たとえば子役を使う場合など)、もしくは説明が煩雑で、むしろ省略 するほうが好ましいような場合には、私は俳優の私に対する信頼にあまえて、理由も何もいわず、た だ機械的に視線の方向と距離とその移行する順序を厳密に指定することがしばしばあった。その結果、 彼あるいは彼女たちの演技は正しく各自の考えでそうしているように見えてくるのであった。 ○私の経験によると多くの女優は演技よりもなお一層美貌に執着する。  たとえば彼女たちが昔の既婚婦人に扮する場合、演出者の注意をまたずして、眉を落し歯を染めて 出るのは時代劇の常識であるべきはずだが、実際にはこれらの問題で手を焼かせなかった女優は極め て稀である。ドオランで無理やり眉をつぶして出るのはまだいいほうで、なかには平然と眉黒々と澄 まして出るのがある。なだめすかして眉を落させると歯が染めてなかったりする。あるいは中には稀 にこういうことをいいかげんにすませる演出者があるためにこうなるのではないかとも思う。  しかし私が言いたいことはほかにある。それは、眉を落しかねをつけることによって、|美《ヤフ》しさが倍 加しなかった女優を私はまだ見たことがたいということである。  すなわち女優諸君が真に美貌に執するならば、そしておのれの持つ最も|盤惑《こわく》的な美を発揮したいな らば、むしろすすんで眉を落し掬を染めるべきであるということを私は提言したいのである。 ○女優は貝のように堅く口をつぐむ。そのわけはもちろん彼女たちが人間の顔をいかなる場合にも口 を結んでいるほうが美しいように勘違いしているからだ。 (口を開かなければならないときに無理に閉じているのは必要のないときに口をあけているのと同じ ようにはかげたものだがー。)  そこで我々は絶えず彼女たちの唇をこじあけるために、一本の|鉄挺《かなてこ》を用意してセットヘ向かうわけ である。そうでもしないと彼女たちは堅く口を結んだままで驚愕の表情までやってのけようとするか らだ。 ○演技にある程度以上動きのある場合には、演出者は必ず一度俳優の位置に自分の身を置いて、実地 に動いて見るがよい。それは人に見せるためではない。そのおもたる目的は俳優に無理な注文を押し つけることを避けるためである。演技のような微妙な仕事を指導するためには、終始おのれを客観的 な位置にばかり据えていたのではいかに熱心に看視していてもどこかに見落しや、俳優に対する理解 の行きとどかない点が残ってくるものである。しかもこれは自分で動いてみる以外には避けようのな いことであると同時に動いてさえみれば簡単に避けられることである。  要するに我々は原則として自分にできない動きを人に強要しないことである。自分には簡単にでき ると思っていたことが、動いてみると案外やれないことは珍しくない。(この場合の動きの難易は技 術的な意味よりもむしろ生理的た意味を多く持っている。)  自分で動いてみて始めて自分の注文の無理をさとった経験が私には何回となくある。 ○俳優の動きにぎごちない感じがつきまとい、何となく見た目に形がよくないようなときは、俳優自 身が必ずどこかで肉体的に無理な動きや不自然な重心の据え方をしていながら、しかも自身でそれを 発見し修正する能力を欠いている場合にかぎるようであるが、この場合も演出者が客観的にいくら観 察していても具体的な原因を突きとめることはかなり困難である。しかし一度俳優の位置に身を置い て自分で動いてみると実にあっけないほど簡単にその原因を|捌出《てきしゆつ》することができるものである。 ○エロキューションの指導に関しても前二項とほぼ同様のことがいえる。 ○演出者が大きな椅子にふんぞりかえっているスナップ写真ほど不思議なものはない。病気でもない 演出者がいつ椅子を用いるひまがあるのか、私には容易に理解ができない。 ○現場における演技指導はいつ、いかなる手順で行わるべきか。こんなふうな問題は能率(商品的な 意味ばかりでなく)のうえから最も肝要たテーマであるが、我々は慣習としてもこれを自分の身につ けていないし、法則としてもそれを教えられていない。いわばまったくでたらめだったのである。多 少とも批判の眼を持って我々の仕事場を参観に来る人々に対し、私がいつも汗背の念を禁じ得ないの は我々の仕事があまりにも無秩序で原始的なことであった。  そしてこんなことは一人や二人の力ではどうにもなることではないが、しかしこのままでたらめを 続けて行くわけにも行かない。そこで私は自分の仕事のときだけでも多少の秩序を設けたいと思い、 最近の仕事では次のような順序による方法を励行してみた。  一、その日の撮影プランの説明。(これは実際的な理由から大概省略したが向後はなるベく実行したい。)  一、そのカットの演技の手順の説明。  一、右の説明に沿って俳優を実際に動かせ、しゃべらせてみる。(むろん大略でよろしい。)  一、右の三項の間、演出助手、カメラマン、照明部、録音部、大道具、小道具、移動車の係などそ    のときの仕事に関係あるものは残らず手を休め、静粛にこれを注視している。  一、次に俳優はいったんその位置を去り、付近の自由なる場所において任意にせりふの暗諦その他    練習をする。  一、その間にカメラのすえつげならびに操作準備、照明器具に関する作業、マイクの操作準備、大    道具の取りはずし、移動の用意など、必要に応じて、要するにいっさいの荒々しき作業を片づ    ける。  一、右がほぼ終ったころを見はからって俳優を既定の位置に着かせる。本格的な演技指導がそれか    ら始まり、進むにつれて指導は次第に細部におよんで行く。 一、 一、 一、 一、 これと並行して、同時に一方では照明の修正、 小道具の充足、大道具の修理などが行われる。 大体の見当がついたら綜合的テスト。 十分に見当がついたら本意気のテスト。 シュートo カメラの操作テスト、 録音に関する整備、 ○古くさい芸術家気取りの「気分主義」くらいこっげいで、えて勝手で野蛮なものはない。  我々の仕事は一面には芸術の貌を持っているが、他の一面には純粋に工場労働的な貌をも持ってい ることを忘れてはならない。  自分の書斎でひとりお山の大将になっていればいい文士の仕事と我々の仕事とは違う。かびの生え た「気分」などという言葉は躁躍しても、「時間」を尊重することに我々は光栄を感ずベきだ。  芸術家もセザンヌくらいの巨人になると、その日課は時計のごとく正確で平凡であった。 ○私は自分の周囲にある後進者たちに対し、いまだかつて演出あるいは演技指導について何事をも説 いたことがない。そのわけはこんなにも行動の形で見せる以上の教え方はどこにもないにもかかわら ず、もしも彼らがそこから必要なことを学び取り得なかったとしたら、それは最も手近にころがって いる最上の機会を彼らが取り逃がしたことであり、それを補うに足る方法はもはや一つとして存在し たいからである。 O俳優に信頼せられぬ場合、演出者はその力を十分に出せるものではない。  また演出老を信頼せぬ場合、俳優はその力を十分に出せるものではない。 ○「信頼」が飽和的な状態にあるときは、たとえば演出者が黙って出てきて椅子に坐っただけで既に ある程度の効果を挙げ得るものだと私は信じている。  そして私が心の中に描いている理想的な演出、もしくは完成されつくした演技指導の型といったよ うなものの特色は、著しく静かでほとんど無為に似た形式をとりながら、その実、当事者間には激し い精神の交渉、|切瑳琢磨《せつさたくま》がつづけられ、無言のうちに指導効果が刻々上昇して行くといった形におい て想像される。  このことは一見わらうべき精神主義的迷妄のごとくに誤解されるおそれがないでもないが、たとえ ば我々が実生活における幾多の経験を想い出してみても、我々が真に深い理解に到達したり、新しい 真実を発見したりするのは、言葉のある瞬間よりも言葉のない瞬間におけるほうが比較にならぬくら い多くはなかったか。あるいはまた、最もすぐれた説明は、何も説明しないことであるような例が決 して少なくない事実に気がつくならば、私の意図している方向が、まんざら荒唐無稽でないことだけ はわかるはずである。  こうはいっても、私はそのために別項で強調した説明技術の重要性に関する主張をいささかでも緩 和する気持ちはない。むしろそこを通らずして一躍私の意図する方向に進む方法はないといってもま ちがいではないo  しかしいずれにしてもよき演技指導の最初の出発点は指導者に対する「信頼」であることを銘記す べきである。 ○「信頼」の上に立たない演技指導は無効である。    (『映画演出学読本』昭和十五年十二月)