病床に映画界を想う 伊丹万作 映画人会館株式会社のこと  かつての私にとって映画監督協会および映画各部門の横断組織とその連繋は楽しい夢の一つであっ た。ところがさいわいにも監督協会は私の健康な間に先輩諸氏のおかげでほとんどこれという苦労も なくして成立し、その基礎もほぼ安定したかのようであった。  つづいて私は俳優協会の結成に手を着け始めたところが思わざる障害のため一時進行が停滞してい る間に病気になってしまった。  しかるにその後急速に気運が熟するとともに、もちろん多数の隠れたる努力があったことと想像す るが、映画各部門の横断組織が次々とすっかりできあがってしまった。もっともその内容的完成まで にはまだまだ問題があることと思うが、ともかくも私の夢はこれで一応その外見を整えたというべき であろう。もはやここらで私は次の夢の実現について考え始めてはいけないであろうか。  次の夢というのは映画人会館株式会社設立の空想である。私がこういうものの必要を痛感した動機 はやはり協会のためによい事務所や、よい集会所が欲しいと思ったことから始まる。  それともう一つは一映画会社の色彩を全く持たない試写室および公開用映写場というものの存在は 従来とてもしばしば要望せられたし、今後その機会はますます多くなるに違いないから、かたわらそ れに備えると同時に、日本における映写場の最高標準を確立したい気もある。  その他杜交室、娯楽機関、図書室などの設備はもちろんであるが大体の目的はまずそんなものであ る。しかし右のうち集会だけでも百パーセントに会館を利用すればその便益はけだしたいしたもので あろう。ところで会館の建築費ならびに維持費であるが、どうせ貧乏な映画界のことだから寄付など に頼っていてはとても実現のみこみはない。やはり何か商売を持たなくてはなるまいが、そうなると いつか小林一三氏が文芸会館の相談を受けて立てた案のように貸事務所を主な営業とする株式会杜に するか、それともやや大衆層をねらったホテル業、あるいはいっそ全日本映画および洋画の自由配給 を主旨とする映画館などはどうであろう。まだそのほかに映写場、集会場などの賃貸料なども収入の うちにはいるが、どうせこれらはたいしたもうけにはなるまい。やってみればこれだけの仕事でもお いそれとは行かないもので、もし順調にできあがっても六、七年先のことになるだろうが、だれかや ってくれる人はないものだろうか。私が元気であればむろん走り使いの役は辞せないのであるが、こ のからだでは当分みこみがないので志のある人の出現をまつ次第である。  まず最初に各杜の頭株数氏の賛成を得てしまえば後の仕事はずっと楽になると思う。願わくばかか る時節に株の争奪戦を演ずるような旧式な精神は、さらりと|放郷《ほうてき》して、国の文化面に役立つ仕事につ いては互に虚心坦懐に談じ合うようであってもらいたい。それくらいの襟度がなくては今日の日本の 実業家としてはずかしくはないだろうか。時もよし、聞けば近ごろ各杜の間に映画事業連合会とかい うものができたそうだが、なにとぞ今度は往年の五社協定のごとき陰惨非文明な闇相談はやめて、も っと明朗な方面へ積極的に乗り出してもらいたいものである。  話が少し軌道をはずれたようだが、最後にこの夢の株式会杜の株は全映画従業員がたとえ一株でも よいから必ず持つことにして一人残らず株主にならないとおもしろくない。  さて、これですっかりプランはできた。しかしこれでは夢らしいところが足りないから、もうちょ っと付け加えたい。いよいよ敷地が決まって会館の建築にかかるときは、どうか建物の前にほんの少 し空地を残しておいてもらいたい。  そこは芝生になるはずである。芝生の中には|花山《みかげ》岡|岩《いし》の台が据えられ、その上部にはブロンズの浮彫 がはめ込んである。  そしてそこには珠江の濁流の中で片手にアイモの撮影機を高く捧げながら死んでいった同盟のカメ ラマン、花房ボンの最後の姿が刻まれているのである。 五所君の再起と「木石」  五所君は私のためには同業者であるうえに同病者でもあるのでその動静は新聞などのうえで特に注 意を払っている。しかるに再起が伝えられてすでに一年ほどにもなるかと思うが今までのところでは まだ具体的に撮影が進行している様子が見えない。あるいはまだ予後が十分でなくそのためのびのび にたっているのではないかと私はしきりに気をもんでいるのであるが、しかしそれは必ずしも私が同 情深いためではない。なぜかというと現在の私は必ずしも自分の再起の可能を疑ってはいないが、し かしまだそれに対して明確な予想を持ち得るところまで来ていない。こういう際の私にとって今の五 所君の姿はいったい何を意味するだろう。それは決して単なるひとごとではあり得ない。五所君よ。 許せ。私はいつの間にか君の一歩一歩に将来の自分の運命を賭けていたのだ。 したがって私の五所君に対する気持は普通ではない。それはどうでもこうでもうまくやってもらわ なければならないという、多少長屋の応援団式の気持ちに近いものさえあるかもしれない。だからシ ナリオが決まって雑誌に発表されたときも、何はさておいて読んだ。そしてまずよかったと思った。 舟橋聖一原作・伏見晃脚色の「木石」である。企画もわるくないし、題材や作中の世界も新鮮味があ ってよい。シナリォのできもまず全体としてはよい印象を受けた。ただ部分的の欠点を挙げるならば 「木石」女史の娘が二桐という若い医学士のアパートヘ飛び込んでくるのがいかにも簡単でしかも唐 突な感じがした。おそらく必要な一場面か、いくせりふかが作者に見落されているのであろう。  しかし私がいいたいのはそんなことではない。実はあのシナリォの中には、人はどうかしらぬが私 の神経では心に黒いしみが残るほどいやたところが一つある。  それはほかではない、「木石」女史追川初の遺言によって、そのからだを二桐が解剖するくだりだ が、解剖そのことはよいとしても、しかしその解剖の目的の半分が女史の処女性を解剖医学的に証明 するためというのはどうも困るのである。  むろん解剖室は見せはしない。しかし解剖を終えた二桐が研究室に帰ってくるとそこにいた友人が やはり処女だったかという意味のことをたずねる。二桐は肯定の答をする。こうなるといっそもうい やらしくなってくる。  しかし問題はそこまでこないまえにある。  いったい生活のうえでも芸術のうえでも触れていい問題とみだりに触れてもらいたくない問題とが あるものだ。たとえばある人物の処女性について露骨にうんぬんしたりすることは、どんな理由があ ろうともできるだけはつつしむべきことであろう。  シナリオ「木石」の作者(むろん原作を含めて)が木石女史の処女性についてなぜあんなに無遠慮 に|喋々《ちようちよう》するのか、私には不可解であるが、もしもその意図が木石女史の人間としての偉大さを証明す るためだとすればそれは蛇足である。  木石女史の偉大さは思慕する恩師の苦衷を見かねて自分の処女としての名誉を犠牲にし、恩師の秘 密の児を引受け、これを自分の娘として養育し、しかも二十年間父親の名まえを人に明かさずに押し とおした性格のりっばさにあるので、すでにそのりっばさがシナリオによって十分に語られている以 上、この映画の観客のだれが彼女の処女性を疑ったり問題にしたりするであろう。いわんや「木石」 女史の育てたむすめ襟子の婚約者たる二桐医学士においてはなおさらのことである。  しかるに木右女史は臨終におよんで二桐に向かい、私が死んだらあなた一人の手で解剖をしてくだ さい、あなたにだけ私のからだの清浄なことをはっきり知ってもらいたいという意味のことをいう。 そして二桐は彼女の死後その屍を解剖するのである。  いったい死後解剖によってまで自分の処女を証明したがるような、偏執狂的な四十四歳の女の心理 がすでに私には理解し難いものだが、二桐もいくら遺言とはいえ、この場合ばか正直に刀をふるって 屍体の秘密の個所を解かなければならないものだろうか。こういうおろかなことをさせるものが、も しも科学だと思っているならおそらく科学が泣くであろう。  だれか真に処女でないものが死に臨んで解剖による証明を要望するであろうか。  もしも真の科学精神がそこに存在したならば木石女史の臨終の状況を綜合して、解剖の必要を認め ずと断定するにちがいない。わからないことをわからせるために解剖を行うのは科学精神であるが、 すでにわかっているのに死屍にメスを加えようとするこのものわかりの悪い精神はこれは何であろう。  もっともこの解剖がないとシナリオが成り立たないというならまたほかに考えようもあるが、私に は決してそうは考えられない。ただ、無反省に「木石」女史の気まぐれな遺言に盲従している以外に 何の意味もないように思う。  それならむしろ「木石」女史にこんなくだらぬ遺言をさせることは見合わせたほうがよい。そのほ うが女史も人間としてさらにりっばになるのではないかと思う。  さてどうも少し放言がすぎたようだが、それにもかかわらずいっこう要領を尽さないもどかしさを 感じるが、私の真意はあくまでも五所君の成功を祈る以外余念はない。この一文が多少何かの参考に でもなれば私の望外の幸福である。 監督の試験  映画法が実施せられて我々も登録を要することになり、先日、二十何年目かに履歴書を書かされた り、手札型の写真を撮らされたりした。  我々はものぐさな生れつきで、いくつになってもこうした形式ばっためんどうの趣味を解し得ない。 そのためいつしか現在のような職業になりさがったようなわけであるが、だんだんこういうことにな ってくると、もう映画界にも寝そべっていられなくなり、ものぐさ男の棲む世界はいよいよ狭められ てきた感じが深い。  さてその節主として諸届の様式などを示す目的で臨時に印刷されたらしい『技能証明書発行規定並 二申請者ノ手続及心得』というものをもらった。読んでみるとこれは映画法のいわゆる細則というも のの一部だろうと思われたが、中にはやや不審に堪えない字句や条項もあった。  不審といえば私は迂闊にもまだこの登録の目的自体を十分に了解していないのであるが、しかし考 えてみるとだいたい登録などということはそれ自身に価値をそなえているものではなく、運用のいか んによってよくもわるくもなることだし、それに映画法というものが政府のよき意志のあらわれであ ることは間違いないのだから、根本の問題では政府を信用することとし、ここでは直接自分の職業に 関連した問題について一、二の不審を述ベるにとどめる。  まず最初に右の規定を読んでちょっと興味深く感じたのは、我々の職名が「監督」でなく「演出 者」となっていることであった。  私の病臥以前の知識では「演出」という語を公然と使用しているのは東宝一社にかぎられた現象で、 他杜は全部「監督」であり、現に我々同業者の全面的なあつまりである「日本映画監督協会」の名称 をみてもちゃんと監督になっている。だから一般の用例に従うことを主旨とするならば現在ではまだ 監督のほうが穏当ではなかったかと思う。なお「演出」という職名は他の芸術部門にもあり、しかも その仕事の性質は、互にかなりの|径庭《けいてい》があるので私はあまりこの呼び方を好まない。しかし世間にそ の用例が普及した場合にはあえて異をたつるにもおよぶまいと思っていたが、まさか、新語の使用な どではつねに世間より二、三年遅れているはずの官庁から逆にリードされようとは思いももうけなか った。  ところでいよいよその演出者の試験であるが、「昭和十四年十月一日現在ニオイテ、業トシテ演出 ノ業務二従事シツツアルモノ、マタハカッテ業トシテ演出ノ業務二従事シタルモノ」というから要す るに昨年の十月一日までに一本でも半本でも演出したものは原則的にいっさい試験を免除され、それ 以後において演出者たらんとするものはいっさい試験をまぬがれることができない。まあいってみれ ば十月一日にぴたりと遮断機がおりたようなものである。  遮断機のあとから来る連中からいえば、これほど不公平な話はないだろうが、しかし悲しいかな彼 らには発言権も何もないから問題にならない。反対に遮断機のまえにいる手合いにとってはこんなあ りがたい御布令はないわけだから、むろんどれもこれもみなもったいたがって女房ともども互に手に 手をとってよろこんでいる始末である。  かりにこれか全部一律に試験1ということにてもなってみるかいい。四十つらさげていまさら試 験勉強も悲しいが、第一に私などは確実に落第する自信がある。だから私は人にはいわないが内心こ の規定は実によい規定だと感心している。  次に、ではこれから演出者たらんとするものにはいったいどんな試験が課せられるか。いまその課 目を紹介してみると、 第一次審査  第一次考査脚本考査(提出シタル脚本ニツキコレヲ行ウ)  第二次考査第一次考査二合格シタルモノニツキ左ノ順序ニョリコレヲ行ウ   一 性格考査(志操・性格・才幹・判断等ニッキコレヲ行ウ)   二 学科オヨビ常識考査(国語・国史・国民常識等ニツキ口頭マタハ筆記ニョリコレヲ行ウ)   三 演出者トシテ必要ナル知識考査(脚本・コンティニュイティ・フィルム・装置・衣裳.演     技・扮装・撮影・照明・録音・現像・編集・美術・文学・演劇・映画二関スル法規、映画事     業等ニツキロ頭マタハ筆記ニョリコレヲ行ウ)   四 コンティニュイティ考査(コンティニュイティヲ作成セシメテコレヲ行ウ) 第二次審査  試作品考査(第一次審査二合格シタルモノヨリ第一次審査合格後マタハ第二次審査不合格後一年以     内二製作シタル試作品映画ヲ提出セシメテコレヲ行ウ)  だいたい以上のとおりであるが、右のうち一番最初の脚本考査の条項に「提出シタル脚木ニッキコ レヲ行ウ」とあるのは、技能証明書発行規定第二条の中に「前項ノ申請書ニハ左ニ掲グ書類オヨビ技 能審査手数料三円ヲ添付スベシ」ということがあって、その後に、二、履歴書 二、写真三、健 康証明書」が指定され、四番目に「演出ノ業務二従事セントスルモノニアリテハ本人ノ作成シタル 脚本」としるされているこれをさしているのだ。さておよそ法文というものは昔から味もそっけもな いものと決っていて、いやしくも個人の主観や感想などというものは、そのどこを探しても見当らな いことはただいまの引用によっても明らかなとおりである。というのは一応はもっともらしい言葉で あるが、実は皮相の見解なのであって、少し注意して読むならば枯木寒巌のごとき法文のうちにも、 立法者の精神、主観が脈々と鼓動しているのが聞えてくるからおもしろいのである。  では右の審査条項の中に立法者の主観がどういうふうに現われているかというと、私にはこれらの 規定の間から次のような立法者の言葉が聞えてくるのである。 「演出者の資格を決定する第一条件はよきシナリオが書けるか否かにある。シナリオも書けないよう な演出者はこれからはしようがないと思う。だから自分は今度の審査規定にもシナリオの作成能力を 特に重視するたてまえをとった。シナリオがよければ第二次考査以下を受けさせるが、シナリオのわ るいものはあとの考査は受けさせないでどしどし落す方針である。元来演出者の資格審査というもの は深く考え始めたらそのむずかしさは際限のないものであるが、シナリオが書けるくらいのものなら 一番まちがいがないと思うからさしあたり審査の方法としてはこれがよいと考えている。」  少なくともこれだけのことを規定がしゃべっているわけであるが、以上の中に私の創作した部分は ほとんどない。ところで、今度はこれに対する私の不審を述べる順序だが、正直にいえば、最初私は、 これはシナリォ作家の試験とまちがってやしないかと思った。ところがシナリォ作家の試験など、ま だありはしないのだからまちがう理由がない。そこで私は考え込んでしまった。しかしいくら考えて もシナリオの創作はシナリォ作家の仕事であり、演出は演出者の仕事だという事実は動かない。もっ ともみずからシナリオを書く演出者も往々にしてないことはないが、それはあくまでも一人で二職を 兼ねている例外の場合と解すべきで、そのため二つの仕事の本質を混清して考えてはならない。  さて私は本来ならばここでシナリォ創作の仕事と演出の仕事の本質を比較論議しなければならぬと ころであるが、いまはその自由を有しないのでいっさいこれを省略するが結論をいえばシナリオの仕 事の本質は徹頭徹尾創作活動のうえに基礎を置くべきものであるが、演出の仕事の本質はむしろ綜合 であって、創作的であることが必須ではない。厳密にいえばむろん演出の仕事のある部分は創造であ ろう。しかしそれは文筆にょる創作などとはまったく性質を異にした別種の創造作用である。  要するに演出家たるには必ずしもいわゆる創作的才能を必要としたいことはすでに幾多の実例がこ れを証明してあまりあるのである。阿部豊はかつてゴルフ場で私に向かい「いまさら原稿紙に向かっ て一字一字『私はあなたを愛します』なんて、そんなめんどうくせえこと、おかしくって書けねえ よ。」といった。これは一場の放言にすぎないが、しかしこの言葉のうちには不用意のうちに、なまじ っかな文筆の才能などにはたよらない、純粋な演出家阿部豊の|軒昂《げんこう》たる精神がうかがわれて、聞いて いる私は爽快であった。演出者の試験にシナリォがいると聞いたら、好漢阿部豊は何というだろう。  阿部豊にかぎらない。内田、田坂、溝口、熊谷ら、近年の日本映画を背負って立つこれらの名演出 者の中に独力でレベル以上のシナリオの書けるものは一人もいない。しかしそれは彼らにとって何の 不名誉でもない。なぜならば彼らは演出者であってシナリオ作家ではないから。さいわいにしてこれ らの名演出家たちは生れる時期を失しなかったからうまくそのところを得たが、かりにもう少しおそ く生れてきてこの第一次審査の第一次考査にひっかかったらもうしまいである。あるいは枕を並べて 全部討死ということになるかもしれん。つまり演出者としての資格も才能も十分に持っているのであ るが、商売ちがいのシナリオの才能がなかったため演出者になれないということになってくるとこれ はどうも少々話の筋が通らなくなる。  演出者はシナリオの一本くらい書けなきゃしようがない、ということは座談としては成り立つ語か もしれない。座興としてはだれだってそれくらいのことはいうだろう。しかし法文が座談の近くへ降 りてきてしまっては困る。  私はこう考えている。シナリオも人間一生の仕事として背負いきれないほどの重みがあれば、演出 の仕事もまた同様であると。この意味において演出者の試験の第一関門にシナリォを課することは演 出という仕事の独立性をまったく無視すると同様の結果にはならないだろうか。もっとも一時的便法 として、もしくは参考資料としての意味においてならば、多少理由を認め得ないこともないが、それ ならぱ試験の末尾においてこれを課し、及落の決定におよぽす重量をうんと軽減させるべきであろう。 しかしできるならばさようの便法によらず、いま少し演出の本質に触れた審査の方法を研究案出する ことが肝要なことは言をまたない。もしも将来においてさらに改制の機会が有るならば、この点を十 分に考慮されたいものである。なお第二次審査などにも一、二不審の点があったが、もはや紙数が超 過したようだから割愛して筆をおく。妄言死罪。(三月四日)      (『改造』昭和十五年四月号)