維新風雲回顧録 田中光顕 叔父那須信吾 正月の|紙衣《かみこ》  私が、佐川から高知へ修業に出たのは、文久元年十九の時である。  佐川というのは、高知から西の方へ約七里ばかり隔った処にある。北に春日山をのぞみ、南に古 城山を仰ぎ、西に柳瀬川をひかえ、東は、霧生関に接している。大変、風光のよいところで、土佐 では、京都の面影があるといっている。  土佐の川は、概して、東南に流れるが、佐川地方のそれは、逆に北西に流れる。そこで|逆川《さかさがわ》が|託《なま》 って、佐川の地名が起こったのだと伝えられている。  慶長六年、山内一豊入国と共に、深尾和泉守重良が、一万石をもって家老にとり立てられて遠州 措川からこの佐川へ移った。そして近郷十八力村を領有していた。私の祖先は、本姓を浜田といっ て、もと長曾我部氏に仕えていたが、佐川の奥にかくれて百姓となっていた。後になって、深尾家 に仕え、父|充美《みつよし》の代には、御勝手役兼御勘定役で、二人半|扶持《ぶち》をたまわっていた。  一人扶持が一日に玄米五合を給せらるるのだから、二人半扶持は、都合計一升二合五勺になる。 ほかに、|切米《きりまい》十五俵を給せられた。切米というのは、|籾《もみ》のことで、米にすりあげると七俵半ぐらい になる。これだけの扶持米で、一切合切、生計を立ててゆかねばならぬ。苦しいとも貧しいともお 話にはならない。白い米の飯は、まず年に二三度ありつければ上の上。たいていは麦か、|黍《きぴ》か、芋 をまギて食べた。  それでも私の家は、三百坪ばかりの家屋敷と少しばかりの畠があった。ほかに、深尾家から預か っている山があった。そこで、山へ出かけては木を伐ってくる。これが燃料となり、また灯火とた る。畠の方では、父を手伝って、肥桶をかついだり、芋種を植えたりして百姓をした。  家の格式は、|新小姓《しんこしよう》というので、佐川では士格だが、高知へ出ると、それこそほんとに資格はな かった。土佐藩では、小姓以上が士格で、正月には、|紙衣《かみこ》をきて、年賀のため殿さまの御前へ出ら れる。新小姓は、つまり小姓以下と見られていた。  紙衣というのは、仙花紙みたいたものを揉んで、渋をぬってある。どうして、土佐にこういう慣 例がのこっているかといえば、一豊入国の際、寒夜に紙の衣をきて、やっと寒さをこらえた、その 昔を忘れぬためだという言い伝えがある。 コ生の中、一度でいい、俺も紙衣をきたいものだ」  私はその頃、この紙衣を羨ましがったものだった。 「何故、おまえは紙衣をきたいというのか」 「でも、紙衣のきられぬ家柄だと、槍持ちをつれて歩くことも出来ません、それに馬にのることも 出来ません」  私は、よくこういう不平をいった。その頃の格式というものは、よほどやかましく、御年寄は御 年寄、小姓は小姓と、ちゃんときまっていて、格式にそわぬことは出来なかった。私も、したがっ て馬術や槍術の稽古はしたかったものである。  その頃の深尾家は、藩の家老職。嘉永年間に、当主|相模《さがみ》が死んで、嗣子が幼少であったため、従 弟の|鼎《かなえ》が、|仲次《なかつぎ》養子となって、家老の職をついだ。だが、江戸勤務の際、遊びすぎたというような |科《かど》で、参政吉田元吉から弾劾された。そして、一|万石《まんごく》を九千石に削られた上、佐川から五里以外の 長者村に|蟄居《ちつきよ》を仰せつかっていた。  父も、やむを得ず主君について、長者村へ引き移った。  私が、高知城下に出てきたのは、この前後であったので。 参政吉田東洋  高知本町の佐川屋敷にはいって、自炊生活をしながら、城下田淵にある武市半平太の道場にかよ った。また麻田勘七の門にもはいって、撃剣の稽古をした。藩校の文武館が設けられたのは、翌年 である。  藩の参政、吉田元吉は、東洋と号し、確かに藩中の人物であった。|容堂《ようどう》が、彼を大監察より一躍 して参政に抜いたのは、その才器を認めたからで、臣下の彼に対しても「先生」の尊称を用いてい た。  後藤象二郎、福岡|孝弟《こうてい》等は、東洋の門下生、ことに後藤は、彼の甥に当たる。海南|政典《せいてん》を創定し、 経済、軍備、教育等に、力をそそいで、藩政の改革に手をそめたが、勤王党から見ると、はなはだ 面自くなかった。  第一に、東洋は幕府に媚びている。容堂の一身のため、その安全を計ろうとしているのだろうが、 あまりに意気地がなさすぎる。  第二に、人材の登用に名をかり、|党与《とうよ》を|抜擢《ばつてき》して、|依惜《えこ》のふるまいがある。  第三は、士風を|素《みだ》り、|奢《おごり》に長ずる。土佐藩では、|絹布《けんぷ》をまとうことは禁じられていたが、彼は 「御家中の衣服の事」という布告を出して、絹物を用いてもよろしいということにした。    吉田元吉頭もこくが     すきや越後で伊達もこく  その頃、こういう謡が城下に流行した。  彼が、江戸屋敷にある際、君侯の姻戚|嘉平次《かへいじ》が、酔っばらって軽侮した。 「|慮外《りよがい》、召さるな」  吉田は、血相をかえて、君前で、松下の頭をなぐりつけた。そのため、容堂公も、一時彼を、国 もとへ追放した。頭もこくがというのは、それをさす。土佐では、殴ることを、こくというのであ る。  そんな風で、勤王党からは、排斥されていたが、彼もまた、勤王党は、極力、圧迫したのである。 「土佐は、藩祖一豊公が、関ヶ原の大戦に抜群の働きをした、そのため、わずか掛川六万石の小大 名から、土佐二十四万石を神君から賜っている、幕府に対して、恩義のふかい家柄である。薩長の 外様とは同一には心得られぬ。尊王倒幕というが如きは、つまり浮浪の剣客書生の輩が、天下に波 瀾を起こそうというにすぎない、もってのほかである」  彼は、こういっていた。  東洋を重用していた容堂の意見も、もちろんそこにあった。  長州の毛利家は、徳川家によって十三州の領域を防長二州にせばめられた、その恨みは骨髄にし みこんでいる。近くは、京都九門の戦いにて、朝敵の汚名をうけ、二度まで幕府から征伐されてい る。 「糞ッ、今に見ろ」  そういう醗灘"にもえていて、長州では、東へは決して頭を向けて寝ないような有様。  薩摩の島津家にしても、関ヶ原以来、幕府に対しては好感をもっていない。機会さえあらば|鋒《ほこ》を さかしまにして、幕府を倒そうと覗っている。  この間に処して、土佐の立場はいかにも苦しい。薩長と手をたずさえて幕府を倒そうという事に なると、三百年この方の恩義にそむく。  容堂が、京都と江戸の間をとりもって世にいう公武合体説をとなえたのも、それがためである。 参政吉田東洋は、畢弗巧君公の主旨を伽して、その通りに実行したのであるが、私ども、勤王党か ら見ると、それが残念でならなかった。  私の師事していた武市半平太などは、こういう曖昧な議論を、頭からはねつけていた。 「公武合体とは何だ、わしにはとんとふにおちない、将軍というものは、元来臣下の身柄ではない か、それが皇室と合体するとはどういうことだ、早い話が、この半平太が、容堂公と合体するとい うのと同じ道理、はなはだ|暦上至《せんじよう》極だ」  むきになって、吉田の説に反対した。  私は、その頃は、十九か二十歳の青年にすぎない。みずから、勤王論の主唱者となったわけでは なく、武市半平太の勤王論に教育され、感化されて、同志となった一人、いわば陣笠である。  厳密にいえば、私の勤王心の芽生えは、浅見|綱斎《けいさい》の「|靖献遺言《せいけんいげん》」と、頼山陽の「日本外史」とに 始まり、武市の指導をうけ、叔父那須信吾の感化をこうむったことにもとづいていると申してよい。 久坂玄瑞と武市半平太  そういうようた次第で、当時の土佐藩の参政吉田東洋は佐幕開港主義をとっていた。穣夷たどと は|迂論《うろん》であるといって、蘭学を奨励し、長崎へも留学生を出すやら、汽船を買い込むやらして、み ずからもまた、蘭学の勉強をはじめるというほど熱心であった。  このほかに、土佐には、ただもう御家大事とのみ考えている保守派がいた。小八木五兵衛が牛耳 をとっていて、一番頑固党であった。  武市半平太は、こういう渦巻の中にあって、土佐の藩論をまとめ勤王倒幕に導こうとした。した がって、その苦心は、なみ大抵ではなかった。  半平太は|自札格《しろふだかく》で、士分としては、最下位の家柄、身の丈六尺近く、深沈にして|大度《たいど》、容易に喜 怒を顔色に表わさない。江戸三大道場の一つ、|蝸河岸《あさりがし》の桃井塾において、鏡心明智流を学んだもの で、塾頭をつとめた腕前である。  彼は、ちょうど、私が高知へ出た年、すなわち文久元年六月に江戸へ上り、九月にまた、国もと へもどってきたというのは、同志の大石弥太郎から知らせがあった。 「天下の事迫る、ただちに江戸表へお越し願いたい」  そういうわけで、江戸へ上った。薩長はじめ諸藩の勤王党と提携して事を起こすの際、土佐を代 表するものは、何といっても武市である。  江戸では、すでに、武市の到着する前に、同志の大石弥太郎が、長藩の佐々木|男也《おなり》、時山直八、 |木梨平之允《きなしへいのじよう》などと往来していた。広田|恕助《じよすけ》も、水藩士と結んでいた。  そこで、長藩の同志の中に、一頭地をぬいていたのは、久坂玄瑞。松陰先生の門下中では、高杉 晋作と並び称せられた二本柱である。 「どうだろうか、御藩の久坂氏と、|弊藩《へいはん》の武市氏と会談するように、とり計らって下さるまいか、 そうすると倒幕運動は、更に一進展を見るに相違いない」  大石が、長藩の佐々木に、こういう意見を申し出た。 「それは、よかろう、さっそく拙者の方で、日取りをきめてお知らせする」  佐々木も、即座に賛成した。  そこで、両巨頭の会見が行なわれた。  同志によって、荒ごなしがしてある上に、両者とも、一藩の有志を代表するに足る楓爽たる人物 である。一度、会っただけで、すでにもう十年の知己のように、両心相許すことになった。  久坂が、武市の器量に打ち込んでいたのは、薩摩の樺山三円に、次のように語っていることでも 分かる。 「土佐の武市半平太は、国士無双ともいうべき人物である」 「それは近頃、耳よりな事を承る、しからば拙者も、一度、武市殿に御意を得たい」  樺山も、そう言い出した。彼は、名を|資之《すけゆき》といい、薩藩では勤王派の先覚である。そこで、今度 は、武市との会見が、芝三田の薩摩屋敷で行なわれた。  こういう次第で、同志の盟約は、暗黙の中に日一日と、濃度を加え、その年九月二日には、長藩 邸に、長、薩、水、土、諸藩の有志の顔合せがあった。  長州からは、久坂をはじめ、周布政之助、桂小五郎、薩州からは、樺山三円、土州からは武市半 平太、大石弥太郎、これに水藩の有志を加えたもので、この時の題目は、この度江戸へ御降嫁に相 成る和宮を薩陸峠で奪い返そうというのであった。  つまり、同志の人々の意見によると和宮御降嫁は不臣不礼の限りであるというのである。元来和 宮は、仁孝天皇遺腹の皇女にましまし、孝明天皇には御皇妹に当たらせらる。この時、すでに有栖 川宮家へ御婚約になっておられた、しかるにも拘らず、勅語を奉じて、撰夷の挙に及ばんとするに おいては、公武合体の事実を天下に明らかにする必要上、将軍家茂の御簾中に御迎え申したいと、 関東方からたって御降嫁を|奏請《そうせい》した。そこで、宮も、やむを得ず、御引き承けあそばされて、天下 の御ため、このとし十月関東ヘ御下向になる事を発表された。 「実に怪しからぬ、幕府においては、御降嫁は表向き、内実は和宮を人質とするものだ、黙してい る場合でたい」  これが、列席有志の人々の意見であって、非常手段に出て、|叡慮《えいりよ》を慰め奉り、かつまた同時にこ れによって勤王倒幕の火の手をあげようというにある。  だが、武市は、この過激手段に賛成しなかった。 「すでに御降嫁は勅許になっているので、これに対して、吾々が、とや角反抗するのは、一見、忠 の如くにして、その実、忠ではない、のみならず、僅少の同志をもって、この非常事を断行しよう というのは、あまりに血気にはやって、事を敗るのおそれがある、それよりも、吾々同志は、一旦 国もとに引き返して、各藩々の意向を勤王に導いた上、藩主を奉じて京都にのり出し、正々堂々と、 幕府へ撰夷を迫ろうではないか、もし幕府聞かずんば、その時こそ各藩一致して、これを倒すは、 容易な事であろう、御同様、この初一念を貫くまでは、千鈎の身、同じ死ぬにも犬死となって倒れ たくはない」  |悠揚《ゆうよう》として、大策を遂ぐるための手段を説いた。そのため、和宮奪回の非常手段は中止し、武市 の意見が用いられた。  そこで武市は、九月五日に江戸を立って、国もとへ引き返した。この時、江戸でつくった「土佐 勤王党同志血盟書」というものをもち廻って、土佐七郡の有志を密かに説いた。  これは、大石弥太郎が筆をとった。 「|錦旗《きんき》もし一たびあがらば、団結して水火をふまんと、ここに神明に誓い、上は帝の大御心を安め 奉り、我老公の御志をつぎ、下は万民の患いを払わんとす、さればこの中に、私もてとかく争うも のあらば、神の怒り罪し給ふをも待たで、人々寄りつどいて、腹かき切らせんと、おのれおのれが 名を書きしるしおさめ置きぬ」  末節にこうある。もし、誓いに背くものは同志が集まって、詰め腹を切らせるというので、よほ ど、烈しいものだった。  ここに、老公の御志をつぎとあるのは、安政五年四月、容堂が、納戸役大脇與之進を密使として、 京都へ上らしめた。山内家と三条家とは、姻戚の関係があるので、特に、三条実万卿に、|内謁《ないえつ》し、 大脇は|口頭《こフつとフつ》をもって密旨を伝えた。 「容堂は、一朝事あり、錦旗翻るの日は、列藩親藩を問わず、その不臣はこれを討ち、国力をつく して王事に勤めん、これ平生の赤心、万々御疑念なきこと」  その中に、こういう一条がある。これをさしている。  この武市の同盟には、土佐七郡のうち、下士中の有志は、みな血をすすって加入した。名前をつ らねたものは、百九十二名あるが、ほかに、この主旨に賛同して、行動を共にしたものも、随分多 かった、、  私も、末班に列して、血盟したところの一人である。  武市は、江戸において、薩長同志との約束もある。是非、藩論を勤王に一決する必要上、参政吉 田元吉に説いた。ところが、頑として聞き入れない。 「薩長の両藩が、勤王の兵を京都にすすめることになっている。ついては、我藩においても、薩長 に遅れをとらぬように、この場合、斡旋を願いたい」  熱心に、吉田に向かって主張をしたが、彼は、武市等を初めから、天下の大義に通ぜざる剣客無 頼の徒であると見ているため、相手にはしなかった。 「どうも、国のためにはいたし方ない、吉田の首を申しうけずばなるまい、そうでないと、土佐は 勤王のさきがけをすることはおぽつかないことになる」  そういうので、武市は、ついに、吉田を刺し殺す計画をたてた。そして、同志中の幾人かに、策 をさずけたのであるが、その中の」人那須信吾が、私の叔父に当たる。 暗殺計画  信吾は、私の父浜田金治の弟で、祖父宅左衛門の第三子である。身長六尺、堂々たる偉丈夫、 匁の火縄銃に弾薬をこめ、直立して射撃する場合に、少しも姿勢をくずさなかったといわれる。  初めは、医者になる見込みで、頭をまるめ、|信甫《しんほ》と呼んでいた。  ところが、この大入道、医術の稽古は、そっちのけで、武術の修業に精を出していた。 十 「宅左衛門の三男坊は医者になるというて、頭をまるめたが、剣術ばかりしちょる、あれは、どう したものだ」 陰口をたたかれたものだったが、彼は、平気でいた。 「医老になるものが、剣術を稽古してはわるいということはあるまい」 「それはそうだろうが、お門違いじゃないか」と、注意したものがいた。 「わしは医者になっても、ヘボ医者にはならぬ、国家の脈をとるので、三分の薬礼などは眼中にな い」  こういう元気である。  その頃は、薬一包、銀三分というのが、医家の通り相場、そんなものを貧る気はないというので、 志が自ら他と違っていた。 「実に快男児である、彼こそは、我が家の養子にふさわしい」  信吾の人物に眼をつけたのは、|濤原《ゆずはら》に道場を設け、槍の指南をしていた郷士那須俊平である。  一女|為代《ためよ》というのがあるきりで、男の子がない。そこでかねがねから、養子をさがしていたのだ が、はしたくも信吾に白羽の矢をたてた。  俊平は、山田喜馬太から、槍術の免許皆伝をうけた腕前、かつ国学にもくわしかった有志家であ る。 「|信甫《しんほ》殿を養子に貰いうけたいが、どうであろうか」  父に相談がかかって、この縁組は、成り立った。安政三年二月、私が十四歳のときである。 「もう、医者になるのは、やめた」と、さっそく、髪をのばし、信甫という名を信吾に改めてしま った。  高知へ出て、岩崎甚左衛門について槍術を学び、日根野弁治に剣法の指南をうけた。いずれも数 年で、皆伝を授けられたが、この頃、梼原から高知までは、普通人で二日がかりの行程である。こ とに山中なので、岩角をふみ、石道を辿り難渋な道路である。  信吾は、大剣をぶっ込み、弁当をぶら下げ、肩に槍と面小手の道具を引っかつぎ、大股にぐんぐ んと歩いてゆくと、朝、濤原を出て、暮に高知へついたもので、一日しか撰らなかった。 「馬よりも早い」  みな、信吾の健脚に舌をまいていた。  気性もまた、豪放闊達で、気節を重んずる古武士の風格があった。  武市半平太の血盟書には、無論、同志の一人として、名をつらねた。しかし、さすがに、養父俊 平には、一言も洩らさなかった。いよいよ、好物と目さるる吉田元吉の首をあげようとする時には、 高知へ出向く道すがら、長者村に|蟄居《ちつきよ》している深尾|鼎《かなえ》をたずねた。  そして、鼎を励ました。 「天下の事は、目前に迫っております。機会を得て、今一度、藩の執政に復職し、大いに吾々同志 のため、かつ国のため、奮発して働いていただきたい」  それとは、露骨に打ちあけなかったが、鼎の意中をうごかし、兄の金治即ち私の父だけに密謀を 洩らした。 「事の成る、成らぬは、天運、あるいは、これが今生の最後のお別れになるかもしれない」  別れの言葉をつげて、飛ぶように高知へ向かった。  私は、当事、浜田|辰弥《たつや》と名乗っていたが、文久二年四月八日夜、高知城下の佐川屋敷ヘこの叔父 の信吾が、ひょっこりと訪ねてきた。 「辰弥、一寸、来てくれ」  私を、人たき別室へまねき入れた。 「どうしたわけかしら」  半信半疑であったが、格別、叔父は、そわそわした態度も見せない。いつものように、|酒《しやしや》々|落《らくらく》々 としている。だが、私を別室によぶのは、よほど重大事か、秘密事でたければならぬと思った。  叔父は、この時、三十四歳、血気|壮鋭《そうえい》、男子として脂の乗り切った盛りである。私は、ほんのま だ二十歳、前髪を落して、三四年にしかならぬ小僧である。  一体、何を語り出すのか、よほど、好奇心をそそられた。叔父は形を改めて、言葉を低くした。 「辰弥、わしは、今夜、お前に頼みがあって参った。しかし、これは、誰にも洩らしてはならぬ秘 密である、よいか」  念を押した。 「心得ております、どういう事柄でござりますか」 「わしは、今夜天下のために、好物吉田元吉殿の首を刎ねる覚悟である」  私も、これには、びっくりした。正にこれ青天の震露である。 「叔父上、一人でおやりになるのですか」 「いや、同志のものが、いる、しかしそれは、お前に口外することは出来ぬ、またしたところでい たし方ない、……事成らずんば、それまでのこと、天命とあきらめる、もし事成るにおいては、本 懐この上なし……」  叔父は、よほど意気込んでいる。 「して、私に、御頼みの一条は、何でござりますか」  伸間入りでもしろということでないかと思って見た。 「ほかでもない、吾々の主君鼎公は、ただいま長者村に幽閉中であるが、あれは、元をあらえば、 みな吉田の策である、公は、吉田に対しては、深い恨みをもたれている、わしが、吉田を討ち取る のは、元より鼎公の恨みを晴らすというのが、真目的ではない、彼は、勤王撰夷党の敵である、か つて、天子は|量毛《べんもう》のごとく虚飾であるというた事もある、また、一昨年桜田義挙の際には幕府は、 水戸征伐の名義を得た事故、尾州紀州両藩に命じ、水戸を討伐させるがよいというような妄論を吐 いている、彼が土佐藩参政の地位に坐する以上、吾々がいかに粉骨砕身して、勤王の大義をとなえ、 藩論を取りまとめようといたしても、しょせん望みはない、故に、この際、天下のため、彼を討ち 取るのが、目的である、私情にかられて、血を流すのではない、公憤に基いて非常手段をとるので ある、……さりながら、鼎公は、吾々歴代の主君、この事成るにおいては、誰よりもまず公に、い ち早く御しらせをしたいというのが、わしの願望である、お前は、年少でもあり、他に気づかれる 心配もない故、明朝は、ともかくも現場を見届けた上、長者村へ駈けつけて貰いたい、頼みという のは、これである」  意外な申し出。 「かしこまりました、では、明朝、いずれへ参ったら、よろしいので」 「帯屋町へ参れ、吾々は、好物をあそこで待ちうけるはず」 「分かりました」 「では、しかと頼んだぞ」と、叔父は、後のことを私にまかせて、何事もなかったように、悠然と して引きあげて行った。  ちょうど、|灌仏会《かんぷつえ》の当日である。春の雨は、しとしとと|降《  フフ》りつづけて、帰ってゆく叔父の傘に落 ちて音をたてた。だが、私は、妙に胸さわぎがして、床へ入っても、まんじりともしなかった。吉 田は、斎藤|拙堂《せつどう》について学んだ。拙堂は、こういったとある。 「土佐の吉田は名剣にして、鞘なきが如し、必ず自分で自分の身へ傷をつける時が来るに違いな い」  そんなことも思い出した。また、彼が江戸勤番中は、水戸の藤田東湖と、足しげく往来した。東 湖には、|鑑人《かんじん》の明がある。 「足下のような英才をもって、賢君容堂公を助けるというのは、土佐のため、喜ぶべきことである、 ただ足下、謹慎するところなくんば、単に」身の不幸ばかりでたく、土藩全体の不幸を招くことが あるかもしれぬ、御用心召され」  吉田に向かって、露骨に、こういったとも聞いている。  才知はなるほど、あるかもしれない。だが、事実、叔父のいうように、土佐一藩が勤王をもって 立たんとする場合、彼は、あまりに藩公の意を迎えるに急にして、天下、非常の場合に処する英断 がなかった。  それにしても、同じ藩中に、同じ俸禄をうけているものが、彼を手にかけねばならぬことは悲壮 の限りである。意見の相違、立場の相違はあるとはいえ、共にこれ、|柏章旗《はくしよう》下の士、殺すものも、 殺さるるものも、あまりいい心持ちはしないであろうと思った。  叔父は今、その暗殺団の中に加わった。平生の気風よりして、また、骨力よりして、きっと重要 なる役目を演ずるであろう。だが、この一事によって、土佐の勤王党が勃然として頭をもたげて来 る機会を得るならば、帯屋町に流すべき血が、有意義なものとなる。私はそんなことも考えた。  とも角、|軽転《てんてん》として、眠れなかった。雨はやまず、点滴枕に通って、夜は、刻々にふける。今の 時刻にして、十時前後だろう。 「どうかな、うまく行ったかしら」  私は、頭をもたげて、雨の音にじっと聞き入った。  叔父の話では、何でも、その時刻に、吉田参政が、御殿からかえるのを待ちうけるのだといって いた。  死を決した暗殺団は、果して、本懐をとげ得るだろうか、妙に胸が躍ってくる、眼が冴えてくる。 帯屋町の流血 土佐藩の紛糾  もともと、武市半平太は、吉田元吉を暗殺しようとは、少しも考えていたかった。ちょうど、万 延元年三月三日、江戸桜田門外において、水戸藩士の刀の切っ先に、井伊大老の首をさし貫き、勤 王運動のさきがけをした。これが、国もとにいる私共の血をわかせた当時である。 「元吉めをやれ」  過激な壮士は、何でも、土佐勤王の血祭に、彼の首を刎ねよと息まいた。 「まア、まア」  半平太は、それをおさえていた。 「あれが、土佐藩政を一手の中におさめていては、いつになって、藩論が勤王となるやら、はなは だ心もとない、この際、是非とも、非常手段をとらねばなりますまい」  半平太に迫る。 「諸君は、一途にそういうが、吉田元吉は、とも角、我が藩の一人物である、まして、君公のお目 がねにかなって、参政にお取り立てになったのである、それをば、暴力をもって倒すのは、忠君の 道に背いている、拙者は、そういう事には賛成出来ない」  忠君を楯にして、血気にはやる壮士をなだめていた。  そこで彼としては、吉田が、自分等の意見に同じないとすれば、これを押しのけるよりほかはな い。そういうので、連枝、家老などと気脈を通じ、元吉排斥につとめたが、何分にも、彼は容堂の 気に入りである。のみならず、当主豊範は、弱年であるため、これだけの大事業をやってのけるこ とは、所詮むずかしかった。  そのうちに、京坂の風雲は、日」日、けわしくなって、諸藩の有志は、みな|剣禰《けんは》を撫して立ち上 がる。  じッとしていられたくなった。 「土佐が一日立ち遅れになれば、一日だけ勤王倒幕が立ち遅れになる、安閑としている時機ではな い」  たまらなくなって、九州から高知へかえってきた吉村寅太郎が、まず脱藩した。吉村は、私の叔 父那須信吾と同じ居村濤原の庄屋であった。  同志の宮地|宜蔵《ぎぞう》、|曾和《そわ》伝左衛門とを説いて、京都に走ろうとした。 コ家一国何ぞ問うをもちいん、本朝をして本朝たらしめんと欲す」  彼は、国を出づる際、こういう詩をのこしている。  文久二年三月二日である。  吉村は、この時、半平太にも、脱藩をすすめたが、聞き入れなかった。 「上国の危機は、迫っております、たとえ藩論がどうあろうとも、先生は、同志をひきいて、お立 ちになる時であろうと思います」  吉村が、こういうと、半平太は、顔色をかえた。 「黙らっしゃい、半平太の家は、祖先代々、君公の御恩をこうむっている、今脱走して、目前、一 身の功名をむさぽるが如きは、拙者は、嫌いだ、上は、君公より、下は足軽小者に至る迄、一藩こ ぞって、大君のためにこの身をなげすてて御奉公申しあげるようにするのが、拙者の仕事だ、脱走 などは、もってのほかである」  声をあらくして、怒った。  吉村は、そのため、半平太の方は思いきって、他の二人を誘ったのだ。  彼等は、二日、高知城下の東の方、松ヶ鼻から舟をやとい、岸を離れようとすると、この時あわ ただしく馳せつけた一士人。 帯屋町の流血 「おおい、待った、待った」  両手をあげて、そう叫んだ。 「おお先生じゃないか」  吉村が、びっくりして、いった。 「そうらしい、どうして、ここへ来られたのかしら、とも角、舟を止めろ」  せっかく、乗り出したのをまた逆もどりさせて、岸へつけると、半平太は、厳然として彼等に命 令でも下すようにいった。 「吉村、宮地は、脱走しても大事ない、さりながら、曾和だけは差し止める」  何のことかと思うと、曾和の脱走をさえぎるためであった。  というのは、曾和は、監察役場の役人であって、藩役所の事情をさぐるのに、是非とも必要な人 物。彼に今、脱走されることは、はたはだ不都合であった。  半平太は、この時、ふところから一通の書面を取り出し、吉村の手にわたした。 「これは、長州久坂君への紹介状である、足下、同君に会見の際は、半平太の苦心をつぶさに報道 して貰いたい、尚、薩長両藩の進退は、事の大小にかかわらず、拙老の方にお知らせ願いたい」  彼等は、半平太の心中が、どの辺にあるかを知って、松ヶ鼻において、手を別った。  彼等の脱走後、藩中には、吉村の後を追おうとしたものは、少くなかった。そのため、同志のも のは、何ということなく、落ちつかぬ不安のうちに、日を消していた。  半平太といえども、この紛糾したところの藩情を統一することは出来なかった。それでも、彼は あくまで、平和手段によって、佐幕派の参政吉田元吉を退け、藩論を勤王に取りまとめようと運動 していた。  だが、時局は、ますますけわしくなっていく一方である。さすがの半平太も、腕がむずむずして 来たので、彼は連枝の一人|山内民部《やまうちみんぶ》に会って、元吉を退ける相談をもちかけた。 「ごもっともである、今日の場合、一人の元吉さえなかったら、他の輩は、一議に及ばず、勤王に 味方するに相違ない」  こういって、暗に、元吉暗殺を調した。  折も折、藩主豊範は四月十二日をもって、江戸参勤の途に上ることが発表された。半平太は考え た。 「いよいよこうしてはいられない、薩長の有志ども、藩論を勤王にまとめ、京都に集まる約束にな っている、これら同志の手前、君公が佐幕派の重役を引きつれて、京都から江戸へ上るということ は、土佐勤王党の恥辱である。事、ここに至っては、博浪沙の一撃が必要である」  そういう次第で、初めて吉田参政の要撃が計画された。  したがって、最初から、是が非でも、吉田を政敵として、生命を奪おうとしたわけではない。全 くやむにやまれず、勢いきわまって、いたし方なく、暴力に訴えたのである。 吉田東洋暗殺  同志島村|寿之助《じゆのすけ》の一室に集まった面々は、河野|万寿弥《ますや》、弘瀬健太、川原塚茂太郎、島村衛吉等で ある。  半平太は、この秘密計画の内容を連枝と家老とだけに通告した。そして、四月一日から、吉田参 政の行動をつけ狙っていた。  刺客の第一組は、岡本猪之助、同じく佐之助、第二組は、島村衛吉、上田|楠次《くすじ》、|谷作士《たにさくし》であった。 然るに、この二組は、ついに機会を捉えることが出来なかった。  そこで第三組を組織する必要があった。  私の叔父那須信吾をはじめ、大石団蔵、安岡嘉助は、この組に属した。ちょうど四月六日の夜、 同志大利|鼎吉《ていきち》が、半平太の家へかけつけた。彼の家は、廓内にあったので、吉田の進退をさぐるに は都合がよかった。 「先生、いよいよ時機がきました」  彼は息せき切っている。 「どんなあんばいか」 「君公、江戸表発足が差し迫りましたので、元吉殿進講の日本外史は、八日の夜、終会となります。 それがすむと、君公から御酒が出ますから、帰りは、二更を過ぎようかと思います」 「確かであるか」と、半平太は念を押した。 「もちろん、入念にさぐりました故、間違いはござりませぬ」 「よろしい」と、半平太は、さっそく、第三組に選ばれた刺客を呼びよせた。  手配をすまして、彼は、三人に向かっていった。 「このたびの一挙は、まことにやむを得ざることである、吾々は、佐幕派を排するのが主眼である が故、必ずしも元吉殿は殺す必要はない、ただ重傷を負わしただけでも事は足りる、諸君の進退は、 機宜の処置におまかせする」 「心得てござります」  三人は、半平太に別れて、八日の夜の更けるのを待った。叔父の信吾が、私の宿に来て、何くれ と後事を託したのは、その時である。  私が、本町の佐川屋敷で、雨の音をききたがら|軽転《てんてん》反側している時刻に、当の吉田元吉は、御殿 から戻ってきた。ほろ酔い機嫌であったろう、若党に、|提灯《ちようちん》をもたせ、傘をさして、帯屋町の邸へ 近づくのである。  と、暗の中から吐き出された巨大な黒影。ひたひたと、吉田の背後に迫るよと見れば、虚空三尺 の雷、ぴかと閃く。 「元吉殿、国のために参る」  一喝して、唯一打ちと、首のあたりを見こんで打ち下す。 「たにやつ」  傘の上から斬ったので、浅手であった。  吉田は、ふりかえりざま、傘をすてた瞬間、もう手には、刀がぬかれていた。  斬り込んだのは、叔父であった。 「やッ」  してやったりと、叔父は、後ずさって、二三合、斬り合わせたが、もとより、叔父は血気壮鋭の 壮士である。  外方より追々に手を下しながら、隙を見て、えいと切声するどく、打ち込んだため、吉田は、ば っさりと斬り伏せられた。  叔父は、ただちに吉田の身辺に近よって、首を掻き切り、傍の小溝で、首と血刀とをあらった。 そして、首は、用意の下帯に包んで、これを提げながら、現場から南奉公人町通りを西へ走った。  雨でぐしょぬれになっている。 「怪しげな奴!」  通りすがりに、そこからも、ここからも、犬がわんわんと吠え、近よってくる。 「しッ! しッ!」  いくら追っても、追いかけてくる。果ては、提げている吉田の首へ喰いつきそうになるので、さ すがの叔父も、閉口した。  やっとの思いで、四半橋の観音堂へかけつけると、そこに、同志が待ちうけていた。 「首尾はどうであったか」  暗闇の中で、不安そうに訊ねた。 「上々吉、かくの通り」  叔父は、吉田の首を彼等の手にわたしたのである。 「いよう、大出来、大出来」  一同、手の舞い、足のふむところを知らずという有様。大変な喜びである。  叔父は、ここで、ゆるりと、|旅《 フフ》の仕度をすませ、荷物や手槍をうけとって、同志に|暇《いとま》ごいをした。 「吉田殿をなきものにすれば、土佐の正気は勃然として起こる、諸君、自重して、君国のために、 おつくし下さい、拙者は、これより上方へ参る、しばらくのお別れだ、さらばでござる」  本望をとげたので、思いのこすことは何もない。大石、安岡の二人と共に、夜をこめて伊野に出 た。  ここには渡しがある。時ならぬ場合に、渡守りをよび起こすのは、嫌疑のかかるもと。そこで、 釈迦参りの帰りがけといつわって、苦もなく向う岸にわたった。長浜雪渓寺の灌仏会をさしてこう いったものと見える。  加茂についた時、夜があけた。衣類をあらためると、まだ返り血がこびりついていた。それをす っかり拭きとって、脱走をした。  どうして、元吉暗殺の事情が、かくまで明らかであるかといえば、それは、叔父が程へて、私の 父にあてて報告した書面が、今、私の手元にのこっている。それによって、|巨細《こさい》のことが分かるの である。夜があけると、私は、もうじ小としていられなくなった。 「どういうことになったかしら」  胸がどきどき波打つ。とに角、出かけて見ようと、幸い雨もあがったので、一散に、帯屋町へか けた。  と、帯屋町吉田邸の前に、血がだらだらと流れている。 「しめた」  私は、思わず、こおどりした。尚よく見ると、血は、邸の門前まで、糸を引いたようにつづいて いる。 「これなら、大丈夫だ、首尾よくやったに違いない」  ほっと胸をなでおろした。  何にしても、叔父からいいつけられた使命がある。そこで、長老村に引きこもっている主人深尾 |鼎《かなえ》のところへ馳せ参じ、那須信吾、首尾よく、吉田参政を仕止めた旨、密かに報告したのである。  私が、勤王党に入って、実際運動にたずさわった手始めは、そもそもこの伝令の役目であった。  後できくと、この朝、元吉の首は、高知城下、西街道、雁切河原の札場の傍に、さらされていた といわれる。  |捨札《すてふだ》の文言は、次の通りである。 「この元吉事、重き役儀にありながら、心ままなることを取り行ない、天下不安の時節をもかえり みず、一日も安気にくらしたき所存をもって、御国次第に御窮乏の御勝手に相成候をも悟りながら、 表は、御余金もこれあり候様、都合よく申し飾り、すでに先年よりおかこいに相成候|籾米《もみごめ》、近々存 分|摺《すり》つくし、御国内御宝山などのこらず切り払い、何によらず下賎のものよりは、金銀きびしく取 り上げ、御国民上を親しみ候心を相隔てさせ、自分においては賄賂をむさぽり、無類に|驕《おごり》をきわめ、 江戸表において、軽薄の小役人へ申し付け、御名をタバカリ、結構なる銀の銚子を相ととのえ、か つ自己の作事、平生の衣食住、いよいよ華美をきわめ候事も、このまま差しおき候ては士民の心い よいよ相離れ、御用に立ち候もの一人もこれなき様相成、御国滅亡の端とも相成候につき、不肖の 我輩ども、余儀なく勘忍なりがたく、上は国をうれい下は万民の簸苦を救わんため、己の罪を忘れ、 かくのごとく取り行ない、尚またさらしおくもの也」  これを見物にくるものが、引きもきらず、雁切河原は、にわかの人出であった。吉田が殺害され た帯屋町附近も、同じく噂をきいて押しよせてくる人数で」ぱいだった。    料理した血を見にくるや|初鰹《はつがつお》  当時の俳人がのこした一句、|宛《えん》として当時の光景が、眼前にちらつく。  土佐では、毎年四月、釈迦誕生日には、鰹に脂がのって、一番味がよくなる時だといわれている。  この句は、それに引っかけているわけである。 三人の脱走者  さて、脱走した叔父信吾、及び安岡、大石の三人は、一日に三十里を走り、その夜伊予の岩川に 泊った。翌々日、松山城下、三津浜から舟をやとい、長州三田尻にわたり、下関におもむいた。そ して義商白石正一郎の邸に、落ちついたが、段々、様子をきくと、上方の形勢が、はなはだ不穏で ある。  薩摩の島津三郎が、武装した藩士を引きつれて、京都へ上った、それと前後して、長藩有志もこ れにつづいた、何か事変が起こるらしいというので、三人は、意を決して、長州から泉州堺にまぎ れ入ったのは、その月の二十八日。  幸い、夜にまぎれて、住吉の陣営におもむいた。これは、摂海防御のため、土州藩で設けておい たものだった。  したがって、営中には、同国の旧友が沢山いる。彼等は、おたずねものなので、もちろん中へは 入れない。  塀の内と外とで、京都の形勢を話し合った。三人が、伏見寺田屋の異変を知ったのは、この夜の ことである。 「吉村も、そのため、入牢しているぞ」  塀の内で教える。 「そりゃいかん」  塀の外で、こたえる。 「君等も、愚図愚図しちょると、引っくくられる、気をつけぬといかん」 「心得た」  大体の形勢を知って、あきれながら、住吉の宿屋へもどってきた。ところが、小監察福富健次の 手に属するものが、はしなくも、三人の忍びよったことをかぎつけてしまった。 「明日になったら、捕えてくれる」  営中にある同志のものの耳に、これが入ったので、びっくりした。 「三人を逃さなければならぬ」  朝早く、門のあくのをまって、密使を宿屋へ送った。 「すわ!」  三人、朝飯もくわずに、仕度をして住吉から影をかくした。|捕吏《とりて》が、旅籠屋に向かったのは、い いあんばいに、その後であった。きわどいところである。  三人は、とりあえず大坂に入って、|額髪《ひたいがみ》を剃りひろげた。 「これでは、よほど危険ゆえ、変装をせねばならない」  叔父も、他の二人も、ここで町人風に姿をかえた。そして、何くわぬ態で三十石の淀舟に投じ、 京都に入った。  彼等が、訪ねた先は、長州の久坂玄瑞と佐世八十郎の寓居である。ところは、下関でかねがね聞 いておいたのだ。  秘密を一切うちあけたので、久坂も、佐世も、心おきなくもてなした上、長州屋敷へかくまって くれた。  佐世は、後の前原|一誠《いつせい》である。  叔父も、この時、石原幾之進と変名した。幾之進というのは、養祖父の名であるが、それを流用 したのだった。  しかるところ、またまた、土州藩の監察が、この事実をさぐり出した。 「三人は、参政を暗殺した重大な罪人である、長州屋敷で、それを隠匿するというのは、解しかね る、厳重に抗議を申し込んで、引き渡しを迫るがよい」  意見がまとまって、代表者が選ばれる始末。  同志のものは、とるものもとりあえず、久坂にこのいきさつを密告した。 「それは容易ならぬことである」  久坂も、心配して、今度は、薩摩の|海江田《かいえだ》信義と吉井友実とに相談した。 「俺の宿へつれてこい」  海江田が三人の身柄を引きとるといい出したので、渡りに舟、久坂と佐世と堀真五郎の三人が、 叔父等の途中護衛の任にあたり、五月十六日の夜、こっそりと闇にまぎれて長州屋敷から海江田の 宿もとへおくり届けられた。  ここで、しばらく逗留。海江田が、藩公について国もとへ引きあげるについて、同藩藤井|良節《りようせつ》の 手に託した。  藤井は、いろいろに骨を折って、結局、三人のものを、東洞院錦小路の藩邸ヘかくした。 「邸内におれば、もう懸念はござらぬ、決して、外出をなさらぬように、くれぐれも気をつけさっ しゃい」  藤井も、こんこんと、三人に注意した。薩邸では、ことのほか、三人をもてなし、留守居役が 時々慰問に来た。  でも、同志との往来がしげくなると、手をこまぬいてはいられない。夜になると、叔父をはじめ、 二人のものも、頭巾をかぶって、邸をぬけ出した。門限が四ツ限りなので、それ迄に帰邸すれば、 さしつかえなかった。  養父の俊平は、信吾が早くから勤王党に加わっているということは、少しも知らなかった。  叔父が、事をあげて、脱藩ときいたときの驚き。    妻子をもすつるためしは武士の      ならいと聞けど袖はぬれけり  こう嘆いている。やむを得ず、信吾の脱藩届を藩に差し出し、|濤原《ゆずはら》へもどってきた折には、何も かもあきらめていた。    残しおく二人の孫を力にて      老いぬることも忘れけるかた  叔父がのこした二人の子を相手に、老後を送ろうとしたのだが、追々と、叔父の心事が分かって くると、ハタと膝を打った。 「そうであったか、それでよめた」  初めて、納得した。  同じ濤原の中平保太郎が、君公にしたがって上京の際には、特に伝言をたのんだ。 「信吾の心事は、わしにも、よく了解出来た、年はとっているが、わしもまたお国のため御奉公を しようと思っている、ついては妻子のことは、少しも、心配するに及ばぬ、どうか、この上は、一 身を投げ出して、天子さまの御ために、働いて下さるように、尊公からお伝え願いたい」  そういって、槍術皆伝の一巻をもたせてやったくらい。  養父もまた、勤王党に加わった次第である。 同志の橋本鉄猪  京都では、薩長その他諸藩の有志が、暴発して所司代を襲い、|禁闘《きんけっ》を守護し、一挙にして姦物を ほうむり、勤王の旗あげをしようとした。それが、はしなくも、伏見寺田屋事件のため、失敗に帰 した。 先に脱走した吉村寅太郎は、この一挙に加わっていた。そのため、薩邸から土州邸へ引きわたし になって、国もとへ送りかえされてきた。  私どもも、こうなると、国もとに引き込んでいられなくなった。 「どうだ、吾々も、脱走しようではないか」  私は、郷友橋本鉄猪に相談をもちかけた。 「待て、今に時機が来る」 彼は、そういっていた。  ところが、主君深尾鼎の近侍に、児島範左衛門というのがある。  これが鼎の挙動について、藩庁へ面自くない報告をしたことがわかった。 「けしからぬ奴だ」  鼎は、色をかえて怒っている。  橋本は、それを知って、さっそく、鼎にもちかけた。 「ああいう男は、私どもの手で成敗してしまいます」 「お前達がやるつもりならば、つれ出して、途中で片づけるがよい」 「よろしゅうございます」 「これは旅金だ」といって、一分銀十五両を渡してくれた。随分重かった。 「浜田、今度は、この金で脱走だ、さア仕度をしろ」  そういうので、私も、機会の到来を喜んだことである。  二人して、仕度はしたが、さていかにたんでも、同僚の児島を殺すことは忍びたかった。  そこで、児島をよんだ。 「足下は鼎公のためにねらわれている、実は吾々に成敗の命令が下ったが、友情として足下に一刀 を加えることはたし得ない、ついては、鼎公の方は、いい具合にとり計らっておくによって、俺達 と脱走して、勤王しろ」 「そういう次第なら、何ともかたじけない、では君等の|騨尾《きび》に付して、俺も脱走することにきめ る」 「じゃ7、仕度をしろ」  児島に事情を打ちあけて、いよいよ、脱藩の計画をたてると、どういう次第であるか、これが、 薄々、鼎に洩れたらしい。  橋本と私とが、よび出された。 「実は、この間、お前達に、児島の成敗をたのんだが、あれは、あとでよう考えると、はなはだ面 白くない、止めることにする」  急に意志がかわった。 「いや、私どもは、せっかく計画を立てているところでございます」  橋本が、答えたが、鼎は、頑として聞き入れなかった。 「いけない、止めろ」  私どもも、困ってしまった。だが、中止するというなら、それでもいい、このまま、こっそりこ っちはぬけ出しさえすれば、目的は達するわけである。 「では、御言葉に従ってこの計画はやめます」 「そうして貰いたい、ついては、先日の旅金を返しなさい」  いや、これには、二人とも、ぎゃふんと参った。  旅金をとられてしまったら、手も足も出ない。といって、使ってしまったともいえない。  橋本は、もじもじしている。 「ただ今、持参いたしませぬ故、直ちに宿もとへ引き下り、御返金申し上げます」  いい加減な御座なりをいって、引き下った。 「浜田、いよいよいかん、すぐに出かけぬと、取り返しがつかぬ」 「そうだ、これから、屋敷へもどって、仕度にかかろうか」 「早いが勝だ」  何にせよ、ふところには、十五両がうなっている。 佐川屋敷へもどった私どもは、こっそりとぬけ出し、布志田まで走った。 「まず一安心」  一息して、足を早めると、後ろから声がかかった。 「おうい、おうい」 「誰かよぶようだた」  ふりかえると、同志の依岡権吉である。 「依岡らしいぞ」  立ちどまって待っていると、彼は汗だくだくになって、追いすがる。 「ようやく、君達に追いついたが、これから脱走するのか」 「そうだ、……して、足下は、どこへゆくのか」 「俺は君達を止めにきたのだ」 「馬鹿いうちゃいかん」と、橋本は眼をむいた。 「何、そうでない、俺は先生の使として、ここまできたのだ、先生のおっしゃるには、君達が、そ れ程、熱心ならば、何もかくれて脱走するには当たらぬ、自分が鼎公に談じこんで、公然、上京出 来るように取り計らってやる、それまでは思い止まるようにするがよいとある、それで君達を追い かけてきたわけである」 「公然、上京出来るなら、それに越したことはない、浜田、では一旦、引きあげることにしようか」  橋本が、私にこう申し出た。 「結構だ」  私も同意したので、とも角、武市半平太の意見にまかせ、思い止まることにした。  これが文久二年の暮、明けて翌三年の春には、京都にかくれている叔父信吾から、父と私宛に、 長い手紙が届いた。  これによって、京都の容子も、ほぽ分かったのである。  叔父は、潜伏中、暇だったと見え、勤王家の詩歌を集めて、これを一小冊子とし、「雄魂雑書」 と命題し、私のところへ送ってくれた。つまり、私の志気をこれによって奮起させようとしたつも りらしい。  その間に、半平太が、奔走してくれたためであろうか。  二月になって、鼎から上洛をゆるされた。行を共にするものは、橋本鉄猪、井原応輔、鳥羽謙三 郎等。京都では、河原町四条上る平井隈山の|旅寓《はたご》に同宿することになった。  同藩では、坂本竜馬、中岡慎太郎、長州では、久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作というような勤王 党の諸先輩に、初めて会見することが出来た。  藩邸にかくれている叔父信吾とは、いう迄もなく、絶えず往来していた。  三月十一日の賀茂両杜に行幸の際は、私は平井や叔父や、それに薩摩の藤井信濃、田中新兵衛等 と、下賀茂において車駕を拝した。    としをへて積みしみゆきのとけにけり      はる風匂う鴨の神垣  平井の|詠《えい》である。 京都は、当時の政治舞台の中心地、天下の風雲は、ここに折り重なって、幾層々、雨となるか嵐 となるか、全く予想はつかなかった。私は、その間に介在して、剣戟のちまたに立ったのである。 暴発組の同志 刺客田中新兵衛  その頃の京都は、天訣の流行で、血なまぐさい噂でもちきっていた。一体、御所のまします洛中 で、血を流すことは、いかにもおそれ多いことだとあって、各藩の志士も、初めのうちはよほどつ つしんでいた。  だが、形勢は、非常手段に訴えねばならぬほどにさし迫って来た。  その第一番の槍玉にあがったのは、九条家の家令島田左兵衛。彼は、彦根藩の長野主膳と心をあ わせ、姦逆のふるまいがあったため、在京志士から目をつけられていた。 「まず、島田に天訣を加えて、勤王運動の血祭にせい」  そういうので、よりよりに機会をうかがっていた。 「どうも、容子がおだやかでない」  島田の方でも、うすうす感づいていたと見え、ぬかりなく警戒はしていたらしい。  と、文久二年六月二十日頃、岡藩の小河弥右衛門(後の敏一)が、伏見から京都へ上る途中で、 ふと島田の姿を見止めた。そこでとるものも取りあえず、薩藩の藤井|良節《りようせつ》のところへ駆けつけた。 「姦物を見つけたぞ、島田が、たった今、伏見へ下った、あのさきの池田は、九条家の御領地にな っているから、その方面へ出かけたに相違ない」 「ほんとうか」 「拙者がたしかに見うけた、間違いない」 「よろしい、直ぐに手配をさせる、必ず逃すことではない」  藤井は、即刻、本田弥右衛門に謀り、田中新兵衛に耳打ちした。田中とは、私も、同志として往 来していた間柄であった。何でも、薬屋の二男だと聞いていたが、よほど、気性が烈しかった。情 が激してくると、涙を流して話をすすめた。平井も、「新兵衛、性、|潅泊《たんぱく》にして、感慨多し」と評 している。  天訣の名人も、おかしな言葉だが、人を斬る事にかけては、腕がさえていた。この点にかけては、 土佐の岡田以蔵と好一対である。岡田は、後藤象二郎を暗殺しようとして、目的を果さなかったこ ともある。脱藩後は、高杉晋作の世話になっていたが、のち、坂本竜馬の周旋で勝|安房《あわ》の従者にも なっていた。  勝が、京都寺町通りで、三人の刺客に襲われたことがあった。  折から、闇夜、|芒《すすき》の穂の如くに、白刃をぬきつれて、勝を包囲した。岡田は、勝をかばって、最 初に躍りこんできたやつに一撃を加え、眼にも止らず、ばっさりと斬り倒した。  返り血をあびた彼は、勢いこんでかかってくる二人の刺客に向かって大喝をあびせた。 「卑怯者、拙老の刀の切味をしらぬか」  岡田の勢いのすさまじいのに怖気だった彼等は、そのまま姿をくらました。 「いや、恐れ入った腕前だ」  勝は、その時、如才なく岡田を賞めたが、しかしさすがに、眼はするどい。 「足下、強剣なるがままに、みだりに人命をたつことは、つつしむがよい」  そう戒めたのであるが、彼は笑って取り合わなかった。 「そうでもありましょうが、拙者がおらなんだら、今頃は先生の御首が飛んでいましたぞ」  心中、はなはだ傲るところがあったので、勝は黙ってしまったが、果して、その予言の如く彼は 剣客者の本道から一歩ふみはずし、酒色に身をもちくずすようになった。そのため、ついには藩に 囚われて、彼の口から勤王党の秘密がもれた。後にたって、武市その他の志士が犠牲となって倒れ たのは、これが原因である。  薩摩の新兵衛はこの岡田とおっつかっつの腕達者である。  藤井は、この新兵衛に策をさずけた。 「心得た、一刀の下に仕止めてまいる」  彼は、同藩伏見|定詰服《じようづめ》部政次郎と二人で、島田の後を追った。  たしかに、池田に来ているのをつきとめた上、一旦、彼は、引きかえして、同志と打合せようと した。すると、井上弥八郎、|鵜木孫兵衛《うぎまごべえ》、|志《しし》々|目献吉《めけんきち》、広瀬友之允、福原武三郎の五人が、彼の後 から池田へかけつけたと聞いた。  驚いて、またぞろ取って返し、六人づれで、要撃を企てたが、島田はそれを感づいてしまった。 そして、池田から姿をかくしたため、目的をとげ得なかった。 「また、機会があるであろう」  一度は、こうして失敗したが、とうとう七月二十日の夕方、木屋町二条|樋《ひ》の|口《くち》の|隠宅《いんたく》に入ったの を田中がさぐり出した。 「ようし、今度こそは……」  結束して、彼が先頭になり鵜木、志々目両人と共に押しかけた。 「御主人は御在宿か」  いきなり、三人がどかどかと入ってゆくと、取次に出た女中、 「おいででございます」  そう答えるのをきっかけに、奥の間に踏みこんだ。この時、島田は、浴後で、まだ衣類をつけず に涼んでいた。穏かならぬ不意の来客に、はっと思った。 「危い」  それと気配をさとって、庭へ飛び下り、板塀を躍りこえ、逃げ出そうとした。 「こやつ!」  新兵衛が、すかさず、追撃して、|腎部《でんぷ》に一刀を浴せかけた。斬られながら、島田は、塀をこえて、 戸外の川原へ転び出た。  悲鳴をあげて、逃れようとするのを、新兵衛が迫りよった。起き上がろうとするところを、おが み討ちに斬りつけて手もなく首をはねた。  だが、どういうものか、このとき、殺されたのは、島田ではないという宣伝がもっばら行なわれ た。 「よろしい、その儀なら、さらし物にするがよい」  かねて持ち帰ってあった島田の首へ高札をそえて、三条大橋下の河原へさらしたわけである。  これが、天訣の皮切り。つづいて、翌八月二十日には、本間精一郎が、息の根を封ぜられること になった。 姦物本間精一郎  本間は、越後の浪人で、弁口の達者な男であった。土佐の吉村寅太郎が、脱藩した際、長州でゆ くりなく彼にめぐり会った。 「是非、御藩の同志を勧誘したいと思うから、御紹介をたのみいる」  そういうので、吉村は、二通の紹介状をしたためた。一通は、武市半平太宛、も一通は叔父の那 須信吾宛。  本間は、これをふところにして、土佐の国境までやってきた。そして、那須のところへ書面をと どけて寄こした。  吉村にしても、この男にあざむかれたなどとは、毛頭知らなかった。 「本間の演説によって、武市が脱藩するようなことになれば、天下同志のためこの上もない幸福で ある」  そう考えて本問の斡旋に依頼したものらしい。  叔父も、書面を見て心がうごいた。 「時勢は迫っている、しかるに、各藩とも、|因循《いんじゆん》して、いまだ風雲の起こる気配が見えない、かく の如きは御同様、天下のため悲しむべきことである、今日の場合は、率先、身を挺して、臣子の分 をつくし国難に当たるべき時、せつに諸同志の|鰍起《けつき》を望む次第である。躊躇して機を逸するなかれ、 万事は、本間君より御聴取わずらわしたい」  文意は、こうである。  吉村の|添状《そえじよう》を見て、叔父は、じっとしてはいられなくなった《フ 》|。 「何はさておき、わざわざ使いにきた本問氏を迎えねばなるまい」  正直に、そのままうけ入れて、夜、こっそりと国境の関をぬけ出し、本間に会見した。そして、 禁を犯して、彼を|濤原《ゆずはら》の自宅へ案内した。  で、武市宛の手紙は、叔父が自分で届けることにした。 「吉村からの密書でござります」武市に手交した。  だが武市はうごかなかった。 「わしは、本問という男には、会わなくてもよいであろう」 「しかし、私の家に泊めてあります」 「いや、会わぬ方がよいらしい、そのかわりに河野と上田とをやることにする、……彼は名代の弁 者と聞いている故、いずれ脱藩をすすめようが、同意してはいけない、土佐は藩論を勤王にとりま とめた上、正々堂々と京都へ乗り出すことが本願である。」人二人、各自に脱藩して勝手な行動を とって見たところで、それが何になろうというのであるか、彼にあざむかれてはいけない」 「では、先生は本間の勧誘は御断わりになるおつもりでござりますか」 「もちろん、|断乎《だんこ》として拒絶する、そのため、河野、上田をさし出すわけだ」  武市は、会わぬ先から、本間を信用していなかった。  河野|万寿弥《ますや》、上田|楠次《くすじ》の両名は、武市の命をうけて、濤原へきた。そして、叔父を加えて、三人 して、会談したのであるが、最初から武市の意見が拒絶にあったため、話はまとまらない。  流石の弁者も、策をほどこすにところなく、すごすごと引きかえしていった。  武市の|畑眼《けいがん》、驚くべく、その後京都へ出て来て見ると、本間は、ひとかどの志士風をふかしては いるが、内実は今日のスパイであった。  何にせよ、八十余藩のものが、集まっていること故、中には、いかがわしい分子も随分多かった のは是非がない。本間の如きは、正にその」人。  もっとも口では、大きなことをいっていた。 「三|好両嬢《かんりようひん》は、槍玉にあげねば、勤王討幕の実はあがらぬ」  過激な口吻を|弄《ろう》していた。すなわち、三好といったのは、|久我建通《くがたけみち》、|岩倉具視《いわくらともみ》、|千種少将《ちぐさしようしよう》、|両 嬢《りようひん》というのは、右衛門の|内侍《ないじ》、少将の内侍。これらの人々は、所司代酒井|若狭守《わかさのかみ》、老中安藤|対馬守《つしまのかみ》 等とはかって、皇妹和宮親子内親王を将軍|御簾中《ごれんちゆう》として降嫁を願い出る運動を起こしたので、自然 勤王志士の反感をまねいていた。したがって三好両嬢の排斥は、在京志士の共通した目標であった。  本間は、それを口走っていたので、彼を知らぬものは、誰でもつりこまれる。だが、内実は、決 してそうではない、薩長土志士の間に離問策をほどこしていた|曲者《くせもの》である。それがおいおいと同志 の間にも分かって来たので、怪しからぬ奴だと、いきまくようになった。  結局、彼は、同志のため天訣を加えられることになった。彼を倒したのは、薩長両藩の有志であ るが、その中には、刺客の巧者、田中新兵衛と岡田以蔵とが加わっていたのは、申す迄もたい。  八月二十日の夜、先斗町の遊廓からかえるところを要撃されてしまった。首は八尺ばかりの竹に さし貫かれて、四条河原にさらされた。胴は、黒縮緬の羽織に、小倉の|馬乗袴《うまのりばかま》をはいたまま、雨の ため、高瀬川を高辻まで押し流され、杭にくくりつけてあったとのことである。  こうなると、天訣は、一層勢いを得て、九条家諸太夫|宇郷玄蕃《フつザムつげんば》、目明し文吉、与力渡辺金三郎、 同心大河原十蔵、同心与力|格森《かくもり》孫六、いろいろな姦物が、同志の乱刀下に倒れた。そしていちいち、 さらし物にされたので、京洛の名物の一つに数えられた。  翌三年正月二十九日には、千種家の家令賀川肇が襲われた。 「すわ」  物音に驚いて、賀川は、用意してある隠れ場所へ身をひそませた。壮士が、踏み込んだ時は、賀 川の姿が見えなかった。 「お前、賀川をかくしたろう」と、妾を捕えて訊問したが、知らぬ存ぜぬの一点張りであった。 「そんな筈はない」とうとう、妾を縄にかけて、白刃を眼の前につきつけた。 「居所をいわねば一命を申し受けるぞ」  それでも、気丈な女であったと見え、堅く口をつぐんだ。 「よし」と、傍に寝ているみどり子を捕えて、一刺しに刺し殺そうとした。もとより、罪なき嬰児 をやいばにかける意志は、毛頭ないのだが、こうでもしたなら、自白するだろうという芝居である。  果して、妾よりも、賀川の方が、たまらなくなって、姿を現わし、尋常に首を授けたとの事であ る。  賀川の首は、奉書につつみ、白木の台にのせ、 うな添状をつけて、千種、岩倉両家へ送った。 将軍家後見職慶喜の旅館に届け、 両腕は、次のよ 「この手は、国賊賀川肇の手に御座候、|肇《はじめ》儀は、岩倉殿久しく御|姦謀《かんぽう》これあり、わけて御親しき事 ゆえ、定めて御慕わしくもこれあるべく、進上つかまつり候、直に御届けたまわるべく候、(中略) かつまた、少将右衛門両|嬢復位《ひんふくい》のこと、世間その沙汰これあり、万一右様の筋これあり候ようにて は、止むを得ずきっと処置|可仕候《つかまつるべく》このむね両嬢へも早々|御通可給《おとおしたまわるべく》候」  こうなると、二心ある公卿なども、全くいたたまらなくなった。  その頃、河原町の土佐藩邸裏門の門柱にも、|更紗《さらさ》のふろしきにつつんだ生首が一つ捨てられてあ った。これは、千種家に|入好《にゆうかん》した|唐崎村惣助《からさきむらそうすけ》の首で、藩公に対する一つの調刺であった。  でも、容堂は、格別気にも止めなかった。 「今朝、僕が門下へ首一つ献じこれあり候、酒の肴にもならず、無益の殺生、|可憐《かれんか》々々《れん》|」  春嶽へあてた手紙にも、こう見えている。|風懐卓落《ふうかいたくらく》な公は、こんな生首一つで、恐れおののく人 物ではなかった。だが、反勤王の上役人共は、胆を消した。 「藩中、勤王に味方するもののいたずらに相違ない、もってのほかの儀である」  狼狽して、詮議をはじめた。 足利尊氏の木像  さて、天謙が、こう盛んになって来ると、もう手を下すべき何者もない。  私共の同志の間にも天訣が問題になったが、さし当たって、目標とすべき姦物が見当たらない。 「どうであろう、洛西等持院に、足利十三代の木像が置いてある、かかる逆賊の木像をば、寺に祭 っておくのは、不届き至極である、あれに天訣を加えたらどんなものであろうか」  こういい出したものがあった。 「それは面白い、木像の首をさらすのは、いまだかつて聞いたことがない、吾々の手でやろうでは ないか」相談がまとまって、同志三四人の間に申し合わせが出来た。私も、その仲間であった。  日取りを二月二十二日夜ときめて、等持院ヘ潜入し、木像退治を企てようとした。すると、同じ ようなことを考えていた同志があったと見え、私共の実行する前に、一歩先へ、木像の首をはねて しまった。  三輪田綱一郎、|師岡節斎《もろおかせつさい》、|仙石佐多雄《せんごくさだお》、長尾|郁三郎《いくさぶろう》、高松平十郎、和田雄次郎、中島永吉という ような面々。これが、十三代の中、尊氏、|義詮《よしのり》、義満の首を三条河原へさらしたのである。  その立札の文言の中には当時の勤王同志の意中が現われている。 「そもそもこの|大皇国《おおみくに》の大道たるや、ただただ忠義の二字をもって大本とする神代以来の御風習な るに、|賊魁《ぞくかい》鎌倉頼朝世に出で、朝廷を悩まし奉り、不臣の手始をいたし、ついで北条足利にいたり て、その罪悪実に天地に容る可らず、神人ともに訣するところ也、しかりといえども、当時、天下 錯乱、名分|紛擾《ふんじよう》の世、朝廷御微力にして、その罪をただし給うこと能わず、|遺憾悲泣《いかんひきゆう》すべからざる 也、今彼等が遺物を見るに至るも、まことに奮激にたえず、吾々不敏なりといえども、五百年|古昔《こせき》 の世に出でたらんには、生首をひきぬかんものをと、|握拳切歯《あくけんせつし》、片時もやむ能わざる也、今や万事 復古、旧弊一新の時運、ついに不臣の|奴原《やつばら》の罪科を正すべきの機会也、故に吾等申し合わせ、まず その巨賊の大罪を罰し、大義名分を明らかにせんがため、昨夜等持院にあるところの尊氏をはじめ、 その子孫の奴原の影像を取り出し、首はねてこれを|果首《きようしゆ》し、いささか旧来の|欝憤《うつぷん》をはらすもの也」  これだけなら、無難であったかもしれぬが、後の一言が、将軍に当たり散らしたものだった。 「しかるに、それより|爾来《じらい》、近世にいたり、この好賊になお超過し候老、その|党許多《とうきよた》にして、その 罪悪足利等の右に出づ、それらの輩、真に旧悪を悔い、忠節をぬきんでて、鎌倉以来の悪弊を掃除 し、朝廷を輔佐し奉り、古昔に復し、積悪罪をつぐなうの処置なくんば、満天下の有志、ついに大 挙して罪をただすべきもの也」  こういうので、三日間さらしものとし、取りすてるものがあれば、罪科を行なうということ迄つ け足してあった。今の言葉でいえば、示威運動である。 「かさねがさね、|不将《ふらち》至極のことをする浪士どもである」  守護職松平|容保《かたもり》は百方手をつくして、木像昊首の犯人をさがした。  そのあげく、中三日おいて、二十六日に、三輪田以下十七人の同志中十一人が|縛《ぱく》についた。|仙石《せんごく》 と高松とは、その場で斬死をした。  これは、会津の|諜老《ちようじや》が、同志中にいたため、同志の行動が、つつぬけに、守護職の耳に入ったわ けである。すたわち、木像の首をさらし物にしたという事実は、表向からいえば、ほんの子供だま しのいたずらにすぎたい、さりながらその真意は、高札にもある如く、足利の暴悪政治をもって、 徳川のそれに擬したのが、よほどの痛撃らしかった。そこで、守護職松平容保は、これを厳罰に行 なおうとしたが、困ったことには、よるべき先例がない。  窮余の一策。 「足利尊氏、|義詮《よしのり》、義満は、あるいは太政大臣たり、あるいは左大臣たり、朝廷より|至高《しこう》の官位を 贈られている、これらの高官の木像に対し狂暴をたくましゅうするは、とりもなおさず、朝廷をな いがしろにするものである」  こういう理窟をつけた。  勤王党の有志は、憤然として起った。 「そういう馬鹿なことはない」  よりよりに相談をして、木像臭首の同志を救い出す運動を起こした。土州の吉村寅太郎、長州の 入江九一、同じく|山県小輔《やまがたこすけ》(有朋)が、連名をもって、嘆願書を学習院へさし出した。 「官位あるものの首をはねるということが、朝廷を軽蔑するという事であれば、井伊大老の首をは ねた桜田浪士は、どういうものでござるか、彼等は、昨年大赦に会うているではないか、この度の 浪士のものも足利氏の大逆をにくみ、名分を正しゅうする考えからおこしたものであって、そこに 一点の私心もない、桜田の浪士が、|掃部頭《かもんのかみ》を打ち取ったのと同様である、どうか、高官のものとい えども、罪悪あるものはこれを罰し、無官のものといえども、忠勤をつくしたものはこれを賞し、 名分を明らかにしていただきたい、そうでないと、高官のものは悪事をしがちになり、無官のもの は、忠勤をつくしても、高官の罪悪者に劣るというなりゆきになると考える」  いうところの意味はざっとこうである。  学習院の参政|寄人《よりんど》などは、これに賛成であった。しかし、幕府側では、あくまでも、朝廷を蔑視 したものであって、その罪軽からずという意見をとって動かたかった。したがって、三輪田以下の 浪士を許しそうもなかった。  会津の|柴秀治《しばひではる》、秋月|悌次郎《ていじろう》などは、学習院へ押しかけて、威嚇運動をはじめた。まかり間違った ら、学習院の国事掛を斬り殺しても、言い分を立てようという見幕である。  私どもも、黙ってはいなかった。大橋慎三、古沢|滋《しげる》、この二人、老中板倉|周防守《すおうのかみ》の邸を叩いた。 「じきじきにお目にかかりたい」会見を申し込んだが、もとよりこっちは|草葬《そちつもう》の書生、先方は、天 下の老中職、てんで眼中にないと見えて、会おうとはしなかった。 「奇怪至極である、関白殿下さえも、吾々志士と膝つきあわして、天下の時事を談ずる時勢である。 それが何だ、閣老のくせに生意気だ」  古沢のごときは、怒気を含んで、下駄ばぎのまま、つかつか座敷に上がろうとした。  先方でも驚いていたようだが、何としても、拒んで座敷にあげなかった。  やむを得ず、引きかえしてきた次第であるが、木像事件は、こうして、はしなくも、意外なとこ ろへ波瀾をまき起こした。  釈放せよ、釈放出来ぬと、佐幕派と勤王派とは、にらみ合っていたが、長藩の世子毛利定広も朝 廷に上書して、赦免の儀を中し立てたので、事はむずかしくなった。そのため、幕府側でも、処分 に窮し、結局、しまいには、折れて出た。 「足利木像昊首のもの、元来は死刑に相当するのであるが、情状を酌んで、軽きに従い、領主預け にするがよい」  全く釈放するとはいわなかったが、ともかくも、勤王派の意見に動かされた。すなわち厳罰に処 して、大いに幕威を示そうとした幕府側の魂胆は、実行が出来なかった。  これは、吾々同志の力がある程度まで、幕府を抑えつけたもので、勤王運動に一点の|曙光《しよこフつ》を見出 したものといってもさしつかえない。 将軍家茂要撃計画  足利木像の昊首は、将軍家茂上洛前の出来事で、これによって、幕府に一つの威嚇を与えようと いう意味合いも含まれていた。  とこうしているうちに、将軍京都に上洛したのが文久三年三月四日。三代将軍家光この方、徳川 家は関東にいて、位官の宣下はうけても、歴代、入朝しなかったのだが、今度はいよいよ、|天機奉 伺《てんきほうし》のため上洛することになった。  将軍は、七日参内。これまで通りに、政権の御委任があった。  つづいて、賀茂両社の行幸の御沙汰があったが、勤王党は、これによって皇室の尊厳を発揚しよ うと企てた。  |有栖川宮《ありすがわのみや》、|近衛前関白《このえさきのかんぱく》、|公卿百官《くげひやくかん》、|雇従《こじゆう》し、将軍も、馬上にまたがり、諸侯をひきいて、前後を 警衛した。当時にあっては、非常な盛儀であって、吉村寅太郎の郷里に送った書面にも「自然と涙 にしずみ、ひたすら平伏し、つまびらかに存じ申さず、おいおい他人より、うけたまわり候えば、 |玉簾《ぎよくれん》に天顔を拝し候趣き、この日御道筋へまかり出候老若男女四十万と申すことに御座候、いずれ も涙を流し申し候」とある。  この事実を見せつけられた群集には、君臣の別がハッキリと分かったに違いない。いわば、この 行幸は、庶民への実物教育である。 「いよう、征夷大将軍!」  高杉晋作がいきなり人ごみの間から大声をあげて、馬上の将軍を一|睨《げい》したのも、この時である。  陛下、御拝の間、親王将軍、みな階下のむしろの上に坐っていた。  おりあしく雨がふり出してきた。だが、将軍といえども、この場合、座を立ちのくことが出来な い。衣冠束帯のまま、雨にぬれているしおしおとしている光景は、まことにこれ、天のなせる絶好 の皮肉である。  天下に、公方よりほかにえらいものはないと思わせていた将軍の威厳も何もあったものでない。 「上さまは、京都で侮辱なされた」  関東では、留守居の閣老が、涙を流したといわるるが、あるいはそういうこともあったであろう と思われる。  そのうちに、江戸からは、急報がひんぴんと到来した。  というのは生麦事変のため、英国公使から厳重な談判をうけていた。これは、前年八月薩摩の島 津三郎のお伴さきを横切った英国人を藩士が斬殺した事件で、将軍上洛中の江戸市中は、一般に不 安な雰囲気につつまれて、今にも大事変が突発しそうな気配である。 二時も早く御東帰遊ばされるように願いたい」  閣老は、すぐにも、将軍を江戸へ引きもどそうとした。  ところが、朝廷におかれては、壌夷の日限を定め、幕府をしてその衝に当たらしめるため、将軍 に勅を下したもうたにもかかわらず、今ただちに帰東されては、穣夷の実が上がらない。  内々、|鷹司《たかつかさ》関白まで御帰東を御願いしたが、御許しが出なかったのである。けれども、実をいえ ば、幕府には撰夷の意志はなかった、この急迫した場合、とも角も、公武合体ということにして、 一時を|弥縫《びほう》するよりほかにみちはなかった。で、是が非でも、東帰を断行しようとした。  三月十九日、将軍家茂は、参内して、またまた東帰を|奏請《そうせい》した。  こうなると、吾々同志といえども、承知が出来ない。 「けしからぬことである、陛下の御言葉にそむいて、東帰しようというのは、臣子の分を忘れてい る、その儀ならば、|一泡《ひとあわ》ふかせてくれる」  血気の面々、ことに、長州の高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎、土州では平井収二郎をはじめ末 輩の私どもにいたるまで、総立ちになった。 「詔勅にそむいて、将軍東帰と決まったなら、三条大橋に要撃して、一刀の下に息の根を止めよう ではないか」  秘密のうちに計画をめぐらしていた。  その時、平井が、私共を長州の久坂等に紹介した書面がのこっている。  いよいよ|御清適《ごせいてき》、|可被成御座《なさるべくござ》候や、のぶれば左の者、異体同心、暴発組の面々に御座候間、何事 も御|腹蔵《ふくぞう》なく、御談合下され、まずまず|御心添奉《おこころぞえねがいた》 |願《てまつり》 候。そうそうかくの如に御座候。頓首拝。   念四日                              鳥羽謙三郎                              井原応輔                              浜 田辰弥                              野々村庄吉                              橋本鉄猪                              土居左之助    久坂玄瑞様    寺島忠三郎様                              平井収二郎    吉田栄次郎様         侍  史 維新後、|揖取素彦《かどりもとひこ》君に会った際である。 「自分のところに、土佐の平井の手紙があるが、君の名前も出ている」 そういわれても、どういう書面かと、実は不審に思った。 「見せて貰えまいか」 「よろしい、御覧に入れる」と、損取君は、さっそく、郵送してくれた。すると、この暴発一件の 紹介状であった。  どういうわけで、これが、揖取君の手にあったかといえば、久坂の死後、彼は、その未亡人すな わち松陰先生の令妹を妻女に迎えたため、自然、これが同家に保存されていたものと見える。 「これは珍しい、是非、貰いうけたい」と、特に請うて、今もなお、私の手元に残っている。  私どもの将軍要撃の陰謀は、幕府の要路者の耳に入ったらしかった。こちらはそういうことにい っさい頓着なく、計画をすすめていた。  果然、将軍は東帰の中止を発表した。そのかわりに、水戸中納言|慶篤《よしあつ》を東下せしめて、戦備をお さめしめ、みずからは、京都に止まって叡慮に副いたてまつるということになった。  しかし、もし、しいて将軍が東帰を断行することになったら、万延元年三月三日の桜田異変のご とき騒動を起こすことになったかもしれない。折から、京洛は春。満城の花、一時に開いて、風な きにハラハラと散る頃おいである。一死報国、これ以外には胸中何物もたかった当時の私どもは、 いさぎよく|剣尖《けんせん》に一命を賭し、笑って地に入る覚悟だった。すべてこれ、六十三年前のこと、今に してこれを想えば、まことに、夢一場の感にたえない。 八月十八日の政変 青蓮院宮の密旨  私どもの暴発組同志の噂は、 折から、 上洛中の主人深尾|鼎《かなえ》の耳にも入った。 八月十八日の政変 「君公に対して、何とも申しわけがない」  そういうわけで、せっかく国を出てきた私どもは、主人から|諭旨《ゆし》帰国の命をうけた。帰らぬと頑 張る事も出来ず、とも角も、一旦、命を奉じて、国へかえることにしたのは、四月に入ってからで ある。  土方左平、鳥羽謙三郎等と、いよいよ京都を立つという前夜は、長州の高杉晋作、薩摩屋敷にか くれている叔父の那須信吾等が、別れの宴を催してくれた。  先輩の平井収二郎も、同じく私どもより前に国へかえされた。  これは、藩庁に召捕られたのであった。  平井は、京都では武市半平太とともに、藩の双壁、いわば勤王運動の中心人物であった。 「どうも土佐の藩論が、|因循《いんじゆん》でいかぬ、何とかして勤王でかためるようにせねば、このままでは心 もとない」  彼は、そういう意見だった。  そこで、同藩の間崎哲馬、広瀬健太と三人で相談した。 「この上は、大老公(山内|豊資《とよすけ》、|号景翁《ごうけいおう》)を動かす手段を講ずるが一番よろしい」 「それにはどうすればよいか」 「手っとりばやく、宮さまのどなたからか令旨をいただいて、内々入説するよりほかはあるまい」 「そうとすれば、誰がよいか」 「青蓮院宮さまが適当だろう」  三人の間には、こういう内談があった。青蓮院宮は、彼等も、常に出入りして、最も|知遇《ちぐう》をかた じけのうしていたため、直ちに宮をうごかしたてまつりて、令旨を入手しようとした。  三人して、参殿して、秘かに言上したところ、宮は快く御引受けあそばされた。  四月十七日の平井の日記に、この一条が明らかである。 「宮一封の書を両士(間崎、広瀬)に授けて曰く、国に帰りて、これを|景翁《けいおう》(豊資)にいたせ、時勢 切迫、よく予の意をもって、景翁にさとし、容堂父子をして後顧の憂なからしめよと、両士、初め て宮の英適を知り、|井舞踊躍《べんぶようやく》して去る」  吾事成れりと喜んで、間崎、広瀬がとりあえず、この令旨をふところに、国へ帰った。  だが、この運動も、思惑通りには行かなかった。かえってあべこべに秘密の底がわれて、密旨事 件の内容が、容堂の耳に入ったからたまらない。 「陪臣の分際で、出過ぎた振舞いである。きっと詮議をいたせ」  厳達を下した。そのため、平井をはじめとして、間崎、広瀬の同志が、捕えられることになった ので。  私どもは、初めから平井の旅宿に同居していた。そんな関係で、いよいよ国もとへ送らるる際に は彼は秘蔵の縁頭を私の手にわたした。 「自分は、利刀を手に入れたあかつき、これを飾りにし、姦物の頭に加えようという考えであった が、今となっては、万事休した、よって、記念として貴公に贈る」 「では、御言葉にあまえて、私が頂いておきます」  平井から貰ったこの縁頭は、赤銅に波と千鳥とを彫ったものであった。  私どもは、伏見大坂、兵庫をへて、備前下津井から丸亀にわたり、北山を通り高知についた。久 しぶりで、故郷の土をふんだのだが、私の胸をついて迫り来るものは、城北久万村に幽居している この平井の身の上である。 「何をおいても、安否をたずねねばならぬ」  すぐさま、平井のところへ駈けつけた。 「おう、君もかえってきたのか」  平井も、喜んで迎えてくれた。  その後といっても、ほんのわずかの間だが、平井出立後の京都の形勢を語っている折から、絹を 裂くようなほととぎすの声が耳に入った。  平井は、筆をとって、和歌を一首。    思うことなからましかばよそにのみ        きくべきものか山ほととぎす 「どうだな」  私に、|即吟《そくぎん》を示した。 昔、宋に、|郡確《しようよう》という道学の先生がいた。客と二人して、天津橋上にさしかかると、頭上高くほ ととぎすの鳴くのを聞いて、はっと驚いて、胸を痛めたとある。 「どうして、あなたは、ほととぎすの声をきいて、愁に沈んでおらるるか」  客が不審に思って、こうたずねた。 「天下、みだるるの兆あるが故である」 「してまた、それはどういう次第か」 「天下治まる際には、地気、北より南に至る、しかし天下乱るる際は、地気が南より北に来る、ほ ととぎすは、もともと、南の鳥で洛陽にはいない、およそ鳥類というものは、気の先きを知るもの であって、今、ほ乏とぎすが南から北に来たのは、とりもなおさず、地気の南より北するものだと 見ねばならない、故に、わしは、快々として楽しまぬ次第である」  そう答えた。私も、この時、ふと、この話を思い出したが、国事を憂うる平井にとっては、この ほととぎすの鳴くのが、天津橋上におけるそれとひとしく、何とはなしに、腸に泌みたものらしい。 硬骨の姉小路卿  私どもが、国もとへ引きあげると、間もなく五月に入って、京都にはまた、一大事変が突発した。  これは勤王史上、重大なる事柄である。すなわち、右近衛|権少将姉小路公知《ごんのしようしようあねこうじきみとも》卿が、何者かに 暗殺された。  公知卿は、三条実美卿と並び称せられた公家|糟紳《しんしん》中の少壮急進家であった。体は小兵だったが、 気骨精桿、三条公とは、尊王倒幕の意見が一致していたため、絶えず往来していた。  三条公が二つばかり年上で、この時二十七歳、公知卿は、二十五歳、血気さかんな頃であった。  三条公は色が白いが、姉小路卿は、色が真黒であった。 「自豆と黒豆」  その頃、戯れに、そういわれたくらい。  公家中の硬派であって、ぐんぐんと自己の意見を主張するにはばからなかった。民間志士も、卿 をたよりにして、たえず屋敷に出入りしていた。武市などは、京都滞在中は、事ごとに、相談にあ ずかっていた。  当時、将軍上洛して、撰夷の期限も、ようやく決まったが、幕府の有司は、とんとこれを実行す る気配が見えたかった。後見職慶喜も辞表をさし出し、英国へは、生麦事件の償金を付与するし、 まるで最初の声明を裏切っているような有様、ただこの間にあって、壌夷を実行したのはわずかに 長藩だけであった。  そのため、|廟議《びようぎ》も、だいぶ紛糾した。ことに、公知卿のごときは、よほど手硬い意見を吐いた。  五月二十日の晩も、廟議が長びいて、卿が、退朝したのは、四ツ半(午後十一時)過ぎていた。  卿は、徒歩で朔平門外にさしかかった。前には、箱|提灯《ちようちん》をさげたお伴が一人、卿の右手には雑掌 中条右京が従い、左手には、同じく太刀持金輪勇がつきそい、後方に|沓持《くつもち》のお伴をつれて、邸へも どる途中である。今ちょうど|有栖川宮《ありすがわのみや》様北の方御住居御殿の角を曲ろうとした一刹那。  いきなり駒寄せの蔭から、覆面の男が躍り出した。  少将殿を目がけて、自刃一閃。 「ええい」  斬り込んだ。見ると、その同志らしいのが、また二人、闇にもしるき抜身をふりかざしてかかっ てくる。卿はとつかわ手にしていた末広をもって、打ち込んできたのを受け止めながら、叫んだ。 「シッ、太刀をもて」  この時提灯を持づていた下郎と、沓持とは、おじ気立って、逃げ出した。  何事ぞ、太刀持の雑掌までもこの下郎と一緒にあわをくって逃げ出したため、卿が、太刀をよん だ時には姿が見えなかった。 「狼籍者」  右手にいた中条右京だけが、ただちに、斬り込んで来た奴に、一太刀参った。  見ると、少将殿は、のこる二人の曲者の襲撃をうけて、たじたじとなっている。卿は、金輪に長 刀を持ってゆかれたため、手元には小刀しかなかった。  右京は、ただちに乳き返し、この二人を相手に斬り結んだ。彼等も、少将殿をそのままにして、 右京に向かってきた。  彼は、闇をすかしたがら、一二間、じりじりとあとずさりをすると、彼等は、またしても、|執念《しつこ》 く傷ついた少将殿に迫りよる。 「こいつ」  右京は、たまりかねて、彼等の一人の手元に躍り入り、少将殿とともに力をあわせ、その刀を奪 った。彼は、ついに逃げ出した。のこる一人とわたりあい、右京は、敵の右脇下へ切り込んだが、 これもかなわじと思ってか、闇に姿をくらました。  逃げながら、曲者はさっと身をかえし、足早に逃げ出そうとしたので、右京は、これを追跡した。 「やッ!」  闇にひらめく一道の電光。逃げながら、曲者は、持っている抜身を右京に投げつけた。  はっと思った瞬間、右京は、すばやく身をかわしたため、かっとして、響をなし、落下した刀の きっ先が彼の右足を傷つけた。 「おのれ、待て」  追跡しようとしたが、なにぶんにも、少将殿の傷が気にかかる。 「御気をたしかになされませ、曲者は逃亡いたしてござります」  かたわらへかけつけると、卿は、曲者から奪い取った血刀を杖ついていたが、もう|気息奄《きそくえんえん》々とし ている。 「右京、肩をかせ」 「かしこまりました」  彼は、自分の血刀と、奪いとった曲者の刀とを抜身のまま、左手にもち、右手を少将殿の傷所に あてて、二人抱きあいながら、そこから五六町ばかり先の姉小路邸ヘ引きあげた。  卿は重傷であった。ことに、両頬および胸部に深手を負い、全身血不動のように紅にそまって、 屋敷の玄関口に立った。  屋敷へ引きあげるまでは、気丈な性質故、しっかりしておられたが、急に安心されたと見え、気 にゆるみが出て、そのままあえない最期を遂げた。  この争闘の模様は、右京から後に国もとへあてた書面によって明らかである。  私どもの同志の一人である土佐の土方楠左衛門(後の久元)は、肥後の山田十郎(後の信通)と二 人で、この日、卿の屋敷へ推参した。 「今日は、御所で、大会議がある、後見職慶喜も出てくるらしいから、よほど、話がもつれるよう である」  そういう家司の話であった。 「では、後刻、御退出後、改めてお伺いいたします」  二人は、引きかえしてきた。で、夕飯をしたためてからまた出かけた。 「まだ御帰館にならぬが、ことによると、今晩は遅いかもしれぬ」 「いたし方ない、しからば明朝参ることにいたします」  やむを得ず、三条通りの宿へもどってくると、間もなく屋敷から|跡見典膳《あとみてんぜん》(花践の父)が、あわ ただしくかけつけた。 「大変が起こりました、ただ今主人が賊のため、非常な怪我をいたしました、すぐおいで下さい」  狼狽しきっている。 「とも角、すぐに参る」  土方は、仕度をしてはせ参じた、山田も、つづいた、長州からも有志のものが、驚いて飛んでき た。だが、その時はもういかにせん、卿は、物いわぬむくろとなってしまった。  その夜は、三条公も、刺客にねらわれた。  両公は公卿門外で別れた、姉小路卿は北より、三条卿は南より、それぞれ邸にかえった。三条卿 の|輿《こし》が、清和院門を出ると、ちょうど向い手の仙洞御所の塀ぎわに三人のあやしい影がうごめいた。 三条卿は、中川宮邸へ立ち寄るわけであったが、この時、突如。 「今、何時頃か」  輿わきにいた戸田|雅楽《うた》(後の尾崎三良男)にこうたずねた。 「もはや夜半でござりましょう」 「それなら、もう遅い、中川宮邸へ御立寄りするのはやめて、邸へ引きあげよ」  輿の中で、卿はそういった。で、すぐさま路を転じて、帰邸した。実は、戸田が卿から時間を訊 かれた時は、まだ夜半ではなかったのだが、いつわりの答えだった。それで、三条卿は、危ういと ころを助かったのだと聞いている。  はたして、学習院門前には三条公を罵る貼紙がしてあった。 「転法輪三条中納言、右の老、姉小路と同腹、公武御一和を名とし、実は天下の争乱を好み候者に つき、急速辞職隠居致さざれば、旬日を待たず、天訣を加え、殺敷せしむべき者也」 思うに、これも、姉小路卿を要撃した兇徒の仕業に違いたかった。 手がかりの白刃 卿が、暗殺されたことについては、いろいろな流言が行なわれた。 「姉小路少将は、撰夷急進論者であったが、摂海防備監察の際、幕府軍艦に搭乗して、|紀淡《きたん》の間を 巡航した、その際、軍艦奉行勝安房から撰夷の無謀なことについて、さんざん意見をされた。卿は、 もっともだと思った、そこで、撰夷論者が、急に開国論者と変節したため、長州人が狼狽した結果、 これを害するに至ったのだ」  そういう説もある。 「いや、卿は、|操守堅固《そうしゆけんご》である、安房守に意見されたからといって、急に寝返りを打つような人で ない、卿が、|兇刃《きようじん》をこうむった原因は、他にある、すなわち、時の関白近衛|忠煕《ただひろ》公の勢力をくじい たからだ、というのは、近衛家は、薩摩の島津家とは深い関係にある、したがって、どうしても、 薩摩びいきになるところから、あれは、薩摩関自だといわれたくらい、卿は、この近衛公を圧迫し たので、薩摩からにらまれたのだ」  こういう反対説もある。  いずれをどうと、ハヅキリ断言することは、今となっては、はなはだむずかしいが、卿が寝返り したというのは虚伝である。  当夜、兇徒から奪いとった刀は、|銘奥和泉守忠重《めいおくいずみのかみただしげ》、長さ二尺三寸、幅一寸一分、その八分ばかり |禰鮫《つかさめ》黒塗、皮色|平巻《ひらまき》、|目貫《めぬき》なし、頭鉄にて、「藤原」と高彫りがしてあり、縁鉄にて裏に「英」、 表に「鎮守」という文字がある。|切羽《せつぱ》、|鋼《はぱき》、|鍍金摺《めつきずり》はげて、|鉄鍔鉄無地木瓜《てつつばてつむじもつこう》である。  忠重は、薩摩の刀鍛冶、こしらえもつくりも、皆、薩摩風であった。のみならず、現場にのこし た下駄も、薩摩人のはくものであった。 「これは薩摩人だ」  ほぼ、推定された。  この時、叔父の信吾は、薩摩屋敷にかくれていたため、同藩士とは、近づきがあった。 「那須をよんで、鑑定させるがよい」  姉小路家では、そういうわけで、こっそり叔父を屋敷へまねいた。  叔父は、参殿して、血のついた刀を見ると、驚いた。 「これは、確かに見覚えがあります、田中新兵衛の刀に相違ありませぬ」  そう明言した。この一条も、叔父の書信中に見えている。  田中は、暗殺の名人、それならてっきり、彼であろうと、|伝奏坊城俊克《でんそうぽうじようとしかつ》卿に向かって、そのむね 報告した。  伝奏は、会津藩に命じて、田中を捕縛せしめた。それが二十六日、会津藩士外島機兵衛は、捕卒 を引きつれて、東洞院通り|蛸薬師《たこやくし》にいる新兵衛をとらえた。同宿の|仁礼《にれい》源之丞(後の景範)、家来藤 田太郎も、ともに拘引された。  俊克卿は、これ等の嫌疑者を会津藩へ預けようとしたが、藩では引き受けなかった。 「会津は、守護職である、守護職は、さようたものを預かる役向きではござらぬ、町奉行所へ御差 し回しあれ」  そういうので、結局、町奉行へ護送された。町奉行永井主水正が、取調べをするはずであった。 ところが奉行所同心が、まず田中の帯刀を預かろうとした。 「公規でござる、御刀を御渡し願います」 「いや、刀は武士の魂だ、渡すことはまかりならぬ」  新兵衛は頑として聞き入れず、帯刀の格をもって、鎗の間に通された。すると、すきを見て、新 兵衛は、短刀をすらりと抜いて、ぐさと脇腹に突き立てた。切っ先は、背部を貫いた。  でも、まだ死ねなかったので、彼は、これを再びぬいて、もろ手をもって頸にあてて引いた。刀 身咽喉に及んで、初めてがばと前に倒れた。  同心も、驚きあきれて、しばらくは手が出せたかった。  せっかく、捕え来った嫌疑者に対し、まだ一言の取調べもせぬ間に、こういう事になってしまっ た。したがって、事件は全く手がかりを失った。  主水正は、死体を塩漬にして、所司代及び守護職に報告をした。そのため不注意千万とあって彼 は、閉門謹慎に処せられた。  しかし、新兵衛は何のため、奉行所で自刃したのか、全く不明だ。 「あれは、祇園で遊興中、何者かに偲刀をぬすまれた、そのため、思いもかけぬ嫌疑をうけたので、 一気に武門の恥辱と思うた、よって藩風を重んじて死んだのであろう」  そういうものもある。 「そんな馬鹿なことはない、嫌疑をうけたなら、なぜ正々堂々と言い開きをして、無実の罪を明ら かにしないのか、余程おかしなわけである」  こういう意見も出た。  結局、彼の死は、今もって疑問になっている。  犯人は、薩州の田中新兵衛らしいということに一決すると、在京の各藩有志は、薩藩を眼のかた きにした。  十八藩の有志は、公知卿の菩提寺、寺町今出川通り南浄華院に集合して、議論をたたかわせた。 「薩摩は九門内の往来を差し止めたがよろしかろう」  反対者もあったが、こういう事に一決して、これを奏請した。今まで、薩摩が|乾門《いぬいもん》の警衛をして いたのが、この事件のためついに御免になった。  一時、薩長両藩の間に、感情のへだたりをきたしたのは、実にこれがためである。 会薩連合  姉小路家の雑掌金輪勇は、主君の危急を見すてて、刀をもったまま逃亡した。いかにも、不臣の いたりとあって、ただちに牢獄に投ぜられた、のち、首を斬られたが、主君をかばいながら奮闘し た中条右京は、白銀五枚を|下賜《かし》された。 「主人路上横難の際、身命をなげうって、忠節をつくすの儀、神妙のいたり、|叡感《えいかん》あらせらる」  鷹司関白を通じて、こういうありがたい御談をたまわった。  この際、私は、国もとにいたため、京都の事情は、目撃はしていなかった。しかし、事実をいえ ば、この前後が最も多事多難の時であった。倒幕派と佐幕派とが、まんじ巴のように入り乱れて、 戦った時代である。  幕府には、どうしても、撰夷の意志がない、ほんの一時を|糊塗《こと》しようという下心が、草葬有志の 間にも、ハッキリとわかってきた。  そこで、起こってきたのが、撰夷御親征の論である。これは、久留米藩の志士|真木和泉守《まきいずみのかみ》等のも っばら主張したもので、長藩の久坂玄瑞、佐々木|男也《おなり》、肥後の|轟武《とどろき》兵衛、|宮部鼎蔵《みゃべていぞう》、土佐の武市 半平太、吉村寅太郎などは、みな同論であった。  国事係の堂上家も、事重大なるため、容易に決しかねていた。ところへ、長藩の国家老益田右衛 門介が、毛利公父子の意をうけて、上洛した。  益田の建策というのは、次の三箇条。  一、外夷に対し、すでに|兵端《へいたん》を開いた上は、御親征として、石清水へ出御あらせられ、勅を諸国  へくだし、勤王の兵を徴募せられて、御指図をもって掃撰を仰せつけられたい、将軍においても、  右御指揮をうくること当然たるべきこと。  一、皇太子を|冊立《さくりつ》させられ、堂上方の人材をもって補佐し奉ること。御入費を要する儀なれば献  金も苦しからざること。  一、違勅の幕吏諸侯に対して、十分に説諭を加え、理不尽に反抗するものあれば、我等父子勅命  を乞うて、|鷹懲《ようちよう》の実をあぐべきこと。  この時、長州では、馬関において、外国軍艦を向こうへまわし、火ぶたをきっていた矢先ゆえ、 その勢いもまた鋭かった。  それやこれやが動機になって、ついに大和行幸が仰せいだされた。 「今度撰夷の御祈願として、大和国へ行幸、神武帝の山陵、春日神杜へ御拝、しばらく御逗留あっ て、御親征の軍議あらせられ、その上にて神宮へ行幸の事、仰せいだされ候事」  勅文が下ったのは八月十三日。  こうなると、佐幕派は、じっとしていられたくなった。  悪宣伝は、洛中洛外にさかんに行なわれた。 「今度、天子さまが、大和へ御出ましにたるのを知っているか」 「それは聞いている、いよいよ毛唐人を追払うについて、おそれ多い事だが、関東の役人は頼みに ならぬによって、御親征遊ばされるということだぞ」 「何のそこには、魂胆からくりがあるのだ、知らないのだろう」 「そりゃ初耳だ、どういう事かい」 「今度の行幸については、三条さんが御骨折だそうだが、この方の後方には長州という黒法師がい る、一にも二にも、長州のいうことなら、御聞きなさる、……で、まア、天子さまが大和へ御出ま しになれば、京都はしばらく御留守ということになる、そこをねらって、長州一味のものが、京都 を焼き払ってしまうのだそうだとよ」 「へえ、そんなことを、どこから聞いて来たか、なるほど、そういわれると、そんな気がする、つ まるところ、そのため天子さまをそっと外へ御移し申そうというのだな」 「その通りさ」  こういう根もない流言が、どこからともなくひろまってきた。 「こりゃこうしてはいられぬ」  洛中の老若男女、今にも、御膝元に一大争乱の渦がまきかえすように早のみこみして荷まといを して避難するものさえあった。  佐幕派は、この間にあって、たくみに暗中飛躍をした。ことに、会津は、薩摩と手を握ってしま った。  薩摩中には、吾々の同志も沢山いる、事実また、勤王倒幕の有志も、随分いる、さりながら、藩 論としては、土佐と同様、これというしっかりしたまとまった意見はなかった。  で、長州の勢力が、強大となって、天下に号令するような気運の見えるのを喜ばなかったという こともあった。かつまた姉小路卿暗殺事件のため、乾門の固めを解かれたことに対して、その|雪冤《せつえん》 をせねばならぬということもあった。  そのため、自然、会薩が、両方から歩みよったものらしい。すなわちいいかえると、両藩は排長 という点において、ゆくりなくも一致したわけである。  一方、大和の行幸は、着々として準備された。芸州、因州、その他十数藩に|供奉《ぐぶ》を命じ、加賀、 肥後、薩摩、長州、久留米、土佐等の藩主へ御親征軍議費として、金十万両調達の儀を申し付け八 月二十七日をもって、京都御|発賛《はつれん》というところまで漕ぎつけた。  私どもは、国もとにいて、はるかにその盛儀を切望していたにとどまる。  しかるに、八月十七日子の刻、中川宮をはじめ、近衛、二条卿、松平容保、稲葉長門守には急に 参内して、何事かを奏上したてまつった、その結果は、会薩二藩の兵が参内して、御所の九門を閉 じ、鷹司関白をはじめ、宮堂上といえども、お召にあらざるものには参朝を禁じた。  明くれば十八日朝、関白以下三十一卿の参朝停止とともに、長藩境町御門御護衛も御免となった。  一晩のうちに、がらりと変ったのである。勤王派の公卿諸公は、ことごとく排斥されて、佐幕派 の手によって、廟議を左右しようというのである。  疾風迅雷、誰も全く意外で、初めは何が起こったのか、知らぬものが多かった。  土方たどは、朝になって、何やら戸外が騒々しいので不審に思った。 「どうも、おかしい、見て来い」  下僕にそういいつけたそうで。 「よろしゅうござります」  表へ出て見たが、さっばり分からない。ただ町内がざわついているだけだった。 「何か起こったのか」 「さア、分かりませんね」  路ゆくものに聞いても、要領を得ずして引き返してきた。 「どうしたのだ」 「ちっとも容子が分かりません、けれど何か大事変が起こったものと見えます」 「それは、おかしい、こうして、いられないぞ」  あわてて、食事をすまして、とりあえず三条公の邸へ馳せ参じた。  各藩有志の面々が、みた集まっている。 「どういう次第か」 「いや、拙者どもに分からんが、三条公が参内御停止になったそうで……」  それくらいの事しか分からなかった。  だんだん聞いて見ると、全く意外、会薩二藩の兵が九門を堅めて、他藩のものは一歩も通さぬと いう有様。これが、八月十八日の政変である。  尊王倒幕の有志の一人々々が苦心惨鷹して、ようやく撰夷御親征という段取りまではこんだ折も 折、きわどいところで、足をさらわれた。  この時、三条公は、御親兵の総督だったので、各藩の兵が三千余人も、一度に邸につめかけた。 「けしからん次第である」  みな、怒髪、冠をつく勢い。 「昨日まで、天朝の寵遇をこうむっておいでなされた御方が、一夜の中に、御信任がなくなるとい う事はない、ことに、賊藩といわるる薩摩が九門の堅めを仰せつけられるなどは、一円合点が参ら ぬ、君側の姦を排するためには、吾々、いつでも御馬前に討死をする覚悟である、堂々と御参内を なさるようにおすすめするがよい」 「いや、それはよろしくたい、そうなると、戦争になる」 「}戦、また辞する所にあらず、結構ではないか」 「場所がわるい、宮城に向かって、大砲をむけるというのは、事のいかんにかかわらず、つつしま ねばならぬ」  議論はまちまちであった。  結局、参内をさし止められた公卿諸公は、鷹司邸へ参集し、その日の夕刻、妙法院に引きあげた。  ここでも、主戦、非戦、各自の間に論争が行なわれたが、とど、三条公以下の七卿の長州落ちと なった。  そのため、勤王倒幕運動は、一頓挫を来したかのごとく見えるが、事実は、決してそうでたい。 この政変のために、各藩有志はかえって、奮然として奮い立った。  なんにせよ、私は、政変当時は、国もとで小さくなっていた。したがって、真相は分からなかっ たにしても、おいおい事の顛末が判然とするにつれて、こうしてはいられぬという気が盛り上がっ て来たのは事実である。  ことに、我藩においても、有力なる先輩の諸有志が、陸続として惨ましい最期を遂げた。  それを眼のあたりに見せつけられていると、どうしても、再び、脱藩して、この運動のため身命 をなげうたねばならぬ気になる。  この前後、土佐では、第一の犠牲になったのは、平井収二郎、広瀬健太、間崎哲馬の三人。つづ いて、我が師武市半平太である。私は一応それを語らねばならない。 柏章旗下の三烈士 平井収二郎の切腹  青蓮院宮から密旨を賜わる運動をした平井収二郎、 間崎哲馬、広瀬健太三人の中、 平井だけは親 柏章旗下の三烈士 類預け、あとの二人は、獄中に坤吟していた、ところが、五月二十三日(文久三年)になって、平 井は急に、監察方から呼び出しをうけた。  彼は折から病中であったため、出頭がいたしかねると、一応断った。すると、つぎの日、藩庁の 役人が来た。 「駕にのって、出頭して貰いたい」 「それなら、参る」  いずれ取り調べの筋があるのだろうと思って、平井は、その駕にのって、出頭して見ると案に相 違、一言の吟味もなく、また一応の訊問もなく、そのまま、獄屋へぶちこまれてしまった。 「何という無情ないたし方だ」平井も、切歯したが、今さら、いたし方はない。こういう次第なら、 何も、病中を押して、出頭を迫る必要はなかったわけである。    踏みまよう道の|栞《しおり》もあら縄に       か、るべしとは思いかけきや  よほど、藩の仕打ちに憤ったと見え、彼は、その時、こう口ずさんでいる。  これで三人とも、ひとやのうちに、囚われの身となった。  彼等をどういう風に処罰するかということについては、大分議論があった。 「三人が、景翁(山内豊資)をうごかし、藩政の改革をはかろうとして、宮から御染筆を頂戴して まいったのは念々ただ忠情にもとづく、もし彼等に対し、死を賜わるような事に相成らば、一国の 政道がたたなくなる、いいかえると、忠良の家臣をムザムザと殺すことになる、したがって、これ は当然、その罪を許さねばならぬ」  こういうのが、一派の論、武市半平太などは、三人の同志を救い出そうとして、こういう考えを もって尽力していたことは申すまでもない。 「いや、三人の者が頂戴した宮の御染筆というのは、あれは、もともと、宮のおぽしめしではない、 しかるに、三人の者が、勝手にみずから草案をしたため、たって宮に御願い申したもの故、いわば 景翁を欺き奉ったものである。その罪軽からず、よろしく死刑に行なうがよろしい」  これが、反対をする一派の論。  両派で、三人の犠牲者を中心に、もみ合って見たが、当時は、なにせ、藩においても勤王党の影 が薄かった。  で、とうとう、三人に死を賜わることになってしまった。 「せんだって京師において御令旨申請候仔細につき、 之」 御不快におぽしめさる、 よって右切腹仰付  ただこれだけの宣告文。  一命をささげて、君国のためにつくした尽忠の士が、たったこの一言で、もろくも息の根を封ぜ られることになった。天運、いまだ至らず、救いの手は、ついに獄中の三人に及ばなかった。  宣告のあったのは六月八日、その日午過ぎ、平井は獄卒から申し渡された。 「最後に会いたいと思う親戚でもあるなら、呼びよせて進ぜる」 「それはかたじけない、死はもとより覚悟、格別いいのこすこともないが、池田明次、望月清平、 柏章旗下の三烈土 平田亮吉の三人をよんで貰いたい」 「心得た」  獄卒から、知らせが来たので、池田と平田とが、とりあえず馳けつけた。だが、望月は、どうし ても来なかった。これは、望月が勤王党の一人だったため、もし、同志のうちに内聞が伝わっては ならぬという心配があったと見て、わざと生前によびよせるのをひかえたらしい。 「望月の来るのを待っていてもいたし方ない、この期に及んで、女々しい態度をとるといわるるの も恥辱、御覚悟なされてはどうか」  池田と、平田とが、そういった。 「いかにも、……どうぞ、両親には、孝養をつくすこともかたわずして、先立つ罪は、くれぐれも お詫び下され、また妹の加尾には、遺言いたしたき儀もあるが、獄中にはしたたむべき筆紙の備え がない、よってかつて加尾に写し与えたる蓮田市五郎殿の遺書が、とりも直さず、この兄の遺書と 心得、熟読玩味するようにお伝え下され」 「承知いたした」  わかれの言葉をかわしていよいよ刑場に向かった。  蓮田は、万延元年三月、桜田義挙同志中の一人、彼が、最後に故郷にある母と姉とにおくった書 面は、一読涙を催さしめるもので、平井は、それを妹の加尾子のために写したことがあったので。  もとより待ち設けたところとはいえ、さすがに、彼も、理不尽な藩吏のために犠牲となって倒る るうらみは、めんめんとしてつきざるがごとく、「請う看よ狂風陰雨の夜、霧々として|魂魂《こんぱく》天をめ ぐらん」と、辞世の詩をしたためた。  だが、切腹仰せつかると聞いて、急に晴やかな心持ちになった。なぜといって、彼の家は、私ど も同様、軽士の格であるので、切腹を命ぜらるるのは、破格の名誉だったからである。 「てっきり打首」  そう決心していた折から、切腹の命令は、彼の心をゆり動かした。魂魂、この土にとどまって、 長くこの怨を忘れぬぞと、そうまで思い込んだ彼の心も、ようやくやわらいだのである。    百千度生きかえりつつ恨みんと       思う心のたえにけるかな  これは、切腹の宣告を感謝した一吟。  介錯に立った平里兄吉が背後へまわって、平井の仕度を待った。  平井は、三宝の上にのせた短刀をとって脇腹へぐざと一刺し、介錯の一刀がただちに頭に下る。 平井は、その時、血にそまったまま、平田をふりかえって叫んだ。 「まだ、まだ」  二太刀目で、やっと息がたえた。まことに、悲壮な最期であった。  平井とともに、この日処刑になった広瀬は、平生から切腹の法を工夫していた。 「国事に奔走するものはいつ切腹を仰せつかるかもしれぬ。それで自分は、どうすれば、最期を立 派にすることが出来るかと工夫して見たが、それには、こうすると最もよい、まず刀の切先を浅く 左腹の下へ突き立て、きりりと右の腹へ一文字に引きまわし、そこで、今度は切先を斜に上へはね あげ、その勢いで一思いに左の乳の下を刺す、ここは急所だからそれですぐに絶息する、こうすれ ば、腸も破らず、血の出ることも少なく、衣類も汚さずにすむ」  そういっていたものだが、はからずも、彼は、実際の場にのぞむことになり、この通りの方法で 腹を切った。  最後に、間崎哲馬である。彼は、|安積艮斎《あさかごんさい》の門に学び、塾頭をつとめたくらいで、|槍浪《そうろう》と号し、 詩文にも得意であった。私は、この頃偶然、槍浪の最期の際、かきのこした辞世、獄中で|観世捻《かんぜより》を もって作った絶命詞、切腹の短刀、当時着用していた袴などを見て、懐旧の情にたえぬ次第である が、その絶命詞には、こうある。    丈夫今日、死何ぞ悲しまん    ほぼ見る聖朝の旧儀を修むるを    一事、なお余す千歳の恨    京畿、いまだたてず柏章の旗  この詩に見える結句、柏章は、山内家の定紋三ッ柏をさしている。すなわち、いうこころは、土 佐の藩論が、勤王に一致せずして、京都においても、まだ旗幟が鮮かでなかった。それが気にかか るというにある。  至極もっともなわけで、維新の大業は、これらの先駆にたった犠牲者の血によってあがなわれた もので、決して犬死ではなかった。だが、当時においては、まだそういう曙光が見えなかったので ある。 高杉晋作の機智  間崎は、この時、一緒に切腹したのだが、実をいえば、彼はすでにこの以前に、一度切腹しかけ ている。  というのは、前年すなわち文久二年十月、勅使として三条実美、姉小路公知両卿が、江戸ヘ東下 の際、長州の久坂玄瑞、高杉晋作等が、主謀となって、金沢焼打ちを計画した。こうでもして非常 手段をとったなら、|因循姑息《いんじゆんこそく》な幕府の当路者も、撰夷の腹をきめるだろうというのが、その眼目で ある。  土佐で、これに関係したのは、広瀬健太外二三名にすぎなかった。  計画は、極秘のうちに運ばれたが、久坂は、初めから武市半平太には、同志として秘密を打ちあ けている。 「一応、武市にだけは話を通しておかねばなるまい」  その関係があるので、高杉に耳打ちした。 「止めとけ」  高杉は、言下にはねつけた。 「武市は、吾々の同志である、賛成するかどうか分からぬが、その辺のことは、おのずから別だ、 とも角、計画を打ちあけて、永訣を告げねばなるまい」 「いや、武市は、反対にきまっている」 「そりゃ何故か」 「あれは、正論家である、正々堂々としてのり出すことには賛成するが、権道によって事を成すと いうことは、いつも嫌っている、足下が話をすることになると、きっとほかに秘密がもれるぞ」  高杉は、そういったが、久坂は、武市に対する盟約を重んじ、のこらず計画を打ちあけた。  武市は、果して、賛成しなかった。 「今そういう暴挙を計画することは、つつしまねばならぬ。勤王倒幕の運動も、ようやく目鼻がつ きかけている際、下手たことをしてはならぬ、やるなら、国をあげて堂々とやらねばならぬ」  正面から、説破された。  だが、秘密のうちに計画をすすめた同志のものは、是が非でもやり通さねばならぬという勢い、 後の伊藤博文公なども、この一味の中に加わっていた。  で、長州の藩邸へ出入りする薬種商から、硝石だの、硫黄だのを買入れ、薬研もかりてきた、邸 内の有備館にこもって、彼等は刀の下げ緒を櫻にかけ、この薬品をごろごろ薬研にかけてはすりま ぜながら、焼玉を作っていたのである。 「誰が何といってもやる」  えらい元気で、仕度をととのえ、久坂高杉を始め、同志十一人、藩邸を脱して、横浜に向かった。  これが、十一月十三日。  武市は、この計画が、大局の運動をさまたげるという考えがあったので、まず、勅使の両卿につ げた。 「それは、一大事」とあって、両卿は連署の書面を認め、|松延次郎《まつのぷじろう》(|巣内式部《すのうちしきぷ》の変名)をして、決死 の同志の後を追わしめた。  武市は、こうしておいて、鍛冶橋の藩邸にかけつけ、容堂にも進言した。そこで、容堂から、長 藩邸へ小南五郎右衛門を使者としてさし出した。毛利家世子定広は、夜中、有備館内の藩士をひき い、馬を飛ばせて志士を追跡した。  小南が、藩邸へ引きかえし、委細報告をしたのは、夜八ツ時(二時)であった。  容堂はさらに、小笠原唯八、山路忠七の両名、藩主豊範は、林亀吉、諏訪助左衛門の両名を梅屋 敷へ御見舞の使者につかわした。そしてまた、別に、間崎哲馬、門田為之助、岡本常之助三名に命 じ、血気にはやる高杉を諭さしめようとした。  武市も、この一行に同行した。  大森の梅屋敷について見ると志士十一名は、毛利世子からこんこんと説諭をうけているところだ った。  彼らは、涙を流して、世子の苦衷を|諒《りよフつ》とし、この計画を中止することにした。  改めて酒が出て、一同ここで盃をあげた。土佐藩のものも、同席した。武市は、一足さきに辞し て小田原に向かったが、後にのこった林、諏訪、小笠原、山路の四人は、間もなく毛利世子にいと まごいして梅屋敷を退出した。すると、宗十郎頭巾をかぶり、馬上で追いかけてくるものがあった。 「誰だ」  ひづめの音をきいて、こっちの馬のあがきをとめながら、ふりかえると、毛利家の執政周布政之 助である。 「おう、周布殿らしい」  周布は、大酔していた。土州の四人を見ると、馬上から冷やかに見下した。 「これは、おさきへ失礼いたします」  四人の中の誰かが、そう挨拶した。すると、周布は、それに答えようともせず、叫んだ。 「容堂公は、なかなか御上手なお方、尊王撰夷をチャラかしなさる」  相手が酔っているので、耳にかけずともよさそうなものだが、周布は一藩の重役、その人の口か らこういう放言を聞いたから承知しない。  土佐の四人は、一せいに、馬乗提灯を背後へまわした。 「何と仰せらるる」  きっと詰めよった。 「いやさ、お分かりか」 「何ッ」  すわや一大事、この時、とつかわ馳けつけた高杉晋作。 「よろしい、貴公等の手はかりぬ、拙者が周布を成敗してくれる」  とっさに、大刀を抜き放つ。 「はッ」  高杉は、風を斬って、打ち下そうとした刹那。 「待てッ」  後から、久坂が抱き止めてしまった。刀尖、躍って、馬の尻を打ったと見え、馬は驚いてその場 を馳け出す。 「逃がすな」  気早の山路と林とが、角入れて、追跡しようとしたが、年長の小笠原。 「やめ、拙者どもは、御隠居様(容堂)及び殿様の御使者役として、これへ参ったのだ、とも角も 仰せつけられた役儀を無事に果した上、周布を取りっめても遅くはない」  たってさえぎり止めたので、その夜は、無事にすんだ。  彼等は、容堂に顛末を報告した。 「君はずかしめらるれば臣死すの讐もある、その方等は何故、周布を打ち取らなかったか」  容堂も、はなはだ不快であった。  しかし、この事件は、毛利世子定広の懇篤なる陳謝によって、無事におさまったのだった。  ところが、土佐藩では、これだけで事件は解決しなかった。 コ体、あの場合、下士のものが、そばにい合わせていながら、黙ってみていたのが気にくわぬ。 下士のものは、とかく長州藩と別懇をかさねている故、こういうことになる、十分この機会に詰責 しておかねばならぬ」  とんだところへ飛ばっちりがいって、高杉説破の役目を仰せつかって現場にはせ参じた間崎を始 め門田、岡本の三人が、小笠原唯八の前によび出された。 「周布事件の際、貴公等は一人も、とがめだてをしなかったが、どうしたのか、君はずかしめらる れば、臣死すの一言を忘れたのか」  容堂から詰責されたところのものをもって、彼は、三人に臨んだ。 「いや、それは誤りでござる」  問崎が弁解した。 「何が、誤りか」 「もちろん吾々といえども、現場にい合わせたたらば、必ず一刀の下に周布を斬り伏せるであろう が、あの時は、別亭におりました故、騒動を少しも知らなかったので」 「それは、貴公等のいいわけにすぎぬ、あの大事を知らぬといってすますわけにはいくまい、それ では臣子の分が立つまい、どうだ」  立てつづけに、小笠原はまくし立てる。  三人は黙ってしまった。 「返答はどうか」 「御待ち下さい、いずれ、相談をまとめて御答えをいたします」  間崎はおちつきはらって、別室に退き、他の二人と、協議した。 「君等は、どう思うか」 「いや、あの場にいなかったのは、事実だが、小笠原から、ああいう嫌疑をうけた以上、切腹して 申し開きをするよりほかはない」  岡本がそういい出した。 「責を引いて、死ぬということは、たやすいことに相違ないが、それではかえって吾々にかかって いる嫌疑を真実として、吾々が認めることになりはしないか」  これが、間崎の意見。門田も、同じ意見であった。  はしなくも、この事が藩士の間において問題となった。というのは、時も時、土佐藩中の志士五 十人組と称するものが、江戸ヘ登ってきたので、議論が一層やかましくなった。  五十人組というのは、国家非常の時に、藩で許すも許さぬもない、吾々は、容堂老公を守衛のた め、江戸へ登るというので、盟約をたて、勝手に出かけて来た下士の集団である。牛耳をとるもの は、宮川助五郎、田所疇太郎、島村寿太郎、|公文藤蔵《くもんとうぞう》、曾和伝左衛門なんどの面々、いずれも血気 壮鋭、義を貫くに当たっては、身命を賭してかかる決意をもっていた。  この同志が、間崎等が申しわけに切腹すると聞いたので、黙っていなかった。 「さような道理はない」  こう頑張って、重役に楯ついたため、やかましいことになってしまった。  結局、人望ある武市が、これを裁量することになった。  武市は云った。 「今さら、間崎等が、その現場にいたとかいなかったとかいう一事を争うのは、かえって死を恐る るの傾きがある、むしろこの際、自ら腹を屠って、同志の名誉を完うする方がよい」  この一言を得て、島村寿太郎が間崎のところへ出かけた。 「武市先生は、こういう意見だが、どうだ」  間崎は、笑っていた。 「吾輩、今さら死ぬのを怖れるものか、かねての覚悟だ、立派に死んで見せる」  決然たる意志を示した。  門田も、岡本も、同様だった。  はなはだ残念だが、三人の同志は、殺すより外ないと、五十人組も観念した。そこで、十一月十 八日、中橋寒菊亭に、死の座になおる三人を招いて、同志のものが、別盃を酌んだ。  武市は、彼等の死を主張したが、一応、容堂の耳にも入れておく必要があったため、委細を言上 した。 「しからば、三人は切腹と決まったのか」 「さようでござります」 「それは、やめさせるがよい」 「と申しますると」 「今日の時勢は、容易ならぬ危機に臨んでいる、今、むなしく三人を自裁させるのは、いかにも惜 しい。他日予が馬前において死ぬ時があろうぞ」  容堂の厳命をうけて、武市は、ひや汗を流した。 「その方、ゆきて彼等を救え」 「かしこまりました」  武市は、拝辞して、寒菊亭へはせ参じた。涙の別盃は、ここにおいて、たちまち喜びの祝盃とな って、一座はわきかえる。  それにしても、あぶなかったのは、この三人の生命であった。 間崎哲馬の遺稿  間崎は、この時、死ぬ筈だったのが、こうして危地をのがれて生きながらえた次第。したがって、 青蓮院宮令旨事件に際して、切腹を命ぜられても、驚きはしなかった。 「今日のあることは、覚悟している」  彼は、死に直面して、少しもさわがず、その日も、獄卒を介して、飯より好きな酒を獄中に持参 させた。そして、この世の飲みおさめに、飲めるだけ飲んだらしい。  私は、先日、彼の詩集「|槍浪亭存稿《そうろうていぞんこう》」を集輯したのであるが、その中に現わるる詩句中には、酒 を謡ったものがなかなか多い。 「酒のために衣を典す俗態にあらず、人に因って事を成すあに男児ならんや」  これは、坂本竜馬等と会飲の席上吟の中にある一句だが、よく槍浪の志が、酒に託して歌い出さ れている。  これほど蕩落な間崎も、一念、家にのこした我子のことを考え出すと、さすがに悲痛の思いで胸 が一ばいになった。家には、たった二歳になったばかりの|頑是《がんぜ》ない雪子という女の子がいた。自分 が、一藩一国のため、犠牲となって倒れた後、母のふところに抱かれたこの子が、どういう憂き目 を見るだろうかと考えると、行先が気になる。  一死、|鋒鏑《ほうてき》を冒す志士といえども、子を思う心にかわりはない。詩人の彼は、これがため、めず らしく国風一首をのこしている。    守る人の有るか無きかは白露の       おき別れにし撫子の花  私は、これを「槍浪亭存稿」の巻末に収めた。  間崎の介錯をしたのは、従兄の間崎真一郎であった。  こうして、三人の犠牲者は、むなしく死地についた。間崎が一番年上の三十歳、平井が二十九歳、 広瀬は二十八歳、惜しい人物をムザムザと殺してしまった。  三人が獄中で切腹したという知らせが、武市のもとにいたされた時は、彼はぎっくりとした。ど うにかして、彼等を救おうとした努力も、水の泡となって、救いの手はついにおよばなかった。彼 は、それを悲しんだ。  八日の晩は、夜っぴて眠ることが出来ず、悶々としていた。そして、時々、深い溜息をもらした。 「富子」  夫人の名をよんで、彼は、いかにもこらえかねたようにいった。 「同じ殺すなら、せめて肩衣でもきせて、立派に腹を切らせたかったな」  吐息をもらした。  尽忠の志士を|囚屋《ひとや》の中で、惨めな姿で、切腹させてしまったのを残念がったのである。夫人も、 何とも答え得ず、面をふせて、同志の非業な最期に泣き入った。  こうして、武市は同じことをくりかえしながら、夏の短夜をあかしたと聞いている。  けれども、昨日は人の身の上、今日は我身の上、間もなく武市も、同じような運命にとらわれる ことになった。  武市は、土佐藩勤王党の首領、もしこれに手を下すことになれば、一藩の動揺を来すべきは分か っている。そこで、藩庁も、躊躇していたのだが、いよいよ、最後の決心をしたものと見えた。  これは、京都における八月十八日の政変が、土佐にも影響したからだった。会津、薩摩は、手を たずさえて、長州を京都から追放した。そして、彼等が提唱している公武合体の実行にとりかかっ た。武市は、この公武合体が、大の反対。 「君公には、徳川家の旧恩を大切におぽしめさるる結果、関東の御都合のみ御心にかけておいでな さるように拝察いたされます。おそれながら、半平太の一存では、土佐二十四万石は、藩祖一豊公 が関ヶ原の武勲にむくいられたものに相違なく、すでにその総勘定は、相済みになっております、 いつまでも旧恩々々とおぽしめさるるは、名分の正されたる今日、君臣の大義にかなわぬ儀かと心 得ます、いかがなものでござりましょうか」  面をおかして、容堂に|直諌《ちよつかん》した。聡明な容堂は、これを用いたかといえば、決してそうでない。 「半平太、出すぎた事を申す」  そうは、あらわにロヘ出していわなかったが、事実はそう信じた。  ところへ、いよいよ公武合体について、京都からは、容堂へ御召出があった。九月に入ってその 準備をした。 「御隠居さま入洛については、天朝への聞えもいかが、武市一味を捕縛せねばなるまい」  藩の重役の間には、そういう相談がまとまった。  容堂は、無論、これを是認した。  |忽如《こつじよ》、|疾風迅雷《しつぷうじんらい》、勤王派を捕えようという膳立をしたのは、九月二十一日のことであった。  その日の朝、同志島本審次郎のもとへ、監察方から呼出しがあった。 「ははあ、いよいよ来たな」  彼も、すぐ感づいた。 「この呼出しは、容易ならぬ事である、拙者はもう二度と再び、我家の敷居をまたぐことは出来ま い、この期におよんで、悲しんでもいたし方ない、その方どもも、覚悟するがよい」  妻子を膝下によんで、いさぎよく永別の言葉をかけた。 「皆さまはどうなるのでござりますか」 「他のことは知らぬ、拙老は、同志の一人として、武士らしく振舞えば、それで拙者のつとめは果 せる」 妻子のものも、島本の意中を察し、死別のつもりで、門外へ送り出した。 「行って参るぞ」  彼は平然として、取り乱した風もなく、ゆうゆうと屋敷を出た。  道すがら、ひょっこりと出会ったのは、これも同志の岡内俊太郎。 「おい、どこへゆく」  岡内が、呼び止めた。 「これから腹切りにゆくところだ」 「どうしたのだ」 「実は、監察方の呼出しをうけた、どうせ俺の首が欲しいのだろうから、ぎ小ばかとくれてやる、  …ここで貴公に会ったのは幸い、いよいよ、腹切りの時は、貴公に介錯をたのむぞ」 「心得た、介錯してやる、……すると、何か吾々同志のものを捕えようとでもしているのだな」 「そうかもしれぬ」 「よし、俺は、これから南会所に出かけてさぐってくる」  岡内は、島本と別れた。  だが、島本は胸さわぎがした、自分がやられるのは、ほんの口火で、これをきっかけに武市以下 の同志を獄に投じようという藩庁の下心ではないかと想像した。そうなると、じっとしてはいられ ない。第一、武市の一身が危くなる。  彼は、新町田淵にある武市の屋敷へ馳けつけた。 「先生は9」  玄関に出て来た富子夫人にいきなりこうたずねた。 「何でございますか、今朝早く出かけましたが、急用ででもございますか」 「どこへ御出かけになりました」 「遠乗りに参りました」 「そりゃいけたい……、また、まいります」  あわてて、すぐ隣の島村寿之助の家を叩く。 「おい、一大事だ、誰か、先生を迎えに出してくれぬか」 「何が起こったのか」 「いや、今朝、俺のところへ監察方の呼出しがきた、ことによると、先生も危いかもしれぬ、早く お知らせしなくてはならぬ」 「ふう」と、島村は、驚いて、使を出し、近郊ヘ遠乗りに出かけた武市の後を追わせた。  島本は、それまで、ここで待っていた。武市は、迎えをうけて、馬でもどってくると、この一条。  全く意外中の意外である。彼は、前月の六日、容堂に|謁《えつ》して、意見をたてまつっている、その際、 君臣一致でゆくということを言明されている。しかるに、手の裏をかえすがごと/\がらり藩の態 度がかわった。  一藩をこぞって、正々堂々、|大旅《たいはい》をかざして、勤王運動を起こそうとした武市の計画は、ここに 至って、無惨にもふみにじられてしまった。  彼は、長大息をした。  島本は、島本で、召喚に応じたければならず、いつまでもこのままじっとしてはいられない。そ こで、膝をすすめていった。 「こうなったからは、同志一同の口ぞえが一致せぬと具合がわるい、もとより尊王の大義に至って は、青天白日、少しもはばかるところはないが、|繕紳《しんしん》家やあるいは山内家連枝に関することだけは、 たとえ鉛の湯をのまされようと、重い石を抱かせられようと、一言半句も洩らさぬようにいたした い」  堅い決心を見せた。 「よし」  武市は、大きくうたずいた。  急は、同志へ伝えられる。  南会所へ一条をさぐりに出かけた岡内俊太郎からは、密報が届いた。それによると、今度捕縛す るものは、武市を筆頭に、島村寿之助、安岡覚之助、島村衛吉、小畑孫二郎、同じく孫三郎、河野 万寿弥等の面々、小南五郎右衛門も自宅謹慎を仰せつかるだろうとの事。  そこで、武市は、これから投獄する島本審次郎のために、別盃をあげた。 「命なり、さてこの次は、地下において会見することになろうが、吾々同志の心肝は、由来、鉄石 のごとく、卑怯な真似はしてくれるな」  彼が、座を立つに当たって、武市は、審次郎に向かってこう励ました。 「心得ております」 「よし、審次郎行け」  島本と別れた武市は、暗い心を抱いて自宅へもどって来た。何事ぞ、門外すでに捕手の影。 朱総の十手がぬかりなく彼自身を待ち受けていた。 武市半平太の最期 大監察後藤象二郎  捕手は、武市半平太に向かって、藩の達しを示した。 「謹しんでお承けつかまつる。さりながら、わしは、まだ朝飯をしたためておらぬ。しばらく待た れよ」  少しもあわてた容子がなく、武市は、そういって、座敷に通った。  そして、富子夫人に、食膳の用意を命じた。かねて、覚悟は、しているとはいいながら、大事に 臨んで、狼狽せぬ態度は、一同を驚嘆せしめた。  やがて、食事が終ると、武市は、悠然として立ち上がった。 「いざ、参ろう」  用意の駕にのって、南会所に護送された。  佐川の同志、すなわち私どもが、自宅謹慎を仰せつかったのも、この時である。  武市が、一藩勤王を提唱して、脱藩もせずに、高知に|蠕据《ぱんきよ》していたことは、ついに彼のために不 幸をもたらしたのみならず、その同志もほとんどじゅずつなぎに、獄屋に投ぜられた。  加うるに、勤王派にとっての打撃は、京都で、岡田以蔵が捕まったことだった。彼は、剣客の本 道を踏みはずして、酒色のために堕落し、とうとう、京都所司代の手に捕えられた。でも、さすが に、本名は名乗らず「無宿者鉄蔵」の名で通していた。  これが、本間精一郎を斬り、与力渡辺金三郎等をほうむり、刺客の名人として伝えられた男だと いうことが、当事者にも分かっていれば、厳刑に処すべきであったろう。だが、一向そういう事は 分かっていない、無宿者鉄蔵で押通したため、結局、額に入墨をして、洛外へ放逐されることにな った。  この一条を土佐藩邸の監察方が耳にした。 「絶好の獲物である、あれを捕えたら、勤王派の運動の秘密は、はっきりするに相違ない」  そういうので、藩邸から所司代へかけ合った。 「鉄蔵は、当藩の者故、御引き渡しを願いたい」 「当方では追放することになっている故、御必要ならば貴藩の手で、改めて捕縛さるるがよかろ う」  両方の話がまとまると、所司代の役人が岡田を護送して、二条通り紙屋川の土堤外まで来た、そ こに藩の監察吏が待ち受けていて、いや応なしに、入墨鉄蔵の剣客岡田以蔵は、高知へ護送される ことになった。  岡田は、手きびしい拷問にたえかねて、秘密を自自したため、同志は、それからそれへと検挙さ れた。  こうなると、勤王党は、形なしである。  つづいて、もう一つの他の打撃は、藤本駿馬が寝がえりを打ったことだった。  これは、さきに、私の叔父那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵等が、吉田参政を暗殺した上、京都の 長州屋敷にかくれた。この時、長州の久坂玄瑞は、武市宛ての書状を書き重松菊太郎に託した。  ところが、はしなくも、小監察福富健次が、この秘密をかぎつけて、重松を捕え、住吉陣営から 高知へ艦送した。藤本はかくと聞いて、武市のもとへかけつけた。 「先生に至急、御意得たい」  あいにく、武市は、来客中であった。 「島村のところへ参れ」  何用かしらぬが、彼を、島村衛吉のところへ回した。 「火急の一大事」  さきぶれが、ただ事でないと思って、島村がこの藤本に会見した。 「どうしたのか」 「いや、ほかでもない、重松菊太郎が捕縛されたについては、吾々の秘密は露顕したに相違ない、 このまま手をこまぬいていて、獄吏の刃にかかるよりも、いっそ切腹して自訴しようと思うが、ど うであるか」  顔色をかえていた。 「それはいけない」と、島村は、即座に反対した。 「切腹して、自訴することは拙策だ、いっそ同志は結束して、比島山にこもり、協力一致して、脱 藩した方がよろしい」  そう主張したが、藤本は、結局監察役場へ自訴して出た。これが同志にとっては、事の敗れる基 であった。されば武市の白洲問答中にも、「藤本駿馬、実に寸々にきざむべし」と、憤を洩らして いる。  更に、武市等にとって意外の打撃となったのは、後藤良輔(後の象二郎)が容堂公の抜擢をうけ て、大監察となったことであった。  後藤は、吉田元吉の甥、これが、武市等を裁くことになると、一敵国となる。さりながら、藩主 の信任を得て、その地位に坐した以上、いかんともすることが、出来ない。重ねがさねの不幸は土 佐勤王党の手をもぎ足をもぎして、全く息の根を止めたらしく思われたのである。 拷問の|搾木《しめぎ》  南会所の白洲には、大広間の正面に大監察が座を占める、その左右に小監察、少し下って|陸目付《おかめつけ》 が控え、監察吏は、一段下の板縁に坐っている、審問をうける被告は、それぞれ身分によって違っ ている、上士は畳の上、郷士御用人組等は板縁、それ以下は縁下に差掛があって、これに坐る、一 般町人百姓は、ただ土間に荒|菰《ごも》をしいて、その上へ坐る。土佐一流の拷問の道具搾木は、この土間 に備えつけてある。  岡田以蔵などは、すでに京都で、郷士の身分を失い無宿者の入墨鉄蔵とたって格式を落とされて いたため、最初から拷問をうけた。しかし、格式を落として、拷問にかけるには、逃がれ難き証拠 があるか、ないしは、同犯の白状によってこれを行なうか、およそその方式は決まっていた。  武市は、拷問をうけなかったが、これは勤王党の首領であるというためではない、武市の身分が、 上士であったため、特に、その格式に対し優遇の途を開いたにすぎない。  島村衛吉のごときは、吉田元吉暗殺事件のため、平民に落とされて、極度の拷問にかかった。彼 もまた、強情であったので、容易に秘密を口外しなかった。  彼は、天井に吊りあげられた。 「これでもか」  鞭が、皮肉にくい入るほどに乱打された。  それでも平気でいた。 「|搾木《しめぎ》にかけろ」  とうとう、最後の拷問にかかった。これは、搾木をもって、両股を圧迫する形だが、何度も、や られたので、さすが剛腹な島村も、仮死の状態に入った。  そこで、獄吏は、搾木をとって、彼を介抱すると、やっと息を吹き返した。 「水をのませろ」  獄吏は、椀に水を一ばい盛ってくる。島村は、も一人の獄吏の肩にかつがれていた。 「水をのめ」  すすめられて、彼は猛然として気力を回復した。 「いかんぞ」  いきなり、そう叫んで、獄吏をたぐりつけた。椀は飛んで、水はさっと四方に散る。彼もまた、 よろよろとよろめいて、その場で絶命してしまった。  同志の河野万寿弥(後の敏鎌)は獄窓から、この容子を見ていた。武市は、大拷問にあっている 島村の|捻《うめ》き声だけを聞いていた。  武市が、富子夫人にあてた書面にも、次のように見えている。 「さて、昨日衛吉出て、二度拷問御座候、今日、また出て大拷問にて、しめころされ申候、まこと にまことにうなり声を聞いて、出ていて世話してやり度候得共、どうもならず、ただ立ったりいた り、さぞやさぞやみなみなきもをつぶすろうと存中候」  獄中における武市の心情が察せられる。  目前にこういう拷問を見せつけられると、自分が、拷問をうけているよりも、辛かったらしく、 親類預けになっている島村寿之助へは、次のようにかき送っている。 「私事も、しめころさるる手形はとれ申候、浪(島村衛吉をさす)さえ右の通りなれば、私は申すに およばぬことと存候、勿論兼ておりにて拷に忍び拷にて死すつもりにて候ところ、私よりさきへ浪 が殺されようとは、まことにまことに存掛けもなき事にて、私もただただ一日も早くしめ殺され、 浪と同道いたしたく、しきりに存候事に御座候、しかるにただ今のところにては、はばかりながら、 この内にて小便に立候うても、はやダレル(土佐の方言、疲労する事)位のことにて候故、拷におよ び候わば、ひとコタエも得せず、たおれ候事と存じ、あまり心外に存じ、いまだ決心も|得不仕《えつかまつらず》、 ただただ煩乱まかりあり候」  悶々の情、一読して涙を催さしめる。でも、武市は、いかなる場合に臨んでも、志士らしき最期 を遂げようと焦慮していた。したがって、ただ一度の拷問にあって、すぐに死ぬように身が弱って いてはどうもならぬと、それを懸念していたのだった。  同志が、あまりきびしい拷問に遭うので、中には、この拷問にたえず、自白するものもあろうと いうしんばいがあった。で、かねて用意の「|天祥丸《てんしようがん》」が必要となったわけである。  これを飲ませれば、本人は、何等の苦痛もなく、死につくことが出来る。したがって、拷問をの がれる事になるし、一方また、同志としては証拠を|灌滅《いんめつ》する事になる。毒薬を盛るということはま ことに忍びぬことではあるが、大事の前の小事、そうするよりほかなかった。  この「天祥丸」は、平井収二郎の親戚にあたる|楠瀬春同《くすせしゆんどう》が、蘭法医であったため、事情を打ちあ けて、密かに製剤して貰った丸薬である。材料は、舶来の阿片を多量に用いたものだと聞いている。  獄中の同志と、獄外の同志とは、絶えず密書の交換をしていたため、「天祥丸」を差入れの食物 の中に混入して送り届ける位は、決して困難ではなかった。  まず、問題の岡田以蔵に飲ませた。ところが、どういうわけのものであったか、岡田には、更に 効き目がなかった。  ついで、吉田暗殺事件の生証拠として囚われている重松菊太郎に飲ませる事にした。しかるに重 松は、天祥丸を服薬する前に、牢死してしまった。  そんな事があって、のち、武市は実弟の田内恵吉に、この丸薬を届けようとした。それについて、 島村寿之助へあてた手紙がのこっている。 「なお、昨日を以って、御頼み中候愚弟ヘの状、かつまた薬とも、なにとぞ御届奉願候、弟のこと、 ただただ心懸に御座候、ただ今のところは随分勢いよきようには候えども、拷問も一時のことに候 えばいかなる事にても堪可申候えども、幾日も幾日もさまざまと色々やられては、実に口には、広 言をハキ候えども、一ト通りの人にてはおぼつかなく相考候」  寿之助は、この手紙を手にして、ただちに天祥丸を獄中へ届けた。  その結果、武市の実弟も、牢内で自殺し、目的を果した。 法廷の高の師直  こうしている問に、武市に対する訊問は、手をかえ品をかえて、行なわれたのであるが、彼は一 切口外したかった。  藩庁では、特に、「屏風囲い」の審問をはじめようとした。  これは、表向き囚人を自洲へ引き出さずに、大小監察役が、囚人と相対して、通常の座談の形式 で調べる方法で、囚人に対しては、この上なき待遇ではある。  果然、小監察の野崎|糺《ただす》が、ひょっこりと、武市の獄室をとい、牢格子の前に現われた。 「この間中から、だんだん御訊ねしたいこともあるし、あなたも何かいいたい事もあろうし、また、 京都の表容子、長州へ夷人が参って戦争をはじめた容子などの書付けも御覧に入れたいし、かたが た今日は、しみじみと何かと御話申したい」  同志ででもあるかのように、野崎は、こういった。 「うまい事を申す」  武市は、腹の中で、冷笑していた。彼の自記にも、「巧言令色」とある故、初めから野崎を信じ なかったのは無論だ。  吟味場へ呼び出されると、野崎は、いろいろに、誘導訊問をこころみ、武市をワナにかけようと した。だが、もとより、武市は、その手にのらなかった。  これも失敗して、いよいよ、武市に対し、正式の白洲が開かれたのは、あくる元治元年九月十一 日である。  いぜんとして、罪跡はハッキリせず、藩庁としても武市を罰しようがなかった。その年も、うや むやにすぎて、武市は獄中に慶応元年の春を迎えた。天下の形勢は、刻々に迫ってきたのだが、翼 を折られた巨鷲のような武市は、むなしく苦悶の中に日を消した。  この春、正月二日付で、富子夫人に与えた書面には、土佐託りがまじっているが、涙の湊み出る ような字句がひらめいている。 「暮には、喜太次(下番)来りて、いかんかなどと、ねんごろにすすめ候よし、まことにまことに ぞんじかけもなき事にて、婦人の来ることは決してせられん、ようこそ来さった、まことに女房が ひそかに会いにいたげななどと、万々一知れたれば、後の世までのはじにて候、あいたい事はいわ いでもしれた事なれど、これはさっばり思い切申可候」  富子夫人が、獄中へ会いに来ることをこうたしなめている。  結局、藩庁においては、「お見つけ」をもって、武市を処罰しようとした。これは、普通の裁判 のように、被告の口供が完成して後、判決を宣告するのではない、口供の完結を待たずに、認定に よって判決を宣告するのである。  そうでもしない限り、足かけ三年越しの勤王党一味の断罪が行なわれなかったからである。  その年、五月に入って、武市に対する最後の「お見つけ」は、実行されようとした。  折から、武市は、長い間の入牢のため、身体衰弱して、下痢を催していた。立つことも、坐るこ とも出来ず、寝たぎりであった。  そこへ、監察吏岡林源蔵が来た。 「御病気は、どうであるか、その御容体では、御白洲へ出ることはむずかしいでござりましょう な」 「いかにも、御覧の通りである、よろしく御伝え下され」  岡林はかえって行った。すると、間もなくまた監察吏が獄室へきた。 「今日は、御老公(容堂)御入り遊ばすはず故、無理にも取りつくろって、出るようにとの事でご ざります」 「よし出たところで、応答申し上げることがかなわぬ、ざすれば無益なことで、この趣き、くわし く申し上げて下され」  武市が、衰弱しているのを見て、もっともだと思うたか、彼は、引き返した。  だが、どうしても、今日は、最後の判決を下すというので、大監察後藤良輔は、たって武市を法 廷へ引き出すように命じた。  やむを得ず、両人の獄吏は、病中の武市に肩をかし、ようやく設けの座へ落ちつかせた。監察吏 総揃いにて、堂々とひかえている。大監察の後藤は、正面の座にきっと控えて、今日の宣告をいい わたす役向きである。  武市は、後藤に対して、「高の師直」の|紳名《あだな》を呈していた。  師直は、今、口を開いた。 「これまで、お上よりだんだん御吟味仰せつけられたが、いつわりのみ申している、先年、江戸表 においては、党を結んで御上を軽蔑し、京都においては、高貴の御方へまかりいで、様々な事を申 し出で、御上の御耳に入っている事どももある、かつまた、御隠居様(容堂)へ対し、非礼な事ど も度々申し上げ、色々申しハルケをいい出でられたが、最早や御聞取りは仰せつけられず、この上、 当罰仰せつけられた故、その分に心得られよ」  こう宣告している間も武市は、腹痛にたえ難く、額からは脂汗を流していた。そのため、後藤の いうた事も、はっきりとは耳に入らなかった。 「答えは、いかがであるか」  そばからこう問われたが、武市は無言であった。  すると、忽如。 「立ちませい」  声がかかって、これで宣告は終った。武市は、再び獄卒の肩にかかって、ようやく座を立った。  よしんば、申し開きがあっても、当罰とあっては、聞き取りが叶わぬ。ついで、打首か、切腹か に処せられるのが、当時のしきたりであった。  よほど、武市も、残念であったと見え、彼自らも、「無法と言っても、実に実に実に実に言語に 絶し申候」と記している。 三文字切腹  ことここに至っては是非がない。武市も、死を決した。  藩庁としては、最初、吉田元吉暗殺事件の巨細を明らかにし、武市をその首領として、十分に証 拠をあげ、処罰しようとした。しかし、各同志は、堅く秘密を守っている、どれほど拷問しても頑 として口品を開かず、結局、この一段は、武市の断獄宣告からとり除く事になったので。  宣告後、決死の武市は、中番の門谷貫助に向かっていった。 「先日の宣告では、十に八九、わしは割腹を仰せつかるに相違ない、およそ割腹と申すものは、一 文字に腹をカッきるのを例としてあるように思う者もいるが、このほかに、十文字と三文字と二通 りの方法がある、わしは、十文字か三文字か、どちらかで切腹したいと考えている、しかるに、世 人、これを見て、武市は、死に臨んで、気がくるったといわるるのも残念、足下は、わしの遺言を 覚えておって、死後、同志のものに伝えて貰いたい」 「よろしゅうござります」  貫助は、承知した。  だが、病態思わしからず、武市は、宣告後、日に日に、身が衰える一方。 「これでは、尋常一様の一文字の腹切りもむずかしい」  貫助に向かって、そう嘆息した。 「大丈夫でございます、それまでには、必ず御気分が回復します」  貫助は慰めていたが、いい按配に、武市の神気は、おいおい快方に向かった。  で、富子夫人にあてて、京都勤務中に着用した白無垢一襲と肩衣とをさし入れるように命じた。  やがて五月十一日。  彼は、沐浴して病後の身を浄め、正装して、死期の至るを待った。  夜に入ってから、呼出しがあった。  いよいよ、最後である。髪髪を|硫《くしけず》り、衣紋をつくろうて、南会所に入った。大広庭の北の角に、 板を敷いて、その上に莚が延べてある。武市は、そこに坐った。  泰然として、動かず、死の宣告を待った。 ー ユ 大監察後藤良輔は、 今、 彼の前に現われた。 そして、 高らかに、 宣告文を読み上げた。                                 武市半平太 去る酉年以来、天下の形勢に乗じ、ひそかに党与を結び、人心煽動の基本を醸造し、爾来京都高 貴の御方へ、容易ならざる儀進め申し上げ、はたまた、御隠居様へしばしば不届の儀申し上げ候 事ども、総て臣下の処分を失し、上威を軽蔑し、国憲を素乱し、言語同断、重々不届の至り、き っと御不快に思召され、厳罰に処せらるべきのところ、御慈恵を以って、切腹被仰付之。  全文、堂上家及び容堂に対する不敬行為を意味している。 「ありがたく御受けつかまつる」  武市は、そう答えて、白木の四方の上にある刀をとった。  普通三方に三つの孔あるを「三方」といい、「四方」は、四方にことごとく孔のあるものをさす のである。彼は、刀尖を浅く左腹の下部に突き立ててきりきりとこれを右腹に引いた。  トえいー` トえいー・ トえい!  |吊《きぬ》を裂くような声で三度叫破した。さっとほとばしり出た血は、飛んで検死役の袴をそめた。  こうして、三文字割腹の法によって、彼は、法式通りに、切腹し終ると、血刀を四方の上におい て、端然として、打伏せになった。まだ息を引き取らなかったので、親戚の小笠原忠五郎と島村寿 太郎とが、左右から馳けよって、これを刺し、介錯した。  |鮮鱗《せんりん》、三十六を越ゆることわずかに一、維新の大業を目前にひかえた慶応三年五月十一日夜、土 佐勤王党の一大巨星は、かくしてもろくも地に堕ちたのである。  武市が、死期の迫れるを知って、自分の顔を盟の水にうつし、 いる。その二つには題詩がある。 自画像を描いたものが、 今残って 花は清香によって愛せられ、 人は仁義をもって栄ゆ。 幽囚、何をか恥ずべき、 ただ、赤心の明かなる有り。 これは、 武市の遺族が保存している。 燕雀、時を得てほしいままに |蒼鷹《そうよう》、暗に向って眠る。 いかんせん、幽獄の裏 |糠慨《こうがい》、ただ、天を呼ぶ。 これは、富子の里方へ遣わしたものだが、今は光顕の手に属し、近く帝室へ奉献の筈。 彼が、一藩勤王を唱えて、ついにその犠牲となった心情は、この詩につくされている。 もし、私どものように脱藩すれば、彼の一命も安全だったかもしれないが、初一念を貫徹するた め、断乎として、国もとに止まり、勤王同志の先駆となって、これを指揮していたのだ。  武市の死骸は、彼が姉小路家の用人となった際用いた長棒の駕にのせ、同志の手によって、新町 の家に送り届けられた。戒名は、「常照院円頓一乗居士」。  彼の処刑とともに、幽囚中の同志は、永禁鋼とたるものや、斬罪となるものや、それぞれに申し 渡しがあった。最もはなはだしきは岡田以蔵で、打首となり、雁切渡し場にさらされた。 佐川脱走の同志  私どもは、当時謹慎を仰せつかっていたので、一歩も外出が出来たかった。私の家は、同志大橋 慎三の家と一軒置いた隣、この二軒の間にはさまっているのが、下横目の家で、自然、私どもを警 戒することになる。しかし、もとより隣ずからの間柄で、往来をするうちに、懇意になった。 「どうだ、あれが吾々の行動を監視していては窮屈でたまらぬ、勤王させるようにすすめようじゃ ないか」  私から大橋に談じ込む。 「よかろう、口説いて見よう」  大橋も賛成した。  で、早速、味方へ引き入れる運動を始めた。私も、勤王しろとすすめる、大橋も、同志になれと 説く。両方から、やいのやいのと説破されて、とうとう、同志の中に加えた。これが、池大六(後 の中山安敬)で、後に宮内省で|大舎人《おおとねり》をつとめた。 「どうも、形勢がおかしくなった、このまま引っ込んでいるのも心もとない、いっそ脱走しようで はないか」  こういう話が持ち上がったのが、ちょうど武市が処刑される以前であった。  といって、御同様、謹慎中故、自由に往来して、打合せをすることも出来ない。幸いなことには、 池大六が、新たに同志の一人に参加したため、彼が連絡機関となり、大橋慎三、那須盛馬、井原応 輔、それに私と池とが入って、都合五人のものが、脱走を企てたわけである。  その頃の脱走というのは、今日、囚人が刑務所を脱走するよりも、もっとはなはだしい。なぜな ら囚人の脱走は、本人だけの責任だが、私どものそれは、本人はもとより、親兄弟にいたるまでも、 罰を受けねばならなかったからである。  かつまた国法を犯した罪人というので、江戸へ行っても、大坂へ行っても、藩邸へは、すでに通 知がまわっている。そのため、いつ捕縛さるるかも分からない。自分一人はどうなっても、覚悟の 前だが、大低は、銘々手帳をもっている、そして、これに各地の同志の名が列記してある、もしこ れを奪われると、同志の一身上に迷惑がかかる、一命よりも、場合によって、この手帳を重しとせ ねばならない、よって、万一の時は、口中へでも呑み込んでしまうのだが、その暇がない際は、実 際、処置に窮する次第である。  この危険を冒して、私どもが脱走をしたのは、元治元年八月十四日の真夜中。  さて、無事に、落ちのびて、途中まで来た。 「もう安心」  皆、胸を撫で下した。  すると、向こうから馬方が来る。 「どこへだ打くのか」 「佐川へかえります」 「よろしい」  私どもは、ここまで来ると、えらい息込みである。 「俺達は、佐川から脱走して来たのだが、お前がもし追手の老に会ったたら、俺達に出会ったこと を知らせてやれ」 「へえ、そんな事をしてよろしいのでございますか」  馬方はあきれていた。 「いいとも、……追っかけて来るなら、早くお出で、無勢なれども腰の物を一本振舞うからと、い うていたと伝言をしてくれ」 「へえ」  馬方は、ますます驚いていた。  こっちは、いい加減からかってやった。追手の者も、来たには来たらしいが、何分、決死の壮士 揃い、国境を出たら、自分達の責任も消えるので、途中で引き返してしまったと聞いている。  あとで、わかったことだが、私どもが脱走したとなると、佐川の役所は、鼎のわくがごとく、黒 森通り|用居口《もちいぐち》と、半山通り津野山口と、横島の方と三方面にわたって、鉄砲をもった追撃隊がくり 出すというさわぎ。  一行は、越知川をわたり、黒森の峠にさしかかると、井原が腹痛を起こした。 「俺はとても同行は出来ぬ、俺のために君達に迷惑をかけてはすまない、俺は、ここで腹を切る。 君等はかまわず、少しも早く落ちのびてくれ」  さア、事だ。井原が切腹するからというて、左様か、それでは、ここで別れると、そう簡単に片 づけてしまうことは出来ない。 「どうしても、歩けぬか」  聞いて見ると、よほど苦しそうだった。 「駄目だ、早く落ちのびてくれ」 「といって、君を見すててゆくわけにはいかぬ、何とかして、一緒に逃れねばならぬ」 「その遠慮はいらぬ、俺の不幸とあきらめる」 「いいや、いかん、そんたら俺が背負ってやる」  一番、腕力家の那須盛馬が、そういい出した。 「大丈夫か」 「井原の一人二人、何ともない」と、那須は、病友を背負い、私どもは、彼の偏刀を持って、これ につづいて、黒森坂を越え、無事に用居の関門をぬけ出した。  そこで、足は伊予に入る。  しかし、松山藩は、佐幕派で固めているので、松山には立ちよらず、郡中港についた。ここで、 大洲藩の有志中村惇、城戸|豊三郎《いくさぶろう》等の注意をもって、船をやとった。 「行先は芸州」  船頭に、そういって、約束したが、なんの、私どもの目的地は長州だった。  船が、海の真ン中に出たところで、船頭を脅かした。 「舵を長州へ向けろ」 「でも、御約束が違います」 「かまわぬ、やれ」  壮士が、刀の鍔をならして、迫りよるので、船頭も、否むことは出来ない、私どものいう通りに なって、とうとう、三田尻へ船をつけた。  これから、私の長州生活が始まる。だが、話があまり先走らぬ前に、私どもよりさぎに、脱走し た土州の奇傑吉村寅太郎について、同時に、叔父の那須信吾の最期について、語らねばならない。 つまり、舞台が、再び京都にうつることになり、大和義挙のあらましに説きおよぽさねばたらない。 風雲児吉村寅太郎 兜切りの腕前  高杉晋作が、心中に許したものが二人いる。その一は、土州の吉村寅太郎、他の一は、高杉と同 藩の河卜弥市であった。 「予の知己、天下に多し、しかして我心を知る者は、土州の吉村寅太郎、我藩の河上弥市なり、弥 市、せつに但馬に死し、寅太郎、せつに大和に死す、二士の名、すこぶる今時に冠たり、しかして、 寅太、|張巡《ちようじゆん》に類し、弥市、|霧雲《せいうん》に類す、しかれども二士の節義は、もとより巡雲のおよぶところに 非ざる也」 こういっている。 そこで、獄中、回想の詩をつくっている。 知己、従来二君を憶う。 |繋囚《けいしゆう》、|双墳《そうふん》を拝するを得ず。 |日東《につとう》の正気、天地に冠たり。 説くを休めよ、張巡と霧雲とを。  河上弥市は、文久三年十月、生野義挙の際、山口村妙見山の麓において、同志、十余人を介錯し、 のち、自刃して、壮烈な最期をとげた。高杉は、同藩においては、この河上に心服していたのであ る。  しからば、土州の吉村寅太郎とは、どういう人物であろうか。  彼の家は、私の叔父那須信吾の居村濤原の庄屋であった。宮地|宜蔵《ぎぞう》とともに、早くから脱藩して、 九州方面において画策していた。ところが、薩長両藩を始め、各藩有志の間に京都所司代焼打ちの 計画が熟した。そうでもして、非常手段に出でざる限り、勤王運動の打開が行なわれず、全く行き 詰った|貌《かたち》となったからであった。 「千載の一遇、遅れてはならぬ」  下関にいた吉村は、|倉皇《そうこう》として、大坂表へのり出してきた。  常安橋傍坂田屋へ|草鮭《わらじ》をぬいで、その日は、夕刻、散歩に出かけた。心斎橋のそばまでくると骨 董屋の店先に兜がすえてある。 「珍しい古物だな」  吉村は、店先へ足を止めた。 「左様でございます、いつ頃の作と思召しますか」 「わからぬな」 「とも角、御覧下さいませ、これはな、元亀天正戦国時代のものでございまして、手前の店でも大 切にしております」  兜をささげて、店の主人が、自慢そうにいった。 「そうか、だが、いかにせん、古いじゃないか」 「そこが、貴いところでございます」 「骨董としては、古い方が値打ちがあるかもしらぬが、実用にはなるまい」 「どういたしまして、これならどんな名刀で打ち込まれても、掠り傷一つ付く道理がございませ ぬ」 「馬鹿をいえ、このようなものは、拙者の腰の物でも、たちどころに両断して見せるぞ」 「これは恐れ入りました。斬れるか斬れぬか、では、試して御覧なさいまし」  主人も、意地張りずくで、こういったが、多少、心中むっとしていたらしい。 「よし、斬って見せる、……だが、この兜は、お前の店の売物だ、で、拙者が断ち割ることが出来 たかったら、たにほどかしらぬが、値をとらせる、もし、見事に断ち割ることが出来たら、半文銭 の値もあるものでたい、よって、お前の損になる、それでさしつかえないか」 「いえ、もう結構でございます」  この田舎侍、何をいうか、大きなことをいうても、名工の作になる兜を断ち割るなどとはとんで もないことだと、主人は、心中そう思った。 「これへ出せ」  兜は、店先へおかれて、これから吉村が兜切りを始めようというのだった。  人通りの多い心斎橋通りだから、たちまち店の前へ黒山のように集った。 「何をするのだろう」 「兜切りだ、ほんとうは、あの兜の中へ土を埋めて、台の上へのせなけりゃ、法式通りではない」  講釈をはじめるものもいた。  さて、吉村は、兜に向かって式礼し、一刀をぬいて、気息を定める。  店の主人も、見物も、眼を皿のようにして、じいっと吉村の手元を見つめている。と、たちまち |裂吊《れつぱく》一声。 「やッ」  風を切って打ち下す一刀、兜の真向うから、二つになれと斬ってかかる。 「どうじゃな」  刀を引いた吉村は、主人に声をかけた。 「へえ、斬れましたか」  主人がのぞいた。 「いかにも斬れたぞ」 「どりゃ」  兜をとって見ると、鉢金を割って、 「こりゃ、お見事」  主人も、吉村の腕前に驚き入った。 通りにかからねば失敗をするのだが、 ことはある。 切先は、 |鐙《しころ》に及んでいる。 兜切りは、 この場合、 力ばかりでもいけない、気息をととのえて、法式 鮮かにやってのけたのは、さすがに、吉村だけの 急使の少年道太郎  その晩、彼は、長州屋敷に入った。市中の旅館に足を停めることは、危険があるからである。  すると、遊説家の本間精一郎がいた。 「土佐は、どうであったか」  こう訊ねた。というのは、さきに、武市に対する紹介状をしたためて、本間を土佐の国境へ遣わ したからだった。 「ことごとく失敗であった」 「そりゃ、どうしてであるか」 「みな自重していると見え、拙者の力をもってしては、しょせんおよばぬ」  本間もさじを投げていた。当時、この男が、口にまかせて出放題の事をいうて、各藩有志の間を 往来する獅子身中の虫であることは、吉村も知らなかった。 「そうか、時局は迫っている、そういう暢気なことをいうている場合でない、それならば、拙者が、 住吉へ参って同藩のものを説破してまいる、尊公も同行をたのむ」 「もちろん、同行はしようが、しかし、君は御境目を破った藩の罪人ではないか、それが住吉の陣 営へ出かけるのは、火中に入る虫も同然、ただちに捕縛されはしないか」 「貴説の通りだが、そこが、虎穴に入って虎児を捕えるの類、かえって面自いことになる」 「どうも恐れ入った」  吉村の大胆さに、本間も、度胆を奪われたようだった。  そこで、文久二年四月八日、彼は、本間を同伴して、住吉の陣営へ堂々と乗りこみ、小監察福富 健次に会見を申し入れた。  事が、あまりに突然だったため、福富も、前後の考えにおよばず、両名を座敷へ通した。 「時勢は、容易ならぬ事に相成っている、貴殿方は、それを御承知か」  吉村からこう浴せる。 「御話に相成るまでもない、よく存じている」 「島津公の噂は、御聞きでござるか」 「いや、それはまだ伺っておらぬが、公は、近日、江戸表へ御下りになると承知しておる」 「それが大間違い、江戸へ下るというのは、表向き、実は内勅を奉じ、所司代酒井若狭守を二条の 城から追放し、勤王の大義を天下に唱えるはず、各藩の有志は、すでにこれにしたがう老五百余人、 急はすでに眼前に迫っている、拙者はもとより脱藩の身柄ではあるが、君侯に対する一片の情誼、 黙しているに忍びずして、御内報に参った」  驚いたのは、福富等の藩士、全く寝耳に水。 「そりゃ、どうもかたじけない」  周囲と、顔を見合わせている。 「左様相成ったあかつきは、当陣営に屯宿しておらるる諸君は、どうなさる御所存か、錦旗に反抗 して、賊とたらるるか、それとも、吾々に加担いたされて、皇室のために尽忠いたさるるか、いず れでござるな」  すかさず、本間がつけ入る。 「さて、その儀は……」  福富はじめ、もじもじしていた。すると、年若な松下与膳が、ずっと進み出た。 「かれこれ申し上ぐるまでもない、本陣営は、もともと摂海防備のため、君侯が設置されたもので ござります、拙者どもは、藩命をもって、これへ出張いたしいるもの故、自分一個の考えをもって、 進退を決すべきではなく、したがって、ただ今御即答申し上ぐる筋合のものではござりませぬ」  鮮かに答えた。 「御年若にもかかわらず、至極道理ある御答え、敬服仕った」  本間は、にやりと笑って、かたわらに控えた吉村に合図をした。彼等は、立ち上がって、そのま ま、営門を無事にくぐることが出来たが、考えて見ると危険千万なことだった。  営中には、彼等の同志もいる、さりながらこれらの上役を説破して、この際営中をあげて、勤王 党に一転せしめようとしたのが、吉村の秘策であった。  果して、彼等両人が、引きあげてから、問題は起こった。 「吉村、何老ぞ、国法を犯した罪人ではないか、しかるに、ぬけぬけと、当営中へまかりこしたの はけしからぬ」 「もっともな次第、たぜ、その際、吾々は、彼を捕縛しなかったかな」 「ひっきょう、彼に呑まれたのだ」 「すると、狐にばかされたようなものだったな」 「不覚ではあるが、まずそうだ、これからでも遅くはあるまい、捕手を向けようではないか」  相談がまとまって、大坂の旅籠屋へ押しかけることになった。  営中にいる吉村等の同志は、これを耳にして、狼狽した。 「誰か、吉村へ内告するものはないか」 「見つかっては一大事だが、いっそ身軽な道太郎にしたらどうか」 「これは名案だ」  で、安岡覚之助の弟道太郎という少年をよび出して、旨をふくめた。少年だから、立居が軽快で ある。  夜中、こっそりと、塀をのり越した。そして捕吏が、旅宿ヘ立ち向かう少し前に、道太郎は吉村 と会うことが出来た。 「逃げて下さい、今、すぐに来ます、仕度をしております」 「何だ、喧嘩すぎての棒千切というやつだた、捕まえるなら、何故あの時、捕まえぬか」 「私に理窟をいうても困ります、早く逃げて下さい」  道太郎に促されて、吉村は、再び本間をつれて、長州邸に走った。  捕吏が、どかどかつめよせたのは、その後だった。真に転瞬間、危ないことであった。吉田元吉 が、 高知城下において暗殺されたのは、 ちょうど、 この日の夜の出来事である。 薩摩の海江田信義    目をさます初音や雲井ほととぎす  薩摩の有馬新七、長州の久坂玄瑞、その他各藩の浪士が、一挙して、関白九条尚忠卿、所司代酒 井若狭守邸を襲撃し、勤王倒幕運動の火蓋を切ろうとした事件は、この月の末であった。だが、こ の計画は、いろいろな行違いから、効を奏さず、多数の犠牲者を出して、失敗に終ってしまった。 吉村もこの事件に加わっていた一人。目をさますの一吟は、彼が、事件当時、すなわち四月二十三 日午後、舟にのって、淀川を上ってゆく際の即興詩である。  彼は、薩藩邸に押し込められ、間もなく、薩藩から土藩へ交渉があって、住吉陣営の小監察福富 の手に渡された。 「御苦労、計画は失敗いたしたが、いずれまた、やり直しだ」  彼は、壮語していた。散々、さきに福富を手こずらせた上、今度は、福富の世話にならねばなら なかった。宮地宜蔵も一緒であった。  引渡しの際、薩藩の海江田武次(後の信義)は、福富にいった。 「貴藩の吉村宮地両人、小藩の有馬新七等の暴挙に加わったため、一時小藩にお預りいたしたが、 国家につくす赤心は、敬服至極、故をもって、貴藩において、厳罰に処せらるるような事あっては、 かえって叡慮をもって差返しの旨にも違い申すべく、その辺御注意煩わしたい」  福富は委細心得て、二人を護送して来たが、住吉陣営までくると、海江田の注意などは、てんか ら頭には、おかなかった。通常罪人の取扱いをもって、牢獄へたたきこんでしまった。    ますらおの死ぬる命はいとわねど      はずかしめらるる事の憂きかな  よほど、残念だったと見える。  翌月、船牢に入れられて、高知へ護送され、士格以上の者と同じ取扱いにて、吉村宮地両人とも、 揚り屋入りとなった。  これは、叡慮をもって国もとへさし返さるるという事実が、藩庁の役人を動かしたためである。  彼等は、その年十二月二十五日まで、獄中にあり、二十五日に、幕府が勅旨を奉じて、大赦令を 行なうに際し、やっと放免にたった。  当時、高知の同志間には、頼母子講が設けられていた。これは、各自、あまり豊かでないので国 事に奔走する旅費の出所がない。ちびりちびり頼母子講へかけ金をして、それに役立たせようとい うのが目的だった。  あけて文久三年正月の講会は、唐人町|夷屋為兵衛《えぴすやためべえ》方で催された。小畑孫三郎、島本審次郎、安岡 定平、伊藤四十吉、田岡助吾、伊藤喜平、|楠瀬春同《くすせしゆんどう》などいう面々、吉村寅太郎も、またこれに加わ っていた。  春同は、平井収二郎親戚の医者で、天祥丸製作者である。  会が終って、夷屋を出ようとすると、パラパラと雨が降ってきた。  春同は、医者だから坊主頭なのはいうまでもたい。それへ雨がポタポタと落つるのがおかしかっ たものか、同行中の一人。 「おそれおおくも、青蓮院宮殿下を雨に濡らし中すとは、何事でござるか」  こういって、背後から傘をさしかけた。無論、彼等は酔心地。思いつきな酒落に、どっと笑いく ずれた。 「これは面白い、へーローヘーロi」  さきに立つものもいた。 「宮殿下の御通りだ、下にいろ、下にいろ」  そんな馬鹿げたことをいって、はやしたてたものもいた。  いずれも、酔っての上のざれ言に過ぎないのは明らかであった。だが、折から、宮の令旨を奉じ て帰藩中の間崎哲馬に、この一場のおどけ振りを話したものがあったからたまらない。間崎は憤然 として怒った。 「聞きずてにならぬ大不敬の行為だ、一体、何者が、左様ないたずらをしたか、きっと糺問せねば ならぬ」  真剣になって、間崎は、この事件を取りただそうとした。  新町島村寿之助の家に集まったその夜の猛老の面々、恐れ入って、かしこまっている。間崎は、 威儀を正しゅうしていった。 「よし、酒の上のいたずらにせよ、医者坊主をやんごとなき御方に見奉るは、大不敬でござるぞ。 吾々同志の面上へ泥をぬるものでござるぞ、他に洩れたなら、何といたすか、申し開きの道がござ れば、不肖がうけたまわる」  これには、何とも、返答のしようがない。日頃は、勇気凛々たる壮士も、処女のごとくつつまし く下うつむいて控えていた。  一座無言。  この時座をすべり出したのが吉村寅太郎である。 「私ども、禁廷に対し奉り、不敬を働くのどうのと、左様な念慮は毛頭ござらぬ、さりながら、貴 説のごとく、私どものいたしたことは、何とも中し開きござらぬ、誰がいたし彼がいたしたと、罪 を譲りあうのも無益、一切は、私が罪を背負うて立ちます、いかなる刑に処せられても、つゆ恨み はござらぬ」 「いや、それはいかぬ、貴公、一人の罪ではない」  小畑孫三郎があわてて前へ出た。 「かまわぬ、拙者一人が背負って立つ」 「いいや、ならぬ」  互に譲りあっている有様。  間崎は、結局、一同に、切腹をさせようという腹であった。単に吉村一人を犠牲にすべきでない、 そこにい合わせた彼等ことごとくが悪い、事いやしくも、朝廷に関する以上、寛典を加わうべき余 地は断じてない、十人いたなら十人で、二十人いたなら二十人ことごとく、京都の空を遥拝して後、 臣子として御申開きをするため、切腹するがよいという意見であった。  詩人として情藻ゆたかな|槍浪《そうろう》も、この事件に臨んでは、あやふやな|態《フ フフ》度をとらなかった。  峻厳、氷のごとく冴えかえる司法官として、同志をむざむざ殺そうという悲しい事実を前にして 眼に一滴の涙すら宿さなかった。大不敬の罪人を裁くに、涙は禁物だと、堅く信じたからである。 天忠組の義挙 中山忠光卿の奮起  一同切腹ときまったところ、この事件が、どういうわけであったか、君侯の連枝山内兵之助の耳 に入った。  で、侍読岩崎馬之助が、手書をたずさえて、同志集会の席へ乗りこんで来た。手書は、ただちに 間崎哲馬に渡された。 「志士|屠腹《とふく》の処分は、苛酷に失せずして、なるべくさし許すようにいたしたらどうか」  文意は、それだ。  連枝から、こういう言葉がかかった上は、間崎もたって、彼等を処分することも出来なかった。 そこで、やむなく、一同の屠腹を中止することにして、頼母子講事件は、無事に落着した。  吉村寅太郎も、危ないところで、一命を拾った。彼は、この事件の解決と同時に京都へ乗りこん で、大和の義挙を画策したのである。  というのは、さきに将軍家茂が上洛して、撰夷の期限を五月十日(文久三年)に定めた。 「撰夷期限のこと、来る五月十日、相違なく、拒絶決定つかまつり候間、奏聞に及候、なお列藩へ も布告いたすべく候事」  ちゃんと奏上ずみになっている。  ところが、一月余になっても、幕府では、これを実行する気配がない。長州が下関で、黒船打払 いの先鞭をつけたが、幕府の方では、各開港場の交易は、つづけているし、薩摩のとも侍が、英国 人を斬った生麦事件の償金は支払うし、更に、撰夷などは、かえりみない。朝廷に奏上しておいて、 事実は、その反対の行為に出ている。 「もはや、こうなっては、幕府の力を信頼することは出来ぬ、御親征あそばされるよりほかに途は ない」  こういう意見が提唱されるようになった。  これは、主として、筑前の真木和泉守、長州の桂小五郎などが、先駆となって、口火をきった。 そうこうしているうちに、長州藩の吉川監物、益田右衛門介が、上京して堺御門の御警衛に任ぜら れた。彼等は、藩主慶親にかわって、藩主の名において、撰夷御親征の建議をした。三条公をはじ め、国事係の諸卿はみなこれに賛同した。  帝、御嘉納あそばされて、この年八月十三日をもって、ついに、撰夷御祈願のため、大和神武山 陵、春日神杜等に行幸あそばされ、しばらく御逗留、御親征の軍議をあそばされるという御沙汰が 下った。正にこれ、青天の露塵。 「いよいよ、時機が到来した」  喜んだのは、吉村寅太郎である。  彼は、即刻、中山忠光卿の邸に伺候して、卿に向かっていった。 「事、御親征と決まった上は、大和一国を吾々の手によって奪い取り、主上を御迎え申す時である。 ついては、今夜、大仏境内へ同志を集め申すゆえ、卿にも御参加わずらわしたいと存じます」 「心得た」  卿は,たちどころに承引された。  忠光卿は、|緒紳家《しんしんか》に珍しい型で、血気旺んな人物であった。装束の袴の裾もまくらずに、加茂川 の瀬をわたったり、殿上においても角力をいどんだり、一風かわっていた。現に、天訣流行の時代 には、夜遅く山岡頭巾に顔をかくして、武市半平太のもとをおとずれた。  突然のことで、武市も驚いた。  とも角も、卿を上座へすえた。 「|麿《まろ》が、今夜参ったのは余の儀ではない。本間精一郎を殺したのは、何者であるか、それを聞きた い」  何のために、卿がこういう質問をしたかという事は、武市は、すでに承知していた。しかし改め て、反問してみた。 「卿は、何の思召で、左様なことを仰せられますか」 「いや、すでに久坂(玄瑞)その他の者から、足下に内談があった筈だが、麿は、三好両嬢を刺し 殺さねば、この際、胸がおさまらぬ、で、まず少将の局を刺し殺す決心であるが、人手が少ない、 よって、本間を殺した勇士に助太刀をたのむつもりである」  秘策をもらした。  三好というのは、久我、千草、岩倉の三卿、両嬢というのは、少将局(典侍結城氏)、右衛門内侍 (岩倉公の実妹)をさす。これらの人々は、当時、公武合体に関係したため、民間志士から、排斥さ れていたわけである。  武市は極力反対した。結局、忠光卿の父君忠能卿の|諌言《かんげん》によって、この計画は、実行されなかっ たが、殿上人がすすんで、刺客となろうとしたのは、藤原鎌足以後のことであった。  卿は、こういう風な活発な性格故、吉村等とは、肝胆相照した。  その夜、同志は、大仏に集合して、非常手段に出でようとする相談をした。  私の叔父那須信吾も、このうちに加わっていた。信吾が、養父俊平にあてた手紙に、この事が報 道してある。 「この度天下の有志をつのり合い、義兵を挙げ、徳川譜代不尊王の大名を討取り、御親征の手始め をつかまつる事に決し、誠に好機会故、明日出陣のつもりにて、今日薩邸都合よく脱走つかまつり 候間、はばかりながら左様御安慮奉願候」  日付は、八月十四日。書末に、歌が一首かきそえてある。    君が為おしからぬ身をながらえて       いまこの時にあうぞうれしき  この行に加わるもの、吉村をはじめ、土州人は十七名といわるる。これが世にいう「天忠組」で ある。 月下に|髪《もとどり》を切る  つぎの十五日には、大坂常安橋坂田屋に、同志のものが、それからそれへと馳けつける。  吉村は、心斎橋骨董屋にあずけておいた武具武器をとり出して、同志に配付し、夕方から二艘の 舟にのって、安治川口を下った。  吉村、この日の|扮立《いでた》ちは、黒革の|甲《よろい》に、半月の前立打った銀の筋金入りの兜、赤地の錦小袴をう がち|狸《しようじよ》々|緋《うひ》の陣羽織を一着に及び鉄砲二十五の早合(二+五発の弾薬の儀)つけ、家来正一郎には、 八尺の槍をもたせてしたがえた。英風楓爽、快手、風雲を捲き起こさんず意気込みが、|眉宇《びう》の間に 閃いていたことだろうと想像される。  所司代焼打ちの失敗を今度こそは、とりかえして見せる、心中、彼は、しかく考えていたに相違 ない。 「あやしげな舟ぞ」  船番所の役人が、たちまちこれを見つけた。  舟は、今、番所にかかったが、遠慮なく、通りぬけようとした。 「誰だ」  役人が、叫んだ。と、吉村が、声に応じて立ち上がった。 「上杉謙信」  役人は、度胆をうばわれた。|池内蔵太《いけくらた》、つづいてまた叫んだ。 「武田信玄」  随分、人を喰った話だが、見幕がはなはだしいので、役人も、音をひそめて、この上とがめ立て もしなかった。得たりと、舟は、番所の前を通りぬける。  船頭は、これらの面々が、長州へ下るのだと聞いて、舟を天保山沖へ漕ぎ出す頃は、白玉盤のよ うな大月が、漫々たる波上からきしり出る。海しずかに風なく、金竜、閃々として躍る。 「いい月だのう」 松本謙三郎(奎堂と号す、三州刈谷の藩士)が、月をあおいで、そういった。そして、高らかに次 の一句を口吟した。   追風に月のいざよう問も待たず 忠光卿、これにつづいて下の句をつける。    はや乗りぬけよ木津川の口  満船、どっとはやし|立《フフ》てて、意気、すでに、|摂《せつ》、河、泉の山河を|併呑《へいどん》している。  同志は、そこで、月下に|髪《もとどり》を切って、生還を期せずと相誓った。 「もう、これでよい」  吉村は、船頭に声をかけた。 「これこれ、船頭、急に泉州堺に用向きが出来た、船をまわせ」 「ようございます」  船頭は、何もしらぬので、吉村の命令通りに舵を堺へ向けた。  この舟が、堺へ入ったのは、真夜中であった。  旭橋傍の浜地に上陸して、櫛屋町扇屋から取りよせた弁当をしたため、一同、武装して奈良街道 を目口筋に出で、高野街道を河内に向かうことになった。  十六日の暁の光が、空をぽうっと|明《フフ 》るくする頃は、進発の一行は、南河内|郡狭山《ごおりさやま》について法安寺 に陣をとる。ここは、北条相模守|氏恭《うじやす》の領分だ。 「相模守にこれへ参るように申しつかわせ」  忠光卿の御意を伝えるため、吉村寅太郎と久留米の磯崎寛とが、卿の代理となって出かけた。 「中山卿のお召しでござる、ただちに法安寺へ御入来あれ」  家老に、この旨を申し入れた。  北条家では、やむを得ず、家老両名、相模守代理として、寺へ来た。 「主人儀、ただ今病中故、恐れながら、拙者共名代として参上してござります」  卿の面前に平伏した。 「病気とあらば、いたし方ない、その方共に、きっと申し付けるによって、主人相模守に伝言いた せ、麿は、十三日御発令の大和行幸の勅を奉じて、義兵をつのり、車駕をお迎え申すために、当地 へ参ったのである。正にこれ、臣子邦国に力をいたすの時、ことに北条氏は名族、この際王事に力 をささげて、家名をはずかしめずんば幸い、諾否の返答は、今夜、富田林、|水郡善之祐《みごおりぜんのすけ》方まで来り 伝えよ」  意外な要求であった。家老も、愕然として色をなし、とみに返事が出来なかった。 「御主意の趣き、主人に申し聞けました上、何分の御挨拶をいたしまする」  その場は、それで一旦、退出した。  中山卿の一行は、善之祐の家に向かった。彼は、この地方での富豪にして、勤王の志厚く、早く から同志と連絡をとっていた。 善之祐は、中山卿をお迎え申しあげたので、ただちに邸内に入る。  すると、北条家の家老は、すでに、先着して待ちうけていた。  そこで、再び、卿にお目通りを許された。 「返答いかに」 「さればでござります、主人相模守の申さるるには、もとよりお指図に従いまする、さりながら勝 手の申し条ではござりまするが、ただ今のところは御親征の御発令があったというにすぎませぬ故、 いずれ御親征の期に達しました際、人数さし出し、お指図をこうむりたいと存じまする」 |瓢箪総《ひようたんなまず》の返答である。  したがって卿は、深く彼に望みをつながず、そのまま、善之祐方において、出陣の仕度にかかっ た。慢幕、旗、幟、みなここでそろえた。  この夜、子の刻、進発の太鼓が、とうとうと鳴る。  善之祐の子栄太郎というのは、わずか十二歳の少年だが、隊伍に加わることにたった。  天空、雲を見ずして、からと冴えかえり、月の光が、水のようにふりそそいで、進路をあかるく している。雁が、畠を裂くような声で、なぎ渡る。  忠光卿は、馬上に跨り、一隊の志士は、銃剣、刀槍を閃かして、歩趨粛々として、これに従い、 まだ夜の明け切らぬうちに、三日市の本陣に到着した。  夜明けをまって、川上村の観心寺に入る。ここは、楠氏の菩提寺、戦争中妻子を避難せしめたと ころで、後村上天皇も、一時行在所にあてさせ賜うた由緒ある寺である。天皇の御陵もあるし、楠 公の首塚もある。  卿は、御陵を拝し、首塚に詣で、甲冑一領を献納した。  寺では、炊出しをして、一隊をねぎらった。  菊水の旗を、ここで初めて、風にひるがえしたと、半田門吉の「大和戦争日記」に見えている。  備前の同志藤本鉄石、久留米の同志中垣健太郎が、京都からここへ馳けつけたので、士気、また 一層奮い起こる。 すすんで、大和と河内の国境に馬を立てると、 「軍門の血祭だ、この代官所を襲え」  一同は、わめき立つ。 壮士の血はふつふつと躍り上がる。 五条の代官所は、 脚下に横わっている。 五条の代官所襲撃  五条は、幕府の天領である。すなわち、直轄地域で、代官所がおかれてある。当時の代官鈴木源 内は、権威をふるい、|重敏《じゆうれん》を行ない、支配下の庶民は、いたく難渋していた。のみならず、徳川で ないと、夜も日もあけぬというしろもの、かつて十津川の郷士田中主馬造、野崎主計、前田雅楽な どが上京の際、これを途中でさえぎり止めた。  そういうことが、志士の耳にも入っていたので、源内を憎むの情がはげしかった。 「源内の首をはねろ」  一同、異議なく、いよいよ代官所襲撃の手筈をはじめた。  部署を定め、山を下ったのは、日が暮れてからであった。  吉村寅太郎は、槍隊を率い、池内蔵太は、ゲベール隊を率い、半田門吉は和砲隊をひきい、それ ぞれ、枚をふくんで、代官所に向かったのは七ッ時。  他の隊は、表門から左の裏手へまわり、半田の隊は、表門から右手にまわり、吉村の隊は裏門か ら乱入することにたり、大将中山卿は、裏門前に馬をひかえて、一隊を指図するという隊形。 「勤王の有志、姦物鈴木源内の討手として向うたり、出合え、出合え」  声々によばわる。そのうちに、どかんどかんと砲を打ち込む音、ただしこれは、いずれも空砲で あった。 「うわーッ」  いかにも、大勢押しよせたかのごとく見せかけるため、|関《とき》の声をどっとあげた《フフ》|。  裏門に向かった吉村の手は、この勢いに乗じて乱入。上田宗児が、まっ先にすすみ入る。  この上田は、元、茶道坊主だが、槍が得意である。容堂に従って、江戸へ下った際、容堂は宗児 が三尺余の大刀を侃しているのを見て、つれづれのあまり。 「宗児、恐しい長い刀じゃが、お前に抜けるのか」  椰楡した。すると、彼は、抜けるとは答えなかった。 「拙者の家は代々茶道職でござります、したがって人を斬ることの出来ぬ身分、抜かぬが当然でご ざります」 「では、飾り物か」  容堂は、大笑いしたが、彼の意中は、もちろんそうではない、今に御覧じませ宗児がこの長刀を 抜いて、お国のために働きますという反語だったのである。  彼は、早くから勤王党の同志に加盟していた。ちょうど、大和義挙を起こすこの年の正月、彼は 酔いにまかせて、妓楼に上がった。  酔いがさめてびっくりした。 「同志の盟約に、酒色をつつしむことが記されている、自分は、それを破った、何とも中し開きが 立たぬ」  自責の念にかられて自殺しようとしたが、同志のものがさえぎり止めた。 コ旦、足下の罪を許す以上、他日事ある際真先に戦死することを誓ったらどうか」 「必ず、率先討死して見せる」  堅く約束した。そういう関係があったので、この夜、討入りの際には、彼は、槍をふるって、先 頭を承わった。  代官の鈴木源内は、狼狽して、今、塀をのりこえて、逃げ出そうとするところを、いちはやく上 田が発見した。 「うぬ」  躍りかかって、手もなく源内を引きすえる。 「何者だ」  つづいて、|島浪間《しまなみま》が馳せ参ずる。 「源内だ、斬れ」 「心得た」と、島が、ただちに、首をはねてしまった。 「上田宗児、島浪間の両人、姦物鈴木源内を討ち取ッたり」  大音声に呼ばわった。 「それ代官をやッつけたぞ」  一同、これに勢いを得て、安岡斧太郎、池内蔵太、田所治郎、森下伊久馬等の面々は、元締長谷 川岱助、木村祐次郎等を、討ち取った。もっとも田所は少々手傷を負った。  この討入りの模様は、「大和戦争日記」に、くわしく出ている。  代官所の金銀家財は、ことごとく取り納め、大概は、貧民にわけ与え、ただちに火を放って焼き 払った。  一同は、勝関をあげて、真言宗の桜井寺に引きあげ、ここを本陣とした。  翌十八日は、討ち取った代官初め元締等の首を五条の町外れに臭した。                       大和国宇智郡五条代官                       同       元締                       同       手付                       同       手代                       同       用人 この者ども、近来違勅の幕府の逆意を受け、もっばら有為の老を押付け、 得わずか三百年以来の恩義を唱え、|開闇《かいびやく》以来の天恩を忘却せしめ、 しめ、夷狭の助となることをもわきまえず、かつ収敏の罪も少からず、 って|訣敷《ちゆうりく》を加うるもの也。 黒恒木長鈴 沢川村谷木  正祐川 浅次次岱源 助郎郎助内    朝廷と幕府と同様に心 しかもこれがために皇国を辱   罪科甚大なり、これによ こう記した高札を立てた。 五条の宿中は、降ってわいた急迫の異変に、いずれも、あわてざわめいている。 「南山踏雲録」の著者伴林六郎は、この彙首を見て、次のように詠じている。    切おとす芋頭さえあわれなり       さむき葉月のすえ(すえは地名)の山畠  そこで、卿は、近在の名主を召されて、討幕の理由をつげ、貢租の半額を免じた。  ちょうど、この日が、京都において、政変が突発し、三条公以下七卿の長州落ちとなり、 薩摩とが、政権を掌握した時であった。 会津と 使者の平野国臣  したがって、天忠組は、置き去りにされたようたものだった。  天子御親征のため、その御先手として、車駕を迎えるために、大和に兵をあげた。しかるところ、 朝議一夜の中に変更になって、大和行幸御取止めとなった。  もっとも、その以前、学習院出仕の平野次郎国臣が、勤王諸卿の内旨をうけて、大和に馳せ参じ、 天忠組に|軽忽《けいこつ》の振舞いある可らずと、警告したのであるが、その時もうすでに京都においては、政 局一変していたのである。  それならば、天忠組の今後、とるべき態度はどうするかという事が、陣中において、当面の問題 となった。  同志もまた、意外なる警報に、いたく心を砕き、士気も衰えかけていた折から、吉村寅太郎は、 忠光卿に進言した。 「拙老ども今回の義挙は、陳勝|呉広《ごこう》となればすなわち足る、成敗利鈍は初めから眼中にはありませ ぬ、かつまた、すでに舟中において、髪を切って、一死を誓った事故、今はただ、進んでなすべき をなし、不幸にして、事成らざる暁は死ぬよりほかはありませぬ、もし幸いにして、一命を全うす れば長州へ逃れ、再挙を計ることも出来ようかと存じます」  凛然としていい放った。藤本鉄石、松本奎堂、ただちにこれに同意した。 「それには、五条は、要害の地でない、本陣を十津川に移して、義兵をつのるのがよろしい」  そういう事に一決し、五条には少数の同志を止め、天の川辻に至り、本営を鶴屋治兵衛方に置い た。天の川辻は、四方絶壁のごとく、要害堅固、大塔村の坂本より十七八町手前の地点である。大 塔村は、その昔、大塔宮がしばし御身をひそめ給うたところより、この名が残っている。  ここで、義兵をつのるため、吉村寅太郎、保母健の二人が十津川に向かい、上田宗児、土居佐之 助が高野山におもむき、叔父の那須信吾は、高取藩へ出かけた。  藩主植村駿河守家保は、江戸邸にあり、城代林庄之進、家老内藤伊織、中家新兵衛等が信吾に会 見した。叔父は鞍馬二頭、米百石、銃槍刀剣各百個を差し出せという忠光卿の命を伝えたところ、 よほど狼狽の態だった。 「主人も不在の事故、ことごとく御用を承ることはかないませぬが、ともあれ、鞍馬二頭、銃槍各 三十個をお持ちかえり願います、米は、近々にお届けいたします」  そういう返答だ。 「しからば、以後忠誠をつくすという証文を一札、入れられたい」  とうとう、叔父は、彼等に一札かかせた上、馬と銃槍とをうけとって、引きあげてきた。  上田等の向かった高野山の僧侶も同意であったが、一方吉村等の向かった十津川方面は、少し厄 介だった。玉置為之進、土田主殿というような反対者が現われたので、吉村は、彼等の首をはね、 天の川辻にさらした。  こうして、兵を募り、武器糧食を集めているうちに、八月も末の二十五日となった。錦の旗風を 慕うて馳せ参ずるものは、およそ九百六十余人、まず一千人と註せられたくらい。  と、飛報があった。 「紀州、郡山、高取の三藩が、中川の宮の令旨を奉じて、|御所《ごぜ》に押しよせた」  この時、忠光卿は、天の川辻の本営から五条に進発していたのだが、五条は、守備に適せずむし ろ進んで、迎え撃つにしかずという説が多数をしめた。  勢い込んで、御所に向かったところ、更にそれらしい気振りも見ない、途中、高取藩の間者を捕 えたぐらいだった。全く|風声鶴嗅《ふうせいかくれい》であった。  こうなっては、どうやら、引込みがつかなくなった。  信吾は口を開いた。 「さきに、高取城へ拙者が使者として参った際、兵糧を届ける約束をいたしている、かつ、その上 忠誠を誓った一札を入れている、しかるにもかかわらず、更に兵糧を送って参らず、噂に聞くと、 幕兵を招きよせる使者を差し出したとうけたまわる、必定、寝がえり打ったものと存じまする故、 この際、高取城を打ち破ったなら、いかがであろうか」  馬ならば、張り切っているところだ、同志のものも、幕兵と一戦交えて、天忠組の勢いを示して くれんずと待ち構えていたにもかかわらず、肝心の相手がいないので、がっかりしていたところだ。  叔父の意見は、ただちに用いられた。 「高取城を一もみにもみつぶせ」とあって、攻撃に手順をきめた。第一陣は、吉村寅太郎、第二陣 は、松本奎堂、第三陣は、忠光卿、第四陣は、藤本鉄石、しんがりの第五陣が那須信吾。  二十六日の夜のあけぬうちに、関の声をつくって、城下入口に迫った。城は鷹鞭山の上にあり五 十丁下、土佐に駿河守の館があり、ここが城下になっている。道は」筋しかない。敵は、小高いと ころから打ち下すので、すこぶる難渋だった。  天忠組の処女戦だが、そのため、残念ながら敗北に終った。  それは、地形が、彼に有利にして、吾に不利であったためもある。城内では、すでに天忠組の押 しよせ来るを知って、準備をととのえ、待ち構えていたためもある。天忠組の砲は、手製の木砲で あったため、砲弾が城中に達しなかったためもある。天忠組の勢いは戦争のかけ引に馴れぬ農兵が 多く、いざとなると、怖気だって、ものの役に立たなかったためもある。  いずれにせよ、負けたのは事実だ、天忠組では、七人の死者をだし、五十人捕虜とされ、その上、 木砲六門、小銃三十六挺を奪われて、天の川辻ヘ引きあげねばならなかった。  わが吉村寅太郎の軍勢は、この時、|戸毛《とげ》付近で、道を失し、この処女戦には、間に合わなかった。  彼は、味方、敗北と聞いて、|地鞘《じたんだ》を踏んで口惜しがった。無理もない事である。 剣客杉野奈良助  天忠組では、総勢本営引揚げについて、三在付近の山々三カ所に備えを立てた。 「実に遺憾である、この恥辱を取りかえさねばならぬ」  そういうので、吉村は、中垣健太郎、小川佐吉等と、遺書をしたため、夜、ひそかに、 から取ってかえした。御所の酒屋に立ちよって、各々別れの盃をかわした。 この三在 「高取の城一つ陥れることが出来なかったとあっては、天下同志への面目がたたぬ、今夜はお別れ だ、飲め」  甲に身を堅め、槍を提げた吉村は、中垣、小川に酒をすすめる。  酒屋といっても、居酒屋ぐらいであったろうと思われる。彼等の前に、十津川の農兵二十余人を 引きつれてきたので、これらのものも、同じく別盃を交わしたのであろうが、なかには、態度のあ やふやなものもいた。  仕度がととのって、これから土佐へすすむ。果して、決死隊は、その間に、一人へり二人ヘり、 二十人が、たちまち吉村を加えて十三人になる。  吉村の計画は、高取城の焼払いにあった。そこで、みな枯草を背負い、火縄を袖にかくして、そ っと城下に忍びよる。 「あッ」  前方にあたって、馬上提灯が閃いた。 「伏せ」  吉村は、決死隊を路傍にひそませた。提灯は、揺らぎ、馬蹄の響は近づく。これは、高取藩士杉 野奈良助が、歩卒をつれて、夜廻りに出てきたのだった。杉野は、撃剣の達人、隣藩にも名の聞え た人物である。  吉村の前に、さしかかった途端、吉村は槍をふるって立ち上がった。 「ゝえゝえいッ」  ぐさと一突き、杉野は、不意を打たれて、どうと馬から転げ落ちた。そこをすかさず、三槍まで 突いた。  突かれながら、杉野は、太刀をぬいて、吉村に斬りつけた。闇中の乱闘故、数回、斬りつけたの かもしれぬ。 「大和戦争日記」には、「突かれながら、太刀をふりあげ、吉村を討つことおよそ三十太刀、しか れども吉村、丈夫の兜を頂き、三重小手着たる事故、事ともせず」と見える、三十太刀は、少し受 け取れぬようである。  この間に、夜廻りの歩卒を相手に、中垣、小川が、わたり合った。  吉村が、杉野の首を掻こうとした時である。  果然として一発、股と横腹を打たれて、豪気の彼も、同じく地上に倒れた。  それも、敵方の打った弾丸ではなく、味方の穴倉与茂八が、敵を打とうとして発砲したのが誤っ て吉村に命中したのだ。 「ううむ」  吉村の|捻《うめ》き声を聞いて、中垣と小川とが馳けつけた。 「どうしたか」 「やられたぞ」と、吉村は叫んだ。  大将が手負いになっては、放火どころの騒ぎではない。  で、吉村を抱き起こし、彼の手を引いたり、肩に背負ったりして、峠の村役人の家までかつぎ込 み、翌日、駕にのせて五条の医者まで送りとどけ、治療をうけた。  弾丸が一個、腹中に止まっていたのをぬき出したので、ようやく神気を回復した。だが、傷口が、 すっかりなおったというわけではなかった。  そうこうしているうちに天の川辻の本営は、紀州、彦根、藤堂、郡山、諸藩の兵に包囲されるこ とにたった。かり集めた、農兵のうちには、先を見越して、秘かに逃亡するものもあって、所詮本 営を維持することは困難となったのである。  吉村の傷は、この頃から、思わしくなかった。傷口が裂けて、膿汁が流れてくる。中から弾片が 出るやら、鎖衣の破片が出るやら、かてて痛みがはげしく、歩行することが出来なかった。  大抵、駕にのって、忠光卿にしたがっていたといわれる。  旗色がわるくなってくると、天忠組に属していた十津川の郷民が、騒ぎ出した。一体、十津川地 方は、南朝以来、王事に尽して来た歴史をもっている。したがって、忠光卿の義兵をあげて、車駕 をお迎え申すと聞き、ある一部の反対者を除いた以外は、こぞって、旗下に馳せ参じた。  しかるところ、京都における政局の一変とともに、卿は、賊名をうけることになり、隣藩の追捕 をうける身となった。 「中山卿は、以前こそ侍従であったが、今は、亡名の一賊子である、吾々がいつまでもこれに組す ることは、結局、乱臣賊子となることである、自滅して、父祖の名を汚すよりも、今のうちに手を 切った方がよろしい」  そういう気運がうごいて来た。  事、ここに至っては、施すべき策がない、京都から卿に随伴したものは、数において、僅少なも のなのて、これらの同志のみによって、戦いを継続することは、不可能であった。  当時、天の川辻の本営は、津藩の勢に奪われ、仮本営は上野地におかれてあった。形勢、要害の 地であったが、吉村は、事の成らざるを知って、善後策を講ずるため、京都出発以来行動をともに した十四人の同志を秘かにあつめた。これが、また一騒動となったのである。 吉村寅太郎と那須信吾の最期 破陣の天忠組  こうなっては、いかんとも、策の施しようがなかった。そこで、吉村寅太郎の発議で、善後策の 密議を催した。この相談の仲間へ河内大和の郷士を入れなかったというのが、そもそも彼等の怒り を招いた理由である。 「吾々どもも、父母をすて、妻子をすてて、天朝に御奉公のため、この挙に参加した、それにもか かわらず、疎外するというのは、何事か」  彼等のいうところももっともだ、陣中、そのため、ざわつき出した。  吉村は、ただちに忠光卿に向かって、彼等を慰撫するように進言した。  あくる朝、一同を御前に召した。 「諸子が、昨夜吾々ども密議の席上へ参加を願わなかったという事について、不平を持たれたよう であるが、これは仔細のある事である。麿は断じて諸子を疎外したわけではない、と申すのは、 吾々同志は、初めより死を決して、京都を出立したのである。しかるに、事、志と違い、皇運恢復 の機は熟せずして、吾々の前途も、生死、俄かに期することが出来ぬ、で、吾々はどうなろうとも 覚悟の前であるが、中途から、この挙に参加された諸子に対してまでも、吾々と同様、難に殉ぜら れるという事は、まことに衷心、忍びざるところである、そのため、昨夜の密議は吾々どもだけに て、取りまとめたような次第、諸子の疑惑をこうむることは、はなはだ遺憾であるが故に、今は、 何もかも申し上げる、京都より同行の十四人は格別、他は、ひとまず軍を解散することに決した、 諸子は、軍中に残らるるとも、立ち去らるるとも、自由に致されよ、道あらば、長州ヘなりと、土 州へなりと、おもむかれよ、縁あって、再会の場合は、重ねて国事のために、提携することもあろ う故、ともかくも、ここで別れの盃をとらせるぞよ」  意中を打ちあけた。  もとより陣中、酒は厳禁、そこで卿は、谷水を瓶子にくませ、水を酌んで、別れの盃をかわした。  全軍、惨として、声なく、みな涙を垂れた。  さて破陣とたった天忠組は、残卒をまとめ、紀州に出ようとしたが、途中方向をかえ、河内より 大坂へ出ることにした。吉野の東方を迂廻しつつ、一行が上北山村の白川についたのは、九月二十 一日の夜更けであった。  負傷者も、大分ふえて、戦士は僅々四十余人に減ったため、ここで一日休養、翌々二十三日出立 しようとした。  と、人夫が、一人もいたい。 「どうしたのだ」  呼びにやるとみな家をがらあきにして、山の中へ逃げ出した有様。 吉村寅太郎と那須信吾の最期 「人夫になると、藤堂様からお叱りを受けた上、しばり首になるぞ」  そういうふれがまわっていたため、誰もかれも姿をくらました。  やむを得ず、輻重の大半を焼き、各自軽装し、重傷者は山駕にのせ、やっと探し出した七八人の 人足にかかせて、白川を出た。  吉村寅太郎は、若党正一郎の肩によりかかって、あえぎあえぎ一行につづいた。何にせよ、破陣 以来、山道を切り開いて、ようやくここまで落ちのびてきたようなわけで、彼の傷口は、日一日と 破れて、痛みもまたはなはだしかった。無理をして、歩きつづけたが、傷口からはとめどもなく血 が流れ出るため、腰から下が真赤になった。 「もういかん」  意地にも我慢にも、動きがとれなくなって、途中に倒れてしまった。 「待って下さい、戸板をもって参ります」  伊吹周吉等の骨折りで、民家から戸板を一枚徴発し、これへ吉村をのせた。  一行が伯母峠の頂にさしかかる頃は、日は全く暮れて、雨はふる、寒さは加わる、もっている雨 具は、傷病者にのこらず分けたので、みな相|警《いま》しめながら雨にぬれて、峠を下る。  川上村の伯母谷についた頃に、ようやく夜がしらじらとあけそめた。ここには、民家があったの で、さっそく、焚火で、濡れた衣を乾かしつつ、一息いれた上、敵の様子をさぐる。 「なんでも、昨夜、彦根藩の斥候が十人ばかり和田村ヘ来たそうでございます」  こういう情報をもたらした。和田村は、伯母谷から約一里先の村落だ。 「さては、血戦だな」  前路に敵ありとせば、残兵四十余人をもって、突破せねばならたい、それには、傷病者をともな うことは、足手まといになるので、訣別することにした。 「運を天にまかせて、最後の突撃をするについて、諸君と別れねばたらない」  この一言を聞いた傷病者は、いずれも、おもてに涙をうかべ、別れの挨拶をした。 「行け」  吉村は、戸板の上に横たわったまま、那須信吾と伊吹周吉とをよんだ。 「彦根兵のごとき、何程のことやある、ただ忠光卿の一身に万一の事があっては恐れいる、卿のこ とは、一に諸兄に任せる、どうか、安全に長州へ落としまいらせるように、くれぐれも、頼み入る :…」  こういって、他事に及ばず、高らかに、|饒《はなむけ》の歌をよみあげた。    吉野やま峰の紅葉の錦着て        みやこにかえる君ぞゆかしき 太刀の血煙  決死の四十余人、軽装して、和田村に向かった。このうちには、私の叔父、那須信吾も、加わっ ていたのはいうまでもない。しかるに、和田村には、敵らしいものが姿を見せない、そこで更に、 鷲家口方面に、進んだのであるが、途中で、とっぷり日が暮れた。  折から、焚火をしていた百姓体の男が二人。 「鷲家口からお出迎えにまいりました」  こういう口上だ。 「鷲家口には、彦根の兵がいるであろう」 「はい、昨夜のうちに、立ち退いてしまいました。確かには存じませぬが、何でも、今日、新手の 御人数がにわかにお越しなされて、七軒に分宿して御滞陣だそうでございます。あまり沢山の人数 ではないようでございます」 「ここから鷲家口まで、道程は、いくらあるか」 「一里半でございます」  この時、二人のうちの一人。 「わしは、お待受けのため、一足先へもどらせていただきます」  そういって立ち去ろうとした。 「いや、さきにかえることは、まかりならぬ」と、これをさえぎり止め、百姓を案内にして、進軍 をつづけた。  鷲家口に近づいた頃は、真っ暗だ、暗号を「天忠」と定め、闇をついて、小高い丘に上ると、こ はいかに、松火が、列をなして、空をあかるくしている。火竜の列は、うごくがごとく動かざるが ごとく、一隊はすでに彼等の背後に迫るかのごとくに見える。  山下にあたって、突然、砲声が聞える、彼等は、いつか知らぬ間に、敵の包囲の中に陥っていた。 夜なので、敵は、およそ何程の兵力を擁しているのか、さっばり見当がつかなかったがそれだけ、 こちらにとっても、便利ではあった。  忠光卿は、山下十町許りを隔てて、筆火の一かたまりになっている地点を指した。 「あれが、本陣だな」 「左様でございます」と、案内の百姓が答えた。 「諸子、寡をもって衆を破るには、力を一つにして中陣を破るが上策である」  卿は、そこで、ただちに、四十余人を二隊に分ち、一は親衛、他は後衛とし、敵の隊将貫名筑後 の本陣を襲撃した。不意討ちだったので、彦根の兵も、狼狽した。無性に発砲するが、全く闇鉄砲 で、一つも当たらなかった。  天忠組では、忠光卿、みずから刀をふるって、戦線に立ち、二隊、気を揃えて、突いてかかった ため、陣形更に乱れず、那須信吾は、親衛隊に属していたが、手馴れの長槍をふるって、敵の大将 大館孫右衛門を倒した。  ついで、奮戦の際、敵の狙撃した弾丸に命中した。 「おのれ」  屈せずして、狙撃兵を追跡したが、ついに及ばず、路上に昏倒した。叔父の受けた一弾は、致命 傷だったのである。  乱闘は、しばらくつづき、天忠組は、川をわたり、石原甚五右衛門の陣所に斬って入る。けれど ももとより四十余人の小勢、ちりぢりになって、中山卿の身辺にあるものわずかに十七人となった。  この鷲家口の役における戦死者の中に、最も壮烈の最期をとげたのは、吉村寅太郎であった。  吉村は、伯母谷において一行に別れて後、若党に山駕の仕度をさせた。若党は、随分高賃をはら って、ようやく駕を一挺やとってきた。そして、忠光卿の後を慕うて、山路を急ぐうちに夜になっ た。  と、はるかに、銃声が聞えた。 「どこだ」  はっと胸を躍らせた。 「鷲家口らしゅうございます」と、駕を担いでいる人夫が答えた。 「これから何程あるか」 「さア、二十丁もございますか」 「急いで、やってくれ、……何か、異変が起こったと見える」  駕を急がせて、鷲家口に近づくと、銃声と砲声との間に関の声がどうと起こる。 「さては、最後の一戦じゃな」  垂れをあげて、こういいたがら、駕を停めさせる。 「正一郎、肩をかせ」 「大丈夫でございますか」  若党が、肩を貸すと、それにすがって、駕の中から這い出る。傷口からは、絶えず出血している、 それをじっと押さえ、肩に手をかけ、のび上がるようにして鷲家口の戦場を眺め入る。  彼は、決心した。今ここで、この重傷を負うた一身を勉げ出し、戦場に斬って出ることは、空し く犬死になる。いっそ伊勢路に落ちのび、逃れ得るだけは逃れ得て、再挙を計ろうとした。 「御苦労だった、駕はもう引き返してくれ、だが、お前方のうちの一人だけのこって、途中まで道 案内をたのむ」  ついてきた人夫に、そういった。 「よろしゅうございます」  彼等のうちの一人が、案内者となったので、吉村主従は再び山路に分け入る。  これから伊勢路になるというところで、案内老をかえした後は、主従二人、痛む傷口を押さえ、 若党の肩につかまって、山また山の細道を闇にまぎれて、歩きつづけた。  暗さはくらし、途は分からず、一歩にあえぎ、数歩に息づき、のまず食わず眠らず、山中をさま ようているうちに、秋の夜は、しらしらと明けそめる。  ふと見ると、すぐ眼の下の民家から、ゆらゆらと煙があがっている。 「あッ、旦那さま、あれに人家がございます、休息をなされた上、一食をもとめようと存じます」  正一郎のいうがままに、吉村は、うなずいた。  これがちょうど、二十六日の明方。彼等の発見したこの民家というのは、鷲家村の立場になって いる駕籠茶屋であった。 「ごめん」  正一郎が、土間に入ってゆくと、如才なさそうな老婆が一人、主従の容子をまじまじと見入った。 「道にまようて、難儀をしている、しばらくの間、休ませてくれぬか」 「折角でございますが、今日はお断わりいたします、藤堂さまの御人数が、この村方に御出ましに たって、おふれをなさいました、旅人は、いかなわけがあっても、立ち寄らせてはならぬと、きつ いお言葉でございます」 「それなら、いたし方ない、むすびなど一握りこしらえてはくれぬか」 「それもお断わりいたします、……何せよ、事がもれますと、わたしどもも、大変なことになりま す、なんの、むすびぐらい、お金はいただかずとも、さし上げますが、左様なわけ故、どうにもな りかねまする」  なんといっても承知しなかった。  やむを得ず、ふたりは、茶屋を立ちいでた。ちょうどこの家の南隣、路傍の畑中に、一軒の空小 屋があった。彼等は、そこへ立ちよって疲れをやすめることにした。 「旦那さま、お腹がおすきたされたでござりましょうな」 「拙者は、どうでもよいが、そちが定めしひもじいであろう、一走り走って行って、たんぞもとめ て参らぬか」 「よろしゅうございます」  正一郎が、吉村を小屋にのこして、出かけた後であった。  彼は、昨夜来の疲労のため、かてて傷口の経過が思わしくなく、しきりに痛み出したため、苦悶 をしていると、忽如、彼の耳にひびいたのは、異様な物音。 「何かしら」  窓からのぞくと、敵だ。  茶屋の老婆は、いつの間にか、注進したと覚しく、藤堂藩散兵隊長金谷建吉が、部隊を率い、小 屋を包囲したのであった。  前後左右、いずれを向いても、敵だ、吉村は傷ついた身を起こして、逃るるにしても、これでは、 動きがとれない。今は、最後、彼は手早く、携帯した義挙の盟約、軍令、その他の重要書類を|寸 断《ずたず》々々に|引《た》き裂いた折から、散兵隊は、一斉に銃口を小屋に向けて、射撃をはじめた。  彼は、奮然として立ち上がった。    吉野山風にみだるるもみぢ葉は        我が打つ太刀の血煙と見よ  高らかに、辞世を吟じ終ると、水田国金作の大刀をふりかざし、小屋の中から、躍り出づ。 「すわ出たぞ」  敵は、このたった一人の吉村の威勢におじ怖れて、近づくものがなかった。腹部の傷口の痛みを 忘れて決死の吉村が斬って出ると、どっとおめき立っていたが、 「射ち止めよ」  卑怯にも、吉村に向かって、一斉射撃を加えた。たちまち、身に数弾をうけた吉村は、大刀に血 ぬらさずして、 「残念」  一声、叫んだなりで、空小屋の前に、どうと倒れてしまった。  高杉が、河上弥市と併称したる快男児吉村寅太郎は、かくして、吉野山下一|杯《ぽう》の土となったので ある。 残念大将  南山の義挙には、土佐藩からは、吉村以下十七人の同志が加わったが、一命を全うして、危地を のがれたのは、池内蔵太、上田宗児、伊吹周吉、島浪間、大利鼎吉の五人、他の十四人はみな犠牲 とたったのである。  さて、忠光卿は、鷲家口の戦いにおいて、敵のかこみを突破したが、この時、身辺にあるのは、 池内蔵太ほか十七人。 「こう多人数では、かえって脱出に不都合であろうから、思い思いに、路を分かって、落ちのびよ うではたいか」  相談が一決して、卿は、内六人をしたがえ、昼は伏し夜は行き、つぶさに、困苦欠乏にたえて、 二十七日の五ツ頃、河内大和境山の峠にさしかかって、ようやく安堵の胸を撫で下した。 「大和戦争日記」によると、ちょうど、四五日前、河内表にも、天忠組討伐の人数がくり出したが すでにひきあげた後だということが、この時初めてわかったとある。  で、主従七人、峠の茶屋へ入って、ゆるゆると、食事をしたためた。  すると、茶屋の前を通りかかる一人の侍。 「しばらく」  彼等の一人が、飛び出して止めた。 「卒爾でござるが、いずれの御藩でいらせられるか」  こう問いかけたものだ。 「拙者は、植村駿河守の家来でござります」 「さては、高取藩でござるな」 「左様」 「この方どもは、天忠組のものであるが、これより京表へ引きあげる途中である、さすれば、貴殿 とは仇同士であるが、貴殿は御一人、この方は七人づれ、立会いは差しひかえる」  そういうと、びっくりして、急にあわて気味となる。 「いや、拙老は、貴殿方とは、事違い、至って身分の軽いものでござります、それに、どういうこ とになっておりますものやら、その辺の事情もとんと承知せず、立会いなどと、及びもつかぬこと でござります」  逃げるように、その場を立ち去ったと、日記の末に記述している。  不眠不休で、木の根岩角を踏みながら、やっとこれまで逃れたきた落人の身である。しかるに、 随分、酔興な話だが、たとえ、破軍になっても、彼等には、高取藩士をからかうくらいの余裕はあ った。そこが、面白いところでもある。  食事を終って、一行は、河内路をへて、昼過ぎ頃大坂についた、天王寺玉造は、厳重の固めがあ ったため、その間の桃山から道頓堀に出て、近江屋治一郎方で、雨に汚れた衣類を着かえ、酒食を ととのえ、暮頃から茶舟にのって、酒くみかわしながら、中の島の長州屋敷に入った。  留守居役北条瀬兵衛の斡旋で、ここから船で、防州三田尻へのがれたのは、それから後のことで あった。  鷲家目で戦死した叔父那須信吾は、当時三十七歳で、同志中の最年長者であった。三十七歳で一 番年上だとすれば、他の同志が、みな血気壮鋭の年少者であったことがわかる。叔父の首は、函に おさめ、京都町奉行永井主水正のもとに送られた。  遺骸は、村民の手によって、宝泉寺畔明寺谷の山上にうずめられて、ここに、石碑が建てられた。  吉村は、二十七歳の青年、藤堂藩の手によって、同じく首は、京都におくられた。死骸は、村民 が、村界石ノ本の大磐石にうずめ、その上に木標をたてた。  村民は、吉村の壮烈悲痛な最期を見届けている。 「あの大将を殺したのは、駕籠茶屋のばばが、藤堂様へ密告したからだ、気の毒な、手傷を負って いるのに、さんざん虐待した上、訴人するとは、あきれたものだ、今に怨霊に取りつかれるぞ」  こういう噂が自然、老婆の耳にも入ったことであろう。また、老婆も、後になって、討死したの が、名もなき端武者にあらずして、土州の吉村寅太郎という大将だと知って、悔恨の情に打たれた ということもあろう。とも角、たえず、すまなかったと、口癖のようにいっているうちに、|瘡《おこり》にか かった。 「それ見ろ」  村民は、|催然《くぜん》として、吉村のうらみだと、いいはやした。  老婆の寝ている枕元に、血みどろ姿の吉村が、ボーッと現われることがある。 「すみませぬ、勘弁して下さいませ」  老婆は、夢の中にあって、詫び言をならベていたが、吉村は、夜叉のごとくに、髪を逆立てて眼 を怒らして、睨みつけている。 「やよ、|娼《おうな》、吾を宝泉寺に葬れ」  そういったかと思うと、影のごとくに、ふッと消える。  老婆は、汗ぐっしょりになってふるえている。  この話が、いつ誰の口から洩れたというわけもなく、つぎつぎに、それからそれへと伝わって、 河内大和の国一円にひろまった。  石ノ本の墓には、香花のたえたことはなかった。はなはだしきは、大坂、堺あたりからも、参詣 に来る。  瘡の神さまだとあって、祈願をこめると、また不思議に、霊験がある。吉村が、最後に、倒るる 刹那、「残念!」と叫んだというところから、これを「残念大将」とあがめ奉った。 「近世実地見聞集」に、この風聞がかかげられている。 「吉村寅太郎討死の節申置候には、われ死して後に至り、諸人病気何とも難儀致候者有之候えば、 我を祈りたまうべし、即座に癒やし遣わし申すべしとの御事にて、見事に切腹被致候につき、元治 元年秋八月にいたり、いずれの人の建立にや石碑相立、右の石碑へ追々群集して、多人数参詣致候 ところ、病気ことごとく平癒いたし候事疑なく、諸国各辺より参詣いたし候事あるたり、大坂表よ り大和吉野郡鷲ケ塚へ十六里」  その頃、こんな噂が行なわれたものらしい。  こういうふうに持唯されて、|流行神《はやりがみ》になると、じっとしていられない。 「駕籠茶屋のばあさんの枕元に現われて、宝泉寺にうずめろという夢知らせがあったくらいだ、こ っちへ骨を移したらどうか」 鷲家口村の村民は、そういうので、夜更けにこっそりと石ノ本の墓をあばいた。そして、吉村の 遺骨を奉じ、宝泉寺畔明寺谷の山上へ移して、新たに碑をたてた。位牌は、寺に安置し、法要をし たので、ますます残念大将が流行り出した。  翌年すたわち元治元年十月に、五条代官、中村勘兵衛が、この風説を聞いた。 「幕府に、弓を引いた逆賊の墓に詣るとは、けしからぬ」  いきり立って、那須の墓と、吉村の碑をとりこぼち、河の中に投じた。のみならず、建碑に関係 した村民二十余名をとらえて、獄に下した。 村民も、代官の威光に恐れて、再び墓を建てずに、そのままになっていた。  すると、西国の浪士高木左京という者が、この地を遊歴して、義挙のために倒れたる両士の遺蹟 をとむらった。 「墓石は、お代官のため、河の中に捨てられてしまいました」  こう聞いて、彼は残念がった。 「探したら、見当たるであろう」  村民に命じて、河中をさぐらせると、果して河底から見出すことが出来た。  彼は喜んで、これを元の位置に建てさせた。 「お前方が建立したとあっては、御代官からおとがめを受けようが、この墓を建てたものは、西国 の浪士高木左京という者だというたら、大事はあるまい」  そういいのこして、この地を去った。  代官も、今度は、格別、気にもかけず、そのまま拠置した。 仕置場の首甕  さて、京都へ送った那須及び吉村の首は、どうなったであろうか。私は維新後、しきりにさがし たが、どこに埋めてあるか、全く分からなかった。  ちょうど明治元年五月であった。ふとしたことから、当時、罪囚の処刑を取り扱っていた悲田院 のある男から聞いた。 「天忠組の首は、洛西の仕置場に埋めてある」 「それは、ありがたい、お前に覚えがあるか」 「ございますとも」 「では、案内をしてくれぬか」 「よろしゅうございます」  引き受けてくれた。そこで、五月二十四日、|楠目清馬《くすめせいま》の兄民五郎とともに仕置場ヘ出かけた。  その頃は、竹藪が一ばい生えていて、人骨が散らばっている。鬼気人に迫るとでもいおうか、な んともいえぬ臭気が、鼻をかすめる。  藪に入って、少しゆくと、五六枚の瓦が並べてあった。  悲田院の男は、そこで立ちどまった。 「ここに埋めてございます」  そういうので、瓦をはねのけると、裏に一々、朱で名前がかいてあった。 「那須信吾」と記した瓦をとりのけると、甕の蓋が地上に現われた。蓋をとると、中にも、小さな 木片に、名前が記されている。甕の中には、|白墓《はくあ》と食塩とが、一ばいつめてあったので、これを取 りのけると、やっと、讐が現われた。 「あッ」  私は、はっとした。京都で別れて以来、叔父は薩摩屋敷にのこり、私は国元へ謹慎を命ぜられた。 それが最後の別れであった。今、久しぶりで叔父の髪を掴んだ刹那には、胸が一ばいになった。  丁寧に、髪にも、木片が結びつけてあって、名が記してある。  甕から首を取り出し、水で洗って見ると、こはいかに、死後六年を経過していたにもかかわらず、 叔父の容貌はさながら生けるがごとく、ただ血色を失っているだけである。|髪《ひげ》が伸びているところ を見ると、大和一挙の苦戦の様もしのばれる。  楠目の掘り出した弟清馬の首も、同じく六年前と少しも変わらなかった。  私どもは、二つの首を前にして、しばらく言葉がなかった。  勤王のさきがけとなって、倒れた叔父にせよ、清馬にせよ、六年の後に所期の目的を達した事実 を目撃せずして、難に殉じた志をあわれむの情が、ひしひしと胸に迫ってくる。  叔父は、「御親征の事初を仕る」といって、義挙に参加した、したがって、一死もとより覚悟の 前であったのだが、余りに、痛ましい最期ではあった。  私どもは、首をささげて、ただちに洛東霊山にあつく改葬した。  そして、吉村寅太郎の弟狂次郎にも、この趣きをしらせてやった。彼も喜んで、首嚢を掘り出し に行ったが、その死顔は、同じように生色を帯びていたということである。  明治二十八年は、南山戦死者の三十三回忌に当たるので、奈良県知事古沢滋氏(元は迂郎といっ た)が、宝泉寺に大法要を営み、墓地は梶谷留吉がこれを改修した。  ところで、石ノ本墓石からは、とうに吉村の遺骨を掘り出したにもかかわらず、鷲家村民は承知 しなかった。 「残念大将の遺骨は、石ノ本の土中にある」  こういい張って、鷲家村との間に、長い間いさかいをつづけていた。 「いや、確かに改葬して、明寺山に埋めた」  こう説明しても、それを認めない。  やむを得ず、墓地改修の企てあるを機会として、両村の吏員故老たど立会いの上で、石ノ本の旧 埋葬地を発掘して見ることにした。  すると、残骨数片が、まだ土中にうずまっていた。さきに、発掘の際、とりのこしたものと見え る。  で、これをことごとく壷におさめ、明寺山に改葬し、旧墓地には、大石碑をたて、「|元痙地《げんえいち》」の 三字を刻した。これで、両村のもつれも、やっと解決したと聞いている。  大和の義挙は、私が、佐川謹慎中の出来事であって、養父の那須俊平翁は、この時私ども父子に あてて、一書を送って参った。 「さてまた、石原幾之進(那須信吾の変名)儀も、去る八月大和一撲に組し、中山侍従公落のため、 敵三人まで突伏候え共、数多の儀にて、ついに討死仕候趣その節同道いたしおり候池内蔵太は幸運 にして、長へ参り、もちろん侍従公にも長へ御出被成候趣、去冬時山七郎噺承り申候、吉村寅太郎、 村田繁馬都合三人、討死仕候、可憐々々、去戌四月二日、亡命仕候得ばその日命日と相定、心の営 みいたしおり申候、しかるに根元誠忠被思詰、妻子捨、天晴の志、武士本意に候得共、愚老も次第 老衰仕、凡太郎成長を待兼居候、さりながら大分成長仕、次第に言語も相分り、指を折り相待居 候」  この書面を見ると、俊平老一家は、叔父の亡命の日を命日として、すでに帰らぬものとあきらめ、 老は、叔父の残した孫の成長をたのしみに待ちあぐんでいたらしい。養子信吾を失った老後の楽し みとしては、これにまさる楽しみはなかった。  だが、天下の風雲は、この一老爺までも、渦巻の中に巻き込まずにおかなかった。というのは、 元治元年五月、千屋菊次郎の弟金策が、京坂の動静を報告かたがた帰国した。そしてただちに脱藩 を決意し、この月二十九日、濤原の俊平翁の家に一泊した。 「逡巡している場合でない、脱藩にきめた」  金策の言葉に感じて、翁は、玉川壮吉(後の井出正章)とともに、いろいろ斡旋をした。深夜、 金策をして、宮野々関門をぬけ出さしめ、伊予の土居村医師矢野杏仙の家に潜伏せしめたのは、み な彼等の計らいであった。  玉川は、翌日衣類の仕度をして、金策のもとへ届けた。  そんなこんなが、郷廻りの役人の耳に入ったからたまらない。那須と玉川との背後には、朱総の 十手が閃いた。 「ここにいては危ない」  自分達まで、あやしくなったので、はからずも、脱藩することになってしまった。  玉川の家と那須の家とは、十丁程しか隔ってはいなかった。しかし、役人の眼をかすめるため、 夜中、屋後の山道をぐるりとまわって往来し、たがいに脱藩の相談を進めたものである。  六月五日の夜、玉川が仕度をして、那須の家をたたく。  この時、俊平翁は、玉川を迎え、妻女と二人の孫とをそばに坐らしめ、三ツ組の盃で、かどでを 祝う酒盛りをした。  妻女は、一言といえども、悲痛の情を洩らさず、遺孫は、何が何やら、爺の意中を知らずして、 嬉々としている。  酒一巡、一番鶏の哺く音を聞いて、座を立ち上がる。夜はまだくらい。 「堅固で暮せよ」  俊平老は、二人の孫の頭を撫でて、秘かに門を出た。  妻女は、二人の孫を抱いて、門口に立ったまま、闇中に消えてゆく二人の影をいつまでも見送っ ていた。  事によるとこれがもう、死別になるという場合に臨んでも、一滴の涙も見せず、俊平老の気を励 ました妻女の胸中は、千万無量であったに相違ない。 俊平老等も無論落ちゆく先は、長州であった。老は、六月に脱走し、私どもは、八月に脱走した ので、その間、ほんの一月あまりのへだたりがあるにすぎない。  那須老も、三田尻の招賢閣に入り、私どもも後から招賢閣に入ったが、かけ違って再会するを得 なかった。招賢閣は、当時、勤王志士の梁山泊であったが、その間の事情は、つづいて中し上げる ことにする。 新選組の乱入 土州の一番槍  国元を脱走した私どもが、三田尻の海岸につくと、波止場で五六人、散歩している老がいる。ど うも、容子が、土佐の者らしい。近づいて見ると、果してそうだ。それも、大和の義挙に参加し、 危地を脱して落ちのびてきた池内蔵太、上田宗児等の面々。 「不思議なところで、会うたものだな」  顔を見合わして、奇遇に驚いた。  そこで、招賢閣に入ることは、池等に交渉して貰うことにして、井原応輔、那須盛馬、大橋慎三、 池大六、及び私の五人は、一まず三田尻の大槌屋という宿屋に草鮭をぬいだ。  招賢閣というのは、大観楼附属の建物で、物置場や道場に使用していたものだが、文久三年八月 の政変以来、諸藩脱走の志士が、亡命の七卿を中心にここへ集まった。で、毛利家が急に手入れを して、志士の旅館にあてたもので、七卿はその大観楼に一時起居していた。  元治元年七月の蛤御門の戦いには、招賢閣にいた脱藩志士は、別働隊として忠勇隊を組織し、長 藩の家老益田右衛門介、福原越後、国司信濃等に従い、君側清掃のため、京都に上った。  忠勇隊は、益田国老に属し、山崎及び天王山に屯営したが、いよいよ七月十九日、幕兵と砲火の 間に|見《まみ》えることとなり、西街道より進んで、松原通りを東ヘ、柳馬場通りを左折し、堺御門に迫っ た。総勢およそ五百余人、高良大明神、香取大明神と大書した旗二硫が、砲姻を冒して真先きに進 む。堺御門は、越前の兵が、ひしひしと堅めていたので、転じて鷹司邸の裏門にまわった。  久坂義助、真木和泉守等。 「我等、嘆願の筋あり、御開門下されい」  こう呼ばわって、長州勢はたちまち邸内へ押し入り、久坂、真木等は、関白輔煕公に拝謁した。  この時、越前の兵は、いち早く邸を包囲して、発砲しかけた。 「すわ」  表門の方に、どっと起こる関の声。  長州勢は、邸内の塀の上に登って、越前兵を狙撃した。  たちまち、邸の内が修羅場と化し去ったが、決死の長州兵は、北手の埋門から無二無三に打って 出る。忠勇隊も、同じく表門を開いて、突いて出る。 「土州の尾崎幸之進、一番槍」  疾呼して、帝釈の荒れるがごとく、群がる越前兵の中に、突撃したすさまじさ。これにつづくも のは、伏波将軍といわれた那須俊平翁だ。  老いたりといえども、槍をとっては、腕に覚えがあるので、鋭鋒、向かうところなし。  と見ると、戦塵をあげて馳せ参ずる桑名兵百余人、越前兵に合し、勢いをもり返して迫りよる。  幸之進は、鷹司邸内に退いて、ほっと一息したところへ、敵は、更に彦根の兵三百余人を加えて、 潮のごとくに、押し返してくる。  幸之進は槍の柄をふつりと切って、傍にいた那須翁をふりかえる。 「いよいよ死花を咲かせる時が参った、花々しく討死しようぞ」 「心得た」  間もあらせず、幸之進は、短槍をふるって敵中へ突いて入る。  俊平翁も、槍を舞わして、つづいた。勢いあまって、足をすべらし、小溝の中に、どうと倒れた からたまらない。 「得たり」と、越前の一士、堤五一郎(後の堤正誼男爵)躍りかかって、俊平翁を刺し、乱軍のうち に首をあげた。俊平翁は、この忠勇隊の伍長で、年すでに五十八歳であった。  私どもが、池等の周旋で、招賢閣の世話になったのは、ちょうど、元治元年九月一日であった。 したがって、那須翁が、蛤御門で戦死した後で、もう少し、早く国もとを脱走して三田尻へ来たた ら、翁とも会い、またこの一戦に参加することも出来たわけである。  この役において、吾々の同志は、那須翁のほかに、尾崎幸之進、上岡胆治、伊藤甲之助、柳井健 次、中平竜之助、松山深蔵、千屋菊次郎、能勢達太郎、安東真之助等を失った。彼等はみな、南海 の男児として、恥しからぬ壮烈な最期を遂げて、真木和泉守等とともに難に殉じている。  当時の招賢閣の浪人組の巨頭は、真木和泉守だが、彼の残後は、中岡慎太郎が隊長と目されてい た。  長州三家老の東上の機に乗じ、世子毛利長門守定広は、亡命中の三条公以下の諸卿とともに、海 路三田尻を発した。ところが、途中で、長兵敗走の報に接し、樗然として色を失し、また引揚げね ばならなかった。  すなわちこの計画は、全く長州の失敗となり、幕府は尾張大納言慶勝をして、列藩の兵を|督《とく》し、 毛利父子問罪の師を起こした。これが「第一回の長州征伐」である。  この時の長州は、てんやわんやの騒ぎ、主戦論と非戦論とに別れて、両派が、あい争うというよ うな有様、主戦論老は、防長二州の山河が、たとえ焦土となろうとも、幕兵を迎えて最後まで戦え といきまく、高杉晋作などは、その主唱老。 「いよいよという土壇場には、君公父子を奉じて朝鮮におもむく、そして|鄭成功《ていせいこう》が台湾によれる故 智に学ぶも妙である」奇想天外より落つるがごとき案を立てた。  だが、非戦論者は、これを書生論とけなしつけて、相手にせず、ついに、吉川監物は、益田、福 原、国司、三家老を責任者として、自刃せしめ、その首を幕府に献上することによって、征長進軍 の延期を請わんとさえした。  私どもが、招賢閣に入ったのは、こういう際である。じっとしておられる場合でたい、そのうち に、征長軍は、すでに広島に到着したというような噂が耳に入る。いよいよむずむずし出して来た。  長州の危機、天下、まさに乱れんとする兆しが見えて、殺気日に日に濃度を加えてゆく勢いであ った。 浪華城の焼打ち  ところへ、武者小路家の家来であった本多大内蔵が、たまたま、周防の富海へ来た。  京都の情報を聞きかたがた会って見ると、いよいよ猶予すべきでない。 「このままで袖手傍観すると、結局、長州は非戦論者の天下となり、年来、毛利父子が提唱して来 た勤王の大義は、声をひそめることになるのみならず、吾々もまた、捕えられて再び国もとへ護送 されるような運命とならねばならぬ。進むも死、退くもまた死、どうせ、一命をなげ出すなら、い っそ、由井正雪の故智にならい、これから幸い、将軍家茂は浪華城におるので、大坂へ乗り出し、 城へ火をかけようではないか、幕軍が、狼狽している隙に乗じ、天下の同志を糾合して大坂をさわ がせたら、長州征伐どころではあるまい」  席上、こういう奇策が成り立った。 「愉快だ、やッつけろ」と、本多も、同意した。  この時、席にいたものは、本多のほかに、大橋慎三、井原応輔、千屋金作、島浪間、それと私の 六人だけであった。  たった六人の書生で、浪華城焼打ちの計画をすすめ得るかどうかは、冷静な頭脳で判断すれば、 疑わしいことである。しかし、当時の私どもは、尊王倒幕の一念よりほかに何もない、一命をさし 出したなら、必ずやれると、毫もうたがわなかった。  ただ事柄が事柄なので、この同志以外には絶対に秘密に附した。  で、ただちに、大坂潜行の仕度にかかった。長州では、非戦論派が、益田、福原、国司、三太夫 に向かって自刃を迫るというようなことを耳にしたが、こっちは、それどころではない、今にも、 浪華の城を紅蓮の炎につつみ、あわよくば家茂の首をあげてくれんずと、髪、天をつくの勢い、招 賢閣をこっそり抜け出して、富海から海へ浮んだ。  秋晴れの内海、一路目ざすは、大坂表。  しかるに、二十三日夜、招賢閣ヘ置き去りにした那須盛馬と池大六とが、道頓堀の鳥毛屋におい て、私どもを見出して、後から、一行を追いかけてきたので、とうとう同志は、八人となった。  さて、着々として焼打ちの秘密計画をめぐらしたが、城を焼いたばかりでは、何にもならぬ、つ づいて義兵をあぐるために、同志をかり集めねばならぬ、よって、井原、島、千屋の三人が、遊説 の役割で、山陰道に向かうことになった。  これが最後の別れとなろうとは、夢にも思わない。元気よく彼等と手を分って、私どもだけが大 坂に残った。  そうこうするうちに、市中見廻りの新選組が、この鳥毛屋に、怪壮士がいるという事実をかぎつ けたらしい。 「危ないから、拙者の宅へ参るがよい」  本多がそうすすめるので、那須、大橋、及び私の三人が、松屋町の本多の家へかくれた。  間もなく、忠勇隊に属して、蛤御門の一戦に参加した大利鼎吉が、大内蔵の許へ転がりこんで来 た。  大利は、招賢閣から出陣の際、髪をきって、討死の覚悟をしている。    古里にかねてぞ送る黒髪は        我がなきあとの形見とも見よ  辞世まで、添えたが、武運強くして、生きながらえ、国もとの同志へまた一首。    君がため尽す心の甲斐なくて        生きのこる身の恥しきかな  いずれも、報国献身の心情が、流露としている。  主人大内蔵を挟んで、血気の壮士四人、膝をまじえて、征長軍の牽制運動を起こそうと、焼玉を つくるやら、手筈を定めるやら、折から、準備中であった。  私は、中国、四国、近畿地方を遊説して、秘かに同志をかり集めようと、十二月なかばに松屋町 の本多宅を出発し、明けて慶応元年正月六日の松の内に大坂へもどってきた。  日一日、焼打ちの準備はととのい、今は早、事をあげるまでに至った。  もちろんこれは、後になってわかったことだが、同じ松屋町に道場を開いていた備中の剣客谷万 太郎というものがある。私どもは、少しも気づかなかったが、これが、新選組の同志の一人であっ た。  同郷の谷川辰吉が、谷に私どもを密告した。 「あなたは、すぐ膝元に、土佐浪士のかくれ家のあるを御存じないか」 「いいや、少しも知らぬ、どこにある」と、谷は、ぎっくりした。 「そうでございましょう、御存じたら、とうに、御手入れがあってしかるべきだ」 「是非聞かせてくれぬか、どこだ」 「同じ町内でござります」 「はてな、この町内にそういうかくれ家はない筈だが……」 「いや、灯台もと暗しのたとえ、御存じなくとも不思議はない、実は、この町内のぜんざい屋でご ざります、主人というのは、本多大内蔵といって、もと武老小路家の家来であるが、あれの家には、 この頃土佐浪士が出入りして、何やら画策中でござりますぞ」 「いいことを聞かせてくれた、ただちに踏み込んで、拙者の手柄にいたしてくれる、ただ今も、同 類が潜伏中か」 「たしかに四五人は、おりましょうか」 「なにほど牝ろうとも、この方の腕で成敗してくれる」  谷は、ただちに門弟を率いて、本多宅を襲撃することになった。  げに、考えてみると、私どもの一命は、風前の|灯同《ともしび》様であった。 大利鼎吉の闘死  天、いまだ光顕等を殺さず、 大坂にかえった翌々八日すたわち節分の夜、私は、 大橋、那須の両 名とともに、折から以前、私どもが滞在した事のある道頓堀鳥毛屋に、同志中沼孝太郎を訪ねたの だ。  その留守中へ、谷の率いる剣客は、白刃を閃かして、躍り入った。事実、本多は、変名してぜん ざい屋を開業していたので、潜伏所としては、最も恰好なところだった。しかるに、谷にかぎつけ られたので、万事休した次第だ。  奥の座敷にいたのは大利鼎吉。  どやどやと、壮士の閣入して来た物音を聞きつけた。 「くそッ」  彼は、中山侍従が侃用した半太刀をいただいて帯びていたがそれをとって、すっくと立ち上がっ た。 「おるぞ」  谷万太郎の一門は、鋒先をそろえて大利に斬ってかかる。乱闘乱撃、彼も奮戦したが、ついに、 全身に七創を受けて、彼等のために斬殺されてしまった。  このひまに、本多は、巧みに影をくらました。 「まだいる筈だ」  大利を殺害した彼等は、私どもを捜索したが、もとよりいるはずはない。  そこで、本多の家内おれんと、老母のお静とを召捕って、その場を引きあげた。あとは大風の過 ぎたようで、血みどろになった大利の死体が奥座敷に横たわっていただけである。  大利は、藩の五十人組の一人だ。これは、さきに、文久三年、松平春嶽が、政事総裁となって、 新政を施した。すなわち、大名の供づれを減らすとか、侍の継肩衣を廃し、マチ高にするとか、い ろいろ改革を施した。中に、最も問題となったのは、関ヶ原以来、人質として、三百諸侯の妻子を 江戸邸に置いたが、これに対して帰国の自由を与えた。その結果、各藩邸の周囲は、急に、火の消 えたような静かさとなって、江戸市民は、不平たらたらだった。    春嶽は按摩のような名をつけて       上をもんだり下をもんだり  こういう狂歌も出たくらい。  果ては、気早の江戸ッ子は、春嶽の知己である容堂公に対しても、おだやかならぬ企てがあると いうことが、国もとへも、うすうす伝わってきた。  そこで、同志、相集まり、今や撰夷の勅使東下し、皇国の安危、この時にありとなして、容堂守 護のため、私費をもって、江戸表へ出発する願書を藩庁へさし出した。そして、その許可の有無に かかわらず、挟を投じて、高知を後にした。この時連署血判した同志が五十人あったので、これを 「五十人組」と称した。みな、一死報国の尽忠士である。  大利も、この前後より、勤王運動に加担し、蛤御門敗戦後も、危地をふんで四方に斡旋していた のであったが、ついに非業の刃に倒れてしまった。  不思議なことには、ちょうど、前日、彼は、一首をものして、私どもに示した。    元よりの軽き身なれど大君に        心ばかりはけふ報ゆなり  これが偶然、|識《しん》をなし、また辞世となった。  大利は、この時わずかに二十四歳の青年、私よりも一歳の年長であった。遺骸は、どこに埋めら れたか、はっきりしない。  新選組は、取り逃した私どもの人相書を市中にふれ廻したので、私どもは、大坂にはいられなく なった。  実に残念だ、計画に着手せずして、未発のうちに彼等に躁躍された上、同志の一人までも、ムザ ムザと犠牲にした事は、たえきれぬ腹立しさである。しかし、この場合、大坂にいて、彼等の毒刃 を迎えることも、智恵のないわけである。 「しばらく、時機を待て」  そういうので、翌々十日、大橋がまず京都に逃れた。  那須と私は、十津川郷士千葉貞之助の注意にもとづき、中西弥作郎と中西|靱負《ゆきえ》との|響導《きようどう》によって、 大和十津川に遁れることにした。  ここは、叔父の那須信吾が、戦残した土地なので、同志のものが多かった。そういう人々の尽力 で、最初は、折立村の文武館に世話になっていた。だが、どうも、幕吏の探索がきびしく、下手を すると、かぎ出されそうな気配が見える。 「いつまでここにいるのも剣呑だ、何とか策はないか」  那須に相談をもちかけた。 「上湯の川に、同志の田中邦男がいる、あれを頼ることにして、ここを立ち去るかな」 「よかろう」というので、二人して、文武館を出ることにした。  しかし、途中、この風体では怪しまれるというところから、町人風に姿をかえた。 「二人とも奈良の刀屋というふれこみにしようではないか」  そこで、にわかごしらえの刀屋になりすまし、十津川を立ちのくといつわって、上湯の川に向か ったものだ。 折立から上湯の川へ出るには、途中に、えぐいも峠というのがある。どうしてもそれを越えてゆ かねばならない。  二人して、この峠にかかって、頂上までくると、道が二つにわかれている。  さて、困ってしまった。 「どっちへ行ったらいいのか」 「さっばりわからぬ」  二人とも、途方に暮れた。道を尋ねようにも、民家があるのでもなく、木樵がいるのでもなく、 人影は更にない。もし、一歩踏みあやまれば、不案内の土地だ、吉野の深山に迷い入る。  といって、ここまで、折角落ちのびてきたものを、また逆戻りをする気にもなれない。 「どうするか」  那須に声をかけたが、黙りこくっている。  いよいよ吾々の命数が尽きたのだと思うと、意気地のない話だが、涙が眼底に滲んでくる。 那須盛馬の負傷  私は、今でも、この時のことを回想する毎に、吉田松陰先生の「癸丑遊歴日記」を連想する。先 生は、嘉永六年癸丑二月十三日、大坂から大和五条にいる森田節斎をたずねた。一笠一蓑、雨のし よぼしょぼふる中を、ただ一人、不案内の竹内峠を越した、そして、峠を上ってゆくうちに、道が、 二つにわかれた。どちらヘ行ってよいのか、少しも様子がわからぬ、そして雨中に伶立して途方に 暮れた有様が、日記に見えている。  先生は、節斎の門に入るために、この困難をされたのであって、亡命客の私どもとは、もとより 目的が違っている。さりながら、旅中の行路難に苦しんだことは同一である。  私どもは、えぐいも峠の人外境に立って、荘然としてなすところを知らなかった。と、この時、 ふと、路傍に、ころがっている小さな石を発見した。 「道標じゃないか」  そういって、私が、引き起こして見た。 「あッ㎞  私は、思わず、喜びの声をあげた。この石の表には、右どこ行き、左どこ行きと、ちゃんと刻み つけてあった。 「しめた」と、よみがえったような心持ちになった。  で、勇躍して、一気に峠を下った。上湯の川は、もう脚下に展開していた。そこで、田中の家へ ついて、しばらく足停りをすることになった。  この亡命中、田中の家に世話になったので、浜田辰弥の旧名を田中顕助と改名したのだろうとい う人もあるが、事実は、そうではない。私は、佐川を脱走する時に、浜田の田をとり、曾祖父が中 村家から養子に来たので、養家の中をとり、「田中」としたのである。  そのうちに、なにぶん幕吏の探索がきびしいので、田中の義兄に当たる千葉慶次郎が、紀州旦高 郡の極々山中の上三路村にいた、そこへ田中が案内してくれて、隠れていた、慶次郎には子供が、 二三人あって、兄が十二三、次が七八つぐらいであった、私は、これに孝経の素読を教えてやった が兄は夫死した。弟の英吉が、今に生存しておって、小学教師をしている。  慶次郎は、なかなかの義侠家であって、よく私どもを親切に世話してくれた。  潜伏中那須は、十津川では、剣道の指南をしていた。すると、郷士中の剣客中井庄五郎が、京都 へ上るというのを聞いた。 「吾輩も同行する」  彼は、大胆にも、京都の形勢視察に出かけた。そのことからが、すでに冒険であるにもかかわら ず、十津川郷士の本陣、中町の丸太町屯所に滞在中も、平気で、市中を俳徊していた。  中井とともに、高瀬四条下る浮蓮亭に上って、一酌を催し、|瞼《そうそう》々|蹟《ろうろう》々として、もどって来る途中 だ。四条橋際まで来ると、向こう手から、大手をふって、大道せましと潤歩してくるのが、新選組 の沖田総司、斎藤一、長倉新八の面々だ。もっともその時は左様な事とはわかっていない。  酔っているので、橋の上で、衝突してしまった。 「退れ、無礼者」  那須は叱咤した。 「何くそ」  刀、たちまち、鞘を脱して、斬ってかかる。向こうは三人、こっちは二人、だが、中井は居合の 達人、那須は、力自慢、腕自慢、国もと脱走の際も、病気になった井原応輔を背負って、黒森坂を 越えたくらいの豪勇である。  入り乱れて格闘になった。  酔っていたためであろう。居合の名人中井も、斎藤に斬り立てられてたじたじとなる。そのうち に、那須は、沖田と長倉の二人にはさみ撃ちにされて、危くなる、でも、中井は助けに行くことが 出来たかった。  しばらく苦戦の後、中井は、鋭気を鼓舞して、斎藤を追いしりぞけたので、沖田と長倉も闇中に 影をかくした。那須は、大酔していたので、敵刃をうけ損じたと見え、左の肩先と、右の足に深手 を負うて、気息|奄《えんえん》々としている。 「歩けるか」 「ムム、何ともたい」  剛情な那須は、びっこを引き引き、その場を引きあげた。  |麩屋町《ふやまち》姉小路の書店池村久兵衛が別懇なので、そこへ寄って、身をひそませた。  見ると、意外な大怪我だ。 「早く、医者を呼んで貰いたい」  中井は、久兵衛に談じて、知り合いの外科医を招かせた。  どうせ、藪医だったに相違ない。グイグイと焼酎で、那須の傷口を洗って、それから、針で縫い 合わした。  もちろん、麻酔剤も何もかけない。那須は、それをじっとこらえていた。しかし、余程こたえた と見える。 「京の藪医に洗われた時の痛さといったら、また格別今考えてもゾーッとする」  よく、後になって、話が出ると、こういっていたものだった。  いつまでも、久兵衛方の世話になってもいられぬので、傷の手当てをするため、下御霊社の裏手 にある古着屋の一室をかりうけ、そこへ、潜伏した。  新選組と見廻組には、当夜の相手が、那須とわかって、翌日は、洛中洛外に、彼の人相書をふれ 出した。幸運なことには、ついに、彼等に発見されなかったが、随分、きわどい芸当をやってのけ たものだった。  那須のかえりが遅いので、私も、内々心配していると、やがて、のこのこと、また十津川へもど ってきた。  傷はすっかりなおったが、どうして、|残創一痕《ざんそういつこん》、まざまざと、刻みこまれている。彼が後になっ て、酔うと、いつも、裸になって、「これを見ろ」と自慢した肩先の傷はこれだ。 幽囚の岩倉具視  国もとにおいて、幽囚中の武市瑞山が、死をたまわったのは、ちょうど私が十津川に潜伏してい た際であった。  ところで、浪華焼打ち画策の同志というものは、こういう風に、ちりぢりばらばらになってしま った。  それらの同志は、どうなったであろうか。まず京都へ逃れた大橋慎三について語らねばならない。  これよりさき、文久二年八月、三姦と称せられた中の一人、岩倉具視は、|広幡忠礼《ひろぱたちゆうれい》等十三人の公 家によって弾劾され、勅勘をこうむって落飾を仰せつかった。  武市などは、まだこれだけでは満足しなかった。 「朝廷の御処置が寛大過ぎる、遠島を仰せつけられるがよろしい」  そういうので、三条、正親町、その他の公家の間を奔走した。  その頃の岩倉公は、公武合体論の主唱者なるがため、私ども同志の間には、はなはだ評判がよろ しくなかった。  そのため、秘かに、公を刺さんとして、身辺をうかがったものもいた。  そこで、公は、洛北岩倉村藤屋藤五郎所有の家をかりうけて、ここへ幽棲した。六畳、四畳半、 三畳の三間しかない茅屋である、それが長い間、住み手がなかったため、軒は傾き柱は歪み、荒れ 放題にあれていた。  公の周囲には、走りつかいの老僕が一人いるだけで、この親爺が留守になると、公自ら水をくみ 薪を運ばねばならなかった。そういうみじめな生活をつづけていたのだ。  この間に、時々幽居をおとずれて、公を慰問していたのは、非蔵人松尾但馬と京都の処士藤井|九 成《ひさしげ》の両人。  彼等は、公の心事がどの辺にあったかを納得していたので、公に謁しては、時勢のうごきを説明 していた。 「麿は、姦物の|議《そしり》をうけて幽居しているが、天下の志をすてたわけではたい、公武の合体を唱えた のも、時の方便、時至れば、すなわち幕府を倒すに、毫も躊躇するものではない。いや進んでその 任に当たる覚悟はしているが、いかんせん、同志がない、志あれども、これを計る同憂同感の士が おらぬのは、手足がないのと同然である。当今、真正の志士を求むることが出来ようか」  公は、彼等に、こう相談した。 「天下、人なきに非ず、必ず、公のために、手足となるべき有志のものを御紹介することが出来よ うと存じます」  即座に承引した。  それから間もなく、別懇にしている小林彦次郎(後の香川敬…が、松尾を訪ねてきた。折よく、 藤井も来合せていたので、三人鼎座して、時事を談じた。  小林は、当路の糟紳が、この国家大事の際に処して、優柔不断にして、なすなきを攻撃し出した。 「満廷、一人の一物なしというのが、今日の状態だ、まことに慨嘆にたえたい」  松尾は、ここぞと、膝をのり出した。 「わずかに、一人あり、さりながら、現在は、|朝誼《ちようけん》をこうむって蟄居中である」 「それは、誰か」 「岩倉村におらるる友山公(剃髪後、公は友山又は対嶽と称す)である、公は、姦物と唱えられてい るが、事実は、断じて、そういう人柄ではない、真に国家を憂うる赤誠の士である、公にして一度、 起用さるる暁は、天下の事、ただちに解決するであろう」 「馬鹿な、そんな事があるか」と、小林は、容易に信じない。 「君が、そう思うのは、無理はない、しかし、いまだその人を見ずして、語るに足らずと速断する は、誤っている、名声を聞いて、さて当人に直接会って見ると、左程の人物でない場合もある。ま た悪評を聞いて、さて実際にぶつかって見ると、真正の偉人である場合も往々ある、要するに心と 心と触れ合って見なければ、人物の真骨頂はわかるものでない、君は、吾輩にあざむかれたと思っ て、一度、岩倉村へ出かけて見る気はないか」  藤井も熱心に説破した。 「それなら、一度、会って見てもいい」  半信半疑で、彼は、藤井にともなわれ、初めて公に会見した。  夜を徹して国事を論ずるに及んで、なるほどと、心肝に銘じた。そして、今まで、彼が姦物の名 に囚われていて、真の岩倉を知ることが出来なかったのを悔いた。  昨日の敵は、一夜にして、今日の同志となった。 「当世の人傑である、今、京都に公あり、九州に三条公あり、二公、力を合わせて、天下のために 起つならば、ただちに風雲を収拾することが出来る」  彼は、そう信ずるようになった。彼は全く、岩倉信者になり切ったのだ。彼は、すすんで、これ を同志に打ち明けようとしたのだ。  そして、第一着手として、岩倉礼讃の宣伝に出かけた先が、大橋慎三である。  大橋もまた、容易に彼の言を用いなかった。 「とも角、会って見い」  すすめられて、小林とともに岩倉村へ出かけて行った。  彼もまた、一見して、公の識見に嘆服してしまった。  これが、皮切りで、在京同志の者が、それからそれへと公の幽居に出入りした。  されば維新の風雲は、このあばら屋から生れ出たと申しても、あながち過言ではあるまい。  海援隊の坂本竜馬、陸援隊の中岡慎太郎等が、初めて公に接する機会をつくったのも、大橋が、 橋渡しであった。  したがって、京都における大橋の行動は、はなはだ意義あるものだった。ただ、私が語らねばな らぬのは、遠く山陰の雲を踏んで遊説に出かけた井原、千屋、島、三人の悲惨な最期である。  彼等は、私どもと大坂で別れて以来、ついに、美作の国境土居の関門を血に染めて倒れた。その 悲壮なる劇的場面は、回想するだに惨ましき限りである。 四志士の最期 井原応輔の気性  山陰地方へ遊説に向かった同志中の三人、千屋金策、井原応輔、島浪間等の中、千屋と島とは私 と同年の二十三歳、井原が二十四歳、みな客気旺んな壮士であった。  千屋は、那須俊平老、玉川壮吉等の奔走で、国もとを脱走して以来、桜山春一郎と名乗って、京 阪の間で活動していた。この時代の勤王有志というものは、皆それぞれ変名を用いたもので、中に は、二つも三つも、変名があった。変名をする理由はもとの主家はいうに及ばず親兄弟の難儀とな らぬためであるのみならず、自分の身の上にとっても藩の罪人であるから跡をくらましたのである。  禁門の役には、忠勇隊に属して、大坂の長州屋敷まで来た。  ところが運わるくおこりにかかって、戦場へ出陣することが出来なかった。  七月十九日の戦いに鷹司邸を包囲された長州兵は、裏門を開いて、どっと敵中に斬り入り、血路 を開いて、山崎天王山に引きあげた。 「われら、武運拙くして、この度の戦いに、一敗地にまみれた上、かつ、毛利家に朝敵の汚名を負 わしめたのは、はなはだ心外である、生きて再び長州人に合わせる顔がない」  こういう真木和泉守の意見に対して、清岡半四郎等は、反対であった。 「そうもあろうが、一旦長州に引きあげ、三条公以下諸卿の御先途を見届け、撰夷の戦場において 花々しく討死するにしかず」  これもまた一理あるところで、池内蔵太、上田完児、玉川壮吉、島浪間というような面々は、こ れに従った。そして、清岡等と、山を下った。  真木に同意したのは、松山深蔵、千屋菊次郎、能勢達太郎、安東真之助等の土州人を始め、十六 人にすぎなかった。        しをいだしてかいぞくをうつ  おおいにりあらず      いたずらにけいしをさるにしのぴず  えいするところのてんのうざんにとふくし ひそかにしそ 「甲子秋七月、出師討会賊、大不利、我輩不忍徒去京師、屠腹干所営天王山、欲陰 |護至尊也《んをまもらんとはつす》」  天王社の拝殿に、こう大書し、各々名を記して自刃した。  諸士の遺書は、大和の人大場逸平がふところにして、山を下った。  このうち、長州屋敷に病臥していた金策のもとへ届けられたのは、松山深蔵と、兄菊次郎の遺書 である。 この度の事、聞知に相成可申、千載の遺憾、当山に相留め、菊次郎、達太郎、真之助、同様、屠 腹の哲一日、この夕までの余命と相成、御名残に奉存候、若哉万一御国へ御序も御座候わばこの手紙 御贈り被下度、別に書状は不相認、  七月二十日   千屋金策殿 小生などの志御継下され、 御尽力奉願上候。早々。       松山深 蔵  簡にして、一言他に及ばず、今、腹を切って死のうという人らしくない。おそらくは、 紙をしたためるような、安らかな心持ちをもって筆をとったものであろうと思われる。  兄、菊次郎の遺書には、こうある。 日常の手 一筆申遺候、その方病気の由、追々快方に移り可申、我は昨十九日、天王山一手にて、鷹司邸内 に、早朝より戦争に及び候処、未だ天運到らざる哉、左程の勝利なく、頭立候者多くは討死致し、 我等幸に無疵に有之候えども、何分今日の次第にては、生き候てはその甲斐なき事に付、再び天 王山へ十五人計、帰山致し、ともに快く割腹を遂げ候に付、その始末御国許へも便宜次第可被申 通候、その許に於ては、我等が遺志をつぎ、暫く謹慎にまかり在、必ず再興を謀り可被申、若そ の儀不能ば、七生迄の勘当なり、よく死を遂げ候時は、これ迄の罪科可許也、委細は、追々可被 承糾候、不尾。  七月二十日    孝健   金   策 殿 金策に向かって、後図を画るべきことを力説している。  この書面を一読して感奮したのは、金策一人のみでない、吾々同志は、みな同じ、空しく天王山 の一角に、屠腹して倒れた先輩の志をつがねばならぬという決心が、今更ながら胸中に勃然として 起こったことである。  千屋が、招賢閣にもどったのは、この病気が全快した後であった。  また井原の家は、私どもの家と同じく佐川の家老深尾鼎の家臣であった。三歳の時、父に別れた ため、古沢八左衛門の手で育てられた。応輔は、白面短小の美丈夫だが、気性は、余程鋭かった。 現に、私どもとともに、国もと脱走の途中病気のために、屠腹しようとしたほどである。  佐川では、高知から剣道師範を招聰したことがあった。応輔は、その相手になったことがある。  面小手をつけて、一礼して、立ち向かうのが、稽古の作法だが、彼は、そんたことはしない。竹 刀を手にすると、いきなり飛び込んだ。 「お面」  ポカリと、指南の頭上に一撃を加えた。 「無礼ではないか」  隙を打たれて、師範は、飛び退きざま、怒号した。応輔は、冷然としている。 「何が無礼でござるか」 「かりそめにも師に対して、左様な乱暴な振舞いがあるか」 「これは意外、拙者は、剣を学ぶのが目的、礼を学ぶわけではない、剣は、神速をもって尊しとす るによって、まず一本、参った次第だ」  応輔の言には、道理がある。師範は、たちまち怒りをといたが、彼の烈々たる気性は、この挿話 に最もよく現われている。 酒屋騒動  島は、すでに南山の義挙に加わり、禁門の役に参じ、生死のちまたをくぐって来た。  この三人が、揃って、|伯書《ほうき》に出かけて、同志をつのった。もっとも、千屋、井原は、地方子弟の ため、得意の剣術指南をして、世人の眼をくらましていた。  かくして、元治元年の暮は、雪の伯書に送り、あけて慶応元年の春、作州に入った。久米郡吉岡 村の慈教院方に滞在して、ここで、やはり剣道指南をつづけていた。  そこへ訪ねて来たのは、同志の一人、備前の山中嘉太郎だ、山中は、本名を岡元太郎といい、岡 山藩士土肥典膳の家来、勤王に志して、早く京都に出た。文久三年、等持院に押し入って、足利三 代将軍の木像の首をはね、三条河原にさらした、その同志中の一人であった。 「土佐の志士が、さる宮の令旨を奉体して、片上に来ている」  そう聞いて、備中にかくれていたが、わざわざ作州へのりこんできた。  ところが片上にはもういない。吉岡村までもどってきて、やっと、めぐりあうことができた。  美作国境の英田郡土居駅には、安東正虎、妹尾三郎平の両名がいる。安東は村の名主、妹尾は、 水口藩豊田謙次の門弟にして、安藤鉄馬と同学である。両士とも勤王の志があると聞いて、彼等は、 わざわざ土居まで出張した。  で、親しく両士に会って、土居に数日間滞在した。二人とも、加盟したのはいうまでもない。  そうこうしているうちに、資金の欠乏を感じてきた。  彼等といえども、ありあまるほど十分の旅費をふところにしているわけではない。 「何とか、方策はつかないか」  慈教院の住職に相談をもちかけた。 「ないことは御座りますまい」 「他より借用するというような途があれば結構である」 「それなら、こうしたらどうでござりますか、|百《どど》々村の造り酒屋池上文左衛門というのは、この界 隈での富豪でござります。井原先生は、池上家の若い者に剣術を教えなされた関係もあるので、文 左衛門に勤王の志を説き、あれに納得させて、一時借用を申入れ、事成るの暁、返金すると致すこ とにしたたら、よろしかろうと存じます」 「願ったりかたったりだが、池上が、果して承知するかどうか、はなはだ心もとない」 「わしからまず交渉をして見ますが、むろん承知する事と存じます」  快く引き受けてくれた。  四士は、これで、やっと愁眉を開いた。  慈教院の和尚は、ただちに、百々村に出かけて、内々糸を引いて見た。  案ずるより生むが安く、文左衛門は、快諾したとある。  四士は、喜んで、改めて百々村へ出かけたのが、慶応元年二月二十一日の夜。結髪の壮士、長刀 を撫して、ずらりと座敷に並んだところは、威風凛々としていた。  ただちに主人文左衛門が現われて、一同を応接したが、いつかな金策の一条に言及しない。 「慈教院から、御耳に入れたはずであるが、この際特に尽力を御願い申す」  こう談じこんだところ、文左衛門は、金を出すどころの話でない。 「とんでもないことでござります、あなた方に、御用立をいたそうなどと申し上げたことはござり ませぬ」  木で鼻をくくったような挨拶。 「そんなはずはない」  四士は、愕然として、言葉をすすめようとしたが、文左衛門これに耳をかそうとしない。 「あなた方は、勤王とやらのために、お働きなさるげな、勤王とは、まさか金の無心をすることで はござりますまい、事成るの暁、返金をするとおっしゃっても、いつの事やら、雲を掴むような話 で、お貸ししたところで返す見込みはござりますまい、いかに拙者が物好きでも、それを真にうけ て、おいそれと、御用立出来るかどうか、大抵お察しが出来そうなものだ、それよりもいっそのこ と金が欲しいと、手をついて、正直に泣きついた方が、まだ可愛らしいところがござります」 「馬鹿な、吾々に乞食の真似をせよと申すか」  みな血相をかえた。 「出来ぬとおっしゃれば、どうもいたし方ない、お断りするよりほかござりませぬ」 「くそッ」  あまりの暴言に、四士は、かっとなって、殺気を含んで来た。金を貸すといった覚えはないとそ の行違いの点を明らかにしただけならばよい、それならば、よし、文左衛門が、約束にそむいたと ころで、さして重大な事変を引き起こさずにすんだかもしれない。問題は、四士を侮辱した一点に ある。身命を君国にささげ、家を忘れ、親を忘れ、骨肉を忘れて、ひたすら、尊王運動に力をささ げている彼等にとって、氷のように冷たい侮蔑の言葉は、著しく自尊心を傷つけられたに相違ない。  また、こういう場合、なぜ恥を忍び辱を包んで、じっと辛抱しなかったという事も、考えられる が、それは議論になる、男子地に堕ちて、二十三四歳、壮心、五体に充ちあふれて、気力、最もさ かんなる時代である。  丈夫の面目、丸つぶれとなって、嚇怒したことは当然だ。 「無礼な奴、斬り捨てろ」  四士ついに、刀を抜いた。  口先きで、争っているうちは、文左衛門の方が強かったが、こうなると、急に怖気立った。 「あ」という間に、文左衛門は転げるように逃げ出した。 「抜いたぞ」  池上の家では、浪人者が、白刃を閃かしたので、一度にさわぎ出した。 「亭主を逃がすな」  同志は、文左衛門の後を追ったが、勝手元不案内のため、瞬間、どこへ姿をかくしたか、さっば り容子が分からたい。  この時、文左衛門は、いち早く倉の酒樽中に、身を潜ませたわけだが、とうとう、見失った。  機転のきいた番頭が、文左衛門の妻女としめし合せ、店にあった在金若千を包んで、その場に現 われた。 「どうぞ、旦那様、まことに相すみません、家の御主人は、いつも、ああいう癖がござりますので、 あしからず、御勘弁願います、ただ今、うかがえば、何やら御用金の仰せつけらしゅうござります 故、手前がこれへ持参いたしました、これで御間に合いますならば、ありがたい仕合せでござりま す」  しきりに平身低頭した。 「金よりもまず主人をこれヘ出せ」 「はい、……どこに逃げましたやら、手前にもわかりかねます、御主人は、口悪なもので、あのよ うたことを申し上げたが、腹は、いたって正直ものでござります、どうぞ、手前に免じて、お見逃 しを願います、実は、先ほど手前が顔を出そうとは存じましたが、出すぎたことも、致しかねます ので差しひかえておりました」  番頭は、しきりに詫を入れていたが、この隙に、池上家のせがれ輝通が、狼狽して、村名主のと ころへ馳けこんだ。 「ただ今、四人強盗が、入って参りました、みた浪人者でございます」  こう訴え出たからたまらない。  名主の家では、警鐘を鳴らして、百姓をあつめた。 「酒屋へ強盗だそうな」  事情を知らぬ彼等は、あるいは竹槍、あるいは猟銃、あるいは鎌なんど思い思いに武器をひっさ げて、池上家を包囲したのである。 前も敵、後も敵 「強盗、強盗」  その声を聞いて、驚いたのは四士である。血眼になった百姓に向かって、事の理非を説きあかそ うに本、いかにせん殺気だっているのとことに夜中であるしするので、手がつけられない。  やむを得ず、残念ながらこの場をひとまず立ち退くことにした。  そして、ここから、東に向かったのは、土居の同志安東正虎、妹尾三郎平等にたよろうとしたも のらしい。  百々村から土居駅(現在戸数二百余戸)までは、五里半の道程である。途中一里余まで来て江見村 警固屋坂にさしかかった頃は、夜明け近く、人顔も、おぽろにわかるくらいになった。農民は一人 ふえ二人ふえ、人数をまして来て遠巻きにしてここまで追跡してきた。もっとも、当時、浪人者は、 厳重に取りしまれという布令が出ていたため、百姓の方でも、捕えて手柄にしようという気があっ たかもしれない。  四士は、閉口した。  で、一旦立ち止まって、金袋を地上において、彼等を説得しようとした。 「自分等は、あやしいものでも何でもない、まして盗賊ではない、抜刀をしたのは、文左衛門にけ しからぬ振舞いがあったため武士の面目上、やむを得ず、いたしたことである、いずれ、事情は、 そのうちにわかるであろうから、引き取って貰いたい」  四人のうち誰であるかわからぬが、そういう意味のことを陳述した、しかし、農民は、そんない いわけを聞き入れる余裕がなかった。 「勝手な事をぬかす」 「討ち取れ、討ち取れ」  わいわいと、騒ぎ立てるだけだ、でもさすがに近よって手を下そうというものもない、四士にし ても、非常手段に訴えようという気はなく、ただ穏便に解決しようとした事は、同地に伝わる故老 の話によっても、想像出来る。  そのうちに、石を投げにかかった、四士の身辺には、それが霰のように落下した。  聞きわけのない農民の追跡には、四士も、よほど手こずった。と、轟然として、一発、銃を向け た奴がある。 「はッ」  瞬間、弾丸は、四士の頭上をかすめて、飛んだ。  これに勢いを得た壮漢の一人は理不尽に、竹槍をふるって身辺に近よって来る。 「ええい、聞き分けのない奴だ」  怒り心頭に発した井原応輔は、とうとう一刀の鞘を払った。 「めんどうだ」  いいざま、躍りこんで、一太刀浴びせた。悲鳴をあげて、そ奴が倒れると、追跡してきた農民の 群は、潮のように、どっと引いた。 「斬ったぞ」  秩序なく逃げ出した。この時、応輔と浪間とが、取ってかえして、三人を斬ったという説もある が、同地方の故老は、一人であるといっている。  しかし、農民は、あいかわらず、遠巻きによせてきては、しきりに空砲を放って、四士を脅かし た。  けれども、泰然自若、土居に向かって、進んで行った。  門尻にさしかかって、竹田神社の鳥居前に来た時である。四士は、この騒ぎの間にも、襟を正し て、神前に黙薦を続けた。この一事は、なんでもないようだが、常人の容易に企て及ぶところでは たい。  背後には、彼等を強盗と誤認している農民がよせてくる。前路には、彼等のたよる同志はいるも のの、厄介な関門というものが待ちうけている。すなわち、土居は、幕府の天領であって、ここに 関門が置かれているため、なんとかしていいぬけて通過せねばならない。後退しても敵、前進して も敵、そういうさし迫った場合、神前に礼拝する襟度は、よほど落ちついたものでないと、なし得 ない。  四士、果して、いかんの祈願をしたか、知る由もないが、尊王倒幕の大目的を貫くがために、神 明の加護を願ったものとすれば、その心事に対して一掬の涙たきを得ない。この事は、今もなお、 土居地方の語り草となっていると聞くが、もっともな次第である。  これよりさき土居には、浪人者の強盗来るという予報があったため、全村、急にあわてふためい た。  夜が全くあけて、家々、戸を開いたが、更にまた、戸を閉してしまった。  何かはしらず、大事変になりそうなので、家の中に閉じこもって鳴りをしずめている、山間の平 和な一宿駅にとっては、驚くべきことであったに相違ない。  士居駅門尻の関門をあずかるは、桜井熊七という元気者、多少剣道の心得もあったところから、 平生、腕自慢の男。 「浪人者がこれへ来たら、わしが召し捕ってくれる、見ていなさい」  鼻高々として、四士が関門にさしかかるのを待ちうけていた。 悪い時には、悪い事が重なるものだ、もし熊七が、こういう腕立を好むような男ではなく、素直 に四士の要求をいれたなら、事変は起こらずにすんだのではあるまいか。そして、むざむざと四人 を犠牲にせずに、危急を救い得たであろうとも、考えられる。  四士は、門番熊七が、十手を閃かしているとは知らず、今、この関門にさしかかったのである。 岡元太郎の自刃 「吾々はあやしいものではない、当宿の名主安東殿に面会いたせば、万事、明らかとなる……つい ては、御足労でも、吾々の案内をたのみいる」  岡元太郎が、熊七にこういった。  熊七には無論そんな気はない。二三、問答の後、十手を頭上にかざして、「御用だ」と躍りかか ってきた。  万事、ここに至って、窮す。 「くそッ」  抜き打ちに、岡は、熊七を斬ってすてた。 「あ、あ……」  熊七は、深手にたえずして、よろよろと、よろめきながら逃げ出したが、関門から二十間ばかり 西の松並木の根元で、ばったりと倒れたまま、びくびくしていた。血がたらたらと流れて路上に、 糸を引いた。  この松は、八尺廻りもある大木で、根元がくさって、ウロになっているが、今もたお現場に所在 している。松がくさったのを、熊七の死と結びつけてそのためだといい伝えがあるとも聞いている。 「諸君、番卒を斬りすてた以上、この分では相すまぬ、一切のことは、拙者が罪を負うて、ここで 割腹して果てる、千屋君、介錯をたのむ」  岡は決心して、どっかと坐って、胸をくつろげる。そこはちょうど、熊七の住宅の前で、松樹の 根元であった。この松も、今あるそうな。  江見で井原が一人、ここで岡が一人、とも角も、二人手にかけて殺した以上、いずれにしても、 このままで無事にすみそうもない。  事は迫っている。で、千屋は冗談半分にいった。 「君が笑えば、手を下そう」 「よし、笑って死ぬ、……たのむ」  岡は、ぐざと刀を腹中にあてると、千屋をふりかえって、にっこりと笑った。  それが最後、千屋のふりかぶった一刀は虚空に閃いて、岡の首をはねた。岡は正しく笑って、死 んだ。そして自分の首を前にして、亡き骸は打伏しになっていたとの事である。  岡一人だけ犠牲にして見てはいられない。井原と、島も、その場で刺し違えて死ぬことになった。 たちまち、三人、血みどろになって、街上に屍をさらした。  壮烈といおうか、悲惨といおうか、王事に一身をささげていた彼等が、賊と誤られて、山間の小 駅に、かくのごとき最期を遂げねばならなかったのは、いかにも残念至極である。  千屋は、ひとまず生きながらえて、安東たり妹尾なりに会って、この一条を打ちあけ、それから 後に最期をとげるつもりであったと見え、三人の死骸を後にして、土居の宿に足をふみ入れた。  刺し違えた際、島の手元がくるって、井原は、この時、死に切れずに苦悶をつづけていた。 「侍は通らぬか、止めをさしてくれ」  そういう悲痛な叫びをあげていた。  岡に斬られた熊七も、松の根元に苦しがっているのが井原の耳に入ったらしく、この間に熊七を 叱咤したとある。  医師の福田静斎が、見かねて、井原を介錯したため、ようやく絶命した。  一方、宿に入った千屋は、どっちをむいても、宿中はまるで墓場のような静かさ。  町方役人も、後難を恐れてであろう、誰一人出てきて、始末をつけようというものもなかった。  すると、向こうから一人、礼装をして、扇子を片手に歩いて来る男がある。宿を上ってくる千屋 の前に、威儀を正して、一礼した。千屋も、同じくあらたまって、挨拶した。 「拙者は、武藤太平と申します、町方役人の総代として、貴殿御出迎えのため、これへまかり出で ましてござります、どういう御事情であるか、委細うけたまわりとうござりますが、何せよ、御覧 の通りに、町方一同、今にも、騒動が起こりはしないかと、大変なうろたえ方でござります、一同 を安堵させるため、しばらくの間、貴殿の両刀を、拙者にまでお預け下されましょうか」  鄭重に申し入れた。 「もっともだ、ついては、安東殿に御面会出来るように取り計らってくれ」 「心得ましてござります」と武藤が承け引いたので、千屋は、武士の魂とする両刀を素直に、彼の 手にゆだねた。  武藤は、町内切っての大胆者であった。門尻の騒動は、のこらず見聞していたため、臨機応変こ ういう適切な計らいをしたのである。  そして、千屋を宿中第一の旅籠泉屋の奥座敷ヘ案内した。  この時、同志に加盟した妹尾三郎平は、折あしく不在であった。千屋が頼みにしていた名主の安 東正虎は、家にいたらしいが面会をさけた。  武藤が、機転をもって、両刀をあずかると、もう大丈夫だと、宿のものもやっと安心した、そし て、初めて戸をあけて、戸外へ出た。まだ一人いるというので泉屋の附近へは一ぱいに押しかけて きた。  彼等も、この四士が、尽忠報国の志士であることは、まだ知らず、百々で賊をはたらいた浪人と のみ思いこんでいた。  すると、間もなく、千屋を案内した奥座敷から、異様な物音がした。 「何か起こったぞ」  そっと襖の隙間からのぞいて見ると、もういかぬと覚悟したものか、千屋は別に用意してあった 九寸五分をもって、腹一文字にかっ切って打伏せになっている。 「やア」  驚いて、宿の者は部屋のまわりによせてきた。 「殺してはいけぬ」  若者の一人が火事場用の鳶口をもって、千屋の短刀をかき落そうとした。 「おのれ、無礼者!」  千屋は憤怒の形相すさまじく、猛然として立ち上がった。刹那、襖の外へ、馳けよりさま、血刀 をふるって、さっと若者に斬りつけた。 「あッ」  逃げおくれて、若老は神纏と帯とをざくと斬られた。  千屋は、そのまま、また座敷にもどって、咽喉をついて、美事な最期をとげたのである。  彼のふところからは、次の遺書が現われた。 「民を安んぜんと欲してかえって成らず、死して神と成り|夷《えぴす》を|撰《はら》い、もって展襟を安んずべし」  それから、次の一首。    夷等をきりつくさんと思うのみ      わが起きふしの願いなりしに  刺しちがえて死んだ島も、一首をのこした。    世にいでん時をもまたで散るものは      我と嵐の紅葉たりけり  これらの辞世や、遺書やその他の書類や、連判状やは、医師福田静斎が、死屍のふところから取 り出して、ことごとく焼きすてた。  したがって、竜野藩から出張した検視の役人が来ても、何事もなく、余累、他に及ばずしてすん だわけである。 四ツ塚様  千屋のごときは、兄菊次郎屠腹の際、必ず我志をついで、王事に尽せ、しからずんば、七世の勘 当とまで記された遺言をうけている。しかるに、賊徒の汚名をこうむって、むなしく、土居に自刃 するについては胸中、千万無量の感慨があったと推しはかられる。  その他の三士にしても、みな、心中を察すると、暗然たらざるを得ない。  死骸は、役人の手によって、一つの長持ちに収められ、門尻の河原に捨てられた。  けれども、土居の宿の者にも、追々事情がわかってきた。四士は勤王の有志であると聞いてその 最期をあわれみ、誰がするともなく土をもりかけたので、しまいには方一間、高さ四尺ほどの塚が 出来上がった。  水が出て、盛土が流れると、また新しく土をかけかけして、参詣するものが、日ましにふえ、周 囲には、幟が立てられ、香華の煙がゆらゆらと、空に立ち上る。  界隈では、これを「四ッ塚様」と、あがめ奉ったのである。  のち大橋慎三が、備前よりその顛末を古沢八左衛門に報告した書面の終りにも、こうある。 その葬い候翌日より、正義士たるの名分明らかにして、里人悔恨、参詣引きもきらず、一日に銭 三貫文、米九升計も集まり、中々盛なる趣き、皇天上帝、眼分明なり、しかるに、一時の奇禍に 落命、何とも遺憾無限事に御座候。 されば、当時、 土居地方にも、 西に百々の酒屋がなけりゃ      若い侍ころしゃせぬ こういう俗謡が行なわれた。 百々の酒屋は、池上文左衛門をさすこと、申すまでもたい。 更に童女は、手毬唄にして、これをうたった。 山家なれども土居の村ア名所 今日も参ろで、四ツ塚様へ 花を立てましょう、手毬の花を ヒーフーミーヨーいつまでも。  明治十年、井原の相続者、|遜《そん》、土居の埋葬地に一基の墓を建てたが、明治三十一年、土居小学校 運動場のかたわらに改葬された。  三士には、京都において別れたのち、私も、身辺の危険であったため、大和へ潜匿したような始 末、したがって、四士の最期に関するくわしい事情については判然しなかった。  幸い土居村長岡本武男氏の詳細なる報告に接し、前後の事情も判明して、委曲を尽すことが出来 たのは感謝にたえない。 薩州浪人梶原鉄之助  あたかもこの前後先輩、坂本竜馬、中岡慎太郎等は、京都において、薩長連合運動に着手してい た。  同志大橋慎三は、中岡に、私どものことをいろいろ耳に入れたと見える。 「今日は、十津川の山奥にかくれている場合ではない、至急、呼びよせるようにしたらどうか」  大橋に、話があった。  中岡の意中は、吾々を招きよせて、この運動の手伝いをさせようとしたにある。  大橋から迎えの書面があった。そこで、いよいよ十津川を辞することになったのは、慶応元年七 月に入ってからである。ただ、十津川を去るに当たって、私として、一つの心残りがあった。  それは、ほかでもない、田中邦男の家を出て後、紀州旦高郡の温泉場に一時、かくれていた頃だ。 薩州の浪人梶原鉄之助(本名左近允右嘉衛門)と、ふとした事から別懇になった。  元来、その頃、浪人というものは、どこの藩にもあった。しかし、薩摩に限って、脱藩者が少た く、ほとんど、薩州浪人というものはなかったと申してもさしつかえない、|畢寛《ひつきよう》、藩論が統一して いたためである。  梶原が、薩州浪人と聞いた時、実は私も意外に思った。  おいおい事情を聞いて見ると、第一回の長州征伐の際、薩摩は、幕府に加担した。 「同じ勤王を奉ずる薩摩が、長州征伐に味方をするのは、よろしくない」  こういう意見をとって、彼は藩論に反対したが、採用されなかった。  その不平のために、ついに京都の薩邸をぬけ出した。そこで関東に下り、水戸浪士と結んで、事 をあげようとしたが、途中紀州領で捕えられてしまった。  獄中にあること一年余、ようやく許されて、十津川へ亡命してきたということであった。  この梶原が名刀をもっていた。安芸国佐伯荘藤原貞安の作で、永禄六年八月吉と銘が打ってある。 中身は、二尺六寸、焼きといい匂いといい、なんともいいようのない神品だ。刀は武士の魂、もし 他人が、これを跨ぎでもしようものなら、頭を跨がれたと同じく、非常な侮辱とされていた頃であ る。同志相会すれば、互に侃刀を見せ合って、これを自慢にするのが、われわれの慣例であった。 梶原の刀を見た刹那、私は、欲しくて欲しくてたまらなかった。 「まことに恐れ入るが、拙者の刀と交換して下さらぬか」  こう中し入れたが、梶原も、秘蔵とみえて、容易に承知したい。  しかし、なんとしても思い切れない。  いつか機会があったら、また申し入れようと考えていた。  ところへ、大橋からの書面で、京都へ来いとある。  十津川を去るに臨んで、心のこりというのは、この刀だ。 「この機会に、もう一度、梶原にかけ合ってみたら、なんとかなるかもしれぬ」  私は、厚かましく、梶原に談じこむつもりで、訣別かたがた、彼を訪ねた。 「長らく、ご別懇を願ったが、自分も、今度京都へ立つことになった、もうこの世では再びお目に かかることはできぬかもしれませぬ、ついては記念のため所望がある」  刀の一件をもち出した。梶原は、私の熱心な要求にやっと動いた。 「それほど、ご懇望なら、貴殿の刀と交換いたそうか」 「いや、かたじけない、ぜひ、そう願いたい」  私のさしていた備前祐春の刀をわたすと、梶原は、秘蔵していた貞安の刀を私にゆずってくれた。 「これさえ手に入れば、もはや十津川に思いのこすことはない」  私は、勇躍して、十津川の山中から、またしても舞い戻ったが、梶原が承知してくれた際は、実 際、天下を取ったほどうれしかったのである。  すでにして、貞安の名刀腰にあり、さて京洛の風雲やいかに。 坂本竜馬と高杉晋作 井上馨の主張  那須盛馬と二人して、京都へのりこむと、まず寺町通り大雲院にいる大橋慎三をたたいた。  私にとっては、大坂で、別れて以来の会見である。大橋から、ちく一京都の容子を聞いた。くわ しい話を聞くと、何でも、私が十津川から寄せた一絶を大橋が中岡に見せた。それが、中岡の心情 をうごかし、私を呼び迎えることにたったのだといっていた。  で、何をおいても中岡に会おうと思って、寓居をたたいた。 「今日の場合、どうしても、薩州と長州とが私怨を忘れて、提携せぬことには、倒幕運動は、むず かしい、自分は坂本(竜馬)とともに、そのため折角両藩の有志に入説している。足下にも、一骨 折ってもらおうと思って、十津川から招いたわけである」  こういうことであった。 「むろん、われわれも賛成だ」  相談は、一決して、私は、中岡にしたがって、ただちに長州へ下ることになった。  この時、坂本等は、京都に止まることになり、中岡と私は、七月十九日に京都を出発した。  坂本は、私どもを伏見まで、見送ってくれた。  折から、長州の国情は、私が、招賢閣に滞在したころとは、ころりかわっていた。蛤御門の一戦、 武運拙く、会薩両藩のために、敗れて帰国した正義党は、全く勢いを失した。俗論党は、それみた ことかといわぬばかり、益田、福原、国司三太夫の首を幕府に献じ、敬親父子も謹慎となり、大き な声で談話することもさしひかえるというような有様、全く俗論党の天下となり切った。彼等は、 すすんで、奇兵隊をはじめ、遊撃、南園、|鷹懲《ようちよトつ》、御楯、八幡、集義、鴻城の諸隊をも解散せしめよ うとしたので、これら諸隊の総督が、太田駅に集合した。太田会議というのがこれだ。  筑前に亡命中の高杉晋作は、故国の急をきき、孤憤おく|能《あた》わずして、単身、海峡をわたって馬関 にのりこんだ。 「長州、たお男子あり、われわれの腕前をご覧に入れる」  深夜、武装して、長府功山寺に滞在中の三条公以下五卿に拝謁し、ただちに馬関新地の会所を襲 った。ちょうど慶応元年正月二日のことであった。この時兵は、伊藤俊輔(後の博文)の率いてい る力士隊と、石川小五郎(後の川瀬真孝)の率いる遊撃隊を合したもので、わずかな人数であった。 寡をもって衆を破るは、朝がけに限るとあって、夜のうちに押し出し、手もなく、馬関の俗論党を 一掃した。  これに、力を得て、正月六日の夜になると、太田に集合していた諸隊のうち、奇兵隊の雨宮慎太 郎が、|忽如《こっじょ》、決死の手勢を率いて、絵堂を襲った。ここには俗論党の|粟屋帯刀《あわやたてわき》が、諸隊鎮撫のため、 出張していた、あけ方、帯刀の本営を破り、雨宮は、ついに、|有地品之丞《ありちしなのじよう》に射撃されて戦死した。  これが、きっかけで、諸隊の奮起とたり、俗論党政府を倒し、初めて、藩論の一致をみたのであ る。  したがって、私が、中岡とともに、再度、長州に入った際は、防長二州の天地、全く勤王の旗風 にたびき、俗論党は声をひそめていた。  だいぶわれわれにとって、都合はよろしかったがへただこまったことは、諸隊の者、いずれも、 薩摩と提携することは欲しなかった。薩摩は、前年、会津に味方し、長州人に煮え湯をのましたと いうのが、彼等の胸にある。 「異人の靴をいただいても、薩摩とは和睦なぞできるものか、まして、提携などは思いもよらぬ」  とってもつけぬ勢いだ。 「甲子の役に、討死した亡友の手前、薩賊に援助を求めることたどは、いかにも恥じ入る次第だ」  御楯隊総督太田市之進なども、公然と反対意見を主張していた。 「これは、面白いご意見だ、死者に対して、和解できぬということであれば、戦国時代にあって、 敵国と和睦はできぬことになる、そんな理窟はあるまい」  むきになって、井上聞多(後の馨)が、喰ってかかったことなどもある。  諸隊のうち、一番頑固なのは、奇兵隊であった。この間において、提携運動を起こした坂本、中 岡等の苦心というものは、なみ大抵のものでない、勤王倒幕の第一線に立って、剣戟砲丸の間に活 躍した勇士の功も、むろん没すべからざるものだが、と同時に、両先輩が両藩の感情を融和せしめ て、共同作業の下に維新の機運を開いた努力を忘れてはならない。  もし、両先輩が存在しなかったら、薩長の連合は行なわれたかったかもしれない、そうなると、 維新の大業は、完成しなかったかもしれない、完成しても、よほど遅れることになったとみねばな らたい。  中岡は、「時勢論」の中において、予言している。 「自今以後、天下を與さんものは、必ず薩長両藩なるベし、吾思うに、天下近日のうちに、二藩の 命に従うこと、鏡にかけて見るがごとし、しかして他日、国体を立てて外夷の軽侮を絶つも、また この二藩にもとづくなるベし、これまた封建の天下に功あるところなり」  事実、天下の風雲は、中岡の明言したように動いていたのである。 坂本竜馬と高杉晋作 一刀三藩の縁  この時、長州で、私が、最も世話になったのは、高杉晋作である。中岡は、「兵に臨んでまどわ ず、機をみて動き、奇をもって人に勝つものは、高杉東行、これまた洛西の一奇才」と賞讃してい るが、彼は長州における人物のみならず、天下の人物である。  最初、私が高杉に会ったのは、文久三年、春、国もとから京都に出た時であった。高杉は、当時、 髪を剃って、クリクリ坊主になって、法衣のようなものをまとい、短剣を一本さしているというよ うな風体。それにはわけがある。  長藩では、彼を国もとへかえして、政務座に抜擢しようとした。  ところが、高杉は役人になることは御免だといい張った。  藩の家老周布政之助が、しきりに、すすめたが、なんとしても聞き入れない。 「拙者は、是非とも、勤王の師を起こして、幕府を倒さずにはおかぬ、役人になることなどは思い もよらぬ」 「といって、今、急に、そうはゆくまい、だんだん時勢がすすめば、足下の望みどおりの時機が参 ろう、まず、これから十年も待つことだな」  周布がそういった。 「しからば、拙者に、十年のおいとまを願いたい。……さすれば、ほかにあって、毛利家のために 働きます」 「それほど、足下が熱心なら、たってとも参るまい、十年のおいとまはなんとかして、取り計らっ て進ぜる」  周布が、中に入ったので、君侯からもお許しが出た、そこで、彼は、すぐに、幕籍を脱して坊主 となったのである。    西へ行く人を慕うて東行く       我心をば神や知るらん  これはこの時の述懐だ。西へ行く人というのは、西行法師をさす、西行法師が隠遁したのを慕っ て、反対の東へゆくという心持ちは、神よりほかに知るものはないという謁意だ。  私と初対面の時は、正にこういう際であって、何でも場所は東山にある料亭で、高杉は、首に頭 坂本竜馬と高杉晋作 陀袋をかけていた。  芸妓が、よってたかって、物珍しそうに、この|新発意《しんぽち》をからかいはじめた。  すると、高杉は、坊主頭をたたいて、謡い出したもんだ。    坊主頭をたたいてみれば       安い西瓜の音がする  満座、笑いくずれてしまった。その瓢逸な態度というものは、今もなお、眼底にありありとのこ っている。  私は、はじめ中岡の使となって、長州から太宰府に転座した五卿を訪ねた。これが、八月一日で、 翌々三日に到着してみると、五卿はほとんど監禁同様な御身の上、京都の模様やら長州の事情をち く一、申し上げようとした。すると、五卿御守衛をうけたまわっている薩藩の肥後直右衛門が、面 会を許そうとしない。  もっとも、その折、幕府では五卿を関東に濫送しようというので、大目付小林甚六郎なるものが、 太宰府に来ていた。  肥後は、俗論派で、内々この一幕吏をはばかっていたらしい。  どうしても、五卿に会わせぬというので、相手にならずと、私も、断念した。 「薩藩として、まことにけしからぬことだ、どういう所存か、京都に引き返し、とくと西郷にただ さねばならない」  私は、土方楠左衛門(後の久元)に、意中をうちあけて、八日に長州へもどってきた。  そして、久しぶりで、石川清之助(中岡慎太郎の変名)とともに高杉に会見した。  この時の高杉は、坊主頭ではなく、意気軒昂、当たるべからざる勢い。奇兵隊の面倒もみていた し、海軍のことも世話をしていたし、ほとんど陸海軍総督といった地位にあった。奇兵隊は、高杉 の取り立てたもので、長州諸隊の根源とたった。さりながら、二州のがえん者の集まりだ、戦争が ないと、一日も、じっとしていられぬ、命知らずの壮士の隊だ、通常のものでは、しょせん統御が むずかしく、高杉でないと、おさまらなかったものだ。  これについて、彼はかつていった。 「孫子に、大将厳を先とすとある、自分が奇兵隊を取り立てた際には、まず法律を厳にし、これを 犯すものには、割腹を命じた。はなはだ残酷のようであるが、一罪を正して千百人を励ます、しか らずしては、壮士を駕御することは困難である」  なるほど、そうであろうと思われる。したがって、奇兵隊の軍律は、簡単明瞭なもので、高杉の 性格そのままだ。  盗みを為す者は殺し、法を犯す者は罪す。この二カ条にすぎない。  久潤の挨拶ののち、石川および私両人より、薩長両藩が、この際、国家のため、旧怨をすてて、 握手せずしては、しょせん、倒幕はできないことだと切論した。  そのうちに、ふと、私の持っている長刀に目をとめた。 「失礼だが、君の侃刀を拝見したいものである」  高杉が私にいった。 「どうぞ、ご覧下さい」  刀だけは、自慢だ、というのは、これこそ、私が苦心して、十津川において、薩藩士梶原鉄之助 から譲りうけた貞安の名作だ。  高杉は、鞘を払って、しばらくの間、じいっと刀身を見つめている。 「まことに見事な刀である。平素のお心樹けのほど察し入る」  果して大層もない賞め方だ。 「おことばで痛み入ります」  やがて、刀を鞘におさめると、高杉は、開き直る。 「はなはだぶしつけなお願いだが、お聞きとどけ下さるか」と石川に向かっていった。 「何でござりましょうか」 「どうか、君から田中君に話して、この刀を拙者に譲ってくれぬか」  さて困った。私が、梶原に交渉した当時と、同じことをいっている。その頃の志士は、名刀に接 すると、恋人を得たるがごとくに、愛着することは、共通の心理である。  高杉の心持ちは、よくわかっている、だが、いくら相手が高杉でも、この刀ばかりは手離すわけ には参らぬ。  しかるに、石川は、ただちに承知した。 「よろしい」  こういって、私をふりかえった。 「高杉君が、ご所望だから、お譲りして上げたらよかろう」 「はなはだ残念であるが、それだけは、お許し下さい」 「何か仔細があるのか」  石川も妙な顔をしている。 「はい」と、私は口ごもっていた。 「実は、この一刀は、私が十津川に潜伏中、薩藩の梶原氏からゆずり受けたもので、他から求めた ものではありませぬ、梶原氏も、ことのほか、大切に致して、容易に譲るとは申されなんだが、い ろいろ交渉をかさねたあげく、やっと承け引いてもらいました。そういう由来もあること故、せっ かくであるが、お断りをいたします」  露骨にことわっても、高杉は、思いあきらめようとしない。 「由来を聞いて、なおさら欲しくなった、梶原氏の心掛けといい、君の心揖けといい、ちかごろ感 服つかまつる、どうか、ご両所の心掛けとあわせてこの刀を拙者にお譲りを願いたい」  たっての望みだ。 「何としても、ご執心でありますか」 「いや、もう欲しくてたまらぬのであります」 「では、私にもお願いがあります、お聞きとどけ下さらば、さし上げぬものでもありませぬ」 「何んであるかいっていただきたい」  ここぞと、私がつめよせる。 「しからば、あなたのお弟子にしていただきとうござります」 「弱ったな、拙者は、人の師たる器ではたい」 「それならいたし方ござりませぬ、刀は、お譲りはできませぬ」 「つらいな、ようし、そういうことなら、およばずながらお世話をすることにしましょう」  ようやく承知してくれたので、私は、この一刀を高杉に贈り、彼の門下に入った。  彼は、この刀が、よほど気に入ったらしく、長崎で写真をとって、私のところへ送り届けてくれ た。それをみると、断髪を分けて着流しのまま椅子に腰をおろしている、そして、貞安の一刀を、 腰へんにぴたとつけ、酒落な風姿の中に、一脈の英気、楓爽として、おのずから眉宇の間に閃いて いる。彼は死ぬ時まで、これを手離さなかったが、死後、どこへどうなったか、この刀の行方がわ からない。一振の刀が、薩摩人から土佐人へ、土佐人から長州人へうつりうつって、薩長土の結び 付きとたったことは、不可思議な因縁だと思っている。 大和再挙の相談  私が高杉を訪ねた時に高杉は王陽明全集を読んでいる際であった。 に面白いのがあるといって書いてくれた。 高杉がいうには陽明の詩の中 坂本竜馬と高杉晋作 四十余年、瞬夢の中。 |而今《じこん》、醒眼、始めて朦瀧。 知らず、日すでに亭午を過ぎしを 起つて高楼に向つて、暁鐘を撞く。 「王陽明は、 から情ない」 |亭午《ひる》に至って、 暁鐘をついたが、 自分は、 夕陽に及んで、 まだ暁鐘がつけない始末だ  彼は、こういっていた。  私は、もとより書生の分際で、立派な表装もできずに、紙の軸に仕立てて、秘蔵した。  慶応四年になって、私が、高野へ出発の際、岩倉家の家臣のもとへ、あずけて行った。維新後、 これを取り戻そうと、岩倉家へ出かけた。  すると、どさくさまぎれに、どこへか紛失した。 「気の毒だが見当たらぬ」  やむを得ず、そのままになってしまった。  ずっと後になって、岩倉家に、高杉のかいたものがあると聞いた。 「ことによると私があずけたものかもしれない」  そう思って、同家へ検分に行くと、果して、この一軸だった。  で、四十余年目で、再び私の手にもどって、今日なお、大切に保存してある。  高杉の生涯は、極めて短かい、慶応三年四月、下関で、病死した時が、わずかに二十九歳であっ た。しかしながら、彼の一挙一動は、天下のさきがけとなって、|闘藩《こうはん》の意気を鼓舞したのみならず、 全国勤王運動家の指導者となっている。  それでも、自分では夕陽に及んで、なお、暁鐘がつけないと嘆息しているくらい、その気性のは げしさは、驚くべきである。  長州滞在中、彼は、私に教えた。 「死すべき時に死し、生くべき時に生くるは、英雄豪傑のなすところである、両三年は、軽挙妄動 をせずして、もっばら学問をするがよい、そのうちには、英雄の死期がくるであろうから……」  私は、そのため長州において修養のできたことを喜んでいる。  またいった。 「およそ英雄というものは、変なき時は、非人乞食となってかくれ、変ある時に及んで、竜のごと くに振舞わねばならない」  彼の生涯が、正しくそれだ。  さらにまたいった。 「男子というものは、困ったということは、決していうものじゃない。これは、自分は、父からや かましくいわれたが、自分どもは、とかく平生、つまらぬことに、何の気もなく困ったという癖が ある、あれはよろしくない、いかなる難局に処しても、必ず、窮すれば通ずで、どうにかなるもん だ。困るなどということはあるものでない、自分が、御殿山の公使館を焼打ちに出かけた時には、 まず井上(馨)が、木柵をのりこえて、中へ躍り込んだ、あとから同志がこれにつづいた、さて、 中へ入ったはいいが、このままにしておくと、出ることができない、元気一ばいだから誰も、逃げ 路まで工夫して、入りはしたい、困ったなと口をついて出るところはここだが、自分はそこですぐ に、木柵を一本だけ、ごしごしと鋸で切り払って、人一人出入りするくらいな空処をつくった、そ れ焼打ちだぞと、館内ではさわぐ、同志のものが、逃げてくる、その時、おい、ここだここだと、 一人ひとりそこをくぐらせて助け出したことがある。平生はむろん、死地に入り難局に処しても、 困ったという一言だけは断じていうなかれ」  堅くいましめられた。  この一言は、今もなお耳底にはっきりと残っている。のみならずそれ以来、私も困ったというこ とは、かりそめにも、口外せぬようにつとめて、今日に及んでいる。  私は、今年八十五歳だ、少壮時、多くの先輩諸氏の|騨尾《きび》に付して、風雲の間を祖裸したのである が、なんら君国のために微功をいたさず、いたずらに、馬齢を重ねつつあることは、まことに漸擁 にたえない。  で、時々、何か特別の健康法でもあるかどうかという質問をうける。しかし、左様なものは少し もない。もしあるとすれば、高杉が私に与えたこの一言にすぎない。「困った」という失望的言辞 を吐露せざるところにある。  泰山前にくずれ、江河後にみなぎる、人生の行路、たんたんとして髪のごときものでない限り、 こはこれ当然のことだ、別に驚くには足らない、平然として、難に当たるがよい、いわんや得意と 失望との境に処して、あるいは喜び、あるいは悲しむがごときは、女児の態のみ、決して男子のこ とではたい、こういう修業が、長州以来、たえず、私の念頭にこびりついている。したがって、私 は、困苦を困苦としない、悲痛を悲痛としない、これが何ほどか、保健上、役立っているであろう と信じている。  私がかつて、陸軍会計官として、名古屋師団に検閲に出張したことがあった。それがすんで、名 古屋から大坂行きの列車にのると、随行の老が、「困った」と突然声をあげた。 「どうしたのだ」 「いや、大変なことをしてしまったのです、靴を宿屋に忘れて来ました」  こういうのだ。 「それで、君は、困ったのか」 「はい、まことに、どうも、困却いたしました」  それから私はいうた。 「そんな事で、困るという事があるか、靴は大坂へ到着すれば、どこにもある。新しく買い求めて も間にあうことではないか、困ったなどということは、かりそめにもいうものじゃない、ましてそ れくらいのことに、困るなどととんでもない、君の不注意には違いないが、それならそれで、また、 どうにでも処置はつく、……私は、書生時代から、高杉先生に、こういう教訓をうけている」  そういって、この一条を|縷《るる》々|陳《の》べたことであるが、私は、機会さえあれば、この話は知己の耳に 入れることにしてある。  高杉の精神気塊の全部といわず、その一部でも、後世に伝えておくことは、高杉の銅像を作るよ りも、豊墳高碑を建てるよりも、ずっと有益だと考えているからである。  話題が横道にそれたが、当時、国もとに送った私の書面の中には、次のような一節がある。 「|児《じ》、大和に遊び、いまだ亡き叔父君の御墳墓を拝することを得ず、日夜無事を遺憾に思いまかり 在、その後上京候わば、どうぞ御墳墓を拝し申すべくと心掛かり在を申候、なにとぞ亡き叔父君の 御遺志を継ぎ、再び和山に義旗をひるがえし申度、南山の地理をも、大概目撃つかまつり候、先頃 高杉先生に向い、その事を密議し、もし伐長延引して、久しく因循とならば、再挙いかんと尋ぬる 所に、先生黙して答えず、|児《じ》その意をさとり、心中喜躍にたえず、なかなか尋常の老にこのごとき 事は言うべからず、先生は軍略に長じ、実に凡夫の測り知るところにあらずといえども、かねてそ の志を察せし故、児もまたその志を吐露せり、先生の事を成さんとするや、断然たること鬼神のご とし、勝算ある後事を発す、故に事を誤らず、その識見の高き故なり」  これが、私が、高杉に傾倒しているから、|轟屓目《ひいきめ》に、そう見るのではなく、実際、彼の識見は、 天稟であった。  天衣無縫、捕捉することが出来なかった。されば、師の松陰先生も、久松玄瑞と対照して、 「玄瑞の才、これを気にもとづき、|暢夫《ちようふ》の識これを気に発す」といっている。  私が、もし久坂に大和再挙の相談をしたとしたら、彼はこれに対して、|縷《るる》々、成敗を説くであろ うと思われる。高杉は、こういう場合、黙々として答えず、酒落な態度を見せているが、意一度決 すれば、猛然として厭起するところに、両者の性格の相違がある。  一口にいわば、高杉は、一個の天才児であったといい得る。 五卿の運命  そのうちに、十二月にたって、京都から黒田了介(後の清隆)が、薩摩の密使として、土佐の池 内蔵太とともに、長州へ下ってきた。  薩長提携が、追々と、具体化したので、桂小五郎(後の木戸孝允)の上京を促すためであった。 しかるに、内実のところ、提携すべきか、それとも、あくまでも、薩藩を仇敵として対抗すべきか、 藩論がまだ確定していたかった。  特に奇兵隊が、なかなか承知しなかった。 「あまり長逗留がつづいては、黒田が気の毒である、君が行って、慰めてくれぬだろうか」  桂が、そういうので、私は、山口の黒田の旅宿阿部平右衛門方ヘ同宿して、話し相手になってい た。  そのうちに、中岡が、太宰府から戻ってきた。 「そんたことではいけない」彼は、諸隊を説破するために、かけずりまわる。井上(馨)も、これ を助けて、反薩の感情をやわらげようとする。私も、黙って見てはいられぬ故、両君のあとからの り出して、諸隊の間に入説した。  その頃のことであった。 「どうも、高杉が、まだ反対らしい」  桂は、それが、気になったもので、高杉のもとへ出かけた。  桂が、口を開こうとすると、明敏な高杉は、さえぎり止めた。 「もうわかった」  まだ何ともいわぬ先から、わかったといわれても桂には承服出来ない。高杉は、自分をからかっ ているものと思い込んで、十分に意見をたたこうとした。 「実は……」 「いやもうわかった、孤立は、断じていかんぞ」  桂は、ぎっくりして、二の句がつげなかった。 「そもそも、僕が、容易に提携に賛成しなかったものは……」  高杉が、何かいい出そうとしたので、今度は、桂が抑えた。 「わかっている、大敵前にあり、決して士気を衰えしむべからずと、なぜ早く吾輩にいってくれぬ か」  果ては、双方、笑い出してしまった。  これで、桂の意中は、むろん高杉にわかるし、高杉の心中も、桂にはっきりと呑みこめたわけで ある。奇兵隊では、そんな事は知らぬから、反対の気勢をあげて容易に、桂の京都行に同じない。  高杉は、これに向かっていった。 「西郷は、決して、桂を殺しはしない、すみやかに行くがよい、もし、西郷が、さほどな馬鹿をす るたら、桂は、国のため死ぬがよい、死は一である、躊曙するなかれ」  こう鎮撫したので、どうやら曲りなりにも、話はまとまった。  藩論もまた、とも角、桂を代表老として、京都へ送ることにした。上国形勢視察という名目で、 奇兵隊の三好軍太郎、御楯隊の品川弥二郎、遊撃隊の早川渉、この三人が護衛となって、これに従 った。  私も、この一行とともに、京都へ上ることにした。途中上の関で、慶応二年の正月元旦を迎え、 天保山沖で、薩摩の春日丸にのりかえた。同じく薩摩の御用船で、淀川を伏見へのぽると西郷吉之 助をはじめ、村田新八、大山彦八(大山巌の兄)等が、出迎えに来ていた。  伏見から、薩摩の兵隊をもって、桂を護衛し、竹田街道を堂々と京都へのりこんだ。  桂は、この時、大坂に上陸した際、私どもに、感懐をもらした。    天道いまだ知らず、是か非か。    陰雲四塞して月光微かなり。    我君の邸閣、看れども見え難し。    春雨、涙に和して、破衣に満つ。  転句は、大坂の長州屋敷が、取りこわされた事実を指すのだが、長州としては、遺恨、骨髄に徹 していたのも無理はない。  桂及び長人が、抑えきれぬ胸中の憤愚を晴らそうとするには、薩摩と手を握って、勤王のことに 従わねばならない。しかるに、両藩の間は、犬と猿だ、藩の重立った人々は、そういう私怨にとら われている場合ではたいということは、わかっていても、大多数は、そこまで徹底してはいない。  したがって、長州の代表者たる使節桂小五郎と、薩藩重役の面々との交渉が、どう落ちつくかは、 問題であった。 坂本竜馬とお竜  坂本が維新史の上において、重要な地位を占めているのは、両藩提携運動を策したためである。 闊達嘉落な男で、長州でいえば、高杉晋作の型に似ている。高杉と久坂玄瑞とが、常に相携えて、 長短相補っていたように、坂本の相談相手には、中岡慎太郎がいる。  伏見の寺田屋で、坂本は見廻組のために襲撃された。その際情婦お竜に助けられて、危ういとこ ろを逃れた。  当時竜馬は、このお竜をつれて、一緒に歩いていた。  これには、どうも驚かされた。  男女同行は、この頃はやるが、竜馬は、維新前石火刀伎の間において、平気で、こういう狂態を 演じていた。そういうところは高杉と、そっくりである。  あまり人には見せなかったが、裸になると、背中は真黒だ、その上黒毛がさんさんとして生えて いたのは珍しい。 「竜馬のいわれがわかったか」  彼は、そういったものだが、なるほど、この背中を見ると、竜馬の名にふさわしかった。  近頃、坂本の書画に、落款を捺したものが大分見えるが、あれはみなにせ物である、坂本の印章 というものは、私は見たことがない。ところが、下関伊藤本陣の主人宛に贈った書簡の中に、はか らずも見出した。これは、梅型の中に、「太郎之印」としてある、坂本は、「才谷梅太郎」と変名 していたので、この印章を用いたものらしい。  私も、下関において、坂本から短冊にかいた歌を二三枚貰ったことがあった。しかし、残念なこ とには、漂浪しているうちに、紛失してしまった。  で、最初坂本のいろいろな尽力があって桂は、二本松の本邸において、西郷隆盛と会見の際、長 藩の方針を説き、また経過を語った後、いった。 「文久一一ム年八月この方、御藩と小藩とは、一時、はなはだ面自くない間柄とはなりましたが、これ 時の勢いに過ぎず、小藩においては、何等他心はござりませぬ」  |誇《じゆんじゆ》々として、|得《ん》心のゆくように、長藩の心事を説き明かした。だが、西郷は、黙々として、敬聴 しているだけであった。  何ともいわない。桂も、不審に思ったので、あまり深入りせず、話を打ち切った。両雄睨み合い、 腹のさぐり合いである。  坂本から両者の間に話のあった両藩の盟約については、一言も洩らさたかった。  ほとんど、毎日、御馳走になるばかりであいまいなうちに日を過した。  当時、藩邸には、家老三人、小松帯刀、島津伊勢、桂右衛門、西郷は、中老格であった。  これより先、坂本も、九州を出発して、正月十九日、入洛した。  坂本は、刺客からねらわれていたため、薩州藩士に化け、薩の船印をたて、やっと、途中無事に 伏見まで到着した。ここから夜になって、京都へまぎれこみ、翌日、桂を訪れた。 「盟約はどうでしたか」 「君等同志が、今日まで、折角尽力してくれたが、わしは、このまま国もとへ引きあげるつもりた のだ」  桂は、よほど、興奮していた。 「驚き入ったことだ、いかなる仔細か」  坂本も、樗然として、色をなした。 「目下の薩摩は、佐幕とも勤王とも、中立とも、自由な立場にある、しかるに小藩は幕府を敵とし て戦わねばたらぬさし迫った状況にある。ご馳走は毎夜のごとくつづくが、いまだ彼より連盟を申 し出でない、我より申し出でることは承知しているが、それでは、|憐《あわれみ》を他人にこうの類、はなはだ いさぎよしとしない、むしろ、防長二州の山河をあげて、焦土と化せしむるも、小藩の面目を立て ねばならぬ、……故に、望みをたって、断然、帰国を決心した。しかし、一応足下の御尽力を感謝 いたしたいと考え、足下の入洛を待ち受けていたわけだ」  心中を打ち明けた。 「ごもっともである、さりたがら、薩長の連合は、日本国を救おうがためである、して見れば、一 藩の面目のごときは、この際忍ばねばならぬところである、……まア、帰国は、待って貰いたい」  坂本は、桂を慰さめ、帰国をさえぎった。もし、この時、薩長物別れになったら、どういう結果 になったであろうか。今から考えてもハラハラさせられる。  坂本は、ただちに、西郷に走った。 「足下が無情である」  いたく痛論して、責め立てたので、西郷はもちろん大久保も決心した。 「しからば、改めて、小藩より同盟の提議をいたすことにする」  こういうことに局面は打開した。全く坂本の力であったのである。  有名な薩長連合六ヶ条の申合せは、かくして、薩藩の重役と、長藩の代表者桂と 本との間に成立した。     あいなりそうろうとき   すぐさま 、 、仲介者たる坂 戦と相成候時は、直様二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華にも千程は差置、 京坂両所を|相固候事《あいかためそうろうこと》。 戦、自然と我勝利に|相成候気鋒有之候時《あいなりそうろうきほうこれありそうろうとき》、その節朝廷へ申上、屹度尽力の次第有之候との 事。 万一、戦負色に有之候とも、一年や半年に決して潰滅いたし候と申事は無之事に付、其間に は必ず尽力の次第屹度有之候との事。 是なりにて、幕兵東帰せしときは、屹度朝廷に申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合 に屹度尽力との事。 兵士共、上国の上、橋、会、桑等も、只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正 義に抗し、周旋尽力の道を遮り候時は、終に決戦に及候外無之との事。  一、冤罪も御免の上は、双方誠心をもって結合し、皇国の御為に、砕身尽力仕候事は、申すに及    ばず、いずれの道にしても、今日双方皇国の御為、皇威相輝き御回復に立至り候を|目途《めあて》に誠    心を尽し、屹度尽力可仕との事。  第四項に見える冤罪は、毛利敬親父子が、官位を剥奪されて、謹慎中だったためである。また第 五項に見える橋、会、桑は、一橋、会津、桑名をさしている。  桂小五郎は、用意周到な性質だったため、坂本に向かって、この申合せの裏書をさせている。  表に|御記被成候三《おしるしなされそうろう》条は、小西両氏、(すなわち小松、西郷)及老兄竜等も、御同席にて談論せし所  にて、毛頭相違無之候、将来といえども決して変り候事無之は、神明の知る所に御座候。    丙寅二月五日                                    坂 本 竜  竜馬の功蹟は、何としても、この一事を見逃してはならない。 坂本竜馬の最期  彼が、かくのごとき運動を企てていたことは、佐幕派の間にも、知れわたっていたらしい。見廻 役、新選組のものに、しきりに、つけねらわれた。 「君は、危険だから、土州藩邸に入れ」  伊東甲子太郎が、こうすすめたこともあったが彼は聞き入れなかった。藩邸に入ると門限その他、 万事窮屈の思いをせねばならない。自由奔放、闊達不覇の彼はそういうことを好まなかった。  で、やはり名をかえ藩邸の附近に宿をとっていた。のみならず、彼は、平生、王政維新の大業さ え成就したなら、この一身、もとよりおしむ所にあらず、もう無用の身だといっていた。  翌三年十一月十五日の夜、彼は、河原町醤油屋の二階において、陸援隊長中岡慎太郎とともに、 対談中、刺客のために襲われた。  私は、当時、長州から上洛して、白河土州藩邸内の陸援隊にいた。 「ただ今、坂本サンと中岡サンとが、やられました」  菊屋峰吉が馳けつけてきて、こういう報告があった。  ただちに、白河の屋敷を馳け出し、途中、二本松の藩邸ヘ立ちよった。  吉井幸輔(後の友実)に会って、この趣きをしらせ、その足で、現場へ馳けつけた。  坂本の下男藤助が、二階上り口の間に横ざまに倒れている。奥の間には、坂本と中岡とが、血に そまって、倒れている。坂本は眉間を二太刀、深くやられて、脳漿が露出し、残念なことにはすで にこと切れていた。中岡は重傷だが、気はたしかだった。後から頭へかけて斬りつけられ、右の手 と足とをひどくやられていた。 「どうしましたか」 「いや、突然、二人の男が二階ヘ馳け上がってきて、斬りかかったため、思わぬ不覚をとった。僕 はかねて足下から貰っていた短刀(これは信国作)をもって、受けたが、遅かった。坂本は左の手 で刀を鞘のまま取って受けたが、とうとう頭をやられた、坂本は僕に向かって、もう頭をやられた からいかんといった、僕も、しょせん助かるまい」  喘ぎながら、こういった。 「そんなことはない、長州の井上聞多(後の馨侯)はあれ程、斬られたが、まだ生きている。気を たしかに持って下さい」  中岡を励ましたが、とうとう翌々朝、絶命してしまった。  坂本が、刀を鞘ごとふりあげた刹那であったろう、天井が突き破ってあったのも覚えている。  坂本の受けた刀は太刀打のところが六寸程鞘越しに切られ、刀身は三寸程傷ついて鉛を切ったよ うになっていたところを見ると、よほど鋭く斬りこまれたらしい。中岡は、絶命前、坂本が頭をや られた、もういかんといったとあるが、頭をやられて、なおかつ、こういう発言が出来たというの は、驚くべきことである。  刺客は、何者か、今もって判然としない、電光石火のごとき勢いをもって、両名を斬殺した腕前 は格別として、現場に蟻色の鞘をのこして行ったことは、彼等が狼狽した証拠である。一時は近藤 勇だろうと推定されたが、そうでもない。後また今井信郎という男が、自分が斬ったのだと名乗っ て出たが、これもあやしい。最近の調査では、小太刀の名人早川桂之助、渡辺太郎の所為であると いわれている。  何にしても、王政維新のまさに成らんとするわずかニカ月前において、この両雄を一度に失った ことは残念千万である。  坂本は、海援隊を組織して、その指揮をしていた。これは中岡の陸援隊に相対したものであって、 彼の意中には、海国日本の開発を抱蔵していたことは誤りない。  それについて思い起こすのは、明治三十七八年戦役当時私が宮内省に奉職中のことだった。  ちょうど、バルチック艦隊が、極東に向かって、発航したという伝聞があった。日本の海軍がこ れを迎えて、雌雄を決する時になると、日本海軍が必ず勝つに相違ないと信じていたようなものの、 しかしまた、どういう結果になるかという事について、一点不安な気分にとざされていたのも事実 だ。  あたかも、その前後であった。  昭憲皇太后様の御枕辺に、坂本が、ふと現われた。 「微臣坂本竜馬でござりまする、このたびの海戦につきましては、いささかも御懸念あそばす必要 はござりませぬ。必ず皇国の勝利でござります、微臣、力及ばずといえども、皇国の海軍を守護い たします、幸いに叡慮を休ましめ給え」  皇太后様が、お驚き召されて、お目覚めなされた際は、竜馬の姿は、まぽろしのように消えてし まった。 「不思議なことがある」  皇太后様は、こう仰せられて、この一条を時の皇后宮大夫香川敬三子に御話あそばされた。 「どうも、妙だ、これこれだ」  香川子は、更に私に伝えた。  私もび小ぐ←した。 「皇太后様は、かつて、坂本の写真でも、御覧あそばされたことはなかったであろうか」  私は、香川子に問うた。 「いや、自分から御伺いしたが、一切、そういうことはなかったと仰せられている」 「では、恐れ入るが、竜馬の写真を奉献いたすから、御覧にそなえて貰いたい」  そう言って、竜馬の写真を複写させた後、皇后宮大夫の手を通して、特に御献上申し上げた。  香川子は、この写真を持参して御居間へ伺候した。すると、皇太后様は、あいにくお居間にいら せられなかったため、そのまま御机の上へそっと置いたなりで、引き退った。  間もなく、皇太后様はお居間へお帰りになって、この写真を御覧になると、いたく驚かれた御容 子であった。 「おお、これは坂本竜馬の写真である」  御感にかなって、しばらくじっと御覧じ遊ばされたと拝承している。  写真を御覧になったことのない皇太后様が、竜馬の写真だと仰せられたのは、前夜御夢に現われ たからに違いないと、私は信じている。  そういうことが、あるべきことか、あるべからざる事か、ここでは、それを詮議することは無用 である。ただ竜馬の献身報国の至誠は、死後といえども祖国の上を守っている。死してなお死せず というのは、思うに竜馬のごとき人物であろうと思われる。 高杉晋作と共に 高杉晋作と共に 三条実美卿の決心 両藩提携運動は、 それとして、一方、 太宰府にいる五卿の運命が、極めて危ない。 私は、直接、 その実況を目撃して来たので、西郷吉之助に会って、この談判を開始した。 「どうも、貴藩の肥後直右衛門の態度は、あやしいものでござります」  西郷は、黙々として、私の陳述を聴いていた、私は、肥後が、五卿との会見をさえぎったこと、 幕吏に味方しているらしいこと、こまごまと、委曲を明らかにした。 「御苦労だ、しかし、それは、弊藩の事情が、まだかの地に徹底せぬためである、拙者にも、いさ さか策がある故、しばらく待たれよ」  こういう挨拶であった。すると、翌日、私を招致した。 「肥後のかわりに、黒田嘉右衛門(後の清綱)を太宰府へさし送る事にします、ついては御足労で ももう一度御同行願いたい」 「よろしい」  私は、この役を引き受けて、黒田等とともに西下した。  幕府の大目付小林甚六郎が太宰府に乗り込んで来たのは、ちょうどこの時であった。  彼が、五卿の旧位旧職復帰の御周旋と称して、その身柄を受取りのため、博多についたのは、慶 応元年一、一月二十二日だった。  御徒目付二人、御小人目付五人、別手組の兵一小隊を率い、この月の晦日、太宰府から一里ばか り離れた二日市に乗り込んで来た。  同時に、幕府からは、薩州その他の四藩へ、次のように廻達した。 今度三条実美始五人の者ども、江戸表へ召し寄せられ候間、 銘々御預りの者家来どもに厳重警衛 致すため、早々差越候様致さる可く候、松平美濃守、 にも、同様、相達侯間その意を致さるべく候事。  二月 有馬中務大輔、 松平修理大夫、 松平肥前守 高杉晋作と共に  これは、熊本藩にのこっている文書である。幕府が、五卿方を江戸表へ護送するということは、 内実はいろいろ目的があったに相違ない、ことに、薩長の連合運動に対して、うすうす気がついた ものと見え、その|襖子《くさぴ》となるべき五卿を九州に置くことは、危険だというような事も、一つの理由 であったかしれたい。  いずれにせよ、五卿方は、重大な運命の分岐点に立った。  小林は、示威運動をして、大いに虚勢を張って、五卿方を脅かした。 「今更、幕吏の手に捕えらるるは、恥辱この上もない、イザという場合には、切腹のほかはあるま い」  五卿方も、覚悟されたらしく、三条公等は、遺書をしたためて、万事用意をされた。  随従のものにしても、むろん斬死または殉死の決心をした。  五卿の生命は、正にこれ風前の|灯火《ともしぴ》。  文久三年八月十八日の政変この方、東西流離の客となり、人しれぬ報難をつづけて来た。ことに、 太宰府の延寿王院に移ってからは、監禁同様の待遇をうけていた。あまりの圧迫にたえかね、随従 のものから、筑前藩にかけ合った。 「たとえ勅勘をこうむっているとしても、堂上に対して、無礼な仕打ちではないか」  こう迫ったが、藩では、更に相手にしない。 「どうも幕命だからいたし方ない、当方ではかれこれ便宜を計ることは出来ませぬ」  露骨にはねつけていた。  折から、この始末だ、江戸に送られたら最後、軽くて遠島、重くて死、そのいずれかに決まって いる。  私どもが太宰府へついたのは、あたかも小林が二日市について、間もなくのことだった。  一旦国もとへ引き返し壮士をつれて来た黒田は、「拙者が、小林を追払って参る」と、二日市の 旅宿に押しかけた。 「小林が承服しなかったら、一刀の下に斬ってすてる、その時は合図をするから、踏み込んでくる がいい、……それまでは、どんな事があっても、抜刀したり発砲する事は、ひかえよ」  厳重に申しわたして、彼は、同志のもの三人とともに、小林に面会を求めた。 「どうぞこちらへ」  御目付などいうものは、威権を笠にきて、傲りたかぶっているものだが、案外、気軽に座敷へ通 した。これは、後になって、黒田の話であるが、こちらが九州の田舎侍というので、小林が馬鹿に してかかったのだろうといっている。 「貴殿は、どういう御所存で五卿方の身柄を受取りに参られたか」 「復職御周旋の幕命でござる」 「渡さぬと申したら、どうなさる」 「左様なことはあるまい」 「いや、拙者どもは、主人修理大夫の命によりて、五卿方を護衛している、拙者どもは陪臣の身分、 主命あるを知って、その他を知らず、たとえ、幕命といえども、拙者どもは、主人から下命のない 以上、五卿方をおわたしすることは出来ませぬ、よしんば、五卿方が、御転座に御同意なされても、 拙者どもは死をもって|諌諦《かんそう》つかまつる所存である、貴殿が幕命によって、御身柄を受け取ると仰せ らるれば、拙者どもは、修理大夫の命によって、拒む考えである、ことに弊藩は、頑随野蛮の風習、 壮士どもがこれを聞いたなら、いかようなる乱暴を働くやも計られず、その辺のところ、とくと御 勘考煩わしたい」  黒田は、辞気はげしく詰めよせた。 「それは近頃、迷惑な次第」 「なれども、当方は主命の手前、安々と御渡しすることはならぬ、この儀は堅くお断りいたしま す」  えらい見幕で、まくし立てたため、小林の方でも、たって五卿方を護送するということもいえな くなった。 「よくよく熟議の上、お答え中し上げる」  そのまま、うやむやになってしまったが、五卿方は、危ないところで、危害をまぬかれたのであ る。もし、黒田等の一隊が、もう少し到着が遅かったら、あるいは悲しむべき結果になったかもし れない。  三条公についていた黒岩直方などは、事ここに至りては、割腹するよりほかなしと、決めていた。  で、いよいよ、小林が、乗り込んで来たら、公の前で、いの一番に、割腹するつもりでいたと聞 いている。  幸いそのことなく、五卿方の御身が安全であらせられたことは、吾々同志もこの上ない喜びであ った。 薩摩からは、この時、黒田の後を追うて、大山格之助(後の綱良)が、大砲三門と壮士三十五人 を伴い、馳せつけたので、武力に訴えるとしても、小林は、しょせんその敵ではなかった。  おまけに、薩藩では、毎日太宰府の裏手北谷村辺に大砲を引き出し、「火通し」と称してどかん どかんとぶっ放すので、小林等もびくつき出した。五卿護送は、いたし方たく思い切ったものと見 え、五卿に拝謁しただけで、ついに太宰府を引きあげた。大坂に到着すると、彼はただちに誠首さ れてしまった。  私は、この時ようやく五卿方に拝謁し、長い間の辛苦難難を慰め奉った上、京都の形勢をつぶさ に御聞に入れた。そして、馬関へ戻ってきて、中岡慎太郎に、この模様を報告したことである。  気の毒だったのは、この際、土方等とともに三条公の随員たりし我藩の山本忠亮が、肺病にかか って、日に日に衰弱した。彼は、酒色をつつしんで、健康の恢復を期したが、しょせん望みはなか った。  そこで彼は、決心した。こうして生き永らえていても、病弱の身ではお役にたたぬのみならず、 かえって同志の累となる、いっそ、今のうちに死んだ方がよいと、五月一日の夜、|従容《しようよう》として切腹 した。  辞世の一絶がある。    一死、軽しと錐も、義、軽からず。    従容、|賓《さく》を易う、豊吾情ならんや。    平常の余罪、何の時にか尽く。    願くは、七生を学んで至誠を致さん。  また、和歌がある。    恥を知り捨つるうき身も武士の        道に違わぬ心なりけり  忠亮は、この時、二十五歳の青年。三条公の弔歌がある。    剣太刀吾身のうきにそい来つつ        旅寝の露と消えし人はも  その後、私は、なんでも前後五回ぐらい、太宰府と馬関との間を往来した。  面白いことには、五卿方の監視をしていた肥後藩の探索係古閑富次というものがある、私は大山 格之助と相談して、長州と小倉とは、久しく仲が割れている、で、古閑を利用して、両方の調停を させて、和議を成立せしめようと画策したことがあった。古閑は、それを本藩へつつぬけに通報し ていたもので、のちその探偵報告書を見るとこうある。 土州脱藩人長州に居候由 田中健之助 右健之助、小倉へ参り、長州より小倉へは、従来恨みこれある処、この節田浦、門司、 所を討焼払候につき、それにてまず宿怨は相晴候由、よって、ただ今和睦申入候わば、 大里三カ 大方相整 い申すべく、何卒薩州より取扱候様相談に及び候由。                               薩州人当時太宰府詰                                  大山格之助 右のおもむき伊集院(尚右衛門)別府(惣右衛門)より大山へ申聞候由これによって、格之助古閑 富次へまかり越し、薩州は公儀よりも種々疑いを受けおり候につき、とても取扱出来かね、尊藩 よりは、いかにも相成申すべく、もっとも長州への周旋は、なるたけ働申しあぐべく至密相談に および候由、右の趣き、横田次郎右衛門へ富次より相達候につき、熊本へ引取候上、重役へ相達 し模様はこれより通路におよぶべくと致答え置候由也。 右田中は、例の坂本竜馬などと一味の者の由、竜馬は当時薩におり候由也。 私も当年は|黒表中《ブラツクリスト》の人物だったのである。 高杉晋作の気宇  そうこうしているうちに、幕府においては、再度長州へ征討を企てた。第一回の前の長州征伐の 際は、俗論党の天下であったため、三太夫の首を献上し、尻尾をまいて恐れ入ったが、今度は、正 義党の天下である。どっこいそうは参らぬ。 「いざ来い」  兵備を整えて、待ち構えていたので、防長二州、活澄々地の英気がみなぎり溢れていた。征長先 鋒総督紀伊中納言茂承、副総督松下伯者守宗秀等は、諸藩の兵をひっさげて、長州の四境に迫る。  閣老小笠原壱岐守長行は、軍監として広島に出張し、毛利父子以下を召喚したが、その命に応じ なかった。宍戸備後介が代理に立った、支藩も、それぞれ代理を差し出した。  閣老の詰問に対して、彼等は、一通りの弁解をしたが、幕府側では長州を見くびっているので、 頭から相手にしなかった。ついに交渉は破裂して、征長の軍をすすめたのは、この年六月に入って からであった。名代に立った宍戸備後介は、小田素太郎とともに捕縛されて、芸州藩へ預けられた。  急は、ただちに山口政府に達した。  各支藩へは、使者がとんだ。長府清末に向かったのは、川北一である。  彼は早駕にのって、長府へ向かう途中だった。 「川北、待て待て」  駕をよび止める。見ると、山田宇右衛門であった。 「どうしたか」 「談判は破裂したが、こっちから手を出すのではない、向こうから手を出したら、その時、この方 は、自衛のために、立つだけの方針だ、もし高杉にしれると大変だぞ」 「なぜか」 「いいや、あれは、張り切った馬だから、すぐに飛び出す、どうか、あれには知らせぬように長府 侯へ内々申し上げてくれぬか」  こういう注意であった。  高杉は、この前後、伊藤俊輔(博文)とともに洋行するつもりで、長崎に出ていた。しかし、洋 行するには、金が足りない。 「お前、金策をして来い」  伊藤を馬関へ送りかえした。ところが、広島における小笠原閣老と、本藩の代理使節との交渉談 判の成行きが、あやしくなってきたという噂がぼつぽつ耳に入った。 「それなら、洋行は、取り止めだ、ぐずぐずしている場合でたい」  ただちに、英商グラバに交渉してオテント号という小蒸汽船を一隻買いこみ、これヘ乗り組んで ただちに馬関へ廻航した。すなわち、オテント号は、高杉の手に入って後、|丙寅丸《へいいんまる》と改称されたも のである。  だが、川北が長府侯へ内密に伝達した一条は、どこをどうして伝わって来たものか、高杉の耳に ちゃんと入ってしまった。 「やれ、やれ」  船が一隻あるので、気が強い。たちどころに、出動準備にとりかかった。  ところで、船員は、そろったが、機関を取り扱うものがいなかった。  これには、わけがある。というのは、先年英国軍艦が、馬関砲撃の際、その砲弾が長州の軍艦、 葵が州鵡の機関に命中した。弾丸破裂して、機関部に働いていたものは、焼けただれて、惨櫓たる戦 死をとげた。その光景を目撃しているので、誰も彼も、恐怖していたからである。  機関部に働くものがいなければ、せっかくの船はうごかない、したがって戦争は出来ない。 「それたらおれが、機関掛になってやろうじゃないか」  私は、すすんでこう申し出た。 「君で、結構だ」  高杉が、承知したので、ただちに機関掛になった。随分、乱暴な話で、今から考えると、冷汗が 流れる。私は、船のことについては、何の知識もない、まして機関部の操作などは、出来ようはず はない、全くの素人だ。でもどうにかやったならば、船がうごかぬことはあるまいと、高をくくっ ていたにすぎない。  この素人機関師の手に、生命を託して、船にのりこむ高杉以下の壮士も考えて見ると、無鉄砲な ことであった。  この時、すでに、芸州口からは、歩騎砲三隊及び紀州、彦根、高松の兵が迫り寄り、石州からは、 鳥取、松江、浜田、福山、紀藩の兵が押しかけて来た。更に、関門のかなたには、肥後、小倉、押 川の諸隊が進出し、別に幕艦富士山、翔鶴、旭、八重の四隻は、|舶櫨相街《じくろあいふく》んで、周防の大島に向か って来た。  これが六月十一日。この夜、富士山艦は、大島久賀港に進入して不意に砲撃を加え、翔鶴艦は、 安下の庄に至って砲撃を浴せ、長兵は、ささうるあたわず、大島を幕兵の手に完全にゆだねた。  丙寅丸は、急を聞いて、錨を抜いた。たった一隻の船で、精鋭なる幕艦四隻を粉砕しようとした 高杉の気宇は、早くも敵勢をのんでかかっている。またここが高杉らしいところでもある。 幕府艦隊を夜襲  大島郡を占領さるることは、いわば防長の咽喉を|施《やく》せらるるようなものだった。ここは長州の中 腹に当たっているので、大島占領とともに幕兵は、芸州口に向かっている長兵の後路を絶つことが 出来る、しかして、一挙、山口を衝くことも出来る、幕兵にしては、是非とも奪わずんばあるべか らざる地点、長兵にとっては、万死を期しても、敵に渡すべからざる地点である。  高杉は、船が三田尻に入ると、まだ時刻が早いとでも思ったのであろうか、ふいと船から下りた。  これもあとで聞いた話だが、高杉はこの時三田尻の貞永久右衛門の家に、ひょっこりと現われた。 貞永は、塩田をもっているこの地方の豪家で、有志が、平生出入りしていたものだった。 「一寸、二階を借りるぞ」  そういって、二階へ上がったが、しばらく黙りこくっていて、音沙汰がない。 「どうしたのだろうか、高杉さんの容子がいつもと違っている」  心配して、家人が、そっと覗いて見ると、高杉は、頭に両手を当てて、ごろりと寝ころび、両足 を柱にもたげて、まるで、越後獅子という恰好で、何か考え込んでいる。  すると、間もなく下りてきた。 「どうも、お世話であった」  挨拶をして、かえって行ったが、貞永の家では、狐につままれたような|按配《あんばい》である。高杉は、こ の間に、じっと作戦を考えていたものだろうといわれているが、あるいは、そんなことであったか もしれない。  そこで、丙寅丸は、その夜、大畠の海峡を過ぎ、山陰にそって久賀港に向かった。夜闇くして、 波また働し。星明りに透して見ると、富士山、翔鶴、旭、八重の四艦は、火を消して、勝ち傲れる 乗組員も、安らかに、眠りについている。  満艦、寂として、声なし。 「ここだ」  高杉は、突撃の号令を下した。機関揖の私も、一生懸命。  艦は、待てしばしもなく、いきなり幕艦の間に突入した。 「撃て」  左右の砲門を開いて、一度に、発砲したからたまらない。  |段《いんいん》々|轟《ごうごう》々、不意討ちを喰った幕艦は、あわてふためいて、火を焚いたが、蒸気がそう急に出来る ものでない。  丙寅丸は、縦横突撃、四艦に向かって、さんざんに痛手を負わせた。  高杉は、甲板の上で、床几によりかかり、手に軍扇をもって、号令を下していた。 「何故、軍服をきないか」  問うて見ると、酒落な彼は、にっこりとして、いった。 「鼠賊の船を撃破するには、この扇骨一本で十分だ」  この元気には、毎度のことであるが、私どもも、内実、敬服した。  敵艦の陣形乱れ、狼狽している間を縫って、丙寅丸は悠々と三田尻に引きあげて来た。  その鮮かな襲撃ぶりは、今考えても、胸が躍る。  大垣藩の井田五蔵(後の譲)が、ちょうど幕艦に乗り組んでいた。維新後、井田は陸軍少将にな ったが、私と会見の際、この話が持ち上がった。 「いや、あの時は、僕などの方は全く不意討ちをくわされて、すっかりあわててしまったものだ」  こう言って、兜をぬいだことがある。  讃岐の勤王詩人|日柳燕石《くさなぎえんせき》は、この戦勝をきいて、高杉に赤関歌を寄せた。    丘ハ、|太《はなは》だ精、酒更に清。    赤関、敵す可し、浪華城。    娼妓にも亦、日本魂有り。    戦声、聴いて歌吹の声と作す。    羨む、君、此中に太白を浮べ。    桃花を賞し、国賊を撃つ。  山田市之丞(後の顕義伯)も、この丙寅丸に乗って、大砲揖を仰せつかっていた。維新後、当年 を回想して、私に寄せた詩がある。    病来、書硯を廃し、    物、几前に呈するなし。    少信、絃、絶えんと欲し、    忘機、鴎、眠らんと欲す。    生を託す、碧波の上、    想を寄す、白雲の辺。    憶う、昔、君、砲を放ちしを、    頭を|回《めぐ》らせば、二十七年。  翌日、長州兵は、大島に上陸して、幕兵を掃蕩し、完全に、この須要地帯を奪還したのである。  丙寅丸は、ただちに馬関に引きあげて、今度は、小倉の戦争に出かけた。  その時は、門司方面の幕軍が、すでに陣地を布いていた。その下を乗り切って、幕艦の馬関襲撃 に備え、ついに、門司を占領してしまった。  丙寅丸は、田の浦に砲撃を加えて、民家を焼き払い、八月一日には、小倉城を占領したが、いや、 その時の愉快というものは、筆にも口にも、いい表わせない。  そのうちに石炭が欠乏した。  閉口していると、幸い、海岸に石炭が山のように、積まれている。さっそくこれを積み取って、 佐世八十郎(後の前原一誠)等と幕軍の香春に逃げこむのを追撃し、また鵜の島を砲撃し、一隻の 船が旺んに活動したものだった。甲板に出て、私が、腰をかけている際、敵の砲弾が、シュッと飛 んできて、すぐ足もとへ落下したことがあった。 「やられたな」  その刹那、そう思ったが、幸い無事だったのは天祐である。  小倉陣中、山県小輔(後の有朋公)が、私に示した歌がある。    あだち山あだもる城戸の夜をさむみ        あだにも夢をふく嵐かな    くろけぶり立てて戦う筒の音の        ひびきにもまた散る紅葉かな  この戦争中、すなわち、七月二十日に、将軍家茂が、大坂城において病死した。これがため幕軍 も、足並みがみだれ、軍監小笠原壱岐守長行は、事のならざるを知って、にわかに陣を引き、自分 は、富士山艦で長崎へ走った。  その当時の落首がある。 長崎へようよう行きていきのかみ     さすが逃げるも小笠原流 山県有朋の激怒  この戦争がすむと、中岡、坂本等が肝いりの薩長連合運動が成立した。  で、十月二十四日、正式に、薩藩では、黒田嘉右衛門を使節として、山口に派遣した。長州では、 これを厚く歓待し、その答礼として、十一月十六日、木戸準一郎(後の孝允)を使節として、鹿児 島に派遣することになった。  その乗船が、丙寅丸と定ったので、私はまた機関揖とし、使節一行をのせて鹿児島に向かった。  素人の機関師が、意外なところで、役に立つものだった、自分でも、考えると、おかしくたる。  大村藩の渡辺昇(後の子爵)も、馬関から、同船して、途中筑前の福浦に寄港した。ところが、 丙寅丸に薩摩の旗をかかげてあったのを幕兵が見つけて、砲撃をするという知らせがあった。 「ここで、使節が捕ったら一大事だ」  そうそう出帆したが、この報告をもたらしたのは、渡辺であった。  鹿児島では、非常の歓迎で、久光父子は、木戸の一行を二の丸に引見した。翌日は、藩の客座敷 に招待して、西洋料理を出して御馳走した。その上、各製造所や、砲台を案内して、見物させたり した。かえりには、藩主から合薬一万包の贈遺をうけて、長州へもどってきた。  機関掛の私も、無事にその職責を果して薩長連合運動に微力をささげ得たのを喜んだことである。  渡辺子爵が、かつて当時のことを回想されて、私に寄せた一律がある。    交情、頭を回らせば、廿年強。    漸見る、邦家、自から光あるを。    武奮い文修む新内閣。    年豊かに民楽しむ旧重陽。    官間の詩酒、心猶適し。    世上の功名、夢亦忘る。    風雨西陸瓢泊の夕。    記するや否や、賊を避けて、山荘に入りしを。  最後の二句は、丙寅丸が福浦から松島に逃れたことをさしている。  私が、木戸一行をのせて馬関にかえった時、すなわち慶応二年十二月五日には、慶喜が第十五代 将軍となり、この月二十五日には、孝明天皇が御|登遇《とうか》あそばされた。  世は、|諒闇《りようあん》となったが、京都の風雲は、容易ならぬ形勢とたった。土佐では、坂本、中岡等の勤 王党と、後藤良輔(後の象二郎伯)福岡藤次(後の孝弟子)等の佐幕党との間に提携が成立した。  のみならず、翌年二月には、西郷吉之助が島津久光の旨を承けて土佐に派遣された。そして、容 堂公に謁して、入説したため、公武合体から一藩勤王へ、すなわち当初武市瑞山の計画した通りに、 時局は推移した。  中岡の日記を引いて見る。 「西郷土州に至り、福岡藤次と同じく容堂公に謁したり、西郷儀この度薩侯の命を受け参りし事に て、大隅守様より仰合されたる次第もこれあり、大いに心配して参りたるが、上国の勢、つぶさに 言上したれば、公即答に、薩侯の御意見御尤の事に付、拙老など侯の御相手には相成まじく候得ど も、早速上京致すべく、なおまた、この方は貴方とは違い、徳川家の恩義もある事なれども皇国の ため公論をもって尽力することなれば、地球上より見たる時は、やはり公論也、しかれば親藩とい えども、今日に至りては尽すべき事也、いわんや外藩の列にあるをや云々仰せられ候、西郷日、こ の度は、事行なわれずと云っては、御引取に相成るくらいの事にては相成らずと申上る、公もとよ り覚悟也と仰せられ候由、後に藤次に仰せられしは、この度は死をもって目的とすべしと、也。公 また、西郷に仰せられしは、藤次などが実の尊幕論でありしが、この度上京して、諸有志に交りし 由にて、大に議論がよく成りたるは、吾も嬉しき事と仰せられ、それにて西郷初めて胸がグッと下 りたる由」  すなわち、容堂も、よほど、決心はしたようであったが、もともと、それでも、まだ心底には、 佐幕の暗い影がのこっていたかのごとくに見える。  京都には、島津はじめ、各雄藩の藩主が、陸続と集まる。  私どもも、長州にじっと引っ込んでいるわけにはいかない。  そこで三月十七日に、伊藤俊輔とともに、馬関を出発し、またまた京都に上った。  当時、二本松の薩藩邸が、諸国浪人の梁山泊のような形になっていた。伊藤も、私もそこへ落ち ついた。  間もなく、伊藤は、長州へ戻り、入れかわりに、山県狂介(有朋公)が、鳥尾小弥太(後の子爵) とともに上洛した。やはり、薩摩屋敷に潜伏した。  たにしろ、血気縦横の少壮家の集団故、元気は素晴しいものだった。潜伏しているのだが、そん なことも忘れて、屋敷ではよく酒をのんだ。肴は、めざし鰯だが、たまには町に出て、そこらにう ろついている犬を殺してきた。  これを料理して、肴にしたのが、まず最上の御馳走だった。  何分、屋敷にばかりいるのは退屈でならない。 「どこへか押し出そうではないか」 「どこへゆくか」 「山鼻の茶屋へ行って、飯でもくおうか」 「よかろう」  相談がまとまって、鳥尾小弥太、品川弥二郎、興膳五六郎、それに私を加えて、四人づれで出か けた。  山鼻の茶屋までゆくと、誰であったか。 「いっそ、比叡へ登ろうじゃないか」  そういい出した。  出先きで、ふいと、気がかわったのだ、よって食事をすまし、興膳だけ、屋敷へかえした。 「吾々は、比叡へ登り、坂本へ下りて一泊してもどる、山県に心配せぬようにいうてくれぬか」 「心得た」  興膳は、承知してわかれた。何でも、夏の暑いさかりだった。三人、下駄穿きで、山を登り出し たまではいいが、汗は出る、息ははずむ、喉はかわいてくる。大変な苦しみであった。いい按配に、 こんこんと清水の湧き出るところを見つけて、渇をいやし、勇を鼓して、また登り出した。  よほど登ったところで、ふと、財布のないのに気がついた。 「さア入変じゃ、財布がたいと、宿屋にも泊れぬぞ」 「どこで落した」 「さっきの清水のところに、置き忘れたに違いない」 「誰か取りに行って来い」  三人、評議になったが、誰も、また元の場所までもどるのは欲しない。ところで品川と私とは同 年だが鳥尾が私どもより年少だった。 「おぬし、年下だから、取って来い」 「わしがか……」  鳥尾は渋い顔をして、何かぶつぶついっていたが、結局年下という弱味がある。やむを得ず、財 布をとりに、また、逆もどりをした。  鳥尾が置き忘れた財布を持ってかえったので、また、三人して、山を登りつめ、坂本へ向けて下 りた。  馬場の播磨屋というのに宿をとった。薩摩弁を使ったら、薩摩人と思いこむに違いない、長州土 州の浪人者と感づかれては危険であるというので、私は、不馴れの薩摩弁を濫発した。  だが、もとより付焼刃は、すぐ現われる。宿屋の者に気づかれたらしいが、それでも訴人だけは しなかった。 「まアよかった」  翌朝、ほっとして、帰路についた。 途中、雨に遭って、びしょぬれになったなり、屋敷へもどった。  すると、山県は烈火のようになって、ぷんぷんしている。 「どうしたわけか」 聞いて見ると、山県の怒るのも無理はなかった。 「君等は、無断で屋敷を飛び出したさえあるに、外泊してくるとはけしからぬ、もう捕って殺され たものだろうと、思っていた。おたがい、この際は、自重しなくてはならぬ時ではないか」 「それはどうも、……そのことなら、與膳に伝言をたのんだはずである」 「いや、何にも聞かぬ」 「これは、けしからん、與膳は、どうしたのか」  今度は、吾々が興膳に迫ると、彼は笑っている。 「君は、なぜ、吾々の伝言を山県にいうてくれなんだか」 「実は、わしも、外泊したので、その機会がなかったのさ」  それで、委細判明して、果ては、大笑いになった事などもあった。  潜居中、山県の詩がある。    断じて之を行えば、鬼神も避く。    満朝何事ぞ、総て逡巡。    区々海内、|喧笑《ししよう》するに堪えたり。    借問す、京城、更に人有りやを。  時が時、この詩に見えているようた|国歩難難《こくほかんなん》の場合、山県が吾々に自重を忠告したのは当然なこ とである。のみならず幕吏は私どもの行動を厳重に監視していたため、出門寸歩、みな敵と見てさ しつかえなかった。そういう事を承知していながら、坂本まで遊山に出かけたのは、私どもの方が 暢気すぎたわけである。  こうしているうちに、京都の風雲は、日一日と、濃度を加えて行った。 白川屋敷の陸援隊 ええじやないか踊り  それから間もなく、六月十五日に、私は、山県、品川、鳥尾などを薩摩屋敷にのこしたまま、西 下した。  京都の形勢を五卿方に報告するためであった。これより先、坂本、中岡等の薩長連合運動は、全 く功を奏し、薩州もこの度は、いよいよ|膀《ほぞ》を堅めて幕府に当たることにたった。  土佐もうごき、芸州もうごいた。この年四月初めには、島津久光が、陸軍六隊、大砲一隊をひき いて、入洛し、越前、土佐、宇和島等の藩公が、つづいて、京都に到着した。  風雲は何となくざわついてきた。  幕府は、長州の処分を何とかせねばならぬところへ、兵庫開港という厄介な問題が突発して、ま すます窮地に陥った。  だが、一面また兵制を|和蘭《オランダ》式から仏式に改良し、雇い教師を招いて、訓練を加え、かつ米国に軍 艦を注文するなど、軍備の完成を急いでいた。  長州の木戸などは、これを恐れた。 「幕府に羽翼が備わっては一大事、今のうちに倒さねばならぬ」  そういう意見だ。  薩長連合の牛耳をとっていた西郷吉之助は、また容易に事を起こそうとせずして、じっと時機を 待ち構えている。 「討伐には、討伐の名目を立てねばならたい」  こういって機運の迫るを待望していた。  一方、太宰府にある五卿と、岩倉卿との提携も、坂本、中岡の奔走によって、成り立った。しか し、岩倉公は、一時、好物として、有志者の間に排斥されていたので、三条公なども、最初は容易 にうべなう気色が見えなかった。  坂本等が熱心に入説したため、ようやく提携が出来たようなわけだった。  慶応三年六月というと、そういう時勢である。  長州の滞留は、二月余で、私は八月十五日には、また、京都ヘもどってきた。そして、このたび は、白川の土佐藩邸にある陸援隊に入った。  六月から見ると、形勢は、ますます進展している。  陸援隊というのは、中岡慎太郎が、組織したもので、坂本の海援隊に対したものであった。  当時は、諸藩の有志が各所に散在していたため、いざ事をあげるという場合、はなはだ不便であ った。のみならず、その保護を加えるものがなかった。そこで、中岡が、藩の重役福岡藤次、毛利 來輔等に談じて、白川の邸をかりうけ、同志を収容した。  したがって、隊員は、必ずしも、土佐藩士のみではない。各藩のものがより集まった。  陸援隊の規約がある。  一、出京官 参政一員、監察二員    附属書生二員あるいは三員    右書生当時出京両官の自選を許す、外藩応対の際、たらびに陸援隊中の機密をつかさどる。  一、陸援隊 隊長一人    脱藩者、陸上斡旋の才ある者、皆この隊に入る、国に属せず、暗に出京官に属す、天下の動    静を観、諸藩の強弱を察し、内応外援、控制変化、遊説間諜の事をつかさどる。  つづいて、海援隊の規約がある。  一、出崎官 参政一員、附属書生二員    右書生、当時出崎間の自選を許す、外藩応接の際、ならびに海援隊中の機密をつかさどる。  一、海援隊 隊長一人    汽船各船これに属す、脱藩の者、海外開拓に志ある者、皆この隊に入る。国に属せず、暗に    出崎官に属す、運船射利、応接出没、海島を拓き、五州の與情を察する等の事をつかさどる。  すなわち、 めである。  ところで、 陸援隊は、 京都出張中の藩の重役に属し、 その経費等は、 どうしたかと申せば、 海援隊は長崎出張中の藩の重役に属する定 最後に、 次の規約が設けられてある。 およそ海陸両隊仰ぐところの銭糧、常にこれを給せず、その自営自取に任ず、ただし臨時官給、 もとより定額無し、かつ海陸用を異にすといえども、たがいに相応援、その所給は多く海より生 ず、故にその射利する所は、また官に利せず、両隊相給するを要す、あるいはその所轄の局に由 って、またその部分金を収む。すなわち両隊臨時の用にあつべし、右等の処分、京崎両官の計議 に任ず。 白川屋敷の陸援隊  はなはだ自由な立場にあった。藩から頂戴することもあるが、定額ではない、各自勝手に自営の 道を立てろ、そのかわり海援隊で儲けても藩へ納金せずともよいという仕組みであった。  岩村精一郎(後の通俊)や、斎原治一郎(後の大江卓)も、この時、私を頼ってきた連中である。 「さしあたり、落ちつく場所がない。是非、陸援隊に置いてくれぬか」  相談をうけたので、邸の長屋をあてがった。 「退屈だろうから、こんなものでも読んで見たらどうか」  私は、連邦史略と地球説略とを両人に貸し与えたことを記憶している。  この頃の京都の模様を国もとにいる父に報告した私の書面が残っている。その末節には、次のよ うに記されている。 薩長は、疑いなく大挙に到り申すべく候、土州もその尾にすがりつき、一挙出来申さずては、汗 顔の事に御座候、さて先日以来、京師近辺歌に唱え候には、大神宮の御祓が天より降ると申して、 大いに騒ぎ居申候、大国天、蛭子観音等種々のものが降り候趣き、近々はなはだしき事に御座候、 切支丹にて御座あるべく存ぜられ候、過日はどこかへ嫁さまが降り候処、江戸の産の由に御座候、 何がふり候やら知れ中さず候、ただただ弾丸の降り候を相楽しみ待居申候。  これは、お|札踊《ふだおどり》の流行をさしたもので、京都を中心に、大坂に流行し、果ては、一時関東にも及 んだくらいだった。  天下は、今にも、一大風雲をまき起こそうとしている矢先、どこからともなく、お札が舞い下り てくる。  京都市民は、吉兆だというので、お札の下りた家では、酒肴の仕度をして、大盤振舞いをした。 そして、「ええじゃないかええじゃないか」をくりかえしながら、屋台を引き出し、太鼓をたたき、 鉦をならしながら仮装して、町中をねって歩く。まるでお祭騒ぎである。  そういうから景気のどん底にかくして、薩長は、秘かに討幕の計をめぐらしていた。 陸奥宗光の報告  三条公は、山内家は姻戚にあたったので、土方楠左衛門始め藩からの護衛がつけてあったが、岩 倉村に蟄居している間は、岩倉公には、全然それがない。  太宰府にいる三条公と京都にある岩倉公とは、今や、王政維新の大号令を発するについては、な くてならぬ二柱石である。万一の事があってはならぬというので、陸援隊から護衛のものをつける ことにした。  その頃の岩倉公の生活は、全くみじめなものであった。  私も、よく出入りして、度々夕飯をともにしたが、驚いたことには、菜は|素麺《そうめん》の煮たものだけだ った。ほかには、何もない。公は、それで、平気でいた。  その後、|具定《ともさだ》(後の宮相)に聞いて見ると、貧窮の程度は一層はなはだしかったらしい。 「父は、寝酒が好きであったが、あの頃は、肴にするものが何もたい。そこで自分は、前の川へ泥 鱈をすくいに行ったものである、大根なども、自分でつくった。竹の先へ泥をぬって、大根につい た虫をとったことは忘れられぬ」  だんだん事情もわかったが、私も佐川にいる頃は、父からのいいつけで、これと同じ仕方で野菜 につく虫をとった事を覚えている。  岩倉公は、幽閉中、かくのごとく、惨鷹たる生活をつづけていながらも、一意、復古の大業を志 していた。  公は、もちろん、幕府側から睨まれていたことは争われない。身辺の危険は、いうもおろかであ るが、なかんずく佐幕派から仇敵視せられていたのは、坂本、中岡の二先輩であった。  二人は薩長連合運動の|襖子《くさび》である。ことに、坂本は、一度、寺田屋において、見廻組に襲われた。  幸い、情婦のお竜の機転によって、危ういところを逃れたが、その後も依然として、見廻組や新 選組の壮士につけねらわれていた。  とうとう十一月十五日の夜、兇刃のもとに倒れてしまった。  海援隊も陸援隊も、にわかに頭目を失った。  そこで、陸援隊は、橋本鉄猪と私とがあとを引き受けて、世話をした。  隊中の者は、現場に残っていた|蟷色鞘《ろういろざや》が、新選組の原田辰之助のものだというので、坂本、中岡 を暗殺したのは、新選組だと決めていた。 「是非、この仇討ちをせねばたらぬ」  みな昂奮し切っていた。  私は、これに、賛成しなかった。 「坂本、中岡がやられたことは、いかにも、千秋の恨事である、しかし、今、吾々が、そういう私 怨にむくいている場合ではない、明日にも維新の大号令が出るだろうから、その時こそ十分に働か ねばならぬ大事な身だ、つまらぬ斬好は止めよ」  こう忠告したが、血気の壮士は、聞き入れそうもなかった。  すると、隊中の陸奥陽之助(後の宗光)が、どこから聞き込んできたのか、壮士をわきたたせる ような報告をした。 「坂本、中岡両氏を暗殺させたのは、三浦休太郎(後の安)だということである、彼は、いろは丸 償金の屈辱をふくんで、新選組をそそのかしたらしい、のみならず、彼奴は佐幕派のこり固まりで、 会津桑名と密約して、近日、紀州藩の大兵を京都にさし向ける手筈をしたと聞いている、機先を制 して、片づけたらどうか」  これでは、大抵、かっとなる。  三浦は、伊予の西条藩士で、当時、紀州藩にかかえられていた。  海援隊の持船いろは丸が、諸藩に売りさばく銃砲弾薬を満載し、この年四月二十三日夜、讃岐箱 岬の沖にさしかかると、紀州藩の明光丸に衝突した。  非は向こうにある。  よって、坂本は紀州へ償金要請の交渉を開始した。 「承知しなかったら、海援隊と長州の奇兵隊の力を合わせ、討幕の血祭に、紀州をやっつける」  こう揚言してはばからず、また、長崎丸山の遊廓でも、流行唄をうたわせた。    船をしずめたそのつぐないは        金をとらずに国をとる  紀州もあわてた。結局、薩摩の五代才助が調停役となり、坂本は、紀州の重役にさんざん謝罪さ せた上、償金八万三千両をとることにした。  紀州では、それに対して、坂本を恨んでいるという陸奥の報告は、一応もっともに聞えた。  一同、ふるいたって、三浦に天訣を加えるといきまく。 「やれやれ」  何ということなく、勢いづいて、白川邸から押し出した。その面々は、陸奥を筆頭にして、岩村 誠一郎(前出)、関雄之助、斎原治一郎(前出)、本川安太郎、山崎喜都真、松島和助、藤沢潤之助、 竹野虎太、中井庄五郎、竹中与一、前田力雄、宮地某などである。  中にも、中井は、十津川郷士にして、剣客だった。品川弥二郎の依頼をうけ、長州の裏切者村岡 伊助をねらったことがあった。  村岡は、危険を悟って、虚無僧に化け、姿をくらましていた。中井は、それを探し出して、みご とにやっつけたというので、腕前は同志の間にも認められていた。  三浦が、油小路料理店河亀方にいたので、ここへ襲撃した。それが、ちょうど十二月七日の夜だ った。  三浦も、うすうす気づいていたとみえ、十分身辺を警戒していた、その晩も、新選組の土方歳三、 原田辰之助、斎藤一等をはじめ、紀州藩士が、ひかえていたからたまらない。  中井が、真先に、名乗りをかけて斬りこんだ。 「すわ」  先方も用意していたので総立ちになる。  そのうちに、ぷっと灯を消したから、座敷は、真暗にたる。  闇中、切声するどく、切り結んで、乱闘が行なわれた。  騒ぎは、ほんの瞬間だった。三浦は、面部に負傷したが、その場を逃げ出したので、無事であっ た。  陸援隊の同志の中では、中井が、乱闘のうちに、数創をこうむって、ついに斬死をしてしまった。 竹中は、左の手首を切り落された。  目的をとげずして、同志は、さんざんの態で屋敷へ引きあげてきた。  新選組のものは、急をきいて、現場へ馳せつけたが、みな引きあげたあとだったので、大争闘に はならずにすんだ。  陸援隊は、かくのごとき壮士の集団だったので、いつ、屋敷を包囲されるかもわからぬ。そのた め、皆、厳重に警戒を加え、かつ、同志の者の足止めをした。  夜間の一人歩きたどは、絶対に禁じ、もしやむを得ずして、屋敷外に出づる場合は、必ず三人づ れとか、四人づれとか、連行することにしていた。  これくらい、厳重に中し渡しておいても、それでも、元気充満の壮士は、事があると、すぐに躍 り出す。  隊には、水戸の浪士が、香川敬三、中川忠純をはじめ、かれこれ十四五人はいた。これらの仲間 が、藩の政務をとっている酒泉彦太郎に天謙を加えねばならぬと、気色ばんでいた。 「酒泉が、舐園の一力に遊びに行くところを待伏せしろ」  相談がまとまったとみえ、芳野昇太郎ら四人で、邸をぬけ出して行った。  と、それらしい男が一人、一力の門前に現われた。 「酒泉さんじゃないか」  いきなり声をかける。 「いや、左様ではござらぬ」  そういうので、そのままやり過した。こちらが油断していると、引きかえしてきた彼の男は、突 如!  自刃をふるって、斬り込んできた。やっばり酒泉だったのである。  うっかりしていたため、斬りつけられて、ほうほうの体で、逃げてきた。手負いの一人は、頭を したたかやられていたが、もちろんその時分のこと故、ろくな手当てもできない。木綿針で柘榴の えみわれたような傷口を縫いつけた。定めし、痛かったであろうが、我慢が強く、何ともいわなか った。  それで、二人の手当ては、どうやらすんだが、一人は、とうとう、深手のために死んでしまった。  夜があけて、屋敷の門前へ出て見ると、血が、たらたらと路上にしたたっている。昨夜、二人を かつぎこんできた際、傷口からほとばしり出たものらしい。 「こんなことをしておくと、またまた厄介なことになるぞ」  私は、はいている下駄の歯で、血のしたたっている地面をすり消して行った。人がわるいが、隣 の屋敷の前で血の痕が留まっているようにしておいたことがある。  これは、三浦襲撃の前の話である。  ともかく命しらずの壮士から編成されている隊をあずかることになると、なかなかもって人の知 らぬ心配もせねばならなくなった。  慶応三年も早、押しつまって、将軍の大政奉還となり、内々、十二月九日には、維新の大号令が 発布さるるところまで、進展していたにもかかわらず、陸奥等が、河亀へ押し出したのは、どう考 えても早計であった。もっとも、大号令の発布は、全く秘中の秘だったので、ごく一少部分の人だ けしか知らなかった。  この大号令の発布とともに、陸援隊は、高野山の一挙を企てて、活躍の本舞台に入ったのである。 忍びの出陣  いったい、  この地は、 南山の義兵をあげることは、私が宿年の望みであった。 肉親の叔父那須信吾の陣没したところである。吉村寅太郎その他同志の骨を埋めた場 所である。いつかは、彼等の遺志をついで、その志を成し遂げねばならぬと考えていた。  長州掩留中、高杉に相談したのも、こういう信念に基づいている。  しかるところ、維新の大号令発布とともに、薩長は、討幕の密旨を得て、一挙に徳川政府をくつ がえす計画が熟していた。そこで、問題になるのは、紀州藩の態度である。  どうしても、紀州の頭を押えねばならぬという関係上、陸援隊は、侍従鷲尾隆聚卿を奉じて、高 野山に義兵をあげることとなった。  七卿西下以来、京都にのこった公卿のうち、ともに国事を談ずべきは、中山一位公、正親町公董 卿、滋野井実在卿、そして鷲尾隆聚卿くらいたものだった。岩倉公は、これらの堂上と、絶えず密 かに往来していたのは申すまでもない。  鷲尾卿は、諸藩の有志とつとめて、接触をはかっていたが、当時、堂上が浪人有志とみだりに会 見することは許されていない。  卿は、窮余の一策として、邸内に撃剣道場を設けた。 「諸藩のもので、剣道の稽古を望むものは、勝手に参るがよい」  こういう触出しで、卿すらも、面小手をつけ竹刀をもって、稽古をした。  かれこれ、百人ほどの人物が、入れかわり立ちかわり集まるようになった。卿は、その中からし かるべきものを選んで、同志としていた。  陸援隊からも出かけた。  そんなことから、慶応三年四月十九日、勅使八条前中納言、櫛司中将をもって、口達で、謹慎を 仰せつかった。侍従は、お請けをして、勅使を送り出すと、入れ違いに、もう新選組見廻組のもの が十四五名、どやどやと押しかけてきた。 「拙者ども、今日より番兵を仰せつけられたによって、卿にお面会いたしたい。かつまた、庭家の 回りたども、とくと見届け申したい」  いち早く、圧迫の手が及んだ。  卿は、驚かれた。というのは、あたかも、この時、藤村紫朗、山本一郎、中野幸輔、黒沢仙二郎 などの、面々が屋敷にいた。  表は、すでに、これらの浪士が、堅めてしまったので、屋敷から逃がす道がない。ただ、幸いな ことには、鷲尾邸は、堀一重境にして中山邸と隣り合っている。こうなっては、中山邸の裏口から 逃がすよりほかに途はなかった。  卿は、ただちに、中山前中将に密書をしたためた。 「堀の外まで来てもらいたい」という文意であった。  折から、前中将は、病気でふせっていたが、何事が起こったのかと、わざわざ指定の場所まで、 出て来た。  鷲尾卿は、堀をへだてて言った。 「あなたは、勤王のために、最後までお尽しになる気かどうか、それをうかがいたい」 「もちろん、陛下の御ためには、死をもってお尽し申す覚悟でいる」 「それなら、お願いがある、実は、ただ今、謹慎を仰せつかり、同時に見廻組新選組の者が、護衛 と称して、邸の見張りに参っている、ところで、邸には今同志の者が、八九名いるが、表門から逃 がすことができずに困却いたしている、ここで討死させては、全く犬死同然、どうかして助け出し たいと思うが、幸い、あなたの邸の裏に抜け道がある、そこから逃がしていただきたい、ご承知な らば、さっそく梯子をおかけ下さるまいか」 「心得申した、お案じなさるな」  中山卿は、承諾をしたので、こちらも梯子をかけて、藤村以下の同志を邸の外へ出し、さらに、 梯子に伝わって、中山邸へ落ちのびさせ、無事に助け出した。  表からはいってくる者は、一々、監視の壮士に|誰何《すいか》される、そして、用件をただし、人別を改め て、ようやく許されるというような有様。  彼等は、夜となく、日となく、邸の内外を巡濯していた。ところで、それが毎日つづくと、彼等 の見回りをする時刻がたいていわかるようになった。  で、そのすきずきに、卿は、邸の裏門からこっそりと抜け出して、岩倉公にも会見するし、西郷 とも相談をすすめるし、着々計画をたてていた。  いよいよ高野山出張ということに話がまとまったのは、十二月八日、あたかも、三浦襲撃の翌日 のことだった。血気の壮士は、そういう機微について、たんら知るところがたかったため、中井の ごとき人物をむざむざと殺してしまったのは遺憾である。  もともと、義兵を高野山につのって、紀州藩を牽制せしめ、あわせて大坂の幕軍に当たらしめよ うという計画は、中岡の遺策である。その際、これを総管するがためには、正親町公董卿が、自か ら進んで、高野山行きを志望した。  しかし、岩倉公は、これをさえぎった。 「王政復古の大号令が世に出る暁には、いずれ幕軍と一戦をまじえねば相成るまい。いざという場 合には、おそれ多いことではあるが、|鳳螢《ほうれん》のご遷座をお願い申しあげねば相成らぬ、貴卿はその時、 側近に侍して、遺漏のなきように、取り計らっていただきたいのが、当方の希望である。で、高野 行きの総管には、陸援隊と馴染みのふかい鷲尾卿が最も適切である」  公の意見は、用意周到であった。それでも、公董卿は思い切れず、十二月七日今日明日にさし迫 った際、公に書をよせた。 南山行きの一件実は、昨夜中山邸へ密々行伺、嘆願におよび候処、小子他出の儀は、おさし支え に相成候趣き、幾重にも不同心に候、もっとも九重のご都合もあらせらるべく、かつ玉体守護し 奉るの儀は申すまでもこれなく、万々容易ならざる重事には候えども、内々ご承知のとおり、国 家のため堅く有志輩とかねて結盟いたし置候次第も有之、今日に至り候て、小生相残り候儀は、 実もって残懐無限に候。  よほど残念とみえた。  公は、香川にふくめて、公董卿を慰さめる一方、幽閉中の鷲尾卿を邸外へおびき出す手筈をさせ た。  十二月八日の夜、鷲尾邸の塀をのりこえて、邸内に忍びこんだのは、香川敬三と三宮義胤の両名。  雪もよいの空は暗たんとして、一点の星も見えない。二人が忍び入ったことは、監視の見廻組の ものも気づかなかった。  合図をすると、鷲尾卿が姿を現わした。 「いよいよ、ご内勅が下りました、お書付けは、正親町さまのお手元にお預りをしております。こ れからお仕度あそばされて、お出ましをお願いいたします」  卿は、用意がしてあったので、この一言を聞くと、ただちに身仕度をした。  いつものように、こっそり塀をのりこえて、正親町邸に急いだが、途中には、もう同志のものが 四五人、出迎えに出ていた。  これより先、陸援隊の同志は、藩の銃器を無断携帯して邸を出た。しかし、何のために、義兵を あぐるかというような巨細のことは、一般には説明しなかった。  岩村、大江なども、私が、長屋へ別れの挨拶をのべに行った際、同行を迫った。 「何かしらぬが、義兵をあげるということなら、自分どもも、是非一緒につれて行ってもらいた い」 「よろしい、委細は、おいおい耳に入れるが、ともかく、秘密を守ってくれぬと困る」  そんなわけで、秘密一点張りだった。  正親町邸には、四十余人の有志が、はせ参じていた。  鷲尾卿は、そこへ、乗りこまれた。  宣旨は、公董卿の手から、隆聚卿へ手交された。 国家の形勢はたはだ相迫り候、 輩を率い、すみやかに征伐し、  丁卯十二月 精々鎮撫はもちろんに候えども、 抜群の精勤可有之事。 もし反逆の賊有之時は、 有志の 経実忠 之愛能   鷲尾侍従殿  侍従は、これを押しいただいた。 「出陣の祝いに、一献差し上げる」  公董卿は、御下賜の天盃に、なみなみと酒をつがれる。  これをぐいと傾けた上、お流れをわれわれどもが、頂戴した。  即座に、出発、途中、十分警戒しいしい、淀川を下って、大坂に向かうことになった。  天寒くして、|風《しよ》+|粛《うしよ》々、|忍《う》びの出陣ではあるが、一隊は意気、斗牛を貫かんという勢いである。  五艘の三十石に分乗して、川に浮かんだ。  だが、困ったことには、肝心の鷲尾卿である。公卿は、|鉄漿《かね》をつけねばならぬので、歯をくろく 染めている。八幡、山崎には関門があって、いちいち誰何されるので、ここで、見破られたら最後 動きがとれない。  幸い、三十石には、竹の床を張ってある、よって卿を蒲団巻きにして、竹床の中に入れ、その上 に有志のものが坐って卿をかくしてしまった。  あやしい舟だというので、とがめられた際には、何といいわけをするか、それもあらかじめ覚悟 しておかねばならない。もし、そういう場合には、京師御護衛のため、出京していた十津川の郷士 が、交替をするためである。表向きはそういう口実を設けることにした。  みたみなびくびくものだったが、いいあんばいに、両関門とも無事に通過することが出来たので、 ほっと一息した。あとで知った話だが、土州藩では、陸援隊のものが、無断で、藩の銃器をもち出 したというので、取締りの下村省助が烈火のように怒り猛った。 「彼の輩、いずれ、鷲尾卿を擁して、暴挙を企てるに相違ない、追撃して、一人のこらず捕縛せね ば相成らぬ」  藩兵に下知しようとした。結局、卿に内勅が下った事実が、うすうす彼の耳に入った。  そうなっては、滅多なことは出来ぬと、追撃を中止したとある。  山崎の関門を過ぐるころから、雪が紛々と降ってきた。  翌九日の朝、舟は大坂の八軒屋についた。見ると、宿の前に、紀州の兵が、ずらりと整列してい る。 「しまった、先を越されたな」  一同がくぜんとした。 「どうして、われわれの一挙をかぎつけたのであるか」  左様た詮議立てをしてみても、追いつくものではなかった。 「この上は、抜刀して、斬死するよりほかはあるまい」 「しかし、向こうから手出しをするまでは、なるべく、さし控えることである」  各自決心して、そろそろと、舟から上がった。  しかるに、先方では、一向、こっちを怪しむ素振りがない。 「おかしなわけだ」と思っていると、それもそのはず、この一隊は、紀州の巡濯兵であった。  果して、彼等は、それから間もなく、隊伍をととのえて、巡濯に出かけてしまった。これで、私 どもも、よみがえったような気がしたが、一時は、どうなるかと、はらはらしたことである。  全く、こっちが、早合点をしたので、こっちからさきに手を出したら、とんだことになった、の みならず、高野山の一挙も、中途で挫折してしまったかもしれない、危機一髪の呼吸だったのであ る。  宿で、ゆっくり朝飯をしたため、ここを出発した。  具合のいいことには、大坂でも、お札踊りの真最中。 「ええじゃないかええじゃないか」とはやし立てて、踊りくるっていたため、ほとんど市中の往来 が出来なかった。 「また、やってるな」 「大変な人出じゃないか」  そういっているうちに、いつの間にか、私どもも、人波に押しかえされていた。  鷲尾卿はじめ、われわれ同志は、この踊りの群れの中にまぎれ入って、そ知らぬ態で、ついうか うかと住吉街道から堺まで出た。  何が幸いになるかわかったものでない。 高野山の旗あげ 王政復古の号令  一隊、およそ六七十人、途中無事に堺に入って、薩摩屋に泊った。ここで、隊を三つに分かち、 高野山に向かって進発した。  途すがら、堺の土手の上を通ると、西の方に、海をへだてて兵庫が見える。この時、鷲尾卿は、 ふと私どもに問いをかけた。 「あれは、何という湖であるか」 「いや、湖ではござりませぬ、あれは、兵庫の海でござります」 「ははあ、そうであったか、この方はまた、湖と思うた」  そう仰せられたので、大笑いになった。長い間、京都に幽居しておって、足一歩も洛外に踏み出 したことのない月卿雲客としては、無理からぬことで、水のたまったところは湖とのみ思われてい たらしい。  ついで、義軍は、三日市に一泊した。同夜、各役員を定めた上、いよいよつぎの日、高野の麓に ある|学文路《かむろ》に到着した。ちょうど、この時、京都に残しておいた同志の前島貢吉、丸谷志津馬の両 名、昼夜兼行で、われわれのあとを追ってきた。 「どうした」  何はともあれ、出発後の京都の様子をたずねる。 「喜んで下さい、いよいよ九日に王政復古の大号令が御発布になりました」  こういう報告だった。  私どもは、かねて期してはいたことだが、かくと聞いて、渾身の血が、みなぎり躍った。維新の 大号令は、王政復古の第一発である。すなわち、岩倉公を中心として、西郷吉之助、大久保市蔵等 の秘かに謀るところ、封建の制を廃し、朝権を回復し、神武創業の|古《いにしえ》に復せしめんとする|狼煙《のろし》で ある。  主上、天下に諭告したもうて、この日、次のごとく仰せ出された。  徳川内府、従前御委任の大政返上、将軍職御辞退の両条、断然きこしめされ候、そもそも|癸丑《きちゆう》以  来、未曾有の国難、先帝|頻年辰襟《ひんねんしんきん》をなやまされ候御次第、衆庶の知るところに候、これによって、  王政復古を決せられ、国威挽回の御基立てさせられ候問、自今、摂関幕府等廃絶これあり、まず  仮に、総裁、議定、参与の三職をおき万事行なわせられ、諸事神武創業の始にもとづき、糟紳、  弁、堂上、地下の別なく、至当の公議を尽し、天下と休戚を同じゅう遊ばさるべき叡慮につき、  各々武勉励、尽忠報国の誠をもって、奉公せらるべく候事。 維新の精神は、この諭告にこもっている。ことに、 ならない。  というのは、関白となるべきものは、近衛、九条、 摂関の廃絶は、一大英断の御沙汰といわねば 一条、二条、 鷹司の五摂家に限られておった。 いかに、英遭な才器といえども、門地の低い家柄に生れたものは、関白職につくことが出来ない。 幕府を廃するとともに、同時に、この弊習を打破したために、三条公、岩倉公のごとき人傑が、国 家重要の顕職につくことが出来たわけである。人材登用の路を開いたのは、そもそも末、まずこの 根幹の病所をあらためたことが、大いに味のあるところである。 「もうこれで死んでもよい」  私どもは、そういう気になった。  十二日の晩、神谷についた。鷲尾卿においても、ここで初めて烏帽子直垂に正装して、一同に挨 拶した。そして、内勅を賜わった一条より、高野に旗をあげ、紀州を牽制する目的について、一通 り一同に申し渡した。 「何かしらぬが、高野に旗揚げがあるということなら、一緒について行け、面白いことがあるかも しれない」  ぼんやりした考えで、ここまで、侍従に随行した面々。初めて、真相を打ちあけられて、驚きか つ喜んだ。 「そういうことなら、ここで一働きして、御奉公申しあげねばならぬ」  いずれも、決心の|磨《ほぞ》をかためた。  これより先、いよいよ、旗揚げの準備として、軍の部署を定め、前隊、中隊、後隊とし、大橋慎 三と香川敬三と私とが、軍の輔翼兼参謀となった。ほかに十津川郷士が同様の役になった。  で、諸隊へは、軍令を下した。  一、酒色禁止の事。  一、兵器玩ぶまじき事。  一、高声高論致すまじき事。  一、殺生はもちろん、みだりに竹木を伐るまじき事。  一、本陣において早鐘撞き候えば、迅速馳けつけべき事。  ところが、いずれも、血気満々の壮士、こういう軍令の出た晩、薩州人の波江田浩平が酒に酔っ た。  そして、抜刀して、あばれ出した。 「すわ、斬込みだ」  時が時、場合が場合、同志のものは、|惇馬《かんば》のように、はり切っている際なので、波江田が抜刀し て、躍り込んできたのを、敵の乱入と誤認した。 「御前を堅めろ」  みな総立ちになって、鷲尾卿の前に出る。この際一列の岩村は、羅紗の羽織の襟を一尺五寸程斬 られた、大江は、梯子段を下りようとして、左腰に一刀を受けたが、幸い、刀の鞘に疵がついただ けで、身には負傷しなかった。いずれも、誰に斬りつけられたのやら、一向に判然としない。  騒ぎの際、同士討ちが行たわれたものらしい。  しかるに、抜刀して、あばれているのは、波江田一人とわかって、騒ぎはしずまった、波江田は、 たちまち取り押さえられた。彼は、当然、軍律に照して、切腹を命じなければたらなかった。  元気があふれているので、つい酔ったまぎれに、間違いを起こしたのだということは、よく私ど もにも呑み込める。さればといって、これを許すとせば、一軍の見せしめがつかない。紀州牽制と いう重大目的を遂行する折から、かくのごとく、いまだ一戦も交えざるに、士卒の軍規が乱れては、 心もとない。そこで、泣いて|馬護《ばしよく》を斬るの筆法、波江田の一命を申し受けねばならぬということに、 大体、評定は決まった。  そこへ維新の大号令発布の報告を入手した。 「実に、吉報だ、よって、波江田は、死一等を減ずるがよい」  そういうことで、彼の身柄は、大江等の属する隊に預け、彼を許した。  波江田は、危ういところで助かったものだが、と同時に、吾々は、この九日の大号令発布に対し、 それくらいに、感激してこれを迎えたものである。  当時、高野山には、学侶派、聖派、総分派の三派があって、 立てこもる以上、一応、この三派にも、通達せねばならない。  よって、侍従の名をもって次の様な書面をしたため、大橋、 聖派は、 佐幕の傾向があった。 山に 香川両氏が持参することになった。 方今、時勢不容易切迫につき、鎮静はもちろんに候えども、もし朝廷に対し、反逆の賊徒これあ るにおいては、有志の輩を率い、征伐忠勤を抽んずべき趣き、重き勅令をこうむり、出張いたし 候間、当山の衆徒においても、奉勅、忠誠を尽さるべく候事。  丁卯十二月                                 鷲 尾 侍 従                                 高野山総分中 同同 学 侶 中 聖 方 中 十津川方面ヘも、有志募集の達示をさし廻し、 の名をもって書面を発した。 新宮藩に滞在せる石田栄吉に対しても、 大橋と私 一筆啓上致し候、甚寒の|瑚《みぎり》いよいよ御堅固、御尽力をなされ、珍重に奉存候、然らばこの度鷲尾 殿、重き御沙汰をこうむらせられ、高野山へ御発向あらせられ候、よって有志の士、追々馳せ参 じ、丹誠を表わし候、足下には年来、国家のため、御勤労成され候段、かねて御聴に達し、御満 足に思召され候、なおこの上精忠を尽され候様、内々御沙汰仰せつけられ候。不備   十二月二十四日                                 大 橋 慎 三                                 田 中 顕 助   石田栄吉殿  さて、最後に、紀州家に向かっても、挨拶の書面を送った。  紀州は、高野山と境を接している。そこへ、浪人有志が立てこもるという風評を聞いただけでも、 紀州は警戒するに相違ない。それでは、当方の目的が達せられない、こっちは何も、紀州と戦端を 開きたくはたい、戦えば、こっちは小人数、ただちに叩き伏せられることはわかっている。  よって、紀州家重役に向かって使者を派遣し、吾々の態度を明らかにする一方、神谷口と、矢立 口とに関門を設け、高野山を堅めた。ところが、もとより五六十人の人数、それを手分けして、配 置したので、関門には、実は、五六人の人数しかいない。  吾々は、そのため、擬兵を張った。 「薩州の援兵何百人」とか、「長州の兵士何百人」とか、「十津川郷士何隊」とか、大きく記した 札を立てるやら、旗を立てるやらして、宿の方へも、その趣きを通じ、仕度をさせるという有様だ った。  紀州藩からは、重役の伊達五郎が、使老として、高野へ来た。  紀州は、いうまでもなく、徳川家の親藩だ、兵器弾薬、糧食の提供をした暁は、後々になって問 題となる、というのは、大勢は徳川家に不利としても、今後、いかような事に相成るかは、当時、 なおいまだ五里霧中にある、さればといって、勅令を奉じて、高野に向かった吾々義徒に対して、 無下に排斥もならない。全く、痛しかゆしの態。  でも、伊達は、千両箱を土産にもって、軍中にやってきた。  その頃の千両というと、よほど莫大な軍用金である。  伊達は、金光院の本陣において、侍従に拝謁した。  鷲尾卿は、上段の間にひかえ、吾々どもは、左右にい流れ、威儀おごそかに、伊達を迎えた。  退座して、伊達が、引きあげしなに、何というかと思うと、吾々をかえり見て、にっこりとした。 「いや、よく出来ましたな」  冷評まじりにこんなことをいった。  さて、こうなると、錦の御旗が、必要と相成った。これは、かねがね御所におさめてあるという ことをうかがっている。是非これが欲しいとあって、京都へ使者を立てることにした。  その使役を命じたのが、斎原治一郎、すなわち大江卓である。これが十二月二十六日のことであ る。 書面は、われわれ同志連名にして、中山前大納言に宛て、都出発後の状況を報告かたがた、末節 に次のごとく申し添えた。 御所に御蔵めに相成りおり候錦の御旗一硫頂戴つかまつりたく存じ奉り候、もしその儀かなわせ られず候時は、当所において製造の御許容の御沙汰こうむり奉りたく存じ奉り候、さ候上は、宇 内近畿の兵を募り候には諭さずして来り、招かずして集まり候様立ちいたるべくいよいよ兵威を |遇遍《かじ》に示したく存じ奉り候、この上自然反逆の徒、|闘下《けつか》に暴発つかまつり候節は、募兵を率いて 及ばずながら、朝廷の御応援の一助にも仰せつけ下され候様つかまつりたく、泣願し奉り候。  斎原は、この密書をもって、高野の本陣を出発した。 |錦《にしき》の|御旗《みはた》  彼は、三条大橋の東の豊後屋に泊って、錦旗御下賜の運動に携わった。  その頃の京都は、今にも、戦争になりそうな気配があった。  そこへ、長州の品川弥二郎が来た。 「もうかえるか」 「御旗を頂戴したら、すぐに、高野へもどろうと思っている」 「少し、待ったらどうか」 「どうしてな」 「いや、二三日のうちに、必ず、事が起こる。その結果を見て、かえった方がいいだろうと思う」 「そうか、では、待とう」  斎原は、旅籠の二階で、ごろごろしながら、慶応三年の年越しをした。  あけて、四年の元旦。  品川が、また、たずねて来た。 「今、西郷(|吉之助《きちのすけ》)に会って参ったが、事すでに|旦夕《たんせき》に迫っている、おぬしが帰るならば、成行 きを見定めて立つがよいといっていた」 「よろしい、待とう」  斎原は、翌二日も逗留した。ちょうど、三日の午後四時頃、伏見の方角に当たって、大砲のとど ろくのを耳にした。 「始まったな」  二階の窓から見ると、もう煙が上がっている。  両軍、いよいよ口火を切って、砲火の間に相|見《まみ》えることとなった。何でも、斎原の話では、宿屋 にじっとしていられず、伏見街道の大仏辺まで出て見たが、それから向こうへは足を踏み入れるこ とが出来なかったといっていた。  で、また、宿へ引き返して、もじもじしているうちに夜になった。  砲声は、しきりに聞える、戦いは、今、正にたけなわらしい。  夜、八時頃、御所から使者が来た。 「すぐ参内するように……」  ははあ、錦の御旗を賜わるのだなと、彼も喜び勇んで、参内の仕度をした。その時分は、まだ新 選組のものが、京都に残留していて、そちこちとぶらついている。危険なので、使者とともに、御 所の中に入った。 鳥羽伏見の一戦が、どう進展するか、まるッきり見当がつかぬので、御所でも、諸卿が狼狽気味 である。 「鳥羽伏見の戦いは、薩長会桑の私戦にして、朝廷に関するところでない」  そういう意味の論争も行なわれるし、はなはだしきは、勅書の草案までもしたためたものがある と聞いている。  したがって、斎原は、いくら待っても、呼びこまれない。  十時になり、十二時になり、到頭明け方の四時頃になってしまった。 「こちらへ通れ」  ようやく御許しがあって、斎原は、五条為栄卿に謁した。  正親町卿に御目にかかるはずであったが、卿は、出て来ない。 「ただ今、お忙しいので、自分が正親町卿の名代になって、鷲尾卿宛の勅書をわたす」  そう言って、勅書を手交し、と同時に、黒塗りの箱におさめた錦の御旗を下賜された。  彼は、すぐさま退って、この二品を高野山へ持ってかえるについては、よほど苦心をした。途中 で、幕兵に出くわしたら最後、奪い取られる懸念がある。  幸い、十津川の屋敷に出入りする刀屋の為助という者がある。  これを同行することにして、下賜の二品は、刀屋が商売用の浅黄木綿の風呂敷に入れ、しっかと 為助に背負わせた。 「俺が、賊兵に出会ったら、応接をしている間に、お前は何でも構わぬ、さっさとその場を逃げ出 して、高野へ届けてくれ」  為助に、いい含めた上、朝飯をしたため、京都を出立した。  途中、戦争の容子を見い見い、八幡の関門にかかる。ここは藤堂藩で堅めていたのだが、四日の 朝故、藤堂は、まだ官軍に味方をしていたい。 「危いな」  彼も、びくびくものだったが、といって、逃げ出すことも出来ない。  関門にさしかかって、どうやら、難局を切りぬけ、それから日に夜をついで、高野へもどってき た。  彼が、本陣についたのは、六日の朝であった。  鷲尾卿は、ただちに、身体をきよめ、束帯をせられて、一同のものを本陣に集めた。  勅書の文言は、次の通り。 鷲尾侍従 かねて御沙汰のおもむきもこれあり候処、坂兵伏見表出張、叛逆の色顕然、止むを得ざるの情態 につき、高野山屯集の官軍、同心協力、すみやかに華城を乗り落すべく候旨、御沙汰候事。  すなわち、大坂追討の命である。  この時、斎原が持参した錦旗というのは、幅八九寸、長さほとんど一丈余、両方に金銀の日月を あしらったもので、自綾の|吊紗《ふくさ》につつんであった。  この一硫の旗が、さっとひろげられた刹那、なみいる一同は、涙を流して喜んだ。この御旗は、 もと長州征伐の際、作られたものであった。それが不用となっていたのだが、端なくも、今われわ れの手へ下し賜わったわけである。  長州を討つところの御旗が、かえって幕軍を討つところの御旗となり、われわれがこれを捧持し て、軍の先頭に立つということは、不思議た因縁である。  この勅令をうけた際、軍議が二つに分かれた。 「鳥羽伏見における戦いは、案外、早く片づきそうな形勢である、そうすれば、われわれが大坂に のり込む前に、薩長諸藩の軍が一足さきに城を陥れるに違いない、こうして大坂追討の勅命を受け ていながら、みすみす遅延いたしては、武士の恥である。寸刻の猶予なく、ただちに大坂へ軍を進 めるがよい」  こういう論が一つ。 「いや、戦いは、そう軽率にゆくものではない。現に、本陣は高野山にあっても、同志の中にはす でに、五条に出張っている者もあり、紀伊見峠に立てこもっている者もあり、それら各方面の情況 をみたのち、大坂へ軍をすすめることが至当である」  こういう論が一つ。  いずれも、道理がある、結局、急遽出立は見合わせ、形勢の推移によって、大坂へ討って出るこ とになった。  紀州へは、さらに、斎原治一郎、藤村紫朗両名を使者にさし出し、私は、東一番隊を率いて、紀 伊見峠に出張した。  初めは、鷲尾卿がにせ物だろうというような噂も伝わっていた。だが、幕軍は、鳥羽伏見に敗れ る、錦の御旗は、ご下賜になる、形勢は、刻々われわれに有利となってきたのであるが、いかにせ ん、旗揚げをしただけで、まだ一戦も交えない、それがいかにも物足りなかった。  しかるに、正月九日、私の隊は、紀伊見峠において、幕軍と衝突した。これは、大坂から紀州へ 逃れる一隊であって、いわば敗余の残卒である。 「いよいよ戦争だ」  われわれの隊士は、元気一ばいたので、たちまちこれと戦って、大勝を博した。  裏金の陣笠をかぶった敵の大将らしいのを討ち止め、首をはねた。これは、富士見御宝蔵番格歩 兵隊指図役小笠原鉱二郎であった。  大坂へ向かって進軍の途中、鷲尾侍従の本営(平野かと覚えている)において、小笠原の首を実検 にそなえると、卿からは特に感状を賜わった。   今度隊中の者、紀伊見峠において、賊兵と戦争、抜群の働き、ひっきょう平生教導行届き候故 と、すこぶる感賞にたえず候、これによって分捕りの内関兼元の短刀差しつかわし候間、なおま た向後精勤致すべく候、よって感状くだんのごとし 慶応四戊辰正月十一日 鷲 尾侍 従 田中顕助殿  大いに、私も面目をほどこした。戦争という戦争は、これくらいなものに止まり、一方、大坂城 は、われわれの到着以前、陥落したため、手を下すべき余地がなくなった。もう少し、何とか手ご たえがあるだろうと、みた想像していたが、敵は、案外もろかった。  ここにおいて、われわれ義軍は、正月十四日、大坂に凱旋した。  侍従は、つぎの日、京都へご帰還になった。さきには、三十石の竹床の下に、蒲団まきになって 亡命したのが、今日は、威風堂々として、山崎の関門にかかる。先頭には、錦旗が|融《へんべん》々として、比 叡おろしになびいている。  番卒は、異様ないでたちの一行をあやしんだ。 「いずれの御藩でござるか」  詰問にかかる。  すると、一行中の波江田浩平が、つと進み出て、錦旗の下に、仁王立ちとたる。 「貴様は、この旗を知らぬかっ」  頭から大喝した。 コ向存じませぬ」 「知らぬとあればいうて聞かせる、こはこれ、おそれ多くも、天朝よりご下賜の錦の御旗であるぞ っ」 「ヘヘヘヘっ」  番卒は、錦の御旗と聞くと、そこへ土下座をして、平伏してしまった。  彼等は、錦旗とは、どんなものであるか、まだ見たことがなかった。それでとがめ立てをしたの だが、この一事によってみても当時、いかに皇室の存在が一般に認められなかったかが想像される。 木戸孝允の俳句 「高野山に、そんたことがあったのか」  今の人々は、この出来事について、無関心のようである。  だが、これは、見ようによっては、維新史上、重大な一部を占めている。  上述のように大激戦はなかったが、戦略上どうしても、見のがしてはならない。ちょっと聞くと、 陸援隊が、とっさの計画のもとに、脱走して、高野に走ったようにも思えるが、決してそうではな い。  一体、高野の義挙は、慶応三年の夏、私が伊藤俊輔、中岡慎太郎等とともに、京都の薩摩屋敷に かくれていた当時、ひそかに計をすすめたので、一朝一夕の策ではない。  したがって、岩倉公とも、大久保利通とも、十分に談合のうえ、決行した挙兵運動である。  侍従を擁して、京都から忍び出た時には、わずか一旅の衆にすぎなかった。だが、誰一人として、 こればかりの兵で、何が出来るというような懸念をもったものはなく、みな、勇気りんりん、一も って千に当たる底の大決意があった。ところが、高野について、内勅を公表し、激を四方に伝える と、たちまち近畿の志士が馳せ参じた。十津川へは、別勅を賜わったので、全郷の壮丁、ほとんど 一人のこらず厭起した。彼等は、猪猟銃や鳥打銃をひっさげて、陸続して、山に登ってきた。その 数、一時は実に数千人にのぼったくらい。  錦旗、さっとひるがえるに至って、歓呼の声は、全山をどよもした。壮烈なるこの当時の光景は、 今もなお、私の眼の前にちらついている。  実際、紀州藩の伊達五郎が、最初に登山した際などは、確かに、冷かし気味であった。しかし、 こういうように、義軍の士気、天をつくがごとき勢いを見ては、いかに、紀州といえども狼狽せざ るを得ない。幕府側からは、出兵の督促をうけていても、紀州としては手の出しようがない。  われわれ義軍が、彼の背後から頸ねっこをしっかと抑えているので、上国に力を伸ばすことは全 く不可能となった。そのうちに、藩中にも、ごたくさが起こるというようなわけ。よって、義軍は、 花々しき戦争には及ばなかったが、紀州牽制という第一目的は、完全に達成することができた。も し、紀州が、大坂から逃れ出た幕兵をかり集め、これらの輩とともに、逆寄せをしてくることにな ったら、鳥羽伏見で勝った官軍に向かって、危険なる影響をあたえぬとも限らなかった。これを巧 みに操って、ついに、紀州をして、指一本すらも動かすことを得せしめなかったのは、全く高野山 義軍の功績といわねばならない。  また一歩退いて、私個人の立場からみると、この一挙は、忘れようとして忘れることのできぬ回 憶がある。すたわち、中山侍従を擁して、大和の一挙を起こし、事、成らず、むなしく吉野山下に 骨をうずめた叔父那須信吾の遺志を行なおうという熱望が、胸中に炎々と燃えていた。 「今度こそは、やってみせるぞ」  ひそかに期するところがあったのだが、果して、事は、順調に運んで、意外な効果を奏し得た。 こは、一に、事をともにした同志のなみなみならぬ努力によるのはむろんだが、同時に、大和の義 挙に倒れた叔父やその他の先輩の英霊の加護によるものと信じている。  他日、九泉の下、叔父那須信吾に相会することを得ば、叔父は何というだろうか。 「よく、やったな」  手をとって、供然と大笑するであろうと思うと、心中はたはだ愉快にたえない。  ところで、私どもが京都にかえってきてのちも、まだ紀州の態度が、面白くない。  幕兵の敗卒を隠匿しているという風聞がもっばら伝わったため、大橋慎三と私とが、その取調べ 方を命ぜられた。  二人して和歌山にのりこみ、再び京都に戻ってきた。  一方、高野山の義挙に関係した浪士は、たいてい、二条城詰めになったが、その他は、みな解散 した。  私は、御親兵取調べ役を仰せつけられたが、三月に入って、軍曹に召し出された。軍曹というの は今日のそれとはむろん違っている、将校格である。  この時、征東の官軍は、すでに江戸にのりこんでいた。  私は、ご用のため、江戸に出張中の総督府へ派遣された。  早追いで、出かけたが、これがそもそも私の初めての東下りであった。忘れもせぬ、大井川まで くると、洪水のため、川止めにあってしまった。 「急ぎのご用である、酒手は何ほどでも出す、無理にも渡せ」  こういう要求をした。 「とても、いけません」  人足どもは、承知をしない。  というのは、私のわたる前に、肥後の早追いが、連台にのって渡りかけると、川のまん中で、連 台もろとも水に押し流された、私も、それを目撃していたが、さりとて猶予すべき場合ではなかっ た。 「かまわぬ、流されてもよい、出してくれ」  決死の覚悟となる。  大事な御用の手紙は、しっかりと腹にまきつけ、人足に酒手をはずんで、ようやっと川をわたっ た。幸い、流されずに向う岸につくことができた。  使命を全うして、私は、無事、再び京都の土をふむと、全く健康を害していた。  この時、伊藤俊輔(後の博文公)は、兵庫県知事の要職にあったので、保養かたがた食客にまか り越す。  この食客が、ただの|居候《いそうろう》ではない。  山田市之允(後の顕義伯)から、分捕りの馬を一頭もらっている。よって、この馬と馬丁とをつ れて、大威張りで押し込んだことである。  公も、迷惑であったろうが、維新前より長州の知己として交りをかさねている関係上、私をこと わるわけにも参らなかったとみえる。 「いつまで、遊んでいても仕様がない、何かやらぬか」 「吾輩にできることがあるのか」 「そりゃある」  伊藤公は、ただちに、私を県の権判事、今日ならさし当たり書記官というような役にまわした。 そこで、西宮支庁長をつとめたのであるが、これが、私の維新政府に仕えたる第一歩であった。  この年の三月には、いよいよ車駕京都を発して、東京へご遷座となった。伊藤公も、簡抜されて、 中央政府の要職についた。  文久二年の冬、年二十歳にして、初めて、国もとを脱走して以来、わずか六年の間であるが、考 えてみると、曲折もあり、波欄もあり、のみならず、幾度か、危地に入って、しかも、危地を脱し ている。そして、明治の聖世に遭遇し、人寿を全うして、今日に及んでいる。微勲の何等見るべき ものなきにもかかわらず、帝側に侍して、|輔弼《ほひつ》の大任に当たり、幸い大過なきを得たるは、一に、 明治大帝の御仁徳と先輩有志の高庇とのたまものである。  それにしても、この維新大業の完成を目撃せずして、犠牲となって倒れた先輩及び同志の人びと に対して、私どもは深甚なる敬意を表せねばたらない。私は、殉難同志の忌日には、その遺墨を奉 安し、香をたいて、しずかに冥福を祈ることにしている。  榎本、大鳥などは、順逆をあやまったにかかわらず、生命を全うしたるが故に、新政府の要路に 立つこともできた。唯一専念、身命を賭して国事に奔走したわれわれの同志は、生命を全うせざり しが故に、むなしく祀られざる鬼となっているものもある。愴然として、今なお、私の胸を打つの は、この一点である。    世の中は桜の下の相撲かた  木戸孝允が、かつて私に、こういう俳句をかいてくれた。 「何のことか、自分にはわからぬ」  そういうと、木戸は笑っている。 「いいか、桜の下で相撲をとってみたまえ、勝ったものには、花が見えなくて、仰むけに倒れたも のが、上向いて花を見るであろう、国事に奔走したものも、そんなものだろう、わかったか」  随分、こじつけてはいるが、しかし、そういうこともある、木戸は、時事に平らかならずして、 この一句に調意をこめたのである。  幸いにして生きながらえている私どもの事業としては、国家の犠牲となって倒れたこれら殉難志 士の流風余韻を|顕揚《けんよう》することにつとめねば相成らぬと深く考えている。