瀬戸内地方の教育家諸君の招聴に応じて、古仁屋校で「沖縄島を中心とする南島史」を講じてから足かけ十五年にもなる。其時の講義の筆記は、沖縄県の師範学校在学中、私の講義を聴いたことのある竹島箏君の手になつたもので、頗る要題を得てゐるが、自説に飽足らない点が多い為に、世に公にされる事を恐れて、久しく筐底に秘めて置いた。ところが其後永井竜一君から屡々督促を受けたので、不承不承にお返ししたら、此頃印刷になつた稿本を送つて来て、其の序を求められたのは私に取つてかなりの災難であつた。それは兎に角、其の中の誤謬は、拙著「孤島苦の琉球史」「琉球古今記」「南島の研究」等によつて、訂正していたゴくことにして、不取敢序文の代りに「南島人の精神分析」の一篇を草する。
まづ、説明の便利上、故厨川博士の「苦悶の象徴」の中から十数行を引用することを許して貰ひたい。「フロイドの所説はヒステリ患者の治療法から出発した。彼は希臓のヒツポクラテス以来今日に至るまで医家を手古摺らせてゐる此不可思議な疾患ヒステリの病源が、患者の閲歴のうちにある
兎に角、精神分析学者は、人性の最初の三四年間に、既に晩年に結果を表すべき衡発作用を形成し、又この幼少の時期に於て、オーソリチーに対する各個人の基本的態度が決定されることを実証したのである。これで「三ツ子の心は百まで」といふ僅諺に、深い意味の含まれてゐることもわかる。今ではこの精神分析学は、従来の心理学が捜りを入れたよりも、遙に深い地層へ下つて行つて心理学の根底に動揺を来たさせる迄になつてゐる。さうしてこの派の学者は、夢、精神、芸術的作品に就いても、新しい解釈を試み、更に進んで之を杜会問題に迄応用するに至つた。
私は精神分析に関する数種の著書を播いていくうちに、この新科学の光を悲惨な歴史を有する南島人の民族性の解釈に差し向けたらどんなものであらう、といふことを考へた。
南島人は大和民族の一支族であつて、天孫降臨間も無く南島に移住したものであることは、言語学的にも証明することが出来るが(昭和五年八月号「国語と国文学」所載拙稿「琉球語の母音組織と口蓋化の法則」参照)彼等が食物の豊な瑞穂の国を見棄てゝ、不自由な孤島にやつて来たところに、何か深い仔細が無ければならない。 「おもろさうし」の中に出てゐる琉球開關の
「聞得大君御殿御神事規式帳」の中に出てゐる神話を味はつて見ると、彼等は安住の地に落付いて、一先づ安心したものゝ、間もなく食糧の欠乏を感じて、之をにらい、かない(常世の国の義)に求めさせた、といつたやうなことが見えてゐる。琉球王国に幾度か起つた「よがはり」即ち革命は、何れも食糧問題が重因をなしてゐると見て差支ひなからう。彼等は絶えず「にが
慶長十四年の島津氏の琉球入りこそは、琉球に於ける空前の大悲劇で、其の時に負ふた痛手はやがて心的傷害となつて、今なほ彼等をなやましてゐる。私はこの時代の琉球人を、家が破産した為に娼妓に売られ、 「生の喜び」を失つて、ヒステリツクになつた、青春期の女性に讐へよう。島津氏の抑圧から受けた痛ましき傷害は、内攻して其の潜在意識中に、液中の沈澤の如く残つてゐる。しかも其の江津は、彼等の意識状態を動かして病的ならしめ、甚だしくそれを掻き乱してゐるやうに思はれる。彼等は島津氏の武力を恐れて、公々然と反抗することは出来なかつたが、その反抗心は変装して、見事に島津氏の監視を遁れてゐた。両属政策から自然内股膏薬主義又の名御都合主義が現れて来た。従つて嘘をつく習慣も出来た。自分の国でありながら自分で支配することが出来ず、甘い汁は人に吸はれるのだから依頼心が強くなつて、責任感が薄らぎ、 「
翻つて奄美大島諸島はどうかと見ると、慶長役後問も無く、母国から引離された、大島、徳之島、沖永良部、喜界の四島(最初鳥島は其中に這入つてゐたが、支那に硫黄を貢する必要上、再ぴ琉球の管下に入れられて、その代りに与論島が四島と運命を共にすることになつた)は薩摩の直轄にされて、爾来三百年間極度に搾取されるやうになつた、これらの諸島は、最初の間租税は米穀を以て納めてゐたが、延享二年に米穀の代りに砂糖を以て納めることになり、その換算の率は砂糖一斤に付き米三合六勺宛ときめられた。安政年間に至り貢糖以外の産糖は幾分藩庁で買上げることにしたが、此時大島で買上げたのは一斤代金三合で一石当三百五十斤であつた。だが、文政十二年には、之を改めて、大島、喜界、徳之島三島の産糖悉く藩庁で買上げることにし、若し密売するものがゐるなら死刑に処するといふ厳法を設けて、その定式糖四百六十万斤を除く外の所謂余計糖は、目用品と交換することにした。その代り、米穀外一切の食糧品は、藩庁から給与することにしたが、それさへも少なからず藩吏に奪掠されて、島民は纏に甘藷で生命を継くの有様であつた。しかも男子は十五才から六十才まで、女子は十三才から五十才まで、作業夫と称して、各甘蕉畑を貸与せられ、強制的に耕作に従事せしめられて、牛馬同様に取扱はれてゐた。
重豪公の時勧農使として大島に派遣された得能通昭が、島民の惨めな生活を観察して帰り、 「腰を下して足洗ふ家もなく、民の有様は朝夕の食に悩み、磯の藻屑を食し、渇さへ湿し難き程なり」と報告して以来、藩の製糖工場ともいふべき極端な方法を改めて、甘蕉以外に甘藷その他の穀類の栽培をも許し、好吏の乗ずべき病根を去つたので、島民は蘇生の思ひをしたが、それも一時で、いつしか後戻りして、各間切に黍横目黍見廻等の諸役を置き、甘蕉畑には挿苗から収穫に至るまで監督を厳重にし、その上成熟期が近づくと、立毛について検視を行ひ、製造の際には煮汁検査を為したが、産糖が予想高に達しない場合には、隠匿を糺し屡々拷問に附して、頗る峻厳を極めた。甚だしきに至つては、自分の畑から甘蕉一本を取つて噛つた為に死刑に処せられた者もゐた。大西郷が竜郷諦居中、この苛酷を視かねて、代官の役所に飛込んで、激論を闘はしたことは、読者の熟知する所であらうが、この時村民は蜂起して、斧鎌を武器として代官所を襲撃して、幾多の犠牲者を出したといはれてゐる。かうしたことは、各島でしばく起つたが、就中徳之島の犬田布騒動は、最も人口を膳表する所である。これやがて窮鼠猫を噛むの類で、「王国の飾り」てふ真綿で首を締められた琉球で、三百年の間に、一度たりとも暴動が起らなかつたに対して面白いコントラストであると言はなければならない。
それは兎も角、砂糖買上げが施行されたことから、羽書と称する一種の手形の制の起つたことも知って置く必要がある。これは砂糖の斤量を表示した証券で、之を以て互に取引流通させたものであるが、当時の産糖は悉く役所の倉庫に納めさせたのだから、その内から諸税物品代を差引いた残りを「余計糖」と称して島民の所得とし、羽書を発行して証券となしたのである。こればかりがとりもなほさず島民の余裕であつたのだ。序でにいふが、薩藩では砂糖は安価に買上げて、之を大阪で高く売り、諸物品は大阪で安く仕入れて、大島で高く換へ渡すといふ具合で、其の差額の余りに著大なるは、たゞ驚く外はない。
さて、御維新になつて、彼等は島津氏の奴隷から解放された訳であるが、鹿児島県人は彼等を解放することを好まなかつた。明治六年に、大蔵省から大島郡でも勝手に売買をしてもかまはないとの令達が出たに拘らず、時の県令は之を秘して島民に示さず、却つて御用商人を遣して一年売買の契約を結ばしめ、新に脱糖取締役を置いて、密売を禁じたが、明治九年にこの事が暴露して一騒動が持上つた。それは時の大山県令が大島郡視察に出かけた時、島民が蜂起して県令の宿泊所を取囲んで詰問しようと敦園いたので、豪雨に乗じて県令が水夫に変装して船に逃込んだといふ騒ぎなのである。島民は陳情の為、早速代表者五十人を上魔させたが、県令は彼等を目するに「沸騰組」を以てし、悉く谷山の監獄にぶち込んで了つた。おつつけ西南の役が勃発したので、鹿児島の叛徒は彼等の中から頑強な者十五人を選び、決死隊と名附けて、出征させたが、彼等の中には各地に転戦して驚れた者もあり、事が止んで帰島する時、台風に遇って、海底の藻屑となつたものもあつた。私が古仁屋村で講演した頃までは、その時の代表者がまだ≡二人生存してゐるとのことだつた。明治十二年には、商人との契約期が満ちて、島民は全く奴隷から解放されたが、長年月の間売買などしたことがない為に、一円の借金は七八割の利を生ずるといつたやうに、負債に苦しめられて、今日に至つた。かうした境遇からどんな民族性が発成したかは、私が大島の諸君におきゝした所である。
話は再び前に戻る。近代の心理学者は、吾々の心の中に、「超個人的意識」といふ七分の隠れた性格の内に喰ひ込んだものがあるといつてゐるが、実際自分では意識しないでゐても、その社会の風俗習慣となり、国民道徳となつて、隠れた七分の性格を形づくり、我等は知らず識らずそれに従つてゐるものである。ロイスはこの「超個人的意識」について、かういつてゐる。 「人間は二つの全く異なる実在者によつて組織されてゐる。 一は我々が普通に個人と称する実在者であつて他は、社会と称する超個人的意識である。よく組織された杜会は、我々個人が人間である如く人間である。異なる点は、個々別々の身体を有たぬことである。また其の意識なるものは、個人の行為の内に自覚的に現れてはゐない。でも、ちやんと超個人的な意識を宿してゐる。一体この社会といふものは、非常に複雑なもので、且つ個人よりも生命が長く又強大な力を有つてゐる。其の心的生命は、プントがいつたやうに、組織的に研究せらるべき特殊な心理的作用を有つてゐる。しかも其の心理的実在は、個々の人間と同じく、確実な実在者で、決して我々の思想の抽象的産物でもなければ、神秘的幻夢でも無い云々」。シユライェルマツヘルも、其の超個人的意識に属する杜会的罪悪に関して、かう述べてゐる。 「個人の内には、社会的罪悪なるものが、無意識的に宿る。しかも同時に個人ノ\の罪悪は、社会的罪悪を構成しつゝある。 この個人の内に宿る人類的(杜会的と同義)罪悪は、彼が属する社会の特有の産物である。故に個人を見ても一個人の罪悪として認識することは出来ぬ。ただ杜会全体を観察して、正当な判断を下し得るのみである。この原理たるや、家庭、郷党、種族、国家、民族を通じて適用することが出来る。同様に、この原理は祖先との関係や遺伝にも応用することが出来る。即ち、ある時代の罪悪は前時代の罪悪の遺伝であると同時に、次の時代にも伝はるものである。云々」。この社会心理の原理を念頭に置いて、南島人の民族性を観察したら、思半ばに過ぐるものがあらう。
今や島津氏の琉球入を去ること三百二十ニ年、現今の沖縄県人及び奄美大島の人の中には、当時の大事件を知らない者が多い、けれども当時の苦しい経験は之を知らない彼等の潜在意識の中にさへ残つてゐる。前にも述べた通り、私達は自分の性格については、顕在意識に現れた三分しか意識してゐない。私達を支配する強い力を有つてゐる性格は、これを社会に其の姿を暴露してゐる七分に求めなければならない。さうして私達は今この自分で意識しない七分の性格になやまされてゐる。語を換へていへば、この性格は時々刻々変装して、私達の行動に現れて来る。ふだんは大した事も無いが、政治問題などが起つて、感情が激して来る時には、よくヒステリ患者があばれ出すやうに共の性格を無遠慮に暴露して揮らない。一例を挙げると、かつて政友会が少数党になつた時、沖縄の代議士等が、即日電報で脱会届を出したやうなものである。大島にもこれに類似した狂態否多少性質の異なつた失態はあつたに違ひない。かうした例はいくらでもあるが、之を暴露することは暫らく差控へることにしよう。兎に角、沖縄県人は近頃この欠点を自覚して、絶えずこの悪民族性から脱却しようと努力してゐるが、何時の間にか後戻りして、元の杢阿弥になつて了ふ者が多い。彼等はかうして自分でも意識しない超個人的意識になやまされる都度、 「チムン・テーン・アラン」といふ歎声を漏すのが常であるが、国語には一寸翻訳しにくい言表しで、心には是非さうしなければならないときめても、何だかよくわからない他の力がはたらいて、自分の思ふ通りにさせないことを意味する。これは実に三百年間の重苦しい歴史に圧しつぶされた琉球民族が、苦しまぎれに発する嘆声で、性格破産者の苦しい叫びと思つたら間違ひない。
教育家諸君は悲しまれるかも知れぬが、五年や六年位国民道徳を児童に説いて、私の所謂悪民族を根こぎにすることが出来るかどうかを私はあやぶんでゐる。なるほど、無邪気な児童は先生方の理想通りに育上げられるやうにも見えるが、社会に送出されるや否や、隠れた七分の性格になやまされるやうになることを知らなければならぬ。
以上私は南島人の精神分析をして、ヒステリツクの症状があると診察した、が、同時にフロイド一派が、催眠術や談話法の如き所謂
それから、明治十二年の廃藩置県は、大島の人には関係がないが、沖縄人にとつては、慶長の沖縄入りに次ぐべき大事件であつて、後者とは全く性質を異にするものであるが、あゝした大騒ぎをした位だから、是れも亦新しい心理傷害になつたに違ひない。兎に角、琉球処分の結果琉球王国といふ旧制度は破壊されて、沖縄人は日本帝国てふ新制度の中に這入つて蘇生したわけだが、旧制度の中で育まれた性情は、たとへ新制度の中に収容されたからといつて、急に消滅するものでは無く、あれからもう半世紀もたつたが、いまだに盛に活いてゐるといふ有様である。これは家の破産で虚栄心は傷けられ、恋愛は防げられて、ヒステリになつた女性が、其後金持の恋人を得て、以前に不満足であつたものが悉く満たされたに拘らず、彼等が不相変ヒステリになやまされるのと同じ理窟であると思つたら、間違ひが無い。置県後負担が著しく軽減し、近年に至って漸く国政に参与することも出来たが、その喜びも束の間で、日清日露の戦役後彼等の負担は激増して、昨今その経済生活はどん底まで行詰るに至つた。この点について、大島人が沖縄人と運命の類似者であるのは誠に同情に絶えない。私は南島今日の窮状-世に之を蘇鉄地獄といふーの原因は、古くは島津氏の、近くは中央の、搾取政策にあると言ひ度い。折角島津氏の奴隷から解放された南島人は、今や兎に角生存の競争に疲れきつて、死に瀕してゐる。もう助からないやうな気もするが、彼等はただ「決然起つて、汝自らを救へ」とあつけない鼓舞ばかりされてゐる。彼等はそうして起上るには余りに圧しつぶされてゐることを知らなければならぬ。何とかして今の中に根本的救済策を講じて貰はなければ取りかへしのつかない状態に陥ると思ふが、政党政治の世の中では、到底出来そうもないから、悲まざるを得ないのである。
然るに、世には彼等の人生観を転換させれば、南島救済の曙光が現れる、と説く人があるが、思はざるの甚だしきもので、私はさういふ人々に、まづ民族性の由て来たる所を究めて、個人的救済より社会的救済に眼を転ぜんことを忠告したい。
少々、横道に這入つたが、今一言言ひ落したことを附記して、この稿を結ばう。ヒステリは、医学上からは、随分複雑な、神経及び精神上の故障であるが、一般に人の目に立つ症状は、感情の変化で、すぐ気分が変り、喜怒哀楽が一定せず、人を好き嫌ひすることが極端で、落ちつかない不安な日を送ってゐることである。南島人に接する人はかういふ所にすぐ気がつくに違ひない。彼等は理性もかなり発達して居り、感情も頗る豊であり、直覚力も強いが、意思の力が非常に弱い。境遇上から又性質上から、政治や実業にたずさはるよりも、文芸や思想方面に向ふ者が多いが、意思が弱くて移り気がする為に、成功する人が至つて少い。さうした方面には、確に適してゐると思ふが折角もつてゐるものを推し出す力に乏しい。この推し出す力は、とりもなほさず意志である。ところが、三百年間この大切な意志を動かす自由を与られなかつた為に、彼等は恐らく世界中で一番意志の弱い人民になつてゐるだら久ノ。彼等は島津氏が与へた身動きも出来ないやうな制度の中にぶち込まれたが最後、この制度に対して疑問を起すことが出来なくなり、従つて暗示にかゝり易くなつた。南島人はこれから魔術師の暗示にかゝらない様に用心しなければなるまい。
最近思想界の大勢は、 「自由を求め解放を求めて已まざる生命力、個性表現の慾望、人間の創造性を強調する傾向」である。既にこの生命力、創造性を肯定するからには、それに反対して働くすべてのものを排斥して進まなければならぬ。暗示ばかりかけられて、一部の人々の都合のいゝ奴隷に甘んずるやうなことがあつてはならない。ラツセルも「教育は特殊の信条を真であると思ひ込ませしめるものでは無く、真理に対する慾望を長せしめるにある」といつた。三百年間奴隷の境遇に沈漏してゐた吾々南島人は、再び奴隷的生活をおくるやうなことがあつてはならない。私達は租税や血税を納めて、能事了れりと思つてはいけない。これらのものは奴隷さへも能くする所のものである。私達が納めなければならぬ最も尊い税は、個性上に咲いた美しい花でなければならぬ。だが、この個性を培ふべき苗圃は、暁地と化し去つて、しかもさうならしめた責任が、専ら吾々に嫁せられつゝあるのは、堪へられないことである。 (昭和五年十二月二十二日、東京小石川の寓居にて)